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紀行2018:創建1250年、春日大社に見た古の心

■春日三条通り
 奈良では、迷うことなく、ホテルフジタ奈良に宿泊しました。ネットで見ると、JR奈良駅や近鉄奈良駅へのアクセスが良く、全般に小綺麗な印象があったからです。行ってみると、ホテルは春日三条通りに面していました。この三条通りは観光客用に整備されており、土産物店などが両側に並んでいます。

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 ホテルは予想通り、快適な設えで、ロビーは外国人客で溢れていました。奈良にもやはり外国人客が押し寄せているのでしょう。日本人とは明らかに異なる欧米の顔、アジアの顔、インドの顔・・・。フロントで忙しそうに立ち働くスタッフの姿を見ていると、訪日外国人たちが、減少の一途を辿る日本の消費者の肩代わりをしてくれていることがわかります。

 そういえば、コンビニのローソンが古い町屋を改築したような建物でした。二階の格子戸に屋根瓦、1階の白壁、焦げ茶色の柱に腰板・・・、古都に合わせたデザインと色調で、周囲ともしっくり調和していました。このような日本風の建物はきっと、外国人消費者にも評判がいいでしょう。

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 日頃、見慣れているローソンとは違って、しっとりとした落ち着きがあります。改めて、私はいま、奈良の街を歩いているのだということを実感しました。

 さて、三条通りでは外国人を比較的多く見かけたのですが、少し歩き回ってみると、拍子抜けするほどヒトが少なく、街全体に活気がありません。

 夜になって、翌朝のバスツアーの出発場所を確認するため、奈良駅前に行ってみました。暗がりの中で、春日大社創建1250年を祝う看板が、照明で浮き上がって見えました。

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 撮影時刻は19:28分、まだヒトが動き回っている時間帯で、しかも駅前です。それなのにヒトが少なく、どちらかといえば、閑散とした印象を受けました。

■春日大社
 翌朝、観光バスを降り、春日大社の入り口に着くと、大きな石碑が置かれています。そこには世界遺産のマークとともに、古都奈良の文化財と刻まれていました。

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 なぜ、春日大社の石碑に、わざわざ「古都奈良の文化財」と刻まれているのかわかりませんでしたが、調べてみて、ようやくその理由がわかりました。春日大社が単独で世界遺産として登録されたわけではなく、東大寺、興福寺、春日原始林など、周辺の寺社と春日原始林とを合わせた8資産が評価されて、1998年にユネスコ世界遺産に登録されたのでした。

こちら →http://heiwa-ga-ichiban.jp/sekai/nara/index.html

 そこから、少し歩くと、大きな鳥居があります。

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 これは二之鳥居といいます。一之鳥居はここから約1.2㎞下ったところにありますが、私たちはバスで来たので、二之鳥居から南門に向かいます。

 この鳥居をくぐり、木々が茂ってうっそうとした景観の中を歩いていくと、いよいよ神域に入っていくような思いに駆られます。参拝者を見下ろすように、両側には石燈籠が数多く立ち並んでいます。

 春日大社の境内には石燈籠だけで約2000基あるといわれていますが、すべて春日型といわれる背が高いわりには安定感のある石燈籠でした。燈籠の間を鹿が動き回っています。

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 ガイドの説明によると、これらの石燈籠のほとんどが、「春日社」と刻みこまれていますが、ほんのわずか、「春日大明神」と刻まれたものがあるそうです。それを3つ見つけたヒトはお金持ちになれるということでした。

 説明を聞いてまもなく、「あった」、「あった」という声が後方から聞こえてきます。意外に簡単に見つかるものだと思いながらも、私は最初から諦めていたので、探そうともしませんでした。それよりも苔むした燈籠に惹かれ、ひたすら、見つめていました。

 圧巻でした。石燈籠からは、ここには存在しない多数のヒトの願いを感じさせられます。年数を経てきているだけに、石燈籠に託された無数の思いもまた重く、ひしひしと伝わってきます。

 見上げると、ここにも、「奉祝 春日大社創建1250年」と書かれた横断幕が掲げられていました。しばらく歩くと、やがて本殿南門に着きます。

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 ここには赤と白の垂れ幕が掲げられていました。

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 ここまでの道のりを示した図を見つけましたので、ご紹介しましょう。

こちら →http://www.kasugataisha.or.jp/guidance/pdf/keidai_map-A4.pdf

 この図を見ると、本殿の東側に御蓋山があるのがわかります。前回、「若草山で古を偲ぶ」でご紹介したあの「御蓋(みかさ)山」です。

■本殿と神木
 春日大社が創建されたのが768年、いまから1250年前です。以来、春日大社本殿は、一般人が立ち入ることのできない聖域として守られてきました。それが、1250周年を迎えた今年、参拝することができるのです。

 本殿前にも、奉祝の立て看板が置かれていました。

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 春日大社のHPによると、平城京ができたころ、国の繁栄と国民の幸せを願って、鹿島神宮(茨城県)から武甕槌命(タケミカヅチノミコト)を、御蓋山の山頂の浮雲峰(ウキグモノミネ)に迎え、その後、御蓋山の中腹にある現在の地に、社殿を造営したといいます。その際、香取神宮(千葉県)、牧岡神社(大阪府)から神様を招き、合わせて祀ったのが、春日大社の始まりだと書かれています。

 鹿島神社も香取神宮も武道の神様です。新しく創建された春日大社(当時は、春日神社)を守護するために、それらの神様が招かれるのも当然といえば当然なのでしょう。ですから、鹿島神社や香取神宮から神様が招かれた理由はわかります。それでは、牧岡神社はどうなのでしょうか、私はこの神社のことを知りません。

 そこで、調べてみると、牧岡神社の主祭神は、大和朝廷の祭祀をつかさどった中臣氏の祖神でした。また、牧岡神社のHPには、鹿島神社や香取神宮から招かれた神様もまた中臣氏と縁が深いと書かれています。

 Wikipediaによれば、中臣氏は、古代日本の神事・祭祀を司った中央豪族で、大化の改新(646年)後、中臣鎌足の子孫は藤原姓になりましたが、本系の中臣氏は姓を変えず、そのまま神事・祭祀職を世襲したと書かれています。

 こうしてみてくると、春日大社は明らかに藤原氏主導で創建されたことがわかります。

 春日大社の創建が768年ですから、ちょうど藤原氏が権勢を誇っていた時期と重なりますし、Wikipediaには、鹿島神社の武甕槌命(タケミカヅチノミコト)は藤原氏の氏神だと書かれています。ですから、まさに藤原氏が、この春日大社の創建を契機に、未来永劫、国と権力の安定を願ったのだといえるでしょう。

 本殿に入ると、ガイドから左手に誘導され、少し歩いて右に入ると、暗やみの中、別世界が広がっていました。そこを出ると、今度は、赤い回廊に沿って本殿を出ていくようになっていました。

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 回廊の両側には数多くの釣り燈籠が掛けられており、それがまた、延々と続いています。春日大社の境内には釣り燈籠だけで約1000基はあるといわれています。先ほど、石燈籠の間を歩いてきたときに感じたような神聖な雰囲気が、ここでも漂っていました。大勢のヒトの思いが燈籠から発散されてくるからでしょうか。

■春日大社の神木
 本殿から左手に大きな木が見えました。

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 巨大な幹、空を覆うように大きく伸びた枝や葉、まさに巨木です。幹には注連縄が飾られていますから、神木です。

 回廊を出て、間近でみると、その幹は驚くほど太く、圧倒するエネルギーを感じさせられます。また、幹の樹皮が創り出す文様が美しく、神木ならではの威容を誇っていました。

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 これほどの巨木を目の前にすると、古代の日本人が神聖なものを感じたとしても不思議はないでしょう。注連縄を飾り、霊が籠った存在として大切にしてきたことが窺がわれます。

 境内では、藤もまた大きく根を張り、枝を自由に伸ばしていました。

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 これほどの大きな藤の木をこれまで見たことがありません。
春日大社が藤原氏主導で作られたからでしょうか、境内では至る所で藤の木が目につきました。

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 まるで石燈籠に巻き付くように、藤が枝を伸ばし、根を張り巡らせています。このような藤の古木に、凄まじいまでの繁殖力と生命力を感じさせられました。かつて権勢を誇った藤原氏を象徴しているような気がしました。

■春日大社の鹿
 春日大社を創建する際、鹿島神社の武甕槌命(タケミカヅチノミコト)は白い鹿に乗って、御蓋山の山頂に降り立ったとされています。ですから、遠いところから、神の使いである白い鹿に乗って、ここまでやってきたというのです。降り立ったのが、すぐ上の御蓋山です。ですから、御蓋山は春日大社のご神体であり、鹿は神の使いとして大切にされています。

 春日大社の境内では至る所で、鹿を見かけました。

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 石燈籠の合間を鹿が自由に行き来しています。どことなく弱弱しく、元気がありません。東大寺や奈良公園で見かける鹿と違って、あまり血色はよくなく、どちらかといえば、ヒトを避けて行動しているように見えました。

■春日大社宝物殿
 本殿を出て、向かった先が春日大社宝物殿です。ここには春日大社が所有する国宝352点、重要文化財971点が折々のテーマに沿って、展示されます。私が興味深く思ったのが、1階に展示されていた鼉(が)太鼓です。

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 どちらも装飾が繊細で美しく、実際にこの太鼓からどのような音が生み出されるのか、聞いてみたいような気になります。

 近寄ってみましょう。まずは向かって右に置かれた鼉太鼓です。

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 真ん中に火炎を象った装飾版を配し、中央上部に2羽の鳳凰が向かい合っている姿が刻まれています。鳳凰はすべての鳥の王とされ、優れた君主が現れて乱世が平定されて世の中が平和になったとき、飛んでくる瑞鳥だとされています。

 次は向かって左に置かれた鼉太鼓です。

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 こちらも真ん中に火炎を象った装飾版が配され、中央上部に2匹の龍が向かい合っている姿が象られています。龍は水の支配者として最高権力者のシンボルであり、また、吉祥のシンボルとして装飾品などに刻まれてきました。

 中国では、麒麟、鳳凰、亀、龍は、「四霊」に数えられるとされています。鼉太鼓は野外の舞楽演奏に使われる大型の太鼓を指しますが、この図案を見ると、中国文化の影響が色濃く反映されていることがわかります。

■春日大社の由来
 春日大社は平城京遷都(745年)に伴って創建されました。新しい都が今後、末永く継続し、平和な世の中が訪れるよう、祈願して作られたのです。その春日大社のご神体が御蓋山でした。鹿島神社の武甕槌命(タケミカヅチノミコト)が、遠路はるばるこの地にやってきて、降り立ったといわれる山です。

 それにしても、なぜ、わざわざ鹿島神社、香取神宮から神様を招かなければならなかったのでしょうか。私には、それが不思議でした。そこで、いろいろ調べていると、春日大社宮司の葉室頼昭氏が書かれた「春日大社のご由緒」という文章を見つけることができました。

 春日大社に祭られている神様について、葉室氏は以下のように書いています。

 「春日大社第一殿にお祭りする武甕槌命(タケミカヅチノミコト)様と、第二殿の経津主命(フツヌシノミコト)様はともに、天照大神様のご子孫が高天原から天降りされるのに先立ち、大国主命様はじめ多くの神々と和平を結ぶ大功あった尊い神々で、関東の利根川のほとりに鹿島神宮と香取神宮に水を治める霊験あらたかでお力の強い神様としてお祭りされていました。第三殿の天児屋根命(アマコヤネノミコト)様は、天の岩戸にお籠りになった天照大神様にお出ましを願うべく、お祭りを行われた政事の神様で、河内国牧岡神社に比売神(ヒメガミ)様とともにお祭りされ、西日本で広く信仰されていました」

 それぞれの神様の春日大社に祭られるまでの状況が書かれています。そして、そのような神々をお招きする理由として、下記のように書かれています。

「それら尊い神様を平城京の鎮護のため、まず、武甕槌命(タケミカヅチノミコト)様を神山と称えられる御蓋山山頂にお祭りし、それから数十年後の神護景雲2年(768)に、藤原氏の血を引く女帝・称徳天皇の思し召しにより、左大臣・藤原永手らが、神々がお鎮まりされるのにもっともふさわしい御蓋山山麓の神地に神殿を創建し、武甕槌命(タケミカヅチノミコト)様ほか経津主命(フツヌシノミコト)様、藤原氏の祖先神となる天児屋根命(アマコヤネノミコト)様・比売神(ヒメガミ)様の三柱の神様をともにお祭りしたのがその始まりとされています」

 本殿には、四柱の神様が祭られています。

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(図をクリックすると、拡大します。http://kuyomumairu.com/archives/1834より。)

 それでは、どうして遠方から香取・鹿島の神様が呼んでこられたのでしょうか。それについては、以下のように説明されています。

「(前略)大国主命の国譲りの神話と同様に信仰面で都を治め、ひいては日本全国を平和にご守護いただこうと、お力のある神様を勧請されたのでしょう。(後略)」

***
以上、「  」内の文章は、『日本の古社 春日大社』(淡交社、2003年刊)から引用しました。
***

 一連の文章を読み合わせると、以下のように理解することができます。

 当時は平城京でも水の確保が大変だったといいますから、「関東の利根川のほとりの鹿島神宮と香取神宮の、水を治める霊験あらたかでお力の強い神様」を招かれたのでしょう。この二柱の神様は武術の神様でもありますから、平城京の守護にはぴったりです。

 しかも、全国に知られた神話に登場する神様です。ですから、神話に基づく信仰心で、平城京を治めるだけではなく、日本全国をも平和に守護していただきたいという願いをこめて、この二柱の神様を春日大社にお招きしたのだということがわかりました。

■創建1250年、春日大社に見た古の心
 こうしてみてくると、春日大社の創建が、平城京だけではなく全国を視野に入れ、社会の安定を目指したものだったことがわかります。これだけ徹底して守護に力をいれていたということは、当時、社会状況がよほど不安定だったのでしょう。

 実際、大和朝廷が設立されて以来、何度も遷都を繰り返していました。

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(図をクリックすると、拡大します。http://trendy.nikkeibp.co.jp/より)

 これを見ると、藤原京への遷都(694年)、平城京への遷都(710年)の後、740年になると、聖武天皇は恭仁宮、紫香楽宮、難波宮と3か所も居所を変えています。「宮」と名付けられているように、このときは遷都ではなく、居所と政務の場所を変えるだけでしたが・・・。

 挙句の果ては743年、聖武天皇は廬舎那仏の造営を発願しています。大仏を造立することでようやく気持ちが落ち着いたのでしょうか、745年、聖武天皇は再び、平城京に遷都しています。

 当時、藤原氏が大きな権勢を振るうようになっており、血なまぐさい事件が次々と起こっていたそうです。権力闘争の結果、政情が安定しなかっただけではなく、恨みに伴う祟りのような事象もさまざま発生していました。

 鎮護への思いはもちろんのこと、争うことなく、共存していこうという思いが高まっていたのでしょう。春日大社には、藤原氏の祖先神もお祭りされていますし、地元の神様、榎本神社も本殿近くにお祭りされています。共に力を合わせ、よりよい国にしていこうという願いが込められたことがわかります。

 先ほど、ご紹介した葉室氏は、これに関し、次のように書かれています。

「人間同士も共生するし、人間と祖先、人間と神様も共生する。そして神様同士もまた共生されるということなのです。これが日本人が古来より培ってきた共生という考え方です。すべてのものが共生してバランスをとる。そこにいのちが現れるという素晴らしい考え方です」(前掲)

 確かに、争うことなく生きていくには、この「共生」という考え方が重要なのかもしれません。ふと、境内で鹿が自由に行き来していたことを思い出しました。

 武甕槌命(タケミカヅチノミコト)が乗ってきたといわれる白鹿ではありませんが、茶色い鹿が参拝者を気にせず、のびのびと我が物顔で、境内を動き回っていました。これもまた「共生」の一つの結果なのでしょう。

 創建1250周年を迎えた春日大社を訪れ、古のヒトが何を考え、どう生きようとしてきたのかが、ちょっとわかるような気がしました。主張を通し、自己利益追求に走れば、そこに必ず衝突が起こります。対立するものを排除すれば、必ず報復されます。なにかとヒトの世にトラブルはつきものですが、対処法がないわけではありません。

 さまざまなトラブルを回避しようとすれば、春日大社の創建の際、企図されたような「共生」の観念を共有していくのがいいのかもしれません。利害のバランスを取って棲み分ける、あるいは、共生する、といったような知恵はおそらく、どんな時代でも、どんな社会でも有効でしょう。

 今回、はじめて春日大社を訪れ、さまざまな発見がありました。そんな中で、もっとも古のヒトの心に近づいたのではないかと思えたのが、この「共生」という考え方でした。ヒトも動物もその他、森羅万象一切が共生できるシステムを、古代の日本人は生み出そうとしていたのです。なかなか実現するものではないとしても、そのように考えることができた古の日本人を素晴らしいと思いました。

 春日大社で束の間、古の心に触れることができました。今の自分、そして、現代社会を振り返ってみる機会を与えられ、もやもやしたものが飛び去ったような気分になりました。(2018/5/11 香取淳子)

紀行2018:若草山で古を偲ぶ

 今年のゴールデンウィークは関西に行ってきました。久しぶりに奈良、京都を訪れ、日本文化の源流に触れて見たくなったのです。奈良と京都ではそれぞれ、現地のバスツアーに参加しました。

 まずは奈良から見ていくことにしましょう。

■新緑の若草山
 奈良観光バスツアーの最後に訪れたのが、若草山でした。

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(奈良県公式ホームページより。図をクリックすると、拡大します)

 バスの車窓から見る木々の緑がまばゆいばかりでした。新緑が目にしみます。柔らかな緑色の葉先が風邪に揺らぎ、新しい生命の息吹をまき散らしていました。まさに早緑月です。久しぶりに春の輝きを目にし、なんともいえない幸福感が沸き立ってきました。

 若草山といえば子どものころ、祖母に連れられて来たことがあります。遠い記憶を探ってみると、やはり早緑の清々しさ、そして微かに、芝草の上に悠然と座っていた鹿の姿が思い浮かびます。

 「早緑」という言葉を知ったのも、ここでした。聞きなれない言葉でしたが、母から説明され、ようやく理解したことも思い出しました。柔らかく幼く、そして、未熟な緑色です。これが成長していくと、濃い緑色に変化していきます。

 木々が芽吹き始めた頃の葉の色が、「早緑」なのです。緑に「早」という言葉を加えるだけで、若さ、柔らかさ、幼さなどを表現しています。黄緑色ではなく、「早緑」としたところが興味深く、しばらく、子どものころの思い出に浸っていました。

 古の日本人は、芽吹いたばかりの葉の色を、単なる色のスケールとして捉え、表現しているわけではありませんでした。折々の葉の色の微妙な変化を見逃さず、そこに成長の痕跡を見出したのでしょう。「早」に成長の概念を込め、新緑の繊細な色合いを表現しようとしていたことがわかります。

 「早緑」という言葉には、ヒトの想像力を刺激する多様性、柔軟性、斬新さが感じられます。このようなネーミングに、かつての日本人が自然の移り変わりに合わせ、微かな変化も見逃さずに受け入れ、生きてきたプロセスを窺い知ることができます。自然と一体化した色彩の捉え方に惹かれます。

■三重目
 バスを降り、なだらかな斜面に沿って、若草山の頂上付近まで登ってくると、急に視界が大きく開けます。大きな木は見当たらず、芝草で覆われたなだらかな丘陵が不思議な安らぎを与えてくれます。辺り一帯に、柔らかく、優しく、静かに、そこを訪れたヒトを包み込んでくれる鷹揚さがありました。

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 調べてみると、若草山の開山期間は、春(3月15日から6月15日)と秋(9月13日から11月24日)に限られていました。それ以外の期間は芝草を保護するため、立ち入ることができないのです。ここは、いわば聖域でした。

 このことを知ってはじめて、ここを訪れたとき感じた不思議な安らぎの原因が理解できたような気がしました。この地域一帯は、ヒトに保護されながら、古の自然がいまなお生かされていた場所だったのです。脈々と続く自然の営みに、ヒトがそっと寄り添い見守ることで、その姿を保ち続けていることがわかります。

 さて、三重目と書かれた標識の下には眺望が広がっていました。遠くは靄のようなものでけぶって見えますが、ここに立つと、奈良盆地が一目で見渡せます。

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 ガイドの説明によると、ここの山はお椀を伏せたような形なので、「一重目」、「二重目」という数え方をするそうです。そういえば、富士山などは「一合目」「二合目」という数え方をします。不思議だなと思って調べてみました。

■三笠山と御蓋(みかさ)山
 若草山は、麓から見ると、一つの山にしか見えませんが、実は、笠を伏せたような形状の山が三段連なっています。ですから、一重、二重、三重という呼び方をしたのでしょう。笠が三段重なっているように見えるので、昔は「三笠山」といわれていたそうです。

 「三笠山」と聞いて、ふと、「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」という句を思い出しました。子どものころはお正月になると必ず、百人一首で遊んでいたので、この句はいまでもよく覚えています。

 「春日なる 三笠の山」と歌われていますから、芝草で覆われた、この山を指しているのでしょう。麓には春日大社があります。まさに、「春日にある三笠山」なのです。阿倍仲麻呂が詠んだ和歌で、『古今集』に載っています。

 「三笠の山」と書かれていることが多いので、この若草山と混同してしまいやすいのですが、ここで歌われていたのは「御蓋(みかさ)山」のようです。

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http://www.pref.nara.jp/koho/kenmindayori/tayori/t2011/tayori2306/manyou2306.htm

 どちらも春日にある隣同士の山なので、混同しやすいのは確かです。春日山原始林には若草山、御蓋(みかさ)山、高円山が連なっています。わかりやすいように単純表記された図を見つけましたので、ご紹介しましょう。

こちら →
(http://blog.narasaku.com/?eid=805755より。)

 丸く、なだらかな山並みを見ていると、思わず、気持ちがなごんでしまいます。遣唐使としてここから唐に渡った阿部仲麻呂が、望郷の思いに駆られてこの句を詠んだのもわかるような気がします。実際に登ってきてみると、確かに、この山にはヒトを受け入れる優しさがありました。

 さて、この若草山は、標高342m、広さ33haのなだらかな山です。頂上付近が三重目で、そこには鶯塚古墳があります。ここに来るまで、こんなところに古墳があるとは思いもしませんでした。

■鶯塚古墳
 三重目からさらに頂上に向かって登っていくと、史跡がありました。

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 近くにその案内板もありました。

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 これを見ると、鶯塚古墳は、全長103m、前方部の幅50m、後円部の径61mの前方後円墳だと書かれています。そして、二段築造の墳丘には葺石や埴輪があり、石製斧や内行花文鏡などが出土していたとも記されています。

 さらに、この案内板では、種々、説明した上で、四世紀末に丘陵頂部に築造された典型的な前期古墳だと断定されています。

 ところが、Wikipediaを見ると、「山頂の地形を利用した古墳は古墳時代の前期のものと考えられたこともあったが、滑石製品の採集で、この古墳については5世紀初頭まで時期が降るのではないかと考えられている」と書かれています。古墳周辺の出土品から判断すると、どうやら、この古墳が築造されたのは案内板に示されているより、もっと新しいようです。

 この古墳は1936年に国の史跡に指定されました。興味深いのは、清少納言の枕草子に、「うぐいすの陵(みささぎ)」と書かれているのがこの古墳だとされていることです。

 調べてみると、枕草子第十六段に「みささぎ(陵)は うぐいすのみささぎ かしはぎのみささぎ あめのみささぎ」と書かれています。

 これだけだと何のことかわかりませんが、第一段の有名な一節、「春は、あけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは 少し明りて紫だちたる雲の細くたなびきたる」を照らし合わせて考えてみると、御陵で素晴らしいのは、「鶯の陵、柏木の陵、・・・」といった具合に、読み解くことができます。

 枕草子の「・・・は」で始まる文章は、第一段と、第十段から第十九段まで続きます。いずれも、「・・・は」で示されたもので素晴らしいものが挙げられています。
 
 おそらく、枕草子が書かれた当時、御陵として素晴らしいのは「鶯の陵」だというイメージが共有されていたのでしょう。山頂の地形を利用して築造されたこの古墳の妙を愛でる当時の識者の感性を、私は興味深く思いました。

 初期古墳は山の麓か丘に築造されていたようです。後に、平野に作られるようになりましたから、長い間、この鶯古墳は前期古墳と考えられていました。ところが、出土品などから、その後、中期の古墳だと修正されました。

 ですから、枕草子が書かれた当時はまだ、鶯の古墳は古い時代の古墳と考えられていたのでしょう。「みささぎ(陵)は うぐいすのみささぎ」という評価の中に、古墳の中でも古いものを愛でる気持ち、規模の小さなものを愛おしむ気持ちを読み取ることができます。私には、平安時代の識者がとても身近な存在に思えてきました。

■鹿
 奈良公園一帯には鹿が多数、見かけました。ですから、この若草山の山頂に鹿がいたからといって、とくに驚くことはないのですが、この山頂付近にいる鹿にはどことなく悠然とした面持ちがありました。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 ヒトが来ても食べ物をねだるわけではなく、近づいて来て、ちょっかいをかけるわけでもありません。視線を向けることすらせず、泰然として座っていました。我関せずの姿勢がとても印象的でした。

 ガイドの話によると、山頂の鹿はここで生まれて、ここで死んでいくそうです。他の世界を知ることなく、この山頂だけを生活の場として生きるのです。そのようにして守られた環境の中で、代々、生を育んできたのでしょう。ビクともしない姿勢には毅然とした優雅ささえ感じられました。

 ホテルに戻って、テレビを見ていると、今年初めての鹿が誕生したというニュースが流れていました。

こちら →https://www.jiji.com/jc/movie?p=n000897

 鹿の出産のピークは5月中旬から6月にかけてで、毎年、250頭ほどが生まれるそうです。

■若草山で見た古の心
 奈良で参加した現地バスツアーの最後に訪れたのが、若草山でした。三重目付近の山頂には、古の日本人を感じさせるものがいくつかありました。しばらく佇んでいると、奈良時代にタイムスリップしたような気になってしまいました。

 若草山はヒトの入山が制限されています。そのせいか、若草山の頂上に立っていると、不思議な感覚が立ち上がってきます。かつてこの地で生きたヒトがとても身近に感じられるのです。ふとした瞬間に、彼らと同じ空気を吸い、同じ景色を見ているような錯覚を覚えてしまいます。

 連綿と続いていくもの、繊細で規模の小さいもの、そういうものを愛しむ気持ちこそが、自然を理解し、自然と調和し、共存していけるからではないか、そんな思いがふと、胸をよぎりました。

 若草山で見た、芝草で覆われた山肌、鹿、古墳史跡、いずれもどことなく穏やかで、ヒトを包み込む鷹揚さが見られました。そのせいでしょうか。若草山に、いっとき、古の心を見た思いがしたのです。(2018/5/10 香取淳子)