ヒト、メディア、社会を考える

06月

金山農民画に見る、レトロでポップな感覚

■「金山農民画」展の開催

 日中友好美術館で、「金山農民」展が開催されました。開催期間は2019年6月6日から26日、開館時間は10:00~17:00です。6月13日付の日経新聞でこの展覧会の開催を知り、是非とも行ってみたいと思っていたのですが、なんとか都合をつけられたのが6月25日、終了日の前日でした。

 ビルに入ると、すぐ左手に会場が見えました。「中国のレトロ&ポップ」の文字が印象的です。

展覧会

 会場入り口の設えは黄色をベースカラーとし、タイトル通り、「レトロ&ポップ」な絵柄の作品が掲示されていました。なんともいえない懐かしさを覚えたことを思い出します。

 中国の美術に「農民画」というジャンルがあることを知ったのは、6月13日付け日経新聞の「農民の、農民による絵画」というタイトルの記事でした。筆者の陸学英氏によると、金山というのは上海市金山区のことで、「中国三大農民画の郷」といわれているといいます。

 チラシの説明文を読むと、金山農民画は、もともと絵を描くのが好きだった農民たちが余暇時間に描いたのが始まりだとされているようです。会場にはその金山の農民画70点が展示されていました。農民画と聞いて、てっきり、農村風景を写実的に描いた作品だと思い込んでいたのですが、実際はカラフルで装飾的な作品が多く、それぞれ不思議な味わいがありました。

展示作品はどれも農民の生活風景を描いたものですが、便宜上、モチーフの捉え方に沿って、いくつかに分類し、ご紹介していくことにしましょう。

なお、ショーケースの中に展示されていた作品は写真を撮影しにくかったので、壁に展示されていたもののみ取り上げることにします。結果として、建物を描いた作品は取り上げることができなかったこと、また、取り上げた作品の中には照明が反射して写り込んでいるものがあること、等々についてはご了承いただければと思います。

■近景で捉えたモチーフ

 まずは近景でモチーフを捉えた作品から、ご紹介しましょう。

●薬草を採る娘

 会場に入ってすぐ右側の壁に展示されていたのが、「薬草を採る娘」でした。

薬草を採る娘

 画面中央に娘が、正面を向き、手を組み、やや緊張した面持ちでこちらを見つめています。背景には色とりどりの花々、蝶々などの動植物がぎっしりと描かれています。タイトルから推察すれば、これらは薬草の花なのでしょう。画面の左下には花々に埋もれるようにザルが描かれていますし、少女は黒いエプロンをつけています。

 その働きぶりが表彰されたのでしょうか、日焼け防止用の帽子を被り、胸には大きな花のついたリボンをつけています。薬草摘みの作業が評価され、このようにカラフルで美しく描かれているのです。

 この作品からは、農村では労働に応じて表彰されていたことがわかります。三つ編みにした髪に花を飾り唇に紅を挿し、やや緊張した面持ちには晴れがましさとともに恥じらいも見受けられます。まるでハレの日に記念撮影をしているかのような絵柄でした。農村の少女の初々しさが好ましく思えます。

●花と鶏

 まるで西洋画でよく見かける肖像画のように、鶏が横向きで描かれています。鶏が主人公として扱われており、背後に木に咲いた花々が描かれています。これまでに見たことのない絵柄です。

花と鶏

 深い緑色の地を背景に、鶏が中央に描かれ、その周囲に色とりどりの花をつけた小枝が描かれています。鶏の足は奇妙な楕円形のものの上に置かれています。足元は不安定ですが、身体部分は逆三角形のラインで描かれており、安定感があります。

 それにしても、奇抜な絵柄です。普段は地面を徘徊している鶏がどういうわけか、花を咲かせた木の中央に描かれています。木を支える土台であるはずの土が、いくつかの楕円形に分かれて描かれています。下草なのでしょうか、そこには小さな草花が描かれています。鶏がいかに農村の生活にとって大切な存在なのかが、わかるようなモチーフの取り扱いです。鶏も花も枝も装飾的に描かれています。これもまた農村の一光景なのでしょう。

 この作品を見ていると、色とりどりの花は幸せの象徴として捉えられていたのではないかという気がしてきました。

●旬の野菜

 会場の中ほどの壁に展示されていたのが、この作品です。あまりにも装飾的でポップな感覚の画面構成に驚いてしまいました。タイトルは、「旬の野菜」です。

旬の野菜

 色とりどりの野菜が画面いっぱいに隙間なく、描かれています。それぞれの野菜は大きさや色彩を考慮してバランスよく並べられており、とても美しく、つい、見入ってしまいます。

 農村の生活で豊かさをもたらせてくれるのは、野菜であり、その色合いや形状は彼らにとって、まさに美そのものなのでしょう。一つ一つがまるで人格をもっているかのように、丁寧に、個性豊かに、そしてシンプルに描かれていました。

 さまざまな野菜が一枚の画面に収められたこの作品はまるで、農村に住む人々は誰しも、が喜びも悲しみも共有して暮らしていることを象徴しているようにも見えます。さまざまな野菜画面一面に描き切ることによって、農村の価値と、その依って立つ基盤を描くことができたといえます。すばらしい象徴性があると思いました。

■中景で捉えた生態

 それでは、中景で捉えた農村の生態を描いた作品をご紹介しましょう。

●アシの池

 アシの池で遊ぶ5羽の白鳥が描かれています。タイトルは「アシの池」です。

アシの池

 白鳥はアシの生える池を好むようですから、この作品はそのような白鳥の生態を捉えて描かれたものなのでしょう。アシの葉にしても、水草にしても、シンプルな画像を多数、描くことによって、アシの池の様子が端的に表現されています。

 実際は、まるで図案のようなシンプルな画像をコラージュすることによって、一つの作品世界が創り上げられています。使われている色数も少なく、白鳥の白さが印象的です。記号的な要素の強い作品だと思いました。

●雪蓮花図

 展示作品の中では地味な色合いの作品で、印象に残ったのが、「雪蓮花図」でした。


雪蓮花図

 色数が少ないのに、どこかしら華やぎがあり、その一方で、落ち着いた色調で静かな中にも豊かさが感じられる作品でした。華やかさを感じさせられたのはおそらく、蓮の花が大きく明るく描かれていたからでしょうし、豊かさを感じさせられたのは、蓮池の様子が賑やかに描かれていたからでしょう。

 たしかに、蓮の花が咲き乱れているかと思えば、蓮の実がいくつもできており、トンボが飛んでいるかと思えば、蓮の葉の下の水面に、小さな魚が泳いでいます。植物も動物も共に、蓮池の中で調和して生きています。そのことが豊かさを感じさせるゆえんでもあるのでしょう。

 地球上で生きるものは一切合切、このように調和して生きていくのが道理だと訴えかけているようにも見えます。

 考えてみれば、蓮の花が咲く一方で、大きな蓮の実が成っているのは妙な話です。花が枯れてから実がなるのが通常ですから・・・。奇妙といえば、蓮の花は7月から8月にかけて咲くといわれているのに、トンボが飛んでいます。つまり、この絵の中に様々な季節の蓮池の様子が取り込まれているといっていいでしょう。蓮の生態を一覧できるように描かれた作品だといえるのかもしれません。

■遠景で捉えた群像

 それでは、遠景でモチーフを捉えた作品をご紹介しましょう。

●村はずれの魚市場

 村人が作業する光景を描いた作品があります。「村はずれの魚市場」というタイトルの作品です。


村はずれの魚市場

 種類ごとに分類された魚が入った水桶が、画面中央にいくつも置かれ、その間を縫うように、人々が働いています。ホースを持って水を桶に補充するヒト、水桶から魚を取り出しているヒト、会計をしているヒト、等々。画面上方には買い物客が傘を差し、手にかごをぶら下げて並んでいます。子連れのヒトもいれば、女性同士、単身で訪れたヒトもいます。

 右側のテーブルには、重さを量る吊り秤とソロバンが置かれています。魚の重さを量り、値段を計算するためでしょう。そして、会計を終えたヒトは魚をかごに入れたり、手で持ったりして帰っていきます。その手前にあるのは調理台なのでしょう、処理された魚の骨が見えます。

 この一枚の絵から、村の人々が魚を購入する様子がつぶさにわかります。タイトルからすると、どうやらこの魚市場は村はずれに設置されているようです。おそらく、辺り一帯が魚の臭いで充満しているからでしょう。

●納涼

 暑い夏の夕べ、村人が憩うひと時を描いた作品もあります。「納涼」というタイトルの作品です。

納涼

 中央に描かれているのが、家の前に椅子を出し、親子が団扇を片手に涼んでいる姿です。テーブルの上にはスイカとラジカセが置かれています。涼みながら、音楽を聴き、スイカを食べているのでしょう。腹帯だけの子どもがスイカを口に含んでいます。和やかな親子団欒のひととき、家族の後ろを犬が動き回り、周辺はひまわりが大きく花を咲かせています。

 一方、右側の家族は夫婦二人だけで夕涼みをしています。小テーブルにはポットが置かれていますから、お茶を飲んでいるのでしょう。二人とも団扇を手にしています。家々の周囲は実をつけた木々が立ち並び、豊穣がもたらす幸せが描かれています。

 画面真ん中には石の階段のようなものが置かれ、その左下に小さな船が一艘、停泊しています。水上には水連のような花が咲き、どういうわけか、その水連に接するように、画面右側にはかぼちゃがたくさんぶら下がっている棚があります。ありえない設定ですが、別段、違和感はありません。リアリティには欠けていますが、むしろ、農村生活で必要なアイテムが重視されて、描かれているように思えます。

●上海の祝日

 農村のヒトもたまには都会に出かけることもあるのでしょう。上海のにぎやかさを描いた作品があります。タイトルは、「上海の祝日」です。

上海の祝日

 サーチライトがさまざまな方向からカラフルな色を投げかけ、夜空を輝かせています。高層ビルが林立し、その下には新幹線が走り、龍踊を楽しむ人々の群れが描かれているかと思えば、バスが走り、車が走り、人々が歩いている姿が描かれています。さまざまなものが混在する上海の喧騒が、カラフルでイラストのような画像で表現されています。

 目にしたものをすべて一枚の絵に収めているのですが、そこには上海という都市のもつ多様性、先進性、そして、伝統と近代の混在が一目で分かる様に描かれています。真ん中に白い新幹線を配置することによって、カラーバランスが図られ、絵の混雑さが緩和されています。

■俯瞰で捉えた群像

 一連の作品の中で私が興味を覚えたのは、俯瞰で捉えられた群像の姿です。

●カニ獲り

 上海カニで有名なカニ獲りの様子を描いた作品です。タイトルは絵柄そのままの、「カニ獲り」です。

カニ獲り

 河川の何ヵ所かが、波打つような曲線を組み込んで設置された垣根で囲われています。その中に浮かぶ一艘の船には男が一人、櫓をこいでいます。船には大きな籠が置かれ、それ以外の道具は見当たりません。カニは生け捕りにしているのでしょう、籠の口は小さく、中ほどが大きく膨らむ形になっています。捕獲した蟹を逃がさないような構造になっていることがわかります。

 無数の水草の周辺をカニが動き回り、所々、ピンクの花も咲いています。カニの形や大きさが一様なら、水草も花も一様でした。図案化された絵柄が印象的です。

●春雨を干す

 春雨を干す作業が俯瞰画像の中で見事に捉えられています。作品タイトルは、「春雨を干す」です。

春雨を干す

 春雨を干す作業がカラフルに、そして、シンプルに描かれています。干された春雨を吊るすラインが斜め平行にどこまでも延々とつながっており、圧倒される景観が創り出されています。

 黒地を背景に、白く垂れ下がる春雨のラインが、画面の基調を作っています。その狭間で働く色とりどりの衣装を着けた女性たちの姿は、鑑賞者に視覚的な快さを感じさせます。カラーバランスの効果といえるでしょう。

 その一方で、画面を斜めに切り取るいくつもの平行線(春雨を吊り下げた竿のライン)が、静かな作業の中に整然とした動きを生み出しています。生と動、地の黒と春雨の白に対し、働く女性たちのカラフルな装い、色彩の対比が活かされ、シンプルでありながら、動きがあり、リズムも感じられる画面構成になっていました。

●ザリガニ養殖

 「ザリガニ養殖」というタイトルの作品があります。ザリガニを養殖するなど、考えてみたこともなかったので、このタイトルを見て、驚きました。

ザリガニ養殖

 調べて見ると、アメリカザリガニ産業はいま、中国で急成長中の新産業なのだそうです。中国水産学会(2017年)の報告によると、2016年度の総生産量は89.91万トンにも及び、中国はいまや、世界最大のアメリカザリガニの生産国になっているようです。

https://www.sankeibiz.jp/macro/news/180501/mcb1805010500001-n1.htm より)

 それにしても、この作品の構図とモチーフには牧歌的で、しかも、多様な情報が詰め込まれた面白さがあります。

 居宅を中心に、道路や地面を青色で三方向に延びるように描き、そのラインで区切られた三つのゾーンは、地を黄緑色で塗り潰し、川に見立てています。黄緑色の地のゾーンにはザリガニが無数に描かれ、その合間に何種類かの水草も描かれています。

 右側のゾーンには、船から餌を投げる男性が描かれ、居宅から下に伸びる道路では女性が餌を撒いています。居宅を中心に周囲がザリガニの生産拠点になっているのでしょう。家族総出で餌やりをしている光景が描かれています。

 中心部の居宅付近では、トラックが横付けになり、その右には収穫したザリガニを詰めた袋が数個描かれています。収穫したザリガニをこれから出荷するのでしょうか。この一枚の俯瞰図の中に、生産から収穫、そして出荷までの一連の作業が収められていることがわかります。

 家の背後に林のようなものが描かれる一方、家の手前には花を咲かせた大きな木が描かれています。これらは豊穣のシンボルとして描かれているのでしょうか。

●田植えに忙しい五月

 まるで地図のようだと思って近づいて見ると、「田植えに忙しい五月」というタイトルの作品でした。


田植えに忙しい五月

 道路や地面はオーカー色で描かれ、空が黄緑、田は青やモスグリーン、イエローグリーン黄色、黄緑とさまざまな色が使われています。モチーフを識別するため、カラーバランスを考えながら、着色されていることがわかります。

 区切られた田では、それぞれ別々の農作業が行われています。たとえば、左上の田では、数名が横並びになって苗床から、苗の束を作っています。畔道には苗を運ぶ女性が描かれています。その真下の田では、女性が数名、横並びになって苗を植え付けています。そして、その後ろには苗が束ねられて置かれています。

 すでに苗が整然と植えられた田がある一方で、牛を使って男性が土を耕している田もあります。その真下の田では、男性が殺虫剤のようなものを撒いていますし、右上の田では男性が肥料のようなものを撒いています。手前の道路には鍬を担いだり、肥料のようなものを運んだりしている人々が描かれています。

 興味深いことに、画面右下に水車が描かれています。近くの水溜まりから動力で水を汲み上げ、水田に放出している様子が描かれています。水田耕作に欠かせない水がこのように補給されているのです。

 さらに、画面上方を見ると、家々が立ち並び、その背後に、農村の人々を守っているかのように、木々が高くそびえているのが見えます。のどかで平和な農村の田植えの風景が、カラフルにシンボリックに表現されることで、過酷な農作業も実は楽しい側面があるのだと教えてくれているような気がします。

 こうしてみると、農村の田植え時の作業全般が、一枚の絵に見事に描かれていることがわかります。

■日常生活の一コマにドラマを見る

 室内の光景もまた、面白い観点から捉えられていました。二点ほどご紹介しましょう。

●「端午節」

 端午の節句のための粽作りをしている女性の立ち姿が描かれています。「端午節」というタイトルの作品です。


端午節

 テーブルの上に大きな籠が置かれ、その中に出来上がったばかりの粽が次々と詰められています。その右側には粽を包むための笹の葉、そして粽の中に入れる餡が大きな鉢に盛られています。テーブルの下を見ると、大きな酒甕が置かれています。これも端午の節句を祝うために用意されているのでしょう。

 女性は一心不乱に粽を作っていますが、ふと、テーブルの下に目を向けると、脚部に猫が手をかけテーブルの上の餡を狙っています。日常の何気ない光景がユーモラスに捉えられています。

●「逃げ場がない」

 日常生活の中に、ちょっとしたドラマの片鱗がうかがえる作品がありました。タイトルは「逃げ場がない」です。


逃げ場がない

 「逃げ場がない」というタイトルを見て、どういうことかと思い、絵をよく見ると、豪華な料理がセットされたテーブルの下で、鼠が二匹の猫に挟み込まれ、絶体絶命の状況に置かれています。

 左の猫はいまにも鼠の尻尾を捕まえようとしていますし、右の猫は正面から鼠に手をかけようとしています。まさに危機一髪ですが、鼠はおそらく、テーブルの上の豪華な料理をすこしばかり失敬したのでしょう、猫はそれを見逃さず、鼠を前と後ろから挟み撃ちし、根鼠を苦境に追い込んでいます。

 まさに「逃げ場がない」状況です。ドラマティックなシーンが日常生活の一コマの中にあることを教えてくれる作品です。

■投げ網、张美玲vs姚喜平

 「投げ網」というタイトルの作品が二点ありましたので、ご紹介しましょう。

●姚喜平氏の「投げ網」

 全般に色調の暗いのが、姚喜平氏の「投げ網」でした。

投げ網

 上方に一艘の船が描かれ、女性が漕ぎ、男性がそこから網を投げ、魚を捕獲しています。網の中には大きな魚が三匹、入っています。右下や真下にも同様の船が描かれていますが、こちらは網をなげたばかりで円を描いた状況で描かれています。

 陸ではバケツのようなものを持っている女性や子ども、男性の姿が描かれています。家族なのでしょうか、待ちわびている様子がうかがえます。画面の隅は水になびく海草がぎっしりと描かれ、画面の密度を高めています。

 この作品には投げ網漁に関わる人々が過不足なく描かれていますし、色彩のバランス、モチーフの配置なども的確で、状況説明に終わらないものが表現されていました。

●张美玲氏の「投げ網」

 暗い色調の中で投げ網につけられた赤いブイと船をこぐ男性が持つ櫓の赤が画面に彩りを添えています。

投げ網

 画面の中で赤いブイをつけた三つの投げ網がこの作品の中心に位置づけられています。その周辺は遠目に見ると、淡いブルーで色取られ、外周が暗い色調で構成されているように見えます。

 近づいて見ると、黒く見えたのは海草ですべて、一様に垂直に立ち、右から左方向への波に流されているからでした。魚は同じような大きさのものが、投げ網の周辺を回遊しており、そのせいか、そこで渦巻いているように見えます。

 三つの投げ網は三角形状に位置付けられ、それぞれ、黄色の綱で船に結び付けられています。右上の船には二人の男性が乗っており、一人は網を投げ、一人は櫓を漕いでいます。

 右下と真下の船は網を投げる男性が見えるだけです。

 海草が多数、垂直に描かれているせいか、画面が硬直して見えます。その硬直性を緩和させるために、漁網のブイの赤さを強調して描いたのかもしれません。モチーフの配置や色彩バランスにやや密度が欠けるかなという印象を持ちました。

■概念の絵画化

 展示作品全般にシンボリックな描き方がされていると思いましたが、その中でもとくに印象に残ったのが、「母の愛」という作品でした。概念の絵画化が図られているような気がします。

●母の愛

 それにしても、不思議な印象の残る作品でした。「母の愛」というタイトルがつけられていますが、絵柄からはその意味がわかりません。

母の愛

 真ん中に円状の網が描かれ、その中にカエルが多数泳いでいます。円の周縁に、東西南北の方向に4人の女性が配置され、その手前にそれぞれ、オタマジャクシが円を作っています。この絵柄がどういう意味を持つのか、考えてみてもわかりませんでした。

 タイトルを見ると、「母の愛」ですから、カエルがオタマジャクシを守ろうとしている光景なのでしょうか。そう思ってこの作品を見ると、カエルは女性の手元に近づき、噛みつこうとしているものも見られます。まるで、背後のオタマジャクシを庇おうとしているかのように、攻撃的になっています。

 この作品は完全に図案化されています。

 4人の女性が囲い込む網の外は、画面の四隅を結ぶ対角線上の、網の外縁にある部分から四隅まで、それぞれ四本の木の幹が描かれています。四隅を頂点に枝が垂れ下がり、葉が茂っている様子が描かれています。

 幹の焦げ茶色、葉の緑、そしてカエルとオタマジャクシが入ったオフホワイトの水中、ブルーの網、4人の女性の青い服に赤いエプロン、オーカー色の帽子、色の取り合わせの見事なばかりか、それぞれが背景色の黒に調和しています。図案の妙味と卓越したカラーバランスが相俟って、見事な作品になっていました。

 ここでも自然の中のヒトと小動物の関わり合いが描かれています。牧歌的であり、生命の原初的な姿が表現されていました。とてもシンボリックで、色のバランスもよく、図案としても美しいと思いました。

■プリミティブな表現の持つ訴求力

 金山農民画展の展示作品の中から17点ご紹介してきました。いずれもカラフルで大胆な構図、いくつもの視点を取り込んだ斬新な画面が魅力的でした。この展覧会のサブタイトル通り、「レトロ&ポップ」な感覚に満ち溢れた作品を見ていると、どこか懐かしく、そして、心弾むような気持ちになっていくのを感じました。気持ちが解放されていくのがわかるからでしょう。

 レトロな感覚が呼び覚まされたのは、描かれたモチーフのせいかもしれませんし、平坦な描き方のせいかもしれません。もはや目にすることができないような農村の光景だからこそ、懐かしい感情が湧き上がってきたのだと思います。そして、過ぎ去った日々への愛惜の情が喚起され、生きること、生きていくことの原初的な姿に想いを馳せるたからでしょう。

 一見、幼く見える描き方には、プリミティブな訴求力を感じました。画家たちが日常生活の中で見聞きしたことを、素直に受け止め、そのまま表現したからこそ、国境を越え、鑑賞者の気持ちに訴えかける力を持ちえたのだと思いました。

 たとえば、最後にご紹介した「母の愛」という作品の場合、カエルとオタマジャクシの入った網の水槽のようなものは、真上からの視点で描かれています。ところが、その周囲に座る4人の女性の姿は、真上からでも、真横からでも、どんな方向からでも捉えられません。四方に描かれた木も同様です。

 おそらく、ここで描かれたモチーフはすべて、立体であるにもかかわらず、平面で描かれているからこそ、さまざまな視点を一枚の絵の中に混在させても、モチーフは違和感なく調和し、存在することができているのでしょう。

 一連の作品を見ているうちに、このような描き方の中に、私たちがすでに失ってしまった何か大切なものが含まれているのではないかという気がしてならなくなりました。紙であれ、キャンバスであれ、描くという行為は、三次元のものを二次元の世界に置き換えることですが、その際、私たちは三次元の姿をどうすれば、二次元の世界で表現できるのかということを追求してきました。

 ところが、この展覧会に出品された作品はいずれも、三次元のものを二次元のままで表現されており、そこに斬新さが見受けられたのです。ひょっとしたら、二次元のまま表現しても、観客に違和感を抱かせないためのルールがあるのかもしれません。いずれにしても、この展覧会に出品された諸作品を見て、プリミティブな表現の持つ訴求力について考えてみたいという気持ちになりました。(2019/6/30 香取淳子)

第43回風子会展覧会:油彩画に織り込まれた日本的感性

■第43回「風子会展覧会」の開催

 2019年6月20日、「クリムト」展を見ようと思い、東京都美術館に行ってみると、チケット売り場はもちろんのこと、会場入り口にも長蛇の列ができていました。これでは会場に入っても、ゆっくり鑑賞することはできないでしょう。

クリムト展ロビー風景

 クリムト展は早々に諦め、1Fで開催されていた公募展に行ってみることにしました。第3展示室で開催されていたのが、風子会主催の展覧会で、今年で43回目になるといいます。開催期間は2019年6月14日から21日までですから、ちょうど最終日の前日でした。

風子会展覧会

 会場では油彩画83点と木工作品2点が展示されていました。

会場内展示作品

 テーマがさまざまなら、画風もまたさまざまな力作が展示されていました。作品を次々と見ていくうちに、画面の背後から作家の個性が色濃く浮き上がって見えてきます。素晴らしい作品がたくさん展示されていたのですが、今回は、とくに印象に残った作品だけをご紹介していくことにしましょう。

■「慈愛」

 まず、入口近くに展示されていた作品に目が留まりました。現代的な母子像です。モチーフと背景の色調が調和し、画面全体に統一感のある柔らかな雰囲気が醸し出されていました。近づいて見ると、母親の眼差しが限りなく優しく、深淵でした。その表情に引き込まれ、しばらく見入ってしまいました。

慈愛

(キャンバスに油彩、1,303×970mm)

 それにしても、なんと穏やかで、慈愛に満ちた眼差しなのでしょう。視線はひたすら、赤ちゃんに向けられています。赤ちゃんの頭部は母親の手よりも小さいので、おそらく、まだこの世に生を受けて間もないのでしょう、目を閉じたまま無心に親指をしゃぶり、必死で生きていこうとしています。

 母親はやや前かがみの姿勢でしっかりと赤ちゃんを抱え、その寝姿をじっと見つめています。まるで全身で赤ちゃんを支え、保護しているかのように見えます。愛おしく思う一方で、親として大きな責任も感じているのでしょう、きりっと結んだ口元に覚悟のほどがうかがえます。

 ジーンズを履いた母親が、木製ベンチに座って赤ちゃんを抱きかかえる姿からは、無償の愛が透けて見えます。自己犠牲をいとわず、見返りを求めない愛・・・、いまではもはや得難いものになってしまっていますが、この作品にはそれがありました。久しぶりに母子関係の原点を見る思いがしました。

 なによりもこの作品には、鑑賞者に安らぎと平穏を感じさせる安定感がありました。もちろん、それはモチーフや絵柄のせいでしょうし、あるいは、全体の色調や構図のせいかもしれません。

■水平線を軸にした構成

 画面の中央に、赤ちゃんを抱いた母親の全身が配置されています。よく見ると、木製ベンチにはいくつもの水平線が内在しています。 脚部に始まり、腰板の手前とその奥、そして、背面といった具合です。 それらは長方形や台形などの形をしていますが、そこにはいくつもの水平線が内在しており、画面はそれらによって区切られています。

 大きな画面に木製ベンチを置くことによって、ごく自然な形で、潜在的な水平線をいくつも設定することができていたのです。その結果、片足を組んで赤ちゃんを抱きかかえる母親の不安定な姿勢を安定化させて見せる効果がありました。

 しかも、木製ベンチに潜在するこれらの水平線は、上方に向かうにつれ、狭くなっています。それが平面に奥行きを感じさせる一方、前かがみになった母親の姿勢を構造的に安定して見せる効果を生み出していました。

 母親の頭頂部を頂点だとすると、赤ちゃんの頭を支える左肘と、脚部を抱えるために伸ばした右手の肘とが底辺となって、三角形を形作っています。この三角形の底辺の水平線は、背後の木製ベンチに潜む水平線と調和し、ブレることなく画面を秩序付け、安定させています。

 まるで積木を重ねるように、いくつもの四角形を積み上げた上に三角形が置かれているので、構造的に安定して見えるのです。こうしてみてくると、森氏は、いくつもの水平線を含むモチーフを画面に取り込むことによって、自然な形で幾何学的に安定した構図を生み出していることがわかります。

 さらには、動きを生み出す斜線(顔の傾き、肩のライン、組んだ脚など)や曲線(セータ、ベンチに敷かれた布など)が加えられ、それらが、安定をもたらす水平線と巧みに組み合わされて、調和のとれた画面構成になっていました。

 そういえば、左上方に描かれた葡萄の枝もまた、横からほぼ水平に突き出しています。もし、このモチーフがなければ、母親の背後に意味のない空白ができてしまい、画面がダレてしまうでしょう。このモチーフを取り入れたおかげで、垂れさがる葡萄の実と上方に伸びる葉(いずれも曲線)が、背面から母子を柔らかく包み込む効果を生み出しています。

■色調に置き換えられた背景

 興味深いことに、この作品には背景がありません。画面には木製ベンチ、母親と赤ちゃん、葡萄の枝、というモチーフが描かれているだけです。正確にいうと、背景は、区切りも何もない淡い色調だけなのです。

 床面と思える部分は淡いモスグリーン、木製ベンチの背景あたりから次第に黄土系の肌色に変化し、そこから上方は淡いグラデーションで処理されています。ですから、どこから床でどこからが壁、どこまでが地面でどこからが地上なのか判然としません。それでも、画面には奥行が感じられ、モチーフにはしっかりとした実在感があります。

 見れば見るほど、不思議な気持ちになります。モチーフそのものはリアルに描かれ、実在感はあるのですが、背景はグラデーションをきかせた淡いアース系の色調で代替されています。ですから、モチーフはすべて、宙に浮いているように見えますし、抽象化された空間にモチーフが配置されているようにも思えます。

 この作品からは余分なものは一切、そぎ落とされています。だからこそ、慈愛という概念そのもの、あるいは、母子関係の原初的な姿が浮き彫りにされているように思えました。

 会場にはもう一つ、森和子氏の油彩画が展示されていました。こちらは風景画です。

■「林をぬけると男体山」

 小品ながら、目に留まったのが、「林をぬけると、男体山」という作品です。画面からホッとする安らぎと温もりを感じさせられ、引き込まれて見てしまいました。表示を見ると、作者は先ほどご紹介した森和子氏でした。

林をぬけると男体山

(キャンバスに油彩、410×318mm)

 会場の照明が額縁のアクリル面に映り込んでしまっているのが残念ですが、黄昏時の白樺林を描いた作品です。木の幹の数ヵ所と背後の山並みが、淡い紫系の色合いで描かれています。残照によって色合いが変化したのでしょう。その色調がなんともいえず、幻想的で洗練された美しさを創り出しており、惹かれました。

 画面右方と上方には淡い残照が描かれており、白樺の幹の白さをことさらに印象づけています。背後の山並みや白樺の幹のいくつかに置かれた淡い紫色が、下方の水面にも置かれ、画面全体に快い静謐感をもたらしています。黄昏時の微妙な光景が、柔らかな色調の中で見事に捉えられていました。

 画面中央より少し下に、明るいオーカー色で小道のようなものが描かれています。白樺の林をぬけると、おそらく、男体山に続く道に出るのでしょう。一本、一本、異なる表情を見せて立つ白樺の林の間を、爽やかな風がそっと吹き抜けていっているように見えます。

 先ほどご紹介した人物画といい、この風景画といい、森和子氏の作品には独特の世界が創り出されています。それが気になってスタッフに尋ねてみると、会場内におられるということでしたので、探し出し、「なぜ、この絵を描こうと思ったのか」聞いてみました。

 すると、森氏は、「山道を歩いていくと、男体山が見えてきたから、ああ、この林をぬけたら男体山だなと思って描いた」と説明してくれました。そして、下草の下に流れる小川のようなものは「水溜まり」だといいます。

■太陽の下、大地に根を据え、風にそよぎながら存在する

 森氏は、「空気はいつも流れているし、風は吹いている。光は射し込んでいるけど、いつも同じではない」といい、風景画を描く場合の心得として、「それをキャンバスの上で捉えようとすると、色合いで表現するしかない」と教えてくれました。

 確かに、空気には形がないし、色がついているわけでもありません。風も同様です。目で見て捉えることはできないけれども、確かに、存在しています。目に見えないものを見える形にする手段として、森氏は色合いで表現するというのです。

 また、森氏は光にもこだわっていました。光にも形も色もありませんが、反射してモノを明るく見せたり、輝かせて見せたりします。もちろん、光量も光の方向もまたいつも同じではありません。光が当たっている箇所もあれば、当たらない箇所があってモノの形が浮き彫りにされますが、それも、いつも同じではありません。つまり、自然界に存在するものは何一つ、固定されたものはないのです。

 風景を描く際、森氏は、描こうとする対象そのものだけではなく、そこに吹く風、包み込む空気、そして、射し込む光など、一切合切を含めて対象を捉えようとしていました。ですから、瞬間、瞬間で動いている空気も風も光も同様に、キャンバスに収めようとするのですが、そのような形のないもの、色のないものをどのように捉え、表現するのかといえば、色合いだというのです。

 たとえば、画面右側の白樺の木は左側に比べ、明らかに色合いが淡く、柔らかな色調で処理されています。おかげで、右方からの残照が幹に反映されていることがわかります。左右の幹を色分けすることによって光の存在を明らかにしているのです。

 さらに、木々の葉は一様に右に流れ、下草の葉は左右に流れるように描かれています。ですから、上方では左から右に風が吹き、下方はそれよりも弱い風が吹いていることがわかります。下草の下には水が流れています。森氏が「溜水」だと説明してくれた水流ですが、その水流の色合いに、空気の流れや水温が感じられます。

 対象を詳細に観察しているからこそ、森氏は、微妙な色合いの中に風や空気、光をモチーフの中に取り込むことができているのでしょう。微妙な色合いを創り出し、濃淡を効かせて組み合わせることによって、画面上にモチーフばかりか目には見えない自然現象(大気、風、光)を表現できているのです。

■再現するのではなく、表現する行為

 森氏の作品に私がほっとさせられるのは、おそらく、単にモチーフが描かれているだけではなく、それらを支えている大気、風、光までも捉えられているからでしょう。目に見えないものが表現されているので、作品を見たとき、モチーフを取り巻くニュアンスをくみ取ることができます。 人物画であれ、風景画であれ、そこに「生」を読み取ることができるのです。 だからこそ、鑑賞者はありのままの状態で捉えられているように思い、見ていて気持ちが和み、落ち着くのでしょう。

 森氏は自身の描き方について、「見た光景そっくりに描くのではなく、いったん心で受け止めて、それから描く」といいます。つまり、描くという行為は観察の結果、現実を再現するのではなく、まずは心で受け止め、自身のフィルターを通してから表現する行為だというのです。当然、要らないものは省き、要るものは加えることもあるでしょう。写実といっても、森氏の場合、現実をそのまま引き写すのではなく、対象を観察したときに心に映った像を描いているのです。

 振り返ってみると、私がこれまでさまざまな展覧会で見てきた油彩画作品のほとんどが、現実の再現に終始していたような気がします。 森氏のような油彩画の作品はあまり見たことがありませんでした。ですから、森氏の作品に新鮮味を覚え、興味を抱いたのです 。

 ところが、風子会展覧会では、西山加代氏の、「古木に咲く」、「窓辺にて」、「雨上がり」というタイトルの三作品にも、森氏の作品に通じるものを感じました。森氏にそういうと、実は、西山氏は森氏のお弟子さんだといいます。
似たような印象を受けたのがお弟子さんの作品だと知って、驚いてしまいました。

 森氏が出品されていたのは人物画と風景画であり、西山氏はすべて植物画でした。ところが、モチーフが異なっているのに、私は両氏の作品に似たような印象を抱いていたのです。ということは、つまり、森氏には独自の作風があり、それが西山氏に着実に受け継がれていることが示されているといえるでしょう。

 それでは、森氏のお話しを聞きながら、西山氏の「古木に咲く」を見てみることにしましょう。

■「古木に咲く」

 会場で一目見て、なぜか懐かしい気持ちがし、引き付けられてしまったのが、「古木に咲く」でした。

古木に咲く

(キャンバスに油彩、1,455×1,120mm)

 古木に赤バラと白バラが咲いています。その奥にはレンガの壁があり、手前右には名前も知らない草木が生えています。庭の一角なのでしょう、陽光が花や葉に射し込み、所々、明るく輝き、弾むような煌きを見せています。ささやかな幸せが感じられる光景です。

 森氏はいいます。

 「真っ白なキャンバスに向かうと、勢い込んで、見たもの全てを描こうとしがちです。大きなサイズになるほど、そうですね。でも、そうすると、すべてが説明になってしまいます。だから、一番、描きたいもの、目立つものを中心に描くようにと指導しましたね」

 そういえば、中央の大きなバラとその右上のバラは細部まで丁寧に描かれているのに、それ以外は形が崩れ、小さくなり、ただ色が置かれているだけのものもあります。葉も同様です。中央の大きなバラの周辺は葉の形をしていますが、だんだん形が崩れ、色彩がおかれるだけになっていきます。

 おかげで作品に奥行きが感じられ、モチーフが立体的に見えてきます。・・・、ということは、このような描き方は一種の遠近法といえるものなのでしょう。

 画面上方を見ると、みどりや黄色、白の混ざった明るい色だけが、左上から右下方向に流れるように描かれています。強烈な陽光が射し込んでいるのでしょうし、そこから微かな風も吹いているのでしょう。大気の流れが感じられます。

 その光の先が足元の草木に射し込み、葉先が白く光っています。形のない光と風がこのような形で表現されており、その実在を感じることができます。

■天地人三才

 この作品の構図について、森氏は「生け花と同じね」と説明してくれましたが、そのとき、私にはその意味がよくわかりませんでした。そこで、帰宅してから調べて見ると、未生流の生け花の造形理論に、森氏の説明に近いものがありましたので、ご紹介しておきましょう。ちなみに、未生流は文化文政期に生け花の様式を確立した流派です。

こちら → http://misho-ryu.com/about/course/

 とくに印象に残ったのが、「天地人三才」という考え方です。すべての生物は、天地の恩恵があってこそ存在しうるという認識の下、「天」と「地」の中に「人間」が存在すると考えるのが、三才説です。

 天がもっとも高い位置、地はもっとも低い位置、そして、人間はその中間の位置に配置されますが、その頂点を結ぶと、直角二等辺三角形になるというものです。未生流では、これがもっとも基本的な花形で、このように造形すると、一つの調和した世界が創り出されるという考え方です。

 その「天地人三才」の造形理論を応用したのが、この作品の構図だというわけです。二等辺三角形を構図の中に組み込むことによって、構造的な安定感が生まれるというのです。そう言われて改めて、西山氏の他の作品を見ると、「窓辺にて」、「雨上がり」も同様の造形理論に基づき、構成されていることがわかりました。

 確かに、安定した構図だからこそ、モチーフの形を崩しても絵画として成立するのでしょう。

 どの作品も、主役、脇役、端役といった具合にモチーフに強弱をつけ、比重の置き方の違いに応じた描き方がされていました。そのせいか、画面にリズムが生み出され、モチーフが放つ情緒のようなものまでも表現されていました。余分なものを排除し、適宜アクセントをつけることによって、作品の訴求ポイントが明確になっていたからでしょう。

■虚実等分の理

 80点余に及ぶ展示作品の中で、私は森氏の作品、そして、西山氏の作品に引き付けられました。それらに、これまで見てきた油彩画作品にはないものを感じ、新鮮味をおぼえたからでした。

 それらの作品には、ほっとするような安らぎやヒトを内省的にさせる静謐感があり、どこか懐かしい気持ちにさせられる情緒といったようなものがありました。生活感覚に馴染む居心地の良さが感じられたのです。油彩画でありながら、そこに柔軟な日本的感性を読み取ることができたからでしょう。

 実は、私は 最近、 油彩画作品に息苦しさを感じるようになっていました。それだけに、今回の展覧会で油彩画でありながら、日本的感性が感じられる作品に出会い、ほっとしたのです。そして、なぜ、そう感じたのかを考えてみたいと思ったのです。

 そういえば、先ほどご紹介した未生流の造形理論の中で、「虚実等分の理」というものがあったことを思い出しました。江戸時代、文化文政期に創流した未生斎一甫は、次のように考えていたといいます。

「あるがままの自然がただ尊いのではなく、人の手を介することで更なる本質的な美を表現することこそいけばなの本義である」というのが、「虚実等分」の考え方です。未生斎一甫は生け花の基本哲学としてこのような思想を提唱したのです。生け花の理論ですが、森氏の作品や西山氏の作品から、この考え方を読み取ることができるような気がしました。

 生け花では自然のままの花を使うことはしません。枝葉を切り落とし、姿を変え、花瓶を含めた全体の調和を考えながら、枝の高さや曲げ具合を調節し、形を整えていきます。未生斎一甫がいうように、あるがままの自然(現実の再現)ではなく、作者が自身のフィルターを通して加工する(心で捉えた現実を表現)ことによって、美を創り出すことができるのでしょう。

 一連の作品を見、そして、未生流の造形理論を知った結果、「虚実等分の理」や「天地人三才」の考え方の中に、日本的感性の基盤の一つがあるような気がしてきました。

■油彩画と日本的感性

 それでは、なぜ、森氏はこのような画法を築き上げたのでしょうか。尋ねてみると、お父様が絵を描く方だったそうです。油彩画を描くという行為が森氏の中ではすでに何十年も日常のものになっており、そこで培われてきた技法だったのでしょう。油彩画に関する知の集積が親子間で継承されてきたのだと思います。

 そういえば、会場に木工作品が二点、展示されていましたが、これも森氏の作品です。一つは傘立てです。

傘立て

  黒地に赤いバラの花が鮮やかに描かれています。

  もう一つは小さな衝立です。

衝立

 こちらはグラデーションの効いた背景色の中に、三面を使ってそれぞれ、ピンクのバラが可愛らしく、華やかに描かれています。

 いずれも木片にジッソを塗り、ヤスリで平にしてからアクリルで描き、ニスを塗って仕上げたといいます。これら木工作品を見ていると、生活の中にごく自然に油彩画が取り入れられていることがわかります。森和子氏の一連の作品を見ているうちに、日本人の日常生活にようやく油彩画が根付き始めたかなという気がしてきました。

 考えてみれば、日本に油彩画が取り入れられてまだ150年余、多くの人々にとって油彩画は長い間、展覧会で見たり、画集や本で見たりするものでしかありませんでした。今回、森和子氏や西山加代氏の作品と出会い、私にとって新たな発見がありました。そして、これを敷衍させれば、日本人にとって輸入文化でしかなかった油彩画もいずれ、日本文化と融合した形で油彩画の新境地が切り拓かれるようになるかもしれないと思うようになりました。(2019/6/26 香取淳子)