ヒト、メディア、社会を考える

09月

筑波大学芸術系研究者チーム、孔子像を彩色復元する。

■画期的な研究成果の公開
 2016年8月27日(13:00~15:30)、茗渓会の公開講座、「嘉納治五郎と孔子祭典―湯島聖堂本尊孔子像の彩色復元資料を中心にー」が開催されました。会場は茗渓会館5階の会議室で、同じフロアのラウンジには、この公開講座を含む期間(8月22日から28日)、復元された彩色孔子像、関連資料や映像、模写作品などが展示されていました。

こちら →img_2515
(図をクリックすると拡大します)

 この講座は、第1部「嘉納治五郎と明治の徳教」と第2部「湯島聖堂「孔子像」復元チームが語る、草創期の彩色像の再現」で構成されており、第1部がこの講座全体を俯瞰する見取り図だとするなら、第2部は彩色孔子像の復元に至る具体的なエピソードの紹介という組み立てです。

 第1部の美術史の立場からの孔子像研究から、第2部の精緻な考証を踏まえた孔子像の彫塑、彩色、模写、3DCG表現などに至る流れもスムーズで、孔子像の彩色復元の意義や復元のプロセスが、無理なく理解できる展開になっていました。専門的な内容でしたが、孔子像を巡る考証や制作のプロセスが、パワーポイントで適宜、画像を織り込みながら、説明されたのでわかりやすく、よく理解できたような気がします。

 今回の公開講座は、科学研究費による研究の成果発表の一部として行われました。科学研究費基盤研究(A)東アジア文化の基層としての受講の視覚イメージに関する研究」(研究代表者:守屋正彦、2014年4月-2018年3月)の中間発表といっていいでしょう。筑波大学芸術系儒教美術教員チームによる壮大な研究成果の一端がこの日、一般に披露されたのです。

 当日、配布されたリーフレットには発表内容の要点が記されています。

こちら →http://www.tsukuba.ac.jp/wp-content/uploads/160822_28.pdf

 発表内容について私はこれまでまったく知らず、興味を抱いたこともなかったのですが、考証や復元のプロセスがとても精緻に、論理的に展開されていたので、聞いているうちにいつしか、良質のミステリーの謎解きにも似た面白さに捉われてしまいました。引き込まれて聞いているうちに、あっという間に所定の時間が経っていました。

 それでは第1部から順に、発表内容をご紹介していくことにしましょう。

■嘉納治五郎と明治の徳教
 第1部は、「嘉納治五郎と明治の徳教」-高等師範学校長が復活させた孔子祭について」という内容で、本研究の代表者である筑波大学教授(美術史)の守屋正彦氏が発表されました。

 興味深かったのは、明治維新以降、行われなくなっていた孔子祭典が開催されるに至ったプロセスです。はじめての孔子祭典は、明治40年(1907年)、孔子祭典会によって開催されました。

 守屋氏によると、孔子祭典会は明治39年に結成され、40年1月16日、互選によって、当時、東京高等師範学校の校長だった嘉納治五郎が委員長に就任したそうです。そして、同年4月、維新後はじめての孔子祭典が行われ、以後、大正8年の第13回まで、孔子祭典会主催によって開催されています。

こちら →http://www.seido.or.jp/cl02/detail-6.html

 孔子祭典会の母体になったのが、明治13年(1880年)に設立された斯文学会でした。守屋氏はこの斯文学会について、「ヨーロッパを視察した岩倉具視は帰国後、孔子学に基づいた道徳教育の在り方を推進」し、それに呼応するように、政、財、官、学界から有志が集い、東アジア文化に共有する孔子学を学ぶ場として設立されたと説明されました。孔子の教えに倣い、道徳教育を行おうとする動きがすでに明治10年代、形を整えつつあったようです。

 当時、全国津々浦々に開化思想が広がり、社会情勢は混乱していました。維新後10年を経て、盲目的に西欧の思想や文化、技術を摂取するだけではなく、漢学に依拠した規範再考の動きが各地で生まれていたようです。欧米に対抗するための諸改革が一段落すると、為政者たちは社会秩序のための根本理念が必要だと思いはじめたのでしょう。欧化主義をとりながらも、儒教を踏まえた生活規範を広げる必要があると思うヒトが増えてきていたのです。

 第1回孔子祭典には多数の指導的立場のヒトが参加しました。写真は、祝賀の言葉に聞き入る人々を背後から写したものです。

こちら →%e7%ac%ac1%e5%9b%9e%e5%ad%94%e5%ad%90%e7%a5%ad%e5%85%b8
(講座案内リーフレットより。図をクリックすると拡大します)

 礼装に身を固めた男性たちが幾重にも並び、頭を垂れて聞いている姿が印象的です。後方には配布された祝文らしいものを読んでいるヒトもいます。この写真からは新しい社会の根幹に孔子学を据えようとする人々の熱気が感じられます。

■学校教育の発祥の地
 第1回祭典委員長に就任したのは、独自の柔道を創り、明治15年(1882年)に講道館を設立した嘉納治五郎でした。彼は東洋で初の国際オリンピック委員を務め、日本のスポーツ界におおいに貢献したことで知られていますが、実は、25年余に及ぶ東京高等師範学校の校長でもありました。

 興味をかき立てられ、ちょっと調べてみました。すると、明治35年10月21日、宏文学院での講演で、「徳育については孔子の道を用いるのがいいであろう」と述べていることがわかりました(陈瑋芬、「「斯分学会」の形成と展開」、1995年)。嘉納治五郎が道徳教育は孔子学に基づくのがいいと考えていたことがわかります。

 守屋氏はまた、明治4年(1871年)に翻訳書『西国立志編』を刊行した中村正直を紹介されました。『西国立志編』はイギリス人サミュエル・スマイルズの著書(”Self Help”, 1859)の翻訳です。この本は明治の終わりまでに100万部以上を売り上げたといわれていますから、当時、意欲に燃えた若者や知識人たちに相当、影響を与えていたと思われます。翻訳者である中村正直は儒学にも造詣が深く、東京女子高等師範学校の校長でもありました。

 私にとって興味深いのは、嘉納治五郎と中村正直が校長を務めていた東京高等師範学校と東京高等女子師範学校が当初、隣り合わせに設置されていたということです。

こちら →img_2506
(展示写真より。図をクリックすると拡大します)

 古い写真なので画像がはっきりしませんが、左が東京女子高等師範学校で、右が東京高等師範学校です。現在は東京医科歯科大学のある場所に当時、両校がありました。元はといえば、徳川五代将軍綱吉が儒学の振興を図るために聖堂を設置した場所でした。その後、1797年に幕府直轄学校として昌平坂学問所が開設され、明治4年にこれが廃止されると、今度は1872年に東京師範学校、そして、1874年には東京女子師範学校が設置されました。ラウンジに展示されていたこの写真からは、この地がまさに学校教育発祥の地であったということがわかります。

こちら →http://www.seido.or.jp/yushima.html

 東京高等師範学校はその後、学制改革により、東京教育大学を経て、現在は筑波大学になっています。一方、東京女子高等師範学校は同様に学制改革により、お茶の水女子大学となりました。この写真を見ていると、学生の頃、母校がかつて東京医科歯科大学の場所にあったと聞かされたことを思い出し、懐かしくなりました。

■孔子像の焼失
 第1部では守屋氏の発表によって、孔子祭典の開催に至る経緯がよくわかりました。明治40年に 維新後はじめて孔子祭典が挙行された背景には、近代化の圧力に対抗するかのように儒学再興の機運があったことが印象的です。西欧の文化や思想を摂取する一方、日本の国のカタチを模索していた為政者、識者たちはそのシンボルとして孔子に熱い思いを抱いていたのです。

 孔子学に基づいた道徳教育の在り方を推進しようとする人々によって、維新後はじめて孔子祭典は開催されました。その後も継続して、大正8年までは孔子祭典会主催で開催されていました。ところが、大正9年以降、斯文学会を母体として組織改革された斯文会主催で開催されるようになり、現在に至っているようです。

こちら →http://www.seido.or.jp/cl02/detail-6.html

 祭典ですから、当然、礼拝の対象が必要です。孔子祭典では、「湯島聖堂大成殿本尊孔子像」がその象徴でした。ところが、1923年9月、関東大震災が発生した際、湯島聖堂が罹災し、孔子像や孔子の高弟である四配像も焼失してしまいました。

 その後、湯島聖堂は昭和10年(1935年)に再建されました。ところが、シンボルである孔子像は不在のまま、相当、時間が経ちました。2007年にようやく本尊として、湯島聖堂大成殿に奉納されのが、柴田良貴氏(筑波大学教授)制作の孔子像でした。このブロンズ像は筑波大学芸術系研究者チームによる復元研究の成果です。

こちら →worship_cut02
(http://www.seido.or.jp/worship.htmlより。図をクリックすると拡大します)
 
■孔子像復元研究の経緯と成果
 第2部は2007年に奉納された孔子像に基づき、孔子像の彩色復元に携わった方々が発表されました。

 まず、筑波大学教授の柴田良貴氏(彫塑)が、研究の経緯と成果について説明されました。2007年に奉納された孔子像(ブロンズ像)の復元までに、康音作(木像)、新海竹太郎(ブロンズ像)など、さまざまな図像や画像を参考にしながら、石膏原型を制作することから着手されたそうです。

こちら →%e3%83%80%e3%82%a6%e3%83%b3%e3%83%ad%e3%83%bc%e3%83%89
(2016年3月31日発行、復元研究成果報告論文集より。図をクリックすると拡大します)

 上の写真は柴田氏が何度も石膏像の修正を行っているところです。気の遠くなるような作業を繰り返し、石膏原型が完成しました。石膏はもろいので、中間的素材でしかありません。そこで、最終的には火に強く、半永久的に保存できるブロンズ鋳造をし、孔子像の復元にこぎつけました。それが2007年に湯島聖堂大成殿に奉納された孔子像です。

 興味深いのは、柴田氏が復元像には、「復元を行う作家の造形感覚が加味される」という認識を持たれていることでした。繰り返し石膏像の推敲をされる姿を写真で見ていると、たしかに、復元を行う作家の造形感覚こそが制作された像に命を吹き込むのだと思えてきます。復元は決して単なるコピーではないのです。

 柴田氏はさらに、今回の彩色復元像のために、ブロンズ像ではない素材について研究したと説明されました。それは、ブロンズ像には色をつけることができないからですが、彩色が有効な素材として何がふさわしいか、自身の専門と照らし合わせて検討を重ねた結果、奈良時代によく使われていた乾漆像での復元に決めたということです。

 私たちがよく知っている阿修羅像など、唐招提寺に保存されている像の多くはこの乾漆像だそうです。今では使われていない技法を掘り起こし、孔子像の彩色復元を完成させたこのチームの果敢な挑戦には頭が下がります。

■彩色復元
 柴田氏の制作された乾漆像に彩色されたのが、筑波大学准教授の程塚敏明氏(日本画)でした。今では使われていない乾漆像に彩色するため、さまざまな調査や実験をされたようです。

 たとえば、彩色材料についての実験をご紹介しましょう。立体像に彩色する際、問題になるのは、顔料を塗布しても剥落してしまう可能性があることです。どのような材料をどのように使用すれば、剥落を防ぐことができるか、それが、さしあたっての大きな課題でした。そこで、程塚氏は彩色実験をされています。

こちら →img_3269
(2016年3月31日発行、復元研究成果報告論文集より。図をクリックすると拡大します)

 湾曲した乾漆地に岩絵の具を1回塗布したもの、水干絵の具(泥絵の具)を1回塗布したものを比べると、湾曲した面にも効果的に塗布できるのは水干絵の具だという結果が得られました。それを踏まえ、水干絵の具を使用することにしたといいます。

 もちろん、曲面や垂直面で顔料を定着させるにはどうすればいいか、窪んだ箇所にたまる顔料をどう処理すればいいか、湾曲した面での文様の扱いをどうすればいいか、課題は山積していました。

 素材の工夫、塗り方の工夫など、様々な労苦を重ね、ようやく乾漆像への彩色復元が完成しました。

こちら →images
(2016年3月31日発行、復元研究成果報告論文集より。図をクリックすると拡大します)

 興味深いのは、程塚氏が孔子像の彩色作業について、「筆者の色彩的感性に加え、彫刻、日本美術史、デザインによる横断的な考察により、孔子像の視覚イメージが構築されていった」と説明されたことでした。

 かつては存在していたが、いまは存在しない孔子像をどのような材料で制作し、どのような顔料で彩色するか、隣接領域の研究者たちのチームワークの良さから得られた集合知の結果、最適解が得られたのでしょう。チームワークのいい共同研究ならではの成果をここに見ることができると思いました。

■孔子座像の3DCG
 立体像への彩色復元には、3DCGによる映像もおおいに参考になったようです。程塚氏は乾漆像に彩色する際、様々な角度からの立体像を参考にしたといわれましたが、その3DCGを制作したのが筑波大学准教授の木村浩氏(コンピュータグラフィックス)でした。

 ラウンジに展示されていたのは、「湯島聖堂大成殿内部空間」を3DCGで再現した映像でした。たとえば、次のようなカットがあります。

こちら →img_2508
(展示映像より。図をクリックすると拡大します)

 ここでは赤い柱に赤い梁、そして、赤い碁盤目の天井が表現されています。赤い梁と天井との間の空間に、賢人図像の扁額が掛けられています。高い位置にあって通常、下からはよく見えないのですが、このように3DCGで表現されるとよくわかります。大成殿の内部が3DCGで再現されることによって、扁額の図像がヒトの目にどのように見えていたのか、想像しやすくなっています。

 孔子座像についても3DCGで表現されており、様々な角度から立体図を確認できます。ですから、背面、側面など、正面から描かれた平面図ではよく認識できない部分を3DCGの映像で確認することで、孔子像をよりリアルに表現することができたのだと思いました。

 木村氏は柱の間隔、高さ、それぞれの位置など、空間を表現できる諸データを資料に基づき収集し、再現したといわれました。二次元で表現された画像を三次元空間に置き換えることによって、聖なる空間についてのイメージが膨らみます。

 大成殿内部の映像を見ていると、聖像は、聖なる空間の高い位置、あるいはよく認識できない位置に置かれてはじめて、聖性を帯びて存在しうるのかもしれないと思えてきました。

■英一蝶筆「孔子像」の模写
 英一蝶筆「孔子像」(斯文会所蔵)の模写を手がけたのが、筑波大学教授の藤田志朗氏(日本画)でした。日本画材を模写することにより、当時の彩色の手法や筆致、使用した色材などについて把握するのが目的だったようです。

 藤田氏は、英一蝶の「孔子像」は衣裳の文様が精緻で、その線描に抑揚があり、芸術性が高いという認識を示されました。

こちら →img_2504
(展示作品より。図をクリックすると拡大します)

 たしかに、模写された図を見ていると、衣の襞、さらには絹の重みを感じさせる筆の精緻さ、滑らかな流れがよくわかります。孔子の立体像を制作する際、このような平面図がおおいに参考になったことが推察されます。

 ラウンジに展示されていた孔子座像を仔細に見ると、見事な衣装の質感、文様の精緻さ、色彩の繊細さに驚かされます。

こちら →img_2510
(展示作品の一部を撮影。図をクリックすると拡大します)

 乾漆像への彩色で、これだけの文様や質感の表現が可能になったのです。乾漆像への彩色を担当した程塚氏の尽力はもちろん、ここには、孔子像の模写を通して得られた画材や彩色手法、筆致などの効果も見ることができます。あらためて、この研究チームの集合知の素晴らしさを感じさせられました。

■研究者チームの英知が結集した研究
 それにしても、なんと意欲的で、壮大で、意義深い研究なのでしょう。隣接領域の芸術系研究者たちが10年の歳月をかけ、関東大震災(1923年)の際、消失してしまった孔子像の彩色復元を実現させてしまったのです。

 本研究「東アジア文化の基層としての儒教イメージに関する研究」(平成26~30年度)は、「美術資料による江戸前期湯島聖堂の研究」(平成15~16年度)、「江戸前期儒教絵画と彫刻の復元研究」(平成17~19年度)、「礼拝空間における儒教美術の総合的研究」(平成21~25年度)、「東アジアに展開した儒教文化の視覚イメージに関する復元研究」(平成23~27年度)を踏まえ、展開されています。

 筑波大学芸術系研究者チームは上記の研究の結果、毎回、文化資産ともいえる成果物を出されており、日本画、日本文化、アジア文化などに多大な貢献をされています。一連の発表を聞き終えて、専門分野の異なる研究者が協力し合って成果を出していくことの素晴らしさを感じました。そして、知の集積の場である大学が持つ巨大な潜在力を見た思いがしました。(2016/9/12 香取淳子)