ヒト、メディア、社会を考える

香取淳子のメディア日誌
このページでは、香取淳子が日常生活の中で見聞きするメディア現象やメディアコンテンツについての雑感を綴っていきます。メディアこそがヒトの感性、美意識、世界観を変え、人々の生活を変容させ、社会を変革していくと考えているからです。また、メディアに限らず、日々の出来事を通して、過去・現在・未来を深く見つめ、メディアの影響の痕跡を追っていきます。


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イノベーション・ジャパン2018:大学発のさまざまなモビリティ・イノベーション

■「イノベーション・ジャパン2018」の開催
 2018年8月30日~31日、東京ビッグサイト西1ホールで、「イノベーション・ジャパン2018」が開催されました。国立研究開発法人科学技術振興機構(JST)が主催するフェアで、大学の研究成果を、企業、行政、大学、研究機関等に向けて披露する見本市です。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 今回は、大学等から生み出された400シーズが展示されるとともに、大学が組織として取り組む58大型の研究成果の展示およびプレゼンテーションが行われました。イベントのサブタイトルは「大学見本市&ビジネスマッチング」でしたが、まさにその名の通り、会場は大学の研究成果を社会に還元するためのビジネスマッチングの場になっていました。

 しかも、研究成果は、分野別に一覧できるように展示されていましたから、会場を訪れた見学者は効率よく、関心のあるプレゼンテーションやブースを見て回ることができたと思います。JSTによると、会場には事業担当者が常駐し、企業向けの各種支援事業制度を紹介したり、相談に応じたりしているということでした。

 実際、このフェアを通し、これまで出展者の約4割が企業との共同研究の実施に結び付けたといいます。JSTが企画した大学と企業とのマッチングの場はそれなりの成果をあげているようです。

 2017年度の実績を見ると、来場の目的は、「新技術の情報収集」が76.4%、「共同研究開発の探索」が28.2%、「新製品の情報収集」が23.6%でした。

こちら →https://www.ij2018.jp/about.html

 未来社会を牽引する技術は一体どのようなものなのか、気になっていましたから、私も、「新技術の情報収集」を目的に会場を訪れました。会場を一巡すれば、「未来の産業創造」を企図した研究が果たしてどのようなものなのか、わかってくるかもしれません。

 会場では、58の大学が組織として取り組む大型研究のプレゼンテーションが行われる一方、その具体的な内容の紹介が58のブースで行われていました。さらに、国内の157の大学が行った400件に上る研究成果が、11分野に分けて展示されていました。会場をざっと回ってみて、私が関心を抱いたのはモビリティ・イノベーション領域の研究でした。

 ここではモビリティ・イノベーションに関する研究を3件、見学した順にご紹介していくことにしましょう。

・モビリティ イノベーションの社会応用(筑波大学、高原勇教授)
https://www.sanrenhonbu.tsukuba.ac.jp/innovationjapan2018/

・高齢者・障碍者向けパーソナルモビリティの開発(香川大学、井藤隆志教授)
https://www.ij2018.jp/exhibitor/jss20180458.html

・路面電車網から構築するICT統合型インフラSTING(長崎県立大学、森田均教授)
https://www.ij2018.jp/exhibitor/jss20180100.html

■モビリティ・イノベーションの社会応用(筑波大学、)
 8月30日10時30分から、プレゼンテーションコーナーで開始された筑波大学の研究発表を聞きました。プレゼンテーションを担当されたのは、未来社会工学開発研究センター長の高原勇氏でした。

 私はまったく知らなかったのですが、筑波大学とトヨタ自動車株式会社が大学内に「未来社会工学開発研究センター」を設立したことが2017年4月6日、発表されていました。

こちら →https://newsroom.toyota.co.jp/jp/detail/16307271

 そのセンター長が 髙原勇氏で、筑波大学の特命教授であり、トヨタ自動車未来開拓室担当部長でもあります。

こちら →
https://www.sanrenhonbu.tsukuba.ac.jp/wp/wp-content/uploads/2017/11/e988e797803ff8ade91f2490d690a0ed.pdf

 未来社会工学開発研究センターのミッションは、「地域社会の社会基盤づくりに向け、次世代自動車交通技術サービスを構築する」ことだと書かれています。

 概念図を見ると、地方自治体の協力を得て実証研究を行い、国や他研究所の支援を受けて研究事業を行い、トヨタなどの企業群からは技術、資金、人材を得て、長期的、協調領域の研究を行うというものです。研究対象は、サービスとしてのモビリティ(Mobility as a Service=MaaS)ですから、今回の研究「モビリティ・イノベーションの社会応用」は、そのミッションの一環として行われたことがわかります。

 プレゼンテーションの中でもっとも興味深かったのが、ビデオで紹介されたIoT車両情報の持つ多大な機能と効用です。走行中の自動車からは車内外のさまざまなデータが得られます。それらがインターネットに繋がれば、それ以外の情報と関連付けることができ、それに基づいて分析すれば、さまざまな判断を行うことができます。

 ビデオでは一台の走行車の機能を見ただけですが、これが複数台となると、より精度の高い道路情報、気候情報など、さまざまな周辺情報を把握することができます。それらのデータを分析してフィードバックできるようになれば、道路の渋滞を解消し、事故をゼロにすることもできるでしょうし、より安全で快適な運転が可能になるでしょう。

 さらに、高原氏は、このようなモビリティ・イノベーションを社会に応用していけば、道路の渋滞や交通事故の発生といった社会問題を解決できるばかりか、効率のいいヒトの移動、モノの移動が可能になるといいます。

 IoT車両情報によって、ヒトやモノの移動がより適切に、より短縮して行えるようになれば、経済的なロスを省くことができるばかりか、やがてはe-commerceも可能になるといいます。そして、トヨタが提言している「e-Palette Concept」について説明してくれました。

 「e-Palette Concept」とは、トヨタが開発した次世代電気自動車です。移動、物流、物販など多目的に活用できるモビリティサービス専用車として製作されたといいます。高原氏は、これを使えば地域サービスをモバイルで提供することができ、オンデマンドを超えるサービスの提供も可能だといいます。普及すれば、移動型フリーマーケットも可能になりますから、店舗販売とe-commerceとの境界が曖昧になるだろうともいいます。

 聞いていて、私はとても興味深く思いました。未来のモビリティの一端を覘いたような気がしたのですが、なにぶんプレゼンテーションの時間が短く、会場では十分に理解することができませんでした。そこで、帰宅してから調べてみると、「e-Palette Concept」の基本性能を紹介する映像を見つけることができました。2分ほどの映像をご紹介しましょう。

こちら →https://youtu.be/ymI0aMCo11k

 ここではライド・シェアリングとロジスティックの例が紹介されています。

 まず、ライド・シェアリングの例を見ると、「e-Palette Concept」が低床なので、杖をついた高齢者が難なく乗車している様子、そして、車椅子に乗った障碍者がスムーズに車内に入っていく様子などがわかります。また、停留所に着けば、大きな荷物は勝手に下車し、目的地に向かい、停留所からは待っていた荷物が勝手に車内に乗り込んでいきます。さらに、少年が停留所まで乗ってきたスケーターのようなものは、役目を終えると勝手に戻っていきます。車が自動走行しているのです。

 いずれのシーンも、「e-Palette Concept」が普及すれば、老若男女を問わず、障碍者であるか健常者であるかを問わず、ヒトやモノがなんの支障もなく、移動できることがよくわかります。しかも、このサービスは24時間オンデマンドで提供されるのです。一連の映像を見ていると、効率よく、コストパフォーマンスよく、人々がモビリティ生活を楽しめるようになることが示されています。

 次に、ロジスティックの例を見ると、配送センターでは、積載量に合わせたサイズの車種が選択され、荷物を積み込んだ「e-Palette Concept」が自動的に目的地に向かっている様子が示されています。渋滞を避けて道路を選び、到着時間が予測できた段階で目的地に到着時刻を連絡しますから、受け渡しがスムーズです。停留所で荷物を受け取る場合は顔認証で、自動的に受け取り手を確認します。無駄が省かれ、最小の労力で最大の効果が得られるようになっています。

 この映像を見ていると、まるで「e-Palette Concept」が的確な判断力を持ったヒトのように見えてきますが、実際は、現場で刻々と収集したデータを、グローバル通信プラットフォームを介して分析し、それぞれの用途に応じて自動的に判断が下された結果にすぎないのです。

 「e-Palette Concept」の仕組みは以下のように説明されています。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します。TOYOTA Global Newsroomより)

 車両に搭載されたDCM(Data Communication Module)が種々の情報を収集し、グローバル通信プラットフォームを介して、データセンターに蓄積されます。それらのデータは関連情報と絡めて分析され、サービスの目的に応じて判断が下されます。それが端末にフィードバックされて職務が遂行されるという仕組みです。この仕組みを使えば、高原氏がいうように、やがては「e-Palette Concept」を使ったe-commerceも実現するようになるでしょう。

 「モビリティ・イノベーションの社会応用」は、最先端の技術を社会に還元するための大型研究プロジェクトでした。産学連携で社会的課題を解決するためのプロジェクトだともいえるでしょう。ブース(小間番号U-07)には大勢のヒトが立ち寄り、研究スタッフから具体的な説明を受けていました。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

■高齢者・障碍者向けパーソナルモビリティの開発(香川大学)
 次に立ち寄ったのが、「高齢者・障碍者向けパーソナルモビリティの開発」の展示ブースです。「超スマート社会」の展示コーナーを歩いていると、奇妙な形の車が目に止まりました。街中で時折、高齢者が乗っているのを見かける電動車椅子とは一風異なっています。どんな目的で使うのか、気になったので、このブース(小間番号S-11)に立ち寄ってみました。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 香川大学創造工学部造形・メディアデザインコース教授の井藤隆志氏が、株式会社キュリオと共同で開発した電動車椅子でした。すでに実用化されていて、SCOO(スクー)という商品名が付いています。歩行な困難な高齢者や障碍者が気軽に利用できる電動車椅子として開発されたものだといいます。

ハンドル部分の白、台座部分の白以外はすべて黒で色構成されており、どことなくオシャレな感じがしました。実際に触ってみると、角面がすべて滑らかで感触がよく、見た目がいいだけではなく、使い心地もよさそうでした。井藤氏はこの製品の開発に際し、プロダクトデザインを担当したということでした。

こちら →

 SCOOの特徴の一つは前部分がないことで、これには乗り降りしやすいメリットがあると井藤氏はいいます。ただ、街中で見かける電動車椅子とは形状が大きく異なっていたので、私はふと、高齢者や障碍者が安心して乗れるだろうかと思いました。前面を安定させるハンドル部分がないので不安定ではないかと思ったのです。

 尋ねてみると、操作するのにある程度、練習は必要だが、決して不安定ではないと井藤氏はいいます。

 帰宅してから調べてみると、SCOOを運転する様子を説明した映像を見つけることができました。1分47秒の映像です。

こちら →https://youtu.be/z5QFCuXvGCo
 
 この映像を見ると、女性は確かに不安げもなく乗りこなしています。前部分がないだけに乗り降りも楽そうです。ただ、右の小さなグリップに操作部分が搭載されているだけで、よく見かける電動車椅子のような前を覆うハンドル部分がないので、両手を使えません。4輪車だから安定感があるとはいえ、不安定ではないかという思いが消えませんでした。

 もっとも、慣れてしまえば、何の問題もないのかもしれません。井藤隆志氏によると、左ハンドルの製品もあれば、これまで通りの前面ハンドルの製品もあるということでした。利用者の状況によって選択できるよう、ハンドル部分の仕様が異なる製品が用意されていました。

 実際、乗り降りしやすいというSCOOの特性が好まれ、宮崎県では90歳の方が利用されているようです。ただ、段差の大きな道路などでは操作しづらく、安定性に欠ける可能性もあるそうですが、バリアフリー環境の中で使用するなら安心だということでした。病院や美術館などで利用されているそうです。

 さて、SCOOのもう一つの特徴は、折り畳みができることです。折り畳みができますから、車などに乗せて運び、長距離を移動できるメリットがあります。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 短距離部分はSCOOを自分で操縦し、長距離部分はSCOOを折り畳んで、電車やバス、車、場合によっては飛行機に持ち込み、さまざまな場所に移動することができます。こうしてみると、高齢者や障碍者の移動範囲がさらに広がるのは確かですが、果たして、高齢者や障碍者がこれを自分で持ち運びできるのでしょうか。

 尋ねてみると、重さは28㎏だといいます。この重さでは高齢者や障碍者が自分で折り畳み、持ち運ぶことはできないでしょう。やはり、家族か介助者がサポートする必要があるようです。

 SCOOは従来の電動車椅子とは異なるデザインの製品でした。これまでの電動車椅子よりもはるかに目立ちます。高齢者や障碍者がちょっとオシャレな気分で、気軽に移動するには恰好の製品といえるのかもしれません。

 おそらく、高齢者人口が増え、電動車椅子の需要が高まっているのでしょう。需要が高まると、利用者はより多くの機能を求めるだけではなく、デザインにも目を向けるようになります。デザインの斬新さといい、折り畳み式の仕様といい、この製品の二つの特徴からは、電動車椅子への需要が新しい段階に入りつつあることが示唆されているように思えました。

■路面電車網から構築するICT統合型インフラSTING(長崎県立大学)
 「超スマート社会」コーナーのブース(小間番号S-13)で展示されていたのが、「路面電車網から構築するICT統合型インフラSTING」でした。長崎県立大学国際社会学部の森田均教授が、長崎電気軌道株式会社、協和機電工業株式会社の協力を得て行った研究です。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 森田氏は、この研究は、<低床車両運行情報提供サービス「ドコネ」>を踏まえ、構想したといいます。「ドコネ」とは、低床車両の運行情報を提供することによって、利用者が低床車を利用しやすくなるように開発されたナビゲーションシステムを指します。

 高齢者や障碍者が乗りやすくなるよう、長崎軌道株式会社は2004年3月、3車体連結構造の超低床路面電車を導入しました。2003年に製造された3000形3001です。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します。Wikipediaより)

 導入以来、低床車は安定して運行され、高齢者や障碍者の利用も次第に増えてきていったといいます。高齢者や障碍者にとって低床車の運行はとても有難いサービスでした。ところが、いつ来るのか、わからなければ、せっかくのサービスも快適に利用することができません。そこで、開発されたナビゲーションシステムが、「ドコネ」です。

こちら →http://www.otter.jp/naga-den/top.html

 「ドコネ」は、利用者の携帯電話やスマートフォン等で、電停周辺のバリア情報や全ての低床車の運行状況をリアルタイムに把握できるサービスです。携帯電話やスマホを見れば、運行状況を把握することができるのですから、高齢者や障碍者が待ち望んだサービスでした。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します。)

 上の図を見れば、利用者は、低床車がいま、どこを走行しているのかがわかります。青、赤、緑で表示されている車両マークが、長崎市内を走行する3系統の路面電車です。10:58時点で走行しているのが、緑系2両、青系1両、赤系2両(蛍茶屋付近の車両はこの地図では見えませんが)です。

 低床車両の位置情報は10秒間隔で更新されているそうですから、利用者は、いつ来るかわからない電車の到着を待つ苛立ちから解放されます。森田氏は、「ドコネ」は低床車利用者の利便性をおおいに高めただけではなく、熊本大震災の際には、支援活動にも役立ったといいます。

 熊本大震災の後、長崎軌道は期間限定で、くまもんのステッカーを貼った車両を走らせ、募金箱を置いて支援金を募ったそうです。「がんばれ!!熊本号」の車両がいまどこを走っているか、ドコネをチェックすればすぐにわかりますから、大勢の長崎人が支援金を寄せることができたといいます。

 ヒトを運ぶ路面電車が実は、情報を運ぶ通信ネットワークとしても使えることに着目して開発したのが、上記のナビゲーションシステムでした。それはバリアフリー情報の表示、観光情報の表示、さらには期間限定で、「熊本号」の位置情報の表示などにも応用されました。高齢者や障碍者ばかりでなく、市民や旅行者、そして、地域社会に大きく貢献したのです。

 今後は、それらの実績を踏まえ、斜面地の多い長崎でさらに市民の移動を容易にするため、路面電車の電停を乗り合いタクシーの結節点にする試みを展開すると森田氏はいいます。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 上の図で、赤字で書かれた部分が交通ネットワークとしての路面電車の利用(Transport)、青字で書かれた部分が情報ネットワークとしての路面電車の利用(Information Network)、そして、黒字で書かれた部分がエネルギーネットワークとしての路面電車の利用(Grid)です。

 森田氏は今後、路面電車を基盤に、上記の内容を統合した、「STING: integrated Service of Transport, Information Network & Grid」構想を展開していきたいといいます。

 興味深いのは、「ドコネ」以来の構想に、エネルギーネットワークとしての路面電車の利用が加わったことです。これまでは、ヒトの移動手段である路面電車に、通信ネットワークとの連携で利用者の利便性を図ってきましたが、今後は、エネルギーネットワークとしての路面電車の側面に着目し、災害時等の電力供給に役立てようというのです。当初は給電機能を中心に整備を進め、順次、発電・蓄電機能を備えた電力ネットワークを構築していくと森田氏はいいます。

 ところで、長崎軌道の軌間は1435mmです。新幹線と同じ標準規格ですから、長崎新幹線がフル規格で運行されるようになれば、時刻表の空き時間に路面電車を走らせることもできるようになるのではないかと森田氏は大きな夢を語ります。

■社会的課題の解決に向けたモビリティ・イノベーション
 「イノベーション・ジャパン2018」に参加し、モビリティ・イノベーション領域を中心に研究の成果発表3件をみてきました。対象とする領域は異なっていましたが、それぞれ、社会的課題の解決に向けて、真摯に取り組まれていたのが印象的でした。

 高原勇氏の研究は、企業と大学が共同で、自動運転、電動化、シェアリング等のモビリティ・イノベーションの社会実装に向けて取り組むものでした。興味深かったのは、トヨタが発表した電気自動車「e-Palette Concept」が提供できる諸機能でした。会場では映像で紹介されたので、モビリティ・イノベーションによる具体的な将来像の一端を見ることができ、イメージが鮮明になりました。

 井藤隆志氏の研究では、折り畳める電動椅子が開発され、実用化されていました。会場で展示されていた実物を見て、デザインがとても洗練されていたのが印象的でした。従来の電動車椅子とは違って、これを使えば、高齢者・障碍者がちょっとオシャレな気持ちで移動できるようになるのではないかと思いました。利用者の気持ちに沿った研究であることに意義を感じました。

 森田均氏の研究では、路面電車の特性を活かして、研究を構想されているところに独創性を感じました。交通ネットワークとしての利用にとどまっていた路面電車に、通信ネットワークの機能を融合してナビゲーションシステムを構築し、今後は、エネルギーネットワークとしての機能を利用し、災害時等の給電に活用していこうというのです。意表を突いた着想がとても興味深く思えました。

 そういえば、ナビゲーションシステムを構築する際、長崎電気軌道の全車両、上下線全停留所に設置されたBLEビーコン(Bluetoothを使った情報収集・発信装置)は市販のものでした。森田氏の研究を見て改めて、研究には、固定観念を持たず、自由にはばたける想像力がなによりも欠かせないことを思い知らされました。

■Society5.0とイノベーション
 今回、「イノベーション・ジャパン2018」に参加し、さまざまなブースでイノベーションの現状を聞きました。もっとも興味深かったのは、「中国のイノベーションがすごい。日本は追いつく立場になっている」という見解でした。中国では、欧米に留学し、最先端技術や知識、研究態度を身につけた若手研究者が次々と帰国し、切磋琢磨しながら研究レベルをあげ、イノベーションを生み出しているというのです。

 それを聞いて、ふと、『Wedge』(2018年2月号)の特集を思い出しました。ずいぶん前の雑誌ですが、「中国「創造大国」への野望」というスペシャル・レポートが気になって、手元に置いていたのです。

 読み返してみて、気になったのは、清華大学には「x-lab(Tsinghua x-lab=清華x-空間)」という、教育機能とインキュベーション機能を併せ持つプラットフォームがあるという箇所でした。調べてみると、確かに清華大学ではx-lab が2013年に設立されており、今年5周年を迎えていました。

こちら →http://www.x-lab.tsinghua.edu.cn/about.html#xlabjj

 これを見ると、日本の研究者から「中国のイノベーションはすごい」といわれるだけあって、研究開発のための環境がすでに5年も前から整備されていたことがわかります。

 李克強首相は、2014年に「大衆創業、万衆創新」(大衆による企業、万人によるイノベーション)という方針を打ち出しました。以来、中央政府や地方政府は基金を設立してベンチャーに投資し、優秀な人材がイノベーションに取り組めるようにしてきたようです。その一方で、「衆創空間」(Social Innovation Platform)の開設を奨励してきました。その結果、2016年度報告によると、全国に3155ものイノベーション・プラットフォームがあり、あらゆるイノベーション領域で激闘が繰り広げられているといいます。

 こうしてみてくると、筑波大学が産学連携プラットフォームを創設した理由がよくわかります。いまや、大学、企業、研究機関が連携して取り組まなければ、充実した資金、人材、技術、情報などが得られず、大型の研究プロジェクトを進めることができなくなっているのでしょう。

 産学連携の流れは以下のようになっています。

こちら →https://sme-univ-coop.jp/flow

 平成27年に4件のプロジェクトでスタートした大型研究が、平成30年度は20件にまで増えているといいます。さきほどご紹介した未来工学開発研究センター・高原勇氏の「モビリティ・イノベーションの社会応用」もその一つです。大型研究の場合、国内外を問わず、分野横断的に、幅広く英知を結集して取り組まなければ成果を得られない状況になっていることが示唆されています。

 一方、井藤隆志氏の研究では、既存のデバイスにデザインを工夫することによって、新たな使用法を可能にしていましたし、森田均氏の研究では、既存の交通ネットワークに情報ネットワークを融合してナビゲーションシステムを構築していました。両者とも既存のデバイスやシステムに新たな価値を加え、イノベーションを創出していたのです。

 Society5.0といわれるAI時代の到来を迎えたいま、研究開発も新たな状況を迎えているのかもしれません。大型研究に対しては産学官の連携で取り組まなければならないでしょうし、少人数で対応できる研究の場合、アイデアがなによりも重要になってくるでしょう。今回、大学発のさまざまなイノベーションを見る機会を得て、研究規模の大小を問わず、想像力豊かな発想こそが、イノベーションの源泉になるのだという気がしました。(2018/9/3 香取淳子)

中国の若手表現者にみるクリエイティビティの高さ

■「アートネクストジェネレーション在日本中国遊学者作品展」の開催
 2018年8月14日から24日、中国文化センターで「アートネクストジェネレーション在日本中国遊学者作品展」が開催されました。中国の若者たちは日本で何を学び、どのような表現活動を展開しているのでしょうか。ちょっとした興味を覚え、8月16日、会場を覘いてみました。

 会場には、さまざまなジャンル、さまざまなモチーフの個性豊かな作品が展示されていました。それぞれが斬新で、バラエティに富んだ表現力の豊さに驚いてしまいました。とりわけ以下の3つの作品が私にとっては印象深く、さまざまな点で刺激を受けました。

・「主人がいない時Ⅰ」(キャンバス、油絵顔料、查雯婷、2017年制作)、
・「ライオンナニーの旅」(手描きアニメーション、端木俊箐、2018年制作)、
・「阿頼耶識漫遊記」(キャンバス、漆喰、鉱物顔料、張源之、2017年制作)

 幸いなことに、8月16日、私が興味深く思った作品の作家、お二人にお話しを聞くことができました。ところが、もう一つ、気になった作品の作家はこの日、不在でした。そこで、8月22日に再度、会場を訪れ、作家にお話しを伺うことができました。
 
 今回は、印象に残った3点について、お話しを聞いた順にご紹介していくことにしましょう。

■主人がいない時Ⅰ
 会場に入ってすぐ、目に飛び込んできたのが、「主人がいない時Ⅰ」というタイトルの作品でした。現在、日本女子美術大学大学院修士課程に在学中の查雯婷さんが制作したものです。入口から遠く離れたコーナーに展示されていましたが、見た瞬間、強く引き付けられてしまうほど印象的な作品でした。

 まず、この作品から鑑賞することにしましょう。

こちら →
(1620×1300㎝、油彩、水彩、2017年制作。図をクリックすると、拡大します)

 巨大な猫が段差のある二つの本箱を、前両足と後両足で踏みつけ、平然とした面持ちでこちらを見ています。まるで自分がこの空間の主人公だといわんばかりの表情で、鋭い視線をこちらに向けています。射すくめるようなその目つきには恫喝するような威圧感すらあります。画面のほぼ3分の1を、この猫が占めており、強烈な存在感を放っています。

 一方、猫の周辺には、その存在の強さを緩和させるかのように、淡く柔らかなペールピンク系の背景色が施されています。その上に、四角いテーブルや本、ハートマークのついた円形テーブル、植木鉢がそれぞれバラバラに、どういうわけか、逆さまになって宙に浮かぶような恰好で描かれています。しかも、それぞれがとても小さいのです。どうやらモチーフによって大きさにウェイト付けがされているようです。

 それでは、モチーフの大きさの面からこの構図を見てみることにしましょう。

 猫の巨大さに比べて二つの本箱はやや小さく、背景に散らばった本やテーブルなどは極端に小さく描かれています。大きなモチーフを画面の中心に置き、中程度のモチーフを画面の下方に置くことによって安定感を確保し、小さなモチーフをさまざまな方向に散らすことによって、画面に奥行きと広がりを生み出していることがわかります。大中小のモチーフの配置を工夫することによって、安定感を確保し、奥行きと自由な広がりを演出しているのです。

 モチーフと構図との関係をさらに見てみることにしましょう。

 大きなモチーフ(猫)は斜めのライン、中程度のモチーフ(本箱)は垂直のラインでレイアウトされています。斜めのラインはやや不安定ですが、背中のなだらかな横ラインと湾曲して立っている尻尾の斜め縦ラインと呼応し、画面に柔らかな境界を創り出しています。ラインはいずれも引力に従っていますので、見ていて違和感はありません。

 ところが、背景に散らばった小さなモチーフはいずれも、重力が効かない空間で浮遊しているように描かれています。引力に従わないモチーフが猫の背中から尻尾のライン辺りで浮遊しているのです。一つの空間にさり気なくラインを設け、相反する価値観、あるいは世界観を表現しているように見えます。

 こうしてみてくると、いかにも若者らしいモチーフや構図に見えていたものが、実は、緻密に計算された上で考案されたモチーフであり構図だという気がしてきます。モチーフの大きさと配置によって空間を自在に創り出したばかりか、重力の効かない異空間をも創り出しているのです。この刺激的な構図に、融通無碍な遊び心と深い知性が感じられました。

 さて、遠くから見ていると、わからなかったのですが、近づいて見ると、猫の顔が逆になっていることに気づきます。口が上にあり、両耳がいずれも頬の辺りから出ているのです。それなのに、初めてみたとき、なぜ違和感を覚えなかったのでしょうか。

クローズアップした猫の顔を見てみましょう。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 確かに、顔部分だけ逆さまになっています。赤い小さな口に繋げるように、黄色の小さな鼻が描かれており、両耳も頬に見えるところから出ています。

 ところが、逆さまに描かれた顔を見ても、どういうわけか、大した違和感はありません。いかにも猫の目らしい、インパクトの強さに比べれば、逆さになった赤い口やオレンジ色の鼻など、それほど印象に残るものではありません。むしろ、この猫が特別な存在であることを示す装飾品でしかないというようにも思えてしまうほどです。

 なぜ、そう思えるのか、不思議に思って、会場で撮影した写真を、帰宅してからひっくり返して眺めてみました。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 猫の目がまるでパンダのように垂れて見えます。獰猛さは欠片もなく、これでは、ただのんびりとこちらを眺めているにすぎません。確かに、両耳や口や鼻は正常な位置に収まっており、その点はまったく違和感はありません。ところが、この顔つきではインパクトに欠け、猫に見えなくなってしまいます。こうしてみてきて、はじめて、作者にとって猫の顔を逆さにすることが必然だったことがわかります。

 もう一度、この顔を逆さにすると、途端に、目尻が上がって吊り目になり、猫がモノを凝視しているときの鋭い目つきになります。吊り目で描かれた眼光は鋭く、猛禽類の獰猛さが現れます。

 私が初めてこの作品を見て、強く印象づけられたのは、ひょっとしたら、この目のせいだったのかもしれません。そして、猫の顔が逆さになっていることに気づかなかったのも、おそらく、この猫の目がヒトの心を射抜くような強さで描かれていたからでしょう。逆さまになっていることから来る違和感を消し去るほどの威力があったのです。

 それでは、目の部分をクローズアップして見てみましょう。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 強い光を放ち、吸い込まれてしまいそうな深い目をしています。まさに猫の目です。この目の強さを引き立てるように、周りの毛が一本一本、微妙に色を使い分けながら、丁寧に描かれています。目が圧倒的な威圧感を発しているのに反し、周囲の毛には優しく柔らく、快い温もりさえ感じられます。

 よく見ると、目の表現が毛の表現と微妙に異なっています。毛があくまでも柔らかく、滑らかに描かれているのに対し、目はまるでガラスの球体のように硬質の輝きを放ち、底知れない深淵さを感じさせます。猫の顔の中に二つの相反する要素が描かれているのです。

 なぜ、そう見えるのか不思議に思い、作家の查雯婷さんに尋ねてみました。すると、猫の全身は水彩で描き、猫の目とそれ以外のモチーフは油彩で描いたといいます。いわれてみると、この作品の説明に「油彩、水彩」と書かれていました。查雯婷さんはモチーフによって技法を変え、画面に適切な強弱をつけていたのです。

 どういうわけか、この絵の前に立つと、私は思わず深読みをしてみたくなるような誘惑に駆られます。それはおそらく、この作品にはさまざまな謎が仕組まれているからでしょう。推理小説を読むのにも似た面白さがあります。

 それにしても、なぜ、このような作品を制作しようと思ったのでしょうか。再び、查雯婷さんに尋ねてみました。

 すると、「動物がヒトの世界を見れば、どのような社会に見えるだろうか」という発想で、この作品を制作したといいます。そして、「猫が好きなので、猫を主人公にした」そうです。それが、上半分の画面で描かれたモチーフがすべて逆さまになっている理由だといいます。

 そういわれて改めて画面を見ると、逆さまになっているのは四角いテーブル、ハートマークのついた円形テーブル、「美術史」と書かれた本、読みかけの本、植木鉢などです。ヒトにとって大切なものでも猫にとってはなんの価値もないということを示しているのでしょう。

 猫が好きだから主人公にしたと查雯婷さんはいいます。ですから、猫に託して自身を表現しているとも考えられます。そうだとすれば、この絵の解釈がこれまでとは異なってきます。

 たとえば、猫が踏み台にしている二つの本箱には重厚な本が並べられています。それらの本はこれまでヒトが育んできた学識の象徴のようにも見えます。だとすれば、この部分は、過去の英知を踏まえ、現在を着実に生きていることをシンボリックに表現したものと考えられます。

 一方、猫は前脚を本箱の端ギリギリのところに置き、後ろ脚はどういうわけか片方をあげています。巨体を支えるには不自然な姿勢です。前脚はもう少しで落ちそうな不安感を与え、後ろ脚はもう少しで倒れそうな不安感を与えます。鋭い視線をこちらに向けていますが、その姿勢は不安定です。

 そう見て来ると、小さく描かれたモチーフが空中に浮遊し、すべて逆さまになっていることの理由もわからないわけではありません。画面の上半分は、未来の不安感が表現されているといえるでしょう。AI主導で展開していく未来社会は、これまでの価値観、世界観が顛倒してしまう可能性があります。

 こうしてみてくると、この作品を深読みしたくなる誘惑に駆られた理由がわかってきました。身近な材料をモチーフにしながら、ヒトの認識に挑戦し、未来への問いかけがさり気なくこの作品には含まれていたからでした。

 「主人がいない時Ⅰ」というのがこの作品のタイトルですが、「Ⅰ」という数字から想像できるように、查雯婷さんは今後も継続して、このシリーズを制作していくといいます。

■ライオンナニーの旅
 会場には映像装置が置かれ、アニメーションが映し出されていました。ちらっと見ただけで、その独特の画風にとても斬新な印象を受けました。今年、東京芸術大学大学院修士課程アニメーション専攻を修了した端木俊箐さんの作品です。

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(手描きアニメーション、2018年制作。図をクリックすると、拡大します)

 セリフも字幕も入らない7分ほどの手描きアニメーションでしたが、効果音とオリジナル音響で、作品の雰囲気はほぼ理解できたような気がします。なによりも素晴らしいのは、淡い色彩で綴られる画面でした。もちろん、映像だけではわからないところもありましたので、端木俊箐さんに尋ねながら、「ライオンナニーの旅」をご紹介することにしましょう。

 タイトル画面に描かれたキャラクターが、主人公のライオンナニーです。タイトル文字であれ、キャラクターの造形であれ、柔らかく、不揃いで、手描きアニメーションならではの身体性が感じられます。

 ライオンナニーは黄色を主に、柔らかく、省略した粗い線で造形されています。そして、背景は群青色の濃淡で描かれています。そのせいか、キャラクターの幼さと優しさ、おぼつかなさと不安感が表現されています。

 果たしてライオンナニーは作家の分身でしょうか。気になったので、端木俊箐さんに尋ねてみました。思った通り、「自分になぞらえて主人公を設定した」といい、「髪の毛が多いのがライオンみたいだから・・」と付け加えました。

 来日以来、端木俊箐さんは電車に乗るたびにスケッチをしていたそうです。車内で見かける人々を観察して、その場でスケッチしていたのです。それが蓄積し、一冊の本になるほどの分量になっていました。この作品のベースにはこの膨大なスケッチがあります。

 端木俊箐さんは、電車内で見かけたヒトや光景をスケッチしたものを整理し、その中から気に入ったものを選んでアニメーションの素材にしたといいます。時間をかけて描いてきたスケッチが材料になっているのですから、一コマ一コマが絵画作品の趣があるのも当然かもしれません。

 たとえば、ナニーが電車に乗っているときのシーンを見てみましょう。

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 満員電車の中で圧し潰されそうになっている様子が、独特のタッチで表現されています。混みあう電車内の情景を敢えてリアルに描かず、社内の人々を太くジグザグの折れ曲がった線だけで表現しています。この抽象化の効果が斬新で、主人公ナニーの心細さが見事に浮き彫りにされています。

 ナニーは黄色、そして、その周辺の人々は青系統の色の線で表現されています。乗客を青系統の色にすることによって、混みあう電車内の人々の冷たさが暗黙裡に表現されています。混みあった車内で、他人を構う余裕がなくなってしまえば、もはや血の通うヒトではなく、ただの棒でしかないのかもしれません。

 しかも、黄色と青は補色関係にありますから、ナニーの姿がいっそう際立ちます。この色遣いといい、余白を残した画面構成といい、柔らかく、繊細な感性に驚きました。それほど多くのアニメーションを見てきたわけではありませんが、これまでこのような画風のアニメーションを見たことがありません。

 一方、画面は絶えず、電車の効果音に合わせ、揺れ動いています。その度に、両脚を閉じ、両手を揃え、うなだれた姿勢のナニーも動きます。自分の意志ではなく、周りの動きによって動かされていることがわかります。補色の効果ばかりではなく、このような動きの表現によって、ナニーの痛み、心細さ、不安感などがとてもよく示されています。

 この作品の制作意図として、端木俊箐さんは、無邪気な子どもがさまざまな人々を見て世界を知り、成長していく様子を表現したといいます。

 冒頭から、車内で見かけた人々の姿態がさまざまに描かれたシーンが3分間ほど続きます。おそらく、これが、「さまざまな人々を見て世界を知る」ためのシークエンスなのでしょう。そして、3分59秒で場面が転換します。

 真っ暗なトンネルを抜けた後、停車した駅で、馬が乗車してくるのです。

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 まつ毛の長い馬で、とても優しそうです。馬の背後には、山々が淡い黄色やオレンジ、薄いオレンジで彩られているのが見えます。その色調のせいか、馬の穏やかな温かさが際立って印象づけられます。

 ナニーと馬はたちまち意気投合し、ともに語らい、車窓から走り去る風景を眺めて、楽しいひと時を過ごします。

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 これまで通りナニーは黄色で表現され、一方、ナニーが気持ちを通い合わせた馬は青色で表現されています。着色部分は少ないですが、補色関係にある色が使われているので、二人の様子がくっきりと浮き上がって見えます。

 電車内で二人はさまざまなことを語り合い、心を弾ませながら充実した時を過ごします。

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 車窓から見ると、風景が流れて見えるように、外から車内の二人を見ると、このように流れるように見えるのでしょう。黄色の太目の色帯が切れ切れになって横に流れていきます。豊かな発想力に裏付けられた表現です。

 やがて、馬が下車する駅に到着しました。馬はナニーも一緒に降りようと手を引っ張りますが、ナニーが下車する駅ではないので、ナニーは振り切って車内に留まります。電車のドアは自動的に開き、馬が下りていくと、まるで何事もなかったかのように、自動的にドアを閉じます。このシーンでは、個々人の感情にはお構いなく、世の中のシステムは動いているということが示されています。

 ナニーは再び、一人になって電車に揺られています。ナニーの下車する駅はまだです。

 ふと車窓から外をみると、名残惜しそうな表情でナニーを見つめる馬の姿がありました。先ほどまで楽しく語らっていたあの馬が、いつの間にかユニコーンになっています。

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 ナニーが見つめる中、ユニコーンは空高く、舞い上がっていきます。やがて、いまにも月に届きそうなほど遠くに行ってしまいました。もはや会うことも叶わない、永遠の別れが訪れたのです。

 ナニーは一人残されましたが、まだ下車する駅には到着していません。どれほど仲良くしていても、目的地が違えば、下車する駅も異なります。いつまでも一緒にいるわけにいかないことを馬との別離を通して、ナニーは学んだのです。

 そして、エンディングロールが流れます。

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 そこには、以下のような文が日本語、中国語、英語で表示されています。

「私達は人生で一番暗い時に出会い 
 限られた時間の中で別れる
 惑星が回り続けて
 交わった軌道も平行に戻った
 世界の隅に隠れたあの物語は
 私 君 星と月が知っている」

 ここで書かれていることが、この作品を制作する動機付けになったのでしょう。端木俊箐さんは実際、親友と二人で来日し、一緒に芸大に入ったといいます。しばらくは共に学び、共に旅行し、充実した時を過ごしていましたが、ほどなく、二人は別れることになりました。お互いの進路の違いのためでした。

 端木さんにとって、この経験はよほど深く心に残ったのでしょう、大切なヒトとの別離は時を経て、創作のエネルギーに転化されました。端木さんは、ナニーに自身をなぞらえ、馬に友人を仮託し、このアニメーションを制作したのです。

■阿頼耶識漫遊記
 入口近くに展示されていた作品です。描かれている内容はよくわからなかったのですが、画面全体から何か深いものが発散されており、気になりました。東京芸術大学大学院修士課程絵画科壁画第二研究室を2017年に終了した張源之さんの作品です。

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(900×1300㎝、漆喰、鉱物顔料、2017年制作。図をクリックすると、拡大します)

 この絵の前に立てば、いつまでも立っていたくなるような吸引力があります。それが一体、何なのか、どういうところに私は引き付けられているのか、よくわからないまま、この絵の前に立つと、古い記憶が次々と蘇ってくるような不思議な感覚に陥ります。本源的な何かに向き合っているような気持ちになってしまうのです。

 一体どういうヒトがこの絵を描いたのか、気になって仕方がなく、再び、会場を訪れました。

 8月22日、ようやく作家の張源之さんにお話しを聞くことができました。なぜ、私はこの絵に深いところで引き付けられているのか、質問をしながら、それを解明していくことができればと思います。

 まず、なぜ、角を生やした馬を取り上げたのか、尋ねてみました。すると、張源之さんは、これは「馬ではなく、牛」だといいます。インド仏教で聖なる動物とされている白い牛を表現したというのです。そう言われて、改めて首から肩にかけての骨格と肉の盛り上がり方を見ると、なるほど牛に見えます。

 それにしてもなぜ、画面の半分ほども占める面積でこの牛を描いたのでしょうか。そして、白い牛の真正面に描かれている、炎に包まれたヒトのようなものは一体、何なのでしょうか。

 再び、張源之さんに尋ねてみました。すると、「白い牛は知恵のシンボル」で、その前にあるのは、「私の曼陀羅」だというのです。

「私の曼陀羅」といわれた部分を拡大してみましょう。

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(図をクリックすると、拡大します)

 拡大して見ると、ヒトらしい像を中心に、下方には鳥の頭部のようなものがいくつも層をなして渦巻き状に左に流れ、上部から右は形を成さないまま白っぽい気体のようになって、牛の顔から角にかけて流れています。

 さらに、ちょっと引いて距離を置き、この部分を見てみました。すると、ヒトを渦の中心に、左方向で旋回する大きな渦巻きのように見えてきます。渦巻きの表面は裏が透けるように、淡い色調の絵具が置かれています。そのせいか、ヒトの精神作用が気体のようなものになって空中を飛び、牛の周囲に放散されているように見えます。

 ところが、気体のようなものを全身に浴びても、牛は穏やかな表情を変えることなく、目を静かに閉じています。その表情にはまるで瞑想にふける僧侶のような落ち着きがあり、静かな安定感が感じられます。ひょっとしたら、この光景が私の気持ちを深いところでしっかりと引き寄せたのかもしれません。

 それにしても、なぜ張源之さんはこの絵を描いたのでしょうか、気になって、尋ねてみました。

 日本に来て芸大で学び始めた頃、古美術見学旅行に参加し、奈良や京都で多くの壁画を見たそうです。描かれた天女の中に姿勢や色遣いが敦煌や西安の古墳壁画に似ているものを見つけ、張源之さんは日本との深いつながりを感じたといいます。この時の感動を表現したのがこの作品で、修士課程の修了制作だそうです。

 そういえば、この作品のタイトルは「阿頼耶識」でした。アラヤシキと読むのだそうですが、意味はまったくわかりません。張源之さんに聞くと、「仏教の言葉で、人類の共通の意識を指す」のだといい、さらに、「ユングの集合無意識のようなもの」だと説明してくれました。

 曼荼羅と聞いた時、なんとなくユングを思い浮かべましたが、張源之さんの説明を聞いて、私がこの絵に惹かれた理由がわかったような気がしました。おそらく、張源之さんが表現した精神世界に、時代を超え、居場所を超え、文化を超えて通じ合える何かがあったのでしょう。だからこそ、私の精神世界がそれに呼応したのです。それこそユングのいう集合無意識のように、深いところでつながっていたからこそ、この絵を見た瞬間、私は引き寄せられたのだという気がしました。

 さて、画面の右側にはさまざまな造形物が見えます。馬に乗っているヒト、建物の一部、花や木、犬、そして、僧侶のようなヒト、いずれも判然と描かれてはいませんが、それだけに、一体これは何なのだろうと不思議な気持ちにさせられます。

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(図をクリックすると、拡大します)

 気になったので、張源之さんに聞いてみました。すると、これらは張源之さんの夢、あるいは、これまでに出会ったヒトやモノだというのです。建物の一部に見えるものは寺院だといいます。子どものころから仏教のお寺に通っていたそうで、その時の思い出が寺院の一角や僧侶の姿に仮託して描かれていたのです。いずれもはっきりとわかるように描かれていなかったのは、それらがリアルな実体ではなく、記憶、あるいは想念の世界の存在だからでしょう。

 この部分を少し引いて見ると、それらは白い牛の身体に埋め込まれるように配置されていることがわかります。知恵のシンボルとされる白い馬の胴体部分に、記憶や想念の手がかりとなる具象の断片が、モチーフとして埋め込まれていたのです。

 見ることができず、意識することもできない世界が、この作品では余すところなく表現されていました。言ってみれば、ユングのいう集合無意識のようなものがこの絵に反映され、含蓄の深い絵が描出されていたのです。この作品を見た瞬間、何か気持ちの深いところで引き付けられ、離れがたい思いがしたのはそのせいでしょう。とても興味深い作品でした。

 さて、この作品は壁画の技法が採られています。下地は漆喰で、その上は鉱物顔料である顔彩が使われています。イタリアのフレスコ画の技法と違って接着剤としての膠が必要だと張源之さんはいいます。フレスコは生乾きの漆喰を薄く壁に塗り、それが乾かないうちに水で溶いた顔料で描いていく技法です。張さんの場合、漆喰に膠と使って顔料を定着させていきます。長い歴史を持つ壁画の画法を使って作品を仕上げたのです。

 その質感には圧倒的な迫力がありました。精神世界の深さを表現することができたのは、壁画の技法で制作したからかもしれません。古い技法だからこそ表現できた世界だともいえるでしょう。

 もちろん、描かれた内容もヒトの心の奥深く、形を成さないまま存在している精神の核ともいえるものを引き出していました。科学技術が進歩しても、いまだに解明しきれないのが精神の領域です。その未開拓の領域を張さんは、仏教徒という経験を活かして可視化しました。作品を見る限り、成功していると思います。

■中国アートネクストジェネレーションの台頭
 中国文化センターで開催された留学生たちの作品展を覗いてみて、そのクリエイティビティの高さに驚いてしまいました。今回は会場でお話しを聞くことのできた三人の作家の作品だけを取り上げましたが、他にも素晴らしい作品が多く展示されていました。

 私は日本の美大生の卒展や修了展などにも何度か行ったことがありますが、最近は似たような作品を目にすることが多く、失望していました。それだけに、今回、留学生の諸作品を見て、なかなか着想できないような斬新なテーマ、卓越した技法の諸作品を見て圧倒される思いがしました。

 なぜ中国の若手表現者たちは高いクリエイティビティを発揮できているのでしょうか。

・查雯婷さん(「主人がいない時Ⅰ」)
 たとえば、查雯婷さんは身近なモチーフをユニークな発想で作品化していました。素材の扱い方といい、形態上の処理といい、独特のフィルターが効いていて、画面全体に若々しいポップな感覚がみなぎっていました。

 中国の大学での専攻を聞くと、アニメーションでした。なぜ、専攻を変えたのかと聞くと、「自由に表現したかったから」といいます。手描きアニメーションならまだしも3Dアニメーションになると、他人の協力が必要で、グループ作業なので制作に時間がかかるし、自由に制作できない不自由さがあるからだと説明してくれました。

 子どもの頃から日本のアニメが大好きで、「名探偵コナン」や「ワンピース」、「進撃の巨人」などをよく見ていたといいます。それを聞いて、查雯婷さんの作品に現代的で、鋭角的なセンスを感じたのは、そのせいかもしれないと思いました。メリハリの効いた訴求力があったのです。

 作品の背後にはストーリーがあり、モチーフには、観客が違和感を覚える謎がいくつか仕組まれていました。言ってみれば、観客を引き込むフックがいくつかあったのです。その結果、この絵を見ると、ヒトは思わずその解明に向かいたくなるという複雑な仕掛けがあったのです。

 若者らしいモチーフの選択や色遣いなどを見ると、一見、取っつき易く、気軽に鑑賞できる作品のように見えます。ところが、実に複雑で、多元的、複層的な世界が表現されていました。とても知性的な作品だと思います。

・端木俊箐さん(「ライオンナニーの旅」)
 一方、端木俊箐さんは油絵を志しながらも、大学ではアニメーションを専攻することになったといいます。アニメーションの制作技術は中国の大学で学び、日本に来てからはもっぱら作品制作を続けているということでした。やはり日本のアニメが大好きで、とくにスタジオジブリやスタジオ4℃などの作品に興味があるといいます。細田守の長編アニメ「サマーウォーズ」も中国ではよく見ていたそうです。

 そう聞くと、私がこの作品に惹かれた理由もわかってくるような気がします。全編を通して、独特の画風で紡がれていましたが、おそらく、そこに、ジブリ系アニメの痕跡を感じたのでしょう。表現方法はまったく異なるのですが、画面から垣間見える本質に共通性が見受けられたのです。

 画面に映し出された一カット、一カットの絵が優しく、穏やかで、繊細でした。ストーリーよりも何よりも私はこの絵に惹かれました。ヒトの心に沿うようなきめ細やかな感性がありました。絵が好きで、描くことがなによりも大好きだったという端木俊箐さんの特性が、この作品に色濃く反映されていました。

・張源之さん(「阿頼耶識漫遊記」)
 蘭州市出身の張源之さんにとって、子どもの頃から敦煌の壁画は身近な存在でした。壁画は人類の歴史とともに誕生し、現在に至るまで生き続けている、古いけれど、とても斬新な芸術だと張源之さんはいいます。中国の大学では中国絵画、壁画を学びました。中国絵画を通して、筆の扱いや輪郭線の処理などを習得し、卒業後は敦煌現代石窟芸術センターで芸術設計ディレクターとして働いていました。

 張源之さんは12歳ごろから仏教に関心を抱くようになり、種々の本を読んで理解を深めていくうちに、敦煌壁画にも興味を持つようになったそうです。壁画にはヒトを感動させる深い精神世界があるといいます。

 今回の作品にはそれが見事に反映されていました。現代社会は自分ひとり良ければいい、お金があればいいという風潮が蔓延していますが、お金よりも精神が大切で、ヒトは皆、繋がって生きており、皆が幸せになってはじめて自分も幸せになれると張源之さんはいいます。大乗仏教の考え方ですが、作品にもその信念がしっかりと描き込まれていたように思います。

 お話しを聞いてみると、三者三様、それぞれ体験に裏打ちされた信念がありました。その信念が作品のオリジナリティを生み出し、画面から独特の訴求力が発散されていました。

 ここでご紹介した3人の作家に共通するのが、技術力の確かさと内発的なテーマの発掘でした。直接、お話しを聞いたからこそわかったことですが、それぞれ、自身の経験を踏まえ、それを拠り所としてコンセプトを創り出していました。

 自分が思い悩み、苦しんだ経験を深く掘り下げたからこそ、作品のコンセプトも明瞭になったのでしょう。表層にとどまらず、深層に至る深みを作品に反映させることができていました。よく考え抜かれたからこそ、説得力のある作品になったのでしょうし、見る者を感動させる力を持ちえたのだと思います。

 この展覧会に参加して、改めて、いい作品とは何かということを考えさせられました。手っ取り早く観客を虜にするには、それなりの技法があるのでしょう。ところが、今回、印象に残った三作品はその種のものではありませんでした。心血注いだ痕跡が画面の随所に見受けられ、それが見る者の気持ちを揺り動かしていたのです。もちろん、技術力も素晴らしく、日々の鍛錬と表現のための工夫を怠らない姿勢が印象的でした。

 今回、三者三様のクリエイティビティの高さに圧倒されましたが、それは、自身の経験を深く掘り下げるだけではなく、歴史を知り、文化を深く把握することによって、もたらされたものなのかもしれません。それには、自身を省察するだけではなく、先人の知識や経験を踏まえ、考えを深められる知性が必要なのでしょう。(2018/8/26 香取淳子)

カルロ・ドルチの「悲しみの聖母」を観る。

■松方コレクション
 2018年6月30日、日経新聞朝刊の文化欄を読み、松方コレクションの総目録が7月に刊行されることを知りました。松方コレクションとは、実業家の松方幸次郎が大正初期から昭和初期にかけて、イギリス、フランス、ドイツで収集した美術品のコレクションを指します。

こちら →https://www.nmwa.go.jp/jp/about/matsukata.html

 松方幸次郎は1916年から約10年間、ヨーロッパを訪れるたびに画廊を訪れ、約1万点に及ぶ美術品を買い集めました。人脈を駆使し、お金と手間暇かけて蒐集に励んだのは、近代化に向けて舵を切って間もない日本に美術館を建設し、若い画家たちに本物の西洋美術を見せたいという思いからでした。

 残念なことに、その後、関東大震災、世界恐慌、第二次大戦といった大きな社会混乱が続きました。美術館建設が叶わかったのはもちろんのこと、せっかくのコレクションも、その期間に多くが散逸してしまいました。火災で焼失したもの、混乱のさ中に消失したもの、あるいは、他国に没収されたものもありました。

 松方幸次郎の高邁な志と努力が無に帰そうとしていたのです。

 ところが、1959年、第2次大戦中にフランスに没収されていたコレクションが、フランス政府から日本に寄贈返還されることになりました。そのコレクションを収蔵するために設立されたのが、国立西洋美術館です。戦後14年を経、日本が目覚ましい復興を遂げ始めていた頃でした。

 西洋美術館は、設立以来、散逸したコレクションの情報収集を進めて買い戻しに努め、2014年以降は総目録の刊行に向けて調査してきました。その結果、コレクションの発見が相次ぎ、これまで定本とされてきた「松下コレクション西洋美術総目録」(1990年、神戸市立博物館刊)に収録された作品に、新たに約1000作品が追加されることになりました。

 6月30日に私が新聞で目にしたニュースでは、7月中旬に刊行される第1巻(絵画)には1207点、そして、年末に刊行される予定の第2巻(彫刻、素描)には約1800点が収録されるということでした。関係者の長年の努力が実り、ようやく松方コレクションの全容が解明されようとしているのです。

 記事を読み終えた途端に、松方幸次郎が20世紀初、日本の若手画家たちのために選んだ作品はどのようなものだったのか、気になってきました。数多くのコレクションの中には、時代を超え、今なお輝いている作品があるかもしれません。

 そのような作品に出会うことができれば、油絵の魅力の真髄に迫ることもできるでしょう。とくに、絵画が一般大衆へのメッセージ伝達手段として重視されていた時代、どのような描き方が取り入れられていたのか、さらには、説得効果を高めるために、どのような工夫がされていたのか、といったようなことを把握できればいいなと思いました。

 7月に入って、ようやく空き時間をみつけ、西洋美術館を訪れてきました。
 
■悲しみの聖母
 松方コレクションが展示されている常設展は、国立西洋美術館の本館2階にあります。しばらく作品を見ていて、ほどなく、見学に来ていた中学生たちが絵の前に群がり、口々に「きれい!」といっているのに気づきました。近づいて見ると、「悲しみの聖母」というタイトルの作品でした。17世紀の作品が展示されている壁面の片隅で、小ぶりの作品ながら、そこだけ輝くように異彩を放っていました。

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(図をクリックすると、拡大します。国立西洋美術館)

 まず、明暗のコントラストの強い画面構成が、印象に残ります。暗闇の中から静かに浮かび上がってくるように見えるのが、青いマントをまとった聖母の横顔です。視線を下方にずらすと、今度は、そっと組み合わせた手に目が留まります。そして、やや引いてみると、頭上には、鮮やかな青いマントの背後で鈍い金色の後光が射しているのに気づきます。

 明暗のコントラストを巧みに使い、顔と手の、色白で柔らかくきめ細かな肌が強調されていることがわかります。

 その一方で、輝くような肌はマントの青を強調しています。そして、鮮やかに描かれたマントの青が、聖母の若さと敬虔さを際立たせています。暗闇で静かに祈りを奉げる聖母の姿がなんと清らかに見えることでしょう。まるで何か得体の知れない強い力に誘導されてでもいるかのように、気持ちがぐいぐいと画面に引き寄せられていきます。

 そういえば、橙色を含んだ柔らかな肌色と、隣接して配されたマントの青はほぼ補色関係にあります。聖母の顔の色とマントの色は相互に強く引き立て合っているといえるでしょう。

 こうしてみてくると、明暗によって観客の視線を誘導するだけではなく、補色関係にある色を配置することによってモチーフが際立って見えるように構成されていることがわかります。明暗の効果と補色の効果を巧みに組み合わせることによって、画面の中で聖母の顔と手が焦点化され、観客の情感を強く刺激しているのです。

 この絵を見たとき、観客はまず明暗のコントラストの強さに目を引かれ、次いで、色彩のコントラストに関心を高めていくうちに、やがて、気持ちが強く画面に引き込まれていきます。このような一連の心理的プロセスが、明暗と色彩のコントラストを使って、巧みに創り出されていました。

 いったいどのような画家が描いたのか、気になって解説を見ると、この作品は1655年ごろ、イタリアのカルロ・ドルチによって制作されたと書かれていました。17世紀のフレンツェで活躍した宗教画家ですが、祭壇画など大画面の構図は得意ではなく、小画面の聖母像や聖女、聖人像を描く画家として人気があったそうです。

 この解説を読んで、なるほどと納得がいきました。絵から受けた印象はそのまま、カルロ・ドルチの画家としての来歴と重なります。これまで書いてきたように、「悲しみの聖母」には強い訴求力があります。ですから、彼が描く聖母像が当時、大変人気があったことも素直に理解できます。

 この作品はなぜ、それほど強烈な訴求力を持ちえたのでしょうか。

■モチーフの相互作用
 それでは、上半身に目を向けてみましょう。

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(図をクリックすると、拡大します)

 まず、視線が捉えられるのは、横顔、そして、組み合わされた手、そして最後に、頭上に配された後光です。メインモチーフが①聖母の横顔だとすれば、それに劣らないほど強いメッセージを放っているのが、②組み合わされた手です。そして、観客の意識されない情感に働きかける役割を果たしているのが、③聖母の頭上に描かれた鈍く輝く後光です。

 それらの間でどのような相互作用が生まれ、画面全体を方向付けているのでしょうか。メインモチーフといえる横顔から見ていくことにしましょう。

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(図をクリックすると、拡大します)

 うつむき加減の横顔には深い悲しみがたたえられています。目を閉じ、祈りに没頭する姿勢には他を寄せ付けない厳しさが感じられます。神への祈りに専心しているのでしょうか、声をかけることすら阻まれそうです。

 この横顔を明暗の観点からみると、通った鼻筋と頬の一部と鼻下の一部がもっとも明るく、額、顎の一部がそれに次ぎます。頬の一部にはほんのりと赤味が射し、唇のしっとりとした赤味を引き立てています。一連の明るさの中では比較的暗く、明るさと暗さの段階の調節役を担っているのが、眉間と瞼の一部です。

 一見すると、この絵は顔が強く印象付けられるように構成されていますが、よくみると、顔の造作がはっきりとわかるのはダイヤモンドの形に収まる範囲でしかありません。顔の約半分は影になっているのです。いってみれば、情報が明示されない部分です。ですから、影部分を大きく設定することによって、観客の想像力の働く余地を高くしているといえるのかもしれません。

 さて、顔の大きさに引き換え、比較的大きく描かれているのがマントです。そのマントの影部分と顔の影部分とが一体化して描かれています。ここでも情報がはっきりと示されない部分が大きく設定されています。その結果、悲しみに奥行きが与えられているだけではなく、聖母の存在自体に深みが生み出されているように思えます。

 さらに、マントのなだらかな曲線が要所、要所、鮮やかな青で彩られています。そのせいか、布の端に柔らかい動きが生み出され、隣接した聖母の肌にも生気が感じられます。静謐感の漂うこの作品に、生きていることの証のように、優しく、柔らかい動きが生み出されていることに気づきます。この絵の訴求力の源泉はこのあたりにあるのかもしれません。

 次に、組み合わされた手をクローズアップしてみましょう。

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 マントの下から除いているのが組み合わされた両手です。顔と同じぐらい大きな面積で描かれているので、とても存在感があります。柔らかな感触の手や桜色の爪は、横顔の肌色と呼応し、聖母の健康な若さが見事に表現されています。

 カルロ・ドルチは、この両手を横顔と同じぐらいの面積で、しかも、年齢まで推し量れそうなほど丁寧に皮膚の状態を描いています。とても存在感があります。組み合わされた両手は、祈る行為を描くためのモチーフとして欠かせないのでしょう。

■モチーフに組み込まれた文化的記号
 悲しみに沈む横顔と組み合わされた両手を、順に見ていくと、聖母の深い悲しみに同情し、やがて、神への祈りに共感する、・・・、といった一連の心理プロセスが観客の側に生まれます。ですから、観客が絵を見て勝手に描いたストーリーに沿って、さまざまな感情がごく自然に喚起され、生起されていくように思えます。

 こうして見て来ると、何気ない身体の一部のように見える両手の存在が、メッセージを強化するうえできわめて重要な役割をはたしていることがわかります。いってみれば、文化的記号として観客の意識に作用しているのです。

 最後に聖母の頭上に描かれた後光を見てみましょう。

 後光はさり気なく薄く描かれています。ですから、ともすれば意識下に追いやられてしまいがちなのですが、よく見れば、聖母のまとったマントの頭上で、金色の鈍い光が薄い弧状になっていることに気づきます。しかも、明らかに聖母の頭上にだけ鈍い光が放たれています。

 現代社会の観客はおそらく、ほとんど誰も、これを見ていても後光だとは認識していないでしょう。ただの背景の一部でしかありません。ところが、聖母を表現しようとすれば、組み合わされた両手と同じぐらい、後光は重要な要素なのです。

 これまで見てきたように、これらの三つのモチーフ(目を閉じた聖母の横顔、組み合わされた両手、後光)はそれぞれ、神に向かって祈りを奉げる文化的記号として作用していることがわかりました。ですから、この作品がなぜ、強い訴求力を持っているのかを考えた場合、まず、複数のモチーフの相互作用による効果が考えられます。

 さらに、この絵のモチーフと構図には、誰もが目にする日常生活の一シーンのようなさりげなさがあります。つまり、観客を無意識のうちに説得するための文化的記号が、日常生活の延長上に仕組まれているのです。

 しかも、色彩を象徴的な色に絞り込み、影部分を多く設定した画面構成です。余分な情報は影部分に落とし込んで極力排除され、ノイズの発生が回避されています。だからこそ、この絵が明確なメッセージを持ち、強い訴求力で観客に迫ってくるのでしょう。時代を超え、社会体制を超え、ヒトの感情に直接訴えかけてくる強さの源泉は、モチーフと画法、画面構成にあるといえます。

■親指の聖母
 そういえば、数多くの聖母像を描いたカルロ・ドルチには、この作品に酷似した、「親指の聖母」という作品があります。

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(図をクリックすると、拡大します。東京国立博物館)

 現在、東京国立博物館に所蔵されておりますが、かつては長崎奉行所に所蔵されていました。宣教のため日本にやってきたシドッチ神父が、イタリアから携行してきた聖母像です。こちらは1678年の制作だとされています。

 「悲しみの聖母」と見比べてみると、構図、モチーフのポーズはほぼ同じです。ところが、興味深いことに、この作品に組み合わされた両手は描かれていません。親指だけがマントから少し見えているだけです。

 1655年ごろ描かれたとされる「悲しみの聖母」には描かれていた両手が、1678年に描かれた「親指の聖母」にはなく、その代わりに親指の爪先部分だけが描かれているのです。この23年間で画家カルロ・ドルチにどのような認識の変化が起きていたのでしょうか。

 手と指だけに着目すると、「悲しみの聖母」(1655年ごろ)が、手を合わせて祈るという行為に力点を置いているとすれば、親指だけを見せた「親指の聖母」(1678年)は、むしろ悲しみに力点を置いているように見えます。

 そこで、二つの絵を見比べてみると、「親指の聖母」では、マントの下から上部の頭髪やマントの裏生地が見えます。それも、やや明るい赤味がかった紫色で、滑らかな布の触感がきめ細かく描かれています。マントの布地も「悲しみの聖母」よりも影に落としこまれる部分が少なく、微妙な色彩の変化が比較的現実に即して描かれています。

 省略が少ないという点では、「悲しみの聖母」に比べ、23年後の「親指の聖母」の方がより世俗的になったといえます。その一方で、頭髪や衣服が写実的に描かれており、聖母の悲しみが観客に同一視されやすい状況で提示されているともいえます。

 先ほどもいいましたが、「親指の聖母」は、組み合わせた両手を描き、「祈る」行為まで見せずに、その一歩手前の「悲しみ」を表現する段階で留められています。ですから、観客が聖母の悲しみを共有することに力点が置かれているように見えます。

 おそらく、その方が見る者の感情を喚起しやすいからでしょう。悲しみの感情を共有する状態に置かれれば、宣教師の介入の余地が高くなります。悲しみから祈りへの道筋を説得しやすくもなるでしょう。描かれた内容からいえば、布教にはこの作品の方がふさわしいと判断された可能性があります。

 さて、似たようなモチーフの作品と比較することによって、「悲しみの聖母」が、実はきわめて抽象的な作品なのだと気づかされました。明暗のコントラストを強め、余分な情報をそぎ落としてさまざまなノイズを排除し、メッセージが明確に伝わる工夫がされていました。

 「親指の聖母」と見比べてみなければ、「悲しみの聖母」が持つ特性に気づきませんでした。時代を超え、社会体制を超えて観客を魅了する普遍性が、「悲しみの聖母」には備わっていることがわかります。

 改めて、アップで写真に収めた「悲しみの聖母」を見ていると、不意に、永遠の微笑といわれるレオナルド・ダビンチの「モナリザ」が脳裏を掠めました。

■スフマート技法の効果
 横顔(「悲しみの聖母」)と正面を向いた顔(「モナリザ」)とでは比較にならないのですが、どういうわけかこの二つの作品に似たものを感じたのです。念のため、「モナリザ」の顔部分に焦点を当てた図を見てみましょう。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します。Wikipediaより)

 「モナリザ」は謎の微笑をたたえているともいわれてきました。それは口元や目元などに輪郭線を使わないで描く手法を採用しているかでしょう。ダビンチなど16世紀の画家が創始したとされるスフマート技法が使われているのです。

 スフマートとは、色彩の透明な層を何度も上塗りしていくことによって、絵に深みやボリュームを与える技法です。

 とくに有名なのが、この「モナリザ」です。口元や目元に輪郭線が使われず、この技法で描かれています。笑みを表現するための重要な部位がいずれも、ぼかし表現で処理されているのです。その結果、「モナリザ」は「謎の微笑」といわれたり、「永遠の微笑」といわれたりしながら、これまでずっと観客の気持ちを引き付けてきました。

 スフマート技法が使われているのは、もちろん、目元や口元だけではありません。

 柔らかで、滑らかな肌。眉毛さえ、まるで肌に溶け込んでしまったかのように、瞼から続く皮膚の盛り上がりとして表現されています。顔と頭髪との境目も同様、輪郭線はなく、影部分として処理されています。その影部分は頬から生え際にかけて、グラデーションで色が微妙に変化し、頭髪へとつながっています。いずれもスフマート技法が使われています。

 Wikipediaによれば、ダビンチが「モナリザ」を描いたのが、1503年から1506年です。存命中から画家として著名だったダビンチの「モナリザ」のことを、17世紀の宗教画家カルロ・ドルチは当然、知っていたでしょう。同じフィレンツェで活躍した画家です。カルロ・ドルチもまた、このスフマート技法を駆使して「悲しみの聖母」を描いたのでしょう。

 「モナリザ」の場合ほど、微妙なグラデーションが施されているわけではありませんが、輪郭線が曖昧だからこそ、肌の柔らかさや奥行きが感じられました。いわゆる肖像画よりはるかに表情が豊かで、奥行きがあり、リアリティが感じられたのです。スフマート技法ならではの効果といえます。

■観客は絵の何を見ているのか
 カルロ・ドルチは17世紀フレンツェで活躍した宗教画家でした。「悲しみの聖母」では、宗教画家が手掛けた作品らしく、祈りの持つ、敬虔さ、荘厳さ、信仰の強さ、他人を寄せ付けない峻厳さなどがみごとに表現されていました。描かれたモチーフが相互に関係しあって絵のメッセージを明確にし、強化する役割を果たしていたからでしょう。

 この作品には、明暗のコントラストを強調した画面構成といい、補色効果を考慮したモチーフへの配色といい、明らかに観客を引き込むための仕掛けが感じられました。観客がこの作品を見た瞬間、その視線を誘導し、釘付けにし、やがては感銘を覚えるような工夫が施されていたのです。

 さらに、「モナリザ」との類似性から、気づいたこともあります。それは、スフマート技法が持つ観客の無意識に与える効果です。輪郭線を引かずにモチーフを捉える代わりに、グラデーションを効かせて、影部分に新たな意味を付与していました。それが、観客の心に残影を残し、感情を強く喚起する力になっていくのでしょう。

 スフマート技法は、上から何度も薄い透明色の絵具を塗り重ねることによって、画面に奥行きを生み出し、微妙な風合いを創り出します。いってみれば、曖昧で、解釈しきれない要素を画面に持ち込むのです。

 「悲しみの聖母」では大きな割合を占める影部分がそれに相当するでしょう。曖昧で、解釈しきれないからこそ、観客の意識下にいつまでも奇妙な感覚が残ります。ひょっとしたら、それが時代を経ても、色褪せることのない新鮮さ、あるいは普遍性につながっているのかもしれません。この作品を観て、油絵の魅力の一端に触れたような気がしました。(2018/7/19 香取淳子)

「身野友之油絵展」に見る日本の詩情

■第11回「身野友之油絵展」の開催
 6月23日、東武デパートに出かけたついでに6F美術画廊を訪れてみると、「身野友之油絵展」が開催されていました。期間は6月21日から27日(最終日は16:30で閉場)までです。

 展覧会を頻繁に訪れ始めたのが、せいぜいここ3年ほどのことなので、残念ながら、私はこの画家のことは知りませんでした。ですから、まったくの興味半分で、ふらっと会場に入ってみたのです。

 会場には30点ほどの作品が展示されていました。どの作品も一見、何気ない風景が描かれているのですが、見ているうちに、どういうわけか、気持ちが締め付けられる思いがしてきます。いつもなら、さっと通り過ぎてしまうような画風なのですが、つい、作品ごと丁寧に見入ってしまいました。

 いったい、なぜ、そのような気持ちに捉われてしまったのでしょうか。考えてみたいと思います。

■「湖畔の道」
最初に作品を見たときの印象は地味で、なんの変哲もなく、さっと通り過ぎてしまいそうになりました。ところが、次の作品に移ろうとすると、どこか引っ掛かりを感じてしまい、引き返し、しげしげと見入ってしまった作品がいくつかありました。

 たとえば、「湖畔の道」という作品があります。これは、東武デパートのチラシに掲載されていた作品ですが、やはり気になるものがあって、しばらく足を止めてしまいました。

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(油彩、727×500㎝、画像をクリックすると、拡大します)

 どこかで見かけたことがあるような風景が描かれています。エッジの効いた風景ではなく、どちらかといえば、ありふれた光景を捉えた風景画です。ところが、見ているうちに、なぜか、切ない気持ちに襲われてしまいます。

 これは、遠景、中景、近景で構成されている風景画です。遠景に幾重にも連なる山々、中景にひっそりと肩を寄せ合うようにして建つ家々、そして、近景に低い石垣を左手に道路が描かれています。近景で描かれた道路の右側は草も生えておらず、荒れ地のようになっています。その荒れ地のようになっているところに、地を這うように雑草が生え、ピンクの小花をつけています。

 左側の石垣は延々と続いて近景と中景をつなぎ、観客の視線をはるか遠くの家並みに誘導していきます。よく見ると、石垣の内側に、ほとんど隠れてしまいそうになるほどわずか、屋根の一端が見えます。

 石垣の長さからは、敷地の広さが推測されます。かつては富豪の家だったのかもしれません。そう思えば、湖畔につづく手前の荒れ地は大勢のヒトが行き来した痕跡のようにも見えてきます。

■アングルの効果
 こうしてみてくると、一見、何気ない風景のように見えるこの作品に、見過ごすことのできない何かを感じてしまった理由がわかったような気がしてきます。この風景を、このアングルから捉えることによって、この集落の歴史、いってみれば栄枯盛衰の過程が見事に表現されているのです。一枚の絵でありながら、この集落の過去、現在、そして、未来までを想像させる力を持った作品でした。

 この作品を見て、胸が締め付けられるような気持ちになってしまったのはおそらく、観客の気持ちを深いところで刺激する訴求力を、この絵が持っていたからでしょう。その訴求力の源泉として大きく作用しているのが、先ほどもいいましたように、なんといっても、風景の切り取り方です。

 この絵は、盛りを過ぎた陽射しの下、ヒト気のない集落を含む風景が切り取られ、描かれています。試みに、この作品を要素に分解して見てみると、モチーフの取り込み方、配置の仕方、色調などが一体となって、この風景になんともいえない興趣を添えていることがわかります。

 改めて、この絵を見てみると、家並みまでの道のりが長く設定されていることに気づきます。通常、大人が立ってこの風景を見たとき、おそらく、このようには見えないでしょう。視点が低く設定されているのです。いってみれば、子どもの視点です。

 だからこそ、集落につながる道が必要以上に長く見え、水辺に至る草地のなだらかさが際立って見えます。さらには、手前で群生するピンクの小花に目が留まるのも、子どもの視点で捉えられた光景だからだといえるでしょう。このような低い視点の設定が、この風景に独特の味わいを醸し出しているのは明らかです。

■近景・中景・遠景、相互の統一感
 さて、この作品はラフに見ると、大きく3つの台形で構成されています。手前の道路と三角形の湖面が一つ目の台形とするなら、中ほどの家並みとその背後の山々が二つ目の台形、そして、大きく広がる青空が三つ目の台形です。それぞれに関連する色調が部分的に取り込まれ、全体が調和するよう工夫されています。

 たとえば、道路の右側にはわずかに湖面が見え、深い群青色が基調の湖面に静かな小波が立っています。その背後には幾重にもつながる山々が描かれ、後ろの山は湖面の群青色をさらに深くした色で表現されています。それら地上の一切合切を、大きく包み込むように描かれた青空には、要所要所に浅い群青色が配され、深さが感じられます。空と山と湖がこうして色調面で連続性を持たせられ、絵全体の統一感が生み出されています。

 山際には雲がうっすらと浮かび、どこまでも広がる青空の下、集落を包み込むようにして連なる山並みに、どっしりとした安定感が感じられます。この作品では、悠然とした営みをつづける山々にひっそりと寄り添って生きてきたヒトの暮らしが、見事に浮き彫りにされています。

 誰もが、いつか、どこかで、見たことのある風景です。この風景の中にはヒトと自然とのかかわり、連綿と続いてきた両者の営みが的確に表現されています。いってみれば、ヒトと自然が調和して営みを繰り返してきた歴史が刻まれているのです。だからこそ、観客の心を奥深いところで捉えて離さないのでしょう。

 ひょっとしたら、これが、身野友之氏の作品のエッセンスといえるものなのかもしれません。風景の捉え方の中に、深い人間観察の力が隠されているのです。だからでしょうか、どこでも見かける風景でありながら、観客の心を捉えて離さない強さがあるのです。

 それにしても、単なる風景画から、いったい、なぜ、そのように感じてしまうのでしょうか。似たような作品を取り上げ、身野友之氏の作品の魅力について考えてみることにしましょう。

■「夏の午後」
 改めて展示作品を見渡してみると、どれも風景を捉える構図が際立っていることに気づきます。といっても、決して鋭角的な際立ち方ではありません。観客を静かに作品世界に誘い込む力が際立っているのです。

 たとえば、「夏の午後」という作品があります。

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(油彩、410×273㎝、画像をクリックすると、拡大します)

 この作品もまた、田舎に行けばどこでも見かける風景のように見えます。道幅を大きく取り、左手に建物の塀、畑地を置いて、茅葺の家、瓦屋根の家と続き、道の先にはなだらかな山が見えます。

 遠景の山が低く見えますから、描かれている集落はきっと高度の高いところにあるのでしょう。右手には草むらの一端が見え、小道をはさんで瓦屋根の家が見えます。こちらは道路側にややせり出しており、その先の道は建物でふさがれて見えません。

 夏の陽射しが家々、草むら、木々を強く照らし出しています。屋根瓦と庇、木々や草むらに落ちる白い光で、強烈な夏の暑さと静寂が感じられます。夏の日の午後、暑い陽射しが照り付ける農村の一角が見事に捉えられています。

 この作品をラフに見ると、なんの変哲もない道路を中心に、建物が種々、配置されています。集落の一端が捉えられているのですが、ヒトの気配はありません。強い陽射しと、ここに住むヒトが代々、住んできたであろう様式の建物が描かれているだけです。ところが、この一枚の絵の背後に、この地に暮らす人々の過去、現在、そして未来の生活の営みが見えてきます。

 おそらくそのせいでしょう、見ているうちに、記憶の底に眠る情感が掘り起こされ、気持ちが強く揺さぶられるような錯覚に陥ってしまいます。何気ない風景でありながら、観客の心を鷲づかみにする強さが作品に潜んでいるのです。

■見慣れたはずの風景に潜む詩情
 最近、公募展などを見ても、油彩画で素晴らしいと思える作品に出会える機会が少なく、限界を感じていました。日本人には油彩画は向いていないのではないかとさえ思うようになっていたのです。とくに、日本人が日本の素材を表現するには適切ではないのでは・・・、という気がしてなりませんでした。

 ところが、たまたま身野友之氏の作品を見て、油彩画の可能性を感じさせられました。今回、二つの作品しか取り上げられませんでしたが、いずれも日本の素材を見事に油彩画で表現し、日本の詩情を心ゆくまで、豊かに奏でています。そのような作品を見たからこそ、油彩画の可能性を感じることができたのです。

 日本の詩情を奏でるとはどういうことかと問われても、即答はできませんが、「湖畔の道」あるいは「夏の午後」を見たとき、心の奥底から突き上げてきた、あの感情を生み出すものとでもいえばいいでしょうか。

 ヒトと自然が一体となって溶け込み、一つの風景を創り上げたとき、その風景には自ずと、過去、現在、未来にいたる時間軸が組み込まれていきます。身野友之氏がモチーフとして風景を取り上げると、ヒトの世の移り変わりもまた、その画面に深く反映されていきます。その結果、絵の具で表現されたモチーフの背後に潜む歴史が詩情を生み、観客の心を打つようになるのでしょう。

 日本的詩情を喚起するには、もちろん、身野友之氏の優れた写実力が欠かせません。彼の作品を目にしたとき、どこかで見たことのある風景だと思ってしまうのは、おそらく、この卓越した写実力のせいでしょう。ところが、よく見ると、単なる写生ではなく、身野氏ならではの風景の捉え方、切り取り方があって、独特の画面が創出されているのです。

 だからこそ、観客は作品の前で、どこか引っ掛かりを覚え、言葉にならない感情が湧きたってくるのでしょう。心の奥底に潜んでいた何かが揺り動かされたような気持ちとでもいえばいいのでしょうか、見ているうちに、居ても立っても居られないような気分になってしまうのです。

 興味深いことに、ありふれた風景画のように見えながら、どの作品も妙に観客を引き込む力がありました。詩情と表現しうるものが画面から滲み出ているのです。会場で目にした一連の作品はいずれも時代を超えることができると思いました。(2018/06/30 香取淳子)

大学入試に「情報科目」導入、学びの現場はどうなるか。

■「第9回教育ITソリューションEXPO、第1回学校施設・サービス展」の開催
 2018年5月16日から18日まで、東京ビッグサイトの西ホールで、「第9回教育ITソリューションEXPO、第1回学校施設・サービス展」が開催されました。

 激変する社会状況の中で、未来の教育はどうあるべきか。喫緊の課題を巡って、教育業界、関連機器業界の人々が集い、交流する場が設けられたのです。会場では次世代の教育に向けた機器やサービスが種々、展示されており、それらについて説明を聞くこともできれば、体験することもできます。貴重な機会だと思いました。

 私は事前に、主催者からVIP招待状を送付されていました。案内リーフレットにざっと目を通し、教育を巡る最新動向を知るには、絶好のチャンスだと思いました。そこで、興味のあるセミナーに申し込みをし、16日の午後と17日の午後、セミナーと展示会に参加しました。

 16日昼頃、ゆりかもめの国際展示場正門前で下車すると、人々は続々とビッグサイトに向かっていきます。

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(図をクリックすると、拡大します)

 会場に入ると、すでに受け付け前には参加者が多数、並んでいました。受付を済ませると、カテゴリー別の入場バッジを首からぶら下げます。そのバッジは所属あるいは関心領域に従って色別されており、名刺を入れられるようになっていました。

 参加者が首からぶら下げた入場バッジは、小中高、大学、事務局、各種学校、塾・予備校、自治体、教材・教育コンテンツ、ICT機器といった具合に、色別にカテゴライズされた所属や関心領域が表示されていますから、おおよその目的が一目で判別できます。

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 展示会場に入ると、どのブースもヒトでひしめき合っていました。確かに、いま、教育現場はどこも悩みを抱えています。子どもの人口減少に加え、教育内容の向上、未来社会に適応した人材育成、等々。さまざまな課題へのソリューションが求められています。

 人材育成という点では、学校だけではなく、さまざまな組織でも同様の悩みが発生しています。いまや、あらゆる領域で、AI主導で激変する社会に適合した、人材育成に努めなければならなくなっているのです。

 人手が足りず、資金も足りない中、AIを活用したシステムを導入していかざるをえなくなっているせいでしょうか、どのブースも、ニーズに適したICT機器、あるいは、AIを組み込んだサービスを探し求めるヒトで溢れかえっていました。

 展示会場には、学校やその他の組織が抱える課題を解決するための、さまざまなICT機器やAIを組み込んだサービスが展示されていました。主催者によれば、教育関連企業の約700社が出展したといいます。

■学びNEXTゾーン
 私が興味を覚えたのは、「学びNEXT」とネーミングされたゾーンでした。そこで見聞きしたいくつかのサービスをご紹介しましょう。

〇アーティック社
このゾーンに入ってすぐ、アーテック(ArTec)という会社のブースで、ワークショップが行われているのを目にしました。

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 参加者たちはパソコンを前に、ブロック仕様の部品を使って、プログラミング演習をしていました。おそらく小学校の先生たちなのでしょう。

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 講師の指示に従って、参加者たちはブロック仕様の部品を動かし、わからなくなれば随時、講師に質問をしていました。それぞれ真剣な面持ちで取り組んでいたのがとても印象的でした。

 そういえば、2020年には小学校課程でプログラミング教育が導入されます。先生たちも新たに学んだり、学び直していく必要に迫られているのでしょう。

 調べてみると、アーティックは2018年、ロボットプログラミングの推進によって、経済産業省から「ものづくり日本大賞特別賞」人材育成部門で受賞していました。

こちら →http://www.monodzukuri.meti.go.jp/backnumber/07/03_05_01.html

 若年層へのロボット教育へのハードルを下げ、小学校低学年から取り組める教材を開発したことが評価され、受賞したのです。

 すでに2万人もの生徒がこのロボットプログラミングを体験しており、来年も採用したいとする教師は98%、そして、生徒の授業への満足度は100%だったそうです。この結果からは、教師からも、生徒からも満足度の高い教育支援サービスだといえます。

こちら →http://www.artec-kk.co.jp/artecrobo/edu/
 
 ブロック型のプログラミングロボットなので、短時間で自由に組み立てられるだけではなく、子どもたちの独創性を活かせるところが、このサービスの利点といえます。しかも、アーティック社は、段階に応じた指導カリキュラムを開発し、プログラミング教室を開校しています。

 経産省は、こうした一連の業務をプログラミング教育の推進に寄与すると判断したのでしょう。「第4次産業革命を牽引する次世代人材の育成に貢献」として、アーティック社を高く評価しています。

 次に話を聞いたのが、ジンジャー・アップ社でした。

〇ジンジャー・アップ社
 このブースの前で目にした、「学びの未来の可視化」というキャッチコピーが気になって、立ち寄ってみたのが、ジンジャー・アップ社でした。「学びの可視化」とは一体、どういうことなのでしょうか。

 担当者に聞くと、「これまでのシステムとは違って、学習過程の履歴を蓄積できるので、どこで躓いたのかがわかる」、それが「学びの可視化」だということでした。

 ジンジャー社が提供する「学びの可視化」によって、学習者がこれまでの学習過程のどこで躓いたのかが具体的にわかるようになります。そうなれば、より適切に学習内容を改善することができますから、結果の向上につなげることができるというのです。すでに、いくつかの大学や官公庁、企業などで採用実績があるといいます。

こちら →http://www.gingerapp.co.jp/case/
 
 担当者から説明を聞いているときはよくわからなかったのですが、帰宅して調べてみると、ジンジャー社が提供しているサービスは、米国ADL(Advanced Distributed Learning)社が2013年4月に公開した新規格(xAPI=Experience API)に基づき、同社が開発した独自のシステムによって、運用されています。

 具体的にいえば、ジンジャー・アップ社はxAPI に基づき、LRS(Learning Record Store)を開発しました。xAPIというのは、これまでのeラーニングの世界標準規格(SCORM)の次世代規格です。新規格xAPIに基づいて、新たにジンジャー・アップ社が開発したのが、LRS(Learning Record Store)でした。

 LRSはさまざまなデバイスに対応しており、結果だけではなく学習履歴を詳細に記録することができます。トレーニングのトラッキングが可能なばかりではなく、複数のLSM間で履歴データの移行ができます。しかも、最新のwebテクノロジーが利用できるようになりますから、さまざまな教育関連の履歴を取得し、分析することができます。担当者は、データの関連づけによる新たな分析にも対応できるといいます。

こちら →https://xapi.co.jp/xapi-lrs/

 これまでの世界標準規格であるSCORMに基づくeラーニングでは、パソコンを使ってeラーニング教材の履歴管理をするぐらいのことしかできませんでした。ところが、xAPIに基づくLRSでは、さまざまなデバイスに対応していますし、複数のLRS間のデータ移行ができるようになりますから、さらにきめ細かなサービスを展開できるようになると担当者はいいます。

 こうしてみてくると、このシステムは、単に学校現場での利用に限らず、官公庁、企業での利用も可能だということがわかります。同社は、LRSを組入れたさまざまなサービスを展開しようとしていますが、導入実績が増えれば、データの蓄積もできます。分析の精度が上がりますから、さらに多様な展開も可能になるでしょう。場合によっては、人材不足が深刻になりつつある日本に必須の次世代サービスになるかもしれません。

 さて、お馴染みのペッパーを見つけ、思わず足を止めてしまったのが、ソフトバンクグループのブースでした。

〇ソフトバンク
 人型ロボット、ペッパーによるプログラミング教育を提唱しているのが、ソフトバンクでした。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 ペッパーを使って、子どもたちに親しまれやすく、わかりやすく、プログラミング教育を行っていこうというのがこのブースの謳い文句でした。小中学校282校へ2000台、3年間にわたって貸出し、9.1万人が受講予定だといいます。ソフトバンクは社会貢献事業の一つとしてこのプログラムを推進しています。

こちら →https://www.softbank.jp/robot/education/social/social02/

 ペッパーは身長121㎝、ちょうど小学校低学年の子どもの背丈です。子どもたちにとっては親しみやすく、話しかければ、応えてくれます。対面でコミュニケーションができる人型ロボットだからこそ提供できる機能を、ソフトバンクは強調しています。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 人型ロボットを操る面白さ、思いついたことは何でもペッパーを使ってやってみる気軽さ、そのような属性と機能は、子どもたちから主体的で積極的な学びを引き出してくれるかもしれません。しかも、このサービスでは、あらゆる科目に適合した教育内容を提供できるといいますから、どんな嗜好性を持った子どもにも対応できそうです。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 文科省はプログラミング教育を通して、対話的な学び、主体的な学び、深い学びを習得させようとしています。それら一連の学習過程を、このサービスではペッパーを通して実践できると担当者はいうのです。教科横断的なカリキュラムも提示されていました。

 もちろん、ペッパーをどのように授業に組み込んでいくか、具体的に示した教師用指導書も作成されています。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 この教師用指導書は、World Robot Summitジュニア競技委員であり、相模女子大学小学部副校長の川原田康文氏が監修しています。

こちら →https://www.softbank.jp/robot/education/social/curriculum/

 川原田氏は、人型ロボットのペッパーを使ったプログラミング教育では、子どもたちが対面でコミュニケーションをしているつもりで授業に臨むことができるといいます。おそらく、そのことが利点になっているのでしょう。実際にペッパーを使ってプログラミング教育をしている中学校では、「授業が楽しい」と回答した生徒が87%にも上ったそうです。

 今回、展示会場に来てみて、改めて、2020年から小学校で始まるプログラミング教育に向けて、さまざまな取り組みが考えられ、実践されていることがわかりました。

 それでは、その背景となる社会的課題とは一体、何なのでしょうか。同時開催されたセミナーの一端をご紹介することにしましょう。

■セミナー
 関連セミナーに私は、16日午後に二つ、17日午後に一つ参加しました。いずれも会議棟7階で行われました。順にご紹介していきましょう。

〇「人工知能で教育はどう変わるのか?」
 5月16日13:00~14:00まで、国立情報学研究所コンテンツ科学研究系の山田誠二教授による、「人工知能で教育はどう変わるのか? ~教育xAIの現状と今後の展望~」というタイトルの講演が行われました。

 山田氏はAIについて全般的なお話をされましたが、私が興味を抱いたのは、最初にスクリーンに映し出された図でした。会場では文字が小さく、よく見えませんでしたので、帰宅してから、「2017年 日本のハイプサイクル」という言葉を手掛かりに調べてみたところ、会場で見たのと同じ図を見つけることができました。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します。https://gartner.co.jp/press/html/pr20171003-01.htmlより)

 会場でこの図を見ただけでは、なんのことかわかりませんでしたが、ネットで調べてみたようやく理解することができました。ハイプサイクルとは、市場に新しく登場した技術が成長し、成熟し、衰退、あるいは市場に定着するまでの過程を、横軸に「時間経過」、縦軸に「市場からの期待」を置いて各種デジタル・テクノロジーを図示したものでした。

 そもそも、ガートナーのハイプサイクルは、企業があるテクノロジーを採用するか否かを判断する際の参考指標として開発されたものだといいます。

 かつてガートナーは、2012年には「モバイル」「ソーシャル」「クラウド」「インフォーメーション(アナリティクス)」の4つを緊密でかつ複合的に連携することが、デジタル・ビジネスの推進力になると指摘してきました。時を経てみれば、実際、その通りになっていますから、ガートナーの将来予測についてはある程度信頼してもいいのでしょう。

 さて、上図のハイプサイクルから今後のデジタル・テクノロジーを予測すると、いま騒がれているブロックチェーンや人工知能は5年から10年で成熟期に入っていきます。そして、ビッグデータは10年以上先には幻滅期に入るとされていますから、その後はあまり騒がれずに定着に向かっていくのでしょう。

 山田氏は、いまはデジタル・テクノロジーの端境期にあるといわれましたが、この図をみると、たしかにそうなのだということがわかります。

 さらに調べてみると、ガートナーは2018年3月27日、「2020年までに企業の75%はI&Oのスキル・ギャップにより目に見える形でビジネスの破壊的変化を経験する」という見解を発表していました。(https://www.gartner.com/newsroom/id/3869879

 最新のデジタル・テクノロジーに基づくI&O(Infrastructure Operations)を採用しなければ、大多数の企業がビジネス・チャンスを失ってしまうというわけです。当然のことながら、今後はビジネスの態様も変容していかざるをえず、AIに取って代わられる職域もでてくるでしょう。

 オックスフォード大学の准教授マイケル・A・オズボーン氏らは2014年、今後、現在の職業の約半分が消滅してしまうという内容の論文を発表して、大きな反響を呼びました。ところが、ガートナーは最近、最新のインフラを導入し運用していかなければ、企業の75%は大きなダメージを受けるという報告を発表したのです。

 さて、山田氏の講演でもっとも興味を喚起させられたのが、ハイプサイクルというデジタル・テクノロジーの捉え方でした。各デジタル・テクノロジーには固有のライフサイクルがあるのだとすれば、事業体はそれを見極めて導入する姿勢が必要になってくるのでしょう。

 もう一つ、興味深かったのが、人間にとって簡単なことがAIには難しく、AIには常識的な社会性を持たせることが難しいと述べられたことでした。AIの導入に際しては、ヒトが行う認識と機械が行う認識とは異なるということに留意し、対処しなければならないことがわかりました。

 最後に、ITS(Intelligent Tutoring Systems)については、研究レベルではまだこれからだということでした。今後の可能性としては、学生モデルを導入し、学習者より少しレベルの高いAIを導入し、「一緒に勉強したら、楽しいな」という学習者のポジティブな感情を喚起しながら進めるのがいいといわれました。

 今後は、ヒトにできること、できないこと、AIにできること、できないこと、この見極めが大切になってくるのでしょう。
 
 次に行政からの見解をご紹介しましょう。

〇「情報活用能力におけるプログラミング教育」
 5月16日15:00~16:00まで、文科省 生涯学習制作局 情報教育課 情報教育振興室 室長の安彦広斉氏による「情報活用能力におけるプログラミング教育」というタイトルの講演が行われました。

 ここではまず、平成28年12月の中教審答申で決定された教科書改訂の背景について、説明されました。

 2011年に小学校に入学した子どもにとって、将来、現在の職業の65%が存在しない、あるいは、今後10年から20年で半数近くの仕事が自動化される、さらには、2045年には人工知能が人類を超えるシンギュラリティに達する、そういった未来予測に基づけば、自ずと教育内容を変えていかなければならない、という理由からでした。

 安彦氏は、第4次産業革命といわれる今、IT人材の需要が高まっているにもかかわらず、質量ともに足りないといいます。特にデータサイエンティストが足りないのが深刻で、Society5.0に向けた人材育成を推進していくことが喫緊の課題になっていると指摘します。つまり、2020年から小学校で導入されるプログラミング教育は必須なのです。

 いま、世界的に教育改革が推進されています。知識や情報を活用する能力、テクノロジーを活用する能力、言語・シンボル・テキストを活用する能力、等々が重要になってきているからでしょう。

 AIやICT主導で激変する社会環境に適応していこうとすれば、情報教育の質の向上を目指さざるをえず、情報活用能力の育成、教科指導におけるICT活用、校務の情報化、といった教育現場全体の改革が必要になっているのです。

 安彦氏によれば、学習指導要領に「情報活用能力」が規定されたのは今回が初めてだそうですし、小学校の指導要領に「プログラミング」が盛り込まれたにも初めてだそうです。初めて尽くしの中で、小学校では文字入力などの基本的操作を習得し、プログラミング的思考を育成していくことを目的とし、情報基礎力を養っていこうとしています。

 安彦氏はさらに、小学校で導入されるプログラミング教育については、どの教科で、どのような取り組みをしていくか、先生たちの不安をなくす必要があるといいます。そのため、文科省等は下記のサイトを設け、プログラミング教育の狙いと位置づけについて説明するとともに、さまざまな事例を紹介しています。

こちら →https://miraino-manabi.jp/

 最後に、教育現場からの見解をご紹介することにしましょう。

〇「灘校が実践する、個々の能力を引き出す教育 ~アクティブラーニングってなんだろう~」
 5月17日13:00~14:00まで、灘中学校・高等学校校長の和田孫博氏による「灘校が実践する、個々の能力を引き出す教育 ~アクティブラーニングってなんだろう~」というタイトルの講演が行われました。

 和田氏は、ITネイティブの時代には、スマホ、タブレットを使いこなし、ロボットやAIを駆使できる人材が必要だといいます。

 それには、①課題にいち早く気づくこと、これには好奇心、発想力が大切、②普遍的知識や技能を習得し活用すること、これには初等・中等教育が大切、③皆で力を合わせて課題に対処すること、これには協働性が大切、④解決法を編み出すこと、これには応用力、粘り強さが大切、といった具合に、AI時代に必要とされる課題と対応能力、そして、それらを涵養する時期や精神について述べられたのが印象的でした。

 いずれも納得できるものでしたが、とくに、初等・中等教育では、「普遍的知識や技能を習得し活用すること」を課題として挙げられたのが興味深く思えました。和田氏は言葉を継いで、専門化細分化された特殊な知識や技能は汎用性が少ないといい、ITネイティブの時代だからこそ、初等、中等教育が大切だと述べられたのです。

 言われてみれば確かに、専門化細分化されすぎた知識や技能は汎用性が少ないといえるかもしれません。次々と新しい技術が開発されては消えていく現状をみていると、多様な展開を期待できる確かな基礎力こそ重要なのだという気がしてきます。

 さて、AIが進化すると、さらにグローバル化が進みますが、そうなると、異文化コミュニケーション力が大切になってきます。それには他国の社会や文化はもちろんのこと、自国の社会や文化に対する認識を深めていかなければなりません。その基本となるのが、中等教育での教養です。

 こうしてみてくると、和田氏が指摘するように、ともすれば高等教育への通過点として捉えられがちな初等・中等教育の充実を図ることこそ、ITネイティブの時代には重要なことなのかもしれません。

 そして、灘校での事例を紹介してくださいました。その中で印象に残っているのが、中勘助の自伝的小説『銀の匙』を題材にした教育法です。ある教員はこの小説を教材に、生徒たちに3年かけて、言葉を調べさせ、文化や生活を徹底的に調べさせ、学習を自発的に深化させていきました。具体的にいえば、「銀の匙研究ノート」を使って、生徒たちに予習を促し、その積み重ねとして、アクティブに学習に取り組む姿勢を養うことができたのです。教員が編み出した独自の教育法でした。

 このようなユニークな指導ができるのは、灘校が教員の自由や独自性を尊重し、教材や指導法一切が自由だからでしょう。誰もが模倣できるものではありませんが、ITネイティブの時代だからこそ必要な教育法なのかもしれないと思いました。

■大学入試に「情報科目」導入、学びの現場はどうなるか。
 2018年5月18日、政府が大学入試にプログラミングなどの情報科目を導入する検討に入ったと新聞で報じられました(産経新聞)

こちら →https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180518-00000070-san-bus_all

 17日に開催された未来投資会議で、安倍首相は「人工知能、ビッグデータなどIT技術、情報処理の素養はこれからの時代の”読み書きそろばん”だ」と述べたというのです。

 これまでみてきたように、2020年から小学校課程にプログラミング教育が導入されることはすでに決まっています。

 ですから、この記事の力点は、高等教育での情報教育の必要性に置かれており、それには、大学入試に「情報科目」を導入するのが一番だということにあります。すでに米中など、世界の主要諸国では情報教育の高度化に取り組んでいます。この流れに出遅れては、AI主導で進むSociety5.0に取り残されてしまうという危機感から示された見解だとみるべきでしょう。

 いずれにしても小学校でのプログラミング教育の導入は決定されていますので、今後はいかに現場で混乱なくスムーズに展開できるか、生徒が着実に習得できるか、工夫していく必要があるでしょう。

 今回、私は3つのセミナーに参加しましたが、立場の違う演者の3人とも、冒頭で、AIやICTの進化による社会変化に触れられました。未来社会についての認識が共通だったのです。

 たしかに、今後20年~30年後の日本を概観すると、少子高齢化によって減少した労働人口を補うために、外国人、AI、ロボットに依存するようになっているでしょう。そして、そのころ世界は、人工知能が人類の頭脳を超えるシンギュラリティ(技術的特異点)に達しているに違いありません。

 これまでは2045年といわれていましたが、最近は16年も早まり2029年にはシンギュラリティに達しているといわれています。

こちら →http://tocana.jp/2017/03/post_12665_entry.html

 グーグル者の技術ディレクターでもある未来学者のレイ・カーツワイル(Ray Kurzweil)氏は、「機械のおかげで我々はより賢くなる」とし、「2030年には思考を司る大脳新皮質をクラウドネットワークに接続するつもり」だといっています。シンギュラリティを迎えた暁には機械を人間の脳に取り込むことによって「超人」が誕生するというのです。

 いずれにしても、情報技術は進化し続け、社会が今後さらに、ドラスティックな変容を迫られるのは必至でしょう。これまで繰り返しいってきたように、やがて、これまでのヒトの仕事の半数が無くなり、ビジネスの様態も大幅に変化してしまうのです。そうなれば、どのような人材が必要なのか、どのような教育体制を取るべきなのか、といったことが喫緊の課題になってきます。あらゆる人々がこの問題に目を向け、考えを巡らせていく必要があるでしょう。

 展示会場を訪れてみて、AI、あるいはICTを活用したさまざまなサービスが考案されているのを知りました。今回、ご紹介したのは3つの事業者のサービスでしたが、いずれもAIやICTを高度に活用した技術が使われていました。気になるのは、AIにはヒトが持っているものが欠けている、ということです。今後はおそらく、両者の欠けた領域を補い合った新技術が出てくるでしょう。

 展示会のブースで、丁寧に説明してくれた人々には、切磋琢磨して情報技術を高めていこうとする気概が感じられました。知識と技能を武器に戦っている人々が開発した新しいデジタル・テクノロジーやサービスを目にすることができ、とても刺激的で興味深い展示会でした。(2018/5/20 香取淳子)