ヒト、メディア、社会を考える

香取淳子のメディア日誌
このページでは、香取淳子が日常生活の中で見聞きするメディア現象やメディアコンテンツについての雑感を綴っていきます。メディアこそがヒトの感性、美意識、世界観を変え、人々の生活を変容させ、社会を変革していくと考えているからです。また、メディアに限らず、日々の出来事を通して、過去・現在・未来を深く見つめ、メディアの影響の痕跡を追っていきます。


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AI時代のジャーナリズムに何が必要なのか

■「これからのジャーナリズムを考えよう」シンポの開催
 2018年1月29日、東京大学安田講堂で「これからのジャーナリズムを考えよう」というタイトルのシンポジウムが開催されました。日本経済新聞社、米コロンビア大学ジャーナリズム大学院、東京大学大学院情報学環の主催によるもので、学生を含め、約580人が参加しました。

こちら →https://events.nikkei.co.jp/894/

 日経新聞社社長のあいさつに続き、米コロンビア大学ジャーナリズム大学院長のスティーブ・コル氏による基調講演が行われました。タイトルは、「フェイクユース時代における報道の自由」というものです。

 コル氏は昨今のメディア状況について、フェイクニュース、ポピュリズムが横行し、ジャーナリズムやジャーナリスト、編集者が脅威にさらされているという現状認識を示しました。そのうえで、ジャーナリズムを守ることは市民を守ることであり、すべてのヒトにメリットがあると述べました。

 次いで、英ファイナンシャル・タイムズ編集長のライオネル・バーバー氏による特別講演がありました。タイトルは、「2018年のFT:デジタル時代をダイナミックに、豊かに、かつ適切に」というものです。

 バーバー氏は、FTではいま、静かな変革が起こっているといいます。「digital first」をモットーに再スタートして以来、「守りに入ってはいけない、チャンスを捉え、戦いに挑む」という姿勢で組織を改編してきた結果、持続可能なプラットフォームができつつあるといいます。

 FTでは、言葉や画像だけではなく、動画、データなど新しいデジタルツールを取り込み、内容を深く掘り下げたニュースを提供しています。その結果、91万人もの有料読者を獲得できるようになりました。この数値は2008年と比べると2倍にも及び、過去最高だといいます。

 興味を覚え、ネットで検索してみると、2016年4月4日、東洋経済オンラインに、「FTの有料読者数、実は過去最大になっていた」というタイトルの記事が掲載されていました。

こちら →http://toyokeizai.net/articles/-/112270?page=2

 この記事では、有料読者数が増加したことの原因として、ニュースの提供方法、課金システムなどデジタル時代に適したものに改変したことの効果に力点が置かれています。グーグル、フェイスブック、ツイッターなどのユーザーがFTの記事にたどり着いた場合、その後も、FTの記事に触れる習慣ができるよう、課金方法に工夫が見られます。ですから、それも大きな要素だといえるでしょう。

 ソーシャルメディアからの効果的な誘導が有料読者数の増加につながったことは確かでしょうが、コンテンツの魅力も影響していることは当然です。FTは読者の傾向を分析し、適切なタイミングで適切なコンテンツを配信するよう工夫もしています。

 バーバー氏は読者が記事にどれだけ「engage」したかがもっとも重要だとし、どの記事をどれだけ時間をかけて読んでいるか、その記事を他人とシェアしているかを解析しているといいます。読者にとって価値ある内容を提供することで、FTを読む習慣を読者の生活スタイルの中に取り込めると考えているからです。

■デジタル時代におけるジャーナリズムの役割
 パネル討論の第一部は、「デジタル時代におけるジャーナリズムの役割」というタイトルの下で行われました。ここからは、パネリストとして、日経新聞専務取締役編集局長の長谷部剛氏、司会者として、東京大学情報学環教授の林香里氏が加わりました。

 長谷部氏はまず、メディア状況が日本と欧米とは大きく異なると指摘します。そして、部数が減っているとはいえ、日本ではまだ全世帯の7割が新聞を読んでおり、フェイクニュースもそれほど深刻ではないという認識を示しました。

とはいえ、デジタル化への対応は不可欠で、メディアとして読者に責任を果たすうえでも、digital firstにならざるをえないといいます。5Gになれば、さまざまなコンテンツを流せるようになります。そのための表現方法を開発しており、平昌オリンピックでVRコンテンツを公開予定だそうです。

そういえば、1月29日付の日経電子版で、カーリングのVRコンテンツを公開するという記事が載っていました。

こちら →http://dsquare.nikkei.com/concierge/service-campaign/vrvr.html

 これは、平昌オリンピックでのVRコンテンツ公開に向けた予行演習とでもいえるものなのでしょうか。スポーツ中継では臨場感のある映像こそ、オーディエンスを惹きつけ、虜にします。VR技術を使った映像を提供すれば、読者はさらに深く「engage」され、日経が提供するコンテンツを好むようになるでしょう。

 一方、コル氏は情報の構造が変化し、アルゴリズムがその源泉になっているという認識を示します。そして、ジャーナリズム教育に関わる者として何をすべきかと模索した結果、コンピューターサイエンスとセットでジャーナリズム教育を行うべきだという結論に達したといいます。

 実際、コル氏はフェイクニュースが横行するようになった社会状況下では、深く調査し、データの積み重ねによって事実に迫るデータジャーナリズムが重要だと指摘しています。

こちら →https://dc.alumni.columbia.edu/data_journalism_deancoll_20171018

 コル氏は大学に移籍するまでは著名な各紙で記者として活躍し、二度もピューリッツア賞を受賞しました。そのコル氏が、データを調査報道に生かすべきだというのです。そして、コロンビア大学大学院にデータジャーナリズムの修士課程を作りました。

こちら →https://journalism.columbia.edu/ms-data-journalism

 ジャーナリストを教育する機関もまた時代の動きに合わせ、デジタル対応を始めているのです。2027年、ジャーナリストはどのような生活を送っているのかを予想したドキュメントが発表されました。これを見ると、米コロンビア大学ジャーナリズム大学院がどれほどAI技術の影響を深刻に考えているかがわかります。

こちら →https://www.cjr.org/innovations/artificial-intelligence-journalism.php

 ここではAIとVRが同時に普及している社会状況下で取材するジャーナリストの生活シーンが紹介されています。10年後、どのような技術を身につけていないとジャーナリストとして生き残れないかが如実に示されています。

 さて、バーバー氏は、かつてジャーナリズムはソフトウエアを支配する側だったが、いまは、ソフトウエアがジャーナリズムを支配する側になっているという認識を示します。だからこそ、ジャーナリストにはこれまでと違うことをしてほしいといいます。

 SNSを通してジャーナリストではない人々が情報を自由に発信できるようになっています。バーバー氏はソーシャルメディアがいまは重要なニュース源になっており、ニュース配信をゆがんだものにしていると指摘しています。

 2017年11月14日、編集者会議に出席したバーバー氏は、フェイスブックとグーグルに広告市場が席巻されている一方で、新たな動きもあることに触れています。

こちら →
http://www.pressgazette.co.uk/ft-editor-lionel-barber-calls-on-deeply-flawed-social-media-networks-to-drop-the-pretence-they-are-not-media-companies/

 さて、バーバー氏は、FTではどのような記事も二つの独立した情報源がなければ記事として公開しないといいます。それは、有料でニュースを提供している組織としての責任があるからですが、信頼に足るジャーナリズムがあってこそ、民主主義が機能します。だからこそ、社会を守るためにも、我々のようなメディア組織が必要なのだというのです。

 林氏は、ニュースをSNSで読んでいる若者が多いという現状を踏まえ、SNSではパーソナルな出来事と同じラインでニュースが切り売りで入ってくる、これはジャーナリズムにとって危険ではないか、という質問を日英米のパネリストにぶつけました。

 長谷部氏は、昨秋の衆院選について調査したところ、安倍首相よりもリツィートの多かった一般人がいたことを明らかにしました。そのメッセージが「投票に行こう」というものだったことを踏まえ、ジャーナリズムの補完としてSNSをうまく仕込むことができるのではないかといいます。

 バーバー氏は、SNSについてジャーナリズム側は明確な態度を取る必要があるといいます。というのも、ジャーナリストはSNSのアカウントを持っており、ポスティングもしています。ですから、そこでの不用意な発言がFTと関連づけられ、FTの信頼を損ねる危険性があると指摘するのです。

 コル氏も同様、情報のスピードが速くなり、SNSが普及した現在、これまでよりはるかに過ちが大きく拡散する危険性があると指摘します。だから、自分でファクトチェックをし、誤りを発見するよう努めなければならないといいます。

■AI/デジタル技術をジャーナリズムの未来
 パネル討論第二部では、技術領域のパネリストが加わって、行われました。このセッションは、上記のコル氏、林氏の他に、東京大学情報学環教授の苗村健氏、日経新聞社常務執行役員の渡辺洋之氏、司会を担当した東京大学情報学環長の佐倉統氏によって展開されました。

 渡辺氏は日経新聞社では、「決算サマリー」、「日経Deep Ocean」「日経自動翻訳」「文章校正」「見出しの自動構成」「レコメンド」などにAIを使って対応していると現状を報告されました。知らないことばかりでしたので、大変、興味深く聞きました。

 まず、「決算サマリー」は、日経のAI記事プロジェクトチームが最初の応用分野として開発し実用化したもので、企業の決算発表です。日本国内の上場企業は約3600社ありますが、AIを活用した「決算サマリー」を使うことで、より早く、より多くの企業動向を伝えることができるといいます。

こちら →http://pr.nikkei.com/qreports-ai/

 これはAIによって自動生成できるシステムで、上場企業のほとんどに対応しているといいます。このシステムは東京大学の松尾研究室との共同開発です。

こちら →http://weblab.t.u-tokyo.ac.jp/project/nikkei/

 上記に示されているように、上場企業が定期的に発行する決算短信から、速報記事を自動で生成するアルゴリズムを日経の担当グループと東大の松尾研究室とが共同で研究・開発したものです。このようなAIによる自動生成システムがすでに実用化されていることを知って、私は驚きました。

 「日経Deep Ocean」も、渡辺氏の報告で初めて知りました。調べてみると、これは日経新聞社が2016年12月に発表した対話型応答エンジンでした。AIを活用し、経済や金融分野の質問に対して自動応答する機能があります。

こちら →http://deepocean.jp/

 顧客からの質問に答えることができますから、たとえば、証券会社の営業を支えるツールとして利用できるでしょう。仕組みとしては以下のようになります。

こちら →
(http://deepocean.jp/より。図をクリックすると、拡大します)

 AIを使えば、情報の収集量が格段に増えますし、それを整理するスピードも抜群に速くなります。膨大な量のデータを数理的に解析することによって、これまで気づかなかった発見があるかもしれません。その結果として、最終的にヒトが行う意思決定がこれまでに比べ、はるかに精緻なものになることは明らかでしょう。

 コル氏は、AIをツールとして調査報道に生かすとすれば、大量のデータから異常値を発見できることだといいます。たしかに、異常値があれば、そこになんらかの利害の相克がありそうだとヒトが判断することができます。取材し、調査するポイントを的確に発見できるというわけです。

 いま、世の中にはデジタル情報があふれかえっており、もはやヒトの手には負えませんが、このようなAIのサポートがあれば、問題の所在を探り当てることができるでしょう。社会に有益な調査報道のためのツールとして画期的なものになることは確かです。

■AI時代のジャーナリズムに何が必要なのか
 それでは、AI時代にジャーナリストに要求されるものは何なのでしょうか。

 渡辺氏は、これからのジャーナリストにはジャーナリズム教育を受け、その関連のテクノロジーを身につけた人材が必要だといいます。コル氏も苗村氏も林氏も同様です。AI時代のジャーナリストにはAIを使いこなすことが必須条件になってくるでしょう。

 一方、統計分析などの数理的素養だけではなく、幅広い素養もまた必要になってくるでしょう。データを数理的に分析し、細分化された情報を適切に読み解くための素養、つまり、社会、哲学、文学といった教養から育まれる全体観が欠かせなくなるからです。

 コル氏は、ジャーナリストには、AIを使いこなす力に加え、人間的な経験知、ジャーナリストとしての理解力が必要だといいます。そして、AIをどのように使うか、どのような局面で使うのか、倫理面で大きな課題があるといいます。

 これについて渡辺氏は、AIを個人情報がかかわる領域、あるいは、AIが暴走する可能性のある領域では使うべきではないといいます。あくまでもツールとして使うべきだといいます。大変、興味深い指摘でした。

 今回のシンポジウムに参加して、改めていま、大きな時代の変革期にいるのだと感じました。AIがジャーナリズムの領域にまで浸透しつつある現状を知って、従来のジャーナリズムにAIのどのような要素を補完的に取り込むことができるのか、考えざるを得ない状況にきていると思いました。先行する米コロンビア大学では大学院にデータジャーナリズムの修士課程を作りました。AI時代のニーズに応えた動きです。日経新聞のデジタルグループはさまざまな実験を試行し、次々とAIを駆使したシステムを構築しています。

 パネリストのお話を聞いていて、技術が急速に進歩しているいまだからこそ、全体観を養う上でも、歴史、哲学、文学、社会学といった文系の学問を連動させていく必要があると思いました。(2018/1/31 香取淳子)

ゴッホ展:短い線を単位とした筆触分割法の魅力

■12月下旬の上野界隈
 お天気がよく、風もなかったので、久しぶりに上野に出かけてみました。JR上野駅を出て、公園に入ってすぐ右手には、国立西洋美術館があります。そこではいま、「北斎とジャポニズム」が開催されています。開催期間は2017年10月21日から2018年1月28日までですが、12月14日時点ですでに来場者が20万人を超えたそうです。

 実際、チケット売り場には大勢のヒトが並んでいましたから、人気抜群の展覧会だということがわかります。そうはいっても、展覧会のタイトルからは、作品を鑑賞するというより、企画者側の解釈を見せつけられるだけではないかという気がしてきます。そこで、ここはスルーすることにしました。

 そして、たどり着いたのが、東京都美術館です。ここでは「ゴッホ展」が開催されていました。ゴッホの作品は写真でしか見たことがありません。迷うことなく、この展覧会を見ることにしましたが、ふと、掲示されているポスターに「花魁」の絵が採用されているのが気になりました。

 ひょっとしたら、西洋美術館と似たような企画ではないかと思い、改めてタイトルを見ると、副題として「めぐりゆく日本の夢」と書かれています。どうやら、こちらもジャポニズムと関連づけて、企画された展覧会のようです。とはいえ、「ゴッホ展」と名付けられているからには、ゴッホの作品を中心に構成されているはずです。そう思って、東京都美術館に入場することにしました。

 入口に置いてあったチラシを見ると、表にゴッホの「花魁」、裏には絵筆を持ったゴッホの自画像が掲載されています。

こちら →http://www.tobikan.jp/media/pdf/2017/goghandjapan_flier2.pdf

 ゴッホが絵を構想し、制作していく過程で、日本の浮世絵がいかに影響を及ぼしたのか、それが端的に表現されているチラシでした。おそらく、これが、この展覧会のコンセプトなのでしょう。

 展覧会は、第1章「パリ 浮世絵との出会い」から、第5章「日本人のファン・ゴッホ巡礼」で構成されており、全体で181点の作品が展示されていました。そのうち、ゴッホの作品はわずか39点で、著名な作品はほとんどありません。私が知っている作品としては、「自画像」、「種まく人」、「寝室」ぐらいでした。ゴッホのように有名な画家になると、作品の借り受けも相当難しくなるのでしょうか。そんなことが気になりました。

 所蔵先の内訳を見ると、ファン・ゴッホ美術館所蔵が14点、クレラー=ミュラー美術館所蔵が9点、個人所蔵が6点、プーシキン美術館が2点、デ・ブール財団(アムステルダム)所蔵が2点でした。ファン・ゴッホ美術館からの提供が多いと思いましたが、それもそのはず、カタログを読むと、この企画はファン・ゴッホ美術館との共同プロジェクトによって実現したものでした。

■国際共同企画:ゴッホ展
 カタログの冒頭には、ファン・ゴッホ美術館・館長のアクセル・ルーガー氏のメッセージが紹介されていました。

***
 ファン・ゴッホを真に魅了したのは、浮世絵ならではの澄んだ明るい色彩と、自然に対する生き生きとした洞察力でした。こうしたものを、ファン・ゴッホはアルルの地で、自らの芸術と、自らがおかれる環境に求めました。ただそれは、単なる美術史や文化史的な説明を超えて解釈しなければなりません。
鬱に苦しんでいたファン・ゴッホは浮世絵の明るい性質を自身の作品に取り入れることで、心身の回復を図り、己よりも「はるかに幸福で、ずっと快活な」存在を夢想することができました」
*** (『Van Gogh & Japan』p.8より)

 ゴッホの魂がいかに日本の浮世絵によって救われたのか、その作品世界に浮世絵がいかに影響を及ぼしたのか、興味津々です。

 カタログによると、ゴッホは1886年2月末、パリにやってきました。その後、2年間のパリ滞在期間中、大きな影響を受けたのが、印象派と日本の浮世絵でした。印象派からは明るい色調を学び、浮世絵からは平板な色面の構成を学んだようです。この二つの要素がゴッホの絵を読み解く大きなカギになるといっていいでしょう。

 まず、チラシに掲載されていた「画家としての自画像」から、見ていくことにしましょう。

こちら →
(Self-portrait as Painter, 油彩、カンヴァス、65×50㎝、1888年。カタログより。図をクリックすると拡大します)

 これは、ゴッホがアルルに旅立つ直前に描かれた作品です。ゴッホはパリ時代に自画像を28点も制作していたそうですから、ここでの最後の自画像といっていいでしょう。この作品からは、ゴッホが印象派の影響を受けていたことが一目でわかります。

 自画像として描かれた顔には生気がなく、暗い表情であるにもかかわらず、この絵からは精神の躍動が感じられます。興味深いことに、創作者だけが持つ精神の煌きといえるものが明るい色調の中で表現されていたのです。

 そんな印象を受けてしまったのは、ひょっとしたら、筆触分割法による色彩の効果のせいなのでしょうか。

■筆触分割法
 この作品で気になったのは、点ではなく、短い線が色彩の単位になっていることでした。この作品では、点描ではなく、面でもなく、独立した色彩を帯びた短い線で、モチーフの各面が構成されています。短い線を単位として絵を構成する基本原理が適用されており、ゴッホならではの独自世界が築き上げられています。どこから見ても、ゴッホの作品だとわかる画風です。

 完成作品を見ただけでは、ゴッホの特徴的な画風を支える基本原理がよくわからないのですが、今回の展覧会では、下書きのような作品が展示されていましたから、制作原理を把握することができます。たとえば、アルルに移ってからの作品で、「麦畑と太陽」というのがあります。

こちら →
(黒チョーク、葦ペン、黒インク・白の不透明水彩、紙、47.5×56.6㎝、1889年。カタログより。図をクリックすると拡大します)

 これを見ると、太陽の光、雲のたなびき、遠景の山並み、木々のそよぎ、草のうねりなど、すべてのモチーフが短い線で描かれています。色彩を載せる前の段階で、ゴッホが短い線を単位として絵を構成していたことがわかります。

 この絵を見ていると、点ではなく、面でもなく、短い線に色を載せるからこそ、表現できる独自の世界があることに気づきます。短い線だからこそ表現できる方向性であり、動きであり、可動空間です。ゴッホの作品にしか見られない要素です。このことからは、ゴッホは印象派あるいは新印象派から筆触分割法を学び、それを独特の感性で組み立て直していたことがわかります。

 この時期、人物画もまたこのような技法で描かれており、平面的な表情には独特の雰囲気が醸し出されています。「アルルの女」(ジヌー婦人)という作品です。

こちら →
(油彩、カンヴァス、61×50㎝、1890年、カタログより。図をクリックすると拡大します)

 ゴッホは短い線を軸にした独特の筆触分割法を用いることによって、モチーフの何気ない仕草と表情に奥行きを生み出し、この女性(ジヌー婦人)の内面を見事に表現しています。平板に描かれているところに日本の影響が感じられますが、その一方で、淡々として穏やかな日常への哀惜が感じられます。

■色彩の持つ印象効果
 日本の影響を感じさせられる作品をいくつも目にしていくうちに、第4章「自然の中へ、遠ざかる日本の夢」で、気になって立ち止まってしまった作品がありました。「下草とキヅタのある木の幹」です。

こちら →
(油彩、カンヴァス、73×92.3㎝、1889年。カタログより。図をクリックすると、拡大します)

 この作品も、短い線をベースとした筆触分割法で描かれていますが、これまでの作品とは違って、どういうわけか、日本の影響が感じられないのです。モチーフの構成からは遠近法が感じられますし、明暗の表現技法からは光に意識が向けられていることがわかります。そのせいでしょうか、モチーフの木や草が太陽の光によって生命活動を営んでいることが立体的に示されているのです。これまでの平板な作品とは明らかに異なっています。

 光と影のバランスが絶妙で、リアリティ豊かな世界が表現されており、つい、引き込まれてしまいます。ここでは距離と光に焦点を当てて、モチーフが構成されています。そのせいか、遠近感、立体感が明確になっています。平板な浮世絵の世界から脱し、立体感のある西洋画の世界に復帰したかのように見えるのです。

 その1年後に制作された「草むらの中の幹」では、さらに、大胆な色彩表現が試みられています。

こちら →
(油彩、カンヴァス、72.5×91.5㎝、1890年。カタログより。図をクリックすると、拡大します)

 この作品では、モチーフの色彩を写実的に再現するのではなく、イメージで色彩を選択し、組み合わせて表現されています。おそらく、そのせいでしょう。これまで通りの筆触分割法でありながら、木の幹の表情が輝いてみえます。木の根元に生える小さな花、その先に広がる無数の野生の花々、自然界にはない異色の華やぎが画面一体に生み出されているのです。

 不思議な作品です。構成単位に載せられる色彩が、この作品では、明度、彩度の高いものを中心に選ばれています。ですから、画面の隅々まで太陽の光が射し込み、その光の下で生命が生き生きと躍動している様子が伝わってきます。その結果、この作品には、生きることへの賛歌とでもいえるものが横溢している印象が残るのです。

■ゴッホ作品の独自性
 写真でしか見たことはありませんが、私は、ゴッホの作品の中では、「星月夜」(1889年)、「糸杉と星の見える道」(1890年)、「オーヴェールの教会」(1890年)といった作品が好きでした。今回の展覧会ではそのどれもが展示されていませんでしたが、これらの作品に共通する要素を会場で見受けることができたように思います。

 それは、短い線を使った筆触分割法による色面構成であり、画面構成でした。完成作品を見ただけではわかりませんでしたが、会場で下絵のような作品「麦畑と太陽」を見て、気づいたことでした。

 たとえば、「星月夜」(1889年)には不安感が漂っています。

こちら →
(油彩、カンヴァス、73.7×92.1㎝、1889年。Google Arts & Cultureより。図をクリックすると拡大します)

 そして、「オーヴェールの教会」(1890年)にも不安感を感じ取ることができます。

こちら →
(油彩、カンヴァス、74×94㎝、1890年。Google Arts & Cultureより。図をクリックすると拡大します)

 ヒトの気持ちを根源から揺さぶる力がこれらの作品にはあります。いずれもほぼ同時期に制作されており、その技法上の共通項が、短い線による筆触分割法でした。今回の展覧会は、ゴッホ自身の作品が少なく、物足りない思いがしましたが、これまで見る機会のなかった下絵のような作品も展示されていたので、作品の制作過程に思いを巡らすことができました。

 その結果、ゴッホの作品の独自性が何によってもたらされているのか、その一端を垣間見ることができたような気がします。そして、なぜ、私がこれらの作品に引き込まれていたのかも理解することができたように思います。改めて、描かれる作品世界はモチーフと制作意図、そして技法とが密接に関連し合っており、全体としての印象を形成するのだということがわかりました。(2017/12/29 香取淳子)

2017入間航空祭:広報メディアとしてのブルーインパルス

■ブルーインパルス
 2017年11月3日、航空自衛隊入間基地で、入間航空祭が開催されました。航空祭についてはまったく知らなかったのですが、阪急交通社がバスツアーを企画していることを知って、参加することにしました。ツアーの内容は、ブルーインパルスによるアクロバット飛行、基地内でのさまざまな展示などを楽しむというものでした。

 ブルーインパルスとは、アクロバット飛行を披露する専門チームの名称です。実は、この言葉を聞いて、私は熊本で見た光景を思い出し、突然、参加してみたくなったのです。

 今春、熊本市内のバス停でたまたま、ブルーインパルスを見ました。長崎行の高速バスを待っているとき、青空に繰り広げられるブルーインパルスの妙技をみたのです。

 当時、私は熊本大震災で被災した友だちを見舞うために、熊本を訪れていました。震源地や城壁の落ちた熊本城などを見てまわり、ホテルに一泊してから、長崎に向かおうとしていました。

 渋滞のため、バスは大幅に遅れていました。スマホをチェックしながら、いつ来るとも知れないバスを待っていると、急に、周囲の人々が騒ぎ始めたので、見上げると、青空に見事な円がいくつも描かれています。慌てて、スマホで撮影したのが下の写真です。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 青空一面に、白い円がいくつも鮮明に、飛行機雲で描かれています。見るとたちまち、不鮮明になって、形が崩れていきましたが、このとき、円が5つ重なって創り出されていることがわかりました。まるで五輪マークのようです。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 2017年4月23日、11時21分のことでした。この時はじめて、私は「ブルーインパルス」という言葉を知りました。これが、今回のバスツアーに参加しようと思ったきっかけになったのです。

■入間航空祭
 2017年11月3日、ガイドの説明によると、今年は特に参加者が多かったそうで、阪急交通社だけで38台もの大型バスを用意したそうです。

下は、午前9時17分時点で撮影した写真です。すでに基地内には大勢の人々が集まってきていました。いっせいに同じ方向に向かっていますが、向かう先は航空機展示場です。機体が展示され、アクロバット飛行の発着場所になります。航空祭メインの会場です。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 航空機展示場に着くと、大勢の人々が地面に座って、展示機体を眺めていました。人混みをかきわけて最前列に出て撮影したのが、下の写真です。機体がいくつか展示されていましたが、いかにも戦闘機らしいと思い、撮影したのが、この機体でした。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 「風の谷のナウシカ」で見た、ナウシカが乗っていた機体にとてもよく似ています。名前がよくわからなかったので、ネットで調べてみると、どうやら、F-2A戦闘機といわれるもののようでした。F-2はF-1の後継機として製造された戦闘機です。この機体はF-2Aですから、操縦者一人、操縦席一つの単座型の戦闘機です。

 見渡す限り青空が広がり、絶好の飛行日和です。飛行場には次々とヒトが集まってきます。すでに到着した人々は、まるでピクニックに来てでもいるかのように、地面に座ってバッグを広げ、ソフトドリンクを飲んだり、お菓子をつまんだりしています。基地内の飛行場でありながら、和気あいあいとした光景が広がっていました。

 調べてみると、入間航空祭は1962年11月18日に第一回が開催されていました。航空自衛隊が発足したのが、1954年7月、入間基地が発足したのが1958年8月、そして、入間基地日米共同使用協定が成立したのが1961年6月でした。ですから、その翌年にこの航空祭は開催されたことになります。

こちら →http://www.mod.go.jp/asdf/iruma/about/history/index.html

 以後、毎年11月に開催されており、多くの来場者が押し寄せているようです。昨年は13万人が訪れたそうですが、ガイドによると、今年はそれ以上だということでした。

 気になって、航空祭の翌日、新聞を見ると、今年は21万人もが参加したそうです。

こちら →http://www.sankei.com/life/news/171104/lif1711040026-n1.html

 たしかに、広い基地内はもちろんのこと、隣接する彩の森公園なども、来場者で埋め尽くされていました。

■ブルーインパルス
 航空祭メインの出し物は、ブルーインパルスのアクロバット飛行です。プログラムによると、その実演時間は13時5分から14時10分まででした。帰りのバス集合時刻は14時50分と指定されていましたから、移動可能時間は40分です。十分に時間はあるとはいっても、この混み具合です。最後まで飛行展示場で見ていたら、集合時刻に間に合うかどうかわかりません。

 そこで、早めに会場を出て、集合場所に近い彩の森公園に行き、そこで、ブルーインパルスを見ることにしました。後になって思えば、そう決めて、正解でした。集合時刻に間に合っただけではなく、なにより、木陰でブルーインパルスのアクロバット飛行を見ることができたのが幸いでした。

■ブルーインパルスのアクロバット飛行
 すでに大勢の人々が木陰にシートを敷き、青空を見上げていました。カメラを空に向けているヒトもいれば、まるでピクニックさながら、お菓子を食べておしゃべりをし、待ち時間を楽しんでいるヒトもいました。これまでに何度も航空祭に来たことのある人々なのでしょうか、今思えば、そこは絶好の鑑賞場所でした。

 突然、青空に轟音が響き渡りました。慌てて、空を見上げましたが、飛行機の姿はありません。白い飛行機雲が残っているだけです。いよいよ、ブルーインパルスの登場です。

 轟音がするのに機体が見えません。気づいたときには飛行機雲だけが残されていました。あまりにも早く駆け抜けてしまうので、何度も撮影に失敗しましたが、ようやくまともに捉えられたのが、ハート形を描いたアクロバット飛行です。

 私がスマホで撮影した映像を順に、ご紹介していきましょう。

 木の向こう側に2機の機体が見えます。上空に向かう途上で、2機は左右、二手に分かれます。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 あれっと、思っているうちに、今度は、2機とも弧を描くように、下降していきました。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 残ったのが、ハート形の飛行機雲です。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 見事な飛行です。あちこちで歓声があがっていました。

 同じようなパターンの飛行をご紹介しましょう。今度は5機で演じられた飛行です。どこまでも広がる青空の下、5機が突然、大木の上に姿を現し、そのまま微妙な角度で、5方向に分かれ、上空に向かっていきます。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 5機はそのまま弧を描くように下降し、5方向に散っていっていきました。後は、ご覧のように、木の枝のような飛行機雲が残り、青空に興を添えていました。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 いっせいに同じ方向に飛行することによって、力強い飛行機雲が生み出されます。この飛行には、複雑な技巧は感じさせられませんでしたが、味わい深いものがありました。左方向に急下降していく5機がそれぞれ、青空に鮮やかな白の弧を残していきます。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 そうかと思えば、6機がいっせいに左方向から上空に向けて急上昇していく飛行もありました。こちらも単純ですが、力強く、迫力がありました。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 さらに複雑な図形が、青空に描かれたこともありました。アクロバット飛行も回を重ね、人々が飽き始めたと思われるころ、登場した出し物です。

 ヒトデ型の飛行機雲が残っている間に、別機が飛び立ち、三角形を重ねて、星形を創り出します。このように複雑な図形を創り出すアクロバット飛行には相当、技術力とチームワークが必要になるのでしょう。澄み渡った空にこの複雑な図形が創り出されると、あちこちで大きな歓声があがっていました。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)
 
 ネットで調べてみると、このアクロバット飛行は「スタークロス」といわれるもので、とても人気が高いそうです。

 入間航空祭で見た飛行ショーで使われたのは、T-4といわれる機体でした。ブルーインパルスの三代目の機種なのだそうです。

こちら →http://www.mod.go.jp/asdf/equipment/renshuuki/T-4/index.html

 このT-4という機体は、優秀なパイロットを育成するための機種で、基本操縦課程のすべてを担える練習機なのだそうです。海外の練習機の場合、戦争になれば、武装もできるようになっているそうですが、T-4はそれができないとも書かれていました。
(http://ja.uncyclopedia.info/wiki/T-4_(%E7%B7%B4%E7%BF%92%E6%A9%9F))

 さて、私は彩の森公園でブルーインパルスを撮影したので、残念ながら、発進状況などは写せませんでした。ところが、ネットで検索してみると、当日、飛行展示場でブルーインパルスを撮影した映像を見つけることができました。ご紹介しましょう。

こちら →https://www.youtube.com/watch?v=vCFyUnY1QeY

 これを見ると、アクロバット飛行の全容がよくわかります。

■パネル展示から見た、日本の防空
 入間航空祭では、飛行展示をはじめ、警備犬訓練展示、美術展、演奏会などさまざまな企画が催されていました。なかでも中部航空音楽隊による演奏は素晴らしく、思わず引き込まれ、聞き入ってしまいました。周囲を見回すと、観客は思い思いに手をたたいてリズムを取って、音楽隊と一体化し、盛り上がっていました。

 その音楽会場の壁面には、航空自衛隊の活動を紹介するパネルが多数、展示されていました。順に見ていくうちに、普段は考えたことのない国防について考えさせられるようになりました。日本の安全は?と思ったとき、連想してしまったのが、北朝鮮によるミサイル発射でした。日本はいま大変な状況に置かれていることに気づかされます。

 国際社会からなんといわれようと、北朝鮮は核とミサイルの開発を止めませんし、中国は国際法を無視し、海洋進出を進めています。いずれも、国際ルールに従うこともなく、武力を増強しているのです。うっかりしているうちに、日本の安全保障環境が大きく脅かされる事態に陥っていました。

 気になって、帰宅してからネットで調べました。すると、中国の軍用機が近年、日本の領空を頻繁に侵犯しており、航空自衛隊機の緊急発進回数が急増していることがわかりました。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 2017年版防衛白書では、「平成28年度は南西航空混成団による緊急発進が803回にものぼり最多となった」と書かれています。実際、緊急発進回数の推移をみると、昨今の領空侵犯の多さは異様です。

 防衛白書は、」緊急発進数の急増について、「南西方面での安全保障環境が厳しさを増している」からだと指摘し、その原因を、中国軍用機が「東シナ海から徐々に東南方向に活動範囲を拡大してきている」と説明しています。その結果、南西航空混成団の緊急発進が「全国の6割にも」及ぶようになったと記しています。
(http://www.mod.go.jp/j/publication/wp/wp2017/html/nc023000.htmlより)

 昨今の中国軍用機の活動範囲を示したのが、下図です。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 これを見ると、かなりの頻度で中国軍用機が日本の領空を侵犯していることがわかります。私は日本に危機が押し寄せてきていることなど、なにも意識しないで暮らしていたのですが、実は、日本の安全を脅かす不穏な状況がいまなお、続いているのです。

 それでは、このような事態に対し、航空自衛隊はどのように対処しようとしているのでしょうか。防衛白書には下記のような防空作戦が対策の一例として提示されています。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します。
http://www.clearing.mod.go.jp/hakusho_data/2010/2010/html/m3131000.htmlより。)

 上図に示されているように、防空のための作戦としては、4つの段階が想定されています。①領空、領海を侵犯する機体等を発見したら、即、②敵か味方かを識別し、その結果、的であれば、③早期警戒管制機から要撃指令を出し、即、④撃破するという流れです。

 このような対策で重要なのは、操縦技術の高度化、熟練化、そして、機体の高度化、高性能化です。ですから、性能の高い機体を装備するのはもちろんのこと、航空祭で見たようなアクロバット的な高度に訓練された飛行技術も、防空活動に欠くことのできないものだということがわかってきます。

■広報メディアとしてのブルーインパルス
 そもそも、私がこの航空祭に参加したのは、ブルーインパルスを見るためでした。おそらく、ほとんどの参加者がそうだったでしょう。ところが、たまたま入った音楽演奏会の会場で、壁に展示されたパネルを見たのがきっかけで、日本の防空に思いを巡らすようになりました。

 知らないことが多く、ネットでいろいろ調べていくうちに、日々、何気なく聞き流しているニュースも、注意深く読むだけで、日本の安全保障についての大切な情報源になることに気づきました。

 直近のニュースを整理すると、政府関係者がそれぞれ、安全保障の観点から見解を表明し、対応を進めていることがわかります。不穏な東アジア情勢に対し早急に、適切な対応が求められているのです。

こちら →http://www.ssri-j.com/MediaReport/JPN/japan_2017.html

 ここでピックアップされた情報だけでも、日本の未来を大きく左右する事態が進行しることがわかります。これを見ると、先ごろ、安部首相が「国難突破解散」をし、第48回衆院選を決行した理由も理解できるような気がします。日本はいま、今後どういう事態に発展するかわからない状況下に置かれているのです。だからこそ、安部政権に対する国民の信を問うておく必要があると判断されたのでしょう。

 戦後70年が過ぎ、戦争の悲惨さを知っている人はごくわずかになってしまいました。多少の不満はあっても、日本国内では、一見平和で穏やかな時間が流れています。ちょっとした兆候から戦争を想起する人もほとんどいませんし、防衛に関心を持つ人もそう多くはないでしょう。

 ところが、いつの間にか、日本を取り巻く環境はきわめて厳しいものになっていました。有事のための備えは大丈夫なのか、日本の防衛体制はどうなっているのか、等々。次々と、不安な思いが脳裏を過っていきます。

 さて、今回、入間航空基地内で、ブルーインパルスを楽しむ人々を多数、目にしました。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 青空の下、老若男女、誰もがピクニック気分で楽しめる航空ショーとして、ブルーインパルスは抜群の魅力がありました。大空のどこからともなく轟音が聞こえてくると、人々は歓声をあげ、いっせいに青空を見上げて音がした方向を探り、スマホあるいはカメラを向けます。

 機体はあっという間に姿を消し、見えなくなってしまいますが、飛行後は、華麗な飛行機雲が残されます。青空を舞台に描かれたアートといっていいでしょう。操縦士たちはまるでアーティストのように、卓越した操縦技能でさまざまな飛行機雲を創り出し、観客を楽しませてくれたのです。

 澄み渡った青空の下で人々が、ショーアップされた飛行を楽しんでいたことを、私は改めて、思い出します。熟練のパイロットが操縦するのですから、他では見ることができない貴重なショーでした。だからこそ、ブルーインパルスのアクロバット飛行には、大勢の人々を引き付ける大きなパワーがあることも再認識できました。

 航空自衛隊にとって、ブルーインパルスがどれほど大きな広報効果を持っているのか、はかり知れません。当然のことながら、これを宣伝に使うことは可能でしょう。航空自衛隊の存在をできるだけ多くの人々に知ってもらい、日本の防空体制の現状を知ってもらう契機になることは確かです。

 そうして、人々の防衛意識が高まってくれば、民意に沿う防衛体制を構築していくこともできるのではないかと思います。のほほんと暮らす人々の防衛意識を喚起するために、ブルーインパルスをもっと効果的に活用できるのではないでしょうか。ハート形の飛行機雲を思い起こしながら、私はふと、そんなことを思ってしまいました。(2017/11/10 香取淳子)

第48回衆院選:自民圧勝、小泉進次郎氏スピーチの威力

■第48回衆院選の結果
 2017年10月22日、第48回衆院選の投開票が行われました。午後8時を過ぎると各局いっせいに開票速報を伝え始めました。早々と当確を出した候補者もいれば、なかなか当確が出ない候補者もいます。候補者の事務所から中継される悲喜こもごもの当落風景は、いつもながらの開票速報でした。

 開票が始まると早々に、自民党の優勢が明らかになっていきました。最終的に自民党と公明党を合わせた議席数は313議席にも及び、全465人のうち、3分の2以上を占める安定多数となりました。予想を大きく上回る与党の圧勝でした。

 さて、今回の衆院選挙には、「1票の格差」是正のための改正公選法が適用されました。小選挙区では「0増6減」、比例代表では「0増4減」、計10名の議席数が削減されました。つまり、小選挙区が青森、岩手、三重、奈良、熊本、鹿児島の6県、平井代表は東北、北陸信越、近畿、九州の各ブロックが1減の対象となったのです。その結果、全体で465議席を争う選挙となりました。

こちら →
(2016年3月15日、日経新聞より。図をクリックすると、拡大します)

■自民圧勝
 今回の選挙は新たな区割りの下で行われたので、ほとんどの既存政党は議席数を減らしました。定数が削減されたのですから、当然といえば当然の結果です。ところが、既存政党の中で唯一、公示前と同数の議席数を獲得したのが自民党でした。実質的な増加です。

 今回の選挙では、希望の党や立憲民主党といった新党の立ち上げが話題を呼び、関心を集めてきました。一時は、与党が大きく敗退することも予想されました。それなのに、開票してみれば与党の圧勝でした。なぜ、このような結果になったのでしょうか。

 選挙ドットコムを見ると、衆議院の獲得議席数は政党別に整理され、公示前の議席数と比較して、以下のように図示されています。

こちら →
(http://go2senkyo.com/articles/2017/10/23/33197.htmlより。図をクリックすると、拡大します)

 これを見ると、公示前と比べ、議席数を大きく伸ばしたのが「立憲民主党」だということが一目でわかります。解散以前にはなかった政党です。野党2位にランクされた「希望の党」も同様、今回の衆院選で新たに設立された新党です。投開票日、全国各地を襲った大型台風よろしく、今回の衆院選を襲ったもう一つの台風の目は、この「希望の党」と「立憲民主党」でした。

 再び、選挙ドットコムを見て見ましょう。興味深いグラフがありました。

こちら →
(http://go2senkyo.com/articles/2017/10/24/33251.htmlより。図をクリックすると、拡大します)

 これは政党別に当選率を図示したものです。自民党は332人の候補者のうち当選者は281人で、当選率は84.6%です。このグラフでトップにランクされています。次位が立憲民主党で78人中54人が当選しており、69.2%の当選率です。以下、公明党、希望の党、維新の党、社民党、共産党といった順で続きます。

■希望の党の惨敗
 興味深いのは、希望の党からは235人中わずか50人しか当選しておらず、21.3%の当選率でしかなかったことです。政権交代を目指すといって、過半数の235人もの候補者を立てたにもかかわらず、この惨状です。しかも、希望の党の代表、小池百合子氏の地盤である東京選挙区では、側近と目されていた候補者は落選し、民進党から移籍した候補者一人しか当選しませんでした。

 いったい、何が起きたのか。

 9月25日、安倍首相が衆院の解散を告げる記者会見の直前に、小池東京都知事が単独で記者会見を行いました。そこで、「希望の党」の設立を表明し、自分が代表になると宣言したのです。いってみれば、政権への奇襲攻撃でした。

 「国難突破解散」というネーミングもかすんでしまうほど、「希望の党」は各政党に衝撃を与えました。その後、希望の党は次々と話題を提供し、いっとき、政権交代もありうるかと思わせるだけの勢いがありました。

 ところが、大きく膨らんだ風船もちょっと一突きするだけで、あっという間にしぼんでしまうように、投票前には希望の党の勢いは陰りを見せ、開票結果は無残なものでした。言葉の力によって、新党への期待が冷え込んでしまったのです。今回ほど、言葉の威力を感じさせられた選挙はありません。

 大きく膨らんだように見えた希望の風船を一突きしたものはいったい、何だったのか。そして、自民圧勝をもたらしたものは何だったのか。政治家のキーフレーズを追いながら、その効果、あるいは作用を考えてみたいと思います。

■希望の党の立ち上げ
 9月25日、小池都知事が単独で記者会見を行い、「希望の党」の設立を表明しました。安倍首相が会見するといわれた予定時刻の3時間半前、まるで首相の機先を制するかのように、奇襲攻撃をかけたのです。希望の党が一気に人々の注目を浴びたのはいうまでもありません。

こちら →http://www.huffingtonpost.jp/2017/09/25/kibou-party_a_23221556/

 驚いたのは、都知事である小池氏が新党の代表になると単独会見で宣言したことでした。しかも、この新党設立にむけて案を練り上げてきた若狭勝氏、細野豪志氏らの案をリセットするというのです。これを聞いた時、私はもやもやとした違和感を覚えました。

 新党設立のため奮闘してきたメンバーの努力をいとも簡単にリセットたこと、設立メンバーを同席させず、自身が代表になると単独会見で表明したことなどに、なんともいえない違和感を覚えたのです。

 果たして設立メンバーと相談した結果だったのでしょうか。気になって、後で調べてみると、細野氏らが、小池氏の党首就任を知らされたのは、この記者会見のわずか1時間前だったそうです。

 小池氏の会見を見てから、その政策にざっと目を通してみました。それだけで私は、「希望の党」が胡散臭い政党ではないかと思うようになりました。たとえば、「消費増税の凍結」「原発ゼロ」など、俗受けのする言葉が並んでいます。さらには、「12のゼロ」と名付けられた、「花粉症ゼロ」「待機児童ゼロ」「満員電車ゼロ」等々。

 これを読んでいるうちに、希望の党は、実績がないだけではなく、ひょっとしたら、実体もなく、ただイメージを喚起するだけの政党ではないのかと不安になってきたのです。会見を見て感じたなんともいえない違和感は、うわべだけの実体のなさを感じ取ったからかもしれません。

■希望の党への合流を決めた民進党
 9月28日、代表に選ばれたばかりの民進党の前原誠司氏が、衆院選を巡って奇妙な方針を打ち出しました。新進党所属の衆院議員らに向かって、党籍を残したまま「希望の党」の公認候補として立候補させるというのです。それも、「民進党からの立候補は認めず、現在の公認は取り消す」という、かなり強引なものでした。

こちら →
http://www.sponichi.co.jp/society/news/2017/09/28/kiji/20170927s00042000453000c.html

 おそらく多くの人々がそう思ったにちがいないのですが、不思議なことに、民進党の議員たちはこの方針を呑みました。彼らは動揺して思考停止状態に陥っていたのかもしれません。あるいは、都知事選、都議選で圧勝した小池人気にあやかって、この衆院選を乗り切ろうと思っていただけなのかもしれません。

 たしかに民進党は、選挙直前に不祥事が次々と明らかになっていました。この時期に選挙を戦っても、とても勝てる状況ではなかったのです。すぐには理解しがたい奇妙な方針は、民進党議員たちの動揺した心理に付け込んだ奇策だったといえるでしょう。

 28日に開催された党両院議員総会で、前原氏は、「1強多弱といわれる状況にじくじたる思いを持っている」とし、「政権交代を実現する大きなプラットフォームをつくる」ために決断したといっています。

こちら →http://www.asahi.com/articles/ASK9X67HDK9XUTFK023.html

 「国難突破解散」とネーミングされたほど、緊迫した状況下で実施される今回の衆院選であったにもかかわらず、民進党代表の前原氏には、半島情勢や日本をめぐる世界情勢は視野に入っておらず、「政権交代」しかなかったことがわかります。

 希望の党にしてみれば、民進党代表の前原氏に勇気ある決断によって、野党勢力を結集し、その中心になることができます。願ってもない支援に思えたことでしょう。なによりも、経験のある候補者を多数確保できるうえに、政府からの交付金も手にすることができます。過半数の233名以上の候補者を立てることができれば、一気に大政党になりうるのです。

 設立されたばかりの希望の党には人材、資金が不足していました。人気はあっても、実績もなければ、実体もなかったのです。一方、人気のない民進党には人材はあり、資金もありました。ですから、傍目には両党の合体は申し分ないように思えました。

 民進党が加われば、立ち上げたばかりの希望の党が一気に野党第一党になる可能性があります。政権を左右できる勢力になりうるだけではなく、場合によっては政権交代の可能性もありました。まさに民進党代表の前原氏が望む「政権交代」を実現できるかもしれませんでした。

 これで、一気に風向きが変わりました。希望の党には、民進党を巻き込む大きな流れができ、いっとき、保守を基盤とした大きな野党ができるのではないかと思わせるほどの勢いがありました。

 選挙の構図に異変が起きていました。ニッポンドットコム編集部はこの時点での希望の党と各党との関係を以下のように図示しています。

こちら →
(http://www.nippon.com/ja/genre/politics/l00195/より。図をクリックすると、拡大します)

 もちろん、希望の党にとって民進党との合流はメリットばかりではありません。民進党色の強い議員が入ってくれば、せっかく立ち上げた新党のイメージが崩れてしまいます。この時点では、まだ希望の党の「寛容な保守」というキャッチフレーズは損なわれていませんでした。

 ところが、左派色の強い民進党議員が大量に参加してくれば、小池氏が希望の党の立ち上げの際に表明した「保守改革政党」のイメージは崩れます。そうなれば、希望の党は、民進党の単なる衣替えに過ぎなくなる恐れも懸念されました。次第に、小池氏の決断が迫られるようになっていきました。

■「排除いたします」
 9月29日、小池氏は都庁で定例記者会見を行いました。報告を終え、質疑応答に入ると、記者から「国政代表と都知事、二足のわらじの弊害はないか」と問われ、小池氏は、「安倍首相も総裁と総理を兼ねている、何ら問題はないと思っている」と答えました。

 さらに、フリーの記者から「前原代表が希望の党に公認申請すれば排除されないという説明をしたが、知事はこれまで安保、改憲を考慮して一致しない人は公認しないと言っている。お二人の言っていることが違うが、どうなのか」と問われました。小池氏は、「都知事としての会見だから別の場所で」といい、その質問には答えませんでした。都庁のホームページに載せられている会見ビデオにはその後の記録はありません。

こちら →
http://www.metro.tokyo.jp/tosei/governor/governor/kishakaiken/2017/09/29.html

 そこで、YouTubeをチェックしてみると、その場面が収録されたビデオがアップされていました。その映像を見ると、先ほどのフリーの記者の質問に答え、小池氏は、「排除されないということはございませんで、排除いたします」とにこやかに答えています。

こちら →https://www.youtube.com/watch?v=w89Jxtf86q0
(該当シーンは30:45ごろからの映像です)

 これは、定例記者会見から席を移し、希望の党代表として臨んだ記者会見の席上でした。気持ちが緩んだのか、小池氏はポロッと本音を出してしまいました。おそらく、民進党全員を受け入れる気持ちは最初からなかったのでしょう。人材や選挙資金がどれほど欲しかったとしても、民進党を丸抱えしてしまっては、希望の党の存在意義がなくなってしまいます。そういう気持ちがつい、出てしまったのでしょう。

 この発言についてはその後、批判は出ましたし、希望の党の勢いが減速した原因ともいわれました。でも、私は、新党を立ち上げた小池氏にしてみれば、当然の発言だったと思います。

 この発言に続き、民進党からの移籍希望者に対し、安保、改憲などでの同意が選別基準にされていると報じられました。政党として一緒に行動していくにはこれも必要な作業でしたが、それらの選別条件は「踏み絵」といわれ、これもまた、テレビで何度も放送されました。

 希望の党にとって不幸なことは、党にとって必要な作業であったにもかかわらず、選別作業が「排除」、「踏み絵」といった言葉でレッテル張りされるようになっていったことでした。いずれもネガティブなイメージを喚起する言葉です。

 日本社会ではとくに、この種の言葉は拒否的な感情で人々に受け止められがちです。つまり、ネガティブな訴求力が強い言葉なのです。訴求力が強いからこそ、マスメディアはこれらの言葉を繰り返し、使いました。テレビでいえば、そうすれば、視聴率があがるからでした。その結果、希望の党の勢いが急速にしぼんでいきました。

■小泉進次郎氏と駅前対話@としまえん
「都民の日に、小泉進次郎氏と駅前対話@としまえん」というタイトルで、街頭演説会が行われました。10月1日、自民党の東京第9区支部主催の企画でした。

 9時45分から市民からの質問を受け付け、一定数になれば締め切って、16時30分から回答が行われるという企画でした。市民からの質問に回答するのは、自民党筆頭幹事長の小泉進次郎氏、菅原一秀氏(前衆院議員、9区)、鈴木隼人氏(前衆院議員、10区)の3人でした。

 都民の日、天高く晴れ上がった豊島園駅には、約1500人もの市民が集まりました。こんなに大勢のヒトが豊島園に集まったのを、私は見たことがありません。進次郎氏が到着すると、拍手が起こり、人々は握手を求めてやみませんでした。

 10区の鈴木隼人氏、9区の菅原一秀氏の挨拶の後、進次郎氏の演説が始まりました。

こちら →https://www.youtube.com/watch?v=rlirM4VPPoA

 司会者が進次郎氏の登壇を告げると、観衆から、「いよ!待ってました!」の声がかかります。進次郎氏はまさにアイドルさながら、広場を埋め尽くした観衆に熱狂的に迎え入れられました。進次郎氏もまた、それに応えるように、にこやかに観衆に声掛けしながら、集まった人々を巻き込んでいきます。次第に、穏やかで、和やかな雰囲気が生まれていきました。

 進次郎氏はまず、豊島園で開催されていたコスプレに話題を振って、「希望の党は民進党のコスプレ」と声を張り上げます。待ってましたとばかりに、観衆から、「その通り!」という掛け声があがりました。

 そういえば、小池氏はかつてコスプレで魔法使いのサリーに扮したり、リボンの騎士に扮したことがありました。若者有権者へのアピールのつもりだったのでしょうが、そのイメージ戦略に浅薄なものを感じたことをふと、思い出しました。

■出ても無責任、出なくても無責任
 続けて、進次郎氏は、「今回の選挙は責任対無責任の戦い」だと声をあげます。

「1つ目の無責任は、(小池氏が)出ても出なくても、無責任」といいます。その心は、衆院選に出れば、都政放棄の無責任、出なければ、党をなくして希望の党に集まってきたのに、その代表が出ないことに対する無責任」と、二つの側面から小池氏の政治的無責任を揶揄したのです。見事な言い回しで、進次郎氏は希望の党の弱点を突きました。

 次いで、小池氏を支えてきた若狭勝氏について、話題を向けます。

 若狭氏は当時、民進党から希望の党への移籍希望者の選別作業を行っていました。選別基準の一つは安保法制に賛成かどうかです。ところが、選別作業を行っている若狭氏自身、自民党在籍時には安保法制を否定し、国会を欠席しています。

 若狭氏は自民党員であった当時、安保法制に賛成しなかったのです。細野氏も同様、民進党員であった当時、激しく反対しています。ですから、条件を満たしていないヒトが希望の党の選別作業を担当していることになります。進次郎氏は希望の党が行っている矛盾を的確に指摘し、これを「二つ目の無責任」だと分類したのです。

 三つ目の無責任として、民進党から希望の党に移籍しようとしている人々を指し、「選挙目当てに、いままで言ってきたことと逆のことをいう無責任」と進次郎氏は非難しました。安保法制に反対し、プラカードを掲げて国会で暴れた人々が、安保法制に賛成という条件を呑み、希望の党に入ったことの矛盾を指摘したのです。たしかに、政治家として無責任極まりない行為だということを思い知らされます。

 観衆からは「そうだ!そうだ!」という声があがり、「その通り!」という声も響き渡ります。熱狂の渦に巻き込んだスピーチが終わると、進次郎氏は、市民からの質問に丁寧に答え、政治家として何をしているのか、自民党はどういう姿勢でさまざまな課題に臨んでいるのか、などを説明し、徐々に人々の信頼感を高めていきます。そして最後に、9区の菅原氏、10区の鈴木氏の応援を観衆に訴え、演説会を終えました。

■責任と無責任の戦い
 2017年9月30日~10月1日に実施されたJX調査によると、小池氏への支持率は前回(9月23日から24日実施)に比べ、10%も下がりました。ところが、比例東京ブロックの投票意向先を見ると、希望の党がトップで29%、次いで自民党が28%になっています。この時点ではまだ希望の党への期待が高かったことが示されています。

 希望の党にはまだ勢いがありました。ですから、小泉進次郎氏がスピーチのネタに希望の党を取り上げたのは正解でした。進次郎氏は、今回の衆院選を「責任対無責任の戦い」とネーミングし、希望の党の本質を明らかにし、その矛盾を突いたのです。タイムリーで的確、しかも卓越した語り口のスピーチに、どれほど多くの人々が心打たれたでしょうか。

 街頭演説会の開催場所は、豊島園でした。ここは東京9区の菅原氏の地盤ですが、10区とは隣接しています。その東京10区こそ、かつては希望の党代表の小池氏の地盤であり、今は若狭氏の地盤でもある選挙区でした。いわば希望の党にとっての聖地です。

 自民党にしてみれば、10区を制すれば、希望の党代表の側近を落とすことになりますから、希望の党に相当ダメージを与えることができます。その10区に隣接する9区で、進次郎氏は都民の日、希望の党の本質を突くスピーチを展開しました。10区の鈴木隼人氏も臨席し、挨拶をしました。もちろん、進次郎氏は9区の菅原氏、10区の鈴木への応援を観衆に強く訴えたのです。

 どこまでも広がる青空の下、快い音域の進次郎氏の声が広がって、やがて吸い込まれていきます。

 小池氏とその側近であった若狭氏、そして、希望への移籍を望む民進党議員たちの矛盾とその欺瞞を暴き、それぞれ、無責任だと進次郎氏は指摘しました。そして、今回の衆院選は「責任と無責任との戦い」だと言い放ちました。暗に、責任を持って政権運営をする自民党と、無責任なまま野合したにすぎない希望の党を比較し、どちらを選ぶかを観衆に問うていました。

 そのような暗黙のメッセージを理解したのかどうかわかりませんが、集まった観衆からは「そうだ! そうだ!」の声があがりました。駅前広場には熱気があふれ、人々の間に一体感が広がっていきました。進次郎氏の鋭い一撃が観衆の心を射抜いたのです。

 一方、進次郎氏は、当日寄せられた市民から国政への質問を受け付け、ひとつひとつ丁寧に答えていきました。まるで、責任ある政党はこのように、市民一人一人の声に耳を傾け、政策に反映させていく努力をするものだといわんばかりでした。

 ここでもさり気なく、責任ある政党としての自民党をアピールし、実績もなく選挙目当てで結成された希望の党を比較し、その是非を観衆に問うているかのようでした。

 観衆は進次郎氏の絶妙なスピーチに酔い、一体感をかき立てられていました。晴れ上がった青空の下、魅力的な政治家とともに、日本の今を考え、そして、未来を想像したのです。集まった人々の気持ちがどれほど満たされたことか。画面に映る市民の顔それぞれに満足感が浮かんでいるのを見れば、スピーチの効果がわかります。

 最後に進次郎氏は、並みいる観衆に向かって、ふたたび、9区の菅原氏、10区の鈴木氏の応援を訴えました。絶妙なタイミングで開催された自民党の街頭演説会でした。

■立憲民主党の立ち上げ
 希望の党は各方面にさまざまな波紋を広げていきました。最も深刻な影響を受けたのが、民進党です。民進党代表の前原氏の説明を聞いて、全員、希望の党に移籍できると思っていたのに、希望の党から選別されることが判明しました。彼らが動揺したのは当然のことです。結党の動きが加速していきました。

 10月2日、民進党の枝野幸男氏は都内で記者会見し、新党「立憲民主党」の結成を表明しました。設立メンバーは、行き場を失った民進党の前職、元職、新人で30人前後になると見積もられました。

こちら →
(川上智世氏撮影、2017年10月3日、中日新聞。図をクリックすると、拡大します)

 枝野氏は立憲民主党の基本理念について、「立憲主義、民主主義、自由な社会を守っていく」と述べました。希望の党については、「理念や政策が異なる」とし、希望の党に入れなかった民進党出身者とは「排除せず、共に闘う」と述べました。

こちら →https://www.youtube.com/watch?v=73zkhuPMBHI

 希望党から排除された人々が、いずれは結党して新党を作るだろうとは思っていました。案の定、小池氏の排除発言から3日後、民進党から新たに結党宣言が表明されましたが、いかにもそれらしい党名がすぐに決まったことに私は驚きました。

 東京新聞はこのような一連の動きを整理し、解散表明前の状況と10月3日時点での状況を下図のように整理しています。

こちら →
(2017年10月3日、東京新聞より。図をクリックすると、拡大します)

 民進党が、希望の党、立憲民主党、無所属と3つの勢力に分かれて戦うことが明確になりました。公示日1週間前になってようやく、第48回衆院選の構図が明らかになってきたのです。

■出馬を促される小池氏
 衆院選に出馬するのか、しないのか、明らかにしようとしない小池氏の態度に、批判が集まるようになっていました。小泉進次郎氏がいうように、小池氏は、「出ても無責任、出なくても無責任のジレンマ」に陥っていたのでしょう。まさに、「どちらかの無責任を選択」せざるを得ない状況に追い込まれていたのだと思います。

 こんな記事がありました。

こちら →https://www.nikkei.com/article/DGXMZO21788920S7A001C1PP8000/

 10月2日夜、政権交代を目指すかと問われ、小池氏は、「基本的にチャレンジャーなので、そこは目指すということ」と答えたというのです。ようやく小池氏は、衆院選に出ることをほのめかしました。

 自民党の菅官房長官は、2日の記者会見で、「国を想うのであれば、(小池氏は)堂々と出馬宣言をして、真正面から政策論争をやっていくことが必要だ」と述べていました。同日夜の発言でしたから、小池氏は菅氏のこの発言を意識していたと思われます。だとすれば、とりあえず、出馬の含みを残した発言をしただけなのかもしれません。

 一方、立憲民主党は活発な動きを見せ始めていました。それなのに実際は、小池氏の出馬はまだ確定したものではありませんでした。民進党の前原氏は強い不安に駆られたのでしょう、小池氏に会見を求めました。

 10月5日、民進党代表の前原誠司氏と会談した小池氏は、改めて、「国政に出ません」と宣言しました。希望の党の代表であるにもかかわらず、小池氏は出馬しないと表明したのです。小池氏は、「二つの無責任」のうち、希望の党に参集した人々に対する無責任の方を選択したことになります。

こちら →
(2017年10月5日、中日新聞より。図をクリックすると、拡大します)

 前原氏の表情が虚ろです。考えもしなかった結果だったのでしょう。

■世論調査の結果
 そもそも、小池氏が希望の党の代表に就くこと自体、世論の賛意は得られていませんでした。

 たとえば、9月30日に明らかにされた緊急全国世論調査(読売新聞実施)の結果によると、「都知事の仕事に専念すべきだ」(62%)がトップで、「党の代表と都知事の兼務を続けるべき」(21%)、「都知事を辞職して、衆院選に立候補すべきだ」(12%)でした。

 このような結果を知ると、小池氏はとても出馬するわけにはいかなかったことがわかります。一方、衆院選で公認候補者を立てず、希望の党から出馬させるとした民進党の方針もまた、世論から評価は得られていませんでした。

 先ほどの世論調査の結果を見ると、前原氏が採った方針を「評価しない」(63%)、「評価する」(24%)でした。さらに、希望の党は「理念や政策が一致できる人だけ受け入れるべき」(79%)、「すべて受け入れるべき」(9%)でした。

 こうしてみると、衆院選を控えて右往左往する前議員たちの動きに踊らされることなく、人々は冷静な判断を下していたことがわかります。そして、公示日前には、一連の政治ショーも、収斂しつつありました。

 マスメディアの興味本位の報道にもかかわらず、有権者はむしろ、日ごろから地道に民意を探り、勉強を重ね、丁寧に政策を説いてきた政党を評価するようになっていったのではないかという気がします。選挙戦が始まり、選挙戦終盤あたりから、与党の優勢が伝えられるようになっていました。結果は自民党の圧勝でした。

こちら →https://www.nikkei.com/article/DGXMZO22561010S7A021C1MM8000/

 この記事で興味深いのは、「安部政権への批判を強めていた希望は、小池氏が基盤とする東京を含め選挙区で伸び悩んだ。比例でも苦戦し、公示前の57議席に届かなかった」と解説されていることです。

 選挙に強いと思ったからこそ、小池氏の下に馳せ参じた人々は、その希望を無残にも打ち砕かれたのです。「保守改革」の野党として出発した希望の党が、終盤には左派野党と同様のロジックで安部政権の批判を繰り返しました。さまざまなところでブレが目立ちました。民意を得るにはそもそも無理があったのかもしれません。

■投票前日、小泉進次郎氏の街頭演説
 10月21日、15時30分から、小泉進次郎氏の街頭演説が開催されるというので、行ってみることにしました。投票日の前日です。

こちら →

 当日になると、雨が強く降ってきました。一瞬、どうしようかと迷いましたが、投票日前日に進次郎氏の街頭演説を聞くなど、滅多に経験できることではないと思い直し、出かけることにしました。15時ちょっと過ぎぐらいに開催場所に着きましたが、雨の中、すでに大勢の人々が集まっていました。

 駅前の歩道橋には傘をさした人々が並んでいました。

こちら →

 このあたりは、進次郎氏が演説するであろう場所を見るにはちょうどいい場所でした。時間が経つにつれ、混み始め、立錐の余地もないほどになっていきました。

こちら →

 開催時刻に遅れて、進次郎氏が到着しました。アナウンスが聞こえると、まるでアイドルの到着を待ちかねていたように、雨の中、人々の中からざわめきが起こります。進次郎氏も車窓から身を乗り出すようにして、手を振っています。

こちら →

 練馬駅前は東京9区、菅原一秀氏の地盤です。豊島園のときと同様、今回も10区の鈴木隼人氏とともに、まずこの二人が車上で挨拶しました。鈴木氏や菅原氏が演説をしている最中、進次郎氏は観衆に向かってずっと手を振っていました。

こちら →

 いよいよ、進次郎氏の出番です。

こちら →https://www.youtube.com/watch?v=zKgyZtWcXec
(16:36秒ごろから小泉進次郎氏の演説が始まります)

 豊島園の時と同様、まず、観衆への感謝から始まりました。そして、集まった人々を見渡し、具体的に指しながら、感謝していきます。いってみれば、進次郎氏の街頭演説のイントロです。観衆はこのイントロの間に、進次郎氏がちゃんと自分たちをみてくれているという気分になっていきます。進次郎氏は観衆の中から何人かピックアップして話しかけます。そうしていくうちに、しだいに和やかな雰囲気が生まれてきます。

■真の豊かさとは何か
 進次郎氏はこの選挙期間中、北海道から沖縄まで20都道府県、70か所で応援演説をしてきたといいます。各地を回っている間に、真の豊かさとは何か、自民党はどういう政党を目指すべきかを考えさせられたといいます。

 今日は山形からやってきたといい、山形では見渡すかぎり田園が広がり、果物がたわわに実り、そして、川べりでは人々がイモ煮を楽しんでいると語りかけます。一方、東京に帰ってくれば、ビルが林立する中、人々が暮らしをしている。果たして、豊かさとは何かということを考えさせられてしまったというのです。

 経済を担っているのは東京ですが、その食を支えているのは地方です。そして、秋田で有権者から言われたという話を、進次郎氏はしみじみと語ります。

■国民政党への道
 希望の党が「満員電車ゼロ」にする公約を掲げているが、秋田では「満員電車をみてみたい」といわれたというのです。そして、東京では待機児童の解消が問題になっているが、地方では待機する子どもがいないと続けます。具体例をあげながら、人口が減少している地方の実態をなまなましく伝えているのです。

 だから、都会のことだけを考えて国造りをすると、誤るし、地方だけ見ていても、誤る。さまざまな立場の人々の日々の暮らしを支える国造りをしていくことが大切だといい、それには、東京で求められていることは何か、地方で求められていることは何か、両方を考えながら、国造りをしていく必要があると指摘するのです。

 そして、進次郎氏は、自民党が目指すべきはそのような都会と地方の課題を考え、解決していく国民政党への道だと言い切ります。さらに、いまはまだ国造りの道半ばだが、いまのままの自民党でいいとは決して思っていないといい、人々が応援したくなる自民党を作っていきたいと続けます。

 最後に、信頼される国民政党を作っていくには、菅原一秀さんのような兄貴分と、鈴木隼人さんのような同世代の人と連携していく必要があると声をあげます。そして、ぜひ、この二人を応援してほしいと訴え、演説を終えました。惚れ惚れとするほど、見事な演説でした。

 これから池袋に向かうと進次郎氏はいいます。進次郎氏が向かう先は東京10区。希望の党代表の小池氏のかつての地盤であり、いまは側近の若狭氏が継いでいる選挙区です。最後に止めを刺すつもりなのでしょうか。

■東京10区を制した小泉進次郎氏
 10月21日、進次郎氏が練馬駅北口広場から次に向かった先は池袋西口でした。

こちら →https://www.youtube.com/watch?v=OlO–T4NjGU
(2:20ごろから進次郎氏の演説が始まります)

 選挙期間中、進次郎氏は応援演説の最初を池袋で始め、そして、最後も池袋でした。すでに日は落ち、暗闇の中でライトに照らされた進次郎氏は、「感謝に始まり、感謝で終わりたい」といいます。池袋が地盤の小池氏にも感謝をしたいといいました。敵対する相手を非難するのではなく、糾弾するのでもなく、感謝したいというのです。聞いていて、とてもさわやかな気持ちになりました。

 実は進次郎氏は自身、この選挙戦を戦わなければならない身でした。ところが、全国各地の自民党候補者に請われ、その応援に回りました。その中でも突出しているのが、東京10区の鈴木隼人氏でした。初日に始まり、最終日に至るまで、合計4回も、超過密スケジュールを縫って進次郎氏は応援にかけつけました。

 その結果、鈴木隼人氏(40歳)は、希望の党の聖地である東京10区で、小池氏の側近、若狭勝氏(60歳)を破って、当選しました。知名度の低い鈴木隼人氏が小池氏のお膝元で当選したのです。その背景には、本人の努力はもちろんのこと、進次郎氏が4回も応援演説に駆け付けてくれていたことが大きく貢献していたのではないかと思います。

 小泉進次郎氏の応援演説を実際に見てきました。どれも、向かうところ敵なしの強力な応援演説でした。ネット時代のいま、優れた演説はすぐにもネットにアップされ、いつでも見ることができます。改めて政治家にはスピーチ力が不可欠だと感じさせられました。

 第48回衆院選で自民党が圧勝しました。その背後には進次郎氏の政局に合わせたタイミングのいいスピーチ力が大きく貢献していたのではないかと思います。(2017/10/31 香取淳子)

絹谷幸二展:越境する表現者の輝き

■「絹谷幸二 色彩とイメージの旅」展の開催
 書店でたまたま手にした雑誌で、「絹谷幸二 色彩とイメージの旅」展が開催されていることを知りました。読むと、なにやらとても面白そうな展覧会です。絹谷氏についてはこれまで名前を聞いたことはありますが、作品を見たことはありません。ざっと記事を読み、興味をかき立てられました。

 記事の中には絹谷氏の顔写真も掲載されていました。眼光が鋭く、岡本太郎を彷彿させる強烈なエネルギーを感じさせられました。その一方で、どこか人懐こく、好奇心旺盛ないたずらっ子のような雰囲気もあります。本質を見通す眼力だけではなく、そこはかとなく稚気を感じさせる風貌だったのです。絹谷氏はひょっとしたら、途方もなくスケールの大きな画家なのかもしれません。

 展覧会に行ってみようかな・・・と、気持ちが揺らぎました。とはいえ、会場は京都国立近代美術館です。気軽に足を運べる場所でもありません。そう思うとたちまち興味は薄れ、そのまま、展覧会のことは忘れていました。

 しばらくして、再び、絹谷幸二展の案内を見る機会がありました。今度はチラシです。そこには、荒々しく躍動的な仏像の絵、多彩な色遣いが印象的な女性の肖像、不思議な造形物などが掲載されていました。どれも意表を突かれるような作品でした。まさに自由奔放、稚気横溢、融通無碍の世界です。ほとばしるような創作のエネルギーを感じました。

 そう感じた途端、私の気持ちが固まりました。遠くても、京都まで行ってみようと思ったのです。チラシで見た絵や造形物はいずれも異彩を放っていました。その源泉はいったい何なのか、この目で実際に見て、確かめてみたいという気持ちが強くなったのです。

 新幹線の京都駅を降り、市バスに乗って岡崎公園・平安神宮・美術館前で下車すると、ちょうど目の前が京都国立近代美術館でした。平安神宮の朱色の鳥居の左手に見える建物が、美術館です。

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(図をクリックすると拡大します)

 この写真は、京都駅行のバス停から撮影したものです。ここで絹谷幸二展が開催されているのです。閑静な一角にある美術館は、朱色の鳥居を前にしているせいか、まるで異空間への入口のように見えました。過去と現代、日本とグローバル世界、そして、リアルとバーチャル、さまざまに対立しながら共存する世界が私を待っていました。

■オープン・ザ・ボックス・オブ・パンドラ
 建物の中に入ると、すぐ目の前に見えてきたのが、巨大なオブジェ、「オープン・ザ・ボックス・オブ・パンドラ」です。あまりにも巨大で、これがチラシに掲載されていたあの不思議な造形物だとはすぐにはわかりませんでした。展覧会の受付の近くの階段下に、聳え立つように展示されていました。

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(ミクスト・メディア、スチロフォーム、400×185.0×185.0㎝、1990年制作。図をクリックすると、拡大します)

 この写真は正面から撮影したので、立体だということがよくわかりませんが、実は直方体のオブジェです。その右上方には、展覧会の案内表示が見えますから、今回の絹谷幸二展に向けた前奏として用意されたのでしょう。タイトルを見ると、「オープン・ザ・ボックス・オブ・パンドラ」です。まるで入場者に向かって、「パンドラの箱を開けよ(Open the box of Pandora)」と煽っているかのようでした。

 「パンドラの箱」はよく知られている寓話です。
パンドラの箱を開けると、さまざまな災厄が出てきましたが、最後に出てきたのが希望でした。ですから、どんなことがあっても絶望しないで生きることができるというメッセージがこの寓話に込められています。

 ギリシャ神話に基づくこの寓話を思い返してみると、絹谷氏がこの作品にこのタイトルを付けたことの意図が見えてくるような気がしました。行動する前に結果を読んでしまい、何もできなくなってしまっているヒトが増えています。その結果、いつごろからか、現代社会には閉塞感が充満するようになっています。絹谷氏がこのタイトルになんらかのメッセージをこめていることは確かでしょう。

 恐れることなくパンドラの箱を開けて、まずは現実を直視しなさい。たとえ何が起ころうと、最後には希望が残されているので、思い切りよく現実社会に飛び込んでいきなさい・・・。

 そんなメッセージが込められているように私には思えました。色彩豊かに、稚気と野性味あふれる世界を描き出したこの作品は、そのような日本の現状への警告のようにも思えます。まさに、何が出てくるかわからない展覧会「色彩とイメージの旅」への誘いにふさわしいオブジェでした。

〇多彩で多様なモチーフ
 もう一度、オブジェを見てみましょう。今度は立体であることがわかる図を用意しました。

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(図をクリックすると、拡大します)

 鮮やかな色彩に、複雑で多様なモチーフ、そして、溢れ出るようなイメージの洪水です。まず目につくのが、正面の顔と横顔が合成されたヒトです。画面に占める割合が大きいせいか、異様な風貌がことさらに印象深く、度肝を抜かれます。

 両目からは涙が流れ落ちており、悲しそうな表情が気になります。黄色で描かれた鼻筋はすっきりとしたラインが際立っており、誇り高さが感じられます。その際立つ黄色が、中ほど左に描かれた「Yes」の文字色に呼応しており、見る者の視線はごく自然に、その方向に誘導されていきます。

 大きな「Yes」の文字の横、右斜め方向に、やはり黄色で「or」の文字、そして、その隣りには、色を変え、ひっそりと隠れるように、「no」の文字が描かれています。絵画の中にアルファベット文字が描かれているのです。このような絵は見たことがありません。意表を突かれる思いがしました。

 「Yes」が大きく目立つ黄色で描かれ、「no」が小さく目立たない色で描かれていることから、このアルファベット文字列の中では、「Yes」に力点が置かれていることがわかります。ものごとを肯定的に捉えることの重要性が示唆されているのでしょうか。

 さて、アルファベット文字の下には、蓮の葉のようなものの上に立って、銃を構える兵士が描かれています。兵士の顔や身体は板目のはっきりした木片で構成されていますから、おもちゃのように見えます。

 ひょっとしたら、このモチーフは、上方で描かれている涙を流しているヒトに関連しているのかもしれません。つまり、ひとたび戦闘行為があれば、近親者が亡くなる場合もあれば、傷つく場合もあります。そうなれば、家族や友人、知人が悲嘆にくれることは必至です。涙なしには過ごせなくなります。おもちゃのような兵士が「原因」であるとするなら、涙を流しているヒトは「結果」なのでしょう。

 さらに、二つのモチーフの位置関係を見ると、涙を流しているヒトが上方で大きく描かれていますから、絹谷氏が悲嘆の方に力点を置いていることがわかります。ここに、アンチ戦闘、あるいは、対立への拒否的感情が表現されているといえるでしょう。

〇モチーフに埋め込まれたメッセージ
 二つのモチーフの関連をこのように解釈したとき、「Yes or no」の文字の意味が理解できるような気がしました。「Yes or no」はおそらく、「yes」あるいは「no」の選択肢しか用意されない二項対立の思考法を示すものでしょう。つまり、西洋の思考方法を示唆するものと考えられます。そして、このような思考法は、論理的思考法の基盤になるものではあっても、ヒトから寛容さを奪い、挙句の果ては、戦闘を引き起こしかねないという懸念が表現されているように思えます。

 正面から撮影した写真ではわからなかったのですが、この写真を見ると、左上から突き出た赤い図形のようなものが、太陽光線の一部だということがわかります。左上から隣の面にかけて、上部に真っ赤な太陽とその光線が描かれているのです。まるでヒトの営みをすべて見通しているといわんばかりに配置されています。

こちら →
(部分的に撮影。図をクリックすると、拡大します)

 それでは、正面からの写真と、左面を含めた写真とを見比べながら、この作品の含意を見ていくことにしましょう。正面からの写真では、ヒトはともすれば戦い、傷つき、そして、嘆き悲しむといったような局面が描かれています。いってみれば、二項対立の思考法の問題点が示唆されています。

 そして、左面を含めた写真では、上方に真っ赤な太陽が大きく描かれています。ここでは、ヒトの営みすべてに太陽が暖かく射し込み、光とエネルギーを降り注いでいるというメッセージが込められているように思えます。

 つまり、複数面で構成されたこのオブジェは、総体として、ヒトが生きていく過程でどんな災難に遭遇したとしても、最後には太陽の恵みが残されているという含意を読むことができます。このように読み解くと、改めて、この作品が絹谷氏の捉えた「パンドラの箱」だということがわかります。

〇基本モチーフと制作姿勢
 このオブジェからは、平面を使って立体的な世界を創り出そうとする絹谷氏の制作姿勢が透けて見えます。先ほども述べましたように、正面で描かれたモチーフは左面で描かれたモチーフと関連しています。面をまたいでモチーフを関連づけることによって、絹谷氏は様々な事象が相互に影響しあい、関連しあう複雑な現実社会の一端を見事に表現していました。

 現実社会はさまざまな境界によって、仕切られているように見えます。ところが実際は、境界を越え、あるいは境界を跨って、ヒトやモノはつながり合い、関係しあっています。一見、無関係に見える事象すら時空を超え、有機的に相関しています。森羅万象、皆つながりあって生きており、地球という空間の中で存在しているのです。

 絹谷氏はおそらく、そのようなことをこの直方体のオブジェによって表現したかったのではないでしょうか。

 文字であれ、多面体の肖像であれ、異質で多様なモチーフが同じ画面で相互に関連し合いながら、多彩な色遣いで表現されていました。それだけでは表現しきれなかったのでしょう、絹谷氏は平面を組み合わせ、立体を創り出しました。表現空間そのものを新たに生み出し、交差させながら、複雑につながりあう社会を描き出しました。絹谷氏が自在に越境する精神の持ち主だということが、この作品によって例証されたといえます。

 展覧会を見終え、改めてこのオブジェを見たとき、この直方体には絹谷氏がこれまで制作してきた作品の基本モチーフがいくつも見出されることがわかりました。それだけではなく、制作姿勢あるいは絹谷氏の世界観そのものの本質が、この作品に込められているような気がしました。

 この作品が制作されたのが1990年、絹谷氏が47歳の時です。まさに人生折り返しの時点の作品でした。これまでの集大成ともいえます。とてもシンボリックな作品でした。

 入口のところで、時間を取り過ぎました。それでは、会場に入っていくことにしましょう。

 第1章は「蒼の時代」と銘打たれ、1966年から1971年までの作品が展示されていました。絹谷氏が23歳から28歳までの作品6点です。

■「蒼の間隙」と「窓」
 「蒼の時代」と銘打たれたコーナーでは、「自画像」、「蒼の間隙」、「諧音の詐術」、「蒼の風跡」、「蒼の隔絶」、「窓」の6点が展示されていました。惹きつけられたのが、「蒼の間隙」と「窓」です。

〇「蒼の間隙」 
 まず、「蒼の間隙」から見ていくことにしましょう。

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(文化庁広報誌より。油彩、カンヴァス、130.3×162.1㎝、1966年。図をクリックすると、拡大します)

 見た瞬間、とても斬新でモダンな印象を受けました。1966年、絹谷氏が23歳の時の作品です。いまから50年も前に描かれた作品とは思えないほど、新鮮でした。このコーナーには同時期の似たような色調やモチーフの作品がいくつか展示されていましたが、どういうわけか、私はこの作品にもっとも強く印象づけられました。

 そこで、「蒼の間隙」、「諧音の詐術」、「蒼の風跡」、「蒼の隔絶」を見比べてみました。色調からいえば、4つの作品の中で「蒼の間隙」がもっとも黄色の面積が少なく、しかも、蒼色が濃淡さまざまに、暖色系や白系の色とのバランスよく使われていました。おそらく、そのせいでしょう。4作品ともモチーフは裸婦でしたが、もっとも素直に絵の中に入っていけたのがこの作品でした。

 「蒼の間隙」を見ていると、色調が美しく、画面からは洗練され上品なエロティシズムが立ち上っています。所々に、黄色や青、茶色で半具象の線描きがされており、空間に微妙な奥行きと多層性が与えられています。足元にはハイヒールが転がり、かすかにドラマティックな仕掛けも施されていました。考え抜かれた空間構成と、メインモチーフとサブモチーフの関連づけが巧みで、作品世界に深く引き込まれました。

 これら4作品は、「蒼の間隙」(1966年)、「諧音の詐術」(1966年)、「蒼の風跡」(1969年)、「蒼の隔絶」(1969年)の順で展示されていました。これが制作順なのだとすれば、一連の作品の中では、「蒼の間隙」がもっとも初期の作品だということになります。

 そのことが私には興味深く思えました。早い段階で絹谷氏が完成度の高い作品を制作していたことになるからです。4作品の中ではもっとも素直に作品世界に入っていけたように、この作品には色彩といい、構図といい、奥行きの創出といい、自然で和やかな調和がありました。

 その後の3作品を見ていると、この作品で完成した殻を打ち破ろうとするかのように、次々と新しい試みが加えられていることがわかります。絵の中に新しい要素を見る度、現状に安住しない絹谷氏の果敢な創作精神を見る思いがしました。

 たとえば、「蒼の間隙」と同年に制作された「諧音の詐術」を見ると、黒の線が多用され、都会的で退廃的な雰囲気がよく表現されていました。ところが、私にはそれ以上の何かが足りませんでした。描かれている世界を突き抜けて、見る者の気持ちに響いてくるものが欠けていたのです。

 その後、1969年に制作されたのが「蒼の風跡」、「蒼の隔絶」です。この2作品からは明らかに、「蒼の間隙」の完成度を打ち破ろうとする絹谷氏の意志が感じられます。いずれも黄色と青が多く使われており、都会的で透明感のある独特の雰囲気が醸し出されていました。色遣いが魅力的で、さまざまなモチーフが混在した空間には、快い深さと広がりが感じられました。

 しかも、両作品とも、やや高い位置にモチーフの中心が設定されています。そのせいか、全体に不安定で浮遊感があり、そこはかとなく無常観も漂っています。ただ、メインモチーフの強調部分が写実的に描かれていたので、私には納得のいかないものが残りました。わかりやすいのですが、通俗的に見えたのです。「蒼の間隙」に比べると、この二つの作品はたしかに刺激的で魅力的ではありますが、昇華しきれていないところが私は気になりました。

 それにしても、不思議です。

 「蒼の間隙」は23歳のときの作品です。それがなぜ、半具象という手法を使ったのか。なぜ、これほどまでに現実世界を濾過することができているのか。まるで雑念を払うように、すっきりと無駄なものを省き、作品として昇華することができているのはいったい、なぜなのか。

 そこで、図録の解説を読んでみました。絹谷氏の経歴を知って、なんとなくわかったような気がしてきました。絹谷氏はすでに小中学校の頃から油絵を描き始めていたそうです。市展や県展で入選するほどの画才がありました。絵画で自身の内面を自在に表現する力量はすでに子どものころから持ち合わせていたのです。

 卓越した色遣い、妙味のある構図、洒脱な構成、どれをとっても、一定のキャリアを経なければ得られないものですが、それらをすでに身につけた上で、絹谷氏は東京芸術大学に入学したのでした。

 「蒼の間隙」は卒業制作ですが、これは大橋賞を受賞しています。

〇「窓」
 さて、このコーナーで魅力を感じたもう一つの作品が、「窓(ラ・フィネストラ)」です。

こちら →
(カタログを撮影。アフレスコ、ストラッポ、麻布、50.5×50.0㎝、1971年。図をクリックすると、拡大します)

 見れば見るほど、奇妙な裸婦像です。画面の中央、青い縁取りの椅子に裸婦が足を組んで座っているのですが、裸婦の腿や脚部はまるで臀部かと見まがうほど丸くて太く、足先は極端に細く描かれています。

 顔や上半身は、圧倒的に大きく描かれた下半身に埋もれて、どこにあるのか判然としません。よく見ると、すでに顔や胸、肩、腕は溶け出していて、形がなくなっています。脂肪なのか何なのか、肉体の一部が白い液状のものになって椅子から滴り落ち、床下に流れ出しています。ドアに向かって流れ出しているのもあれば、壁に向かって流れているのもあります。どろどろとした液状のものが、板目のついた床の上を這いまわるように汚しています。

 再び、裸婦を見ると、巨大な腿や腰が強調されていますが、そのラインは必ずしも身体の曲線を際立たせようというものではありません。むしろ、どこかおぼつかなく、頼りなさそうなラインです。やがては上半身と同じように溶けだしていくのでしょう。溶解寸前の脆さがありました。

 よく考えると、不気味な絵です。ところが、「蒼の間隙」で感じた爽やかさがこの作品にもありました。現実の猥雑さが取り除かれていたからでしょうか、あるいは、どこか現実を突き抜けたものがあったからでしょうか。一種の爽快感が感じられたのです。それが奇妙な魅力を放っていました。

■「蒼の間隙」から「窓」への軌跡
 「窓」は、絹谷氏が「蒼の間隙」以来、裸婦を通して追求してきた造形美の到達点のように私には思えました。以前の作品に比べ、抽象化の度合いが高められているだけではなく、牧歌的でユーモラスな雰囲気が加味された上で、苛酷な現実が表現されています。絹谷氏のヒトや社会を凝視する力がいっそう深くなり、想念の象徴化が巧みになっていると思いました。

 この作品で興味深いのは、メインモチーフを真ん中に、壁、ドア、天井、窓によって室内が閉じられていることです。閉じられた空間でありながら、窓は開け放たれており、そこに、外部とのつながりを感じさせる‘抜け’が用意されています。境界を超える自由が残されているのです。

 一方、裸婦の身体から流れ出る液状のものが、椅子を伝って流れ落ち、床を覆い、ドアや壁際にまで滲み出しています。この不定形のものは、直線で構成された空間の息苦しさに耐えかね溶解し始めたヒトのうめきの化身のようにも見えます。空間に拘束される肉体はカタチを崩して滅び、空間を飛翔できる精神は開け放たれた窓から越境できるということなのでしょうか。

 さて、この絵を見るとき、視線は必然的に、メインモチーフの裸婦に向かいます。ところが、この裸婦と思えるモチーフには顔もなければ、上半身もありません。しかも、腿や腰の曲線にエロティシズムの片鱗すらありません。絹谷氏はどうやら裸婦を描きながらも、エロティシズムではなく、ヒトの肉体の脆さ、儚さを訴求しているように思えます。

 もっとも、この絵に悲壮感はなく、どこかユーモラスな温かさが感じられます。直線で囲まれた空間の中に、不定形のモノや、裸婦の腿や腰のおぼつかない曲線が強く印象づけられるからでしょう。さらにいえば、画面全体にザラザラとした砂の感触があって、それが全体に調和しており、描かれている内容の苛酷さを緩和しているのかもしれません。

 図録によると、この作品はアフレスコで制作されたものをストラッポで麻布に添付されたものでした。技法の面でもそれ以前の作品とは大幅に異なっていたのです。この作品にはまだ後年の鮮やかな色彩は見られませんが、モチーフの扱い方に固定観念を崩す大胆さが見受けられます。その後の飛躍を暗示するような作品です。

 こうしてみてくると、「蒼の間隙」から「窓」に至る一連の作品からは、絹谷氏の表現の軌跡ばかりか、思考の軌跡をも読み取ることができるといえるでしょう。いずれの作品にも固定を排除するための揺らぎと動きが埋め込まれ、他者を受け入れる大らかさと曖昧さがありました。初期作品に共通して見受けられたので、これは絹谷氏の本質といえるものなのかもしれません。

 絹谷氏は東京藝術大学絵画科油画専攻を1966年に卒業した後、大学院では壁画を専攻し、アフレスコを研究していました。アフレスコの講義のために1970年に来日したブルーノ・サエッティとの出会いを契機に1971年、イタリアに留学します。イタリアで絹谷氏は何を学び、何を獲得してきたのでしょうか。

 京都国立近代美術館にやってきて、入口に展示されていた巨大なオブジェと初期作品を見ただけで、絹谷氏の自在に越境する精神の輝きに圧倒されてしまいました。次回、その後の作品を追いながら、表現者としての軌跡を辿っていきたいと思います。(2017/9/20 香取淳子)