前回、1890年から1894年にかけてリュスが描いた点描画作品をご紹介してきました。
厳格な点描法に従って描いた作品もあれば、ドットを大きく、不揃いにして描いた点描画もありました。
たとえば、太陽光に照らされたモチーフを描く場合、リュスは、ドットを小さく、揃えたタッチで描き、陽光の存在を際立たせていました。一方、陽光はさまざまな影を生み出しますが、影色を工夫し、均質なタッチで描くことによって、画面に陰影とリアリティをもたらしていました。
点描画法によって、陽光の輝きとモチーフのリアリティをともに、表現していたのです。
一方、日没、あるいは、闇夜の下でモチーフを描く場合、ドットを大きく、不揃いなタッチで描いていました。小さなドットでは表現しきれない情緒や情感といったものを、自由度の高いタッチで描出していたのです。
おかげで、日没の微妙なトーンを表現することができていましたし、闇夜を照らす街灯、あるいは、月光といった光源そのものがもたらす幻想性を表現することもできていました。
陽光の下での自然や人物の姿に始まり、日没時のパリの光景、闇夜の市街地や波止場の情景といった具合に、時間帯の異なる画題を取り上げ、モチーフに与える光と影の効果を探っていたといえるでしょう。
この時期の作品を観る限り、リュスは、点描法について、光と影の両側面から、その表現効果を実験していたのではないかという気がします。
これらの作品の中で、点描法を使いながら、陰影があり、リアリティもある画面を創り出していたのが、人物をモチーフにした作品でした。
そこで、今回は、その後の作品の中から、市井の人々をモチーフにした作品を取り上げ、見ていくことにしたいと思います。
■市井の人々
●《La Rue Mouffetard》(ムフタール通り、1889-1890年)
パリ左岸にあるムフタール通りは、パリ市中でもっとも賑わう通りの一つです。丘の上にあったおかげで、1853年から1870年にかけて行われたパリ大改造の際も、この通りは作り替えられることなく、昔の面影を残しているといわれています。
リュスはこの作品を、俯瞰アングルで描いています。人々が行き交うムフタール通りの賑わいを画面に収めるためなのでしょう。確かに、この俯瞰アングルのおかげで、手前の広場での人々の動き、通りの奥に広がる人々の流れがよくわかります。
(油彩、カンヴァス、80.3×63.8㎝、1889-1890年、Musée d’Orsay所蔵)
手前の広場では、人々が値段を交渉したり、物を買ったり、売ったりしています。話し込んでいる人がいるかと思えば、両腕に荷物を抱えている人、思案している人もいます。奥のムフタール通りでは小さな店が並び、その前を人々が商品を物色しながら、行き交っています。
服装といい、姿勢といい、ちょっとした振る舞いといい、リュスは、集まった人々それぞれの特徴を見逃さず、仔細に描き分けています。しかも、この場の賑わいを、点描画法で描き出しているのです。
興味深いのは、さまざまな動きをする市井の人々を、それぞれの特徴を踏まえて描きながら、画面が混乱していないことでした。何故だかわかりませんが、画面がきわめて秩序だって構成されているように見えるのです。
一つには、色の使い方、もう一つは、建物の垂直ラインの使い方にあるのではないかという気がします。
まず、色の使い方で印象に残ったのは、手前の広場と奥のムフタール通りの路面が白っぽい色で統一されていることでした。行き交う人々の土台に明るい白を使うことで、人々の服装を引き立てる一方、広場と通りが共通の空間であることを意識させる効果があります。
また、広場には白いワンピースの女性に白い大きなエプロンを付けた女性、そして、ムフタール通りに入っていく所には、白いスーツを着た男性、通りの中ほどには白いエプロンの子どもや女性が、配置されています。まるで白い衣服によって観客の視線を誘導しているかのように見えます。これら、白い衣服の人物を広場や通りに適宜、配置することで、奥行き、特に縦方向の広がりを感じさせます。
そして、もう一つは、並び立つ建物の垂直ラインが一種の罫線の役割を果たしているのではないかということです。これら建物に潜む垂直ラインが、雑多なモチーフを秩序立てて見せる効果をもたらしていたように思えました。
建物の色彩についていえば、手前の建物は暖色系と寒色系とを並べて色構成されており、画面を引き締める役割を担っていました。
この作品では、大勢の人々を描きながらも、混乱することなく、賑わうムフタール通りの様子が、活き活きと捉えられていました。メインカラーを何にするか、構図をどうするか、フレームとなる建物の役割をどうするか、といったようなことを考え、制作にとりかかっていたからだという気がします。
その結果、スーラ―由来の厳格な点描法で描きながらも、生気を失うことなく、動きのある光景が捉えられていました。構図の効果であり、モチーフの配置、色構成の効果といえます。
さらに、もう一つ、市井の人々の生活光景を捉えた作品があります。
●《The Quai Saint-Michel and Notre-Dame》(サンミッシェル埠頭とノートルダム、1901年)
ノートルダム大聖堂を背景に、サンミッシェル埠頭を捉えた作品です。
(油彩、カンヴァス、73.0×60.5㎝、1901年、Musée d’Orsay所蔵)
まず、目につくのは、背後に聳え立つノートルダム大聖堂です。辺りはすでに陽は落ち、大聖堂の建物だけが、残照を受けて輝いています。大きく、威容を誇る姿に圧倒されます。
しかも、点描法で描かれているせいか、荘厳なゴシック様式の建築に、典雅な美しさが加わっています。暮れなずむひととき、ノートルダム大聖堂は、堂々とした美しさと力強さを見せつけていました。
それに引き換え、サンミッシェル埠頭を行き交う人々が、なんと暗く、力なく見えることでしょうか。
人々が描かれている辺り一帯は、すでに陽が落ち、夕刻の気配が立ち込めています。描かれているのは、おそらく、仕事を終え、用事を済ませ、家路を急ぐ人々なのでしょう。
手前には、背負い子を背負い、俯き加減に歩く男性、子どもに手を引かれた高齢女性、中ほどには、台車を引く男性、人力車を引く男性、いずれも背中を丸め、遠目からも疲れて見えます。埠頭を歩く人々もまた、精彩がありません。
さらに、遠方に目を向けると、ノートルダムに向かう橋には、大勢の人々が描かれています。こちらは、個を識別できないほど小さく描かれており、ただの群衆とみるしかありません。
こうしてみると、この作品は、画面中ほどで分割される二つのモチーフで構成されているといえるでしょう。
一方は、残照を浴びて煌めくノートルダム大聖堂であり、他方は、名もなく、力もない市井の人々です。ノートルダム大聖堂に象徴されるものが権力と富と名声だとすれば、陽光の恩恵もなく、精彩を欠きながら生きていかざるをえない民衆の象徴といえるでしょう。
この二つのモチーフを対比して描くことによって、リュスは、当時のパリの社会構造、あるいは、社会状況を浮き彫りにしているように思えました。
点描法はこの二つのモチーフ、どちらにも馴染んでいます。まず、ノートルダム大聖堂については、点描法のおかげで、荘厳でありながら、繊細な美しさ、品の良さを加味して表現することができていました。
一方、市井の人々については、点描法のおかげで、均質化した民衆という側面を表現することに成功しています。人々は、小さなドットを重ねて描かれながらも、姿形が特徴を踏まえて描かれているので、彼らの生活ぶりを推察することもできます。
均質化した小さなドットで色彩を置いていく点描法だからこそ、この二つのモチーフの特徴を活かして表現することができたといえるでしょう。
リュスは、黄昏時の光と影の部分を見事に使い分けながら、名もなく、富みもなく、力もない民衆と、権力と富と名声の象徴とを表現していたのです。構図といい、色構成といい、素晴らしい出来栄えの作品です。
さて、市井の人々をモチーフにした二つの作品、《La Rue Mouffetard》と《The Quai Saint-Michel and Notre-Dame》を見てきました。共通するのは、市井の人々に対するリュスの暖かな眼差しです。
なぜ、そうなのかということを考える前に、もう一つ、別の作品を観ておくことにしましょう。
《The Quai Saint-Michel and Notre-Dame》が描かれたのが1901年、その30年前の1871年、パリでは民衆が蜂起し、自治政府が作られました。いわゆるパリ・コミューンです。
当時、リュスは18歳、ちょうど木版画職人の見習い工を終え、ゴブラン製作所で働いていた時期でした。
多感な時期にリュスは、暴動を経験し、血なまぐさい殺戮を何度も目にしてきました。政府軍との戦いで殺された人々の記憶はしっかりと脳裡に刻み込まれていたのでしょう。リュスはパリ・コミューン時の経験を踏まえ、1903年から1904年にかけて、作品化しました。
無残にも、路上に放置されたままの犠牲者たちの姿を描いた作品です。
■立ち上がり、路上のつゆと消えた民衆
リュスがこの作品の制作に取り掛かったのが1903年、そして、終えたのが1905年でした。2年もかけて、この大作に挑んでいたのです。数多くの悲惨な記憶の中から、どの光景をモチーフとして選び、どう描くか、さまざまに試行錯誤を重ねたに違いありません。
そして、リュスが選んだのが、路上に放置された犠牲者たちの姿でした。
●《A Street in Paris in May 1871》(1871年5月コミューン下のパリの街路、1903-1905)
手前の路上に、1人の女性と3人の兵士が血を流し、倒れています。後方にも1人、兵士が倒れています。
(油彩、カンヴァス、151×225㎝、1903-1905、オルセー美術館)
手前で放置された犠牲者たちは、建物から長く伸びた影によって覆われ、強い陽射しから守られているように見えます。一方、後方の兵士は建物の影が及ばない中、放置されています。もっとも、横向きで俯いた姿勢なので、少なくとも顔面は、強い陽射しから保護されているように見えます。
リュスは光と影を使い、モチーフに対する思いを巧みに表現していました。
パリ・コミューン時、リュスの心には深く、無念の思いが刻み込まれたに違いありません。だからこそ、犠牲者の尊厳を守り、弔いの気持ちを表しつつ作品化しようとしたのではないかと思います。
そのために、彼は建物から伸びる長い影を利用しました。影が一種の覆いのように、犠牲者たちを保護するような構図を考えたのです。そして、背後の建物や歩道を淡い色でスケッチ風にまとめ、大きく広がる影の存在を際立たせるようにしていました。
このようにして表現された影がもたらす優しさは、犠牲者たちに対するリュスの哀悼の気持ちでもあったと思います。
このようなリュスの思いは、犠牲者たちの描き方にも、反映されていました。
この作品では、凄惨な殺戮現場でありながら、犠牲者たちはまるで眠っているように見えます。
彼らの顔や身体に損傷は見られません。ただ、口から血を吐き、頭や耳から血を流しているぐらいです。そのせいか、仰向けに倒れている男性も女性もその表情は、とても穏やかです。使命感で戦い、命を落としたことを誇りに思っているようにすら見えます。
それは、おそらく、リュスが死者の尊厳を傷つけることなく、凄惨な現場を描こうとしていたからでしょう。そこに、リュスの、犠牲者に対する敬意の念が込められているように思えます。
この作品から読み取れるのは、リュスの犠牲者に対する敬意と優しさでした。
たとえば、同じパリ・コミューンの犠牲者を描いた作品でも、次のようなものもあります。比較のために、ちょっと見てみることにしましょう。
●《Casualties of the Paris Commune, 1871》(パリ・コミューンの犠牲者、1871年、1871年)
この作品は1871年に制作され、作者不詳の作品です。
(紙、鉛筆、サイズ不詳、1871年、個人蔵)
作者はおそらく、犠牲者たちの姿を見たままに描いたのでしょう。
数多くの犠牲者たちが並べられ、その周囲には棺桶がいくつも置かれています。窓から陽光が射し込み、身体の一部を照らし出しています。犠牲者が物体として扱われ、処理されていく苛酷な現実が描かれていました。
この作品からは、犠牲者たちへの弔いの気持ち、尊厳を守ろうとする気持ちはいささかも感じられませんでしたが、悲しいことに、これが現実なのです。
改めて、犠牲者たちに対するリュスの優しさが好ましく思えてきます。
同じパリ・コミューン時の犠牲者を扱いながら、リュスの作品《A Street in Paris in May 1871》と作者不詳の作品《《Casualties of the Paris Commune, 1871》》には大きな違いがありました。
記憶と記録による違いとでもいえばいいのでしょうか。
事件発生後30年余を経た後、リュスはこの作品の制作に着手しました。その後、2年を経て完成させています。その間、リュスの中で当時の記憶は次第に純化し、見たくないものは除外していくと、あのようなモチーフと画面構成になったのだと思われます。
一方、製作者不詳の作品は、当時、作者が見たままの光景が作品化されています。当時の現場からの報告であり、現場写真と同様、優れた報道記録といえます。
労働者階級の息子として、モンパルナスで生まれ育ったリュスは、彼らに深くシンパシーを感じてきました。肖像画家カロリュス・デュランの下で学びながらも、華麗なブルジョワジーの肖像画を描くことはなく、老いた小母さんの肖像画を描いたにすぎませんでした。というのも、リュスが労働者階級としてのスタンスを保持し続けたからでした。
リュスは、労働者が働く姿を捉えた作品をいくつか残しています。二つほど、ご紹介しましょう。
■労働者
リュスには、過酷な現場で働く労働者を描いた作品がいくつかあります。その一つに、製鉄所で働く人々をモチーフにしたものがあります。
●《L’Aciérie》(製鉄所、1899年)
燃え盛る炎を前に、男たちが作業をしています。
(油彩、カンヴァス、92×73.3㎝、1899年、個人蔵)
熱気は、後方で休憩している男たちのところまで、立ち込め、画面全体が炎で照り輝いています。辺り一面、どこもかしこも、火の粉が舞い散っている様子が、点描法ならではの細かいタッチで、巧みに表現されています。
改めて、点描法は光の粒子や火の粉を表現するとき、その効力を最大限に発揮することを思い知らされました。
この作品の場合、炉の壁面や床、男たちの衣服や帽子に、サーモンピンクが適宜、散らされています。それは、観客に火の粒子をイメージさせる一方、炉で働く男たちの苛酷な労働を象徴するものとして効いているのです。
点描法のタッチに、サーモンピンクという色を載せて、現場に立ち込める熱気を丁寧に掬い上げ、過酷な労働現場をイメージ豊かに表現しているのです。
ところが、過酷な労働現場のはずなのに、描かれている画面からは、その実感が伝わってきません。
一体、何故なのでしょうか。
改めて、画面を見てみました。
舞い散る火の粉を浴びながら、男たちは炎に向かって気持ちを一つにし、働いています。男たちの視線はすべて炎に向けられ、その炎が焦点化されています。そこに、男たちの主体性が感じられ、観客の目を画面に引き込む力を放っていました。
労働を苦役と捉えるのではなく、神聖な行為と捉える男たちのリリシズムを感じさせられたのです。使命感を持って、一致団結して働くことに意義を見出し、そのための労苦を厭わないという心構えが醸し出すリリシズムです。
さきほど、ご紹介したパリ・コミューンの犠牲者といい、この製鉄所の男たちといい、リュスは、民衆や労働者をモチーフとして共感を持って描き、そこから美しさを引き出していることに気づきます。
リュスにはこれ以外にも、労働現場を描いた作品があります。
●《Les batteurs de pieux》(杭打ち機、1902年)
杭打ち機を集団で動かしている男たちの光景が描かれています。背後には煙が立ち上る煙突がいくつも描かれており、沿岸部の工場地帯であることがわかります。
(油彩、カンヴァス、154×196㎝、1902年、Musée d’Orsay所蔵)
男たちは皆、帽子をかぶり、上半身は裸で、杭打ち機の紐を引っ張っています。6人の男たちが力を合わせて紐を引っ張り、杭打ち機を引き上げては落とし、穴を掘る作業をしているのです。
過酷な労働現場であることは確かです。
男たちの剥き出しになった腕や肩、脇腹に陽光が当たり、キラキラと輝いているように見えます。思い思いの姿勢で紐を引っ張る男たちの、隆々とした筋肉の盛り上がりが、陽射しの中で強調されています。過酷な労働を引き換えに手にした精悍な肉体です。
画面を見ているうちに、ふと、リュスは、逞しい身体つきの男たちを賛美して描いているのではないかという気がしてきました。
そう思ってしまうほど、描かれている男たちは明るく、生き生きとした表情を浮かべていたのです。
彼らはおそらく、引き上げ作業の際は大きな声を掛け合い、気持ちを一つにしながら、渾身の力を振り絞っていたのでしょう。そのせいか、画面からは労働賛歌の雰囲気が濃厚に滲み出ています。
ここでも、光と影がうまく活用されていました。もちろん、点描画法も同様です。
点描法は、背後の工場群のくすんだ様子を描くのに活かされていました。その一方で、男たちの盛り上がった筋肉の上で光る汗粒の表現にも活かされていました。くすみの表現にも輝きの表現にも点描法が活用されていたのです。
労働現場を描いた作品からは、リュスが労働者をいかに肯定的に捉えていたかがわかります。
■パリ・コミューンと労働者階級
労働者階級を中心とする民衆が一時、パリを占拠し、自治政府を樹立していたことがありました。それがパリ・コミューンです。先ほどご紹介した作品、《A Street in Paris in May 1871》の背景となる政治状況でした。
リュスの作品には、「1871年5月」という文言が入っています。これは、血の一週間といわれる時期を指しており、1871年3月18日に樹立された世界最初の社会主義政府パリ・コミューンが消滅に向かっていく期間でもありました。
当時の様子をまとめた16分58秒の動画がありますので、ご紹介しましょう。9分以降、「血の一週間」について説明されます。
こちら → https://youtu.be/4a31larqXts
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この頃、民衆は、「市民の生命は鳥の羽根ほどの重さもない。イエスかノーかを問わず、逮捕され銃殺される」といわれる状況に置かれていました。
そんな折、ドイツの占領軍が包囲する停戦下で、正規軍の崩壊と民衆の武装蜂起という、きわめて特殊な状況下で、パリ・コミューンは成立したのです(※ 福井憲彦編『フランス史下』、2021年3月、山川出版社、p.124-125.)
パリ各区から選出された代議制による組織であるパリ・コミューンは、民衆の生活を守るための政策を打ち出し、推進しようとしていました。ところが、彼らには、社会政策として標榜していた政策を実現するための時間はなく、政府軍との攻防に明け暮れざるをえませんでした(※ Guillaume de Berthier de Sauvigny, 鹿島茂監訳『フランス史』2019年4月、講談社、p.472-473.)
元来、民衆蜂起を母体とした自治政府でした。理論的にも組織的にも脆弱だったばかりか、軍事的にも大きな弱点がありました。
政府軍が態勢を立て直してくると、コミューン側は劣勢を覆すことはできなくなり、いったんは降伏を決断します。ところが、「降伏などせず、闘いながら死ぬこと、これこそがコミューンの偉大さを形成」するという声に押され、死闘を繰り広げざるをえませんでした。
この「血の週間」と呼ばれる凄惨な市街戦は、パリを奪還しようとする政府軍とコミューン側との間の熾烈な戦いでした。無差別殺人が至る所で発生し、老若男女を問わず、多くの市民が殺傷されていったのです。
20万人といわれたコミューン側は、終には、3万人にのぼる戦死者を出し、瓦解しました。1871年5月28日、パリ市全域は鎮圧され、コミューンは崩壊したのです(※ 福井憲彦、前掲、p.125.)。
1871年3月18日から1871年5月28日までのわずか72日間、労働者階級を中心とする民衆が、パリ自治政府を樹立していました。
彼らは、自治都市パリを基点に、全国にコミューン連合を広げていこうとしていました。そこに着目し、アナーキストたちは、パリ・コミューンをあるべき社会組織として理想視(※ 福井憲彦、前掲、p.126.)していたといいます。
実は、思想的にリュスは、アナーキズムに共鳴しており、アナーキストが出版した刊行物に挿し絵を描いたりしていました。当時の政治状況、社会状況、文化状況を考えると、当然のことといえるかもしれません。(2022/7/31 香取淳子)