ヒト、メディア、社会を考える

香取淳子のメディア日誌
このページでは、香取淳子が日常生活の中で見聞きするメディア現象やメディアコンテンツについての雑感を綴っていきます。メディアこそがヒトの感性、美意識、世界観を変え、人々の生活を変容させ、社会を変革していくと考えているからです。また、メディアに限らず、日々の出来事を通して、過去・現在・未来を深く見つめ、メディアの影響の痕跡を追っていきます。


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オリンピックを機に、字幕付与サービスは向上するか?

■新宿西口通路の壁面

 大江戸線都庁前駅から新宿に向かう西口通路の壁面に、オリンピック・パラリンピック大会の告知映像がいくつも展示されています。観光客が時折、その前でポーズを取り、写真を撮っているのを見かけます。そんな時、スポーツの祭典であるオリンピックは観光資源でもあったことに気づきます。

新宿西口通路

 展示されていたのは工学院大学前の壁面です。

 市松模様を組み込んでデザインされたマスコット・キャラクターがいかにも幾何学的で、未来の技術を連想させます。まるでヒト型ロボットのようだと思った途端、ネットで見かけた画像を思い出しました。

 調べてみると、これは、2020年東京大会のために制作されたマスコットロボットでした。身長160㎝、体重15.7㎏で、ミライトワと命名されています。離れたところからロボット同士が握手することができ、搭載されたカメラでヒトの接近を感知し、相手の動作ごとに目の表情を変化させることができるといいます。

(※ https://tokyo2020.org/jp/games/vision/innovation/data/robot_panel_A4.pdf

 実は、オリンピックは日本の技術力を世界に向けてアピールできる場でもあるのです。オリンピックを機に、大会で使えるさまざまなロボットが開発されていました。

https://global.toyota/jp/newsroom/corporate/28713215.htmlより)

 たとえば、ミライトワのようなヒューマノイドロボット、遠隔地コミュニケーションサポートロボット、フィールド競技サポートロボット、等々です。オリンピック、パラリンピックをサポートするためのロボットが、機能別にさまざま製作されていました。

 中には、超高齢社会を見据えて開発されたような生活支援ロボットもあります。こちらは、オリンピック大会時には観戦サポートロボットとしての役割を担うといいます。いずれも情報通信工学を使ったものです。

(※ https://tokyo2020.org/jp/games/vision/innovation/

 それでは、情報通信工学技術はオリンピックを機に、私たちに何をもたらしてくれるのでしょうか。

■オリンピックを機に、ICTの進展を目指す

 『平成30年版情報通信白書』によると、総務省はオリンピックを機に、日本の持続的成長を見据え、次のようなアクションプランを策定しています(※ https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/h30/html/nd261210.html )

アクションプラン概要図 総務省より

 

 これを見ると、上部に、「言葉の壁をなくす」、「情報の壁をなくす」、「移動の壁をなくす」、「日本の魅力を発信する」といった項目が提示されています。これらが目標なのでしょう。2020年東京大会を機に、言語、情報、移動のバリアフリー化を進め、日本の魅力を発信するためのICTの利活用が企図されていることがわかります。

『令和元年版情報通信白書』では、昭和、平成、令和に至るICTの発展プロセスが図で示されています。

(※ https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/r01/html/nb000000.html

ICTの発展 総務省より。

 

 この図からは、令和の始まりとともに、Society5.0を本格始動させようとしていることがわかります。平成後半にはモバイルメディアであるスマホが普及し、令和2年(2020年)には携帯各社が5Gサービスを開始します。社会を支える情報通信インフラが大きく変化していく時期にさしかかっているのです。

 IoT、AI、ビッグデータなどもすでに実用段階に入っています。オリンピックが開催される2020年はまさに、テクノロジー主導で激動する時代の幕開けになるのです。

 それでは、高度なICTを使ってどのようなサービスが可能なのでしょうか。

 先ほどのアクションプラン図を見ると、真ん中から下に4項目の内容が書かれています。それぞれ、期限を設けた実現目標も書かれていますから、政府が2020東京大会を目途に社会のICT化を進め、バリアフリー化を実現していこうとしていることがわかります。

■バリアフリー化の推進

 確かに、オリンピック、パラリンピック大会に備え、移動、言語や情報のバリアフリー化が進められています。

『令和元年版障碍者白書』を見ると、2020年東京大会に向けた取組みが説明されています。

(※ https://www8.cao.go.jp/shougai/whitepaper/r01hakusho/zenbun/pdf/s1_3.pdf

 具体的には、「心のバリアフリー」、「ユニバーサルデザインの街づくり」などが挙げられており、それぞれについて行動目標が示されています。障碍者や訪日する外国人に分け隔てなく接する心構えを養うとともに、彼らが不自由なく移動でき、コミュニケーションできるよう、社会環境を整備しようというのです。

「ユニバーサルデザインの街づくり」で設定された6項目のうち、第5項目に、「ICTを活用したきめ細かい情報発信・行動支援(バリアフリー情報提供機能強化等)」があります。これは外国人や視聴覚障碍者等に対する情報保障であり、障碍者に対する移動保障といえるものです。

 その内容を見ると、無料公衆無線LAN環境の整備、「言葉の壁」をなくす多言語音声翻訳システムの高度化、4K・8Kやデジタルサイネージの推進、第5世代移動通信システムの実現、といった具合です。盛りだくさんの内容に見えますが、5Gを活用して言語や情報のバリアフリー化を目指そうとしている点で、これは明らかに訪日する外国人を対象にした取組みです。

 もちろん、言語や情報バリアフリーのために開発された技術はいずれ、視聴覚障碍者や高齢者にも役立つよう改変されていくでしょう。

 日本はいま超高齢社会に突入しています。高齢化に伴い、さまざまなことが懸念されるようになっています。その最たるものが、高齢者の心身機能の低下に伴うコミュニケーション不全状況をどのように回避できるかということでしょう。

 オリンピック、パラリンピックを機に、言語や情報のバリアフリー化が推進されれば、閉会後、超高齢社会が抱える課題の一つが解決されるようになるかもしれません。

 それでは、多言語音声翻訳システムがどのようなものなのか、みていくことにしましょう。

 2014年3月19日、多言語対応の強化・推進のために多言語協議会が設置されました。2020年オリンピック・パラリンピック東京大会の開催に向けて設立された組織です。その後、多言語協議会は、国や地方の関係機関、民間の関係機関や企業と連携し、協働してシステムの開発に取り組んできました。

(※ https://www.2020games.metro.tokyo.lg.jp/multilingual/council/pdf/kangaekatah290622.pdf

 その結果、開発されたのが、「ボイストラ(VoiceTra)」という名前のアプリです。現在、31か国語に対応しており、無料で使うことができます。インストールのマニュアルは日本語と英語で提供されており、操作方法などもわかりやすく提示されています。

こちら → http://voicetra.nict.go.jp/manual.html

 VoiceTraの「紹介編」と「使い方編」が動画で提供されていました。ここでは、「使い方編」を見てみることにしましょう。

こちら → https://youtu.be/RSvsBv6TZ7M

 日本語音声に日本語字幕が付いています。この動画には他言語版として英語、中国語、韓国語が用意されています。求める言語をクリックすると該当ページに移動します。これを見ると、内容は単純ですが、必要最小限度のコミュニケーションはできるようになっています。日本語がわからない外国人にとっては貴重なデバイスです。もちろん、外国語のわからない日本人にとっても有益です。

 もっとも、ヒトのコミュニケーション内容は多様ですから、これだけで済むはずがありません。より満足できるコミュニケーションを目指そうとすれば、語彙を増やし、翻訳の精度を向上させる必要があります。それには翻訳データベースの充実を図ることが必要でしょう。そう思って調べてみると、総務省と情報通信機構(NICT)はすでに翻訳バンクを構築し、運用を開始していました。

(※ https://www.nict.go.jp/press/2017/09/08-1.html

 翻訳バンクは次のようなコンセプトで構築され、運用されています。

多言語バンク 情報通信機構より。

 

 ここで示されたように、さまざまな分野の翻訳データを数多く蓄積すれば、翻訳の精度を高め、より多くの分野の翻訳に対応できるようになります。AIによってビッグデータを活用することによって、量が質を向上させていくのです。

 その一方で、データの提供者には使用料の軽減を図ることで対応していくとしています。双方にメリットがあるよう計らいながら、翻訳バンクの充実を目指しているのです。ビッグデータとAIの利活用によって、時間が経てば、使い勝手がよく、利用者の満足度の高いシステムになっていくでしょう。

■言語、情報のバリアフリー化

 政府はオリンピック開催を機に、外国人滞在者のための言語、情報のバリアフリー化を推進しようとしています。

 その基本理念は、「多様な主体が表示・標識等の多言語対応に取り組むことにより、外国人旅行者が 円滑に移動し、安心して快適に滞在できる都市環境の向上を目指す」と書かれています。

(※ https://www.2020games.metro.tokyo.lg.jp/multilingual/council/pdf/kangaekata.pdf?1412)。

 対象者は、「2020 年オリンピック・パラリンピック東京大会開催時の外国人旅行者、観光・ビジネス等で日本を訪れる外国人旅行者」とされています。彼らに対し、「日本語+英語及びピクトグラムによる対応を基本としつつ、需要、地域特性、視認性などを考慮し、必要に応じて、中国語・韓国語、更にはその他の言語も含めて多言語化を実現」し、利便性を図っていくというのです。日本に短期間滞在する外国人を対象にしていることがわかります。

 対応するツールとしては、「交通機関や道路の案内表示や標識等、 飲食や宿泊、観光やサービス施設における案内表示や標識等、音声案内、パンフレット、ICTツールなどの各種媒体」が挙げられています。

 これを見る限り、言語、情報のバリアフリーを謳いながら、基盤メディアであるTVは対象になっていないことがわかります。どうやら、来日した外国人が滞在期間中に不自由なく行動できるように、案内や標識を多言語化するのが主な目的のようです。

 考えてみれば、日本を訪れる外国人旅行者数は激増しています。2013年に初めて1000万人を突破して以来、2014年には1300万人を超え、2016年には約2400万人といった具合です。このような状況からみれば、2020年の東京大会には、さらに多くの外国人旅行者が日本を訪れることでしょう。来日した外国人が快適に滞在できるよう、言語や情報のバリアフリー化を進めるのは当然のことです。

 ところが、この施策の中にTV字幕は対象とされていませんでした。「ユニバーサルデザインの街づくり」の下、標識や案内などのバリアフリー化が推進され、無料公衆無線LAN環境の整備が提唱されているにもかかわらず、基盤メディアともいえるTVの字幕は対象とされていないのです。

■なぜ、TV字幕は言語・情報のバリアフリー化の対象ではないのか

 2020年東京大会に訪れる観光客やそれ以外の目的で訪れる外国人、いずれもホテルに宿泊し、何日間かの滞在中、日本のTVを見るはずです。

 オリンピックで来日したとなれば当然、ホテルでTV観戦するでしょうし、ニュースや日本のドラマなども見たりするでしょう。TVはありのままの日本を知ってもらうには絶好の媒体なのです。

 来日した外国人はホテルに着くとまずTVを見ます。その際、画面から流れる日本語音声に英語字幕だけではなく、日本語字幕も表示できるようになっていれば、どれほど喜ばれることでしょう。

 字幕があれば、日本語のわからない外国人でも音声と文字とを照合しやすく、理解しやすくなります。日本語字幕があれば、TVを見て日本語の学習意欲が喚起されるでしょうし、手軽な日本語学習ツールにもなります。日本語字幕のおかげで少しでも日本語を理解できるようになれば、日本への関心も高まるでしょう。

 もちろん、日本語字幕は外国人のためばかりではありません。聴覚障碍者や聴覚機能が低下している高齢者にも役立ちます。そう考えると、オリンピック、パラリンピックを機に言語、情報のバリアフリー化を目指すなら、誰もが接触するTVに日本語と英語の字幕を表示できるようにすることは不可欠でしょう。

 そもそも放送事業は総務省の管轄下にあります。ですから、総務省がTV字幕についてどのような見解を抱き、どのような政策を展開しているのか知っておく必要があるでしょう。果たして総務省の見解はどうなのでしょうか。

 調べてみると、アクセシビリティの観点から、総務省は平成30年度(2018年)に、今後10年間の字幕放送、解説放送及び手話放送の普及目標を定めた指針を策定していました。

(※ https://www.soumu.go.jp/main_content/000642553.pdf

 平成9年(1997年)以降、総務省は10年ごとに普及目標を設定し、着実にTVアクセシビリティの向上に努めていたのです。

■放送分野におけるアクセシビリティに関する指針

 2018年2月7日、総務省は『放送分野におけるアクセシビリティに関する指針』を策定し、次のように発表しました。

こちら → https://www.soumu.go.jp/main_content/000531258.pdf

 主な改正点としては,「字幕放送の普及目標対象放送時間を1時間拡大して18時間に」、「独立U局を除く県域局と放送衛星で、字幕・解説放送の目標数値を明示」、「NHK、地上系民放(県域局以外)の解説放送目標を15%に引き上げ,手話放送で初めて数値目標を設定する」等々です。

 この指針を策定する前に総務省は、『放送分野におけるアクセシビリティに関する指針』(案)として提示し、パブリックコメントを募っていました。その結果、次のような意見が提出されました。法人から10件、個人から10件です。

こちら → https://www.soumu.go.jp/main_content/000531717.pdf

 全般に解説放送に関する意見が多くみられます。字幕放送に比べ、対応が不十分だからでしょう。今回の指針で多少、改善されています。

 放送アクセシビリティとしては当然、解説放送を充実させていかなければなりませんが、ここでは字幕放送についての意見の中で印象に残ったものを取り上げることにします。個人、NHK、民放の一部から提出された意見は概略、次のようなものでした。

個人:「非常時や年末年始の字幕がなくなってしまう際、音声認識ソフ トを活用して代替する」、「情報保障という考え方を業界に浸透させる」、「海外の事例を参考に、国内でも字幕付与の義務化を実現してほしい」、「インターネットで公開する際にも字幕付与を進め てほしい」「パラリンピックの放送は、今の所、NHKのみです。しかもEテレと言う状況でこれを総合テレビに格上げしてほしいのと皿に民放でも放送できないものか検討して頂きたいものです。2020年東京五輪より民放でもパラリ ンピックも放送できないか?各局で話し合って頂きたいものです」

NHK:「NHKは、「指針(案)」に示された普及目標の対象となる放送時間について、視聴者の多い時間帯に付与することが望ましいとの方針も含め、妥当であると考えます。衛星放送への字幕付与については、生放送番組の字幕付与体制が整っていないなどの課題がありますが、字幕付与の効果がより高いと期待されるBSプレミアム を中心に拡充に努めてまいります。また深夜、早朝の時間帯であっても、台風等の影響が予測される場合は字幕放送の体制を整えて臨むとともに、大規模災害が発生したときにはできるだけ速やかに体制を整え、字幕放送を開始できるよう努めていきます。字幕の表示方法についても、改善すべく研究を進めます。一方で、 諸外国と比較し、日本では字幕放送に求められる正確さの水準が 高いことが、字幕放送普及を難しくしていることを踏まえ、関係 各署と制度面の課題について検討していきたいと考えています」

中京TV:「字幕放送制作に係る費用や人材確保の負担は極めて大きく、指針案に示された 2018 年度以降の目標達成は簡単ではないと認識しています。 弊社は、広域局とはいえ在京局や在阪局と比較すると規模や資 金面では大きな差があります。今後、音声認識技術の向上や自動字幕生成技術の発展がない限り、在京局や在阪局と同水準の目標達成については、多くの困難があると認識しています。以上のように課題も多く厳しい環境ではありますが、目標達成に向けて取り組んで参ります」

 字幕についての意見で印象に残ったものは概略、以上のようなものでした。これらについての総務省の見解は下記の表の右側の項に示されています。

こちら → https://www.soumu.go.jp/main_content/000531719.pdf

 これらを読むと、字幕放送については現段階で可能なことは相当、達成できているように思えます。果たして実際はどうなのでしょうか。総務省の資料から、字幕放送の直近の実績を見てみることにしましょう。

■字幕放送

 NHK、民放キー局、準キー、ローカル局等の平成30年度(2018年)字幕付与の実績についてみたのが、下記のグラフです。

総務省資料より筆者作成。

 これを見ると、NHK、在京キー局、在阪準キー5局、在名広域4局とも、総務省指針に対応する番組については97.4%、99.8%、99.7%、99.3%といった具合に、かなり高い率で字幕が付与されていることがわかります。NHK教育と系列県域101局は80%台にとどまっていますが、それでも高い付与率です。総務省対応番組への字幕付与は、現段階ではもはや難しいものではなくなっているのでしょう。このデータからは、字幕付与コストが軽減されれば、どの局も字幕付与率はさらに向上すると考えられます。

 総務省は今回の指針で、NHK、民放キー局、準キー局、在阪広域4局には「対象の放送番組全てに付与」とし、系列県域101局には「2027年度までに対象の放送番組の80%以上に字幕付与。できる限り、対象の全てに字幕付与」と数値目標を設定しています。

 ちなみに、「対象の放送番組」とは、次の①~④を除く全ての放送番組を指します。

①技術的に字幕を付すことができない放送番組(例:現在のところ複数人が同時に会話を行う生放送番組)

②外国語の番組

③大部分が器楽演奏の音楽番組

④権利処理上の理由等により字幕を付すことができない放送番組

 総務省がこの指針を策定したのが2018年7月で、グラフで示した字幕放送の実績は2018年度のものです。どの局も対象番組については字幕付与率が高いので、この目標は期間内に達成できるでしょう。

 もっとも、指針には「本指針は、技術動向等を踏まえて、5年後を目途に見直しを行う」とされていますから、上記①から④のうち、②については新たに対象番組に組み入れられるかもしれません。

 上のグラフを見ると、総放送時間に占める字幕付与率がどの局も全般に低いのが気になります。とくに系列県域局、独立県域局で低いのが目立ちます。これらの放送局ではおそらく、事前収録番組よりも、自社制作の生放送番組の比率が高いからでしょう。その方が制作費を抑制できるからですが、その結果として、字幕付与率が低くなっています。

 ローカル局では一般に、制作費を抑制するため、自主制作の生放送番組が多い傾向がみられます。ところが、生放送番組は字幕を付与しにくいうえに、誤りも発生しやすく、しかも、放送局は字幕付与に多大なコスト負担を強いられます。

 NHK、民放キー局、県域局を問わず、放送局にとって、生放送番組への字幕付与が大きな課題になっています。

■総務省字幕支援事業

 日本社会の動向を考えてみれば、超高齢化が今後も続き、労働移民や来日観光客は増え続けます。もはや言語・情報のバリアフリー化だけではなく、基幹メディアとしてのTVに日本語字幕を付与することが不可欠になるでしょう。高齢者や聴覚障碍者だけではなく、外国人をも視野にいれた字幕付与が必要になってくるのです。

 そのような現状認識が共有されているのでしょうか、字幕に関する技術はいま、さまざま開発されており、総務省もその支援事業を進めています。

 総務省が募集した平成30年度字幕支援事業には、2件の事業案が採択されました。1件はマルチスクリーン放送協議会による事業案で、もう一つはヤマハによる事業案でした。

(※ https://www.soumu.go.jp/main_content/000554092.pdf

それぞれ実証実験の結果が報告されているようです。

こちら → https://www.soumu.go.jp/menu_news/s-news/01ryutsu09_02000227.html

 結果を知りたくて、いろいろ探してみました。ヤマハの事業案に関しては報告書も出ていましたが、マルチスクリーン放送協議会の事業案に関してはどこを探しても、その報告書が見当たりませんでした。

 もっとも、マルチスクリーン放送協議会の事業案も実証実験は行われていたようです。『放送研究と調査』2019年1月号で関連記事を見つけましたが、次のように書かれていました。

 「生放送の音声から字幕を自動的に生成しスマートフォンに配信する実証実験が、11月19日から30日にかけて、全国の民放24局で行われた。(中略)今回の実証実験には、在阪民放5社で構成する「マルチスクリーン放送協議会」が開発した「字幕キャッチャー」を使用。このシステムには、NHK放送技術研究所や情報通信研究機構(NICT)の音声認識の技術が導入されていて、各局は5日間、夕方のニュースなどの音声から自動生成した字幕をスマホに配信し、障碍者や高齢者の反応を集めている。協議会によると、「字幕キャッチャー」を用いた場合、遅れは5秒程度にとどまるとしている。一方、文意は読み取れるものの、漢字などが正しく表示されないケースも見られ、視聴者が字幕の正確さをどの程度必要としているかについても調べる」(※ 越智慎司、「生放送の字幕を自動生成しスマホに配信、民放24局で実験」、『放送研究と調査』2019年1月号、p.97.)

 「字幕キャッチャー」を使って実証実験を行い、実際の放送番組を対象に、聴覚障碍者や高齢者の反応も取っていたようです。報告書という形では見つかりませんでしたが、実証実験を行っているのですから、当然、何らかの結果は出ているのでしょう。

 さて、総務省が平成30年度支援事業として採択した2件のうちのもう一つが、ヤマハの「SoundUD」を使って字幕をスマホ等に配信して表示させるシステムでした。

 ヤマハが開発した「SoundUDクラウド」はこれまで、主に交通や防災などの場面で活用されてきました。この実績を踏まえ、TVやラジオの音声を字幕情報として視聴者のスマホに送信するというのがこの事業の特徴です。

 その中核技術になるのが、音声トリガーです。これをTVの字幕付与サービスに活用しようというのです。

こちら → https://www.soumu.go.jp/main_content/000524687.pdf

 このシステムでは、アナウンサーの音声が自動的に認識されて、トリガー生成された発話内容が蓄積サーバに送られ、トリガー音声としてTVで放送されます。発話内容はトリガー情報として、対応アプリをインストールしたスマホに字幕を表示されるといいます。発話内容がトリガー生成されることによって、音声としてもデジタル情報としても活用することができるというのです。

 興味深いのは、画面に字幕を付与するのではなく、セカンドスクリーンとしてのスマホに、字幕を送信するということでした。ヤマハは、このシステムであれば、これまでのTV字幕に伴うさまざまな課題に対処できるといいます。

 つまり、これまでは字幕を付けることによって画面が見づらくなっていましたし、字幕付与のコスト負担が放送局の経営を圧迫するといった課題がありました。インターネット経由で字幕をスマホに表示できるこのシステムでは、それらの課題を一挙に解消できるというのです。(※ https://www.yamaha.com/ja/news_release/2018/18072401/

 実証実験の結果、アプリを利用してスマホに字幕を表示させた場合、外国人は100%(35人/35人)、障碍者(車いす)75%(3人/4人)、聴覚障碍者約90%(27人/29人)の評価を得ています。サイネージの場合も同様、外国人100%、障碍者(車いす)75%、聴覚障碍者80%でした(※『総務省報告書概要版』、p.4. https://www.soumu.go.jp/main_content/000625562.pdf

 このような結果を踏まえ、総務省は「施設管理者および実証実験参加者の双方より、ICTを用いた情報伝達は有効であるとの回答を得ました」と総括しています。

 具体的にいうと、次のような回答が見られました。

「ICTは、属性毎に情報の内容や言語を変えることができ、障碍を持った方や外国人の方にも情報を提供できるため非常に有効である」、

「競技会場のどこにいても一斉に多くの来訪者に情報が伝わるので良いシステムであると思う」、「今回実証したスマートフォンアプリは、電源喪失や通信障害など災害時における情報伝達手段として、非常に有効であると思われる」、

「サイネージは大画面であり、視覚的に情報が見やすい。また、情報を多言語で表示できる点が有効だ」等々です。

 ところが、この報告書をよく読むと、その内容はオリンピック会場でのスマホとサイネージへの字幕表示に関するもので、放送事業に関する記載はありませんでした。

 先ほどもいいましたように、マルチスクリーン放送協議会の字幕事業についての報告書はありませんでした。これらを考え合わせると、両事案とも放送に関する実証実験の結果が良くなかった可能性があります。おそらく、いずれも実用化レベルには達していなかったのでしょう。

 そう思って、調べていると、総務省が補正予算を組んで、聴覚障碍者放送視聴支援事業の募集しているのがわかりました。

■平成30年度第二次補正予算における支援事業

 総務省は2019年2月1日から25日にかけて、補正予案で「聴覚障害者放送視聴支援緊急対策事業」を募集していたのです。平成30年度セカンドスクリーン型実証実験の報告会が開催されたのが3月8日でしたから、1月末には両事案の実証実験の結果が総務省にはわかっていたのでしょう。

 総務省は3月29日、補助金(情報通信利用促進支援事業費補助金)の交付先を決定しています。

こちら → https://www.soumu.go.jp/menu_news/s-news/01ryutsu09_02000228.html

 事業タイトルは異なっていますが、今回も聴覚障碍者に向けた字幕付与事業であることに変わりはありません。そこで、調べてみると、案の定、先ほどの事業案の実証実験で誤って字幕が表示された例が報告されていました。

 具体的にいえば、「所有」と発音したアナウンサーの音声が「醤油」として字幕表示されたり、「六度」が、「鹿路」、「三度」が「サンド」、「七度」が「ななど」といった具合に、数字が誤って認識されてしまったケースです。(※『総務省の情報アクセシビリティ支援の取り組み例』、2019年2月18日)。

 このように、両事業の実証実験では、聞き取りやすいはずのアナウンサーの音声に対して誤った反応を示す例がいくつか見受けられたのです。

 オリンピック、パラリンピック開催までに間もないというのに、両事業案で実用化できるレベルの結果が得られなかったのですから、総務省としても立て直す必要があったのでしょう。この報告書が出されたのが、2019年2月18日でした。この時点で、すでに補正予算による事業募集が始まっていました。

 そして、3月29日に公表された補正予算枠で採択された事業が、国立研究開発法人・情報通信研究機構による「放送番組用音声認識システムによる自動字幕表示システム」でした。

こちら → https://www.soumu.go.jp/main_content/000611220.pdf

 事業の概要欄からは、「自動字幕付与技術の強化により、聴覚障害者や高齢者を含む多くの視聴者がテレビジョン放送の内容を理解し、情報アクセスの機会を確保できるようにする」ことを目的にしていることがわかります。最後に、「本事業の成果を用いて自動字幕表示システムを2020年度に実用化し、実運用することを目指す」と書かれており、ここに総務省の焦りが透けて見えます。

 さて、この研究では、二つのセクションが注目されます。一つは「放送番組用音声認識システム」で、もう一つは「自動字幕表示システムの開発、試験運用及び評価」です。

 まず、「放送番組用音声認識システム」については、2500時間の放送番組からデータを収集して音声データとテキストデータに分けて格納し、それに最新の単語情報を加え、放送番組用にカスタマイズしたものを音声認識システムにあげるという流れになっています。

 興味深いのは、放送番組の多様で大量のデータを音声データとテキストデータとに分けて格納し、いつでも引き出せる状態にしていること、放送番組のデータベースに最新の単語情報を加えてカスタマイズし、音声認識システムに組み込んでいることでした。認識の精度をあげるためでしょう。

 そういえば、マルチスクリーン放送協議会とヤマハの実証実験の際、音声を誤って認識し、字幕表示していたことがありました。おそらく、それを避けるための処置なのでしょう。音声認識に至る前段階で、2500時間分もの放送番組から音声データとテキストデータの集積し、データ量を増やしています。音声認識の精度をあげるために、できるだけ多様で大量のデータベースを構築しているのです。

 次に、「字幕表示システム」の段階では、さらに複雑なシステムになっています。

 音声認識システムを経て、音声認識サーバーに送信されたデータは放送音声等と照合して認識され、字幕蓄積・配信サーバーに送信されます。その後、自動生成された字幕がスマホ、タブレット、セットトップボックス(STB)等のメディアに配信され、表示されます。

 最後に、各媒体の画面に表示された字幕について、聴覚障碍者等の評価を得て、システムを修正していくという仕組みです。

 STBを介したTVではアウトリーチ型字幕となり、スマホではセカンドスクリーン型字幕となります。いくつもの段階で誤表示がないような工夫がされています。これについての実証実験はこれからですが、担当するのが情報通信機構(NICT)ですから、マルチスクリーン放送協議会とヤマハの実証実験の結果を継承した成果が期待されます。

 というのも、ヤマハは音声トリガーとNICTが開発した音声認識エンジンを組み合わせてシステム構築を行っていましたし、マルチスクリーン放送協議会はNHK技研が開発した音声認識エンジンとNICTが開発した音声認識エンジンを使っていました。両事業案とも音声認識エンジンとしてNICTが開発したものを使っていたのです。今回の実証実験では、NICTが開発した音声認識エンジンに一本化して実用化が試されることになるのです。

■今後はAIハイブリッド型字幕・・・?

 2018年2月に発表された総務省の指針によって、ローカル局も2027年までに生放送番組への字幕付与に取り組まざるを得なくなりました。資本力、マンパワーが不足しているといって回避していられない事態になっているのです。

 2020年1月16日の日経新聞で、テレビ愛知がTV生字幕配信の実証実験を行うことを知りました。1月27日から31日放送の「ゆうがたサテライト」と2月2日放送の「データで解析!サンデージャーナル」で実証実験を行うというのです。

こちら → https://www.nikkei.com/article/DGXMZO54448050W0A110C2000000/

 これは、TV音声をリスピーク方式と手入力方式で修正し、インターネットを通して字幕配信するというものです。受信機はパソコン、タブレット、スマホなどでセカンドスクリーン型字幕、あるいはTVのアウトリーチ型字幕になります。放送期間中に利用者に対しアンケート調査を実施し、今度の字幕配信や番組制作に役立てるといいます。

 このシステムはアセット・ジャパンが開発したもので、同社はすでに聴覚障碍者のために、「情報保障サービスe-ミミ」を展開しています。

 この延長線上に、今回のインターネットを介してTV字幕を配信するシステムを考案したのです。

 そもそもは筑波技術大学等が開発した「モバイル型遠隔情報保障システム」の技術を基盤に構築されたものでした(※ https://www.tsukuba-tech.ac.jp/ce/mobile1/index.html)。

 聴覚障碍者にとって、現在のTV字幕にはいくつか問題があります。とくに生放送字幕には大きな問題があります。それは、画面と字幕表示とに時間的なズレが生じることです。

 新聞報道によると、テレビ愛知が実験したWeb字幕でも、音声を文字に変換し、数秒後にウェブ配信し字幕表示すると書かれています。このシステムで、音声と字幕表示とのタイムラグは解消できるのでしょうか。それがちょっと気になりました。

 さて、これはAIハイブリッド型字幕になります。テレビ愛知に限らず、各放送局は今後のTV字幕について、このようなAIハイブリッド型を検討しているようです。

 たとえば、TBSの場合、CS放送向けの24時間報道チャンネル「TBS NEWS」に字幕を付与するシステムを開発し、第45回放送文化基金賞を受賞しました。

(※ https://www.tbs.co.jp/company/news/pdf/201906051700.pdf

 このシステムでは、「アナウンサーが読むニュース原稿を字幕システムに取り込む方式」、「地上波ニュースで放送済み字幕を取り込む方式」、「音声認識AIを利用して字幕を生成する方式」の3つを併用したハイブリッド方式を採っています。このような方式を採用した結果、字幕の正確性、スピードアップ、運用のコストダウンを実現できたといいます。

 2018年9月にこのシステムを本格的に運用して以来、大きなトラブルもなく、24時間TVニュースに字幕を付与できたことが評価されたのです。開発者の木村浩也氏は、今後はAIによる認識精度を高め、運用のコストダウンを図り、CS放送以外でも円滑に字幕付与できるようにしていきたいと述べています。

■5Gを利用した生中継映像の伝送

 TBS広報部は2019年11月1日、5Gを利用した生中継の映像伝送に成功したことを発表しました。放送局側に設置したカメラリモートコントローラーと、中継地点の放送用ハイビジョンカメラを5G回線で接続し、放送スタジオと同等の放送品質を担保し、映像伝送できたというのです。

こちら → https://www.tbs.co.jp/company/news/pdf/201911011700.pdf

 5Gの特徴は「高速・大容量・低遅延」だといわれています。そこで、TBSはNTTドコモの5Gサービスを利用し、日本で初めて、スタジオと同等の放送品質を担保し、生中継の映像伝送に成功したのです。

 実際、11月1日に、地上波のTBS番組「あさチャン!」「ひるおび!」「TBSニュース」で、渋谷スクランブルスクエア開業初日の模様の一部が、NTTドコモの5Gサービスを利用して生中継で放送されました。

 この生中継では、5Gのネットワークの上にVPN(Virtual Private Network)を構築し、TBS赤坂放送センターと中継地点とをダイレクトに接続しました。そして、赤坂放送センターに設置したカメラコントローラーで中継先カメラの遠隔制御を行い、映像を伝送したというのです。

 生中継でもスタジオ映像と同等の放送品質を保ちつつ、伝送できるシステムを日本で初めて実用化したことになります。5Gの幕開きにふさわしい放送技術といえるでしょう。

 TBSは今後、ここで使った遠隔番組制作手法を応用し、突発のニュース中継などでも高品質の中継を行えるようにするといいます。制作現場の人員の最適化を図りながら、クオリティの高い番組制作を進めていくと述べています。

■オリンピックを機に、字幕付与サービスは向上するか?

 TV局にとって生放送番組への字幕付与は課題が多く、コスト負担も高い事業でした。ところが、AIを活用し、5Gを利用することによって、より精度が高く、コスト負担の低い字幕付与システムが可能になりつつあります。

 すでに実用化されているものもあれば、今後、実証実験の結果を踏まえて改善されていくものもあります。いずれにしてもICTの進展に従い、TVへの字幕付与といった領域も大幅に改善されていくような気がします。

 米ラスベガスで2019年12月2日から6日まで、アマゾンウエブサービス(AWS)の年次開発者会議「re: Invent 2019」が開催されました。参加したジャーナリストの西田宗知佳氏は、5Gは低遅延が特徴だといわれ、だからこそ自動運転も可能だといわれるが、公衆網を使った低遅延化には5Gがスタンドアローンになるまで待つ必要があると指摘しています。(※ https://www.watch.impress.co.jp/docs/series/nishida/1223145.htm

 現在の5Gで使われているのは、4Gのネットワークを活かして5Gを構成する「ノン・スタンドアローン(NSA)」と呼ばれる方式が中心になっているそうですが、西田氏はそれでは無理だというのです。低遅延を実現するには5G網にサーバーを配置することが必要だとしたうえで、「どのくらいの数をどのくらいのエリアに配置するのか」の判断が難しい」と説明します。そして、「5Gにおける低遅延を実現する技術の採算性」が問題になるとも述べています。

 おそらく、それが現実なのでしょうが、たとえ現段階でそのような課題があったとしても、社会的に必要なものであれば、やがては技術改良されて使いやすくなり、コストダウンもされます。それがテクノロジーの辿ってきた道であるとすれば、5Gはいずれ、TV字幕に関する課題についても解決の糸口になってくれるでしょう。

 日本では2020年、5Gサービスが開催されます。「高速、大容量、低遅延」が大きな特徴だといわれる5Gの環境下では、リアルタイムのコミュニケーションが実現するのです。

 一方、オリンピックを機に、言語、情報のバリアフリー化が進められています。その一環としてTV番組にも英語と日本語の字幕が表示できるようになれば、視聴者層を拡大できるでしょう。

 TVはいつの間にか、オールドメディアと呼ばれるようになり、若い世代を中心にTV離れを食い止めることはできなくなっています。広告収入もネットに抜かれ始めている今こそ、番組に字幕を付与することによって、視聴者の拡大を図る必要があります。

 字幕を付与することによって、TVが聴覚障碍者や外国人への門戸を開いていけば、さまざまな立場の視聴者がTVを必要不可欠なメディアだと認識してくれるようになります。そうなれば、番組内容も自ずと変化していくでしょう。

 TV番組に日本語字幕と英語字幕を標準装備することによって、今後、日本が取り組んでいかなければならない包摂体制に、ヒトを誘導できる可能性があります。それこそ、今回のオリンピック、パラリンピックで提唱されている共生社会への糸口が見つかるような気がします。

 確かに、人々のTV離れが進んでいるのは事実です。それは番組内容が視聴者のニーズに応えていないからであって、TVという媒体自体になんの瑕疵もありません。依然として社会を支える基幹メディアであることに変わりはないのです。

 今回、触れませんでしたが、オリンピックを目途に、スポーツ中継の技術が進んでいます。5Gの下、臨場感あふれる映像を目にすれば、どれほどワクワクさせられるでしょう。セカンドスクリーンに表示される字幕を見れば、映像の魅力を損なわないまま、TV観戦を楽しむことができます。

 オリンピック、パラリンピックというビッグイベントを契機に、TV番組に字幕が付与され、さまざまな媒体で表示されるようになれば、視聴者人口を拡大することができ、やがては共生社会の基幹メディアとしてTVが機能するようになるでしょう(2020/2/18 香取淳子)。

オリンピック、パラリンピックは日本のTVを革新できるか?

■NHK、ネットとTV同時配信

 総務省は2020年1月14日、NHKが提出していたネットとTVの同時配信サービスを認可しました。これは、2019年5月29日に放送法の一部改正が成立したことを受けて、認可されたものです。

 日経新聞は2019年5月19日付の紙面で、このニュースを記事にしました。NHKが進めるサービスの概要を紹介するとともに、受信料収入を経営基盤とするNHKが民業を圧迫するのではないかという日本民間放送連盟(民放連)の反発、あるいは、NHKのガバナンス体制の不備に対する懸念なども紹介しているのです。

(※ https://www.nikkei.com/article/DGXMZO45395390Y9A520C1MM0000/

 総務省はその後、NHKから提出された変更案に対するパブリックコメントを募集しました。そして、各方面から提出された意見を踏まえ、「NHKインターネット活用業務実施基準」の変更案に対する総務省の考えを表明しています。

(※ https://www.soumu.go.jp/main_content/000654087.pdf

 注目すべきは、「ユニバーサル・サービスに関する業務」、「国際インターネット活用業務」、「東京オリンピック・パラリンピック競技大会に関する業務」の項目でしょう。いずれも将来の社会変動を見据えた取り組みで、今後、NHKが果たすべき役割として捉えられています。

 NHKはこれらの項目に対し、費用の上限をそれぞれ、7億円、35億円、20億円と個別に設定しています。これらの業務内容を確実に遂行できるようにしようとしていることがわかります。もちろん、総務省もこれらを高く評価しています。

 たとえば、「ユニバーサル・サービスに関する業務」について、総務省は次のようにNHK案を評価し、認可しています。

 「NHK案においては、放送番組等の字幕、解説音声及び手話を、インターネットを通じて提供する業務を新規に開始することとしている。 本業務は、視覚・聴覚障害者や高齢者、訪日・在留外国人等が、協会の放送番組等を享受できるようにするためのものであり、国民・視聴者の利益にかない、協会が行うものとして適切なものであると認められる」

 日本は今後、高齢化が進む一方で、訪日・在留外国人が増加していきます。当然のことながら、TV番組をユニバーサル・サービス仕様にし、ネットでも同時配信することは不可欠になります。天気予報、災害情報、ニュース、生活情報など、TVは情報インフラとして生活に定着しています。インターネットでも同時に配信することで、視聴覚障碍を持つ人々や外国人の利便性は明らかに向上しますから、これは公共放送であるNHKの責務ともいえます。

 総務省はNHK案を認可したとはいいながら、いくつかの条件を設けています。このうち、「民放放送事業者との連携や協調を進める」という条件が課されているのが注目されます。パブリックコメントを踏まえたものなのでしょうが、NHKが率先して技術開発し、その結果、得られた技術やノウハウを民放が共有できれば、出遅れていた日本の放送業界も大きく変わる可能性があります。

 NHKがネットとTVの同時配信ができるようになれば、視聴者にとってもメリットがあります。視聴覚障碍者や外国人にも情報保障ができるだけでなく、ネットの特質を生かしたさまざまな放送サービスが可能になるからです。

 それが、今回総務省から認可された新サービスです。

■NHKプラス

 新放送サービスは、「NHKプラス」と名付けられています。

 実はNHKは2010年にもTVとネット同時配信の方針を表明していました。それが紆余曲折を経てようやく叶ったのが、2020年4月1日から開始される「NHKプラス」なのです。

こちら → https://www.nhk.or.jp/pr/keiei/internet/pdf/net_004.pdf

 これを見ると、「NHKプラス」と命名したのは、「いつでも、どこでも、何度でも視聴できる」(生活を豊かに)、「いつでも、どこでも災害情報を入手できる」(生活に安心感を)、「ネット空間でも接触できる」(ネット時代に対応)、「新たな世界や多様な考えに触れることができる」(ネットに即した情報発信)、などの4つのプラス(メリット)があるからだとしています。

 サービス概要として、次のような点が挙げられています。


(NHK報道資料より)

 2020年4月1日から、午前6時から翌日の午前0時までの18時間このサービスは開始されます。総合TVと教育TVの地上放送の番組で、著作権の権利処理が終わっているものが対象になります。音声は2チャンネルで、二か国語放送、解説放送、字幕放送も行われますから、外国人、視覚障碍者、聴覚障碍者はこれまでよりも視聴しやすくなるでしょう。

 オリンピック・パラリンピックを契機に、TVの視聴覚バリアフリー化が推進されれば、未来社会に適した仕様のTV放送が実現するでしょう。

■オリンピック・パラリンピックに向けて

 NHKは東京2020オリンピック大会が開幕する1年前の7月20日から24日にかけて、新しいスポーツの楽しみ方や魅力を伝えるイベント「Nスポ!2019 -SHIBUYA-」を、渋谷ヒカリエで開催しました。

こちら → https://www.nhk.or.jp/event/nspo/

 ここでは、ステージイベントは、音声を字幕化してモニターに表示されたといいますから、オリンピック・パラリンピックには参加できない聴覚障碍者も、このイベントには参加することができたでしょう。バリアフリーのための第一歩です。

 さて、総務省はNHK案の「東京オリンピック・パラリンピック競技大会に関する業務」について、次のように評価していました。

「NHK案においては、大会に際し、専用ウェブサイト等を通じて、競技等のライ ブストリーミングやハイライト動画を提供するものである。 大会は我が国で開催されるナショナルイベントであり、本業務は、国民・視聴者 と大会期間中の訪日外国人の期待に応えるものであることから、一定の社会的 意義が認められる」

 これを見ると、総務省は、NHKが専用ウェブサイトを通して競技等のライブ映像やハイライト動画を提供することを奨励していることがわかります。それは、オリンピック・パラリンピック大会が世界に向けての晴れ舞台であり、日本の存在感をアピールできる場でもあるからでしょう。オリンピック・パラリンピックはまさにグローバルなメディアイベントなのです。

 実際、NHKは「2020東京オリンピック」というサイトを立ち上げています。

こちら → https://sports.nhk.or.jp/olympic/

 ここでは、さまざまな観点からオリンピック競技が取り上げられており、見応えがあります。

■CG手話

 興味深いのは、CGで作成した手話動画がこのサイトに掲載されていることでした。

こちら →
https://sports.nhk.or.jp/olympic/video/all/?tags=%e6%89%8b%e8%a9%b1CG%e3%81%a7%e8%a6%8b%e3%81%a9%e3%81%93%e3%82%8d%e7%b4%b9%e4%bb%8b%ef%bc%81

 卓球、ボクシング、アーチェリーなど、各種オリンピック競技の見どころについて、CG手話で簡略化して紹介されています。手話を理解できる聴覚障碍者ならすぐにも理解できるでしょう。

 たとえば、卓球はこのように解説されています。

こちら → https://sports.nhk.or.jp/olympic/video/table-tennis-sign/

 26秒の短い動画ですが、画面に字幕も付与されており、さまざまなレベルの聴覚障碍者が理解できるよう工夫されています。

 パラリンピックサイトを見ると、さらに、障碍者にとって充実した内容になっています。

こちら → https://sports.nhk.or.jp/paralympic/

 ここでも、オリンピックの場合と同様、CG手話で競技の見どころを紹介されています。オリンピック競技よりはやや長尺で、字幕も付与されています。

こちら → https://sports.nhk.or.jp/paralympic/video/wheelchair-tennis-sign/

 一体、どのようにしてこのようなCG手話が作成されているのでしょうか。

 興味深く思っていると、それを説明したページが目に入りましたので、ご紹介しておきましょう。

こちら → https://sports.nhk.or.jp/dream/universal/signlanguage/

 これを見ると、NHKはすでに約7000語の手話単語をCG化しているそうです。手話通訳者の指の動きをモーションキャプチャーで取り込み、CG手話を自動的に生成できるようにしているのです。

 モーションキャプチャーで動きを取り込む写真を見ていると、ふと、かつて『Happy Feet』を制作したジョージ・ミラー監督がこの技術を使っていたことを思い出しました。ペンギンのマンブルが見事なタップダンスを披露するのを見て、衝撃を受けたのです。パソコンで作り出されたキャラクターなのに、まるで本物のペンギンのように見えるのに驚き、そして、華麗な足さばきで音楽に合わせてタップダンスをするのを見て驚きました。

 制作を担当したオーストラリア人アニメーターのダミアン・グレイが、ブリスベンで講演をするというので、わざわざ出かけたこともありました。2007年9月9日のことです。会場では映像表現の最前線に関心を抱く大学生やクリエーターが詰め掛け、熱心に耳を傾けていました。

 あれから12年後、すでにCG手話が実用段階に入っているのです。技術の進歩の速さ、応用の多様さに感無量です。モーションキャプチャーを使えば、人が行う手話と同等以上のCG手話が可能でしょう。現在は約7000語の手話単語がCG化されているそうですが、その数が増えていけば、TV番組にCG手話をつけることは近い将来実現するでしょう。

■パラリンピックの価値

 JPCのHPには、国際パラリンピック委員会(IPC)が設定したパラリンピックの価値として、以下の4つの項目を掲げています。

(※ https://www.jsad.or.jp/paralympic/what/index.html

JPCのHPより。

 「勇気」(マイナスの感情に向き合い、乗り越えようとする精神力)、「強い意志」(困難があっても、諦めず、限界を突破しようとする力)、「インスピレーション」(人の心を揺さぶり、駆り立てる力)、「公平」(多様性を認め、創意工夫をすれば、誰もが同じスタートラインに立てることを気づかせる力)、等々。IPCが設定した目標を日本語に翻訳し、図式化したものです。

 原文( IPCのHPに記載)と照らし合わせてみると、日本語訳とは異なっているのが「Equality」でした。

Equality: Paralympic Sport acts as an agent for change to break down social barriers of discrimination for persons with an impairment.
(※https://www.paralympic.org/feature/what-are-paralympic-values


 なぜ、原文とは異なる訳語になっているのでしょうか。 気になったのですが、よく見ると、先ほどの図の下に小さく、次のような注釈がつけられていました。

***

※IPC発表の英語表記は「Equality」でありその一般的な和訳は「平等」ですが、「平等」な状況を生むには、多様な価値感や個性に即した「公平」な機会の担保が不可欠です。そしてそのことを気づかせてくれるのがパラリンピックやパラアスリートの力である、という点を強調するため、IPC承認の下、あえて「公平」としています。

***

 「Equality」を「公平」と訳し、その意図を注釈で書き記しているところに、JPCの意気込みが感じられます。東京で開催されるパラリンピック大会をきっかけに共生社会に向けて動き出そうとしているのでしょう。

 考えてみれば、異質な存在が異質なままに生きられる社会を可視化するには、パラリンピック大会は絶好の機会なのです。

 ところが、そのパラリンピックに出場できないのが聴覚障碍者です。

 出場できないとしても、観戦はできます。そこで必要になるのが、字幕です。聴覚に問題のない人の中には、画面に字幕が付与されると、映像の良さが半減するという人もいますが、先ほどもいいましたが、誰もが場内やTVで観戦を楽しめるようにするには、字幕は不可欠なのです。

■字幕放送

 NHK案では、ユニバーサル・サービスとして放送番組等の字幕、解説音声、手話などを、ネットを通して提供していくとしています。このうち、聴覚障碍者にとって有益なのは字幕放送です。

 日本語音声の画面に日本語の字幕を付与することは、聴覚障碍者にとって利便性が高いだけではなく、日本語を学習しようとしている外国人にもメリットが高いのです。さらに、空港や電車内で流される画面には音声よりも字幕の方が適しています。

 大勢の人が集まる場所や混雑した場所では、音声は雑音にかき消されて聞き取れません。電車内などではうるさいと人を不快な気分にさせてしまいます。健聴者にとっても、字幕の方がはるかに効率よくメッセージを伝える場合も少なくないのです。

 それでは、字幕付与の領域ではどのような技術が生まれているのでしょうか。

 2019年5月30日から6月2日にかけて、NHK放送技術研究所で「生放送番組における自動字幕制作」の様子が展示されていました。

NHK技研より。

 

 これは、AIを利用した音声認識によって、生放送の音声から自動的に字幕を制作し、インターネット配信をするお試しサービスを、福島、静岡、熊本で実施しているところを示したものです。

 通常は音声認識の誤りを人手で修正して正確な字幕を放送しているが、地方ではそのような専門性の高いスタッフを抱えることが容易ではないという事情があります。そこで、AIを使って音声認識した結果をそのまま字幕としてインターネットで配信するという試行サービスを行っているというのです。

 字幕付与に関して最も難しい領域の研究が行われているのです。これまで生放送番組への字幕付与は難しいといわれてきました。それも音声認識の精度が上がってくるにつれ、より修正の少ない字幕を付与することができるようになっています。

 もっとも難しいのが、図で示された地方局が制作した番組への字幕付与でした。AIの認識はデータが増えれば増えるほど精度が上がっていきますから、このような試行サービスが繰り返されていけば、字幕付与可能な番組については、近々、自動でできるようになるのかもしれません。

 ちなみに、NHKでは次のような方法によって、字幕が制作されています。

NHKより。

 

 歌謡番組や情報番組、報道番組の場合、高速キーボードを使って、人手で入力し字幕を起こしていく方式(キーボードリレー方式;左上)、スポーツ中継や情報番組の場合、実際に放送されている音声を別室でアナウンサーが読み上げなおし、それを自動認識させる方式(リスピーク方式;右上)、ニュース番組等の場合、番組音声を直接認識するシステムと人手での作業を併用する方式(ハイブリッド方式;左下)、ニュース番組等の場合(地方局で運用)、ニュースなど元原稿がある番組の場合、音声認識の結果からどの原稿を読み上げているのか推定して字幕化する方式(セレクト方式;右下)など4つの方式があるといわれています。

 番組のタイプによって、音声の自動認識の難易度に差があることがわかります。実証実験を繰り返し、より現実に適した方法が採用されていくのでしょう。

 アイ・ドラゴン4(聴覚障碍者用情報受信装置)を使った実証実験も始まったようです。

障碍者放送通信機構HPより。

 

 総務省が「聴覚障害者放送視聴支援緊急対策事業」として行うもので、ローカル局の番組に音声認識で生字幕をつけるための実証実験です。全国のローカル局のうち、20局が参加するといいます。人手をかけずに自動的に精度の高い字幕を付与する仕組みが様々に試行されている様子を知ることができます。

■障碍者はパラリンピックをどう捉えているのか

 IPCはパラリンピックの価値として4つ掲げていました。それでは、障碍者はパラリンピックをどう捉えているのでしょうか。

『放送研究と調査』(2018年11月号)を読んでいると、調査結果に添えて、パラリンピックに対する障碍者たちの意見が掲載されていました。興味深いと思ったのは、聴覚障碍者の次のような意見でした。

「パラリンピックは、いろんな障碍者がいると周知できる唯一の大きな機会。また、苦労しているのは私だけじゃないと、障碍者本人や家族、支援者の勇気や感動にもつながると期待している」(p.70)

 前回のブログ(「聴覚障碍者はパラリンピックに出場できない……?」)に書いたように、聴覚障碍者はパラリンピックに出場できません。それでも、この人は、パラリンピックは「いろんな障碍者がいると周知できる唯一の機会」と捉えているのです。

 私はそこに打たれました。

 自分たちは参加できないのに、「いろんな障碍者がいると周知できる唯一の機会」と、この人はパラリンピックをポジティブに捉えています。その姿勢に私は感銘しました。そして、このような反応が得られたところに、JPCが「Equality」を平等と訳さず、敢えて「公平」と訳したことの意図が理解されている痕跡を見たような気がしました。

 もちろん、この人がそのような見解を持てたのは、障碍を持つアスリートたちの姿に感動したからにほかなりません。彼らが懸命に努力し、渾身の力を込めて競技を展開する姿に尊さと美しさを発見したからこそ得られた感動なのでしょう。

 障碍にくじけず、生き抜こうとするアスリートの姿に勇気と強い力を見出し、感銘したのでしょう。あるいは、そこに学ぶべきものを感じ取ったのかもしれません。そして、アスリートの姿は、本人はもちろんのこと、家族や支援者に勇気を与え、感動を呼ぶことになるだろうと述べています。

 この聴覚障碍者の見解の中に、IPCが重視する4つの価値がすべて含まれています。

 私がこの人の自由回答に注目したのは、異質なものの中に多様性を認め、それぞれが創意工夫をすれば、誰もが同じスタートラインに立てることが的確に表現されていたからでした。 (2020//1/31 香取淳子)

 このブログを書いた後、興味深い報道がありましたので、追加します。

■民放キー局、今秋以降、TVとネット同時配信開始

 2020年2月2日、新聞各社は一斉に、民放キー局が今秋以降、TVとネット同時配信を開始すると報道しました。冒頭でご紹介したNHKに追従する対応です。こうなることは予想していましたが、意外に早くて驚きました。それほど、若者世代を中心にTV離れが進んでいるのでしょう。

 各局は7月開催(7月24日~8月9日)のオリンピック中継、8月開催(8月25日~9月6日)のパラリンピック中継はネットと同時配信するようです。これに関し、あるキー局社員は「五輪で視聴者に認知してもらい、その流れでレギュラー番組の同時配信を利用してもらえば理想的」と語っているようです。(※ 東京新聞2020年2月2日付朝刊)

 実際にネットと同時配信できるのは今秋以降ですから、本来ならオリパラの中継は該当しません。ところが、この二つのビッグイベントを外せば、NHKに視聴者をもっていかれてしまいます。民放キー局はなんとしてもこの時期に同時配信しなければならないと決意したのでしょう。NHKが4月1日開始と発表してからわずか三週間ほどで、民放キー局は同時配信の今秋開始を発表しました。

 これでようやく放送と通信の融合が本格化します。視聴覚障碍者、高齢者にとっては喜ばしいニュースといえるでしょう。

 民放5社は共同で視聴データを活用し、実証実験を進めています。(※ https://www.tv-viewing-log.info/2019/

 目的の中には、「視聴者の皆様の安全・安心を確保するため、さらに必要な事項の検討」とか「災害対策など公共性が高いサービスへの視聴データ利活用の検討」といった項目も入っていますから、視聴覚障碍者や高齢者がより見やすい、聞きやすいTVが実現するでしょう。

 世界を対象としたビッグイベントであるオリンピック、パラリンピックは、どうやら、TV革新の大きなきっかけになりそうです。

(以上は、2月2日に追記しました)

聴覚障碍者は、パラリンピックに出場できない…?

■パラリンピックに参加できない聴覚障碍アスリート

 パラリンピックについて調べていると、「パラリンピックと聴覚障害者」というタイトルの記事を見つけました。ネットでは珍しく、縦書きで書かれていたので興味を覚え、つい、目を走らせてしまいました。

 ご紹介しましょう。

こちら →http://www.asiawave.co.jp/bungeishichoo/bsessay/1434.pdf

 この記事の第2段落目で、次のような文章が書かれていました。

 「ところで、世界のさまざまな障碍者が一堂に集い、熱戦を繰り広げるスポーツの祭典パレリンピックではあるが、パラリンピック委員会から参加の認められていない障害があることを、世間は承知しているのだろうか。私は還暦がすぎた聴覚障碍者の老いぼれ。子供の頃から病弱でスポーツは何をしても下手でプロ野球やオリンピックをテレビ観戦する程度の関心しかもたないまま、いつのまにか人生を振り返る年代になった。こんなスポーツとは無縁な私だが、パラリンピックに聴覚障碍者の参加が認められていないことに、疑問の思いを述べたい。」

 なんと、聴覚障碍者は、パラリンピック委員会から大会への参加を認められていないというのです。そんなことがあるとは思いもしませんでしたから、私はすっかり驚いてしまいました。

 この文章をネットに投稿したのは、聴覚障碍者の徳安利之氏でした。文中では、「還暦がすぎた聴覚障碍者の老いぼれ」と書かれています。

 徳安氏はさらに、次のように文章を続けています。

 「2000年開催のシドニーパラリンピックから、開会式の様子を注視して来たが、前回のロンドンパラリンピックでも聴覚障碍者の競技の参加がなくて疎外感と失望で、残念に思いながら開会式の様子をテレビで眺めていた。世界の様々な身体障碍者アスリートが全く参加していないことに気付き、是正を呼びかける人が、政府やパラリンピック委員会や各スポーツ関係者にはいないのだろうか。」

 近年のパラリンピック大会を見るたびに、聴覚障碍者が参加していないので、疎外感と失望感を覚え、沈み込んでいたというのです。

 そして、徳安氏は次ぎのように文章を締めくくっています。

 「せめて2020年の東京大会では聴覚障碍者アスリートも参加した、全ての障碍者が一堂に集う、まことの障碍者のスポーツの祭典パラリンピックになることを願っている。」

 徳安氏はここ10年来、複雑な思いでパラリンピック大会を見てこられたのでしょう。そして、60歳を過ぎてもまだ、パラリンピック大会に出場できない聴覚障碍者の現状を見て、老いにムチ打ち、ネットに投稿しました。より多くの人々に現状を知ってもらいたかったのでしょう。

 聴覚障碍者がなぜ、出場できないのか、それなのに、なぜ、誰も、出場できるように動き出さないのかと、徳安氏は疑問を投げかけているのです。文面からは悲痛な思いが伝わってきます。

 いったい、何故、聴覚障碍者たちはパラリンピック大会に参加できないのでしょうか。さっそく、調べてみることにしました。

■国際パラリンピック委員会と国内外の聴覚障碍者団体

 まず、日本パラリンピック委員会(以下、JPC)のHPを見てみました。すると、2019年度日本パラリンピック委員会加盟競技団体の名簿には、一般財団法人全日本ろうあ連盟スポーツ委員会をはじめ、21もの関連団体名が記載されていました。

こちら →https://www.jsad.or.jp/paralympic/jpc/data/2019/2019jpc_group_190716.pdf

 そして、JPCの運営委員会の委員名簿にも、一般財団法人全日本ろうあ連盟スポーツ委員会・委員長の名前がありました。

こちら →https://www.jsad.or.jp/paralympic/jpc/pdf/jpc_member_190621.pdf

 上記二つの名簿からは、全日本ろうあ連盟スポーツ委員会等の聴覚障碍者団体がJPCに参加していることがわかります。

 ところが、JPC強化委員会、JPCアスリート委員会の名簿には聴覚障碍者団体に該当する名前がありません。聴覚障碍者団体はJPC加盟競技団体に加盟し、その運営委員会にも参加しているのに、肝心の選手の強化等の委員会には参加していないのです。このことからは、団体として、一般財団法人全日本ろうあ連盟スポーツ委員会はJPCに参加しているのに、アスリートは参加していないことがわかります。

 一体、どういうことなのでしょうか。

 そこで、さきほどのJPCの画面を下方にスクロールすると、国際組織・国際障碍別競技団体の項目に移動します。

■JPCに加盟していない、ICSD国際ろう者スポーツ委員会

 この項目では、次のようなスポーツの国際組織や団体が紹介されていました。

 IPC国際パラリンピック委員会をはじめ、IWAS国際車いす・切断者スポーツ連盟、CPISRA国際脳性麻痺者スポーツ・レクリエーション協会、IBSA国際視覚障碍者スポーツ連盟、Inas国際知的障碍者スポーツ連盟、ICSD国際ろう者スポーツ委員会、APCアジアパラリンピック委員会など7団体です。ここには聴覚障碍者団体も記載されていました。

こちら →https://www.jsad.or.jp/paralympic/jpc/index.html

 各団体のJPCへの加盟状況を見ると、ICSD国際ろう者スポーツ委員会以外の6団体はすべてJPCに加盟しています。

 ところが、ICSD国際ろう者スポーツ委員会だけは、JPCには加盟せず、日本ろう者スポーツ協会に加盟しているのです。そして、概要欄には、「聴覚障がい者のスポーツを統括する団体。1924年発足。1995年、IPC脱退」と書かれていました。

 なにやら複雑な事情がありそうです。

 そこで、一般財団法人全日本ろうあ連盟スポーツ委員会のHPを見てみました。すると、何故、パラリンピックに参加しないのか、その理由が書かれていました。

こちら →https://www.jfd.or.jp/sc/deaflympics/games-about

 これを見て、ようやく聴覚障碍者がパラリンピック大会に参加できない理由がわかりました。一言でいえば、ICSD国際ろう者スポーツ委員会が国際パラリンピック委員会に参加していないからでした。ICSD は1995年に脱退したまま、今に至っています。だから、聴覚障碍者はパラリンピック大会に参加できないのです。

 それでは、いったい何故、ICSD国際ろう者スポーツ委員会は国際パラリンピック委員会を脱退したのでしょうか。

 それを調べる前に、まず、一般財団法人全日本ろうあ連盟のHPを見てみました。すると、理事長名で「2020オリンピック・パラリンピックの東京開催決定について」という文書が掲載されているのがわかりました。

こちら →https://www.jfd.or.jp/2013/09/10/pid11306

 興味深いのは、「聴覚障害者のオリンピックであるデフリンピックも4年毎にパラリンピックと同様、あらゆる人民の平等で平和な社会を理念に掲げており、今回の東京開催決定は誠に嬉しい限りです」と書かれていたことです。

「聴覚障害者のオリンピックであるデフリンピックも4年毎にパラリンピックと同様、あらゆる人民の平等で平和な社会を理念に掲げており」という文章からは、聴覚障碍者には「デフリンピック」という独自の国際スポーツ大会があり、それがパラリンピックと同等の位置づけになっていることがわかります。

 どうやらデフリンピックの存在が、聴覚障碍者がパラリンピックに参加できないことに関係していそうです。

 それでは、デフリンピックとはいったい、どのような競技大会なのでしょうか。

■ろう者のためのオリンピック

 調べてみると、聴覚障碍者を対象にした国際スポーツ大会がすでに、パラリンピック以前に存在していました。それが、CISSです。

 CISSとはフランス語の“Comité International des Sports des Sourds”の略で、「国際ろう者競技大会」という名称です。1924年8月24日にパリで設立された当初、この名称でスタートしました。その後、何度か改称されましたが、今でもこの名称が英語表記ICSD(International Committee of Sports for the Deaf)と併記されています。

こちら →https://www.jfd.or.jp/sc/deaflympics/icsd-constitution

 ところが、この組織は1967年に世界ろう者競技大会(World Games of the Deaf)に名称変更し、2001年5月11日、国際オリンピック委員会(IOC)の承認を得て、「デフリンピックス(Deaflympics)」と改称し、現在に至っています。

「デフリンピックス」(Deaflympics)という名称は、「ろう者(Deaf)+オリンピック(Olympics)」の造語で「ろう者のオリンピック」という意味を表しているといいます。

■デフリンピック、パラリンピック、スペシャルオリンピック

 国際オリンピック委員会が、「オリンピック」という名称の使用を許可しているのは、デフリンピック(Deaflympics)、パラリンピック(Paralympics)、スペシャルオリンピック(Special Olympics)だけです。

 この3つのうち、スペシャルオリンピックはこれまで一度も聞いたことがありません。そこで、調べてみると、スペシャルオリンピックとパラリンピックを比較した説明がありました。

こちら →http://media.specialolympics.org/soi/files/press-kit/SO-andPARALYMPICS_2014_FactSheet_Final.pdf

 これを読むと、スペシャルオリンピックスが、知的障害のある人々のためのスポーツ大会であることがわかりました。さまざまなレベルの選手が参加することができるそうです。技能を競い合うというより、互いを受け入れ、包み込み、尊重し合うコミュニティの形成を目的とした国際スポーツ大会のようです。

 一方、パラリンピックへの参加者は、切断者(身体の一部が切断された者)、脳性麻痺、知的障害、視覚障害、脊髄損傷などに限定されており、厳しい資格審査を経て、ようやく参加することができます。

 障碍者とはいえ、高い技能と実績を持つアスリートたちが競い合う場として、パラリンピックは設定されています。ですから、アスリートは競技ごとに、障碍の部位や程度によって、厳密にクラス分けされます。厳格な基準やルールを設定することで、公平性を帰しているのです。

 こうしてみてくると、エリートアスリートたちが、厳しい鍛錬の下、自己ベストを尽くし、メダルを競い合うのがパラリンピックだといえます。

 オリンピックが健常者の国際スポーツ大会だとすれば、デフリンピック、パラリンピック、スペシャルオリンピックはそれぞれ障碍者の国際スポーツ大会なのです。この三者は障碍の部位、その性質によって区分けされており、それぞれ独自の基準とルールが設けられています。

 改めて、三つの国際障碍者スポーツ大会の設立時期をみると、最も早いのが聴覚障碍者を対象にしたデフリンピックで1924年、その次がパラリンピックで1960年、そして、知的障碍者を対象にしたスペシャルオリンピックスが最も遅く、1968年にスタートしました。

 一口に障碍者といっても、パラリンピックの対象者である車いす・切断者、脳性麻痺者、脊髄損傷者、視覚障害者などは、外見で障碍者であることがすぐわかります。ところが、デフリンピックの対象者である聴覚障碍者、スペシャルオリンピックの対象者である知的障碍者は、外見ではなかなか判断できないところがあります。

 このように見てくると、国際オリンピック委員会が3つの組織にオリンピックの名称使用を認めたのは、障碍者をひとくくりにはできず、それぞれ独自の設定が必要だということがわかります。

■障碍の違い

 デフリンピックは、最も早く組織された国際スポーツ大会でした。聴覚障碍者は外見からは障碍者であることがわかりにくく、そのために周囲から誤解されやすく、援助を受けにくく、孤立しやすかったからかもしれません。同じような悩みを持つ人々がスポーツをきっかけに集い、心身機能を向上させるとともに、聴覚障碍者独自のコミュニティを築き上げる必要があったのでしょう。

 国際スポーツ大会を励みに日々、鍛錬すれば、身体機能を強化できますし、達成感、心理的解放感を得ることもできます。スポーツ大会を通して聴覚障碍者の存在が多くの人々に知られるようになれば、誤解を防ぎ、待遇改善を期待することもできるでしょう。さらには、聴覚障碍者が相互に連携し合える環境を整備することもできます。

 次いで組織化されたのが、パラリンピックでした。こちらは、一目で障碍が明らかな人々を対象にした国際スポーツ大会です。元はと言えば、戦争や事故で身体に損傷を負った人々のリハビリテーションとして行われました。スポーツをすれば、身体機能が改善されますし、気持ちの発散にもなります。スポーツを通して、肯定的に自分を捉えることができるようになれば、社会参加も可能になります。

 最も遅く組織化されたのが、知的障碍者を対象にしたスペシャルオリンピックでした。こちらは、外見では障碍が判別しにくく、しかも、どちらかといえば、自身で苦境を表現しにくい人々です。

 私はこれまでスペシャルオリンピックという言葉を聞いたことがありませんでした。とりあえず概略だけでも知っておこうと思い、HPを開いてみました。活動内容に関するページを開いてみると、意外なことがわかりました。

こちら →https://www.jidaf.org/blank-5

 知的障碍者は、スペシャルオリンピックという独自の大会があるにもかかわらず、パラリンピックに参加していました。2000年のシドニー、2012年のロンドン、2016年リオ、そして、2020年東京といった具合に、競技種目は少ないとはいえ、パラリンピックに出場しているのです。

 先ほどもいいましたように、Inas国際知的障碍者スポーツ連盟は、JPCに加盟しています。ですから、知的障碍アスリートたちはパラリンピック東京大会にも参加することができるのです。

 そもそも、パラリンピックがオリンピックと同時開催されるようになったのが、1960年です。以来、3つの障碍者スポーツ大会の中で、パラリンピックに対する人々の認知度は群を抜いて高くなっています。そこに出場できるか否かはアスリートたちの気持ちの持ち方にも大きく影響してくるでしょう。

 知的障碍者は、スペシャルオリンピックに参加する一方で、パラリンピックにも参加していました。パラリンピックにも出場できるようにすることによって、アスリートたちのモチベーションはあがりますし、社会から認知されやすくもなります。Inas国際知的障碍者スポーツ連盟は、知的障碍者の出場機会を増やしていたのです。

 一方、ICSD国際ろう者スポーツ委員会は、聴覚障碍者独自の基準、ルール、環境設定の下、独自の国際スポーツ大会を行ってきました。パラリンピックの認知度が高くなってきても、デフリンピックにこだわっているのです。

 外見からは障碍の度合いを判別しがたいのが、聴覚障碍者と知的障碍者ですが、パラリンピックとの関係については、知的障碍者団体の方が柔軟に対応しているように見えます。

■シドニー大会での事件

 知的障碍者がパラリンピックに参加しているのを知って、私は驚いたのですが、実際は、2000年のシドニー大会から2012年のロンドン大会までの12年間、一度もパラリンピックに参加していませんでした。

 なぜ、シドニー大会からロンドン大会まで12年間もの空白があったのでしょうか。

 調べてみると、シドニー大会で不正があったからだそうです。

こちら →https://blog.canpan.info/nfkouhou/archive/632

 バスケットで出場したスペインの知的障碍者チームの中に、複数の健常者を紛れ込んでいたといいます。外見では障碍の度合いが判別できないので、そのようなことが起きたのですが、その結果、このチームは金メダルを獲得してしまいました。

 この一件が発覚してからというもの、不正を犯したスペインチームの金メダルがはく奪されただけではなく、知的障碍者全体がパラリンピックに参加できなくなってしまいました。以後、12年間もパラリンピックに参加できない状態が続いたのです。

 それでは、知的障碍者とはどういう障碍を持つ人々なのでしょうか。HPを見ると、以下のように説明されています。

こちら →https://anisa.or.jp/

 これを読むと、法律的な定義はないものの、知的能力に障がいがあり、何らかの支援を必要とする人々とされています。

 定義が曖昧なように、知的障碍者は、外見では健常者との区別がつきにくいのが特徴です。それだけに、スペインチーム事件のような不正も起こりやすく、障碍者スポーツ大会の公平性をどう担保するかが重要になってくるのでしょう。

■パラリンピックの厳格な基準

 JPAでは以下のような基準を設けています。

こちら →https://jaafd.org/sports/basic-knowledge

 障碍の程度を4種類に分け、緑を健常者とし、赤(重度)、橙(中等度)、黄(軽度)といった具体に、色で判別しています。そして、クラス分けイメージ図によって、競技種目、障碍の部位と程度がわかるように色分けされています。

パラリンピックHPより

 上記の図では「T」か「T/F」というアルファベットがありますが、これは、「T」がTrackすなわち、走競技あるいは跳競技を指し、「F」がFieldすなわち、砲丸投げなどの投てき競技を指しています。

 そして、10桁の数字は障碍の種類、1桁の数字は障碍の程度を示し(数字が小さいほど軽度)、身体を部位に沿って分割された図は障碍の場所と程度を示しています。

 これを見ると、いかにきめ細かく障碍の程度、クラス分けが行われているかがわかります。障碍者の国際スポーツ大会だからこそ、このように厳密に公平性を組み込んでいるのです。

こちら →https://jaafd.org/pdf/top/classwake_qa_rr.pdf

 そう考えてくると、聴覚障碍者団体がパラリンピックに参加しようとしないのは、障碍の内容に関した理由があるのかもしれないという気がしてきます。

 ちなみに2019年の冬季デフリンピックはイタリアで開催されました。

こちら →https://www.jfd.or.jp/sc/vv2019/arc/3697

 これを見ると、非常に活発で、しかも、その内容が充実しています。ICSD国際ろう者スポーツ委員会が、聴覚障碍者のための国際スポーツ大会を完成度高く挙行できていることに驚かざるをえません。

■デフリンピックの独自性

 全日本ろうあ連盟スポーツ委員会の説明によると、1989年に国際パラリンピックが発足したとき、ICSD国際ろう者スポーツ委員会も加盟していたそうです。ところが、1995年にIPCを脱退してしまいました。デフリンピックの独創性を追求するためだったと説明されています。

 気になるのが、「独創性」ですが、全日本ろうあ連盟スポーツ委員会は、デフリンピックの独創性として、次の諸点をあげています。

① コミュニケーション全てが国際手話によって行われ、競技はスタートの音や審判の声による合図を視覚的に工夫する。それ以外はオリンピックと同じルールで運営される。

② パラリンピックがリハビリテーション重視の考えで始まったのに対し、デフリンピックはろう者仲間での記録重視の考えで始まっている。

 すなわち、①聴覚障碍者に特化したコミュニケーション様式、試合運び、②聴覚障碍者同士の切磋琢磨、等々がデフリンピックの条件であり、目標とされているのです。こうした「独創性」を理解するには、デフリンピックとは何かということを知っておく必要があるでしょう。

 全日本ろうあ連盟スポーツ委員会は、デフリンピックについて次のような説明をしています。

 「身体障碍者のオリンピック(パラリンピック)に対し「デフリンピック」は、ろう者のオリンピックとして、夏季大会は1924年にフランスで、冬季大会は1949年にオーストリアで初めて開催されています。障害当事者であるろう者自身が運営する、ろう者のための国際的なスポーツ大会であり、また参加者が国際手話によるコミュニケーションで友好を深められるところに大きな特徴があります」

https://www.jfd.or.jp/sc/deaflympics/games-aboutより)

 これを読むと、デフリンピックは聴覚障害のレベルに応じて企画されたスポーツの祭典であり、聴覚障碍者たちの相互交流の場であることがわかります。

 もちろん、参加資格もそれに沿ったものでした。

 デフリンピックへの参加資格として、国際ろう者スポーツ委員会は、①音声の聞き取りを補助するために装用する補聴器や人工内耳の体外パーツ等をはずした裸耳状態で、聴力損失が55デシベルを超えている聴覚障碍者、②各国のろう者スポーツ協会に登録している者、等々としています。

 また、いったん競技会場に入ったら、練習時間か試合時間かに関係なく、補聴器等を装用することは禁止されています。国際ろう者スポーツ委員会によると、これは、選手同士が耳の聞こえない立場でプレーするという公平性を担保するという観点から、設定されたそうです。

 こうしてみてくると、聴覚障碍者がパラリンピックに参加しないのは、国際ろう者スポーツ委員会が聴覚障碍者の立場に立って、総合的に判断した結果によるものだということがわかります。

 聴覚障碍者がパラリンピック委員会から排除されているのではなく、国際ろう者スポーツ委員会の考えの反映だったのです。聴覚障碍者の独自性、主体性を尊重して、国際スポーツ大会を運営していこうとすれば、デフリンピックにこだわらざるを得ないのでしょう。

■聴覚障碍者にとってのパラリンピック、デフリンピック

 冒頭でご紹介したように、聴覚障碍者もパラリンピックに参加してほしいという要望はあります。パラリンピックの認知度が高まれば高まるほど、各国でそのような願いは出てくるでしょう。

 興味深いことに、2012年のロンドン大会ではごく少数ですが、オリンピックあるいはパラリンピックに出場した聴覚障碍者がいました。

 英国ガーディアン紙は2012年7月6日、次のような記事を掲載しています。

こちら →https://www.theguardian.com/commentisfree/2012/sep/06/paralympic-games-deaf-athletes

 この記事では、2012年のロンドン大会にはごく少数の聴覚障碍者が出場したと報じられています。パラリンピックには聴覚障碍者に対応した種目がなく、本来は出場できないはずですが、別の障碍枠でパラリンピックに出場したのです。

 記事全体を読んでわかることは、聴覚障碍者は、他の障碍(脳性麻痺など)がある場合、その障碍種目でパラリンピックに出場できますし、補聴器を装着すれば、オリンピック種目で出場することができるということでした。

 世界ろう者スポーツ委員会委員長の クレイグ・クローリー氏は、国際パラリンピック委員会には新たな障害者を参加させる仕組みがないので、聴覚障害者が出場できるようにしようとすれば、新たな分類を追加しなければならないと述べています。

 もちろん、試合運びの基準やルールなども大幅に異なります。

 たとえば、デフリンピックでは、号砲ではなく閃光のような視覚的合図を使い、レフェリーは笛ではなく旗を使うといいます。デフリンピックではろう者に合わせた道具や技術を使用しているのです。

 また、大多数のアスリートと観客の間の主要なコミュニケーション手段として、手話を使うといいます。さらに重要なことは、デフリンピックは、さまざまなレベルの聴覚障碍があるアスリートが、障碍の程度に応じた基準の下、平等に競争できるようにしているとクローリー氏はいいます。

 この記事を読んで、障碍者の国際スポーツ大会で公平性を担保するのがいかに難しいかがわかるような気がしてきました。デフリンピック、パラリンピック、スペシャルオリンピックと三種の大会が設定されているのは、過去のさまざまな経験、障碍者にとっての利便性などを踏まえた結果なのでしょう。

 それでも、聴覚障碍者もパラリンピックに参加してほしいという要望が強かったのでしょうか。東京パラリンピックには一部聴覚障碍者スポーツも参加するという噂が立っていたようです。

 それを正式に否定したことになるのが、IPCの次の文書でした。

こちら →https://www.paralympic.org/news/ipc-statement-regarding-deaf-sports-and-paralympic-games

 当時IPC会長であったフィリップ・クレーブン氏の言動が誤って引用されたとし、2013年10月19日付で、IPCは上記のような訂正文をHPに掲載しています。

 「現在、パラリンピック競技大会にろう選手を含めるための計画やスケジュールはありません」という文書を掲載したページが今なお消去されていないので、2020年パラリンピックも聴覚障碍者の種目はないということになります」

 さらに調べていくと、ネットに次のような記事が掲載されていました。

こちら →https://www.japantimes.co.jp/news/2018/10/04/national/social-issues/deaf-community-looks-bring-olympics-japan-2020/#.XgRfr0f7RPY

 2018年10月4日付の“The Japan Times”がニュースとして、「聴覚障碍者団体は2020年後、日本でのデフリンピック大会の開催を」という見出しの記事を掲載していました。

 私が興味深いと思ったのは、全日本ろうあ連盟スポーツ委員会 事務局長 倉野直紀氏の見解でした。

 倉野氏は全日本ろうあ連盟がデフリンピック大会を日本で開催できるよう働きかけを行っていくというのです。具体的には2025年に夏のデフリンピックに照準を合わせ、日本での開催に向けてキャンペーンを展開していくといいます。

 私は記事の中の、この箇所を読んで、とても素晴らしいと思いました。障碍内容の異なるパラリンピックに参加しようとするのではなく、デフリンピック大会を盛り上げ、認知度を高めていこうとしているのです。

 2025年といえば、国際聴覚障碍者大会が開催された1924年のほぼ100年度に当たります。その記念すべき年に日本でデフリンピックを開催し、聴覚障碍者の存在をアピールしていくというのです。そのアイデアに、とてもポジティブなものを感じました。

 異なる存在を異なるがままに受け入れられるようにするには、できるだけ多くの人々に知ってもらい、理解してもらうための発信力と積極的な姿勢が欠かせないと思います。(2019/12/29 香取淳子)

1964年東京オリンピックで生み出され、普及したピクトグラム

■ブルーインパルスが描いた五輪マーク

 2019年11月3日、入間航空祭が開催されました。出かけてみると、自衛隊入間基地のある稲荷山公園駅には臨時改札口が設けられており、大勢の人々がまるで飲み込まれていくかのように、そこから次々と基地内に入っていきました。例年は20万人ほどがここを訪れますが、曇天のせいか、今年はいつもより少なめでした。それでも、翌日の新聞を見ると、入場者数は12万5千人だと報じられていました。

 雨が降りそうな気配でしたが、ブルーインパルスの展示飛行は予定通り、13:05から14:05まで行われました。例年のように、青空を背景にくっきり見えるというわけにはいきませんでしたが、大空を駆け抜ける操縦術のすばらしさ、低空飛行の迫力はいつも通りでした。

 振り返ってみれば、1964年10月10日、この入間基地から、ブルーインパルスの飛行部隊はオリンピックの祝賀飛行のために飛び立って行ったのです。戦後復興から間もない時期でした。日本が国力を総動員して臨んだのはいうまでもありません。開会式のアトラクション飛行もその一つでした。発足してまだ日の浅いブルーインパルスが、大空を舞台に華麗な飛行技術を世界中に見せつけ、驚かせたのです。機体はF-86F戦闘機でした。


(航空自衛隊HPより)

 1964年10月10日午後2時半、ブルーインパルスのメンバーたちは、入間基地から離陸し、湘南上空でいったん待機してから、国立競技場に向かいました。開会式の進行に合わせ、時間調整をしていたのです。そして、聖火ランナーが入場すると、予定通り、5機の編隊は機体の後尾から青、黄、黒、緑、赤色のスモークをはき出し、快晴の大空に鮮やかな五輪のマークを描き出しました。


(2018年3月28日、ガジェット通信より)

 この写真ではスモークが白く見えますが、実際は五輪マークに合わせ、5色のスモークが使われていました。五機がそれぞれ着色されたスモークを吐き出しながら、一定の間隔で輪を描いていくと、30秒後には、東西6㎞以上にわたって五つの輪が大きく広がっていくという仕掛けでした。

 五機が一定の間隔で円を描くという飛行は、当時、極めて難しかったそうです。ブルーインパルスの部隊は、開会式に向けて何度も練習しながら、一度も満足に円を描くことができなかったといいます。ところが、本番になると、まるで奇跡が起こったかのように大きな円が5つ、五輪マークと同じように円の一部が相互に重なり合って、大空に描き出されました。苦労が報われる、素晴らしい出来栄えでした。

 これほど壮大なアトラクションはオリンピック史上、初めてでした。しかも、この開会式は世界に向けてテレビで生中継されていましたから、ブルーインパルスによる快挙はリアルタイムで、世界中の人々に知られることになったのです。

 ブルーインパルスは1960年、浜松北基地(現在、浜松基地)の第1航空団第2飛行隊内に、「空中機動研究班」として設置されました。それが、4年目にはオリンピックという晴れ舞台で、日本人の機体操縦術の高さを国内外に見せることに成功したのです。

 青空を背景に大きく描かれた五輪マークは、国境を越え、民族を超え、人々の心に刻み込まれました。シンプルな絵柄がどれほどイメージ喚起力に優れているか、それは、1964年オリンピックの大会ロゴも同様でした。

■1964年のオリンピック大会ロゴ

 1959年5月26日、第55次IOC総会で、東京が1964年のオリンピック開催地として選出されました。開催が決定されると、すぐさま「東京オリンピック組織委員会」が設置され、国家プロジェクトとしての取組みが始まりました。

 興味深いのは、1960年春早々に、デザインプロジェクトが開始されたことでした。美術評論家の勝見勝氏を座長に、デザイン界の重鎮11名を構成メンバーとするデザイン懇談会が組織されたのです。

 そのデザイン懇談会によって、1960年6月に大会ロゴの指名コンペが行われ、約20案の中から選ばれたのが、グラフィックデザイナーの亀倉雄策氏が制作した「日の丸」でした。


(Wikipediaより)

 日の丸を大きく描き、その下に金色の五輪マーク、「TOKYO 1964」と三層構造でレイアウトしたデザインです。飾り気がなく、シンプルで明快なデザインですが、赤と金色の配色が華やかで、しかも、厳かな印象を与えます。時間を経ても古びることのない、究極の美しさが表現されています。

 亀倉雄策氏はこのデザインについて後に、「考えすぎたりしないように気をつけて作ったのが、このシンボルです。日本の清潔さ、明快さとオリンピックのスポーティな躍動感を表してみたかったのです」(「オリンピックメモリアルVOL.2」より)と語っています。

 亀倉氏の思いの詰まったこのロゴは、オリンピックに向けた国民の意思統一に大きな役割を果たしました。シンプルでわかりやすいデザインが、戦後復興を経て、新たな日本を構築しようとしていた日本人の気持ちをまとめ、力強く鼓舞していったのです。

 時を経て、国境を越えて、このデザインはヒトの心を捉えて離さない力を持っていました。

 アメリカのグラフィックデザイナーのミルトン・グレイザーは、歴代の大会ロゴの中でもとくに東京オリンピックの大会ロゴを高く評価し、100点満点中92点をつけています。

「注目すべきはそのバランスのとれた明快さだ。日本の国旗である昇る太陽を思わせる赤丸が金色の五輪の上に鎮座し、五輪の下にヘルヴェチカのボールドで「TOKYO 1964」と書かれている」と記し、このロゴの極限を追求した美しさを称賛しているのです。

こちら →

https://www.wired.com/2016/08/milton-glaser-rated-every-olympics-logo-ever-favorite/

 グレイザーは1924年のパリオリンピックから2022年の北京オリンピックまでの大会ロゴを評価しているのですが、80点から90点と評価したロゴは全体の一部でしかなく、ほとんどのロゴは酷評されています。

 初期のロゴについていえば、例えば、ベルリン大会(1936年)は「奇妙で焦点がない」、サンモリッツ大会(1948年)は「旅行パンフレットのように奇異だ」といった具合です。

 この記事を掲載した『Wired』の編集部は、グレイザーの評価内容について、「明らかに複雑すぎるものを嫌っている。彼にとって、よいオリンピックロゴの基準とは、明快さと意外性のバランスのようだ」と記しています。酷評された大会ロゴが多く、編集部としてはこのように書かざるをえなかったのでしょう。

 確かに、1964年東京大会ロゴへの高評価には、グレイザーの美意識、デザイン観が反映していたといえるでしょう。とはいえ、このロゴが長年、国内外で高い評価を得てきたことも事実です。それはおそらく、このロゴには、シンプルで明確にメッセージを伝える力が備わっているだけではなく、デザイン、レイアウト、色彩、それぞれがイメージ喚起力に優れ、ヒトの心に残るものが含まれていたからでしょう。

「日の丸」は、オリンピック大会を統一するロゴとしての条件を完璧に満たしていたのです。

■オリンピックのデザイン・ポリシー

 1960年5月7日から16日まで、世界デザイン会議が東京で開催され、27か国、二百数十名のデザイナーや建築家が参加しました。会議開催の中心メンバーは、勝見勝、亀倉雄策、丹下健三らでした。彼らは、各分野のデザイナーたちが、分野を超え、国境を越えてつながることのできる機会を設定したのです。若手デザイナーを啓発するためであり、日本のデザインを海外に知らせるためでもありました。日本の威信をかけて開催されたイベントだったのです。

 当時、デザイン界で名を馳せていたハーバート・バイヤー、ブルーノ・ムナーリ、ルイス・カーンなどもこの世界デザイン会議に参加していました。この会議を経て初めて日本で「デザイン」という言葉が市民権を得たほど、重要な会議でした。その後、分野を超えて、デザイナー相互の協調が推進され、1964年のオリンピックでそれが活かされました。

 世界デザイン会議の中心メンバーだった勝見勝氏は、1963年11月、オリンピック組織委員会の嘱託になり、正式にデザインワークの指揮を執ることになりました。1964年2月には組織委員会の総務課に「デザイン室」を設置し、実働部隊として若手デザイナー30名を招集しました。当時、『グラフィックデザイン』の編集長をしていた勝見氏は、個々のデザイナーの特性をよく把握しており、適材適所で人材を配置しました。そのおかげで、大きな成果をあげることができました。

 さらに、勝見氏は一連の仕事を進めるに際し、デザイン・ポリシーを徹底させて、統一感を図っていました。具体的にいえば、「エリア計画部会」「シンボル部会」「標識量産部会」などのプロジェクトに分け、書体、エリアカラー、ピクトグラム、標識などの基準を定めたデザインマニュアルを制定し、制作を進めていったのです。

 このデザインマニュアルは大会終了後、『デザイン・ガイド・シート』にまとめられました。

こちら →https://www.kosho.or.jp/products/detail.php?product_id=7215654

 これを見ると、東京オリンピック大会に必要な種々の情報を、的確に視覚伝達できるよう、デザイン業界が一丸となって、活動を展開していたことがわかります。

■デザインの社会的効用

オリンピックは、デザインの社会的効用を可視化できる絶好の機会でした。しかも、日本はアジアで初めての開催国です。デザイナーたちがこの機を逃す手はありません。先駆者としての意気込みに支えられて、さまざまな困難を乗り越え、ピクトグラムの作成していきました。

 戦争で350万人もの若壮年層が犠牲になっており、日本社会に大きな人口の空白地帯ができていました。当時、20代後半から30代の人々は、犠牲になった世代の肩代わりをしながら、戦後の復興を支えてきたのです。デザイン業界も同様でした。

 デザインワークに携わった若手デザイナーたちにはオリンピックを契機に、デザインの力で日本を復興させるという意気込みが充満していたのではないかと思います。

 彼らは貪欲に世界の情報を把握し、キャッチアップしようとしていました。勝見勝氏らが1960年に東京で世界デザイン会議を開催したのも、若手デザイナーたちに、海外や分野を超えたデザイナーたちとの交流の場を設けるためでした。相互に情報交換し、刺激し合える機会を提供することで、日本のデザイン力を高めようとしていたのです。

 実際、この世界デザイン会議を通して、デザイン関係者の間で、専門分野を超えた共同作業の在り方、デザイン・ポリシーの徹底、デザイナーの社会的責任などが共有されるようになっていきました。

 東京国立近代美術館の木田拓也氏は、「東京オリンピックはこうした課題にこたえるための「実験場」でもあった」と指摘していますが、その指揮を執ったのが、勝見勝氏でした。(『デザイン理論』65号、2014年)

 勝見氏の指揮の下、彼らはピクトグラムの導入に成功しました。競技であれ、施設であれ、とりわけ効果が顕著だったのが、一目で意味がわかるシンプルなデザインでした。オリンピックの大会ロゴをはじめ、さまざまなピクトグラムにその精神は活かされていました。シンプルなデザインだからこそ、情報が明確に伝わることを彼らは確信していたのでしょう。

■国際ジュネーブ会議で提唱された国際交通標識

 勝見勝氏はデザインプロジェクトの座長に選ばれた当初から、ヨーロッパ方式のデザインを取り入れようと思っていたようです。ヨーロッパ方式のデザインとは、1947年8月から9月にかけて開催された国際ジュネーブ会議で提案されたサインランゲージを指します。この会議では、国際交通標識の制定が提案されていました。

 当時、ヨーロッパでは車が普及しはじめており、それに伴い、国境を越えて旅行する人々が増えていました。そこで検討課題になっていたのが、各国共通の交通標識の導入でした。

 各国共通の交通標識を導入すれば、たとえ大勢の人々が国境を越えて車で行き来するようになったとしても、道に迷うことも少なく、事故も起こりにくくなるでしょう。陸続きのヨーロッパでは、喫緊の課題として国際交通標識の導入が論議されていたのです。そして、国際ジュネーブ会議にその議案書が提出されました。

 勝見氏は、国際ジュネーブ会議で提案された国際交通標識こそ、オリンピック東京大会の標識デザインの参考になると考えていました。つまり、オリンピック大会の標識は、交通標識のように単純明快で、誰が見ても、一目で理解しやすく、その意味が正確に伝わるものでなければならないと考えていたのです。

■勝見勝氏が提唱した「絵ことば」

 勝見氏は『朝日ジャーナル』(1965年10月3日号)に「絵言葉の国際化」というタイトルの論考を寄稿しています。その文章の中で印象に残った個所を、ご紹介しておきましょう。

「地球のあらゆる地域から人々が集まり、多種多様な言語の氾濫するオリンピックのような国際行事では、たとえ公用語がきまっていても、視覚言語の役割は大きい。東京大会マークの制定と、その一貫した適用、五輪マークの五色の応用、競技場別の色彩の設定、競技シンボルや、施設シンボルの採用など、その後のデザイン計画は、すべて視覚言語の重視というポリシーにそって進められてきた」

 これを読むと、勝見氏が1964年オリンピックの競技や施設等のデザインはどうあるべきか、どのように取り組み、どう実行していくかといったことを具体的に考えていたことがよくわかります。

 さらに、勝見氏は興味深い指摘をしています。

「わが国には、<視覚言語>という生硬な訳語がはやりだす前から、ちゃんと<絵ことば>という用語があり、また、紋章という世界でも最も完成した視覚言語の一体系が存在していた。われわれの先祖は紋章のデザインに、明快で微妙な造形力を発揮すると同時に、それを建築から家具や什器や服飾にいたるまで、あらゆるものに適用して、今日の流行語をつかえば、ハウス・スタイルをととのえ、固定のイメージをうちだし、デザイン・ポリシーを貫いていたのである」

 日本の生活文化の中で、紋章という視覚言語が機能していたことを、勝見氏のこの一文は思い出させてくれます。

 現代社会では、着物を着るヒトが激減し、什器を使う機会も減ってしまっています。若いヒトの中には、「紋章」を知らないヒトがいるかもしれません。紋章は日本では長い間、世代を超えて継承されてきた家族を象徴する生活文化でした。いまでは、家族制度の崩壊とともに廃れてしまっていますが、当時はまだ、紋章は生活文化の中で視覚言語として機能していたのでしょう。

 勝見氏は、日本の生活文化に根付いた紋章のもつシンプルなデザイン性、言語といえるほどの明確性に着目しました。そして、国際交通標識の導入に動き始めたヨーロッパの動向を踏まえ、日本の生活文化の中に根付いていた紋章の機能を加味した絵ことば(ピクトグラム)を次々と開発していきました。おかげで、どれほどオリンピック大会がスムーズに運営されたことでしょう。一連のピクトグラムを通して、シンプルなデザインの社会的効用を確認することができたのです。

■コミュニケーション・バリアフリーを目指す

 敗戦から19年目、アジアで初めて開催された東京オリンピック大会は、非アルファベット圏で初めて開催されるオリンピックでもありました。参加したのは94か国、5133人の選手および関係者でした。日本語がわからないままプレーをし、観戦をし、日本に滞在する数多くの外国人を支える必要がありました。

 当時、外国人と接する日本人はごく限られた人々でした。ほとんどの日本人は外国人と接触したこともなく、大勢の外国人を迎え入れなければならない状態でした。もちろん、通訳ボランティアが大活躍しましたが、四六時中、つきっきりというわけにはいきません。

 そこで必要とされたのが、通訳がいなくても外国人が行動できるための標識でした。

 なにも外国人に限りません。大会期間中、大勢の選手や観客が会場内や周辺を行き来します。彼らがスムーズに競技を観戦できるようにするには、誰もが一目でわかる標識が必要でした。それは統一されたものでなければならず、また、文化の違いを超えてわかりやすいものでなければなりませんでした。

 武蔵野美術大学名誉教授の勝井三雄氏は、当時、競技プログラムや駐車ステッカーなどのデザインを担当していました。彼らは、シンプルでわかりやすいデザインを工夫して創り出しました。


http://u-note.me/note/47506082より)

 上記は競技のピクトグラムですが、施設案内のピクトグラムもあります。とくに重要なのが、外国人を最初に出迎える空港の案内標識でした。

 上記は、羽田空港で使われた施設案内のピクトグラムです。制作者の村越愛策氏は当時を思い起こし、以下のように述べています。

「当時の羽田空港の看板といえば、「禁煙」を示すもの一つとっても、手書きのものが乱雑に標示されていただけでした。それも文字だけのものでしたから、非常にわかりにくかったんです。「これではいかん」ということで、建設業界から東京オリンピック組織委員会に設けられた「デザイン連絡協議会」に依頼がありました。そこで日本のデザイン界の第一人者であり、東京オリンピックのデザイン専門委員会委員長を務めた勝見勝先生の出番となったのです。その勝見先生からご指名をいただいた私の作業は1962年から始まって、約1年間の期間しかありませんでした」(前掲URLより)

 これらのデザインは当時、若手11人のデザイナーたちが苦心して作り上げたものでした。ところが、勝見氏はこれらのピクトグラムを「社会に還元すべきだ」という考えから、デザインの著作権を放棄しようと提案しました。若手デザイナーたちもいさぎよくこれに同意し、著作権放棄の署名をしました。

 その結果、これらのピクトグラムは日本だけではなく、全世界で案内表示として使われるようになりました。国境を越え、文化を超え、年齢を超え、誰もがわかるピクトグラムを開発したばかりでなく、著作権放棄をしてその普及を進めた功績がどれほど素晴らしいものであったか、勝見勝氏をはじめとする当時のデザイナーたちの先進性、革新性、社会貢献への意識の高さには驚かざるをえません。

 競技のピクトグラムに携わった勝井三雄氏は、勝見氏の東京オリンピックのデザインにおける業績として、以下のように述べています。

「国際的なコミュニケーションという問題意識を国内に持ち込んだ」ことが勝見氏の何よりも大きな功績だと認識し、「ピクトグラムは今では社会のあらゆる場で使われていますが、勝見さんが「絵ことばの国際リレー」と名づけたことで、日本から世界に広がる。その起点を作ったのがオリンピックだった」と述べています。(Newsletter of the National Museum of Modern Art, Tokyo; Aug.-Sep. 2013)

 東京オリンピックの開催を機に、日本人は世界で初めての快挙を次々と成し遂げました。それらはレガシーとしてその後、世界に大きな影響を及ぼしました。その一つが、今回、ご紹介してきたピクトグラムでした。

 オリンピック終了後も、世界各地でピクトグラムは使用されるようになり、さらには人々のコミュニケーション・バリアフリーに大きく寄与することになりました。当時、オリンピックを主導した人々の先見の明、社会貢献への意識の高さに尊敬の念を覚えてしまいます。(2019/11/25 香取淳子)

2020東京オリンピック・パラリンピック:レガシーとして残せるものは何か

■マラソン・競歩開催地の変更を巡って

 2019年10月30日、都内でIOC調整委員会会議が開催されました。IOC調整委員長のコーツ氏、組織委員会の森会長、橋本五輪相、小池都知事らが出席し、マラソン・競歩の開催地を東京から札幌に変更することについての調整が行われました。

小池都知事はこの日も、「開催都市に相談されないまま提案された異例の事態」だとし、会場変更に反対の姿勢を示したままでした。


2019年10月31日、日経新聞より

 マラソンといえば、オリンピックの花形競技です。しかも、マラソンレース沿道の住民にとってはチケットを購入しなくても観戦でき、楽しむことができますし、自治体にとっては、中継に伴ってその街並みが世界に発信されれば、観光意欲を刺激する可能性もあります。札幌で開催されることになれば、そのような機会が失われてしまいますから、都も関連自治体も賛成するわけにいかないのでしょう。

 一方、IOC調整委員長のコーツ氏も、札幌への変更はIOC理事会で決定したことだとして、譲りませんでした。

フジ系ニュース映像より

 もっとも、理解してもらうための説明は尽くすとコーツ氏は言っています。冷静に説得しようとする様子からは、開催地の変更は受け入れてもらえるという自信が滲み出ていました。たしかに、選手や観客の健康への影響を考えれば、IOC側に理があるといえますし、そもそもオリンピックの競技会場自体、IOC理事会の承認事項になっていますから、森組織委員会会長のいうように、IOCが決定したのだから、受け入れざるを得ないのでしょう。

 2019年10月30日の日経新聞夕刊には、マラソンを札幌で開催する場合、チケット販売は行わず、沿道で観戦することになるとされ、東京開催で販売されたチケットは払い戻しで対応すると書かれていました。

 一連の騒ぎになる前から、私は東京の夏でオリンピックを開催するのは、選手にとっても観客にとっても大変なことになると思っていました。周囲も同じような見解で、大丈夫かしらと話し合っていました。ですから、コーツ氏の言い分はとてもよく理解できました。むしろ、IOCの方からこのような提案をしてくれたことで、ほっとしたほどでした。東京の夏の酷暑を知っている多くのヒトは同じような気持ちになったことでしょう。ようやく適切な対応をしてくれたという気持ちでした。

 マラソン・競歩の開催地の変更を巡る騒動は冷静さを欠き、選手や観客への配慮は見られません。それどころか、東京都側の面子や政治経済的利益ばかりが目につきました。なんのためにオリンピックを開催するのかと疑ってしまうほどでした。

■ドーハでの事態を踏まえ、IOCが決断

 10月16日、IOC(国際オリンピック委員会)は、マラソンと競歩は北海道で開催することを検討していると発表しました。

こちら →https://www.bbc.com/japanese/50078117

 マラソンや競歩に参加する選手の健康への影響を考えると、東京よりは気温が6℃ほど低い北海道で開催するのが妥当だというのがIOCの言い分です。東京都はこれまで暑さ対策としていろいろ検討してきたのですが、いずれも現時点の準備状況では酷暑には対応できないと判断し、IOCが出してきた提案でした。

 後で知ったのですが、IOCがこのような判断をした理由に、カタールのドーハでの不祥事がありました。

 2019年9月27日にドーハで女子マラソンが開催されたのですが、気温30℃、湿度70%を超える悪条件の下で決行されたため、68人の出場者のうち28人が途中で棄権し、完走率は過去最低の58.8%を記録することになったのです。

こちら →https://www.j-cast.com/2019/09/30368895.html?p=all

 IOCはこの件を重視し、高温多湿の日本の夏でも同様のことが起こらないかと危惧したのでしょう。どうやら、この件の後、マラソンと競歩の開催地変更の検討に入ったようです。

 ところが、札幌への変更については、小池都知事が反発し、一部の人々も反対しています。毎日新聞が10月27日、28日に実施した調査結果では、開催地の変更を「支持する」は35%、「支持しない」が47%だったといいます。サンプル数、母集団の属性がわからないのでなんともいえませんが、オリンピック東京大会なのに、これでは札幌大会ではないかというのが一般的な反対意見のようです。

 とりわけ、マラソンは人気のある競技で、観客動員数も多いことが見込まれます。ですから、開催地が変更になっては困るヒトもいるのでしょう。実際、東京でのコースにされていた沿道の自治体(千代田区、港区、新宿区、中央区、台東区、渋谷区)も反対しています。

 最終決定が下されるのは10月30日でしたが、小池都知事の強固な反対で結論はずれ込み、3日後になりました。とはいえ、反対の声がどれほど高まったとしても、選手の健康、観客の健康が第一だというIOCの主張に対抗することはできないでしょう。

 国際陸上競技連盟(IAAF)会長・セブ・コー氏も、「来年の五輪で、マラソンと競歩の最善のコースを確保するため、我々は大会組織委員会と連携していく」と表明しているそうです。最終的には、IOCが検討している方向で決着がつくのでしょう。

■暑さ対策はどうなっていたのか

 実際、東京の夏は近年、猛暑日が続いています。総務省消防庁の調べによると、2019年5月から9月の期間、熱中症で、救急車で搬送されたのは7万1317人で過去2番目に多く、そのうち死者は126人だったそうです。月別で見ると、8月が3万6755人で最も多く、前年より6345人多かったといいます。

 このような現実を知れば「暑さ対策に責任をとれるのか」と迫るIOCの提案を受け入れざるを得ないでしょう。果たして、東京の酷暑を組織委員会や東京都はどう考え、どのように対処しようとしていたのでしょうか。

 まず、オリンピック組織委員会のHPを見てみることにしましょう。

こちら →https://tokyo2020.org/jp/

 直近のニュースとして、暑さ対策に取り組むイベントが10月29日に開催されたことが取り上げられていました。

こちら →https://tokyo2020.org/jp/news/event/20191029-01.html

 若手イノベーターたちが専門家やアスリートを交え、真剣に議論を重ねている様子が報告されています。ここでの議論だけで、暑さ対策への解決策が生み出されるわけではありませんが、議論の過程を公開することによって、さらに多くの知恵を集め、練り上げていけば、真夏の東京大会に向けた最適解が得られる可能性もあるでしょう。とはいえ、もはや残された時間はわずかです。悠長に構えてはいられません。

 それでは、東京都はどうなのでしょうか。小池都知事は5月24日の記者会見で、暑さ対策として「かぶる傘」の試作品を発表しました。


2019年5月27日付朝日新聞より

 これを見たとき、まず、こんなもの誰がかぶるのかと思いました。観戦の邪魔になるだけだし、長く着用していると、蒸れてきて気持ちが悪くなるのではないかという気がしました。身に着けるものは、機能とデザインの両方を満足させるものでないと、消費者にはなかなか受け入れてもらえないでしょう。

 もちろん、暑さ対策グッズをいくつか用意しているようですが、どれも体温を超える東京の酷暑への対策として適切なものだとは思えませんでした。また、東京都はこれ以外に、道路に散水することによって気温を下げる実験をしたりしていますが、果たしてどれほどの効果があるのでしょうか。

 そこで、グッズ以外の東京都の暑さ対策の項目をみると、むしろ、熱中症で倒れた後の処置に力点を置いているように思えます。

こちら →

http://www.kankyo.metro.tokyo.jp/climate/heat_island/atsusa_taisaku_suishinkaigi.files/R1_SANKOU2.pdf

 熱中症で倒れることを前提とした対策なのです。たしかに近年、東京の夏の暑さは尋常ではありません。体温を超えるほどの酷暑が続く日本の夏の実態を考えれば、炎天下で長時間競技することになるマラソンや競歩は札幌で行うべきだというIOCの主張に抗うことはできないでしょう。

■なぜ、真夏に開催するのか

 それにしても、なぜ、真夏の暑い時期に開催することになったのか、といった疑問が再び、浮上してきました。

 オリンピック東京大会が決定されたことを知ったとき、まっさきに思い浮かんだのは、なぜ、わざわざ酷暑の真夏に開催するのかということでした。おそらく、同じような思いをしたヒトは多かったでしょう。

 ところが、時間が経つにつれ、いつの間にか、酷暑という悪条件で競技をすることの危険性を忘れてしまっていました。調べてみると、1964年の東京オリンピックは10月10日から14日までの15日間、涼しく過ごしやすい時期に開催されていました。その後、1968年のメキシコ五輪も10月に開催されています。

 ただ、それ以降のオリンピックは7月か8月に開催されています。2020年の夏季オリンピック立候補都市に対しても、IOCは、「7月15日から8月31日の間」という条件を課しています。夏季オリンピックなので、それが開催条件の一つなのです。

 もちろん、その背後には夏季に開催した方が、視聴率が稼げると判断している米TV業界の事情があります。9月や10月に開催されれば、フットボールや大リーグの優勝戦といった他の大きなスポーツイベントと重なってしまいます。オリンピックは万人の関心を呼ぶコンテンツなのに、秋に開催すると、イベントが競合し合って視聴率を稼げない可能性があるのです。なんといっても米TV業界は、長年にわたって巨額の放映権料をIOCに支払っています。IOCもその意向を無視することはできないでしょう。

 ですから、2020年夏季オリンピックは、「7月15日から8月31日の間」という条件を付けての募集でした。具体的な日程は開催国のスポーツ団体が相互に調整して決めますから、夏季オリンピックの開催時期に関していえば、IOCに非はありません。

■酷暑の東京開催をIOCはなぜ、許可したのか

 IOCに非があるとすれば、酷暑の東京で開催することをなぜ、許可したのかということになります。そこで、選考過程で東京開催に対し、どのような評価がされているかを見ると、意外なことがわかりました。

「今大会の開催地選考でも東京の計画への評価は高く、2012年5月の1次選考でも総合評価のコメントで立候補都市の中で唯一「非常に質が高い」と記述され、正式立候補都市に選出された。同じアジアのドーハが1次選考で脱落したため、前回同様に一定のアジア票は確保できるとの見方が強い。課題として挙げられているのは、IOC の報告書で指摘された夏季のピーク時における電力不足と都民の低い支持率である」(Wikipediaより)

 第2次選考過程で懸念されていたのが、「夏季ピーク時における電力不足と都民の低い支持率である」だったのです。IOCの報告書には、酷暑が選手や観客に与える健康へのダメージについては何も書かれていませんでした。不思議なことです。

 選考を行ったIOCの理事会のメンバーは、ひょっとしたら、真夏の東京の暑さを知らなかったのかもしれません。

 そこで、2次選考に残った三都市の申請データの中から、開催期間と期間中の気温の項目を見ると、マドリードが「8月7日から8月23日」の期間で、気温が「24-32℃」、イスタンブールが「8月7日から8月23日」の期間で、気温が「24-29℃」、東京が「7月24日から8月9日」の期間で、気温が「26-29℃」(以上、Wikipediaより)と記されていました。

 申請データに記されていた7月下旬から8月上旬にかけての東京の気温は「26-29℃」で、体感している気温とは大きく異なっています。これでは、熱中症で倒れるヒトが続出する東京の暑さが伝わってきません。

 念のため、気象庁のデータから、2018年度の東京の年間気温を見てみました。すると、7月、8月は明らかに、年間最高の気温を記録していることがわかります。


気象庁より

 日本がIOCに申請した気温データ「26-29℃」を、上のグラフに照らし合わせてみると、一日の最低気温と平均気温に該当します。つまり、オリンピック招致委員会は、最高気温を避け、都合のいいデータだけ出して申請していたことがわかります。

 こうしてみてくると、日本のオリンピック招致委員会は、虚偽とはいわないまでも、正確とはいえないデータを提出して、開催の許可を得ていたことになります。姑息な手段を弄して、「開催地の決定」になったのですが、なぜ、それほどまでにして日本は、東京で夏季オリンピックを開催したかったのでしょうか。

■東京オリンピック・パラリンピック開催の意義はどこにあるのか

 今回、オリンピックを開催するといっても、もはや国威発揚のためでもなければ、民族意識を高めるためのものでもありません。一体なんのための開催なのでしょうか。

 Wikipediaを見ると、申請時点での東京オリンピック開催意義は、「スポーツの力によって、震災から復興した姿をみせるとともに、災害や紛争に苦しむ人々を勇気づけることを理念」に掲げられています。そこで、オリンピック組織委員会のHPを見ると、この理念に該当するページがありました。

こちら →https://tokyo2020.org/jp/games/caring/

 たしかに、「スポーツの力によって、震災から復興した姿をみせる」ことはできています。ただ、それだけではあまりにもオリンピック・パラリンピックを支える理念としては弱いと思い、トップページを見ると、今回の大会ビジョンとして3つのコンセプトが掲げられていました。

こちら →https://tokyo2020.org/jp/games/vision/

 「スポーツには世界と未来を変える力がある」とし、①「全員が自己ベスト」、②「多様性と調和」、③「未来への継承」、等々の項目が掲げられています。項目ごとにそれぞれ、具体案が示されていますが、総花的で統一性がなく、何を目指そうとしているのかが見えてきません。

 2020年に東京大会を開催することの意義はどこにあるのかと思いながら、各項を見ていくと、「成熟国家となった日本が、今度は世界にポジティブな変革を促し、それらをレガシーとして未来へ継承していく」というフレーズがありました。東京大会ならではの意義はおそらく、ここにあるのでしょう。

■レガシーとして残せるものは何か

 成熟し、超高齢社会となった日本では、いま、誰もが「老い、病、死」を身近に感じながら暮らさざるをえなくなっています。ともすればネガティブに捉えられがちなこれらの要素を、ポジティブに捉えなおし、生活の中に組み込んでいく必要に迫られているのです。

 超高齢社会だからこそ、受け入れざるをえないネガティブな要素をポジティブなものに変換していくには、技術の力を借りる必要があるでしょう。技術の力を借りながら、ポジティブな変革を進め、未来に継承していくようにできれば、今後、先進諸国で続出する超高齢社会にも大きく寄与できるようになるでしょう。

 そういえば、1964年の東京オリンピックの際、世界に向けて生中継するためのTV技術が進化しました。世界最初に五輪を世界に中継した静止衛星 はボーイング社のシンコム3号といいますが、帯域が狭いために、衛星伝送されたのは映像信号のみで、音声は海底ケーブルで送られたといいます。

 当時のTV技術者たちは別の用途で使われていた静止衛星を、世界にオリンピック競技を中継するために利用し、イノベーションを引き起こしたのです。

 そして、開会式、レスリング、バレーボール、体操、柔道などの競技がカラー放送されました。リアルにビビッドな状態で視聴者に競技内容が伝わるよう工夫されたのです。こうして世界で初めてのTV中継技術がオリンピック東京大会のレガシーとして残されました。

 それでは、2020年の東京オリンピックでは、何をレガシーとして残せるのでしょうか。

 たとえば、NHKは8Kでの東京オリンピック中継を過去最大規模で実施し、開閉会式や注目される競技で行い、スタジアムの興奮をそのまま日本全国に届けるとしています。

こちら →https://sports.nhk.or.jp/olympic/

 しかも、2019年6月7日に改正放送法が成立したので、NHKはすべての番組をインターネットで同時配信できるようになりました。現在はまだ開始されていませんが、これからはパソコンやスマホでNHKの番組を見ることができるようになります。もちろん、今回の東京オリンピックでも、臨場感あふれる映像を中継するためのTV技術が開発されています。

 一方、パラリンピックのサイトの情報も充実しています。

こちら →https://sports.nhk.or.jp/paralympic/article/gallery/

 写真家の越智貴雄氏は、「パラアスリートは道なき道を歩む先駆者であるからこそ、バイタリティーもすごい!」といい、パラアスリートの決定的瞬間をカメラに収めていったようです。たしかに、写真を見ると、その一つ一つにバイタリティーが感じられ、気持ちが鼓舞されていきます。

 障碍者がアスリートとして輝く場が提供されるのだとすれば、高齢者や障碍者が観客として、気楽にオリンピック競技を楽しめる場が提供されるべきだと思います。つまり、オリンピックを機に生番組への字幕の付与や解説放送の提供が進めば、これまで以上に多くの高齢者や障碍者が自宅に居ながらにして、競技を楽しめるようになるでしょう。

 先ほどもいいましたように、日本は超高齢社会に突入しており、今後もその傾向は続きます。だとすれば、TVは今後も基幹メディアとして一定の役割を果たし続けるでしょう。情報装置としてはもちろん、娯楽装置、対人代替装置としても活用できるようTVを高度化する一方で、使い勝手のいいものにしていけば、高齢者が自立して暮らしていくための一助とすることができます。

 オリンピックが国内外に向けた大きなプロバガンダの機会であることは確かです。今回のオリンピック・パラリンピックでは、オリンピック中継を通して、日本が高齢者や視聴覚障碍者、外国人にも優しい放送を提供していることを伝えることができればいいと思います。それでこそ、成熟した社会がオリンピックを通して残せるレガシーだという気がします。(2019/10/31 香取淳子)