ヒト、メディア、社会を考える

香取淳子のメディア日誌
このページでは、香取淳子が日常生活の中で見聞きするメディア現象やメディアコンテンツについての雑感を綴っていきます。メディアこそがヒトの感性、美意識、世界観を変え、人々の生活を変容させ、社会を変革していくと考えているからです。また、メディアに限らず、日々の出来事を通して、過去・現在・未来を深く見つめ、メディアの影響の痕跡を追っていきます。


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墨・鑑 現代の水墨芸術四人展:王恬氏の作品にみる墨芸術の新領域

■「墨・鑑 現代の水墨芸術四人展」の開催

 中国文化センターで、「墨・鑑 現代の水墨芸術四人展」が開催されました。上海梧桐美術館、中国文化センター、シルクロード生態文化万博組織委員会が主催し、上海龍現代美術館、德荷当代芸術センターの共催で行われました。開催期間は2019年9月2日から6日まで、開催時間は10:30~17:30(最終日は13:00まで)でした。

 出品された4人の水墨芸術家は、王恬氏、汪東東氏、林依峰氏、呉笠帆氏です。私は開催初日に出かけたのですが、会場に入るとすぐ正面のところに、出品者の顔写真が掲示されていました。


左から順に、王恬氏、汪東東氏、林依峰氏、呉笠帆氏

 この写真の前で、関係者が勢ぞろいしたところで撮影しました。胸に赤いリボンをつけているのが、今回の四人展の画家で、左から、王恬氏、林依峰氏、汪東東氏です。

 四人展なのに、リボンを付けた方が3人です。不思議に思われたかもしれませんが、実は、この日、呉笠帆氏は、残念ながら所用があって出席されませんでした。作品はもちろん、会場に展示されていました。

 展覧会に出品された4人の作家はそれぞれ、長年にわたって墨の力、その奥深さを追求してこられました。会場をざっと一覧しただけでも、彼らがいかに墨芸術に新しい息吹を吹き込もうとし、墨芸術の幅を広げる努力をしてきたかがわかります。展示作品はいずれも現代の鑑賞者の感性を刺激し、新たな表現領域に誘ってくれるものでした。

 中国文化センターのHPに、出展作品の一部が掲載されていましたので、ご紹介しておきましょう。

 左から順に、汪東東氏の『半壁』(水墨紙本、30×30㎝、2019年制作)、呉笠帆氏の『風里的密码』(水墨紙本、70×85㎝、2019年制作)、林依峰氏の『岩幽杳冥』(紙本設色、57×25㎝、2017年制作)、王恬氏の『上海小姐』(水墨紙本、137×68㎝、2018年制作)です。

 どの作家も水墨画の伝統を踏まえ、新たな表現領域を開拓して、着想を作品化していることがわかります。墨が持つ表現の可能性、あるいは、筆が持つ表現の可能性を最大限に生かし、個性豊かな表現世界を切り拓いていたのです。

 展示作品を見ていると、この展覧会は「四人展」というより、むしろ、4人の個展が同じ会場で開催されているといった趣きでした。作家の個性が作品を通して相互に刺激し合い、墨芸術のさらなる可塑性を感じさせる空間になっていたのです。

 さて、私は4人の中で、とくに、王恬氏の作品に強く印象づけられました。なによりも、さまざまな現代女性が水墨画で描かれているのが新鮮でした。墨ならではの力強さと繊細さによって、現代女性の諸相が的確に表現されていたことに感心したのです。

 それでは、王恬氏とはいったい、どのような画家なのでしょうか。

 そういえば、入口に掲載されていた写真に、王恬氏の略歴が付けられていたことを思い出しました。その部分を拡大してみることにしましょう。

 これを見ると、王恬氏は、上海師範大学芸術学院水墨画専攻を卒業後、上海美術学院現代水墨画研究科に進み、大学院修了後、著名芸術家の張培礎氏に師事し、一貫して、水墨画を極めてこられてきたようです。

 残念ながら私は張培礎氏を知りません。いったい、どのような画家なのでしょうか。張培礎氏をネットで検索してみると、抒情的な美しさが漂う作品が多いことがわかります。

こちら →https://www.easyatm.com.tw/wiki/%E5%BC%B5%E5%9F%B9%E7%A4%8E

 王恬氏は水墨画を専門的に学び、その後もさまざまな観点から水墨画の可塑性を追求し続け、現在は、華東政法大学文伯学院芸術学部の教授をされています。「墨力」表現手法の創設者であり、中国水墨画界でかなりの影響力を持つ人物のようです。

 それでは、作品をご紹介していくことにしましょう。

■王恬氏が捉えた女性たち

 王恬氏の作品は、会場に9点、展示されていました。いずれも女性の肖像画です。まず、印象に残った作品を何点か取り上げ、紹介していこうと思ったのですが、作品を選ぶ段階で迷ってしまいました。どれも個性的で魅力があって、選ぶことができませんでした。王恬氏の表現世界を伝えようとすれば、出品作品すべてを紹介する必要がありました。

 さて、9点の作品を見ていると、いくつかの属性によってカテゴライズできるように思えました。すなわち、生きてきた歳月(年齢)、職業・階層、色彩、等々です。私が便宜的に設定したこのカテゴリーに従って、作品をご紹介していくことにしましょう。

【生きてきた歳月】

 年齢という観点から女性を捉えた作品が3点ありました。「静かな歳月」、「ときめく少女」「留学中の中学生」です。いずれも女性として生きてきた歳月の長短によって、その精神のあり方、佇まいの様相が異なっていることが示されています。それぞれの作品を見ていると、改めて、生きてきた歳月がいかに女性の佇まいに大きな影響を与えているか、考えさせられます。

●「静かな歳月」

 窓を背に、足を組んで、椅子に深く腰を下ろしている女性が描かれています。タイトルは「静かな歳月」です。清楚で上品な中年女性です。その容姿からは、穏やかに、誠実に、そして、賢明に生きてきた来歴を見て取ることができます。


紙本に水墨、137×66㎝、2018年制作

 眼鏡の奥からまっすぐ観客に向けられた視線が印象的です。正視は通常、相手に緊張感を与えるものですが、この女性の場合、目尻がやや垂れ下がっているせいか、視線は決して強さや冷たさを感じさせるものではなく、むしろ穏やかで、慈愛深さが感じられます。

 ノースリーブの服を着ていますが、襟元は詰まっており、ネックレスなどの装飾品も身につけていません。全体に思慮深く、聡明な印象があります。どのような立場に立たされても、この女性はおそらく、誠実に、賢明に対処してきたのでしょう。その結果、生きてきた歳月が深い味わいとなって、表情、姿勢、佇まいに色濃く反映されています。

●「ときめく少女」

 赤いスポーツウエアをラフに着込んだ若い女性が椅子に座っています。他人の目をまったく意識していないのでしょう、足を外股に大きく広げています。目を閉じて俯き、どうやら、物思いに耽っているようです。


紙本に水墨、137×68㎝、2019年制作

 前髪を垂らし、横の髪を雑に後ろに束ねた様子、あるいは、赤いスポーツウエアをちょっと着崩した姿からは、まだ取り繕うことを知らない幼さが感じられます。

 タイトルは「ときめく少女」です。そういわれてみれば、俯き加減の色白の肌に、ほんのりと朱が差しています。恋心に酔っているのでしょうか。微笑ましい若さが表現されています。

●「留学中の中学生」

 まるでランジェリーのように、露出の高い服を着た若い女性が椅子に座っています。顔や肌は黒く、髪の毛はオレンジ色で描かれています。


紙本に水墨、90×68㎝、2019年制作

 肩幅が広く、胸や太ももの肉付きもよく、身体つきからは、成熟した女性のように見えます。ところが、タイトルを見ると「留学中の中学生」とあります。驚いてしまいますが、この女性はまだ十代半ばの少女なのです。

 母国ではおそらく、このような格好が許されているのでしょう。ひょっとしたら、この女性はまだ危険な目に遭遇していないのかもしれません。あまりにも無防備な姿に、若さの持つ未熟さ、思慮のなさ、奔放さが感じられます。

【職業・階層】

 職業あるいは階層の観点から女性を捉えた作品があります。「キャリアウーマン」、「上海レディ―」、「庶民派美しい娘」の3点です。それぞれの作品を見ていると、職業あるいはその階層がいかに強く女性の佇まいに影響しているかがわかります。

 それでは、見ていくことにしましょう。

●「キャリアウーマン」

 大柄の女性が肩ひじをついて指で頬を抑え、片方の手は膝に置いて足を組んで、椅子に座っています。何か考え事をしているような風情です。


紙本に水墨、137×68㎝、2019年制作

 口元をきつく結び、何かを凝視しているかのような視線で、遠方を見つめています。その表情からは意思の強さ、果敢な行動力が感じられます。表題通り、まさに、「キャリアウーマン」です。おそらく、ビジネスの最前線で活躍している女性なのでしょう。白の衣服の上から緑色の大判のスカーフを羽織っており、この女性がオシャレにも気を配っていることがわかります。

●「上海レディ」

 やや小柄の女性がサングラスをかけ、足を横に流して組んで、座っています。目の表情はわからないのですが、プライドの高そうな表情が印象的です。


紙本に水墨、137×68㎝、2019年制作

 最初にご紹介したHPの写真では、この作品のタイトルは「上海小姐」と書かれていましたが、会場では「上海レディ」になっていました。日本人向けに翻訳されたのでしょう。ちょっと気取ったポーズの取り方がまさに、大都会上海に住む誇り高い「上海レディ」を連想させます。

 この女性は、これまで「上海っ子」としての矜持を持って生きてきたのでしょう。サングラスの下から、ちょっとヒトを見下したような表情が見えます。厚底の靴を履き、ショートカットのヘアスタイルからは流行に敏感な女性であることもわかります。その容姿からは誇り高く生きてきた歳月が読み取れます。

 年齢はおそらく、「静かな歳月」で描かれた女性と同世代なのでしょう。眼鏡をかけ、足を組み、ノースリーブで襟元の詰まった服を着ているという点で、両者は共通しています。ところが、その雰囲気は明らかに異なります。この二つの作品からは、どのように生き、何を気持ちの拠り所にして歳月を重ねてきたのか、一定の年齢になれば、それがそのまま容姿に現れてしまうことが示唆されています。

●「庶民派美しい娘」

 若い女性が手をだらりと下げ、足を揃えることもせず、だらしなく椅子に座っています。


紙本に水墨、137×68㎝、2019年制作

 目は大きく、眉も揃えられ、唇は赤く塗られています。しっかりとメイクされた顔は現代的な小顔の美人に見えます。きっとオシャレな女性なのでしょう。黒い服の上から、唇の色に合わせた赤いスカーフを軽く首に巻き付けています。いかにも現代的なファッションセンスを感じさせる格好なのですが、姿勢に締まりがなく、ストイックな精神性が感じられません。

 そういえば、タイトルは「庶民派美しい娘」でした。改めてこの作品を見ると、しっかりとメイクしており、外面的に美しいことは確かなのですが、この女性に精神性は見受けられず、ただ流行を追っているだけという印象を拭えません。大都会でよく見かける若い女性の典型だといえるでしょう。

【色彩】

 タイトルに色彩の名前が入った作品がありました。「白衣のおんな」、「紫色のおんな」、「青色の女の子」の3点です。色彩と関連づけて、女性が捉えられています。

●「白衣のおんな」

 大柄の女性が両手を重ね、足を組んで座っています。組んだ片足のふくらはぎから膝までがスカートの下から見えています。


紙本に水墨、137×66㎝、2018年制作

 白衣といわれてイメージするのは看護師、医者、研究者などですが、この女性はどうやらそのどれでもなく、白い服を着た作業員のように見えます。とろんとした目つきであらぬ方向を眺め、だらしない口元を見ると、どこか捨て鉢で、虚無的なイメージがあります。

 仕事に満足しているわけではなく、かといって、家庭があるようにも思えません。もはや若くもなく、自分の居場所を見つけられないでいる不安感が、このような虚無的な表情を生み出しているのかもしれません。

●「紫色のおんな」

 長い髪を巻き毛にした女性が足を組み、椅子に座っています。都会的なセンスで外見を整えていますが、顔の表情からはやや投げやりな雰囲気が感じられます。


紙本に水墨、137×68㎝、2019年制作

 赤い唇を半開きにした女性の表情からは、物憂く、気だるい気分が漂ってきます。何事も卒なくこなせる女性なのでしょう。濃い赤紫色の服に、同系統のスカーフをまとい、腕には黄土色の時計をつけています。ファッションセンスの良さが感じられます。

 おそらく大都会で働く女性なのでしょう。慌ただしく過ぎていく日常生活の中で、ふと我に返ったとき、すべてがおっくうで、投げやりな気持ちになってしまった・・・、というような瞬間が捉えられているように思えます。目を伏せた表情からは疲れを読み取ることができます。若さはとっくに去ってしまい、時折、老いを感じるようにもなっているのでしょう、この女性の容姿からはどことなく厭世気分が感じられます。

●「青色の女の子」

 若い女性が、足を揃え、背筋をまっすぐ伸ばして座っています。緊張しているのでしょうか。片方の肘をつき、もう一方の手を長く伸ばして、椅子の脚部を抑えています。その姿勢は、まるで必死になって身体を支えているかのように見えます。


紙本に水墨、90×68㎝、2018年制作

 おそらく他人の視線を意識しているのでしょう、ことさらに首筋を伸ばし、強張った表情を見せています。よく見ると、目が大きく、鼻筋の通った美人顔ですが、その表情にはどこか無理をしているような硬さがあります。そして、表情や所作全体からは、生硬な若さが感じられます。

 この作品のタイトルは、「青色の女の子」です。ところが、どういうわけか、この女性は淡いピンクの服を着ています。タイトルにある青色は大きな椅子カバーに使われているだけです。不思議に思って、よく見ると、女性の肌が薄い青色で描かれています。それも、透明感のある薄い青色が、顔や首、腕や足など、部位によって濃淡をつけながら使われていました。

 これで、ようやく、この女性が淡いピンクの服を着ている理由がわかりました。若い女性の青味がかった、透明感のある肌を際立たせるには、淡いピンクの服が必要だったのでしょう。確かに、淡いピンクによって、薄い青色で表現された肌の透明感、ハリの良さが引き立てられていました。

 一方、左腕や肘、スカートからはみ出た両腿と膝は、やや濃い青色で描かれ、椅子カバーの青色と溶け合っています。このように、濃淡を効かせて青色を使うことによって、画面全体から若い女性の持つ生硬さ、清潔感、透明感といったものが巧みに描出されていました。

■墨で描かれた現代女性の諸相

 一連の作品を見ていくと、王恬氏は、若い女性であれ、中年女性であれ、すべての対象を椅子に座った状態で描いていることに気づきます。いわば制限された条件の下で女性を描いているのですが、作品は9人9様、個性豊かに表現されています。彼女たちが見せた表情、所作、態度の中から、王恬氏はその本質を的確に抽出し、瞬間的に、表現していたからでしょう。

 それぞれの作品には、独特の流れがあり、勢いがあり、動きがありました。それこそ水墨画の真髄が存分に発揮されていたのです。ふとした瞬間に見せる女性たちの表情が、筆の大胆なタッチや繊細なタッチ、あるいは、勢いによって見事に捉えられていました。しかも、描き方がとても自然でした。

 そのせいか、写実的に描かれたのではないのに、描かれた女性たちは皆、どこかで見かけたような気がするほど、生き生きとしたリアリティがありました。そして、どの作品にも普遍性が感じられました。現代社会に生きる女性たちの生態が的確に捉えられていたのです。描かれたのは上海の女性たちですが、東京でも見かけそうな女性ばかりでした。

 王恬氏は、大都会で生きる女性たちの本質を見抜き、筆と墨の力で見事に、その生態を描き切っていました。見れば見るほど、王恬氏の観察力の鋭さ、表現力の的確さに感心せざるをえません。対象を捉える鋭さに加え、大胆で洒脱な墨表現が作品を興趣に富んだものにしていました。現代社会で生きる女性たちを、水墨画の技術で描き、それぞれを典型にまで高めて表現していたのです。

■ぼかし表現が浮き彫りにする現代社会の疲弊

 大都会だからこそ、留学生という形で異文化が入り込んできます。「留学中の中学生」にはそれが反映されていました。明らかに東洋人ではない体格、肌色、髪の毛の色、そして、中学生とは思えない所作、服装などに異文化が表現されていたのです。

 顔面にはぼかしが入れられ、表情は判然としませんが、疲れているように見えました。海外からの留学生は、たとえ夢を抱いてやってきたとしても、やがて文化の違いが気になり始め、意思の疎通が十分ではない状況に疲れてくる時期を迎えます。描かれた中学生はおそらく、その時期にさしかかっていたのでしょう。中学生なのに、全身からどことなく、疲弊が感じられました。

 この作品には、異文化との共存が強いられる現代社会の一端が表現されていました。

 顔面にぼかしが入れられていた作品は他にもありました。「庶民派美しい娘」「紫色のおんな」などの作品です。いずれも顔面にぼかしが入れられているので、表情はよくわかりませんが、態度や姿勢、所作などには疲弊している様子が感じられます。流行を追いかけ、見た目は華やかに装っていても、実は疲れ切っている女性たちが描かれていました。

 誰もが競争を強いられて生きていかざるをえない現代社会の一端が、このような形で表現されているといえます。

■墨の線が浮き彫りにする内面世界

 その一方で、顔の表情がはっきりわかる作品もあります。「キャリアウーマン」、「白衣のおんな」、「静かな歳月」、「青色の女の子」、「ときめく少女」などです。

 仕事のことが頭から離れない女性(「キャリアウーマン」)がいるかと思えば、ふとした瞬間に、来し方行く末を考え、虚無的になってしまう女性(「白衣のおんな」)、さらには、紆余曲折を経て、いまは平穏な日々を送る女性(「静かな歳月」)、あるいは、若さゆえの生硬さが抜けきらない女性(「青色の女の子」)、恋心を隠すことができない女性(「ときめく少女」)、等々。

 いずれの作品も、表情や所作から、女性の心の内を推し量ることができます。繊細で大胆な墨の線によって簡略化され、誇張化された描法が、女性たちの本質を浮彫にしているからでしょう。対象を写実的に描いたのでは、ここまで深く、内面世界を描き出すことはできなかったと思います。

 たとえば、「ときめく少女」の場合、目も鼻も墨で線がさっと引かれているだけです。きわめて単純化された造形ですが、そこにほんのりと桜色を差すことによって、この女性の初々しさを強調する効果が見られました。

 口元を見れば、上下の唇の間に太い横線が粗く引かれており、一見、口を半開きにしているように見えます。下唇は分厚くて大きく、とても無骨に見えます。ところが、厚い下唇の上方のラインに沿って、少しだけ朱を差すころによって、女性らしさを滲ませることに成功しています。「ときめく少女」の心理状態を、このように、墨の線に朱を添えるだけで表現しているのです。

 髪の毛の描き方も絶妙です。前髪をバラっと垂らしたところに、墨の線で太く、勢いをつけて流れを作り出しています。耳上、耳下の髪の毛もやはり、太く勢いよく、流れるように墨の線を濃く引いています。髪の毛を後ろに束ねている様子を、大胆なタッチで描いているのです。

 王恬氏は、強い墨の力で、少女のストレートな髪の毛を端的に表現する一方、誇張された筆遣いで、ストレートな心情を描き出していました。墨の濃淡、線の太さ、勢い、流れといったもので、造形されたものに生命を与えていることがわかります。

 全身に目を移すと、女性は上半身を傾け、腰が引けたような恰好で椅子に座っています。脚を大きく広げている様子が、墨の太い線を使って、両太ももの内側をしっかりと固定するように描かれています。この姿勢には、羞恥心の欠片も見られません。外面を気にする余裕もないほど、恋煩いをしていることが示されています。足元でのぞく白い運動靴が、この女性が少女であることを思い起こさせてくれます。

 「キャリアウーマン」、「白衣のおんな」、「静かな歳月」、「青色の女の子」なども同様、墨の力で表情と所作を柔軟に描き出すことによって、それぞれの女性たちの内面世界が巧みに表現されていました。

■日本的感性に響く墨芸術

 「四人展」で見た作品のうち、墨で描かれた女性肖像画9点を紹介してきました。王恬氏が描いた女性像からは、墨だからこそ、可能になった表現がいくつか見受けられました。

 墨汁を浸した筆を紙の上で走らせるので、油彩画とは違って、筆に勢いが出ます。筆を寝かせれば太い線を引くこともできますし、筆先だけで緻密な線を引くこともできます。墨汁の量によって、「ぼかし」や「かすれ」を表現することができます。筆遣いひとつで大胆にも緻密にも、強くも弱くも表現できるのです。

 大都会では、ヒトは常に競争に晒され、強さを強いられて生きています。ともすれば、疲弊し、虚無的になってしまいがちます。王恬氏の作品には、そのような現代社会の様相が女性たちの姿を通して表現されていました。水墨画という伝統を踏まえ、現代社会の諸相が見事に描き出されていたのです。

 複雑で捉えがたい現代社会でも、工夫すれば、水墨画の形式の中でその諸相を表現することができることがわかります。描かれた女性たちには普遍性があり、それぞれが現代社会の典型とみなすことができました。モチーフの取り上げ方、画面構成、色の使い方などに工夫が凝らされていたからでしょう。

 私はそこに、引き込まれました。上海の女性たちが描かれているにもかかわらず、まるで東京で暮らしている女性たちを見るように、感情移入して鑑賞していたのです。水墨画という表現形式が日本人の感性にマッチしているからでしょうか。

 一連の作品を見ていると、軽やかに、現代社会の空気を漂わせながら、その諸相を抉り出すなど、油彩画では表現しきれないという気がしてきました。誇張表現、省力表現、抽象表現などが可能な水墨画技術は、ひょっとしたら、現代社会を描き出す手法としてふさわしいのかもしれません。墨芸術の新しい領域を見た思いがしました。素晴らしいと思います。(2019/9/8 香取淳子)

第20回日本・フランス現代美術展2019:河瀬陽子氏の油彩画にみる日本の伝統と感性

■第20回日本・フランス現代美術展の開催

 2019年8月8日、六本木に用事があって出かけたついでに、国立新美術館に立ち寄ってみました。1Fで当日の展覧会プログラムを見ると、ちょうど第20回日本・フランス現代美術展が開催されていることがわかりました。

 この展覧会は、3年ほど前に一度、鑑賞したことがあります。なかなか見応えのある展覧会だったことを思い出し、さっそく、3Fの会場を訪れてみました。予想外に観客が多く、ちょっと驚きましたが、開催2日目だったからでしょうか。開催期間は2019年8月7日から8月18日でした。

 さて、会場に入ってすぐのコーナーには書と工芸品が展示されていました。ざっと見渡したところ、どの作品もレベルが高く、コーナー全体が力強く、引き締まって見えました。

 次のコーナーには油彩画が展示されていました。このコーナーに足を踏み入れた途端、引き付けられたしまった作品があります。藍色を基調とした女性肖像画4点です。女性と花をモチーフにした一見、ありふれた題材の作品ですが、観客を立ち止まらせる力がありました。油彩画なのに、どの作品からもしっとりとした情感が滲み出ていたのです。

 一目で引き付けられた女性肖像画4点は、河瀬陽子氏の作品でした。

■河瀬陽子氏の作品

 それではまず、展示されていた順に、作品をご紹介していくことにしましょう。

●グラジオラス

 左端に展示されていたのが、「グラジオラス」という作品です。


(キャンバスに油彩、アクリル、72.8×60.6㎝)

 色取り豊かな大判のスカーフが印象的です。女性の肩をゆったりと包み込んだスカーフには柔らかく肌になじむ心地いい風合いが感じられます。このスカーフに穏やかな優しさが表現されているとすれば、女性の背後に描かれたグラジオラスには、花でありながら、鋭角的な堅固さが感じられます。まっすぐ聳えるように咲いていたからでしょう。

 さまざまな色が組み込まれたスカーフに優しい柔らかさを感じたのに、グラジオラスの花には揺るぎない強さを感じてしまいました。それは、おそらく、大きな白い花弁が垂直方向に油絵具を厚く塗られ、粗削りに大胆に描かれていたからでしょう。

 ネットで調べてみると、グラジオラスの名の由来はラテン語の「剣」(グラディウス、Gradius)で、葉の形が剣を連想させるから名付けられたのだそうです。原産地はアフリカですが、ヨーロッパで品種改良が進み、日本には明治になって輸入されたといわれています。

 グラジオラスの花には様々な色がありますが、この作品では白い花が選ばれています。しかも、油絵具で花弁が大きく、厚く塗られていますから、白さがことさらに強調されています。全体に暗い色調の中で、観客の視線はごく自然に、グラジオラスの花に誘導されてしまうのです。

 メインモチーフの女性は、横顔が逆光の中で描き出されています。ですから、沈み込んでいるようであり、物思いに耽っているようにも見えます。ひっそりとした風情で佇んでいる女性に、そこはかとない哀愁を感じさせられました。

●賛歌

 その隣に展示されていたのが、「賛歌」です。


(キャンバスに油彩、アクリル、60.6×72.8㎝)

 若い女性が、やや俯き加減になって、両手を重ね合わせて膝に置き、咲き乱れる花々の中で腰を下ろしています。その姿はポーズを取っているようであり、何か考えごとをしているようでもあります。表情ははっきりとしないのですが、そこはかとない憂いが漂っているように見えます。

 逆光の中で捉えられているせいでしょうか、それとも、濃い藍色で表現されているせいでしょうか。画面全体に物静かな哀愁が漂っており、気持ちが引き付けられます。心の奥底で何か響き合うものがあるように感じられます。

 不思議なことに、見ていると、ひっそりともの静かに座っている女性の存在そのものに、鮮やかな華やかさが感じられてきます。一体、何故なのでしょうか。

 それは、おそらく、女性の周囲に散りばめられた色使いが卓越しているからでしょう。

 色とりどりの小さな花が、画面の右半分を占めるほど、咲き乱れています。その花々の色が、女性の髪の毛や顔に乱反射し、華やかさを添えています。赤や青が大胆に、そして、粗削りなまま前髪や頭頂部に置かれており、女性の若さが表現されています。

 一方、頬や肘に軽く置かれた淡い朱色には、血行の良さが感じられます。画面全体を覆う、濃い藍色が醸し出す深淵さの中に、自由闊達に明るい色彩が飛び散っている様子からは、華やかさが演出されているように思えましたし、粗削りな若さが表現されているようにも思えました。

●スターチス

 その隣が「スターチス」という作品です。


(キャンバスに油彩、アクリル、72.8×60.6㎝)

 斜め横顔の女性の立ち姿が描かれています。この作品もまた、女性が逆光の中で捉えられているせいか、表情は判然とせず、シルエットだけが浮き彫りにされています。

 画面の下半分に群生している紫色の小花が、表題のスターチスなのでしょうか。緑色の茎と紫色の小花の群れが点在する中で、女性がすっくと佇む女性の姿は、孤高であり、そこには気高さすら感じられます。

 画面は藍色の濃淡とスターチスの茎の緑といった具合に、色数が限りなく抑えられて表現されています。そのせいか、全体に影絵のような印象があります。白く描かれた背景には所々、濃い藍色で描かれた痕跡が見えます。それが遠景に淡く浮彫にされた山並みのようにも見えたりします。

 地平がなく、画面の下まで白い絵具がランダムに塗られているので、まるでスターチスが雲の合間に群生しているように見えます。空間の多い背景は水墨画の構図のようにも見えます。

 スターチスは乾燥しても色褪せることがないといわれています。そのスターチスに取り囲まれるように、女性はまっすぐに視線をかなたに向けて佇んでいます。斜め横から捉えられた女性の立ち姿からは毅然とした優雅さが感じられます。

●セイタカアワダチ草

 その隣に展示されていたのが、「セイタカアワダチ草」です。


(キャンバスに油彩、アクリル、60.6×72.8㎝)

 ソファーの背に左肘をつき、その近くに右手を配し、やや身をよじった姿勢で、女性が座っています。ちょっと気取ってポーズをとっているような姿勢が印象的です。視線を伏せ、横顔を見せていますが、女性の表情ははっきりしません。

 女性は逆光で捉えられ、影の中でひそやかにその姿が浮き彫りにされています。背後から光が射しているのでしょう、女性の後ろ髪や背や肩、上腕の後ろ側が明るく描かれているのが印象的です。

 画面に明るさを添えるように、黄色の小花が背後に散らばって描かれています。雑草のように見えますが、これが表題のセイタカアワダチソウなのでしょう。小さいせいか、群生していても、存在感は希薄です。この作品では花よりも、縞の入った幅広のソファーカバーの方が目立っています。

 このソファーカバーは、青系統の色をベースに白い線で縞模様が織り込まれ、その上に赤系統の色がランダムに添えられています。柔らかく、手触りのいい布の触感が伝わってくるようです。しかも、その赤系統の色はソファーカバーばかりか、女性の手や頬、髪の毛にまで飛んで描かれており、画面全体にちょっとした華やぎが生み出されています。

 以上、河瀬陽子氏の4作品を見てきました。これらの作品には、連作といっていいような共通項がありました。いずれも花と女性をモチーフに描かれていること、逆光の中で女性が捉えられていること、背後に陽の落ちた曇天が選ばれていること、ベースカラーに濃い藍色が使われていること、等々でした。

 そして、どの作品からも、そこはかとない哀愁が感じられました。

■河瀬氏が語る混色の魅力

「グラジオラス」、「賛歌」、「スターチス」、「セイタカアワダチ草」、いずれの作品も、逆光の中で描かれた女性をメインモチーフに、花と色彩豊かな布製品(スカーフ、レースの襟元、柔らかいシフォンの襟飾り、ソファーカバー)をサブモチーフに、画面が構成されていました。

 女性は濃い藍色をベースに描かれ、背景にはどんよりと沈み込むような空が設定されており、なんともいえず深い情感に満ちた世界が表現されていました。花や布に配された赤や黄色、黄緑色などの明るい色に、華やぎを感じさせられます。油彩画でありながら、日本的情緒が巧みに掬い上げられています。

 食い入るように見つめていると、背後から突然、「その絵、お好きですか?」と声をかけられました。振り向くと、白髪の女性が笑みを浮かべ、そっと立っていました。即座に、「とても、好きです」と答えると、「私が描きました」とおっしゃいます。

 まさか、作家がこの場に居合わせるとは・・・。

 驚いてしまいました。意表を突かれ、すぐには、言葉を継ぐこともできませんでした。ようやく事態を認識してからは、まず、一連の作品のモデルについて聞いてみようと思いました。想像上の女性なのか、実在の女性なのか気になっていたからでした。

 尋ねてみると、河瀬氏は微笑みながら、「どの絵も同じモデルですよ」といいます。さらに、「プロのモデルではないけど、美人なので、同じモデルをもう何十年も描き続けています」と説明してくれました。

 年を重ねても、創作意欲を刺激するような風情のある女性なのでしょう。モデル本人にもっとも似ているのが、「スターチス」に描かれた女性だそうです。

 ただ、せっかくモデルを使っても、描いているうちにどんどん自分の好きな姿形に変わっていくと河瀬氏はいいます。モデルによってイメージが喚起され、描いているうちに、河瀬氏の理想像に結晶化させていくからでしょう。どの作品も具象画でありながら、モチーフが抽象化され、実在を超えた普遍性があると感じさせられたのはそのせいかもしれません。

 もう一つ、作品に制作年が書かれていなかったのが気になっていました。そこで、河瀬氏に聞いてみると、何年にもわたって描いているので、制作年として特定できないということでした。ただ、作品が描かれた順番としては、「スターチス」の後、「セイタカアワダチ草」、そして、「グラジオラス」、「賛歌」だそうです。

 穏やかな笑みを絶やさないまま、河瀬氏はふと、「私は混色が好きなんですよ」とつぶやくように教えてくれました。とっさに意味を理解できずにいた私に気づくと、すぐさま、「いろんな色を混ぜ合わせ、偶然、思いもかけない色が出てきたときが、とても好きなんです」と説明してくれました。

 そして、河瀬氏は一息ついて言葉を継ぎ、「これから、講評が始まりますよ」と教えてくれました。

■フランス人が評した河瀬作品の「美しさ」

 作品の前でしばらく待っていると、講評が始まりました。評者は欧美JIAS代表の馬郡文平氏と、フランス人彫刻家でサロン・ドトーヌ会長のシルヴィ・ケクラン氏でした。


(左から順に、河瀬陽子氏、馬郡文平氏、通訳、シルヴィ・ケクラン氏)

 聞いていて、もっとも印象に残ったのが、シルヴィ・ケクラン氏のコメントでした。

 河瀬氏の4作品について、彼女は、どの作品も目にした途端に、色が目に飛び込んでくるといいます。作品それぞれにテーマカラーが設定されており、それが女性や周辺のモチーフに組み入れられ、見事に全体と調和しているというのです。

 そういわれてみれば、確かに、「グラジオラス」は白、「賛歌」はオレンジがかった赤、「スターチス」は紫、そして、「セイタカアワダチ草」は黄土色といった具合に、それぞれの作品にふさわしい色が選択され、シンボルカラーとして使われていました。

 ケクラン氏はさらに、どの作品も女性が逆光の中で描かれていることに着目します。逆光なので暗く描かれているのは当然なのですが、濃淡のコントラストがつけられているので、そこに重苦しさはなく、むしろ繊細で、柔らかな透明感が演出されているように見えるというのです。

 4作品それぞれに、女性と花を通して伝わってくる奥深さが感じられるとケクラン氏は言葉を重ね、総じて、「綺麗」というより、「美しい」作品だと結論づけられました。画面に内包された精神性を深く読み取られたのです。最高の称賛といえるでしょう。

 河瀬氏を見ると、時折、頷きながら、とても満足そうな表情でした。

 講評が終わったので、河瀬氏に経歴について聞こうとすると、ネットに出ているのでそれを見てといわれました。ひょっとしたら、河瀬氏は知る人ぞ知る人なのかもしれないと思い、帰宅してから調べてみると、なんと、会場で見た「グラジオラス」は、第19回日本・フランス現代美術展2018で大賞を受賞した作品でした。

こちら →https://www.obijias.co.jp/report/?id=1552616809-683939

 上の記事を読むと、「スターチス」は第47回ベルギー・オランダ美術展に出品されており、「セイタカアワダチ草」は準大賞を受賞しています。私が知らなかっただけで、実は、河瀬氏は各方面ですでに評価されている画家だったようです。

■油彩画に取り入れられた藍色

 それにしても、シルヴィ・ケクラン氏はなぜ、河瀬氏の作品を繰り返し、「美しい」と評したのでしょうか。私が聞いた限り、彼女は講評の中で、4回も「美しい」という言葉を使っていました。よほど強く印象づけられたのでしょう。

 私も、河瀬氏の一連の作品に強く引き付けられました。それはケクラン氏のいうように、「美しい」からではなく、画面全体から漂ってくる哀愁のようなものによって、しみじみとした情感をかき立てられたからでした。

 描かれているのは若い女性と花です。いってみれば、哀愁や哀感とは無縁のモチーフなのですが、どういうわけか、私はどの作品からも哀切の情感を喚起させられ、その虜になってしまっていたのです。

 河瀬氏の作品に強く引き付けられたという点では、私もケクラン氏と同様でした。ただ、私の場合、画面から放たれる、切なく、もの悲しく感じられるものに引き付けられ、作品の前から離れられなくなっていました。私の心の奥底に潜んでいた何かと響き合い、しみじみとした情感が掻き立てられていたのでしょう。

 改めて河瀬氏の4作品を見直してみると、どの作品も濃い藍色をベースに仕上げられており、どんよりとした曇り空が背景に使われています。明度も彩度も抑制された色調の中で、作品ごとに設定されたテーマカラーが程よく画面上に置かれ、画面全体に絶妙な調和が保たれていました。

 一方、日本人である私は、濃い藍色と曇り空を基調にして描かれた画面から、哀愁を感じさせられました。とくに、濃い藍色で捉えられた女性像に、深い哀切の情が喚起され、心に沁みました。

 そもそも、日本では古くから藍染が行われてきました。江戸時代、幕府の奢侈禁止令によって、紫色や紅梅色が禁止されて以来、とくに、藍染めが盛んになったようです。濃い藍色には奢侈が抑制されていた時代を彷彿させる要素があったといえるでしょう。

 河瀬作品にベースカラーとして使われていた濃い藍色が日本人である私に哀愁を感じさせたのは、そのような文化的背景が画面を通して伝わってきたからではないかという気がします。

■ラフなタッチに潜む、自然体

 こうしてみてくると、ケクラン氏が繊細で透明感があると評した要因と、私が哀愁を感じた要因とは同じものではなかったかという気がしてきます。つまり、濃い藍色をベースに曇り空を配した画面構成こそが、一連の作品を強く印象づける要因ではなかったかと思えてくるのです。

 もう一つ、気になるところがありました。

 それは、どの作品もラフなタッチで描かれていたことです。色の重ね方、絵具の厚み、形の取り方など、描き方が粗削りでした。具象画でありながら、細部まで丁寧に描かれておらず、雑とも思えるタッチでモチーフの要点が抑えられていたのです。

 それが、画面のあちこちに「抜け感」を生み出す働きをしていました。そのせいか、油彩画でありながら、くどさがなく、すっきりとした透明感が感じられました。フランス人であるケクラン氏は、おそらく、この点に着目し、河瀬氏の作品には繊細で透明感があると評されたのでしょう。

 さっと流すような筆のタッチ、境界線が曖昧なようでいて、実は、確かな筆運び、ランダムなようでいて、実は、要点を抑えた色の差し方、等々が、いわゆる油彩画らしくなく、画面の中に空気の流れや風のそよぐ音を感じさせます。

 私が河瀬氏の作品に懐かしさを感じたのはおそらく、油彩画なのに、どこかしら日本的な感性を思わせるものがあったからでしょう。どの作品も自然体でモチーフが捉えられており、奇抜だと思えるほど大胆に差し色を使いながら、不思議なほど、画面に調和と安定感がありました。

 会場で撮影した写真を何度も見ているうちに、いつの間にか、私もケクラン氏と同様、一連の作品を「美しい」と思うようになっていました。ベースカラーの濃い藍色に哀愁を感じる一方、ラフな筆さばきと一部、繊細な筆のタッチに日本的な感性を感じるようになったからでした。そして、ベースカラーの藍色と硬軟取り混ぜた筆さばきといった、二つの要素は見事に絡み合い、日本の美を感じさせる画面に仕上げていました。

 第20回日本・フランス現代美術展で、河瀬陽子氏の作品4点に出会いました。どの作品も、ベースカラーに濃い藍色が使われており、日本の伝統を連想させられました。一方、油彩画でありながら、硬軟取り混ぜた筆さばきには日本の感性が感じられました。斑なく緻密に塗り固めるのではなく、「抜け感」が感じられるタッチで描かれていた画面に、豊かな情感を感じさせられたのです。

 河瀬陽子氏は、油彩画の中に日本の伝統と感性を結実させ、ハイブリッドな美を創り出していたのです。素晴らしいと思いました。(2019/8/30)

◆ 河瀬氏の作品を鑑賞したのは8月8日でしたが、その後、忙しくて手をつけられず、ようやく8月31日にアップすることができました。

Disney実写版『アラジン』:欲望の連鎖が紡ぐ21世紀のストーリー

■Disney実写版『アラジン』

 7月12日、たまたま時間が空いたので、近くのユナイテッドシネマでDisneyの実写版『アラジン』(字幕版)を見てきました。

こちら → https://www.disney.co.jp/movie/aladdin.html

 意外なことに、客席は半分も埋まっていませんでした。ちょっと驚きましたが、6月7日に公開されすでに5週目の終わりだったこと、平日だったことなどを思えば、その程度の観客数でも別段、不思議はないのかもしれません。

 ところが、帰宅してネットで検索してみると、公開された6月7日以降の週間ランキングは連続1位でした。

こちら →http://www.kogyotsushin.com/archives/weekly/201906/

 7月のデータを見ても、第1週はやはり1位、勢いは衰えていません。全国的な統計を見れば、実は、5週連続1位を記録していたのです。確かに、エンターテイメントとしては、とてもよく出来た映画でした。

 試みに、映画の雰囲気を知ってもらうために、公式ホームページで紹介されていた60秒の映像をご覧いただきましょう。

こちら →https://youtu.be/mxL6e5vQ0RE

 この映像を見てようやく、私が見た劇場で観客数が少なかった理由がわかったような気がしました。

 『アラジン』は、2D(字幕版)、2D(吹替版)、IMAX(字幕版)、4DX3D(吹替版)の4種類が上映されていましたが、私が見たのは2D字幕版でした。これは1日3回上映されており、私は午後に用事があったので、午前に上映開始されるのを選びました。しかも、平日でしたから、週末の午後、吹替版なら観客数はもっと多かったのかもしれません。

 さて、オリジナルの『アラジン』は1992年に制作されたアニメ作品です。それを実写にリメイクし、2019年6月7日に公開されたのがこの作品です。それでは、2019年実写版『アラジン』がどのようなものだったのか、2分20秒の予告映像(字幕版)をご覧いただきましょう。

こちら → https://youtu.be/EbsZrpwmsq0

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 ほんの一部分にすぎませんが、これを見ただけでも、この映画の音楽がどれほどテンポ良く、メリハリの効いたリズムであったか、ノリのいいものであったか、そして、映像のキレがどれほど良く、臨場感に満ちたものであったかがわかろうというものです。

■2019年実写版『アラジン』

 もっとよくコンテンツを知っていただくために、アメリカ版予告映像&制作スタッフのトーク映像をご紹介しましょう。先ほどご覧いただいた予告映像よりも長め(12分41秒)です。重複するシーンもありますが、ご了承ください。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=foyufD52aog

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 冒頭のシーンは、スピード感溢れるテンポで構成されています。ところが、その後、逃げ延びたアラジンが街中で侍女に扮したジャスミンに出会うシーンになると、動きがなくなり、二人が視線を交わすだけになります。アクションを見せるシーンの後は、心理的な駆け引きを見せるシーンを用意し、メリハリをつけていることがわかります。

 ハラハラドキドキするシーンがあるかと思えば、陽気にノリノリ気分になってしまうシーンもあります。アップテンポでリズミカルな音楽とメリハリの効いた映像がぴったりと絡み、観客を飽きさせることなく、気持ちを明るく弾ませてくれる作品になっていました。

 ちなみに監督はイギリス人のガイ・リッチー(Guy Ritchie)、その経歴を見ると、若いころはコマーシャルやミュージックビデオを多く制作していたようです。

 直近の作品の傾向を見てみると、2015年に監督したスパイアクション映画『コードネーム U.N.C.L.E.(アンクル)』は、1960年代のテレビドラマ『0011ナポレオン・ソロ』のリメイク映画ですし、2017年に監督した『キング・アーサー』は、アーサー王伝説を題材としたアクション映画です。

 このような制作作品の傾向からは、ガイ・リッチーこそ、この作品に最もふさわしい監督だったといえるでしょう。

 実際に、劇場の大画面でこの作品を見ると、アクションシーンや魔法のシーンなどが素晴らしく、とても印象的でした。実際にはありえないシーンも、特撮技術によって実写映像に溶け込むように編集されており、視覚的訴求力の高い画面に仕上がっていました。とくに、サルやトラ、オームといった準レギュラーの動物たちの造形や動きが見事に表現されていました。

 キャラクターの造形といい、アクションシーン、魔法のシーン、アップテンポのダンスシーンなど、エンターテイメントとして必要な要素はすべてカバーされていたのです。5週連続でランキング1位というのも納得できます。

 それでは、1992年に制作されたアニメ版と比較するとどうなのでしょうか。

■実写版『アラジン』vs アニメ版『アラジン』

 まず、興行収入を比較することから始めましょう。

 1992年に制作されたアニメ版『アラジン』は制作費2800万ドルに対し、世界から得た興行収入は5億405万ドルでした。

こちら → https://www.boxofficemojo.com/movies/?id=aladdin.htm

 なんと制作費の約18倍にも達しています。

 一方、2019年に制作された実写版『アラジン』は制作費1億8300万ドルに対し、チェックした時点で(2019年7月14日)、世界から得た興行収入は9億6153万9269ドルです。

こちら → https://www.boxofficemojo.com/movies/?id=disneyfairytale22019.htm

 米国での公開が5月24日、日本での公開は6月7日ですから、今後、さらに数字は伸びると思いますが、現時点での興行収入は制作費の約5.25倍です。

 同じ条件で比較するため、オープニング1週間の興行収入で両者を比較すると、1992年のアニメ版は1928万9073ドル(1131劇場)で、2019年の実写版は9150万929ドル(4476劇場)でした。上映劇場が約4倍なので、それに応じた興行収入になっています。

 上映劇場数がオリジナルの4倍になっているのは、実写版にリメイクすることによって、観客のターゲット層を、子ども向け家族だけでなく、青年層にまで広げることができたからだと推察できます。

 次に、二つの作品のポスターを比較してみることにしましょう。

ポスター比較 (映画comより)


 左が実写版(2019年)、右がアニメ版(1992年)です。

 いずれも、三日月を背景に、魔法のジュータンに乗ったアラジンと王女ジャスミンの姿が中心に置かれています。モチーフ、背景、構図、いずれをとっても似かよっています。2019年版はおそらく、1992年版を意識して制作されたのでしょう。

 もっとも、よく見ると、両者には微妙な違いが見られます。

 実写版はアラジンとジャスミンが互いに顔を見つめ合っているのに対し、アニメ版は身を寄せ合って、愛を語らうシーンが捉えられています。意思を確認し合うシーンに力点が置かれているのが2019年版だとするなら、身体的な触れ合いに力点が置かれているのが1992年版といえるでしょう。

 一方、実写版には「その願いは、心をつなぐ。そしてー世界は輝きはじめる」というコピーが添えられ、アニメ版には「愛は冒険を生む。冒険が愛を育てる」というコピーが添えられています。

 これらのコピーからは、実写版ではアラジンとジャスミンの生き方や世界とのつながり方にウエイトが置かれているのに対し、アニメ版では二人の愛と冒険に力点が置かれていることが示されています。

 こうしてみてくると、アニメと実写といった形式の違い以外に、1992年と2019年という制作年の違い、すなわち、時代精神の違いといったようなものがみられるのです。

 さらに、実写版には魔法のランプの精ジーニーの姿が左下に大きく描かれているのに対し、アニメ版にジーニーの姿はありません。つまり、実写版ではジーニーを含めた主要登場人物を三人とみなし、その生き方、世界観が描かれているのに、アニメ版ではアラジンとジャスミン二人の愛の物語で完結しているのです。

 アニメ映画であれ、実写映画であれ、それぞれの作品には時代の風潮や価値観、世界観が反映されざるをえないことを感じさせられます。

 さて、ストーリーの展開の観点からみると、2019年の実写版は1992年に制作されたアニメ映画をリメイクしたものだとはいえ、いささか異なる面があるようです。

こちら → 

https://www.cinemablend.com/news/2472222/disneys-aladdin-10-differences-between-the-remake-and-the-original

 この記事の筆者は、登場人物の生き方や世界観に21世紀の現在にマッチするよう修正されていたると考えています。そのような側面での改変によって、21世紀の観客を大きく魅了するエンターテイメントになりえたのかもしれません。

 それでは、アメリカ版ポスターを通して、作品の構造を見てみることにしましょう。

■アメリカ版ポスターが示す作品の構造

 まず、アメリカ版ポスターに表現されている主要な登場人物と、ターニング・ポイントとなる主要なシーンをご紹介しておきましょう。

アメリカ版・ポスター


 このポスターは、とても興味深い画面構成になっています。

 中央に、魔法のランプを見つめる主人公のアラジンが大きく描かれています。これを全体の中心線だとすると、左半分にやや引いて、ジャスミン王女、そして、右半分にはランプの精であるジーニーの顔が大きく、まるで観客をのぞき込むような恰好で描かれています。

 左右にレイアウトされたこの二人は物語の主要なキャラクターです。

 色調の観点からいえば、ポスターの左半分は黄金をイメージさせる黄土色、右半分はその補色である濃いブルーをベースカラーに設定されており、アラジンを挟んで二つの領域に分けられています。

 左側が宮殿を舞台に、権力闘争が展開されるリアルな世界が描かれているとするなら、右側は魔法のランプが隠されていた洞窟を舞台に、夢を実現するファンタジックな世界が描かれているといえるでしょう。

 まず、左側から見てみましょう。

 王女の衣装を着たジャスミンが毅然とした姿を見せており、その背後には、黄金で輝く宮殿の内部が描かれています。細部に装飾が施され、何もかもが黄金色で輝いており、それが奥深くどこまでも続いているのです。宮殿がいかに広大で、豪華なものかが示されています。

 王女のボディガードの虎(ラジャー)は黄金色に輝いていますし、その隣に描かれた王女の父、アグラバー国王もまた輝く光の中で、威厳のある立ち姿で描かれています。その下には彼らが支配するアグラバーの城下が描かれています。ですから、左側は富と権力が示されているといえるでしょう。

 それでは、右側はどうでしょうか。

 アラジンの右肩の背後からランプの精ジーニーが大きな顔を覗かせています。このポスターの中で最も大きく描かれているばかりか、ジーニーだけが観客と視線を交差できるような描かれ方をしています。眉を軽く上げ、おどけた表情を見せながらも、視線はダイレクトに観客に向けているのです。

 ご説明したのは、先ほどのポスターの上半分です。切り取ると、このようになります。

アメリカ版ポスター上半分

 改めて、この三人の視線の向きをチェックしてみると、主人公のアラジンは視線を伏せ、ジャスミンは視線を遠方に投げています。つまり、この二人は観客と目を合わせないように描かれているのです。つまり、二人はあくまでも物語の登場人物であって、語り手ではないということが示されています。

 一方、ジーニーは笑みを浮かべ、視線をダイレクトに観客に向けています。ですから、このジーニーこそ、物語の全容を把握し、観客に向かって面白おかしく語りかける語り部のように見えます。そういえば、『アラジン』はアラビアンナイトの一話でした。この映画のオープニングは、行商人が子どもたちを前にお話をして聞かせるシーンだったことを思い出します。

 それでは、何がこの物語のキーポイントになるのでしょうか。それは、魔法のランプの精が叶えてくれる「願い事」すなわち、欲望です。

 主要な登場人物の欲望がどんなものだったのか、見ていくことにしましょう。

■ランプの精が叶えてくれる願い事

 物語は、侍女に扮して城外に出た王女ジャスミンがアラジンと出会うことからはじまします。宮殿に閉じ込められるようにして暮らしている王女ジャスミンにとって、城外に出ることは、まだ見ぬ世界を知ることであり、夢でした。

アグラバーの城外 (ユーチューブ映像より)

 ところが、一歩、城外に足を踏み入れると、そこは秩序もなく、雑多なものが混在している空間でした。物売りの声が聞こえるかと思えば、盗人が追われる騒動もありました。喧騒に満ちた街中は興味が尽きず、キョロキョロと見回っている間に、ジャスミンは露店の立ち並ぶ一角にやってきていました。

 そこに突如、現れたのがアラジンでした。

 アラジンは盗みを咎められ、追われていました。階段を駆け上り、屋上伝いに追手をかわしながら、華々しいアクションシークエンスを繰り広げた後、ようやく人混みに紛れ込み、ほっとしたときに出会ったのが、ジャスミンでした。

アラジンとジャスミン アメリカ版クリップ

 挨拶代わりに、アラジンはジャスミンから母の形見の腕輪を盗みます。驚くジャスミンを見て満足し、すぐさま腕輪を返却します。ところが、相棒の小ザル(アブー)がいつの間にか、また盗んでしまいました。これでは信用を失ってしまうとばかりに、アラジンは返却のために宮殿に忍び込みます。このとき、アラジンはジャスミンを侍女だと思い込んでいました。

 首尾よくジャスミンに会うことができ、腕輪を返すことはできたのはいいのですが、アラジンは衛兵に捉えられてしまいます。その処遇を担当したのが国務大臣のジャファーでした。彼は、ジャスミンが実は王女だということをアラジンに教え、洞窟に入って魔法のランプを取ってくれば、チャンスを与えるといい、大金持ちになれるぞと唆します。


アラジンとジャファー (ユーチューブ映像より)

 権力志向の強いジャファーは、国務大臣であることに不満を持ち、ひたすら王になることを願っていたのです。通常手段では不可能なこの願いも、魔法のランプを使えば叶えることができるのではないかと思い、アラジンに命じたのでした。

 アラジンはサルのアブーを伴って、洞窟の中に入っていきます。

 洞窟の中に入ったアラジンは崖の上に置かれているランプを見つけ、なんとか手に取り、下に降りた途端に、ランプの精であるジーニーが突如、現れます。アラジンは何も知らずに、ランプをこすってしまったのです。


アラジンとジーニー  アメリカ版クリップ

 ジャファーの命令に従ってようやく手にした魔法のランプから、思いもしないランプの精霊が現れ、三つの願いをかなえてあげるというのです。

 これがこの物語の第一のターニング・ポイントになります。

■アラジン、アリ王子として宮殿へ

 ジーニーはさっそく、ランプの使い方や願い事のルールなどをアラジンに教えます。

こちら → https://youtu.be/DuPUlLXiTQQ

 どんな願いも聞き入れてくれるというので、アラジンはジャスミンに会いたいといいます。王座を求めるジャファーと違って、アラジンの願い事はなんとささやかなものなのでしょう。ただ、ジャスミンに会いたいというだけのものでした。

 ところが、相手は王女です。会うには、宮殿に入るという大きなハードルを乗り越えなければなりません。正々堂々と、誰にも邪魔されることなく宮殿に入り、しかも、歓待されるという状況を創り出さなければなりません。

 それには、どこかの国の王子になり、表敬訪問をするという体裁を取らなければならないのです。

 ジーニーはいろいろなアイデアを出しながら、最終的にアラジンを架空の国「アバブワ」のアリ王子に仕立て上げます。もちろん、ジーニーが魔法を使って変身させられるのは外見だけですが、いろいろな衣装を試着させてみて、最終的に、白いターバンにいかにも王族らしい衣装に決定します。

ジーニーに変身させられたアラジン ユーチューブ映像より。

 砂漠を背景に、次々とアラジンを変貌させていくシークエンスは、ジーニー主導のコメディタッチで表現されています。魔法使いならではの面白さが、特撮技術とジーニー役の俳優ウィル・スミスのコミカルな演技で組み立てられており、笑いを誘う部分です。

 こうしてアラジンは、ランプの精ジーニーの魔法によってアリ王子に変身し、ジャスミンのいる宮殿に向かいます。

こちら →https://youtu.be/2URgeV4ilcU

 ジーニーが踊りながら先導する行進がなんとも陽気で、華やかです。華麗な衣装のダンシングチームが踊りながら行進した後は、ダチョウが突進していきます。そして、アブーが変身させられた象に乗って、アリ王子に変身したアラジンが現れます。大勢の人々が見ている沿道から、歓声が沸いています。

 宮殿のバルコニーからは王やジャスミンが、何事が起こったのかとアラジンの一行を見守っています。

宮殿から見下ろす王とジャスミン ユーチューブ映像より。

 そうそう、うっかりして、大切な登場人物を紹介し忘れていました。アラジンの相棒、小ザルのアブーです。

アラジンとアブー アメリカ版ポスター

 アラジンの肩に乗って、威嚇するように大きく口を開け、こちらを睨みつけています。時にいたずらもしますが、アラジンにはとても頼りになる相棒です。宮殿に向かう際はジーニーによって巨大な象に変身させられ、アラジンを乗せて行進しています。

 派手で豪華な行進で入城するというジーニーの作戦は成功しました。

 得体の知れないアリ王子ですが、ジーニーが先導する行進があまりにも豪華で派手だったので、財力の豊かな国から表敬にきた王子だと勘違いされたのでしょう、つゆほども警戒されることなく、アラジンの一行は宮殿に迎え入れられたのです。

■王座を狙うジャファー

 アリ王子の顔を見るなり、国務大臣のジャファーはアラジンだと気づきます。そして、その華麗な変身ぶりを見て、アラジンが魔法のランプを手に入れたと察知します。

 そもそも、この物語の発端の一つはアラジンとジャスミンの出会いであり、もう一つの発端はジャファーの王座狙いでした。国の重鎮である国務大臣を務めていたとはいえ、いつまでも二番手でいることに安住できないジャファーの欲望が、この物語のもう一つの発端だったのです。

 ジャファーは、宮殿に忍び込んだアラジンを捉え、ジャスミンが王女であるkとを教え、さらに、洞窟にある魔法のランプを取り出して来いと命令しました。魔法の力で王座を得たいというのが彼の狙いだったからです。

  それなのに、アラジンは今、魔法のランプを使ってアリ王子となり、宮殿に現れています。ジャファーが怒るのも当然でした。アラジンは魔法のランプを横取りしたばかりか、大胆にも宮殿に赴き、王や王女ジャスミンに表敬訪問をしているのです。

 アラジンはそれほど見事にアリ王子に変身していました。これを見たジャファーは、改めて、魔法のランプの力の凄さを認識したことでしょう。なんとしてでも、ランプを取り戻そうと画策します。

 さて、アリ王子(アラジン)は表敬の挨拶の際、ジャスミンに贈り物を申し出ます。最初の申し出(ジャムなどの贈り物)には関心を示さなかったジャスミンですが、二度目に申し出た、行きたいと思ったところにはどこへでも、魔法のジュータンに載せて連れて行ってあげるという提案には喜びました。

 この時、ジャスミンもまた、アリ王子が実はアグラバーの街で出会ったアラジンだということに気づきます。ただ、ジャファーとは違って、アリ王子が扮装して街に出ていた仮の姿がアラジンだったと解釈したのです。

 見かけは王子でも中身はアラジンなので、宮殿のお偉方とのやり取りにはボロが出ます。その隙を狙ったジャファーは、ランプがどこにあるか言わなければ、お前の正体をばらすぞとアラジンを脅し、縛り上げて海に投げ込んでしまいます。

海に投げられるアラジン ユーチューブ映像より。

 

 危機一髪のところ、機転を利かせたジーニーが変則的に第2の願いを使って、アラジンを助けます。ところが、その間に、ジャファーにランプを奪われてしまいます。

ランプを手にしたジャファー  アメリカ版クリップ

 サルタンの衣装を着たジャファーの姿です。向かって左手の人差し指を突き出し、左手にはランプを持っています。まるで勝利宣言をしているかのようです。魔法の力で仮に、国王になりたかったジャファーの夢が叶った瞬間でした。

 これが第二ターニング・ポイントのシーンです。

 その後、魔法の力を失ったアラジンは追い詰められていきます。ジャファーはジーニーに命じ、アラジンとアブーを氷に閉ざされた荒地に追いやってしまいます。これもまた、危機一髪のところで、魔法のジュータンに乗って宮殿に戻ってくることができました。

 アラジンがいない間に、ジャファーはジャスミンに、結婚を承諾しなければ、父である王と侍女ダリアを殺すと脅します。ジャスミンは仕方なく応じ、結婚式を迎えたその日、魔法のジュータンによって救い出されたアラジンとアブーが駆けつけます。

■最後のお願い

 ジャファーはイアーゴを獰猛な肉食鳥に変身させ、彼らを追いかけさせます。魔法のランプを手にしても、こすらなければ効力はありませんから、ジャファーはそれを阻止しようとしたのです。壮絶なチェイスが繰り広げられます。

 これが第三のターニング・ポイント、そして、クライマックスシーンです。

 アラジンはジャファーを挑発するように、お前はまだジーニーに及ばない、宇宙で一番パワフルな存在になるには最後のお願いをするしかないよ、とけしかけます。挑発に乗ったジャファーは、宇宙で一番パワフルな存在にしてくれとジーニーに願います。

 ジャファーの願いを聞いたジーニーはその意味がよくわからず、魔法の力が強大なランプの精になりたいのかと思い、ジャファーを精霊に変えて、ランプに閉じ込めてしまいます。おまけに、ランプにつながれたジャファーは、道連れにイアーゴを引きずり込みました。これで敵は全て、ランプの中に閉じ込められてしまったことになります。

一切を見届けたジーニーは、ジャファーとイアーゴが入ったランプを魔法の洞窟に投げ戻します。ようやく恐怖から解き放たれたアラジンは約束を守って、最後のお願いでジーニーをランプの精から解き放って人間に変え、自由にします。

 そして、ジャスミンに対しては、魔法のジュータンに乗って、行きたいところにはどこへでも連れていくという約束を果たしました。

魔法のジュータンに乗るジャスミンとアラジン アメリカ版クリップ

 一方、王はジャスミンを次期王にすることを宣言します。

 ジャスミンをどこかの国の王子と結婚させて国を譲りたいと思っていた王でしたが、ジャスミンの自分でこの国を治めたいという希望を聞きいれたのです。宮殿内の不祥事にもうろたえることなく、問題解決できる能力を認めたからでしょう。

 人間になったジーニーはジャスミンの侍女ダリアを結婚し、ジャスミンもまたアラジンと結婚します。こうして登場人物たちはハッピーエンドを迎えるのです。

 最後を締めくくるように、最初に登場した行商人の家族が再び、登場します。子どもたちにお話を聞かせるという体で始まった物語がこうして幕を閉じたのです。語り部はジーニー、そして、聞いているのは、ジーニーとダリア夫婦の子どもたちでした。

■欲望の連鎖が紡ぐストーリー

 この作品はアニメ版の実写化です。アニメ版は『アラジンと魔法のランプ』を原作にしたファンタジックな異国のラブロマンスですが、実写版の場合、それだけでは訴求力が足りません。子ども向けのアニメ作品を実写化するには、大人が見ても楽しめる要素が必要だったでしょう。

 21世紀の大人が見ても楽しめる要素として、特撮技術による躍動的なアクションシーン、意表をつく魔法シーン、さらには、ダンスシーン、コミカルなシーンなどが次々と、弾力的に叩き込むように加えられました。観客は誰しも、スピード感あふれる画面展開にくぎ付けになってしまったことでしょう。よく出来たエンターテイメントでした。

 興味深いのは、実写化に際し、「願い事」(欲望)の連鎖に力点を置いて、ストーリーが展開されていたことでした。21世紀の観客は1992年の観客とは違って、単なるラブロマンスには引き込まれません。時代精神と絡ませた世界観、あるいは人生観を組み込まなければ、観客を夢中にさせることはできないでしょう。

 脚本を担当したのはジョン・オーガスト(John August)ですが、監督のガイ・リッチー(Guy Ritchie)も加わっています。

 ストーリー構成を見ると、登場人物たちの欲望が連鎖し、プロットを展開していくような仕組みになっていることがわかります。登場人物たちの欲望が問題を発生させ、解決したかと思えば、さらにその別の問題が発生するといった格好で、ストーリーが展開されるという構造になっているのです。

 この作品の主要な登場人物は五人います。


左から、ジャファー、ジーニー、アラジン、ジャスミン、ダリア  アメリカ版クリップ

 いずれもが、それぞれの人生観、世界観に基づく欲望を抱いています。

 たとえば、王女ジャスミンは城外の世界を見て見識を深めたいという欲望、アラジンはたまたま街で出会ったジャスミンにもう一度会いたいという欲望、ジャファーは王座に就きたいという欲望、ジーニーは人間になりたいという欲望、ジャスミンの侍女ダリアは結婚して家庭を持ちたいという欲望、といった具合です。

■欲望の中空構造を象徴するアラジン

 この五人の中でただ一人、欲望が変化している人物がいます。それは、アラジンです。「ジャスミンに再び会いたい」という素朴な欲望から、やがて、(ジャスミンに会うため)、「王子になりたい」になり、(ジャスミンの希望を叶えたいため)、「ジャスミンが望むところはどこへでも魔法のジュータンに乗って行きたい」になっていきます。

 なぜ、このように変化するのかといえば、アラジンの究極の欲望が、他人の欲望の実現でしかないからでしょう。いってみれば、アラジンには自身の欲望というものがないのです。

 たとえば、ジャファーとジャスミンの欲望は国の支配に関わっています。自身の権力志向を満足させるために王座を狙うのがジャファーだとすれば、ジャスミンは女性もまた支配者になりうるという立場から王権を手にすることを願っています。

 「スピーチレス~心の声」という新曲の中で、ジャスミンの思いは存分に表現されています。

こちら →https://youtu.be/b8z9l9kqGCs

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 このようなジャスミンの思いは現代女性を代表するものであり、ここに21世紀ならではの時代精神が表現されています。

 そして、ジーニーとダリアの欲望は、「人間として」あるいは、「家庭人として」生きていきたいというものです。ヒトを繋ぎとめてきたさまざまな絆から解き放たれた現代人の一部は再び、ヒトとは何かを問い、家庭に拠り所を求めようとしています。そのような現代潮流の一端がかれらの欲望に反映されています。

 このように、アラジン以外の登場人物はそれぞれ、自己実現のための欲望を持っており、それを実現させるために行動しています。

 ところが、アラジンは違います。物欲はなく、権力欲もなく、自己実現のための欲望もなく、ただひたすら他人の欲望を実現させるために、「願い事」をします。まるでランプの中のように、アラジンには欲望が空洞になっているのです。

 考えて見れば、だからこそ、個性的な登場人物たちが、アラジンを中心に、調和を保ちながら、存在できているように見えるのでしょう。自身の欲望を持たないアラジンが、一種の中空構造の役割を果たすことによって、欲望の衝突がもたらす悲劇を回避することができているように思えるのです。

 このような観点から実写版『アラジン』を読み解くと、この映画から現代社会に有益な示唆を得たような気がします。

 自己実現、自己利益のための欲望が巨大なエンジンとして、社会を動かしているのが現代社会です。だとするなら、どこかに空っぽの空間を作らなければ、社会そのものがやがて、欲望の衝突によって自己崩壊を招きかねないでしょう。現代社会の歪を考えると、中空構造の機能を捉えなおしてもいいのではないかという気がしました。(2019/7/16 香取淳子)

シドニー・ビエンナーレ2018:芸術監督・片岡真実氏のパースペクティブを振り返る。

■オーストラリア学会・30周年国際大会の開催

 2019年6月15日から16日、青山学院大学でオーストラリア学会・30周年国際大会が開催されました。

オーストラリア学会30周年国際大会

 

 オーストラリア学会から送られてきたプログラムを見て、16日の朝、片岡真実氏が講演されることを知りました。片岡真実氏といえば、シドニー・ビエンナーレ2018で、アジア人で初めての芸術監督を務められた方です。残念ながら、私はこのビエンナーレに行っておりませんが、気にはなっていました。

 一体、どのような内容だったのか、概要だけでも把握できればと思い、6月16日、青山学院大学に出かけてみました。

 聳え立つ木々の豊かな緑の下、学内は気持ちのいい落ち着きと静けさに包まれていました。

青山学院大学

 

 片岡真実氏(森美術館副館長兼チーフキュレーター)の特別講演は、「多文化社会とアートーオーストラリアにおける文化創造の最前線」というセッションの冒頭で行われました。

講演する片岡真実氏

 

 とくに印象に残ったのは、このビエンナーレのテーマ設定に際し、片岡氏が、「世界を見るパースペクティブとして東洋的価値観を取り入れたい」と考えていたということでした。

■世界を見るパースペクティブ

 片岡氏はアジア人で初めて芸術監督に任命された方でした。当然のことながら、そのことは念頭に置かれていたのでしょう、片岡氏の発言を聞いて、俄然、興味が湧いてきました。

 いつごろからか、私は、いまの世界状況を打開するには西洋的価値観では難しいのではないかと思うようになっていました。まずは、世界各地の文化リーダーが集まる場所で、価値観のシフトが可視化される必要があるのではないかと考え始めていたのです。それだけに、この時の片岡氏の「東洋的価値観を取り入れたい」という発言に、私は引き付けられました。

 1973年に開始されたシドニー・ビエンナーレの芸術監督はそれまで、イギリス人が務めることが多かったといいます。ところが、2018年の芸術監督に片岡氏が選ばれました。欧米の価値観だけでは世界情勢をとらえきれないことが共通認識になりつつあったからかもしれません。

 片岡氏はアジア人として、これまでのシドニー・ビエンナーレの歴史に一石を投じる覚悟で臨んだのだと思います。1973年から2016年までの参加者名簿を会場に展示するという試みもその一つでした。

アーティストの名簿

 

 アーカイブはすでにできていますが、アーティスト名簿の掲示はまた別の効果があるような気がします。このように会場の一角にこれまでのアーティストの名前を掲示することによって、シドニー・ビエンナーレを縦断的に俯瞰することができ、それを踏まえて未来を見据える効果もあるように思いました。

 さて、第21回シドニー・ビエンナーレのテーマは、「SUPER POSITION : Equilibrium and Engagement」です。片岡氏は、量子力学の概念をテーマに取り入れるとともに、五行思想の考えからをサブタイトルに取り入れたのです。

■SUPER POSITION : Equilibrium and Engagement

 テーマの「SUPER POSITION」というのは、聞き慣れない言葉です。Wikipediaを見ると、量子力学の基本的な性質だと定義されており、「重ね合わせ」を指すそうです。これだけではよくわからないので、調べて見ました。すると、関連映像を見つけることができました。慶応大学の伊藤公平教授とオックスフォード大学のジョン・モートン教授による説明です。

こちら → https://youtu.be/ReOgrsEef8I

 これを見ると、「重ね合わせ」という概念は、電子などが複数の異なった状態で同時に存在し、一つの状態に特定できないことを指すようです。もっとも、そう聞いても、なかなか具体的には理解しがたい概念です。

 片岡氏はこのSUPER POSITIONについて、不確定性の理論だと説明した上で、この不確定性は、現代の世界を象徴するものとして捉えられているといいます。そして、片岡氏はその一例として、「現在のオーストラリアの下には、かつてのオーストラリアの地図がある」と説明し、「同時に二つのルールが存在する中で生きている」という認識を示してくれました。それを聞いてようやく、わかったような気になりました。

 そういえば、オーストラリアには、先住民のアボリジニが住んでいました。彼らには太古の昔からその地で連綿と生を紡いできた歴史がありました。かつて彼らはその歴史文化に基づく地図を持っていたことでしょう。ところが、いまやその地図はありません。1788年に上陸してきたイギリス人によってオーストラリアは植民地化されてしまったからです。

 いつ頃から現在の地図が作られたのかを知りたくて調べて見ると、オーストラリア大陸の古い地図を見つけることができました。

1872年の地図

http://kowtarow1201.seesaa.net/article/287819144.html より)

 

 上の写真は、1872年にアメリカで発行された地図から、オーストラリア大陸の部分を取り出したものです。この地図を見ると、イギリス人が上陸してからわずか84年後、オーストラリア大陸はすでに、統治に便利なように区切られていたことがわかります。

 北オーストラリア、アレキサンドラ、西オーストラリア、南オーストラリア、ビクトリア、ニューサウスウェールズ、クィーンズランドなど、北オーストラリアとアレキサンドラ以外は現在の州名のままです。さらに、海岸沿いには、現在の都市名がいくつも見えます。

 現在の地図も示しておきましょう。

現在の地図

 

 二つの地図を比べて見ると、1788年にオーストラリア大陸にやってきたイギリス人はわずか84年で、先住民の土地、言語、文化を簒奪したばかりか、行政区まで制定していたことを確認することができました。入植者たちが、先住民の土地に自分たちの居住地、街区、行政区を作っては、次々と新しく命名していったのでしょう。この地図の背後から、先住民が生きてきた痕跡が透けて見えてくるような気がします。

 このような経緯を振り返ると、片岡氏のいうように、現在のオーストラリア人は、意識するにせよ、しないにせよ、「同時に二つのルールが存在する中で生きている」といわざるをえないのかもしれません。

 ちなみに、入植者が入り込んだ1788年当時、アボリジニの人口は30万人から100万人だったと推定されていますが、1920年には7万人にまで減少してしまったそうです。現在の人口規模は65万人にまで回復しているそうですが、かつては250もの言語を持ち、多様な文化の下で暮らしていたアボリジニは、言語だけみても、現在は75にまで減少してしまったそうです。

 古い地図が新しい地図に書き換えられていく過程で、先住民の土地や文化は、多くの場合、入植者のものに置き換えられていきました。それでも、先住民たちは、記憶、言語、生活文化、ヒトとヒトの交わり中で、存続することができた言語や生活文化もあります。

 つまり、片岡氏は、現在のオーストラリアには、先住民の文化、入植者の文化、その後、オーストラリアに移植された文化等々が、さまざまな状態で同時に存在しており、何か一つの状態に特定できない現象があるというのです。「SUPER POSITION」とはまさにこのような現象を指すのでしょう。

 「SUPER POSITION」(重ね合わせ)はすでに、オーストラリアだけで見られる現象ではなくなっています。いまや、世界中、さまざまな国や地域でこのような現象を見出すことができるでしょう。しかも今、ハンチントンのいう「文明の衝突」がさまざまな場所で見受けられるようになっています。

 オーストラリアで開催されるシドニー・ビエンナーレだからこそ、そして、文明の衝突が懸念される世界情勢の現在だからこそ、片岡氏は「SUPER POSITION」をテーマに据えたかったのでしょう。

 さて、第21回シドニー・ビエンナーレにはサブタイトルが付けられており、それは、「 Equilibrium and Engagement」でした。

■ Equilibrium and Engagement(均衡とエンゲージメント)

 片岡氏は講演で、「世界を見るパースペクティブとして東洋的価値観を取り入れたい」といわれました。言葉を継いで、「五行思想を東洋の価値観として、世界に向けて発信していきたい」といわれました。

 そういえば、第21回シドニー・ビエンナーレのポスターを見ると、この五行思想が反映された図案になっていました。

ポスター

 

 中国で生まれた自然哲学に、五行思想というものがあります。万物は火・水・ 木・金・土など五種類の元素から構成されており、これらは「互いに影響し合い、その生滅盛衰によって天地万物が変化し、循環する」という考え方です。

 ポスターの5色は、Wikipediaの五行についての説明図の色とほぼ同じです。


(Wikipediaより)

 

 この説明図では、五行は相互に「相生」(順送りに相手を生み出していく、陽の関係)と、「相剋」(相手を打ち滅ぼしていく、陰の関係)の関係にあることが、矢印(外側に示された黒の矢印と、内側に示された白の矢印)で示されています。

 片岡氏は以下のような図を使って、テーマについて説明されていました。


Equilibrium and Engagement

 

 この図を見ると、「相生」に相当する語として「CREATS」が当てられ、「相剋」に相当する語として、「DESTROYS」が当てられています。

 森羅万象の象徴である五元素の間には、相生と相剋の二つの側面が五元素の間を巡ることによって、穏当な循環が生まれ、それによって宇宙の永遠性が保証されるという考え方が、五行思想だといわれています。

 サブタイトルの「Equilibrium and Engagement」とは「均衡」と「関与」であり、まさに、この世のものにはヒエラルキーがなく、バランスを取りながら、全体が遊動しているという世界観です。この世界観こそ、アジア人で初めてシドニー・ビエンナーレの芸術監督になった片岡氏が世界に向けて発信したかったものでした。

 前置きがだいぶん長くなってしまいました。

 それでは、私が興味を覚えた四人の作家の作品について、第21回シドニー・ビエンナーレのHPを参照しながら、あるいは、関連情報を加えながら、ご紹介していくことにしましょう。

こちら → https://www.biennaleofsydney.art/archive/21st-biennale-of-sydney/

 ホーム画面のタイトルの下に掲載されているのは、Ai wei wei氏の「クリスタルボール」です。まず、Ai wei wei氏の作品からご紹介していくことにしましょう。

■Ai wei wei(艾未未)氏の作品

 2018年のシドニー・ビエンナーレで、もっとも印象深かったのが、Ai wei wei氏の“Law OF the Journey”という作品でした。


Law of the Journey

 

 全長60mにも及ぶ巨大なゴムボートのインスタレーションです。このボートには258人もの難民が、ひしめき合うように乗っています。これまでに見たこともにない、壮大な創作のエネルギーを感じさせられます。2017年に制作された作品です。

 このインスタレーションの一環として、4つのビデオ作品も展示されていたようです。日本でも上映された“Human Flow”もその一つでした。

 彼が制作した“Human Flow”(『ヒューマン・フロー/大地漂流』)2019年はオスカー賞の有力候補になったほどの作品で、日本では2019年1月12日に公開されました。

こちら →http://www.humanflow-movie.jp/

 この映画のサイトのホーム画面にも、難民が鈴なりになってボートに乗り、国を脱出しようとしているところの写真が掲載されています。

 Ai wei wei氏は、第2次大戦後、世界で6500万人もの人々が、飢饉や気候変動、戦争などを免れるため、故国を離れざるとえなかったといいます。そして、彼が制作した『ヒューマン・フロー/大地漂流』は、そのような人々の大規模な移動を、力強い映像で表現した素晴らしいドキュメンタリーです。この作品では、危機に陥った難民の驚異的な規模とその深刻な個人への影響が明らかにされています。

こちら → https://www.humanflow.com/synopsis/

 Ai wei wei氏の体験が、このようなドキュメンタリー映画として作品化されていたばかりか、今回、出品された作品にも結晶化されていたのです。

 Wikipediaによると、Ai wei wei氏は1957年に北京市に生まれた中国の現代美術家で、キュレーター、建築家であり、文化評論家、社会評論家でもある多彩な人物のようです。1981年から1993年までニューヨークでパフォーマンスアートやコンセプチュアルアートの制作に励んでいたといいます。

 1993年に中国に戻り、以後、中国現代美術の中心的人物であったようですが、その活動を咎められ、軟禁されてしまいます。保釈後、2015年にドイツに渡り、ベルリンで創作活動をしていましたが、2018年にはそこも離れ、世界各地で作品発表を行っているといいます。

●Law of the Journey

 このインスタレーションがどれほど巨大なものであったか、会場に設置しているところを撮影した写真がありましたので、ご紹介しておきましょう。


Law of the Journey 設置場面

 

 上の写真の右側に、クリスタルボールが置かれているのが見えます。Ai wei wei氏が出品したもう一つの作品です。写真ではとても小さく見えますが、これでも直径1メートルはある大きな球体です。巨大な水晶玉を使った作品で、2017年に制作されました。

●Crystal Ball

 この作品は、第21回シドニー・ビエンナーレのホーム画面に掲載されていました。巨大な球体がまるで世界の運命を占うかのように、設置されていました。壊さないように運び込むのが大変な作業だったと片岡氏はいいます。

クリスタルボール

 

 こうしてみてくると、片岡氏がAi wei wei氏の作品をいかに重視していたかがわかります。Ai wei wei氏は、さまざまな文化の交差するところに身を置き、その衝突を経験しながら、現代社会を俯瞰し、作品を制作していたのです。第21回シドニー・ビエンナーレの真髄はこれらの作品に集約されていたといっていいでしょう。

■Lili Dujourie氏の作品

 やや傾向の異なる作品もありました。Lili Dujourie氏の、「American Imperialism」(アメリカ帝国主義)というタイトルの作品です。

アメリカ帝国主義

 

 真っ赤な壁が鑑賞者に強烈な印象を残します。横から見ると、この壁に立てかけられているのが、こげ茶磯の薄い銅版だということがわかります。赤い壁とこの銅板の間に、赤く塗られていないままの白い壁の部分が見えます。一見しただけでは見ることのできない、この部分に、Lili Dujourie氏のメッセージが隠されているようにも見えます。

横から見た「アメリカ帝国主義」

 Lili Dujourie氏の初期作品は、1960年代、70年代の政治的社会的状況への批判的なものが多かったといわれています。1972年に制作されたこの作品は、鑑賞者には理解しにくく表現されていますが、ベトナム戦争など、当時のアメリカとその外交政策への批判が込められているように見えます。

■Esme Timbery氏の作品

 意表を突く作品は他にもありました。Esme Timbery氏が2008年に制作した作品で、壁一面に子どものスリッパが200セット、展示されていました。このインスタレーションは、多様な貝殻を組み合わせたデザインの素晴らしさと、輝かしく配色された色彩の組み合わせが印象的でした。


貝殻で作った子ども用スリッパ

 

 それにしても、200組の子供用スリッパで構成されたインスタレーションには驚いてしまいました。

 拡大して見ることにしましょう。


拡大したスリッパ

 5×9.5×5サイズの貝殻で作ったスリッパのセットがこのように整然と、展示されていたのです。色の合わせ方、さまざまな貝殻を寄せ集め、個性を追求した造形的な美しさ、それぞれが見事な手仕事といわざるをえません。

 引いて見ると、このようになります。


壁面いっぱいのスリッパ

 ヒトが履いていないスリッパだけが、整然と200セットも並べられています。

 華やかな色彩に彩られた壁面は、一見、美しく見えますが、考えてみれば、不気味な空間でもあります。というのも、これらのスリッパがすべて子どもサイズだからです。子どもがおらず、スリッパだけが多数、秩序づけて並べられているこの作品からは、母親の涙が感じられるような気がしてなりません。

 このインスタレーションを見ると、オーストラリアの歴史を知る鑑賞者は、ごく自然に、1869年から1969年に至るまでの期間、児童隔離政策が採用されていたことを思い出してしまうでしょう。

 実は、オーストラリアの先住民は18世紀に、暴力的に植民地化され、土地や文化を簒奪されたばかりではなく、19世紀末から20世紀半ばにかけて、児童隔離政策による種族根絶の危機すら経験してきたのです。

 このインスタレーションからは、アボリジニが耐えてきた悲哀を読み取ることができるだけではなく、長年の悲しみと苦労が見事なまでに昇華され、作品化されており、芸術作品として深い意義と味わいを感じ取ることができます。

 暴力的に支配され、土地や文化を簒奪されてきた先住民たちがどれほどの悲しみと悲惨な思いを抱えて生きて来たか、まして、子どもを奪われた母親たちがどれほど悲嘆にくれて暮らしてきたか、それにもかかわらず、彼女たちは美しい貝殻を集めてスリッパを作り続けてきました。Esme Timbery氏の作品はそのような過去と現在を表現したものでした。

 Esme Timbery氏は、オーストラリアの先住民Bidjigal族のアーティストとして活躍しています。海岸沿いのアボリジニは数千年にわたって貝殻で装飾品を作ってきました。彼女の曾祖母もその伝統を受け継ぎ、1910年にはイギリスで作品を発表したこともあるそうです。

 Esme Timbery氏はそのようなアボリジニの伝統を受け継ぎ、色彩の組み合わせもデザインも現代的なセンスで作品を仕上げました。そこには連綿と続いてきた文化と迫害の歴史が込められており、鑑賞者の気持ちに強く訴えかけるものがありました。

■Roy Wiggan氏の作品

 Esme Timbery氏の作品と同様、心の奥深く、原初的な感情が揺さぶられるような思いのする作品がありました。Roy Wiggan氏の「ilma」で、1994年に制作されたものです。

iluma

 

 鮮やかな色彩がとても印象的です。外側から青、橙、緑、茶、白、赤、といった具合にコントラストの強い色を隣同士に並べ、中には小さく、黒、黄と並べ、その下に赤でWという文字を平たくしたような曲線で構成されています。これが何を意味するのかはわかりませんが、整然と並べられ、秩序だって構成されているので、なんらかの記号のようにも見えます。

 シドニー・ビエンナーレ2018のHPを見ると、この作品のタイトルである「ilma」は、バルディ族(西オーストラリア州キンバリー地区に居住するアボリジニ)の儀式や、物語や音楽や法律を教えるための手段を指す言葉のようです。

 色彩やデザインによって、動物や植物だけではなく、気象学的事象や海洋現象、さらには、形而上学的概念なども表現できるようです。材質としては、伝統的なものでは樹皮、木綿、羽毛などが使われ、現在は、合板、アクリル絵の具、コットンウールなどが使われるようになっているといいます。

 さて、Roy Wiggan氏の作品「ilma」は、ニューサウスウェールズ州立美術館から委託され、Wiggan氏が1994年に制作したものだそうです。HPによると、その内容は、コーン・ベイ(西オーストラリア州、キンバリー)と彼の父親が生き延びた特別の物語を踏まえたものだと説明されています。

「ilma」は展覧会に出品する目的で制作された作品ではありませんが、Wiggan氏は、この作品が展示されることによって、鑑賞者が文化遺産を保存することの意義を感じてくれればと考え、出品依頼に応じたといいます。というのも、Wiggan氏はilmaの制作者であるばかりか、部族の長老として、若い世代に知識や伝統や習慣を伝えることによって、過去と未来の間に架け橋になるよう奨励してきたからでした。

 このようなHPの説明を読むと、この作品が単なる一個人の表現物を超えたものだということがわかります。長年にわたる民族の歴史、文化、情報が込められて表現された作品であり、いってみれば、文化遺産なのです。

 この作品が展示されているコーナーをご紹介しておきましょう。

展示コーナー

 

 「ilma」と似たような図柄の作品が二点、並べられています。その隣の壁面には、縦長に丸い図案が繋げられているように見える作品が5点展示されていました。遠目で見ると、記号というよりむしろ、装飾品のように見えます。

 今回、ご紹介した一連の作品を振り返ると、片岡氏が設定したテーマが現在の社会状況にふさわしく、しかも選ばれたアーティストたちの作品がそれに応えられる質の高いものだったという気がします。

 第21回シドニー・ビエンナーレでは、「SUPER POSITION」というテーマにふさわしい作品がいくつも展示されていました。今回、ご紹介した一連の作品はとくに、シドニーで今、開催されるビエンナーレならではの問題意識が明確に反映されており、見応えがありました。

■東洋の価値観とは

 第21回シドニー・ビエンナーレでは、35ヵ国から69名のアーティストが参加しました。日本人アーティストも3人、参加していましたが、今回取り上げたのは中国のAi wei wei(艾未未)氏、フランスのLili Dujourie氏、オーストラリア(アボリジニ)のEsme Timbery氏、Roy Wiggan氏、わずか4人の作品です。

 私はHPの写真で見ただけで、これらの作品を取り上げることに決めました。それは、彼らの作品はいずれも、社会、歴史、政治、文化といったヒトが生きていくためのベースになるものが取り上げられ、芸術の域にまで高められて、表現されているように思えたからでした。

 今回、ご紹介した作品はいずれも、私にとってはとても新鮮で、気持ちの奥深く揺さぶられるような深い意義を感じさせられました。このようなアーティストたちに参加の機会を提供した片岡真実氏に、キュレーターとしての優れた力量を見る思いがしました。

 果たして、片岡氏はどのようにアーティストを選び、出品作品を選んだのでしょうか。

 調べて見ると、2018年6月28日に公表されたインタビュー記事(VISUAL SHIFT, 2018/06/28)を見つけることができました。

 私が最初にご紹介したAi wei wei氏の「Law OF the Journey」について、片岡氏は、「まず、目に入るのは、60mの巨大な難民ボートですが、その台座周囲には論語や聖書、ギリシャ哲学、ハンナ・アーレントなどから多くの引用が散りばめられています」と述べています。

 写真を見た限りでは、そこまではわからなかったのですが、Ai wei wei氏の作品は、物質的な圧倒的迫力ばかりでなく、作品を読み解くための文字情報までも添えられていたというのです。これには驚きました。

 そして、片岡氏は現代アートについて、「これまで現代アートは西欧を軸に展開されていたので、それと日本だけを見ていればよかったのですが、そこから中国、インド、東南アジアと注目される地域が拡大し、一つの価値観では語れなくなってきました」と答えているのが印象的でした。

 今回、「SUPER POSITION」をテーマに設定したのは、まさにそのような現代美術を取り巻く環境が片岡氏の視野にあったからでしょう。

 私がご紹介した作品のいずれもが、価値観とその衝突を発端とし、その亀裂を表現しながらも、それを昇華させ、芸術の域にまで高められていたところが素晴らしいと思いました。衝突をそのまま放置せず、感情をコントロールしながら、別のエネルギーに転化させていくところに東洋的な価値観の役割が見られるような気がします。

 世界はいま、ICT技術の進展によって、これまでの秩序の体系が崩れはじめ、次第にアナーキーな状況に向かおうとしています。

 第21回シドニー・ビエンナーレで片岡真実氏が提供したコンセプトを振り返ると、調和のとれた世界システムを構築していくには、日本人こそ適しているのではないかという気がしてきます。

 日本人はこれまで、外来文化をその都度、日本文化と調和させ、異質のものを併存した状況で享受してきました。まさに、「SUPER POSITION」の状態を、「Equilibrium and Engagement」の状態に変化させてきたのです。今回、作品をいくつかご紹介していくうちに、日本人こそ、ヒエラルキーのないままヒトが存在しうるシステムを構築できる感性を持ち合わせているのではないかと思うようになりました。(2019/7/6 香取淳子)

金山農民画に見る、レトロでポップな感覚

■「金山農民画」展の開催

 日中友好美術館で、「金山農民」展が開催されました。開催期間は2019年6月6日から26日、開館時間は10:00~17:00です。6月13日付の日経新聞でこの展覧会の開催を知り、是非とも行ってみたいと思っていたのですが、なんとか都合をつけられたのが6月25日、終了日の前日でした。

 ビルに入ると、すぐ左手に会場が見えました。「中国のレトロ&ポップ」の文字が印象的です。

展覧会

 会場入り口の設えは黄色をベースカラーとし、タイトル通り、「レトロ&ポップ」な絵柄の作品が掲示されていました。なんともいえない懐かしさを覚えたことを思い出します。

 中国の美術に「農民画」というジャンルがあることを知ったのは、6月13日付け日経新聞の「農民の、農民による絵画」というタイトルの記事でした。筆者の陸学英氏によると、金山というのは上海市金山区のことで、「中国三大農民画の郷」といわれているといいます。

 チラシの説明文を読むと、金山農民画は、もともと絵を描くのが好きだった農民たちが余暇時間に描いたのが始まりだとされているようです。会場にはその金山の農民画70点が展示されていました。農民画と聞いて、てっきり、農村風景を写実的に描いた作品だと思い込んでいたのですが、実際はカラフルで装飾的な作品が多く、それぞれ不思議な味わいがありました。

展示作品はどれも農民の生活風景を描いたものですが、便宜上、モチーフの捉え方に沿って、いくつかに分類し、ご紹介していくことにしましょう。

なお、ショーケースの中に展示されていた作品は写真を撮影しにくかったので、壁に展示されていたもののみ取り上げることにします。結果として、建物を描いた作品は取り上げることができなかったこと、また、取り上げた作品の中には照明が反射して写り込んでいるものがあること、等々についてはご了承いただければと思います。

■近景で捉えたモチーフ

 まずは近景でモチーフを捉えた作品から、ご紹介しましょう。

●薬草を採る娘

 会場に入ってすぐ右側の壁に展示されていたのが、「薬草を採る娘」でした。

薬草を採る娘

 画面中央に娘が、正面を向き、手を組み、やや緊張した面持ちでこちらを見つめています。背景には色とりどりの花々、蝶々などの動植物がぎっしりと描かれています。タイトルから推察すれば、これらは薬草の花なのでしょう。画面の左下には花々に埋もれるようにザルが描かれていますし、少女は黒いエプロンをつけています。

 その働きぶりが表彰されたのでしょうか、日焼け防止用の帽子を被り、胸には大きな花のついたリボンをつけています。薬草摘みの作業が評価され、このようにカラフルで美しく描かれているのです。

 この作品からは、農村では労働に応じて表彰されていたことがわかります。三つ編みにした髪に花を飾り唇に紅を挿し、やや緊張した面持ちには晴れがましさとともに恥じらいも見受けられます。まるでハレの日に記念撮影をしているかのような絵柄でした。農村の少女の初々しさが好ましく思えます。

●花と鶏

 まるで西洋画でよく見かける肖像画のように、鶏が横向きで描かれています。鶏が主人公として扱われており、背後に木に咲いた花々が描かれています。これまでに見たことのない絵柄です。

花と鶏

 深い緑色の地を背景に、鶏が中央に描かれ、その周囲に色とりどりの花をつけた小枝が描かれています。鶏の足は奇妙な楕円形のものの上に置かれています。足元は不安定ですが、身体部分は逆三角形のラインで描かれており、安定感があります。

 それにしても、奇抜な絵柄です。普段は地面を徘徊している鶏がどういうわけか、花を咲かせた木の中央に描かれています。木を支える土台であるはずの土が、いくつかの楕円形に分かれて描かれています。下草なのでしょうか、そこには小さな草花が描かれています。鶏がいかに農村の生活にとって大切な存在なのかが、わかるようなモチーフの取り扱いです。鶏も花も枝も装飾的に描かれています。これもまた農村の一光景なのでしょう。

 この作品を見ていると、色とりどりの花は幸せの象徴として捉えられていたのではないかという気がしてきました。

●旬の野菜

 会場の中ほどの壁に展示されていたのが、この作品です。あまりにも装飾的でポップな感覚の画面構成に驚いてしまいました。タイトルは、「旬の野菜」です。

旬の野菜

 色とりどりの野菜が画面いっぱいに隙間なく、描かれています。それぞれの野菜は大きさや色彩を考慮してバランスよく並べられており、とても美しく、つい、見入ってしまいます。

 農村の生活で豊かさをもたらせてくれるのは、野菜であり、その色合いや形状は彼らにとって、まさに美そのものなのでしょう。一つ一つがまるで人格をもっているかのように、丁寧に、個性豊かに、そしてシンプルに描かれていました。

 さまざまな野菜が一枚の画面に収められたこの作品はまるで、農村に住む人々は誰しも、が喜びも悲しみも共有して暮らしていることを象徴しているようにも見えます。さまざまな野菜画面一面に描き切ることによって、農村の価値と、その依って立つ基盤を描くことができたといえます。すばらしい象徴性があると思いました。

■中景で捉えた生態

 それでは、中景で捉えた農村の生態を描いた作品をご紹介しましょう。

●アシの池

 アシの池で遊ぶ5羽の白鳥が描かれています。タイトルは「アシの池」です。

アシの池

 白鳥はアシの生える池を好むようですから、この作品はそのような白鳥の生態を捉えて描かれたものなのでしょう。アシの葉にしても、水草にしても、シンプルな画像を多数、描くことによって、アシの池の様子が端的に表現されています。

 実際は、まるで図案のようなシンプルな画像をコラージュすることによって、一つの作品世界が創り上げられています。使われている色数も少なく、白鳥の白さが印象的です。記号的な要素の強い作品だと思いました。

●雪蓮花図

 展示作品の中では地味な色合いの作品で、印象に残ったのが、「雪蓮花図」でした。


雪蓮花図

 色数が少ないのに、どこかしら華やぎがあり、その一方で、落ち着いた色調で静かな中にも豊かさが感じられる作品でした。華やかさを感じさせられたのはおそらく、蓮の花が大きく明るく描かれていたからでしょうし、豊かさを感じさせられたのは、蓮池の様子が賑やかに描かれていたからでしょう。

 たしかに、蓮の花が咲き乱れているかと思えば、蓮の実がいくつもできており、トンボが飛んでいるかと思えば、蓮の葉の下の水面に、小さな魚が泳いでいます。植物も動物も共に、蓮池の中で調和して生きています。そのことが豊かさを感じさせるゆえんでもあるのでしょう。

 地球上で生きるものは一切合切、このように調和して生きていくのが道理だと訴えかけているようにも見えます。

 考えてみれば、蓮の花が咲く一方で、大きな蓮の実が成っているのは妙な話です。花が枯れてから実がなるのが通常ですから・・・。奇妙といえば、蓮の花は7月から8月にかけて咲くといわれているのに、トンボが飛んでいます。つまり、この絵の中に様々な季節の蓮池の様子が取り込まれているといっていいでしょう。蓮の生態を一覧できるように描かれた作品だといえるのかもしれません。

■遠景で捉えた群像

 それでは、遠景でモチーフを捉えた作品をご紹介しましょう。

●村はずれの魚市場

 村人が作業する光景を描いた作品があります。「村はずれの魚市場」というタイトルの作品です。


村はずれの魚市場

 種類ごとに分類された魚が入った水桶が、画面中央にいくつも置かれ、その間を縫うように、人々が働いています。ホースを持って水を桶に補充するヒト、水桶から魚を取り出しているヒト、会計をしているヒト、等々。画面上方には買い物客が傘を差し、手にかごをぶら下げて並んでいます。子連れのヒトもいれば、女性同士、単身で訪れたヒトもいます。

 右側のテーブルには、重さを量る吊り秤とソロバンが置かれています。魚の重さを量り、値段を計算するためでしょう。そして、会計を終えたヒトは魚をかごに入れたり、手で持ったりして帰っていきます。その手前にあるのは調理台なのでしょう、処理された魚の骨が見えます。

 この一枚の絵から、村の人々が魚を購入する様子がつぶさにわかります。タイトルからすると、どうやらこの魚市場は村はずれに設置されているようです。おそらく、辺り一帯が魚の臭いで充満しているからでしょう。

●納涼

 暑い夏の夕べ、村人が憩うひと時を描いた作品もあります。「納涼」というタイトルの作品です。

納涼

 中央に描かれているのが、家の前に椅子を出し、親子が団扇を片手に涼んでいる姿です。テーブルの上にはスイカとラジカセが置かれています。涼みながら、音楽を聴き、スイカを食べているのでしょう。腹帯だけの子どもがスイカを口に含んでいます。和やかな親子団欒のひととき、家族の後ろを犬が動き回り、周辺はひまわりが大きく花を咲かせています。

 一方、右側の家族は夫婦二人だけで夕涼みをしています。小テーブルにはポットが置かれていますから、お茶を飲んでいるのでしょう。二人とも団扇を手にしています。家々の周囲は実をつけた木々が立ち並び、豊穣がもたらす幸せが描かれています。

 画面真ん中には石の階段のようなものが置かれ、その左下に小さな船が一艘、停泊しています。水上には水連のような花が咲き、どういうわけか、その水連に接するように、画面右側にはかぼちゃがたくさんぶら下がっている棚があります。ありえない設定ですが、別段、違和感はありません。リアリティには欠けていますが、むしろ、農村生活で必要なアイテムが重視されて、描かれているように思えます。

●上海の祝日

 農村のヒトもたまには都会に出かけることもあるのでしょう。上海のにぎやかさを描いた作品があります。タイトルは、「上海の祝日」です。

上海の祝日

 サーチライトがさまざまな方向からカラフルな色を投げかけ、夜空を輝かせています。高層ビルが林立し、その下には新幹線が走り、龍踊を楽しむ人々の群れが描かれているかと思えば、バスが走り、車が走り、人々が歩いている姿が描かれています。さまざまなものが混在する上海の喧騒が、カラフルでイラストのような画像で表現されています。

 目にしたものをすべて一枚の絵に収めているのですが、そこには上海という都市のもつ多様性、先進性、そして、伝統と近代の混在が一目で分かる様に描かれています。真ん中に白い新幹線を配置することによって、カラーバランスが図られ、絵の混雑さが緩和されています。

■俯瞰で捉えた群像

 一連の作品の中で私が興味を覚えたのは、俯瞰で捉えられた群像の姿です。

●カニ獲り

 上海カニで有名なカニ獲りの様子を描いた作品です。タイトルは絵柄そのままの、「カニ獲り」です。

カニ獲り

 河川の何ヵ所かが、波打つような曲線を組み込んで設置された垣根で囲われています。その中に浮かぶ一艘の船には男が一人、櫓をこいでいます。船には大きな籠が置かれ、それ以外の道具は見当たりません。カニは生け捕りにしているのでしょう、籠の口は小さく、中ほどが大きく膨らむ形になっています。捕獲した蟹を逃がさないような構造になっていることがわかります。

 無数の水草の周辺をカニが動き回り、所々、ピンクの花も咲いています。カニの形や大きさが一様なら、水草も花も一様でした。図案化された絵柄が印象的です。

●春雨を干す

 春雨を干す作業が俯瞰画像の中で見事に捉えられています。作品タイトルは、「春雨を干す」です。

春雨を干す

 春雨を干す作業がカラフルに、そして、シンプルに描かれています。干された春雨を吊るすラインが斜め平行にどこまでも延々とつながっており、圧倒される景観が創り出されています。

 黒地を背景に、白く垂れ下がる春雨のラインが、画面の基調を作っています。その狭間で働く色とりどりの衣装を着けた女性たちの姿は、鑑賞者に視覚的な快さを感じさせます。カラーバランスの効果といえるでしょう。

 その一方で、画面を斜めに切り取るいくつもの平行線(春雨を吊り下げた竿のライン)が、静かな作業の中に整然とした動きを生み出しています。生と動、地の黒と春雨の白に対し、働く女性たちのカラフルな装い、色彩の対比が活かされ、シンプルでありながら、動きがあり、リズムも感じられる画面構成になっていました。

●ザリガニ養殖

 「ザリガニ養殖」というタイトルの作品があります。ザリガニを養殖するなど、考えてみたこともなかったので、このタイトルを見て、驚きました。

ザリガニ養殖

 調べて見ると、アメリカザリガニ産業はいま、中国で急成長中の新産業なのだそうです。中国水産学会(2017年)の報告によると、2016年度の総生産量は89.91万トンにも及び、中国はいまや、世界最大のアメリカザリガニの生産国になっているようです。

https://www.sankeibiz.jp/macro/news/180501/mcb1805010500001-n1.htm より)

 それにしても、この作品の構図とモチーフには牧歌的で、しかも、多様な情報が詰め込まれた面白さがあります。

 居宅を中心に、道路や地面を青色で三方向に延びるように描き、そのラインで区切られた三つのゾーンは、地を黄緑色で塗り潰し、川に見立てています。黄緑色の地のゾーンにはザリガニが無数に描かれ、その合間に何種類かの水草も描かれています。

 右側のゾーンには、船から餌を投げる男性が描かれ、居宅から下に伸びる道路では女性が餌を撒いています。居宅を中心に周囲がザリガニの生産拠点になっているのでしょう。家族総出で餌やりをしている光景が描かれています。

 中心部の居宅付近では、トラックが横付けになり、その右には収穫したザリガニを詰めた袋が数個描かれています。収穫したザリガニをこれから出荷するのでしょうか。この一枚の俯瞰図の中に、生産から収穫、そして出荷までの一連の作業が収められていることがわかります。

 家の背後に林のようなものが描かれる一方、家の手前には花を咲かせた大きな木が描かれています。これらは豊穣のシンボルとして描かれているのでしょうか。

●田植えに忙しい五月

 まるで地図のようだと思って近づいて見ると、「田植えに忙しい五月」というタイトルの作品でした。


田植えに忙しい五月

 道路や地面はオーカー色で描かれ、空が黄緑、田は青やモスグリーン、イエローグリーン黄色、黄緑とさまざまな色が使われています。モチーフを識別するため、カラーバランスを考えながら、着色されていることがわかります。

 区切られた田では、それぞれ別々の農作業が行われています。たとえば、左上の田では、数名が横並びになって苗床から、苗の束を作っています。畔道には苗を運ぶ女性が描かれています。その真下の田では、女性が数名、横並びになって苗を植え付けています。そして、その後ろには苗が束ねられて置かれています。

 すでに苗が整然と植えられた田がある一方で、牛を使って男性が土を耕している田もあります。その真下の田では、男性が殺虫剤のようなものを撒いていますし、右上の田では男性が肥料のようなものを撒いています。手前の道路には鍬を担いだり、肥料のようなものを運んだりしている人々が描かれています。

 興味深いことに、画面右下に水車が描かれています。近くの水溜まりから動力で水を汲み上げ、水田に放出している様子が描かれています。水田耕作に欠かせない水がこのように補給されているのです。

 さらに、画面上方を見ると、家々が立ち並び、その背後に、農村の人々を守っているかのように、木々が高くそびえているのが見えます。のどかで平和な農村の田植えの風景が、カラフルにシンボリックに表現されることで、過酷な農作業も実は楽しい側面があるのだと教えてくれているような気がします。

 こうしてみると、農村の田植え時の作業全般が、一枚の絵に見事に描かれていることがわかります。

■日常生活の一コマにドラマを見る

 室内の光景もまた、面白い観点から捉えられていました。二点ほどご紹介しましょう。

●「端午節」

 端午の節句のための粽作りをしている女性の立ち姿が描かれています。「端午節」というタイトルの作品です。


端午節

 テーブルの上に大きな籠が置かれ、その中に出来上がったばかりの粽が次々と詰められています。その右側には粽を包むための笹の葉、そして粽の中に入れる餡が大きな鉢に盛られています。テーブルの下を見ると、大きな酒甕が置かれています。これも端午の節句を祝うために用意されているのでしょう。

 女性は一心不乱に粽を作っていますが、ふと、テーブルの下に目を向けると、脚部に猫が手をかけテーブルの上の餡を狙っています。日常の何気ない光景がユーモラスに捉えられています。

●「逃げ場がない」

 日常生活の中に、ちょっとしたドラマの片鱗がうかがえる作品がありました。タイトルは「逃げ場がない」です。


逃げ場がない

 「逃げ場がない」というタイトルを見て、どういうことかと思い、絵をよく見ると、豪華な料理がセットされたテーブルの下で、鼠が二匹の猫に挟み込まれ、絶体絶命の状況に置かれています。

 左の猫はいまにも鼠の尻尾を捕まえようとしていますし、右の猫は正面から鼠に手をかけようとしています。まさに危機一髪ですが、鼠はおそらく、テーブルの上の豪華な料理をすこしばかり失敬したのでしょう、猫はそれを見逃さず、鼠を前と後ろから挟み撃ちし、根鼠を苦境に追い込んでいます。

 まさに「逃げ場がない」状況です。ドラマティックなシーンが日常生活の一コマの中にあることを教えてくれる作品です。

■投げ網、张美玲vs姚喜平

 「投げ網」というタイトルの作品が二点ありましたので、ご紹介しましょう。

●姚喜平氏の「投げ網」

 全般に色調の暗いのが、姚喜平氏の「投げ網」でした。

投げ網

 上方に一艘の船が描かれ、女性が漕ぎ、男性がそこから網を投げ、魚を捕獲しています。網の中には大きな魚が三匹、入っています。右下や真下にも同様の船が描かれていますが、こちらは網をなげたばかりで円を描いた状況で描かれています。

 陸ではバケツのようなものを持っている女性や子ども、男性の姿が描かれています。家族なのでしょうか、待ちわびている様子がうかがえます。画面の隅は水になびく海草がぎっしりと描かれ、画面の密度を高めています。

 この作品には投げ網漁に関わる人々が過不足なく描かれていますし、色彩のバランス、モチーフの配置なども的確で、状況説明に終わらないものが表現されていました。

●张美玲氏の「投げ網」

 暗い色調の中で投げ網につけられた赤いブイと船をこぐ男性が持つ櫓の赤が画面に彩りを添えています。

投げ網

 画面の中で赤いブイをつけた三つの投げ網がこの作品の中心に位置づけられています。その周辺は遠目に見ると、淡いブルーで色取られ、外周が暗い色調で構成されているように見えます。

 近づいて見ると、黒く見えたのは海草ですべて、一様に垂直に立ち、右から左方向への波に流されているからでした。魚は同じような大きさのものが、投げ網の周辺を回遊しており、そのせいか、そこで渦巻いているように見えます。

 三つの投げ網は三角形状に位置付けられ、それぞれ、黄色の綱で船に結び付けられています。右上の船には二人の男性が乗っており、一人は網を投げ、一人は櫓を漕いでいます。

 右下と真下の船は網を投げる男性が見えるだけです。

 海草が多数、垂直に描かれているせいか、画面が硬直して見えます。その硬直性を緩和させるために、漁網のブイの赤さを強調して描いたのかもしれません。モチーフの配置や色彩バランスにやや密度が欠けるかなという印象を持ちました。

■概念の絵画化

 展示作品全般にシンボリックな描き方がされていると思いましたが、その中でもとくに印象に残ったのが、「母の愛」という作品でした。概念の絵画化が図られているような気がします。

●母の愛

 それにしても、不思議な印象の残る作品でした。「母の愛」というタイトルがつけられていますが、絵柄からはその意味がわかりません。

母の愛

 真ん中に円状の網が描かれ、その中にカエルが多数泳いでいます。円の周縁に、東西南北の方向に4人の女性が配置され、その手前にそれぞれ、オタマジャクシが円を作っています。この絵柄がどういう意味を持つのか、考えてみてもわかりませんでした。

 タイトルを見ると、「母の愛」ですから、カエルがオタマジャクシを守ろうとしている光景なのでしょうか。そう思ってこの作品を見ると、カエルは女性の手元に近づき、噛みつこうとしているものも見られます。まるで、背後のオタマジャクシを庇おうとしているかのように、攻撃的になっています。

 この作品は完全に図案化されています。

 4人の女性が囲い込む網の外は、画面の四隅を結ぶ対角線上の、網の外縁にある部分から四隅まで、それぞれ四本の木の幹が描かれています。四隅を頂点に枝が垂れ下がり、葉が茂っている様子が描かれています。

 幹の焦げ茶色、葉の緑、そしてカエルとオタマジャクシが入ったオフホワイトの水中、ブルーの網、4人の女性の青い服に赤いエプロン、オーカー色の帽子、色の取り合わせの見事なばかりか、それぞれが背景色の黒に調和しています。図案の妙味と卓越したカラーバランスが相俟って、見事な作品になっていました。

 ここでも自然の中のヒトと小動物の関わり合いが描かれています。牧歌的であり、生命の原初的な姿が表現されていました。とてもシンボリックで、色のバランスもよく、図案としても美しいと思いました。

■プリミティブな表現の持つ訴求力

 金山農民画展の展示作品の中から17点ご紹介してきました。いずれもカラフルで大胆な構図、いくつもの視点を取り込んだ斬新な画面が魅力的でした。この展覧会のサブタイトル通り、「レトロ&ポップ」な感覚に満ち溢れた作品を見ていると、どこか懐かしく、そして、心弾むような気持ちになっていくのを感じました。気持ちが解放されていくのがわかるからでしょう。

 レトロな感覚が呼び覚まされたのは、描かれたモチーフのせいかもしれませんし、平坦な描き方のせいかもしれません。もはや目にすることができないような農村の光景だからこそ、懐かしい感情が湧き上がってきたのだと思います。そして、過ぎ去った日々への愛惜の情が喚起され、生きること、生きていくことの原初的な姿に想いを馳せるたからでしょう。

 一見、幼く見える描き方には、プリミティブな訴求力を感じました。画家たちが日常生活の中で見聞きしたことを、素直に受け止め、そのまま表現したからこそ、国境を越え、鑑賞者の気持ちに訴えかける力を持ちえたのだと思いました。

 たとえば、最後にご紹介した「母の愛」という作品の場合、カエルとオタマジャクシの入った網の水槽のようなものは、真上からの視点で描かれています。ところが、その周囲に座る4人の女性の姿は、真上からでも、真横からでも、どんな方向からでも捉えられません。四方に描かれた木も同様です。

 おそらく、ここで描かれたモチーフはすべて、立体であるにもかかわらず、平面で描かれているからこそ、さまざまな視点を一枚の絵の中に混在させても、モチーフは違和感なく調和し、存在することができているのでしょう。

 一連の作品を見ているうちに、このような描き方の中に、私たちがすでに失ってしまった何か大切なものが含まれているのではないかという気がしてならなくなりました。紙であれ、キャンバスであれ、描くという行為は、三次元のものを二次元の世界に置き換えることですが、その際、私たちは三次元の姿をどうすれば、二次元の世界で表現できるのかということを追求してきました。

 ところが、この展覧会に出品された作品はいずれも、三次元のものを二次元のままで表現されており、そこに斬新さが見受けられたのです。ひょっとしたら、二次元のまま表現しても、観客に違和感を抱かせないためのルールがあるのかもしれません。いずれにしても、この展覧会に出品された諸作品を見て、プリミティブな表現の持つ訴求力について考えてみたいという気持ちになりました。(2019/6/30 香取淳子)