■出光タンカー、ホルムズ海峡を通過
高市早苗首相は4月29日、自身のX(旧ツィッター)で、日本のタンカーがホルムズ海峡を通過し、日本に向けて航行していることを明らかにしました。船は出光の大型原油タンカー「出光丸」で、日本人3人が乗船しているといいます(※ 共同通信 2026年4月29日16:30配信)。
にわかには信じられない朗報でした。
イラン国営英語放送局プレスTVも、ホルムズ海峡の通過に際し、出光丸がイラン当局の許可を取得したと報じていました。出光丸は、必要な手続きを終え、3月初めにサウジアラビアで200万バレルの原油を積み込み、アラブ首長国連邦(UAE)のアブダビ沖で停泊した後、4月27日にホルムズ海峡に向かったと、刻々と変化する状況を詳細に伝えました。
出光丸のホルムズ海峡通過は、事実だったのです。実際、出光丸の航路は、マリントラフィックでも確認することができます。

(※ 日経新聞、2026年4月29日6:03配信)
出光丸は、日本企業のタンカーとしてはじめて、事実上、封鎖されていたホルムズ海峡を通過できたのです。
正確にいえば、出光丸は、日本向けに原油を輸送する日本のタンカーで、はじめて、事実上、封鎖されていたホルムズ海峡を通過したタンカーだったのです。
ペルシャ湾内には、日本関連のタンカーがまだ40隻も、停泊させられていました。
日本船主協会は29日、「全ての船員と船舶が一刻も早く安全かつ円滑に脱出できるよう支援をお願いする」と会長名でコメントを発表しました(※ 読売新聞、2026/04/29, 22:02配信)。
外務省も、「残りの日本関係船舶を含め、全ての国の船舶がホルムズ海峡を自由で安全に通過できるよう、引き続きイラン側に働きかけていきます」としています(※ https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/pressit_000001_03683.html)。
■ホルムズ海峡通過のための条件
ホルムズ海峡を通航にはイランの「審査」を受ける必要がありました。イランとの関係の緊密さに応じて5段階にランクされ、友好度が高いほど優遇されるというのが実態でした。
出光丸がホルムズ海峡を通過する前に、商船三井系の船舶3隻が、封鎖状態にあるホルムズ海峡を脱出していましたが、いずれも行き先は、イランの「友好国」とされるオマーンとインドでした。日本のタンカーでも行先がイランの友好国であった場合、通行が許可されていたのです。
それだけに、出光丸の通行は異例でした。
政府関係者が、出光丸のホルムズ海峡通過は、「これまでの3隻とは全く意味が異なる」と指摘したほどです(※ 時事通信、2026年5月1日07:07配信)。イランにとっての親密度がきわめて高かったのです。
しかも、政府関係者は、出光丸は「イラン側に通航料は支払っていない」と述べているのです。
ホルムズ海峡通過に際し、原油1バレルあたり1ドルの「通航料」徴収を、イランは法制化していました。ですから、原油200万バレルを輸送した出光丸は、本来なら、約200万ドル(約3.2億円)支払わなければなりませんでした(※ 読売新聞オンライン、2026年4月4日22:16配信)。
出光丸がどれほどイランから厚遇されていたかがわかろうというものです。
■出光丸はなぜ、通行できたのか?
出光丸がホルムズ海峡を通過できたからといって、他の日本のタンカーが同じように通過できるかどうか、わかりません。依然として不透明な状況が続いています。
それだけに、なぜ、出光丸だけが通過できたのか、不思議です。
思い起こすのは、今回の件について、在日イラン大使館が、日章丸に言及してメッセージを発信していたこと、各メディアがそれぞれ、「日章丸事件」と関連づけて報じていたこと、等々です。
たとえば、日テレNEWS(2026年4月29日放送)は、出光丸ホルムズ海峡通過の経緯を4分27秒の映像にまとめています。その中に、1953年の「日章丸事件」に触れたカットがあります。

(※ https://www.youtube.com/watch?v=phrpnXB5QGQより)
日本のタンカーのほとんどがまだ通過できていません。そのことを思えば、出光丸がホルムズ海峡を通過できたのは、出光興産のタンカーだったからだということは明らかです。
イラン当局は、出光興産の創業者・出光佐三に敬意を表して、出光丸の通行を許可したといえます。出光佐三の勇気ある行動が、73年後のホルムズ海峡危機に、絶大な効力を発揮したのです。
本来、国と国とが行う外交の場で、出光興産という一民間事業社が異彩を放ったのです。
■「日章丸」事件とは?
今回と同様、ペルシャ湾の海峡封鎖による危機が、73年前に起きていました。
1951年3月20日、イラン国民議会専門家委員会で、石油の国有化法案が可決され、4月には上院でも可決されました。モサデク首相は、石油の国有化を宣言し、5月に、イギリスのアングロ・イラニアン石油会社(AIOC、現BP)の資産を国有化しました。
怒ったイギリスは、自国の利権を守るため、ペルシャ湾の海上封鎖を強行しました。イラン産石油を「盗品」とみなし、他国が購入・輸送することを軍事力で阻止したのです。これが、アバダン危機と呼ばれているものです(※ Wikipedia)。
そのアバダン危機のさ中の1953年、出光興産のタンカー「日章丸」が、イラン産原油を搭載してイギリスの封鎖網を極秘裏に突破し、日本へ持ち帰りました。これが、「日章丸事件」と称されるもので、出光興産の創業者・出光佐三が決行しました。
出光興産のHPとWikipediaの記事を踏まえ、時系列で日章丸の動きを辿ってみることにしましょう。
1953年3月、日章丸は、行き先をサウジアラビアと偽装し、日本を発ちました。

(※ https://enjoyfull.blog.fc2.com/blog-entry-1594.htmlより)
イギリス海軍の監視網をかいくぐるため、日章丸は、無灯火走行や偽装航路を用いてアバダン港に到着したといいます。まさに決死の航行だったのです。
そして、4月、日章丸はイラン産の原油を満載して、アバダン港を出航しました。イギリス軍艦に発見されるリスクを冒しながら、封鎖を突破しました。その際、船底部を僅かに擦りながら、浅瀬をぎりぎりで突破したといいます。
日章丸は闇に紛れてホルムズ海峡を通過し、イギリス海軍駆逐艦3隻との接触を回避するため、大きく迂回して、スンダ海峡を通過しました。その後もイギリス軍を巧みに回避しながら、航路を選んで航行し、南シナ海に到達してようやく、無線封鎖を解除しました。
日章丸が、なんとか出光本社と連絡を取ることができるようになったのは、日本の領海に入った4月30日のことでした。
封鎖を突破した日章丸に激怒したイギリスは、駐英大使を呼び出し、4月30日、日本政府に対し厳重に抗議しました。日本政府と外務省は、ひとまず、日章丸の件は何も知らず、民間の取引には介入できないとイギリスに弁明しています。
5月7日、日章丸が日本の領海に入ったのを確認すると、AIOCはすぐさま、仮東京地裁に処分申請を提出しました。その結果、日章丸が5月9日に川崎港へ帰還したその日に、東京地裁で、第一回口頭弁論が開かれることになりました。
イギリスの出方はすべて、出光佐三の読み通りでした。
■出光佐三の緻密な戦略
出光佐三は、AIOC社が東京地裁に、日章丸が輸送した石油の差し押さえを請求してくると予測していました。それだけは、なんとしても、避けなければなりません。そこで策を練りました。裁判の前に積み荷の陸揚げを完了するための戦略を練り上げたのです。
4月30日、日章丸が日本の領海に入ると、無線封鎖を解除しました。出光本社と連絡を取ることができるようになると、出光佐三はさっそく、「5月9日(土曜日)正午、川崎港に帰着せよ。午後より陸揚げの予定」と暗号電報を打ちました。裁判を想定した動きでした。
裁判所は、日曜日が休みです。日章丸が5月9日の土曜日に港に着くようにすれば、土曜日午後から日曜日にかけて陸揚げを完了させることができると考えたのです。
その一方で、東京と横浜の地裁に上申書を提出し、「AIOC社が提訴してきても、すぐに差し押さえの裁定を出さないで、こちらの言い分も聞いて欲しい」と訴えました。双方の口頭弁論が終わらなければ、判決は出せません。
5月9日の土曜日で口頭弁論が終わらなければ、時間稼ぎができ、積み荷の陸揚げを完了させることができます。
イギリスの動きを読み込んだ出光佐三の戦略でした。
■イギリスの対応と出光の対策
イギリスは、訴訟に向けた動きを進めていました。呉に駐屯しているイギリスの残留軍が、飛行機を飛ばして、土佐沖を航行している日章丸を確認しました。AIOC社はこの情報に基づき、5月6日、東京地裁に、積み荷の「処分禁止の仮処分の申請」を提出しました。積荷の所有権を主張して、東京地裁に提訴したのです。
受けて立つ出光は、5月7日、記者会見を開き、「イラン石油の買い入れは国際的にも国内的にも公正な取引であり、英国政府の関与すべき筋合いではない」と発表しました。すると、国内の自動車業界6団体は、「イラン石油輸入を積極的に支持する」と宣言し、一斉に出光興産を援護射撃しました。(※ https://enjoyfull.blog.fc2.com/blog-entry-1594.html)
出光佐三は、まず、自動車業界を味方につけたのです。
東京地裁は、日章丸の仮処分をどうすべきかの公判を5月9日に開くことを決定しました。出光佐三氏が予測した通りの日程でした。
裁判の争点は、日本に石油を運んだ出光興産のタンカー「日章丸」の積荷が、AIOCの所有物か、イラン政府の財産か、でした。5月16日に、東京地裁で第二回口頭弁論開かれ、5月27日には、東京地裁が、AIOC社の仮処分申請を却下しました。この判決を受けて、 外務省は、この件に政府は何ら関与していない旨を発表しています。
裁判では出光側の正当性が認められました。AIOC社は即日控訴しましたが、10月29日になって控訴を取り下げたため、結果的に出光側の勝訴に終わりました。
出光佐三の読みの深さ、的確でスピーディな行動力が勝訴を導いたのです。
■出光佐三はなぜ、イランから石油を買い付けたのか?
当時、石油メジャーを介さず、独自ルートで石油を輸入することはきわめて難しく、これが日本経済の発展を阻害する一因になっていました。一方、産油国のイランは、石油メジャーに反旗を翻したせいで、石油を売ることができず、経済危機に陥っていました。
石油の国有化宣言以降、イラン国民の生活は困窮を極めていました。そのような事態を重く受け止めた出光佐三は、石油メジャーを介さず、直接、イランと取引することを決意しました。
危険極まりなく、大胆不敵な考えでした。
粘り強い交渉の末にようやく、水面下で、取引の合意を得た出光は、1953年3月23日、日章丸を極秘裏に神戸港から出港させました。行先を知っていたのは、出光佐三ほか船長を含めたわずか数人です。
航路上の危険な個所を入念に調べあげ、イギリス海軍の包囲網をかいくぐって、ようやく、イランから石油を日本に持ち帰ることに成功しました。
出光佐三は、この件について、「出光の利益のために石油を輸入したのではない」と述べ、さらに、「横暴な国際石油カルテルの支配に対抗し、消費者に安い石油を提供するために輸入したのだ」とも述べています。
このような言動の中に、出光佐三の経営哲学が示されています。どんなリスクをも顧みず、人のため、社会のために行動するというのが彼の信条でした。それは、義侠心あふれる心情に支えられていました。
出光佐三が断行した日章丸の快挙は、世界に一大センセーションを巻き起こし、日本が産油国と直接取引をする先駆けとなりました。
■出光佐三とはどういう人物だったのか?
出光佐三(1885-1981)は、1911年に出光商会を創業し、1940年に出光興産を設立して以来、一貫して石油販売を手掛けています。一代で石油元売り業界大手へと事業を成長させました。「人間尊重」、「大家族主義」を基本理念とし、人のため、社会のために石油メジャーに立ち向かった熱血漢でした。

(※ idemitsu HPより)
出光のHPには、「人間尊重」、「大家族主義」、「独立自治」、「黄金の奴隷たるなかれ」、「生産者より消費者へ」等、5つの主義、方針が掲げられています。
まずは、社員の人格を尊重し、国のため、人のために働くことを志向する(人間尊重)。
次いで、社員を家族の一員とみなし、解雇することなく、あらゆる課題に家族として取り組(大家族主義)。
そして、各社員は持場において独立した存在であり、その範囲 で全責任を負う(独立自治)。さらに、事業が主で、資本蓄積を従とし、将来の事業の進展を邪魔するような儲け方をしてはならぬ(黄金の奴隷たるなかれ)。
最後に、営業は社会の利益に立脚し、生産者に代わって消費者を探し、消費者に対しては専門的の知識を供与する(生産者より消費者へ)。等々。
出光佐三は、以上のような方針で事業経営を行っていました。資本主義というよりは、まさに、人本主義といえるような主義を貫いたのです。
終戦直後の興味深いエピソードを一つ、ご紹介しましょう。
■GHQから命じられ、廃油回収作業
終戦後、GHQは、旧海軍所有の石油タンクの残油を有効処理し、配給するよう、石油各社に要請しました。この作業には、引火してガス爆発する可能性がありましたし、タール中毒の危険性もありました。さまざまな危険が懸念される大変な仕事でした。各社が辞退するなか、出光佐三は断固として引き受けました。
「廃油を活用することは、社会的に必要な事業であり、いかに困難でも誰かがやらねばならぬ」と判断したからでした。過酷な作業を引き受け、全国8か所の燃料タンクから、廃油を回収することを決めたのです。
タンクの底に入って廃油を汲み取る作業は、機械では難しく、出光の若手社員たちが手作業で行いました。

(※ idemitsu HPより)
若手社員たちは、タール中毒、ガス爆発の危険を冒しながら、日夜、働き続けました。鼻を衝くようなタールの悪臭がこもる中、顔も体もコールタールまみれになりながら、きつい作業を完了させました。1年4か月かけて、ようやく約2万KLの残油を回収したのです。
厳しい回収作業中に一瞬、手を止めて、カメラを見つめる彼らの表情がなんと清々しいことでしょう。労働の喜びと、人のため、社会のためにきつい仕事を引き受けた、若手社員たちの仕事にかける気概があふれています。
日本が廃墟となり果てた終戦直後、廃油までも有効利用するための作業でした。命じた出光佐三も命じられた若手社員たちも、危険を顧みず、日本の明日のために頑張ったのでしょう。
出光佐三は、「難事業こそ、彼ら(出光社員)をしてどんな苦難にも耐え抜く強い精神力と実行力とを養わせることになるであろう」と述べています(※ idemitsu HP)。
■人のため、社会のために
出光興産は、GHQに命じられた廃油回収を完了させたことで、石油業界に復帰することができました。希望が見えてきたのです。廃油回収作業は、出光の企業姿勢を象徴する出来事でした。
その後、1953年に起こったのが、日章丸事件です。
出光興産の勝訴によって、石油メジャーによる市場独占が揺らぎ始め、資源ナショナリズムの波が世界中に広がる契機となったといわれています。
その一方で、イランとの間に揺るぎない信頼関係が生まれました。
世界中が、石油メジャーのイギリスを恐れて、イランに背を向ける中、リスクを冒して石油を買いに来た日本(出光)に対し、イラン国民は深い恩義を感じました。これが現代まで続く「親日感情」の原点となっているといわれています。
石油メジャーが禁止しているイランからの石油の買い付けは、きわめてリスキーな行為でした。なにより日英関係を悪化させることは歴然としていました。実際、一時的に緊張が高まりましたが、日本政府は、表向き「関与しない」という姿勢を貫きました。「日昇丸事件」は、民間の商行為であって、政府は関与しないと表明し、決定的な国交悪化を回避しました。
当時の日本は、まだ敗戦の痛手から立ち直っておらず、貧乏な極東の敗戦国にすぎませんでした。その日本の一民間業者が巨大な石油メジャーに立ち向かったのです。リスクを引き受けることのできる人間でなければ、このような偉業は達成できなかったでしょう。
また、人のため、社会のために事業を行うという信念がなければ、リスクを冒してまでメジャーに背く取引を決行することはできなかったでしょう。
イギリス軍から把握されることを恐れ、無線を遮断して、航行を続けた日章丸の船長や乗組員たちの気概もまた、出光佐三の信念に勝るとも劣らないものがあったでしょう。皆が一丸となって、利権を独り占めする石油メジャーと戦っていたのです。
さて、世界を驚かせるような離れ業を断行した出光佐三は、73年後のいま、思いもかけない朗報を日本にもたらせてくれました。出光丸だけが、日本向けに石油輸送をしながら、ホルムズ海峡通過をイラン当局から許可されたのです。
この一件からは、外交の基本がどこにあるのかを思い知らされました。
73年前の日本(出光)に恩義を感じたイラン当局は、その後も日本に信頼感を抱き続けてくれました。信頼の積み重ねこそが外交を支える基本なのだということがわかります。
さらに、外交は政府だけではなく、民間事業者も担っているのだということも思い知らされました。取引関係の中で育まれていく信頼関係が、外交を支える基盤の一つになっているのです。
外交に必要なものは、決して、「見栄えのする」瞬間的なパフォーマンスではありません。相手国への誠意であり、恩義に報いる心構えであり、信頼の積み重ねだということを、出光丸ホルムズ海峡通過の一件で、改めて、感じさせられました。(2026/5/6 香取淳子)






















