ヒト、メディア、社会を考える

香取淳子のメディア日誌
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「鼓の胴の松飾り」が物語るもの

■本丸玄関に掲げられたしめ飾り

 佐賀城本丸歴史館の城門をくぐって中に入ると、まず目に入ってくるのが、本丸御殿の玄関です。

 軒下の天井近くには、大きくて太いしめ飾りが飾られているのが見えます。鼓の胴のような形が印象的です。アップしてみましょう。

 明らかに、普段、見かけない形状のしめ飾りです。調べてみると、これは「鼓胴型」といわれるもので、神社の飾りなどで使われているようです。訪れたのは、12月半ば過ぎでしたから、おそらく、正月飾りなのでしょう。胴の中央部分には、ゆずり葉がたくさん取り付けられ、葉陰にみかんが見え、その下には、紅白の水引を巻き付けた半紙でくるまれた黒いものが見えます。

 変則的な形状だといいながら、添えられているのはいずれも、お正月を祝うための縁起物です。ゆずり葉は、「子孫繁栄」や「世代交代」の象徴として、正月の縁起物に用いられますし、みかんも、「子孫繁栄」の意味を込めて飾られます。 紅白の水引はもちろん、お祝い事の際には必ず使われるものです。

 調べてみると、次のような文書がみつかりました。

こちら → https://saga-museum.jp/sagajou/docs/4e6592467de7748fef647b0cba3cebd3.pdf

 この文書を読んで、いくつかのことがわかりました。まず、このしめ飾りが「鼓の胴の松飾り」と呼ばれていること、そして、この松飾りが「島原の乱」に因むものであること、等々です。

 さらに、この文書の最後には説明書きが添えられており、橙(だいだい)、楪(ゆずりは)、炭(すみ)、南天(なんてん)の意味が書かれていました。

■鼓の胴の松飾り

 文書の後に添えられた説明書きを読んで、気づいたことがいくつかあります。

 たとえば、私が「みかん」だと思っていたものが、実は、「橙」だったことです。みかんも橙も同じ柑橘類ですが、橙は「だいだい」と発音しますから、「代々栄える」という意味が込められているようで、語呂合わせです。

 見たときは、気づかなかったのですが、このしめ飾りには、南天も添えられていたようです。「なんてん」と発音しますから、「難を転じる」という意味になります。こちらも、語呂合わせで添えられた縁起物です。

 さらに、半紙の先からはみ出していた黒いものの正体がわかりました。「炭」だったのです。説明では、「黒が邪気を払う色とされるからとも、読みを「住み」に通じさせて永住を祝う意からともいう」と記されています。

 改めて、藁で造られたしめ飾りを見ると、バランスのいい色合わせが印象的です。赤(南天)、黄色(橙)、緑(ゆずりは)、黒(炭)など、色とりどりのものが添えられており、それぞれが、家族の無事と安全、そして、代々の繁栄を願う縁起物でした。

 それにしても、一風変わった正月飾りでした。

 変則的な形状だからこそ、印象深いのかもしれません。新年を迎えたとき、家族の安全と幸せ、子孫の繁栄、恙なく、無事な暮らしを願う人々の気持ちがしっかりと、鼓の中に込められているように思えました。

 興味深いのは、この松飾りが、「島原の乱」に由来する正月飾りだと説明されていることです。それでは、松飾りに纏わるエピソードを辿ってみることにしましょう。

■島原の乱にまつわるエピソード

「島原の乱」とは、寛永十四(1637)年から十五(1638)年にかけて、島原・天草地域でキリシタン農民が蜂起し、原城に立て籠った事件を指します。江戸幕府は西国大名を動員し、鎮圧に赴かせました。隣接地なので、当然のことながら、佐賀藩も参戦しています。

 さきほどご紹介した文書では、次のように記されています。

 「佐賀藩では、3万5千人を島原に送り、鍋島勝茂の三男直澄が大手、長男元茂が搦手の指揮をとりました。勝利のきっかけを作ったのは、佐賀藩の一番乗りの武功でした。

 しかし、そのことが抜け駆けであると逆に軍令違反とされ、同年6月29日、鍋島勝茂は幕府への出仕を止められ、謹慎処分を受けることになりました」(※ 前掲、URL)

 これが前段の部分です。

 ここでは、①佐賀藩が島原の乱で武功を立てたこと、②それにもかかわらず、謹慎処分をうけたこと、すなわち、一つの出来事に対する二つの矛盾する局面が示されています。

 一つは、攻撃して鎮圧に成功し、幕府に貢献したという局面、すなわち、目的を達成し、効果で測定される局面です。こちらは客観的に判断できる事実です。そして、もう一つは、勝利を導いた過程に対する評価の局面です。こちらは幕府の見解に基づき、判断されました。

 結果として、佐賀藩主の鍋島勝茂は、鎮圧に成功したにもかかわらず、理不尽にも、謹慎処分を受けてしまいます。上記の文章でいえば、「一番乗りの武功」が、「軍令違反」とされ、処分を受けたのです。その処分が六か月におよぶ謹慎処分でした。

 そして、後段の部分では次のように記されています。

 「ところが、年も押し迫った12月29日、突然、この謹慎処分が解けました。質素な正月の準備をしていた佐賀藩江戸上屋敷では、門松などの正月飾りは用意しておらず、困惑してしまいました。そこで、かねてかれ出入りのあった出雲屋庄兵衛に、松などの材料を集めさせ、米俵などのわらを使い、にわかに松飾りを作らせました。その松飾りの形が鼓の胴部に似ていたことから「鼓の胴の松飾り」といわれるようになりました。この松飾りは大変評判がよく、佐賀藩江戸上屋敷で飾られていました」(※ 前掲、URL)

 ここでは、①年末の十二月二十九日、突然、謹慎処分が解かれたこと、②佐賀藩江戸上屋敷では、正月飾りを準備しておらず、慌てて出入りの業者に作らせたのが、この「鼓の胴の松飾り」だったということ、が語られています。

 幕府から処分を解かれたという側面と、そして、正月飾りを用意していなかったが、なんとか間に合わせたという側面が語られています。危機を乗り越えて得られた安堵感、そして、共に正月を祝うことができた幸福感が浮き彫りにされています。

 この時の、藩主と佐賀藩江戸上屋敷の人々の、安堵感と幸福感を象徴するのが、この「鼓の胴の松飾り」というわけでした。

 このエピソードの前段では、幕府から理不尽にも謹慎処分にされ、佐賀藩主が不遇を受け入れざるをえなかった状況が語られています。そして、後段では、藩主の謹慎処分が解けた年末、佐賀藩江戸上屋敷の人々が、心のこもった松飾りを手配し、無事にお正月を迎えることができたと述べられています。藩主と佐賀藩江戸上屋敷の人々が一体となって、危機を乗り越え、共に正月を祝うことができたというハッピーエンドのエピソードになっているのです。

 もっとも、先ほどの文書に記された説明ではこれだけのことしかわかりません。当時の佐賀藩の人々の気持ちを把握するため、まずは、島原の乱が勃発した経緯から、みていくことにしましょう。

■島原の乱の勃発から幕府の対応

 島原の乱が勃発したのは、寛永十四(1637)年十月二十五日のことでした。キリシタンに対する過酷な弾圧と島原藩による重税がきっかけで、一揆が勃発したのです。この日、島原の代官・林兵左衛門が撲殺されたばかりか、島原各地の代官が次々と襲撃を受け、一揆の規模が広がりました。翌二十六日には島原城が攻撃され、城下町が放火されました。

 一連の暴動を知った熊本藩は、情報収集のために歩御使番(伝令)を島原に派遣しました。(※ 上田哲也、「熊本藩細川家の忍び」、『忍者研究』3号、2020年、p.19)

 一方、佐賀藩主の鍋島勝茂(1580-1657)は、寛永十四(1637)年十月二十六日、江戸でこの島原一揆の報に接しました。佐賀藩が最も早く、一揆の情報を掴んでいたといわれていますが、それは、島原藩から支援を求める書状が届いていたからでした。島原藩から佐賀藩宛ての求援状の日付は、熊本藩宛てのものよりも一日早かったのです。(※ 中村質、「島原の乱と佐賀藩」、『九州文化史研究所紀要』、24号、1979年、p.58)

 このように、一揆勃発の直後に、島原藩から隣接藩へ支援を求める書状が届いていたのです。ところが、両藩は、越境して支援に赴くことができませんでした。武家諸法度の規定に縛られ、幕府の命令なしに支援することが禁じられていたからでした。

 書状を受け取った佐賀藩は、豊後府内(大分城)にいた目付(旗本、御家人を監視する幕府の役人)に急報して、指示を仰ぎました。ところが、目付からの注進が幕府に届いたのが十一月九日でした。一揆が勃発してから半月も経っていました。

 情報が遅れたため、幕府の軍事的対応も遅れ、その間に、一揆の勢力は拡大してしまいました。十一月十九日には島原南部一帯を支配したばかりか、唐津領天草でも蜂起し、富岡城を落城寸前にまで追い詰めていました。

 幕府は、上使として板倉重昌(1588-1638)、石谷貞清(1594-1672)を派遣し、隣接で対応する藩として、佐賀と唐津を充てました。ところが、唐津領の天草で一揆が勃発した知らせを受け、幕府は、唐津を久留米藩と柳川藩に変更し、熊本藩を肥後天草の警備に充てました。

 佐賀藩主の鍋島勝茂は、上使板倉重正に随伴して領地に戻ることを幕府に願い出ましたが、許されませんでした。他の九州外様大名と同様、世子(大名の跡継ぎの子)である小城の鍋島元茂(紀伊守、1602-1654)と蓮池の直澄(甲斐守、1616-1669)を下国させ、乱の鎮圧に当たらせることになったのです。(※ 中村質、前掲、p.62)

 上使が久留米に到着したのが十二月三日、それを受けて、久留米、柳川の藩兵が六日に島原に到着し、唐津、熊本藩が九日に天草に上陸しました。ところが、その時、一揆勢はすでに原城に籠っていたのです。

 原城が主戦場になりました。

■原城攻撃

 第一回目の原城攻撃は十二月十日で、この時の籠城者数は二万数千人でした。一般に城攻めの場合、籠城者の数倍から十倍の兵員が必要だとされていました。ところが、幕府側は、島原藩、佐賀藩、久留米藩、柳川藩、上使(幕府)勢を含めても五万有余にすぎませんでした。当然、勝利するはずはなく、続く十二月二十日、そして、寛永十五(1638)年元旦の戦闘でも幕府軍は敗退しました。


(※ https://ktymtskz.my.coocan.jp/D/ieys7.htmより)

 上の図では、城壁の外から攻める幕府軍と、内から抗戦する反乱軍が描かれています。一場面だけを切り取った絵なので、城壁を挟んで、両軍が互角に戦っているように見えますが、城外にいる幕府軍は圧倒的に不利でした。上使の板倉が戦死した寛永元年正月の戦闘では、諸藩を合わせ、死傷者は三千九百人にも及んだといわれています。(※ 中村質、前掲、p.63)

 原城には約三万人が、武器や食料を運びこんで立て籠もり、討伐軍に備えていました。もちろん、その中には女性や子供、高齢者などが含まれていますから、実際に戦えるのは五千人ぐらいでした。

 それでも一揆勢が善戦できたのは、原城が難攻不落の要塞だったからです。原城は島原半島(長崎県)の南端にあり、東と南と北が海で、西側だけが陸につながっている地形に建っていました。

(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Remains_of_Hara_castle_as_seen_from_the_sea.JPG

 上の写真は、海から見た原城の跡です。確かに、三方が海で囲まれており、ぎりぎりまで崖が迫っています。明らかに、攻めるのが極めて難しく、自然の要塞だったことがわかります。

■難攻不落の原城

 この原城は、有馬貴純(生没年不詳)によって、明応五(1496)年に築城されました。肥前の戦国大名だった有馬貴純は、居城であった日野江城を難攻不落の城に強靭化すると、次に高来郡を制圧し、さらに、短期間のうちに藤津、杵島の両郡を併合しました。(※ 松本慎二、「原城」、『西海考古』第3号、2001年7月、p.99)

 実戦を繰り返し、島原半島をほぼ手中に収めたのです。さまざまな戦闘経験を積んでいるだけに、築城に際しては、難攻不落であることを絶対条件にしたのでしょう。先ほどの写真を見ると、この原城が、きわめて攻めにくい地形に建造されていたことがわかります。

 ここを居城にしていたのが、キリシタン大名の有馬晴信(1567-1612)でした。

 有馬晴信は、関ヶ原の戦いでは、徳川方についていたため、領地の所有は保証されました。ところが、奪われた領地の回復を求めて贈収賄事件を起こし、そのうえ、貿易権を巡る長崎奉行殺害の企てが発覚したので、甲斐国に流されました。慶長十七(1612)年、幕命によって自害させられました(※ 松本慎二、前掲、p.100)。

 原城の主がいなくなってしまったのです。

 慶長二十(1615)年六月十三日、一国一城令に則って、日野江城と原城は破棄されました。当時、江戸幕府は諸大名に対し、居城以外のすべての城の破却を命じる法令による措置を講じたのです。統制を図るためでした。

 島原の乱が勃発した時、原城はすでに廃城でした。

 一揆をおこした人々は、これ幸いと、廃城になった原城に立て籠もりました。この城は、戦国大名が攻め込まれることを前提に、築城されました。それだけに、攻めるのがきわめて難しく、なかなか陥落しませんでした。

 実際、幕府軍は上使板倉の統括の下、第1回、2回、3回にわたって、原城を攻めました。ところが、陥落させることができないまま、敗退し、3回目の攻撃で戦死しています。

 寛永十五年元旦の戦いでは、とくに激しい乱闘が繰り返されました。上使の板倉重昌が戦死し、目付(幕臣の監察にあたる)や使番(諸大名の監督)も負傷してしまいました。この時、死傷者数は、諸藩あわせて三千九百人にものぼりました。凄惨な死闘が展開されたのです。

 一連の原城攻めの中で、もっとも死傷者が多かったのは、寛永元年のこの戦闘によるものでした。中村質氏がまとめた表によると、島原の乱を鎮圧するための戦闘での死傷者は、佐賀藩の場合3654名で、全体(10937名)の33.4%にも及びました。(※ 中村質、「島原の乱と佐賀藩」、『九州文化史研究所紀要』24号、1979年、p.64)

 佐賀藩は大きな犠牲を払って、島原の乱の鎮圧に臨んでいたのです。

■松平信綱、戦法を変えて攻撃

 上使第二陣の松平信綱(1596-1662)と戸田氏鉄(1596-1662)が、島原の陣地に到着したのは、寛永元年正月四日でした。上使板倉が戦死し、幕府軍が最も大きな打撃をこうむった戦闘の三日後です。

 松平信綱と戸田氏鉄が幕府から派遣されたのは、一揆鎮圧後の処理のためでした。幕府としては、島原で勃発した一揆など、容易に鎮圧できると思っていたのでしょう。彼らは板倉が戦死したからではなく、鎮圧できているだろうという想定の下、戦後処理のために派遣されていたのです。

 ところが、江戸からはるばる島原に着いてみると、上使の板倉重昌はその三日前の戦闘で戦死しており、目付の石谷貞清も重傷を負っていました。急遽、板倉に代わって指揮を執ったのが、上司の松平信綱です。幕府軍の総大将として、一揆を鎮圧する責務を負うことになったのです。

 一揆勢の抵抗は、その後も激しく、一月二十八日には副将格の戸田氏鉄が負傷してしまいました。そこで、松平信綱は、戦陣経験のある老将達を集めて、作戦会議を行い、難攻不落の城攻めにふさわしい戦法に切り替えました。すなわち、大量に兵を動員し、仕寄攻めの作戦を取ったのです。「攻城軍十二万七千人」といわれる数をはるかに超える規模であったといいます(※ 中村質、前掲、p.64)。

 ちなみに「仕寄攻め」とは、諸藩陣場から城の塀際まで竹束や板等で防弾の仕寄りを作り上げてから、「城乗り」(城に攻め入ること)にかかる戦法です。工事期間中に、城中の食糧、弾薬等を欠乏させることになるので、兵糧攻めともいえるものでした。

 それでは、「仕寄攻め」とは一体、どういうものなのでしょうか。具体的なイメージを掴むために、ネットで見つけた竹束仕寄りの写真を見てみることにしましょう。


(※ https://livedoor.blogimg.jp/naganoetokino1/imgs/3/0/301cb3af.jpg

 上記の写真は、見るからに、頑丈な建造物です。弾丸や投石から身を守るための盾として使うのですから、これだけたくさんの竹が必要になるのでしょう。あまりにも巨大な竹束には驚いてしまいます。

 まずは塹壕を掘り,このような竹束や大楯を張り巡らせて、敵の矢弾や投石を防ぐ工事をし、防御態勢を整えてから、攻撃に挑むのです。上使の松平信綱は、寛永元年の悲惨な戦闘結果を踏まえ、確実に鎮圧できる戦法に切り替えたのです。

 これだけの工事をしてから戦闘を開始するのですから、実戦に入るまでに時間がかかります。その間、籠城している人々は、城内に食糧や武器の搬入をすることができません。時間はかかりますが、これは、確実に一揆勢を追い詰める戦法でした。

 実際、この戦略に切り替えた結果、一揆勢の兵糧は、二月下旬にはほぼ尽きてしまいました。外堀を固めることによって、強硬な抵抗勢力を徐々に弱体化させ、鎮圧することができたのです。

 二月二十八日、遂に、幕府軍は原城を陥落させることができました。松平信綱が、実戦経験のある老将達と作戦を練り、戦法を兵糧攻めに変更したことが、間接的な勝因でした。

 兵糧攻めは、時間の経過とともに幕府軍に有利に働く戦法でした。ところが、佐賀藩は、功を焦って抜け駆けをしてしまいました。

 鎮圧に至る経緯を振り返ってみることにしましょう。

■鎮圧に至る経緯

 上使・板倉重昌の戦死が幕府に伝えられると、幕府は、直ちに諸藩の藩主に下国し、参戦するよう命じました。命令に従い、佐賀藩主の鍋島勝茂が、島原に着いたのは一月二十九日でした。当時、しばらくは「仕寄攻め」のための工事が続き、戦闘に挑めない状況でした。

 城攻めの布陣が定まったのは、二月二十日ごろでした。

 当初、第一面に、熊本藩、柳川藩、島原藩、久留米藩、佐賀藩、唐津藩、福岡藩の順に横隊を組み、藩の石高に応じて「持場」を定めていました。背後の第二面は、左から、鹿児島藩、上使勢、各地の使者、延岡藩、福山藩の布陣でした。

 佐賀藩は第一面のほぼ中央で、二の丸出口と鳩山出口(絶壁で攻略不能)に面しており、一番の深堀から九番の諫早まで横隊の持場でした。ところが、これでは攻め口が狭くて攻めづらく、後備の兵を置く必要があることから、縦隊四段としました。

 二月二十日付の軍令および塀取仕組図では、島原入りの行軍隊形と基本的に合致する配置が示されていました。ところが、実際の戦闘はそれとは異なった隊形が取られていたのです。

 二月二十一日未明に、福岡、唐津、佐賀、久留米などの諸藩による城兵(城を守る兵士)の夜討ちが行われ、二十七、二十八日には、佐賀藩の抜け駆けに始まる総攻撃が行われました。こうして五か月に亘って籠城していた一揆勢は、完全に鎮圧されたのです(※ 中村質、前掲。p.65)。

 鎮圧に至る経緯をみると、佐賀藩が抜け駆けをし、二日に亘る総攻撃をしかけたおかげで、反乱軍を完全に鎮圧できたことがわかります。ところが、佐賀藩主の鍋島勝茂らは、軍令違反に問われ、出仕を止められました。武功をあげ、鎮圧を成功させたにもかかわらず、幕府からは謹慎処分を受けたのです。

 佐賀藩は、なぜ、謹慎処分を受けなければならなかったのでしょうか?

■厳しい戦後処理

 六月二十九日、藩主・鍋島勝茂は、佐賀藩の軍監(出征時の指揮官)で、先駆けを指揮した長崎奉行の柳原職直(1586-1648)とともに、上使の軍令違反に問われ、幕府への出仕を止められました。軍令に背き、一手先駆けの攻撃を佐賀藩が仕掛けたことに対する処罰でした。半年にわたる謹慎処分を受けています。

 島原の乱の当事者である島原藩は、改易処分(身分剥奪や領地・家屋敷の没収といった重い刑罰)となり、藩主の松倉勝家は後に斬首となりました。領民の生活が成り立たないほど、過酷な年貢の取り立てによって、一揆を招いた責任を問われたのです。大名が切腹ではなく斬首とされたのは、江戸時代ではこの1件だけだったといいます。それだけ厳しい処分がくだされたのです。 

 天草を領有していた領主の寺沢堅高も責任を問われ、領地を没収されています。寺沢堅高は、後に精神異常をきたして自害し、寺沢家は断絶となりました。

 そして、当初の上使で、戦死した板倉重昌の嫡子である板倉重矩は、父の戦死後、父の副使であった石谷貞清と共に総突入の際、勝手に参戦し奮闘したことが軍令違反に問われました。父親が戦死した際の不手際を問われ、鍋島勝茂と同様、同年十二月までの謹慎処分を受けています。

 このように関係者はいずれも、厳罰処分を受けています。

 一方、一揆鎮圧を成し遂げた松平信綱は、その勲功を賞され、寛永十六(1639)年一月五日、三万石加増となって六万石で川越藩に移封されています。島原に派遣された幕府軍の指揮を執って、一揆勢の鎮圧に成功した功労が評価されたのです。褒章として、江戸に近い川越藩に移封されたのは、信綱が幕府にとって必要な人材だったからに違いありません。

■武家諸法度の改正

 松平信綱は寛永十五年、老中首座になり、幕政を統括するようになりました。真っ先に手を付けたのが、武家諸法度の改正でした。島原の乱での経験から、武家諸法度の改正をしなければならないと思っていたことがわかります。

 島原の乱が勃発した際、なぜ、幕府の軍事的対応が遅れたのかを振り返ってみれば、武家諸法度を改正しなければならないと思うのは当然でした。

 振り返ってみましょう。

 キリシタンに対する弾圧と島原藩による重税に耐えかねて、一揆が勃発したのは、十月二十五日でした。十月二十七日には島原藩の家老が、江戸に滞在中の藩主・松倉勝家に急使を派遣しています。その一方で、隣接する熊本藩の細川家、佐賀藩の鍋島家にも島原城への救援を依頼しました。(※ 中村質、前掲、p.59)

 ところが、熊本藩も佐賀藩も、寛永十二(1635)年に出された「武家諸法度」に縛られ、救援活動を行えませんでした。

 「武家諸法度」十九条の第四条に、次のような事項があります。

 「江戸ナラビニ何国ニ於テタトヘ何篇ノ事コレ有ルトイヘドモ、在国ノ輩ハソノ処ヲ守リ、下知相待ツベキ事」(※ Wikipedia)

「江戸や他藩で何が起こっても、在郷のものはそこを守り、幕府からの命令を待つこと」と定められていたのです。島原藩から支援依頼が来ても、熊本藩も佐賀藩も支援活動に向かうことができず、幕府目付の指示を仰ぐことしかできなかったのです。

 「武家諸法度」が制定されていたせいで、隣接藩がすぐに対応することができず、初動が遅れました。一揆の広がりを招いた原因が武家諸法度にあることは明らかでした。

■軍制の確立と正月飾り

 老中になった松平信綱は、早々に武家諸法度を改正しています。一揆が起これば、近隣諸藩が即刻、越境して鎮圧できるように変更したのです。そればかりではありませんでした。再びこのような一揆が起こらないように、キリスト教を普及させたポルトガルとは断交し、オランダとだけ交易できるようにしました。島原の乱を教訓に、松平信綱は幕藩体制を整備し、鎖国体制を完成させたのです。

 さて、軍令違反に問われ、謹慎処分を受けていた鍋島勝茂と板倉重矩は、同年十二月二十九日に処分が解除されました。

 江戸時代、将軍家が諸大名や旗本とともに祝う儀礼の一つに、年始御礼(正月元日~三日)というものがありました。主従関係を強化する意味あいが大きく、最大規模の年中行事でした。それだけに、幕府としては正月前には処分を解除しようと思ったのでしょう。

 一方、佐賀藩江戸上屋敷の人々は、謹慎処分のまま年を越すのだと思っていたところ、暮れも押し迫った十二月二十九日、突如、藩主の謹慎処分が解かれました。どれほど驚いたことでしょう。

 なにより困ったのは、正月準備も質素なものしか用意していなかったことでした。藩主の処分が解除されたのですから、なんとしても正月飾りは用意しなければなりません。窮余の策で、藩屋敷に出入りしていた出雲屋庄兵衛に頼み、松飾りらしいものを作らせました。それが、冒頭にご紹介した「鼓の胴の松飾り」です。

 松や米俵の藁などあり合わせのものを使って、鼓の胴の形に仕上げられたこの正月飾りは、とても評判がよく、以後、この松飾りはずっと佐賀藩江戸上屋敷で飾られてきました。明治以降も、その伝統を引き継ぎ、佐賀県庁や佐賀市役所に飾られてきたといいます。

 これまで見てきたように、「鼓の胴の松飾り」が造られることになったのは、「島原の乱」の戦後処理がきっかけでした。そして、その「島原の乱」の戦後処理は、幕藩体制の整備や鎖国体制の確立と密接に絡んでいました。

 佐賀藩主を謹慎処分にしたことからは、幕府が、武功を立てるよりも、軍規を遵守することを優先したからといえます。つまり、幕府が、島原の乱を契機に、軍制を強化し、平時にも適合する遵法精神を涵養したかったからではないかという気がするのです。

 江戸時代に入って、外国勢力浸透の危険性に気づいた幕府は、鎖国政策を確立することを選びました。その契機となったのが、「島原の乱」です。一揆勢の鎮圧に成功した佐賀藩の藩主を、抜け駆けをしたことを理由に謹慎処分にしたのは、幕府が、社会統制を強化しようとしていたことを示すものにほかなりません。

(2026/1/30 香取淳子)

陶磁器業界の近代化に貢献したワグネルと納富介次郎

■有田駅で見かけた柿右衛門の陶板

 2025年12月15日午後二時過ぎ、ようやく有田駅に着きました。駅員がチケットを回収するシステムの駅でした。背後に小さな山が見えます。下車したホームの対面に、屋根付きの掲示板のようなものが見えました。ホームの階段を上って渡り、近づいてみると、陶板が展示されていました。

 左下に縦書きで「第十四代柿右衛門」と署名が入っています。遠目からは、一瞬、朝顔かなと思いましたが、よく見ると、ちょっと違っていました。ラッパのように開いた花弁の形状、傍らの葉の形に長い茎、そして、花芯には数本の雄しべが描かれています。おそらく、ユリの花でしょう。落ち着いた赤とベージュの花弁が優しく、穏やかな空間を創り出しています。

 伸びやかに広がる花々を、乳白色の余白が支える画面構成が印象的です。

 製作者の第十四代柿右衛門(1934-2013)は、三百数十年も続く「柿右衛門様式」の伝承者です。昭和五七(1982)年に、十四代柿右衛門を襲名しました。以来、「柿右衛門様式」の中に自分自身の個性を発揮するようになったそうです。「余白の美」を特徴とする「柿右衛門様式」の奥深さ、表現の可塑性に気づいたからでした。

 第十四代柿右衛門は、柔らかな白い磁器の地肌に、赤を中心とした鮮やかな色で、野の草花などを華やかに描くのが特徴だとされています。柿右衛門様式の伝統を継承しながら、自身を表現し、現代の生活空間に合った作品を追求しているのです。平成十三(2001)年、色絵磁器の分野で国の無形文化財、すなわち人間国宝に認定されました。(※ https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=D0009250414_00000

 その人間国宝の作品がさり気なく、駅に設置されているのです。確かにいま、有田にいるのだという思いを強くしながら、ホームを歩いているうちに、ふと、駅の脇に貨車が停車しているのに気づきました。

 この貨車で陶磁器を輸送するのでしょうか。コンテナが多数、積み上げられています。後ろには小さな山が見えます。

 さらにホームを歩いていくと、コンテナ置き場のようなものがありました。その背後に、「佐賀県陶磁器工業協同組合」の看板のかかった建物が見えます。

 写真を拡大すると、一階部分に、「有田窯元ギャラリー」というショップの名前が見えます。しかも、その隣に白い胸像が設置されています。この写真でははっきりしないので、調べてみると、ワグネル(Gottfried Wagener, 1831- 1892)の胸像でした。明治初期に鍋島直正に招聘され、有田で技術指導を行った人物です。

 眩いほど白い顔面に、強い信念が感じられます。

■ワグネルとは?

 ドイツ人化学者ワグネルは、アメリカ企業のラッセル商会の石鹸工場を設立するため、長崎に招聘されました。

 1868年3月29日にマルセイユを出発し、5月15日(慶応4年4月23日)に長崎に到着しています。ところが、石鹸工場は軌道に乗らず、工場は取りやめになってしまいました。その後、佐賀藩に雇われ、明治1870年4月から8月にかけて、有田町で窯業の技術指導を行っていました。ワグネルが有田で行った技術指導は次のようなものでした。

●石灰を用いた経済的な釉薬の開発、

●従来使われていた呉須に代わる安価なコバルト顔料の使用、

●薪不足を解決するための石炭窯の築造実験、(※ 武智ゆり、『近創史』、No.6, 2008年)

 わずか四か月ほどの期間でしたが、ワグネルは以上のような開発や技術指導を有田で行っていました。いずれも磁器製造の品質向上と経費節減につながるものです。ワグネルは、科学的手法によって有田焼製法の近代化に貢献していたのです。

 1870年11月頃には大学南校(現在の東京大学)のドイツ語教師として東京に移動し、文部省設立と大学改組に伴い、1872年には医療系の東校(現・東京大学医学部)の数学、博物学、物理学、化学などの教育を担当しています。

 1873年のウィーン万国博覧会では、事務局副総裁の佐野常民の強い要望で東校と兼任のまま事務局御用掛となりました。ヨーロッパの人々の嗜好がわかり、理化学分野の知識や技術があったからでした。役職名は「列品並物品出所取調技術誘導掛」で、博覧会への出品物、特に陶磁器などの選定や技術指導、目録および説明の作成を行いました。ワグネルの導きがなければ、とても受賞などできなかったでしょう。

 この時の万博で「名誉賞」を受賞したのが、「肥前有田 陶器製造所」でした。(※ 松田千晴、「万国博覧会と作品出品者」、2000年3月、p.28)

 有田での技術指導の効果が、受賞という形で得られたのです。ワグネルは万博出品に際し、「日本的で精巧な手工芸品」であることを求めました。粗雑な機械製品では西欧に負けると思ったのでしょう。近代化していない日本が競争優位に立てるとしたら、まさに「日本的で精巧な手工芸品」しかないと判断したのです。

 1876年に開催されたフィラデルフィア万国博覧会でも、ワグネルの指導、助言のもとで参加準備に入りました。ここでもワグネルは出品作品について厳しい基準を貫きました。その結果、磁器部門では有田から深川栄左衛門他二名が入賞しています(※ 前掲、p.29)。

 日本政府初参加のウィーン万博で受賞できたのも、フィラデルフィア万博で入賞できたのもワグネルによって、予め出品作品の基準を示されていたからでしょう。欧米人の嗜好を踏まえ、出品作品を選んだ結果、受賞できたといえます。

 これについては当時、日本らしさが失われたと批判する向きもありましたが、日本の陶磁器は人気を博し、飛ぶように売れたといいます。有田香蘭社の出品作品はとくに精巧な美しさで、高評価を得ていたようです。

 技術指導等によって、陶磁器製造の近代化に貢献していたワグネルは、販売ルートの拡大にも大きな役割を果たしていたのです。国際的な展示場であった万博で高評価を得た有田焼は、当然のことながら、輸出産業の花形になっていきます。

 有田駅のホームに立っているだけで、このような陶磁器界の歴史の一コマを感じさせられます。そのまま維新期の有田に思いを馳せていたい気持ちになってしまいますが、実は今回、有田に来たのは所用があったからでした。有田工業高校を訪れるのが主目的でした。

 有田駅から徒歩15分ぐらいのところに有田工業高校はありました。校門を入ると、まず目に入ってきたのが、白い胸像です。近づいてみると、初代校長納富介次郎先生の像と書かれています。

 納富介次郎の像が、なぜ、有田工業高校の玄関に設置されているのでしょうか?

■納富介次郎とは?

 天保十五(1844)年に、納富介次郎(1844-1918)は、佐賀藩の支藩である小城藩の藩士の柴田花守の次男として生まれました。実父からは日本画を学び、安政六(1859)年、十六歳の時に佐賀藩士で儒学者の納富六郎左衛門の養子になると、その翌年から長崎に出て、南画を学んでいることがわかりました。

 日本画であれ、南画であれ、納富介次郎は幼い頃からさまざまな画風の絵を学び続けてきたことがわかります。根っから絵が好きだったからか、それとも周囲が彼の絵の才能を見抜き、学びの場を提供していたからか、経緯はよくわかりませんが、彼がどんな時でも描くことを忘れず、画業の習熟に励んでいたことがうかがい知れます。

 文久二(1862)年に、納富介次郎は、幕府勘定吟味役である根立助七郎の従者として、上海に渡っています。同じ佐賀藩士の中牟田倉之助や長州藩士の高杉晋作と共に上海に出向いて貿易調査を行い、報告書を作成していました。従者とはいえ、十九歳の時に海外業務に携わっているのです。藩命を受けての業務であり、幕府の業務の一環でもありました。

 そういえば、納富は十七歳の時、長崎に出て南画を学んでいました。その時、おそらく、語学も習得したのでしょう。語学ができ、学習能力が高く、臨機応変に対応できる柔軟性と行動力を備えていたからこそ、納富は海外業務に抜擢されのではないかと思います。上海には明治二年(1869)年にも再訪しています。大阪佐賀藩商会と清の貿易業務を行うためでした。そして、明治四(1871)年には、横浜に出て貿易業務に携わっています。興味深いことに、この時、業務の傍ら、納富は油絵を学んでいたというのです。

 横浜には居留地があり、「イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ」の特派記者として来日していたイギリス人チャールズ・ワーグマン(Charles Wirgman、1832 – 1891)が、そこで日本人に油絵を教えていました。1865年に五姓田義松、1866年には高橋由一が入門していたことがわかっています。納富はおそらく、このワーグマンから学んでいたのではないかと思われます。

 実は、ワーグマンは1861年6月25日、イギリス公使オールコックの一行と共に長崎を訪れています。その頃、納富は長崎で南画を学んでいましたから、ワーグマンの噂は聞き及んでいたに違いありません、横浜に赴任した納富が、早々に、ワーグマンの許に出向いて油絵の教えを請うた可能性は高いです。

 納富が横浜で海外業務を担当していた明治四(1871)年、明治政府はオーストリア・ハンガリー帝国からウィーン万博への参加を打診されました。 万博は開国したばかりの日本が国際デビューするのに格好の舞台です。出品物を通して日本の豊かな国土や工芸品をアピールすることができますし、海外の展示品から最新の技術や文化を吸収することもできます。政府は参加することを決め、明治五(1872)年二月にその布告をしています。

■ウィーン万博、フィラデルフィア万博への参加

 明治六(1873)年(5月1日~11月1日)に、ウィーン万国博覧会が開催されました。これは日本政府がはじめて公式に参加し、出品した博覧会です。日本からは、官員、通訳、技術伝習生、御雇外国人、展覧会場の建設要員など、総勢100名近くが派遣されました。万博事務局総裁が大隈重信、現地を仕切る副総裁が佐野常民、ワグネルが顧問で出品物の選定や海外向けの目録、説明書を作成しました。佐賀藩の関係者が主要メンバーとして構成されていたのです。

 納富介次郎は、陶器製造図説編成兼審査官として、参加しました。語学ができ、絵画への造詣の深いこと、貿易業務に明るいことなどが認められたのでしょう。伊万里商社の陶工・川原忠次郎や京都の丹山陸郎は共に陶芸研究員として参加していました。

 ワグネルの斡旋によって、納富、川原は万博終了後もそのままヨーロッパに滞在し、ボヘミアのエルボーゲン製陶所(Elbogen Porcelain Factory)で伝習生として、陶磁器の製造を学びました。その後、彼らはフランスのセーブル製陶所(Manufacture de porcelaine de Sèvres)を見学した後、明治八(1875)年に帰国しています。

 納富や川原は日本人として初めて、ヨーロッパで陶磁器の製法を学び、著名な製造所でさまざまな製品を見てきた稀有な人物でした。この時の伝習経験を通して、納富は、工芸品として作品毎に制作する方法では量産化できず、貿易収支を改善するには限界があると認識するようになりました。

 欧米列強に伍していくには、量産体制を整える必要があると考えるようになり、組織的な人材育成にも取り組む必要があると考えました。納富は帰国後、次々と、工業学校あるいは工芸学校の創立に携わりましたが、それはヨーロッパでの伝習経験が契機となっていたのです。

 納富は、科学技術を駆使し、機能的で需要に応じた陶磁器を製造することが重要であるとも述べています。さらに、陶磁器の製造にはマーケティングが必要だという認識を示していました。商品である以上、日本の陶磁器が欧米でどれだけ需要があるか、顧客の嗜好はどのようなものか、コストに見合う生産ができるのか、といった市場調査が必要だというのです。

 こうしてみると、納富がヨーロッパで学んだものは、単に陶磁器の製造技術だけではなかったことがわかります。陶磁器の製造過程、販路、消費過程にも近代化が必要だということを学んでいたのです。

■自ら考案したデザイン

 帰国翌年の明治九(1876)年にフィラデルフィア万博が開催されました。納富は専任審査官として出品審査を行うばかりか、自らデザインした陶磁器なども出品しました。産地の職人から、明治政府あてに海外向けの作品の図案を示して欲しいという要望があったからでした。

 たとえば、「色絵紅葉山水文耳付花瓶」という作品があります。

 森谷美保氏は、「色絵紅葉山水文耳付花瓶」について、「花瓶の胴部には色づく紅葉が映える山中の滝の景色が絵にされ、主な文様は伝統的な山水風景だが、首と足は華やかな色彩で彩られ、瀟洒な耳が和洋折衷の雰囲気を漂わしている」と説明しています。(※ 森谷美保、2021年7月15日、日経新聞)。

 残念ながら、個人のコレクションなので、どのような作品なのか、「色絵紅葉山水文耳付花瓶」をここでご紹介することはできませんが、森谷氏の文章からは、日本の風景ならではの繊細な美しさが表現されているようです。

 この作品の器形図案は、納富介次郎が考案したものでした。図案を香蘭社へ配布し、同社の設立メンバーだった名工・深海墨之助が成形を手掛けたのです。絵付けを行ったのが瓢池園で、ウィーン万博を機に東京で創業した絵付け業者です。明治六(1873)年に、東京深川の森下町に設立された陶磁器の絵付工場には、絵師出身の絵付師を抱えており、絵画的な表現を得意としていたといわれています。

 器形デザイン、成形、絵付けなど陶磁器の製造過程で、それぞれの領域で最高の力量をもつ人材を起用し、作品化したのです。

 納富はウィーン万博に参加した後、ヨーロッパに滞在して陶磁器の製造経験を積みました。そこで学んだのが、これまでの日本の製法を変えなければ、貿易収支を改善できないということでした。さまざまな改革を試みましたが、その一つが工芸デザインの改革でした。

 フィラデルフィア万博への出品作品では、博覧会事務局が輸出品の器形や文様の図案を作成し、産地にそれを配布し、図案と同一の製品を制作させる方法が実践されました。これは質の高い作品を生産する方法であり、納富が開発した陶磁器製造の近代化の一環でした。

 納富介次郎が考案した図案は後に、「温知図録」と呼ばれるようになりました。「温知図録」はまさに官民一体で輸出用の陶磁器製造に取り組んだ成果の一例といえます。

■実践教育に邁進

 帰国後の明治一〇(1877)年、納富は塩田真(1837-1917)とともに、江戸川製陶所を設立しました。共にウィーン万博に参加し、その後オーストリアの製陶所で技術を学んだ仲間の一人です。ところが、営利を顧みない公共的な事業だったので、次第に経営難になり、七年後の明治一七年に閉鎖せざるをえなくなりました。

 当時、陶磁器業界でも近代化が求められるようになっていました。技術はもちろん、経営、組合、特許制度などすべての領域で改革が必要になっていたのです。海外経験のある納富らは、近代化の指導者として各地で活躍しています。

 たとえば、明治一六(1883)年、納富は石川県に招かれて陶器や漆器の製造を指導し、製品を中国に輸出するように勧めています。翌々年に再び招かれて、一年間の技術指導を行い、絵画品評会の審査長なども務めました。この期間に納富は、工芸品の生産体制の協同化、効率化を提言し、同業者組合の設立や物流の効率化なども推進しました。

 ヨーロッパでの陶磁器の製造経験を経て獲得した製法、生産体制の近代化を、納富は次々と実践し、広めていったのです。

 金沢での嘱託期間が終了すると、納富は石川県に働きかけて、人材育成に挑みます。明治二〇(1887)年に金沢工業学校(現・石川県立工業高等学校)が設立されると、その初代校長となりました。これは、日本初の中等実業教育機関で、専門画学部、美術工芸部、普通工芸部の三部が設けられていました。

こちら → https://cms1.ishikawa-c.ed.jp/kenkoh/%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%B4%B9%E4%BB%8B

 その後、明治二七(1894)年に富山県工芸学校(現・富山県立高岡工芸高等学校)を創立し、やはり初代校長となり、三年以上勤務しました。ここでは仏壇や高岡銅器の生産が盛んな現地の状況を踏まえ、木材彫刻、金属彫刻、鋳銅、髹漆の四科を設けました。

こちら → https://www.kogei-h.tym.ed.jp/school_information

 続いて、明治三一(1898)年には香川県工芸学校(現・香川県立高松工芸高等学校)を創立し、木工部と金工部を設置しました。ここでも三年以上にわたって初代校長を務めています。

こちら → https://www.kagawa-edu.jp/kogeih02/gakkousyoukai

 そして、郷里の佐賀県立工業学校(現・佐賀県立佐賀工業高等学校)の二代目校長として着任したのが、明治三四(1901)年です。その二年後の明治三六(1903)年には同校の分校だった佐賀県立有田工業学校(現・佐賀県立有田工業高等学校)を独立開校させ、初代校長になりました。

こちら → https://www.education.saga.jp/hp/aritakougyoukoukou/?content=__trashed-18__trashed

 納富介次郎は、明治二〇(1887)年から明治三六(1903)年までの十六年間、陶磁器の実践教育の場を次々と設立し続けてきました。金沢、高岡、高松、有田などで創立したこれら四校は、納富の理念を引き継ぎ、現在、互いに姉妹校となって、交流を重ねています。

 有田工業高校のホームページには、「校長あいさつ」として、次のように記されています。

 納富介次郎(佐賀県小城市出身)が創設した、石川県立工業高等学校、富山県立高岡工芸高等学校、香川県立高松工芸高等学校とは、平成一二(2000)年に姉妹校交流を締結している。以来、各校との交流を続け、さらに平成一七(2005)年、韓国陶芸高校とも姉妹校交流を締結し、生徒たちは互いの作品を交換し、鑑賞することを通して交流を深めている。

 納富が着手した実践教育の場は、百二十二年の歳月を経た今、姉妹校だけではなく、韓国にまで交流の輪を広げているのです。

 有田工業高校の校訓を見ると、次のように書かれていました。

「勉(ベん)脩(しゅう)- 愛し、創り、光れ」を掲げ、生涯学び続けること(勉脩)を基本に、自らを大切にするとともに他人を思いやり(愛し)、新しいことに積極的に挑戦し(創り)、社会に貢献できる人間になること(光れ)を目指している。(※ https://www.education.saga.jp/hp/aritakougyoukoukou/?sub_page=%E5%85%A5%E5%AD%A6%E6%A1%88%E5%86%85

 冒頭に「勉脩」を掲げ、学びを基本に、自身や他人を大切にし、新しいことに挑戦し、社会に貢献できるような人間になるようにと訴える内容が印象的です。実は、納富が設立した有田工業高校の前身は勉脩(べんしゅう)學舎でした。

■勉脩學舎

 明治十四(1881 )年、江越禮太は白川の地に、日本初の陶磁器工業学校「勉修学舎」を創設し、初代校長を務め、実践教育を行いました。どこよりも早く有田に、陶磁器の実業学校を創設したところに先見の明があったといえます。

 「安易さから脱するには、西洋の技や教えに学び、その長を取り、わが不足を補うことによって名工を育成する必要がある」と説き、窯業技術の普及を主張し、人材育成の場として勉脩學舎を開校しました。(※ 関西佐賀県人会、平成二十八年七月)

 江越禮太(1827-1892)は元小城藩士で、幼い頃から儒学者・草場佩(はい)川(せん)(1787-1867)に学び、その後、江戸で古賀茶渓(さけい)に師事し、長崎では英語を学びました。帰郷後は藩校である興譲館で英語を教えていましたが、明治二(1869)年、藩命で石丸安世らと西松浦郡山代郷で探鉱の開発を行っています。その後、有田白川小学校の教師として働き、明治十四(1881)年、私財に、深川栄左衛門、副島種臣、大隈重信などからの寄付金を加え、日本で最初の実業学校・勉脩學舎を創設しました。

(※ https://www.arita.jp/greats/detail/egoshi_reita.html

 勉脩學舎の入学資格は小学校卒で、教科は絵画、製陶技術、窯業術の三部で構成されました。勉脩学舎が廃校になった四年後に、有田徒弟学校に引き継がれ、佐賀県工業学校有田分校になりました。それを明治三六(1903)年に有田工業学校に昇格させたのが、初代校長となった納富介次郎です。

 納富はヨーロッパでの体験後、陶磁器業界の近代化を考えるようになっていました。帰国後、各地に実践学校を創設し、人材育成に邁進していったのはそのような思いからでした。納富の理念は、現在の有田工業高校にしっかりと受け継がれています。

■有田で見た、二つの白い胸像

 今回、有田を訪れてみて、有田の陶磁器業界が維新期の傑物たちによって支えられ、近代化の波を乗り越えてきたことがわかりました。そして、維新期の先駆者たちが掲げた理想が、実践教育の場を通して脈々と受け継がれ、進展してきたこともわかりました。

 まず、招聘されて長崎にやって来たドイル人化学者ワグネルが、維新期の沸騰するようなエネルギーに吞み込まれるように、陶磁器業界の近代化に渾身の力を注ぎました。それが改革を勢いづかせました。有田で陶磁器製造の大幅な技術革新が行われ、廉価で良質の製品を製造できるようになったのです。

 さらに、ワグネルは有田焼の真髄が超越技巧による繊細な美しさであることを見抜いていました。それこそが、競争優位に立てる要件だと看破していました。基準を落とさず、出品物を選定して臨んだ結果、ウィーン万博でも、フィラデルフィア万博での、有田焼の作品は激賞され、受賞することができました。西洋の審美眼を併せ持つワグネルならではの助言が効いたのです。

 維新期の日本に心血を注いだワグネルは、やがて病床に伏せるようになり、明治二十五(1892)年十一月八日、勲三等に叙せられ瑞宝章が贈与されたその日に、東京・駿河台の自宅で亡くなりました。帰国することなく、日本で生命を終えたのです。六十一歳でした。

 有田工業高校から有田駅に向かう道中、空を見上げると、分厚い雲が広がっていました。

 駅の背後に山が見えます。小高い山々に囲まれた有田で、二つの白い胸像に出会いました。維新期に、陶磁器業界の近代化に大きく貢献したワグネルと納富介次郎の胸像です。いずれも、信念の強さ、ピュアな志を表現しているかのような眩しいばかりの白が印象的でした。(2025/12/29 香取淳子)

高市首相の外交デビュー、成功要因は何か?

■就任早々の外交デビュー

 高市早苗氏が首相に就任してから、日本社会が明るくなってきたような気がします。国内では、 「責任ある積極財政」の方針の下、税率を上げずに税収を増加させて国民の生活を向上させようとしていますし、不法外国人等の問題についても積極的な対策を講じています。国民が懸念している問題に対峙し、積極的に解決しようとしているからでしょう。

 海外に対してもこれまでの首相たちの卑屈な姿勢とは違って、日本として言うべきことは主張し、対話を通して、問題解決を図ろうとしています。そのせいか、高市内閣になってから希望が見えてきたような気がするのです。

 就任して1か月も経っていないというのに、社会の雰囲気はがらりと変わりました。大きく変化したきっかけの一つは、外交によるプレゼンスの大きさです。高市首相は就任後、ASEAN国際会議で外交デビューし、トランプ大統領との会談、APEC首脳会議での、韓国大統領や中国主席との会談などを立て続けに行いました。いずれも、日本のプレゼンスをおおいに高めました。

 そこで、今回は、高市首相がどのように外交を捉え、これまでの首相とは違って、短い間で大きなプレゼンスを示すことができたのか、その要因を探ってみたいと思います。

■日本の国益を守るため、日本外交を取り戻す

 2025年10月21日、高市早苗氏は日本初の女性首相に就任しました。就任後初の記者会見で、「強い日本を作るため、絶対に諦めない」と決意のほどを語っています。


(※ 内閣府HPより)

 高市首相はこの記者会見で次のように述べていました。

 「来週は、マレーシアでのASEAN(東南アジア諸国連合)関連首脳会議、韓国ではAPEC(アジア太平洋経済協力)も開催されます。多くの国の首脳と顔を合わせる絶好のチャンスです。「自由で開かれたインド太平洋」を外交の柱として引き続き力強く推進し、時代に合わせて進化させ、基本的価値を共有する同志国やグローバルサウス諸国との連携を深める。そうした機会としたいと考えております。

 また、トランプ大統領と早期にお会いをして、日米関係を更なる高みに引き上げてまいります。日米関係は、同盟国として、日本の外交・安全保障政策の基軸でございます。二国間の課題にとどまることなく、インド太平洋地域の課題から、中東情勢、欧州・ウクライナに至るまで、日本と米国が直面する課題につきまして、率直な意見交換を通じ、首脳同士の信頼関係を深めてまいります」

「衆議院、参議院共に、自民党と日本維新の会を合わせても過半数には及ばない。少数与党による、厳しく、困難な船出」となりますが、「私は諦めません。この内閣は、「決断と前進の内閣」です。「国民の皆様と共に、あらゆる政策を、一歩でも二歩でも、前進させていく」と語っています。(※ https://www.kantei.go.jp/jp/104/statement/2025/1021kaiken.html

 興味深いのは、「日本の国益を守るため、世界の真ん中で咲き誇る日本外交を取り戻します」と決意を示していたことでした。力強い日本を取り戻すには、外交力で世界の中心にいなければならないという思いが強かったのでしょう。

 実際、高市早苗首相には、就任直後の10月26日から、2つの国際会議と4つの重要な首脳会談が予定されていました。首相はおそらく、それらの国際会議を念頭に、「世界の真ん中で咲き誇る日本外交を取り戻す」と語ったのでしょう。首相就任直後でタイトな日程だったとはいえ、アジア各国の首脳と会談できるチャンスを逃すことはできませんでした。

 高市首相は過密スケジュールの中で次々と、国際舞台へのデビューを果たしていきました。まずは、アセアン関連首脳会議です。

■アセアン関連首脳会議

 アセアン関連首脳会議が開催されたのは10月26日で、翌27日にはトランプ米大統領の訪日を控えていました。あまりにもハードなスケジュールなので、一時は欠席も検討されていたそうです。ところが、高市首相は、恒例の国際会議に参加しなければ、日本がアジアを軽視していると見なされかねないことを心配し、10月25日、クアラルンプールに向かったのだといいます(※ 高畑昭男、https//www.nippon.com/)。

 欠席すれば、ASEAN諸国に誤ったメッセージを送りかねないことを危惧したからでした。ネガティブな影響をできるだけ排除するため、高市首相は強行スケジュールを受け入れたのです。

 実際、高市首相が参加したのは正解でした。日本初の女性首相が誕生したばかりで、首脳たちの関心が高まっていました。一体、どのような人物なのか、「一目会いたい」という思いが強くなっていたのでしょう。

 参加者たちは一様に、温かく高市首相を迎え入れてくれました。高市首相もそれに応じ、会議が始まる前にすでに多くの首脳たちと分け隔てなく、にこやかにコミュニケーションを交わしていました。

 その時の様子を撮影したCNBCの動画が(16分7秒)がありますので、ご紹介しましょう。

こちら → https://youtu.be/sVQp0gR3gzY

(※ CMはスキップして視聴してください)

 冒頭から数分間、高市首相が多くの首脳たちとにこやかに挨拶を交わし、時にはハグしている様子が映し出されています。周囲の人々は一様に笑顔で迎え入れており、その場が温かい雰囲気で包まれていたことがよくわかります。会議が始まる前から、高市首相は参加者たちから大歓迎されていたのです。

 首相もまた表情豊かに明るく、彼らの歓待に応えていました。高市首相のこの態度がアジアの首脳たちにとてもいい印象を与えたのではないかと思います。そのせいか、ASEAN主要国やオーストラリア首脳などとの個別会談も次々とセットされました。

 国際会議としては、第28回ASEAN会議(10月26日)、第3回アジア・ゼロエミッション共同体(AZEC)首脳会議(10月26日)、そして、二国間協議としては、日豪首脳会談(10月26日)、日マレーシア首脳会談(10月26日)、日フィリピン首脳会談(10月26日)など、高市首相は短い滞在期間に次々とアジア各国の首脳と会談しているのです。

 高市首相は短期間のうちに、ASEAN諸国の首脳たちに、アジアを重視する日本の姿勢を印象づけることができました。会議前の様子を映し出したCNBCの動画によって、首相の卓越したコミュニケーション能力が伝わってきます。

■細やかな心配り

 興味深いのは、動画の8分2秒のところで、マレーシア大統領が高市首相に、トランプ大統領を迎える忙しい日程の中でよく参加してくれたと述べていることでした。周囲の心配をよそに、高市首相が強行スケジュールを押して会議に参加した誠意が会場の参加者たちに伝わったのです。高市首相がASEAN諸国の首脳に印象づけた誠実さは、やがて高市内閣への信頼になって友好関係の土台となっていくことでしょう。

 そればかりではありません。

 高市首相は、10月26日午後1時42分から約5分間、クアラルンプール日本人墓地を訪問し献花を行い、マレーシアで命を落とした先人を慰霊したのです。


(※ 内閣府HPより)

 その後、午後1時57分から約10分間、マレーシア国家記念碑を訪問し、記念碑への供花を行いました。


(※ 内閣府HPより)

 これらの行為によって、高市首相の人となりが強く印象づけられました。日本人墓地や記念碑に供花をすることによって、先人を敬い、歴史を大切にする姿勢が現地の人々に伝わります。それこそがまさに平和と安定の重要性を訴えるメッセージとなっていたのです。

 実際、高市首相は会議で中国を念頭に、南シナ海での威圧的な行動に「深刻な懸念」を示したうえで、台湾海峡の平和と安定の重要性を強調しました。そして、政府の安全保障能力強化支援(OSA)を使って、海洋の安全保障強化を後押しする方針を打ち出したのです。その一方で、人工知能(AI)や量子などの先端技術で共同研究を推進する考えも伝えていました。

 先ほどご紹介したように、首相はマレーシア、フィリピン、オーストラリアの首脳とも個別に会談しました。フィリピンとは、自衛隊とフィリピン軍が食料や燃料などを融通し合うことができる物品役務相互提供協定(ACSA)の実質合意に至っています。そして、豪州とは、重要鉱物の供給網での協力を確認しています。

 ASEANの本会議やAZEC首脳会議をはじめ、短い滞在期間に次々と個別に二国間で会談し、実質的な合意を得ていたのです。

■ASESANとインド太平洋地域の平和、安定、繁栄

 さて、ASEAN会議の冒頭で高市首相は、「ASEANと共にインド太平洋地域の平和、安定、繁栄を守り抜いていきたい」と呼びかけ、FOIP(Free and Open Indo-Pacific:自由で開かれたインド太平洋)を「時代の変化に合わせて進化させていく」と表明しました。

 さらに、ASEANが開放性や透明性を確保して地域協力を進めていく独自構想「インド太平洋に関するASEANアウトルック(AOIP)」と連携させる考えも示しました。

 第28回ASEAN会議では、このAOIPの推進に関する共同声明が採択されました。

こちら → https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/100924542.pdf

 FOIPとAOIPが本質的な価値観を共有し、法の支配に基づく国際秩序に寄与することを確認したのです。これには、力によってASEAN諸国に脅威を与えている中国を牽制する狙いがありました。

 第28回日ASEAN首脳会議は、10月26日午後4時10分から約65分間、マレーシアの首都クアラルンプールで行われました。その概要は以下の通りです。

こちら→https://www.mofa.go.jp/mofaj/a_o/rp/pageit_000001_00004.html

 この時、撮影された写真の中央に収まっているのは、日本の高市首相でした。


(※ 首相官邸HPより)

 首脳たちの真ん中で微笑んでいるのが高市首相です。明るいベージュのジャケットに黒のスカートといった装いは、品格があり、威厳を感じさせます。黒っぽいスーツ姿の男性陣の中で、ひときわ輝いて見える効果もありました。まるでアジア外交の中心は日本だといわんばかりの写真でした。

■トランプ大統領との会談

 帰国して間もない10月28日、高市首相は、迎賓館赤坂離宮でアメリカ合衆国のドナルド・トランプ大統領と首脳会談を行いました。


(※ 内閣府HPより)

 会談の様子は次のようなものでした。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=R_LJf7dIVR0

(※ CMはスキップして視聴してください)

 冒頭で、安倍晋三元首相に対する友情に感謝をしていると述べたうえで、高市首相は安倍路線を継承して政権運営をしていくと述べています。そして、強い日本外交を取り戻す決意を表明し、自由で開かれたインド太平洋の進展に向けても、日米でさらに協力を進めたいと述べ、「日米同盟の新たな黄金時代」の構築を呼びかけました。

 その後、大統領専用ヘリに乗って空母ジョージワシントンに着き、二人はスピーチを行いました。まずはトランプ大統領、そして、高市首相です。

こちら → https://youtu.be/znE1y-qls8A

(※ CMはスキップして視聴してください)

 高市首相はまず、地域の平和と安全のために尽力してくれている自衛隊と在日米軍の人々に感謝しました。日本の首相に感謝された彼らは日ごろの任務を思い、気持ちを奮い起こしたに違いありません。

■高市首相の米兵に向けたパフォーマンス

 それにしても日本の首相が、トランプ大統領とともに空母の演台に立って、大勢の米兵の前でスピーチするなど、考えられたでしょうか。歴史に残る一コマであり、世界に向けて日米同盟の絆をアピールする絶好の場となりました。

 興味深いのは、高市首相が大勢の兵士たちに向かって、腕を高く挙げて小躍りするパフォーマンスを見せたことでした。まるで大観衆を前にしたアーティストのようでした。すっかりその場の雰囲気の溶け込み、ごく自然に、このような仕草や動きをとることができたのでしょう。

 その場の雰囲気を読み、とっさに、それに応じたパフォーマンスができるのが、高市首相の強みだと思いました。

 このシーンを取り上げ、「はしゃぎ過ぎ」だと非難する向きもありますが、実は、大勢の人々には言葉よりも、このようなパフォーマンスこそが、端的にメッセージを伝えることができます。それは、音声メッセージよりも視覚メッセージのほうがはるかに強く、瞬間的にイメージを刷り込むことができるからです。

 確かにこのパフォーマンスは、高市首相とトランプ大統領が親密なのだということを世界中に印象づけることができました。これは外交上の大きな成果といえます。実際、このパフォーマンスを見た中国首脳が、習主席と高市首相との会談を急ぐ必要があると判断したと思われるふしが見られます。

 急遽、高市首相と習主席との対面会談が決まったのです。

 そもそも高市氏が首相に就任した際、習近平主席からはお祝いのメッセージがありませんでした。これまでの首相には就任するとすぐにお祝いのメッセージを送っていたにもかかわらず、高市首相にはなかったのです。タカ派のイメージが強い高市首相を嫌ってのことだったのか、それとも、高市政権が短命に終わると思っていたからか、理由はよくわかりませんが、高市首相を無視していたことは確かでした。

 ところが、中国首脳は世界中に配信された動画で、アメリカの空母上で、こぶしを高く掲げる高市首相のパフォーマンスを見たのです。中国首脳がどれほど焦ったことか、容易に想像できます。

 トランプ政権になってから、中国はアメリカから封じ込め政策を展開、強化され、経済危機に瀕していました。それだけに、米兵に向けた高市首相のパフォーマンスはとりわけ中国に強烈なメッセージを放ちました。もはや高市内閣を無視できなくなりました。中国首脳は、高市首相と習近平首席との対面会談を実現せざるをえなくなったのです。

 さて、高市首相はトランプ大統領へのプレゼントでも政策メッセージをアピールしていました。

■トランプ大統領への贈り物

 高市首相は10月28日、トランプ米大統領に帽子を贈りました。黒色をベースにしたキャップで、前立てに金色で「JAPAN IS BACK」と記され、つばの部分に高市首相とトランプ大統領のサインが入っています。


(※ 米ホワイトハウス関係者のXより)

 ここに記された「JAPAN IS BACK」は、首相が自民党総裁選の討論会で繰り返したキャッチフレーズです。トランプ大統領は「Make America Great Again」と書いた赤い帽子を被って大統領選を戦いましたが、それを模して作られたものです。高市内閣が掲げる政策方針が端的に示されています。

 さらにもう一つ、安倍元首相が2017年のトランプ大統領来日の際、ともにゴルフを楽しんだときにパターを贈りました。思い出の品であり、高市政権が安倍元首相の政策を継承する内閣であることを示したのです。空母でのパフォーマンスばかりか、大統領へのプレゼントにも高市首相の外交センスの良さが光っていました。

 次に高市首相を待ち構えていたのは、APEC(アジア太平洋経済協力会議)でした。

■APEC首脳会議への参加

●韓国大統領との会談

 日米会談を無事こなした高市首相は、10月30日、APEC首脳会議に出席するために韓国の慶州を訪れました。そこで、李在明大統領との初めての会談に臨みましたが、高市首相はスマイルと巧みな会話力で打ち解けた雰囲気を醸し出していました。

 この時、高市首相は、「韓国のりや韓国コスメ、韓国ドラマが好き」だとにこやかに語っていたのです。食やファッション、エンターテイメントといった韓国が誇る分野で李大統領を持ち上げ、気持ちをリラックスさせていたのです。

 さらに、高市首相は会談に先立ち、韓国の国旗、そして、日本の国旗に一礼しました。両国家への礼節を示したのです。これで一気に双方の緊張が解け、強硬派同士の対談がスムーズに流れました。対日強硬派とされてきた李在明氏ですが、なごやかに会談することができました。その結果、「未来志向の安定した関係をめざす」ことで合意し、日韓シャトル外交の継続を約束しました。


(※ 首相官邸HPより)

 APECのマークの前で握手する高市首相と韓国の李大統領の笑顔のなんと晴れやかなことでしょうか。この表情からは韓国での会談が一定の成果を上げたことが示されています。いくつもの課題を残しながらも、高市政権と韓国政府との外交がスタートしたのです。左に韓国、右に日本の国旗が置かれ、両氏が担う国家の重みを伝えています。

●中国主席との会談

 翌31日には中国の習近平主席との会談が実現しました。ここでも高市首相は、機転の良さを示しました。固い表情の習近平首席に向かって、「私は信念と実行力を信条としてきた。習主席と率直に対話を重ねてお互いの関係を良くしていきたい」と語りかけたのです。強面の中国に対し、まさに機先を制した格好でした。

 実際、高市首相は習首席に対し、率直に中国に対する懸案事項を説明し、迅速な対処を求めました。その内容は具体的には以下のようなものでした。

①日本産水産物の輸入の円滑化、日本産牛肉の輸入再開と10都県産の農水産物など残された輸入規制撤廃の早期実現、②尖閣周辺海域を含む東シナ海での中国によるエスカレーションや海洋調査活動、日本周辺の中国軍の活動の活発化への対応、③中国によるレアアース関連の輸出管理措置に関し、日中輸出管理対話および当局間の意思疎通を強化、④中国での邦人襲撃事件や拘束された邦人の安全確保および拘束中の邦人の早期釈放、等々です。

 そればかりではありません。

 台湾海峡の平和と安定が国際社会の上でなによりも重要だと指摘しただけではなく、南シナ海、香港、新疆ウイグル自治区等の状況に対し、深刻に懸念していることを表明しました。これまでの日本の首相が口にできなかったことを忖度することなく、述べたのです。

 中国側にしてみれば、予想していたこともあるでしょうし、予想外のこともあるでしょう。どの程度、受け入れられるか、相互に歩み寄れるか、今後の外交力が問われるところですが、高市首相がこれまでの首相が主張できなかったことをはっきりと表明したことには驚いたことでしょう。

 結局、今回の会談では首脳間での対話を進め、日中間の幅広い分野での重層的な意思疎通を行う重要性を確認したことに留まりました。とはいえ、日本初の女性首相が就任したばかりでこれだけ明確に中国に対して要求事項や懸念事項を堂々と述べたのです。画期的なことだといわざるをえません。

 会談後の写真撮影では両者の強張った表情が印象的です。会談内容がハードだっただけに緊張感が解けていないのでしょう。


(※ 内閣広報室より)

 それにしても、習近平首席があまりにも不愛想なのでびっくりしてしまいました。まるで不承不承、握手しているように見えます。それにつられたのか、いつもはにこやかな高市首相の表情も硬く、ひきつっているように見えます。

 もちろん、高市首相は厳しい要求を突き付けながらも、終始一貫、穏やかでにこやかに交渉を進めました。その結果、互いに対話を通じた「戦略的互恵関係」を進めることで一致したのです。

 そもそも高市首相は、韓国に対して、竹島や慰安婦、靖国神社、そして中国に対して、台湾、人権、靖国神社、等々の問題を巡って信念に基づく強硬態度を崩していません。だからこそ、高市首相は両国から警戒されていたのですが、首脳会談後の記者会見で、中国側は「懸念があるからこそ、よく話したい」と表明しています。話し合いの姿勢を見せたのです。

 高市首相は忖度することなく、日本側の立場を縷々説明し、話し合いによって理解を求めようと主張しました。それを見て、中国側が話し合いによって、相互の利益を図る対話重視路線にかじを切ったように見えます。

 それにしてもあまりにも不愛想な習近平首席の表情が気になります。そこで、彼が外国首脳と握手している写真を何枚か見てみましたが、どれも同じように仏頂面をしていました。少しでもにこやかな表情を見せると、権威が落ちてしまうと思っているかのようでした。ですから、この表情は、習近平首席が外国首脳と記念写真を撮る際の定番なのかもしれません。

 興味深いのは高市首相がXで挙げた画像です。


(※ 内閣広報室)

 なんとにこやかで穏やかな表情なのでしょう。高市首相もにこやかに習首席を見上げています。公式の場でなければ習主席とも、このようにとてもいい感じでコミュニケーションが取れていることがわかります。

■高市首相の外交デビュー、成功要因は何か?

 高市首相は就任してからわずか1週間ほどの間に、2つの国際会議と5つの重要な首脳会談をこなしました。ASEAN諸国の首脳たちとの会談を終えて帰国すると、トランプ大統領を迎え、それが終わると、韓国で開催されたAPECに参加し、韓国大統領、中国総書記などと会談を果たしていったのです。

 あまりにもスケジュールがタイトなので、準備不足もあったに違いありませんが、動画を見る限り、高市首相はほとんどの会議で成功を収めたように思います。会議の場面、あるいは会議前後の場面で、高市首相の類まれなコミュニケーション力が発揮されている様子が動画で確認することができました。

 たとえば、ASEANの会議前の様子を撮影した動画では、にこやかに誰とでも分け隔てなく接し、表情豊かにコミュニケーションを交わす様子が伝わってきます。この時、高市首相は明るいベージュのジャケットに黒のスカートといった装いでした。品格があり、威厳も感じられる服装です。

 このような高市首相のTPOを考慮したファッションやパフォーマンス、機転の良さが、海外要人とのコミュニケーションを円滑にし、ひときわ存在感を高めていたように思います。

 また、多数の米兵たちに囲まれ、トランプ大統領とともに演台に立った時は、周囲に溶け込むような黒系のパンツスーツを着用されていました。歓待の雰囲気を感じると即座に、にこやかな表情で右手を高く掲げ、それに対応していました。機転の利いたパフォーマンスであり、大勢の人が見てすぐわかる感謝のメッセージでした。

 今回の外交場面で忘れてならないのは、クアラルンプールの墓地での供花、マレーシア記念碑への供花、韓国国旗および日本国旗への一礼、といったマナーです。先人や死者、歴史を重んじる高市首相の姿勢が人々の心を打ちます。

 国際関係で緊張が高まる中、首相に就任したばかりの高市氏は外交デビューしました。どのような局面でも、外国首脳に対して怯むことなく、毅然と対峙していました。日本として譲れないことは断固とした態度を表明し、頼もしいリーダーの姿を見せてくれました。特に中国や韓国の首脳に対する態度には、これまでの首相たちとは違って忖度せず、毅然としたものがあり、国民を誇らしい気分にさせてくれました。

 一連の外交場面を見てくると、高市首相の外交デビューは明らかに成功したといえます。とりわけ高市首相のファッション、パフォーマンス、機転の利いた対応は、海外ばかりではなく、日本国内にも多大な訴求効果があったのです。

 成功要因は何かといえば、日本を取り巻く諸情勢を踏まえたうえでの課題を掌握していたこと、外国首脳に怯むことなく臨んだこと、TPOをわきまえ、品格と風格、清潔感のある装いをしていたこと、機転の利いたパフォーマンスを取り込み、海外の人々との心理的距離を縮めていたこと、等々ではないかと思います。

 これらの中には学習できるものもありますが、天与のものもあります。

 一連の外交動画を見ていると、高市首相はこの両方を備えた稀有な人物ではないかという気がしてきます。今後、さらに難しくなりそうな国際情勢下にいますが、高市内閣の外交力をもってすれば、日本もなんとかなるのではないかと思えてきます。そして、外交こそ、課題に対する周到な事前準備に加え、TPOを踏まえたファッション、機転の利いたパフォーマンスなど、ビジュアル要素が大切だということを思い知らされました。 (2025/11/16 香取淳子)

ホームタウン事業撤回は見せかけか? アフリカに対するJICAの根強い支援意欲

■ホームタウン事業撤回は見せかけか?

 東京都の小池百合子知事は、9月26日の記者会見で、JICAが「ホームタウン」事業を撤回したことについて問われ、「ひとえにJICAの判断」と述べました。(※ 2025年9月27日、産経新聞)

 実は、東京都の小池百合子知事は19日の記者会見で、都が8月にエジプトの経済団体「エジプト・日本経済委員会」と結んだ合意について、「見直しは考えていない」と述べていました(※ 2025年9月19日、日経新聞)。

(※ 9月19日、日経新聞より)

 この合意では、エジプト人労働者が日本国内で仕事を確保するための情報提供や研修プログラムの開発支援などが盛り込まれていました。移民受け入れにつながると批判する声が広がり、都庁前では合意撤回を求めるデモが行われていたのです。

 26日の小池知事の態度を見ていて、ふと、JICAのアフリカ・ホームタウン事業の撤回は本当なのかという疑問が湧いてきました。同じように激しく抗議されていながら、JICAは事業を撤回し、東京都は覚書を見直さないと表明しているのです。

 しかも、JICAの田中明彦理事長は、9月25日の記者会見で、「ホームタウン事業を撤回する」と表明する一方、「今後も国際交流を促進する取り組みを支援していく」と述べていました。

 これでは、JICAは本当にアフリカ・ホームタウン事業を撤回するのだろうかと疑いたくもなります。そもそも、外務省が所管するJICAの理事長が他国と交わした協定をそう簡単に撤回できるものなのでしょうか。

 ホームタウン事業の撤回は見せかけではないかと疑問に思っていたところ、JICA理事長の興味深い発言を見つけました。

■日本にとっての先行投資

 田中氏は、2025年8月14日、日経新聞社のインタビューに答え、「アフリカ向けの政府開発援助(ODA)は「日本にとっての先行投資」だと訴え、「アフリカ各国から信頼を得ることが(重要鉱物などの)資源や市場の獲得につながる」と強調しました。

 そして、「日本経済にとっては国際社会とのつながりが極めて重要だ。対等なパートナーシップでアフリカの自立と発展を支え、世界経済をポジティブな循環に変える好機だ」と述べ、20日から開催される第9回アフリカ開発会議が「重要な節目になる」と指摘していました。

 TICAD9のテーマである共創について、「国際協力の発展形になる。必ずしも正解がない今の時代には、既存の枠組みにとらわれず、どうすればいいのかをアフリカと共に考え、見いだすことが重要だ。それこそがイノベーションを生む」と語っています。(※ 日経新聞、2025年8月14日)

 田中氏の見解を総合すると、これまでの枠組みに拘らず、世界経済のポジティブな循環という観点を組み入れ、アフリカへの支援内容を考え直す必要があるということになります。

 米欧のODAの場合、途上国への資金贈与が基本ですが、日本のODAは相手国に返済の義務がある有償資金協力や技術協力が大半を占めています。だからこそ、日本の技術や知見を活用して、アフリカの社会的課題を解決する事業を創設することができます。

 アフリカの社会的課題を、日本の技術力とビジネス展開力とで解決できる事業を立ち上げることができれば、課題解決の持続性やポジティブな経済循環を期待できるでしょう。それこそ、アフリカにとっても日本にとっても有益だというわけです。

 実際、ウガンダでは、使った水の量に応じて料金を電子マネーで徴収するビジネスを立ち上げ、給水にまつわる様々な課題に対処することができました。

■電子マネー決済を活用した給水事業

 ウガンダには、水道に接続していない家庭が水を得る手段の一つとして公共水栓があります。公共水栓にバケツを持参し、管理人にお金を支払うことで水を購入する仕組みです。

(※ 国際開発ジャーナルオンライン、2025年9月22日更新)

 ところが、公共水栓の管理人が不在時は購入できず、使うたびに現金を持参しなければなりませんでした。さらに、管理人が水の料金を不当に値上げすることもあれば、売上金を盗難するという問題も発生していました。

 これらの問題を解決したのが、電子マネー決済システムを公共水栓に搭載することによる合理化でした。事前にお金をカードにチャージし、タッチするだけで水が買えるようになったばかりか、料金の不当な値上げや売上金の盗難も防ぐことができました。

 これには、日本の交通系ICカードの仕組みが活用されています。

 2023年11月に研修の一環で日本に訪れたウガンダ人研修生が、電子マネー決済システムに興味を持ったのがきっかけでした。

 ウガンダ人の要望を受けて、経済産業省のJ-Partnership制度を利用して2024年7月に現地調査を開始し、11月にカウンターパートである水環境省と基本合意書(MOU)を締結しました。そして、商店が並ぶマーケットエリアを中心に給水施設を5基建設し、12月に事業を開始したのです。事業計画から調査、現地との調整、建設作業、事業実施まで6カ月という短期間で実現できました。

 このプロジェクトを担当したのが、鉱研工業(株)の森山和義氏です。下の写真は、森山和義氏(左)と現地パートナーのMr. Nabende Innocent(右)です。

(※ 『国際開発ジャーナル』、2025年2月号)

 森山氏は、新卒で鉱研工業に入社し、政府開発援助(ODA)ではマリやブルキナファソ、ナイジェリア、ザンビア、マラウイなどアフリカを中心に井戸掘削および上水道建設事業に携わっています。

 JICA理事長の田中氏はこの事例を重視し、今後のアフリカ支援の在り方の新機軸にしようとしていたのでしょう。そう思うと、TICAD9が「共創」をテーマに組み立てられていたのもわかるような気がします。

■JICAの新たなスキーム「民間資金動員業務」

 8月21日、アフリカ開発銀行(AfDB)と財務省が、TICAD9ハイレベル政策対話として、「民間主導の成長に向けた国際開発金融機関(MDBs)と日本の連携」を主催しました。

こちら → https://afdb-org.jp/news/6578

 TICAD9では、EPSA6として次期TICADまでの今後3年間(2026~2028)に、最大55億ドルの資金協力することが発表されました。EPSA6の55億ドルという目標額は、20年前のEPSA1の初期目標額の5倍以上にあたります。

こちら → https://www.mof.go.jp/policy/international_policy/mdbs/afdb/250821.2.pptx.pdf

 前回のTICAD8(EPSA5)では、3年間(2023~2025)で最大50億ドルの資金協力でしたが、今回は5億ドルもの増額になっています。日本政府がアフリカとの関係を重視し、支援活動を強化しようとしていることが示されています。

 JICA田中理事長は、AfDBとEPSA6における協力に関する覚書に署名し、AfDBとの強固な連携の下、アフリカ支援に取り組んでいく方針を確認しました。

(※ 財務省より。左からカリウキAfDB副総裁、加藤財務大臣、田中JICA理事長)

 これを受けて、加藤勝信財務大臣は、JICAの新たなスキーム「民間資金動員業務」を創設すると発表しました。これは、民間資金の呼び水として、ファンドへの触媒的出資を行うというものです。

 この仕組みを図示すると、次のようになります。

(※ 日経新聞、2025年8月13日)

 このスキームはアフリカ向けを第1号案件とし、国による出資や信用保証でリスクを軽減し、民間投資を促すものです。社会課題の解決を目指すスタートアップに投資し、経済的リターンをも追求するアフリカに特化したファンドとなります。

■改正JICA法

 2025年4月に施行された改正JICA法によって、JICAの役割が広がりました。途上国企業の債券の一部取得や、支援先の地場金融機関の融資に対する信用保証が可能になったのです。運用基準なども見直し、ファンド組成の初期段階での投融資ができるようになりました。国が初期から信用力を与えることで、民間の投資家がファンドに資金を投じやすくするのが目的です。(※ 日経新聞、2025年8月13日)

 JICA改正法のポイントは、①民間資金導入の促進、②国内外の課題解決を有する主体との連携強化、③柔軟で効率的なJICA財務の実現、等々です。

こちら → https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/100796361.pdf

 一方、EPSA(アフリカの民間セクター開発のための共同イニシアチブ)の「ノンソブリン業務(Non-Sovereign Loans, NSL)」コンポーネントは、JICAがアフリカ開発銀行に対して低利のクレジットラインを供与し、同行の民間セクター事業を資金面で支える仕組みです。

 これまでEPSAによって、ウガンダのブジャガリ水力発電所、アフリカ初の汎大陸通信衛星「RASCOM」、東アフリカ海底通信ケーブルシステム、ナイジェリアのレッキ有料高速道路、ルワンダのキガリ大規模給水事業など、さまざまな重要インフラが構築されてきました。(※ https://afdb-org.jp/news/6553

 民間資金を活用しながら、現地と協力して課題解決のための事業がいくつも立ち上げられ、実際に運用されていることがわかります。民間資金を活用し、社会的課題の解決を事業化すれば、インセンティブを高めることができので、事業としても成功する可能性があるのでしょう。

 そうなれば、企業が出資したくなるような環境整備を図る必要があります。今回のJICA改正法はそのための方策の一つなのでしょう。支援を事業化することによって継続することができ、安定した関係構築にも寄与できるようになるのかもしれません。

■アフリカへの投資

 欧米では、政府機関が出資や信用保証、ファーストロス(一定額までの最初の損失)補償を通じて民間のリスクを減らす取り組みが広がっています。

 日本政府も、3年ごとに開催されるTICADのたびに、「援助から民間投資」へのシフトを奨励してきました。ところが、リスクを嫌う日本企業はアフリカ投資をためらい、欧米や中国などの主要国に比べて日本の投資額は大きく見劣りしているのが現状です。

 たとえば、中国の場合、新型コロナウィルス流行後に、アフリカへの投資はいったん減少しましたが、再び、「一帯一路」関連の投資を拡大しています。特に鉱物資源が豊富なアフリカへの投資が際立っており、途上国支援に後ろ向きなトランプ米政権の間隙を突いて、アフリカへの影響力拡大を図ろうとしているのがわかります。

 2025年1月から6月にかけての地域別投資額を見ると、アフリカ向けが増えているのが歴然としています。24年通年より37%も多い400億ドル(約6兆円)に達し、全体の3割超を占めています。

(※ 2025年9月13日、日経新聞)

 アフリカ向けが地域別で最大となるのは21年以来です。オーストラリアのグリフィス大学と中国の復旦大学にある研究機関の調査によると、中国化学大手の中国化学工程集団が、ナイジェリアで結んだ200億ドル規模のガス施設に関する建設契約が、アフリカ向け投資をけん引していたといいます。

 そもそもナイジェリアは、アフリカで最大、世界で第10位の天然ガス埋蔵量(約5兆9,000立方メートル)を誇るガス資源国です。輸出額でも、約9割を原油と天然ガスが占め、ナイジェリアの貴重な外貨獲得の柱となっています。(※ https://www.jetro.go.jp/biz/areareports/2024/bbbf799b03d4f461.html

 そのナイジェリアで中国が巨額を投じて、ガス施設を建設するというのです。明らかに、ナイジェリアでの資源権益を確保し、発言力を高めることを目指したものといえるでしょう。中国は経済危機にあるといわれながら、アフリカに莫大な投資を再開したのです。

 アフリカが最後のフロンティアとして注目を集めているからでしょう。

 資源が豊富で未開発な部分が多く残されている一方、急速に都市化し、デジタル技術の普及も進み、アフリカは無限の可能性を秘めているように思われています。世界中の企業や国家が、アフリカでの投資やビジネス展開を加速させているのが現状なのです。

 日本でも若手官僚たちが、アフリカでの産業政策と資源確保を連携させた取り組みを進めていました。

■ビジネスと資源確保を両輪で

 2024年6月24日、「アフリカに大注目!ビジネスと資源確保を両輪で」というタイトルの下、若手官僚たちの取り組みが紹介されていました。

(※ METI Journal ONLINE,2024年6月25日より。橋本雅拓氏(左)、岸紗理奈氏(中央)、延時大夢氏(右))

 橋本雅拓氏(通商政策局 中東アフリカ課 アフリカ室)は、アフリカは若い人口も多く、これから市場規模がどんどん大きくなることが見込まれていると指摘します。それだけに、社会課題の解決に関するビジネスチャンスが多く、デジタル技術を活用した課題解決ビジネスは、日本や先進国よりアフリカの方が実現しやすいという状況に着目します。

 このような状況を踏まえ、アフリカ室では、スタートアップ企業の動きを後押しするため、アフリカ各国での様々な社会課題の解決につながるビジネスモデルの検証・発信(AfDX事業)を行っているというのです。

 さらに、アフリカはさまざまな鉱物資源の産出国でもあります。先端産業に不可欠な鉱物資源の宝庫でもあるのです。

(※ METI Journal ONLINE,2024年6月25日)

 上図の下に示されたのが、先端産業に不可欠な資源です。どういう用途で使われているのか、最終的にどのような製品になるのかが図示されています。

 たとえば、パソコンやスマートフォンの液晶、中に入っている基盤なども、原料は鉱物資源です。自動車のモーターにはレアアース、蓄電池にはリチウム、ニッケル、コバルトといった具合に、現代生活に不可欠な鉱物資源が豊富なのがアフリカなのです。

 延時大夢氏(資源エネルギー庁 資源・燃料部 鉱物資源課)は、日本はベースメタル、レアメタルのいずれについても、ほぼ全量を海外からの輸入に頼っているのが現状だとし、2050年カーボンニュートラルの実現に向けては、鉱物資源を安定的に確保するための取り組みが不可欠だという見解です。

 さらに、鉱物資源の安定供給を確保するには、日本が強靱なサプライチェーンを構築しなければならず、鉱物資源のサプライチェーンを特定の国に依存することは避けなければならないという認識を示します。

 サプライチェーンの強靱化・多様化に向けた取り組みとして、資源外交を展開しており、南米のチリやペルー、豪州、カナダなどの国に加え、新たなフロンティアとしてアフリカに着目しているというのです。

 岸紗理奈氏(資源エネルギー庁 資源・燃料部 鉱物資源課)は、企業から出向している経験から、海外からの鉱物資源の確保は、企業単独では動きづらいことがあり、官民で連携していくことが大事だといいます。

 このように、資源確保であれ、ビジネスチャンスであれ、若手官僚は三者三様、アフリカへの期待を語っていました。人口は増加し続け、先端産業に必要な資源が豊富で、しかも未開発の部分が多く、ビジネスチャンスが無限だからです。

 ビジネスの観点からいえば、アフリカはまさに最後のフロンティアなのです。

 その認識が世界の為政者たち、企業家たちに共有されはじめていました。だからこそ、中国は経済危機といわれながら、アフリカに6兆円もの投資を決めたのです。そして、JICAもまた、TICAD9で多岐にわたるアフリカ支援事業を発表しました。

 アフリカ・ホームタウン事業は、TICAD9のために用意された数ある支援事業のうちの一つでした。実際、移民政策の一環でもあったのでしょう。ところが、収束することのない抗議行動に耐えかねて、JICAはホームタウン事業を撤回してしまいました。

 石破茂首相は、TICAD9が閉幕した8月22日、「アフリカの未来への投資拡大や産業協力強化、人材育成に取り組む」と述べ、「日本とアフリカが双方の需要を知り、関係強化の道筋が見いだせた」と語りました。(※ 日経新聞、2025年8月22日)

 この事業が、アフリカでの資源確保、ビジネスチャンスに関わっている限り、いずれ、名を変え、形を変えて、JICAは似たような支援事業を立ち上げるに違いありません。撤回はみせかけであり、日本の資源確保、ビジネスチャンスを企図したアフリカ支援はさらに強化されていくことでしょう。(2025/10/4 香取淳子)

アフリカ・ホームタウン事業;危険をスルーするJICAの罪

 2025年9月14日、JICAと外務省が「JICAアフリカ・ホームタウン」事業の改称を検討していると報じられました(※ 時事通信オンライン、2025年9月14日7時5分)。

 あの報道は誤報だったと懸命に訂正したにもかかわらず、抗議の声が収束する気配をみせなかったからでした。なんとも姑息な対応です。JICAと外務省にしてみれば、事業名さえ変更すれば、国民の怒りが収まるとでも思っていたのでしょう。

 この対応だけで、JICAと外務省が、各地で勃発した国民の怒りの本質を理解せず、表面的に取り繕おうとしていただけだということがわかります。まず、「JICAアフリカ・ホームタウン」事業に対する抗議行動を見ておくことにしましょう。

■JICA前でのデモ

 2025年8月28日の夕刻、東京都千代田区のJICA(国際協力機構、以下、JICA)本部前で、デモ活動が行われました。千葉県木更津市など国内の4市をアフリカ諸国の「ホームタウン」に認定したことに対する抗議行動です。

(※ https://www.threads.com/@medinews_channel/post/DOA0Qi9jrFI/mediaより)

 JICAの前に集まった人々は声を荒げ、「撤回しろ」、「白紙に戻せ」と繰り返し、「売国奴」、「解体」と怒声を浴びせました。拡声器を手にし、移民を受け入れれば、社会不安が高まる、治安が悪化する、などと口々に訴えたのです。終盤になると、参加者は150人以上にも及び、JICA本部をぐるりと取り囲むほどでした。

 事の発端は、JICAが8月21日、第9回アフリカ開発会議(TICAD9)に合わせ、山形県長井市をタンザニア、新潟県三条市をガーナ、千葉県木更津市をナイジェリア、愛媛県今治市をモザンビークの「ホームタウン」に認定したことが明らかになったからでした。

 ホームタウンに認定された4つの日本の地方都市と対応するアフリカの4カ国が、地図上で示されています。

(※ JICAのHPより)

 このニュースはまず、海外で波紋を呼びました。

 JICAアフリカ・ホームタウン事業を知った男性が、「ナイジェリア人よ、木更津へ行こう」と呼びかけた動画をTikTokで公開したのです。これが、28日までに2.4万回再生されました。一気に拡散されました。

 『日刊スポーツ』(2025年8月28日付)によると、次のような内容の動画でした。

 男性は冒頭で「信じられない!」と声をあげると「Negro Town in Japan! Finally bro let’s go(黒人の町が日本に! 仲間よ、行こう)」と切り出しました。

 そして、木更津が立地的に東京から近いことや、60代、70代の人口が多い工業地域で、若い人口が少ないことを説明しています。男性は、「ずっと言ってきた、日本を黒くしろ(Make Japan Black)と」と語り、JICAのアフリカ・ホームタウン事業について「これは大きな一歩」と評価していました。

 一方、ナイジェリア人については、「我々は子どもを作るし、一生懸命働く」と述べた上で、男性は、「(日本側は)スキルのあるナイジェリア人を呼ぼうとしているが、実際は黒人たちが来て、人口が増えることを望んでいる」と述べました。そして、男性は再び、「世界のナイジェリア人よ、木更津へ行こう」と呼びかけていたのです。(※ https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/202508280000402.html#goog_rewarded

 このような動画が拡散されたのですから、世界中が驚いたのも無理はありません。

 しかも、世界にJICAアフリカ・ホームタウン事業を伝えたのは、何もこのTikTokだけではありませんでした。ナイジェリア政府、BBC、タンザニア・タイムズなども一斉に、JICAの新事業について報道していたのです。

 一方、ほとんどの日本人は、JICAアフリカ・ホームタウン事業のことを知りませんでした。日本のメディアがこの件について一切、報道しなかったからです。BBCやタンザニア・タイムズ、ナイジェリア政府が報道すると、それがSNSで拡散され、多くの日本人が知るようになりました。

 多くの日本人はBBCやSNSを通してこのニュースを知り、憤慨しました。自分たちが知らない間に、日本の地方都市がアフリカのホームタウンに認定されていたのですから、無理もありません。

 まずはBBCの報道を見てみましょう。

■BBCの報道

 2025年8月23日、BBCは「JICA、木更津市をナイジェリア人の故郷に指定」というタイトルの記事をネットにアップしています。

こちら → https://www.bbc.com/pidgin/articles/cgm2p4d8m9mo

 この記事は、「国際協力機構(JICA)は、木更津市をナイジェリア人の故郷に指定しました」という文章から始まります。キャッチーな部分を冒頭に置いて、読者の関心を引いているのです。

 次いで、「ナイジェリア情報・国家指導省は、8月22日(金)に発表した声明で、文化外交の深化、経済成長の促進、そして労働力の生産性向上に向けた取り組みについて説明しました」とし、同省によると、「第9回アフリカ開発会議(TICAD9)の一環として、日本政府がこの取り組みを発表した」と記し、ニュースの出所を明らかにしています。

 そして、「日本政府は、木更津市に居住・就労を希望する、高度なスキル、革新性、そして才能を持つナイジェリアの若者向けに、特別なビザを創設する予定です」と具体的な内容に踏み込んでいます。この記事の核心部分です。

 日本政府は有能なナイジェリアの若者を求めており、木更津市に居住したり、就労を希望する場合は、「特別なビザを創設する」予定だと明記されているのです。

 この記事を読めば、誰もが、「世界のナイジェリア人よ、木更津へ行こう」と呼びかけたくもなるでしょう。なにしろ日本政府のお墨付きで、ナイジェリアの若者が木更津に住み、仕事をすることができるのです。

 実際、この記事の最後には「木更津市とは?」の見出しの下、木更津市の人口が13万6000人で、首都東京からわずか70キロしか離れていないこと、漁業や農業が盛んで、学校では英語教育が行われていること、などが書かれています。ナイジェリアの若者が木更津市に住み、仕事をする場合の基礎的情報が添えられていました。

 木更津市が東京に近いという情報は、ナイジェリアの若者には魅力的だったでしょう。木更津市に行きさえすれば、どんなチャンスに恵まれるかもしれないのです。しかも、学校で英語教育も行われているとなれば、木更津市でのコミュニケーションも可能です。不安定な社会状況のナイジェリアで生きる若者にとって、これは夢の広がるニュースでした。

 ところが、その後、この記事は修正されました。

  「数日後、日本政府は、移民の受け入れを促進する措置や、アフリカ諸国の住民向けの特別ビザの発行について、今後一切の措置を講じる予定はないと述べました」という一文が、この記事に追加されたのです。日本政府が抗議したからでしょう。

 JICAが26日(月曜日)にHPで訂正の声明文を出したことも書かれていました。この見出しの末尾には、ナイジェリア政府もその後、発表内容を訂正したと書かれています。訂正が遅かったからだと思われますが、ナイジェリア政府はおそらく、日本政府からの申し入れを渋々、受け入れたのでしょう。

■果たして、誤報だったのか?

 この記事のトップに、木更津市長とナイジェリア大使館臨時大使が認定状を手にし、その隣にJICA副理事長が収まった写真が添えられていました。

(※ BBCより鮮明なので、木更津市の写真を引用)

 三者三様、穏やかで、満足気な表情でカメラに収まっているのが印象的です。撮影されたのが8月22日ですから、まだ記事が訂正される前の写真です。この時、三人はそれぞれ、WIN-WINの思いでいたことでしょう。

 そして、記事の最後に、「ナイジェリア情報大臣によると、この協定を通じて、日本はアフリカ4カ国との既存の関係を公式に結び付けることで、アフリカ4カ国との交流を強化したい考えです」と書かれていました。JICAアフリカ・ホームタウン事業が日本政府からの提案であったことが明記されているのです。

 そういえば、JICAは、第9回アフリカ開発会議にあわせ、「日本アフリカ拠点大学ネットワーク構想」を立ち上げていました。これは、アフリカ域内の大学を拠点に日本とアフリカの教育連携と人材交流を促すもので、日本とアフリカの大学間連携を通して、2028年までに15万人を育てる計画を立てていました(※ 日経新聞、2025年8月19日)。

 とくに、アフリカ域内で理工・農学系の高度人材の育成を支援し、気候変動や食料・エネルギー分野で秀でた人材を育成することによって、知日あるいは親日の若手リーダーの輩出につなげようというのが、JICAの目論見でした。

 第9回アフリカ開発会議の開催を機に、JICAはさまざまな構想を立ち上げていました。いずれもアフリカの若者を支援し、人材交流を促進するというものでした。JICAアフリカ・ホームタウン構想はその一つでしたが、実は、日本アフリカ拠点大学ネットワーク構想も立ち上げられていたのです。

 こうしてみてくると、JICAアフリカ・ホームタウン構想は果たして、誤報だったのかという疑問が湧いてきます。

■アフリカの基礎教育の向上から高度人材育成まで

 JICAは第9回アフリカ開発会議を機に、二つの事業を立ち上げました。一つは、知的レベルの高い若者を対象にした「日本アフリカ拠点大学ネットワーク事業」であり、もう一つは、労働力レベルの若者を対象にした「JICAアフリカ・ホームタウン事業」です。JICAがアフリカの基礎教育の向上から、高度人材育成にまで関与し、支援しようとしていたことがわかります。

 こうしてみてくると、JICAや外務省が否定し、火消しに走った海外の報道やSNSの動画は決して誤報やデマではなく、事実だった可能性が出てきました。

 調べてみると、「基礎教育の向上から高度人材育成まで」というタイトルの記事がみつかりました。そこでは、「第8回アフリカ開発会議では高等教育分野での日本の取り組みの一つ」として、「日本・アフリカ間の大学ネットワークを通じた人材育成、留学生の受け入れによる5000人の高度人材育成を実施する」ことが挙げられていました。(※ 『国際開発ジャーナル』、2023年11月、pp.68-71))

 さらに調べてみると、日本・アフリカ大学連携ネットワーク(JAAN)の第1回年次総会が、2016年6月20日に筑波大学東京キャンパスで開催されており、16大学と1オブザーバー機関、そして8団体・機関から39名が出席していました。高度人材育成に関する組織は9年も前に立ちあげられていたのです。以後、毎年開催されており、日本とアフリカの大学間ネットワークは機能していることがわかります。

 第8回アフリカ開発会議(2022年8月27日と28日)の時点では、JICAアフリカ・ホームタウン事業はまだ構想されていませんでしたが、「みんなの学校」という事業は動いていました。

(※ https://www.jica.go.jp/TICAD/approach/special_report/20221031_01.html

 「みんなの学校」プロジェクトは、家族や地域住民が学校運営に参画し、授業の在り方や学校運営を考えていこうとするもので、JICAは個別に対応し、助言や技術支援を提供しています(※ 前掲URL)。

 基礎教育の向上を目的とした事業ですが、地域の活性化を図るとともに、コミュニティを強靭化する機能もあると考えられています。2021年に始まったプロジェクトで、満足に教育を受けられないアフリカの子どもたちのための支援事業でした。(※ https://www.jica.go.jp/information/topics/2021/20210428_01.html)。

 これが地域活性化を目指した基礎的教育事業だとすると、このプロジェクトがアフリカ・ホームタウン事業の先駆けなのかもしれません。となれば、アフリカ・ホームタウン事業は第8回アフリカ開発会議の時点で、構想されていたことになります。

 まずは、木更津市の事業内容を見てみることにしましょう。

■木更津市の事業内容および目的

 木更津市がJICAによって採択された事業の名称は、「青少年非認知能力向上プロジェクト~「規律」「尊重」「正義」の涵養による社会変革モデル~」で、対象期間は2026年1月からの3年間です。

 タイトルに含まれる「非認知的能力」とは、「知能検査や学力検査では測定できない能力」を指し、具体的には、「やる気、忍耐力、協調性、自制心など、人の心や社会性に関係する能力」を意味します。ここでは、「規律」「尊重」「正義」を意味し、それらを涵養することによって、社会を変革していくというものです。

 具体的な事業内容としては、ナイジェリアの大都市ラゴスとアブジャの学校で、「Baseballership TM教育メソッド」の普及モデルを構築すること、そして、木更津市では、市内の小・中学生を対象に多文化共生を学ぶ授業を行い、国際理解教育の要素も取り入れた「Baseballership TM教育メソッド」のイベントを開催するというものです。

 事業内容をみると、非認知能力の向上を、「Baseballership TM教育メソッド」に求めているところに大きな特徴があります。

 次に、事業の目的を見ると、「ナイジェリア連邦共和国では、急速な経済成長が続く一方、格差拡大や 汚職、犯罪、交通マナーなど社会課題も多い」という課題を解決するため、「同国の学校現場で不足している情操教育の機会をつくり、社会情動スキルの高い人材を育成する」と書かれています。(※ https://www.city.kisarazu.lg.jp/soshiki/kikaku/organiccity/1/12113.html

 このような事業目的を読んだとき、大きな違和感を覚えざるをえませんでした。

●なぜ木更津市が、ナイジェリアの社会問題の解決を図る必要があるのか?

 なぜ、日本の小さな地方都市が、遠く離れたナイジェリアの社会的課題解決のために、事業を起こさなければならないのでしょうか。

 たとえば、木更津市の人口は、2025年8月1日時点で、13万6,884人です。一方、ナイジェリアの人口は、2024年の世銀調査によると、2億3,268万人です。年々、人口が増加していますから、現時点ではさらに多くなっていることでしょう。

 さらに、ナイジェリアは、これまで国連安保理非常任理事国を5回にわたって務めており、国連PKOにも貢献し、アフリカのリーダー国の1つです、G7諸国だけでなく、新興諸国とも強い関係を築いている大国です(※ 外務省の基本データ)。

 ところが、政情不安なため、ナイジェリアではテロ、誘拐、武装強盗など犯罪の発生率の高く、外務省は多くの地域を危険レベル4あるいは3を出しています。これは、「「退避してください」、「渡航は止めてください」といったレベルです。特にイスラム過激派組織によるテロや誘拐が頻発しており、外国人を標的とした犯罪も多く、外務省が、慎重な対策を講じるよう警告しているほどです。

 たとえば、中東専門のジャーナリスト石田和靖氏は、「ナイジェリアは一人では行けないほど危険」と語っています。

こちら → https://youtu.be/w7YPgQldHfw

(※ 0:36~5:02まで。CMはスキップするか削除して、視聴してください)

 まず、ムルタラ・モハンマド国際空港に着いてからラゴスの市街に入るまでが大変だといいます。タクシーに乗れば、どこかに連れていかれて金品を盗まれるし、バスに乗れば、強盗に刺され金目のものを盗まれるので、知り合いのナイジェリア人に送迎をお願いするしかないというのです。

 危険レベルが高いせいか、2024年10月時点でナイジェリアに滞在する日本人は158人です。一方、日本に滞在するナイジェリア人は2024年12月時点で4318人です。相互にほとんど交流がないといってもいいでしょう。

 それほど交流がなく、しかも犯罪率の高いナイジェリアの社会的課題をなぜ、日本の小さな地方都市が解決のために動かなければならないのでしょうか。この事業の目標を何度見返してみても、木更津市がこの事業によって、何をしたいのかがよく見えてきません。

 しかも、この事業内容をみると、「Baseballership TM教育メソッド」という概念を主軸に組み立てられています。

●「Baseballership TM教育メソッド」とは何か、なぜこの事業に組み込まれているのか?

 この事業はナイジェリアと木更津市で展開されます。その際、キーになるのが、「Baseballership TM教育メソッド」です。一般にはまだ認知されていない概念を使って、この事業を展開しようとしているのです。

 再び、「申請概要」を見てみると、「本事業では、指定団体であるJ-ABS(一般財団法人アフリカ野球・ソフト振興機構)を通じて、ナイジェリア(アブジャ、ラゴス)の学校で「Baseballership TM教育メソッド」の普及モデルをつくる…」と書かれています。

 ナイジェリアの大都会の学校で、「Baseballership TM教育メソッド」の効果検証を行って一般化し、普及モデルをつくるというのですが、具体的な対象地域や方法が書かれていないし、どのぐらいのサンプル数で検証するのかも、よくわかりません。このメソッドの「普及モデルをつくる」というにはあまりにも事業内容が曖昧なのです。

 一方、木更津市にとって、この事業がどういう意味をもつのか、事業内容を読んでもよくわかりません。

 そもそも木更津市はなぜ、JICAの「草の根技術協力事業(地域活性型)」応募したのでしょうか。

■「草の根技術協力事業(地域活性型)」

 「草の根技術協力事業(地域活性型)」は、「NGOや自治体、大学等がこれまでに培ってきた経験や技術を活かして企画した途上国への協力活動をJICAが支援し、共同で実施する事業」であり、しかも、「地域住民に役立つ事業」が対象となります(※ JICAのHP)。

 紹介動画がありますので、ご紹介しましょう。

こちら → https://youtu.be/cBIMcD8QewQ

(※ JICAより)

 木更津市は、草の根技術協力事業のうち、「地域活性型」に応募しました。この事業は、地方公共団体が、JICAが指定する団体と提携した企画を提案することが条件になっています。木更津市はJ-ABSを指定して、ナイジェリアでの事業提案を行いました。(※ https://www.jica.go.jp/domestic/tokyo/activities/kusanone/index.html

 木更津市がなぜ、J-ABSを指定したのかといえば、J-ABS はJICAに登録された指定団体だったからです。また、木更津市は2020年に開催された東京オリンピック・パラリンピックで、ナイジェリアのホストタウンを務めたことがあったので、ナイジェリアを対象国に事業企画を考え、基礎教育に関する提案を行いました。

 その結果、木更津市の提案は採択されました。2024年度の応募件数は24件、そのうち採択されたのは8件、採択率は33%でした。(※ https://www.jica.go.jp/activities/schemes/partner/kusanone/chiiki/index.html

 この事業の応募要件はJICAが指定した団体と提携して事業を行わなければならず、企画もそれに合わせたものにしなければなりませんでした。この事業は一見、木更津市が自発的に提案したようにみえますが、実は、JICAが指定したJ-ABSの意向を色濃く反映したものだったのです。

 これでようやく、木更津市の事業概要に対する疑問が少し解けました。

 つまり、応募という形をとりながら、木更津市が自由に発想し、自発的に考案した提案ではなかったのです。事業内容は、JICAの指定団体J-ABSに紐づけられており、「Baseballership TM教育メソッド」を組み込むことは不可欠だったのです。

 調べていくうちに、この事業に関係する、JICA、J-ABS、「Baseballership TM教育メソッド」が相互に深く関わっていることがわかってきました。三者をつなぐ人物がいたのです。それは、J-ABSの代表理事である友成晋也氏でした。

■JICA、J-ABS、慶應義塾大学

 友成晋也氏は、慶応義塾大学の野球部出身で、卒業後はリクルートコスモス社を経て、JICAに入り、1996年に西アフリカのJICAガーナ事務所へ赴任しました。以来、JICAの職員としてガーナで働き、その傍ら野球を通して、アフリカの青少年の人材育成のための「ベースボーラーシップ教育メソッド」を考案し、実践しはじめました。

「Baseballership TM教育メソッド」を考案したのは、この友成晋也氏です。

 JICA在職時の2019年にJ-ABSを立ち上げ、2020年には退職し、2021年から代表理事を務めています。翌2022年には、JICAの支援を得てアフリカ事業を始めているのです。このメソッドを教育に取り込めば、アフリカの青少年に、「規律」「尊重」「正義」などを涵養することができると述べています(※ https://www.j-absf.org/greeting)。

 友成氏が代表理事に就任した翌年の2022年以来、J-ABSは継続的にJICAから財政支援を受けています。2023年7月25日には2024年度のガーナ支援事業に採択され、母校である慶應義塾大学野球部からは人的支援を得、慶應義塾大学SFC研究所のベースボール・ラボからは研究支援を得て、成果をあげています。

 2024年8月31日と9月1日に開催された、第1回ガーナ甲子園大会は、この時の助成によるものです。

こちら → https://youtu.be/5i7AMLSrfn4

(※ CMはスキップして視聴してください)

 現在、J-ABSは、アフリカ55甲子園プロジェクトを主軸に事業展開をしています。アフリカの54か国と1つの地域を対象に、野球を通じた人づくりと競技の普及を目的に、25年かけて、アフリカ各国で野球の全国大会の開催させる計画だといいます。

 こうしてみてくると、友成氏が勤務していたJICA、同氏が代表理事を務めるJ-ABS、同氏が開発した「Baseballership TM教育メソッド」は三位一体で、アフリカで野球を根付かせようとしているように思えます。

 アフリカの青少年の基礎学力向上のための事業としては、未知数ですが、慶應義塾大学野球部から人的支援、慶應義塾大学SFC研究所ベースラボからは研究支援を受け、着実に成果を収めつつあるのが現状です。

 一方、木更津市は、この事業のために場所を提供しているにすぎないようにみえます。はたして、木更津市にとって、どんなメリットがあるのでしょうか。

■木更津市にとって、メリットはあるのか?

 この事業は、実施期間が3年間で、助成金の上限が6000万円です。仮に上限が支給されたとして6000万円です。その中からどのぐらい活動資金としてJ-ABSに渡されるのかわかりませんが、アフリカでの活動経費、渡航費、人件費、滞在費、など諸経費を差し引くと、それほど残らないでしょう。

 一方、木更津市は、ナイジェリアからの来訪者に対する住宅の提供、生活面での対応、さらには小中学校での教育機会の提供などが求められます。文化や生活習慣の違うナイジェリア人を相手にするのですから、金銭以外の負担も計り知れないものになるにちがいありません。

 そこへもってきて、今回の大騒動です。

 8月23日以来、木更津市はクレーム対応に追われました。JICAや外務省が誤報だ、デマだと否定しても、抗議の声が収まる気配は見えず、木更津市は新たに、令和7年9月の日付で、文書を発表しました。

 内容はこれまでと同様、市民からの批判に応えるものでしたが、興味深いのは、文書の末尾に赤字で書かれた次の文章です。その部分をご紹介しましょう。

 「木更津市は、ナイジェリアからの移住・移民の受け入れを促進するといった事実は無く、今後もそのような取組を進めていく予定もありません。また、市としてナイジェリアからのインターンシップの受入れ計画もありません」(※ https://www.city.kisarazu.lg.jp/material/files/group/10/Stance_Japanese_.pdf

 確かに、それらの文言は事業概要にありませんでした。ところが、2026年から3年間、ナイジェリア人が継続して木更津にやって来て居住し、活動するのは事実です。授業を行い、イベントを開催することも、事業内容に盛り込まれています。木更津市はそのためにナイジェリア人に住居を用意し、生活面での支援をしなければならないのです。

 その結果、どういうことが起こるでしょうか。

 たとえば、専門職ビザで来日した場合、高度人材ポイントが70点以上であれば、3年間在留すれば、永住許可申請をすることができます。また、80点以上であれば1年以上在留しただけで、永住許可申請をすることができるのです。(※ https://dragonshinjuku-visa.com/archives/884/

 この事業の実施期間が3年間だということは、専門職ビザで来日したナイジェリア人は、事業が終了する段階で、日本に永住許可申請を出せることになります。移民政策ではないとJICAや政府は言い張りますが、実際はその可能性もあるのです。市民や多くの人々が懸念するのはその点でした。

■危険をスルーするJICAの罪

 今回、SNSで数多くの警告を発信していたのは、日本を愛する外国人たちでした。移民がどれほど社会を不安定にするか、彼らはよく把握していたからです。

 たとえば、ナイジェリア人と日本人のハーフである細川バレンタイン氏は、ショート動画をいくつもアップし、アフリカ・ホームタウン事業の危険性を警告しています。いずれも具体的で説得力がある内容なので、いくつかご紹介しましょう。

  • 外国人労働者を安易に入国させてしまうことの危険

こちら → https://www.youtube.com/shorts/_hGJC6klqWs?feature=share

  • 労働力不足だからといって移住させた結果、不法滞在者の急増

こちら → https://www.youtube.com/shorts/Szo7amopmZs?feature=share

  • 生活習慣、社会状況が違うナイジェリアと共存できるか?

こちら → https://www.youtube.com/shorts/yuH5n6LdCco?feature=share

  •  アフリカ・ホームタウン事業はなんとしても食い止めるべき

こちら → https://www.youtube.com/shorts/lQS6Y-VTj8k?feature=share

 これらのショート動画を見て、改めて、この事業の危険性を思い知らされました。

 表向きはナイジェリアの社会的課題を解決するためといいながら、実は、人口が激増しているナイジェリアから、木更津市へ労働力の流入を目的としています。JICAや外務省は否定していますが、これが移民政策の一環だからこそ、「アフリカ・ホームタウン」事業なのです。

 日本は現在、帰国させるための厳格なルールもなく、海外からの労働者を受け入れるので、不法滞在者が増えるばかりです。その結果、医療費の未払い、犯罪の増加、社会の不安定化など、不法滞在者が引き起こす諸問題を、日本人が税金を使って後始末をしなければならなくなっています。

 多くの人々が海外からの労働者の受け入れに反対し、SNSでの抗議も高まる一方ですが、それでも、JICAや日本政府はこの計画を止めないでしょう。仮に表向きは取りやめたように繕ったとしても、結局はなし崩し的に移民を受け入れていくに違いありません。というのも、経済界と同様、行政もまた労働力不足をなによりも恐れているからです。

 木更津市もおそらく、人口減への対応策として、この事業に参画したのでしょう。労働力補填のメリットに目を奪われて、ナイジェリア人の移住が抱える潜在的なリスク、あるいは、社会的損失についてはそれほど深く認識していなかった可能性があります。

 一方、JICAはこの事業に潜在するリスクを知りながら、木更津市の提案を採択し、ナイジェリアとの事業を立ち上げました。危険を承知で、地方都市を引きずり込み、長期的にはデメリットでしかない事業に関わらせました。そのことの罪は重いといわざるをえないでしょう。(2025/9/22 香取淳子)