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03月

「手塚雄二展」:日本美の極致を楽しむ

■手塚雄二展の開催

 2019年3月11日の日経新聞で、日本画家の手塚雄二氏の個展が2019年3月5日から18日まで、日本橋高島屋8Fで開催されることを知りました。展示作品の中には、2020年に鎮座100年を迎える明治神宮に奉納するために制作された、「明治神宮内陣御屏風(日月四季花鳥)」も含まれているといいます。記事にはこの屏風を背景に、手塚雄二氏の写真が掲載されていました。

 

 この作品は日本橋高島屋で展示された後、横浜高島屋、大坂高島屋、京都高島屋を巡回してから本殿に納められ、その後は非公開になるそうです。今、見ておかないと永遠に見られなくなってしまうと思い、3月16日、展覧会場に行ってきました。

 展覧会のタイトルは「手塚雄二展 光を聴き、風を視る」です。会場には代表作から新作まで、過去最大規模の約70点が展示されていました。


ポスター

 このポスターに掲載されている作品のタイトルは、「おぼろつくよ」(91.7×102.7㎝、2012年)です。

 繊細なタッチで描かれた木々の葉の隙間から、おぼろ月が姿を現しています。すっぽりと抜けたような空間に、月がほんのりと霞んで見えます。自己主張することなく周囲に溶け込み、ひっそりと浮かんでいるのです。奥ゆかしさとはこのようなことを指すのだろうという気がしました。

 ひそやかな月の風情を守るかのように、木々が大きく枝を伸ばし、周辺の空を覆っています。水平軸で見ると、木々の葉の色はおぼろげながらも、左から右方向に、紫系、黄緑系、ピンク系へと変化しています。微妙なグラデーションと、その背後の空の霞んだ様子とが見事にマッチし、仰ぎ見た月の美しさが強化されています。

 垂直軸で見ると、木々の葉は、上半分ほどが青紫系で色付けられ、おぼろ月を囲むように淡い黄緑系、下方と右側がピンク系、といった具合に、所々、余白部分を残しながら、場所によって葉の色を微妙に変化させて描かれていました。

 水平軸、垂直軸ともに、グラデーションを効かせた色彩の変化によって、霞みがかった大気に包まれたしっとりとした情緒が描出されていました。おそらく、そのせいでしょう、この作品からは、清澄な空気、大気の気温、木々の揺らぎ、そして、葉のそよぐ音すら感じられます。

 それにしても、なんと情感豊かな作品に仕上がっているのでしょう。おぼろ月に照らし出された空の色合いといい、木々の葉の柔らかな色調といい、描かれたものすべてが調和し、融合しているところに、日本の美の極致を感じました。

 会場を一覧したところ、手塚氏の作品には全般にこの種の美しさが見受けられました。「おぼろつくよ」では、空を見上げた状態で描かれた構図の面白さがあります。さらに、おぼろな光の捉え方の斬新さ、木々の捉え方の大胆さ、葉の捉え方の繊細さ、等々が印象的でした。

 このような特徴は、約70点に及ぶ展示作品の中で、いくつも見出すことができました。それらはおそらく、手塚氏の作品の本質に関わるものなのかもしれません。

 そこで、今回は、①構図の面白さ、②光の捉え方の斬新さ、③木々の捉え方の大胆さ、④葉の捉え方の繊細さ、などの点で、特に印象に残った作品を取り上げ、ご紹介していくことにしましょう。

 それでは順に、上記のような特徴が見られる作品を見ていくことにしましょう。

■構図の面白さ

 斜めの線を取り入れ、画面に新鮮な感覚を生み出していた作品がいくつかありました。特に印象に残ったのが、「嶺」と「裏窓」です。

●「嶺」

 構図の面白さが際立っており、しばらくこの作品の前で佇んで見入ってしまいました。「嶺」(205.6×178.0、1990年)というタイトルの作品です。


図録より。

 嶺とは山の頂上、尾根といったような意味の言葉です。ところが、作品を見ると、「嶺」といいながら、山ではなくて、万里の長城でした。一瞬、違和感を覚えましたが、万里の長城は尾根伝いに築き上げられていることを思い出し、この作品はまさに「嶺」なのだと納得しました。

 あるいは、万里の長城が北方民族の侵略を避けるために造営されたことに着目すれば、「嶺」はウチとソトを分ける分水嶺ともいえるでしょう。

 画面の大部分を占めるのが、古びたレンガで造られた通路で、その両側は、レンガでできた低い壁で覆われています。遠方には敵台が見え、沈む夕陽に照らされた通路や壁のレンガの一部が明るく輝いています。頂上付近を見上げる位置から長城の一端が捉えられ、作品化されていました。

 興味深いのは、この通路の頂上がやや右下がりの斜めの線で描かれていることです。足元のレンガも同様、すべてのレンガがやや右下がりになるよう描かれています。ですから、水平であるべき通路が傾いているように見えます。そして、右側の壁は大きく左に湾曲しているのに左側の壁はそれほどでもありません。そのせいか、この通路全体が揺らぎ、うねっているように見えてしまうのです。

 この構図が気になって、しばらく見ていました。

 斜線や曲線で構成された通路と壁は、建造物というよりも何か壮大な生き物、例えば龍のようなものを連想させます。そう思うと、遠方に見える敵台は龍の頭部に見えなくもありません。

 通路に不自然な斜線が取り入れられているので、観客は軽い違和感を覚え、想像力が刺激されてしまいます。見えるものの背後に、何があるのか見ようとするのです。その結果、観客は、ただの建造物でしかない通路や壁に、時の流れや生命体を感じ、なんともいえない情緒を感じるようになります。

 仮にこの通路が水平に描かれ、不自然な傾きを見せていなかったとしたら、この作品が放っている不思議な情緒を生み出すことはできなかったでしょう。

 再び、作品に戻ってみましょう。

 残照を浴びた通路の上方が、明るく照らし出されています。沈みかかった夕陽が、最後の力を振り絞って、地平線近くから光を放っているのでしょう。画面の真ん中辺りだけが明るく、残照に照らし出されています。そのおかげで遠方の敵台が黒く浮き彫りにされ、ここが万里の長城の一角であることを改めて思い知らされます。

●「裏窓」

 建物の中から空を見上げた仰角の構図で描かれた作品です。建物を描いた作品としては、これまでに見たこともないとてもドラマティックな構図でした。

裏窓
図録より。

 タイトルは「裏窓」(217.4×166.6㎝、1992年)です。おそらくヨーロッパの街の一角なのでしょうが、このタイトルからは何の手掛かりもありません。そこで、手塚氏の年表を見ると、制作年の1992年は日本におられましたが、その前年の1991年にはフランス、イタリアを取材旅行されていました。おそらく、その時に構想された作品なのでしょう。

 この作品を見ていると、まるで地底から上空を見上げているかのような錯覚に陥り、閉塞感に襲われます。周囲の建物は堅固な石造りで、窓には鉄柵が取り付けられています。そして、外部に通じる空間としては、凸型に区切られた空だけです。

 日本人の感覚からすれば、息が詰まりそうな思いがする画面構成でした。

 もっとも、そこに西欧の生活文化の一端を見たような思いがしました。建物の壁面や屋根で区切られた矩形の空から、わずかな光が射し込んでいます。射し込む光に照らし出された箇所だけ、モノの形が見え、色が見えるのです。よく見ると、開け放たれた窓の外扉が、緑色に塗られていることに気づきます。

 ひょっとしたら、ここで暮らす人々は植物を渇望し、それに擬して、窓の外扉を緑色にしたのでしょうか。目立たないように取り入れられた緑色の中に、ここを生活空間として日々、生活を営む人々の工夫の跡を見ることができます。ヒトが描かれていなくても、ヒトの気配が感じられるのです。

 この作品は、構図に妙味があるばかりか、光の捉え方が絶妙でした。わずかな空間から射し込む光によって、建物の一角を端的に捉えたばかりか、必死で生きようとしている人々の工夫の跡を照らし出したのです。

■光の捉え方の斬新さ

 間接的な光によって、どこでも見かけるような風景を、別世界に変貌させた作品がいくつか展示されていました。特に印象に残ったのが、「こもれびの坂」と「炫」です。

●「こもれびの坂」

 会場でこの作品を見ると、左下から右上にかけての対角線によって、画面がほぼ二分割されていることに気づきます。それをベースに、上部から中央付近にかけて、木々の葉を通して、光が降ってくるという構成です。

 空から降り注ぐ光は、葉陰の形状に応じて坂道やその側面を照らし出し、まるで自由自在に模様をつけているかのようでした。大小さまざまな形状を地面や土の斜面にきらきらと浮き彫りにしているのが美しく、しばらく見惚れていました。

こもれびの坂
図録より。

 作品のタイトルは「こもれびの坂」(116.7×72.7㎝、1996年)です。

 一見、山道ならどこにでもありそうな光景ですが、葉陰からこぼれ落ちた光が、坂道を舞台に、非日常の煌びやかな空間を創り出していたのです。この場所、この瞬間でしか見ることのできない光景を、手塚氏は見事に結晶化し、印象深い作品に仕上げていました。

 左側から斜め右上方向にかけて、木々の暗さが画面を覆っています。その背後から射し込むわずかな光が、地面や土の斜面にさまざまな文様を創り出しています。人工の光と違ってピンポイントで照らし出されるわけではなく、葉が風にそよげば、それに応じて光が射し込む空間域が異なり、地面や斜面の文様もその都度、変化します。まさに自然が創り出したアート空間といえます。その瞬間を巧みに捉え、丁寧に美しく仕上げたのがこの作品です。

●「炫」

同じように、坂道を描いた作品があります。こちらも光の捉え方がすばらしく、印象的でした。



図録より。

 作品のタイトルは「炫」(170.0×215.0㎝、1988年)です。日本語ではあまり見かけない文字ですが、ゲンと読むようです。まぶしく照らす、目を眩ませるといったような意味があります。

 画面を見ると、確かに、坂を上った先は眩しい光に溢れていて、目がくらみそうです。木々の葉は黄金色に輝き、道路さえも上方は明るく浮き立って見えます。もちろん、道路の両側の岩のようなものも、光が当たっているところは輝きを増し、存在感を高めています。

 しかも、この光が光源からの直接的な光ではなく、木々の葉を通して射し込む陽光なので、眩しいとはいえ、柔らかく、優しく、見る者を浮き浮きした気持ちにさせてくれます。両側が暗く、真ん中が明るい陽光で照らされた道路なので、その先には、平安な世界が待ち受けているのではないかとも思わせてくれます。辺り一面を満遍なく包み込むような、慈愛を感じさせる色調が印象的でした。

 自然とともに生き、自然のさまざまな局面に美しさを見出してきた日本人の感性をここに見たような気がします。風景画でありながら、日本の精神文化を感じさせてくれる作品でした。

■木々の捉え方の繊細な美しさ

 樹木の豊かさ、深淵さを表現した作品がいくつか目に留まりました。中でも印象深かったのが、「静刻」と「新緑の沼」です。

●「静刻」

 実在する木々よりも水面に映った木々の方を大きく描き、意表を突く世界が描き出されていたのが、「静刻」(91.0×72.8㎝、1986年)です。これまでに見たこともないような構図でした。

静刻
図録より。

 会場でこの作品を見たとき、構図の面白さと水面を照らす柔らかい光に引き付けられました。画面の色構成にさわやかな美しさがあったのです。

 画面の上方、木が生えている辺りは輝きのあるオーカー系、そして、木の根元近くの水面は明るいイエロー系、遠ざかるにつれ、淡い黄緑系が広がり、そして、右下にごくわずかマリン系の色が置かれています。それらの色が帯状に、右から左下方向に流れるように配されているのです。まるで虹のような輝きと装飾的な美しさを感じました。

 色と色の間はグラデーションで境目を目立たせず、穏やかなトーンで処理されているところ、見ていて気持ちが和みます。切れ味の良さを感じさせながらも、さわやかな佇まいが印象的な作品でした。

●「きらめきの森」

 「静刻」と似たような色遣いで、木々が描かれている作品がありました。六曲一隻の屏風です。

きらめきの森
図録より。

 「きらめきの森」(172.6×360.0㎝、2005年)というタイトルの屏風で、横長サイズの画面に多くの木々が描かれています。こちらは「静刻」とは逆に、手前に輝きのあるオーカー系、その後ろに淡いベージュ系、そして、中ほどから上が黄緑系といった色の帯でモチーフが包み込まれていました。

 色が水平に帯状に置かれていたせいか、垂直に立つ木々の境界が曖昧になり、全体に靄がかかっているような空間が生み出されていました。その結果、モチーフはそれぞれ個として存在するのではなく、全体の雰囲気の中で存在しているように見えてきます。

 ふと見ると、画面の中央付近に黒っぽい小鳥が一羽、飛んでいるのに気づきます。悠然とした森の中で、誰からも脅かされることなく、低い位置で飛んでいるのが印象的でした。鳥や木々、そして、この空間に存在するものすべてがしっくりと調和し、生きている様子がうかがい知れます。この作品を見ていると、不意に、平和、平安という言葉が脳裏をよぎりました。

●「新緑の沼」

「きらめきの森」と似たような構図の作品が展示されていました。同じように横長の作品です。

新緑の沼
図録より。

 「新緑の沼」(175.0×355.8㎝、2017年)というタイトルの作品です。これは、チラシに掲載されていた近作です。新緑のさわやかさが余す所なく描かれており、思わず引き込まれて見てしまいました。構図は「きらめきの森」と似ていましたが、色遣いやモチーフの扱いなどは明らかに異なっており、こちらは奥行きが感じられる画面構成になっていました。

 靄がかかっているのでしょうか、全体にぼんやりとしています。手前は背後からの暗い影が地面に落ち、中ほどは草の色がやや鮮明になっていますが、その後ろはうっすらと白く霞み、幻想的な空間が広がっています。

 手前から中ほどにかけての木々は一本、一本、丁寧に描き分けられています。まるで木にも個性があるかのようです。それに反し、遠方の木々は淡い色彩とぼんやりとした形状で表現されていますから、遠近感が明確で、木立が遠くまで広がっている様子がうかがいしれます。

 地面から立ち上る湿気が、靄を作っているのでしょう。それが木立全体に広がり、ここに存在するもの全てを優しく包み込んでいるように見えます。木々がそれぞれ個性を打ち出しながらも、見事に全体と調和し、平穏な空間が創出されていました。靄を描き込むことによって、画面にしっとりした統一感が生み出されているのです。

 見ていると、次第に内省的になっていくのを感じます。とても精神性が感じられる作品でした。日本ならではの風景美が表現されているといえるでしょう。

■葉の捉え方

 葉の捉え方が面白く、印象に残る作品が何点か展示されていました。ここでは、「秋麗」と「麗糸」をご紹介しましょう。

●「秋麗」

 チラシに掲載されていた作品です。作品のサイズは78.0×111.0㎝で、2015年の制作です。

秋麗
図録より。

 緑色を残している葉もあれば、青味がかった葉、朱や黄色などに紅葉した葉、さらには色のくすんだ枯れ葉もあります。画面の左上と右下をつなぐ対角線のやや下辺りに余白を残し、それ以外はほとんど、大小さまざま、色とりどりの葉がそれぞれ向きを変え、形状を変えて画面を覆っています。このような画面構成には、色彩の競演がもたらす華やかさがあり、紅葉そのものの多様性を鑑賞できる効果がありました。

 よく見ると、紅葉した葉にはいくつもの穴が開き、落下寸前の状態だということがわかります。生命体が果てる寸前に見せる美しさだといっていいでしょう。欠けたもの(穴のあいた葉)、滅びるもの(枯れ葉)に美しさを感じる日本的な感性を感じ取ることができます。

 そして、余白部分に伸びた枝先に、小鳥が一羽、留まっています。うっかりすると見落としてしまいかねないほど小さく描かれています。この作品のメインモチーフが紅葉した葉だからなのでしょうか、まるで遠慮しているかのように描かれているところにも、日本的な感性が感じられました。

 もちろん、葉よりも小さな小鳥を余白部分に加えることによって、画面が引き締まり、紅葉したさまざまな色彩が醸し出す華麗さが強く印象づける効果はありました。

 興味深いのは、画面の上方から中ほどにかけての背景が、淡い褐色で色づけられていることでした。これによって、さまざまな色で描かれた葉にまとまりが生まれ、動的な様相を保ちながらも、一種の秩序が生み出されています。安定感のある構図になっているのです。

 この作品にも、構図の面白さとモチーフの配置のユニークさに加え、画面に統一感を与える帯状の色彩ゾーンが導入されており、印象的でした。

●「麗糸」

 葉の捉え方のユニークさに驚いたのが、「麗糸」(116.7×80.3㎝、1999年)です。

麗糸
図録より。

 蜘蛛の巣にひっかかった葉がいくつも、まるで糸でつながれた琥珀のネックレスのように優雅に描かれています。地面に落ちてしまうはずの枯れ葉が、蜘蛛の巣にひっかかって固定され、時に風に揺らぎながらも、思いもかけない美しさを見せているのです。

 よく見ると、その中心に黒い蜘蛛が描かれ、四方に伸びる糸をコントロールしています。蜘蛛が描かれた中ほどのゾーンの背後は、まるで光に照らし出されたかのように、淡く明るいベージュ系が配され、そこから上下に向かってグラデーションで暗みを増していき、上と下は柔らかい黒が配され、闇のようです。

 背景色に暗さが増すにつれ、蜘蛛の糸が目立ってくるという仕掛けです。

 この作品を見ていると、何気ないところに美しさを見出し、それを作品化してしまう構想力と画力に感嘆せざるをえません。

■日本の美を再発見し、楽しむことができた展覧会

 この展覧会には、「光を聴き、風を視る」というサブタイトルがついていました。手塚雄二氏の全作品を俯瞰すれば、おそらく、このように表現するのがふさわしいのでしょう。ところが、私は、多くの作品からむしろ、湿気や気温、空気、そして光の扱いの素晴らしさを感じさせられました。

 最初にいいましたように、私が展示作品を一覧して感じたのは、①構図の面白さ、②光の捉え方の斬新さ、③木々の捉え方の大胆さ、④葉の捉え方の繊細さ、等々でした。ですから、そのような観点から印象に残った作品をご紹介してきました。

 まず、構図の面白さという観点から、「嶺」、「裏窓」をご紹介しました。いずれも、外国の建造物をモチーフにした作品です。モチーフの選び方、扱い方、見せ方に意表を突く斬新さを感じました。いずれも堅固で頑丈に思えるレンガ造りの通路や壁、石造りの建物がモチーフでした。

 画面の大部分がそれに割かれているので色調も暗く、見ていると、息が詰まりそうな気持ちになってしまうのですが、そこにわずかながら陽射しを取り込むことによって、ヒトが生きる空間に変貌させられていました。歴史を感じさせ、生活文化を感じさせられたのです。全般に暗い画面の中で、イエローオーカー系の柔らかな色が効いていました。

 光の存在がいかにヒトの心を和ませるか、ヒトの生活に不可欠なものか、改めて感じさせられました。構図が面白いと思って取り上げた「嶺」、「裏窓」でしたが、いずれも光の捉え方もまた見事でした。

 光の捉え方という観点から、取り上げたのが、「こもれびの坂」と「炫」でした。いずれもどこかで見たことがあるような光景でしたが、それが、自然が織りなす美として結晶化されていました。

 光の量によって葉の色が異なり、照らし出される面積によって、土もまた微妙に色合いを変化させています。山中の坂道はこのとき、風によっても異なり、光によっても異なる動的なアート空間になっていたといえるでしょう。美しさを発見する視点の素晴らしさを感じました。

 そして、木々の捉え方の大胆さの観点からご紹介したのが、「静刻」「きらめきの森」「新緑の沼」でした。ここでは大胆な構図を取ることによって、私たちが普段、何気なく見ている木々に新たな光が当てられていました。そうして見えてきたのが、穏やかな陽光、湿り気のある空気、風の気配などです。

 最後に、葉の捉え方の斬新さという観点からご紹介したのが、「秋麗」、「麗糸」でした。穴のあいた葉や枯れ葉がこれほどまでに美しく見えるとは思いもしませんでした。

 ご紹介した作品を振り返ってみると、期せずして、いずれも日本美の極致とでもいえるものだったことに気づきます。私たち日本人は古来、風や大気、光に感応し、目にははっきりと見えないものに美しさを見出し、歌に詠んできました。手塚氏の作品にはこの種のきわめて捉えにくいものが、卓越した構想力と画力でみごとに表現されていたのです。

 私たち日本人はまた、穴のあいた葉や枯れ葉などの欠けたもの、生命を失う寸前のものにも、美を見出してきました。美は春や青春の中にあるのではなく、秋や老残の中にもあるということを古くから日本人は認識していたのでしょう。手塚氏はそのような感性で捉えた光景をさまざまに作品化してきました。

 さらに、手塚氏の作品の多くには、光によってモチーフが独特の風情で浮き彫りにされ、大気や風がそこはかとなく漂う気配が表現されていました。全般に繊細で柔らかな色調で画面が構成されていたせいでしょうか、個々のモチーフが全体と調和し、溶け込んでいるのが印象的でした。

 森羅万象、すべてのものが一つの大気の中に包み込まれていることを感じさせてくれたのです。

 手塚氏の諸作品を見ていると、ふと、日本人の感性はこうだったのかと思わせられるところが随所にありました。諸作品に気持ちの奥底で深い共感を抱いてしまったのは、おそらく、この種の感性が作品に反映されていたからでしょう。日本美の極致を楽しむことができた素晴らしい展覧会でした。

 印象に残った作品をご紹介するのに夢中になってしまい、肝心の 「明治神宮内陣御屏風(日月四季花鳥)」を忘れてしまっていました。 また機会があれば、ご紹介することにしましょう。 (2019年3月22日 香取淳子)

「運び屋」:実話の映画化に必要なものは何か。

■クリント・イーストウッドが主演・監督する「運び屋」

 3月14日、たまたま時間が空いたので、「運び屋」(2018年制作、米映画)を見てきました。現在88歳のクリント・イーストウッドが87歳の時に監督・主演を演じた作品です。イーストウッドといえば著名な俳優なので、これまでに写真は何度か雑誌等で見たことがありますが、映画はまだ見たことがありませんでした。

 ポスターに掲載された顔写真には、90歳近い高齢者ならではの味わい深さがありました。

 目深にかぶった帽子の下から見える横顔・・・、深く刻み込まれた皺、何か言いかけようとしているような口元・・・、どれ一つとって見ても老齢と深い孤独とが滲み出ていることがわかります。ふと見ると、鼻先の脂肪が光って見えます。老いたとはいえ、まだ気力が残っていることが示されています。

 画面右下には、残照の下、ピックアップトラックが一台、広大な荒野の中の道を走っているのが見えます。黄昏の光景に絡め、運び屋としてひたすら運転し続けた孤高の人生が浮き彫りにされているのです。この映画のエッセンスが見事に表現されたポスターでした。

 この映画の原題は「The Mule」、2018年12月14日に公開された米映画で、制作費は5000万ドル、興行収入は3月14日時点のデータで103,804,407ドルです。すでに米国内だけで制作費の2倍以上の興行収入を得ていることになります。

こちら →https://www.boxofficemojo.com/movies/?page=main&id=themule.htm

 今後、高齢化が進む先進諸国での上映が増えていけば、観客も大幅に増加していくでしょう。興行収入は、さらに増える可能性があります。

 「運び屋」というタイトルを見ると、誰しも条件反的に、犯罪映画を思い浮かべてしまうでしょう。私もてっきり、派手なアクションシーン満載の犯罪映画だろうと思っていました。ところが、実際は、そうではなく、味わい深い人生ドラマになっていました。運び屋が高齢者なので、華々しいアクションシーンを設定することができなかったのでしょう。

 その代わりに、高齢者ならではのエピソードが随所に組み込まれており、犯罪映画であるにもかかわらず、ほのぼのとした情感溢れる作品に仕上がっていました。人生を考え、家族を思い、ヒトとしての生き方を考えさせられる映画になっていたのです。この映画はきっと、国境を越え、幅広い観客から共感を得られるようになるでしょう。

■実話を原案に映画化

 この作品は、ニューヨークタイムズに掲載された記事(2014年7月11日付)に着想を得て制作されました。

 ハリウッド・レポーターのボリス・キット氏によると、2014年11月4日、制作会社インペラティブ・エンターテイメントはこの記事の権利を獲得し、ルーベン・フライシャーを監督として映画化に着手したといいます。ニューヨークタイムズに記事が掲載されてから三か月後のことでした。

こちら →https://www.hollywoodreporter.com/news/zombieland-director-tackling-tale-87-746038

 記事の内容は、デイ・リリー(day lily)の栽培で受賞経験もある園芸家が、メキシコを拠点とする麻薬組織の運び屋をしており、2011年、87歳の時に逮捕されたというものでした。麻薬の運び屋というだけなら、よくある犯罪記事にすぎませんが、制作陣はおそらく、運び屋が87歳だったという点に興味を抱いたのでしょう。

 制作陣が記事の段階で権利を押さえていたことからは、映画化の原案としての可能性の高さが示唆されています。確かに、麻薬の運び屋が超高齢者だったという意外性は、さまざまな側面から深く掘り下げることができます。取り上げ方によっては、年齢を問わず、訴求力の強い作品に仕上げることができます。

 晩節をどう生きるかに焦点を合わせれば、大きな社会的関心を喚起する可能性がありました。なんといっても、先進諸国では高齢化が進行しています。そのような現状を考えあわせれば、90歳近いクリント・イーストウッドが監督・主演を担うこの映画が話題作になるのは明らかでした。

 もっとも、この記事が掲載された時点では、まだ主演が誰になるか決まっていませんでした。

 この記事を書いたサム・ドルニックも、2018年12月5日付けのニューヨークタイムズ誌上で、クリント・イーストウッドがこの映画を監督し主演もするとは考えもしなかったと書いています。

こちら →https://www.nytimes.com/2018/12/05/reader-center/clint-eastwood-movie-drug-mule-sinaloa-cartel.html

 さらに彼は、上記の記事の中で、「ツイッターが暇つぶしだなんて誰が言ったんだ?」と皮肉っています。実はこの記事のネタは、サム・ドルニックがたまたまネットでツイッターをスクロールしていたとき、警察の記録簿から見つけたものでした。ですから、彼は、ツイッターは決して暇つぶしの手段などではなく、貴重な情報源なのだといいたかったのでしょう。

 先ほどいいましたように、サム・ドルニックがツイッターで見つけたのは、イリノイ州に住む89歳の園芸家が1400ポンド以上のコカインを、メキシコ系麻薬組織の運び屋として移動させていた廉で、デトロイトで刑を申告されたという情報でした。逮捕時87歳だった運び屋が2年余を経て実刑を宣告されたのです。

 その情報を見てサム・ドルニックは、これはニューズバリューがあるだけではなく、物語に仕立て上げられる内容だと判断しました。そして、老いた運び屋の人生をニューヨークタイムズの記事にしようと思いついたのです。

 この情報には、彼のジャーナリスト魂が刺激されるだけの訴求力がありました。ヒトの心を強く動かすものがあったのです。それはおそらく、90歳に近い高齢者が麻薬組織の運び屋として働いていたということでしょう。

 それまで犯罪歴もない高齢が、なぜ、晩節を汚すようなことをしたのか、私も興味津々です。そこには高齢者ならではの心理、あるいは、生活環境がなにがしか影響を及ぼしていたのかもしれません。いずれにせよ、予想もできない事件でした。だからこそ、主演・監督ともクリント・イーストウッドに変更されたのでしょう。

 当初、ルーベン・フライシャーを監督に起用し、制作体制を組んでいたはずが、どういう経過があったのかわかりませんが、いつの間にか、クリント・イーストウッドがこの映画の監督になっていました。90歳近い高齢者が運び屋であるこの物語にリアリティを持たせるには、主演・監督とも同世代である必要があったのでしょう。

 それでは、メイキング映像をみていただくことにしましょう。

こちら→ https://youtu.be/HA5z-fQKxpc

 出演者たち、そして、クリント・イーストウッドの言い分を聞いていると、彼が主演・監督を務めたからこそ、この映画が成立したことがよくわかります。

■ストーリー構成

 冒頭のシーンでは、デイ・リリー(daylily)の花がクローズアップされます。主人公アールが大切に栽培している花です。ユリ科の植物で、その名(day lily)の通り、花が咲くのは一日限りですが、アールは手間暇かけ、愛しむように栽培しています。

 映画ではこの冒頭のシーンに続き、アールが品評会で金賞を受賞するシーンになります。晴れやかなアールの笑顔がとても印象的です。ところが、周囲から次々と浴びせられる称賛に応じているうちに、うっかり一人娘の結婚式に出るのを忘れてしまいます。栽培家としては高い評価を得ても、家族を顧みることがなかったことの象徴として、このエピソードが組み込まれています。仕事を優先し、他人にかまけて家族をないがしろにしてきたせいで、アールはその後、一人娘や妻から見放されていきます。

 12年後、老いたアールは家族から見放され、家は差し押さえられて、お金も底をついてしまっていました。インターネット時代にアールの仕事が追い付かなくなっていたのです。孫娘だけは心配してくれていましたが、お金がなく、祖父としての役目を果たすこともできません。そんな折、お金になるといわれ、何を運ぶか知らされないまま、目的地まで届ける仕事を引き受けます。

 いわれるままに運転するだけで、予想もしなかった大金を手にして、アールは驚きます。

予告CMより。

 いまにも壊れそうなピックアップトラックに乗っていたアールは、大金を手にしたので新車を購入し、再び、運び屋の仕事を引き受けます。

 途中、ふと気になってトランクを開けると、バッグがたくさん積み込まれています。中を開けると、白い袋がたくさん入っていました。明らかに麻薬です。唖然としていると、背後から近づいてきた警官に、「どうしたんですか?」と声をかけられます。

予告CMより。

 警官とやり取りをしているうちに、警察犬が激しく吠え出しました。それを聞いて警官は車に戻りますが、アールは危険を察知し、自分の方から犬に近づき、痛み止めの薬を嗅がせます。麻薬犬の嗅覚を混乱させることによって、麻薬が車から発見されることを回避します。とっさに知恵を巡らせ、危機をやり過ごしたのです。

 機転の利くアールは、その後、厳重な警察の取り締まりの目をかいくぐって何度も、大量の麻薬を運びます。麻薬組織のボスは喜び、アールの仕事はさらに増えていきます。

予告CMより。

 豪腕の運び屋がいると判断した警察は、敏腕警官を担当に抜擢し、取り締まりを強化します。担当警官はまさか90歳近い高齢者が運び屋だとは思いもしません。ですから、取り締まりの最中にアールと直接会話する機会があったのに、彼こそが当人だと気づくこともありませんでした。むしろ共通の話題に話を弾ませ、いっとき、心を通わせていたほどでした。

予告CMより。

 食堂で隣り合わせた担当警官が、忙しさにかまけ、家族の記念日を忘れていたことを知ると、アールは、さっそく自身の経験を話し始めます。記念日を忘れることがいかに大きなダメージを家族に与えるか、自身の辛い過去を話しました。一人娘からはその後12年半も口をきいてもらえない、悲しい体験を吐露したのです。

 それを聞いて、警官の気持ちは一気にアールに引き寄せられていきます。同じ悩みをかかえた人生の先輩として、アールに親しみを感じてしまいます。追う者と追われる者がいっとき、家族の話題で心を通い合わせるシーンでした。この時の警官が後にアールを逮捕することになります。

 さて、回を重ねるたびに運ぶコカインの量が増え、手にするお金も増えていきます。それに伴い、組織からの監視は厳しくなっていきます。車に監視カメラが取り付けられ、見張り役によってアールの行動は逐一、監視されるようになります。

 それでも、アールは好きなところで車を停め、好きな食堂に立ち寄り、好きなものを食べ、自由自在に動き回っています。そんなある日、孫娘から電話があり、祖母(アールの妻)が危篤だという知らせを受けます。

 いったんは仕事だからと断りますが、思い直し、病床に伏せる妻のところに駆けつけます。思いもかけないアールの帰宅に家族は戸惑い、娘は拒否反応を示します。

予告CMより。

 それでもアールは強引に、病床の妻メアリーに寄り添います。死に瀕したメアリーは、ひどい夫でひどい父親だったけど、最愛のヒトだったといい、アールを許してくれます。そんなアールと母メアリーを見て、娘もついにアールを許すようになります。

 メアリーの死を契機に、アールは娘と和解しました。メアリーのおかげでアールは家族に受け入れられたといっていいでしょう。人生の終わりになってようやく、アールに安堵の時が訪れたのです。

 ところが、安堵の時を得たのも、つかの間、黒のピックアップカーを追跡していた警察にアールは捕まってしまいます。

 それにしても、法廷でのアールの態度がなんといさぎよく、見事だったことでしょう。麻薬組織の運び屋として晩節を汚したアールが、まるで汚名を返上するかのように、弁護士を制し、いさぎよく罪を認めたのです。

 弁護人が、軍人として国のために果敢に戦ってきたこと、人の良さや高齢であることを麻薬組織から利用されただけだということ、等々を主張してアールを弁護したのに、アールは「全てにおいて有罪」だと主張し、自ら刑を受けることを望んだのです。

 エンディングでは、刑務所の中で花栽培に従事するアールの姿が映し出されます。そして、下記のようなフレーズの歌が流れます。

 「老いを迎え入れるな、

  もう少し、生きたいから、

  老いに身をゆだねるな、

  ドアをノックされたら、

  いつか、終わりが来るとわかっていたから、

  立ち上がって、外に出よう」

 歌詞といい、声のトーンといい、しみじみとした味わいがあり、胸に沁み込みます。トビー・キースが歌う「Don’t Let the Old Man In」をご紹介しておきましょう。

こちら →https://www.youtube.com/watch?v=RLp9pkWicdo

 これを聞いていると、次第に、90歳近い年齢で主演・監督を務めたクリント・イーストウッドからのメッセージのように聞こえてきます。

■実話の映画化に不可欠な要素は何か。

 この映画のメインプロットは、ニューヨークタイムズに掲載された記事を踏まえて、作成されています。それを支えるサブプロットとして、家族との関係、老いていく者の矜持、などが組み込まれ、ストーリーが立体的に構成されていました。だからこそ、犯罪映画でありながら、味わい深い作品に仕上がっていたのでしょう。

 つまり、実話にフィクションを加えることによって、大勢のヒトの気持ちを打つ、情感豊かな映画に仕上がったのだと思います。それでは、フィクションに不可欠な要素は何だったのか、考えてみることにしましょう。

 2014年にニューヨークタイムズに記事を書いたサム・ドルニックは、先ほどご紹介した2018年12月5日付けの記事の中で、興味深いことを書いています。この記事を書くに際し、彼は記事の骨組みになるようないくつかの疑問を、数か月にわたって調べたというのです。

 たとえば、なぜ、そのようなことをしたのか? 騙されやすい人だったのか? 詐欺師だったのか? 天才的な犯罪者だったのか? ・・・、といったような疑問です。いろいろ調べた結果、サム・ドルニックはそれらの疑問についてはそれぞれ見解を得ることができたといいます。それでも、ジャーナリストとしての彼にできるのはせいぜいそこまでだというのです。

 サム・ドルニックは、ジャーナリストとしては、調べて知りえたことしか書くことはできないといいます。事実を書くことこそがジャーナリストの仕事の鉄則だというのです。ところが、記事に書く実在の人物は、複雑で、矛盾し、謎めいていて、しかも驚くべき経歴を持つ人々なのです。

 ですから、たとえば、最初にコカインをトラックに運び入れたとき、どう思ったのか、と尋ねても、実際には決して答えてもらえなかっただろうとサム・ドルニックは書いています。そして、仮に調査しつくしたとしても、なぜ運び屋をやったのかわからないし、おそらく当人ですら、わからなかったに違いないといいます。つまり、事実をいくら積み上げても、きめ細かな心理などを浮き彫りにすることはできなかっただろうというのです。

 サム・ドルニックの記事を読み、映画制作者は閃きを感じました。だからこそ、この記事を脚本家のニック・シェンクに送付したのです。そして、シェンクは脚本家としての発案で、高齢の麻薬運び屋に手の込んだバックストーリーを創りました。すなわち、父親に憤慨している娘、家族への罪の意識、ピーカンパイへの好みといったような要素を加え、バックストーリーを創ったのです。

 まさにこの点に、実話からの映画化に際し、フィクションを創り出す専門陣営・ハリウッドが介入する余地があったといえるでしょう。ジャーナリストが紡ぎだした記事では埋めることのできない溝をフィクションで補い、ストーリーを完璧なものにしたのです。

 警察情報から実話として記事を作成したのはジャーナリストのサム・ドルニックでした。ところが、それだけでは映画化することはできず、脚本家ニック・シェンクは新たにフィクショナルな要素をいくつか付け加えました。複雑で矛盾した現実社会を生きてきた実在の人物をリアリティ豊かに再現するための装置ともいえるものです。

 確かに、父親を拒否し続ける娘を登場人物に設定しなければ、アールの深い孤独を浮き彫りにすることはできず、家族に対する罪の意識も観客に深く伝わってこなかったでしょう。そして、出来心で一回だけ運び屋をやったというのではなく、その後何度も麻薬組織の片棒を担いでいたことの理由もわからなかったでしょう。

 老いさらばえて、家族から見放されていたアールは、どこかでヒトから認められたかったのだと思います。大金を手にしたアールが、まるで家族に対する罪の意識を振り払うかのように人助けをしていたのも、その種の承認欲求の現れでしょう。退役軍人クラブの再建に尽力したときに見せたアールの表情のなんと晴れやかなことか・・・。ヒトは何歳になっても、家族や他人から認められたいのだということがわかります。

 さらに、アールはピーカンパイが大好きだという設定でした。ピーカンパイというのは、ナッツを上に載せたパイのような焼き菓子です。子どもが大好きなお菓子ですから、ピーカンパイが好きだというだけで、老いたアールに子どもらしさ、可愛らしさのイメージを加えることができます。映画の中ではトランクを開けていたとき、近づいてきた警官に、アールはとっさの知恵を働かせて、ピーカンパイを話題にし、煙に巻いていました。

 このように脚本家ニック・シェックが新たに付け加えた要素は、ストーリーを強化し、キャラクター像を立体的なものにする効果がありました。なにより大きな効果は、父親を拒否し続ける娘を設定することによって、単なる運び屋のストーリーを情感豊かな人生ドラマに変貌させたことでしょう。

 その結果、観客の心を打つ素晴らしい映画に仕上がりました。実話にフィクショナルな要素を加えてはじめて、ストーリーが強化され、登場人物それぞれにリアリティが感じられ、感情移入も可能な作品世界が生み出されたのです。

 この映画の作品化過程をストーリー構成の観点から読み解いてみて、さまざまなことがわかってきました。

 同じストーリーを扱うとはいっても、ジャーナリストの領分と脚本家の領分とは異なるということ、映画にはフィクショナルな要素が、事実の隙間を埋めるために必要だということ、などを思い知ったのです。

 もちろん、映画の構成要素はストーリーだけではありません。映像や音楽・音響もまた重要な役割を担っています。ただ、今回は、実話からの映画化という点で、「運び屋」に興味を抱いたので、ストーリー構成の観点からこの映画について考えてみました。総合芸術としての映画はこのように複雑多岐で多様、多義的で融通無碍、だからこそ、面白いのだと思いました。(2019/3/17 香取淳子)

JOSHIBISION展覧会:チャレンジする新しい才能との出会い

■「JOSHIBISION2018-アタシの明日―」の開催

 「JOSHIBISION2018-アタシの明日―」が2019年3月1日から6日まで、東京都美術館で開催されました。ここでは、女子美術大学の大学院・大学・短期大学部の学生及び卒業生の中から厳選された作品が展示されています。2018年度女子美術大学の成果を一望できる貴重な展覧会でした。私は最終日の3月6日、訪れました。

会場入り口

 展示作品はどれもさまざまな工夫が凝らされていて、見応えがありました。今回は、とくに印象に残った三人の作家の作品を取り上げ、ご紹介していくことにしましょう。

 会場に入ってすぐ、目に飛び込んできたのが、中村萌氏(2012年、大学院修士課程修了)の作品でした。

■中村萌氏の三作品

 造形された子どもたちの表情がなんともいえず可愛らしく、思わず、立ち止まってしまいました。見た瞬間に気持ちが引き込まれてしまったのです。きわめて訴求力の高い作品でした。

中村萌氏の作品

 向かって右の作品を展示した台の下に、これら三作品のタイトルがまとめて書かれていました。向かって右が「Hello darkness」(油彩、楠)、向かって左が「waiting for spring」(油彩、楠)、そして真ん中が「cloud child」(油彩、楠)です。

 奇妙なタイトルだと思って、しばらく作品を見ているうちに、それぞれ、一日の時間帯、季節、天候を示すタイトルだということがわかってきました。

 「Hello darkness」では、子どもが右手を高く掲げ、「夜さん、こんにちは」(Hello darkness)といっている様子が表現されています。そして、「waiting for spring」では、ひたすら「春を待ちわびて」(waiting for spring)、寒さで縮こまっている様子の子どもが造形されています。さらに、「cloud child」では、「どんよりとした雲の中で佇む子ども」が創り出されています。子どもの姿を借りて、夜、冬、雲が擬人化されているのです。

 いずれの作品も、ともすれば、気持ちが暗くなってしまいがちな環境下で、子どもが健気に生きている様子がしっかりと、しかもユーモアを込めて表現されていました。一見、奇妙だと思ったタイトルが、実は、造形された作品の趣とぴったりと合っていることがわかります。

 どの作品にも、素朴な中に愛らしさがあるばかりか、力強い生命力が感じられました。木材(楠)にくすんだ色の油絵具で着色されているせいでしょうか。土着の強さ、揺るぎのなさ、そして、子どもたちの健気さまでもが巧みに表現されていたのです。

 観察力が鋭く、造形力が確かだからこそ、これだけの作品を制作することができたのでしょう。これらの作品を見ていると、次第に気持ちが和んでいくのを感じました。そればかりではありません、現代社会に生きる私たちが見失ってしまったものが何なのか、作品が教えてくれているような気がしてきたのです。作者が卓越した抽象化能力の持ち主だったからでしょう。表現されたものの背後にある真髄まで堪能することができました。しっかりとした概念の下で、これらの作品が制作されていたことがわかります。

 次のコーナーで目を奪われたのが、村野万奈氏(大学3年、美術学科洋画専攻)の作品です。

■村野万奈氏の「shelter」

 まず、作品が大きな布に描かれているのに驚いてしまいました。しかも、3つの作品が展示されていたのに、タイトルは一つ、「shelter」(アクリル、油彩、色鉛筆、綿布)でした。

 取り敢えず、展示順に三作品をご紹介していきましょう。便宜的に番号を振りました。


「shelter」 1

 木々の陰に子どもたちが隠れています。半身を隠しながら、どの目もじっと観客側を見ています。いったい、何があるのでしょうか。とても気になる絵柄です。

 次に展示されていた作品では、囲われた中を若者たちが俯き加減で、同じ方向に向かって歩いています。ところが、どういうわけか、一人だけ観客の方に顔を向けている若者がいます。なぜなのでしょうか。この作品も気になります。


「shelter」 2

 そして、最後の作品です。


「shelter」 3

 多数のヒトが描かれていますが、観客側を見ている者は一人もいません。ここでは観客への問いかけはなく、作品が画面の中で完結しています。何か異常事態が発生したのでしょうか。男女さまざまなヒトが輪になって集っているシーンです。手前に草木、そして、背後に山のようなものが描かれていますから、ここで集っている人々はコミュニティのメンバーのようにも見えます。

 幸い、タイトルの下に説明文のようなものが書かれていました。

「もういいや、隠れよう。

 きっと見つけてくれるよ。

 その時まで、バイバイ。また会おうね。」

 おそらく、これらのフレーズの一つ一つがそれぞれの絵の概念になっているのでしょう。一連の作品に、観客の注意を喚起し、興味を呼び起こし・・・、という流れを見ることができます。ストーリー性のある作品でした。

 この作品で興味深かったのは綿布を支持体としていたことでした。しかも、大きな綿布の上にアクリル、油彩、色鉛筆で着色されていたのです。その布が吊り下げられているのですから、当然のことながら、絵具の重みで画面には皺ができ、弛みができます。上部の弛みはとくに印象的でした。それらの微妙な弛みや揺らぎが恰好の空気感となって、画面を一種の生命体のように息づかせていたのです。新しい表現手法に工夫の跡が感じられ、素晴らしいと思いました。

 最後のコーナーで、斬新な感覚に溢れていたのが、サ・ブンティ氏(大学院1年、美術研究科前期課程、洋画研究領域)の作品です。

■サ・ブンティ(ZHA Wenting)氏の「八駿猫」

 大きな平台に置かれていたのが、サ・ブンティ氏の「八駿猫」(アクリル、色鉛筆、インク、水彩紙)でした。なによりもまず、作品の大きさとモチーフの斬新さに驚いてしまいました。


サ・ブンティ氏 の作品

 会場におられたサ・ブンティ氏に尋ねてみると、作品自体の大きさは3m×1mで、表装した状態では3.6m×1.3mにもなるそうです。平置きなので俯瞰することができず、全体像がよく見えませんでした。そこで、壁に掛けた状態で撮影した写真を、サ・ブンティ氏から見せてもらいました。

 この写真を見ると、8頭の馬が水面を激しく蹴散らしながら疾走している様子がよくわかります。縦にして見ると、馬に蹴散らされた波が荒々しく立っている様子がくっきりと見えてきました。そして、水面の色と背景のピンク系の淡い色の濃淡がよく調和し、モチーフを柔らかく包み込んでいることに気づきます。

●「八駿猫」

 画面の右上に「八駿猫」と書かれています。この作品のタイトルですが、聞いたことのない言葉です。そこで、タイトルの下に書かれている説明文を読むと、以下のように書かれていました。

「動物も人間社会のような環境を持っていると仮定すれば、動物の目から見たこの世界は全く異なる物なのではないだろうか。今この思想に基づいて、連作を創作している。
この作品は、ネコの頭と馬の身体が融合して生まれた新しい神獣をイメージして出来上がったものだ。構図は中国水墨画「八駿馬」に基づいている。」

会場での説明文より。

 どうやら、「八駿馬」、「ネコの頭と馬の身体が融合した新しい神獣」というのがこの作品のキーワードのようです。そう考えると、「八駿馬」に基づき、「八駿猫」というタイトルのこの作品が生み出された経緯を理解することができます。

 それでは、具体的に作品を見ていくことにしましょう。

 白、グレー、茶、卵黄、さまざまな色の馬が重なり合って、水しぶきを上げながら疾走しています。宙に浮かんだ脚、水面を蹴散らす脚、駿馬たちが目にも止まらない速さで描けていく様子が、躍動感に溢れた構図で描かれています。どの馬も脚、胴体、臀部などの筋肉の付き方が見事です。この部分が「八駿馬」に相当するのでしょう。

 頭部を見ると、大小さまざまな猫がさまざまな表情を浮かべています。左端の猫は大きく目を見開いてきょとんとした顔をしていますし、その右の白い猫は顔を上に向け、愛らしい横顔を見せています。そして、グレーの猫は恥じらう様子を見せながら、顔をそっと観客側に向けています。その右の茶色の猫は観客側を見つめ、右端の猫は大きく口を開けて顔を上に向け、怒ったような表情を見せています。

 画面が大きすぎて、5匹の猫の顔を収める写真しか撮影できませんでしたが、これが「八駿猫」に相当するのでしょう。さまざまに描き分けられているところに、卓越した画力を感じさせられました。毛の一本一本が色鉛筆で描かれているのです。

 これを見ていると、一口に猫といっても実体はさまざまだということがわかります。色や毛並みが異なれば、顔付きも異なっています。それぞれの性格を反映するかのように表情もさまざまに表現されていました。人間社会と同様、猫もまたそれぞれ、個性をもつ存在であることが示されています。そして、それらが全て逆さまに描かれているところに、メッセージ性が感じられます。

●「八駿馬」vs「八駿猫」

 調べてみると、「八駿馬」は紀元前11世紀ごろ、周王朝の穆王が所有していたという8頭の駿馬を指すことがわかりました。「絶地」(土を踏まないほど速く走れる)、「翻羽」(鳥を追い越せる)、「奔霄」(一夜で5000㎞走る)、「越影」(自分の影を追い越すことができる)、「踰輝」と「超光」、(いずれも、光よりも速く走れる)、「騰霧」(雲に乗って走れる)、「挟翼」(翼のある馬)、といった具合に、8頭の駿馬がいかに速く走るかがさまざまに形容され、説明されていました。

 ただ、それだけでは具体的なイメージを思い浮かべることができません。そこで、画像を検索してみると、さまざまな画像が見つかりました。その中で最もわかりやすいものを一つご紹介しておきましょう。

 こちらは水墨画のように抽象化されていないので、わかりやすく、イメージしやすいと思います。水面を蹴散らすように駆け抜ける8頭の駿馬の様子が克明に描かれています。野を駆け、川を駆け、海までも駆け抜ける勢いが伝わってきます。とてもリアルな画像です。

 再び、サ・ブンティ氏の作品に戻りましょう。

 具象画の「八駿馬」とサ・ブンティ氏の「八駿猫」を見比べてみると、「八駿猫」で描かれた世界がいかに可愛らしく、ファンタジックに仕上げられているかがわかります。

 「八駿馬」に基づいて書かれていますから、「八駿猫」でも8頭の馬が水面を駆けている様子が描かれています。水しぶきが激しく散っていますから、駿馬の速さを容易に想像することもできます。

 「八駿馬」と決定的に異なっているのが、頭部の表現とピンク系の背景色、そして、波間に漂う魚のようなモチーフです。これらの要素こそ、この作品の独自性であり、伝統に持ち込まれた革新性であり、さらには、観客が「八駿猫」にファンタジックなものを感じる要因になっているのでしょう。

●構想と構成

 駿馬が疾走する足元の水面に、何やら妙なものが見えます。よく見ると、この奇妙なものは波間に漂うように、随所で浮遊しています。

 尾ヒレ、背ヒレが描かれていますから、きっと魚なのでしょう。ところが魚の顔に相当する部分には眉や鼻、口が描かれており、明らかに人間の顔をしています。まるで人面魚のようなものが波間に浮かんでは消えていくように描かれているのです。

 サ・ブンティ氏に尋ねてみると、もし私がこの水面下にいる魚だったら、何が見えてくるだろうかと思って描き込んだといいます。そして、これも作品コンセプトに基づくものだと説明してくれました。

 そういわれてみると、猫の顔を逆さまにする、魚の顔を人間にする・・・。一見、奇妙に思えたモチーフの描写も、実は、ヒト中心で動いている現代社会への問いかけではなかったかと思えてきます。

 ヒト中心に組み立てられた世界は、動物から見れば、どう見えるのか。ヒトが劣位に置かれた場合、世界はどう見えてくるのか。さらには、ネガティブなイメージはポジティブなものに変換できるのか、といった具合に、この作品にはいくつものテーマが含まれており、知的な刺激を受けました。

 この作品を見ていると、絵画は非言語的な媒体だといいながら、実は、明確なコンセプトに基づいた論理的な画面構成がいかに重要かを思い知らされます。つまり、構想を作品化する過程で、言語的な処理が必要なのです。論理的に作品化を考えたからこそ、作者は画面上の全てのモチーフを、整合性を保って配置することができたのでしょう。

■チャレンジする新しい才能との出会い

 この展覧会に参加し、素晴らしい作品に出会うことができました。ここでは特に強く印象づけられた三人の作家をご紹介してきました。三者三様、チャレンジ精神にあふれており、新しい才能の出現を感じさせられました。

 中村萌氏は、木材(楠)に油絵具で着色するという技法で、独自の作品世界を構築していました。作品はどれも一見、可愛らしく、微笑ましく、ほのぼのとした印象が強いのですが、実はとても力強く、観客の気持ちを本源的なところで強く揺り動かす力がありました。

 そして、村野万奈氏は、綿布にアクリル、油彩、色鉛筆で着色するという技法で、独特の世界を創造していました。三つの展示作品にタイトルは一つでしたから、三幕構成で制作された作品だといえるでしょう。一幕目と二幕目は謎を残すような画面構成でした。ストーリー性のある作品構成に新鮮さをおぼえました。

 最後に、サ・ブンティ氏は、水彩紙に、色鉛筆、アクリル、インクで着色し、伝統を踏まえながらも、見たこともない斬新な作品世界を生み出していました。コンセプトが明確で、しかも、きわめて論理的に作品化されているところに豊かな知性を感じさせられました。

 ご紹介した三人の作家の作品を見ていると、新しい才能が次々と誕生しつつあることを感じさせられます。いずれもモチーフや表現技法、素材の可能性に挑戦し、独特の世界を創り上げようとする熱意が感じられました。そこに、芸術家に必要なチャレンジ精神を見たような思いがしました。今後、彼女たちがどのような表現世界を展開してくれるのか、おおいに期待したいと思います。(0219/3/8 香取淳子)