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12月

マクシミリアン・リュス ②カロリュス・デュランに学ぶ

■カロリュス・デュランの下で学ぶ

 リュスは木版画職人としての修業を終えると、木版工房で働きながら、画塾に通ったり、著名な画家のアトリエに出入りしたりし、独自に絵画を学んでいました。

 1876年になると、肖像画家カロリュス・デュラン(Carolus-Duran, 1837-1917)の下で学び始めます。当時、デュランは、パリの上流階級の人々を数多く描き、肖像画家として人気がありました。すでに数々の賞を受賞し、画家としても教育者としても評価されていました。1904年にはレジオンドヌール勲章を受勲するほどの大御所でした。

 そのデュランに師事し、リュスは油彩画の手ほどきを受けるようになります。きっかけとなったのはアカデミー・シュイスでした。そこで教えていたデュランと出会い、無給の学生として彼のアトリエに受け入れられることになったのです。(※ https://ago.ca/agoinsider/unconventional-impressionist

 デュランは若い頃、スペインに旅し、ベラスケス(Diego Rodríguez de Silva y Velázquez, 1599-1660)の作品から強く影響を受けたといわれています。

■ベラスケスの肖像画

 ベラスケスは17世紀のスペインを代表する画家です。国王フェリペ4世に気に入られ、宮廷画家として長年、国王や王女、宮廷の人々の肖像画を描いてきました。彼が、王女マルガリータ・テレーサを描いた一連の作品の一つに、《白い服の王女マルガリータ・テレーサの肖像(La infanta Margarita)》(1656年)があります。

(油彩、カンヴァス、105×88㎝、1656年、ウィーン美術史美術館)

 スペイン国王フェリペ4世の長女、マルガリータ・テレーサが5歳の時の肖像画です。ぷっと膨らんだ頬、緊張した口元、白く透き通るような肌、なんと愛くるしいのでしょう。やや不安げで、可憐な表情が生き生きと描き出されています。綺麗に梳かしつけられた金髪もまだ薄く、柔らかく、この時、マルガリータがわずか5歳でしかないことを思い起こさせてくれます。

 ところが、身に纏っているドレスには、銀糸で模様が刺繍された光沢のある布地が使われています。そして、首回り、襟、胸元、袖などには、金と黒の刺繍が施されており、人目を引きます。さらには、腰幅を広く見せるため、異様なほど大きなペチコーまで着用しています。

 まだ年端もいかない幼児なのに、成人女性と同じようなスタイルの衣装を着用しているのです。

 胸やラグランスリーブの端、袖口にはオレンジ色の花飾りが付けられています。おそらく、可愛らしさを演出するためでしょう。子供らしさを感じさせる要素はそれだけですが、この豪華な服を着せられたマルガリータは健気にも、姿勢正しくポーズを取っています。

 ひょっとしたら彼女はこの窮屈さを、王室に生まれた者の定めとして、我慢しなければならないものの一つとして、幼いながらも、受け入れていたのでしょうか。

 いま見れば、この衣装があまりにも豪華で、堅苦しく、儀式的なので、違和感を覚えてしまいますが、おそらく、これが当時のスペイン宮廷の様式だったのでしょう。

 王家の肖像画には、富みと権力を所有する者の証として、権威と威厳が備わっていなければなりませんでした。たとえ幼いマルガリータが対象だとしても、ベラスケスはそのための設定を避けることはできなかったのでしょう。

 ベラスケスが手掛けた肖像画には、権威、威厳、豪華、華麗、上品といった要素がふんだんに盛り込まれていました。写真技術がまだ発明されていなかった時代、肖像画こそが個人や家族のステイタスシンボルとして機能していたからでした。

 実際、肖像画は個人を確認する証明書としても、個人や家族の歴史を記録するアーカイブとしても有効でした。

 興味深いエピソードがあります。

 マルガリータが、神聖ローマ皇帝レオポルト1世と結婚する前のことです。それ以前から両者の婚姻は既定路線だったのですが、マルガリータが適齢期になると、スペイン宮廷はベラスケスに描かせた子供の頃の肖像画をいくつか、レオポルト1世に送ったそうです。遠路はるばる会いに行く危険を避けて、肖像画で代用したのです。(※ https://www.habsburger.net/en/chapter/leopold-i-marriage-and-family

 このエピソードからは、肖像画が、本人の確認あるいは、本人のアーカイブも兼ねて機能していたことがわかります。それだけに、肖像画に写実性は不可欠でした。

 ベラスケスはそのための油絵技法を長年にわたって錬磨し続けてきたのです。それを後世のマネやデュランが高く評価し、影響されました。

 それでは、ベラスケスの影響を受けたとされるデュランが、どのような肖像画を描いていたのか、見ていくことにしましょう。

■デュランの肖像画

 肖像画の中でも、「母と子」は重要な画題の一つでした。家族愛、家族の絆の象徴であり、上流階級にとっては、一族の繁栄を示すもの、あるいは、富の継承を示唆するものでもあったからです。デュランも、母と子の肖像画を描いています。

 たとえば、《母と子(フェドー夫人と子供たち)》(Mother and Children (Madame Feydeau and Her Children), という作品があります。

●《母と子(フェドー夫人と子供たち)》(1897年)

 この作品では、フェドー夫人とその子供たちが描かれています。当時、人気のあった劇作家、ジョルジュ・フェドー(Georges Feydeau, 1862-1921)の妻とその子供たちがモデルです。

(油彩、カンヴァス、190.5×127.8㎝、1897年、国立西洋美術館)

 二人の子供を抱きかかえたフェドー夫人が静かにこちらを見つめています。豪華な黒い衣装とネックレス、大きく開いた胸元に飾られた赤い花が彼女を引き立てています。華やかで上品、いかにも上流階級の女性といった面持ちです。

 膝に寄りかかって母を見上げている男の子は、白い襟飾りのついた黒の正装をしています。その横顔と白い襟以外は、母の黒いドレスに溶け込み、一体化しています。男の子の肩にそっと置かれた母の手に、慈愛が感じられます。

 一方、女の子は光沢のあるベージュ色の衣装を身につけています。襟元には同系色の凝った刺繍が施されており、なんとも豪華なドレスです。これも正装なのでしょう。左手に大きな淡い橙色のバラを持ち、右手を母の膝に置いて、寄りかかるように立っています。母の左手と女の子の右手が触れ合っており、二人の愛情が通い合っているのが感じられます。

 もっとも、女の子の表情はぎこちなく、やや不自然に見えます。この絵のためにポーズを取っているからでしょうか、緊張している様子が感じられます。この作品が日常的な光景を捉えたものではなく、輝かしい瞬間を記録に残そうとする意図の下に、描かれているからでしょう。

 確かに、この作品は家族の肖像画としては完璧でした。

 画面からはまず、家族の絆、愛が感じられます。そして、上品、安定、厳粛さのようなものも感じられます。依頼者が肖像画に求めたであろうものが、過不足なく盛り込まれているのです。

 母と子供たちの配置、色彩バランスなどを考え、じっくりと時間をかけて構想されたのでしょう。だからこそ、画家が企図した通りのメッセージが画面からは伝わってくるのです。この作品を見ていると、デュランが肖像画家として人気を博していた理由がわかるような気がします。

 それでは、構図と色彩の面から、この作品を見ていくことにしましょう。

●人物の配置と構図

 まず、母と子供たちとの関係を、所作の面からみていきましょう。

 男の子は母の膝に身を置き、上目遣いに見上げています。母の手は男の子の背に置かれており、互いの信頼と愛が感じられます。一方、女の子は母を見ているわけではありませんが、身体をぴったりと母に寄せ、傍に立っています。手の甲を母の手に触れ、緊張感をやわらげている様子が見て取れます。

 所作の面から、母と子供たちとの関係を見ると、男の子も女の子も母に身を寄せ、安心感を得ている様子です。一方、母は、左右の手を使って、安心させるように、子供たちの身体に触れています。保護し、保護される関係が母と子供たちの所作から描き出されています。

 次に、配置の面から母と子の関係を見てみましょう。

 この作品を見て、まず目に入ってくるのは、やや首を傾げた母の顔です。その母を頂点に、寄りかかる男の子の姿勢が、母の身体の傾きに呼応しています。母の頭と男の子の頭を繋ぐラインは、ちょうど、画面の右上から左下に走る対角線と重なり、母を頂点とする三角形の斜辺になっています。

 一方、女の子はすっくと立ち、頭を母の方にやや傾けています。その姿勢は、背筋を伸ばしながらも、頭だけを右に傾けた母の姿勢に呼応しています。こうして母と女の子は近づき、二人の頭を繋ぐラインは、肩まで伸びる髪の毛、膨らみのあるパフスリーブへと続き、これもまた、母を頂点とする三角形の斜辺になっています。

 これら二つの斜辺をつなぐと、三角形になります。わかりやすく赤線で図示すると、次のようになります。

 こうしてみると、改めて、この3人の頭が母を頂点とする三角形になるよう配置されていることがわかります。しかも、ほぼ正三角形です。もっとも安定感のある構図が導入されているのです。

 さらに、母の頭を頂点に、男の子の頭が底辺の左底角、女の子の頭が右斜辺の真ん中に位置づけられています。女の子の方が年上で、男の子が年下であるという序列まで示されているのです。

 そして、母と子供たちは、互いに顔を近づけるような姿勢で描かれており、母と子の親密さが表現されています。それぞれの顔の傾き、あるいは視線の方向から、相互の愛情と信頼が表されていることがわかります。

 それでは、色彩の面から、何を読み取ることができるのでしょうか。

●色彩

 床と背景を覆っているのは、焦げ茶色をベースとしたベルベットのような風合いの生地に見えます。画面の半分以上がこの色彩とテクスチャで占められているので、上品で、しかも、落ち着いた印象があります。

 さらに、母と男の子は黒の正装、女の子は光沢のある、やや明るいベージュ色の正装をしています。背景色を除くと、黒の面積が大きく、それ以外は光沢のあるベージュ色です。そのせいか、画面全体に厳粛さと威厳、上品さと落ち着きが醸し出されています。

 ベージュ色のドレスに目を向けると、女の子が手にした淡い橙色のバラの花が、不自然なほど下方に描かれているのが気になります。しかも、この花が大きすぎるのです。否応なく、観客の目は下方に誘導されます。

 そうすると、バラの花弁がいくつか、その下の床に散っているのに気づきます。こうして、さり気なく豪華さが演出され、しかも、画面にちょっとした動きが生み出されているのです。

 そこから見上げた位置に赤いバラが描かれ、大きく開いた母の胸元を飾っています。女の子のドレスに置かれたバラからはやや斜めのライン上にあります。二つの花はそれぞれの衣装を引き立て、彼女たちの存在感を高めています。

 さらに、これら二つの花を結んだラインは、母と娘の頭を結んだラインと並行しています。それぞれのラインを水色で図示すると、次のようになります。

 こうしてみると、二つの花を結ぶラインは、母と娘の髪の毛を結ぶラインとほぼ2倍の長さで、平行に描かれていることがわかります。しかも、その起点はいずれも、母と息子の頭を結ぶ左上から右下への対角線上にあります。

 二つのラインは、母と娘の親密さを示すとともに、二人の関係を支える構造的なラインとしても機能しているのです。

 こうしてみてくると、いずれのラインも母と子供たちを巡る、保護―非保護の関係が示されており、強い家族の絆が表現されていることがわかります。

 興味深いのは、男の子が黒い服を着て、母のドレスの中に溶け込んでいるのに対し、女の子はベージュ色のドレスを着て、黒い服の母とは分離した存在であることが示されていることです。

 この色遣いには、母と男の子の関係、母と女の子の関係が示されているように見えます。年少で、いまだに母に依存している男の子に対し、年長で、母から自立しはじめている時期の女の子という、依存関係の強弱が示されているようにみえます。

 もっとも、母と娘が身につけている花に着目すれば、別の側面が見えてきます。

 その母の胸元を飾っている赤い花が情熱を示すとすれば、女の子が手にしたごく淡い橙色の花は穏やかな従順さを示しています。つまり、デュランは、たとえ色彩で分離されていても、母は情熱を持って娘を庇護し、娘は従順に母に従うという母と娘の関係を、構図と色彩から表現していると考えられるのです。

 こうしてみてくると、デュランが、構図の面からも色彩の面からも明確なコンセプトの下、この母と子供たちの関係を表現していたことがわかります。

 デュランは、厳粛さ、上品さ、豊かさ、華麗さなどの要素を組み込んだ上で、家族の愛、家族の絆を画面に描き出していたのです。依頼者はおそらく、この作品の出来栄えに納得し、感謝したに違いありません。

 この作品を見ていると、肖像画家としてのデュランの人気が定着していった理由がよくわかります。

 宮廷画家ベラスケスからデュランが得たものの一つは、写実性を踏まえた上で、依頼者が求める理念、あるいは概念を画面に組み込むことでした。

■デュランの肖像画に見るベラスケスの影響

 写実的で、しかも、筆触の妙を効かせたベラスケスの油彩画技法は、当時、マネ(Édouard Manet, 1832-1883)から、高く評価されていました。近代美術の父といわれるマネが、「画家の中の画家」だと絶賛していたのです。

 ベラスケスを高く評価し、その影響を受けていたのは、マネばかりではありませんでした。デュランもまた、ベラスケスの影響を強く受け、写実的で古典的な肖像画を数多く描いてきました。

 とくに、上流階級の人々を描くことでは定評がありました。リュスが育った環境では、決して出会うことのない人々でした。彼らは当然、庶民とは服装も違えば、所作も異なります。

 デュランが参考にしたのは、ベラスケスの肖像画でした。宮廷画家として活躍したベラスケスの諸作品から、服装や調度品、所作などを参考にしたのです。

 たとえば、《ウィリアム・アスター夫人(Mrs. William Astor)》(油彩、カンヴァス、212.1×107.3㎝、メトロポリタン美術館)という作品があります。デュランが1890年に描いたもので、この時の衣装とポーズは17世紀の肖像画家ベラスケスを参考にしたと記されています。(※ https://www.metmuseum.org/art/collection/search/435849

 実際、デュランの肖像画をいくつか見てみましたが、モデルはいずれも正装をし、ポーズを決めた姿勢で描かれていました。おそらく、宮廷画家ベラスケスを参考に肖像画を描いていたからでしょう。どの画面からも、華麗で厳か、富みと繁栄を感じさせる要素が強く、醸し出されていました。

 デュランが描く肖像画を見ていると、肖像画が社会的ステイタスを示す価値を持っていた時代の名残が感じられます。

 デュランが肖像画家として人気を博するようになったのは1868年以降です。先ほどのメトロポリタン美術館の説明では、1890年には肖像画家として絶頂期を極めていたとされています。その30年弱の間、フランスは大きな社会変動に見舞われています。

 とくに、1871年3月26日から5月28日にかけてのパリ・コミューンは画家たちにとっても大きな出来事でした。ところが、そのパリ・コミューンを経てもなお、上流階級にとっては肖像画が必要だったのです。

 さて、人気のある肖像画家として活躍していた1876年、デュランは一風変わった肖像画を描いています。自分の母親を描いた作品です。

 デュランの肖像画をいくつも見てきましたが、この肖像画は異質でした。

■デュラン、母親の肖像画を描く

 肖像画家デュランにしては珍しく、モデルを見たまま、ありのままに描いています。

●《母の肖像》(Portrait de ma mère)1876年

 1876年、ちょうどリュスがデュランのアトリエで学び始めた年、デュランは母親を描いています。作品タイトルは、《母の肖像》(Portrait de ma mère)です。

(油彩、カンヴァス、サイズ不詳、1876年、オルセー美術館がサントクロワ美術館に寄託)

 暗い背景の中から顔面だけが浮き出るように、高齢女性が描かれています。静かで穏やかに観客を見つめています。その透徹した視線には高邁な精神が感じられます。

 悟りの境地に達しているからでしょうか。何事にも動じることなく、凛とした姿勢で、老いと孤独に、静かに向き合う高齢女性の姿が心に残ります。

 さっと描いたように見える中に、端的に対象の本質が捉えられていました。冷静な観察力が強く感じられる作品です。

 おそらく、コンセプトを練り上げることもなく、時間もかけずに制作したのでしょう。カンヴァスに向かったデュランが、老いた母親を美化しようとせず、ありのままに描いていたことがわかります。

 ありのままとはいっても、髪の毛や帽子、首回りで結ばれたリボンなどの描き方を見ると、決して写実的に描かれているとはいえません。どちらかといえば、雑なのです。ところが、不思議なことに、むしろその方が、リアルに捉えられた視線と口元の表情が強調されて見えます。

 描き方に粗と密の部分を創り出すことによって、老いた母親の本質を冷静に捉え、含蓄のある作品に仕上がっているのです。

 キュレーターのアニー・スコッツ-デヴァンブレシー(Annie Scottez- De Wambrechies)は、人生の荒波を超えて生きてきた母親の個性がしっかりと描かれているとデュランの表現力を評価しています。ジェリコー(Théodore Géricault, 1791-1824)やマネ(Édouard Manet, 1832-1883)と並ぶ表現力の持ち主だといっているのです。(※https://www.latribunedelart.com/carolus-duran-une-superbe-sensation-d-art-un-poeme-de-labeur

 リュスは1876年、デュランのアトリエで働くようになります。そこで、デュランが手掛けるさまざまな肖像画を目にしてきました。それらの肖像画を見て、感じること、考えさせられること、多々あったと思いますが、リュスがもっとも刺激を受けたのが、《母の肖像》でした。

■リュス、おばさんの肖像画を描く

 デュランの《母の肖像》の制作過程をつぶさに見てきたリュスは、1980年、おばさんの肖像画を描きました。デュランと同様の画法で描いたといわれています。(※ “Léo Gausson Maximilien Luce,Pionniers du néo-impressionnisme”, Silvana, 2019)

 《オクタヴィアおばさんの肖像》は、リュスがデュランから何を学んだのかを示唆する重要な作品といえます。

●《オクタヴィアおばさんの肖像》(1880年)

 デュランが《母の肖像》を描いたのと同様の画法で描いたとされるのが、リュスの《オクタヴィアおばさんの肖像》です。

(油彩、カンヴァス、77.9×66.7㎝、1880年、ホテル・デュー美術館所蔵)

 高齢女性が両手を前で組み、こちらを見ています。老いてはいますが、肌艶がよく、とても元気そうです。顔の表情がリアルに表現されています。

 額に刻まれた深い皺、眉間から鼻先までの鼻梁の肉付き、鼻翼から伸びるほうれい線、すぼめた口元など、老化によって起きる顔面の変化が的確に捉えられています。

 図録では、リュスが光と影に留意して顔面の表情をリアルに描いたのは、デュランが母親の肖像を描いた時に使ったのと同じ手法を取ったからだと書かれています。(※ “Léo Gausson Maximilien Luce,Pionniers du néo-impressionnisme”, p.14. Silvana, 2019)

 果たして、そうでしょうか。

 確かに、この作品では、光が当たったところと影になった部分とが丁寧に描き分けられ、眉間の縦皺、額に波打つ横皺、目の下のたるみなどがとても写実的に描かれています。

 顔面の骨格を踏まえ、鼻先、たるんだ頬の縁、目の下や目尻などにわずかながら赤味が添えられています。老いに伴う皮膚の変化が的確に表現されているのです。

 光と影、明と暗を使い分けて、顔の質感、量感を表現しているところには、ルネサンス以来の写実性が感じられます。つまり、この作品には、デュランが影響を受けたといわれるベラスケスに繋がる写実性が見受けられるのです。

 実際、この作品を見ていると、オクタヴィア小母さんを目の前にしているかのような錯覚に襲われます。それほど、リアルに、生き生きと描かれています。

 とはいえ、デュランの《母の肖像》と比べると、何かが足りないのです。それが一体、何なのか、二つの作品を比較してみる必要があるでしょう。(2021/12/29 香取淳子)

マクシミリアン・リュス ① 木版画職人から画家へ

■「スイス プチ・パレ美術館展」で出会った、リュスの二つの作品

 2021年11月5日、滋賀県の佐川美術館で開催されていた「スイス プチ・パレ美術館展」に行ってきました。展示作品は、
スイス プチ・パレ美術館展 が所蔵する65点で、いずれも創設者オスカー・ゲーズ(Oscar Ghez, 1905-1998)のコレクションです。

 息子のクロード・ゲーズ(Claude Ghez)氏は図録の冒頭で、父は不当に過小評価されている画家たちの作品を対象に収集していたと記しています。自身の審美眼を信じ、評論家に取り上げられず、美術史からも見落とされがちな画家たちに光を当てようとしていたというのです。そのせいで、いくつかの美術雑誌からは長い間、批判され続けていたそうです。(※ 図録『スイス プチ・パレ美術館展』イントロダクション)

 たしかに、会場に展示されていたのは、ルノワールの作品以外、これまでに見たことのない作品ばかりでした。

 オスカー・ゲーズはコレクションを始めた当初、ユトリロやボッティーニなどモンパルナスとベル・エポックの画家を好んでいました。その後、新印象派とポスト印象派のコレクション、フォーヴィスムへと関心が移り、コレクションの幅が広がっていったといいます。実業家であったオスカー・ゲーズは、次のような方針の下、収集を進めていたようです。要約すれば、①作品購入費の基準を設定し、同じ作家の作品を購入し続ける、②抽象芸術は避ける、というものでした。(※ 前掲。)

 その結果、収集されたのは、オスカー・ゲーズの審美眼に適い、購入することができた19世紀末から20世紀初頭にかけての作品ばかりでした。そして、1965年、彼はジュネーブの旧市街近くに建てられた邸宅を購入し、内装を改修してプチ・パレ美術館を創設しました。1968年のことでした。

ジュネーブ プチ・パレ美術館

 第二帝政時代の古典主義様式の建物です。見るからに優雅な佇まいが印象的です。

 ここに、19世紀末から20世紀初頭にかけて、パリで醸成された美術の潮流を表現したコレクションが、展示されているのです。建物といい、コレクションといい、まさに20世紀に向けたパリの夜明けを象徴する美術館だといえます。

 こうして自身の美術館を創設したオスカー・ゲーズは、不当に過小評価されていると思っていたコレクションを次々と、一般公開していったのです。

 さて、展示作品の中で、もっとも印象深かったのが、マクシミリアン・リュス(Maximilien Luce, 1858-1941)の《若い女の肖像》(Portrait de jeune femme)です。多くの作品が展示されている会場で、この作品を見た瞬間、惹きつけられてしまいました。1893年に制作されたこの作品は斬新で、小ぶりながら、私にはひときわ輝いて見えました。

(油彩、カンヴァス、55×46㎝、1893年、スイス プチ・パレ美術館)

 若い女性がまばゆい太陽の光を浴びて、こちらを眺めています。かつて見た映画の一シーンのように思え、どこか懐かしい気持ちにさせられました。

 もちろん、初めて見る作品でした。これを描いたマクシミリアン・リュスが、どのような経歴の画家なのかも知りません。画風からわかるのは、ただ、スーラやシニャックの影響を受けているのではないかということだけでした。

 何故、そう思ったのかといえば、境界線や輪郭線を使わずに、さまざまな色を載せた斑点のようなもので、モチーフが造形されていたからです。もっとも、だからといって、はっきりとスーラやシニャックの影響を受けているともいいきれません。

 というのも、確かに、斑点のようなもので、画面全体が構成されているのですが、それは、私が知っているスーラやシニャックなどの作品で見られた点とは明らかに異なっていました。この作品で使われていたのは、粒の揃った小さな点ではなく、大きく、しかも、不揃いでした。

 茫漠とした形状の捉え方に、スーラやシニャックの緻密さは見られませんが、モチーフのエッセンスは見事に捉えられています。しかも、眩いような光と若い女性の輝きが情感たっぷりに表現されているのです。

 何とも不思議な作品でした。

 会場には、リュスの作品としてもう一つ、風景画が展示されていました。タイトルは、《La Meuse à Feynor》(フェイノールのムーズ川)です。

(油彩、カンヴァス、60×73㎝、1909年、スイスプチ・パレ美術館)

 夕暮れ前のムーズ川の光景が、色彩バランスとタッチの妙を効かせ、情緒豊かに捉えられています。1909年に制作されたこの作品には、《若い女の肖像》とは違って、どちらかといえば、印象派の趣がありました。

 果たして、リュスはどのような画家だったのでしょうか。

 会場で作品を見てからというもの、気になって仕方がありません。わずか2点しか展示されていなかったというのに、画風がまるで異なっていました。しかも、どちらも、自由でのびのびとした筆遣い、色の使い方、対象の捉え方、そのどれもが魅力的でした。

 帰宅してから、さっそく調べてみました。ところが、リュスの経歴に関する記述としては、Wikipediaぐらいしか見当たりません。それ以外に入手できるものとしては、図録に掲載された作品を紹介する記事の中で、断片的に紹介されている情報ぐらいでした。

 リュスについて日本で得られる情報は、予想外に少なかったのです。展示作品から強い印象を受けていたせいか、意外でした。

 とはいえ、Wikipediaからは、リュスが木版画職人として修業を積んでいたこと、ゴブラン織りの工場で働いていたことなどがわかっています。

 そこで、今回は、リュスの経歴を追いながら、木版画職人がどのようにして画家になっていったのかを考えてみたいと思います。

■マクシミリアン・リュス(Maximilien Luce, 1858-1941)

 1858年3月13日、パリのモンパルナスで、リュスは誕生しました。父は鉄道員、母は店員でした。彼は労働者階級の子どもとして生まれ育ったのです。生計を立てるための労働をせずに、画家として生きていけるような出自ではありませんでした。

 リュスは、14歳(1872年)から3年間、木版画職人として修業しています。生活の資を得るため、木版画職人になる道を選択していたのです。おそらく、子どもの頃から絵が好きだったのでしょう。見習いとして働きながら、夜は工芸学校で絵画を学んでいました。リュスが油彩画を始めたのはその時でした。

 修業を終えると、1876年には、版画家のウジェーヌ・フロマン(Eugène Froment, 1844-1926)の工房で働き始めました。元々、絵心があったのでしょう、リュスは、時を経ず、挿し絵入り新聞「イリュストラシオン」や「The  Graphic」などの挿し絵として使う木版画を制作するようになっていきました。

 商業誌のための挿絵を制作していた経験を通して、画力が鍛えられただけではなく、市場ニーズをくみ取るセンスも涵養されていた可能性があります。19世紀末から20世紀初頭にかけて、大きく変貌を遂げていった美術界の潮流に乗って、リュスは画家としての地位を確立していたようにも思えます。

■版画修業をしながら、絵画を学ぶ

 リュスは仕事として木版画を制作する傍ら、アカデミー・シュイス(Académie Suisse)に通って特別コースを受講していました。

 アカデミー・シュイスは、1815年にパリのシテ島、オルフェーヴル通りに開校された私立の画塾です。授業料が安かったので、貧しい画学生でも、モデルを使った授業を受けることができました。その後、グランド・シュミエール通りに移転し、アカデミー・コラロッシに改名しました。ここで学んだ画家には、カミーユ・コロー、オノレ・ドーミエ、ギュスターヴ・クールベなどがいます。

 リュスは、肖像画家カロリュス・デュラン(Carolus-Duran, 1837-1917)のアトリエで学んでいましたが、デュランも、1859年から1861年まで、アカデミー・シュイスで学んでいました。当時、有為の若手画家が学ぶ画塾だったようです。

 このような来歴をみてくると、リュスが木版画職人にとどまらず、画家に必要とされるさまざまな技量を身に着ける努力を怠らなかったことがわかります。

 ちょうどその頃、制作したのが、《モンルージュの広い庭》です。

(油彩、カンヴァス、43×37、1876年頃、個人蔵)

 まだ18歳ごろの作品ですが、明と暗、そして、暖色と寒色のコントラストが強く、非常に印象的です。

 陽光に照らされた明るい小道が、手前から奥へと観客を誘導するように伸びています。小道は途中で、葉の茂みに中に消えてしまい、その代わりに目につくのが、明るい陽射しを受けた建物の一部です。

 こんもりと茂った林の向こう側に、聳えるように建物が立っています。観客は、暗い木々の茂みのちょっとした隙間から、覗き見るような恰好で、その建物と向き合うことになります。とても興味深い構図です。

 遠近法を踏まえ、明暗を際立たせた構図で描かれているせいか、単なる風景画に収まらない物語性を感じさせられます。

 荒い筆触と、陽光が生み出すドラマティックな画面構成からは、印象派の影響を受けているようにも見えます。なんとも妙味のある作品でした。

 ちょうど、その頃、リュスは、画家マイヤール(Diogène Ulysse Napoléon Maillart, 1840-1926)から勧められ、ゴブラン国立織物製作所の入学試験を受け、合格しました。当時、肖像画家マイヤールからも指導を受けていたのです。

 マイヤールの経歴を見ると、パリの国立高等装飾学校で教育を受けた後、国立高等美術学校(通称:École des Beaux-Arts)のレオン・コニエ教室で学んでいます。1648年に設立された王立絵画彫刻アカデミーの後継だとされています。多くの著名な画家を排出しています

 1864年に23歳でローマ賞を受賞してローマに留学し、1869年に帰国して以来50年間、国立ゴブラン織物製作所で絵画の教授を務めました。1885年にはレジオンドヌール勲章を受勲しており、肖像画家として多数の作品を残しています。(※ https://fr.wikipedia.org/wiki/Diog%C3%A8ne_Maillart

 このゴブラン国立織物製作所で、リュスは、シュヴルールの色彩理論に触れることになりました。

■シュヴルールの色彩理論との出会い

 W. B. アシュアワース氏は、次のように、シュヴルールが色彩理論を構築した経緯を、次のように説明しています。

 化学者のシュヴルール(Michel-Eugène Chevreul, 1789-1889)は、1824年、ゴブラン国立織物製作所の工場長になりました。そこで、色彩の研究をするとともに、染色の苦情にも応対していました。

 なぜ、染色にムラが生じるのか、彼は、ゴブラン織物の製造過程をつぶさに調べました。その結果、色ムラは染色の問題ではなく、色の組み合わせによるものではないかということに気づきました。パターンの色と背景になる地色との間に、同時対比によって色の見え方に違いが生じることを突き止めたのです。

 そこで、シュヴルールは、色の組み合わせについて実験を繰り返し、色の対比と調和について研究しました。1839年には、『色彩の同時対比の法則とこの法則に基づく配色について』を著しています。色彩を「類似色の調和」と「対比色の調和」の2種類に分類し、独自の色彩理論を構築したのです。シュヴルールは、光の混合と色彩の混合とは全く異なると指摘しています。(※ Dr. William B. Ashworth, Jr.:https://www.lindahall.org/michel-chevreul/

 リュスは、国立ゴブラン織物製作所に在籍することができたおかげで、シュヴルール色彩理論の手ほどきを受け、実践しながら、色彩について考える機会を得ていたのです。

 ゴブラン織りは、敷物やバッグなどの日用品だけではなく、鑑賞用のタピストリーも製作されていました。タピストリーの中には、まるで絵画のようにリアリティがあり、情感に富んだものもあります。

 例えば、《チュイルリー公園からのトルコ大使の退場》という作品があります。

(ゴブラン織り、サイズ不詳、1734-37年、ルフェーブルとモメルク工房)

 馬に乗った多数の人々が巨大な広場に集っています。手前の人々の顔がそれぞれ描き分けられており、出発前の慌ただしさが、さらっと表現されています。タイトルからすれば、これがチュイルリー公園なのでしょう。遥か遠方に、パンテオンのドームが見えます。

 さまざまな種類の色糸を使って、モチーフが織り上げられています。当時の様子がありありと目に浮かびます。絵具で表現するのとまったく遜色のない、リアリティのある絵柄に圧倒されてしまいました。この作品を見るだけでも、ゴブラン織りの職人がいかに色彩に敏感でなければ務まらないかがわかります。

 リュスが国立ゴブラン織物製作所に在籍した以前から、光と色彩に敏感な画家たちは、種々の色彩理論に注目しはじめていました。

 たとえば、シャルル・ブラン(Charles Blanc, 1813-1882)の『デッサン諸芸術の文法』(1867年)、アメリカ人物理学者オグデン・ルード(Ogden Nicholas Rood, 1831-1902)の『近代色彩論:芸術および工業への応用』(1881年にフランス語に翻訳)、シュヴルール(Michel-Eugène Chevreul, 1786-1889)の『色彩の同時対照の法則』(1839年)などです。

■色彩理論を手掛かりに

 当時、光と色彩に敏感な画家たちが、色彩理論に注目するようになっていました。押し出しチューブ式油絵具が発明されて以来、アトリエを出て、戸外で絵を描く画家が増えつつありました。

 1841年、イギリス在住のアメリカ人画家ジョン・G・ランド(John Goffe Rand, 1801-1873)が、錫製の押し出しチューブ式油絵具を発明しました。その後、彼はキャップの部分をねじ式に改良し、さらに使いやすくなりました。

 チューブ式油絵具のおかげで、画家たちはアトリエから戸外に出て描くようになり、自然がもたらす美しさに気づくようになっていたのです。

 色彩と光を意識して作品を制作していたルノワールは、「チューブ式絵具がなければ、印象派は生まれなかった」と語っていたほどでした。(※ https://en.wikipedia.org/wiki/John_G._Rand

 印象派の画家たちは、葉陰から洩れる太陽の陽射し、陽光に照らされて、きらきらと輝く水面等々、そのようなものの中に、美しさを見出しました。アトリエにこもって描いていただけでは、決して発見できなかった自然の美でした。

 もちろん、画家たちは輝く陽光や、照らし出された木々や水面の明るさを、画布上で表現しようとしました。ところが、混色を重ねると、次第に、暗く、くすんだ色になってしまいます。彼らが求めた瞬間の輝きを捉え、表現することはできませんでした。

 見たままの色彩を創り出しながらも、明るく、輝くような画面を創り出すにはどうすればいいのか、画家たちは色彩理論を手掛かりに、模索せざるをえなかったのです。

 押し出しチューブ式油絵具が開発され、画家たちが戸外で容易に絵を描けるようになったからこそ、発見できたのが、揺らぎ、輝く、自然の美でした。それを表現するための画法を模索していた画家たちが拠り所にしたのが、色彩理論でした。19世紀の科学技術の発達によって手にすることが出来た画材であり、色彩の理論でした。

 こうしてみてくると、リュスは、画家として正規の道を歩んでいませんでしたが、十代の頃から、物の形をいかに捉えるか、色彩の仕組みを知り、それをどう組み合わせ、画面に反映させていくかについて学ぶ機会があったことがわかります。

■十代で身につけた画家としての技量と知識

 労働者階級の子どもとして生まれたリュスは、生活の資を得るため、まずは木版画職人を目指しました。当時はまだ、挿し絵のための木版画職人に需要があったからです。14歳から3年間、そのための修業をしますが、夜は工芸学校に通い、油彩画を学んでいました。

 修了後は版画家フロマン工房で働きながら、アカデミー・シュイスに通い、さらには、美術アカデミーの会員であった肖像画家カロリュス・デュラン(Carolus-Duran, 1837-1917)のアトリエでも学んでいました。1876年のことでした。

 すでに大きな評価を得ていた画家たちから、リュスは貪欲に、描くことについての技量と知識を吸収していったのです。

 ディオジェーヌ・マイヤールはローマ賞を得てローマに留学(1864-1869)し、カロリュス・デュランはリール市の絵画コンクールで受賞し留学資格を得て、イタリアに留学(1862-1864)しています。

 興味深いことに、両者はほぼ同時期に、イタリアに渡って絵画を学んでいるのです。しかも、共に、肖像画を数多く残していますが、いずれも自然主義的な写実主義といえる画風です。イタリアルネサンスに特徴づけられた傾向を引いていることは明らかでした。

 さらに、両者は、レジオンドヌール勲章を受勲しています。ディオジェーヌ・マイヤールは1885年、カロリュス・デュランは1905年です。いずれも、絵画領域で大きな功績を挙げたことが評価され、受勲したのです。

 このようにしてリュスは、十代の多感な頃に、すでに大きな社会的評価を得ていた画家たちの知己を得ていたのです。彼らから、それぞれの画論や画法を学ぶことはいうまでもありません。

 さらに、フロマンの工房では、同世代の風景画家レオ・ゴーソンや、点描画家のエミール・ギュスターヴ・カヴァッロ・ペドゥッツィと出会い、親しく交わるようになっていました。

 ゴブラン織物製作所で実践していたシュヴルールの色彩理論が、スーラの絵画理論に応用されていたことは、彼らから知らされたのです。絵画についての議論が弾み、やがて、共に過ごし、その理論を実践して絵画制作をするようになります。

 当時、木版画職人でしかなかったリュスですが、さまざまな有為の画家たちと出会い、交流し、アドバイスを得てきました。出会いを求め、そのような場所に積極的に出かけていたからでしょう。そして、出会った後、交流が続いたのは、リュスが、画家としての可能性を周囲に感じさせていたからでしょう。

■木版画職人から、画家への道

 実際、リュスには画才があったのでしょう。それはまず、木版画で発揮されました。見習い期間が終わったばかりの若輩ながら、フロマンについてロンドンまで出かけ、当地で木版画を制作して、披露したこともあったのです。

 木版画の修業を終え、軍隊に入るまでのリュスは、木版画職人として働きながらも、絵画に関する技量や知識を極めるため、努力を怠りませんでした。その真摯な姿勢は周囲の人々に快く受け入れられ、交流の幅が広がりました。

 そのような画家たちとの交流の中で才能が豊かに育まれ、徐々に、その才能が周囲に認知されていくことになります。フロマンの工房で働いている間、リュスは着実に、画家としての実力を蓄えていきました。

 その後、1879年から4年間、リュスは兵役に従事しました。ところが、任務を終えた1883年、習得してきた木版画技術がすでに時代遅れになっていることを知ります。リトグラフが主流になりつつあったのです。

 18世紀末に発明されたリトグラフは、19世紀半ば以降、急速に普及していきました。描写したものをそのまま紙に刷ることができ、多色刷りができます。しかも、版を重ねるにつれ、独特の艶のある質感を出すことができますから、リトグラフの普及に拍車がかかったのは当然のことでした。

 リトグラフは、水と油の反発作用を利用した版画なので、製作過程は複雑で、時間もかかりますが、木版画よりも多様で深みのある表現が可能でした。印刷物の需要が高まるにつれ、リトグラフが木版画に取って代わるようになっていたのです。リュスが兵役を終えてパリに戻って来た頃、挿し絵用の木版画職人は必要とされなくなりつつありました。

 たとえば、ドイツ人画家アレクサンダー・ドゥンカー(Alexander Duncker, 1813-1897)が描いた、《1883年のボレク》(Borek (Borkau) in 1883)という作品があります。

(リトグラフ、サイズ不詳、1883年、所蔵先不詳)

 これは、リトグラフで描かれた作品の一例ですが、古典派の作品を想起させる表現方法です。色彩といい、テクスチャといい、タッチの効果といい、この画面を見るだけでも、リトグラフが表現手段として木版画よりはるかに優れていることは明らかです。

 当時、ロートレック(Henri Marie Raymond de Toulouse-Lautrec-Monfa, 1864-1901)やミュシャ(Alfons Maria Mucha, 1860-1939)などが、この技法で版画やポスターなどを制作していました。

 多彩な表現が可能なリトグラフがこのまま普及していけば、早々に、木版画職人は必要なくなるとリュスは考えました。そこで、彼は、木版画職人として生計を立てることを諦め、画家に転向しようと決意します。

 リュスが兵役を終えた1883年、先ほど、ご紹介したドゥンカーが上記の作品をリトグラフで制作し、発表しました。

 19世紀末は技術の進化に合わせ、表現世界にも怒涛の勢いで変化の波が押し寄せてきていたのです。リュスが時代の変わり目を感じて人生を再考し、画家に転向しようとしたのは当然の成り行きでした。

(2021/12/18  香取淳子)