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02月

マクシミリアン・リュス ④ラニー派と呼ばれた頃

 カロリュス・デュランなど著名な画家の下で学ぶ一方、同輩との交流を通して、リュスは美術界の新しい潮流に触れていきました。ラニー=シュル=マルヌで生まれ、育ったゴーソンとの出会いは新しい潮流に乗るきっかけを作ってくれました。今回はラニー派と呼ばれた頃のリュスとその仲間たちの初期作品を見ていきたいと思います。

■ラニー=シュル=マルヌで生まれ、育ったゴーソン

 1876年頃、木版画家フロマンの仕事場でリュスは、風景画家レオ・ゴーソン(Léo Gausson, 1860-1944)や、エミール・ギュスターヴ・カヴァッロ・ペドゥッツィ(Émile-Gustave Cavallo-Péduzzi, 1851-1917)と出会います。彼らはやがて、親しく交流するようになりました。

 知り合った時、リュスが18歳、ゴーソンが16歳、ペドゥッツィが25歳でした。画家を目指す若者たちはたちまち意気投合し、折に触れ、絵画について語り合うようになっていきます。

 当時、ゴーソンはパリ郊外のラニー=シュル=マルヌに住んでいました。パリ中心部から26.1km離れた東部マルヌ県に位置し、マルヌ川が静かに流れているところです。彼はここで生まれ育ちました。

こちら → https://hrvwiki.net/Wikipedia_L%C3%A9o_Gausson

 ゴーソンのキャリアを見ると、まず国立装飾芸術学校の夜間教室に通い、彫刻を学んでいます。ところが、リュスと出会った頃にはすでに絵画に転向し、風景画を描くようになっていました。

 スペイン出身の地元の画家Antonio Cortes (1827-1908)から、バルビゾン派について聞いていたといいますから、彼が風景画を描くようになっていたのは、その影響を受けていたからかもしれません。

 バルビゾン派とは、フォンテンブローの森を中心に集まって制作していた画家たちの総称です。彼らは1830年代から1870年代にかけてフランスで活動し、自然主義的な観点から風景画を写実的に描くのが特徴でした。

 それまでは背景としか見なされてこなかった風景を、彼らはメインモチーフとして取り上げ、ありのままに描きました。そのような制作姿勢が当時、台頭してきた市民階級の共感を呼びました。バルビゾン派の登場に伴い、美術市場では風景画への需要が高まっていきました。

 ゴーソンが彫刻から風景画家に転向したのは当然のことだったのかもしれません。

 生まれ故郷であるラニー=シュル=マルヌにはマルヌ川が流れ、周辺には緑豊かな田園風景が広がっていました。画家たちが景色を鑑賞し、題材を探すには恰好の土地だったのです。

 当時はおそらく、人々の気持ちをほっと落ち着かせ、和ませる光景がいたるところに見られたのでしょう。現在も景観を保つために行政が枯れ葉の処理をし、それを腐葉土として再利用して緑の保護に取り組んでいます。

こちら → https://www.lagny-sur-marne.fr/cadre-de-vie/environnement/ville-verte/

 リュスは一時期、この地を訪れ、ゴードンやペドゥッツィらと共に過ごしたことがありました。

 リュスが最初に滞在したのは1876年ですが、その後も頻繁に、ラニー=シュル=マルヌを訪れていたようです。兵役から戻ってきてからは、1885年の夏と1887年の夏、ゴーソンに会いに来ています。

 1885年といえば、この時期、ゴーソンは自身の絵画に新たに科学的な技法を導入しようと考えており、その思いをしたためた長い手紙をエミール・ゾラに書いていました。

こちら → https://lagny-sur-marne.wiki/lsm/L%C3%A9o_Gausson

 一方のペドゥッツィは、1884年に初開催されたアンデパンダン展に出品した後、数年間は毎年、展覧会に出品しています。(※
https://lagny-sur-marne.wiki/lsm/%C3%89mile-Gustave_Cavallo-P%C3%A9duzzi )

 こうしてみると、ゴーソン、ペドゥッツィはいずれもこの時期、意欲に燃えて、新た強い画法に取り組もうとしていたことがわかります。

 そこにリュスが加わり、3人はともに周囲を散策してはモチーフとなるスポットを渉猟し、時には共通の関心事である風景画について語り合い、また、時には、新しい画法を議論して過ごしていました。

 1885年、彼ら3人にルシアン・ピサロ(Lucien Pissarro, 1863 – 1944)が加わり、4人はラニー派を結成しました(※ https://lagny-sur-marne.wiki/lsm/Groupe_de_Lagny)。

 ラニーの景色を題材に絵を描きながら、折に触れて、スーラ―が考案した新しい画法について議論し、その画法を試行していたのです。

 当時、彼らはどのような絵を描いていたのでしょうか。

 調べてみると、1885年に描かれたリュスとゴーソンの作品を見つけることができました。彼らがラニー=シュル=マルヌのどこに着目して制作したのかがわかります。それぞれ、見ていくことにしましょう。

●リュス制作、《ラニー周辺の風景》(1885年頃)

 のどかな田園風景が広がっています。リュスが1885年頃に描いた作品で、タイトルは《ラニー周辺の風景》です。

(油彩、カンヴァス、44×57.3㎝、1885年頃、ホテル・デュー美術館)

 手前に広がる草地に所々、黄色の花が咲いています。その上に穏やかな陽光が伸び、心和むような風景が広がっています。画面には右に大きな木、左側にはやや小さな木が立ち並び、画面全体のバランスがとてもよくレイアウトされています。

 草地の背後には赤褐色の屋根、白い壁の家が立ち並び、和やかに暮らす人々の生活を彷彿させます。家々の下には道路なのでしょうか、白い線が横に伸び、画面をバランスよく切り取っています。

 この作品に私は少し違和感を覚えてしまいましたが、それは、空が灰色がかった色で描かれていたからでした。

 大きな木、小さな木々に光が射し、草地にも明るい陽光が伸びています。これだけの太陽の光が射しているなら、空の色がこれほど暗いはずはないと思ったのです。家々の屋根といわず、壁といわず、明るい光が射し込み、白く光っています。その下の小道も同様です。

 それなのに、なぜ、空がこれほどまでに暗いのでしょうか・・・。いまにも雨が降って来そうなほどどんよりとした色合いにせいで画面の整合性が失われています。

 リュス自身、後年になって、そのことに気づいたのではないかと思います。

 1887年に友人のジョルジュ・タルディフ(Georges Tardif)に宛てた手紙の中で、この空の色について不満を記しているのです。(※ “Maximilien Luce et Léo Gausson”, Silvana, 2019, p.17.)

 はじめてラニーを訪れて以来、リュスは何度も出かけてはラニー周辺を散策し、画題となる場所を探していました。おそらく、陽光の中で輝く風景を捉えたかったからでしょう。

 この作品の木々や草地、家々の描かれ方と、空の色に対するリュスの不満からは、当時、彼が陽光の恵みを感じさせる明るさを求めていたことが感じられます。

 一方、ラニーで生まれ育ったゴーソンは同時期、マルヌ川を捉えた風景を描いています。

●ゴーソン制作、《ラニー、マルヌ川の洗濯船》(1885年)

 リュスの《ラニー周辺の風景》と同時期に描かれた作品です。ゴーソンが取り上げたのは、マルヌ川の橋げた近くの洗濯船でした。

(油彩、カンヴァス、46×65㎝、1885年、ガティエンボネ美術館)

 マルヌ川の対岸から、橋桁近くの洗濯船が捉えられています。画面の大半は、波打つマルヌ川の川面で占められています。

 興味深いのは、手前の岸辺の草が黄褐色で明るく輝き、その輝きが川の中ほどで、煌めく川面に呼応していることでした。これによって、左手前から中ほど中央へと観客の視線が誘導されます。

 さらにその先の対岸には、家々が建ち並び、その屋根や壁もまた、射し込む光によってひときわ明るく輝いています。雑草が風にそよぐ岸辺からマルヌ川を経て対岸の建物へと、降り注ぐ陽光によって、画面に統一感が生み出されています。そのせいか、この作品には、陽光がもたらす恵みへの憧れが感じられます。

 ところが、空はどんよりとし、岸辺や川面、家々の屋根や壁に落ちる明るい陽射しに呼応していません。この作品でも、空の色が不釣り合いに暗く、画面の整合性を失わせています。

 画面の下半分を占めるモチーフが、さまざまな形で太陽光を巧みに取り入れて表現されているのに反し、その光を発しているはずの空がアンバランスに思えるほど暗いのです。

 先ほどご紹介したリュスの作品も、空の色はどんよりとして暗く、違和感がありました。同時期に描かれたゴーソンの作品も同じように暗いということからは、ひょっとしたら、ラニー=シュル=マルヌの空自体、実際にこのような色だった可能性が考えられます。

 さて、この作品のタイトルは《ラニー、マルヌ川の洗濯船》です。うっかりすると、見落としてしまいそうですが、タイトルからは、ゴーソンが描いていたのは、マルヌ川の橋桁近くの洗濯船だったと思われます。

 確かに、橋桁近くの川辺に何かが見えます。ひょっとしたら、これが洗濯船なのかもしれませんが、よく見ても、すぐにはわからないほど、対岸の風景の中に沈み込んでしまっています。

 目を凝らして画面を見ると、屋根付きの船が対岸に何艘か、停泊しているのがわかります。はたしてこれが洗濯船なのかどうか、よくわかりません。そこで、調べてみると、1923年以前とされるマルヌ川の洗濯船を撮影した写真が見つかりました。

 写真撮影されているぐらいですから、当時、地元の人々にとっては馴染みの光景であり、生活風景の一つだったのでしょう。ラニー生まれのゴーソンにとってはとりわけ、欠かせない画題だったのかもしれません。

 洗濯船について、さらに調べてみると、動画が見つかりました。これを見ることで具体的にこの船の機能がわかり、当時の人々の生活の一端を知ることができました。

こちら → https://youtu.be/fZU1SPdIqPc

 1969年に撮影された映像です。川に停泊させた船の中から、中高年女性たちが腰をかがめて、川の水でごしごしと力を込めて洗っているのです。数多くの衣類を際限なく洗濯する女性たちの姿を見ていると、非常に辛い仕事であることがわかります。

 このような写真や映像を見た上で、改めてゴーソンの作品を見ると、彼がなぜ、この画題を選んだのかがわかるような気がしてきました。空がどんよりと描かれているのも、決して不自然ではなく、彼女たちの気持ちが反映されたもののように思えてきます。

 ゴーソンの作品を一見すると、単なる風景画にしか見えませんが、タイトルにこだわって、画面を見直してみると、実は、美しい風景の中に、過酷な労働の現場が捉えられていることに気づきます。

 この作品からは、ゴーソンが科学的な画法だけではなく、社会的課題についても関心を抱いていることが示唆されています。

 同時期にラニー=シュル=マルヌを描いたペドゥッツィの作品を、見つけることができませんでした。1888年頃に当地で描かれたと思われる《Les lavandières》を見つけることができましたので、ご紹介することにしましょう。

●ペドゥッツィ制作、《Les lavandières》(1888年頃)

 タイトルの“lavandière”は、洗濯女という意味です。この作品に何故、こんなタイトルが付けられているのか、すぐにはわかりませんでした。

(油彩、」カンヴァス、45.8×38㎝、1888年頃、所蔵先不詳)

 この作品を見て、まず、印象に残るのは、真正面に見える白い建物です。手前右から小さな道が小川を超えて伸び、遥か遠くの白い建物にまで続いています。まるで観客を誘導していくかのように、この小道は小川や周囲の草むら、そして、傾斜地に建つ建物の前の塀のようなものまで、案内しながら見せてくれます。

 画面中ほどには、葉を落として幹だけになった木々が数本、高く聳え立っている様子が描かれています。これらの木々はのどかなこの景観を縦に区切るだけではなく、その奥行きと広がり、高さを感じさせる一方、大きく広がる空の存在に気づかせてくれます。

 改めて空を見ると、淡い水色、ピンク、クリーム色で色構成されているのが印象的です。画面半分ほどの面積を占める空の下、たなびく雲の合間から射し込む陽光が、辺り一面を柔らかく、暖かく包み込んでいます。

 点描画法と淡いパステル調の色遣いで描かれた画面はなんともいえず優しく、見る者を穏やかな気持ちにさせてくれます。

 一見、風景画にしか見えませんが、タイトルは「洗濯女」です。不思議に思い、画面をよく見ると、左前景に蛇行する小川の縁で女性が洗濯している様子が描かれています。

 点描画法で描かれているので、気づきにくいですが、手で洗濯ものを掴み、川の水で洗っている女性の様子がわかります。

 そういえば、ゴーソンもまた、洗濯をテーマに、《ラニー、マルヌ川の洗濯船》を描いていました。当時、洗濯がどれほど大変な仕事だったのか、ゴーソンやペドゥッツィの作品からは、洗濯が女性に課せられた大変な労働の一つだったことがわかります。

 風景画の中にさり気なく、洗濯する女性を描いたゴーソンやペドゥッツィの制作姿勢に、彼らの社会観や芸術観、絵画に求める社会性が透けて見えてきます。

 それにしても、なんとユニークで興趣のある構図なのでしょう。

 高く伸びた木々が創り出す縦の線、建物群が建つ坂の左に下がる斜めの線、それに呼応するように、長い雲が右に垂れさがった斜めの線、この二つの斜線は画面をはみだした外側で交差していそうです。細い小道は「く」の字状に折れ曲がり、手前から奥に流れる小川は緩く蛇行し、柔らかい曲線を創り出しています。

 縦線や斜線、曲線がモチーフを繋ぎ、画面に奥行きと広がり、動きと活力をもたらしています。そればかりではありません。点描法による描き方とパステル調の色遣いが、風景の中にさり気なくモチーフを配置した構図と見事にマッチして相乗効果を上げ、画面から爽やかで快い雰囲気が醸し出されているのです。

 ゴーソン、リュス、ペドゥッツィ、ルシアン・ピサロがラニー派を結成したのが1885年、それからわずか3年で、この作品が点描法で描かれているのが興味深く、ペドゥッツィがこれ以前にどのような作品を描いているのかが気になって、調べてみました。

 すると、1880年にラニーの光景を描いたと思われる《Les toits de chaume》というペドゥッツィの作品を見つけることができました。

●ペドゥッツィ制作、《Les toits de chaume》(1880年制作)

 “Les toits de chaume”は、「藁ぶき屋根」という意味です。この作品も《Les lavandières》と同様、風景の中に人物を配置した作品です。

(油彩、カンヴァス、83.5×61.3㎝、1880年、所蔵先不明)

 ペドゥッツィは1880年に母を亡くし、7月に結婚して11月にはラニーに引っ越しています。(※ https://fr.wikipedia.org/wiki/%C3%89mile-Gustave_Cavallo-P%C3%A9duzzi

 ラニーに転居した頃に描かれているので、この作品はおそらく、ラニーの風景を描いたものでしょう。日が落ちる前の陽光が画面左に並ぶ藁ぶき屋根に反射しています。正面奥に見える石造りの建物から続く小道を女性が荷車を押して、こちらに向かってきています。

 この女性はペドゥッツィ母親の追憶の姿なのでしょうか、それとも、結婚したばかりの妻なのでしょうか。描かれた女性は荷車を押して何かを運んでいます。《Les lavandières》と同様、女性が働く姿が、風景の中に溶け込むように描かれています。

 藁ぶき屋根の家、周辺の草むら、背後の木々など、この作品のモチーフのほとんどが暗褐色、暗緑色がで描かれています。そのため、画面が暗く、一見、モチーフを識別しがたいのですが、屋根の縁、小道の際など、要所要所に明るい色がハイライトとして配されているので、画面の暗さはむしろこの作品を深める効果をもたらしています。

 1880年に描かれたこの作品には点描画法の片鱗も見えません。むしろクールベのような写実主義の作品に見えますし、ピサロのような印象派の作品にも見えます。ペドゥッツィはこの時期、まだ画風を確立していなかったのでしょう。

 ただ、風景の中に働く女性を配置するという点、淡いパステル調の色調の中に雲がどんよりと垂れこめている空が描かれ、その空の面積が画面のほぼ半分ほどを占めているという点など、1888年に描かれた《Les lavandières》と1880年に描かれた《Les toits de chaume》には共通性があります。

 これがおそらく、ペドゥッツィが好む画題なのでしょうし、画風なのでしょう。

 《Les toits de chaume》は夕刻の光景が情緒豊かに描き出されています。右の木の奥から淡い陽光が水平に射し込み、藁ぶきの屋根の傾斜部分を照らしています。荷車を押しながら帰路に就く女性を添えることで、残照に照らし出された農村の一光景が輝いて見えます。

 この作品が描かれたのが1880年、ペドゥッツィが29歳の時の作品です。このころはまだ印象派風の画風でした。リュスと出会って4年経っていますが、まだ点描画法の欠片も見えません。ところが、1888年の作品は明らかに点描画法で描かれています。

 ラニー派といわれる彼らはいったい、いつ頃、点描画法を取り入れるようになったのでしょうか。

 ちょうど1885年頃、ゴーソンらのグループに、カミーユ・ピサロとリュシアン・ピサロの親子が参加しました。カミーユ・ピサロ(Camille Pissarro, 1830-1903)は当時、ラニー派の画家たちに、自身が惹きつけられているスーラの理論と画法を説いていたといいます。

 それにしても、印象派の画家として名を成していたカミーユ・ピサロがなぜ、ゴーソンらのグループに参加したのでしょうか。(2022/2/28 香取淳子)