ヒト、メディア、社会を考える

香取淳子のメディア日誌
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マクシミリアン・リュス ⑥ピサロと第8回印象派展

 カミーユ・ピサロは印象派の画家として認知され、長く活動していました。ところが、自分の画風になかなか自信が持てないでいました。ルノワール、モネ、セザンヌなどに比べ、自分の絵は地味で、人々の購買意欲をそそらないと思い込んでいたからでした。ピサロが生きた19世紀末といえば、市民階級が台頭し、美術市場の担い手として大きな存在になりつつあった頃だったのです。

■悩み、模索し続けるカミーユ・ピサロ

 1885年6月、カミーユ・ピサロは、画商ポール・デュラン・リュエルに次ぎのような手紙を書き送っていました。

 「小さな油彩画を制作し始めている。明るく輝くものが描きたいのだ。つまり、光と闇の境界線にできるだけせまりたい。それは簡単なことではないよ」(※ クレール・デュラン=リュエル・スノレールClaire Durand-Ruel Snollaerts)著、 遠藤ゆかり訳『ピサロ―永遠の印象派―』創元社、2014年、p.56.→以下、『ピサロ』と略称)

 デュラン・リュエルは1883年5月に初めてピサロの個展を開催してくれた画商でした。

 この文面からは、ピサロが依然として、自身の制作課題を、明るく輝くものを描き、光と闇の境界線に迫ることだと考えているのがわかります。その後、さまざまに試みても、おそらく、思い通りにはならなかったのでしょう。「簡単なことではないよ」という言葉の中に、意気消沈している彼の様子が目に浮かびます。

 デュラン・リュエルの画廊で初めて個展を開催してから、早や2年が経過していました。

 そういえば、1883年5月の個展開催前も、ピサロは息子のリュシアンに手紙を送り、同じような内容の不安を訴えていました。

 こうしてみると、どうやら、「明るく輝くものが描きたい」という思いはまだ達成されていなかったようです。果たして、彼はどのような作品を描こうとしていたのでしょうか。

 今回はまず、彼の絵の何が問題なのか、どう改善しようとしていたのか、どのような画家との出会いがあったのか、といったようなことを踏まえ、印象派画家として認知されていたピサロの苦悩や動揺を見ていきたいと思います。

 そこで、1885年以前の作品の中から、ピサロが明るさと輝きを求めて描いたと思われる作品を探したところ、《ルーアンのナポレオンふ頭》が目につきました。

 どのような作品なのか、見てみることにしましょう。

●カミーユ・ピサロ(Camille Pissarro)制作、《ルーアンのナポレオンふ頭》(Quai Napoléon, Rouen, 1883年)

 1883年に、ルーアンのナポレオンふ頭を描いた作品です。

(油彩、カンヴァス、54.3×64.5㎝、1883年、Philadelphia Museum of Art所蔵)

 大きく広がる青空から陽光が降り注ぎ、水面に反射しています。空も川面も明るく描かれ、空と川が渾然一体となって溶け合うように見える中で、橋が一つの境界線として両者を区切っています。画面右手には大きくカーブするふ頭が描かれ、その下には船が何艘も停泊しています。

 確かに、色遣いが以前よりも明るくなっています。空といい、川面といい、遠景の建物といい、淡い色彩同士を組み合わせ、モチーフをしっかりと描きながらも、画面全体に明るさを醸し出す工夫がされています。

 これが、失意のどん底に沈んだピサロがさまざまに試行して、到達した一つの境地なのでしょう。望んでいたように、画面が明るく、軽やかになっています。

 ところが、ピサロのもう一つの願望である輝きが表現されているとは言い難いのです。陽光を受けた川面はもっとキラキラと輝いていてもいいはずなのに、それが表現されておらず、広い空のどこかに、雲の隙間から洩れる光が捉えられていてもいいのに、そうなっていないのです。

 そもそも陽光の輝きを表現するために編み出されたのが、パレットで混色せずに直接、カンヴァスに絵具を置いて描く筆触分割法でした。印象派の画家たちが考え付いた画法です。

 ところが、この作品は、いかにも印象派風に描かれているにもかかわらず、光の輝きが感じられず、どちらかと言えば、明るいのにくすんで見えるのです。

 よく見ると、不自然に見える箇所もあります。船の描き方が画一的で興を削いでいるばかりか、舳先に使われたホワイトが強すぎて、違和感があります。おそらく、ピサロ自身もこの作品には満足できなかったのではないかという気がします。

 ただ、正面中ほどに見える橋と右手の建物、そして、手前に大きくカーブする埠頭や数本の杭など、モチーフの配置には、縦横の直線、曲線が巧みに組み合わされた興趣があります。しかも、快い安定感があります。

 引いて画面を見ると、大きな比重を占める空と川には雲や波がもたらす動きが感じられ、安定した構図の中で静と動がバランスよく配分されていることがわかります。素晴らしい画面構成です。

 興味深いことに、この作品には点描の兆しが見えます。空や川面、埠頭の際に生えた草の描き方に、筆触や色の配置に配慮した痕跡が見受けられます。「明るく輝くものを描く」ためにピサロが模索していた痕跡といえるのかもしれません。

■スーラから得た刺激

 画商デュラン・リュエルに制作上の悩みを吐露していたピサロは、1885年、たまたまアルマン・ギョーマン(Armand Guillaumin, 1841-1927)のアトリエで、ポール・シニャック(Paul Victor Jules Signac, 1863 – 1935)と出会いました。そこで、彼の友人スーラの科学的方法について知らされたのです。それを聞いた途端、ピサロはたちまち引き付けられ、是非ともスーラに会ってみたいと希望しました。

 同年10月になって、スーラ(Georges Seurat, 1859 – 1891)に会うことができ、ピサロは直接、その理論を詳細に聞くことができました。納得したピサロは、すぐさま、色彩の同時対照に基づく筆触分割法を学び、実践していきました(※ 前掲。黒田光彦、p.88.)。

 スーラはアメリカの物理学者オグデン・ルード(Ogden Rood,  1831-1902)の『近代色彩論』のフランス語訳やフランスの化学者ウジェーヌ・シュヴルール(Michel-Eugène Chevreul, 1786-1889)の『色彩の同時対比の法則』を読んだ上で、光学理論を応用して絵具の使い方に適用させていました。

 具体的にいえば、モチーフを小さな点の集合で描いていくという手法です。こうして描かれたものは、一定の距離を置いて眺めてみると、点の集合はひとかたまりの色を作り、光の揺らぎを表現することができるというわけです。

 先ほどご紹介した作品もそうですが、1880年代に入ってから、ピサロは、こまかいタッチを重ねて描く方法を試みていました。スーラの理論を受け入れる素地がピサロにはあったといえます。

 だからこそ、スーラの理論に出会い、カミーユ・ピサロは進むべき方向を確信したのでしょう。ようやく課題を解決し、失意から立ち直るきっかけを掴んだといえます。

 この時、スーラは26歳、カミーユ・ピサロは55歳、そして、息子のリュシアン・ピサロは22歳でした。自身の画法に自信を失っていたとはいえ、ピサロは、親子ほど年齢差のある若いスーラに、画法の教えを請うたのです。

 おそらく、当時のピサロはそれだけ深く、自身の画法に悩んでいたのでしょう。もちろん、老いてなお、30歳も年下の画家から新しい絵画理論を学ぼうとする意欲が失われていなかったこともあります。

 以後、ピサロは熱心にスーラの理論を周囲に説いて回り、自身でも積極的に筆触分割法、時には、点描法で制作を進めていきました。

 ピサロは、印象派の仲間たちに比べ、スーラたちの方が「科学的」だと評価していました。さらに、「私個人は、この芸術のなかに進歩があると確信しており、いつか途方もない成果を生み出すと考えている」とまで語っています(※ 『ピサロ』、前掲、p.59.)

 ピサロは、スーラの理論には印象派を超えたものがあり、科学的に構成されているからこそ、今後、素晴らしい芸術の進歩につながるだろうと考えていたのです。

 それでは、ピサロが筆触分割法で描いた作品をご紹介していきましょう。

■筆触分割法によるピサロの作品

●カミーユ・ピサロ作、《Meadows at Eragny》(1886年)

 カミーユ・ピサロがはじめて筆触分割の手法で描いたのがこの作品です。

(油彩、カンヴァス、60×74㎝、1886年、南オーストラリア州立美術館所蔵)

 タイトルは“Meadows at Eragny”で、「エラニーの牧草地」という意味です。筆触分割の手法で描かれているせいか、確かに、これまでの作品と比べ、画面が明るく、輝いて見えます。

 先ほど見た《ルーアンのナポレオンふ頭》とは輝きが全く異なります。

 空は淡いピンク、白、水色、ブルーを使って鮮やかに描かれており、そこから葉や草むらに落ちる陽光が輝いて見えます。葉の先に置かれたオレンジ色、黄色、紫、白などが、弾むような躍動感を生み出しています。光と影が色相環を踏まえ、はっきりと表現されているからでしょう。ピサロのこれまでの作品にはない斬新さが感じられます。

 1886年、さらに、《庭にいる母と子》(Mother and Child, in the Garden)という作品を描いています。

●カミーユ・ピサロ制作、《庭にいる母と子》(1886年)

 母親が庭の戸口を開けると、子どもが振り返りながら外に出ていくシーンが捉えられています。農村のほのぼのとした日常風景の一端が、柔らかい陽射しの中で表現されており、小さな幸せが感じられます。

(油彩、カンヴァス、41×32㎝、1886年、個人蔵)

 なんとも言えない柔らかさと温もり、そして、優しさに満ち溢れた画面です。あらゆるモチーフが、細かく区切られた色彩を構成要素として表現されているからでしょう。これまでの作品にはなかった輝きが随所に見受けられます。筆触分割法の効果でようやく、ピサロが願った「明るい輝き」を手に入れたことがわかります。

 この作品は、第8回印象展に出品されました。ところが、画期的な画法で制作されていたにもかかわらず、ほとんど注目されませんでした。

■第8回印象派展

 新理論を提唱するスーラとシニャックに、第8回印象派展に出品するよう呼び掛けたのは、カミーユ・ピサロでした。

 カミーユ・ピサロは第1回から第8回まで、すべての印象派展に出品したただ一人の画家でした。人望も厚く、印象派展の開催には大きな力を持っていました。

 1885年12月、ピサロの熱心な働きかけに応じてスーラは、印象派展の新たな展開についてピサロやモネと懇談しました。彼らは印象派展に自身の作品を出品できるかどうかを検討していたのです。長い議論の末、新しい点描主義の作品だけを一室に隔離して展示するという条件の下で、出品が認められました(※ 黒江光彦、前掲。p.88)。

 古参のカミーユ・ピサロが尽力したからこそ、スーラ、シニャック、リュシアン・ピサロなどの若手画家が、第8回印象派展に出品することができたのです。点描主義を世に知らせるという点で、ピサロは若い世代の芸術活動に大きな役割を果たしたといっていいでしょう。

 第8回印象派展は、一日450人ぐらいの観客が訪れたといわれています。印象派展最後となった展覧会ですが、観客動員数はこれまでの印象派展とあまり変わりませんでした。そして、スーラの作品がすぐさま巷の話題になったわけでもありませんでした。

 当初は、批評家も点描派の画家に大した注意を払わなかったようです。実際は、彼らの作品をどう評価していいかわからなかったのかもしれません。

 スーラはこの時、《グランド・ジャット島の日曜日の午後》(Un dimanche après-midi à l’Île de la Grande Jatte)を出品しました。

(油彩、カンヴァス、207.5×308.1㎝、1884-86年、シカゴ美術館所蔵)

 この作品はその大きさといい、実験的な画法といい、人々をおおいに驚愕させました。精緻に組み立てられたスーラの理論に基づく作品世界は、確かにこれまでの美術界にはないものでした。

 興味深いのは、グランド・ジャット島に遊びに来ているというのに、描かれている人々は皆、静かで、動きが感じられないということでした。まるで生気が抜き取られているかのようです。描かれている人物や動物だけでなく、木々や空、川でさえも動きを止め、画面に固定されているように見えます。すべてが整然とした秩序の中に収められているのです。

 冷静に、客観的に描かれているからでしょうか、観客は作品に感情移入することもできず、ひたすら見つめているだけです。純色のまま点の状態にして絵具を配置し、モチーフを形作り、画面構成しているからでしょうか。奇妙な魅力を放つ作品でした。

 この作品が発表された時、批評家のフェリックス・フェネオン(Félix Fénéon, 1861-1944)は、諸理論を踏まえ、独自に考案した画法で描かれたスーラの作品について、科学的で革新的で、印象派には見られない体系性があると述べています。

 ちなみに、シニャックは《婦人帽子店》(The Milliners, 1886年)を出品しています。

(油彩、カンヴァス、116×89㎝、1885-1886年、チューリヒ・ビュールレ財団所蔵)

 よく見ると、床や壁、そして、俯いてハサミを拾おうとしている女性の肩など、一部に筆触分割法が用いられていますが、それ以外の箇所はそうではありません。スーラの理論を推奨しながらも、シニャック自身はまだ点描法を会得していなかったようです。とはいえ、この作品が印象派の作品でないことは明らかでした。

 彼らの作品はいずれも、印象派展に出品された作品としてはあまりにも異質でした。

 しかも、スーラ、ピサロ、シニャックはそれぞれ、点描法、筆触分割、一部筆触分割といった具合に、スーラ理論の習熟度にも差異がありました。とはいえ、これだけの作品が一か所に展示されたのですから、インパクトがありました。

 最後の部屋にまとめて展示されるようにしたのはピサロだったようですが、まとめて展示されることによって、観客に分割画法をアピールする絶好の機会となったのです。

 画家や画商からは評判がよくなかった新しい画法でしたが、一部の評論家からは高く評価されていたようです。

 たとえば、評論家のフェリックス・フェネオン(Félix Fénéon)はスーラの作品を見て感銘を受け、雑誌“L’ART MODERNE”(1886年9月19日号)上で激賞しています。

 フェネオンはさらに、印象派の画家たちについて、彼らはすでに色彩分割を行っているが、恣意的に行っているだけなので、科学的で精密な体系化が必要だと指摘しています。(※ 永井隆則、「新印象主義」、『世界美術大全集』第23巻、1993年、小学館、pp.235-236)

 そして、フェネオンはスーラ理論に基づいて制作した一連の画家たちを、「新印象派」と名付けました。「新印象派」とネーミングされたことによって、その後、点描主義が一躍、注目を浴びるようになりました。

■ピサロは若い世代に何をもたらしたのか。

 第8回印象派展で画期的な働きをしたのが、カミーユ・ピサロでした。点描画法を実験的に試行していたスーラやシニャックを、美術界の表舞台に引っ張り出したのです。

 当時、まだ点描法は人々から認知されていませんでした。それにもかかわらず、印象派画家として名を成していたカミーユ・ピサロは、彼らの作品を印象派展に出品させたばかりか、自身も点描主義を標榜し、実践しはじめました。その結果、彼は、画家仲間たちからも、世間からも理解されず、評判を落としてしまいました。

 積極的に点描法を推進した結果、ピサロは関係者から反発され、ついには生計を脅かされる羽目に陥ってしまったのです。それまではピサロに好意的だった画商のデュラン・リュエルでさえ、点描画法で制作した彼の絵をごくわずかしか買いませんでした(『ピサロ』、前掲、p.61)。

 点描画法に転向したピサロは、どんな言い訳も通用しないほど、大きなリスクを背負い込むことになりました。それでもピサロは屈することなく、次々と点描画法で作品を仕上げていきました。スーラの理論を周囲に推奨するだけではなく、自身も積極的に点描主義を実践していったのです。

 ピサロは高齢でありながら、真摯に点描画法に取り組みました。その姿勢に刺激を受けたシニャックもまた、急速に点描画法で制作するようになりました(※ 黒江光彦、前掲。p.88)。

 若い世代のグループに入り込んだピサロはこのようにして、率先して、点描画法で制作しながら、若い画家に影響を与え、新しい芸術運動を推進していったのです。

■ピサロにとっての点描法

 それでは、ピサロは点描法によって何を得、何を失ったのでしょうか。

 点描法という新しい絵画技法を世に押し出す上で、ピサロが大きな力となったことは確かです。ところが、その一方で、彼は画家や画商、世間から批判され、作品が売れなくなってしまうほどのリスクを被りました。

 果たして、ピサロは点描画法を使うようになって、何を得たのでしょうか。はたまた、念願だった画風の改善はできたのでしょうか。

 まずは彼が点描法を会得し、実作を重ね始めた時期の作品をご紹介しましょう。

●《耳の聞こえない女の家とエラニーの鐘楼》(La Maison de la sourde et le Clocher d’Éragny)、1886年制作

 ピサロは1884年に、パリ郊外のエラニーに転居していました。タイトルから想像すると、そこの隣家に聴覚障碍の女性が住んでいたのでしょう。彼女が庭仕事をしている光景を描いた作品です。

(油彩、カンヴァス、65.09×80.96㎝、1886年、インディアナポリス美術館所蔵)

 明るく輝かしい陽光が辺り一面に射し込み、のどかで平和な暮らしの一端が巧みに描かれています。これまでのピサロには見られなかった太陽の煌めきが画面に溢れています。点描法の成果といえるでしょう。

 この作品を見ていると、ピサロが悩みぬいた自身の画風の欠点が克服されているように見えます。モネやルノワールのような派手な輝きはありませんが、落ち着いて、心に深く沁みこむ輝きがあり、見ていると、気持ちが豊かになっていくような気がします。

 手前右に木陰を描き、ほとんどのモチーフを中景から遠景にかけての範囲内に配しています。モチーフの大小、曲線や直線の形状を踏まえて、レイアウトし、動きがあって、しかも安定した構図を組み立てています。これまで通り、ピサロらしい考え抜かれた構図で、素晴らしいと思います。

 それに加え、この作品には色彩の深さ、調和、バランスなども秀逸です。自身の得意なところを踏まえ、点描画法の特性を活かして素晴らしい作品に仕上がっていると思います。

 さらに、第8回印象派展に出品した後、1888年に描き直した作品があります。《窓からの眺め》というタイトルです。

 この作品は実際は1886年に描かれたのですが、ピサロは描き直した上で、制作年を1888年に変更したと言われる作品です(※ 『ピサロ』、前掲、p.60)。

 ●カミーユ・ピサロ制作、《La vue de ma fenêtre》(1888年)

 《窓からの眺め》(La vue de ma fenêtre)というタイトルの作品です。

(油彩、カンヴァス、65×80㎝、1888年、オックスフォード、アシュモレアン博物館所蔵)

 当時、カミーユ・ピサロが住んでいた家の窓から外を眺めた風景画です。庭を見下ろすと、女性が働いており、屋外に視線を移すと、バザンクール村へと続く草原が広がっています。牧歌的な農村の日常生活が、抑えた筆致で捉えられています。

 先ほどの作品よりもさらにスーラの理論の忠実に描かれています。

 点描画法のせいでしょうか、画面からは生き生きとした躍動感は感じられません。生気が抜き取られたかのようです。安定感のある構図の下、ひたすら静寂で平穏、平和な世界が表現されていました。

 ピサロはその後も点描法で描き続けました。

 点描派を標榜しながらも、ピサロにはまだ迷いがあったのかもしれません。同時期に描かれた作品には、もう少しラフに、スーラ理論から逸脱して描かれたものがあります。

 《エラニーでのリンゴの収穫》です。

●カミーユ・ピサロ、《エラニーでのリンゴの収穫》(La récolte des pommes à Éragny)1888年制作

 《エラニーでのリンゴの収穫》(La récolte des pommes à Éragny)は、ピサロの点描画作品の中で、代表的なものだといわれています。

(油彩、カンヴァス、60.9×73.9㎝、1888年、Dallas Museum of Art所蔵)

 一見、いかにもスーラ理論に充実な点描法で描いた作品に見えます。ところが、よく見ると、畑の部分は点、木の幹は短い線、男性のシャツは小さな十字形で描かれています。スーラやシニャックが点しか使わなかったのに対し、ピサロは自己流の点描法で描いていたのです。

 この作品のためにピサロは多くのデッサン、方眼紙を使ったグアッシュ画、油彩による下絵など、入念に準備したといわれています(※ 『ピサロ』、前掲、p.56)。

 興味深いことに、ピサロはこの時期、画商デュラン・リュエルに次のような手紙を書き送っています。

 「油彩画やグアッシュ画を制作するのに、3~4倍の時間がかかっている。困っているよ」(※ 『ピサロ』、前掲。p.60)

 ピサロはスーラの理論に惚れ込み、その技法を完璧に会得していました。ところが、忠実に実践しようとすれば、限りなく時間がかかってしまうことがわかってきました。終にピサロは、4年間、熱中した点描画法を投げ出してしまったのです。

 その理由として、ピサロは次のように述べています。

 「束の間の感覚に従うことが出来ない、生命感や動きを与えることができない、自然の変化に富んだ効果に従うことが出来ない、自分のデッサンに個性を与えることができない、等々から私は断念せざるをえなかった」(※ 『ピサロ』、前掲、p.64)

 こうしてピサロは点描法から離れることになりましたが、その後も新印象派の画家たちとは親密な関係を続けました。1891年3月29日にスーラが突然、亡くなった時、「これは芸術にとって大きな損失だ」といい、激しい衝撃を受けていました(※ 『ピサロ』、前掲、p.65)。

 点描法を放棄しても、理論を組み立てたスーラは高く評価していたのです。

 1891年4月1日、ピサロは息子のリュシアンに向けて、次のような手紙を書いています。

 「昨日、スーラの葬儀に行ってきた。シニャックがこの大きな不幸に打ちのめされていた。おまえのいうことは正しいと思う。点描主義はもう終わりだ」(※ 『ピサロ』、前掲、p.128)

 そして、シニャックに対しては何度も点描技法をやめるよう忠告しています。

 1894年1月27日にシニャックに宛てた手紙の写しを息子のリュシアンにも送っていますが、それを見ると、次のような文面でした。

 「手法そのものが良くないのだと思います。この手法は役に立つどころか、硬直化と冷たさをもたらします」(※ 前掲、p.129)

 手法とは点描技法のことです。ですから、点描技法は硬直化と冷たさをもたらすとわざわざ手紙でシニャックに警告しているのです。いったんはのめり込んでみたものの、離れてみると、ことさらにその欠点が目につくのでしょう。とはいえ、ピサロが感じていることは私も同感です。

 スーラの《グランド・ジャット島の日曜日の午後》を見てもわかるように、点描法を厳密に使うと、モチーフを硬直化させ、画面からモチーフの動きや体温を失わせてしまうのです。だからこその魅力もあるのですが、どのような画題にも適用できるものではないということをピサロはいいたかったのかもしれません。

■新印象派の画家たちとピサロ

 息子のリュシアン・ピサロとリュス、ゴーソンらは、ラニー・シュル・マルヌで点描主義運動を展開するとともに、Salons des Artiste Indépendantsに参加し、結束を固めていました(※ “Maximilien Luce et Léo Gausson”, Silvana, 2019, p.19.)。

 カミーユ・ピサロもまたラニーの小さな町でリュスやゴーソン、カヴァッロペドゥッツィらとの交流を楽しみ、庇護者としての役割を果たしていました(※ 前掲)。点描画法と出会うきっかけとなったラニー派との関係も深めていたのです。

 ピサロは新印象派の画家の中でもとくに、自分と同じようにアナーキズムの思想をもっていたリュスやゴードンらと好んで親交を結んでいました(※ 『ピサロ』、前掲、、p.57)。

 リュスについてピサロは、1895年4月11日、息子リュシアンに次のような手紙を向けて送っています。

 「リュスは運が悪い。ふたつの海の間を漂っている。(略)彼の強さ、厳しさ、少し粗野な面をつくっていたものは消えてしまった。残念だ」(※ 『ピサロ』、前掲、p.129)

 突如、スーラが亡くなり、拠り所を失ってしまったリュスを、ピサロは心配していたのでしょうか。あるいは、自分は点描法から抜け出したのに、リュスがまだ点描法で書き続けていたことを、年長の画家として危惧していたのでしょうか。

 リュスはスーラが亡くなった後もしばらく、点描法で描き続けています。19世紀末の科学主義の時代、点に還元してモチーフを形作って画面を構成する点描法は時代の動きに敏感な画家には馴染みがよかったのかもしれません。

 点描主義、点描法に惹かれた画家たちにはどういう特性があったのでしょうか、ふと、気になってきました。(2022/4/30 香取淳子)

マクシミリアン・リュス ⑤ピサロはなぜ、ラニー派に参加したのか。

 ゴーソンやリュス、ペドゥッツィらがラニー派を結成した頃、リュシアン・ピサロとその父親であるカミーユ・ピサロ(Camille Pissarro, 1830-1903)もこのグループに参加しました。当時、彼はすでに印象派の画家として認知されていました。それにもかかわらず、どういうわけか、息子とほぼ同世代の若いグループに加わって、点描主義を標榜し始めたのです。

 一体、なぜなのでしょうか。

 今回は、カミーユ・ピサロは、なぜラニー派に参加したのか、その背景について考えてみたいと思います。

■風景画家としてのカミーユ・ピサロ

 年表でピサロの略歴を振り返ってみると、1868年から1870年まで彼は毎年、サロンに入選していることがわかりました。風景画家として一定の評価を得ていたのです。

 1871年には、画商ポール・デュラン・リュエル(Paul Durand-Ruel, 1831 – 1922)が絵を2点購入してくれるほど、評価が高まっていました(※ 『ピサロ/シスレー/スーラ』年表、集英社、1973年)。

 モネとともに美術館を回り、イギリス風景画を研究していたのもこの頃でした。

 1872年にピサロは、パリ近郊のポントワーズ(Pontoise)に定住しました。ポントワーズにはオワーズ川が流れ、美しい田園風景が広がっています。ドービニー、セザンヌ、ゴッホ、カイユボットなどの画家たちが好んで住むようになり、印象派の拠点になっていました。ピサロにとってよほど居心地が良かったのでしょう、その後、17年間もここに住み続けました。

 ピサロはここに転居してからというもの、セザンヌ(Paul Cézanne, 1939-1906)と共に、頻繁に風景画を描いています。

 彼らが当時、同じ場所で描いたポントワーズの風景画があります。ご紹介しておきましょう。

●カミーユ・ピサロ(Camille Pissarro)制作、《Orchard with Flowering Trees, Spring, Pontoise》、1877年

 爽やかで心地よい、春の風景が捉えられています。

(油彩、カンヴァス、65.5×81㎝、1877年、オルセー美術館所蔵)

 巨木を中心に画面が左右に分割されています。太くて黒い幹は高くそびえ、その両側からは多くの枝が伸び、それらの枝先には無数の白い花が咲いています。やや引いて見ると、まるで巨木の先端を頂点とする三角形のように見えます。

 上に伸びる枝、下に垂れる枝、手前に張り出した枝、それぞれの枝先には白い花が咲き、さまざまな曲線を創り出しています。

 一方、木々の背後に建ち並ぶ建物からは、さまざまな直線が印象づけられます。三角の先端部、四角い窓、台形の屋根など、いずれもくっきりと描かれ、画面に起伏を生み出しています。

 直線や斜線、曲線を活かした見事な構図です。おかげで、開花期の瑞々しさや爽快感がリズミカルに捉えられています。

 見上げれば、青い台形の屋根、濃紺の先端部、オレンジ色の窓枠、白い壁などがそれぞれ、小さいながらも存在を主張し、曇った空を背景にはっきりと刻み込まれています。視線を落とすと、辺り一面、白い花が目を射るように乱舞しています。

 白い花々や建物の白壁、そして、空を覆う白い雲が、前景、中景、遠景に分散して配置され、画面に統一感と爽やかさがもたらされています。白を基調に、オレンジや青を差し色にして画面構成されています。

 興味深いのは、白い花に形の大小、色の強弱をつける一方、さまざまな筆触によって、画面に動きを生み出し、風のそよぎを感じさせていることでした。春の訪れと爽やかな息吹が加味されています。

 巧みな構図と色遣いで春の訪れが繊細に、そして、リズミカルに描かれていました。

 一方、色彩の力で精彩を放っているのが、セザンヌの作品です。

●ポール・セザンヌ(Paul Cézanne)制作、《Le Jardin de Maubuisson, Pontoise》1877年

 ピサロと同じ時、同じ場所で描かれた作品です。セザンヌは、はっきりとした色彩で、やや荒っぽく、ポントワーズの風景を捉えています。

(油彩、カンヴァス、50×61㎝、1877年、個人蔵)

 ピサロと違って、手前の木々はまばらで細く、小さく、存在感がありません。木々の背後にみえる建物は、細部までしっかりと描かれているわけではありませんが、色彩に精彩があります。モチーフの捉え方はおおざっぱで、何をメインに描こうとしているのかは曖昧ですが、鮮やかな色彩とその荒っぽい筆触が印象的です。

 このように、同じポントワーズの風景を描いても、ピサロとセザンヌには大きな違いがありました。

 両者を比較すると、建物はほぼ同じでしたが、手前の木々が大きく異なっていました。ピサロは画面真ん中に巨木を配置し、その木をメインに、周辺に枝や花々を散らし、三角形を構成するような構図でした。おかげで画面に安定感と瑞々しい華やぎがもたらされていました。

 一方、セザンヌの方は、木々が貧弱で、しかも、畑の草と木の葉に色彩の区別がありません。建物はやや丁寧に描かれていますが、その下の畑や木々の描き方が雑なのです。中ほどの木に白いものがいくつか見えますが、ひょっとしたら、白い花なのでしょうか・・・?

 比較してみると、セザンヌは見たものから受ける印象に従って、思いつくまま、自由に描いているように見えます。そのせいか、画面はまだ制作途中、あるいは、習作のように見えます。

 その結果、ピサロの作品で捉えられていた繊細さや春の華やぎは、セザンヌの作品にはなく、色彩と筆触による力強さばかりが強く印象づけられます。

 ピサロはおそらく、見たままの風景をできるだけ写実的に捉えようとしながらも、メリハリのある構図を創り出すために多少、修正していたのかもしれません。同じ場所で描いた両者の作品を見比べてみて、改めて、風景の捉え方の個性が感じられます。

 おそらく、この違いの中にピサロの作品の本質の一つが示されているのでしょう。

■評論家からの批評

 1880年頃、ピサロは自分の作品に満足できず、悩んでいました。というのも、美術評論家でありコレクターでもあったシャルル・エフルッシ(Charles Ephrussi, 1849 – 1905)からの批評を気にしていたからでした。

 エフルッシは1880年、「ピサロ(の絵)は鮮やかな色で堅苦しく描く。彼の描法によると春や花も陰鬱になり、空気は重くなる・・・」と評していました。それを知ったカミーユ・ピサロはすっかり自信をなくしていたのです。(※ 黒田光彦「作家論:ピサロ/シスレー/スーラ」、『現代世界美術全集20』、p.87. 集英社、1973年)

 エフルッシは果たして、ピサロのどの作品について、上記のように批評していたのでしょう。

 気になって、調べてみました。

 1880年に批評したことがわかったということは、それ以前の作品を見て、そのような評価を下したことになります。そこで、1880年以前の作品の中から、春、あるいは花を画題にして描いた作品を探してみました。

 すると、《果樹園》(Orchard in Bloom, Louveciennes, 1872年)というタイトルの作品を見つけることができました。

 果たして、エフルッシの批評は納得できるものだったのでしょうか。この作品を見てみることにしましょう。

●カミーユ・ピサロ(Camille Pissarro)制作、《果樹園》(Orchard in Bloom, Louveciennes, 1872年)

 果樹の花が一斉に開き、華やいだ春のひとときを捉えた光景です。

(油彩、カンヴァス、45.1×54.9㎝、1872年、National Gallery of Art所蔵)

 青空には真っ白の雲が浮かび、その下に枝いっぱいに白い花をつけた木が、正面に描かれています。よく見ると、画面奥の方まで、木々が立ち並んでいます。春というよりは初夏の気配が感じられます。これらの花はやがて実となって、人々を楽しませてくれるのでしょう。

 華やかな季節のはずなのに、どういうわけか、画面全体がくすみ、どんよりとしています。

 地面には木の影が濃く刻み付けられており、陽射しの強さが示されています。まばゆいばかりの光が辺り一面、降り注いでいるはずですが、画面から煌めきは伝わってきません。むしろ、乾いた土、生気のない花や木々の方が強く印象づけられます。

 果樹の下で作業をしている男性と女性の姿が小さく描かれていますが、ハイライトを差して、人物を際立たせることはされていません。そのせいか、彼らの姿に開花期を迎えた喜びは感じられず、労苦ばかりが強く印象づけられました。弾むような春の息吹を、画面から感じることはできませんでした。

 これでは、エフルッシが「春や花も陰鬱になり、空気は重くなる・・・」と評したのも無理はないと思ってしまいます。

 この作品は、カミーユ・ピサロが、1874年に開催された第1回印象派展に出品した風景画5点のうちの一つでした。この作品は、注目され、他の印象派の作品と比較される場に展示されていたのです。

 同じ時期に描かれた風景画をもう一つ、見てみることにしましょう。

●カミーユ・ピサロ(Camille Pissarro)制作、《白い霜》(Gelée blanche, 1873年)

 田畑なのでしょうか、原っぱなのでしょうか、全体が群青色の縞模様で覆われています。一体、この縞模様は何なのかと気になってしまいます。なんとも奇妙な光景です。

 タイトルを見ると、《白い霜》です。この縞模様に見えるものによって、おそらく、一面に白い霜が張った様子が表現されているのでしょう。

(油彩、カンヴァス、65.5×93.2㎝、1873年、Musée d’Orsay所蔵)

 タイトルを見て、それから、画面の手前右下に所々、白い小さな塊が描かれているのを見て、ようやく、霜が張った状態が描かれているのだということがわかります。

 右側だけで十分、わかるのに、左半分にも均等に縞模様が描かれています。ピサロは律義にも、ほぼ同じ間隔で、似たようなラインを野原全体に引いているのです。その結果、リアリティが損なわれ、奇妙な絵になっていまいました。

 左半分の縞模様はもっと薄くして目立たなくするか、いっそのこと白を淡く載せるだけでよかったのではないかという気がします。

 興味深いのは、傾斜のある小道を農夫が柴を背負って歩いている姿が、画面半ばに描かれていることです。おそらくストーブの燃料にするのでしょう。この人物を配することによって、画面が引き締まり、ストーリー性のある構図になっています。

 もし、タイトル通り、白い霜が張っているように描かれていれば、この人物を画面半ばに配したことの効果が画面に表れ、趣き深い作品になっていたことでしょう。 

 先ほど見た《果樹園》といい、この《白い霜》といい、せっかく季節の特徴を捉えた画題を扱いながら、表現すべきところが表現されておらず、省略すべきところが省略されていないため、画面に精彩がなくなってしまっていることがわかります。

 改めて、エフルッシの言葉が思い出されます。

 彼は、「ピサロ(の絵)は鮮やかな色で堅苦しく描く」と評していました。当時のピサロの作品を見たところ、確かに批評通りでした。

 《果樹園》では鮮やかな白色を乱舞させながら、輝きを生み出すことができず、《白い霜》では明るく鮮やかな色を使いながら、意味不明の縞模様によって、画面を硬直させているだけでした。

 おそらく、ハイライトを置いて画面に精彩を加えることをせず、また、観客の想像に任せればいい箇所まで、律義に描いてしまっていたからでしょう。その結果、画面が堅苦しく硬直し、観客が興趣を感じる余地が削がれていました。

 それでは、カミーユ・ピサロ自身、エフルッシの批評をどのように受け止めていたのでしょうか。

■個展開催を控えたピサロの不安

 ピサロは画家には珍しく、頻繁に、友人や息子に宛てて手紙を書いていました。手紙を書くことによって、創作につきものの不安や不満を発散し、気持ちの立て直しを図っていたのでしょう。作品批評については特に敏感に反応していました。

 息子に宛てた手紙をご紹介しましょう。

 1883年5月、モネやルノワールに続き、カミーユ・ピサロの個展の開催が予定されていました。画商ポール・デュラン・リュエル(Paul Durand-Ruel, 1831 – 1922)が企画したピサロにとって初めての個展でした。

 個展開催を控え、不安に駆られたカミーユ・ピサロは、息子のリュシアン(Lucien Pissarro, 1863- 1944)に、次ぎのような手紙を書き送っていました。

 「私の作品は、このような輝きのある作品の後では、もの悲しい、大人しい、光沢のないものに見えるだろう」(※ 前掲)

 特異な画風や画題で話題を呼んでいたモネやルノワールに比べ、カミーユ・ピサロは自身の作品が地味で精彩がなく、話題性に乏しいと思い込んでいました。彼らと比較されると、個展の成功が危ぶまれると不安を覚えていたのです。

 この文面からは、先ほどご紹介したエフルッシからの批評がまだ尾を引いており、ピサロの創作意欲に影響を与えていたことがわかります。

 確かに、彼の作品は、モネやルノワールに比べればはるかに話題性に乏しく、地味でした。画風に目新しさがなく、かといって、独自性があるわけでもありませんでした。

 当時、モネは43歳、ルノワールは42歳、そして、ピサロは53歳でした。10歳も若い彼らに、ピサロは気後れするような気持ち、言い換えれば、劣等感のようなものを抱いていたのです。ひょっとしたら、それは、自身の画風を確立するのが遅かったことと関係していたのかもしれません。

■ピサロが気にしたモネとルノワール

 たとえば、モネ(Claude Monet, 1840年11月14日-1926年12月5日)は30代半ばで画風を確立していましたし、ルノワール(Pierre-Auguste Renoir, 1841年2月25日-1919年12月3日)も30代後半には独自の画風を確立していました。画題にしろ、画風にしろ、両者には若いころから確固たるものがあったのです。

 それでは、モネやルノワールが、どのような作品を描いていたのかを見てみることにしましょう。

 同世代のモネとルノワールは20代後半の頃、何度か一緒に郊外に出かけ、イーゼルを並べて絵を描いていたことがありました。

 探して見ると、1869年にパリ郊外のセーヌ河畔の行楽地、「ラ・グルヌイエール」(La Grenouillère)で描いた作品が見つかりました。モネが29歳、ルノワールが28歳の時の作品です。

 ブージヴァル(Bougival)はセーヌ川岸にあり、19世紀後半、印象派の画家たちが集って絵画を語り合い、絵を制作していた行楽地でした。そのセーヌ河畔の行楽地に、水上カフェのある水浴場「ラ・グルヌイエール」(La Grenouillère)があります。

 1869年の夏、モネとルノワールはそこでイーゼルを並べ、絵を描いたといわれています(※ 『印象派美術館』、小学館、2004年)。

 両者の作品を見比べてみることにしましょう。

●クロード・モネ(Claude Monet)制作、《ラ・グルヌイエール》(La Grenouillère)、1869年制作

 まず、モネ(Claude Monet, 1840-1926)の作品から見てみることにしましょう。

(油彩、カンヴァス、66×86㎝、1869年、ストックホルム国立美術館所蔵)

 画面を見た途端に印象づけられるのは、手前から画面中ほどまで描かれている川面です。さざ波を立ててゆったりと揺らぐ様子が、深く、陰影のある色合いで描かれています。左から右にかけての水面の動きには、穏やかで深淵な自然の息遣いが感じられます。

 向こう岸に立ち並ぶ木々は、褐色に近い淡い緑色で描かれています。荒っぽく言えば、濃い緑色で描かれた水面とは補色関係になっているのです。

 ボートが何艘か浮かんでいますが、いずれも舳先を円形の出島に向け、ほぼ同心円上に停泊しています。岸辺からの細い橋、水上カフェからの橋とも連結しており、この円形の出島がこの絵のメインモチーフに位置づけられています。

 淡い色で描かれた遠景の木々、手前左上から垂れ下がる暗緑色の枝、そして、濃淡に所々、補色の橙色を散らした水面によって、陽光が煌めく行楽地のひとときが見事に捉えられています。モチーフの配置といい、色彩バランスといい、味わい深い作品に仕上がっています。

 考え抜かれた構図の下、行楽地で楽しむ人々が俯瞰で捉えられています。人と自然が悦楽の中で調和するよう描かれているのです。

 一方、ルノワールは人物に力点を置いて、同じ場所を描いていました。

●ルノワール(Pierre-Auguste Renoir)制作、《ラ・グルヌイエール》(La Grenouillère)、1869年

 この作品で、まず、観客の目が行くのは、円形の出島でしょう。そこに着飾った男女が大きな木の下で所狭しとばかりに集っており、華やかな賑わいが画面から立ち上っています。

(油彩、カンヴァス、99.7×74.5㎝、1869年、メトロポリタン美術館所蔵)

 左側には白い帆をつけたヨットが浮かび、右上にはボートに乗った人々がこのリゾート地を楽しんでいる様子が描かれています。泳いでいる人もいれば、談笑している人もいて、さまざまな愉楽、悦楽の様相がスケッチされており、画面に賑わいをもたらしています。

 よく見ると、左手前のボート、女性のドレス、水上カフェの庇や柱、遠景の木々などに、わずかにオレンジ色が差し色として添えられています。全般に淡く明るい色で構成された画面に、この差し色を添えることによって、華やかな画面の中に穏やかさと暖かさがもたらされていたのです。

 同じ場所でイーゼルを並べ、同じ対象を描いているのに、モネとルノワールの作品には明らかな違いが見られました。

 どのモチーフに力点を置くのか、構図をどうするか、色彩のバランスをどうするか、差し色をどの程度使うのか、等々、それぞれの作品を比較すると、画家としての個性がはっきりと画面に反映されていました。

 《ラ・グルヌイエール》は、モネにとっても、ルノワールにとっても、まだ画風を確立する前の作品です。それでも画面のそこかしこに、後年の画風を読み取ることができます。20代後半の作品ですでに、それぞれの個性が確立され始めていたことがわかります。

 これらの作品を取り上げ、紹介している動画がありましたので、ご紹介しましょう。

こちら → https://youtu.be/2iSmHoV__qw

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 ラ・グルヌイエールはミドルクラスを対象としたパリ郊外のリゾート地でした。当時、人々は休日になるとここに来て、ボートを漕いだり、カフェで会話を楽しんだりしていました。

 モネとルノワールは共に、ブルジョワジーの生活を描いた作品に関心を抱いていましたから、このリゾート地は、恰好の画題だったのです。ここで彼らが共に、印象派のスタイルでブルジョワジーの生活の一端を捉えた作品を制作したのは当然の成り行きでした。

 さて、動画では、ボートや木々、人々の描き方について、両者の違いが指摘されていました。改めて、画家としての資質、個性の違いが感じられます。

 私はモネの作品には、考え抜かれた色遣いが秀逸だと思いました。まず、川面の動きが光と影の下、深みのある色でくっきりと描かれているのに惹かれました。さらに、手前の水面を際立たせるように、遠景の水面や背景の木々が黄褐色を交えた色で表現されていることに興味深く感じました。

 ボートの側面や波の合間に散らされたオレンジの差し色も効いています。多様な色を使いながら、補色関係を踏まえ、画面全体の色彩バランスが図られており、素晴らしいと思いました。

 一方、ルノワールの作品は、パステル調の色遣いがすでにこの頃から際立っていたのが印象的です。

 いずれも、彼らがまだ若く、夢を追っていた頃の作品です。興味深いのは、動画の中でプレゼンテーターが、彼らが金銭的成功を収めるのは、この数年後だと言っていたことでした。実際、その後、彼らの作品は多くの人々に受け入れられ、成功しています。

 モネとルノワールの作品を見ると、いずれも、すでにこのころから、ブルジョワジーを魅了する要素を秘めていたことがわかります。

■市民の意向が反映される美術市場

 思い返すのは、カミーユ・ピサロは息子宛ての手紙の中で、モネやルノワールの個展の後では、自分の作品が見劣りするのではないかと書き記し、深刻に悩んでいたことでした。

 ピサロが息子に手紙を出した頃、モネやルノワールはすでに多数の観客の注目を集める画家になっていたのでしょう。

 そこで、調べてみると、クロード・モネの個展が1883年2月に開催されていました。場所は画商デュラン・リュエルが新しくマドレーヌ通りで開いた画廊でした。そこで、初期から最近作までの56点が展示されました。

 展覧会についてはピサロなどの批評は好意的でしたが、作品の売れ行きは悪かったようです。評判に反し、売れ行きが悪いので、モネはデュラン・リュエルに対し、展示方法や作品の選択、宣伝方法について激しく非難したそうです。(※ http://philatelic-art.com/Impression/Monet/nenpu_mo.htm

 美術市場が広がり、上流階級だけではなく、市民階級までも顧客となり始めた時代でした。たとえ批評家や画家たちから作品が高く評価されたとしても、作品の売れ行きがいいとはいえなくなっていたのです。

 もちろん、作品の売れ行きが悪くては、画家や画商にとって個展が成功したとはいえません。モネがデュラン・リュエルに対し、出品作品の選択、展示方法、宣伝方法などについて文句をいったのは、画廊側に売る為の戦略が欠けているように思えたからでしょう。

 その後、1か月を経て、1883年4月に開催されたのが、ルノワールの個展でした。この時もモネと同様、デュラン・リュエルが新しくマドレーヌ通りに開いた画廊で開催されました。初期作品から最新作まで約70点が展示されました。

 ルノワールは1878年から1881年まで毎年、立て続けにサロンに入選していました。当時、サロンに入選することは一般大衆にとって、その作品の評価を保証するものでした。購入意欲に大きく影響していたのです。

 ピサロは当時、アマチュア画家のウジェーヌ・ミュレへの手紙の中で、「ルノワールはサロンで大成功をおさめた」と記し、「貧乏はとても辛いですから」と書き添えています。(※ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AB%EF%BC%9D%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%AE%E3%83%A5%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%8E%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AB

 このことからも、サロンで入選すれば、売れ行きの保証になっていたことがわかります。立て続けにサロンに入選したルノワールは、マルセル・プルーストからも激賞され、以後、肖像画の注文が大幅に増えていきました。

 そして、1883年5月に同画廊で開催予定だったのが、ピサロの個展でした。

 ピサロがこの時期、思い悩んでいたのも無理はありませんでした。サロン入選者であり、著名作家からも激賞され、しかも、ブルジョワジーの嗜好に合う作品を描いていたルノワールの個展直後の開催だったのですから・・・。

 当時、新興ブルジョワジーの台頭とともに、美術市場に変化が訪れており、売る為の戦略が必要になりつつあったのです。

 デュラン・リュエルが買い上げた画家のトップはルノアールで1500点、次いでモネ1000点、そして、ピサロ800点、シスレー400点の順でした。新しく開いた画廊で彼らの個展を所蔵数の順に開催したのは当然でした。画家たちのお披露目を兼ねていたのです。ちなみに、シスレーはピサロの後、同年6月に個展を開催しています。

 パリで新しく開いた画廊で、デュラン・リュエルは印象派の画家たちの個展を立て続けに開催しました。作品の売れ行きなどから、彼はおそらく、新しい時代の動きを察知したのでしょう。その後、美術市場の開拓のため、アメリカでの印象派展を企画しました。

 1886年4月から5月にかけて彼はニューヨークで印象派展を開催し、大成功を収めました。パリ・モンマルトルに集っていた画家たちが創始した新しい芸術運動を、画商デュラン・リュエルが世界に認知されるきっかけを作ったのです。

 美術市場を取り巻く一連の動きの中で、ピサロはどのような思いでいたのでしょうか。

■ピサロはなぜ、ラニー派に参加したのか。

 ピサロは初めての個展開催を控え、1880年のエフルッシの批評を気にしていました。確かに、第1回印象派展に出品された、1872年の作品を見ると、その批評は決して的外れなものではありませんでした。指摘されるような要素は確かにあったのです。

 ただ、その後、ピサロの画風は大幅に改善されています。

 たとえば、1877年にセザンヌと共に、同じ場所で描いた風景画では、画面に鮮やかさが生み出され、ぎこちなさが消えて、優雅な華やぎさえも醸し出されていました。ピサロがエフルッシの批評を気にしていたからこそ、その後、画風を変えたのでしょう。

 ただ、根幹部分は変わっていないように見えます。

 彼の作品をいくつか見てくると、絵としてまとまっていますが、大胆さに欠け、写実の基盤から大きく逸脱することが出来ないように思えるのです。とくに、色遣いや色構成が平板に見えます。そのせいか、構図の取り方は巧みなのですが、それが観客に対する訴求力に活かされておらず、魅力に乏しいのです。

 そのような絵の特質がおそらく、ピサロの自信のなさ、焦りに繋がっていたのではないかと思います。

 折しも、新興ブルジョワジーの台頭とともに、顧客の意向や嗜好が絵の売れ行きを左右し始めていました。

 親しくしていたモネ、ルノワール、セザンヌなどが特徴のある画風で注目を集めていたのに対し、ピサロの画風は地味でした。しかも、彼自身、まだ確固たる信念の下、納得できる画風を築き上げることができていませんでした。

 そんな頃、ピサロは息子リュシアン・ピサロを通して、ラニー派を知りました。当時、ピサロが置かれていた状況を考えれば、印象派として知られていた彼が突如、若い世代のグループに参加したのも、当然のことのように思えてきます。

 スーラに会って話を聞き、彼が提唱した「点描」画法に、ピサロは引き込まれました。それは、印象派が辿り着いた「筆触分割」画法をさらに徹底させ、光学理論を取り入れた、画期的な科学的画法でした。

 すでに50半ばを過ぎていたピサロは、若い仲間とともに点描画法にのめり込んでいきました。

 その背景には、画家としての不安や焦りばかりではなく、必要であれば、新しいものを積極的に取り込んでいこうとする進取の気性が介在していたと思います。時代が大きく変わろうとしていた時期でした。(2022/3/23 香取淳子)

マクシミリアン・リュス ④ラニー派と呼ばれた頃

 カロリュス・デュランなど著名な画家の下で学ぶ一方、同輩との交流を通して、リュスは美術界の新しい潮流に触れていきました。ラニー=シュル=マルヌで生まれ、育ったゴーソンとの出会いは新しい潮流に乗るきっかけを作ってくれました。今回はラニー派と呼ばれた頃のリュスとその仲間たちの初期作品を見ていきたいと思います。

■ラニー=シュル=マルヌで生まれ、育ったゴーソン

 1876年頃、木版画家フロマンの仕事場でリュスは、風景画家レオ・ゴーソン(Léo Gausson, 1860-1944)や、エミール・ギュスターヴ・カヴァッロ・ペドゥッツィ(Émile-Gustave Cavallo-Péduzzi, 1851-1917)と出会います。彼らはやがて、親しく交流するようになりました。

 知り合った時、リュスが18歳、ゴーソンが16歳、ペドゥッツィが25歳でした。画家を目指す若者たちはたちまち意気投合し、折に触れ、絵画について語り合うようになっていきます。

 当時、ゴーソンはパリ郊外のラニー=シュル=マルヌに住んでいました。パリ中心部から26.1km離れた東部マルヌ県に位置し、マルヌ川が静かに流れているところです。彼はここで生まれ育ちました。

こちら → https://hrvwiki.net/Wikipedia_L%C3%A9o_Gausson

 ゴーソンのキャリアを見ると、まず国立装飾芸術学校の夜間教室に通い、彫刻を学んでいます。ところが、リュスと出会った頃にはすでに絵画に転向し、風景画を描くようになっていました。

 スペイン出身の地元の画家Antonio Cortes (1827-1908)から、バルビゾン派について聞いていたといいますから、彼が風景画を描くようになっていたのは、その影響を受けていたからかもしれません。

 バルビゾン派とは、フォンテンブローの森を中心に集まって制作していた画家たちの総称です。彼らは1830年代から1870年代にかけてフランスで活動し、自然主義的な観点から風景画を写実的に描くのが特徴でした。

 それまでは背景としか見なされてこなかった風景を、彼らはメインモチーフとして取り上げ、ありのままに描きました。そのような制作姿勢が当時、台頭してきた市民階級の共感を呼びました。バルビゾン派の登場に伴い、美術市場では風景画への需要が高まっていきました。

 ゴーソンが彫刻から風景画家に転向したのは当然のことだったのかもしれません。

 生まれ故郷であるラニー=シュル=マルヌにはマルヌ川が流れ、周辺には緑豊かな田園風景が広がっていました。画家たちが景色を鑑賞し、題材を探すには恰好の土地だったのです。

 当時はおそらく、人々の気持ちをほっと落ち着かせ、和ませる光景がいたるところに見られたのでしょう。現在も景観を保つために行政が枯れ葉の処理をし、それを腐葉土として再利用して緑の保護に取り組んでいます。

こちら → https://www.lagny-sur-marne.fr/cadre-de-vie/environnement/ville-verte/

 リュスは一時期、この地を訪れ、ゴードンやペドゥッツィらと共に過ごしたことがありました。

 リュスが最初に滞在したのは1876年ですが、その後も頻繁に、ラニー=シュル=マルヌを訪れていたようです。兵役から戻ってきてからは、1885年の夏と1887年の夏、ゴーソンに会いに来ています。

 1885年といえば、この時期、ゴーソンは自身の絵画に新たに科学的な技法を導入しようと考えており、その思いをしたためた長い手紙をエミール・ゾラに書いていました。

こちら → https://lagny-sur-marne.wiki/lsm/L%C3%A9o_Gausson

 一方のペドゥッツィは、1884年に初開催されたアンデパンダン展に出品した後、数年間は毎年、展覧会に出品しています。(※
https://lagny-sur-marne.wiki/lsm/%C3%89mile-Gustave_Cavallo-P%C3%A9duzzi )

 こうしてみると、ゴーソン、ペドゥッツィはいずれもこの時期、意欲に燃えて、新た強い画法に取り組もうとしていたことがわかります。

 そこにリュスが加わり、3人はともに周囲を散策してはモチーフとなるスポットを渉猟し、時には共通の関心事である風景画について語り合い、また、時には、新しい画法を議論して過ごしていました。

 1885年、彼ら3人にルシアン・ピサロ(Lucien Pissarro, 1863 – 1944)が加わり、4人はラニー派を結成しました(※ https://lagny-sur-marne.wiki/lsm/Groupe_de_Lagny)。

 ラニーの景色を題材に絵を描きながら、折に触れて、スーラ―が考案した新しい画法について議論し、その画法を試行していたのです。

 当時、彼らはどのような絵を描いていたのでしょうか。

 調べてみると、1885年に描かれたリュスとゴーソンの作品を見つけることができました。彼らがラニー=シュル=マルヌのどこに着目して制作したのかがわかります。それぞれ、見ていくことにしましょう。

●リュス制作、《ラニー周辺の風景》(1885年頃)

 のどかな田園風景が広がっています。リュスが1885年頃に描いた作品で、タイトルは《ラニー周辺の風景》です。

(油彩、カンヴァス、44×57.3㎝、1885年頃、ホテル・デュー美術館)

 手前に広がる草地に所々、黄色の花が咲いています。その上に穏やかな陽光が伸び、心和むような風景が広がっています。画面には右に大きな木、左側にはやや小さな木が立ち並び、画面全体のバランスがとてもよくレイアウトされています。

 草地の背後には赤褐色の屋根、白い壁の家が立ち並び、和やかに暮らす人々の生活を彷彿させます。家々の下には道路なのでしょうか、白い線が横に伸び、画面をバランスよく切り取っています。

 この作品に私は少し違和感を覚えてしまいましたが、それは、空が灰色がかった色で描かれていたからでした。

 大きな木、小さな木々に光が射し、草地にも明るい陽光が伸びています。これだけの太陽の光が射しているなら、空の色がこれほど暗いはずはないと思ったのです。家々の屋根といわず、壁といわず、明るい光が射し込み、白く光っています。その下の小道も同様です。

 それなのに、なぜ、空がこれほどまでに暗いのでしょうか・・・。いまにも雨が降って来そうなほどどんよりとした色合いにせいで画面の整合性が失われています。

 リュス自身、後年になって、そのことに気づいたのではないかと思います。

 1887年に友人のジョルジュ・タルディフ(Georges Tardif)に宛てた手紙の中で、この空の色について不満を記しているのです。(※ “Maximilien Luce et Léo Gausson”, Silvana, 2019, p.17.)

 はじめてラニーを訪れて以来、リュスは何度も出かけてはラニー周辺を散策し、画題となる場所を探していました。おそらく、陽光の中で輝く風景を捉えたかったからでしょう。

 この作品の木々や草地、家々の描かれ方と、空の色に対するリュスの不満からは、当時、彼が陽光の恵みを感じさせる明るさを求めていたことが感じられます。

 一方、ラニーで生まれ育ったゴーソンは同時期、マルヌ川を捉えた風景を描いています。

●ゴーソン制作、《ラニー、マルヌ川の洗濯船》(1885年)

 リュスの《ラニー周辺の風景》と同時期に描かれた作品です。ゴーソンが取り上げたのは、マルヌ川の橋げた近くの洗濯船でした。

(油彩、カンヴァス、46×65㎝、1885年、ガティエンボネ美術館)

 マルヌ川の対岸から、橋桁近くの洗濯船が捉えられています。画面の大半は、波打つマルヌ川の川面で占められています。

 興味深いのは、手前の岸辺の草が黄褐色で明るく輝き、その輝きが川の中ほどで、煌めく川面に呼応していることでした。これによって、左手前から中ほど中央へと観客の視線が誘導されます。

 さらにその先の対岸には、家々が建ち並び、その屋根や壁もまた、射し込む光によってひときわ明るく輝いています。雑草が風にそよぐ岸辺からマルヌ川を経て対岸の建物へと、降り注ぐ陽光によって、画面に統一感が生み出されています。そのせいか、この作品には、陽光がもたらす恵みへの憧れが感じられます。

 ところが、空はどんよりとし、岸辺や川面、家々の屋根や壁に落ちる明るい陽射しに呼応していません。この作品でも、空の色が不釣り合いに暗く、画面の整合性を失わせています。

 画面の下半分を占めるモチーフが、さまざまな形で太陽光を巧みに取り入れて表現されているのに反し、その光を発しているはずの空がアンバランスに思えるほど暗いのです。

 先ほどご紹介したリュスの作品も、空の色はどんよりとして暗く、違和感がありました。同時期に描かれたゴーソンの作品も同じように暗いということからは、ひょっとしたら、ラニー=シュル=マルヌの空自体、実際にこのような色だった可能性が考えられます。

 さて、この作品のタイトルは《ラニー、マルヌ川の洗濯船》です。うっかりすると、見落としてしまいそうですが、タイトルからは、ゴーソンが描いていたのは、マルヌ川の橋桁近くの洗濯船だったと思われます。

 確かに、橋桁近くの川辺に何かが見えます。ひょっとしたら、これが洗濯船なのかもしれませんが、よく見ても、すぐにはわからないほど、対岸の風景の中に沈み込んでしまっています。

 目を凝らして画面を見ると、屋根付きの船が対岸に何艘か、停泊しているのがわかります。はたしてこれが洗濯船なのかどうか、よくわかりません。そこで、調べてみると、1923年以前とされるマルヌ川の洗濯船を撮影した写真が見つかりました。

 写真撮影されているぐらいですから、当時、地元の人々にとっては馴染みの光景であり、生活風景の一つだったのでしょう。ラニー生まれのゴーソンにとってはとりわけ、欠かせない画題だったのかもしれません。

 洗濯船について、さらに調べてみると、動画が見つかりました。これを見ることで具体的にこの船の機能がわかり、当時の人々の生活の一端を知ることができました。

こちら → https://youtu.be/fZU1SPdIqPc

 1969年に撮影された映像です。川に停泊させた船の中から、中高年女性たちが腰をかがめて、川の水でごしごしと力を込めて洗っているのです。数多くの衣類を際限なく洗濯する女性たちの姿を見ていると、非常に辛い仕事であることがわかります。

 このような写真や映像を見た上で、改めてゴーソンの作品を見ると、彼がなぜ、この画題を選んだのかがわかるような気がしてきました。空がどんよりと描かれているのも、決して不自然ではなく、彼女たちの気持ちが反映されたもののように思えてきます。

 ゴーソンの作品を一見すると、単なる風景画にしか見えませんが、タイトルにこだわって、画面を見直してみると、実は、美しい風景の中に、過酷な労働の現場が捉えられていることに気づきます。

 この作品からは、ゴーソンが科学的な画法だけではなく、社会的課題についても関心を抱いていることが示唆されています。

 同時期にラニー=シュル=マルヌを描いたペドゥッツィの作品を、見つけることができませんでした。1888年頃に当地で描かれたと思われる《Les lavandières》を見つけることができましたので、ご紹介することにしましょう。

●ペドゥッツィ制作、《Les lavandières》(1888年頃)

 タイトルの“lavandière”は、洗濯女という意味です。この作品に何故、こんなタイトルが付けられているのか、すぐにはわかりませんでした。

(油彩、」カンヴァス、45.8×38㎝、1888年頃、所蔵先不詳)

 この作品を見て、まず、印象に残るのは、真正面に見える白い建物です。手前右から小さな道が小川を超えて伸び、遥か遠くの白い建物にまで続いています。まるで観客を誘導していくかのように、この小道は小川や周囲の草むら、そして、傾斜地に建つ建物の前の塀のようなものまで、案内しながら見せてくれます。

 画面中ほどには、葉を落として幹だけになった木々が数本、高く聳え立っている様子が描かれています。これらの木々はのどかなこの景観を縦に区切るだけではなく、その奥行きと広がり、高さを感じさせる一方、大きく広がる空の存在に気づかせてくれます。

 改めて空を見ると、淡い水色、ピンク、クリーム色で色構成されているのが印象的です。画面半分ほどの面積を占める空の下、たなびく雲の合間から射し込む陽光が、辺り一面を柔らかく、暖かく包み込んでいます。

 点描画法と淡いパステル調の色遣いで描かれた画面はなんともいえず優しく、見る者を穏やかな気持ちにさせてくれます。

 一見、風景画にしか見えませんが、タイトルは「洗濯女」です。不思議に思い、画面をよく見ると、左前景に蛇行する小川の縁で女性が洗濯している様子が描かれています。

 点描画法で描かれているので、気づきにくいですが、手で洗濯ものを掴み、川の水で洗っている女性の様子がわかります。

 そういえば、ゴーソンもまた、洗濯をテーマに、《ラニー、マルヌ川の洗濯船》を描いていました。当時、洗濯がどれほど大変な仕事だったのか、ゴーソンやペドゥッツィの作品からは、洗濯が女性に課せられた大変な労働の一つだったことがわかります。

 風景画の中にさり気なく、洗濯する女性を描いたゴーソンやペドゥッツィの制作姿勢に、彼らの社会観や芸術観、絵画に求める社会性が透けて見えてきます。

 それにしても、なんとユニークで興趣のある構図なのでしょう。

 高く伸びた木々が創り出す縦の線、建物群が建つ坂の左に下がる斜めの線、それに呼応するように、長い雲が右に垂れさがった斜めの線、この二つの斜線は画面をはみだした外側で交差していそうです。細い小道は「く」の字状に折れ曲がり、手前から奥に流れる小川は緩く蛇行し、柔らかい曲線を創り出しています。

 縦線や斜線、曲線がモチーフを繋ぎ、画面に奥行きと広がり、動きと活力をもたらしています。そればかりではありません。点描法による描き方とパステル調の色遣いが、風景の中にさり気なくモチーフを配置した構図と見事にマッチして相乗効果を上げ、画面から爽やかで快い雰囲気が醸し出されているのです。

 ゴーソン、リュス、ペドゥッツィ、ルシアン・ピサロがラニー派を結成したのが1885年、それからわずか3年で、この作品が点描法で描かれているのが興味深く、ペドゥッツィがこれ以前にどのような作品を描いているのかが気になって、調べてみました。

 すると、1880年にラニーの光景を描いたと思われる《Les toits de chaume》というペドゥッツィの作品を見つけることができました。

●ペドゥッツィ制作、《Les toits de chaume》(1880年制作)

 “Les toits de chaume”は、「藁ぶき屋根」という意味です。この作品も《Les lavandières》と同様、風景の中に人物を配置した作品です。

(油彩、カンヴァス、83.5×61.3㎝、1880年、所蔵先不明)

 ペドゥッツィは1880年に母を亡くし、7月に結婚して11月にはラニーに引っ越しています。(※ https://fr.wikipedia.org/wiki/%C3%89mile-Gustave_Cavallo-P%C3%A9duzzi

 ラニーに転居した頃に描かれているので、この作品はおそらく、ラニーの風景を描いたものでしょう。日が落ちる前の陽光が画面左に並ぶ藁ぶき屋根に反射しています。正面奥に見える石造りの建物から続く小道を女性が荷車を押して、こちらに向かってきています。

 この女性はペドゥッツィ母親の追憶の姿なのでしょうか、それとも、結婚したばかりの妻なのでしょうか。描かれた女性は荷車を押して何かを運んでいます。《Les lavandières》と同様、女性が働く姿が、風景の中に溶け込むように描かれています。

 藁ぶき屋根の家、周辺の草むら、背後の木々など、この作品のモチーフのほとんどが暗褐色、暗緑色がで描かれています。そのため、画面が暗く、一見、モチーフを識別しがたいのですが、屋根の縁、小道の際など、要所要所に明るい色がハイライトとして配されているので、画面の暗さはむしろこの作品を深める効果をもたらしています。

 1880年に描かれたこの作品には点描画法の片鱗も見えません。むしろクールベのような写実主義の作品に見えますし、ピサロのような印象派の作品にも見えます。ペドゥッツィはこの時期、まだ画風を確立していなかったのでしょう。

 ただ、風景の中に働く女性を配置するという点、淡いパステル調の色調の中に雲がどんよりと垂れこめている空が描かれ、その空の面積が画面のほぼ半分ほどを占めているという点など、1888年に描かれた《Les lavandières》と1880年に描かれた《Les toits de chaume》には共通性があります。

 これがおそらく、ペドゥッツィが好む画題なのでしょうし、画風なのでしょう。

 《Les toits de chaume》は夕刻の光景が情緒豊かに描き出されています。右の木の奥から淡い陽光が水平に射し込み、藁ぶきの屋根の傾斜部分を照らしています。荷車を押しながら帰路に就く女性を添えることで、残照に照らし出された農村の一光景が輝いて見えます。

 この作品が描かれたのが1880年、ペドゥッツィが29歳の時の作品です。このころはまだ印象派風の画風でした。リュスと出会って4年経っていますが、まだ点描画法の欠片も見えません。ところが、1888年の作品は明らかに点描画法で描かれています。

 ラニー派といわれる彼らはいったい、いつ頃、点描画法を取り入れるようになったのでしょうか。

 ちょうど1885年頃、ゴーソンらのグループに、カミーユ・ピサロとリュシアン・ピサロの親子が参加しました。カミーユ・ピサロ(Camille Pissarro, 1830-1903)は当時、ラニー派の画家たちに、自身が惹きつけられているスーラの理論と画法を説いていたといいます。

 それにしても、印象派の画家として名を成していたカミーユ・ピサロがなぜ、ゴーソンらのグループに参加したのでしょうか。(2022/2/28 香取淳子)

マクシミリアン・リュス ③リュスは何故、デュランの画法に倣ったのか。

 前回書きましたように、リュスが描いた《オクタヴィアおばさんの肖像》(1880年)は、一見、デュランの《母の肖像》(1876年)と遜色のない、見事な出来栄えでした。ところが、どういうわけか物足りなさを感じさせられたのです。

 一体、何に引っかかりを覚えたのでしょうか。

 そこで、今回はまず、なぜ、私がリュスの作品に物足りなさを感じたのか、その理由を探ることから始めたいと思います。

■リュスの《オクタヴィアおばさんの肖像》(1880年)vs デュランの《母の肖像》(1876年)

 リュスの《オクタヴィアおばさんの肖像》の場合、まず、印象に残るのは、肌の艶の良さです。光と影を意識し、ハイライトを多用しているせいか、高齢者の肌にしては艶が良すぎるような気がします。

(油彩、カンヴァス、77.9×66.7㎝、1880年、ホテル・デュー美術館所蔵)

 確かに、加齢はしっかりと顔貌に刻み込まれています。額の皺、目の下のたるみ、そして、鼻の両側から口角の外側にほうれい線といった具合に、明暗を意識した色遣いで、老いの諸相が丁寧に捉えられています。

 正面を見据える目は、瞼を支える筋力が重力に負けて垂れ下がり、瞳の面積が小さくなっています。そして、向かって左側の目は充血しており、血管がもろくなった高齢者特有の現象が的確に描かれています。顔面のどこからも「老い」を見逃さず、見事なまでに表現されているところに、リュスの観察力の鋭さを感じさせられます。

 顔貌に現れた老いは逐一、捉えられ、光と影を意識して色表現されています。まるで実物を目の前にしているかのような錯覚に陥ってしまいます。写実的で、躍動感に溢れた描かれ方をしているせいでしょうか、老いてなお元気で暮らしている様子がうかがい知れます。

 一方、デュランの《母の肖像》の場合、額の皺やほうれい線など、老いの様相が細かく描かれているわけではありません。どちらかといえば、ラフなタッチと色遣いで顔貌の「老い」がさり気なく、表現されています。

(油彩、カンヴァス、サイズ不詳、1876年、オルセー美術館がサントクロワ美術館に寄託)

 光と影を意識して描かれていますが、ハイライトは鼻先に少し置かれている程度です。それだけに、全般に肌に艶がなく、萎んで見えます。脂っ気のない高齢者特有の肌が際立って見えるのです。

 萎んだ肌、くぼんだ眼窩から静かにこちらを見つめる視線、そして、歯の一部が欠けているのではないかと思えるような口元、それらが一体となって、老いと孤独、寂寥感を強く感じさせます。

 こうして見比べてみると、デュランの作品の方が、はるかに優れた表現力を感じさせます。両者とも光と影を意識して高齢者の顔貌を描いているのですが、ハイライトの置き方で、これだけの違いが出ているのです。

 一方は表面的な老いをきめ細かく描くにとどまり、他方は内面の老いを深く描くことができているように思えます。

 両作品に見られる大きな違いは、肌の艶でした。

 ハイライトを多用し、肌の艶を写実的に表現したリュスは、おそらく、そのせいで、内面の「老い」を描くことができませんでした。枯れる、萎びるといった要素を表すことができなかったからだと思います。

 肖像画では、明るく、きめ細かな肌、生き生きとした肌の艶、さらには、顔を引き立てるための衣装、等々が一般的です。デュランの肖像画のほとんどがそうでした。おそらく、その技法に倣って、リュスは《オクタヴィアおばさんの肖像》(1880年)を仕上げたのだと思います。

 一方、それまでの画風とは違って、デュランが写実的に仕上げたのが《母の肖像》でした。艶もなく、萎んで見える肌が、内面の老いを深く描き出していました。

 デュランの数多くの作品の中で、リュスが影響されたのは、この《母の肖像》だとされています。ところが、興味深いことに、この作品に刺激されて制作した《オクタヴィアおばさんの肖像》(1880年)は、デュランがこれまで肖像画で採用していた画法だったのです。

■明るく、きめ細かな肌、顔を引き立てる衣装

 デュランのさまざまな肖像画を見てくると、画力が秀でているばかりか、モデルの魅力を最大限に引き出す技術に長けているといわざるをえません。モデルから美しさ、品格、あるいは、威厳を引き出し、それを的確に表現する技能に卓越したものがあるのです。依頼者からはさぞかし喜ばれたことでしょう。

 果たして、デュランは何に留意して肖像画制作に臨んでいたのでしょうか。

 肖像画家として人気のあったデュランが心掛けていたのが、明るく、きめ細かな肌であり、モデルの顔を引き立てる衣装であり、構図でした。

 たとえば、《フェドー夫人の肖像》(Portrait de Madame Ernest Feydeau)という作品があります。デュランが1870年に制作された作品で、こちらは、いかにも肖像画といった趣があります。

 この作品にはデッサン、色味を確認するためのラフスケッチなどが残されています。デュランがどのように肖像画を仕上げていったのか、その過程を追うことができる資料が残されているのです。

■《フェドー夫人の肖像》、その制作過程を見る

●《フェドー夫人の肖像》(1870年)

 この作品は1870年に制作されました。当時、デュランは33歳で、肖像画家として人気が高まっていた頃の作品です。その2年前には画家クロワゼット(Pauline Marie Croizette:1839-1912)と結婚していました。

(油彩、カンヴァス、230×164㎝、1870年、リール美術館)

 黒地の背景の下、妖艶な女性がこちらを向いてかすかに微笑んでいます。毛皮で縁取られた銀色のドレスの光沢が目に鮮やかです。アクセントとして取り入れられたブルーの髪飾り、胸元のリボン、そしてドレスの下からのぞくブルーのペチコート・・・、それらすべてが、上品で華やかなフェドー夫人の美しさを強調しています。

 豪華なドレスの足元には黒の子犬が描かれています。どうやら黒チワワのようです。一般に、チワワは飼い主に忠実な性格をしているといわれていますが、まさにその通りの様子で夫人を見上げています。たくし上げられたドレスの裾から、ブルーのペチコートが露になって、黒い子犬の姿を引き立てています。

 子犬の頭、背中、床を踏む後ろ足は、斜めのラインでつながっており、光沢のあるドレスの斜め下に流れる皺のラインと呼応しています。画面上の流れを生み出し、子犬の視線が行き着くよう計算された構図が秀逸です。

 しかも、縦230㎝、横164㎝の巨大なサイズの作品です。大邸宅でなければ飾ることができませんし、描かれるモチーフもそれなりの重みが必要です。

 夫人の華やかな美しさ、豪華なドレス、優雅な佇まい・・・、それらが一体となって、この大画面に負けない魅力を放っていました。デュランが肖像画家として人気を博していた理由がわかるような気がします。

 調べていくと、この作品を仕上げるまで、デュランが念入りに準備をしていたことがわかりました。まず、デッサンから見ていくことにしましょう。

●デッサン

 克明に描かれたデッサンです。

 モチーフの形状も構図も完成作品とほぼ同じですが、異なる点がいくつかあります。

 まず、背景です。夫人がカーテンの前に立っている構図が採られています。カーテンにそっと手をかけ、顔と身体の隣に黒の空間を作っています。夫人の顔面やドレスを際立たせようとしたのでしょうが、カーテンの存在がはっきりしすぎていて、メインモチーフの豪華さを弱めています。

 次に異なるのが、夫人の体の向きです。デッサンでは、夫人の顔から足元に向けてのラインが比較的まっすぐになっています。とくに、上半身、腹部周りの量感がやや乏しく、権威を感じさせるだけのボリュームが足りません。

 このデッサンを見ていると、持ち上げたドレスの裾の毛皮のラインと、光沢のある布の皺のライン、子犬の背面から足へのラインが呼応するよう、最初から構想されていたことがわかります。

 完成作品とデッサンとを見比べてみると、これら一連の斜めのラインと夫人の顔の傾げ方とが連動しており、上品な仕草の中に見られるややコケティッシュな表情が浮き彫りにされていることがわかります。

●ラフスケッチ

 この作品のために、デュランは色彩をチェックするためのラフスケッチも描いていました。

 ここでは、光と影を意識した色彩構成が試行されています。完成作品と見比べてみると、最初から、髪飾り、胸元の花、ドレスの裾からのぞくペチコートを鮮やかな空色で統一しようとしていたことがわかります。

 肖像画全体の差し色として、ブルーを選んだのです。夫人のイメージに近いからか、全体を上品で落ち着いた雰囲気にしたかったからなのか、暖色ではなく、寒色を選んでいるのです。

 大きな面積を占めるドレスの色は、ブルーの補色である黒みがかったオレンジ色で試しています。一方、襟元、袖口、ドレスの裾を縁取る毛皮はその色に合わせ、焦げ茶色で統一されています。

 さらに、明るく見える箇所、光沢のある個所はアイボリーホワイトを置き、光と影を意識し、その効果を想像しながら、ラフに色構成がされています。

 結果として、ドレスの色は銀色になり、襟元、袖口、裾を縁取る毛皮は黒に変更されています。

 こうして見てくると、克明なデッサンを描き終え、構想を定着させた後もなお、デュランがさまざまに試行錯誤を重ねていることがわかります。一枚の肖像画を仕上げるために、かけた多大な努力に比例し、画面は華やかでありながら、品格のある仕上がりになっています。

 もちろん、デュランは家族の肖像もいくつか描いていますが、こちらも依頼された肖像画と同様、モデルは着飾って、ポーズを決めて画面に収まっていることに変わりはありません。

 ところが、《母の肖像》(1876年)はそれらの肖像画とは一線を画していました。デュランの肖像画に見受けられる新古典主義的要素が見当たらないのです。

 デュランの制作過程の一端を見てくると、どちらかと言えば、リュスの《オクタヴィアおばさん》(1880年)の方が、デュランの肖像画の画法を引き継いでいるように思えます。高齢者をモデルにしながらも、写実的に描かれたその肌艶に生の輝きが感じられるからでした。

■リュスはデュランから何を学んだのか。

 それでは、リュスはデュランから何を学んだのでしょうか。

 《フェドー夫人の肖像》(1870年)の制作過程を、色付けの側面から見ていくと、何故デュランがモチーフに生命を吹き込むことができたのかがわかるような気がします。

 光と影を意識して、モチーフの色構成を綿密に行い、色彩によって動きを生み出し、画面全体の調整を図っていました。だからこそ、二次元の平面画像に生き生きとした生命の輝きを持ち込むことができたのではないかと思います。

 こうしてモチーフに躍動感を与えることができているからこそ、上流階級から人気のある肖像画家になれたのではないかという気がするのです。デュランの手にかかると、二次元の世界に封じ込められたはずのモデルに、三次元の世界の躍動感がもたらされるのです。

 《オクタヴィアおばさん》(1880年)の肌艶の良さを思い返すと、リュスが、デュランの典型的な肖像画の画法を踏まえて描いていたことがわかります。リュスはおそらく、デュランの色遣いの技法を真似たのでしょう。

 ところが、デュランの画法を真似て、《オクタヴィアおばさん》を描きながらも、リュスはデュランの画法を好ましいとは思っていなかったと指摘されています。

(※ “Léo Gausson Maximilien Luce,Pionniers du néo-impressionnisme”, p.14. Silvana, 2019)

 リュス自身、この技法では表面的なリアルさしか捉えられないことに気づいたからかもしれません。

 もっとも、この作品を描くことはリュスにとって、当時、主流だったアカデミズムの教育を受けたのと同等の価値があったようです。

 アカデミー会員であったデュランの指導を受け、その画法を真似ることによって、リュスはしっかりとしたアカデミー教育を受けていることを示すことができました(※ 前掲 p.14. Silvana, 2019)。難しい国立美術学校に入学しなくても、デュランの下で学んだという経歴はそれと同等のキャリアとみなされるメリットがあったのです。

 当時、画家を志す者にとって、アカデミーは美術界の権威でした。

■アカデミーを席巻していた新古典主義

 フランス革命後、サロンにはアカデミーの会員以外も出品できるようになりました。ところが、その後、不適切な絵画が出品されるようになり、アカデミーの改革が行われた結果、審査制度が導入されました。審査員はもちろん、アカデミーの会員です。ドミニク・アングルが新古典主義の正統を受け継ぎ、それに対抗して、ジェリコーやドラクロアなどのロマン主義の潮流も生まれていました。

 市民階級の台頭とともに芸術の大衆化が進み、サロンはやがて、新興市民階級を対象とする作品展示場の様相を呈するようになっていきました。ナポレオン三世の統治下でパリの大改造が行われ、パリはヨーロッパ最先端の文化都市となりました。作品展示場としてのサロンの役割はさらに大きくなり、画家が作品を売るにはサロンでの成功が不可欠になっていったのです。

 ところが、その審査は新古典主義を規範とする保守的なアカデミズムに則って行われました。様々な画風の画家が登場し、美術市場が拡大していたにもかかわらず、審査基準は依然として新古典主義を規範としていたのです。

 マネやモネ、ルノワールといった画家たちが次々と落選し、サロンの審査基準は明らかに市場の動向と合わなくなっていました。バルビゾン派、バティニョール派、印象派などの画家たちが活躍しはじめており、サロンやアカデミーに代表される美術界の権威が失墜して行くのは目に見えていました。

 デュランは美術アカデミーの会員でした。1889年から1900年まで万国博覧会の審査員を務め、1890年には国民美術協会(Société nationale des beaux-arts)の設立に貢献しています。そして、1904年にはレジオンドヌール勲章を受勲し、ローマ賞を受賞していないのに、1905年から1913年までローマのアカデミー・フランスの校長を務めています。

(※ https://www.villamedici.it/en/directors/duran-carolus/

 スペインやイタリアの肖像画の伝統を学び、上流階級の肖像画を数多く手掛けながら、新古典主義の画風を確立していました。デュランはアカデミズムの体制に馴染み、サロンの審査基準そのものであり、当時のフランス美術界の権威の一つでした。

 確かに、デュランが描いた数々の肖像画には、スペインやイタリアの伝統的な肖像画の痕跡が見られます。その一方で、アカデミーの主流である新古典主義の要素も見受けられます。デュランはルネサンス以来の伝統を踏まえ、フランスのアカデミズムの真髄を把握した画家だったのです。

 1880年、アカデミーと美術行政との対立を機に、ついに国家主催のサロンが取り止めになりました。官製のサロンが閉鎖された年に、リュスは、《オクタヴィアおばさんの肖像》を描いています。

■《オクタヴィアおばさんの肖像》1879年作 vs 1880年作

《オクタヴィアおばさんの肖像》(1880年)について、色々調べていくうちに、この作品以外に、リュスはもう一つ、《オクタヴィアおばさんの肖像》を描いていました。描かれたのは1879年、この作品の1年前でした。

 リュスは1879年に《オクタヴィアおばさんの肖像》を描き、気に入らなかったのか、1880年に再び、同じタイトルで制作していたのです。両者のどこがどう違うのか、まずは1879年制作の作品から見ていくことにしましょう。

●もう一つの《オクタヴィアおばさんの肖像》(Portrait de la tante Octavie、1879)

 1879年頃、リュスはもう一つ、《オクタヴィアおばさんの肖像》という作品を描いていることがわかりました。リュスが描いたとは思えないほど、1880年に描かれた作品とは画風が異なっています。とても素朴で、どちらかといえば、稚拙に見えます。別人の作品ではないかと疑ってしまうほどですが、Wikimedia Commonsには、Maximilien Luce – Portrait de la tante Octavieと記されているので、リュスの作品だということは確認されており、保証されています。

(油彩、カンヴァス、サイズ不詳、1879年頃、所蔵先不詳)

 一見、写生風の作品です。

 暗い室内で、高齢女性が椅子に座り、絵のようなものを、身をかがめて覗き込んでいます。膝はひざ掛けで覆われ、近くの暖炉には火があり、テーブルにはポットとティーカップのようなものが置かれています。質素な暮らしぶりですが、寒さをしのげる暖かさはありそうです。粗いタッチのなかに、高齢女性の暮らしぶりが手に取るようにわかる作品です。

 ちょっと気になったのが、暖炉の描き方です。構造的な面に違和感があります。本当にリュスの作品かどうか、疑問に思ったのがこの箇所でした。

 もっとも、これはリュスが21歳の時の作品です。それまで木版画職人としての修業をし、画家になろうと決意してからまだ3年しか経っていません。描き方に稚拙な部分があっても当然といえば、当然でした。

 さて、1879年に描かれた作品は、肖像画というよりも、オクタヴィアおばさんの生活の一端を捉えた一種の風俗画です。

 この作品から推し量れるのが、当時のリュスの画風であり、画力だとするなら、自然主義、写実主義こそ、21歳のリュスが求めていたものだといえるでしょう。この作品からはデュランの影響の片鱗すら見ることはできません。

 当時、クールベ(Gustave Courbet, 1819-1877)、ドーミエ(Honoré-Victorin Daumier,1808-1879)など、日常生活を画題に写実的に描く画家が登場していました。描き方は稚拙ですが、リュスが1879年に描いた《オクタヴィアおばさんの肖像》は、この系統に属する作品のように思えます。

●デュランに影響された《オクタヴィアおばさんの肖像》(1880年)

 リュスが1880年に制作した《オクタヴィアおばさんの肖像》は、モデルが上半身で捉えられ、衣装と顔貌が写実的に描かれています。モデルは観客を正視するアングルで描かれており、まさに肖像画といえる作品でした。肖像画家として人気のあったデュランの《母の肖像》と遜色のない出来栄えだといえるでしょう。

 リュスはわずか1年間で、デュランが得意とする肖像画の骨法を習得していたのです。

 1880年に制作された《オクタヴィアおばさんの肖像》は、デュランの影響が歴然としていました。1979年に描かれた同じタイトルの作品とは大幅に異なっています。画法が異なっているのは当然として、モデルとの距離の取り方、明暗、レイアウト、背景、さらには、対象に対する観察力まで大きな違いが見られるのです。

 同じタイトルでありながら、まるで別々の画家が手掛けたように、異なっています。1880年の作品は、リュスが自分を抑え、デュランを模倣することに徹して、描いたことがわかります。

 そう考えると、1880年に制作された《オクタヴィアおばさんの肖像》の中にこそ、肖像画家デュランからリュスが学んだエッセンスが詰め込まれているはずです。

 果たして、それは何でしょうか。

 その一つはすでに、デュランの《母の肖像》との比較で考えてみました。それは、デュランが肖像画で駆使していた光と影を意識した色構成でした。ハイライトを多用し、生き生きとした肌艶を表現する技法を、リュスはデュランから学び取ったと思われます。

 それでは、1879年の作品との比較で何が見えてくるのでしょうか。調べていると、面白い記事が見つかりました。

 「カロリュス・デュランが対象とする上流階級の肖像画とは対照的に、リュスは労働者階級の肖像を好んだ」と書かれています。

(※ https://ago.ca/agoinsider/unconventional-impressionist

 そのような観点からみれば、リュスがデュランの画風を好まなかった理由がわかるような気がします。リュスの出自を考えれば、労働者階級の生活や人々を描きたいと思うのは当然でした。

 実際、リュスが1879年に描いた《オクタヴィアおばさんの肖像》では、顔貌だけを捉えるのではなく、質素な暮らしぶりまでも捉えられています。肖像画といいながら、リュスは顔貌や衣装だけではなく、その生活背景までも描こうとしていました。日々の営みによって人は生き、考え、感じ、暮らしているという信念に基づくものでしょう。

 リュスは労働者階級の息子として生まれ、モンパルナスで育ちました。1871年のパリコミューンを13歳の時に経験しています。リュスは、働かなければ食べていけない人々の側に立って、世界を観ていたのではないかという気がします。

 一方、デュランはもっぱら上流階級の人々に支持され、人気肖像画家として一世を風靡していました。ものの見方、対象の捉え方が違って当然でした。もちろん、デュランの新古典主義的な画風を好ましいと思っていなかったでしょう。

 それではなぜ、リュスはデュランの下で学んでいたのでしょうか。それについて図説では、次のような興味深い解説が寄せられていました。

 「デュランの教えには必ずしも満足していなかったが、国立美術学校に入学したのと同様の教育を受けることができ、自信をもって絵を描き進めることができた」(※ 前掲)と記されており、デュランの下で学んだことの対外的効果が説明されていたのです。

 アカデミーの会員であり、後に美術界の要職を歴任することになるデュランの下で学ぶことによって、リュスは、当時のフランス美術界の体制に沿って活動していくためのパスポートを得たのです。

 そもそもリュスは、木版画職人として生計を立てていこうとしていました。ところが、技術進化のせいで木版画職人に未来がないと判断し、画家に転向しました。それだけに、美術界の動向に敏感にならざるをえなかったのでしょう。

 リュスは画家への転身を決意すると、デュランのアトリエに入り、油彩画技法を学んでいました。ところが、デュランの下で学びながらも、リュスは必ずしも彼の画法を好んではいなかったそうです。

 図録では、その理由として、デュランがいかにもサロンの画家らしい形式的でオーソドックスな描き方をしていたからだと記されています(※ “Léo Gausson Maximilien Luce,Pionniers du néo-impressionnisme”, p.14. Silvana, 2019)。

 ところが、《オクタヴィアおばさんの肖像》(1880年)には、デュランの肖像画技法がしっかりと取り入れられていました。好んでいなかったとはいえ、デュランの技法をリュスは完璧にマスターしていたのです。当時のフランス美術界でのデュランの位置づけを振り返ると、リュスの行為は当然と言えば当然でした。(2022/1/31 香取淳子)

マクシミリアン・リュス ②カロリュス・デュランに学ぶ

■カロリュス・デュランの下で学ぶ

 リュスは木版画職人としての修業を終えると、木版工房で働きながら、画塾に通ったり、著名な画家のアトリエに出入りしたりし、独自に絵画を学んでいました。

 1876年になると、肖像画家カロリュス・デュラン(Carolus-Duran, 1837-1917)の下で学び始めます。当時、デュランは、パリの上流階級の人々を数多く描き、肖像画家として人気がありました。すでに数々の賞を受賞し、画家としても教育者としても評価されていました。1904年にはレジオンドヌール勲章を受勲するほどの大御所でした。

 そのデュランに師事し、リュスは油彩画の手ほどきを受けるようになります。きっかけとなったのはアカデミー・シュイスでした。そこで教えていたデュランと出会い、無給の学生として彼のアトリエに受け入れられることになったのです。(※ https://ago.ca/agoinsider/unconventional-impressionist

 デュランは若い頃、スペインに旅し、ベラスケス(Diego Rodríguez de Silva y Velázquez, 1599-1660)の作品から強く影響を受けたといわれています。

■ベラスケスの肖像画

 ベラスケスは17世紀のスペインを代表する画家です。国王フェリペ4世に気に入られ、宮廷画家として長年、国王や王女、宮廷の人々の肖像画を描いてきました。彼が、王女マルガリータ・テレーサを描いた一連の作品の一つに、《白い服の王女マルガリータ・テレーサの肖像(La infanta Margarita)》(1656年)があります。

(油彩、カンヴァス、105×88㎝、1656年、ウィーン美術史美術館)

 スペイン国王フェリペ4世の長女、マルガリータ・テレーサが5歳の時の肖像画です。ぷっと膨らんだ頬、緊張した口元、白く透き通るような肌、なんと愛くるしいのでしょう。やや不安げで、可憐な表情が生き生きと描き出されています。綺麗に梳かしつけられた金髪もまだ薄く、柔らかく、この時、マルガリータがわずか5歳でしかないことを思い起こさせてくれます。

 ところが、身に纏っているドレスには、銀糸で模様が刺繍された光沢のある布地が使われています。そして、首回り、襟、胸元、袖などには、金と黒の刺繍が施されており、人目を引きます。さらには、腰幅を広く見せるため、異様なほど大きなペチコーまで着用しています。

 まだ年端もいかない幼児なのに、成人女性と同じようなスタイルの衣装を着用しているのです。

 胸やラグランスリーブの端、袖口にはオレンジ色の花飾りが付けられています。おそらく、可愛らしさを演出するためでしょう。子供らしさを感じさせる要素はそれだけですが、この豪華な服を着せられたマルガリータは健気にも、姿勢正しくポーズを取っています。

 ひょっとしたら彼女はこの窮屈さを、王室に生まれた者の定めとして、我慢しなければならないものの一つとして、幼いながらも、受け入れていたのでしょうか。

 いま見れば、この衣装があまりにも豪華で、堅苦しく、儀式的なので、違和感を覚えてしまいますが、おそらく、これが当時のスペイン宮廷の様式だったのでしょう。

 王家の肖像画には、富みと権力を所有する者の証として、権威と威厳が備わっていなければなりませんでした。たとえ幼いマルガリータが対象だとしても、ベラスケスはそのための設定を避けることはできなかったのでしょう。

 ベラスケスが手掛けた肖像画には、権威、威厳、豪華、華麗、上品といった要素がふんだんに盛り込まれていました。写真技術がまだ発明されていなかった時代、肖像画こそが個人や家族のステイタスシンボルとして機能していたからでした。

 実際、肖像画は個人を確認する証明書としても、個人や家族の歴史を記録するアーカイブとしても有効でした。

 興味深いエピソードがあります。

 マルガリータが、神聖ローマ皇帝レオポルト1世と結婚する前のことです。それ以前から両者の婚姻は既定路線だったのですが、マルガリータが適齢期になると、スペイン宮廷はベラスケスに描かせた子供の頃の肖像画をいくつか、レオポルト1世に送ったそうです。遠路はるばる会いに行く危険を避けて、肖像画で代用したのです。(※ https://www.habsburger.net/en/chapter/leopold-i-marriage-and-family

 このエピソードからは、肖像画が、本人の確認あるいは、本人のアーカイブも兼ねて機能していたことがわかります。それだけに、肖像画に写実性は不可欠でした。

 ベラスケスはそのための油絵技法を長年にわたって錬磨し続けてきたのです。それを後世のマネやデュランが高く評価し、影響されました。

 それでは、ベラスケスの影響を受けたとされるデュランが、どのような肖像画を描いていたのか、見ていくことにしましょう。

■デュランの肖像画

 肖像画の中でも、「母と子」は重要な画題の一つでした。家族愛、家族の絆の象徴であり、上流階級にとっては、一族の繁栄を示すもの、あるいは、富の継承を示唆するものでもあったからです。デュランも、母と子の肖像画を描いています。

 たとえば、《母と子(フェドー夫人と子供たち)》(Mother and Children (Madame Feydeau and Her Children), という作品があります。

●《母と子(フェドー夫人と子供たち)》(1897年)

 この作品では、フェドー夫人とその子供たちが描かれています。当時、人気のあった劇作家、ジョルジュ・フェドー(Georges Feydeau, 1862-1921)の妻とその子供たちがモデルです。

(油彩、カンヴァス、190.5×127.8㎝、1897年、国立西洋美術館)

 二人の子供を抱きかかえたフェドー夫人が静かにこちらを見つめています。豪華な黒い衣装とネックレス、大きく開いた胸元に飾られた赤い花が彼女を引き立てています。華やかで上品、いかにも上流階級の女性といった面持ちです。

 膝に寄りかかって母を見上げている男の子は、白い襟飾りのついた黒の正装をしています。その横顔と白い襟以外は、母の黒いドレスに溶け込み、一体化しています。男の子の肩にそっと置かれた母の手に、慈愛が感じられます。

 一方、女の子は光沢のあるベージュ色の衣装を身につけています。襟元には同系色の凝った刺繍が施されており、なんとも豪華なドレスです。これも正装なのでしょう。左手に大きな淡い橙色のバラを持ち、右手を母の膝に置いて、寄りかかるように立っています。母の左手と女の子の右手が触れ合っており、二人の愛情が通い合っているのが感じられます。

 もっとも、女の子の表情はぎこちなく、やや不自然に見えます。この絵のためにポーズを取っているからでしょうか、緊張している様子が感じられます。この作品が日常的な光景を捉えたものではなく、輝かしい瞬間を記録に残そうとする意図の下に、描かれているからでしょう。

 確かに、この作品は家族の肖像画としては完璧でした。

 画面からはまず、家族の絆、愛が感じられます。そして、上品、安定、厳粛さのようなものも感じられます。依頼者が肖像画に求めたであろうものが、過不足なく盛り込まれているのです。

 母と子供たちの配置、色彩バランスなどを考え、じっくりと時間をかけて構想されたのでしょう。だからこそ、画家が企図した通りのメッセージが画面からは伝わってくるのです。この作品を見ていると、デュランが肖像画家として人気を博していた理由がわかるような気がします。

 それでは、構図と色彩の面から、この作品を見ていくことにしましょう。

●人物の配置と構図

 まず、母と子供たちとの関係を、所作の面からみていきましょう。

 男の子は母の膝に身を置き、上目遣いに見上げています。母の手は男の子の背に置かれており、互いの信頼と愛が感じられます。一方、女の子は母を見ているわけではありませんが、身体をぴったりと母に寄せ、傍に立っています。手の甲を母の手に触れ、緊張感をやわらげている様子が見て取れます。

 所作の面から、母と子供たちとの関係を見ると、男の子も女の子も母に身を寄せ、安心感を得ている様子です。一方、母は、左右の手を使って、安心させるように、子供たちの身体に触れています。保護し、保護される関係が母と子供たちの所作から描き出されています。

 次に、配置の面から母と子の関係を見てみましょう。

 この作品を見て、まず目に入ってくるのは、やや首を傾げた母の顔です。その母を頂点に、寄りかかる男の子の姿勢が、母の身体の傾きに呼応しています。母の頭と男の子の頭を繋ぐラインは、ちょうど、画面の右上から左下に走る対角線と重なり、母を頂点とする三角形の斜辺になっています。

 一方、女の子はすっくと立ち、頭を母の方にやや傾けています。その姿勢は、背筋を伸ばしながらも、頭だけを右に傾けた母の姿勢に呼応しています。こうして母と女の子は近づき、二人の頭を繋ぐラインは、肩まで伸びる髪の毛、膨らみのあるパフスリーブへと続き、これもまた、母を頂点とする三角形の斜辺になっています。

 これら二つの斜辺をつなぐと、三角形になります。わかりやすく赤線で図示すると、次のようになります。

 こうしてみると、改めて、この3人の頭が母を頂点とする三角形になるよう配置されていることがわかります。しかも、ほぼ正三角形です。もっとも安定感のある構図が導入されているのです。

 さらに、母の頭を頂点に、男の子の頭が底辺の左底角、女の子の頭が右斜辺の真ん中に位置づけられています。女の子の方が年上で、男の子が年下であるという序列まで示されているのです。

 そして、母と子供たちは、互いに顔を近づけるような姿勢で描かれており、母と子の親密さが表現されています。それぞれの顔の傾き、あるいは視線の方向から、相互の愛情と信頼が表されていることがわかります。

 それでは、色彩の面から、何を読み取ることができるのでしょうか。

●色彩

 床と背景を覆っているのは、焦げ茶色をベースとしたベルベットのような風合いの生地に見えます。画面の半分以上がこの色彩とテクスチャで占められているので、上品で、しかも、落ち着いた印象があります。

 さらに、母と男の子は黒の正装、女の子は光沢のある、やや明るいベージュ色の正装をしています。背景色を除くと、黒の面積が大きく、それ以外は光沢のあるベージュ色です。そのせいか、画面全体に厳粛さと威厳、上品さと落ち着きが醸し出されています。

 ベージュ色のドレスに目を向けると、女の子が手にした淡い橙色のバラの花が、不自然なほど下方に描かれているのが気になります。しかも、この花が大きすぎるのです。否応なく、観客の目は下方に誘導されます。

 そうすると、バラの花弁がいくつか、その下の床に散っているのに気づきます。こうして、さり気なく豪華さが演出され、しかも、画面にちょっとした動きが生み出されているのです。

 そこから見上げた位置に赤いバラが描かれ、大きく開いた母の胸元を飾っています。女の子のドレスに置かれたバラからはやや斜めのライン上にあります。二つの花はそれぞれの衣装を引き立て、彼女たちの存在感を高めています。

 さらに、これら二つの花を結んだラインは、母と娘の頭を結んだラインと並行しています。それぞれのラインを水色で図示すると、次のようになります。

 こうしてみると、二つの花を結ぶラインは、母と娘の髪の毛を結ぶラインとほぼ2倍の長さで、平行に描かれていることがわかります。しかも、その起点はいずれも、母と息子の頭を結ぶ左上から右下への対角線上にあります。

 二つのラインは、母と娘の親密さを示すとともに、二人の関係を支える構造的なラインとしても機能しているのです。

 こうしてみてくると、いずれのラインも母と子供たちを巡る、保護―非保護の関係が示されており、強い家族の絆が表現されていることがわかります。

 興味深いのは、男の子が黒い服を着て、母のドレスの中に溶け込んでいるのに対し、女の子はベージュ色のドレスを着て、黒い服の母とは分離した存在であることが示されていることです。

 この色遣いには、母と男の子の関係、母と女の子の関係が示されているように見えます。年少で、いまだに母に依存している男の子に対し、年長で、母から自立しはじめている時期の女の子という、依存関係の強弱が示されているようにみえます。

 もっとも、母と娘が身につけている花に着目すれば、別の側面が見えてきます。

 その母の胸元を飾っている赤い花が情熱を示すとすれば、女の子が手にしたごく淡い橙色の花は穏やかな従順さを示しています。つまり、デュランは、たとえ色彩で分離されていても、母は情熱を持って娘を庇護し、娘は従順に母に従うという母と娘の関係を、構図と色彩から表現していると考えられるのです。

 こうしてみてくると、デュランが、構図の面からも色彩の面からも明確なコンセプトの下、この母と子供たちの関係を表現していたことがわかります。

 デュランは、厳粛さ、上品さ、豊かさ、華麗さなどの要素を組み込んだ上で、家族の愛、家族の絆を画面に描き出していたのです。依頼者はおそらく、この作品の出来栄えに納得し、感謝したに違いありません。

 この作品を見ていると、肖像画家としてのデュランの人気が定着していった理由がよくわかります。

 宮廷画家ベラスケスからデュランが得たものの一つは、写実性を踏まえた上で、依頼者が求める理念、あるいは概念を画面に組み込むことでした。

■デュランの肖像画に見るベラスケスの影響

 写実的で、しかも、筆触の妙を効かせたベラスケスの油彩画技法は、当時、マネ(Édouard Manet, 1832-1883)から、高く評価されていました。近代美術の父といわれるマネが、「画家の中の画家」だと絶賛していたのです。

 ベラスケスを高く評価し、その影響を受けていたのは、マネばかりではありませんでした。デュランもまた、ベラスケスの影響を強く受け、写実的で古典的な肖像画を数多く描いてきました。

 とくに、上流階級の人々を描くことでは定評がありました。リュスが育った環境では、決して出会うことのない人々でした。彼らは当然、庶民とは服装も違えば、所作も異なります。

 デュランが参考にしたのは、ベラスケスの肖像画でした。宮廷画家として活躍したベラスケスの諸作品から、服装や調度品、所作などを参考にしたのです。

 たとえば、《ウィリアム・アスター夫人(Mrs. William Astor)》(油彩、カンヴァス、212.1×107.3㎝、メトロポリタン美術館)という作品があります。デュランが1890年に描いたもので、この時の衣装とポーズは17世紀の肖像画家ベラスケスを参考にしたと記されています。(※ https://www.metmuseum.org/art/collection/search/435849

 実際、デュランの肖像画をいくつか見てみましたが、モデルはいずれも正装をし、ポーズを決めた姿勢で描かれていました。おそらく、宮廷画家ベラスケスを参考に肖像画を描いていたからでしょう。どの画面からも、華麗で厳か、富みと繁栄を感じさせる要素が強く、醸し出されていました。

 デュランが描く肖像画を見ていると、肖像画が社会的ステイタスを示す価値を持っていた時代の名残が感じられます。

 デュランが肖像画家として人気を博するようになったのは1868年以降です。先ほどのメトロポリタン美術館の説明では、1890年には肖像画家として絶頂期を極めていたとされています。その30年弱の間、フランスは大きな社会変動に見舞われています。

 とくに、1871年3月26日から5月28日にかけてのパリ・コミューンは画家たちにとっても大きな出来事でした。ところが、そのパリ・コミューンを経てもなお、上流階級にとっては肖像画が必要だったのです。

 さて、人気のある肖像画家として活躍していた1876年、デュランは一風変わった肖像画を描いています。自分の母親を描いた作品です。

 デュランの肖像画をいくつも見てきましたが、この肖像画は異質でした。

■デュラン、母親の肖像画を描く

 肖像画家デュランにしては珍しく、モデルを見たまま、ありのままに描いています。

●《母の肖像》(Portrait de ma mère)1876年

 1876年、ちょうどリュスがデュランのアトリエで学び始めた年、デュランは母親を描いています。作品タイトルは、《母の肖像》(Portrait de ma mère)です。

(油彩、カンヴァス、サイズ不詳、1876年、オルセー美術館がサントクロワ美術館に寄託)

 暗い背景の中から顔面だけが浮き出るように、高齢女性が描かれています。静かで穏やかに観客を見つめています。その透徹した視線には高邁な精神が感じられます。

 悟りの境地に達しているからでしょうか。何事にも動じることなく、凛とした姿勢で、老いと孤独に、静かに向き合う高齢女性の姿が心に残ります。

 さっと描いたように見える中に、端的に対象の本質が捉えられていました。冷静な観察力が強く感じられる作品です。

 おそらく、コンセプトを練り上げることもなく、時間もかけずに制作したのでしょう。カンヴァスに向かったデュランが、老いた母親を美化しようとせず、ありのままに描いていたことがわかります。

 ありのままとはいっても、髪の毛や帽子、首回りで結ばれたリボンなどの描き方を見ると、決して写実的に描かれているとはいえません。どちらかといえば、雑なのです。ところが、不思議なことに、むしろその方が、リアルに捉えられた視線と口元の表情が強調されて見えます。

 描き方に粗と密の部分を創り出すことによって、老いた母親の本質を冷静に捉え、含蓄のある作品に仕上がっているのです。

 キュレーターのアニー・スコッツ-デヴァンブレシー(Annie Scottez- De Wambrechies)は、人生の荒波を超えて生きてきた母親の個性がしっかりと描かれているとデュランの表現力を評価しています。ジェリコー(Théodore Géricault, 1791-1824)やマネ(Édouard Manet, 1832-1883)と並ぶ表現力の持ち主だといっているのです。(※https://www.latribunedelart.com/carolus-duran-une-superbe-sensation-d-art-un-poeme-de-labeur

 リュスは1876年、デュランのアトリエで働くようになります。そこで、デュランが手掛けるさまざまな肖像画を目にしてきました。それらの肖像画を見て、感じること、考えさせられること、多々あったと思いますが、リュスがもっとも刺激を受けたのが、《母の肖像》でした。

■リュス、おばさんの肖像画を描く

 デュランの《母の肖像》の制作過程をつぶさに見てきたリュスは、1980年、おばさんの肖像画を描きました。デュランと同様の画法で描いたといわれています。(※ “Léo Gausson Maximilien Luce,Pionniers du néo-impressionnisme”, Silvana, 2019)

 《オクタヴィアおばさんの肖像》は、リュスがデュランから何を学んだのかを示唆する重要な作品といえます。

●《オクタヴィアおばさんの肖像》(1880年)

 デュランが《母の肖像》を描いたのと同様の画法で描いたとされるのが、リュスの《オクタヴィアおばさんの肖像》です。

(油彩、カンヴァス、77.9×66.7㎝、1880年、ホテル・デュー美術館所蔵)

 高齢女性が両手を前で組み、こちらを見ています。老いてはいますが、肌艶がよく、とても元気そうです。顔の表情がリアルに表現されています。

 額に刻まれた深い皺、眉間から鼻先までの鼻梁の肉付き、鼻翼から伸びるほうれい線、すぼめた口元など、老化によって起きる顔面の変化が的確に捉えられています。

 図録では、リュスが光と影に留意して顔面の表情をリアルに描いたのは、デュランが母親の肖像を描いた時に使ったのと同じ手法を取ったからだと書かれています。(※ “Léo Gausson Maximilien Luce,Pionniers du néo-impressionnisme”, p.14. Silvana, 2019)

 果たして、そうでしょうか。

 確かに、この作品では、光が当たったところと影になった部分とが丁寧に描き分けられ、眉間の縦皺、額に波打つ横皺、目の下のたるみなどがとても写実的に描かれています。

 顔面の骨格を踏まえ、鼻先、たるんだ頬の縁、目の下や目尻などにわずかながら赤味が添えられています。老いに伴う皮膚の変化が的確に表現されているのです。

 光と影、明と暗を使い分けて、顔の質感、量感を表現しているところには、ルネサンス以来の写実性が感じられます。つまり、この作品には、デュランが影響を受けたといわれるベラスケスに繋がる写実性が見受けられるのです。

 実際、この作品を見ていると、オクタヴィア小母さんを目の前にしているかのような錯覚に襲われます。それほど、リアルに、生き生きと描かれています。

 とはいえ、デュランの《母の肖像》と比べると、何かが足りないのです。それが一体、何なのか、二つの作品を比較してみる必要があるでしょう。(2021/12/29 香取淳子)