前々回は「平仙レース」創始者の平岡仙太郎をご紹介し、前回はその後継者で長男の平岡仙之助をご紹介してきました。両者とも進取の気性に富み、利他精神にあふれた傑物でした。一繊維事業者として活躍し、業界を活性化させただけではなく、研究開発、人材育成、地域社会にも多大な貢献をしてきました。
なぜ、親子2代にわたって、そのような傑出した人物が現れたのでしょうか、今回はそのルーツを探ってみたいと思います。
平岡仙太郎は明治26(1893)年、埼玉県元加治村仏子で、織物業を営む平岡専吉の長男として生まれました。そこで、父親である平岡専吉がどのような人物なのか、郷土資料を渉猟してみましたが、平岡甚蔵の甥だということ以外にたいした手がかりは得られませんでした。
どうやら、平岡甚蔵が大きなカギを握っているようです。
そこで、今回は、平岡甚蔵が何をしてきたのか、当時の織物業界の動向と関連づけながら、把握していくことにしたいと思います。
■甚蔵が生まれた時代
平岡甚蔵は弘化4(1847)年10月、代々、元加治村仏子で織物製造業を営む家庭に生まれました。弘化(1844-1848)年間はわずか4年しか続かず、天保(1830-1844)年間の大地震、大飢饉に引き続き、同年5月7日、善光寺地震が発生しています。甚蔵が生まれる5か月前には、M7.4の大規模な地震に見舞われていたのです。
この地震は江戸、神奈川で震度4だったそうですから、埼玉でも相当、揺れたことでしょう。
その前年の1846年3月10日には孝明天皇が即位され、5月には、アメリカ東インド艦隊司令官のビドル(James Biddle, 1783-1848)が、軍艦2艘を引き連れ、浦賀沖にやって来ました。米軍艦が通商を求めたのはこの時が初めてでしたが、幕府はこれを拒否しています。
度重なる天変地異があり、大きな社会変動の兆しが見え始めていた頃、平岡甚蔵は誕生したのです。日本に開国を迫る諸外国からの来航は続き、激動の時代の幕が切って落とされようとしていました。
1953年7月8日、ペリー(Matthew Calbraith Perry, 1794-1858)が、開国を求める米大統領の親書を携え、浦賀に入港しました。
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(Wikipediaより。図をクリックすると、拡大します)
当時の将軍、徳川家慶は重病だったため、親書を受け取っただけで、返答はしませんでした。そして、ペリーが去った10日後には亡くなってしまいました。その後、徳川家定が第13代征夷大将軍になりましたが、病弱で、乱世を乗り切るだけの胆力はありません。
その後も開国を求める外国船の出没は続き、不安に駆られた国内では、そのような状況に抗うように、攘夷論が湧き上がっていました。
1856年7月21日、初代アメリカ総領事ハリス(Townsend Harris, 1804-1878)が来日し、通商条約の締結を正式に、幕府に求めてきました。ところが、孝明天皇からは条約締結の勅許が得られませんでした。当時の大老・井伊直弼は幕閣の意見を聞いた上で、1858年7月29日、神奈川沖に停泊中のポーハタン号上で、14条からなる日米修好通商条約に調印しました。
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(Wikipediaより。図をクリックすると、拡大します)
幕閣の多くは、阿片戦争など、列強がアジアに仕掛けた戦争について把握していました。だから、このままでは日本も植民地にされかねないと、開国論に傾いていたのです。侵略戦争を仕掛けられるより開国する方がましだという認識でした。度重なる列強からの圧力に抗いきれず、半ば、追い詰められるようにして下した決断だったといえます。
その結果、オランダ、ロシア、イギリス、フランスなどとも貿易協定を結ばざるをえなくなりました。いずれも関税自主権がなく、治外法権を認める不平等条約でした。
適切な情報もないまま、日本は列強優位の条約を結ばされたのです。明治政府が取り組まなければならない課題の一つとして残されたのが、これら欧米列強との不平等条約の改正でした。
これらの条約を契機に、日本は否応なく、列強を中心とした国際舞台に引き入れられていきました。悪条件の下で外国との貿易が始まり、大きな変貌を強いられたものの一つが織物産業です。
■甚蔵が育った時代
19世紀半ば、フランス南部地方を中心に、蚕に微粒子病が発生しました。これは、蚕が桑を食べなくなり、黒褐色の小斑点ができて、やがて死に至るという病気です。この微粒子病は瞬く間に、フランス北部、イタリアにも感染が拡大し、ヨーロッパの生糸生産に大きな打撃を与えました。
その結果、19世紀の半ばのヨーロッパは生糸不足に陥っており、絹織物業者は苦境に陥っていました。しかも、1851年には太平天国の乱が発生し、当てにしていた中国からの輸出も滞っていました。輸入によって生糸を安定的に確保することが難しくなっていたのです。
そんな折、日本は日米修好通商条約に基づき、1859年6月2日に横浜と長崎で開港しました。
フランス、イギリス、オランダとも通商条約を結んでいましたから、当然のことのように、日本からヨーロッパ向けの生糸の輸出が始まりました。輸出は好調で、ヨーロッパとの取引が始まって3年後の1862年、日本からの輸出品の86%が生糸と蚕種でした。
開国早々、生糸が日本の主な輸出商品となっていたのです。
当時、日本では養蚕農家が、養蚕から製糸、機織りに至る一連の作業を行っていました。その際、座繰製糸という方法で生糸を生産していました。蚕は幼虫から蛹になるとき、糸を吐き出して繭を作ります。そこで、繭を窯で煮て繭糸を取り出しやすくする方法を取っていたのです。
座繰製糸(ざぐりせいし)とは、繭を釜で煮る際、片方の手で糸を繰りながら、反対の手で巻き取る作業のことをいいます(※ 関東農政局 座繰製糸)。
座繰製糸の画像を見つけましたので、ご紹介しましょう。
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(※ 横浜開港資料館より。図をクリックすると、拡大します)
江戸時代以降、繭を煮る釜と糸巻き枠が一体化した座繰器が使われはじめました。主に農家で用いられていた器械です。これは工女が自分で糸枠を回転させながら、接緒する方式だったので、能率は悪く、粗製乱造になりがちでした(※ 中村政則、他「製糸技術の発展と女子労働」『技術革新と女子労働』1985年、p.34.)
養蚕は東北、関東の一部、甲信などの地域で、農家の副業として盛んに行われていました。生糸が輸出の主力商品になっていくにつれ、これらの地方を中心に、全国で生糸が増産されるようになりました。埼玉県はその中心的な地域でした。
埼玉県でも、当時、養蚕は農家の副業として行われていました。
農家ごとに、扱う蚕の品種や生糸生産の技術レベルが異なっており、品質にばらつきが多いだけではなく、粗悪品もみられました。商品として安定して輸出できる状態ではなかったのです。
日本製生糸はまたたくまに信頼を失い、輸出が落ち込んでしまいました。品質からいえば、半ば、当然のことでしたが、日本製生糸の価格は1868年から次第に下落していったのです。
産業革命に成功したヨーロッパでは、すでに器械製糸技術による生産が行われていました。高品質の生糸を大量に生産するシステムが整っていたのです。ところが、日本の生糸は主要な輸出商品でありながら、そうではなく、外貨を稼ぎ続けるには、ヨーロッパからの需要に応えられる品質管理、生産体制を整える必要がありました。
ヨーロッパの市場は、高品質の生糸を日本に求めていたのです。
明治政府には、外国商人から器械製糸場建設の要望が提出されたほどでした。さらには、フランスの貿易会社エシュト・リリアンタール商会(リヨンで1859年に創業)などは、そのための資金提供まで申し出ていました(※ Wikipedia)。
リヨンは当時、ヨーロッパ最大の生糸取引所でした。エシュト・リリアンタール商会は、生糸の生産に大きな打撃を受けていたヨーロッパの窮状を救うため、高品質の生糸の大量生産を強く日本に求めていたのです。
渋沢栄一は、当時の日本の生糸について、次のように述べています。
「其の頃我国から輸出した生糸は伊太利で出来るような精良の生糸ではなかった。総て皆座繰取であって、欧羅巴の機械取はない、故に「デニール」の揃はぬ生糸のみであるから需要地に於て僅に緯糸として消費せらるるに過ぎない、之では一国の重要輸出品として其の販路を拡張する訳に行かぬから是非伊仏のやうに器械製糸に改めて以て経糸として立派な生糸を産出する様にしなければならぬと云ふので、先づ富岡製糸場を設立することになった」(※ 中村政則、前掲、p.36.)
日本の座繰方式では主要な輸出品として販路を広げることもできないから、是非ともイタリアやフランスのように器械製糸にする必要があると渋沢はいい、富岡製糸場の建設に言及しています。
渋沢栄一は当時、大蔵省租税正でした。農家出身で養蚕に詳しく、富岡製糸場設置主任5人のうちの1人に任命されています。
(※ https://worldheritage.pref.gunma.jp/shibusawa_eiichi/#link3-1)
■富岡製糸場の建設
明治政府は1872年(明治5年)、高品質の生糸を大量に生産できる官営模範工場の建設を完了しました。それが、群馬県富岡市に建設された富岡製糸場です。やや俯瞰して描かれた全体図があります。
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(※ 世界遺産 世界遺産富岡製糸場より。図をクリックすると、拡大します)
官営工場の建設にあたっては、大隈重信、伊藤博文、渋沢栄一らが種々、検討した結果、フランスの機械を使い、フランスの技術を使った製糸場を建設することになりました。担当者として選ばれたのが、ポール・ブリューナ(Paul Brunat, 1840-1908)です。
リヨンの生糸問屋で働いていたブリューナは、エシュト・リリアンタール商会に雇用され、生糸検査人として、横浜支店で勤務していました(※ 澤護「富岡製糸場のお雇いフランス人」『千葉敬愛経済大学研究論集』第20号、1981年、p.197.)。
リヨンは当時、ヨーロッパ最大の生糸取引所でした。リヨンで働いていたことがあり、生糸関連の人脈もあることから、彼は適任と判断されたのでしょう。1870年6月に仮契約を結びました。
以後、ブリューナが指揮を執り、用地の選定、工場の建築、稼動に至る全過程を進めていきました。まず、用地の選定です。
同年、7月、ブリューナらは用地選定のため、当時、生糸の生産が盛んだった武蔵国(埼玉県)、上野国(群馬県)、信濃国(長野県)を視察しました。
その結果、次のような理由から、群馬県の富岡市に建設することに決定しました。
すなわち、①養蚕業が盛んで良質の繭の供給が可能、②製糸に必要な良質の水の確保が可能、③大工場建設のための敷地が入手可能、④蒸気エンジンの燃料に必要な石炭の調達が可能、⑤地元住民の協力を得ることが可能、等々の条件が満たされていたからでした(※ 上西英治「日本の絹産業から見た富岡製糸場の歴史意義」『地域政策研究』第18巻第4号、2016年3月。p.92-93.)。
同年10月、ブリューナは明治政府と契約を結び、1871年1月から有期雇用となりました。「お雇い外国人」制度の下、製糸場の建設のための庶務、工場の建設に必要な機械や機材の購入、熟練したフランス人技師、工女の招聘し、彼らの指導の下、日本人技師、工女を育成するというのが条件でした。
興味深いのは、エシュト・リリアンタール商会から資金提供の申し出があったにもかかわらず、明治政府が自己資金で官営の模範工場を建設したことでした。開国したばかりで資金不足だったにもかかわらず、明治政府は敢えて自己資金で賄ったのです。主要産業に外国資本の導入を防ぎ、外国勢力の介入を回避したのです。懸命な判断でした。
さて、富岡製糸場は1871年5月に着工し、1872年7月に主な建物が完成しました。
製糸場の主な建物は、①繰糸所、②東置繭所、③西置繭所、④首長館、⑤蒸気釜所、⑥検査人館、⑦女工館、⑧鉄水溜、⑨下水竇及び外竇、等々でした。
(※ http://www.tomioka-silk.jp/tomioka-silk-mill/guide/building.html)
全体図は、こちらです。
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(※ 世界遺産 世界遺産富岡製糸場より。図をクリックすると、拡大します)
設計図を書いたのは、フランス人技術者エドモン・オーギュスト・バスティアン(Edmond Auguste Bastien, 1839-1888)でした。ブリューナが、お雇い技術者として横須賀製鉄所に雇用されていたバスティアンに依頼したのです。
フランス人技師や工女の選定と雇用についてはすべてブリューナが行い、明治政府は彼らとは直接、契約を交わしていませんでした。(※ 澤護、前掲、pp.206-207.)。
建物の設計はフランス人が担当しましたが、実際の建築作業は日本人が行いました。西洋の建築技術と日本の技術や資材を併せて使い、ハイブリッドで完成させていったのです。
たとえば、繰糸所があります。
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(※ 世界遺産 世界遺産富岡製糸場より。図をクリックすると、拡大します)
この繰糸所で、繭から糸を取る作業が行われていました。長さ約140メートルもある巨大な空間に、フランスから導入された金属製の繰糸器が300も設置されていました。当時、フランスやイタリアの繰糸器ですら150程度だったそうですから、富岡製糸場はまさに世界最大規模の器械製糸工場だったのです(※ 前掲 URL)。
それにしても、これほど天井が高く、建物の中央に柱のない巨大な空間には驚かされます。これは小屋組みをトラス構造にすることで、可能になったのだそうです(※ 前掲 URL)。ヨーロッパの技術、日本の技術及び資材を組み合わせて使い、実現させた建築の一例です。
フランス人の設計に基づき、ヨーロッパの技術、日本の技術及び資材を使って建設された富岡製糸場は、1872年7月に完成しました。同年10月4日から操業が開始され、1876年に外国人指導者が去った後は日本人だけで操業できるほど、日本人技師や工女たちは作業を習熟していました。
以後、官営の模範工場として富岡製糸場は、日本の製糸業の技術開発を主導し、新しい技術を普及させるモデル工場として大きな役割を果たしていきました。
機械を使った製糸作業の習得については次のように展開されました。
たとえば、一人のフランス人工女から4人の日本人工女が器械を使った糸の操り方を教えられると、今度はその4人が別の日本人工女に教えていくという方法が採用されました。その結果、短期間に大勢の工女が最新の技術を学び取ることができたといいます(※ 澤護、前掲、p.212)。
明治政府は、国内から工女を募集して、フランス人から器械製糸の技術や知識を習得させました。その後、彼女たちを指導者として、他の日本人工女たちに教えていくという方法で、工女を多数、育成していったのです。全国に新技術が拡散されたおかげで、短期間のうちに、高品質の生糸が大量に生産されるようになりました。
興味深いのは、品質管理を徹底させる一方、明治期には珍しく、富岡製糸場では労務管理も工女たちに配慮されたものだったことです。フランスの雇用形態がそのまま移植されていたのでしょう。
1872年の創設時、働いていた工女は400人で、一日8時間労働、夏冬の長期休暇(各10日間)、食費や寮費は製糸場が負担していました。当時、世界でもまれなほど良好な労働環境だったのです。
(※ https://www.sankeibiz.jp/econome/news/140426/ece1404262147007-n1.htm)
富岡製糸場が建設され、模範工場として機能しはじめると、日本の製糸業全般が次第に、近代化されていきました。新しい製糸技術の導入、優良な蚕品種の育成、飼育方法の改良、輸出検査の導入など、日本の製糸業に欠けていた課題が次々と、解決されていったからでした。
おかげで、製糸産業は急速に生産量を拡大し、輸出量もそれに比例して伸びていきました。
こちら →
(※ 農林水産省 「「明治150年」関連施策テーマ我が国の近代化に大きく貢献した養蚕」)
富岡製糸場の建設以降、ヨーロッパの需要に合わせ、高品質の生糸を量産できるようになっていました。おかげで、新たな輸出先となった米国のニーズにも応えることができました。富岡製糸場を牽引車として、生糸産業は輸出の花形となっていったのです。
もちろん、すべての養蚕地方が同じように、欧米基準の生糸を生産できるようになっていたわけではありません。全体的にみれば、家内手工業的な形態で生産されているところがまだ数多くみられました。
■甚蔵が織物業を継いだ時代
1874年、平岡甚蔵は父親の死に伴い、家業である染糸業、織物業を継ぎました。富岡製糸場ができた2年後のことです。甚蔵27歳の時でした。
『所沢織物誌』(所沢市史編さん室、編集・発行1984年)に、「平岡甚蔵」の名前が見えます。少し長くなりますが、引用してみましょう。
「維新直後、元加治村仏子の浅見弥助、平岡甚蔵、宮岡太郎兵衛等縦三十番手横四十番手筬十七算にて京桟留と称する綿織物を製織して世評を問ひたるに、製品の単調なる当時に於いて新組織として喜ばれ忽ちの間に製織者相次いで生じた。これと前後して元加治村を貫く入間川の下流柏原村に博多結城なる絹面交織現れ、数年ならずして、水富、藤澤淘の諸村より生産を見、更に数年にして其地域は元加治、加治、金子、東金子、豊岡、入間川、奥富、精明、南高麗、飯能、宮寺等の諸町村に広まり、野田双子及京桟留と合して年産額六十万反を超え、一時その命脈を絶たんとしていた絹綿交織は茲に復活したのである」(『所沢織物誌』、p.85)
維新直後、平岡甚蔵らによって「京桟留」が開発され、それが評判を呼び、織物業への新規参入者が増えていったことが記されていました。「京桟留」が開発されることによって、1861年に開発された「野田双子」と合わせ、年60万反を超える生産量を誇るようになり、一時、存続を危ぶまれた絹綿交織もこれで復活したというのです。
平岡甚蔵が稼業を継いだのは明治7年(1874)ですが、稼業を継ぐ前に、甚蔵は新しい仕様の織物を創り出していたのです。若いころから創意工夫に富む人物だったことがわかります。
ところが、入間地方の織物生産事業者の多数は、明治前期になってもまだ、問屋制の下に編成されていませんでした。せっかく新製品を開発しても、市場が整備されておらず、品質管理、流通ルートなどにも不備がありました。大きく発展できる環境ではなかったのです。
改めて、近代化初期過程には、構造的な格差が含まれていることに気づかされます。
■製糸業の近代化初期過程に見られる構造的な格差
開国当初、近代化の進んだ欧米と日本とでは、圧倒的な格差がありました。産業革命以降、科学技術の進歩の度合いによって、格差が生み出されるようになっていたのです。それは、富みを生み出す源泉が科学技術に移っていたからでした。
近代化を急ぐ明治政府は、西洋の科学技術を学ぶために、「お雇い外国人」に法外な報酬を出しました。そうでなければ、欧米から優秀な人材に来てもらえなかったのです。
たとえば、富岡製糸場の建設を指揮したブリューナの場合、その年俸は9000円で、お雇い外国人の中では最高級でした。当時、一般の日本人職工の年俸は74円でした(※ 澤護 前掲、p.199.)。いかにブリューナが多額の報酬を得ていたかがわかります。
もちろん、往復の旅費、豪華な住宅、備品なども供与されていました。近代化に必要な技術や知識を習得するために、明治政府は、「お雇い外国人」に破格の待遇をしていたのです。
試みに、官営富岡製糸場の設立当初の収支をみると、いかに膨大な人件費を負担していたかが推測されます。
項目別の収支はわかりませんが、ざっと見たところ、1872年から1875年までの期間、収入は487,111円79銭、支出は707,345円541銭でした。なんと220,233円744銭もの赤字です。この期間はブリューナをはじめ「お雇い外国人」が在籍していました。
ところが、「お雇い外国人」がすべて撤退した1876年の収支を見ると、収入は290,866円360銭、支出は188,208円940銭でした。102,657円420銭もの黒字です。
(※ http://www.silkmill.iihana.com/account.php)
近代化のための授業料であり、投資として、この膨大な出費は仕方がなかったのかもしれませんが、追い詰められるようにして、近代化を急いだ明治政府の姿をここに見ることができます。
開国したばかりの日本は、産業革命を経て、技術革新の進んだ欧米を相手に、格差を抱えたまま、取引しなければなりませんでした。まだ制度整備も十分でないのに、欧米基準の製品を生産していかなければならず、近代化に伴う構造的な格差を排除できなかったことがわかります。
しかも、不平等条約は解消されておらず、不利を承知で取引を強いられていました。
一方、製糸業の近代化は、養蚕、製糸、絹織という従来の作業形態を徐々に崩壊させていきました。それぞれの過程を分業化し、それらを結合して市場を形成するという形態に置き換えられていく過程でも、格差が生じていました。
欧米との格差だけではなく、国内でも構造的な格差が発生していたのです。
たとえば、欧米向け生糸の輸出が増えると、国内向け生糸の出荷量は減少します。輸出向け生糸の出荷量が増え、価格が高騰するに伴い、出荷量が少なくなった国内向け価格も、需給ギャップで高騰していきます。そして、国内生糸価格が高騰すると、国内絹織物の価格も高騰しますから、その需要は減少していかざるをえません。
輸出が盛んになると、輸出向け生糸は好景気でも、国内向け生糸は不景気だという現象が発生していたのです。
その結果、輸出向け生糸の生産に踏み切る農家が、次第に増えていきました。それに伴い、欧米基準の生糸を生産するため、養蚕から製織まで一貫性をもっていた家内手工業的な形態は廃れていきました。過程ごとに分業化し、器械工業的な形態に移行していったのです。
そんな折、発生したのが秩父事件でした。
■フランス大恐慌がもたらした養蚕農家の困窮
埼玉県秩父地方は江戸時代から養蚕が盛んな地域でした。それが生糸の輸出増を背景に、輸出向け生糸生産に切り替える農家が増えていきました。長野など他の養蚕地域に比べ、秩父はとくにフランス市場との結びつきが強かったそうです。(※ Wikipedia 秩父事件)。
なぜ、秩父とフランスとの結びつきが強かったのか、調べてみましたが、ほとんど目ぼしい情報はありませんでした。ようやく次のような情報を得ることができたぐらいです。
明治15年(1882)、フランスの特命全権公使アルチュル・トリクー氏が秩父を訪れた際、同11年(1878)に大火で消失した秩父の小学校の仮設校舎に立ち寄っています。そこでフランス式算術が行われているのを見て感激したそうです。彼はさらに、校舎新築計画のあることを聞くと、金100円を寄付し、当時、駐日陸軍武官だったボスキュー氏の設計図を贈ったといいます。
(※ 以下のURLを参考。① https://www.city.chichibu.lg.jp/4175.html、
② https://www.city-chichibu.ed.jp/dai1sho/gaiyo/history/)
興味深いことに、フランスの特命全権公使がわざわざ秩父を訪れているのです。なぜなのか、不思議でした。特命全権大使といえば、国家を代表し、外交の全権を委任されて交渉に当たる外交使節中で第一階級の官吏のことです。 それが明治15年、交通も不便な秩父にわざわざ出向いているのです。
秩父は養蚕で有名な地域でしたから、大使が秩父を訪れた理由は養蚕に関係していたに違いありません。そこで思い起こされるのが、フランス大恐慌です。
1881年のフランス・リヨン市場の生糸価格は激しく騰貴し、それに伴い、横浜市場でも高騰していました。著名な産地であった秩父郡でも6月ごろから価格は急騰しました。ところが、1882年初頭には一転して、パリ市場の投機相場が急落しはじめ、その混乱はリヨン市場にまで波及しました。やがて、銀行は破産し、フランスに大恐慌が勃発したのです。
以後、1885年11月に至るまで、国際生糸価格は低迷しました。
輸出向け生糸の生産に携わる農家はいずれも、1882年のフランス大恐慌に直撃されたのです。とくに秩父の生糸価格はリヨン価格に連動していました。81年12月には5円56銭だった価格が、82年3月には3円33銭となり、40%も暴落してしまいました(※ 中村真幸「蚕糸業の再編と国際市場:1882-1886年」、『土地制度史学』第145号、1994年10月、pp.1-4.)。
1882年の初頭にフランスで大恐慌が起こっていたことを考え合わせると、フランス大使が秩父を訪れたのは、その影響を把握し、生産地に申し訳ない気持ちを伝えるためであった可能性があります。
決め手になる情報がないので、推測するしかないのですが、フランス特命大使が秩父を訪れたのは、後にも先にも、その時しかありません。しかも、校舎新築資金を寄付し、設計図まで贈与しているのです。
注目すべきは、フランス大使が恐慌の余波を気づかわなければならなかったほど、生糸価格の暴落がひどいものだったことです。
遠く離れたフランスで発生した恐慌が、秩父をはじめ養蚕農家を直撃しました。情報もなく、制度整備も不十分なままでした。輸出向け生糸を生産していた農家はやがて、貧窮化し、追い詰められていきました。
■秩父事件
1882年初頭に発生したフランス大恐慌は、日本の養蚕農家を直撃しました。1881年に大蔵卿に就任した松方正義がデフレ政策を取り、増税を行っていたので、さらに不況を深刻化させました。
農家は高利貸からお金を借りてまで、生糸を生産し続けましたが、価格は下がる一方でした。やがて借金を返せなくなり、多くの養蚕農家は土地を手放すしかなくなってしまいました。
1883年末ごろから、耐え切れなくなった農民の中から、高利貸しに返済期限の延長、政府に減税を求める動きが始まりました。群馬、埼玉、神奈川などの養蚕地方では、農家を支援する困民党の運動が激しくなっていきました。
秩父では1884年8月に結成された困民党がわずか1か月で、3000人にもなっていたそうです。彼らは高利貸しに借金返済の期間延長を求めましたが、聞き入れられず、10月31日からは武装して、高利貸し、役場、警察署、裁判所などを襲撃し、借金の証文を焼いたり、武器やお金を奪ったりするようになりました(※ Wikipedia 秩父事件)。
11月4日、一連の騒動は警察部隊など官軍によって鎮圧され、首謀者は処刑されました。これが秩父事件の概要です。
秩父事件には、①リヨン市場の生糸価格の暴落による養蚕農家の困窮、②緊縮財政下の増税、などが大きく影響していました。
フランス市場に傾き過ぎた養蚕農家の困窮がきっかけとなって起こった悲劇といえるでしょう。あるいは、制度整備も不備なまま、国際市場に巻き込まれていった製糸産業の悲劇の象徴ともいえるかもしれません。
秩父・音楽寺の境内には、鐘楼脇に、「秩父困民党無名戦士の墓」が建てられています。
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(※ Wikipediaより。図をクリックすると、拡大します)
これは、1978年11月2日、秩父困民党決起百年記念委員会によって建立されました。石碑には、「われら秩父困民党、暴徒と呼ばれ、暴動といわれることを拒否しない」と刻まれています。
、秩父困民党は、高利貸しの苛酷な取り立てに悩み、不条理な増税に悩む農民のために立ち上がり、返済期限の延期、減税を求めました。いってみれば、農民たちの生きる権利を求めたのですが、聞き入れられませんでした。
その状況を打開するため、勢い余って、ついには武装蜂起に至ってしまいました。その際も、神官を除き、農民全戸が参加していたといいます。決して反乱分子が引き起こした暴動ではなかったのですが、秩父困民党は結局、鎮圧され、暴徒、暴動扱いされ、処刑されてしまいました。
「暴徒と呼ばれ、暴動といわれることを拒否しない」という文言から、無念さがひしひしと伝わってきます。この文言は、武装蜂起せざるをえなかった事情に目をそむけ、暴徒、暴動扱いして収束を図った社会への批判とも読めます。
■同業組合準則
秩父事件の悲惨な経験を経て、明治政府は、国際市場の動向を踏まえて対応することの重要性を学びました。それには、市場や製品に関する情報の収集及び共有、そして、分業化に対応した業態と業態とを繋ぐ組織の結成が不可欠でした。
明治17年(1884)11月、農商務省達第37号「同業組合準則」が布達されました。
白戸伸一氏は、その中心的な意義を次のように捉えています。
「松方デフレ下にあって、自由競争の「弊害」に未だ対抗しうるだけの資本も生産力も備えていない在来産業を、同業者自身の結集により間接的に保護してゆく意義をもっていたことである」(※ 白戸伸一「明治前期における同業者組織化政策―「同業組合準則」をめぐってー」『明治大学大学院紀要 商学篇』第17号、1980年2月、p.122.)
フランス恐慌を経験した日本の製糸業界は、1883年から米国向け仕様の生糸を増産するようになりました。そして、1884年には、諏訪地方のように全面的に米国向けに転換するところも出てきました。1886年になると、米国市場で日本糸占有率は高まり、養蚕地方に本格的な好況が訪れました(※ 中村真幸、前掲、p.15-20.)。
1884年に公布された同業組合準則は、同業者同士の結びつきによって、互いを保護し合い、成長し合える環境を整備することを勧めるものだったといえます。
■甚蔵らが設立した入間高麗織物組合
同業組合準則に基づき、織物の種類あるいは業種ごとに、準則組合が設立されるようになりました。入間郡下では、明治20年代から30年代にかけて、組織化の動きが活発になっています。
明治23年(1890)、平岡甚蔵らが中心になって、「入間高麗織物業組合」が豊岡町(入間市)に設立されました。
その後、改称され、「入間郡織物業組合」となりますが、この組合は有力な機業家層の主導で結成されたところに特徴があります。生産者というよりは、地元の豪農を出自とする商人的特性をもつ織元層が主導したのです(※ 前掲、『所沢織物産地の形成と発展』、p.23-24.)
その目的として彼らは、織物の尺幅を統一したり、製品に組合の証明書の添付を義務付けたりして、技術的に手工業段階であるために生じる粗製乱造の防止や、染色や織物の改良を企図していました。さらに、粗悪品の乱売防止や販路の拡張を目指していたのです(※ 前掲、『所沢織物産地の形成と発展』、p.24)。
明治30年(1897)4月12日、重要輸出品同業組合法が公布されました。
対象は「重要輸出品ノ生産、製造又ハ販売ニ関スル営業ヲ為ス者」(第1条)、目的は「組合員協同一致シテ営業上ノ弊害ヲ矯正シ信用ヲ保持スル」(第2条)でした。白戸氏はこの法律制定の背景を、以下のように指摘しています。
「近年の輸出増加につれ輸出品の粗悪化や不正取引が進んでおり、この是正のため「重要輸出品」の同業組合を活用するとしている。(中略)この法の成立の背景には、個別には粗製乱造を禁じ得ない在来諸産業ないし零細経営を組織化し、海外市場の拡大に対等してそれらをいっそう有効に輸出産業として動員しようとする政府の意図が働いていたのである」(※ 白戸伸一「同業者組織化政策の展開過程―産業資本確立期における動向を中心としてー」『明治大学大学院紀要 商学篇』第18号、1981年2月、p.75.)
「同業組合準則」(1884年公布)にしても、「重要出品同業組合法」(1897年公布)にしても、明治政府が企図していたのは、在来経営者、零細経営者に対する同業組合による保護でした。近代化初期過程の中でようやく打ち出された生産者保護策の一つといえるでしょう。
興味深いのは、入間郡織物業組合の場合、積極的に子弟の育成を図り、明治31年(1898)には化学染料の利用法や製織技術を組合員に普及させるため、染織講習所を豊岡町大字扇町屋に設けていたことでした。組合が県内での実業教育に先鞭をつけたのです。
先見の明のある平岡甚蔵が、この組合の中心メンバーとして活躍していたからでしょうか。単に品質管理、欧米基準に基づく製品の製造に留まるのではなく、次世代の織物業をにらんだ人材育成にまで着手していたのです。
■織物業界への貢献、地域社会への貢献
その2年後の明治33年(1900)、入間郡立染織講習所の設立が計画されると、入間郡織物業組合はその講習所を拡充し、入間郡に寄付しました。そして、農商務省から技師を招聘し、化学染料の利用による染色技術の普及・改良に力を入れていきました。
さらに、同年、平岡甚蔵をはじめとする10数名の有力機業家層(絹綿交織業者)と有力買継商が共同で、「染色其他機業ニ属スル諸般ノ工業ヲ経営スルヲ以テ目的トス」という趣旨に基づき、資本金3万円の入間染工株式会社を設立しました。
比較的資力のある絹綿交織業者と、その関連業者が中心となって、染色工場の共同経営に着手したのです。当時、化学染料(硫化染料)による糸染めの改良と、織物の品質改善が織物業者にとっていかに重要であったかが示されています。
この入間染工の工場は、元加治村大字仏子(入間市)に設置され、明治42年(1909)の『全国工場通覧』によると、職工数20名(すべて男工)を擁し、「絹綿糸色染」が主な業務でした(※ 前掲、『所沢織物産地の形成と発展』、p.25)。
明治33年(1900)以降、甚蔵は武蔵織物同業組合設立に着手し、発起人の一人として奔走しました。その結果、36年(1903)12月23日、重要物産同業組合法の下、入間、比企、大里の3郡に亘り、8町72ケ村、組合員5028人を抱える武蔵織物同業組合が川越に設置されました(※ 『わが町の織物』、2016年、p.15.)。
組合長は向山小平治、平岡甚蔵は副組合長でした。織物の改良と販路拡張のために設置され、主に白魚小織、太織、生糸、絹綿交織、綿織物がその対象でした。明治40年には定款変更をして、事務所は所沢に移されました(※ 『わが町の織物』、2016年、pp12-15.)。
その推移を見ると、組合は明治政府が打ち出す政策を次々と受け入れ、内容を更新し、激動の時代に合わせて対応していきました。
明治41年(1908)12月には、組合が対象とする地区が広範囲に亘り、組合の運営に支障をきたすようになっていました。そこで、郡別に分け、さらに、所沢市場の綿織物、絹綿交織業者だけの組合に分けて、組織変更し、大正10年(1921)11月に「所沢織物同業組合」に名称変更しています。
大正3年(1914)には、平岡甚蔵が二代目の組合長を引き継ぎ、その後、八代目の平岡歓五郎まで、連続して平岡一族が組合長を務めています。(※ 『わが町の織物』、2016年、pp12-15.)甚蔵が切り開いた道を、一族が守り、発展させてきたことがわかります。
その一方で、甚蔵は仏子村総代、村会議員、名誉助役に就いて、道路改修、橋梁架設などを主導しました。さらに、明治36年(1903)に入間郡会議員になったのを皮切りに、飯能銀行監査役、中武馬車鉄道株式会社取締役、武蔵野鉄道(現、西武鉄道)株式会社創立発起人など、さまざまな役職に就き、地域貢献を行ってきました(※ 入間市文化創造アトリエHP、「織物の歴史と源流」)。
平岡甚蔵が何をしてきたかを辿ってみると、まず、入間地方の織物業界の近代化になくてはならない人物だったことがわかります。さらに、地域の発展にとっても、なくてはならない人物だったといえます。
『広報いるま』には「近代繊維産業のパイオニア」として平岡甚蔵が取り上げられ、次のように記されています。
「資質剛直快活ニシテ、機ヲ見ルコト敏、事ヲ処スルニ熱心、万難ヲ排して必ス素志ヲ貫徹スルノ概アリ」と何人からも言われる徳望のある人物でした(工藤宏、「入間を創った人たち」『広報いるま』No.1037. 2009年、p.20.)
なんとも穏やかで、温厚な表情が印象的です。
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(※ 『広報いるま』No. 1037より。図をクリックすると、拡大します)
幕末から明治にかけての混乱期、甚蔵は時代が要求する課題にしっかりと取り組み、適切な手を打ってきました。近代化初期過程の荒波に耐え、業態を適格化させながら、発展できる道筋をつけてきたのです。誰もができることではありません。
時代の動きに敏感なだけではなく、先見性があり、行動力があったからこそ、激動の荒波を乗り切ることができたのでしょう。また、徳を備え、人望のある人物だったからこそ、人々をまとめ、率先して事業や社会を改革していくことが出来たのだという気がします。
新たな激動の時代を迎えようとしている今、果たしてどのような人物が、歴史の舞台の袖で、出番を待っているのでしょうか。ふと、気になりました。(2022/5/31 香取淳子)