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改めて問う、万博協会は何をしていたのか?

■「被害者の会」の設立

 2025年5月30日、大阪・関西万博のアンゴラパビリオンの建設に関わった下請け業者が、「被害者の会」を立ち上げたと発表しました。被害者の会は、万博のパビリオン建設に関わった下請け業者で構成されており、未払いの工事費を回収する目的で設立されました。

 賃金未払い、工事代金の未払い問題は、開幕前から問題になっていたことは知っていました。最近、これに関するニュースを見ていなかったので、てっきり解決されたのだと思っていました。ところが、そうではなかったのです。建設費の未払いはいまなお続いているといいます。

 被害者の会によると、アンゴラパビリオンに関しては、3次下請けの業者が、さらにその下の下請け業者に費用を支払っていないということでした。

 業者は、「このままでは開幕に間に合わないということで、急遽応援依頼を受けて、2月中旬から開幕日までほぼ連日、夜勤を含めて働いてきた。しかし全く工事代金が支払われず、5次下請け以下の賃金はゼロのまま」と訴えています(※ 2025年5月30日17:00配信、ABCテレビ)。

 報道によると、3次下請けまでは支払われていますが、3次下請けが4次下請けに支払っておらず、当然のことながら、5次下請けにも支払われていないというのです。

 アンゴラ館の工事代金未払い問題に関する動画を見つけましたので、ご紹介しましょう。

こちら → https://youtu.be/rcwIbaSTahU
(※ CMはスキップするか、削除して視聴してください)

 上の動画は、大阪のテレビ局MBSで、2025年5月23日に放送されたニュースです。

 アンゴラパビリオンは、建物は協会が行い、外装や展示を参加国が行うという形式の簡易パビリオンです。それが、開幕初日にオープンしただけで、その後、ずっと閉館したままになっているのです。なぜかといえば、工事費が未払いなので、工事が中断されていたからでした。

 このニュースが放送されてから一週間後、「被害者の会」が設立されたことになります。放送されても、事態が改善されなかったからでしょう。

 実は、工事代金の未払い問題はアンゴラだけではありませんでした。

■工事代金の未払い

 工事代金の未払いはなにもアンゴラパビリオンだけではなく、他にも複数の下請け会社の工事代金が支払われていませんでした。

 たとえば、MBSは5月13日、他の下請け業者を取材して放送し、未払い問題の深刻さを伝えていました。

 5月13日の時点で、複数の下請け業者が、工事費用の一部が未払いになっていると訴えていたことがわかりました。

 このニュースに登場していたのは、参加国が独自で建てるタイプAパビリオンの建設を請け負った業者です。この業者は、海外の元請け業者から契約金の約40%分と追加工事費、計約8000万円が支払われていないと訴えています。契約通りに支払われないので、現在、会社がいつ潰れるかわからない状況に陥っているのです。

 さらに、同じ元請け業者から、他のパビリオン工事を受注した、別の下請け業者もいました。こちらは、追加の工事費代金、約3億円が支払われていないと訴えています。

 取材に対し、元請け業者は、工事が不十分だったので、肩代わりして行った工事費を契約金から差し引いたといい、追加工事費については現在精査中だとしていっています。

 これらの契約関係を図式化すると、次のようになります。

こちら →
(※ MBSニュース映像より。図をクリックすると、拡大します)

 下請け業者が、滞った支払いを求めて、何度も連絡をしていた最中、元請け業者Xから新たな契約書がメールで送られ、署名を求められました。その内容は、「下請け業者は遅延1日につき、価格の2%のペナルティを支払う」、「工事に欠陥があった場合、元請け業者はその修繕費用を下請け業者に支払う額から相殺できる」というものでした。

 つまり、工事の “クオリティ” が不十分と判断された場合、その修正工事の費用を契約金から差し引くといった内容が、契約に新たに加わっていたのです。契約書にサインをしなければ、次の支払いが実行されないので、下請け業者はサインせざるをえなかったといいます。

 下請け業者Aにとっては初めての海外クライアントとの仕事でした。文化の違いに戸惑うこともありましたが、たび重なる仕様変更にも対応し、なんとか工事を開幕には間に合わせました。

 「開幕日が決まっている万博だからこそ、なんとか終わらせようと現場で踏ん張ったのです」という言葉に、実際に建設に携わる業者ならではの責任感が感じられます。支払いが滞っているにもかかわらず、元請けの指示通り、工事を完成させていたのです。あっ晴れだといわざるをえません。
 
 ところが、万博を担当する伊東良孝大臣は、万博工事代金の未払い問題について、次のように述べています。

 「工事代金の精算がついていないところもいくつかあるというふうに聞いているところであります。基本的にはパビリオンを発注した国と建設を請け負った元請け業者の民・民(民間同士)による話し合いが基本ではないかと思っておりまして、それを促しているところでございます」

 責任を放棄した言いぐさは、見苦しいとしかいいようがありません。万博を統括するトップがこれほど無責任な態度をとるとは思いもしませんでした。この大臣の言動からは、現代日本の統治機構の無能ぶり、官僚機構の腐敗ぶりが透けて見えます。

 万博協会に訴えても埒が明かないとみた下請け業者たちは、建設費の未払いについて民事訴訟を起こす準備を進めています。

■万博協会はいったい、何をしていたのか?

 実は、海外パビリオンの工事については、当初から不安視されていました。すでに2020年春には、日建連の関西支社の幹部が万博協会に、海外パビリオンの発注の仕方について建設業界の意向を伝えていました。というのも、発注側の外国政府と国内のゼネコン各社が直接交渉することに、多くが不安に思っていたからです。

 ゼネコン側には、「どこの国の言葉でやりとりするのか。工事に日本の約款が適用されるのか。スーパーゼネコンならば交渉能力があるが、それ以外のゼネコン(準大手や中堅ゼネコン)は政府が間に入ってくれないと、交渉をうまくまとめられない」といったような心配が尽きませんでした。

 2022年8月、日建連は会員の不安の声をとりまとめ、万博協会に、協会の積極的な関与と、工期の確保も要望していました。ところが、協会は動かず、工事は進捗しませんでした。万博協会は、海外パビリオンのスケジュール管理をすることができず、インフラ整備も進んでいませんでした。

 2023年8月7日に、万博協会は建設業者に向けて説明会を実施しました。会場には100社を超える業者が詰めかけたといいます。

 ところが、海外パビリオンの建設についての認識は、「儲からないであろう仕事に、社員や職人をつっこむわけにはいかない」、「万博の海外パビリオン工事については、ゼネコンはどこもやりたがっていない」、挙句の果ては、「万博の工事には手を出さない方がいい。やけど程度では済まない」といった具合でした(※ 梅咲恵司、東洋経済オンライン、2023/09/05)。

 ゼネコン業界にとって、海外パビリオンの工事は災難でしかなかったのです。そして、現在、海外パビリオンの建設に携わった下請け業者の数々が、工事代金の未払いという苦境に立たされています。中には生活破綻に追い込まれた業者もいます。予想されていた災難が末端業者にふりかかっているのです。

 なぜ、このようなことになったかといえば、万博協会が、3年も前に提出した日建連大阪支社の要望を聞き入れず、予想された危機を回避することをしなかったからでした。

 万博は国家事業でもあり、うまくいけば宣伝にもなるにもかかわらず、ゼネコン各社は海外パビリオンの工事を請け負いたがりませんでした。というのも、2023年7月には、鋼材や生コンクリートなど建設資材の価格は、2021年1月と比較し、26%も上昇していました。そして現場で働く労働者の賃金も2020年度に比べ、9%以上引き上げられていました。資材高と労務費の高騰を考えれば、割に合う仕事ではなかったのです。

 そのような状況下で、ババを引いたのが、末端の下請け業者でした。
 
(2025/5/31 香取淳子)

春の日の入間川遊歩道

■久しぶりの入間川

 2025年4月20日、久しぶりに入間川遊歩道を訪れてみました。例年、四月になれば一斉に開花するソメイヨシノがすっかり散り、葉だけになっていました。

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 早緑の葉桜が、軽やかに遊歩道一帯を覆っています。そんな中、先の方にピンクの花が緑の葉陰からそっと顔をのぞかせていました。近づいてみると、八重桜でした。

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 この桜木は、土手に斜めになりながら、堂々とした姿で立っていました。斜面に対して垂直に立っているだけでなく、川側に大きく枝を伸ばしているのです。バランスが取れておらず、川側に倒れてしまうのではないかと思うほどでした。

 一見すると、不安定に見えるのです。

 ところが、この桜木をよく見ると、幹が大きく遊歩道側に湾曲し、本体を支えています。その姿勢は、まるで川側に倒れてしまわないように、必死に踏ん張っているように見えます。

 そればかりではありません。遊歩道側に延びた枝はどれも太く、咲き乱れた花々もどっしりとした重みを感じさせるのに、入間川側に延びた枝は細く、枝先に開いた花弁もより小さく、軽やかに見えます。

 幹の傾き、枝の太さなどから、この木が、遊歩道側(左)に比重を置いているのがわかります。根元にかかる負荷に差をつけ、左右の重量のバランスを取っているのです。

 枝の太さ、伸ばし方、花の大きさ、その数量などを調節し、この桜木は、斜面に対し垂直に立っていながら、生き延びることができているのです。絶妙なバランスの取り方に、この木の強い生命力に感じざるをえません。

■植物に学ぶ生命力

 そもそも、遊歩道にいた私がなぜ、この桜木に気を取られたかというと、葉桜となったソメイヨシノの群れの中に、濃いピンクの花を見かけたからでした。この木は土手に生えていながら、遊歩道まで大きく枝を伸ばしていたのです。

 遊歩道沿いに、整然と立ち並んだソメイヨシノの一群から離れ、この木は、一段低い土手に垂直に立っていました。延々と続く桜並木から、はじき出されたように見えなくもありません。

 ところが、ソメイヨシノの列に割り込み、その存在を誇示していたのです。四方八方に大きく伸びた枝には、大輪の花弁が咲き誇り、異彩を放っていました。辺り一帯、緑色の中で、この木はひときわ目立ちました。

 どの枝にも重量感のある濃いピンクの花が咲き誇り、ソメイヨシノとは違った趣がありました。咲いたと思えば、すぐに散ってしまうソメイヨシノの可憐な風情はいささかもなく、おおぶりの花弁からは、力強く生き抜こうとする生命力が強く感じられます。八重桜ならではの豪華な華やかさがありました。

 歩を進めていくと、タンポポが、遊歩道の脇に這いつくばるようにして、黄色の花弁を咲かせていました。

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 まるで行き交う人々に注意喚起するかのように、ひときわ鮮やかな黄色の花弁が目立っていました。何度、踏みにじまれても、その都度、健気に立ち上がって、生きてきたのでしょう。ここでも旺盛な生命力を感じさせられました。

 黄色い花の隣には白い綿帽子も見えます。花が咲き終わり、綿毛になっているのです。さらには、綿毛が飛んでしまって、茎だけになっているのもあります。まるでタンポポのライフサイクルを見ているようでした。

この一画には、成長、成熟、種子の散布、枯死、といったライフサイクルごとの形態が揃っていたのです。

 タンポポを見ているうちに、ふと、生命体というものは、成熟して子孫を残せば、もう役目を終え、自然に回帰する定めなのかもしれません。

 そんなことを思っているとき、子どもたちの声が川の方から聞こえてきました。

■釣りを学ぶ?

 何やら声が聞こえたので、下を見ると、砂州に大勢の子どもたちと大人が集まっています。水際にはブルーの網が所々に置かれています。

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 川にはまだ誰も入っておらず、川を眺めている大人や子どもがいるかと思えば、子どもに話しかけている大人もいます。所々にクーラーボックスが置かれ、獲った魚を持ち帰る準備もできているようです。

 これから何かが始まるのでしょう。そう思って、しばらく遊歩道に佇んでいると、再び、子どもたちの黄色い声が聞こえてきました。

 どうやら、子どもたちが川に入って、魚を探しているようです。

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 子どもたちが川に入って、屈みこみ、魚を追っているようです。臨時に造られた生け簀の中には、魚が放たれているのでしょう。子どもたちは屈みこんで、両手を川に入れ、魚を追うのに余念がありません。夢中になっている子どもたちの様子を、大人たちは砂州で見守っています。

 よく見ると、ほとんどの大人は、砂州から子どもたちを見ているだけなのですが、緑の野球帽をかぶり、黒のシャツを着た大人は川に入って、子どもたちを助けています。

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 腰をかがめ、網を引き揚げて、子どもに語り掛けている人もいれば、手に袋のようなものを持ち、子どもたちに話しかけている人もいます。おそらく、魚釣りの指導員か何かなのでしょう。

 緑の帽子を被っていない大人が川に入って、魚を取っているところもありました。指導員の手がまわらないところは、子どものお父さんが支援に入っていたのかもしれません。

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 指導員らが、子どもに魚の獲り方を教え、多くの大人はその様子を砂州に佇み、見守っています。砂州のあちこちにクールボックスが置かれ、獲った魚を家に持ち帰り、食する準備もできているようです。子どもたちだけではなく、付き添ってきた大人たちもまた、魚釣りを楽しんでいました。

魚釣りを通して、子どもたちは川についても、魚についても多くを学んだことでしょう。何か発見したことがあるかもしれません。普段、経験できないだけに、貴重な体験だったにちがいありません。
 
 しばらくしてから再び、訪れてみると、もう魚釣りは終了していました。参加者は立ち去り、砂州に人はおらず、川には青い網で造った臨時の生け簀だけが残されています。

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 緑の半コートを着た人が撤去作業を始めています。

 そのブルーの網も次々と撤去されていきます。緑の野球帽をかぶり、黒のシャツを着た人たちが網をたたみ、片付けています。

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 川を眺めているうちに、砂州の周辺の土手に、鮮やかな黄色の花が群生しているのに気づきました。開花期が少し早いように思いますが、セイダカアワダチソウなのでしょうか。辺り一面に咲いている様子が、子どもたちの魚釣りをショーアップしているようにも見えます。

 それにしても、子どもたちの魚釣りは、一体、何のイベントだったのでしょうか。

■入間川漁協主催の子供魚釣り教室か?

 帰宅してざっとネットで調べてみましたが、それらしい記事が見つかりませんでした。なおも調べてみると、ようやく関連記事が見つかりました。平成27年(2015)の日付がありますから、今から10年も前の記事です。全文を引用してみましょう。

「平成27年4月19日(日)入間川漁業協同組合が入間市役所及び入間観光協会の協力を得て入間川の中橋上流にて子供釣り教室を開催しました。この日は雨の降りそうな曇り空でしたが、幼稚園児から小学校5年生まで70数名とその保護者や一般の大人たち100名ほどが参加しました。

 放流された魚は、約20cmのニジマス140Kg 約1,800尾を2ヶ所(子供用特設生簀(いけす)と大人用は河川)に放しました。子供たちは初めての釣りをする児童も多く、入間漁協組合員の指導に熱心に耳を傾け、次々に魚を上げ楽しい1日を過ごしていただき、帰りには夕食用のニジマスを持ち帰り頂きました」
(※ http://saitamakengyokyou.blog.fc2.com/blog-entry-141.html)

 入間市の漁協はかつて子どもたちのためにこのような行事を行っていたのです。その後の更新記事はありませんが、開催時期がほぼ同じなので、私が入間川で見た光景は、おそらく、漁協主催の子ども釣り教室だったのでしょう。

 興味深いことに、入間市漁協は10年も前から、子どもたちに入間川で魚釣りを経験させ、川に親しむ機会を提供していたのです。ひょっとしたら、私が知らないだけで、もっと以前から行われていたのかもしれません。

 この記事を読み、先ほど見たばかりの光景を思い浮かべていると、なんとなく、ほほえましい気分になっていきます。

 子どもたちが川をのぞき込んでいる様子が、今も目に焼き付いています。生け簀にかかった魚が跳ねる様子に、子どもたちはさぞかし驚いたことでしょう。家では見たことがない生の魚の姿を目にし、いったい、どういう気持ちになったのでしょうか。

 川に入っていった時、魚を捕まえようとする時の子どもたちの叫び声が思い出されます。

 川に足をつっこんだときに味わう川の水の感触、水の中を素早く泳ぎまわる魚の動き、ようやく捉まえ、手にしたときの感触など・・・。子どもたちにとっては、その一つ一つがリアルな感触として記憶に残り、やがて思い出として、再生されていくのでしょう。

 脳裏に刻み込まれた記憶は、時を経ても色あせず、子ども時代へのタイムスリップへの引き金になるに違いありません。

■その後、見た入間川の光景

 なんとなく気になって、後日、再び、入間川遊歩道を訪れてみました。すると、魚釣りをする人が目に入りました。

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 先日、子どもたちが魚釣りを学んでいた場所で、大人が一人、釣り糸を垂らしているのです。腰に魚籠のようなものをぶら下げ、川面を探っています。魚の居場所を見究めようとしているように見えます。

 その姿に、先日見かけた子どもたちの姿が重なりました。あの時の子どもたちが大人になれば、そのうちの何人かは、再びここを訪れ、魚釣りをするのではないかという気がします。

 さらに先の方を見ると、砂州に寝ている人がいました。

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 まるで子どものように、誰はばかることなく、寝入っている様子です。傍らにはルーラーボックスや折り畳みイス、大きなペットボトルのようなものが見えます。おそらく、一人で長時間、ここで魚を釣っていたのでしょう。疲れて横になっているうちに、つい、そのまま寝てしまったのかもしれません。

 砂州で寝ている人を見て、私は驚いてしまいましたが、その気持ちもわかります。寒くもなく暑くもなく、陽射しが照り付けるでもなく、適度に雲が浮かぶ晴天でした。さわやかな風が快く、そこにいるだけで、身体も気持ちも解きほぐされていくような気分になります。

 聞こえてくるのはただ、入間川のせせらぎだけです。

 気持ちが洗われていくような音を繰り返し聞いていると、つい、寝入ってしまったとしても不思議はありません。遊歩道にいてさえ、とても心地よく、心安らかな気分になれたのですから、砂州ではなおのこと、自然との一体感に包まれたことでしょう。

 慌しい日常生活の中で、ともすれば忘れてしまいがちな自然に包まれていることの心地よさが、入間川遊歩道にはありました。

■入間遊歩道にみる生命の環

 川辺に気を取られていましたが、遊歩道沿いのツツジは、いつの間にか、満開になっていました。

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 遊歩道には、茂った木の枝から漏れる陽射しが影を落とし、不思議な文様を描き出していました。風がそっと吹けば、葉がさわさわとそよぎ、そのたびに、道に落ちる影が変わります。瞬間の形態がその都度、その文様を変えていくのです。そこには、パターンを組み合わせて創り出された文様には見られない妙味がありました。

 自然が紡ぎ出す美しさが、遊歩道のそこかしこに見られました。

 久しぶりに訪れた入間川遊歩道は、まず、したたかに生きる八重桜の旺盛な生命力を見せてくれました。次いで、地面に這いつくばって生きるタンポポのライフサイクルを見せてくれました。いずれにも自然環境に合わせ、しなやかに生きる強靭さがあって、感心させられました。

 なにも八重桜やタンポポに限りません。おそよ生命体というものは、強靭な生命力に支えられて生き延び、やがて朽ち果てていきますが、再び芽吹き、生命の環を紡いでいきます。どの生命体にも組み込まれたそのような営みを、この遊歩道で見たような思いがします。

 さらに、この遊歩道から、子どもたちが入間川で魚釣りをする姿を見かけました。

 川に入ることによって、子どもたちは、川の水の感触、流れの速さを知ったことでしょう。魚を獲ることを通して、生きた魚がいかに捕獲から逃れようとするかを目の当たりにしたに違いありません。

 魚を自分の手で触り、掴んだからこそ,子どもたちは生きようとする力の凄さを知ったのではないかと思います。中には、生命の尊さ,生命を育む環境にまで、思い及ぶようになった子どもがいたかもしれません。

 いずれにせよ、子どもたちは魚釣りを通して、生命体というものをおぼろげながらも把握し、自然の叡智に学ぶことができたのではないかという気がします。このような経験こそが、子どもたちの生きる力となっていくのでしょう。

 4月はまもなく終わり、5月を迎えようとしています。生命の環がスタートし、成長期にさしかかろうとする時期になります。生命が躍動する5月、入間川遊歩道は何を見せてくれるのでしょうか。(2025/4/30 香取淳子)

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■反ワクチン活動を展開していたロバート・ケネディ・ジュニア

 前回、お話しましたように、数多くの人々が、ロバート・ケネディ・ジュニアが保健福祉省長官に就任することに反対していました。製薬業界、医療業界、政界、メディア業界、挙句の果ては、ノーベル賞受賞者にいたるまで、彼の就任不許可を求め、下院に強く要請したいたのです。

 彼が長官になれば、アメリカの医薬行政が大きく変更されると思ったからでしょう。

 実際、ロバート・ケネディ・ジュニアは、そう思われても仕方がないような活動を展開していました。

 たとえば、2021年5月に彼はFDA(米国食品医薬品局)に請願書を提出し、ワクチン接種に対する政府の緊急認可を取り消し、将来にわたってどのような新型ワクチンも承認しないよう求めていました。
(※ https://www.theguardian.com/us-news/2025/jan/18/rfk-jr-covid-19-vaccinations

 2021年5月といえば、パンデミックの真っ最中で、大勢の人々が次々と感染し、亡くなっていました。得体の知れない感染症の流行は、いっこうに収束する気配を見せず、社会全体が混乱に陥っていました。

 当時、人々の念頭にあるのは、ただ一つ、どうすれば、新型コロナウィルス感染症(COVIT‐19)から免れることができるかということだけでした。

 緊急に開発されたmRNAワクチンが投与され始めて半年ほど過ぎた頃でした。このワクチンを接種すれば、感染を防ぐことができる、仮に感染しても重症化を免れることができると、行政や医療界はメディアを通して喧伝していました。人々が藁にもすがる思いでワクチン接種に殺到したのは当然のことでした。

 そんな折、ロバート・ケネディ・ジュニアはFDAに対し、ワクチン接種の緊急認可を取り消し、今後、どのような新型ワクチンも承認しないよう求めたのです。新型コロナワクチンの接種には、メリットをはるかに上回るリスクがあると認識していたからにほかなりません。

 この時のロバート・ケネディ・ジュニアの行動が、時流に逆らうものであったことは明らかでした。新型コロナワクチンに対する彼の異議申し立てはものの見事にかき消され、多くの人々は恐怖感から逃れるように、ワクチン接種に向かいました。

■mRNAワクチンの開発

 米国で新型コロナウイルスの感染が広がり始めた2020年3月中旬、ファイザーのアルバート・ブーラ(Albert Bourla)最高経営責任者は、同社のワクチン研究者に電話をかけ、パンデミックを止めるワクチンを1年以内につくるよう指示しました。

 ファイザーの研究者の一人、ドリミッツァー(Philip Dormitzer)氏は、2009年に起こった新型インフルエンザのパンデミックの際、スイス・ノバルティス社のワクチン研究を率いた経験がありました。

 ドリミッツァー氏はノバルティスで、mRNAを使ってワクチンをつくる新たな手法を開発したのです。これまでのワクチンが死滅したウイルスやウイルスの断片を使うのに対し、mRNAを使った手法では合成ウイルスを使います。その結果、彼のプロジェクトは、過去最速でパンデミック対応のワクチンを生み出すことができたのです(※ https://www.pmwcintl.com/speaker/philip-dormitzer_7_2021covid/)。
 
 mRNAワクチンの利点は、プラグアンドプレイ(Plug and Play)にあるといわれています。ウイルスが突然変異したとしても、それに応じてmRNAを変えれば対応できるのです。この方法には、mRNAを運ぶ「乗り物」はそのままに、mRNAだけを変えればいいという利点がありました(※ https://answers.ten-navi.com/pharmanews/19777/)。

 一方、ファイザーの研究チームの一人は、以前から、mRNA技術を使ってがん治療薬を開発していたドイツのビオンテック社に目をつけていました。ビオンテック社は、当時はまだあまり知られていませんでしたが、mRNAの生産能力があり、有能な科学者チームを抱えていました。

 そこで、ファイザーの研究チームは彼らと共同で2018年8月、mRNAをベースとしたインフルエンザワクチンの研究に着手しました。

 ビオンテックは、研究能力は高くても、規模の小さな会社です。彼らにとって大規模でインフラが整ったファイザーと組むことのメリットは大きく、両社は2020年3月初めに、パートナーシップを拡大することを決め、最大7億5000万ドルの契約を結びました(※ https://answers.ten-navi.com/pharmanews/19777/) 。

 こうして米ファイザーと独ビオンテックの共同研究チームは、ワクチン開発の取り組みを本格化させました。2020年11月9日には、世界各国で行った大規模臨床試験で初となる有望な中間解析結果を発表しています。

 そして、11月16日には、米国政府から10億ドル近くの研究開発支援を受けた米モデルナも良好な中間解析結果を発表しました。いずれのワクチン候補も予防効果が90%を上回ったということでした。

こちら →
(※ 左がファイザー、右がモデルナ、図をクリックすると、拡大します)

 ファイザーとビオンテック、モデルナが開発したワクチンは、いずれもウイルスの遺伝情報をヒトに投与し、体内でウイルスのタンパク質を作らせることによって、免疫を誘導するというものです。

 このような、「人体をワクチン工場として機能させる」というアイデアは、かつては異端視されていました。多くのバイオテクノロジー企業は何年にもわたって検証してきましたが、ファイザーとビオンテック、モデルナが、このアプローチに先鞭をつけた格好になりました。

 ファイザーとビオンテックの場合、約4万4000人が参加する大規模臨床試験の際、どのバージョンのワクチンを使うかなど、通常なら数カ月かかる重要な意思決定をわずか数日で行ったといいます(※ 前掲URL)。mRNA技術を使ったからこそ可能になったのでしょう。

 新型コロナワクチンの開発が異例の速さで行われていたことがわかりますが、果たして、人体に害はないのでしょうか。

■ロバート・ケネディ・ジュニアの懸念

 さて、ロバート・ケネディ・ジュニアは2021年5月、FDAに対し、ワクチン接種の緊急認可を取り消し、今後、どのような新型ワクチンも承認しないよう求めていました。新型コロナワクチンが治験も十分に行われず、納得できる科学的な検証を経ないまま、拙速に国民に接種を強要したことでした。

 もっとも、そのせいで彼は反ワクチンのレッテルを貼られ、公聴会でもワクチンに対する態度を厳しく責められました。

 1月29日の公聴会での写真をご紹介しましょう。

こちら →
(※ https://www.newscientist.com/article/2465991-why-its-a-terrible-time-for-rfk-jr-to-lead-us-health-policy/、図をクリックすると、拡大します)

 この時説明していたように、ロバート・ケネディ・ジュニアは、ポリオワクチンについては反対しておらず、自身の子どもにもワクチンを接種したと言っています。彼が問題視しているのは、mRNAを使った新型ワクチンなのです。

 当時、彼はイベルメクチンやヒドロキシクロロキンなど、すでに新型コロナの代替治療薬があるので、ワクチンは不要だと言っていました。ところが、公衆衛生の専門家によってそれらは効果がないと指摘され、新型コロナワクチンの効果ばかりが喧伝されたのです(※ https://www.theguardian.com/us-news/2025/jan/18/rfk-jr-covid-19-vaccinations)。

 このようにして、アメリカ国民はもちろんのこと、全世界の人々は選択の余地もないまま、ワクチン接種を受け入れました。当時、新型コロナウィルスに対する人々の恐怖はそれほど強いものでした。

■懸念は現実に

 ロバート・ケネディ・ジュニアが警告を発してから半年後の2021年11月、マティアス・ラス博士(Dr. Matthias Rath)はRNAおよびDNAベースのCOVID-19ワクチンの即時中止を求めました。このワクチンの壊滅的な副作用が明らかになったからです。

 彼は、コロナウイルスのスパイクタンパク質が細胞核に到達し、DNA損傷の修復を著しく阻害できることを発見したのです。
(※ https://www.dr-rath-foundation.org/2021/11/dr-rath-issues-emergency-call-for-suspension-of-rna-and-dna-based-covid-vaccines-citing-potentially-devastating-side-effects/

 各細胞の生物学的ソフトウェアであるDNAの効果的な修復は、強力な免疫防御を維持し、多くの病気から身を守るために不可欠です。ところが、このワクチンを接種すれば、DNAの修復が難しくなるとマティアス・ラス博士はいうのです。

 その後、次々と、このワクチンが深刻な健康被害と関係していることが明らかになってきました。研究者たちが9900万人以上のワクチン接種記録を調べたところ、神経系、血液、心臓関連の疾患の発生率が大幅に増加していることが明らかになったのです。
(※ https://www.dr-rath-foundation.org/2024/02/worlds-largest-covid-19-vaccine-study-confirms-links-to-serious-health-problems/

 COVID-19ワクチンのリスクに関する証拠はその後も増え続けています。研究者らは、ファイザーとモデルナのmRNAワクチン接種は、COVID-19に感染して入院するのを防ぐよりも、はるかに深刻な有害事象を引き起こす可能性が高いことを明らかにしました。mRNAワクチンは当初、主張されていたよりも深刻な害を伴うことが明らかになってきたのです。

 主流メディアは依然として、このワクチンのリスクについて無視していますが、mRNAワクチンの副作用はすでに多数挙げられています。血小板減少症、重度で生命を脅かすアナフィラキシーの高い発生率、重度の肝臓障害、死亡など多岐にわたる被害です(※ 前掲URL)。

 こうしてみると、ロバート・ケネディ・ジュニアが2021年5月時点で懸念していたことが、現実のものになっていたことがわかります。今後、次々とこのワクチン被害の証拠が積み上げられていくことでしょう。

■ハーグで訴訟提起

 世間ではほとんど注目されていませんが、コロナパンデミックの責任者とその黒幕に対する最初の国際刑事裁判が開始されています。ファイザー社元副社長マイケル・イェードン(Michael Yeadon)博士を中心とする英国のグループが、至急、「コロナワクチンの導入、違法なワクチンパスの導入、その他のあらゆる形態の英国人に対する違法な戦争を停止する」よう求めて、ハーグの国際刑事裁判所に提訴しました。この訴状は2021年12月6日、受理されました。

 原告団は新型コロナ「ワクチン」が実際には実験的な遺伝子治療であるという証拠を提示し、これらの「ワクチン」が大量の副作用と死亡を引き起こしていることを論証しています。

 さらに彼らは、「科学雑誌の中には、イベルメクチンやヒドロキシクロロキンのような治療薬の有効性を示す研究の掲載を拒絶するものがある」と指摘し、「新型コロナに対する安全で有効な代替治療法の弾圧は殺人に等しく、裁判所による完全な調査が必要である」と主張しています(※ https://www.kla.tv/21803)。

 主な被告は以下の通りです。
– アンソニー・ファウチ博士、NIAID(米国立アレルギー・感染症研究所)所長
– ピーター・ダザック博士、エコヘルスアライアンス代表
– ビル・ゲイツ
– メリンダ・ゲイツ
– アルバート・ブーラ、ファイザー取締役会会長
– ステファン・バンセル、モデルナ取締役会長
– パスカル・ソリオ、アストラゼネカ取締役会会長
– アレックス・ゴルスキ、ジョンソン・エンド・ジョンソン取締役会会長
– テドロス・アダノム・ゲブレイェスス、WHO事務局長
– ボリス・ジョンソン、英国首相
- クリストファー・ウィティ、英国首席医療顧問
– マシュー・ハンコック、元英保健・社会保障省長官
– ジューン・レイン、英国 医薬品・ヘルスケア製品担当最高責任者
– ラジブ・シャー博、士ロックフェラー財団理事長
– クラウス・シュワブ、世界経済フォーラム会長
(※ https://www.kla.tv/21803)

 このように、ここでは驚くべき内容が挙げられていました。

 もっとも、上記のオリジナル情報源の多くは今、アクセス不能になっています。唯一、見ることができるのが、Corona-Impfung: Anklage vor dem Internationalen Strafgerichtshof(https://unser-mitteleuropa.com/corona-impfung-anklage-vor-internationalem-strafgerichtshof-wegen-verbrechen-gegen-die-menschlichkeit/)でした。

 もちろん、この情報は大手メディアには取り上げられてもいません。一体、何が本当なのでしょうか。

■何が本当なのか?

 マイケル・イードン(Michael Yeadon)氏について、Wikipediaでは、「新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の世界的流行、およびCOVID-19ワクチンの安全性に関する虚偽、または根拠のない主張を行ったことでメディアからの注目を集めたイギリスの薬理学者」と説明されています(※ Wikipedia )。

 とはいえ、マイケル・イードン氏は、ワクチンを開発したファイザーの研究者でした。製薬会社ファイザーの英国子会社・Pfizer UK(Pfizer Ltd)の研究施設で、アレルギーと喘息などの呼吸器疾患の治療の研究開発部門の主任研究員(在職1995年 – 2011年10月)、VP(Vice President, 日本の企業では部長や次長にあたる役職。在職2005年1月 – 2011年10月)を務めており、この研究部門の責任者だったのです。

 その後、マイケル・イードン氏と彼の同僚3人は、バイオテクノロジー企業・Ziarcoを設立しましたが、2017年に3億2500万ドルでノバルティスに売却されています。

 このような経歴を見ると、マイケル・イードン氏が、新型コロナワクチン開発について情報を知りうる立場にあったことがわかります。

 さらに、2024年10月22日、オランダの裁判官は先週、ビル・ゲイツはオランダの法廷でCOVID-19ワクチンによる被害者7人と対決すべきと判決を下しました。ビル・ゲイツ以外には、ファイザーのCEOアルバート・ブーラ(Albert Bourla)氏とオランダ政府などが含まれています(※ https://childrenshealthdefense.org/defender/bill-gates-covid-vaccine-lawsuit-netherlands/

 この裁判の原告7人の名前は、訴訟の公開文書では伏せられていました。一般のオランダ人だからです。彼らは、「ワクチンを接種し、接種後に体調を崩した」と語っています。ところが、当初の原告7人のうち1人はその後死亡し、残りの6人が訴訟を継続しています。

 この訴訟はレーワルデン地方裁判所に提起されましたが、ビル・ゲイツが、「裁判官には管轄権がないとして異議を唱えた」ので、裁判所はまず「いわゆる事件手続きで判決を下さなければならなかった」とデ・アンデレ・クラント(De Andere Krant)紙は報じています。

 さらに、ゼブラ・インスピラティエ(Zebra Inspiratiet)紙は、この「事件手続き」の審理が9月18日に行われたことを伝えています。ビル・ゲイツは出廷せず、ゲイツ氏の代理人は管轄権には異議を唱えました。「米国在住のため、同氏に対する管轄権はない」というのです。

 ところが、10月16日の判決でレーワルデン裁判所は、同裁判所にゲイツ氏に対する管轄権があると裁定しました。デ・アンデレ・クラントは、同裁判所がゲイツ氏と他の被告に対する訴訟が「関連」しており、同じ「事実の複合体」に基づいているという「十分な証拠」があるからとしたと報じています。

 ちなみに、ブーラ(Bourla)氏を含むオランダ国外在住の他の被告は、同裁判所の管轄権に異議を唱えていません。ビル・ゲイツの往生際の悪さが目立ちます。

こちら →
(※ https://childrenshealthdefense.org/defender/bill-gates-covid-vaccine-lawsuit-netherlands/、図をクリックすると、拡大します)

 興味深いことRに、新型コロナワクチンをめぐる訴訟ではいずれも、ビル・ゲイツが提訴されています。なぜなのでしょうか?

■ビル・ゲイツの役割は?

 ロバート・ケネディ・ジュニアは、2021年に出した著書『The Real Anthony Fauci』の中で、大統領首席医療顧問(当時)のアンソニー・ファウチとビル・ゲイツが、公衆衛生政策の分野とメディアの領域で大きな影響力を行使し、新型コロナワクチンの接種を強行したと指弾しています。

 新型コロナパンデミックの発生経緯を振り返ると、そのように言われても仕方のないほど、ファウチもビル・ゲイツもワクチン接種を強要していました。政策を通し、メディアを通して、新型コロナウィルスの恐怖を煽り、人々にワクチン接種に向かわせる世論を誘導していたのです。

 マイクロソフト創設者として世界的に有名なビル・ゲイツは慈善団体を率い、感染症予防に尽力しているという印象を振りまいていました。ファウチもまた、専門家として世界的に広がったパンデミックに全力を傾け、取り組んでいるという印象でした。

 ロバート・ケネディ・ジュニアが著書で批判した二人はいずれも、新型コロナパンデミックを契機に、拙速人ワクチン接種を人々に強要していた人物でした。

 不思議なことに、コロナパンデミックでは世界的な影響力を行使したビル・ゲイツは、世界各地からワクチン被害が報告されはじめると、態度を変えています。

■ワクチンを否定するビル・ゲイツ

 ワクチンを積極的に推進していたビル・ゲイツは、2023年1月27日、オーストラリアで行った講演で、「現在のCOVID-19ワクチンには問題がある」と認めました。思いもかけないことを言って、人々を驚かせたのです。

こちら →
(※ https://childrenshealthdefense.org/defender/bill-gates-profits-biontech-effectiveness-covid-vaccines/、図をクリックすると、拡大します)

 それにしても、このワクチンを否定する発言の時期が微妙でした。

 ビオンテックとファイザーがCOVID-19ワクチンの開発を推進し、中間分析が肯定的な結果だったので、2020年11月10日に、FDA(アメリカ食品医薬品局)にEUA(緊急使用許可)を申請しました。

 緊急使用許可を得たビオンテックとファイザーは、COVID-19予防のためのワクチン接種を展開しました。両社が共同開発したワクチンは「COMIRANATY」と名付けられ、2020年12月に認可されました。以来、爆発的に売り上げを伸ばし、2021年だけで367億8100万ドルに達しました(※ https://bio.nikkeibp.co.jp/atcl/news/p1/20/12/18/07720/)。

 両社の株価は急上昇し、2021年8月には、株価の急上昇によって、ビオンテックの時価総額は、一時的に1000億米ドルを超えたこともあります(※ Wikipedia)。

 株価の推移を見ると、確かに、2021年1月から2022年1月まで急上昇し、その後、なだらかに下降しています。
(※ https://www.nikkei.com/nkd/company/us/BNTX/chart/?type=5year

 こうしてみてくると、ビル・ゲイツは長年、ワクチンの必要性を説き、人々を煽るだけ煽って、ワクチンの消費がピークに達し、これ以上の展開はないとみるや否や、早々に株を売り払って利益を確定し、ワクチンの効果を否定したことがわかります。

 このワクチンの被害の報告が増えるにつて、ビル・ゲイツにとっては株を所有することのうまみが消えたのでしょう。

 オーストラリアでの講演での発言からは、ビル・ゲイツこそ、新型コロナウィルスパンデミックの仕掛人の一人だったのではないかという気がしてきます。

 実は、ビル・ゲイツは、新型コロナ感染者がでる直前に、パンデミックに関するイベントを開催していたのです。

■2019年開催の《イベント201》

2019年10月18日、ジョン・ホプキンス大学で《イベント201》が開催されました。主催者は、ジョン・ホプキンス大学健康安全保障センター、「ビル&メリンダ・ゲイツ財団」、世界経済フォーラムでした。

こちら →
(※ https://centerforhealthsecurity.org/our-work/tabletop-exercises/event-201-pandemic-tabletop-exercise、図をクリックすると、拡大します)

 コロナウィルスによるパンデミックを想定したイベントが、まるで予行演習を行うかのように開催されていたのです。

 興味深いことに、このイベントが開催された約一か月半後の2019年12月8日、中国の武漢で最初のコロナ発症例が確認されました。その後、感染者はたちまち全世界に広がり、パンデミックを引き起こしました。

 コロナウィルスに感染して亡くなる人もいれば、感染予防のためのワクチン接種によって、亡くなった人、あるいは、後遺症に悩む人が続出しました。ロバート・ケネディ・ジュニアがFDAに異議申し立てをしてから半年後、このワクチンの深刻な副作用が明らかにされました。

 その後、COVIT-19ワクチンの被害報告が次々と明らかにされましたが、いまだに大手メディアはこの件について報じませんし、ユーチューブでこのワクチンを話題にすると、たちまちバンされてしまいます。

 全世界が巻き込まれたこのパンデミックを一体、どう考えればいいのでしょうか。

 暗い気持ちになっていたところ、3月28日、FDAのワクチン担当トップのピーター・マークス(Dr. Peter Marks)氏が退任しました。保健福祉省(HHS)の当局者が、マークス氏に辞任か解雇かの選択を迫ったといいます。マークス氏は辞任を選び、辞表をFDAのサラ・ブレナー長官代行宛てに提出しました。4月5日付で辞任するそうです。
(※ https://www.theguardian.com/us-news/2025/mar/29/top-us-vaccine-official-resigns-over-rfk-jrs-misinformation-and-lies-dr-peter-marks

 ロバート・ケネディ・ジュニアが保健福祉省の長官に就任したからには、今後、このワクチンをめぐる一連の経緯が明らかにされていくのではないかと期待しています。(2025/3/30 香取淳子)

トランプ政権は、米国の健康を取り戻せるか? ②

■ケネディJr.が保健福祉省長官に就任

 2025年2月13日、ロバート・ケネディ・ジュニアがついに、アメリカ合衆国第26代保健福祉省長官に就任しました(厚生省とも訳される)。

 これまでの長官リストを見ると、26人の長官のうち無所属はわずか二人、彼とフォード政権下で長官を務めたF.D.マシューズ(1935‐)だけでした。それ以外は、民主党が9人、共和党が15人でした(※ https://en.wikipedia.org/wiki/Robert_F._Kennedy_Jr.)。

 ロバート・ケネディ・ジュニアの任命が破格の人事だったことがわかります。

 実際、彼はトランプ大統領の閣僚候補者の中で、最も物議を醸した人物の一人でした。公聴会の映像をユーチューブで見ていましたが、果たして承認されるのかと疑ってしまうほど、厳しく問い詰められていました。適切な人事なのかどうか、試されていたのです。

 彼が担うことになる保健福祉省は巨大な組織でした。

 保健福祉省長官に就任すれば、ケネディ氏は今後、約8万人の職員と1兆ドルの予算を抱える保健機関を監督することになります。これらの組織には、疾病予防管理センター (CDC)、食品医薬品局 (FDA)、国立衛生研究所 (NIH)、メディケア・メディケイドサービスセンター (CMS)などが含まれており、アメリカの厚生行政を一手に引き受けることになるのです。

 保健福祉省は、長官官房と11部局から構成されています。さらに、全米が10地区に分けられ、それぞれを地域事務所が所轄する大きな組織です。長官となるケネディ氏は、食品の安全をはじめ、医薬品、公衆衛生、ワクチン接種を含む医療業界の管理と指導を担当する大規模組織を率いることになります。

 巨大な組織だけに、彼は、アメリカ人の健康に関するあらゆる問題を担当するだけでなく、世界中の健康行政にも大きな影響を与えるにちがいありません。ケネディ氏が保健福祉省長官に就任することは、その職務上、アメリカだけでなく、世界にとっても画期的なものになる可能性があります。

 健康福祉省のトップ画面には、トランプ大統領と一緒に撮影されたケネディ氏の写真が掲載されています。

 こちら →
(※ https://www.hhs.gov/、図をクリックすると、拡大します)

 写真には、次のようなメッセージが寄せられていました(※ 2025年2月26日閲覧)。

「ケネディ長官、ようこそ
ロバート・F・ケネディ・ジュニア氏を米国保健福祉省第26代長官として歓迎します。
私たちは、トランプ大統領の大統領令「大統領のアメリカを再び健康にする委員会を設立する」を遂行し、小児慢性疾患に焦点を当てて、アメリカの深刻化する健康危機の根本原因を調査し、対処できることを嬉しく思います。
私たちは力を合わせて、アメリカを再び健康にします」
(※ https://www.hhs.gov/)

 トランプ大統領が、アメリカの行政改革の重要なポイントとして健康行政に取り組もうとしていることがわかります。

 前回、いいましたように、上院議員や製薬業界関係者を含む多くの人々が、ケネディ氏の保健福祉長官指名に対して懸念を表明し、反対の声を上げていました。例えば、製薬業界やノーベル賞受賞者、さらには従妹のキャロライン・ケネディまでも強い反対意見を表明していました。もちろん、上院には、多数の反対署名や意見書が送られていました。

 それだけに、私はこの議案が上院で承認されるかどうか興味深く見ていましたが、結局、上院は賛成52票、反対48票でこの議案を承認しました。具体的にいえば、民主党議員全員が反対し、共和党からはミッチ・マコーネル上院議員が反対を表明し、反対票は48票でした。ケネディ氏は僅差で勝利したのです。

 それにしても、ケネディ氏の任命はなぜ、これほどまでに物議をかもし、強烈な反対に遭ったのでしょうか。反対の理由とその背景を知っておく必要があるかもしれません。

 まずは、反対理由とそれに対するケネディの説明をみておくことにしましょう。

■反対理由とケネディ氏の説明

 ニュースを読む限り、ケネディに対する批判は次の2点に要約できます。すなわち、1つは彼がワクチン接種に反対していること、そして、もう一つは中絶に反対していることです。

 まず、ワクチン接種に反対しているという非難に対して、ケネディ氏は、自身の子どもたちもワクチン接種を受けており、ワクチン接種に反対しているわけではないと述べています。彼が求めているのは、ただワクチンについて精緻な研究と安全性の確認テストだけだと公聴会で説明していました。

 反ワクチン派とみなされたケネディには、厳しい批判が集中しましたが、共和党議員の中には、彼が食品添加物や大手製薬会社に対する規制に意欲的に取り組んできたことを称賛する者もいました。

 食品添加物であれ、医薬品であれ、人体に悪い影響を与える可能性のあるものは拒否するという彼の姿勢は一貫していました。信念のある人物だということは公聴会でも強く印象づけられたことでしょう。

 さて、批判の第二は、中絶に関するケネディ氏の態度でした。

 公聴会でケネディ氏は、州が中絶の権利を管理すべきだという点でトランプ氏に同意すると述べていました。トランプ氏は「あらゆる中絶は悲劇だ」と信じており、一貫して中絶に反対していたのです。

 一方、ケネディ氏はそれまで中絶する権利を支持していました。ところが、公聴会で彼はトランプ氏の意見に同調したのです。

 これに対し民主党は、支持を得るために信念を放棄したとし、彼を非難しました。この件でケネディは公聴会で情け容赦なく尋問されたのです。実際、彼がどのように考えているのかわかりませんが、トランプ政権内に入るには、中絶反対の立場を取らざるをえないでしょう。

 さて、ケネディ氏の登用に反対する人々の中には、トランプ政権とトランプ大統領に対して働きかけを行う者もいました。二例ほど挙げてみましょう。

■ 政権移行チーム、トランプ大統領に対する働きかけ

 まず、反対派がトランプ政権への働きかけを行った例をご紹介しましょう。

 ケネディ氏が保健福祉省長官に就任する準備をしていた時、彼の顧問を務めていたワクチン懐疑論者2人が政権移行チームから外されました。一人は、ケネディ氏の顧問であるステファニー・スピア(Stefanie Spear)氏であり、もう一人は、弁護士アーロン・シーリ(Aaron Siri)氏でした。

 除外された理由は、彼らが、ワクチン政策とはほとんど関係のない職種の面接でも、候補者にワクチンに関する見解を尋ねていたからでした(ウォール・ストリート・ジャーナル、2025年1月15日)。

 政権移行チームに対し、相当大きな力が働いたのでしょう。側近2人が辞任に追い込まれれば、ケネディ氏としても、公聴会でワクチンに対する強硬姿勢を和らげざるを得なかったでしょう。

 他にも大きな力が働いていました。

 IT界の大物ビル・ゲイツ氏が次期大統領のトランプに働きかけをしていたのです。ビル・ゲイツ氏は昨年12月、ドナルド・トランプ次期大統領と3時間以上会談し、HIV治療薬の開発や次期政権によるポリオ撲滅の取り組みなど、世界的な健康問題について話し合ったといわれています。
(※ https://www.yahoo.com/news/bill-gates-says-trump-energized-233745979.html)

 ここでは正確な日付は明らかにされていませんが、訪問時期からすれば、ケネディ氏が保健福祉省長官になるのを阻止する目的だった可能性があります。

 別の報道をみると、トランプ大統領がビル・ゲイツの訪問を明らかにしたことが報じられています。ビル・ゲイツ氏が、12月27日の夕方にフロリダ州パームビーチにあるトランプ大統領の別荘「マール・ア・ラーゴ」を訪問したいと申し出たというのです。
(https://jp.reuters.com/world/us/WFSDIV57BVKXXALXSSDUHX2UFA-2024-12-27/)。

 この記事によると、ゲイツ氏がトランプ氏と会談を望んだのは、トランプ氏がワクチン懐疑派のジョン・F・ケネディ・ジュニア氏を保健福祉省長官に選んだだからだといいます。ビル・ゲイツは、ケネディが厚生長官になるのを阻止するためなら、何でもしたでしょうが、この時期に敢えてトランプと直接会談したのは、ケネディの指名を思いとどまらせるのが目的だったとしかいいようがありません。

 トランプ氏が次期大統領に選出されて以来、大勢の人々が彼を訪ねるようになりました。その結果、私邸のリゾート「マール・ア・ラーゴ」には、厳重な警備体制が敷かれるようになりました。下の写真は、シークレットサービスの監視塔です。トランプ=ヴァンス陣営の選挙用サイン越しに見えます。

こちら →
(※ https://www.bbc.com/japanese/articles/cx2nr54q5nvo、図をクリックすると、拡大します)

 実際、トランプはこれまで何度も暗殺されそうになりました。最近の未遂事件だけで3件もあります。大ナタを振るい、アメリカを大改造しようとしているだけに、トランプは既存勢力、反対勢力からは疎ましく思われ、命を狙われているのです。

 私邸にもこれだけ厳重な警戒体制を敷くのは当然のことでしょう。この私邸にビル・ゲイツは訪れました。是非ともケネディ氏の就任を阻止したかったからにほかなりません。

 メディアもまた、反ケネディで動きました。こちらは世論への働きかけを目的にしていました。一例をあげておきましょう。

■メディアによる世論への働きかけ

 コラムニストのリサ・ジャービス(Lisa Jarvis)は、トランプがケネディを保健福祉省長官に指名すると早々、2024年11月16日付のブルームバーグに、反ケネディの記事を書いています。

 彼女は、ケネディが危険なのは、反ワクチンの立場だからだと明言しています。そして、NBCの取材に対しケネディが答えた内容を紹介しています。

 このインタビューでケネディは、「もしワクチンが誰かのために効果があるなら、それを奪うつもりはない」答え、「人々は選択肢を持つべきであり、その選択肢は最良の情報に基づいていなければならない」と語っていました。

 それに対し彼女は、ケネディが、「人々が選択肢を持つべき」といったからこそ、彼は保健福祉省長官になってはいけないと断じています。その理由として彼女は、ワクチンは公共財であり、誰もが接種した場合にのみ機能するからというのです。つまり、選択の自由はなく、個々人に選択させるなどもってのほかだというのです。

 そして、大多数の米国民がワクチンを接種したことは、衛生当局の多大な努力のおかげだといいます。その背後には、ワクチン開発を支える基礎研究の実施と資金提供、安全性と有効性の評価、地域社会との連携による予防接種などがあるとしています。
(※ https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2024-11-15/SN047PT0AFB400)

 つまり、巨大な医療組織、あるいは行政によって、ワクチン接種が可能になったからこそ、国民は政府の指令があれば、それに従うべきだというのです。ワクチンの効果を有効にするには、個々人に選択権を認めてはならず、誰もがワクチンを接種しなければならないという認識なのです。

 だからこそ、反ワクチンを主張するケネディが保健福祉省(HHS)の長官になることを阻止しようとしているのです。彼が保健高等研究計画局(ARPA-H)、米国立衛生研究所(NIH)、疾病予防管理センター(CDC)、米国食品医薬品局(FDA)などの主要組織を管轄することになれば、公衆衛生に大きな打撃を与えることになるからでした。

 興味深いことに、ブルームバーグはこの記事の最後に、「このコラムの内容は必ずしも編集部やブルームバーグ・エル・ピー、オーナーらの意見を反映するものではありません」という注釈をつけていました。

 ブルームバーグの記事ばかりではありません。ケネディの保健福祉省長官就任に対しては、さまざまなメディアが否定的な記事を載せていました。

 それでも、ケネディ氏は上院で承認され、保健福祉省長官に就任したのです。僅差だったとはいえ、上院で承認されたのは、民意が反映されたからだとしかいいようがありません。多くの人々が、現実を変えたいと思い、異端ともいえるケネディ・ジュニア氏の就任を望んだのです。
 
 その動向は世論調査にも反映されていました。

■ 世論調査で高評価

 CBSニュースは2024年11月19日から22日にかけて、YouGovと共同で、米国の成人2,232人を対象に調査を実施しました。その結果、アメリカ人の大半はトランプ次期大統領への政権移行を支持しており、多くの人が彼の指名した人物たちを承認していることが判明しました。

 この調査でケネディ氏は、最も好意的な評価を受けていました。回答者の47%が保健福祉長官としての彼の指名を「良い選択」と評価しており、 34%が「あまり良くない」、19%が「わからない」という回答でした。
(※https://forbesjapan.com/articles/detail/75383)

 この調査結果から判断すると、アメリカ国民はトランプ政権の誕生を支持し、ケネディ・ジュニア氏が保健福祉長官に就任することを期待しているといえます。政治家や製薬企業、ビル・ゲイツやメディアなどから反対されながらも、多くの人々はケネディを支持しているといえます。

 おそらく、民意はケネディ氏に現在の医療行政を正常化してほしいと願っていたのです。彼もまたこの民意に応え、保健福祉省長官に就任するとすぐに、行政を刷新する行動を開始しました。

■ケネディが保険福祉省長官に就任した初日に下した決断

 2025年2月13日、ケネディ氏は保健福祉省長官に就任すると、すぐさま、保健福祉省(HHS)の職員5,200人を解雇する措置を講じました。全従業員に対し、間もなく解雇すると警告したうえで、彼はまず、保健高等研究計画局(ARPA-H)の局長と多くのスタッフを解雇しました。

 この保健高等研究計画局は、リスクは高いが見返りは大きい研究に資金提供するため、3年前に15億ドルで設立されたものです。解雇措置が取られたのは、拠出される資金の割に成果があがっていなかったからでしょう。

 それにしても素早い措置でした。この措置はケネディ氏が保健福祉省長官に就任したその日に実施されました。というのも、ケネディ氏はすでに保健福祉省長官としての初日に、連邦政府の保健関連職を数百人削減すると約束していたからです。

 解雇措置はその後も次々と続きました。

 たとえば、国立衛生研究所(NIH)は14日朝、今後の人員削減について所長らに通知する緊急会議を開きました。まずは約1,500人の従業員を解雇する予定でスタートしました。疾病対策センター(CDC)の解雇者数は1,269人と推定されています。
(※ https://www.science.org/content/article/wrecking-ball-rfk-jr-moves-fire-thousands-health-agency-employees)

 このニュースを読んでいて、ふと、日本版CDCがどうなるのか気になってきました。実は日本版CDCがすでに設立される予定になっていたのです。

 2024年4月19日、日本政府は「日本版CDC」を2025年4月1日に設立することを閣議決定しました。日本語の名称は国立健康危機管理研究所です。

こちら → https://www.ncgm.go.jp/jihs/index.html

 新機関は、病原体の分析などを担当する国立感染症研究所と、感染症患者を受け入れる病院を運営する国立国際医療研究センター(NCGM)を統合して発足します。感染症の研究分析から臨床対応までを担当し、ワクチンや治療薬の開発も支援します(日経新聞、2024年4月19日)。

 2025年1月14日には、その人事が発表されました。

こちら → https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_48913.html

 一方、アメリカではケネディ長官が組織を刷新するため、次々と仕事を進めています。

 たとえば、2025年2月20日付の記事によると、ケネディ長官はCDCに対し、ワクチン接種の意思決定に際し、「インフォームド・コンセント」の考え方を促進する広告が必要だと伝えました。
(※ https://www.statnews.com/2025/02/20/cdc-vaccine-promotions-rfk-jr-informed-consent/)

 インフォームド・コンセントとは、人々に対し、医療や処方される薬のメリットだけでなく、リスクもすべて知らされるべきであるという原則です。医療提供の要なのですが、このような通達が出されるということは、CDCではこの原則が守られていなかったのでしょう。

 また、疾病管理予防センターは、インフルエンザの予防接種を勧める「ワイルド・トゥ・マイルド」広告キャンペーンをはじめ、さまざまなプロモーションを棚上げするよう命じられたそうです(※ 前掲URL)。

 アメリカでは、インフォームド・コンセントの原則も守られないまま、ワクチンをはじめ医薬品のキャンペーンばかりが行われていたことがわかります。

このニュースを見て、ケネディ氏が保健福祉省の長官に就任し、アメリカの医療行政が大きく変化する兆しを感じました。アメリカの改革がやがて、日本の医療行政、製薬業界、食品業界にも波及するでしょう。

 第二次世界大戦後、日本は長い間アメリカの医療方法に依存してきました。つまり、過剰な検査と投薬中心の医療方法です。

 現在、慢性疾患の増加が報道されています。高齢になればなるほど、薬漬けになる人々が増えていることも報じられています。このような現状を見聞きするにつれ、検査と投薬中心のアメリカの医療方法こそ、人々の健康を大きく損ねているのではないかと思うようになりました。

 ケネディ保健福祉長官のリーダーシップのもと、まずは米国で医療行政の改革が行われれば、やがて日本にも波及し、薬漬けの医療体制に終止符を打つことができるのではないかという気がしました。

 ケネディ氏を長官を指名した段階ですでに、トランプ大統領は大胆で果敢なアメリカの医療改革を構想していたのでしょう。医療にも蔓延した商業主義を、トランプ政権が打開してくれることを期待しています。(2025/2/26 香取淳子)

トランプ政権は、米国の健康を取り戻せるか? ①

■ケネディを厚生長官に指名

 2025年1月20日、再び、トランプ大統領が誕生しました。アメリカを偉大な国にするための人事が物議をかもしています。昨年11月14日以来、医療、製薬業界から強い反発を受けているのが、ロバート・ケネディ・ジュニアの厚生長官指名でした。 

こちら →
(※ https://www.bbc.com/japanese/articles/c1dpknq45xqoより。図をクリックすると、拡大します)

 2024年11月14日、アメリカ大統領に決まったトランプは、さっそく、弁護士のロバート・ケネディ・ジュニアを厚生長官に指名すると発表しました。厚生省は、疾病対策センター(CDC)、食品医薬局(FDA)、国立衛生研究所(NIH)などを管轄する重要な政府機関です。米国人の健康や食全般を管理する組織の長官として、トランプはケネディを指名したのです。

 発表するやいなや、トランプは、自身のソーシャルメディア「トゥルース・ソーシャル(”Truth Social”)」で、「アメリカ人は長い間、公衆衛生の欺瞞、誤報、偽情報を拡散してきた食品産業複合体と製薬会社に押しつぶされてきた」とぶち上げました。

 そして、ケネディが長官に就任すれば、「厚生省は、アメリカで圧倒的な健康危機の一因となっている有害な化学物質、汚染物質、農薬、医薬品、食品添加物からすべての人々を確実に守る上で、大きな役割を果たすだろう」と述べました。
(※ 前掲。URL)

 いきなり食品業界、製薬業界を攻撃した上で、改善できるのはケネディだとアピールしたのです。いかにもトランプらしい派手なパフォーマンスでした。もちろん、トランプは、ロバート・ケネディ・ジュニアが公衆衛生行政を取り仕切ることによって、「米国は再び健康になる!」と自身のキーフレーズをもじって、アピールすることも忘れません。

 ロバート・ケネディ・ジュニアは、実は、民主党員でした。ところが、大統領選には無所属で立候補し、環境保護や薬物問題への取り組みを訴えてきました。それが高く評価され、それなりに支持を集めていました。

 ところが、大統領選に勝利するには程遠く、8月には選挙戦から撤退することを表明しました。以後、トランプを全面的に支持する側に回ってきました。

 トランプは選挙活動を共にするうち、ロバート・ケネディ・ジュニアの考え方、価値観、世界観などを把握したのでしょう。自分と志を一つにして、アメリカの健康行政を任せられると判断し、当選すると早々に、彼を厚生長官に指名しました。

 もちろん、トランプ大統領から指名されたといっても、上院の承認がなければ、就任することはできません。なんといっても、厚生長官は重要なポストです。政権人事にはそれだけのチェック機能が働くよう制度化されているのです。

 それでは、ロバート・ケネディ・ジュニアがどういう人物なのか、彼の来歴、考え方、世界観などについて簡単に振り返っておきましょう。

■ロバート・ケネディ・ジュニアとは?

 まず、ロバート・ケネディ・ジュニアは、あの有名なケネディ一族のメンバーだということを言っておく必要があるでしょう。彼が9歳の時に、叔父であるジョン・F・ケネディ大統領が、ダラスでパレード中に暗殺されました。1863年のことでした。

こちら →
(※ Wikipedia。図をクリックすると、拡大します)

 また、彼が14歳だった1968年、父親であるロバート・ケネディ元司法長官が、ロサンゼルスで大統領選のキャンペーン中に暗殺されました。

こちら →
(※ Wikipedia。図をクリックすると、拡大します)

 現職の大統領、現職の上院議員官が、公衆の面前で暗殺されたのです。両事件ともとりあえず、犯人は逮捕されましたが、真相はわからないまま、数十年が過ぎました。多感な時期に叔父と父親を銃撃されたロバート・ケネディ・ジュニアは、政治の世界がいかに厳しく、苛酷で、魑魅魍魎なものなのか、よく知っているはずでした。

 多くの人々の面前で暗殺が行われ、いまだに誰もが納得できる事件の解釈ができないでいます。何十年というもの、大勢の人々が調べあげ、推測しようとしても、なかなか真相にはたどり着けませんでした。というのも、長い間、事件の記録が伏せられてきたからでした。

 トランプ大統領は就任してまもない1月23日、ジョン・F・ケネディ元大統領の暗殺事件に関する記録の全面公開を担当部署に命じました。未公開となっている記録を機密解除する大統領令に署名したのです。

 米国立公文書記録管理局によると、元大統領暗殺の記録は約500万ページにも及ぶそうです。2022年12月時点で97%以上が公開されましたが、安全保障上の理由などで未公開のものもあるといいます。

 逮捕後に射殺された犯人リー・ハーベイ・オズワルドの単独犯とアメリカ政府は断定していますが、あまりにも不自然です。当時の映像を照合しても、辻褄が合わないのです。中央情報局(CIA)や旧ソ連、キューバなどの関与しているのではないかという説は今なお消え去っていません。

 また、1968年に暗殺された元大統領の実弟ロバート・ケネディ元司法長官とマーティン・ルーサー・キング牧師の記録も機密解除されました。

 トランプ大統領のおかげで、これら謎の多い暗殺事件についての機密がとりあえず解除されたのです。この時、ホワイトハウスに集まった記者団に向かって、「大きな一歩だ。多くの人が長い間待っていた」とトランプ大統領は語ったといいます。

 トランプ大統領の就任後の一連の行動を見ると、これまでアメリカ社会が抱えてきた闇を一つずつ暴いていこうとしているかのように思えます。

 そして、残念なことに、闇は今なお、アメリカ社会を覆い、混乱させているように見えます。

 今期のトランプ大統領は、アメリカ社会に巣くってきた闇を次々と暴き、透明性のある社会に再構築していこうとしているように思えます。ロバート・ケネディ・ジュニアを厚生長官に指名したのも、おそらく、彼なりの課題解決の一環なのでしょう。

 それでは、ロバート・ケネディ・ジュニアの価値観、世界観はどのようなものなのでしょうか。

■ロバート・ケネディ・ジュニアの問題意識

 民主党員のロバート・ケネディ・ジュニアは、無所属で2024年の大統領選に出馬しました。ワクチンや環境問題など、見るに見かねない政治状況が進行し、悪化していました。アメリカ社会はすでに分断され、解決の方法もないような状態になっていました。

 ケネディは著書を出し、人々に警告を発してきましたが、それには限界があります。影響力も少なく、現状を変えることはできませんでした。そこで、いっそ大統領になって、制度を変えるべきだと考えたのでしょう。

 ところが、こちらはさらに闘う相手が巨大すぎました。当選の見込みがないことが明らかになった8月に、大統領選から撤退し、トランプ氏が大統領の支持に回りました。

 ケネディ氏が関心を抱いていたのは、ワクチン行政や食品行政でした。コロナワクチンについては、「すべてのワクチンは安全ではなく、効果もない」と発言しており、著書では、「ファウチ医療顧問や、マイクロソフト創業者のビル・ゲイツはパンデミックを利用し、民主主義へのクーデタを起こした」というような主張もしています。

 ロバート・ケネディ・ジュニアがなぜ、大統領選に出馬したのか、その理由を推し量ることのできる著書があります。

 “The Real Anthony Fauci: Bill Gates, Big Pharma, and the Global War on Democracy and Public Health”という本で、2023年2月14日に“Skyhorse”から出版されました。

こちら →
(※ Amazon English version。図をクリックすると、拡大します)

■“The Real Anthony Fauci: Bill Gates, Big Pharma, and the Global War on Democracy and Public Health”の概要

 アマゾンのページを見ると、53人からのコメントがつき、4.8の高い評価がついています。まず、ここで紹介されているこの本の概要を見てみることにしましょう。以下の文章はおそらく出版社の担当者が書いたものなのでしょう。

 『The Real Anthony Fauci』では、ファウチが初期のエイズ危機の際、製薬会社と提携してエイズの安全で効果的な特許切れの治療法を妨害し、「アメリカの医師」としてそのキャリアをスタートさせた経歴を明らかにしています。

 また、ファウチは不正な研究を画策し、その後、エイズに効果がないことを知っていたにもかかわらず、米国食品医薬品局(FDA)の規制当局に致命的な化学療法を承認するよう圧力をかけました。

 このようにファウチは、連邦法を繰り返し違反し、製薬会社のパートナーが貧困層の黒人の子供たちを有毒なエイズやがんの化学療法の治験の対象とすることを許可しました。

 さらに2000年初頭、ファウチはシアトルにあるゲイツ氏の邸宅の書斎でビル・ゲイツ氏と握手し、無限の成長可能性のあるワクチン事業を掌握することを目指し、パートナーシップを固めました。

 こうして世界的な資金力と、国家元首や主要メディア、ソーシャルメディア機関との間に培われた関係を通じて、製薬会社、ファウチ、ゲイツの同盟は結成され、世界の保健政策を支配するようになりました。

 つまり、『The Real Anthony Fauci』では、ファウチ、ゲイツ、その関係者たちが、メディア、科学雑誌、主要な政府機関および準政府機関、世界諜報機関や影響力のある科学者や医師に対する支配力を利用して、COVID-19の毒性と病因に関する恐怖のプロパガンダを大衆に流し、議論を封じ込め、反対意見を容赦なく検閲する様子が詳細に解説されているのです。

 そのようなことが可能になったのは、ファウチが、国立アレルギー感染症研究所 (NIAID) の所長として、納税者から提供される年間 61 億ドルの資金を科学研究に配分し、世界中の科学的健康研究の主題、内容、結果を決定できる権限を与えられていたからでした。

 ファウチは、自由に使える莫大な資金力を利用して、病院、大学、ジャーナル、そして何千人もの影響力のある医師や科学者に並外れた影響力を行使することができました。彼らのキャリアや所属機関を台無しにしたり、昇進させたり、報奨を与えたりする力を使ったのです。
(以上、アマゾン英語版より)

 ファウチ(Anthony Stephen Fauci, 1940年12月24日 – )に焦点を当て、アメリカの医学界、政府、メディア、製薬業界などが一体化して、ワクチン行政を進めてきたことを明らかにしています。それでは、この本に対するレビューをいくつかご紹介しましょう。

■レビュー

 「ヨーゼフ・ゲッベルス博士は『一度ついた嘘は嘘のままだが、千回ついた嘘は真実になる』と書いています。人類にとって悲劇的なことに、ファウチ博士とその手下たちから発せられる嘘は数え切れないほどあります。RFKジュニアは何十年にもわたる嘘を暴露しています。」
—Luc Montagnier, Nobel laureate

 「ボビー・ケネディは私が今まで出会った中で最も勇敢で、妥協を許さない誠実な人物の一人です。いつか彼はその功績を認められるでしょう。それまでの間、この本を読んでください。」、「あらゆる嘘にもかかわらず、あるいはその反動として、ボビーは正真正銘の民衆の英雄になりつつあります。私はいつもその言葉を耳にします。」
—Tucker Carlson

 「ロバート・F・ケネディ・ジュニアは、法廷弁護士として、世界有数の大企業を相手に、人々や環境に害を与えた責任を追及してきました。これらの企業は不正行為を否定しましたが、裁判官や陪審員は何度もケネディの立場が正しいと納得しました。ケネディの情報は常に考慮されるべきであり、賛成か反対かにかかわらず、私たちは皆、彼の話を聞くことで学びます。」
—Tony Robbins, New York Times bestselling author

 「ボビー・ケネディと私は、新型コロナウイルスとワクチンをめぐる現在の議論の多くの側面で意見が一致しないことで有名です。ファウチ博士についても意見が一致しません。しかし、ボビーの意見を読んだり聞いたりすると、いつも学ぶことがあります。だから、この本を読んで、その結論に異議を唱えてください。」
—Alan Dershowitz, Felix Frankfurter Professor of Law, Emeritus, at Harvard Law School; author of The Case for Vaccine Mandates

(以上、アマゾン英語版より。投稿者の名前は太字で示しています)

 この本については評価も高く、好意的な意見が多いですが、実際にケネディが厚生長官に指名された時、多くの人々が反対しました。利害関係がある人々は当然、反対表明をし、ケネディ就任に決定権を持つ上院議員に働きかけを行っています。

 上院の承認を得なければ承認されないので、上院議員に対し、関係する各界から次々と、ケネディの就任に対する反対意見や署名、手紙などが送られました。

■反対表明
 
 関係業界からさまざまな反対表明が代表的なものをいくつか、ご紹介しましょう。

●ケネディ就任に警戒する製薬業界
 
 ケネディはかねてから、ワクチンに対して懐疑的な立場をとっていました。一応、「米国民からワクチンを取り上げるつもりはない」と発言していますが、実は、「ワクチンには大きな欠陥がある」とし、「科学的な研究を確実にし、人々が情報を基に選択できるようにする」ことが必要だと述べています(※ Bloomberg, 2024/11/15)。

 さらに、製薬業界の改革を政治目標として掲げており、業界への規制強化や料金制度の見直しを主張していました。

 それだけに、トランプ大統領がケネディを厚生長官に指名したことが発表されると、ワクチンメーカーの株が軒並み下がりました。モデルナは5.6%安、ファイザーは2.6%安、ビオンティックとノババックスは7%安といった具合です。

 一方、メディア側は、「医療や公衆衛生の分野の専門教育を受けたことがなく、環境問題を専門にする弁護士であるケネディは、保健福祉省という巨大官庁のトップとしては異例の人選だ」としています(※ Wired, 2024/12/9)。

 確かに、厚生省の傘下には、食品医薬品局(FDA)、疾病予防管理センター(CDC)、国立衛生研究所(NIH)、メディケア・メディケイド・サービスセンター(CMS)などの大きな組織があります。高度な専門家集団を抱えているのです。

 だからこそ、関連業界でのキャリアのないケネディが、厚生長官を務めるには不適格だというのですが、ケネディは、これまで過剰な加工食品の取り締まりや予防医療の推進など、党派を超えて支持される提言をしてきました。狭い専門知識に毒されていないからこそ、医療行政、食品行政を多面的に捉えることができる利点も見過ごせないでしょう。

 トランプ大統領がケネディのメリットとして捉えた特性を、彼らはデメリットとして制限をかけているのです。

●反対表明するノーベル賞受賞者たち

 興味深いのは、77人のノーベル賞受賞者らが、米上院宛てに12月9日付けの書簡を送りつけたことでした。彼らは、ケネディが厚生長官に就任すれば、アメリカの公衆衛生を危険にさらし、「健康科学における米国の世界的リーダーシップを損なう」ことになると警告し、上院議員らにケネディの指名を拒否するよう求めました。

 この書簡に署名した著名なノーベル賞受賞者の中には、2024年の経済学賞受賞者であるサイモン・ジョンソンとダロン・アセモグル、2024年の医学賞受賞者であるビクター・アンブロスとゲイリー・ラブカン、2023年に新型コロナワクチンの1つを開発した功績で医学賞を受賞した免疫学者のドリュー・ワイスマンらが含まれていました。

 ノーベル賞受賞者という権威をもって脅しをかけているのです。

 トランプの政権移行チームの広報担当者はこれに対し、「米国民は、エリートたちからあれこれ指図されることにうんざりしている。この国の医療システムは壊れている。ケネディは、トランプ大統領のアジェンダを実行し、医療の信頼性を取り戻し、アメリカを再び健康にする」とコメントしています。

 また、元ニューヨーク市長で、公衆衛生プログラムへの大口寄付者であるマイケル・ブルームバーグは、トランプ大統領にケネディの起用を再考するよう呼びかけました。彼は、ワクチンの懐疑論を流布するケネディを任命することが、「大規模な医療過誤」に等しい指摘し、「上院には、ケネディという極めて危険な指名を阻止する義務がある」と述べています。
(※ https://forbesjapan.com/articles/detail/75770)

 こうしてみてくると、反対意見の多くは医療関係者、研究者、科学者などでした。後で述べますが、一般の人々はどちらかといえば、ケネディの指名をいい選択だと答えていたのです。これが何を意味するかを理解するには、先ほどご紹介したロバート・ケネディ・ジュニアの著作を深く読み込む必要があるのでしょう。

 興味深いのは、親族からの強烈な反対表明でした。

●キャロライン・ケネディ

 トランプ大統領から厚生長官に指名されたといっても、ロバート・ケネディ・ジュニアの就任には上院の承認が必要でした。そのための公聴会が、投票に先立ち1月29日に開かれることになっていました。

 その前日の28日、従妹で元駐日大使のキャロライン・ケネディは、ロバート・ケネディ・ジュニアの厚生長官就任に反対を求める書簡を上院議員に送りました。この書簡の中で、彼女は、ロバート・ケネディ・ジュニアが自身の利益のためにワクチンを接種しないよう呼びかけたのだと述べ、彼には厚生省を率いるだけの医療、財務、行政の経験がないと強く訴えました。

 それだけでは物足りなかったのか、キャロラインはXに動画を投稿し、上院議員に宛てた手紙を読み上げながら、ロバートは、「今日に至るまでの人生で偽り、うそをつき、ごまかし続けている」などと批判しました。

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(※ 共同通信、2025年1月29日。図をクリックすると、拡大します)

 このような批判に対し、ロバート・ケネディ・ジュニアは、上院財政委員会の書面証言で、自分は「反ワクチン」でも「反産業」でもなく、「ワクチンは医療で極めて重要な役割を担っている」と確信しているとし、自身の子どもも予防接種を受けていると主張しました。
(※ https://jp.reuters.com/world/us/PLN4MWELNVNZFCHSVRUU4E4ZVQ-2025-01-29/)

■世論調査では高評価

 11月19日から22日にかけて、CBSニュースとYouGovが共同で、米国の成人2232人を対象に調査を実施しました。その結果、米国人の過半数はトランプ次期大統領の政権移行を支持しており、彼が指名した重要ポストの人選についても多くが賛成していることが明らかになりました。

 最も肯定的な評価を受けたのは、ロバート・ケネディ・ジュニアで、回答者の47%が彼の厚生長官への指名を「良い選択」だと回答し、「良くない」と答えたのは34%、「よく知らない」は19%でした。
(※ https://forbesjapan.com/articles/detail/75383)

 もっとも、ロバート・ケネディ・ジュニアがトランプの指名通りに就任できるかどうかは、上院の議決次第です。上院では共和党が53名、民主党が47名ですが、共和党の中で明らかにケネディに反対票を投じると思われる議員が二人いるといわれています。

 共和党の方が議席数が多いとはいえ、議員たちはこれから行われる公聴会でのやり取りを参考に最終決定をします。ですから、ケネディが就任できるのかどうかはまだわからないのです。

 それでは、実際の公聴会はどうだったのでしょうか。

■上院財務委員会での公聴会

 1月29日、ケネディは上院財務委員会に呼ばれて質問を受けました。共和党の上院議員ロン・ジョンソンはケネディに対し、まず、「あなたが民主党を敵に回し、ケネディ家を敵に回して長官職を受けいれてくれたことに感謝したい」と述べました。

 確かに、ロバート・ケネディ・ジュニアはこれまで、民主党に席を置いていました。大統領選には無所属で出馬し、その後、共和党のトランプを支持する側に転向していました。当然のことながら、民主党からはさまざまな嫌がらせやデマを流され続けたことでしょう。

 また、代々、民主党の家系であったケネディ一族からは疎遠にされました。これも当然のことですが、従妹のキャロライン・ケネディからは長官承認に反対してほしいという手紙が上院に提出されました。

 このように、ロバート・ケネディ・ジュニアは、古巣である民主党やケネディ家を敵に回すことになりましたが、それでも、彼はこの困難な仕事を引き受けたのです。

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(※ You tube映像より。図をクリックすると、拡大します)

 その辺りの事情がよくわかっているロン・ジョン上院議員は、ケネディがどれほど大きな代償を支払ってこの仕事を引き受けたか、そのことに感謝したいと述べているのです。

 彼がなぜ感謝するかと言えば、アメリカは今大きく分断されてしまっており、国としての体を成さなくなってきているからでした。とくにひどいのは、医療行政、食品行政に対する人々の不満でした。

 結果として政府への不信が募り、さらに分断が進んでいるのが現在の状態なのです。だからこそ、ケネディに厚生長官としてこれらの行政を担当してもらい、アメリカを一つにするため、尽力してもらいたいと述べているのです。

 ケネディはそれに答え、「子どもには民主党も共和党もない。みんな、私たちの子どもです。子どもたちの66%が何らかの病で苦しんでいます」と現状を訴えています。

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(※ You tube映像より。図をクリックすると、拡大します)

 素晴らしいシーンでした。現状をこのように認識しているケネディだからこそ、きっと子どもや国民に向き合った医療行政、食品行政を行ってくれるでしょう。厚生長官に就任すれば、目標に向かって果敢に政策を遂行し、アメリカ人の健康を取り戻してくれるだろうという気にさせられます。

 ひょっとしたら、ケネディが厚生長官に就任したら、アメリカだけではなく、アメリカの医薬行政の影響下にある世界の人々の健康をも取り戻せるのではないかという気になってしまいそうでした。

 ロン・ジョンソン議員は席上で、「全米6万3000人の医師たちのケネディ支持を表明した署名入り手紙を受け取った」といい、その手紙をカメラに向けて見せました。

こちら →
(※ You tube映像より。図をクリックすると、拡大します)

 現場の医師の多くがケネディの就任を支持しているというのです。このことからは、どれほど多くの医師たちが、現在の医療行政、食品行政に不信感を抱いているかがわかります。

 もちろん、民主党上院議員からの質問も中継されていました。

 こちらは流されている映像をみるかぎり、ケネディに対し、最初から偏見と誤解に基づく質問をしているだけでした。「あなたは、陰謀論者ではないか」とか「医療業界からお金を受け取るか」など、公聴会での質問とは思えないほどレベルの低いものでした。

 この動画が公開されると、たちまち401万回のビューがつき、コメント欄には民主党はひどいといった意見が相次いだようです。確かに動画を見ていると、そういいたくなる理由がわかるような気がします。

 最後に、ロン・ジョンソン議員から、「今のアメリカの保険・医療行政は信頼を失っている。信頼を回復するには透明性が必要だが、あなたは約束できますか?」と問われたケネディは、「約束する」と答えていました。これを見ていたアメリカ人はどう思ったでしょうか。

 念を押すように尋ねるロン・ジョンソンの態度には、これまで政府の医療行政を批判してきたケネディに託すしかないという気持ちが透けて見えます。というのも、腐敗した医療行政を立ち直らせるには、なによりも透明性が不可欠だからです。今期の厚生長官は、まさにケネディのように忖度のない人物でしか、担当できない仕事なのです。

●厚生教育労働年金委員会での公聴会

 指名される前、ケネディは、新型コロナワクチンを、「人類に対する犯罪」と非難していました。ところが、上院厚生教育労働年金委員会では、「私はどちらにも反対ではない。安全に賛成なだけだ」と表明し、「私の子どもたちはみな、ワクチン接種を受けた。ワクチンは医療において極めて重要な役割を果たすと考える」と答えていました。

 また、ケネディは新型コロナの治療として、専門家が否定しているイベルメクチンやヒドロキシクロロキンを推奨していたといいます。さらに、銃乱射事件が増加したのは、プロザックなどの抗うつ薬の使用が原因だとも主張していました。

 だから、医師と医療従事者で構成する医療保護委員会は、ケネディは信用できないとし、同氏の就任に反対する医師の署名を1万5000人分集めたのです。
(※ https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2025-01-28/SQTDGHT1UM0W00)

 こうしてみてくると、ケネディの言動に危なっかしさが感じられないわけでもありません。ただ、トランプが本気で医療行政、食品行政を大幅に改革したいと考えているなら、ケネディほど適した人物はいないともいえます。

 これまでケネディが取り組んできたことを振り返れば、政府の腐敗、医療業界、製薬業界の堕落に対峙するには恰好の人物です。忖度することなく批判し、攻撃し、しかも対案を提示することができるのですから・・・。

 もっとも、公聴会でのケネディの対応を見ていると、これまでの過激な言動を控えめにしている様子がうかがえます。指名後、何があったのかはわかりませんが、公聴会での応答を見る限り、少なくとも反対勢力から相当な圧力がかけられていたことは間違いないでしょう。

 とにかく、厚生長官として正式に承認されるには、上院本会議での採決が必要です。上院は共和党が53人で、民主党は47人で6議席上回っています。とはいえ、共和党で明らかにケネディに反対する議員がすでに2人いるといわれています。さらに批判的な議員がいるかもしれませんので、厚生長官に就任できるかどうか、まだわかりません。

 それでも、もし、上院委員会でケネディの就任が可決されれば、前代未聞の任命になるでしょう。何年にもわたって健康行政を批判してきた人物が政権内部に入り、管轄する省のトップになるのです。

 改めて、ロバート・ケネディ・ジュニアを指名したトランプ大統領に慧眼に敬服せざるをえません。腐敗しきった行政を立ち直らせるには、能力のある対極にいる人物を長に据えるしか手段はないのです。

 ケネディが厚生長官になれば、政権内部に医療行政や食品行政への反対意見が直接、届きます。そして、そこでのやり取りを公開するのです。そうすれば、「体制の腐敗 vs 透明性」という構図を取ることができ、人々に納得してもらうことができます。

 逆にいえば、ケネディを起用しなければならないほど、アメリカの医療行政、食品行政は腐敗しきっているということにもなります。

 公聴会はまだ残っています。

 果たして、どういう結果になるのか、興味津々です。この人事が世界の健康医療行政に与える影響も計り知れないでしょう。今期のトランプ政権は、閉塞感の漂う世界を大きく変えていくのではないかという気がしてなりません。(2025/1/31 香取淳子)

兵庫県知事選にみる、県民の目覚め(2)

■失職させられた斎藤元彦氏

 風邪をひいて発熱し、寝込んでいる間に、早や年末を迎えてしまいました。人々を熱狂させた知事選後、あっという間の1か月半でした。

 開票日、当選確実の速報が出たときの、斎藤事務所前の様子です。

こちら →
(※ Youtube 映像より。図をクリックすると、拡大します)

 押しかけた人々で通りが塞がれてしまっています。誰もがスマホを事務所前に向け、歴史的瞬間を収めようとしています。当選を決めた斎藤知事が出てきて、挨拶するのを待ち構えているのです。

 大勢の県民にとって、今回の選挙は特別の意味がありました。

 自分たちが選んだ知事がいつの間にか、パワハラ疑惑、おねだり疑惑で連日、テレビの餌食になっていたのです。テレビばかりではありません。週刊誌も同様の報道を繰り返し、斎藤知事はまるで稀代の極悪知事のような扱いを受けていました。

 元西播磨県民局長が告発文書をマスコミ等にばら撒いたからでした。

 この文書は誹謗中傷にあたるとし、知事はこの元県民局長を3か月の停職処分にしました。弁護士の意見を聞いたうえでの客観的な措置だったのですが、知事側と元県民局長との間に亀裂が生じ、6月13日、県議会は百条委員会を設置することにしました。
 
 7月19日の百条委員会で申し開きをすることができたのですが、7月8日にこの元県民局長が自ら命を絶ってしまいました。これを受けて、県労組は知事に辞職を要求し、マスコミによる知事バッシングはさらにひどくなっていきました。

 一連の流れを整理すると、以下のようになります。

こちら →
(※ 2024年7月19日、日経新聞。図をクリックすると、拡大します)

 その後、9月19日には全会一致で不信任決議が可決されました。86人全員が不信任決議案に賛成し、斎藤知事は「知事失格」を宣告されることになったのです。すると、斎藤知事は、県議会を解散するのではなく、自動的に身分を失う「失職」を選択し、新たに出直し選挙に打って出たのです。

 結果は、投開票日早々に当確がでるほどの勝利でした。

 選挙期間中の熱気を思い返すと、当然の結果なのかもしれません。ただ、終盤になって、各組織が稲村を支持するようメンバーに要請を図り、兵庫県市長会有志の22名が共同で記者会見を開き、反斎藤を表明するほど露骨な動きを見せるようになっていました。

 街頭での人気は高くでも、膨大な組織票に勝利することができるかどうか、危ぶまれていたのです。

■県民 vs 既得権益層

 今回の知事選で大きな役割を果たしたのが、立花孝志氏だったということは前回、ご報告しました。

 「なぜ、元西播磨県民局長は百条委員会に出席する前に命を絶ったのか」、「なぜ百条委員会は結論を出す前に全会一致で知事不信任案を可決してしまったのか」、「なぜ、自民党、立憲民主党、その他大勢の議員が知事失脚に加担したのか」。

 思い返せば、不思議なことは多々ありました。ところが、誰もそれを口に出せなかったのです。それほどテレビや週刊誌、新聞等から反斎藤の報道が垂れ流されていたのです。立花氏はそれを「テレビは洗脳の道具」だと言い放ち、公開討論の場で、集まった人々に向かって、テレビに騙されるな、事実を見ていこうと訴えました。

 それがユーチューバーたちのカメラで捉えられ、拡散されていきました。

 立花氏にはNHK党所属の国会議員から情報が入ってきますし、兵庫県議会、あるいは、関係者からさまざまな情報がもたらされていました。それを集まった群集の前で、披露するのです。その場で質問があれば、応え、誰もが、兵庫県政について考え、意見表明できる場に変換されていきました。

 今回、立花氏は当選することを目標にせず、立候補していたので、そのようなことが可能になったのです。これが、県民の目を開かせるきっかけとなったように思えます。日を次いで、討論会への参加者が増えていきました。

 まさに政治の原点のようなやり取りが各所で展開されていきました。その光景をユーチューバーたちが撮影し、放送しますから、否が応でも県民の目に留まります。テレビや新聞ではない情報源からの情報を得て、県民は考えるようになります。

 果たして、何が正しいのか?

 結局、総合的に判断し、合理的ではないことには裏があると判断せざるをえなくなったのでしょう。

 立花孝志氏もまた、公開討論の場でさまざまな事実を明らかにしていきました。結局、斎藤元彦氏は、県民のために政策を刷新し、さまざまな改革をしようとしていたのではなかったかということに気づくようになったのです。

 もちろん、それまで目にしていた情報とは違っているので、県民としては、そのための検証もしていかなければなりません。SNSから情報を得、それまで得ていた情報と照合し、最終的に整合性があるかないかで判断するようになっていったのではないかと思います。

 さまざまな情報を前にして混乱する県民に対し、立花孝志氏は、絶妙な対立軸を設定し、提示しました。

 すなわち、「県民 vs 既得権益層」という対立軸です。

■誰が県民のための政治をしてくれるのか

 今回の選挙は、税金を納めている「県民」と、その税金を何らかの形で給付してもらっている「既得権益層」との間の戦いだという枠組みをわかりやすく提示したのです。

 斎藤元彦氏を知事の座から失脚させようとしたのは、天下りを禁じられた高齢幹部たち、あるいは、その予備軍であり、県庁建て替えで莫大な資金を手にすることになる事業者、あるいはその関係者であり・・・、といった具合に、それまでの兵庫県政がいかに無駄なところに税金を投入していたかが次々に明らかにされていきました。

 県民全体が潤うように税金が使われているわけではなく、特定の層に利益が落ちるような政策を続けることによって、兵庫県の財政がきわめて悪化していたことも明らかになりました。

 選挙の前に知るべき候補者に関する情報が、今回の選挙では、SNSを経由して、県民に届くようになっていったのです。

 読売新聞社が11月17日に行った出口調査によると、前知事の斎藤元彦氏の県政を評価する人が7割を超え、そのうちの6割強が斎藤氏に投票しました。投票の際に最も参考にした情報として、「SNSや動画投稿サイト」をあげた人の9割弱が斎藤氏を支持したことがわかりました。

こちら →
(※ 読売新聞 2024年11月17日。図をクリックすると、拡大します)

 この図を見ると、71%の投票者が斎藤氏の県政を支持していることがわかります。一方、県政を評価しない投票者のうち大半が稲村氏に投票しています。稲村氏は終盤になって労組や各組織が支持を表明し、最後は市長会の22名から支持を取り付けていた候補者です。自民党、立憲民主党、その他さまざまな党派、いわば既得権益層が支持していた候補者です。

 興味深いことに、支持政党別に投票先を見ると、斎藤氏は各政党支持者から満遍なく投票されていることがわかります。

 この図からは、今回の選挙は、「個人vs 組織」、「県民 vs 既得権益層」という対立軸の下、県民が動いていたことがわかります。

■斎藤元彦氏の政策

 斎藤氏は11月17日に投開票する兵庫知事選で、斎藤元彦前知事は10月23日、選挙戦に向けて政策を発表しました。政策全体については、「これまで進めてきた改革、兵庫の躍動を止めないというのが大きなテーマ」と説明し、「未来を担う若者が輝く兵庫」「誰もが活躍できる兵庫」「安全安心に暮らせる兵庫」「県政改革等が進む兵庫」の4つの柱を建てています。(※ https://news.kobekeizai.jp/blog-entry-17979.html)

 当選後、改めて、これらの政策について説明がされました。まず、第1番目の取り組みとしては、若者に向けた政策です。

こちら →
(※ https://www.youtube.com/watch?v=h6RMR6EtLBQ&t=28sより。図をクリックすると、拡大します)

 県立大学の授業料等の無償化、県立高校の環境整備、毎年100人の高校生チャレンジ留学、不妊治療支援特化条例の制定、等々の政策を行うとしています。これらはほんの一例ですが、まずは少子化対策としても、子どもたちの未来に向けた取り組みとしても画期的なものだといわざるをません。

 県立大学の授業料等が無料になれば、優秀な学生が県内に残り、県のために働いてくれる可能性も期待できます。また、家庭に頼っていては、日本の子どもたちが海外に留学する機会も持てない可能性がありますが、高校生の段階で世界向けたチャレンジ留学を支援するということも日本の未来と考え合わせた政策といえます。

 そのための財源を確保する手段として、斎藤氏は次のような方針を明らかにしています。

こちら →
(※ https://www.youtube.com/watch?v=h6RMR6EtLBQ&t=28sより。図をクリックすると、拡大します)

 1000億円かかるとされていた県庁舎の建て替えをコンパクトなものにする、効果の検証されない海外事務所の閉鎖、約1500億円の隠れ借金への対処、等々の行財政改革を通して財源をできるだけ増やし、それを必要なところに振り分けていくとしています。
 
■なぜ、このような政策を掲げる斎藤氏が失脚させられたのか?

 まず、1000億円もかかるとされた県庁舎の建て替えです。ここには多くの事業者、県庁の職員、政治家等が関係していました。

 実は、この県庁舎の建て替えは、前政権の井戸知事の時代に計画されていたものでした。

こちら → https://project.nikkeibp.co.jp/atclppp/PPP/news/091801298/

 1000億円もかかる県庁舎は、公共建築物で最近、トラブル続きの隈研吾氏の設計によるものでした。実際、隈研吾氏のコンセプトイメージに合わせ、建物内外を緑化する方針だったようです。

こちら →
(※ 前掲。URL。図をクリックすると、拡大します)

 全国でいま、隈研吾氏のデザインで建築された多数の県庁舎、市庁舎、美術館、博物館等で次々とトラブルが発覚しています。数年で木材が腐食し、見た目が悪いばかりか、安全面でも危惧されているというものです。

 木材のために定期的に修理のために数億円かかり、地方自治体などの財政を圧迫しているのが実情でした。それを兵庫県も踏襲していたのです。

 隈研吾氏の建築物は自治体や地方の事業者にとって継続的な収益が期待できる仕様だったからにほかなりません。兵庫県も他の自治体と同様、県議会、県庁内、政界財界にこの利権に群がろうとする勢力がはびこっていたのでしょう。

 実際、斎藤氏が下野していた期間、副知事の服部洋平氏が知事職務代理者に就任していました。その間に、この県庁舎案は元に戻されていたのです。斎藤氏が選挙で勝利しなければ、兵庫県民は巨額の建築費に悩み、定期的に負担せざるをえない巨額の修理費に悩ませられ続けていたことでしょう。

 斎藤氏は知事に選ばれると早々に、県庁舎案の白紙撤回を明言しています。
(※ https://www.youtube.com/watch?v=FEAuVS0ca8g)

 斎藤氏が知事になる以前の兵庫県の財政状況はひどいものでした。

こちら →
(※ http://daishi100.cocolog-nifty.com/blog/2024/10/post-c3c51d.html。図をクリックすると、拡大します)

 一連の事象からは、斎藤元彦氏は、前政権の腐敗ぶりにメスを入れようとしたので、失脚させられたことは明らかです。

■兵庫県庁舎建設スケジュール

 なぜ、百条委員会が調査が終わるのを待つ前に全会一致で斎藤知事の不信任案を決議してしまったのか、合理的な説明もないまま、失職させてしまったことの理由もわかります。

 県庁舎のスケジュールを見ると、今年中に斎藤知事をやめさせなければ、隈研吾案の建築が不可能になってしまうからでした。

 隈研吾事務所が提示したスケジュールがあります。

こちら →
(※ https://project.nikkeibp.co.jp/atclppp/PPP/news/091801298/。図をクリックすると、拡大します)

 これを見ると、2021年から2025年度中に、「本体・整備の完了」そして、「解体」にまでこぎつけなければならないことになっていたのです。

 そのために、選挙では既得権益層が斎藤氏をさまざまに妨害し、当選した後も。妨害を続けています。それほど既得権益層にとって、県庁舎の建設はおいしい事業だったのでしょう。繰り返し、斎藤氏を誹謗中傷し、当選してからも、執拗に妨害工作を行っています。

 それだけ兵庫県の政財界が腐食していることの証ともいえるでしょう。

 立花孝志氏のような破壊力のある政治家が登場しなければ、これほどの闇が暴かれることはなかったでしょうし、県民が政治を身近なものとして真剣に考えることもなかったでしょう。

 前回もいいましたが、今回の選挙で多くの県民が、「立花さんありがとう!」といい、「斎藤さんごめんなさい!」と訴えていました。

 テレビや新聞、政財界の人々の言うことだけを聞いていれば、県民にとっての政治ではなく、一部の利権者にとってな政治しか行われないのは必至でした。

 まだまだ目が離せません。既得権益層が、斎藤氏の失脚を願って、さまざまな仕掛けを用意しているに違いありませんから・・・。いずれにしても、今回の兵庫県知事選挙は、興味深く、身近に感じられるものでした。

 なにより兵庫県民の政治に対する意識が高くなっているのではないかという気がします。
(2024/12/31 香取淳子)

兵庫県知事選にみる、市民の目覚め(1)

■前代未聞の選挙結果

 斎藤元彦前知事(47)の失職に伴う兵庫県知事選が11月17日投開票され、無所属で出馬した斎藤氏が、元尼崎市長の稲村和美氏(52)や前参院議員の清水貴之氏(50)らを破り再選を決めました。

 斎藤氏が111万3911票、稲村氏が97万6637票、清水氏が25万8388票という結果でした。失職したのが9月30日、その直後、たった一人でJR須磨駅の前で辻立ちをし、住民に折り目正しくお辞儀をしている斎藤氏を捉えた写真が、印象に残っています。文字通り、孤立無援の出発でした。

 それからわずか47日、再び、知事に選ばれたのです。前代未聞の出来事でした。

 優勢だといわれていたのが、稲村氏でした。無所蔵とはいいながら、自民党、立憲民主党、国民民主党など政党からの支持がありましたし、兵庫県職員労働組合、連合兵庫など、大きな組織もまた、稲村氏の支持に回っていました。

 さらに、終盤になると、22名の市長が稲村氏の支持を訴えました。記者会見の席上でテーブルを叩いて、斎藤氏を否定した市長もいました。29の市長のうち、ほとんどが稲村氏支持を強く表明していたのです。

 稲村氏に対する組織的な支援は盤石でした。尼崎市長であった実績が評価され、兵庫県知事として最適任だと喧伝されていたのです。
 
 もちろん、マスメディアは斎藤氏を否定する側でした。それまでの斎藤バッシングの報道をみれば、当然の流れでした。

■兵庫県知事選挙に至る経緯

 3月12日に当時西播磨県民局長だった男性が、報道機関等に告発文書を送付しました。それを発端に、連日、斎藤氏の「パワハラ」、「おねだり」が報道されるようになりました。

 この告発文書について、斎藤氏は「嘘八百」だとし、県民局長を、停職3か月の懲戒処分にしました。今となれば、当然の措置でしたが、県議会はこの件を問題視し、百条委員会を設置しました。

 ところが、証人喚問の直前に、この県民局長は自ら命を絶ちました。弁明の場を与えられたというのに、それをせず、命を絶ったため、斎藤氏への攻撃は一層激しくなりました。

 マスコミはそれまでの「パワハラ」「おねだり」に、「人殺し」まで加え、一方的に、斎藤氏を誹謗中傷し続けました。斎藤氏の説明を聞くこともなく、罵詈雑言を浴びせ続けた結果、県議会は、百条委員会が終了していないにもかかわらず、全員一致で知事への不信任決議を可決してしまいました。

 斎藤氏に与えられた選択肢は、県議会の解散か失職でした。不当な攻撃を受けていたにもかかわらず、斎藤氏は県議会議会の解散を要求せず、自ら失職する道を選びました。

 選挙戦に至る経緯をまとめると、次のようになります。

こちら →
(※ 日経新聞 2024年11月18日、図をクリックすると、拡大します)

 上の表をみればわかるように、斎藤氏は、約半年間にわたって、マスメディアからバッシングされ続けていました。おそらく、誰もが県議会が可決した不信任決議を信じ、斎藤氏がそのまま職を退くだろうと思っていたでしょう。

 ところが、斎藤氏は、出直し選挙に挑みました。おそらく、勝算もないまま、理念に基づいて行動したのでしょう。

 知事選には過去最多の7人が立候補しました。結果は先ほどお知らせしたとおりですが、投票率は55.65%で、2021年の前回(41.1%)を大幅に上回っていました。浮動票が大きく動いたのです。

■斎藤氏はなぜ、再び、知事に返り咲くことができたのか

 斎藤氏は、なぜ再選されたかを問われ、組織や政党の支援がないなか、SNSが一番大事なツールだった」と述べています(※ 2024年11月18日付、毎日新聞)。

 孤立無援でスタートした彼は、SNSでの発信と、県民に直接語りかける街頭活動が、普段、選挙に行かない人々を動かし、大きな得票に結び付いたと認識していました。

 もちろん、他の候補者たちも同様の戦術を展開していました。現代の選挙戦でSNSは欠くことのできない戦術の一つになっています。どの候補者もSNSを駆使した選挙活動を展開するのは当然でした。

 ところが、斎藤氏がもっとも大量に得票し、組織票をバックに優勢といわれた稲村氏を抜いて勝利しました。なぜ半年間もマスコミから非難され続けた斎藤氏が、これほど多くの票を獲得できたのでしょうか?

 私がもっとも興味を抱いたのが、この点でした。

 当時、マスコミも世論もともに、斎藤氏は辞職すべきだという論調でした。

■斎藤氏は本当に「パワハラ」「おねだり」をしていたのか?

 兵庫県議会が全会一致で不信任議決を可決した段階で、「おかしい」と思った人物がいました。NHK党の参議院議員、浜田聡氏です。まだ誰もが斎藤氏が悪い、知事を辞職すべきだと思っていた時期に、彼はYouTubeで、「兵庫県知事は悪なのかっ!?」というタイトルの情報を発信していました。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=7qes_4kQDvw
(CMは適宜、カットして視聴してください)

 当時、私は浜田議員のYouTubeを見て、それまで感じていた違和感が整理され、言語化されたような気がしたことを思い出します。そもそも議員が86人もいる県議会が、全会一致で不信任案を可決したということ自体が不自然でした。

 何かが隠されていると考えるのが合理的なのかもしれません。

 コメント欄にも、同様の見解が多数寄せられていました。コメントを一つ、ご紹介しておきましょう。

 「マスコミ総がかりでの針小棒大な知事攻撃に、兵庫県議会で反対する方がただの1人もいなかったとは恐ろしいです。自殺された理由も良く分かっていないのに、知事が原因であると決めつけつるし上げる恐ろしいマスコミにあえて異論を唱える浜田先生、義を見てせざるは勇無きなりとは正にこのことです。応援しております」

 浜田氏のYouTubeにはこのような見解がつづられていたのです。おそらく、この動画を見て、一部の県民が、目を覚まし始めたのでしょう。これはほんの一例ですが、連日のマスコミ報道に晒されながらも、違和感を覚え、疑念をもつ県民が少なからずいたのです。

 県民の一部は、「何か変なことが起こっている」と思い始めていました。とはいえ、それが何なのか、よくわかりません。県政に関する情報がないのです。実際は何があったのか、本当のことを知りたいという欲求が次第に、県民の間で広がっていきました。

 県政を伝えるマスコミも、県議会もあまりにも表層的な情報を繰り返し、斎藤氏をバッシングすることに終始していました。真実を知りたいという県民の思いに応える機能はありませんでした。

 そんな折、彗星のように登場してきたのが、NHK党の党首立花孝志氏でした。立花孝志は政治家であり、ユーチューバーでもあります。

■立花孝志氏、真実解明のために立候補

 立花孝志氏は、一通りの候補が出揃ってから、知事選候補者として正式に名乗りを上げました。候補者になれば、発言の機会を与えられますから、知りえた真相を話すことができます。関係者からも情報を得ることができるでしょうから、より精緻な背景分析をすることができます。

 立候補しましたが、立花氏自らが当選することを目的としていませんでした。兵庫県政に絡む闇を暴き、真実を明らかにするには、知事選に立候補するのが最適の方法でした。

 候補者になれば、政見放送に出ることができますし、県民に向けて演説することもできます。合法的に意見陳述する場を持てるのです。

 それまでマスコミ報道や県議会の報告しか目にしたことのない県民に、さまざまな事実を伝え、総合的に真実を判断してもらえる機会を提供することができるのです。県政を理解し、その実情を知った上で、候補者の政策を聞き、投票するというのが、民主主義国家の国民に与えられた権利です。

 マスコミによって覆い隠され、偏向された情報ではなく、さまざまな情報を知った上で、政治家を選ぶというのは当然の権利であり、そうすることによって、よりよい政治家を選出することができます。まずは、兵庫県政についての真実を伝えたいというのが、立花氏の立候補の理由でした。

 斎藤氏が嵌められているとわかっていたからにほかなりません。

 立花氏は、国政調査権を行使できるNHK党の国会議員の浜田氏や斎藤氏から、斎藤氏が失職せざるをえなくなった状況を把握していました。おそらく県民が知りえない情報を把握していたのでしょう。当然のことながら、兵庫県政の闇、マスコミの闇に気づいていました。

 どうすれば、この事実を県民に知らせることができるか、立花氏なりに戦略を練っていたのでしょう。兵庫県の政界、行政、経済界、マスコミが癒着し、長年の間、覆い隠してきた闇を暴くのは並大抵のことではできません。

 並大抵の政治家ができるものではありません。既得権益層と闘うには、押しつぶされるのは覚悟の上、場合によっては襲撃され、危害を加えられるかもしれないのです。闇の勢力と闘うには、知力、気力、腕力、胆力のある政治家しか対峙できません。

 立花氏は適任でした。次々と奇策を思いついては実行し、その都度、現在進行形の状態で県民に状況説明を行いました。

 立候補以来、日々、頻繁にYouTubeに動画をアップしました。その都度、県民の意識は変化していたでしょうが、それでも、マスコミ報道によって植え付けられた斎藤氏に対する固定観念を覆すのは容易なことではありませんでした。

■ポスターに見る立花孝志の見解

 10月末から11月10日まで、私は神戸に滞在していました。ちょうど兵庫県知事選挙期間中だったので、現地で掲示板を見ました。 そこには候補者のポスターが5枚貼られていました。No.3に斎藤氏、No.6が立花孝志氏のポスターです。

こちら →
(※ 11月6日撮影、図をクリックすると、拡大します)

 立花氏のポスターは少し変わっていました。通常の候補者のポスターとは大幅に異なっており、文字主体で構成されていました。一応、写真も掲載されていますが、とても小さく、候補者をアピールするといえるものではありません。部分はほとんどないといっていいのです。それでは、立花氏のポスターの部分を拡大してみることにしましょう。

こちら →
(※ 前掲。一部、図をクリックすると、拡大します)

 最も目立っているのは、「前明石市長のパワーハラスメントを忘れるな」というスローガンです。その後に13行の小さな文字の文章が続き、「本当に前知事は悪人だったのでしょうか?」という一文で終わります。

 右下の角に、立花氏の顔写真が掲載されていますが、申し訳程度の大きさです。このポスターが自分をアピールするためのポスターではないのは明らかでした。

 さて、「前明石市長のパワーハラスメントを忘れるな」というスローガンは秀逸でした。

 パワハラで失職した前明石市長が、選挙で再選された事例を引き合いに、斎藤氏を再び返り咲かせ、県政を任せようというメッセージでした。誰もが知っている前明石市長のエピソードを踏まえたところに、立花氏のセンスが感じられます。

 その下に小さな文字で書かれた文章では、内部告発制度が元県民局長によって悪用され、捏造情報が外部に向けて発信された結果、斎藤氏がバッシングされ続け、挙句の果ては失職することになったことが綴られています。

 実は、立花氏自身、20年間働いたNHKの不正経理を内部告発した経験がありました。それだけに、内部告発制度が悪用されてはならないと主張しているのです。そして、県民に向けては、テレビ情報に惑わされず、ネットやその他の媒体で情報を検証し、何が本当なのか、自分で調べてください、と呼び掛けています。

 ポスターの最後には、「前知事は本当に悪い人なのか?」と記され、詳しいことは立花孝志のYouTubeを見てください、とし、QRコードが添えられています。このポスターは、候補者立花氏から県民に向けた大きな問いかけでした。

 選挙の際には様々な情報をうのみにせず、クリティカルに判断し、自身で考え、結論を出すようにいっているのです。立花氏は、選挙を本来の姿に戻そうとしているように思えます。

 立花氏のやり方はやや荒っぽいやり方ですが、そうでもしなければ、「第4の権力」といわれたマスコミがミスリードし、社会を歪めてしまいかねない深刻な状況に今、なっているのです。

■「斎藤さん、ごめんなさい」、「立花さん、ありがとう」コール

 多くの県民は立花氏のこの呼びかけに応えました。テレビや新聞を見るだけではなく、YouTubeやXなども見るようになりました。さまざまな情報を収集して照合し、何が正しいのか正しくないのか、自分なりに判断するようになった結果、斎藤氏の街頭演説に出かけるようになりました。

 街頭演説で斎藤氏の政策を具体的に知ると、家に帰ってさらに調べ、知識が深まってくるにつけ、県の財政がいかに逼迫した状態なのか、県立高校の設備がいかに劣悪なのか、県庁舎の建て替えが無駄に高額なのか、というようなことがわかってきたのです。

 県議会が全員一致で不信任を突きつけた斎藤氏こそ、実は、兵庫県が失ってはならない人物なのではないかと気づき始めたのです。思い返すのは、連日テレビ報道された斎藤バッシングです。県民の間から、誰が言うともなく、「斎藤さん、ごめんなさい」という声が立ち上がるようになってきました。

 その声はやがて大きくなり、「立花さん、ありがとう」コールを伴って、さらに大きなうねりとなっていきました。

■「いじわるに負けるな」、「正義は勝つ」、子どもたちのコール

 11月9日夕方、尼崎中央商店街で斎藤氏が練り歩きをしたときの様子をビデオでご覧いただきましょう。

こちら →https://www.youtube.com/watch?v=0GNGP7Twtwk

 ひしめき合うように人々が押し寄せています。「がんばれ!」という声が飛び、女性の声で、「兵庫県の宝!」という声も響き渡ります。やがて、手拍子とともに、「さいとう、頑張れ!」の声が次第に大きくなっていきます。

 老若男女を問わず、県民がこの商店街に集い、斎藤氏を応援している様子がカメラに捉えられているのです。

こんなシーンもありました。

こちら →
(※ YouTube映像より、図をクリックすると、拡大します)

 斎藤氏の練り歩きの途中、反斎藤のグループがやじったり、貶したりした時、思いもよらず、子どもが声をあげ、「いじわるに負けるな!」といったのです。すると、子どもたちが続いて何人も、「いじわるに負けるな!」と大声をだし、アンチを規制しました。

 反斎藤グループがやじると、お母さんたちが、「兵庫県の宝!」と声をはりあげ、アンチの声を打ち消していきます。

 アンチも執念深く、ヤジを飛ばし続けます。斎藤氏がかすんでしまうほどの勢いでヤジが飛ぶと、子どもたちがまた、「正義が勝つぞ!」と声を張りあげます。それに合わせて、お母さんたちが、「さいとうさんは、兵庫県の宝!」と叫びます。

こちら →
(※ YouTube映像より、図をクリックすると、拡大します)

 高齢者に執拗に絡むアンチもいました。どうなることかとハラハラしてみていました。高齢者は気丈に対応し、周囲もその様子を見守りながら、練り歩きを続けていたので安心しました。まさに老若男女が身体を張って、斎藤氏を応援していたのです。

 中盤以降、斎藤氏が出かける先々で、このような現象が起きるようになりました。加古川では、こんなに人がいたのかと驚かれるほど、大勢の人が押しかけていました。姫路、三宮、神戸なども同様です。将棋倒しが心配されるほどのフィーバーぶりでした。
 
 各地の熱狂的な様子をYouTubeで見ていた私は、斎藤氏が圧勝するのではないかと思っていました。それほど県民の熱量が尋常ではありませんでした。

 ところが、投票日直前まで、稲村氏優位と報道されていました。

 県民の自由意志による投票とは違って、稲村氏には、兵庫県の政財界、マスコミ、自治労等大手の組合などの組織票がついていたからでした。しかも、兵庫県内29市のうち22市長が直前に会見を開き、稲村氏を支援すると表明したのです。

 彼らはなぜ、それほどまでに斎藤氏を知事の座に就かせたくなかったのでしょうか。これについては次回、取り上げていきたいと思います。
(2024/11/30 香取淳子)

彼岸花を堪能する。

■秋の入間川の川べり

 秋になると、毎年、入間川の川べりに彼岸花が咲きます。今年は暑かったので、少し遅れましたが、それでも9月25日には、真っ赤な花弁が川べりを華やかに染め上げ始めました。

こちら →
(9月25日撮影、図をクリックすると、拡大します)

 緑一面の川べりを、彼岸花が赤い色を添え始めました。まだ蕾のものもあれば、すでに花弁を開いているものもあって、初々しさが感じられます。

 それが、9月26日になると、場所によっては、いっせいに花を咲かせているところがありました。太い桜の幹の下、華やかさが際立っています。

こちら →
(9月26日撮影、図をクリックすると、拡大します)

 9月29日になると、遊歩道から川べりまでのスロープを赤い花、白い花が覆うようになりました。

こちら →
(9月29日撮影、図をクリックすると、拡大します)

 赤い花に交じって、白い花が負けじとばかりに、大きな花弁を開いています。白い彼岸花はあまり見かけたことがありません。彼岸花は赤い花だと思っていただけに、圧倒的に多い赤い花の中で、繊細な花弁をそよがせている白い花が、なんとも健気に見えます。

 スロープの下を流れる入間川では、魚釣りをしている人がいます。

 ゆっくりと流れる入間川の川べりを、人と彼岸花が思い思いの時を過ごしているのを見て、思わず頬がゆるみました。このようにして、人と自然が長い間、生を共にしてきたのだという思いが込み上げてきたのです。

 10月2日には、遊歩道の傍らでも赤い花に交じって白い花が咲き誇っていました。

こちら →
(10月2日撮影、図をクリックすると、拡大します)

 ここでも圧倒的に多いのは赤い花です。それだけに、白の花弁の清らかさが際立って見えます。柔らかな陽射しを浴びて、どの花もきらきらと輝いています。

 遊歩道に上がってみると、両側が彼岸花で覆われていました。まさに花道です。

こちら →
(10月2日撮影、図をクリックすると、拡大します)

 桜の木の太い幹と枝が遊歩道を囲み、その下に咲く彼岸花の赤と白を引き立てています。自然が創り出した一服の絵を堪能しているような気分になります。

 ふと思い立って、そのまま、巾着田に行ってみることにしました。ここから車で15分ぐらいのところに、彼岸花で有名な巾着田があります。埼玉県日高市にある「巾着田曼殊沙華公園」はいまや観光地化しています。最寄り駅は西武線高麗駅で、そこから徒歩15分のところにあります。

■巾着田

 「巾着田曼殊沙華公園」に着いてみると、すでに大勢の人々が訪れており、なかなか前に進めません。外国人の姿も多々、見られました。アジア人はもちろん、欧米系の外国人もグループで来ており、あちこちで写真を撮っていました。

 巾着田というのは、高麗川が蛇行して創り出した景勝地で、巾着の形をしていることから名づけられました。

こちら →
(10月2日撮影、図をクリックすると、拡大します)

 案内板をみると、確かに、巾着の形をしていることがよくわかります。昭和40年代後半に、当時の日高町がこの用地を取得し、藪や竹林に覆われた土地を整地したところ、9月になると一斉に彼岸花が咲くようになったそうです。

 高麗川の増水等によって流れてきた漂流物の中に、彼岸花の球根がまじっており、それが根付いたのではないかと考えられています。この「巾着田曼殊沙華公園」では、秋の彼岸になると、500万本の花が咲き、滅多に見ることのできない景勝地になっています。

 人々の間をかいくぐって撮影してみました。

こちら →
(10月2日撮影、図をクリックすると、拡大します)

 見渡す限り、真っ赤な彼岸花が咲き乱れています。思わず異世界に入り込んだような気になってしまったのも無理はありません。観光客が大勢いるのですが、それ以上に多い彼岸花に圧倒されてしまうのです。つかの間、この世ではない世界に入り込んでしまったような気分になります。

 実は、管理事務所のある辺りはまだ彼岸花はなく、清流の流れる元光景が見れらます。

こちら →
(10月2日撮影、図をクリックすると、拡大します)

 彼岸花で覆いつくされる以前は、おそらく、このような光景が広がっていたのでしょう。それが、増水によって流れ着いた彼岸花の球根が根付き、現在のような圧倒的な景観を生み出したのです。自然の妙を感じざるをえません。

 ふと、彼岸花はどこからやってきたのか気になってきました。帰宅して、調べてみると、どうやら中国が原産地のようです。さらに、調べてみると、彼岸花にまつわる伝説があることがわかりました。

■中国の伝説

 ネットで、彼岸花にまつわる次のような伝説を見つけました。ご紹介しましょう出典は、「彼岸花:传说来自地狱的花,它的背后有一段不为人知的浪漫故事」(※ https://baijiahao.baidu.com/s?id=1688559112388711229&wfr=spider&for=pc)です。

 赤い彼岸花は曼殊沙華とも呼ばれ、とてもロマンチックな伝説があります。伝説によると、昔、二人の妖精がこの花を守る約束をし、一人は曼殊、もう一人は沙華という名前で、それぞれが彼岸花の葉と花を守っていました。長年にわたり、彼らはお互いに強く惹かれあってきましたが、彼岸花には、花は咲いても葉が見られない、葉は見られるのに花が咲かないという特性があります。

 やがて二人は神の意志に反して密かに会うようになり、恋に落ちました。その年、彼岸花は燃えるような赤い花を咲かせました。その花は緑の葉に映えてとても魅力的で、この光景を見た誰もが彼岸花の美しさにため息をつくほどでした。

 ところが、二人の関係が神々にバレてしまい、二人は地獄に落とされ、一生会えないようにさせられてしまいました。地獄に落とされた二人は、三途の川の向こう側に咲く彼岸花を見るたびに、前世の記憶を思い出しました。お互いに対する恋心は時間が経っても消えず、むしろ情熱は高まり、ますますお互いを恋しく思うようになりました。

 ある時、仏僧が向こう側を通りかかり、二人が恋に落ちた物語を知りました。そこで、仏僧は可哀そうに思い、彼岸花を天国に連れて行こうとしました。ところが、仏僧が三途の川を通りかかったとき、水で仏僧の衣服が濡れてしまい、着物の中に入れていた彼岸花も濡れてしまいました。

 濡れて曼荼羅となった白い花は天に運ばれ、天国の花となり、赤い彼岸花は地獄に落ちてしまいました。それ以来、赤と白の彼岸花の一方は地獄に、もう一方は天国に咲くようになりました。

 これが中国の伝説の概略です。

■中国の伝説を解読する
 
 この中国の伝説には、仏典由来と植物学由来の要素が含まれていて、とても興味深く思いました。

●花と葉の分離

 たとえば、この伝説では、「彼岸花」、すなわち、「曼殊沙華」の花の部分を守る妖精が「曼殊」、葉の部分を守る妖精が「沙華」とされています。本来、一つのものが、二つに分かれてキャラクター設定されているところに、植物としての「彼岸花」の特性の一つが示されています。

 つまり、彼岸花には、花と葉が別々の時期に咲くという特性があります。9月末から10月にかけて咲くのが花で、この時期に葉はありません。先ほど見たように、花が咲いている時は、葉はなく、すっくと立った茎の上に大きな花弁が開いています。

こちら →
(9月26日撮影、図をクリックすると、拡大します)

 葉がないのが奇妙に思えます。花が枯れた後は茎だけになり、やがて葉が育ってきて、翌年4月までは葉だけになります。花と葉が同時に開くことはないのです。

 『花壇地錦抄』にも、「曼殊沙華、花色朱のごとく、花の時分葉はなし、この花何なるゆえにや、世俗うるさき名をつけて、花壇などには大方植えず」(伊藤伊兵衛著、1695年)と書かれているように、古来、彼岸花が花は、葉とは時期を異にして咲くことが知られていました。

 ちなみに葉は次のような形状をしています。

こちら →
(※ https://biome.co.jp/biome_blog_087/、図をクリックすると、拡大します)

 葉はニラに似た形です。華麗な花の姿からは想像もできない、雑草のような形状です。やはり、彼岸花は葉がなく、まっすぐ伸びた茎の上で花開いているのがふさわしいと思えてきます。

 『花壇地錦抄』でも、「花壇などには植えず」と書かれているように、彼岸花はたいてい、田の畔や、川辺に咲きます。

 日本列島で繁殖している彼岸花は、染色体が基本数の3倍ある三倍体で、種子で子孫を残せないといわれています。その代り、土の中で球根を盛んに分球して繁殖してきており、遺伝的には統一遺伝子を持っています。同じ地域の個体が、開花期や花の大きさ、色、茎丈がほぼ同じように揃っているのは、同一遺伝子だからです(※ Wikipedia)。

●梵語由来の「曼殊沙華」

 彼岸花には多くの別名がありますが、もっとも多く使われているのは、「曼殊沙華」です。これは梵語由来の語で、天の花を意味し、見る者の悪業を払うとされています。

 中国の伝説では、この「曼殊沙華」を二つに分け、主人公二人の名前にしていました。「曼殊」と「沙華」です。この二人が恋に落ち、素晴らしい花を咲かせるのですが、これが神様に知られ、罰を受けることになります。二人は地獄に落とされ、二度と会えないようにされてしまうのです。

 本来、会えるはずのない「花」と「葉」が、出会って恋に落ち、花を咲かせるという神の摂理、自然の摂理に反する行為を行ってしまったからでした。

●輪廻転生

 地獄に落ちた二人は、三途の川の対岸で真っ赤な花を咲かせる彼岸花を見るたび、前世を思い出し、恋しい気持ちを募らせます。ここに輪廻転生の概念が組み込まれています。

 俗に、人は亡くなると、三途の川をわたって、あの世に行くといわれますが、三途の川は、此岸(現世)と彼岸(あの世)を分ける境目にある川なのです。

 仏教では、輪廻転生は、悟りを開けずに六道の中で過ごすことを意味します。六道とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六つの世界のことで、生前の行為の善悪によって死後に行き先が決まります。

 二人は、前世で恋に落ち、一緒になったことを咎められて、神様から地獄に落とされたのにもかかわらず、三途の川の対岸に咲く彼岸花を眺め、幸せの絶頂だった頃を起こしていたのです。

●天国の花

 ある時、通りかかった仏僧がこの物語を聞いて可哀そうに思い、彼岸花を天国に連れて行こうとしました。

 ところが、三途の川を渡ろうとした時、仏僧の衣服が水に濡れてしまいました。その時、抱え持っていた彼岸花の一部もまた水に濡れてしまいました。

 水に濡れなかった赤い花は、そのまま地獄に落とされ、水に濡れて白くなった花は天に運ばれ、曼荼羅となって天国の花になりました…、というのが、中国の伝説でした。

 興味深いのは、赤い彼岸花が三途の川の水に濡れて白くなり、曼荼羅となって、天国の花となったというくだりです。なぜ、そのような展開になったのでしょうか。

 彼岸花はそもそも天国の花でした。曼殊沙華や曼陀羅華について、次のような説明があります。

 『法華経』の巻第一序品に、釈尊が多くの菩薩のために大乗の経を説かれた時、天は、「蔓陀羅華・摩訶曼陀羅華・蔓殊沙華・摩訶蔓殊沙華」の四華を雨(ふ)らせて供養した、とされています。
(※ https://www.otani.ac.jp/yomu_page/b_yougo/nab3mq0000000rnh.html)

 曼殊沙華も曼陀羅華も、お釈迦様が供養のために天国から降らせた花であり、天界の花だったのです。赤いのが曼殊沙華、白いのが曼陀羅華という違いです。

 それでは、なぜ、水に濡れて白くなった彼岸花は、曼荼羅となって天国に行くことができたのでしょうか。

 伝説の最後のところで出てきた展開が気になって調べてみました。

●毒性のある花

 なぜ、水に濡れた彼岸花が曼荼羅になって、天国の花になったのでしょうか。調べてみると、それは、彼岸花の毒性と関連していました。

 実は、彼岸花にはアルカロイド系のかなり強い毒性があります。ところが、この毒は水に晒すことによって容易に除去することができるといわれています。毒を除去した後の球根からは極めて良質の澱粉がとれるので、飢饉の際の救荒作物いわれています。

 そのような植物学的特性を踏まえ、中国の伝説では、水に濡れて毒性が除去された彼岸花が、天国の花になったという展開にされたのでしょう。つまり、彼岸花には毒性がありますが、繁殖力が旺盛で、しかも、球根からは良質の澱粉をとることができます。水に晒し、毒性さえ除去すれば、安全に利用することができるということが、最後に示されていたのです。

 彼岸花は身近なところに咲く花です。毒性のあることを知らなければ、人々が生命の危険にさらされないとも限りません。中国では、必要な生活情報を物語化してわかりやすくし、人々に伝える工夫をしていたのです。

 「曼殊」と「沙華」のロマンティックな関係もごく短い期間の出来事でしかなかったように、彼岸花が鮮やかな赤の花弁を誇示していたのもせいぜい二週間ぐらいでした。

■盛りを過ぎた彼岸花

 10月10日になると、彼岸花は枯れ、花弁の形状を残したまま、まぶしいほど鮮やかな赤は失せ、薄茶色に変色していました。

こちら →
(10月10日撮影、図をクリックすると、拡大します)

 10月12日になると、それまではまっすぐに立って、大きな花弁を支えていたはずの茎が、倒れそうになっていました。茎が急速に老いさらばえたように、色も変色していました。

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(10月12日撮影、図をクリックすると、拡大します)

 黄緑色だった茎が薄茶色になり、明らかに生命力が希薄になっているように見えます。

 見渡すと、いつの間にか、彼岸花は跡形もなく、秋の気配が辺り一面に広がっていました。

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(10月12日撮影、図をクリックすると、拡大します)

 入間川の遊歩道から華やかさがすっかり消えていました。桜木は葉を落とし、紅葉した葉が遊歩道に落ちています。どうやら、次の季節の準備にはいったようです。

 思えば、9月末から10月初旬ぐらいまで、彼岸花は鮮やかな姿を川辺で見せてくれていました。日々、変化する彼岸花の美しさを堪能させてもらいましたが、10月半ばになると、まるで力尽きたように花は消え、茎さえもしおれて、そそくさと店じまいをしてしまいました。

 川べりの木々は、葉を落とし始め、晩秋から冬へと向かっています。人間以外はほぼみな、自然の摂理に従って、生きているように思えます。(2024/10/29 香取淳子)

幕末・明治期の万博 ⑦:ナポレオン三世の第2回ロンドン万博への対抗意識

■パリ万博のイベント効果

 前回、ヴィクトリア女王をエスコートするナポレオン三世を描いた絵をご紹介しました。嬉しそうな表情を浮かべ、万博会場を案内する姿がなんとも印象的でした。女王夫妻が来訪してくれたおかげで、開催目的の一つが達成できたのです。ラフなスケッチでしたが、画家は、ナポレオン三世の心情を、みごとに捉えていたのです。

 1855年のパリ万博は、ナポレオン三世が強く望んで開催されました。革命を経て皇帝の座に就いた彼はなによりも、樹立した第二帝政を特にイギリスから承認してもらいたがっていました。イギリスの承認を得れば、他の諸外国も追随し、国際的な承認が得られるという思惑があったからでした。

 ヴィクトリア女王夫妻は1855年8月20日、パリの万博会場を訪れて、展示品はもちろん、趣向を凝らした展示会場も見てくれました。ナポレオン三世にとっては十分、万博の開催目的は達成されました。女王が来訪してくれただけで、万博の開催は大成功だったのです。

 パリ市民たちも熱烈に女王夫妻を歓迎しました。その熱気が、歓迎する側だけではなく、される側にも伝わり、増幅されました。一種のイベント効果によって、祝祭空間が生み出されました。

 会場への途上、女王夫妻には、大改造したパリの街を見てもらうことができました。街路や街並みを通して、フランスの政治、経済、文化がいかに優れているか、近代的かを強くアピールすることができたのです。

 もちろん、パリ万博には海外からも多数、来訪しました。34ヶ国が参加し、会期中に516万2000人が来場しました(* https://www.ndl.go.jp/exposition/s1/1855.html)。彼らもまた、展示会場だけではなく、パリの街並みや街路を見て、感嘆しました。まだ建築途中のところも多々、あったとはいえ、大改造したパリの街並みの訴求効果は抜群でした。

 万博には、国際イベントとしての効果があっただけではありませんでした。ナポレオン三世は、国際展示場としての機能に着目しました。なんと、万博を機にフランスワインを売り出そうと考えたのです。

■製品の格付けとブランド化

 フランスのボルドー地方のワインは、すでにイギリスに輸出されていました。ボルドーからはパリよりもイギリスの方が近いからでした。そこにナポレオン三世は目を付けたのです。

 万博に出品する農産部門の中心産品として、ナポレオンはこのボルドーワインを選び、ボルドー市に格付けすることを命じました。そこで、ボルドー市は商工会議所に依頼し、仲買人組合がワインの格付けを行いました。

 その結果、メドック地方のシャトー(製造所)から、61の赤ワインが1級から5級までの5段階で評価され、格付けされました。第1級に選ばれたのは、メドック地区の「シャトー・ラフィット・ロートシルト」、「シャトー・マルゴー」、「シャトー・ラトゥール」、グラーブ地区の「シャトー・オー・ブリオン」でした。

 これらは、今日でも有名な4つのシャトーです。そして、1855年のパリ万博のために設定された格付けが今でも、購入の際の目安として通用しているのです。

 現在は、「1855年メドック格付け」と呼ばれています。ピラミッド型の等級構造になっており、上質なワインの序列をわかりやすくするために、設定されました。

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(* https://rys-cafe.bar/column/wine-no-yomimono/knowledge/wine-rating/ 図をクリックすると拡大します)

 上図で示されているように、メドック格付けの場合、1級から5級の評価になっており、頂点の1級は61シャトーのうちの5シャトーを指します。

 それまでは、もっぱら産地とその周辺で消費されるだけでした。ところが、このように格付けをし、安心して良質の産品を買えるようにすることによって、販路が広がりました。鉄道網が整備され、税制が緩和されることによって、やがてフランス全土、さらには全世界へと輸出されるようになりました。

 フランスのワインが世界のブランドとして地位を築いたのは、19世紀半ば以降のことでしたが、それにはナポレオン三世が、1855年パリ万博の際、ワインの格付けを行ったことがおおいに寄与しています。時間が経つとともに、ボルドーワインはブランド化し、輸出品として幅広く海外で消費されるようになりました。

 この一件を見ても、ナポレオン三世が企業家としても優れた資質を持っていたことがわかります。1855年パリ万博を開催することによって、そのイベント効果を活用したのです。一気に産業化を進めることができ、経済力、国力、文化力を高め、イギリスとの格差を縮めることができたました。

 パリ万博の効果は抜群でした。その余韻に浸る間もなく、イギリスが再び、万博を開催しました。

■1862年ロンドン万博

 第2回ロンドン万博が、1862年5月1日から11月15日まで、ロンドンのサウスケンジントンで開催されました。第1回を上回るものにしようという主催者の意気込み通り、会期は前回より一か月も長い171日間でした。入場者数も17万2000人多く、621万1000人に及びました。

 サウスケンジントン会場の絵があります。ご紹介しましょう。

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(* https://commons.wikimedia.org/wiki/File:1862_international_exhibition_01.jpg 図をクリックすると拡大します)

 展示会場の面積は23エーカーで、1851年の19エーカーよりもはるかに広いものでした。開催期間は長く、入場者数も多かったのですが、第1回に比べ、強烈な印象を残すことはなかったようです。

 万博の象徴にもなっていたヴィクトリア女王の夫のアルバート公が、1861年に死去したことも影響したのでしょうか、第1回ほどのインパクトを人々に与えることはできませんでした。

 社会状況も影響していたかもしれません。当時、欧米もまた戦乱に明け暮れていました。

 1850年代にイギリスは占領地インドの反乱、クリミア戦争を経験し、アメリカではこの時期、南北戦争が勃発していました。そして、フランスもまたイギリスとともにクリミア戦争(1853‐56年)、アロー戦争(1860年)を戦い、1866年にメキシコに出兵するといったような戦乱に明け暮れていた時代でした。

 そんな最中に企画、開催されたのが1862年のロンドン万博ですから、武器が展示され、銃器が金メダルを獲ったのも当然のことでした。1862年ロンドン万博は、軍需産業のアピールの場としても強く印象づけられる万博でした。

 たとえば、1862年ロンドン万博で金メダルを受賞したのが、ホイットワース(Whitworth)社の銃でした。スケッチ画をご紹介しましょう。

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(* https://www.ndl.go.jp/exposition/data/R/796r.html 図をクリックすると拡大します)

 ホイットワース社のライフル銃は、南北戦争(1861-65)で南軍に採用されていました。第2回ロンドン万博が開催された頃は、ちょうど南北戦争の真っただ中で、実戦で使われていた武器が出品されていたのです。ここでは近代的な武器が出揃っており、銃の歴史が大きく変化していることが確認できました。

 あらためて、戦時こそ、先端技術の開発が進むのだということを認識させられました。先端技術を発明して殺傷能力の高い武器を開発し、安価に生産できるようにすれば、戦闘に勝利しやすくなるからです。

 先進諸国は、国を挙げて、産業化を推進し、市場を求めて覇権を争っていました。その推進力になるのは最先端技術でした。

■最先端技術

 覇権争いに呼応して、先進国ではさまざまな技術が発明され、製品が開発されていました。第2回ロンドン万博では、そのような社会情勢を反映するかのように、最先端の技術製品が展示されていました。

 来場者にとっては、多様な技術や知識を摂取することができる場になっていました。万博会場が、最先端技術や知識の発信源となっており、開発意欲を刺激する場にもなっていたのです。

 たとえば、ベッセマー(H. Bessemer)の製鋼法やバベジ(C. Babbage)の計算機などが注目されます。

 ベッセマー(H. Bessemer)は1856年に、イギリスで新しい製鋼法を発明しました。これは溶けた銑鉄に空気を吹き込むだけで鋼になるという仕組みの製法です。これによって、鋼を大量生産できるようになり、安価に鋼鉄製品を供給できるようになりました。

 会場ではベッセマーの転炉が展示されていました。鋼鉄製品の製造に不可欠の技術であり、装置でした。各国の来場者たちの関心を集めたことでしょう。

 また、バベジ(C. Babbage)が開発した計算機も展示されていました。

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(* https://commons.wikimedia.org/wiki/File:AnalyticalMachine_Babbage_London.jpg 図をクリックすると拡大します)

 まだ多くの人々の関心を集めていなかったかもしれませんが、すでに計算機が造られていたことに驚きました。この時期、先進国では機械化、自動化の動きが活発になっていたことがわかります。

 鋼鉄の製法や計算機など、最先端技術の発明以外にも、ロンドン万博には産業化の更なる発展に寄与できるような製品が多々、出品されていました。機械工学的な製品は、当時の先進国が求めるものでもあったのでしょう。大勢の人々が訪れて刺激され、最新の技術や知識を摂取して帰っていきました。

■日本人一行の来訪

 世界の科学技術の中心ともいうべき第2回ロンドン万博に、日本人一行が訪れていました。鎖国していた日本から、武士の一群が見学に来ていたのです。

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(* https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Japanese_ambassadors_in_London.jpg 図をクリックすると拡大します)

 これは、イラストレイテド・ロンドン・ニュース(Illustrated London News )の5月24日付記事に描かれていた図です。丁髷姿の武士たちが、羽織袴を着て、刀を差し、会場を見学する様子が描かれています。

 一行は、幕府から派遣された使節団でした。竹内下野守保徳を正使とする総勢38人の使節団が訪れていたのです。彼らは、1858年に幕府が欧州5か国と締結した修好通商条約で交わされた新潟や兵庫の開港および江戸と大坂の開市を延期する交渉と、ロシアとの樺太国境を画定する交渉のためにヨーロッパに派遣されていました。

 使節団は1862年4月20日にロンドンに到着し、5月1日に第2回ロンドン万博の開幕式に出席していました。

 使節団の主要メンバー4人の写真が残されています。

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(* https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Bunkyu_Japanese_Embassy_to_Europe_Matsudaira_Takenouchi_Kyogoku_Shibata_1862.png図をクリックすると拡大します )

 左から、松平康直(副使)、竹内保徳(正使)、京極高朗(目付)、柴田剛中(組頭)です。

一行はフランスを経てイギリスに入り、ロンドンに到着した翌5月1日にロンドン万博が開幕しました。竹内、松平、京極らは開会式に招かれています(* 宮永孝、『文久二年のヨーロッパ報告』、新潮社、1989年、p.71.)。

派遣使節一行の旅程を組み、通訳としてかかわっていたうちの一人が、駐日大使のオールコックでした。だから、第2回ロンドン万博の開幕に合わせてロンドンに到着することができたのでしょう。

■アームストロング砲

使節団は滞在中に何度も会場を訪れ、熱心に展示品を見学しました。とくに機械類に興味を示していたといいます。幕藩体制に揺らぎが見え、列強からの侵略に備えようとしていたのでしょうか、使節団一行はもっぱら武器に興味を示していたのです。

会場には、1855年に発明されたアームストロング砲も展示されていました。スケッチ画をご紹介しましょう。

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(* https://www.ndl.go.jp/exposition/data/R/798r.html 図をクリックすると拡大します )

 このアームストロング砲は1855年に開発され、あらゆる半径、枠に対応できたといいます。使節団の興味関心を強くかき立てました。中には、製作過程のメモを取っていた者もいたといいます。利用価値が高いと考えたのでしょう。

 幕末の日本に大きな衝撃を与えたのが、このアームストロング砲でした。実際、薩英戦争(1863年8月15日‐17日)の際に使われており、薩摩藩に衝撃を与えました。

 薩摩藩はその後、アームストロング砲のマニュアルを入手し、1864年に解説書を出版しています。さらに、薩摩藩や佐賀藩は、グラバー商会経由で、さまざまな重量のアームストロング砲を輸入し、研究を重ねました。

 その結果、佐賀藩はアームストロング砲の複製に成功しています。戊辰戦争では佐賀藩が製造した国産アームストロング砲が使われており、会津戦争では、新政府軍の主力兵器として活用されました(* https://www.meihaku.jp/arquebus-basic/cannon-type/)。

 佐賀城には、当時のアームストロング砲が復元されて、展示されています。

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(* https://www.meihaku.jp/arquebus-basic/cannon-type/ 図をクリックすると拡大します)

 佐賀藩は、イギリスから輸入したアームストロング砲を分解して研究し、やがて自前で製造できるようにしていったのです。優れた西洋の技術を吸収するには、まず製品を輸入し、その構造を把握してから、模造品を造り、その後、さまざまに改良を加えて国産にしていくという方法でした。

 これはほんの一例ですが、当時の日本人はこのようにして見よう見まねで西洋技術を獲得していったことがわかります。

 さて、この第2回ロンドン万博には、日本の工芸品が展示されていました。

■オールコックが出品した日本の工芸品

 正式に参加していたわけでもなかった日本の工芸品がなぜ、ロンドン万博の会場に展示されていたのでしょうか。

 実は、初代駐日イギリス公使のオールコック(Sir John Rutherford Alcock KCB、1809- 1897)が、日本で収集したコレクションを出品していたのです。漆器や刀剣といった工芸品だけでなく、蓑笠や提灯、草履などの日用品も展示されていました。いずれも、ヨーロッパの人々には物珍しく、絶賛されました(* https://www.ndl.go.jp/exposition/s1/1862-1.html)。

 使節団の一員であった福沢諭吉は、「博覧会は世界各国の物産を一堂に集めたもので、出品された品目は金銀銅鉄製品、農工業製品、織物、蒸気機関、船舶・浮きドックの模型、美術工芸品、鉄砲など百種類を超えた」と記し、会場の一角には「駐日公使オールコックや横浜の居留民が本国政府の要請に応じて適当に選んで送った、日本の展示品も見られた」と報告しています。

 さらに、使節団に同行した医師の高島祐啓は、『欧西紀行』の中で、日本から出品されたものはがらくたが多く、「見るに耐えなかったのは、提灯、傘、木枕、油衣、蓑笠、木履、草履などの類まで並べてあったこと」だと記しています(* 前掲、p.78.)。

 会場で展示されていたのは、どうやら日本人の目から見れば「がらくた」にしか見えないものだったようです。当時の日本人なら、恥ずかしいと思ってしまうような日用品が展示されていましたが、いずれも、イギリス人オールコックが興味を持って日本で収集したコレクションでした。

 オールコックと同様、会場を訪れたヨーロッパ人にも、物珍しく珍重すべきものと思えたのでしょう、日本の工芸品や日用品は、彼らの注目を集めました。オールコックが出品した日本の工芸品は予想を超えて、ヨーロッパの人々の日本に対する関心を高めました。

 アヘン戦争の影響で、ヨーロッパでは人々の関心が、極東アジアに向けられていた時期だったからかもしれません。

■異文化産品の展示

 1862年ロンドン万博では、1855年の第1回パリ万博をヒントに、彫刻や絵画といった美術品が数多く展示されていました。その一方で、植民地からの産品も多数、展示されており、多様性のアピールの場にもなっていました。

 いち早く産業革命を遂げたイギリスが、海外に市場を求めて交易を活性化させており、それを反映するかのように、海外の植民地から、さまざまな産品が出品されていたのです。

 産業化時代、帝国主義時代の動向を如実に反映していたのが第2回ロンドン万博の特徴ともいえました。

 第1回ロンドン万博の水晶宮が与えたような衝撃はありませんでしたが、出品物の多様性からいえば、2回目のロンドン万博はまさに万国博覧会の名にふさわしい内容でした。依然として産業品の展示会としての要素が強いものではありましたが、その中に芸術品や異文化の物品も扱われていたのです。

 ナポレオン三世が再び、第2回パリ万博を開催することを決意したのも不思議はありませんでした。

 1862年ロンドン万博では、芸術品や異文化の工芸品などが一般の入場者の関心を集めましたが、初めて本格的な美術品の展示を行ったのは、1855年パリ万博でした。

 実は、モンテーニュ大通りの独立したパビリオンで、絵画を展示したのも、海外の植民地からの文物を大規模に展示したのも、パリ万博が最初でした。ロンドン万博との差別化を図るためにフランスが打ち出した新機軸だったのです。

 そのアイデアが、2回目のロンドン万博に取り込まれて、多数の入場者の関心を集めました。それを知ったナポレオン三世が、イギリスにお株を奪われたような気持ちになっていたかもしれません。

 しかも、日本の使節団一行が、ロンドン万博を見学していました。1862年5月24日の新聞記事で報じられましたから、当然、ナポレオン三世の耳にも入っていたでしょう。このことが、イギリスへの対抗意識を刺激した可能性があります。

■フランスの諸事情

 フランスのリュイ外相は、使節団一行と貿易規制問題について話し合っています。ところが、なんの成果も得られないまま、使節団はロンドンに向かったという経緯がありました(*中山裕史、『幕末維新期のフランス外交』、日本経済評論社、2021年、pp.69-73)。

 フランスにとって懸案の生糸貿易について解決できなかったのです。ナポレオン三世はそのことも懸念していたのではないかと思います。

 絹織物産業はフランスにとって重要な産業でしたが、1860年代に蚕が微粒子病に感染し、大きな打撃を受けていました。ヨーロッパは同様の被害を受けていたので、極東の蚕をいくつか試したみたところ、日本の蚕がもっとも品質が高いということになり、フランスは日本から蚕の輸入するようになりました。その結果、国内使用の蚕が不足するようになり、幕府が輸入規制をしていたのです(* 前掲)。

 1862年に4月にフランスの外相が使節団と話し合ったのはおそらく、その件でしょう。フランスにとって、絹織物産業は外貨を稼げる主要産業でした。それだけに、ナポレオン三世は、日本とは何としても友好関係を築き、スムーズに貿易を進めたいと考えていたにちがいありません。

 ナポレオン三世には、1855年パリ万博にヴィクトリア女王夫妻を招待し、第二帝政を承認してもらっただけではなく、フランスの国際地位を高め、産品のブランド価値を高めることができたという経験がありました。

 このようなフランスの事情を勘案し、ナポレオン三世が、再び、パリ万博を開催して、日本からの蚕輸入をスムーズに進めたいと考えた可能性はあります。旺盛な実業家精神を持ち合わせた彼なら考えそうなことでした。

 1863年6月、ナポレオン三世は万博開催の勅命を発し、第2回万博開催を決定しました。第2回ロンドン版万博からわずか1年後のことでした。

 当時、フランスは対外的にいくつもの火種を抱え、メキシコ派兵でも失敗していました。それにもかかわらず、ナポレオン三世が早々に第2回パリ万博の開催を決意したのは、万博開催こそが、政治的にも経済的にも有益なものだと認識していたからでした。

 興味深いことに、ナポレオン三世は、日本都の蚕や生糸の輸入をイギリスには極秘で行っていました(* 高杜一榮、『蚕の旅』、文芸春秋社、2013年、pp.226-227)。イギリスに対する対抗意識からでしょうか。それとも、日本の良質な蚕や生糸を占有するためだったのでしょうか。
(2024/9/30 香取淳子)

幕末・明治期の万博⑥:ナポレオン三世にとってのパリ大改造と1855年パリ万博

■パリ大改造を託したオスマン

 1850年当時、人口100万人を超える都市はヨーロッパではロンドンとパリしかありませんでした。ロンドンほどではありませんでしたが、大都会パリにも仕事を求めて外部から多くの人々が流入してきており、さまざまな問題が発生するようになっていました。

 前々回に、ご紹介した経済学者のシュヴァリエは、19世紀前半のパリの人口増の特徴として、働き盛りの男性が多いこと、季節労働者が多いこと等をあげています。とくにパリの中心部では人口密度が高く、衛生面、交通面、安全面で問題が多く発生しており、都市改造が焦眉の課題になっていました(* 松井道昭、『フランス第二帝政下のパリ都市改造』、日本経済新聞社、1997年、pp.75-81.)。

 ナポレオン3世は、このようなパリの過密状態を改善するため、街路幅を広げ、広場を整備する一方、新鮮な空気の補給源として公園の整備にも取り組みました。その計画は、ブローニュの森を左肺、ヴァンセンスの森を右肺とみなす人体モデルを念頭に構想したものだったといいます(* https://imp.or.jp/wp-content/uploads/2021/10/special-1.pdf)。

 ナポレオンは大統領就任すると早々に、当時のセーヌ県知事ベルジュ(Jean. Jacques Berger 1790-1859, 知事任期:1848-1853)に、パリ改造に取り組むよう指示しました。ところが、財政健全主義者であったベルジュは市議会と組み、事業実施を遅らせようと画策しました。そこで、第二帝政成立後の1853年6月に、ナポレオンはベルジュを解任し、ジロンド県知事であったオスマン(Georges-Eugène Haussmann、1809 – 1891)を新たなセーヌ県知事に任命したのです。

 ナポレオンが、オスマンに近隣自治体の併合令を引き渡した時の様子を描いた絵があります。アドルフ・イヴォン(Frédéric Adolphe Yvon, 1817 – 1893)が描いた作品です。

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(* https://www.meisterdrucke.jp/fine-art-prints/Adolphe-Yvon/ 図をクリックすると、拡大します)

 併合令の引き渡しは1859年6月に行われました。書き付けを手にしたナポレオンがにこやかに足を踏み出し、オスマンもまた前のめりになってナポレオンに向き合っている様子が描かれています。ナポレオンがオスマンの力量と手腕を高く評価し、満足している様子が画面からうかがえます。

 セーヌ県知事への任命からすでに6年を経ており、パリ改造はオスマンの手で着々と進行していました。

 そもそも1853年6月29日に行われた知事叙任式に出席した時からすでに、ナポレオンはオスマンに期待を寄せていました。会議室に入るとナポレオンは、真っ先にオスマンの前に歩み寄り、現状況下でもっとも重要な地位にオスマンを就かせることができたのは喜ばしいと言ったそうです(* 前掲、p.96.)。

 実際、オスマンは胆力、根気、才気があり、統率力もありました。パリ大改造を託すにはまたとない人物だったのです。

■パリ大改造のために

 ナポレオンは、式典後の昼食会では、オスマンをウジョニー皇后の脇に座らせ、重用している姿勢を見せつけました。さらに、昼食後は、執務室にオスマンを招き、パリ改造に関する計画を打ち明けています。

 一方、オスマンは回想録の中で、当時の様子を次のように記しています。

 「皇帝は急いで私にパリの地図を見せた。それには工事優先度に応じて、皇帝自らが認めた青・赤・黄・緑の線が引かれていた。それは、皇帝が実行を提案するところの各種の新しい道路を示していた」(* 前掲。p.96-97.)。

 ナポレオンはすでにパリ改造計画を組み立てていたのです。時間をかけ、何度もシミュレーションをし、徹底的に練り上げていました。これまでの為政者の誰も手がつけられなかった大胆な改造プランでした。

 このパリ大改造を安心して任せられる人物は限られていました。

 皇帝の座に就くと、ナポレオンは早々に、ジロンド県知事であったオスマンを新たにセーヌ県知事に任命し、この壮大なプランを委託したのです。オスマンなら実行できるだろうと白羽の矢を立てていたのでしょう。当時、ナポレオンは45歳、オスマンは44歳でした。

 以後、オスマンはナポレオンに逐一、相談しながら、計画を実行に移していきました。事業の進捗とともに、二人の信頼関係は確かなものになっていきました。パリを根本的に作り変えるには強固な絆が必要でした。

 ナポレオンの計画案を踏まえて、オスマンが作成したパリ改造図があります。ご紹介しましょう。

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(* https://imp.or.jp/special-1-3/、クリックすると、拡大します)

 上図の黒線は新しい道路、方眼の部分は新開発市区、緑の部分は大規模な郊外の公園(左手がブローニュの森、右手がヴァンセンヌの森)といった具合です。

■改造のポイントは何か

 パリ大改造のポイントは、①街路事業、②公園事業、③上下水道事業、④都市美観、等々でした。

 街路事業については、①古い街路を拡幅し、直線化を図る、②幹線道路は複線化し、交通の円滑化を図る、③重要な拠点は斜交路で接合する、等々の原則を掲げて、整理しました。

 たとえば、現在、観光スポットとして有名なパリ凱旋門の界隈は、次のように生まれ変わりました。

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(* https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Paris_Arc_de_Triomphe_3b40740.jpg、図をクリックすると、拡大します)

 凱旋門を中心に大きな道路が放射状に延び、見事な都市景観を作り出しているのがわかります。既存の区画や建物をほぼすべて破壊し、新しく区画整理するという方針の下、得られた見事な景観です。

 機能と美観を追求した結果、このような見事な景観がもたらされたといえますが、これはほんの一例です。

 オスマンは、市民の利便性を図るために、「ショートカット」といった観点からも道路事業を進めました。主要地点をダイレクトに結ぶ道路を新たに設置し、利便性を高める工夫をしたのです。

 たとえば、ルーブル美術館からオペラ座に行くには,大通りを通らなければなりませんでしたが、ショートカット道路のおかげで,直接行くことができるようになりました。

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(* https://guides.lib.kyushu-u.ac.jp/civil-worldheritage/seineriverbank 図をクリックすると、拡大します)

 上図で赤い矢印で示された、黄色の丸印二つでつながれた道路です。ナポレオン通りと書かれています。現在の地図で照合してみると、次のようになります。

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(* google map 図をクリックすると、拡大します )

 当時はナポレオン通りと命名されていたのが、いまはオペラ通りになっています。このショートカット道路が、オペラや美術を鑑賞するのにどれほど役立ってきたことでしょう。道路事業の整備がパリの価値を高め、市民に芸術鑑賞の機会を提供してきたことがわかります。

 ナポレオンとオスマンが進めたパリ大改造が、現在にまで生きる大事業であったことがわかります。大改造計画が徹底的に実施されたからこそ、パリはその後、長く、芸術の都といわれるようになったのです。

 このように街路を拡幅し、整備することによって、交通渋滞を解消しただけではなく、居住民には日照や通風を確保することができました。さらに、反政府組織の潜伏や暴動の阻止にも効果があり、有事の際には、軍隊の円滑な移動も可能になりました。

 街路事業に併せ、オスマンは公園事業にも取り組みました。先ほどの改造図の緑の部分はまさに、パリに新鮮な空気を送り込む機能を果たすことになりました。パリ全体を人体に見立てれば、ブローニュの森は左の肺、ヴァンセンスの森は右の肺という位置づけだったのです。

 オスマンは公園事業を担当する土木技師として、アドルフ・アルファン(Jean-Charles Adolphe Alphand, 1817‐1891)を公園局長に抜擢しました。

 そもそもナポレオンは衛生上の観点から、パリを近代的で風通しがよく、住みやすい首都にしたいと考えていました。

 その意向に沿って、アルファンは、パリの両側に二つの巨大な森林公園を配置し、内部に3つの都市公園、そして、シャンゼリゼをはじめとする24の広場を設計しました。すべてのパリ市民が、徒歩 30 分で緑地に行けるように、公園や広場が整備され、5万本にもおよぶ木が植えられました。
(* https://www.leparisien.fr/politique/adolphe-alphand-le-grand-jardinier-d-haussmann-qui-mit-la-campagne-a-paris-26-05-2019-8079936.php

 上下水道事業については、土木技師ウジェーヌ・ベルグラン(Eugène Bergrin)が抜擢され、水不足への対応から、新たな水源用の導水路が敷設されました。また、衛生上の観点から、飲用と非飲用とに分けて供給されるようになり、巨大な地下溝が整備され、汚水処理が整備されました。

 もちろん、街の景観についても工夫されました。オスマンは美観を維持するためのルールを設ける一方、新ルーブル宮、新オペラ座、市庁舎、鉄道駅など、主要な公共建築物を新しく建設したり、再建したりして、街路の中心に配置しました。

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(* https://imp.or.jp/special-1-3/、クリックすると、拡大します)

 オペラ通りの平面図です。公共建築物を記念碑とみなし、パリ全体を芸術都市として生まれ変わらせたのです。

 さらに、街路や上下水道が整備され、景観にこだわって作り直されました。パリの街は、まさに産業化社会にふさわしい近代都市へと変貌していきました。

■技術優先主義と経済合理性

 オスマンは首都改造を断行するため、徹底的な技術優先主義を貫いたといわれています。土木工学的な側面はもちろんのこと、事業を進める際も実務本位の姿勢を徹底させました。

 まずはセーヌ県の機構改革を行い、それまでの縦割り行政を知事直轄の管理下に置きました。一般部門と特別部門とに分け、重点課題は特別部門に一任するという機能的な機構改革を行ったのです。
 
 人事についても同様、技術優先主義を採り、進取の気性に富み、卓越した技術をもつテクノクラートを抜擢し、採用しました。オスマン配下の四天王といわれるアルファン、ベルグラン、バルタール、デシャンらはパリ大改造プロジェクトで指導的立場に就くまで、無名の技師にすぎませんでした(* 松井道昭、前掲、p.354-355)。

 このようにオスマンが技術優先主義を貫き、断固として改造事業を展開したからこそ、パリは華麗に変身することができたといえます。もちろん、その背後に、ナポレオン三世による強力な支援があったことはいうまでもありません。

 ナポレオン三世は、パリ大改造についてのプランを雌伏期間中に、入念に練り上げていました。逃亡先のロンドンで産業革命の実態をつぶさにみていた彼は、産業発展には新たな社会秩序が必要で、都市の形態もまたそれに対応していかなければならないと考えていました。だからこそ、産業発展との調和を考え、綿密な改造プランを立てていたのです。

 実際、ナポレオンは、「わが国にはこれから開墾すべき広大な未開の領土がある、開通させるべき道路がある、穿つべき港がある、船を通せるようにすべき運河がある、完成させるべき鉄道網がある」といい、「国力は経済から生まれる」と断言しています(* ティエリー・ランツ著、幸田礼雅訳、『ナポレオン三世』、白水社、2010年、p.114)。

 さらに、「資本を増やすような順調な産業が存在しなければ、農業自体も揺籃期から抜けられない。つまりすべては、公的財産の諸要素の連続的発展において繋がりあっている」との認識を示したうえで、ナポレオンは次のような方針を提示しています。

 「羊毛と綿に対する税の廃止、砂糖とコーヒーに対する段階的減税、連絡道路の精力的かつ持続的改善、輸送費の全般的低減、農業と工業に対する貸付、大規模な公共工事、禁制事項の廃止、大国との通商条約の締結」(* 前掲、p.115)。

 当時のフランスの経済力は、イギリスやアメリカはもちろんのこと、ベルギーや北ドイツ圏にも及びませんでした。鉄道は未発達でしたし、産業化は進んでおらず、大部分が手工業のままでした。

 だからこそ、国家は財政上の負担を減らし、競争力を高めながら、産業を発展させていかなければならないとナポレオンは考えていました。そのために、さまざまな改革に着手していきましたが、その最たるものがパリ大改造でした。

 パリの大改造は、市民にとって安全で衛生的で便利な都市生活を実現させただけではなく、街を美しく、芸術的な都に変貌させました。これに世界が注目しないはずはありませんでした。

 パリの大改造には、実は政治的効果もあったのです。

■政治的効果

 大改造の期間中に、開催されたビッグイベントがいくつかあります。その一つがパリ万博です。1855年5月15日から11月15日までの期間、シャンゼリゼで開催され、516万2,000人(有料入場者のみ)が参加しました。入場者数でロンドン万博(603万9,000人)に勝ることはできませんでしたが、フランスならではの特徴が組み込まれ、目論見通り、大きな存在感を示すことができました。

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(* https://www.ndl.go.jp/exposition/s1/1855.html、図をクリックすると、拡大します)

 上図は万博が開催されたシャンゼリゼを鳥瞰した図です。道路は広く、まっすぐに伸びており、辺り一面が緑に覆われています。壮観な光景です。緑豊かなシャンゼリゼを出現させており、パリの大改造の一端を万博に訪れた観客に見せることができました。

 1855年のパリ万博の開催を担当したのが、経済顧問のシュヴァリエでした。サンシモン派の経済学を信奉し、ナポレオンから絶大な信頼を得ていた人物です。彼は実際にロンドン万博の会場を視察しており、フランスこそ最初に万博を開催すべきだったと認識していました。

 実際、フランスにはこれまでに何年も国内で産業博覧会を開催してきた実績があったからです。国際的な産業博覧会を開催しようとしていたのですが、国内の保護主義者たちから反対され、実現できなかったという経緯がありました。それだけに、産業化を推進するため、是非ともパ万博を開催しなければならないとシュヴァリエは固く決意していました。

 一方、ナポレオン三世もまた、是非ともパリで万博を開催しなければならないと思っていました。クーデタを引き起こして皇帝の座に就いたナポレオンは、皇帝として国際的に承認され、その正統性が担保される必要がありました。そのため、早急にパリで国際的なイベントを開催する必要があったのです。

 こうして、パリ大改造のさなか、万博が開催されました。おかげで海外の要人に華やかに変貌していくパリの姿を見せることができ、一定の政治的効果を得ることができました。

 その一つが、パリでの和平会議の開催です。

■クリミア戦争の和平会議

 1856年2月25日の午後、パリのオルセー通りにあるフランス外務省の新築の建物でクリミア戦争の和平会議が開幕しました。外務省に到着した各国代表が通されたのは、壮麗な大使の間でした。

 この大使の間は第二帝政期に花開いた装飾芸術のショールームのような部屋だったとオーランド・ファージスは記しています(* Orlando Figes著、染谷徹訳、 『クリミア戦争』下、白水社、2015年、p.198-199.)

 フランスの肖像画家エドゥアール・デュビュフ(Édouard Dubufe, 1819-1883)が、この和平会議の様子を描いています。ご紹介しましょう。

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(油彩、カンヴァス、311×511㎝、1856年、オルセー美術館所蔵 図をクリックすると、拡大します)

 中央の円形テーブルの傍に座り、顔を画面右側に向けている男性がいます。これがフランスの外務大臣ヴァレンフスキ(Alexandre Colonna-Walewski, 1810-1868)です。当時、46歳、1855年5月に外務大臣に任命されたばかりでした(* https://en.wikipedia.org/wiki/Alexandre_Colonna-Walewski)。

 クローズアップしてみましょう。黄色のマーカーで示した人物が、ヴァレンフスキです。この和平会議の議長を務めました。

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(* 前掲。図をクリックすると、拡大します)

 自信に満ちた表情が印象的です。パリが和平会議の開催地になったことで、外交の焦点が一時的にパリに移っていたのです。ヴァレンフスキはナポレオン三世への手紙の中で、次のように記しています。

 「今回の事態を経てフランスが一回り「大きくなったことは、誰にも否定できない事実です」と書き、「この戦争から最大の利益を引き出せるのはフランスであり、現在、フランスが欧州大陸で最も重要な国であることは間違いありません」と記しています(* 前掲。p.199)。

 パリ万博の記憶もまだ新しい時期に、パリ和平会議が開催されました。ビッグイベントが立て続けにパリで開催されたのです。フランスがヨーロッパの中心であることを印象づけ、国威を示したことは明らかでした。

 これこそ、ナポレオン三世がパリ万博に期待したことの一つでした。

■ヴィクトリア女王夫妻の万博参加

 ナポレオン三世にとって、1855年パリ万博のもう一つの成果は、ヴィクトリア女王が訪問してくれたことでした。

 ヴィクトリア女王夫妻は、8月20日にパレ・デ・ボザールを視察し、22日にはパレ・ダンストリーを訪問しています。ヴィクトリア女王夫妻は、行く先々で熱狂的な拍手で迎えられました。

 軍の楽隊は歓迎のために、イギリス国歌を演奏しました。それを聞いたフランス人たちの多くは、何世紀にもわたってイギリスと対立してきたことを思い起こし、感極まってむせびました。

 実は、ヴィクトリア女王がパリ万博会場を訪れたことには、深い政治的意味がありました。単なる万博視察にとどまるものではなく、ナポレオン三世がフランスの正統な皇帝であることを英国が公式に認めたことの表明にもなったのです。覇権国イギリスからの承認が世界に知られることが、ナポレオン三世の望みでしたが、それが叶いました。

 ナポレオンは、初めて万国博覧会の産業宮殿を訪れたヴィクトリア女王夫妻を、中央中庭に案内しました。嬉しそうな表情でナポレオンが、ヴィクトリア女王をエスコートしている絵があります。

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(* https://www.arthurchandler.com/paris-1855-exposition 図をクリックすると、拡大します)

 中央中庭には、王冠の宝石と、ゴブラン、ボーヴェ、オービュッソン、セーヴルといった帝国の工房の最新製品が展示されていました。そのセーヴルの展示品の中に、1851年のロンドン万国博覧会の記念として制作された花瓶がありました。

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(* https://www.arthurchandler.com/paris-1855-exposition 図をクリックすると、拡大します)

 これは、ジャン=レオン・ジェロームがデザインして制作された、セーヴルのロンドン万博記念の花瓶です。まさに、記念碑的な花瓶ですが、ナポレオン三世はこれを、1855年パリ万博に訪れたヴィクトリア女王と夫のアルバート公にプレゼントしました。

 ヴィクトリア女王は、8月22日付の日記に、アルベール王子がこの花瓶をナポレオンから贈呈されてことのほか喜んだと記しています。図案といい、デザインといい、色調といい、この花瓶があらゆる意味で傑作だったからでした。

 製作費は合計17,958フランだったといいます。この花瓶は1856年5月初旬にロンドンに発送され、バッキンガム宮殿の1階にあるボウルームに保管されました(* https://www.arthurchandler.com/1855-sevres-vase)。

 パリが大きく改造されることによって、衛生的で便利で、美しくなり、市民が誇りを持てる街に変貌しました。さらには、国際的なイベントが開催されるようにもなり、国家としての地位も向上しました。

 ナポレオン三世が構想し、オスマンが実現させたパリ大改造は、産業革命を経て近代化を強いられた国家が展開したプロジェクトとして、大きな成功事例といえるかもしれません。(2024/8/31 香取淳子)