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幕末・明治期の万博④:ナポレオン三世はなぜ、1855年パリ万博の開催を決意したのか(2)

■普通選挙による大統領の選出

 前回もいいましたように、イギリスに先を越されたフランスは、早々に、パリで万博を開催することを決定しました。当時、フランス内外の政治状況は混沌としていましたが、それでも、ナポレオン三世の開催意欲が強かったからです。

 イギリスに亡命していたルイ・ナポレオンがフランスに戻ったのは、1848年のことでした。そのわずか3年後に、ロンドン万博が開催されたのです。ナポレオンにしてみれば、競争意欲を刺激されたのかもしれませんし、あるいは、未来に希望を託せる一条の光明に思えたのかもしれません。

 その頃、ナポレオンは、矢継ぎ早に訪れる政変の真っただ中にいました。

 二月革命によって王政が倒れ、臨時政府の下、普通選挙が行われ、第二共和政の憲法が成立しました。その共和政憲法の下で行われた大統領選にナポレオンは出馬しました。当初は泡沫候補扱いでしたが、次第に人気が高まり、ついには、圧倒的多数の票を得て、当選しました。

 21歳以上の男性すべてに選挙権が与えられた結果、有権者数はそれまでの24万人から一挙に900万人にまで増えたといいます(* 小山勉、「フランス近代国家形成における学校の制度化と国民統合」、『法政研究』59巻(3/4)、p.323.1993年)。歴史上初めて、普通選挙によって大統領が選出されたのです。

 1848年12月15日、第二共和政の下で、ナポレオンは大統領に就任しました。

■有権者数の拡大とその資質

 21歳以上であれば、誰にも平等に投票権が与えられることになったことの結果でした。教育も受けずに、果たして適切な投票行動を行えるのかといった懸念があったのでしょう。小山氏は、新しく有権者となった人々は、最小限の教育を受けられるようにすべきだとしています。

 一方、鹿島氏は、興味深いことを述べています。

 大統領選をめぐってはプロパガンダ合戦が繰り返されたとしながらも、「こうしたプロパガンダは、あくまで、候補者の思想信条に興味をもつ知識階級の人間にしか影響を及ぼさなかった。有権者の大多数を占める農民にとっては、なにが暴露されようが、そんなことはまったくおかまいなしだったのである」と述べています(* 鹿島茂、『怪帝ナポレオン三世』、講談社学術文庫、2020年、pp.85-86)

 新しく有権者となった者のほとんどが、読み書きができず、新聞はもちろんのこと、選挙公報に出ている候補者の名前すら読めなかったというのです。ですから、もっぱら、耳から入った候補者の名前が、親しみのあるものかどうかが基準になっていたといいます(* 鹿島、前掲)。

 21歳以上の男性という制限付きですが、すべての人に投票権が与えられた普通選挙は、一見、平等に見えます。ところが、有権者が最低限の教育すら受けていなければ、せっかくの投票権が正当に行使されない危険性があることを小山氏は指摘していたのです。

 鹿島氏の指摘と考え合わせれば、小山氏が有権者には最低限の教育が必要だと指摘した理由がよくわかります。

 ルイ・ナポレオンは、有権者が24万人から900万人に激増した普通選挙で、勝利しました。本命視されていたカヴェニャック将軍を大差で破り、第二共和政初代大統領に収まったのです。これまで有権者になりえなかった層が、ナポレオンに票を投じたからでした。

 この時、ナポレオンは、理屈や理論によってではなく、情念や直感によって動く大衆に支えられていることを実感したに違いありません。

 せっかく大統領に選ばれたナポレオンでしたが、共和政の下では思うように動けなかったのでしょう。1851年12月2日、軍隊を動員して議会を包囲し、クーデタを決行しました。そして、議会を解散し、普通選挙を復活して新たな議会を招集すると民衆に布告したのです。議会が解散させられたことによって、1848年共和主義憲法は失効し、第二共和政は事実上、終了しました。

 1851年12月21日に行われた国民投票では、投票率83%、賛成92%の圧倒的多数によって、ナポレオンが起こしたクーデタが支持されました。そして、1年後の1852年末に再び国民投票を行い、1852年12月2日にナポレオン3世として即位しました。絶対的な権力を手に入れ、第二帝政が始まったのです。

■権力の頂点に就いたナポレオン三世

 正装をしたナポレオン三世を描いた肖像画があります。ピエール=ポール・アモン(Pierre-Paul Hamon,1817-1860)がアカデミックな画法で描いたものですが、ご紹介しましょう。

こちら →
(* https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Napoleon_III-Winterhalter-Billet_mg_6161.jpg、図をクリックすると、拡大します)

 全般に、ナポレオン一世ほどの華やかさはありませんが、正装のせいか、恰幅がよく、威風堂々として見えます。表情は沈着で、思慮深さがそこかしこから滲み出ています。亡命先からパリに戻ってわずか4年余りで、皇帝の座に就いたほどの人物です。知略家であり、策謀家であったはずです。そんな様子もうかがえなくもありません。

 思い描いたプランを実行するには、絶対的な権力を掌握する必要があったのでしょう。皇帝になり、ナポレオン三世となってから、次々と、フランスの価値を高めるようなプランを実行していきます。

 その一つが、パリ万博の開催でした。長年思い描いてきた事業とはいえませんが、ロンドン万博の開催に刺激され、なんとしても着手する必要があると判断したようです。

 ロンドン万博が開催されたのは、ナポレオンがまだ大統領だった頃でした。その後、国内政治が第二共和政から第2帝政へと移行し、対外的にはアルジェリア、クリミアなどでたて続けに戦乱が勃発していました。

 フランスの政治が内外ともに不安定な時期でしたが、それでも、国家戦略のために取り掛かる必要があると思った事業が、パリでの万博開催でした。

 パリの大改造、立ち遅れていた産業化の推進など、フランスには達成すべき課題がいくつもありました。フランスの強靭化政策の一環として、以前から開催されてきたのが産業博覧会です。

 それなりに成果をあげていましたが、国内を対象にした産業博覧会でした。対外的なものにしようという意見もあったのですが、国内産業を保護するため、海外の産品を対象にしてこなかったのです。

 ところが、ナポレオンは、それまで毎年、開催してきた産業博覧会を中止し、パリ万博の開催を決定したのです。そして、ナポレオンがパリ万博の進行を任せたのは、全幅の信頼を置く、経済顧問のシュヴァリエでした。

 コレージュ・ド・フランス(Collège de France, 1530- )の経済学教授だったシュヴァリエは、個人の資格でこのロンドン万博を視察しており、大きな衝撃を受けていました。シュヴァリエにしてみれば、このロンドン万博こそ、フランスが最初に開催すべき博覧会でした。すでに産業博覧会を開催していた実績もあります。イギリスに先を越されたという思いは、ナポレオン三世ばかりではなかったのです。

■シュヴァリエとは何者か?

 パリ万博を主導したのは、シュヴァリエ(Michel Chevalier, 1806 – 1879)とル・プレー(P.G.F. LePlay, 1806-82)でした。いずれも社会を科学的、実証的にとらえ、産業化を推進しようとするサン・シモン主義者でした(https://www.ndl.go.jp/exposition/s1/1855.html)。
 
 シュヴァリエは後に、ナポレオン三世の経済顧問になりますが、ロンドン万博を訪れた時はまだ。経済学の教授でした。彼の略歴について、少し、ご説明しておきましょう。

 鉱業学校卒業後、シュヴァリエは技師として働いていましたが、七月革命後にサン・シモン派に入団しています。最高教父のプロスペル・アンファンタン(Prosper. Enfantin, 1796-1864)による指導の下、パリ郊外のメニルモンタンで共同生活に参加していたこともありました。

 やがて。サン・シモン派の機関紙『グローブ』編集長として活動するようになり、自らも「地中海システム」などを寄稿し、次第に頭角を現していきました。シュヴァリエは、アンファンタンの後継者に指名されるほどになりましたが、1832年、サン・シモン派は、反政府的な結社を禁じる刑法291条に違反したとして、一斉検挙されてしまいました。

 裁判で禁固6月の刑を宣告されたシュヴァリエは、サント・ペラジ獄へ収監されましたが、獄中でアンファンタンとは別れ、翌年の出獄後にサン・シモン派を脱退しています(* 藤田その子、「ミシェル・シュヴァリエ小論」、『西洋史学』101巻、1976年、p.40)。

 シュヴァリエの経歴を見れば、明らかに彼がサン・シモン派の主要メンバーだったことがわかります。

 1841年に、シュヴァリエはコレージュ・ド・フランス経済学教授に就任しますが、1848年に二月革命が勃発すると,コレージュ・ド・フランスを罷免されてしまいます。

 ところが、12月に大統領となったルイ・ナポレオンによって、シュヴァリエは地位を回復することができました。そして、第二帝政期(1852‐1870)のナポレオン三世の治世下で、経済顧問を務めています。

 ナポレオン三世に信頼され、気に入られていただけではなく、考え方が近かったのでしょう。シュヴァリエは、いったん罷免された地位を回復してもらった上に、経済顧問に採用されていたのです。

 ナポレオン三世もシュヴァリエも、ロンドン万博に刺激され、早々に、パリ万博の開催を決めています。シュヴァリエは、実際に訪れていたく感嘆し、是非ともパリ万博をと臨んだからでしたし、ナポレオン三世は、そもそもフランスでこそ開催すべきだと思っていたからでした。

 実は、フランスにはイギリスよりも早く、万国博覧会に似た産業博覧会を実施してきた経験がありました。

■フランスで始まっていた産業博覧会

 フランスでは1798年から1849年にかけて、計11回もの産業博覧会がパリで開催されていました。いずれも産業振興を目的にするものでした。

 そもそも博覧会という企画そのものを最初に思いついたのが、内務大臣フランソワ・ド・ヌシャトー(Francois de Neufchateau, 1750-1828)でした。

 第1回産業博覧会が開催されたのは、フランス革命(1789‐1795)が収束してしばらく経ち、諸制度の変革によって社会が変わりはじめていた頃です。そのような状況下で、内務大臣フランソワ・ド・ヌシャトー(Francois de Neufchateau, 1750-1828)は、実用的な工芸を育成するための第一回内国産業博覧会を開催したのです。立ち遅れていた産業化を推進しなければならないと思っていたからでした。

 内務大臣だった1798年に描かれたヌシャトーの肖像画に基づき、1812年に、ジャン・ニコラ・ロージエ(Gravure de Jean Nicolas Laugier)が制作した版画があります。見てみましょう。

こちら →
(* https://fr.wikipedia.org/wiki/Nicolas_Fran%C3%A7ois_de_Neufch%C3%A2teau 図をクリックすると、拡大します)

 いかにも聡明そうな眼差しが印象的です。社会の動向を見据え、あるべき姿を模索していたのでしょう。

 当時、革命やその後の政治的混乱で、フランス経済は疲弊していました。一方、隣国のイギリスはいち早く、産業革命を成し遂げた結果、経済が活性化し、さらなる発展を推し進めていました。そのイギリスに対抗するため、フランスは国内産業を早急に育成しなければならなかったのです。

 実際、安価で良質のランカシャーの織物やウェッジウッドの磁器などが、イギリスから流入し、フランスの市場は食い荒らされていました。

 そこで、ド・ヌシャトーは博覧会を開催し、産品の質を高める必要があると考えました。博覧会とはいっても、芸術作品ではなく、実用的な工芸品を「展示」しようと考えたのです。

 それが産業博覧会でした。工芸品や製品を展示し、幅広い層に訴求できれば、販売網が広がると考えたのです。

■第1回フランス内国博覧会の特徴は、万国博覧会の基本?

 鹿島茂氏は、ド・ヌシャトーが発案し、実行した第1回フランス内国博覧会にはのちの万国博覧会の基本となる特徴がすべて含まれているとし、以下のように列記しています。

① 政府が、産業振興のために主催したものであること。
② 展示されるのは実用目的の商品であり、しかもその商品は、販売されるのではなく、展示されるだけであること。
③ アトラクションやスペクタクルを伴う祝祭であること。
④ 一つの会場にすべての展示品を集めたこと。
⑤ 出品者の資格がほとんどフリーであり、私企業ないし私人であること。
⑥ 単なる展示会ではなく、商品のコンクールであること。
(* 鹿島茂、『絶景、パリ万国博覧会』小学館文庫、2000年、p.31)

 以上の6点を挙げています。

 まず、出品資格として営業免許状を提示し、自らが生産した製品のみ展示できるという条件があります。そして、国家が産業振興のために主催すること、展示されるのは実用目的に産業製品であること、等々の定義づけがされています。

 まさに、産業博覧会とはまさに、産業製品のための大規模な展示会でした。

 興味深いのは、ド・ヌシャトーは博覧会に、◆アトラクションやスペクトラムを伴う祝祭の要素を重視していること、◆展示製品のコンクールを行い、優劣を競い合う仕組みを持ち込んでいること、等々です。

 18世紀末の時点で、ド・ヌシャトーは、展示会には人が大勢集まらなければ意味がなく、多数の来場者を集めるには、祝祭性と競技性、ゲーム性が必要だと認識していたのです。聡明で、先見性のある人物でした。

 実際、第1回産業博覧会(1798年)を描いたスケッチを見ると、気球が会場の上空に浮かび、祝祭空間を作り上げています。

こちら →
(* https://www.arthurchandler.com/1798-exposition 図をクリックすると、拡大します)

 この図を見ると、確かに、会場の上空には気球が浮かび、祝祭モードで設営されていることがわかります。より多くの人々が参加したくなるような雰囲気が醸し出されており、祝祭空間を作り出そうとしている開催者たちの意図が見えてきます。

 ド・ヌシャトーのこのような先見性は、1855年のパリ万博で遺憾なく発揮されました。

 たとえば、産業博覧会の特徴の一つに、産品の「コンクール」を行い、権威ある審査委員会によって褒賞するという制度がありました。これは、「サロン」で行われてきた美術作品の審査方法を踏まえたものでした。(* 井上さつき、「19 世紀フランスのフルート製造と博覧会―ジャン=ルイ・テュルーを中心に」、『MIXED MUSES』No.14、2019年、p.46)。

 ド・ヌシャトーは、美術界で採用されていたコンクール制度を産業博覧会に導入していたのです。競争状況を作り出し、出品された工芸品や製品の品質を高め、価値を高めていくためでした。1855年パリ万博ではその経験を踏まえ、さらにブランディング力を高めるための工夫がされました。

■受賞した製品のブランド価値

 フランスを代表するブランドの一つに、クリスタルガラス・メーカーのバカラ(Baccarat)社があります。その製品紹介文に「1855年パリ万国博覧会で名誉大賞受賞」と書かれていることがあります。万博で受賞したことが製品のブランド価値を高めているのです。

こちら →
(* https://www.majorelle.co.jp/shopdetail/000000003830/ 図をクリックすると、拡大します)

 これは、バカラのワイングラスで、1855年パリ万博で名誉大賞を受賞したのと同じデザインで製作されています。アシッドエッチング技法で描かれた文様が美しく、とても人気があるシリーズです。

 出展品に褒章を与えるという仕組みは、1851年の第1回ロンドン万博でも行われました。ところが、1855年第1回パリ万博では、審査方法や審査委員の選定基準を厳格化し、詳細化しました。審査を公正に行うことによって、褒章に権威を持たせようにしていたのです。

 たとえば、1855年パリ万博の産業部門で授与されたメダル数は、グラン・プリ(大金メダル)112、金メダル252、銀メダル2,300、銅メダル3,900、選外佳作4,000でした。この分布をみると、グラン・プリや金メダルを受賞することがいかに難しいかがわかります。

 それだけに、グラン・プリや金メダルを獲得すれば、出展企業にとって強力な宣伝材料になりました。バカラのように、万博で受賞し、その後ブランドとしての地位を確立して、今に続いているメーカーはたくさんあります。

 そのうちの一つが、1855年パリ万博で金メダルを受賞したシンガーミシンです。ご紹介しましょう。

 1850年にアイザック・メリット・シンガー(Isaac Merritt Singer )は、実用的なミシンを制作し、1851年8月12日に、最初の「シンガー」ブランドでミシンの特許を取得しました。最初のシンガー社は、マサチューセッツ州の小さな工房でした。

 1855年に開催されたパリ万博でグラン・プリを受賞したのを契機に、シンガー社は、多国籍企業へと事業を拡大しました。その結果、シンガー社はわずか数年で、国際企業へと発展していったのです。(* https://sewingmachine.mobi/singer-sewingmachine-history/#gsc.tab=0)

 1855年パリ万博で受賞した金メダルの効果でした。審査基準を厳格化することによって、メダルに権威をもたせました。その結果として、ミシンメーカー、シンガー社のブランドを確立させたのです。

 ブランドを確立することによって、メーカーとしての優位性、安定性が増していきました。企業の生存戦略としても、万博への出品は不可欠となっていきました。

 そればかりではありません。出品された産品に値段をつけるようになったのも、1855年パリ万博が最初でした。

■1855年パリ万博の意義は何か?

 1851年ロンドン万博では、出展品に売り値を示していませんでしたが、1855年パリ万博ではすべての出展品に値札をつけることが義務付けられました。展示品すべてに金銭的な価値を表示することにしたのです。その結果、博覧会が単なる展示場ではなく、商品ディスプレイの意味を持ち始めました。

 来場者は、展示された製品を鑑賞し、評価するだけでなく、実際に消費したいという欲求を抱くようになりました。万博での経験が、デパートや商店街をウィンドウショッピングするという行動の先駆けとなり、消費行動につながっていったのです。

 やがて、産品を消費することによって満足し、幸福感を覚える新たな認識体験が作り出されていきました。

 一方、1855年パリ万博では、出品された製品すべてに値段が付けられました。あらゆるものの価値が貨幣に置き換えられ、平準化されるようになったのです。モノやサービスの価値が貨幣に置き換えられるという仕組みは、徐々に社会に浸透し、あらゆるモノやサービスの交換を容易にしました。商品経済の世界へと進んでいったのです。

 パリ万博を主導していたシュヴァリエは、ナポレオン三世の下、積極的な経済政策を推進しようとしていました。

 当時、フランスはまだ手工業の域を出ておらず、保護貿易主義の下で企業も労働者も、技術革新あるいは生産性の向上といったことに関心を抱いていませんでした。ド・ヌシャトーが創設した産業博覧会は行われていたとはいえ、産業人を大きく刺激するというものではなかったのです。

 人々の関心を技術の進歩、産業の発展に向け、意識改革を図るには、そのためのビッグイベントが必要でした。ロンドン万博を見たシュヴァリエは、会場に展示されていたさまざまな機械類に圧倒されました。それこそ、機械文明による人類の進歩を感じさせられたのです。

 国民の産業に対する意識を変革するには、是非ともパリ万博を開催する必要がありましたし、フランスならでは特異性を加える必要がありました。出品産品に価格を付けること、厳格なコンクール制度の下、選ばれた産品の権威付けを図ること、等々は、いかにもフランスらしい試みでした。

 いずれも万博を主導したシュヴァリエとル・プレーのアイデアでした。

 1855年パリ万博では、出品された産品に価格が設定されました。製品の価値が貨幣価値に置き換えられ、価値判断が平準化されるきっかけを作ったのです。さらに、厳格化されたコンクール制度は、受賞した製品を権威づけてブランド化し、グローバルに流通する契機となりました。

 1851年ロンドン万博が、産業文明を人々に認識させるきっかけになったとすれば、1855年パリ万博は、人々を商品経済の入り口に立たせる契機ことになったといえるでしょう。

 ナポレオン三世が任用したシュヴァリエは、ル・プレーとともに、1855年パリ万博を産業化社会に向けてのとば口としたのです。(2024/6/26 香取淳子)

幕末・明治期の万博③:ナポレオン三世はなぜ、1855年パリ万博の開催を決意したのか(1)

 万博は、政治、経済、文化、外交、最先端技術などが複雑に絡み合って、社会を変貌させるだけでなく、一種のスペクタクルとしても機能します。1851年のロンドン万博がそうでしたし、1855年のパリ万博もそうでした。

 そこで今回は、なぜナポレオン三世が、1855年パリ万博の開催を決意したのか、諸状況を踏まえて、考えていきたいと思います。

■フランスに先駆けて万博開催に挑んだイギリス
 
フランスでは産業振興のため、産業博覧会が1798年から1849年にかけて計11回、パリで開催されていました。商品経済が活性化するにつれ、産業振興の重要性が認識されるようになっていたからでした。

 1830年代になると、国内を対象にした産業博覧会から、国際規模に拡大してはどうかという提案がでてくるようになりました。フランスでもちょうど産業革命が進み始めていた頃でした。商品経済がある程度、発達してくると、競争力のある商品を開発し、市場規模を拡大し、更なる発展をめざそうとするのは当然の成り行きでした。

 ところが、市場を国際規模に拡大することには国内の商業者層が反対しました。彼らが拠り所にしていたのはあくまでも国内市場だったのです。政府による保護主義の下、これまで通りの市場規模を望みました。リスクを被る可能性のあることは避け、国内の産業博覧会以上のものは望まなかったのです。

 そうこうしているうちに、イギリスがフランスに先駆けて、万国博覧会を開催してしまいました。開催場所はロンドンのハイドパーク、開催期間は1851年5月1日から10月15日まででした。

 参加国は34カ国で、一日の平均入場者数は約4万3,000人、会期中の延べ入場者数は約603万9000人でした。これは当時のイギリス総人口の約1/3、ロンドンの人口の3倍にも当たるものでした(* https://www.ndl.go.jp/exposition/s1/1851.html)。

 第1回ロンドン万博の動員力の凄さには驚かざるをえません。しかも、これは有料入場者だけをカウントした人数でした。なぜ、これほど多くの人々がお金を払ってまで万博会場を訪れたのでしょうか。

 おそらく、いち早く産業革命を達成し、産業化が進行していたイギリスで開催されたこその結果だったのでしょうが、果たして、実際はどうなのか。見ていくことにしましょう。

■第1回ロンドン万博、入場者動員のためのインフラ

 ロンドン万博では、19世紀の半ばに、5か月間とはいえ、604万人もの入場者を会場に動員することができました。このことからは、少なくとも、万博の開催を知る手段を持ち、会場まで移動できる手段を持った人々がそれほど多数いたということが示されています。しかも、それらの手段を利用するには、ある程度の時間とお金に余裕がなければ、不可能です。

 したがって、ロンドン万博の動員力の背景には、まず、同一情報を同時期に不特定多数に発信できるメディが存在し、人々の情報入手手段として日常的に活用されていたことが示されています。

 もちろん、万博開催の情報を知ったとしても、交通手段がなければ、これだけ多数の人々が会場まで移動することはできません。それが可能だったということは、つまり、当時のロンドンでは、すでにメディアが発達して日常的に利用され、交通網が整備されて日常的に利用されていたことがわかります。

 実際、イギリスでは当時、絵入り週刊誌が刊行されており、人々はそれを読み、世の中の出来事を知っていました。

 たとえば、『イラストレイテド・ロンドンニュース』(The Illustrated London News)は、1842年に発刊された週刊誌ですが、イラストの入ったニュースを提供しており、人々はこれを読んで社会情勢を把握していました。

 1842年5月14日付の記事を撮影した写真があります。発刊当時の記事ですが、内容に関係する図が細密に描かれています。ご紹介しましょう。

こちら →
(* https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Illustrated_London_News_-_front_page_-_first_edition.jpg、図をクリックすると、拡大します)

 記事の中に挿絵が取り入れられているので、わかりやすく情報が伝えられています。文字情報にイラストが添えられており、幅広い読者層をめざした伝達様式になっています。

 一方、多数を動員するには交通網の整備も不可欠です。いち早く産業革命を経ていたイギリスでは、産業化が進むに伴い、物資を輸送する必要から、水路、陸路とも交通網が整備されました。さらに、19世紀半ばには鉄道が発達し、人々の鉄道利用が進んでいたのです。ロンドン万博の開催当時、イギリスでは鉄道が発達し、人々の移動が楽になっていました。

 そもそも蒸気機関による鉄道が世界ではじめて開発されたのはイギリスでした。もちろん、旅客輸送を運営したのもイギリスが初めてです。その後、車両など設備全般の改良を繰り返し、1840年代には特に鉄道輸送が飛躍的に発展していました。ロンドン万博が開催される頃には、主要都市を結ぶ鉄道網がすでに形成されていたのです。
 
 国内ばかりではありませんでした。海外に多数、植民地を持つイギリスは、定期蒸気船航路で、南北アメリカ、アジア、アフリカを結び付ける輸送網を敷いていました。輸送、運輸の面では、当時、ロンドンは文字通り世界の中心として君臨していたのです。

 こうしてみてくると、圧倒的な工業力を誇り、海外に多数の植民地を持っていたイギリスが、フランスよりも一足先に、産業博覧会の国際化を実現させたのは当然のことだったのかもしれません。

 それでは、初めてのロンドン万博はいったい、誰の発案だったのでしょうか。

■ロンドン万博は誰の発案なのか?

 第1回ロンドン万博を中心となって推進していたのは、ヴィクトリア女王の夫であり王立技芸協会会長のアルバート公(Prince Albert of Saxe-Coburg-Gotha, 1819 – 1861)でした。そのアルバート公に進言したのが、当時ロンドンの公文書館で館長補佐をしていたコール(H. Cole)でした。

 彼は、1849年にパリで開かれた産業博覧会を参観に出かけました。その際、フランスが万国博覧会を開催しようとして果たせなかったことを聞き及びました。長年にわたる博覧会の経験を積み、市場規模を拡大する必要があることもわかっていながら、商業者たちの反対にあって、フランス政府が計画を断念していたことを把握していたのです。

 この時、コールはおそらく、フランスが産業博覧会を国際化できない理由も把握していたのでしょう。フランスの商業者たちが国際化に反対したのは、イギリスからの製品流入を恐れたからでした。

 保護貿易の立場から反対され、フランス政府は市場拡大のチャンスを諦めざるをえなかったのです。そうだとすれば、工業化が進んでいるイギリスは、相当有利な立場にいるといえます。

 そのような情報に接したコールは、イギリスこそ、国際的な産業博覧会を開催すべきだと判断したに違いありません。

 帰国すると早々、コールは諸事情を説明したうえで、予定していた国内博覧会を国際博覧会に拡大してはどうかとアルバート公に進言したのです。

 もちろん、アルバート公はこれを受け入れました。

 ロンドンのハイドパークを会場にすることも決まりました。会場の場所は決まりましたが、建物をどうするか、建築案で難航しました。開催1年前にはコンペを行い、245もの案が出たにもかかわらず、決定的なものが出なかったのです。

 そんな中、庭園技師で、数々の温室を設計したことのあるパクストン(J. Paxton)の会場建築案が、王立委員会に持ち込まれました。これが1850年7月6日のIllustrated London Newsに掲載されて、話題を呼び、世論の大きな賛同を得ました。その結果、彼の設計案が採用されることになったという経緯があります。

 パクストンが提示したのは、画期的な建物案でした。

■水晶宮(クリスタル・パレス)

 ロンドンのハイドパークに建てられた会場は、その外見から、やがて、クリスタル・パレス(水晶宮)と呼ばれるようになりました。実際、この建物自体が第1回ロンドン万博最大の訴求力のある展示物でした。

 果たしてどのような建物なのか、水晶宮の内部をスケッチした画がありますので、ご紹介しましょう。

こちら →
(* https://www.ndl.go.jp/exposition/data/R/008r.html、図をクリックすると、拡大します)

 太陽の光が、ガラスの天井越しに、巨大な樹木に射し込んでいます。樹木の手前にある噴水からは水が流れ落ち、自然と一体化した美しさが表現されています。周辺一帯には数多くの像が設置されており、庭園師ならではの発想が見事です。自然と最先端技術を組み合わせ、華麗で優雅な建築物を生み出したのです。

 この水晶宮は、長さ約563m、幅約124mの建物で、わずか10カ月で完成させたといわれています。鉄とガラスを素材に使い、当時の最新技術で、クリスタルのように見える会場を建造したのです。工期を抑えるために、工場で製造された部品を現地で組み立てるプレハブ工法が採用されました。

 使われたガラスの数は30万枚で、内部は赤、青、白、黄色で塗り分けられています。外部は白またはストーンカラー(灰色または青灰色)が使われ、縁は青で飾られました。まさに水晶のような輝きを見せる建物でした(* 前掲URL)。

 水晶宮の外観、正面を描いた図があります。

こちら →
(* https://www.ndl.go.jp/exposition/data/R/005r.html、図をクリックすると、拡大します)

 鉄とガラスでできたこの建物からは、優雅さと荘厳さ、そして、高い技術力と繊細なデザイン力が滲み出ており、入場者たちの心に強烈な印象を残しました。

 水晶宮はまさに工業力によって、社会が大変貌を遂げる時代を象徴していました。

■ナポレオン三世にとっての第1回ロンドン万博の衝撃
 
 ナポレオン三世は、第1回ロンドン万博に衝撃を受けました。ひょっとしたら、衝撃というより、先を越されたという思いの方が強かったかもしれません。1854年に開催予定だった産業博覧会を急遽、中止し、パリ万博の開催を決定しました。

 さらに、ロンドン万博の終了から半年しか経っていない1852年3月、急遽、大統領令を発令し、「公式の式典、民間の祭典や軍事祭典にも使える建物を、ロンドンのクリスタル・パレスに倣って、シャンゼリゼのクール・カレに建設することを決定する」と布告したのです。1851年12月のクーデタからわずか4か月を経たばかりで、ルイ・ナポレオンはまだナポレオン三世になっていませんでした。(* 鹿島茂、前掲、p.122.)。

 それなのに、早くも、万博会場について宣言しているのです。

 万博会場として建造された建物は、産業宮殿(palais de l’industrie)と名付けられました。正面玄関を描いたスケッチ画がありますので、ご紹介しましょう。

こちら →
(* https://www.ndl.go.jp/exposition/data/R/061r.html、図をクリックすると、拡大します)

 ナポレオン三世が勢い込んで建造したわりには平凡な外観です。見比べてみて、改めて、ロンドン万博の水晶宮が画期的な建物であったことがわかります。

 1853年3月の勅令で、この会場を使用できる規模を万国博覧会にまで拡大し、さらに6月にも勅令を発し、産業博覧会、美術博覧会も開催できるようにすると宣言しました。

 美術博覧会にも拡大した理由として、ナポレオン三世は次のように述べています。

 「産業の発達は美術、工芸の発達と密接に結びついている。(中略)フランスの産業の多くが美術、工芸に負っている以上、次回の万国博覧会で美術、工芸にしかるべき場所を与えることは、まさにフランスの義務である」(* 鹿島茂、前掲、pp.123-124.)

 このようなプロセスをみてくると、ナポレオン三世が1855年開催のパリ万博に大きく肩入れをし、フランスならではの価値を創出しようとしていることがわかります。

 なにもフランスばかりではありません。アメリカまた、ロンドン万博を参考にしながらも、ニューヨーク万博に独自の価値を創出しようとしている様子が見受けられます。

■1853年のニューヨーク万博

 実は、アメリカの実業者たちもまた、第1回ロンドン万博に感銘を受けていました。是非ともアメリカでも開催すべきだとし、1853年にニューヨーク万博(1853年7月14日~1854年11月1日)を開催しました。さすが実業家たちだけあってフランスよりも早く、開催を決定し、実行に移していたのです。

 水晶宮の印象がよほど強かったのでしょう、ニューヨーク万博会場の建物は、水晶宮を模倣して、鉄とガラスで作られました。

 ニューヨークのブライアント公園に設営された建物のスケッチ画を見ると、水晶宮を模倣したとはいいながら、建物の外観は全く異なっています。

こちら →
(* https://www.ndl.go.jp/exposition/data/R/056r.html、図をクリックすると、拡大します)

 この建物は、カーステンセン(G. J. B. Carstensen)がデザインを考案し、ニューヨークの建築家であるギルデマイスター(C. Gildemeister)が設計しました。カーステンセンは、コペンハーゲンにある人魚像で有名なチボリ公園のデザイナーです。彼は、「階級に関係なく、皆が楽しめる場所を」と願って、国王から土地を借り受け、チボリ公園を造ったそうです。

 確かに、見比べてみると、ニューヨーク万博の会場は、水晶宮というよりも、どちらかといえば、このチボリ公園の方に似ているような気がします。チボリ公園の写真がありますので、ご紹介しましょう。

こちら →
(* https://commons.wikimedia.org/wiki/File:TivoliGlassHall.jpg、図をクリックすると、拡大します)

 この建物には親しみやすく、まるで絵本の世界のような牧歌的な雰囲気があります。カーステンセンをデザイナーに選んだことから、アメリカの実業家たちがニューヨーク万博の会場を、誰もが参加でき、楽しめる空間にしたいと考えていたことがわかります。

 興味深いことに、この建物はデザインこそ牧歌的ですが、資材は第1回ロンドン万博の水晶宮を模倣し、鉄とガラスで建造されています。アメリカの実業家たちが水晶宮から模倣したものはデザインではなく、建築資材であり、その工法だったのです。彼らは水晶宮に次世代の技術を見、工法を見、未来に向けた技術の可能性を見出だしていたのです。

 まさに、水晶宮は次世代技術の塊でした。

 実際、イギリスはこの水晶宮によって、圧倒的な技術力を世界に見せつけることができました。そして、技術の力によって、夢をかなえられることを来場者に強く印象づけたのです。

 水晶宮を会場とした第1回ロンドン万博は、技術の時代の幕開けを象徴していましたが、入場者数で比較しても、第1回ロンドン万博が初期の他の万博を圧倒していました。

 たとえば、1853年にニューヨークで開催された万博の入場者数は115万人でした。そして、1855年のパリ万博は516万2000人です。いずれも1851年ロンドン万博の入場者数を超えることはできませんでした。

 それほどロンドン万博の印象は強烈で、人々の参加意欲を強く喚起する魅力があったことがわかります。

■産業化の進行と万国博覧会

 ナポレオン三世が、このロンドン万博の成功に嫉妬に近い感情を抱いたとしても不思議はありません。もちろん、先を越されたという思いも強かったでしょう。そもそも万国博覧会委を最初に構想していたのはフランスでした。

 1789年以来、11回も国内で産業博覧会を開催した経験もあります。そのような経験を踏まえ、産業博覧会の国際化が提案されてこともありました。ところが、先ほどもいいましたように、商業者層から強く反対され、実現しませんでした。

 実は、ルイ=ナポレオンが大統領に就任した直後に開催された1949年の産業博覧会で、フランス産業博覧会の国際化はほぼ実現しそうになっていたのです。

 最後に開催された 1849 年の産業博覧会は、会期が 6 カ月にもおよび、出展総数は4532 点、アルジェリアをはじめとする海外植民地からも参加しており、準万国博といえるほどの規模に達していました。もはや国内向けの産業博覧会とはいえないほどの広がりをみせていたのです。

 実際、1849 年の博覧会開催に際しては、「万国博覧会」とするという提案もなされていました。ところが、保護貿易に固執する商工業者や地方行政府に反対され、この提案は潰されました。フランスの工業化のレベルが、いち早く産業革命を経験していたイギリスには劣っていたからでした。

 市場を奪われるのではないかという恐怖感が、反対の動きに結集され、その結果、フランスが最初の万国博覧会開催国となるチャンスが失われました。

 そもそも、産業博覧会の開催趣旨が、イギリス工業製品の流入を避け、自国の産業振興を図るというものでした。あくまでも保護主義的な目的で開催されていたのです。実際、フランス国内とその植民地を対象にしている限り、不安はありませんが、イギリスなど工業先進国まで含めてしまうと、工業化レベルの低い国内産業は崩壊しかねなかったのです。商業者たちが反対したのも無理はありませんでした。

 一方、イギリスは産業こそ著しく発展していましたが、産業博覧会のような大規模展示会はありませんでした。せいぜい、民間による小規模な発明展などで商品展示が行われていたにすぎなかったのです。

 当時、イギリスは18世紀末から始まった産業革命によって、農業中心の社会体制から工場中心の体制へと移行しつつありました。世界の工場として、イギリスは繁栄を極めていましたが、第1回ロンドン万博を開催することで、イギリスはその圧倒的な工業力を世界に認知させることになりました。

 実際にロンドン万博を開催して初めてわかったことでした。産業化が進み、商品経済が盛んになっていたからこそ、海外市場の拡大に向けた万国博覧会の開催が必要だったのです。
 
 最初に万博の開催を構想していたのはフランスでしたが、それを実行に移したのはイギリスでした。ハードパワーを駆使して各地を占領してきたイギリスが、ロンドン万博を開催することによって、初めて、ソフトパワーの威力を強く感じたのではないかという気がします。
(2024/5/31 香取淳子)

幕末・明治期の万博②:パリ万博を巡る慶喜、小栗忠順、ロッシュ、それぞれの最期

 前回、パリ万博に関わった二人の幕臣について、ご紹介しました。一人は、小栗忠順(1827-1868)で、もう一人は、渋沢栄一(1840-1931)です。パリ万博への参加決定を促したのが小栗忠順だとするなら、万博使節団一行の欧州滞在から帰国までをサポートしたのが渋沢栄一でした。

 二人はいずれも最後の将軍徳川慶喜(1837-1913)と深く関わっていました。外交、軍事の側面で慶喜にかかわっていたのが小栗忠順でした。

 フランスの駐日公使ロッシュの助けを借りて、幕末の日本にとってもっとも重要で、もっとも困難な外交、軍事の課題に次々と取り組んでいきました。その結果、欧米列強に対抗できる軍事体制の基礎を作ったともいえる人物です。

 そこで、今回は、小栗忠順と最後の将軍徳川慶喜との関係について考えてみたいと思います。

 まずは徳川慶喜の来歴からみていくことにしましょう。

■徳川慶喜

 徳川慶喜は天保8年(1837)、水戸藩主・徳川斉昭の七男として生まれました。母は有栖川宮織仁親王の第12王女の吉子女王です。武家の子であり、皇族の子でもあったのです。10歳の時、一橋家の養子となり、一橋徳川家を相続した後、徳川慶喜と名乗るようになりました。

 1866年8月29日に、第14代将軍の家茂が亡くなりました。慶喜は、徳川宗家の継承はすんなり受け入れましたが、将軍職については拒み続けました。

 当時、内政、外政とも幕府は危機に瀕していました。将軍職に就いても、労多くして、実りのないことがわかっていたからでしょうか。慶喜がようやく第15代将軍職に就いたのが、1867年1月10日のことでした。

 すでに30歳になっていましたが、それだけに、慶喜はこれまでの将軍よりもはるかに多様な政治経験を積んでいました。その経歴を見れば、将軍職に就く前に、将軍後見職(1862年)に就き、辞任後は、禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮(1864年)に就いています。幕府ばかりか朝廷の要職にも就いていたのですが、これは先ほど述べた慶喜の出自が影響していたのでしょう。

 さて、禁裏御守衛総督とは、聞きなれない言葉ですが、これは、幕末に朝廷が、幕府の了解のもと、禁裏(京都御所)を警護するため設置した役職です。それだけではありません。徳川慶喜はさらに、大坂湾周辺から侵攻してくる外国勢力に備えるため、摂海防禦指揮という役職にも任命されていました。

 禁裏御守衛総督時代に撮影された慶喜の写真があります。

こちら →
(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Tokugawa_Yoshinobu_with_rifle.jpg、図をクリックすると、拡大します)

 すっきりとした顔つきと、羽織に袴姿がなんとも印象的です。権威を誇示するような仰々しさがなく、シンプルな中にそこはかとない気品が感じられます。

 この写真からは、慶喜の価値意識が滲み出ているように思えます。すなわち、伝統的な権威の意匠を脱ぎ捨て、コンパクトで機動的、行動力に秀でた実践力を重視する価値意識です。

 おそらく、この頃から慶喜は、服装にも合理化、簡素化を図ろうとしていたのでしょう。写真撮影された姿からは、自らそれを実践していたことがわかります。

 列強が次々と押し寄せ、その都度、為政者が判断を迫られる時代になっていました。もはや伝統に裏打ちされた権威が支配力の源泉ではなくなりつつありました。世界情勢を踏まえ、合理的で論理的な判断を下せる能力こそ、為政者に必要とされるようになっていたのです。

 実際、外国勢にどう対応するかを巡って、国内で対立が激化していました。当時、押し寄せてくる課題に適切、的確に対処する能力がなければ、国が沈没しかねない状況に陥っていたのです。

 慶喜が禁裏御守衛総督に就任したのは、1864(元治元年)3月25日です。朝廷から任命され、役料は幕府から受け取っていました(※ Wikipedia)。

 変則的な職位でしたが、配下に京都守護職や京都所司代を従えた慶喜は、やがて在京幕府勢力の指導的役割を果たす存在になっていきました。

 初代駐日フランス公使ベルクールの後任として、ロッシュ(Léon Roches, 1809 – 1900)が来日してきたのは、ちょうどその頃、1864年(元治元年)4月27日のことでした。

 1865年頃に撮影された写真があります。

こちら →
(※ Wikipedia、図をクリックすると、拡大します)

 56歳頃の礼服姿のロッシュです。やや威圧感があり、生真面目そうに見えます。アラビア語に堪能で、アフリカ諸国で総領事を務め、近代化改革のための助言を行ってきたといわれています(※ Wikipedia)。

 そのロッシュがナポレオン3世によって1863年10月23日、駐日公使に任命されました。アラビア語は堪能でしたが、日本語には疎かったようで、初代ベルクールの通訳であったカションを公使館の通訳として雇用しています。

 まずは初代のベルクールからみていくことにしましょう。

■初代駐日フランス公使ベルクール

 ベルクール(Gustave Duchesne, Prince de Bellecourt, 1817 – 1881)は、初代駐日フランス公使として、1859年から1864年まで在職しました。1858年に制定された日仏修好通商条約に基づき、日本に派遣されました。

 当初、ベルクールは全般に、高圧的な態度を見せていました。西洋諸国が中国に対し、武力介入するのを見てきたせいか、日本に対しても武力行使を否定しませんでした。

 たとえば、1863年7月20日に発生したフランス海軍による下関砲台攻撃を是としていましたし、同年8月の英国海軍による鹿児島砲撃も支持していました。武力行使を当然視していたのです。

 ところが、そのような好戦的な姿勢はやがて、フランス本国政府から批判されるようになりました。というのも、当時フランスは、メキシコ出兵(1861年12月8日‐1867年6月21日)で戦力を使っており、日本との摩擦はできるだけ避けたかったからです。

 ベルクールは、フランス政府の意向を受けて、生麦事件の交渉以降、次第に親幕府的な態度をとるようになりました

 たとえば、1863年秋、幕府が横浜の鎖港を言い出したとき、各国の公使はこれを拒否しました。ところが、ベルクールだけは理解を示し、幕府による横浜鎖港談判の使節団派遣を支援しています。

 そのせいか、1864年(元治元年)にベルクールが任務を解かれ、代わりにレオン・ロッシュが着任することに決まったとき、老中はフランス政府にド・ベルクールの留任を嘆願するほどだったといいます(※ Wikipedia)。

 ベルクールが親幕府的な立場を取っていたので、後任のロッシュも引き続き、幕府とは親密な関係を築いていきます。

■後任のレオン・ロッシュ

 ロッシュは日本語に疎かったので、元箱館の宣教師で、ベルクールの通訳を務めていたメルメ・カション(Eugène-Emmanuel Mermet-Cachon, 1828-1889)を、公使館付きの通訳として雇用しました。

 ところが、1866年(慶応2年)末にカションが帰国し、フランス公使館に通訳はいなくなりました。代わりに、塩田三郎らの幕臣が通訳を務めることになったのですが、これが、ロッシュの情報収集に偏りをもたらしていた可能性は否定できません。

 フランス人通訳を介して情報を入手するのと、幕臣の通訳を介して情報を入手するのとでは受け取れる情報内容が大幅に異なってきます。幕府に都合の悪い情報は、幕臣は伝えないでしょうから、フランス側はもっぱら幕府側の情報に基づき、情勢分析をせざるをえなくなります。

 実は、カションは再び、日本に戻る予定で帰国していました。ところが、徳川昭武使節団一行の世話係として、そのままフランスに留まることになったのです(※ Wikipedia)。

 以後、フランス人通訳を雇用することができないまま、ロッシュの通訳はもっぱら幕臣が務めました。通訳を幕臣に依存している限り、反幕府勢力に関する情報を収集することは困難です。当時の混乱した社会状況をフランス公使が的確に把握できなかった可能性があるのです。

 そのような偏った情報環境の下、初代のベルクールの影響もあって、ロッシュは幕府よりの姿勢を強めていきました。

■ロッシュの提案

 1864年(元治元年)12月8日、ロッシュは幕府から、製鉄所と造船所の建設斡旋を依頼されています。以前からこの件を担当していた小栗忠順が、ロッシュに依頼したのですが、これを契機に、ロッシュはさらに幕府寄りの立場を取るようになっていきました。

 その結果、幕府からさまざまな相談を受けるようにもなりました。ロッシュと幕府との間で成立した政索を整理すると次のようになります。

 ロッシュが提案し、幕府が承認した主な政策は以下の通りです(※ Wikipedia)。

① 横須賀製鉄所建設:1865年1月24日約定書提出、10月13日工事開始。
② 横浜仏語伝習所設立:1865年4月1日開校。
③ パリ万国博覧会への参加推薦:1865年8月15日に幕府承諾。
④ 経済使節団を来日させ、600万ドルの対日借款・武器契約の売り込み:1866年
⑤ 軍事顧問団の招聘:1867年1月13日より訓練開始。

 以上がロッシュの提案内容です。いずれも勘定奉行であった小栗忠順とロッシュが綿密に検討した上で作成し、幕府から承認を得たものです。

 5件のうち、①、②、③、⑤は実現しています。

 ④については、一旦はフランス政府との間で成約していました。ところが、1866年にフランスに帰国したカションがパリの新聞に、「日本は一種の連邦国家であり、幕 府は全権を有していない」という論説を寄稿したのが原因で、フランス政府が対日借款の取り消しを要求してきたのです。

 実際、フランス人が幕藩体制をみれば、連邦国家に見えるでしょう。その認識は間違っていないのですが、駐日公使館の通訳カションが、「幕府が全権を有していない」と書いたことがフランス政府の不安を駆り立て、契約の破棄に至ったことは明らかです。

 フランス公使館が雇用していた通訳だけに、カションの寄稿内容はフランス政府を刺激しました。ようやく成約にこぎつけた600万ドルの対日借款がたちまち取り消され、小栗忠順とロッシュが積み重ねた努力が水泡に帰してしまったのです。

 そればかりではありません。ロッシュもまた、幕府に極端な肩入れをしているとみなされました。フランス政府の意向を無視し、個人的な外交をしていると非難され、終には、フランス外務省から帰国命令が出されてしまったのです。

 さて、ロッシュの提案はいずれも、勘定奉行の小栗忠順(1827-1868)が長年、考え抜き、準備してきたものでした。ロッシュの着任を契機にブラッシュアップされ、幕府の政権基盤を強化する目的で策定されています。

 一連の政策を巡るフランスとの交渉をロッシュとともに進めていたのが、小栗忠順でした。

■小栗忠順

 勘定奉行であった小栗忠順は、先ほどご紹介したロッシュの提案のすべてに関わっています。

 1863年、まだ第14代将軍家茂の時代に、製鉄所建設案を幕府に提出しました。この時、幕閣からは反発されましたが、家茂が承認し、江戸幕府が製鉄所建設に動きました。まだロッシュが赴任する以前のことです。

 製鉄所の建設を開始したのは1865年ですが、実は、それ以前に小栗が下準備をしていたのです。建設予定地の手配、鉄鉱石の検分、採掘施設の建設など、一連の作業は、小栗が済ませていました。

 1865年4月1日には横浜仏語伝習所を開校する一方、パリ万国博覧会への参加を幕府に推薦し、1865年8月15日には承諾を得ています。

 さらに、1866年には経済使節団を来日させ、600万ドルの対日借款で、武器契約の売り込みを行っています。この件は、フランス政府との間で一旦は成約していました。ところが、先ほどご説明したように、カションのせいで対日借款は取り消しになってしまいました。

 最後に、フランスの軍事顧問団を招聘し、実際に1867年1月13日から訓練を開始しています。

 こうしてみてくると、小栗が進めてきた一連の事業は、外交あるいは軍事に関連するものだということがわかります。日本が開国した暁には、必要になるだろうと思われる事業をピックアップし、それぞれを着実に開設あるいは開業できるよう手配していたのです。

 先見の明があったからだけではありません。ロッシュとともに、フランス政府を相手に交渉を進めていったプロセスを考えれば、戦略と情報力、そして、胆力と行動力が彼に備わっていたからこそ、可能だったことがわかります。

 将軍家茂の時代に着手し、慶喜の時代になっても引き続き、幕末の外交、軍事にかかわる政策を牽引していたのです。日本を欧米列強に負けない国に変貌させるためでした。

 俊才だったからこそ、列強の脅威を強く感じていのでしょうし、そのための対策の必要性を感じていたのでしょう。愛国心に支えられ、信念をもって、これらの事業を推し進めてきました。その結果として、幕末の混乱の中、フランスの力を借りながら、近代的な軍事体制の構築に着手できています。

 小栗は、遣米使節団の一員として、1860年に米艦ポーハタン号に乗って渡米し、地球を一周して帰国した経験がありました。日米修好通商条約批准のため、アメリカを訪れたのですが、当地で圧倒的な技術力の差を感じていたのです。

 まずは技術力の差を縮めなければならないと彼が考えたのも当然でした。

 赴任してきたばかりのロッシュに、洋式軍隊の整備をするにはどうすればいいか、横須賀製鉄所の建設を具体的にどう進めればいいのかなど、真剣に相談していました。それは、西欧の技術力の圧倒的な優位に対する恐れからであり、貧弱な国防体制への危機感からでした。

 東善寺の前住職だった村上照賢が描いた小栗忠順の肖像画があります。
 
こちら →
(※ https://1860kenbei-shisetsu.org/history/register/profile-21/、図をクリックすると、拡大します)

 いかにも繊細で、優しそう面持ちが印象的です。幕末の動乱期に小栗が積み上げてきた功績に比べ、あまりにも大人しそうな見かけに驚かされてしまいます。ギャップが大きすぎるのです。

 一見、気弱そうに見える小栗のどこに、果敢な行動力と豪胆なエネルギーが潜んでいたのでしょうか。

 この肖像画からははかり知れない綿密な思考と、それに裏打ちされた大胆な行動力を、小栗は持ち合わせていました。それが、将軍を巻き込み、フランス公使、フランス政府を巻き込み、彼が構想した一連の政索を実現させました。

 一部、失敗に終わった政索があったとはいえ、幕末の動乱期に、フランスの力を活用して日本の軍事力強化を図っただけではなく、パリ万博を通して日本の存在をヨーロッパにアピールすることができたのです。

 一介の勘定奉行が、幕府にとってかけがえのない大きな仕事をしてきたのです。

 一方、徳川慶喜は、将軍職に就くことに躊躇していました。請われても、なかなか引き受けようとしなかった経緯があります。それほど、当時、内政、外政とも幕府は危機を迎えていたのです。

 将軍職に就く以前の職歴を見ると、慶喜は、幕政と朝政、外国勢力に備える防衛をも担当しており、これまでの将軍は経験してこなかったような政治的経験をしていました。それだけに、さまざまなネットワークを通して、幕府の将来が見えていたのでしょう。

 慶喜が将軍職に就いたのは1867年1月10日ですが、いずれ開国せざるをえないという認識を持っていたと思われます。就任すると、列強に対抗できるようにさまざまな制度改革を次々と行いました。

■慶応の改革
 
 慶喜が正式に将軍に就任した慶応2年(1866)以降、改革されたものを「慶応の改革」といいます。

 まず、既存の陸軍総裁、海軍総裁に老中を充てました。翌慶応3年(1867年)の5月には会計総裁、国内事務総裁、外国事務総裁にも老中を割り振り、老中をそれぞれ専任の長官にしました。唯一総裁に任じられていなかった老中首座の板倉勝静に、五局を統括調整する首相役をあてがい、事実上の内閣制度を導入しています(※ Wikipedia)。

 こうしてヨーロッパの行政組織の要素を取り込む一方、諸藩や朝廷の権力を削減し、幕府を頂点とする中央集権国家に向けて、体制を変革させようとしたのです。

 具体的には、人材登用を強化する人事制度改革、新税導入を含めた財政改革、旗本の軍役を廃止(銭納をもって代替)した軍制改革など、幕府を強化する改革を進めました。

 諸外国が迫ってくる中、当時、もっとも重要な課題は、軍事改革でした。

■軍事改革

 まず、幕府中枢に総裁制度を導入して陸軍局を設置し、従来の陸軍組織の上に、老中格の陸軍総裁を置きました。その一方で、築造兵といわれた工兵隊、天領の農民で組織した御料兵の編成なども行い、組織化を進めたのです。

 こうして幕府直轄の軍事組織の一元化が進められ、旧来型組織は解体あるいは縮小されました。余剰人員のうち優秀な者は陸軍に編入され、武芸訓練機関であった講武所も陸軍に編入されて、陸軍所となりました。

 もちろん、組織改革を行っただけではありませんでした。近代化された軍事を学ぶため、フランスに指導を仰ぎました。

 シャルル・シャノワーヌ(Charles Sulpice Jules Chanoine, 1835 – 1915)大尉らフランス軍事顧問団による直接指導が導入され、その訓練を受ける伝習隊が新規に編成されることになりました。

 1866年、日本に出発する前に撮影されたフランス軍事顧問団の写真があります。

こちら →
(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Members_of_French_Military_Mission_to_Japan_in_1867.png、図をクリックすると、拡大します)

 中央で立っているのが団長のシャルル・シャノワーヌ、その左に座っているのがデュ・ブスケ、同右側がジュール・ブリュネです。顧問団一行は1866年11月19日にマルセイユ を出航し、慶応2年12月8日(1867年1月12日)に横浜に到着しました。

 横浜に到着した翌日から、軍事顧問団は、エリート部隊であった伝習隊に対し、砲兵・騎兵・歩兵の三兵の軍事教練を開始しました。ところが、その数日後、兵士たちの基礎体力が不足していること、馬の取り扱い能力が不足していること、などが指摘されています。

 訓練したみた結果、フランス軍人には、相当、てこ入れをしなければならないと思えたのでしょう。

 慶応3年3月末の二日間、シャノワーヌは大坂に赴き、ロッシュとともに将軍徳川慶喜に謁見し、幕府陸軍の抜本的な改革をする必要があると述べています。慶喜は、それについては江戸の陸軍総裁松平乗謨が承り、必要経費は勘定奉行より支給すると回答しています(※ Wikipedia)。

 フランスの軍人からはとても戦力にならないと思えたのかもしれません。提言を受けた慶喜は、具体的なことについては担当の陸軍総裁に任せ、必要経費は払うと回答しています。一応、前向きに対処しているのです。

 さて、フランス軍人から訓練を受けた幕府軍の兵士たちも撮影されていました。

こちら →
(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Tokugawa_Shogunate_Soldiers_Boshin_War_c1867.png、図をクリックすると、拡大します)

 1867年に撮影された写真です。西洋式の軍装に身を包んだ幕府軍の歩兵たちが撮影されているのですが、彼等の緊張した面持ちの中に、幼さが見え隠れしているのが印象的です。
 
 興味深いことに、フランスの軍服を身につけた慶喜の写真も残されています。

こちら →
(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:TokugawaYoshinobu.jpg、図をクリックすると、拡大します)

 この写真は1866年から1867年頃に撮影されたもので、現在、松戸市戸定歴史館に保存されています。慶喜が身を包んだ軍服は、ナポレオン3世から贈られました。フランスの軍事顧問団が来日した際に手渡されたものだといいます。

 こうしてみると、幕府が一方的にフランスからの恩恵を受けているように見えますが、実は、フランスのために日本が尽力したこともありました。

 たとえば、ナポレオン3世が幕府に強く要請し、慶喜が快く受け入れたものがあります。それは、蚕卵紙の輸出でした。井田氏は次のように、慶喜がナポレオン3世の要請に応じたことを記しています。

 「ナポレオン3世の強い要請のもと、幕府・徳川慶喜は1万5千枚の蚕卵紙をおくりとどけることにした」(※ 井田浩三、「伊能図を元にした海外版刊行図」、『地図』56巻1号、2018年、p.40.)

 蚕卵紙というのは、蚕のメスに、寒冷紗、クラフト紙、硫酸紙、糊引紙などの粘着性のある台紙の上で卵を産み付けさせた後、水で余分な糊を洗い落とし、更に塩水や風による自然乾燥によって不純な卵を落として製品化したものです(※ Wikipedia)。

 当時のヨーロッパでは、蚕が原因不明の病に冒され、養蚕が壊滅の危機に瀕していました。先進性を誇るフランスも、日本や中国からの蚕卵の輸入に頼らざるをえない状況でした。ナポレオン3世からのたっての願いを聞き入れ、慶喜は蚕卵紙の輸出の応じたのです。結果として、フランスの危機を救うことになり、わずかとはいえ、互恵関係を築くことができました。

 幕末の一時期、慶喜と小栗、ロッシュは共に、幕府の強化のためにフランスの力を借りて、制度改革を行いました。

 彼等は、その後、どのような運命の展開を迎えたのでしょうか。

■慶喜、小栗忠順、ロッシュの命運

 3人のうち、幕府の強化のためにもっとも力を尽くしたのは小栗忠順でした。

 慶喜が打ち立てた「慶応の改革」のうち、ほとんどが以前から小栗忠順が構想していた政策でした。幕府を守るため、開国すべきという考えに立っていた小栗は、外国の意のままにならないために、なによりもまず、軍事力を近代化が必要だと実感していました。

 当時の日本の軍事力ではとても列強には勝ち目がないことがわかっていたのです。だからこそ、軍艦は欧米から輸入するのではなく、自前で軍艦を建造する必要があると考えていました。1860年に訪れたアメリカで、欧米との技術力の差を小栗は痛いほど感じていたからでした。

 そして、その圧倒的な技術力の差は、実際に建造できる力を身につけないと縮まらないとも考えていました。

 軍艦を製造するには、製鉄所や造船所を建設しなければなりません。さらには、製造技術だけではなく、軍艦を操作する技術、西洋式の軍事訓練など、その周辺作業も学ぶ必要がありました。フランスの軍人や技術者を招聘し、指導を仰いだのはそのためでした。もちろん、フランス人から学ぶためにはフランス語を理解できなければならず、横浜仏語伝習所を設立しています。

 このようにして、小栗は隈なく手を打ち、一定の段階までこぎつけました。

 ところが、1867年11月9日、第15代将軍の慶喜は朝廷に大政奉還をし、幕府の屋台骨が崩れてしまったのです。続いて、1868年1月、鳥羽・伏見の戦いが勃発して、戊辰戦争に至りました。壊滅の道を進んでいくのです。

 当時、小栗は、榎本武揚や水野忠徳らとともに、徹底抗戦を主張していました。具体的な戦略まで提案していたのです。小栗は軍事作戦にも長けていました。この作戦を採れば、勝てる目算があったといいます。

 ところが、慶喜はこの作戦を採用しませんでした。穏便に済ませたかったのです。

 最初に言いましたように、慶喜は武家の子であり、皇族の子でもありました。薩長が構想する朝廷を中心とする中央集権体制に移行するのも悪くないと考えていたのかもしれません。

 家茂が亡くなった後も、慶喜はなかなか将軍職の承継を受け入れませんでした。幕府を中心とした中央集権体制ではなく、朝廷を中心とした中央集権体制に期待していた可能性があります。

 幕府を存続させるための徹底抗戦を主張する小栗の作戦は、慶喜によって却下されました。

■それぞれの最期

 その後、小栗は江戸を去り、高崎市の東善寺で静かな生活を送っていました。ところが、1868年5月27日、追手に引きずり出され、家臣らとともに処刑されてしまいました。家臣3人が先に次々と斬首され、最後に小栗が斬首されました。

 享年40歳でした。不当だと訴えることもなく、ただ、家族の安全を願って、淡々と理不尽な死を受け入れました。小栗忠順は最期まで胆力のある人物でした。

 一方、ロッシュはその後、まもなく公使を罷免され、1868年6月23日に日本を離れ、フランスに帰国しました。以後、外交官を辞めて引退し、ボルドー郊外で余生を過ごし、90歳で亡くなったといいます。

 そして、慶喜は1868年4月11日、謹慎のため水戸に向かい、15日に到着しています。以後、水戸で暮らしていましたが、榎本武揚らが降伏して戊辰戦争が終結したのを期に、1869年9月、謹慎を解かれました。以後、静岡で趣味に没頭する生活を送り、1913年11月22日、76歳で亡くなっています。

 三者三様の最期を思うと、理不尽な思いに駆られざるをえません。

 なぜ、小栗忠順は無残な最期を迎えなければならなかったのでしょうか。

 幕末の動乱期に、外交の力でフランス政府の支援を得て、軍事力を高める基盤を作り、その一方で、パリ万博参加を実現させて、列強に日本の存在を印象づけました。

 幕末日本にとって誰もなしえなかったほどの功績をあげていながら、報われることなく、生を閉じざるをえなかったのでしょうか。(2024/4/30 香取淳子)

幕末・明治期の万博①:パリ万博に関わった二人の幕臣

■ウィーン万博参加についての話し合い

 明治政府として初めて正式に参加したのは、1873年(明治6年)のウィーン万博です。

 1871年(明治4)2月、幕府は、駐日オーストリア・ハンガリー代理公使からウィーン万博への公式参加の要請を受けました。

 この時の政府とオーストラリア関係者の話し合いの記録が残されています。

こちら →
(※ 外務省、『外務省資料に見る日本万国博覧会への道』、平成22年7月5日‐10月29日、p.8.図をクリックすると、拡大します)

 会談は1871年(明治4)2月5日に開催されました。

 オーストリア・ハンガリー代理公使から、「是非出席してほしい。パリ万博には将軍の弟が来られているので、今回も、同程度の身分の方に来ていただければ喜ばしい」と要望されています。

 日本側は、「参加したいが、パリ万博での損失をまだ埋め合わせられていないので、それが整理できれば、参加したい」と応えています。

 驚いたことに、幕府が派遣したパリ万博での負債がまだ残っていたというのです。

 まずは、1867年に開催されたパリ万博について概観しておきましょう。

■尾を引く1867年パリ万博

 パリ万博(1867年4月1日~10月1日)は、幕府が初めて正式に参加した万博です。もっとも幕府が日本全国を代表して参加したわけではなく、江戸幕府、薩摩藩、佐賀藩はそれぞれ独自の扱いで出品しています。

 幕府の権威が落ち、諸藩を統率しきれていないことがわかります。

 日本からの出展品自体は現地で珍しがられ、好評を博しました。それが契機となって、1870年代のヨーロッパにジャポニスムという文化現象を引き起こしたほどです(※ https://www.ndl.go.jp/exposition/s1/1867.html)。

 パリ万博の会場は、パリ有数の大きな公園シャン・ド・マルスで開催されました。入場者数は906万3,000人にも及びました。ナポレオン三世が、第2回ロンドン万博(1862年)に対する挑戦として開催されたといわれており、当時、人々の注目を集めていました(※ https://www.ndl.go.jp/exposition/s1/1867.html)。

 1867年といえば、日本では幕末の動乱期です。万博に参加する余裕などなかったはずです。ところが、江戸幕府はナポレオン三世からの要請に応じて出品し、視察団を派遣しています。

 なぜ、そのような決断をしたのか、不思議です。

 15代将軍徳川慶喜は、弟の昭武を名代として使節団をパリに派遣しました。当時、14歳の弟を選んだのは、ナポレオン3世の皇太子と年齢が近いこと、親族に西欧で学んだ者が必要だという考えからだったそうです。

 水戸藩は、昭武を名代にパリ万博に派遣することに強く反対したそうですが、慶喜は押し切りました。警護役として水戸藩士7名を選出し、会計及び庶務係として渋沢栄一を加えた使節団を派遣しました(※ 島田昌和、『渋沢栄一』、岩波文庫、2011年、pp.18-19.)。

 1867年(慶応3)1月11日、パリ万博への出品業者なども加えると総勢33名が、フランス船アルフェ―号で横浜を出港しました(※ 関根仁、「渋沢栄一が見たパリ万博博覧会と西洋近代経済社会」、『資本市場』N0.427. 2021年3月、p.45.)

 幕府にとってはまさに危急存亡の時でした。それなのになぜ、将軍慶喜は、パリ万博への参加を決定したのでしょうか。

■なぜ幕府はパリ万博に参加したのか

 岩下方夫氏は、幕府が参加を決意した理由を次のように記しています。

 「幕威の滑落した徳川幕閣が、慶応三年のパリ万博参加を決意するに至った理由として(一)「参加すべき時期に来ていた」というが、それは表向きで深意はフランスと親密な関係を強め軍事援助を受けたいこと。(二)滞仏中の柴田日向守からのパリ情報で、慶応一~二年に薩摩の新納刑部や五代友厚らがわが物顔にパリを横行し、薩摩が万博に参加するらしいこと。(三)国禁を犯して欧州に渡っている薩摩に対し、欧州での幕権を案じこのさいパリで幕威を発揚せねばならぬと決意したこと。という説が挙げられている」
(※ 『逓信文化』4号、昭和45年)

① 幕府とフランスとの関係を強化し、軍事的支援を得ること
② 薩摩藩がパリ万博に参加すること
③ 幕府の権威を欧州で示威すること

 岩下氏は以上のような理由があったのではないかと推察しています。

 以上のうち、②と③は関連しています。そこで、まず、パリ万博における幕府と薩摩藩との関係について、簡単に見ておきましょう。

 当時、海外渡航は禁止されていたにもかかわらず、薩摩藩は、密航という体で、藩士たちをイギリスに留学させていました。その中の、新納刑部(1832-1889)と五代友厚(1832-1889)らが、イギリスでの留学生活を抜け出し、パリにやって来ていました。パリ万博が開催されることを聞きつけてやって来ていたのでしょう。薩摩藩から出品すると豪語しており、それが幕府の耳に入ったのです。

 幕府が焦りを覚えたとしても無理はありません。

 薩摩藩が出品するというのに、幕府が出品しなければ、欧州の人々にとって、幕府の存在がないことになってしまいます。幕府の権威を示すために、是非とも出品する必要があると判断したのではないかという推察です。

 実際は、フランス人が絡んだもう少し複雑な背景があったようです。

 たとえば、薩摩使節団は、幕府のパリ万博使節団よりも2か月も早くパリに着いていました。ところが、パリに着くと、万博のことは一切、モンブランに任せっきりにしました。薩摩藩が関わらないようにする、一種の戦略だったのでしょう。

 モンブラン(Charles Ferdinand Camille Ghislain Descantons de Montblanc, 1833-1894)は、日本に強い関心を抱くフランスの貴族でした。幕府に接近したことがありましたが、相手にされなかったので、薩摩藩に近づき、フランスでの雑務一切を引き受けていたのです。

 幕府の使節団が2か月遅れてパリに到着すると、「琉球王国パリ万博委員長」という肩書を名乗って、モンブランが幕府使節団を訪れています。この時、幕府使節団が驚いたのは当然ですが、その二日後に開催された日本関係の出品打合会でさらに驚かされました。

 仏外務省係官、田辺太一(幕府側)、岩下方平(薩摩側)、モンブラン等が出席した会合で、薩摩藩は、丸に十の字の国旗を掲げ、琉球国王名で出品すると主張するのです。

 激怒した幕府側と何度もやり取りをした結果、なんとか日本として統一して出品することに合意しました。幕府も薩摩も日本と大書し、日の丸を掲げて出品すると決まりましたが、薩摩藩は藩の独自性を主張して譲りません。仕方なく、その下に、「関東太守」「薩摩太守」と併記することになりました。佐賀藩も出品していたので、佐賀藩の出品物には「佐賀太守」とし、結局、三種のタイトルが並ぶことになりました。
(※ https://www.satsuma1867.org/exposition-universelle-de-paris-1867)

 江戸幕府は、薩摩藩、佐賀藩と同等の格付けでパリ万博に出品することになったのです。幕府初めての万博参加といいながら、幕府はもはや日本を代表する政体とはいえませんでした。

 それでは、最初に戻って、「①幕府とフランスとの関係を強化し、軍事的支援を得ること」という推察について、見ていくことにしましょう。

 それには、幕府がパリ万博参加を決意するに至った過程を見ておく必要があるでしょう。

■幕府のパリ万博参加に至る経緯

 1865年3月4日、パリ万博組織委員会が発足すると、フランス政府は諸外国に正式に参加要請を行いました。日本には、1865年3月7日付文書を、駐日公使ロッシュ(Léon Roches, 1809-1901)宛てに発信しています。ロッシュは参加要請を幕府に伝えました。ところが、幕府はすぐには応じませんでした。

 それも無理はありません。当時、幕府は次々と押し寄せてくる外国船の対応に追われる一方、国内では不穏な動きが勃発していました。まさに内憂外患、万博どころではなかったのです。

 幕府がようやく参加を表明したのは、要請されてから半年も経った1865年9月のことでした。

 この決定の背後には、ひょっとしたら、勘定奉行であった小栗上野介(以下、小栗忠順、1827-1868)の進言が関与していたのかもしれません。小栗は1862年(文久2)に勘定奉行に就任し、幕府の財政立て直しに取り組んでいました。遣米使節団の一員として渡米した小栗はその功績で、帰国後、外国奉行になり、その後、勘定奉行に就いていたのです。

 1860年に撮影された写真がありますので、ご紹介しましょう。

こちら →
(※ Wikipedia, 向かって右が小栗忠順。図をクリックすると、拡大します)

 三人の中ではもっとも気弱そうに見えますが、剛腕で実行力のある幕臣でした。

 外国奉行を経験し、勘定奉行になっていた小栗は、幕府が何を優先して取り組まなければならないか、よくわかっていました。まずは国防です。周囲を海で囲まれた日本の場合、海防を強化しなければなりませんでした。

 当時、幕府は海軍力を強化するため、44艘の艦船を諸外国から購入しており、その総額は333万6千ドルにも上っていました(※ Wikipedia)。

 財政を担当する小栗は、艦船を国産化できなければ、今後も巨額のコストがかかり続けると考えたに違いありません。もちろん、国産化できなければ、外国勢に従属し続けなければならないこともわかっていたでしょう。

 ただ、艦船を国産化するには、造船のための製鉄所、造船所などが必要でした。

 ところが、江戸幕府にはその技術もノウハウもなく、欧米に頼るほかありませんでした。調査をすると、幸い、鉄鉱石は十分にあることがわかりました。まずは製鉄所、そして、造船所を建設していくことが必要でした。

 小栗は当初、造船をアメリカに依頼しようと思っていました。1860年に訪米使節団の一員として訪米した際、アメリカ人とは縁ができていたからです。ところが、当時、アメリカは南北戦争(1861-1865)の最中で、とてもそのような余裕はなく、対応してくれませんでした。

 頭を悩ませていた時、ロッシュがベルクールの後任としてフランスから日本に赴任してきました。1864年のことです。小栗は待っていましたとばかりに、ロッシュの日本語通訳メルメ・カション(Eugène-Emmanuel Mermet-Cachon, 1828-1889)と親しかった栗本鋤雲を通じて、ロッシュと知り合いになり、友好な関係を築くことができました。そして、彼とともに製鉄所建設に関する具体的な提案を練り上げたのです(※ Wikipedia)。

 こうしてみてくると、確かに、幕府としては、「フランスとの関係を強化し、軍事的支援を得る」という意向が強かったように思えます。実際、製鉄所建設の提案はロッシュの助力がなければ、できませんでした。

 幕府がパリ万博への参加を決定した理由の一つに、フランスからの技術協力を得たいという意向があったことは確かでしょう。

■海防に関する幕府とフランスとの関係

 小栗は、製鉄所建設案を幕府に提出しました。幕閣からは反発されましたが、14代将軍徳川家茂の承諾を得て、準備を進め、1865年(慶応元年)11月15日には横須賀製鉄所の建設を開始しています。

 思い返してみると、フランスがロッシュを介してパリ万博への参加を度々、要請してきたのは、1865年3月から9月にかけてでした。その間に、幕府はフランスとの関係を強めています。パリ万博への参加と引き換えに、フランスから技術協力を引き出していた可能性が考えられます。

 実際、この数か月間で、フランスと江戸幕府との間が急速に親密になっていました。

 たとえば、1865年4月1日、横浜仏語伝習所が設立されました。幕府からは栗本鋤雲と小栗忠順が設立に関わり、フランス側はロッシュが責任者として関与し、事実上の校長はメルメ・カションでした(※ Wikipedia)。

 横浜仏語伝習所では、フランス語以外に、地理、歴史、数学、幾何学、英語、馬術などが教科として用意されていました。伝習生は当初、旗本が対象とされていましたが、後に藩士にも門戸が開かれました。幅広い人材育成を企図したのでしょう。フランス語を理解できる士官候補生を養成するための学校でした。

 7月になると、幕府は、外国奉行の柴田剛中(1823-1877)をヨーロッパに派遣し、フランス外務省との間で横須賀製鉄所の事業計画について最終的な打ち合わせを行っています。さらに、軍政改革のためにフランス軍事顧問団の派遣についての打診も行っていました。

 時系列でみると、それら一連の準備が整った後、幕府はパリ万博への参加を表明しており、その後、横須賀製鉄所の建設が始まっています。

 こうしてみてくると、幕府のパリ万博への参加表明は、江戸幕府の軍政改革と密接にかかわっているといえます。

 家茂の死後、15代将軍となった慶喜に、この製鉄所建設計画は引き継がれました。建設費用は4年間で総額240万ドルでしたが、フランスからの援助を受けることができました。こうして、横須賀製鉄所や造船所、修船所など関連施設を建設することができたのです(※ Wikipedia)。

 幕府の陸軍は、1867年(慶応2)1月、フランスから派遣された軍事顧問団から軍事訓練を受けています。フランスからは、90の大砲や10000丁の銃をはじめ、小銃や軍服などの兵器や装備品を大量に購入しています。幕府がフランス仕様で軍政改革を行おうとしていたことがわかります。

 小栗が製鉄所を建設するためにロッシュに近づき、フランスからの援助を引き出していました。一方、ナポレオン三世は幕府にパリ万博への参加を強く要請し、日本の文化産品を彩りとして添え、パリ万博の価値を高めようとしていました。彼が、万博を通してフランスの文化産業を改革しようとしていたからではないかと思います。

 パリ万博への参加は、江戸幕府にとってもフランスにとってもwin-winの関係を築くことだったといえるでしょう。

 それでは、日本が出品した物産はパリ万博でどのように受け止められたのでしょうか。

■日本からの出品

 前にも述べましたが、ナポレオン三世は1862年の第2回ロンドン万博に対する挑戦として1867年パリ万博を開催したといわれていました。

 というのも、第2回ロンドン万博では、産業機械製品ばかりでなく、1855年の第1回パリ万博での成功をヒントに彫刻や絵画といった美術品を数多く展示されていたからでした。イギリスならではの植民地からの製品も数多く展示されており、展示品の幅も広く、多様性に富んでいました。

 ナポレオン三世が日本からの出品を強く望んだのは、異質の文化圏の物品に期待していたからでした。

 当時、それまでランスが得意としていた芸術性、多様性、奢侈性に富んだ製品をイギリスが生産するようになっていました。芸術性を優位におくフランスの地位が脅かされつつあったという状況があったのです。

 フランスにとって、1867年パリ万博は、芸術的価値を重視した産業振興のためでもあったといえるでしょう。

 日本からの出品物は、期待を裏切ることなく、好評を博しました。とくに「和紙、絹製品、漆器」が国際審査委員から高く評価され、グランプリを授与しています。

 1867年7月1日に行われたパリ万博の授賞式では、グランプリが64件、金メダル883件、銀メダル3653件、銅メダル6565件、佳作5801件が発表されています(※ 寺本敬子、「1867年パリ万国博覧会における「日本」」、『日仏歴史学会会報』28号、2013年6月、p.11.)。

 グランプリが授与されることがいかに名誉なことか、上記を見れば、一目瞭然です。グランプリを受賞したのは1万7000件のうちわずか64件でした。その64件のうちに日本が出品した品物が入っていたのです。

 当時はまだ、日本という国がアジアのどこにあるのかもわからないような時代でした。ところが、この授賞式以後、アジアの中に埋没している日本ではなく、伝統と独創性を併せ持った品物を制作できる国として認識されるようになりました。

 日本からの出品物は明らかに、フランスをはじめヨーロッパの人々を刺激しました。パリ万博の審査員を務めたシェノーは、1869年に講演で、次のように日本を絶賛していたといいます。

 「工芸品の製造において支配的なことは、何よりも創意であり、それらの用途の原則を綿密に尊重しながら、物の形を絶えず変化させていく、無限の想像力である。ます、物が満たすべき目的に沿い、想像力をそれらの物が果たす役割、用途に注意深く適合させていく。それゆえ我々は、江戸から到来した芸術作品を前にすると、いつも真の美的快楽を覚え、完璧な作品がもたらす完全な満足を味わうのである」(※ 寺本敬子、前掲、p.14.)

 このように日本からの出品物は大好評を博しました。ところが、冒頭でご説明したように、明治政府は1867年のパリ万博で負債が出たことを理由に、ウィーン万博への参加を躊躇していました。

■パリ万博での負債

 なぜ、パリ万博に参加した幕府に、大きな負債が出たのでしょうか。

 寺本敬子氏は、フランスの文献を引用し、当時の状況を次のように記しています。

「日本は芸術的には高い評価を得たが、一方で売り立てにかけられた日本の出品物の多くは売れ残り、それが商業的成功に直結したわけではないということである。すべての品物が売り切れたのは1870年代に入ってからであった」(※ 寺本敬子、「1867年パリ万国博覧会における「日本」」、『日仏歴史学会会報』28号、2013年6月、p.12.)

 確かに、そのような状況は考えられます。出品した品物を現地で売りさばくことができなかったことが、負債が残った原因の一つだったのかもしれません。

 実際、1867年のパリ万博自体は盛況を博しており、収支は黒字でした。

 たとえば、「1867年のパリ万博は興行的に成功し、収支決算は大幅な黒字」だったとされていました(※ 福田州平、「第8講 万博を読み解く(2)『GLOCOL』2013年12月、94.)。

 また、「娯楽施設を設置した明るいお祭り雰囲気の万博は、その後の万博のモデルとなった。出品者数は6万、入場者数は906万人と1851年の第1回ロンドン万博を凌ぐものとなり、成功を収めた」(※ https://www.ndl.go.jp/exposition/s1/1867.html)とも記されています。

 きわめつけは、高木勇夫氏が集計した「万国博の収支決算」です。ドルベースの収支は62万6000ドルの黒字でした(※ 「万博都市パリの光と影」、『名古屋工業大学紀要』第49巻、1997年、p.75.)。

 パリ万博は、クリスタル・パレスで大きな注目を集めた第1回ロンドン万博に次ぐ高収益を上げていたのです。

 しかも、日本が出品した品物は大好評を得ていました。したがって、負債を抱え込んだのは、そのような高評価を得た物品を販売結果につなげることができなかったからだということになります。果たして、どうだったのでしょうか。

 使節団には経理に明るい渋沢栄一が加わっていました。

 渋沢は期待どおり、庶務及び会計について手腕を発揮し、経費削減につとめました。博覧会終了後は、出品物の売却等も行いましたが、それでも幕府には大きな負債が残っていたというのです。

 資本主義体制に不案内な当時の日本人にとって、展示品の価格設定や取引業務が難しく、適切に処理できなかった可能性も考えられます。金銭面に関していえば、どうやら、パリ万博への参加にそれほどメリットはなかったといえそうです。

 さて、幕府の一行はパリ万博を視察した後、1867年8月から12月にかけて、スイス、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリス各地をそれぞれ一、二週間の行程で歴訪しています。その頃にはすでに滞在経費が底をつき始めていました(※ 島田昌和、『渋沢栄一』岩波新書、2011年7月、p.27.)。

 会計を担当する渋沢がどれほどヤキモキしていたか、容易に想像できます。

■渋沢栄一の当意即妙な対応

 渋沢は、幕府の軍艦の建造を依頼したオランダ商事会社から借入れをしました。そうして、なんとか滞在費の工面をしたのです(※ 島田昌和、前掲)。

 異国の地で、渋沢は当意即妙な対応をし、急場を切り抜けました。

 そういえば、渋沢栄一を随行員に加えたのは、徳川慶喜の意向でした。武士を中心にした随行員の編成では、現地でのトラブルに対応しきれないと判断していたのかもしれません。何事にも臨機応変に対応できる渋沢を、会計と庶務担当として起用していました。

 慶喜のそうした判断が功を奏したことになります。

 渋沢は、藍玉の製造販売と養蚕を兼業する農家の生まれでした、14歳頃から一人で藍葉の仕入れに出かけ、品定めをしては買い付けをしていました(※ 澁澤秀雄、前掲、pp-28-32.)。

 大人を相手にさまざまな現場を踏み、修羅場をくぐってきていたのです。

 その結果、とっさに現場の空気を読み、機転の利いた対応ができるようになっていたのでしょう。有利に交渉を進められる商才と、信念を曲げることなく対峙できる豪胆さに加え、落としどころを探りながら対処できる柔軟性もありました。

 それらの要素を併せ持った渋沢だからこそ、外国で窮地に陥っても的確に対応できたのでしょう。

 さて、渋沢が頼ったオランダ商事会社(De Nederlandsche Handel-Maatschappy)は、倒産したオランダ東インド会社に代わる会社として1824年に設立されています。民間株式会社でありながら国策会社でもありました(※ Wikipedia)。

 実際、江戸幕府は、このオランダ商事会社とは取引実績がありました。だからこそ、幕府から派遣された渋沢の依頼を聞き入れてくれたのでしょう。

 オランダ商事会社に依頼していたのは、軍艦「開陽丸」の製造でした。支払い手続も完了し、1867年(慶応3年)5月20日には、開陽丸の引渡し式が終わっていました。枯渇した滞在資金の借入れを依頼しやすい時期だったともいえます。

 現地で滞在資金の借入れをし、渋沢は取り敢えず、難を切り抜けました。経済に明るく、さまざまな情報に通じていた渋沢でなければ、外国でこのような対応はできなかったに違いありません。

 それでも、資金に余裕ができたわけではありません。

 滞在費用を節約するため、渋沢は万博視察後の目的を徳川昭武の留学に絞り込みました。随行員を次々と帰国させ、終には、昭武と渋沢、留学生、水戸藩から派遣された身辺警護の2人に縮小し、20余名の使節団をわずか5名にまで絞り込んだのです(※ 島田昌和、前掲、pp.27-28.)。

■滞在資金

 滞在資金といえば、興味深いエピソードがあります。

 パリ万博の出品責任者だったのが、勘定奉行の小栗忠順でした。小栗が、パリに出発する昭武の元へ挨拶に出向くと、頃合いを見計らって、渋沢は、その小栗の元を訪れました。昭武がパリに滞在する5年間の経費が滞ることのないよう駄目押しをするためでした。

 パリ万博を視察した後、昭武はイギリスはじめヨーロッパ各国を歴訪し、その後、パリに長期留学する予定でした。これは慶喜の意向でした。渋沢は、長期に亘る滞在経費の送金を心配して、小栗に面会を求めたのでした。小栗は即座に、「自分が勘定奉行の間は間違いなく金を送るから心配するな」と言ったそうです。

 小栗は続けて、「しかし、幕府の運命についての覚悟だけはしっかり決めておくことが必要であろう」と付け加えたといいます(※ http://tozenzi.cside.com/sibusawa-oguri.html)。

 このエピソードからは、小栗が信頼に足る勘定奉行だということ、幕府がいつ崩壊しても不思議ではない状態だと彼が把握していたことがわかります。

 実際、渋沢は1868年の初め、現地の新聞で幕府が崩壊したことを知りました。1867年11月9日に徳川慶喜は朝廷に大政奉還をしていたのです。そして、1868年1月には鳥羽・伏見の戦いが起こり、戊辰戦争が始まっていました。

 幕府が消滅してしまったのですから、留学生への送金も途絶えます。心配した渋沢は、昭武の滞在費の中から工面して旅費を作り、送金の途絶えた英仏の留学生たちを帰国させています。

 やがて、昭武らにも新政府から正式の帰国命令書も届き、一行は出発から2年弱で、帰国の途に就きました。昭武を5年間程度、パリに留学させるというプランは消えましたが、一行は、現地で、西欧の最新情報や技術、社会制度などに触れ、学んだ事柄を心に刻み、日本に持ち帰りました。

■パリ万博に関わった二人の幕臣

 危急存亡の折、なぜ、幕府がわざわざパリ万博への参加を決意したのか、不思議でなりませんでした。当時の幕府の状況を見ていると、勘定奉行の小栗忠順の影がチラついてきます。

 当時、幕府を巡って何が起こっていたのか、次々と押し寄せてくる外国勢に対し、幕府に何ができたのか、何を優先して対処していかなければならなかったのか、といったようなことを考えていくと、最終的に国防に行きつきます。

 周囲を海で囲まれた日本にとって、国防とは海防を指します。

 艦船の装備、港湾の整備、そして、艦船を操作できる下士官の育成などの強化を幕府は迫られていました。

 それに取り掛かっていたのが、勘定奉行の小栗忠順でした。彼は1860年に訪米したことがあり、欧米列強の圧倒的な技術力を承知していました。独立国として列強と対峙していくには、艦船を持たなければならず、それも自前で生産できるようにならなければいけないと考えていました。

 駐日大使として赴任してきたロッシュに近づき、終には、フランスの資本と技術で製鉄所の建設にこぎつけます。彼にとって、パリ万博への参加はフランスとwin-winの関係と築くための必須条件でした。

 1864年12月8日、ロッシュは幕府から製鉄所と造船所の建設斡旋を依頼されています。横須賀製鉄所の建設については、1865年1月24日に約定書を提出し、10月13日に工事を開始しました。

 横須賀製鉄所の外観を捉えた写真を見つけましたので、ご紹介しましょう。

こちら →
(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Yokosukazousen.jpg 図をクリックすると、拡大します)

 ロッシがフランス人技師レオンス・ヴェルニー(Léonce Verny)を招いて着工し、横須賀製鉄所として開設されたものです。

 製鉄所、造船所の建設にこぎつけたのは、勘定奉行であった小栗忠順の功績でした。

 一方、一橋徳川家の慶喜に見込まれて、昭武の渡仏に随行することになった渋沢栄一は、農家出身でありながら、幕臣になった人物です。使節団では、会計と庶務を担当していました。

 フランス人銀行家のフルーリ・エラール(Paul Flury-Hérard, 1836 – 1913)もまた、昭武に随行していました。フランスの経済状況をよく知る人物として使節団に加えられていたのです。

 滞在資金の枯渇について懸念していた渋沢は、資金面についてエラールに相談していたのでしょう。パリに着いて早々、エラールは銀行家らしく、渋沢が預かっていた滞在資金でフランスの公債と鉄道会社の公債を買うよう勧めています。

 アドバイスに従った渋沢は、約二万両の金で公債を買いました。それが、帰国時に値上がりしていたのです。思いもしなかった利益を得て、渋沢は驚いています。実際に金融取引をすることで、資本主義経済の一端を経験したのです(※ 澁澤秀雄、『新装版 澁澤榮一』時事通信社、2019年、p.151.)。

 当時、パリには数多くの銀行や会社がありましたが、それらは人々のお金を集めて大規模な営利事業を営んでいました。人々が出資したお金が経営者の運営によって、産業を興しながら利益をあげ、それが出資者に戻る、といった経済の仕組みが、結果として、国に富みをもたらすことを渋沢は知ったのです。

 1867年のパリ万博に関わった二人の幕臣は、それぞれ、国防、産業振興という国を支える局面で功績をあげました。近代国家としてスタートするための礎となったといえるでしょう。(2024/3/31 香取淳子)

第55回練馬区民美術展に出品しました。

■第55回練馬区民美術展の開催

 第55回練馬区民美術展が開催されました。期間は2024年2月3日(土)から2月12日(月)まで、時間は午前10時から午後6時(最終日は午後2時終了)でした。美術館脇の公園には、第55回美術展の看板が掛けられていました。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 館内に入ると、出品作品は、洋画1、洋画Ⅱ、日本画、彫刻・工芸のジャンルに分けて、展示されていました。

 私は洋画Ⅰ(油絵)部門に出品しましたが、この部門の出品者は69名でした。その中から区長賞1名、教育委員会賞1名、美術館長賞1名、奨励賞3名、努力賞3名が選ばれています。

 まず、私の作品が展示された、洋画1の部門のコーナーを見てみましょう。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 真ん中に展示されているのが、私が出品した作品です。風景を背景としているので、カンヴァスはPサイズの20号を使いました。

 昨年と同様、母をモチーフに描きました。もちろん、リアルな母ではなく、イメージの中の母を手掛かりに、晩年に差し掛かった頃の姿を作品化しています。

 もうすぐ100歳になろうとする母は、認知症が悪化し、95歳ごろから施設のお世話になっています。今では、施設を訪れても、私のことを認識できず、言葉にならない音声を発することしかできなくなりました。

 人としての形が徐々に崩れ始めているのですが、それでも、その表情や目つきには、かつての母の面影が残っていました。認識能力を失っているはずなのに、聡明で、孤高の面持ちが見られるのです。

 母のことをいろいろと思い返しているうちに、ふと、80歳になった頃から、母が不思議な輝きを見せ始めたことを思い出しました。

 母は、晩年に入ろうとしている頃から、全身からいぶし銀のような輝きを発しはじめました。その時は、深く考えもしなかったのですが、その後、さまざまな高齢者の姿を見るにつれ、なぜ、母にそのような変化が起きたのか、不思議でならなくなりました。

 一時は、その理由を探りたいと思ったこともありました。ところが、母と離れて暮らすうちに、そのような気持ちもいつしか忘れ去っていました。

 今回、母をモチーフに絵を描こうとしたとき、ふいに、その頃の気持ちが甦ってきました。記憶の底に深く沈んでいたその気持ちが、突如、浮上してきたのです。

 そこで、当時の母をイメージしながら、その姿をカンヴァスに表現してみることにしました。母の不思議な輝きの源泉を見出すことができるかもしれません。

 そう思った途端、反射的にタイトルが思い浮かびました。

《晩秋》です。

■《晩秋》

 80歳になった母は、もちろん、見た目は年齢相応に老いていました。肌はくすみ、深く刻み込まれた皺は隠しようもなく、衰えが顔全体に広がっていました。ところが、ふとした拍子に見せる表情に、なんともいえない輝きがみられるようになりました。

 それは、年齢に抗って放たれているように見える一方、年齢の積み重ねによって生み出されているようにも見えました。

 80歳にならなければ、得られないような美しさであり、ひっそりとした輝きでした。誰もが気づくわけでもありません。母が生きてきたプロセスを知っている者しか、看取できない微妙な変化でした。

 見た目の老いの背後から滲み出た内面の深みであり、母が本来、持ち合わせていた聡明さや孤高の精神と交じり合って生み出された風情や雅趣といえるようなものでした。

 人生を四季に例えるなら、まさに、晩秋の輝きでした。

 もうすぐ冬になろうとする時期、気温は下がり、木々の葉はさまざまに紅葉していきます。街路を見渡せば、イチョウ並木が黄色く輝き、塀越しに見える庭木は、橙色や黄色に色づき、遠く山を望めば、とりどりの暖色系の葉で覆われた木々が華やいで見えます。

 晩秋ならではの、いっときの輝きです。

 やがて、冷たい風が吹いて、木々は葉を落とし、いっさいの生命活動は鳴りを潜めてしまいます。晩秋から冬にかけてのほんの一時期、木々は紅葉した姿で、精一杯の輝きを見せるのです。

 80歳頃からの母の輝きは、紅葉した木々の姿に重ね合わせることができるものだったような気がします。

 紅葉の季節が過ぎれば、木の葉は一枚、一枚、散って落ち、瞬く間に、枝と幹だけになっていきます。人もまた80歳を過ぎれば、一年、一年、老いが目立つようになり、動作も反応も鈍くなっていきます。生命力が衰えていく過程が、そのような現象として現れるようになります。

 母は80歳になっても、背を丸めて歩くようなことはなく、背筋をピンと張って歩いていました。思い返すと、母が不思議な輝きを見せていたのは、80歳からの10年間ほどでした。90歳になると、歩調は遅くなり、反応も鈍くなっていきました。さすがに心身ともに老いが際立つようになり、ひっそりとした輝きも老いの影に隠れてしまいました。

 晩秋に思いきり輝き、やがて、散っていく木の葉のように、母は80歳からの10年間、いぶし銀のような輝きを見せ、そして、その後の10年間、人としての形が脆くも崩れていきました。

 今回、カンヴァスに描きとどめようとしたのは、晩節に母が見せてくれた、ひっそりとした輝きです。

■母をどう描いたか

 今回、私が出品した《晩秋》を見ていくことにしましょう。

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(油彩、カンヴァス、72.7×53㎝、2023年。図をクリックすると、拡大します)

 写真では、会場のライトが額縁のアクリル面に反射しています。カンヴァスの画面がありのままに写し出されているとはいえませんが、私が表現したかったことはほぼ、この写真から伝わってくると思います。

 描きたかったのは、老いてなお輝きを見せていた頃の母のイメージです。

 当時、帰省するたびに見かけていたのが、もの思いに耽る母の姿です。台所で料理をしている時、庭で草むしりをしている時、床の間の花瓶に花を活けている時、ふとした拍子に、母は「心ここにあらず」の表情を見せることがありました。

 もの思いに耽っているように見える時があれば、何か考え事をしているように見える時もありました。母の周囲には、人を寄せ付けない、孤高の雰囲気が漂っていたのです。気軽に話しかけることもできず、戸惑ったことを覚えています。

 その時の光景を何度も思い返しているうちに、この孤高の雰囲気こそが、母が見せていた不思議な輝きの源泉なのかもしれないという気がしてきました。

 孤高の雰囲気とそこから生み出される輝きを表現するには、どのような画面構成にすればいいのか、考えてみました。さらに、モチーフをどのような設定すればいいのか、背景をどうすればいいのか、いろいろとシミュレーションしてみました。

■逆光の中のメインモチーフ

 まず、メインモチーフの母は、逆光を受けて佇む姿にしようと思いました。

 晩節にさしかかった母を、明るく輝かしく描くのは不自然です。顔色は当然、暗く、鈍い色調でなければなりません。その反面、顔面にはいぶし銀のような輝きも必要です。そこで考えたのが、逆光の中でモチーフを描くという構図です。

 こうすれば、メインモチーフに必要な二つの側面を表現できると考えたのです。

 実は、このようなアイデアを思い付くキッカケとなったのが、ミレーの《晩鐘》でした。

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(油彩、カンヴァス、55.5 × 66 cm、1857-59年、オルセー美術館蔵。図をクリックすると、拡大します)

 ミレー(Jean-François Millet、1814 – 1875)は、バルビゾン派を代表する画家といわれ、田園に取材した作品を数多く制作しました。この作品はそのうちの一つです。

 画面には、農民夫婦が手を休めて祈りを捧げる様子が描かれています。逆光の中で手を合わせ、祈りを捧げる夫婦の姿が、静かな佇まいの中で捉えられているのが印象的です。タイトルからは、晩鐘が鳴り響くのを合図に、一日の平安を感謝する敬虔な気持ちが表現されていることがわかります。

 この作品は、1865年2月にパリで展示されました。その時、ミレーは、次のように、祖母の思い出を描いた作品であることを述懐していたそうです。

********
かつて私の祖母が畑仕事をしている時、鐘の音を聞くと、いつもどのようにしていたか考えながら描いた作品です。彼女は必ず私たちの仕事の手を止めさせて、敬虔な仕草で、帽子を手に、「憐れむべき死者たちのために」と唱えさせました。
********(※ Wikipedia)

 在りし日の祖母の姿を思い起こしながら、ミレーはこの作品を描いていたのです。そのような背景事情を私はまったく知りませんでしたが、美術の教科書でこの作品を見たとき、敬虔な農民の姿に強く心を動かされたことは、はっきりと覚えています。

 当時、ヨーロッパでは風景画が注目を浴びるようになっていました。ところが、ミレーは、都会人が求めるような田園風景を描くのではなく、農民の生活を踏まえて風景を描いていたといわれています。

 日本の紹介された作品、《種まく人》(1850年)や《落穂拾い》(1857年)などを見ると、確かに、ミレーが風景を、農民の生活と一体化させて捉えていることがわかります。農民の生活と真摯に向き合い、深く観察して作品化していったところに、ミレーの独自性があるといえるでしょう。

 私がなぜ、この作品を思い出したかといえば、母の生きる姿勢に、この作品に見られる敬虔な要素があったからでした。母は「徳子」という名前でしたが、その名の通り、「徳を積む」ことをひっそりと実践してきた人生でした。私がミレーのこの作品をまっさきに思い出したのは、おそらく、農民夫婦の敬虔な光景に、母の生き方との親和性が見られたからでした。作品から受ける敬虔な印象が、母を思い起こさせたのです。

 もっとも、この作品には、私が求めるいぶし銀のような輝きは見られません。確かに、穏やかさ、落ち着き、敬虔さは画面から伝わってきますが、輝きが足りません。陽が落ちた残照では、命のラストステージを煌めかせる熱量が不足しているのです。

 メインモチーフである母に、いぶし銀の要素を添えるには、もう少し、きらびやかな要素が必要でした。

 そこで、さらにミレーの作品を渉猟してみました。すると、次のような作品が見つかりました。

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(油彩、カンヴァス、100.7×81.9㎝、1870-72年、ニューヨーク フリック・コレクション。図をクリックすると、拡大します)

 タイトルは《ランプの明かりで縫物をする女性》(Woman Sewing by Lamplight)です。初めて見る作品です。

 ミレーは1875年1月20日に亡くなっていますから、制作年からいえば、晩節の作品といっていいでしょう。

 《晩鐘》とは違って、メインモチーフのすぐ近くにあるランプが光源になっています。画面中央辺りが明るい色調、そこから遠ざかるにつれ画面が暗くなるという色構成です。モチーフがランプの光で、明るく浮き彫りにされているのが印象的です。

 画面全体から、暖かな家庭の温もりが感じられます。

 ランプから放たれた穏やかで暖か味のある光が、女性を照らし出しています。横顔、肩、手を柔らかい光で包み込み、縫物をする女性を優しく捉えています。よく見ると、ライトの下では、赤ん坊が眠っています。俯き加減に針を運ぶ女性は、おそらく、母親なのでしょう。

 ランプを光源とする穏やかな光線が、周辺に柔らかな陰影を作り出し、作品に落ち着きと暖かさを添えています。黄色、橙色など暖色系を中心とした色構成の中に、農民の生きる力とひっそりとした輝きが感じられます。

 この色合いを、メインモチーフを支える背景色に使ってみようと考えました。

 次に、考えたのが背景です。

■背景としての湖畔、差し色としての白

 晩節の母を描くのですから、私は、背景として、晩秋の風景しか思いつきませんでした。もちろん、一口に晩秋といっても、さまざまな風景があります。紅葉した街路樹もあれば、紅葉した山、あるいは、すっかり葉を落とした木々など、どのような景色を選べば母のイメージに相応しいのか、悩み、いろいろとシミュレーションしてみました。

 その結果、晩秋の湖畔を、背景として取り上げることにしました。

 湖畔なら、紅葉した木々、すっかり葉を落とした木々など、晩秋を象徴する一切合切を、一つの景色の中に収めることができます。それらの要素を、ごく自然に画面に持ち込むには、湖畔がもっとも適していると思ったのです。

 さらに、背景を湖畔に設定すれば、メインモチーフとの間に、ちょっとした空間を生み出すことができます。この空間を活かす恰好で、湖の際に枯れ木、湖辺に紅葉した木々を描けば、画面に奥行きや深みを生み出し、興趣を感じさせることができると考えました。

 こうして、枯れ木や紅葉した木々を配した湖畔を背景に、逆光を受けて佇む母の姿をイメージして描いたのが、先ほどご紹介した《晩秋》です。

 メインモチーフと背景との組み合わせとバランスで構成を考え、ラフに仕上げてみましたが、何かが足りません。何度も画面を見返してみましたが、決定的要素が足りないような気がしてならないのです。

 老いてなお、背筋をピンと伸ばして暮らしていた、あの母のイメージを表現しきれていませんでした。凛とした佇まいは、母が80歳を過ぎて、放ち始めたいぶし銀のような輝きを支えるものでした。それが画面から滲み出ていなかったのです。

 凛とした母の佇まいを表現するにはどうすればいいのか・・・、再び、画面を見つめ、シミュにレーションを繰り返した結果、要所要所に、白を散らしてみることにしました。

 晩秋の湖畔の空気には、肌を刺すような厳しい冷たさがあります。その厳しい冷たさは、凛とした佇まいに通じるものがあり、晩節の象徴でもあるように思えました。それは白によってしか表現できないもののように思えました。

 試みに、髪の際や逆光の粒子の中に、白を差し色として置いてみました。思いのほか、画面に輝きが生まれたことに驚きました。まさに、いぶし銀のような輝きです。これでようやく、納得できる画面になったような気がします。

 気をよくして、さらに、顔や首の縁、その背後で煌めく残照の中に、そっと白を置いてみました。そうすると、不思議なほど見事に、晩節の母の輝きを表現することができました。予想以上の白の効果でした。

 差し色として白を使うことによって、晩秋の冷たい空気の感触、母の凛とした生き方、いぶし銀のような輝きを表現することができたのです。

 それにしても母はなぜ、80歳を過ぎた頃から、輝き始めたのでしょうか。カンヴァスに母のイメージを描いて見てようやく、なぜ、母が輝き始めたように見えたのか、多少、わかってきたような気がしました。

■母はなぜ、輝いて見えるようになったのか

 80歳ともなれば、心身ともに衰えが目立つようになります。動きが鈍くなったり、物忘れがひどくなったり、老化に伴うさまざまな衰えが、心身に現れるようになります。輝きとは無縁になるのが一般的です。

 それまでの自己肯定感を失い、アイデンティティ・クライシスに陥る人も多々、いると思います。

 ところが、母の場合、80歳を過ぎてから、ひっそりとした輝きを見せるようになっていたのです。それが不思議でなりませんでしたが、今回、絵を描くために、当時の母を何度も思い返すうちに、その原因がなんとなくわかってきたような気がしました。

 母の不思議な輝きは、おそらく、孤独感を昇華させることができ、新しいアイデンティティを獲得したから得られたものではないでしょうか。その頃、時折、母が見せていた孤高の佇まいを思い出します。

 父が83歳で亡くなった時、母は75歳でした。その後、母はそのまま、大きな家で一人暮らしを続けていました。同じ敷地内に弟の家族が住んでおり、日常的に行き来があったので、私は心配していませんでしたが、アイデンティティが大きく揺らいでいたことは確かでしょう。

 専業主婦として生き、外で働いた経験もない母は、家庭こそがアイデンティティの基盤でした。父の死後、その基盤が崩れてしまいました。子どもたちはとっくの昔に巣立って、それぞれの家庭を築き、残されたのが妻という役割でしたが、それも父の他界によって、喪失してしまいました。

 世話をしてきた対象をすべて失ってしまったのです。

 父を失った喪失感を、母はどのようにして補っていたのでしょうか。あるいは、大きな家で一人暮らしをするようになって、寂寥感をどのように紛らわせていたのでしょうか。当時、私は仕事に忙しく、慮る余裕がありませんでしたが、母はアイデンティティ・クライシスに陥っていたのではないかと思います。

 ちょうど80歳を過ぎた頃から、母は、私が帰省するたびに、「お母さんが、この家を守る」と言うようになりました。確かに、長い廊下はそれまで以上に磨き込まれるようになっていましたし、いくつかある床の間にはいつも、何かしら花が活けられ、それに合わせて、掛け軸も取り替えられていました。

 数年に亘るアイデンティティ動揺期を経て、母は、「家を守る」ことに、新たなアイデンティの基盤を見つけたように見えました。

 日々、部屋を掃除し、庭を手入れし、仏壇に御仏飯や花を供えて、「家」の世話をすることに生き甲斐を感じるようになっていたのです。「家を守る」ことにアイデンティティの基盤を置くことによって、母はようやく、自分の居場所を見つけたのでしょう。

 その頃から、母は不思議な輝きを見せるようになりました。
 
 「家を守る」ということは、単に家を整え、綺麗にするということだけではありませんでした。家の対面を守り、先祖を守るという決意の表れでもありました。母にとってはむしろ、こちらの意味合いの方が強かったのかもしれません。

 生身の人間との関わりが薄れても、母は日々、気持ちを通わせ、生きていることの意味を感じさせてくれる対象を見つけたのです。私は、母がついに孤独感を昇華し、孤高の精神へと変貌させていった感情と思考のプロセスを感じました。

 思い返せば、ちょうどこの頃から、母がいぶし銀のように輝いて見えるようになったような気がします。

 当時の母をイメージし、今回、作品化してみました。改めて画面を見て、思いのほか、的確に表現できたのではないかという気がしています。(2024/2/19 香取淳子)

岩倉具視幽棲旧宅⑪:使節団はアメリカで何を見たのか(6)奴隷制と南北戦争

 前回、星条旗のデザインの変化を通して、アメリカ合衆国の建国経緯を振り返ってみました。その過程で見えてきたのが、自由、平等の国を謳いながら、奴隷制を廃止しなかったアメリカの矛盾です。

 そこで、今回は、まず、奴隷制がどのようにして制度化され、アメリカ社会に組み込まれていったのか。その歪な制度に政治家はどのように立ち向かい、廃止することに成功したのかといったことを考えてみたいと思います。

 その上で、岩倉使節団のメンバーである久米邦武がそれについてどう感じたのかといったことについて触れてみたいと思います。

■アメリカ建国の理念とその矛盾

 思い返せば、アメリカの独立宣言は、イギリスの政治思想家ジョン・ロックらの自由主義的考え方に基づいたものでした。独立宣言を起草したジェファーソン(Thomas Jefferson, 1743- 1826)らは、ジョン・ロック( John Locke, 1632 – 1704)の政治思想を踏まえ、独立のための理論的根拠を練り上げました。

 というのも、ロックが提唱した社会契約や抵抗権についての考えは、名誉革命(1688-1689)を理論的に正当化する基盤となっていたからでした。国家と国民との関係を社会契約という概念で捉え、そこに国民の側の抵抗権を介在させるという斬新なものでした。

 このようなロックの考えは、アメリカの独立宣言(1776年7月4日)に取り入れられ、その後、フランスの人権宣言(1789年8月26日)にも大きな影響を与えました(※ Wikipedia)。

 たとえば、ロックの『社会契約論』では、国の指導者がイギリス人の権利を踏みにじった場合、人々には指導者を打倒する権利があるとされています。このような考え方が名誉革命を正当化し、アメリカ独立戦争の際の政治的根拠にされたのです。

 独立宣言の前文では、「全ての人間は平等に造られている」と唱え、「生命、自由、幸福の追求」の権利が掲げられています。そのように人間としての基本的権利を謳い上げたところに、『社会契約論』のエッセンスを見ることができます。

 独立宣言を起草したメンバーには、基本的人権を重視する姿勢がありました。だからこそ、その高邁な理念を掲げることによって、アメリカ植民地13州は意思統一を図り、独立を勝ち取ることができたのです。

 ところが、いったん、独立国として承認されると、為政者たちはその理念をすっかり忘れてしまったかのように見えました。「全ての人間は平等に造られている」と唱えておきながら、基本的人権を主張できるのは白人だけに留め置き、奴隷制の廃止を認めようとしなかったのです。

 なぜ、高邁な理念を掲げて建国した為政者たちは、独立戦争後も、その理念とは矛盾する奴隷制を容認していたのでしょうか。

 そもそも、なぜ、これほど大きな矛盾があるにもかかわらず、識見の高い為政者たちは奴隷制を放置したのでしょうか。

 そこで、再び、独立宣言を振り返ってみました。すると、先ほどご紹介した前文以外に、「国王の暴政と本国(=イギリス)議会・本国人への苦情」に関する28ヶ条の本文が加えられていたことがわかりました。

 なぜ、本国イギリスと戦うのかについての理由が逐一、掲げられていたのです。ジェファーソンらは、論拠を示して戦いを挑んでおり、独立戦争の正当性を示していたのです。起草メンバーたちがきわめて理知的で、論理的な思考の持ち主であったことがわかります。

 実際、独立宣言を主導したジェファーソンの来歴を見ると、政治哲学者としてイギリスやフランスに知己が多く、博学で、傑出した人物だったといわれています。その後、第3代アメリカ合衆国大統領として行政手腕を発揮したばかりか、バージニア大学の創設者として、学問領域の充実にも携わっています(※ Wikipedia)。

 それほどの人物が中心になって、アメリカ合衆国を建国したというのに、なぜ、奴隷制が放置されたままだったのでしょうか。

 この疑問を解くには、まず、植民地時代のアメリカ社会を把握しておく必要があるのかもしれません。

■バージニア植民地の場合

 最初のアメリカ植民地は、バージニア州です。そして、独立宣言を起草したジェファーソンはバージニア入植者の古い家系の出身でした。

 そこで、まず、彼の出身地であるバージニア植民地の来歴を把握することから、アメリカの奴隷制について考えてみることにしましょう。

 バージニア植民地は1607年に開かれました。イギリス人によって開拓された最初のアメリカ植民地です。

 なぜ、バージニアという名称なのかといえば、ロンドンの商人たちが、国王ジェームズ1世から勅許状を得て設立したのが、バージニアという名の会社だったからです。彼らは北アメリカ大陸で植民事業を立ち上げようとしていたのです。

 商人たちは出資者を募り、最初の入植者105人を北アメリカ大陸に送り出したのが、1606年12月のことでした。

 入植団は1607年4月26日に、アメリカ東海岸のヘンリー岬に到着しました。そして、入植に適した土地を求めてジェームズ川をさかのぼり、河口から約48キロメートルの地点に上陸しました。彼らはそこを入植地と定め、川に名付けたのと同様、国王ジェームズ1世にちなんでジェームズタウンと命名しました。

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(※ Wikipedia。図をクリックすると、拡大します)

 上の地図はちょっと見にくいので、Jamestownの文字の下に赤線を引き、該当場所に赤丸印をつけました。このジェームズタウンが、アメリカ大陸におけるイギリス初の植民地となりました。

 地図を見ると、入植地のジェームズタウンは、大西洋の荒波を避け、バージニア半島を遡った所にあります。蛇行するジェームズ川をより安全に航行できる地域が選ばれていることがわかります。

 先ほどの地図よりもわかりやすい地図を見つけました。これだと、バージニア半島とジェームズ川、ジェームズタウンの位置関係がよくわかります。さっそく、見てみましょう。

こちら →
(※ Wikipedia、図をクリックすると、拡大します)

 淡いオレンジ色の部分がバージニア半島です。ジェームズ川と書かれた流域の河口辺りは、ハンプトンやノーフォークが入り組み、やや複雑な地形になっています。このような地形であれば、確かに、大西洋からの荒波を避けることができるでしょう。そこからさらに48キロメートル遡った先に、ジェームズタウンが設置されたことの理由がわかります。

 最初の入植者たちは、用心に用心を重ねて、入植地を決定していたのです。

 ジェームズ川は元々は、先住民族からポウハタン川と呼ばれていたといわれています。バージニア半島に広がっていたポウハタン連邦の酋長の名前に因んで付けられていたのです(※ Wikipedia)。

 ところが、イギリスから入植者たちがやって来て、勝手に、国王ジェームズ1世に因んだ名前に変えてしまいました。入植とはすなわち、先住民を追い払い、彼らの土地や河川を簒奪し、改名することだったのです。

 ジェームズ川は、当初15年間はイギリスからの物資や入植者たちの輸送に役立ちました。その後、1612年になると、実業家ジョン・ロルフがタバコの栽培に成功し、これがイギリスで大人気となりました。その結果、ジェームズ川は、プランテーションからタバコを運ぶ航路として大きな役割を果たすことになったといいます(※ 前掲)。

 タバコ産業の発展によって、ロンドンのバージニア会社は、財政的に大きな成功を収めました。植民地事業が発展し、本国に大きく貢献したのです。当然のことながら、バージニア会社はさらなる発展を目指し、投資を募っては入植者を増やしました。
 
 当初、入植者はもっぱら、イギリス本国から追放された囚人や浮浪者だったといいます。ところが、タバコ栽培でバージニアの経済が活性化するにつれ、イギリスからは数多くの貧困労働者がやってきました。彼らは渡航費や生活費も持たずにやって来て、無賃渡航契約者として一定期間、プランテーションで働き、年季が明けると、報酬をもらって自営農民として独立しました。

 タバコ栽培が盛んになってから、プランテーションの労働力需要はますます高まっていきました。終には、イギリスからの移民だけでは足りなくなってしまいました。隷属して働いてくれる奴隷が必要になったのです。

 1619年に、オランダのフリーゲート艦が、アフリカから20人の黒人を連れてきました。バージニア植民地にとって、はじめての黒人労働者でした。彼らは当初、年季奉公人として働いていました。ところが、労働力を失いたくない雇用者は、年季が満了しても彼らを奉公人に留めておくようになりました。これが慣習化し、雇用の形態が年季制から終身制になっていったのです。

 奴隷労働がプランテーション経営に不可欠になっていたからでした。

■黒人奴隷の制度化

 黒人奴隷の数はタバコ産業が活性化するにつれ、増えていきました。

 たとえば、1649年のバージニアの黒人奴隷は、人口の2%で約200人、1670年は人口の5%の約2000人でした。ところが、1700年には人口の28%の約20000人、1715年は24%の約23000人、1754年には40%の116000人、そして、1770年には42%の約187000人と年を追うごとに、増え続けていったのです。
(※ 楪博行、「アメリカにおける奴隷制度とその変遷」、『人間学研究』No.6、2006年、p.3.)

 このように黒人奴隷が増えていくにつれ、彼らの自由を奪い、強制的に労働させることが慣習化していきました。

 楪博行氏は、バージニア植民地で黒人奴隷の身分制度が確立していくのは、1660年から70年にかけてであったと記し、次のように具体例を示しています。

 1660年、1661年に制定されたのは、黒人奴隷が逃亡することを防ぐための法でした。1662年には父の法的地位に関わりなく、奴隷の母から生まれた子は奴隷とする法が制定されました。そして、1663年には奴隷が許可なく移動することを禁止する法が成立し、1667年には、キリスト教の洗礼を受けたとしても、奴隷の母から生まれた子は自由にはなれないことが定められました。

 さらに、1668年法では、奴隷ではない自由な身分の黒人女性に、納税義務、農場労働で植民地に貢献すること等が課せられ、イギリス人女性とは異なる扱いが規定されました(※ 前掲。p,3)。

 一連の法制度の成立過程を見てくると、ほとんど毎年のように、奴隷を拘束するための法律が制定されていたことがわかります。いずれも、奴隷の逃亡や反抗、反乱などを防ぎ、身分を固定化することによって、強制労働に従事させるためのものでした。

 タバコ生産に従事する黒人奴隷たちを描いた絵があります。1670年の作品です。ご紹介しましょう。

こちら →
(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Slaves_working_in_the_tobacco_sheds_on_a_plantation_(1670_painting).jpg、図をクリックすると、拡大します)

 上半身裸の黒人奴隷が、それぞれ、タバコ製造のさまざまな工程に関わり、黙々と働いている様子が描かれています。自由を束縛し、指示通りに働く労働者をプランテーション経営者は望んでいたのでしょう。黒人奴隷の数が増えるにつれ、経営者たちは、彼らを管理するための法制度を整備する必要に迫られたのだと思われます。

 実際、プランテーションの活性化に伴い、黒人奴隷を管理するための制度は整備され、各植民地に浸透していきました。

 たとえば、許可なく移動することの禁止、集会することの禁止、奴隷に対する傷害や殺人の合法化、終身の強制労働、といった具合です。さまざまな規制を設けては、暴力、恐怖による管理を合法化していきました。

 さらに、奴隷を所有物として位置付け、遺言や差し押さえの対象、あるいは、課税対象にするようになっていきました。人ではなく、物として奴隷を扱うようになっていったのです。さまざまな自由をはぎ取り、拘束し、抵抗する権利を奪い、強制労働に従わせるための法の目を張り巡らせていきました。

 奴隷の制度化は、バージニア植民地だけではなく、南部ではどの植民地でも、ほぼ同様の法的規制が設けられ、深化していきました。

■奴隷制と植民地の産業構造

 一方、アメリカ北部の植民地では、奴隷制は発達しませんでした。北部の産業構造は、プランテーションを基盤としておらず、奴隷労働による収益は取るに足るものではなかったからです。

 一口に、アメリカ植民地とはいっても、産業構造の違いによって、奴隷に依存する度合いが異なっていたことがわかります。それに伴い、北部と南部とでは、奴隷制に関する認識は大幅に異なっていました。

 もっとも、北部と南部とで差異がみられるとはいえ、その違いは、奴隷労働がどれほど地場産業で必要とされているかの違いでしかありませんでした。奴隷制そのものは法の下、アメリカ植民地の経済構造に深く組み込まれていたのです。

 それでは、イギリス本国で、奴隷制はどのような法の下で管理されていたのでしょうか。

 楪博行氏は、イギリス本国と植民地の奴隷法との関連について、次のように結論づけています。

 「各植民地の奴隷法の意図は、奴隷を管理しそれから収益をあげつつ、その反乱を防止する禁止側面のみの警察的意味を持つものであった。(中略)イギリス枢密院の植民地に対する積極的な奴隷政策は、植民地において受容され、ついには各植民地での奴隷法の制定によって正当化が図られることになった」(※ 前掲。p.8.)

 アメリカの各植民地は、どうやら、独自の判断で奴隷法を制定してきたわけではなかったようです。背後に、イギリス枢密院からの積極的な政策支援がありました。だからこそ、人権を踏みにじるような法律でも、なんの支障もなく、成立してきたという経由がありました。アメリカ植民地でのローカルな判断は、いってみれば、イギリス枢密院のお墨付きを得て、正当化されてきたのです。

 アメリカ植民地の黒人奴隷に対する支配の網は、時間をかけて、四方八方隈なく、張り巡らされていました。しかも、それらはイギリス本国から容認されていました。イギリス本国にとってはなによりも、植民地のプランテーションからあがる収益が重要だったからでした。

 黒人奴隷は、アメリカ植民地から逃れられないように、制度化されて、プランテーションに組み込まれていました。彼らを取り巻く、二重三重に張り巡らされた支配の網の目は、ジョン・ロックの社会契約論によって突き崩せるほど脆いものではありませんでした。

 一連の奴隷法の制定過程をみてくると、ジェファーソンがどれほど人道主義的な見解を持っていたとしても、奴隷制を廃止することはできず、放置せざるをえなかったのかもしれません。建国理念とは矛盾するとはいえ、奴隷制はそれほど深くイギリス本国と結びつき、そして、アメリカの各植民地に根付いていたのです。

 1872年にアメリカを訪れた久米は、アメリカの奴隷制について、次のように書いています。

 「合衆国が独立する頃、黒人奴隷は50万人(当時のアメリカ全人口の6分の1)に達していた。憲法を制定する時、この制度が非道であるということもわかっていたのであるが、すぐにこれを廃止することが難しいので、奴隷輸入税を1808年までと定めた。ところが、1790年頃、アメリカ人ホイットニーが綿花を紡ぐ機械を発明、それが南部の綿花栽培をいっそう促したので、南部ではさらに黒人の労役が盛んになった。またイギリス人も蒸気機関によって紡績を行うようになり、その利益が増大したことから、奴隷輸入に関する年限が過ぎても南部の綿花栽培諸州における奴隷売買はやむことがなかった」(※ 久米邦武編、水澤周校注、『米欧回覧実記』1、p.231.)

 タバコ栽培の次は、綿花栽培が盛んになりました。そのために、黒人労働への需要はますます高まっていったのです。

 実は、奴隷の輸入については1808年以降、廃止する方向で調整されていました。ところが、南部の綿花栽培が活況を呈するようになるにつれ、奴隷労働への需要が高まりました。それに伴い、奴隷制廃止の動きは止まり、そのまま継続されていきました。

 とはいえ、時代が進むにつれ、アメリカはやがて、奴隷制廃止に向かわざるをえなくなります。イギリス本国での動きが変わったからです。

 イギリスでは、1833年8月23日に奴隷制廃止法が成立し、イギリスの植民地での奴隷制度を違法としています。

 ところが、アメリカ南部では、プランテーション農園主の政治的発言力が大きく、当時、奴隷制はむしろ強化される傾向にありました。それに反し、アメリカ北部の諸州では奴隷制はすでに廃止されていました。

 南北の経済構造の違いから、やがて奴隷制が南部と北部との対立の焦点となり、先鋭化していきます。

■南軍vs北軍

 1860年の大統領選で、共和党のエイブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln ,1809- 1865)が当選しました。奴隷制度に反対していた政治家が、大統領に選出されたのです。

 リンカーンが大統領に選出されると、奴隷制存続を主張するミシシッピ州やフロリダ州など南部11州は、アメリカ合衆国を脱退してしまいました。そして、これら南部の諸州は新たにアメリカ連合国を結成しました。

 南部諸州で構成されたアメリカ連合国と、アメリカ合衆国にとどまった北部23州との間で戦争が勃発しました。

 奴隷制を争点に、アメリカ合衆国(北軍)とアメリカ連合国(南軍)とが戦う南北戦争(1861-1865)が始まったのです。奴隷制度を巡ってアメリカが二つの国に分断され、同胞が熾烈な戦いを繰り広げることになりました。

 南軍と北軍がどのような分布になっていたのか、当時のアメリカ地図をご紹介しましょう。

こちら →
(※ Wikipedia、図をクリックすると、拡大します)

 青がアメリカ合衆国の諸州です。そして、赤がアメリカ連合国諸州で、水色はどちらとも旗色を明らかにしていない境界州です。白は南北戦争の前、あるいは戦争中に、まだ州に昇格していない領域です。

 こうして色分けすると、一見して南軍側か北軍側かがわかります。南と北で別れているのです。

 奇妙なことに、カリフォルニア州、オレゴン州、ネバダ州などが北軍側に色分けされています。西海岸の諸州が北軍に属しているのです。

 なぜなのか、不思議な気がしました。
 
 そこで、調べてみると、どうやらリンカーンが署名した法律(ホームステッド法)が、西海岸の諸州に影響を与え、彼らが北軍支持に回ったようなのです。

■ホームステッド法と奴隷解放宣言

 1862年5月20日、リンカーン大統領が署名し、ホームステッド法(自営農地法)を発効させました。これは自作農を推奨する法令で、公有地を開拓し、最低5年間居住すれば、無償で160エーカーの土地が与えられるというものです。

 アメリカでは、「独立自営農」という概念が伝統的に有力でした。ホームステッド法でその数を増やそうという動きは、実は、1850年代から存在していたのです。ところが、「独立自営農」を増やすことは、奴隷制を脅かすことになるとして、プランテーション経済に依存する南部諸州が強く反対していました。

 この法律が発令された結果、北軍は西部開拓民に大きく支持されるようになりました。西海岸諸州が北軍支持に回った背後に、ホームステッド法の発効があったことは明らかでした。

 さらに、1863年1月1日、リンカーン大統領は、奴隷解放宣言に署名しました。なんと南北戦争の最中に、リンカーンは奴隷解放宣言に署名したのです。奇策としかいいようがありませんが、実は、このことが戦況を北軍側に有利に導きました。

 実際、解放宣言によって解放されたばかりの奴隷の多くが北軍や海軍に加わり、他の奴隷達のために勇敢に闘うようになりました。奴隷解放宣言が、解放奴隷たちの戦意を高揚させ、北軍の士気を高めたことは明らかでした。

 この時点で、リンカーンが奴隷解放宣言を行っていなかったとしたら、南北戦争はもっと長引いていたかもしれません。

 奴隷解放宣言を契機に、南北戦争の争点は急速に変化し、すべてのアメリカ人に自由を浸透させるための大義を持つ戦いになっていきました。南北戦争がちょうど3年目に突入したときでした。
(※ https://americancenterjapan.com/aboutusa/translations/2389/

■ゲティスバーグの戦い

 アメリカ合衆国軍とアメリカ連合国軍が、1863年7月1日から3日にかけて、総力を結集して戦った場所が、ゲティスバーグです。ペンシルベニア州アダムズ郡郊外にあり、南北戦争史上最大の激戦地となりました。奴隷解放宣言後、6カ月を経た時の戦いです。

 これが南北戦争の事実上の決戦となって、アメリカ合衆国(北軍)の勝利に終わりました。

 1863年7月1から3日にかけてのゲティスバーグの戦いで、数多くの死傷者が出ました。北軍の戦死者は3000人以上、南軍の戦死者は4000人近く、また負傷者・行方不明者の合計は南北でそれぞれ2万人を超えました。
(※
https://americancenterjapan.com/aboutusa/translations/3481/#:~:text=%E5%8D%97%E8%BB%8D%E3%81%AF%E5%8C%97%E8%BB%8D,%E4%B8%87%E4%BA%BA%E3%82%92%E8%B6%85%E3%81%88%E3%81%9F%E3%80%82

 当時の戦闘シーンを描いた絵があります。

こちら →
(※ https://history-maps.com/ja/story/Battle-of-Gettysburgより。図をクリックすると、拡大します)

 画面左手にはためいているのが、南軍の旗で、右手に見えるのが北軍、すなわちアメリカ合衆国の旗です。

 同国民が、奴隷制を巡って戦ったのが、南北戦争です。したがって、この戦争は、独立戦争とは違って、理念によってアメリカ人の気持ちを一つに結束させる戦いではありませんでした。経済システムに組み込まれた奴隷制度を争点としていただけに、むしろ、国を二分させる性質を持つ戦いでした。

■戦意か、兵力、兵站か

 開戦当初から、北軍が優勢でした。というのも、北部には既存の政府組織が存在し、中央集権的な政治体制だったからです。意思決定のプロセスがスムーズで、さまざまな難題に迅速に対応することができました。

 一方、南部はそれぞれの所属州の発言力が強く、南部連合国のデイヴィス大統領は、意思決定に非常に苦慮していたといわれています。

 さらに、北部は約400万前後の人口であったのに対し、南部はわずか100万強で、人口規模に大きな差がありました。しかも、北部は工業化が進み、敷かれた鉄道の長さも南部の2倍以上でした。鉄道を利用して、北部は食料や武器を兵士に運ぶことが容易にできたのです。兵站の面でも北部に優位性がありました。

 このように、人口規模やインフラ、意思決定などの面で、南部は北部に相当、見劣りがしていました。

 ところが、南軍には、奴隷制を維持して南部の生き方を守る、あるいは、侵攻してくる北軍から郷土を守るといった明確な目的がありました。兵力や兵站の面では北軍に見劣りがしても、戦闘意欲だけは強かったのです。

 奴隷制を維持できなければ、即、南部の経済基盤が崩れかねないという危機感が強かったからでしょう。それだけに士気が高く、戦意が高揚していました。

 それに比べ、北部の目標は、合衆国を守る、つまり、南部を合衆国に連れ戻すといった曖昧なものでした。そこには、戦意を喚起し、命をかけてまで戦おうとするモチベーションをかき立てる力はありませんでした。

 南北戦争は、勝利を導くものは戦意なのか、それとも、人口規模、兵站などのインフラ装備なのかが問われる戦いでもあったのです。

 一方、南北戦争は、奴隷制を争点にした南北の戦いであったと同時に、工業化の進んだ地域とそうではない地域との戦い、あるいは、ナショナリズムとローカリズムとの戦いといったように、当時の社会の分岐点を巡る戦いでもありました。

 その南北戦争の中で、もっとも激しかったのが、ゲティスバーグの戦いでした。

■リンカーンの演説
 
 10月17日から、新しくできたゲティスバーグの国立墓地で、死者の埋葬が始まりました。

 1863年11月19日に行われた献納式で、リンカーン大統領は演説を行いました。アメリカ史上最も有名な演説の一つといわれています。

こちら → https://youtu.be/8HXEgdiIkng
(※ CMはスキップするか、×で消してください)

 約2分間の短い演説の最後で、リンカーンは、「人民の、人民による、人民のための政治を、地上から決して絶滅させないために、われわれがここで固く決意することである」と締めくくっています。

 リンカーンの思いがひしひしと伝わってくるような演説です。戦死者を悼み、その栄誉を称えるとともに、アメリカ建国の精神を人々の心に覚醒させる力がありました。言葉が再び、アメリカ人の心に建国の精神を蘇らせたのです。

 リンカーンのこの演説は、北軍の勝利を確実なものにしました。

 1865年3月に北軍は最後の攻勢を仕掛け、アポマトックス方面の作戦が開始されました。4月1日のファイブフォークスの戦いで打撃を受けた南軍は、4月3日に南部の首都リッチモンドから撤退せざるをえず、西へと退却しました。

 そして、4月9日、北軍と南軍との間でアポマトックス・コートハウスの戦いが起き、南軍のリー将軍が降伏して、南北戦争は事実上終了しました(※ Wikipedia)。

■リンカーンの死

 1865年4月14日、リンカーンは妻と観劇中に銃撃され、翌15日に亡くなりました。犯人は俳優で南軍シンパのブース(John Wilkes Booth, 1838 – 1865年)でした。

 その時の様子を描いた鉛筆画があります。

こちら →
(※ Wikimedia、図をクリックすると、拡大します)

 ブースはフォード劇場の裏口に午後9時ごろ到着し、リンカーンのいるボックス席に入り込み、ドアを閉めました。そして、背後からそっと大統領に近づき、後頭部めがけて銃弾を発射したのです。

 画面では、警官が制止しようと身を乗り出していますが、間に合わなかったのでしょう。小型のデリンジャーピストルから立ち上る白い煙が、惨劇の状況を物語っています。

 ブースは以前からリンカーン大統領を誘拐し、南軍の捕虜を解放させようとしていたといわれています。

 ところが、1865年4月10日、南軍のリー将軍が北軍に降伏したので、暗殺する意味はなくなったと諦めかかっていました。ところが、4月11日、リンカーンがホワイトハウスの前で黒人の参政権を認めたいと演説していたのを聞いて、再び、暗殺を決意したといいます(※ Wikipedia)。

 1860年、リンカーンは奴隷制廃止を掲げて大統領に選出されました。そして、その理念のために南北戦争を回避できず、国を二分するほどの戦いを強いられました。結局、戦争には勝利したのですが、黒人の参政権を認めたいと演説したせいで、南軍のシンパから暗殺されてしまいました。

 奴隷解放という目的を達成し、その後、参政権を認めようという展望を語ったところで、リンカーンは命を絶つことになったのです。

 南部に深く根付いた奴隷制は、そう簡単に払拭できるものでもなかったことがわかります。

 リンカーンが亡くなった後、8カ月を経てようやく、憲法が修正され、奴隷解放の制度が整備されました。

 1865年12月、憲法が修正され、アメリカ合衆国のあらゆる地域に暮らすすべての奴隷が自由の身となりました。合衆国憲法修正13条によって、アメリカのすべての奴隷制度は終焉を遂げたのです(※ https://americancenterjapan.com/aboutusa/translations/2389/)。

■政治家としての矜持

 振り返ってみれば、憲法を修正し、奴隷制度を廃止させる基盤となったのが、奴隷解放宣言でした。

 その奴隷宣言を執筆している最中のリンカーン大統領らを描いた油彩画があります。

こちら →
(油彩、カンヴァス、274.3×457.2㎝、1864年、United States Capitol、図をクリックすると、拡大します)

 画面に描かれている人物は8人で、左から順に、エドウィン・M・スタントン陸軍長官(着席)、サーモン・P・チェイス財務長官(起立)、アブラハムリンカーン大統領(着席)、ギデオン・ウェルズ海軍長官(着席)、カレブ・ブラッド・スミス、内務長官(起立)、ウィリアム・H・スワード国務長官(着席)、モンゴメリー・ブレア郵便局長(起立)、エドワード・ベイツ司法長官(着席)です。

 奴隷解放宣言を執筆するリンカーンをはじめ、メンバーの表情はいずれも硬く、厳しいものがあります。北部と南部、国を二分する争点だっただけに、彼らの思いはさまざまだったでしょうし、理念だけではすまない情感も種々、去来していたでしょう。

 それでも、彼らは断行しました。理想を掲げて建国したアメリカ合衆国をさらに一歩、前進させることに熱意を注いだのです。

 描かれている人物たちが一様に、思いつめたような表情を浮かべているのが印象的です。その表情からは、南部を敵に回しながらも、建国の精神に立ち返り、奴隷解放宣言を組立てようとしている政治家たちの気概を見るような気がしました。

 この暗い画面には、理想を追求する政治家たちの矜持を見て取ることができます。

 この絵が描かれた1864年は、ホワイトハウスのイースト・ルームに展示されていましたが、その後は国会議事堂に収められています。
(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Emancipation_proclamation.jpg

 久米は、奴隷解放に人生を賭けたリンカーンについて、次のような感想を述べています。

 「西洋人はその持論を貫くためにその精神力のすべてを賭ける。できなかった場合には命を損なうところまでに至るのである。その志篤く、忍耐深いことはどうだろう。このようでなくては、今の時代に仕事を成功させることは難しいのである」
(※ 久米邦武編、水澤周校注、『米欧回覧実記』1、p.350.)

 久米をはじめ岩倉使節団一行は、明治という新しい体制の国家建設に意気込み、学びの一環として、訪米していました。そこで、アメリカ建国の精神、その精神と矛盾する奴隷制、そして、奴隷制を焦点とした南北戦争、南北戦争勝利後の凶事、それら一切合切を現地で知りました。

 彼らは一体、何を感じていたのでしょうか。

 少なくとも、久米は、理想と現実との矛盾に対峙し、問題解決していこうとする政治家の姿勢に、意思の強さと忍耐強さ、志の高さを感じていたようです。

 ちなみに、1872年3月25日、ワシントン滞在中に、使節団一行は黒人学校を訪れています(※ https://www.jacar.go.jp/iwakura/history/index.html)。

 久米ら一行が黒人学校を訪れたのは、リンカーン大統領(Abraham Lincoln, 1809 – 1865)が、奴隷解放宣言(1863年1月1日)を行ってから9年ほど経た頃でした。

 当時、白人と黒人は別々の学校に通っており、人種間の格差は歴然としていました。法的に奴隷制は廃止されましたが、まだ奴隷制の残滓はそこかしこに残っていたに違いありません。

 ところが、奴隷解放宣言以後、黒人の中には巨万の富を築いた者もいれば、下院議員に選出した者もいました。運と環境と努力次第で、指導的立場に就く者もいたのです。

 久米はそのことに着眼し、次のように述べています。

 「皮膚の色と知能の優劣は無関係であることははっきりしている。だからこそ有志の人々は黒人教育に力を尽くし、学校を作るのである」(※ 前掲。p.232-233.)

 人は誰しも自由で平等であり、基本的人権は守られなければならないというのが、ジョン・ロックの考えでした。それに基づいているのが独立宣言であり、アメリカ建国の精神でした。

 現地でそれらを見聞した久米は、基本的人権を踏まえた国家と国民との関係は、社会契約と概念を介在させることによって成立すると理解したのでしょう。だからこそ、そのような関係は教育によってこそ維持することができ、実践することができるのだと思ったのではないかという気がします。

 使節団一行は、近代国家としての制度整備をしていかなければならない責務を担っていました。それだけに、奴隷制を巡る一連の事例から、教育の重要性を汲み取ったことでしょう。中には、国家と国民との関係を、社会契約として捉える視点の重要性を感じ取った人もいたかもしれません。(2024/1/12 香取淳子)

岩倉具視幽棲旧宅⑩:使節団はアメリカで何を見たのか(5)星条旗と奴隷制

■アメリカ合衆国、初めての国旗

 1783年9月3日、パリ条約(Treaty of Paris)が締結されました。アメリカ合衆国が、イギリスから独立した国家であることが正式に認められたのです。1775年4月19日に始まった独立戦争がようやく終結したことになります。

 独立国家と認められたからには国旗が必要になりますが、実は、パリ条約以前に、アメリカ合衆国の国旗は作られていました。国家として正式に承認される前、つまり、まだ独立戦争の最中に、独立の象徴としての国旗が作られていたのです。

こちら →
(※ https://americancenterjapan.com/aboutusa/monthly-topics/1953/、図をクリックすると、拡大します)

 これを見ると、左上の隅に英国旗「ユニオン・ジャック」がレイアウトされ、それ以外の部分は、赤白13本のストライプが使われています。ジョージ・ワシントン(George Washington, 1732 – 1799)がデザインし、「グランド・ユニオン」と呼ばれた国旗です。独立戦争が始まった翌年の1776年1月1日に大陸軍本部に掲げられました。

 アメリカはまだ本国イギリスと戦っている最中でした。それなのに、自分たちで作った国旗を本部に掲げていたことからは、人々の団結心を高め、戦意高揚を図ろうとしていたことがうかがい知れます。

 英国旗を取り囲むように、アメリカ植民地13州をシンボリックに配したデザインでした。

 それから約半年後の1776年7月4日、第2回大陸会議で、独立宣言が採択されました。もちろん、この時もまだ本国イギリスを戦っている最中でした。

 独立宣言の冒頭には、「すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている」と述べられています。

 独立宣言の執筆を担当したジェファーソン(Thomas Jefferson, 1743 – 1826)が、自然権と個人の自由という理念を重視していたからでした。だからこそ、彼は17 世紀の哲学者ジョン・ロック(John Locke FRS, 1632 – 1704年)らが提唱していた理念を踏まえ、これらの文言を起草したのです。

 さらに、彼は英国に対する種々の苦情を列記し、なぜ母国イギリスから完全に独立しようと決断したかを正当化していました。まさに独立不羈の精神を貫き、本国イギリスに対峙していたことを示したのです。

 それだけに、片隅とはいえ、英国旗ユニオン・ジャックがアメリカ国旗にレイアウトされていることには違和感がありました。おそらく、当時のアメリカ人もそう思ったのでしょう。翌年、このデザインは変更されました。

■星条旗に込められた建国の精神

 1777年6月14日、フィラデルフィアで行なわれた第2回大陸会議の海事委員会で、アメリカ合衆国の国旗として制定されたのが、この星条旗です。

こちら →
(※ https://www.y-history.net/appendix/wh1102-029_1.html 図をクリックすると、拡大します)

 新しいデザインは、ユニオン・ジャックを削除し、青地に13個の白い星を円形に配したものでした。独立のために立ち上がった13州を、星と赤と白の横線で表現したのです。

 このデザインについてワシントンは次のように述べたと伝えられています。

「星は天から与えられたもの、赤は母国を表す。その赤を分離する白のストライプは、われわれが母国から分離したことを表す」
(※ https://americancenterjapan.com/aboutusa/monthly-topics/1953/)

 ようやく出来た国旗ですが、一見してこのデザインが、私たちが見慣れたアメリカ国旗とは異なっていることがわかります。この時もまだ本国から独立を勝ち取っていたわけではありません。

 1776年の国旗との違いは、ユニオン・ジャックの代わりに、青地に13個の白い星が円形にレイアウトされていることでした。独立を目指して戦っているアメリカ13州を強調したものに変更されていたのです。

 現在の星条旗はこちらです。1960年7月4日に更新されました。

こちら →
(※ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%88%E8%A1%86%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%9B%BD%E6%97%97 図をクリックすると、拡大します)

 星が円形ではなく、横一列に6個の星と5個の星が交互に9段、並べられています。青地に合計50の星が表現されているのです。なぜ、50の星が表現されているかといえば、1959年8月にハワイがアメリカの州に昇格され、州の数が50になったからでした。その結果、1960年7月4日に星の数が変更されたのです。

 このデザインは27代目ですから、それまでに26回もデザインが更新されたことになります。もっとも変更の多いのがアメリカ合衆国の国旗だと言われる所以です。

 さて、アメリカ合衆国の星条旗は、星と赤と白の横線で構成されています。当初、加盟州が加わるたびに、星と横線が追加されていました。やがて、横線を増やすことが難しくなったので、1818年に、横線は独立当時の13本に固定することにしたという経緯があります。

 その後、加盟州が増えれば、翌年の独立記念日(7月4日)に星だけを増やすという方法が取られ、現在に至っています。

 さて、星条旗は、白、赤、青で色構成されています。

 白は純粋と純潔を表し、赤は逞しさと勇気、そして、青は警戒と忍耐と正義を表すとされています(※ 前掲URL)。

 アメリカ合衆国の国旗には、純粋で逞しく、勇気をもって生きることを目指す一方、警戒心を緩めず、忍耐強く、正義感に満ちた振舞を望ましいものとする建国時の精神が表現されているといえます。

 生きることに絶望していた人々にとって、この国旗は大きな希望でした。国内であろうと、国外であろうと、多くの人々は、アメリカの国旗に、独立不羈の精神、チャレンジ精神、革新の精神を見ていたのでしょう。

 その後、自由と独立を標榜するアメリカに、移民が続々と押し寄せてきました。故国で生活できなくなった人々や、圧政に苦しむ人々、そして、自由を求める人々が、アメリカを目指してやって来たのです。

 当時のアメリカには、大挙して押し寄せてきた移民を受け入れる余裕がありました。広大な国土を整備し、資源を活用し、開発するために、大量の労働力が必要だったからです。双方の思惑がマッチして、しばらくの間、移民の流入が続きました。

 やがて、アメリカに不況の兆しが見え始めると、一転して、移民を排斥する動きが起こりました。自由の国アメリカとはいえ、いつまでも移民を無差別に受け入れるはずがなかったのです。

■移民政策

 独立直後は、イギリス周辺からの移民が多かったのですが、その後、ヨーロッパを中心に移民が増えていきました。やがて移民に規制がかけられるようになり、1790年に制定された帰化法(The Naturalization Act of 1790)では、「自由な白人(Free white men)」に限定して帰化が認められました。

 国内の整備が進むにつれ、先着移民の意向を受け、新規に流入してくる移民を選択するようになったのです。

 1790年といえば、アメリカで初めて国勢調査が行われた年です。当時、人口は約400万人でした。
(※ https://academic-accelerator.com/encyclopedia/jp/demographic-history-of-the-united-states)

 当時、アメリカの人口は、たった400万人だったというのです。巨大な国土に対し、あまりにも人口が少ないのには驚かされます。どれだけ移民を受け入れても十分ではないと思えますが、当時のアメリカ人はそうではなかったようで、帰化するためのハードルを高く引き上げました。

 当時のアメリカは、なによりもまず、労働力を必要としていたはずです。資源を活用するには、大量の労働者が必要だったからです。出身国を問わず、誰もが力を出し合い、協力しあい、新国家を建設していかなければならない時期でした。

 ところが、入国してきた移民に対し、当時の為政者は、アメリカ国民になるには、「自由な白人」でなければならないという規制をかけたのです。

 労働力需要が高かったにもかかわらず、このような規制を賭けた背景には、非白人をアメリカ国民として受け入れることへの強い反発があったと思われます。当初、アメリカはイギリスを中心としたヨーロッパからの移民で占められていました。先着した彼らの心情が強く反映された法律だったといえます。

 久米はアメリカの移民について、次のように記しています。

 「1820年から70年までの51年間に外国人の移民は750万人を数えた。そのうち最も多いのは英国からの移民であり、次いでドイツ人である。また早い頃からアフリカから黒人奴隷を輸入して使ったので、黒人は全人口の7分の1に達するほど多い」と述べています。
(※ 久米邦武編、田中彰校注、『特命全権大使 米欧回覧実記』1、1999年:初版1977年)、岩波書店、p.56.)

 アメリカには独立以前に、アフリカから強制的に連れてこられた人々がいました。1640年代から1865年に至る間に、アフリカから連れてこられた人々とその子孫たちです。彼らは合法的に奴隷化され、肉体労働者としてアメリカ社会に組み込まれていました。南部のプランテーションを中心に、奴隷制度が定着していたのです。

 本国イギリスに対し、アメリカは自由と独立を求めて戦いました。激戦の結果、ようやく独立を手にしたアメリカですが、実は、はるか以前から、アフリカ人を奴隷として売り買いし、強制労働をさせてきた歴史がありました。長年に亘って、アフリカ人の自由と独立を侵害するという矛盾をアメリカは犯していたのです。

 その奴隷制が、1820年頃には岐路に差し掛かっていました。

 1819年の時点で、アメリカには22の州がありました。その内訳は、11が奴隷州(南北戦争以前に奴隷制を認めていた州)、11が自由州(南北戦争以前に奴隷制を禁止していた州)でした。両勢力が拮抗していたのです。

 時代が下るにつれ、アメリカ全般に、奴隷制反対の感情が強まっていきました。北部ではすでに奴隷制は禁止された州がありましたし、急速に消滅しつつある州もありました。

 ところが、南部では逆に、綿花需要の高まりとともに、プランテーションでの黒人奴隷労働への依存が強まっていました。奴隷制を禁止するか否かは、地域産業の盛衰ともかかわる大きな問題になっていたのです。

 たとえば、南部では南北戦争前の時点で、4軒に1軒が奴隷を所有していたといわれています。南部では農園等の労働力として黒人が必要とされていたのです。黒人の95%が南部に住み、南部人口の3分の1に達していました(※ Wikipedia)。

「奴隷を所有」という表現に示されているように、黒人奴隷は家畜と同様に扱われていました。そして、彼らを多く所有すればするほど、富者であることの証とされていたのです。

■奴隷州と自由州

 アメリカには、奴隷制を禁止している州(自由州)と、奴隷制を維持したままの州(奴隷州)が存在しました。

 奴隷州と自由州との区別は、経済基盤を奴隷労働に依存している州なのか否かで判断されていました。奴隷労働に依存しなくてもいい経済体制の北部の諸州と依存せざるをえない南部の諸州との間で、利害対立が先鋭化しはじめました。

 相互の利害対立の緩和を図るため、1820年に成立したのが、「ミズーリ―協定」です。

 このミズーリ協定では、北緯36度30分よりも北に新設される州を自由州、南に新設される州を奴隷州とするという内容でした。緯度で北部と南部とに区分するもので、合意を得るための手段です。まさにアメリカ合衆国の政治的安定を図るための方策でした。

 1849年ごろの奴隷州と自由州の構成図を見つけたので、ご紹介しましょう。

こちら →
(※ https://history-link-bottega.com/archives/36030392.html 図をクリックすると、拡大します)

 上図のうち、青は自由州、赤は奴隷州、灰色部分は州に昇格していない地域を示しています。グリーンの線が、ミズーリ―協定で設定された北緯36度30分線です。

 興味深いことに、北緯36度30分以北にありながら、奴隷州を区分けされている州がいくつかあることに気づきます。実は、それらは、「ミズーリ協定」以前にすでに奴隷州として区分けされた州でした。それが、協定成立以降もそのまま踏襲されているのです。

 ところが、それらの州とは違って、このミズーリ州は北緯36度30分以北にあるにもかかわらず、奴隷州とされています。それは、ミズーリ―州を奴隷州と認める一方、奴隷制禁止を唱えるメイン州を自由州とするためでした。両派のバランスを図るため、このような変則的な区分けがされていたのです。アメリカ合衆国議会が、奴隷州と自由州の数をほぼ均等にし、政治的安定を図っていたことがわかります。

 久米は、「1820年から1870年までの51間に移民は750万人を超えた」と書いていますが、この1820年という年は、アメリカ合衆国議会で、奴隷制擁護派と反奴隷制派との間で協定が成立した年もありました。

 そして、移民は1820年以降も、増加し続けました。綿花栽培への需要が急速に高まったのに伴い、労働力需要が伸びたからです。綿花生産量は大幅に延び、1820年には総輸出額に占める綿花輸出の割合は32.01%であったのが、1860年には57.5%にも達していました。
(※ 小川晃、「アメリカ南部の綿プランテーションと黒人奴隷」、『横浜商大論集』第4巻1号、1970年、p.17.)

■アメリカ社会に定着していた奴隷制

 当初、ヨーロッパからの移民とアフリカから連れてこられた奴隷は共に、綿花や砂糖などのプランテーション経済を支えていました。ヨーロッパからの移民とはいえ、アメリカに到着したばかりでは働き口が限られていました。手っ取り早く仕事に就けるのは、プランテーションでの労働でした。

 到着したばかりの移民を描いたウィンスロー・ホーマー(Winslow Homer, 1836-1910)の作品があります。ご紹介しましょう。

こちら →
(※
https://www.meisterdrucke.jp/fine-art-prints/Winslow-Homer/768645/1857%E5%B9%B4%E3%80%81%E3%83%9C%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%B3%E3%81%AE%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%86%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%95%E3%81%B8%E3%81%AE%E7%A7%BB%E6%B0%91%E3%81%AE%E5%88%B0%E7%9D%80%E3%80%82.html 図をクリックすると、拡大します)

 ボストンに到着したばかりの移民と、出迎える人々が写実的に捉えられています。家族なのでしょうか、駆け寄って抱き合うシーンが情感豊かに描かれています。男性はシルクハットを被り、女性はスカーフで頭部を覆っています。どうやらヨーロッパからの移民のようです。

 この絵のように移民は次々と、アメリカに押し寄せてきましたが、白人は単調で過酷な労働を厭い、年季が明けると早々に、他の労働に移動していきました。その結果、綿花栽培などの重労働にはもっぱら黒人奴隷があてがわれるようになりました。

 実は、それ以前から、アメリカ経済を支えるために、黒人奴隷はなくてはならない存在になっており、奴隷制として合法的に制度化されていました。

 ヴァージニア州の議会は、1601年に黒人を終身奴隷といて白人奉公人とは違う身分にする法律を制定しました。その後、同様の法律が次々と他の州でも採用され、独立戦争の頃には、黒人奴隷が制度化され、所有者の財産として法律的に認められるようになっていました(※ 前掲。p.24.)。

 すでに17世紀初頭にアメリカは、経済基盤を安定させるため、奴隷への強制労働を合法化し、奴隷制度を定着させていたのです。以来、取り立てて異議を唱える者もなく、奴隷取引は19世紀後半まで続いていました。

 久米は、奴隷取引が近年まで続いていたことについて、「言語道断」であると感想を述べています(※ 前掲。p.231.)。

■久米がワシントンで見た、奴隷の絵

 ワシントン滞在中に久米が驚いたことがありました。それについて、次のように記しています。

 「ワシントン市内の画商の店で、黒人が縛られて座らされているかたわらに白人が銃を持って並び立ち、一方、密林内では黒人を追い立てている様子を描いた油絵を見た。これは何の図かと尋ねたところ、アフリカで奴隷狩りをしているところだという答えであった」
(※ 前掲。p.230.)

 日本では想像もできないような西洋社会の一側面を、久米はその絵画の中に見たのです。どれほど驚いたことでしょう。

 画面では、アメリカの独立宣言に盛り込まれた自然権や個人の自由といった基本的権利がまったく蔑ろにされていました。自由の国アメリカと称賛された高邁な理念が、その絵には微塵も見られなかったのです。

 自由平等の建国理念を好ましく思っていただけに、久米が大きなショックを受けたのも無理はありません。アメリカ合衆国の建国理念とはあまりにもかけ離れた内容の絵でした。

 絵を見たことがきっかけとなって、久米は徹底的に調べました。

 その結果、奴隷狩りの多くが、アフリカの西北部、大西洋に面して曲折した湾岸一帯から地中海沿岸のバーバリー海岸に至るまで、幅広く行われていたことを知りました。さらに、このような事業を行っていたのはもっぱらヨーロッパであり、最も盛んだったのがスペイン、ポルトガルであったことも知りました。

 具体的な奴隷狩りの方法について、久米は次のように述べています。

 「彼ら奴隷業者がアフリカに行って、「ネグロ」狩りをすると、「ネグロ」は恐れて叢林に逃げ潜むのだが、奴隷業者たちは隊伍を整え部署を定めて、追いかけてこれを捕らえ、本営に送って人数を数え、船の暗い船倉いっぱいに押し込む。それはまるで羊や豚を囲い込むかのようであった」(※ 前掲。pp.230-231.)

 ヨーロッパの業者はまさに動物を追い込み、生け捕りにする方法でアフリカ人を捕え、輸送し、売買していたのです。人間としての扱いとは程遠く、もちろん、彼らがアフリカ人の気持ちを気に掛けることもありませんでした。

 当時の様子を描いた絵を見つけましたので、ご紹介しましょう。

こちら →
(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:AfricanSlavesTransport.jpg 図をクリックすると、拡大します)

 いつ頃、描かれた絵なのかわかりませんが、現地では日常的に、このような光景が見られていたのでしょう。子どもや女性は縄で縛られて繋がれ、成人男子はさらに、木材で首を繋がれ、縦一列になって行進させられています。痛みを与え、逃げ出せないようにしているのです。

 久米は、言葉も出ないほど驚きます。

 そして、次のように述べています。

 「そもそもヨーロッパは強く荒々しい習俗を持っている。奴隷を使う悪習はエジプト、ギリシャ、ローマの時代に起源があり、西暦1500年代のはじめからスペイン、ポルトガル、イギリス、オランダの諸国が競って航海と植民を行い、黒人奴隷を買い入れては植民地に輸送することが一時おおいに行われた。これを英語で「スレイブ」という。日本語に訳せば「奴婢」であろうけれども、その扱いの残酷なことは、むかしの「奴婢」への扱いをはるかに超えている」(※ 前略。p.230.)

 日本では見たことも聞いたこともなかった人間の取り扱いを知って、久米は戸惑いました。

 奴隷の絵を見たときは、これが、個人の自由と平等を謳い上げたアメリカ国民のすることなのか・・・と憤っていました。ところが、色々調べてみると、奴隷に対する非人間的で、残酷な扱い方は、もっと根深いもので、ヨーロッパ文明に根付いたものではないかという考えに至ります。

■東洋と西洋の人間観の違い

 漢籍の素養がある久米は、中国の古典を引き合いに出し、次のように述べています。

 「中国においては市場をつかさどる役人に、人間を牛馬と同様に売買することを禁じたと『周礼』にあるが、ヨーロッパでの奴隷取引は、近年までこのように続いていたとは、言語道断なことである」(※ 前掲。p.231.)

 かつて、中国にも奴隷のような存在はいました。おそらく、人間を売り買いしたこともあったのでしょう。ところが、それを知った賢者が進言して、為政者は禁止しました。すでに紀元前には奴隷の売買を禁止するルールが策定されていたというのです。

 『周礼』は「しゅらい」と読み、儒教経典(十三経)の一つで、『礼記』『儀礼』とともに「三礼」を構成する書物です。 紀元前11世紀に周公旦が作ったといわれ、また、前漢代に劉歆が作ったともいわれています。その内容は、周王朝の「礼」、すなわち習俗や政治制度などについて記されており、戦国時代以降の儒者にとって理想的な制度とみなされていました(※ Wikipedia)。

 戦国時代とはいえ、人間としての最低限の尊厳は守ろうとする節度が中国には存在し、それが制度化されていたことがわかります。

 ワシントンで奴隷の絵を見た久米は、すぐさま、この『周礼』を思い起こしていました。

 欲望や利害損得に駆られ、ともすれば、非人間的な行動を取りがちな人々に対し、人間の尊厳という観点から、戦国時代の中国では規制が設けられていたことを思い起こしたのです。改めて、東洋社会の素晴らしさをかみしめていたのかもしれません。

 一方、ヨーロッパでは近年に至るまで奴隷制度が存在していました。人種が異なれば、もはや人間とはみなさず、動物を扱うように人間の売り買いが行われていたのです。もちろん、人間としての尊厳をおもんばかることはなく、ひたすら利益を追い求めて、人間を奴隷として売買していたのです。野蛮極まりない行為であり、差別的な人間観に基づく行為でした。

 久米は近代国家であるはずのアメリカ、しかも、政治の中枢であるワシントンで、奴隷を描いた絵を見ました。文明国であるはずのアメリカで、非文明的な絵を見たのです。以来、久米は、東洋と西洋では人間観に大きな違いがあると感じていたように思えます。

 アメリカの奴隷制の歴史を紐解いていった結果、久米は、その背後にアメリカよりもヨーロッパ文明そのものに、人間を非人道的に扱う由来があるのではないかという考えに達していました。

 古くはギリシャ・ローマに始まり、スペイン・ポルトガル、オランダ、そして、イギリスに至る国々が、国境を越えて搾取する経済の仕組みを構築してきたと、久米は理解していたのです。西洋が作り上げてきたのは、弱肉強食の世界であり、技術力の差による収奪構造を基盤とする社会でした。

 それに反し、東洋にはそのような伝統はなかったとし、久米は、儒教の経典の一つである『周礼』の一節を紹介しています。人間に対する非人道的な扱いを戒める生活哲学があったことを久米は指摘しているのです。

 久米は漢籍に造詣が深かっただけに、西洋社会と東洋社会を比較して捉えることのできる視点と、社会全体を俯瞰できる視野の広さを持ち合わせていました。西洋文明を複眼で捉えることができただけに、この一件から、西洋社会に優れたものがあることを認めたとしても、すべてを容認することは出来ないと、久米は思ったことでしょう。
(2023/12/26 香取淳子)

岩倉具視幽棲旧宅⑨:使節団はアメリカで何を見たのか(4)移民の国アメリカの建国理念

■一行は一路、東へ

 岩倉使節団一行は、完成して間もない大陸横断鉄道に乗って、西から東に移動しました。サンフランシスコ市を発って、オークランドを経由し、サクラメントに着いたのが、1872年1月31日でした。そこからセントラル・パシフィック鉄道に乗り込み、一路、東に向かいます。ソルトレークシティを経て、シェラネバダ山脈、ロッキー山脈を越え、シカゴを経由して、ワシントンに着いたのが、1872年2月29日でした。
(※ https://www.jacar.go.jp/iwakura/map/america.html#a2

 一か月間に亘る行程の中で、一行にとって最も印象深かったのが、シェラネバダ山脈、ロッキー山脈を越えでした。アメリカ大陸を南北に走る大きな山脈です。西から東に向けて移動する際の大きな関門を、一行は列車に乗ったまま横断したのです。

 車窓からは、木々もまばらな岩石だらけの山並みが続くのが見えます。雪が降りしきる中、列車は迂回しながら渓谷を渡り、高みをめざして登っていきます。傾斜は次第にきつくなり、終には、機関車を増結しなければ動かなくなるほどでした。

 スノー・シェッドといわれる雪除けの屋根の下を、列車はゆっくりと走り抜けていきます。シェラネバダ山脈越えの最高地点がサミット駅でした。海抜2100メートル、四方を高山に囲まれており、駅舎は半ば雪に埋もれているようなところでした。

 とうてい線路を敷設できるとは思えないような峻厳な山並みを、縫うように列車は走り抜けていきました。固い岩盤をダイナマイトで爆発し、切り拓いて内部を掘削して整備し、トンネルを通したから可能になった線路です。

シェラネバダ山脈、ロッキー山脈を越えの線路敷設のための過酷な労働を担ったのは中国人でした。

■中国人労働者の辛苦

 大陸横断鉄道のもっとも高い位置に設置されているのがサミット駅です。その周辺のトンネルで働く中国人労働者が撮影されていました。スタンフォード大学図書館の特別コレクションの中に保存されている写真です。

こちら →
(※ Alfred H. Hart撮影、1862-1869, Department of Special Collections, Stanford University Libraries.図をクリックすると、拡大します。)

 落石等の危険から身を守ることもできないほどの軽装で、危険な仕事に向かっている中国人労働者の姿が撮影されています。

 担いだ天秤棒の両端から、円筒形の缶がぶら下がっています。岩を爆破するためのダイナマイトでも運んでいるのでしょうか。周囲一帯は巨岩で覆われ、足元には大小さまざまの石の破片が散乱しているのが見えます。

 巨岩を爆破すれば、多くの破片が飛散します。それらに当たって怪我をした人がいたでしょうし、ひょっとしたら、亡くなった人もいたかもしれません。トンネルを掘るために、どれほどの犠牲を払わなければならなかったのか、想像するだけで胸が痛みます。

 限りなく危険で、困難を極めた作業がトンネル工事でした。それを請け負ったのが、中国人労働者だったのです。労働内容が苛酷であったにもかかわらず、賃金は白人よりも安価で、待遇も良くありませんでした。

 彼らの待遇を示す写真がありました。先ほどの写真と同様、これもスタンフォード大学図書館の特別コレクションの中に保存されています。

こちら →
(※ Alfred H. Hart撮影、1862-1869, Department of Special Collections, Stanford University Libraries.図をクリックすると、拡大します。)

 線路脇に多数の簡易テントが張られています。テントの合間にちらほら人影が見られ、洗濯物が干されているのがわかります。撮影されているのは中国人労働者のキャンプです。セントラル・パシフィック鉄道の労働者たちはここに住み込み、ひたすら仕事をしていたのです。

 左の線路は行き止まりになっており、右にカーブしている線路にはまだ枕木がありません。建設途中の線路なのでしょう。辺り一帯にはテントと列車以外に何もなく、ただ岩石ばかりが目立ちます。

 キャプションを見ると、砂漠にある線路と書かれていました。人も動物も住まないような荒涼とした場所なのです。そんなところで、簡単なテントで雨露をしのぎながら、中国人労働者たちは働いていました。

 十分に雨露をしのげたのかどうか、寒さ暑さに耐えることができたのかどうか、さらには、食料が十分に供給されていたのかどうか・・・、気になることばかりです。この写真を見るだけで、労働者たちのさまざまな辛苦がしのばれます。

 中国人労働者たちは、このような劣悪な環境に耐え、苛酷な労働に心身をすり減らしながら働き、かろうじて生きていたのです。

 当時、渡米した30万人の中国人労働者の大部分は広州の出身者だったといいます。アヘン戦争の余波を受け、苛酷な状況下で、故郷を捨てざるをえなかった人々です。彼らが生きのびるために選んだ移住先がアメリカでした。

■白人労働者から排斥される中国人労働者

 1848年にサクラメント渓谷で金鉱が発見された後、カリフォルニアはゴールドラッシュに沸いていました。一攫千金を目指し、国内から大量にカリフォルニアに移住しただけではなく、海外からも数多くの移民が殺到しました。中国からの移民も1850年代以降、急速に増えています。

 中国人たちはまず、金鉱労働者として働きました。やがて、金鉱での労働需要が減少すると、鉄道労働者として働きました。その後も増え続けた中国移民は、タバコ製造、繊維加工、漁業、農業などで肉体労働者として働く一方、都市部で食堂や洗濯業などのサービス労働も担っていました。いずれも低賃金で雇用されていました。
(※ 堀井武「十九世紀アメリカにおける中国人労働者」、『高円史学』第5号、1989年、 pp.19-23.)

 1870年には6万3千人余りだった中国移民は、1980年には10万5千人を超えるほど増えました。その83%がカリフォルニア州を中心とする西海岸に集中しており、男性が圧倒的に多く、広東省や福建省出身者が大部分を占めていました。

 彼らは白人よりも低い賃金でよく働き、雇用者からは重宝がられていました。ところが、それが白人労働者の仕事を奪うことになり、彼らから反感を買っていました。1880年代にアメリカが経済不況に陥ると、その傾向はさらに顕著になり、白人労働者の中国人労働者に対する排斥運動が拡大していきました。

 前々回にご紹介したように、カリフォルニア州を中心に、陰惨な暴力事件が多発するようになりました。

 中国人移民たちはやがて、白人からの危害を回避するため、都市部に居住区を作り、固まって住むようになりました。いわゆる中国人ゲットーです。地価が安く、貧しく、危険な地域に作られましたが、それでも白人との距離を保ち、危害を避けることには役立ちました。このゲットーが今日のチャイナタウンの起源となったのです。
(※ 和田修一、「アメリカへの中国移民とチャイナタウンの発展:その歴史と比較・分類枠組み」、『平成国際大学研究所論集』12号、2012年、pp.65-66.)

 中国人移民は、大陸横断鉄道の建設労働者として大きな役割を果たしてきました。アメリカの近代化、経済の活性化に大きく貢献してきたといえます。ところが、鉄道が完成すると、手のひらを返すように、排斥されるようになりました。チャイナタウンを作って、アメリカ社会の中に居場所を見つけ、迫害を回避して生き延びざるをえなかったのです。

 使節団一行が訪米した頃はまだ、中国人排斥運動はそれほど大きな動きになっていませんでした。

■移民によって作られたアメリカ

 久米はアメリカの人種構成について、次のように認識していました。ちょっと長くなりますが、引用してみましょう。

 「この国の人民は最初イギリス、フランスから、次いでオランダやデンマークなどの諸国から渡って来て国土を開いた。一時イギリスの属領となり、のち離反して独立した時の人口はわずか500万であった。それが100年間で7倍にも達したのは、外国からの移民が多いためである。1820年から70年まで51年間に外国人の移民は750万人を数えた。そのうち最も多いのは英国からの移民であり、次いでドイツ人である。また早い頃からアフリカから黒人奴隷を輸入して使ったので、黒人は全人口の7分の1に達するほど多い。中部にはインディアンがおり、西部では清国人が労役についている。人種構成の多様で複雑なことは、それこそアメリカにはあらゆる人種がいるといってよいほどである」
(※ 久米邦武編、田中彰校注、『特命全権大使 米欧回覧実記』1、1999年(初版1977年)、岩波書店、p.56.)

 久米はアメリカがイギリスから独立した際の人口は500万だと記していますが、実際は、もう少し少なかったようです。

 アメリカが独立宣言をした後、1790年に第1回目の国勢調査が行われましたが、その時の人口は393万9214人でした。

 その後、アメリカの人口は急速に増えましたが、その原因は自然増ではなく、移民による増加でした。1860年の国勢調査では3144万3321人になっていました。
(※ 木城精二、「アメリカの発展:独立から南北戦争まで」、『Mukogawa Literary Review』No.50, 2013年3月、p.51.)

 第1回目の国勢調査から70年後、アメリカの人口は約8倍にも及んでいたのです。木城氏が指摘するように、自然増ではなく、移民による急増でした。

 この期間の移民はドイツ、イギリス、スカンジナビア、アイルランドなどヨーロッパからがほとんどでした。1848年のドイツ革命に伴う政治的難民、あるいは、飢饉の発生や生業の衰退など、移民にはそれぞれ、やむを得ず祖国を離れざるを得ない事情がありました。

 ヨーロッパからの移民の多くが、移住先としてアメリカを選びました。アメリカ大陸は広くて大きく、誰にも妨げられない自由があると思われていたからでした。彼らにとって、祖国を捨ててしまえるほど、アメリカには大きな魅力があったのです。

 アメリカは本国イギリスと戦って独立し、新たに合衆国としてスタートした移民の国でした。

 アメリカ東部13の植民地は単にイギリスから独立を勝ち取っただけではありませんでした。独立宣言を起草し、アメリカ合衆国の建国理念として、自由・平等・博愛を掲げ、それらが法の下で万民に保障されると謳って建設された、新しい国家でした。

 独立宣言には、基本的人権・国民主権が盛り込まれていました。「全ての人間は平等に造られている」と唱え、侵してはならない権利として、「生命、自由、幸福の追求」が挙げられていました。
(※ https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E5%AE%A3%E8%A8%80 現代語訳部分参照)

 祖国で苛酷な生活を強いられてきた人々にとって、この独立宣言の文言はまさに光明ともいえるものでした。

■独立宣言

 北アメリカ東部沿岸には、イギリス領の植民地が13ありました。イギリス本国の高圧的な植民地経営に対し、13州の自治意識が高まって開催されたのが、大陸会議です。第1回は1774年9月から10月にかけて開催されています。この時、イギリス国王ジョージ3世に対する陳情書である「権利宣言」、そして、王権に対する苦情の一覧が作成されました。これが独立宣言の原案になっています。
(※
https://americancenterjapan.com/aboutusa/translations/2547/#:~:text=1774%20%E5%B9%B49%20%E6%9C%885,%E5%AE%A3%E8%A8%80%E3%80%8D%E3%81%8C%E4%BD%9C%E6%88%90%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%80%82

 ボストン北西の郊外のレキシントンで、1775年4月19日、イギリス軍が植民地の民兵に銃声を放ったのが、独立戦争の発端となりました。

 その後も本国との軋轢は続き、やがて戦火の火蓋が切られます。

 イギリス軍が、アメリカ植民地の民兵部隊の武器庫の接収を行った際、植民地民兵隊と武力衝突したのです。レキシントンとコンコードで激しい戦闘が行われ、植民地軍はイギリス軍を撃破しました。規模こそ小さい戦いでしたが、独立戦争の初戦を飾るものとなりました(※ Wikipedia)。

 戦争が始まった当初は、アメリカには職業的な陸軍も海軍も無く、各植民地には地元の民兵部隊が存在するだけでした。開戦時、この民兵隊のほぼ全てがアメリカ大陸軍に加わりましたが、民兵の装備は簡単なものでした。通常の制服も無く、ほとんど訓練されてもいませんでした。

 しかも、当時、民兵の従軍期間は数週間から数か月間に限られており、彼らは家から遠く離れた所へは行きたがりませんでした。正規兵のような訓練や規律が欠けていただけではなく、戦意の面でも支障があり、大規模な作戦に民兵を使うことはできませんでした。

 1775年6月、組織だった作戦行動をとるため、大陸会議は正規軍を設立し、ジョージ・ワシントン(George Washington, 1732 – 1799)を総司令官に任命しました。1775年10月13日にはアメリカ海軍が発足し、4隻の武装船の購入および艤装が認められました。原動機や船室内外の各種装備を船体に取り付けられるようにしたのです。アメリカ海兵隊の前身である大陸海兵隊も1775年11月10日の大陸会議の決議により結成されました(※ Wikipedia)。

 13植民地の代表は1776年7月4日、一堂に会して第3回大陸会議を開催し、全会一致でアメリカ独立宣言を採択し、アメリカ合衆国を設立しました。

 その時の様子を、ジョン・トランブル(John Trumbull, 1756-1843)が描いた有名な作品があります。タイトルは《Declaration of Independence》(1819年)です。ご紹介しましょう。

こちら →
(油彩、カンヴァス、366×549㎝、1819年、National Portrait Gallery 図をクリックすると、拡大します。)

まるで写真撮影をしたかのように、会議場の人物がリアルに表現されています。大勢の人物を描きながらも、それぞれの特徴がしっかりと捉えられています。おかげで、当時の様子をありありと思い浮かべることができます。貴重な記録です。

これらの人物に番号を振って、名前を書き込んだ図がありました。これもあわせて、ご紹介しておきましょう。

こちら →
(※ Wikimedia, 図をクリックすると、拡大します。)

 ここに名前が記載されているのは47人ですが、名前の後ろに、出身地が記されています。

 出身地で多いのは、順に、ペンシルベニア(8)、ニューヨーク(6)、マサチューセッツ(5)、サウスカロライナ(4)、ニュージャージー(4)、コネチカット(4)、ヴァージニア(3)、メリーランド(3)、ジョージア(2)、デラウエア(2)、ノースカロライナ(2)、ニューハンプシャー(2)、ロードアイランド(2)でした。

 これをみると、確かに、アメリカ東部13の植民地から、代表が集まっていたことがわかります。人口規模に比例しているのでしょうか、植民地によって出席人数に違いがあります。8名出席しているところもあれば、2名のところもあります。

 集まった代表は、皆いっせいに、画面中央を見ています。

 彼らが見ているのは、独立宣言起草委員会の委員5人が、宣言書を大陸議会議長であるジョン・ハンコックに提出している光景でした。この作品の中心部分です。

 大きなテーブルの前に座っているのが、大陸会議議長のジョン・ハンコック(John Hancock, 1736 – 1793)です。テーブルをはさんだ向かい側に、独立宣言を起草した5人委員会のメンバーが立っています。

 画面に向かって右から、ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin, 1706 – 1790)、トーマス・ジェファーソン(Thomas Jefferson, 1743– 1826)、ロバート・R・リヴィングストン(Robert R. Livingston , 1746 – 1813)、ロージャー・シャーマン(Roger Sherman, 1721 – 1793)、ジョン・アダムス(John Adams , 1735– 1826)です。 

 そして、独立宣言を執筆したのは、ジェファーソンでした。ジェファーソンは、自然権と個人の自由という理念を重視したといわれています。17 世紀の哲学者ジョン・ロック(John Locke、1632 – 1704)らによって提唱されていた理念です。

 独立宣言の冒頭には、その理念を踏まえ、「すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている」と書かれています。

 書かれていたのは、理念や宣言だけではありませんでした。先ほども述べましたが、イギリス王権に対する苦情の一覧です。

 ジェファーソンは、イギリス本国に対する苦情を正式に列記していました。13植民地が本国から完全に独立しようと決断したことの正当性を示したのです。そうすることによって、この宣言書がきわめて合理的で、誰もが納得できる説得力のあるものになりえていました。

 この文書は、1776 年7 月2 日に大陸会議に提出されました。検討および討論の期間を経た上で、1776 年7 月4 日に決議されました。不満の残らないよう、充分な討議を経て決議に臨んだせいか、大陸会議では満場一致で、この独立宣言が採択されました。

 アメリカ合衆国は大きな犠牲を払いながらも、終には勝利を収め、1783年9月3日にパリ条約が締結されて、ようやく戦争が終結しました。イギリスはアメリカ合衆国の独立を正式に認めざるをえませんでした。

 こうして、アメリカの13植民地は本国に抵抗し、独立を勝ち取りました。人々に自主独立の精神があったからこそ、彼らは戦いに挑んだのです。その精神は、彼らがヨーロッパから、困難を顧みず、アメリカに移住してきたときから持ち合わせていたものなのでしょう。それこそ、建国時のアメリカを象徴する精神だといえます。

■久米邦武が見た、アメリカの国民性

 久米は、アメリカ社会の骨格を作り上げている国民性について興味深い見解を述べています。

 「イギリスの植民地であった時代からすでに、この国は自主的な人々が移住して仕事を興すための目的地になった。だからヨーロッパの自主の精神なるものは特にアメリカに集中した。彼らの仕事ぶりは非常に奔放であって、気力にあふれていた。イギリス本土の人々はそのことに気づかず、アメリカの植民地の人々もインドの民衆と同じように無気力であろうと考え、そこから利益をむさぼり取ろうとしたが、見事に失敗したのは、まことに当然である」(※ 前掲、p.261.)

 この記述からは、久米邦武がアメリカがイギリスから独立した経緯を把握していたことがわかります。さらに、イギリスの植民地となっていたインドが長年、イギリスから産品を搾取されている実態も知っていました。

 久米ら一行は、1872年2月29日に到着して以来、ワシントンに三カ月余り滞在していました。その間、さまざまなことを見聞きし、人から話を聞き、本を読み、アメリカ社会についての理解を深めていたのでしょう。日本にいては理解することのできない、イギリスの国際的な力を知ることになったのです。

 アメリカとインドは、当時、同じようにイギリスの植民地でしたが、一方は独立を勝ち取り、他方は唯々諾々と、植民地に甘んじていました。なぜ、そのような違いが起きたのか、考え巡らせた結果、久米は、独立できるか否かは国民性に起因すると判断していたようです。

 ヨーロッパから移住した人々は、ものごとを自主的に判断した結果、祖国を捨てて生きる場としてアメリカを選択したと久米はみていました。アメリカに渡って来た人々は、ヨーロッパの中でもとくに、未来を託して自主的に、生きる国を選び取る気概のある人々でした。

 気概と体力、意欲に溢れた人々だったからこそ、自主性を阻害し、権利を侵害するものがあれば、断固として抵抗したのだと久米は考えたようです。反骨精神に溢れた東部沿岸13州の人々が立ち上がり、イギリス本国に反旗を翻したのは当然のことでした。

■独立できなかったインド

 一方、インドの場合、1600年に設立されたイギリス東インド会社が1757年以降、インド全土への覇権を確立していました。貿易会社でありながら、インドを統治する行政機構の役割を果たしていたのです。交易を通してムガル帝国を形骸化し、なし崩し的にイギリスによるインドの植民地化が行われていました。

 インドの資源はイギリスに搾取され続けてきましたが、ムガル帝国はとくに反乱を起こすこともなく、支配され続けてきました。ところが、1857年5月10日にインド人傭兵のセポイが反乱を起こしました。「セポイの反乱」(1857-58)と呼ばれるものです。

 この傭兵団は上層カーストに位置するヒンドゥー教徒と上流階級のムスリム(イスラーム教徒)で構成されていました。

 彼らが反乱を起こした直接的な原因は、イギリス本国で新たに採用されたライフル銃の薬包に、ヒンドゥー教徒が神聖視する牛の脂とムスリムが不浄とみなしている豚の脂が使われていたからでした。防湿油として牛と豚の脂が塗られていたのです。

 この薬包を銃に装填するには、まず口で薬包の端を食いちぎって火薬を銃口から流し込まなければなりませんでした。それはセポイにとって、宗教的禁忌を冒すことを意味しました(※ Wikipedia)。

 反乱部隊は翌11日にはデリーに到着し、駐留していた他の部隊を味方につけて駐留イギリス軍を駆逐し、デリーを占拠しました。そして、ムガル皇帝を反乱軍の最高指導者にしたかと思うと、即、皇帝復権を宣言して対イギリス戦争開始を表明しました。

 当時の様子を描いた絵がありますので、ご紹介しましょう。

こちら →
(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:SepoyMutiny.jpg 図をクリックすると、拡大します。)

 この絵を見る限り、剣で闘っている者もいれば、銃を向けている者もおり、反乱軍も武器を持ち、双方、互角に戦っているように見えます。

 実際、セポイの反乱を機に、旧王侯、旧地主、農民、都市住民などの反英勢力が立ち上がり、宗教や階級の枠を越えて一斉に蜂起しました。彼らは一丸となって反旗を翻し、後にインド大反乱といわれるようになったほど大きな動きを引き起こしていたのです。

 ところが、全体を統率する有能な指揮官が欠けており、反乱は結局、失敗に終わりました。

 一方、イギリス軍は、反乱勢力の鎮圧に向けて組織を立て直し、攻勢を強めました。その結果、やがて反乱軍は劣勢となり、9月にはムガル皇帝はイギリスに投降せざるをえなくなりました。首都デリーでの反乱はわずか4ヶ月で終結したのです。

 その後、皇帝は有罪の判決を受けて廃位させられ、ビルマに流刑となりました。ムガル帝国は名実ともに消滅したのです。そして、反乱軍は見せしめのため、イギリス軍によって苛酷な刑に処せられました。

 イギリス政府は、この反乱の全責任を東インド会社に負わせて解散させ、インドを直接統治することにしました。1858年8月2日にイギリス議会でインド統治法(Government of India Act 1858)が通過し、施行されました。その後、1877年にイギリスのヴィクトリア女王(Victoria,1819 – 1901)を皇帝とするインド帝国の成立を宣言し、形式的にもイギリス政府がインドを統治することとなったのです。以後、イギリスのインド支配は1947年まで続くこととなります。

 世界各地でさまざまな民族と闘ってきたイギリスは敗者の扱いを心得ていました。ムガル帝国を消滅させたうえに、二度と反乱を起こさないよう、見せしめのため反乱軍を苛酷な刑に処しました。そして、インド統治法を制定し、イギリス女王を皇帝とするインド帝国を成立させました。イギリスに対する恐怖心を植え込む一方、反乱を起こせないようは制度整備をして徹底した統治機構を敷いたのです。

 こうしてみてくると、必ずしも、インドの人々が無気力で、唯々諾々とイギリスに従っていたわけではなかったことがわかります。この点に関してはどうやら、久米が誤解していたようです。

 私にはむしろ、百戦錬磨のイギリスが、卓越した異民族支配の仕組みを構築していたからだと思えるのです。

 ただ、反乱のきっかけが、宗教上の理由だったことを思い起こせば、アメリカの独立戦争とは明らかな違いがあります。インドの場合、本国との戦いは、自由を求め、自治を求めて立ち上がったわけではなかったのです。

■独立不羈の精神

 久米は、ヨーロッパからの移民を支える基本的精神の一つに自主性があったことを重視していました。そして、それこそが独立戦争を成功させる大きな要因であり、その後のアメリカ社会を築く礎になったと認識していました。

 そして、次のような指摘をしています。

 「米国はヨーロッパの人々の開墾地である。ヨーロッパで自主のたくましい精神を持つもの、自分の不羈独立の力を使って新しく生きる道をおおいに発展させたいと志すものは、何をするにもいかにもゆとりのある米国の広い土地に向かって開墾を試みたのである」
(※ 久米邦武、水澤周訳注、前掲。p.261.)

 自主性があり、独立心の旺盛な人々は、アメリカのような広大な土地で自由に夢をはばたかせたいと思ったに違いないと久米は考えました。そして、そういう人々だからこそ、いつまでもイギリスに隷属しているはずがなかったと分析したのです。

 久米は、なぜ、アメリカの国民性に着目するかについても述べています。

 「自主主義や共和主義の論議も、ヨーロッパでたいへん盛んではあるが、その多くは空論であって、その国の実状に即した論議ではない。ただアメリカのみは純粋の自主の民が集まって、真の共和国を作っている。その由来はもともと国を作ったときの精神から発しているのである。これこそ、アメリカ国情を理解しようとするものが着目すべき点である」
(※ 前掲、pp.261-262.)

 わずかな滞在期間中に、久米は、驚くほど的確にアメリカ人の国民性を理解していました。アメリカの国情を理解しようとすれば、まず、建国時の人々の精神に立ち返る必要があると判断していたのです。

 確かに、独立戦争に挑み、新しい国家を建設し、発展させてきた原動力は、当時のアメリカ人の独立不羈の精神にありました。

■移民の増加は国民性を変化させるか?

 この建国の理念、そして、当時のアメリカ社会に漲る独立自尊の精神に惹かれ、世界各地から移民が続々とアメリカに押し寄せてきました。もちろん、アメリカの広大な国土やさまざまな労働チャンスに惹かれ、自己実現の機会を求めてやってくる者もいたでしょう。

 次から次へと移民が、新大陸アメリカに押し寄せました。そして、移民の数は、今なお、増え続けています。1840年から2020年までのデータをご紹介しましょう。

こちら →
(※ https://honkawa2.sakura.ne.jp/8734.html 図をクリックすると、拡大します。 )

 1970年以降、急激に増えていることがわかります。

 第2次世界大戦後、アメリカが大きく経済発展したため、大量の労働者を必要としました。1965年の移民法で国別制限と日本人移民禁止が解除されました。そのせいか、移民人口比率は1970年の4.7%を底に、以後、上昇に転じています。直近の移民比率は13.5%です。

 ちなみに、1920年までは以下の国々からの移民で構成されていました。

こちら →
(※ 前掲。URL. 図をクリックすると、拡大します。)

 ブリテン・アイルランドからの移民がもっとも多く、ドイツ、オーストリア=ハンガリーなどドイツ系の移住者も合計すると、イギリス系移民と同様に多いことがわかります。それに次いで多いのが、イタリア、ロシア、スカンジナビアからの移民でした。

 近年の移民出身国は以下のように変化しています。

こちら →
(※ 前掲。URL 図をクリックすると、拡大します。)

 2016年にアメリカに流入した移民の出身国は、多い順に、インド(12.6万人)、メキシコ(12.4万人)、中国(12.1万人)、キューバ(4.1万人)となっています。これまでと違って、中南米からのヒスパニック系を、インド、中国、フィリピンなどのアジア系が上回っているのが特徴です。

 今後もアメリカへの移民は増え続けると予測されます。最近では、建国時とは移民の出身国も大幅に変化してきています。果たして、建国時にアメリカの精神的支柱となった不羈独立の精神は維持され続けるのでしょうか、気になります。(2023/11/20 香取淳子)

岩倉具視幽棲旧宅⑧:使節団はアメリカで何を見たのか(3)インディアンの戦い

■インディアン地域への侵略と抗争

 一方、東から西に向かって建設工事を進めていたユニオン・パシフィック鉄道は、経路が大平原でした。ほとんどが平地だったので、工事は順調に進んでいました。現場労働者は、アイルランド人移民、南北戦争の退役軍人、モルモン教徒などが多く、工事自体にはとくに、問題はありませんでした。

 ところが、工事がインディアンの領土にさしかかると、問題が発生しました。

 平原のインディアンたちは、鉄道建設のために土地を没収されたうえに、1830年に調印されたインディアン移住法(Indian Removal Act)に基づき、保留地(Reservation)に強制移住させられていました。

 しかも、鉄道の路線は、その保留地を横断する形となっており、狩猟民族である彼らの狩り場を荒らしていたのです。

 さらに、インディアンにとっては生活の糧であったバッファローが、鉄道設備を壊すからという理由で、手当たり次第に駆除されていきました。路線が建設されている期間に、大平原に生息していた数百万頭のバッファローが組織的に殺戮されました。80年代になると、ほとんど絶滅に瀕してしまいました。
(※ 小野修「ネブラスカのインディアン」『主流』40号、1979年、pp.85-86.)

 数千単位で移動するバッファローの群れが、数日かけて通過するのはざらでした。当然、敷設した線路を破壊することもあったでしょう。鉄道建設者側はそれに怒り、バッファローを大量に殺戮していったのです。

 インディアンたちが、鉄道建設を白人による新たな侵略と捉えるのも、当然でした。スー族をはじめとする血気盛んなインディアン部族は、しばしば建設労働者を攻撃しました。

 久米は、列車がハンボルト荒野を通りかかった時の様子を、次のように記しています。

 「この地域は、かつてすべてインディアンの領域であったが、近年になってアメリカ人が彼らを駆逐してその土地を奪った。そこでインディアンたちはみな恨んだり怒ったりしており、鉄道がはじめてできた頃は、インディアンが群れ集まって鉄道を破壊したり、線路に大きな岩を転がしたりして、いろいろ妨害を図り、怒りのあまり列車の乗客に毒矢を射掛けたりもした」(※ 久米邦武編、田中彰校注、『特命全権大使 米欧回覧実記』1、1999年(初版1977年)、岩波書店。p.132.)

 もちろん、このようなインディアンの抵抗を受けて、ユニオン・パシフィック鉄道も黙ってはいませんでした。治安維持のためと称して狙撃手を配置し、スー族をはじめとするインディアンたちを大量に虐殺したのです。

 アメリカ軍の騎兵隊がインディアンを襲撃している様子を描いた図があります。1876年の日付があります。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 武器もなく、裸に近い恰好で逃げるインディアンたちはどれほど悔しい思いをしていたことでしょう。インディアンにしてみれば、自分たちの領土内に勝手に侵入してきてバッファローを大量に殺してしまったのですから・・・。後ろから何人もの騎兵が銃を構え、インディアを追っていく姿が描かれています。

 大抵の場合、インディアン部族は、圧倒的な兵力と武器を持つアメリカ政府軍に屈服するか、敗退せざるをえませんでした。ところが、中には、スー族のように勇敢に戦い、一時的に勝利を収めたこともありました。

 たとえば、1866年頃、スー族は他部族と連合戦線を組み、政府軍をワイオミング州から撤退させ、政府の道路建設を撤回させたうえに、フィル・カーニー砦とリーノウ砦を1868年に放棄させたことがありました。(※ 久米邦武編、前掲。p.93.)。

 スー族など勇敢なインディアンたちの天敵となったのが、陸軍の軍人カスター(George Armstrong Custer, 1839 – 1876)でした。彼はジョンソン政権から陸軍中佐に任命され、第7騎兵隊の連隊長に就任しました。そのカスターがシャイアン族とスー族への攻撃に参加したのです。1867年のことでした。その後、数々の戦功を立てていきます。

 1868年11月27日、カスター一隊は、現在のオクラホマ州の西部を流れる雪深いワシタ川べりで、野営していたシャイアン族和平派のブラック・ケトル酋長のバンドを急襲しました。子どもであろうが、女性、老人であろうが、見境なく銃撃を加え、全滅させてしまいました。

 まさに、民族虐殺が行われたのです。これは「ウォシタ川の戦い」と白人からは呼ばれていますがが、実際には一方的な虐殺だったといいます(※ Wikipedia)。

 テントを襲うカスター隊の様子が描かれた絵があります。

こちら →
(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Seventh_Cavalry_Charging_Black_Kettle_s_Village_1868.jpg)
(図をクリックすると、拡大します)

 平和的に解決しようとしていたシャイアン族の人々を卑怯にも夜襲したのです。防御も不十分なテントの中で休んでいるインディアンの人々を誰かれ見境なく、撃ち殺したのです。寝込みを襲われたシャイアン族の人々はたまったものではありません。何事が起ったかわからないまま次々と殺されていきました。

 こうしてカスターは、シャイアン族の土地を補給拠点にしようとしていたアメリカ軍にとっても作戦目標を達成したのです。そして、インディアンとの戦いで得た勝利とされ、シャイアン族の南部領土はアメリカ合衆国が占領するようになりました。実際は無差別虐殺だったにもかかわらず、です。さらに、カスターはこの虐殺によって、軍から褒められ、カスター英雄視されるようになったのです。
(※ Wikipedia)

 民主主義を謳いながら、なんと野蛮なことかと思いますが、使節団一行はおそらく、そのような事情を知らないまま、敷設された鉄道に揺られ、一路、東に進んでいました。

使節団一行を乗せた列車は、1872年2月23日、ワイオミング州に入りました。当時、ワイオミング州はまだ準州でした。1868年当時のアメリカの地図を見ると、茶色で示したところが準州となります。

こちら →
(※ Wikipedia、図をクリックすると、拡大します)

 車窓から見た光景を、久米は次のように記しています。

 「西のユタ準州からウァイオミング準州を過ぎるまでがアメリカの最も未開の土地である。列車が疾走しても開発された土地に達するまでにはまるまる四日はかかる。枯れた野草の原がどこまでも続き、ところどころにインディアンのキャンプが見える」
(※ 久米邦武編、前掲。p.158.)

 列車はインディアンの居住地を疾走していきます。そして、2月24日、ララミー村を通り過ぎ、ネブラスカ州に入ります。

 久米は次のように記しています。

 「ここは人口600、常備兵の砦があって、歩兵・騎兵200人が駐屯しインディアンに備えている。ここから進んで東に行くに従い、地形はさらに平らになり、貧弱だった草もだんだん茂って来たようにおもわれた」
(※ 久米邦武編、前掲。p.161-162.)

 実はこの辺り一帯はスー族インディアンの居住地であり、鉄道建設を巡って、スー族とアメリカ政府が抗争を繰り返したところでした。

■インディアンの聖地、ブラックヒルズ

 サウスダコタ州とワイオミング州の州境にある山地が、ブラックヒルズです。

 ブラックヒルズは、スー族インディアンにとって神聖な場所でした。その写真がありますので、ご紹介しましょう。

こちら →
(※ Wikipedia。図をクリックすると、拡大します)

 岩肌が剥き出しになり、ところどころに草木が生えている岩山で、最高地点は2206メートルもあるといいます。少なくとも紀元前7000年頃から、インディアンたちが住み始め、散在していたそうです。18世紀になると、ミネソタからやって来たスー族が、ここをパハ・サパ(ブラックヒルズ)と名づけ、自然崇拝で偉大な精霊の宿る聖地として崇めていました(※ Wikipedia)。

 そのスー族は、インディアン居住地を侵略し続けるアメリカ連邦政府に戦いを挑むような血気盛んなインディアンでした。生活手段を奪われ、虐殺されながらも、果敢に抗争を続けてきましたが、両者はようやく、和平条約を結ぶことになりました。

 それが、使節団一行が列車で通り過ぎたララミーでした。

 アメリカ連邦政府とスー族は、1868年4月29日から11月6日までの間に、第二次ララミー砦条約(Treaty of Fort Laramie、第一次は1830年)を締結しました。

 ブラックヒルズ一帯は「永遠にスー族のものであり、狩りの場であり、白人の立ち入りは禁止される」という文言に基づき、アメリカ連邦政府は、ここはスー族の独占的使用のために確保された居留地だと認め、スー族に確約したのです。署名は、スー族の居住地フォート・ララミーでなされました。
(※ https://www.archives.gov/education/lessons/sioux-treaty

 条約締結時の写真があります。

こちら →
(※ Wikipedia。図をクリックすると、拡大します)

 この写真は、ワイオミング州フォート・ララミーで、陸軍副司令官ウィリアム・T・シャーマン(William Tecumseh Sherman, 1820 – 1891)らとスー族が、この平和条約に署名するときの様子を撮影したものです。

椅子に座るアメリカ側と、地面に座るスー族側とを見ていると、両者の力関係がはっきりと示されています。

写真を見ているうちに、ようやく平和条約を結んだとはいえ、いつまでそれが保証されるのか、疑問に思えてきました。あまりにも素朴なインディアンの姿を見ていると、狡猾なアメリカ政府側に早晩、してやられることは容易に予想できたからです。

案の定、ブラックヒルズで金が発見されると、アメリカ政府は1876年、スー族に戦争を仕掛けてこの条約を反故にし、1877年にはブラックヒルズを差し押さえてしまいました。(※前掲。URL)

 近代的武器を持たないインディアンが、いかにアメリカ政府から理不尽な目に遭わされてきたのか、土地を奪われ、生活手段を剥奪され、人権を蹂躙されてきたのか・・・。

 ひとたび、居留地で金鉱が発見されると、スー族はアメリカ連邦政府から、戦争を仕掛けられ、条約は反故にさせられ、いとも簡単に聖地を奪われてしまうのか・・・、ブラックヒルズでの出来事は、その一例にすぎません。

 こうしてみてくると、大陸横断鉄道の建設は、インディアンから土地を奪い、生活の資であったバッファローを絶滅寸前にまで追いやる結果となったことがわかります。

 さらに、インディアンの聖地で金鉱が発見されると、アメリカ連邦政府は、スー族に戦争を仕掛けて条約を反故にし、ついには、不毛の荒廃地へと追い払ってしまいました。

 自己利益のためには平気で条約違反をするのは、中国人労働者に対しても同様でした。

■西から東にアメリカ大陸を横断して、一行は何を感じていたか。

 使節団一行は、大陸横断鉄道に乗って、西から東に移動しました。湿地帯、山岳地帯、不毛の地などを通り過ぎ、そこで働き、生活する人々を車窓から見てきました。初めて目にした光景に、さまざまな感慨を抱いたに違いありません。

 たとえば、久米は次のように記しています。

 「米国の広い土地を通過して来て、その来し方から将来像を想像してみると、わが身に引き比べてきわめて切実な感慨を持つ。ロッキーの荒野からオマハに着いて、やっと人間世界に立ち戻ったと感じたものであったが、オマハの市街も、もちろん寂しげな町を言わなければならない。(中略)世界の大きな富は資源や資本の多寡にかかわるのではなく、それを利用する能力にかかわるのだということをますます信ずることとなった。(中略)人口増加が国家の利益にとってきわめて重要なポイントであることがはっきり証明できる」
(※ 久米邦武編、前掲。pp.166-167.)

 大都会を見たかと思えば、過疎地帯を見てきた結果、土地を利用する人口の多さこそ、国力になるのだと久米は考えるようになります。

 そして、日本については次のように記しています。

 「発展の最大の決め手である人口について見れば、米国とほとんど同数である。(中略)わが国にはまだ利用されぬ平地もあり、放置されている山地もあって、どの階級の人も貧弱な富しか持たないのはなぜか。結局は知識を持たぬ民衆は労働力として使用しがたく、無能の民衆は事業に用いることができないし、無計画な事業は成功が難しいということである」
(※ 久米邦武編、前掲。pp.167-168.)

 人口はアメリカとほぼ同数でも、国土が活用されておらず、全般に貧しいという認識を久米が抱いていることがわかります。

 さらに、言葉を継いで、次のように述べています。

 「有益な知識を与えるにあたっては読み書き算数、物理などの実際的な知識から始める。移民たちに生活のための技術や手段がほぼ身についたならば、指導者はこれに規則を与え、仕事の目標を示して厳しく監督しながら、信賞必罰の態度を持つとともに率先躬行して産業を興すことを試みる」(※ 前掲。pp.168.)

 このようにすれば、国が発展するとアメリカ指導者層は考えていると指摘しています。移民を受け入れても、ルールを守るよう指導し、厳しく監督すれば、産業振興の基盤にもなるというのです。

 ところが、東洋はそうではなく、上層階級が学ぶのは、空理空論か浮ついた文芸だけだと指摘しています。上層については、実利、実践的なことは卑しいこととして遠ざけていると批判しています。アメリカの指導者層と比較すると、違いがしっかりと認識されるようになったのでしょう。

 そして、「中層の人々は守銭奴でなければ偶然の利益を追求するだけで、財産を築き、しっかりした事業を確立させようという気持ちは全く持たない」と述べています。これもまた、アメリカと比較し、日本人事業者の計画性のなさ、行き当たりばったりの経営を批判しています。

 だから、「下層階級は、衣食がようやく足りて、その日その日の暮らしだけを追い、辛うじて生きているような状態にある」とし、「そんな人間が一億いたとしても、国の利益には何の役にも立たない」と断言しています。

 勉強もせず、将来ビジョンもなく、その日暮らしのマインドで生活する人なら、いくら人数が多くても何の役にも立たないと嘆いているのです。過酷なアメリカの自然環境、そして、移民やさまざまな人種の生活をみてきて、そう感じたのでしょう。

 大陸横断鉄道に乗って移動したからこそ、見えてきたアメリカの現実であり、生きることの大変さを知り、ふと、日本の生活や社会を振り返ってみたのでしょう。そこから見えてきたものは、日本が学ぶべき今後の社会の在り方であり、人々の在り方でした。

 久米は次のようにも述べています。

 「アメリカの荒れて未開の大地も、人が集まれば開かれる。東洋の肥沃な土地といえども、国の利益が自然に生ずるわけではなく、収穫物が自然に価値を生むわけでもない。人の力を用いなくてはならないのである。いまから国のためになにか計画しようとするものは、このことを痛感し、どんなことについて奮励すべきかということを考えなくてはならない」(※ 久米邦武編、前掲。p.169.)

 いくら荒れ果てた土地でも人の力があれば、土地を活用し、人々にとっての収益を集めることができる、ところが、いくら肥沃な土地を持っていたとしても、何も考えずに暮らしていれば、今以上の収穫物を得ることもできず、場合によっては価値のない土地にしてしまうかもしれない、最終的に力となるのは人だと久米は述べています。アメリカで発見した久米にとっての一つの現実だったのでしょう。

 この件を読んだだけで、使節団一行にとってアメリカ大陸を鉄道で横断した経験は何にも代えがたいものであり、さまざまな発見があったことがうかがい知れます。民主主義を謳いながら、実はルールを平気で破り、寝込みを襲撃しても、勝利さえすればいいという野蛮さは今にも通じるものなのかもしれません。いろいろ考えさせられます。
(2023/10/31 香取淳子)

岩倉具視幽棲旧宅⑦:使節団はアメリカで何を見たのか(2)最初の大陸横断鉄道

■セントラル・パシフィック鉄道

 1872年1月31日、岩倉使節団一行はサンフランシスコを発ち、大陸横断鉄道で東海岸に向かいました。

 その時の様子を、久米は次のように記しています。

 「朝7時にグランド・ホテルを発ち、フェリー・ボートでオークランドの長い桟橋の波止場に至り、カリフォルニア太平洋鉄道の列車に乗った。アメリカには昼夜を走り続ける列車用に寝台車という車両があり、一等客はこの車両に乗る」
(※ 久米邦武編、水澤周訳注、『特命全権大使 米欧回覧実記 Ⅰアメリカ編』、慶應義塾大学出版会、2008年、p.110.)

 久米はここで、「カリフォルニア太平洋鉄道の列車」と書いていますが、正確にいえば、「セントラル・パシフィック鉄道(Central Pacific Railroad)」です。カリフォルニア州にあるセントラル・パシフィック鉄道なので、カリフォルニア太平洋鉄道と勘違いしたのでしょう。

 さて、セントラル・パシフィック鉄道は、カリフォルニア州サクラメントからユタ州オグデンまでのレール(1,110km)を敷設した鉄道会社です。一方、ネブラスカ州オマハにある(1,749km)を敷設しました。両者が、オグデンのプロモントリーサミット(Promontory Summit)で繋がり、アメリカ最初の大陸横断鉄道が完成したのです。1969年5月10日のことでした。

 使節団一行は、完成してまだ3年にも満たない大陸横断鉄道に乗って、サンフランシスコを発ったのです。

 久米は、セントラル・パシフィック鉄道の列車に乗るまでの様子を記し、乗車してからは、車両の様子を克明に説明しています。

 「車両は一両で24人、中央を通路にし、車両の前後に広い室が設けられ、ここでストーブを焚き、洗顔のための水盤や用水タンクを備え、トイレットもここにある。(中略)床にはカーペットが敷いてあり、快適である。二人の乗客はテーブルに向かってものを書いたり本を読んだりできる。夜は長椅子を合わせてベッドとし、また上のフックを外すとベッドが降りてきて上下二台の寝台となる。シーツや枕を備え、寝台の前にはカーテンを引いて寝るのである」(※ 前掲。p.111.)

 このように車内の設備がいかに便利で快適かを具体的に記しています。

 続けて久米は、ヨーロッパにはこのような車両がないと記し、それは、ヨーロッパが身分制社会の国だから、貴賤のものが一緒の席に座ったり寝たりすることを嫌うからだと理由づけています。ヨーロッパの鉄道事情については、おそらく、現地で聞き及んでいたのでしょう。

 アメリカでは、このような設備の整った列車にも、お金を支払うことさえできれば、乗車できるのです。

 この時、使節団一行は、同行する官吏や学生たち、アメリカのデロング(Charles E. DeLong、1832-1876)公使の一家など、総勢100人余にも達していました。一両当たり乗車できるのが24人ですから、五つの車両を借り上げて出発しています。

 1872年といえば、この大陸横断鉄道が開通してから間もない頃です。そんな時に、大勢の日本人が車両を五つも借り切って、大陸横断の旅に出たのですから、地元でも大きな話題になっていたに違いありません。

 実は、久米らが列車を見るのは、これが初めてではありませんでした。

 サンフランシスコに着いて間もない頃、使節団一行は、セントラル・パシフィック鉄道会社から記念式典に招待されたことがあったのです。

 セントラル・パシフィック鉄道といえば、アメリカ大陸の西から東に向けての鉄道建設を請け負った鉄道会社です。その鉄道会社から、使節団一行は招待されていたのです。

 おそらく、一行がこの大陸横断鉄道に乗って、サンフランシスコを発ち、シカゴを経てワシントンに移動する計画を事前に伝えていたからでしょう。だからこそ、鉄道会社は、新しい車両のお披露目記念式典に、使節団を招待したのだと思います。

 一行はサンフランシスコ市のホテルに宿泊していました。

■サンフランシスコとオークランドをつなぐ旅客フェリー

 鉄道に乗るには、サンフランシスコから旅客フェリーに乗って、オークランドに行かなければなりません。

 その時の様子を、久米は、次のように記しています。

 「1872年1月22日、朝9時、アメリカ公使のデロングとともに、エル・カピタンという蒸気船に乗って、オークランドの長い桟橋に着いた。(中略)桟橋の一番先には水上に広い上屋が作られており、ここがフェリーと汽車の乗り換え場所になっている。だから船が桟橋の駅舎に着いたときは、船が島に着いたのかと思った。列車に乗り換えると、その列車が桟橋の上に敷いた鉄道を走るので、驚かないものはなかった。汽笛を鳴らしながら桟橋を渡っていく様子は、まるで水上を飛んでいるようである」
(※ 前掲。pp.79-80.)

 久米はこのように記していますが、その中に、「エル・カピタン」という聞きなれない言葉が出てきます。

 これは一体、何なのかと調べてみると、当時、サンフランシスコ湾で運行されていた蒸気動力の旅客フェリーでした。

 サンフランシスコとオークランドは、狭い海を隔てて向かい合っています。至近距離の海上を、人々はこのエル・カピタンに乗って、往来していたのです。

 この旅客フェリーは、サンフランシスコから、鉄道のあるオークランドまで乗客を運ぶ一方、セントラル パシフィック鉄道でオークランドに駅に到着した乗客をサンフランシスコまで運んでいました。大陸横断鉄道の完成を見越して、1868 年に建造されたのが、このエル・カピタンでした。
(※ https://en.wikipedia.org/wiki/El_Capitan_(ferry)

 それでは、エル・カピタンがどのような旅客フェリーなのか、写真を見てみることにしましょう。

こちら →
(※ Wikipedia。図をクリックすると、拡大します)

 これを見ると、久米が書いているように、確かに、桟橋の先に上屋が見えます。その隣に、エル・カピタンが横づけされていますから、ここが、フェリーと汽車との乗り換え場なのだということがわかります。

 実際にエル・カピタンと汽車の両方に乗ってみた経験を、久米は、次のように表現しています。

 「降りる客は船首から降り、乗船客は側面から乗り、乗降に当たっての混雑は皆無である。陸からすぐに船、船からすぐに陸、ただ外輪が動いて波に揺れるのを見れば、もう自分が水上にいることを知る。また汽車の汽笛が鳴り、車輪の轟きを聞けば、すでに足が地上にあることを知るのである」(※ 前掲。p.80.)

 船上から陸へ、そして、陸からすぐに海上へと、スムーズに乗り換えできる利便性と機能性に、久米はただ、ただ驚いています。乗客のためのインフラがこれほど整備されているとは思いもしなかったのでしょう。

 驚きのあまり、久米は、サンフランシスコでこうなのだから、米欧の大都市なら、どれほどすばらしいのだろうかとつい、想像を巡らせてしまうのでした。

 さて、セントラル・パシフィック鉄道が開催した式典には、男女150人が参加しました。主催者として応対したのが、コーエン(Alfred Andrew Cohen , 1829-1887)社長でした。そこで用意されていたイベントが、新しい車両が披露され、参加者が実際に試乗してみるというものでした。

 久米はその時の様子を次のように書いています。

 「列車の中にキッチンを設けて昼食のサービスがあった。オークランドを過ぎ、サンフランシスコ湾の東岸を60メートルほど走り、正午にサン・ノゼ町のミルピタス駅に着いた、使節団一行、その他の客たちは下車し、付近の庭園をしばらく散歩したのち、再び列車に乗った」(※ 前掲。pp.80-81.)

 この時の車両がどんなものだったのかわかりませんが、1870年頃のセントラル・パシフィック鉄道の食堂車の図がありましたので、ご紹介しましょう。

こちら →
(※ https://www.history.com/news/transcontinental-railroad-experienceより。図をクリックすると拡大します)

 これを見ると、セントラル・パシフィック鉄道の食堂車がいかに豪華な設えだったのかがわかります。車内はきらびやかな装飾が施され、木製の調度品には丹念に彫刻されています。至る所、贅を尽くしたディテールが印象に残ります。

 しかも、このような豪華な上級車両でも、料金を払えば誰でも利用することができました。

 豪華な車両は、女性の旅行に対する意識改革に大きな影響を与えたといわれています。当時、中流あるいは上流階級の白人女性は、気軽に一人で旅行することはなかなかできませんでした。ところが、この車両のように、自宅のリビングルームのような雰囲気があれば、女性でもリラックスして乗車することができます。安心して乗車できるということがわかれば、女性も鉄道で旅行しようという気にもなるでしょう。女性に向けた鉄道旅行が推奨されれば、利用客の増加につながる可能性がありました。
(※ https://www.history.com/news/transcontinental-railroad-experience )。

 さて、セントラル・パシフィック鉄道が開催した式典には、男女150人が招待されていました。

 なぜ、女性が招待されていたのかわからなかったのですが、上記のような車両の内装をみれば、新しい車両のお披露目が、実は、女性の鉄道旅行に対する潜在需要を喚起する一つの方策でもあったことがわかります。

 この記念式典でセントラル・パシフィックの社長として応対していたのが、コーエンでした。1863 年にサンフランシスコ & アラメダ鉄道会社を設立し、1864 年に運行を開始した人物です。

 まずは、ヘイワードでの草創期の鉄道事業がどういうものだったのかを見ておくことしましょう。

■地元ヘイワードの鉄道事業者、コーエン

 1860 年代初頭、ヘイワードでは、地元農産物の輸送とサンフランシスコに通う人々の通勤のための鉄道が必要とされていました。

 ヘイワードに最初に列車を通したのが、アルフレッド A. コーエンでした。

 1864年にヘイワードで、サンフランシスコ & アラメダ鉄道(San Francisco and Alameda Railroad)を創設したコーエンは、1829年、西インド諸島のプランテーション所有者の子として、ロンドンで生まれました。ところが、1833年の奴隷解放法(the Emancipation Act of 1833 freeing the slaves)とスコットランド銀行の破綻によって、一家は財産を失ってしまいました。

 長じたコーエンは1850 年、一攫千金を狙って、ゴールド・ラッシュに沸いていたカリフォルニアにやってきました。サンフランシスコで仕事を見つけて法律を学び、1857 年に司法試験に合格しました。弁護士になったコーエンは、サンフランシスコでは有力な弁護士として成功していました。

 弁護士だったコーエンは1863 年のある日、ふと、ヘイワードとアラメダ、オークランド、サンフランシスコなどの大都市を、鉄道とフェリーで結ぶことを思いつきました。
(※ https://www.cohenbrayhouse.org/about-6

 彼は元々、ワーム・スプリングス(Warm Springs)のリゾートに興味を持っていました。だから、ヘイワード(Hayward)を通る鉄道は、リゾート客をホテルに運ぶ最適手段になると思っていたのです。さらに、鉄道とフェリーを連結すれば、大きな利益が得られるとも考えました。

 一方、アラメダ(Alameda)が住宅地として整備されはじめたのをみて、やがて、小麦、大麦、牛などの商取引に、ヘイワードの重要性が高まってくるだろうと予測しました。

 地域の発展を目指そうとすれば、鉄道網の整備は不可欠でした。

 さまざまな観点から、鉄道需要を予測したコーエンは、ヘイワード地域の大土地所有者であったファクソン・D・アサートン(Faxon D. Atherton)などと組み、新しくサンフランシスコ&アラメダ鉄道会社を設立しました。1864年のことです。
(※ https://www.haywardareahistory.org/railroads-of-hayward

 コーエンは1864年に、サンフランシスコ & アラメダ鉄道を運行すると、翌1865 年には、サンフランシスコ & オークランド鉄道を買収し、合併しています。さらに、その後、アラメダからヘイワードまでの列車を運行したかと思えば、サンフランシスコ行きのフェリーを1日5便、運行するようにもしていました。

 サンフランシスコに行くのに乗客は、アラメダでフェリーに乗らなければなりませんでしたが、この路線ができたことによって、ヘイワード地域の住民は、サンフランシスコへも比較的容易に通勤できるようになりました。

 ジョセフ・リー(Joseph Lee,) が、鉄道とフェリーが最初に連結した日の様子を1868年頃に描いています。その絵を撮影した写真がありますので、ご紹介しましょう。

こちら →
(※ Wikimedia. 図をクリックすると、拡大します)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Joseph_Lee_painting_Alameda_Shore_(1868).jpg

 1864 年 8 月 25 日、鉄道とフェリーが最初に連結しました。その時のアラメダ海岸の光景が描かれています。桟橋の先に白い蒸気を吐き出しながら、静かに進んでいくフェリーが見えます。

 前景に、土手を降りて来る人が描かれています。それ以外にほとんど人が見当たりません。当時、鉄道やフェリーを利用する人はまだ、それほど多くはなかったのでしょう。のどかな田園風景が広がっています。

 ところが、鉄道が通って、フェリーと繋がり、さまざまな都市へのアクセスがよくなると、地元経済も次第に、活性化されていきました。

■地元への貢献、そして、セントラル・パシフィックへ売却

 コーエンは、物資の輸送から人々の通勤に至るまで、地元の人々に役立つよう、鉄道事業をきめ細かく采配し、展開していきました。地域の人々にとっての利便性を高め、地場産業の発展のためになくてはならない人でした。

 才気があり、覇気も胆力もある人物でした。

 ところが、せっかく築き上げたそれらの事業は、1869 年にセントラル・パシフィック鉄道に買収されてしまいました。その後、コーエンは、セントラル・パシフィック鉄道会社所属の弁護士になっています。
(※ https://localwiki.org/oakland/Alfred_A._Cohen

 ですから、1872年1月に使節団が記念式典に招待された時、コーエンは社長ではなかったはずです。

 不思議に思って、資料を渉猟してみると、株を売却したコーエン氏は、そのまま、セントラル・パシフィック鉄道の社長を務めるようになっていました。

 とはいえ、セントラル・パシフィック鉄道は、経営を完全に彼に任せていたわけではありませんでした。経営を管理するため、独自の総監督を配置していたそうですから、コーエンは形式上の社長だったのでしょう。
(※ https://www.haywardareahistory.org/railroads-of-hayward

 なにしろ、コーエンは、サンフランシスコ & アラメダ鉄道の創設者でした。いってみれば、地元ヘイワードの名士でしたから、セントラル・パシフィック鉄道としても、コーエンは疎かにすることはできなかったのでしょう。

 使節団一行が招待された際、コーエンが社長として式典を采配していましたが、それには、コーエンが鉄道事業を通して、地元を活性化させた人物だったという事情があったのです。

 それでは、なぜ、コーエンは、自分が創設した鉄道会社をセントラル・パシフィックに売却したのでしょうか。

 それは、1868 年 10 月にヘイワード断層で大地震が発生し、サンフランシスコ & アラメダ鉄道が大きな被害を受けたからでした。

 サンフランシスコ市域の近くを、サンアンドレアス断層とヘイワード断層が走っており、これらの断層が、これまで何度も地震を引き起こしていました。

 1868年の地震の被害はとくに甚大でした。サンフランシスコ & アラメダ鉄道の線路にも深刻な被害が生じただけではなく、Dストリート駅が倒壊してしまったのです。

 当時の写真があります。

こちら →
(※ HAHS Collectionより。図をクリックすると、拡大します)

 駅舎が倒壊し、茫然と佇む人の背後に車両が見えます。

 幸いなことに、車両や従業員に大した被害はありませんでしたが、駅舎の倒壊で、コーエンは大きな損失を被ってしまいました。駅舎が再建されても、その後、経営を続けることは難しくなっていました。

 それでもコーエンは、なんとか解決策を見出そうとしましたが、もはや鉄道会社を運営し続けることはできず、1869年、サンフランシスコ&アラメダの株売却を決定せざるをえませんでした。

 ちょうどその頃、セントラル・パシフィック鉄道が、ベイエリアの小規模な鉄道路線の買収に動いていました。大陸横断鉄道を完成させるためでした。コーエンはそれを知って、セントラル・パシフィック鉄道に自社株を売却したのです。

 そもそも、サンフランシスコ&アラメダ鉄道は、初年度に貨物で 2万1,000 ドル、旅客券で 4万ドルの収益を上げていましたが、建設費は100 万ドルもかかっていました。その後の収支も同様で、コーエンらはこの鉄道事業から、大きな投資利益を得ることは出来ませんでした。(※ https://www.haywardareahistory.org/railroads-of-hayward

 その上、1868年の大地震で追い打ちをかけられました。駅舎まで倒壊するという被害を受けた以上、もはや鉄道事業を継続することは困難でした。地元のサンフランシスコ&アラメダ鉄道が、大手のセントラル・パシフィック鉄道に吸収されるのは自然の流れだったのです。

 一方、セントラル・パシフィック鉄道は、1862年の議会で承認された「太平洋鉄道法」に基づき、建設資金を主に、米国債で賄うことができました。さらに、カリフォルニア州やサンフランシスコ市からも助成金を得ることができました。

 セントラル・パシフィック鉄道が建設したのは、大陸横断鉄道のうち、カリフォルニア州からユタ州までの西から東に向かう路線でした。そのセントラル・パシフィックも、現在は、東から西に向かう路線を建設したユニオン・パシフィック鉄道に吸収されています。鉄道というインフラ事業は、大資本が絡まなければ、安定した経営が難しい事業でした。

 さて、使節団一行が乗った列車が走るのは、平坦な場所だけではありませんでした。湿原地帯もあれば、峻厳な山脈地帯もあります。とくに困難をきわめたのが、山岳地帯の線路の敷設工事でした。労働内容は苛酷で、しかも、高度な技術と忍耐力が要求されました。そのような作業をこなせる労働者を集めるだけでも大変でした。

 1872年1月31日、サンフランシスコを発った使節団一行は、大陸横断鉄道に乗って東へ東へと向かいました。車窓からは、カリフォルニア州からユタ州にかけてのさまざまな地形が見えてきます。さまざまな地形から浮かび上がってくるのは、広大なアメリカが創り出す文化の姿であり、社会の形でした。

■使節団が見た車窓からの光景

 使節団一行は、車窓からサンホアキン川を眺め、その周辺のいたるところに、沼地や湿地ができているのを見ました。カリフォルニア平野は平坦だったので、川も緩やかに流れ、平地に流れ出ることも多かったのだろうと、久米は推測し、このような地形ではまず、輸送路を建設するのが先だと述べています。

 久米は次のように書いています。

 「カリフォルニアにはまだ、古代中国の禹のような名人が必要で、暗渠排水によって土地を改良するのを待っているといえそうだ。鉄道から支線を出し、数本の鉄路が荒れた湿原の中に敷設されているのを見た。荒地を開拓するにはまず、輸送のための路を開くのが最初である」(※ 前掲。p.112.)

 車窓から湿地帯を見たとき、久米は、古来、しばしば洪水が起きていた中国で、禹が治水の成功によって、夏王朝の創始者となったという故事を思い起していました。漢籍に造詣の深い久米ならではの感想です。

 さらに、もう一か所、久米が、中国の故事を連想していたのが、シエラネバダ山脈を通過し、絶壁をうがったトンネルを見た時のことでした。

 ちょっと長くなりますが、引用しましょう。

 「咽ぶような汽笛が車輪の響きと混ざり合いながら列車は疾走し、安らかに寝ている間に絶壁をうがったトンネルをくぐり抜け、山脈の背後に走り抜けた。まったく鬼神の業かと思われるほどである。李白が「蜀道難」という詩で、「地崩山砕壮士死 而後天梯石桟相鉤連」(地面が崩れ、山が砕けて、たくましい男たちが死んだ。その犠牲によって天にも通ずる梯子や、石のかけはしが鎖によってしっかりつなぎ合わされた)」と詠っている難工事といえども、このトンネル工事ほど難しくはなかったのではないか」(※ 前掲。p.129.)

 久米ら一行は、眠っている間に、無事、トンネルをくぐり抜け、山脈の裏側に抜け出ることが出来ました。固い岩盤を切り崩して作ったトンネルのおかげでした。

 だからこそ、久米は、この標高の高い山地にトンネルを掘って線路を通した労働者の労苦をしのび、李白の「蜀道難」に匹敵する偉業であり、まさに神業だと評したのです。

 そして、工事の過程で、多くの犠牲者を出したに違いないことを想像し、このトンネル工事ほど難しい工事はなかったのではないかと感慨深く、感謝の気持ちを表しています。

 確かに、シエラネバダ(Sierra Nevada)は、カリフォルニア州東部を縦貫する大きな山脈です。ロッキー山脈よりも高いこの山脈は、これまでずっと、東部アメリカから西海岸に進出するのに大きな妨げとなっていました。

 上空写真を見てみましょう。

こちら →
(※ Wikipedia。図をクリックすると、拡大します)

 山また山が、どこまでも続いている様子がよくわかります。草木はほとんど生えておらず、岩山のように見えます。

■シエラネバダ山脈のサミット駅

 実際、シエラネバダ山脈は、列車で走行するのも、想像以上に大変だったようです。高度が高く、勾配もきついので、自力走行が難しく、機関車に牽引してもらって、ようやく動くといったような有様でした。

 久米は次のように書いています。

 「シャディ・ランに着いた。ここはもう標高1300メートルほどの高地である。ここから鉄道の傾斜はますます急になり、機関車を増結して三重連で牽引した。(中略)山は重なって、路は険しいが、列車は二重窓をとざし、ストーブが暖気を送ってくるので春風の中で銀世界を眺めているようである」

 酷寒の中、勾配のきつい路線の走行がいかに大変かを記す一方、久米は、車内には二重窓とストーブとあって、寒さから守られていることに感謝しています。そのような車内の快適さを、「春風の中で銀世界を眺めているよう」だと表現しています。

 おそらく、どれほど苛酷な自然でも技術力によって克服し、人間にとって居心地のいい環境に作り替えていくアメリカ人の気力に感嘆していたのでしょう。

 こうして列車は機関車を連結し、勾配のきつい路線を走行しましたが、5時間かけて、わずかに80キロメートル足らず進んだだけでした。列車の速度があまりにも遅く、一行がサミット駅に到着したのは、日も暮れていました。

 降雪はやまず、使節団一行がここに到着した時、雪は深さ2,3メートルにも及び、駅舎は半ば雪に埋もれていました。それでも、この駅の中の小屋で、一行は昼食兼夜食を取ることができました。ようやく一息つくことができたのです。

 久米は、サミット駅での酷寒の様子を、「客車を出ると、その寒さは皮膚を削るようである」と表現しています。

 なにしろ、シエラネバダ山脈越えの最高地点が、サミット駅です。海抜2100メートルで、四方に高い山が連なっています。客車の外が凍えるような寒さだったのも当然でした。

 当時の写真があります。

こちら →
(※ Wikimedia。Pond, C. L.撮影。図をクリックすると、拡大します)

 これは、1870年に撮影されたサミット駅です。ちょっとわかりづらいかもしれませんが、左側に列車が停まっているのが見えます。使節団一行は、ここにあるような列車に乗ってやって来て、しばらく停車し、時を過ごしたのだと思われます。

 調べてみると、セントラル・パシフィック鉄道が、当時、使っていた車両の写真がありました。ご紹介しましょう

こちら →
(※ Wikimedia。John B. Silvis撮影。図をクリックすると、拡大します)

 これは、セントラル・パシフィック鉄道の機関車 113 号「ファルコン」です。ネバダ州アルジェンタで、1869 年 3 月 1 日に撮影されています。

 車両の先頭に、2人の男性が座っているのが見えます。

 左が、ユニオン・パシフィック(UPRR )の技師ジェイコブ・ブリッケンダーファー (Jacob Blickensderfer) で、右が、セントラル・パシフィック鉄道(CPRR)の 技師ルイス・メッツラー・クレメント (Lewis Metzler Clement) です。太平洋鉄道委員会の一員として、彼らが線路を点検しているときの写真です。

 ちなみに、この「ファルコン」は、ニュージャージー州パターソンのダンフォース機関車工場で製造された機関車です。見るからに頑丈で立派な車両ですが、まだ手作りの要素が多々残っていて、人と機械が協力して、列車を走行させていた頃の車両だということがよくわかります。
(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:CPRR_Locomotive_-113_FALCON)

 さて、サミット駅で、雪かき用の機関車と連結してようやく、一行が乗った列車は、出発することができました。列車はその後、シエラネバダ山脈の中腹にあるトンネルに入っていきます。

 やがて、固い岩盤を削って作られたトンネルを抜け、使節団一行は、眠っているうちに、シエラネバダ山脈越えをすることができました。

■鉄道工事と中国人労働者

 セントラル・パシフィック鉄道は、1863 年にカリフォルニア州サクラメントから、建設をスタートさせ、険しいシエラネバダ山脈を越え、ネバダ州まで続く1,110 kmの新しい線路を敷設しました。

 このシエラネバダ山脈越えのルートを発見し、標高を含む詳細な地形調査を行ったのは、セオドア・D・ジュダ(Theodore Dehone Judah ,1826 – 1863)でした。サクラメントバレー鉄道の主任技師であり、後にロビイストになり、その後、下院の太平洋鉄道委員会の書記官にも任命された人物です。

 彼らが議会で、太平洋鉄道法案の通過に尽力した結果、1862年7月1日にリンカーン大統領が同法に署名したという経緯があります。この法案の可決によって、東からのユニオン・パシフィック鉄道、西からのセントラル・パシフィック鉄道が、大陸横断鉄道を敷設することが決定されたのです。
(※ https://en.wikipedia.org/wiki/First_transcontinental_railroad

 セントラル・パシフィック鉄道は、さまざまに検討したあげく、結局、ジュダが提案するシエラネバダ山脈越えルートを採用することになりました。そのため、初期工事のほとんどは、丘陵地帯の切断や発破、埋め立て、橋や架台の建設、トンネルの掘削と発破、シエラネバダ山脈上へのレール敷設などでした。峻厳な山脈ルートに不可避の難工事を強いられたのです。

 どの工程を取ってみても、生命の危険を伴う苛酷きわまりない作業でした。

 たとえば、シエラネバダ山脈を通る鉄道路線のために、セントラル・パシフィック鉄道は、15 本のトンネルを建設しなければなりませんでした。

 トンネルを掘るには、まず、1 人が花崗岩の表面に削岩機を当て、他の 1 ~ 2 人が大きなハンマーを振り回してドリルを順番に打ち、ゆっくりと岩に進入させていかなければなりません。そして、ドリルがうがった穴の深さが約25 cm になると、黒色火薬を充填し、導火線を設置して、安全な距離から点火して、爆破するのです。
(※ https://en.wikipedia.org/wiki/First_transcontinental_railroad

 火薬よりも強力なのが、ニトログリセリンでした。これは、1846年にイタリア人アスカニオ・ソブレロ(Ascanio Sobrero,1812 – 1888)によって発明された起爆剤です。

 セントラル・パシフィック鉄道では、トンネル建設中に、このニトログリセリンを大量に使用しました。安定供給を確保するため、自社でニトログリセリン工場を所有し、稼動させていたほどです。その工場は中国人労働者によって運営されていました(※ 前掲。URL)。

 危険なニトログリセリン工場の運営もまた、中国人に任されていたのです。彼らは勤勉に働くので、経営者たちから信頼されていました。そして、中国人たちもまた、最も過酷で危険な条件であったにもかかわらず、真面目に、誠意を込めて働いていました。

 その一端を示すスケッチがありますので、ご紹介しましょう。

 イラストレーターのジョセフ・ベッカー (Joesph Becker, 1841-1910)が、中国人労働者たちの生活の一端をスケッチした鉛筆画です。

こちら →
(鉛筆、紙、サイズ不詳、1869年、Bancroft Library, University of California, Berkeley.図をクリックすると、拡大します)

 雪が舞い散る寒い日、列車が通りかかると、辮髪姿の中国人が多数、小屋から出てきて、列車に挨拶しています。線路の傍に近づいている者がいるかと思えば、山の斜面から、手を振っている者、中には、帽子を振っている者もいます。トンネルを通り抜けてきた列車に挨拶しているのです。彼らの歓喜の声が、峻厳な山中から聞こえてきそうです。

 中国人労働者にとって、トンネルを抜けて走ってくる列車を見ることこそ、唯一の楽しみだったのかもしれません。トンネルは彼らの苛酷な労働の成果であり、列車が無事、そこを通り抜けてくるのを見ることは、成果の確認でした。

 危険と隣り合わせの労働と、深い疲労感に押しつぶされそうになっている日々の中で、列車をみることは、彼らにとって何にも代えがたい喜びだったに違いありません。

 中国人労働者は、極寒の冬であれ、炎天下の夏であれ、苛酷な労働に耐えてきました。鉄道工事期間中に、爆発、地滑り、事故、病気などで多くが死亡していったといわれています。彼らは、言葉も通じない異国の地で日々、苛酷な労働を強いられ、時に負傷し、時に死亡し・・・、あまりにも多くの犠牲を払ってきていました。

 先ほどもいいましたが、トンネルを建設するには、岩盤を爆破しなければならず、危険な作業が伴いました。そのため、セントラル・パシフィック鉄道は、中国人労働者を大量に雇用していました。そして、トンネル掘削工事では、作業効率を高めるために、爆破力の高いニトログリセリンを使用しており、多数の犠牲者を出していたのです。

 久米はここを通過する際、トンネル工事の苛酷さを想像し、李白の詩、「蜀道難」を思い出していました。まさに、多数の中国人労働者の犠牲の下に、トンネルが完成し、列車はシエラネバダ山脈を越えることができたのです。

 それにしても、なぜ、アメリカの大陸横断鉄道の建設に、白人ではなく、中国人労働者が尽力したのでしょうか?

■なぜ、中国人労働者なのか?

 セントラル・パシフィック社は当初から、現場労働者を雇用し、維持することに苦労していました。というのも、せっかく採用しても、多くの白人が、鉄道建設よりもはるかに儲かる金や銀の採掘所に移ってしまうからでした。

 鉄道労働者が不足してきたとき、経営者らが注目したのが中国人でした。

 1848年から1855年にかけてのゴールド・ラッシュの時期に、多くの中国人がカリフォルニアにやって来ており、その後も住みついていました。大半は金鉱夫か、ランドリーかキッチンなどのサービス産業で働いていました。

 経営者たちは、そんな中国人たちに目をつけたのです。

 ところが、実際に彼らを見た経営者たちは、鉄道建設には向かないと判断せざるをえませんでした。当時、カリフォルニアに来ていた中国人の身体は小さく、華奢でした。鉄道工事の経験もなく、これでは、苛酷な労働をこなせないとみなされたのです。

 英語もしゃべれませんから、現場監督の指示を正確に受け取れるかどうかも懸念されました。身体能力、経験、意思疎通の面で、トンネル建設工事などの危険な作業を任せられないと思われたのです。

 経営者たちは労働力不足に悩み、何度も求人広告を出しました。ところが、白人からの応募はわずか数百しかありませんでした。そこで、仕方なく、中国人労働者の雇用に踏み切ったのです。
(※ https://www.history.com/news/transcontinental-railroad-chinese-immigrants

 こうして、セントラル・パシフィック鉄道の線路や橋、トンネルなどの建設は、中国からの移民労働者によって行われるようになりました。熟練した白人監督者の指示の下、現場労働者として中国人が大変な作業を担当するのです。

 1865 年後半のセントラル・パシフィック社では、約3,000 人の中国人と1,700 人の白人が雇用されていましたが、中国人は肉体労働者として低賃金で働き、白人はほぼ全員が監督職や熟練技能職で、中国人よりも高い賃金で、楽な労働内容で働いていました。

 圧倒的に不利な条件であったにもかかわらず、中国からは次々と、労働者が流入してきました。

 建設作業員は12,000人もにおよぶ中国人移民で構成され、1868年時点では全体の80パーセントが中国人だったといわれています(※ Wikipedia)。

 1868年といえば、バーリンゲーム条約(Burlingame Treaty)が成立した年でした。

■バーリンゲーム条約

 バーリンゲーム条約(Burlingame Treaty)とは、清国の使節団の特命全権大使であったバーリンゲーム(Anson Burlingame, 1820 – 1870)が、アメリカ国務長官ウィリアム・スワード(William Henry Seward,1801 – 1872)と交渉し, 1868年7月28日にアメリカと締結した条約を指します。

 1858年に締結された天津条約を拡張する形で結ばれたもので、8条から成る「天津条約追加條款」です。

 その内容は、中国からの移民制限の緩和を目的として、いくつかの基本原則を確立し、中国の国内問題へのアメリカの干渉を制限するというものでした。
(※ https://history.state.gov/milestones/1866-1898/burlingame-seward-treaty

 画期的なのは、中国人のアメリカへの入国と旅行を自由にできる権利を約束し、最恵国待遇原則に従って、アメリカ国内の中国人の保護を認める措置が含まれていたことでした。

さらに、両国の国民に教育と学校教育への相互アクセスを認めており、これらの条項は両国間の平等の原則を強化する役割を果たすものでした(※ 前掲、URL)。

 1868年に描かれた、バーリンゲーム使節団の肖像画がありますので、ご紹介しましょう。

こちら →
(※ 出典:Library of Congress, LC-USZ62-42697、
https://www.foreignaffairs.com/articles/united-states/2017-11-23/burlingame-mission
 図をクリックすると、拡大します)

 この図の中央で、洋装で立っている髭を生やした男性が、特命全権大使のバーリンゲームです。そして、前列右から2番目が正使で特命全権大使の孫家毅、3番目がやはり正使で特命全権大使の志剛です。

 清朝政府は、バーリンゲームを使節団の特命全権大使に任命しましたが、それと同格で、役人であった孫家毅と志剛を参加させました。アメリカ人バーリンゲームの交渉活動を監督するとともに、彼らにも外交交渉の経験を積ませるためでした。

 実際、彼らは、わずかな機会をとらえて、欧米との外交交渉術を学び取ったようです。訪露中に、バーリンゲームはサンクト・ペテルブルグで急逝してしまいましたが、その後の外交は、志剛がリーダーとなって、それまでと遜色のなく、対応することができたといいます。
(※ 矢久保典良、https://www.jacar.go.jp/iwakura/column/index.html

 バーリンゲームのおかげで、清国に有利な条約をアメリカと結ぶことができましたし、清朝の役人が外交交渉術を学ぶ機会を持つこともできました。

 清国政府が、初代アメリカ駐清公使であったバーリンゲームを、遣欧米使節団の特任全権大使に任命したのは、賢明だったといわざるをえません。

 もっとも、その効果は長く続きませんでした。

■バーリンゲーム条約の効果と失効

 経営者たちからは、中国人は、従順で信用できる労働者だとみなされていました。しかも、安い賃金で大勢、集めることができるので、当初、この条約は歓迎されていました。中国人もまた、この条約があったからこそ、一定の保護は受けられると思い、安心してアメリカにやって来たのでしょう。

 国政調査によれば、中国からの流入人口は、1861-1870間が64301人、1871-1880間が123201人、そして、1881-1890間が61711人でした。10年単位で、流入人口の推移をみると、バーリンゲーム条約が結ばれた後の10年間に、流入人口がほぼ倍増していることがわかります。
(※ 越川純吉、「アメリカにおける中国人の法律上の地位」、『中京法学』17巻1号、1982年、pp.59-63.)。

 不法入国もあるでしょうから、必ずしも正確な人数とはいえませんが、この30年間の人口の推移を見ると、明らかにバーリンゲーム条約の効果とその喪失をみることができます。

 一方、この条約の影響は、1870年代に清国からアメリカへ留学生が派遣されたことになった経緯にも見ることができます。

 バーリンゲーム条約の締結後、清国から官吏級の若者たちが40名、アメリカで大学教育を受けることになりました。

 清国は当初、彼らをイギリスに留学させる予定だったそうです。ところが、当時、アメリカ総領事であったスワード(George Frederick Seward, 1840 – 1910)の助言によって、留学先をアメリカに変更したといいます。
(※ 黄逸、「南北戦争直後のアメリカから見た清日両国の使者」、『関西大学東西学術研究所紀要』巻53、2020年、p.130.)

 アメリカの方がイギリスよりも健全な関係を築けると、清国政府は判断していたのかもしれません。

 黄氏は、「砲艦政策を通じて清国市場独占や植民地の獲得を目指したイギリス」よりも、「英清間の一連の外交的かつ軍事的衝突において中立の立場をとり、貿易をきっかけに清国への影響力を構築していったアメリカ」の方に、清国人は好意的感情を持っていたと記しています。

 さらに、イギリスは、主としてアヘンを清国に輸出し、清国からは茶を輸入という貿易内容でした。清国が禁止しているインド産アヘンを、イギリスは公然と輸出してきていたのです。害悪以外のなにものでもありませんでした。

 一方、アメリカは、白綿布を清国に輸出し、清国からは茶を輸入するという内容でした。清国人がイギリスよりもアメリカに好意的なのは、貿易内容がより健全なものだったからでもありました(※ 前掲。pp.125-126.)。

 清国政府は近代化を進めるため、エリート層を欧米で学ばせる必要性を感じていましたが、それまでの関係を踏まえ、産業革命を成功させたイギリスではなく、イギリスからの独立を勝ち取り、進取の気性に富むアメリカで学ばせようとしていたのです。

 ところが、この時点ですでに、アメリカでは中国人排斥の動きが顕著になりはじめていました。

 興味深いことに、1872年8月29日付の“Daily Evening Bulletin”には、‘China following Japan’という見出しの記事の中に、次のようなことが書かれていました。

 「これらの若者たちはそれぞれ、不本意ながらも、やがて帰国することになるだろうが、確実に、国際交流の価値と、アジア最大の国を排斥した愚行を伝える伝道者になるだろう」(※ 前掲。p,130.)

 実際、その10年後の1882年5月6日、最初の「中国人排斥法」(Chinese Exclusion Act)が、議会を通過し、チェスター・A・アーサー(Chester Alan Arthur, 1829 – 1886)大統領がこれに署名しました。この法律によって、中国人労働者の米国への移民は10年間、禁止されました。

 そればかりではありません。すでに入国していた中国人に対しても新たな要件が課されました。 アメリカを出国した場合、再入国するには証明書を取得しなければならなくなったのです。こうして、アメリカ史上、最も重い制限が、中国人に課せられることになりました。(※ https://www.archives.gov/milestone-documents/chinese-exclusion-act

 バーリンゲーム条約からわずか4年ほどで、中国人の移住が禁止されてしまったのです。条約がいかに当てにならないものか、国同士の力関係、その時の経済状況などによって、容易に変わってしまうことの一例でした。

 バーリンゲーム使節団一行と同様に、不平等条約の改正のための準備交渉に訪れていた岩倉使節団は果たして、この一件をどのように感じていたのでしょうか。

■不況下で発生していた襲撃事件

 久米は、中国人労働者について、次のように述べています。

 「サンフランシスコ近辺の労働賃金はきわめて高いのだが、弁髪の連中がごく安い賃金で仕事を引き受けてしまうので資本家としてはおおいに利潤が上がり、開発も進められた。しかし、そのおかげで白人種は仕事の口を奪われ、大きな不満が白人側から巻き起こって、とうとう清国人を追放せよという議論が沸騰するようになった」(※ 前掲。p.109.)

 なぜ中国人労働者が騒動を引き起しているかについて、久米は、低賃金で仕事を引き受けるからだと分析しています。

 低賃金で雇えば利潤が増えるので、経営者は中国人労働者を採用したがります。ところが、その分、他の労働者には仕事がまわらず、白人労働者の不満を買っているというのです。つまり、騒動の原因は、中国人労働者が白人労働者の仕事を奪っているからだと指摘しているのです。

 単なる旅行者にすぎなかったにもかかわらず、久米は、きわめて的確な状況分析を行っています。そればかりか、資本主義の原理のようなものにまで思考が及んでいることに気づきます。

 中国人労働者なら低賃金で雇用できるという状況が、経営者には、コストをカットして利潤を増加させるメリットをもたらし、白人労働者には、仕事を奪われる、あるいは、中国人労働者と同程度の賃金にまで引き下げられるデメリットをもたらします。

 このメカニズム一連の騒動を引き起していると、久米はみているのです。経営者側も雇用者側も自己利益で動く限り、このメカニズムは解消のしようがありません。衝突を繰り返し、やがては、法的規制にまで及んでしまう・・・、といった流れが、「中国人排斥法」(1882年)成立の背景にあるのでしょう。

 それでは、アメリカ政府や企業は、中国人排斥現象に対してどのような態度を示しているのでしょうか。それについて、久米は、次のように分析しています。

 「州政府では、しばしば追放策を協議してきたが、民主国の原則からして、そのようなことは実行できないという論理がある。まだ企業の側からすると、安い労働を駆逐しては具合が悪いのである。あれやこれやの事情があって、清国人追放は行われないということになって歳月が過ぎた」(※ 前掲。p.109.)

 住民からの突き上げで、州政府もこれについて検討してきたようです。

 ところが、行政の立場からすれば、大所高所からの視点を外すことはできず、民主主義を掲げて独立した国家として、排斥運動に手を貸すことはできないという立場を取ってきました。

 一方、企業側は、資本の論理からいって、中国人労働者を排斥したくないというのが本音でした。結果として、使節団一行が滞在した頃は、久米が述べているように、「清国人追放は行われないということになって歳月が過ぎた」のです。

 問題が深刻化したのは、1873年に始まった世界的な大不況からです。

 堀井氏は、岩倉使節団が訪米した直後あたりに、さまざまな排斥運動が勃発したことを説明しています。

 「1871年にロサンゼルスでバーリンゲーム条約に反対する暴動が発生し、中国人22名が殺された事件を初めとして、反中国人暴動はカリフォルニア各地から他州へ拡大していった。ほぼ西部のすべての州の60地区以上で反中国人暴動が勃発したが、中国側の史料は、これらの暴動で中国人200人余りが殺されたことを伝えている」
(※ 前掲。p.24.)

 排斥運動は、それ以後も継続的に発生しています。有名なものでは、1877年7月にサンフランシスコの暴動、1885年9月のワイオミング州ロックスプリングでの事件、等々があります。中華街や鉄道会社、船会社が襲撃され、軍隊まで出動したケースがあれば、武装した白人集団によって中国人居住区が襲撃されたケースもありました(※ 前掲)

 いずれも当時、世界を襲っていた大不況のさなかの出来事でした。不況で仕事にあぶれた人々が狂暴化し、暴徒化し、中国人移民に対する襲撃事件を引き起す結果になっていたのです。

 一連の事件は、移民労働者として他国で働くことの意味を問いかけているように思えます。

 1882年の中国人排斥法は10年間の時限立法でしたが、1892年の更新を経て、1902年には恒久的な措置として実施されることとなりました。これらの排斥法が解除されたのが、1943年12月17日に制定、「マグヌソン法」(Magnuson Act)として知られる「中国人排除廃止法」(The Chinese Exclusion Repeal Act of 1943)です。
(※ https://en.wikipedia.org/wiki/Magnuson_Act

 勤勉な中国人労働者の後を引き継いだのが、日本人でした。日本人の場合、下層の労働者に留まらず、事業を起こす者、市場向け野菜栽培業者となった者もいましたが、後に、「1924年移民法」((Immigration Act of 1924)で排除の対象となりました。この時は、東アジア全体からの移民も禁じられています。

 使節団が訪米した頃、アメリカ経済はまだ好況でした。1868年から1873年の間に国内で総延長53,000 kmもの新線が敷設され、鉄道に対する投資は過熱していました。その後大不況に転じるとは、使節団一行の誰も想像しなかったに違いありません。
(2023/9/8 香取淳子)