ヒト、メディア、社会を考える

11月

百武兼行 ⑥:1876年に制作された作品について考える。

■1876年に制作された作品

 百武は鍋島胤子とともに、1875年初からリチャードソン・ジュニアに師事し、油彩画を学び始めました。思わぬ機会に恵まれ、勢い込んで制作に励んだのでしょう。最初の頃の作品がいくつか残されています。制作年のはっきりしている作品のうち、最初期のものは、《松のある風景》、《城のある風景》、《橋のある風景》、《田子の浦図》でした。

 いずれも1876年に制作されており、未熟さを残しながらも、味わいのある作品になっていました。学び始めて1年余ですでに、作品と呼べるような絵を描いていたことがわかります。

 そこで、今回は、1876年に制作されたこの四作品のうち、これまでに取り上げたことがある《松のある風景》を除き、《城のある風景》、《橋のある風景》、《田子の浦図》の三作品について、考えてみたいと思います。

 果たして、これらの三作品はどのようなものだったのか、まずは作品内容から見ていくことにしましょう。

●《城のある風景》

 《城のある風景》というのがこの作品のタイトルですが、日本の城とは形状が異なっているせいか、どれが城なのかすぐにはわかりませんでした。ただ、中央に頑丈な建物が見えます。塔のような形状で、どっしりとした存在感があります。おそらく、城の一部なのでしょう。

(油彩、カンヴァス、40.6×56.1㎝、1876年、所蔵先不明)

 よく見ると、この建物の上に小さな櫓が建てられています。ということは、これは、監視機能、防衛機能を持つ建物だということになります。きっと西洋の城につきものの、小堡(バービカン、barbican)なのでしょう。バービカンとは聞きなれない言葉ですが、城の出入り口辺りに設けられた塔を指し、敵からの襲撃に備える防御施設としての役割を果たしています。

 そのバービカンの背後に大きな建物が見えますが、これが住居棟なのでしょう。その上に奇妙な不定形のものが、空に向かって伸びるように描かれています。無彩色なので曇り空に紛れ、つい見逃してしまいそうですが、形状からは、どうやら旗のようです。

 なぜ、城に旗が掲げられるのか不思議に思いましたが、イギリスでは、旗は城主がいるかいないかを知らせる合図として使われていたようです。たとえば、イギリス王室が所有するウィンザー城では、女王が城にいるときは王室旗が、不在のときは英国国旗が掲げられていたといわれています。

 改めて、住居棟の上の旗らしいものを見ると、無彩色で、シンボルマークもなく、ただの布にしか見えません。しかも、この布は力なく垂れ下がり、どんよりと白っぽく描かれた曇り空に溶け込んでいます。

 そういえば、バービカンの壁に白い粉のようなものが散っているのが見えます。その左側にはこんもりとした大きな白い塊が描かれ、周囲の木々の葉先も白く描かれています。どうやら少し前まで、雪が降っていたようです。

 前景に目を移すと、犬が川べりを歩き、その傍らで二人の男がなにやら作業をしています。男たちの傍らに魚が二尾、地面に置かれていますから、彼らはどうやら、白い袋に魚を入れているようです。

 一方、対岸の小舟には男が背を向けて立ち、犬が寄り添っています。その先の建物にも人が描かれていますが、小さすぎて何をしているのかよくわかりません。おそらく、これが城のある町の日常なのでしょう。のどかな暮らしの一端がうかがえます。

 画面全体を見ると、褐色とグレーをベースに、黒に近い緑が適宜、配され、アクセントとされています。色数少なく画面構成されているせいか、落ち着いた印象を受けます。空と川がグレーの濃淡で描かれており、上と下から、褐色で描かれた建物と地面を挟み込み、画面をほぼ二分する恰好になっています。

 油彩画を学び始めてわずか1年余しか経ていないことを考えれば、巧みな画面構成だといえるでしょう。

 ただ、建物の描き方がいかにも不自然でした。パースを考えずに描いているからでしょう。とくに褐色の建物が、構造的にありえないような描かれ方をしているのが気になりました。百武はこの時点ではまだ、透視図法を学んでいなかったのかもしれません。

 画面全体は淡い色彩で描かれており、まるで水彩画のような印象を受けます。

 次に、《橋のある風景》を見てみることにしましょう。

●《橋のある風景》

 この作品も全般に淡い色で描かれており、立体感がなく、重厚感もなく、水彩画のように見えました。

(油彩、カンヴァス、60.9×91.3㎝、1876年、所蔵先不明)

 画面で大きな面積を占めているのは、背後に連なる山々と巨岩ですが、いずれも淡く、平板に描かれており、単なる背景に過ぎません。この作品で印象に残るのが、中景に描かれた木橋であり、それを支える黒褐色の岩、そして、橋の下を勢いよく流れている渓流でした。

 大きな岩にぶつかっては大きく波立ち、波頭が白く泡立っている川の流れが印象的です。ここでは、流れに沿った動きが描き出され、刻々と変化する渓流の妙味が表現されています。

 もっとも、画面左側の赤褐色の地面、そして、画面右側の黒褐色の大きな岩の描き方が粗雑なのが気になりました。観客がもっとも目に留めやすい前景から中景にかけてのモチーフなのにもかかわらず、粗雑に描かれているのです。それが、残念でした。

 好意的に見れば、百武は、渓流の流れを際立たせるために、敢えてその周囲を雑に描いたのかもしれません。とはいえ、雑な印象を拭い去ることはできず、この作品からは、旅先で慌てて描いたスケッチのような印象を受けました。

 橋の上にごく小さく、まるで記号のように、人物が描かれています。これを添えるだけで、単なるスケッチに見えていたものが絵らしくなっているように思えます。

 それでは、次に、《田子の浦図》を見てみましょう。

●《田子の浦図》

 リチャードソン・ジュニアに師事しながら、百武はアカデミーに作品を2点、出品していました。これがその出品作品のうちの一つです。もう一つは、現存していませんが、日本の着物を着せた西洋婦人像で、会場では好評を博したと伝えられています。(※、三輪英夫編『近代の美術 53 百武兼行』、至文堂、1979年、p.2.)

 この作品には、《田子の浦図》というタイトルがつけられており、日本の風景をモチーフにしています。アカデミーに出品する作品の訴求ポイントとして「日本」を意識していたのでしょう。

(油彩、カンヴァス、40.5×55.8㎝、1876年、所蔵先不明)

 穏やかな夕べ、一艘の船が浅瀬に浮かんでいる様子が描かれています。船には3人の男が立っており、そのうち2人は明らかに日本の着物を着ています。一日の仕事を終え、片付け作業をしているのでしょう。日暮れ時の静けさと落ち着きが感じられる作品です。

 後方に見えるのは、富士山でしょうか。典型的な日本の風景です。

 夕空には赤褐色が混じり、その色がそのまま海に映し出されています。その褐色を帯びた空と海に挟まれるように、山並みと一艘の船が描かれています。残照が当たり一面に広がり、やや傾いた帆柱に哀愁が漂っています。

 ロンドンにいながら、なぜ、百武はこのような風景を描くことができたのでしょうか。一瞬、不思議に思いましたが、考えてみれば、「田子の浦」は、古くから和歌の題材になり、浮世絵にも取り上げられてきた名所でした。富士山を望む駿河湾西沿岸にあり、歌枕になるほど、日本人に親しまれてきた景勝地です。「田子の浦」の歌であれ、光景であれ、百武の脳裡に刻み込まれていたに違いありません。

 たとえば、有名な山部赤人の和歌に次のような一首があります。

 「田子の浦に うち出でてみれば白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ」

 これは百人一首の選歌として知られていますが、元はといえば、『新古今和歌集』に収録されたものでした。「田子の浦」は、手前が海、中ほどに三保の松原、その背後に富士山を望むことができる絶景です。

 百武は日本の典型的な景勝地を、アカデミー出品作品の画題に選んでいたのです。もちろん、浮世絵画家がこの恰好の画題を見逃すはずはありませんでした。浮世絵にもいくつか、「田子の浦」は取り上げられています。

 たとえば、葛飾北斎(1760 – 1849)の次のような作品は、『富嶽三十六景』の中に収められています。

(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Shore_of_Tago_Bay,_Ejiri_at_Tokaido.jpg

 この作品のタイトルは「東海道江尻田子の浦略図」です。1830年頃に制作されました。前景に船を配置し、中景に三保の松原を含む集落、そして、後景に雄大な富士山を描いています。メリハリの効いた色遣いで、江戸時代の人々の美意識に適った作品といえます。

 歌川広重(1797 – 1858)もまた、「田子の浦」を画題に描いています。

(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Hiroshige,_The_station_Ejiri_2.jpg

 北斎よりもやや視点を高くして「田子の浦」を切り取った構図です。前景に描かれた浜辺と、後景に描かれた富士山が落ち着いた色合いで描かれており、蛇行する田子の浦に浮かぶ数艘の帆船を優雅に見せています。前景、中景、後景のバランスがよく、縦長の画面を活かした構図になっています。

 当時、景勝地としての「田子の浦」は、和歌や絵によって、大勢の人々に知れ渡っていたのでしょう。百武もこれらの絵を見ていた可能性があります。だからこそ、アカデミーへの出品作品を制作しようとした際、即、「田子の浦」を画題に選んだのだと思います。

 そして、百武は、「田子の浦」に典型的なモチーフである船と富士山を取り込み、《田子の浦図》を描いたのです。残念ながら、受賞はしませんでしたが、油彩画で日本的画題を表現しようとしていたところに、百武の心情が浮き彫りにされているような気がします。

 褐色をベースに色構成をした画面は、夕刻のもの悲しい風情が余すところなく表現されており、興趣ある作品になっています。

 もっとも、作品としては未熟といわざるをえない側面がありました。手前の浅瀬、浜辺の描き方が雑なのが気になりました。画面全体をしっかりと描き込むということに慣れていないように思えます。全般に立体感がなく、平板で、西洋画技法の習得が不十分だという印象を受けました。

■初期作品の特徴

 1876年に制作された百武の三作品を見ていくと、それぞれ画題が異なり、モチーフも違っているのですが、共通する要素がいくつか見られました。ざっくり言うと、次のようにまとめられます。

 すなわち、「水彩画のように見える」「モチーフの捉え方が平板である」「細部の表現が雑である」「塗りムラが見られる」、等々です。

 なぜ、そう思ったのか、見ていくことにしましょう。

 《城のある風景》、《橋のある風景》、《田子の浦図》、どれを見ても、一見、水彩画のように見えました。そこで、まず、なぜ、そう見えたのか、考えてみました。

 作品を見直してみると、いずれの作品も同じ色面が連続していることが多いことに気づきました。このような筆遣いの特徴から、百武はほとんどのモチーフを、絵具を筆に載せ、油を含ませ、線を引くように描いていたのではないかという気がします。

 たとえば、《城のある風景》の場合、中景で描かれた褐色の建物部分、囲いの部分、その後ろの城壁の部分、いずれも絵具を筆に載せ、線を引くように描いているように見えます。だからこそ、色面が均質化し、平板に見えているのではないかと思いました。

 手前の人物表現についても同様です。洋服の袖や影になる部分は濃い褐色をつかっていますが、やはり、線を引くように描かれているので、凹凸感がなく、平板に見えます。

 《橋のある風景》はとくに、その特徴が顕著でした。背後の山々には稜線の描き方に起伏が見られ、多少、立体感が感じられますが、手前の地面や岩の描き方はただ、色を塗っただけのように見えます。おそらく、絵具を載せた筆を画面上を引っ張るように、上下あるいは左右に使っているからでしょう。

 《田子の浦図》の場合、夕暮れ時の光景なので、それほど違和感はありませんでした。シルエットのように見える表現でも不自然ではなかったのです。ところが、手前の浅瀬と浜辺は、陽光を受けて明るいせいか、描き方の平板さ、雑さが際立ってしまいました。

 さて、思いついた箇所を中心に、取り上げてみましたが、「水彩画のように見える」ということは、平板で立体感がないということと関係しており、筆の使い方と深く関連しているのではないかという気がしました。

 水彩画だから平板だというわけでもないのです。

 たとえば、百武の師であるリチャードソン・ジュニアは水彩画家でした。彼の作品を見ると、水彩画でありながら、油彩画と見まがうほど立体的に描かれています。

■水彩画家リチャードソン・ジュニア

 リチャードソン・ジュニアには、《Ben Nevis》(1880年)という作品があります。

(※ https://www.1st-art-gallery.com/Thomas-Miles-Richardson-Jnr./Ben-Nevis.html

 雲や山々、川辺で働く農夫や馬など、どのモチーフをとってもリアリティがあり、見事な表現に驚かされます。水彩画ですが、絵具を一律に塗りこめるのではなく、色面毎に細かく色を変えていることがわかります。

 しかも、空からの陽光の射し込み具合を考えて、影をつけ、明るい部分と暗い部分を描き分けています。だからこそ、手前に描かれた農夫や馬などのモチーフが活き活きと、存在感を持って見えるのでしょう。

 こうして見てくると、百武の初期作品を見て、水彩画のようだと思ったのは必ずしも妥当な判断だったとはいえないことがわかります。リチャードソン・ジュニアのように、西洋画の技法をしっかりと身につけて、水彩画を描けば、このような重厚感のある作品を仕上げることができるということがわかります。

 逆に、百武の初期作品は油彩画でありながら、そうは見えませんでした。西洋画の技法に則って描かれていないので、立体感がなければ、重厚感もなかったのです。

 百武の初期作品にはいずれも、「水彩画のように見える」という共通性がありました。それは、百武がその時点で、西洋画の技法をマスターしていなかったことを意味することになります。

 そして、「モチーフの捉え方が平板である」、「細部の表現が雑である」、「塗りムラが見られる」といった初期作品の共通性についても、実は、百武が、この時点ではまだ西洋画の基本を習得していなかったからだということに帰着します。

 もっとも、油彩画を習い始めてわずか1年余でこれだけの作品を仕上げることができたのは、百武の努力とセンスの良さ、吸収力が関係していたといわざるをえません。もちろん、師であるリチャードソン・ジュニアとの相性がよかったからでもあるのでしょう。

■リチャードソン・ジュニアと百武兼行

 リチャードソン・ジュニアは生前、北イングランドとスコットランドの高地を描いた水彩画、イタリアとスイスの風景を描いた美しいパノラマ画が人気を博し、高値で取引されていました。(※ https://somersetandwood.com/thomas-miles-richardson-junior-returning-home-original-1851-watercolour-painting-jy-551)

 当時、絵を描くだけで生活していくのは大変だったようです。ところが、リチャードソン・ジュニアの作品は多くの人々に好まれ、高値で取引されたというのです。しっかりとした技術を身につけ、ロマン主義的な表現力を発揮していたからこそ、数多くの人々を惹きつけることができたのでしょう。

 Andrew Cobbing氏は、リチャードソン・ジュニアと百武との関係について、次のように記しています。

 「リチャードソン・ジュニアは、イタリアの田舎やスコットランドの高原地方を描くのを好み、百武は彼のお供をして、定期的にスコットランドを訪れていた。1878年に北部ダーラム州に出かけた際には、《バーナード》を描いた」

(※ Andrew Cobbing, THE JAPANESE DISCOVERY OF VICTORIAN BRITAIN, JAPAN LIBRARY, 1998, pp.136-137.)

 リチャードソン・ジュニアは、定期的にスコットランドにスケッチ旅行をしていましたが、百武も一緒に出かけていたというのです。

 ロンドンからスコットランドに行くには、直線で533.3㎞です。当時は交通機関も発達していませんから、少なくとも一週間以上は寝食を共に過ごしていたのでしょう。しかも、スコットランドには定期的に出かけていたようですから、百武がリチャードソンと友好な関係を築き、多くを学んでいたことがわかります。

■リチャードソン・ジュニアとは

 前回はリチャードソン・ジュニアがなぜ、《A Rocky Stream in Scotland》を描いたのか、考えてきました。別人が描いたのではないかと思えるほど、《A Rocky Stream in Scotland》の画面が異質だったからです。モチーフ自体に大きな変化はないのですが、それまでの画風とはまったく異なっていたのです。

 《A Rocky Stream in Scotland》を描く前と描いた後の作品を比較検討してみた結果、当時の美術批評家ラスキン(John Ruskin, 1819 – 1900)の指摘を気にして、この作品を描いたのではないかという結論に至りました。

 ラスキンは《Glen Nevis, Inverness-shire》(1857年)について、次のように評していました。

 「リチャードソンは、徐々に筆遣いが巧みになっており、コバルトとバーントシェンナを快く拮抗させている。しかし彼はいつも、高原の風景を、同じようなモチーフのさまざまな寄せ集めとしか考えていない。それらのモチーフとは、岩だらけの土手であり、ある場所では青く、別の場所では茶色で描かれているものだ。そして、よじれたスコットランドモミの木、シダ、犬、馬に乗っている人などである」(※ https://www.stephenongpin.com/object/790470/0/a-rocky-stream-in-scotland

 ラスキンは、筆遣いや色遣いについては評価していましたが、モチーフや構図については「同じようなモチーフをさまざまに寄せ集めて」描いているに過ぎないとして、難色を示していたのです。

 おそらく、このような指摘が気になって、リチャードソン・ジュニアは、《A Rocky Stream in Scotland》を描いたのではないかと私は推察しました。つまり、リチャードソン・ジュニアはラスキンの批評に発奮して、一生に一度、画風を全く変えてしまうという壮大な実験をしたのです。

 ところ、その後、リチャードソン・ジュニアはこのような画風の作品を描いておらず、これまで通り、同じような画題を同じような画風で描き続けています。革新的な画風に挑むこともなく、手練れの水彩画家として一定の社会的評価を得ており、それで満足していたように思えます。

 リチャードソン・ジュニアは西洋画の技法を確実に身につけ、ロマン主義的な作風の絵を描き続けました。おかげで当時の人々に好まれ、収入も得ることができました。新たな領域に挑戦することもなく、人々のニーズに合わせてひたすら絵を描き、それなりの社会的評価を得て、一生を終えました。

 はじめて油彩画を学ぶ百武兼行にとって、リチャードソン・ジュニアこそ、西洋画の基本技術を学ぶには恰好の師だったのではないかという気がします。(2023/11/30 香取淳子)