ヒト、メディア、社会を考える

06月

「身野友之油絵展」に見る日本の詩情

■第11回「身野友之油絵展」の開催
 6月23日、東武デパートに出かけたついでに6F美術画廊を訪れてみると、「身野友之油絵展」が開催されていました。期間は6月21日から27日(最終日は16:30で閉場)までです。

 展覧会を頻繁に訪れ始めたのが、せいぜいここ3年ほどのことなので、残念ながら、私はこの画家のことは知りませんでした。ですから、まったくの興味半分で、ふらっと会場に入ってみたのです。

 会場には30点ほどの作品が展示されていました。どの作品も一見、何気ない風景が描かれているのですが、見ているうちに、どういうわけか、気持ちが締め付けられる思いがしてきます。いつもなら、さっと通り過ぎてしまうような画風なのですが、つい、作品ごと丁寧に見入ってしまいました。

 いったい、なぜ、そのような気持ちに捉われてしまったのでしょうか。考えてみたいと思います。

■「湖畔の道」
最初に作品を見たときの印象は地味で、なんの変哲もなく、さっと通り過ぎてしまいそうになりました。ところが、次の作品に移ろうとすると、どこか引っ掛かりを感じてしまい、引き返し、しげしげと見入ってしまった作品がいくつかありました。

 たとえば、「湖畔の道」という作品があります。これは、東武デパートのチラシに掲載されていた作品ですが、やはり気になるものがあって、しばらく足を止めてしまいました。

こちら →
(油彩、727×500㎝、画像をクリックすると、拡大します)

 どこかで見かけたことがあるような風景が描かれています。エッジの効いた風景ではなく、どちらかといえば、ありふれた光景を捉えた風景画です。ところが、見ているうちに、なぜか、切ない気持ちに襲われてしまいます。

 これは、遠景、中景、近景で構成されている風景画です。遠景に幾重にも連なる山々、中景にひっそりと肩を寄せ合うようにして建つ家々、そして、近景に低い石垣を左手に道路が描かれています。近景で描かれた道路の右側は草も生えておらず、荒れ地のようになっています。その荒れ地のようになっているところに、地を這うように雑草が生え、ピンクの小花をつけています。

 左側の石垣は延々と続いて近景と中景をつなぎ、観客の視線をはるか遠くの家並みに誘導していきます。よく見ると、石垣の内側に、ほとんど隠れてしまいそうになるほどわずか、屋根の一端が見えます。

 石垣の長さからは、敷地の広さが推測されます。かつては富豪の家だったのかもしれません。そう思えば、湖畔につづく手前の荒れ地は大勢のヒトが行き来した痕跡のようにも見えてきます。

■アングルの効果
 こうしてみてくると、一見、何気ない風景のように見えるこの作品に、見過ごすことのできない何かを感じてしまった理由がわかったような気がしてきます。この風景を、このアングルから捉えることによって、この集落の歴史、いってみれば栄枯盛衰の過程が見事に表現されているのです。一枚の絵でありながら、この集落の過去、現在、そして、未来までを想像させる力を持った作品でした。

 この作品を見て、胸が締め付けられるような気持ちになってしまったのはおそらく、観客の気持ちを深いところで刺激する訴求力を、この絵が持っていたからでしょう。その訴求力の源泉として大きく作用しているのが、先ほどもいいましたように、なんといっても、風景の切り取り方です。

 この絵は、盛りを過ぎた陽射しの下、ヒト気のない集落を含む風景が切り取られ、描かれています。試みに、この作品を要素に分解して見てみると、モチーフの取り込み方、配置の仕方、色調などが一体となって、この風景になんともいえない興趣を添えていることがわかります。

 改めて、この絵を見てみると、家並みまでの道のりが長く設定されていることに気づきます。通常、大人が立ってこの風景を見たとき、おそらく、このようには見えないでしょう。視点が低く設定されているのです。いってみれば、子どもの視点です。

 だからこそ、集落につながる道が必要以上に長く見え、水辺に至る草地のなだらかさが際立って見えます。さらには、手前で群生するピンクの小花に目が留まるのも、子どもの視点で捉えられた光景だからだといえるでしょう。このような低い視点の設定が、この風景に独特の味わいを醸し出しているのは明らかです。

■近景・中景・遠景、相互の統一感
 さて、この作品はラフに見ると、大きく3つの台形で構成されています。手前の道路と三角形の湖面が一つ目の台形とするなら、中ほどの家並みとその背後の山々が二つ目の台形、そして、大きく広がる青空が三つ目の台形です。それぞれに関連する色調が部分的に取り込まれ、全体が調和するよう工夫されています。

 たとえば、道路の右側にはわずかに湖面が見え、深い群青色が基調の湖面に静かな小波が立っています。その背後には幾重にもつながる山々が描かれ、後ろの山は湖面の群青色をさらに深くした色で表現されています。それら地上の一切合切を、大きく包み込むように描かれた青空には、要所要所に浅い群青色が配され、深さが感じられます。空と山と湖がこうして色調面で連続性を持たせられ、絵全体の統一感が生み出されています。

 山際には雲がうっすらと浮かび、どこまでも広がる青空の下、集落を包み込むようにして連なる山並みに、どっしりとした安定感が感じられます。この作品では、悠然とした営みをつづける山々にひっそりと寄り添って生きてきたヒトの暮らしが、見事に浮き彫りにされています。

 誰もが、いつか、どこかで、見たことのある風景です。この風景の中にはヒトと自然とのかかわり、連綿と続いてきた両者の営みが的確に表現されています。いってみれば、ヒトと自然が調和して営みを繰り返してきた歴史が刻まれているのです。だからこそ、観客の心を奥深いところで捉えて離さないのでしょう。

 ひょっとしたら、これが、身野友之氏の作品のエッセンスといえるものなのかもしれません。風景の捉え方の中に、深い人間観察の力が隠されているのです。だからでしょうか、どこでも見かける風景でありながら、観客の心を捉えて離さない強さがあるのです。

 それにしても、単なる風景画から、いったい、なぜ、そのように感じてしまうのでしょうか。似たような作品を取り上げ、身野友之氏の作品の魅力について考えてみることにしましょう。

■「夏の午後」
 改めて展示作品を見渡してみると、どれも風景を捉える構図が際立っていることに気づきます。といっても、決して鋭角的な際立ち方ではありません。観客を静かに作品世界に誘い込む力が際立っているのです。

 たとえば、「夏の午後」という作品があります。

こちら →
(油彩、410×273㎝、画像をクリックすると、拡大します)

 この作品もまた、田舎に行けばどこでも見かける風景のように見えます。道幅を大きく取り、左手に建物の塀、畑地を置いて、茅葺の家、瓦屋根の家と続き、道の先にはなだらかな山が見えます。

 遠景の山が低く見えますから、描かれている集落はきっと高度の高いところにあるのでしょう。右手には草むらの一端が見え、小道をはさんで瓦屋根の家が見えます。こちらは道路側にややせり出しており、その先の道は建物でふさがれて見えません。

 夏の陽射しが家々、草むら、木々を強く照らし出しています。屋根瓦と庇、木々や草むらに落ちる白い光で、強烈な夏の暑さと静寂が感じられます。夏の日の午後、暑い陽射しが照り付ける農村の一角が見事に捉えられています。

 この作品をラフに見ると、なんの変哲もない道路を中心に、建物が種々、配置されています。集落の一端が捉えられているのですが、ヒトの気配はありません。強い陽射しと、ここに住むヒトが代々、住んできたであろう様式の建物が描かれているだけです。ところが、この一枚の絵の背後に、この地に暮らす人々の過去、現在、そして未来の生活の営みが見えてきます。

 おそらくそのせいでしょう、見ているうちに、記憶の底に眠る情感が掘り起こされ、気持ちが強く揺さぶられるような錯覚に陥ってしまいます。何気ない風景でありながら、観客の心を鷲づかみにする強さが作品に潜んでいるのです。

■見慣れたはずの風景に潜む詩情
 最近、公募展などを見ても、油彩画で素晴らしいと思える作品に出会える機会が少なく、限界を感じていました。日本人には油彩画は向いていないのではないかとさえ思うようになっていたのです。とくに、日本人が日本の素材を表現するには適切ではないのでは・・・、という気がしてなりませんでした。

 ところが、たまたま身野友之氏の作品を見て、油彩画の可能性を感じさせられました。今回、二つの作品しか取り上げられませんでしたが、いずれも日本の素材を見事に油彩画で表現し、日本の詩情を心ゆくまで、豊かに奏でています。そのような作品を見たからこそ、油彩画の可能性を感じることができたのです。

 日本の詩情を奏でるとはどういうことかと問われても、即答はできませんが、「湖畔の道」あるいは「夏の午後」を見たとき、心の奥底から突き上げてきた、あの感情を生み出すものとでもいえばいいでしょうか。

 ヒトと自然が一体となって溶け込み、一つの風景を創り上げたとき、その風景には自ずと、過去、現在、未来にいたる時間軸が組み込まれていきます。身野友之氏がモチーフとして風景を取り上げると、ヒトの世の移り変わりもまた、その画面に深く反映されていきます。その結果、絵の具で表現されたモチーフの背後に潜む歴史が詩情を生み、観客の心を打つようになるのでしょう。

 日本的詩情を喚起するには、もちろん、身野友之氏の優れた写実力が欠かせません。彼の作品を目にしたとき、どこかで見たことのある風景だと思ってしまうのは、おそらく、この卓越した写実力のせいでしょう。ところが、よく見ると、単なる写生ではなく、身野氏ならではの風景の捉え方、切り取り方があって、独特の画面が創出されているのです。

 だからこそ、観客は作品の前で、どこか引っ掛かりを覚え、言葉にならない感情が湧きたってくるのでしょう。心の奥底に潜んでいた何かが揺り動かされたような気持ちとでもいえばいいのでしょうか、見ているうちに、居ても立っても居られないような気分になってしまうのです。

 興味深いことに、ありふれた風景画のように見えながら、どの作品も妙に観客を引き込む力がありました。詩情と表現しうるものが画面から滲み出ているのです。会場で目にした一連の作品はいずれも時代を超えることができると思いました。(2018/06/30 香取淳子)