ヒト、メディア、社会を考える

香取淳子のメディア日誌
このページでは、香取淳子が日常生活の中で見聞きするメディア現象やメディアコンテンツについての雑感を綴っていきます。メディアこそがヒトの感性、美意識、世界観を変え、人々の生活を変容させ、社会を変革していくと考えているからです。また、メディアに限らず、日々の出来事を通して、過去・現在・未来を深く見つめ、メディアの影響の痕跡を追っていきます。


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カルロ・ドルチの「悲しみの聖母」を観る。

■松方コレクション
 2018年6月30日、日経新聞朝刊の文化欄を読み、松方コレクションの総目録が7月に刊行されることを知りました。松方コレクションとは、実業家の松方幸次郎が大正初期から昭和初期にかけて、イギリス、フランス、ドイツで収集した美術品のコレクションを指します。

こちら →https://www.nmwa.go.jp/jp/about/matsukata.html

 松方幸次郎は1916年から約10年間、ヨーロッパを訪れるたびに画廊を訪れ、約1万点に及ぶ美術品を買い集めました。人脈を駆使し、お金と手間暇かけて蒐集に励んだのは、近代化に向けて舵を切って間もない日本に美術館を建設し、若い画家たちに本物の西洋美術を見せたいという思いからでした。

 残念なことに、その後、関東大震災、世界恐慌、第二次大戦といった大きな社会混乱が続きました。美術館建設が叶わかったのはもちろんのこと、せっかくのコレクションも、その期間に多くが散逸してしまいました。火災で焼失したもの、混乱のさ中に消失したもの、あるいは、他国に没収されたものもありました。

 松方幸次郎の高邁な志と努力が無に帰そうとしていたのです。

 ところが、1959年、第2次大戦中にフランスに没収されていたコレクションが、フランス政府から日本に寄贈返還されることになりました。そのコレクションを収蔵するために設立されたのが、国立西洋美術館です。戦後14年を経、日本が目覚ましい復興を遂げ始めていた頃でした。

 西洋美術館は、設立以来、散逸したコレクションの情報収集を進めて買い戻しに努め、2014年以降は総目録の刊行に向けて調査してきました。その結果、コレクションの発見が相次ぎ、これまで定本とされてきた「松下コレクション西洋美術総目録」(1990年、神戸市立博物館刊)に収録された作品に、新たに約1000作品が追加されることになりました。

 6月30日に私が新聞で目にしたニュースでは、7月中旬に刊行される第1巻(絵画)には1207点、そして、年末に刊行される予定の第2巻(彫刻、素描)には約1800点が収録されるということでした。関係者の長年の努力が実り、ようやく松方コレクションの全容が解明されようとしているのです。

 記事を読み終えた途端に、松方幸次郎が20世紀初、日本の若手画家たちのために選んだ作品はどのようなものだったのか、気になってきました。数多くのコレクションの中には、時代を超え、今なお輝いている作品があるかもしれません。

 そのような作品に出会うことができれば、油絵の魅力の真髄に迫ることもできるでしょう。とくに、絵画が一般大衆へのメッセージ伝達手段として重視されていた時代、どのような描き方が取り入れられていたのか、さらには、説得効果を高めるために、どのような工夫がされていたのか、といったようなことを把握できればいいなと思いました。

 7月に入って、ようやく空き時間をみつけ、西洋美術館を訪れてきました。
 
■悲しみの聖母
 松方コレクションが展示されている常設展は、国立西洋美術館の本館2階にあります。しばらく作品を見ていて、ほどなく、見学に来ていた中学生たちが絵の前に群がり、口々に「きれい!」といっているのに気づきました。近づいて見ると、「悲しみの聖母」というタイトルの作品でした。17世紀の作品が展示されている壁面の片隅で、小ぶりの作品ながら、そこだけ輝くように異彩を放っていました。

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(図をクリックすると、拡大します。国立西洋美術館)

 まず、明暗のコントラストの強い画面構成が、印象に残ります。暗闇の中から静かに浮かび上がってくるように見えるのが、青いマントをまとった聖母の横顔です。視線を下方にずらすと、今度は、そっと組み合わせた手に目が留まります。そして、やや引いてみると、頭上には、鮮やかな青いマントの背後で鈍い金色の後光が射しているのに気づきます。

 明暗のコントラストを巧みに使い、顔と手の、色白で柔らかくきめ細かな肌が強調されていることがわかります。

 その一方で、輝くような肌はマントの青を強調しています。そして、鮮やかに描かれたマントの青が、聖母の若さと敬虔さを際立たせています。暗闇で静かに祈りを奉げる聖母の姿がなんと清らかに見えることでしょう。まるで何か得体の知れない強い力に誘導されてでもいるかのように、気持ちがぐいぐいと画面に引き寄せられていきます。

 そういえば、橙色を含んだ柔らかな肌色と、隣接して配されたマントの青はほぼ補色関係にあります。聖母の顔の色とマントの色は相互に強く引き立て合っているといえるでしょう。

 こうしてみてくると、明暗によって観客の視線を誘導するだけではなく、補色関係にある色を配置することによってモチーフが際立って見えるように構成されていることがわかります。明暗の効果と補色の効果を巧みに組み合わせることによって、画面の中で聖母の顔と手が焦点化され、観客の情感を強く刺激しているのです。

 この絵を見たとき、観客はまず明暗のコントラストの強さに目を引かれ、次いで、色彩のコントラストに関心を高めていくうちに、やがて、気持ちが強く画面に引き込まれていきます。このような一連の心理的プロセスが、明暗と色彩のコントラストを使って、巧みに創り出されていました。

 いったいどのような画家が描いたのか、気になって解説を見ると、この作品は1655年ごろ、イタリアのカルロ・ドルチによって制作されたと書かれていました。17世紀のフレンツェで活躍した宗教画家ですが、祭壇画など大画面の構図は得意ではなく、小画面の聖母像や聖女、聖人像を描く画家として人気があったそうです。

 この解説を読んで、なるほどと納得がいきました。絵から受けた印象はそのまま、カルロ・ドルチの画家としての来歴と重なります。これまで書いてきたように、「悲しみの聖母」には強い訴求力があります。ですから、彼が描く聖母像が当時、大変人気があったことも素直に理解できます。

 この作品はなぜ、それほど強烈な訴求力を持ちえたのでしょうか。

■モチーフの相互作用
 それでは、上半身に目を向けてみましょう。

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(図をクリックすると、拡大します)

 まず、視線が捉えられるのは、横顔、そして、組み合わされた手、そして最後に、頭上に配された後光です。メインモチーフが①聖母の横顔だとすれば、それに劣らないほど強いメッセージを放っているのが、②組み合わされた手です。そして、観客の意識されない情感に働きかける役割を果たしているのが、③聖母の頭上に描かれた鈍く輝く後光です。

 それらの間でどのような相互作用が生まれ、画面全体を方向付けているのでしょうか。メインモチーフといえる横顔から見ていくことにしましょう。

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(図をクリックすると、拡大します)

 うつむき加減の横顔には深い悲しみがたたえられています。目を閉じ、祈りに没頭する姿勢には他を寄せ付けない厳しさが感じられます。神への祈りに専心しているのでしょうか、声をかけることすら阻まれそうです。

 この横顔を明暗の観点からみると、通った鼻筋と頬の一部と鼻下の一部がもっとも明るく、額、顎の一部がそれに次ぎます。頬の一部にはほんのりと赤味が射し、唇のしっとりとした赤味を引き立てています。一連の明るさの中では比較的暗く、明るさと暗さの段階の調節役を担っているのが、眉間と瞼の一部です。

 一見すると、この絵は顔が強く印象付けられるように構成されていますが、よくみると、顔の造作がはっきりとわかるのはダイヤモンドの形に収まる範囲でしかありません。顔の約半分は影になっているのです。いってみれば、情報が明示されない部分です。ですから、影部分を大きく設定することによって、観客の想像力の働く余地を高くしているといえるのかもしれません。

 さて、顔の大きさに引き換え、比較的大きく描かれているのがマントです。そのマントの影部分と顔の影部分とが一体化して描かれています。ここでも情報がはっきりと示されない部分が大きく設定されています。その結果、悲しみに奥行きが与えられているだけではなく、聖母の存在自体に深みが生み出されているように思えます。

 さらに、マントのなだらかな曲線が要所、要所、鮮やかな青で彩られています。そのせいか、布の端に柔らかい動きが生み出され、隣接した聖母の肌にも生気が感じられます。静謐感の漂うこの作品に、生きていることの証のように、優しく、柔らかい動きが生み出されていることに気づきます。この絵の訴求力の源泉はこのあたりにあるのかもしれません。

 次に、組み合わされた手をクローズアップしてみましょう。

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(クリックすると、拡大します)

 マントの下から除いているのが組み合わされた両手です。顔と同じぐらい大きな面積で描かれているので、とても存在感があります。柔らかな感触の手や桜色の爪は、横顔の肌色と呼応し、聖母の健康な若さが見事に表現されています。

 カルロ・ドルチは、この両手を横顔と同じぐらいの面積で、しかも、年齢まで推し量れそうなほど丁寧に皮膚の状態を描いています。とても存在感があります。組み合わされた両手は、祈る行為を描くためのモチーフとして欠かせないのでしょう。

■モチーフに組み込まれた文化的記号
 悲しみに沈む横顔と組み合わされた両手を、順に見ていくと、聖母の深い悲しみに同情し、やがて、神への祈りに共感する、・・・、といった一連の心理プロセスが観客の側に生まれます。ですから、観客が絵を見て勝手に描いたストーリーに沿って、さまざまな感情がごく自然に喚起され、生起されていくように思えます。

 こうして見て来ると、何気ない身体の一部のように見える両手の存在が、メッセージを強化するうえできわめて重要な役割をはたしていることがわかります。いってみれば、文化的記号として観客の意識に作用しているのです。

 最後に聖母の頭上に描かれた後光を見てみましょう。

 後光はさり気なく薄く描かれています。ですから、ともすれば意識下に追いやられてしまいがちなのですが、よく見れば、聖母のまとったマントの頭上で、金色の鈍い光が薄い弧状になっていることに気づきます。しかも、明らかに聖母の頭上にだけ鈍い光が放たれています。

 現代社会の観客はおそらく、ほとんど誰も、これを見ていても後光だとは認識していないでしょう。ただの背景の一部でしかありません。ところが、聖母を表現しようとすれば、組み合わされた両手と同じぐらい、後光は重要な要素なのです。

 これまで見てきたように、これらの三つのモチーフ(目を閉じた聖母の横顔、組み合わされた両手、後光)はそれぞれ、神に向かって祈りを奉げる文化的記号として作用していることがわかりました。ですから、この作品がなぜ、強い訴求力を持っているのかを考えた場合、まず、複数のモチーフの相互作用による効果が考えられます。

 さらに、この絵のモチーフと構図には、誰もが目にする日常生活の一シーンのようなさりげなさがあります。つまり、観客を無意識のうちに説得するための文化的記号が、日常生活の延長上に仕組まれているのです。

 しかも、色彩を象徴的な色に絞り込み、影部分を多く設定した画面構成です。余分な情報は影部分に落とし込んで極力排除され、ノイズの発生が回避されています。だからこそ、この絵が明確なメッセージを持ち、強い訴求力で観客に迫ってくるのでしょう。時代を超え、社会体制を超え、ヒトの感情に直接訴えかけてくる強さの源泉は、モチーフと画法、画面構成にあるといえます。

■親指の聖母
 そういえば、数多くの聖母像を描いたカルロ・ドルチには、この作品に酷似した、「親指の聖母」という作品があります。

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(図をクリックすると、拡大します。東京国立博物館)

 現在、東京国立博物館に所蔵されておりますが、かつては長崎奉行所に所蔵されていました。宣教のため日本にやってきたシドッチ神父が、イタリアから携行してきた聖母像です。こちらは1678年の制作だとされています。

 「悲しみの聖母」と見比べてみると、構図、モチーフのポーズはほぼ同じです。ところが、興味深いことに、この作品に組み合わされた両手は描かれていません。親指だけがマントから少し見えているだけです。

 1655年ごろ描かれたとされる「悲しみの聖母」には描かれていた両手が、1678年に描かれた「親指の聖母」にはなく、その代わりに親指の爪先部分だけが描かれているのです。この23年間で画家カルロ・ドルチにどのような認識の変化が起きていたのでしょうか。

 手と指だけに着目すると、「悲しみの聖母」(1655年ごろ)が、手を合わせて祈るという行為に力点を置いているとすれば、親指だけを見せた「親指の聖母」(1678年)は、むしろ悲しみに力点を置いているように見えます。

 そこで、二つの絵を見比べてみると、「親指の聖母」では、マントの下から上部の頭髪やマントの裏生地が見えます。それも、やや明るい赤味がかった紫色で、滑らかな布の触感がきめ細かく描かれています。マントの布地も「悲しみの聖母」よりも影に落としこまれる部分が少なく、微妙な色彩の変化が比較的現実に即して描かれています。

 省略が少ないという点では、「悲しみの聖母」に比べ、23年後の「親指の聖母」の方がより世俗的になったといえます。その一方で、頭髪や衣服が写実的に描かれており、聖母の悲しみが観客に同一視されやすい状況で提示されているともいえます。

 先ほどもいいましたが、「親指の聖母」は、組み合わせた両手を描き、「祈る」行為まで見せずに、その一歩手前の「悲しみ」を表現する段階で留められています。ですから、観客が聖母の悲しみを共有することに力点が置かれているように見えます。

 おそらく、その方が見る者の感情を喚起しやすいからでしょう。悲しみの感情を共有する状態に置かれれば、宣教師の介入の余地が高くなります。悲しみから祈りへの道筋を説得しやすくもなるでしょう。描かれた内容からいえば、布教にはこの作品の方がふさわしいと判断された可能性があります。

 さて、似たようなモチーフの作品と比較することによって、「悲しみの聖母」が、実はきわめて抽象的な作品なのだと気づかされました。明暗のコントラストを強め、余分な情報をそぎ落としてさまざまなノイズを排除し、メッセージが明確に伝わる工夫がされていました。

 「親指の聖母」と見比べてみなければ、「悲しみの聖母」が持つ特性に気づきませんでした。時代を超え、社会体制を超えて観客を魅了する普遍性が、「悲しみの聖母」には備わっていることがわかります。

 改めて、アップで写真に収めた「悲しみの聖母」を見ていると、不意に、永遠の微笑といわれるレオナルド・ダビンチの「モナリザ」が脳裏を掠めました。

■スフマート技法の効果
 横顔(「悲しみの聖母」)と正面を向いた顔(「モナリザ」)とでは比較にならないのですが、どういうわけかこの二つの作品に似たものを感じたのです。念のため、「モナリザ」の顔部分に焦点を当てた図を見てみましょう。

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(図をクリックすると、拡大します。Wikipediaより)

 「モナリザ」は謎の微笑をたたえているともいわれてきました。それは口元や目元などに輪郭線を使わないで描く手法を採用しているかでしょう。ダビンチなど16世紀の画家が創始したとされるスフマート技法が使われているのです。

 スフマートとは、色彩の透明な層を何度も上塗りしていくことによって、絵に深みやボリュームを与える技法です。

 とくに有名なのが、この「モナリザ」です。口元や目元に輪郭線が使われず、この技法で描かれています。笑みを表現するための重要な部位がいずれも、ぼかし表現で処理されているのです。その結果、「モナリザ」は「謎の微笑」といわれたり、「永遠の微笑」といわれたりしながら、これまでずっと観客の気持ちを引き付けてきました。

 スフマート技法が使われているのは、もちろん、目元や口元だけではありません。

 柔らかで、滑らかな肌。眉毛さえ、まるで肌に溶け込んでしまったかのように、瞼から続く皮膚の盛り上がりとして表現されています。顔と頭髪との境目も同様、輪郭線はなく、影部分として処理されています。その影部分は頬から生え際にかけて、グラデーションで色が微妙に変化し、頭髪へとつながっています。いずれもスフマート技法が使われています。

 Wikipediaによれば、ダビンチが「モナリザ」を描いたのが、1503年から1506年です。存命中から画家として著名だったダビンチの「モナリザ」のことを、17世紀の宗教画家カルロ・ドルチは当然、知っていたでしょう。同じフィレンツェで活躍した画家です。カルロ・ドルチもまた、このスフマート技法を駆使して「悲しみの聖母」を描いたのでしょう。

 「モナリザ」の場合ほど、微妙なグラデーションが施されているわけではありませんが、輪郭線が曖昧だからこそ、肌の柔らかさや奥行きが感じられました。いわゆる肖像画よりはるかに表情が豊かで、奥行きがあり、リアリティが感じられたのです。スフマート技法ならではの効果といえます。

■観客は絵の何を見ているのか
 カルロ・ドルチは17世紀フレンツェで活躍した宗教画家でした。「悲しみの聖母」では、宗教画家が手掛けた作品らしく、祈りの持つ、敬虔さ、荘厳さ、信仰の強さ、他人を寄せ付けない峻厳さなどがみごとに表現されていました。描かれたモチーフが相互に関係しあって絵のメッセージを明確にし、強化する役割を果たしていたからでしょう。

 この作品には、明暗のコントラストを強調した画面構成といい、補色効果を考慮したモチーフへの配色といい、明らかに観客を引き込むための仕掛けが感じられました。観客がこの作品を見た瞬間、その視線を誘導し、釘付けにし、やがては感銘を覚えるような工夫が施されていたのです。

 さらに、「モナリザ」との類似性から、気づいたこともあります。それは、スフマート技法が持つ観客の無意識に与える効果です。輪郭線を引かずにモチーフを捉える代わりに、グラデーションを効かせて、影部分に新たな意味を付与していました。それが、観客の心に残影を残し、感情を強く喚起する力になっていくのでしょう。

 スフマート技法は、上から何度も薄い透明色の絵具を塗り重ねることによって、画面に奥行きを生み出し、微妙な風合いを創り出します。いってみれば、曖昧で、解釈しきれない要素を画面に持ち込むのです。

 「悲しみの聖母」では大きな割合を占める影部分がそれに相当するでしょう。曖昧で、解釈しきれないからこそ、観客の意識下にいつまでも奇妙な感覚が残ります。ひょっとしたら、それが時代を経ても、色褪せることのない新鮮さ、あるいは普遍性につながっているのかもしれません。この作品を観て、油絵の魅力の一端に触れたような気がしました。(2018/7/19 香取淳子)

「身野友之油絵展」に見る日本の詩情

■第11回「身野友之油絵展」の開催
 6月23日、東武デパートに出かけたついでに6F美術画廊を訪れてみると、「身野友之油絵展」が開催されていました。期間は6月21日から27日(最終日は16:30で閉場)までです。

 展覧会を頻繁に訪れ始めたのが、せいぜいここ3年ほどのことなので、残念ながら、私はこの画家のことは知りませんでした。ですから、まったくの興味半分で、ふらっと会場に入ってみたのです。

 会場には30点ほどの作品が展示されていました。どの作品も一見、何気ない風景が描かれているのですが、見ているうちに、どういうわけか、気持ちが締め付けられる思いがしてきます。いつもなら、さっと通り過ぎてしまうような画風なのですが、つい、作品ごと丁寧に見入ってしまいました。

 いったい、なぜ、そのような気持ちに捉われてしまったのでしょうか。考えてみたいと思います。

■「湖畔の道」
最初に作品を見たときの印象は地味で、なんの変哲もなく、さっと通り過ぎてしまいそうになりました。ところが、次の作品に移ろうとすると、どこか引っ掛かりを感じてしまい、引き返し、しげしげと見入ってしまった作品がいくつかありました。

 たとえば、「湖畔の道」という作品があります。これは、東武デパートのチラシに掲載されていた作品ですが、やはり気になるものがあって、しばらく足を止めてしまいました。

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(油彩、727×500㎝、画像をクリックすると、拡大します)

 どこかで見かけたことがあるような風景が描かれています。エッジの効いた風景ではなく、どちらかといえば、ありふれた光景を捉えた風景画です。ところが、見ているうちに、なぜか、切ない気持ちに襲われてしまいます。

 これは、遠景、中景、近景で構成されている風景画です。遠景に幾重にも連なる山々、中景にひっそりと肩を寄せ合うようにして建つ家々、そして、近景に低い石垣を左手に道路が描かれています。近景で描かれた道路の右側は草も生えておらず、荒れ地のようになっています。その荒れ地のようになっているところに、地を這うように雑草が生え、ピンクの小花をつけています。

 左側の石垣は延々と続いて近景と中景をつなぎ、観客の視線をはるか遠くの家並みに誘導していきます。よく見ると、石垣の内側に、ほとんど隠れてしまいそうになるほどわずか、屋根の一端が見えます。

 石垣の長さからは、敷地の広さが推測されます。かつては富豪の家だったのかもしれません。そう思えば、湖畔につづく手前の荒れ地は大勢のヒトが行き来した痕跡のようにも見えてきます。

■アングルの効果
 こうしてみてくると、一見、何気ない風景のように見えるこの作品に、見過ごすことのできない何かを感じてしまった理由がわかったような気がしてきます。この風景を、このアングルから捉えることによって、この集落の歴史、いってみれば栄枯盛衰の過程が見事に表現されているのです。一枚の絵でありながら、この集落の過去、現在、そして、未来までを想像させる力を持った作品でした。

 この作品を見て、胸が締め付けられるような気持ちになってしまったのはおそらく、観客の気持ちを深いところで刺激する訴求力を、この絵が持っていたからでしょう。その訴求力の源泉として大きく作用しているのが、先ほどもいいましたように、なんといっても、風景の切り取り方です。

 この絵は、盛りを過ぎた陽射しの下、ヒト気のない集落を含む風景が切り取られ、描かれています。試みに、この作品を要素に分解して見てみると、モチーフの取り込み方、配置の仕方、色調などが一体となって、この風景になんともいえない興趣を添えていることがわかります。

 改めて、この絵を見てみると、家並みまでの道のりが長く設定されていることに気づきます。通常、大人が立ってこの風景を見たとき、おそらく、このようには見えないでしょう。視点が低く設定されているのです。いってみれば、子どもの視点です。

 だからこそ、集落につながる道が必要以上に長く見え、水辺に至る草地のなだらかさが際立って見えます。さらには、手前で群生するピンクの小花に目が留まるのも、子どもの視点で捉えられた光景だからだといえるでしょう。このような低い視点の設定が、この風景に独特の味わいを醸し出しているのは明らかです。

■近景・中景・遠景、相互の統一感
 さて、この作品はラフに見ると、大きく3つの台形で構成されています。手前の道路と三角形の湖面が一つ目の台形とするなら、中ほどの家並みとその背後の山々が二つ目の台形、そして、大きく広がる青空が三つ目の台形です。それぞれに関連する色調が部分的に取り込まれ、全体が調和するよう工夫されています。

 たとえば、道路の右側にはわずかに湖面が見え、深い群青色が基調の湖面に静かな小波が立っています。その背後には幾重にもつながる山々が描かれ、後ろの山は湖面の群青色をさらに深くした色で表現されています。それら地上の一切合切を、大きく包み込むように描かれた青空には、要所要所に浅い群青色が配され、深さが感じられます。空と山と湖がこうして色調面で連続性を持たせられ、絵全体の統一感が生み出されています。

 山際には雲がうっすらと浮かび、どこまでも広がる青空の下、集落を包み込むようにして連なる山並みに、どっしりとした安定感が感じられます。この作品では、悠然とした営みをつづける山々にひっそりと寄り添って生きてきたヒトの暮らしが、見事に浮き彫りにされています。

 誰もが、いつか、どこかで、見たことのある風景です。この風景の中にはヒトと自然とのかかわり、連綿と続いてきた両者の営みが的確に表現されています。いってみれば、ヒトと自然が調和して営みを繰り返してきた歴史が刻まれているのです。だからこそ、観客の心を奥深いところで捉えて離さないのでしょう。

 ひょっとしたら、これが、身野友之氏の作品のエッセンスといえるものなのかもしれません。風景の捉え方の中に、深い人間観察の力が隠されているのです。だからでしょうか、どこでも見かける風景でありながら、観客の心を捉えて離さない強さがあるのです。

 それにしても、単なる風景画から、いったい、なぜ、そのように感じてしまうのでしょうか。似たような作品を取り上げ、身野友之氏の作品の魅力について考えてみることにしましょう。

■「夏の午後」
 改めて展示作品を見渡してみると、どれも風景を捉える構図が際立っていることに気づきます。といっても、決して鋭角的な際立ち方ではありません。観客を静かに作品世界に誘い込む力が際立っているのです。

 たとえば、「夏の午後」という作品があります。

こちら →
(油彩、410×273㎝、画像をクリックすると、拡大します)

 この作品もまた、田舎に行けばどこでも見かける風景のように見えます。道幅を大きく取り、左手に建物の塀、畑地を置いて、茅葺の家、瓦屋根の家と続き、道の先にはなだらかな山が見えます。

 遠景の山が低く見えますから、描かれている集落はきっと高度の高いところにあるのでしょう。右手には草むらの一端が見え、小道をはさんで瓦屋根の家が見えます。こちらは道路側にややせり出しており、その先の道は建物でふさがれて見えません。

 夏の陽射しが家々、草むら、木々を強く照らし出しています。屋根瓦と庇、木々や草むらに落ちる白い光で、強烈な夏の暑さと静寂が感じられます。夏の日の午後、暑い陽射しが照り付ける農村の一角が見事に捉えられています。

 この作品をラフに見ると、なんの変哲もない道路を中心に、建物が種々、配置されています。集落の一端が捉えられているのですが、ヒトの気配はありません。強い陽射しと、ここに住むヒトが代々、住んできたであろう様式の建物が描かれているだけです。ところが、この一枚の絵の背後に、この地に暮らす人々の過去、現在、そして未来の生活の営みが見えてきます。

 おそらくそのせいでしょう、見ているうちに、記憶の底に眠る情感が掘り起こされ、気持ちが強く揺さぶられるような錯覚に陥ってしまいます。何気ない風景でありながら、観客の心を鷲づかみにする強さが作品に潜んでいるのです。

■見慣れたはずの風景に潜む詩情
 最近、公募展などを見ても、油彩画で素晴らしいと思える作品に出会える機会が少なく、限界を感じていました。日本人には油彩画は向いていないのではないかとさえ思うようになっていたのです。とくに、日本人が日本の素材を表現するには適切ではないのでは・・・、という気がしてなりませんでした。

 ところが、たまたま身野友之氏の作品を見て、油彩画の可能性を感じさせられました。今回、二つの作品しか取り上げられませんでしたが、いずれも日本の素材を見事に油彩画で表現し、日本の詩情を心ゆくまで、豊かに奏でています。そのような作品を見たからこそ、油彩画の可能性を感じることができたのです。

 日本の詩情を奏でるとはどういうことかと問われても、即答はできませんが、「湖畔の道」あるいは「夏の午後」を見たとき、心の奥底から突き上げてきた、あの感情を生み出すものとでもいえばいいでしょうか。

 ヒトと自然が一体となって溶け込み、一つの風景を創り上げたとき、その風景には自ずと、過去、現在、未来にいたる時間軸が組み込まれていきます。身野友之氏がモチーフとして風景を取り上げると、ヒトの世の移り変わりもまた、その画面に深く反映されていきます。その結果、絵の具で表現されたモチーフの背後に潜む歴史が詩情を生み、観客の心を打つようになるのでしょう。

 日本的詩情を喚起するには、もちろん、身野友之氏の優れた写実力が欠かせません。彼の作品を目にしたとき、どこかで見たことのある風景だと思ってしまうのは、おそらく、この卓越した写実力のせいでしょう。ところが、よく見ると、単なる写生ではなく、身野氏ならではの風景の捉え方、切り取り方があって、独特の画面が創出されているのです。

 だからこそ、観客は作品の前で、どこか引っ掛かりを覚え、言葉にならない感情が湧きたってくるのでしょう。心の奥底に潜んでいた何かが揺り動かされたような気持ちとでもいえばいいのでしょうか、見ているうちに、居ても立っても居られないような気分になってしまうのです。

 興味深いことに、ありふれた風景画のように見えながら、どの作品も妙に観客を引き込む力がありました。詩情と表現しうるものが画面から滲み出ているのです。会場で目にした一連の作品はいずれも時代を超えることができると思いました。(2018/06/30 香取淳子)

大学入試に「情報科目」導入、学びの現場はどうなるか。

■「第9回教育ITソリューションEXPO、第1回学校施設・サービス展」の開催
 2018年5月16日から18日まで、東京ビッグサイトの西ホールで、「第9回教育ITソリューションEXPO、第1回学校施設・サービス展」が開催されました。

 激変する社会状況の中で、未来の教育はどうあるべきか。喫緊の課題を巡って、教育業界、関連機器業界の人々が集い、交流する場が設けられたのです。会場では次世代の教育に向けた機器やサービスが種々、展示されており、それらについて説明を聞くこともできれば、体験することもできます。貴重な機会だと思いました。

 私は事前に、主催者からVIP招待状を送付されていました。案内リーフレットにざっと目を通し、教育を巡る最新動向を知るには、絶好のチャンスだと思いました。そこで、興味のあるセミナーに申し込みをし、16日の午後と17日の午後、セミナーと展示会に参加しました。

 16日昼頃、ゆりかもめの国際展示場正門前で下車すると、人々は続々とビッグサイトに向かっていきます。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 会場に入ると、すでに受け付け前には参加者が多数、並んでいました。受付を済ませると、カテゴリー別の入場バッジを首からぶら下げます。そのバッジは所属あるいは関心領域に従って色別されており、名刺を入れられるようになっていました。

 参加者が首からぶら下げた入場バッジは、小中高、大学、事務局、各種学校、塾・予備校、自治体、教材・教育コンテンツ、ICT機器といった具合に、色別にカテゴライズされた所属や関心領域が表示されていますから、おおよその目的が一目で判別できます。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 展示会場に入ると、どのブースもヒトでひしめき合っていました。確かに、いま、教育現場はどこも悩みを抱えています。子どもの人口減少に加え、教育内容の向上、未来社会に適応した人材育成、等々。さまざまな課題へのソリューションが求められています。

 人材育成という点では、学校だけではなく、さまざまな組織でも同様の悩みが発生しています。いまや、あらゆる領域で、AI主導で激変する社会に適合した、人材育成に努めなければならなくなっているのです。

 人手が足りず、資金も足りない中、AIを活用したシステムを導入していかざるをえなくなっているせいでしょうか、どのブースも、ニーズに適したICT機器、あるいは、AIを組み込んだサービスを探し求めるヒトで溢れかえっていました。

 展示会場には、学校やその他の組織が抱える課題を解決するための、さまざまなICT機器やAIを組み込んだサービスが展示されていました。主催者によれば、教育関連企業の約700社が出展したといいます。

■学びNEXTゾーン
 私が興味を覚えたのは、「学びNEXT」とネーミングされたゾーンでした。そこで見聞きしたいくつかのサービスをご紹介しましょう。

〇アーティック社
このゾーンに入ってすぐ、アーテック(ArTec)という会社のブースで、ワークショップが行われているのを目にしました。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 参加者たちはパソコンを前に、ブロック仕様の部品を使って、プログラミング演習をしていました。おそらく小学校の先生たちなのでしょう。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 講師の指示に従って、参加者たちはブロック仕様の部品を動かし、わからなくなれば随時、講師に質問をしていました。それぞれ真剣な面持ちで取り組んでいたのがとても印象的でした。

 そういえば、2020年には小学校課程でプログラミング教育が導入されます。先生たちも新たに学んだり、学び直していく必要に迫られているのでしょう。

 調べてみると、アーティックは2018年、ロボットプログラミングの推進によって、経済産業省から「ものづくり日本大賞特別賞」人材育成部門で受賞していました。

こちら →http://www.monodzukuri.meti.go.jp/backnumber/07/03_05_01.html

 若年層へのロボット教育へのハードルを下げ、小学校低学年から取り組める教材を開発したことが評価され、受賞したのです。

 すでに2万人もの生徒がこのロボットプログラミングを体験しており、来年も採用したいとする教師は98%、そして、生徒の授業への満足度は100%だったそうです。この結果からは、教師からも、生徒からも満足度の高い教育支援サービスだといえます。

こちら →http://www.artec-kk.co.jp/artecrobo/edu/
 
 ブロック型のプログラミングロボットなので、短時間で自由に組み立てられるだけではなく、子どもたちの独創性を活かせるところが、このサービスの利点といえます。しかも、アーティック社は、段階に応じた指導カリキュラムを開発し、プログラミング教室を開校しています。

 経産省は、こうした一連の業務をプログラミング教育の推進に寄与すると判断したのでしょう。「第4次産業革命を牽引する次世代人材の育成に貢献」として、アーティック社を高く評価しています。

 次に話を聞いたのが、ジンジャー・アップ社でした。

〇ジンジャー・アップ社
 このブースの前で目にした、「学びの未来の可視化」というキャッチコピーが気になって、立ち寄ってみたのが、ジンジャー・アップ社でした。「学びの可視化」とは一体、どういうことなのでしょうか。

 担当者に聞くと、「これまでのシステムとは違って、学習過程の履歴を蓄積できるので、どこで躓いたのかがわかる」、それが「学びの可視化」だということでした。

 ジンジャー社が提供する「学びの可視化」によって、学習者がこれまでの学習過程のどこで躓いたのかが具体的にわかるようになります。そうなれば、より適切に学習内容を改善することができますから、結果の向上につなげることができるというのです。すでに、いくつかの大学や官公庁、企業などで採用実績があるといいます。

こちら →http://www.gingerapp.co.jp/case/
 
 担当者から説明を聞いているときはよくわからなかったのですが、帰宅して調べてみると、ジンジャー社が提供しているサービスは、米国ADL(Advanced Distributed Learning)社が2013年4月に公開した新規格(xAPI=Experience API)に基づき、同社が開発した独自のシステムによって、運用されています。

 具体的にいえば、ジンジャー・アップ社はxAPI に基づき、LRS(Learning Record Store)を開発しました。xAPIというのは、これまでのeラーニングの世界標準規格(SCORM)の次世代規格です。新規格xAPIに基づいて、新たにジンジャー・アップ社が開発したのが、LRS(Learning Record Store)でした。

 LRSはさまざまなデバイスに対応しており、結果だけではなく学習履歴を詳細に記録することができます。トレーニングのトラッキングが可能なばかりではなく、複数のLSM間で履歴データの移行ができます。しかも、最新のwebテクノロジーが利用できるようになりますから、さまざまな教育関連の履歴を取得し、分析することができます。担当者は、データの関連づけによる新たな分析にも対応できるといいます。

こちら →https://xapi.co.jp/xapi-lrs/

 これまでの世界標準規格であるSCORMに基づくeラーニングでは、パソコンを使ってeラーニング教材の履歴管理をするぐらいのことしかできませんでした。ところが、xAPIに基づくLRSでは、さまざまなデバイスに対応していますし、複数のLRS間のデータ移行ができるようになりますから、さらにきめ細かなサービスを展開できるようになると担当者はいいます。

 こうしてみてくると、このシステムは、単に学校現場での利用に限らず、官公庁、企業での利用も可能だということがわかります。同社は、LRSを組入れたさまざまなサービスを展開しようとしていますが、導入実績が増えれば、データの蓄積もできます。分析の精度が上がりますから、さらに多様な展開も可能になるでしょう。場合によっては、人材不足が深刻になりつつある日本に必須の次世代サービスになるかもしれません。

 さて、お馴染みのペッパーを見つけ、思わず足を止めてしまったのが、ソフトバンクグループのブースでした。

〇ソフトバンク
 人型ロボット、ペッパーによるプログラミング教育を提唱しているのが、ソフトバンクでした。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 ペッパーを使って、子どもたちに親しまれやすく、わかりやすく、プログラミング教育を行っていこうというのがこのブースの謳い文句でした。小中学校282校へ2000台、3年間にわたって貸出し、9.1万人が受講予定だといいます。ソフトバンクは社会貢献事業の一つとしてこのプログラムを推進しています。

こちら →https://www.softbank.jp/robot/education/social/social02/

 ペッパーは身長121㎝、ちょうど小学校低学年の子どもの背丈です。子どもたちにとっては親しみやすく、話しかければ、応えてくれます。対面でコミュニケーションができる人型ロボットだからこそ提供できる機能を、ソフトバンクは強調しています。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 人型ロボットを操る面白さ、思いついたことは何でもペッパーを使ってやってみる気軽さ、そのような属性と機能は、子どもたちから主体的で積極的な学びを引き出してくれるかもしれません。しかも、このサービスでは、あらゆる科目に適合した教育内容を提供できるといいますから、どんな嗜好性を持った子どもにも対応できそうです。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 文科省はプログラミング教育を通して、対話的な学び、主体的な学び、深い学びを習得させようとしています。それら一連の学習過程を、このサービスではペッパーを通して実践できると担当者はいうのです。教科横断的なカリキュラムも提示されていました。

 もちろん、ペッパーをどのように授業に組み込んでいくか、具体的に示した教師用指導書も作成されています。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 この教師用指導書は、World Robot Summitジュニア競技委員であり、相模女子大学小学部副校長の川原田康文氏が監修しています。

こちら →https://www.softbank.jp/robot/education/social/curriculum/

 川原田氏は、人型ロボットのペッパーを使ったプログラミング教育では、子どもたちが対面でコミュニケーションをしているつもりで授業に臨むことができるといいます。おそらく、そのことが利点になっているのでしょう。実際にペッパーを使ってプログラミング教育をしている中学校では、「授業が楽しい」と回答した生徒が87%にも上ったそうです。

 今回、展示会場に来てみて、改めて、2020年から小学校で始まるプログラミング教育に向けて、さまざまな取り組みが考えられ、実践されていることがわかりました。

 それでは、その背景となる社会的課題とは一体、何なのでしょうか。同時開催されたセミナーの一端をご紹介することにしましょう。

■セミナー
 関連セミナーに私は、16日午後に二つ、17日午後に一つ参加しました。いずれも会議棟7階で行われました。順にご紹介していきましょう。

〇「人工知能で教育はどう変わるのか?」
 5月16日13:00~14:00まで、国立情報学研究所コンテンツ科学研究系の山田誠二教授による、「人工知能で教育はどう変わるのか? ~教育xAIの現状と今後の展望~」というタイトルの講演が行われました。

 山田氏はAIについて全般的なお話をされましたが、私が興味を抱いたのは、最初にスクリーンに映し出された図でした。会場では文字が小さく、よく見えませんでしたので、帰宅してから、「2017年 日本のハイプサイクル」という言葉を手掛かりに調べてみたところ、会場で見たのと同じ図を見つけることができました。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します。https://gartner.co.jp/press/html/pr20171003-01.htmlより)

 会場でこの図を見ただけでは、なんのことかわかりませんでしたが、ネットで調べてみたようやく理解することができました。ハイプサイクルとは、市場に新しく登場した技術が成長し、成熟し、衰退、あるいは市場に定着するまでの過程を、横軸に「時間経過」、縦軸に「市場からの期待」を置いて各種デジタル・テクノロジーを図示したものでした。

 そもそも、ガートナーのハイプサイクルは、企業があるテクノロジーを採用するか否かを判断する際の参考指標として開発されたものだといいます。

 かつてガートナーは、2012年には「モバイル」「ソーシャル」「クラウド」「インフォーメーション(アナリティクス)」の4つを緊密でかつ複合的に連携することが、デジタル・ビジネスの推進力になると指摘してきました。時を経てみれば、実際、その通りになっていますから、ガートナーの将来予測についてはある程度信頼してもいいのでしょう。

 さて、上図のハイプサイクルから今後のデジタル・テクノロジーを予測すると、いま騒がれているブロックチェーンや人工知能は5年から10年で成熟期に入っていきます。そして、ビッグデータは10年以上先には幻滅期に入るとされていますから、その後はあまり騒がれずに定着に向かっていくのでしょう。

 山田氏は、いまはデジタル・テクノロジーの端境期にあるといわれましたが、この図をみると、たしかにそうなのだということがわかります。

 さらに調べてみると、ガートナーは2018年3月27日、「2020年までに企業の75%はI&Oのスキル・ギャップにより目に見える形でビジネスの破壊的変化を経験する」という見解を発表していました。(https://www.gartner.com/newsroom/id/3869879

 最新のデジタル・テクノロジーに基づくI&O(Infrastructure Operations)を採用しなければ、大多数の企業がビジネス・チャンスを失ってしまうというわけです。当然のことながら、今後はビジネスの態様も変容していかざるをえず、AIに取って代わられる職域もでてくるでしょう。

 オックスフォード大学の准教授マイケル・A・オズボーン氏らは2014年、今後、現在の職業の約半分が消滅してしまうという内容の論文を発表して、大きな反響を呼びました。ところが、ガートナーは最近、最新のインフラを導入し運用していかなければ、企業の75%は大きなダメージを受けるという報告を発表したのです。

 さて、山田氏の講演でもっとも興味を喚起させられたのが、ハイプサイクルというデジタル・テクノロジーの捉え方でした。各デジタル・テクノロジーには固有のライフサイクルがあるのだとすれば、事業体はそれを見極めて導入する姿勢が必要になってくるのでしょう。

 もう一つ、興味深かったのが、人間にとって簡単なことがAIには難しく、AIには常識的な社会性を持たせることが難しいと述べられたことでした。AIの導入に際しては、ヒトが行う認識と機械が行う認識とは異なるということに留意し、対処しなければならないことがわかりました。

 最後に、ITS(Intelligent Tutoring Systems)については、研究レベルではまだこれからだということでした。今後の可能性としては、学生モデルを導入し、学習者より少しレベルの高いAIを導入し、「一緒に勉強したら、楽しいな」という学習者のポジティブな感情を喚起しながら進めるのがいいといわれました。

 今後は、ヒトにできること、できないこと、AIにできること、できないこと、この見極めが大切になってくるのでしょう。
 
 次に行政からの見解をご紹介しましょう。

〇「情報活用能力におけるプログラミング教育」
 5月16日15:00~16:00まで、文科省 生涯学習制作局 情報教育課 情報教育振興室 室長の安彦広斉氏による「情報活用能力におけるプログラミング教育」というタイトルの講演が行われました。

 ここではまず、平成28年12月の中教審答申で決定された教科書改訂の背景について、説明されました。

 2011年に小学校に入学した子どもにとって、将来、現在の職業の65%が存在しない、あるいは、今後10年から20年で半数近くの仕事が自動化される、さらには、2045年には人工知能が人類を超えるシンギュラリティに達する、そういった未来予測に基づけば、自ずと教育内容を変えていかなければならない、という理由からでした。

 安彦氏は、第4次産業革命といわれる今、IT人材の需要が高まっているにもかかわらず、質量ともに足りないといいます。特にデータサイエンティストが足りないのが深刻で、Society5.0に向けた人材育成を推進していくことが喫緊の課題になっていると指摘します。つまり、2020年から小学校で導入されるプログラミング教育は必須なのです。

 いま、世界的に教育改革が推進されています。知識や情報を活用する能力、テクノロジーを活用する能力、言語・シンボル・テキストを活用する能力、等々が重要になってきているからでしょう。

 AIやICT主導で激変する社会環境に適応していこうとすれば、情報教育の質の向上を目指さざるをえず、情報活用能力の育成、教科指導におけるICT活用、校務の情報化、といった教育現場全体の改革が必要になっているのです。

 安彦氏によれば、学習指導要領に「情報活用能力」が規定されたのは今回が初めてだそうですし、小学校の指導要領に「プログラミング」が盛り込まれたにも初めてだそうです。初めて尽くしの中で、小学校では文字入力などの基本的操作を習得し、プログラミング的思考を育成していくことを目的とし、情報基礎力を養っていこうとしています。

 安彦氏はさらに、小学校で導入されるプログラミング教育については、どの教科で、どのような取り組みをしていくか、先生たちの不安をなくす必要があるといいます。そのため、文科省等は下記のサイトを設け、プログラミング教育の狙いと位置づけについて説明するとともに、さまざまな事例を紹介しています。

こちら →https://miraino-manabi.jp/

 最後に、教育現場からの見解をご紹介することにしましょう。

〇「灘校が実践する、個々の能力を引き出す教育 ~アクティブラーニングってなんだろう~」
 5月17日13:00~14:00まで、灘中学校・高等学校校長の和田孫博氏による「灘校が実践する、個々の能力を引き出す教育 ~アクティブラーニングってなんだろう~」というタイトルの講演が行われました。

 和田氏は、ITネイティブの時代には、スマホ、タブレットを使いこなし、ロボットやAIを駆使できる人材が必要だといいます。

 それには、①課題にいち早く気づくこと、これには好奇心、発想力が大切、②普遍的知識や技能を習得し活用すること、これには初等・中等教育が大切、③皆で力を合わせて課題に対処すること、これには協働性が大切、④解決法を編み出すこと、これには応用力、粘り強さが大切、といった具合に、AI時代に必要とされる課題と対応能力、そして、それらを涵養する時期や精神について述べられたのが印象的でした。

 いずれも納得できるものでしたが、とくに、初等・中等教育では、「普遍的知識や技能を習得し活用すること」を課題として挙げられたのが興味深く思えました。和田氏は言葉を継いで、専門化細分化された特殊な知識や技能は汎用性が少ないといい、ITネイティブの時代だからこそ、初等、中等教育が大切だと述べられたのです。

 言われてみれば確かに、専門化細分化されすぎた知識や技能は汎用性が少ないといえるかもしれません。次々と新しい技術が開発されては消えていく現状をみていると、多様な展開を期待できる確かな基礎力こそ重要なのだという気がしてきます。

 さて、AIが進化すると、さらにグローバル化が進みますが、そうなると、異文化コミュニケーション力が大切になってきます。それには他国の社会や文化はもちろんのこと、自国の社会や文化に対する認識を深めていかなければなりません。その基本となるのが、中等教育での教養です。

 こうしてみてくると、和田氏が指摘するように、ともすれば高等教育への通過点として捉えられがちな初等・中等教育の充実を図ることこそ、ITネイティブの時代には重要なことなのかもしれません。

 そして、灘校での事例を紹介してくださいました。その中で印象に残っているのが、中勘助の自伝的小説『銀の匙』を題材にした教育法です。ある教員はこの小説を教材に、生徒たちに3年かけて、言葉を調べさせ、文化や生活を徹底的に調べさせ、学習を自発的に深化させていきました。具体的にいえば、「銀の匙研究ノート」を使って、生徒たちに予習を促し、その積み重ねとして、アクティブに学習に取り組む姿勢を養うことができたのです。教員が編み出した独自の教育法でした。

 このようなユニークな指導ができるのは、灘校が教員の自由や独自性を尊重し、教材や指導法一切が自由だからでしょう。誰もが模倣できるものではありませんが、ITネイティブの時代だからこそ必要な教育法なのかもしれないと思いました。

■大学入試に「情報科目」導入、学びの現場はどうなるか。
 2018年5月18日、政府が大学入試にプログラミングなどの情報科目を導入する検討に入ったと新聞で報じられました(産経新聞)

こちら →https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180518-00000070-san-bus_all

 17日に開催された未来投資会議で、安倍首相は「人工知能、ビッグデータなどIT技術、情報処理の素養はこれからの時代の”読み書きそろばん”だ」と述べたというのです。

 これまでみてきたように、2020年から小学校課程にプログラミング教育が導入されることはすでに決まっています。

 ですから、この記事の力点は、高等教育での情報教育の必要性に置かれており、それには、大学入試に「情報科目」を導入するのが一番だということにあります。すでに米中など、世界の主要諸国では情報教育の高度化に取り組んでいます。この流れに出遅れては、AI主導で進むSociety5.0に取り残されてしまうという危機感から示された見解だとみるべきでしょう。

 いずれにしても小学校でのプログラミング教育の導入は決定されていますので、今後はいかに現場で混乱なくスムーズに展開できるか、生徒が着実に習得できるか、工夫していく必要があるでしょう。

 今回、私は3つのセミナーに参加しましたが、立場の違う演者の3人とも、冒頭で、AIやICTの進化による社会変化に触れられました。未来社会についての認識が共通だったのです。

 たしかに、今後20年~30年後の日本を概観すると、少子高齢化によって減少した労働人口を補うために、外国人、AI、ロボットに依存するようになっているでしょう。そして、そのころ世界は、人工知能が人類の頭脳を超えるシンギュラリティ(技術的特異点)に達しているに違いありません。

 これまでは2045年といわれていましたが、最近は16年も早まり2029年にはシンギュラリティに達しているといわれています。

こちら →http://tocana.jp/2017/03/post_12665_entry.html

 グーグル者の技術ディレクターでもある未来学者のレイ・カーツワイル(Ray Kurzweil)氏は、「機械のおかげで我々はより賢くなる」とし、「2030年には思考を司る大脳新皮質をクラウドネットワークに接続するつもり」だといっています。シンギュラリティを迎えた暁には機械を人間の脳に取り込むことによって「超人」が誕生するというのです。

 いずれにしても、情報技術は進化し続け、社会が今後さらに、ドラスティックな変容を迫られるのは必至でしょう。これまで繰り返しいってきたように、やがて、これまでのヒトの仕事の半数が無くなり、ビジネスの様態も大幅に変化してしまうのです。そうなれば、どのような人材が必要なのか、どのような教育体制を取るべきなのか、といったことが喫緊の課題になってきます。あらゆる人々がこの問題に目を向け、考えを巡らせていく必要があるでしょう。

 展示会場を訪れてみて、AI、あるいはICTを活用したさまざまなサービスが考案されているのを知りました。今回、ご紹介したのは3つの事業者のサービスでしたが、いずれもAIやICTを高度に活用した技術が使われていました。気になるのは、AIにはヒトが持っているものが欠けている、ということです。今後はおそらく、両者の欠けた領域を補い合った新技術が出てくるでしょう。

 展示会のブースで、丁寧に説明してくれた人々には、切磋琢磨して情報技術を高めていこうとする気概が感じられました。知識と技能を武器に戦っている人々が開発した新しいデジタル・テクノロジーやサービスを目にすることができ、とても刺激的で興味深い展示会でした。(2018/5/20 香取淳子)

紀行2018:創建1250年、春日大社に見た古の心

■春日三条通り
 奈良では、迷うことなく、ホテルフジタ奈良に宿泊しました。ネットで見ると、JR奈良駅や近鉄奈良駅へのアクセスが良く、全般に小綺麗な印象があったからです。行ってみると、ホテルは春日三条通りに面していました。この三条通りは観光客用に整備されており、土産物店などが両側に並んでいます。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 ホテルは予想通り、快適な設えで、ロビーは外国人客で溢れていました。奈良にもやはり外国人客が押し寄せているのでしょう。日本人とは明らかに異なる欧米の顔、アジアの顔、インドの顔・・・。フロントで忙しそうに立ち働くスタッフの姿を見ていると、訪日外国人たちが、減少の一途を辿る日本の消費者の肩代わりをしてくれていることがわかります。

 そういえば、コンビニのローソンが古い町屋を改築したような建物でした。二階の格子戸に屋根瓦、1階の白壁、焦げ茶色の柱に腰板・・・、古都に合わせたデザインと色調で、周囲ともしっくり調和していました。このような日本風の建物はきっと、外国人消費者にも評判がいいでしょう。

こちら →
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 日頃、見慣れているローソンとは違って、しっとりとした落ち着きがあります。改めて、私はいま、奈良の街を歩いているのだということを実感しました。

 さて、三条通りでは外国人を比較的多く見かけたのですが、少し歩き回ってみると、拍子抜けするほどヒトが少なく、街全体に活気がありません。

 夜になって、翌朝のバスツアーの出発場所を確認するため、奈良駅前に行ってみました。暗がりの中で、春日大社創建1250年を祝う看板が、照明で浮き上がって見えました。

こちら →
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 撮影時刻は19:28分、まだヒトが動き回っている時間帯で、しかも駅前です。それなのにヒトが少なく、どちらかといえば、閑散とした印象を受けました。

■春日大社
 翌朝、観光バスを降り、春日大社の入り口に着くと、大きな石碑が置かれています。そこには世界遺産のマークとともに、古都奈良の文化財と刻まれていました。

こちら →
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 なぜ、春日大社の石碑に、わざわざ「古都奈良の文化財」と刻まれているのかわかりませんでしたが、調べてみて、ようやくその理由がわかりました。春日大社が単独で世界遺産として登録されたわけではなく、東大寺、興福寺、春日原始林など、周辺の寺社と春日原始林とを合わせた8資産が評価されて、1998年にユネスコ世界遺産に登録されたのでした。

こちら →http://heiwa-ga-ichiban.jp/sekai/nara/index.html

 そこから、少し歩くと、大きな鳥居があります。

こちら →
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 これは二之鳥居といいます。一之鳥居はここから約1.2㎞下ったところにありますが、私たちはバスで来たので、二之鳥居から南門に向かいます。

 この鳥居をくぐり、木々が茂ってうっそうとした景観の中を歩いていくと、いよいよ神域に入っていくような思いに駆られます。参拝者を見下ろすように、両側には石燈籠が数多く立ち並んでいます。

 春日大社の境内には石燈籠だけで約2000基あるといわれていますが、すべて春日型といわれる背が高いわりには安定感のある石燈籠でした。燈籠の間を鹿が動き回っています。

こちら →
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 ガイドの説明によると、これらの石燈籠のほとんどが、「春日社」と刻みこまれていますが、ほんのわずか、「春日大明神」と刻まれたものがあるそうです。それを3つ見つけたヒトはお金持ちになれるということでした。

 説明を聞いてまもなく、「あった」、「あった」という声が後方から聞こえてきます。意外に簡単に見つかるものだと思いながらも、私は最初から諦めていたので、探そうともしませんでした。それよりも苔むした燈籠に惹かれ、ひたすら、見つめていました。

 圧巻でした。石燈籠からは、ここには存在しない多数のヒトの願いを感じさせられます。年数を経てきているだけに、石燈籠に託された無数の思いもまた重く、ひしひしと伝わってきます。

 見上げると、ここにも、「奉祝 春日大社創建1250年」と書かれた横断幕が掲げられていました。しばらく歩くと、やがて本殿南門に着きます。

こちら →
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 ここには赤と白の垂れ幕が掲げられていました。

こちら →
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 ここまでの道のりを示した図を見つけましたので、ご紹介しましょう。

こちら →http://www.kasugataisha.or.jp/guidance/pdf/keidai_map-A4.pdf

 この図を見ると、本殿の東側に御蓋山があるのがわかります。前回、「若草山で古を偲ぶ」でご紹介したあの「御蓋(みかさ)山」です。

■本殿と神木
 春日大社が創建されたのが768年、いまから1250年前です。以来、春日大社本殿は、一般人が立ち入ることのできない聖域として守られてきました。それが、1250周年を迎えた今年、参拝することができるのです。

 本殿前にも、奉祝の立て看板が置かれていました。

こちら →
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 春日大社のHPによると、平城京ができたころ、国の繁栄と国民の幸せを願って、鹿島神宮(茨城県)から武甕槌命(タケミカヅチノミコト)を、御蓋山の山頂の浮雲峰(ウキグモノミネ)に迎え、その後、御蓋山の中腹にある現在の地に、社殿を造営したといいます。その際、香取神宮(千葉県)、牧岡神社(大阪府)から神様を招き、合わせて祀ったのが、春日大社の始まりだと書かれています。

 鹿島神社も香取神宮も武道の神様です。新しく創建された春日大社(当時は、春日神社)を守護するために、それらの神様が招かれるのも当然といえば当然なのでしょう。ですから、鹿島神社や香取神宮から神様が招かれた理由はわかります。それでは、牧岡神社はどうなのでしょうか、私はこの神社のことを知りません。

 そこで、調べてみると、牧岡神社の主祭神は、大和朝廷の祭祀をつかさどった中臣氏の祖神でした。また、牧岡神社のHPには、鹿島神社や香取神宮から招かれた神様もまた中臣氏と縁が深いと書かれています。

 Wikipediaによれば、中臣氏は、古代日本の神事・祭祀を司った中央豪族で、大化の改新(646年)後、中臣鎌足の子孫は藤原姓になりましたが、本系の中臣氏は姓を変えず、そのまま神事・祭祀職を世襲したと書かれています。

 こうしてみてくると、春日大社は明らかに藤原氏主導で創建されたことがわかります。

 春日大社の創建が768年ですから、ちょうど藤原氏が権勢を誇っていた時期と重なりますし、Wikipediaには、鹿島神社の武甕槌命(タケミカヅチノミコト)は藤原氏の氏神だと書かれています。ですから、まさに藤原氏が、この春日大社の創建を契機に、未来永劫、国と権力の安定を願ったのだといえるでしょう。

 本殿に入ると、ガイドから左手に誘導され、少し歩いて右に入ると、暗やみの中、別世界が広がっていました。そこを出ると、今度は、赤い回廊に沿って本殿を出ていくようになっていました。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 回廊の両側には数多くの釣り燈籠が掛けられており、それがまた、延々と続いています。春日大社の境内には釣り燈籠だけで約1000基はあるといわれています。先ほど、石燈籠の間を歩いてきたときに感じたような神聖な雰囲気が、ここでも漂っていました。大勢のヒトの思いが燈籠から発散されてくるからでしょうか。

■春日大社の神木
 本殿から左手に大きな木が見えました。

こちら →
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 巨大な幹、空を覆うように大きく伸びた枝や葉、まさに巨木です。幹には注連縄が飾られていますから、神木です。

 回廊を出て、間近でみると、その幹は驚くほど太く、圧倒するエネルギーを感じさせられます。また、幹の樹皮が創り出す文様が美しく、神木ならではの威容を誇っていました。

こちら →
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 これほどの巨木を目の前にすると、古代の日本人が神聖なものを感じたとしても不思議はないでしょう。注連縄を飾り、霊が籠った存在として大切にしてきたことが窺がわれます。

 境内では、藤もまた大きく根を張り、枝を自由に伸ばしていました。

こちら →
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 これほどの大きな藤の木をこれまで見たことがありません。
春日大社が藤原氏主導で作られたからでしょうか、境内では至る所で藤の木が目につきました。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 まるで石燈籠に巻き付くように、藤が枝を伸ばし、根を張り巡らせています。このような藤の古木に、凄まじいまでの繁殖力と生命力を感じさせられました。かつて権勢を誇った藤原氏を象徴しているような気がしました。

■春日大社の鹿
 春日大社を創建する際、鹿島神社の武甕槌命(タケミカヅチノミコト)は白い鹿に乗って、御蓋山の山頂に降り立ったとされています。ですから、遠いところから、神の使いである白い鹿に乗って、ここまでやってきたというのです。降り立ったのが、すぐ上の御蓋山です。ですから、御蓋山は春日大社のご神体であり、鹿は神の使いとして大切にされています。

 春日大社の境内では至る所で、鹿を見かけました。

こちら →
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 石燈籠の合間を鹿が自由に行き来しています。どことなく弱弱しく、元気がありません。東大寺や奈良公園で見かける鹿と違って、あまり血色はよくなく、どちらかといえば、ヒトを避けて行動しているように見えました。

■春日大社宝物殿
 本殿を出て、向かった先が春日大社宝物殿です。ここには春日大社が所有する国宝352点、重要文化財971点が折々のテーマに沿って、展示されます。私が興味深く思ったのが、1階に展示されていた鼉(が)太鼓です。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 どちらも装飾が繊細で美しく、実際にこの太鼓からどのような音が生み出されるのか、聞いてみたいような気になります。

 近寄ってみましょう。まずは向かって右に置かれた鼉太鼓です。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 真ん中に火炎を象った装飾版を配し、中央上部に2羽の鳳凰が向かい合っている姿が刻まれています。鳳凰はすべての鳥の王とされ、優れた君主が現れて乱世が平定されて世の中が平和になったとき、飛んでくる瑞鳥だとされています。

 次は向かって左に置かれた鼉太鼓です。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 こちらも真ん中に火炎を象った装飾版が配され、中央上部に2匹の龍が向かい合っている姿が象られています。龍は水の支配者として最高権力者のシンボルであり、また、吉祥のシンボルとして装飾品などに刻まれてきました。

 中国では、麒麟、鳳凰、亀、龍は、「四霊」に数えられるとされています。鼉太鼓は野外の舞楽演奏に使われる大型の太鼓を指しますが、この図案を見ると、中国文化の影響が色濃く反映されていることがわかります。

■春日大社の由来
 春日大社は平城京遷都(745年)に伴って創建されました。新しい都が今後、末永く継続し、平和な世の中が訪れるよう、祈願して作られたのです。その春日大社のご神体が御蓋山でした。鹿島神社の武甕槌命(タケミカヅチノミコト)が、遠路はるばるこの地にやってきて、降り立ったといわれる山です。

 それにしても、なぜ、わざわざ鹿島神社、香取神宮から神様を招かなければならなかったのでしょうか。私には、それが不思議でした。そこで、いろいろ調べていると、春日大社宮司の葉室頼昭氏が書かれた「春日大社のご由緒」という文章を見つけることができました。

 春日大社に祭られている神様について、葉室氏は以下のように書いています。

 「春日大社第一殿にお祭りする武甕槌命(タケミカヅチノミコト)様と、第二殿の経津主命(フツヌシノミコト)様はともに、天照大神様のご子孫が高天原から天降りされるのに先立ち、大国主命様はじめ多くの神々と和平を結ぶ大功あった尊い神々で、関東の利根川のほとりに鹿島神宮と香取神宮に水を治める霊験あらたかでお力の強い神様としてお祭りされていました。第三殿の天児屋根命(アマコヤネノミコト)様は、天の岩戸にお籠りになった天照大神様にお出ましを願うべく、お祭りを行われた政事の神様で、河内国牧岡神社に比売神(ヒメガミ)様とともにお祭りされ、西日本で広く信仰されていました」

 それぞれの神様の春日大社に祭られるまでの状況が書かれています。そして、そのような神々をお招きする理由として、下記のように書かれています。

「それら尊い神様を平城京の鎮護のため、まず、武甕槌命(タケミカヅチノミコト)様を神山と称えられる御蓋山山頂にお祭りし、それから数十年後の神護景雲2年(768)に、藤原氏の血を引く女帝・称徳天皇の思し召しにより、左大臣・藤原永手らが、神々がお鎮まりされるのにもっともふさわしい御蓋山山麓の神地に神殿を創建し、武甕槌命(タケミカヅチノミコト)様ほか経津主命(フツヌシノミコト)様、藤原氏の祖先神となる天児屋根命(アマコヤネノミコト)様・比売神(ヒメガミ)様の三柱の神様をともにお祭りしたのがその始まりとされています」

 本殿には、四柱の神様が祭られています。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します。http://kuyomumairu.com/archives/1834より。)

 それでは、どうして遠方から香取・鹿島の神様が呼んでこられたのでしょうか。それについては、以下のように説明されています。

「(前略)大国主命の国譲りの神話と同様に信仰面で都を治め、ひいては日本全国を平和にご守護いただこうと、お力のある神様を勧請されたのでしょう。(後略)」

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以上、「  」内の文章は、『日本の古社 春日大社』(淡交社、2003年刊)から引用しました。
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 一連の文章を読み合わせると、以下のように理解することができます。

 当時は平城京でも水の確保が大変だったといいますから、「関東の利根川のほとりの鹿島神宮と香取神宮の、水を治める霊験あらたかでお力の強い神様」を招かれたのでしょう。この二柱の神様は武術の神様でもありますから、平城京の守護にはぴったりです。

 しかも、全国に知られた神話に登場する神様です。ですから、神話に基づく信仰心で、平城京を治めるだけではなく、日本全国をも平和に守護していただきたいという願いをこめて、この二柱の神様を春日大社にお招きしたのだということがわかりました。

■創建1250年、春日大社に見た古の心
 こうしてみてくると、春日大社の創建が、平城京だけではなく全国を視野に入れ、社会の安定を目指したものだったことがわかります。これだけ徹底して守護に力をいれていたということは、当時、社会状況がよほど不安定だったのでしょう。

 実際、大和朝廷が設立されて以来、何度も遷都を繰り返していました。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します。http://trendy.nikkeibp.co.jp/より)

 これを見ると、藤原京への遷都(694年)、平城京への遷都(710年)の後、740年になると、聖武天皇は恭仁宮、紫香楽宮、難波宮と3か所も居所を変えています。「宮」と名付けられているように、このときは遷都ではなく、居所と政務の場所を変えるだけでしたが・・・。

 挙句の果ては743年、聖武天皇は廬舎那仏の造営を発願しています。大仏を造立することでようやく気持ちが落ち着いたのでしょうか、745年、聖武天皇は再び、平城京に遷都しています。

 当時、藤原氏が大きな権勢を振るうようになっており、血なまぐさい事件が次々と起こっていたそうです。権力闘争の結果、政情が安定しなかっただけではなく、恨みに伴う祟りのような事象もさまざま発生していました。

 鎮護への思いはもちろんのこと、争うことなく、共存していこうという思いが高まっていたのでしょう。春日大社には、藤原氏の祖先神もお祭りされていますし、地元の神様、榎本神社も本殿近くにお祭りされています。共に力を合わせ、よりよい国にしていこうという願いが込められたことがわかります。

 先ほど、ご紹介した葉室氏は、これに関し、次のように書かれています。

「人間同士も共生するし、人間と祖先、人間と神様も共生する。そして神様同士もまた共生されるということなのです。これが日本人が古来より培ってきた共生という考え方です。すべてのものが共生してバランスをとる。そこにいのちが現れるという素晴らしい考え方です」(前掲)

 確かに、争うことなく生きていくには、この「共生」という考え方が重要なのかもしれません。ふと、境内で鹿が自由に行き来していたことを思い出しました。

 武甕槌命(タケミカヅチノミコト)が乗ってきたといわれる白鹿ではありませんが、茶色い鹿が参拝者を気にせず、のびのびと我が物顔で、境内を動き回っていました。これもまた「共生」の一つの結果なのでしょう。

 創建1250周年を迎えた春日大社を訪れ、古のヒトが何を考え、どう生きようとしてきたのかが、ちょっとわかるような気がしました。主張を通し、自己利益追求に走れば、そこに必ず衝突が起こります。対立するものを排除すれば、必ず報復されます。なにかとヒトの世にトラブルはつきものですが、対処法がないわけではありません。

 さまざまなトラブルを回避しようとすれば、春日大社の創建の際、企図されたような「共生」の観念を共有していくのがいいのかもしれません。利害のバランスを取って棲み分ける、あるいは、共生する、といったような知恵はおそらく、どんな時代でも、どんな社会でも有効でしょう。

 今回、はじめて春日大社を訪れ、さまざまな発見がありました。そんな中で、もっとも古のヒトの心に近づいたのではないかと思えたのが、この「共生」という考え方でした。ヒトも動物もその他、森羅万象一切が共生できるシステムを、古代の日本人は生み出そうとしていたのです。なかなか実現するものではないとしても、そのように考えることができた古の日本人を素晴らしいと思いました。

 春日大社で束の間、古の心に触れることができました。今の自分、そして、現代社会を振り返ってみる機会を与えられ、もやもやしたものが飛び去ったような気分になりました。(2018/5/11 香取淳子)

紀行2018:若草山で古を偲ぶ

 今年のゴールデンウィークは関西に行ってきました。久しぶりに奈良、京都を訪れ、日本文化の源流に触れて見たくなったのです。奈良と京都ではそれぞれ、現地のバスツアーに参加しました。

 まずは奈良から見ていくことにしましょう。

■新緑の若草山
 奈良観光バスツアーの最後に訪れたのが、若草山でした。

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(奈良県公式ホームページより。図をクリックすると、拡大します)

 バスの車窓から見る木々の緑がまばゆいばかりでした。新緑が目にしみます。柔らかな緑色の葉先が風邪に揺らぎ、新しい生命の息吹をまき散らしていました。まさに早緑月です。久しぶりに春の輝きを目にし、なんともいえない幸福感が沸き立ってきました。

 若草山といえば子どものころ、祖母に連れられて来たことがあります。遠い記憶を探ってみると、やはり早緑の清々しさ、そして微かに、芝草の上に悠然と座っていた鹿の姿が思い浮かびます。

 「早緑」という言葉を知ったのも、ここでした。聞きなれない言葉でしたが、母から説明され、ようやく理解したことも思い出しました。柔らかく幼く、そして、未熟な緑色です。これが成長していくと、濃い緑色に変化していきます。

 木々が芽吹き始めた頃の葉の色が、「早緑」なのです。緑に「早」という言葉を加えるだけで、若さ、柔らかさ、幼さなどを表現しています。黄緑色ではなく、「早緑」としたところが興味深く、しばらく、子どものころの思い出に浸っていました。

 古の日本人は、芽吹いたばかりの葉の色を、単なる色のスケールとして捉え、表現しているわけではありませんでした。折々の葉の色の微妙な変化を見逃さず、そこに成長の痕跡を見出したのでしょう。「早」に成長の概念を込め、新緑の繊細な色合いを表現しようとしていたことがわかります。

 「早緑」という言葉には、ヒトの想像力を刺激する多様性、柔軟性、斬新さが感じられます。このようなネーミングに、かつての日本人が自然の移り変わりに合わせ、微かな変化も見逃さずに受け入れ、生きてきたプロセスを窺い知ることができます。自然と一体化した色彩の捉え方に惹かれます。

■三重目
 バスを降り、なだらかな斜面に沿って、若草山の頂上付近まで登ってくると、急に視界が大きく開けます。大きな木は見当たらず、芝草で覆われたなだらかな丘陵が不思議な安らぎを与えてくれます。辺り一帯に、柔らかく、優しく、静かに、そこを訪れたヒトを包み込んでくれる鷹揚さがありました。

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(図をクリックすると、拡大します)

 調べてみると、若草山の開山期間は、春(3月15日から6月15日)と秋(9月13日から11月24日)に限られていました。それ以外の期間は芝草を保護するため、立ち入ることができないのです。ここは、いわば聖域でした。

 このことを知ってはじめて、ここを訪れたとき感じた不思議な安らぎの原因が理解できたような気がしました。この地域一帯は、ヒトに保護されながら、古の自然がいまなお生かされていた場所だったのです。脈々と続く自然の営みに、ヒトがそっと寄り添い見守ることで、その姿を保ち続けていることがわかります。

 さて、三重目と書かれた標識の下には眺望が広がっていました。遠くは靄のようなものでけぶって見えますが、ここに立つと、奈良盆地が一目で見渡せます。

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(図をクリックすると、拡大します)

 ガイドの説明によると、ここの山はお椀を伏せたような形なので、「一重目」、「二重目」という数え方をするそうです。そういえば、富士山などは「一合目」「二合目」という数え方をします。不思議だなと思って調べてみました。

■三笠山と御蓋(みかさ)山
 若草山は、麓から見ると、一つの山にしか見えませんが、実は、笠を伏せたような形状の山が三段連なっています。ですから、一重、二重、三重という呼び方をしたのでしょう。笠が三段重なっているように見えるので、昔は「三笠山」といわれていたそうです。

 「三笠山」と聞いて、ふと、「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」という句を思い出しました。子どものころはお正月になると必ず、百人一首で遊んでいたので、この句はいまでもよく覚えています。

 「春日なる 三笠の山」と歌われていますから、芝草で覆われた、この山を指しているのでしょう。麓には春日大社があります。まさに、「春日にある三笠山」なのです。阿倍仲麻呂が詠んだ和歌で、『古今集』に載っています。

 「三笠の山」と書かれていることが多いので、この若草山と混同してしまいやすいのですが、ここで歌われていたのは「御蓋(みかさ)山」のようです。

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http://www.pref.nara.jp/koho/kenmindayori/tayori/t2011/tayori2306/manyou2306.htm

 どちらも春日にある隣同士の山なので、混同しやすいのは確かです。春日山原始林には若草山、御蓋(みかさ)山、高円山が連なっています。わかりやすいように単純表記された図を見つけましたので、ご紹介しましょう。

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(http://blog.narasaku.com/?eid=805755より。)

 丸く、なだらかな山並みを見ていると、思わず、気持ちがなごんでしまいます。遣唐使としてここから唐に渡った阿部仲麻呂が、望郷の思いに駆られてこの句を詠んだのもわかるような気がします。実際に登ってきてみると、確かに、この山にはヒトを受け入れる優しさがありました。

 さて、この若草山は、標高342m、広さ33haのなだらかな山です。頂上付近が三重目で、そこには鶯塚古墳があります。ここに来るまで、こんなところに古墳があるとは思いもしませんでした。

■鶯塚古墳
 三重目からさらに頂上に向かって登っていくと、史跡がありました。

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(図をクリックすると、拡大します)

 近くにその案内板もありました。

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(図をクリックすると、拡大します)

 これを見ると、鶯塚古墳は、全長103m、前方部の幅50m、後円部の径61mの前方後円墳だと書かれています。そして、二段築造の墳丘には葺石や埴輪があり、石製斧や内行花文鏡などが出土していたとも記されています。

 さらに、この案内板では、種々、説明した上で、四世紀末に丘陵頂部に築造された典型的な前期古墳だと断定されています。

 ところが、Wikipediaを見ると、「山頂の地形を利用した古墳は古墳時代の前期のものと考えられたこともあったが、滑石製品の採集で、この古墳については5世紀初頭まで時期が降るのではないかと考えられている」と書かれています。古墳周辺の出土品から判断すると、どうやら、この古墳が築造されたのは案内板に示されているより、もっと新しいようです。

 この古墳は1936年に国の史跡に指定されました。興味深いのは、清少納言の枕草子に、「うぐいすの陵(みささぎ)」と書かれているのがこの古墳だとされていることです。

 調べてみると、枕草子第十六段に「みささぎ(陵)は うぐいすのみささぎ かしはぎのみささぎ あめのみささぎ」と書かれています。

 これだけだと何のことかわかりませんが、第一段の有名な一節、「春は、あけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは 少し明りて紫だちたる雲の細くたなびきたる」を照らし合わせて考えてみると、御陵で素晴らしいのは、「鶯の陵、柏木の陵、・・・」といった具合に、読み解くことができます。

 枕草子の「・・・は」で始まる文章は、第一段と、第十段から第十九段まで続きます。いずれも、「・・・は」で示されたもので素晴らしいものが挙げられています。
 
 おそらく、枕草子が書かれた当時、御陵として素晴らしいのは「鶯の陵」だというイメージが共有されていたのでしょう。山頂の地形を利用して築造されたこの古墳の妙を愛でる当時の識者の感性を、私は興味深く思いました。

 初期古墳は山の麓か丘に築造されていたようです。後に、平野に作られるようになりましたから、長い間、この鶯古墳は前期古墳と考えられていました。ところが、出土品などから、その後、中期の古墳だと修正されました。

 ですから、枕草子が書かれた当時はまだ、鶯の古墳は古い時代の古墳と考えられていたのでしょう。「みささぎ(陵)は うぐいすのみささぎ」という評価の中に、古墳の中でも古いものを愛でる気持ち、規模の小さなものを愛おしむ気持ちを読み取ることができます。私には、平安時代の識者がとても身近な存在に思えてきました。

■鹿
 奈良公園一帯には鹿が多数、見かけました。ですから、この若草山の山頂に鹿がいたからといって、とくに驚くことはないのですが、この山頂付近にいる鹿にはどことなく悠然とした面持ちがありました。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 ヒトが来ても食べ物をねだるわけではなく、近づいて来て、ちょっかいをかけるわけでもありません。視線を向けることすらせず、泰然として座っていました。我関せずの姿勢がとても印象的でした。

 ガイドの話によると、山頂の鹿はここで生まれて、ここで死んでいくそうです。他の世界を知ることなく、この山頂だけを生活の場として生きるのです。そのようにして守られた環境の中で、代々、生を育んできたのでしょう。ビクともしない姿勢には毅然とした優雅ささえ感じられました。

 ホテルに戻って、テレビを見ていると、今年初めての鹿が誕生したというニュースが流れていました。

こちら →https://www.jiji.com/jc/movie?p=n000897

 鹿の出産のピークは5月中旬から6月にかけてで、毎年、250頭ほどが生まれるそうです。

■若草山で見た古の心
 奈良で参加した現地バスツアーの最後に訪れたのが、若草山でした。三重目付近の山頂には、古の日本人を感じさせるものがいくつかありました。しばらく佇んでいると、奈良時代にタイムスリップしたような気になってしまいました。

 若草山はヒトの入山が制限されています。そのせいか、若草山の頂上に立っていると、不思議な感覚が立ち上がってきます。かつてこの地で生きたヒトがとても身近に感じられるのです。ふとした瞬間に、彼らと同じ空気を吸い、同じ景色を見ているような錯覚を覚えてしまいます。

 連綿と続いていくもの、繊細で規模の小さいもの、そういうものを愛しむ気持ちこそが、自然を理解し、自然と調和し、共存していけるからではないか、そんな思いがふと、胸をよぎりました。

 若草山で見た、芝草で覆われた山肌、鹿、古墳史跡、いずれもどことなく穏やかで、ヒトを包み込む鷹揚さが見られました。そのせいでしょうか。若草山に、いっとき、古の心を見た思いがしたのです。(2018/5/10 香取淳子)