ヒト、メディア、社会を考える

ニュース

「平仙レース」に見る、日本の近代化過程② 継承者・平岡仙之助

 前回、埼玉県入間市の繊維業者・平岡仙太郎についてご紹介しました。新規にレース事業を立ち上げ、技術開発や人材育成に力を注いで地場産業を活性化させる一方、地域社会を守り、住民の団結を図るため、さまざまな貢献をしてきました。

 ところが、その平岡仙太郎が1939年、45歳の若さで亡くなってしまったのです。果たして、「平仙レース」はどうなったのでしょうか。今回はその後の展開を、展示資料等を踏まえ、見ていきたいと思います。

■仙太郎没後の「平仙レース」

 仙太郎は、亡くなる前年の1938年、妻に先立たれていました。家には17歳の長女を筆頭に5人の子供が残され、長男の仙之助はまだ12歳でした。戦時色が濃くなり始めていた頃、子供たちが残されたのです。

 仙太郎の弟の平岡良蔵が後見人となって、「平仙レース」の経営を支えることになりました(※ 入間市文化創造アトリエHP、『織物の歴史と源流』)。

 1939年といえば、日本の同盟国であったドイツがポーランドに侵攻し、第2次大戦が勃発した年です。当時、日中戦争はすでに泥沼化しており、日本軍は南進を企てていました。国内では1940年10月12日に大政翼賛会の発会式が行われ、戦争を支え、推進していくための組織が作られました。社会全体が戦時体制に向けて整備されつつありました。

 翌1941年には東条英機内閣の下、12月10日に日米の戦いの火ぶたが切って落とされました。いわゆる太平洋戦争が勃発したのです。戦線は拡大し、軍事が優先されるようになっていきました。

 「平仙レース」も例外ではありません。1943年、工場転用命令を受け、綿布を織っていた狭山の工場は売却させられてしまいました。

 そんな折、一高・東大卒の平岡雅雄が、その秀才ぶりを見込まれて、仙太郎の長女の婿になりました。

 それを契機に、1943年から「平仙レース」の経営は娘婿の平岡雅雄が引き継ぐことになりました(※ 湯澤規子、「都市近郊農山村における高度経済成長期という体験」『国立歴史民俗博物館研究報告』第171集、p.46, 2011年12月)。

 彼は次々と、難局を乗り切っていきます。

 たとえば、当時、本社工場も売却せざるをえなくなっていましたが、当局に働きかけて、自家転用の許可を受け、1944年からは平仙航空精密製作所として操業しています(『わが町の織物』、2016年、p.48.)。

■戦後の復興期

 こうして家族の力で戦時下をしのぎ、1945年8月にようやく終戦を迎えました。ところが、その後の7年間というもの、日本はGHQの統治下に置かれました。

 GHQにとって喫緊の課題は、焦土と化した日本を立て直し、自立していけるよう経済活動を復興させることでした。復興促進策の先兵として着目されたのが、繊維産業でした。当時、生糸の生産なら、原料を自給することができましたし、日本の繊維産業は戦前、相当の輸出力を持っていたからです。

 そこで、まず、生糸の生産が開始されました。続いて1947年、GHQが綿紡織設備の復元を認めたので、綿業の再建が始まりました。さらに、化繊の生産も年産15万トンまでは認められるようになり、化繊工業の再建も軌道に乗りました(※ 地引淳「繊維産業―復興・発展期から調整・改革期へ」、『繊維機械学会誌』Vol.50, No.7, pp.376-377. 1997年)。

 そうした中、後見人であった平岡良蔵が工場を分離し、飯能に移転しました。1948年のことでした。レース機械12台と共に、多くの技術者も退職していきました。本社工場に残されたのはわずかの機械と従業員でした(※ 入間市文化創造アトリエHP、『織物の歴史と源流』)。

 幸い、残った従業員の中に、最盛期のレース技術を身につけた女子従業員が20人ばかりいました。残された機械も錆びついていましたが、疵はありませんでした。それらを整備して使えるようにし、熟練者を中心に、レース最盛期の作業を逐一、再現していきました。こうして予想外に早く、復興することができました。かつて「質の平仙」といわれていた時のような精巧なレースを作り出すことができたのです(『わが町の織物』、2016年、p50)。

 物資が不足していただけに、質の高いレースは女性たちに装いの夢と楽しみを与えました。復興の準備が整い、繊維産業全般が活気を帯び始めていました。そんな中、1950年6月に朝鮮戦争が勃発しました。大きな需要が発生したのです。

 国連軍の要請で日本は食糧、衣料、鋼材などの調達を求められ、軍事関連物資の特需が発生しました。土嚢用麻袋、軍服、軍用毛布、テントなどの繊維物資が大部分を占めました。「ガチャマン景気」といわれた朝鮮特需は、朝鮮戦争の勃発から1953年7月の休戦協定まで続きました。(※ Wikipedia 「朝鮮特需」)。

 入間地域の繊維業者もこの朝鮮特需にあやかり、徐々に、復興していきました。戦前は巾の小さな小巾織物を生産していましたが、戦後は時代のニーズに合わせ、巾の広いシーツなどの広巾織物に転換していきました。復興期の国内ニーズにも対応していくことによって、順調に生産量を伸ばすことができました。

■後継者としての仙之助

 仙太郎の長男として生まれた平岡仙之助(1927-1966)は、周囲に見守られ、期待を担いながら育っていきました。経歴を見ると、1948年、まだ高校生の時に、レース工業会理事に就任しています。そして、朝鮮特需が発生していた1951年には、大学生でありながら、所沢織物商工協同組合理事に就任しています(『わが町の織物』、2016年、p58)。

 仙之助は若い頃から、仙太郎の長男として、レース事業者、織物業者としての見聞を広め、知己を得る機会を与えられていました。いわゆる帝王教育を受けていたのです。

 浦和高校を経て、1953年3月に東大工学部を卒業すると、同年4月1日には家業を継承し、「平仙レース」工場の主宰者となりました。もうすぐ26歳になろうとする時でした。さらに、同年10月には日本繊維機械学会関東支部評議員に就任しています(前掲)。

 日本繊維機械学会は1948年に創設され、産官学協同を基調とした活動を展開している学会です。

こちら → https://tmsj.or.jp/overview/

 卒業を待ちかねていたかのように、仙之助は役職に就いています。おそらく、産官学を問わず、繊維業界各方面から期待された俊才だったのでしょう。成長を牽引できる人材が必要でした。

 その期待に応えるかのように、仙之助は1954年5月25日から9月19日までレース工業の視察のため、欧米各国を訪問しています。そして、1956年3月5日、「平仙レース」を株式会社に改組し、代表取締役に就任しました(前掲)。

 当時、後進諸国の繊維産業が発展しつつありました。日本の繊維事業者としてはまず、欧米の繊維産業の最新技術、経営動向、市場動向を把握し、改良すべきところは改良していく必要があったのでしょう。

 仙之助は帰国後1年数か月後に、事業形態を株式会社に改組しているのです。欧米への視察で得たものは、単にレース技術の最新動向だけではなく、組織の在り方、海外市場の動向など多岐にわたっていたに違いありません。彼は大幅に組織改革をし、より効率的に高品質のものを生産できる体制に構築し直しています。

 父親に似て仙之助は、進取の気性に富む努力家でした。

 さて、「平仙レース」展では、仙之助の写真が展示されていました。

こちら →
(展示資料より。図をクリックすると、拡大します)

 使命感と緊張感に溢れた表情、そして、ひたむきな眼差しが印象的です。果たして、いつ頃、撮影された写真なのでしょうか。

 展示写真を撮影する際、アクリル面に背景が映り込み、画面が不鮮明になってしまいましたが、それでも、仙之助が着用しているスーツの生地が精巧な織りのものだということはわかります。

■大きく事業を伸ばした仙之助

 事業を継承した仙之助は特需後も順調に業績を伸ばしました。1954年、1959年のレース生地生産量を見ると、埼玉県は全国の40%以上を占め、いずれも1位でした。この5年間で3倍にも達するほどの勢いです(※ 湯澤規子、前掲。p.46.)。

 このように、「平仙レース」は牽引車として、地元の繊維産業の発展にも大きく貢献していました。それだけではなく、同業他社の工場新設にも助力し、支援していました。

 たとえば、郡是製糸(後のグンゼ)がレース工場を設立した際、「平仙レース」から、1958年から3年に亘って、延べ8800人が指導に赴きました(※ 入間文化創造アトリエ・アミーゴHP、前掲)。

 実際、郡是製糸は、1957年に亀岡工場を新設し、刺繍レース事業を開始しています(※ https://www.gunze.co.jp/corporate/history/)。

 日本で初めて刺繍レース工場を創設したのが、「平仙レース」でした。郡是製糸としては、国内で先行する「平仙レース」に頼るしかなかったのでしょう。請われた仙之助は快く、自社の技術者を派遣し、技術供与に応じました。郡是製糸はいってみれば、「平仙レース」の競合相手になるわけですが、それでも支援を惜しむことはなかったのです。

 平岡仙之助は繊維事業の復興に際し、欧米に倣って、新たな商品開発と品質の高度化、そして、徹底的な品質管理を図りました。それをただ自社の発展につなげるだけではなく、地元の繊維産業、さらには、それらの情報を共有し、日本の繊維業界全体の底上げを図っていたことがわかります。

 生来の気質なのでしょうか、それとも、復興期の事業者だからでしょうか。仙之助は、積極的に新しい知識や技術を吸収し、それを自社事業に反映させるだけではなく、同業他社ともそれらをシェアし、共に発展していこうとしていました。

 あるいは、繊維業界や地域社会に貢献してきた仙太郎の気質を受け継いでいたからでしょうか。いずれにせよ、仙之助のそのような姿勢が結果として、「平仙レース」の事業を大きく発展させていきました。

■長者番付にみる事業の栄枯盛衰

 仙之助の繊維事業に対する熱意と努力はしっかりとその業績に反映されていました。たとえば、1955年度の長者番付を見ると、「平仙レース」はなんと7位に食い込んでいます。全国上位10位に入っているのです。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 10位のうち上位半数は後年、日本経済を牽引していく松下電器などの家電産業で占められており、炭鉱、繊維、合板、鉱業がそれに続きます。これらの産業は1950年から1952年までは上位を占めていました。

 興味深いことに、わすか2,3年で炭鉱、鉱業、繊維といった産業が減少し、家電産業にその地位を明け渡しているのです。1955年という年はどうやら、日本の産業構造の変化を示す分岐点のようにも思えます。

 1953年に松下電器と三洋電機がトップテンに入り、1954年には三洋電機が1位、松下電器が2位、そして、1955年には松下電器が1位、三洋電機が3位といった具合です。産業別に長者番付の推移を見ると、1950年代前半から半ばにかけてのこの時期は、戦後復興から経済成長に向けた過渡期であったことが示されています。

 それにしても、「平仙レース」が他の基幹産業に伍して、堂々と1955年度長者番付トップテンに入っていることに驚きました。

 繊維産業が好調だった時期だとはいえ、「平仙レース」が繊維業界トップでランクインしているのです。仙太郎の事業を引き継いだ仙之助がいかに積極果敢に技術開発、品質管理、経営刷新に取り組んできたかが示されています。

 この年、昭和天皇が工場を視察されました。陛下に付き添って説明する仙之助に、「この産業は輸出に重要な産業であるから今後も努力するように」とお言葉を掛けられたといいます(『わが町の織物』前掲、p.58)。

皇族方も視察されたようです。

こちら →
(展示資料より。図をクリックすると、拡大します)

 上手に撮影できませんでしたが、当時の雰囲気は掴めると思います。さまざまな経験を積んできたせいか、仙之助は成功した事業者らしく、先ほどの写真よりもはるかに堂々とした印象です。

 当時、繊維業界の輝かしい業績を牽引したのは「平仙レース」でした。1958年時点で、レース機械44台、従業員501人、生産量350万ヤード(うち輸出量200ヤード)の規模だったといいます(※ 入間文化創造アトリエ・アミーゴHP、前掲)。

 ちなみに、『婦人公論』1964年9月号では、「平仙レース」の輸出先は、東南アジア、ヨーロッパ、中近東、中南米、ニュージーランド、スイス、西ドイツだったと記載されています。

 さらに、文化出版局が発行する『装苑』の1961年7月号では、「オシャレを作る社長」として、平岡仙之助は取材を受けています。レース事業者として注目されるばかりか、ファッション文化の担い手としても注目されていたのでしょう。

 復興期を経て、経済成長期を迎えていた女性たちにとって、「オシャレ」というキーワードは訴求力がありました。装うことに夢や希望を添えて、未来を思い描かせる力があったのです。

 おそらく、仙之助自身、デザインやファッションに興味があったのではないかという気がします。

■桑沢洋子デザインの制服

 展示写真の中に、平岡仙之助が従業員たちと一緒に撮影されたものがありました。

こちら →
(展示資料より。図をクリックすると拡大します)

 やや緊張した面持ちの仙之助と、従業員たちの初々しい表情が印象的です。白い丸襟の制服を着た彼女たちは清楚で、しかも、とてもオシャレに見えます。まるでどこかの私立女子校の生徒のようです。

 この制服に白い帽子をかぶって、彼女たちは働いていました。

こちら →
(展示資料より。図をクリックすると拡大します)

 工場で働く労働者とは思えないほど、優雅で和やかな雰囲気が漂っています。

 実はこの帽子と制服は、桑沢洋子がデザインしたものでした。彼女は1954年、ドイツの造形学校バウハウスの影響を受けて、東京・青山に桑沢デザイン研究所を設立しました。「ふだん着のデザイナー」と名乗り、生活のためのデザインを提唱した先駆者でした。

 当時、桑沢洋子は学生服や企業のユニフォームなどを数多く手がけていました。

 仙之助は、従業員の制服のデザインをわざわざ桑沢洋子に依頼していたのです。そのことからも、仙之助のこだわり、幅広い知識、理想を追求する姿勢、美的センスなどを読み取ることができます。単なるレース事業者を超えた美的センスとみずみずしい感性の持ち主だったといえるでしょう。

 当時の女子中学生たちが、「平仙レース」に就職したいと強く願っていたのも無理はありませんでした。

■『むつみ』にみる従業員の気持ち

 平仙レース工場には『むつみ』という社内報がありました。1950年に創刊され、1968年に至るまでほぼ毎年、1冊ずつ刊行されていました。創刊時、仙之助はまだ大学生でしたから、この社内報の発刊はおそらく、平岡雅雄の発案によるものでしょう。

 そういえば、平岡雅雄は1943年、長女の婿として平岡家に来た時の様子を次のように述べています。

 「平岡の家は、明治以来の典型的な機屋の構造で、昔着尺を入れた倉は大きくて立派でしたが、仙太郎在世中から書面の類は全くなく、すべて仕事に直結した生活の匂いが残っていました」(『わが町の織物』、前掲。p.50)

 江戸時代から代々、織物業を営んできた平岡家では作業工程にしろ、何にしろ、書面で記録して残すという習慣がなかったのでしょう。ところが、そのようなやり方では、多数の従業員を雇用し、機械を使って作業を進めていく近代的な生産工程はうまく機能しません。平岡雅雄はおそらく、そのような慣行は改善しなければならないと考えたのでしょう。

 社内報『むつみ』の内容は、①会社経営側からの寄稿、②社内各組織からの連絡事項および寄稿、③従業員からの寄稿、等々で構成されていました。特に多かったのが従業員からの寄稿でした(湯澤規子、前掲。p.45.)。

 彼女たちはいったい、どのような気持ちで「平仙レース」を志望し、働いていたのでしょうか。従業員の寄稿を見てみることにしましょう。

 たとえば、1952年に刊行された『むつみ』3号を見ると、入社試験を振り返って、次のような感想が寄せられています。

 「(前略)試験場はもう大勢の受験者でいっぱいでした。(中略)あのきれいな工場で働いている自分を想像したり、その反面考えまいとしても不合格でがっかりしている自分を想像したりしては、なかなかねつかれない夜も何度もありました」

 「私はどうしても第一希望であるあこがれの“平仙”に入りたかった。不安のうちに入社試験の日になった」

 これらを見ると、どうやら、「平仙レース」は、当時の中学生たちにとって憧れの職場だったようです。いずれも、仙之助が工場の主宰者になる前年の記録です。

 当時、中学校を卒業した女性の採用倍率は5倍で、高等学校の試験よりも難しいといわれていました。従業員の年齢は15歳から27歳ぐらいまで中心で、彼女たちは主に工場でレースの生産に従事しました。1台のレース機械に3人の女性従業員が配属され、男性は主に機械類の保守点検や総務を担当していました(※ 湯澤規子、前掲。pp.47-48.)。

 近隣の農山村の女子中学生にとって、近代的な設備の「平仙レース」は憧れの職場でした。それだけでなく、そこで働いていたというキャリアは、彼女たちが将来、結婚する際の手堅い保証にもなっていました。寮生活や課外活動を通して、教養やマナーなども学べるようになっていたからでした。

 「平仙レース」は、商品の品質が高く、ブランドとして幅広く認知されていただけではなく、会社そのものも、女性にとってはブランド化していたのです。

 さらに、仙之助は従業員のために画期的なことをしていました。

■会社内に浦和高校通信部を設置

 展示資料によると、1962年、平岡仙之助は従業員のために、県立浦和高校通信部・仏子共同学習所を会社構内に設立しています。

 全国で初めての通信制高等学校でした。女子従業員たちは作業の終わりか、作業の始まる前に校舎に通う仕組みになっていました。校舎は工場から離れた静かなくぬぎ林の中に建てられていました。4年の過程を終了すると、普通高校と同じ卒業資格が授与されました。

 浦和高校から12名の教師が来て、週4日、授業が行われていました(『わが町の織物』、前掲、p.48.)。

 仙之助は欧米を視察してきただけに、従業員に対する教育の重要性を認識していたのでしょう。高度な機械を導入し、高品質の製品を生産し続けるには、従業員に新しい知識や技術を習得していくための基礎的な学力が必要でした。働きながらも学び続けられるような環境を構内に整備したのです。

 「平仙レース」が導入した学びながら働ける環境の設定は、当時、画期的な試みだったのでしょう。1967年、昭和天皇・皇后が訪問されて、彼女たちの学習風景をご覧になっています。

こちら →
(展示資料より。図をクリックすると、拡大します)

 昭和天皇は二度も「平仙レース」を訪問されています。戦後の日本経済を立て直し、世界に羽ばたく繊維事業のモデルとしてブランド化されていったからではないかと思います。「平仙レース」は当時、それだけ日本にとってかけがえのない存在だったことがわかります。

■ジェントルマン・平岡仙之助

 さて、1967年に再び、天皇陛下が訪問されたというのに、残念ながら、仙之助は天皇陛下に付き添って説明することはできませんでした。その前年の1966年8月19日に39歳の若さで亡くなっていたのです。交通事故でした。

 あまりにも若く、そして、不慮の死に多くの人々が嘆き悲しみました。

 一連の業績を称え、平岡仙之助は内閣府から従六位に叙せられ、勲五等瑞宝章を授与されました(『わが町の織物』、前掲、p.59)。

 展示資料によると、平岡仙之助は経営者として東奔西走しながら、西武町商工会長、消防団長を務めています。父親の仙太郎と同様、仙之助もまた地元産業、地域社会の安全にも大きく貢献していたのです。

 二人とも、先見の明があり、進取の気性に富み、そして、度量の大きな人物でした。時代の動向を見据えて、最新技術を取り込み、質のいい製品を提供することに力を注ぐ一方、地域に根付いた事業展開をし、地域社会への貢献を怠りませんでした。地元で代々、裕福な家庭に育ったからこそ、ごく自然に、利他的精神が発揮されたのかもしれません。

 ふと、「ノブリス・オブリージュ」という言葉が脳裏をよぎりました。

 そういえば、仙之助は従業員のために桑沢洋子デザインの制服を用意し、構内に通信制高校を設立していました。従業員が夢を抱いて働いて学べる環境を整備していたのです。家族の一員のように従業員を捉え、彼らの生活や人生への責任を感じていたからにほかなりません。

 一連の事業を見てくると、仙之助には事業者としての品格が感じられます。教養があり、美意識に秀でていたからこそ、彼は、従業員の教養を高める必要を感じたのでしょうし、美意識を涵養する必要を感じたのでしょう。若い頃から帝王教育を受けて、見聞を広め、学識を深めてきた仙之助ならではの取り組みでした。

 仙之助はまさに、ジェントルマンでした。

 利益追求を当然視し、平気で従業員を使い捨てにする昨今の風潮を苦々しく思っていただけに、従業員を重視した彼の経営姿勢が眩しく見えてきます。

 当時は、人と人が繋がり合い、人と土地が結びついて経済活動が展開されていました。だからこそ、真面目に努力し、他人を思いやり、節度を持って生きた人間が報いられてきました。それを古き良き時代だったと片づけてしまっていいのでしょうか。

 改めて従業員の白黒写真を見てみると、素朴で初々しい表情の中に、未来を信じ、夢を抱いて生きることの幸せが感じられます。機械に使われるのではなく、人と人が繋がり合って、機械を使い、より良い生活を目指していた時代が限りなく麗しいものに思えてきました。

 AI時代を迎えた今、技術は人の活動を補佐する以上の存在になってしまいました。収集したデータに基づき、AIが判断をし、意思決定をするようになりつつあります。技術は際限なく進歩し、まるでがん細胞が増殖して人を死に追いやるように、進歩し続ける技術が人や社会の諸機能を蝕み、やがて機能不全に陥らせてしまうのではないかと懸念されます。

 果たして、技術の進歩は人の幸せに繋がっているのでしょうか。

 一斉にAI時代に向かって走り始めている今、人間の活動を補佐する程度の技術を基盤にしたオルタナティブ社会が一部に存在してもいいような気がしています。(2022/4/28 香取淳子)

「平仙レース」に見る、日本の近代化過程① 創業者・平岡仙太郎

■「平仙レース」の写真展示

 2022年3月26日、三寒四温の日々が続いているとはいえ、だんだん暖かくなってきました。ひょっとしたら、もう桜が咲いているかもしれないと思い、久しぶりに入間川遊歩道に出かけました。

 途中、文化創造アトリエ前の交差点で、信号が変わるのを待っていると、向かい側の、「文化創造アトリエ・アミーゴ」(以下アミーゴ)の車寄せ道路側の壁面に、写真と説明文が展示されているのが目に入りました。近づいて見ると、「平仙レース」というタイトルが見えます。

こちら →
(筆者撮影。図をクリックすると、拡大します)

 ざっと見たところ、「平仙レース」に関する写真や説明文が掲示されているようでした。

 展示写真を見てみました。

 「まとい」や「神輿」、女子従業員のための寮、寮での生活、昭和天皇・皇后両陛下の当地ご訪問、レース工場の航空写真など、「平仙レース」の過去をうかがえる写真がいくつも展示されています。もはや人々の記憶にはなく、振り返ることすらできないほど遠くなってしまった日本の過去が、白黒写真の中にしっかりと捉えられていました。

 見ているうちに、通り一遍に見て済ませられるような展示内容ではないような気がしてきました。一連の写真の背後に見過ごすことのできない何かを感じたのです。

 「平仙レース」とは一体、何なのでしょうか。

 そこで、今回は、展示写真を中心に、郷土資料、関連資料を踏まえ、「平仙レース」から何が見えてくるのか、探ってみたいと思います。

■平岡レースとは何か

 展示写真の中には、昭和33年頃の「平仙レース」工場の写真がありました。

こちら →
(展示写真より。図をクリックすると、拡大します)

 説明文は、「かつて仏子には「平仙レース」という日本有数のレース工場があったことをご存じですか?」という文章で始まっています。

 上の写真は昭和33年頃に撮影されたものですが、広い敷地に特徴のある建物が並んでいます。この地域の有力な機業家であった平岡仙太郎が、1928年に設立した「平仙レース」工場でした。

 なぜ、「平仙レース」なのかといえば、地元の有力な機業家であった平岡仙太郎(1893-1939)が、大正末期にレース工場を設立したことに由来しています。平岡仙太郎が創始したレース工場だから、「平仙レース」なのでした。

 それでは、平岡仙太郎とはどのような人物だったのでしょうか。

■平岡仙太郎とは

 展示資料によると、平岡仙太郎は1893年、織物業を営む平岡専吉の長男として生まれ、川越染色学校を卒業すると、そのまま家業を継ぎました。この辺り一帯は幕末から明治・大正にかけて、全国でも有数の織物生産地でした。

 入間地方は痩せた土地で、農産物の収穫が少なく、農家の人々は副業として、瘦せた土地でも育つ桑の木を植えて養蚕を行い、織物を作って、市場に出していました。この地域一帯で盛んだったのが、織物業だったのです。

 当時、織物市場は川越、所沢、扇町屋、飯能などにありました。ところが、江戸時代も1844年頃になると、織物の取引が江戸に近い所沢市場に移っていきました。その結果、実際の織物生産の中心は入間でしたが、入間、川越、飯能、所沢などで織られた織物は、総称して、「所沢織物」と呼ばれるようになったそうです。市場が所沢だったからです(『ときの夢を織る~入間の繊維産業の歩み~』、pp.5-7. 2005年1月。入間市)。

 いずれにしても、入間は織物の生産拠点だったのです。そのような環境の中で生まれ育った平岡仙太郎はきっと、織物業を天職と思っていたのでしょう。

 説明文には、「稼業を継いでからは、力織機を増設したり、分工場を設立したりして次第に、経営を拡大していきました」と書かれています。力織機という耳慣れない言葉が使われているので、気になって調べてみると、次のようなものでした。

こちら →
(Wikipediaより。図をクリックすると、拡大します)

 力織機とは、1785年に、イギリス人エドモンド・カートライト(Edmund Cartwright)が発明した機械動力式の織機のことで、英語のpower loomをそのまま日本語に訳したものでした。

 それまでの手織機に代わって織物生産の主役となって産業革命を主導したとされています。これが普及してから、それまでの手織機の使用は、工芸品や伝統的な布を織る場合に限られるようになったそうです。

 上の写真は豊田自動織機G3型です。G型をベースに構造を強化し、厚地が織れるようにした織機です。実は、豊田佐吉は1924年に、このG型自動織機を発明し、完成させていました。(※ https://www.tcmit.org/exhibition/textile/fiber03/)

 平岡仙太郎が事業を継いだ頃はおそらく、このG型自動織機が日本の繊維業界に出回っていたのでしょう。積極果敢に新しい機械を導入して新規事業を展開し、経営拡大を図っていました。

 繊維業は明治、大正、昭和と日本の中心的な輸出産業の一つでした。高品質の製品を大量に生産し続けるには、機械の導入、品質管理、新規製品の開発などが不可避でした。

■なぜ、レース工場を設立したのか。

 平岡仙太郎は稼業を継ぐと、経営を拡大する一方、繊維業界の動向を見ながら、刺繍レースへと主力製品を変えていきました。新しい技術を積極的に導入し、事業効率を高めながら、時代に即した新製品の開発を手掛けていったのです。

 大正末期にレースの生産に着目していた彼は、昭和に入って早々、1928年に平仙レース工場を設立し、1929年から操業を始めました。

 展示資料には、1923年に関東大震災が発生し、①手工レースが壊滅状態に陥ったこと、②浜口内閣が緊縮財政政策を取り、輸入品で贅沢とみなされたレースの関税を3割から10割に引き上げたこと、等々から、レースの国内生産に踏み切ったと、その理由が書かれていました。

 気になったのは、「浜口内閣が緊縮財政を取り・・」、と書かれている箇所でした。関東大震災後、内閣は頻繁に交代しています。果たして、一内閣の経済政策だけで新規事業に踏み切れるものか、納得しかねたのです。

 そこで、当時、誰が経済政策を担当していたのか、調べてみました。

■緊縮財政政策下で振り絞った知恵

 調べてみると、関東大震災後、不安定な社会状況を反映するかのように、内閣は頻繁に交代していました。急死したり(加藤高明)、暗殺されかけたり(浜口雄幸)、不穏な社会状況の下、かじ取りを迫られていたことがわかりました。

 興味深いことに、震災後の数年間、浜口雄幸が一貫して大蔵大臣を務めています。

 震災時は、第22代の第2次山本権兵衛内閣(1923年9月2日から1924年1月7日)で、大蔵大臣は井上準之助でした。次の第23代清浦奎吾内閣(1924年1月7日-6月11日)の大蔵大臣は勝田主計でした。

 いずれも短期間で終わっていますが、震災直後の経済政策を主導したのが井上準之助です。彼は善後策として、一定期間の支払い猶予、震災手形制度などの緊急措置を行いました。

 その後、第24代の加藤高明内閣(1924年6月11日‐1926年1月30日)の大蔵大臣は、浜口雄幸でした。第25代の第1次若槻礼次郎内閣(1926年1月30日-1927年4月20日)でも、彼は大蔵大臣を務めました。

 展示説明では、「浜口内閣の緊縮財政政策」と書かれていましたが、浜口が総理大臣になったのは、第27代内閣(1929年7月2日-1931年4月14日)で、確かに、浜口雄幸が総理大臣だった頃、平岡仙太郎はレース工場を操業しています。

 浜口内閣の大蔵大臣は井上準之助でした。浜口に請われ、立憲民政党の井上が民政党内閣の大蔵大臣に就任しています。浜口は、総理大臣になると、自身と同じ考えの井上を大蔵大臣に起用したのです。高橋是清の弟子でありながら、井上準之助は緊縮財政派だったからでした。

 その井上は、凶弾に倒れた浜口内閣の後、第2次若槻内閣(1931年4月14日-12月13日)でも大蔵大臣を務めました。

 こうしてみてくると、関東大震災後の数年間、政府は一貫して、緊縮財政政策を取ってきたことがわかります。そのような経済政策の結果、国民や中小企業は苦難の淵に追いやられることになりました。

 その後、立憲政友会の犬養毅内閣(1931年12月13日-1932年5月26日)になると、高橋是清が大蔵大臣に起用されました。彼が積極財政を展開してようやく、日本が構造的なデフレ状況から脱却することができました。

 1931年の経済成長率は0.4%でしたが、高橋是清が積極財政を展開すると、1932年には4.4%、1933年には11.4%、そして、1934年には8.7%と劇的な回復をみせたのです。(※ Wikipedia「濱口雄幸」より)

 平岡仙太郎は1929年、緊縮財政下でレース工場の操業を開始しました。ところが、その後、積極財政政策が展開されたため、順調に業績を伸ばしていくことができたのです。

■レース製品

 日本はレース製品をスイス、イギリス、フランスなどからの輸入に頼っていました。輸入品なので奢侈品として高い関税をかけられていたのです。

 展示資料によると、緊縮財政下では10割もの税金が欠けられていたといいます。そのようなレース製品だからこそ、国内生産することに仙太郎は商機を見出していたのです。国産にすれば、少なくとも半値にはなるので、大幅な利益を見込むことができます。

 経営者として合理的で、野心的な判断でした。

 レース工業に着目した仙太郎は、昭和2年(1927)からレース工場の設立に取り組みました。そして、1928年にレース工場を設立したのです。レース機械をドイツから導入し、技術者を招いて指導を受け、1929年に機械による刺繍レースの生産を始めました。

 展示資料によると、1928年暮れにドイツ製レース機械を2台購入したそうです。購入代金は3~4万円(現在価格で6~7000万円)、鉄道で運搬したといいます。ドイツ人技師のカール・フランケ、ワルターが3週間ほど滞在し、機械の組み立てや操作の指導を行いました。

 予想した通り、国内向けレースは好調でした。展示写真の説明によれば、ほぼ一年で、レース機械の減価償却ができたといいます。仙太郎に先見の明があったことが証明されました。

 1929年から30年にかけては、機械を10台購入し、横浜から車で運搬しています。前回と同様、ドイツ人指導者が組み立て、後の2台は社員が組み立てを行いました。

 そして、1931年には、機械12台を購入し、今度は社員が中心になって組み立てました。ところが、途中で、作業の中心人物に召集令状が来て入隊してしまったため、最後の1台は仙太郎自身が組み立てたそうです。仙太郎が現場技術に明るい経営者であったことがこれでわかります。

 その後、逐次、設備を改善し、技術の向上に努めた結果、海外の製品に劣らない優秀な製品ができるようになっていきました。

 展示されていた「平仙レース」をご紹介しておきましょう。

こちら →
(筆者撮影。図をクリックすると、拡大します)

 洗練された色遣い、繊細で豪華、上品な図案が印象に残ります。

 1931年頃から、「平仙レース」は海外に輸出されるようになりました。当時の主な輸出先はインドで、サリー用の生地として使われたそうです。

 そして、1934年、機械24台を購入し、レース機械は合計で48台になりました。その後、リバーレース機械2台を購入し、この時、工女の数は300人ほどになっていました。

 展示されていたレース製品をもう一つ、ご紹介しておきましょう。

こちら →
(筆者撮影。図をクリックすると、拡大します)

 精巧で優雅、可愛らしさのある図案が印象的です。

 それにしても不思議なのは、なぜ、ドイツからレース機械を輸入したのかということでした。というのも、当時、日本はもっぱら、スイス、イギリス、フランスからレース製品を輸入していたからです。

 調べてみると、16世紀以降、ドイツでは織機でレースが生産されていました。19世紀になると、レース産業は急速に発展し、20世紀初頭には、ドイツの主要都市にレース教習所が作られたといいます。やがて、機械レースが一般的になり、手作りレースは植民地で生産されるだけになったようです(※ Wikipedia「ドイツのレース」)。

 これだけではなぜ、平岡仙太郎がドイツ製のレース機械を購入していたのかわかりませんが、その後、リバーレース機械を2台購入していることを考え合わせると、彼がハンドメイドに近い繊細で優雅な出来栄えを望んでいたからかもしれません。

 レバーリース機は高級レースを生産するための機械でした。国内外とも、やがては高級レースへの需要が高まると仙太郎は考えていたのでしょう。

 以後、改良を重ねた平仙レースは、たちまちのうちに、日本で最高の品質に達し、海外でも高い評価を受けるようになっていました。事業は好調に伸びていきました。

 こうして、平岡仙太郎は、創業からわずか10年余りで、日本屈指のレース工場に変貌させていたのです。

■技術の開発、継承をどうするか

 平岡仙太郎は創業から短期間でレース工場を築き上げました。日々、研鑽を積み、改良を重ねた結果、良質のレース製品を生産する技術を獲得しました。彼にとって最大の課題は、どうすれば、その技術を将来にわたって保持し、継承していけるかということでした。

 展示資料によると、解決策として、彼は次のようなことを考えたそうです。すなわち、①県繊維工業試験場(現アミーゴ)の設置、②組合の整染工場の設立、などでした。

 いずれも、繊維事業者にとって必要な技術力の錬磨の場であり、学び、研究、指導の場でもありました。このようにして、「平仙レース」と地元繊維業界との架け橋を作っておけば、平仙の技術そのものが消滅してしまうことがないだろうと考えたからでした。

 平岡仙太郎は実際、1936年に県会議長に就任すると、土地や建物を県に寄付し、1937年に仏子染織指導所を誘致しています。他の産地に負けない優れた品質の製品を作り続けるためでした。おかげで、戦中、戦後とさまざまな苦難に見舞われながらも、「平仙レース」の製品や入間の繊維業界の製品は品質を保つことができました。

 仏子染織指導所の建物は現在、「入間文化創造アトリエ・アミーゴ」として地域の人々の文化活動、芸術活動に使われています。空撮写真をご紹介しておきましょう。

こちら →
(アミーゴHPより。図をクリックすると、拡大します)

 16角形の建物の面積は105㎡で、現在、スタジオとして使われています。

 赤いのこぎり屋根の建物は、繊維試験場の建物を残し、ホールとしてリニューアルされました。面積は210㎡あり、グランドピアノ、音楽設備一式が装備されています。

こちら →
(筆者撮影。図をクリックすると、拡大します)

 もちろん、織物工房や染色工房もあります。

こちら →
(筆者撮影。図をクリックすると、拡大します)

 織物や染色を気軽に体験できる場として設置されています。布を織ったり、染色したりすることによって、子どもたちが織物や染色の仕組みを学び、地場産業を知る機会を提供しています。

 繊維業の発展に尽力していきた平岡仙太郎の思いは、繊維業者だけではなく、このような形でも次世代に引き継がれていくのでしょう。

■地域住民とともに

 展示資料によると、西武公民館のロビーに「まとい」がガラスケースに収められて展示されているそうです。

こちら →
(展示資料より。図をクリックすると、拡大します)

 この「まとい」は、まだ自動車が珍しかった1934年、アメリカ・フォード社製の消防車を2台、平岡仙太郎と地元民とが配備したことが称えられ、授与されたものです。消防車2台のうち1台は仙太郎、もう1台は元加治村民からの寄付でした。

 当時のポンプ車は高価で、近隣の村や町にはまだ導入されておらず、地元はもちろんのこと、近隣まで、このポンプ車で消火活動を行ったそうです。

 地域の安全を守る消防活動に、仙太郎と地元村民が1台ずつ寄付したとところに、彼の深い配慮を感じます。自分一人の手柄にせず、村民と共に生きる姿勢を見せたのです。

 仙太郎がいかに地元を愛し、安全を願っていたか、そして、地元の人々と様々な思いを分かち合い、共に地域を守っていこうとしていたか、このエピソードからは、仙太郎の心遣いと郷土愛が感じられます。

 さらに、平岡仙太郎は、仏子の八坂神社に神輿を寄付しています。

 神輿を作る際、彼は、8割は自分が出資するが、残りの2割は氏子が出資した方がいいといったそうです。自分が全額出資してもいいが、そうすると、氏子の信仰心が希薄になるといって、氏子たちにも出資を呼び掛けたというのです。おかげで、近隣にはない立派な神輿を作ることができました。

こちら→
(展示資料より。図をクリックすると、拡大します)

 この神輿は、近隣のものとはくらべものにならないほど、立派なものでした。それは、外見が並外れて豪華で素晴らしいからですが、氏子たちの心がこもったものになっているからでもありました。仙太郎が主導して氏子たちをまとめ、その信仰心を形にしていったのです。

■銅像が語るもの

 1937年に日中戦争が始まると、レース製品の輸出は禁止されました。さらに、緊縮財政下で国内需要もなくなり、経営が困難になっていきました。その後、第2次大戦へと大きく傾き、経済統制はさらに強化されました。

 この時、入間地域の繊維業者の3分の2が廃業に追い込まれたといいます。

 第2次大戦が始まった1939年、平岡仙太郎は45歳の若さで亡くなってしまいました。「平仙レース」のため、地場産業のため、地域住民のため、粉骨砕身して生きてきた平岡仙太郎が、この世を去ってしまったのです。

 地元繊維業界にとっては大きな損失でした。1935年には所沢織物工業組合を設立して理事長となり、仙太郎は業界の発展に力を尽くしていました。それだけに、仙太郎の死は大きな打撃でした。地元繊維業界は、時代の動向を察知し、業界をまとめて牽引していく旗振り役を失ってしまったのです。

 所沢織物商工共同組合は2019年7月、平岡仙太郎を偲び、かつて「平仙レース」第2工場があった場所に、平岡家本宅に合った銅像を移築し、碑を建てました。

こちら →
(筆者撮影。図をクリックすると、拡大します)

 碑文を読むと、平岡仙太郎のさまざまな功績が偲ばれます。

 関東大震災を経て、日中戦争から第2次世界大戦にいたる大変な時期を、彼は積極果敢に生きてきました。銅像に刻まれた穏やかながらも、凛々しく、毅然とした表情が印象的です。

こちら →
(筆者撮影。図をクリックすると、拡大します)

 ふと思い立って、背後にスーパーの看板が見える角度から撮影してみました。かつて「平仙レース」第2工場があったところで、彼にとっては思い出深い場所です。

こちら →
(筆者撮影。図をクリックすると、拡大します)

 こうしてみると、平岡仙太郎はいまなお、地場産業を見守り、地域社会を守ろうとしているかのように見えます。銅像が設置された場所は、背後にかつての「平仙レース」第2工場があり、対角に、彼が誘致した仏子染織指導所(現アミーゴ)を臨んでいます。まさに彼が活躍した場なのです。

 それでは、「平仙レース」から何が見えてきたのでしょうか。

 展示写真からはさまざまなものが捉えられていました。それを要約すると、明治、大正、昭和にかけての近代化の過程が、白黒写真の中にしっかりと捉えられていたといえるでしょう。

■「平仙レース」を通して見えてきた日本の近代化過程

 振り返ってみれば、欧米列強から開国を強いられた日本は、明治、大正、昭和にかけて近代化を急ぎました。拙速ながらも、近代国家にふさわしい制度整備を行い、殖産興業政策を展開してきました。その一つが繊維産業でした。

 「平仙レース」で展示写真を見ていると、日中戦争、第2次世界大戦を経て、戦後復興期に至る日本の近代化過程の一端を概観できるように思いました。

 果たして、近代化は必然だったのでしょうか。大きな地殻変動が起きているいま、改めて、近代化の総括をしておく必要があるのではないかという気がしました。

 明治の日本は産業革命を経ず、欧米列強から近代化を強いられました。閉じた社会からいきなり開かれた社会へと方向転換させられたまま、現在に至っています。近代化の行きつく先がグローバル化であり、そのグローバル化の弊害が、さまざまな領域で顕著になってきているのが現状です。

 そして、令和の今、コロナに始まり、気候変動による大災害、ウクライナ事変に伴う戦争の危機など、体制転換を予感させる出来事が立て続けに起こっています。それらは、やがて来る幕末期に匹敵する激動の時代の予兆のように思えるのです。

 いずれ、誰もが否応なく、社会体制の転換を経験することになるのでしょうが、その後、どのような未来を迎えることになるのか、現在の延長線上で思い描くことは困難です。ひょっとしたら、幕末期の人々のように、これまでとは全く異なった社会体制を強いられるようになるのかもしれません。

 たまたま出会った、「平仙レース」の展示写真から、日本の近代化過程の一端を垣間見ることができました。いくつもの白黒写真を見ていくうちに、再び、大きな社会変動の時期を迎えているのではないかという思いに駆られてしまいました。(2022/3/30 香取淳子)

Henry Lauは現代版モーツァルトか? ④ヒット曲 “Despacito” のカバーを聞き比べてみる。

■TEDでスピーチするHenry Lau

 YouTubeを見ていた時、たまたまHenry Lauの動画に出会いました。久しぶりだと思って開いてみると、なんと彼がTEDでスピーチしているのです。TED×The Bundというコーナーでの動画でした。こんなところで見かけるとは思いもしなかったので、驚いてしまいました。

こちら →
(YouTube映像より)

 TEDといえば、英語のプレゼンテーションが通常なのに、Henry Lauの場合、中国語のスピーチで、しかも、字幕も付いていません。それでも聞き続けていると、要点だけはテロップが付けられていたせいか、なんとなくわかったような気がしました。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=D4Hwpl4az4E

 2022年2月24日にアップされた動画です。TEDでの収録がいつだったのかわかりませんが、私が見た時点ですでに3955回視聴されていました。演奏やパフォーマンスだけではなく、スピーチでもHenryは人々を強く惹きつける魅力を持っていることがわかります。

■The best is yet to come, just keep asking yourself WHY NOT.

 “The best is yet to come, just keep asking yourself WHY NOT.”というのが、このスピーチのタイトルです。これまでの人生を振り返り、「最高のものはまだ来ていない、なぜなのか自問し続けよ」という教訓を会場の人々に向けてプレゼンテーションしていたのです。

 彼はそれまでの人生でぶつかったターニングポイントを3つ挙げ、それぞれが自分にとっての飛躍のチャンスだったといいます。

 一つ目は、ヴァイオリンとpoppingの発表を同じ時間帯で披露しなければならなくなった時、彼はユニークな芸当を編み出しました。

 クラシック音楽を奏でるヴァイオリンを弾きながら、ロボットのような動き方をするpoppingを組み合わせるという前代未聞のパフォーマンスを創り出したのです。以来、この芸当はHenryの得意技になりました。

 二つ目のターニングポイントは、両親が望む進路と自分が求める進路とが異なっていたことでした。幼い頃からクラシック音楽の教育を受け、ヴァイオリンでもピアノでも受賞し、才能が認められていた彼に対し、両親は音楽大学に進むことを望んでいました。

 ところが、Henryは韓国のエンターテイメント企業のグローバルオーディションに合格し、両親の望まない方向を選択してしまいます。単身、韓国に乗り込み、スターダムに駆け上がろうとしていましたが、ファンから「Henry Out!」コールを受け続け、ボイコットされていきます。

 苦しみぬいた末、Henryは一歩身を引いて、バークリー音楽大学で学ぶことにします。そのまま韓国にいれば危機に陥っていたでしょう。再起不能になっていたかもしれません。不意に襲われた危機をHenryは転機に変えたのです。バークリー音楽大学では、それまで欠けていた歌唱を習い、作曲を勉強しています。こうして次の段階に向けて、技量を高めていったのです。

 そして、第3のターニングポイントとして、Henryは、「さまざまな苦境は、自分を向上させる機会に変えていく」結論づけます。苦難と向き合い、考え抜いて対処することで、自身の枠を広げ、技能を高めていく機会に変えることができるというのです。

■なぜ、危機を転機に変えることができたか

 Henryはカナダで生まれ育ったので、英語ネイティブですが、韓国語を独学で学び、KPOPスターとなった後、中国語を学び、TEDでは中国語でプレゼンテーションしています。しかも、クラシックからポップスまでカバーできる音楽のジャンルも幅広く、パフォーマンスも超一流です。

 このような豊かな才能の持ち主だからこそ、危機を転機に変えることが出来たのではないかという気がします。とはいえ、彼のこれまでの生き方を見ていると、何事にも真摯に取り組み、努力を惜しまなかったからこそ、危機を転機に変えることができたのだとも思えます。

 つまり、危機を転機に変えることができるのは才能なのか、それとも、努力なのかということが気になっているのです。

 危機を転機に変えるというのは、おそらく、「言うは易く行うは難し」の類の箴言なのでしょうが、実際に経験してきたHenryが言うと、気持ちが鼓舞されます。不思議なことに、今後、何かあったとしても前向きに取り組んでいこうかなという気持ちになってしまうのです。

 それにしても、Henryはなぜ、さまざまな危機に遭遇しながらも、それらを転機に変えることができたのでしょうか。

 ひょっとしたら、音楽という大きなジャンルからはみ出ることなく、生きてきたからではないでしょうか。もし、そうであれば、一見、危機に思える事柄も経験値を高める事案にすぎず、転機に向けたプッシュ要因になるばかりか、その後の展開にプラス要因として作用する可能性も高いはずです。

 いずれにしても、Henryは見事なまでに、遭遇した苦難を自身の音楽の豊かさにつなげていきました。それには、自身の演奏能力はもちろんのこと、他人が創作した楽曲の真髄を把握し、それに自身の解釈を加え、表現する能力に長けているからでしょう。

 Henryがどれほど音楽の解釈に優れた能力を持ち、そして表現力に長けているか、試みに、他人の楽曲をどれほど独自のフィルターをかけて演奏しているかを見ていくことにしたいと思います。

 Henryはヒット曲を何曲かヴァイオリンでカバーしています。それぞれがオリジナル曲とは別の味わいがあって、惹きつけられます。

 ここでは、“ Despacito”を取り上げ、聞き比べてみることにしましょう。ルイス・フォンシ(Luis Fonsi)が2017年1月にリリースした曲で大ヒットしました。

■“ Despacito”のカバー曲、聞き比べ

●Despacito by Henry Lau
 2018年12月22日に公開された2分22秒の動画を見てみることにしましょう。DespacitoをHenryがヴァイオリンで演奏しています。この動画では前半部分です。

こちら → https://youtu.be/Tau4Zd4cS40
(広告はスキップするか、×で消してください)

 曲の真髄を捉え、見事なまでにヴァイオリン曲として弾きこなしています。テンポと抑揚に、K-POPアーティストならではのハギレの良さとリズム感があり、現代性が感じられます。

 元の曲がどのようなものであったか、聞いてみることにしましょう。

●Despacito by Luis Fonsi

こちら → https://youtu.be/kJQP7kiw5Fk
(広告はスキップするか、×で消してください)

 Luis Fonsi が2017年1月13日にリリースした4分41秒の動画です。ストーリー仕立てで映像構成されており、この曲の雰囲気をよく表したものになっています。

●Despacito by Hauser

 2021年7月5日に公開された2分3秒の動画で、Hauserが演奏するチェロでカバーされています。

こちら → https://youtu.be/yj2Y5O88lIw
(広告はスキップするか、×で消してください)

 この曲の雰囲気がしっかりと再現されています。南国のリゾート地ではおそらく、このようにけだるい雰囲気の中でエロティシズムが満喫されているのでしょう。

 チェロの音色が意外にこの曲に合っていることがわかりました。

 2台のチェロで演奏されている動画もありました。2017年7月9日に公開された3分9秒の映像です。

こちら → https://youtu.be/D9LrEXF3USs
(広告はスキップするか、×で消してください)

 チェロという楽器のせいか、深いところで感情が刺激され、酔わせられます。

●Despacito by Peter Bence

 Peter Benceがピアノでカバーしている3分34秒の動画もありました。2017年7月27日に公開されています。

こちら → https://youtu.be/GmtTDvNcXcU
(広告はスキップするか、×で消してください)

 ピアノでカバーしているといいながら、ハープシコードのような音色です。ちょっと古風な音の響きがこの曲の持つ哀愁とうまくかみ合っていると思いました。ただ、ピアノのという楽器の音色そのものが断続的な響きなので、この曲が持つ、ヒトの情感にしっとりとまとわりついてくるような要素は表現しきれてないように思えました。

●Performs Despacito by Luis Fonsi
 
 Luis Fonsi(ルイス・フォンシ)がスタジオでダンサーを従え、歌を披露しているライブ映像がありました。2017年8月16日に公開された3分42秒の動画です。

こちら → https://youtu.be/djMWv_o3iHk
(広告はスキップするか、×で消してください)

 明るく、陽気なラテン系のエロティシズムがスタジオ中に満ち溢れています。

●Despacito by Facundo Pisoli
 
 Facundo Pisoliがレストランで、サックスでこの曲を演奏しています。2017年4月21日に公開された3分58秒の動画です。

こちら → https://youtu.be/8wIZs2JwYMU
(広告はスキップするか、×で消してください)

 まず、サックスもこの曲に合うと思いました。華やかでありながら、哀愁を感じさせる音色にけだるいエロティシズムを感じさせられます。ただ、演者に余裕がないせいか、曲の情感を充分に引き出せていないように思えました。

■“ Despacito”の情感に影響する楽器、パフォーマンス

 “ Despacito”のカバー曲を聞き比べてみた結果、この曲が持つ哀愁や情感を表現するには、楽器が持つ音色が大きく影響していることがわかりました。Henryが弾くヴァイオリンでは繊細な音色で深い哀愁が良く表現されていました。

 ただ、ヴァイオリンはチェロに比べ、楽器が小さいせいか音が細く高く、エロティシズムや深い情念を表現するのは難しいと思いました。その足りない分をHenryはパフォーマンスで補っていましたが・・・。

 オリジナル曲を歌ったLuis Fonsiは映像クリップではストーリー仕立て、スタジオ収録映像ではダンサーのパフォーマンスがこの曲に情念とエロティシズムを加えていました。

 Hauserがチェロでカバーしたものは、この曲の真髄をよく表現できていたと思います。チェロの深い音色とダンスパフォーマンスがマッチし、南国の気だるい雰囲気の中で充満する情念やエロティシズムがうまく表現されていました。

 こうして見てくると、楽器の音色、音楽に合わせたパフォーマンスが曲の総合的な印象に大きく影響していることがわかります。もちろん、どのような音色を出すかは、演者による曲の解釈、経験値、そういうものが作用するでしょう。

 “ Despacito”のカバー曲を聞き比べていくと、HenryがTEDでプレゼンテーションしていたような、「危機を転機に変える」という発想だけでは曲の深みを出せないかもしれないという気がしてきました。

 「危機を転機に変える」のは、人生訓として優れたものではあっても、さまざまな喜怒哀楽を呑み込んだうえで、人間というものを深く理解するには不十分ではないかという気がしてきたのです。「危機を転機に変える」こともできないような立場に立ち、さまざまな理不尽な経験をしてはじめて、人や人生について深い理解ができ、表現ができるのではないかという気持ちになりました。(2022/2/28 香取淳子)

映画『安魂』を観て、遺された者が奏でるレクイエムを聴く

■映画『安魂』の試写を鑑賞

 映画『安魂』の試写を観ました。この映画は、周大新の『安魂』(谷川毅訳、河出書房新社)を原作に、日向寺太郎監督、富川元文脚本の下で製作された日中合作映画です。2022年1月15日から岩波ホールで2週間、先行公開された後、全国で順次、公開されます。

 予告編がアップされていますので、ご紹介しましょう。

こちら → https://ankon.pal-ep.com/

 2分5秒ほどの動画ですが、この映画のエッセンスがよくわかるように作られていました。

 突如、息子に先立たれた父親が深い喪失感に苛まれ、藻掻き、苦しみながら、なんとか立ち直っていくプロセスが描かれています。とくに、息子が亡くなってからの展開が素晴らしく、夢中になって観てしまいました。

 画面に引き込まれ、見終えてしばらくは、その余韻から抜け出せなくなっていたほどです。久々に感動した映画でした。

 最愛の息子を失った父親の喪失感がどれほどのものか、どのようなプロセスを経て、喪失感から回復することができたのか。さまざまなエピソードを積み重ね、きめ細かく丁寧に描かれていました。おかげで、父親の心理の紆余曲折が情感豊かに伝わってきます。

 主人公は父親ですが、同じぐらい重要な役割を果たしていたのが、息子と息子に似た詐欺師です。後半になると、父親と息子に似た詐欺師の対話シーンが多くなりました。概念的、哲学的な内容で、どちらかといえば、深刻で馴染みにくいものでした。

ところが、そのような内容にもかかわらず、ごく自然に感情移入することができ、夢中になって画面を見ることができたのです。ひとえに演技者の卓越した表現力のおかげでしょう。父親を演じたのが、巍子(ウェイ・ツー)、息子と息子に似た詐欺師の二役を演じたのが、强宇(チアン・ユー)でした。

 父親役の巍子(ウェイ・ツー)がぼそっと喋る低い声には、限りなく深い悲しみが込められていましたし、息子と息子に似た詐欺師の二役を演じた强宇(チアン・ユー)の儚く、クールな表情には、内面の葛藤を抑制できる知性が感じられました。二人とも役柄にぴったりの資質を備えていたのです。

 それでは、映画の内容をメインストーリーに沿ってご紹介し、なぜ、私が感動したのかを振り返ってみたいと思います。

 ここでは、わかりやすくするため、登場人物を名前ではなく、属性に従って、父親、母親、息子、若者(息子に似た詐欺師)、スーツ男(詐欺師の叔父、詐欺の主犯格)、恋人、日本留学生、友達(息子の職場友達)女性(詐欺師の仲間)と呼ぶことにします。

 なお、以下の文章では、感動のあまり、映画の結末に触れてしまっていますので、ご注意いただければと思います。
 

■第1幕の構成

●澤風大過の卦
 
 冒頭のシーン、限りなく広がる畑の中を男の子が歩いています。時折、葉をむしり取りながら、動き回っていて、ふと気づいたのが、大きな木の下にいる高齢者でした。空を見て、何やら考えている様子です。

 不思議に思った男の子が近づいてきて、「何してるの?」と問うと、「未来を見てる」と答え、「父は作家か?」と尋ねます。男の子はうなづき、「父さんはここで育ったんだ」と答えます。

 画面は変わり、二人の男が話しながら歩いてくる様子が映し出されます。

こちら →
(試写映像より。図をクリックすると拡大します)

 大きな横断幕には、「楊橋村の栄誉、鳳凰文学賞受賞者唐大男講演会」と書かれています。冒頭の男の子の話と照らし合わせて、これを見ると、父親は作家の「唐大道」だということがわかります。文学賞の受賞記念に開催された講演会に出席するため、父親は息子を連れて故郷に帰ってきていたのです。

 木の下に息子がいるのを見つけ、父親は「行くぞ!」と叫びますが、息子は高齢者と話していて、動きません。父親が、あれは誰だと尋ねると、村人は、占いや易を仕事にしており、暇なときはいつも、あそこに座って空を見ていると答えます。

 その占い師に息子は手のひらを見せ、生まれた年、月日、時刻などを聞かれるままに答えています。占ってみた結果が、「澤風大過の卦」でした。

こちら →
(試写映像より。図をクリックすると拡大します)

 「どういう意味?」と聞く息子に向かって、占い師は、「過分なものを求めると、悲しき未来が待っておるぞ」と予言します。

 これが、その後の展開の導入になります。

 その後、舞台は20年後の開封市になります。

●頑張りすぎる息子

 20年後の開封市では、成長した息子が会社で忙しく働いています。一方、父親は大勢の人々を前に、新刊記念サイン会に臨んでいます。さらに、名声が高まっているのです。

 そんなある日、息子は交際している女性を呼び寄せ、両親に引き合わせます。母親は彼女をもてなそうとしますが、父親は「お前にふさわしくない」と拒否します。息子とは教育レベルが違うというのです。

こちら →
(試写映像より。図をクリックすると拡大します)

 息子が「彼女と一緒になりたい」と言い張り、母親が取り成しても、父親は「愛など時とともに変化する。理性的になれ」と息子を叱り、結婚を認めようとしません。

 客間に戻ってみると、彼女はおらず、慌てた息子はバスターミナルに向かいます。バスに乗り込もうとしていた彼女を見つけ、「君と一緒に村に行く」と息子は言いますが、「私のために両親ともめないで。私は大丈夫」と説得され、バスは発車します。

 バスターミナルでそのまま茫然と座っていた息子は、目の前で日本人留学生のバッグが置き引きされるのを目撃します。慌てて追いかけ、なんとかバッグを取り戻しますが、息子はその場で倒れてしまいます。救急車で運ばれ、検査の結果、脳腫瘍だということがわかりました。

 医者からレントゲン写真を見せられて、「ただちに手術が必要」と言われ、父はそれに同意します。一方、息子は明日にも退院できると思っています。その息子の病室に、帰郷の途中で引き返してきた恋人が、心配そうな顔で入ってきます。

 「なぜ、急に倒れたの?」と問われ、息子は「仕事が忙しかったから・・・」と弱々しく答えます。恋人は思わず、泣き顔になって、「頑張り過ぎないでね」と訴えます。

こちら →
(試写映像より。図をクリックすると拡大します)

「頑張りすぎる息子」というのが、ここまでの展開のキーフレーズです。

 周りから頑張りすぎると思われるほど、息子は仕事に打ち込んでいます。それが、占い師が告げた「過分なものを求めると」という予言を思い起こさせます。

 息子が頑張るのは、分野が違っても、父親のように成功するには、努力しかないと思っているからですが、そこに、作家として成功した父親と、その父親を目指す息子との微妙な関係が示唆されています。

●父さんが好きなのは、自分の心の中の僕なんだ

 手術が終わって病室に戻った息子の傍に、父親がそっと寄り添っています。

 息子は薄目を開き、「あっちの世界を見たよ。僕はきっと、入口まで行った」、「僕は軽くなって、この身体から漂い出た」と言い、「浮き上がって、火災報知器の場所まで浮いた」とつぶやきます。

こちら →
(試写映像より。図をクリックすると拡大します)

 「下を見ると、自分が横たわっていた。入っていこうとしたら、目が覚めた」と息子は言います。父親は、「夢を見ていたんだ。ばかな考えはよせ」と言い、「私より先にお前が逝くはずがない」と強い口調になります。

 息子は「そうだね」と素直に受け、「この世で、まだ何も成し遂げていない」とつぶやきます。辛くなった父親が、「もうしゃべるな。先生を呼んでくる」といって立ち上がると、息子は、「父さん、僕が嫌い?」と尋ねます。驚いた父親が、「何をいいだすんだ。ただ一人の息子を嫌うものか」と語調を強めます。

 息子は続けて、「父さんが好きなのは、自分の心の中の僕なんだ」、「今の僕じゃなく、心の中の僕なんだ」と絞り出すような声で言います。

●努力しないと、父さんのようになれない

 自室に戻った父親は、子供の頃の息子とのやり取りを回想します。

 「友達が出来たのに引っ越し?」と問う息子に、父親は、「この環境はお前によくない」と断定します。「サッカー褒められたんだ」と誇らしげに言う息子に対し、「いいか、サッカーなど役に立たん」と父親は、一言の下に否定してしまいます。

 そして、「お前の目標は勉強して、いい大学に入ることだ」と言い渡すのです。

こちら →
(試写映像より。図をクリックすると拡大します)

 息子は「わかった」と答えていますが、どう見ても、納得しているとはいえない表情を浮かべています。

 病院に来て、待機していた父親は、うたた寝をしている間も、息子を自転車に乗せて凧揚げを見に行った時のことを思い出していました。

 ふと目覚めて、父親が病室に行くと、息子はベッドに身を起こし、パソコンを操作しています。「何をしてる?」と父親が尋ねると、「仕事が終わらない」と言い、しきりにため息をつきます。

 「パソコンをやめろ」と父親が言うと、「努力しないと、父さんのようになれない」と息子は喘ぐように言います。

こちら →
(試写映像より。図をクリックすると拡大します)

 「分野は違うけど、父さんのように成功したい」息子が言うと、父親は顔を寄せ、息子の目をじっと見つめ、「もっと上を目指せ、私を超えるんだ」と力を込めて言います。息子は弱弱しくうなづきます。

●予言の的中

 看護婦が来て、息子を検査室へ連れて行きます。心配そうに見守る父親。しばらくすると、廊下を慌ただしく看護婦が行き来し、そのうちの一人が待機している父親のところにやって来て、息子の容体に異変が起こったと知らせます。

 病室では医師が懸命に心臓をマッサージしていましたが、その甲斐なく、午後9時30分、息子は亡くなってしまいます。

 10歳の頃、占い師から告げられた予言通り、息子は「父さんのように成功したい」と頑張りすぎて、早すぎる死を迎えてしまいました。「過分なもの」を求め、「悲しい結末」を引き当ててしまったのです。

 ここまでが第一幕です。

 確かに、息子は命を縮めるほど、頑張りすぎました。ところが、いくつかの回想シーンから、父親が息子に過剰な期待を寄せていたことが明らかにされています。父親はそれを息子に対する愛だと思っていたかもしれませんが、過剰な期待が息子を追い詰め、過剰な努力を強いていた可能性が考えられます。

 それが証拠に、今にも旅立とうとする時、息子は喘ぎながら、「父さんが好きなのは、自分の心の中の僕なんだ」と言い残しました。

 息子にしてみれば、必死の思いで努力しているのに、父親から認めてもらえず、愛されているという実感を持てなかったのでしょう。最後に、力を振り絞って言葉にしたのが、このフレーズでした。

 過剰な期待を寄せ、高い目標設定をし、「過分なこと」を息子に強いてきた父親こそが、「悲しい結末」を引き寄せたかもしれないのです。

 遺された者には重くのしかかります。

■第2幕の構成

●息子の居場所を知りたい

 葬儀が終わると、父親は骨壺にそっと上着をかけ、母親と共に雨の中をとぼとぼと歩いて帰宅します。息子の部屋に入った父親は、泣き崩れ、「なぜ、どうして?」と振り絞るように声を出し、母親もまた涙にくれています。

 部屋を暗くしたまま、一人座り込む父親。壁には息子の写真が飾ってあります。母親がお茶を持ってくると、まるで避けるかのように、父親は「ちょっと散歩してくる」といって出かけ、川辺でしばらく座り込んで、物思いにふけっています。

 また、ある時は、母親が部屋を開けると、父親は本に埋もれるようにして、調べものをしています。息子の霊魂の居場所を知ろうとして、さまざまな宗教書を読み漁っていたのです。

 仏教の教義では、死者の魂は7日間遺体の傍に留まるといい、イスラム教では魂は死後7日、“楽園”と呼ばれる場所にいると、父親は読み上げます。そして、エジプトの神話では、キリスト教では、故郷の言い伝えでは・・・、といった具合です。

こちら →
(試写映像より。図をクリックすると拡大します)

 父親は手当たり次第に宗教書を読み、息子の魂の行く末を把握しようと藻掻いていました。見かねた母親は、父親の頭をそっと撫で、「私たちが受け入れないと・・・」とつぶやきます。

 ところが、父親は壁にかけた写真に向かって、「お前に会いたい」と泣き崩れてしまいます。母親は背後から肩に手をかけ、父親の背中に顔を寄せます。息子を失った父親の悲しみは深く、母親も戸惑ってしまうほどでした。

 この深い喪失感が、次の展開を導きます。

●心霊治療所

 息子の面影を追い、父親は駅前ロータリーでぼんやりと座っていました。すると、父親の目の前を、ローラースケートに乗って、さっと通り過ぎた若者がいます。その面影が驚くほど息子によく似ていました。

 思わず後を追って、小道に入っていた父親は、若者が入っていった建物につい、足を踏み入れます。すると、スーツを着た男がやってきて、「ここは心霊治療所です」といいます。

 父親が「ここに入っていった青年は・・・?」と尋ねると、「父さん」と先ほどの若者が姿を現します。父親は若者を見つめますが、驚いて、言葉も出ません。まるで息子本人が現れたかと思えるほど、そっくりだったのです。

 スーツ男は、そんな父親の凝視を遮るように、「予約が必要です」といいます。父親はそのまま何も言わず、帰っていきました。

 再び、父親は心霊治療所に向かいました。途中で、息子がバッグを取り戻してあげた日本人留学生に出会います。彼女はこの辺りに下宿していたのです。

 父親が心霊治療所に入っていくと、今回も、スーツ男が出てきて、息子に似ている若者を呼びます。

 父親は眼鏡をかけ直し、確認するようにしげしげと彼を見つめています。一方、日本人留学生は彼を見た瞬間、驚いて立ちすくみます。それほど息子に似ていたのです。

 その日、父親は暗い部屋に通され、心霊治療中の様子を見学します。真剣に見ている父親の様子をうかがっていたスーツ男は、「必要でしたら、治療させていただきますが・・・」と切り出します。

 担当者として現れたのは、息子にそっくりの若者でした。

●息子に酷似した心霊治療担当者

 帰宅した父親はパソコンを開き、「心霊治療所」を調べます。すると、所長は劉万山という人物で、画面には、「霊魂の存在を科学で証明」というセールスポイントが大きく掲げられています。父親はそれを見て、軽く会釈をした若者を息子の姿に重ね合わせ、考えています。

 父親はまた、心霊治療所を訪れます。

 「ご子息が使っておられた品はお持ちになりましたか」と聞かれ、父親は、息子が使っていた家の鍵を差し出します。その鍵を交霊の手がかりに治療が始まりました。

 若者は父親の手を取り、自分の手に重ねます。スーツ男が「(霊は)降りてきたか?」と尋ねると、若者は「父さん」と呼びかけます。「どこにいたんだ?」と父親が聞くと、「病室の天井から見下ろしていたよ」と答えます。

 父親は驚きました。死ぬ間際に息子が言った言葉と同じだったのです。

 その後も、若者の口から、父親が病室で息子から聞いたのと同じ内容の言葉が次々と出てきます。途中で、若者が「僕は・・・」と言いかけテーブルに手をつくと、スーツ男は「今日はここまで」と言って立ち上がり、カーテンを開けます。さっと明るくなり、霊魂との交信が途絶えました。

 若者が語った息子との会話の内容、病室の様子、まったくその通りでした。父親は不思議でなりません。

 「覚えているか?」と聞くと、「病室の様子も覚えています」と若者は答えます。横から、スーツ男が「描いてごらん」と紙と鉛筆を差し出すと、「火災報知器の位置は確か、ここで・・・」と言いながら、「息子さんはここから見ていました」と図示したのです。

 父親はすっかりこの若者を信用してしまいました。

●母親の反応

 父親は、母親に一度、その若者に会ってみないかと誘います。

 母親は、「あなた信じるの?」と詰問します。そして、「病室の様子なんて、どこも同じよ」、「幽体離脱の話は有名よ」と即座に否定します。さらに、「大作家のあなたがそれを信じるなんて」「作品に影響するんじゃない」と心配します。

 そして、「彼に会って、どうなるの?」と泣き、「会ったって、意味はないわ。よけいにつらくなるだけよ」、「私はあなたに早く立ち直ってほしい」と悲痛な声をあげます。

 母親は、父親を心霊治療している若者が、ただ息子に似ているというだけの詐欺師だと判断しているのです。彼女の指摘はどれも理に適っており、現実的な判断でした。

 母親の言う通り、魂が身体から抜け出て浮遊し、火災報知器の辺りまで行ったという説明は、幽体離脱現象を語ったにすぎません。その知識さえあれば、息子の魂との交信を装うことは可能でした。

 母親の反応を見て、父親は、ちょっと複雑な表情を見せました。ひょっとしたら、若者が本当に息子の霊と交信していたのかどうか、確認したくなったのかもしれません。

●さらにのめり込む父親、慎重に調査する母親

 父親は心霊治療所の前で、若者が出てくるのを待ち構え、息子の写真を見せてから、二人きりで会いたいと頼み、追加料金を出してもいいと付け加えます。

 若者と父親はベンチに座っています。父親が「息子はいま、どこにいる?」と尋ねますが、若者はそれには答えず、魂についての知識や概念の方に話題を向けます。肝心の息子の魂とは交信できていないのですが、作家である父親は目を輝かせ、どうやら満足している様子でした。

こちら →
(試写映像より。図をクリックすると拡大します)

 その点、母親はリアリストでした。息子の友達に頼んで、この心霊治療所について調査させていたのです。

 彼らがあの建物を借りたのは2か月前、しかも、喧嘩する声が頻繁に聞こえてくるといった近隣からの情報を入手しています。これで、彼らが詐欺師である可能性が高くなりました。そこで、母親は、父親に「いくら払ったの?」と尋ねます。

 父親は「払ってない」と答え、「いままで忘れてた」と言い、急に気づいたような顔つきになります。母親が「お金を渡して、こんなこと、終わりにして」と頼むと、その機に乗じて、父親は「彼らを家に呼んではいけないか」と尋ねます。当然のことながら、母親は断固、拒否します。
 
 それでも、父親は諦めきれません。結局は母親が折れる恰好で、自宅で息子の霊魂と交信することになりました。

■第3幕の構成

●自宅での交霊

 自宅で行う交霊への参加者は、父親、母親、息子の友達、息子の恋人、日本人留学生、そして、治療者側から、若者、スーツ男です。

 交霊が一通り終わった後、母親が若者に、「私への最初のプレゼント、まだ覚えてる?」と尋ねます。イカサマだとばれることを心配したスーツ男が「あまり古いことは・・・」と遮ろうとした時、若者は「僕が描いた母さんの似顔絵」と答えました。母親の顔がやや緩み、こみ上げる感情を抑えるように、立ち上がって部屋を出ていきます。

 スーツ男はすかさず、「休憩しましょう」と言います。

 父親は母親の後を追い、「当たってたか?」と尋ねます。「確かに、絵をくれたわ」と母親が答えると、父親は、「息子を感じないか?」と畳みかけます。母親はそんな父親を強く揺さぶり、「息子を騙るなんて許せない」と泣き出します。

 一方、ベランダでは、スーツ男が若者に、「あてずっぽうは止せ」と叱り、「次はいよいよ本題に入るぞ」と言い聞かせています。

こちら →
(試写映像より。図をクリックすると拡大します)

 交霊が再開されました。テーブルにローソクが2本、置かれています。スーツ男が「ご両親に話したいことは?」と尋ねると、若者は「大切にして」といいます。父親が「誰を?」と尋ねると、若者は、息子の恋人の名を挙げました。

 驚いて若者を見つめる息子の恋人、そして、彼女を見つめる日本人留学生。驚いた表情の父親、母親、友達が順に映し出されていきます。

 若者は続けて、「幸せになって」「愛してる」といいます。すると、息子の恋人は「もう、やめて」、「聞きたくない」、「あなたは、違うわ」と言って、泣きながら部屋を出て行ってしまいます。後を追って、日本人留学生、続いて、友達も出ていきます。

 残されたのが、父親、母親、スーツ男、若者です。

 白けた座の中で、スーツ男は、「よく考えて。言い忘れたことはないかね」と若者を促します。すると、若者は、「3年前、あるプロジェクトで借金をした」と切り出します。スーツ男が「誰に、いくら借りたのか」と聞くと、若者は、金融業者から50万元借りたと答えます。

 そこまで聞いていた母親は、「もう、たくさん。息子はそんなことしないわ」と叫び、「こんなことだろうと思っていた」、「もう帰って」と言い放ちます。「帰らないと、警察を呼ぶわよ」と続けます。

 驚いて立ち上がるスーツ男、続いて、若者が部屋から出ていきます。

 母親は「これは詐欺よ、分からない?」と父親に言い、「しっかりして」と迫ります。すると父親は「通報したら、会えなくなる」、「彼に会いたい」と口走り、母親に通報しないよう懇願します。それを聞くと、母親は微かに首を振って、「もう耐えられない」とつぶやきます。

●詐欺師と発覚

 画面は変わって、心霊治療所では、スーツ男が荷物の整理をしています。入って来た女性に「撤収だ、逃げるぞ」と告げ、慌ただしく動き回っています。若者はソファーに腰掛け、イヤホンで何かを聞きながら、その様子をうつろな目で見ています。

 一方、作家の自宅では、母親が荷物をまとめ、スーツケースを持って、慌ただしく玄関を出て、タクシーに乗り込みます。一人残された父親は、書斎でぼんやりと息子の写真を見ています。

 その後、雨の中、川辺に佇んでいる父親が映し出されます。傘が吹き飛ばされ、びしょぬれになっても、なお、立ち尽くしています。

翌日、心霊治療所では、スーツ男が、父親からの電話を受けました。50万元を持っていくから治療を続けてほしいという内容でした。女性が、「警察の罠じゃない」と疑う一方、スーツ男はお金欲しさに、「様子を見よう」と受け入れます。一連のやり取りを聞いていた若者は、ちょっと驚いた表情を見せますが、すぐ無表情になります。

 父親は約束通り、50万元の入ったカバンを持参してきます。中身を確認すると、100元紙幣がぎっしりと入っていました。

こちら →
(試写映像より。図をクリックすると拡大します)

 若者、スーツ男、金融業者はそれぞれ、大金を前に、軽く興奮しています。父親に求められ、いよいよ交霊に入ろうとした時、外に出ていた女性からスーツ男に電話があり、治療所周辺に大勢の警察が張り込んでいるという情報がもたらされました。

 スーツ男は慌てて、「急用で、今日は中止です。また、日を改めて」と言い、何も持たず、早々に外に出ていきます。金融業者が金の詰まったカバンを持って立ち去ろうとしたとき、若者が呼び止め、つかみ合いになります。結局、カバンは金融業者に持ち去られてしまうのですが、そのカバンは玄関で待ち構えていたスーツ男に取られてしまいます。

●詐欺師だと告白

 取り残された父親と若者は、暗い部屋で交霊を始めました。手を触れあったまま、若者は、「もうすぐ天国の一番美しいエリアに入る」、「この旅路で、たくさんの人に出会い、多くの事を学んだ」、「モーツァルトにも出会った。一番感動したのは、遺作「レクイエム」をつらぬむものが、悲しみではなく喜びであることだ」と静かに告げます。

 交霊が終了すると、若者は父親に鍵を返しました。鍵は、交霊のための必需品です。父親は慌てて、「教えてくれ、私の魂の重さは?」、「死後に行く場所は魂の重さで決まる。私が死ねば息子に会えると思っていたが、魂の重さが足りなければ、死んでも息子には会えん」と矢継ぎ早やに言葉を浴びせかけます。

 若者はそれを聞いて、悲しそうな表情を浮かべ、「全部、ウソですよ」、「先生の本を読み、資料を漁り、息子さんの情報も検索しました」、「死後の世界についての本も勉強して、会話の仕方も研究した。僕は詐欺師です」

 自分を信じ切っている父親に対し、若者はついに、詐欺師であることを告白したのです。

●君を抱きしめたい

 父親は「わかっていたよ。そんなことはどうでもいい」と動じず、「君に会い、君と話すだけで私は満足だった」と真剣な表情を見せます。

 若者はそれを聞いて、「先生はおかしな人だ」と泣きながら言い、僕に「そんな価値が?」と問いかけます。

 幼い頃に父母を亡くした若者は、これまで親身になって気遣ってくれる人もなく、生きてきました。生きていくのに精一杯で、叔父に言われるまま、詐欺行為を働いてきたのでしょう。

 日本人留学生との会話から明らかになったように、この若者は元々、「金持ちは嫌い」でした。だから、金持ちを騙して大金を得ても、別段、罪悪感はなかったのかもしれません。

 ところが、その若者の気持ちに大きな変化が起きていました。これから自首するというのです。

 自首すると聞いた父親は、「どこにいても会いに行くよ」と鍵を取り出し、「持っていてくれ」、「息子の鍵だから、預けておく」と差し出します。

 ところが、若者は、鍵はもう持っていると言います。「今朝、奥さんが訪ねてきて、いつでも会いに来なさい」と言って、鍵をくれたと説明するのです。そして、「奥さんは先生を気遣ってますよ」と付け加えました。

 立ち去ろうとして、若者は、ふと、思いついたようにポケットに手を入れ、心ばかりの贈り物だといって、父親に小さな壺を渡します。骨董店でみつけた壺で、吉祥雲の模様がついています。若者は、小さい時からこの模様が好きだったと説明します。

 父親が「大切にするよ」と言って、受け取ると、若者は、「僕もこの鍵を大切にします」と言いながら、母親からもらった鍵を返し、息子が使っていた鍵をポケットにしまいました。

 父親は名残惜しそうに、最後の頼みだといって、若者を抱きしめます。

 嗚咽にむせぶ父親と若者。見ていて感極まり、思わず涙してしまうシーンでした。息子を思う父親の純粋な気持ちが、詐欺行為を働いてきた若者の中に眠っていた純粋な気持ちを覚醒させたのです。

●遺された者のレクイエム

 父親は書斎でモーツァルトを聞きながら、パイプをくゆらせ、若者からもらった骨董品の壺を見ています。繰り返し眺め、そして、はっと気づきます。子どもの頃、息子が来ていたTシャツの模様が吉祥雲だったことを・・・。

 父親は、手にした小さな壺と、子供の頃の息子が着ていたTシャツとを見比べながら、嬉しそうな表情を浮かべます。この吉祥雲の模様に、息子と若者との縁を感じたのでしょう。

 思わず、外に出て、治療所に向かとうとした時、目の前に若者が立っているのに気づきました。息子の名を呼ぶと、振り向きますが、その瞬間、消えてしまいます。

 一年後。

 かつて、若者と会い、語り合っていたサッカー場で、父親は、母親や息子の恋人や赤ん坊らと共に観戦しています。家族だんらんを彷彿させるシーンです。息子の魂の安息を願い、遺された者が奏でてきたレクイエムが、一年後、このような形で結晶していたのです。

 父親の表情には、息子の死がもたらした喪失感を乗り越え、新たな死生観を獲得した者の強さが感じられます。

 そして、川辺では、父親がパイプを手にし、佇んでいます。その背後には、大きな川が滔々と流れていきます。

こちら →
(試写映像より。図をクリックすると拡大します)

 時にさざ波が立ち、時に濁流となって、あらゆる喜怒哀楽を呑み込みながら、川は絶え間なく流れていきます。

■私はなぜ、感動したか

 私がなぜ、この映画に感動したのかといえば、まず、父親の苦悩の軌跡が、段階を踏んで、丁寧に描かれていたからでした。とくに息子が亡くなった後からの展開が素晴らしく、画面ごとに、強く引き込まれていきました。

 父親の喪失感は、リアリストの母親との対比によって深く、多面的に表現されていました。悲愴感漂う父親の表情には、感情移入する一方、憐憫の情さえ覚えるようになったほどでした。とても難しい役どころだったと思います。

 繊細で微妙な感情表現を要求される父親役を、巍子(ウェイ・ツー)が、低い声と豊かな表現力によって、見事に演じきっていました。

 一方、息子には大人しい中にも秘めたエネルギーを感じさせる必要があり、また、息子に似た詐欺師にはクールで、感情を抑制できる知性が必要でした。二役を演じた强宇(チアン・ユー)には、声や顔面表情にその資質があり、適役でした。

 メインストーリーの構成を見ていくと、改めて、息子を失った父親の心の軌跡が、構造的に描かれていることがわかります。大きな喪失感に始まり、霊魂の模索、そして、交霊といった具合に、父親の気持ちの変化が行動の変化を伴いながら、物語を進展させていくプロセスがしっかりと組み立てられていたのです。

 ここでは、メインストーリーだけをご紹介しましたが、実際は、メインストーリーを支えるためのサブストーリーがいくつか設定されています。

 サブストーリーの一つに、日本人留学生を軸に展開されていたものがあります。好奇心旺盛な日本人留学生を登場させ、ターニングポイントで関わらせることによって、物語を豊かに肉付けする効果を生んでいました。

 メインストーリーの展開に影響を与える一方、登場人物の性格、来歴、価値観、嗜好性などを浮き彫りにしていたのです。

 たとえば、若者が日本人留学生に、「金持ちとバカが嫌いなんだ」と漏らしたことがありました。それを聞いた彼女は、「金持ちをだますのも生活の知恵?」と切り返しますが、このシーンでは、若者が良心の呵責を感じずに、父親と接触していることがわかります。

 当事者ではない日本人留学生は、一般常識に照らし合わせて、この若者が詐欺師だと判断していました。これはほんの一例ですが、彼女のおかげで、息子の恋人や詐欺師の若者を同世代の視点から肉付けすることができていたのです。

 若者は当初、父親を騙すことに何の躊躇いも持っていませんでした。そのことが明らかにされたこのシーンを設定することによって、父親との関わりの中で生じた若者の気持ちの変化がことさらに強く印象づけられます。

 若者を信じ、交霊を願い続ける父親の純粋な気持ちが、次第に若者の気持ちを浄化し、やがては、自身を詐欺師だと告白するようになったことにも、私は感動したのです。

 私がこの映画に感動したもう一つの要素がここにあります。

 父親はとっくにこの若者が詐欺師だと気づいていました。終には、本人から詐欺師だと告白されています。ところが、「それでもいい」と受け入れるのです。最初から詐欺師だと見抜いていた母親もまた、最後にはこの若者を許します。

 私の感動がさらに深まった理由が、ここにありました。

 詐欺師だとわかっても、父親は大金を渡し、詐欺師だと本人から告白されても、父親は若者を受け入れ、抱きしめたいと願い出ます。このような展開からは、大切なのは、金銭ではなく損得でもなく、効用でもなく実利でもなく、魂の通い合いであり、信頼だということが示されているように思えます。

 父親自身の気持ちにも大きな変化が起きていたのでしょう。若者と抱き合った時の父親の表情には、無上の喜びが感じられました。父親はようやく安息を得たのです。

 そして、一年後、父親、母親、息子の恋人と赤ん坊がサッカー場でなごやかに観戦する様子はまさに一家団らんの光景でした。息子の死後、遺された者はレクイエムを奏で、深い苦悩を経て、手にしたのが、永遠の安息への手がかりだったのです。

 映画『安魂』は、詐欺師を登場させることによって、重いテーマに軽妙さを添え、人が生きること、死ぬことの根源について深く考えさせてくれました。大変な力作です。(2022/01/08 香取淳子)

第53回練馬区民美術展に出品しました。

■第53回練馬区民美術展の開催

第53回練馬区民美術展が、2021年12月18日(土)から12月26(日)まで、練馬区民美術館で開催されました。


(図をクリックすると、拡大します)

第53回は、例年と違って、年末に開催されました。というのも、第52回は例年通り、2021年2月3日からの一週間、開催されたのですが、コロナのため、作品の展示のみで、審査が行われなかったからです。

コロナの収束を待って、年内にもう一度、ということで、第53回の開催時期が年末になったのでした。

もっとも、第52回は審査が行われなかったので、キャンセルする人が何人かいたのでしょう。実は、私も申し込みはしていたのですが、キャンセルしました。キャンセルした作品を今回、出品したのですが、そうでない人は、年に二度も展覧会に出品できるだけの作品を制作しなければならず、大変だったと思います。

今回、油彩画部門は例年に比べ、出品数が相当、少なかったような気がしますが、おそらく、そのせいでしょう。

さて、今回、私はF20号の油彩画、《虹》を出品しました。


(油彩、カンヴァス、60.6×72.7㎝、2021年)(図をクリックすると、拡大します)

スマホで慌てて撮ったせいか、写真がぼやけてしまいました。しかも、会場の照明がアクリル面に映り込んでいます。見苦しい写真になってしまったことをご了承ください。

■なぜ、《虹》を描いたか。

まず、なぜ、《虹》というタイトルの作品を出品したかということについて、少しお話をしておきたいと思います。

昨今、気象変動のせいで、世界各地で大水害が絶えません。集中豪雨のせいで水害が多発していますが、その都度、スマホで撮影された動画がネットにアップされます。そのような動画をユーチューブで見るたび、心が痛む思いをしていました。

当事者が撮影した映像なので、生々しい現場の様子が手に取るようにわかります。家々や木々、橋、車など、ありとあらゆるものが次々と、大きな濁流にのみ込まれていく様子をリアルタイムで見ていると、人間の非力さを実感せずにはいられませんでした。

その後、被災地の人々はどうなってしまったのでしょうか。とくに気になったのが、三峡ダム周辺で発生した豪雨と洪水です。被害の規模があまりにも巨大で、想像を絶するほどでした。

被災地からの動画を見るたびに、大災害にめげず、なんとか復興にこぎつけてほしいと願わずにはいられませんでした。そして、私にできることがあるとすれば、それは何なのか・・・、と考えるようになりました。

ふと、思いついたのが、水が引いた後、空に架かる虹を描くことでした。あれだけの集中豪雨だと、ひょっとしたら、空に虹がかかるかもしれません。それを描いてみたらどうだろうと思ったのです。

もちろん、実際に虹がかからなくても構いません。

単なる雨上がりの後でも、空に虹がかかっているのを見ると、ちょっと晴れやかな気分になります。豪雨や大洪水を経験したような人なら、大空にかかる虹を見た時、どれほど感動するだろうかと想像してみたのです。

■祈りを込めて

被災地の人々は大切な人、これまで大切にしてきた物をある日突然、失ってしまったのです。どれほど悲嘆にくれたことでしょう。時には、気持ちの拠り所を失い、何も考えられずに、生きる気力すら失ってしまいかねないこともあったでしょう。

大きな喪失感を埋め、生きる希望を見失わないために、何をすればいいのだろうかと考えてみました。行きついた先が祈りでした。そして、そういう状況を画面で表現してみたいと思いました。

そこで、虹のかかる風景の前に女性を配置してみました。後方上からライトを当てて、撮影した女性像です。


(図をクリックすると、拡大します)

この女性像を真ん中に置いてみると、豪雨が上がった後の荒涼たる風景に、安らぎが訪れるような気がします。

おそらく、被災地の多くがこのように荒涼とした風景に変貌してしまっているのでしょう。わずかに残った木々以外は、何もかも押し流されてしまい、巨大な岩石だけの殺風景な光景になっているのではないかと思います。

それだけに、被災地の人々には、現状を乗り越え、生きていくための気力が必要になってきます。共に祈り、祈ることによって癒され、安寧の気持ちを得られるような存在が欠かせなくなるでしょう。

私は、女性像にそのような思いを込め、画面構成をしました。

何度も手直しして描いているうちに、この女性の顔面に、苦悩と安らぎ、癒しの表情が出てきたように思えました。鎮魂のため、生き抜く気力と気持ちの安らぎを得るために祈る、ひたすら祈る・・・、そのような気持ちからこの絵を描きました。

ふと、思い立って、虹を描いた作品にどのようなものがあるのか調べてみました。

私が興味深いと思ったのが、《虹のある風景》(ルーベンス、1632-35年頃)、《バターミア湖の虹》(ターナー、1798年)、そして、《虹かかる》(山下清、制作年不詳)です。この三作品をみてみることにしましょう。

■ルーベンス《虹のある風景》

調べてみると、ルーベンス(Peter Paul Rubens, 1577-1640)が《虹のある風景》という作品を制作していることがわかりました。


(油彩、カンヴァス、86×130㎝、1632-35年頃、エルミタージュ美術館)(図をクリックすると、拡大します)

画面の手前に馬車に乗った男、農婦、放牧された牛と馬が描かれています。中ほどの川辺では、男が棒のようなものを持って、何かを捉えようとしています。右手には林が広がり、左手にも木々が見えます。林の背後には小高い丘のようなものが見え、そこから右にかけて大きな虹がかかっています。

この作品では、牧歌的な田園風景の中に、虹が組み込まれていました。そのせいか、農民の生活風景を描いたにすぎないこの作品に、厳かな輝きが添えられています。木々の描き方に古典主義的な画法を感じさせる一方、農民の生活風景を捉えたところにフランドル派の面影が見えます。

一方、風景画家ターナーが描いた虹は、一種独特の趣がありました。

■ターナー《バターミア湖の虹》

ターナー(J. M. W. Turner, 1775-1851)が、バターミア湖に架かる虹を描いています。


(油彩、カンヴァス、サイズ不詳、1798年、テート・コレクション)(図をクリックすると、拡大します)

湖面から傍の山にかかった虹が描かれています。七色といわれる虹ですが、黄色がかった白色でぼんやりと描かれているせいか、とても幻想的な画面になっています。

湖面に近いところだけが明るく、そこが光源のようになって、周囲を照らし出しています。自然の持つ峻厳さ、崇高さ、人間には及ばない力が、この画面からは強く感じられます。手前にごく小さく、小舟に乗っている人が描かれていますが、風景の中に埋没してしまっています。

色数を抑え、水墨画のように幻想的な世界を創り出しているところに、ロマン主義的な風合いを感じさせられます。

■山下清《虹かかる》

山下清がこのような作品を描いているとは思いもしませんでした。気どりも何もない、素朴な画面でいながら、心惹かれる作品でした。


(油彩、カンヴァス、40.0×50.0㎝、制作年不詳、所蔵先不詳)(図をクリックすると、拡大します)

この画面を見て、まず目につくのが、左側の大きな滝です。大量の水が流れ落ち、白く泡立って見える様子が描かれています。下の方は水蒸気でけぶって、岩の形がぼんやりとしています。

手前には大きな岩がゴロゴロを転がり、その上にうっすらと虹がかかっています。手前から右端へと、赤、黄色、水色で淡い弧を描くように、虹が描かれています。

虹の背後の右奥にはダムのようなものが描かれ、そこから大量の水が流れ落ちています。その上の空を見上げると、所々、わずかな晴れ間を残し、広く、雲で覆われています。

虹そのものを見つめ、その本質を捉えた作品だと思いました。

■画題としての《虹》

今回、私は画題として「虹」を選びました。それは集中豪雨、洪水などで被災された方々への鎮魂の思いを表したかったからです。その思いが的確に表現できたかどうかはわかりませんが、これを契機に過去の作品を調べたところ、これまで様々な画家が、虹を画題にしてきたことがわかりました。

ルーベンスの場合、農村の生活風景を輝かしく見せる要素として、虹を使っているように思えました。あくまでも背景的要素の一つとして取り上げていたのです。

一方、ターナーは、虹を使って、人間の及ばない異次元の世界を表現していました。虹や虹を取り巻く環境は、水蒸気の機能や特性を踏まえて構成されており、幻想的な絵画空間が創出されていました。

虹の本質を踏まえ、描かれていたのが山下清の作品でした。虹が水蒸気と太陽光によってできることが、的確に表現されていたのです。滝とダム、空一面の雲、そして転がる岩石などのレイアウトは、一見、稚拙に見えますが、原初的なエネルギーを感じさせられました。

「虹」を背景的要素の一つとして活用するのか、「虹」そのものを観察し、画題とするかによって違ってくるのでしょう。いずれにしても、さまざまな要素を併せ持つ「虹」は、画題として興味深いものがあると思いました。(2021/12/30 香取淳子)

テレビ長崎制作『忘れない ~普賢岳噴火災害30年~』を見て、視聴者として思うこと。

■テレビ長崎制作、『忘れない ~普賢岳噴火災害30年~』の再放送

 10月に入ったばかりの頃、知り合いから連絡があって、『忘れない ~普賢岳噴火災害30年~』が再放送されることを知りました。再放送の日時は11月13日(土)の27時から27時55分までで、録画しなければ見られないような放送時間帯でした。

 さっそく録画予約したのですが、普段、テレビを見なくなっているので、録画予約したことを忘れていました。たまたま、ホーム画面から録画一覧を見て、思い出したのが、今朝でした。再放送から2週間以上も経っていました。

 さっそく、メモを取りながら、画面に向かいました。さまざまなことを感じさせられ、考えさせられました。久々に見応えのあるテレビ番組を見た思いがしました。

こちら →
(クリックすると、図が拡大します)

「普賢岳」と聞くと、私は条件反射的に、もくもくと立ち上る巨大な火砕流を思い出してしまいます。不気味なあの映像を、当時、テレビ画面で何度も見ました。そのせいか、現場にいなかったにもかかわらず、恐怖心を植え付けられ、記憶に定着してしまったのです。「火砕流」という言葉もあの時、はじめて知りました。

 あれからすでに30年余が経ってしまいました。

 画面いっぱいに広がる火砕流は、今にも巻き込まれてしまいそうだと錯覚してしまうほどでした。それほど、真に迫っていたのです。その後、さまざまな災害報道を見てきましたが、あの時の火砕流を捉えた映像ほど、危険が迫っていることを感じさせられたものはありません。それほど近く、火砕流が捉えられていたのです。

 臨場感あふれる映像を手に入れるために、どれほどの人々が犠牲になったのでしょうか。

 普賢岳噴火災害を考えるたび、その思いが胸を過ぎります。多くの犠牲者のことを思うと、何故?という疑問が消えませんでした。

 ところが、今回、『忘れない ~普賢岳噴火災害30年~』を見終えた時、どういうわけか、モヤモヤした気持ちが吹っ切れたような気がしたのです。長い間、重くのしかかっていた救いようのない気持ちが、この番組を見終えた時、いくぶん、晴れたような気分になったのです。

 もちろん、この時の災害報道の本質は変わることがないと思います。今後も、災害報道の在り方を問い続けなければならないのは当然のことですが、これを教訓として後の世代に残していくことも重要だと考えさせられたのです。

 この番組では、地元住民をキーパーソンに、災害後の対応について、時間をかけて丁寧に取材されていました。その結果、マスコミへの怒りから、全ての犠牲者を悼む姿勢へと、住民の気持ちが徐々に変化しく様子が手に取るようにわかりました。地元住民主導で、大惨事の周辺を整備し、慰霊の場とされたことを知りました。

 今回は、番組映像を適宜、交えてこの番組をご紹介し、何故、私がこの番組を見て、救いようのない気持ちが明るくなったのかについて考えてみたいと思います。

 まずは普賢岳の噴火から見ていくことにしましょう。

■噴火する普賢岳

 1990年11月17日、雲仙普賢岳は、198年ぶりに噴火活動を始めました。その後も噴火活動は続き、1991年2月ごろから次第に激しくなっていきました。

こちら →
(番組より。図をクリックすると、拡大します)

 5月24日には、溶岩塊が崩落し、普賢岳東斜面にはじめて火砕流が発生しました。

 以後、火砕流が頻発するようになり、5月26日には火砕流による負傷者が出ました。九州大学島原地震火山観測所は上木場地区の住民に警告を発し、避難勧告を行いました。

 所長が会見し、「すべては我々の想像以上の事態」だと指摘し、火砕流を警戒するため、避難勧告をすべきと判断していたのです。

こちら →
(番組より。図をクリックすると、拡大します)

 実は、1990年に普賢岳噴火を確認した直後に、小浜町は「普賢岳火山活動警戒連絡会議」を発足し、長崎県も「災害警戒本部」を設置していました。島原市も避難勧告を行っていました。

 普賢岳の噴火活動が始まってから、行政機関はそれぞれ避難勧告等の対策を行っていたのです。もちろん、報道機関に対しても避難勧告地域からの退去を要請していましたが、残念なことに、応じられませんでした。

 6月3日、噴火開始後、最大の火砕流が発生します。

こちら →
(番組より。図をクリックすると、拡大します)

 この日、火砕流が水無瀬川沿いに約4.3km流れ落ち、多くの人々が犠牲になりました。その内訳は、報道関係者16人、消防団員12人、一般住民6人、タクシー運転手4人、火山研究者3人、警官2人でした。

■なぜ大惨事になってしまったのか。

 当時、九州大学島原地震火山観測所所長だった太田一也氏は、2021年6月3日、長崎新聞の取材に答え、次のように語っています。

 「何と言っても、大火砕流惨事の最大の要因は、報道陣のゆがんだ使命感。迫力ある映像を他社と競う過熱取材ではなかっただろうか。報道の自由を振りかざし、取材のためなら少々のことは許されるという特権意識も問題だった。避難勧告を法的拘束力がないからと軽視した希薄な防災意識がそれらを後押ししてしまった。

 報道陣としての誇りとおごりを履き違え、取材で得た火砕流に関する知識を、自らの危険回避に生かせなかった。避難を勧告された定点で、迫力のある火砕流映像を危険をおかしてまで撮影する社会的責任があったとは思えない。
社会が必要とする火砕流の伸び具合や被災状況は、ヘリを使った上空からの撮影や我々観測者側の情報提供で把握できたはず。それは連日報道されていて内容も十分だった。間近な地上からの映像は、住民が必要としていたものではなく、報道各社が紙面や番組の視聴率を競うのに必要だったということに過ぎないと思う」
(※ 長崎新聞、2021年6月3日、https://nordot.app/773029708419317760?c=174761113988793844)

 太田氏は当時を振り返って、火砕流大惨事の原因として、次のようなマスコミの取材態度を挙げています。

① 迫力ある映像を他社と競う過熱取材
② 取材のためなら、少々のことは許されるという特権意識
③ 社会が必要とする火砕流や被災状況はヘリコプターを使った上空からの映像、観測者側の情報で十分。

 さまざまな情報を総合すると、その通りだと思います。

 当時、私が救いようのない気持ちになっていたのは、マスコミの取材態度にこのような問題があると思っていたからでした。

 マスコミが取材の自由、報道の自由を保障されているのは、人々から知る権利に応えるためですが、取材現場では往々にして、それをはき違え、「取材のためなら少々のことは許される」と、強引な取材をしてしまいがちです。

 災害報道ではとくに、被災者にとってどのような情報が必要なのかという観点からの取材が重要になります。

 そのような観点からいえば、太田氏の指摘のように、「火砕流や被災状況はヘリコプターを使った上空からの映像、観測者側の情報で十分」だという気がします。それを被災地にどう伝え、全国にはどう伝えるかが問題ですが、喚起力に強い情報よりも、客観的データに基づく情報の方が信頼できるでしょう。

 ところが、マスコミは、「地上からの間近な映像」を求めました。太田氏がいうように、「住民が必要としていたものではなく、報道各社が紙面や番組の視聴率を競うのに必要だった」からでしょう。

 テレビではとくに、淡々とした語り口よりも、メリハリの効いた語り口、大げさで面白おかしい語り口が求められます。その方が、多数の人々に訴求力があるからにほかならないからですが、話し言葉で情報を伝えるというテレビの特性が関係しているかもしれません。

 もちろん、映像も同様です。事実を客観的に伝える映像よりも、見る者に恐怖感を与えたり、ワクワクドキドキさせるような映像が求められがちです。これもまた、強く感情に訴えかける映像の方が手っ取り早く、多くの人々にアピールできるからでしょう。

■6月3日、届かなかった警告
 
 番組タイトルの前に、いくつかキー・シーンが挿入されていました。その中で象徴的なものを一つ、ご紹介しておきましょう。

こちら →
(番組より。図をクリックすると、拡大します)

 高熱の火砕流を浴び、燃える車体が映し出されています。その映像の右下に表示されているのが、「届かなかった警告」というテロップです。おそらく、報道車両なのでしょう。この番組のコンセプトの一つが象徴的に表現されているシーンです。マスコミの取材態度を問題視する視点が端的に捉えられていました。

 太田一也氏は、さらに、長崎新聞の取材に答え、次のように述べています。

 「タクシー運転手4人を含めた報道関係の死者20人が、当時の撮影場所だった定点周辺にいた。消防団員は定点より400メートル下の北上木場農業研修所を活動拠点にしていたが、危険性の高まりから、5月29日、島原市災害対策本部を通じた私の退去要請を受けて300メートル下流の白谷公民館に退去していた。

 しかし、日本テレビの取材スタッフが、住民が避難して無人となった民家の電源を無断で使用する不祥事が発覚。消防団員は6月2日、留守宅の警備も兼ね、同研修所に戻ってしまった。亡くなった警察官2人についても、報道陣らに対する避難誘導のため定点に急行。戻る途中に同研修所前で火砕流にのみ込まれた。

 報道陣が避難勧告さえ守っていれば、少なくとも消防団と警察官は死なずに済んだはず。住民にも犠牲者が出たが、報道陣が避難勧告に従っていれば、危険を感じて無断入域を控えたと思う」
(※ 長崎新聞2021年6月3日、
https://nordot.app/773028450044198912?c=174761113988793844)

 番組でも、制止する消防団の手を振り切って、立ち入り禁止区域に入ろうとする取材記者の姿が捉えられていました。マスコミがいかに傲慢に取材活動を繰り広げていたかが一目でわかるシーンでした。当時の状況を示す貴重な映像です。

 さらに、住民が避難して空き家になった家に入り込み、勝手に電話を使ったり、電気を使ったりするマスコミ関係者もいました。常識を超えた取材活動は目に余るほどで、住民からの苦情が相次いでいました。

 消防団員や警官は、マスコミ関係者が危険地域に入り込むこと、空き家になった住宅に侵入すること、等々を防ぐために、見守りを強化していました。

 6月3日、多くの犠牲者が出たのが、「定点」と呼ばれるマスコミ関係者がいた場所と、消防団員の詰め所になっていた「農業研修所」でした。

こちら →
(番組より。図をクリックすると、拡大します)

■「定点」と「農業研修所」

 避難勧告を受けて住民がいなくなった後も、狭い道路は、マスコミ各社の車や機材で溢れていました。彼らが陣取っていたのが、「定点」と呼ばれる場所です。災害後は目印のため、三角錐が置かれています。

こちら →
(番組より。図をクリックすると、拡大します)

 ここからは、普賢岳を正面から撮影することができました。だからこそ、避難勧告を出されても、マスコミは聞き入れなかったのです。「定点」と呼ばれる場所に陣取ったまま、現地で危険な取材行為を繰り返していました。すべては過熱する取材合戦、撮影合戦のためでした。

 当時、主要メディアは新聞、テレビでした。人々が社会で何が起こっているかを把握するには、マスコミに依存するしかなかったのです。そのマスコミはNHK以外、広告収入を経営基盤にしています。

 その広告収入に大きく関係してくるのが、どれだけ多く見られたか、どれだけ多く読まれたかを示す指標です。テレビであれば、視聴率、新聞であれば、発行部数でした。それらが番組や紙面の価値を図る指標として機能し、広告収入に関係していたのです。

 とりわけ、災害報道には、一目で人々をくぎ付けにする力があります。刻刻と変化し続ける雲仙普賢岳の噴火は、恰好のニュース素材として、目を離せなくなっていたのでしょう。大挙して押しかけたマスコミ陣が危険を顧みず、取材行動を重ねた結果、定点周辺で、マスコミ関係者16名もの犠牲者を出しました。

 一方、消防団員や警官がなくなったのは、北上木場の農業研修所周辺でした。

■故郷を守って、犠牲になった人々

 北上木場の農業研修所周辺は、地域の公民館的な役割を果たしていました。火砕流が頻発し始めて、避難所はさらに下流の公民館に移されました。それに伴い、地元消防団も下流に移動したのですが、マスコミ関係者が無人の民家から勝手に電源や電話を使用したりすることが相次いたので、警戒のために上流に戻ってきていたのです。

 研修所を消防団の詰め所として使用しはじめたのが、6月2日でした。火砕流による多くの犠牲者が出たのは、その直後のことだったのです。マスコミに避難を呼び掛けるため、上流周辺を巡回していた警官も、この周辺で亡くなっていました。

 消防団や警官は、住民や民家を守り、そして、マスコミ関係者まで守ろうとしていたのに、命を落としてしまったのです。遺族や関係者はどれほど辛く、悲しく、無念の思いにさいなまれたことでしょう。

 地元を守るため、故郷を守るために尽力していた多くの人々が、理不尽にも、亡くなってしまったのです。しかも、犠牲者たちは地元の人々にとって、息子であり、兄弟であり、夫であり、同僚でした。

 番組の中で、「私の人生も、あの6月3日で大きく変わった」という人がいました。また、「心の底に消防団員のことが、ずっとあり続ける」という人がいました。おそらく、ほとんどの住民がそのような思いを抱いて、災害後、生きてきたのでしょう。

 研修所の跡地は2002年から、地元住民の手で整備され始めました。砂防ダムなどを設置して、安全を確保してから、慰霊の場が作られました。ここには、被災したパトカーや消防自動車が掘り起こされ、保存されています。

 そして、2002年12月、パトカーや消防車が掘り起こされました。いずれも、11年という歳月を経て、変形してしまっていました。火山灰を落とし、なんとか保存できるよう工夫が凝らされています。

 その後、2003年11月には、火山灰の中から、半鐘が見つかり、「慰霊の鐘」と名付けられました。消防団員が火災を知らせるために使っていたものでした。

こちら →
(番組より。図をクリックすると、拡大します)

 消防団員だった息子を亡くした父親が、「お前たちが消防団で守って来た鐘が戻って来たよと、伝えたい」と語っていたのが印象的でした。その表情からは、殉職した息子を愛しむ気持ちがひしひしと伝わってきます。

 毎年、火砕流が発生した6月3日午後4時8分、慰霊の鐘を鳴らし、遺族、住民、関係者が追悼します。

 もちろん、慰霊碑も建立されています。

こちら →
(番組より。図をクリックすると、拡大します)

 慰霊碑に向かって手を合わせる人々の中に、背中に「島原」の文字がある法被を着た男性がいます。あの時、かけがえのない同僚を失った人々です。この慰霊碑に刻まれている名前は、消防団員と警官だといいます。地元のために殉職した人々だけがまつられているのです。

■「定点」周辺の整備

 マスコミ関係者が亡くなった「定点」周辺は、長い間、整備されず、白い三角錐が置かれているだけでした。「マスコミのせいで・・・」という遺族や地元住民、関係者の気持ちに呼応したものといえます。

 もっとも、被災後30年が経ち、人々の気持ちにも変化が訪れます。

 地元住民は、毎年、6月3日を「いのりの日」と定め、その前に周辺一帯の草刈り作業を行ってきましたが、その際、「定点」周辺も整備しようという話がでたというのです。2020年5月のことでした。

 地元で造園業を営む宮本秀利氏や、当時、被災地域の安中地区公民館に勤務していた杉本伸一氏などが立ち上がり、「定点」周辺の整備に着手しました。彼らはまず、地元住民の了解を得ることから始めました。そして、地元住民が一体となって、遺族、関係者と共に、すべての犠牲者の慰霊のために動き出したのです。

こちら →
(番組より。図をクリックすると、拡大します)

 悲しみ、憎しみを乗り越え、共に、全ての犠牲者を悼むという姿勢に心打たれました。

 ついに、新聞社の取材車両が掘り起こされました。

こちら →
(番組より。図をクリックすると、拡大します)

 30年ぶりの姿です。ほとんど形を留めていません。高熱の火砕流に巻き込まれた痕跡がありありと見えます。

 そして、チャーターされたタクシーが掘り起こされました。

こちら →
(番組より。図をクリックすると、拡大します)

 タクシー会社の社長が、放置されただけでは、このような姿にはなりませんと語っています。

 「定点」周辺からは、新聞社の取材車両と、タクシー2台が掘り起こされ、遺構として整備されました。

こちら →
(番組より。図をクリックすると、拡大します)

 30年の時を経て、地元住民の気持ちに変化が生まれました。悲しみ、恨み、憎しみを乗り越え、全ての犠牲者を弔いたいという気持ちが育まれていったのです。やがて、マスコミ関係者が遺した車両や機材が遺構として、整備されたました。

 「定点」周辺の整備、保存を主導した宮本氏は、「あっという間の30年、放置していて申し訳なかった」と語っています。

■普賢岳噴火災害を忘れない

 造園業の宮本氏は、「時間が経つとすべて、忘れられていくが、忘れてはならないものがある」と述べ、若い世代に継承できる企画を実践しています。普賢岳の噴火災害、そして火砕流で犠牲になった人々のことは決して忘れてはいけないと、島原の高校3年生が卒業記念に、慰霊の植樹に取り組めるようにしたのです。

こちら →
(番組より。図をクリックすると、拡大します)

 記念植樹をすれば、普賢岳噴火災害を知らない若者たちの胸にも、犠牲者のことが深く刻み込まれるでしょう。さらには、災害の教訓、取材の在り方、あるいは、生きることそのものについても、深く考える契機になるかもしれません。

 あの時の災害経験を後の世代につなぐ、素晴らしい企画だと思いました。

 「定点」では、ジオパークガイドの林京子氏から、高校生が説明を受けています。

こちら →
(番組より。図をクリックすると、拡大します)

 当時、マスコミが拠点としていた「定点」に立ち、林氏は、高校生に向かって、「ここで、どういう気持ちで火砕流を撮ろうとしていたのか」と問いかけています。取材すること、撮影することの意義を考えてみる機会を提供していたのです。ここで話を聞いた高校生たちは将来、どんな分野に進もうと、他にかけがえのない経験をしたことといえるでしょう。

 あの日の出来事が、このようにして若い世代に受け継がれていました。

 甚大な被害を出したからこそ、あの日の出来事を、忘却の彼方に追いやらないための工夫をし続ける必要があるのです。

■被災地取材の行き過ぎを乗り越えて

 テレビ長崎は3人の犠牲者を出しています。2019年6月3日、慰霊のためのプレートが設置されました。

こちら → 
(番組より。図をクリックすると、拡大します)

 彼らは、定点よりさらに上流の民家を、撮影ポイントにしていたといいます。

 犠牲者の一人がカメラマン坂本憲昭氏です。その長男、篤洋氏は小学校4年生の時、父を亡くしました。当時はマスコミのせいで地元の人が亡くなったといわれ、辛かったといいます。

 そして最近は、来るたびに車両が朽ちていくのがわかり、このまま災害も何もかも忘れられていくのではないかと思っていたそうです。

 ところが、今回、それらが掘り起こされ、遺構として整備されたので、ほっとしたといいます。地元の人々に受け入れられたことが形となったからでした。

こちら →
(番組より。図をクリックすると、拡大します)

 このシーンを見ていて、何故私が、この番組を見て救われたような気持ちになったのかがわかったような気がしました。

 「定点」周辺が整備されたのを見て、篤洋氏と同様、私も地元住民から受け入れられたような気になったからでした。

 当時、私は普賢岳の噴火映像を毎日のように、テレビで見ていました。あの巨大な火砕流が民家や人々を呑み込み、流下していった様子を心配しながら、見ていたのです。おそらく、多くの人々が当時、私と同じような気持ちで、画面を見ていたことでしょう。

 いってみれば、一視聴者として、この災害報道に関わっていたのですが、それが数(視聴率)としてカウントされ、集約されて、現場の取材記者たちをつき動かし、過熱取材を招いていた可能性があります。

 その結果、現場にいたカメラマン、記者たちは、被災地の住民ではなく、圧倒的に規模の多い、全国の野次馬たちの意向を反映して、度を越した取材をしていた可能性が考えられます。被災地の意向は数値化されませんが、全国の視聴者の意向は数値化されるからです。

 一方、カメラを持つと、怖いものがなくなるともいわれます。それは、カメラを携えていると、どんな対象でも容易に近づくことができるからでしょうし、撮影するという行為を通して、対象よりも優位に立てるからでしょう。

 そういえば、写真や映像を撮影することを、英語では「shoot」と表現されることを思い出しました。対象に狙い定めてピンポイントで撮る行為は、獲物を狙って射る行為と似ているのかもしれません。

 改めて、当時の人々が、「特権意識をふりかざした」とか「傍若無人な態度」で取材したと、マスコミを非難していたことを思い出しました。

■「祈り」と「感謝」の気持ち

 宮本氏は、『合掌』というタイトルの巨大な石のモニュメントを作り、寄贈しました。

こちら →
(番組より。図をクリックすると、拡大します)

 二つの石が向かい合うように設置され、山に向かって合掌した形になっています。これには、「祈りと感謝」の意味を込めたといいます。悲しみ、憎しみ、恨みはそう簡単に忘れることはできません。それを乗り越えていくには、それらのネガティブな感情を上回る感情に置き換えていく必要があるのでしょう。

 「祈り」と「感謝」の気持ちには、個々人の感情を乗り越える力があります。多くの犠牲者を出した地元住民が、このように気持ちを切り替え、災害を乗り越えようとしている姿に感銘を受けました。

 被災時取材の行き過ぎを乗り越え、人々が向かうべき新たな方向を、このように提示してくれているのです。心が動かされました。

 地元住民たちの気持ちが、「すべての犠牲者のために」、「定点」周辺を整備し、遺構を作り、慰霊をしたいという思いに変化しました。そこに、「祈り」と「感謝」の気持ちが介在していることを見て取ることができます。

 当時の一視聴者として、本当に、気持ちが救われます。

 宮本氏は「長い間、放置して申し訳ない」と語っていましたし、当時、消防団員だった喜多淳一氏は「被災地を花でいっぱいにしたい」と花づくりに励んでいます。そして、まるで喜多さんの気持ちを汲んだかのように、花が美しく開花しました。

こちら →
(番組より。図をクリックすると、拡大します)

 供えられた花は優しく、風に揺れています。犠牲者を悼み、故郷を守ろうとする住民の気持ちを反映しているように、健気で、美しく、とてもしなやかでした。

 喜多さんは、「マスコミのせいという気持ちは結構、強かったけど、皆、それぞれ、自分の仕事をしていて犠牲になったんだからと思うと、一緒かなと思うようになった」と語っています。

 30年余の歳月を経て、「全ての犠牲者」を悼むという方向に気持ちが変化していったのです。おそらく、同じような思いを抱いている地元住民の方々は多いのではないでしょうか。

 当事者たちのこのような気持ちの変化を画面で追うことができ、見ていて、気持ちが明るくなりました。それこそ、被災地取材の行き過ぎを乗り越えることができたのです。

 素晴らしい番組でした。

 この番組を制作したテレビ長崎の槌田禎子氏は、取材で、「定点」の清掃作業に居合わせ、宮本氏らの地元住民と会話を交わしたことがきっかけとなって、今回の番組の構想につながったと語っています。
(※ https://www.fujitv.co.jp/fujitv/news/20211065.html)

 その後一年間、取材を重ね、地元住民の気持ちに寄り添いながら、スタッフと共に、含蓄のある素晴らしい番組に仕上げています。

 造園事業者の宮本氏、当時、安中地区公民館に勤務していた杉本伸一氏、元島原消防団員の喜多淳一氏、犠牲となったテレビ長崎カメラマンの長男、坂本篤洋氏など、キー・パーソンへの丁寧な取材が活かされ、普賢岳災害報道を巡る過去・現在がよくわかるような構成になっていました。

 さらに、普賢岳噴火災害を「忘れない」ための取り組みもいくつか紹介されており、未来に向けての展望も感じさせられました。テレビドキュメンタリーの可能性を感じさせられた番組でした。(2021/11/30 香取淳子)

河原のススキに見る、宮沢賢治とゴッホ

■秋の深まる入間川

 2021年10月28日、久しぶりに入間川遊歩道を訪れてみました。案の定、桜の巨木はいっせいに葉を落とし、焦げ茶色の幹と枝を惜しげもなく身を晒していました。もうすっかり秋の気配が漂っています。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 入間川に沿ってどこまでも伸びる小道は、まるで一点透視図法で描かれた風景画のようです。葉を落とした桜並木の合間には、葉が丸く刈り込まれた濃緑色の灌木ツツジが、整列したように並んでいます。

 桜並木とツツジはいずれも暗色で、この光景に広がりと奥行きを感じさせます。幹はどこまでも高く、枝は多方面に伸びており、薄曇りの空を背景に、巨大なオブジェが展示されているようでした。

 遊歩道には枯れ葉も落ちておらず、掃き清められているようです。この小道がどこか別次元の世界に誘おうとしているかのようにも見えます。

 周囲に人影もなく、辺り一帯が静寂に包み込まれています。秋は物思いに耽るシーズンとはよく言ったものだと思いながら、桜木の幹に目をやると、所々、裂けている箇所があれば、苔むしている箇所もあります。

 幹の太さはそのまま、この木が風雪に耐えて生き永らえてきたことの証といえるのでしょう。時の経過をしっかりと刻み込んだ巨木が並び、剥き出しになった枝の合間から、冷気を含んだ風が吹いてきます。

 再び、寒い冬を迎えようとしています。空気、風、草木・・・、そこかしこに秋を感じさせられます。

 ふと、思いついて道路に降りてみると、草むらの中でススキが風に揺れていました。

●風になびくススキ

所々、褐色に変色した草むらもまた、秋の様相を呈していました。そんな中、目についたのがススキです。ひときわ背の高いススキが、申し訳なさそうに、ひっそりと風に揺れていたのです。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 画面の手前に見えるススキが、気弱そうに佇んでいる姿がとても印象的でした。背が高いので、すぐ目に着いたのですが、改めて見ると、葉、茎、穂、すべてが地味です。もっとも目立つ部分である穂でさえ、形状に華やかさがなく、色彩も周囲に溶け込んでしまいかねないほど淡いアースカラーです。

 むしろ、背後の桜の巨木の方が目立っていました。葉を落とし、太い幹や枝、小枝が剥き出しになっているのですが、生気のない濃い焦げ茶色が逆に力強く、目を射るのです。

 アピール力の強さという点でいえば、幹や枝の形状も関係しているかもしれません。

 それにしても、葉を落とした桜木の幹のなんと太く、エネルギッシュなことでしょう。一抱えできないほどの太さです。その太い幹から太い枝があちらこちらに伸び、空中にくっきりと文様を描きだしていました。さらにその先から無数の小枝が伸び、雲で覆われた空を背景に、縦横無尽に線描きしていました。

 どっしりと構えた桜の巨木に対し、手前のススキはなんともひ弱に見えます。

 大木の幹や太い枝はよほどの嵐でも来ない限り、その存在を脅かされることもなく、自信に満ちた姿を誇示し続けることができるのでしょう。ところが、手前のススキはちょっとした風にも大きく身を反らし、時に倒れそうになっているほどでした。

 遊歩道に戻ってみると、川べりにススキが群生しているのが見えました。

●群生するススキ

 先ほど見た巨木の枝が、大きくしなって川辺に向かって垂れています。その先の方にススキが寄り添うように、淡いベージュの穂先を揺らしているのが見えました。

こちら →

(図をクリックすると、拡大します)

 群生しているせいか、こちらは先ほど見たススキよりも存在感があります。目立たない淡いアースカラーも群れると、それなりの訴求力があることがわかります。淡い褐色に変色しはじめた茎に支えられ、秋ならではの光景に変貌しつつありました。

 ススキが川辺に群れる姿はいかにも秋の光景です。

 派手さがなく、気をてらうところがなく、それでいて、人の気持ちを静かに揺さぶる力がススキにはあります。見ていると、心の奥深くで何かかき立てられるような気がするのです。

 川面には、空に浮かぶ雲が映し出され、その雲が川の流れよりも速く、大きく流れていきます。その様子を見ていると、今年もあっという間に10月の終わりになってしまったという、悔恨の情とも、慚愧の念ともつかない、奇妙な気持ちに襲われます。今年もまた無為に時を過ごしてしまったという後悔の気持ちとでもいえばいいのでしょうか。

 さらに上流の方に向かって歩いていくと、川鳥が泳いでいるのが見えました。

●川べりに集う鳥

 獲物を見つけたのでしょうか、鳥が三羽、川面に嘴を突っ込んでいます。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 鳥が水面をつつくと、そこから、波紋が広がっていきます。それでも川はなにごともなかったかのように静かに流れ続けています。水面で展開されている鳥と魚の争いには目もくれず、悠然と流れているのです。そんな様子はまるで、ただ場所を貸しているだけだといわんばかりに見えました。

 空中から水中の獲物を狙う鳥を見ていると、水面は鳥にとっては捕獲の場、魚にとっては捕獲される場だということを改めて思い知らされます。生死の境界であり、生物全体にとっては生を育み、生を営む場でもあります。さまざまな生の営みの場でもあり、川もまた生きているのです。

 さらに進んでいくと、ススキが密集している箇所がありました。

●密集する川辺のススキ

 川辺一面にススキが密集しています。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 こちらのススキは、茎も葉も褐色に変色しています。そういえば、穂先も先ほどのものより白く、ふさふさしているように見えます。

 急に晴れてきたようです。

 空を覆っていた雲が遠のき、晴れ間が見えてきました。川面には青空が映り、向かい側には人が数人、集っているのが見えます。晩秋のひとときを川べりで憩い、楽しんでいるようです。コロナ下で外出自粛制限が出されて以来、このような光景を見ることが増えました。ここなら、マスクを外し、自由に会話し、水と戯れることもできます。

 改めて、川辺は人にとって、憩いの場でもあることを思い出させてくれます。

 手前を見ると、陽光を受けた桜木の枝が、くっきりとその影を土手の草むらに落としています。そして、巨大な幹は、その影を深く、地面の上に落としています。姿は見えないのに、桜はその影で、草むらや地面に暗色の模様を刻み込み、しっかりと存在を誇示しているのです。

 密集するススキと河原の間を、入間川が滔々と流れています。さざ波を立てながら、絶えず動き、留まることを知らない様子は、まるで巨大な生き物のように見えます。この流れに乗れば、どこかに連れて行ってくれそうです。川は地上に敷かれたレールのようでした。

 眺めているうちに、ふと、『銀河鉄道の夜』を思い出してしまいました。

銀河鉄道の夜

 ひょっとしたら、川から連想したのかもしれません。カンパネルラが川に落ち、そのまま行方不明になってしまったことを思い出したのです。ずいぶん昔に読んだきりで、ストーリーのほとんどはすっかり忘れています。ところが、そのシーンだけ、はっきりと脳裡に甦ってきたのです。

 それは、おそらく、いじめっ子のザネリが川に落ち、彼を救ったカンパネルラがそのまま川に流され、死んでしまったというストーリー展開に、子どもながら納得できないものを感じていたからでしょう。何十年もの間、心の隅にわだかまりが残っていたのです。

 帰宅してから、さっそく、『銀河鉄道の夜』を読み返してみました。

 星まつりの夜、ジョバンニは親友のカンパネルラと銀河鉄道に乗って、天の川を渡ります。ちょうどその日、ジョバンニたちは授業で天の川のことを習ったばかりでした。

 ジョバンニとカンパネルラは銀河鉄道でさまざまな人と出会い、次々と不思議な体験をします。乗客は全て途中で下車し、最後はまた二人きりになってしまいました。その時の二人の会話が深淵で、考え込まされました。

 子どもの頃、読んだ時は気づかなかった箇所です。

 ジョバンニが「ほんたうに、みんなの幸いのためならば、僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない」というと、カンパネルラは「僕だって、さうだ」といいます。

 そして、ジョバンニが「けれども、ほんたうの幸いは一体何だらう」と問うと、カンパネルラは「僕わからない」といい、ジョバンニが「僕たち、しっかりやらうねえ」といって気持ちを鼓舞するのです。
(以上、『宮沢賢治全集7』p.292、筑摩書房、2001年、より。適宜省略して引用)

 このような二人の会話の後、カンパネルラは、ザネリを救った後、川に流され、死んでしまいます。ジョバンニと共に、銀河鉄道でさまざまな人と出会い、人のために尽くそうという思いに駆り立てられたばかりだというのに、その思いを実行したとたん、カンパネルラは命を落としてしまったのです。

 宮沢賢治はこのエピソードで人間界の不条理を伝えようとしたのでしょうか。

 読み返してみて、もう一つ、気になった箇所がありました。

 「青白く光る銀河の岸に、銀いろの空のすすきが、もうまるでいちめん、風にさらさらさらさら、ゆられてうごいて、波を立てているのでした」(前掲。p.251)

 「その小さなきれいな汽車は、そらのすすきの風にひるがへる中を、天の川の水や、三角点の青じろい微光の中を、どこまでもどこまでもと、走っていくのでした」(前掲。p.252)

 ジョバンニたちが銀河鉄道に乗り込む辺りで、ススキが何度も文中に出てくるのです。リンドウも出てきますから、一つには、秋の情景を表現するためでしょう。ところが、なぜか、ススキだけは繰り返し、出てくるのです。

 「銀いろの空のすすき」とか、「青白い微光」という表現を見ると、ススキの穂先が時に銀色に光って見えることがあるから、文中に取り入れたのかもしれません。

 ただ、上記の写真を見てわかるように、ススキの白い穂先は、藍色の川にとてもマッチしています。夜空を走る銀河鉄道の脇で、ススキが穂をたなびかせている光景は、想像しただけで、とても美しく幻想的です。穂先が白ではなく銀色だったら、さらに幽玄の美が加味されるでしょう。

 そう思って、道路側に降りてみると、密集しているススキの中に、そのような色合いに見えるものがありました。

●銀色に輝くススキの群れ

 実際は、淡いベージュ色ですが、陽の当たり具合で、ススキの穂が銀色に輝いて見える時があったのです。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 確かに、このようにつややかな穂先であれば、夜空で見ると、銀色に輝いて見えるかもしれません。
 
 ジョバンニたちが銀河鉄道に乗って、車窓から見るススキが次第に遠ざかっていく光景で、ススキは重要な役割を果たします。穂先が銀色なら、ススキはこの情景にとてもマッチし、哀感を帯びた幻想的な美しさを醸し出すことができるでしょう。

 そんなことを思いながら、歩いていくと、穂先がふさふさになりかかっているススキを見つけました。

●穂先がふさふさになりかかったススキ

 艶やかな穂の先が裂け、ふさふさになりかかっているススキがありました。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 このススキは、穂先が裂けてふさふさとし、白くなっています。調べてみると、これは花が咲き終わり、実がなった状態なのだそうです。ススキはどれが花なのか、実なのか、色彩でも形でも見分けがつきません。それぞれが地味で、自己主張しないので、わからないのです。

 そんなススキでも寄り集まると、見事な景観になります。

 そういえば、見事なススキを写真で見たことがありました。仙石原のススキです。

こちら →
(https://www.ten-yu.com/cms/s_navi/sengoku_autumn_2016より)

 草原一体にススキが埋め尽くし、その上をイワシ雲が覆っています。ススキは、イワシ雲の隙間から漏れる陽光を受けて、輝いています。草原で波打つススキと、ウロコのように空に張り付いた雲が向かい合って、絶妙なコントラストを作り上げています。色彩といい、形状といい、この写真では、ススキとイワシ雲の調和が見事に捉えられています。

 見ていて、ふと、ゴッホの《糸杉と星の見える道》を思い出しました。

■糸杉と星の見える道
 ゴッホ(Vincent Willem van Gogh, 1853-1890)著名な作品の一つに、《糸杉と星の見える道》があります。1890年5月に描かれた作品です。

こちら →
(油彩、カンヴァス、91×72㎝、1890年、クレラー・ミュラー美術館所蔵)

 この作品を一目見て、印象づけられるのは、その筆触です。メインモチーフの糸杉といい、道路、月や太陽、そして、背景といい、画面すべてが短い単位で区切られた筆触で描かれています。そのせいか、すべてのものが揺らぎ、浮遊し、不安を感じさせます。

 私が仙石原のススキ草原の写真を見て、この作品を連想したのは、この筆触のせいでした。波打つススキの穂と空を覆うウロコのような雲に、ゴッホの筆触を感じさせられたのです。

 ゴッホは1890年7月29日に亡くなっていますから、この作品は死の2か月前に描かれたことになります。

 糸杉をメインモチーフに描かれた作品は多く、ゴッホが弟に当てた手紙の中で、「糸杉に心惹かれている」と書き、「その美しいラインはエジプトのオベリスクのように調和がとれている」と述べていたそうです。

 オベリスクとは、古代エジプトで神殿などに建てられた石造りの記念碑です。四角形で、上に向かって細くなり、先端はピラミッドの形をしているそうです。ゴッホは糸杉をこの形状にたとえ、「美しいラインは調和がとれている」といっています。ですから、ゴッホ自身はオベリスクに構造美を感じていたのでしょう。

 翻って、この作品の糸杉を見ると、画面の中ほど下から上部にかけてまっすぐに屹立している姿が描かれています。先端は画面に収まり切れず、さらに上方に伸びています。枝ぶりは左右にバランスがとれており、微妙に色彩を変化させて筆触を際立たせています。

 糸杉の左側に見えるのが星、右上に見えるのが月です。夜空のはずなのに、辺りは煌々と明るく、照らし出された道を人が歩いているのが見えます。シカゴ大学のキャサリン・パワーズ・エリクソン(Kathleen Powers Erickson)は、この糸杉を「死のオベリスク」と形容しているそうです。

 この作品を見る限り、メインモチーフの糸杉には不安感が感じられる一方、構造美が感じられます。明るい色調を随所に配置しながら、糸杉を描いたという点で、逆に生への希求が感じられます。

 もっとも、制作されたのが、死の2か月前ということに着目すれば、死を予想させる何かが画面に含まれていても不思議はありません。

■賢治とゴッホに見る死の影
 
 今回、入間川遊歩道の近辺で、さまざまな形状のススキを見ました。その過程で、連想したのが、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』とゴッホの《糸杉と星の見える道》でした。ススキの形状、風景との間で醸し出される雰囲気、情感といったものから連想してしまったのですが、いずれも、その作品の中に、死に結び付くものがありました。

 晩秋は晩節でもあり、末期にちかづく季節です。その時期に存在感を高めるススキには死を連想させる何かがあったとしても不思議はないのかもしれません。

 宮沢賢治が『銀河鉄道の夜』の初稿を書いたのは1924年、その後、1931年頃まで推敲を繰り返したそうです。思い入れの強い作品だったのでしょう。賢治が亡くなったのは1933年ですから、それこそ晩年までこだわり続けた作品といえるでしょう。

 一方、ゴッホは先ほどもいいましたように、最晩年に《糸杉と星の見える道》を描いていますから、死を見つめた思いが込められた作品といえます。

 この作品には『天路歴程』の影響がみられると先ほどご紹介したK. P. エリクソンが指摘しているといいます。『天路歴程』とは、Wikipediaによれば、プロテスタントの間でよく読まれた宗教書ともいわれる寓意物語です。人は人生において苦難を経、葛藤を繰り返しながら、キリストに近づいていくという世界観が盛られています。

 賢治の場合も、『銀河鉄道の夜』の中に次のような文章を書いています。

 「みんなはつつましく列を組んで、あの十字架の前の天の川のなぎさにひざまづいていました。そして、その見えない天の川の水をわたって、ひとりの神々しい白いきものの人が手をのばして、こっちへ来るのを二人は見ました」(前掲。p.291.)

 明らかにキリストの存在が表現されています。ジョバンニとカンパネルラが「ほんたうの幸いのために」行動しようと思うのは、このシーンの後でした。

 こうしてみると、賢治もゴッホも死を前にして、キリストなるものの存在に関心を示し、自身も何か行動しようとしていたことが示唆されています。

 ゴッホは《糸杉と星の見える道》の中に、人生行路と聖なる存在を込めました。賢治もまた、『銀河鉄道の夜』の中で、ジョバンニとカンパネルラが銀河鉄道の中で出会う人々の中に人生行路を表現しています。そして、カンパネルラの行動の中にキリストなるものを表現したのです。

 入間川沿いの巨木からは、時に寒く、時に温かく、折々に発生するさまざまな試練を経て生き延びてきた歴史が感じられました。そして、ススキからはしなやかに風に揺れながら、晩節をやり過ごし、寒い冬を迎えようとしているのが感じられました。

 周囲に人がいなかったせいか、ことさらに晩秋の静寂が感じられました。(2021/10/31 香取淳子)

コロナ下で見たヒガンバナ

■花芽、蕾のヒガンバナ
 2021年9月12日、コロナ下の三蜜を避け、気分転換を図るため、久しぶりに入間川の遊歩道に行ってきました。

 夏の間、あれほど生い茂っていた桜木が、いつの間にか葉を落とし、そこかしこに散らばった枯れ葉が、辺り一面を秋色に染めていました。もう、すっかり秋の気配です。

 ふと、道路脇に目を落とすと、落ち葉の合間から淡い黄緑色の茎が何本か伸びています。葉がなく、茎がむき出しになっています。茎だけの姿がなんともおぼつかなく、いかにも頼りなさそうに見えました。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 よく見ると、茎の先に小さな花芽が付いています。淡い色に包まれていて、まだ何色の花が咲くのかわかりませんが、新たな命が開花を待っているのです。周囲の雑草がきれいに刈り取られているせいか、地面からすっくと伸びた姿がとても印象的でした。

 周囲を見渡すと、濃い赤が透けて見えている花芽もありました。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 はっきりとした赤い色が見えるので、これは花芽というより、もう少しで蕾になろうとしている移行期のもののようです。この花芽とも蕾ともつかないものを見て、ようやく、この茎だけの植物の正体がわかりました。

 ヒガンバナです。

 そういえば、間もなくお彼岸を迎える季節になっていました。ヒガンバナは時期を違えることなく、新芽を出してきているのです。改めて、自然のタイムスケジュール管理のすごさに驚かされました。

■葉のないヒガンバナ
あらゆる生命体は適正なタイムスケジュールの下、生を受け、一定のライフサイクルを経て、死を迎えるのでしょう。ヒガンバナを見たとき、自然のメカニズムの一端を見たような思いがしました。

 先の方に、赤い蕾が群生しているのが見えます。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 蕾の重みのせいでしょうか。茎が倒れ掛かっているのがいくつかあります。おそらく、葉がないのでバランスが取れず、蕾を支えきれないのでしょう。改めて、葉のないことの不思議に思い至りました。

 それにしても、ヒガンバナにはなぜ、葉がないのでしょうか。

 そういえば、ヒガンバナは、花が咲こうとしている時に葉がなく、花が咲き終わると、葉が伸びてくるといわれていることを思い出しました。「葉見ず、花見ず」の花だといわれているのですが、葉のない期間、ヒガンバナはどのようにして光合成をおこなっているのでしょうか。

 ネットで検索してみました。すると、私と同じような疑問を持った人がyahooの知恵袋に疑問を提出していました。それに対する回答がとてもわかりやすかったので、ご紹介しておきましょう。
(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1219402062)

秋:お彼岸の頃に開花→他の草木も葉が未だ茂っていて、ヒガンバナが光合成を行うのに邪魔! 他の草木の葉が枯れだす頃に葉を展開(ヒガンバナの葉は草丈が低いので、他の草木が枯れ始めると葉を伸ばし始める)。

冬:他の草木が枯れてしまった冬場、草丈の低いヒガンバナの葉は、精一杯光合成を行って養分を球根に蓄える。(ヒガンバナは、人の手が入った開けた明るい環境が好きで、常緑林の下部のように、冬でも薄暗いような環境では育たない)。

春:他の草木の葉が茂り始めると、ヒガンバナは休眠の準備。

夏:草丈の高い草木が葉を茂らす夏場、ヒガンバナの地上部は枯れ、地下の球根の状態で秋の開花時期を待つ。

この説明を見ると、ヒガンバナはどうやら、普通の植物のライフサイクルとは逆になっているようです。

■赤いヒガンバナ
 遊歩道を歩いていくと、落ち葉の中から這い出てきたかのようなヒガンバナの群生が見えます。すっきりと長い茎の先に、赤い蕾がいまにも花弁を開こうとしているかのようです。

 先ほどのものよりさらに茎が長くなっているように見えます。茎が長い割には姿勢を崩すこともなく、どれも毅然とした恰好で立っています。これから花開こうとするものならではの力強さが感じられます。

 一方、垂れ下がっている巨大な桜木の枝から葉はほとんど落ち、残っている葉も黄色く色づいています。

 ついこの間まで、遊歩道を両側から包み込むように、桜木が葉を繁らせていました。いつの間にか、その桜木から葉が落ち、ところどころ残った葉もすっかり色褪せています。落ちた枯れ葉がアスファルト道路に張り付いているのを見ると、思わず、哀愁を感じさせられてしまいます。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 遊歩道を囲む木々は生の輝きを失って葉を落とし、晩節に入ろうとしているのです。ところが、川べりには赤いヒガンバナがちらほら見えます。こちらは今が盛りとばかり、艶やかな姿を見せています。

 余分な負担を減らし、休眠しようとする木々があれば、これから生を謳歌しようとするものもあります。老若が共生して、川べりを彩っていました。

 この場面だけで、季節の移り変わりがはっきりと見て取れます。

 まるで桜木の枝が誘導するかのように、枝先に広がる川べりには、赤い一塊の花が咲いていました。雑草の中で赤いヒガンバナがすっくと立ち、寄り添うように咲いているのが可愛らしく、見ていると、ふっと気持ちが緩んでくるのを感じます。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

■テントを張って川辺で遊ぶ若者たち
 季節に合わせて様相を変えていく自然の営みに驚嘆しながら、ヒガンバナを見ていると、突如、嬌声が聞こえてきました。

 入間川を見ると、向こう岸で青とオレンジ色のテントが見えます。川を隔てた向かい側の浅瀬で、若者たちがテントを張っていたのです。

こちら →
(クリックすると、図が拡大します)

 川面に若者たちの賑やかな声が響き渡ります。静けさに満ちたこの辺り一帯が、ヒガンバナと若者たちで生気を取り戻したようでした。

 緊急事態宣言が9月30日まで延長され、三蜜を回避し、外出自粛が要請されています。どこにも行き場がなくなった若者たちが週末、テントを張って興じる楽しみを見つけたのでしょう。

 ここなら、三蜜を避けることができ、仲間と共に開放感を味わうことができます。嬉々とした若者たちの声が躍動する生を感じさせてくれます。コロナ下で封印されていた賑わいを味わうことができ、ちょっとした幸せを感じました。

 とはいえ、このところ、若者の感染者数が拡大しているといわれます。

こちら →
https://www.sankei.com/article/20210828-7BAHM54QKRNG7C3GBQRYF5LIFE/

 しかも、これまで重症化しにくいといわれていた30代、20代、10代の中から重症者が出始めているそうです。その結果、専門家は若年層にもワクチン接種を進める体制づくりが必要だと指摘しているといいます。

 一方、若者ほどワクチンの副反応が強いとも報道されています。

 そのせいか、若者たちが川辺で楽しんでいる賑わいにも、心なしか、哀感がこもっているように思えてなりませんでした。コロナで職を失い、行動を制限され、挙句の果ては、ワクチン接種で強い副反応を経験しなければならないのですから・・・。

■赤い色は生きるエネルギーの象徴?
 なおも遊歩道を歩いていくと、巨大な桜木の近くで、赤いヒガンバナが群れて咲いているのが見えました。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 まだ蕾のものもあれば、開花したものもあります。ここでも、ヒガンバナは密集して咲いていました。まるで身を寄せ合って、自らを守ろうとしているかのように見えます。

 遊歩道から道路側に降りてみると、斜面に、真っ赤なヒガンバナが一塊になって、咲いていました。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 開花して間もないのでしょうか、この花は形が乱れることもなく、完璧に美しい姿を維持していました。赤いリボンで造られたかのような花の中心から、雄蕊が限りなく細く長く、繊細な弧を描いています。折れもせず、傷つきもせず、まるで花弁を保護するかのように、放射線状に外側に伸びているのです。周囲の濃い緑の葉にヒガンバナの赤が映え、ひときわ輝きを増しています。

 近くで見たせいか、この赤いヒガンバナからは情熱を感じさせられました。葉がなくても決してひ弱ではなく、むしろ生きるエネルギーのようなものすら感じさせられました。

 遊歩道の先の方を見ると、白い花が一つ、濃い緑の葉陰で咲いているのが見えました。

■白いヒガンバナ
 近づいて見ると、白いヒガンバナでした。白い花というだけでも珍しいのに、こちらは群れることなく、一つだけ孤高を楽しむように咲いていました。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 先ほど見た赤いヒガンバナと形状は同じなのですが、こちらの花にはそこはかとない優雅さや気品が感じられます。他とは距離を置いて、一つだけ凛とした姿勢で立っていたからでしょうか。

 遊歩道に戻ってみると、桜の巨木の幹の下の方に、白いヒガンバナがひっそりと咲いていました。小さくて、うっかりすると見落としてしまいそうでした。

こちら →
(クリックすると、図が拡大します)

 巨木の幹を背後にしているせいか、優雅な形状がくっきりと浮き彫りにされていました。こちらも、群れをなさず、孤立して咲いていましたが、葉がないせいか、巨木に張り付いているように見えます。

 ちょっと違和感を覚えました。

 白いヒガンバナというだけでも珍しいのに、群生せず、一つだけ咲いているのを二度も続けて見たのです。違和感を払拭しきれないまま歩いていると、今度は、白いヒガンバナが群生していました。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 興味深いことに、この一塊のヒガンバナは、花を咲かせているものがあれば、今にも開花しそうな蕾、成り立ての蕾、花芽の者、といった具合に成長の度合いの異なるものが寄り添うように群生していました。同じ根から生まれたとはいえ、その成長度合いがこれほど異なるのも珍しいのかもしれません。

■彼岸に咲くヒガンバナ
 遊歩道の向かい側には葉を落とした桜木が佇み、その先には入間川が見えます。この白いヒガンバナを見ているうちに、不意に、「彼岸」という言葉が脳裏でこだまし始めました。そして、どういうわけか、これらの白い花々が、川を越えて旅立っていった人々の化身のように思えてきました。

 毎年、彼岸の頃になると、決まって、花を咲かせるのがヒガンバナです。

 川のこちら側で咲く白いヒガンバナは、まるで彼岸から戻ってくる祖霊を待ち構えて佇んでいるかのように見えます。

■天界の白い花?
 群生している白いヒガンバナの中に、華麗な姿を見せているものがありました。クローズアップしてみましょう。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 先ほどの赤いヒガンバナと形状は同じですが、白いせいか、清らかで聖なるものという印象を受けます。

 この白く繊細な形状の花を見ていると、ふいに、「曼殊沙華」という言葉が脳裏を過ぎりました。「曼殊沙華」はヒガンバナの別名ですが、宗教的な響きが感じられます。清らかで優雅な姿形から、この世のものではない、幽玄の美が滲み出ていたからでしょうか。

 goo辞書を見ると、曼殊沙華について、「《(梵)mañjūṣakaの音写。如意花などと訳す》仏語。白色柔軟で、これを見る者はおのずから悪業を離れるという天界の花」と説明されています。

 古代インドのサンスクリット語で、この花に命名されたのが曼殊沙華なのだそうです。つまり、曼殊沙華とはそもそも仏教語であり、その意味は、白くて柔軟なこの花を見ると、自然に良い行いをするようになる天界の花だというのです。

 実際、私はこの白いヒガンバナを見ているうちに、なにか奥深い世界に引き込まれるような気がしました。おそらく、古代インドの人々もそうだったのではないかと思います。確かに、この白いヒガンバナには、時空を超えて人に霊的なものを感じさせる何かがありました。

 ヒガンバナは葉がなく、長い茎の上に、優雅で繊細な姿の花を戴いています。その姿は決して尋常の花とはいえません。

 通常の花のライフサイクルとは逆のライフサイクルを辿っているのです。だからこそ、ヒガンバナを目にしたとき、ことさらに、この世の花とは思えないほど優雅で幽玄の美を湛えていると思えるのでしょう。

 古代インドの人々がヒガンバナを「天界の花」と認識し、曼殊沙華と命名したのは、「通常ではありえない」「白い」「優雅」といった要素があったからだという気がします。

■コロナ下で見たヒガンバナ
 さらに、道路側を歩いていくと、赤と白の彼岸花が隣り合わせに咲いているのに出会いました。赤はまだ開花しきっていませんが、白はどの花も満開です。

こちら →
(クリックすると、図が拡大します)

 あまり見かけない白いヒガンバナがここでは満開でした。

 お彼岸を前に、滅多に見ない白いヒガンバナをいくつも見かけました。そのせいか、つい、彼岸を連想してしまいました。

 実際、コロナ下の今、これまで以上に死が身近になりました。「彼岸、此岸」という言葉が実感を伴って感じられるようになったのです。

 いまだに、Covit-19の由来を特定できず、変異株が次々と現れては、留まることがありません。毎日、感染者数、死者数が報道され、誰もがコロナを意識せずに暮らすことができなくなってしまいました。

 ワクチンを打ってもその効果は限定的で、感染を防ぐことはできず、しかも、変異株に有効かどうかも定かではありません。その一方で、ワクチンの副反応で命を落とす人もでてきています。詳細は明らかにされないまま、不安だけが募っているというのが現状です。

 そんな折、元ジョンズ・ホプキンズ大学のロバート・ヤング博士が4種類のワクチンの成分分析をした結果を公表されました。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します。日本語訳:中桐香代子氏)

 この表を見てわかるように、どのワクチンにも酸化グラフェンや金属が含まれています。

 実は、ファイザーの元研究者がワクチンに酸化グラフェンが含まれていると指摘したことがありました。2021年7月29日のことです。

こちら →
https://vaccineliberationarmy.com/2021/07/29/former-pfizer-employee-exposes-deadly-graphene-oxide-in-the-covid-vaccine/

 ファイザー社とモデルナ社のmRNAワクチンに酸化グラフェン含まれているといいます。
(※ http://blog.livedoor.jp/wisdomkeeper/archives/52066994.html)

 不思議なことに、関係者から重要な情報が提供されたにもかかわらず、政府はそれについて検証することもなく、いままでワクチンが投与されてきました。挙句の果てはワクチンパスポート発行によって、各世代に接種を強行しようとすらしています。

 ロバート・ヤング博士の分析結果を紹介した中桐香代子氏は、厚生労働省に次のような質問を提起しています。

こちら → https://ameblo.jp/kayokonakagiri8/image-12695698547-14995864802.html

 果たしてどのような回答が返ってきたのでしょうか。

 この度、ファイザー社やジョンズ・ホプキンズ大学の元研究者から相次いで、ワクチンに関する情報提供がありました。おそらく身の危険を顧みず、彼女と彼は、良心に従った行動をとったのでしょう。コロナ下の「白い天界の花」だといわざるをえません。(2021/9/15 香取淳子)

ラップ、ヒップホップで格差社会を生き抜くカリビアン・ディアスポラたち

■映画『イン・ザ・ハイツ』
 2021年7月30日、日本で『イン・ザ・ハイツ』が公開されました。ユーチューブにアップされた8分30秒の予告映像を見ると、物語の舞台となったワシントンハイツの地域特性がよくわかります。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=buSZqumGhNE&t=407s
(広告はスキップするか、×印を押して消してください)

 まず、冒頭のシーンから見てみることにしましょう。

 消火栓の安全ピンを抜き、立ち上がる水しぶきを浴びて大騒ぎする子どもがいれば、ビルの窓には身を乗り出し、うちわのようなもので風を送りながら語り合う女性たちの姿が見えます。そうかと思えば、路上では男性がホースで水を撒いています。子どもも大人も思い思いのやり方で暑さをしのいでいるのです。

 いずれも短いショットで捉えられ、次々とテンポよく、流れるようにつなげられています。そして、ようやく、主人公ウスナビの登場です。

 家を出て急いで階段を下り、路上を歩きはじめたウスナビはたちまち、マンホールのフタに足を取られます。靴底にガムがくっついているのを見て、困った表情を浮かべるウスナビ。子どもたちはそれを見て笑い転げます。

 そこに、「ワシントンハイツの一日は始まる」という文字が被ります。こうしてワシントンハイツの朝のルーティーンが紹介されていきます。

 コンビニのシャッターに若者がペンキで落書きをしています。それを見て、慌てて追いかけてきたのが、この店の店主ウスナビです。

こちら →
(ユーチューブ映像より。図をクリックすると、拡大します)

「何してる!今朝も」とどなっていますから、若者は日常的にここで落書きをしているのでしょう。ワシントンハイツでは、犯罪に至らないまでも、ちょっとした悪さは日常茶飯事なのです。

 シャッターのカギを開けて、店に入ろうとしたウスナビが突然、振り返ってカメラを見、「おはよう」と観客に笑いかけます。

 落書きをしていた若者を追いかけてきたせいか、朝から疲れたような顔をしています。コンビニを経営しているウスナビが、この物語の主人公なのです。

 通りを隔て、遠景でウスナビのコンビニが捉えられています。「CITY MART TROPICAL PRODUCTS」と看板は英語で書かれていますが、外観や全体の色調はいかにもラテン系のお店です。

こちら →
(ユーチューブ映像より。図をクリックすると、拡大します))

■ウスナビとアブエラ
 コンビニのカギを開け、店内に入ったウスナビは、「俺はウスナビ 初耳だと思うけど」、「この街ではよく知られている」とラップで歌いながら、カウンターを飛び越え、コーヒーメーカーなど機器のボタンを押していきます。

 「訛りが複雑なのは」、「カリブの偉大な国」「ドミニカ出身だから」と続けます。背後の壁には「Caribbean Sea」と書かれた浜辺の絵がかかっています。「愛する祖国」「母親の死後帰っていない」「なんとか帰らなきゃ」と歌いながら、冷蔵庫を開けると、「牛乳が腐っている」「待てよ?」「なぜ牛乳が暖かい?」「暑すぎて、壊れたか?」「苦いコーヒーじゃ売れないよ」とシンクに捨てるウスナビを、カメラは排水口の下から捉えます。

こちら →
(ユーチューブ映像より。図をクリックすると、拡大します))

 牛乳が腐っているのを知って、ウスナビが慌てているとき、高齢の女性が店内に入ってきます。

 「ミルク抜きだよ」とウスナビがいうと、女性は「私のお母さんはコンデンスミルクだったわ」と、とっさに助け船を出します。

 「名案だ」、「いつもの宝クジ」と言いながら、ウスナビがカウンター越しに渡すと、女性は有難そうに宝クジにキスをし、「忍耐と信仰を!」と言って、出ていきます。

こちら →
(ユーチューブ映像より。図をクリックすると、拡大します))

 途端にウスナビはカメラ目線になって、観客に向かい、「彼女はアブエラ」「育ての親さ」「この街の皆のママ」と説明していきます。この街の母親代わりとして、皆に気を配り、共に夢を追いながら、アブエラは生きてきたのです。

 ウスナビは頃合いを見計らうように、「危ない街で育ったと?」と観客に問いかけてから、店から出ていきます。これは、ラテン系コミュニティには、犯罪やドラッグがつきものだという固定観念を踏まえてのセリフでした。

 確かに、ここにはちょっとした悪さをする子どもや若者がいます。とはいえ、決して、「危ない街」ではありません。なんといっても、皆の母親代わりのアブエラが、この街をしっかり見守ってくれているのですから・・・。ウスナビはおそらく、そう言いたかったのでしょう。

 2005年に、『イン・ザ・ハイツ』がブロードウェイで初演されたこ時、の作品は人々から素直に受け止められませんでした。というのも、この作品には犯罪やドラッグが取り入れられていなかったからです。当時、ラテン社会にはネガティブな固定観念を抱く人の方が多く、その種の要素のなかったこの作品はただの絵空事でしかなく、リアリティがあるとは思われなかったのです。

 そのブロードウェイのミュージカルを映画化したのが、映画『イン・ザ・ハイツ』でした。

■ブロードウェイミュージカルの映画化
 『イン・ザ・ハイツ』は、リン・マニュエル・ミランダ(Lin-Manuel Miranda)とキアラ・アレグリア・ヒュデス(Quiara Alegría Hudes)が共同で脚本を書き、2005年に初演されたブロードウェイミュージカルです。

 2008年には映画化に着手しましたが、それでも、当時はまだ、この作品は観客には新しすぎたとミランダはいいます。ラテン社会、ラテン文化への人々の認識はそれほど変わっていなかったのです。案の定、2008年11月7日、ユニバース・ピクチャーズが2011年の全米公開を目指して映画化を進めていると報じられましたが、この企画は頓挫してしまいました。

 その後、紆余曲折を経て、2018年5月17日、ワーナーブラザーズはミランダに5000万ドル支払い、映画化権を獲得しました(※ https://slate.com/culture/2018/05/in-the-heights-movie-rights-warner-bros-buys-lin-manuel-mirandas-musical-after-weinstein-bankruptcy.html)。

 ようやく映画化の目途がついたのですが、それでも、主要な撮影が始まったのはその後1年も経た2019年6月3日でした。ミランダは映画化までの経緯をどのように捉えていたのでしょうか。

■ラテン文化や社会へのネガティブな固定観念
 ネットを検索すると、ミランダがこの作品について語っている動画が見つかりました。12分4秒のこの動画にはこの作品が誕生する過程が克明に語られています。

こちら → https://youtu.be/WyyTo_sZ_sE
(広告はスキップするか、×印を押して消してください)

 ミランダは、「やっと今、時代と観客がこの作品に追いついてくれたと感じている」と語り、「ラテン系アメリカ人が愛や喜びを表現する作品を受け止められる時代になった」と述べています。

 ミランダはこの動画の中で、「2009年に映画化権の契約が決まり、すぐにも製作できると思っていたが、その道のりは長かった」と嘆きます。というのも、「ラテン系俳優を主役にすることへのハリウッドの差別を経験した」からでした。

 ラテン社会や文化への偏見だけではなく、ラテン作品にラテン系の俳優を主役に起用することすら、当時は受け入れられなかったのです。

 ネットで検索すると、興味深い動画を見つけました。ちょうどミランダがブロードウェイではヒットしながらも、映画化がうまく進まず、悩んでいたころの動画です。ちょっとご紹介しましょう。

 2010年6月29日、ミランダがロサンゼルスに来ることを知ったファンが300名ほど集まり、フラッシュモブとしてダンスと歌を披露したのです。

こちら → https://youtu.be/Klf8IBrXFWY
(広告はスキップするか、×印を押して消してください)

 街のどこからともなく、褐色、黄色人種の人々が集まり、ブロードウェイミュージカル『イン・ザ・ハイツ』のナンバーを歌って、踊っています。激しく、陶酔したような表情で、迫力のあるパフォーマンスを原作者に向かって、披露していたのです。これを見ただけで、このミュージカルがどれほど有色人種を勇気づけ、励ます内容のものであったかがわかります。

 緑色の服を着ているのがミランダですが、感極まった表情を浮かべているのが印象的です。どれほど嬉しかったことでしょう。この作品は当時すでに、一部には熱狂的な支持を受けていたのです。

 このミュージカルを映画化すれば、一定層に受け入れられることは確かでした。

 それでも、ミランダは先ほどの動画の中で、「僕らが思い浮かべる作品を完成させるには、時間がかかった」と感慨深げに言います。

 ふと、この映画のキーワードは何かしらと考えてみました。

 移民、再開発、差別、貧困、宝クジ、夢、故郷、故国の旗、ラテン系コミュニティといったような言葉が思い浮かびます。

 それぞれは相互に深く関係しています。移民、差別、貧困、ラテン系コミュニティ、故郷、故国の旗、これらは一つにまとめられそうです。それらは、歴史的、政治的、社会的、文化的、心理的に語ることができそうです。作品の背後に流れる大きな潮流といえるものです。

 一方、再開発は最近の出来事で、これは移民に対する圧力として作用しますから、葛藤要因、あるいは、問題提起という位置づけになります。再開発は、差別、貧困とも関連づけられそうです。これらは主に社会的に語ることができます。

 一連のキーワードがネガティブな印象を与える一方、ポジティブな影響を与えるのが、夢、宝クジです。この作品では、ラテン系コミュニティの住民に生きる希望を与えていたのが夢、そして、一抹の希望を与えていたのが、ウスナビの店で販売している宝クジでした。

 コミュニティの住民の誰もが毎日買っている宝クジが、この映画のストーリーで重要な役割を果たします。

■宝くじの当選券がウスナビのコンビニから出た
 ワシントンハイツの住民は毎日、ウスナビのコンビニで宝クジを買っていきます。ある日、当選券が出たという知らせが入りました。その時の動画をご紹介しましょう。

こちら → https://youtu.be/J1THRAluOGI
(広告はスキップするか、×印を押して消してください)

 ウスナビの経営しているコンビニに電話が入り、この店で販売した宝クジの中から当選券が出たという知らせがきました。電話を受けたソニーが急いで、プールに向かうウスナビたちに追いつき、報告すると、彼らは狂喜し、さっそくラップでその気持ちを表現しました。当選すればなんと96000ドルもの大金が手に入るのです。

 ベニーがさっそく、ラップに乗ってリズムを取りながら、「俺はリッチなビジネスマン」「タイガー・ウッズが俺のキャディ」「ザクザク入る金で買う」「キンキラの指輪フロド」と歌いあげます。

 興奮してそれぞれの思いを歌っていくうちに、ソニーが走り出して、プールに向かいます。出会う人々に、次々と、「9万6000ドル」と叫び、プールに飛び込みます。その後、ベニーがプールサイドを歌いながら、歩いていくと、プールの中では人々が踊り、やがて、カビエラ、バネッサらも踊り、夢を語ります。

 興味深いのは、ソニーです。

 いきなりプールに飛び込むと、しばらくして水の中から顔を出すと、いつにない真剣な表情で、彼の夢を語りはじめます。

 夢というよりは、宣言とでもいっていいようなものでした。周りの人は驚き、取り囲むようにして、ソニーの言葉に聞き入っています。
(先ほどの動画では2分58秒目から、ソニーの「大演説」が始まります)

 「9万6000ドルで住宅を供給」と歌い、「家賃高騰」、「高級化」とワシントンハイツの変化を訴え、「抗議もせず 搾取ばかり」と現状に不満を漏らします。

 ワシントンハイツの再開発で、家賃は高騰し、すべてのものが高級化しており、低所得層の移民は暮らしていけなくなっていました。そのことを短いフレーズでラップに乗せて、訴えているのです。

 まるで追い払おうとしているかのような政策なのに、住民たちは抗議もしません。それをいいことに、行政は搾取するばかりだとソニーは不満を漏らしているのです。皆、感心したように、聞いていました。

 さて、住民たちが集まったプールで、ウスナビたちは宝クジの当選番号を発表します。ところが、その場に当選者はいませんでした。

 後になってわかるのですが、当選券を買っていたのはアブエラでした。彼女はそのことを知らないまま、逝ってしまいましたが、「ウスナビへ」と書かれた小箱に当選券が入っていました。ウスナビに夢を託したのです。

 アブエラはワシントンハイツが停電した夜、ウスナビらに見守られ、「暑い、暑い、燃えるよう」といいながら、旅立っていきました。

 亡くなる直前のアブエラの心象風景を描いたシーンには、心打たれました。

■死を前にしたアブエラ 
 死を前にしたアブエラの心象風景を描いたシーンがありました。2分39秒の映像をご紹介しましょう。

こちら → https://youtu.be/9pbWTsJ6DSk
(広告はスキップするか、×印を押して消してください)

 1943年12月、凍てつくような寒い日に、アブエラは母親とともにニューヨークにやってきました。

 アブエラは昔を思い出しながら、地下鉄を降り、地下道を歩き続けます。

 「ここを掃除して」「時間に遅れるな」「体重を減らせ」「英語を覚えろ」「働け」と言われ続け、どうにかこうにか生きてきた。いつの間にか時は過ぎ、最近は手が震え始める。「胸が張り裂けそう」、「ママ、あなたの夢を受け継いで生きてきたけど」「夢の先に何があるの?」

 まるでこの世からあの世に向かって歩いていくように、地下道を歩き続けながら、これまでの人生を振り返り、ママに向かって、「夢の先に何があるの?」と問いかけるのです。

こちら →
(上記映像より。図をクリックすると、拡大します))

 やがて、「ママ、わかった」といい、「祈る以外、何ができるの?」と続け、迷う気持ちが吹っ切れたように、いつのもセリフ、「忍耐と信仰」とつぶやきます。そして、「暑い、暑い、燃えるよう」と言いながら、逝ってしまいました。

 見守っていたウスナビたちは、「彼女はここで生きた」、「褒め称えよ」と祈ります。それに合わせるように、大勢の人々が「アブエラ・クラウディアを褒め称えよ」と声を合わせていきます。手にしたローソクを高く掲げ、「褒め称えよ」と住民たちは気持ちを一体化させていくのです。

 この時、皆のために生きたアブエラの死が、コミュニティの住民の気持ちを一体化させ、新たな郷土意識が生まれつつあるように思えました。そして、その気持ちの一体化を具体的に表現するものがダンスと音楽でした。ラップ、ヒップホップ、ライト・フィートなど、思うままに身体を激しく動かし、エネルギーを発散させます。

■歌とダンスで苦難を乗りきるカリビアン・ディアスポラ
 ダンスの振付を担当したのがクリス( Christopher Scott )です。彼がインタビューに答えている動画がありますので、ご紹介しましょう。

こちら → https://youtu.be/KZJqV09DgcU
(広告はスキップするか、×印を押して消してください)

 「この作品は技術的にとても難しかった。全ての振付を10週間で考案し、監督と議論を重ね、ダンススタジオで10週間準備した」といいます。そして演じる俳優については「ダンスする俳優ではなく、ダンサーとして扱った」といいます。

 そのせいか、バネッサがクラブで踊るシーンなどプロ級の出来栄えでした。

こちら → こちら → https://youtu.be/VDTX0LodLuQ
(広告はスキップするか、×印を押して消してください)

 バネッサは「このままじゃ台無しになると怖かった。大変だったけど、10週間、彼らと過ごし、応援してもらってこなすことができた」と当時を振り返っています。

 また、ニーナとベニーはまるで曲芸のようなダンスシーンで観客を驚かせました。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=dT_3cNh7aaE
(広告はスキップするか、×印を押して消してください)

 ニーナは、「トレーニングでこんなに過酷なのは初めて。汗をかいて、イライラして。本当に難しい曲だった。「君ならできる」と励まされて、頑張った。おかげで、絶対できなかったことができるようになった」と語っています。

 一方のベニーは、「一番不器用な俺がこれをやるらしい。しかも、ハーネスなしで」と語り、ビルの壁面でのダンスの大変さを述べています。

 苦難を乗り越えた俳優たちは一様に、「私たちのダンスの豊かさを感じた」「これはみんなにとって大切な映画」「この映画では本物でありたい」「ちゃんと伝えたい」というようなことを口々に語っています。

 この映画を通して改めて、俳優たちはラテンの音楽、リズム、ダンスの奥深さを再確認したようでした。

 振付師のクリスは、「ダンスを通して、物語が伝わる」といっています。ダンスはまさに言語そのもの、大いなる伝達手段なのです。

 ドイツの哲学者アドルノ(Theodor Ludwig Adorno-Wiesengrund)は、「故郷を持たない人間には、書くことが生きる場所となる」と書いたといわれています。移民した先の大衆文化に溶け込めず、もちろん、もはや故国の文化の中で住まうことはできません。何が心の安定をもたらすのかといえば、ラテン系コミュニティの住民にとってはダンスであり、音楽なのでしょう。

 ダンスシーン、現代的感性にマッチする音楽、キレのいい映像編集、含蓄のあるセリフ、どれも素晴らしい出来栄えでした。とても見応えのある映画でした。映画にも新たなステージが切り開かれつつあるような気がしました。(2021/8/31 香取淳子)

Henry Lauは現代版モーツァルトか?③K-POP活動を中断、バークリーへ

ジュリアードではなく、K-POPへ

 オーディションを受けた翌週、Henryは合格通知を受け取りました。ところが、両親に反対されたので、一旦は丁重に断ったそうです。とくに父親は猛反対で、彼の大学進学を強く願っていました。

 Henryは後に、次のようなことを語っています。

「両親はずっとカナダにいて、いまアジアがどのような状態になっているか知らなかったし、K-POPもいまほどは知られていなかったので、反対するのも無理はなかった」
(※ http://www.mtv.com/news/3125103/henry-lau-interview-hollywood-journey/)

 実は、Henryにもまだ迷う気持ちがありました。子どもの頃からバイオリニストを目指して練習を積み重ねてきたのですから、それも当然でした。しかも、ジュリアード音楽院に進学する予定で、出願手続きまでしていたのですから、気持ちの切り替えが必要でした。

 揺れ動く思いを払拭するため、母親と一緒に、Henryは韓国のSM Entertainmentを訪れました。現地を見て、彼の気持ちは固まりました。母親もまた納得し、帰国してから父親を説得してくれたといいます。こうしてようやく家族の同意を得ることができ、HenryはK-POPの道に進むことができたのです。

 韓国SM Entertainmentに所属すれば、クラシックの道に進むよりもはるかに多くの人々に受け入れられ、音楽の道を進んでいくことができると感じたのでしょう。バイオリニストとK-POP、どちらを選択するかと迫られたら、やはり、K-POPを選択するしかなかったのではないかという気がします。

Super Junior-Mのメンバーとしてスタート

 2007年9月、HenryはSuper Junior-Mのメンバーとして、バイオリンパートを含む“Don’t Don”という曲でデビューしました。SM Entertainmentは、彼の持ち味を活かす方向でセッティングしてくれたのです。そして、10月、SM Entertainmentは、2008年にHenryをSJMの中国向けサブユニットとしてデビューさせると公式に発表しました。

 SM Entertainmentは、広東語、北京語を話せるHenryをより活かせる場は中国だと考えたのでしょう。中国は今後、発展を期待できる巨大なエンターテイメント市場でもありました。

 中国TVのバラエティ番組にHenryがグループ出演していた動画を見つけました。2008年8月30日に公開されています。

こちら → https://youtu.be/L1h0by0iIWk
(広告はスキップしてください。2分40秒あたりから、リンボーゲームが始まります)

 グループの中で誰が一番、身体が柔らかいかを競うリンボーゲームのコーナーで、Henryは最終的に、床から80㎝まで下げられた棒の下をかいくぐり、勝者となりました。身体の柔軟性を証明したのです。

 会場から拍手喝采を浴びたことはいうまでもありません。

 そういえば、オーディションの時、Henryがリンボーダンスの動きを取り入れたパフォーマンスで、会場を沸かせたことがありました。バイオリンを弾きながら、身体の柔軟性を極限まで見せつけたものでした。それは、すでに高校生の時、実践済みの動きでしたが、再び、中国TVのバラエティ番組で披露したのです。

 グループ最年少のHenryでしたが、ダンスやパフォーマンスにひときわ優れた能力をもっていることが徐々に、知れわたっていきます。

 やがて、Henryの得意とするバイオリンを演奏する場面も取り入れられ、誰の目にも、レベルの高いエンターテナーだということがわかるようになります。新人とはいいながら、次第に、一目置かざるを得ない存在になっていったのです。

 ダンス能力を買われたのでしょうか、その頃、フィリピンで行われた公演では、女性ダンサー2人を従え、ソロで舞台に立っています。

SSII in Philippines-Henry’s solo Sick of Love

 これは2010年4月13日に公開され、約4万人が視聴しています。2分20秒の動画です。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=tg9MXOktCY4
(広告はスキップしてください)

 女性ダンサー二人をバックに、ソロでダンスを披露しています。この時期はまだSuper Junior-Mのメンバーとしてグループ活動をしている期間なのですが、よほどダンス能力を認められたのでしょう。あるいは、ファンからの声援の高さがこの企画に反映されたのかもしれません。

 大観衆を前に、Henryはソロで企画されたフィリピンでの舞台に立っています。歌も歌っていますが、ダンスがメインのショーでした。両手、両足をリズミカルに動かし、切れ味のいい、若さ溢れるダンスが印象的です。

 デビューしてわずか3年で、Henryは早くも海外でソロ公演をできるK-POPタレントになっていました。

 デビュー後2,3年頃の動画をみると、すでに、いかにもK-POPタレントらしくなっており、TVのバラエティ番組出演か、ダンスやパフォーマンス中心の舞台で活躍しています。動画をいくつか見ているうちに、ひょっとしたら、クラシック音楽を目指したHenryは後悔しているのではないかとちょっと気になりました。

 そこで、インタビュー記事を読み返してみると、興味深い内容が掲載されていました。

 なぜ、ジュリアードではなく、韓国SM Entertainmentを選んだのかと問われ、Henry は、次のように答えているのです。

 「私はダンスと歌が同じように大好きです。 ところが、クラシックの道に進めば、それを諦めなければなりません。K-POPの道を選ぶと、踊ったり歌ったりできます。だからといって、バイオリンやピアノを弾けなくなるということではありません。そう考えると、選択肢は一つしかありません。韓国SM Entertainment に所属することでした」
(※ http://www.mtv.com/news/3125103/henry-lau-interview-hollywood-journey/)

 一方、フォーブスの記事によると、デビュー当時、グループのメンバーとちょっとした軋轢があったようです。経歴が異質なのでそぐわない面があったのかもしれませんし、中国のTV番組を見ているとグループ出演なのにHenryが目立ちすぎているという印象を受けましたから、そのせいかもしれません。あるいは、文化の違いが影響していた可能性もあります。いずれにしても初期の数年間、Henryは一歩引いて、身を処していたようです。

バークリー音楽大学で学ぶ

 Henryは後に、このような経験は自分にとってはよかったと語っています。その期間、米ボストンにあるバークリー音楽大学に通うことができたからでした。
(※ https://www.forbes.com/sites/tamarherman/2019/04/18/henry-lau-talks-global-career-aspirations-upcoming-projects-how-haters-have-helped-him-thrive/?sh=273fddf04ca7)

 たまたまバークレー音楽大学でHenryと出会ったファンがその時の様子を記し、ネット上にあげていました。2010年7月3日のことです。それによると、Henryはどうやら12週間の作曲コースに在籍していたようです。
(※ https://sup3rjunior.com/2010/07/03/100702-henry-at-berklee-college-of-music-fanaccount/)

 実際、Henryは当時を振り返り、それまでは楽器を演奏したり、ダンスをしたりするだけで、歌ったり、作曲したりすることはなかったので、それらすべてをバークリーで学ぶことができたのはよかったと語っています(前掲URL)。

 バークリー出身の有名な中国人として中国のサイトには、Henryの名前が記載されています。
(https://web.archive.org/web/20140714112749/http://www.mfastudy.cn/xuexiao/html/230.html)

 バークリーでの勉強期間を経て、Henryは韓国に戻り、2013年に ‘Trap’を発表しました。ソロデビューを果たした最初の曲が‘Trap’だったのです。

Trap

 2013年6月22日に公開され、約24万回視聴されています。4分39秒の動画です。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=ANILESJmvIY
(広告はスキップしてください)

 ピアノをイントロにHenry はまず、しっかりと観客の気持ちを掴みます。頃合いを見計らって、メインメロディをゆっくりとピアニシモにしたかと思うと、ささやくように、“I’m trapped”とつぶやき、すばやく、ピアノの上に飛び乗ります。

 そこで歌いながら、ステップを踏んで、軽く数歩後ずさりしてから、ピアノから飛び降ります。ここからが、ダンスの見せ場になります。男性ダンサー数人を従え、力強く、しかも軽快にダンスを披露していくといった展開です。

 髪を金髪に染め、フードをかぶり、当時、流行していたのでしょうか、シティボーイ風の衣装です。別人かと思ってしまうほど、風貌が変わっていました。いつの間にか、外見は完全にK-POPスターに変身していましたが、スニーカーで踏みしめる足さばきは依然としてリズミカルで、切れ味がよく、見事でした。要所要所の動作をストップして見せ場を作り、フォームの良さを強調して見せているところもダイナミックな印象を与えます。

 この曲はピアノで始まり、歌とダンスが披露され、やがて静かにピアノで終わるといった構成です。

 同時期に、衣装、装置を変えて、公開されたバージョンもありました。2013年6月10日に公開され、こちらは約352万回視聴されています。

こちら → https://youtu.be/kkXsptpE00A
(広告はスキップしてください)

 この‘Trap’はさらに、2019年にバイオリンのイントロを加えて再構成され、リリースされています。

’VIOLIN INTRO+TRAP’

 2019年12月30日に公開され、約56万回視聴されています。4分59秒の動画です。

こちら → https://youtu.be/m43xjLQvEU4
(広告はスキップしてください)

 暗闇の舞台に置かれたトラックに青いライトが当たり、ドラムの単調なリズムが強く響き、次第に会場の気分を一つにまとめあげていきます。やがて、何本もの線状の青いライトがHenryを映し出すと、バイオリンを手にした彼が荘厳な趣の曲を奏で始めます。

 背景の照明がオレンジ色に変わったと思うと、カメラが近づき、Henryの姿を捉えます。

こちら →
(ユーチューブ映像より。図をクリックすると、拡大します)

 ピアノがイントロのバージョンとは違って、劇的で力強い導入です。以前とは異なり、リーゼント風の黒髪で、黒のスタジャンを着ています。シティボーイ風であることに変わりはありませんが、バイオリンのイントロ版には甘さが消え、洗練された印象が強調されています。

 ジュリアード音楽院に入学せず、K-POP界に入ることを選択したHenryは当初、Super Junior-Mのメンバーとして活動していました。望んだこととはいえ、これでよかったのかと思い悩んだ時もあったのでしょう。先ほどもいいましたように、この時期、一時、休職し、2010年7月には米ボストンにあるバークレー音楽大学で作曲を学んでいます。

 その成果として2013年7月7日に発表したのが、この‘Trap’でした。18歳でデビューし、24歳でソロアルバムをリリースできるようになっていたのです。バイオリン、ピアノ、歌、ダンスを組み合わせた新領域の音楽を開拓することができたHenryは、いつの間にか、理想の音楽に向けて大きく一歩、踏み出していました。

 デビュー後わずか6年でこれだけの成果を出せたのは、鋭敏な感性、揺るがない意思、絶え間ない努力の賜物としかいいようがありません。(2021年7月5日 香取淳子)

 以下、次回に続く。