ヒト、メディア、社会を考える

01月

百武兼行⑧:幕末・維新の佐賀藩を見る

 百武は佐賀藩の藩士の子どもとして生まれ、8歳の時、後に第11代、最後の藩主となる鍋島直大の「お相手役」に選ばれました。以来、生涯にわたって、その枠の中で生きてきました。

 そこで、今回は佐賀藩とはどういう藩だったのか。彼を直大のお相手役に選んだ藩主・鍋島直正はどのような人だったのかを見ていくことにしたいと思います。

■湿板写真に収まった佐賀藩主の鍋島直正

 1859年に撮影された第10代佐賀藩主の鍋島直正の写真があります。

(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Nabeshima_Naomasa.jpg

 第10代藩主鍋島直正を撮影した肖像写真です。アメリカ製のケースに「御年四十六/安政六年己未年十一月於江戸/溜池邸/藩醫川崎道民拝寫」と書かれた紙が貼付されています。撮影日時、場所、撮影者が記録されていたのです。

 佐賀藩医の川崎道民(1831-1881)が、江戸溜池の中屋敷で、安政6年(1859)に撮影した湿板写真でした。

 湿板写真とは、1851年にイギリス人のフレデリック・スコット・アーチャー(Frederick Scott Archer , 1813-1857)が発明した写真技術です。湿っているうちに撮影し、硫酸第一鉄溶液で現像し、シアン化カリウム溶液で定着してネガティブ像を得るタイプのもので、ガラス湿板そのものがネガであり、プリントでもありました。

 最初の写真技術であるダゲレオタイプに比べ、感度が高く、露光時間が5秒から15秒と短い上に、ダゲレオタイプと遜色のない画質でした。しかも、ダゲレオタイプよりもはるかに安価だったので、短期間でダゲレオタイプやカロタイプの写真を凌駕してしまいました(※ Wikipedia)。

 アングロタイプの写真技術がイギリスで発明されたのが1851年でした。それから、わずか8年後に、はるか遠く離れた極東の江戸で、湿板写真が撮影されていたのです。

 なぜ、そのようなことが可能だったのでしょうか。

 そもそも、写真を撮影するには、撮影機材や感光紙、撮影のための備品がなければならず、撮影技術者が必要でした。写真についての知識と技術、太陽光や露光に関する知識がなければ、撮影はできませんでした。

 仮に撮影機材一式を入手できたとしても、それを操作できる人がいなければ、写真を撮影することはできなかったのです。

 それでは、なぜ、川崎道民は鎖国していた日本で住んでいながら、鍋島直正を写真撮影することができたのでしょうか。

 おそらく、川崎道民が佐賀藩の医師であり、鍋島直正が佐賀藩主だったからでしょう。

■幕府直轄地、長崎に隣接する佐賀藩

 佐賀藩は、幕府直轄地の長崎に隣接するだけではなく、福岡藩とともに、長崎を隔年で警備していました。対外情報や製品、技術の入手という点で、他藩に比べ、圧倒的に有利な立場にいたのです。

 鎖国時代の貿易相手国は、中国とオランダに限られていました。とはいえ、長崎が唯一の対外窓口だったので、外国からの技術や製品、情報は、中国やオランダを経由して、まず長崎に入って来たのです。

 平戸にあったオランダ商館が、出島に移設されたのが1641年、以来、1859年までの218年間、対外貿易は、もっぱら長崎の出島を通して行われていました。

 たとえば、長崎の御用商人、上野俊之丞は、嘉永元年(1848)にダゲレオタイプを初めて輸入しています。これを薩摩藩が入手し、初めて日本人がダゲレオタイプの写真を撮影したのが、1857年です。撮影者は薩摩藩の市来四郎で、被写体は薩摩藩主、島津斉彬でした。

 ここに、長崎に海外からの技術や情報や製品が入って来て、そこから、各地に拡散していくというものの流れを見ることができます。ものの流れは情報の流れであり、技術、知識、人の流れでもありました。

 さて、佐賀藩の川崎道民が、鍋島直正を撮影したのが、湿板写真でした。

 当時の湿板カメラが保存されており、その構成、形状等から、いくつかの事が推察されています。

 木製鏡筒のレンズや内部の釘の形状などから、残されたカメラは、初期の国産の湿板カメラだと推測されています。Ⅹ線写真によると、前に一枚、後ろに二枚のレンズが確認されており、初期の国産カメラとしては最も多いレンズで構成されていることもわかっています。

 さらに、カメラ後部は、湿板特有の硝酸銀による汚れが目立ち、かなり使用した形跡が見られることから、佐賀藩の科学研究施設であった精煉方で使用されていた可能性も考えられると推察されています。(※ https://www.nabeshima.or.jp/collection/index.php?mode=detail&heritagename=%E6%B9%BF%E6%9D%BF%E3%82%AB%E3%83%A1%E3%83%A9 )。

 ダゲレオタイプよりも後に発明された湿板写真のカメラが、鍋島家に保存されていました。かなり使い込んだ様子がうかがえること、科学研究のために使われていたこと、等々からは、藩主であった鍋島直正が、積極的に西洋の科学技術を取り入れようとしていたことが示されています。

 当時、長崎は、人、物、情報、技術のハブでした。

 そのハブに隣接しているという特性を活かし、佐賀藩は最先端技術の導入に積極的でした。その一環として写真技術が位置付けられます。

■ポンぺの来日

 コロジオン湿板法(湿板写真)が日本に導入されたのは、安政年間(1854-1860)でした。興味深いことに、ちょうどその頃、長崎に海軍伝習所が開設されました。そして、西洋医学、航海術、化学などを教えるため、オランダから教師団が入って来ていたのです。

 ペリーの来航後、幕府は海防体制を強化するため、西洋式軍艦の輸入を決定しました。それに伴い、海軍士官を養成する長崎海軍伝習所を設立しました。1855年のことでした。

 1857年にオランダから派遣された第2次教師団の中に、軍医のポンペ・ファン・メーデルフォールト(Johannes Lijdius Catharinus Pompe van Meerdervoort, 1829 – 1908)がいました。

 彼はオランダ医学を教える傍ら、日本人伝習生たちに湿板写真を教えていました(※ 高橋則英、「上野彦馬と初期写真家の撮影術」、『古写真研究』第3号、2009年、p.18.)。

 当時の写真が残されています。この写真がいつ撮影されたのかわかりませんが、海外伝習所が閉鎖されたのが1859年ですから、1857年から1859年の間に撮影されたものなのでしょう。

 ポンペは、湿板写真の研究について熱心に取り組んでいたそうです。ポンペに師事し、化学を勉強していた上野彦馬は、彼と共に写真の研究にも励んでいました。感光板に必要な純度の高いアルコールには、ポンペが分けてくれたジュネパ(ジン)を使ったそうです(※ Wikipedia)。

 長崎海軍伝習所の講義時間割りをみると、病理学、解剖学、生理学などのオランダ医学に関する教科はもちろんのこと、化学、採鉱学などの教科も教えられていました(※ Wikipedia)。

 医学以外に、化学や工学なども教科として取り上げられていたのです。

 弘道館で勉強していた川崎道民は、藩主鍋島直正に奨励され、長崎でオランダ医学を3年間、学んでいます(※ https://1860kenbei-shisetsu.org/history/credit/)。

 時期を特定できないのですが、海軍伝習所で学んでいたとすれば、湿板写真の研究を進めていたオランダ人軍医のポンぺから、川崎道民もまた、写真術の一切合切を学んでいたのではないかと思われます。

 オランダ人軍医のポンぺは、湿板写真導入のためのキーパーソンでした。

 このケースからもわかるように、長崎には、最先端の製品が海外から持ち込まれるだけではなく、最先端技術を指導するための人員もまた海外から入ってきていたのです。

 学ぼうとする意欲の高い者、好奇心の旺盛な者、最先端技術に敏感な者にとっては刺激の多い場所であり、夢が叶えられる場所でもあったのでしょう。

 それでは、川崎道民の来歴についてみてみることしましょう。

 佐賀藩医松隈甫庵の四男として生まれた川崎道民は、医師川崎道明の養子となりました。鍋島直正の勧めで、長崎でオランダ医学を学び、その後、大槻磐渓の塾で蘭方医学を学んで佐賀藩医となりました。

 幕府が派遣した万延元(1860)年の遣米使節団、そして、文久元(1862)年の遣欧使節団に、川崎道民は御雇医師として参加しました。

■ニューヨークで撮影された川崎道民の肖像写真

 万延元年にアメリカ訪問中に撮影された写真が残されています。

(※ https://www.wikiwand.com/ja/%E5%B7%9D%E5%B4%8E%E9%81%93%E6%B0%91

 当時にしては珍しく、カラー写真です。

 初期のカラー実験では、像を定着させることができず、退色しやすく、使いものになりませんでした。

 ようやく完成した高耐光性のカラー写真は、1861年に物理学者のジェームズ・クラーク・マクスウェル(James Clerk Maxwell, 1831 – 1879)によって撮影されたものでした。3原色のフィルターを1枚ずつかけて3回撮影し、スクリーン上で合成することによって、撮影時の色を再現することに成功したのです(※ Wikipedia)。

 川崎道民のカラー写真は1860年に撮影されています。カラー写真が発明されたのが1861年ですから、それ以前に、この写真は撮影されていたことになります。

 一体、どういうことなのでしょうか。

 再び、道民のカラー写真を見てみると、色合いがやや不自然です。色の粒子が荒いので、絵画のように見えます。一見して、色彩が用紙に緊密に定着していないことがわかります。

 ひょっとしたら、白黒写真に彩色したものなのかもしれません。実は、白黒写真に彩色することで、カラー写真のように見せることもできました。

 1875年頃に撮影された写真があります。白黒写真を後に彩色したものです。

(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Carandini.jpg

 よく見ると、やはり、色合いが不自然です。色の粒子はそれほど荒くないですが、自然のままの状態を再現したようには見えません。

 こうしてみると、川崎道民のカラー写真もおそらく、白黒写真に彩色をしたものなのでしょう。写真そのものが珍しかった時代に、わざわざカラーの肖像写真を撮っていたところに、川崎道民のチャレンジ精神と進取の気性が感じられます。

 さらに、川崎道民は医師として使節団に参加していたはずなのに、公務の合間に、写真館に入り浸っていたようです。

■ブレッディ写真館で写真術を学ぶ

 ニューヨーク・ヘラルド新聞は、一行がニューヨークに到着してからというもの、出来事を細かに報道しています。そのうち、6月19日号(The New York herald, June 19,1860)に、川崎道民に関する記事が3本、掲載されていました。

 一つ目は、彼が大型書店で、英語の辞書や英文法の本を買ったことを報じたものです。現地で自由に行動したくて、英語の勉強をしていたのでしょうか。それでも、専門的な内容になると、通訳が必要になったようです。

 二つ目は、通訳付きで、ブレッディ(Brady)写真館に出かけ、写真撮影技法のレッスンを受けていたことが報じられています。

 三つ目は、その後、連日のように写真館に出向き、熱心に学んでいることが報道されています。

 ヘラルド紙の記者にしてみれば、川崎道民が通訳を連れて、訪れていた先が写真館だったというのが興味深く、記事にできると思ったのでしょう。医者だということはわかっていただけに、なぜ、写真に夢中になっているのかわからなかったのかもしれません。

 記者は、川崎道民が写真館のブレッディから複数の写真機器をもらうことになるだろうと書き、呑み込みが早いので、帰国するまでにはエキスパートになるだろうとまで記しています(※ 三好彰、「アメリカ人が見た川崎道民」、『佐賀大学地域学歴史文化研究センター研究紀要』第13号、2018年、pp.102-103.)

 6月21日号のヘラルド新聞にも川崎道民は取り上げられていました。

 この日もあの医師がブレッディ写真館で講習を受けていたと記し、傍らでその様子をみていた通訳と会話を交わしながら、写真の撮り方を学んでいたという内容でした(※ 前掲。P.103.)。

 地元記者から呆れられるほど、写真に夢中になっていた川崎道民は、幕府から派遣された3人の医師のうちの1人でした。他の医師とは違って、通訳を伴って現地の書店に出かけて本を買ったり、写真館で撮影技法を学んだり、骨相学の店や新聞社、さらにはキリスト教の教会にも出かけていました。好奇心が旺盛で、知識欲に溢れていたのでしょう、積極的に現地を探訪し、情報収集していたことがわかります。

■随行医師として

 使節団に参加していた医師は、御典医の宮崎立元正義(34歳)、御番外科医師の村山伯元淳(32歳)、そして、御雇医師の川崎道民(30歳)でした。宮崎と村山は上位の使節メンバーを診る医師で、川崎はそれ以外のメンバーを担当する医師として派遣されていたようです(※ Wikipedia)。

 3人は日本の医師団として、現地記者から注目されていたようです。

 ワシントンに到着したばかりの彼らについて、5月14日付けのイブニング・スター新聞(Evening star (Washington DC. May 14, 1860)は、速報を流しています。医師について書かれた部分を抜き書きすると、次のように書かれていました。

 「3人の医師は物静かだが、他の随員に比べて知的ではなく、探求心に欠ける。(中略)医学者と交流すれば、帰国後大いに役立つはずだが、見る限りでは期待できない」(※ 三好彰、前掲。p.96.)

 後になって判明したのですが、当初、記者が日本の医師たちを知的ではないと思ったのは、「坊主頭」だったからです。

 ところが、3人の日本人医師が、アメリカの医師団との会合で、専門的なやり取りをする様子を見聞きした結果、記者たちは最初の印象を多少、改めたようでした。

 とはいえ、オランダ医学しか学んでいない日本の医師たちを見て、現地の医師は頼りないと思ったようです。医学専門誌に次のような記事が掲載されていました。

 「日本の医者はいかがわしい。使節団を日本に送り届けるナイアガラ号にはアメリカの外科医が3人乗っているので安心だ」と書かれたりしています。(※ American Medical Gazette, August 1860, p.616.)

 現地報道を見ていると、アメリカ側は、川崎道民ら3人の日本の医師と、アメリカの医師たちが対話できる場を何度か設けていたことがわかります。科学的知識を持つ専門家同士なら、スムーズに医療情報を交換しあえると考えたのでしょう。ところが、アメリカの医師たちの質問に受け答えできていたのはもっぱら川崎道民だったといいます。

 6月2日付のサンベリー・アメリカ新聞(Sunbury American, June 02.1860)は、3人の医師の対応について、次のように記しています。

 「ホルストン教授がアメリカ医学のことを話した時に、第三の医師(川崎道民)がノートを取った。(中略)これまでアメリカは日本の医学を誤解していた。アメリカも日本も科学が進歩しているので、その内にどんな病気も直せるようになるだろう」(※ 前掲。p.98.)

 どうやら川崎道民は、メモを取りながら、聞いていたようです。多少は英語を聞き取れたからなのか、それとも、正確を期すためなのか、わかりませんが、このような態度が現地記者には好感を持たれたような気がします。

 長崎でオランダ医学を学び、西洋医学を把握していると自負していたからこそ、彼は、臆することなく、アメリカで専門家同士の対話に応じることができていたのかもしれません。

 海外に出てもしっかりと自己表現することができ、現地から様々なことを学ぼうとする姿勢が評価されたのでしょうか、幕府は再び、川崎道民を、随行医師として欧州に派遣することを選びました。

 今度は、文久元(1862)年の遣欧使節の随行医師として、川崎道民は参加することになりました。

 出発前に鍋島直正に拝謁した際、彼は、直正から情報収集の特命を帯びたといいます。(※ https://1860kenbei-shisetsu.org/history/register/profile-68/

 直正が、川崎道民の語学力、コミュニケーション能力、機敏性、判断力、探求心などを信じていたからにほかなりません。彼なら、訪れた先々で、さまざまな情報を収集してくるに違いないと踏んでいたのでしょう。

 この一件からは、鍋島直正が、激動の時代に何をすべきかを考え、そのための検討材料として、欧米の社会情報、技術情報を把握しようとしていたことがわかります。

 さて、鍋島直正を撮影したこの写真は、日本人が撮影した写真としては2番目に古く、現在、(財)鍋島報效会 徴古館に所蔵されています。

 最も古いのは、島津斉彬を写したダゲレオタイプ(銀板写真)の写真です。

■銀板写真(ダゲレオタイプ)で撮影された島津斉彬

 島津斉彬の肖像写真は、安政4年(1857)9月17日に鹿児島城内で、薩摩藩士の市来四郎によって撮影されました。

(※ https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/213559

 画質が荒く、像が鮮明ではありませんが、日本人がはじめて撮影に成功した写真として、貴重なものです。

 銀板写真(ダゲレオタイプ)は、フランス人ダゲール(Louis Jacques Mandé Daguerre, 1787 – 1851)が、1839年8月19日にフランス学士院で発表した世界初の写真撮影法です。湿板写真技法が確立するまでの間、1850年代に最も普及していた技法でした。

 銀メッキを施した銅板に、沃素または臭素を蒸着させて感光材とし、写真機に装着して、撮影します。その後、水銀蒸気にさらすと感光した部分が黒く変化し、陽画が現れるので、洗浄して感光材を除去し、画像を定着させるという技法です。

 露光時間が長く、画像が左右反転像になること、複製ができず、1回の撮影で得られる画像は1枚に限られていることなどの欠点があります(※ https://www.bunka.go.jp/kindai/bijutsu/trends_01/index.html)。

 興味深いのは、市来四郎が『斉彬公御言行録』の中で、撮影した日の様子について、「十七日、天気晴朗、午前ヨリ御休息所御庭ニオイテ(此日ハ御上下御着服ナリ)三枚奉写」と回想していたことです(※ https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/213559)。

 市来は、「天気晴朗」と書き出し、午前から撮影を始めたと記しているのです。天気が良かったので、この日、午前中に撮影を開始したのでしょう。

 ダゲレオタイプでは、露光に時間がかかるので、早くから撮影を始めたのだと思います。ダゲレオタイプは感度が低く、レンズの開放値も低かったので、露光時間が日中屋外でも10-20分もかかっていました。

 ところが、アメリカでは、ダゲレオタイプで撮影した家族の肖像写真が数多く残されています。後に写真湿板が発明され、ヨーロッパでは、ダゲレオタイプが駆逐されてしまった後でも、アメリカでは、しばらくダゲレオタイプによる肖像写真が好まれていたのです(※ Wikipedia)。

 実は、ヨーロッパでも肖像画を好む人は、ダゲレオタイプの肖像写真を好む傾向がありました。ダゲレオタイプの写真は、機械的な再現性が徹底されておらず、緻密さが欠けるだけに、絵画に近い感触を味わうことができるからでした。

 さて、写真術に関する情報は、ヨーロッパで発明されてから10年ほどで日本に伝わっていました。少数ながら撮影機材も長崎経由で輸入されており、佐賀藩や薩摩藩などの大名や蘭学者たちが研究を行っていました。

■写真研究の先駆者たちに見る佐賀、薩摩の先進性

 薩摩藩の島津斉彬は、西洋の科学技術研究の一環として、嘉永2年(1849)ころから写真術の研究を進めていました。市来四郎(1829-1903)、松木弘安(後の寺島宗則、1832-1893)、川本幸民(1810-1891)らが研究にあたっていたといいます。斉彬も自ら実験に手を染めていたそうですが、成功しませんでした。

 松木、川本はいずれも長崎や江戸で医学や蘭学を学んでおり、オランダ語の文献を読むことはできました。さらに、薩摩藩は長崎経由で写真機や薬品など入手することもできました。ところが、独学に近い状態では、西洋の技術を日本人の手で移入することは難しかったのです。

 中断していた写真術の研究は、斉彬の藩主としての地位が確立してから、あらためて、再開されました。ようやく写真として成功したのが、1857年に撮影されたダゲレオタイプの肖像写真でした(※ https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/213559)。

 一連の経緯を知ると、西洋の最新技術は、現地で直接、指導を受けなければ、容易に獲得できるものではなかったことがわかります。

 さて、現地の写真館に通い詰めて写真技術を身につけた川崎道民は、その後、遣欧使節団の随行医師として渡航しています。偶然なのでしょうが、その使節団の一員に、写真術を研究していた薩摩藩の松木弘安(寺島宗則)が通訳兼医師として参加していました。

 川崎道民が31歳、松木弘安(寺島宗則)が35歳でした。いずれも医学を学び、蘭学を学んでいました。そして、写真という興味の対象も共有していました。

 川崎と松木は、視察のためオランダを訪問した際、写真館に立ち寄って、9.7×6.4㎝の名刺型肖像写真を撮影していました。彼ら以外に、森山栄之助の肖像写真も残されていました。やはり、9.7×6.4㎝の名刺型肖像写真です(※『肖像―紙形と古写真―』、東京大学資料編纂所、2007年6月)。

 森山栄之助(1820-1871)は、蘭語、英語の通訳として後日、遣欧使節団に加わった人物です。オランダで撮影された名刺型肖像写真は、この3人以外のものは残されていませんでした。おそらく、彼らはオランダで別行動をして、写真館を訪れ、名刺型の肖像写真を撮影してもらったのでしょう。写真へのこだわりと技術の進化に対する関心が見受けられます。

 江戸幕府が派遣した文久の遣欧使節は、川崎道民と松木弘安との出会いを生みました。

 彼らがオランダで撮った写真は名刺型のものでした。写真の進化形といっていいでしょう。写真術の新しい利用方法が示されたといえます。

 写真は複製することができ、さまざまな大きさのものにアウトプットすることができ、さらには、記録装置として抜群の機能を発揮することもできます。近代科学をさらに発展させる要素を彼らは写真の中に見ていたのでしょうか。

 藩主が主導して、早くから写真術に関心を持ち、研究を進めてきた薩摩藩や佐賀藩の有志は、写真術が科学の発展に重要な影響を与えると予感していたに違いありません。

 百武が生きた佐賀藩には、進取の気性に富み、チャレンジ精神、好奇心の旺盛なことを奨励する雰囲気があったのではないかという気がしています。(2024/1/31 香取淳子)