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彼岸花が今、満開です。

■入間川遊歩道の彼岸花
 2020年10月2日、お天気がいいので入間川遊歩道を訪れてみました。つい先日、こちらに来た時はまだ道路脇に彼岸花は咲いていませんでした。ところが、今回は赤い花が満開で、眩いほどでした。

こちら 
(遊歩道脇の彼岸花、図をクリックすると、拡大します)

 ふと、道路際を見ると、桜の巨木の下に満開の赤い彼岸花が群れて咲いています。

こちら →
(満開の彼岸花、図をクリックすると、拡大します)

 豪華な花の絨毯です。その先に、入間川がゆったりと静かに流れているのが見えます。穏やかな秋の日の幸せを感じさせられます。

 再び、遊歩道に戻ると、両側に赤と白の彼岸花が咲いていました。

こちら →
(紅白の彼岸花の遊歩道、図をクリックすると、拡大します)

 まるで慶事を迎えているような気分になります。

 すっかり忘れていましたが、彼岸花は赤い花ばかりではなく、白い花もあります。紅白の花に彩られたこの遊歩道はさしずめ、慶事への道といっていいのかもしれません。

 ふと気になって、道路側に降りてみました。

■赤い彼岸花、白い彼岸花
 階段際にも白を赤の彼岸花が咲いていました。

こちら →
(階段脇の彼岸花、図をクリックすると、拡大します)

 白い彼岸花と赤い彼岸花がそれぞれ一塊になって、階段脇を華やかに彩っていました。何の変哲もない階段がひときわ輝いて見えます。

 道路側から見ると、赤い彼岸花が層をなして花開き、その間に白い彼岸花が興趣を添えています。

こちら →
(鮮やかな赤のボリューム、図をクリックすると、拡大します)

 鮮やかな赤のボリュームに圧倒されそうです。

 さらに進むと、今度は白い彼岸花が際立っているところがありました。

こちら →
(白い彼岸花、図をクリックすると、拡大します)

 白い彼岸花が三カ所でまとまって咲いており、緑色の葉の多い道路脇で存在感を放っていました。

 ふと、見上げると、桜の木の周辺に赤い彼岸花や白い彼岸花、そして、ピンク色の芙蓉の花などが咲き乱れていました。

こちら →
(巨木の下のさまざまな花、図をクリックすると、拡大します)

 まるで桜の巨木にもたれかかるように、赤や白、ピンクの花が咲いています。相互に支え合い、絡まり合って生きている姿に見えました。

■数か月で主役の交代
 道路側をさらに歩いていくと、手前に赤、少し先に白の彼岸花が群生しています。その背後には葉を落とした桜の巨木が見えました。

こちら →
(桜の木の下で、図をクリックすると、拡大します)

 つい数か月前はこの遊歩道の主役だった桜が今では、咲き誇る彼岸花の脇役となって、その鮮やかさを引き立てています。日の移ろいを感じさせられます。

 さらに歩くと、今度はアジサイの葉の下に赤い彼岸花が群れて咲いていました。つい先日、目を楽しませてくれていたアジサイの花が、いつの間にか茶色に変色し、そしてまた、いつの間にか、葉だけになっていました。

こちら →
(アジサイの葉の下の彼岸花、図をクリックすると、拡大します)

 その葉の下に陰ができており、赤い彼岸花が身を寄せ合うように咲いていたのです。その様子はまるで強い太陽の光を避けているようにも見えました。主役の座を降りたアジサイが真っ盛りの彼岸花を守っていたのです。

 このように遊歩道の主役は次々と変わっていき、その都度、さまざまな美しさを見せてくれます。

■次の主役がスタンバイ
 再び、遊歩道に戻ると、左手に芙蓉がピンク色の花を咲かせているのに気づきました。鮮やかなアジサイに気を取られ、まったく気づきませんでした。ところが、芙蓉がいつの間にか、ひっそりと優雅な姿を現していたのです。

こちら →

 次の主役として、芙蓉がスタンバイしているのでしょうか。

 川に向かって彼岸花が草むらに真っ赤な色を添えています。それを見守るかのように、道路に影を落としながら、芙蓉の花がゆったりと揺れていました。

 入間川遊歩道を歩いていると、時がうつろい、そして、循環していくのを、折々の花の姿によって知らされます。陽光を浴びながら花々を見、入間川のゆったりとした流れを見ていると、格別の味わいが感じられます。ささやかな幸せを実感できるひとときです。(2020/10/2 香取淳子)

彼岸花が咲きました。

■川辺の彼岸花
 2020年9月19日、久しぶりに入間川の遊歩道を訪れてみました。暴風雨の後だったせいか、たくさんの桜の葉は吹き飛ばされて地面に落ち、その一部が歩道脇に溜まって、落ち葉の層が出来ていました。それぞれが黄褐色に色づいており、一足早い秋の訪れを感じさせられます。

こちら →
(落ち葉の遊歩道、図をクリックすると、拡大します)

 日中はまだ30度近い気温が続いていました。歩くと汗ばみ、木陰が恋しくなるほどです。外にいると、いまだに夏だとしかいいようがありません。とはいえ、そんな中でも時折、そよ吹く風に微かな冷気が感じられます。

 そういえば、騒がしかったセミの鳴き声もひと頃よりは勢いが衰えてきました。夜になれば、虫の音が聞こえてきます。耳を澄ませ、注意深く周囲を見れば、そこかしこに秋の気配を感じることができます。これまで気づかなかっただけで、秋は着実に訪れてきているのです。

 遊歩道の脇に目を向けると、もはや夏はすっかり去っていることがわかります。

こちら →
(落ち葉の向こうに赤い花、図をクリックすると、拡大します)

 つい先日まで青々と輝いていた桜葉は、いつの間にか落ち、遊歩道沿いの土手は秋色に染め上げられていました。色変わりした落ち葉がなだらかなスロープ上に拡散し、まるで川辺に秋を運んでいるかのようです。

 近づいて見ると、スロープの先にうっすらと赤い花が咲いているのが見えました。その手前には桜木の枝があり、低く垂れています。枝先は川に向かって細く伸び、遊歩道からのヒトの視線を赤い花に誘導しようとしているかのように見えます。

こちら →
(小枝の先に赤い花、図をクリックすると、拡大します)

 さらに近づくと、ちょうどその枝先にかかるところに、赤い花がいくつか咲いています。どうやら彼岸花のようです。

こちら →
(彼岸花、図をクリックすると、拡大します)

 近づいてみると、たしかに、彼岸花でした。

■長い茎に支えられた彼岸花
 なだらかなスロープを降りていくと、また別の場所に彼岸花が群生していました。

こちら →
(群生する彼岸花、図をクリックすると、拡大します)

 どの花も長い茎に支えられ、すっくと立っている姿が印象的です。

 スロープを上っていくと、綺麗に花開いた彼岸花がありました。アップで撮影したのが次の写真です。

こちら →
(彼岸花アップ、図をクリックすると、拡大します)

 長く伸びた茎に上に、独特の形状をした花がかすかに揺れています。細く優雅な曲線がとても印象的です。大きな赤い花弁が鮮やかで、ひときわ目立っていました。とはいえ、どこかしら寂しげな風情が漂っているのが気になります。

 孤立して咲いているからでしょうか。

 そう思って周りを見渡すと、すぐ近くに、まとまって咲いている彼岸花が目に入りました。

こちら →
(すっくと立つ彼岸花、図をクリックすると拡大します)

 桜の木の傍で、数本の彼岸花が支え合うように、寄り添って咲いています。豪華な赤い花弁がことさらに際立って見えます。ところが、どういうわけか、これらの花にもそこはかとない寂寥感が漂っています。

 何故、そう思ってしまうのでしょうか。

 しげしげとみているうちに、どの花も葉がないことに気づきました。すっくと伸びた長い茎の上に、大きな赤い花が載っているだけなのです。改めて全体を見ると、何とも奇妙な姿でした。見下ろすと、川べりで咲いている数本の彼岸花にも、同じように葉がありません。

 そこはかとなく寂寥感が漂っているように思えたのは、おそらく、この花の茎にはひとつも葉が付いてなかったからでしょう。本来あるべきものがないので、欠落感、喪失感を覚え、この花自体が寂しそうに見えたのかもしれません。

 喪失感といえば、全国どこでも、毎年、お彼岸の頃になると咲くといわれています。Oxford Languagesの定義によると、彼岸には、①向こう岸、②仏道に精進して煩悩を脱し、涅槃に達した境地。この二つの意味があります。

 彼岸とは「あの世」を指し、故人がいる世界を意味します。日本人にはこの彼岸の時期にお墓参りをする風習があります。お墓参りをすることによって、故人を偲び、感謝し、日々の煩悩を振り払うことによって、安寧の心境を得ることを行事化しているのです。

 彼岸花はまさにお彼岸のための花でした。

 私が子どもの頃は、この花を「曼殊沙華」と呼んでいました。「まんじゅしゃげ」という音の響きにかすかな違和感があって、馴染めないものがありました。それは、初めてこの花を見たのがお寺だったせいか、ちょっと恐いような、不吉なイメージがあったからかもしれません。

■ちょっと不吉なイメージの彼岸花
 なんだか気になったので、調べてみると、水戸市植物公園園長の西川綾子氏は彼岸花について、次のように言っています。

「まず花が咲き、後から葉っぱが伸びるという通常の草花とは逆の生態をもっています。その葉と花を一緒に見ることがない性質から「葉見ず花見ず」と呼ばれ、昔の人は恐れをなして、死人花(しびとばな)や地獄花(じごくばな)などと呼ぶこともありました」
(※ https://horti.jp/2459)

 たしかに、土手に咲いた彼岸花を見ると、葉がありませんでした。明らかに一般の花とは異なっていました。まっすぐに伸びた茎の印象がことさらに強く、どこかしら寂しげな様子に見えたのですが、それが、西川氏の説明でわかったような気がします。

 彼岸花は一般の草花とは逆の生態を持っており、その異質性が見る者に違和感を与え、寂寥感を覚えさせていたのかもしれません。

 私はふと、子どもの頃、彼岸花を縁起のよくない花だと思い込んでいたことを思い出しました。そのような思いの源泉もまた、西川氏の説明でわかったような気がします。

 昔の人はこの花を「死人花」とか「地獄花」と呼んでいたと西川氏はいいます。この花を恐れ、不吉だと思うからこそ、そのような名前で呼んでいたのでしょう。見た目が変わっているだけではなく、この花の名称そのものが不吉なイメージを拡散していたのです。

 実際、彼岸花につけられた別名を見ると、「幽霊花」「剃刀花」「狐花」「捨子花」「毒花」「痺れ花」といった具合に、ロクなものがありません。縁起でもないものばかりです。

 これでは誰もこの花に寄り付こうとしないでしょう。

 西川氏は、「彼岸花の球根には毒があります。地中に潜むモグラやネズミは、他の植物の根はかじっても、彼岸花のものはかじらないと言われています」と説明しています(※ 前掲)

 なんと恐ろしいことでしょう。彼岸花は有毒だというのです。だからこそ、昔の人はこの花に近づかないように警告を発する意味で不吉なイメージの名前をつけていたのかもしれません。

 彼岸花には「花全体にリコリンやガラタミンなど約20種の有毒アルカロイド」が含まれています。誰もがつい手に触れてしまう、花全体に有毒アルカロイドが含まれているというのです。

 調べてみると、アルカロイドは、「“Alkali”(塩基)と“oides”(~類)を語源とした言葉」で、塩基性のものが多いが、イヌサフランに含まれるコルヒチンのように塩基性のないアルカロイドも存在する」そうです。

 そして、「モルヒネなどを含むアヘンや、ツボクラリンなどを含むクラーレのように、強い生理作用をもち、古くから薬や毒として使われてきた」と説明されています
(※ https://dic.nicovideo.jp/a/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%83%89)。

 花全体が有毒だというのですから、近づかないよう注意喚起する必要があります。一連の不吉な名前はそのための昔の人の知恵といえるでしょう。

 しかも、毒があるのは花ばかりではありませんでした。

 花が咲かない時期の彼岸花は、「ノビルやアサツキに似ている植物で、誤って食べてしまい体調を崩す」ことがよくあるそうです。しかも、「誤って食べた場合、特別な解毒剤などはないため、催吐薬や下剤を投与しての対症療法を行う必要がある」といわれています(※ https://horti.jp/3233)。

 さらに毒性の強いのが球根だそうです。「毒は特に球根に多く含まれ、毒抜きせずに食すと30分以内に激しい下痢や嘔吐に見舞われ、ひどい場合は呼吸不全や痙攣、中枢神経麻痺といった深刻な症状を引き起こす」といわれています。

 彼岸花には、「球根1gあたりに約0.15mgのリコリン、0.019gのガラタミンを含んでいる」とされていますが、「リコリンの致死量は10gなので、球根を1個食べても重篤な症状に至ることは基本的に少ない」そうです。とはいえ、「乳幼児が摂取して中毒症状が起こった場合、嘔吐物が気管内に吸い込まれて窒息してしまう場合がある」そうです(※ 前掲)。

 花にも茎にも、そして、球根にも毒があるなんて・・・、なんと危険な植物なのでしょう。想像もしませんでした。

 とくに球根に毒をもつ植物として、彼岸花は古くから知られていたようです。「球根に毒があるので、地中の動物にも効果があると信じられており、そのため、彼岸花は昔からお墓の近くに植えられてきた」そうです。それは、「もぐらやネズミ、土中の生き物から土葬した遺体を守り、傷つけられないようにするため」でした(※ 前掲)。

 調べれば調べるほどいろんなことがわかり、ますます彼岸花が不吉な花に思えてきます。

■曼殊沙華
 彼岸花には「曼殊沙華」という別名があります。私は子どもの頃、この花を曼殊沙華と呼んでいました。お寺で見かけ、そのとき一緒にいた祖母から「まんじゅしゃげ」だと教えてもらったからです。そのせいか、この花からお寺やお経を連想していたのですが、今回、調べてみて、そのことを確認することになりました。

 「曼殊沙華」という言葉を調べていると、「法華経」に行きつきました。

 『法華経』第一序品に、「是時天雨曼陀羅華。摩訶曼陀羅華。曼殊沙華。摩訶曼殊沙華。而散仏上。及諸大衆。」という文言があります。この文言の中に、「曼殊沙華」という言葉が出てきます。曼殊沙華については、「柔らかく白い天界の花」のことで、「この花を見るものを悪業から離れさせるという意味がある」と説明されています。
(※ https://www.kosaiji.org/hokke/kaisetsu/hokekyo/1/01-2.htm)

 この中では、「曼陀羅華」という言葉と対のようになって出てきますが、こちらは「色が美しく芳香を放ち、見るものの心を悦ばせるという天界の花」という意味だそうです。(※ 前掲)。

 このような説明を総合すると、この文言は、「この時、天から曼陀羅華、摩訶曼陀羅華、曼殊沙華、摩訶曼殊沙華といった天界の花がふってきて、仏と人々の上に降りそそいだ」というような意味になるのでしょうか。

 また、「曼殊沙華」には「この花を見るものを悪業から離れさせる意味がある」と説明されていました。ですから、この花には人を防衛したり、守護する機能があるといえます。

 先ほど、彼岸花には花も葉も茎も根もすべて毒があると説明しました。曼殊沙華の説明に従えば、有毒なので、他のものから受ける被害を食い止める効果があるといえます。

 そういわれて思い出すのは、次のような説明でした。

 精製された彼岸花の球根は、「石蒜(セキサン)」や「ヒガンバナ根」の名で漢方薬として利用されることがあります。消炎作用や利尿作用があり、茎を刻んで搾取した汁で患部を流すとよいとされているほか、根をすりつぶしたものを張り薬にすると、むくみやあかぎれ、関節痛を改善する効果が期待されます。また、最近では彼岸花に含まれるガランタミンが記憶機能を回復させるとして、アルツハイマー型認知症の薬に利用されるようになりました。(※ https://horti.jp/3233)

 まさに、毒と薬は表裏一体なのです。

 この花にはさまざまな不吉なイメージの名前がありました。それが今、ほぼ彼岸花、あるいは曼殊沙華で統一されています。この二つの名前には、毒性を持ったこの花のポジティブな側面とネガティブな側面とが表現されており、昔の人々の知恵を引き継ぎ、名称が定着してきたプロセスが感じられます。

■俳句に詠まれた彼岸花(曼殊沙華)
 彼岸花はその独特の花の形状や不吉なイメージから、古来、数々の和歌や俳句に詠まれてきました。俳句では秋の季語になっていますから、数多くの秋にちなんだ句が詠まれています。
(※ http://www5c.biglobe.ne.jp/~n32e131/aki/higanbana.html)

 ここでは正岡子規と夏目漱石の句を取り上げ、見ていくことにしましょう。

 たとえば、正岡子規に次ぎのような句があります。

 「秋風に枝も葉もなし曼殊沙花」

 見たままを詠み込んだ、とてもシンプルな句です。とはいえ、彼岸花(曼殊沙華)の花の特徴がしっかりと押さえられており、ありのままの自然を見つめようとする子規の作家としての姿勢を見て取ることができます。

 「葉見ず花見ず」として知られた彼岸花(曼殊沙華)には、花が咲く時期には葉がなく、花が枯れた後に葉がでるという特徴がありました。そこからさまざまな言い伝えが生まれ、さまざまな印象形成がされてきました。

 また、子規には次のような句があります。

 「ひしひしと立つや墓場のまん珠さげ」

 先ほどの句は「曼殊沙花」と表現されていましたが、この句は「まん珠さげ」と表現されています。ですから、この「珠」はおそらく、数珠を表現しているのでしょう。数珠を手にさげ、お墓の前で先祖の安寧を祈っている人の姿が浮かびます。

 一方、「まん珠さげ」を「曼殊沙華」と読み替えれば、この句は、花と茎しかない曼殊沙華が墓場でまっすぐ立っているという、見たままをスケッチ風に表現された句になります。

 茎だけでまっすぐ立っている曼殊沙華の姿には、「ひしひしと」としか表現できない緊張感が込められています。そこに正岡子規の鋭敏な感性と知性が感じられます。

 先ほどいいましたように、曼殊沙華は球根に強い毒性を持っています。だからこそ、曼殊沙華は墓場に植えられることが多く、収められた遺体を動物から守る使命を帯びていたのです。正岡子規が生きた明治の頃はまだその名残があったのでしょう。スケッチ風にシンプルに表現しながら、曼殊沙華の特性を踏まえ、本質を突いた句になっています。

 一方、夏目漱石に次のような句があります。

 「曼珠沙花あつけらかんと道の端」

 この句には、いかにも漱石らしいユーモアがあります。「あっけらかんと」という語には諧謔性があり、「道の端」という表現には庶民性があります。そして、「あっけらかんと道の端」になると、道端や川辺など卑近な場所に咲くことに、権力に阿らない自由、高邁な理想主義に馴染まない庶民性強調されます。漱石は共感を込めてこの句を創ったのでしょう。

 また、漱石には次のような句もあります。

 「仏より痩せて哀れや曼珠沙華」

 この句もまた、いかにも漱石らしいシニカルな表現が印象的です。仏には断食などの修行を重ねて悟りを開くというイメージがあります。ですから、仏は「痩せて」いるというイメージが一般的です。

 ところが、漱石はその「仏より痩せて哀れや」という印象を曼殊沙華に抱いているのです。法華経によれば、曼殊沙華は天から降ってくる吉祥の花です。ところが、茎だけで葉のない曼殊沙華は「痩せて」貧相に見えます。果たして、天の花の御利益があるのかという皮肉が「哀れや」という語に込められています。

 漱石は、「痩せて」という語に植物としての曼殊沙華の特性を詠む一方、過酷な修行をして悟りを開くということに疑問を投げかけています。権威に阿らず、自身の観察力を信じた漱石ならではの皮肉が込められているのです。

 正岡子規と夏目漱石の彼岸花(曼殊沙華)を詠んだ句を見比べてみると、両者とも彼岸花(曼殊沙華)の特性に着目し、自身の持ち味を生かしながら、句を創っていることがわかります。

■彼岸花の両義性
 埼玉県日高市には巾着田曼殊沙華公園という彼岸花の名所があります。ここには彼岸花約500万本が自生しており、毎年9月中旬から咲き始めます。例年、全国から20万人以上の観光客が訪れていましたが、今年は新型コロナウイルス感染拡大防止のため、花が咲き始める前に芽が刈り取られたようです。

こちら →
https://news.yahoo.co.jp/articles/dae271111698e95983150d55741e553fb9e16cfa

 そこまでする必要があるかと思いますが、コロナ感染予防のために、罪のない彼岸花が花の咲く前に刈り取られてしまったというのです。コロナによってまた一つ、人々の楽しみが奪われました。

 いつも通りなら、次のような華麗な光景を見ることができるはずでした。

こちら →
(tabi channelより)

 彼岸花が群生すると、この世のものとも思えない艶やかで豪華な世界が創り出されます。

 毎年、数多くの観光客が訪れていたのも、このような滅多にみることのできない美の世界が生み出されていたからでしょう。赤く染め上げられたこの辺り一体は、自然の力が生み出す魔界といってもいいかもしれません。

 ふと、彼岸花の英語名が「red magic lily」だということを思い出しました。興味深いことに、その名称に「magic」という語が使われているのです。洋の東西を問わず、人々は彼岸花の異質性に魔力を感じていたのでしょうか。

 先ほどもいいましたが、彼岸花には毒性がある一方で、薬効もあります。少し補足しておきましょう。

 熊本大学薬学部・薬草園・植物データベースでは、以下のような薬効がまとめて紹介されています。

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 鎮痛作用があり,肩こり,膝の痛みに,すりおろした鱗茎をガーゼや布に包んで足の土踏まずに貼る.体のむくみにも同様に利用する.全草に強い毒性があるため口にしてはいけない.鱗茎にはデンプンを多く含むため,砕いた鱗茎を水にさらして毒性を除いて食用にされた.鱗茎をすりつぶし糊状にしたものは,屏風やふすまの下張り使うと虫が付かないとされ,昔利用されていた.
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(http://www.pharm.kumamoto-u.ac.jp/yakusodb/detail/003655.php)

 こうしてみると、彼岸花はまさに両義性の植物だといえるでしょう。

 再び、遊歩道に戻ってみると、桜の木の大きく垂れた枝の下に、彼岸花がそっと寄り添うように咲いているのが見えました。

こちら →
(大きく垂れた枝の下の彼岸花、図をクリックすると、拡大します)

 おそらく、ここでも毒性の強い彼岸花の球根が、川辺の土中の植物の根などを動物による被害から守っているのでしょう。桜の木がこれほど大きく」枝を伸ばせるのも、そのような影の力があるからだと思うと、急に、彼岸花が可憐でいとおしく思えてきました。
(2020/9/23 香取淳子)

コロナの時代、大型企画展はどうなるのか

■美術館の休館
 思い返せば、2月27日、国立新美術館で開催されていた「五美大展」に行く予定でした。どんな若い才能と出会えるのか、毎年このころになると、美大生たちの成果を鑑賞できるのが楽しみでした。ところが、当日、都合が悪くなって、29日に予定を変更したところ、コロナのせいで、運悪く、その日から休館になってしまいました。

 東京都の場合、多くの美術館が2月29日から休館になっています。

こちら → https://www.museum.or.jp/special/korona

 緊急事態宣言が全国的に解除になったのは5月25日でしたが、東京都の場合、緊急事態措置は5月31日まで延長されています。

こちら → https://www.bousai.metro.tokyo.lg.jp/1007617/1007817.html

 国立新美術館の場合、6月11日には再開されました。これで美術館に行くことはできるのですが、行きたくなるような展覧会もなく、以来、しばらく美術館には足を運んでいませんでした。コロナ騒動はまだ収まっておらず、出かけようという気になれなかったのです。

 重い腰をあげ、ようやく出かけたのが、7月下旬、近くの練馬区立美術館です。

 練馬区立美術館では、開館35周年企画ということで、一風変わった企画展が開催されていました。区役所でそのチラシを手にしたとき、久しぶりに展覧会に行ってみたいという気持ちになりました。チラシに掲載されている作品を見て、久しぶりに、この目で見たいという衝動に駆られたのです。

 練馬区立美術館は、自宅からは徒歩15分ほどの距離にあります。ですから、感染を気にすることなく出かけられるという気安さもありました。

■コロナで阻まれた美術鑑賞
 ここ数年、ほぼ一か月に一回は目ぼしい展覧会を探し、美術館、画廊、デパートのギャラリーなどに出かけていました。美術鑑賞は恰好の気晴らしになりますし、知的刺激を与えてくれる娯楽でもありました。いつの間にか、美術館に出かけ、作品を鑑賞することが習慣になっていたのです。

 ところが、今回のコロナ騒動で数か月のブランクが生まれました。その結果、どこでどんな展覧会が開催されているのか、まったく気にならなくなってしまったのです。美術鑑賞の習慣を取り戻すのは容易ではないことがわかりました。

 美術館に出かけるには通常、電車に乗らなければならず、密閉した車内で不特定多数と空間を共にします。会場に着いても、不特定の人々と空間を共有しなければならないことに変わりはありません。鑑賞者の中には保菌者がいないとも限りませんし、マスク着用者ばかりの中では落ち着いて鑑賞する気にもなれません。一定の距離を保って鑑賞しなければならないのも不自由です。

 美術館への道中がコロナ禍を機に、感染への懸念に置き換わってしまいました。鑑賞の楽しみよりも、電車に乗り、会場に出かけることのリスクを気にかけるようになったのです。改めて、美術館に行くことは「不要不急の外出」に相当するのだと思い知らされました。

 このような経験はおそらく、私だけではないでしょう。美術館、映画館、劇場など、観客を相手にする芸術・娯楽はすべて、このような観客の態度変容の憂き目にあっているのではないかと思います。

■美術館に入場するには
 6月に入ると、美術館も再開されるようになりました。とはいえ、事前予約制になっているところが増えており、感染対策として入場者制限が避けられなくなっていることがわかります。

こちら → https://www.tokyoartbeat.com/tablog/entries.ja/2020/06/tokyo_reopen.html
 
 マスクを着用していなければ、入館できず、入館時には検温され、37.5度以上あれば、入館できません。もちろん、館内ではソーシャル・ディスタンスを保って鑑賞するよう、規制されています。中には、渋谷区松濤美術館のように、入館時に氏名、連絡先を記入しなければならないところもあります。

こちら → https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/22017
 
 これまでどおり美術館や画廊、ギャラリーで鑑賞できるようになったとはいえ、観客には、事前予約、入場時の検温、マスク着用、ソーシャル・ディスタンスの確保などが強いられます。これまでのように気軽に行けなくなってしまい、敷居が高くなったような気がします。
 
 一方、美術館、画廊、ギャラリー側にしてみれば、通常業務以外に、感染予防のための作業が増え、経費がかさみます。それなのに、入場者制限をしなければならず、収入の減少は避けられません。このような状態で、果たして、美術館、画廊、ギャラリーは経営していけるのか、ふと、心配になってきました。

■中止に追い込まれた「ボストン美術館 芸術×力」展
 2020年6月10日の日経新聞に、「3蜜回避で美術館の“大量動員至上主義”は変わるか」というタイトルの記事が掲載されていました。

 読んで、印象に残ったのは、今年予定されていた大型企画展が相次いで中止されたという箇所です。コロナ禍で憂き目に遭っているのは、国内の美術館だけではありません。海外の美術館もまた休館に追い込まれ、それが長引いて、展覧会のための作品輸送ができなくなっていたのです。

 たとえば、4月16日から7月5日までの期間、東京都美術館で開催予定だった「ボストン美術館 芸術×力」が中止に追い込まれています。

こちら → https://www.tobikan.jp/exhibition/2020_boston.html

 タイトルのすぐ下に、「日米両国の新型コロナウイルス感染拡大の影響のため、開催を中止いたしました」と書かれています。

 この展覧会は、3月半ばの時点では延期とされていました。主催者側は5月中旬の開催を目指し、関係者と調整していたようです。ところが、日米ともコロナ感染の拡大はとどまるところを知らず、結局は中止せざるをえなくなったようです。

 4月17日、開催中止のお知らせがホームページに掲載されました。

こちら → https://www.tobikan.jp/information/20200417_1.html

 主な原因は、作品輸送の目途が立たなかったことでした。今回の展覧会では、ボストン美術館が所蔵するコレクション約60点が展示される予定でした。ところが、アメリカでコロナ感染者が増大し、作品の輸送ができなくなってしまったのです。

 1876年に開館した同館は、古代エジプトから現代美術まで幅広い作品を収集しており、コレクション点数は50万点にも及ぶそうです。その中から選ばれた60点が来日する予定でした。日本で初めて鑑賞できる作品もあり、観客の期待も大きかったと思います。

「ボストン美術館 芸術×力」はいったい、どのような展覧会だったのでしょうか。

■初公開される日本の作品
 この展覧会のチラシを見ると、「チカラは、美を求めた」というキャッチコピーが、孔雀の絵の上にレイアウトされており、とてもインパクトがあります。

こちら → https://www.tobikan.jp/media/pdf/2019/boston_flier.pdf

 二羽の孔雀の隣に描かれているのは牡丹でしょうか。精緻な筆致と繊細な色遣いで豪華さと強靭さが表現されています。

 実は、これは、今回の展覧会で注目されていた作品の一つでした。江戸時代中期の大名・増山雪斎が描いた二幅一対の「孔雀図」です。チラシの表紙に使われていたのは、白と群青色の二羽の孔雀と赤と薄ピンクの牡丹が描かれているものでした。豪華絢爛という言葉がぴったりの絵柄です。

 開催されていれば、日本初公開となるはずでした。

 調べてみると、増山雪斎(1754-1819)は、三重県桑名市(現在)伊勢長島藩の第5代藩主で、48歳の時に家督を長男に譲り、その後は絵を描き、本草学の研究に邁進したとされています。

 元来、芸術家肌の為政者だったのでしょう。この作品は1801年に制作されていますから、雪斎が47歳の時に描かれたことになります。大名の余技とは思えないほど、素晴らしい出来栄えです。

 ひょっとしたら、この作品が素晴らしすぎたせいで、惜しげもなく藩主の座を捨て、絵筆を握ろうという気持ちになったのでしょうか。雪斎はこの一年後に、藩主の座を退き、絵画制作と本草学の研究に専念しています。

 日本の作品としては、この作品以外に、平安時代後期の「吉備大臣入唐絵巻」と鎌倉時代の「平治物語絵巻 三条殿夜討巻」などの出品が予定されていました。いずれも日本に残っていれば国宝級といわれる絵巻です。こちらもチラシに使われており、「2020年、日本の宝里帰り」というキャッチコピーが付けられていました。

■芸術と権力者
 チラシの解説文には、「多くの権力者たちは、自らも芸術をたしなみ、またパトロンとして優れた芸術家を支援したほか、貴重な作品を収集しました」と書かれています。ちょっと気になる文言です。

 気になって調べてみると、増山雪斎は為政者でありながら、自身で絵を嗜み、絵師を超えるほどの技量で作品を制作していました。その一方で、藩士の春木南湖に絵を学ばせていました(※ http://www.photo-make.jp/hm_2/bird_tonosama_1.html)。優れた才能を見出しては支援していたのです。まさに、この展覧会のコンセプト、「チカラは、美を求めた」を例証しているといえます。

 さて、「ボストン美術館 芸術×力」展では、日本以外に、エジプト、ヨーロッパ、インド、中国などで制作された作品、約60点が展示される予定でした。

 具体的にどのような作品が選ばれていたのかわかりませんが、権力者と芸術作品との関係にスポットライトを当てて企画され、機能の面からその相互関係を読み取れるように組み立てられた展覧会だったのです。

 雪斎のように、為政者でありながら芸術を愛し、自ら創作に励んだばかりか、才能のある者を支援していた権力者もいるでしょうし、優れた作品のコレクションをし、自身の権力の正統性を傍証しようとしていた権力者がいたかもしれません。権力と芸術という観点からは想像力がさまざまに刺激され、物語をいくつも思い浮かべることができます。

 チラシを見ていると、あらためてこの展覧会が、これまでにない観点からの企画だったことを思い知らされます。芸術作品は、権力者が権力を誇示し、その正統性を視覚化する役割を担っていたというのです。展覧会のコンセプトが興味深く、観客の期待感を高めていたことでしょう。

 残念ながら、コロナのせいで、権力者と芸術作品との関係について考える機会が失われてしまいました。

■マスメディアと美術館連携の大型企画展
 何もこの展覧会に限りません。コロナのせいで開催中止、あるいは開催未定になった展覧会は数多くあります。

こちら → https://bijutsutecho.com/magazine/insight/21472

 「ボストン美術館 芸術×力」展は、東京都歴史文化財団、東京都美術館、ボストン美術館、日本テレビ放送網、BS日テレ、読売新聞社などが主催者として名を連ねています。きわめて大掛かりな展覧会だったことがわかります。

 4月20日から7月31日までの期間、チケットの払い戻しをしましたし、すでに制作してしまった図録やオリジナルグッズなどは、通信販売サイトで販売しています。

こちら → https://twitter.com/boston_2020/status/1280106850793295872

 図録は当然として、いったいどれだけのグッズが制作されていたのでしょうか。日テレポシュレのサイトから、オリジナルグッズを一覧してみましょう。

こちら → https://www.ntvshop.jp/shop/c/cboston/

 ノート、便箋、ポチ袋、シール等、37点(図録を含む)ものオリジナルグッズが開発され、販売されていました。展覧会が中止にならなければ数十万人が訪れ、会場で購入していたに違いない商品群です。

 美術館とマスメディアが連携して行う大型企画展が、いかに多数の観客を動員し、それに合わせたグッズ販売してきたかがわかります。

 大型企画展はもはや美術鑑賞の場というより、数十万規模を動員できるイベント会場になっていたといった方がいいでしょう。展覧会を成功させるには、話題先行でアクセスを増やし、グッズ販売につなげるには、マスメディアの協力が不可欠でした。

■企画から開幕までの道程
 産経新聞社事業本部・藤本聡エグゼクティブディレクターは、「怖い絵展」、「フェルメール展」、「ゴッホ展」などに関わった経験から、「美術展の企画から実施までの道程は極めて長い」といいます。

 「美術館の学芸員と企画コンセプトを練り、国内外の美術館と出品交渉を重ねて構成を固めていく」。その一方で、「作品の輸送計画・PR計画の策定、図録・音声ガイド・グッズの制作」などの準備に「短くて3~4年、長くて5年以上の歳月が必要だ」といいます。そのような作業を一つ一つ積み上げ、ようやく開幕を迎えるというのです。(※ 『芸術新潮』2020年8月号)

 藤本氏の場合、手掛けていた「ゴッホ展」(2020年1月25日~3月29日)が、コロナ禍で開催中の3月4日から臨時休館になりました。その後、厳重な感染対策をして、3月17日から再開しましたが、3月20日には再び、休館せざるをえず、そのまま会期を終えたという経験があります。

こちら → https://www.artm.pref.hyogo.jp/exhibition/t_2001/index.html

 そんな中、経験した大きな問題は、海外10ヵ国27カ所から借りたゴッホや印象派の作品をいつ、どのように返却するかということだったと藤本氏はいいます。コロナ感染拡大のため、4月3日に日本政府が入国拒否の対象を73ヵ国・地域に拡げたことで、国際貨物輸送もストップし、返却作業が滞ってしまったというのです。

 この記事を読んで、「ボストン美術館 芸術×力」展が、作品輸送の目途がつかずに中止になった経緯がわかりました。

 藤本氏はさらに、ロックダウンによる海外美術館の休館や輸送体制の不備等により、いまだに返却できず、日本に残されたままの作品もあるといいます。国内外でから作品を借用し、返却する過程でいかにリスクが多く、困難をきわめるか、展覧会の裏方作業が見えてきたような気がします。

 今回のコロナに限らず、事故、地震、テロ、盗難など輸送に伴うリスクは多々あります。それらを乗り越え、これまで大型企画展は開催されてきました。ところが、コロナを経験した今後はどうなるのでしょうか。海外の美術館からの借用に影響してくるのではないかという気がします。

 藤本氏は、ここ十数年で、人件費、輸送費、保険料など展覧会に関わる経費が膨れ上がっているといいます。以前はなかったテロ保険や地震保険などもかかるようになり、数十万規模の入場者数を見込めない企画は開催が難しくなっていると指摘しています(※ 『芸術新潮』前掲。)

 このような状況下では今後、海外の著名な画家を取り上げた大型企画展の開催は難しくなるかもしれません。

■大型企画展の事業モデル
 展覧会に関する記事をいくつか読んでみると、新聞社やTV局が実質的な事業主体となって運営しているのが、大型企画展の事業モデルだといえそうです。数十万人の動員を見込める大型企画展を、最初から最後まで仕切るのがマスメディア側です。

 具体的には、マスメディア側が企画から作品借り受け交渉、図録等グッズ制作などの関連作業を進め、実施まで4~5年かけて展覧会の開催にこぎつけます。しかも、その収支まで、マスメディア側が責任をもつ仕組みになっているようです。

 たとえば、入場者60万人規模の大型企画展の場合、典型的な収支モデルは次のようなものになります(※ 『週刊ダイヤモンド』2020年8月22日号、pp.50-51)。

 支出の部として、①作品借用料(3億~5億円)、②保険料(1億~1.5億円)、③輸送費(0.5億~1.5億円)、④展示・会場施工費(0.5億円)、広告宣伝費(0.5億~1億円)、その他運営コスト(0.5億~1億円)で、支出合計が6億~10億円前後になります。

 一方、収入の部としては、①入場料(約8割)、②グッズ販売(約2割)といった構成になっています。興味深いのは、この収支に責任を負うのはメディア側で、美術館側はいっさい負わないということです。そればかりではなく、入場料収入のうち20%強は美術館側に入る仕組みになっているといいます(※ 『週刊ダイヤモンド』前掲)。

 このモデルだと、入場者数が増えれば増えるほど、美術館側にもメディア側にも利益があるということになります。観客がすし詰め状況で作品鑑賞をしなければならない反面、メディア側と美術館側にはwin-winの関係を築くことができていたのです。

 実際、これまでの大型企画展では、当初予算で一日5000人から7000人もの入場者を想定するケースが多かったそうです。

■コロナ下で再考、美術館はどうあるべきか。
 私も美術館に行きながら、長蛇の列には嫌気がさし、入場しないで帰ってしまったことが何度かあります。とくに最近の有名な美術展はどれもたいてい混み合っており、鑑賞したいという気持ちが削がれてしまっていました。

 コロナ下のいま、感染予防対策の面から、入場者数は制限されています。その上限は、主な国立美術館で一日1600人程度、国立西洋美術館で一日3000人程度とされているようです。つまり、入場者数はこれまでの大型展覧会の半分以下に制限されているのです。観客にとっては好都合ですが、果たして主催者側にとってはどうなのでしょうか。

 多数の入場者数を想定した大型企画展の開催が今後、難しくなるとすれば、世界的に著名な画家を取り上げた企画展は開催しにくくなるのでしょうか。入場料を上げるわけにいかず、他の収入源も考えられないとすれば、やはり、大型展覧会の開催は困難になるといわざるをえなくなるでしょう。

 美術関係者からは、「大型企画展頼みからコレクション・常設展重視の流れが定着するといい」という声があがっているようです(※ 『週刊ダイヤモンド』前掲)。そうなると、コレクションの内容によって、美術館の個性が表出してきますから、美術館の存在価値が高まるでしょう。

 コロナ禍を機に、美術館もまたパラダイムシフトの時期を迎えているのかもしれません。(2020/8/31 香取淳子)

オリンピックを中止に持ち込めるのは誰か。

■東京五輪ボランティア調査
 2020年7月30日、大会組織委員会が実施した調査結果が各紙に発表されました。組織委員会は7月1日から21日にかけて、約8万人の大会ボランティアを対象に、オンラインでアンケート調査を実施しました。約2万6千人から回答が得られたといいます。

 結果を見ると、66.8%もの参加予定者が「大会の実施形態や活動中の感染防止対策」に不安を覚えていることが明らかになりました。応募時点では新型コロナウイルスなど発生していませんでした。ですから、いまだに収束しないコロナへの感染を不安に思うのも無理はありません。彼らが来年もボランティアとして参加するかどうかわからなくなってきました。

 また、「卒業や留学、転勤など環境の変化で参加できないかもしれない」という回答が21.5%にも上っていました。大会が1年延期になったことで、参加予定者の進路が変わり、参加できない可能性も出てきたのです。ようやくかき集めたボランティアですが、人数であれ、活動内容であれ、コロナ下での大会運営に合わせた変更が迫られています。

 コロナの感染者数は、いまだに増加の一途を辿っています。果たして、東京五輪の開催は可能なのでしょうか。

 2020年7月31日、東京都の感染者数は463人、全国で1463人に上っています。1日の感染者数としては過去最多を記録しました。感染したからといって、死ぬわけではないと楽観的に考える人がいるかもしれませんが、数は少ないですが、若い世代で死亡した人もいます。

 東京都の場合、新型コロナウイルスの発生から7月30日までに感染して死亡した人は330人でした。

こちら →
(NHK7時のニュースより。図をクリックすると、拡大します)

 ニュースでは、全体の93%(306人)が5月末までに死亡していると報道されていました。年代ごとの死者数を見ると、60代以上が多いことがわかります。全体の約93%が60代以上の高齢者です。以前からいわれていましたが、高齢者は新型コロナウイルスに感染すると、死に至りやすいことが数字で示されたことになります。

 これまでのところ、東京都では、10歳未満と10代、30代の死者はいないようですが、今後、どうなるかわかりません。ウイルスが変異し、若者の致死率も上がる可能性もあります。五輪ボランティアに参加予定の若い世代の人々が、感染報道を見て、不安な気持ちになるのも無理はありません。

 当初、すぐにもワクチンが開発されるといわれていたのですが、現在、多くはまだ有効性の確認段階にとどまっています。効果があるといわれていた日本製のワクチンもありましたが、検査してみると有効性を確認することができず、いまや話題にものぼりません。

 世界中の大学や研究所、製薬会社が開発に取り組んでいますが、まだ有望なワクチンの製造には至っていないようです。せっかく開発しても、副作用が強くこともあれば、再感染した場合、ワクチン接種者の方が重症化しやすいといったこともあって、なかなか認可には至らないのが現状なのです。

 新型コロナはどうやら、とてもやっかいなウイルスのようです。

■米製薬会社ファイザーと基本合意
 2020年7月31日、たまたま、TBSの夕方のニュースを見ていると、政府が米製薬会社のファイザーと6000万人分のワクチンを日本向けに供給することで基本合意したと報じていました。

 もちろん、まだ完成しているわけではありません。現在、開発中のこのワクチンが完成し、来年3月までに承認されれば、6月末までに6000万人分のワクチンが日本向けに供給されることで合意したということのようです。

 日本の大学、研究所、製薬会社などもワクチンを開発していますし、政府も出資をしています。ところが、どういうわけか、この度、政府は米製薬会社「ファイザー」と契約を交わしたというのです。

 実際のところ、新型コロナウイルスの正体はいまだに確定されているとはいえません。感染しても軽症で済む場合があれば、重症に陥り死に至る場合もあります。さらには、感染しても免疫を獲得することができず、再感染する例も報告されています。感染の症状、抗体ができるか否かは一様ではなく、世界各地で異なる種の感染者が増えているのが現状です。

 つい10日ほど前も、開発中のワクチンをめぐる争奪戦が激しくなっていると報じられたばかりでした。

こちら →
https://news.yahoo.co.jp/articles/9cfa05a9b7d68419361e4b413308a576fa501b0d
 
 開発中の有望なワクチンに対し、先進諸国がどれほど投資をしているか、まとめたものが以下の図です。

こちら →
(2020年7月20日、「朝日新聞」。図をクリックすると、拡大します)

 不思議なことに、この図にファイザーの名前はありませんし、ファイザーと共同開発しているドイツのバイオNテックの名前もありません。日本政府が基本合意を交わしたとされるのは、両者が秘密裡に開発してきたワクチンなのでしょうか。

 この図にある米モデルナと英アストラゼネカについては、ワクチンの治験情報がすでに流れていました。ですから、有望なワクチンとして取り上げられたのでしょう。

 ところが、米ファイザー製のワクチンについては名前が明らかにされていないだけではなく、かつて投資家向けに伝えられていたワクチンとは別のものだという証券アナリストもいるようなのです。

こちら →
https://news.yahoo.co.jp/articles/55c6526af6f2ac18dd8450f406ed64a1aea140b7

経済情報サイトのブルームバーグは、ファイザー製のワクチンが10月に申請できるかどうか疑問だといっているようです。
(原文:https://www.bloombergquint.com/business/pfizer-s-october-target-in-vaccine-race-scrutinized-by-street

 なぜ、まだ認可されてもいないワクチンを日本政府は購入しようとしているのでしょうか。

■透けて見える開催への強い意志
 先ほどのTBSニュースに戻りましょう。

 このニュースで気になるのは、次のような文言です。

 「政府は、東京オリンピック・パラリンピックよりも前の来年前半までに1億2000万人分のワクチンの確保を目指し、ファイザーとは別の海外企業とも供給の合意に向け、最終調整をしているということです」

 まだ、申請もしておらず、認可されるかどうかもわからないワクチンの購入について、日本政府は米製薬会社と基本合意を交わしたというのです。しかも、2021年の前半までに1億2000万人分のワクチンを確保するといいます。

 さらに驚いたことに、別の海外企業ともワクチンの購入合意を交わすための調整をしているといいます。ファイザー製のワクチンが認可されなかった場合の保険をかけているのです。

 日本政府がなりふり構わず、来年の前半までにワクチンの入手に努めていることがわかります。

 一連の動きからは、ワクチンでなんとか感染を抑え込み、2021年にはなんとしても東京大会を開催しようとする日本政府の強い意志を見て取ることができます。

 メディアからは日々、感染者増が伝えられており、もはやオリンピックどころではないことは誰でもわかります。それなのに、この体たらく、日本政府はどうなってしまったのでしょうか。選手や観客の健康よりも、経済的損失の方が気になるのでしょうか。それとも、面子にこだわっているのでしょうか。違和感をおぼえざるをえません。

 感染者数がいまだに拡大しつづけている今、IOCは東京大会の開催をどのように捉えているのでしょうか。

■バッハ会長の会見
 2020年7月15日、IPCのバッハ会長はオンラインで開催した理事会の終了後、記者会見を行いました。まず、2021年に開催予定の東京大会について、安全に開催するため複数のシナリオを検討していることを明らかにしました。その一方で、理事会の総意として、「無観客は望んでいない」と強調しています。

こちら → https://www.nikkei.com/article/DGXMZO61569610W0A710C2000000/

 選手や観客の健康、安全に配慮すれば、2021年の東京大会は「観客なし」で開催するに越したことはありません。感染防止対策としては、非対面、非接触がなによりです。健康面からいえば、「三蜜」(密集、密接、密閉)を回避できる「観客無し」というシナリオはいまのところ、最適だといえます。

 幸い、5Gを活用した映像技術を活用すれば、臨場感のある試合風景を提供することができます。オリンピックを舞台に、5Gでスポーツ中継を配信すれば、恰好の5G映像の配信例をデモンストレーションすることにもなります。

 ところが、それでは「盛り上がりに欠けるので、望んでいない」とバッハ会長はいっているのです。

 もちろん、無観客では入場料を取れず、関連グッズの販売収入もありません。そうでなくても延期費用が嵩むというのに、あえて収入の道を閉ざす選択肢はないということなのでしょう。

 バッハ会長は「無観客は望んでいない」といい、コロナ下で開催する東京大会にも従来通りの様式を要求しています。ところが、感染対策をするには「三蜜」を避けなければならず、入場者数を制限しなければならなくなります。当然のことながら、収入は減少します。

 さらに、会場内の各所、座席等の消毒も不可欠ですから、通常の大会に比べ、どれほど余分の経費がかかってくるのか、想像するだけで恐ろしくなります。しかも、日本側が延期費用をどれほど分担することになるのか、いまだに明らかにされていません。

 日本政府、大会組織委員会、東京都の五輪担当者は、はたして、日本が負担する経費がどれほどになるのか把握しているのでしょうか。なによりも、日本側の損失ができるだけ少なくなる方向で、IOCと協議しているのでしょうか。海外メディア経由で報道されるIOCの見解などを知るたび、不透明なまま進められているだけに、不安になってしまいます。

■経費節約は可能なのか
 延期費用について、バッハ会長は2020年5月15日、IOC側は8億ドル(約857億円)の追加負担を見込んでいると発表しました。

こちら → https://www.nikkei.com/article/DGXMZO59135130V10C20A5000000/

 大会組織委員会や東京都の試算では、当時、延期費用は約3000億円前後になるとされていました。IOCの言い分を認めれば、日本側の負担は約2143億円になります。この記事によれば、大会組織委員会はIOCにも負担を求めていたようですが、バッハ会長はそれには言及しなかったそうです。

 IOC、大会組織委員会、東京都、いずれもできるだけ節約して東京大会を開催したいという思いは同じです。無駄な費用を省き、大会を充実したものにするという点では一致しているはずです。

 ところが、コロナ下で開催される2021年大会には、選手や観客、ボランティアなどに対する感染対策という大きな課題が課せられているのです。そのことがIOC側に十分理解してもらえているのでしょうか。

 7月15日の会見でも、バッハ会長は「簡素化に向けて、200以上の項目を見直し」、「テスト大会の縮小や競技会場の収容人数の削減などを検討」しているといっています。ところが、節約に心がけるといいながらも、「大会の盛り上がりにも直結するだけに、難航する可能性がある」とも述べています。

 すでに6月の理事会で、簡素化する案が合意されていたにもかかわらず、バッハ会長は収容人数を削減すれば、大会の盛り上がりに影響するので難航する可能性があるとし、婉曲的にそれを否定しているのです。

 コーツIOC調整委員長もまた、7月29日、ロイター通信の電話取材に応じ、「観客は大会の重要な一部。我々の計画ではそれを維持することが大切だ」と述べています(※ 2020年7月30日、「日刊スポーツ」)

 両者の発言には、2021年の大会がコロナ下で開催される特殊な大会だということの認識が欠けているように見えて仕方がありません。従来の大会イメージに基づいて運営しようとする姿勢が明らかで、日本側の意見がどの程度反映されているのか気になります。

 最近、IOCの意向はまず、海外メディアで報道されることが多く、それに対し、日本側が反応するといった展開になっています。日本側の反応がどれほど海外で報道されているのかもわからず、IOCの言い分だけが世界に流れているのではないかと心配です。

 マラソン開催地の変更にしろ、延期に至る経緯にしろ、日本側は優柔不断で、たいていの場合、決断を遅らせがちです。しかも、議論の過程が不透明で、合理性に欠ける判断しかできません。それを見越しているのか、IOCは随時、一方的に海外メディアに情報を流しています。このままでは、日本側の見解が十分に伝わらないまま、IOCに引きずられて世論が形成され、日本が過剰な負担を担わされるのではないかと懸念されます。

 このようにIOCの意向ばかりが海外メディアで主張されており、日本側の見解がいまひとつ見えてこないのが現状です。このままではIOCに引きずられ、日本に過剰な負担を強いられるのではないかと心配です。

 はたして、組織委員長の森喜朗氏はIOCに対し、どのような見解を抱いているのでしょうか。

■森喜朗組織委員長
 2020年7月6日、組織委員会の森喜朗委員長は、都庁に出向き、再選されたばかりの小池都知事を訪問しました。その際、取材陣の質問に答え、開会式の簡素化は難しいと述べています(※ 2020年7月7日「東京新聞」)。

 「3時間の開会式を短くすれば、経費は一番安くなる」ことはわかっているのに、IOCがそれに応じないと述べたのです。その理由は、IOCがすでにTV放映権を販売しているので、時間を短縮すると違約金が生じるからというものでした。

 違約金が生じるといわれれば、組織委員会は唯々諾々とIOCに従うのでしょうか。日本のため、日本人の利益を守るためにIOC側と粘り強く交渉するという考えはないのでしょうか。

 さて、五輪・パラリンピックの開閉会式には計130億円の経費が見込まれているそうです(前掲。「東京新聞」)。これについて、コーツIOC調整委員長は、開会式を華美なものにしなければ、50万ドル(5500万円)は節約できるかもしれないと述べています(前掲。「日刊スポーツ」)。

 この一件で見えてくるのは、IOCが大会を主導し、開催者である日本政府、東京都はただ、経費負担を強いられるだけだということです。追加費用ひとつとってみても、5月15日時点では約3000万円前後とされていたのに、7月7日時点では数千億と膨れ上がっています。

 2倍ほどにも膨れ上がっていることについては、「契約済みの事業も多く、予算の見通しは難航している」と書かれています(前掲。「東京新聞」)。ということは、これ以上嵩む可能性も考えられるのです。

 日本側にタフなネゴシエーターはいないのでしょうか。

 2021年五輪大会には、通常の大会経費に延期のための追加費用、さらにはコロナ感染対策費用もかかってきます。いっそ中止してしまった方がいいのではないかと思いますが、森氏は7月17日、IOC総会後の記者会見で、「今やめたら、倍の金がかかる」と述べています(※ 2020年7月18日、「日刊スポーツ」)。

 コロナ禍でただでさえ経済が逼迫しているというのに、強引に五輪大会を開催することで、余計な費用まで都民あるいは日本国民の負担にされてはたまったものではありません。

 はたして、安倍首相はどのような見解でIOCに対処しようとしているのでしょうか。

■安倍首相
 コロナ感染者数が増加の一途をたどる中、なんとしても開催したいと不退転の決意を示しているのが、安倍首相です。7月22日に開催された新型コロナウイルス対策本部では、外国人選手や大会関係者の入国に向けた条件の検討を開始すると表明しました。受け入れ態勢の整備に着手するというのです。

 そもそも3月下旬、五輪大会の1年延期を言い出したのが安倍首相でした。この時、森組織委員会会長は2年の延期を提案したといいます。2年ぐらいの余裕がなければ感染が終息していないだろうと考えたからでした。

 ところが、安倍首相はワクチンが開発されるから大丈夫だといい、1年の延期を主張したといいます。IOCのバッハ会長は安倍首相の意向を呑み、オリンピック史上前例のない、大会の延期を承諾したのでした。

 それにしても、安倍首相はなぜ、五輪大会の中止を避けようとするのでしょうか。

 これについて産経新聞は、コロナ感染拡大で冷え込む日本経済への悪影響を広げたくないという思いがあるからだと指摘しています(※ 2020年7月22日「産経新聞」)。

 確かに組織委員会は、2017年時点で、大会の経済波及効果は全国で32兆円だと試算していました。何を根拠に算出したのかわかりませんが、これは結構な金額です。この試算に基づいて判断すれば、大会の中止はなんとしても避けたいと思うようになるでしょう。

 安倍首相はこの試算結果を信頼し、それだけ大きな経済効果のある五輪大会を見送れば、日本経済の致命傷になりかねないと判断したのかもしれません。

 IOC、安倍首相、組織委員会の見解を振り返ってみると、いずれも五輪・パラリンピック大会の開催が、経済的動機付けに偏っていることがわかります。

 それでは、小池都知事はどうでしょうか。

■小池都知事
 今回の都知事選では、保守系候補と非保守系候補とで五輪に対する見解が分かれました。

 小池百合子氏は、「簡素化、費用の縮減を進めながら、都民の理解を得られる形で進めていく」とし、元熊本県副知事の小野泰輔氏は、「2024年への延期も視野にIOC等と再交渉を行い、確実な開催を目指す」と訴えています。

 一方、NHKから国民を守る党党首の立花孝志氏は、「4年後あるいは2年後の開催で、IOCに判断させるべきだ」とし、元日本弁護士連合会会長の宇都宮健児氏は、「感染症対策の専門家が困難であると判断した場合は、IOCに中止を働きかける。浮いた予算はコロナ禍で被害にあった都民の支援に回す」としています。そして、れいわ新撰組代表の山本太郎氏は、「開催都市として、ハッキリと五輪中止をIOCに宣言する」と訴えています。

 毎日新聞は2020年7月1日、主要5候補の見解を次のようにまとめ、わかりやすく図示しています。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 都知事候補者の中で五輪中止を訴えたのは山本氏だけでした。その山本氏の主張に対し、小池氏はオンライン討論会で、「大会中止の権限は東京都にはなく、IOCにある」と指摘し、クギをさしました。

 さらに、「コロナ対策の観点から、無観客試合を行った場合の試算が必要」と述べ(※ 『日刊スポーツ』2020年6月27日)、現職都知事ならではの見識を強調していました。

 先ほど紹介しましたように、これまでオリンピックを開催すれば、莫大な経済効果があると喧伝されてきました。当然、開催都市・東京都にも大きなメリットがあるはずでした。だからこそ、東京都はオリンピック誘致に力を注ぎ、多くの都民もまた開催決定を祝福したのです。

 ところが、開催都市には大会中止の決定権もなく、きわめて不利な条件が課せられているというのです。

 いったい、なんのための、誰のためのオリンピックなのでしょうか。なんとか打開策を講じることはできないのでしょうか。

 都知事選の結果、再び、小池氏に都政が委ねられました。

■卓越したパフォーマーとしての小池百合子氏
 それにしても、都知事選の結果は見事でした。2020年7月5日午後8時、開票が始まるとわずか数秒で、小池百合子氏の当確が出たのです。フタを開けてみれば、小池氏の得票数は366万1371票、2位の宇都宮健児氏(84万4151票)を大きく引き離していました。

 意外なことに、街頭演説で注目を集めていたはずの山本太郎氏は、3位(65万7727票)でした。2位の宇都宮氏とは約20万票もの開きがあります。ユーチューブで見ている限り、行く先々で大勢の有権者の支持を集めているように見えたのですが、どうやらそれほどでもなかったようです。そして、維新が応援した小野泰輔氏は、4位(61万2530票)でした。知名度がなかったにもかかわらず、山本氏に約4万票差にまで迫っています。

 今回の投票率は55.0%で、前回よりも5%弱下回っていました。一般に、投票率が低ければ、組織票を持つ候補者が有利だとはいわれますが、2位から4位までの得票数を見れば、確かに、ある程度は組織票が関係していたといえるでしょう。

 とはいえ、2位から4位までの得票数を足してみても、211万4408票にしかなりません。小池氏の得票数とは154万票以上もの開きがあり、はるかに及ばないのです。今回の小池氏の圧倒的な得票数は予想を超えていました。

 選挙前には、小池氏の学歴詐称疑惑、都知事としての公約の不履行、パフォーマンスばかりで都政を混乱させただけ、などといったネガティブな評価が出回っていました。それぞれが尤もで、異を唱える人もいませんでした。それにもかかわらず、開票してみれば、小池氏が圧倒的な得票数で再選されたのです。なんと歴代2位だといいます。

 小池氏は、類まれな強運の持ち主なのでしょうか。ほとんどレームダック化していた小池都知事が、コロナ禍を機に、さっそうとメディアに登場してたのです。

■小池都知事に期待すること
 改めて、選挙期間中の小池氏のメディア戦略を振り返ると、TV、SNS、ユーチューブなどへの露出が見事でした。メディア特性を熟知しているからでしょう。それぞれの特性に応じてメディアを使い分け、登場する時期、期間、タイミングを周到に練り上げ、メディア露出のバランスを計りました。

 小池氏は新型コロナウイルスを活用し、ごく自然な形で、都民の前に繰り返し登場しました。穏やかな百合子スマイルで、時には「ロックダウン」と脅し、時には「ステイホーム」と強要しました。

 特に見事だったのは、東京五輪の延期が決まった翌日の3月25日、都民に「今週末の不要不急の外出の自粛を要請」したことでした。都庁で緊急記者会見を開き、在宅勤務、行動範囲の制限を要請する一方、外国からの帰国者に対し、14日間の外出自粛を求めたのです。

 政府がなかなか実行しなかったことを、小池氏は手際よくやってのけました。しかも、誰にもわかりやすく、よく見える形でコロナ対策を実行していったのです。

 安倍首相がコロナ対策で会見をしたのは、3月28日でした。小池氏は政府よりも一足早く、自粛要請に着手していたのです。

こちら → https://www.kantei.go.jp/jp/98_abe/statement/2020/0327kaiken.html

 2020年4月7日、緊急事態宣言が発布されました。その頃、すでに小池氏は日々、メディアに登場していました。為政者として軍配が上がったのは小池氏でした。

 一連の行動を時系列でみていくと、小池氏がいかに社会情勢を的確に読み、特性に応じたメディア露出を繰り返してきたか、そして、いかに巧みに自己アピールを展開してきたかがわかります。

 さて、2021年の五輪・パラリンピック大会はいま、日本は引くに引けず、膠着状態に陥っているように見えます。

 感染者数は留まることを知らずに増え続け、経済状況は悪化しています。五輪・パラリンピックのパートナー企業の中にはそれどころではないところもあるでしょう。さらに、コロナ禍を機に、米中関係は深刻なものになり、いまや開戦寸前です。

 とても開催できる状況ではないと思いますが、これまで見てきたように、森大会組織委員長にも安倍首相にも中止の選択肢は念頭にありません。となれば、大会中止の勇断を下し、行動に移せるのは小池氏しかいないのではないかという気がします。

 小池氏は、五輪中止を訴える山本氏に対し、「大会中止に権限はIOCにある」といいました。確かに、規定上はそうなっていますが、いまは非常事態です。いまこそ、大胆で、パフォーマンス力に優れた小池都知事の出番ではないでしょうか。

 社会情勢、世界情勢を的確に読み、柔らかな物腰で相手を籠絡し、自分の土俵で勝負する・・・、このような芸当ができるのは、若い頃、中東で鍛えられ、帰国してからは日本のメディア界、政界を巧みに遊泳してきた小池氏しか考えられません。

 実際、小池氏は都知事選でネガティブキャンペーンに見舞われても、堂々と対処し、圧倒的な勝利を勝ち取りました。小池氏に、難局を切り抜けるタフな精神力と機転の利いたパフォーマンス力があることは確かです。幸いなことに、強運の持ち主でもあります。

 そのような小池都知事には、いまこそ本領を発揮し、都民をはじめ日本国民のために、損失をできるだけ少なく、オリンピックを中止に持ち込んでもらえればと願っています。(2020/7/31 香取淳子)

続 雨上がりの午後、アジサイを鑑賞する。

 このたび、アジサイの色が、土壌のせいだけではなく、時の経過によっても変化することを知りました。それからというもの、はたして実際にそうなのか、この目で確認したくて仕方がありませんでした。ところが、その後、雨が続き、なかなか出かけることができません。

2020年6月21日、ようやく雨が上がりましたので、さっそく、入間川遊歩道に行ってきました。

■色変わりしていたアジサイ
 着いてみると、数日前とは様相が大きく異なっていました。まず、前回、ご紹介した場所のアジサイを見てみましょう。


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 6月14日の午後、この辺りのアジサイは白に近い薄紫色でした。ところが、その一週間後、訪れてみると、花の色はほとんどが赤く変色していました。

 念のため、道路側に降りてみましたが、やはり、薄い紫色だったアジサイが赤くなっていました。一斉に色づき、しかも、どの花も一回り大きくなっています。


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 赤くなったアジサイの一つに近づいて見ると、気のせいか、やや萎れているように見えました。さらに目を近づけると、褪せたような色の花びらには筋が縦にいくつも入っています。

 ふと、幼いころに見た祖母の手の爪を思い出しました。

 ある日、祖母は手を広げて爪を見つめながら、しみじみとした口調で小学生の私に、「年を取ると、爪に筋が入るようになる」といったのです。見ると、祖母の爪には縦に筋がたくさん入っていました。どのような脈絡でそのような話になったのか、すっかり忘れてしまいましたが、祖母の爪としみじみとした口調だけは記憶に残っています。

 祖母によれば、爪に縦筋が入るようになるのが老化のシグナルの一つでした。だとすれば、この花びらもまた、老化が進行しているといえるでしょう。

 それでは、アップしてみましょう。


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 見ると、確かに、花びらには勢いがありません。ところが、花びらの色に差異はなく、ほぼ均等に変化しています。ですから、この花の場合、どの部位も一様に老いているといえるでしょう。青から赤への変化が完了し、やがて枯れていく(死)ための準備段階に入ったように見えます。

■老化現象のタイムラグ
 何気なく周辺を見渡してみると、すべての花びらが完全に赤くなっているわけではなく、わずかに青い部分が残ったアジサイもありました。見てみましょう。


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 手前の花を見ると、多くの花びらが赤く変色している中で、微妙に青色が残っている箇所があります。その後ろの花は逆に、青い花びらが多い中、赤に変化しかかっている箇所が見えます。

 興味深いことに、どちらも花びらの色が一様ではなく、場所によって微妙に異なっています。改めて、同じ株の花でも、同じ土壌の花でも、色の変化にはタイムラグがあることがわかります。

 見ているうちに、ふと、ヒトの老化も同じようなものではないかという思いが胸を過ぎりました。一定の年齢になると、ヒトには、膝の痛み、ぎっくり腰、歯の痛みやぐらつき、内臓疾患、高血圧などの老化現象が、さまざまな身体部位に現れます。

 同じ年齢の人でも老化現象は一様ではないと思った途端、アジサイの色の変化、そして、その微妙な差異が、なんだかとても人間臭く思えてきました。目の前のアジサイはそれぞれ、バリエーションに富んだ色合いで、その存在を誇示しているようにも見えます。


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 微妙に異なる色の組み合わせが、それぞれのアジサイの個体識別になっていました。老化による色の変化が、個体ごとにその個性を引き出していたのです。遠目からはそれが一種の華やぎに見えました。

■成熟するということ
 再び、遊歩道に戻って、歩いていくと、先日見たガクアジサイが一段と大きくなっていました。


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 中心部が大きくなりすぎていて、白い周辺花がそれほど目立ちません。成熟することによって、白の占める割合が相対的に少なくなってしまったからでしょう。そのせいか、先日、このガクアジサイに感じたきらきらした印象がすっかり消え失せていました。

 一週間ぶりに見たガクアジサイは、中心部も周辺花も大きく成熟する一方で、花全体からは生硬さ、初々しさが失われていたのです。このガクアジサイに、時の経過による色の変化は見られませんでしたが、時の経過による成熟は見られました。

 成熟は明らかに、成長期の輝きを花から奪っていました。

■老化にどう向き合えばいいのか
 一週間ぶりに遊歩道のアジサイを見て、まず、花の色が赤く変色していることを確認しました。さらに、花が大きく成熟していることも確認しました。いずれも時の経過(老化)による作用です。

 アジサイを遠目で見れば、ただ色が赤く変わっただけのように見えます。ところが、近づいてみると、その花びらには筋がいくつも入り、萎れていました。それを見たとき、自然は残酷に時を刻んでいくものだということを感じさせられました。

 梅雨の季節、人々の目を楽しませてくれたアジサイも、やがては萎びて枯れ、大地に戻っていくのでしょう。それが自然のサイクルなのです。その観点からいえば、この数日間のアジサイの色の変化は、滅びの前の華やかさといえるものなのかもしれません。

 ヒトも同様、老化が進み、やがては大地に還っていく定めに抗うことはできません。老化現象をどう受け入れ、身体のさまざまな機能不全と共に生きていくか、それは、超高齢化社会の日本に課せられた大きな課題です。

 アジサイのように、たとえ遠目からだけでも、そして、一瞬だけでも、成熟期の輝きを得ることができれば、その後に訪れる衰退、あるいは衰弱を潔く受け入れることができるようになるかもしれません・・・。ふっとそんな気がしました。(2020/6/22 香取淳子)

雨上がりの午後、アジサイを鑑賞する。

■雨上がりの遊歩道
 2020年6月14日の午後、雨が上がったので、入間川遊歩道に出かけてみました。着いてみると、道路際には大小さまざまなアジサイが咲き誇っていました。つい先日、見たときはまだ薄色だったのに、わずか数日で花弁はすっかり濃くなっていたのです。いかにもアジサイといった色合いの花々が、雨で濡れた遊歩道を華やかに彩っていました。


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 遊歩道に沿って、空色、紫、赤紫、青紫など、藍色を基調としたアジサイの花が群生しています。先の方には、かすかに赤味がかった色の花も咲いているようにみえます。色や形、大きさが異なる花々が、それぞれ存在を誇示しながらも、全体として調和しており、情緒豊かな空間が形成されていました。

 雨上がりの午後、この遊歩道を歩きながら、アジサイを鑑賞することにしましょう。

■アジサイ
 アジサイは漢字で紫陽花と書きます。アジサイの代表的な色が紫だからなのでしょうか。ここで見られる色も、淡い色調のもの、赤味がかったもの、ピンク系のものとさまざまですが、藍を含んだ紫色が基調になっているところに統一感が感じられます。

 もう少し、近づいてみましょう。


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 これを見ると、小さな花弁が多数、重なり合うように寄り集まって、半球形を形作っています。雨が上がったばかりなので、葉にはまだしずくが残っています。そこに憂愁が感じられ、アジサイが梅雨時の花だということを思い知らされます。

 雨に打たれ、風に倒されそうになりながらも、持ちこたえ、いったん風雨が収まれば、まるで何事もなかったかのように、しっかりと頭をもたげ、健気に咲いているところが印象的でした。

 それにしても、なんと微妙な色合いなのでしょう。薄青の花弁の中心には淡い黄色が広がっており、両者の境目がはっきりしません。色と色とが溶け合っているかのようです。薄水色が中心の花もあれば、薄黄色が中心の花もあります。それぞれの色彩バランスが微妙で、なんともいえない上品な趣があります。


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 この半球形のものが、いわゆる「アジサイ」と呼ばれる品種です。この季節になると、道路際や庭先でよく見かけるのが、この形状の花でした。これはごく一般的なアジサイなのでしょう。

■ガクアジサイ
 そんな見慣れた形のアジサイの隣に、形状の異なる花が群生していました。近づいてみましょう。


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 これらの花はどれも、真ん中がこんもりと盛り上がり、周囲は4枚一組の花弁のようなもので構成されています。ガクアジサイです。学生の頃、お茶の先生に教えてもらったことがあるので、名前は知っていました。

一風変わった形状の花ですが、群生しているのを見ると、白の花弁のようなものが濃い緑の葉に映え、遠目からはきらきらと輝いているように見えます。

 それでは、クローズアップして、このガクアジサイを見てみることにしましょう。


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 近づいて見てみると、中心部が大きく盛り上がっているのに対し、白い花のようなものは下方に垂れているのがわかります。盛り上がった部分には薄青と白の小さな実のような粒粒がぎっしりと詰まり、その上にさらに小さな胞子のようなものまでついています。そのせいでしょうか、中心部分にはこの花の生命が宿っているように思えます。

 一方、白い花弁のようなものは周辺に分散し、しかも、垂れています。見た目は華やかなのですが、近づいてみると、中心部に比べ、生命体としての存在感は希薄でした。

 花弁は通常、重なりあって花芯を守る構造になっていると思っていたのですが、ガクアジサイの場合、包み込む形状ではなく、隅の方で分散して広がっているだけでした。まるで守ろうとするものが何もないかのようにただ開いているだけなのです。何とも不思議な花でした。

 さっそく立ち止まり、スマホで調べてみると、粒粒に見えていたものが、実は花と花芯で、花弁だと思っていたものが、実際は、蕚片だということがわかりました(※『あじさい』2008年7月)。

 先ほどいいましたが、この花に近づくと、無数の粒粒で盛り上がった中心部に存在感があり、生命の営みが感じられました。目に見えない生命力が、この中心部分から発散されているのを感じたのです。

 説明によれば、実のように見えた粒粒は、花芯と花弁の寄り集まったものでした。そして、白い花に見えた部分は、蕚(ガク)が大きくなった周辺花でした。花ではないのに、花に見える飾り花として機能しているのです。周辺花は飾り花ですから、当然のことながら、雄蕊も雌蕊もありません。

 実際、上の写真をよく見てみると、周辺花は花弁状のガクが4枚付いているだけで、その中心部は平たく、薄く、空虚に見えます。

 私はガクアジサイの花の形状とその名前は知っていましたが、花の構造まで走りませんでした。今回、調べてみて驚きました。なんと花のように見えていた部分が、実は、蕚(ガク)だったのです。

 本来、花を支える裏方のはずが、美しい花として成長し、鑑賞者の目を引き付けていたのです。ガクが変形した周辺花でありながら、実際の花よりも鑑賞者を引き付ける魅力を放っていました。だからこそ、この花は、ガクアジサイと名付けられたのでしょう。

花弁ではないので、雄蕊、雌蕊を守り支える必要はなく、その機能もないガクが、装飾性だけを追求した結果、得られた美しさだといえるかもしれません。

■日本が原産地
 ガクアジサイは日本が原産地だといいます。

 Wikipediaでアジサイを調べると、原種は日本に自生するガクアジサイだと書かれています。最初にご紹介した、いわゆるアジサイは、ガクアジサイを改良して園芸品種にしたものだそうです。ガクアジサイの周辺花を多数重ね、球形になるように改良されたのが、この季節によく見かける、ごく一般的なアジサイだというわけでした。

 典型的な青紫のアジサイが、この遊歩道脇にも咲いていました。小さな花びらが凝集し、ボールのように丸い形をしています。

この花をクローズアップして見ることにしましょう。


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 近づいてみると、重なりあった多くの花びらのようなものは、花芯を持たず、中心部は薄黄色で、色彩で識別できるようになっているだけでした。生命につながるものは見られず、当然、その機能もなく、まさに飾り花の名にふさわしいものでした。

 こうしてみると、確かに、この花が、ガクアジサイの周辺花を多数寄せ集め、球形になるよう改良された品種であることがわかります。

 かつての日本人は、湿地に自生していたガクアジサイをこのように改良し、園芸種として普及させてきました。その結果、いまやガクアジサイよりも、アジサイの方が一般的に知れ渡っています。色といい、形といい、アジサイは日本の6月になくてはならない花になっているのです。

■コントラストが創り出す美しさ
 アジサイの陰に隠れてしまっていますが、ガクアジサイもまた、独特の美しさを備え、限りなくヒトを魅了します。

 少し歩くと、青と黄のコンビネーションの美しいガクアジサイが咲いていました。


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 色彩のコントラストが鮮やかで、目立ちます。この花を見ていると、あらためて、青と黄色が補色関係にあることを思い知らされます。色彩のコントラストの強さが装飾性を高め、人工的な美しさを引き出しています。大小、それぞれの花を見ていくと、周辺花の青色とその中心部の薄黄色とのバランスが微妙で、浮き立つような存在感があります。

 さらに歩いていくと、紫と薄黄のガクアジサイが咲いていました。淡い色合いでありながら、しっかりとした個性が感じられ、しかも、上品な趣があります。アップして見ていくことにしましょう。


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 こちらは中心部も淡い紫色と薄黄色で構成されています。花弁に見えるガクには濃い紫と薄黄が配され、中心部の丸い実のようなものには淡い紫と薄黄が配されています。色彩の微妙なコントラストに、濃淡によるアクセントが加味されて、計算されつくしたかのような美しさです。

■カシワバアジサイ
 遊歩道を降りて、さらに、歩いていくと、奇妙な花に出会いました。


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 一般に、花は上を向いて咲くものなのに、この花は首を垂れ、下を向いています。花を支える茎が折れてしまったのかと思い、近づいてみましたが、そんなことはありませんでした。花弁部分が異様に大きく、しかも、垂れていたので、折れているように見えていただけでした。

 こんなふうに下を向いて咲く花もあるのかと興味をそそられ、周囲を見回してみましたら、他にも似たような花がいくつかありました。桜木の下には、これと似たような花がいくつか咲いていました。横向きになっているものがあれば、いまにも首が折れてしまいそうなものもあります。いずれも花がまっすぐに立っていないのです。不思議な光景でした。


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 再び、立ち止まって、スマホで調べてみると、この形状の花は、カシワバアジサイというのだそうです。花は八重で、長い穂になって咲くといいます。葉の形が柏の葉に似ているから、この名前が付いたようです(※ 『あじさい』2008年7月)。

 もう一度、上記の写真を見てみましょう。

 確かに、説明されたように、葉は柏の葉に似ています。花は八重で、長い穂にもなっています。ところが、なぜ、このように垂れて咲いているのか、その説明がないので、腑に落ちませんでした。なぜ、このような形状になってしまったのでしょうか。ちなみにこの品種の原産地は北米東部だそうです。

 釈然としないまま、遊歩道を歩いていると、陽が射してきました。雨上がり後、木々の間隙を縫って、突如、陽光が射しこんできたのです。その陽射しを受けて、アジサイの発色が良くなったような気がします。

 色とりどりのアジサイがことさらに輝いて見えました。


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 アジサイといえば紫色というのが一般的なイメージですが、ここでは、赤味の強いピンク、水色、薄紫、薄黄色など、それこそ色とりどりの花弁が豪華絢爛、見応えがありました。

 不思議なのは、同じところに咲いているのに、なぜ、これだけバラエティ豊かな色彩をしているのか、ということです。中には同じ株のものもあるでしょう。それなのに、なぜ、これだけ多様な色彩のアジサイが一か所に群れて、咲いているのでしょうか。

■アジサイの花の色
 Wikipediaで調べてみました。すると、アジサイの花の色については次のように書かれていました。とても詳しく説明されているので、関連部分だけ抜き出して、引用しておきましょう。

「アジサイは土壌のpH(酸性度)によって花の色が変わり、一般に「酸性ならば青、アルカリ性ならば赤」になると言われている(リトマス試験紙と逆なので注意されたい)。これは、アルミニウムが根から吸収されやすいイオンの形になるかどうかに、pHが影響するためである。
すなわち、土壌が酸性だとアルミニウムがイオンとなって土中に溶け出し、アジサイに吸収されて花のアントシアニンと結合し青色を呈する。逆に土壌が中性やアルカリ性であればアルミニウムは溶け出さずアジサイに吸収されないため、花は赤色となる。したがって、花を青色にしたい場合は、酸性の肥料や、アルミニウムを含むミョウバンを与えればよい。

 同じ株でも部分によって花の色が違うのは、根から送られてくるアルミニウムの量に差があるためである。花色は花(萼)1グラムあたりに含まれるアルミニウムの量がおよそ40マイクログラム以上の場合に青色になると見積もられている。ただし品種によっては遺伝的な要素で花が青色にならないものもある。これは補助色素が原因であり、もともとその量が少ない品種や、効果を阻害する成分を持つ品種は、アルミニウムを吸収しても青色にはなりにくい。

 また、花色は開花から日を経るに従って徐々に変化する。最初は花に含まれる葉緑素のため薄い黄緑色を帯びており、それが分解されていくとともにアントシアニンや補助色素が生合成され、赤や青に色づいていく。さらに日が経つと有機酸が蓄積されてゆくため、青色の花も赤味を帯びるようになる。これは花の老化によるものであり、土壌の変化とは関係なく起こる」
(※ 詳細はhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%B5%E3%82%A4)

 これを読むと、まず、アジサイの花の色は、土壌のpH(酸性度)によって変化し、一般に、酸性なら青、アルカリ性なら赤になるようです。それは、土壌が酸性だとアルミニウムがイオンとなって土中に溶け出し、アジサイに吸収され、花のアントシアニンと結合して青色になります。反対に、土壌が中性かアルカリ性なら、アルミニウムは溶け出さず、アジサイに吸収されないので、赤色になるといった具合です。

 さらに、同じ株でも部分によって花の色が違うのは、根から送られてくるアルミニウムの量に差があるからだそうです。こうしてみると、アジサイの花の色はどうやら、土壌の酸性度、アルミニウム、個別株の遺伝的な要素などに影響されるといえそうです。

 そればかりではありません。開花からの経過時間によっても、花の色は変化するようです。

 そういえば、確かに、数日前に遊歩道で見かけたアジサイの色が、今回、濃い青色に変化していました。時間が経過すると、赤味を帯びるようになると説明されていますが、以前に見たときにはなかった赤味がかったアジサイを、今回は多数、見かけました。

 このような変化は、アルカリ性の強い土壌だからではなく、花の老化による色の変化だという説明です。土壌の酸性度ばかりではなく、時間の経過によっても、その色が変化していくという点にアジサイの大きな特徴があるようです。

 それでは、時と場所によって色が変化するアジサイを、人々はどう捉えてきたのでしょうか。

■色の変化をヒトはどうみたか
 アジサイはさまざまな種類がありますが、アジサイ全般に共通する花言葉とは、「移り気」「浮気」「変節」というものだそうです(※ https://www.creema.jp/blog/532/detail)。

 実際、アジサイの色は青から赤まで多様です。しかも、咲いたときから一貫して同じ色であり続けることもありません。このようなアジサイの色の変化は、誰もが日常的に認識できる大きな特徴です。つまり、同じアジサイでも、同じ株のアジサイでも、場所(土壌の酸性度)と時間(老化)によって、色が次々と変化していくのです。

 古来、ヒトは、アジサイの本質は、「変化」にあると見てきました。だからこそ、アジサイの花言葉として、「移り気」「浮気」「変節」を割り当てたのです。西洋アジサイの花言をみると、「移り気」「浮気」「高慢」「無常」でした。人々は洋の東西を問わず、次々と変化するアジサイの色に注目し、その特性を掬い取って、ヒトの人格に適用してきたのです。

「気持ちが変わりやすい」、「不実」、「一貫性がない」、というようなアジサイに重ね合わせた人格イメージは、万葉の時代にも見られます。

■大伴家持の和歌
 先ほど、アジサイの原産地が日本であるといいましたが、その割には、和歌に詠まれていないのが気になりました。万葉集に収録されているのはわずか2首です。そのうちの一つが、大伴家持の歌でした。

 言問はぬ 木すら紫陽花 諸弟らが 練りの村戸に あざむかえけり(第四巻 七七三)
(※ https://art-tags.net/manyo/poet/yakamochi.html)

 この歌は、大伴家持が坂上大嬢に贈った歌の一つとされています。坂上大嬢は、後に大伴家持が妻にする女性です。

 この歌の意味は次のように解釈されています。

「ものを言わない木でさえ、紫陽花のように移りやすいものがあります。(言葉をあやつる)諸弟(もろえ)たちの言葉にすっかりだまされてしまいました」
(※ https://art-tags.net/manyo/four/m0773.html)

 諸弟が何を指すのか、誰を指すのか、まだ解釈が定まっているわけではなさそうですが、大筋は理解できます。

 言葉を操るわけではない花の中にも、紫陽花のように変節しやすいものがあります。まして、言葉を操る諸弟(もろえ)ならなおのこと、変節を疑ってかかるべきなのに、騙されてしまいました・・・、というような意味なのでしょうか。

 いずれにしても、大伴家持が生きた時代にはすでに、紫陽花に「移り気」「変節」といったイメージがついていたことがわかります。

 ただ、私はこの歌をみて、「あざむかえけり」という箇所が気になりました。アジサイの色が変化していくだけで、「あざむく」という言葉を使うかしらと疑問に思ったのです。

 もっとも、アジサイの花に見えるものが実はガクで、実に見えるものが実際は花と花芯だということを、大伴家持が知っていたとすれば、話は違ってきます。花でもないものを花と思わせてきたアジサイは、ヒトを欺く花ともいえます。ですから、的を射た表現だということになります。

 このように解釈すると、この歌は「紫陽花」を取り入れることによって、季節と情感、人となり、人間関係、そして、人間観を余すところなく捉えることができているといえるでしょう。

 鬱陶しい梅雨の時期、随所で見かけるのがアジサイです。そのアジサイが、植物の通常システムから多少、逸脱していることを知って、私は大変、興味深く思いました。

 花に見えるものが花ではなくガクで、実に見えるものが実際は花と花芯であるというパラドックス、そして、場所(土壌の酸性度)と時(老化)によって、その都度、色を変えていくという変幻性、いずれも想像力を強く刺激してくれます。

 ヒトは場所と時間によって不在証明をすることができます。ところが、アジサイは場所と時間によって色を変え、見た目を次々と変貌させていきます。ですから、もしアジサイが自由に移動できるとすれば、場所と時間は不在証明にはなりません。植物なので、移動ということはありえませんが、雨の日の憂さ晴らしに、そのような想像力を働かせてみても、案外と面白いかもしれません・・・。(2020/6/18 香取淳子)

子どもの日:ショウブは私たちに何をもたらせてくれていたのか。

■子どもの日の入間川
 ゴールデンウィークだというのに、街角は人影もまばらで、閑散としています。ちょっと前まではスーパーでよく見かけていた子どもの姿も、入店規制されるようになったせいか、最近はほとんど見かけなくなりました。誰もが家に引きこもっているのでしょうか。

 それでも、スーパーではショウブが売られていました。子どもの日が近づくと、必ず、店頭に並ぶ季節商品です。入口付近に置かれているのを見かけると、わたしは、半ば条件反射的に、手を伸ばしてしまいます。

 手にした途端に、鼻を衝くのが、ちょっとクセのあるショウブの匂いです。他では経験したことのない、あの独特の香りに誘われるように、私の脳裏に、実家のヒノキの浴槽に浮かべられたショウブの葉が蘇ります。

 毎年、子どもの日になると、母はショウブを湯船に入れ、子どもたちを入浴させていました。ショウブ湯に浸かると、年中、健康でいられると言いながら、長いショウブの葉を湯に浮かべるのです。

 子どものころの私は、ショウブの匂いがあまり好きではありませんでした。ところが、母が毎年、子どもの日になると、決まってショウブ湯を使わせるので、いつしか、当然と思うようになってしまいました。

 母は年中行事を大切にする人でした。子どもの日に、ショウブ湯や粽、柏餅を欠かすことはありませんでした。ショウブにしても、粽や柏の葉にしても、どれも香りの強い植物です。とくに独特の香りを放つのがショウブでした。

 スーパーでショウブを見かけると、つい、買い求めてしまうのは、おそらく、ショウブが放つあの独特の香りのせいでしょう。あの香りがトリガーとなって、過ぎ去った子どもの日を再び、甦らせ、息づかせてくれるのです。

 5月5日、入間川遊歩道を訪れてみました。

 並木の緑は、わずか数日のうちに、いっそう濃くなっていました。時が駆け足で過ぎ去っていったのをこの目で確認しているようでした。この季節は葉の色や形、大きさが激しく変化します。可視化されているだけに、いっそう、時の過ぎるのが速いように思えるのでしょう。

■シャガ
 入間川遊歩道を歩いていると、路辺に小さな菓子箱が置いてありました。


(図をクリックすると、拡大します)

 菓子箱の中には、引き抜いたばかりの草のようなものがいくつも入っています。そういえば、以前、ここには、スイセンの球根が置かれていたような気がします。

 足を止めて、改めて見てみると、「どうぞご自由に シャガ」と書かれた紙札が添えられています。この草のようなものは、おそらく、「シャガ」という植物なのでしょう。

 すぐさま、スマホで検索してみると、アヤメ科の植物で、多年草だと説明されており、花弁の写真が掲載されていました。


(Wikipediaより。図をクリックすると、拡大します)

 模様入りの見事な花弁です。ただの草がこんなに綺麗な花を咲かせるようになるのでしょうか・・・。だとすれば、きっと、この辺に生えているはずだと思い、周辺を探してみました。

 道路に降りてみると、土手にスマホで見たのと似たような花が咲いているのを見つけました。


(図をクリックすると、拡大します)

 こちらは白ではなく、青紫ですが、ひらひらした花弁の形状が似ています。近づいてみることにしましょう。


(図をクリックすると、拡大します)

 こうしてみると、遠目には似ているように見えましたが、近づいて見比べてみると、なんだか少し違うような気がします。花の形状や模様が明らかに異なっています。シャガは模様入りと白の花弁が交互に組み合わされていましたが、こちらはそうではなく、縦に繋がって花が咲いています。しかも、シャガにはあった黄色と後の細かい斑点模様が、こちらにはないのです。

 ひょっとしたら、別の花かもしれません。気にしないで歩き進めることにしました。

■川辺で遊ぶ子ども
 川の方から子どもの声が聞こえてきました。見ると、河川敷には子どもや大人が数人、何やらのぞき込んでいます。川面に彼らの影が映り込み、のどかな光景が見られました。

 その近くに、青い小さなテントのようなものが見えます。どうやら、傍らで大人が座り込んでいるようです。ひょっとしたら、テントの中で子どもが休んでいるのかもしれません。


(図をクリックすると、拡大します)

 新型コロナウイルスのせいで、外出自粛が続いています。学校は休校になり、図書館、遊園地、公園も閉鎖です。いま、子どもたちの行き場はどこにもないのです。だからといって、いつまでも家に閉じ困っているわけにもいきません。親は思案の末、子どもの日ぐらいは・・・、という思いで、河原に家族で繰り出してきたのでしょう。

 河川敷には、のびやかな子どもたちの声に交じって、大人の声が響いていました。

 少し歩くと、川の中に入っている子どもがいました。周囲に保護者のような大人はいませんから、おそらく、地元の子どもたちなのでしょう。


(図をクリックすると、拡大します)

 それぞれ網のようなものを持ち、夢中になって、川面を覗いています。小魚でも獲っているのでしょうか。

 しばらく佇んで、子どもたちの姿を見ていると、桜木の葉を通して快い風がさぁーと吹いてきます。それがなんともいえず爽やかで、久しぶりに、気持ちが和んでいくような気がしました。

 のどかな光景が目の前に広がっており、気持ちが癒されました。

■ショウブの葉が連想させる刀身
 遊歩道に目を転じると、柔らかな陽光が、桜木の幹や枝の陰影を、路面にくっきりと刻み込んでいるのに気づきました。


(図をクリックすると、拡大します)

 木々の隙間から漏れた陽射しはそのまま伸びて、道路脇の草むらを柔らかく照らし出しています。まるでそこだけスポットライトを浴びたかのように、すらっと伸びた葉の形状が鮮やかに、浮き彫りにされていました。

 普段なら、きっと見過ごしてしまっていたでしょう。ところが、この時ばかりは、足を止めずにはいられませんでした。何の変哲もない草むらが陽光を浴びて、ひときわ輝いていたのです。まるで見てほしいといわんばかりでした。

 長く伸びた陽射しが、ありふれた光景を非日常の世界に変貌させていました。際立っていたのが、手前に群生している草です。一本、一本、根本から明るく照らし出されており、まるで剣のような鋭利さを見せています。

 周囲の草むらに沈み込み、存在感もなく群生していた葉が、陽光に照らされた途端に、主役になりました。まるでスポットライトを浴びているかのように、その葉の長さと形状がくっきりと浮き立ち、刀身のようでした。

 近づいてみると、先日、スーパーで買い求めたショウブとそっくりでした。背が高く、葉が剣のような形状をしています。手で触れてみると、しっかりとした厚みがあり、まさしく、先日、浴槽に浮かべたショウブと同じ感触でした。


(図をクリックすると、拡大します)

 刀身のような葉を見ていると、なぜ5月の節句を男の子の節句としたのかがわかるような気がしてきました。

 ショウブ(菖蒲)の形状は刀身を連想させるばかりか、ショウブは「尚武」(武道)と発音が同じです。

 慶應大学教授の許曼麗氏は、「菖蒲」の読み方について、次のように説明しています。

「萬葉集には菖蒲を詠んだ歌が十三首ある。ところが、この菖蒲について、古代の歌人たちは「あやめ」と混同していたようである。萬葉歌においては、表記は「昌蒲」、「菖蒲」、「安世女(売)具佐(左)」など様々であるが、いずれも、アヤメ、又はアヤメグサと読ませている。菖蒲(草)を詠んだ歌も、すべてアヤメ(グサ)と読ませている」(※ 「和歌が語る端午の様相」『慶應義塾大学商学部創立五十周年記念日吉論文集』、pp.97-108. 2007年)

 古来、菖蒲はアヤメと呼ばれてきたと許氏はいいます。それが、鎌倉時代になって、ショウブと呼ばれるようになったそうなのです。次のように記しています。

「鎌倉時代になり、菖蒲は「アヤメ」ではなく、「ショウブ」すなわち、尚武という意味が加えられ、伝来の歳時行事と渾然一体となり、現代生活の中、我々もよく知っている単語の節句の形を成したのである」

 古来、「アヤメ」と呼ばれてきた菖蒲が、鎌倉時代になってから、尚武という意味を付加するため、「ショウブ」になったと指摘しています。武家社会の価値観を反映し、「菖蒲」の呼称に変化が生じたというのです。5月5日を男の子の節句として武者人形を飾る風習もこれで理解できました。

 そもそも端午の節句は、中国から伝来した生活行事でした。

 許氏は、「五月は悪い月である。そのため、禁忌が多い」とし、「五色の糸で香袋を縫っては体に付けたり、粽を食べたり、雄黄酒を額に塗ったりする。または艾草で人形(艾人)を、菖蒲で蒲剣を作って家の扉に飾る」と記しています(※ 前掲)。

 日本では五月の節句は子どもの日、あるいは男の子の節句とされていますが、中国では五月は忌月とされており、端午節には避邪除災の行事が集中しているようです。中国から伝来してきた生活文化も、長い年月を経るうちに、日本社会に合うようアレンジされてきたのでしょう。

 ショウブは古来、薬効があるとされてきた植物の一つでした。そのせいか、ショウブ湯に入るという風習はいまなお、続いています。中国から伝来してきた行事のうち、健康志向のものは日本の生活文化として根付いているといえるのかもしれません。
 
■マムシに注意!
 遊歩道をさらに歩いていくと、巨大な桜木の下に、妙な立て看板がありました。


(図をクリックすると、拡大します)

 「マムシに注意!」と大きな赤い字で書かれています。これを見た途端、こんなところにマムシが出るのかと驚いてしまいました。マムシの名前は知っていますが、私はこれまで、一度も見たことはありません。

 それだけにこの看板にはちょっとした違和感を覚えてしまったのですが、桜木の下で生い茂る草むらを見ているうちに、ひょっとしたら、本当にマムシが出るのかもしれないと思えてきました。

 というのも、江戸東京博物館で開催された「江戸と北京~18世紀の都市と暮らし~」という展覧会で見た、子どもの腹かけに蛇の絵が描かれていたことを思い出したからでした。

 この展覧会を鑑賞したのは2017年4月8日でしたが、いまだに印象に残っています。特に印象に残っているのが、子どもの腹かけでした。(※ http://katori-atsuko.com/?s=%E6%B1%9F%E6%88%B8%E3%80%80%E5%8C%97%E4%BA%AC)

 中国では端午の節句になると、「五毒肚兜」といわれる腹かけを子どもたちに着用させ、健康を祈願するといいます。腹かけには「五毒」とされる「ヘビ、サソリ、クモ、ヤモリ、蛙」が図案化され、刺繍されています。

「五毒」がわかりやすくデザインされた腹かけをネットで見つけましたので、ご紹介しておきましょう。


(図をクリックすると、拡大します)

 なぜ、端午の節句にこのような図案の腹かけを子どもに着用させるのか、私は不思議でなりませんでした。さっそく、百度で調べてみました。すると、概略、次のような説明が出ていました。

 5月になると、ヘビ、サソリをはじめとする害虫が草むらから出てきます。子どもたちもまた、陽気になった戸外で遊ぶようになります。ですから、子どもたちが害虫から危害を加えられる危険性が高くなります。そこで、中国では、子どもや親に害虫に気をつけるよう、警告するために、あのような図案の腹かけをさせる風習が生まれたというのです。

「マムシに注意!」という立て看板を見て、ふと、江戸博物館で見た腹かけを思い出し、中国の生活文化の実用性、実利性を感じました。

 中国では端午の節句になると、子どもに「五毒肚兜」の腹かけを着用させる一方で、ショウブ湯に入れて、健康を祈願してきました。日本では端午の節句には武者人形を飾り、鯉のぼりを立て、ショウブ湯に入ります。中国の年中行事のうち、ショウブ湯を今に残る生活文化として取り入れてきたのです。ショウブには薬効があることが知られていたからでしょう。

 ショウブが薬草として重宝されていたことは、和歌にも表現されています。

■歌に詠まれた薬猟
 許曼麗氏は、「端午」という言葉の初出は、『続日本紀』の仁明天皇承和6年(839年)5月5日の項で、「是端午之節也、天皇御武徳殿、観騎射」と書かれていることを紹介しています。また、それより228年も前の推古天皇19年(611年)5月5日に、「十九年夏五月五日薬猟於菟田野、取鶏鳴時集于藤原池上以会明乃往之・・・」(『日本書紀』)の記述があるとし、端午にまつわる行事はそれ以前に中国から日本に伝わっていたと指摘しています(※ 前掲)。

 端午の節句はすでに万葉の時代には中国から伝来しており、関連行事も行われていたそうです。興味深いのは、5月5日に薬猟という行事が行われ、鹿茸や薬草を採っていたということです。時代が下るにつれ、形式的なものになり、騎射や競走馬に変わっていったようですが、薬草を採ることが宮中の行事になっていたとは、私には驚きでした。

 薬猟に関し、許氏は、次のような大友家持の歌を紹介しています。

 「かきつはた 衣に摺り付け ますらおの きそひ狩りする 月は来にけり」
(杜若 衣に摺り付け 丈夫の競い狩りする 月は来にけり)

 これは、『万葉集』に収録された歌ですが、許氏は、「杜若で染め上がった艶やかな服を着て、五月の競狩りに赴く古代人の姿が浮き出ている」と解釈しています。

 堂々とした立派な男性が端午の節句には杜若で染めた服を着て、薬猟に出かける時季が来たと詠っているのですが、私はこの句の中で、なぜ、「杜若」が使われているのかが気になりました。薬猟を歌に詠むとすれば、「杜若」ではなく、薬草の「菖蒲」ではないのかと思ったからでした。

「菖蒲」には薬効があるとされ、端午の節句に薬猟をするのはそのためだといわれていました。

 そこで、杜若と菖蒲の関係がどうなのか、調べてみることにしました。

■杜若か、菖蒲か、アヤメか
 語源由来辞典を引いてみると、杜若は、「花汁を摺って衣に染めるための染料にしていたところから、カキツケハナ(掻付花)カキツケバタ(書付花)の説が通説になっている」と説明されています。

 杜若は語源からいっても、染料としての役割が重視されていたといっていいでしょう。

 念のため、Wikipediaを見ると、杜若はアヤメ科の植物で、湿地に群生すると説明されています。写真が掲載されていましたので、ご紹介しておきましょう。


(Wikipediaより。図をクリックすると、拡大します)

 これが杜若です。中心の花弁は直立し、周辺の花弁は垂れています。その組み合わせが興味深く、独特の美しさを生み出していました。

 入間川の土手にも、これと似たような形状と色彩の花が群生していました。


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 近づいてみると、遠目には似ているように見えましたが、こうして見比べてみると、直立している花弁の形状が異っているように思えます。

 Wikipediaで調べてみると、これと似たような花が見つかりました。


(Wikipediaより。図をクリックすると、拡大します)

 花菖蒲と書かれています。

 確かに、よく似ています。入間川の土手で咲いていたのは盛りを過ぎていますが、直立した花弁の丸みや花弁のひらひらした様子が、この花菖蒲にそっくりです。

 そういえば、花菖蒲はアヤメともいわれます。

 そこで、Wikipediaを見ると、次のように説明されていました。

 アヤメの多くが山野の草地に自生しており、他のアヤメ属の種であるハナショウブやカキツバタのように湿地に生えることは、まれである。葉は直立し、高さ40-60cm程度。5月頃に径8cmほどの紺色の花を1-3個付ける。外花被片(前面に垂れ下がった花びら)には網目模様があるのが特徴で、本種の和名の元になる。花茎は分岐しない。北海道から九州まで分布する。

 また、次のようにも説明されています。

 古くは「あやめ」の名はサトイモ科のショウブ(アヤメグサ)を指した語で、現在のアヤメは「はなあやめ」と呼ばれた。アヤメ類の総称として、厳密なアヤメ以外の種別にあたる、ハナショウブやカキツバタを、アヤメと呼称する習慣が一般的に広まっている(※ Wikipediaより)

 こうしてみると、アヤメ、杜若、花菖蒲はいずれも、アヤメと呼称されていることがわかります。似たような葉や花の形状から、遠目には見分けがつきにくいからでしょう。

 Wikipediaのアヤメの項に、その見かけ方が表にまとめられています(※ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A4%E3%83%A1)。

 これを見ると、大きな違いといえば、アヤメや杜若は、花の色数が少ないのに対し、花菖蒲はさまざまな色があるということです。

 土手にはさまざまな色の花が咲いていましたが、おそらく花菖蒲なのでしょう。

■種類の豊富な花菖蒲
 再び、道路に降りて、土手を見てみましょう。遊歩道からやや下がったところにピンク系の花が群生しています。


(図をクリックすると、拡大します)

 背後に桜の巨木が見えます。桜の木を中心に、辺り一帯の草花が集落を形成しているかのようでした。

 中でも気になるのは、彩り豊かな花菖蒲です。入間川沿いの土手には、複雑な形状をしたさまざまな花菖蒲が咲いていました。いずれも背は高く、葉は先ほど見たショウブのように、刀身のような形状をしています。

 印象に残ったものをいくつかご紹介していきましょう。

 まず、直立しているピンクの花弁に赤紫の垂れた花弁、この色合わせが面白く、見とれてしまいました。群生しています。


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 近づいてみると、こんなふうです。


(図をクリックすると、拡大します)

 まるでアヤメのように斑紋があります。何度見ても、やはり、花菖蒲かアヤメか、見分けが付きません。黄色の斑紋があるせいか、この花からは豪華な印象を受けます。

 白と濃い赤紫の取り合わせが素晴らしい花も群生していました。


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 どこかしら気高さがあります。

 近づいてみると、ここにもやはり、黄色の斑紋が見えます。


(図をクリックすると、拡大します)

 背が高く、草むらにすっくと立った姿が際立っています。
 
 見渡すと、直立した青の花弁に垂れた紫の花弁という取り合わせの花もありました。


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 こちらも群生しています。

 近づいてみると、華麗な佇まいが印象的です。


(図をクリックすると、拡大します)

 黄色というより黄土色の斑紋が大きく、そこだけまるで金色の文様が付いているかのようでした。これもやはり成熟しており、豪華な雰囲気を漂わせています。

 花菖蒲はなんと種類が豊富なのでしょう。

 これまでご紹介したのは主に、二色で構成された花でした。クリーム色、一色で存在感を放っている花もありました。


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 直立した花弁が丸みを帯びており、遠目からはバラのように見えました。柔らかな色合いが優しさを感じさせます。手前に見える葉も背が高く、形を崩さず、刀身のようにしっかりと立っていました。

 さまざまな花菖蒲が咲き乱れている土手は、まるで個性を競う展示場のようでした。どの花も背が高く、花弁の色や形状に存在感があって、惹きつけられます。花菖蒲の形状や色彩や文様は多様で、魅力に満ち溢れていました。

■5月の節句に、ショウブの薬効を思う
 許氏は、「杜若は菖蒲(あやめ)と非常に類似した植物である。しかし、菖蒲と同じように辟邪(悪魔を追い払う)の効果があると思われたのか否かは定かではない」と記しています(※ 前掲)。

 古来、ショウブは薬草として認知され、生活に取り入れられてきました。その後、時代が下るにつれ、美しい花を咲かせる花菖蒲に人々の関心が移っていきました。隠れた薬効よりも、見た目の美しさが価値を持つようになったからでしょう。

 ショウブはサトイモ科の多年草の植物で、滅多に花を咲かせることはなく、「アヤメ」や「花菖蒲」とは明らかに異なるといわれています。特に地下茎には芳香があり、薬効があるとされています。中国ではその芳香が邪気を払い、長寿の源泉になると考えられてきたそうです。

 日本に伝わってきた当初はそのようなところに価値が置かれ、薬猟といった行事にも取り入れられていたようです。ところが、そのような行事はやがて形骸化し、今ではせいぜい、子どもの日にショウブ湯に入るぐらいになってしまっています。

 いつごろからか、薬草を生活に取り入れ、健康を維持していく生活習慣が廃れてしまったように思えます。縦断的な生活文化を伝える担い手がいなくなり、横断的なマスメディア主導の生活文化が中心になっていったせいでしょう。

 そんな今、新型コロナウイルスに世界中が翻弄されています。

 食糧の確保、防疫対策がどれほど大切なことか。様々に行動を規制され、経済的に追い詰められたいま、ようやく、縦断的に生成されてきた生活文化の価値を思い知らされているような気がします。(2020/5/12 香取淳子)

桜が散り、ツツジが咲きました。

■早緑色に染まった遊歩道
 4月16日、入間川の遊歩道に出かけると、桜の花は散り、葉桜として道の両側を覆っていました。あれほど華麗だった川辺から華やかさがすっかり失われ、まったく別の場所に来たような気分にさせられました。

 いつの間にか、遊歩道を取り囲む桜の木々が、華やかさから若さへと、アピールポイントを変貌させていたのです。

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 可憐な淡いピンクの花は、早緑色の葉桜となっていました。もちろん、ピンクであろうが、早緑であろうが、桜花(葉)の可憐さに変わりはありません。小さく群生した葉桜は、風にそよそよと揺らぎながら、太くて黒い幹や枝を引き立てていました。軽やかに揺れる桜葉は、雄々しく伸びる幹や枝の堅固さをことさらに強調し、見事な明と暗、動と静のコントラストを見せています。

 早緑(さみどり)という表現がぴったりの光景が、目の前に開けていました。

 見上げると、小枝の先に群生する葉が風にそよいでいました。葉の一つ一つがなんと小さく、そして、なんと繊細な動きを見せているのでしょう。薄く、柔らかく、まるでその先に見える空に溶け込んでいるかのようでした。

 よく見ると、周囲と溶け合っているようでいながら、一枚一枚、その形状は意外に明瞭で、空を背景に、しっかりと自らの存在を誇示していました。

 今、何気なく、早緑という言葉を使ってしまいましたが、これほど見事に春の訪れを示す言葉はないでしょう。

 桜の花が散ったかと思えば、そっとやって来て、その葉を淡く柔らかな色合いに染め上げます。そして、いつの間にか、誰も気づかないうちに去ってしまう・・・、そんなところに、「早緑(さみどり)」の妙味があります。

 ほんのひととき、自らを輝かせるところに、なんともいえず微笑ましい謙虚さが感じられるのです。まるで春の訪れを伝えるためだけに色づくのが「早緑」です。主張しているわけではないのに、不思議な存在感があって、心惹かれます。

 5月5日、再び、訪れてみると、桜の葉はすでに、「早緑」から「緑」に変貌しつつありました。

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 これを見ると、葉が大きくなり、色合いもやや濃くなりはじめているのがわかります。群生している葉が大きくなったせいか、桜並木はうっそうとした趣をみせはじめていました。

■母が教えてくれた「さみどり」
 どういうわけか、私はこの言葉が好きで、この季節になると使ってみたくなります。使う場がなければ、ひそかに、「さ・み・ど・り」と、一語一語区切って発音してみることもあるぐらいです。

 口に出してみると、言葉の響きが優しく、柔らかく、次第に、安らぎに満ちた気持ちになっていきます。ひょっとしたら、この言葉がきっかけで、若い頃の母を思い出すからかもしれません。

 小学校に入る直前の春、母と一緒に庭にいたことがあります。ちょうど木々が芽吹き始めたばかりで、そこかしこに柔らかい新芽が小枝から顔を出していました。黄緑色に光る葉の様子を見つめていると、母はその一つを指さし、「これは、さみどり、っていうのよ」と教えてくれました。

 聞きなれない言葉だったので、不思議に思い、「きみどり?」と聞き返すと、「さみどり、よ」と、はっきりと口調で母はいいました。そして、若葉に手を触れ、「小さな緑だから、さみどりっていうのよ」と説明してくれました。

 私は「きみどり」は知っていましたが、「さみどり」はそれまで聞いたことがありません。この時、はじめて聞いた言葉でした。

 母の説明を聞いて、緑にも小さいのがあることを知って、なんだか、とても嬉しくなってしまいました。途端に、「みどりいろ」をした葉や草がとても身近に思えるようになったことを思い出します。

 どんなものでも、小さなものが好きだった私は、「小さな、みどり」という母の説明に惹きつけられました。そして、ヒトと同じように「みどり」にも、赤ちゃんや子ども、大人、老人といったものがあるのだと思うと、急に親近感を覚え、世界が広がったような気がしたものでした。

 この時期の葉の色を表現するのに、黄緑という言葉があります。ところが、「さみどり」という言葉を知ってからというもの、私にとって「きみどり」は、単に色を表現した色彩語にすぎなくなりました。音の響きが強く、しかも、「さみどり」に含まれている馥郁とした味わいも感じられず、ただ色彩情報を伝えるだけの記号でした。

 母は「さみどり」を、「小さいみどり」と説明してくれました。ところが、いま、パソコンで「さみどり」と入力すると、「早緑」と漢字に変換されて、「小緑」にはなりません。また、辞書には「さみどり」は「早緑」と登録され、「若葉や若草の緑色」と説明されています。ひょっとしたら、母は、小さな私が理解できるように、「さみどり」を「小さな、みどり」と説明してくれたのかもしれません。

 当時、母は30歳前後でした。優しく、穏やかな中に、どこか毅然としたところがありました。ちょうどこの時期の「さみどり」のような人だったといえるかもしれません。自己主張することなく、周囲と調和して暮らしていました。それでいて、決して流されることなく、そこかしこに母らしさを貫いていました。そんなところを見て、私は子ども心に、母には毅然としたものがあると感じていたのでしょう。

■桜木の間に咲くツツジ
 4月26日、木々の間にツツジが咲いていました。遊歩道には一定の間隔で、桜木の間にツツジが植えられています。そのツツジが花開くと、葉桜になっていた並木道が一転して、新たな景観を見せていました。

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 明るい陽射しを浴びて、木々や枝が遊歩道にくっきりとした陰影を落としています。ピンクがかった鮮やかな赤が、桜木の緑に華を添え、どことなく浮き立つ気分にさせてくれます。

 それにしても、なんと目に鮮やかな光景なのでしょう。

 大きく太い桜木の下に、そっと寄り添うように、灌木のツツジが咲いています。

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 つい一週間ほど前までは可憐な風情を漂わせていた桜が、いつの間にか、葉桜になり、緑が濃くなってくると、今度は、雄々しい威容を見せ始めていました。太くがっしりとした幹や枝には、時を経て、風雪に耐えてきた強さが表れています。改めて、桜には可憐さと雄々しさが共存していることがわかります。

 巨木の根元に蹲るように花を咲かせたツツジが、いま、この遊歩道の主人公です。遠くを見ると、白いツツジ、そして、その先には赤いツツジが見えます。

 まず、赤系ピンク色の花にズームインしてみましょう。

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 近づいてみると、存在を強く主張するかのように大きく開いた5枚の花弁が、ことさらに印象的です。この季節になると、どこでも見かけるツツジですが、じっと見ると、平凡ななかにも生活に根付いた美しさが感じられます。

 白い花も見事です。

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 花は大きく、花芯が数本、優雅な弧を描いています。ありふれた花なのに、こうして近づいてみると、典雅な美しさがあり、意外な存在感があります。

 中には、赤と白の花を咲かせる木を交えて植えられているところもありました。

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 こちらの花弁は開花しきっていないせいか、まだ小さく、量では圧倒されますが、花そのものの存在感はそれほどでもありません。むしろ、その後方に見える桜木の早緑色の葉が、さわやかに背後の空を染め上げているのが目につきます。

 枝先を見れば、早緑色の葉がさらに淡く、柔らかさを湛えたまま、まるで空に溶け込んでしまいそうです。枝先の辺り一帯は霞みがかったようにぼんやりとし、エッジがきわだっていないせいか、気持ちが緩み、思わずまどろんでしまいそうです。

 ふと、「みどりの空」という表現が思い浮かびました。

■みどりの空
 かつて、日本には「みどりの空」という表現があったそうです。

 国文学者の森田直美氏は、色彩語としての「みどり」の色相領域を古典文学の様々な表現を踏まえ、考察しています。結論として、古典文学の「みどり」にはブルーが含まれていた可能性があると指摘しています(※ 「古代における「みどり」の色相領域を再考する」、『中古文学』第78号、2006年12月)。

 古典文学から様々な表現が紹介されていました。その中で、興味をひかれたのが、次の句です。

 かすみはれ みどりの空ものどけくて あるかなきかにあそぶ糸遊
(霞晴れ 緑の空ものどけくて あるかなきかに 遊ぶ糸遊)

 この歌は『和漢朗詠集』415の「読み人知らず」の作品です。この歌については、うっすらと記憶に残っていますから、きっと、高校の時に学習したのでしょう。うららかな春の日の情感がとてもよく表現されています。

 糸遊というのは、陽炎(かげろう)を指します。

 霞が晴れ、天気のいい春の日には、温度が上がった地面から空気が立ち上り、ゆらゆら揺れているように見えることがあります。それを、作者は、「あるかなきかにあそぶ糸遊」と表現し、愛で、楽しんでいるのです。

 この歌からは、平安時代の人々が自然現象の中に、愛おしさや美しさを見出し、それを言葉にして楽しんでいたことがわかります。そこには自然を観察し、なんらかの価値を発見し、作品化する過程が介在します。つまり、歌を詠むという行為には、美を堪能するセンスと表現欲、高度な言語処理能力が必要なのです。平安時代の人々は、それを一種の娯楽として楽しんでいました。なんと素晴らしい文化を日本人は育んでいたのでしょう。

 入間川遊歩道の葉桜やツツジを見れば、平安人はどのような歌を詠むでしょうか。

■「さみどり」の下で感じた、小さな幸せ
 早緑の季節に、遊歩道を歩いていると、わけもなく若い頃の母が思い出され、記憶に残る平安時代の歌が脳裏を横切りました。

 暖かい陽光を背に受けてゆっくり歩き、時に立ち止まって、歩を進めているうちに、幸せな気分が満ち溢れてきました。それはきっと、「さみどり」を教えてくれた若い頃の母や、「みどりの空」を詠み込んだ平安時代の歌人が、忘れかけていた大切なものを思い出させてくれたからでしょう。

 機能性、合理性が優先され、あらゆるものが尺度化された生活空間の中で暮らしていると、色彩ですら、カラーチャートに従って認識するようになってしまいます。

 あれほど気持ちを動かされた「さみどり」は、小学校に入ると、たちまち、無いも同然になってしまいました。母が教えてくれた「さみどり」は、カラーチャートのどこにも見当たらなかったのです。

 いつしか、草や葉を表現する色は、「黄緑」「緑」「深緑」に限定されてしまいました。クレパスやクレヨンの色彩のバリエーションがこのぐらいだったからです。気持ちを揺り動かされることなく、選択し、組み合わせて表現するしかありませんでした。そのことに、子どもの頃から、なんとなく違和感を覚えていました。それはおそらく、これらの言葉が色彩を即物的に表現する語でしかなかったからでしょう。

 草や葉にもライフサイクルがあり、生きてきた時間は着実にその色に反映されます。ところが、機能的に尺度化されたカラーチャートの色彩には、その種の情報が含まれていません。幼かった私が、「さみどり」という言葉から感じ取った葉の生命を、「きみどり」という語からは感じられないのです。「きみどり」は、機能的に色彩を識別する記号でしかありません。

 そんなことを思いながら、ふと、路辺を見下ろすと、下草に埋もれるように、小さな段ボール箱が置かれていました。

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 近づいてみると、水仙の球根が多数、入っていました。それらの球根の間に、「ご自由にお持ち帰りください」と書かれた札が添えられています。

 立ち止まって、見ているうちに、再び、幸せな気分になっていきました。(2020/5/7 香取淳子)

桜を見て、新型コロナウイルス由来のパラダイムシフトを思う。

■新型コロナウイルスが一変させた街の光景
 新型コロナウイルスがいま、世界を大きく変貌させています。メディアは日々、感染者数、死者数を報道し、人々の危機感を煽っています。一方、政府や都府県などの行政は人々に外出の自粛を求め、対面接触の自粛を要請しています。おかげで街の光景は一変してしまいました。

 通りを歩いても、道を行きかう人々はみなマスクをし、誰とも語らうことなく、足早に歩いています。見渡せば、ほとんどのお店はシャッターを下ろし、開店しているのはわずか、スーパー、コンビニ、ドラッグストアなどです。

 スーパーで買い物をして、清算しようとすると、いつもと違ってレジ前には透明のシールが設置されています。飛沫感染を防ぐためですが、キャッシュカードも自分で操作して支払う仕組みに変わっていました。店内では間隔を空けて並ぶよう何度もアナウンスがあり、レジ前にはラインが引かれ、待つ位置が決められています。いつの間にか、さまざまなところで非対面、非接触が徹底されていました。

 ほんの一か月ほど前は、街もこれほど閑散としていませんでした。まだお店は開いており、人々は明るく言葉を交わしながら、街を歩いていました。ところが、いまはそれが遠い昔の光景のように思えます。

 3月、4月といえば、例年、卒業式、入学式の季節です。これまでは晴れ姿の親子連れを度々、目にしたものですが、今年はそのような光景を目にすることもありませんでした。入園式、入学式、入社式など、桜とセットで行われてきた晴れの儀式も今年は行われず、ただ、桜だけが咲いて、散っていきました。

 2020年春、新型コロナウイルスが猛威を振るい、激動の様相を見せ始めています。その余波を受けて、桜が咲いて、散っていくプロセスを楽しむこともできないまま、春が過ぎていこうとしているのです。そこで、今回は、桜の開花から散るまでの様子を振り返ってみたいと思います。

 そういえば、3月29日、桜が咲いたというのに、季節外れの雪が降りました。ひょっとしたら、なんらかの予兆だったのでしょうか。

■季節外れの雪
 2020年3月29日、朝起きると、雪が降っていました。窓を開けると、辺り一面が少しずつ雪で白く覆われていくのが見えます。じっと見ているうちに、入間川の桜がどうなっているのか、気になってきました。

気になり始めると、もう居ても立っても居られません。雪が降りしきる中、西武線に乗り、桜並木を見に出かけました。酔狂だといわれるかもしれませんが、桜の季節に雪が降るなど、滅多に経験できるものではありません。出かけなければ、きっと後悔すると思い、出かけてみたのですが、決断して正解でした。

 着いてみると、入間川の遊歩道はこれまでとは違った趣を見せていました。

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 花も木も遊歩道も、いたるところ、雪に覆われていました。中には、雪の重みで枝がいまにもスロープについてしまいそうな木もありました。

 花弁もまた雪の重みで、大きくしな垂れています。見上げてみると、桜の花びらに雪が積もり、大きく膨らんで見えました。ボリューム感たっぷりで、前回見た、可憐な風情はすっかり消え失せていました。

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 路面をみると、一面に桜の花が散り、淡いピンクの道がどこまでも続いていました。風が吹き、雪が吹雪いて、花びらが散り、遊歩道を優雅な模様で飾り立てていたのです。

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 ただのアスファルトの遊歩道が、桜の花のおかげで、見違えるように変身していました。季節外れの雪と桜の花によって、辺り一帯が幻想的で、風雅な様相に変貌していたのです。

 もちろん、雪が降ったからと言って、これでもう今年の桜が終わったというわけではありません。まだ4月に入っていないのです。

■最後の輝きを見せる桜
 2020年4月6日、再び、入間川沿いの桜並木を訪れました。澄み渡った青空の下、桜の花は眩いばかりの美しさを見せていました。

こちら →
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 黒く太い幹から四方八方に伸びた枝には、可憐な風情の花弁が群れたまま、軽やかに風にそよいでいます。淡いピンクの桜花は、黒く太い幹に引き立てられるように、辺り一面を明るく輝かせています。

 思わず、見惚れてしまいました。花と幹の色彩が絶妙なコントラストを見せていただけではありません。動と静、軽と重、儚さと堅固さといった具合に、想念をさまざまに刺激するコントラストが、桜の花と幹のモティーフには含まれていたのです。

 桜の花は鮮やかでありながら、清らかで、潔く、そして、可憐な風情を漂わせています。一方、黒く太い幹や枝に小さな花びらが群生する様子は妖しく、なんともいえない美しさをたたえています。

 見ているうちに、ふと、梶井基次郎の「桜の樹の下には死体が埋まっている!」というフレーズが脳裏をよぎりました。高校生のときに読んだままですが、美しさを表現するにはあまりにも衝撃的なので印象深く、いまだにこのフレーズを覚えていたのです。

 梶井は桜の花を見て、その美しさに打たれます。その部分を原作から引用してみましょう。

「いったいどんな樹の花でも、いわゆる真っ盛りという状態に達すると、あたりの空気のなかへ一種神秘な雰囲気を撒き散らすものだ。それは、よく廻った独楽が完全な静止を澄むように、また、音楽の上手な演奏がきまってなにかの幻覚を伴うように、灼熱した生殖の幻覚させる後光のようなものだ。それは人の心を撲たずにはおかない、不思議な、生き生きとした、美しさだ」(※青空文庫より)

 梶井は桜の花を、「どんな樹の花でも」と一般化しながら、生命の盛りを迎えると、それは周囲に神秘的な雰囲気を発散させるというのです。ちょうど燃え盛る生への欲求が放つ後光のようなものであり、そのオーラが見る者の心を打つといいます。桜の花には、そのような得体の知れない、輝くような美しさがあるというのです。

 梶井は、桜の花を美しいと思い、それが得体の知れなさに根差していると思うだけに、やがて不安になっていきます。

 そして、次のように解釈します。

 「おまえ、この爛漫と咲き乱れている桜の樹の下へ、一つ一つ屍体が埋まっていると想像してみるがいい。何が俺をそんなに不安にしていたかがおまえには納得がいくだろう」(※ 青空文庫より)

 梶井は、その得体の知れない美しさの起源を、「一つ一つ屍体が埋まっている」と想像することで納得するのです。この世のものとも思えないほどの美しさには、「死」のイメージが作用しているからだと考え、理解したといっていいでしょう。

 ところが、そう解釈して納得できるようになってみれば、今度は、不安に襲われてしまうのです。ここに、梶井の美に対する複雑な心理的反応を読み取ることができます。

 梶井は、桜の花の背後に、成熟と死を想像することで、その美しさを観念的に完結させています。そして、成熟し、いま、まさに枯れようとするとき、桜は最後の美しさを見せると総括するのです。

■多義性を孕む美しさ、そして、哀れの情感
 古来、日本を代表する花として、桜は多くの人々から好まれてきました。それは、桜にこのような多義性が含まれているからかもしれません。とくに、生と死といったアンビバレントな要素を合わせもつところに、多くの日本人は哀れを感じ、美しさを感じるようになっていたのでしょう。

 さて、桜並木は所々、木々の陰を路面に落としながら、どこまでも伸びています。路面を見ていると、まるで、どこか別世界に誘われでもするかのような錯覚に襲われます。

 ふと我に返り、頭上を見上げると、すでに花は落ち、葉だけをのぞかせている枝がいくつもあります。桜の花はもはや峠を越し、華やかさを失いつつあるということなのでしょう。とはいえ、下の写真を見ると、左上の枝にはまだ多くの花弁が陽光を受け、白く光って見えます。まさに、最後の輝きを見せているのです。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 見ていると、ふと、「花の色は 移りにけりな・・・」というフレーズが頭の中で響き渡りました。子どもの頃、百人一首で親しんだ歌で、すぐにも暗唱することができます。

 「花の色は 移りにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」

 これは、古今集に収録された小野小町の歌です。

 毎年、お正月を迎えると、家族で百人一首を楽しんでいました。子どもながら、「花の色は 移りにけりな」というところが気になって、すぐに覚えてしまいました。意味もはっきりとわからないまま、この歌は私の十八番でした。

 この写真の桜の木には、花が散って葉だけになった枝もあれば、まだ華麗な花弁を残している枝もあります。それを見て、脳裏をかすめたのが、この歌でした。桜を見るたび、反射的に思い出してしまいます。それは、時の経過がモノの姿を変え、存在意義すら大きく変えてしまう現実が詠み込まれているからでしょう。

 小野小町はたいそう美人だったといいます。だからこそ、時が移ろうにつれ、衰えていく容色に耐えられない悲しみを抱いたのかもしれません。

 鮮やかに開花してはすぐさま散ってしまう桜の花には、確かに、時の経過が凝縮して示されています。生(咲く)から死(散る)へのプロセスがとても短いのです。小野小町が桜にわが身を重ね合わせ、歌を詠んだのも、このドラマティックなプロセスに歌心を刺激された可能性があります。

 子どもの頃はわからなかったこの歌の意味がいま、手に取るようにわかるようになりました。大したこともできないまま、歳を重ねていくうちに、いつの間にか、容色が衰え、身体の自由も効かなくなってしまったという思い・・・。悔いてもはじまらないのですが、この歌には、高齢になれば誰しも味わうに違いない感情がとてもよく表されていると思います。

 それでは、桜並木に戻ってみましょう。

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 この写真を見ると、上の方の枝にはまだ淡いピンクの花がついていますが、下の方の枝はすでに葉桜になっています。そして、桜花や葉桜をつけた枝がやさしく風にそよいでいます。花が散った後の新芽と、散らずに残った花とが一本の樹の中でみごとに共存しているのです。

 ヒトとは違って桜は、花が散れば、すぐさま若葉が出て、早緑の輝きを見せ始めます。死(散る)と誕生(新芽)がほぼ同時に発生します。死と生が密接に結びついているのです。桜ならではの情感といえるでしょう。

 さまざまな表情を見せてくれる桜の木をみてくると、古来、ヒトが桜にさまざまな思いを託して来た理由がわかったような気がします。

 さて、桜にはソメイヨシノと八重桜があります。これまでご紹介してきたのはソメイヨシノでした。3月中旬から下旬にかけて開花します。

 入間川遊歩道には、それよりも遅く開花する八重桜も植えてありました。

■葉桜から八重桜へ
 4月15日、性懲りもなく、また、入間川遊歩道を訪れました。

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 予想通り、ソメイヨシノは完全に葉桜になっていました。よく見ると、その先に赤紫色の花が見えます。

 近づいてみると、見事な八重桜でした。向きを変えて撮影したのがこの写真です。

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 ソメイヨシノとは違って、このボリューム感に圧倒されます。花の下から撮影すると、さらに、どっしりとした重厚感が感じられます。

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 桜といいながら、この花には可憐という表現は似合いません。楚々とした風情はなく、どちらかといえば、豪華なボタンのような印象です。

 新型コロナウイルスのせいで、桜見会は中止され、さまざまなイベントも次々と中止になりました。その代わりといってはなんですが、今回、入間川の桜並木をご紹介しました。人の往来も少なく、ゆっくりと桜の様相を見ることができたような気がします。

■新型コロナウイルスはパラダイムシフトの予兆か?
 桜の花が咲き、散って葉桜になってもなお、新型コロナウイルスの猛威はとどまりません。いまや世界中に拡散し、日々、感染者数、死者数が増えています。それに合わせ、各国政府は一様に、都市封鎖、外出禁止、外出自粛などの対策をとっています。新しいウイルスに対する治療方法はまだ確定されておらず、確たる治療薬もまだ開発されていません。ですから、感染源を物理的にシャットダウンするしか方法がないのが現状です。

 その結果、さまざまな社会活動に対する影響が出ており、経済活動が停滞しています。あっという間に、世界中が貧困化し、生命を絶とうとする人さえ出かねない状況に陥ってしまったのです。感染して死ぬか、経済的に行き詰って死ぬかの二択がささやかれるほど、死が身近なものになってきました。

 どうやら、このまま感染が終息しなければ、好むと好まざるとにかかわらず、人々は行動を制限された生活を強いられることになりそうです。仮に終息したように見えたとしても、ウイルスがヒトの体内で息を潜めているかもしれません。いずれにせよ、感染を避けるために、非対面、非接触のコミュニケーションに移行せざるをえなくなっています。

 テレワーク、オンライン授業、オンライン会議などは、新型コロナウイルス騒動によって、大きく推進されるでしょう。折しも先進諸国では5Gネットワークが開始されています。5G、AI、ビッグデータを活用した社会変革もまた当然、推進されるでしょう。

 このまま年内に終息するのか、あるいは、ウイルスが常態化してしまうのか、それはわかりません。仮に年内に終息したとしても、おそらく、新型コロナウイルス発生以前の社会にはもはや戻ることはできないのではないかと思います。

 世界が歩調を合わせて、感染者数、死者数を逐一報道し、一斉に都市封鎖、外出制限などの対策をとっています。感染力は弱いといわれ、死者数はインフルエンザの方が多いといわれながらも、各国とも過剰に思えるほどの対策をとっています。時間差で似たような政策を展開しているのをみると、世界各国が一斉に、新型コロナウイルスの発生を契機に、パラダイムシフトに取り組んでいるようにみえるのです。

 今年、桜が咲いてから、季節外れの雪が降りました。大きな社会変動の予兆でなければいいのですが・・・。(2020/4/20 香取淳子)

桜の花が咲きました。

■土手に咲く桜
 西武線の仏子駅で下車し、10分ほど歩くと、入間川沿いの遊歩道に辿り着きます。毎年、桜の季節になると、ここを訪れることにしていますが、今年は3月23日、時間に余裕ができたので出かけてみました。

 桜を鑑賞するにはちょっと早すぎたようですが、それでも一部、花が咲きかかっていました。遊歩道からは、生い茂る草が緑のスロープとなって川辺まで伸び、巨大な桜の根をしっかりと支えています。

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 枝の一部に花が咲き、その淡いピンクの花弁が夕陽に照らされて、ことさらに輝いて見えました。風にそよぐ可憐な風情がなんともいえず、つい、見入ってしまいます。まだ蕾のままの枝もあれば、花開いた枝もあり、同じ幹から出た枝でも、開花の時期はそれぞれで、そんなところに微妙な生命の営みを見る思いがしました。

 桜の花をじっと見つめていると、ふと、父の姿が思い出されました。

 春が近づくと、父は、家から歩いて5分ほどの川べりに植えられた桜を見るのを待ちかねるように過ごします。幅10mほどの小さな川ですが、やはり、川の両側に桜が植えられていて、毎年、春になると見事な桜花を楽しませてくれます。

 いつだったか、帰省した折、一緒に川沿いを散策していると、父が突然、「願わくば、花の下にて我死なん、その如月の望月のころ」と口ずさんだことがありました。そのとき、父はたぶん、80歳ぐらいだったと思います。私は驚いて思わず、振り返ってみましたが、父は何もいわず、ただ、桜の花をじっと見上げていました。

 他を寄せ付けない雰囲気に、私は声をかけることもできず、父の視線を追って、桜を見上げました。淡いピンクの花弁の背後には、所々、雲を漂わせながら、青空が広がっていました。

 その時に見たのと同じような光景が、ちょうど目の前に広がっていました。

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 見ているうちに、不意に、天高く吸い込まれていくような気持ちになりました。そして、なんとなく、あの時の父の気持ちがわかったような気がしてきたのです。

 私も、心の中でこの句を口ずさんでみました。

 「願はくば、花の下にて春死なむ、その如月の望月のころ」

 これは、続古今和歌集に収録された西行法師の歌です。花といい、月といい、この歌には日本人が好むモチーフが詠み込まれています。しかも、生命の誕生をイメージさせる「春」と、生命の終焉を意味する「死」が、一つの句の中に違和感なく、共存しているのです。日本人の感性が色濃く表出しているように私には思えました。

 日本人が桜を好むのは、この二律背反ともいえるアンビバレンツな感覚を呼び覚ましてくれるからではないでしょうか。ふっと、そんな気がしてきました。

 入間川沿いの桜木は、そのときに見た枝よりもはるかに太く、しっかりとしていて、一部咲きの小さな桜花をいっそう儚げに見せていました。手を伸ばせば、いまにも届きそうに見えるほど近く、桜花をつけた枝は垂れ下がっています。まるで手に取ってほしいと言わんばかりです。

父の気配を感じました。

 あのときの願いとは違って、父は紅葉の秋、まるで桜が散っていくように、さっと旅立っていきました。長患いすることもなく、83歳で人生を終えました。

■桜のトンネル
 さて、桜で両側を囲われたこの並木道は、入間川の上流に向けて、約300m続きます。昭和42年から43年にかけて植えられたそうです。

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 私は桜の季節になると、毎年、ここを訪れています。満開の時期に、この遊歩道を歩くと、桜トンネルをくぐる気分に浸ることができます。穏やかに流れる川面を眺めては、降り注ぐ桜の花弁を浴び、自然が与えてくれる悦楽を堪能することができるのです。

 ここに来るたび、日本人が古来、桜を愛でてきたことを再確認するような気分になりますが、今回もそうでした。桜といえば、すぐに思いつくのが本居宣長です。

 本居宣長はたいそう桜を好んだそうで、いくつも歌にしています。高齢になってから詠んだものに、有名な一句があります。

 「敷島のやまとごころを、人問はば、朝日に匂ふ山桜ばな」

 61歳の時に詠まれたといわれています。この歌は軍国主義と結びつけて取り上げられることが多く、歌意がそのまま伝わっていないように思えます。それが残念ですが、私は、この歌の中に、本居宣長の日本観が的確に表現されているのではないかと思っています。

 この歌は、「大和心はどういうものかと人に聞かれれば、朝日に照り輝く山桜のようだと答えよう」という意味を表しています。日本的な感性がどういうものか、山桜を引き合いにして、表現しているのです。

 街中や公園で桜を見るのではなく、山や川べりで桜を見ると、おそらく、宣長がこの歌に託した意味がよくわかるのでしょう。入間川沿いの遊歩道で桜を見て、私は改めて、宣長が捉えていた日本文化の真髄がわかったような気がしました。

 本居宣長もまた西行法師と同様、桜花に日本人の感性を見出し、その文化を重ね合わせてみていたのでしょう。

■夕陽が創り出す光景
 私が入間川沿いの遊歩道を訪れたのは、まもなく夕刻になろうとするころでした。桜の枝の後方に、沈む太陽が見え、辺り一面を暮色に染め上げていました。

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 宣長が詠んだ句に倣えば、この光景には、「夕陽に照り輝く川べりの桜花」とでも表現できるような妙味がありました。

 宣長は「大和心」を、「朝日に匂ふ山桜ばな」の美しさを感じ取る心だと歌に詠みました。ところが、今回、私は夕刻の桜を見て、「夕陽に照り輝く川べりの桜花」には、さらに、「あはれ」とでもいえるような風情が加わっていることに気づきました。「朝日に匂ふ山桜ばな」に劣らない魅力が、「夕陽に照り輝く川べりの桜花」にはあると思ったのです。

 太陽を背にすると、一部咲きの桜花が夕陽に照らされ、淡いピンクの花弁をそよがせているのが見えます。

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 背後に巨大な雲が流れているせいか、一部咲きのピンクの桜花がことさらに小さく見えます。なんともいえず可憐で、美しく、まるでそこだけが煌めいているかのようです。

 一方、太陽に向かうと、逆光になり、下の写真のようにすべてが色を失います。夕刻には、このようにポジとネガ、それぞれの美しさやその興趣を、同時に味わうことができるのです。

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 輝きの中だけに美しさが存在するのではなく、輝きを失ったところにも美しさを見出すのが、日本的な感性であり、日本文化の本質ではないかと私は思います。

 私が、桜に惹かれ、日本的感性が呼び覚まされると思うのは、桜にはそのようなアンビバレントな要素が多分にあるからなのです。

 もう一度、夕陽に包まれた光景を見てみましょう。桜木の枝の背後に、太陽が深く沈み込み、強い残照が川面に反映しています。

 まるで沈みかかった太陽が、最後の力を振り絞り、強大なエネルギーを空と川に放っているかのようでした。残照は辺り一面を別世界に変貌させていました。夕陽がもたらすこの空間は、明るい昼間から暗い夜へ誘う境界ともいえるものでした。

 見ていると、父が好んだ御文章が思い出されてきます。

■御文章
 どういうわけか、父は「御文章」が好きでした。子どもの頃、これを聞くのが怖かったのですが、文章のリズムがよく、しかも、父が朗々と、歌い上げるように詠むので、いまだに頭の隅にこびりついています。

Wikipediaからその一説をご紹介しましょう。

 「それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそ儚きものは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。されば、いまだ萬歳の人身をうけたりという事を聞かず。一生すぎやすし。今に至りて誰か百年の形体[8]を保つべきや。我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、遅れ先立つ人は、元のしずく、末の露より繁しと言えり。されば、朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、即ち二つの眼たちまちに閉じ、一つの息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李の装いを失いぬるときは、六親眷属あつまりて嘆き悲しめども、さらにその甲斐あるべからず」

 子どもの頃、私が怖いと思ったのは、「朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身なり」という箇所でした。他の部分は意味がわからなかったのですが、ここだけはなんとなく意味がわかり、ヒトはあっという間に歳をとって、死んでしまうのだと思い、怖かったのです。

■彼岸としての夕刻
 いつもと違って、今回、夕刻に一部咲きの桜を見ました。そのせいか、桜の下に佇んでも、華やぎは感じられず、むしろ、桜のもつアンビバレントな要素に気づかされました。そして、その光景の中に、一種の境界とでもいえるようなものを感じさせられたのです。

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 蕾をつけた桜木の背後に、大きく広がった雲を抱えた青空と、それを反映した川面が見えます。地表の建物や土手が、空と川の境界になるのですが、夕刻のせいか、その地表部分が暗くてよく見えません。

 夕刻には、彼岸の存在感が強調されるのでしょうか。ヒトが生きて、暮らす地表がよくみえず、天空に広がった雲と、それを映し出した川、そして、手前の大きな桜木ばかりが目につきます。

 そういえば、桜並木を見に訪れたのは3月23日は、2020年のお彼岸期間最後の日でした。(2020/3/26 香取淳子)