ヒト、メディア、社会を考える

01月

堀込幸枝氏の個展:塗って、削って、重ねる技法の妙味

■堀込幸枝展
 堀込幸枝展が2016年1月16日から30日まで、銀座のギャラリー椿(GALLERY TSUBAKI、http://gallery-tsubaki.net)で開催されています。私は堀込氏の作品をこれまでに一度、グループ展で見たことがあります。ですから、その後、どのような創作活動を展開されているのか知りたくて、開催初日の16日、画廊を訪れました。

 はじめて堀込幸枝氏の絵を見たのは2015年4月、このとき、『White air』(53×45.5㎝、キャンバスに油彩、2014年)という作品に深く印象づけられました。湿り気を帯びた空気感に引き込まれるように、しばらく、この絵の前に佇んでいたことを思い出します。

こちら →IMG_2432
(今回の個展では展示されていません)
 
 この絵を見たとき、どういうわけか、私は既視感をおぼえました。過去の記憶を手繰っていくと、ほどなく、河瀨直美監督の『萌えの朱雀』(1997年公開)の一シーンが目の前に浮かんできました。もう何年も前に見た映画です。すっかり記憶の底に沈んでいたはずなのに、この絵を見たとき、何かに触発されるように脳裏によみがえったのです。改めてDVDを見て見ました。

 このシーンでは、雨戸を開け放つと、パノラマのようにどこまでも連なる奥深い山々が視界に飛び込んできます。その山々には霧か靄のようなものがかかり、白くけぶって見えます。まるで山々がひそやかに息づいているかのような気配です。座敷では二人の人物が言葉もなく外に向かって静かに座っていますが、山々を見守るような姿勢のシルエットがしっとりとした風景に溶け込んでいます。家の中と外に境界はなく、ヒトと自然が見事に調和しているシーンでした。

こちら →imgef7640d2zikazj

 このシーンの構図は、登場人物の後姿を左右の近景で捉え、遠景に白くけぶった山々を配置したものです。ちょうど真ん中が抜けていますから、観客は左右の視野角にヒトの黒いシルエットを収めて、遠方の風景を見る恰好になります。ですから、これは、そこで生活するヒトと風景を一括りにして捉えた構図といえます。

 『萌えの朱雀』で河瀨監督は史上最年少で、第50回カンヌ国際映画祭の新人監督賞を受賞しました。日本の山村を描いた作品が洋の東西を問わず、文化を超えてヒトを惹きつけ、評価されたのです。ヒトが生きていくことの本質に迫るものがあったからでしょう。ヒトが自然と一体化して暮らしている山村を舞台に、物語は展開されます。その物語を象徴するような構図だったので、私はこのシーンを強く記憶していたのかもしれません。

 堀込氏の『White air』を見た瞬間、私はこの構図を思い出したのです。

 多くの展示作品の中であのとき、なぜ私は堀込氏のこの作品に心を捉われてしまったのか、それはおそらく、この絵に私の知的好奇心を刺激する何かがあったからでしょう。今回、DVDを見てようやく、それが何だったのかわかりました。

 映画の冒頭シーンでは雨戸が開け放たれており、外気がそのまま座敷に入り込んでいます。ヒトと外を隔てる境界はなく、周辺一帯が同じ空気に包まれている安堵感が漂っています。

 一方、堀込氏の絵画ではガラスビンとその奥の風景との境界が希薄でした。ですから、ガラスビンと風景が一体化しており、その相乗効果によって不思議な景観が生み出されていました。ガラスビンを介在させることによって、興趣深い風景が造形されているのです。

 『White air』を見て私は連鎖反応的に、『萌えの朱雀』を思い出しましたが、いずれも境界の処理がきわめて繊細だという点で共通しています。私の知的好奇心を喚起したのは、両者の境界の捉え方の類似性だったことがわかりました。

 この絵をよく見ると、手前中央にガラスのビンが置かれています。ところが、このビンにはガラス特有の反射光はなく、底部がはっきりと描かれているからガラスビンだということがわかる程度です。もちろん、ガラスだから透明で、ビンを通して後ろの山が見えますし、その透け具合もクリアではなく、ビンが置かれた台や風景にしっくりと溶け込んでいます。

 実際、『White air』では、モノとモノ、モノと風景との境界が極めて希薄に描かれています。まるで存在を主張することなく、周囲に溶け込むという存在の在り方そのものが表現されているようにも見えます。こうしてみると、昨年、私が初めてこの絵を見て強く印象づけられたのは、ひょっとしたら、これが本来あるべき、モノ、ヒト、自然の在り方なのかもしれないと思わせられたからかもしれません。あのとき私はおそらく、この絵に触発されて、何か大切なものを発見したのでしょう。

■境界の描き方
 今回、椿ギャラリーに入って最初に目に入ってきたのが、『Magic 2』(130.5×97.0㎝、油彩、2016年)でした。この絵で大きな比重を占めている緑の部分が、『White air』の抑制された緑の色によく似ています。

こちら →IMG_2438

 この作品でも中央に大きくガラスが描かれています。変形ガラスビンなのでしょうか、それとも巨大ガラス玉なのでしょうか、いずれにしてもこの作品では、厚みのあるガラスの存在が強調されています。ガラス玉に写り込んだ風景はガラスの曲線に沿って屈折して描かれており、底部は白く描かれています。ですから、色彩は依然として境界線のない多層化された色彩の連続で構成されているのですが、モチーフの形状は『White air』よりも明瞭になっています。

 明らかに前回とは画風が異なっています。そう思って、展示作品をざっと見渡して見ると、2015年、2016年に制作された作品はいずれもモチーフの形状が明瞭になっているのです。堀込氏に何か、心境の変化でもあったのでしょうか。

■モチーフ的解釈から現実的解釈へ
 変化の理由を堀込氏に尋ねると、「これまではモチーフ的解釈で描いていたが、今回は現実的解釈で描いている」と説明されました。静物画から絵を学び始めた堀込氏は、風景も一種の静物として捉えて描いてきたそうです。堀込氏のいう「モチーフ的解釈」です。ところが、それでは本質を捉えられないのではないかと思い、最近は自然を素直に見つめ、その面白さを取り入れてみることにしたというのです。

 たしかに、『Magic 2』を見ると、ガラスに写り込んだ自然の中には長い葉のようなものがいくつも伸び、水中で揺らぐように描かれています。以前の作品には見られない具象性があります。おそらくそれは、堀込氏がこの時点で捉えた自然の本質の一端なのでしょう。まるでコントロールできない自然の要素が表現されているかのようです。もっとも、観客にしてみれば、そのような表現の中に、変化と自由と動きによる面白さが添えられたように思えるのです。

 作風の変化について堀込氏はさらに、「絵画を教える経験を通して、自分も自然を学ばなければならない、モチーフとして自然を捉えるだけではなく、素直に自然を見つめ、その本質を捉える必要があると思った」と話してくださいました。そして、風景だけではなく、「葉や花も今回はストレートに描いてみた」ともいわれました。

 たとえば、『キンモクセイ』(91.0×72.5㎝、油彩、2016年)という作品があります。

こちら →IMG_2440

 これまでとは違ってこの作品も、ガラスや葉、花などのモチーフの形状がはっきりと認識できるように描かれています。堀込氏のいう「モチーフ的解釈から現実的解釈」に変えて制作されたからでしょうか、私はより素直に花や葉が描かれているという印象を受けました。もちろん、画法はこれまでと変わりませんし、ガラスもクリアな輝きは抑えられ、鈍い透明感で表現されています。

■モチーフとしてのガラスのビン
 展示作品を見ていくと、どの作品にもガラス、水が基本モチーフとして取り上げられているのがわかります。この点について尋ねると、堀込氏はガラスビンの後ろに透けて見える世界を描くのが好きで、ここ10年ぐらいずっとガラスビンを描き続けているといわれました。

 たとえば、『Bottles』(130.5×97㎝、油彩、2007年)という作品があります。

こちら →IMG_2426
(今回の個展では展示されていません)

 オレンジや透き通った薄緑の液体、そして透明の液体が入っているボトルが3本、描かれています。ガラスビンそれぞれの大きさと配置、3本のビンが交差する辺りの描き方などに興趣がありますが、この作品でもモチーフそれぞれの境界は薄く、背景も影もすべてが混然一体になっているかのよう描かれています。そのせいか、どこにでもありそうで、実はどこにもない不思議な世界が描出されているのです。

 ビンをさらに抽象化させた作品もあります。たとえば、『Bottles』(116.5×91㎝、油彩、2008年)という作品です。

こちら →IMG_2428
(今回の個展では展示されていません)

 やはり3本のビンが描かれていますが、こちらはモノトーンで、モチーフの形状が抽象化されています。これらのビンに口はなく、もはや立体でもありません。ですから、見ようによってはただの図形のように見えますが、二つのビンが重なっているところの描き方で、ガラスビンが描かれているということがわかります。

 この絵にはモチーフを引き立てる背景もなければ、ビンが置かれているはずの台も描かれていません。モノの存在を支える諸要素を取り払い、さらには色彩と形状の余分な要素までも剥ぎ取り、ガラスビンの本質を浮き彫りにした作品です。

 それだけに、左上方から差し込み、右下方に落ちる光が印象に残ります。この柔らかい光がガラスビンに微妙な陰影を与え、その存在を繊細に浮き彫りにするという構図です。このようなガラスビンの描き方を見ていくと、堀込氏の画風がこの時期、具象から抽象へと変化していったのがわかります。

■ガラスの質感
 堀込氏は「生理的にガラスの質感が好きだ」といい、「ガラスは飽きない」ともいいます。その理由として、ガラスを通してみた世界は面白いし、ガラスに水を入れてみても、光を添えてみても面白いからと説明してくれました。

 たとえば、展示作品の中に、『Magic 1』(116.5×91、油彩、2015年)という作品があります。

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 まず、目につくのが水の入ったガラスです。キャンバス中央よりもやや下方にガラス底があり、その曲面に上方から透過した屈折光によって形状が変化した花か葉のようなものが描かれています。花びらなのか葉なのか、わかりません。グレーがかったピンクと緑色の平たく丸い粒状のものがいくつも重なって球の形に凝縮され、水の入ったガラスを支えています。

 背景はモノトーンで、ガラス玉が宙に浮かんだような構図で描かれています。この絵からも実在の基盤が排除されているのがわかります。とくにこの作品ではグレーがかったピンクのグラデーションが印象的です。この色彩のせいか、時空を超えた幽玄の世界が表現されているようにも見えます。

 最新作だと思われる『In the garden』(162.0×130.5㎝、油彩、2016年)という作品があります。

こちら →IMG_2442

 この絵を見ると、白い花と葉が入っているガラス底が平らで、しっかりと接地していますから、安定感があります。左方向から差し込む陽光を受けて、接地面に長く影を落としています。ガラス底面に描かれた白とその右下に小さく塗られた白の反射光が、光の確かな存在を表しており、鮮やかな印象を与えます。シャープな影といい、ガラスに反映された光といい、これまでの堀込氏の作品にはない鋭角性が見られます。

■塗って、削って、重ねる技法
 堀込氏は油絵が好きだといいます。といっても、油がギトギトしたような作品ではなく、パステルのように見えて、実はツヤがあるような油絵が好きだといいます。そういわれてみると、たしかに彼女の作品は淡い色調で、限りなく繊細でありながら、興味深いことに、限りなく強靭でもあります。

 作品を作る場合、堀込氏はまず、F6のキャンバスにパステルで完成形を作成し、その絵で全体のイメージを確認してから、油絵の制作に入るのだそうです。油絵ですから、下地を作ってから形を取り始めますが、興味深いのは、キャンバスに厚く塗った絵の具をナイフでいったん、全部そぎ落としてしまうことです。

 そぎ落とすことによって、キャンバスに残像が残ります。そこに柔らかい刷毛でまた絵の具を塗り、ナイフでそぎ落とすという作業を繰り返します。そのような作業を何度も繰り返していくと、浅い残像が幾重にも積み重なり、パステルの質感が生まれるのだそうです。

 たとえば、さきほど紹介した『Magic 1』で描かれた花弁も、そのような作業の積み重ねの結果、生み出された微妙な色合いで表現されています。

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 花弁一つとってみても、外側から内側へのグラデーションが見事に表現されています。キャンバスに近づいてみると、絵の具が平坦に均されていることがわかります。大きな刷毛で塗った絵の具をナイフでそぎ落とし、残像を重ねて色を生み出してきたからでしょう。そのような作業の繰り返しの結果、彼女が求める色が現れてくるのです。

 堀込氏は、このような作業工程を経てはじめて、滑らかでいい味の色を出せるといいます。削って、塗って、また、削って・・・、という作業の繰り返しの結果、残像が積み重なって、微妙な色合いがジワッと出てくる、そのような色の出方が好きだといいます。

 『In the garden』では、ナイフで削った痕跡がキャンバスに残っています。

こちら →IMG_2436

 これは痕跡部分を拡大した写真です。ちょっと見えづらいかもしれませんが、上方やや右寄りに縦に白く小さな線があります。これがナイフで削った痕跡です。通常は削った上でまた絵の具を塗って、平らにしていくのですが、この絵ではこの部分が残されています。

 よく見ると、白い花弁のグラデーションの中でこの白い痕跡はめしべの本体である花柱にも見えます。種子や実になる部分です。堀込氏は敢えてこの痕跡を残すことで、この絵の中にひっそりと生命の営みを盛り込んだのかもしれません。

■モチーフを手掛かりに、技法の深化を
 時系列で堀込氏の作品を見ていくと、徹底的にガラスビンにこだわって制作し続けたことで、確かな技法を掴み、それを洗練させていったような気がします。ガラスというモチーフとの出会いを大切にし、それを表現するための技法に妥協しなかったことが彼女の画力を向上させてきたように思います。

 堀込氏は油絵なのにパステルみたいな質感を出すために、工夫して、独特の技法を生み出しました。塗ってはナイフで削り、その浅い残像を重ねて色を生み出し、形を浮き彫りにしていく画法は、聞いていると、気の遠くなるような作業です。ところが、彼女はそのような作業工程を経ないと納得できる色が出ないから、決して苦ではないといいます。

 制作に時間はかかりますが、この技法のおかげで、どこから見ても一目で、堀込氏の作品だということがわかります。彼女の質感へのこだわりが他の誰も真似のできない画風を作り出しているのです。

 絵の具を塗ったのではなく、染めたような風合いを出すことにこだわり、彼女はヒトがまねることのできない独特の技法を編み出しました。このユニークな技法はすでに大学4年生の時に確立されていたようです。

 今回、一連の展示作品を見ていくと、堀込氏が新たな視点で制作に臨み、新しいステージに進みつつあることがわかります。もちろん、技法そのものは変わりませんし、ガラスや水といったモチーフもこれまでと変わりません。技法もモチーフも継続して深化させることによって、新たな表現の地平を切り拓くことができるでしょう。時間をかけて練り上げてきたことの成果が今後、少しずつ現れてくるような気がしています。

 絵画の極みを求め、奮闘する若手画家の今後に期待したいと思います。(2016/1/18 香取淳子)

絵画のゆくえ2016:近藤オリガ氏の作品

■FACE受賞作家展
 「絵画のゆくえ2016:FACE受賞作家展」(2016年1月9日から2月3日まで)が新宿の損保ジャパン日本興亜美術館で開催されています。FACE展2013からFACE展2015までの3年間に、「グランプリ」および「優秀賞」を受賞した作家たち12名の受賞後の作品約80点が展示されています。

こちら →http://www.sjnk-museum.org/program/current/3405.html

『FACE』は新進作家の登竜門として2012年度に創設された公募コンクールです。応募要件に年齢・所属が問われませんから、毎回、幅広い層から多数の応募があります。今年もFACE展2016が2月20日から3月27日まで開催されますが、その前に開催されるこの展覧会はこれまでの『FACE』総決算といえるでしょう。

 今回の展覧会では、受賞後、作家たちがどのような創作活動を展開しているかに焦点が当てられています。新進作家のフォローアップであり、絵画の直近の動向を把握し、未来を予測する手掛かりにもなるでしょう。とても興味深い展覧会です。私はFACE2015しか見ていませんので、ちょうどいい機会だと思い、開催初日の1月9日、出かけてみました。

 会場は作家ごとに展示コーナーが用意され、12名の作家が受賞後に制作された作品約80点が展示されていました。ざっと見渡したところ、私はFACE2013で受賞された作家の方々の作品に強く引き付けられました。展示されていたのは4人の作家の作品でしたが、いずれも画材に工夫の跡がみられ、画力も優れていました。それぞれ個性が際立っており、それこそ新進作家ならではの斬新さが感じられました。

 とくに印象深かったのが、近藤オリガ氏と永原トミヒロ氏の作品です。

 ちょうどこの日、14時から、FACE2013のグランプリを受賞した堤康将氏、そして、優秀賞を受賞した永原トミヒロ氏、近藤オリガ氏、田中千智氏のアーティストトークが行われました。それぞれの作品の前で30分間、作家によるお話しがあり、その後、観客からの質問に応じるという形式のトークです。

 今回はこのときのトークを踏まえ、近藤オリガ氏の作品を見ていきたいと思います。

 FACE2013で近藤オリガ氏が受賞したのは、『思いに耽る少年』(130×194㎝、油彩画、2012年)でした。

こちら →思いに耽る少年

 今回の展示作品の中には含まれていませんでしたが、ここで描かれた少年は近藤オリガ氏の孫で、重要なモチーフの一つです。色調といい、構図といい、西洋絵画の伝統を踏まえた描き方が印象に残ります。

■ベラルーシ出身の画家、近藤オリガ氏
 近藤オリガ氏は1958年ベラルーシ共和国マギレフ市生まれの画家です。ベラルーシ国立美術大学を卒業後、1980年代はベラルーシ国内および東欧で個展、グループ展などで作品を多数発表し、数多く受賞しています。1988年にはベラルーシ美術家連盟の会員にもなっています。1990年代は西欧にも活動の幅を広げ、とくにドイツでは1995年以降、各地で個展を開催してきたといいます。

 2007年に来日してさっそく創作活動を開始し、2008年以降、毎年、公募コンクールで受賞しています。近藤オリガ氏が洋の東西を問わず、高い評価を受けている画家だということがわかります。

 それでは、近藤オリガ氏の展示作品を見ていくことにしましょう。

■ザクロの樹と父の肖像
 まず、『ザクロの樹と父の肖像』(162×162㎝、油彩画、2014年)から見ていくことにしましょう。

こちら →IMG_1740

 この絵を最初に見たとき、不思議な感覚に捉われました。子どもの姿がとてもリアルに描かれているのに、その存在を支える具体的な背景が台座以外に何も描かれていないのです。しかも、幼児の方は正面を向いているのに、その下で幼児を見上げている少女は後ろ姿しか描かれていません。視線が交差していないのです。そして、この二人を包み込んでいるのが、広大な海を彷彿させる空間です。だからでしょうか、私はこの絵を見たとき、時間も場所も消えているような気がしたのです。

 アーティストトークでは、近藤オリガ氏(以下、オリガ氏)はロシア語で話され、ご主人の近藤靖夫氏(以下、近藤氏)が日本語に通訳されました。

 オリガ氏の説明によると、この絵の幼児は父親だそうです。その下で左手を突いて座っている少女がオリガ氏で、画家であった父から子どものときから絵の手ほどきをうけたといいます。この絵の前で彼女は父親に教えられたことをとても感謝しているといいました。

こちら →IMG_1735

 そのような説明を聞いて、改めてこの絵を見ると、今度は幼児がザクロを手にし、少女が手をついている先にもザクロが描かれているのが気になってきます。そういえば、この絵のタイトルも「ザクロの樹と父の肖像」です。ザクロに何か意味が託されていたのでしょうか。残念なことに、私はオリガ氏にこのことを聞きそびれてしまいました。

 調べてみると、ザクロはギリシャ神話の「ペルセポネの略奪」にちなみ、死と復活を象徴する果物なのだそうです。私は知らなかったのですが、中世ではザクロは「再生」の象徴として聖母像によく描かれていたそうです。

 そのような知識を得て、再びこの絵を見ると、オリガ氏の気持ちが痛いようにわかってきます。時間と空間を敢えて排除したようなこの絵の構図からは、もはや時間と空間を共有できない父親への哀惜の思いが感じられます。そして、幼児が手にし、少女の手の先にも置かれているザクロはおそらく再生を意味しているのでしょう。ザクロを配置することによって、画家であった父がオリガ氏を通して再生し、復活しているというメッセージがこの絵からひしひしと伝わってくるのです。

■みかん?それともザクロ?
 会場で一目見て、私が引き付けられてしまったのが、『みかん?それともザクロ?』(116×116㎝、油彩、2015年)でした。ただザクロの実が描かれているだけなのですが、心が揺さぶられるように美しく、そして、吸い込まれるように深いのです。しばらく佇んで見入っていました。

こちら →IMG_2411
慌てて撮影したので、少しずれてしまいました。

 ザクロは熟したら、割れるといいます。このザクロは割れていて、左側の実に無数の赤いタネが見えています。全体に暗い色調の中で、タネはまるでルビーのような深紅の輝きを見せ、モチーフに華やぎを添えています。

 興味深いことに、外皮はミカンなのです。外皮をミカンの皮にしたことによって、このザクロが割れたのではなく、剝いたように見えるところが興味深く思えました。

 ミカンの皮は剝いたとき、このような形状になりますが、ややしなるように描かれた外皮の形状が割れたザクロに安定感を与えています。外皮にはところどころ黄金の輝きが見られ、したたかな生命力が感じられます。そして、白い内皮がモチーフの構造を際立たせ、奥行きを生み出しています。

 トークの制限時間が30分間だったせいか、この絵についてオリガ氏は説明されませんでした。おそらく説明の必要がなかったのかもしれません。モチーフの形状といい、色彩のバランスといい、構図といい、ヒトの気持ちに訴えかける絵の力が強烈なのです。

■モチーフとしてのザクロ
 4人の画家のアーティストトークが終わり、ショップに立ち寄ると、この作品のエスキースが販売されていました。よほど購入しようかと思ったのですが、会場で見た作品とはどこか違います。深い興趣が感じられないのです。画材が違うのかもしれないと思い、美術館の方に尋ねると、油彩画とのことでした。画材は展示作品と同じです。

 画材が同じだとすると、エスキースだからでしょうか、あるいは、サイズのせいでしょうか。展示作品に込められていた心に深く訴えかけるような美しさに欠けるのです。とはいえ、このエスキースも当然、一点物です。一瞬、購入しようかと思ったのですが、思い直し、本物の方がいいというと、美術館の方は私がコレクターだと勘違いされたようで、オリガ氏のところに案内してくださいました。

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後日、近藤氏からご連絡をいただき、このエスキースがキャンバスではなく、油紙に描かれたものだったこ とがわかりました。これで、私が一目で見て、展示作品とは質感が異なると思った理由が判明しました。画材やサイズが異なれば、同じように描かれたものでも、そこから観客が受ける印象は大幅に異なってくるのですね。写真とは異なる絵画の一側面を認識させられました。
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 『みかん?それともザクロ?』が一番、素晴らしいと思ったというと、ご主人の近藤氏は、この絵はアートオリンピアで入賞した作品だといわれました。

 後で調べてみると、たしかに、この作品はアートオリンピアで入選しています。このときのタイトルは『日本に捧げる』でした。

こちら →https://artolympia.jp/img-template.php?no=11690&type=A

 ザクロをモチーフに、オリガ氏はこれ以外にもいくつか制作されているようです。第75回新制作展で新作家賞を受賞した『ザクロ』(162×162㎝、油彩、2011年)は、すでに海外の方が購入されたようです。

こちら →ザクロ

 赤いタネが少なく、やせ細ったザクロが描かれているせいか、この絵からはまず荒涼感、寂寥感が漂ってきます。その一方で、天空から降りてくる光が地上を照らし、ザクロにも鈍い輝きを与えているのに気づきます。よく見ると、確かな希望が表現されているのです。つまり、この絵にはザクロのシンボルである死と復活が描かれているように思えてきます。ヒトが生きていく上で避けて通れない死と、それを乗り越えた暁に得られる復活が抑制の効いたタッチで描かれているのです。

こうしてみてくると、オリガ氏にとってザクロというモチーフは特別のもののように思えてきます。

■200年、300年通用する絵画を目指して
 展示されていたオリガ氏の作品は7点でしたが、いずれもしっかりとした描写力によってモチーフが捉えられており、観客を力強く引き込み、考えさせる力がありました。伝統的な西洋絵画の技法を踏まえ、オリガ氏ならではの感性で組み立てられた構図やモチーフの造形などが、絵を見た観客に自然に内省を促すからでしょう。

 オリガ氏のトークでもっとも印象に残っているのが、「時代の流れに迎合することなく、200年、300年通用する絵を描いていく」といわれたことでした。それを聞いて私は、なんとなくオリガ氏の画風に納得がいくような気がしました。オリガ氏の作品を見ていくうちにいつしか、時代に迎合せず、凛とした姿勢で伝統的技法を踏襲していくことこそ、作品の生命を永らえさせることに繋がるのではないかと思うようになっていたからでした。

 西洋絵画の伝統的な技法を習得されたオリガ氏は作品を通して、東欧から西欧、そして、近年は日本でも高い評価を受けるようになりました。そのことを思えば、「200年、300年」という言葉がとてもリアルに響いてきます。文化の異なる空間を易々と超えられたからには、時間も容易に越えられるはずです。

 たとえば、私たちがよく知っているベラスケス(1599-1660)やルーベンス(1577-1640)は400年以上前の画家ですし、カレンダーやポスターで日常的にその作品を目にするゴッホ(1853-1890)やルノワール(1841-1919)なども100年以上前の画家です。それを考えると、時代に迎合するのではなく、むしろ時代と対峙し、その本質を表現していくことこそ、作品の命を永らえさせることになるのではないかという気がしてきます。

 オリガ氏に、『ひまわり―福島への祈りー』(130×162㎝、油彩、2012年)という作品があります。これも私が強く心惹かれた作品の一つです。

こちら →ひまわり

 2011年の福島原発事故は、ベラルーシ出身のオリガ氏にとって相当、ショックな出来事だったようです。というのも1986年のチェルノブイリ原発事故でもっとも被害を受けたのがベラルーシだったからです。福島原発事故が起こったとき、オリガ氏はたまたまベラルーシに戻っていたそうですが、当時の記憶がすぐ甦り、日本が心配でたまらずドイツ経由ですぐに戻ってきたそうです。当時、成田空港は日本から脱出する外国人で溢れていたというのに、彼女はわざわざ日本に戻ってきたのです。

 この作品についてオリガ氏は、「ベラルーシの草原に咲いていたひまわりを持ち帰り、福島の復興を祈って、描いた」と述べられました。ひまわりはタネが多く、タネが落ちれば、そこから多くの芽が出て、新しい命が育まれます。福島の再生を祈って、この絵が描かれたのです。

 オリガ氏はトークの最後で、「私にとって芸術とは世界を認識する一つの方法だ」と述べられました。絵画を通して世界を認識するという観点があれば、おそらく、モチーフや構図、色調の中に、時代に迎合することなく、時代の本質を取り込めるはずです。そして、時代の本質を描くことができれば、200年、300年は通用する作品になるでしょう。『ひまわり』はそのような作品の一つになると思います。

 凛とした姿勢で創作活動を展開されているオリガ氏だけに、今後、日本をテーマにどのような作品を制作なさるのか、とても楽しみにしています。(2016/1/14 香取淳子)