ゴーソンやリュス、ペドゥッツィらがラニー派を結成した頃、リュシアン・ピサロとその父親であるカミーユ・ピサロ(Camille Pissarro, 1830-1903)もこのグループに参加しました。当時、彼はすでに印象派の画家として認知されていました。それにもかかわらず、どういうわけか、息子とほぼ同世代の若いグループに加わって、点描主義を標榜し始めたのです。
一体、なぜなのでしょうか。
今回は、カミーユ・ピサロは、なぜラニー派に参加したのか、その背景について考えてみたいと思います。
■風景画家としてのカミーユ・ピサロ
年表でピサロの略歴を振り返ってみると、1868年から1870年まで彼は毎年、サロンに入選していることがわかりました。風景画家として一定の評価を得ていたのです。
1871年には、画商ポール・デュラン・リュエル(Paul Durand-Ruel, 1831 – 1922)が絵を2点購入してくれるほど、評価が高まっていました(※ 『ピサロ/シスレー/スーラ』年表、集英社、1973年)。
モネとともに美術館を回り、イギリス風景画を研究していたのもこの頃でした。
1872年にピサロは、パリ近郊のポントワーズ(Pontoise)に定住しました。ポントワーズにはオワーズ川が流れ、美しい田園風景が広がっています。ドービニー、セザンヌ、ゴッホ、カイユボットなどの画家たちが好んで住むようになり、印象派の拠点になっていました。ピサロにとってよほど居心地が良かったのでしょう、その後、17年間もここに住み続けました。
ピサロはここに転居してからというもの、セザンヌ(Paul Cézanne, 1939-1906)と共に、頻繁に風景画を描いています。
彼らが当時、同じ場所で描いたポントワーズの風景画があります。ご紹介しておきましょう。
●カミーユ・ピサロ(Camille Pissarro)制作、《Orchard with Flowering Trees, Spring, Pontoise》、1877年
爽やかで心地よい、春の風景が捉えられています。
(油彩、カンヴァス、65.5×81㎝、1877年、オルセー美術館所蔵)
巨木を中心に画面が左右に分割されています。太くて黒い幹は高くそびえ、その両側からは多くの枝が伸び、それらの枝先には無数の白い花が咲いています。やや引いて見ると、まるで巨木の先端を頂点とする三角形のように見えます。
上に伸びる枝、下に垂れる枝、手前に張り出した枝、それぞれの枝先には白い花が咲き、さまざまな曲線を創り出しています。
一方、木々の背後に建ち並ぶ建物からは、さまざまな直線が印象づけられます。三角の先端部、四角い窓、台形の屋根など、いずれもくっきりと描かれ、画面に起伏を生み出しています。
直線や斜線、曲線を活かした見事な構図です。おかげで、開花期の瑞々しさや爽快感がリズミカルに捉えられています。
見上げれば、青い台形の屋根、濃紺の先端部、オレンジ色の窓枠、白い壁などがそれぞれ、小さいながらも存在を主張し、曇った空を背景にはっきりと刻み込まれています。視線を落とすと、辺り一面、白い花が目を射るように乱舞しています。
白い花々や建物の白壁、そして、空を覆う白い雲が、前景、中景、遠景に分散して配置され、画面に統一感と爽やかさがもたらされています。白を基調に、オレンジや青を差し色にして画面構成されています。
興味深いのは、白い花に形の大小、色の強弱をつける一方、さまざまな筆触によって、画面に動きを生み出し、風のそよぎを感じさせていることでした。春の訪れと爽やかな息吹が加味されています。
巧みな構図と色遣いで春の訪れが繊細に、そして、リズミカルに描かれていました。
一方、色彩の力で精彩を放っているのが、セザンヌの作品です。
●ポール・セザンヌ(Paul Cézanne)制作、《Le Jardin de Maubuisson, Pontoise》1877年
ピサロと同じ時、同じ場所で描かれた作品です。セザンヌは、はっきりとした色彩で、やや荒っぽく、ポントワーズの風景を捉えています。
(油彩、カンヴァス、50×61㎝、1877年、個人蔵)
ピサロと違って、手前の木々はまばらで細く、小さく、存在感がありません。木々の背後にみえる建物は、細部までしっかりと描かれているわけではありませんが、色彩に精彩があります。モチーフの捉え方はおおざっぱで、何をメインに描こうとしているのかは曖昧ですが、鮮やかな色彩とその荒っぽい筆触が印象的です。
このように、同じポントワーズの風景を描いても、ピサロとセザンヌには大きな違いがありました。
両者を比較すると、建物はほぼ同じでしたが、手前の木々が大きく異なっていました。ピサロは画面真ん中に巨木を配置し、その木をメインに、周辺に枝や花々を散らし、三角形を構成するような構図でした。おかげで画面に安定感と瑞々しい華やぎがもたらされていました。
一方、セザンヌの方は、木々が貧弱で、しかも、畑の草と木の葉に色彩の区別がありません。建物はやや丁寧に描かれていますが、その下の畑や木々の描き方が雑なのです。中ほどの木に白いものがいくつか見えますが、ひょっとしたら、白い花なのでしょうか・・・?
比較してみると、セザンヌは見たものから受ける印象に従って、思いつくまま、自由に描いているように見えます。そのせいか、画面はまだ制作途中、あるいは、習作のように見えます。
その結果、ピサロの作品で捉えられていた繊細さや春の華やぎは、セザンヌの作品にはなく、色彩と筆触による力強さばかりが強く印象づけられます。
ピサロはおそらく、見たままの風景をできるだけ写実的に捉えようとしながらも、メリハリのある構図を創り出すために多少、修正していたのかもしれません。同じ場所で描いた両者の作品を見比べてみて、改めて、風景の捉え方の個性が感じられます。
おそらく、この違いの中にピサロの作品の本質の一つが示されているのでしょう。
■評論家からの批評
1880年頃、ピサロは自分の作品に満足できず、悩んでいました。というのも、美術評論家でありコレクターでもあったシャルル・エフルッシ(Charles Ephrussi, 1849 – 1905)からの批評を気にしていたからでした。
エフルッシは1880年、「ピサロ(の絵)は鮮やかな色で堅苦しく描く。彼の描法によると春や花も陰鬱になり、空気は重くなる・・・」と評していました。それを知ったカミーユ・ピサロはすっかり自信をなくしていたのです。(※ 黒田光彦「作家論:ピサロ/シスレー/スーラ」、『現代世界美術全集20』、p.87. 集英社、1973年)
エフルッシは果たして、ピサロのどの作品について、上記のように批評していたのでしょう。
気になって、調べてみました。
1880年に批評したことがわかったということは、それ以前の作品を見て、そのような評価を下したことになります。そこで、1880年以前の作品の中から、春、あるいは花を画題にして描いた作品を探してみました。
すると、《果樹園》(Orchard in Bloom, Louveciennes, 1872年)というタイトルの作品を見つけることができました。
果たして、エフルッシの批評は納得できるものだったのでしょうか。この作品を見てみることにしましょう。
●カミーユ・ピサロ(Camille Pissarro)制作、《果樹園》(Orchard in Bloom, Louveciennes, 1872年)
果樹の花が一斉に開き、華やいだ春のひとときを捉えた光景です。
(油彩、カンヴァス、45.1×54.9㎝、1872年、National Gallery of Art所蔵)
青空には真っ白の雲が浮かび、その下に枝いっぱいに白い花をつけた木が、正面に描かれています。よく見ると、画面奥の方まで、木々が立ち並んでいます。春というよりは初夏の気配が感じられます。これらの花はやがて実となって、人々を楽しませてくれるのでしょう。
華やかな季節のはずなのに、どういうわけか、画面全体がくすみ、どんよりとしています。
地面には木の影が濃く刻み付けられており、陽射しの強さが示されています。まばゆいばかりの光が辺り一面、降り注いでいるはずですが、画面から煌めきは伝わってきません。むしろ、乾いた土、生気のない花や木々の方が強く印象づけられます。
果樹の下で作業をしている男性と女性の姿が小さく描かれていますが、ハイライトを差して、人物を際立たせることはされていません。そのせいか、彼らの姿に開花期を迎えた喜びは感じられず、労苦ばかりが強く印象づけられました。弾むような春の息吹を、画面から感じることはできませんでした。
これでは、エフルッシが「春や花も陰鬱になり、空気は重くなる・・・」と評したのも無理はないと思ってしまいます。
この作品は、カミーユ・ピサロが、1874年に開催された第1回印象派展に出品した風景画5点のうちの一つでした。この作品は、注目され、他の印象派の作品と比較される場に展示されていたのです。
同じ時期に描かれた風景画をもう一つ、見てみることにしましょう。
●カミーユ・ピサロ(Camille Pissarro)制作、《白い霜》(Gelée blanche, 1873年)
田畑なのでしょうか、原っぱなのでしょうか、全体が群青色の縞模様で覆われています。一体、この縞模様は何なのかと気になってしまいます。なんとも奇妙な光景です。
タイトルを見ると、《白い霜》です。この縞模様に見えるものによって、おそらく、一面に白い霜が張った様子が表現されているのでしょう。
(油彩、カンヴァス、65.5×93.2㎝、1873年、Musée d’Orsay所蔵)
タイトルを見て、それから、画面の手前右下に所々、白い小さな塊が描かれているのを見て、ようやく、霜が張った状態が描かれているのだということがわかります。
右側だけで十分、わかるのに、左半分にも均等に縞模様が描かれています。ピサロは律義にも、ほぼ同じ間隔で、似たようなラインを野原全体に引いているのです。その結果、リアリティが損なわれ、奇妙な絵になっていまいました。
左半分の縞模様はもっと薄くして目立たなくするか、いっそのこと白を淡く載せるだけでよかったのではないかという気がします。
興味深いのは、傾斜のある小道を農夫が柴を背負って歩いている姿が、画面半ばに描かれていることです。おそらくストーブの燃料にするのでしょう。この人物を配することによって、画面が引き締まり、ストーリー性のある構図になっています。
もし、タイトル通り、白い霜が張っているように描かれていれば、この人物を画面半ばに配したことの効果が画面に表れ、趣き深い作品になっていたことでしょう。
先ほど見た《果樹園》といい、この《白い霜》といい、せっかく季節の特徴を捉えた画題を扱いながら、表現すべきところが表現されておらず、省略すべきところが省略されていないため、画面に精彩がなくなってしまっていることがわかります。
改めて、エフルッシの言葉が思い出されます。
彼は、「ピサロ(の絵)は鮮やかな色で堅苦しく描く」と評していました。当時のピサロの作品を見たところ、確かに批評通りでした。
《果樹園》では鮮やかな白色を乱舞させながら、輝きを生み出すことができず、《白い霜》では明るく鮮やかな色を使いながら、意味不明の縞模様によって、画面を硬直させているだけでした。
おそらく、ハイライトを置いて画面に精彩を加えることをせず、また、観客の想像に任せればいい箇所まで、律義に描いてしまっていたからでしょう。その結果、画面が堅苦しく硬直し、観客が興趣を感じる余地が削がれていました。
それでは、カミーユ・ピサロ自身、エフルッシの批評をどのように受け止めていたのでしょうか。
■個展開催を控えたピサロの不安
ピサロは画家には珍しく、頻繁に、友人や息子に宛てて手紙を書いていました。手紙を書くことによって、創作につきものの不安や不満を発散し、気持ちの立て直しを図っていたのでしょう。作品批評については特に敏感に反応していました。
息子に宛てた手紙をご紹介しましょう。
1883年5月、モネやルノワールに続き、カミーユ・ピサロの個展の開催が予定されていました。画商ポール・デュラン・リュエル(Paul Durand-Ruel, 1831 – 1922)が企画したピサロにとって初めての個展でした。
個展開催を控え、不安に駆られたカミーユ・ピサロは、息子のリュシアン(Lucien Pissarro, 1863- 1944)に、次ぎのような手紙を書き送っていました。
「私の作品は、このような輝きのある作品の後では、もの悲しい、大人しい、光沢のないものに見えるだろう」(※ 前掲)
特異な画風や画題で話題を呼んでいたモネやルノワールに比べ、カミーユ・ピサロは自身の作品が地味で精彩がなく、話題性に乏しいと思い込んでいました。彼らと比較されると、個展の成功が危ぶまれると不安を覚えていたのです。
この文面からは、先ほどご紹介したエフルッシからの批評がまだ尾を引いており、ピサロの創作意欲に影響を与えていたことがわかります。
確かに、彼の作品は、モネやルノワールに比べればはるかに話題性に乏しく、地味でした。画風に目新しさがなく、かといって、独自性があるわけでもありませんでした。
当時、モネは43歳、ルノワールは42歳、そして、ピサロは53歳でした。10歳も若い彼らに、ピサロは気後れするような気持ち、言い換えれば、劣等感のようなものを抱いていたのです。ひょっとしたら、それは、自身の画風を確立するのが遅かったことと関係していたのかもしれません。
■ピサロが気にしたモネとルノワール
たとえば、モネ(Claude Monet, 1840年11月14日-1926年12月5日)は30代半ばで画風を確立していましたし、ルノワール(Pierre-Auguste Renoir, 1841年2月25日-1919年12月3日)も30代後半には独自の画風を確立していました。画題にしろ、画風にしろ、両者には若いころから確固たるものがあったのです。
それでは、モネやルノワールが、どのような作品を描いていたのかを見てみることにしましょう。
同世代のモネとルノワールは20代後半の頃、何度か一緒に郊外に出かけ、イーゼルを並べて絵を描いていたことがありました。
探して見ると、1869年にパリ郊外のセーヌ河畔の行楽地、「ラ・グルヌイエール」(La Grenouillère)で描いた作品が見つかりました。モネが29歳、ルノワールが28歳の時の作品です。
ブージヴァル(Bougival)はセーヌ川岸にあり、19世紀後半、印象派の画家たちが集って絵画を語り合い、絵を制作していた行楽地でした。そのセーヌ河畔の行楽地に、水上カフェのある水浴場「ラ・グルヌイエール」(La Grenouillère)があります。
1869年の夏、モネとルノワールはそこでイーゼルを並べ、絵を描いたといわれています(※ 『印象派美術館』、小学館、2004年)。
両者の作品を見比べてみることにしましょう。
●クロード・モネ(Claude Monet)制作、《ラ・グルヌイエール》(La Grenouillère)、1869年制作
まず、モネ(Claude Monet, 1840-1926)の作品から見てみることにしましょう。
(油彩、カンヴァス、66×86㎝、1869年、ストックホルム国立美術館所蔵)
画面を見た途端に印象づけられるのは、手前から画面中ほどまで描かれている川面です。さざ波を立ててゆったりと揺らぐ様子が、深く、陰影のある色合いで描かれています。左から右にかけての水面の動きには、穏やかで深淵な自然の息遣いが感じられます。
向こう岸に立ち並ぶ木々は、褐色に近い淡い緑色で描かれています。荒っぽく言えば、濃い緑色で描かれた水面とは補色関係になっているのです。
ボートが何艘か浮かんでいますが、いずれも舳先を円形の出島に向け、ほぼ同心円上に停泊しています。岸辺からの細い橋、水上カフェからの橋とも連結しており、この円形の出島がこの絵のメインモチーフに位置づけられています。
淡い色で描かれた遠景の木々、手前左上から垂れ下がる暗緑色の枝、そして、濃淡に所々、補色の橙色を散らした水面によって、陽光が煌めく行楽地のひとときが見事に捉えられています。モチーフの配置といい、色彩バランスといい、味わい深い作品に仕上がっています。
考え抜かれた構図の下、行楽地で楽しむ人々が俯瞰で捉えられています。人と自然が悦楽の中で調和するよう描かれているのです。
一方、ルノワールは人物に力点を置いて、同じ場所を描いていました。
●ルノワール(Pierre-Auguste Renoir)制作、《ラ・グルヌイエール》(La Grenouillère)、1869年
この作品で、まず、観客の目が行くのは、円形の出島でしょう。そこに着飾った男女が大きな木の下で所狭しとばかりに集っており、華やかな賑わいが画面から立ち上っています。
(油彩、カンヴァス、99.7×74.5㎝、1869年、メトロポリタン美術館所蔵)
左側には白い帆をつけたヨットが浮かび、右上にはボートに乗った人々がこのリゾート地を楽しんでいる様子が描かれています。泳いでいる人もいれば、談笑している人もいて、さまざまな愉楽、悦楽の様相がスケッチされており、画面に賑わいをもたらしています。
よく見ると、左手前のボート、女性のドレス、水上カフェの庇や柱、遠景の木々などに、わずかにオレンジ色が差し色として添えられています。全般に淡く明るい色で構成された画面に、この差し色を添えることによって、華やかな画面の中に穏やかさと暖かさがもたらされていたのです。
同じ場所でイーゼルを並べ、同じ対象を描いているのに、モネとルノワールの作品には明らかな違いが見られました。
どのモチーフに力点を置くのか、構図をどうするか、色彩のバランスをどうするか、差し色をどの程度使うのか、等々、それぞれの作品を比較すると、画家としての個性がはっきりと画面に反映されていました。
《ラ・グルヌイエール》は、モネにとっても、ルノワールにとっても、まだ画風を確立する前の作品です。それでも画面のそこかしこに、後年の画風を読み取ることができます。20代後半の作品ですでに、それぞれの個性が確立され始めていたことがわかります。
これらの作品を取り上げ、紹介している動画がありましたので、ご紹介しましょう。
こちら → https://youtu.be/2iSmHoV__qw
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ラ・グルヌイエールはミドルクラスを対象としたパリ郊外のリゾート地でした。当時、人々は休日になるとここに来て、ボートを漕いだり、カフェで会話を楽しんだりしていました。
モネとルノワールは共に、ブルジョワジーの生活を描いた作品に関心を抱いていましたから、このリゾート地は、恰好の画題だったのです。ここで彼らが共に、印象派のスタイルでブルジョワジーの生活の一端を捉えた作品を制作したのは当然の成り行きでした。
さて、動画では、ボートや木々、人々の描き方について、両者の違いが指摘されていました。改めて、画家としての資質、個性の違いが感じられます。
私はモネの作品には、考え抜かれた色遣いが秀逸だと思いました。まず、川面の動きが光と影の下、深みのある色でくっきりと描かれているのに惹かれました。さらに、手前の水面を際立たせるように、遠景の水面や背景の木々が黄褐色を交えた色で表現されていることに興味深く感じました。
ボートの側面や波の合間に散らされたオレンジの差し色も効いています。多様な色を使いながら、補色関係を踏まえ、画面全体の色彩バランスが図られており、素晴らしいと思いました。
一方、ルノワールの作品は、パステル調の色遣いがすでにこの頃から際立っていたのが印象的です。
いずれも、彼らがまだ若く、夢を追っていた頃の作品です。興味深いのは、動画の中でプレゼンテーターが、彼らが金銭的成功を収めるのは、この数年後だと言っていたことでした。実際、その後、彼らの作品は多くの人々に受け入れられ、成功しています。
モネとルノワールの作品を見ると、いずれも、すでにこのころから、ブルジョワジーを魅了する要素を秘めていたことがわかります。
■市民の意向が反映される美術市場
思い返すのは、カミーユ・ピサロは息子宛ての手紙の中で、モネやルノワールの個展の後では、自分の作品が見劣りするのではないかと書き記し、深刻に悩んでいたことでした。
ピサロが息子に手紙を出した頃、モネやルノワールはすでに多数の観客の注目を集める画家になっていたのでしょう。
そこで、調べてみると、クロード・モネの個展が1883年2月に開催されていました。場所は画商デュラン・リュエルが新しくマドレーヌ通りで開いた画廊でした。そこで、初期から最近作までの56点が展示されました。
展覧会についてはピサロなどの批評は好意的でしたが、作品の売れ行きは悪かったようです。評判に反し、売れ行きが悪いので、モネはデュラン・リュエルに対し、展示方法や作品の選択、宣伝方法について激しく非難したそうです。(※ http://philatelic-art.com/Impression/Monet/nenpu_mo.htm)
美術市場が広がり、上流階級だけではなく、市民階級までも顧客となり始めた時代でした。たとえ批評家や画家たちから作品が高く評価されたとしても、作品の売れ行きがいいとはいえなくなっていたのです。
もちろん、作品の売れ行きが悪くては、画家や画商にとって個展が成功したとはいえません。モネがデュラン・リュエルに対し、出品作品の選択、展示方法、宣伝方法などについて文句をいったのは、画廊側に売る為の戦略が欠けているように思えたからでしょう。
その後、1か月を経て、1883年4月に開催されたのが、ルノワールの個展でした。この時もモネと同様、デュラン・リュエルが新しくマドレーヌ通りに開いた画廊で開催されました。初期作品から最新作まで約70点が展示されました。
ルノワールは1878年から1881年まで毎年、立て続けにサロンに入選していました。当時、サロンに入選することは一般大衆にとって、その作品の評価を保証するものでした。購入意欲に大きく影響していたのです。
ピサロは当時、アマチュア画家のウジェーヌ・ミュレへの手紙の中で、「ルノワールはサロンで大成功をおさめた」と記し、「貧乏はとても辛いですから」と書き添えています。(※ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AB%EF%BC%9D%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%AE%E3%83%A5%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%8E%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AB)
このことからも、サロンで入選すれば、売れ行きの保証になっていたことがわかります。立て続けにサロンに入選したルノワールは、マルセル・プルーストからも激賞され、以後、肖像画の注文が大幅に増えていきました。
そして、1883年5月に同画廊で開催予定だったのが、ピサロの個展でした。
ピサロがこの時期、思い悩んでいたのも無理はありませんでした。サロン入選者であり、著名作家からも激賞され、しかも、ブルジョワジーの嗜好に合う作品を描いていたルノワールの個展直後の開催だったのですから・・・。
当時、新興ブルジョワジーの台頭とともに、美術市場に変化が訪れており、売る為の戦略が必要になりつつあったのです。
デュラン・リュエルが買い上げた画家のトップはルノアールで1500点、次いでモネ1000点、そして、ピサロ800点、シスレー400点の順でした。新しく開いた画廊で彼らの個展を所蔵数の順に開催したのは当然でした。画家たちのお披露目を兼ねていたのです。ちなみに、シスレーはピサロの後、同年6月に個展を開催しています。
パリで新しく開いた画廊で、デュラン・リュエルは印象派の画家たちの個展を立て続けに開催しました。作品の売れ行きなどから、彼はおそらく、新しい時代の動きを察知したのでしょう。その後、美術市場の開拓のため、アメリカでの印象派展を企画しました。
1886年4月から5月にかけて彼はニューヨークで印象派展を開催し、大成功を収めました。パリ・モンマルトルに集っていた画家たちが創始した新しい芸術運動を、画商デュラン・リュエルが世界に認知されるきっかけを作ったのです。
美術市場を取り巻く一連の動きの中で、ピサロはどのような思いでいたのでしょうか。
■ピサロはなぜ、ラニー派に参加したのか。
ピサロは初めての個展開催を控え、1880年のエフルッシの批評を気にしていました。確かに、第1回印象派展に出品された、1872年の作品を見ると、その批評は決して的外れなものではありませんでした。指摘されるような要素は確かにあったのです。
ただ、その後、ピサロの画風は大幅に改善されています。
たとえば、1877年にセザンヌと共に、同じ場所で描いた風景画では、画面に鮮やかさが生み出され、ぎこちなさが消えて、優雅な華やぎさえも醸し出されていました。ピサロがエフルッシの批評を気にしていたからこそ、その後、画風を変えたのでしょう。
ただ、根幹部分は変わっていないように見えます。
彼の作品をいくつか見てくると、絵としてまとまっていますが、大胆さに欠け、写実の基盤から大きく逸脱することが出来ないように思えるのです。とくに、色遣いや色構成が平板に見えます。そのせいか、構図の取り方は巧みなのですが、それが観客に対する訴求力に活かされておらず、魅力に乏しいのです。
そのような絵の特質がおそらく、ピサロの自信のなさ、焦りに繋がっていたのではないかと思います。
折しも、新興ブルジョワジーの台頭とともに、顧客の意向や嗜好が絵の売れ行きを左右し始めていました。
親しくしていたモネ、ルノワール、セザンヌなどが特徴のある画風で注目を集めていたのに対し、ピサロの画風は地味でした。しかも、彼自身、まだ確固たる信念の下、納得できる画風を築き上げることができていませんでした。
そんな頃、ピサロは息子リュシアン・ピサロを通して、ラニー派を知りました。当時、ピサロが置かれていた状況を考えれば、印象派として知られていた彼が突如、若い世代のグループに参加したのも、当然のことのように思えてきます。
スーラに会って話を聞き、彼が提唱した「点描」画法に、ピサロは引き込まれました。それは、印象派が辿り着いた「筆触分割」画法をさらに徹底させ、光学理論を取り入れた、画期的な科学的画法でした。
すでに50半ばを過ぎていたピサロは、若い仲間とともに点描画法にのめり込んでいきました。
その背景には、画家としての不安や焦りばかりではなく、必要であれば、新しいものを積極的に取り込んでいこうとする進取の気性が介在していたと思います。時代が大きく変わろうとしていた時期でした。(2022/3/23 香取淳子)