ヒト、メディア、社会を考える

香取淳子のメディア日誌
このページでは、香取淳子が日常生活の中で見聞きするメディア現象やメディアコンテンツについての雑感を綴っていきます。メディアこそがヒトの感性、美意識、世界観を変え、人々の生活を変容させ、社会を変革していくと考えているからです。また、メディアに限らず、日々の出来事を通して、過去・現在・未来を深く見つめ、メディアの影響の痕跡を追っていきます。


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カイユボットは第二帝政時代をどう描いたか ⑥:プロレタリアートを描く

■第二帝政時代のエッセンスを浮き彫りにした《床の鉋かけ》

 前回は、カイユボットが労働者を描いた二つの作品をご紹介しました。《床の鉋かけ》とそのデッサン、そして、その後に描いた《床の鉋かけ 別版》です。いずれも第2回印象派展に出品されました。

 両作品の舞台は、パリの邸宅に増築されたカイユボットのアトリエです。アトリエは、パリの邸宅のリスボン通り側の右手3階に増築されました。荷物用玄関から別階段で行き来することができるようになっており、工事は1874年に行われました。おそらく、父親がカイユボットのために手配したのでしょう。

 その父親は同年12月24日に亡くなっています。

 ひょっとしたら、カイユボットは父親への思いを込めて、この作品を仕上げたのかもしれません。画題は、このアトリエの床に鉋かけをしている労働者たちをモチーフに作品化したものでした。

 前回、ご紹介しましたが、再び、この作品を取り上げてみましょう。


(油彩、カンヴァス、102×145㎝、1875年、オルセー美術館蔵)

 改めてこの作品を見てみると、上流階級の要素と労働者階級の人々とが一つの画面に収められているのが興味深く思えます。この作品のメインモチーフは労働者ですが、その背景に上流階級の要素がさり気なく組み込まれているのです。

 たとえば、画面左上の窓越しに大きな庇窓が見えますが、その鉄柵が唐草模様のような曲線で造形されています。この部分を拡大してみましょう。


(※ 《床の鉋かけ》の部分)

 バルコニーの優美な曲線の文様を引き立てるように、室内の白壁は、さまざまなサイズの金色の矩形でモールディングされています。窓から室内に入ってきた陽光に金色が映え、白壁が光り輝くような設えになっているのです。アトリエといいながら、凝った仕様になっており、上流階級の邸宅の一部だったことを思い知らされます。

 細部に至るまで豪華な仕様で設えられているところに、宮廷文化を引きずる第二帝政時代の文化様式の一端を見ることができます。また、バルコニーの鉄柵の文様には、オスマニアン様式の建築仕様がしっかりと捉えられていました。

 バルコニーにしろ、室内のモールディングにしろ、この作品の背景には、第二帝政時代を彷彿させる要素が組み込まれており、興趣をそそられます。

 ここで少し、オスマン様式に触れておきましょう。

■オスマニアン様式

 パリ大改造事業は第二帝政期に、ナポレオン 3 世の命令の下、セーヌ県知事ジョルジュ・オスマンによって実施されました。パリ全域を対象としており、街路や公園、上下水道、都市美観といった都市インフラ全体にわたる大規模な改造事業でした。

 古い建物は次々と壊され、新しく造りかえられました。この大事業によって、パリの都市景観が抜本的に変化し、芸術の都、花の都と印象づけられるようになりました。パリは近代都市として生まれ変わったのです。

 建物を建てる際にはいくつかの規制に従い、オスマニアン様式にしなければなりませんでした。その一つが、「建物の美観を考慮し、建物の横幅に流れるようなバルコニーを作らなければならない」というものです。

 この様式で建築されたアパートがあります。参考のため、見てみることにしましょう。

こちら →

(※ https://www.parisnavi.com/special/5034798#google_vignetteより)

 建物の外壁に合わせ、カーブしているバルコニーもあれば、矩形のものもあります。よく見れば,鉄柵の文様も階毎に異なっており、建物の外観自体、装飾的なものになっています。明らかに美観を意識した体裁になっていることがわかります。

 パリの街を一種の美術館とみなし、それぞれの建物はそこに展示された作品という位置づけなのです。当然のことながら、建物の外観はそれぞれが美しくなければならず、しかも、全体として統一感がなければなりませんでした。

 道路幅は広く、道路際には街路樹を植え、そして、建物の外観を厳しく規制して統一感をはかりながら、パリの街並みは一新されました。企画したナポレオン三世と、実行したオスマン知事が成し遂げた偉業でした。

 カイユボットはそのエッセンスをこの作品の中に取り込んでいました。意識していたのかどうかわかりませんが、この作品には宮廷文化を引き継ぐ第二帝政時代の文化が凝縮して捉えられていたのです。

 興味深いのは、そのカイユボットが、プロレタリアートをメインモチーフとして描いていたことです。

 ちなみに、プロレタリアートという言葉は、ドイツの法学者ローレンツ・フォン・シュタイン((Lorenz von Stein,1815 – 1890)が1842年に刊行した著書『今日のフランスにおける社会主義と共産主義』の中で初めて使ったといわれています。彼は、プロレタリアートを資本主義体制下での賃金労働者階級を指しています(※ Wikipedia)。

 一方、マルクス( Karl Marx, 1818 – 1883)とエンゲルス(Friedrich Engels,1820 – 1895)は、1848年に刊行された『共産党宣言』の中で、「今日まであらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である」という歴史観を述べた上で、近代ブルジョワ社会においては全社会がブルジョワジーとプロレタリアートに分かれていくこと(両極分解論)、そして最終的にはプロレタリア革命によってプロレタリアートが勝利し、階級対立の歴史が終わると予言しました(※ Wikipedia)。

 1842年に初出したプロレタリアートという語が、1848年には資本主義体制下の社会を構成するキー概念の一つとして使われています。新しく台頭してきたブルジョワジーに対する概念として設定されたのです。

 産業化の進行とともに、ブルジョワ階級が台頭する一方、賃労働の担い手が増えていきました。プロレタリアートという概念は、ブルジョワジーに対立する概念として使われ、資本主義体制下の社会を構成するキー概念だともいえます。

 カイユボットの《床の鉋かけ》はまさにこのプロレタリアートを描くものでした。いってみれば、二つの対立概念を一枚の画面に組み込んだともいえるのです。

■プロレタリアートを描く

 労働者の姿を描いた作品としては、当時、すでにクールベの《石割人夫》(1849年に制作、1945年にドレスデン近郊で爆撃による焼失)、あるいはミレーの《落穂拾い》(1857年)がありました。

 クールベにしても、ミレーにしても、モチーフは農村あるいは山で働く労働者でした。背景は、田畑や石切り場なので、モチーフの作業内容と背景とに何ら齟齬はありません。働く労働者の状況がごく自然に捉えられており、その苦労が直に伝わってきます。身に着けている衣類や靴も彼らの辛くて貧しい生活状況を示すものでした。

 どの時代にも存在した労働の形態であり、大地に根付いた人々の生活を支える労働でした。大地や山を生産基盤とし、彼らは食料や石材を産出していたのです。田畑で豊作を祈って神に祈りを捧げ、石切り場で神に安全を祈願しながら、身体を酷使し、生産物を得ていたのです。

 プロレタリアートと称される存在とは様相が異なるのです。

 実際、カイユボットの《床の鉋かけ》では、クールベやミレーと同じように労働者が働く姿を描きながら、これらの作品とはその趣が異なっていました。

 労働者たちは床に鉋かけをしながら、楽しそうに話し合っていましたし、その傍らにはワインのボトルが置いてあります。語らいながら、時に、ワインで喉を潤しながら、働いている様子が捉えられていたのです。

 カイユボットは確かに労働者の作業風景を描いていましたが、画面から伝わってくるものは、労働の辛さではなく、貧困でもなく、むしろ労働によって身体を動かすことの喜び、あるいは、楽しさといったようなものでした。

 おそらく、そのせいでしょう。カイユボットの作品からは労働者の労苦や貧しさ、辛さといったものが感じられないのです。

 半裸で働く姿が描かれているせいか、労働によって鍛えぬかれた身体ばかりが強く印象づけられます。労働者というカテゴリーではなく、筋肉隆々とした身体の若い男性が描かれているといった方がいいかもしれません。

 姿勢がいびつですが、彼らはまるでギリシャ、ローマの英雄像のように見えなくもないのです。

 そのせいか、この作品はクールベやミレーの作品と違って、なんらかの社会的主張が含まれているようには見えません。もちろん、政治的、道徳的な主張が見受けられることもありません。ブルジョワ階級の画家が、自宅で作業中の労働者を、単にモチーフとして捉えたにすぎないように思えるのです。

 労働者を描いたとはいえ、そもそもクールベやミレーが取り上げた労働者とは質が違っているからかもしれません。

 そういえば、シュタイン、マルクス、エンゲルスはプロレタリアートを、生産手段を持たない賃金労働者と定義づけていました。雇用され、提供した労働力に応じて賃金を得るという仕組みの労働です。典型的なのは工場労働者ですが、産業化の進行とともに増えてきた労働の形態です。

 もっとも、カイユボットは彼らをそのようには捉えていないように思えます。

 確かに、表現の対象として、労働者の身体やその所作はきわめて写実的に捉えられています。さすがにレオン・ボナに師事していただけのことはあると思わせる画力です。

 ところが、彼らの姿を表面的に捉えているだけで、その背後にまで想像力が働いていないように見えます。労働者に感情移入していないせいか、その内面にまで踏み込めていないのです。おそらく、カイユボットが実際に労働者の生活実態を知らず、自身が生活していくことの辛さ、困難さを経験したことがなかったからにちがいありません。

 この作品からは、むしろ、モチーフに対するカイユボットの屈折した思いが感じられます。すなわち、半裸で作業する若い労働者階級の男性の筋骨隆々とした体躯に対するアンビバレントな感情です。

■透けて見えるアンビバレントな感情

《床の鉋かけ》は、四つん這いになった労働者を、やや高みから捉えた構図が印象に残ります。私にはこの構図が、カイユボットが心身の弱さの反映に思えてなりません。

 実際に身体が弱かったのかどうかわかりませんが、このアングルは、描く側が圧倒的に有利な位置にいることを示しています。この作品を見て以来、私は、カイユボットは身体に自信がなく、内省的な人物ではないかという気がしていました。ただ、何の根拠もありません。そこで、何か手がかりはないかと気になって、カイユボットの来歴を見てみました。

 すると、1870年7月26日にセーヌ県の機動憲兵隊に召集され、8月30日から1871年3月7日までプロイセンと戦っていたことがわかりました。彼は普仏戦争に参加していたのです。

 興味深いのは、その時の軍の記録に、カイユボットの身長が167cmと記載されていたことです(※ http://caillebotte.net/chronology/)。身長が低かったようなのですが、ひょっとしたら、このことが除隊後の進路変更に影響していたのではないかという気がしてきました。

 除隊した1871年にカイユボットは、法律家の道を諦め、画家を志向するようになっています。軍隊での数か月間の経験が、この進路変更に影響しているのは明らかでしょう。

 この期間、カイユボットは、頑健な身体と強靭な精神を持つ兵士たちとともに過ごしていました。日々、心身の弱さを自覚するようになっていた可能性があります。他の兵士たちに比べ、精神面では、戦闘に挑む攻撃性、艱難辛苦に対する耐性に劣り、そして、身体面では、体力、持久力、反射神経などが欠けていることを思い知らされていたのではないかと思うのです。

 そう思って、再び、《床の鉋かけ》を見てみると、その画面構成からは、カイユボットの若い男性に対する二つの相反する感情が感じられます。

 すなわち、3人の労働者を四つん這いの姿勢で描いたところに、屈強な身体の男性に対するコンプレックスと恐怖感が感じられるのです。

 一方、彼らの筋肉質の身体が際立つように描いたところには、憧憬すら感じられます。コンプレックスであれ、恐怖心であれ、あるいは、憧憬であれ、いずれも本源的な欲求に基づく感情です。

 このように画面構成から透けて見えるのは、モチーフに対するアンビバレンツな感情でした。そして、それはおそらく、軍隊での経験が作用しているのでしょう。ひょっとしたら、ここにカイユボットの深層を見ることができるのかもしれません。すなわち、野生の感覚が欠如していることの自覚であり、ブルジョワジーの家庭で育まれた繊細な感性や美意識であり、無意識のうちに育まれた階層意識です。

■父親の庇護下のカイユボット

 《床の鉋かけ》とその別版の舞台となったのは、ミロメニル通り77番地の邸宅に増築されたアトリエでした(*https://en.wikipedia.org/wiki/Les_raboteurs_de_parquet)。前にもいいましたが、この邸宅は高級住宅地として開発された地区にあり、大実業家で、パリ開発事業の出資者でもあった父親が購入したものでした。

 カイユボットはなんの苦労もなく、パリの一等地に建つ邸宅内にアトリエを設けることができました。画家になりたいといえば、すぐさま父親からアトリエを増築してもらうことができたのです。

 父親から手厚い庇護を受けていたのは、そればかりではありませんでした。

 実は、1868年に軍に召集された際、カイユボットはシェルブールとルーアンの歩兵隊に所属していましたが、69年6月から70年6月にかけての兵役は、父親に免除金を支払ってもらい、パリで法律の勉強を続けていました(※ http://caillebotte.net/chronology/)。

 その後、1870年7月26日に再び召集され、8月30日から1871年3月7日まではプロイセンと戦っていましたが、それは金銭で兵役免除できなかったからでした。つまり、カイユボットは最低限の兵役義務だけを果たして除隊したのですが、その途端に、法律家としての道を諦め、画家に転向すると言い出したのです。

 法律家になることを望んでいた父親の望みをあっさりと切り捨てたことになりますが、それでも父親はカイユボットのために、邸宅内にアトリエを増築してくれたのです。

 こうしてみてくると、彼がいかに絶大な庇護の下で生きてきたかがわかろうというものです。カイユボットは、父親が49歳の時に生まれた子どもでした。それだけに父親にしてみれば、可愛さもひとしおだったのかもしれません。

 いずれにせよ、父親に増築してもらったアトリエを舞台に、カイユボットは作品を手がけました。選んだ題材はプロレタリアートの作業風景でした。そして、描かれたのが、床に這いつくばって作業する半裸の労働者たちの姿だったのです。

 ブルジョワジーとは対極の階層の人々をメインモチーフにしたのです。

 その一方で、カイユボットはその背景に、優美なデザインのバルコニーや、金色でモールディングされた白壁を描くことを忘れませんでした。しかも、それらの文様がはっきりとわかるように丁寧に描いています。ブルジョワジーとして外せない要素だったのでしょう。

■ブルジョワジーとしての無意識

 この作品では、四つん這いになって働く労働者を、高みから捉えて作品化されていました。そこに、カイユボットの彼らに対する無意識の感情が感じられます。先ほど指摘した彼らに対する身体的なコンプレックスや恐怖感などの感情とは別に、プロレタリアートに対する階級意識が無意識のうちに画面に滲み出てしまったように見えるのです。

 労働者たちは、低い位置で作業を進めています。四つん這いの姿勢は、手足の自由が奪われた状態であり、動物を連想する姿勢なのですが、カイユボットは、そんな状態の彼らを見下ろして観察し、スケッチしています。彼らに対し、絶対的優位の立場に立っているのです。

 「見る者、見られる者」、あるいは、「描く者、描かれる者」の関係には、ともすれば、「支配、被支配」に似た関係が構築されがちですが、この作品にはそれがいっそう濃厚に表れているように思えます。

 それは、労働者たちが四つん這いの姿勢、しかも、上半身が裸で描かれているからでしょう。動物を連想させる姿で彼らを描いているのです。ここにプロレタリアートに対するブルジョワジーの無意識が表出していると考えられます。

 ほぼ同時代に、作業する労働者を題材に描きながら、その制作姿勢はクールベやミレーとは明らかに違っていることがわかります。

 クールベやミレーが対象に寄り添い、同じ地平に立って作業状況を描いているのに対し、カイユボットは対象とは一定の距離を置き、半裸でしかも動物を連想させる姿勢で描いていました。

 だからこそ、カイユボットのこの作品に階級意識が濃厚に感じられたのですが、改めてこの作品を見ていて、ふと、カイユボットが見ていたものは、人や物の内面ではなく、形状そのものの美しさではなかったか、という気がしてきました。

 そもそも野生の感覚に欠けていたカイユボットは、労働者の内面には入り込めなかった可能性があります。描かれた労働者たちは観察の対象でしかなく、カイユボットが感情移入することもなく描かれたモチーフにすぎなかったのでしょう。

 もっとも、若い労働者たちの筋肉隆々とした美しい体躯や、華麗なバルコニーの鉄柵を描く時、カイユボットはその美しさや華麗さに惹かれ、心躍らせて描いていたのではないかと思います。その結果、画面に表出したものは、繊細な感性や美意識が捉えた外観でした。

 おそらく、豊かな環境で庇護されて育ったからこそ育まれた感性や美意識が、カイユボットを特徴づける大きな要素なのでしょう。そして、そこから透けて見えてくるのが、無意識のうちに育まれた階層意識といえそうです。(2025/2/28 香取淳子)

カイユボットは第二帝政時代をどう描いたか ⑤:カイユボットと第2回印象派展

■画家への進路変更

 カイユボットの父親は、1866年1月15日ミロメニル通りとリスボン通りに面した角地に土地を購入しました。第二帝政時代に高級住宅地として開発された地区です。瀟洒な建物が完成したのが1866年11月で、カイユボットが18歳の時でした。

 その頃、カイユボットは父親の希望で法律家をめざし、フランスのエリート養成機関であるリセ・ルイ=ル=グランに通っていました。22歳で弁護士免許を取得しますが、その後、招集され普仏戦争に参加し、除隊してからは画家の道を目指すようになります。23歳の時でした。

 年譜をみると、24歳の時に父親とイタリアに旅行し、デ・ニッティスと交流を持った?」と書かれています(※ http://caillebotte.net/chronology/)。

 調べてみると、デ・ニッティス(Giuseppe De Nittis、1846 -1884)は、1864年にナポリの展覧会で賞を得てから1867年にパリに出て、画商と契約を結んでいました。ところが、気に染まず、再びイタリアに戻っていました。カイユボット親子と会った後、1872年に再び、パリに来て画家活動をしていたようです(※ Wikipedia)。

 パリではカフェ・ゲルボアを拠点に後に印象派を称される画家たちと交流を深め、とくにマネやカイユボット、ドガとは頻繁に会っていました。ドガが1874年にデ・ニッティスとカイユボットに第1回印象派展に出品するよう勧めたのは、このデ・ニッティスの家でした。(※ https://www.impressionism.nl/nittis-giuseppe-de/

 イタリア出身の新進画家デ・ニッティスは1846年生まれで、カイユボットは1848年生まれです。年齢の近い二人を引き合わせたのは、ひょっとしたら父親だったのかもしれません。画家への進路変更を知った父親はおそらく、カイユボットを後押しするつもりで多忙な中、イタリア旅行をしたのでしょう。

 一方、カイユボットは近所に住む実業家で画家のルアールとも知り合いでした。彼から紹介されたドガを通して、後に印象派と称されることになる画家たちとの交流が増えていきました。

 もちろん、第1回印象派展の開催に奔走するドガから出品を誘われました。先ほどいいましたように、デ・ニッティスの家で共に誘われたのです。

 ところが、カイユボットは断っています。前にも言ったように、官展に代表されるアカデミズムに未練があったのかもしれませんし、新しい絵画勢力の動きに同調しきれなかったのかもしれません。

 いずれにせよ、1874年に開催された第1回印象派展にカイユボットは出品しませんでした。

 一方、ドガの親友であったアンリ・ルアール(Henri Rouart ,1833 – 1912)は、当時40歳で、しかも実業家でしたが、11点も出品しています。展覧会のために奔走するドガのためにひと肌脱いだのでしょう。

 ピサロ(Camille Pissarro, 1830-1903)もまた、第1回印象派展の開催に尽力した画家の一人でしたが、その彼をカイユボットに紹介したのもルアールでした。実業家でありながら、有望な画家たちを次々とカイユボットに紹介していたのです。

 こうして画家を志して間もないのに、カイユボットはすでに、後に印象派と称されるようになる画家の多くと知り合っていました。

 イタリア人画家デ・ニッティスにしろ、13歳も年上のルアールにしろ、さまざまな画家との橋渡しをしてくれた人物はいずれも父親を介して知り合っていました。そこにカイユボットのひ弱さが感じられます。

 実は、父親はカイユボットが法律家になる道を用意していました。それに応えてエリート養成機関に通い、カイユボットは弁護士免許も取得しました。ところが、除隊後、彼は進路を変更し、画家を志望するようになります。それでも、父親はそれも受け入れ、カイユボットが画家になるための援助を惜しみませんでした。

 そのような頃、アカデミーに対抗する画家たちが、自分たちの手で展覧会を開催しようとしていました。中心になって動いていたのが、ドガ、モネ、ピサロ、ルノアールでした。当然、カイユボットもドガから出品を誘われました。ところが、まだどこにも発表したことのないカイユボットがせっかくの機会を断っているのです。

 なぜ、カイユボットは第1回印象派展に出品しなかったのでしょうか。

■父親の死

 当時、カイユボットが交流していたのは、受賞経験があり、批評家からなにがしか評価されていた画家たちでした。大した活動もしていない自分が同じ立場で出品できるわけがないとカイユボットが考えていたとしても不思議はありません。

 まだ一度も作品を公開したことがなく、受賞歴もないので、カイユボットは出品を躊躇したのかもしれないのです。確かに、これまでの経歴を振り返ってみれば、その可能性は考えられます。

 上流階級の息子として生まれ、庇護されて育ってきただけに、カイユボットは優しくひ弱で、打たれ弱く、批評家や観客からの批判を恐れた可能性も考えられます。いったん作品を公開すれば、画家の創作意図とはかけ離れた解釈がされ、想像もしなかった罵詈雑言を浴びせられることもあります。

 あるいは、その年に父親が亡くなったことが関係していたのかもしれません。

 実は、カイユボットの父親は1874年12月24日に亡くなっています。享年75歳でした。死因が何だったのかはわかりませんが、その頃、父親が衰弱していたのだとすれば、絵画を描く気にはなれなかったでしょう。仮に自信作があったとしても、出品しようという気持ちにもなれなかった可能性があります。

 第1回印象派展が開催されたのが、1874年4月15日から5月15日でした。

 父親の死はその8か月も後のことですから、病に臥せっていたのでなければ、父親のせいで彼が出品しなかったわけではないでしょう。

 こうしてみてくると、ドガから誘われても、第1回印象派展に出品しなかったのは、自信がなく、作品を公開する気持ちになれなかったからのように思えます。

 いずれにせよ、父親が亡くなった時、カイユボットはわずか26歳でした。

 これから画家としての人生が始まろうとするとき、父親がいなくなってしまったのです。それまで大切に庇護されてきただけに、大きな喪失感に苛まれたでしょうし、虚脱感にも襲われたでしょう。父親の死は確かに、彼の人生にとって大きな転機となりました。

 さらに大きな変化は、実業家であった父親の巨額の遺産を受け継いだことでした。

 画家として身を立てる前に、カイユボットは大富豪になってしまいました。とはいえ、彼はそれまでの生活形態を変えようとはしませんでした。父親の死後も弟のルネとともに、パリのミロメニル通りの家に住み続け、これまでと同じように、夏になれば、避暑のためにイエールで過ごしていました。

 父親の死が契機となったのでしょうか、カイユボットは真剣に絵と向き合うようになります。大きな喪失感を埋め、進むべき方向を探るには、とりあえず絵画を描くしかなかったのかもしれません。

 なによりもまず、父親の死を受け入れて悲しみを乗り越え、少しずつ生活を軌道に乗せていく必要がありました。それには、生きる目標を新たに設定し、突き進んでいくしかなかったのでしょう。

 そういう状況の中で仕上げたのが、《床の鉋かけ》(Les raboteurs de parquet)です。

■《床の鉋かけ》の題材はどこから?

 《床の鉋かけ》は、床の鉋かけをする労働者の作業風景を題材とした作品です。実は、カイユボットのアトリエを自宅に増築する際、床を削り、鉋かけをする労働者たちの様子を描いたものでした。

 高級住宅地として開発されたミロメニル通り11番地とリスボン通り13番地の角地に、父親が建てた瀟洒な邸宅があります。そのリスボン通り側の右手に荷物用玄関上に、3階部分が増築されました。カイユボットが絵を描くためのアトリエです。ここは大きなひさし窓のあるアトリエとして使用され、別階段で行き来することができたといいます(※ http://caillebotte.net/chronology/)。

 このアトリエが完成したのが、1874年4月でした。この頃、カイユボットは画家として生きていこうとしていたのでしょう。増築してアトリエを作ることを決め、費用を出したのはもちろん、父親です。亡くなる8か月前のことでした。

 これだけでも、父親がカイユボットの画家への思いを受け入れ、そのためのあと押しをしていたことがわかります。

 それでは、《床の鉋かけ》を見ていくことにしましょう。

■《床の鉋かけ》(Les raboteurs de parquet、1875年)

 3人の男性が半裸になって、床に這いつくばり、床板を削っている様子が描かれています。木くずがカール状になって、周囲に散らばっており、リズミカルに作業が進んでいる様子が示されています。室内は薄暗く、ベランダから鈍く降り注ぐ陽光が、唯一の明かりです。


(油彩、カンヴァス、102×146㎝、1875年、Musée d’Orsay所蔵)

 ベランダ越しに射し込む陽光が、室内にそっと入り込み、その鈍い光が、床板の艶、労働者たちの背中や腕の筋肉の盛り上がりを、ことさらに強く印象づけています。

 実は、カイユボットは彼らが作業する様子をデッサンしていました。


(鉛筆、紙、48×31㎝、1875年、caillebotte.net蔵)

 男たちの三人三様の作業の様子が描かれています。実際に労働者たちの動きを観察しながら、デッサンをし、それを参考にして画面構成をしたのでしょう。

 それでは、油彩画作品と見比べてみましょう。動作からみると、デッサン上の男性は、画面では真ん中、デッサン右の男性は、画面では右、デッサン左の男性は画面では左に配置されていることがわかります。

 画面の真ん中と右の男性は明らかに、肩から腕、腕から手にかけての形態、そして、鉋を持つ手の動きなど、このデッサンを参考に描かれています。左の男性は必ずしもデッサンを踏まえたものとはいえません。鉋を持つ手の様子も実際の絵とは異なっています。

 おそらく、三人のバランスを考えた時、左側の男性の所作、形態を大幅に変更する必要があったのでしょう。

 なぜ、そうする必要があったのか、デッサンと実際の絵画とを比較し、カイユボットの意図を考えてみたいと思います。

■デッサンとの比較

 デッサンと実際の絵画を比較し、カイユボットがこの作品で何を描きたかったのかを把握したいと思います。そのため、デッサンの踏まえて描いたと思われる真ん中と右の男性、そして、デッサンとは異なった姿態で描かれている左の男性とを分けてみました。

 まず、真ん中と右の男性について、実際の絵を見ていきましょう。


(前掲。部分)

 二人ともデッサンとは鉋を持つ手の形態が同じです。違っているのは、腹部が薄く、背中に力点を置いて描かれていること、二人が会話をしながら作業を楽しそうに作業を進めていること、傍らにワインのボトルとグラスが置かれていること、等々です。

 二人とも三角筋。上腕、前腕の筋肉が盛り上がっている様子が描かれています。背中や腕の一部は、汗で光っているように見えるところがあります。この二人の姿態からは、身体を動かすことの喜びが感じられます。作業風景を描きながら、労働の辛さや過酷さは微塵も感じられません。

 それでは、デッサンとは異なった形態で描かれていた左の男性はどうでしょうか。


(前掲。部分)

 こちらは両手で鉋を持つのではなく、右手を伸ばして床材のうす皮をはぎ、左手は身体を支えるために膝の近くに置いています。真剣な表情で床を見つめ、作業を進めています。窓に近いところにいるせいか、室内に注ぎ込んだ外光が男性の顔や上半身をくっきりと際立たせています。

 この男性の場合、背中、上腕、前腕、そして、手の甲がはっきりと見えるように描かれています。とくに肩の僧帽筋、三角筋、背中から腹部にかけての広背筋、斜筋などが丁寧に描かれ、逞しさが強調されています。

■屈強な体躯に男性美を見たのか?

 カイユボットが思いを込めて描いたのは、この左側の男性だったのではないかという気がします。実際に観察してデッサンした状態とは大幅に異なり、理想形の男性の上半身を描いたのではないかという気がするのです。

 右の二人の男性は、前から見下ろす恰好で描いているので、描かれている身体部分は限られています。ところが、左の男性はやや斜めのポーズで距離を置いて描かれているので、上半身や顔を過不足なく表現されています。労働の辛さや疲労といったものは感じられず、身体を使うことの喜びが感じられます。

 作業する三人三様の姿態を捉えたこの作品には、ある種の美しさが感じられます。ひょっとしたら、カイユボットは半裸の労働者をこのような構図で描くことによって、筋肉質の男性美を描こうとしていたのかもしれません。

 いずれも若い男性で、優れた体躯の持ち主です。

 ふと思い出しました。

 カイユボットは1870年7月26日から数ヶ月間セーヌ県の機動憲兵隊(第八歩兵隊第七隊)に召集されました。その時の軍の記録に、「身長1m67cm、赤褐色の髪とまゆげ、グレーの瞳」と記されているといいます(※ http://caillebotte.net/blog/about-him/38)。

 カイユボットはどうやら身長が低かったようです。ひょっとしたら、これら三人の労働者たちに羨望を抱いていたのではないかという気がしてきました。よく見れば、三人とも似たような体躯で、似たような顔つきです。

 はっきりと描かれているのは左の男性ですが、半裸の作業風景を三人に分散して描くことによって、さまざまな身体部位の筋肉の動きを描きたかったのではないかという気がするのです。カイユボットが理想とする体躯を描くには三人三様の姿態が必要だったのでしょう。

■官展に出品し、落選

 カイユボットは《床の鉋かけ》を1875年のサロン・ド・パリ(官展)に出品しました。ところが、審査員から「低俗」と評されて落選してしまいました。1875年4月のことです。

 落選した理由は、労働者階級の人々が、半裸になって、床に膝まずき、仕事をしている様子を描いたことだといわれています。これらが審査員に衝撃を与え、「下品な題材」だとみなされたのです(* https://en.wikipedia.org/wiki/Les_raboteurs_de_parquet)。

 改めて、この作品を見ると、至近距離から見下ろす恰好でモチーフを捉える視点がなんとも斬新です。この時代にはありえないアングルでモチーフが捉えられ、画面に躍動感を与えています。このように近くから見下ろす視点で描かれているからこそ、床に膝まずいて作業する労働者たちの背中や腕の筋肉がごく自然に表現できているのです。

 彼らはズボンしか着用しておらず、上半身は裸です。だからこそ、背中や腕の筋肉の盛り上がりを生き生きと描くことができているのですが、それが否定されました。まるで古代の英雄たちのように、筋肉質の身体が見事に浮き彫りにされていました。審査員はそのことをどう評価したのでしょうか。

 古代英雄の裸身を好んで題材にしてきたアカデミーが、労働現場で鍛えあげた筋肉質の男性を描くことには嫌悪感を示し、低俗だと非難し、拒絶したのです。アカデミーのこの評価には偏見と矛盾を感じざるをえません。

 もちろん、男性が膝まずいた姿を捉えたことへの嫌悪感があったのかもしれません。労働者階級の作業風景を描いた作品だとはいえ、床に這いつくばっている姿勢は、男性ならではの威厳を棄損し、もっぱら鍛え抜かれた腕や背中ばかりを強く印象づけます。おそらく、そのことが、審査員たちに、「低俗」だという印象を与えてしまった大きな要因なのでしょう。

 審査員はおそらく全員が男性だったのではないかと思ますが、権威を棄損し、労働者階級をモチーフに男性美を描いたことが、審査員たちを不快にさせ、「低俗」という評価を下させたのではないかという気がします。

■落選後のカイユボット

 そのころ、カイユボットは、イタリア人画家デ・ニッティス(Giuseppe De Nittis, 1846 – 1884)やその仲間たちと頻繁に会うようになっていました。デ・ニッティスは1874年の第1回印象派展に出品をしており、ボナの弟子であったベローやドガ、デブータン、マネらと親しくしていました。

 カイユボットが落選し、落ち込んでいることを知ったデブータンは、カイユボットの様子をデ・ニッティスに知らせました。彼はすぐさま、カイユボットを自宅に招待することを思いつき、ともに過ごしながら、官展に落選しても、その経験から学び、さらに素晴らしい絵を描けば、官展の審査員を見かえすことが出来ると慰めました。

 こうしてカイユボットは落選の痛手を少しずつ乗り越え、絵画に対するエネルギーに置き換えていきました。

 一方、カイユボットの落選を知ったルノワールとルアールは、1876年2月5日、カイユボットに手紙を出し、「官展ではなく、第2回印象派展に出品しないか」と誘いかけました。彼らは第2回印象派展の準備を進めていたのです。

 すでに画廊経営者のデュラン・リュエル(Paul Durand-Ruel, 1831 – 1922)氏と契約を結び、もっとも大きな部屋を含む二室を借りることができたとその進捗状況を述べています。

 そして、「費用は出品者一人につき一口120フラン、2月25日までにデュラン・リュエル氏のところまで支払いにいくこと。オープンは3月20日、期間は一ヶ月、5点まで。もし参加の意思があるのなら早めに私達のうちのどちらかに返事を下さい。」と出品のための条件を記しました。(※ http://caillebotte.net/chronology/

 もちろん、カイユボットはこの誘いに応じました。官展に落選したことが、第2回印象派展に出品する直接のきっかけになったのです。

■第2回印象派展

 1876 年4月11日から5月9日まで、第 2 回印象派展がデュラン・リュエルの画廊で、開催されました。第 1 回印象派展は、批評家や一般の観客からかなり批判されましたが、ルノワールとモネは今後も続けて印象派展を開催したいと考えていました。画家にとって作品を公開できる場を確保することは不可欠でした。

 問題は資金繰りです。

 ちょうどその頃、彼らはカイユボットが官展に落選して落ち込んでいることを知りました。これ幸いとばかり、カイユボットに手紙を送り、彼を第2回印象派展に誘い込むことに成功しました。父親から莫大な遺産を受け継いだばかりのカイユボットは、単独で展覧会開催のための資金を提供しました。

 こうして第2回印象派展の開催にこぎつけることができたのです。

 ペルティエ通り( rue le Peletier)11番のデュラン・リュエルの画廊には、20人の画家たちの作品、約 252 点が展示されました。第1回印象派展とは違って、今回は、画家ごとにまとめて展示され、わかりやすい展示構成になっていました。

 カイユボットは、第 2 回印象派展開催のために莫大な資金を提供しただけではなく、絵画8 点を出品しました。この展覧会ではじめてカイユボットの作品が公開されたのです。

 展覧会hで、その中の一つ、官展に落選した《床の鉋かけ》(Les Raboteurs de Parquets)が評判になりました。

 話題になったもう一つの作品は、ドガの《綿花事務所》(A Cotton Office in New Orleans)です。この作品は、近代的な産業界の一端をテーマにし、アカデミックな画法を踏まえて描かれていました。

 美術評論家のデュランティ(Louis Edmond Duranty, 1833 – 1880)は、「新しい絵画」という論考の中で、ドガとカイユボットの作品を特に、「都市風俗を鋭いデッサン力で描写した」と賞賛しています(※ http://caillebotte.net/chronology/)。

 確かに、しっかりとしたデッサンに基づき、写実的に描かれた《床の鉋かけ》にはインパクトがありました。この作品についてはすでに紹介しましたので、翌年、同じ画題で描かれた、《床削り別版》をご紹介しましょう。

■《床の鉋かけ 別版》(Les raboteurs de parquet、1876年)

 同じ題材で描かれたとはいえ、1875年の作品と比べると、明らかに衝撃度が異なります。


(油彩、カンヴァス、80×100㎝、1876年、個人蔵)

 右手中央に、床に這いつくばって作業をしている中年男性、左奥に、足を投げ出しカンナをいじっている少年が配置されています。二人は窓際の壁と画面右端を結ぶ対角線上に描かれており、その対極になるのが、窓からの陽光を受けて輝く床です。かなり広いスペースを取ってあり、くっきりと床に映し出された窓の形が印象的です。

 床板の微妙な色の違いが丁寧に、描き分けられており、その質感が見事に捉えられています。カイユボットがきわめて写実的な画家であったことを改めて思い知らされました。

外の風景が、窓ガラス越しにぼんやりと描かれています。一方、窓から射し込む陽光は、磨き抜かれた床に窓の形をくっきりと描き出しています。リアルな窓と床に映し出された窓が垂直につながり、画面に不思議な空間を作り出しています。

 この作品で印象的なのは、この不思議な空間です。

 画面左上から手前までの、リアルな窓と床に映し出されたヴァーチャルな窓が縦のラインを創り出し、それが一種の光源として、働く二人の労働者の姿を照らし出す恰好になっています。

 床に力点を置いた構図にすることで、対角線のラインにレイアウトされた二人を活かすことができているのです。

 年齢の離れた二人は作業中に話し合うこともなく、それぞれ俯いて、ひたすら自身に与えられた仕事に没頭しています。労働者の典型を示そうとしているのでしょう。

 興味深いのは、描かれた労働者が、若い筋肉質の男性ではなく、中年男性と少年に変更されていたことでした。しかも、中年男性はシャツを着用して作業しており、いささかも裸身を見せてはいません。奥の方で座っている少年は、半裸ですが、腕も背中もまだ筋肉の付いていない幼い身体です。

 モチーフの選び方、描き方を見ると、同じ題材でありながら、明らかに、前年の作品を修正していることがわかります。《床の鉋かけ》では濃厚に滲み出ていたセクシュアルな要素が完全に除去されているのです。

 《床の鉋かけ》の落選理由として挙げられた「低俗」批判に対し、このように対応しているのです。前作に対する審査結果を踏まえた作品だといわざるをえません。

 この作品では、 《床の鉋かけ》 で見られたような独創性、意外性、吸引力といったものは希薄になっています。画面の衝撃度は弱められていますが、逆にいえば、それだけに、窓から射し込む陽光が床の上に創り出した空間の妙味と、幾何学的な画面構成が強く印象づけられます。

 両作品を見ていえるのは、カイユボットが写実性の高い画家であり、アカデミズムの技法を踏まえ、確かな画力をもっているということでした。

■独自の画風を育んだパリの邸宅

 上流階級の邸宅で働く職人を描いた二つの作品のうち、1875年に制作されたものには、モチーフに対するカイユボットの熱い思いが感じられます。半裸で作業する若い男性はいずれも筋骨隆々としており、産業革命時代の英雄にも見えます。

 そもそも労働者の作業を描いた作品はこの時期、極めてまれでした。アカデミックな技法を踏まえたうえで、独創的なアングルでモチーフを捉えたこの作品は、アカデミズムへの挑戦のようにも見えます。

 残念なことに、その果敢な挑戦心は落選という結果でへし折られました。翌年、描いた作品はその批判を踏まえて修正し、挑戦心を隠してしまっています。逆に際立って見えるのが、艶出しされた床です。その床が微妙な陽光の差し込みを反映し、豊かな空間を作り出していました。何気ない日常生活を見事に作品化した稀有な例といえるでしょう。

 二つの作品からは、確かなデッサン力、微妙な色調の差異に基づく肉付け丁寧な描きわけが際立っていることがわかります。カイユボットは、アカデミーが奨励した技術を完全に体得し、実践できていることが証明されました。レオン・ボナの下で学んだ写実的な手法を確実に身に着けていたのです。

 そればかりではありません。ドガやデ・ニッティスらとの交流を通してカイユボットは、自然光に対する感受性、大胆な遠近法などを身に着けていたこともわかりました。

 つまり、ここでご紹介した二つの作品からは、カイユボットが、レオン・ボナの下でアカデミックな技法を獲得したうえで、印象派をはじめ新しい潮流の画家たちのエッセンスも取り入れて、独自のスタイルを築き上げていたことが透けて見えるのです。

 カイユボットの独創性は、アカデミーが奨励した入念なデッサン、モデリング、正確な色調を理解し、その手法に基づいて描いたうえに、印象派ならではの大胆な遠近法、自然光に対する鋭い感覚などを取り入れて作品化したことだといえるでしょう。(2025/1/29 香取淳子)

「ノスタルジア」とは何か?

■「ノスタルジア、記憶のなかの風景」展の開催

 東京都美術館で今、「ノスタルジア、記憶のなかの風景」展が開催されています。開催期間は2024年11月16日から2025年1月8日までで、8人の画家の作品が、ギャラリーA、Cで展示されています。

 まず、展覧会のチラシをご紹介することにしましょう。

 チラシの表紙には、展示作品の一つ、《いつもの此の道》(芝康弘、2017年)が採用され、その上に8人の画家の名前と所属、その右に展覧会のタイトル「記憶のなかの景色」が記されています。

 該当部分を拡大してみましょう。

チラシ

 表紙の画面に採用された《いつもの此の道》は、多くの日本人から、「ノスタルジア」の感情を引き出す典型的な光景の一つといえるでしょう。かつてはどこでも見受けられた里山の風景の一環であり、人里と人が住まない自然との結節点でもあった風景です。

 柔らかな陽射しに照らされ、畔の草が輝き、木の葉が風にそよいでいます。右手に田んぼがあり、左手にため池があるような場所で、子どもたちが虫取りをしています。ひたすら虫を追ってきたのに、ふいに行方がわからなくなったのか、二人ともやや呆然として立ち尽くしています。

 はるか遠い子どものころ、見慣れた光景の一つです。自然の営みと隣り合わせで人々は暮らしており、子どもたちもまたそのような環境の中で遊び、学んでいた時代でした。

 柔らかな陽射しが、辺り一面を優しく包み込み、この風景そのものがまるでタイムカプセルに入れられてでもいるかのように見えます。あらためで、もはや二度と手に入れることのできない光景だということを強く認識させられます。心の奥底から、ふつふつとノスタルジーの感情が湧き上がってくるのを覚え、切ない気持ちに襲われてしまいます。

 そういえば、この展覧会の開催趣旨は、8人の画家たちの作品を通して、ノスタルジアという複雑な感情が持っている意味と可能性を探るというものでした。

 果たして、絵画は見る者の心の奥底に潜む「ノスタルジア」の感情をどのように覚醒させ、喚起するのでしょうか。展示作品を通して、考えてみることにしたいと思います。

 私は12月7日に東京都美術館に出かけ、展示作品を鑑賞してきました。ところが、その後、風邪をひいて発熱が長引き、回復に時間がかかってしまいました。

 ここでは、発熱後3週間を経てもなお印象深く思えた作品を取り上げてみたいと思います。

■発熱3週間後もなお印象深い作品

 発熱3週間後も経てば、会場で鑑賞した時の印象はいつしか薄れ、引き続き、心を締め付けられるような思いにさせられた作品は以下の数点でした。

 《蓮田》(阿部達也、2021年)、《六月の詩》(芝康弘、2011年)、《epoch》一部(玉虫良次、2019‐2023)、《友》(近藤オリガ、2018年)、等々です。

 見てすぐに感情がかき立てられる作品もあれば、時間をかけて心に落ち、ゆっくりと発酵してから情感が湧き上がってくるような作品もありました。いずれも心が強く揺さぶられ、切ない気持ちにさせられる作品ばかりでした。

 これらの作品は、いくつかに分類することができますが、まずは、阿部達也氏の《蓮田(茨城県かすみがうら)》、そして、芝康弘氏の《六月の詩》から見ていくことにしましょう。いずれも画面がそのままストレートに見る者の情感を刺激する作品です。

 たとえば、《蓮田》の場合、風景そのものが巨大な感傷を誘う力を持ち合わせています。実際にこの光景を見たことがある者、そうでない者にも等しく、一定の感情を喚起させるだけの訴求力があります。

 また、《6月の詩》は、光景そのものがしみじみとした気持ちにさせてくれます。子どものころ、このような経験をした者はいるでしょうし、このような光景を見かけた者もいるでしょう。この光景は、ある年代以上の日本人にとっては共通して経験していた光景であり、普遍的なものでした。都市化が進む以前、どこでも身近に見られた光景であり、誰もが追体験できる光景だったのです。

 この作品から覚醒させられるのは、懐かしさであり、この光景がもたらす幸せの感覚でしょう。いずれももはや手に入れることのできないものです。

 それでは、風景や光景のどの要素が見る者に作用しているのでしょうか。

■風景や光景がもつ訴求力

 まず、阿部竜也氏の作品から見ていくことにしましょう。

●阿部達也氏《蓮田(茨城県かすみがうら)》

 阿部達也氏が出品された10作品のうち、私がもっともノスタルジーを感じさせられたのは、この作品でした。


(油彩、カンヴァス、50.0×72.2㎝、2021年、作家蔵)

 画面中ほどに地平線が設定されており、地平線近くは黄色がかった色で、そこから上は白い雲のようなものが空を覆い、上空に近づくと、青くなっています。地平線周辺が明るく輝いているのは、おそらく、立ち昇る朝陽のせいでしょう。

 地平線から手前は蓮田が広がり、どこまでも続く蓮田の水面に陽光がきらめいています。逆光のせいか、蓮の葉は黒っぽく描かれており、枯れているようにも見えます。広い蓮田に葉がまばらに散在しており、寂寥感が漂っています。

 見ているだけで、胸がしめつけられるような感傷を覚えさせられる光景でした。これまで蓮田を見たことがなかったにもかかわらず、私は、この作品を見て、深いノスタルジーを感じてしまったのです。

 おそらく、画面に透明感があり、寂寥感があったからでしょう。その透き通るような寂寞感に、私は心が打たれました。改めて、ノスタルジーには、透明感と寂寥感がつきものだということを感じさせられました。

 そして、思い出したのが、阿部氏が風景画を手掛けるきっかけとなったエピソードでした。

 阿部達也氏は、画家になりたてのころ、人物画を描いていましたが、やがて行き詰ってしまったそうです。そんな時、たまたま、携帯で夕日を撮影している女性を見かけ、啓示を得ました。図録の中で次のように述べています。

 「人が心を動かされるものは、どこか遠くや、自分の内面を底までさらわなくても、身近なところにいくらでもあったことに気づいたのです。それからの私の制作方針は、写真で撮ってきた風景を、なるべくそのままに、個人的感情を差し込まないように描くことになりました。(中略)みる人によってその人なりの感情を込めて見られるような、余白の大きな、広い絵を私は描きたいのです」(※ 図録『ノスタルジア、―記憶の中の景色』p.18)

 ご紹介した作品は、阿部氏が現地で写真を撮り、それをそのままカンヴァスに置き換えたものでした。もちろん、どのアングルで風景を捉えるのか、どの瞬間にシャッターを切るのか、一瞬を捉えた写真の中に、阿部氏の選択があり、世界観や美意識が反映されていることはいうまでもありません。

 この蓮田が阿部氏にとって既知の風景だったのかどうかわかりませんが、少なくとも、この瞬間の蓮田を美しいと感じられたのでしょう。

 そして、阿部氏がカンヴァスに描きとったこの作品を、私もまた美しいと思い、心を締め付けられるような気持ちになりました。感動が伝播する過程に立ち会うことができました。

 これこそ風景がもつ訴求力の一つなのでしょうし、ひょっとしたら、集合無意識のような反応の一つといえるものなのかもしれません。

 次に芝康弘氏の《六月の詩》を見てみましょう。

●芝康弘氏の《六月の詩》

 芝康弘氏が出品された7点のうち、私がもっともノスタルジーを感じたのは《六月の詩》でした。


(紙本彩色、162×162㎝、2011年、東京オベラシティアートギャラリー蔵)

 画面に吸い寄せられるように見てしまいました。子どものころ、経験したことがあるような光景であり、いつかどこかで見たことのあるような光景でもありました。画面を見ていると、いまにも子どもたちの話声が聞こえてきそうな気がします。

 子どもたちの衣服はもちろん、田んぼの稲や畔の草、どれも優しく丁寧に描かれています。柔らかく、周囲全体を包み込むような色調が、二度と戻ってこない過去をオブラートでくるんでいるように思えます。こちらは、心が締め付けられるというよりはむしろ懐かしく、幸福感を伴う追憶の気持ちで満たされます。

 透明感のある色調が、過ぎ去った時間の浄化を表し、そこはかとない寂寥感を生み出しています。このような風景も、このような子どもたちの遊びも、もはや二度と手に入れられないものになってしまっているのです。そのことに気づくと、一見、ほのぼのとして見えるこの作品に限りないノスタルジーを感じてしまいます。

 人は、刻々と変化する時間や空間を制御することもできないまま、「今」を生き、「今いる空間」を生きていることのむなしさを感じさせられます。

 阿部氏も、芝氏も描き方はきわめて写実的です。だからこそ、画面が直接的に見る者の気持ちに訴えかけることができたのでしょう。風景や光景そのものが抜群の訴求力を持っている場合、写実的に描くことこそが、見る者の気持ちを動かし、ノスタルジーの思いに耽らせることがわかります。

■奇妙な感覚を喚起させられた作品

 展示作品の中には、その前に立つと、奇妙な感覚に襲われざるをえない作品がありました。それが、「ノスタルジア」といえる感情なのかどうか、わかりませんが、なんとも不思議な感覚が喚起されます。

 たとえば、玉虫良次氏の《epoch》です。一つの壁面をほぼ占拠するほど巨大な作品でした。これまで見たこともない作品ですが、どこかで見たことがあるようにも思える作品です。

 巨大すぎて、ごく一部分しか、ご紹介できませんが、この作品の場合、一部も全体もその印象が大きく変わることはないように思えます。作品の一部は、全体であり、一部を知れば、全体を把握することができるような構造になっているからです。

 それでは、作品を見ていくことにしましょう。

●玉虫良次氏の《epoch》

 194×1590㎝の巨大な大きさの作品で、2019年から2023年にかけて制作されました。ここでは、その一部分をご紹介することにしましょう。


(油彩、カンヴァス、194×1590㎝の一部、2019‐2023年、作家蔵)

 手前と左中ほどに路面電車が走り、右手にそびえるビルからは、人が大勢、登ったり降りたりしています。バルコニーにも大勢の人々がいて、身を乗り出すようにして下を見ています。

 ビルから降りたすぐ先に、掲示板のようなものが設置されており、その前に人々が群がって覗き込んでいます。自治体か政府からなにかしら告知がされているのでしょう。このような光景を見ていると、日本ではなく、アジアのどこかの国の風景のように思えてきます。

 見渡すと、青と白のストライプの庇をつけた小さなお店が、あちこちにあります。店内にお客がほとんどいないお店もあれば、大勢のお客を待たせているお店もあります。人々の日常生活をささえる食品等を販売しているのでしょう。必要なものを買い、不必要なものは買わないという様子が見て取れます。

 街中に人があふれかえっていますが、おそらく、大勢の人々は生活に余裕がなく、その日暮らしなのでしょう。

 子どもを抱いた母親、荷車を引く男性、ただ、突っ立っているだけの子ども・・・、あらゆる人々の生活行動がすべて、この街中で再現されているかのような光景です。所々に、自転車が放置され、野良犬が佇み、群れた人々が街のあちこちで散見されます。

 彼らが何をしているのかといえば、掲示板を見つめ、人々の様子をうかがい、何をするというわけでもなく、ただ、群がっているだけでした。

 こうしてみてくると、作者は、ある時代の日本社会を描こうとしていたのではないかという気がしてきます。というのも、この作品には、アジアの街で見られるような、人々の群がりの中で生み出される体臭のようなものまでも描かれているからでした。

 たとえば、ご紹介した画面の手前部分を拡大してみましょう。


(※ 前掲一部分)

 ベランダにいる人々を描いたものなのでしょうか。人々がひしめきあっている様子が描かれています。互いに触れ合いそうなほど至近距離に、老若男女がいて、何をするわけでもなく、群がっているのです。しかも、彼らの顔は、老いも若きも男性も女性もみな、赤茶けた顔色で描かれています。

 ここには、汚れや体臭を気にすることもなく、必死に生きようとする人々が描かれています。ただひたすら生き抜くことを目指して日々、群れの中で暮らしていることがすぐにもわかるような絵柄です。

 このような光景は、いまではごく一部の世代の人々の記憶に残っているだけでしょう。貴重な光景であり、もはや二度と見ることのできない光景の一つといえるでしょう。

 玉虫氏は、自身の子どものころについて、次のように記しています。

 「旧中山道沿いにある小さな商店街、借家の用品雑貨店での立ち退きになるまでの10年位の日常生活、家が狭くてのんびりして居られず、暗くなるまで外で過ごし、親より近所にある色々な店の人々の中で育ったような気がする」(※ 前掲、p.94)

 いまでは、ここで描かれたような光景を二度と見ることはできないでしょう。ここで描かれているのは、戦後復興期の日本社会の一端であり、必死に生き延びようとする人々の強烈なエネルギーです。プライバシーや清潔感などいっこうに気にすることもなく、人々はひたすら時代の動きを把握し、貪欲に生きていこうとしていた時代でした。

 この作品からは街の匂い、当時の人々の体臭すら感じとることができます。もはや見ることはできず、経験することもできない時代の記憶が、この作品には表現されていました。

■特定の時間、空間と結びついた「ノスタルジア」の感情

 こうしてみてくると、「ノスタルジア」の感情は、特定の時間や時期、特定の場所に結び付いた風景であり、光景であり、状況だということがわかります。もはや二度と見ることができないという思いが、「ノスタルジア」の感情をさらに強化していることも理解できます。

 特定の「時空」と結びついた一回性の感情だからこそ、哀切感や寂寥感、哀惜感が付随し、複雑な情感を醸成するのでしょう。

 今回、ご紹介した《蓮田》にしても、《六月の詩》にしても、《epoch》にしても、それらの作品が喚起する「ノスタルジア」には、さまざまな情感が付随していました。そこには、作品と見る者との間に、目に見えない交流があり、その交流によって作品世界がさらに豊かなものになっていく過程も含まれています。

 絵画を発信源とする影響過程とでもいえるものが、会場内でループしていたといってもいいかもしれません。おそらく、主催者側が想定した展覧会の趣旨の射程距離はそのようなものだったのでしょう。

 ところが、会場の一角に、近藤オリガ氏の作品が展示されることによって、展覧会がさらに豊かなものになっていたような気がします。というのも、近藤オリガ氏の出品作品は一目で他の展示作品とはことなっていたからです。

 近藤オリガ氏の作品には、どれも清らかな透明感が漲っていました。この世のものとも思えない、清らかさ、無垢、そして、どこにも帰属しないことからくる解放感、時空の枠組みではとらえられない自由・・・、といったようなものが画面からあふれていたのです。

 作品の前に立つと、奇妙な感情が湧き上がってくるのが感じられます。捉えどころのない感情のようでいて、その実、どこかでしっかりと経験したことがあるようなデジャブ感もあります。

 近藤オリガ氏の一連の作品からは、それまでとはちがって、時空を超えた「ノスタルジア」とでもいえるような感情が喚起されたのです。

■時空を超えた「ノスタルジア」

 興味深いのは、近藤オリガ氏の作品です。展示作品6点のどれもが深い憂いと哀しみに満ちており、見る者の心を打ちます。題材は異なっても、魂の根源にまで洞察の及んだ画面が、時空を超えた世界に誘ってくれるからでしょう。

 できるだけ筆触を残さず、滑らかにリアルに描かれた幻想空間が、見る者の心の奥深くを刺激します。そこから派生した感覚を、「ノスタルジア」と表現していいのかどうかわかりませんが、少なくとも、哀切感、寂寥感は強く感じさせられました。

 一連の展示作品のうち、ことさらにその種の感情を刺激されたのが、近藤オリガ氏の《友》でした。

 ご紹介していくことにしましょう。

●近藤オリガ氏の《友》

 近藤オリガ氏の作品は6点、展示されていました。いずれも時空の軸がなく、無重力空間に存在しているような構成が印象的でした。なかでも、空間のレイアウトが独特で、印象に残ったのが、《友》でした。


(油彩、カンヴァス、130×162㎝、2018年、作家蔵)

 遠方に連なる山並みに抱かれるように身を横たえ、静かにまどろむ子どもの姿が、画面中ほどに描かれています。子どもは片手をだらりと垂らし、意識なく眠っているように見えます。その下には犬が横たわり、まるで子どもを守る番犬のように、寝そべったまま鋭い眼光をこちらに向けています。

 この犬は、まさに、子どもにとって忠実な《友》でした。

 大空の雲間から漏れ出た光が、寝そべる子どもを照らし出した後、にらみつける犬をくっきりと浮き彫りにしています。本来なら、番犬は隠れて子どもを警護しているはずですが、ここでは、まるでスポットライトを当てられたかのように、その存在を露わにしています。

 犬が寝そべっているのは、子どもの真下です。まるで二段ベッドの上と下にそれぞれ居場所を作っているかのように見えます。もちろん、二段ベッドがあるわけではなく、床はおろか、壁すらもありません。

 とにかく奇妙な空間でした。

 はるか遠方に山並みが広がっており、雲間から陽光が射し込んでいます。それが大気を照らし、山を照らし、寝入っている子どもの顔や手足を照らし出しています。その明るさの余波を受けて、犬のいる空間の視認性が高くなっていることがわかります。

 興味深いことに、山並みを描いた遠景と、子どもと犬が描かれた近景との間に中景がありません。はるか遠くの山々を照らし出していた陽光が、いきなり、子どもの寝姿を照らし出すという非現実的な設定になっているのです。

 このように、画面上で距離の圧縮が行われる一方、壁や床といった居場所の基準となる要素が描かれていません。いってみれば、座標軸が省かれたところで、子どもがうたた寝をし、犬が寝そべっている姿が描かれているのです。

 座標軸が設定されていないせいか、子どもも犬も、無重力空間に浮いているように見えます。これまでに見たことのない光景であり、絵柄でした。それなのに、見ていると、心が締め付けられるような感情が湧き上がってきます。まさに、「ノスタルジア」といってもいいような感情でした。

 かつて経験したことのある光景でもなければ、見たことのある風景でもありません。それなのに、なぜ、心の奥深く、感情が刺激されたのでしょうか。

 ふと思いついて、図録から近藤オリガ氏の言葉を探してみました。何か手がかりを得られるのではないかと考えたからでした。

 近藤オリガ氏は、次のように記していました。

 「ノスタルジアは私にとってはタイムマシンです。幼き頃見ていた自然の風景、心の風景全てが記憶の底にあり、スイッチが入ると、マシンに乗って何時でも懐かしい記憶の世界に戻ることができます。例えば、玄関先に座って父を待つ自分や、両親と一緒に月を眺めている自分の姿も現れてきます」(※ 図録、前掲、pp95-96)

 それにしても不思議な空間でした。

 かつて見た光景ではなく、かつて生きた世界でもないのに、どういうわけか、ノスタルジーとでも表現できるような感覚が呼び覚まされるのです。見ているだけで切なく、愛おしく、そして、心が痛みます。

 描かれた世界が重力のない幻想空間だったということからは、ひょっとしたら、胎内空間へのノスタルジーが呼び覚まされたのかもしれせん。

 いずれにせよ、近藤オリガ氏の作品が加わることによって、この展覧会に豊かさが加味されました。「ノスタルジア」を喚起するものは決して、特定の場所や時間や時代と結びついたものだけではないことが明らかにされたのです。とても興味深い展覧会でした。(2024/12/30 香取淳子)

カイユボットは第二帝政時代をどう描いたか ④:第1回印象派展を批評家はどう見たか

■批評家から見た印象派の画家の作品

 第1回印象派展で、批評家ルイ・ルロワ(Louis Leroy, 1812-1885)から酷評されたのが、ピサロの作品、《白い霧》でした。アカデミズムの作品を見慣れてきた批評家にとっては耐えられないレベルだったのでしょう。

 果たして、どのような作品だったのでしょうか、今回はまず、この作品から見ていくことにしましょう。

●《白い霧》(Hoarfrost, 1873年)

 ピサロ(Camille Pissarro, 1830 – 1903)は、第1回印象派展の開催に尽力した画家たちの一人で、当時、43歳でした。展覧会には、出品目録No.136からNo.140までの5点が展示されました。いずれも風景画ですが、その中の一つが、酷評されたこの作品です。

(油彩、カンヴァス、65.5×93.2㎝、1873年、オルセー美術館蔵)

 丘陵地にある畑に畝が幾筋も伸び、その上をうっすらと霜が降りている様子が描かれています。その畝の合間を縫うように、薪を背負って歩く農夫の後ろ姿が捉えられています。暖を取るための冬支度をしているのでしょう。

 画面全体を見渡すと、右手前以外は、畝の描き方、霜の描き方、いずれも雑で、何とも不自然に見えます。傾斜地の起伏を考慮せず、ただ太い線を引いただけの幾筋もの畝がいかにも稚拙なのです。しかも、この部分の霜もまた、地面全般に薄い白を重ねただけでした。

 これでは、ルイ・ルロワに貶されても、文句はいえないでしょう。

 もっとも、薪を背負って歩く農夫の姿が添えられたことで、画面からは、初冬を迎えた農村の生活の厳しさが伝わってきます。風景がとしては稚拙ですが、農夫を描くことによって、観客を誘い込む情感が、画面に生み出されたのです。

 さて、評論家のルイ・ルロワは、この作品に対する感想を、案内した観客と対話するという形式で表現しています。引用してみましょう。

 「ほら…深く耕された畝に霜が降りているのが見えるでしょう」

 「あの畝?あの霜?でも、汚れたキャンバスにパレットの削りかすを均一に置いたものです。頭も尻尾もなく、上も下もなく、前も後ろもありません」

 「そうかもしれません…でも印象は表現されています」

 (※ ジョン・リウォルド、三浦篤、坂上桂子訳、『印象派の歴史』、2019年、角川ソフィア文庫、pp.32-33)

 対話形式なので、否定のニュアンスは若干、弱められていますが、ルイ・ルロワのいうように、稚拙な表現であったことは疑いようもありません。彼は、案内した観客の言葉を引用しながら、「汚れたキャンバスにパレットの削りカスを均等にまき散らしたとしか見えない」と酷評しているのです。

 極めつけは、「頭も尻尾もなく、上も下もなく、前も後ろもありません」と評した上で、「でも、印象はそこにあります」と結論づけているところです。そのようなオチをつけなければ、当時はこの作品を評価することができなかったのでしょう。

 アカデミズムの技法を踏まえずに描かれた画面は、たしかに、前後、左右、上下がなく、捉えどころがありません。当時、西洋画の基本であった遠近法や透視図法も採用されておらず、筆触を消すための入念な仕上げも施されていませんでした。アカデミーの基準で評価できる作品ではなかったのです。

 これまでの判断基準を適用できないこの作品を見たとき、評論家ルイ・ルロワは、その捉えどころのなさの中にこそ「印象はある」と、揶揄するしかなかったといえます。

■当時の評価基準と第1回印象派展

 なにもピサロばかりではありません。第1回印象派展には、今では著名な多くの画家たちが出品していましたが、ほとんど評価されていませんでした。評論家や審査員たちはアカデミックでない作品をどう評価していいかわからず、ただ、絵画とみなせるか否かで判断していただけでした。

 たとえば、マラルメ(Stéphane Mallarmé, 1842 – 1898)は、当時の審査員たちについて、「審査員は、これは絵画である、あれは絵画でないといっていればよい」と述べています(※ 前掲、p.46)。絵画の評価基準はそれほど混沌とした状況にあったのです。そして、印象派の画家の作品のほとんどは、「絵画ではない」という判断をくだされていました。

 そもそも、アカデミズムの支配から抜け出そうとして、制作活動を展開していたのが、第一回印象派展に出品した画家たちでした。当然のことながら、多くの批評家にとって彼らの作品は理解しがたく、戸惑い、困惑するしかありませんでした。

 その後、「印象派」という漠然とした呼び名で彼らが総称されたことで、一つの流れが生み出されました。アカデミズムではなく、新しい題材や表現を模索する画家たちの登場という流れです。

 まだ確かな方向性は見えてこないものの、未来を感じさせ、新しい時代の到来を予感させるものがありました。

 当時、アカデミズムの基準が盤石なものではなくなりはじめていましたが、新しい評価基準、評価視点はまだ定まっていませんでした。社会変動に伴い、美術界のヒエラルキーにも揺らぎが見え始めたころ、登場してきたのが、印象派として括られた画家たちでした。

 産業革命後、新興勢力が台頭してくるにつれ、美術市場にも変化が訪れていました。

 それまで顧客であった王族、貴族、富裕者層に加え、新たにブルジョワジー層が美術市場の顧客として浮上してきていたのです。進取の気性に富む彼らは、アカデミックな画法を堅苦しく思い、自由な視点で選ばれた題材、自由な画法で描かれた作品に注目しました。

 美術市場の裾野が広がるにつれ、反アカデミックな姿勢の画家たちの作品にも関心が寄せられるようになっていたのです。明らかに産業化に伴う時代の変化が、美術界にも押し寄せていました。

 とはいえ、サロンの力はもちろん、まだ絶大でした。

 たとえば、マネ( Édouard Manet, 1832 – 1883)は、ドガに誘われながらも、決してこの第1回印象派展に出品しようとしませんでした。それは、どうやらサロンに出品しなければ、画家として認められないと考えていたからだったようです。逆に、ドガに向かって、「一緒にサロンに出品しましょう。あなたなら、よい評価を受けますよ」とまでいっていたそうです(※ 前掲、p.27)。

■サロンの権威

 ナポレオン3世の第二帝政期にパリは大改造され、ヨーロッパ最先端の文化都市になっていました。それを象徴するように、サロンが社会的行事として定着しており、美術批評も盛んにおこなわれていました。

 それだけに、当時、画家として認められるには、サロン(Salon de Paris)に出品して評価されることが前提になっていました。

 サロンが絶対的な力を持つ状況下で、画家が作品を売ろうとすれば、サロンでの成功が不可欠でした。サロンの審査員から高評価を得る必要があったのです。

 ところが、サロンの審査委員のほとんどは、アカデミーの会員でした。審査員は、画家の間での選挙と行政による任命によって選ばれるシステムでしたが、どちらの場合も結局、アカデミー会員から選ばれることが多く、サロンの審査基準がアカデミーから逸れることはなかったのです。

 サロンの審査基準は、新古典主義を規範とする保守的なアカデミズムに基づくものでした。そして、そのような評価基準は一般の美術評論家はもちろん、観客にまで幅広く浸透していました。

 アカデミーに基づく審査基準、そこから派生した絵画全般の評価基準に支えられ、サロンの権威はますます強化されていきました。当時の絵画観はサロンによって、形成されていたのです。

 そのような状況下で、第1回印象派が開催されたとしても、出品した画家たちの作品が高評価を得る可能性はほぼないに等しい状況でした。

 実際、それは展覧会への入場者数にみごとに反映されていました。同じ年に開催されたサロンは連日、大勢の観客でにぎわい、入場者数は40万人にも及びましたが、印象派展はわずか3500人程度でした。

■『落選展』よりひどい、『第1回印象派展』

 共和主義者の評論家たちは比較的、印象派の画家たちに好意的でしたが、それでも、「思い出すと必ず笑ってしまうほどの、あの有名な『落選者展』でさえ、カピュシーヌ大通りの展覧会に比べたらルーヴルのようなものだ」と評していました。

 『落選者展』とは、サロンに落選した作品を集めて展示した展覧会です。たいていの場合、1863年の展覧会を指しますが、これはナポレオン三世によって開催されたものです。

 第二帝政期以降のサロンは保守的な傾向を強め、1863年のサロンでは3000点以上の作品が落選しました。画家たちからの抗議が殺到したので、ナポレオン三世の発令で開催されたのが、『落選者展』です。ところが、多くの批評家や観衆は、サロンに落選した作品を見て嘲笑していたのです。

 その『落選者展』よりも「カピュシーヌ大通りの展覧会」(『第1回印象派展』)の方がひどいといっているのです。

 そんな中で、批評家のカスタニャリ(Jules-Antoine Castagnary, 1830 – 1888)は、印象派の画家たちを、どちらかといえば、客観的に評価していました。

 「彼らに共通の概念は、滑らかな絵肌の仕上げを求めずに、概略的な要素を示すだけで満足することである。ひとたび印象が把握されれば、彼らのするべきことは終わったことになる。(中略)彼らは、風景を表現しているのではなく、風景から得られる感覚を表現しているという意味において、印象派の画家といえるのである」(※ 前掲、p.50)

 こうして評論家たちは彼らを、次第に、「印象派」の画家として位置づけていくのですが、ドガはこう呼ばれることを嫌いました。というのも、当時、この言葉には嘲笑的なニュアンスが込められていたからでした。

 ちなみに、ドガは第1回印象派展の開催に力を尽くしており、親しくしていたルアールはもちろん、年若いカイユボットにも出品を勧めていました。この展覧会によって、アカデミズムにはない新機軸を打ち出そうとしていたのです。

 実は、ドガは手厳しい評論家たちからも比較的評価は高かったのです。

 それでは、ドガの作品は一体、どのようなものだったのか、見てみることにしましょう。

■第1回印象派展への出品作品、同時期の作品

 ドガ(Edgar Degas, 1834 – 1917)は当時39歳で、10点出品していました。出品目録のNo54からNo63までがドガの出品作品です。これら10点のうち、デッサン画やパステル画を除いた作品のうち、Wikipediaで紹介されているのが、No57の《Blanchisseuse 》でした。(※ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC1%E5%9B%9E%E5%8D%B0%E8%B1%A1%E6%B4%BE%E5%B1%95

 ドガはこの時期、洗濯する女性を取り上げ、多くの作品を描いており、紛らわしいタイトルがいくつもありました。さらに、この作品のタイトルについては、日本版Wikipediaでは、女性定冠詞「la」が付けられ(※ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC1%E5%9B%9E%E5%8D%B0%E8%B1%A1%E6%B4%BE%E5%B1%95)、出品目録では定冠詞がなく(※ https://fr.wikipedia.org/wiki/Liste_des_%C5%93uvres_pr%C3%A9sent%C3%A9es_%C3%A0_la_premi%C3%A8re_exposition_impressionniste_de_1874)、フランス版Wikipediaでは、複数定冠詞「les」付けられていました(※ https://fr.wikipedia.org/wiki/Edgar_Degas#/media/Fichier:Edgar_Degas_-_Washerwomen_-_Google_Art_Project.jpg)。

 後の人々がこの作品のタイトルをどう扱えばいいのか迷った形跡がうかがえます。ここでは、日本版Wikipediaに従い、女性定冠詞の付いたタイトルを使います。

 それでは、ドガの作品《洗濯女》(La Blanchisseuse, 1870-1872)を見てみることにしましょう。

●ドガ、《洗濯女》(La Blanchisseuse, 1870-1872)

 非常に小さい作品です。最初、鏡に映った女性の姿を描いているのかと思いましたが、よく見ると、顔立ちから表情、手の位置まで異なっています。二人の女性が顔を寄せ合っている様子を描いたものでした。

(油彩、カンヴァス、21×15㎝、1870‐1872、アンドレ・マルロー近代美術館蔵)

 女性が二人、ともに目を伏せ、憂いに沈んでいるような表情を浮かべているのが印象的です。暗い表情のせいか、左の女性が頭から顎にかけて巻いている白い布は、包帯のように見えますし、右の女性の手は口元を手で押さえており、歯の痛みに苦しんでいるように思えます。

 タイトルは《洗濯女》ですが、洗濯するシーンは描かれておらず、女性たちの頭部に焦点が当てられているところがユニークです。辛く厳しい彼女たちの日常を、頭痛あるいは歯の痛みなど、頭部周辺の痛みに置き換え、象徴的に表現したとも考えられます。

 ドガはこの頃、洗濯する女性をモチーフに、いくつも作品を残していますが、いずれも上半身で作業をする姿が描かれており、このような構図の作品は見当たりません。おそらく彼女たちの心理に肉薄しようとしたのでしょう、至近距離で二人の顔面が描かれています。クローズアップで捉えた二人の構図が面白く、画面に込められたメッセージが気になります。

 そういえば、ドガは新興ブルジョワジーの出身で、1855年にエコール・デ・ボザール(École des Beaux-Arts)入学し、アングル派の画家ルイ・ラモート(Lois Ramote )に師事しました。1856年、1858年にはイタリアを訪れ、古典美術を研究しています。

 彼の経歴を見れば、明らかにアカデミーの教育を受けているのですが、第1回印象派展を開催した頃、手がけていた題材は、洗濯女や踊り子でした。ブルジョワ階級の出身でありながら、労働者階級の人々に深く心を寄せて、制作していたことがわかります。

 果たして、どのような観点から描こうとしていたのでしょうか。試みに、作品タイトルBlanchisseuseとEdgar Degasをキーワードに検索してみたところ、驚くほど多数の作品があがってきました。

 当時、ドガは洗濯する女性をどのように捉えていたのか把握するため、それらの中から一つ作品を取り上げ、ご紹介していきたいと思います。

 ここでは、第1回印象派展の開催(1874年)に近い、1873年に制作された作品《A Woman Ironing》を取り上げることにしたいと思います。

 この作品の出品時のタイトルは元々、《Une Blanchisseuse》(洗濯)でした。それが時を経て、そのまま、《Une Blanchisseuse》とするもの、あるいは、作品内容に合わせ、《La Repasseuse》とするもの、さらには、《A Woman Ironing》と英語表記で画面内容に合わせたもの、といった具合に三種類もありました。先ほどご紹介した《洗濯女》と同様です。

 Wikimedia Commonsでは、この作品のタイトルが《A Woman Ironing》になっていましたので、こちらのタイトルを使うことにしました。それでは、この作品を見てみることにしましょう。

●《アイロンがけをする女性》(A Woman Ironing)

 アイロンがけをする女性が逆光の中で捉えられています。


(油彩、カンヴァス、54.3×39.4㎝、1873年、メトロポリタン美術館蔵)

 窓から射し込む陽光が明るく反射して、アイロンがけをする手元やその周辺、壁面など辺り一帯が白く描かれています。その白さを覆うように、女性の頭上には、たくさんの衣類がぶら下がっており、アイロンがけの仕事がまだまだ続くことが示されています。この室内の様子で、いかに過酷な労働なのかが示されています。

 アカデミズムの画家からすれば、稚拙な表現に見えるかもしれませんが、ラフな色彩とタッチで描かれているからこそ、色調のコントラストが際立って見えます。この強いコントラストが、《工場の前のルアール》と同様、画面からメッセージ性を生み出しているのです。

 辺り一面を白く見せてしまうほど、強い陽光が窓から射し込み、アイロンがけをする女性は、逆光で暗く描かれています。全体に白っぽい画面の中、窓枠と女性だけが、黒褐色で描かれています。まさに、光と影が描かれているのです。

 このような色調のコントラストが、観客の想像力を刺激し、画面を魅力的なものに見せているといえるでしょう。

 《洗濯女》といい、《アイロンがけをする女性》といい、働く女性をモチーフに斬新な構図と色構成で捉えています。どこででも見かける日常の光景が、シャープな視点で切り取られ、作品化されているのです。さまざまな試みをしながら、新機軸を打ち出そうとしているのがわかります。

 ドガが従来のアカデミズムに収まりきらない画家であることは確かでした。もっとも、だからといって、印象派の画家として一括してしまうこともできません。

■反アカデミズムとしての第1回印象派展

 第1回印象派展は、さまざまなグループの画家たちが協調し、力を出し合って創設した展覧会でした。サロンとは別に、作品発表の場を設け、絵画の販売チャンネルを画家自らが持つためでした。サロンに認められず、生計を立てることのできない画家たちが危機感を覚え、発案した事業だったのです。

 画家自らが発表の場を設けることによって、サロン以外の評価基準による絵画の流通を目指しました。この展覧会は、いってみれば、画家自らが画策した、販売のためのインフラ整備でした。第1回印象派展の開催に尽力したのが、ルノワール、ピサロ、ドガでした。

 会期が終わり、ふたを開けてみれば、開催期間中に作品が売れたのは、シスレー、モネ、ルノワール、ピサロぐらいでした。主要メンバーのうち、ドガの作品には買い手がつかなかったのです。

 一部の批評家からは評価されていたにもかかわらず、ドガの作品は売れませんでした。おそらく、第1回印象派展に参加した批評家や観客たちの感性や美意識、絵画観にドガの作品がマッチしなかったからではないかという気がします。

 印象派は一般に、目の前にあるものを見たまま、即興で描くというイメージがあります。だからこそ、筆致が粗く、遠近感や立体感がなく、混沌として、稚拙に見えるのですが、ドガの作品にはそれがなく、むしろ思考の痕跡が見受けられます。

 今回、ご紹介した《洗濯女》にしても、《アイロンがけをする女性》にしても、印象派の画家が好む日常の生活光景を題材にしながら、その表現方法にはアカデミズムを踏まえた実験的要素があり、試行錯誤の後が見られます。

 ドガ自身も、「印象派」と呼ばれるのを好みませんでした。彼らとは違うという認識があったのでしょう。実際、1855年にエコール・デ・ボザールに入学してアングル派のルイ・ラモートに師事したばかりか、イタリアを訪れ、古典研究をしていました。美術に関し正規のアカデミズム教育を受けていたのです。

 改めてドガの作品を見直してみると、西洋絵画の基礎の上に、新しい時代の息吹を吹き込もうとしていたように思えます。産業革命を経て新興ブルジョワジーが台頭してきたように、封建体制に根付く新古典主義を乗り越え、独自の境地を開こうとしていたのです。

 ドガは、反アカデミズムという枠には収まりますが、印象派という枠には収まり切れませんでした。進取の気性に富み、テクノロジーを愛し、独自の境地を切り拓こうとした画家だったといえるかもしれません。

(2024/11/27 香取淳子)

カイユボットは第二帝政時代をどう描いたか ③:カイユボットの交友関係と第1回印象派展 

■カイユボットの交友関係

 カイユボットは画家になりたての頃、同窓だったジャン・ベローや、ミロメニル通りの近くに住んでいたアンリ・ルアール(Henri Rouart,1833 – 1912)と交流していました。ルアールはカイユボットより15歳も年長でしたが、近所に住んでいたので、親交を深めていたのでしょう。

 一方、ルアールは、ドガ(Edgar Degas, 1834 – 1917)とはリセのクラスメートでした。リセを卒業すると、ルアールはエコール・ポリテクニークに進んでエンジニアとして働き、実業家になりましたが、ドガはエコール・デ・ボザールに進み、画家としてキャリアを築いています。進路は違っても、二人は生涯の友人でした。

 ドガがルアールを描いた作品があります。

●《工場の前のルアール》(Henri Rouart in Front of His Factory)

 経営する工場を背後に佇むルアールの上半身が描かれている作品です。

(油彩、カンヴァス、65×50㎝、1875年、カーネギー美術館蔵)

 まず、目に入るのがルアールの横顔です。シルクハットを被って、顎髭をたくわえ、いかにも実業家然としています。この時、ルアールは41歳、脂の乗った年齢です。なにか難題でも抱え込んでいたのでしょうか、一点を見つめ、身じろぎもせずに佇んでいる姿が印象的です。深刻な表情が気になります。

 工場につづく背後の道路、その脇の木立はすべて、黒褐色の濃淡で描かれています。手前から三分の二までの画面が暗い色調で覆われているのです。空さえもどんよりと曇り、まるでルアールの心情を反映させているかのようです。

 暗い画面の上部を横断するように、工場が描かれています。白い壁、赤い屋根の上に、淡いベージュ色の高い煙突がそびえるように立っています。画面が暗いだけに、工場の明るさが際立って見えます。その近代的な明るさが、産業化の象徴のように感じられます。

 稼働している工場は明るく描かれ、それ以外は暗い色調でまとめられています。画面の大部分を暗く描き、工場だけを明るく描いた色構成が、明暗のコントラストを強め、ルアールの苦悩を強調しているように思えます。そこにドガのこの作品に込めた表現意図が感じられるのです。ルアールの実業家としての一側面を、色彩の面からドガは見事に描ききったといえるでしょう。

 一方、ルアールの立ち姿は、画面右寄りにどっしりとした縦のラインを示し、重みを与えています。黒いシルクハットに平行して、淡いベージュの煙突が描かれ、縦のラインとなって画面上部に達しています。この二つのラインが、明暗のコントラストを保ちながら、画面を縦方向に安定させていることがわかります。

 さらに、道路にはパース線がいくつも引かれ、工場までの遠近感がしっかりと表現されています。これらのパース線は、手前から工場までの空間を、斜めのラインで整理し、暗い道路周辺の曖昧さを排除しています。

 パース線が到達している工場は、画面を横方向で安定させています。縦、横、斜めのラインで、画面全体を構造化し、調和をもたらしていることがわかります。ドガは、画面の色構成によってコントラストを強め、メッセージ性を高める一方、幾何学的な構図で、画面を構造的に安定させていたのです。

 この作品は、画面が幾何学的に構造化されており、産業化時代に重視された科学性が強調されているように思えます。さらに、顕著な明暗のコントラストは、産業化が格差を拡大していくことを示唆しているようにも感じられます。

 第二帝政時代、産業化の推進が奨励されていました。実業家は、時代を牽引する人々であり、近代性、先進性の象徴でもありました。その実業家であるルアールを、ドガは、彼の近代的な工場を背景に、幾何学的な構成で描きました。

 ドガはこの作品で、産業化のエッセンスを描こうとしていたのではないかと思います。

 一方、ルアールの暗い表情からは、財力があり、一見、華やかに見えるブルジョワジーにも、実業家ならではの苦悩と焦慮感があることが示唆されています。産業化を急いでいた時代だからこそ、見出されたテーマであり、問題点でした。ドガはそのエッセンスを、色彩と絶妙な画面構成によって、見事に描き切ったといえます。

■画家としてのルアール

 実業家ルアールは、画家としても活動しており、1868年から1872年まではサロン・ド・パリに出品していました。ドガに誘われ、1874年の「第1回印象派展」には11点も出展しています。

 どのような作品があるのか気になって、出品目録を見ると、確かに、No.148からNo.158まで作品11点が、アーティスト名ルアール(Henri Rouart)で出品されていました。(* https://en.wikipedia.org/wiki/First_Impressionist_Exhibition

 ところが、作品の詳細は記載されておらず、タイトル名と画家名が書かれているだけです。仕方なく、タイトル名を手掛かりにネットで調べてみました。出品した11作品中、唯一、ルアールの作品画像を入手できたのが、《Forêt》でした。

 それでは、作品を見てみましょう。

●《森》(Forêt)

 繊細なタッチの風景画です。一見して、印象派よりも古い時代の作品のように見えます。


(油彩、カンヴァス、59.5×73.2㎝、制作年不明、所蔵先不明)

 木の幹や枝葉、下草の描き方にアカデミズムの画法を見ることができます。いつ制作された作品なのかわかりませんが、少なくとも、印象派の画家たちの影響を受ける前の作品だと考えられます。

 木々の間から漏れる陽光が幹や枝をくっきりと照らし出し、葉を輝かせています。細部まで丁寧に描かれており、森のひそやかな息遣いが伝わってきます。下草には、木々の影が伸び、森の中の、光と影が織りなす調和のある美しさが捉えられています。光と影に着目して画面構成をしているところに、印象派との親和性が感じられます。

 ルアールは、この第1回印象派展だけではなく、その後も、印象派展には何度か出品しています。実業家でありながら、ルアールは画家としても活動していましたが、展覧会に出品しても受賞するわけでもなく、画家として評価されたということもありませんでした。

■パトロンとしての役割

 当時、絵を売って画家として生計を立てていくのは至難の業でした。貧困にあえぐ画家たちがなんと多数いたことか。実業家のルアールは、やがて、画家というよりはむしろ、パトロンの役割を担わされるようになっていきます。とくに印象派展に出品した画家たちの作品を購入することによって、彼らの生活を金銭的に支援するようになっていたのです。

 実は、ルアールの父親もカイユボットの父親と同様、軍服を製造販売する裕福な事業家でした。軍と結びついたブルジョワ階級でした。だからこそ、高級住宅地であるミロメニル通りに居を構えることができ、その財力に任せて、売れない画家たちの作品を購入することができたのです。

 ルアールが1912年に亡くなった後、印象派の画家たちの絵画が285点、それ以前の画家たちの作品77点が収集されていたことがわかりました(※ Wikipedia)。彼が購入していたのは、もっぱら印象派の画家たちの作品でした。

 さて、カイユボットは、近所に住んでいるという理由でルアールと付き合うようになりましたが、やがて、ルアールを通して知り合ったエドガー・ドガ(Edgar Degas,1834 – 1917)やジュゼッペ・デ・ニッティス(Giuseppe De Nittis, 1846 – 1884)などとも親交を深めていくようになります。

 ドガやジュゼッペ・デ・ニッティスらと交流するようになってから、カイユボットも印象派の画家たちとの交流が増えました。そのせいか、次第にアカデミズムとは距離を置くようになっていました。ところが、第1回印象派展には、ドガから誘われながらも、出品しませんでした。

 第1回印象派展は1874年に開催されています。1874年といえば、カイユボットの父親が亡くなった年でした。ひょっとしたら、展覧会への出品どころではなかったのかもしれません。

 そう思って、父親の亡くなった日を調べてみると、1874年12月24日でした(※ http://caillebotte.net/family/)。第1回印象派展の開催が1874年4月15日から5月15日ですから、カイユボットが出品しなかったことと、父親の死とは関係がなかったことがわかります。

 それでは、なぜ、カイユボットは出品しなかったのでしょうか。

 ドガから誘われてすぐ、出品するほど、カイユボットはまだ深く、印象派にコミットしていなかったのかもしれません。あるいは、サロンへの思いを捨てられなかったのかもしれませんし、第1回印象派展が評価の付けられない展覧会だったからかもしれません。いずれにしろ、カイユボットはドガやルアールから誘われても、出品しませんでした。

 それでは、第1回印象派展は、どのような経緯で開催されることになったのでしょうか。

 実は、開催当初、この展覧会は、「印象派展」という名称ではありませんでした。「画家、彫刻家、版画家等の協会」による「第一回展覧会」というタイトルだったのです。その後、「印象派展」と呼ばれるようになりますので、ここでは、「第1回印象派展」とさせていただきます。

 なぜ、「印象派展」と呼ばれるようになったのかについても触れながら、「第一回印象派展」を振り返ってみたいと思います。

■第1回印象派展

 第1回印象派展は、1874年4月15日から5月15日まで開催されました。のちに印象派と呼ばれる画家たちによる最初のグループ展でした。主なメンバーは、クロード・モネ、エドガー・ドガ、ピエール=オーギュスト・ルノワール、カミーユ・ピサロ、ベルト・モリゾでした。

 元々、モネはサロンとは別に、画家たちが自費で展覧会を開催したいと考えていました。制限なく自由に、作品発表の場を設けたいという気持ちからでした。その考えに賛同する画家たちを組織化して会費を徴収し、芸術家の共同組合のようなものを設立しようとしていたのです。

 やがて、作品発表の場が限定されているのを嫌った画家たちが、モネの計画を受け入れるようになりましたが、組織化には難航しました。誰も経験がなかったからです。そんな中、ピサロは、当時、会員になっていた「歴史画家、風俗画家、彫刻家、版画家、建築家、素描家の協会」を参考に、基本的なプランを提案しました。

 ピサロの提案に基づき、株式、月々の賦払金、会社の定款、出資規定などを定めた株式会社が設立されました。会社名は、「画家、版画家、彫刻家等、芸術家の共同出資会社」です。設立認可は1873年12月27日で、ルノワールがその管理者になりました(※ ジョン・リウォルド著、三浦篤他訳、『印象派の歴史 下』、角川文庫、2019年、pp.19-23)。

 開催されたのはカピュシーヌ大通り35番地で、かつて写真家のナダール(本名=Félix Tournachon, 1820-1910)がアトリエとして使っていた場所でした。


(※ Wikipedia)

 入場料は1フランで、期間中の来場者数は3500人でした。この展覧会のカタログの写真がありましたので、ご紹介しましょう。


(※ https://fr.wikipedia.org/wiki/Premi%C3%A8re_exposition_des_peintres_impressionnistes

 「画家、彫刻家、版画家等の協会」が発行したカタログの表紙です。「第一回 展覧会」と大きく表題が書かれ、その下に、「1874」と発行年、「カピュシーヌ大通り35番地」と開催場所が書かれています。表紙のどこにも「印象派」という文字がありませんが、それは、当時はまだ印象派と命名されていなかったからでした。このカタログは0.5フランで販売されていました。

 モネ(Claude Monet, 1840 – 1926)が出品した作品の中に、このカピュシーヌ大通りを描いた作品がありましたので、ご紹介しましょう。

●《カピュシーヌ大通り》(Boulevard des Capucines)

 モネはカピュシーヌ大通りを題材に、何点か制作していますが、これは第1回印象派展に出品された9点のうちの一つです。


(油彩、カンヴァス、60×80㎝、1873年、プーシキン美術館蔵)

 街路樹がそびえ、その下を大勢の人々が行き交う様子が俯瞰して描かれています。木々も建物も人々も粗いタッチで描かれており、一見、稚拙に見えますが、陽光の射し込む方向をしっかりと捉え、光の当たる部分と影になる部分が、色彩を微妙に使い分けて表現されています。だからこそ、情緒豊かな空間が表現されているようにも思えます。

 すぐ近くのビルのバルコニーからは男性が二人、身を乗り出して通りを眺めており、この通りの賑わいがよくわかります。

 この大通りの35番地で、第1回印象派展が開催されました。30名の画家たちが作品を165点、出品しました。

■開催に至る経緯

 第1回印象派展に参加した画家たちは、当時、学んだ画塾に基づき、いくつかのグループを形成していました。

 たとえば、クロード・モネ、カミーユ・ピサロ、ポール・セザンヌ、アルマン・ギヨマンなどは、シャルル・シュイスの開いた画塾のアカデミー・シュイスで学んだ仲間たちでした。

 また、フレデリック・バジール、ピエール=オーギュスト・ルノワール、アルフレッド・シスレーなどは、シャルル・グレールの画塾で学んだ同窓でした。

 このように別々の画塾で学んだ画家たちを繋いだのが、モネでした。

 相互に交流するようになった画家たちはやがて、モンマルトルのバティニョール街(現、クリシー街)にあったカフェ・ゲルボア(Café Guerbois)に集まり、絵画について議論をするようになりました(※ Wikipedia)。

 その流れとは別に、マネは、落選展に出品した《草上の昼食》(1863年)が大きな物議をかもした後、1864年にバティニョール通り34番地の家に引っ越してきました。その頃から、彼もカフェ・ゲルボワに通うようになっていました。

 サロン・ド・パリに出品した《オランピア》(1865年)が再び、大きなスキャンダルになると、マネの周辺に、若い芸術家や文学者たちが多数集うようになりました。いつしか、マネのアトリエや、マネの通うカフェ・ゲルボアが、芸術家たちのたまり場になっていったのです。

 バティニョールのマネのアトリエに集った画家や文学者の姿を描いた作品があります。


(油彩、カンヴァス、204×273㎝、1870年、オルセー美術館蔵)

 これは、ラトゥール(Henri Jean Théodore Fantin-Latour, 1836 – 1904)が1870年に描いた作品で、タイトル名も《バティニョールのアトリエ》です。カンヴァスに向かって筆を執っているマネを中心に、ルノワール、モネ、バジール、ゾラなどが描かれています。画家や作家が集って芸術論を交わし、絵画を語り、文学を論じていた様子がうかがい知れます。

 活発な芸術談義が行われていたのは、なにもマネのアトリエに集まったバティニョール派の画家たちだけではありませんでした。さまざまな芸術家グループ、画家グループもまた、カフェ・ゲルボアに集って芸術論、絵画論を交わし、芸術行政を批判しては、自分たちの作品発表の場を模索していたのです。

■展覧会の開催と出品資格をめぐる論議

 普仏戦争後の1873年に、恐慌が起こり、それまでバティニョール派の画家をはじめ、後に「印象派」と呼ばれる画家たちを支援していた画商デュラン・リュエル(Paul Durand-Ruel, 1831- 1922)が、一時的にその支援を打ち切らざるをえなくなりました。バティニョール派やカフェ・ゲルボアに集っていた画家たちは、作品を販売する手がかりを失ってしまったのです(※ Wikipedia)。

 彼らは半ば必然的に、モネを中心に組織を作り、グループ主催の展覧会の開催を考え始めました。開催の大枠はほぼ固まってきたのですが、出品資格をめぐって論争が起こりました。多くの画家が、展覧会への参加はグループメンバーだけにした方がいいという意見でしたが、ドガは、グループの展覧会には、サロンで受賞経験のある画家たちも招待すべきだと主張したのです(※ 前掲)。

 ドガは、とくにマネを中心にしたグループの作品が、サロンの潮流から大きく逸脱していると認識していました。実際、マネの作品がスキャンダラスだとして世間を騒がせたことはまだ人々の記憶に新しい出来事でした。

 ドガは、グループメンバーだけに出品資格を限定すると、自分たちの作品までも民衆から非難されかねないと懸念していたのでしょう。実際、サロンに出品するような画家を交えておかなければ、せっかくの展覧会が、前衛的なものだと受け止められる可能性があったのです。

 それは、ドガにしてみれば、画家生命を脅かしかねない危険性を孕むことになります。だからこそ、サロン受賞経験者を招待するという体にするしかなかったのです。

 結局、ドガの提案はグループメンバーに受け入れられました。それは、参加資格を広げれば、一人当たりの出費が安くなるという経済的な理由からでした。こうして、サロンを無視することなく、不要な摩擦を避けて、展覧会が開催されることになったのです。

 興味深いことに、マネはこの第1回印象派展に出品しませんでした。どういうわけか、出品した画家のリストの中にマネの名前はありませんでした。展覧会への影響を恐れたのかどうかわかりませんが、結局、マネは出品しなかったのです。

 こうしてみてくると、カイユボットが、ドガから出品を誘われながらも、それを断った理由がわかるような気がします。

 それでは、「第1回印象派展」はどのような評価を受けていたのでしょうか。

■第1回印象派展の評価

 評論家のルイ・ルロワ(Louis Leroy, 1812-1885)は、風刺新聞『ル・シャリヴァリ(Le Charivari)』(英語版)紙に、軽蔑と悪意をこめて、第1回印象派展を、「印象主義の展覧会」と評しました。モネの作品タイトル、《印象、日の出》(Impression, soleil levant)をもじって命名したものでした(* https://arthive.com/publications/1812~Pictorial_Louis_Leroys_scathing_review_of_the_First_Exhibition_of_the_Impressionists)。

 以来、アカデミズムに対抗して展覧会を開催した画家グループは、「印象派」と呼ばれるようになります。

 モネの《印象、日の出》はいったい、どのような作品だったのでしょうか、見てみることにしましょう。

●《印象、日の出》(Impression, soleil levant)

 モネ(Claude Monet, 1840 – 1926)は、第1回印象派展に9点の作品を出品していました。その中の1点が、《印象、日の出》です。32歳の時、故郷ル・アーブルの港の朝の景色を描いたものです。

 これは、モネが、幼少期を過ごしたル・アーブルの町に、妻と息子とともに滞在した時、描かれた作品です(* https://fr.wikipedia.org/wiki/Impression,_soleil_levant)。


(油彩、カンヴァス、48×63㎝、1872年、マルモッタン、モネ美術館蔵)

 青みがかったグレーを基調に、港湾風景が描かれています。淡い色調の中で、空と海の境界も判然とせず、すべてが混然一体となった中、手前のボートと画面中ほどの太陽が、存在感を放っています。

 漠然とした曖昧で取り止めのない情景が、粗いタッチで描かれています。微妙な色使いや色調、柔らかなタッチには、イギリスの風景画家ターナー(Joseph Mallord William Turner、1775 – 1851)の作品の影響がうかがえるといえなくもありませんが、ターナーほどのシャープさはなく、鮮烈さもありません。アカデミズムの技法を無視した作品でした。

 すべてが曖昧模糊としており、作品というよりも着想段階のイメージのように見えます。ルイ・ルロワがいうように、港を見て得た印象を描いているように見えるのです。アカデミズムの絵を見慣れた評論家や観客には理解しがたい作品だったのでしょう。

 この作品は、ルイ・ルロワから「印象主義」のレッテルを貼られました。これが、やがて、この展覧会に出品していた画家たちを指す言葉として定着し、アカデミズムから逸れた画家たちを指す「印象派」の命名由来となったのです。

■玉石混交?

 著名な批評家たちのほとんどがこの展覧会に対し沈黙していたといわれています。そんな中、好意的な展覧会評を書いた批評家もいました。

 たとえば、アルマン・シルヴェストル(Armand Silvestre, 1837-1901)です。彼は、モネ、ルノワール、シスレー、ピサロ、ドガなどの作品を賞賛し、あるいは、評価を保留しながらも、総じて、「この展覧会は見るに値する」と言っています。それでも、「サロンに入選したこともない誰にでも門戸を開放するのはよくない」と苦言を呈していました(※ ジョン・リウォルド著、三浦篤他訳、『印象派の歴史 下』、角川文庫、2019年、p.48-49)。

 中には才能を感じさせる作品もあったとはいえ、展示作品のレベルはまさに玉石混交だったと批判しているのです。この上は、展覧会としての水準を高める必要があるとし、せめて、出品資格をサロン入選者に限定すべきではないかと、シルヴェストルは述べていました。

 作品を鑑賞したくて来るのではなく、好奇心から来場する者が多く、作品を見て嘲笑する人もいれば、爆笑する人もいたといいます。サロンを訪れる人々の態度とは明らかに異なっていたのです(※ 前掲、p.47)。

 第1回印象派展に出品した画家のリストを見ると、展覧会の開催に尽力したモネ(9点出品)やルノワール(7点出品)、ドガ(10点出品)、ピサロ(5点出品)、ルアール(11点出品)などの名前が見られます(※ https://fr.wikipedia.org/wiki/Premi%C3%A8re_exposition_des_peintres_impressionnistes)。

 総入場者数は3,500人で、同じ頃に開催されたサロンの入場者数は40万人でした。初回なので周知されていなかったからかもしれませんが、サロンの入場者数に比べ、圧倒的に少なかったのです。

 ドガは、第1回印象派展の開催に際し、グループメンバーだけではなく、サロンの入賞経験者も招待すべきたと主張していました。その意見が通り、仲間内だけの展覧会にとどまらずにすみましたが、結果はサロンとは大きくかけ離れて少ない入場者数でした(※ 前掲)。 一般に知られていなかったというだけではなく、批評家たちから好評価を得られなったことも、来場者数の少なかったことの一因でした。

■「展覧会」事業としての結果はどうだったのか?

 展覧会に対する評価は、4週間以上に及んだ会期中の入場者数の推移に如実に反映されていました。初日は175人だったのが、最終日には54人にまで減っていました。中には2人しかいなかった日もあったそうですから、好奇心に駆られて訪れてはみたものの、好評価することができず、入場者数は次第に減っていったと考えられます。

 展覧会終了後、ルノワール(Pierre-Auguste Renoir ,1841 – 1919)が、会計係であったオーギュスト・オッタン(Auguste-Louis-Marie Jenks Ottin、1811 – 1890)の協力を得て、収支報告書を作成したところ、総支出は9,272フランで、収入は10,221フランでした。収入の内訳は、入場料、カタログ販売、作品販売手数料、寄付金等です(※ 前掲、p.56)。

 かろうじて黒字にはなりましたが、大多数の画家の作品は売れず、年会費60フラン分を回収できませんでした。この展覧会は、当初の目論見とは違って、作品の販売チャネルにはならなかったのです。作品の発表機会の少ない画家にとって、重要な機能が果たされませんでした。

 この展覧会は、画家たちが共同出資した会社によって開催されており、作品の売却代金の10%を手数料として納めることが合意されていました。展覧会終了後の財務報告では、360フランが手数料収入として記録されており、その内訳は、シスレーが100フラン、モネが20フラン、ルノワールが18フラン、ピサロが13フラン、その他の画家からの手数料でした。ちなみに、展覧会開催に尽力したドガの作品はどういうわけか、全く売れていません。

 今では著名な作品も、当時は評価されていなかったのです。せっかく発表の場を自分たちの手で創設したというのに、批評家からも観客からも好評価を得られず、新しい息吹を人々の心に吹き込むことはできませんでした。

 もっとも、画家たちによって私的に運営される展覧会が開催されたことの意義はありました。一つは、画家自身が市場と向き合い、その厳しさを実感できる契機となったことであり、もう一つは、アカデミズム以外の様々なジャンルの絵画が、人々の目に触れるチャンスを作ったことでした。

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 二度、三度と繰り返し展覧会を開催するうちに、やがて、批評家の見方が変わり、人々の目が彼らの作品に向けられる時がくるでしょう。1874年、画家たちは重要な一歩を歩みはじめました。画家たちは、サロンや画商頼みの待ちの姿勢から、攻めの姿勢へと気持ちを変化させたのです。

 産業革命後の経済状況は激変しており、社会の各層でその対応が迫られていました。対応を誤れば、そのまま歴史の底に埋もれてしまいます。第二帝政時代、全権力を握ったナポレオン三世は、産業化を促進するため、次々と改革を進めました。

 諸改革の一つである新会社法は、商業活動を活性化するために制定されました。1867年7月24日のことでした。その6年後、画家たちは自身の手で会社を設立し、安定した作品発表の場を求めて展覧会を開催したのです。

 こうしてみてくると、第1回印象派展は画家たちにとって、新時代への対応策だったといえるでしょう。(2024/10/28 香取淳子)