ヒト、メディア、社会を考える

09月

絹谷幸二展:越境する表現者の輝き

■「絹谷幸二 色彩とイメージの旅」展の開催
 書店でたまたま手にした雑誌で、「絹谷幸二 色彩とイメージの旅」展が開催されていることを知りました。読むと、なにやらとても面白そうな展覧会です。絹谷氏についてはこれまで名前を聞いたことはありますが、作品を見たことはありません。ざっと記事を読み、興味をかき立てられました。

 記事の中には絹谷氏の顔写真も掲載されていました。眼光が鋭く、岡本太郎を彷彿させる強烈なエネルギーを感じさせられました。その一方で、どこか人懐こく、好奇心旺盛ないたずらっ子のような雰囲気もあります。本質を見通す眼力だけではなく、そこはかとなく稚気を感じさせる風貌だったのです。絹谷氏はひょっとしたら、途方もなくスケールの大きな画家なのかもしれません。

 展覧会に行ってみようかな・・・と、気持ちが揺らぎました。とはいえ、会場は京都国立近代美術館です。気軽に足を運べる場所でもありません。そう思うとたちまち興味は薄れ、そのまま、展覧会のことは忘れていました。

 しばらくして、再び、絹谷幸二展の案内を見る機会がありました。今度はチラシです。そこには、荒々しく躍動的な仏像の絵、多彩な色遣いが印象的な女性の肖像、不思議な造形物などが掲載されていました。どれも意表を突かれるような作品でした。まさに自由奔放、稚気横溢、融通無碍の世界です。ほとばしるような創作のエネルギーを感じました。

 そう感じた途端、私の気持ちが固まりました。遠くても、京都まで行ってみようと思ったのです。チラシで見た絵や造形物はいずれも異彩を放っていました。その源泉はいったい何なのか、この目で実際に見て、確かめてみたいという気持ちが強くなったのです。

 新幹線の京都駅を降り、市バスに乗って岡崎公園・平安神宮・美術館前で下車すると、ちょうど目の前が京都国立近代美術館でした。平安神宮の朱色の鳥居の左手に見える建物が、美術館です。

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(図をクリックすると拡大します)

 この写真は、京都駅行のバス停から撮影したものです。ここで絹谷幸二展が開催されているのです。閑静な一角にある美術館は、朱色の鳥居を前にしているせいか、まるで異空間への入口のように見えました。過去と現代、日本とグローバル世界、そして、リアルとバーチャル、さまざまに対立しながら共存する世界が私を待っていました。

■オープン・ザ・ボックス・オブ・パンドラ
 建物の中に入ると、すぐ目の前に見えてきたのが、巨大なオブジェ、「オープン・ザ・ボックス・オブ・パンドラ」です。あまりにも巨大で、これがチラシに掲載されていたあの不思議な造形物だとはすぐにはわかりませんでした。展覧会の受付の近くの階段下に、聳え立つように展示されていました。

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(ミクスト・メディア、スチロフォーム、400×185.0×185.0㎝、1990年制作。図をクリックすると、拡大します)

 この写真は正面から撮影したので、立体だということがよくわかりませんが、実は直方体のオブジェです。その右上方には、展覧会の案内表示が見えますから、今回の絹谷幸二展に向けた前奏として用意されたのでしょう。タイトルを見ると、「オープン・ザ・ボックス・オブ・パンドラ」です。まるで入場者に向かって、「パンドラの箱を開けよ(Open the box of Pandora)」と煽っているかのようでした。

 「パンドラの箱」はよく知られている寓話です。
パンドラの箱を開けると、さまざまな災厄が出てきましたが、最後に出てきたのが希望でした。ですから、どんなことがあっても絶望しないで生きることができるというメッセージがこの寓話に込められています。

 ギリシャ神話に基づくこの寓話を思い返してみると、絹谷氏がこの作品にこのタイトルを付けたことの意図が見えてくるような気がしました。行動する前に結果を読んでしまい、何もできなくなってしまっているヒトが増えています。その結果、いつごろからか、現代社会には閉塞感が充満するようになっています。絹谷氏がこのタイトルになんらかのメッセージをこめていることは確かでしょう。

 恐れることなくパンドラの箱を開けて、まずは現実を直視しなさい。たとえ何が起ころうと、最後には希望が残されているので、思い切りよく現実社会に飛び込んでいきなさい・・・。

 そんなメッセージが込められているように私には思えました。色彩豊かに、稚気と野性味あふれる世界を描き出したこの作品は、そのような日本の現状への警告のようにも思えます。まさに、何が出てくるかわからない展覧会「色彩とイメージの旅」への誘いにふさわしいオブジェでした。

〇多彩で多様なモチーフ
 もう一度、オブジェを見てみましょう。今度は立体であることがわかる図を用意しました。

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(図をクリックすると、拡大します)

 鮮やかな色彩に、複雑で多様なモチーフ、そして、溢れ出るようなイメージの洪水です。まず目につくのが、正面の顔と横顔が合成されたヒトです。画面に占める割合が大きいせいか、異様な風貌がことさらに印象深く、度肝を抜かれます。

 両目からは涙が流れ落ちており、悲しそうな表情が気になります。黄色で描かれた鼻筋はすっきりとしたラインが際立っており、誇り高さが感じられます。その際立つ黄色が、中ほど左に描かれた「Yes」の文字色に呼応しており、見る者の視線はごく自然に、その方向に誘導されていきます。

 大きな「Yes」の文字の横、右斜め方向に、やはり黄色で「or」の文字、そして、その隣りには、色を変え、ひっそりと隠れるように、「no」の文字が描かれています。絵画の中にアルファベット文字が描かれているのです。このような絵は見たことがありません。意表を突かれる思いがしました。

 「Yes」が大きく目立つ黄色で描かれ、「no」が小さく目立たない色で描かれていることから、このアルファベット文字列の中では、「Yes」に力点が置かれていることがわかります。ものごとを肯定的に捉えることの重要性が示唆されているのでしょうか。

 さて、アルファベット文字の下には、蓮の葉のようなものの上に立って、銃を構える兵士が描かれています。兵士の顔や身体は板目のはっきりした木片で構成されていますから、おもちゃのように見えます。

 ひょっとしたら、このモチーフは、上方で描かれている涙を流しているヒトに関連しているのかもしれません。つまり、ひとたび戦闘行為があれば、近親者が亡くなる場合もあれば、傷つく場合もあります。そうなれば、家族や友人、知人が悲嘆にくれることは必至です。涙なしには過ごせなくなります。おもちゃのような兵士が「原因」であるとするなら、涙を流しているヒトは「結果」なのでしょう。

 さらに、二つのモチーフの位置関係を見ると、涙を流しているヒトが上方で大きく描かれていますから、絹谷氏が悲嘆の方に力点を置いていることがわかります。ここに、アンチ戦闘、あるいは、対立への拒否的感情が表現されているといえるでしょう。

〇モチーフに埋め込まれたメッセージ
 二つのモチーフの関連をこのように解釈したとき、「Yes or no」の文字の意味が理解できるような気がしました。「Yes or no」はおそらく、「yes」あるいは「no」の選択肢しか用意されない二項対立の思考法を示すものでしょう。つまり、西洋の思考方法を示唆するものと考えられます。そして、このような思考法は、論理的思考法の基盤になるものではあっても、ヒトから寛容さを奪い、挙句の果ては、戦闘を引き起こしかねないという懸念が表現されているように思えます。

 正面から撮影した写真ではわからなかったのですが、この写真を見ると、左上から突き出た赤い図形のようなものが、太陽光線の一部だということがわかります。左上から隣の面にかけて、上部に真っ赤な太陽とその光線が描かれているのです。まるでヒトの営みをすべて見通しているといわんばかりに配置されています。

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(部分的に撮影。図をクリックすると、拡大します)

 それでは、正面からの写真と、左面を含めた写真とを見比べながら、この作品の含意を見ていくことにしましょう。正面からの写真では、ヒトはともすれば戦い、傷つき、そして、嘆き悲しむといったような局面が描かれています。いってみれば、二項対立の思考法の問題点が示唆されています。

 そして、左面を含めた写真では、上方に真っ赤な太陽が大きく描かれています。ここでは、ヒトの営みすべてに太陽が暖かく射し込み、光とエネルギーを降り注いでいるというメッセージが込められているように思えます。

 つまり、複数面で構成されたこのオブジェは、総体として、ヒトが生きていく過程でどんな災難に遭遇したとしても、最後には太陽の恵みが残されているという含意を読むことができます。このように読み解くと、改めて、この作品が絹谷氏の捉えた「パンドラの箱」だということがわかります。

〇基本モチーフと制作姿勢
 このオブジェからは、平面を使って立体的な世界を創り出そうとする絹谷氏の制作姿勢が透けて見えます。先ほども述べましたように、正面で描かれたモチーフは左面で描かれたモチーフと関連しています。面をまたいでモチーフを関連づけることによって、絹谷氏は様々な事象が相互に影響しあい、関連しあう複雑な現実社会の一端を見事に表現していました。

 現実社会はさまざまな境界によって、仕切られているように見えます。ところが実際は、境界を越え、あるいは境界を跨って、ヒトやモノはつながり合い、関係しあっています。一見、無関係に見える事象すら時空を超え、有機的に相関しています。森羅万象、皆つながりあって生きており、地球という空間の中で存在しているのです。

 絹谷氏はおそらく、そのようなことをこの直方体のオブジェによって表現したかったのではないでしょうか。

 文字であれ、多面体の肖像であれ、異質で多様なモチーフが同じ画面で相互に関連し合いながら、多彩な色遣いで表現されていました。それだけでは表現しきれなかったのでしょう、絹谷氏は平面を組み合わせ、立体を創り出しました。表現空間そのものを新たに生み出し、交差させながら、複雑につながりあう社会を描き出しました。絹谷氏が自在に越境する精神の持ち主だということが、この作品によって例証されたといえます。

 展覧会を見終え、改めてこのオブジェを見たとき、この直方体には絹谷氏がこれまで制作してきた作品の基本モチーフがいくつも見出されることがわかりました。それだけではなく、制作姿勢あるいは絹谷氏の世界観そのものの本質が、この作品に込められているような気がしました。

 この作品が制作されたのが1990年、絹谷氏が47歳の時です。まさに人生折り返しの時点の作品でした。これまでの集大成ともいえます。とてもシンボリックな作品でした。

 入口のところで、時間を取り過ぎました。それでは、会場に入っていくことにしましょう。

 第1章は「蒼の時代」と銘打たれ、1966年から1971年までの作品が展示されていました。絹谷氏が23歳から28歳までの作品6点です。

■「蒼の間隙」と「窓」
 「蒼の時代」と銘打たれたコーナーでは、「自画像」、「蒼の間隙」、「諧音の詐術」、「蒼の風跡」、「蒼の隔絶」、「窓」の6点が展示されていました。惹きつけられたのが、「蒼の間隙」と「窓」です。

〇「蒼の間隙」 
 まず、「蒼の間隙」から見ていくことにしましょう。

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(文化庁広報誌より。油彩、カンヴァス、130.3×162.1㎝、1966年。図をクリックすると、拡大します)

 見た瞬間、とても斬新でモダンな印象を受けました。1966年、絹谷氏が23歳の時の作品です。いまから50年も前に描かれた作品とは思えないほど、新鮮でした。このコーナーには同時期の似たような色調やモチーフの作品がいくつか展示されていましたが、どういうわけか、私はこの作品にもっとも強く印象づけられました。

 そこで、「蒼の間隙」、「諧音の詐術」、「蒼の風跡」、「蒼の隔絶」を見比べてみました。色調からいえば、4つの作品の中で「蒼の間隙」がもっとも黄色の面積が少なく、しかも、蒼色が濃淡さまざまに、暖色系や白系の色とのバランスよく使われていました。おそらく、そのせいでしょう。4作品ともモチーフは裸婦でしたが、もっとも素直に絵の中に入っていけたのがこの作品でした。

 「蒼の間隙」を見ていると、色調が美しく、画面からは洗練され上品なエロティシズムが立ち上っています。所々に、黄色や青、茶色で半具象の線描きがされており、空間に微妙な奥行きと多層性が与えられています。足元にはハイヒールが転がり、かすかにドラマティックな仕掛けも施されていました。考え抜かれた空間構成と、メインモチーフとサブモチーフの関連づけが巧みで、作品世界に深く引き込まれました。

 これら4作品は、「蒼の間隙」(1966年)、「諧音の詐術」(1966年)、「蒼の風跡」(1969年)、「蒼の隔絶」(1969年)の順で展示されていました。これが制作順なのだとすれば、一連の作品の中では、「蒼の間隙」がもっとも初期の作品だということになります。

 そのことが私には興味深く思えました。早い段階で絹谷氏が完成度の高い作品を制作していたことになるからです。4作品の中ではもっとも素直に作品世界に入っていけたように、この作品には色彩といい、構図といい、奥行きの創出といい、自然で和やかな調和がありました。

 その後の3作品を見ていると、この作品で完成した殻を打ち破ろうとするかのように、次々と新しい試みが加えられていることがわかります。絵の中に新しい要素を見る度、現状に安住しない絹谷氏の果敢な創作精神を見る思いがしました。

 たとえば、「蒼の間隙」と同年に制作された「諧音の詐術」を見ると、黒の線が多用され、都会的で退廃的な雰囲気がよく表現されていました。ところが、私にはそれ以上の何かが足りませんでした。描かれている世界を突き抜けて、見る者の気持ちに響いてくるものが欠けていたのです。

 その後、1969年に制作されたのが「蒼の風跡」、「蒼の隔絶」です。この2作品からは明らかに、「蒼の間隙」の完成度を打ち破ろうとする絹谷氏の意志が感じられます。いずれも黄色と青が多く使われており、都会的で透明感のある独特の雰囲気が醸し出されていました。色遣いが魅力的で、さまざまなモチーフが混在した空間には、快い深さと広がりが感じられました。

 しかも、両作品とも、やや高い位置にモチーフの中心が設定されています。そのせいか、全体に不安定で浮遊感があり、そこはかとなく無常観も漂っています。ただ、メインモチーフの強調部分が写実的に描かれていたので、私には納得のいかないものが残りました。わかりやすいのですが、通俗的に見えたのです。「蒼の間隙」に比べると、この二つの作品はたしかに刺激的で魅力的ではありますが、昇華しきれていないところが私は気になりました。

 それにしても、不思議です。

 「蒼の間隙」は23歳のときの作品です。それがなぜ、半具象という手法を使ったのか。なぜ、これほどまでに現実世界を濾過することができているのか。まるで雑念を払うように、すっきりと無駄なものを省き、作品として昇華することができているのはいったい、なぜなのか。

 そこで、図録の解説を読んでみました。絹谷氏の経歴を知って、なんとなくわかったような気がしてきました。絹谷氏はすでに小中学校の頃から油絵を描き始めていたそうです。市展や県展で入選するほどの画才がありました。絵画で自身の内面を自在に表現する力量はすでに子どものころから持ち合わせていたのです。

 卓越した色遣い、妙味のある構図、洒脱な構成、どれをとっても、一定のキャリアを経なければ得られないものですが、それらをすでに身につけた上で、絹谷氏は東京芸術大学に入学したのでした。

 「蒼の間隙」は卒業制作ですが、これは大橋賞を受賞しています。

〇「窓」
 さて、このコーナーで魅力を感じたもう一つの作品が、「窓(ラ・フィネストラ)」です。

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(カタログを撮影。アフレスコ、ストラッポ、麻布、50.5×50.0㎝、1971年。図をクリックすると、拡大します)

 見れば見るほど、奇妙な裸婦像です。画面の中央、青い縁取りの椅子に裸婦が足を組んで座っているのですが、裸婦の腿や脚部はまるで臀部かと見まがうほど丸くて太く、足先は極端に細く描かれています。

 顔や上半身は、圧倒的に大きく描かれた下半身に埋もれて、どこにあるのか判然としません。よく見ると、すでに顔や胸、肩、腕は溶け出していて、形がなくなっています。脂肪なのか何なのか、肉体の一部が白い液状のものになって椅子から滴り落ち、床下に流れ出しています。ドアに向かって流れ出しているのもあれば、壁に向かって流れているのもあります。どろどろとした液状のものが、板目のついた床の上を這いまわるように汚しています。

 再び、裸婦を見ると、巨大な腿や腰が強調されていますが、そのラインは必ずしも身体の曲線を際立たせようというものではありません。むしろ、どこかおぼつかなく、頼りなさそうなラインです。やがては上半身と同じように溶けだしていくのでしょう。溶解寸前の脆さがありました。

 よく考えると、不気味な絵です。ところが、「蒼の間隙」で感じた爽やかさがこの作品にもありました。現実の猥雑さが取り除かれていたからでしょうか、あるいは、どこか現実を突き抜けたものがあったからでしょうか。一種の爽快感が感じられたのです。それが奇妙な魅力を放っていました。

■「蒼の間隙」から「窓」への軌跡
 「窓」は、絹谷氏が「蒼の間隙」以来、裸婦を通して追求してきた造形美の到達点のように私には思えました。以前の作品に比べ、抽象化の度合いが高められているだけではなく、牧歌的でユーモラスな雰囲気が加味された上で、苛酷な現実が表現されています。絹谷氏のヒトや社会を凝視する力がいっそう深くなり、想念の象徴化が巧みになっていると思いました。

 この作品で興味深いのは、メインモチーフを真ん中に、壁、ドア、天井、窓によって室内が閉じられていることです。閉じられた空間でありながら、窓は開け放たれており、そこに、外部とのつながりを感じさせる‘抜け’が用意されています。境界を超える自由が残されているのです。

 一方、裸婦の身体から流れ出る液状のものが、椅子を伝って流れ落ち、床を覆い、ドアや壁際にまで滲み出しています。この不定形のものは、直線で構成された空間の息苦しさに耐えかね溶解し始めたヒトのうめきの化身のようにも見えます。空間に拘束される肉体はカタチを崩して滅び、空間を飛翔できる精神は開け放たれた窓から越境できるということなのでしょうか。

 さて、この絵を見るとき、視線は必然的に、メインモチーフの裸婦に向かいます。ところが、この裸婦と思えるモチーフには顔もなければ、上半身もありません。しかも、腿や腰の曲線にエロティシズムの片鱗すらありません。絹谷氏はどうやら裸婦を描きながらも、エロティシズムではなく、ヒトの肉体の脆さ、儚さを訴求しているように思えます。

 もっとも、この絵に悲壮感はなく、どこかユーモラスな温かさが感じられます。直線で囲まれた空間の中に、不定形のモノや、裸婦の腿や腰のおぼつかない曲線が強く印象づけられるからでしょう。さらにいえば、画面全体にザラザラとした砂の感触があって、それが全体に調和しており、描かれている内容の苛酷さを緩和しているのかもしれません。

 図録によると、この作品はアフレスコで制作されたものをストラッポで麻布に添付されたものでした。技法の面でもそれ以前の作品とは大幅に異なっていたのです。この作品にはまだ後年の鮮やかな色彩は見られませんが、モチーフの扱い方に固定観念を崩す大胆さが見受けられます。その後の飛躍を暗示するような作品です。

 こうしてみてくると、「蒼の間隙」から「窓」に至る一連の作品からは、絹谷氏の表現の軌跡ばかりか、思考の軌跡をも読み取ることができるといえるでしょう。いずれの作品にも固定を排除するための揺らぎと動きが埋め込まれ、他者を受け入れる大らかさと曖昧さがありました。初期作品に共通して見受けられたので、これは絹谷氏の本質といえるものなのかもしれません。

 絹谷氏は東京藝術大学絵画科油画専攻を1966年に卒業した後、大学院では壁画を専攻し、アフレスコを研究していました。アフレスコの講義のために1970年に来日したブルーノ・サエッティとの出会いを契機に1971年、イタリアに留学します。イタリアで絹谷氏は何を学び、何を獲得してきたのでしょうか。

 京都国立近代美術館にやってきて、入口に展示されていた巨大なオブジェと初期作品を見ただけで、絹谷氏の自在に越境する精神の輝きに圧倒されてしまいました。次回、その後の作品を追いながら、表現者としての軌跡を辿っていきたいと思います。(2017/9/20 香取淳子)