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岩倉具視幽棲旧宅①:岩倉具視はなぜ、蟄居させられたのか。

■岩倉具視幽棲旧宅

 2023年1月5日、京都市左京区岩倉上蔵町にある、岩倉具視幽棲住宅に訪れてきました。あれから随分、時間が経ってしまいましたが、幕末の激動期に、岩倉具視がなぜ、ここで蟄居しなければならなかったのか、考えてみたいと思います。

 地下鉄烏丸線の国際会館駅から、京都バス24系統に乗り、終点「岩倉実相院」で下車します。そこから、3分ほど歩くと、かつて岩倉具視が住んでいた旧宅の表門が見えてきます。2023年1月28日にこの欄でご紹介した実相院のごく近くにありました。


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 着いてみると、戸は閉まっており、表門からは入れません。少し歩くと、先に通用門があり、ここから、中に入れるようになっていました。


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 ここが、なぜ岩倉具視幽棲旧宅と呼ばれているかといえば、孝明天皇から蟄居を命じられた岩倉具視が、幕末の5年間、移り住んでいた場所だからです。

 尊王攘夷運動が高まっていた頃、「四奸二嬪」排斥運動(※ 佐幕派あるいは公武合体派の公家に対する圧力行為)が起こり、岩倉ら6人が糾弾されました。孝明天皇がかばいきれないほどの動きになり、岩倉らは1862年8月20日に蟄居処分、辞官、出家を命じられました。

 不本意ながらも岩倉は、まずは、西賀茂の霊源寺、その後、洛西の西芳寺に移りました。ところが、9月26日、今度は、洛中からの追放命令が出され、岩倉具視は、御所から遥かに遠い、洛外の岩倉に転居せざるをえなくなりました。

 朝廷の中で発言力を高めていた岩倉が、急進的な攘夷派の台頭によって、追い落とされたのです。

 年表によると、当初(1862年)は、岩倉村の藤屋藤五郎の廃屋を借りて住んでいましたが、長く住める場所ではありませんでした。その後、1864年に大工藤吉の住宅を購入して、移り住みました。それが、この岩倉具視幽棲旧宅内の附属屋です。

 それでも、まだ岩倉が住めるような家ではありません。その後、繋屋と主屋を建て増して、何とか住めるようになったのが、この旧宅です。


(※ 岩倉具視幽棲旧宅HPより。図をクリックすると、拡大します)

 敷地内には、附属屋と主屋、繫屋があり、敷地を取り囲む土塀と表門、通用門があります。表門を入ると、主屋の南庭に通じる中門があり、そこをくぐると、主屋の南側に池庭があり、静かな落ち着きのある空間が広がっています。さらに、附属屋と主屋の間には中庭があり、そっと目を休める空間も用意されていました。後に、岩倉具視を記念する遺髪碑、対岳文庫、管理事務所などが設置されています。

 この岩倉具視幽棲旧宅は1932年3月25日に、国指定の史跡にされました。面積は1553㎡で、こじんまりとした、静かで落ち着きのある居宅です。

 附属屋には、当時の生活ぶりを描いた絵が展示されていました。


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 ここには、岩倉の身の周りの世話をしたり、書き物の手伝いをしたりする家来たちがいました。世話係のうちの一人が、文久3年(1863)1月10日に雇い入れられた西川与三です。彼は、回顧録『岩倉具視公一代絵図』を残しています。上図はその中の一つで、当時の生活の一端を見ることができます。
 
■主屋

 主屋には、簡素ながら、床の間も設置されていました。


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 お正月に訪れたせいか、床の間には鏡餅が飾られていました。掛け軸もなく、香炉もなく、いたって簡素な設えでした。おそらく、当時の生活ぶりもこのように簡素で質実なものだったのでしょう。

 主屋と附属屋との間に繋屋があり、それに面して、中庭があります。


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 この図を見ると、中庭と繋屋は、附属屋と主屋との間に適度な距離を保つ空間として設計されていたように思えます。たとえ、主屋で重要なことが話されていたとしても、これだけの距離があれば、その内容が附属屋まで洩れることはないでしょう。

 主屋は、岩倉具視にとって密談の場であり、情報を整理し、考えをまとめる空間でもありました。それが、廊下と繋屋とによって、附属屋と遮断されているのです。気兼ねなく、話し合うことができたでしょうし、もちろん、安らぎの場にもなっていたでしょう。

 一方、中庭には大きな木もなく、附属屋からも主屋からも一望できるようになっています。障子を開ければ、附属屋から誰がやってくるのか、庭から、誰が忍び込んでくるのか、すぐにも把握できる構造になっていました。もちろん、障子を閉めていても、障子越しに人の気配を感じることもできたでしょう。

 図面を見ると、改めて、繋屋を挟んで、二つの空間が機能別に作られているように思えました。


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 附属屋が、日常生活を維持するための空間だとするなら、主屋は、岩倉が思索を巡らせ、熟考する空間、さらには、客を迎えるための空間として設えられていたのでしょう。

 主屋は、岩倉が来訪者から新たな情報を入手し、語り合い、将来ビジョンを打ち立て、練り上げていくための空間として機能していたように思えます。いってみれば、情報を入手し、交換するだけではなく、情報を蓄積し、それらを踏まえて分析し、対策を構想するための空間です。

 蟄居を強いられた岩倉にとって、何よりも大切な空間でした。

 洛外の北方に蟄居していたとはいえ、岩倉具視は、日本の運命を左右する重要な人物でした。それだけに、なによりもまず、刻々と変化する情勢を把握する必要がありました。家来が洛中に出て情報を収集していたでしょうし、来訪者が新たな情報を携えてやってくることもあったでしょう。それら一切合切が、情勢分析には必要でした。

 当時、日本に開国を求め、欧米の艦船が、次々と近海にやって来ていました。どう対処すればいいのか判断がつかず、幕府も朝廷も右往左往していました。判断を誤れば、隣国の中国のように、欧米列強の餌食になりかねませんでした。

 国内情勢を踏まえた上で、国外からの圧力にどう対応すればいいのか判断しなければならず、幕府、朝廷とも、極めて難しい舵取りが迫られていました。対処できる人物は限られていました。

 そんな中、岩倉具視は、さまざまな種類の情報を入手することができたばかりか、的確な判断力を持ち、さらに、朝廷と幕府との間を取り持つことのできる数少ない公家の一人でした。

 それでは、なぜ、それほど重要な人物、岩倉具視が、洛外の北方、岩倉村に転居せざるをえなかったのでしょうか。

 先ほど、「四奸二嬪」排斥運動を契機に、岩倉らは糾弾され、蟄居を強いられたと述べました。急進的な尊王攘夷派が台頭する中、公武合体派は佐幕派とみなされ、敵視され、弾劾されたのです。

 卓見の持ち主で、行動力のある岩倉具視はとりわけ、標的になりやすかったのでしょう。

 まずは、その来歴と人となりをみてみることにしましょう。

■養子縁組をして、岩倉具視に

 年表によると、岩倉具視は文政8年(1825)9月15日、前権中納言堀河康親の第二子として誕生しました。幼名は「周丸」でした。容姿や言動に公家らしい優雅さがなく、公家の女子たちの間では、「岩吉」と呼ばれていたそうです。天保9年(1838)8月8日、岩倉具慶の養子となったため、9月に名を具視と改めました。

 10月28日に従五位下に叙任され、12月11日には元服して、昇殿を許されました。一人前の公家と認められたのです。翌天保10年(1839)からは、岩倉具視として朝廷に出番(宿直勤番)するようになり、年100俵の役料扶持米を受け取っています。満13歳の時でした(※ 佐々木克、『岩倉具視』、p.7-8. 吉川弘文館、2006年)。

 岩倉家への養子縁組を推薦したのは、朝廷に仕える儒学者、伏原宣明でした。岩倉具視は、幼い頃から伏原に師事していましたが、その伏原の目に留まるほど、抜きんでて秀でた子どもだったからです。 

 伏原は、「その挙動をみると、尋常の童子とは異なる、成長して有用の人物になるにちがいない」と岩倉具慶にいって、養子に迎えるようすすめたそうです。幼い頃から、それだけ異彩を放っていたのです。伏原宣明は両家の間を取り持って、養子縁組を実現させたばかりか、岩倉具慶の名を取って、「具視」と命名しました。

 正装した岩倉具視の写真があります。


(※ 岩倉幽棲旧宅HPより。図をクリックすると、拡大します)

 堂々としとした面持ちを見ると、何事にも動じない意思の強さと豪胆さを見て取ることができます。その風貌や態度からは、太々しさの一方で、思慮深さ、洞察力の高さが滲み出ています。いずれも、激動の時代を乗り切るのに不可欠な要素です。

■下級の公家

 幕末に公家の数は137家ありました。ところが、長い伝統の下、家格は定まっており、朝廷内でどこまで昇進できるかということも、ほぼ固定していました。

 たとえば、公家の最高家格は摂家で、摂政・関白となることができ、宮中の席次も太政大臣よりも上でした。九条、近衛、一条、二条、鷹司の五摂家が相当します。その摂家に次ぐのが清華家で、太政大臣まで昇進できます。菊亭、花山院、久我、西園寺、広幡、三条、徳大寺、大炊御門、醍醐の九清華家です。この清華家の下に、大臣家といわれる中院、三条西、正親町三条の三家が続きます。さらに、羽林家、名家、半家、新家などがあって、それら公家の序列は固定化し、動かすことができなかったのです(※ 佐々木克、前掲、p.8-9.)。

 岩倉家は、この清華家の中の久我家の庶流でした。公家としての家格は羽林家でしたが、江戸初期に独立した新家でしたから、下級の公家だったのです。

 岩倉具視は13歳の時に朝廷に入り、いろいろと見聞を深めた結果、いつ頃からか、朝廷改革を進める必要があると思っていたようです。安逸を貪る公家たちの意識と慣習を改めなければ、開国を迫る諸外国の力に対応しきれないと感じていました。

 何とかしなければならないと切に願っていたとしても、そもそも、下級公家の身分では朝廷内で発言権がありません。朝廷改革を行うには、まず権力者に近づき、信頼を得て、発言を認めてもらえるようにするしか道はなかったのです。

 1853年1月、岩倉具視は鷹司政通の歌道の門人になりました。なんと27歳の時です。宮中に出仕するようになってから、14年も経っていました。それなのに、わざわざ、鷹司政通の門下に入ったのです。もちろん、多少は歌を学びたかったのかもしれませんが、それだけではありませんでした。

 当時、鷹司政通は朝廷で大きな権力を握っていました。

 鷹司家は五摂家の一つで、公家の最高家格でした。しかも、政通は、文政6年(1823)に関白・内覧に就任して以来、安政3年(1856)に辞任するまで、34年もの間、朝廷及び公家社会の中で、最高権力者でした。識見があり、天皇からも公家からも信望の厚い人物だったのです。

 さらに、鷹司は幕府や海外からの情報に通じていました。

 佐々木克氏は、鷹司政通が朝廷の制度や故実に知悉しているだけではなく、夫人の実家である水戸藩を通して、幕府や海外からの情報が政通にもたらされていたことに注目しています(※前掲。p.9-10.)。

 政通の夫人は水戸藩主斉昭の姉でした。水戸藩は『大日本史』を編纂したことで有名ですが、多くの学者を輩出しています。攘夷思想が形成されていたことはもちろんのこと、西洋やロシアへの関心も高く、『諸夷問答』や『千島異聞』などの書が作成されていました。漂流民への聞き取り調査を踏まえ、当時、入手できる限りの情報に基づき、作られたものでした。

 このように、水戸藩は当時、各方面からさまざまな情報を入手できる環境にありましたし、それらの情報を総合的に分析できる人材も揃っていたのです。その水戸藩から、鷹司政通は情報を得ることができる稀有な人物でした。

 鷹司政通が長く、公家の最高位にあったのは、動乱期の朝廷にとって幸いだったのかもしれません。公家でありながら、幕府や海外からの情報を入手でき、識見の高い、得難い人物でした。

 その政通は、岩倉具視について、「眼彩人を射て、弁舌流るゝがごとし、誠に異常の器なり」と評したといわれています(※ 佐々木克、前掲、p.7.)。

 鷹司政通は長年、朝廷の最高位にあって、数多くの才能ある人々を見てきたはずです。その鷹司すら、驚かせたほどですから、岩倉具視がどれほどの才人であったか、どれほど胆力のある人物であったかがわかろうというものです。

 一方、岩倉具視はといえば、政通の門下に入ることによって、多様な情報に接することができ、それらを踏まえ、的確な分析ができるようになっていました。他の公家たちよりもはるかに海外事情にも通じ、冷静な情勢判断を下すことができ、一目置かれる存在になっていたのです。

 略年譜をみると、岩倉具視は、安政元年(1854)に孝明天皇の侍従となり、従四位下に叙せられ、安政4年(1858)には孝明天皇の近習となって、従四位上に叙せられています。

こちら → https://iwakura-tomomi.jp/history/

 振り返れば、岩倉具視が、鷹司政通の歌道に入門したのが1853年でした。その後、わずか1年ほどで孝明天皇の侍従となり、さらに、4年後には近習になっているのです。岩倉具視が思惑通り、着実に、朝廷内で頭角を現していったことがわかります。

 実際、鷹司門下に入ると早々に、岩倉は宿願であった朝廷改革に乗り出しています。

■ペリー来航と朝廷改革

 嘉永6年(1853)6月、ペリー(Matthew Calbraith Perry, 1794 – 1858)が来航しました。強硬な態度に押されるように、幕府はペリー一行の久里浜への上陸を認めてしまいました。その結果、アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡され、翌年の日米和親条約締結に至ってしまったのです。

 危機感を覚えた鷹司政通は、同年12月28日、廷臣に対し、重大な事態となっていることを心得るようにと諭告しました。岩倉具視はその翌日、この諭告に応える恰好で、次のように意見表明をしています。

 「国内の政治は幕府に委任しているが、対外問題は国体(国家の基本体制)にかかわるものであるから、幕府の対応・措置に注意をはらい、万一にも「失当の措置あらば、断然勅令を以て、差止め」る覚悟を固める必要がある」

 そして、次のように具申しています。

 「今は公家に和歌・蹴鞠を奨励するような時節ではない、学習院を拡充・改革して人材の育成に当たることが急務である。そのための費用として朝廷の積立金を充当されたい」
(※ 佐々木克、前掲。p.10-11.)

 このように岩倉具視は鷹司に対して、堂々と、外交への朝廷の主体的な関与、公家の意識改革、人材育成のための学習院の充実といった方策を提言したのです。朝廷改革の一環として、かねてから岩倉が考えていたものでした。

 この意見書に対し、鷹司は同意を示したものの、即答は避けたといわれています。

 そうこうしているうちに、1854年3月31日、日米和親条約が締結されました。この条約では、「通商(貿易)は拒否するが、港は開く」とし、アメリカに対し、下田と箱館(現在の函館)の2港を開港しています(※ Wikipedia 日米和親条約)。

 これについて鷹司は、この条約が「国体」の変更を伴うものではないという理解の下で、天皇が了承したと幕府に伝えています。いわば条件付きで、天皇は日米和親条約を承認したといっているのです。事後承諾せざるをえなかった朝廷の面目を保つための措置であり、幕府の拙速な対応への危機感の表れであり、さらには、勅許を経なかったことへの警告でもありました。

 もっとも、朝廷は、自発的に対外政策を検討することもなく、幕府主導の対外政策に甘んじざるをえないというのが実状でした。組織が硬直化し、時宜を得た意思決定ができなくなっていたのです。幕府もまた、開国を迫る諸国の攻勢にひたすら慌てふためき、度重なる威喝に屈し、国を守るための適切な行動がとれなくなっていました。

■八十八卿列参事件と「神州万歳堅策」

 安政5年(1858年)1月、老中の堀田正睦が、日米修好通商条約の勅許を得るため、上洛しました。これに対し、関白・九条尚忠は勅許を与えるべきと主張しましたが、多くの公卿・公家は反対しています。

 岩倉もまた、条約調印には反対の立場でした。彼は、大原重徳とともに反九条派の公家を集結させ、3月12日に抗議のため、公卿88人で参内しました。この時、九条尚忠は病と称して参内しませんでした。そこで、岩倉は九条邸を訪問し、面会を求めましたが、これも拒否されました。仕方なく、面会できるまで門前で動かずにいたところ、九条が明日、返答すると応じたので、岩倉はようやく九条邸を辞しました。午後10時を過ぎていたといいます(※ Wikipedia前掲)。

 これが、「廷臣八十八卿列参事件」といわれる出来事です。

 老中の堀田正睦は、公家たちの抗議行動の後、3月20日に小御所に呼ばれ、孝明天皇に拝謁しました。天皇は口頭で、「後患が測りがたいと群臣が主張しているので三家・諸大名で再応衆議したうえで今一度言上するように」と伝えています(※ Wikipedia前掲)。

 岩倉らの反対によって、勅許は与えられなかったのです。公家たちは、力を合わせれば、幕府の意向に掉さすこともできることを経験しました。岩倉具視主導で行われた初めての抗議行動であり、見事に勝利を収めました。

 実は、88人の列参から2日後の3月14日、岩倉具視は、政治意見書『神州万歳堅策』を孝明天皇に提出しています。その内容は、次のようなものでした。

 「日米和親条約には反対(開港場所は一か所にすべきであり、開港場所10里以内の自由移動・キリスト教布教の許可はあたえるべきでなかった)」、「条約を拒否することで日米戦争になった際の防衛政策・戦時財政政策」などを記しています。

 その一方で、単純な攘夷論は否定し、次のように記しています。

 「相手国を知るために欧米各国に使節の派遣を主張する」、「米国は将来的には同盟国になる可能性がある」、「国内一致防御が必要だから徳川家には改易しないことを伝え、思し召しに心服させるべき」(※ Wikipedia 前掲)

 これらを読めば、岩倉具視がきわめて的確に、日本の置かれた状況を把握し、国防に配慮した対策を考えていたことがわかります。各所から収集した情報を踏まえ、岩倉が合理的に情勢判断した結果、導かれた意見書でした。

 この政治意見書を読んだからこそ、孝明天皇は、幕府からの使者である老中、堀田正睦に勅許を与えなかったのでしょう。岩倉具視の見解に一理あると判断したのです。

 この頃から、的確な情勢分析ができ、行動力もある岩倉具視が、朝廷内で大きな影響力を持ち始めていたことがわかります。

■日米修好通商条約の締結

 安政5年(1858)6月19日、日米修好通商条約が締結されました。孝明天皇が勅許を与えなかったにもかかわらず、江戸幕府は朝廷に断りなく、勝手に調印してしまったのです。

 実は、日米和親条約の締結以降、幕府とハリス総領事との間で何度も話し合いが行われていました。

 日米和親条約によって、タウンゼント・ハリス(Townsend Harris, 1804 – 1878)が、初代日本総領事として赴任してきました。彼は、安政4年(1857)10月21日、当時の13代将軍徳川家定に謁見して国書を手渡し、通商条約の締結を進めるため、さまざまな働きかけを行っています。

 幕府は、安政4年(1858)12月11日から条約の交渉を開始させました。交渉は15回にも及び、交渉内容に関して双方の合意が得られた段階で、老中堀田正睦が上洛したという経緯がありました。孝明天皇の勅許を得るためでした。

 ところが、先ほどいいましたように、岩倉具視らの抗議行動で、孝明天皇は勅許を与えませんでした。その結果、幕府は朝廷に断りなく、日米修好通商条約を締結してしまったのです。最終的な判断を下したのは、大老の井伊直弼でした。

 6月27日、老中奏書でこのことを知った孝明天皇は、激怒しました。

 それでも、幕府は平然と朝廷の意向を無視し、アメリカに続いて、オランダ(7月10日)、ロシア(7月11日)、イギリス(7月18日)、フランス(9月3日)、と修好通商条約を締結しています。いずれも勅許なく結ばれた条約です。これら一連の条約は、安政五か国条約といわれています。


(※ Wikipedia)

 いずれも、治外法権を認めたうえに、関税自主権はなく、圧倒的に日本側に不利な不平等条約でした。

 公家たちは、当然のことながら、勅許を待たずに調印した条約は無効だと主張しました。朝廷はこれらの条約を認めず、幕府と井伊大老の独断専行を厳しく非難したのです。その結果、朝廷と幕府との間の緊張が一気に高まっていきました。

 外圧に押され、幕府が暴走しはじめました。幕府側は、朝廷に与する人々を次々と、切腹、死罪、追放などの厳罰に処していったのです。これが、安政の大獄といわれる一連の弾圧です。

 やがて、一連の弾圧および不平等条約への反動が来ました。

 安政7年(1860)3月3日、井伊直弼大老が、外桜田邸を出て、江戸城に向かう途中、水戸脱藩浪士17名と薩摩藩士1名によって暗殺されました。桜田門外の変と呼ばれる事件です。

 日米修好通商条約は、国論を二分する大きな案件でしたが、条約締結を決断した井伊大老が暗殺されてしまったのです。政治的混乱は避けられず、国情が不安になる可能性がありました。

 事件直後からその死は秘匿され、幕府には、井伊大老が負傷したので帰邸するとだけ報告されました。実状を知らされなかった将軍・家茂はわざわざ井伊邸に見舞い品を届けさせたほどでした。このようにして井伊大老の死はしばらく伏せられていたのです。

 3月末に井伊直弼は大老職を正式に免じられ、それに伴い、ようやく、その死が公表されました。そして、まるで厄落としをするかのように、同年3月に改元され、万延元年(1860)となりました。

 幕府は朝廷への歩み寄りを見せ、公武合体路線に舵を切っていきます。尊王攘夷派が力を増す一方で、幕府の威信は日増しに低下していきました。幕府にとっては、政情を安定させるための方策が必要でした。尊王攘夷派が台頭してきた情勢の中で、幕臣たちが検討していたのが、孝明天皇の妹、和宮を将軍家茂の夫人に迎えることでした。

■『和宮御降嫁に関する上申書』と破約攘夷

 4月12日、和宮降嫁を希望する書簡が、幕府側から京都所司代に提出されました。孝明天皇はすぐさま、和宮はすでに有栖川宮への輿入れが決定しているとして断っています。当時、朝廷内の大半も降嫁に反対で、交渉は難航しました。

 ところが、孝明天皇はどういうわけか、いったん拒否しておきながら、この件について岩倉に諮問しています。岩倉の意見は、多くの公家たちとは違って、幕府の懇請を受け入れることを勧めるものでした。というのも、岩倉は、幕府の懇請を受け入れれば、朝廷主導の国家体制に踏み出すための第一歩になると判断していたからでした。

 岩倉は、幕府が降嫁を持ち掛けてきたのは、自らの権威が地に落ち、人心が離れていることを自覚しているからだと判断していました。だからこそ、朝廷の威光によって幕府の権威を粉飾しようとする狙いがあると分析していたのです。

 岩倉は、「皇国の危機を救うためには、朝廷の下で人心を取り戻し、世論公論に基づいた政治を行わなければならない」とし、『和宮御降嫁に関する上申書』を提出しています。

 さらに、次のように、和宮降嫁に際しての条件をいくつか付けています。

 「政治的決定は朝廷、その執行は幕府が当たるという体制を構築すべき」とし、喫緊の課題としては、「朝廷の決定事項として「条約の引き戻し(通商条約の破棄)」がある。今回の縁組は、幕府がそれを実行するならば特別に許すべき」(※ 前掲。Wikipedia 岩倉具視)

 岩倉具視は以前から、朝廷が意思決定をし、幕府がそれを遂行する政治体制を理想としていました。朝廷主導の政治体制です。とはいえ、国難の今、まずは公武一体で課題を解決していく必要があるとし、朝廷に無断で締結した一連の条約を破棄するという条件の下で、降嫁は許可してもいいと述べているのです。

 日本の国体を守るには、なんとしてもこれらの不平等条約を破棄しなければならないと岩倉は考えていたのです。

 孝明天皇は、岩倉の見解を受け入れました。朝廷主導の政治体制を実現させるために、まずは、公武一体で臨む必要があると判断し、和宮降嫁の懇請に応じたのです。岩倉の情勢分析、判断力、交渉力に全幅の信頼を置いていたからにほかなりません。

 6月20日、京都所司代を通し、条約破棄と攘夷を条件に、和宮降嫁を承認したことを伝えました。そして、7月4日、四人の老中の連署による「7年から10年以内に外交交渉、場合によっては武力をもって破棄攘夷を決行する」という念書を取り付け、条件についての幕府側の応諾を確認しています。

 孝明天皇は、文久元年(1861)10月20日に和宮が江戸に下向する際、岩倉を勅使として随行させています。下級公家の岩倉が、老中と対等に議論できるようにという配慮からでした(※ 前掲。Wikipedia 岩倉具視)。

■「四奸二嬪」運動と岩倉村での蟄居

 その後、各地で尊王攘夷運動が高まり、公武合体を主張していた岩倉は、いつの間にか、幕府に与する佐幕派とみなされるようになってしまいました。やがて、佐幕派や公武合体派の公家たちは、尊王攘夷派から脅迫され、排斥されるようになっていきます。

 8月16日、三条実美、姉小路公知ら13名の公卿が連名で、岩倉具視、久我建通、千種有文、富小路敬直、今城重子、堀河紀子の6人を弾劾する文書を関白・近衛忠煕に提出しました。岩倉を含む4人の男性と2人の女性は、幕府にこびへつらう「四奸二嬪」として糾弾されたのです。

 当時、とくに京都では尊王攘夷の気運が高まっていました。

 岩倉具視は、「四奸二嬪」の一人として弾劾されました。岩倉を信頼していた孝明天皇でさえかばいきれず、岩倉らは8月20日に蟄居処分、さらに、辞官、出家命令を受けました。不満に思いながらも、岩倉は逆らわずに辞官して出家し、朝廷を去りました。

 出家した後、まずは、西賀茂の霊源寺に移りました。ところが、そこで身に危険が及ぶようになり、さらに御所から遠い、洛西の西芳寺へと移り住んだのです。

 ちなみに、霊源寺は岩倉家の菩提寺でした。
(※ https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/ki017.html

 そして、西芳寺は当時、父、岩倉具慶の甥が住持でした。
(※ http://saihoji-kokedera.com/top.html

 このように岩倉は縁故を頼って、次々と落ち延びていったのです。

 それでも糾弾の声はやまず、9月26日には、洛中に居住することを禁じる命令が出されました。仕方なく洛中を出て、御所から遥か遠方の岩倉村に住まいを移しました。文久2年(1862)10月8日のことです。以後、岩倉村での蟄居生活は、1867年11月8日に洛中帰住が許されるまで5年間も続きました。

 洛中帰住が許されても、岩倉具視はまだ完全に赦免されたわけではありませんでした。

 その一か月後の12月8日、小御所で朝議が開催されてようやく、文久2年(1862)と3年(1863)の処分者に対する赦免が行われたのです。激動のさ中、岩倉具視はようやく本領を発揮し、活躍できるようになりました。

■激動期の改革者

 振り返ってみれば、岩倉は初めて宮中に伺候した時から、朝廷改革の必要性を感じていました。下級公家だったからこそ、組織の硬直化による不毛に気づいたのです。

 さらに、ペリー来航時の幕府の対応を見て、なによりもまず、朝廷の主体的な外交関与、そのための公家の意識改革、人材育成、等々の重要性を痛感しました。そのような見解を文書にし、鷹司に提言していたほどでした。岩倉がわずか24歳の時です。

 岩倉は当初から、朝廷の改革を行わなければ、日本の未来はないと思っていたのです。

 その後も、公家の在り方について、岩倉は沙汰書を出しています。日付は明らかではありませんが、公家の実状を熟知しているだけに、その内容には根本的な改革案が含まれていました。

 たとえば、次のような見解が、沙汰書で披露されています。

 「世襲の禄については、時宜によって減少させられることはあっても、加増を仰せつけられることはない。ただし、この後の奉公によって「功労」があれば、一代限り加禄を賜うべきである。官位についても同様で、「世襲の旧弊」は改革され、今後は人材の能力に応じて任命されるので、そのように心得て「文武」のことに「勉励」するべきだ」とされています(※ 斉藤紅葉、「岩倉具視の新国家像と動向」、伊藤之雄編著『維新の政治変革と思想』、pp.91-92. ミネルヴァ書房、2022年)

 沙汰書を見れば、岩倉が、世襲の官位や禄の制度を改革し、能力に応じた取扱いをして、公家たちの自発性を喚起しようとしていたことがわかります。朝廷を中心に、国体を維持した政治体制にするには、なによりも優秀な公家の育成に努めなければならず、勉学を奨励しなければならなかったからでした。

 一方、欧米列強に伍していくには、外交、防衛にも配慮した政治体制でなければならず、それを支える卓越した識見をもつ優秀な人材の登用が必要でした。新たな秩序の体系は、朝廷側であろうと、幕府側、藩側であろうと、能力の高い意欲ある人材によって構築しなければならないと岩倉は考えていたのです。(2023/3/31 香取淳子)

第54回 練馬区民美術展に出品しました。

■第54回 練馬区民美術展の開催

 第54回 練馬区民美術展が、2023年2月4日(土)から2月12日)まで、練馬区立美術館で開催されました。


(図をクリックすると、拡大します)

 今回の展示作品は254点で、その内訳は、洋画1(油彩画)が59点、洋画Ⅱ(水彩、パステル、版画など油彩画以外)が125点、日本画(水墨画含む)が20点、彫刻・工芸が50点です。

 私は、《4月生まれの母》というF12号の油彩画を出品しました。


(図をクリックすると、拡大します)

 左端が私の作品です。

 会場内のライトが額縁のアクリル面に縦に反射し、ちゃんと撮影できていませんでした。撮影後、画像を確認しなかったのが悔やまれます。

■《四月生まれの母》

 次に、私の作品だけを撮りました。


(油彩、カンヴァス、60.6×50㎝、2022年。図をクリックすると、拡大します)

 こちらも会場内のライトが影響したのでしょうか、画面の色調がうまく反映されていません。全般に白っぽく映っています。改めて、絵を写真撮影することの難しさがわかりました。

 さて、今回出品した作品は、母をイメージして描きました。

 大正13年4月生まれの母はもうすぐ99歳になります。認知症が重症化し、3年ほど前から施設でお世話になっています。最近は施設を訪れても、コロナのせいで、直接会うことはできず、ガラス窓越しにしか会えなくなりました。とはいえ、一目、その姿を見るだけで、元気な様子を確認することができ、安心できます。

 昨年訪れた際も、母は見たところ、元気そうで、声をかけると、なにかしら応えてくれました。

 食欲も衰えず、よく食べているせいか、顔色はよく、しっかりとして見えます。その表情を見ていると、私が誰だかわかっているかもしれない・・・と、微かな期待を抱きたくもなります。

 何度も、「お母さん」と呼びかけてみました。聞こえているのかどうか、その都度、車椅子に座った母の目に光が宿り、瞬間、生気がみなぎるように見えます。それを見ると、やはり、わかっているのではないかと思えてきたりします。

 その時、母はなんとも穏やかで、安らかな表情をしていました。

 母は施設の4階でお世話になっています。その4階のスタッフの方々から、母が「100歳のアイドル」と呼ばれていることを知りました。それを聞いて、涙が出そうになるほど、嬉しくなりました。

 母を暖かく、お世話してくださっているスタッフの方々の様子が思い浮かびます。おそらく、母もまた、認知症になっても笑顔を絶やさず、感謝の言葉を忘れないでいるのでしょう。介護する者と介護される者との関係の一端を垣間見たような気になりました。

 老いて、さまざまな記憶が飛び、母はずいぶん前から、私たちの顔もわからなくなっていました。それでもまだ、人としての基本だけはしっかりと脳裡に刻み込まれているのでしょう。それがスタッフの方々との絆をつないでいるのかもしれません。

 若かった頃の母を思い出します。

 母は何事も、声を荒げることなく、穏やかに受け入れてきました。どんなことがあっても辛抱強く耐え、しかも、笑顔を忘れませんでした。

 そんな母の姿がなんども目に浮かぶようになり、今回、出品した作品の画題にしようと思い立ったのです。

■大正、昭和、平成、令和を生きた母

 大正13年(1924)4月5日に生まれた母は、まもなく99歳になります。大正末期に生まれ、昭和、平成、令和と4つの時代を生きてきたのです。激動の時代を乗り越え、よくこれまで無事に生を紡いでこられたものだと思います。

 母が生まれた1924年は一体、どんな年だったのか、見てみましょう。

 年表を見て驚いたのは、ソビエト連邦の議長だったレーニンが1924年1月21日に亡くなっていたことでした。

 第1次世界大戦(1914-918)の後、飢餓のために各国で革命が勃発し、ロシア帝国をはじめ、4つの帝国が次々と崩壊していきました。

 ロシア帝国の崩壊後、1922年12月30日に誕生したのが、ソビエト連邦です。政権を握る議長の座に就いたのがレーニンでした。そのレーニンの死後、後継を巡る闘争を経て、トロツキー派を制し、1924年1月、最高指導者の地位に就いたのがスターリン(1878-1953)でした。

 その後、第一次大戦後の歪みを残したまま、世界は激動の渦に巻き込まれていきます。

 一方、日本では、母が生まれた前年の1923年9月1日に関東大震災が発生していました。建物は倒壊し、火災は発生し、多くの人々が亡くなりました。首都機能は麻痺し、日本全体が極度の飢えと貧困、不安に陥っていました。

 大変な時代に、母は生を受けていたのです。

 やがて世界は、1939年9月1日、ドイツのポーランド侵攻から始まる第2次世界大戦に突入しました。

 そのころ、母は15歳、県立姫路高等女学校の生徒でした。

 高等女学校を卒業後も2年間、専攻科に通い、卒業するとすぐ、お見合いで結婚しました。かるた会の席でお見合いが行われたそうですから、百人一首を得意としていた母にとっては絶好の見せ場だったのかもしれません。

 お見合い相手の父は、東京帝国大学文学部英文科(現、東京大学)を卒業し、当時、東京で英語の先生をしていました。そのため結婚すると、母は戦時下の東京で暮らすようになりました。東京での母は、日々、爆撃を逃れ、食糧を調達するのに苦労していたようです。

 結婚の際に親がそろえてくれた着物を持って、農家を訪ね、わずかな食糧と引き換え、なんとか生き延びていました。ところが、戦争末期に、終に、栄養失調になってしまいました。妊娠していたこともあって、一人帰郷し、実家で出産しています。終戦後9カ月、1946年5月、第一子である私が誕生しました。

 その後、父は第四高等学校(現、金沢大学)を経て、岡山大学に移動しました。引っ越すたびに、母は慣れない土地で苦労し、子どもたちを育ててきました。まだまだ調度品は整わず、食糧難の時代でした。

 岡山で暮らしていたのは、池があり、築山のある大きな家でした。微かに記憶に残る家が懐かしく、数年前に訪ねてきました。所々、記憶にある断片と合致し、幼い頃が甦ってきます。

 この家は現在、文化遺産に指定されています。

こちら → https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/115694

 門から道路に続く、この白い石道を三輪車で遊ぶ幼い頃の私の写真が残っています。私たちは、この家の一角に間借りして住んでいました。

 ようやく定住するようになったのが、私が幼稚園の頃です。その頃、何があったのかわかりませんが、祖父から戻ってくるようにいわれたのです。以後、父は、家族を実家のある兵庫県に残し、自身は大学のある岡山県に通う生活を送るようになります。

■子どもたちと母

 父の実家に戻った後、しばらくは、祖父母も一緒に暮らしていました。祖父はまだ医者を続けており、家には、家事担当のお手伝いさんや下働きをする男性もいました。私が自転車の乗り方を教えてもらったのは、体格のいいお手伝いさんでした。

 ところが、私が小学校3年生の頃、祖父母は引っ越していきました。薬局を経営する伯母らと共に暮らし始めたのです。このときも、何があったのかわかりません。ただ、祖父母が引っ越すとともに、お手伝いさんも下働きをする男性もいなくなりました。その途端、大きな家ががらんとした空間になってしまいました。それがとても強く印象に残っています。

 家の管理、家事一切を一人でこなさなければならなくなった母はさぞかし大変だっただろうと思います。なにしろ、それまではお手伝いさんと下働きの男性がいてようやく体裁を整えることができたような大きな家でした。

 父は、週に何日間かは勤務のため岡山に出かけ、不在でした。その間、母と子どもたち4人とで暮らさなければならなかったのです。家事ばかりか、防犯の面でも気苦労が絶えなかったのではないかと思います。

 ある時、母が私に、「誰かが入ってきたら、お母さんが抵抗するから、あなたは弟たちを連れて、裏から逃げて」といったのです。そして、玄関にはしっかりと鍵をかけ、その傍らに木刀を置いていました。私が長子で、下にまだ幼い弟妹がいましたから、母は私を助手代わりに使うしかなかったのでしょう。

 昭和30年代の初め、まだ人々は貧しく、物騒な世の中でした。

 小学校4年生の私は、どの経路で弟妹たちを連れて逃げればいいのか、逃げ切れなければどこに隠れれば安全か、などといったようなことを真剣に考えたことを思い出します。

 母は女学校の頃、バスケットボール部の選手でした。体力には相当、自信があったのでしょう。いざとなれば、子どもたちのため、木刀で闘う覚悟をしていたのです。

 4人の子どもを生み、育てた母は、胃潰瘍以外に大きな病を経験することもなく、父が亡くなった後も、気丈に生きてきました。ところが、今、認知症になり、施設のお世話になっているのです。思いもしなかったことでした。

 人が健康で恙なく、平穏に生きていくことがどれほど難しく、得難いものであるかを思い知らされます。

 母を見ていると、この世に生を受け、一人前に成長し、やがて、老いていく、人のライフコースの中で、もっとも過酷なのは、身体の自由が効かなくなった晩年ではないかという気がします。

 ウィーン分離派の画家クリムトは、《三世代の女性》という作品の中で、老年期の悲哀を見事に表現しています。

■クリムトの《三世代の女性》(The Three Ages of Woman, 1905年)

 グスタフ・クリムト( Gustav Klimt, 1862 – 1918)は、帝政オーストリアに生まれた画家です。日本では、《接吻》(The Kiss, 1907-08年)という作品が有名ですが、それ以前に描かれた作品の中で、気になったのが、《三世代の女性》です。


(油彩、カンヴァス、180×180㎝、1905年、ローマ国立近代美術館所蔵)

 画面中央に年齢の異なる女性が3人、描かれています。おそらく、子、母、祖母という設定なのでしょう。幼児期、青年期、老年期の女性の姿がそれぞれ、裸体で描かれているのです。とても珍しい画題でした。

 子どもを抱いた女性は慈愛に満ちた表情を浮かべ、子どもの頭に頬を寄せています。子どももまた安心しきった様子で女性に身を委ねています。理想的な母と子の姿が描かれており、平和で幸福の象徴に見えます。

 この作品を観て、多くの観客がまず、目を引かれるのはこの部分でしょう。

 実際、後に作成されたポスターや複製画では、母と子の部分だけが切り取られ、作品として出回っています。興味深いことに、《母と子》として、この作品はよく知られているのです(※ https://www.aaronartprints.org/klimt-thethreeagesofwoman.php)。

 そもそも、この作品のタイトルは《三世代の女性》です。クリムトがこの作品を通して描こうとしたのは、子、母、祖母といった三世代の女性だったのです。ところが、この作品はクリムトの意図に反し、「母と子」の部分にスポットが当てられてしまいました。

 一体、なぜなのでしょうか。

 それについて考えてみようと思い、人物が描かれている箇所を拡大してみました。


(前掲。部分)

 母子が幸せそうに肌を密着させている様子は、限りなく優しく、暖かく描かれており、観る者の気持ちを和ませてくれます。見ているだけでほほえましく、幸せな気分になれます。

 ところが、左の高齢女性は一人佇み、老醜をさらしています。この姿を見たとき、見るべきではないものを見てしまったような後味の悪さが残りました。

 女性の肌はたるんで萎び、乳房は垂れています。手といわず脚といわず、静脈が浮きあがり、腹部が異様に突き出ています。しかも、女性は、手で髪の毛を引き寄せて顔を覆っており、その表情を見ることはできません。まるで老いを恥じて、顔を隠そうとしているかのようです。

 クリムトはひょっとしたら、老醜そのものをリアルに描こうとしていたのでしょうか。

 母と子の身体は、それほど克明には描かれていなません。ところが、高齢女性の身体は、苛酷なまでに老衰した状況がリアルに描かれています。今まさに生のさ中にいる母と子の姿に比べ、老いさらばえ、死を待つばかりの高齢女性との対比が、なんともいえず残酷に思えました。

■ロダンの《老いた娼婦》(The Old Courtesan, 1901)

 《三世代の女性》の中の高齢女性の身体は、ロダン(Auguste Rodin, 1840-1917)の《老いた娼婦》(The Old Courtesan, 1901)を参考に描かれたといわれています。1901年にウィーンで開催された19世紀美術展覧会に出品された作品です。
(※ https://www.gustav-klimt.com/The-Three-Ages-Of-Woman.jsp


(ブロンズ、50.2×27.9×20.3㎝、16.8㎏、1885年鋳造、メトロポリタン美術館所蔵)

 これは、かつては美しかった女性の老いた姿を表現した作品です。立体なので、こちらの方がリアルで、老衰の残酷さがいっそう際立っています。

 クリムトは展覧会に参加して、この作品に非常な感銘を受け、翌年、ロダンに会うことが出来た際にはとても喜んでいたそうです。

 このエピソードからは、クリムトは《三世代の女性》で、老衰のリアルを表現しようとしていたと考えざるをえません。

 だからこそ、敢えて、高齢女性とは距離を置いて、母と子を配置し、その密着ぶりが際立つような画面構成にしたのでしょう。

 ちなみにこの作品は、1911年のローマ国際美術展で金賞を受賞しました。クリムト独特の装飾的な美しさの中に、誰しもいつかは迎える老衰という深刻なテーマが、ライフコースの視点を取り込み、巧みに表現されていたからだと思います。

 ところが、その後、この作品は、「母と子」の部分だけが切り取られ、ポスターや複製画として再生産されています。大多数の観客は、快く感じられるものを見たがるという傾向を優先したからでした。

 この一件からは、市場原理に従えば、作者の制作意図とは異なる形で作品を再生産せざるをえないことが確認できたといえます。

■画題としての老いた母

 《4月生まれの母》を描こうと思い立った際、私は悩みました。99歳にもなろうとする母の外見は老衰そのものでした。そのような姿を描くことは、逆に、母を冒瀆することになるのではないかと思ったのです。なによりも、そのような姿を、私は描きたくもありませんでした。

 施設でお世話になっている姿は、確かに、現実ではありますが、母の真実の姿ではありません。

 これまで目にしてきた母の姿の断片が、いくつもの記憶となって、私の脳裡に残っています。それらを反芻しているうちに、母の姿とは、見えている肉体や姿形ではなく、さまざまな記憶、一切合切を含めたもの、すなわち、母が生きるのを支えてきた精神こそ、母の真の姿ではないかという気がしてきたのです。

 いろいろ思いを巡らせているうちに、母を描くとすれば、そのような母の生を貫く精神ではないかという結論に辿り着きました。

 つまり、子どもを守るためには、闘いも厭わない気丈さ、さまざまな困難に遭遇しても、それに耐え抜く強さ、どんな時も笑顔を絶やさない穏やかさ、優しさ・・・、母が生きてきた過程で私が垣間見てきた母の精神を、母のリアルな姿として表現したいと考えたのです。

 この作品で、そのような思いを表現できたかどうか、わかりません。ただ、悲しみと慈愛、忍耐と寛容、安らぎと穏やかさ、優しさ・・・、といったようなものを、顔面の色調や表情などに込めたつもりです。

 背景はもちろん、桜の木です。


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 入間川沿いに毎年、見事な桜が花を咲かせます。開花した部分とまだ蕾の部分とが混在している時期の桜を取り上げてみました。

 桜花には可憐で、健気で、潔い美しさがあります。母の根本精神を突き詰めれば、そこに到達するような気がします。

 ふと見上げると、真上に桜の木の大きな枝が伸びていました。


(図をクリックすると、拡大します)

 輝かしく開花した花弁に、ふいに風に吹き付け、はらりと頭の上に落ちてきました。淡いピンク色をした可憐な花びらです。

 画面の母の顔の上にも、この桜の花びらを散らそうと思いました。母はこの桜花のように、老いてもなお初々しいところがありました。

 女学校を卒業してすぐに結婚した母は、一度も社会に出て、働いたことがありません。世間馴れしておらず、もちろん、世間知もなく、いつまでも少女のようなところがありました。

 かつてはそのような母を頼りないと思い、不満に思ったこともありました。ところが、理想を軽視し、即物的な実利優先の世の中になっていくにつれ、世間馴れしていない母の子どもとして生まれ、育てられたことを、とても幸せだと思うようになりました。

 しばらくは、この母を画題に、描いていこうと思っています。(2023/2/27 香取淳子)

実相院で振り返る日本の中世

■ 岩倉実相院

 京都市左京区岩倉上蔵町に、天台宗寺門派の門跡寺院・実相院があります。2023年1月5日、所用で京都を訪れた際、次いでに行ってみることにしました。地下鉄烏丸線の沿線の国際会館駅で24系統京都バスに乗り換え、終点の岩倉実相院で下車すると、目の前に実相院が見えます。


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 さらに近づくと、表門は四脚門でした。


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 落ち着いた佇まいの中に、歳月を重ねた重厚感と格式の高さが感じられます。見ていると、次第に身が引き締まる思いがしてきました。

 四脚門は、鎌倉以降、将軍家の正門や勅使門、格式のある寺家の正門などに使われたといわれます。

 パンフレットを見てみると、江戸時代初期、天皇家とのゆかりが深まり、「享保5年(1720)、東山天皇の中宮・承秋門院の大宮御所の建物を賜った」と書かれています。江戸時代になって、承秋門院(東山天皇の中宮)の御殿の一部が移築されたものだったのです。

 今日まで伝わっているのは、この四脚門と実相院の車寄せ、客殿でした。そういわれてみると、この表門には、奥ゆかしく、典雅な趣が感じられます。実相院はまさに、現存する数少ない女院御所なのです。

 確かに、中に入ると、どの部屋にも襖絵があって、壮観でした。とくに印象深かったのが、杉戸に描かれた襖絵です。

 内部は撮影できませんので、実相院HPの画像をご紹介しましょう。


(実相院HPより。図をクリックすると、拡大します)

 これは仏間のある牡丹の間に設えられた襖絵です。杉戸に、竹林の中で虎が寝そべっている姿が描かれています。そもそも、竹に虎というモチーフは取り合わせのいい図柄で、古来、縁起がいいとされてきました。

 仏間の杉戸に描かれた襖絵を見ていると、私には、この虎が仏間を守護しているように思えました。

両側には、虎を囲むように、何本もの竹が描かれています。まっすぐに伸びた竹の合間から風が吹き抜けてきて、竹林のしめやかな空気を運んできているような気がします。襖絵を通して、さり気なく、自然が室内に取り入れられているのです。

 何も襖絵に限りません。風や水の流れを感じ、四季折々の変化を愛でるための設えは、さまざまな所に見られました。

 たとえば、石庭です。

 苔むした巨石の周りに刻まれた同心円状の線が、水面に広がる波紋に見えます。その先に設置されたアーチ状の造形物が、水面を跨ぐ橋に見えます。


(実相院HPより。図をクリックすると、拡大します)

 写真は2022年11月26日に撮影された石庭です。庭を囲む木々がさまざまに色づき、砂利の白さに興を添えています。手前には庭を望む桟敷があり、ここから四季折々にもたらされる自然の美しさを堪能していたのでしょう。

 優雅な生活の一端が偲ばれます。

 典雅な佇まいは、門跡寺院だからなのでしょうか。

■ 門跡寺院

 実相院は昔から、岩倉門跡とか、岩倉御殿とも呼ばれていました。実相院が岩倉にある門跡寺院だからでしょう。

 門跡寺院とは、天皇家の血を引く方々が、その寺院の住職を務める格式の高い寺院を指します。現在、17の門跡寺院があります。17のうち、11の寺院が天台宗で、真言宗は5、浄土宗は1です(※ https://enman-inn.com/about/)。

 天台宗の寺院の比率が圧倒的に高いことがわかりますが、天台宗には山門派と寺門派があります。

 第3世天台座主の円仁(慈覚大師、794-864)と、第5世天台座主の円珍(智証大師、814-891)には、仏教解釈に違いがありました。やがて、その末流が対立するようになり、以下のような経緯で、2派に分かました。

 正歴4年(993)、円仁派が比叡山の円珍派の坊舎を焼き払ったので、円珍門徒は山を下り、園城寺に入って独立しました。そこで、寺門派と呼ばれるようになりました。一方、山に残った円仁派は山門派と呼ばれています。

 その寺門派の三門跡とされていたのが、円満院、聖護院、実相院です。

 「実相院はとくに室町時代から江戸時代にかけて、天台宗寺門派では数少ない門跡寺院の随一とされていました」(※ 実相院HP)と説明されています。

 寺門派では数少ない門跡寺院の中で、実相院は室町時代から江戸時代にかけて、「門跡寺院の随一とされていた」というのです。

 なぜ、実相院が「門跡寺院の随一」だったのでしょうか。

 実相院HPに次のような記述がありました。

 「江戸時代初期に入寺した、義尊(ぎそん)は足利義昭の孫にあたります。義尊の母、法誓院三位局は義昭の子高山(法厳院)との間に義尊(実相院門主)と、常尊(円満院門主)をもうけ、さらに後陽成天皇(一説によると後水尾天皇)との間にも 道晃親王(聖護院門主)をもうけたため、義尊は皇子同様にして後陽成天皇の寵愛を受けました」(※ 実相院HP)

 この記述からはまず、江戸時代初期、天台宗寺門派の三門跡の門主を務めたのが、法誓院三位局の息子たちだったことがわかります。次いで、なかでも実相院の門主である義尊は、時の天皇の寵愛を受けており、多大な支援を得ていたことが示されています。

 その結果、義尊が門主であった時期に、経典や古典籍の大規模な収集、書写、整理などが行われています。それが、実相院の文化的価値を高め、「室町時代から江戸時代にかけて」、「門跡寺院随一」という評価を得ていたのでしょう。

■ 義尊の貢献

 実相院門主の義尊は、天皇や将軍家と深い繋がりがありました。豊かな人脈の中で、諸学、諸芸が磨かれていく一方、義尊は実相院の文化的基盤を整備し、その確立に尽力していたのです。

 次のような記述があります。

 「両天皇、東福門院、三位局など、義尊を取り巻く江戸初期の宮廷生活との深い関わりの中で実相院の文化的基礎は一層確かなものとなりました。義尊は失われた古文書、古記録を熱心に書写したため、重要なものが多くのこされています」(※ 実相院HP)。

 さまざまな写本の中には、義尊筆と書かれたものが数多く残っているそうです。義尊自らが率先して書写し、古典籍、資料などの保存に努めていたのです。

 なにも文化の保存に努めただけではありませんでした。応仁の乱で類焼した実相院の復興に力を尽くし、その後の興隆を図ったのも義尊でした。

 そもそも、門跡寺院は代々、皇室から多大な支援を受けて栄えていました。その中でもとくに実相院が、室町時代から江戸時代にかけて、「門跡寺院の随一」とされていたのは、義尊が門主だったからでした。

 義尊は焼失した建物を復興し、文化財を保存し、資料の充実を図りました。

 先ほどもいいましたように、義尊は、大乗院大僧正義尋の子で、15代将軍足利義昭の孫にあたります。由緒正しい出身であったばかりか、仏教をはじめ諸学、諸芸に通じており、見識のある天皇と親密に交流できる資質を備えていました。

 とくに後水尾天皇とは親しかったようで、実相院には天皇の宸翰が残されています。


(実相院HPより。60.6×49㎝、図をクリックすると、拡大します)

 「忍」の一字です。何年に書かれたものかはわかりませんが、後水尾天皇の不満がこの一字に込められているように思えます。義尊が門主を務めた実相院だからこそ、このような内面を晒すような書が残されているのでしょう。後水尾天皇が義尊に親しみをおぼえ、気を許していたことがわかります。

 一方、義尊の書状も残されています。


(https://objecthub.keio.ac.jp/ja/object/319より。図をクリックすると、拡大します)

 何が書かれているのか、文字を判読することはできませんでした。説明によると、これは、女官を通して渡した、「後水尾上皇の幡枝への遊興に際し、義尊がそのもてなしを依頼されたことへの返書」だそうです(※ 上記URL)。

 このように、義尊は、天皇あるいは上皇との良好な関係を通し、経典、古典籍、王朝文化に関わる資料などを数多く保存し、整理していました。その結果、実相院の文化的価値を高めたことは注目に値します。

 ところで、実相院のご本尊は、不動明王です。

■ 不動明王

 ご本尊は、鎌倉時代に作られたとされる木造立像の不動明王です。


(※ 実相院HPより。図をクリックすると、拡大します)

 この写真ではちょっとわかりづらいですが、右目を大きく見開き、左目は瞼が垂れて半開きになっています。左右非対称の形相がなんとも恐ろしく、威圧感があります。

 これは、「天地眼」と呼ばれる様式の造形です。

 天台宗の安然(841-915)が記した「不動十九相観」には、不動明王には十九の外見上の特徴があり、この「天地眼」はその一つだと記されています。

 一見、異様な印象を与える不動明王の両眼は、閉じた左目で災いを退け、開いた右目で善を保つことを表しているといわれています。迷いの世界にいる衆生を見守り、正しい仏の道に導くための造形なのです。(※ http://fukagawafudou.jugem.jp/?eid=2574)

 このような造形は、おそらく、不動明王が大日如来の化身とみなされているからでしょう。

 大日如来と不動明王はまさに異体同心、ある時は柔和で慈悲深い姿、また、ある時は怖い忿怒の形相をした不動明王の姿となって、迷える衆生を導き、救済しているように思えます。

 Wikipediaでは、不動明王について、次のように説明されています。

 「密教の根本尊である大日如来の化身であると見なされている。大日大聖不動明王、無動明王、無動尊、不動尊などとも呼ばれる。(中略)真言宗では大日如来の脇侍として、天台宗では在家の本尊として置かれることもある」(※ Wikipedia)

 不動明王の由来を知ると、天台宗寺門派の門跡寺院である実相院に、本尊として不動明王が置かれているのは当然といえば、当然のことでした。

 それでは、創建の経緯から、見ていくことにしましょう。

■ 実相院門跡の創建

 実相院は寛喜元年(1229)に創建されたとされていますが、実際は、それ以前から存在していたようです。

 「寺伝によると実相院は静基(1214~59)によって開基されたというが、すでに見てきたように近衛家に関連する門跡としてそれ以前より成立していた。静基は鷹司兼基(1185~1259以降)の子で、近衛基通の孫である。寛喜元年(1229)3月7日に覚朝(1159~1239)より伝法潅頂を受けた。正元元年(1259)閏10月26日に46歳で示寂した(『寺門伝記補録』巻第16、僧伝部巳 非職高僧略伝巻上、前権僧正静基伝)。なお近世期の実相院の相承系譜や『諸門跡譜』、明治時代の『愛宕郡寺院明細帳』『京都府寺誌稿』では静基を開基とすることで一致するものの、開創年については詳かにしていない。なお現在実相院における寺伝の開基年である寛喜元年(1229)は静基が伝法潅頂を受けた年である」
(※ 「実相院」http://www.kagemarukun.fromc.jp/page013j.html)

 実相院は近衛家に関する門跡として以前から存在していたというのです。いくつかの資料にあたってみても、静基が開いたことでは一致しているが、開基年は詳らかにされていないと書かれています。

 それでは、実相院のHPでは、どのように記述されているのでしょうか。HPを開いてみると、次のように書かれていました。

 「実相院が門跡寺院となったのは、静基(じょうき)僧正が開山された、寛喜元年(1229年)のことで、そのころは北区の紫野にありました。その後、京都御所の近くに移り、ここ岩倉に移ったのは応仁の乱の戦火を逃れるためであったと言われています」(※ 実相院HP)

 興味深いことに、ここでは「静基僧正が開山された」と書かれており、「創建された」とは書かれていません。

 さらに、『京都 実相院門跡』には、実相院の創建について、次のような記述があります。

 「鎌倉時代中頃には創建されていたといわれている。寺名については、寛喜元年(1229年)に鷹司兼基の子静基が園城寺に入壇し、実相院と号したことによるという。実相院が門跡寺院となったのも、この初代静基が関白近衛基道通の孫であったことによるところが大きい。そのため鎌倉時代以降、寺領も増加した」(※ 宇野日出生、「洛北岩倉と実相院門跡」、『京都 実相院門跡』、p.43、思文閣出版、2016年)

 以上を総合すると、静基が伝法潅頂を受けた寛喜元年(1229)に、その号にちなみ、実相院が門跡寺院として創設されたといえます。つまり、静基が伝法灌頂を受け阿闍梨位を得て、正式な僧侶と認められた段階で、実相院は、静基の号を冠した門跡寺院として誕生しているのです。

 場所も当初は現在の岩倉ではなく、北区柴野にありました。その後、京都御所の近くに移り、さらに、応仁の乱(1467-77)が激しくなった頃、戦火を逃れるために、岩倉に移っています。

 それでは、なぜ、岩倉の地が選ばれたのでしょうか。

 先ほどもいいましたように、実相院は岩倉門跡とか、岩倉御殿とも呼ばれていました。このような呼び名からは、実相院が岩倉の地に深く根を下ろしていたことが示唆されています。

 案内図を見ると、実相院の周辺には、大雲寺、岩倉神社、岩倉具視幽棲旧宅、いわくら病院などが図示されていました。


(図をクリックすると、拡大します)

 それぞれ、至近距離にあります。私が実際に訪れたのは、実相院と岩倉具視幽棲旧宅だけですが、調べてみると、大雲寺と実相院は相互に深く関わり合って、この地域の歴史を紡いできたことがわかりました。

 なぜ、岩倉の地が選ばれたのかを知るには、まず、実相院と大雲寺との関係を調べてみる必要があるでしょう。

■ 実相院と大雲寺

 先ほどご紹介した宇野日出生氏は、実相院と大雲寺との関係について、次のように記しています。

 「(実相院が)岩倉に移転した要因は、応仁の乱の戦火から逃れるためだった。戦場となった町中から岩倉へ難を避けざるをえなかったのである。建武三年(1336)9月3日付光厳上皇院宣案によると、実相院は南北朝時代から大雲寺の事務を管掌していたことが知られる。このような理由から、実相院が岩倉に移ったと考えられるのである」(※ 前掲)

 なぜ、岩倉なのかといえば、「実相院が南北朝時代から大雲寺の事務を管掌していた」からだというのです。

 また、「実相院」(http://www.kagemarukun.fromc.jp/page013j.html)には、以下のように同様の記述があります。

 「それまで大雲寺は同寺中に位置した平等院が大雲寺寺務職を兼帯しており、平等院は後に円満院門跡へと昇格したが、元弘・建武年間(1331-38)に円満院門跡の園城寺への移転にともなって大雲寺寺務職を解かれていた(湯本、著作年未詳)。この頃円満院門跡から円胤(?~1355)が還俗して南朝側にはしるなど、京洛を実効支配していた幕府・北朝側にとって、円満院門跡より、北朝天皇の護持僧となっていた実相院門跡増基の方が信に値することもあったため、実相院が大雲寺を管領することになったと考えられる」(※ 上記URL)

 なぜ、実相院が大雲寺の事務を管掌するようになったかといえば、幕府・北朝側にとって実相院門跡の方が信頼できると思われていたからだというのです。というのも、円満院門跡の一人が還俗して南朝側に走ったことがあるからでした。

 ここに、南北朝時代の抗争の一端を見ることができます。

 一方、大雲寺側の資料によると、次のように書かれています。

 「大雲寺中に位置した平等院は、円満院門跡となり、大雲寺寺務職を兼帯していたが、元弘・建武年間(1331~38)に園城寺への移転にともなって大雲寺寺務職を解かれた(『京都府寺誌稿』)。代わって大雲寺を管領したのが実相院門跡である。実相院は建武3年(1336)9月3日に大雲寺および同寺の荘園を光厳上皇より安堵されており(「光厳上皇院宣案」実相院文書〈『大日本史料』6編3冊〉)、以後実相院による大雲寺への支配がはじまる」
(※ 「大雲寺」http://www.kagemarukun.fromc.jp/page003j.html)

 それまで大雲寺の事務を管掌していた平等院が円満門跡となって、建武年間に園城寺に移転したのに伴い、実相院が大雲寺を管領するようになったという経緯は、先ほどの記述と同様です。

 興味深いのは、光厳上皇から「大雲寺および同寺の荘園」を「安堵(幕府などが土地の所有権などを認める)」されたと記述されていることでした。

 1336年9月3日、光厳上皇の命によって、実相院は大雲寺を管掌するばかりか、同寺が所有していた荘園までも所有し管理することになったのです。

 実は、その4カ月ほど前の1336年5月、足利尊氏は光厳天皇を奉じて上京しています。そして、光厳天皇の弟を即位させて光明天皇とし、北朝を立てていました。一方、後醍醐天皇は12月に吉野に逃れ、南朝を誕生させています。

 幕府の後ろ盾を得た光厳上皇の力が強くなっていました。

 ちょうどそのころ、実相院が大雲寺を管掌し、その所有地までも所有することになっていたのです。南北朝の対立が鮮明になっており、北朝側寺院として権勢を高め、支配系統を強化する必要がありました。

 1336年に実相院が大雲寺よりも優位に立ち、明らかな支配関係が発生していますが、その背後には幕府・北朝の意向があったといっていいでしょう。

■ 実相院による大雲寺支配

 南北朝の誕生とともに、大雲寺は実相院による支配を受け始めました。

 大雲寺の年表には、次のような記述があります。

 「実相院が今出川小川から応仁の乱の戦火を避けて大雲寺(成金剛院跡地)へ一時避難し以後今日に至る。実相院による大雲寺統治が長く続く」(※ 「大雲寺」年表)

 大雲寺を管掌していたのが縁で、実相院は岩倉の地に移ってきました。応仁の乱の戦火を逃れるため、というのがその理由でしたが、その後、管掌を介して支配力を強めていきました。

 一方、大雲寺側は実相院に対し、大きな不満を抱くようになっていました。
 
 ところが、文亀2年(1502)8月6日、実相院門跡義忠(1479~1502)が将軍足利義澄の命によって殺害されると、実相院領は収公(幕府に没収)され、8月9日、将軍夫人の日野氏領となりました。

 その結果、大雲寺に対する実相院門跡の支配を強めようとする動きに陰りがみえ、「大雲寺衆徒は一時的に大雲寺内の自治勢力回復に成功」しています(※「大雲寺」年表)。

 義忠は将軍継承者の一人であったため、将軍職を奪われることを恐れた義澄の命によって殺害されたといわれています。門主が殺害されたばかりか、実相院領まで収公されてしまったので、一時、実相院の勢力は落ちてしまいました。

 政権争いの厳しさを感じさせられますが、これは、実相院から実効支配されていた大雲寺衆徒には朗報だったのかもしれません。

 宇野氏は、「大雲寺は中世以降、実相院の支配管理となってはいたが、大雲寺衆徒が実相院の下知に応じなかったこともたびたびあった」と記しています(※ 前掲)。

 大雲寺はその後もさまざまな抗争に巻き込まれ、何度も焼き討ちにされました。元亀4年(1573)には明智光秀に攻められ、灰塵に帰したほどですが、その都度、再興されています。

■ 義尊が再興した大雲寺

 大雲寺がようやく安定したのは江戸時代、足利義尊が大雲寺を再興してからでした。寛永18年(1641)の大雲寺年表には次のように記されています。

 「義尊(足利15代義昭の孫)旧伏見城の遺材を充てて大雲寺本堂を再興する。本堂は入母屋造桟瓦葺で桁行5間、梁間5間の建物である。棟札に寛永18年(1641)の年記あり。本堂の四方に縁をめぐらせ、内部は前方2間を外陣とし、引違網入格子戸で結界して奥を方3間の内陣と脇陣にし、伝統的な密教寺院本堂(天台様式)の平面形式を踏襲」(※ 大雲寺年表)

 前にも述べましたが、義尊は実相院を復興させていました。その上、大雲寺も再興させていたのです。見識を持つ人物が資金や資材を動かせる力を持った時、数多くの文化財が失われることなく、保存されることが示されています。

 明暦元年(1655)には大雲寺鐘楼が建立されています。

 安永8年(1779)頃の大雲寺は次のようになっていました。


(※ 日文研データベース「北岩倉大雲寺」、図をクリックすると、拡大します)

 大雲寺の境内の部分をクローズアップしてみましょう。


(※ 日文研データベース「北岩倉大雲寺」部分。図をクリックすると、拡大します)

 本堂の右側に見えるのが、鐘楼です。その右に八所神社と書かれた建物が見えますが、
これが岩倉神社です。

 実は、この岩倉神社が大雲寺のパワースポットなのです。

■ パワースポットとしての岩倉神社

 大雲寺の創建は971年4月2日で、年表には、次のように書かれています。

 「円融天皇が比叡山延暦寺講堂落慶法要の砌、当山に霊雲を眺められ日野中納言藤原文範(ふみのり)を視察に遣わす。文範・真覚(藤原佐里)を開祖として大雲寺創建。佐里卿「大雲寺」の掲額を書く」(※ 大雲寺HP)

 比叡山延暦寺で法会が行われた際、五色の霊雲が立ち昇りました。それを見た天皇が、日野中納言文範を視察させたところ、霊雲の谷(岩倉)に辿り着き、出会った老尼から、その地が観音浄土の地と知らされました。伽藍建立には恰好の土地だったことがわかったというのです。

 そこで、視察した文範と真覚上人(藤原佐里)を開祖とし、その地に大雲寺が創建されました。

 大雲寺を建立するにあたっては、鎮守社として、境内に石座(いわくら)神社を移しています。岩倉の産土神を大雲寺の鎮守のために移動させたのです。

 古来、日本には、巨大な岩石を“磐座(いわくら)”と称して祭壇として使用したり、巨岩そのものを崇拝する習慣がありました。

 たとえば、平安京を造営する際、桓武天皇は、京都の東西南北にある“磐座(いわくら)”を掘り出し、その下に一切経を埋めています。
(※ https://japanmystery.com/z_miyako/rakuhoku/iwakura.html)

 一切経とは仏典を集成したもので、大蔵経ともいいます。その経典を霊験あらたかな磐座(いわくら)に納めることによって、京都を守護させるというのが桓武天皇の計略でした。

 北岩倉、東岩倉、西岩倉、南岩倉など、東西南北に四つの岩倉が設置されたのは、風水思想の四神相応に基づいたものでした。日本古代の磐座信仰を踏まえ、風水思想を取り入れ、桓武天皇は京都に安寧をもたらすシステムを築いていたのです。

 971年に大雲寺が創建されると早々に、岩倉神社が境内に移されています。古代の磐座信仰を踏まえ、大雲寺の安寧を願って移設されたのです。

 平安京は、さまざまな防衛ラインが敷かれた都市でした。陰陽道に基づいた仕掛けがあるかと思えば、仏教の法力によって鎮護を行う仕掛けもありました。その一つが、“四つの岩倉”と呼ばれるパワースポットでした。

 大雲寺には創建とともに、パワースポットとしての霊験あらたかな岩倉神社が置かれていました。古代天皇制の名残りといえます。

 その古代天皇制に揺らぎがみられたのが、実は、鎌倉時代でした。

■ 両統迭立

 鎌倉時代後半、皇統が2つの家系に分裂し、両統迭立の状態にありました。両統迭立とはそれぞれの家系から交互に君主を即位させていくという仕組みです。

 なぜ、「両統迭立」という仕組みが生まれたのか、その経緯をみていくことにしましょう。

 後嵯峨天皇(1220-1272)は、後深草天皇がわずか4歳の時に譲位し、上皇となって院政を敷きました。ところが、後嵯峨上皇は、その後、後深草上皇の皇子ではなく、亀山天皇の皇子である世仁親王(後の後宇多天皇)を皇太子にし、治天の君(天皇家の家督者として政務の実験を握るもの)を定めないまま崩御しました。

 それが、その後の北朝・持明院統(後深草天皇の血統)と南朝・大覚寺統(亀山天皇の血統)の確執のきっかけとなりました。

 鎌倉幕府は、後鳥羽上皇が挙兵した承久の乱(1221)以降,皇室を監視し、皇位継承に干渉してきました。幕府による朝廷掌握は徹底し、後嵯峨上皇による院政の頃は、ほぼ幕府の統制下にあったといわれています。

 膠着状態に陥っていた皇位継承問題の打開を図ったのは、幕府でした。幕府が、両統交互に即位するという案(両統迭立)を出し,両統の間に協定が成立したのです。 建治元年(1275)のことでした。

 天皇家の系図を見ると、後深草天皇(89代)から亀山天皇(90代)、後宇多天皇(91代)から伏見天皇(92代)といった具合に二つの皇統から交互に君主が出ています。


(宮内庁HPより。図をクリックすると、拡大します)

 この図を見ても、後宇多天皇(91代)から後醍醐天皇(96代)までの6代は、両統から交互に即位していたことがわかります。ところが、後醍醐天皇の代で、この仕組みが機能しなくなり、南朝と北朝に分かれてしまいました。

 というのも、後醍醐天皇が自分の息子に皇位を継承させようとし、両統迭位を求める幕府を打倒しようとしたからでした。計画は事前に幕府に発覚し、後醍醐天皇は隠岐に流されてしまいます。

 ところが、後醍醐天皇は早々に隠岐から脱出し、幕府打倒の綸旨を諸国に発布します。それに応じた足利尊氏や新田義貞などの功労で、鎌倉幕府は滅亡しました。1333年のことです。

 その翌年(1334年)、後醍醐天皇は京都に帰還して年号を建武と改元し、天皇中心の政治体制を復活させようとしました。いわゆる「建武の新政」です。

 後醍醐天皇は天皇を中心とした社会に戻そうとしたのですが、元弘の乱後の混乱を収拾することができず、また、公家を優遇した政策が武士たちの反感を招きました。その結果、建武3年(1336)、足利尊氏との戦いに敗れ、政権は崩壊しました。

 後醍醐天皇は吉野に逃れて南朝を立て、そこで天皇を中心とする政権を樹立しました。一方、武家側に依存している北朝は、足利尊氏は光厳天皇の後、光明天皇を立てました。

 以上が、「両統迭立」から南北朝誕生に至る経緯です。

 実相院が大雲寺を管掌するようになったのは、ちょうどこの頃のことでした。社会が二分され、北朝と南朝の対立が先鋭化していた時期だったのです。

 武士勢力が台頭し、古代天皇制に消滅に向かっていた時期でもありました。

■ 武士勢力の台頭と古代天皇制の崩壊

 光厳天皇は北朝1代目の天皇で、光明天皇は2代目でした。以後、北朝は5代まで続き、北朝6代の持明院統の後小松天皇(100代)からは北朝系で統一されていきます。これで、ようやく南北朝が統一され、皇統が一つになったのです。

 この時も解決に向けて動いたのは幕府でした。

 明徳3年(1392)、足利義満は、南朝第4代天皇・後亀山天皇との間で、「明徳の和平」を締結しました。それに従って、 後亀山天皇は京都へ赴き、大覚寺で神器を後小松天皇に渡しました。南朝が解消される形で、南北朝合一は成立したのです。

 こうして約56年に亘った南北朝の分裂は終結しました。

 この時、南朝に任官していた公家は、一部を除いて北朝への任官は適わず、公家社会から没落していきました。また、南朝には、鎌倉幕府に不満を持つ武士たちが集まっていましたが、後醍醐天皇が公家を優遇した政策を取ったので、彼等は失望を募らせ、去っていきました。

 南北朝の時代は、古代天皇制が終焉していく過程であり、その一方で、支配階級としての武士の基盤が確立されていった過程だったと捉えることができるでしょう。

 後醍醐天皇は、天皇が絶対的権力を持つ古代天皇制を復活させようとしていました。ところが、政治制度としての天皇制はすでに、摂政から院政へと変容し、天皇は事実上、最高の支配者ではなくなっていました。

 もちろん、律令制はもはや機能しなくなっていました。荘園を所有するのは貴族や寺社だけではなく、武士も参入してきており、中には大土地所有者になっている者もいました。土地所有の公有制は解体され、私有制に移行していたのです。

 さらに、荘園を侵略する者が絶えなくなっていました。それを封ずるため、源頼朝は、律令制の枠組みを壊すことなく、守護・地頭制を組み込み、全国の治安警察権、土地管理権、徴税権などを掌握したのです。

 後醍醐天皇は鎌倉時代末期、武家政権への抵抗を試み、古代天皇制を復活させようとしましたが、わずか2年半でその試みは終了しました。社会構造が変化し、武家政権への移行は避けられなかったのです。

 今回、訪れた実相院は、北朝側に立っていました。だからこそ、室町時代から江戸時代にかけて、隆盛を誇ることができたといえるでしょう。(2023/1/28 香取淳子)

Idemitsu Art Award 2022展:リアルとファンタジーの合間に

■Idemitsu Art Award 2022展の開催

 国立新美術館で今、「Idemitsu Art Award 2022展」が開催されています。開催期間は2022年12月14日から12月26日まで、開催時間は10:00-18:00(入場は17:30まで)です。

 これまで「シェル美術賞」をして知られていた美術賞が、2022年4月に改称され、「Idemitsu Art Award」となりました。名称が変わっても、次代を担う若手作家を奨励するという目的に変わりはありません。

 これまで通り、40歳までの若手作家を対象に作品募集され、その結果を反映した展覧会、「Idemitsu Art Award 2022展」が今回、実施されました。

 実施概要は以下の通りです。

こちら → https://www.idemitsu.com/jp/news/2022/220603.html

 改称された「Idemitsu Art Award 2022展」には、650名の作家から応募があったといいます。昨年と比べ、作家は142名増え、応募作品は128点増えて860点にも上っているのです。

 これまでと違って、グランプリの賞金が300万円に増額(これまでは100万円)され、25歳以下の出品が無料(1点まで無料、2点目以降は有料)に改良されていたからでしょう。若手作家がこの好機を見逃すはずはありません。改良によって、若手の応募意欲が高まっていたことは明らかでした。

 さて、審査員は上記URLに示された5名ですが、そのうち2名が、今回、新たに審査員に加わりました。福岡市美術館学芸員の正路佐知子氏と、とシェル美術賞2010年度の審査員賞を受賞した画家の青木恵美子氏です。

 新たな視点を加えて審査された結果、グランプリを含む8点の受賞作品、46点の入賞作品が選出されました。今回、展示されていたのは、これら54点の作品です。全般に、優しい色遣いの作品が多いように思えました。

 それでは、会場に入って、鑑賞することにしましょう。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 40歳以下を対象にした公募展のせいか、会場で見かける観客も若い人が多かったような気がします。

 2022年度のグ受賞作品は8点で、作者および作品概要は以下の通りです。

こちら → https://www.idemitsu.com/jp/enjoy/culture_art/art/2022/winners.html

 それでは、まず、これらの受賞作品の中から、印象に残った作品を何点か、ご紹介していくことにしましょう。

■印象に残った作品

●グランプリ作品:《せんたくものかごのなかで踊る》

 グランプリに選ばれたのが、竹下麻衣氏の、《せんたくものかごのなかで踊る》という作品です。

こちら →
(岩絵具、水干絵具、膠、箔、カンヴァス、162×140㎝、2022年、図をクリックすると、拡大します)

 会場でこの作品を見た時、何が描かれているのか、すぐにはわかりませんでした。

 得体の知れないものが重なり合い、波打つように、画面を覆っています。形からも、色からも、これらのモチーフが一体、何なのか、推し測ることすらできませんでした。なにしろ、モチーフとモチーフが重なり合って、認識の根拠となる形が崩れてしまっているのです。

 しかも、色と色が溶け合って、境界線すら曖昧です。曖昧模糊とした画面の中で、かろうじてモノとして認識できるのが、細い黒の線で描かれたワイヤーでした。

 もっとも、ワイヤーだということはわかっても、それが「せんたくものかご」だという認識には至りません。作品のタイトルを見て、ようやく、このワイヤーが「せんたくものかご」だとわかった次第です。

 認識の盲点を突かれたような気がしました。

 この作品を見た時、タイトルも見ていたはずなのに、漢字で書かれた「踊る」という言葉に強く印象づけられ、平仮名で書かれた他の言葉を認識していなかったのです。タイトルの中の、「せんたくもの」、「かご」、「なかで」という言葉は、平仮名で書かれていました。そのせいで、すっかり認識のフィルターから洩れてしまっていたのです。

 象形文字から派生した漢字は表意文字なので、一目でその意味を理解できます。ところが、平仮名は表音文字なので、見ただけでは意味を理解できません。

 そのような漢字(表意文字)と平仮名(表音文字)の特性の違いに着目し、作者はタイトルの表記に工夫を凝らしたのかもしれません。タイトルのほとんどは平仮名表記にされていました。そうすることによって、観客がすぐにも理解してしまうことを阻む一方、唯一、漢字表記された「踊る」という言葉を強く印象づける効果があったのです。

 さて、このワイヤーが、「せんたくものかご」なら、奇妙なモチーフの群れは、洗濯物かごに投げ込まれた衣類だということになります。これで、ようやく、描かれているモチーフが、洗濯物かごに入れられた布類だということがわかりました。

 なんと、日常生活の中で、ともすれば見落とされがちな洗濯物が、この作品の画題だったのです。

 このような画題の選び方もまた、観客の認識の盲点を突く要素の一つだったと思います。とくに、作品の中に何らかの意味、あるいは、メッセージを見出そうとする観客にとっては、意表を突かれる画題だったでしょう。

 観客には一般に、作品化される画題は、作者にとって何らかの価値があるはずだという思い込みがあります。それもまた、認識の盲点を突く要素になっていたと思います。

 タイトルにしても、画題にしても、この作品には認識の盲点を突くようなところがありました。何が描かれているのか、すぐにはわからなかったのもそのせいだという気がします。

 さらに、ワイヤーかご以外に、具体的なモノとして同定できるモチーフはありませんでした。色彩についても形状についても、ワイヤー以外はすべて、曖昧模糊としています。

 画面は淡いベージュとグレーを基調として色構成されていました。そんな中、得体の知れない黒い塊が3か所、上から順に適度な間隔を空けて配置されています。これもまた、何か具体的なものと同定することはできません。

 黒い塊は、乱雑に動き出そうとする不定形のモチーフを抑え込む役割を果たしているように思えます。同様に、下方には茶色の塊が配置されており、はみ出そうとしているモチーフをどうにか抑えているように見えます。つまり、濃い色を使って描かれたこれらの物体は、ワイヤーとは別に、秩序のない画面を引き締めていたといえます。

 容積を超えて、ワイヤーかごに投げ込まれた洗濯物は、元の姿を変え、得体の知れない物体に変化せざるをえないのでしょう。確かに、うず高く積み上がった高みからワイヤーかごを大きくはみ出し、床に達してしまったものがあれば、ワイヤーの隙間からはみ出そうとしているものもありました。

 一方、上方には、緑の濃淡で曲線がいくつか、ランダムに描かれています。衣類の模様にも見えますが、乱雑な中にも、そこから軽やかな動きが生み出されていました。下方には、ドット模様の衣類がワイヤーからはみ出し、襞を作っています。さらに、画面の左には、ワイヤーから大きくはみ出し、うねるような格好で、床に達している大きな衣類が描かれています。

 そのような洗濯物の様相を、作者は「踊っている」と捉えました。洗濯物に人格を与え、「踊る」と形容したところに、作者の若い感性が感じられます。

 誰からも見向きもされないような洗濯物を擬人化して、言葉を与え、価値づけようとしている気がしたのです。

 洗濯物に着目し、それらを放埓な様相で表現し、「踊る」と捉えて作品化した作者の着眼点が面白いと思いました。ありふれた日常のものを作品化しようとする試み、それを、認識の盲点を突くような形で表現し、観客に訴求しょうとする意欲に若さが感じられました。

 この作品と似たような雰囲気を感じたのが、《bathroom 1》です。

●鷲田めるう審査員賞:《bathroom 1》

 鷲田めるう審査員賞に選ばれたのが、石川ひかる氏の《bathroom 1》です。

こちら →
(油彩、木炭、パステル、カンヴァス、130.3×162㎝、2022年、図をクリックすると、拡大します)

 タイル壁に沿って、バスタブ、シャワーヘッド、排水口、ブラシなどが描かれています。それらを見ると、浴室内が描かれていることは明らかなのですが、全体にぼんやりとしています。すべてがまるで水蒸気の漂う空間に閉じ込められているかのように見えます。

 ほとんどのモチーフはぼんやりと淡いグレーで描かれ、オフホワイトで覆われた画面の中に封じ込められています。それだけに、色彩のあるモチーフはことさらに強く印象づけられますが、その形状や描かれ方が不自然でした。

 たとえば、バスタブと排水栓をつなぐ線が赤で描かれています。あまりにも細くて、うっかりすると、見落としてしまいそうになります。この赤い線の一方の端は、バスタブに張られた湯の中に深く沈み込んでしますが、片方の端は水栓を経由して、バスタブに固定されているのです。それが不自然で、違和感を覚えました。

 さらに、バスタブ内の湯は、群青色と水色とに分けて表現されています。風呂の湯なのに、なぜ二色に分けて描かれているのかわかりませんが、いずれも海水の色で描かれています。しかも、表面には無数のさざ波が立ち、波打っています。当然のことながら、海を連想させられますが、やはり、不自然で、違和感を覚えさせられます。

 描かれているものがどれも不自然で、稚拙に見えます。

 たとえば、タイル壁の目地なのに、線がまっすぐに引かれておらず、間隔も不揃いです。バスタブの形状も水道栓も、シャワーヘッドも何もかも、リアリティに欠け、バランスに欠け、稚拙としかいいようのない描き方なのです。

 ところが、やや引いて見ると、水蒸気の立ち込めた浴室の様相が、見事に描き出されていることに気づきます。

 稚拙に見えていた浴室内の光景ですが、引いて見てみると、逆に、蒸気のこもった浴室のむっとした空気、バスタブから人が出た後の湯の揺らぎといったものが巧みに表現されているように思えてきたのです。

 それにしても奇妙なのは、群青色と水色で描かれたバスタブの湯でした。まるで陸に近い海と遠い海とを描き分けているようにも思えます。群青色パート、水色パートのどちらにも表面に波頭が立ち、うねっているように描かれています。

 浴室という狭い密室空間が描かれているにもかかわらず、ごく自然に、波立つ海を連想させられてしまいました。

 水面が波立っているのは、ひょっとしたら、誰かがバスタブから立ち去った後だからかもしれません。あるいは、強風が海面を撫ぜ、さっと通り過ぎた後だったのかもしれません。

 誰もいない浴室内の光景が描かれているだけなのに、ヒトの気配が感じられ、海が連想されました。リアルとファンタジーが混在した世界に迷い込んだような気分になっていたのです。

 なんとも不思議な作品でした。

 この作品には、観客の気持ちをアクティブにするための仕掛けが潜んでいたように思います。どのように表現すれば、どのような効果が得られるのか、作者は熟慮を重ねて制作したのではないかという気がするのです。

 たとえば、総てのモチーフは、ぼんやりと曖昧に描かれるだけではなく、不自然な形態で捉えられていました。稚拙に見える表現でしたが、逆に、観客の想像力は限りなく刺激されます。

 それは、おそらく、稚拙で、不自然に描かれた作品を見ると、観客は半ば条件反射的に、欠損部分を補おうとし、そのための想像力を働かせるからでしょう。

 こうしてみてくると、観客が、作品とアクティブに関わらざるをえないような仕掛けを、作者は用意していたのではないかと思えてきます。すなわち、稚拙で、不自然にモチーフを表現するという戦略です。

 画面の不完全さが、観客を刺激し、無意識のうちに、作品への関与度を高めていくのではないかという気がします。その結果、画面には描かれていない世界までも頭の中で創り出し、想像の世界を堪能するようになるのではないかと思いました。

 それでは、次に、色彩の美しさが印象に残った作品をご紹介しましょう。

●桝田倫弘審査員賞:《プランツとプラネット》

 桝田倫弘審査員賞に選ばれたのが、檜垣春帆氏の《プランツとプラネット》です。

こちら →
(油彩、ペンキ、アクリル、パステル、木炭、カンヴァス、162×130.3㎝、2022年、図をクリックすると、拡大します)

 会場でこの作品を見た時、まず、画面の色調が艶やかで、美しいのが印象的でした。とはいえ、これまで取り上げてきた作品と同様、この作品も、何が描かれているのか、すぐにはわかりませんでした。

 画面の7割ほどが、オフホワイトと淡いベージュで構成された巨大な空間で占められています。その淡い枯れ葉色の上に、濃い枯草が散乱し、辺り一帯を覆っています。風が吹いて、枯れ葉や枯草が砕けて飛散していったのでしょう、周辺にはその残骸が散っていました。

 興味深いことに、いくつもの光線が、その巨大な空間の中を、自由自在に弧を描きながら、縦横無尽に駆け巡っています。まるで散乱する枯れ葉を繋ぎ留めようとしているかのように見えます。

 裏側にいくつか光源があるのでしょうか、背後から輝いています。そして、下方の群青色の空間との繋ぎ目辺りに、発光体のようなものがいくつか描かれており、画面全体に華やぎが感じられます。

 画面の3割ほどを占める下方の空間は、まるで夜空のようでした。群青色の空間が広がり、星が点々と煌めいています。

 上方の黄色をベースとした空間と、下方の群青色をベースとした空間は、ほぼ補色関係になっていて、互いの色を際立たせています。これまでご紹介してきた作品とは違って、配色のコントラストが明確で、しかも艶がありました。ワクワクするような色の刺激があります。

 ちなみに、この作品のタイトルは、《プランツとプラネット》です。

 まず、通常は仰ぎ見ている宇宙が、この作品では下方に配置されています。しかも、その形状が、まるで宇宙から見た地球のように、プラネットとして描かれているのです。

 一方、そのプラネットと接するようにして描かれたのが、枯れ葉や枯草が舞い散る空間でした。プランツが浮遊する空間が、まるで無限に広がる宇宙のように表現されているのです。私たちが認識しているプラネット(宇宙)とプランツ(地上に生息)との位置関係が真逆に表現されていたのです。

 それにしても、なんと奇妙な空間なのでしょう。

 通常、「プランツ」と聞いて連想するのは、緑色の葉や草、大地に根を張った木々ですが、ここで描かれているのは枯れ葉や枯草でした。枯れて、大地に戻る寸前の植物が、巨大なエネルギーによって放散され、うねりながら、無限の巨大空間の中で舞い散っている様子が描かれていました。

 プランツといいながら、緑色の葉や草(生)ではなく、枯れ葉や枯草(死)が飛散する様子が描かれていました。そして、プランツとして表現されている空間には、いくつもの光線が弧を描きながら、上下左右を巡っています。

 アースカラーで覆われ、黄昏を感じさせる広大な空間に、光の環や発光体のようなものが随所に描かれていたのです。それは、まるで枯草(死)を蘇らせ、プランツ(生)として、プラネット(地球)に送り返そうとするエネルギーのように見えました。

 まさに、輪廻転生の現象のように思えました。

 枯れ葉や枯草は、巨大な宇宙空間で舞い散って、砕け、やがて、下方のプラネットに落下して新たなプランツとして誕生するというメッセージが込められているように思えたのです。

 最初、この作品を見た時、ワクワクするような高揚感を覚えました。この作品の色調に、静かで落ち着いていながら、華やかな煌めきがあったからです。

 そして、どういうわけか、その煌めきの中に、生と死の繰り返しの円環現象を支える永遠のエネルギーと、そこから放たれる美が感じられたからでした。

 以上、受賞作品の中から印象に残ったものをご紹介してきました。次に、入選作品の中から1点、ご紹介しておきましょう。

 入選作品は46作品でした。

こちら → https://www.idemitsu.com/jp/enjoy/culture_art/art/2022/list.html

 これら入選作品の中から印象に残った作品を1点、ご紹介しておきましょう。

●桝田倫弘審査員の推薦:《集合住宅》

 桝田倫弘審査員に推薦されて、入選したのが、アルト・クサカベ氏の《集合住宅》です。

こちら →
(アクリル、岩絵具、パネル、和紙、130.4×162.1㎝、2022年、図をクリックすると、拡大します)

 この作品を見た瞬間、軽やかで都会的な色遣いに、強く印象づけられました。とくに惹かれたのが、繊細な空の色です。黄色や橙色など暖色系の淡い色に、白やセルリアンブルーを程よく加えた色調に、ほのかな陽光の輝きが感じられました。

 ぎらぎらと照りつけるわけではなく、どんよりと曇っているわけでもなく、心地よい明るさと陰りをもたらしているこの色遣いに、都会的な軽やかさと繊細さが表現されていました。

 その空を背景に、建物の設計図のようなものが、赤や黒、グリーンなどの細い線で描かれています。骨組みを示す線の細さが、空の色の繊細さを巧みに引き出していました。線描きならではの簡潔さが、周囲の色を引き立てる効果を生み出していたのです。

 重量感のあるコンクリートの建物が、輪郭線だけで表現されています。それも、赤、黒、青、緑などのごく細い線で、建物の構造がきわめてシンプルに示されていたのです。無駄なものが削ぎ落されていたせいか、画面からは、洗練された切れ味と都会的なセンスが感じられました。

 透けた建物の背後には林が見え、池が見えます。さらに、得体の知れない三角形、あるいは、長方形の造形物も見えます。このように、自然の中に幾何学的なモチーフをはめ込むことによって、人工的で現代的なテイストが加えられていました。

 手前には、建物を支えるコンクリートの杭が数本、立っています。通常、一直線に並べられるはずですが、ここでは、そうではなく、不揃いで、間隔も不均等です。そこに、堅固さの中に柔軟性があり、粗雑さも感じられます。なんともいえない人間臭さが醸し出されていたのです。

 現代的で都会的でありながら、田園の味わいがあり、人がいないのに、その気配が感じられます。そして、暖色系を交えて描かれた背後の空は、幻想的でありながら、リアリティがありました。

 不思議な空間が創出されていました。

 風も空気も通さないコンクリートの厚い壁を描かず、透明にし、背後の林や池が見えています。都会を象徴する建物の中に田園風景を取り込むことによって、風通しの良さと爽やかさを表現することができていました。

 背後に描かれた空は、朝とも午後とも夕刻ともつかない、暖色と寒色の入り混じった色で描かれていました。想像力をかき立てられる一方、ほどよいリアリティが感じられ、気持ちが和む作品でした。

■リアルとファンタジーの合間に

 展示作品の中から、印象に残った作品を4点、ご紹介してきました。いずれも、リアルとファンタジーの合間に作品世界が表現されていたのが、特徴です。

 その中でも理解しにくかったのが、《せんたくものかごのなかで踊る》と《bathroom 1》でした。どちらも、一見しただけでは、何が描かれているのか、作者が何をいおうとしているのか、皆目、わかりませんでした。

 モチーフの形状が曖昧で、モチーフとモチーフ、モチーフと背景との境界も判然としていません。しかも、画面の大半がオフホワイトに近い、淡いアースカラーで覆われていました。そのせいか、ファンタジックで幻想的な空間が描き出されていました。

 画面の色調はやさしく、モチーフの形態もぼんやりとしており、観客を和やかな気持ちにさせてくれます。その一方で、まるで解釈を拒否するかのような奇妙な空間でもありました。作品世界を解釈するための手がかりが欠けていたのです。

 ただ、《せんたくものかごのなかで踊る》には、タイトルの付け方にヒントがあり、《bathroom 1》には、稚拙で不自然に見える描き方にヒントがありました。安直な解釈を回避し、観客の想像力を駆使させるような仕掛けが込められていたのです。

 一方、《プランツとプラネット》と《集合住宅》には、まず、色彩に惹きつけられました。深い色合いに関心を覚えて画面を見ているうちに、ごく自然に、それぞれの作品世界に到達することができたのです。色彩が手掛かりとなり、モチーフの断片がヒントとなって、画面を解釈し、作品世界を堪能することができました。

 今回、若手の作品を何点か見てきて、改めて、リアルとファンタジーの合間にこそ、表現の真実が潜んでいるのではないかという気がしてきました。(2022/12/27 香取淳子)

昭和レトロな玉川温泉は体験型ミュージアムか?

■玉川温泉

 2022年11月4日、埼玉県嵐山史跡博物館に出かけた帰りに、埼玉県比企郡ときがわ町にある玉川温泉に立ち寄りました。たまたま手にしたチラシに、「お肌つるつるの美肌の湯」と書かれていたのを見て、ふと、訪れてみる気になったのです。

こちら → https://tamagawa-onsen.com/spa/

 これを見ると、玉川温泉は、地下1700メートルの秩父古生層から湧出するアルカリ性の単純泉で、ph値は10と書かれています。

 調べてみると、温泉はph値が高いほどアルカリ性、小さいほど酸性という区分されており、中間値はph6以上7.5未満で、日本の温泉で最も多いのはこの中性の温泉だそうです。

 玉川温泉はph値が10なので、相当アルカリ性の高い泉質だということがわかります。アルカリ性の温泉は皮脂を落とし、角質を柔らかくする効果があるので、「お肌つるつる」になるのでしょう。

 玉川温泉に就いての情報を確認し、カーナビの案内に従って、ときがわ町に向かいました。次第に人家が少なくなっていく山の中で、カーナビが案内終了を告げました。車が何台か駐車している場所が近くに見えたので、おそらく、ここが玉川温泉なのでしょう。ところが、温泉があるような気配はどこにもありません。

 下車して少し歩くと、古民家のような建物が見えてきました。

■古民家かと見まがう玉川温泉

 どう見ても、高齢者が住んでいるとしか思えないような建物です。家の前には、廃棄物のような生活用品が放置されています。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 いまではほとんど見かけることもない色褪せた郵便ポスト、小さな三輪自動車、そして、手前左には錆びついた自転車が置かれています。なんとも奇妙な取り合わせです。置いてあるものがいずれも、時代がかっているのです。

 一瞬、場所を間違えたかと思いました。ところが、郵便ポストの背後に、「玉川温泉」の看板が見えます。やはり、ここが玉川温泉のようです。

 確認するため、看板に近づこうとすると、その前に、まるで行く手を阻むかのように、古びたタイル張りの、洗い場のようなものが置かれていました。

こちら →
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 高さからいって、どう見ても、洗い場ではありえません。中を覗き込むと、鎖のついた栓もついています。どうやらお風呂のようです。こんなに小さなお風呂があるのかと驚くほどの小ささですが、昔はこれで足りていたのでしょう。

 古ぼけたタイル仕様のお風呂のすぐ近くに、「玉川温泉」の看板が掛けられていました。こちらは、赤地に白で書かれた「玉川温泉」の文字が鮮明で、印象的でした。

 近づいて見ると、看板だと思っていたものが、実は、垂れ幕でした。ロールスクリーンのように、下部にウエイトバーがついており、風が吹いても巻き上がらないように固定されています。これなら、遠くから見て、看板だと思ってしまったのも無理はありません。

 よく見ると、「玉川温泉」の脇に、小さな文字で、「昭和レトロな温泉銭湯」とキャッチコピーが書かれています。

 このキャッチコピーを読んでようやく、この温泉の位置づけがわかりました。廃棄物にしか見えなかった古臭い生活用品は、なんとこの温泉をアピールするためのオブジェだったのです。

■昭和レトロな温泉

 放置されているようにみえた昭和のオブジェは、見たところ、昭和30年代のモノのように見えます。日本がとりあえず戦後復興を終え、ようやく経済成長期に入った頃、人々の生活を支えてきたさまざまな生活用品です。

 それが、今、こんな山の中の温泉をアピールするための道具として使われているのです。改めて、「昭和レトロな温泉銭湯」の文字が気になってきました。

 奥の方に、「玉川温泉」と書かれた提灯が見えます。

 その提灯の奥には、さきほど見たのとはまた別の小さな三輪自動車が置かれ、背後に「アサヒビール」と「ニッポンビール」の看板が見えます。看板でありながら、購買者の気持ちを煽ろうとするところがなく、ただ、白い鉄の板に赤い文字だけが書かれています。実に、素朴です。

 そういえば、ここに置かれているモノ、一つ一つが素朴で、飾り気がなく、質素でした。

 商品名を書いただけの看板、ようやく一人が浸かれるだけの小さなお風呂、おもちゃのような三輪自動車、いずれも生活に必要な機能だけを求め、最低限の仕様で製品化されていました。慎ましく、必死に生きていた当時の人々の生活の一端を見たような気がしました。

 実需主導でモノが流通していた頃の質実な生活に、気持ちが動かされました。戦後の復興期から経済成長期にかけて、これらのモノが、どれほど多くの人々の生活を支え、未来への希望をかき立てていたのでしょうか。

 未来への不安を払拭できなくなっている令和の今、もはや昭和を振り返る手掛かりすら失ってしまっています。昭和レトロをアピールする玉川温泉にやってきたのですから、せっかくの機会を無駄にせず、昭和30年代にタイムスリップし、当時を振り返ってみることしたいと思います。

■一世を風靡したミゼット

 道路側から玄関を眺めると、また別の光景が見えてきました。

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 画面左側に、手押しポンプの井戸が見えます。水道が普及するまで、人々はこのようにして井戸から水をくみ出していたのです。その傍らに小さなタイル張りの洗い場が見えます。人々はここでしゃがみ込んで洗い物をし、炊事の支度をしていたのでしょう。

 ここからは、「フクニチ スポーツ」や「毎日新聞」の看板も見えます。

 画面中央に、最初に見たのとはまた別の三輪自動車が置かれています。特徴のある形はおそらく、ミゼットでしょう。子どもの頃、テレビCMでよく見ていた記憶があります。

 懐かしい思いに駆られ、スマホで調べてみると、確かに、このおもちゃのような車はダイハツ・ミゼットでした。1957年8月1日に販売開始されたダイハツのミゼットDKA型だったのです。

 初代ミゼットをこんなところで見かけるとは思いもしなかったので、驚きました。

 もっと近づいて、見てみましょう。

こちら →
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 写真を見てわかるように、前面に風防こそ装着されていますが、屋根と背面は幌仕立てです。ドアも付いておらず、一人しか乗れません。今から65年も前の車ですが、あまりにも簡単な造りなので、驚いてしまいました。

 車としては最低限の仕様です。それでも、リヤカーよりも速く、人の労力を軽減できるので重宝され、日常の運搬車として活用されていました。

 このダイハツ・ミゼットのテレビCMに起用されていたのが、当時、お笑い番組で人気のあった大村崑です。「ささやん」と呼ばれていた佐々十郎とコンビで、ミゼットを紹介していたのを、今でもすぐに思い浮かべることができます。

 大村崑のとぼけた風貌と所作が面白く、毎回、飽きもせず真剣に見ていたことを思い出します。子どもたちの中にはそのセリフと振りを真似するものもいて、人気はうなぎのぼりでした。大村崑は、ミゼットのCMには最適のお笑いタレントでした。

 愛らしいデザインのミゼットもまた、人々に愛され、小回りを利かせ、街中で生活物資を運んで走り回っていました。是非とも、当時を振り返ってみたいと思って、ユーチューブを検索してみると、当時のCMを見つけることができました。

 ちょっと、見てみることにしましょう。

こちら → https://youtu.be/bEBmAGdAhHk
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 学生服を着た大村崑と佐々十郎が、掛け合い漫才風に、ミゼットを紹介しています。「一番小さい車」「一番小回りの利く車」「一番安全な車」「一番安い車」「現代の車」と佐々十郎が立て続けにミゼットの効能を述べると、その都度、大村崑が可愛らしい振りをつけて、「ミゼット」と呼応していきます。

 止めどなく「ミゼット」と連呼し続ける大村崑を打とうとした佐々十郎を、大村崑は見事にかわして空振りにさせ、最後は大村崑が佐々十郎の額を打つといった展開で終了します。二人の持ち味を活かしたコント形式のCMでした。

 続くCMでは、漫才師の芦屋小雁が単独で登場し、ミゼットに2人乗りが出来たと告げています。小雁もまた当時、人気のお笑い芸人でした。背後に男女二人が乗ったミゼットが見え、運転席から男性がミゼットの改良点を述べています。

こちら → https://youtu.be/9T84GUSGofs
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 小雁がしきりに、「二人乗りの丸ハンドル」、「ダイハツ生まれのアメリカ育ち」とアピールしています。実は、ダイハツで開発されたミゼットが、アメリカ輸出向けに改良されたのが、このミゼットMPでした。アメリカでも街中での小口輸送向けにミゼットの需要が高まっていたのです。

 そのミゼットMPが日本向けに右ハンドル仕様で改良したのがMP2で、その後、鋼板製のクローズドリーフになったのがMP5型です。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 ミゼットの発展経緯を見てくると、玉川温泉の入り口で見た三輪自動車は、1962年12月に販売開始されたミゼットMP5型だったことがわかります。

 改めて、最初に見た三輪自動車を見てみると、ライトが二つ、サイドミラー、ワイパーが装着され、ドアもついています。DKA型よりもはるかに進歩していることがわかります。調べてみると、形状からいえば、ここに置かれているのは、1969年8月に販売開始されたMP5改良型でした。

 ミゼットは当時、軽自動車の分野で市場を席捲していました。やがて、3輪から4輪への流れに押されるようになり、1971年12月には最後の受注分の生産を完了しています。そして、1972年1月31日には販売を終了しました。経済成長時、中小零細企業の躍進を牽引した功績を残し、ミゼットは幕を閉じたのです。

 それでは、玉川温泉の中に入ってみましょう。

■シンガー製足踏みミシン

 玄関を入り、フロントに向かう靴脱ぎ場に置かれていたのが、足踏みミシンです。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 足踏み台にはSINGERと刻印されています。母がこのような足踏みミシンを踏んで、さまざまな洋服を作ってくれていたことを思い出します。

 シンガー社製のミシンはすでに明治40年頃、日本に輸入され、販売されていたようです。軍服を大量生産する必要に迫られ、ミシンが大量に輸入されていたといわれています。

こちら →
(※ https://nihonvogue.com/article/detail.html?id=191&c=sewingより。図をクリックすると、拡大します)

 この目録には、「家庭及職業用シンガーミシン目録」と書かれています。家族の洋服を作る必要に迫られ、業務用ばかりか家庭用ミシンも輸入されていたことがわかります。近代化に伴い、着物から洋服への移行期を迎えていたからでしょう。

 その後、戦後の復興期を経て、産業化が進み、昭和30年代になると、多数のホワイトカラーや技術者が生み出されていきました。それに合わせて、核家族化が進み、家庭を守る存在として主婦が重要な役割を担うようになっていきました。

 家事、育児、家族の健康管理、衣服管理、家計管理など、企業戦士としての夫を支えるための後方支援として、主婦は、内なる働きを求められるようになっていったのです。家庭のさまざまな用務を果たすための情報基盤となったのが、『主婦の友』をはじめとする主婦向けの雑誌でした。

 家族の衣服に関しても、主婦は雑誌を手掛かりに、自分でミシンを踏み、手作りをしていたのです。

 母は、『主婦の友』を定期購読していましたが、それは付録に型紙がついていたからでした。付録の中から気に入った型紙を選び、子どもたちの服を作り、自分の服も作っていたのです。

 たとえば、1954年3月号の『主婦の友』の付録はこのようなものでした。

こちら →

 表紙に若尾文子と松島トモ子が起用され、大きく「実物大型紙つき 通勤通学服新型集」とタイトルが付けられています。これを見ると、母が付録の洋服特集を見せてくれて、どれがいいと尋ね、私が望んだ服を作ってくれていたことを懐かしく思い出します。

 足踏みミシンを見ると、カタカタという音とともに、当時の母の姿がまぶたに浮かびます。

 さて、ミシンに気を取られてしまっていましたが、背後の壁に、福助のロゴの入った看板が掲げられています。

 福助といえば、明治、大正、昭和と足袋メーカーとして名を馳せた会社です。子どもの頃、この看板をいろんな場所で見かけた記憶があります。

■福助の円形看板

 この福助の看板は、円形のホーロー製の看板です。かつて戸外に掛けられていたのでしょう。所々、錆びが見られます。先ほどの写真から看板部分を拡大してみましょう。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 円周の内側に沿って、上部に「名實共ニ日本一」、下部に「福助足袋」と、いずれも右から左に手書き文字が書かれているので、いかにも年代物といった感じがします。

 この福助人形は、子どもの頃、いろんな所でよく見かけました。今回、ずいぶん久しぶりに見たのですが、福々しい顔と丁寧な所作は懐かしく、今見ても、気持ちが和みます。時代を超え、社会を超えて、ヒトの気持ちを和ませる何かがあるのでしょう。

 実は、この福助人形は、創業者親子のミッションを込めて作られていました。

 1900年(明治33)、彼等はこの福助人形を新たに商標登録をするとともに、社名まで「福助」に変更したという経緯がありました。

 社史によると、創業者の辻本福松の息子、豊三郎が伊勢神宮にお参りに行った際、近くの古道具屋でこの福助人形に目を止め、買い求めました。福松親子はこの人形をベースに、人間の徳を表す「仁・義・礼・智・信」のイメージを加えたうえに、頭を低くし、手をついて礼を尽くすポーズの福助人形を作り、1900年(明治33)、新たに商標登録をし、併せて、社名を福助に一新して事業に打ち込んだそうです。
(※ https://www.fukuske.co.jp/contents/history/)

 その後、洋風化が進み、人々は着物を着る習慣を失っていきました。福助は今、足袋メーカーではなく、ストッキングなどのメーカーとして事業を継続しています。人間の徳を重視し、それをミッションにして事業展開してきたからでしょうか、事業を継続することができているのです。

 社史から、福助が1895年(明治28)、日本で初めて足袋縫い鉄輪ミシンを完成させたことを知りました。機械化によって製品の品質を向上させたのです。

 そればかりではありません。日本発の足袋縫いミシンの特許権を得た1895年、「手縫いにまさる機械縫いの足袋」という新聞1ページ大の看板を市内に掲げました。その後、広告活動に力を入れ、大正時代になると、画家に依頼し、美人画を使った広告も制作しています。

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(※ https://www.fukuske.co.jp/contents/history/より。図をクリックすると、拡大します)

 これは、画家・北野恒富による美人画を使ったポスターです。右上に福助のロゴが入り、背景には、「将来このくらいの大工場を造りたい」という理想の工場が描かれています。

 福助を創業した辻本福松がいかに進取の気性に富み、製品の質を向上させることに努力を惜しまなかったか、製品を販売するための広告活動に力を入れていたかがわかります。

 それでは、そろそろ温泉に戻りましょう。

■昭和レトロなミュージアム

 玉川温泉のお食事処の一角には、往年のポスターが何枚も掛けられていました。ここでも、もはや振り返ることのできない当時の社会文化の一端を味わうことができます。

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 もちろん、お食事処も当時を偲ばせる設えになっていました。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 まるでミュージアムのようなレトロな玉川温泉の泉質はまた格別でした。実際、温泉に浸かってしばらくすると、肌がつるつるしてきたような気がしてきたのです。

 お湯は熱すぎず、刺激も少なく、いつまでも浸かっていられるまろやかさと柔らかさがありました。レトロな気分になっていたこともあるのでしょうが、なんともいえない安らぎを感じさせられました。

 眼を閉じ、しばらくゆっくりと浸かっていると、いつしか雑念が払われ、気持ちがのびやかに広がっていきます。日々の煩わしさから解き放たれ、頭の中が次第に浄化されていくような気持ちになりました。

 やがて全身がほぐれ、溜まっていた疲れがすっかり取れていきます。心身ともにストレスのない状況になっていきました。日頃、肩こりに悩まされていましたが、肩の凝りや疲れがすっかり取れました。美肌効果というより、疲労回復効果を感じました。

 一般に、単純温泉には、「疲労回復、神経痛、筋肉痛、肩こり」などの効能があるようです。しかも、玉川温泉はph10で、アルカリ性の泉質でした。だからこそ、疲れが取れただけではなく、肌もつるつるになったような気分になったのでしょう。

 それにしても、玉川温泉は一風変わった温泉でした。設えが普通の温泉とは全く異なっており、外観も内観もまるで昭和30年代の生活に戻ったような気分にさせられます。体験型ミュージアムといってもいいのかもしれません。(2022/11/30 香取淳子)

第85回新制作展に見る百花繚乱 ②日常生活の中で、光はどう捉えられたか

■日常の中の光

 第85回新制作展の会場では、さまざまな画題の作品が多数、展示されていました。いずれもレベルが高く、つい、足を止めて、見入ってしまったことが何度もありました。そんな中、ありふれた光景を描いていながら、心に響く訴求力を持つ作品がいくつかありました。

 今回はそのような作品をご紹介していくことにしましょう。

 関谷泰子氏の作品、中村葉子氏の作品、能勢まゆ子氏の作品で、いずれも連作です。
 
■関谷泰子氏の作品

 窓から射し込む陽光の穏やかな優しさに惹きつけられました。関谷泰子氏は東京都の作家です。窓から射し込む陽光の姿が、午前と午後、様相を変えて、捉えられています。

 まず、《朝の光》から見ていくことにしましょう。

●朝の光

 庭に立つ人物を室内から捉えた光景です。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 背後から強い陽光を浴びているのでしょう、庭に立つ人は逆光で捉えられ、シルエットだけが見えます。ところが、そのシルエットは胴体と伸ばした腕と手しか捉えられていませんでした。雪見窓越しのせいか、首から上は見えず、足は縁側で遮られていたからです。

 逆光で捉えられたシルエットはそのまま、縁側に影を落とし、室内に入り込んでいます。影はそれほど長く伸びていませんから、やはり、午前の陽射しなのでしょう。外側の光は淡い青系の色で表現され、室内に入ると淡い赤系の色で表現されています。

 よく見ると、外側のシルエットは、障子戸を通して見る影絵のように、障子紙の質感を残して描かれていました。ところが、廊下に落ちた影にはガラス窓越しの質感があります。どちらかといえば、鮮明で鋭角的に見えるのです。透過する材質によって、光が作り出すシルエットにも違いがあることがわかります。

 しかも、逆光を受けて障子窓に映し出されたシルエットと、ガラス窓を透過して廊下に映し出されたシルエットとが接合されていました。一見、ありふれた光景に見えますが、実は、高度な知識とテクニックを駆使し、トリッキーな空間が作り出されていたのです。

 影絵のようなシルエットを映し出した窓は、白を基調に青系の淡い濃淡で微妙なグラデーションをつけて表現されていました。淡く、均一ではないところに障子紙の痕跡が残されています。

 一方、シルエットを映し出した廊下は赤系を基調に、光の当たった部分は明るく、そうではない部分は暗く描かれていました。外に近いところは白色を混ぜた色調で、内に入るにつれ暗色を混ぜるといった具合に、光量に応じて赤系の淡い濃淡が描き分けられていました。

 ごく日常、誰もが目にする光景が、室外と室内とで映し出されたシルエットで再構成されていたのです。穏やかで優しい陽光の中に、ファンタジックな空間が創り出されており、ささやかな幸福が感じられます。

●午後の光

 窓から光が射し込み、直線の影が奥の方まで室内に入り込んでいます。影の異様な長さからは、射し込む光が夕刻に近い午後の陽光だということが示されています。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 床には花柄模様のジュータンが敷かれ、そのジュータンの上に直接、ガラスの花瓶が置かれています。花瓶にはジュータンの模様と同じような花が生けられていますが、いまひとつ存在感がありません。ジュータンと一体化して見えるからでしょうか。

 さて、この花瓶も花も、低い位置から射し込む陽光によって、大きく形を変形させ、縦長に伸びています。花瓶の両側にも太さの異なる直線の影が長く伸び、室内の奥まで入り込んでいます。

 これらの影の長さを強調するためなのでしょうか、モチーフを捉えるアングルが特異でした。そして、この独特のアングルが、ありふれた光景を題材にしながら、画面を非凡なものに仕上げていました。

 この作品のモチーフは明らかに、花や花瓶ではなく、窓から射し込む縦長の影なのでしょう。というのも、影が画面の面積の大部分を占めているからですが、それだけに影の色調が作品に与える影響は大きいはずです。

 よく見ると、花やジュータンの色はもちろんのこと、カーテンや敷居や窓枠など、描かれているものすべてに固有色があるのですが、その上から青味がかった淡いペールピンクが影の色として全体を覆っていました。寂寥感のある色が使われていたのです。

 そのせいか、画面には優しく柔らかく、それでいて、やや寂し気な雰囲気が漂っていました。それは、陽が沈む前のそこはかとない寂しさであり、一日を振り返る内省的な気分を象徴しているようでもありました。

 室内に長く伸びる影をモチーフとし、特異なアングルでそれらを構成して、ファンタジックな空間が創り上げられていました。何気ない日常生活の中から詩情豊かな世界が生み出されていたのです。

■中村葉子氏の作品

 光と影のさまざまな効果に気づかされたのが、静岡県の中村葉子氏の作品です。よく見ると、《郷-秋の陽に》は、《郷―晩秋の頃》を拡大したものでした。二つの作品の描かれたシーンは同じもののようです。

 まずは全体像を描いた作品から見ていくことにしましょう。

●郷―晩秋の頃

 農村で見かける作業部屋なのでしょう。さまざまな道具が物が乱雑に置かれています。奥には押し入れのような棚があり、そこにもごみ袋や作業用道具箱のようなものが雑然と置かれています。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 左手の格子窓から陽光が射し込み、作業小屋の室内が明るく照らし出されています。見えてくるのは、板や縄、プラスティックケース、ゴムホース、排管のようなもの、作業台、椅子、壊れた木枠などです。

 窓から射し込む光が、小屋の中の物を暗闇の中から浮かび上がらせ、観客に認識させる機能を果たしています。その機能に着目して制作されたのが、この作品といえるでしょう。

 光は物を明るく照らし出す一方で、その反対側に影を作ります。こうして光が当たる所、当たらない所ができ、同じ場所でも観客に見える部分と見えない部分とが創り出されていくのです。

 たとえば、画面の左下は暗くて、何があるのか全くわかりませんし、右下も、椅子の上に石油ケースが置かれていることぐらいしかわかりません。また、たくさんの縄が巻き付いているように見える太い柱のようなものも手前が影になっているので、実際には柱なのかどうかわかりません。

 このように、暗くて何があるのかわからないような影の部分は、画面に謎を創り出します。

 窓から射し込む陽射しが、室内を光と影で区分けしています。中央やや左の位置に、大きな面積を占めていながら、何なのかわからない影の部分があり、手前と上部にも影の部分があります。いずれも面積が大きく、暗くて何があるのかわからない状態です。

 影部分は画面に謎を持ち込み、ドラマティックな様相に転換させることができるのです。

 一方、これらの影部分は、雑然とした室内をすっきり見せる効果を果たしていました。左下と右下の影、中央左よりに柱のように立つ影、上部の影、これらが画面を単色で切り分け、雑多なモチーフで溢れた画面を整理し、安定させていることがわかります。

●郷-秋の陽に

 先ほどの作品では影になっていた部分がこの作品では明らかにされています。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 先ほどの作品では影になっていて、その正体がよくわかりませんでしたが、この作品を見ると、どうやら柱のようです。その柱に結び目のついた縄が多数、引っかけられているのがわかり、驚きます。足元には黄色のプラスティックケースや棒や金属製の筒のようなもの、壊れた窓枠のようなものなどが散乱しています。

 この作品では、窓から射し込む光によって、さまざまなものが浮き彫りにされており、はっきりと認識することができます。彩度を抑えて表現されているせいか、あらゆるものが色褪せて見えます。陽光に晒されてきた年月の長さを示しているのかもしれませんし、積もった埃を表しているのかもしれません。

 背後の棚には、プラスティックの小物入れ、金属製の本立て、木製の壊れたおもちゃのようなもの、古新聞の入ったごみ袋など、不用品が無造作に置かれています。描かれているモチーフはすべて、日常生活を支える小道具か、もはや生活に必要のなくなった廃品です。

 丁寧に描かれた多種多様の生活用品や道具類を見ていると、私たちがどれほど多くの物に支えられて生きているかがわかります。ところが、長年、人の生活を支えてきたそれらの物は、持ち主から使われなくなると、不用品として放置され、やがて色褪せ、埃にまみれていかざるを得ないことも見えてきました。

 興味深いのはプラスティック製品です。画面にもいくつか描かれていますが、時間の経過とともに色褪せることはあっても、壊れることはなく、形を残しています。どれほど多くの生活用品、小道具がプラスティックで生産され、そして廃品となっているかが示されていますが、これはほんの一端です。

 この作品には、現代社会の問題点の一つがさり気なく、提起されていました。

 さて、この作品の興味深いところは、丁寧に写実的に描かれていながら、使われることなく、放置された物の悲哀が捉えられていることでした。明暗、遠近法を使って立体感をもたせて描かれていながら、それらの印象がとてもフラットなのです。

 アップしてみると、こんなふうでした。

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(前掲一部。図をクリックすると拡大します)

 彩度を抑え、色数を制限して描かれているから、そう見えたのかもしれません。いずれにしても、現代社会が孕む空虚感がフラットな表現の中に込められていたのです。壊れたわけではなく、まだ機能は残っていても、使われなくなると、物はその生命を失い、輝きを失っていくことが、このフラットな描き方の中に示されていたといえるでしょう。

■能勢まゆ子氏の作品

 庭石をモチーフに、ありふれた日常生活の一端が優しく捉えられているのが印象的でした。京都府の画家、能勢まゆ子氏の作品です。

●爺ちゃんの庭 -朝日-

 おそらく、巨大な石がこの作品のメインモチーフなのでしょう。ところが、その周辺に小さく描かれた木々や花の方が強く印象づけられます。

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(図をクリックすると、拡大します)

 画面の大部分を巨大な庭石が占めています。見た途端に目に入るのはこの大きな石ですが、やがて画面左に小さく描かれた千両の赤に目が引かれます。赤色だからでしょうか、それとも、千両がお正月の縁起物だからでしょうか。

 その千両が大きな石にそっと寄り添うように、赤い実をつけています。小さな実は陽光を受けて艶やかに光り、その上を見ると、葉もまた明るい輝きを見せています。いずれも小さいながら、強い生命力を感じさせられます。

 よく見ると、千両と石の描き方は異なっていました。

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(前掲、部分。図をクリックすると、拡大します)

 この石には、まるで砂で出来ているような粗い感触があります。年月を経て、表面に凹凸ができ、陰影ができています。粗さを残したまま風格のある石に変化していったように見えます。青系、褐色系、黄土系など多様な色が使われており、その中に、この巨石がもつ歴史と風化過程が示されているように見えました。

●爺ちゃんの庭 -晦日-

 同じ庭の光景を別の角度から捉えたのがこの作品です。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 やや上方から至近距離で、モチーフが捉えられています。大きな庭石に沿って、千両の実や二葉葵の葉が丁寧に描かれています。穏やかな陽光を受けて、色艶よく、生命力をたぎらせているように見えます。

 きめ細かく丁寧に描かれた葉や実を見て居ると、葉の一枚一枚、実の一つ一つに生命が宿っているのがわかります。石の背後には竹垣が設えており、庭の一隅で展開されるそれぞれの生の営みを、優しく見守って来た「爺ちゃん」の存在を感じることができます。

 これら二つの作品の直接のモチーフは庭石や千両や二葉葵ですが、その背後から、丹精込めて育ててきた「爺ちゃん」の日常が透けて見えてきます。

 朝、太陽が昇って陽光が射し込むと、葉や花の営みが輝きを増していきます。それらを通して見えてくるのが、ささやかな幸せです。画面を見ているだけで、その背景を想像することができ、ほのぼのとした気持ちにさせられます。

■ありふれた生活空間の中で、光はどう捉えられたか

 第85回新制作展で印象に残ったのが、日常生活の中の光を取り上げた作品でした。3人の作家の作品をそれぞれ2点、取り上げてみました。どの作品も、奇をてらうことなく、見たままの光景が、淡々と描かれているだけのように見えました。

 ところが、その何気ない光景の中で、光はさまざまな効果を発揮し、画面を魅力あるものに変えていたことが、それぞれの作品の中で表現されていました。

 たとえば、関谷氏の作品からは、光には幻想を生み出す力があることを感じさせられました。《朝の光》では、逆光が障子戸に浮かび上がらせたシルエットのラインが、限りなく優しく、穏やかでした。逆光の鋭角的なラインが障子戸を通すことによって、朧気で、柔らかなラインに変化していたのです。現実の光景がファンタジックに捉え直されており、魅力的な画面になっていました。

 一方、陽光は射し込む角度によって、シルエットの形を変えていきます。そこに着目して制作されたのが、《午後の光》でした。午後の光が、ガラス窓越しに長いシルエットを作り出し、それが、日常生活の中に幻想的な空間を作り出していたのです。

 ジュータンに直に置かれたガラスの花瓶も花もかすんでしまうほど、異様に長く伸びたシルエットの群れが鋭角的に表現されており、興趣が感じられました。ありふれた日常生活に訪れる一瞬の美を見逃さず、その妙味を捉えた作家の感性が素晴らしいと思いました。

 中村葉子氏の作品からは、光が時に、ありふれた日常の光景をドラマティックに演出することを知らされました。光は、照らし出された領域とそうでない領域とに空間を分断します。その点に着目して制作されたのが、《郷‐晩秋の頃》です。

 窓越しに射し込む陽光が小屋の中を明暗で区分けし、物の形を認識できる領域と暗くて認識できない領域とに二分された世界が提示されます。

 手前と背後、そして中ほどの柱のような部分が暗く、中ほどの光が射し込む領域とが明確に分断されているのです。とくに手前と中ほどの柱の辺りが暗く、室内の様子がドラマティックに構成されているのが興味深く思えました。

 ありふれた日常の光景なのに、光がもたらす明暗によって二分された途端に、観客をドラマティックな世界に誘うのです。暗い影は、物や人の存在を隠してしまうからこそ、不安をかき立て、好奇心を喚起します。影部分の設定は、ドラマティックな世界を創る要素の一つなのだと認識させられました。

 《郷‐秋の陽に》では、光が当たっている領域が主に描かれていました。この作品を見て、改めて、暗い影の画面上の効果がわかりました。

 暗い影は、画面にメリハリをつけ、奥行きを感じさせる一方、観客の好奇心をそそり、なんらかの反応を引き起こします。その結果、観客の気持ちをかきたて、作品への関与を高めるのではないかとこの作品をみて、思いました。

 この作品で印象的だったのは、光が当たった箇所が写実的に描かれながらも、リアリティが感じられないほど、フラットに見えたことでした。現実味を喪失させるほどの平板さが見られたのです。

 これら二つの作品によって、光と影の果たす効果を知ることができました。

 能勢まゆ子氏の作品からは、ドラマティックでなければ、ファンタジックでもない日常の一場面でも、観客の想像力を刺激する仕掛けを画面に埋め込むことによって、訴求力が生まれることを知らされました。

 三者三様の光の捉え方をみてくると、改めて、光は絵画にとって古くて新しいテーマなのだと思わせられます。光と影、モチーフ、構図、それぞれの関係については、依然として新しい発見があり、気づきがあることがわかりました。(2022/10/11 香取淳子)

第85回新制作展に見る百花繚乱 ①新たな表現の地平

■第85回新制作展の開催

 第85回新制作展が国立新美術館で開催されています。開催期間は2022年9月21日から10月3日までです。

 会場の出口辺りにポスターが置かれていました。会員である金森宰司氏の作品《ライフ「ビート」》が使用されています。

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 私は9月28日に行ってきました。2Fの2A、2B、3Fの3A、3Bが絵画部門の展示会場になっていました。

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 初めて見る公募展でしたが、そのスケールの大きさに圧倒されてしまいました。作品サイズが大きいというだけではなく、レベルが非常に高いのです。どのような応募規定で、どのような審査基準なのか、興味を覚えてしまいます。

 帰宅してから、HPを見てみると、応募規定等については次のように規定されていました。

こちら → https://www.shinseisaku.net/wp/archives/24691

 絵画部門では、サイズと年齢によって、以下のように、4部門に分かれて審査されます。

① カテゴリー1(H140㎝×W140㎝×D30㎝(該当木枠60号以内)、
② カテゴリーⅡ(H205㎝×W205㎝×D30㎝(該当木枠130~80号以内)、
③ カテゴリーⅢ(H300㎝×W300㎝×D30㎝(該当木枠300号~150号以内)、
④ データ審査(30歳以下、1992年以降生まれ)、または国外在住外国人(年齢制限なし)

 会場に入ってまず驚いたのが、作品サイズの大きいことでしたが、サイズの規程が最低で60号、最大で300号ですから、会場の壁面が圧倒的に大きな作品で埋め尽くされていたのも当然でした。

 それでは入選作品のご紹介を始めていくことにしましょう。素晴らしい作品が数多く、足を止めて見入ってしまったことが何度もありました。そんな中で、今回はとくに、表現方法で新鮮さを覚えた作品を取り上げ、ご紹介していくことにしたいと思います。

 なお、入選作品の場合、サイズについての記載がなかったので、ご紹介する作品については、タイトルと作家名のみ記しておきます。いずれも巨大な作品だったことを報告しておきます。

■イースターの休日

 ちぎり絵のような表現が面白いと思い、足を止めて見入ったのが、《イースターの休日》という作品です。作家は京都府の八木佳子氏です。

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 都会の街角を歩く人々が描かれています。手前で右方向に歩いていくのは地元の人々なのでしょう、スーツケースを持っておらず、軽装です。左側に太った女性、真ん中に2人の若い女性、そして、右側にリュックを背負った高齢の男性、手前に4人の男女が描かれています。この作品のメインモチーフです。

 いずれも雑誌のページを引きちぎって張り付けたように描かれているのですが、写実的に描くよりもはるかに的確に、イメージを喚起するように表現されているのに驚きました。

 例えば、左側の女性は、スーツケースを押して行く旅行者たちを見ながら、歩いています。好奇心旺盛で、太っているわりには歩幅は大きく、軽快に歩いている様子がわかります。真ん中の二人は、話に夢中になっているのでしょうか、旅行者を気にもしていません。そして、右側の高齢者は用心深くゆっくりとうつむきながら歩いており、周りに注意を払っているようには見えません。自分のことで精いっぱいなのでしょう。

 ふと、何故、この作品のタイトルが「イースターの休日」なのか、気になってきました。

 帰宅して調べてみると、処刑されたキリストが復活したのを記念して、イースターの休暇が生まれたとされています。毎年、決まった日にちで行われるのではないそうで、2022年は4月17日の日曜日だったそうです(※ Wikipedia)。

 だとすると、スーツケースを引く旅行者は、「イースターの休日」を示すためのモチーフだったのでしょうか。

 それにしては、彼らの存在感が希薄です。この作品は、前景にちぎり絵風に描かれた4人、中景に水彩画風に描かれた3人の旅行者、そして塀を挟んで、遠景にビルといった画面構成になっています。いかにも都会にありそうな風景が切り取られているのです。

 ところが、前景以外はすべて水彩画風に表現されています。つまり、前景以外はすべて、都会の一角を印象づけるための背景として処理されているのです。スーツを引く旅行者といっても、背後のビルと同様、前景の4人を引き立てるための小道具にすぎないのです。

 この作品を見たとき、都会的で軽快、現代的な感覚に満ち溢れているように思えました。透明感があり、リズミカルでもあります。なぜそう思ったのかといえば、ちぎり絵風の描き方がメインモチーフに採用されていたからです。

 画面すべてをちぎり絵風の描き方をしなかったせいか、前景のちぎり絵風の表現がとても目立ちます。ちぎった紙の端の白い部分が、細かな輪郭線を数多く創り出しており、それがモチーフの色表現に大きな影響を与えていました。モチーフを構成するすべての色にわずかな白が加わることによって、明るく軽快で、都会的、洗練された雰囲気が醸し出されているのです。

 雑誌から切り取った紙切れには、アルファベット文字が印刷されているものがあったのでしょう。それらが髪の毛やワンピースや短いスカートやズボンに取り入れられ、ユニークでオシャレなファッションが創り出されているように見えました。

 例えば、左側の太った女性は白地に黄土色、黒の模様の入ったワンピースを着ているように見えますが、おそらく、文字の入ったページを切り取ったものなのでしょう。

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 黄土色、白、黒、茶色で構成されたページを切り取り、文字部分を模様として活かしながら、衣服、髪の毛、靴、タイツに変身させています。

 何故、都会的で洗練されたイメージがあるのかといえば、おそらく、すでに雑誌のページで確認された色バランスを、そのまま持ち込んでモチーフが造形されていたからでしょう。そして、紙をちぎってできる切れ端の白が、輪郭線として機能する一方、主張する色と色の確執を抑え、洗練の度合いを高めていたように見えました。

 メインモチーフに限定してちぎり絵風の画法を導入したからこそ、この画法の訴求力、あるいは画題とのマッチングが際立ったのでしょう。新たな表現の地平が拓かれたような気がします。

■不語仙

 巨大な画面に、何か得体の知れない造形物が描かれています。《不語仙》というタイトルでしたが、タイトルの意味も分からなければ、描かれている造形物が何なのかもわかりませんでした。作家は兵庫県の中川久氏です。

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 下の作品が《不語仙 氷の声聞く》で、上が《不語仙 風の声聞く》です。二つの作品のタイトルを見ると、《不語仙》という語は同じですが、サブタイトルが異なっていますから、別作品と考えていいのでしょう。

 まずは、《不語仙 氷の声聞く》から見ていくことにしましょう。

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 巨大な作品でありながら、精緻な筆致が異彩を放っていました。

 最初、このモチーフは枯れた葉が絡まって何かに引っかかっているのかと思っていましたが、どうも変です。枯れた植物だろうということはわかるのですが、モチーフの背景に描かれているものが何なのかよくわかりません。モチーフと背景がどう関係しているのかが見えてこず、手掛かりを掴むことができなかったのです。

 そもそも、《不語仙》という言葉がわかりませんでした。

 再び、背景をよく見ると、表面にさざ波のようなものが立っており、不透明の灰色で覆われています。一部、暗い部分があったので、そこに、何かがうごめいているようにも見えました。ただ、表面はなめらかに動いているように見えるので、モチーフの背後にあるものは川か水溜まりの可能性があります。

 ところが、川にしては魚のいる気配はないし、藻のようなものもありません。水溜まりにしては広すぎるし、深すぎました。

 しげしげとしばらく見続けて、ようやく、蓮の花が枯れた姿なのではないかと思い至りました。画面中ほどのモチーフが茎から下に垂れ下がりており、それが傘型をしていることに気づいたからでした。

 傘型に萎んだ形を見て、このモチーフが蓮の花が枯れ、茎から水に落ちそうになっている姿だと理解することができたのです。

 それでは、《不語仙 風の声聞く》を見ていくことにしましょう。

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こちらでも、真ん中のモチーフははっきりと、枯れた蓮の花だということがわかります。その後ろに見える枯れた蓮の花は、茎まで泥水に浸かって、変形しています。

 モチーフ3つは、手前から、枯れた葉、枯れて半分、泥水に浸かった蓮の花、そして、茎まで泥水に浸かって黒く変形した蓮の花、といった具合に、枯れて生命を終え、泥水の中に戻っていく3段階の過程が描かれていたのです。ふと、人の終末を連想させられました。

 生きていた世界から、枯れて、泥水に入り、別世界に向かっているプロセルそのものが描かれていたのです。

 画面の左上は泥煙が巻き上がって、濁っています。ところが、左下を見ると、石に張り付いた藻のようなものが揺らいでいます。泥水の中でありながら、まるで風に揺れているように見えます。泥水の中に所々、陽光がさしこんできているのでしょう、泥の中にぼんやりとした光が感じられます。やがて、おぼろながら光の筋が見えてきます。

 泥水の中の世界を、目を凝らして見ていると、藻が揺らぎ、海草がなびいているのが見え、聞こえるはずのない風の音すら聞こえてくるように思えてきます。

 興味深いことに、タイトルの《不語仙 氷の声聞く》も、《不語仙 風の声聞く》も、「音を聞く」ではなく、「声聞く」と表現されています。

 通常、「氷の割れる音を聞く」であり、「風の吹く音を聞く」のはずですが、「声を聞く」でもなく、「声聞く」と言い表されているのです。このようなタイトルの表現に、中川氏の感性、自然の捉え方、関わり方が見えてきます。

 自然を客体化せず、その中に包まれる存在として捉え、共に生き、関わってこられたのでしょう。だからこそ、中川氏には氷の割れる音や風の吹く音を自然の声として聞こえるのでしょう。

 中川氏は泥水に沈んでいく枯れた蓮の花をモチーフにこの連作を手掛け、枯れた後にも居場所はあることを示そうとしていたのではないでしょうか。

 蓮の花は泥水の中から生まれるといわれます。ところが、中川氏はこれら二つの作品で、枯れた蓮の花を描き、やがて泥水の中に沈んでいく過程を描いています。連作を通して、死の行く末を示唆しているのです。

 この作品には他の作品とは異なる吸引力のようなものがありました。たとえ何が描かれているかわからなくても、じっと見続けさせる力があったのです。

 得体が知れず、謎めいたモチーフが繊細で精緻な筆遣いで描かれていると、大抵の人は、その画面に惹きつけられ、見入ってしまうことでしょう。理解したいという衝動に駆られるからですが、タイトルや構図を容易に推察されないようなものにしておくと、理解は進まず、観客の関与はより深く、強くなります。

 コンセプトが明確で、確かな画力があって、モチーフや構図が戦略的に組み立てられていれば、一定数の観客を魅了することが出来るのではないかと思います。新たな表現の地平に、コンセプトや哲学が必要になってきているように思いました。

 帰宅して調べてみて、「不語仙」が「蓮の花の異称」だということを知りました。言葉の由来はわかりませんが、「蓮の花」よりもはるかに含蓄のある言葉だと思いました。

■神磐

 海水の煌めきの表現が素晴らしく、つい、見入ってしまいました。《神磐》というタイトルの連作です。下に描かれているのが《神磐Ⅱ》、上に描かれているのが《神磐1》です。手掛けた作家は愛知県の藤川妃都美氏です。

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 繊細で精緻な表現力に驚き、見入ってしまったのですが、これらのモチーフが何を意味しているのか、作者が何を言おうとしているのか、皆目わかりませんでした。そもそも《神磐》というタイトルすら、わかりません。

 ただ、どちらの作品にも、巨大な画面に巨大な亀が描かれ、亀の真上に、海辺で群れを成す巨石群が描かれていることが共通しています。異なるモチーフが上下に分かれて描かれているのです。

 このような構図、構成の作品は初めて見ました。

 大きすぎるので、つい、下に設置されている方を見てしまいましたが、《神磐》というタイトルに、Ⅰ、Ⅱと番号を振られていることを思えば、順序通り見ていく必要があるのでしょう。

まず、《神磐1》からみていくことにしましょう。

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 上部に海辺の巨石が描かれ、下部に亀が描かれています。上部に描かれた巨石は亀の手指のような形をしています。その背後には同じような奇妙な形をした石が転がっています。その下には海があり、海は巨石や山並みを映し出す一方、晴れ渡った空も映し出しています。空に奇妙なものが浮かんでいるのが映っていますが、それが何かはわかりません。

 下部の亀は上部の様子を窺うように、動かずにじっとしています。海から射し込んだ陽光を受けて、辺り一面はさざ波の模様で覆われています。そのような中で、亀は手をつき、やや身をよじった姿勢をとっており、生きているように見えます。

 次に、《神磐Ⅱ》を見てみることにしましょう。

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 下部のモチーフは最初、亀だと思ったのですが、ひょっとしたが、岩かもしれません。所々に苔のようなものがついており、向かって右の手には、まるで足裏をひっくり返したかのように丸い模様が入っています。

 上部を見ると、巨石群が左右対称に真っ二つに分かれていて、ちょっと不自然です。さざ波の立ち方にも違和感があります。下部の亀の磁力が強く、その真上を真っ二つに割っただけではなく、波の動きまで狂わせてしまったのでしょうか。

 亀の真上のセンターラインに沿って海上を進むと、洞窟の入り口に辿り着き、その中央に偶像のようなものが設置されているのです。だとすると、この亀は神の化身なのでしょうか。

 そういえば、この連作のタイトルは《神磐》でした。この作品の新しさは、画面を上下に分け、時間、空間の異なる層で関連するモチーフを組み込み、画面を層化して構成していたことでしょう。一枚の画面では表現しきれない新たな表現の地平を感じさせられます。

■百花繚乱を支える審査方法

 第85回新制作展に参加し、数多くの力作を目にしました。サイズの大きな作品が多く、しかも、レベルが非常に高いのが印象的でした。会員の作品が素晴らしいのはもちろんですが、入選作品の中に斬新なものが多々、見られたのが興味深く思えました。

 そこで、気になったのが、応募作品の審査方法です。HPを見ると、審査及び賞については、次のように決められていました。

「審査は本協会会員がこれに当たる。優秀作品には協会賞、新作家賞を贈る。
受賞者には、当協会各部主催の受賞作家展が企画される。」

 審査は「新制作」の全会員が担当するというのです。冒頭でお知らせしましたように、「新制作」では募集作品を4つのカテゴリーに分けていました。それは、自分に合ったサイズで応募し、作品のサイズごとに丁寧に審査してもらうためでした。

 具体的な審査方法は、次のようになっていました。
 
 応募者の氏名は伏せられ、作品が一人分ずつ(何点応募してもいい)審査会場に運ばれます。それを見て、会員が1点ずつ入落の挙手をするのです(※『2022年新制作手帖』)。

 今回、私は会場で諸作品を見て、どの作品も圧倒的にレベルが高いと驚いてしまったのですが、それには、このような審査方法が関係しているのかもしれません。長年、絵画制作に励み、境地を切り拓いてきた会員たちがそれぞれ、作品サイズごとに丁寧に審査するのですから、入落の基準が高く維持されてきたのも当然かもしれません。

『2022年新制作手帖』には、「新制作では、芸術性を尊重し、それに基づく平等性を大切にしています」と書かれていました。様々な可能性に対し、門戸を大きく開いておくという姿勢です。

 確かに、この審査方法を採れば、審査員の嗜好性によるバイヤスを回避できますし、絵画の可能性、表現の可能性に対する見落としを減少させることができるでしょう。審査が応募者と会員の切磋琢磨の場になっているのかもしれません。

 ふと、「見巧者」という言葉を思い出しました。芝居に関する言葉ですが、絵画にも通用するような気がしました。目の肥えた「見巧者」に見てもらって、適切な批評をもらうことで芸に磨きがかかるという見方です。

 今回、新制作が会員全員による審査方法を採用し、作品サイズ別に応募を受け付けていることを知りました。この方法なら、様々な表現の可能性を排除することなく、しかも、丁寧に審査してもられるメリットがあると思いました(2022/9/30 香取淳子)。

Henry Lauは現代版モーツァルトか?⑤ 音を知って、音楽を生む

 ユーチューブを見ていて、興味深い動画に出会いました。Henry Lauが一人で、人のいない建設現場のような広い空間で、ドラム缶やピアノを叩いている姿です。クラシック音楽の素養があり、K-POPでスターとして活躍してきた彼が、なぜ、そんなことをしているのか、興味があったので、見てみました。

■音をチェックする

●「Believer」

 殺風景な建設現場のような広い空間で、Henryが一人、ドラム缶をバチで叩き、電気ドリルの電源を入れて音を出しています。ピアノの鍵盤を叩くこともあれば、フタを叩いてみたり、音の響きや反応をチェックしたりしています。

こちら → https://youtu.be/EU_JGT55vN0
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 とくに興味深かったのが、楽器ではない、さまざまなものの音をチェックしていることでした。建設現場のようなところで演奏するのはありうることだと思いますが、そこらへんにあるさまざまなものを叩いて音を出して見ているというのが、意外でした。

 ところが、Henryは真剣な表情でそれぞれの音を吟味していました。

 ドラム缶と言わず、板切れといわず、さまざまなものの傍にはマイクが設置されており、音が収録されています。これらの音がやがて、ミックスされ、音楽として組み立てられていくのでしょう。

 この動画では、「Believer」というタイトルの曲が歌われていました。この曲が始まる前に、Henryはさまざまな音を検証していたのです。

 興味深いのは、電気ドリルの場合でした。電源を入れても、それほど大きな音がでるわけではないので、マイクの傍で音を出し、収録しています。


(上記ユーチューブ動画より)

 すぐ傍にマイクが映っています。

 真剣に取り組むHenryの姿を見て、ちょっと意外でしたが、音楽の原点に触れたような気がしましたし、創作の原点を見たような気がしました。

 音楽活動は音作りから始まるのでしょう。音を作るには、それぞれの音の特性をしらなければなりません。Henryはそれを建設現場でやっていたのです。日常生活の中にはない音を発見することができるでしょう。

 さらに、似たような試みの動画がないかと探してみました。

 すると、韓国のバラエティ番組の中で、Henryが自分のスタジオでの音作りの一端を紹介している動画がありました。

●「Bad Guy」

 ここでは、さまざまな生活音をチェックしています。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=hQvUmr7-Nkw
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 ガラスコップを箸で叩いてみたり、紙をくしゃくしゃにして音をだしてみたり、椅子にゴミ箱をぶつけて音を出し、その質やリズム感などをチェックしています。

 たとえば、ガラスのコップを金属製の箸で叩いて出した音に、紙をくしゃくしゃにして出た音を重ね合わせると、思いもかけない音響が生まれます。


(上記ユーチューブ動画より)

 生活音を音楽に組み込むなど、考えてみたこともありませんでした。この動画を見て、多様な音を知ることこそが、音楽活動のスタート地点なのかもしれないと思ったほどです。

 スタジオには、どこにでもマイクが置かれており、出した音が逐一、収録されています。それらがデータとして取り込まれ、それぞれの音が分析され、やがては、音楽として組み立てられていくのでしょう。Henryが取り組んでいることは、先駆者ならではの試みであり、新しい音の開拓なのだと思いました。

 ここでは、「Bad Guy」という曲が歌われていました。

 生活音だけではありません。人が指を鳴らしたり、手拍子を採ったりするのも、一種の音楽活動といえるのでしょう。

■音、音楽による一体感

 戸外での演奏でも、Henryのグループは、楽器以外の音、とくに、人が手指を使って出す音を活用していました。

●「Dance Monkey」

 たとえば、指鳴らしです。親指と中指で音を出す、いわゆるパッチンを使って、音楽に新鮮味を加えていました。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=q8BrbdPv2D8
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 指鳴らしでイントロを行い、Henryが歌い始めると、観客も同じように指を鳴らし、同じようなパフォーマンスをしながら、音楽に参加していました。もちろん、お得意のヴァイオリンは披露されます。

 楽器以外の音を音楽に組み込むことによって、これまでわからなかった音の属性に気づかせてくれます。ここで歌われていたのは、「Dance Monkey」でした。

 素朴な音を組み込んだことで、観客の気持ちが緩んだのでしょうか、プレイヤーに倣って、リズムを取り、ちょっとしたパフォーマンスをはじめていました。観客とプレイヤーが一体となって、音楽を楽しんでいたのです。動画を見ているだけで、観客との一体感が感じられます。

●「Savage Love」

 やはり、戸外での演奏シーンです。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=HFeQWTvA8PI
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 ここでは、電子オルガン、ドラム、ギター、ヴァイオリンなどの楽器はもちろん、楽器以外の音としては、手拍子が使われていました。これもごく自然に観客が手拍子をはじめているのです。ドラム担当のスタッフはなんとバチで叩くのではなく、手で叩き、原始的な音を出していました。これも新しい音の発見といえるでしょう。

 観客も笑みを浮かべて、手拍子を合わせ、パフォーマンスを共鳴させて、プレイヤーと一体化した時間が創出されていました。

 観客との一体化といえば、海外での演奏の方が向いているのかもしれません。

●「Havana」

 イタリアでの路上演奏の動画がありました。

こちら →
https://youtu.be/sAtzFsnVjgU?list=RDGMEMQ1dJ7wXfLlqCjwV0xfSNbAVMsAtzFsnVjgU
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 Henryはここでは、電子ピアノやヴァイオリンを弾いていました。曲のイントロ部分を盛り上げて、女性ボーカルがしっとりとした声で歌い始めると、彼らを取り巻いて見ていた観客は老いも若きもみな、顔をほころばせ、身体をゆすっていました。プレイヤーと一体化して手拍子をし、腰を振り、言葉は通じなくても、一体化した時間を楽しんでいたのです。

 とても幸せな時間が流れているように見えました。音楽が持つ力でしょう。

 歌われていたのは「Havana」でした。女性ボーカル2人のハーモニーも素晴らしいものでした。

■Henry、ポッピングとヴァイオリンはどう組み合わせるのか

 珍しい動画を見つけました。Henryが自宅でパフォーマンスとヴァイオリンの組み合わせを解説している動画です。とても興味深いので、ご紹介しましょう。5分8秒の動画です。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=FF7TZDPjRIc
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 ポッピングだけでも大変なのに、それをヴァイオリン演奏と組み合わせるのです。タイミングをどう計り、見せ場をどう作るか緻密に考えなければ成立しないでしょう。

 Henryはヴァイオリンを演奏しては、ポッピングを実演し、この二つの質の違う活動をどのようにつなぎ、どのように見せ場をつくるのかを解説していました。


(上記ユーチューブ動画より)

 これを見て、音楽活動とダンスは、実は、親和性が高いのではないかという気がしました。音楽を聴いて、自然に身体を揺らしたり、手拍子を取ったり、指鳴らしをしてしまうのは、同じような神経が刺激されるからではないかと思ったのです。

 イタリアの街頭演奏でわかったように、言葉が違っていて、意味がわからなくても、観客は歌を聞いて、ハミングし、演奏を聞いて、身体をゆすっていました。

 今回、Henryに関する一連の動画を見て、身体性の復権というか、身体性への回帰というか、言葉や数字以前の表現への再評価が起こりつつあるのではないかと思いました。ひょっとしたら、それは、言葉や数字に拘束されることへの反発からきているかもしれませんが・・・。(2022/8/31 香取淳子)

「近藤オリガ展」が開催されます。

■「近藤オリガ展」の開催

 後10日ほどで、「近藤オリガ展」が開催されます。

 開催期間は、2022年8月3日(水)から15日(月)(8月9日は休廊)まで、開催時間は10:00から18:00(最終日は16:00)まで、開催場所は、「ギャラリーNEW新九郎」(0465-20-5664)です。

 是非とも、ご鑑賞いただければと思い、ご案内致します。
 
 近藤オリガ氏は、現在、日本で活躍中の、ベラルーシ出身の画家です。

 ベラルーシ国立美術大学を卒業後、1980年代はベラルーシ国内および東欧で個展、グループ展で作品を多数発表し、数多く受賞しています。

 1988年には、ベラルーシ美術家連盟の会員になりました。1990年代は、西欧にも活動の幅を広げ、とくにドイツで は1995年以降、各地で個展を開催してきました。

 2007年以降、活動の舞台を日本に移しました。さまざまな賞を受賞し、大きな評価を得ています。

こちら → https://www.olgakondo.com/top/jp/prof/

 私は2016年に開催された「絵画のゆくえ2016:FACE受賞作家展」で、初めて、オリガ氏の作品に出会いました。以来、その画風の虜になってしまいました。

 オリガ氏の作品の一端をご紹介しておきましょう。

こちら → https://www.olgakondo.com/top/jp/work-1/

 いずれもモチーフは新古典主義的リアリズムで捉えられ、背景には暗色のグラデーションが何層も施され、神秘的で、幻想的な世界が創り出されています。

 画面を見ていると、魂が大きく揺さぶられる思いがします。

■ひまわり

 私が感銘を受けた作品の一つに、《ひまわり―福島への祈りー》(2012年)があります。

こちら →
(油彩、カンヴァス、130×162㎝、2012年。図をクリックすると、拡大します))

 この作品についてオリガ氏は、特別の思いを抱いておられるようでした。

 2011年の福島原発事故は、ベラルーシ出身のオリガ氏にとって相当、ショックな出来事でした。というのも1986年のチェルノブイリ原発事故でもっとも被害を受けたのがベラルーシだったからです。

 福島原発事故が起こったとき、オリガ氏はたまたま、ベラルーシに戻っていたそうですが、当時の記憶がすぐ甦り、日本が心配でたまらずドイツ経由ですぐに戻ってきたそうです。当時、成田空港は日本から脱出する外国人で溢れていたというのに、彼女はわざわざ日本に戻ってきたのです。

 この作品について、オリガ氏は、「ベラルーシの草原に咲いていたひまわりを持ち帰り、福島の復興を祈って、描いた」と語っておられました。

 何故かと言えば、ひまわりはタネが多く、タネが落ちれば、そこから多くの芽が出て、新しい命が育まれるからでした。

 福島の再生を祈って、この絵が描かれたのです。

 このエピソードからは、オリガ氏が、傷ついた者に寄り添い、痛みを分かち合おうとする繊細で豊かな感性の持ち主だということがわかります。

 そういえば、ひまわりの世界最大の産地がウクライナでした。

■ウクライナの現在

 2022年2月24日、ロシアがウクライナに侵攻しました。何故、そのような事態になったのかはわかりませんが、多くの人々が傷つき、苦しんでいることは事実です。

 地図で見ると、ウクライナとロシア、ベラルーシは隣同士の国です。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 オリガ氏の故郷は今、紛争のさ中にある国と隣り合わせなのです。日々、報道される悲惨な状況を知って、オリガ氏は、どれほど悲しみ、苦しんでおられることでしょう。

 オリガ氏が福島の復興を願って、《ひまわり―福島への祈りー》を描いてくださったように、私も、一日も早いこの紛争の終結を願わずにはいられません。

 そう思いながら、河辺を歩いていると、ひまわりが一輪、大きな木の下で咲いているのが目に留まりました。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 背後に見える空はどんよりとした曇り空です。まるで、ウクライナとロシアの間の紛争を憂えているかのようです。

 空がすっかり晴れ渡り、ひまわりが大きく風に揺れ、人々の目を楽しませてくれるのは一体、いつになるのでしょうか。一日も早い平和の訪れを祈ります。

 さて、オリガ氏は今回の展覧会で、どのような作品を見せてくれるのでしょうか。

 最後に、展覧会の場所がわかりにくいかもしれませんので、パンフレットの案内図を載せておくことにしましょう。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 久しぶりに、展覧会場で作品の前で佇み、静かに自分を見つめ直す時間を持てるのを楽しみにしています。(2022/7/23 香取淳子)

2022年参議院選挙② 個とコミュニティが支える本格政党の誕生

■2022年参議院選挙の結果

 2022年7月10日午後8時から開票速報が始まりました。比較的早く、比例1議席の当確がでたのですが、その後、なかなか当確がでません。せめて2議席ぐらいは・・・という願いも空しく、結局、1議席の獲得にとどまりました。

 ユーチューブで、選挙戦終盤の勢いを見ていると、ひょっとしたら、5議席獲得するのではないかと思っていたほどですが、現実はそれほど甘くありませんでした。

 比例選挙区の候補者5人の得票数を見ると、神谷宗幣氏が159433票、武田邦彦氏が128257票、松田学氏が73672票、吉野敏明氏が25463票、赤尾由美氏が11344票でした(※ https://www.jiji.com/jc/2022san?l=hirei_094)。

こちら →
(参政党公式ツィッターより。図をクリックすると、拡大します)

 これに、政党名だけが記入された票数を合わせると、参政党は総計176万3429票を獲得しました。比例区の得票率は3.3%になります。

 獲得議席は1つでも、得票率が2%を超えたので、参政党は政党要件を満たすことができました。

 政党交付金の交付の対象となる政党は、「政治資金規正法」上の政治団体であって、(1) 所属国会議員が5人以上、あるいは、(2) 所属国会議員が1人以上、かつ、直近の国政選挙における全国を通じた得票率が2%以上のものと定められています。
(※ https://www.soumu.go.jp/senkyo/seiji_s/seitoujoseihou/seitoujoseihou02.html

 初めて国政選挙に打って出た参政党が、国政政党として認められ、政党交付金を得ることができる条件を満たしたのです。これでようやく、党勢を拡大し、公約を果たしていくための準備が整ったことになります。

 もっとも、私には、この結果は少々、意外でした。

 選挙期間中、私は、全国各地で、数多くの有権者が参政党候補者の街頭演説に集まり、感涙して拍手喝采する姿をユーチューブで見ていました。それだけに、5議席は簡単に獲得できるのではないかと思っていたのです。

 たとえば、投票日前日、芝公園で行われたマイク納めの街頭演説には、1万500人もの有権者が集結しました。

■1万500人が集まった芝公園

 この街頭演説のフィナーレを、360度カメラで撮影した1分28秒の動画があります。見ていただくことにしましょう。

こちら → https://youtu.be/oCx9ayhZuqA
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 神谷氏の呼びかけに応え、有権者たちが気持ちを合わせて、「1、2、参政党!」とコールする声が、いつまでも夜空に響いています。

 気迫あふれる演説に、どれだけ多くの有権者が歓声をあげ、心から拍手喝采していたことか・・・。ニュース映像で見る限り、これだけのフィーバーぶりを他の政党では見ることはありませんでした。

 日本を取り戻そうという神谷氏の熱い思いが、有権者の気持ちを捉え、各地を熱狂の渦に巻き込んでいました。候補者と有権者がいっとき、心を合わせ、誇れる日本を取り戻そうという思いに駆られ、気持ちを一つにしていたのです。

 何も最終日の芝公園だけではありません。参政党を取り巻くこのような光景は、全国各地で見られました。その様子をユーチューバーたちが動画で、次から次へと伝えてくれました。

 有権者の視点で撮影された動画には、現場の熱気が余すところなく、反映されていました。素朴なアングルがとても新鮮でした。画面を見ていると、ふと、これこそ、報道の原点ではないかと思えてきました。

 それがなぜ、得票数に繋がらなかったのでしょうか。

 ネットをチェックしていると、興味深い動画がアップされていることに気づきました。参政党選挙区から立候補した野中しんすけ氏の動画です。この疑問に答えてくれそうです。

■既存政党の圧倒的な組織力

 野中氏は、実際に戦ってみて、どういうことに気づいたのでしょうか。福岡選挙区から立候補した候補者がアップした動画を、ご紹介することにしましょう。

こちら → https://youtu.be/7qXgn0ve3VE
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 今回、初めて選挙に出馬し、気づいたことを3点、野中氏は話してくれました。

 選挙期間中、警察から警告を受け、ビラ配りを中断させられたことがあったというのです。歩道で配っており、違反をしているわけではないのに、ビラを配っているのが気に入らず、ある政党の党員が警察に通報したからでした。やって来た警察官は、違反ではないことを確認して去っていったといいます。

 また、ある時、歩道でビラ配りをしているのに、誰の許可を得て、ビラ配りをしてるんだと凄まれたことがありました。恐怖心を覚えるほどだったといいます。これはある団体の関係者でした。

 いずれの場合も、候補者の意欲を少しでも削ごうとする他陣営の悪意が感じられます。選挙妨害に相当する出来事だといっていいでしょう。

 候補者や支援者の気持ちを萎えさせるような行為が他陣営から仕掛けられる一方、弱小政党ならではの悲哀もあったようです。

 福岡の民放テレビは18日間の選挙期間中、一切、報道してくれませんでした。街頭演説が終わり、既存政党の候補者に代わると、たちまち、その場に報道陣がずらりと並び、撮影していたというのです。諸派といわれる候補者たちは露骨なまでに、完全無視されていたそうです。

 SNSの時代になったとはいえ、認知効果という点で、いまだに大きな威力を発揮しているのがテレビです。地元テレビで一切、取り上げられないのは、候補者として存在しないのも同然でした。

 放送されなければ、有権者に幅広く認知されることは難しく、県民に幅広くアピールすることはできません。大きな損失でした。このようなメディアの対応に、新しく立ち上がろうとしている候補者は完全に不利な状況に置かれていることに気づいたと野中氏は言います。

 例えば、互角の戦いができるかなと思っていた他の候補者は、連合や団体が支持に回っていたので、圧倒的に有利でした。個々の有権者に向け、切々と政策を訴えてきた野中氏にとって、納得のいかない選挙の実状でした。

 既存政党といい、支持団体といい、メディアの対応といい、既存政党からの候補者に有利な仕組みに出来上がっていることを今回、選挙に出てみて、わかったと野中氏はいいます。

 民主主義を支える制度としての選挙制度は、民意をくみ上げるシステムとして機能しているのかどうか、疑問に思えてきます。

 個々の有権者ではなく、団体に支持されただけで当選した候補者は、国会でどんな働きをしているのでしょうか。そのような政治家を国会に送り込んで、日本が衰退していくことに、支持団体はどう責任を取るのでしょうか。結局は投票して終わりという団体と候補者の関係の中からは、日本をよくするための政治ができるわけがありません。

 これを聞いて思い出したのが、自民党の東京選挙区から立候補した生稲晃子氏です。

■自民党の候補者、政治見識なくても楽々、当選

 自民党公認を受け参院選に東京選挙区から立候補した生稲晃子候補(54)は、元おニャン子クラブのアイドルでした。その後、なんらかの社会活動あるいは、政治活動していたと聞いたこともなく、とうてい、政治家としての資質があるとは思えません。

 まず問題となったのが、NHKによるアンケートに対する不誠実な態度でした。全26問の質問のうち、生稲候補が答えたのはわずか5問、残り21問については「回答しない」で済ませています。その中には「これまでの岸田総理大臣の政権運営をどの程度評価しますか」という質問もあったというのに、です。

 生稲候補の場合、回答不備が問題となっただけではなく、自民公認で東京選挙区から出馬した朝日健太郎候補との回答が、瓜二つの“コピペ”だったことも、問題視されていました。(※ 『デイリー新潮』2022年7月9日)

 この件はネット上で大きく騒がれました。

 さらに、7月6日、日刊ゲンダイは、「音楽4団体「生稲晃子氏&今井絵理子氏」支持表明に大ブーイング! 2000人超が抗議賛同」というタイトルの記事を掲載しています。

 「自民党公認で東京選挙区から元「おニャン子クラブ」の生稲晃子氏(54)、比例代表で元「SPEED」今井絵理子氏(38)が立候補しているが、音楽業界4団体(日本音楽事業者協会・日本音楽制作者連盟・コンサートプロモーターズ協会・日本音楽出版社協会)が支持を表明し、音楽関係者から反発の声が上がっている」
(※ https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/307848

 ちなみに、生稲候補は大手芸能プロダクションの「尾木プロ」、今井候補は「ライジングプロ」の所属で、いずれも音事協(日本音楽事業者協会)の中心的なプロダクションです。

 1963年に設立された音事協は最大規模の業界団体です(※ https://www.jame.or.jp/)。それが支持表明をしたのですから、音楽関係者全員が自民党とこの2人を支持しているかのような印象を与えてしまいますが、それに対し、ネットで大きな反発の声が上がったのです。

 よほど我慢しかねたのでしょう。「ムーンライダーズ」の鈴木慶一(70)はツイッターで、「私は音楽家だが支援しない」とツイートしました。“日本最古の現役バンド”として、長年、音楽業界に影響を与えてきた重鎮ともいえる鈴木氏が、このような異例の発言をしたことに、ネット上はザワついたといいます。鈴木氏のこのツイートには3万7000件以上の「いいね」が付いていたといいます。
(※ https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/307848/2

 選挙期間中、いろいろトラブルがありましたが、結果はどうかといえば、朝日健太郎氏(元バレーボール、ビーチボール選手)が92万2793票も獲得して東京選挙区でトップ、生稲晃子氏は61万9792票も獲得し、5位で当選しました。

 れいわ新撰の山本太郎党首が、古い持ちネタ「メロリンきゅー」まで披露して、ようやく56万5925票獲得したことを思えば、いかに組織票があることがいかに手堅く、票の獲得に有効かということがわかります。

 ちなみに、東京選挙区で当選したのは、得票順位上から、自民党、公明党、共産党、立憲民主党の現職、自民党の新人、そして、れいわの元職でした。

 もちろん、今井絵理子氏も14万8800票獲得し、比例区で当選しています。

■選挙は民主主義を支えているか?

 生稲氏らの件からは、大きな組織に属し、団体からの支持を得られれば、政治家としての見識、資質がなくても容易に当選できることが明らかになりました。

 生稲氏について、ネットがどう反応していたのかを少し、ご紹介しておきましょう。

 「こんなのに出馬を打診する党、こんなのに票を入れる有権者…すべてが情けない。以前ヤフーニュースに出ていた杉良太郎さんのこの意見ぜひ大きく取り上げて、そして公職選挙法を改善してほしい」

 「政治家になるための国の資格制度を作るべきです。それにパスした人が候補者として出ていくといいと思う。国会は政治の素人の研修所でも学校でもない。国会議員になれば、即、国民の税金をお給料としてもらうわけだから、即戦力でなきゃダメ。選挙の前にしっかり勉強してほしい。」

 「国会内での一票、議席が取れれば顔は誰でもいいんだろうな。 党の言いなりの方が使いやすいんだろう。 党としては変に勉強されるより、カンニングペーパー通りに回答してくれる方がありがたいはず。 数合わせのためであれば、そもそもの議員の数が多すぎるということ。自分のアタマで考えないということは他の誰かの意見に従っているわけで、一人で複数の票を持っているのと同じ。いわゆる派閥ですね。 議員定数削減、これをやらないと数合わせのお飾り議員がいなくなりませんね。 しかし自分の首をしめる改革ができるわけがない。野党が弱い今こそが、それをやるチャンスなんですけどね。」

 コメント欄を見ていると、生稲氏の件によって、若者が投票意欲を失ってしまうのではないかと心配になってくるほどでした。

 果たして、今の選挙制度は民主主義を支えるシステムとして機能しているのでしょうか。

 総務省のHPには、「日本は国民が主権を持つ民主主義国家です。選挙は、私たち国民が政治に参加し、主権者としてその意思を政治に反映させることのできる最も重要かつ基本的な機会です」(※https://www.soumu.go.jp/senkyo/senkyo_s/naruhodo/naruhodo01.html )と書かれています。

 投票行動は、国民の意思を政治に反映させることのできる機会のはずですが、強力な団体の支持が、国民の意向を歪曲してしまう可能性のあることが、今回の件で、わかりました。団体の持つ数の力によって、個々の有権者の投票による意思表明は、いとも簡単に、圧し潰されてしまうのです。生稲氏の件によって、選挙制度の問題点が浮き彫りにされたといえます。

 もう一つ、総務省のHPから引用しておきましょう。

 「「人民の、人民による、人民のための政治(政府)」。民主主義の基本であるこの言葉は、私たちと政治との関係を象徴する言葉です。国民が正当に選挙を通して自分たちの代表者を選び、その代表者によって政治が行われます」と書かれています。

 理念はそうであっても、実態は必ずしもそうではなく、今回の件で、既存政党と団体との利権構造が定着していることが浮き彫りになってきました。

 一方、そのような既存の政党政治に異を唱え、民主主義の根幹に立ち戻ろうとしているのが参政党でした。

■参政党こそ、民主主義を支える政治組織か

 参政党のHPには、「先人が守って来たこの国を次の世代に引き継ぐために」という理念が掲げられ、「身近なコミュニティ活動から始める政治参加」の下、政治活動を実践していくと書かれています。(※ https://www.sanseito.jp/about/)

 そもそも、参政党は設立経緯からして、すでに他の政党とは異なっています。「仲間内の利益を優先する既存の政党政治では、私たちの祖先が守ってきたかけがえのない日本がダメになってしまう」という危機感を持った有志が集まり、「ゼロからつくった政治団体」なのです。

 参政党はその発端から、既存の政党とは異なる組織形態を考えていることがわかります。

 「特定の支援団体も資金源もありません。同じ思いをもった普通の国民が集まり、知恵やお金を出し合い、自分たちで党運営を行っていきます」

 既存政党のような利権構造を排するために、参政党は、有権者個々の力を基盤に、コミュニティをつくり、切磋琢磨し合いながら、政党を作っていくという仕組みです。情報を共有し、知恵を出し合い、お金を融通し合いながら、日本を立て直し、次世代につないでいくという志を持った人々の集まりだから、そういう仕組みが可能なのだともいえます。

 参政党は、個とコミュニティを基盤にした新型の政党としてデビューしたのです。

 そういわれてみれば、参政党の候補者のほとんどは、政治の素人でした。既存政党の候補者とは違って、企業や宗教団体などからの支援のないまま、ズブの素人の候補者たちが、今回、熾烈な参議院選を戦いぬいたのです。

 
 政党は本来、「真面目に税金を払って働いている人々のために働くもの」です。ところが、既存政党では、「縁故者や世襲の人々で党員が占められていたり、議員の選挙要員にされて」います。これでは、個々の自由意思は尊重されず、集団的投票行動が強制されざるをえません。

 ところが、参政党では、「党員活動に義務やノルマはありません」と書かれています。

 実際、HPを見ると、「身近なコミュニティ活動から始める政治参加」と書かれています。党員になると、できる範囲のことから、コミュニティ活動に参加することからスタートするようです。

 あくまでも党員の自発的な参加を求め、無理強いすることのないよう、図られていることがわかります。持続可能な組織づくりを行っているのです。

 「まずは同じ思いをもった国民が集まり、エリアやテーマごとにコミュニティをつくり、つながり合うことで新しい流れをつくっていくことを目指して」いるからでしょう。

 個々の党員の自由意思を尊重するという姿勢が貫かれているところが興味深いと思いました。まさに、個々人に支えられた草の根民主主義ともいえる形態で、初期民主主義の形態に近いものではないかと思います。

■お金のかかる選挙

 先ほどご紹介した福岡選挙区から立候補した野中氏は、選挙ポスターを例にとり、お金がないと選挙に出られない仕組みになっていることを知ったと語っています。

 福岡の場合、9000か所の掲示板に貼るポスターの印刷代に150万円、貼る人がいなければ宅急便で掲示板の住所宛てに送り、貼ってもらうようにすると540万円、ポスターを制作し、貼るだけで約700万円かかるというのです。

 さらに、供託金300万円がかかりますから、合計で1000万円用意できないと、選挙には出馬できないというのが実態でした。若い人や諸派の候補者が立候補しにくい状況に置かれているのが、わかったと野中氏は言うのです。

 こうした現状を知ったうえで、今回の選挙を振り返ると、あくまでも一つの政治団体にすぎない参政党が、比例区に5人、選挙区で45人、合計50人を出馬させたのは驚異的なことだったといわざるをえません。そのために、どのくらい費用がかかったのか、推して知るべしですが、参政党は、それを寄付や党費などで賄ったのです。

 参政党は7月7日時点で党員数が8万人を超え、7月9日時点で政治資金は4億3365万2621円に達しています。国政政党ですから、今後、政党助成金に入ってきますから、次回の選挙では、もっと多数の候補者を出馬させることができるでしょう。

 わずかな期間で、ここまで参政党の設立基盤を固めることができたのは、有権者の心をしっかりと掴むことができたからこそだといえるでしょう。党員が増え、政治資金も増え、日本を取り戻すための政治活動を展開してくれれば、日本人がもっと元気になり、積極的な考えを持てるようになると思います。

 参政党は、全国各地でフィーバーを巻き起こしていきましたが、その渦の中心は、神谷宗幣氏でした。

 神谷氏のスピーチがどのようなものであったか、その一端を覗いてみることにしましょう。

■神谷氏の投票日前のラストスピーチ

 芝公園には開始時点で、7000人が集まり、現場の様子を伝えるライブ中継は2万人以上の人々が見ていました。その後も続々と有権者が詰めかけ、最終的には1万500人にも及びました。手作りで出来上がった参政党が、18日間の選挙期間中で、ここまで有権者の注目を集める存在になっていたのです。

 投票日前のラストスピーチで、神谷氏は何を訴えようとしていたのでしょうか。

 ライトに照らされた神谷氏の表情は気迫に満ち、その言葉の一つ一つが、有権者の魂を揺さぶり、夜空に響き渡っていました。

こちら → https://youtu.be/MY2T5921NvE
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 神谷氏はまず、15年前からずっと、このままでは日本が駄目になると思ってきた。多くの人が自分のことしか考えない、お金のことしか考えていない。日本のために立ち上がりたいと言うと、「お前は右翼か」と言われる。それが今の日本だと語りかけます。

 次いで、有権者に向かって、「何故、日本人であることに誇りを持ってはいけないの?」と問いかけます。一呼吸置いて、言葉を継ぎ、「77年間、そんな教育をされてきたからでしょう、戦争に負けて、日本はアメリカにいいようにされてきたんでしょ!」と語気を強めます。

「そうだ!」と有権者は叫び、拍手喝采します。

●日本の教育を変える

 神谷氏は「参政党はまず、この日本の教育を変えたい」と切り出し、「教育を変えないと、次の日本を支える人材がいないんですよ」と訴えます。

 なぜなのか。

 「子どもを管理して枠にはめ、不登校を20万人も作って、発達障害の子どもを何十万人も作って、子どもたちを薬漬けにしているんですよ」と、子どもたちがいかに理不尽な環境に置かれているかを語ります。

 落ち着きがなく、注意力の散漫な子どもは多動性障害とされ、大人しすぎる、消極的すぎる子どもは自閉症とされて、治療の対象にされ、投薬されます。枠にはまらない、標準的ではない子どもは管理しにくく、診断名がつけられて、薬漬けにされていくというのです。

 実際、不登校の子どもたちは年々、増えています。NPO法人による報告『日本の子どもたちの今』によると、2019年に小中学校で長期欠席した子供25万2825人のうち、不登校は71.7%でした。1991年度に比べると、3倍以上も増えています(※ https://3keys.jp/)。

こちら →
(※ NPO法人3keys、『日本の子どもたちの今』より。図をクリックすると、拡大します)

 不登校になった結果、社会生活に必要な基本知識や技能、モラルや礼儀を学ばないまま、青年期を迎えてしまう若者が何と多いことでしょう。

 学ぶ機会を逸した彼らは、青年期になっても、社会に出ていくことができず、家に引きこもるか、あるいは、仮に社会に出ても適応できず、次第に、自殺に追い込まれていくのかもしれません。

 それなのに、政府は、子どもの窮状を救うために、有効な対策をなんら講じてきませんでした。

 神谷氏は怒りをあらわにして、続けます。「薬を飲みすぎて、社会に出られなくて・・・、若者の死亡原因の第1位は自殺なんですよ、この国は!」と叫び、声を荒げます。

 厚生労働省のデータを見ると、20-44歳の男性、15-34の女性の死因の1位が自殺、45-49の男性、35-49の女性の死因の2位が自殺でした。
(※ https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/suii09/deth8.html

 せっかく、この世に生を受けたというのに、一度も謳歌することもなく、多くの若者が自らの命を閉じてしまっているのです。なんと辛く、悲しいことでしょう。

 神谷氏は、「若者はコロナなんかで死んでいない。自分の命を自分で奪っているんですよ!そっちの方がはるかに緊急事態でしょう!」と指摘します。そして、「子どもが減っているというのに、なんで、若者が命を絶っていくのを止めないんですか」と、問いかけます。

 実際、コロナで感染死するよりも、緊急事態宣言が発せられ、飲食店やアパレルなどの閉店で、収入をなくした若者の方がはるかに多く、自殺に追い込まれました。政治家こそ、若者の死因の第1位が男性、女性とも自殺だということの背景を深く考えてみる必要があるでしょう。

 命を育む世代の自殺が多いことから、今後、さらなる少子化が懸念されます。

 働き方、働く環境といったわかりやすい要因以外にも、目を向ける必要があるでしょう。そもそも、若者たちは自立して生きていくための能力を習得していたのかというところまで遡って要因を探らなければ、有効な対策は見つかりません。

 若者の死亡要因の第1位が自殺だということは、少子化現象と連動しています。不登校に至らないまでも、社会に適応できず、生きていくだけで精一杯の子どもたちは数多くいます。そうした子どもたちが若者になっても、おそらく、結婚や家庭、子どもを持つという気持ちにはなれないでしょう。

 まずは、自立して生きていくことのできる能力を、子どものうちに涵養していくことが大切です。

 ところが、政府の少子化対策を見ると、結婚支援、出会いサポート、産前・産後のサポート、不妊治療の保険適用といった表層的で、小手先の対策に終始しています。
(※ https://jimin.jp-east-2.storage.api.nifcloud.com/pdf/news/policy/203484_1.pdf

 神谷氏は、参政党が目指す教育について、「煉獄さん(映画《鬼滅の刃》の主人公)のお母さんが言ってたように、誰でも皆、一人ひとり、力と才能があるんですよ。その力や才能を自分のためだけではなく、弱い人のため、世のため、人のために使う・・・、そういう心の教育です」と訴えます。

 子どもが自立して生きていくための能力の一つとして、メンタルの強さがあげられます。それは、自分の能力を世のため、人のために使うという気持ちから生まれると、神谷氏は考えているのです。

 神谷氏は、演説の中でよく、アニメ映画《鬼滅の刃》(無限列車編)のキャラクター煉獄さん(煉獄杏寿郎)を引き合いに出します。

■次代を担うエリートとは?

 煉獄さんは、無限列車の乗客を救うために鬼と闘い、終には、亡くなってしまうシーンがあります。そこに、神谷氏の考える強さのエッセンスが込められているように思います。1分30秒の予告動画がありましたので、ご紹介しましょう。

こちら → https://youtu.be/-ewm56D9DzY
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 煉獄さんは、戦闘相手である鬼の猗窩座(あかざ)から、「お前も鬼にならないか」と誘われ、「鬼にならなければ殺す」とまで言われますが、「俺は俺の責務を全うする」と言って、闘うことを選択します。

 ピンチで利益誘導されるのですが、それには乗らず、敢えて信念を貫き通すのです。そこに、強さがあり、「老いることも、死ぬことも、人間という儚い生き物の美しさだ」というセリフが印象づけられます。神谷氏の人生哲学あるいは生活美学が示される箇所です。

 滅びゆく日本を救うために、試行錯誤を重ねてきた結果、神谷氏は、既存組織にはない、新たな政党を立ち上げました。煉獄さんの生き方には、その姿勢に重なるものがあります。

 また別の予告動画がありました。

こちら → https://youtu.be/EFUSUcbLHK0
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 「強さというものは、肉体に対してのみ使う言葉ではない」というセリフがあります。そして、「人間の原動力は心だ、精神だ」というセリフがあります。身体が強いだけではなく、心が強いことが重要だというのですが、それは、人間の原動力が心であり、精神だからだというのです。

 ここには、煉獄さんの人間観であり、価値観が端的に表されていますが、おそらく、神谷氏の人間観、価値観でもあるのでしょう。

 神谷氏は、「私たちはもう一度、教育を考え直し、日本のリーダーを作っていくしかない」と訴えています。

 肝心の心を強くする教育がなされておらず、官僚や政治家など、偏差値エリートはこれまで日本を守って来なかったからです。

 「本当のエリートは煉獄さんみたいな人ですよ。自分の命をかけてでも弱い人を守る、正義を貫く人、そういう人が、かつては日本にいっぱいいたから、この島国は何万年も続いてきたんじゃないですか」神谷氏は語調を強めます。

 聴衆は「そうだ!」と大声をあげ、拍手します。

 神谷氏は拍手が終わるのを待って、「私たちは、その末裔なんです。誇り高き日本人なんですよ。縄文時代から続いているんです、日本は!」と叫び、「そのことを教えなくなった戦後教育に大きな問題がある」と訴えます。

 そして、我々大人は、「自分たちの国を誇りに思い、先輩に感謝し、今、与えられた命のバトンを一生懸命、守って、次の世代につたえていかないといけない」と説き、「それを皆でやっていくのが、参政党ですよ」とアピールします。

 日本を取り戻すというのは、戦後教育によって失った日本を誇りに思う気持ちを取り戻すことであり、それを後の世代に引き継ぐということを指しているのでしょう。縄文時代から脈々と受け継がれてきた日本精神の中にアイデンティティの基盤を見つけることだと言っているように思えました。

■参政党が掲げる教育政策

 参政党は大きく3つの政策を掲げていますが、教育はその第1に掲げられています。

こちら → https://www.sanseito.jp/prioritypolicy/

 「学力(テストの点数)より、学習力(自ら考え自ら学ぶ力)の高い日本人の育成」を目指し、具体的には、①探究型のフリースクールを地方自治体が作れるようにする法改正、②自ら仕事をつくり、収入を他者に依存せず、管理されない人生が設計できる公教育の実現、③国や地域、伝統を大切に思える自尊史観の教育等の政策を通して実現していくというものです。

 神谷氏は、ラストスピーチの中で、「子どもたちを社会に合わせて型にはめるのではなく、私たち大人が子どもたちに合わせて生きやすい国を作る」と言っていますが、これは、①に該当します。

 これまでの教育の他に、探求型のフリースクールを自治体が設立できるようにすることで、子どもたちの個性に合わせた学びの場を提供することができます。つまり、学びの場を選択できるようにするため、参政党は法改正をするというのです。

 多様な学びの場を作れば、基準から逸脱しているために、問題児扱いされる子どもはいなくなるでしょう。不登校が減るばかりか、子どもが探求心を抱いて学び始めるようになるかもしれません。そうして、子どもが本来の能力を発揮できるようになれば、習熟度が高まる可能性があります。

 そもそも憲法第26条には、子どもには教育を受ける権利があり、保護者は子どもに教育を受けさせる義務があると定められています。それは、子どもは誰でも、義務教育課程を修了すれば、自立して生きていけるようにするための措置でした。

 参政党は、既存の教育体系に馴染めない子どもたちのために、①を設定しています。そして、ICT主導の社会の中で、子どもが自立して生きていける能力を涵養するための計らいが、②といえるでしょう。

 そして、参政党の独自色が強いのが、③です。

 神谷氏が冒頭、語りかけていたように、戦後、日本人は長い間、日本人であることに誇りを持てず、アイデンティティの基盤を失って、生きてきました。それは、GHQによって統治されていた期間、それまでの日本を支えてきた国家体制を壊す一方、子どもの頃から、学校教育やマスメディアによって、自虐史観を植え付けられてきたからでした。

 神谷氏が、「我々は戦争に負けて、アメリカのいいようにされてきた」と言っているように、自国に誇りを持てず、対外的に何の手出しもできない植物人間のようにされてきました。

 それを覆し、日本という国や郷土、伝統を大切にし、日本人であることに誇りを持てるような教育をしたいというのが③です。

 日本を取り戻すには、日本に誇りを持てるような子どもを育てていく必要があります。参政党の政策を見る限り、①さまざまな子どもたちが排除されることなく、落ちこぼれることなく、学びの場が提供され、②自立して生きていけるような能力の涵養、さらには、③日本人として誇りを持って生きていけるようなプログラムになっています。

 神谷氏のラストスピーチの中から、とくに、教育の部分を取り出し、参政党の政策と関連づけてみてきました。既存政党がいえなかったような内容に踏み込み、日本を精神面から取り戻すための方策が練り上げられていると思いました。

 敗戦国として長い間、抑え込まれてきた日本人が、日本人としてのアイデンティティを取り戻すのは容易なことではないかもしれません。自虐史観を乗り越え、日本を肯定的に捉える「自尊史観」に移行するには、まずは、歴史を学ばなければならないでしょう。

 さらに具体的な教育政策がHPに掲載されています。

こちら → https://www.sanseito.jp/hashira04/

 ここでは、政策を実現していくための具体策、予算配分なども示されています。

 それでは、マイク納め後の全候補者の反省会を覗いてみましょう。

■候補者とスタッフの絆

 参政党候補者たちはマイク納め演説の後、全員が反省会を行いました。そのタイトルはなんと、一世を風靡したテレビ番組「8時だヨ、全員集合!」をもじって、「9時だヨ、全員集合!」でした。

こちら →
(参政党HP動画を撮影。図をクリックすると、拡大します)

 2022年7月9日、「9時だヨ、全員集合!」が始まりました。神谷氏が進行役として、候補者全員をZOOMでつなぎ、選挙期間中に起こったこと、困ったことなどを報告する会が開催され、そのまま配信されました。

こちら →
(参政党HP動画を撮影。図をクリックすると、拡大します)

 ZOOM画面では50名全員を映しきれないので、表示されている候補者が時々、入れ替わります。

 和気あいあいのうちに反省会が進められていきましたが、全員に共通していることが二つ、ありました。

 一つは、スタッフの惜しみない働きや支援に対する感謝でした。異口同音にスタッフへの熱い感謝の気持ちが語られます。選挙前から選挙期間中、さまざまなトラブルに見舞われながらも、候補者とスタッフが一丸となって、乗り切ってきたことがよくわかりました。

 日本をよくしたい、地域を守りたい、さまざまな思いを一つにして、頑張って来たことの喜びが候補者たちの日焼けした顔から感じられました。

 二つ目は、全国どこの候補者も一様に、終盤に近付くにつれ、街頭演説に集まってくる人が増えていったということでした。もう少し、選挙期間が長ければ、もっと票が取れたのかもしれません。ひょっとしたら当選も・・・、と思っている候補者も何人かいました。現場では、そう思ってしまうほどの熱気に包まれていたのでしょう。

 どの候補者も満足した表情を浮かべ、楽しそうでした。

 それこそ、「身近なコミュニティ活動から始める政治参加」を実践していたのでしょう。候補者と支えるスタッフ、地域社会の人々が、この選挙活動を通して、つながり合っていったことが感じられました。

 そして、ふと、思ったのです。

 今回、神谷氏が無理をしてでも、全国に候補者を立てたのは、このような地域社会に根付いた政治拠点を作るためだったのではないかと。残念ながら、選挙区候補者はすべて落選しましたが、候補者とスタッフ、地域社会の絆というものはしっかりと育まれ、根を張りました。

 このネットワークが全国各地にいきわたれば、これほど強固な政治組織はありません。参政党は既存組織に頼らず、団体に頼らず、党員とボランティアがすべての選挙活動を展開してきました。

 まさに、「投票したい党がないから、自分たちでゼロからつくって」いるのです。

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(選挙ドットコムより。図をクリックすると、拡大します)

 資金も選挙活動もすべて自分たちで行っているからこそ、参政党は誰からの圧力に屈することなく、正々堂々と意見を言うことができます。しがらみのない参政党のような政党でなければ、決して日本を変えていくことはできないでしょう。

 改めて、参政党は、理想的で本格的な政党だと思えてきました。日本がピンチに立たされているいま、ようやく、「国民の、国民による、国民のための政党」が誕生したのです。私たちは、ラストチャンスを掴んだといえるかもしれません。(2022/7/22 香取淳子)