ヒト、メディア、社会を考える

香取淳子のメディア日誌
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百武兼行⑩:幕末のイギリス留学、三藩三様

■イギリスの東アジア進出

 佐賀藩藩士の島内平之助は、アメリカからの帰国途中に立ち寄った香港で、英仏軍によって北京が攻撃されたことを聞き及んでいました。1860年9月、第二次アヘン戦争末期に勃発した武力衝突事件です。

 当時、香港はイギリスの支配下にありました。この時、島内が見聞きした出来事の記録は、「米国見聞記」(1861年)に収められ、藩主の鍋島直正に提出されました。

 海外情報を入手しにくい時代に、鍋島直正は、藩士から直接、隣国清朝の悲惨な状況を把握することができていたのです。彼は、海外渡航する藩士には必ずといっていいほど、現地での情報収集を指令していましたが、これは、その成果の一つでした。

 当時、もっとも注目しなければならなかったのが、イギリスの動きでした。ヴィクトリア朝(1837-1901)の最盛期で、産業革命による経済発展が成熟しており、市場拡大のため、東アジアに進出してきていたのです。

 その手先になっていたのが、イギリス東インド会社です。交易を通して各地に進出し、やがて植民地化し、現地の資源を収奪していました。自由貿易主義の下、イギリスは巧妙にアジアでの侵略行為を進めていたのです。

 1858年には、インドの植民地を東インド会社からヴィクトリア女王に委譲させ、二度にわたるアヘン戦争によって、清を支配下に置きました。次のターゲットは明らかに、日本でした。

 そんな最中、佐賀藩で、ちょっとした事件が起こりました。

■石丸安世らの密航事件

 1865年(慶応元年)10月、佐賀藩士の石丸安世(1834-1902)が、突然、行方不明になりました。

(※ Wikipediaでは生年が1839年となっているが、それでは、その後の石丸の経歴と辻褄が合わない。『佐賀県立博物館・美術館報』(No.65)では、1834年(天保5)が生年とされており、佐賀県人物データベースも同様。したがって、本稿でも1834年生年を採用した)

 行方をくらましたのは、石丸ばかりではありませんでした。佐賀藩士の馬渡八郎(生没年不明)、広島藩士の野村文夫(1836-1891)も居所がわからなくなっていました。3人の内、2人は佐賀藩士でした。当然のことながら、佐賀藩は追っ手を差し向け、石丸らの行方を追いました。

 ところが、一応、各方面を捜索したようですが、藩はそれほど熱心には探さず、早々に打ち切ったといいます。

 結局、石丸ら3人は、親交のあったグラバー(Thomas Blake Glover, 1838 – 1911)の手引きで、貨物帆船チャンティクリーア号に乗り込み、イギリスに密航していたことがわかりました(※ Wikipedia)。

 藩に迷惑を掛けたくないという気持ちが強かったのでしょう。石丸らは渡航前に脱藩し、藩との関係を断ち切っていました。

 当時、密航は死罪でした。

 1635年(寛永12)にいわゆる第3次鎖国令が発布され、密航は死罪となっていました。幕府は、中国やオランダなど外国船の入港を長崎に限定する一方、日本人の渡航及び日本人の帰国を禁じたのです。

 その後、島原の乱(1637年)が勃発したので、幕府はさらに鎖国令を厳格化しました。新たな宣教師が国内に潜入するのを防ぐため、1639年(寛永16)に、全ポルトガル船の日本への入港を禁止したのです。これが最終版の第5次鎖国令です。

 こうして1639年以降、佐賀藩と福岡藩は、長崎港の西泊と戸町の両番所に陣屋を築き、交代で長崎の警備を担当するようになりました。当時、長崎奉行は2000~3000石の旗本で,外事案件に対処できる家臣団や軍事力がありませんでした。警備に関しては、近隣の佐賀藩と福岡藩が担当せざるをえなかったのです。両藩は毎年4月に交代し、9月までの貿易期には約1000人が在勤していました(※ https://www.historist.jp/word_j_na/entry/036127/)。

 佐賀藩は、長崎警固を担う幕府の軍役でした。

 重責を担っているのですから、藩士の密航など、あってはならないことでした。密航者を捜索するのは当然のことだったのです。

 そもそも佐賀藩には、忘れることのできない苦い経験がありました。

 オランダ国旗を掲げ、オランダ船を装ったイギリス軍艦フェートン号が入港してきた事件がありました。このフェートン号事件(1808年)の際、佐賀藩の警固の不備が明らかになってしまったのです。

 佐賀藩は警備を担当していましたが、長い間、大した事件も起こらなかったので、定められた警衛人員を勝手に減らしていたのです。その結果、フェートン号が入港し、オランダ船を拿捕した時も職務を果たせませんでした。関係者は責任を取って自害し、藩主も幕府からお咎めを受けました。

 そのような苦い経験があっただけに、再び、幕府が定めたルールを犯すわけにはいきませんでした。石丸らが脱藩して密航という形で渡英したのも、無理はなかったのです。

 さて、藩士が脱藩し、その直後に行方不明になりました。しかも、一人ではありませんでした。当然のことながら、藩主鍋島直正には報告されていたでしょうが、直正は事前にこの件を把握していなかったのでしょうか。

 そもそも藩主直正の許可がないまま、石丸らは密航という大それたことをしたでしょうか。直正はこの密航事件にいくばくか関与していたのではないでしょうか。

 思い起こすのは、当時の社会状況です。

 すでに1863年6月27日には長州藩から5名、1865年4月17日には薩摩藩から19名がイギリスに向けて密航していました。長州藩と薩摩藩は、イギリスと戦った雄藩です。そこから、志ある藩士たちが次々とイギリスに向かったのです。

 情報通の直正はおそらく、そのことを知っていたはずです。

 まず、長州藩からみていくことにしましょう。

■長州藩士たちのイギリス渡航

 長州藩からは、井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)の5名がイギリスに渡航しました。いわゆる長州五傑です。

 彼らの写真をご紹介しましょう。

(※ Wikipedia)

 上から順に、遠藤謹助(上段左)、野村弥吉(上段中央)、伊藤俊輔(上段右)、井上聞多(下段左)、山尾庸三(下段右)の配置で写っています。

 この写真は、彼らがロンドンに到着した1863年に撮影されました。蝶ネクタイの正装で革靴を履き、緊張した面持ちでポーズを取っている姿が初々しく、微笑ましく思えます。

 渡航時の年齢は、遠藤が27歳、野村が20歳、伊藤が22歳、井上が28歳、山尾が26歳でした。それぞれが何らかの職務を経験し、時代状況を把握できている年齢だといえます。帰国後はイギリス留学の経験を活かし、さまざまな分野で、日本の近代化に貢献しました。

 それから130年後の1993年、ロンドン大学内に、長州ファイブ(Choshu Five)として、顕彰碑が建てられました。当時、彼らの中の一体、誰が、こんなことを想像したでしょうか。

 先陣を切って渡英した彼らの留学経験が、その後の日本の近代化に大きく影響したことは確かでした。

 まず、彼らの渡航経緯からみていくことにしましょう。

 最初にイギリス渡航を思い立ったのは、山尾庸三(1837 – 1917)と野村弥吉(1843 -1910)でした。

 彼らはなぜ、渡航しようと思ったのでしょうか。先ずは彼らの来歴から見ていくことにしましょう。

■山尾庸三

 山尾庸三(1837-1917)は、長州藩重臣の息子でした。1852年(嘉永5)に江戸に赴き、同郷の桂小五郎に師事した後、江川塾の門弟となりました。

 江川塾とは、幕臣の江川英龍(1801-1855)が、高島流の砲術をさらに改良した西洋砲術の普及を目的に、全国の藩士に教育するため江戸で開いた塾でした。佐久間象山、大鳥圭介、橋本左内、桂小五郎(後の木戸孝允)、黒田清隆、大山巌、伊東祐亨などが彼の下で学んでいました(※ Wikipedia)。

 山尾はおそらく桂小五郎から、江川塾のことを聞いたのでしょう。江川は海防ばかりか造船技術の向上にも力を注ぎ、1854年(嘉永7)に日本に来航していたロシア帝国使節プチャーチン一行への対処も差配していました(※ https://egawatarouzaemon.sa-kon.net/page010.html)。

 江川は、爆裂砲弾の研究開発や近代的装備による農兵軍の組織までも企図していましたが、結局、激務で体調を崩し、1855年(嘉永8)に亡くなってしまいます。学びながら実践を繰り返す江川の影響を山尾が深く受けていたことは確かでした。

 1861年(文久元年)、山尾は幕府の船「亀田丸」に乗船し、ロシア領のアムール川流域を査察しています(※ Wikipedia)。

 実は、ロシアの南下政策に備えるため、幕府は1799年(寛政11)に松前藩が統治していた東蝦夷地を直轄地にし、幕府が外交上の問題に直接、関与できる体制を築き上げていました。1802年(享和2)には、蝦夷奉行(同年、箱館奉行と改称)が設置され、その翌年には箱館の港を見おろせる場所に奉行所を建てていたのです。

 ところが、懸念すべきこともなく過ぎたので、幕府は1821年(文政4)、箱館奉行の役割を終了させました。財政難でしたし、対外関係の緊急課題は去ったと判断したからでした。

 ところが、ペリー艦隊が浦賀に来航し、和親条約を結んだ後、1854年(安政元年)4月に箱館に入港してきました。幕府は慌てて、箱館奉行所を34年ぶりに復活し、幕府直轄地に戻しました。

 再設置された箱館奉行所の任務は、開港にともなう諸外国との外交交渉、蝦夷地の海岸防備、箱館を中心にした蝦夷地の統治でした。開港場となった箱館には、各国の領事館が置かれ、箱館奉行所は外国との重要な窓口となりました。

(※ https://hakodate-bugyosho.jp/about1.html#:~:text=%E3%81%9D%E3%81%93%E3%81%A7%E5%B9%95%E5%BA%9C%E3%81%AF%E3%80%81%E5%AF%9B%E6%94%BF11,%E6%89%80%E3%82%92%E5%BB%BA%E3%81%A6%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82

 上図で、赤で囲われている箇所が、箱館奉行所です。

 山尾は1861年にアムール川流域を視察した後、箱館に滞在して武田斐三郎(1827- 1880)に師事し、航海術と英語を学びました。

 武田斐三郎は、ロシアのプチャーチンやアメリカのペリーとの交渉の場に通訳として参加していただけではなく、箱館奉行所では武器の製造まで担当していました。まさに海防を担うにはふさわしい人物でした。

 山尾が箱館に滞在して、武田に師事したのも当然のことでした。次々と押し寄せてくる欧米ロシアの艦隊に対応するには、まず、航海術と英語を学ばなければなりませんでした。

 山尾が海防に関心を抱いていたのは、実際にアムール川流域を視察してロシアの南下政策を実感しただけではなく、地元長州藩もまた海防を考えなければならない地政学的位置づけにあったからでしょう。

 地図を見ると、長州藩は日本海に面している一方、瀬戸内海への入り口である下関海峡にも面しています。

(※ https://www.touken-world.jp/edo-domain100/choushuu/

 実際、幕末には、この界隈を欧米列強の船が次々と押し寄せてきました。頑丈な装備の船が海上を通過するのを見るたび、人々は、危機感を抱いていたに違いありません。山尾が航海術や英語力を高めなければならないと考えるのは当然のことでした。

 彼は単に書物から学ぶだけではなく、実践も積み重ねてもいました。

■留学願いを藩に提出

 1863年(文久3年)3月、山尾は、長州藩がジャーディン・マセソン商会から購入した「癸亥丸」の測量方を務め、横浜港から大阪を経由して三田尻港まで航行しています。この時、「癸亥丸」の船長を務めたのが野村弥吉でした。

 二人は相通じるところがあったのでしょう。帰藩すると、山尾と野村はただちに、イギリス留学の願いを藩に提出しました。彼らとは別に、井上馨(1836 – 1915)も洋行願いを出しており、3名の渡英が決定されました。後に、伊藤博文と遠藤謹助が加わり、渡航者は結局、5名となりました(※ Wikipedia)。

 藩主毛利敬親(1819-1871)が藩命を下し、5名のイギリス留学が決定したのですが、当時、日本人の海外渡航は禁止されていました。そこで、5名は脱藩したことにし、密航者扱いで渡英しています。

 ちなみに、渡航前に英会話ができるのは野村だけで、他の4人は辞書を引きながらなんとか応対できる程度だったそうです(※ Wikipedia)。

 井上と野村は藩主の許可を得ると、早々に京都を発ち、6月22日に駐日イギリス総領事エイベル・ガウワー(Abel Anthony James Gower, 1836-1899)を訪ねて洋行の志をのべ、周旋を依頼しました。そして、6月27日、彼の斡旋でジャーディン・マセソン(Jardine Matheson)商会の貿易船チェルスウィック(Chelswick)号で横浜を出港しました。

 ロンドンに着いたのが、1863年11月4日でした。

■長州藩の留学生を支えたヒュー・マセソン

 伊藤俊輔(博文)、遠藤謹助、井上聞多(馨) らは、イギリス人化学者ウィリアムソン(Alexander William Williamson, 1824 – 1904)の斡旋で、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)の法文学部に聴講生の資格で入学することができました。そればかりか、ウィリアムソンの家に寄留させてもらい、留学生の化学教育も彼が担当してくれました。

 至れり尽くせりの待遇ですが、それは、現地の大物起業家ヒュー・マセソンが手配してくれたからでした。

 ヒュー・マセソン (Hugh Matheson、1821-1898)は、マセソン商会 (Matheson and Company) のシニアパートナーで、リオ・ティント鉱業グループの創設社長でした。

 彼は1863年に、ジャーディン・マセソン商会横浜支店長のケズウィックから、日本人留学生の世話を頼まれました。そこで彼は、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)の化学教授であるアレクサンダー・ウィリアムウィリアムソンを紹介するとともに、同大学への聴講学生登録の便宜を計ったのです。

 長州藩からの留学生は皆、このUCLで学びました。

 山尾庸三と野村弥吉(井上勝)は、約6年間にわたってヒュー・マセソンの世話になり、最先端技術を習得することができました。

 たとえば、山尾庸三はUCLで2年間、英語と基礎化学を学び、修了後、成績優秀者として優等賞を授与されています。分析化学で4位、理論化学で10位でした。

 その後グラスゴーに移り、やはりヒュー・マセソンの紹介で、グラスゴーのネピア造船所 (Napier Shipyard) で徒弟工として技術研修を受けながら、夜はアンダーソン・カレッジ(後に、the University of Strathclyde)の夜学コースで学びました。

 その間、ヒュー・マセソンの友人のコリン・ブラウン(Colin Brown)の自宅に下宿しています。

 また、野村弥吉は、1868年(明治元年)まで、UCLで鉱山技術や鉄道技術などを学び、同年9月、無事、UCLを卒業してから帰国しました。留学した藩士のうち、山尾と野村が最も長くロンドンに滞在したことになります。

 井上馨と伊藤博文の滞在はわずか1年でした。下関戦争が勃発したので、彼らは急遽、帰国したのです。残った3人は、1865年(慶応元年)にイギリスに留学してきた薩摩藩第一次英国留学生と出会い、異国での交流を喜び合いました。

 その後、遠藤謹助(1836-1893)は病気が悪化し、1866年(慶応2)に帰国しました。残ったのは野村と山尾とふたりです。彼らは遠藤が去った後も2年にわたって勉学に励み、明治元年9月、無事、UCLの卒業を果たしました。

 木戸孝允からは、再三、「母国で技術を役立てるように」と要請されていました。そこで、卒業を機に11月、山尾と野村は帰国の途に就きました。

 こうしてみてくると、長州藩士たちの留学生活はきわめて恵まれたものであったように思えます。

 なぜかといえば、井上と野村がまず、駐日イギリス総領事に留学の斡旋を依頼したからでしょう。その結果、総領事の斡旋で、ジャーディン・マセソン商会横浜支店長のケズウィック(William Keswick, 1834–1912)を紹介してもらうことができました。渡航の手配から現地での留学手続きまで、マセソン商会の関係者がさまざまな便宜を図ってくれたのです。

 イギリスで影響力のある人物に依頼したので、現地での留学生活がスムーズに運んだのではないかという気がします。ヒュー・マセソンが地元の実業界、教育界の大物だったので、有用な人物を知り合うことができ、学習の機会も、実践の機会も与えられましたのでしょう。

 伊藤博文と井上馨は長州藩の事情、遠藤謹助は病気の悪化で、早期に帰国せざるをえませんでしたが、彼らは帰国後、新政府の下で大活躍をしています。

 野村と山尾は5年余も滞在し、学業を全うしてUCLを卒業しました。帰国後、山尾は工部省の設立に尽力し、科学技術の振興に貢献しました。野村は鉄道事業に携わり、その発展に寄与した結果、日本の鉄道の父と呼ばれるほどになりました。

 なぜ、彼らが大活躍できたのかといえば、密航という形を取りながらも、正規のルートで留学し、所定の課程を学修することが出来たからではないかと思います。彼らにはなによりも、長州藩の藩命があり、駐日イギリス大使の斡旋があり、マセソン協会の支援がありました。

 だからこそ、理論から実践に至る西洋の科学技術をある程度、身につけることができ、日本に持ち帰ることができたのだと思います。

 それでは、薩摩藩の場合はどうだったのでしょうか。

■薩摩藩士の渡航と薩英戦争

 薩摩藩からイギリスへの渡航者は19人でした。渡航した19名のうち、16名が撮影された写真があります。

(※ https://www.pref.kagoshima.jp/ak01/chiiki/kagoshima/takarabako/shiseki/satsumahan.html

  これら留学生の中には、寺島宗則(1832-1893)や五代友厚(1836-1885)が含まれています。いずれも薩英戦争が勃発した際、乗船していた汽船が拿捕され、捕虜になった経験のある薩摩藩士です。

 実は、薩摩藩のイギリス渡航と、この薩英戦争とには深い関係がありました。

 薩英戦争(1863年8月15日 – 17日)とは、薩摩藩とイギリスの間で起こった武力衝突です。1862年(文久2)9月14日に、横浜港付近の生麦村で発生した事件を巡る戦闘でした。

 生麦事件の解決とその補償を迫るイギリスと、それを拒否しようとする薩摩藩が、鹿児島湾で激突したのです。

 その経緯を簡単に説明しておきましょう。

 1863年8月15日にイギリス艦隊5隻が、薩摩藩の蒸気船3隻の舷側に接舷し、イギリス兵50~ 60人ほどが乱入してきました。薩摩藩蒸気船の乗組員が抵抗すると、銃剣で殺傷し、乗組員を強制的に陸上へ排除し、船を奪い取ってしまったのです。

 このとき、船奉行添役として乗船していた五代友厚や船長の寺島宗則は、捕虜としてイギリス艦隊に拘禁されました。

 捕虜となっていた五代友厚は、西洋の技術を目の当たりにし、圧倒的な差を実感しました。

(※ Wikipedia)

 その後、解放されましたが、イギリス軍の捕虜になって罪人扱いされていた五代友厚は、そのまま薩摩藩に帰るわけにもいきませんでした。幕吏や攘夷派から逃れるためにも、長崎に潜伏せざるをえなかったのです。

 長崎には出島があり、外国人居留地がありました。さまざまな人が行き交い、いろんな噂が流れていました。それらの情報を見聞きするにつれ、五代は時代が大きく変化していることを実感するようになりました。

■五代友厚が出した上申書

 長崎に滞在している間に、五代はトーマス・グラバーと懇意になりました。グラバーから世界情勢を聞き、列強の動きを知るにつけ、国の未来に危機感を募らせていきました。なんとかしなければと思うようになった彼は、1864年6月頃、薩摩藩に、今後の国づくりに関する上申書を提出したのです(※ https://ssmuseum.jp/contents/history/)。

 それは、「これからは海外に留学し、西洋の技術を習得しなければ、世界の大勢に遅れ、国の発展に役立たない」というような内容でした。新式器機の購入による藩産業の近代化、近代技術・知識獲得のための海外留学生の派遣、外国人技術者の雇用、さらには、これらの経費に対する詳細な捻出方法(上海貿易等)などが書かれていました(※ 前掲URL)。

 五代は、長崎でさまざまな情報に接するにつけ、また、グラバーから世界情勢を知るにつけ、時代は刻々と変化していることを実感しました。そして、時代を大きく変化させている中心が、西洋の科学技術だということを察知したのでしょう。

 藩への上申書には、最新技術を導入して藩の産業を近代化すること、西洋の最先端技術や知識を習得するため留学生を派遣すること、外国人技術者を起用し、最新技術を移入すること、などが喫緊の課題として盛り込まれていました。

 こうした五代の上申書が契機となって実現したのが、薩摩藩主導のイギリス留学でした。

■薩摩藩遣英使節団

 長州藩との違いは、薩摩藩首脳が英国留学の必要性を認め、正式の使節団として渡航者たちをイギリスに送り出したことです。藩士五代友厚の上申書に基づくものだったとはいえ、薩摩藩藩主や首脳部は彼の危機感を共有しました。そして、藩の未来を託して使節団のメンバーを構成したのです。

 薩摩藩は、英国への留学生派遣を、近代化に向けた継続的な事業と考えていたのでしょう。人選から、費用、寄留先まで薩摩藩が引き受けています。未来を託した留学生は、薩摩藩開成所で学ぶ者の中から選ばれました。

 1865年2月13日、視察員4人と留学生15人が選ばれ、藩主から留学渡航の藩命が下されました。当時は、日本人の海外渡航は禁止されていたので、表向きの辞令は、「甑島・大島周辺の調査」というものでした。しかも、万が一の場合を考え、一人ひとり、藩主から変名を与えられていました(※ https://ssmuseum.jp/contents/history/)。

 海外渡航が漏れれば、密航者として扱われ、死罪になりました。まだ日本人の海外渡航は禁じられていたからこそ、変名まで用意しなければならなかったのです。

 1635(寛永12)年以来、鎖国政策の一環として日本人の海外渡航が禁止されてきました。解禁されるのは、1866年(慶應2)でした(※ 鈴木祥、「明治期日本と在外窮民問題」、『外交資料館報』第33号、2020年、p.21.)。

 幕府はすでに1860年(万延元年)に遣米使節団を送っており、1862年(文久2)にも遣欧使節団を送っていました。欧米との交渉が不可避になりつつあったのです。そのような状況下で、薩摩藩が独自の遣英使節団を送ったとしても不思議はありませんでしたが、幕府以外は、まだ密航者扱いでしか海外渡航できなかったのです。

 薩摩藩がイギリス渡航する頃はまだ解禁されておらず、十分に警戒する必要がありました。こうして準備万端整えた留学生ら一行は、1865年4月17日、グラバーが用立てた蒸気船「オースタライエン号」に乗船し、鹿児島県の先端、羽島沖を出発しました。

 次に、渡航者のメンバーをみておくことにしましょう。

■渡航者の内訳

 薩摩藩遣英使節団は、新納久脩(32歳)を使節団長として、五代友厚(27歳)、松木弘安(寺島宗則、32歳)らの外交使節団と、薩摩藩開成所学頭の町田久成(27歳)と留学生14人、通訳1名から構成されていました。

 留学生はいずれも薩摩藩開成所の生徒で、中には、13歳から17歳までの10代が5名含まれていました。

 薩摩藩開成所とは、1864年(元治元年)に設置された薩摩藩の洋学校です。中国の『易経』の中の故事にちなみ、「あらゆる事物を開拓、啓発し、あらゆる務めを成就する」ことを奨励する意味が込められています。翻訳や学問だけでなく、みずから学びを実践に繋いでいくという意図があるといわれています(※ Wikipedia)。

 リストの中に、後に政治家、外交官、思想家、教育者として活躍する森有礼の名前がありました。当時、17歳でした。

 留学生の中で一人、「長崎遊学生」という肩書きでリストに載っていたのが、中村博愛(22歳)です。調べてみると、薩摩藩の子息でした。長崎でオランダ医学、薩摩藩開成所で英語を学んでいたので、『長崎遊学生』なのでしょう。薩摩藩の留学生として選ばれ、イギリスでは化学を学び、明治政府の下では、外交官、官僚、政治家として活躍しています。

 このように渡航者リストからは、薩摩藩の将来ビジョンが見えてきます。新しい時代を切り開いていこうとする信念の下、まずは、西洋技術を学び、欧米列強に対抗できるよう近代化を進めようとする展望です。

 渡英した彼らを記念し、鹿児島中央駅の前に、「若き薩摩の群像」が設置されています。

(※ Wikipedia)

 手を高く掲げる者もいれば、胸を張って遠くを見つめている者もいます。まさに、「あらゆる事物を開拓、啓発し、あらゆる務めを成就する」ことを胸に刻んでいるように見えます。それぞれが大きな希望を抱いて渡航したのでしょう。未来に向かって突き進もうとする様子に力強さが感じられます。

 薩摩藩は、藩士たちを使節団として構成し、イギリスに向けて送り出しました。意欲ある若者に将来を託していたからでした。

 思い返すのは、佐賀藩の対応です。

 佐賀藩は、藩士を積極的に海外渡航させることはしませんでした。むしろ逆に、脱藩して密航した石丸らに、追っ手を差し向けていました。

 もちろん、深追いさせず、早々に引き上げさせています。とはいえ、密航者に追っ手を差し向けるという対応からは、佐賀藩が幕府の命に背くことを極端に恐れているように思えます。おそらく、当時なお、フェートン号事件の苦い経験が尾を引いていたからでしょう。

 藩主の直正は、長州藩や薩摩藩が決行した密航留学について、どのように思っていたのでしょうか。

 少なくとも、薩摩藩の一行が、グラバーが手配した貿易船に乗り、鹿児島沖から密かに出航したことは知っていたはずです。

■鍋島直正とグラバー

 アンドリュー・コビング(Andrew Cobbing, 1965- )氏は、『鍋島直正公伝』や『長崎談叢』の記述を踏まえた上で、次のように概括しています。

 直正が、「素より法を守るに厳格なれば、表面には敢て之を軽々に看過せられぬ」と主張したと紹介する一方、後年、グラヴァ―自身が、「石丸と云ふ人と馬渡と云ふ人を閑叟公から頼まれて英吉利へやった」と回想していたと記しています(※
アンドリュー・コビング 、『幕末佐賀藩の対外関係の研究』、鍋島報效会、1994年3月、p.76.)。

 この記述からは、直正の微妙な立場がよくわかります。

 佐賀藩は、長崎警護を担当していましたから、幕府の鎖国禁止令に背くわけにはいきませんでした。そうかといって、長州藩や薩摩藩が次々と藩士をイギリスに渡航させているのを、ただ指をくわえて眺めているわけにもいかなかったのでしょう。

 興味深いことに、直正は1865年5月22日にグラバーに面会しています(※ 前掲。p.76.)

 二人がどんな用件で会っていたのかはわかりませんが、時期が時期だけに、気になりました。薩摩藩の藩士19名がイギリスに発った直後であり、石丸安世らが密航するまでに5カ月あります。この5カ月を留学の諸手配をするのに必要な期間だとみることもできます。

 もちろん、別件でグラバーに面会していた可能性もあります。グラバーは、直正にとって商取引の相手でした。商用でたまたま、この時期に会っていただけなのかもしれません。

 佐賀藩は1854年3月から、マセソン商会から委託されたグラバー商会を通して高島炭を、上海や香港に輸出するようになっていました。蒸気船の燃料として、カロリーの高い塊炭である高島炭が、欧米諸国から求められたからでした(※ 森 祐行、「日本における選炭技術の変遷とその後の展開」、『資源処理技術』vol.45, No.2、1998、p.16.)。

 佐賀藩内の高島炭鉱から産出される塊炭は、当時、東アジアを航行していた欧米の蒸気船の燃料として需要が高かったのです。直正は藩政改革に伴う財源として、欧米からの需要の高い高島炭に目をつけました。

 高島炭の取引で、直正が頼りにしたのはグラバー商会でした。

 西洋の技術による高島炭鉱の開発と、高島炭を海外に販売するため、直正は1868年、佐賀藩とグラバー商会との合弁会社を設立しています(※ 前掲、p.17.)。

 もっとも、合弁会社の件は石丸らの密航事件とは直接、関係していないでしょう。石丸らの密航事件は1865年で、合弁会社設立の3年後です。注目すべきは、直正とグラバーの間にはすでに商取引の関係があり、知己の間柄だったことです。

 直正は必要とあれば、いつでも、グラバーに渡航を依頼することができたのです。しかも、石丸はグラバーとは懇意な関係でした。

 なにより、グラバーは、長州五傑のイギリス渡航の手配をし、薩摩藩遣英使節団のイギリス留学の世話をしていました。日本人渡航禁止の時代に、渡英、現地での滞在、教育機関の手配といった重責を担う役割を果たしていたのです。

 グラバーはまさに、幕末日本とイギリスとを繋ぐキーパーソンだったといえます。

 果たして、グラバーはどのような人物だったのか、石丸はなぜ、彼と知り合いになったのか、簡単に見ておきましょう。

■グラバーと石丸安世

 スコットランド・アバディーンシャーで生まれたグラバー(Thomas Blake Glover, 1838-1911)は、1859年(安政6)に上海へ渡り、当時、東アジア最大の商社だったジャーディン・マセソン(Jardine Matheson )商会に入社しました。同年9月19日、開港後まもない長崎にやって来ると、同じスコットランド人K・R・マッケンジー(K.R. Mackenzie)が経営する貿易支社に勤務しました(※ Wikipedia)。

 グラバーが長崎にやって来たのは1859年、21歳の時でした。この時、石丸は、長崎海軍伝習所で航海術や語学などを学んでおり、3年目を迎えていました。25歳でした。

 石丸安世は、藩校弘道館で儒学や武術を学んでいましたが、1854年(安政元年)に藩主の直正に命じられて蘭学寮に入り、物理や化学など西洋の科学技術を修めています。

 直正は、弘道館で学んでいた16、17歳の生徒の中から、成績の優秀な生徒を選んで二つに分け、家格の低い藩士の次男、三男に蘭学寮で、物理や化学などを学ばせました。この時、秀才として選ばれ、蘭学寮に入ったのが、石丸安世、小出千之助、江藤新平らでした(※ https://www.pref.saga.lg.jp/kiji00367689/index.html)。

 蘭学寮は、佐賀藩年寄であった朱子学者の古賀穀堂(1777 – 1836)の具申書「学政管見」に基づき、1851年(嘉永4)に設置されました。西洋の科学技術の必要性を痛感していた鍋島直正が古賀の提案を受けて設立したのです。

 直正は、上級家臣から下級武士まで全藩士の子弟の入学を求めました。優秀な成績を収めれば、身分にかかわらず抜擢していきました。その一方で、25歳までに成果を収めなければ、家禄を減らし、役人に採用しませんでした。厳しい「文武課業法」を制定し、徹底して藩士の子弟たちに勉学を推奨したのです。

 直正が構築した教育システムは、家格で役職が決まる当時の門閥制度に風穴を開ける教育改革といえるものでした(※ 前掲。URL.)。まさに能力主義の教育システムであり、近代化を推進できるメンタリティを涵養するシステムでもありました。

 石丸はこの蘭学寮で勉学を修めると、1856年(安政3)、再び、藩主に命じられて、長崎海軍伝習生になりました。以後、海軍伝習所が閉鎖になる1859年までここで学んでいます。

 海軍伝習所とは、江戸幕府が1855年(安政2)に長崎で開設した海軍士官の養成機関です。幕臣や雄藩の藩士の中から生徒を選抜し、オランダ軍人を教師に、蘭学(蘭方医学)や航海術、化学、医学、測量等などの諸科学を学ばせていました。軍艦操練所が築地に整備されたので、1859年(安政6)に閉鎖されています(※ Wikipedia)。

 安政期の伝習所を考証し、復元した図があります。陣内松齢が描いたもので、現在、鍋島報效会に所蔵されていますので、ご紹介しましょう。

(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:NagasakiNavalTrainingCenter.jpg

 多数の和船が行き交う中、図の右上に、ちょうど扇形の出島の先辺りに、黒煙をはいている船が見えます。これが、オランダから提供された木造の外輪蒸気船スンビン号です。実際にこのような蒸気船を使って、生徒たちは航海術などの勉強をしていたのです。

 スンビン号は、1855年(安政)に、長崎海軍伝習所の練習艦として、オランダから幕府に贈呈された軍艦です。 幕府にとって初めての木造外車式蒸気船でした。

 この蒸気船を描いた作品がありました。作者はわかりませんが、1850年に制作されています。ご紹介しましょう。

(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Paddle_steamer_Soembing_gift_by_King_William_III.jpg

 海軍伝習所では、軍艦の操縦だけでなく、造船や医学、語学などが教えられていました。海軍士官として欧米に対抗できるような教育を行っていたのです。ところが、1859年(安政6)、築地の軍艦操練所が整備されたので、長崎海軍伝習所は閉鎖されてしまいました。

 閉鎖後、長崎海軍伝習所の卒業生たちは、幕府海軍や各藩の海軍、さらには明治維新後の日本海軍で活躍したそうです(※ Wikipedia)。

 ところが、石丸はそのようなコースを歩んでいないのです。海軍伝習所が閉鎖された後、その英語力を買われた石丸は、貿易業務のために、藩の英語通訳として長崎に赴任していました。主な業務の傍ら、長崎の外国人居留地に出向いては、彼らから情報収集する業務も担当していたそうです(※ Wikipedia)。

 1861年(文久元年)、石丸安世は、小出千之助、中牟田倉之助、大隈八太郎(重信)、馬渡八郎らと共に英学を学ぶよう命じられ、長崎英語伝習所で学び始めます。外国人から直接、学べるということで評判になっていました(※ Wikipedia)。

 1861年、石丸は再び、藩命で長崎に滞在し、今度は英語を学び始めることになったのです。西洋の最先端技術を学ぶにはまず、英語を学ばなければならないというのが直正の見解でした。

 一方、グラバーは1861年、長崎を去ったマッケンジーの事業を引き継ぎ、フランシス・グルーム(Francis Groom)と共に、「グラバー商会」を設立しています。フランシスは、神戸を開発したアーサー・グルーム(Arthur Hesketh Groom, 1846-1918)の兄でした。

 石丸が再び、長崎英語伝習所で学ぶようになった頃、グラバーはグラバー商会を立ち上げ、オーナーとして貿易事業を采配するようになっていました。

 当初は生糸や茶の輸出を中心とした貿易業を営み、「ジャーディン・マセソン商会」の長崎代理店となっていました。

 ところが、1863年に、尊攘派公家と長州藩を朝廷から排除した文久の変(文久3)が起こると、これからは政治的混乱状態になると予想したのでしょう。グラバーは、討幕派の藩であれ、佐幕派の藩であれ、幕府であれ、要求があれば誰にでも、武器や弾薬を販売し始めました。

 グラバーは、刻々と変化する日本の政治情報を渇望しました。一方、石丸は欧米列強の日本に関する情報を必要としていました。

 グラバーと石丸が長崎で出会い、懇意になっていた可能性が出てきました。

■直正は、石丸らの密航に関与していたのか

 長崎英語伝習所で英語を学び、英語力を鍛えました。長崎の居留地に行っては、外国人を相手に会話力を磨いていたのでしょう。石丸安世は、佐賀藩随一の英語の達人だったといわれるようになっていました。

 石丸は英語力だけではなく、コミュニケーション能力、状況判断力、情勢分析力なども秀でていました。貴重な人材です。藩主の直正が見逃すはずはありませんでした。

 1863年(文久3)の下関戦争、薩英戦争の際、石丸は、英字新聞から戦況を把握し、戦闘の様子や損害について、逐一、藩に報告を送り続けていました。英語を理解できる人が皆無に近い状況下で、石丸は、欧米の情報収集およびその分析を一手に引き受けていたのです。

 このように、諜報活動ともいえる役割を与えられていたのですから、石丸と直正の間には絶大な信頼関係があったに違いありません。

 しかも、脱藩して密航したのが、下関戦争、薩英戦争の後です。とても、直正に無断で密航を決行したとは思えません。

 この件について、コビング氏は資料に基づき、諸状況を考え合わせた上で、次のように推測しています。

 「長崎にいた石丸が他藩の密航に関する情報を拾いながら、留学に対する興味をグラバーに示した結果、グラバーが石丸を誘い、最後に許可を下した直正がグラバーに依頼する展開であったのではないか」というものです(※ 前掲。p.76.)

 懇意にしていた石丸を留学させたいと思ったグラバーが、そのことを直正に伝え、直正が内密にその許可を与えたのではないかというのがコビング氏の見解でした。

 グラバーが求める日本の政治情報を伝える一方、石丸は、巷で噂になっている他藩の密航情報について、グラバーに確認していたのかもしれません。将来を考えれば、海外渡航は必然でした。グラバーに熱い渡航の思いを打ち明けていたとしても不思議ではありません。

 さらに、コビングは次のようにも記述していました。

「鍋島河内が「英国グラバが私費を以て石丸、馬渡を本国に遊ばしめたる」と述べたように、グラヴァ―が佐賀藩士二人の留学費用を負担する事になった」(※ 前掲。コビング、p.76.)

 佐賀藩二人の渡航費、滞在費用等をグラバーが支払ったというのです。それは事実だったのかもしれませんし、グラバーが支払った体にして、実際は直正が費用を出していた可能性もあります。

 実際に直正はグラバー商会と商取引がありました。後に合弁会社を設立するぐらいですから、グラバーが石丸らの費用を負担したとしても、それは、両者の取引の一環といえます。いずれにしても、直正が石丸らの渡英に関与している痕跡を残したくなかったことだけは明らかだといえるでしょう。

■幕末のイギリス留学、三藩三様

 さて、長州藩、薩摩藩に引き続き、佐賀藩も藩士が密航してイギリス留学を果たしました。いずれもイギリス人の手を借りて、渡航や留学、滞在の手配をすることができ、現地で学ぶことができました。

 海外渡航が禁止されていた時代のイギリス留学が、欧米の現状を把握し、西洋の科学技術を学ぶための突破口となったことは確かです。その後、有為の士が海外を目指しました。とはいえ、こうして振り返ってみると、幕末のイギリス留学も三藩三様だったことがわかります。

 藩と幕府との関係、藩とイギリスとの関係、藩の将来ビジョンといったようなものが関係していたのでしょうが、最も大変だったと思われるのが、佐賀藩藩士の渡英でした。

 藩からは正式に認可されることなく、渡英しており、渡航から留学、滞在に至るまでもっぱらグラバー頼みで行われました。他藩の場合とは違って、佐賀藩の場合、石丸とグラバーの個人的な信頼関係から、イギリス留学が実現したのです。

 石丸は1834年生まれで、グラバーは1838年生まれですから、二人は4歳違いです。石丸は英語の達人といわれるほどでしたから、お互いに打ち解け、何でも話し合える関係になっていたのかもしれません。

 有能な人材に、イギリスでの学習機会を与えたいという思いが、グラバーの積極的な支援になっていたように思えます。激動の時代を生きた二人が、洋の東西を越えて認め合い、好感を抱き、心の交流を積み重ねた結果といわざるをえません。(2024/3/16 香取淳子)

百武兼行⑨:近代化への取り組みと写真術

 前回、佐賀藩に写真術が導入されたプロセスを見てきました。今回も引き続き、西洋の近代技術が何故、渇望されたのか、当時の社会状況を踏まえ、考えてみることにしたいと思います。

 まず、写真術が導入された過程を振り返ることから、始めることにしましょう。

■最初に写真術を導入した薩摩藩

 前回、見てきたように、幕末日本にいち早く写真術を導入したのは、薩摩藩と佐賀藩でした。いずれも長崎経由で撮影機材を入手し、それぞれ別個に、試行錯誤を繰り返し、研究を重ねた上で、実際に藩主の写真撮影を行っていました。

 薩摩藩が1857年に銀板写真を撮影し、佐賀藩が1859年に湿板写真を撮影しています。

 ちょうどその頃、江戸幕府は、ヨーロッパ諸国とロシアに使節団を派遣することを決定しています。1858年に締結した修好通商条約について、ヨーロッパとは開港開市の延期交渉、ロシアとは樺太国境画定交渉をする必要があったからです(※ https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/j_uk/02.html)。

 文久元年12月22日(1862年1月21日)、幕府派遣の使節団は渡欧しました。横浜から長崎を経て、香港、シンガポールを経由し、エジプトを経て、フランス、イギリス、オランダ、プロシャ(ベルリン)、ロシアといった行程でした。

 この遣欧使節団に、佐賀藩の川崎道民(随行医師)と薩摩藩の松木弘安(後の寺島宗則、通訳兼医師)が参加していました。彼らは、医師として、通訳として、遣欧使節団の構成メンバーでした。

 興味深いことに、彼らはオランダに着くと、公務の合間に、わざわざ写真館に出かけていました。そして、名刺型の肖像写真を撮影し、日本に持ち帰っています。日本では見たこともない持ち運びの出来る写真でした。

 両者はいずれも、写真術に関わりがありました。佐賀藩の川崎道民は撮影経験があり、松木弘安は薩摩藩が行っていた写真術研究のメンバーだったのです。

 そもそも日本で最初にダゲレオタイプの写真を撮影したのが、薩摩藩の市来四郎(1829-1903)でした。彼は、松木弘安(1832-1893)や川本幸民(1810-1871)らと共に、島津斉彬の指示の下で写真術の研究をしていました。砲術など火薬に関する勉学を修め、西洋技術に明るくことが目に留まり、島津斉彬に認められていたのが、この市来四郎でした。

 また、川本幸民は、漢方医を学んだ後、西洋医学を学ぶため、江戸に留学しました。医学ばかりか、蘭学や物理、化学にも精通していました。彼は、翻訳書を出版したことで、島津斉彬に認められ、薩摩藩籍になりました。元はといえば、三田藩の侍医の息子です。医師であり、蘭学者でした(※ Wikipedia)。

 薩摩藩で造船所建設の技術指導をした後、蕃書調所の教授となり、1861年に『化学新書』を出版しています。化学書を多数執筆したので、日本化学の祖ともいわれています。

 一方、松木は長崎で蘭学や医学を学んだ後、江戸に赴いて川本幸民から蘭学を学び、蘭学塾に出講しました。その後、蕃書調所の教授手伝いとなってから帰郷し、薩摩藩主・島津斉彬の侍医となっています。その後、再び、江戸に出て蕃書調所で蘭学を教えながら、今度は、英語を独学し、横浜で貿易実務に関わったという異色の経歴の持ち主です(※ Wikipedia)。

 こうしてみてくると、日本で最初に写真撮影をした薩摩藩には、西洋の技術や知識、情報に精通したエリートが集結していたことがわかります。西洋の科学技術を積極的に導入することを目的に、藩主の島津斉彬が、各地から優秀な人材を呼び寄せていたからにほかなりません。

 写真術の導入はその一環と捉えることができます。

■2番目に湿板写真を撮影した佐賀藩

 幕末日本で2番目に写真撮影をしたのが、佐賀藩の川崎道民でした。医師として万延元年使節団の訪米に随行した川崎は、折を見つけ、写真館に通い詰めました。現地の技師から直接、指導を受けて、写真術を身につけるためでした。

 カメラや機材、書物だけでは知り得ない実際の運用方法を、川崎は、現地で写真技師に教えを請い、日参して学び、撮影できるようになったのです。前回、報告したように、彼の熱心な取り組みは現地メディアにも報じられていました。

 このようなエピソードからは、川崎が一見、個人的な興味関心から、アメリカで写真術を身につけてきたようにみえます。確かに、好奇心が旺盛で、学習意欲の高い川崎には、そのような側面もあったのでしょう。

 とはいえ、当時、一介の藩士が、個人的な動機だけで、写真術を学ぶことが許されたとも思えません。

 実は、渡米前に、挨拶に伺った川崎は、藩主の鍋島直正から、現地で情報を収集してくるように指令されていました(※ https://1860kenbei-shisetsu.org/history/register/profile-68/)。

 現地での写真術の習得はおそらく、鍋島直正が求めた技術情報収集の一環だったのでしょう。

 海外渡航の前に、情報収集の指令を受けていたのは、何も川崎道民に限りません。

 たとえば、遣米使節団には、6名の佐賀藩士が参加していました。そのうちの一人、島内平之助(1883-1890)は、佐賀藩の火術方に所属していましたが、川崎と同様、渡米前に、直正から種々の視察および情報収集の指令を受けています。

 指令通り、島内は帰国後、米国見聞記と砲術調査書を文久元年(1861)に書き上げ、藩主に報告しています。(※ 岩松要輔、「幕末佐賀藩士が見た中国」、『International Symposium on the History of Indigenous Knowledge』2012年、p.89)

■海外渡航の藩士に向けた情報収集の指令

 鍋島直正は、藩士たちの海外渡航の機会を捉えては、彼らに現地での情報収集を命じていました。貴重な海外渡航の機会を無駄にしなかったのです。実際、彼らからさまざまな現地情報を得た直正は、藩を取り巻く内外の情勢判断に役立てることができました。

 島内平之助は、帰国途中で香港に立ち寄った際の見聞録を残していました。

 船上から見た香港の地形、停泊する外国船や清国の船の様子を描く一方、英仏連合軍に攻撃された北京の状況を書き記していたのです。さらに、この時、交流していた米国人士官が、日本が努力して軍備を整えれば、英仏の強兵といえども軍艦を向けることはできないとささやいたことも書き添えていました(※ 前掲)。

 香港で見かけた光景と、伝え聞いた北京への英仏の攻撃事件から、島内はおそらく、明日は我が身と思ったことでしょう。その思いを米国人士官の言葉として書き添えていました。軍事力がなければ、いとも簡単に欧米から蹂躙されてしまうことを、島内はこの時、実感したのです。貴重な経験でした。

 島内が書き記した香港での経験は、鍋島直正の内外の情勢分析に大きな影響を与えたことでしょう。

 新聞社も通信社もなかった時代、海外渡航した藩士たちの情報こそが、直正に貴重な情報をもたらしていました。藩士たちは公務の合間に、現地を視察するだけでなく、情報収集するだけでなく、それを記録に残していたのです。情勢判断のための資料として、なによりも得難いものでした。

 一方、万延元年(1860)の遣米使節団に島内らと共にアメリカに赴いた川崎道民は、文久2年(1862)の遣欧使節団にも医師として随行しました。その川崎道民もまた、アメリカからの帰国後、視察報告として、(航米実記)を記しています。

 現在、東京国立博物館に保存されていますので、下巻の巻頭部分をご紹介しましょう。

(※ https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0091102

 名前の上に、「西肥」と書かれており、西の肥前(佐賀藩)出身であることが示されています。川崎道民は佐賀藩医松隈甫庵の四男として天保2年(1831)に生まれ、須古(現彼杵郡白石町)の侍医川崎道明の養子になっていますから、確かに、肥前の西部出身なのです。

 下巻の冒頭では、ニューヨークはアメリカ全州のうち最も繁栄した大都会だということから書き起こしています。大都市ニューヨークでの滞在期間中に、川崎道民はさまざまな出来事を見聞します。

 それらの中で、もっとも印象深かったのが、写真と新聞でした。

 いずれも広報媒体として優れた機能を持っています。客観性、再現性、拡散性があり、不特定多数に対して均一の情報を発信するには、最適の媒体でした。川崎は衝撃を受けました。アメリカで初めてその実用例を見た時の衝撃は、ヨーロッパでさらに強化されました。

 オランダでは名刺型写真を撮影し、日本では得られない写真の進化形も経験しています。持ち運びのできる写真は個人の証明写真ともいえるものでした。西洋の新しい技術が人々の生活の中に入り込み、人と人、人と社会との関係を変貌させていくことを予感していたのかもしれません。

 アメリカでもヨーロッパでも見かけた新聞にも川崎は興味を持ちました。対象を機械的に写し出すことが出来る写真には客観性があり、出来事をありのままに伝える新聞とは親和性があると考えたのでしょう。

 日本にも新聞が必要だと感じた川崎道民は、明治5年(1872)、佐賀県で初めての新聞「佐賀県新聞」を発行しています。地域での啓蒙活動に使うつもりで立ち上げましたが、残念ながら、発行部数が伸びずに資金繰りがつかず、2か月後には廃刊されました(※ 前掲URL)。

 川崎道民が発刊した新聞は、政府や県の仕事を県民に伝える記事で構成されていました。同一情報を不特定多数に拡散できる新聞の機能を使うことによって、県民に幅広く行政情報を伝えようとしたのですが、時期が早すぎたのか、結局は失敗しました。

 ちなみに、日本で最も早く開設された新聞事業は、1871年1月28日に横浜で発行された「横浜毎日新聞」です。こちらは当初、貿易に関する情報が紙面の中心でしたが、次第に民権派の新聞と目されるようになっていきました。1906年7月に「東京毎日新聞」と改名され、1940年11月30日に廃刊されています(※Wikipedia)。

 「横浜毎日新聞」は発刊後、紆余曲折を経ながらも、1940年11月末まで継続しています。ところが、「佐賀県新聞」はわずか2か月で廃刊になってしまいました。人口規模のせいでしょうか、それとも記事内容のせいでしょうか、いずれにしても、新政府誕生とともに、新聞事業が立ち上がっていたことには留意すべきでしょう。

 幕末から欧米列強が次々と、日本の近海を訪れ、開国を迫っていました。そのような動乱期に生きた川崎道民だからこそ、誰にも分け隔てなく情報を拡散できる新聞の必要性を感じていたのかもしれません。

 欧米列強の脅威は、誰よりも鍋島直正が感じていたにちがいありません。だからこそ、渡航する藩士に現地での情報収集を命じていたように思います。

■フェートン号事件の余波

 当時、海防への懸念を募らせていた鍋島直正は、積極的に、西洋技術の導入を図り、研究開発を進めていました。

 たとえば、1850年に日本初の実用反射炉を完成させています。威力の強い鉄製の洋式大砲を鋳造するためでした。この反射炉を使って、1851年には、日本で初めて鉄製大砲を鋳造しています。反射炉の操業と大砲の製造には多額の費用がかかり、時には、佐賀藩の年間歳入の4割にも上ったこともあったようです(※ Wikipedia)。

 それでも、鍋島直正は、積極的な西洋技術の導入を推進し続けました。海防の必要性を強く感じていたからでした。

 実は、鍋島藩にはフェートン号事件という苦い経験があったのです。

 文化5年(1808)、イギリス海軍のフリゲート艦フェートン号が、オランダ国旗を掲げて長崎港に入ってきました。慣例に従って、オランダ商館員2名と長崎奉行所の通詞が出迎えのため、船に乗り込もうとしました。その途端、商館員2名が拉致され、イギリス船に連行されてしまいました。偽の国旗を掲げたイギリス船に騙され、長崎港への侵入を許してしまい、オランダ商館員が拉致されたというのが、フェートン事件のあらましです。

 そのフェートン号が描かれている絵を見つけました。

(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Phaeton_(frigate).jpg

 画像が荒く、書かれている文字を読むことはできないのですが、帆船です。

 帆船時代には、戦列艦よりも小型・高速・軽武装で、戦闘のほか哨戒、護衛などの任務に使用された船をフリゲート艦と称したそうです(※ Wikipedia)。

 急遽、対応を迫られた長崎奉行所は、フェートン号に対し、オランダ商館員を解放するよう書状で要求しました。ところが、フェートン号側からは水と食料を要求する返書があっただけでした。

 攻撃したくても、できませんでした。

 実は、その年、長崎を警衛する当番は佐賀藩でした。ところが、これまで大した事件もなかったので、経費削減のため、守備兵を幕府に無断で10分の1ほどに減らしていたのです。事件の際、長崎には本来の駐在兵力はわずか100名程度だったという状態でした(※ Wikipedia)。

 仕方なく、長崎奉行所は急遽、九州諸藩に応援の出兵を求めました。彼らの到着を待っている間に、水と食料を得たイギリス船は長崎港を去ってしまいました。

 結果だけを見れば、日本側に人的、物的な被害はなく、人質にされたオランダ人も無事に解放されていますから、事件は平穏に解決したように思えます。ところが、長崎奉行の松平康英は、国威を辱めたとして切腹し、鍋島藩の家老など数人も、勝手に兵力を減らしていた責任を取って切腹しています。

 そればかりではなく、幕府は、鍋島藩が長崎警備の任を怠っていたことを咎め、11月には第9代藩主鍋島斉直(1780-1839)に100日の閉門を命じました。鍋島斉直は、直正の父で、1805年に家督を継いでいます。

 フェートン号事件が起こったのは1808年ですから、直正がまだ7歳の時です。幼心に強烈な印象が刻み込まれたことでしょう。なによりも、フェートン号事件以後、長崎警備の費用が嵩み、藩の財政を圧迫していきました。

 直正は17歳で、第10代藩主になりましたが、財政難から藩政改革に乗り出さざるを得ませんでした。磁器や茶、石炭などの産業の育成、交易に力を注ぐ一方、藩校である弘道館を拡充し、出自にかかわらず優秀な人材を登用するといった教育改革を行いました。

 もちろん、長崎警備も強化しています。

 二度と同じようなことを起こさないため、海防を強化しなければなりませんでした。ところが、財政難だった幕府からは支援が得られなかったので、独自に西洋の軍事技術を導入していきました。

 まずは、精錬方(佐賀藩の理化学研究所)を設置し、反射炉をはじめ科学技術を積極的に取り込み、実用化していきました。

 鍋島直正が軍事や資源開発、産業化に関する科学技術に大きな関心を寄せていたのは確かです。とはいえ、川崎道民に対する指令やそのエピソードからは、それだけではなかったようにも思えます。写真術が持つ記録性、正確な再現性などにも関心を抱いていたような気がするのです。

■写真術と西洋の科学技術の導入

 砲術や火薬といった武器でもなく、資源開発のための掘削に仕えるわけでもない写真術の研究が、佐賀藩の中で、どのような位置づけになっていたのかはわかりません。ただ、鍋島家が設置した博物館「徴古館」には、初期の湿板カメラが残されていますので、このカメラから、何か推察できるものがあるかもしれません。

 これは、川崎道民が1959年に、鍋島直正を撮影したカメラです。

 この湿板カメラには、相当、使い込んだ痕跡がみられるといいます。佐賀藩の科学研究施設であった精煉方(佐賀藩が1852年11月に設けた理化学研究所)で、使用されていた可能性があるとされています(https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/216303)。

 人物を撮影しただけではなく、精密機器の記録装置としても使われていたのかもしれません。

 佐賀藩では精錬方を設置し、西洋の科学技術を研究し、実用化できるようにしていました。諸研究のうち、軍備強化の一環として建造されたのが、製砲工場でした。

 陣内松齢が昭和初期に描いた作品、「多布施公儀石火矢鋳立所図」が残されています。

(絹本着色、68.6×85.1cm、昭和初期、公益財団法人鍋島報效会蔵)

 この図は、1854年に佐賀県多布施川沿いに建造された製砲工場です。ここには次のような解説が記されています。

「嘉永6年(1853)のペリー来航後、幕府は佐賀藩に鉄製砲50門を注文し、品川に台場を建設することとした。これを受けて佐賀藩では、先の築地反射炉に続き、嘉永6年7月多布施川沿いに新たに公儀石火矢鋳立所(製砲工場)を設けて鋳造にあたり、150ポンド砲2門を献上した。本図は昭和初年に描いた考証復元図で、2基(4炉)の反射炉が向かい合っている」(※ https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/218840

 ここでは当初、多布施反射炉での大砲鋳造に関する洋書の翻訳、薬剤や煙硝、雷粉などの試験を行っていました。やがて、範囲を広げるようになり、蒸気機関や電信機についても研究を行うようになっています(※ Wikipedia)。

 次いでに、蒸気機関車を見ておきましょう。

(※ 鍋島報效会蔵)

 上の写真は、蒸気機関研究のため、佐賀藩精煉方が、安政2年(1855)に製作に着手したとされる蒸気車の雛形です。2気筒の蒸気シリンダーがありますが、ボイラーは単管で蒸気の発生量は少なく、動力の不足を補うために、歯車の組み合わせによるギヤチェンジを行っていたと考えられています(※ https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/199422)。

 その2年前の嘉永6年(1853)に、精錬方の田中久重、中村奇輔、石黒寛二らが、外国の文献を頼りに製作した、軌間130 mmの蒸気機関車や、蒸気船の雛型(模型)があります(※ Wikipedia)。

(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Model_steam_locomotive_by_Tanaka_Hisashige_and_others.jpg

 この模型は、外国語の文献だけで、田中久重らが作り上げたものです。

 先ほど、ご紹介した1855年の雛形と見比べてみると、構造自体に大きな変化はないように見えます。この模型を手掛かりに、1855年の模型が製作されたことがわかります。構造体をほぼそのままに、細部を調整し、実用化段階の材料を使って作られたのが、1855年の模型だといえるでしょう。

 機関車部分、レールなどは鋼鉄で作られており、とても精緻な構造物です。

 イギリスで最初に蒸気機関車が作られたのが1804年、紆余曲折を経て、実際に営業運転できるようになったのが、1825年でした。総延長40キロの走行ができるようになったのです。1840年代には急速に鉄道が発展し、主要都市間を結ぶ鉄道網が敷かれといいます。

 そういえば、ダゲレオタイプの写真術が公開されたのが1839年です。以後、肖像写真に始まり、風景写真、報道写真、証明写真など、さまざま用途で写真が使われるようになっていきます。

 西洋の科学技術は、機械的反復性をテコに、急速に社会を変貌させていきました。

 1855年の雛形を見ると、鋼鉄を使い、精密な仕様で製作されています。蒸気機関だからこそ、とくに頑丈で高精度のものでなければならなかったのでしょう。西洋の科学技術を習得するには、そのメカニズムを把握するだけではなく、機械的な正確さが不可欠だったことがわかります。

 先ほどもいいましたが、川崎道民が使ったカメラには、何度も使用された形跡がありました。精錬方で使用されていたのではないかと考えられています。このことからは、佐賀藩の科学技術研究所では、西洋の文献以外に、写真術を使って西洋の科学技術の解明を図っていた可能性も考えられます。

 こうしてみてくると、西洋の科学技術の導入に積極的だった薩摩藩と佐賀藩が、最初に写真術を導入したのは、おそらく、写真ならではの正確な再現性、複製性が、西洋の科学技術の導入に不可欠だったからではないかと考えられます。

 さて、幕末日本でいち早く写真術を導入したのが、薩摩藩と佐賀藩でした。この両藩にはいくつか共通性が見受けられます。

 いずれも藩主が有能でした。藩を取り巻く国内情勢、海外情勢を的確に把握し、将来動向を見据えた上で、積極的な藩政改革を行っていました。幕末の動乱期に、右往左往するのではなく、確固たる信念をもって、藩を采配していたのです。

 その中心にあるものは、西洋技術の導入でした。

 西洋の科学技術を導入するために、両藩とも有為の人材を積極的に登用しました。そして、藩内の教育を向上させ、充実させる一方、江戸や長崎に遊学させたり、海外渡航の機会を与えたりしていました。

 欧米列強に立ち向かうには、まずは、西洋の科学技術を理解し、実用化し、実践できる人材の育成が肝要だったからでした(2024/2/29 香取淳子)

百武兼行⑧:幕末・維新の佐賀藩を見る

 百武は佐賀藩の藩士の子どもとして生まれ、8歳の時、後に第11代、最後の藩主となる鍋島直大の「お相手役」に選ばれました。以来、生涯にわたって、その枠の中で生きてきました。

 そこで、今回は佐賀藩とはどういう藩だったのか。彼を直大のお相手役に選んだ藩主・鍋島直正はどのような人だったのかを見ていくことにしたいと思います。

■湿板写真に収まった佐賀藩主の鍋島直正

 1859年に撮影された第10代佐賀藩主の鍋島直正の写真があります。

(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Nabeshima_Naomasa.jpg

 第10代藩主鍋島直正を撮影した肖像写真です。アメリカ製のケースに「御年四十六/安政六年己未年十一月於江戸/溜池邸/藩醫川崎道民拝寫」と書かれた紙が貼付されています。撮影日時、場所、撮影者が記録されていたのです。

 佐賀藩医の川崎道民(1831-1881)が、江戸溜池の中屋敷で、安政6年(1859)に撮影した湿板写真でした。

 湿板写真とは、1851年にイギリス人のフレデリック・スコット・アーチャー(Frederick Scott Archer , 1813-1857)が発明した写真技術です。湿っているうちに撮影し、硫酸第一鉄溶液で現像し、シアン化カリウム溶液で定着してネガティブ像を得るタイプのもので、ガラス湿板そのものがネガであり、プリントでもありました。

 最初の写真技術であるダゲレオタイプに比べ、感度が高く、露光時間が5秒から15秒と短い上に、ダゲレオタイプと遜色のない画質でした。しかも、ダゲレオタイプよりもはるかに安価だったので、短期間でダゲレオタイプやカロタイプの写真を凌駕してしまいました(※ Wikipedia)。

 アングロタイプの写真技術がイギリスで発明されたのが1851年でした。それから、わずか8年後に、はるか遠く離れた極東の江戸で、湿板写真が撮影されていたのです。

 なぜ、そのようなことが可能だったのでしょうか。

 そもそも、写真を撮影するには、撮影機材や感光紙、撮影のための備品がなければならず、撮影技術者が必要でした。写真についての知識と技術、太陽光や露光に関する知識がなければ、撮影はできませんでした。

 仮に撮影機材一式を入手できたとしても、それを操作できる人がいなければ、写真を撮影することはできなかったのです。

 それでは、なぜ、川崎道民は鎖国していた日本で住んでいながら、鍋島直正を写真撮影することができたのでしょうか。

 おそらく、川崎道民が佐賀藩の医師であり、鍋島直正が佐賀藩主だったからでしょう。

■幕府直轄地、長崎に隣接する佐賀藩

 佐賀藩は、幕府直轄地の長崎に隣接するだけではなく、福岡藩とともに、長崎を隔年で警備していました。対外情報や製品、技術の入手という点で、他藩に比べ、圧倒的に有利な立場にいたのです。

 鎖国時代の貿易相手国は、中国とオランダに限られていました。とはいえ、長崎が唯一の対外窓口だったので、外国からの技術や製品、情報は、中国やオランダを経由して、まず長崎に入って来たのです。

 平戸にあったオランダ商館が、出島に移設されたのが1641年、以来、1859年までの218年間、対外貿易は、もっぱら長崎の出島を通して行われていました。

 たとえば、長崎の御用商人、上野俊之丞は、嘉永元年(1848)にダゲレオタイプを初めて輸入しています。これを薩摩藩が入手し、初めて日本人がダゲレオタイプの写真を撮影したのが、1857年です。撮影者は薩摩藩の市来四郎で、被写体は薩摩藩主、島津斉彬でした。

 ここに、長崎に海外からの技術や情報や製品が入って来て、そこから、各地に拡散していくというものの流れを見ることができます。ものの流れは情報の流れであり、技術、知識、人の流れでもありました。

 さて、佐賀藩の川崎道民が、鍋島直正を撮影したのが、湿板写真でした。

 当時の湿板カメラが保存されており、その構成、形状等から、いくつかの事が推察されています。

 木製鏡筒のレンズや内部の釘の形状などから、残されたカメラは、初期の国産の湿板カメラだと推測されています。Ⅹ線写真によると、前に一枚、後ろに二枚のレンズが確認されており、初期の国産カメラとしては最も多いレンズで構成されていることもわかっています。

 さらに、カメラ後部は、湿板特有の硝酸銀による汚れが目立ち、かなり使用した形跡が見られることから、佐賀藩の科学研究施設であった精煉方で使用されていた可能性も考えられると推察されています。(※ https://www.nabeshima.or.jp/collection/index.php?mode=detail&heritagename=%E6%B9%BF%E6%9D%BF%E3%82%AB%E3%83%A1%E3%83%A9 )。

 ダゲレオタイプよりも後に発明された湿板写真のカメラが、鍋島家に保存されていました。かなり使い込んだ様子がうかがえること、科学研究のために使われていたこと、等々からは、藩主であった鍋島直正が、積極的に西洋の科学技術を取り入れようとしていたことが示されています。

 当時、長崎は、人、物、情報、技術のハブでした。

 そのハブに隣接しているという特性を活かし、佐賀藩は最先端技術の導入に積極的でした。その一環として写真技術が位置付けられます。

■ポンぺの来日

 コロジオン湿板法(湿板写真)が日本に導入されたのは、安政年間(1854-1860)でした。興味深いことに、ちょうどその頃、長崎に海軍伝習所が開設されました。そして、西洋医学、航海術、化学などを教えるため、オランダから教師団が入って来ていたのです。

 ペリーの来航後、幕府は海防体制を強化するため、西洋式軍艦の輸入を決定しました。それに伴い、海軍士官を養成する長崎海軍伝習所を設立しました。1855年のことでした。

 1857年にオランダから派遣された第2次教師団の中に、軍医のポンペ・ファン・メーデルフォールト(Johannes Lijdius Catharinus Pompe van Meerdervoort, 1829 – 1908)がいました。

 彼はオランダ医学を教える傍ら、日本人伝習生たちに湿板写真を教えていました(※ 高橋則英、「上野彦馬と初期写真家の撮影術」、『古写真研究』第3号、2009年、p.18.)。

 当時の写真が残されています。この写真がいつ撮影されたのかわかりませんが、海外伝習所が閉鎖されたのが1859年ですから、1857年から1859年の間に撮影されたものなのでしょう。

 ポンペは、湿板写真の研究について熱心に取り組んでいたそうです。ポンペに師事し、化学を勉強していた上野彦馬は、彼と共に写真の研究にも励んでいました。感光板に必要な純度の高いアルコールには、ポンペが分けてくれたジュネパ(ジン)を使ったそうです(※ Wikipedia)。

 長崎海軍伝習所の講義時間割りをみると、病理学、解剖学、生理学などのオランダ医学に関する教科はもちろんのこと、化学、採鉱学などの教科も教えられていました(※ Wikipedia)。

 医学以外に、化学や工学なども教科として取り上げられていたのです。

 弘道館で勉強していた川崎道民は、藩主鍋島直正に奨励され、長崎でオランダ医学を3年間、学んでいます(※ https://1860kenbei-shisetsu.org/history/credit/)。

 時期を特定できないのですが、海軍伝習所で学んでいたとすれば、湿板写真の研究を進めていたオランダ人軍医のポンぺから、川崎道民もまた、写真術の一切合切を学んでいたのではないかと思われます。

 オランダ人軍医のポンぺは、湿板写真導入のためのキーパーソンでした。

 このケースからもわかるように、長崎には、最先端の製品が海外から持ち込まれるだけではなく、最先端技術を指導するための人員もまた海外から入ってきていたのです。

 学ぼうとする意欲の高い者、好奇心の旺盛な者、最先端技術に敏感な者にとっては刺激の多い場所であり、夢が叶えられる場所でもあったのでしょう。

 それでは、川崎道民の来歴についてみてみることしましょう。

 佐賀藩医松隈甫庵の四男として生まれた川崎道民は、医師川崎道明の養子となりました。鍋島直正の勧めで、長崎でオランダ医学を学び、その後、大槻磐渓の塾で蘭方医学を学んで佐賀藩医となりました。

 幕府が派遣した万延元(1860)年の遣米使節団、そして、文久元(1862)年の遣欧使節団に、川崎道民は御雇医師として参加しました。

■ニューヨークで撮影された川崎道民の肖像写真

 万延元年にアメリカ訪問中に撮影された写真が残されています。

(※ https://www.wikiwand.com/ja/%E5%B7%9D%E5%B4%8E%E9%81%93%E6%B0%91

 当時にしては珍しく、カラー写真です。

 初期のカラー実験では、像を定着させることができず、退色しやすく、使いものになりませんでした。

 ようやく完成した高耐光性のカラー写真は、1861年に物理学者のジェームズ・クラーク・マクスウェル(James Clerk Maxwell, 1831 – 1879)によって撮影されたものでした。3原色のフィルターを1枚ずつかけて3回撮影し、スクリーン上で合成することによって、撮影時の色を再現することに成功したのです(※ Wikipedia)。

 川崎道民のカラー写真は1860年に撮影されています。カラー写真が発明されたのが1861年ですから、それ以前に、この写真は撮影されていたことになります。

 一体、どういうことなのでしょうか。

 再び、道民のカラー写真を見てみると、色合いがやや不自然です。色の粒子が荒いので、絵画のように見えます。一見して、色彩が用紙に緊密に定着していないことがわかります。

 ひょっとしたら、白黒写真に彩色したものなのかもしれません。実は、白黒写真に彩色することで、カラー写真のように見せることもできました。

 1875年頃に撮影された写真があります。白黒写真を後に彩色したものです。

(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Carandini.jpg

 よく見ると、やはり、色合いが不自然です。色の粒子はそれほど荒くないですが、自然のままの状態を再現したようには見えません。

 こうしてみると、川崎道民のカラー写真もおそらく、白黒写真に彩色をしたものなのでしょう。写真そのものが珍しかった時代に、わざわざカラーの肖像写真を撮っていたところに、川崎道民のチャレンジ精神と進取の気性が感じられます。

 さらに、川崎道民は医師として使節団に参加していたはずなのに、公務の合間に、写真館に入り浸っていたようです。

■ブレッディ写真館で写真術を学ぶ

 ニューヨーク・ヘラルド新聞は、一行がニューヨークに到着してからというもの、出来事を細かに報道しています。そのうち、6月19日号(The New York herald, June 19,1860)に、川崎道民に関する記事が3本、掲載されていました。

 一つ目は、彼が大型書店で、英語の辞書や英文法の本を買ったことを報じたものです。現地で自由に行動したくて、英語の勉強をしていたのでしょうか。それでも、専門的な内容になると、通訳が必要になったようです。

 二つ目は、通訳付きで、ブレッディ(Brady)写真館に出かけ、写真撮影技法のレッスンを受けていたことが報じられています。

 三つ目は、その後、連日のように写真館に出向き、熱心に学んでいることが報道されています。

 ヘラルド紙の記者にしてみれば、川崎道民が通訳を連れて、訪れていた先が写真館だったというのが興味深く、記事にできると思ったのでしょう。医者だということはわかっていただけに、なぜ、写真に夢中になっているのかわからなかったのかもしれません。

 記者は、川崎道民が写真館のブレッディから複数の写真機器をもらうことになるだろうと書き、呑み込みが早いので、帰国するまでにはエキスパートになるだろうとまで記しています(※ 三好彰、「アメリカ人が見た川崎道民」、『佐賀大学地域学歴史文化研究センター研究紀要』第13号、2018年、pp.102-103.)

 6月21日号のヘラルド新聞にも川崎道民は取り上げられていました。

 この日もあの医師がブレッディ写真館で講習を受けていたと記し、傍らでその様子をみていた通訳と会話を交わしながら、写真の撮り方を学んでいたという内容でした(※ 前掲。P.103.)。

 地元記者から呆れられるほど、写真に夢中になっていた川崎道民は、幕府から派遣された3人の医師のうちの1人でした。他の医師とは違って、通訳を伴って現地の書店に出かけて本を買ったり、写真館で撮影技法を学んだり、骨相学の店や新聞社、さらにはキリスト教の教会にも出かけていました。好奇心が旺盛で、知識欲に溢れていたのでしょう、積極的に現地を探訪し、情報収集していたことがわかります。

■随行医師として

 使節団に参加していた医師は、御典医の宮崎立元正義(34歳)、御番外科医師の村山伯元淳(32歳)、そして、御雇医師の川崎道民(30歳)でした。宮崎と村山は上位の使節メンバーを診る医師で、川崎はそれ以外のメンバーを担当する医師として派遣されていたようです(※ Wikipedia)。

 3人は日本の医師団として、現地記者から注目されていたようです。

 ワシントンに到着したばかりの彼らについて、5月14日付けのイブニング・スター新聞(Evening star (Washington DC. May 14, 1860)は、速報を流しています。医師について書かれた部分を抜き書きすると、次のように書かれていました。

 「3人の医師は物静かだが、他の随員に比べて知的ではなく、探求心に欠ける。(中略)医学者と交流すれば、帰国後大いに役立つはずだが、見る限りでは期待できない」(※ 三好彰、前掲。p.96.)

 後になって判明したのですが、当初、記者が日本の医師たちを知的ではないと思ったのは、「坊主頭」だったからです。

 ところが、3人の日本人医師が、アメリカの医師団との会合で、専門的なやり取りをする様子を見聞きした結果、記者たちは最初の印象を多少、改めたようでした。

 とはいえ、オランダ医学しか学んでいない日本の医師たちを見て、現地の医師は頼りないと思ったようです。医学専門誌に次のような記事が掲載されていました。

 「日本の医者はいかがわしい。使節団を日本に送り届けるナイアガラ号にはアメリカの外科医が3人乗っているので安心だ」と書かれたりしています。(※ American Medical Gazette, August 1860, p.616.)

 現地報道を見ていると、アメリカ側は、川崎道民ら3人の日本の医師と、アメリカの医師たちが対話できる場を何度か設けていたことがわかります。科学的知識を持つ専門家同士なら、スムーズに医療情報を交換しあえると考えたのでしょう。ところが、アメリカの医師たちの質問に受け答えできていたのはもっぱら川崎道民だったといいます。

 6月2日付のサンベリー・アメリカ新聞(Sunbury American, June 02.1860)は、3人の医師の対応について、次のように記しています。

 「ホルストン教授がアメリカ医学のことを話した時に、第三の医師(川崎道民)がノートを取った。(中略)これまでアメリカは日本の医学を誤解していた。アメリカも日本も科学が進歩しているので、その内にどんな病気も直せるようになるだろう」(※ 前掲。p.98.)

 どうやら川崎道民は、メモを取りながら、聞いていたようです。多少は英語を聞き取れたからなのか、それとも、正確を期すためなのか、わかりませんが、このような態度が現地記者には好感を持たれたような気がします。

 長崎でオランダ医学を学び、西洋医学を把握していると自負していたからこそ、彼は、臆することなく、アメリカで専門家同士の対話に応じることができていたのかもしれません。

 海外に出てもしっかりと自己表現することができ、現地から様々なことを学ぼうとする姿勢が評価されたのでしょうか、幕府は再び、川崎道民を、随行医師として欧州に派遣することを選びました。

 今度は、文久元(1862)年の遣欧使節の随行医師として、川崎道民は参加することになりました。

 出発前に鍋島直正に拝謁した際、彼は、直正から情報収集の特命を帯びたといいます。(※ https://1860kenbei-shisetsu.org/history/register/profile-68/

 直正が、川崎道民の語学力、コミュニケーション能力、機敏性、判断力、探求心などを信じていたからにほかなりません。彼なら、訪れた先々で、さまざまな情報を収集してくるに違いないと踏んでいたのでしょう。

 この一件からは、鍋島直正が、激動の時代に何をすべきかを考え、そのための検討材料として、欧米の社会情報、技術情報を把握しようとしていたことがわかります。

 さて、鍋島直正を撮影したこの写真は、日本人が撮影した写真としては2番目に古く、現在、(財)鍋島報效会 徴古館に所蔵されています。

 最も古いのは、島津斉彬を写したダゲレオタイプ(銀板写真)の写真です。

■銀板写真(ダゲレオタイプ)で撮影された島津斉彬

 島津斉彬の肖像写真は、安政4年(1857)9月17日に鹿児島城内で、薩摩藩士の市来四郎によって撮影されました。

(※ https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/213559

 画質が荒く、像が鮮明ではありませんが、日本人がはじめて撮影に成功した写真として、貴重なものです。

 銀板写真(ダゲレオタイプ)は、フランス人ダゲール(Louis Jacques Mandé Daguerre, 1787 – 1851)が、1839年8月19日にフランス学士院で発表した世界初の写真撮影法です。湿板写真技法が確立するまでの間、1850年代に最も普及していた技法でした。

 銀メッキを施した銅板に、沃素または臭素を蒸着させて感光材とし、写真機に装着して、撮影します。その後、水銀蒸気にさらすと感光した部分が黒く変化し、陽画が現れるので、洗浄して感光材を除去し、画像を定着させるという技法です。

 露光時間が長く、画像が左右反転像になること、複製ができず、1回の撮影で得られる画像は1枚に限られていることなどの欠点があります(※ https://www.bunka.go.jp/kindai/bijutsu/trends_01/index.html)。

 興味深いのは、市来四郎が『斉彬公御言行録』の中で、撮影した日の様子について、「十七日、天気晴朗、午前ヨリ御休息所御庭ニオイテ(此日ハ御上下御着服ナリ)三枚奉写」と回想していたことです(※ https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/213559)。

 市来は、「天気晴朗」と書き出し、午前から撮影を始めたと記しているのです。天気が良かったので、この日、午前中に撮影を開始したのでしょう。

 ダゲレオタイプでは、露光に時間がかかるので、早くから撮影を始めたのだと思います。ダゲレオタイプは感度が低く、レンズの開放値も低かったので、露光時間が日中屋外でも10-20分もかかっていました。

 ところが、アメリカでは、ダゲレオタイプで撮影した家族の肖像写真が数多く残されています。後に写真湿板が発明され、ヨーロッパでは、ダゲレオタイプが駆逐されてしまった後でも、アメリカでは、しばらくダゲレオタイプによる肖像写真が好まれていたのです(※ Wikipedia)。

 実は、ヨーロッパでも肖像画を好む人は、ダゲレオタイプの肖像写真を好む傾向がありました。ダゲレオタイプの写真は、機械的な再現性が徹底されておらず、緻密さが欠けるだけに、絵画に近い感触を味わうことができるからでした。

 さて、写真術に関する情報は、ヨーロッパで発明されてから10年ほどで日本に伝わっていました。少数ながら撮影機材も長崎経由で輸入されており、佐賀藩や薩摩藩などの大名や蘭学者たちが研究を行っていました。

■写真研究の先駆者たちに見る佐賀、薩摩の先進性

 薩摩藩の島津斉彬は、西洋の科学技術研究の一環として、嘉永2年(1849)ころから写真術の研究を進めていました。市来四郎(1829-1903)、松木弘安(後の寺島宗則、1832-1893)、川本幸民(1810-1891)らが研究にあたっていたといいます。斉彬も自ら実験に手を染めていたそうですが、成功しませんでした。

 松木、川本はいずれも長崎や江戸で医学や蘭学を学んでおり、オランダ語の文献を読むことはできました。さらに、薩摩藩は長崎経由で写真機や薬品など入手することもできました。ところが、独学に近い状態では、西洋の技術を日本人の手で移入することは難しかったのです。

 中断していた写真術の研究は、斉彬の藩主としての地位が確立してから、あらためて、再開されました。ようやく写真として成功したのが、1857年に撮影されたダゲレオタイプの肖像写真でした(※ https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/213559)。

 一連の経緯を知ると、西洋の最新技術は、現地で直接、指導を受けなければ、容易に獲得できるものではなかったことがわかります。

 さて、現地の写真館に通い詰めて写真技術を身につけた川崎道民は、その後、遣欧使節団の随行医師として渡航しています。偶然なのでしょうが、その使節団の一員に、写真術を研究していた薩摩藩の松木弘安(寺島宗則)が通訳兼医師として参加していました。

 川崎道民が31歳、松木弘安(寺島宗則)が35歳でした。いずれも医学を学び、蘭学を学んでいました。そして、写真という興味の対象も共有していました。

 川崎と松木は、視察のためオランダを訪問した際、写真館に立ち寄って、9.7×6.4㎝の名刺型肖像写真を撮影していました。彼ら以外に、森山栄之助の肖像写真も残されていました。やはり、9.7×6.4㎝の名刺型肖像写真です(※『肖像―紙形と古写真―』、東京大学資料編纂所、2007年6月)。

 森山栄之助(1820-1871)は、蘭語、英語の通訳として後日、遣欧使節団に加わった人物です。オランダで撮影された名刺型肖像写真は、この3人以外のものは残されていませんでした。おそらく、彼らはオランダで別行動をして、写真館を訪れ、名刺型の肖像写真を撮影してもらったのでしょう。写真へのこだわりと技術の進化に対する関心が見受けられます。

 江戸幕府が派遣した文久の遣欧使節は、川崎道民と松木弘安との出会いを生みました。

 彼らがオランダで撮った写真は名刺型のものでした。写真の進化形といっていいでしょう。写真術の新しい利用方法が示されたといえます。

 写真は複製することができ、さまざまな大きさのものにアウトプットすることができ、さらには、記録装置として抜群の機能を発揮することもできます。近代科学をさらに発展させる要素を彼らは写真の中に見ていたのでしょうか。

 藩主が主導して、早くから写真術に関心を持ち、研究を進めてきた薩摩藩や佐賀藩の有志は、写真術が科学の発展に重要な影響を与えると予感していたに違いありません。

 百武が生きた佐賀藩には、進取の気性に富み、チャレンジ精神、好奇心の旺盛なことを奨励する雰囲気があったのではないかという気がしています。(2024/1/31 香取淳子)

百武兼行⑦:有田皿山代官の子として成長した百武兼行

 百武兼行がなぜ、西洋画をきわめることができたのか、今回は、生い立ち、生育環境を振り返ることによって、その謎に迫ってみたいと思います。

■皿山代官の子として成長

 百武兼行は天保13年(1842)6月7日、佐賀藩士百武兼貞と母ミカとの次男として、佐賀市片田江で生まれました。現在、片田江七小路の辺り一帯は、江戸時代、佐賀城下の武家屋敷の地として中級武士が居住していたそうです(※ 「佐賀市歴史探訪39」)。

 兄が早世したため、兼行は次男でしたが長男として、養育されています。幼名を安太郎といい、やがて、兼行を名乗るようになりました。これは、父兼貞跡を襲族することを許可する書状で確認することができます。明治7年(1874)10月31日付の佐賀県から送付された書状です(※ 三輪英夫編『近代の美術 53 百武兼行』、至文堂、1979年、p.18.)。

 三輪英夫は、このような兼行の生い立ちを記した上で、「青年期の安太郎の環境を知る上で、父兼貞の動向も看過できない」と述べています。おそらく、兼行に大きな影響を与えていたと思っていたのでしょう。

 兼貞は長崎で務めたことがあり、鍋島藩京都留守居に抜擢されたこともありました。外交的で才気ある人物だったようです。

 慶応3年(1867)には、有田皿山代官に任命されています。有田皿山代官といえば、佐賀藩の経済を支える機関のトップです。その要職に兼貞は46歳の時に就任しているのです。兼貞は、有能で、機敏に判断することができ、社会の激変期にはなくてはならない存在だと思われていたのでしょう。

 さて、有田皿山代官とは聞きなれない言葉です。『人々が創った有田の歴史』によると、次のように説明されています。

 皿山というのは、焼物をつくる所という意味で、白川にあった皿山代官所では佐賀本藩から赴任した侍が租税の徴収や陶磁器生産関係の他に犯罪人の取締りや逮捕などの仕事を行った。初代皿山代官の山本神右衛門から最後の百武兼貞までの224年間に現在確認できているのは42人の代官である(※ http://www.marugotoarita.jp/kanko/aritahego/history1.html)。

 この説明に照らし合わせると、百武の父、兼貞は最後の皿山代官であり、有田の陶磁器生産から上がる租税の徴収や生産の管理、犯罪人の取り締まりなどを行っていたことがわかります。

 陶磁器生産は佐賀藩を支える経済基盤の一つでした。ところが、兼貞が就任した頃は、世界的な激動の余波を受けて、生産体制に大きな変革が迫られている時期でした。

 当時、アヘン戦争の影響で、中国国内は混乱していました。景徳鎮での生産量が減り、中国からのヨーロッパ向け輸出は激減していました。その結果、東インド会社は日本との貿易にシフトし始めていたのです。

 東インド会社は長年、アジアからヨーロッパに向けての輸出製品として、絹織物、茶、胡椒、綿花、陶磁器などを扱っていました。ところが、中国の政治的混乱を機に、ヨーロッパ向け輸出陶磁器として、有田焼が着目されるようになっていたのです。

 元々、華やかな絵付けが特徴の有田焼は、ヨーロッパの王侯貴族に好まれ、宮廷の装飾としても使われていました。さらに、19世紀後半になると、産業革命を経て勃興していたブルジョア階級の間で、アフタヌーン・ティーを楽しむ生活文化が広がっていました。室内装飾のための調度品であれ、華やかな絵柄のティーセットであれ、高品質の有田焼への需要が高まっていたのです。

■ヨーロッパの王侯貴族に好まれた有田焼

 果たして有田焼がどのようなものなのか、一例として、香蘭社が制作したティーセットをご紹介しましょう。

こちら → https://japanesecrafts.com/blogs/news/arita

 上記HPの記事の中のティーセットをご覧ください。

 まず、カップの外側とソーサーが濃い藍色、カップの内側に描かれた花は淡い藍色、カップの取っ手と縁、そして、ソーサーの縁は金色で色構成されているのが印象的です。藍色を基調に、金色をアクセントにした外側に対峙するように、内側には白地に淡い藍色の花を浮かび上がらせているのです。色数を抑え、高貴さを醸し出しているところに、センスの良さが感じられます。

 さらに、カップ上部の縁のデザイン、取っ手のデザイン、カップ底部の杯のようなデザインが優雅で目を引きます。色彩といい、デザインといい、洗練された優美さが感じられます。

 これが、「香蘭社スタイル」といわれる色とデザインなのだそうです。香蘭社は、今からおよそ300年前に、初代深川栄左衛門が有田で磁器製造を始めた事業を継承し、現在に至っています。

 これはほんの一例ですが、有田焼は、このような華やかな絵付けが特徴です。そのせいか、実用品としてよりも美術品としての価値が高く、現在でも古いものが、世界中の博物館や宮殿などに数多く残されているそうです(※ https://japanesecrafts.com/blogs/news/arita)。

■有田焼の由来

 有田の陶磁器生産は、17世紀初に始まりました。鍋島直茂(1538-1618)が朝鮮出兵に参加し、連れ帰った朝鮮人陶工の李参平が、有田町泉山に磁石を発見したからでした。こうして磁器生産ができるようになったのです。

 金ヶ江家に代々伝わる『金ヶ江家文書』によると、李参平は、慶長の役の際に鍋島直茂の軍勢の道案内をしたと記録されています。そして、日本軍撤退の際、敵の手助けをしたことで、李参平らが土地の者たちから報復を受けるのではないかと心配した直茂が、李参平とその一族を日本に連れてきたと伝えられています(※ 木本真澄、「有田焼400年の歴史」)。

 有田焼の祖、李参平はこうして朝鮮半島から有田にやってきました。優れた陶工であり、彼らのリーダーとして、有田の泉山を発見し、磁器の生産に成功したのです。その結果、鍋島藩主から金ヶ江三兵衛という日本名を授かったといいます(※ 前掲。)

 それまで有田は人もいないような地域でしたが、磁器の生産が始まると入植者が増え、「有田千軒」といわれるほどの賑わいを見せるようになりました。当時貴重品だった磁器は高値で売れたため、有田の窯元や有田焼を扱う商人たちは大いに潤いました。そして、「運上金」と呼ばれる税金によって佐賀藩の財政も豊かになりました(※ 前掲。)。

 磁器生産を開始するようになって、有田地域は人が増え、活性化し、鍋島藩は窯業でその収益で財源が豊かになりました。李参平は鍋島藩に大きな経済的貢献をしていたのです。

 さて、鍋島藩が手掛けた有田焼は、もっぱら将軍家への献上品や、大名などへの贈答品として生産されました。約200年間というもの、藩直営の御用窯で生産され続けてきたのが鍋島焼です。

 鍋島焼は販売を目的にしておらず、採算を度外視した生産を行っていました。藩内の名工を抜擢し、制作されてきただけあって、大名の道具として重厚な風格をもつ様式美を確立したといわれています(※ 大木裕子、「有田の陶磁器産業クラスター」、『京都マネジメント・レビュー』、第21号、2012年、p5.)。

■柿右衛門式

 初代柿右衛門は中国の赤絵の調合法を伝え聞いて、試行錯誤を重ね、1640年には赤絵付を成功させました。さらに、1670年頃には、濁し手と呼ばれる乳白色の素地の上に、余白を残して繊細な絵画的構図を表現する色絵磁器の技術を完成させて、柿右衛門式と呼ばれるようになりました(※ 前掲。p.4.)

 一例として、柿右衛門式の花器をご紹介しましょう。17世紀後半に制作された作品です。

(※ http://www.toguri-museum.or.jp/gakugei/back/1109.php

 まず、目につくのが、上部に描かれた大きな2輪の菊の花です。花はそれぞれ、朱色と黄色を反転させて描かれており、そのハーモニーが見事です。花の周辺には、緑と藍色で葉や茎が描かれ、所々に、開きかかった菊の蕾が配されています。白地に適宜、余白を残しながら、モチーフを引き立てるように描かれています。モチーフの配置といい、色構成といい、弾力性のある構成が印象的です。高さは25.6㎝あります。

 柿右衛門式は、このように透明感のある白地に、赤や緑、黄色などの顔料を使った美しい絵付けが特徴だといわれますが、上の作品はまさにその典型といえるでしょう。

 この白地は、「濁手」とも「乳白手」とも呼ばれるものですが、透き通るような輝きがあり、描かれた文様を引き立てる役割を果たしていることがわかります。そして、白地に施す絵付けに使われるのが、「染付顔料」と「色絵顔料」です。

■染付顔料と色絵顔料

 この2種類の顔料について、『学芸の小部屋』(2011年9月号)では、「染付の青と色絵の青」というタイトルの下、説明されています。

 まず、染付について、ご紹介しましょう。

 「染付とは、素焼きをした段階の素地に、呉須(ごす)と呼ばれる青色顔料で絵付けをし、その上に透明な釉薬を施した後に本焼き焼成する技法です。断面を見ると、下図のようになります。文様は釉薬によってコーティングされていますので、うつわの表面はなめらかで、ゴシゴシと擦っても文様が剥がれ落ちることはありません」(※ 『学芸の小部屋』、2011年9月号))

(染付の断面図)

 素地の上に呉須顔料が置かれ、その上に、釉薬が顔料をすっぽり覆うように施されているのがわかります。これでは、呉須で描かれた文様が剥落することはないでしょう。

 次に、色絵について、ご紹介しましょう。

 「色絵とは、白磁や染付など、釉薬をかけて本焼き焼成し終わった器の上に、低い温度で熔けるガラス質の顔料を使って絵付けをし、もう一度焼成し、文様を焼き付ける技法です。断面は下図のようになります。顔料はガラスの表面に付着した水滴のように、表面張力によってやや丸みを帯びた塊になります。そのため、うつわの表面を指でなぞると、僅かにでこぼこしていることが分かります。また、文様はうつわの一番外側にあって、コーティングされていない状態です。赤や金色は摩擦に弱く、長年使っていると文様が落ちてしまい、その他の色は物理的衝撃に弱く、ひびが入って剥落してしまいます。」(※ 前掲。)

(色絵の断面図)

 こちらは、染付とは違って、釉薬は素地の上に施されています。したがって、色絵は剥き出しの状態になっていることがわかります。しかも、染付の場合と違って、表面がぽっこりと浮き上がっているので、ちょっとした摩擦で剥がれやすくもなるのでしょう。

 さらに、染付と色絵の違いについて、次のように説明されていました。

 「染付は、上にかかる釉薬の層にある程度厚みをもたせることで青色が美しく発色します。したがって、釉薬を薄くかけなければならない濁手に染付は用いられません。濁手の作品に用いられている青色はすべて、染付ではなく色絵の青なのです」(※ 前掲。)

 先ほど、ご紹介した柿右衛門式の花器は、「染付と色絵を併用した」作品なのだそうです。

 この花器の頸部、底部の藍色は染付であり、胴部に描かれた文様やその両脇の花唐草はすべて色絵だと説明されているのです(※ 前掲。)

 染付と色絵の特色を踏まえた上で、それらを併用することによって、最大限の美しさを引き出し、しかも、剥落しにくい作品に仕上げているのです。ここに、磁器表現の極みを目指し、試行錯誤を重ねてきた陶工たちの研鑽を垣間見ることができます。

■皿山代官所

 17世紀後半、有田皿山には150軒前後の窯元が設立されていました。製品は商人によって、関西方面、江戸や関東方面にも売られるようになっていたといいます。窯業が活性化し、有田の名が広がっていたのです。

 それに伴い、陶工たちは工夫を重ね、他には見られない質の高い磁器を生産するようになっていました。技術の集積によって、磁器表現の可塑性が追求され続けていました。その活動を保護するかのように、生産現場を管理する皿山代官所が設置されました。大木裕子氏によると、寛文年間(1661~1672年)には設置されていたようです。

 皿山代官所の設置は、技術の流出を防ぐ一方、高品質な色絵磁器を生産するため、生産量をコントロールするためでした。いってみれば、製造技術の漏洩を防ぎ、品質管理をし、将来に備えた製品改良のための機関でした。

 さらに、赤絵屋と呼ばれる赤絵師を一か所に集め、営業を認める名代札を授けていました。

 赤絵屋とは、赤絵屋とは、有田で上絵付けを専門とする業者のことを指します。有田では、色絵を焼き付ける窯を赤絵窯と呼びます。

 赤絵作品の一例をご紹介しましょう。

(※ 香蘭社)

  香蘭社が制作した飯椀です。大きく山茶花の絵が描かれており、日常食器に取り入れられた典型的な図案です。赤絵の特徴は、にじみにくい赤の色絵の具の特性を活かして、器全体に「細描」と呼ばれる細かい描き込みを施したスタイルだといわれていますが、この飯椀にも、赤地に細かな描き込みがされています。

 さて、赤絵屋には、営業許可証が必要なだけではなく、相続制になっていました。特に赤絵の調合は嫡子相伝で、情報管理され、製造秘密が守られていました。製造情報、製品情報が漏れることを回避するためでした。

 赤絵は、鉄分を含んだ絵具を使い、釉薬の上に焼成して赤や茶色の模様を表現する技法です。赤を主に、緑、黄、紫、藍、黒などの色絵具を用いて上絵付けをしたものを指します。ですから、調合の秘法は秘匿しなければならず、それだけ厳密に情報管理をしていたものと思われます。

 ちなみに、赤絵付けを専業とする界隈は一か所に集中させられていたので、「赤絵町」を呼ばれていたようです。

 1867年に皿山代官に任命された百武兼貞は、藩を支える経済基盤を統括する要職に就いたことになります。彼が就任した頃、日本はまさに列強から開国を迫られ、欧米に対抗するためにも西洋の技術を習得する必要に迫られていました。

■ワグネルを有田に招聘

 皿山代官に就任した百武兼貞は、良質の磁器を大量生産するため、製法の改良を模索していました。というのも、アヘン戦争後の中国の磁器減産に伴い、ヨーロッパへの輸出需要が高まっていたからでした。国内技術だけでは抜本的な改良に対応できなくなっていました。

 そんな折、ドイツ人技師であり、化学者であったゴットフリード・ワグネル(Gottfried Wagener, 1831 – 1892)が長崎にやって来たのです。兼貞が目をつけたのは当然のことでした。ワグネルこそ、彼が待ち望んでいた人物でした。

 ワグネルは、アメリカ企業のラッセル商会が、石鹸工場を設立するため、社長直々に、長崎に招聘した技師でした。技術開発の要請を受けた彼は、1868年5月15日に長崎に到着しましたが、求められた製品開発がうまくいかず、結局、工場を軌道に乗せることはできませんでした(Wikipedia)。

 ちょうどその頃、有田では、パリ万博(1867年)からの帰国者が、陶器用の絵具を持ち帰っていました。ところが、誰もその使用法がわからず、苦慮していました。

 皿山代官の百武兼貞は、この絵具の使い方がわかる技術者を探していました。ワグネルが長崎にやってきたことを知った兼貞は、これ幸いとばかりに、彼を有田に招聘しました。

 こうしてワグネルは有田で、酸化コバルト絵具の使用法や、石塊で焼成する陶器窯の築造法などを指導し、新しい製造技術を伝えることになったのです(※ 『東京工業大学百年史 通史』、1985年、p.64.)。

 有田に招かれたワグネルは、7人の職人を相手に、コバルト青、クローム鉄、全臙脂(えんじ色)など陶器用の絵具の使用法を教えました。兼貞にとってはこれで一つ、問題が解決しました。パリ万博からの帰国者が持ち帰った絵具の使い方がわかったのです。

■呉須顔料の製造

 さらに、ワグネルは、呉須顔料など高価な輸入品を使わずに、同質のものを製造できることを教えました。コバルトに硬度の白土を混和して焼けば、安価で便利に仕上がることを陶工たちに説き、石炭窯を築いて試作したのです(※ 杉谷昭、「人物を中心とした 文化郷土史―佐賀県―」、p.89.)。

 呉須顔料とは陶磁器に用いる顔料の一種で、焼成によって釉と溶け、青い色を出すものです。マンガン・鉄などの不純物をふくむ酸化コバルトを主体とする顔料で、天然の鉱物です。

 江戸時代に中国から日本へ伝わってきており、呉須で下絵を書き釉をかけた磁器を、日本では染付、中国では青花と呼びます。有田焼の染付が有名で、様々な青色を出せるため人気があります(※ https://enogu-fukaumi.co.jp/chishiki-gosu)。

 たとえば、呉須顔料を使って制作された花器があります。

(※ 大倉陶園HP)

 これは現代、制作されたものですが、白地にコバルトブルーで描かれた唐草模様が美しく、惹き込まれます。

 日本の伝統技法「呉須染付」を用いて制作されています。吸水性のある素焼きの磁器素地に、水でといた呉須顔料で下絵を描き、その上に釉薬をかけ、本焼窯で焼成します。釉薬と呉須とが融合し、渋みのある冴えた色になります。高さは36㎝です。

(※ https://okuratouen.com/SHOP/12A-7241.html

 呉須唐草とは、呉須という顔料で描かれた唐草文様を指します。コバルトを主成分としている呉須顔料は、他の絵の具とは違って、素焼きの状態で着色するため、色あせることはないといわれています。

 描かれた唐草文様は、つる草が四方八方に伸びて絡み合っており、生命力を象徴する文様です。子孫繁栄や長寿を意味するため、仏教美術、彫刻、染色、織物、蒔絵など、工芸美術でも人々に愛されてきました。

■ワグネルが有田に残したもの

 ワグネルのおかげで、安価で発色の良い合成呉須が有田で使用されはじめました。

 天然の高価な呉須顔料ではなく、合成の呉須顔料の製造法を教えてもらったおかげで、有田の窯業は安価で良質の陶磁器を生産できるようになりました。ワグネルは、兼貞が模索していた製造法の改良まで成し遂げてくれていたのです。

 こうしてワグネルは、ヨーロッパで使用されている陶器用絵具の使い方を教えてくれたばかりか、安価に製造できる方法まで伝授してくれました。兼貞が期待していた以上の貢献をしてくれたといえるでしょう。

 さて、ワグネルが有田で窯業の技術指導に当たっていたのは、1870年4月から8月にかけてでした。そんなに短くて事足りたのかと思えるほどですが、ワグネルはわずかな期間で、求められた絵具の使用法をはじめ、製法の改良につながる技術や知識まで陶工に伝授しました。

 それほど有能なワグネルを、明治政府がそのまま長崎に滞在させておくはずがありませんでした。西洋の科学技術の指導者として、明治政府はワグネルの上京を求めました。

 明治3年(1870)10月にワグネルは上京し、まず大学南校へ、そして、翌年には大学東校のお雇い教師となっています。列強の技術水準に追いつくために、明治政府は西洋の技術者の獲得に必死でした。

 実は、このわずかな滞在期間に、百武兼行は、ワグネルから西洋絵具の使い方を教えてもらっていました。

 ひょっとしたら、この経験が彼の中で深く沈潜し、やがて、西洋画の習得に励む意欲につながったのかもしれません。百武は、ワグネルに出会ってはじめて、西洋絵具ならではの表現世界に触れ、これまでとは異なった発色、造形、あるいは、モチーフ、デザインなどに心惹かれた可能性があります。

 興味深いことに、百武兼行の父、兼貞が皿山代官であったように、画家久米桂一郎(1866 – 1934)の祖父の久米邦郷も皿山代官でした。鍋島藩出身の洋画家の父と祖父がともに、皿山代官だったのです。絵付けなどを日常生活の中で見て育ったことがなにかしら関係しているのでしょうか。(2023/12/31 香取淳子)

百武兼行 ⑥:1876年に制作された作品について考える。

■1876年に制作された作品

 百武は鍋島胤子とともに、1875年初からリチャードソン・ジュニアに師事し、油彩画を学び始めました。思わぬ機会に恵まれ、勢い込んで制作に励んだのでしょう。最初の頃の作品がいくつか残されています。制作年のはっきりしている作品のうち、最初期のものは、《松のある風景》、《城のある風景》、《橋のある風景》、《田子の浦図》でした。

 いずれも1876年に制作されており、未熟さを残しながらも、味わいのある作品になっていました。学び始めて1年余ですでに、作品と呼べるような絵を描いていたことがわかります。

 そこで、今回は、1876年に制作されたこの四作品のうち、これまでに取り上げたことがある《松のある風景》を除き、《城のある風景》、《橋のある風景》、《田子の浦図》の三作品について、考えてみたいと思います。

 果たして、これらの三作品はどのようなものだったのか、まずは作品内容から見ていくことにしましょう。

●《城のある風景》

 《城のある風景》というのがこの作品のタイトルですが、日本の城とは形状が異なっているせいか、どれが城なのかすぐにはわかりませんでした。ただ、中央に頑丈な建物が見えます。塔のような形状で、どっしりとした存在感があります。おそらく、城の一部なのでしょう。

(油彩、カンヴァス、40.6×56.1㎝、1876年、所蔵先不明)

 よく見ると、この建物の上に小さな櫓が建てられています。ということは、これは、監視機能、防衛機能を持つ建物だということになります。きっと西洋の城につきものの、小堡(バービカン、barbican)なのでしょう。バービカンとは聞きなれない言葉ですが、城の出入り口辺りに設けられた塔を指し、敵からの襲撃に備える防御施設としての役割を果たしています。

 そのバービカンの背後に大きな建物が見えますが、これが住居棟なのでしょう。その上に奇妙な不定形のものが、空に向かって伸びるように描かれています。無彩色なので曇り空に紛れ、つい見逃してしまいそうですが、形状からは、どうやら旗のようです。

 なぜ、城に旗が掲げられるのか不思議に思いましたが、イギリスでは、旗は城主がいるかいないかを知らせる合図として使われていたようです。たとえば、イギリス王室が所有するウィンザー城では、女王が城にいるときは王室旗が、不在のときは英国国旗が掲げられていたといわれています。

 改めて、住居棟の上の旗らしいものを見ると、無彩色で、シンボルマークもなく、ただの布にしか見えません。しかも、この布は力なく垂れ下がり、どんよりと白っぽく描かれた曇り空に溶け込んでいます。

 そういえば、バービカンの壁に白い粉のようなものが散っているのが見えます。その左側にはこんもりとした大きな白い塊が描かれ、周囲の木々の葉先も白く描かれています。どうやら少し前まで、雪が降っていたようです。

 前景に目を移すと、犬が川べりを歩き、その傍らで二人の男がなにやら作業をしています。男たちの傍らに魚が二尾、地面に置かれていますから、彼らはどうやら、白い袋に魚を入れているようです。

 一方、対岸の小舟には男が背を向けて立ち、犬が寄り添っています。その先の建物にも人が描かれていますが、小さすぎて何をしているのかよくわかりません。おそらく、これが城のある町の日常なのでしょう。のどかな暮らしの一端がうかがえます。

 画面全体を見ると、褐色とグレーをベースに、黒に近い緑が適宜、配され、アクセントとされています。色数少なく画面構成されているせいか、落ち着いた印象を受けます。空と川がグレーの濃淡で描かれており、上と下から、褐色で描かれた建物と地面を挟み込み、画面をほぼ二分する恰好になっています。

 油彩画を学び始めてわずか1年余しか経ていないことを考えれば、巧みな画面構成だといえるでしょう。

 ただ、建物の描き方がいかにも不自然でした。パースを考えずに描いているからでしょう。とくに褐色の建物が、構造的にありえないような描かれ方をしているのが気になりました。百武はこの時点ではまだ、透視図法を学んでいなかったのかもしれません。

 画面全体は淡い色彩で描かれており、まるで水彩画のような印象を受けます。

 次に、《橋のある風景》を見てみることにしましょう。

●《橋のある風景》

 この作品も全般に淡い色で描かれており、立体感がなく、重厚感もなく、水彩画のように見えました。

(油彩、カンヴァス、60.9×91.3㎝、1876年、所蔵先不明)

 画面で大きな面積を占めているのは、背後に連なる山々と巨岩ですが、いずれも淡く、平板に描かれており、単なる背景に過ぎません。この作品で印象に残るのが、中景に描かれた木橋であり、それを支える黒褐色の岩、そして、橋の下を勢いよく流れている渓流でした。

 大きな岩にぶつかっては大きく波立ち、波頭が白く泡立っている川の流れが印象的です。ここでは、流れに沿った動きが描き出され、刻々と変化する渓流の妙味が表現されています。

 もっとも、画面左側の赤褐色の地面、そして、画面右側の黒褐色の大きな岩の描き方が粗雑なのが気になりました。観客がもっとも目に留めやすい前景から中景にかけてのモチーフなのにもかかわらず、粗雑に描かれているのです。それが、残念でした。

 好意的に見れば、百武は、渓流の流れを際立たせるために、敢えてその周囲を雑に描いたのかもしれません。とはいえ、雑な印象を拭い去ることはできず、この作品からは、旅先で慌てて描いたスケッチのような印象を受けました。

 橋の上にごく小さく、まるで記号のように、人物が描かれています。これを添えるだけで、単なるスケッチに見えていたものが絵らしくなっているように思えます。

 それでは、次に、《田子の浦図》を見てみましょう。

●《田子の浦図》

 リチャードソン・ジュニアに師事しながら、百武はアカデミーに作品を2点、出品していました。これがその出品作品のうちの一つです。もう一つは、現存していませんが、日本の着物を着せた西洋婦人像で、会場では好評を博したと伝えられています。(※、三輪英夫編『近代の美術 53 百武兼行』、至文堂、1979年、p.2.)

 この作品には、《田子の浦図》というタイトルがつけられており、日本の風景をモチーフにしています。アカデミーに出品する作品の訴求ポイントとして「日本」を意識していたのでしょう。

(油彩、カンヴァス、40.5×55.8㎝、1876年、所蔵先不明)

 穏やかな夕べ、一艘の船が浅瀬に浮かんでいる様子が描かれています。船には3人の男が立っており、そのうち2人は明らかに日本の着物を着ています。一日の仕事を終え、片付け作業をしているのでしょう。日暮れ時の静けさと落ち着きが感じられる作品です。

 後方に見えるのは、富士山でしょうか。典型的な日本の風景です。

 夕空には赤褐色が混じり、その色がそのまま海に映し出されています。その褐色を帯びた空と海に挟まれるように、山並みと一艘の船が描かれています。残照が当たり一面に広がり、やや傾いた帆柱に哀愁が漂っています。

 ロンドンにいながら、なぜ、百武はこのような風景を描くことができたのでしょうか。一瞬、不思議に思いましたが、考えてみれば、「田子の浦」は、古くから和歌の題材になり、浮世絵にも取り上げられてきた名所でした。富士山を望む駿河湾西沿岸にあり、歌枕になるほど、日本人に親しまれてきた景勝地です。「田子の浦」の歌であれ、光景であれ、百武の脳裡に刻み込まれていたに違いありません。

 たとえば、有名な山部赤人の和歌に次のような一首があります。

 「田子の浦に うち出でてみれば白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ」

 これは百人一首の選歌として知られていますが、元はといえば、『新古今和歌集』に収録されたものでした。「田子の浦」は、手前が海、中ほどに三保の松原、その背後に富士山を望むことができる絶景です。

 百武は日本の典型的な景勝地を、アカデミー出品作品の画題に選んでいたのです。もちろん、浮世絵画家がこの恰好の画題を見逃すはずはありませんでした。浮世絵にもいくつか、「田子の浦」は取り上げられています。

 たとえば、葛飾北斎(1760 – 1849)の次のような作品は、『富嶽三十六景』の中に収められています。

(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Shore_of_Tago_Bay,_Ejiri_at_Tokaido.jpg

 この作品のタイトルは「東海道江尻田子の浦略図」です。1830年頃に制作されました。前景に船を配置し、中景に三保の松原を含む集落、そして、後景に雄大な富士山を描いています。メリハリの効いた色遣いで、江戸時代の人々の美意識に適った作品といえます。

 歌川広重(1797 – 1858)もまた、「田子の浦」を画題に描いています。

(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Hiroshige,_The_station_Ejiri_2.jpg

 北斎よりもやや視点を高くして「田子の浦」を切り取った構図です。前景に描かれた浜辺と、後景に描かれた富士山が落ち着いた色合いで描かれており、蛇行する田子の浦に浮かぶ数艘の帆船を優雅に見せています。前景、中景、後景のバランスがよく、縦長の画面を活かした構図になっています。

 当時、景勝地としての「田子の浦」は、和歌や絵によって、大勢の人々に知れ渡っていたのでしょう。百武もこれらの絵を見ていた可能性があります。だからこそ、アカデミーへの出品作品を制作しようとした際、即、「田子の浦」を画題に選んだのだと思います。

 そして、百武は、「田子の浦」に典型的なモチーフである船と富士山を取り込み、《田子の浦図》を描いたのです。残念ながら、受賞はしませんでしたが、油彩画で日本的画題を表現しようとしていたところに、百武の心情が浮き彫りにされているような気がします。

 褐色をベースに色構成をした画面は、夕刻のもの悲しい風情が余すところなく表現されており、興趣ある作品になっています。

 もっとも、作品としては未熟といわざるをえない側面がありました。手前の浅瀬、浜辺の描き方が雑なのが気になりました。画面全体をしっかりと描き込むということに慣れていないように思えます。全般に立体感がなく、平板で、西洋画技法の習得が不十分だという印象を受けました。

■初期作品の特徴

 1876年に制作された百武の三作品を見ていくと、それぞれ画題が異なり、モチーフも違っているのですが、共通する要素がいくつか見られました。ざっくり言うと、次のようにまとめられます。

 すなわち、「水彩画のように見える」「モチーフの捉え方が平板である」「細部の表現が雑である」「塗りムラが見られる」、等々です。

 なぜ、そう思ったのか、見ていくことにしましょう。

 《城のある風景》、《橋のある風景》、《田子の浦図》、どれを見ても、一見、水彩画のように見えました。そこで、まず、なぜ、そう見えたのか、考えてみました。

 作品を見直してみると、いずれの作品も同じ色面が連続していることが多いことに気づきました。このような筆遣いの特徴から、百武はほとんどのモチーフを、絵具を筆に載せ、油を含ませ、線を引くように描いていたのではないかという気がします。

 たとえば、《城のある風景》の場合、中景で描かれた褐色の建物部分、囲いの部分、その後ろの城壁の部分、いずれも絵具を筆に載せ、線を引くように描いているように見えます。だからこそ、色面が均質化し、平板に見えているのではないかと思いました。

 手前の人物表現についても同様です。洋服の袖や影になる部分は濃い褐色をつかっていますが、やはり、線を引くように描かれているので、凹凸感がなく、平板に見えます。

 《橋のある風景》はとくに、その特徴が顕著でした。背後の山々には稜線の描き方に起伏が見られ、多少、立体感が感じられますが、手前の地面や岩の描き方はただ、色を塗っただけのように見えます。おそらく、絵具を載せた筆を画面上を引っ張るように、上下あるいは左右に使っているからでしょう。

 《田子の浦図》の場合、夕暮れ時の光景なので、それほど違和感はありませんでした。シルエットのように見える表現でも不自然ではなかったのです。ところが、手前の浅瀬と浜辺は、陽光を受けて明るいせいか、描き方の平板さ、雑さが際立ってしまいました。

 さて、思いついた箇所を中心に、取り上げてみましたが、「水彩画のように見える」ということは、平板で立体感がないということと関係しており、筆の使い方と深く関連しているのではないかという気がしました。

 水彩画だから平板だというわけでもないのです。

 たとえば、百武の師であるリチャードソン・ジュニアは水彩画家でした。彼の作品を見ると、水彩画でありながら、油彩画と見まがうほど立体的に描かれています。

■水彩画家リチャードソン・ジュニア

 リチャードソン・ジュニアには、《Ben Nevis》(1880年)という作品があります。

(※ https://www.1st-art-gallery.com/Thomas-Miles-Richardson-Jnr./Ben-Nevis.html

 雲や山々、川辺で働く農夫や馬など、どのモチーフをとってもリアリティがあり、見事な表現に驚かされます。水彩画ですが、絵具を一律に塗りこめるのではなく、色面毎に細かく色を変えていることがわかります。

 しかも、空からの陽光の射し込み具合を考えて、影をつけ、明るい部分と暗い部分を描き分けています。だからこそ、手前に描かれた農夫や馬などのモチーフが活き活きと、存在感を持って見えるのでしょう。

 こうして見てくると、百武の初期作品を見て、水彩画のようだと思ったのは必ずしも妥当な判断だったとはいえないことがわかります。リチャードソン・ジュニアのように、西洋画の技法をしっかりと身につけて、水彩画を描けば、このような重厚感のある作品を仕上げることができるということがわかります。

 逆に、百武の初期作品は油彩画でありながら、そうは見えませんでした。西洋画の技法に則って描かれていないので、立体感がなければ、重厚感もなかったのです。

 百武の初期作品にはいずれも、「水彩画のように見える」という共通性がありました。それは、百武がその時点で、西洋画の技法をマスターしていなかったことを意味することになります。

 そして、「モチーフの捉え方が平板である」、「細部の表現が雑である」、「塗りムラが見られる」といった初期作品の共通性についても、実は、百武が、この時点ではまだ西洋画の基本を習得していなかったからだということに帰着します。

 もっとも、油彩画を習い始めてわずか1年余でこれだけの作品を仕上げることができたのは、百武の努力とセンスの良さ、吸収力が関係していたといわざるをえません。もちろん、師であるリチャードソン・ジュニアとの相性がよかったからでもあるのでしょう。

■リチャードソン・ジュニアと百武兼行

 リチャードソン・ジュニアは生前、北イングランドとスコットランドの高地を描いた水彩画、イタリアとスイスの風景を描いた美しいパノラマ画が人気を博し、高値で取引されていました。(※ https://somersetandwood.com/thomas-miles-richardson-junior-returning-home-original-1851-watercolour-painting-jy-551)

 当時、絵を描くだけで生活していくのは大変だったようです。ところが、リチャードソン・ジュニアの作品は多くの人々に好まれ、高値で取引されたというのです。しっかりとした技術を身につけ、ロマン主義的な表現力を発揮していたからこそ、数多くの人々を惹きつけることができたのでしょう。

 Andrew Cobbing氏は、リチャードソン・ジュニアと百武との関係について、次のように記しています。

 「リチャードソン・ジュニアは、イタリアの田舎やスコットランドの高原地方を描くのを好み、百武は彼のお供をして、定期的にスコットランドを訪れていた。1878年に北部ダーラム州に出かけた際には、《バーナード》を描いた」

(※ Andrew Cobbing, THE JAPANESE DISCOVERY OF VICTORIAN BRITAIN, JAPAN LIBRARY, 1998, pp.136-137.)

 リチャードソン・ジュニアは、定期的にスコットランドにスケッチ旅行をしていましたが、百武も一緒に出かけていたというのです。

 ロンドンからスコットランドに行くには、直線で533.3㎞です。当時は交通機関も発達していませんから、少なくとも一週間以上は寝食を共に過ごしていたのでしょう。しかも、スコットランドには定期的に出かけていたようですから、百武がリチャードソンと友好な関係を築き、多くを学んでいたことがわかります。

■リチャードソン・ジュニアとは

 前回はリチャードソン・ジュニアがなぜ、《A Rocky Stream in Scotland》を描いたのか、考えてきました。別人が描いたのではないかと思えるほど、《A Rocky Stream in Scotland》の画面が異質だったからです。モチーフ自体に大きな変化はないのですが、それまでの画風とはまったく異なっていたのです。

 《A Rocky Stream in Scotland》を描く前と描いた後の作品を比較検討してみた結果、当時の美術批評家ラスキン(John Ruskin, 1819 – 1900)の指摘を気にして、この作品を描いたのではないかという結論に至りました。

 ラスキンは《Glen Nevis, Inverness-shire》(1857年)について、次のように評していました。

 「リチャードソンは、徐々に筆遣いが巧みになっており、コバルトとバーントシェンナを快く拮抗させている。しかし彼はいつも、高原の風景を、同じようなモチーフのさまざまな寄せ集めとしか考えていない。それらのモチーフとは、岩だらけの土手であり、ある場所では青く、別の場所では茶色で描かれているものだ。そして、よじれたスコットランドモミの木、シダ、犬、馬に乗っている人などである」(※ https://www.stephenongpin.com/object/790470/0/a-rocky-stream-in-scotland

 ラスキンは、筆遣いや色遣いについては評価していましたが、モチーフや構図については「同じようなモチーフをさまざまに寄せ集めて」描いているに過ぎないとして、難色を示していたのです。

 おそらく、このような指摘が気になって、リチャードソン・ジュニアは、《A Rocky Stream in Scotland》を描いたのではないかと私は推察しました。つまり、リチャードソン・ジュニアはラスキンの批評に発奮して、一生に一度、画風を全く変えてしまうという壮大な実験をしたのです。

 ところ、その後、リチャードソン・ジュニアはこのような画風の作品を描いておらず、これまで通り、同じような画題を同じような画風で描き続けています。革新的な画風に挑むこともなく、手練れの水彩画家として一定の社会的評価を得ており、それで満足していたように思えます。

 リチャードソン・ジュニアは西洋画の技法を確実に身につけ、ロマン主義的な作風の絵を描き続けました。おかげで当時の人々に好まれ、収入も得ることができました。新たな領域に挑戦することもなく、人々のニーズに合わせてひたすら絵を描き、それなりの社会的評価を得て、一生を終えました。

 はじめて油彩画を学ぶ百武兼行にとって、リチャードソン・ジュニアこそ、西洋画の基本技術を学ぶには恰好の師だったのではないかという気がします。(2023/11/30 香取淳子)