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香取淳子のメディア日誌
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「わが青春の上杜会」展:藤島武二氏、岡田三郎助氏、和田英作氏の裸婦像をめぐって

■秀才揃いの「上杜会」のメンバー

 2020年10月3日から12月13日まで、神戸市立小磯記念美術館で、「わが青春の上杜会」展が開催されました。見応えのある作品ばかりではなく、同窓の画家たちの人生を垣間見ることができ、とても印象深い展覧会でした。

 今回は、趣向を変えて、上杜会メンバーの指導教官の作品を見ていくことにしましょう。

 その前にまず、「上杜会」とは何かということを説明しておく必要があるでしょう。実は、この展覧会のチラシを手にしたとき、「上杜会(じょうとかい)」という見慣れない言葉に戸惑いました。一瞬、「上社会」と書かれているのかと思い、見直しましたが、やはり、「上杜会」でした。漢字の横に小さく、「じょうとかい」と振り仮名が振られています。

 チラシを裏返してみてようやく、その意味を理解することができました。「上杜会」とは、「上野にある東京美術学校(現東京芸術大学)の西洋画科を1927年に卒業した人々全員(中途退学者を含む44人)が、結成した美術団体」だったのです。

 さて、上杜会が結成されたのは1926年2月、卒業の一年前でした。同年12月25日には、大正天皇が47歳の若さで崩御され、昭和天皇が即位されました。急遽、大正から昭和へと元号が変わりました。そして、わずか一週間で1927年1月1日となり、早くも、昭和2年を迎えました。ですから、3月に卒業した彼らは、まさに昭和の幕開けとともに、画家人生のスタートを切ったことになります。

 ところが、1927年9月、彼らは第一回上杜会展を開催しています。卒業早々に展覧会を開催できるだけの力量があったことがわかります。上杜会のメンバーは、美校始まって以来の秀才揃いだといわれていたそうですが、このことからも、なるほどと合点がいきます。

 実際、在学中に帝展(帝国美術院美術展覧会)に入選する者が何人かいましたし、退学して欧州に留学した者もいれば、前衛的な芸術活動に参加し、そこで頭角を現す者もいました。上杜会のメンバーには、創作意欲にあふれた優秀な人材が揃っていたのです。

 その後、「上杜会」という場を得たメンバーたちは、切磋琢磨し合いながら、個性を育み、能力を磨き上げてきたのでしょう。会場を一覧すると、同窓でありながら、画風は似通っておらず、時間が経過するにつて、その個性に輝きが増してきているように見えました。

 ふと気になったのが、彼らは東京美術学校でどのような指導を受けてきたのかということでした。興味深いことに、会場にはまるでその疑問に答えるかのように、序―1のコーナーで、藤島武二、和田英作、岡田三郎助、小林萬吾、長原長太郎の作品が展示されていました。いずれも上杜会メンバー在籍時の教授陣です。

 彼らが入学した当初、西洋画科を創設した黒田清輝氏もおられたようですが、1924年に逝去されており、実際はこの5人が分担して学生の指導に当たっていました。

■西洋画科の教官

 豊田市美術館学芸員の成瀬美幸氏によると、当時の西洋画科は次のようなカリキュラムで指導が行われていました(図録『わが青春の上杜会』、p.8)。

 一年次に長原長太郎に石膏デッサン、二年次に小林萬吾に人体デッサンを学び、三年次に藤島武二、岡田三郎助、和田英作、いずれかの教室を選択するシステムになっていました。今風にいえば、3年次から始まるゼミの担当者が藤島、岡田、和田の三氏だったのです。

 成瀬氏は、「教授たちは、明治期から写実的外光描写を長年追求してきた日本美術界の改革者であり、1920年代にはおおむね50代を迎えていた」と記しています。中には、教授たちの画風に馴染めない学生がいたかもしれません。

 そもそもゼミ担当の三教官をはじめ、デッサン担当の長原長太郎氏、小林萬吾氏など、当時の西洋画科の教官全員が創立時からの白馬会会員でした。

白馬会は、明治美術会を脱会した黒田清輝氏、久米桂一郎氏、山本芳翠氏らが中心となって1896年に設立された美術団体です。旧派ないし脂派 (やには) と呼ばれた明治美術会に対し、白馬会は明るい画風を特徴としており、新派または紫派とも呼ばれていました。黒田氏を中心としたこの白馬会は、明治の洋画界の主流として、その後の発展に大きく寄与してきたのです。

 一方、明治美術会は白馬会設立後、急速にその勢力が衰え、1901年には解散しています。そもそもは西洋画科を設置しなかった東京美術学校に対抗して設立された美術団体でしたから、1896年に東京美術学校に西洋画科が創設され、黒田氏が指導者として迎え入れられると、もはや存続する意義はなくなってしまったのでしょう。

 1896年に設立された白馬会は1911年には解散しており、上杜会のメンバーが入学した頃は存在していませんでした。ところが、教授陣は全員、創立時からの会員だったのです。創設以来、西洋画科を指導したのが黒田氏ですから、当然といえば当然のことなのですが、西洋画科の教育方針全般に黒田氏の影響が及んでいるのは明らかでした。

 そもそも、西洋画科の教官はそれぞれ、どのような経緯で採用されたのでしょうか。上記5人のうち、3年次以降の指導を担当した藤島武二氏、岡田三郎助氏、和田英作氏の就任経緯を見ていくことにしましょう。

■藤島武二氏、岡田三郎助氏、和田英作氏の就任経緯

 三者は同校に西洋画科が新設されると、黒田清輝から推薦されて、教官に就任していました。なぜなのでしょうか。その経緯についてざっと調べてみました。

 たとえば、藤島武二氏の場合、黒田氏の推薦を得て、1896年、東京美術学校の助教授に就任しています。

こちら → https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8660.html

 岡田三郎助氏も同様、黒田氏に推薦されて、1896年に東京美術学校西洋画科の助教授に就任しました。ところが、翌年、文部省派遣留学生として渡仏し、1902年に帰国しています。しかも、在仏中は、黒田清輝氏が師事したラファエロ・コランの指導を受けていました。

こちら → https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8504.html

 和田英作氏の場合、曾山幸彦氏や原田直次郎氏に学んだ後、天真道場で黒田清輝氏や久保桂一郎氏から、西洋画の指導を受けていました。そして1896年、藤島や岡田と同様、黒田氏に推薦され、東京美術学校の助教授に任命されましたが、早々に教官を辞め、学生として西洋画科に入学し直しています。和田氏自身、助教授として西洋画を教えるにはまだ力量不足だと判断したのでしょう。

 翌年7月に卒業すると、改めて、西洋画科の助手に採用されました。それでもまだ研鑽を積む必要があったのでしょう、今度は1899年、文部省派遣留学生となって渡仏し、やはり、ラファエル・コランに師事しています。そして、1902年に帰国すると、東京美術学校の教授に任命されました。

こちら → https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8932.html

 このように、三者はいずれも、黒田清輝氏から推薦され、新設された西洋画科の教官として着任していました。そのうち岡田氏と和田氏は、就任後早々に、相次いで渡仏し、黒田氏が師事したラファエル・コラン氏から薫陶を受けていたのです。

 教官採用の経緯といい、教育内容の方向性といい、黒田清輝氏の意向で西洋画科の教育指導体制が基礎づけられていったことがわかります。黒田氏は、ラファエロ・コランの下で学んだアカデミズムを楚とし、西洋画の教育指導体制を構築しようとしていたのです。

こちら → https://www.tobunken.go.jp/kuroda/gallery/japanese/kuroda.html

 黒田氏は留学して学んだフランス・アカデミズムの方針に基づき、日本の西洋画教育の体制を整備していきました。

 採用して間もない岡田氏や和田氏を、ラファエロ・コラン氏の下で学ばせ、指導力の強化を図るとともに、相互交流を深めました。多くの若い才能を育てる一方、日本の洋画界を牽引していきました。

 黒田氏は、洋画界が辛酸をなめていた時期に、東京美術学校西洋画科の指導者として登場し、瞬く間に西洋画教育の基礎を築き、その後の洋画勃興の気運を作りました。黒田氏の行政手腕とその力量には感嘆せざるをえません。

 そもそも1887年に東京美術学校が開設された当初、西洋画科は設置されていませんでした。それがなぜ、1896年に西洋画科が新設されることになったのか。なぜ、黒田清輝氏がその陣頭指揮を執るようになったのか。その経緯をざっと振り返っておくことにしましょう。

■黒田清輝氏らの帰国と明治美術会

 1893年7月、黒田清輝氏と久米桂一郎氏はほぼ10年ぶりにフランスから帰国しました。近代化を推進しようとする社会的気運の高まる中、東京美術学校には依然として西洋画科はなく、日本画中心の教育体制のままでした。

 帰国した黒田氏らは、山本芳翠氏から譲り受けた画塾を天真道場と改称し、フランス留学で得た技術や知識、画法などを指導していました。

 興味深いのは、その教育指針に、「稽古は塑像臨写活人臨写に限る事」という規定を設けたことでした。

 つまり、描画教育の基礎として、塑像(石膏像)や活人(裸体)をモチーフに素描することを課していたのです。さらに、素描に使う画材も木炭を使用させ、細部の丁寧さよりも全体的な効果を重視する指導方針を取っていました(※ 田中淳、「黒田清輝の生涯と芸術」)。

 素描のモチーフといい、画材といい、黒田氏は、フランスで学んだアカデミズムの思想に基づいて指導に当たっていたのです。

 その一方で、帰国後早々、当時、唯一の洋画の美術団体であった明治美術会にも所属しています。明治美術会から期待されていたこともありますが、黒田氏自身も所属する必要性を感じていたのかもしれません。

 以後、黒田氏は滞欧時に描いた作品を次々に発表していきます。

■黒田清輝氏の「朝妝」

 たとえば、1894年、明治美術会第六回展に、黒田氏は「朝妝(ちょうしょう)」を出品しています。帰国する前に描かれた作品で、鏡の前に立つ裸婦像です。この時、明治美術会の画家たちに衝撃を与えましたが、別段、騒がれることもありませんでした。


(太平洋戦争時に、焼失)

 裸体のまま鏡の前に立ち、身支度する女性が描かれています。鏡を配することによって、後ろ姿と前姿の両方を示される構図になっています。画面中央左寄りに、後ろ姿の女性の裸身が見えます。腰をややひねってポーズを取る立ち姿が圧巻です。うっすらと赤味を帯びた白い肌が情感豊かに描かれています。

 一方、鏡には女性の前姿が映し出されています。陰になっているせいか、やや暗い色合いで描き分けられており、朝の光を意識した筆触が印象的です。

 翌1895年4月、京都で開催された第4回内国勧業博覧会に、黒田氏は再び、この「朝妝」を出品し、妙技二等賞を受賞しました。優れた技だと評価されたのです。

 実際、この作品は1893年、Société nationale des beaux-arts(国民美術協会)主催のサロンで、日本人ではじめて入選した作品でもありました。黒田氏にとっては、渡仏してラファエロ・コランに師事し、10年に及ぶ学習成果の一つといえるものだったのです。

■明治美術会からの脱会と白馬会の創設

 ところが、この作品をめぐって騒動が起きたのです。一般大衆が作品を鑑賞する博覧会に、裸体画を展示するとは何事かというジャーナリズムからの批判でした。当時の新聞各紙が一斉に、この作品は風俗を乱すものだと非難したのです。これが黒田氏の作品への印象を方向づけたといっても過言ではないでしょう。

 1895年10月、明治美術会の第7回展が開催され、黒田氏は滞欧時に制作した作品21点を出品しました。久米桂一郎氏や天真道場で学ぶ画家たちもそれぞれ渾身作を出品しました。一覧しただけで、誰もが、明治美術会に所属するこれまでの西洋画家の作品とは大幅に異なることがわかるものでした。

 新聞各紙はこぞってその違いを新旧洋画家の違いだと書きたてました。ジャーナリズムが、黒田氏らを新派、明治美術会の画家たちを旧派だとレッテル張りをしたのです(※ 田中淳、前掲)。

 一旦、このようなレッテル張りをされたら最後、その後の洋画作品はどれも、そのフレームワークで見られるようになりがちです。その結果、フレームワークによる差異が強調され、

 案の定、このときの各紙の報道が洋画界の対立構造を顕在化しました。これを契機に1896年6月、黒田氏と久米氏らは明治美術会を脱会し、有志と白馬会を結成することになったのです。

 黒田清輝氏らが率いる白馬会は、若手画家たちの共感を集め、明治後半の洋画界の主流となっていきました。

■西洋画科の創設

 白馬会が結成されたのが1896年6月でした。東京美術学校に西洋画科と図案科が新設されたのはその3か月後の9月ました。創設の経緯はおおよそ次のようなものでした。

 当時の校長、岡倉天心氏は美校の教育環境を整備するため、帝国議会に「美術学校拡張法案」を提出しました。それが修正されて可決されたのが、1895年3月でした。その修正案は、「今後、日本美術と西洋美術をともに奨励するという方針のもとに美校を拡張する」という内容で、天心の意図とは異なるものでした(*吉田千鶴子「東京芸術大学」、2013年10月)。

 法案が可決されると、当時の文相・西園寺公望氏は直ちに、黒田清輝氏と久米桂一郎氏を指導者に選び、西洋画科の教育を任せました。中心になって指導に当たったのが黒田清輝氏でした。教育の骨子を練り上げ、教官を採用し、カリキュラムを制定していきました。1896年は、明治後半の洋画界を牽引する人物として黒田氏が抜擢され、活躍を開始した年だったのです。

 先ほどもいいましたように、黒田らフランス留学経験者は、既存の洋画家たちの団体である明治美術会(脂派)とは馴染みませんでした。だからこそ明治美術会を離れ、白馬会を結成したのです。そのような経緯を思い起こせば、西洋画科の教官として、白馬会創立メンバーから選んだのはしごく当然のことでした。

 上杜会のメンバーが東京美術学校に在籍していた時、教官は皆、白馬会の創設メンバーでした。しかも、全員が黒田清輝氏の推薦で採用されていました。そのカリキュラムもまた、黒田氏がラファエロ・コランから学んだアカデミズムに則ったものでした。こうして官立の西洋画教育が整備され、明治後半の西洋画界を牽引していくことになるのです。

 それでは、ふたたび展示会場に戻り、上杜会のメンバー在籍時の教授陣の作品を振り返ってみることにしましょう。

■藤島武二氏、岡田三郎助氏、和田英作氏の裸婦像

 「序―1」のコーナーでは、教官5人の作品7点が展示されていました。どういうわけか、藤島武二氏が3点、それ以外が各一点という具合です。興味深いことに、7点のうち2作品が裸婦像でした。藤島武二氏と岡田三郎助氏の作品です。

 見ているうちに、ふと、大正時代になると、もはや裸婦を画題にしても騒がれなくなったのかと不思議に思いました。藤島氏の作品は制作年不詳ですが、岡田氏の作品は1926年の制作です。

 1895年には黒田氏の作品「朝妝」は裸体画だと非難され、大きな騒動になりました。その後、白馬会第二回展に出品された黒田清輝氏の作品「智・感・情」(1897年)もまた、裸婦像を描いたとして物議をかもしました。当時は、風紀を乱すという観点から芸術作品が批判されていたのです。

 あの大騒動から30年以上も経つと、人々は裸婦像を見ても気にならなくなったのでしょうか、それとも、見慣れて問題にしなくなったのでしょうか。

 とりあえず、藤島武二氏の「裸婦」(制作年不詳)、岡田三郎助氏の「裸婦」(1926年)を見ていくことにしましょう。

■藤島武二氏の「裸婦」(制作年不詳)

 当時の教官5名の作品が展示されていたコーナーで、藤島氏だけが3作品、展示されていました。「帽子の婦人像」(1908年)、「鉸剪眉(こうせんび)」(1927年)、そして、「裸婦」(制作年不詳)です。

 以前、藤島武二展に出かけたことがあります。そのときに展示されていた諸作品を思い起こすと、「帽子の婦人像」や「鉸剪眉」はいかにも藤島武二氏らしい画風の作品だといえます。

 ところが、「裸婦」は、藤島氏がこんな作品も描いていたのかと意外に思ってしまうほど、典型的な画風ではありませんでした。


(油彩、カンヴァス、63.0×51.0㎝、佐賀県立美術館)

 裸婦像とはいいながら、この作品の場合、まず、油彩ならではの荒削りな筆触に目がいってしまいます。パレットナイフで厚く絵具を置き、その上から荒く削り、さらに色を載せては下色を残しながら、削っていく・・・、そのような作業の繰り返しが、作品に独特の風合いを添えています。

 どことなく、青木繁氏の画風に似たものを感じさせられます。

 頬や脇、乳房、腰から腿にかけて、サーモンピンクが大胆に散らされています。そのせいか、ラフなタッチの中に柔らかで艶やかな肌、コケティッシュな女性の情感を感じさせられます。写実的に描かれるよりもはるかに深く、この女性の内面が表現されているといえるでしょう。

 画面の女性は正面から堂々と、裸身を見せています。やや首をかしげ、恥じることなく、腰をひねった姿勢がなんとも印象的です。全身から、やるせなさ、けだるさ、倦怠感といったようなものがにじみ出ています。当時の日本人女性には稀な興趣が感じられます。

 だからといって、西洋人女性とも思えません。この女性の肩幅は狭く、腰回りもそれほど大きくありません。西洋人女性らしい雰囲気を漂わせているのに、身体つきはそうではないのです。おそらく、西洋文化に馴染んだ日本人女性なのでしょう。

 西洋の雰囲気をまとった日本人女性の裸身が、独特の筆触と豊かな色彩で表現されているところに、この作品の妙味があります。

 一方、岡田三郎助氏の作品は、日本人女性らしい身体特性を備えた裸婦像でした。

■岡田三郎助氏の「裸婦」(1926年)

 藤島氏と同じコーナーに、岡田三郎助氏の「裸婦」が展示されていました。きめ細かなタッチで描かれた裸婦像です。柔らかく、しっとりとした肌にはいかにも日本的な風情が感じられます。


(デトランプ、カンヴァス、53.0×33.0㎝、1926年、ひろしま美術館)

 この作品は、カンヴァスにデトランプで描かれたようです。「デトランプ」という聞きなれない言葉が書かれていたので、調べてみました。すると、これは岩絵の具をポリビニール溶液に混ぜた画材で、比較的早く乾く性質があることがわかりました。

 さて、この作品では、裸婦といいながら、女性の後ろ姿が描かれています。丸味を帯びた肩、平たい臀部からは明らかに日本人女性だということがわかります。凹凸に欠けた裸身で、しかも後ろ姿ですから、どちらかといえば、印象に残りにくい作品です。ただ、この作品を見たとき、私はきめ細かな肌の美しさに強く引き付けられました。

 岡田氏はおそらく、日本人女性特有のきめ細かな肌をどのように表現するか、思案し、工夫を重ねたのでしょう。その結果、しつこさを払拭しきれない油彩ではなく、デトランプを使ったのではないかという気がします。色彩の混合を工夫するだけではなく、材質、技法などを変えて、裸婦像の表現に挑んだのです。

 ただ、残念ながら、この作品には観客の心を射抜く突き抜けたものが感じられませんでした。おそらく、岡田氏自身、そう感じていたのではないかと思います。というのも、この作品を発表した翌年、「あやめの衣」(1927年)を制作しているのです。


(油彩・厚紙、カンヴァス、1927年、ポーラ美術館)

 こちらは裸身ではなく、肩肌を脱いだ女性の後ろ姿ですが、先ほどの裸身よりもはるかに妖艶で、惹きつけられます。

 油彩画は通常、麻布のカンヴァスの上に油絵具を載せます。ところが、この作品の場合、岡田氏はカンヴァスの上にクラフト紙を置いて、その上に油絵具を載せているのです。そうすることによって、クラフト紙が油を吸収し、油絵具独特の光沢がなくなり、落ち着いた色合いになります。

 この技法を、岡田氏はフランス留学中に知ったといいます。

 日本人女性の肌、着物の質感などをリアルに表現するには油絵具は強すぎて、柔らかなニュアンスを表現するのが難しいのですが、このようにクラフト紙を介在させることによって、その難点を低減させることができます。

 興味深いことに、岡田氏は「裸婦」ではデトランプを使い、「あやめの衣」ではクラフト紙を使って油彩特有のテカリを抑えています。ひょっとしたら、岡田氏は油彩で日本人女性を表現することになにがしかの抵抗感をおぼえていたのではないかという気がします。

 ちょっと調べてみました。

 岡田氏は1897年から1902年にかけてフランスに留学し、ラファエロ・コラン氏に師事していました。コラン氏からは、ホルバイン、レンブラント、ボッチチェリなどの絵を模写するよう指導されていたといいます。

 ルーブル美術館に通って毎日、模写に励みながら、岡田氏は次第に、諸作品に反映された西洋文化の厚みに圧倒されてしまったそうです。模写しながら、日本人である自分はどのような絵を描いていこうかと悩んだといいます。ようやく辿り着いた先が、西洋と日本とが融合した絵でした。

 帰国後、洋画の技法を使って、着物姿の女性を描いていきました。「あやめの衣」は西洋文化と日本文化の融合した作品だといえるでしょう。岡田氏の傑作です。

■和田英作氏の「こだま」(1903年)

 「わが青春の上杜会」展に展示されていたのは、藤島氏と岡田氏の裸婦像でした。和田氏にも裸婦像はないかと調べてみたところ、実は、和田英作氏も裸婦像を描いていることがわかりました。

 和田氏は1900年にフランスに文部省留学生として渡仏し、アカデミイ・コラロッシに在籍してラファエル・コラン氏の指導を受けました。その留学中に制作した裸婦像が、「こだま」と題された作品です。


(油彩、カンヴァス、126.5×92.0㎝、泉屋博古館)

 薄暗い森の中で、大きく目を見開き、両手を両耳に当てた姿がなによりも印象的な作品です。人気のない森の中で、何かが木霊しているのでしょうか。描かれた女性の顔面からは、どことなく不安感がにじみ出ています。

 片腕にまとった薄衣は下半身を覆っていますが、上半身は裸身です。通常なら、観客の視線は身体に引き寄せられるのでしょうが、この作品の場合、両手と顔面に向けられてしまいます。なんといっても、この顔面と耳に手を当てた所作とが気になります。

 見ているうちに、ふと、ムンクの「叫び」を連想してしまいました。


(油彩、カンヴァス、91×73.5㎝、オスロ国立美術館)

 描かれた人物が男性なのか、女性なのか、若いのか老いているのか、基本的な属性すらわかりません。何かに怯えているかのように、耳を両手で塞ぎ、大きく口を開けています。髪の毛がないせいか、不安、恐怖、怯えといった情動がことさらに強調されています。

■「こだま」と「叫び」

「こだま」と「叫び」を見比べてみました。目を大きく見開き、両手を耳に当てているところが共通していますが、ムンクの作品の場合、不安感ばかりか恐怖心までも強く伝わってきます。遠景の赤い空、中景から近景にかけて流れるように落ちてくる黒い濁流のようなものが、手前の人物の恐怖心や不安感を強調しているからでしょう。独特の筆触と色彩とで創り上げられた心象風景です。

 一方、和田氏の作品の場合、両手は耳を塞いでいるのではなく、耳の後ろに当てて、何かを聞き取ろうとしているように見えます。作品タイトルから推察すれば、木々の間で微かに「こだま」する音を聞き取ろうとしているのでしょうか。この作品から不安感は感じられますが、恐怖心は感じられません。

 さて、「こだま」で描かれている裸婦は、顔貌といい、身体つきといい、明らかに西洋人女性です。留学中に描かれた作品なので、当然のことですが、その背景と裸婦の表情とに整合性がみられず、違和感が残ります。

 薄暗い森の中で、半裸で佇む女性を描いても、なんら不思議はありませんが、なぜ、両手を両耳に当てているのか、なぜ、大きく目を開き、口を半開きにしているのか、モチーフの表情と所作が意表を突くものであっただけに、気になりました。しっくりこないのです。

 これが抽象的な描き方なら、別段、不思議に思うこともなかったのでしょうが、リアリズムの手法で描かれていたせいか、違和感を覚えました。

 とくに両手を両耳に当てるという所作が強烈で、ムンクの作品を連想せずにはいられません。二番煎じのそしりを免れないという気がするのです。

 ちなみに、「叫び」が発表されたのが1893年、ムンクの日記によると、自身が感じた幻想を踏まえて描かれた作品だといわれています。

 一方、和田氏が渡仏したのは1900年3月で、以後、1903年7月に帰国するまで、アカデミックな洋画技法を学び、創作活動も展開していました。当然のことながら、1893年に制作されたムンクの「叫び」は知っていたでしょう。

 和田氏がこの作品に接したとき、大きく心を動かされたのではないでしょうか。当時、ラファエル・コランから学んでいたのはアカデミックな画法でした。それだけに、内面を重視したムンクの表現主義的な技法に惹かれるものがあったのではないかという気がします。

 1903年に帰国すると、和田氏は第5回内国勧業博覧会に「こだま」を出品し、2等賞を受賞しています。その後、1927年に開催された明治大正名作展では、「こだま」が展示されました。当時の日本社会では、一風変わったこの裸婦像が評価されていたことになります。

■裸体画は西洋画の基本

 岡田三郎助氏、和田英作氏は共にフランスに留学し、ラファエロ・コラン氏に師事しました。一方、藤島武二氏は、彼らよりも遅く、1904年に文部省の命を受け、渡欧しています。パリでは私塾に通った後、エコール・ボザールで学び、歴史画や肖像画で名を馳せたフェルナン・コルモンから薫陶を受けました。

 1907年12月にフランスでの滞在を終えた藤島氏は、次にコルモンの紹介で肖像画を得意としていたカロリュス・デュランに師事し、1910年1月に帰国しました。ローマに滞在することによって、ルネサンス期の美術に触れることができ、古代ローマの遺跡を訪ねることもできました。ラファエロ・コラン氏に師事した岡田氏や和田氏とはまた違った美術体験をしていたのです。

 ちなみに、フェルナン・コルモン氏は「海を見る少女」(油彩、カンヴァス、123.0 ×155.0㎝、1882年)という裸婦像を残していますし、カロリュス・デュラン氏も「アンドロメダ」(油彩、カンヴァス、210.0×95.0㎝、1887年頃)というタイトルの裸婦像を描いています。いずれもリアリズムの手法で描かれており、大作です。

 両氏に師事した藤島氏も留学中に、何点か裸体画を描いています。素描であったり、習作だったりするのですが、女性に限らず、男性も、さまざまなポーズで描かれており、西洋画では、裸体を描くことが人物画を習得するうえでの基本だったことがわかります。

 東京美術学校の西洋画科を主導した黒田清輝氏は裸婦像を発表するたび、一大騒動を巻き起こしました。それでも敢えて発表し続けたのは、裸体を描くことが西洋画の基本だったからでした。

 興味深いことに、黒田氏の弟子筋に当たる藤島氏、岡田氏、和田氏の裸婦像については別段、問題視されてはいませんでした。時代が変化したからなのか、観客の意識が変化したからなのかはわかりません。いずれにしても、黒田清輝が巻き込まれた数々の騒動を思い起こせば、創作者は常に変革者であり、そして、世間から非難を浴びる存在なのだということを思い知らされます。(2020/12/27 香取淳子)

「わが青春の上杜会」にみる同窓の力

■「わが青春の上杜会」開催

 神戸市立小磯記念美術館で、いま、「わが青春の上杜会」展が開催されています。開催期間は2020年10月3日から12月13日までなので、関西に出かけたついでに立ち寄ってみました。

 阪神電車の魚崎駅で六甲ライナーに乗り換え、アイランド北口駅で下車すると、すぐでした。六甲アイランド公園を神戸市立小磯記念美術館に向かって歩いていると、「わが青春の上杜会」展のポスターが掲示されていました。

 

 下っていくと、右側に瀟洒な建物が現れてきました。これが小磯記念美術館です。

 この美術館は、神戸で生まれ、神戸で制作を続けた画家・小磯良平氏を記念し、神戸市が1992年に設立したものです。

 小磯氏は1988年12月に亡くなりましたが、その翌年、遺族から、油彩・素描・版画などの約2000点の作品とともに、アトリエや蔵書、諸資料が神戸市に寄贈されたといいます。神戸市はそれらの作品をただ保存するだけではなく、さらに作品の収集に努め、現在、約3200点もの作品を所蔵します。そのような経緯を知ると、この美術館が、「神戸市立小磯記念美術館」と命名された理由がわかります。

 美術館の中庭にはアトリエが移築されていますから、そこで、小磯氏の制作情景を偲ぶことができます。作品を鑑賞するだけではなく、作品を生み出した場所を見て、作品化の過程を追うことができるのです。芸術を鑑賞する醍醐味を徹底的に味わうことができるのです。

 美術館は年に数回、展覧会を開催して、作品の入れ替えを行っています。その上、小磯良平氏に関する特別展も開催しています。今回の展覧会「わが青春の上杜会」はその特別展の一環でした。

 それにしても、「上杜会」というのは、どういう意味なのでしょうか。最初、聞きなれない言葉に戸惑いました。サブタイトルが「昭和を生きて洋画家たち」となっていますから、昭和に活躍した洋画家たちの作品が展示されるのだろうということはわかりますが、それ以外は皆目わかりません。

 パンフレットを見ると、「上杜会(じょうとかい)は、東京美術学校始まって以来の“秀才揃い”と称された1927年卒業生が、若き情熱を持って結成した美術団体です」と書かれています。これで、「上杜会」が美術団体の名前だということがわかりました。

■上杜会とは

 その後の説明を読み、「上杜」が、東京美術学校(現在;東京芸術大学)のあった「上野の杜(森)」にちなんで名づけられたことがわかりました。つまり、東京美術大学西洋画科を1927年に卒業した人たちのグループ名だったのです。

 パンフレットには、「東京美術学校始まって以来の“秀才揃い”」と書かれています。どうやら、その秀才たちが互いに刺激し合い、しのぎを削り合って、力を向上させていったようです。

 神戸市立小磯記念美術館の高橋佳苗氏は、小磯良平氏の次のような言葉を紹介しています。

 「油絵(科)はよう勉強した。好きで好きでしょうない連中ばっかりや。自分の技術は生半可なくせして、理想が高いからお互いに容赦せん。なんちゅうたかて、友だちの影響は大きい」(図録『わが青春の上杜会』、p.24)

 小磯氏が懐古していたように、当時、西洋画科の学生たちは、とてもよく勉強したようです。絵が好きでしょうがないから、制作技法にしろ、題材にしろ、議論し合い、遮二無二勉強したのでしょう。

 小磯氏の言葉からは、秀でた能力を持つ若者たちが理想を高くかかげ、切磋琢磨し合いながら、創作に励んでいた様子がうかがえます。

 小磯氏が「友だちの影響は大きい」と指摘していたように、優秀な学生たちは容赦なく相手の作品を批判しました。批判された側は、それに発奮してさらに努力するといった具合で、制作のための好循環が生まれ、メンバーの能力が飛躍的に向上していったのでしょう。

 それを証左する事例があります。

 東京美術学校に1922年に入学した学生たちは、当時もっとも権威のあった「帝国美術院美術展覧会(帝展)」に、次々と出品していました。

 たとえば、小磯氏は、先に帝展に入選した同級生たちから刺激を受け、1925年の第6回帝展で初入選し、1926年の第7回帝展で特選を獲得しました。その小磯氏の刺激を受けて、第7回帝展に猪熊弦一郎氏、矢田清四郎は入選といった具合でした。

 このように華々しい活躍を展開する同級生たちは、互いのつながりこそが創作の源泉になることがわかっていたのでしょう、卒業の一年前に、美校中退者や留学生を含め44人の同級生によって「上杜会」が結成されました。

 青春の真っ只中で結成されたクリエイティブ集団でした。入学した1922年から卒業の1927年までの間、彼らは相互に刺激を受け合いながら学び、創作家としての孵化期間を過ごしていたのです。

■展覧会の構成

 展覧会は、「上杜会」の結成を序とし、その後のメンバーの活躍を、①昭和2年から昭和11年(1927-1936)、②昭和12年から昭和20年(1937-1945)、③昭和21年から平成6年(1946-1994)の三部構成で組み立てられていました。

 同窓で切磋琢磨し合った若者たちが、上杜会を結成しました。メンバーがその後、どのように才能に磨きをかけ、それぞれの人生を切り開いていったのか、折々にどのような作品を残していったのか等々、長いスパンで画家の人生と作品を把握できる構成になっていました。

 上杜会のメンバーが、どのような人生行路を歩んできたのか、大きな時代の節目で創作家としてどう対処し、どのような作風を築き上げていったのか、同窓という観点から構成されていたので、作品をさまざまな観点から、立体的に鑑賞することができ、とても興味深い企画でした。

 展示作品を一覧して、惹かれたのは、小磯良平氏、猪熊弦一郎氏、犬丸順衛氏、牛島憲之氏、高野三三男氏、岡田謙三氏、矢田清四郎氏などの作品でした。このうち、最も若くして亡くなったのが、犬丸順衛氏(1903-1939)で享年35歳でした。最も長寿だったのが、牛島憲之氏(1900-1997)で97歳です。

 同窓でありながら、寿命という点では60年以上の開きがあるのです。

 興味深いことに、美校在籍時は両者とも、岡田三郎助教室に所属していました。青春の一時期、共に濃密な時を過ごしたというのに、一方は早く世を去り、他方は東京芸術大学で後進を指導したばかりか、1983年には文化勲章まで受章しています。運命を感じずにはいられません。

 まず、この両者の作品から見ていくことにしましょう。

■犬丸順衛:「永眠―父市郎次」

 会場でこの作品を見たとき、とても印象深く、しばらく佇んで見ていました。死に顔が描かれているというのに、不思議なほど穏やかに、しかも、尊厳を持って描かれているように思えたからでした。

(油彩、カンヴァス、50.5×60.4㎝、1926年)

 目を閉じた顔になんら迷いはなく、苦しみも感じられず、ひたすら静謐感が漂っています。しかも、額と顔の右側が明るく描かれているせいか、光に包まれて、安らかに昇天している途中のようにも見えます。柔らかな光の下、威厳を失わず、ただ眠っているだけのように描かれているところに、父を慕い、敬う犬丸氏の気持ちが透けて見えます。

 父が旅立ったのは、犬丸順衛氏が23歳、美校の最終学年を迎える年でした。

 絵筆を走らせながらも、静かに永遠の別れを受け入れようとしていたのでしょう。この作品には、悲しみを乗り越えようとする犬丸氏の悟り、あるいは、達観といったようなものが感じられます。心の奥深く語りかけてくるような作品でした。

■牛島憲之:「炎昼」

 会場でこの作品を見たとき、対象の捉え方になんともいえない斬新さを感じました。

(油彩、カンヴァス、121.0×60.5㎝、1946年)

 モチーフすべての境界が曖昧で、朦朧としており、捉えどころがありません。画面いっぱいに描かれた蔓性の植物がいったいどこから生えてきて、どこまで伸びているのかもわかりません。ぶら下がった白い実も同様、まるで周囲の空気に溶け込んでいるかのようにぼんやりと描かれています。

 一方、後ろの方に見える電柱は淡い色彩で描かれていますが、境界がはっきりしているので、小さくても存在感があります。遠方の小さな電柱が、大きく描かれた蔓性の葉と実と拮抗するパワーを持っているのです。

 この作品では全般に、近景のモチーフは大きく描かれているのですが、境界が曖昧で、色彩のコントラストも低く、存在感は希薄です。遠景のモチーフも周囲との色彩のコントラストは決して高いとはいえません。

 ところが、境界がはっきりと描かれているので、視認性が高く、存在感があります。そのせいか、なんの変哲もないモチーフなのに、ストーリー性が感じられます。全体にぼんやりとした色調の中で、近景と遠景のモチーフの描き分けに妙味があります。

 これは1946年、牛島氏が46歳の時の作品です。色合いといい、構図といい、なんともいえない魅力があって、長く見続けていても飽きることがありませんでした。見たものをそのまま描くのではなく、いったん内省化し、改めて作者の観点から組み立て直して、表現しているところに創意が感じられるからでしょう。

 細い線を部分的に取り入れることによって、独特の雰囲気を醸し出している作品がありました。洗練された雰囲気に惹かれました。岡田謙三氏の作品です。

■岡田謙三:「窓辺(ノクターン)

 窓辺で女性が二人、座っています。左側の女性は目を閉じ、肩ひじを窓枠に乗せ、何かに聞き入っているようです。ノクターン(夜想曲)でも聞いているのでしょうか。右側の女性は今にも立ち上がって、踊りだしそうです。

(油彩、カンヴァス、193.8×145.5㎝、1948年)

 この作品を見て、まず気づくのは、随所に細い線を書き込み、モチーフに動きと表情を加えていることです。

 左側の女性の傾いた頭部、そして、右側の女性の片側のフェイスライン、細い線を描き込んだだけで、その場の状況や顔の表情、感情までも表現できています。衣服や身体についても同様、細い線を要所、要所に描き込むだけで、身体の動きや構造、衣服の質感を表現することができています。

 不透明な淡い色調の画面からは、二人の女性が窓辺で過ごす午後のけだるさが伝わってきます。都会的な物憂さと繊細さが表現されています。

 これは1948年、岡田謙三氏が46歳の時の作品です。

 岡田氏は東京美学校を中退し、パリで学んでいます。そう言われて見ると、画面の色調といい、モチーフといい、いかにもフランス的なシャレた感覚が画面全体に満ち溢れています。

 この岡田氏を誘って1924年、共に中退してパリに遊学したのが高野三三男氏でした。彼もまた日本人画家には見られない作風の作品を手掛けています。

■高野三三男:「人形を持ったパリジェンヌ」

 金髪の女性が目を閉じ、赤いマニキュアを塗った指で人形を軽くつかんでいる様子が描かれています。いかにもパリジェンヌといった感じの、優雅でオシャレな女性です。

(油彩、カンヴァス、65.5×4.5㎝、1924-50年)

 全体に淡い色調でまとめられている中で、女性の真っ赤な口紅、金髪の巻き毛がひときわ目立ちます。典型的な西洋の女性美が描かれているのです。1924年から40年にかけて制作されたことになっていますが、おそらく、パリに出かけたときに描き始め、完成させたのが、その十数年後ということになるのでしょう。

 なぜ、そう思うのかといえば、高野氏が1937年に制作した「ヴァイオリンのある静物」の中で描かれた女性が、この「人形を持ったパリジェンヌ」で描かれた女性とそっくりなのです。金髪巻き毛の様子、真っ赤な唇、長いまつげ、透明感のある肌といった要素が驚くほど似ています。ということからは、高野氏がパリジェンヌという女性像をこのころに完成させたことが示されています。

 この作品で描かれているのは、都会的で、ちょっと傲慢なところがある一方で、完璧な美しさを心掛けるという女性の類型です。「人形を持ったパリジェンヌ」は、画面全体が淡い色調で収められているせいか、都会的で、洗練された優雅さが感じられ、惹かれます。

 パリに長く滞在していなければ、決して、このような作品を描くことはできないでしょう。この作品から浮き立ってくるのが、典型的な西洋の女性美の一つでした。

 一方、昭和初期の日本の女性美を過不足なく描いたのが小磯良平氏でした。

■小磯良平:「T嬢の像」

 第7回帝展で小磯氏が特選を獲得したのが、「T嬢の像」でした。

(油彩、カンヴァス、116.8×91.0㎝、1926年)

 着物を着た女性が手を組み、椅子に座っています。視線は窓の外に向けられ、何かに思いを馳せているように見えます。肌の艶、手指の繊細な表現、着物の質感など、見事な表現力です。華奢な女性が醸し出す嫋やかな風情、憂いを含んだちょっと寂し気な表情などが丁寧に捉えられています。日本の女性美の典型の一つといえるでしょう。

 これは小磯氏が23歳の時の作品です。上杜会のメンバーで、最も早く帝展に入選したのは永田一脩と中西利雄でした。小磯氏は彼らの刺激を受けて発奮し、第6回帝展で入選しました。ですから、入選した翌年に特選を受賞したことになります。小磯氏は、藤島武二教室に所属していました。

 小磯氏が特選を受賞した1926年に帝展に初入選したのが、猪熊弦一郎氏の「婦人像」と矢田清四郎氏の「足拭く女」でした。藤島武二教室の猪熊弦一郎氏が24歳、岡田三郎助教室の矢田清四郎氏は26歳でした。上杜会のメンバーが次々と入選していたのです。

 それでは、両者の作品を見ていくことにしましょう。

■矢田清四郎:「足拭く女」

 珍しく、裸婦像です。一見、模写かと思いました。

(油彩、カンヴァス、116.7×90.9㎝、1926年)

 それほど当時の日本人女性には珍しく均整の取れた体つきでした。そのポーズも日本人らしくありません。

 左腕を椅子の縁に置いて身体を支え、右手で足裏を拭いています。日常生活で見かける光景ですが、そこに意図しない美しさがにじみ出ています。足裏を掴んだ腕と身体の側面が三角形を型作り、安定感と適度な揺らぎのある構図になっています。

 左上の壁には小さな鏡が掛けられており、女性の後頭部と肩の一部が映っています。こもモチーフを加えることによって、空間の広がりと奥行きを感じさせるだけではなく、メインモチーフを生活実態のある女性像に仕上げる効果を生んでいます。

 背後に鏡を設定することによって、うつむき加減の女性の表情が、ことさらに印象づけられるからでしょう。そして、想像力がかきたてられます。バランスの取れた構図で品よくまとまっており、ありふれたものの中に見出された美しさとでもいえるようなものが感じられました。

■猪熊弦一郎:「馬と裸婦」

 猪熊弦一郎も1926年、「婦人像」で帝展に入選しました。ところが、その作品は今回の展覧会で展示されていませんでした。ネットで見ると、どうやら裸婦像のようです。そこで、展示作品の中から猪熊氏の裸婦像を見てみることにしましょう。

(油彩、カンヴァス、182.3×291.5㎝、1936年)

 これは、猪熊氏が最初に帝展に入選してから、10年後の作品になります。ネットで見た「婦人像」とは肌の色合いもポーズも異なりますが、リアリズムではない点で、作品の雰囲気は似ています。

 猪熊氏は藤島武二教室に所属していましたが、入学して早々に、肋膜を患い、休学をしていました。1926年に第7回帝展に初入選を果たしますが、その後、再び病状が悪化し、1927年には中退しています。

 それでは、「馬と裸婦」を見てみましょう。

 立っている裸婦と横たわっている裸婦が二人、前景に描かれています。身体に明るいサーモンピックがあしらわれているせいか、若々しく見えます。その背後には、馬が2頭、こちらに顔を向けているものとお尻を見せているものが描かれています。いずれもデフォルメされており、猪熊氏独特のフィルターを通した造形になっています。

 この作品を見てまず、目につくのは、立っている裸婦です。大きな乳房の片方は垂れ下がり、脛よりも長い太腿は太く、がっしりとしています。体形からいえば、日本人女性に見えます。

 黒い髪のおかっぱ頭で、意思の強そうな顔つきです。両手を腰に添え、恥じることなく堂々と裸体を曝して遠方を見据える姿からは、新時代の女性像を象徴しているように見えます。

 先ほどもいいましたように、猪熊氏は藤島武二教室の所属していました。ところが、上記の猪熊氏の作品は藤島武二氏の画風とは大幅に異なります。なぜなのか、ふと、気になり出しました。

 図録を読んでいると、関連する記述がありました。豊田市美術館の成瀬美幸氏が資料に基づき、次のように書いていたのです。

「デッサンが悪い、デッサンが悪いと言ってすーっと帰られる。(中略)教えないけど教えるような教育、心の教育を、昔の教授はしっかりと持っていました」

(図録『わが青春の上杜会』、p.16)

 どうやら、藤島氏はほとんど指導しなかったようです。これを読むと、藤島氏はおそらく、具体的な制作指導をせず、デッサンや作品との向き合い方など制作にかかわる心構えのようなものだけを伝授していたのでしょう。

猪熊氏の場合、美術学校を中退していますし、この時点ではどこかに留学した様子もありません。おそらく、インパクトの強いこの画風は、猪熊氏が独自に開発したものなのでしょう。とても引き付けられます。

■同窓の力

 上杜会のメンバーは44名でしたが、ここでは、たまたま私が興味を覚えた7作品をご紹介しました。いずれも初期の作品を取り上げました。

 作品をご紹介していく中で気づいたことがいくつかあります。

 たとえば、上杜会の、家族のような支援機能です。

 最初にご紹介した犬丸順衛氏は、35歳で亡くなっていますが、結核性脊椎カリエスのため郷里に引きこもっていました。そのような順衛に対し、多くの上杜会のメンバーがハガキを随時、書き送っています。親族の犬丸哲朗氏によると、それに刺激され、順衛もいつかはパリに行こうとフランス語の勉強をしていたといいます。

 とくに猪熊弦一郎、小磯良平などは頻繁に順衛にハガキを出していました。病床に伏せながらも、どれだけ心慰められていたことでしょう。順衛は卒業後10年余、養生しながらも絵筆を握って風景などを描いていました。絶筆は水仙を描いた色紙だといいますが、上杜会のメンバーとつながっているという意識が大きな心の支えになっていたに違いありません。

 親族の犬丸哲朗氏は、「順衛は妻帯もせず早逝してしまったが、決して不幸ではなかったよと教えてあげたい」と書いています。(図録『わが青春の上杜会』p.64-66)

 また、上杜会は美術情報の共有、外国生活での便宜供与など、画家として活躍するうえでの支援装置としても機能していたようです。

 たとえば、病気がちだった猪熊弦一郎氏は美術学校を中退します。その後も制作活動を続けていましたが、支えになり、刺激になっていたのは上杜会のメンバーとの交流でした。念願かなって35歳のとき、渡仏し、パリにアトリエを構えることができました。そのときも、頼りになったのが、上杜会のメンバーでした。

 実際、留学経験のある小堀四郎氏は、猪熊氏がパリで学ぶことを知ると、現地での生活の方法、美術館情報など事細かに描いて猪熊氏に送っています。また、パリに着いてから、猪熊氏は、現地で生活していた萩須高徳氏、高野三三男氏などと親しく行き来し、生活の便宜を図ってもらい、美術情報等を得ています。

 おかげで猪熊氏は、憧れのパリで数多くの名画に学ぶことができ、貪欲に制作に励むことができました。そればかりか、戦争の気運が高まる中、藤田嗣治氏に誘われ、早々に疎開し、難を逃れることができました。上杜会のメンバーの伝手で藤田氏とも親交を結んでいたおかげでした。

 戦況が悪化し、疎開しなければならなくなると、メンバーは互いに便宜を図り合いました。そして戦後、様々な苦難を乗り越えてきた彼らに待ち受けていたのは、美術の潮流の大きな変化でした。

 こうしてみてくると、上杜会のメンバーは、卒業してもその繋がりのおかげで励まされ、苦難を乗り越えてこられたのだということを実感させられます。上杜会のメンバーは東京美術学校の中でもきわめて優秀な人材が集まったといわれていますが、ただ優秀なだけではなく、お互いに刺激し合い、繋がり合うことによって、上杜会は、画家としての彼らを支え、創作に励むことができる環境作りに寄与してきたのではないかと思いました。

 長いスパンで上杜会を見てくると、メンバーたちは試行錯誤して制作し、相互に作品をチェックし合って、技術力、創作力を高める場として機能していたことがわかります。そもそも芸術など創作に関わる領域では、基本的なこと以外、学校で指導するのは難しいでしょう。それだけに学生たちにとっては刺激し合える環境が大きな意味を持ったのだと思います。

 この展覧会に参加し、上杜会メンバーの個々の作品を鑑賞できただけではなく、創作環境に必要なものとしての繋がりの場の大切さを思い知らされました。興味深い視点からの企画でした。(2020/11/30 香取淳子)

オリンピックは中止か、モデルチェンジか。

■新宿西口の地下道

 久しぶりに新宿西口地下道を歩いていると、昨年と変わらないオリンピック・パラリンピックを伝える一連のパネルの中で、開催日付を告知したパネルが書き換えられているのが目に付きます。

 

 開催日付が「7.23-8.8 2021」となっているのに、その上には「TOKYO 2020」と書かれているのがなんともチグハグデ、妙な感じです。2021年に開催されるというのに、タイトルが「TOKYO 2020」なのです。来年開催予定の東京オリンピックの矛盾がこんなところに端的に示されているような気がしました。

 反対側を見ると、柱に青色や緑色で競技のシンボリックな図案が描かれています。

 

 赤い色の図案もあります。

 

 図案そのものは洗練されており、色調もすばらしいものでした。ところが、どれにも、「TOKYO 2020」と書かれているので、やはり違和感が残ります。来年になると、そのような思いはさらに強くなるでしょう。

 2021年に開催するというのに、「TOKYO 2020」というタイトルは変えていません。そんなところに、なんとしても開催を強行しようとする主催者側の強引な姿勢が透けて見えます。もちろん、コロナ下の今、欧米ではさらに感染者数が増加しています。それでも、相変わらず、主催者側は「開催」の一点張りです。

 2020年5月時点でIOCのジョン・コーツ調整委員長は、オリンピック開催の可否は10月になるだろうといっていました。

こちら → https://www.nikkei.com/article/DGXMZO59434380S0A520C2EAF000/

 ところが、なんの決断も下さないまま、11月を迎えようとしています。バッハ会長が11月中旬に訪日するといわれていますが、果たしてどうなるのでしょうか。IOC、日本政府、組織委員会、東京都、関係者はいずれも表向きの見解はあくまでも開催を主張しています。

■立て続けに報道されたオリンピック対策

 10月20日以降、立て続けにオリンピック対策の関連情報が報道されました。目に付いた記事をざっと紹介しておきましょう。

 2020年10月21日、「五輪選手村に医療体制集約」(日経新聞)という記事が出ました。

こちら → https://r.nikkei.com/article/DGXMZO65230610Q0A021C2CR8000?s=4

 これを読むと、組織委員会と東京都は、選手村の中に発熱外来や検査設備を設け、コロナ感染者が出た場合、宿泊施設で療養できるよう検討しているそうです。一種の隔離政策といえるでしょう。たとえ感染者が出たとしても、選手村周辺に医療体制を集約させておけば、一般の人々への感染を防ぐことができ、東京都全体への波及を防御できるという算段です。

 選手村は21棟の宿泊棟と食堂などの関連施設で構成されています。そこにピーク時にはスタッフを含め約3万人が活動することになるといいます。それだけ多くの人々が選手村で活動すれば、一人でも感染者が出ればたちまちクラスターが発生するのは必然です。

 その感染者が仮に選手村の外で受診したりすると一般の人々に感染していく可能性があります。それを考えての対策なのでしょうが、それでは、ボランティアが感染した場合、それよりはるかに数の多い観客が感染した場合はどうするのでしょうか。参加者全体への目配りに欠けているのが気になります。

 そう思っていると、2020年10月21日には、「五輪観客に顔認証を検討」(日経新聞)という記事が出ました。

こちら → https://r.nikkei.com/article/DGXMZO65291520R21C20A0CC1000

 五輪開催に向けて、政府は顔認証技術を使ったシステムを新型コロナウイルス対策として活用する方向で調整に入ったというのです。

 競技場に入る際、観客の体表面温度を検温するだけではなく、観客の顔を記録するといいます。その画像情報を基に、会場内の防犯カメラで移動経路などを記録し、後に感染が発覚した場合に濃厚接触の可能性ある人を推定し、集団感染を防ぐというのが目的だというのです。

 この対策について、この記事を書いた記者は、「観客への活用はプライバシーの観点から反発も予想され、データ管理のあり方を含めて慎重な検討を求められそうだ」と指摘しています。たしかにコロナ禍を機に中国で普及したこの技術が、日本でも簡単に導入できるとは思えません。

 しかも、ここでは観客の中から感染者が出た場合の医療体制が示されていません。世界の感染者数を見ると、日本はそれほどでもありませんが、欧米をはじめ各国の感染者数は桁違いに多いことに注目すべきでしょう。オリンピックには多数の外国人が参加しますから、観客の中からも感染者が出ることは想定しておく必要があります。

 2020年10月24日、「五輪外国人客の入国許可」(日経新聞)というタイトルの記事が気になりました。

こちら → https://www.nikkei.com/article/DGKKZO65411260T21C20A0EA2000/

 海外からの入国は、五輪観戦を目的とした来日に限定し、一般的な観光目的の入国は認めない方向だといいます。さらに、日本がこれまで入国を原則拒否している国・地域の選手らも特例的に入国を認めるというのです。

 安全を担保するため、コロナ陰性証明書の取得や移動先を記した活動計画書の提出を条件とするとしていますが、いま、欧米を中心に新型コロナの感染は再拡大しています。たとえ、コロナ陰性証明書を持っていたとしても、その後、陽性になることはこれまでも度々報告されています。有効なワクチンも開発されていないというのに、世界各地から観客が多数集まってくるのです。

 彼らはせっかく日本に来たのにオリンピックの観戦だけで済ませようとは思わないでしょう。移動先を記した活動計画書を提出したとしても、どれほどの人々がそれを守るでしょうか。観客がこぞって街中に繰り出せば、日本国内で一気に感染が拡大する可能性は高いといわざるをえません。

 そもそも海外からの受け入れ先である成田、羽田、関西国際の3空港で、現在、入国者検査は1日当り合計で1万人しか対応できないといいます。11月中に新千歳、中部、福岡の各空港でも対応できるようにし、1日合計で2万人に検査できるようにするといいますが、それでは、五輪に合わせて集中して来日する多数の外国人には対応しきれないでしょう。

 現在、五輪に参加する選手は1万5000人程度、大会関係者を含めると、約7,8万人といわれていますが、この数字に観客は含まれていないのです。こうしてみてくると、新型コロナの水際対策の側面からみても、五輪開催は不可能だといわざるをえません。

 こうしてみてくると、安全を確保するには、膨大な観客をコントロールすることができるのかという問題が大きく横たわっていることに気づきます。

2020年10月26日、「五輪開場、開催へ試金石」(日経新聞)という記事がありました。

こちら → https://r.nikkei.com/article/DGKKZO65379570T21C20A0CR8000

 10月30日から11月1日にかけて、横浜スタジアムではDeNA対阪神の3連戦が開催されます。そこで、収容人数8割以上を入れた場合の感染リスクやその対策を把握するための実験を行うというのです。元々、横浜スタジアムは東京五輪の競技会場になる予定になっていますから、多数の観客の動向を把握するには恰好の実験場といえます。

 実験では、スタンドやコンコース、球場外周に計13台の高精細カメラを設置し、3日間をかけて、トイレや売店周辺の混み具合、入退場時の人の流れ調べ、感染者が出た場合に速やかに通知する仕組みを検証するといいます。

 感染防止策としてはスマホを活用し、場内数十カ所に配置したビーコン(電波受発信器)を介して、観客がトイレや売店の混雑状況をリアルタイムで把握できるようにし、密を防ぐといいます。

 果たして、これでどれほどの効果が期待できるのでしょうか。またしても効果があるのか疑問に思えてきました。そもそも密を避けるには、トイレや売店を増やし、観客が集中しないよう分散を図ることの方が重要でしょう。

 一方、スタンド内の二酸化炭素の濃度や風速計による空流のデータなどをスーパーコンピューターで解析し、声援による飛沫の広がりを分析するといいます。3日間のうち、30日は8割、31日は9割、11月1日は満席としたうえで実験するといいますから、粗密の程度が感染にどのように影響するのか、興味深いデータが得られるかもしれません。

 もっとも、それがわかったからといって、どのように感染を防ぐのかといったところまで対策は練られていません。スポーツ大会に声援は付き物で、飛沫の拡散は当然視しておかなければならないでしょう。重要なのは感染者が撒き散らす飛沫をどのように防ぐのかということですが、そこまでは考えられていないのが気になります。

 そして、2020年10月28日「五輪、感染対策へ司令塔」(日経新聞)という記事が出ました。

こちら → https://www.nikkei.com/article/DGXMZO65526560X21C20A0CR8000/

 こちらは、組織委員会の「メインオペレーションセンター」に、新型コロナ対応の司令塔となる「感染症対策センター」を設置し、選手の健康状態を常時モニタリングし、感染者発生時に迅速に対処できる体制を整えるというものです。

 選手村には大会時には最大で1万8000人が宿泊し、スタッフも含めると、約3万人が活動することになります。選手村周辺に感染対応機能を集約させ、ワンストップで新型コロナに対応できる体制を整備するというのです。選手村でのクラスター化を防ぐことができれば、一般市民が利用する医療機関への影響を極力抑えることができるという目論見です。

 この対策は最初にご紹介した「五輪選手村に医療体制集約」という記事の続きで、ただ司令塔を設置したというだけのものです。問題は、この記事を見ても、選手以外の大会関係者に対する対策についてはまだ練り上げられていないことです。IOCや各種競技団体、メディアやボランティアなどについてもまだ今後検討するといった段階です。

 10月20以降に報道された一連の対策をみてみると、全体を俯瞰する視点がみられないのが気になります。選手だけではなく、ボランティア、観客を含めた参加者全体の健康をどうするのか、安全に大会を運営できるのか、さらには、それらの対策にかかる費用を捻出できるのか、といった観点が必要なのですが、これまでのところ、それがなく、ただのプランに過ぎないような気がしてなりません。

■ネットで喧伝されるオリンピック中止

 一方、ネットではオリンピック中止情報が度々、取り上げられています。その中心になっているのが、「一月万冊」というユーチューブの番組で、現在の登録者数は7.93万人です。その番組の中で元博報堂社員の本間龍氏はオリンピック中止について何度も言及してきました。

 本間氏の説は憶測が混じり、確証が持てない部分がありますが、コロナ下の状況では納得できる見解の一つといえるでしょう。ごく最近では、TBSから本間氏への取材が放送されなかったことを巡る一件があります。

 11月からチケットの払い戻しされることが10月25日、各メディアで報道されました。このニュースを目にしたとき、中止が決定されたと私は思いました。そもそもIOCは10月に開催の可否を決断するといっていましたから、その結論が出たと思ったのです。

 おそらく、TV局もそのように読んだのでしょう。

 TBSの朝の番組から本間氏に、オリンピックの中止に関する取材依頼があったといいます。取材の際、スタッフは放送を前提にしていたそうです。ところが、取材に応じたインタビュー映像が放送されることはなく、突如、キャンセルされたというのです。

こちら → https://youtu.be/ZuICN8nhSTQ

 ここでは、この件を巡って、本間氏とTBSとのやり取りが示されていますが、この映像を見ただけではなんともいえません。インタビュー映像が放送されなかったのは、単に裏が取れず、TBS側が放送しなかっただけなのかもしれませんし、本間氏がいうようにTBSが電通に忖度した結果なのかもしれません。

 ただ、今回のオリンピック開催に電通が大きく関与していることは確かです。どうやらオリンピックの誘致を巡る問題にも電通が絡んでいそうです。ロイターによれば、電通がオリンピック誘致に巨額の寄付をしたり、ロビー活動をしたことがIOCの規定に抵触する可能性も指摘されています。

こちら → https://jp.reuters.com/article/insight-dentsu-idJPKBN26Z3AU

 以上、みてきたのはほんの一端です。ユーチューブ上では、さまざまな人がさまざまな観点から、オリンピックの中止を指摘しています。欧米等での感染状況、そして、ワクチンの開発状況をみると、2021年の夏、安全に開催できるとはとうてい思えないのですが、どうでしょうか。

 最近報道されたさまざまなコロナ対策をご紹介してきましたが、いずれも決して万全なものではありません。そもそも、コロナ対策ではなによりも密を避けなければならないのですが、大勢の人が集まって大声を出して声援し、観客が盛り上がることによって、大会の魅力が増すのが、スポーツ大会です。つまり、スポーツ大会そのものが密を基盤に成り立っているという仕組みの中で、密を避けなければならないという矛盾があるのです。

 それにしても、わからないのは、なぜ、さまざまな状況から見て、開催が不可能になっているにもかかわらず、関係者は必死になって開催にこぎつけようとしているのでしょうか。

 主催者側はネット上で行き交うオリンピック中止情報を見つければ、その都度、打ち消す報道をしています。そのことが逆に不信感を呼び、かんぐりたくなる原因にもなっているのですが、主催者側は不自然なほど、開催にこだわっています。

 常識的に考えれば、本間氏が指摘するように、オリンピックは中止しかありえませんが、どういうわけか、IOC、日本政府、組織委員会など主催者側は一貫して開催を主張しています。最近は、まるで開催を確かなものにしようとしているかのように、さまざまな新型コロナ対策を示して見せています。

 ところが、それらの対策は決して万全なものではなく、むしろ新たな課題を浮彫にしています。ですから、調べれば調べるほど、ますます開催は不可能なのではないかと思えてくるのです。

 欧米ではコロナ感染はいっこうに衰える気配をみせず、第二波が訪れたといわれるぐらいです。ところが、欧米の実状を肌でわかっているはずのIOCのバッハ会長は、「現在もスポーツ大会は開かれており、(コロナ下でも)実施できるとわかってきた」といい、「来年はワクチンなど、利用できる対策が増える見通しだ」と説明しています(2020年10月8日、日経新聞)。

 IOCもまた、日本政府や組織委員会と同様、コロナ感染状況よりも「開催ありき」で動いていることがわかります。おそらくその背後に利害に関した何かがあるのでしょう。

■オリンピックは中止か、モデルチェンジか

 新宿西口の地下道は、ビル側にオリンピックの告示パネル、遊歩道側の各柱にさまざまな競技の図案が描かれています。とても華やかに地下道を彩っています。その反面、その間を歩く人々に目を向けると、その後ろ姿のなんと弱弱しく見えることでしょう。

 

 コロナ下では誰もが余裕がなくなり、将来に不安を覚えながら生きています。それを象徴するかのような後ろ姿です。いま、ほとんどの人々にとってオリンピックどころではないのですが、主催者側はいまだにオリンピック開催を声高に主張し続け、無駄な出費を積み重ねています。

 早々にオリンピック中止を決定すれば、無駄な出費や海外からの感染リスクを抑えることができるのではないかと思っているのですが、はたしてどうなのでしょうか。

 一説には中止すれば、莫大な費用がかかるといわれています。そこで調べてみると、第一生命研究所の永濱利廣氏は、過去オリンピックを開催した国の経済成長率をベースに、今回、オリンピックを中止した場合、3兆2000億円分の経済効果が毀損されると試算しています。これは消費税増税で民間部門が失った5兆6000億円の6割に相当するそうです。

 3兆2000億円分の毀損といえば、一見、莫大な金額を喪失するように見えますが、オリンピックを中止したからといっていきなり不況に見舞われることはなく、甚大な被害はないと永濱氏はいいます。なんといっても、日本の実質GDPは約500兆円もの規模です。つまり、いまのところ、目先の利益にこだわらず、人々の健康と安全を優先できるだけの豊かさがあるのです。

 都庁駅から新宿駅に向かう西口地下通路を、人々は力なく歩いていました。この人たちが必死に働き、収めた税金でオリンピックが開催されるのです。そう思うと、ふいに悲しい気分がこみ上げてきました。オリンピック開催のために、どれほど無駄な出費が積み重ねられてきたのでしょう。

 疲れ果てて帰路に向かう人々の後ろ姿を見ていると、健康と安全、誠実と努力が報われることの重要性が身に染みて感じられます。今後、そのようなものこそ、予測できない変化が起こり続けるニューノーマル時代に価値を持つようになってくるのではないかという気がしてきました。

 コロナ禍は社会を大きく変え、ニューノーマル時代を到来させました。オリンピックもまた商業主義化した従来のモデルではなく、ニューノーマル時代のモデルを模索すべきでしょう。(2020年10月29日 香取淳子)

再構築:大小島真木氏の作品について考える。

■本展示を見る

 練馬区立美術館で開催されていた「Re construction 再構築」は、2020年8月9日から本展示が始まり、9月27日に終了します。

 プレ展示で大木島真木氏の制作現場を見た私は、是非とも本展示に参加したいと思い、彼女のアーティストトークが行われる9月12日に訪れる予定にしていました。心待ちにしていたのですが、コロナ感染予防のためにトークは中止になってしまいました。それを知った途端に、熱意が薄れ、訪れたのは9月15日でした。

 大小島真木氏の作品は、展示室3で展示されていました。多種多様のマテリアル、夥しい量の作品がそれぞれ、情報を発信しており、どこから見ていいのかわからないほどでした。暗い展示空間の中で、圧倒されるような作品世界が広がっていたのです。

 写真撮影が許可されていたので、印象に残ったところを何点か撮影しました。まずは、それらの写真を手掛かりに、大小島真木氏の作品を見ていくことにしましょう。

■展示作品の概要

 入口から入ってすぐ正面に展示されていたのが、この作品です。ここで描かれている大きな木はプレ展示の際、見かけたものです。細部が丁寧に描き込まれており、圧倒されるような迫力があります。近づこうとして、思いもかけず、下の台座に人形が置かれていたのに気づき、驚いてしまいました。

 壁面の大きな木と、下に置かれた人形の両方がフレームに収まるよう、やや低い位置から撮影してみました。

やや低い位置から撮影したゴレム

 人形は木の方に下半身を向けて、横たわっています。上半身は裸で、その上に草花が置かれ、下半身からはいくつもの枝木が生えています。枝はそのまま上に伸びて、背後の大きな木につながるようレイアウトされていました。なんとも異様で、グロテスクでした。

 もっとも、やや引いて見てみると、背景に設置された巨木の絵と調和していないというわけでもありません。暗闇が全てを包み込み、異形のものも何もかも、違和感なく共存させていたのです。不思議な空間でした。

 横たえられた人形は「ゴレム」、その背景に掲げられた大木は「胎樹」と名付けられていました。おどろおどろしい幕開けでした。

 意表を突かれ、私はしばらくこの人形を見つめていました。ふと左手を見ると、壁面に多数の心臓の形をベースにした作品が展示されていました。


Entanglement hearts series

 展覧会のポスターに採用されていたのは、この「Entanglement hearts series」30作品の中の一つでした。私はその絵に引き付けられ、プレ展示を見に来たのでした。とても刺激的な作品でしたが、今回、まとめてこのシリーズ作品を見ました。改めて、一連の作品の素晴らしさに引き付けられました。どの作品もオリジナリティにあふれ、見る者を考えこませる深淵さが秘められていたのです。

 つい、見入ってしまいました。そこからやや右に視点をずらすと、奥の方のショーケースが見え、中に黒いワンピースのようなものが展示されていました。

身体構造図

 近づいて見ると、膝から上の胴体部分に骨と血管が描かれています。奇妙なオブジェでしたが、ヒトの身体を構造的にみようとすれば、必要になってくる造形物なのかもしれません。

 そのショーケースの隣側に黒幕があり、矢印が付けられていたので、中に入ってみました。すると、ボディが一つ置かれており、その上にプロジェクションマッピングされた映像が、目まぐるしいほどに変化しながら映し出されています。「ウェヌス」と名付けられた作品でした。


ウェヌス

 ここは完全に真っ暗な空間でした。映像だけが刻々と変化して、ボディに映し出されていきます。暗闇なので、視線はボディに固定せざるをえず、半ば強制的に映像をみることになるのですが、映像そのものの意味はわからず、色彩と形状、動きだけが印象に残っています。

 ふと、どこからともなく、音楽とも音響ともいえないサウンドが流れてくるのに気づきました。映像とは必ずしも連動しているとはいえませんでしたが、闇の中で聞いていると、奇妙な感覚に襲われそうになります。これまで経験したことのない、音と映像によって創り上げられた世界でした。

 大小島氏はここで何を表現しようとしていたのでしょうか。

 気になったので、会場で配布された資料を見てみました。すると、大小島氏は、「ウェヌスの身体を覆う皮膚をなしているのは、岩肌の不毛の惑星を海と土の生命の惑星へと変容させた海中プランクトンたちの映像であり、そこに空を超えて宇宙空間をさまようプラネットたちの映像が重ねられています」と書いていました。

 この説明に従えば、ボディに投影されていた映像は海中プランクトン、あるいは、プラネットということになるのでしょう。

 そういえば、この作品のタイトルは「ウェヌス」でした。

 大小島氏は、「ローマ神話において海の泡から生まれ大地の女神になったウェヌスは、言うなれば、海と土の交点に立つ存在です」と説明しています。この作品もまた、大小島氏の作品世界を支える重要な役割を担っているのでしょう。身体という生命システムを考えるには、なにはともあれ、「海と土の交点」は必要不可欠だからです。

 さて、以上が、展示室3に展示されていた大小島氏の展示作品の概要です。

 大小島氏は果たして、どのような思いを込めて、これらの作品を創ったのでしょうか。

■大小島氏の制作意図と課題作品

 会場で配られた資料の中で、大小島真木氏は次のように作品の意図を説明していました。

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 「身体」を一つの独立した存在としてではなく、複数のものたちがそこに棲まい、協働する「共生圏」としてイメージすること、

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 このような考えの下で制作されたのが、「ゴレム」(含む「胎樹」)と「ウェヌス」でした。「ゴレム」はヘブライ神話の中に登場する「土」から作られた生きた人形であり、「ウェヌス」はローマ神話に登場する海の泡から生まれた大地の女神です。

 ゴレムにしても、ウェヌスにしても、大小島氏にとっては、「身体」を独立した存在としてではなく、複数のものがそこに入り込んで生き、暮らしていく場として捉えるための装置といっていいでしょう。

 問題意識として興味深いのは、「身体」を「共栄圏」としてイメージするという発想です。つい、「個体は系統発生を踏襲する」という言葉を思い出してしまいましたが、大小島氏は、「共栄圏」という言葉を持ち出していますから、種を超えた混合がイメージされているのでしょう。

 壮大な問題意識を持つ大小島氏が、練馬区立美術館の所蔵作品の中から選んだのが、荒木十畝氏の掛け軸と、池上秀畝氏の屏風でした。

 入口近くに展示されていたのが、荒木十畝氏の作品で、1922年に制作された絹本着色の「閑庭早春」です。


閑庭早春

 会場中ほどのショーケースに展示されていたのが、池上秀畝氏の作品で、1921年に制作された絹本着色の二曲一双の「桜花雙鳩・秋草群鶉図」です。


桜花雙鳩・秋草群鶉図

 一方は掛け軸、他方は屏風として装丁されていますが、ほぼ同時期に制作された花鳥画です。いずれも100年前に制作された日本画です。

 これら二作品が何故、課題作品として選ばれたのか、私にはわかりませんでした。パッと見たところ、再構築された作品と選ばれた作品とはあまりにもかけ離れていました。これらの作品がどのような脈絡で大小島氏の作品につながるのか、私にはとうてい理解できなかったのです。

 大小島氏はこれらの作品をどのように再解釈し、「ゴレム」と「ウェヌス」に再構築していったのでしょうか。

 再び、大小島氏の「作品解説」を見てみましょう。

 大小島氏は「作品解説」の中で、「私たちの身体のイメージを、ゴレムとウェヌスと名付けた二つの身体によって再構築することで」、「自然にとりまかれて生きている私たちの生そのもののイメージを再構築してみたい」と説明しています。

 それでは、再構築された作品のうち、まずは「ゴレム」から見ていくことにしましょう。

■ゴレム

 黒い円形の台に横たえられている人形が「ゴレム」です。真上から撮影してみたのが下の写真です。

真上から見たゴレム

 「ゴレム」はヘブライ神話の中に登場する「土」から作られた人形です。大小島氏はこの人形から、「人間の原型」となるようなイメージを感じ取ったといいますから、作品全体の中できわめて重要な役割を担うモチーフだといえます。

 それにしても、なんと異様な姿なのでしょうか。展覧会場でなければ、おそらく正視することすらできなかったでしょう。

 目から草花が生え、口には草のようなものがくわえられています。頭部と上半身をつなぐ首は十数本の小枝で作られています。まさに人体を冒瀆しているといってもいいような表現です。肋骨に相当する部分にはその形状に沿って、木の葉が置かれ、その下のおへそが異様に大きいのが印象に残ります。両腕に相当する部分には、カラフルな鳥の羽のようなものが置かれています。

 この作品を見たとき、私はどういうわけか、フェリーニの映画を思い出してしまいました。

 たとえば、『サテリコン』です。この映画を見たときの、なんともいえないおぞましさが甦りました。この映画は、ローマ時代の貴族たちの享楽的で堕落した生活を描いた作品で、内容に共通するところはありませんが、どういうわけか、その絵柄、作品のトーン、さらにはヒトの捉え方に近いものを感じ、思い出してしまったのです。

次のような画像があります。

サテリコン

 猥雑で、グロテスクで、欲望をむき出しにした貴族たちの姿が捉えられています。過剰な欲望は往々にして、ヒトを冒瀆しがちです。

 そういえばた、『フェリーニの道化師』には次のような画像があります。

道化師

 これは、いたぶられ役として登場する道化師たちです。白塗りの顔の下に救いようのない悲哀が透けて見えます。ここでは、道化師に対する観客の態度に、ヒトのおぞましい欲望を見ることができます。内容が似ているわけではないのに、この作品にも、私はその絵柄やヒトの捉え方に、「ゴレム」に感じたものと似たものを感じました。

 フェリーニはこの作品で短いエピソードをつなぎながら、「笑い」を巡るヒトの本性をあぶりだしていきます。彼の作品は全般に、線的な構造をもたず、エピソードをランダムに積み上げ、作品を構築していくところに特徴があります。

 その結果、無駄なものが多いのですが、逆に、ヒトの真髄に迫ることができているのではないかと思っています。そのせいか、私は、「ゴレム」を見たとき、つい、フェリーニを思い出してしまったのです。

 大小島氏の場合、フェリーニのように、作品を線的な構造、面的な構造に封じ込めようとしないだけではありません。さらに一歩進め、時空が堆積した構造の中で、構想を作品化しようとしているようにみえました。その果敢な姿勢に圧倒されてしまいました。

 さて、私は大小島氏の「ゴレム」を見て、フェリーニに近いものを感じました。なぜ、そう感じたのでしょうか。それを仔細に見ていくことで、大小島氏の作品世界に一歩、近づけるかもしれません。

 それでは、「ゴレム」に戻ってみましょう。

 斜め上から撮影したのが下の写真です。

横たわったゴレム

 横たわったゴレムの周囲に、さまざまなものが配置されています。ここからはよく見えないのですが、ゴレムの骨盤の辺りに動物の頭骨が置かれています。そして、手前の半円の中には、貝殻、ヒトの頭部、縄文土器、ガラス玉などが置かれ、それらは黒の円台の所々に描かれた細かな文字によって、他のモチーフとつながっています。

 一見、雑多なモチーフを寄せ集めて造形されています。猥雑で、過剰な印象を受けるのはそのせいでしょう。しかも、メインの「ゴレム」の造形がグロテスクで、おぞましささえ感じさせられます。とはいえ、それもまた現実世界の一側面なのです。

 現実世界は、限りなく多様なものが何段階もの層をなして存在し、相互につながり合っています。円形の黒い台座の上で表現されていたのはその種の世界観でした。私はおそらく、そこにフェリーニに似たものを感じてしまったのでしょう。

 おぞましさといえば、もう一つ、ゴレムの下半身が何本もの木の枝と葉に置き換えられていることでした。しかもそれらは壁面に向けて高く伸びています。まるで枝木が背後の大木に接合されているようでした。

 正面から捉えた写真を見ると、ゴレムの下半身から伸びた木の枝は、その背後に設置された「胎樹」につながっていることがわかります。

正面全体

 これで、「ゴレム」と「胎樹」がつながっていることがわかります。おぞましさを感じてしまったのは、ヒトが植物に接合されて造形されていることに、ヒトへの冒瀆を感じたからでした。とはいえ、冷静に考えると、ヒトが死んで、土に戻ると、そこから木が生え、やがて大樹に成長していくのは自然の摂理でもあります。

 布に描かれた「胎樹」が弧を描くように湾曲して設置されています。ゴレムが横たわる円形の台座に合わせたのでしょうか。「ゴレム」と「胎樹」、両作品を支える支持体に曲線が組み込まれています。

 そのせいか、ここにレイアウトされたすべてのモチーフが柔らかく包み込まれているように見えます。

■胎樹

 それでは、「胎樹」を見ていくことにしましょう。

 正面に大きな木が描かれています。私が大小島氏の制作中に見たものです。その時はまだ、途中までしか描かれておらず、全体像が見えませんでした。それが展示作品では、木はさらに大きく枝を伸ばし、その周辺にさまざまなものが描き込まれています。一つの完結した世界が創り出されていたのです。

 たとえば、木の中心部分は、まるでヒトのように、心臓、肺、背骨で構成されています。その上にさまざまなモチーフが描かれており、それぞれが相互に深く絡まり合っています。

木の中心部分

 まず、目がいくのは、中心部分の肺、心臓、大動脈などです。そこだけ淡く着色され、一目でここが中心だとわかる仕掛けになっています。それ以外のモチーフは黒の濃淡で描かれており、まるで墨絵のようです。よく見ると、ウィルスのようなもの、胞子のようなもの、クラゲ、ヒトデ、海草など、木の上に存在するはずのないものが無数に描かれています。

 木の枝はヒトの血管のように幾重にも枝分かれし、四方八方に伸びています。そうかと思えば、線状に並べられた小さな文字が、まるで砂地に文様を描くように、縦横に何本も引かれています。おそらく、何らかのメッセージが綴られているのでしょう。

 これらを見ていると、細部に隈なく情報量が盛り込まれ、想像力が刺激されます。その量に圧倒されて、眩暈がするほどです。木の様相を見ていると、グロテスク、猥雑、過剰というキーワードが思い浮かんできます。

 やや視線をずらすと、何か奇妙なものが目に入ってきました。近づいてみると、なんと胎児が二人、羊水に浮かんでいました。淡く着色されています。

胎児

 双子なのでしょか、胎児が二人、羊水の中で身を丸めています。胎盤の外側にはヒトの臓器のようなものが描かれ、無数の血管が描かれています。そして、胎児のへその辺りから太い管が伸び、臓器の下に巻き付いています。きっとへその緒なのでしょう。そのへその緒の行先を辿ると、なんと樹木の維管束のようなものとつながっていました。

 通常、胎児は母親とへその緒を通して、栄養や酸素を補給され、二酸化炭素や老廃物を排出します。へその緒があるからこそ、胎児は胎盤の中で生きることができるのです。

 ところが、この絵には、胎盤と臓器、へその緒しか描かれていません。ヒトが描かれていないので仕方がないのでしょうが、これらの臓器はへその緒を通して樹木の維管束とつながっていたのです。木の生命システムに組み込まれることによって、この胎児たちは生き続けることが示されているといえます。

 ありえない設定ですが、絵の中ではごく自然に、まるで接ぎ木でもするかのような簡便さで、この奇妙な接合が成立していました。

 さらにもう一つ、胎盤の中の子どもが描かれた箇所がありました。

幼児

 こちらは胎児ではなく、幼児でした。髪の毛が生え、指を口にくわえています。目を閉じていますが、表情がしっかりとしており、明らかに意思を持って行動できる幼児に見えます。ところが、ここでも太いへその緒が描かれており、幼児がへその緒を通して白い維管束のようなものに接合されています。

 先ほどとは違って、胎盤の中は水色で描かれています。ちょっと離れてこの箇所を見ると、まるで、幼児は青空の下にいるように見えます。おそらく、この幼児は、いったんは外に出て、外気を吸ったことがあるのでしょう。ところが、どういうわけか、再び、胎盤の中に戻り、へその緒をつけたまま指をしゃぶっているのです。

 ここでも現実にはありえない設定で、モチーフが描かれていました。

 不思議なのは、この幼児が背後から白いもので包まれていることでした。しかも、その白いものは、幼児が入った胎盤そのものを支えているようにも見えます。さらに、胎盤の周辺を取り巻くように、白色と黒色が反転しながら、小さな文字が描かれています。

 ちょっと気になりました。大小島氏はこの箇所で、何を表現しようとしていたのでしょうか。わからないまま、しばらく日が過ぎました。

 9月24日、美術館のHPを見て、大小島氏のアーティストトークの映像が掲載されていることを知りました。

こちら → https://youtu.be/mL7k1kdaT3w

 この映像を見てようやく、理解することができました。

 大小島氏は、インドネシアのトラジャ部族には、まだ乳歯も生えていない子どもが死ぬと、木に穴を掘って、そこに遺体を入れる風習があるといっています。子どもはそのまま木とともに生き、木の寿命とともに亡くなっていくというのです。

 興味深く思って、調べてみると、確かに、インドネシアのトラジャ族には、そのような風習があることがわかりました。

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 かつてはトラジャ族の土地では、乳児は死んでも天国には行けず、また生まれ変わると信じられていました。そのため、亡くなった子供がいつもミルクを飲めようにと、白い樹液が多く出るこの木に葬られていたのです。この木の幹に空けられた乳児の墓は、現地では「リアン・ビア」と呼ばれています。

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(※ https://www.ab-road.net/asia/indonesia/tanatoraja/guide/sightseeing/09789.html

 こうしてみると、指をくわえた幼児を背後から包み込んでいた白いものは、白い樹液だったのかもしれません。ミルク代わりに白い樹液のでる木の維管束にへその緒を介してつながれ、この幼児は成長し、木の寿命が来るまで生きるのでしょう。この小さなモチーフの中に、ヒトの生と死が表現されていたのでした。

 さて、会場でこの木の枝を見ていて、ふと気になって撮影していたのが、木の幹や枝にさまざまなものが絡みついている箇所でした。

絡み合い

 まるで水墨画のように、黒の濃淡やかすれ、暈しを活かしながら、柔らかい筆触で描かれています。

 ちょっとわかりにくいかもしれませんが、これは、幹から枝が張り出し、その枝からさらに小さな枝がいくつも伸びている部分です。小さな枝は透明度が高く、淡い色調で描かれています。

 そのせいか、小枝がまるで海の中で揺らめく海草のようにも見えます。その周囲にはプランクトンのようなもの、稚魚のようなものが浮遊しており、そこだけ見ると、深い海の底だと錯覚してしまいそうです。ここでも、現実にはありえない光景が描かれています。

■大小島氏はどう再解釈したか

 大小島氏が練馬区立美術館の所蔵作品の中から選んだのが、荒木十畝氏の掛け軸と、池上秀畝氏の屏風でした。なぜ、彼らの花鳥図から触発されて、このような作品世界を創り出すことになるのか、私にはどうしてもわかりませんでした。

 ヒントを求め、再び、アーティストトークの映像を見ました。それでようやく、大小島氏がなぜ、荒木氏と池上氏の作品を選んだのかがわかりました。

 彼女は、荒木作品について、「視点が土と近い状態に置き、そこから捉えられている」とし、池上作品については、「鳥が飛ぶ瞬間を自分と同一化し、その瞬間を捉えている」と感じたといいます。

 つまり、いわゆる花鳥図とは違って、両者はモチーフだけを切り取ってみているわけではないと大小島氏は感じたのでしょう。ここに、花であれ、鳥であれ、生きているものはすべて、それだけで存在しているわけではないという認識が透けて見えます。

 だからこそ、「私が創り出した身体はいろんなキメラ像でできている」と大小島氏は説明しています。

 ちなみに、キメラ(chimera)とは生物学用語で、「個体の中に異なる遺伝子の細胞が共存する現象、またはその個体を指す」と定義づけられており、ギリシャ神話に登場する生物「キマイラ」に由来するといいます(※ Wikipedia)。

 トーク映像で彼女の説明を聞いた瞬間、どうしてもわからなかった私の疑問が一挙に解き明かされたような気がしました。

■静止画に持ち込まれた動きを生み出す視点

 なぜ、大小島氏は荒木作品、池上作品を課題作品として選んだのかといえば、それは、両作品には、一見、スタティックな花鳥図に見えながら、実は、花や鳥を捉える視点に動的な生命体を把握する観察力が含まれていたからでした。

 荒木氏は視点を下方に置き、土から見る構図で花を描いています。花だけを切り取って捉えるのではなく、生えている根元から捉える視点が構図に示されています(前掲写真を参照)。

一方、池上氏は鳥が飛び立つ瞬間を捉え、作品に組み込んでいます。わかりやすくするため、その該当部分を切り取って、見てみましょう。

該当部分

 枝に留まる鳥と飛び立つ鳥、この二羽を描くことによって、池上氏は動きを表現しています。異なる位置の静止画を二つ配置し、動きをイメージさせる効果を生み出しているのです。これを見て思い出すのはパラパラ漫画であり、マイブリッジの走る馬を捉えた連続写真撮影です。

 1872年、イギリス生まれのアメリカ人、マイブリッジは、24個のカメラを並べて疾走する馬の一瞬、一瞬を撮影しました。これは動画の基礎となる実験でした。その後、フランスのリュミエール兄弟がシネマトグラフの特許申請をしたのが1895年です。映像の時代の幕が開けられました。

 ところで、池上作品は1921年、荒木作品は1922年の制作です。日本でも1920年代になると、全国に映画常設館が出来ていました。トーキーとはいいながら、動画を楽しめるようになっていたのです。

 当然のことながら、彼らも動画からなんらかの影響は受けていたでしょう。

 花鳥図の基本を崩さず、彼らは動的な視点を作品に組み込みました。それを大小島氏は見逃さず、多数の中からこの二作品を選択したのでしょう。

 大小島氏は、この二作品には動的な視点が含まれていると再解釈し、それに触発されて再構築したのが、「ゴレムとウェヌス」でした。そして、「だからこそ、私が創り出した身体はいろんなキメラ像でできている」と説明しています。

 私はここに、大小島氏が作品を再構築する際のキー概念があると思いました。

■キー概念としてのキメラ

 先ほどもいいましたように、キメラとは、「個体の中に異なる遺伝子の細胞が共存する現象、またはその個体を指す」生物学用語で、ギリシャ神話に登場する生物「キマイラ」に由来するといわれています。

 そういえば、「ゴレム」の腕から鳥の羽が生え、下半身からは木の枝が生い茂っていました。そして、それらの木の枝は「胎樹」に接木され、キメラ植物として大きく育っていました。

 そして、「胎樹」の中心部分にはヒトの心臓や肺、背骨が組み込まれており、枝にはヒトの胎盤が付着していました。胎盤の中の胎児は、へその緒を介して維管束と接合し、木の生命システムにつながっていました。胎児はヒトの身体から切り離されても、木の生命維持システムに組み込まれることによって、生きながらえていました。

 つまり、「ゴレム」と「胎樹」の二作品からは、ヒトと植物のキメラが創り出されていたのです。

 そもそも、泥人形の「ゴレム」は横たえられていました。おそらく、死者を意味していたのでしょう。ヒトは死ぬと土に還ります。その土でできた「ゴレム」から草木が生え、土に還元されたさまざまな栄養分を吸い、やがて大木として成長していきます。

 そこまでは誰もが想像できる領域です。

 大小島氏の発想がユニークなのは、その大木をキメラ植物として設定したことにあります。しかも、ヒトと植物との異質同体です。

 なんと飛躍した発想なのでしょう! 

 彼女は、木の幹にヒトの身体の中心部分を組み込み、胎児のへその緒を木の維管束と接合し、生命維持システムを協働させています。このようにして、木とヒトが融合したキメラが出来上がっているのです。

 「ゴレム」も「胎樹」もキメラをキー概念に構築されています。一見、解釈不能に見えたこの作品もこのキー概念に辿り着くことによって、私は理解することができました。

■再構築された作品

 大小島氏が選んだ課題作品は荒木氏、池上氏の日本画です。荒木、池上両氏の作品から彼女は、花鳥図でも動的な視点を取り入れることで対象を生き生きと捉えられるというエッセンスを汲み取りました。

 そのエッセンスを踏まえ、大小島氏は、「ゴレム」(含む「胎樹」)と「ウェヌス」という作品を再構築しました。

 ところが、配布された「作品解説」を読んでいると、再解釈から再構築までのプロセスにおおきな捻りがあることに気づいたのです。

 大小島氏は、会場で配布された「作品解説」の中で、次のように記しています。

*******

 今日、私たちの世界は人新世と呼ばれる新たな地質学的年代の中にあるとされています。自然の中で人間というアクターが極端に突出し、地球そのもののあり方さえも大きく変えてしまっている、そうした時代に生きる私たちの身体について、思いを馳せました。そして、私たちの身体のイメージを、ゴレムとウェヌスと名付けた二つの身体によって再構築することで、自然にとりまかれて生きている私たちの「生」そのもののイメージを再構築してみたいと考えました。

*******

 この箇所を読んで、大小島氏が再解釈から再構築までのプロセスに、「人新世」という概念を介入させたことがわかりました。このことは会場で作品を見ただけではわかりませんでした。

 「人新世」とは、人類が生きるために行う経済活動そのものが地球を破壊するという概念です。この概念を作品に組み込むために、大小島氏はキメラを核として、作品を再構築したのです。

 このところ、コロナウィルスの感染爆発にせよ、中国山峡ダムを中心とした洪水被害にせよ、「人新世」の時代に突入したことを示す事例が増えています。ヒトが自然を作り変えてきた結果、予想もしない大きな損害を被る時代に入っています。いずれも中国発の災害ですが、ここ十年余、もっとも経済発展の著しいのが中国でした。経済活動の活性化が自然を大きく改変してきたことの証左ともいえます。

 大小島氏は再構築した作品には、このような時代の潮流が巧に取り込まれていました。斬新な発想力によって再構築された大小島氏の作品は、知的刺激に満ちているだけではなく、近未来を見る重要な視点をも提供してくれているように思えました。

 実は、この種のジャンルの美術を見るのは初めてでした。それですっかり驚いてしまって、作品を見てから、しばらく、何も書けないでいました。なにかすごい作品を見てしまったという気はするのですが、鑑賞後、自分の中でそれをどう受け止めていいのかわからなかったのです。

 なにか言葉にならないものがふつふつと湧いては来るのですが、整理できないまま、時間が経ちました。知らなかった世界を知り、衝撃を受けたことは事実なのですが、それをどう自分の知の体系の中に収めていいのかわからなかったのです。

 会場で配布された大小島氏の「作品解説」を読んで多少わかったような気になりましたが、それでもまだわからないところがありました。ヒントを求めて彷徨い、練馬区立美術館のHPで大小島氏のアーティストトークを見て、わからなかったところもなんとか理解することができたような気がします。

 概念として理解できただけで、まだ腑に落ちるというところまではいっていないと思いますが、大きな衝撃を受けたのは事実です。

 今回の作品はさまざまな知識を動員して、それと照合させながら理解していくというプロセスをたどりました。それを一つ一つ、確認しながら、書いていったので長くなってしまいましたが、実はまだ思いついたことを書ききっていません。

 現代社会は限りなくフラットになる一方で、複雑極まりない側面を持ち、さまざまな知の集積体でもあります。そのような現代社会を表現しようとすれば、並大抵の知力では叶いません。

 展示作品を見ていると、あらゆる媒体、素材を使いこなし、それらをつなぎ合わせ、レイアウトする能力、そして、なにより莫大なエネルギーがなければならないと思いました。大小島真木氏は壮大なスケールの美術家であり、現代社会に関する思想家、プロデューサーだという気がします。

 美術家にとどまらない幅の広さを持つ大小島真木氏の今後の活躍におおいに期待したいと思います。(2020/9/26 香取淳子)

オンライン鑑賞で知ったCAO FEI氏の世界

 コロナ禍で、国内外のさまざまな展覧会が中止になりました。スイスのバーゼルで開催されるアート・バーゼル(Art Basel)も、今年は開催されませんでした。

 アート・バーゼルとは世界最大級の現代アート・フェアで、1970年以来、毎年6月に4日間、開催されています。その後、アート・バーゼル・マイアミビーチ、アート・バーゼル香港なども開催されるようになり、世界的な広がりをもっています。

こちら → https://www.artbasel.com/about/history

■2020年アート・バーゼルの中止

 2020年3月26日、アート・バーゼルは次のような文をホームページに掲載しました。コロナ感染拡大のため、9月17日から20日まで延期したという内容でした。

こちら →

 今年は延期で決定したと思っていたのですが、その後もコロナ感染の勢いは衰えを見せません。3か月後、開催できる見通しが立たなくなってきました。

6月6日、ギャラリー、コレクター、協賛企業、外部専門家などとの協議を経て、今年度のアート・バーゼルの中止が決定されました。

こちら → https://www.artbasel.com/stories/art-basel-june-edition-postponed-to-september

 海外からの作品輸送は可能なのか、輸送する際の安全を保障できるのか。さらには、出展ギャラリーや協賛企業の経済的な損失を補償できるのか、等々の懸念を払拭することはできなかったのでしょう。2020年のアート・バーゼルは比較的早く、中止という判断が下ささました。

 一方、アート・バーゼル事務局は、6月フェアの代わりにオンラインで鑑賞できるようにし、欧州、南北アメリカ、アジア、中東、アフリカなど35ヵ国と地域から参加した282の主要なギャラリーの国際的ラインアップを紹介します。

こちら → https://www.artbasel.com/stories/ovr-details-and-highlights

 オンライン・ヴューイング・ルームは6月17日から19日までがプレビューで、6月19日から26日の間、一般公開されました。そこでは、絵画、彫刻、ドローイング、インスタレーション、写真、ビデオ、デジタル作品など、近代から戦後、現代までの4,000点を超える優れた作品を見出すことができるようになっています。

 アート・バーゼルのグローバル・ディレクター、マーク・スピーグラー氏は、「デジタルプラットフォームでは、リアルな展示空間が提供できるものと完全に同じものを提供できないことは十分に承知しているが、アートの世界がこのような苦難の時代を乗り越えていけるように、我々はギャラリーや作家たちを支えていきたい」と語っています。

 アート・フェアが中止になって、作品鑑賞の場が失われてしまうよりも、デジタルプラットフォームを立ち上げ、ヴァーチャルな展示空間を提供してギャラリーやアーティストを支えていきたいというのです。

■オンライン・ヴューイング・ルーム

 アート・バーゼルが提供するオンライン・ヴューイング・ルームは、世界の主要なギャラリーとコレクター、芸術愛好家とをつなぐヴァーチャルなプラットフォームです。ここでは、二つの独立したテーマ(「OVR:2020」と「OVR:20c」)が設定され、9月と10月に開催されます。

 「OVR:2020」はこの重要な年に制作された作品に絞ったものであり、9月23日から26日まで展示されます。

 「OVR:20c」は1900年から1999年の間に制作された作品で、2020年10月28日から31日までの間、特集されます。

 どちらも出展者は100以下に抑えられ、それぞれ一度に6作品を展示することができるといいます。

こちら → https://www.artbasel.com/ovr

 興味深いのは、ジョヴァンニ・カーマイン氏、サミュエル・ロイエンバーガー氏、フィリパ・ラモス氏等、3人のアート・バーゼル・キュレーターによる鑑賞ツアーが組まれていることでした。キュレーターたちはいったい、どのような作品を取り上げているのでしょうか。

 試みに、ジョヴァンニ・カーマイン氏が取り上げた作品を見てみることにしましょう。

■キュレーターが取り上げた画像

 自由分野を担当するキュレーター、ジョヴァンニ・カーマイン( Giovanni Carmine)氏がお薦めとして取り上げたのは、サオ・フェイ(Cao Fei)氏, セシールB エヴァンス(Cécile B. Evans)氏, プラニート・ソイ(Praneet Soi)氏の3人です。

こちら → https://www.artbasel.com/stories/online-viewing-rooms-giovanni-carmine?lang=en

 そのうち、真っ先に紹介されていたのが、北京のアーティスト、サオ・フェイ氏の作品でした。作品概要に、「RMB City: A Second Life City Planning N.4」と書かれていますから、RMB Cityシリーズの一つなのでしょう。

 私はこの画像に最も惹きつけられました。

 この作品についてジョヴァンニ・カーマイン氏は、「サオ・フェイ氏の独創的な企画であるRMB Cityは、VRとデジタル技術が提供するさまざまな可能性を芸術に利用するというやり方で表現している」と解説しています。

 そういわれてみれば、この画像はアニメの一場面のような印象です。さらに、作品のタイトルは「A Second Life City Planning N.4」でしたから、ひょっとしたら、セカンドライフ(Second Life;コミュニケーションツール)を使った動画の一部なのかもしれません。しかも、この作品が制作されたのは2007年です。

 ちょうど2007年ごろ、日本でもセカンドライフ(Second Life)というコミュニケーションツールが話題に上ったことがあります。これは、ネット上の3D仮想空間で自分のアバターを操り、他の参加者とコミュニケーションできるツールです。

 すっかり忘れていましたが、サオ・フェイ氏の作品を見て、私は記憶の底に眠っていたセカンドライフを思い出しました。

 2007年当時のセカンドライフの画像を見てみることにしましょう。


出雲井亨、『日経XTECH』、2007年7月13日

 ここでは、遊園地で一人紅茶を飲んでいる男性が表現されています。描かれている男性はアバターで、湯気の出るティーカップ、その背後の観覧車もすべてユーザーが制作したものです。

 このように、セカンドライフというツールを使えば、ユーザーが設定したアバターを通して、仮想世界でのコミュニケーションを展開することができます。SNSに押され、いまではすっかり忘れ去られてしまいましたが、仮想空間でコミュニケーションできるツールとしてもてはやされた時期がありました。

 再び、サオ・フェイ氏の作品を見てみると、この女性はまさにアバターです。分身として、RMB Cityという仮想空間の中で、さまざまなコミュニケーションを展開しているのでしょう。

 サオ・フェイ氏は2007年から2011年までRMB Cityシリーズを制作し続けてきたといいます。

■サオ・フェイ氏の画像

 それでは、サオ・フェイ氏の画像を詳しく見ていくことにしましょう。


Cao Fei, RMB City: A Second Life City Planning N.4, 2007

 この画像でまず目につくのは、朱色の柱が立ち並ぶ宮殿、その端に立つ白いトサカのような帽子を被った女性、そして、左隅に描かれた車輪です。一見、奇妙なモチーフの取り合わせですが、斬新でしかも調和がとれていて、引き込まれます。

 左端の車輪は銀色で描かれ、白っぽいコスチュームの中で輝いている女性と調和しています。女性の髪の毛、トサカのような帽子、ブレスレット、腕に抱えた円形の造形物、黒いドットの入ったワンピース、いずれも白か銀色で描かれており、女性にメカニックな輝きを添えています。

 女性の背後には朱色の円柱が立ち並び、白色の中で輝く女性と見事な色彩のコントラストを形成しています。モチーフの背後には、紺碧の海と残照に輝く空が見えます。いずれもモチーフをくっきりと際立たせる効果のある色調です。

 女性の後ろには朱に塗られた10本ほどの円柱が続き、観客の視線を遠景に誘導する役割を担っています。半円の車輪から、女性が腕に抱えた円形の造形物へ、円形の造形物から先は垂直方向に変換し、立ち並ぶ円柱へと連鎖の輪が広がっていきます。

 円形を縦横に巧に変換させることによって、視覚的な動きが生み出されているのです。朱の円柱は対角線上に、幾何学的な調和を保ちながら、前景、中景、遠景をつないでいます。目を細めてみると、そうすることによって、画面を構造的に安定させる効果が得られていることがわかります。

 モチーフを見ると、きわめてメカニックな造形になっているのですが、全体にしっとりとした落ち着きがあります。絵画作品としての奥行が感じられるのです。そのような印象を与えるのはおそらく、背景のせいでしょう。海なのでしょうか、濃い青で表現された部分、そして、残照の輝きを見せる空がとても丁寧に絵画的に描かれているのです。

 奇妙なモチーフの取り合わせ、色彩のバランス、前景、中景、遠景をつなぐ幾何学的構造、そして、古典的絵画の味わいのある背景、それらが見事に調和しており、とても美しいと思いました。

 サオ・フェイ氏の独創的なプロジェクトRMB Cityは、VRなどデジタル技術を駆使して作品化されています。彼女が創り上げた仮想空間は魅力的です。

 カーマイン氏は、この作品について、シュールレアリストのユートピアであり、先見の明のあるコミュニティ構築実験だと評しています。

■RMB City: A Second Life City Planning N.4

 カーマイン氏のおかげで、私は彼女の作品の一端を知ることができました。果たして彼女はどのような思いで、この作品を制作したのでしょうか。気になって調べてみると、彼女がこの作品について語っているページが見つかりました。

こちら → https://www.fondationlouisvuitton.fr/en/the-collection/artworks/rmb-city-second-life-city-planning.html

 タイトルの「RMBシティ:セカンドライフシティプランニング」については、「人民の通貨」である人民元の頭字語であるRMBと名付け、ポストモダンの遊園地で、急速に進化する中国の都市の凝縮されたイメージを提供する」と彼女は語っています。

 そして、架空の島には、人民英雄記念碑、国立大劇場、中国北部の工場、レムコールハースのCCTVタワー、仏教寺院、毛沢東の像、三峡ダム、 国立競技場などを配置し、伝統、共産主義、資本主義のシンボルを衝突させ、現代の中国の複雑さを浮き彫りにするといいます。

 たしかに、この画像を見ると、中国を象徴するものが、所狭しとばかりに架空の島の上に表現されています。島に配置できなかったパンダやCCTVタワーなどは空中に浮かぶ格好でレイアウトされ、中国の過去、現在が象徴されています。


RMB City: A Second Life City Planning N.4

 斬新なデザインの建物は、現在目覚ましい勢いで開発を進めている先端セクノロジーを連想させますし、パンダや仏教寺院は中国文化の象徴、そして、黒煙は世界の工場といわれた中国の労働力を示しています。

 現在の中国は、パンダや仏教寺院に象徴される伝統文化を引きずりながらも、実際は共産主義体制の下、国家資本主義によって経済が運営されています。きわめて複雑な社会構造であり、当然のことながら、その社会的な歪みも大きくなっています。その象徴が工場から立ち上がる黒煙です。

 この画像だけでも面白いですが、実はこれは映像作品なのです。さっそく探してみると、彼女が制作した6分1秒の映像が見つかりました。ご紹介しましょう。

こちら → https://youtu.be/8-ig_lnO7uU

 さらに調べてみると、サオ・フェイ氏は2007年以降、セカンドライフに集中して作品を制作していることがわかりました。

 中国の近代化と資本主義的で理想主義的な展望を参照しながら、彼女はグローバルコミュニケーションが人々の想像力や価値観、生活様式に影響を与える状況をRMB Cityシリーズによって明らかにしていこうとしているのです。

こちら → https://kadist.org/work/rmb-city-a-second-life-city-planning-04/

 サオ・フェイ氏は、マルチメディア・アーティストで、現実世界と架空世界との相互作用に焦点を当てた作品で知られています。写真、パフォーマンス、ビデオ、デジタルメディア等々、境界を越えてさまざまな作品を制作してきた彼女は、20世紀後半の時代精神の権化であり、デジタル時代の若者文化の形成において、映像制作が果たしてきた役割を鮮やかに反映しています。

■サオ・フェイ氏が語る来歴とRMB City

 サオ・フェイ氏とはいったい、どのような人物なのでしょうか。作品を見ているうちに、俄然、興味が湧いてきました。調べてみると、ユーチューブに短いインタビュー映像がアップされていたのが見つかりました。2016年に開催された「Bentu Exhibition」でインタビューされたものです。

 それでは、ご紹介しましょう。

こちら → https://youtu.be/3hISycCZp9M

 興味深いのは、サオ・フェイ氏の両親がソ連で活動していたアカデミックな芸術家だったということです。当然のことながら、彼女は両親の資質を受け継ぎ、その影響を受けているのでしょう。

 ところが、彼女は1990年代後半の映像作品、とくに芸術映画に深く影響されたと語っています。そこにはアカデミックな教育システムにはない刺激があって、引き込まれ、その後の作品にそれは反映されていると述べています。

 サオ・フェイ氏は、中国の田舎の都市化、現在のグローバル化の動き、そして、人々の生活状況などに関心を抱き、作品化してきたといいます。労働者階級、とくに生産ラインの工場で働く人々が、相互に深くつながり合った世界にいながら、実際は、孤立して生きている状況に焦点を当てて制作してきたと語っています。

 とても興味深く思いました。現代社会の歪みをコンセプチュアルに思考し、デジタル技術を駆使して作品化していくところに現代アート作家ならではの真髄が感じられます。

 RMB city プロジェクトは2007年に始まり2011年に終わりました。この名前をつけたのは、RMBが人民元(Rénmínbì)の略語だからだそうです。RMBをプロジェクト名にすることによって、一連の作品が経済の観点から、中国の都市化のプロセスを凝縮していることが示唆されています。

 RMB cityと名付けられた作品に、次のようなものがあります。


RMB City 5, 2008, digital c-print, 120 × 160 cm

 1978年に広州で生まれた彼女は、改革開放後の中国の市場経済化を目の当たりに見て成長してきています。

 その成長過程で、社会に及ぼす経済の力を様々な局面で見てきたのでしょう。この作品には随所に市場化の要素が見られます。ポップカルチャーの影響も感じられますが、抑制されて表現されています。両親から受け継いだアカデミズムの影響でしょうか。

■現代社会を捉えるアーティストの感受性

 2007年にこのプロジェクトを始めたとき、サオ・フェイ氏はもっと楽観的な見方をしていたといいます。ところが、次第に中国経済は衰退し、2011年にこのプロジェクトを終える頃には、経済危機に陥り始めていたと彼女は述べています。

 当時、まだ世間一般にそのような認識はなく、人々はオプティミスティックで、楽しいことに夢中でした。ところが、彼女はそうではありませんでした。芸術家ならではの繊細な感覚で、彼女なりに中国の経済的危機を感じ取っていたのでしょう。

 作品のモチーフとして現代社会を照射したとき、見えてくるのは労働者の疲弊した姿、あるいは、孤立した姿だったのでしょう。メディアが発達し、相互に深くつながりあえる社会になっていながら、実はそうではないところに、彼女は社会の歪みを感じたのでしょう。

 社会を支え、経済を回していく役割を担っている労働者がそんな姿でいるところに、彼女は危機を感じ取っていたのかもしれません。労働者の心理的危機は社会そのものの危機であり、結果として経済の危機につながっていくのです。

 実際、2011年の中国の実質経済成長率を見ると9.2%で、2010年の10.4%よりも落ちています。しかも、年初から次第に成長率は落ちていき、10月-12月期は8.9%へとペースダウンしています。数字が物語っているように、実際は、もはや楽観的ではいられない状況になっていたことがわかります。

 サオ・フェイ氏の挑戦的な作品に気を取られ、つい、横道にそれてしまいました。2020年アート・バーゼルの中止から、コロナ下の美術市場を考えるつもりが、サオ・フェイ氏の刺激的な作品に出合ってしまいました。改めて、作品の力は作家の洞察力、思考力、感受性に支えられていると感じさせられました。(2020/8/31 香取淳子)