■第二帝政時代のエッセンスを浮き彫りにした《床の鉋かけ》
前回は、カイユボットが労働者を描いた二つの作品をご紹介しました。《床の鉋かけ》とそのデッサン、そして、その後に描いた《床の鉋かけ 別版》です。いずれも第2回印象派展に出品されました。
両作品の舞台は、パリの邸宅に増築されたカイユボットのアトリエです。アトリエは、パリの邸宅のリスボン通り側の右手3階に増築されました。荷物用玄関から別階段で行き来することができるようになっており、工事は1874年に行われました。おそらく、父親がカイユボットのために手配したのでしょう。
その父親は同年12月24日に亡くなっています。
ひょっとしたら、カイユボットは父親への思いを込めて、この作品を仕上げたのかもしれません。画題は、このアトリエの床に鉋かけをしている労働者たちをモチーフに作品化したものでした。
前回、ご紹介しましたが、再び、この作品を取り上げてみましょう。

(油彩、カンヴァス、102×145㎝、1875年、オルセー美術館蔵)
改めてこの作品を見てみると、上流階級の要素と労働者階級の人々とが一つの画面に収められているのが興味深く思えます。この作品のメインモチーフは労働者ですが、その背景に上流階級の要素がさり気なく組み込まれているのです。
たとえば、画面左上の窓越しに大きな庇窓が見えますが、その鉄柵が唐草模様のような曲線で造形されています。この部分を拡大してみましょう。

(※ 《床の鉋かけ》の部分)
バルコニーの優美な曲線の文様を引き立てるように、室内の白壁は、さまざまなサイズの金色の矩形でモールディングされています。窓から室内に入ってきた陽光に金色が映え、白壁が光り輝くような設えになっているのです。アトリエといいながら、凝った仕様になっており、上流階級の邸宅の一部だったことを思い知らされます。
細部に至るまで豪華な仕様で設えられているところに、宮廷文化を引きずる第二帝政時代の文化様式の一端を見ることができます。また、バルコニーの鉄柵の文様には、オスマニアン様式の建築仕様がしっかりと捉えられていました。
バルコニーにしろ、室内のモールディングにしろ、この作品の背景には、第二帝政時代を彷彿させる要素が組み込まれており、興趣をそそられます。
ここで少し、オスマン様式に触れておきましょう。
■オスマニアン様式
パリ大改造事業は第二帝政期に、ナポレオン 3 世の命令の下、セーヌ県知事ジョルジュ・オスマンによって実施されました。パリ全域を対象としており、街路や公園、上下水道、都市美観といった都市インフラ全体にわたる大規模な改造事業でした。
古い建物は次々と壊され、新しく造りかえられました。この大事業によって、パリの都市景観が抜本的に変化し、芸術の都、花の都と印象づけられるようになりました。パリは近代都市として生まれ変わったのです。
建物を建てる際にはいくつかの規制に従い、オスマニアン様式にしなければなりませんでした。その一つが、「建物の美観を考慮し、建物の横幅に流れるようなバルコニーを作らなければならない」というものです。
この様式で建築されたアパートがあります。参考のため、見てみることにしましょう。
こちら →

(※ https://www.parisnavi.com/special/5034798#google_vignetteより)
建物の外壁に合わせ、カーブしているバルコニーもあれば、矩形のものもあります。よく見れば,鉄柵の文様も階毎に異なっており、建物の外観自体、装飾的なものになっています。明らかに美観を意識した体裁になっていることがわかります。
パリの街を一種の美術館とみなし、それぞれの建物はそこに展示された作品という位置づけなのです。当然のことながら、建物の外観はそれぞれが美しくなければならず、しかも、全体として統一感がなければなりませんでした。
道路幅は広く、道路際には街路樹を植え、そして、建物の外観を厳しく規制して統一感をはかりながら、パリの街並みは一新されました。企画したナポレオン三世と、実行したオスマン知事が成し遂げた偉業でした。
カイユボットはそのエッセンスをこの作品の中に取り込んでいました。意識していたのかどうかわかりませんが、この作品には宮廷文化を引き継ぐ第二帝政時代の文化が凝縮して捉えられていたのです。
興味深いのは、そのカイユボットが、プロレタリアートをメインモチーフとして描いていたことです。
ちなみに、プロレタリアートという言葉は、ドイツの法学者ローレンツ・フォン・シュタイン((Lorenz von Stein,1815 – 1890)が1842年に刊行した著書『今日のフランスにおける社会主義と共産主義』の中で初めて使ったといわれています。彼は、プロレタリアートを資本主義体制下での賃金労働者階級を指しています(※ Wikipedia)。
一方、マルクス( Karl Marx, 1818 – 1883)とエンゲルス(Friedrich Engels,1820 – 1895)は、1848年に刊行された『共産党宣言』の中で、「今日まであらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である」という歴史観を述べた上で、近代ブルジョワ社会においては全社会がブルジョワジーとプロレタリアートに分かれていくこと(両極分解論)、そして最終的にはプロレタリア革命によってプロレタリアートが勝利し、階級対立の歴史が終わると予言しました(※ Wikipedia)。
1842年に初出したプロレタリアートという語が、1848年には資本主義体制下の社会を構成するキー概念の一つとして使われています。新しく台頭してきたブルジョワジーに対する概念として設定されたのです。
産業化の進行とともに、ブルジョワ階級が台頭する一方、賃労働の担い手が増えていきました。プロレタリアートという概念は、ブルジョワジーに対立する概念として使われ、資本主義体制下の社会を構成するキー概念だともいえます。
カイユボットの《床の鉋かけ》はまさにこのプロレタリアートを描くものでした。いってみれば、二つの対立概念を一枚の画面に組み込んだともいえるのです。
■プロレタリアートを描く
労働者の姿を描いた作品としては、当時、すでにクールベの《石割人夫》(1849年に制作、1945年にドレスデン近郊で爆撃による焼失)、あるいはミレーの《落穂拾い》(1857年)がありました。
クールベにしても、ミレーにしても、モチーフは農村あるいは山で働く労働者でした。背景は、田畑や石切り場なので、モチーフの作業内容と背景とに何ら齟齬はありません。働く労働者の状況がごく自然に捉えられており、その苦労が直に伝わってきます。身に着けている衣類や靴も彼らの辛くて貧しい生活状況を示すものでした。
どの時代にも存在した労働の形態であり、大地に根付いた人々の生活を支える労働でした。大地や山を生産基盤とし、彼らは食料や石材を産出していたのです。田畑で豊作を祈って神に祈りを捧げ、石切り場で神に安全を祈願しながら、身体を酷使し、生産物を得ていたのです。
プロレタリアートと称される存在とは様相が異なるのです。
実際、カイユボットの《床の鉋かけ》では、クールベやミレーと同じように労働者が働く姿を描きながら、これらの作品とはその趣が異なっていました。
労働者たちは床に鉋かけをしながら、楽しそうに話し合っていましたし、その傍らにはワインのボトルが置いてあります。語らいながら、時に、ワインで喉を潤しながら、働いている様子が捉えられていたのです。
カイユボットは確かに労働者の作業風景を描いていましたが、画面から伝わってくるものは、労働の辛さではなく、貧困でもなく、むしろ労働によって身体を動かすことの喜び、あるいは、楽しさといったようなものでした。
おそらく、そのせいでしょう。カイユボットの作品からは労働者の労苦や貧しさ、辛さといったものが感じられないのです。
半裸で働く姿が描かれているせいか、労働によって鍛えぬかれた身体ばかりが強く印象づけられます。労働者というカテゴリーではなく、筋肉隆々とした身体の若い男性が描かれているといった方がいいかもしれません。
姿勢がいびつですが、彼らはまるでギリシャ、ローマの英雄像のように見えなくもないのです。
そのせいか、この作品はクールベやミレーの作品と違って、なんらかの社会的主張が含まれているようには見えません。もちろん、政治的、道徳的な主張が見受けられることもありません。ブルジョワ階級の画家が、自宅で作業中の労働者を、単にモチーフとして捉えたにすぎないように思えるのです。
労働者を描いたとはいえ、そもそもクールベやミレーが取り上げた労働者とは質が違っているからかもしれません。
そういえば、シュタイン、マルクス、エンゲルスはプロレタリアートを、生産手段を持たない賃金労働者と定義づけていました。雇用され、提供した労働力に応じて賃金を得るという仕組みの労働です。典型的なのは工場労働者ですが、産業化の進行とともに増えてきた労働の形態です。
もっとも、カイユボットは彼らをそのようには捉えていないように思えます。
確かに、表現の対象として、労働者の身体やその所作はきわめて写実的に捉えられています。さすがにレオン・ボナに師事していただけのことはあると思わせる画力です。
ところが、彼らの姿を表面的に捉えているだけで、その背後にまで想像力が働いていないように見えます。労働者に感情移入していないせいか、その内面にまで踏み込めていないのです。おそらく、カイユボットが実際に労働者の生活実態を知らず、自身が生活していくことの辛さ、困難さを経験したことがなかったからにちがいありません。
この作品からは、むしろ、モチーフに対するカイユボットの屈折した思いが感じられます。すなわち、半裸で作業する若い労働者階級の男性の筋骨隆々とした体躯に対するアンビバレントな感情です。
■透けて見えるアンビバレントな感情
《床の鉋かけ》は、四つん這いになった労働者を、やや高みから捉えた構図が印象に残ります。私にはこの構図が、カイユボットが心身の弱さの反映に思えてなりません。
実際に身体が弱かったのかどうかわかりませんが、このアングルは、描く側が圧倒的に有利な位置にいることを示しています。この作品を見て以来、私は、カイユボットは身体に自信がなく、内省的な人物ではないかという気がしていました。ただ、何の根拠もありません。そこで、何か手がかりはないかと気になって、カイユボットの来歴を見てみました。
すると、1870年7月26日にセーヌ県の機動憲兵隊に召集され、8月30日から1871年3月7日までプロイセンと戦っていたことがわかりました。彼は普仏戦争に参加していたのです。
興味深いのは、その時の軍の記録に、カイユボットの身長が167cmと記載されていたことです(※ http://caillebotte.net/chronology/)。身長が低かったようなのですが、ひょっとしたら、このことが除隊後の進路変更に影響していたのではないかという気がしてきました。
除隊した1871年にカイユボットは、法律家の道を諦め、画家を志向するようになっています。軍隊での数か月間の経験が、この進路変更に影響しているのは明らかでしょう。
この期間、カイユボットは、頑健な身体と強靭な精神を持つ兵士たちとともに過ごしていました。日々、心身の弱さを自覚するようになっていた可能性があります。他の兵士たちに比べ、精神面では、戦闘に挑む攻撃性、艱難辛苦に対する耐性に劣り、そして、身体面では、体力、持久力、反射神経などが欠けていることを思い知らされていたのではないかと思うのです。
そう思って、再び、《床の鉋かけ》を見てみると、その画面構成からは、カイユボットの若い男性に対する二つの相反する感情が感じられます。
すなわち、3人の労働者を四つん這いの姿勢で描いたところに、屈強な身体の男性に対するコンプレックスと恐怖感が感じられるのです。
一方、彼らの筋肉質の身体が際立つように描いたところには、憧憬すら感じられます。コンプレックスであれ、恐怖心であれ、あるいは、憧憬であれ、いずれも本源的な欲求に基づく感情です。
このように画面構成から透けて見えるのは、モチーフに対するアンビバレンツな感情でした。そして、それはおそらく、軍隊での経験が作用しているのでしょう。ひょっとしたら、ここにカイユボットの深層を見ることができるのかもしれません。すなわち、野生の感覚が欠如していることの自覚であり、ブルジョワジーの家庭で育まれた繊細な感性や美意識であり、無意識のうちに育まれた階層意識です。
■父親の庇護下のカイユボット
《床の鉋かけ》とその別版の舞台となったのは、ミロメニル通り77番地の邸宅に増築されたアトリエでした(*https://en.wikipedia.org/wiki/Les_raboteurs_de_parquet)。前にもいいましたが、この邸宅は高級住宅地として開発された地区にあり、大実業家で、パリ開発事業の出資者でもあった父親が購入したものでした。
カイユボットはなんの苦労もなく、パリの一等地に建つ邸宅内にアトリエを設けることができました。画家になりたいといえば、すぐさま父親からアトリエを増築してもらうことができたのです。
父親から手厚い庇護を受けていたのは、そればかりではありませんでした。
実は、1868年に軍に召集された際、カイユボットはシェルブールとルーアンの歩兵隊に所属していましたが、69年6月から70年6月にかけての兵役は、父親に免除金を支払ってもらい、パリで法律の勉強を続けていました(※ http://caillebotte.net/chronology/)。
その後、1870年7月26日に再び召集され、8月30日から1871年3月7日まではプロイセンと戦っていましたが、それは金銭で兵役免除できなかったからでした。つまり、カイユボットは最低限の兵役義務だけを果たして除隊したのですが、その途端に、法律家としての道を諦め、画家に転向すると言い出したのです。
法律家になることを望んでいた父親の望みをあっさりと切り捨てたことになりますが、それでも父親はカイユボットのために、邸宅内にアトリエを増築してくれたのです。
こうしてみてくると、彼がいかに絶大な庇護の下で生きてきたかがわかろうというものです。カイユボットは、父親が49歳の時に生まれた子どもでした。それだけに父親にしてみれば、可愛さもひとしおだったのかもしれません。
いずれにせよ、父親に増築してもらったアトリエを舞台に、カイユボットは作品を手がけました。選んだ題材はプロレタリアートの作業風景でした。そして、描かれたのが、床に這いつくばって作業する半裸の労働者たちの姿だったのです。
ブルジョワジーとは対極の階層の人々をメインモチーフにしたのです。
その一方で、カイユボットはその背景に、優美なデザインのバルコニーや、金色でモールディングされた白壁を描くことを忘れませんでした。しかも、それらの文様がはっきりとわかるように丁寧に描いています。ブルジョワジーとして外せない要素だったのでしょう。
■ブルジョワジーとしての無意識
この作品では、四つん這いになって働く労働者を、高みから捉えて作品化されていました。そこに、カイユボットの彼らに対する無意識の感情が感じられます。先ほど指摘した彼らに対する身体的なコンプレックスや恐怖感などの感情とは別に、プロレタリアートに対する階級意識が無意識のうちに画面に滲み出てしまったように見えるのです。
労働者たちは、低い位置で作業を進めています。四つん這いの姿勢は、手足の自由が奪われた状態であり、動物を連想する姿勢なのですが、カイユボットは、そんな状態の彼らを見下ろして観察し、スケッチしています。彼らに対し、絶対的優位の立場に立っているのです。
「見る者、見られる者」、あるいは、「描く者、描かれる者」の関係には、ともすれば、「支配、被支配」に似た関係が構築されがちですが、この作品にはそれがいっそう濃厚に表れているように思えます。
それは、労働者たちが四つん這いの姿勢、しかも、上半身が裸で描かれているからでしょう。動物を連想させる姿で彼らを描いているのです。ここにプロレタリアートに対するブルジョワジーの無意識が表出していると考えられます。
ほぼ同時代に、作業する労働者を題材に描きながら、その制作姿勢はクールベやミレーとは明らかに違っていることがわかります。
クールベやミレーが対象に寄り添い、同じ地平に立って作業状況を描いているのに対し、カイユボットは対象とは一定の距離を置き、半裸でしかも動物を連想させる姿勢で描いていました。
だからこそ、カイユボットのこの作品に階級意識が濃厚に感じられたのですが、改めてこの作品を見ていて、ふと、カイユボットが見ていたものは、人や物の内面ではなく、形状そのものの美しさではなかったか、という気がしてきました。
そもそも野生の感覚に欠けていたカイユボットは、労働者の内面には入り込めなかった可能性があります。描かれた労働者たちは観察の対象でしかなく、カイユボットが感情移入することもなく描かれたモチーフにすぎなかったのでしょう。
もっとも、若い労働者たちの筋肉隆々とした美しい体躯や、華麗なバルコニーの鉄柵を描く時、カイユボットはその美しさや華麗さに惹かれ、心躍らせて描いていたのではないかと思います。その結果、画面に表出したものは、繊細な感性や美意識が捉えた外観でした。
おそらく、豊かな環境で庇護されて育ったからこそ育まれた感性や美意識が、カイユボットを特徴づける大きな要素なのでしょう。そして、そこから透けて見えてくるのが、無意識のうちに育まれた階層意識といえそうです。(2025/2/28 香取淳子)