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Henry Lauは現代版モーツァルトか?⑤ 音を知って、音楽を生む

 ユーチューブを見ていて、興味深い動画に出会いました。Henry Lauが一人で、人のいない建設現場のような広い空間で、ドラム缶やピアノを叩いている姿です。クラシック音楽の素養があり、K-POPでスターとして活躍してきた彼が、なぜ、そんなことをしているのか、興味があったので、見てみました。

■音をチェックする

●「Believer」

 殺風景な建設現場のような広い空間で、Henryが一人、ドラム缶をバチで叩き、電気ドリルの電源を入れて音を出しています。ピアノの鍵盤を叩くこともあれば、フタを叩いてみたり、音の響きや反応をチェックしたりしています。

こちら → https://youtu.be/EU_JGT55vN0
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 とくに興味深かったのが、楽器ではない、さまざまなものの音をチェックしていることでした。建設現場のようなところで演奏するのはありうることだと思いますが、そこらへんにあるさまざまなものを叩いて音を出して見ているというのが、意外でした。

 ところが、Henryは真剣な表情でそれぞれの音を吟味していました。

 ドラム缶と言わず、板切れといわず、さまざまなものの傍にはマイクが設置されており、音が収録されています。これらの音がやがて、ミックスされ、音楽として組み立てられていくのでしょう。

 この動画では、「Believer」というタイトルの曲が歌われていました。この曲が始まる前に、Henryはさまざまな音を検証していたのです。

 興味深いのは、電気ドリルの場合でした。電源を入れても、それほど大きな音がでるわけではないので、マイクの傍で音を出し、収録しています。


(上記ユーチューブ動画より)

 すぐ傍にマイクが映っています。

 真剣に取り組むHenryの姿を見て、ちょっと意外でしたが、音楽の原点に触れたような気がしましたし、創作の原点を見たような気がしました。

 音楽活動は音作りから始まるのでしょう。音を作るには、それぞれの音の特性をしらなければなりません。Henryはそれを建設現場でやっていたのです。日常生活の中にはない音を発見することができるでしょう。

 さらに、似たような試みの動画がないかと探してみました。

 すると、韓国のバラエティ番組の中で、Henryが自分のスタジオでの音作りの一端を紹介している動画がありました。

●「Bad Guy」

 ここでは、さまざまな生活音をチェックしています。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=hQvUmr7-Nkw
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 ガラスコップを箸で叩いてみたり、紙をくしゃくしゃにして音をだしてみたり、椅子にゴミ箱をぶつけて音を出し、その質やリズム感などをチェックしています。

 たとえば、ガラスのコップを金属製の箸で叩いて出した音に、紙をくしゃくしゃにして出た音を重ね合わせると、思いもかけない音響が生まれます。


(上記ユーチューブ動画より)

 生活音を音楽に組み込むなど、考えてみたこともありませんでした。この動画を見て、多様な音を知ることこそが、音楽活動のスタート地点なのかもしれないと思ったほどです。

 スタジオには、どこにでもマイクが置かれており、出した音が逐一、収録されています。それらがデータとして取り込まれ、それぞれの音が分析され、やがては、音楽として組み立てられていくのでしょう。Henryが取り組んでいることは、先駆者ならではの試みであり、新しい音の開拓なのだと思いました。

 ここでは、「Bad Guy」という曲が歌われていました。

 生活音だけではありません。人が指を鳴らしたり、手拍子を採ったりするのも、一種の音楽活動といえるのでしょう。

■音、音楽による一体感

 戸外での演奏でも、Henryのグループは、楽器以外の音、とくに、人が手指を使って出す音を活用していました。

●「Dance Monkey」

 たとえば、指鳴らしです。親指と中指で音を出す、いわゆるパッチンを使って、音楽に新鮮味を加えていました。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=q8BrbdPv2D8
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 指鳴らしでイントロを行い、Henryが歌い始めると、観客も同じように指を鳴らし、同じようなパフォーマンスをしながら、音楽に参加していました。もちろん、お得意のヴァイオリンは披露されます。

 楽器以外の音を音楽に組み込むことによって、これまでわからなかった音の属性に気づかせてくれます。ここで歌われていたのは、「Dance Monkey」でした。

 素朴な音を組み込んだことで、観客の気持ちが緩んだのでしょうか、プレイヤーに倣って、リズムを取り、ちょっとしたパフォーマンスをはじめていました。観客とプレイヤーが一体となって、音楽を楽しんでいたのです。動画を見ているだけで、観客との一体感が感じられます。

●「Savage Love」

 やはり、戸外での演奏シーンです。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=HFeQWTvA8PI
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 ここでは、電子オルガン、ドラム、ギター、ヴァイオリンなどの楽器はもちろん、楽器以外の音としては、手拍子が使われていました。これもごく自然に観客が手拍子をはじめているのです。ドラム担当のスタッフはなんとバチで叩くのではなく、手で叩き、原始的な音を出していました。これも新しい音の発見といえるでしょう。

 観客も笑みを浮かべて、手拍子を合わせ、パフォーマンスを共鳴させて、プレイヤーと一体化した時間が創出されていました。

 観客との一体化といえば、海外での演奏の方が向いているのかもしれません。

●「Havana」

 イタリアでの路上演奏の動画がありました。

こちら →
https://youtu.be/sAtzFsnVjgU?list=RDGMEMQ1dJ7wXfLlqCjwV0xfSNbAVMsAtzFsnVjgU
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 Henryはここでは、電子ピアノやヴァイオリンを弾いていました。曲のイントロ部分を盛り上げて、女性ボーカルがしっとりとした声で歌い始めると、彼らを取り巻いて見ていた観客は老いも若きもみな、顔をほころばせ、身体をゆすっていました。プレイヤーと一体化して手拍子をし、腰を振り、言葉は通じなくても、一体化した時間を楽しんでいたのです。

 とても幸せな時間が流れているように見えました。音楽が持つ力でしょう。

 歌われていたのは「Havana」でした。女性ボーカル2人のハーモニーも素晴らしいものでした。

■Henry、ポッピングとヴァイオリンはどう組み合わせるのか

 珍しい動画を見つけました。Henryが自宅でパフォーマンスとヴァイオリンの組み合わせを解説している動画です。とても興味深いので、ご紹介しましょう。5分8秒の動画です。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=FF7TZDPjRIc
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 ポッピングだけでも大変なのに、それをヴァイオリン演奏と組み合わせるのです。タイミングをどう計り、見せ場をどう作るか緻密に考えなければ成立しないでしょう。

 Henryはヴァイオリンを演奏しては、ポッピングを実演し、この二つの質の違う活動をどのようにつなぎ、どのように見せ場をつくるのかを解説していました。


(上記ユーチューブ動画より)

 これを見て、音楽活動とダンスは、実は、親和性が高いのではないかという気がしました。音楽を聴いて、自然に身体を揺らしたり、手拍子を取ったり、指鳴らしをしてしまうのは、同じような神経が刺激されるからではないかと思ったのです。

 イタリアの街頭演奏でわかったように、言葉が違っていて、意味がわからなくても、観客は歌を聞いて、ハミングし、演奏を聞いて、身体をゆすっていました。

 今回、Henryに関する一連の動画を見て、身体性の復権というか、身体性への回帰というか、言葉や数字以前の表現への再評価が起こりつつあるのではないかと思いました。ひょっとしたら、それは、言葉や数字に拘束されることへの反発からきているかもしれませんが・・・。(2022/8/31 香取淳子)

「近藤オリガ展」が開催されます。

■「近藤オリガ展」の開催

 後10日ほどで、「近藤オリガ展」が開催されます。

 開催期間は、2022年8月3日(水)から15日(月)(8月9日は休廊)まで、開催時間は10:00から18:00(最終日は16:00)まで、開催場所は、「ギャラリーNEW新九郎」(0465-20-5664)です。

 是非とも、ご鑑賞いただければと思い、ご案内致します。
 
 近藤オリガ氏は、現在、日本で活躍中の、ベラルーシ出身の画家です。

 ベラルーシ国立美術大学を卒業後、1980年代はベラルーシ国内および東欧で個展、グループ展で作品を多数発表し、数多く受賞しています。

 1988年には、ベラルーシ美術家連盟の会員になりました。1990年代は、西欧にも活動の幅を広げ、とくにドイツで は1995年以降、各地で個展を開催してきました。

 2007年以降、活動の舞台を日本に移しました。さまざまな賞を受賞し、大きな評価を得ています。

こちら → https://www.olgakondo.com/top/jp/prof/

 私は2016年に開催された「絵画のゆくえ2016:FACE受賞作家展」で、初めて、オリガ氏の作品に出会いました。以来、その画風の虜になってしまいました。

 オリガ氏の作品の一端をご紹介しておきましょう。

こちら → https://www.olgakondo.com/top/jp/work-1/

 いずれもモチーフは新古典主義的リアリズムで捉えられ、背景には暗色のグラデーションが何層も施され、神秘的で、幻想的な世界が創り出されています。

 画面を見ていると、魂が大きく揺さぶられる思いがします。

■ひまわり

 私が感銘を受けた作品の一つに、《ひまわり―福島への祈りー》(2012年)があります。

こちら →
(油彩、カンヴァス、130×162㎝、2012年。図をクリックすると、拡大します))

 この作品についてオリガ氏は、特別の思いを抱いておられるようでした。

 2011年の福島原発事故は、ベラルーシ出身のオリガ氏にとって相当、ショックな出来事でした。というのも1986年のチェルノブイリ原発事故でもっとも被害を受けたのがベラルーシだったからです。

 福島原発事故が起こったとき、オリガ氏はたまたま、ベラルーシに戻っていたそうですが、当時の記憶がすぐ甦り、日本が心配でたまらずドイツ経由ですぐに戻ってきたそうです。当時、成田空港は日本から脱出する外国人で溢れていたというのに、彼女はわざわざ日本に戻ってきたのです。

 この作品について、オリガ氏は、「ベラルーシの草原に咲いていたひまわりを持ち帰り、福島の復興を祈って、描いた」と語っておられました。

 何故かと言えば、ひまわりはタネが多く、タネが落ちれば、そこから多くの芽が出て、新しい命が育まれるからでした。

 福島の再生を祈って、この絵が描かれたのです。

 このエピソードからは、オリガ氏が、傷ついた者に寄り添い、痛みを分かち合おうとする繊細で豊かな感性の持ち主だということがわかります。

 そういえば、ひまわりの世界最大の産地がウクライナでした。

■ウクライナの現在

 2022年2月24日、ロシアがウクライナに侵攻しました。何故、そのような事態になったのかはわかりませんが、多くの人々が傷つき、苦しんでいることは事実です。

 地図で見ると、ウクライナとロシア、ベラルーシは隣同士の国です。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 オリガ氏の故郷は今、紛争のさ中にある国と隣り合わせなのです。日々、報道される悲惨な状況を知って、オリガ氏は、どれほど悲しみ、苦しんでおられることでしょう。

 オリガ氏が福島の復興を願って、《ひまわり―福島への祈りー》を描いてくださったように、私も、一日も早いこの紛争の終結を願わずにはいられません。

 そう思いながら、河辺を歩いていると、ひまわりが一輪、大きな木の下で咲いているのが目に留まりました。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 背後に見える空はどんよりとした曇り空です。まるで、ウクライナとロシアの間の紛争を憂えているかのようです。

 空がすっかり晴れ渡り、ひまわりが大きく風に揺れ、人々の目を楽しませてくれるのは一体、いつになるのでしょうか。一日も早い平和の訪れを祈ります。

 さて、オリガ氏は今回の展覧会で、どのような作品を見せてくれるのでしょうか。

 最後に、展覧会の場所がわかりにくいかもしれませんので、パンフレットの案内図を載せておくことにしましょう。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 久しぶりに、展覧会場で作品の前で佇み、静かに自分を見つめ直す時間を持てるのを楽しみにしています。(2022/7/23 香取淳子)

2022年参議院選挙② 個とコミュニティが支える本格政党の誕生

■2022年参議院選挙の結果

 2022年7月10日午後8時から開票速報が始まりました。比較的早く、比例1議席の当確がでたのですが、その後、なかなか当確がでません。せめて2議席ぐらいは・・・という願いも空しく、結局、1議席の獲得にとどまりました。

 ユーチューブで、選挙戦終盤の勢いを見ていると、ひょっとしたら、5議席獲得するのではないかと思っていたほどですが、現実はそれほど甘くありませんでした。

 比例選挙区の候補者5人の得票数を見ると、神谷宗幣氏が159433票、武田邦彦氏が128257票、松田学氏が73672票、吉野敏明氏が25463票、赤尾由美氏が11344票でした(※ https://www.jiji.com/jc/2022san?l=hirei_094)。

こちら →
(参政党公式ツィッターより。図をクリックすると、拡大します)

 これに、政党名だけが記入された票数を合わせると、参政党は総計176万3429票を獲得しました。比例区の得票率は3.3%になります。

 獲得議席は1つでも、得票率が2%を超えたので、参政党は政党要件を満たすことができました。

 政党交付金の交付の対象となる政党は、「政治資金規正法」上の政治団体であって、(1) 所属国会議員が5人以上、あるいは、(2) 所属国会議員が1人以上、かつ、直近の国政選挙における全国を通じた得票率が2%以上のものと定められています。
(※ https://www.soumu.go.jp/senkyo/seiji_s/seitoujoseihou/seitoujoseihou02.html

 初めて国政選挙に打って出た参政党が、国政政党として認められ、政党交付金を得ることができる条件を満たしたのです。これでようやく、党勢を拡大し、公約を果たしていくための準備が整ったことになります。

 もっとも、私には、この結果は少々、意外でした。

 選挙期間中、私は、全国各地で、数多くの有権者が参政党候補者の街頭演説に集まり、感涙して拍手喝采する姿をユーチューブで見ていました。それだけに、5議席は簡単に獲得できるのではないかと思っていたのです。

 たとえば、投票日前日、芝公園で行われたマイク納めの街頭演説には、1万500人もの有権者が集結しました。

■1万500人が集まった芝公園

 この街頭演説のフィナーレを、360度カメラで撮影した1分28秒の動画があります。見ていただくことにしましょう。

こちら → https://youtu.be/oCx9ayhZuqA
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 神谷氏の呼びかけに応え、有権者たちが気持ちを合わせて、「1、2、参政党!」とコールする声が、いつまでも夜空に響いています。

 気迫あふれる演説に、どれだけ多くの有権者が歓声をあげ、心から拍手喝采していたことか・・・。ニュース映像で見る限り、これだけのフィーバーぶりを他の政党では見ることはありませんでした。

 日本を取り戻そうという神谷氏の熱い思いが、有権者の気持ちを捉え、各地を熱狂の渦に巻き込んでいました。候補者と有権者がいっとき、心を合わせ、誇れる日本を取り戻そうという思いに駆られ、気持ちを一つにしていたのです。

 何も最終日の芝公園だけではありません。参政党を取り巻くこのような光景は、全国各地で見られました。その様子をユーチューバーたちが動画で、次から次へと伝えてくれました。

 有権者の視点で撮影された動画には、現場の熱気が余すところなく、反映されていました。素朴なアングルがとても新鮮でした。画面を見ていると、ふと、これこそ、報道の原点ではないかと思えてきました。

 それがなぜ、得票数に繋がらなかったのでしょうか。

 ネットをチェックしていると、興味深い動画がアップされていることに気づきました。参政党選挙区から立候補した野中しんすけ氏の動画です。この疑問に答えてくれそうです。

■既存政党の圧倒的な組織力

 野中氏は、実際に戦ってみて、どういうことに気づいたのでしょうか。福岡選挙区から立候補した候補者がアップした動画を、ご紹介することにしましょう。

こちら → https://youtu.be/7qXgn0ve3VE
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 今回、初めて選挙に出馬し、気づいたことを3点、野中氏は話してくれました。

 選挙期間中、警察から警告を受け、ビラ配りを中断させられたことがあったというのです。歩道で配っており、違反をしているわけではないのに、ビラを配っているのが気に入らず、ある政党の党員が警察に通報したからでした。やって来た警察官は、違反ではないことを確認して去っていったといいます。

 また、ある時、歩道でビラ配りをしているのに、誰の許可を得て、ビラ配りをしてるんだと凄まれたことがありました。恐怖心を覚えるほどだったといいます。これはある団体の関係者でした。

 いずれの場合も、候補者の意欲を少しでも削ごうとする他陣営の悪意が感じられます。選挙妨害に相当する出来事だといっていいでしょう。

 候補者や支援者の気持ちを萎えさせるような行為が他陣営から仕掛けられる一方、弱小政党ならではの悲哀もあったようです。

 福岡の民放テレビは18日間の選挙期間中、一切、報道してくれませんでした。街頭演説が終わり、既存政党の候補者に代わると、たちまち、その場に報道陣がずらりと並び、撮影していたというのです。諸派といわれる候補者たちは露骨なまでに、完全無視されていたそうです。

 SNSの時代になったとはいえ、認知効果という点で、いまだに大きな威力を発揮しているのがテレビです。地元テレビで一切、取り上げられないのは、候補者として存在しないのも同然でした。

 放送されなければ、有権者に幅広く認知されることは難しく、県民に幅広くアピールすることはできません。大きな損失でした。このようなメディアの対応に、新しく立ち上がろうとしている候補者は完全に不利な状況に置かれていることに気づいたと野中氏は言います。

 例えば、互角の戦いができるかなと思っていた他の候補者は、連合や団体が支持に回っていたので、圧倒的に有利でした。個々の有権者に向け、切々と政策を訴えてきた野中氏にとって、納得のいかない選挙の実状でした。

 既存政党といい、支持団体といい、メディアの対応といい、既存政党からの候補者に有利な仕組みに出来上がっていることを今回、選挙に出てみて、わかったと野中氏はいいます。

 民主主義を支える制度としての選挙制度は、民意をくみ上げるシステムとして機能しているのかどうか、疑問に思えてきます。

 個々の有権者ではなく、団体に支持されただけで当選した候補者は、国会でどんな働きをしているのでしょうか。そのような政治家を国会に送り込んで、日本が衰退していくことに、支持団体はどう責任を取るのでしょうか。結局は投票して終わりという団体と候補者の関係の中からは、日本をよくするための政治ができるわけがありません。

 これを聞いて思い出したのが、自民党の東京選挙区から立候補した生稲晃子氏です。

■自民党の候補者、政治見識なくても楽々、当選

 自民党公認を受け参院選に東京選挙区から立候補した生稲晃子候補(54)は、元おニャン子クラブのアイドルでした。その後、なんらかの社会活動あるいは、政治活動していたと聞いたこともなく、とうてい、政治家としての資質があるとは思えません。

 まず問題となったのが、NHKによるアンケートに対する不誠実な態度でした。全26問の質問のうち、生稲候補が答えたのはわずか5問、残り21問については「回答しない」で済ませています。その中には「これまでの岸田総理大臣の政権運営をどの程度評価しますか」という質問もあったというのに、です。

 生稲候補の場合、回答不備が問題となっただけではなく、自民公認で東京選挙区から出馬した朝日健太郎候補との回答が、瓜二つの“コピペ”だったことも、問題視されていました。(※ 『デイリー新潮』2022年7月9日)

 この件はネット上で大きく騒がれました。

 さらに、7月6日、日刊ゲンダイは、「音楽4団体「生稲晃子氏&今井絵理子氏」支持表明に大ブーイング! 2000人超が抗議賛同」というタイトルの記事を掲載しています。

 「自民党公認で東京選挙区から元「おニャン子クラブ」の生稲晃子氏(54)、比例代表で元「SPEED」今井絵理子氏(38)が立候補しているが、音楽業界4団体(日本音楽事業者協会・日本音楽制作者連盟・コンサートプロモーターズ協会・日本音楽出版社協会)が支持を表明し、音楽関係者から反発の声が上がっている」
(※ https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/307848

 ちなみに、生稲候補は大手芸能プロダクションの「尾木プロ」、今井候補は「ライジングプロ」の所属で、いずれも音事協(日本音楽事業者協会)の中心的なプロダクションです。

 1963年に設立された音事協は最大規模の業界団体です(※ https://www.jame.or.jp/)。それが支持表明をしたのですから、音楽関係者全員が自民党とこの2人を支持しているかのような印象を与えてしまいますが、それに対し、ネットで大きな反発の声が上がったのです。

 よほど我慢しかねたのでしょう。「ムーンライダーズ」の鈴木慶一(70)はツイッターで、「私は音楽家だが支援しない」とツイートしました。“日本最古の現役バンド”として、長年、音楽業界に影響を与えてきた重鎮ともいえる鈴木氏が、このような異例の発言をしたことに、ネット上はザワついたといいます。鈴木氏のこのツイートには3万7000件以上の「いいね」が付いていたといいます。
(※ https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/307848/2

 選挙期間中、いろいろトラブルがありましたが、結果はどうかといえば、朝日健太郎氏(元バレーボール、ビーチボール選手)が92万2793票も獲得して東京選挙区でトップ、生稲晃子氏は61万9792票も獲得し、5位で当選しました。

 れいわ新撰の山本太郎党首が、古い持ちネタ「メロリンきゅー」まで披露して、ようやく56万5925票獲得したことを思えば、いかに組織票があることがいかに手堅く、票の獲得に有効かということがわかります。

 ちなみに、東京選挙区で当選したのは、得票順位上から、自民党、公明党、共産党、立憲民主党の現職、自民党の新人、そして、れいわの元職でした。

 もちろん、今井絵理子氏も14万8800票獲得し、比例区で当選しています。

■選挙は民主主義を支えているか?

 生稲氏らの件からは、大きな組織に属し、団体からの支持を得られれば、政治家としての見識、資質がなくても容易に当選できることが明らかになりました。

 生稲氏について、ネットがどう反応していたのかを少し、ご紹介しておきましょう。

 「こんなのに出馬を打診する党、こんなのに票を入れる有権者…すべてが情けない。以前ヤフーニュースに出ていた杉良太郎さんのこの意見ぜひ大きく取り上げて、そして公職選挙法を改善してほしい」

 「政治家になるための国の資格制度を作るべきです。それにパスした人が候補者として出ていくといいと思う。国会は政治の素人の研修所でも学校でもない。国会議員になれば、即、国民の税金をお給料としてもらうわけだから、即戦力でなきゃダメ。選挙の前にしっかり勉強してほしい。」

 「国会内での一票、議席が取れれば顔は誰でもいいんだろうな。 党の言いなりの方が使いやすいんだろう。 党としては変に勉強されるより、カンニングペーパー通りに回答してくれる方がありがたいはず。 数合わせのためであれば、そもそもの議員の数が多すぎるということ。自分のアタマで考えないということは他の誰かの意見に従っているわけで、一人で複数の票を持っているのと同じ。いわゆる派閥ですね。 議員定数削減、これをやらないと数合わせのお飾り議員がいなくなりませんね。 しかし自分の首をしめる改革ができるわけがない。野党が弱い今こそが、それをやるチャンスなんですけどね。」

 コメント欄を見ていると、生稲氏の件によって、若者が投票意欲を失ってしまうのではないかと心配になってくるほどでした。

 果たして、今の選挙制度は民主主義を支えるシステムとして機能しているのでしょうか。

 総務省のHPには、「日本は国民が主権を持つ民主主義国家です。選挙は、私たち国民が政治に参加し、主権者としてその意思を政治に反映させることのできる最も重要かつ基本的な機会です」(※https://www.soumu.go.jp/senkyo/senkyo_s/naruhodo/naruhodo01.html )と書かれています。

 投票行動は、国民の意思を政治に反映させることのできる機会のはずですが、強力な団体の支持が、国民の意向を歪曲してしまう可能性のあることが、今回の件で、わかりました。団体の持つ数の力によって、個々の有権者の投票による意思表明は、いとも簡単に、圧し潰されてしまうのです。生稲氏の件によって、選挙制度の問題点が浮き彫りにされたといえます。

 もう一つ、総務省のHPから引用しておきましょう。

 「「人民の、人民による、人民のための政治(政府)」。民主主義の基本であるこの言葉は、私たちと政治との関係を象徴する言葉です。国民が正当に選挙を通して自分たちの代表者を選び、その代表者によって政治が行われます」と書かれています。

 理念はそうであっても、実態は必ずしもそうではなく、今回の件で、既存政党と団体との利権構造が定着していることが浮き彫りになってきました。

 一方、そのような既存の政党政治に異を唱え、民主主義の根幹に立ち戻ろうとしているのが参政党でした。

■参政党こそ、民主主義を支える政治組織か

 参政党のHPには、「先人が守って来たこの国を次の世代に引き継ぐために」という理念が掲げられ、「身近なコミュニティ活動から始める政治参加」の下、政治活動を実践していくと書かれています。(※ https://www.sanseito.jp/about/)

 そもそも、参政党は設立経緯からして、すでに他の政党とは異なっています。「仲間内の利益を優先する既存の政党政治では、私たちの祖先が守ってきたかけがえのない日本がダメになってしまう」という危機感を持った有志が集まり、「ゼロからつくった政治団体」なのです。

 参政党はその発端から、既存の政党とは異なる組織形態を考えていることがわかります。

 「特定の支援団体も資金源もありません。同じ思いをもった普通の国民が集まり、知恵やお金を出し合い、自分たちで党運営を行っていきます」

 既存政党のような利権構造を排するために、参政党は、有権者個々の力を基盤に、コミュニティをつくり、切磋琢磨し合いながら、政党を作っていくという仕組みです。情報を共有し、知恵を出し合い、お金を融通し合いながら、日本を立て直し、次世代につないでいくという志を持った人々の集まりだから、そういう仕組みが可能なのだともいえます。

 参政党は、個とコミュニティを基盤にした新型の政党としてデビューしたのです。

 そういわれてみれば、参政党の候補者のほとんどは、政治の素人でした。既存政党の候補者とは違って、企業や宗教団体などからの支援のないまま、ズブの素人の候補者たちが、今回、熾烈な参議院選を戦いぬいたのです。

 
 政党は本来、「真面目に税金を払って働いている人々のために働くもの」です。ところが、既存政党では、「縁故者や世襲の人々で党員が占められていたり、議員の選挙要員にされて」います。これでは、個々の自由意思は尊重されず、集団的投票行動が強制されざるをえません。

 ところが、参政党では、「党員活動に義務やノルマはありません」と書かれています。

 実際、HPを見ると、「身近なコミュニティ活動から始める政治参加」と書かれています。党員になると、できる範囲のことから、コミュニティ活動に参加することからスタートするようです。

 あくまでも党員の自発的な参加を求め、無理強いすることのないよう、図られていることがわかります。持続可能な組織づくりを行っているのです。

 「まずは同じ思いをもった国民が集まり、エリアやテーマごとにコミュニティをつくり、つながり合うことで新しい流れをつくっていくことを目指して」いるからでしょう。

 個々の党員の自由意思を尊重するという姿勢が貫かれているところが興味深いと思いました。まさに、個々人に支えられた草の根民主主義ともいえる形態で、初期民主主義の形態に近いものではないかと思います。

■お金のかかる選挙

 先ほどご紹介した福岡選挙区から立候補した野中氏は、選挙ポスターを例にとり、お金がないと選挙に出られない仕組みになっていることを知ったと語っています。

 福岡の場合、9000か所の掲示板に貼るポスターの印刷代に150万円、貼る人がいなければ宅急便で掲示板の住所宛てに送り、貼ってもらうようにすると540万円、ポスターを制作し、貼るだけで約700万円かかるというのです。

 さらに、供託金300万円がかかりますから、合計で1000万円用意できないと、選挙には出馬できないというのが実態でした。若い人や諸派の候補者が立候補しにくい状況に置かれているのが、わかったと野中氏は言うのです。

 こうした現状を知ったうえで、今回の選挙を振り返ると、あくまでも一つの政治団体にすぎない参政党が、比例区に5人、選挙区で45人、合計50人を出馬させたのは驚異的なことだったといわざるをえません。そのために、どのくらい費用がかかったのか、推して知るべしですが、参政党は、それを寄付や党費などで賄ったのです。

 参政党は7月7日時点で党員数が8万人を超え、7月9日時点で政治資金は4億3365万2621円に達しています。国政政党ですから、今後、政党助成金に入ってきますから、次回の選挙では、もっと多数の候補者を出馬させることができるでしょう。

 わずかな期間で、ここまで参政党の設立基盤を固めることができたのは、有権者の心をしっかりと掴むことができたからこそだといえるでしょう。党員が増え、政治資金も増え、日本を取り戻すための政治活動を展開してくれれば、日本人がもっと元気になり、積極的な考えを持てるようになると思います。

 参政党は、全国各地でフィーバーを巻き起こしていきましたが、その渦の中心は、神谷宗幣氏でした。

 神谷氏のスピーチがどのようなものであったか、その一端を覗いてみることにしましょう。

■神谷氏の投票日前のラストスピーチ

 芝公園には開始時点で、7000人が集まり、現場の様子を伝えるライブ中継は2万人以上の人々が見ていました。その後も続々と有権者が詰めかけ、最終的には1万500人にも及びました。手作りで出来上がった参政党が、18日間の選挙期間中で、ここまで有権者の注目を集める存在になっていたのです。

 投票日前のラストスピーチで、神谷氏は何を訴えようとしていたのでしょうか。

 ライトに照らされた神谷氏の表情は気迫に満ち、その言葉の一つ一つが、有権者の魂を揺さぶり、夜空に響き渡っていました。

こちら → https://youtu.be/MY2T5921NvE
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 神谷氏はまず、15年前からずっと、このままでは日本が駄目になると思ってきた。多くの人が自分のことしか考えない、お金のことしか考えていない。日本のために立ち上がりたいと言うと、「お前は右翼か」と言われる。それが今の日本だと語りかけます。

 次いで、有権者に向かって、「何故、日本人であることに誇りを持ってはいけないの?」と問いかけます。一呼吸置いて、言葉を継ぎ、「77年間、そんな教育をされてきたからでしょう、戦争に負けて、日本はアメリカにいいようにされてきたんでしょ!」と語気を強めます。

「そうだ!」と有権者は叫び、拍手喝采します。

●日本の教育を変える

 神谷氏は「参政党はまず、この日本の教育を変えたい」と切り出し、「教育を変えないと、次の日本を支える人材がいないんですよ」と訴えます。

 なぜなのか。

 「子どもを管理して枠にはめ、不登校を20万人も作って、発達障害の子どもを何十万人も作って、子どもたちを薬漬けにしているんですよ」と、子どもたちがいかに理不尽な環境に置かれているかを語ります。

 落ち着きがなく、注意力の散漫な子どもは多動性障害とされ、大人しすぎる、消極的すぎる子どもは自閉症とされて、治療の対象にされ、投薬されます。枠にはまらない、標準的ではない子どもは管理しにくく、診断名がつけられて、薬漬けにされていくというのです。

 実際、不登校の子どもたちは年々、増えています。NPO法人による報告『日本の子どもたちの今』によると、2019年に小中学校で長期欠席した子供25万2825人のうち、不登校は71.7%でした。1991年度に比べると、3倍以上も増えています(※ https://3keys.jp/)。

こちら →
(※ NPO法人3keys、『日本の子どもたちの今』より。図をクリックすると、拡大します)

 不登校になった結果、社会生活に必要な基本知識や技能、モラルや礼儀を学ばないまま、青年期を迎えてしまう若者が何と多いことでしょう。

 学ぶ機会を逸した彼らは、青年期になっても、社会に出ていくことができず、家に引きこもるか、あるいは、仮に社会に出ても適応できず、次第に、自殺に追い込まれていくのかもしれません。

 それなのに、政府は、子どもの窮状を救うために、有効な対策をなんら講じてきませんでした。

 神谷氏は怒りをあらわにして、続けます。「薬を飲みすぎて、社会に出られなくて・・・、若者の死亡原因の第1位は自殺なんですよ、この国は!」と叫び、声を荒げます。

 厚生労働省のデータを見ると、20-44歳の男性、15-34の女性の死因の1位が自殺、45-49の男性、35-49の女性の死因の2位が自殺でした。
(※ https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/suii09/deth8.html

 せっかく、この世に生を受けたというのに、一度も謳歌することもなく、多くの若者が自らの命を閉じてしまっているのです。なんと辛く、悲しいことでしょう。

 神谷氏は、「若者はコロナなんかで死んでいない。自分の命を自分で奪っているんですよ!そっちの方がはるかに緊急事態でしょう!」と指摘します。そして、「子どもが減っているというのに、なんで、若者が命を絶っていくのを止めないんですか」と、問いかけます。

 実際、コロナで感染死するよりも、緊急事態宣言が発せられ、飲食店やアパレルなどの閉店で、収入をなくした若者の方がはるかに多く、自殺に追い込まれました。政治家こそ、若者の死因の第1位が男性、女性とも自殺だということの背景を深く考えてみる必要があるでしょう。

 命を育む世代の自殺が多いことから、今後、さらなる少子化が懸念されます。

 働き方、働く環境といったわかりやすい要因以外にも、目を向ける必要があるでしょう。そもそも、若者たちは自立して生きていくための能力を習得していたのかというところまで遡って要因を探らなければ、有効な対策は見つかりません。

 若者の死亡要因の第1位が自殺だということは、少子化現象と連動しています。不登校に至らないまでも、社会に適応できず、生きていくだけで精一杯の子どもたちは数多くいます。そうした子どもたちが若者になっても、おそらく、結婚や家庭、子どもを持つという気持ちにはなれないでしょう。

 まずは、自立して生きていくことのできる能力を、子どものうちに涵養していくことが大切です。

 ところが、政府の少子化対策を見ると、結婚支援、出会いサポート、産前・産後のサポート、不妊治療の保険適用といった表層的で、小手先の対策に終始しています。
(※ https://jimin.jp-east-2.storage.api.nifcloud.com/pdf/news/policy/203484_1.pdf

 神谷氏は、参政党が目指す教育について、「煉獄さん(映画《鬼滅の刃》の主人公)のお母さんが言ってたように、誰でも皆、一人ひとり、力と才能があるんですよ。その力や才能を自分のためだけではなく、弱い人のため、世のため、人のために使う・・・、そういう心の教育です」と訴えます。

 子どもが自立して生きていくための能力の一つとして、メンタルの強さがあげられます。それは、自分の能力を世のため、人のために使うという気持ちから生まれると、神谷氏は考えているのです。

 神谷氏は、演説の中でよく、アニメ映画《鬼滅の刃》(無限列車編)のキャラクター煉獄さん(煉獄杏寿郎)を引き合いに出します。

■次代を担うエリートとは?

 煉獄さんは、無限列車の乗客を救うために鬼と闘い、終には、亡くなってしまうシーンがあります。そこに、神谷氏の考える強さのエッセンスが込められているように思います。1分30秒の予告動画がありましたので、ご紹介しましょう。

こちら → https://youtu.be/-ewm56D9DzY
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 煉獄さんは、戦闘相手である鬼の猗窩座(あかざ)から、「お前も鬼にならないか」と誘われ、「鬼にならなければ殺す」とまで言われますが、「俺は俺の責務を全うする」と言って、闘うことを選択します。

 ピンチで利益誘導されるのですが、それには乗らず、敢えて信念を貫き通すのです。そこに、強さがあり、「老いることも、死ぬことも、人間という儚い生き物の美しさだ」というセリフが印象づけられます。神谷氏の人生哲学あるいは生活美学が示される箇所です。

 滅びゆく日本を救うために、試行錯誤を重ねてきた結果、神谷氏は、既存組織にはない、新たな政党を立ち上げました。煉獄さんの生き方には、その姿勢に重なるものがあります。

 また別の予告動画がありました。

こちら → https://youtu.be/EFUSUcbLHK0
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 「強さというものは、肉体に対してのみ使う言葉ではない」というセリフがあります。そして、「人間の原動力は心だ、精神だ」というセリフがあります。身体が強いだけではなく、心が強いことが重要だというのですが、それは、人間の原動力が心であり、精神だからだというのです。

 ここには、煉獄さんの人間観であり、価値観が端的に表されていますが、おそらく、神谷氏の人間観、価値観でもあるのでしょう。

 神谷氏は、「私たちはもう一度、教育を考え直し、日本のリーダーを作っていくしかない」と訴えています。

 肝心の心を強くする教育がなされておらず、官僚や政治家など、偏差値エリートはこれまで日本を守って来なかったからです。

 「本当のエリートは煉獄さんみたいな人ですよ。自分の命をかけてでも弱い人を守る、正義を貫く人、そういう人が、かつては日本にいっぱいいたから、この島国は何万年も続いてきたんじゃないですか」神谷氏は語調を強めます。

 聴衆は「そうだ!」と大声をあげ、拍手します。

 神谷氏は拍手が終わるのを待って、「私たちは、その末裔なんです。誇り高き日本人なんですよ。縄文時代から続いているんです、日本は!」と叫び、「そのことを教えなくなった戦後教育に大きな問題がある」と訴えます。

 そして、我々大人は、「自分たちの国を誇りに思い、先輩に感謝し、今、与えられた命のバトンを一生懸命、守って、次の世代につたえていかないといけない」と説き、「それを皆でやっていくのが、参政党ですよ」とアピールします。

 日本を取り戻すというのは、戦後教育によって失った日本を誇りに思う気持ちを取り戻すことであり、それを後の世代に引き継ぐということを指しているのでしょう。縄文時代から脈々と受け継がれてきた日本精神の中にアイデンティティの基盤を見つけることだと言っているように思えました。

■参政党が掲げる教育政策

 参政党は大きく3つの政策を掲げていますが、教育はその第1に掲げられています。

こちら → https://www.sanseito.jp/prioritypolicy/

 「学力(テストの点数)より、学習力(自ら考え自ら学ぶ力)の高い日本人の育成」を目指し、具体的には、①探究型のフリースクールを地方自治体が作れるようにする法改正、②自ら仕事をつくり、収入を他者に依存せず、管理されない人生が設計できる公教育の実現、③国や地域、伝統を大切に思える自尊史観の教育等の政策を通して実現していくというものです。

 神谷氏は、ラストスピーチの中で、「子どもたちを社会に合わせて型にはめるのではなく、私たち大人が子どもたちに合わせて生きやすい国を作る」と言っていますが、これは、①に該当します。

 これまでの教育の他に、探求型のフリースクールを自治体が設立できるようにすることで、子どもたちの個性に合わせた学びの場を提供することができます。つまり、学びの場を選択できるようにするため、参政党は法改正をするというのです。

 多様な学びの場を作れば、基準から逸脱しているために、問題児扱いされる子どもはいなくなるでしょう。不登校が減るばかりか、子どもが探求心を抱いて学び始めるようになるかもしれません。そうして、子どもが本来の能力を発揮できるようになれば、習熟度が高まる可能性があります。

 そもそも憲法第26条には、子どもには教育を受ける権利があり、保護者は子どもに教育を受けさせる義務があると定められています。それは、子どもは誰でも、義務教育課程を修了すれば、自立して生きていけるようにするための措置でした。

 参政党は、既存の教育体系に馴染めない子どもたちのために、①を設定しています。そして、ICT主導の社会の中で、子どもが自立して生きていける能力を涵養するための計らいが、②といえるでしょう。

 そして、参政党の独自色が強いのが、③です。

 神谷氏が冒頭、語りかけていたように、戦後、日本人は長い間、日本人であることに誇りを持てず、アイデンティティの基盤を失って、生きてきました。それは、GHQによって統治されていた期間、それまでの日本を支えてきた国家体制を壊す一方、子どもの頃から、学校教育やマスメディアによって、自虐史観を植え付けられてきたからでした。

 神谷氏が、「我々は戦争に負けて、アメリカのいいようにされてきた」と言っているように、自国に誇りを持てず、対外的に何の手出しもできない植物人間のようにされてきました。

 それを覆し、日本という国や郷土、伝統を大切にし、日本人であることに誇りを持てるような教育をしたいというのが③です。

 日本を取り戻すには、日本に誇りを持てるような子どもを育てていく必要があります。参政党の政策を見る限り、①さまざまな子どもたちが排除されることなく、落ちこぼれることなく、学びの場が提供され、②自立して生きていけるような能力の涵養、さらには、③日本人として誇りを持って生きていけるようなプログラムになっています。

 神谷氏のラストスピーチの中から、とくに、教育の部分を取り出し、参政党の政策と関連づけてみてきました。既存政党がいえなかったような内容に踏み込み、日本を精神面から取り戻すための方策が練り上げられていると思いました。

 敗戦国として長い間、抑え込まれてきた日本人が、日本人としてのアイデンティティを取り戻すのは容易なことではないかもしれません。自虐史観を乗り越え、日本を肯定的に捉える「自尊史観」に移行するには、まずは、歴史を学ばなければならないでしょう。

 さらに具体的な教育政策がHPに掲載されています。

こちら → https://www.sanseito.jp/hashira04/

 ここでは、政策を実現していくための具体策、予算配分なども示されています。

 それでは、マイク納め後の全候補者の反省会を覗いてみましょう。

■候補者とスタッフの絆

 参政党候補者たちはマイク納め演説の後、全員が反省会を行いました。そのタイトルはなんと、一世を風靡したテレビ番組「8時だヨ、全員集合!」をもじって、「9時だヨ、全員集合!」でした。

こちら →
(参政党HP動画を撮影。図をクリックすると、拡大します)

 2022年7月9日、「9時だヨ、全員集合!」が始まりました。神谷氏が進行役として、候補者全員をZOOMでつなぎ、選挙期間中に起こったこと、困ったことなどを報告する会が開催され、そのまま配信されました。

こちら →
(参政党HP動画を撮影。図をクリックすると、拡大します)

 ZOOM画面では50名全員を映しきれないので、表示されている候補者が時々、入れ替わります。

 和気あいあいのうちに反省会が進められていきましたが、全員に共通していることが二つ、ありました。

 一つは、スタッフの惜しみない働きや支援に対する感謝でした。異口同音にスタッフへの熱い感謝の気持ちが語られます。選挙前から選挙期間中、さまざまなトラブルに見舞われながらも、候補者とスタッフが一丸となって、乗り切ってきたことがよくわかりました。

 日本をよくしたい、地域を守りたい、さまざまな思いを一つにして、頑張って来たことの喜びが候補者たちの日焼けした顔から感じられました。

 二つ目は、全国どこの候補者も一様に、終盤に近付くにつれ、街頭演説に集まってくる人が増えていったということでした。もう少し、選挙期間が長ければ、もっと票が取れたのかもしれません。ひょっとしたら当選も・・・、と思っている候補者も何人かいました。現場では、そう思ってしまうほどの熱気に包まれていたのでしょう。

 どの候補者も満足した表情を浮かべ、楽しそうでした。

 それこそ、「身近なコミュニティ活動から始める政治参加」を実践していたのでしょう。候補者と支えるスタッフ、地域社会の人々が、この選挙活動を通して、つながり合っていったことが感じられました。

 そして、ふと、思ったのです。

 今回、神谷氏が無理をしてでも、全国に候補者を立てたのは、このような地域社会に根付いた政治拠点を作るためだったのではないかと。残念ながら、選挙区候補者はすべて落選しましたが、候補者とスタッフ、地域社会の絆というものはしっかりと育まれ、根を張りました。

 このネットワークが全国各地にいきわたれば、これほど強固な政治組織はありません。参政党は既存組織に頼らず、団体に頼らず、党員とボランティアがすべての選挙活動を展開してきました。

 まさに、「投票したい党がないから、自分たちでゼロからつくって」いるのです。

こちら →
(選挙ドットコムより。図をクリックすると、拡大します)

 資金も選挙活動もすべて自分たちで行っているからこそ、参政党は誰からの圧力に屈することなく、正々堂々と意見を言うことができます。しがらみのない参政党のような政党でなければ、決して日本を変えていくことはできないでしょう。

 改めて、参政党は、理想的で本格的な政党だと思えてきました。日本がピンチに立たされているいま、ようやく、「国民の、国民による、国民のための政党」が誕生したのです。私たちは、ラストチャンスを掴んだといえるかもしれません。(2022/7/22 香取淳子)

2022年参議院選挙① 有権者の魂を掴んだ参政党について考えてみる。

■自公政権に国政を任せられるか?

 2022年6月22日、参議院選挙が公示されました。任期満了に伴うもので、投票日は7月10日です。前回は入れたい政党がなく、仕方なく、自民党に投票しました。他の政党よりはまだましだと思ったからでした。

 ところが、その後、岸田政権になって、コロナ、ウクライナ事変、物価高など、次々と押し寄せる難題への対応に、思慮が欠け、国民への配慮が足りないことが明らかになりました。誰の目にも国益を大きく損なう対応しかできず、失望してしまったのです。

 このまま自公政権が続けば、日本がダメになってしまうのではないかと危機感を抱き始めました。

 たとえば、ガソリンの高騰です。2022年2月7日、JAF(日本自動車連盟)は政府に「当面の間ガソリン税の廃止」を要望しています。ガソリン代が上がると、輸送費が上がり、全ての物価に反映します。公共交通機関のない地方はもちろん、車がないと生活できず、たちまち家計は苦しくなってしまいました。

 ところが、政府はJAFの要望を退け、石油元売り企業への補助金を出して価格の抑制を図ったにすぎませんでした。JAFが求めたガソリン税の廃止とは、上乗せ分の1リットル当たり25.1円課税を指していますが、これがそのまま温存されたのです。

 ちなみに、消費税込み、1リットル170.9円のガソリンの場合、ガソリン本体は101.6円、ガソリン税(本則)28.7円、ガソリン税(上乗せ分)25.1円、石油税2.8円、消費税15.5円がその内訳です。なんと4割近くが税金なのです。ガソリン本体にガソリン税や石油税を加えた価格に消費税がかけられているのです。
(※ https://jaf.or.jp/common/news/2022/20220207-002

 自動車ユーザの立場から、JAFは、合理性のないこの課税形態を早急に解消してほしいと要望していたのですが、退けられました。

 これはほんの一例ですが、現政権がどちらを向いて、政権運営しているのかが端的に示されています。

 折しも6月28日、茂木自民党幹事長は、沖縄北谷町の街頭演説で、「消費税は年金、医療、介護、子育ての財源だ。(減税すると)社会保障(の予算)を3割カットしなければいけない」と語り、「現実的な与党か、現実性のない野党かが問われる選挙だ」と強調したといいます。(※ https://www.jiji.com/jc/article?k=2022062801054&g=pol

 茂木敏充氏といえば、政権与党、自民党の幹事長です。それなのに、生活に苦しむ人々への配慮がみられません。コロナ下で、多くの人々が減収に追いやられ、その後、円安、物価高が続いて、人々の生活は苦しくなる一方です。

 耐えかねて、減税を要求すれば、恫喝して黙らせようというのでは、安心して政権を任せるわけにはいきません。今回の件で、政権幹部が配慮に欠けているだけではなく、思慮も足りないことが露呈してしまいました。

 長崎での街頭演説の動画がありましたので、ご紹介しておきましょう。

■自民党の街頭演説

●茂木幹事長と自民党候補の街頭演説

 6月29日、茂木幹事長は自民党候補者応援のため、長崎を訪れています。沖縄での演説が批判されたことを気にしたのでしょう、野党が主張する消費税の減税に対し、次のように述べています。

 「年金、医療、介護、子育て支援の財源が3割不足する。この財源をどうするのかセットで出さないと責任ある提案と言えない」
(※ https://nordot.app/915049672932392960?c=174761113988793844

 確かに筋は通っていますが、国民への配慮がみられません。

 そもそも、国家予算は適切に使われているのでしょうか。例えば、コロナ予備費の12兆円の使途のうち、9割を追うことが出来ないという報道があります。
(※ https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA143WV0U2A410C2000000/

 これでは、政府に対する信頼が失墜してしまうのも当然です。予算がどのように使われたのか、果たして、必要な支出だったのかどうか精査する必要があるでしょう。残念なことに、現政権に対しては、予算の策定、執行に透明化を求めなければならないほどになっているのです。

 さて、長崎での街頭演説の様子をユーチューバーが撮影していました。テレビでよく見かけるような短い映像です。

こちら → https://youtu.be/FjeXdZ7KR30
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 このユーチューバーは、茂木幹事長や自民党候補について、興味深い見解を述べています。商店街を巡ってにこやかに振る舞っているが、集まって来た人々と話し合うことはなく、意見を聞くこともなかったと、撮影しながら、述べています。

 すべてが内輪だけのやり取りだったせいか、宣伝用に作り込まれた光景に見えたそうです。だから、演説を聞いても感動することもなく、ただ、見栄えよくポーズを取っているにすぎないという印象だったと語っています。

 さらに、このユーチューバーは、集まった人々に感想を聞いてみたそうですが、多くの人が取材されたくないという態度を示し、避けようとしたといいます。

 たしかに、動画で見る限り、商店街でちょっと試食し、選挙用に見せ場を作っていただけのように思えました。

 この動画について、次のようなコメントが寄せられていました。いくつかご紹介しましょう。

 「参政党を知っちゃったから、自民党とか興味が無くなっちゃたよ」

 「山本候補者の演説はほとんど心に響きません。昔インスタントコーヒーのCMで「本物には感動がある」というセリフがありました。ある党の街頭演説動画を視聴しましたが、全ての演説動画には心を揺さぶられるような感動があります。自民党の演説は、CM的に表現すると「偽物には感動が無い」のかもしれません」

 「様子を見ると、参政党の演説に来てる人たちとの温度差の違いがすさまじいです
みんな、来させられてるだけじゃん?そして、演説がツマラナイ。。。」

 寄せられたコメントを見ていると、多くの有権者はどうやら、参政党の街頭演説と比較し、茂木幹事長や自民党の候補者の演説に中身がなく、つまらないということに気づいてしまったようです。

 果たして、参政党とはどのような政党なのでしょうか。気になってきました。

 そこで、まず、選挙ドットコムで見てみました。

こちら → https://go2senkyo.com/sangiin/20368/hirei_party/3630/candidates

 比例代表として、5人の立候補者が登録されています。なかなか興味深いボードメンバーだと思いました。実は、彼らは皆、ユーチューブで何度か見たことがある人物だったのです。識見が高く、激変する時代の動向を鋭く見抜く能力のある人々でした。

こちら →
(※ 参政党HPより。図をクリックすると、拡大します。)

 ひょっとしたら、彼らは困難な時代状況を劇的に変化させてくれる人々かもしれません。ユーチューブでちらっと見た程度ですが、世界や社会、経済や歴史に対する見識、実行力、キャリア、いずれも激変する社会に切り結んでいける能力を備えている人々ではないかと感じました。。

 一見、異端児のようにも思える人もいますが、だからこそ、これからの日本を牽引していける果敢な精神を備えているように思えました。

 とりあえず、参政党の街頭演説を見てみることにしましょう。

■参政党・神谷宗幣氏

 長崎では、ドイツ・フランクフルト在住の尾方綾子(おがた・あやこ)氏が参政党の候補者として立候補しています。神谷氏の推薦だそうです。海外居住者の視点を取り込みたいという神谷氏の意見が取り入れられて、実現しました。

 日本の中だけにいると、それこそ井の中の蛙で、日本を客観視することが難しくなります。だからこそ、海外の視点から、日本のシステム、政治、社会、経済、教育などへのさまざまな気づきが重要になります。神谷氏はそういう思いから、尾方氏に立候補を呼び掛けたそうです。

 尾方氏も、素晴らしい日本にしていきたいという思いは同じです。

こちら →
(※ 下記ユーチューブ動画を撮影。図をクリックすると、拡大します。)

 それでは、応援演説をする神谷氏を撮影した動画を見てみることにしましょう。

こちら → https://youtu.be/lWaX8lkBO3g
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 冒頭で、このユーチューバーは、何人かの参加者に何故、街頭演説に来たのかと尋ねています。

 最初に質問された女性は、ユーチューブで見て神谷氏に感動し、実際の演説を子供に聞かせたくて、子どもを連れてきたと言っていました。次の女性もやはり、ユーチューブで神谷氏を知ったそうです。長崎は自民党が強いが、参政党はこれまでにない政党だから、100%応援していると語っていました。その後、言葉を継いで、皆で参政党を守っていかなければならないとまで言っています。

 動画を通し、一部の有権者の反応を見たにすぎませんが、自民党の街頭演説に集まった有権者たちの反応とは大きく違っていました。参政党の参加者たちからは、弾むような躍動感があり、支援者ならではの熱気が感じられました。

 2時間かけて西海市から来たという高齢者は74歳でした。神谷氏が主宰するCGSを視聴しており、こういう時はなんとしてでも応援しなければと思ってやってきたと答えています。

 やはりCGSを視聴していて神谷氏を知ったという参加者は68歳、そして、37歳の男性でした。これほど歴史をよく勉強し、日本のことを深く考えている政治家はいないと評価していました。そして、実際に、勉強しはじめると、自分で考えるようになり、神谷氏の言っていることがよくわかると語っていました。

 さらには、これまでは自民党に入れていたが、参政党の党員になったとか、創価学会会員だったが、辞めて、参政党の支援をしているという人もいました。また、被爆した長崎がなぜ、アメリカに抗議しないのか、20代から何かもやもやとして気分でいたが、神谷氏の演説を聞いて、どうすればいいか気づいたそうです。だから、参政党ができたことが嬉しくて、入党したという64歳の男性は、これでようやく生き甲斐が出来たと語っていました。

 こうしてみてくると、神谷氏の演説こそが、有権者の気持ちを強く揺さぶり、これまでわからなかったことに気づかせ、そして、これからやるべきことを考えさせるきっかけを作っていたことがわかります。

■魂への働きかけ

 大勢の参加者は演説を聞いて、心の奥底に沈んでいた過去を思い出し、その過去に照らし合わせて感動し、共感することが多かったようです。演説を聞いて、すぐに入党した、寄付した、ボランティアを買って出たという人が多いのは、おそらく、神谷氏の演説が魂に響くようなものであったことが、大きく影響していたのではないかと思います。

 神谷氏はまさに、演説を通して、多くの人々の心に火を点けてしまったのです。

 近現代史を学ぶ機会を持たず、日本人はひたすら、悪いことをしてきたという罪の意識を植え付けられて生きてきました。その結果、人々は、何をすべきか、どう考えるべきかがわからなくなってしまっていたのでしょう。戦後数十年間、多くの日本人は、誇りを持って生きていくための精神的な軸を失っていたのです。

 ところが、神谷氏の演説を聞いて、人々は気づき、失っていた軸を取り戻そうという気持ちに目覚めました。先ほどご紹介した、生き甲斐ができたという男性の言葉にその思いが象徴されています。無力感に苛まれて生きていた人々が、神谷氏の演説を聞いて、心を動かされ、共に行動したくて、入党し、生き生きとした生活を取り戻しつつあるようです。

 激変する社会情勢の中で、老若男女を問わず、自分がどうこの社会とかかわっていけばいいのか、わからなくなってしまっている人が増えています。参政党・神谷氏の演説には、そのような人々の気持ちを捉え、魂を救う何かがあるようでした。

■学び、気づき、行動する

 神谷氏はユーチューバーの質問に答え、当初は30代から50代の人々が多かったが、今は60代、70代、80代にまで広がり始めていると言っていました。

 取材された高齢者の何人かは、神谷氏を知るきっかけとなったのが、CGSだと言っていました。そこで、調べてみると、CGSとは、Channel Grand Strategyの略称で、「日本人の『スイッチ』を入れる番組」で、登録者数29.3万人の教養番組でした。

こちら → https://www.youtube.com/channel/UCNkl6sk3xpHcSpIfiuV2AIA

 内容については、「政治、経済、歴史、軍事、食と健康などのテーマで、学校では教わることのないけれど、これからの日本の国策を考えていくために必要な基礎知識や教養を15分程度で配信する動画チャンネル」と概説されています。

 その番組のメインキャスターが神谷宗幣氏でした。ユーチューブを使い、一種の啓蒙活動を行っていたのです。神谷氏自身、勉強しながら、気づき、そして、行動していくといったスタイルの活動を展開していました。

 それでは、参政党は一体、どのような政策を有権者に訴えていたのでしょうか。

 取り敢えず、ホームページを見てみました。すると、参政党の政策についての動画がありました。

■政策の基本構成

 参政党は政策の基本構成として、以下のようなプランを練り上げています。

こちら → https://youtu.be/WRSEjDJpYbc
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 理念や綱領、政策については、共同代表の松田学氏を中心に策定したそうです。ですから、これについての説明も、松田氏が担当していました。

 政策の基本構成としては以下のようになっています。

こちら →
(※ 参政党HPより。図をクリックすると、拡大します。)

 どういう政党にするかというところに「日本の国益を守り、世界に大調和を生む」という理念が掲げられています。日本のあるべき理想の姿が語られていま。わからないわけではありませんが、漠然としていて、掴みどころがないという印象です。

 その理念の下には綱領が掲げられており、「先人の叡智を活かし、天皇を中心に一つにまとまる平和な国をつくる」「日本国の自立と繁栄を追求し、人類の発展に寄与する」「日本精神と伝統を活かし、調和社会のモデルをつくる」、等々、3点が示されています。

 ここでは、国家としての日本の目指す方向が示されていますが、堂々巡りになっているように思えます。これについてはまだ検討の余地があると思いました。

 現在の技術動向からいえば、今後、デジタル・エコノミーに移行していく可能性が高いでしょう。生産、流通、消費のプロセス、それぞれがデジタル化していけば、当然のことながら、人々の生活形態も変化していきます。人と人とのありかた、人と社会とのありかた、人と国家とのありかたも、生活形態の変貌に応じて国家の方向も政策も変化していかざるをえなくなるでしょう。

 上記の綱領には、そうした状況が想定されていないように思えます。状況変化を踏まえて、綱領を精査し、それ以外のものも含め、整合性をもたせなければ現実的ではないのではないかという気がしました。

 綱領を支えるための目標として10の柱が掲げられています。そして、これらの10の柱を実現していくための地域コミュニティ政策があり、未来社会モデルづくりがあるといった構造になっています。

 さらに、この地域コミュニティ政策と未来社会をつなぐものとして、デジタル革命を進め、トークンエコノミーを通した政策実現を進めていくというのが、参政党の構想です。

 このような未来に向けた国家構想に基づき、参政党が行おうとしている実践課題を構造化して示されたのが、次のチャートです。

こちら →
(※ 参政党HPより。図をクリックすると、拡大します。)

 先ほどの10の柱がここでは具体的に示されていますが、さらに検討を加え、改良していく余地があると思いました。これを見ると、まだ、さまざまな局面に対応できるものになっているとは言い難く、偏りや重複が見られます。社会を支える基本構造を設定し、今後起こりうる変化と継承すべき伝統とを加え、相互排除的に設定し直す必要があるのではないかと思いました。
 
 参政党の政策としては、選挙公報に載せられた3つの重点政策の方がすっきりとしてわかりやすいと思いました。

こちら →
(参議院議員選挙選挙公報より。図をクリックすると、拡大します。)

 これなら、誰もが理解することができ、しかも、現在、人々が懸念している事柄ばかりです。さらに、「子供の教育」、「食と健康、環境保全」、「国の守り」は相互に深く関連しており、まず、これらの課題に取り組むことが大切です。

 いずれにしても、もはや自公政権に期待することはできず、新たな問題意識を持ち、新たな政党づくりを掲げて登場した参政党に頑張ってもらうしかなさそうです。とはいえ、HPで掲げられた政策については議論の余地がありますし、登場したばかりで、すぐには日本の制度改革にはつながらないでしょう。

 ただ、参加型の政党を目指し、実践しているところに、現状を打破できる新しさがあり、未来に向けた可能性が感じられます。今回の参議院選挙では、まず、少しでも多く議席を獲得することに専念すべきでしょう。それが達成できた暁に、党勢を拡大し、社会の抜本的な制度改革に挑んでもらえればいいと思っています。(2022/6/30 香取淳子)

「平仙レース」に見る、日本の近代化過程③ ルーツ・平岡甚蔵

 前々回は「平仙レース」創始者の平岡仙太郎をご紹介し、前回はその後継者で長男の平岡仙之助をご紹介してきました。両者とも進取の気性に富み、利他精神にあふれた傑物でした。一繊維事業者として活躍し、業界を活性化させただけではなく、研究開発、人材育成、地域社会にも多大な貢献をしてきました。

 なぜ、親子2代にわたって、そのような傑出した人物が現れたのでしょうか、今回はそのルーツを探ってみたいと思います。

 平岡仙太郎は明治26(1893)年、埼玉県元加治村仏子で、織物業を営む平岡専吉の長男として生まれました。そこで、父親である平岡専吉がどのような人物なのか、郷土資料を渉猟してみましたが、平岡甚蔵の甥だということ以外にたいした手がかりは得られませんでした。

 どうやら、平岡甚蔵が大きなカギを握っているようです。

 そこで、今回は、平岡甚蔵が何をしてきたのか、当時の織物業界の動向と関連づけながら、把握していくことにしたいと思います。

■甚蔵が生まれた時代

 平岡甚蔵は弘化4(1847)年10月、代々、元加治村仏子で織物製造業を営む家庭に生まれました。弘化(1844-1848)年間はわずか4年しか続かず、天保(1830-1844)年間の大地震、大飢饉に引き続き、同年5月7日、善光寺地震が発生しています。甚蔵が生まれる5か月前には、M7.4の大規模な地震に見舞われていたのです。

 この地震は江戸、神奈川で震度4だったそうですから、埼玉でも相当、揺れたことでしょう。

 その前年の1846年3月10日には孝明天皇が即位され、5月には、アメリカ東インド艦隊司令官のビドル(James Biddle, 1783-1848)が、軍艦2艘を引き連れ、浦賀沖にやって来ました。米軍艦が通商を求めたのはこの時が初めてでしたが、幕府はこれを拒否しています。

 度重なる天変地異があり、大きな社会変動の兆しが見え始めていた頃、平岡甚蔵は誕生したのです。日本に開国を迫る諸外国からの来航は続き、激動の時代の幕が切って落とされようとしていました。

 1953年7月8日、ペリー(Matthew Calbraith Perry, 1794-1858)が、開国を求める米大統領の親書を携え、浦賀に入港しました。

こちら →
(Wikipediaより。図をクリックすると、拡大します)

 当時の将軍、徳川家慶は重病だったため、親書を受け取っただけで、返答はしませんでした。そして、ペリーが去った10日後には亡くなってしまいました。その後、徳川家定が第13代征夷大将軍になりましたが、病弱で、乱世を乗り切るだけの胆力はありません。

 その後も開国を求める外国船の出没は続き、不安に駆られた国内では、そのような状況に抗うように、攘夷論が湧き上がっていました。

 1856年7月21日、初代アメリカ総領事ハリス(Townsend Harris, 1804-1878)が来日し、通商条約の締結を正式に、幕府に求めてきました。ところが、孝明天皇からは条約締結の勅許が得られませんでした。当時の大老・井伊直弼は幕閣の意見を聞いた上で、1858年7月29日、神奈川沖に停泊中のポーハタン号上で、14条からなる日米修好通商条約に調印しました。

こちら →
(Wikipediaより。図をクリックすると、拡大します)

 幕閣の多くは、阿片戦争など、列強がアジアに仕掛けた戦争について把握していました。だから、このままでは日本も植民地にされかねないと、開国論に傾いていたのです。侵略戦争を仕掛けられるより開国する方がましだという認識でした。度重なる列強からの圧力に抗いきれず、半ば、追い詰められるようにして下した決断だったといえます。

 その結果、オランダ、ロシア、イギリス、フランスなどとも貿易協定を結ばざるをえなくなりました。いずれも関税自主権がなく、治外法権を認める不平等条約でした。

 適切な情報もないまま、日本は列強優位の条約を結ばされたのです。明治政府が取り組まなければならない課題の一つとして残されたのが、これら欧米列強との不平等条約の改正でした。

 これらの条約を契機に、日本は否応なく、列強を中心とした国際舞台に引き入れられていきました。悪条件の下で外国との貿易が始まり、大きな変貌を強いられたものの一つが織物産業です。

■甚蔵が育った時代

 19世紀半ば、フランス南部地方を中心に、蚕に微粒子病が発生しました。これは、蚕が桑を食べなくなり、黒褐色の小斑点ができて、やがて死に至るという病気です。この微粒子病は瞬く間に、フランス北部、イタリアにも感染が拡大し、ヨーロッパの生糸生産に大きな打撃を与えました。

 その結果、19世紀の半ばのヨーロッパは生糸不足に陥っており、絹織物業者は苦境に陥っていました。しかも、1851年には太平天国の乱が発生し、当てにしていた中国からの輸出も滞っていました。輸入によって生糸を安定的に確保することが難しくなっていたのです。

 そんな折、日本は日米修好通商条約に基づき、1859年6月2日に横浜と長崎で開港しました。

 フランス、イギリス、オランダとも通商条約を結んでいましたから、当然のことのように、日本からヨーロッパ向けの生糸の輸出が始まりました。輸出は好調で、ヨーロッパとの取引が始まって3年後の1862年、日本からの輸出品の86%が生糸と蚕種でした。

 開国早々、生糸が日本の主な輸出商品となっていたのです。

 当時、日本では養蚕農家が、養蚕から製糸、機織りに至る一連の作業を行っていました。その際、座繰製糸という方法で生糸を生産していました。蚕は幼虫から蛹になるとき、糸を吐き出して繭を作ります。そこで、繭を窯で煮て繭糸を取り出しやすくする方法を取っていたのです。

 座繰製糸(ざぐりせいし)とは、繭を釜で煮る際、片方の手で糸を繰りながら、反対の手で巻き取る作業のことをいいます(※ 関東農政局 座繰製糸)。

 座繰製糸の画像を見つけましたので、ご紹介しましょう。

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(※ 横浜開港資料館より。図をクリックすると、拡大します)

 江戸時代以降、繭を煮る釜と糸巻き枠が一体化した座繰器が使われはじめました。主に農家で用いられていた器械です。これは工女が自分で糸枠を回転させながら、接緒する方式だったので、能率は悪く、粗製乱造になりがちでした(※ 中村政則、他「製糸技術の発展と女子労働」『技術革新と女子労働』1985年、p.34.)

 養蚕は東北、関東の一部、甲信などの地域で、農家の副業として盛んに行われていました。生糸が輸出の主力商品になっていくにつれ、これらの地方を中心に、全国で生糸が増産されるようになりました。埼玉県はその中心的な地域でした。

 埼玉県でも、当時、養蚕は農家の副業として行われていました。

 農家ごとに、扱う蚕の品種や生糸生産の技術レベルが異なっており、品質にばらつきが多いだけではなく、粗悪品もみられました。商品として安定して輸出できる状態ではなかったのです。

 日本製生糸はまたたくまに信頼を失い、輸出が落ち込んでしまいました。品質からいえば、半ば、当然のことでしたが、日本製生糸の価格は1868年から次第に下落していったのです。

 産業革命に成功したヨーロッパでは、すでに器械製糸技術による生産が行われていました。高品質の生糸を大量に生産するシステムが整っていたのです。ところが、日本の生糸は主要な輸出商品でありながら、そうではなく、外貨を稼ぎ続けるには、ヨーロッパからの需要に応えられる品質管理、生産体制を整える必要がありました。

 ヨーロッパの市場は、高品質の生糸を日本に求めていたのです。

 明治政府には、外国商人から器械製糸場建設の要望が提出されたほどでした。さらには、フランスの貿易会社エシュト・リリアンタール商会(リヨンで1859年に創業)などは、そのための資金提供まで申し出ていました(※ Wikipedia)。

 リヨンは当時、ヨーロッパ最大の生糸取引所でした。エシュト・リリアンタール商会は、生糸の生産に大きな打撃を受けていたヨーロッパの窮状を救うため、高品質の生糸の大量生産を強く日本に求めていたのです。

 渋沢栄一は、当時の日本の生糸について、次のように述べています。

 「其の頃我国から輸出した生糸は伊太利で出来るような精良の生糸ではなかった。総て皆座繰取であって、欧羅巴の機械取はない、故に「デニール」の揃はぬ生糸のみであるから需要地に於て僅に緯糸として消費せらるるに過ぎない、之では一国の重要輸出品として其の販路を拡張する訳に行かぬから是非伊仏のやうに器械製糸に改めて以て経糸として立派な生糸を産出する様にしなければならぬと云ふので、先づ富岡製糸場を設立することになった」(※ 中村政則、前掲、p.36.)

 日本の座繰方式では主要な輸出品として販路を広げることもできないから、是非ともイタリアやフランスのように器械製糸にする必要があると渋沢はいい、富岡製糸場の建設に言及しています。

 渋沢栄一は当時、大蔵省租税正でした。農家出身で養蚕に詳しく、富岡製糸場設置主任5人のうちの1人に任命されています。
(※ https://worldheritage.pref.gunma.jp/shibusawa_eiichi/#link3-1

■富岡製糸場の建設

 明治政府は1872年(明治5年)、高品質の生糸を大量に生産できる官営模範工場の建設を完了しました。それが、群馬県富岡市に建設された富岡製糸場です。やや俯瞰して描かれた全体図があります。

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(※ 世界遺産 世界遺産富岡製糸場より。図をクリックすると、拡大します)

 官営工場の建設にあたっては、大隈重信、伊藤博文、渋沢栄一らが種々、検討した結果、フランスの機械を使い、フランスの技術を使った製糸場を建設することになりました。担当者として選ばれたのが、ポール・ブリューナ(Paul Brunat, 1840-1908)です。

 リヨンの生糸問屋で働いていたブリューナは、エシュト・リリアンタール商会に雇用され、生糸検査人として、横浜支店で勤務していました(※ 澤護「富岡製糸場のお雇いフランス人」『千葉敬愛経済大学研究論集』第20号、1981年、p.197.)。

 リヨンは当時、ヨーロッパ最大の生糸取引所でした。リヨンで働いていたことがあり、生糸関連の人脈もあることから、彼は適任と判断されたのでしょう。1870年6月に仮契約を結びました。

 以後、ブリューナが指揮を執り、用地の選定、工場の建築、稼動に至る全過程を進めていきました。まず、用地の選定です。

 同年、7月、ブリューナらは用地選定のため、当時、生糸の生産が盛んだった武蔵国(埼玉県)、上野国(群馬県)、信濃国(長野県)を視察しました。

 その結果、次のような理由から、群馬県の富岡市に建設することに決定しました。

 すなわち、①養蚕業が盛んで良質の繭の供給が可能、②製糸に必要な良質の水の確保が可能、③大工場建設のための敷地が入手可能、④蒸気エンジンの燃料に必要な石炭の調達が可能、⑤地元住民の協力を得ることが可能、等々の条件が満たされていたからでした(※ 上西英治「日本の絹産業から見た富岡製糸場の歴史意義」『地域政策研究』第18巻第4号、2016年3月。p.92-93.)。

 同年10月、ブリューナは明治政府と契約を結び、1871年1月から有期雇用となりました。「お雇い外国人」制度の下、製糸場の建設のための庶務、工場の建設に必要な機械や機材の購入、熟練したフランス人技師、工女の招聘し、彼らの指導の下、日本人技師、工女を育成するというのが条件でした。

 興味深いのは、エシュト・リリアンタール商会から資金提供の申し出があったにもかかわらず、明治政府が自己資金で官営の模範工場を建設したことでした。開国したばかりで資金不足だったにもかかわらず、明治政府は敢えて自己資金で賄ったのです。主要産業に外国資本の導入を防ぎ、外国勢力の介入を回避したのです。懸命な判断でした。

 さて、富岡製糸場は1871年5月に着工し、1872年7月に主な建物が完成しました。

 製糸場の主な建物は、①繰糸所、②東置繭所、③西置繭所、④首長館、⑤蒸気釜所、⑥検査人館、⑦女工館、⑧鉄水溜、⑨下水竇及び外竇、等々でした。
(※ http://www.tomioka-silk.jp/tomioka-silk-mill/guide/building.html)

 全体図は、こちらです。

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(※ 世界遺産 世界遺産富岡製糸場より。図をクリックすると、拡大します)

 設計図を書いたのは、フランス人技術者エドモン・オーギュスト・バスティアン(Edmond Auguste Bastien, 1839-1888)でした。ブリューナが、お雇い技術者として横須賀製鉄所に雇用されていたバスティアンに依頼したのです。

 フランス人技師や工女の選定と雇用についてはすべてブリューナが行い、明治政府は彼らとは直接、契約を交わしていませんでした。(※ 澤護、前掲、pp.206-207.)。

 建物の設計はフランス人が担当しましたが、実際の建築作業は日本人が行いました。西洋の建築技術と日本の技術や資材を併せて使い、ハイブリッドで完成させていったのです。

 たとえば、繰糸所があります。

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(※ 世界遺産 世界遺産富岡製糸場より。図をクリックすると、拡大します)

 この繰糸所で、繭から糸を取る作業が行われていました。長さ約140メートルもある巨大な空間に、フランスから導入された金属製の繰糸器が300も設置されていました。当時、フランスやイタリアの繰糸器ですら150程度だったそうですから、富岡製糸場はまさに世界最大規模の器械製糸工場だったのです(※ 前掲 URL)。

 それにしても、これほど天井が高く、建物の中央に柱のない巨大な空間には驚かされます。これは小屋組みをトラス構造にすることで、可能になったのだそうです(※ 前掲 URL)。ヨーロッパの技術、日本の技術及び資材を組み合わせて使い、実現させた建築の一例です。

 フランス人の設計に基づき、ヨーロッパの技術、日本の技術及び資材を使って建設された富岡製糸場は、1872年7月に完成しました。同年10月4日から操業が開始され、1876年に外国人指導者が去った後は日本人だけで操業できるほど、日本人技師や工女たちは作業を習熟していました。

 以後、官営の模範工場として富岡製糸場は、日本の製糸業の技術開発を主導し、新しい技術を普及させるモデル工場として大きな役割を果たしていきました。

 機械を使った製糸作業の習得については次のように展開されました。

 たとえば、一人のフランス人工女から4人の日本人工女が器械を使った糸の操り方を教えられると、今度はその4人が別の日本人工女に教えていくという方法が採用されました。その結果、短期間に大勢の工女が最新の技術を学び取ることができたといいます(※ 澤護、前掲、p.212)。

 明治政府は、国内から工女を募集して、フランス人から器械製糸の技術や知識を習得させました。その後、彼女たちを指導者として、他の日本人工女たちに教えていくという方法で、工女を多数、育成していったのです。全国に新技術が拡散されたおかげで、短期間のうちに、高品質の生糸が大量に生産されるようになりました。

 興味深いのは、品質管理を徹底させる一方、明治期には珍しく、富岡製糸場では労務管理も工女たちに配慮されたものだったことです。フランスの雇用形態がそのまま移植されていたのでしょう。

 1872年の創設時、働いていた工女は400人で、一日8時間労働、夏冬の長期休暇(各10日間)、食費や寮費は製糸場が負担していました。当時、世界でもまれなほど良好な労働環境だったのです。
(※ https://www.sankeibiz.jp/econome/news/140426/ece1404262147007-n1.htm

 富岡製糸場が建設され、模範工場として機能しはじめると、日本の製糸業全般が次第に、近代化されていきました。新しい製糸技術の導入、優良な蚕品種の育成、飼育方法の改良、輸出検査の導入など、日本の製糸業に欠けていた課題が次々と、解決されていったからでした。

 おかげで、製糸産業は急速に生産量を拡大し、輸出量もそれに比例して伸びていきました。

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(※ 農林水産省 「「明治150年」関連施策テーマ我が国の近代化に大きく貢献した養蚕」)

 富岡製糸場の建設以降、ヨーロッパの需要に合わせ、高品質の生糸を量産できるようになっていました。おかげで、新たな輸出先となった米国のニーズにも応えることができました。富岡製糸場を牽引車として、生糸産業は輸出の花形となっていったのです。

 もちろん、すべての養蚕地方が同じように、欧米基準の生糸を生産できるようになっていたわけではありません。全体的にみれば、家内手工業的な形態で生産されているところがまだ数多くみられました。

■甚蔵が織物業を継いだ時代

 1874年、平岡甚蔵は父親の死に伴い、家業である染糸業、織物業を継ぎました。富岡製糸場ができた2年後のことです。甚蔵27歳の時でした。

 『所沢織物誌』(所沢市史編さん室、編集・発行1984年)に、「平岡甚蔵」の名前が見えます。少し長くなりますが、引用してみましょう。

 「維新直後、元加治村仏子の浅見弥助、平岡甚蔵、宮岡太郎兵衛等縦三十番手横四十番手筬十七算にて京桟留と称する綿織物を製織して世評を問ひたるに、製品の単調なる当時に於いて新組織として喜ばれ忽ちの間に製織者相次いで生じた。これと前後して元加治村を貫く入間川の下流柏原村に博多結城なる絹面交織現れ、数年ならずして、水富、藤澤淘の諸村より生産を見、更に数年にして其地域は元加治、加治、金子、東金子、豊岡、入間川、奥富、精明、南高麗、飯能、宮寺等の諸町村に広まり、野田双子及京桟留と合して年産額六十万反を超え、一時その命脈を絶たんとしていた絹綿交織は茲に復活したのである」(『所沢織物誌』、p.85)

 維新直後、平岡甚蔵らによって「京桟留」が開発され、それが評判を呼び、織物業への新規参入者が増えていったことが記されていました。「京桟留」が開発されることによって、1861年に開発された「野田双子」と合わせ、年60万反を超える生産量を誇るようになり、一時、存続を危ぶまれた絹綿交織もこれで復活したというのです。

 平岡甚蔵が稼業を継いだのは明治7年(1874)ですが、稼業を継ぐ前に、甚蔵は新しい仕様の織物を創り出していたのです。若いころから創意工夫に富む人物だったことがわかります。

 ところが、入間地方の織物生産事業者の多数は、明治前期になってもまだ、問屋制の下に編成されていませんでした。せっかく新製品を開発しても、市場が整備されておらず、品質管理、流通ルートなどにも不備がありました。大きく発展できる環境ではなかったのです。

 改めて、近代化初期過程には、構造的な格差が含まれていることに気づかされます。

■製糸業の近代化初期過程に見られる構造的な格差

 開国当初、近代化の進んだ欧米と日本とでは、圧倒的な格差がありました。産業革命以降、科学技術の進歩の度合いによって、格差が生み出されるようになっていたのです。それは、富みを生み出す源泉が科学技術に移っていたからでした。

 近代化を急ぐ明治政府は、西洋の科学技術を学ぶために、「お雇い外国人」に法外な報酬を出しました。そうでなければ、欧米から優秀な人材に来てもらえなかったのです。

 たとえば、富岡製糸場の建設を指揮したブリューナの場合、その年俸は9000円で、お雇い外国人の中では最高級でした。当時、一般の日本人職工の年俸は74円でした(※ 澤護 前掲、p.199.)。いかにブリューナが多額の報酬を得ていたかがわかります。

 もちろん、往復の旅費、豪華な住宅、備品なども供与されていました。近代化に必要な技術や知識を習得するために、明治政府は、「お雇い外国人」に破格の待遇をしていたのです。

 試みに、官営富岡製糸場の設立当初の収支をみると、いかに膨大な人件費を負担していたかが推測されます。

 項目別の収支はわかりませんが、ざっと見たところ、1872年から1875年までの期間、収入は487,111円79銭、支出は707,345円541銭でした。なんと220,233円744銭もの赤字です。この期間はブリューナをはじめ「お雇い外国人」が在籍していました。

 ところが、「お雇い外国人」がすべて撤退した1876年の収支を見ると、収入は290,866円360銭、支出は188,208円940銭でした。102,657円420銭もの黒字です。
(※ http://www.silkmill.iihana.com/account.php)

 近代化のための授業料であり、投資として、この膨大な出費は仕方がなかったのかもしれませんが、追い詰められるようにして、近代化を急いだ明治政府の姿をここに見ることができます。

 開国したばかりの日本は、産業革命を経て、技術革新の進んだ欧米を相手に、格差を抱えたまま、取引しなければなりませんでした。まだ制度整備も十分でないのに、欧米基準の製品を生産していかなければならず、近代化に伴う構造的な格差を排除できなかったことがわかります。

 しかも、不平等条約は解消されておらず、不利を承知で取引を強いられていました。

 一方、製糸業の近代化は、養蚕、製糸、絹織という従来の作業形態を徐々に崩壊させていきました。それぞれの過程を分業化し、それらを結合して市場を形成するという形態に置き換えられていく過程でも、格差が生じていました。

 欧米との格差だけではなく、国内でも構造的な格差が発生していたのです。

 たとえば、欧米向け生糸の輸出が増えると、国内向け生糸の出荷量は減少します。輸出向け生糸の出荷量が増え、価格が高騰するに伴い、出荷量が少なくなった国内向け価格も、需給ギャップで高騰していきます。そして、国内生糸価格が高騰すると、国内絹織物の価格も高騰しますから、その需要は減少していかざるをえません。

 輸出が盛んになると、輸出向け生糸は好景気でも、国内向け生糸は不景気だという現象が発生していたのです。

 その結果、輸出向け生糸の生産に踏み切る農家が、次第に増えていきました。それに伴い、欧米基準の生糸を生産するため、養蚕から製織まで一貫性をもっていた家内手工業的な形態は廃れていきました。過程ごとに分業化し、器械工業的な形態に移行していったのです。

 そんな折、発生したのが秩父事件でした。

■フランス大恐慌がもたらした養蚕農家の困窮

 埼玉県秩父地方は江戸時代から養蚕が盛んな地域でした。それが生糸の輸出増を背景に、輸出向け生糸生産に切り替える農家が増えていきました。長野など他の養蚕地域に比べ、秩父はとくにフランス市場との結びつきが強かったそうです。(※ Wikipedia 秩父事件)。

 なぜ、秩父とフランスとの結びつきが強かったのか、調べてみましたが、ほとんど目ぼしい情報はありませんでした。ようやく次のような情報を得ることができたぐらいです。

 明治15年(1882)、フランスの特命全権公使アルチュル・トリクー氏が秩父を訪れた際、同11年(1878)に大火で消失した秩父の小学校の仮設校舎に立ち寄っています。そこでフランス式算術が行われているのを見て感激したそうです。彼はさらに、校舎新築計画のあることを聞くと、金100円を寄付し、当時、駐日陸軍武官だったボスキュー氏の設計図を贈ったといいます。
(※ 以下のURLを参考。① https://www.city.chichibu.lg.jp/4175.html
https://www.city-chichibu.ed.jp/dai1sho/gaiyo/history/

 興味深いことに、フランスの特命全権公使がわざわざ秩父を訪れているのです。なぜなのか、不思議でした。特命全権大使といえば、国家を代表し、外交の全権を委任されて交渉に当たる外交使節中で第一階級の官吏のことです。 それが明治15年、交通も不便な秩父にわざわざ出向いているのです。

 秩父は養蚕で有名な地域でしたから、大使が秩父を訪れた理由は養蚕に関係していたに違いありません。そこで思い起こされるのが、フランス大恐慌です。

 1881年のフランス・リヨン市場の生糸価格は激しく騰貴し、それに伴い、横浜市場でも高騰していました。著名な産地であった秩父郡でも6月ごろから価格は急騰しました。ところが、1882年初頭には一転して、パリ市場の投機相場が急落しはじめ、その混乱はリヨン市場にまで波及しました。やがて、銀行は破産し、フランスに大恐慌が勃発したのです。

 以後、1885年11月に至るまで、国際生糸価格は低迷しました。

 輸出向け生糸の生産に携わる農家はいずれも、1882年のフランス大恐慌に直撃されたのです。とくに秩父の生糸価格はリヨン価格に連動していました。81年12月には5円56銭だった価格が、82年3月には3円33銭となり、40%も暴落してしまいました(※ 中村真幸「蚕糸業の再編と国際市場:1882-1886年」、『土地制度史学』第145号、1994年10月、pp.1-4.)。

 1882年の初頭にフランスで大恐慌が起こっていたことを考え合わせると、フランス大使が秩父を訪れたのは、その影響を把握し、生産地に申し訳ない気持ちを伝えるためであった可能性があります。

 決め手になる情報がないので、推測するしかないのですが、フランス特命大使が秩父を訪れたのは、後にも先にも、その時しかありません。しかも、校舎新築資金を寄付し、設計図まで贈与しているのです。

 注目すべきは、フランス大使が恐慌の余波を気づかわなければならなかったほど、生糸価格の暴落がひどいものだったことです。

 遠く離れたフランスで発生した恐慌が、秩父をはじめ養蚕農家を直撃しました。情報もなく、制度整備も不十分なままでした。輸出向け生糸を生産していた農家はやがて、貧窮化し、追い詰められていきました。 

■秩父事件

 1882年初頭に発生したフランス大恐慌は、日本の養蚕農家を直撃しました。1881年に大蔵卿に就任した松方正義がデフレ政策を取り、増税を行っていたので、さらに不況を深刻化させました。

 農家は高利貸からお金を借りてまで、生糸を生産し続けましたが、価格は下がる一方でした。やがて借金を返せなくなり、多くの養蚕農家は土地を手放すしかなくなってしまいました。

 1883年末ごろから、耐え切れなくなった農民の中から、高利貸しに返済期限の延長、政府に減税を求める動きが始まりました。群馬、埼玉、神奈川などの養蚕地方では、農家を支援する困民党の運動が激しくなっていきました。

 秩父では1884年8月に結成された困民党がわずか1か月で、3000人にもなっていたそうです。彼らは高利貸しに借金返済の期間延長を求めましたが、聞き入れられず、10月31日からは武装して、高利貸し、役場、警察署、裁判所などを襲撃し、借金の証文を焼いたり、武器やお金を奪ったりするようになりました(※ Wikipedia 秩父事件)。

 11月4日、一連の騒動は警察部隊など官軍によって鎮圧され、首謀者は処刑されました。これが秩父事件の概要です。

 秩父事件には、①リヨン市場の生糸価格の暴落による養蚕農家の困窮、②緊縮財政下の増税、などが大きく影響していました。

 フランス市場に傾き過ぎた養蚕農家の困窮がきっかけとなって起こった悲劇といえるでしょう。あるいは、制度整備も不備なまま、国際市場に巻き込まれていった製糸産業の悲劇の象徴ともいえるかもしれません。

 秩父・音楽寺の境内には、鐘楼脇に、「秩父困民党無名戦士の墓」が建てられています。

こちら →
(※ Wikipediaより。図をクリックすると、拡大します)

 これは、1978年11月2日、秩父困民党決起百年記念委員会によって建立されました。石碑には、「われら秩父困民党、暴徒と呼ばれ、暴動といわれることを拒否しない」と刻まれています。

 、秩父困民党は、高利貸しの苛酷な取り立てに悩み、不条理な増税に悩む農民のために立ち上がり、返済期限の延期、減税を求めました。いってみれば、農民たちの生きる権利を求めたのですが、聞き入れられませんでした。

 その状況を打開するため、勢い余って、ついには武装蜂起に至ってしまいました。その際も、神官を除き、農民全戸が参加していたといいます。決して反乱分子が引き起こした暴動ではなかったのですが、秩父困民党は結局、鎮圧され、暴徒、暴動扱いされ、処刑されてしまいました。

 「暴徒と呼ばれ、暴動といわれることを拒否しない」という文言から、無念さがひしひしと伝わってきます。この文言は、武装蜂起せざるをえなかった事情に目をそむけ、暴徒、暴動扱いして収束を図った社会への批判とも読めます。

■同業組合準則

 秩父事件の悲惨な経験を経て、明治政府は、国際市場の動向を踏まえて対応することの重要性を学びました。それには、市場や製品に関する情報の収集及び共有、そして、分業化に対応した業態と業態とを繋ぐ組織の結成が不可欠でした。

 明治17年(1884)11月、農商務省達第37号「同業組合準則」が布達されました。

 白戸伸一氏は、その中心的な意義を次のように捉えています。

 「松方デフレ下にあって、自由競争の「弊害」に未だ対抗しうるだけの資本も生産力も備えていない在来産業を、同業者自身の結集により間接的に保護してゆく意義をもっていたことである」(※ 白戸伸一「明治前期における同業者組織化政策―「同業組合準則」をめぐってー」『明治大学大学院紀要 商学篇』第17号、1980年2月、p.122.)

 フランス恐慌を経験した日本の製糸業界は、1883年から米国向け仕様の生糸を増産するようになりました。そして、1884年には、諏訪地方のように全面的に米国向けに転換するところも出てきました。1886年になると、米国市場で日本糸占有率は高まり、養蚕地方に本格的な好況が訪れました(※ 中村真幸、前掲、p.15-20.)。

 1884年に公布された同業組合準則は、同業者同士の結びつきによって、互いを保護し合い、成長し合える環境を整備することを勧めるものだったといえます。

■甚蔵らが設立した入間高麗織物組合

 同業組合準則に基づき、織物の種類あるいは業種ごとに、準則組合が設立されるようになりました。入間郡下では、明治20年代から30年代にかけて、組織化の動きが活発になっています。

 明治23年(1890)、平岡甚蔵らが中心になって、「入間高麗織物業組合」が豊岡町(入間市)に設立されました。

 その後、改称され、「入間郡織物業組合」となりますが、この組合は有力な機業家層の主導で結成されたところに特徴があります。生産者というよりは、地元の豪農を出自とする商人的特性をもつ織元層が主導したのです(※ 前掲、『所沢織物産地の形成と発展』、p.23-24.)

 その目的として彼らは、織物の尺幅を統一したり、製品に組合の証明書の添付を義務付けたりして、技術的に手工業段階であるために生じる粗製乱造の防止や、染色や織物の改良を企図していました。さらに、粗悪品の乱売防止や販路の拡張を目指していたのです(※ 前掲、『所沢織物産地の形成と発展』、p.24)。

 明治30年(1897)4月12日、重要輸出品同業組合法が公布されました。

 対象は「重要輸出品ノ生産、製造又ハ販売ニ関スル営業ヲ為ス者」(第1条)、目的は「組合員協同一致シテ営業上ノ弊害ヲ矯正シ信用ヲ保持スル」(第2条)でした。白戸氏はこの法律制定の背景を、以下のように指摘しています。

 「近年の輸出増加につれ輸出品の粗悪化や不正取引が進んでおり、この是正のため「重要輸出品」の同業組合を活用するとしている。(中略)この法の成立の背景には、個別には粗製乱造を禁じ得ない在来諸産業ないし零細経営を組織化し、海外市場の拡大に対等してそれらをいっそう有効に輸出産業として動員しようとする政府の意図が働いていたのである」(※ 白戸伸一「同業者組織化政策の展開過程―産業資本確立期における動向を中心としてー」『明治大学大学院紀要 商学篇』第18号、1981年2月、p.75.)

 「同業組合準則」(1884年公布)にしても、「重要出品同業組合法」(1897年公布)にしても、明治政府が企図していたのは、在来経営者、零細経営者に対する同業組合による保護でした。近代化初期過程の中でようやく打ち出された生産者保護策の一つといえるでしょう。

 興味深いのは、入間郡織物業組合の場合、積極的に子弟の育成を図り、明治31年(1898)には化学染料の利用法や製織技術を組合員に普及させるため、染織講習所を豊岡町大字扇町屋に設けていたことでした。組合が県内での実業教育に先鞭をつけたのです。

先見の明のある平岡甚蔵が、この組合の中心メンバーとして活躍していたからでしょうか。単に品質管理、欧米基準に基づく製品の製造に留まるのではなく、次世代の織物業をにらんだ人材育成にまで着手していたのです。

■織物業界への貢献、地域社会への貢献

 その2年後の明治33年(1900)、入間郡立染織講習所の設立が計画されると、入間郡織物業組合はその講習所を拡充し、入間郡に寄付しました。そして、農商務省から技師を招聘し、化学染料の利用による染色技術の普及・改良に力を入れていきました。

 さらに、同年、平岡甚蔵をはじめとする10数名の有力機業家層(絹綿交織業者)と有力買継商が共同で、「染色其他機業ニ属スル諸般ノ工業ヲ経営スルヲ以テ目的トス」という趣旨に基づき、資本金3万円の入間染工株式会社を設立しました。

 比較的資力のある絹綿交織業者と、その関連業者が中心となって、染色工場の共同経営に着手したのです。当時、化学染料(硫化染料)による糸染めの改良と、織物の品質改善が織物業者にとっていかに重要であったかが示されています。

 この入間染工の工場は、元加治村大字仏子(入間市)に設置され、明治42年(1909)の『全国工場通覧』によると、職工数20名(すべて男工)を擁し、「絹綿糸色染」が主な業務でした(※ 前掲、『所沢織物産地の形成と発展』、p.25)。

 明治33年(1900)以降、甚蔵は武蔵織物同業組合設立に着手し、発起人の一人として奔走しました。その結果、36年(1903)12月23日、重要物産同業組合法の下、入間、比企、大里の3郡に亘り、8町72ケ村、組合員5028人を抱える武蔵織物同業組合が川越に設置されました(※ 『わが町の織物』、2016年、p.15.)。

 組合長は向山小平治、平岡甚蔵は副組合長でした。織物の改良と販路拡張のために設置され、主に白魚小織、太織、生糸、絹綿交織、綿織物がその対象でした。明治40年には定款変更をして、事務所は所沢に移されました(※ 『わが町の織物』、2016年、pp12-15.)。

 その推移を見ると、組合は明治政府が打ち出す政策を次々と受け入れ、内容を更新し、激動の時代に合わせて対応していきました。

 明治41年(1908)12月には、組合が対象とする地区が広範囲に亘り、組合の運営に支障をきたすようになっていました。そこで、郡別に分け、さらに、所沢市場の綿織物、絹綿交織業者だけの組合に分けて、組織変更し、大正10年(1921)11月に「所沢織物同業組合」に名称変更しています。

 大正3年(1914)には、平岡甚蔵が二代目の組合長を引き継ぎ、その後、八代目の平岡歓五郎まで、連続して平岡一族が組合長を務めています。(※ 『わが町の織物』、2016年、pp12-15.)甚蔵が切り開いた道を、一族が守り、発展させてきたことがわかります。

 その一方で、甚蔵は仏子村総代、村会議員、名誉助役に就いて、道路改修、橋梁架設などを主導しました。さらに、明治36年(1903)に入間郡会議員になったのを皮切りに、飯能銀行監査役、中武馬車鉄道株式会社取締役、武蔵野鉄道(現、西武鉄道)株式会社創立発起人など、さまざまな役職に就き、地域貢献を行ってきました(※ 入間市文化創造アトリエHP、「織物の歴史と源流」)。

 平岡甚蔵が何をしてきたかを辿ってみると、まず、入間地方の織物業界の近代化になくてはならない人物だったことがわかります。さらに、地域の発展にとっても、なくてはならない人物だったといえます。

 『広報いるま』には「近代繊維産業のパイオニア」として平岡甚蔵が取り上げられ、次のように記されています。

 「資質剛直快活ニシテ、機ヲ見ルコト敏、事ヲ処スルニ熱心、万難ヲ排して必ス素志ヲ貫徹スルノ概アリ」と何人からも言われる徳望のある人物でした(工藤宏、「入間を創った人たち」『広報いるま』No.1037. 2009年、p.20.)

 なんとも穏やかで、温厚な表情が印象的です。

こちら →
(※ 『広報いるま』No. 1037より。図をクリックすると、拡大します)

 幕末から明治にかけての混乱期、甚蔵は時代が要求する課題にしっかりと取り組み、適切な手を打ってきました。近代化初期過程の荒波に耐え、業態を適格化させながら、発展できる道筋をつけてきたのです。誰もができることではありません。

 時代の動きに敏感なだけではなく、先見性があり、行動力があったからこそ、激動の荒波を乗り切ることができたのでしょう。また、徳を備え、人望のある人物だったからこそ、人々をまとめ、率先して事業や社会を改革していくことが出来たのだという気がします。

 新たな激動の時代を迎えようとしている今、果たしてどのような人物が、歴史の舞台の袖で、出番を待っているのでしょうか。ふと、気になりました。(2022/5/31 香取淳子)

「平仙レース」に見る、日本の近代化過程② 継承者・平岡仙之助

 前回、埼玉県入間市の繊維業者・平岡仙太郎についてご紹介しました。新規にレース事業を立ち上げ、技術開発や人材育成に力を注いで地場産業を活性化させる一方、地域社会を守り、住民の団結を図るため、さまざまな貢献をしてきました。

 ところが、その平岡仙太郎が1939年、45歳の若さで亡くなってしまったのです。果たして、「平仙レース」はどうなったのでしょうか。今回はその後の展開を、展示資料等を踏まえ、見ていきたいと思います。

■仙太郎没後の「平仙レース」

 仙太郎は、亡くなる前年の1938年、妻に先立たれていました。家には17歳の長女を筆頭に5人の子供が残され、長男の仙之助はまだ12歳でした。戦時色が濃くなり始めていた頃、子供たちが残されたのです。

 仙太郎の弟の平岡良蔵が後見人となって、「平仙レース」の経営を支えることになりました(※ 入間市文化創造アトリエHP、『織物の歴史と源流』)。

 1939年といえば、日本の同盟国であったドイツがポーランドに侵攻し、第2次大戦が勃発した年です。当時、日中戦争はすでに泥沼化しており、日本軍は南進を企てていました。国内では1940年10月12日に大政翼賛会の発会式が行われ、戦争を支え、推進していくための組織が作られました。社会全体が戦時体制に向けて整備されつつありました。

 翌1941年には東条英機内閣の下、12月10日に日米の戦いの火ぶたが切って落とされました。いわゆる太平洋戦争が勃発したのです。戦線は拡大し、軍事が優先されるようになっていきました。

 「平仙レース」も例外ではありません。1943年、工場転用命令を受け、綿布を織っていた狭山の工場は売却させられてしまいました。

 そんな折、一高・東大卒の平岡雅雄が、その秀才ぶりを見込まれて、仙太郎の長女の婿になりました。

 それを契機に、1943年から「平仙レース」の経営は娘婿の平岡雅雄が引き継ぐことになりました(※ 湯澤規子、「都市近郊農山村における高度経済成長期という体験」『国立歴史民俗博物館研究報告』第171集、p.46, 2011年12月)。

 彼は次々と、難局を乗り切っていきます。

 たとえば、当時、本社工場も売却せざるをえなくなっていましたが、当局に働きかけて、自家転用の許可を受け、1944年からは平仙航空精密製作所として操業しています(『わが町の織物』、2016年、p.48.)。

■戦後の復興期

 こうして家族の力で戦時下をしのぎ、1945年8月にようやく終戦を迎えました。ところが、その後の7年間というもの、日本はGHQの統治下に置かれました。

 GHQにとって喫緊の課題は、焦土と化した日本を立て直し、自立していけるよう経済活動を復興させることでした。復興促進策の先兵として着目されたのが、繊維産業でした。当時、生糸の生産なら、原料を自給することができましたし、日本の繊維産業は戦前、相当の輸出力を持っていたからです。

 そこで、まず、生糸の生産が開始されました。続いて1947年、GHQが綿紡織設備の復元を認めたので、綿業の再建が始まりました。さらに、化繊の生産も年産15万トンまでは認められるようになり、化繊工業の再建も軌道に乗りました(※ 地引淳「繊維産業―復興・発展期から調整・改革期へ」、『繊維機械学会誌』Vol.50, No.7, pp.376-377. 1997年)。

 そうした中、後見人であった平岡良蔵が工場を分離し、飯能に移転しました。1948年のことでした。レース機械12台と共に、多くの技術者も退職していきました。本社工場に残されたのはわずかの機械と従業員でした(※ 入間市文化創造アトリエHP、『織物の歴史と源流』)。

 幸い、残った従業員の中に、最盛期のレース技術を身につけた女子従業員が20人ばかりいました。残された機械も錆びついていましたが、疵はありませんでした。それらを整備して使えるようにし、熟練者を中心に、レース最盛期の作業を逐一、再現していきました。こうして予想外に早く、復興することができました。かつて「質の平仙」といわれていた時のような精巧なレースを作り出すことができたのです(『わが町の織物』、2016年、p50)。

 物資が不足していただけに、質の高いレースは女性たちに装いの夢と楽しみを与えました。復興の準備が整い、繊維産業全般が活気を帯び始めていました。そんな中、1950年6月に朝鮮戦争が勃発しました。大きな需要が発生したのです。

 国連軍の要請で日本は食糧、衣料、鋼材などの調達を求められ、軍事関連物資の特需が発生しました。土嚢用麻袋、軍服、軍用毛布、テントなどの繊維物資が大部分を占めました。「ガチャマン景気」といわれた朝鮮特需は、朝鮮戦争の勃発から1953年7月の休戦協定まで続きました。(※ Wikipedia 「朝鮮特需」)。

 入間地域の繊維業者もこの朝鮮特需にあやかり、徐々に、復興していきました。戦前は巾の小さな小巾織物を生産していましたが、戦後は時代のニーズに合わせ、巾の広いシーツなどの広巾織物に転換していきました。復興期の国内ニーズにも対応していくことによって、順調に生産量を伸ばすことができました。

■後継者としての仙之助

 仙太郎の長男として生まれた平岡仙之助(1927-1966)は、周囲に見守られ、期待を担いながら育っていきました。経歴を見ると、1948年、まだ高校生の時に、レース工業会理事に就任しています。そして、朝鮮特需が発生していた1951年には、大学生でありながら、所沢織物商工協同組合理事に就任しています(『わが町の織物』、2016年、p58)。

 仙之助は若い頃から、仙太郎の長男として、レース事業者、織物業者としての見聞を広め、知己を得る機会を与えられていました。いわゆる帝王教育を受けていたのです。

 浦和高校を経て、1953年3月に東大工学部を卒業すると、同年4月1日には家業を継承し、「平仙レース」工場の主宰者となりました。もうすぐ26歳になろうとする時でした。さらに、同年10月には日本繊維機械学会関東支部評議員に就任しています(前掲)。

 日本繊維機械学会は1948年に創設され、産官学協同を基調とした活動を展開している学会です。

こちら → https://tmsj.or.jp/overview/

 卒業を待ちかねていたかのように、仙之助は役職に就いています。おそらく、産官学を問わず、繊維業界各方面から期待された俊才だったのでしょう。成長を牽引できる人材が必要でした。

 その期待に応えるかのように、仙之助は1954年5月25日から9月19日までレース工業の視察のため、欧米各国を訪問しています。そして、1956年3月5日、「平仙レース」を株式会社に改組し、代表取締役に就任しました(前掲)。

 当時、後進諸国の繊維産業が発展しつつありました。日本の繊維事業者としてはまず、欧米の繊維産業の最新技術、経営動向、市場動向を把握し、改良すべきところは改良していく必要があったのでしょう。

 仙之助は帰国後1年数か月後に、事業形態を株式会社に改組しているのです。欧米への視察で得たものは、単にレース技術の最新動向だけではなく、組織の在り方、海外市場の動向など多岐にわたっていたに違いありません。彼は大幅に組織改革をし、より効率的に高品質のものを生産できる体制に構築し直しています。

 父親に似て仙之助は、進取の気性に富む努力家でした。

 さて、「平仙レース」展では、仙之助の写真が展示されていました。

こちら →
(展示資料より。図をクリックすると、拡大します)

 使命感と緊張感に溢れた表情、そして、ひたむきな眼差しが印象的です。果たして、いつ頃、撮影された写真なのでしょうか。

 展示写真を撮影する際、アクリル面に背景が映り込み、画面が不鮮明になってしまいましたが、それでも、仙之助が着用しているスーツの生地が精巧な織りのものだということはわかります。

■大きく事業を伸ばした仙之助

 事業を継承した仙之助は特需後も順調に業績を伸ばしました。1954年、1959年のレース生地生産量を見ると、埼玉県は全国の40%以上を占め、いずれも1位でした。この5年間で3倍にも達するほどの勢いです(※ 湯澤規子、前掲。p.46.)。

 このように、「平仙レース」は牽引車として、地元の繊維産業の発展にも大きく貢献していました。それだけではなく、同業他社の工場新設にも助力し、支援していました。

 たとえば、郡是製糸(後のグンゼ)がレース工場を設立した際、「平仙レース」から、1958年から3年に亘って、延べ8800人が指導に赴きました(※ 入間文化創造アトリエ・アミーゴHP、前掲)。

 実際、郡是製糸は、1957年に亀岡工場を新設し、刺繍レース事業を開始しています(※ https://www.gunze.co.jp/corporate/history/)。

 日本で初めて刺繍レース工場を創設したのが、「平仙レース」でした。郡是製糸としては、国内で先行する「平仙レース」に頼るしかなかったのでしょう。請われた仙之助は快く、自社の技術者を派遣し、技術供与に応じました。郡是製糸はいってみれば、「平仙レース」の競合相手になるわけですが、それでも支援を惜しむことはなかったのです。

 平岡仙之助は繊維事業の復興に際し、欧米に倣って、新たな商品開発と品質の高度化、そして、徹底的な品質管理を図りました。それをただ自社の発展につなげるだけではなく、地元の繊維産業、さらには、それらの情報を共有し、日本の繊維業界全体の底上げを図っていたことがわかります。

 生来の気質なのでしょうか、それとも、復興期の事業者だからでしょうか。仙之助は、積極的に新しい知識や技術を吸収し、それを自社事業に反映させるだけではなく、同業他社ともそれらをシェアし、共に発展していこうとしていました。

 あるいは、繊維業界や地域社会に貢献してきた仙太郎の気質を受け継いでいたからでしょうか。いずれにせよ、仙之助のそのような姿勢が結果として、「平仙レース」の事業を大きく発展させていきました。

■長者番付にみる事業の栄枯盛衰

 仙之助の繊維事業に対する熱意と努力はしっかりとその業績に反映されていました。たとえば、1955年度の長者番付を見ると、「平仙レース」はなんと7位に食い込んでいます。全国上位10位に入っているのです。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 10位のうち上位半数は後年、日本経済を牽引していく松下電器などの家電産業で占められており、炭鉱、繊維、合板、鉱業がそれに続きます。これらの産業は1950年から1952年までは上位を占めていました。

 興味深いことに、わすか2,3年で炭鉱、鉱業、繊維といった産業が減少し、家電産業にその地位を明け渡しているのです。1955年という年はどうやら、日本の産業構造の変化を示す分岐点のようにも思えます。

 1953年に松下電器と三洋電機がトップテンに入り、1954年には三洋電機が1位、松下電器が2位、そして、1955年には松下電器が1位、三洋電機が3位といった具合です。産業別に長者番付の推移を見ると、1950年代前半から半ばにかけてのこの時期は、戦後復興から経済成長に向けた過渡期であったことが示されています。

 それにしても、「平仙レース」が他の基幹産業に伍して、堂々と1955年度長者番付トップテンに入っていることに驚きました。

 繊維産業が好調だった時期だとはいえ、「平仙レース」が繊維業界トップでランクインしているのです。仙太郎の事業を引き継いだ仙之助がいかに積極果敢に技術開発、品質管理、経営刷新に取り組んできたかが示されています。

 この年、昭和天皇が工場を視察されました。陛下に付き添って説明する仙之助に、「この産業は輸出に重要な産業であるから今後も努力するように」とお言葉を掛けられたといいます(『わが町の織物』前掲、p.58)。

皇族方も視察されたようです。

こちら →
(展示資料より。図をクリックすると、拡大します)

 上手に撮影できませんでしたが、当時の雰囲気は掴めると思います。さまざまな経験を積んできたせいか、仙之助は成功した事業者らしく、先ほどの写真よりもはるかに堂々とした印象です。

 当時、繊維業界の輝かしい業績を牽引したのは「平仙レース」でした。1958年時点で、レース機械44台、従業員501人、生産量350万ヤード(うち輸出量200ヤード)の規模だったといいます(※ 入間文化創造アトリエ・アミーゴHP、前掲)。

 ちなみに、『婦人公論』1964年9月号では、「平仙レース」の輸出先は、東南アジア、ヨーロッパ、中近東、中南米、ニュージーランド、スイス、西ドイツだったと記載されています。

 さらに、文化出版局が発行する『装苑』の1961年7月号では、「オシャレを作る社長」として、平岡仙之助は取材を受けています。レース事業者として注目されるばかりか、ファッション文化の担い手としても注目されていたのでしょう。

 復興期を経て、経済成長期を迎えていた女性たちにとって、「オシャレ」というキーワードは訴求力がありました。装うことに夢や希望を添えて、未来を思い描かせる力があったのです。

 おそらく、仙之助自身、デザインやファッションに興味があったのではないかという気がします。

■桑沢洋子デザインの制服

 展示写真の中に、平岡仙之助が従業員たちと一緒に撮影されたものがありました。

こちら →
(展示資料より。図をクリックすると拡大します)

 やや緊張した面持ちの仙之助と、従業員たちの初々しい表情が印象的です。白い丸襟の制服を着た彼女たちは清楚で、しかも、とてもオシャレに見えます。まるでどこかの私立女子校の生徒のようです。

 この制服に白い帽子をかぶって、彼女たちは働いていました。

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(展示資料より。図をクリックすると拡大します)

 工場で働く労働者とは思えないほど、優雅で和やかな雰囲気が漂っています。

 実はこの帽子と制服は、桑沢洋子がデザインしたものでした。彼女は1954年、ドイツの造形学校バウハウスの影響を受けて、東京・青山に桑沢デザイン研究所を設立しました。「ふだん着のデザイナー」と名乗り、生活のためのデザインを提唱した先駆者でした。

 当時、桑沢洋子は学生服や企業のユニフォームなどを数多く手がけていました。

 仙之助は、従業員の制服のデザインをわざわざ桑沢洋子に依頼していたのです。そのことからも、仙之助のこだわり、幅広い知識、理想を追求する姿勢、美的センスなどを読み取ることができます。単なるレース事業者を超えた美的センスとみずみずしい感性の持ち主だったといえるでしょう。

 当時の女子中学生たちが、「平仙レース」に就職したいと強く願っていたのも無理はありませんでした。

■『むつみ』にみる従業員の気持ち

 平仙レース工場には『むつみ』という社内報がありました。1950年に創刊され、1968年に至るまでほぼ毎年、1冊ずつ刊行されていました。創刊時、仙之助はまだ大学生でしたから、この社内報の発刊はおそらく、平岡雅雄の発案によるものでしょう。

 そういえば、平岡雅雄は1943年、長女の婿として平岡家に来た時の様子を次のように述べています。

 「平岡の家は、明治以来の典型的な機屋の構造で、昔着尺を入れた倉は大きくて立派でしたが、仙太郎在世中から書面の類は全くなく、すべて仕事に直結した生活の匂いが残っていました」(『わが町の織物』、前掲。p.50)

 江戸時代から代々、織物業を営んできた平岡家では作業工程にしろ、何にしろ、書面で記録して残すという習慣がなかったのでしょう。ところが、そのようなやり方では、多数の従業員を雇用し、機械を使って作業を進めていく近代的な生産工程はうまく機能しません。平岡雅雄はおそらく、そのような慣行は改善しなければならないと考えたのでしょう。

 社内報『むつみ』の内容は、①会社経営側からの寄稿、②社内各組織からの連絡事項および寄稿、③従業員からの寄稿、等々で構成されていました。特に多かったのが従業員からの寄稿でした(湯澤規子、前掲。p.45.)。

 彼女たちはいったい、どのような気持ちで「平仙レース」を志望し、働いていたのでしょうか。従業員の寄稿を見てみることにしましょう。

 たとえば、1952年に刊行された『むつみ』3号を見ると、入社試験を振り返って、次のような感想が寄せられています。

 「(前略)試験場はもう大勢の受験者でいっぱいでした。(中略)あのきれいな工場で働いている自分を想像したり、その反面考えまいとしても不合格でがっかりしている自分を想像したりしては、なかなかねつかれない夜も何度もありました」

 「私はどうしても第一希望であるあこがれの“平仙”に入りたかった。不安のうちに入社試験の日になった」

 これらを見ると、どうやら、「平仙レース」は、当時の中学生たちにとって憧れの職場だったようです。いずれも、仙之助が工場の主宰者になる前年の記録です。

 当時、中学校を卒業した女性の採用倍率は5倍で、高等学校の試験よりも難しいといわれていました。従業員の年齢は15歳から27歳ぐらいまで中心で、彼女たちは主に工場でレースの生産に従事しました。1台のレース機械に3人の女性従業員が配属され、男性は主に機械類の保守点検や総務を担当していました(※ 湯澤規子、前掲。pp.47-48.)。

 近隣の農山村の女子中学生にとって、近代的な設備の「平仙レース」は憧れの職場でした。それだけでなく、そこで働いていたというキャリアは、彼女たちが将来、結婚する際の手堅い保証にもなっていました。寮生活や課外活動を通して、教養やマナーなども学べるようになっていたからでした。

 「平仙レース」は、商品の品質が高く、ブランドとして幅広く認知されていただけではなく、会社そのものも、女性にとってはブランド化していたのです。

 さらに、仙之助は従業員のために画期的なことをしていました。

■会社内に浦和高校通信部を設置

 展示資料によると、1962年、平岡仙之助は従業員のために、県立浦和高校通信部・仏子共同学習所を会社構内に設立しています。

 全国で初めての通信制高等学校でした。女子従業員たちは作業の終わりか、作業の始まる前に校舎に通う仕組みになっていました。校舎は工場から離れた静かなくぬぎ林の中に建てられていました。4年の過程を終了すると、普通高校と同じ卒業資格が授与されました。

 浦和高校から12名の教師が来て、週4日、授業が行われていました(『わが町の織物』、前掲、p.48.)。

 仙之助は欧米を視察してきただけに、従業員に対する教育の重要性を認識していたのでしょう。高度な機械を導入し、高品質の製品を生産し続けるには、従業員に新しい知識や技術を習得していくための基礎的な学力が必要でした。働きながらも学び続けられるような環境を構内に整備したのです。

 「平仙レース」が導入した学びながら働ける環境の設定は、当時、画期的な試みだったのでしょう。1967年、昭和天皇・皇后が訪問されて、彼女たちの学習風景をご覧になっています。

こちら →
(展示資料より。図をクリックすると、拡大します)

 昭和天皇は二度も「平仙レース」を訪問されています。戦後の日本経済を立て直し、世界に羽ばたく繊維事業のモデルとしてブランド化されていったからではないかと思います。「平仙レース」は当時、それだけ日本にとってかけがえのない存在だったことがわかります。

■ジェントルマン・平岡仙之助

 さて、1967年に再び、天皇陛下が訪問されたというのに、残念ながら、仙之助は天皇陛下に付き添って説明することはできませんでした。その前年の1966年8月19日に39歳の若さで亡くなっていたのです。交通事故でした。

 あまりにも若く、そして、不慮の死に多くの人々が嘆き悲しみました。

 一連の業績を称え、平岡仙之助は内閣府から従六位に叙せられ、勲五等瑞宝章を授与されました(『わが町の織物』、前掲、p.59)。

 展示資料によると、平岡仙之助は経営者として東奔西走しながら、西武町商工会長、消防団長を務めています。父親の仙太郎と同様、仙之助もまた地元産業、地域社会の安全にも大きく貢献していたのです。

 二人とも、先見の明があり、進取の気性に富み、そして、度量の大きな人物でした。時代の動向を見据えて、最新技術を取り込み、質のいい製品を提供することに力を注ぐ一方、地域に根付いた事業展開をし、地域社会への貢献を怠りませんでした。地元で代々、裕福な家庭に育ったからこそ、ごく自然に、利他的精神が発揮されたのかもしれません。

 ふと、「ノブリス・オブリージュ」という言葉が脳裏をよぎりました。

 そういえば、仙之助は従業員のために桑沢洋子デザインの制服を用意し、構内に通信制高校を設立していました。従業員が夢を抱いて働いて学べる環境を整備していたのです。家族の一員のように従業員を捉え、彼らの生活や人生への責任を感じていたからにほかなりません。

 一連の事業を見てくると、仙之助には事業者としての品格が感じられます。教養があり、美意識に秀でていたからこそ、彼は、従業員の教養を高める必要を感じたのでしょうし、美意識を涵養する必要を感じたのでしょう。若い頃から帝王教育を受けて、見聞を広め、学識を深めてきた仙之助ならではの取り組みでした。

 仙之助はまさに、ジェントルマンでした。

 利益追求を当然視し、平気で従業員を使い捨てにする昨今の風潮を苦々しく思っていただけに、従業員を重視した彼の経営姿勢が眩しく見えてきます。

 当時は、人と人が繋がり合い、人と土地が結びついて経済活動が展開されていました。だからこそ、真面目に努力し、他人を思いやり、節度を持って生きた人間が報いられてきました。それを古き良き時代だったと片づけてしまっていいのでしょうか。

 改めて従業員の白黒写真を見てみると、素朴で初々しい表情の中に、未来を信じ、夢を抱いて生きることの幸せが感じられます。機械に使われるのではなく、人と人が繋がり合って、機械を使い、より良い生活を目指していた時代が限りなく麗しいものに思えてきました。

 AI時代を迎えた今、技術は人の活動を補佐する以上の存在になってしまいました。収集したデータに基づき、AIが判断をし、意思決定をするようになりつつあります。技術は際限なく進歩し、まるでがん細胞が増殖して人を死に追いやるように、進歩し続ける技術が人や社会の諸機能を蝕み、やがて機能不全に陥らせてしまうのではないかと懸念されます。

 果たして、技術の進歩は人の幸せに繋がっているのでしょうか。

 一斉にAI時代に向かって走り始めている今、人間の活動を補佐する程度の技術を基盤にしたオルタナティブ社会が一部に存在してもいいような気がしています。(2022/4/28 香取淳子)

「平仙レース」に見る、日本の近代化過程① 創業者・平岡仙太郎

■「平仙レース」の写真展示

 2022年3月26日、三寒四温の日々が続いているとはいえ、だんだん暖かくなってきました。ひょっとしたら、もう桜が咲いているかもしれないと思い、久しぶりに入間川遊歩道に出かけました。

 途中、文化創造アトリエ前の交差点で、信号が変わるのを待っていると、向かい側の、「文化創造アトリエ・アミーゴ」(以下アミーゴ)の車寄せ道路側の壁面に、写真と説明文が展示されているのが目に入りました。近づいて見ると、「平仙レース」というタイトルが見えます。

こちら →
(筆者撮影。図をクリックすると、拡大します)

 ざっと見たところ、「平仙レース」に関する写真や説明文が掲示されているようでした。

 展示写真を見てみました。

 「まとい」や「神輿」、女子従業員のための寮、寮での生活、昭和天皇・皇后両陛下の当地ご訪問、レース工場の航空写真など、「平仙レース」の過去をうかがえる写真がいくつも展示されています。もはや人々の記憶にはなく、振り返ることすらできないほど遠くなってしまった日本の過去が、白黒写真の中にしっかりと捉えられていました。

 見ているうちに、通り一遍に見て済ませられるような展示内容ではないような気がしてきました。一連の写真の背後に見過ごすことのできない何かを感じたのです。

 「平仙レース」とは一体、何なのでしょうか。

 そこで、今回は、展示写真を中心に、郷土資料、関連資料を踏まえ、「平仙レース」から何が見えてくるのか、探ってみたいと思います。

■平岡レースとは何か

 展示写真の中には、昭和33年頃の「平仙レース」工場の写真がありました。

こちら →
(展示写真より。図をクリックすると、拡大します)

 説明文は、「かつて仏子には「平仙レース」という日本有数のレース工場があったことをご存じですか?」という文章で始まっています。

 上の写真は昭和33年頃に撮影されたものですが、広い敷地に特徴のある建物が並んでいます。この地域の有力な機業家であった平岡仙太郎が、1928年に設立した「平仙レース」工場でした。

 なぜ、「平仙レース」なのかといえば、地元の有力な機業家であった平岡仙太郎(1893-1939)が、大正末期にレース工場を設立したことに由来しています。平岡仙太郎が創始したレース工場だから、「平仙レース」なのでした。

 それでは、平岡仙太郎とはどのような人物だったのでしょうか。

■平岡仙太郎とは

 展示資料によると、平岡仙太郎は1893年、織物業を営む平岡専吉の長男として生まれ、川越染色学校を卒業すると、そのまま家業を継ぎました。この辺り一帯は幕末から明治・大正にかけて、全国でも有数の織物生産地でした。

 入間地方は痩せた土地で、農産物の収穫が少なく、農家の人々は副業として、瘦せた土地でも育つ桑の木を植えて養蚕を行い、織物を作って、市場に出していました。この地域一帯で盛んだったのが、織物業だったのです。

 当時、織物市場は川越、所沢、扇町屋、飯能などにありました。ところが、江戸時代も1844年頃になると、織物の取引が江戸に近い所沢市場に移っていきました。その結果、実際の織物生産の中心は入間でしたが、入間、川越、飯能、所沢などで織られた織物は、総称して、「所沢織物」と呼ばれるようになったそうです。市場が所沢だったからです(『ときの夢を織る~入間の繊維産業の歩み~』、pp.5-7. 2005年1月。入間市)。

 いずれにしても、入間は織物の生産拠点だったのです。そのような環境の中で生まれ育った平岡仙太郎はきっと、織物業を天職と思っていたのでしょう。

 説明文には、「稼業を継いでからは、力織機を増設したり、分工場を設立したりして次第に、経営を拡大していきました」と書かれています。力織機という耳慣れない言葉が使われているので、気になって調べてみると、次のようなものでした。

こちら →
(Wikipediaより。図をクリックすると、拡大します)

 力織機とは、1785年に、イギリス人エドモンド・カートライト(Edmund Cartwright)が発明した機械動力式の織機のことで、英語のpower loomをそのまま日本語に訳したものでした。

 それまでの手織機に代わって織物生産の主役となって産業革命を主導したとされています。これが普及してから、それまでの手織機の使用は、工芸品や伝統的な布を織る場合に限られるようになったそうです。

 上の写真は豊田自動織機G3型です。G型をベースに構造を強化し、厚地が織れるようにした織機です。実は、豊田佐吉は1924年に、このG型自動織機を発明し、完成させていました。(※ https://www.tcmit.org/exhibition/textile/fiber03/)

 平岡仙太郎が事業を継いだ頃はおそらく、このG型自動織機が日本の繊維業界に出回っていたのでしょう。積極果敢に新しい機械を導入して新規事業を展開し、経営拡大を図っていました。

 繊維業は明治、大正、昭和と日本の中心的な輸出産業の一つでした。高品質の製品を大量に生産し続けるには、機械の導入、品質管理、新規製品の開発などが不可避でした。

■なぜ、レース工場を設立したのか。

 平岡仙太郎は稼業を継ぐと、経営を拡大する一方、繊維業界の動向を見ながら、刺繍レースへと主力製品を変えていきました。新しい技術を積極的に導入し、事業効率を高めながら、時代に即した新製品の開発を手掛けていったのです。

 大正末期にレースの生産に着目していた彼は、昭和に入って早々、1928年に平仙レース工場を設立し、1929年から操業を始めました。

 展示資料には、1923年に関東大震災が発生し、①手工レースが壊滅状態に陥ったこと、②浜口内閣が緊縮財政政策を取り、輸入品で贅沢とみなされたレースの関税を3割から10割に引き上げたこと、等々から、レースの国内生産に踏み切ったと、その理由が書かれていました。

 気になったのは、「浜口内閣が緊縮財政を取り・・」、と書かれている箇所でした。関東大震災後、内閣は頻繁に交代しています。果たして、一内閣の経済政策だけで新規事業に踏み切れるものか、納得しかねたのです。

 そこで、当時、誰が経済政策を担当していたのか、調べてみました。

■緊縮財政政策下で振り絞った知恵

 調べてみると、関東大震災後、不安定な社会状況を反映するかのように、内閣は頻繁に交代していました。急死したり(加藤高明)、暗殺されかけたり(浜口雄幸)、不穏な社会状況の下、かじ取りを迫られていたことがわかりました。

 興味深いことに、震災後の数年間、浜口雄幸が一貫して大蔵大臣を務めています。

 震災時は、第22代の第2次山本権兵衛内閣(1923年9月2日から1924年1月7日)で、大蔵大臣は井上準之助でした。次の第23代清浦奎吾内閣(1924年1月7日-6月11日)の大蔵大臣は勝田主計でした。

 いずれも短期間で終わっていますが、震災直後の経済政策を主導したのが井上準之助です。彼は善後策として、一定期間の支払い猶予、震災手形制度などの緊急措置を行いました。

 その後、第24代の加藤高明内閣(1924年6月11日‐1926年1月30日)の大蔵大臣は、浜口雄幸でした。第25代の第1次若槻礼次郎内閣(1926年1月30日-1927年4月20日)でも、彼は大蔵大臣を務めました。

 展示説明では、「浜口内閣の緊縮財政政策」と書かれていましたが、浜口が総理大臣になったのは、第27代内閣(1929年7月2日-1931年4月14日)で、確かに、浜口雄幸が総理大臣だった頃、平岡仙太郎はレース工場を操業しています。

 浜口内閣の大蔵大臣は井上準之助でした。浜口に請われ、立憲民政党の井上が民政党内閣の大蔵大臣に就任しています。浜口は、総理大臣になると、自身と同じ考えの井上を大蔵大臣に起用したのです。高橋是清の弟子でありながら、井上準之助は緊縮財政派だったからでした。

 その井上は、凶弾に倒れた浜口内閣の後、第2次若槻内閣(1931年4月14日-12月13日)でも大蔵大臣を務めました。

 こうしてみてくると、関東大震災後の数年間、政府は一貫して、緊縮財政政策を取ってきたことがわかります。そのような経済政策の結果、国民や中小企業は苦難の淵に追いやられることになりました。

 その後、立憲政友会の犬養毅内閣(1931年12月13日-1932年5月26日)になると、高橋是清が大蔵大臣に起用されました。彼が積極財政を展開してようやく、日本が構造的なデフレ状況から脱却することができました。

 1931年の経済成長率は0.4%でしたが、高橋是清が積極財政を展開すると、1932年には4.4%、1933年には11.4%、そして、1934年には8.7%と劇的な回復をみせたのです。(※ Wikipedia「濱口雄幸」より)

 平岡仙太郎は1929年、緊縮財政下でレース工場の操業を開始しました。ところが、その後、積極財政政策が展開されたため、順調に業績を伸ばしていくことができたのです。

■レース製品

 日本はレース製品をスイス、イギリス、フランスなどからの輸入に頼っていました。輸入品なので奢侈品として高い関税をかけられていたのです。

 展示資料によると、緊縮財政下では10割もの税金が欠けられていたといいます。そのようなレース製品だからこそ、国内生産することに仙太郎は商機を見出していたのです。国産にすれば、少なくとも半値にはなるので、大幅な利益を見込むことができます。

 経営者として合理的で、野心的な判断でした。

 レース工業に着目した仙太郎は、昭和2年(1927)からレース工場の設立に取り組みました。そして、1928年にレース工場を設立したのです。レース機械をドイツから導入し、技術者を招いて指導を受け、1929年に機械による刺繍レースの生産を始めました。

 展示資料によると、1928年暮れにドイツ製レース機械を2台購入したそうです。購入代金は3~4万円(現在価格で6~7000万円)、鉄道で運搬したといいます。ドイツ人技師のカール・フランケ、ワルターが3週間ほど滞在し、機械の組み立てや操作の指導を行いました。

 予想した通り、国内向けレースは好調でした。展示写真の説明によれば、ほぼ一年で、レース機械の減価償却ができたといいます。仙太郎に先見の明があったことが証明されました。

 1929年から30年にかけては、機械を10台購入し、横浜から車で運搬しています。前回と同様、ドイツ人指導者が組み立て、後の2台は社員が組み立てを行いました。

 そして、1931年には、機械12台を購入し、今度は社員が中心になって組み立てました。ところが、途中で、作業の中心人物に召集令状が来て入隊してしまったため、最後の1台は仙太郎自身が組み立てたそうです。仙太郎が現場技術に明るい経営者であったことがこれでわかります。

 その後、逐次、設備を改善し、技術の向上に努めた結果、海外の製品に劣らない優秀な製品ができるようになっていきました。

 展示されていた「平仙レース」をご紹介しておきましょう。

こちら →
(筆者撮影。図をクリックすると、拡大します)

 洗練された色遣い、繊細で豪華、上品な図案が印象に残ります。

 1931年頃から、「平仙レース」は海外に輸出されるようになりました。当時の主な輸出先はインドで、サリー用の生地として使われたそうです。

 そして、1934年、機械24台を購入し、レース機械は合計で48台になりました。その後、リバーレース機械2台を購入し、この時、工女の数は300人ほどになっていました。

 展示されていたレース製品をもう一つ、ご紹介しておきましょう。

こちら →
(筆者撮影。図をクリックすると、拡大します)

 精巧で優雅、可愛らしさのある図案が印象的です。

 それにしても不思議なのは、なぜ、ドイツからレース機械を輸入したのかということでした。というのも、当時、日本はもっぱら、スイス、イギリス、フランスからレース製品を輸入していたからです。

 調べてみると、16世紀以降、ドイツでは織機でレースが生産されていました。19世紀になると、レース産業は急速に発展し、20世紀初頭には、ドイツの主要都市にレース教習所が作られたといいます。やがて、機械レースが一般的になり、手作りレースは植民地で生産されるだけになったようです(※ Wikipedia「ドイツのレース」)。

 これだけではなぜ、平岡仙太郎がドイツ製のレース機械を購入していたのかわかりませんが、その後、リバーレース機械を2台購入していることを考え合わせると、彼がハンドメイドに近い繊細で優雅な出来栄えを望んでいたからかもしれません。

 レバーリース機は高級レースを生産するための機械でした。国内外とも、やがては高級レースへの需要が高まると仙太郎は考えていたのでしょう。

 以後、改良を重ねた平仙レースは、たちまちのうちに、日本で最高の品質に達し、海外でも高い評価を受けるようになっていました。事業は好調に伸びていきました。

 こうして、平岡仙太郎は、創業からわずか10年余りで、日本屈指のレース工場に変貌させていたのです。

■技術の開発、継承をどうするか

 平岡仙太郎は創業から短期間でレース工場を築き上げました。日々、研鑽を積み、改良を重ねた結果、良質のレース製品を生産する技術を獲得しました。彼にとって最大の課題は、どうすれば、その技術を将来にわたって保持し、継承していけるかということでした。

 展示資料によると、解決策として、彼は次のようなことを考えたそうです。すなわち、①県繊維工業試験場(現アミーゴ)の設置、②組合の整染工場の設立、などでした。

 いずれも、繊維事業者にとって必要な技術力の錬磨の場であり、学び、研究、指導の場でもありました。このようにして、「平仙レース」と地元繊維業界との架け橋を作っておけば、平仙の技術そのものが消滅してしまうことがないだろうと考えたからでした。

 平岡仙太郎は実際、1936年に県会議長に就任すると、土地や建物を県に寄付し、1937年に仏子染織指導所を誘致しています。他の産地に負けない優れた品質の製品を作り続けるためでした。おかげで、戦中、戦後とさまざまな苦難に見舞われながらも、「平仙レース」の製品や入間の繊維業界の製品は品質を保つことができました。

 仏子染織指導所の建物は現在、「入間文化創造アトリエ・アミーゴ」として地域の人々の文化活動、芸術活動に使われています。空撮写真をご紹介しておきましょう。

こちら →
(アミーゴHPより。図をクリックすると、拡大します)

 16角形の建物の面積は105㎡で、現在、スタジオとして使われています。

 赤いのこぎり屋根の建物は、繊維試験場の建物を残し、ホールとしてリニューアルされました。面積は210㎡あり、グランドピアノ、音楽設備一式が装備されています。

こちら →
(筆者撮影。図をクリックすると、拡大します)

 もちろん、織物工房や染色工房もあります。

こちら →
(筆者撮影。図をクリックすると、拡大します)

 織物や染色を気軽に体験できる場として設置されています。布を織ったり、染色したりすることによって、子どもたちが織物や染色の仕組みを学び、地場産業を知る機会を提供しています。

 繊維業の発展に尽力していきた平岡仙太郎の思いは、繊維業者だけではなく、このような形でも次世代に引き継がれていくのでしょう。

■地域住民とともに

 展示資料によると、西武公民館のロビーに「まとい」がガラスケースに収められて展示されているそうです。

こちら →
(展示資料より。図をクリックすると、拡大します)

 この「まとい」は、まだ自動車が珍しかった1934年、アメリカ・フォード社製の消防車を2台、平岡仙太郎と地元民とが配備したことが称えられ、授与されたものです。消防車2台のうち1台は仙太郎、もう1台は元加治村民からの寄付でした。

 当時のポンプ車は高価で、近隣の村や町にはまだ導入されておらず、地元はもちろんのこと、近隣まで、このポンプ車で消火活動を行ったそうです。

 地域の安全を守る消防活動に、仙太郎と地元村民が1台ずつ寄付したとところに、彼の深い配慮を感じます。自分一人の手柄にせず、村民と共に生きる姿勢を見せたのです。

 仙太郎がいかに地元を愛し、安全を願っていたか、そして、地元の人々と様々な思いを分かち合い、共に地域を守っていこうとしていたか、このエピソードからは、仙太郎の心遣いと郷土愛が感じられます。

 さらに、平岡仙太郎は、仏子の八坂神社に神輿を寄付しています。

 神輿を作る際、彼は、8割は自分が出資するが、残りの2割は氏子が出資した方がいいといったそうです。自分が全額出資してもいいが、そうすると、氏子の信仰心が希薄になるといって、氏子たちにも出資を呼び掛けたというのです。おかげで、近隣にはない立派な神輿を作ることができました。

こちら→
(展示資料より。図をクリックすると、拡大します)

 この神輿は、近隣のものとはくらべものにならないほど、立派なものでした。それは、外見が並外れて豪華で素晴らしいからですが、氏子たちの心がこもったものになっているからでもありました。仙太郎が主導して氏子たちをまとめ、その信仰心を形にしていったのです。

■銅像が語るもの

 1937年に日中戦争が始まると、レース製品の輸出は禁止されました。さらに、緊縮財政下で国内需要もなくなり、経営が困難になっていきました。その後、第2次大戦へと大きく傾き、経済統制はさらに強化されました。

 この時、入間地域の繊維業者の3分の2が廃業に追い込まれたといいます。

 第2次大戦が始まった1939年、平岡仙太郎は45歳の若さで亡くなってしまいました。「平仙レース」のため、地場産業のため、地域住民のため、粉骨砕身して生きてきた平岡仙太郎が、この世を去ってしまったのです。

 地元繊維業界にとっては大きな損失でした。1935年には所沢織物工業組合を設立して理事長となり、仙太郎は業界の発展に力を尽くしていました。それだけに、仙太郎の死は大きな打撃でした。地元繊維業界は、時代の動向を察知し、業界をまとめて牽引していく旗振り役を失ってしまったのです。

 所沢織物商工共同組合は2019年7月、平岡仙太郎を偲び、かつて「平仙レース」第2工場があった場所に、平岡家本宅に合った銅像を移築し、碑を建てました。

こちら →
(筆者撮影。図をクリックすると、拡大します)

 碑文を読むと、平岡仙太郎のさまざまな功績が偲ばれます。

 関東大震災を経て、日中戦争から第2次世界大戦にいたる大変な時期を、彼は積極果敢に生きてきました。銅像に刻まれた穏やかながらも、凛々しく、毅然とした表情が印象的です。

こちら →
(筆者撮影。図をクリックすると、拡大します)

 ふと思い立って、背後にスーパーの看板が見える角度から撮影してみました。かつて「平仙レース」第2工場があったところで、彼にとっては思い出深い場所です。

こちら →
(筆者撮影。図をクリックすると、拡大します)

 こうしてみると、平岡仙太郎はいまなお、地場産業を見守り、地域社会を守ろうとしているかのように見えます。銅像が設置された場所は、背後にかつての「平仙レース」第2工場があり、対角に、彼が誘致した仏子染織指導所(現アミーゴ)を臨んでいます。まさに彼が活躍した場なのです。

 それでは、「平仙レース」から何が見えてきたのでしょうか。

 展示写真からはさまざまなものが捉えられていました。それを要約すると、明治、大正、昭和にかけての近代化の過程が、白黒写真の中にしっかりと捉えられていたといえるでしょう。

■「平仙レース」を通して見えてきた日本の近代化過程

 振り返ってみれば、欧米列強から開国を強いられた日本は、明治、大正、昭和にかけて近代化を急ぎました。拙速ながらも、近代国家にふさわしい制度整備を行い、殖産興業政策を展開してきました。その一つが繊維産業でした。

 「平仙レース」で展示写真を見ていると、日中戦争、第2次世界大戦を経て、戦後復興期に至る日本の近代化過程の一端を概観できるように思いました。

 果たして、近代化は必然だったのでしょうか。大きな地殻変動が起きているいま、改めて、近代化の総括をしておく必要があるのではないかという気がしました。

 明治の日本は産業革命を経ず、欧米列強から近代化を強いられました。閉じた社会からいきなり開かれた社会へと方向転換させられたまま、現在に至っています。近代化の行きつく先がグローバル化であり、そのグローバル化の弊害が、さまざまな領域で顕著になってきているのが現状です。

 そして、令和の今、コロナに始まり、気候変動による大災害、ウクライナ事変に伴う戦争の危機など、体制転換を予感させる出来事が立て続けに起こっています。それらは、やがて来る幕末期に匹敵する激動の時代の予兆のように思えるのです。

 いずれ、誰もが否応なく、社会体制の転換を経験することになるのでしょうが、その後、どのような未来を迎えることになるのか、現在の延長線上で思い描くことは困難です。ひょっとしたら、幕末期の人々のように、これまでとは全く異なった社会体制を強いられるようになるのかもしれません。

 たまたま出会った、「平仙レース」の展示写真から、日本の近代化過程の一端を垣間見ることができました。いくつもの白黒写真を見ていくうちに、再び、大きな社会変動の時期を迎えているのではないかという思いに駆られてしまいました。(2022/3/30 香取淳子)

Henry Lauは現代版モーツァルトか? ④ヒット曲 “Despacito” のカバーを聞き比べてみる。

■TEDでスピーチするHenry Lau

 YouTubeを見ていた時、たまたまHenry Lauの動画に出会いました。久しぶりだと思って開いてみると、なんと彼がTEDでスピーチしているのです。TED×The Bundというコーナーでの動画でした。こんなところで見かけるとは思いもしなかったので、驚いてしまいました。

こちら →
(YouTube映像より)

 TEDといえば、英語のプレゼンテーションが通常なのに、Henry Lauの場合、中国語のスピーチで、しかも、字幕も付いていません。それでも聞き続けていると、要点だけはテロップが付けられていたせいか、なんとなくわかったような気がしました。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=D4Hwpl4az4E

 2022年2月24日にアップされた動画です。TEDでの収録がいつだったのかわかりませんが、私が見た時点ですでに3955回視聴されていました。演奏やパフォーマンスだけではなく、スピーチでもHenryは人々を強く惹きつける魅力を持っていることがわかります。

■The best is yet to come, just keep asking yourself WHY NOT.

 “The best is yet to come, just keep asking yourself WHY NOT.”というのが、このスピーチのタイトルです。これまでの人生を振り返り、「最高のものはまだ来ていない、なぜなのか自問し続けよ」という教訓を会場の人々に向けてプレゼンテーションしていたのです。

 彼はそれまでの人生でぶつかったターニングポイントを3つ挙げ、それぞれが自分にとっての飛躍のチャンスだったといいます。

 一つ目は、ヴァイオリンとpoppingの発表を同じ時間帯で披露しなければならなくなった時、彼はユニークな芸当を編み出しました。

 クラシック音楽を奏でるヴァイオリンを弾きながら、ロボットのような動き方をするpoppingを組み合わせるという前代未聞のパフォーマンスを創り出したのです。以来、この芸当はHenryの得意技になりました。

 二つ目のターニングポイントは、両親が望む進路と自分が求める進路とが異なっていたことでした。幼い頃からクラシック音楽の教育を受け、ヴァイオリンでもピアノでも受賞し、才能が認められていた彼に対し、両親は音楽大学に進むことを望んでいました。

 ところが、Henryは韓国のエンターテイメント企業のグローバルオーディションに合格し、両親の望まない方向を選択してしまいます。単身、韓国に乗り込み、スターダムに駆け上がろうとしていましたが、ファンから「Henry Out!」コールを受け続け、ボイコットされていきます。

 苦しみぬいた末、Henryは一歩身を引いて、バークリー音楽大学で学ぶことにします。そのまま韓国にいれば危機に陥っていたでしょう。再起不能になっていたかもしれません。不意に襲われた危機をHenryは転機に変えたのです。バークリー音楽大学では、それまで欠けていた歌唱を習い、作曲を勉強しています。こうして次の段階に向けて、技量を高めていったのです。

 そして、第3のターニングポイントとして、Henryは、「さまざまな苦境は、自分を向上させる機会に変えていく」結論づけます。苦難と向き合い、考え抜いて対処することで、自身の枠を広げ、技能を高めていく機会に変えることができるというのです。

■なぜ、危機を転機に変えることができたか

 Henryはカナダで生まれ育ったので、英語ネイティブですが、韓国語を独学で学び、KPOPスターとなった後、中国語を学び、TEDでは中国語でプレゼンテーションしています。しかも、クラシックからポップスまでカバーできる音楽のジャンルも幅広く、パフォーマンスも超一流です。

 このような豊かな才能の持ち主だからこそ、危機を転機に変えることが出来たのではないかという気がします。とはいえ、彼のこれまでの生き方を見ていると、何事にも真摯に取り組み、努力を惜しまなかったからこそ、危機を転機に変えることができたのだとも思えます。

 つまり、危機を転機に変えることができるのは才能なのか、それとも、努力なのかということが気になっているのです。

 危機を転機に変えるというのは、おそらく、「言うは易く行うは難し」の類の箴言なのでしょうが、実際に経験してきたHenryが言うと、気持ちが鼓舞されます。不思議なことに、今後、何かあったとしても前向きに取り組んでいこうかなという気持ちになってしまうのです。

 それにしても、Henryはなぜ、さまざまな危機に遭遇しながらも、それらを転機に変えることができたのでしょうか。

 ひょっとしたら、音楽という大きなジャンルからはみ出ることなく、生きてきたからではないでしょうか。もし、そうであれば、一見、危機に思える事柄も経験値を高める事案にすぎず、転機に向けたプッシュ要因になるばかりか、その後の展開にプラス要因として作用する可能性も高いはずです。

 いずれにしても、Henryは見事なまでに、遭遇した苦難を自身の音楽の豊かさにつなげていきました。それには、自身の演奏能力はもちろんのこと、他人が創作した楽曲の真髄を把握し、それに自身の解釈を加え、表現する能力に長けているからでしょう。

 Henryがどれほど音楽の解釈に優れた能力を持ち、そして表現力に長けているか、試みに、他人の楽曲をどれほど独自のフィルターをかけて演奏しているかを見ていくことにしたいと思います。

 Henryはヒット曲を何曲かヴァイオリンでカバーしています。それぞれがオリジナル曲とは別の味わいがあって、惹きつけられます。

 ここでは、“ Despacito”を取り上げ、聞き比べてみることにしましょう。ルイス・フォンシ(Luis Fonsi)が2017年1月にリリースした曲で大ヒットしました。

■“ Despacito”のカバー曲、聞き比べ

●Despacito by Henry Lau
 2018年12月22日に公開された2分22秒の動画を見てみることにしましょう。DespacitoをHenryがヴァイオリンで演奏しています。この動画では前半部分です。

こちら → https://youtu.be/Tau4Zd4cS40
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 曲の真髄を捉え、見事なまでにヴァイオリン曲として弾きこなしています。テンポと抑揚に、K-POPアーティストならではのハギレの良さとリズム感があり、現代性が感じられます。

 元の曲がどのようなものであったか、聞いてみることにしましょう。

●Despacito by Luis Fonsi

こちら → https://youtu.be/kJQP7kiw5Fk
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 Luis Fonsi が2017年1月13日にリリースした4分41秒の動画です。ストーリー仕立てで映像構成されており、この曲の雰囲気をよく表したものになっています。

●Despacito by Hauser

 2021年7月5日に公開された2分3秒の動画で、Hauserが演奏するチェロでカバーされています。

こちら → https://youtu.be/yj2Y5O88lIw
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 この曲の雰囲気がしっかりと再現されています。南国のリゾート地ではおそらく、このようにけだるい雰囲気の中でエロティシズムが満喫されているのでしょう。

 チェロの音色が意外にこの曲に合っていることがわかりました。

 2台のチェロで演奏されている動画もありました。2017年7月9日に公開された3分9秒の映像です。

こちら → https://youtu.be/D9LrEXF3USs
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 チェロという楽器のせいか、深いところで感情が刺激され、酔わせられます。

●Despacito by Peter Bence

 Peter Benceがピアノでカバーしている3分34秒の動画もありました。2017年7月27日に公開されています。

こちら → https://youtu.be/GmtTDvNcXcU
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 ピアノでカバーしているといいながら、ハープシコードのような音色です。ちょっと古風な音の響きがこの曲の持つ哀愁とうまくかみ合っていると思いました。ただ、ピアノのという楽器の音色そのものが断続的な響きなので、この曲が持つ、ヒトの情感にしっとりとまとわりついてくるような要素は表現しきれてないように思えました。

●Performs Despacito by Luis Fonsi
 
 Luis Fonsi(ルイス・フォンシ)がスタジオでダンサーを従え、歌を披露しているライブ映像がありました。2017年8月16日に公開された3分42秒の動画です。

こちら → https://youtu.be/djMWv_o3iHk
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 明るく、陽気なラテン系のエロティシズムがスタジオ中に満ち溢れています。

●Despacito by Facundo Pisoli
 
 Facundo Pisoliがレストランで、サックスでこの曲を演奏しています。2017年4月21日に公開された3分58秒の動画です。

こちら → https://youtu.be/8wIZs2JwYMU
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 まず、サックスもこの曲に合うと思いました。華やかでありながら、哀愁を感じさせる音色にけだるいエロティシズムを感じさせられます。ただ、演者に余裕がないせいか、曲の情感を充分に引き出せていないように思えました。

■“ Despacito”の情感に影響する楽器、パフォーマンス

 “ Despacito”のカバー曲を聞き比べてみた結果、この曲が持つ哀愁や情感を表現するには、楽器が持つ音色が大きく影響していることがわかりました。Henryが弾くヴァイオリンでは繊細な音色で深い哀愁が良く表現されていました。

 ただ、ヴァイオリンはチェロに比べ、楽器が小さいせいか音が細く高く、エロティシズムや深い情念を表現するのは難しいと思いました。その足りない分をHenryはパフォーマンスで補っていましたが・・・。

 オリジナル曲を歌ったLuis Fonsiは映像クリップではストーリー仕立て、スタジオ収録映像ではダンサーのパフォーマンスがこの曲に情念とエロティシズムを加えていました。

 Hauserがチェロでカバーしたものは、この曲の真髄をよく表現できていたと思います。チェロの深い音色とダンスパフォーマンスがマッチし、南国の気だるい雰囲気の中で充満する情念やエロティシズムがうまく表現されていました。

 こうして見てくると、楽器の音色、音楽に合わせたパフォーマンスが曲の総合的な印象に大きく影響していることがわかります。もちろん、どのような音色を出すかは、演者による曲の解釈、経験値、そういうものが作用するでしょう。

 “ Despacito”のカバー曲を聞き比べていくと、HenryがTEDでプレゼンテーションしていたような、「危機を転機に変える」という発想だけでは曲の深みを出せないかもしれないという気がしてきました。

 「危機を転機に変える」のは、人生訓として優れたものではあっても、さまざまな喜怒哀楽を呑み込んだうえで、人間というものを深く理解するには不十分ではないかという気がしてきたのです。「危機を転機に変える」こともできないような立場に立ち、さまざまな理不尽な経験をしてはじめて、人や人生について深い理解ができ、表現ができるのではないかという気持ちになりました。(2022/2/28 香取淳子)

映画『安魂』を観て、遺された者が奏でるレクイエムを聴く

■映画『安魂』の試写を鑑賞

 映画『安魂』の試写を観ました。この映画は、周大新の『安魂』(谷川毅訳、河出書房新社)を原作に、日向寺太郎監督、富川元文脚本の下で製作された日中合作映画です。2022年1月15日から岩波ホールで2週間、先行公開された後、全国で順次、公開されます。

 予告編がアップされていますので、ご紹介しましょう。

こちら → https://ankon.pal-ep.com/

 2分5秒ほどの動画ですが、この映画のエッセンスがよくわかるように作られていました。

 突如、息子に先立たれた父親が深い喪失感に苛まれ、藻掻き、苦しみながら、なんとか立ち直っていくプロセスが描かれています。とくに、息子が亡くなってからの展開が素晴らしく、夢中になって観てしまいました。

 画面に引き込まれ、見終えてしばらくは、その余韻から抜け出せなくなっていたほどです。久々に感動した映画でした。

 最愛の息子を失った父親の喪失感がどれほどのものか、どのようなプロセスを経て、喪失感から回復することができたのか。さまざまなエピソードを積み重ね、きめ細かく丁寧に描かれていました。おかげで、父親の心理の紆余曲折が情感豊かに伝わってきます。

 主人公は父親ですが、同じぐらい重要な役割を果たしていたのが、息子と息子に似た詐欺師です。後半になると、父親と息子に似た詐欺師の対話シーンが多くなりました。概念的、哲学的な内容で、どちらかといえば、深刻で馴染みにくいものでした。

ところが、そのような内容にもかかわらず、ごく自然に感情移入することができ、夢中になって画面を見ることができたのです。ひとえに演技者の卓越した表現力のおかげでしょう。父親を演じたのが、巍子(ウェイ・ツー)、息子と息子に似た詐欺師の二役を演じたのが、强宇(チアン・ユー)でした。

 父親役の巍子(ウェイ・ツー)がぼそっと喋る低い声には、限りなく深い悲しみが込められていましたし、息子と息子に似た詐欺師の二役を演じた强宇(チアン・ユー)の儚く、クールな表情には、内面の葛藤を抑制できる知性が感じられました。二人とも役柄にぴったりの資質を備えていたのです。

 それでは、映画の内容をメインストーリーに沿ってご紹介し、なぜ、私が感動したのかを振り返ってみたいと思います。

 ここでは、わかりやすくするため、登場人物を名前ではなく、属性に従って、父親、母親、息子、若者(息子に似た詐欺師)、スーツ男(詐欺師の叔父、詐欺の主犯格)、恋人、日本留学生、友達(息子の職場友達)女性(詐欺師の仲間)と呼ぶことにします。

 なお、以下の文章では、感動のあまり、映画の結末に触れてしまっていますので、ご注意いただければと思います。
 

■第1幕の構成

●澤風大過の卦
 
 冒頭のシーン、限りなく広がる畑の中を男の子が歩いています。時折、葉をむしり取りながら、動き回っていて、ふと気づいたのが、大きな木の下にいる高齢者でした。空を見て、何やら考えている様子です。

 不思議に思った男の子が近づいてきて、「何してるの?」と問うと、「未来を見てる」と答え、「父は作家か?」と尋ねます。男の子はうなづき、「父さんはここで育ったんだ」と答えます。

 画面は変わり、二人の男が話しながら歩いてくる様子が映し出されます。

こちら →
(試写映像より。図をクリックすると拡大します)

 大きな横断幕には、「楊橋村の栄誉、鳳凰文学賞受賞者唐大男講演会」と書かれています。冒頭の男の子の話と照らし合わせて、これを見ると、父親は作家の「唐大道」だということがわかります。文学賞の受賞記念に開催された講演会に出席するため、父親は息子を連れて故郷に帰ってきていたのです。

 木の下に息子がいるのを見つけ、父親は「行くぞ!」と叫びますが、息子は高齢者と話していて、動きません。父親が、あれは誰だと尋ねると、村人は、占いや易を仕事にしており、暇なときはいつも、あそこに座って空を見ていると答えます。

 その占い師に息子は手のひらを見せ、生まれた年、月日、時刻などを聞かれるままに答えています。占ってみた結果が、「澤風大過の卦」でした。

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 「どういう意味?」と聞く息子に向かって、占い師は、「過分なものを求めると、悲しき未来が待っておるぞ」と予言します。

 これが、その後の展開の導入になります。

 その後、舞台は20年後の開封市になります。

●頑張りすぎる息子

 20年後の開封市では、成長した息子が会社で忙しく働いています。一方、父親は大勢の人々を前に、新刊記念サイン会に臨んでいます。さらに、名声が高まっているのです。

 そんなある日、息子は交際している女性を呼び寄せ、両親に引き合わせます。母親は彼女をもてなそうとしますが、父親は「お前にふさわしくない」と拒否します。息子とは教育レベルが違うというのです。

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 息子が「彼女と一緒になりたい」と言い張り、母親が取り成しても、父親は「愛など時とともに変化する。理性的になれ」と息子を叱り、結婚を認めようとしません。

 客間に戻ってみると、彼女はおらず、慌てた息子はバスターミナルに向かいます。バスに乗り込もうとしていた彼女を見つけ、「君と一緒に村に行く」と息子は言いますが、「私のために両親ともめないで。私は大丈夫」と説得され、バスは発車します。

 バスターミナルでそのまま茫然と座っていた息子は、目の前で日本人留学生のバッグが置き引きされるのを目撃します。慌てて追いかけ、なんとかバッグを取り戻しますが、息子はその場で倒れてしまいます。救急車で運ばれ、検査の結果、脳腫瘍だということがわかりました。

 医者からレントゲン写真を見せられて、「ただちに手術が必要」と言われ、父はそれに同意します。一方、息子は明日にも退院できると思っています。その息子の病室に、帰郷の途中で引き返してきた恋人が、心配そうな顔で入ってきます。

 「なぜ、急に倒れたの?」と問われ、息子は「仕事が忙しかったから・・・」と弱々しく答えます。恋人は思わず、泣き顔になって、「頑張り過ぎないでね」と訴えます。

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「頑張りすぎる息子」というのが、ここまでの展開のキーフレーズです。

 周りから頑張りすぎると思われるほど、息子は仕事に打ち込んでいます。それが、占い師が告げた「過分なものを求めると」という予言を思い起こさせます。

 息子が頑張るのは、分野が違っても、父親のように成功するには、努力しかないと思っているからですが、そこに、作家として成功した父親と、その父親を目指す息子との微妙な関係が示唆されています。

●父さんが好きなのは、自分の心の中の僕なんだ

 手術が終わって病室に戻った息子の傍に、父親がそっと寄り添っています。

 息子は薄目を開き、「あっちの世界を見たよ。僕はきっと、入口まで行った」、「僕は軽くなって、この身体から漂い出た」と言い、「浮き上がって、火災報知器の場所まで浮いた」とつぶやきます。

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 「下を見ると、自分が横たわっていた。入っていこうとしたら、目が覚めた」と息子は言います。父親は、「夢を見ていたんだ。ばかな考えはよせ」と言い、「私より先にお前が逝くはずがない」と強い口調になります。

 息子は「そうだね」と素直に受け、「この世で、まだ何も成し遂げていない」とつぶやきます。辛くなった父親が、「もうしゃべるな。先生を呼んでくる」といって立ち上がると、息子は、「父さん、僕が嫌い?」と尋ねます。驚いた父親が、「何をいいだすんだ。ただ一人の息子を嫌うものか」と語調を強めます。

 息子は続けて、「父さんが好きなのは、自分の心の中の僕なんだ」、「今の僕じゃなく、心の中の僕なんだ」と絞り出すような声で言います。

●努力しないと、父さんのようになれない

 自室に戻った父親は、子供の頃の息子とのやり取りを回想します。

 「友達が出来たのに引っ越し?」と問う息子に、父親は、「この環境はお前によくない」と断定します。「サッカー褒められたんだ」と誇らしげに言う息子に対し、「いいか、サッカーなど役に立たん」と父親は、一言の下に否定してしまいます。

 そして、「お前の目標は勉強して、いい大学に入ることだ」と言い渡すのです。

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 息子は「わかった」と答えていますが、どう見ても、納得しているとはいえない表情を浮かべています。

 病院に来て、待機していた父親は、うたた寝をしている間も、息子を自転車に乗せて凧揚げを見に行った時のことを思い出していました。

 ふと目覚めて、父親が病室に行くと、息子はベッドに身を起こし、パソコンを操作しています。「何をしてる?」と父親が尋ねると、「仕事が終わらない」と言い、しきりにため息をつきます。

 「パソコンをやめろ」と父親が言うと、「努力しないと、父さんのようになれない」と息子は喘ぐように言います。

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 「分野は違うけど、父さんのように成功したい」息子が言うと、父親は顔を寄せ、息子の目をじっと見つめ、「もっと上を目指せ、私を超えるんだ」と力を込めて言います。息子は弱弱しくうなづきます。

●予言の的中

 看護婦が来て、息子を検査室へ連れて行きます。心配そうに見守る父親。しばらくすると、廊下を慌ただしく看護婦が行き来し、そのうちの一人が待機している父親のところにやって来て、息子の容体に異変が起こったと知らせます。

 病室では医師が懸命に心臓をマッサージしていましたが、その甲斐なく、午後9時30分、息子は亡くなってしまいます。

 10歳の頃、占い師から告げられた予言通り、息子は「父さんのように成功したい」と頑張りすぎて、早すぎる死を迎えてしまいました。「過分なもの」を求め、「悲しい結末」を引き当ててしまったのです。

 ここまでが第一幕です。

 確かに、息子は命を縮めるほど、頑張りすぎました。ところが、いくつかの回想シーンから、父親が息子に過剰な期待を寄せていたことが明らかにされています。父親はそれを息子に対する愛だと思っていたかもしれませんが、過剰な期待が息子を追い詰め、過剰な努力を強いていた可能性が考えられます。

 それが証拠に、今にも旅立とうとする時、息子は喘ぎながら、「父さんが好きなのは、自分の心の中の僕なんだ」と言い残しました。

 息子にしてみれば、必死の思いで努力しているのに、父親から認めてもらえず、愛されているという実感を持てなかったのでしょう。最後に、力を振り絞って言葉にしたのが、このフレーズでした。

 過剰な期待を寄せ、高い目標設定をし、「過分なこと」を息子に強いてきた父親こそが、「悲しい結末」を引き寄せたかもしれないのです。

 遺された者には重くのしかかります。

■第2幕の構成

●息子の居場所を知りたい

 葬儀が終わると、父親は骨壺にそっと上着をかけ、母親と共に雨の中をとぼとぼと歩いて帰宅します。息子の部屋に入った父親は、泣き崩れ、「なぜ、どうして?」と振り絞るように声を出し、母親もまた涙にくれています。

 部屋を暗くしたまま、一人座り込む父親。壁には息子の写真が飾ってあります。母親がお茶を持ってくると、まるで避けるかのように、父親は「ちょっと散歩してくる」といって出かけ、川辺でしばらく座り込んで、物思いにふけっています。

 また、ある時は、母親が部屋を開けると、父親は本に埋もれるようにして、調べものをしています。息子の霊魂の居場所を知ろうとして、さまざまな宗教書を読み漁っていたのです。

 仏教の教義では、死者の魂は7日間遺体の傍に留まるといい、イスラム教では魂は死後7日、“楽園”と呼ばれる場所にいると、父親は読み上げます。そして、エジプトの神話では、キリスト教では、故郷の言い伝えでは・・・、といった具合です。

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 父親は手当たり次第に宗教書を読み、息子の魂の行く末を把握しようと藻掻いていました。見かねた母親は、父親の頭をそっと撫で、「私たちが受け入れないと・・・」とつぶやきます。

 ところが、父親は壁にかけた写真に向かって、「お前に会いたい」と泣き崩れてしまいます。母親は背後から肩に手をかけ、父親の背中に顔を寄せます。息子を失った父親の悲しみは深く、母親も戸惑ってしまうほどでした。

 この深い喪失感が、次の展開を導きます。

●心霊治療所

 息子の面影を追い、父親は駅前ロータリーでぼんやりと座っていました。すると、父親の目の前を、ローラースケートに乗って、さっと通り過ぎた若者がいます。その面影が驚くほど息子によく似ていました。

 思わず後を追って、小道に入っていた父親は、若者が入っていった建物につい、足を踏み入れます。すると、スーツを着た男がやってきて、「ここは心霊治療所です」といいます。

 父親が「ここに入っていった青年は・・・?」と尋ねると、「父さん」と先ほどの若者が姿を現します。父親は若者を見つめますが、驚いて、言葉も出ません。まるで息子本人が現れたかと思えるほど、そっくりだったのです。

 スーツ男は、そんな父親の凝視を遮るように、「予約が必要です」といいます。父親はそのまま何も言わず、帰っていきました。

 再び、父親は心霊治療所に向かいました。途中で、息子がバッグを取り戻してあげた日本人留学生に出会います。彼女はこの辺りに下宿していたのです。

 父親が心霊治療所に入っていくと、今回も、スーツ男が出てきて、息子に似ている若者を呼びます。

 父親は眼鏡をかけ直し、確認するようにしげしげと彼を見つめています。一方、日本人留学生は彼を見た瞬間、驚いて立ちすくみます。それほど息子に似ていたのです。

 その日、父親は暗い部屋に通され、心霊治療中の様子を見学します。真剣に見ている父親の様子をうかがっていたスーツ男は、「必要でしたら、治療させていただきますが・・・」と切り出します。

 担当者として現れたのは、息子にそっくりの若者でした。

●息子に酷似した心霊治療担当者

 帰宅した父親はパソコンを開き、「心霊治療所」を調べます。すると、所長は劉万山という人物で、画面には、「霊魂の存在を科学で証明」というセールスポイントが大きく掲げられています。父親はそれを見て、軽く会釈をした若者を息子の姿に重ね合わせ、考えています。

 父親はまた、心霊治療所を訪れます。

 「ご子息が使っておられた品はお持ちになりましたか」と聞かれ、父親は、息子が使っていた家の鍵を差し出します。その鍵を交霊の手がかりに治療が始まりました。

 若者は父親の手を取り、自分の手に重ねます。スーツ男が「(霊は)降りてきたか?」と尋ねると、若者は「父さん」と呼びかけます。「どこにいたんだ?」と父親が聞くと、「病室の天井から見下ろしていたよ」と答えます。

 父親は驚きました。死ぬ間際に息子が言った言葉と同じだったのです。

 その後も、若者の口から、父親が病室で息子から聞いたのと同じ内容の言葉が次々と出てきます。途中で、若者が「僕は・・・」と言いかけテーブルに手をつくと、スーツ男は「今日はここまで」と言って立ち上がり、カーテンを開けます。さっと明るくなり、霊魂との交信が途絶えました。

 若者が語った息子との会話の内容、病室の様子、まったくその通りでした。父親は不思議でなりません。

 「覚えているか?」と聞くと、「病室の様子も覚えています」と若者は答えます。横から、スーツ男が「描いてごらん」と紙と鉛筆を差し出すと、「火災報知器の位置は確か、ここで・・・」と言いながら、「息子さんはここから見ていました」と図示したのです。

 父親はすっかりこの若者を信用してしまいました。

●母親の反応

 父親は、母親に一度、その若者に会ってみないかと誘います。

 母親は、「あなた信じるの?」と詰問します。そして、「病室の様子なんて、どこも同じよ」、「幽体離脱の話は有名よ」と即座に否定します。さらに、「大作家のあなたがそれを信じるなんて」「作品に影響するんじゃない」と心配します。

 そして、「彼に会って、どうなるの?」と泣き、「会ったって、意味はないわ。よけいにつらくなるだけよ」、「私はあなたに早く立ち直ってほしい」と悲痛な声をあげます。

 母親は、父親を心霊治療している若者が、ただ息子に似ているというだけの詐欺師だと判断しているのです。彼女の指摘はどれも理に適っており、現実的な判断でした。

 母親の言う通り、魂が身体から抜け出て浮遊し、火災報知器の辺りまで行ったという説明は、幽体離脱現象を語ったにすぎません。その知識さえあれば、息子の魂との交信を装うことは可能でした。

 母親の反応を見て、父親は、ちょっと複雑な表情を見せました。ひょっとしたら、若者が本当に息子の霊と交信していたのかどうか、確認したくなったのかもしれません。

●さらにのめり込む父親、慎重に調査する母親

 父親は心霊治療所の前で、若者が出てくるのを待ち構え、息子の写真を見せてから、二人きりで会いたいと頼み、追加料金を出してもいいと付け加えます。

 若者と父親はベンチに座っています。父親が「息子はいま、どこにいる?」と尋ねますが、若者はそれには答えず、魂についての知識や概念の方に話題を向けます。肝心の息子の魂とは交信できていないのですが、作家である父親は目を輝かせ、どうやら満足している様子でした。

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 その点、母親はリアリストでした。息子の友達に頼んで、この心霊治療所について調査させていたのです。

 彼らがあの建物を借りたのは2か月前、しかも、喧嘩する声が頻繁に聞こえてくるといった近隣からの情報を入手しています。これで、彼らが詐欺師である可能性が高くなりました。そこで、母親は、父親に「いくら払ったの?」と尋ねます。

 父親は「払ってない」と答え、「いままで忘れてた」と言い、急に気づいたような顔つきになります。母親が「お金を渡して、こんなこと、終わりにして」と頼むと、その機に乗じて、父親は「彼らを家に呼んではいけないか」と尋ねます。当然のことながら、母親は断固、拒否します。
 
 それでも、父親は諦めきれません。結局は母親が折れる恰好で、自宅で息子の霊魂と交信することになりました。

■第3幕の構成

●自宅での交霊

 自宅で行う交霊への参加者は、父親、母親、息子の友達、息子の恋人、日本人留学生、そして、治療者側から、若者、スーツ男です。

 交霊が一通り終わった後、母親が若者に、「私への最初のプレゼント、まだ覚えてる?」と尋ねます。イカサマだとばれることを心配したスーツ男が「あまり古いことは・・・」と遮ろうとした時、若者は「僕が描いた母さんの似顔絵」と答えました。母親の顔がやや緩み、こみ上げる感情を抑えるように、立ち上がって部屋を出ていきます。

 スーツ男はすかさず、「休憩しましょう」と言います。

 父親は母親の後を追い、「当たってたか?」と尋ねます。「確かに、絵をくれたわ」と母親が答えると、父親は、「息子を感じないか?」と畳みかけます。母親はそんな父親を強く揺さぶり、「息子を騙るなんて許せない」と泣き出します。

 一方、ベランダでは、スーツ男が若者に、「あてずっぽうは止せ」と叱り、「次はいよいよ本題に入るぞ」と言い聞かせています。

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 交霊が再開されました。テーブルにローソクが2本、置かれています。スーツ男が「ご両親に話したいことは?」と尋ねると、若者は「大切にして」といいます。父親が「誰を?」と尋ねると、若者は、息子の恋人の名を挙げました。

 驚いて若者を見つめる息子の恋人、そして、彼女を見つめる日本人留学生。驚いた表情の父親、母親、友達が順に映し出されていきます。

 若者は続けて、「幸せになって」「愛してる」といいます。すると、息子の恋人は「もう、やめて」、「聞きたくない」、「あなたは、違うわ」と言って、泣きながら部屋を出て行ってしまいます。後を追って、日本人留学生、続いて、友達も出ていきます。

 残されたのが、父親、母親、スーツ男、若者です。

 白けた座の中で、スーツ男は、「よく考えて。言い忘れたことはないかね」と若者を促します。すると、若者は、「3年前、あるプロジェクトで借金をした」と切り出します。スーツ男が「誰に、いくら借りたのか」と聞くと、若者は、金融業者から50万元借りたと答えます。

 そこまで聞いていた母親は、「もう、たくさん。息子はそんなことしないわ」と叫び、「こんなことだろうと思っていた」、「もう帰って」と言い放ちます。「帰らないと、警察を呼ぶわよ」と続けます。

 驚いて立ち上がるスーツ男、続いて、若者が部屋から出ていきます。

 母親は「これは詐欺よ、分からない?」と父親に言い、「しっかりして」と迫ります。すると父親は「通報したら、会えなくなる」、「彼に会いたい」と口走り、母親に通報しないよう懇願します。それを聞くと、母親は微かに首を振って、「もう耐えられない」とつぶやきます。

●詐欺師と発覚

 画面は変わって、心霊治療所では、スーツ男が荷物の整理をしています。入って来た女性に「撤収だ、逃げるぞ」と告げ、慌ただしく動き回っています。若者はソファーに腰掛け、イヤホンで何かを聞きながら、その様子をうつろな目で見ています。

 一方、作家の自宅では、母親が荷物をまとめ、スーツケースを持って、慌ただしく玄関を出て、タクシーに乗り込みます。一人残された父親は、書斎でぼんやりと息子の写真を見ています。

 その後、雨の中、川辺に佇んでいる父親が映し出されます。傘が吹き飛ばされ、びしょぬれになっても、なお、立ち尽くしています。

翌日、心霊治療所では、スーツ男が、父親からの電話を受けました。50万元を持っていくから治療を続けてほしいという内容でした。女性が、「警察の罠じゃない」と疑う一方、スーツ男はお金欲しさに、「様子を見よう」と受け入れます。一連のやり取りを聞いていた若者は、ちょっと驚いた表情を見せますが、すぐ無表情になります。

 父親は約束通り、50万元の入ったカバンを持参してきます。中身を確認すると、100元紙幣がぎっしりと入っていました。

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 若者、スーツ男、金融業者はそれぞれ、大金を前に、軽く興奮しています。父親に求められ、いよいよ交霊に入ろうとした時、外に出ていた女性からスーツ男に電話があり、治療所周辺に大勢の警察が張り込んでいるという情報がもたらされました。

 スーツ男は慌てて、「急用で、今日は中止です。また、日を改めて」と言い、何も持たず、早々に外に出ていきます。金融業者が金の詰まったカバンを持って立ち去ろうとしたとき、若者が呼び止め、つかみ合いになります。結局、カバンは金融業者に持ち去られてしまうのですが、そのカバンは玄関で待ち構えていたスーツ男に取られてしまいます。

●詐欺師だと告白

 取り残された父親と若者は、暗い部屋で交霊を始めました。手を触れあったまま、若者は、「もうすぐ天国の一番美しいエリアに入る」、「この旅路で、たくさんの人に出会い、多くの事を学んだ」、「モーツァルトにも出会った。一番感動したのは、遺作「レクイエム」をつらぬむものが、悲しみではなく喜びであることだ」と静かに告げます。

 交霊が終了すると、若者は父親に鍵を返しました。鍵は、交霊のための必需品です。父親は慌てて、「教えてくれ、私の魂の重さは?」、「死後に行く場所は魂の重さで決まる。私が死ねば息子に会えると思っていたが、魂の重さが足りなければ、死んでも息子には会えん」と矢継ぎ早やに言葉を浴びせかけます。

 若者はそれを聞いて、悲しそうな表情を浮かべ、「全部、ウソですよ」、「先生の本を読み、資料を漁り、息子さんの情報も検索しました」、「死後の世界についての本も勉強して、会話の仕方も研究した。僕は詐欺師です」

 自分を信じ切っている父親に対し、若者はついに、詐欺師であることを告白したのです。

●君を抱きしめたい

 父親は「わかっていたよ。そんなことはどうでもいい」と動じず、「君に会い、君と話すだけで私は満足だった」と真剣な表情を見せます。

 若者はそれを聞いて、「先生はおかしな人だ」と泣きながら言い、僕に「そんな価値が?」と問いかけます。

 幼い頃に父母を亡くした若者は、これまで親身になって気遣ってくれる人もなく、生きてきました。生きていくのに精一杯で、叔父に言われるまま、詐欺行為を働いてきたのでしょう。

 日本人留学生との会話から明らかになったように、この若者は元々、「金持ちは嫌い」でした。だから、金持ちを騙して大金を得ても、別段、罪悪感はなかったのかもしれません。

 ところが、その若者の気持ちに大きな変化が起きていました。これから自首するというのです。

 自首すると聞いた父親は、「どこにいても会いに行くよ」と鍵を取り出し、「持っていてくれ」、「息子の鍵だから、預けておく」と差し出します。

 ところが、若者は、鍵はもう持っていると言います。「今朝、奥さんが訪ねてきて、いつでも会いに来なさい」と言って、鍵をくれたと説明するのです。そして、「奥さんは先生を気遣ってますよ」と付け加えました。

 立ち去ろうとして、若者は、ふと、思いついたようにポケットに手を入れ、心ばかりの贈り物だといって、父親に小さな壺を渡します。骨董店でみつけた壺で、吉祥雲の模様がついています。若者は、小さい時からこの模様が好きだったと説明します。

 父親が「大切にするよ」と言って、受け取ると、若者は、「僕もこの鍵を大切にします」と言いながら、母親からもらった鍵を返し、息子が使っていた鍵をポケットにしまいました。

 父親は名残惜しそうに、最後の頼みだといって、若者を抱きしめます。

 嗚咽にむせぶ父親と若者。見ていて感極まり、思わず涙してしまうシーンでした。息子を思う父親の純粋な気持ちが、詐欺行為を働いてきた若者の中に眠っていた純粋な気持ちを覚醒させたのです。

●遺された者のレクイエム

 父親は書斎でモーツァルトを聞きながら、パイプをくゆらせ、若者からもらった骨董品の壺を見ています。繰り返し眺め、そして、はっと気づきます。子どもの頃、息子が来ていたTシャツの模様が吉祥雲だったことを・・・。

 父親は、手にした小さな壺と、子供の頃の息子が着ていたTシャツとを見比べながら、嬉しそうな表情を浮かべます。この吉祥雲の模様に、息子と若者との縁を感じたのでしょう。

 思わず、外に出て、治療所に向かとうとした時、目の前に若者が立っているのに気づきました。息子の名を呼ぶと、振り向きますが、その瞬間、消えてしまいます。

 一年後。

 かつて、若者と会い、語り合っていたサッカー場で、父親は、母親や息子の恋人や赤ん坊らと共に観戦しています。家族だんらんを彷彿させるシーンです。息子の魂の安息を願い、遺された者が奏でてきたレクイエムが、一年後、このような形で結晶していたのです。

 父親の表情には、息子の死がもたらした喪失感を乗り越え、新たな死生観を獲得した者の強さが感じられます。

 そして、川辺では、父親がパイプを手にし、佇んでいます。その背後には、大きな川が滔々と流れていきます。

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 時にさざ波が立ち、時に濁流となって、あらゆる喜怒哀楽を呑み込みながら、川は絶え間なく流れていきます。

■私はなぜ、感動したか

 私がなぜ、この映画に感動したのかといえば、まず、父親の苦悩の軌跡が、段階を踏んで、丁寧に描かれていたからでした。とくに息子が亡くなった後からの展開が素晴らしく、画面ごとに、強く引き込まれていきました。

 父親の喪失感は、リアリストの母親との対比によって深く、多面的に表現されていました。悲愴感漂う父親の表情には、感情移入する一方、憐憫の情さえ覚えるようになったほどでした。とても難しい役どころだったと思います。

 繊細で微妙な感情表現を要求される父親役を、巍子(ウェイ・ツー)が、低い声と豊かな表現力によって、見事に演じきっていました。

 一方、息子には大人しい中にも秘めたエネルギーを感じさせる必要があり、また、息子に似た詐欺師にはクールで、感情を抑制できる知性が必要でした。二役を演じた强宇(チアン・ユー)には、声や顔面表情にその資質があり、適役でした。

 メインストーリーの構成を見ていくと、改めて、息子を失った父親の心の軌跡が、構造的に描かれていることがわかります。大きな喪失感に始まり、霊魂の模索、そして、交霊といった具合に、父親の気持ちの変化が行動の変化を伴いながら、物語を進展させていくプロセスがしっかりと組み立てられていたのです。

 ここでは、メインストーリーだけをご紹介しましたが、実際は、メインストーリーを支えるためのサブストーリーがいくつか設定されています。

 サブストーリーの一つに、日本人留学生を軸に展開されていたものがあります。好奇心旺盛な日本人留学生を登場させ、ターニングポイントで関わらせることによって、物語を豊かに肉付けする効果を生んでいました。

 メインストーリーの展開に影響を与える一方、登場人物の性格、来歴、価値観、嗜好性などを浮き彫りにしていたのです。

 たとえば、若者が日本人留学生に、「金持ちとバカが嫌いなんだ」と漏らしたことがありました。それを聞いた彼女は、「金持ちをだますのも生活の知恵?」と切り返しますが、このシーンでは、若者が良心の呵責を感じずに、父親と接触していることがわかります。

 当事者ではない日本人留学生は、一般常識に照らし合わせて、この若者が詐欺師だと判断していました。これはほんの一例ですが、彼女のおかげで、息子の恋人や詐欺師の若者を同世代の視点から肉付けすることができていたのです。

 若者は当初、父親を騙すことに何の躊躇いも持っていませんでした。そのことが明らかにされたこのシーンを設定することによって、父親との関わりの中で生じた若者の気持ちの変化がことさらに強く印象づけられます。

 若者を信じ、交霊を願い続ける父親の純粋な気持ちが、次第に若者の気持ちを浄化し、やがては、自身を詐欺師だと告白するようになったことにも、私は感動したのです。

 私がこの映画に感動したもう一つの要素がここにあります。

 父親はとっくにこの若者が詐欺師だと気づいていました。終には、本人から詐欺師だと告白されています。ところが、「それでもいい」と受け入れるのです。最初から詐欺師だと見抜いていた母親もまた、最後にはこの若者を許します。

 私の感動がさらに深まった理由が、ここにありました。

 詐欺師だとわかっても、父親は大金を渡し、詐欺師だと本人から告白されても、父親は若者を受け入れ、抱きしめたいと願い出ます。このような展開からは、大切なのは、金銭ではなく損得でもなく、効用でもなく実利でもなく、魂の通い合いであり、信頼だということが示されているように思えます。

 父親自身の気持ちにも大きな変化が起きていたのでしょう。若者と抱き合った時の父親の表情には、無上の喜びが感じられました。父親はようやく安息を得たのです。

 そして、一年後、父親、母親、息子の恋人と赤ん坊がサッカー場でなごやかに観戦する様子はまさに一家団らんの光景でした。息子の死後、遺された者はレクイエムを奏で、深い苦悩を経て、手にしたのが、永遠の安息への手がかりだったのです。

 映画『安魂』は、詐欺師を登場させることによって、重いテーマに軽妙さを添え、人が生きること、死ぬことの根源について深く考えさせてくれました。大変な力作です。(2022/01/08 香取淳子)

第53回練馬区民美術展に出品しました。

■第53回練馬区民美術展の開催

第53回練馬区民美術展が、2021年12月18日(土)から12月26(日)まで、練馬区民美術館で開催されました。


(図をクリックすると、拡大します)

第53回は、例年と違って、年末に開催されました。というのも、第52回は例年通り、2021年2月3日からの一週間、開催されたのですが、コロナのため、作品の展示のみで、審査が行われなかったからです。

コロナの収束を待って、年内にもう一度、ということで、第53回の開催時期が年末になったのでした。

もっとも、第52回は審査が行われなかったので、キャンセルする人が何人かいたのでしょう。実は、私も申し込みはしていたのですが、キャンセルしました。キャンセルした作品を今回、出品したのですが、そうでない人は、年に二度も展覧会に出品できるだけの作品を制作しなければならず、大変だったと思います。

今回、油彩画部門は例年に比べ、出品数が相当、少なかったような気がしますが、おそらく、そのせいでしょう。

さて、今回、私はF20号の油彩画、《虹》を出品しました。


(油彩、カンヴァス、60.6×72.7㎝、2021年)(図をクリックすると、拡大します)

スマホで慌てて撮ったせいか、写真がぼやけてしまいました。しかも、会場の照明がアクリル面に映り込んでいます。見苦しい写真になってしまったことをご了承ください。

■なぜ、《虹》を描いたか。

まず、なぜ、《虹》というタイトルの作品を出品したかということについて、少しお話をしておきたいと思います。

昨今、気象変動のせいで、世界各地で大水害が絶えません。集中豪雨のせいで水害が多発していますが、その都度、スマホで撮影された動画がネットにアップされます。そのような動画をユーチューブで見るたび、心が痛む思いをしていました。

当事者が撮影した映像なので、生々しい現場の様子が手に取るようにわかります。家々や木々、橋、車など、ありとあらゆるものが次々と、大きな濁流にのみ込まれていく様子をリアルタイムで見ていると、人間の非力さを実感せずにはいられませんでした。

その後、被災地の人々はどうなってしまったのでしょうか。とくに気になったのが、三峡ダム周辺で発生した豪雨と洪水です。被害の規模があまりにも巨大で、想像を絶するほどでした。

被災地からの動画を見るたびに、大災害にめげず、なんとか復興にこぎつけてほしいと願わずにはいられませんでした。そして、私にできることがあるとすれば、それは何なのか・・・、と考えるようになりました。

ふと、思いついたのが、水が引いた後、空に架かる虹を描くことでした。あれだけの集中豪雨だと、ひょっとしたら、空に虹がかかるかもしれません。それを描いてみたらどうだろうと思ったのです。

もちろん、実際に虹がかからなくても構いません。

単なる雨上がりの後でも、空に虹がかかっているのを見ると、ちょっと晴れやかな気分になります。豪雨や大洪水を経験したような人なら、大空にかかる虹を見た時、どれほど感動するだろうかと想像してみたのです。

■祈りを込めて

被災地の人々は大切な人、これまで大切にしてきた物をある日突然、失ってしまったのです。どれほど悲嘆にくれたことでしょう。時には、気持ちの拠り所を失い、何も考えられずに、生きる気力すら失ってしまいかねないこともあったでしょう。

大きな喪失感を埋め、生きる希望を見失わないために、何をすればいいのだろうかと考えてみました。行きついた先が祈りでした。そして、そういう状況を画面で表現してみたいと思いました。

そこで、虹のかかる風景の前に女性を配置してみました。後方上からライトを当てて、撮影した女性像です。


(図をクリックすると、拡大します)

この女性像を真ん中に置いてみると、豪雨が上がった後の荒涼たる風景に、安らぎが訪れるような気がします。

おそらく、被災地の多くがこのように荒涼とした風景に変貌してしまっているのでしょう。わずかに残った木々以外は、何もかも押し流されてしまい、巨大な岩石だけの殺風景な光景になっているのではないかと思います。

それだけに、被災地の人々には、現状を乗り越え、生きていくための気力が必要になってきます。共に祈り、祈ることによって癒され、安寧の気持ちを得られるような存在が欠かせなくなるでしょう。

私は、女性像にそのような思いを込め、画面構成をしました。

何度も手直しして描いているうちに、この女性の顔面に、苦悩と安らぎ、癒しの表情が出てきたように思えました。鎮魂のため、生き抜く気力と気持ちの安らぎを得るために祈る、ひたすら祈る・・・、そのような気持ちからこの絵を描きました。

ふと、思い立って、虹を描いた作品にどのようなものがあるのか調べてみました。

私が興味深いと思ったのが、《虹のある風景》(ルーベンス、1632-35年頃)、《バターミア湖の虹》(ターナー、1798年)、そして、《虹かかる》(山下清、制作年不詳)です。この三作品をみてみることにしましょう。

■ルーベンス《虹のある風景》

調べてみると、ルーベンス(Peter Paul Rubens, 1577-1640)が《虹のある風景》という作品を制作していることがわかりました。


(油彩、カンヴァス、86×130㎝、1632-35年頃、エルミタージュ美術館)(図をクリックすると、拡大します)

画面の手前に馬車に乗った男、農婦、放牧された牛と馬が描かれています。中ほどの川辺では、男が棒のようなものを持って、何かを捉えようとしています。右手には林が広がり、左手にも木々が見えます。林の背後には小高い丘のようなものが見え、そこから右にかけて大きな虹がかかっています。

この作品では、牧歌的な田園風景の中に、虹が組み込まれていました。そのせいか、農民の生活風景を描いたにすぎないこの作品に、厳かな輝きが添えられています。木々の描き方に古典主義的な画法を感じさせる一方、農民の生活風景を捉えたところにフランドル派の面影が見えます。

一方、風景画家ターナーが描いた虹は、一種独特の趣がありました。

■ターナー《バターミア湖の虹》

ターナー(J. M. W. Turner, 1775-1851)が、バターミア湖に架かる虹を描いています。


(油彩、カンヴァス、サイズ不詳、1798年、テート・コレクション)(図をクリックすると、拡大します)

湖面から傍の山にかかった虹が描かれています。七色といわれる虹ですが、黄色がかった白色でぼんやりと描かれているせいか、とても幻想的な画面になっています。

湖面に近いところだけが明るく、そこが光源のようになって、周囲を照らし出しています。自然の持つ峻厳さ、崇高さ、人間には及ばない力が、この画面からは強く感じられます。手前にごく小さく、小舟に乗っている人が描かれていますが、風景の中に埋没してしまっています。

色数を抑え、水墨画のように幻想的な世界を創り出しているところに、ロマン主義的な風合いを感じさせられます。

■山下清《虹かかる》

山下清がこのような作品を描いているとは思いもしませんでした。気どりも何もない、素朴な画面でいながら、心惹かれる作品でした。


(油彩、カンヴァス、40.0×50.0㎝、制作年不詳、所蔵先不詳)(図をクリックすると、拡大します)

この画面を見て、まず目につくのが、左側の大きな滝です。大量の水が流れ落ち、白く泡立って見える様子が描かれています。下の方は水蒸気でけぶって、岩の形がぼんやりとしています。

手前には大きな岩がゴロゴロを転がり、その上にうっすらと虹がかかっています。手前から右端へと、赤、黄色、水色で淡い弧を描くように、虹が描かれています。

虹の背後の右奥にはダムのようなものが描かれ、そこから大量の水が流れ落ちています。その上の空を見上げると、所々、わずかな晴れ間を残し、広く、雲で覆われています。

虹そのものを見つめ、その本質を捉えた作品だと思いました。

■画題としての《虹》

今回、私は画題として「虹」を選びました。それは集中豪雨、洪水などで被災された方々への鎮魂の思いを表したかったからです。その思いが的確に表現できたかどうかはわかりませんが、これを契機に過去の作品を調べたところ、これまで様々な画家が、虹を画題にしてきたことがわかりました。

ルーベンスの場合、農村の生活風景を輝かしく見せる要素として、虹を使っているように思えました。あくまでも背景的要素の一つとして取り上げていたのです。

一方、ターナーは、虹を使って、人間の及ばない異次元の世界を表現していました。虹や虹を取り巻く環境は、水蒸気の機能や特性を踏まえて構成されており、幻想的な絵画空間が創出されていました。

虹の本質を踏まえ、描かれていたのが山下清の作品でした。虹が水蒸気と太陽光によってできることが、的確に表現されていたのです。滝とダム、空一面の雲、そして転がる岩石などのレイアウトは、一見、稚拙に見えますが、原初的なエネルギーを感じさせられました。

「虹」を背景的要素の一つとして活用するのか、「虹」そのものを観察し、画題とするかによって違ってくるのでしょう。いずれにしても、さまざまな要素を併せ持つ「虹」は、画題として興味深いものがあると思いました。(2021/12/30 香取淳子)