ヒト、メディア、社会を考える

10月

東京ドラマアウォード2015:グローバル市場進出ドラマの要件を探る

■海外ドラマ特別賞受賞作品を巡って
 2015年10月22日、千代田放送会館で「東京ドラマアウォード2015」の一環として、海外作品特別賞のシンポジウムと上映会が開催されました。プログラムおよび登壇者は以下の通りです。

こちら →http://j-ba.or.jp/drafes/press/pdf/drafespress20151013_1j.pdf

 登壇者は、タイから『サミー・ティトラ~夫の証~』のエグゼクティブ・プロデューサーと監督、韓国から『ミセン~未生~』のチーフ・プロデューサーと脚本家、日本からTBSのプロデューサー、NHKのエグゼクティブ・プロデューサーなど、いずれもヒットドラマを制作してこられた方々です。そして、モデレーターは、上滝徹也・日本大学名誉教授です。

 なぜ大ヒットドラマを制作することができたのか、ここでは報告に沿って、タイと韓国のケースをみていくことにしましょう。

 『サミー・ティトラ~夫の証~』は、年間最高視聴率14.9%を記録するほどタイで大ヒットした番組です。しかも、今回の作品をプロデュースしたエグゼクティブ・プロデューサーのA・トーンプラソム氏は、前作で主役を演じたタイを代表する女優だったそうです。実際、会場で見ると、まるでハリウッド女優のように美しく、華やかでした。

 もう一人の登壇者、A・ジットマイゴン氏はメロドラマにかけては定評があるといわれている女性監督です。彼女の名前をネットで検索すると、どういうわけか、中国のサイトで頻繁にヒットします。彼女が監督したドラマは中国でもよく見られているようです。たとえば、2009年に制作された『愛のレシピ』は中国語タイトル『爱的烹调法』としてネットで視聴できますし、DVDも販売されています。

こちら →li_17084_li_601_m2
http://movie.douban.com/photos/photo/2199671477/より。

 興味深いことに、この『愛のレシピ』の主人公は、『サミー・ティトラ~夫の証~』のエグゼクティブ・プロデューサーのA・トーンプラソム氏でした。どうやらお二人はこれまでになんどか、監督と主演女優のコンビとしてラブストーリーを制作されていたようです。

■身近な題材を手掛かりに
 今回、海外作品特別賞に選ばれた『サミー・ティトラ~夫の証~』もやはりラブストーリーです。2014年2月19日から4月20日まで、チャンネル3で13話が放送されました。You tubeから46秒のPR映像をご紹介しましょう。

こちら →https://www.youtube.com/watch?v=lTLkJ9o2nY8
最初にCMが流れた場合、スキップしてご覧ください。

 これは主人公と対立関係にある登場人物のやり取りのシーンです。このような激しさは日本のドラマではあまり見かけませんが、愛する男性を巡る女性同士の諍いはラブストーリーには付き物です。愛の得難さ、守り難さを描くには欠くことのできない仕掛けなのかもしれません。

 この作品を監督したA・ジェットマイゴン氏は、視聴者にはドラマを見て楽しんでもらいたいし、ドラマによって喚起される感情を深く味わってもらいたいといいます。だからこそ、波風の立つシーンを随所に設定し、日本人からみれば過剰だと思えるほどの感情表現を演出するのかもしれません。彼女は『サミー・ティトラ~夫の証~』の視聴率が高かったのは、身近に起こりうる出来事を題材にしたラブストーリーだったからだと説明しました。

 エグゼクティブPDのA・トーンプラソム氏も同様の見解です。たとえば、女性は配偶者を選ぶとき、相手のどこを見て適否を判断しているのか、最愛の配偶者を自分だけのものにしておきたいという欲求に駆られたとき、どのような行動に出るのか、といったようなことは誰もが身近に経験する出来事です。このドラマはそのような人生のパートナーとのラブストーリーを題材にしたので、視聴者の共感を得やすく、高視聴率につながったのだと分析しました。

■制作環境に基づいた戦略を
 それでは、韓国の場合はどうでしょうか。

 今回受賞した『ミセン~未生~』は、ケーブルテレビ局tvNによって制作され、2014年10月17日から12月20日まで放送されました。カタログを見ると、最終話でケーブルテレビとしては異例の10.3%もの視聴率を取ったそうです。地上波が圧倒的な強さを見せる韓国のドラマ市場でなぜケーブル局制作のドラマが大ヒットしたのでしょうか。

 脚本家のチョン・ユンジュン氏はこのドラマが視聴者の共感を生み出すことができたからだといいます。それも幅広く、深い共感を呼び起こすことができたからこそ、大ヒットにつながったのだという認識です。

 彼女もタイの制作者たちと同様、ラブストーリーは視聴者の共感を得やすいといいます。ところが、このドラマを制作するにあたって、ラブストーリー以外に視聴者の共感を得やすいものは何かと探したのだそうです。というのも韓国ではいま、視聴者を惹きつけるドラマの題材やテーマが枯渇しており、これまでのようにラブストーリーだというだけでは見てもらえる状況ではなくなっているからだというのです。

 一方、チーフPDのイ・チャンホ氏は、tvNは来年でようやく設立10周年を迎える歴史の浅いテレビ局なので、大衆受けする俳優がなかなか出演してくれないといいます。キャスティングはドラマを見てもらうための重要な要素です。ところが、それが難しいとなれば、ドラマを成功させることはできません。検討を重ねた結果、シナリオ中心のドラマ制作をめざすことにしたと説明しました。

 脚本家のチョン・ユンジュン氏も、tvNはテレビ局として認知度がきわめて低く、戦略的にならざるをえなかったといいます。韓国のドラマ市場は地上波で占拠されており、ケーブルが参入するのはきわめて難しい状況でした。どの層をターゲットにするのか、何を題材にどのようなテーマを設定するのか、それまでとは一線を画したドラマ作りを模索せざるをえなかったというのです。

 韓国で日本ドラマや米国ドラマを見ているのは20代だそうです。いってみれば、新しいジャンルのドラマを受け入れる可能性のある層です。そこで、制作陣はこれまではケーブルテレビの視聴者層ではなかった20代をターゲットに絞り込んだそうです。結果を見ると、このターゲティングは正解でした。

 主人公は26歳の男性です。

こちら →IMG_20150112_210011-300x200
http://kstyletrip.com/blog/?p=1072より。

 主人公のチャン・グレは7歳のときから囲碁の神童と呼ばれ、プロ棋士を目指して生きてきたのに、入段試験に落ちてしまいました。仕方なくアルバイトや日雇いの仕事をしていましたが、コネで総合商社に入社することができ、高学歴の社員に交じって働くようになったという設定です。学歴もなければ、社会経験もありません。どちらかといえば、一般の視聴者よりも低い立場の若者を主人公に設定したのです。

■幅広い共感を生むドラマ
 ITジャーナリストの趙章恩氏は、このドラマの韓国社会での反応を次のように記しています。

 「「未生」がヒットした理由は、自分の話のようだと共感する人が多いからだ。ネット上には、未生を自分の物語として受け止める書き込みが非常に多い。(中略)また、「未生」は就職準備中の大学生にも人気だ。ドラマの中に登場するインターンの仕事ぶりや社員らの処世術も見どころだからだ。」
 http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20141030/273187/より。

 これは日経ビジネスonline(2014年10月31日)に書かれた記事ですが、多くのヒトがこのドラマに共感したことは韓国メディアでも次々と取り上げられていました。幅広く視聴者の共感を誘うことが大ヒットの条件であることは明らかです。

 もっとも、非正規職を転々とする若者の間では、これは「勝ち組」の物語だとする批判的な意見もあったようです。韓国では学歴がなければ正規職に就くのが難しく、主人公が大手商社にコネ入社したという設定そのものが、リアリティのないファンタジーに過ぎないと思えたのでしょう。

 現実社会では、仮に大手商社に入社できたとしても仕事ができなければ、バカにされたあげく、退社させられてしまいます。厳しい環境で生きる多くのサラリーマンにとって、必死になって仕事を覚え、周囲に溶け込もうと努力する主人公の姿は、鏡に映った自分の姿でもありました。物語を構成するエピソードも、誰もがいつか、どこかで経験するような出来事です。多くのサラリーマンにとってはまさに身につまされる「自分の物語」だったのです。

 もちろん、似たような環境で働く女性は主人公に自分を重ね合わせることができますし、そうではない場合も恋人や夫、息子の姿を重ね合わせて視聴することができます。プロ棋士になれなかった27歳の男性を主人公にすることによって、このドラマは幅広い層の共感を得るのに成功しました。描かれるサラリーマンの生活は多くのヒトにとって身近なものであり、ドラマに同化できる格好の題材だったのです。

You tubeから2分8秒のPR映像をご紹介しましょう。

こちら →https://www.youtube.com/watch?v=luMWE_NeGso
最初にCMが流れた場合、スキップしてご覧ください。

『ミセン~未生~』の原作は、web仕様の漫画です。原作者のユンテホさんは主人公をプロ棋士の夢に破れた若者に設定した背景を次のように語っています。

 「出版社から提案があった。提案されたのは、囲碁とサラリーマンを結びつけた話だった。囲碁の世界には我々の生活にも役立つ哲学的な言葉や教訓が多い。出版社は囲碁9段の人が世間に向かって語るという話を希望していたが、納得がいかなかった。そこでプロの棋士になれなかった人が主人公になるのがふさわしいと思った。」
http://www.asahi.com/articles/ASH2Q4227H2QUHBI00L.htmlより。

 興味深いのは、「囲碁の世界には我々の生活にも役立つ哲学的な言葉や教訓が多い」という理由で、棋士を主人公にしようとしたことです。構想の段階で、漫画の原作者と出版社が教訓を得られやすい作品を志向していたことがわかります。

 ドラマ『未生』はこのような要素をさらに増幅させています。ラブロマンスの要素を抑え、サラリーマンの哀歓を中心にストーリーを展開させています。ですから、多くの視聴者の感情移入を誘って共感を深めただけではなく、さまざまなシークエンスから視聴者が人生訓を引き出せるようにすることができたのです。

 それでは、国境を超えたドラマには何が必要なのでしょうか。アジア市場、グローバル市場に不可欠な要素とは何なのでしょうか。

■アジア市場、グローバル市場に向けて
 韓国のイ・チャンホPDは、ドラマへの感情移入が最も大切だといいます。登場人物に同化し、感情移入を誘うことができれば、言語、文化が異なっていても主人公と共に悩み、悲しむことができ、ドラマが作り出す世界に入っていくことができます。ですから、愛や友情といったものをテーマにすれば、アジアの視聴者の共感を得ることができるのではないかというのです。

 一方、韓国のチョン氏は脚本家として、ドラマ作りにおいてアジア市場、グローバル市場というようなことは考えていないといいます。興味深いことに、国際共同制作については否定的な見解を吐露しています。

 たしかに、これまで日韓共同制作でいくつかドラマが制作されたことがありますが、成功したとはいえません。チョン氏がいうように、双方が対立した際、折り合いをつけるという解決方法を取ることによって、ドラマとしてのパワーを弱めてしまったからでしょう。調整するという行為には突出した部分を削るという作業が含まれます。これは、何人かの美人のパーツを寄せ集めてコンピュータで写真を合成しても、魅力ある顔にならないのと同様です。突出した部分を調整することによって魅力を半減させてしまったのです。

 もっとも、チョン氏は国際共同制作を完全否定しているわけではありません。もし、そういうことになれば、題材やテーマについて双方が合意の下で共同作業をしていく必要があるといいます。

 それぞれの文化を背負った制作陣が制作を巡って対立した場合、折り合いをつけることによってではなく調和を生み出し、ドラマのパワーを削ぐのではなく、引き出すことができれば、素晴らしい作品を生み出すことができるのかもしれません。

 チョン氏はさらに、世界に通じるドラマ作りについて、「もっとも韓国的なものがもっとも世界的なもの」といわれたことがあったが、文化の要素を盛り込んだものが継続的にヒットするとは思えないといい、ストーリーテリングこそが重要だと指摘します。

 そして、『未生』のように社会現象を盛り込んだドラマが中国や日本でも通用するのか疑問だといいます。社会問題そのものよりも、むしろ、社会問題に対応する普遍的な人間の感情、対立、どのように乗り越えることができたのかといったようなものが共感を生んできたのではないか。ですから、とくに普遍的な情緒を描くストーリーテリングが大切だといいました。

 タイの監督A・ジットマイゴン氏はアジアの文化には共通の要素がある、とくに人々の繊細さが共通しているので、共感できるテーマを選ぶことが大切だといいます。そして、文化に焦点を当て、海外に伝えていくことができれば素晴らしいと述べました。

 PDのA・トーンプラソム氏は、相手国の文化を知り、理解し合うことが大切だといいます。それには連続ドラマを見るのが一番だというのです。ただ、そのために自国の文化を必要以上にドラマに入れ込む必要はなく、見て、感じてもらえばいい。見ているうちにその国の文化が自然にわかってきます。ですから、俳優が交流することが大切だと指摘しました。

■グローバル市場:ドラマ進出の要件
 「東京ドラマアウォード」は2008年、放送コンテンツの海外発信のために、「市場性」「商業性」を重視した賞として創設されました。そして、「東京ドラマアウォード2015」の一環として、今回のシンポジウムが開催されました。登壇者はいずれも大ヒットドラマの制作者たちです。各人の発言がかみ合い、内容の充実したシンポジウムだったと思います。

 現在、ICTの進歩によって世界はどんどん狭くなっています。国境を超えることが容易になったのにともない、ヒトの人間観、人生観まで似てきています。とくに、ドラマをパソコンか、スマホ、タブレットで視聴する若者の感性は驚くほど似てきています。これまでに比べ、はるかに国境を越えて共感を得やすい社会状況になっているといえるでしょう。ドラマのアジア市場、グローバル市場を支える環境はすでに出来上がっているのです。

 それでは、ドラマの海外進出の要件は何なのでしょうか。

 登壇者の方々は、自国でヒットしたドラマの要因として異口同音に、身近な題材で共感を得やすいテーマを設定したことだと述べられました。裏返せば、多くの視聴者がドラマに求めるものがそういうものだということになります。先ほど述べたように、ICTの進歩によって国境を越えて社会状況、生活環境が似てきているとすれば、これをそのままドラマの海外市場進出の要件と考えることができそうです。

 ただ、ドラマのリズムやテンポといったテイストの部分で受け入れられにくい部分が出てくるかもしれません。まさに固有の文化に相当する領域ですが、そのような課題もストーリーテリングの力で乗り越えられるでしょう。

 テレビドラマは小説と違って、具体的な事物を映し出すことによって物語が構成されます。抽象化の度合いが低いだけに、目に見える現象に引きずられやすく、しっかりとしたストーリーテリングが必要になります。ストーリーテリングに魅力があり、視聴者に受け入れられさえすれば、そのような文化的差異が逆にドラマの魅力の源泉になるかもしれません。テレビドラマの今後に期待したいと思います。(2015/10/28 香取淳子)

『FALL OUT』から『渚にて』再訪

■『渚にて』と『FALL OUT』
 2015年10月18日、東京大学駒場キャンパス 21KOMCEE East の2F、K212教室で、ドキュメンタリー映画『FALL OUT』の上映会および討論会が開催されました。ちなみに、fall outとは放射性降下物を指します。

こちら →
http://www.australia.or.jp/repository/ajf/files/whatsnew/fallouttodai.jpg

 オーストラリア学会からこの知らせを受けたとき、私はぜひとも参加したいと思いました。『渚にて』をもう一度、考えてみる機会が欲しかったのです。実は中学2年生のころ、私はこの『渚にて』を見ています。担任の先生に引率されて映画館に見に行ったのですが、見終えてしばらく、人類は放射能汚染によって滅亡するのだという恐怖に捉われていました。この映画を見て、生まれてはじめて死を意識したことを思い出します。

 もちろん、人類が滅亡するといっても悲惨なシーンはどこにも出てきませんし、見た目の恐怖感もありません。むしろビーチで楽しむ人々の様子、とくにアンソニー・パーキンスとドナ・アンダーソンが演じた若いカップルの出会いは微笑ましく、友だちと「いいね」と語り合っていたほどでした。

 ところが、その幸せだったカップルとその子どもがやがて安楽死に追い込まれていきます。放射性降下物の南下がメルボルンにまで及んできたからでした。幸せな生活から一気に絶望のどん底に突き落とされてしまうのです。

 当時、中学生だったせいか、私は、中年のグレゴリー・ペックやエヴァ・ガードナーよりも、若いアンソニー・パーキンスが登場したシーンの方をよく覚えています。ですから、グレゴリー・ペックとエヴァ・ガードナーの関係にそれほど興味はなく、あまり覚えてもいなかったのですが、どうやら、この中年カップルの描き方を巡って原作者のネビル・シュートは、監督のスタンリー・クレイマーに強い不満を抱いていたようなのです。

 上映会で『FALL OUT』を見ると、シュートの娘が、「父はクレイマーが勝手にハリウッド風に変えたと怒っていた」と証言しています。シュートの作品ではそれまで登場人物が婚外交渉を持つよう設定されたことはなかったのだそうです。

 ところが、『渚にて』ではグレゴリー・ペックが演じる原子力潜水艦艦長の恋人役としてエヴァ・ガードナーが登場します。原作にはなかった変更ですが、このラブロマンスが人類滅亡のストーリーに華を添えていることは確かです。これについて、クレイマーの代弁者は「ハリウッドでやっていくにはあらゆる人を満足させなければならないから」と説明しています。

 娯楽映画にロマンスは付き物です。とくにハリウッド映画である限り、メッセージ性の高い社会派映画も決して例外ではありません。『渚にて』には婚姻外のラブロマンスが導入されました。DVDのジャケットを見ると、グレゴリー・ペックとエヴァ・ガードナーが抱き合うシーンの写真が使われています。原作者がハリウッド風に変更されたと怒る箇所であり、監督が商業映画として成功するよう調整した箇所でもあります。

 このように、いま、紹介したことは、『FALL OUT』によって明らかにされる『渚にて』の舞台裏のほんの一例です。映画『渚にて』を見ただけではわからなかった当時の諸状況を、ドキュメンタリー映画『FALL OUT』を見ることによって、より深く知ることができます。

 『FALL OUT』は、ローレンス・ジョンストン監督、ピーター・カウフマン製作によるドキュメンタリ―映画で、上映時間は86分です。映画『渚にて』(スタンレー・クレイマー監督、1959年製作)とその原作である小説『渚にて』(ネビル・シュート、1957年刊行)を題材に、関係者へのインタビューをつなぎ合わせて構成されています。

 18日のイベントはまず、ドキュメンタリー映画『FALL OUT』が上映され、その後、3人の登壇者によるコメントの発表という流れで進められました。

■若いカップルの役割
 『渚にて』には主人公の中年カップルと脇役の若いカップルが登場します。アメリカ原子力潜水艦艦長とその恋人、そして、オーストラリア海軍少佐とその妻、この二つのカップルです。オーストラリア海軍少佐は北半球からの不可解な電波を突き止めるため、この原子力潜水艦に乗り込んだという設定です。メインストーリーの展開には中年カップルがかかわり、サブストーリーを牽引する役割を担わされているのが、若いカップルです。

こちら →

AUSTRALIA. 1959. From left to right, American actors Gregory PECK, Ava GARDNER, Donna ANDREWS, Anthony PERKINS during the filming of "On the Beach" by Stanley KRAMER. 1959.

AUSTRALIA. 1959. From left to right, American actors Gregory PECK, Ava GARDNER, Donna ANDREWS, Anthony PERKINS during the filming of “On the Beach” by Stanley KRAMER. 1959.


http://www.magnumphotos.com/C.aspx?VP3=SearchResult&ALID=2K7O3R1PY8GQより。

 上の写真の4人にオーストラリア科学工業研究所の科学者を加えた5人が、放射性物質による人類滅亡のストーリーを展開させていきます。

 改めて『渚にて』を見直してみると、アンソニー・パーキンスとドナ・アンダーソンが演じた若いカップルが、実は重要な役割を果たしていることに気づきます。彼らはグレゴリー・ペックやエヴァ・ガードナーほど多く登場しているわけではありません。いわば脇役です。ところが、その脇役が一般視聴者の私たちにとても近いところに位置付けられており、この物語をしっかりと支えているのです。

 たとえば、二人が海岸で出会うシーンがあります。

こちら →On-Beach
http://www.cornel1801.com/video/On-Beach/ より。

 海岸で出会った二人は愛を育くむようになり、やがて子どもが生まれ、家庭を築き上げていく・・・、ごく普通の男女にみられる生活の一コマです。二人にとっては幸せの絶頂であり、決して忘れることのできない大切な思い出です。

 アンソニー・パーキンスとドナ・アンダーソンが安楽死の直前に思い起こすのもこの海岸での出会いでした。互いに愛を確認し、幸せな日々だったと感謝し合った後、ふと、妻のドナ・アンダーソンが「あの子、かわいそう」といい出します。愛を知らないまま、死んでいく運命にあるわが子を嘆いたのです。しかも、その死を自らが与えなければならないのです。

 このシーンでは核爆発の当事者ではないにもかかわらず、このような過酷な運命を受け入れざるをえないことの悲惨さが示されています。

 このように、映画『渚にて』ではラブロマンスが適度にちりばめられ、幸せそうに見える生活シーンが織り込まれていました。だからこそ、深刻なテーマの映画だったにもかかわらず、中学生の私は画面から目を背けることもなく真剣に見入っていたのでしょう。その結果として、ごく自然にこの映画が放ったメッセージを重く受け止めることができたのだと思います。

■強奪された自己決定権
 『FALL OUT』を見ると、原作者のシュートは安楽死についても、映画では米国風に美化していると批判していたといいます。ところが、中学生だった私は若いカップルが安楽死に至るシーンもよく覚えているのです。死を前にして静かに語り合うカップルの会話からは、無念さがひしひしと伝わってきたことを思い出します。見た目の悲惨さが描かれなかったからこそ、逆にメッセージを深く受け止めることができたといえます。

 安楽死のための錠剤を飲む直前に、二人が語り合うシーンをYou tubeで見つけました。4分27秒の映像をご紹介しましょう。

こちら →https://www.youtube.com/watch?v=AIFvXc_iMiI
最初にCMが流れますので、スキップしてからご覧ください。

 ごく普通に暮らしていた若いカップルの生活が、突如、放射能汚染によって破壊されてしまいます。北半球から南下してきた放射性降下物によって、自分たちの命が奪われるばかりか、愛しいわが子を自分の手で殺めなければならないことを知ったとき、どれほど悔しく、理不尽で、無念な思いに苛まれたことでしょう。それら一切が、若いカップルの静かな語らいの中に見事に表現されています。

 ここにこの映画のメッセージの一端が凝縮されているような気がします。

 このシーンは、コバルト爆弾によって北半球が壊滅し、南下してきた放射性降下物のせいでついにはオーストラリアのメルボルンで暮らしている人々まで死を免れなくなってしまうという状況の一端です。ここで表現されているのは、時空を超えた破壊力を持つ放射性物質の恐さであり、当事者でなくても地球にいる限り、一蓮托生で被害を被ってしまうことの理不尽さです。

 さらに、安楽死を選択せざるをえなくなった若いカップルの姿からは、自己決定権を奪われてしまったことの無念さが浮き彫りにされています。若いカップルとその子どもはヒトの生命力の象徴といえます。その若いカップルと幼い子どもが安楽死に追い込まれていくのです。もはや子孫を残すことはできません。このシーンによって、人類そのもの死滅が表現されているのです。

 2011年3月11日に発生した福島の原発事故以後、ふとした拍子に、記憶の奥底に眠っていたこのシーンが思い出されるようになりました。

■登壇者のコメント
 『FALL OUT』上映後に、制作者のピーター・カウフマン氏、中央大学教授の中尾秀俊氏、法政大学講師の川口悠子氏によるコメントが発表されました。

 制作者のピーター・カウフマン氏は、『渚にて』を深く掘り下げたくてこのドキュメンタリーを制作したといわれました。たしかに、今回、『FALL OUT』を見て、当時の政治状況、ハリウッドの見解、オーストラリア政府の核への見解、英国から見たオーストラリア、当時の政治家の反応、等々がよくわかりました。小説や映画と合わせてこの作品を見ることで、さまざまな観点から核に対する理解が深まります。

 カウフマン氏は福島原発事故からこの作品を着想し、オーストラリアの放送局に企画を持ち込んだそうです。けれども、実現せず、スクリーン・オーストラリアの財政支援によってようやくこの長編ドキュメンタリーが完成したといいます。そして、2015年3月19日、この映画は被爆地広島で公開されました。

こちら →
http://www.pcf.city.hiroshima.jp/ircd/joho/ibent%20428%20(FALL%20OUT).pdf
 
 以後、3月25日に京都で公開され、東京での公開は10月18日に開催されたこのイベントがはじめてだそうです。

 中尾氏は、『渚にて』の政治的文化的背景について、資料を駆使して説明されました。興味深かったのは、アイゼンハワー大統領が原子力の平和利用を唱えた翌年、ビキニ環礁で核実験を行ったこと、ソ連が1961年に実施した核実験「ツァーリ・ボンバ」は世界最大級のもので、広島に投下された原爆の3300倍にも及ぶものであったこと、などです。冷戦時代、核兵器は拡大の一途を辿っていたことがわかります。

 『FALL OUT』を見ていると、当時の国際政治の状況、社会状況などがよく見えてきます。『渚にて』はクレイマー監督の戦略で、世界18都市で同時に公開されましたが、そのオープニングには世界の政治家、著名人が多数、鑑賞したそうです。冷戦時代だからこそ、いっそう現実味を帯びて核問題に関心がもたれたのでしょう。『渚にて』は大成功を収め、以後、国連で核軍縮が議論されるようになったそうです。

 さて、川口氏は原作を読んでまず、「そんな感じでいいの?と思った」といわれました。それは、死をめぐる表現、加害者不在の描き方、偶発性が強調されて責任が拡散、等々への違和感からくるものなのでしょう。川口氏が「清潔な死」と表現されたのを興味深く思いました。そして、そこに米国の核イメージの反映を見、広島・長崎の被爆との不連続性を見るところに、氏のシャープな洞察力をみた思いがします。

 さらに、川口氏は、「どの立場から記憶するのか」「何を記憶するのか」という観点を提示し、「認識ギャップを埋める対話の可能性」を強調されました。実際、原爆を体験することは不可能です。だからこそ、誰もが当事者であるという意識をもち、立場の違いからくる認識ギャップを埋めていく必要があるのかもしれません。

 終了後、登壇者の方々を撮影させていただきました。左から順に、中尾氏、カウフマン氏、川口氏です。

こちら →IMG_2328 (2)

■『FALL OUT』、当事者意識
 『FALL OUT』の冒頭のシーンで、「この頭上に核兵器が。地球に住めなくなる日がくる」というアメリカのケネディ大統領のスピーチが流れます。そして、「一般社会に核兵器が溢れてきた。数が増えれば滅亡に近づく」という言葉が続きます。米ソ冷戦下の当時、放射能汚染がきわめて身近だったことがわかります。

 その後、第三次世界大戦は起こらず、核兵器による放射能汚染も起こりませんでしたが、2011年3月11日、将来に禍根を残す原発事故が福島で発生しました。『渚にて』で放射性降下物の破壊力を警告されていたにもかかわらず、この原発事故によって日本は放射性物質の汚染に晒されたのです。その後の対応も適切なものではありませんでした。もちろん、汚染物質が降下したのは日本ばかりではありません。風向きによって汚染物資は3日から6日で米大陸にも届いたそうです。

 福島原発事故からの教訓は、核兵器だけではなく、原子力発電所もまた大きなリスクを抱えていることが判明したことです。福島の原発事故によって、平和利用であれ、産業利用であれ、核物質はいったん爆発すれば、空間的にも時間的にもその破壊力は果てしなく広がり、しかも持続することがわかりました。

 ところが、いま、世界を見渡せば、クリーンエネルギー源として原子力発電所が多数、建設されています。核兵器を所有する国も以前に比べはるかに増えています。いつの間にか、いつでも、だれでも、どこでも、放射性物質の被害者になりうる時代になってしまっているのです。いまこそ、当事者意識を抱いて核問題を考える必要があるのかもしれません。

 『FALL OUT』を製作したカウフマン氏は、両親から『渚にて』がメルボルンで撮影されたことを聞いて育ったそうです。当時のメルボルンにとってこの映画がどれほど重要な価値を持つものであったか、人々がどれほど熱狂してロケハンを迎え入れたか、等々。ですから、『渚にて』に関してカウフマン氏はいわば当事者意識を持っていたといえます。

 さらに、ウラン産出国の国民としての立場からもカウフマン氏は核問題に関心を抱かれているようでした。オーストラリアはウランを大量に産出し、世界中に販売しています。エネルギー源として利用されているのかもしれませんし、核兵器に使われているのかもしれません。いずれにしても、オーストラリアは核問題から逃れられないという認識の中に、カウフマン氏の当事者意識を垣間見ることができます。

 ドキュメンタリー作品の製作にはテーマに関する製作者の当事者意識が深く関与するのでしょう。『FALL OUT』では、マンハッタン計画は取り上げられていますが、広島、長崎の被爆者は取り上げられていませんでした。当事者意識は関心領域とも深くかかわっていますから、これは当然のことかもしれません。

 こうしてみると、視聴者、読者は、どのようなコンテンツにも文化的、政治的、社会的バイヤスがかかっているのだという前提で見たり、聞いたり、読んだりする必要がありそうです。論議を呼ぶようなコンテンツについてはとくに、どの立場から製作されているのかも視野に収めておいた方がいいでしょう。

 『渚にて』が製作された時とは比較にならないほど、いま、世界中に核兵器、原子力発電所が溢れています。いつ何時、核爆発が起こり、放射性降下物によって世界が汚染されてしまわないとも限りません。そう考えると、今後、誰もが当事者なのだという意識を踏まえたうえで、川口氏のいう「認識ギャップを埋める対話」を進めていく必要があるのでしょう。『FALL OUT』を見て、『渚にて』を再訪し、私はさまざまな思いに駆られてしまいました。(2015/10/21 香取淳子)

世界の大学ランキング、増加する日本の子どもの「学びからの逃走」

■世界の大学ランキングの結果
 今年もまた世界大学ランキングが発表されました。昨年23位だった東京大学は今年43位と大きくランク落ちしました。京都大学も同様、昨年は59位だったのが今年は88位です。

こちら →http://www.huffingtonpost.jp/2015/10/01/tokyo-university_n_8230366.html

 アジアのトップはシンガポール国立大学、2位はランク42位の北京大学、そして、東京大学はアジアで3位という順です。上位10校のうち9校が英米の大学でした。

 興味深いのは、英米の難関校が上位を争う中、スイスのスイス連邦工科大チューリヒ校が9位に入っていることです。スイスのチューリッヒにある自然科学と工学を対象とした単科大学が奮闘しているのです。ウィキペディアによると、この大学は1855年に創設され、これまでにノーベル賞受賞者を21名も排出しているそうです。それだけ業績をあげている大学がランキング9位なのです。上位に食い込むのがいかに難しいかがわかります。

 評価項目は、以下の5分野から設定されています。

こちら →https://www.timeshighereducation.com/news/ranking-methodology-2016

• Teaching (the learning environment)
• Research (volume, income and reputation)
• Citations (research influence)
• International outlook (staff, students and research)
• Industry income (knowledge transfer)

①教育(教育環境)、②研究(量、収入、高い評価)、③引用(研究の影響)、④国際観(スタッフ、学生および研究)、⑤産業収入(知の移転)等々の5項目でした。それぞれの項目の配分比率は順に、30%、30%、30%、7.5%、2.5%でした。

 それぞれの項目について綿密な調査が行われ、各項ごとに集計して配分比率を加味し、結論が導き出されたのです。

■世界の大学学術ランキング
 大学ランキングを出しているのはいま紹介した「TIMES HIGHER EDUCATION」だけではありません。 「ACADEMIC RANKING OF WORLD UNIVERSITIES」も同様に世界の大学のランキングを出しています。

こちら →http://www.shanghairanking.com/ja/ARWU2015.html

 このランキングでは18位までが英米の大学で占められており、さきほどのスイス連邦工科大チューリヒ校は20位でした。そして、東京大学は21位、京都大学は26位といずれも上位にランクしています。日本のトップ校はアジアでもトップでした。

 一方、さきほどのランキングでアジア1位だったシンガポール国立大学はここでは101-150位で、北京大学、ソウル大学、復旦大学など50校と同順位でした。評価項目、評価手法等によってランキング順位が大きく異なってくることがわかります。

 世界の大学学術ランキングの評価手法は以下の通りです。

こちら →http://www.shanghairanking.com/ja/ARWU-Methodology-2015.html

 評価項目は4分野から6項目が設定されており、それぞれの配分比率は以下のようになっています。

教育質量    ノーベル賞やフィールズ賞を受ける卒業生の換算数 10%
教師質量    ノーベル賞やフィールズ賞を受ける教師の換算数  20%
        高被引用科学者数 20%
科学研究成果 《Nature》や《Science》で発表された論文数* N&S 20%
   (SCIE)と(SSCI)に収録された論文の換算数 20%
教師の平均表現 上述の五項の指標から得た教師の平均表現 10%
* 純粋な文系大学に対して、N&Sの指標ではなく、その比重に比例して、他の指標を使用。

 さきほどいいましたように、評価項目が異なればランキングも変わってしまうのですが、いずれのランキング結果でも英米の大学が上位を占めていることに変わりはありません。21世紀はアジアの時代といわれながら、学術方面ではまだまだ欧米に追い付いていないことがわかります。

 興味深いことに、こちらのランキングでは東京大学も京都大学もランキング順位は昨年と変わりません。もっとも5年前と比較すると、上位にランクされているとはいえ、それぞれ1位、2位程度、順位は下がっています。日本のトップ校が一定の評価を得ていることはわかりますが、やや下降傾向がみられることに留意する必要があるかもしれません。

 いずれにしても、二種類の大学ランキング調査からは程度の差はあれ、日本の大学の評価が落ちてきていることが示されています。知的能力こそ大きな価値を生み出す時代にこれでいいのかという気持ちになってしまいます。はたして子どもたちの学力はいまどうなっているのでしょうか。

■子どもたちの学力
 OECDが実施した「学習到達度調査」(PISA)の2012年度の結果を見ると、日本は数学的リテラシーが7位、科学的リテラシーが4位、読解力が4位という結果でした。この3分野で日本はいずれも前回を上回っており、2000年に同調査が始まって以来、高い順位を得たのです。

 さらに2014年4月、学校のカリキュラムにはない問題の解決に取り組む「問題解決能力」の結果が公表されました。これも日本は参加44か国・地域の中で3位という高い順位を収めています。

こちら →http://mainichi.jp/ronten/news/20140611dyo00m010013000c.html

 確かに喜ばしい結果ですが、ひょっとしたら、一時的なものかもしれません。そこで、PISAトップテンの推移を見ると、2006年は読解力が15位、科学的リテラシーが6位、数学的リテラシーが10位でした。とても喜べる順位ではありませんでした。

こちら →002
毎日新聞2014年6月11日より。図をクリックすると拡大されます。

 当時、この結果を見て、「PISAショック」が起きたといわれています。このままでいいのかと教育改革が叫ばれ、いわゆる「ゆとり教育」の見直しが行われました。新しい学習指導要領が2011年度から本格的に実施されたのです。それが2012年の調査結果に反映されたのでしょう。

 2012年のPISAでは数学的応用力に関する意識調査も行われました。その結果、日本の子どもはすべての項目で平均以下だったことが判明しました。とくに興味深いのが、「将来の仕事の可能性を広げてくれるから数学は学びがいがある」と回答した子どもの割合は52%でした。平均の77%を大きく下回っていたのです。

 この年、子どもたちの成績自体は確かに伸びています。ところが、学ぶことの意義や社会との関連付けについての意識を見ると、他国の子どもたちに比べ有意に低いことが判明したのです。このときの意識調査によって、日本の子どもたちの勉強に取り組む姿勢や心理的側面に大きな問題があることが示唆されたといえるでしょう。

■学びから逃走する子どもたち?
 思想家の内田樹氏が書いた『下流志向』という本があります。「学ばない子どもたち、働かない若者たち」という」サブタイトルがつけられています。私はこのサブタイトルに興味を覚えて購入しました。初版は2009年7月15日ですが、私が手にしているのが2015年3月18日刊行のものですから、28刷も版を重ねていることがわかります。この本には私と同様、大勢のヒトの興味関心を引く要素があったのでしょう。

 内田氏の次のような文章が印象に残りました。

 「教育機会から、主体的決意をもって、決然と逃走するということは、当然にも遠からず「下流社会」への階層効果を意味するわけですが、そういう下降志向の社会集団が登場してきた。これを日本社会における教育危機の重要な指標として、佐藤さんは分析したのですが、そのキーワードが「学びからの逃走」です」(『下流志向』、p.14)

 私は昔、『自由からの逃走』(エーリッヒ・フロム著)という本に引かれた時期がありました。個としてのヒトの気持ち、それらがまとまって生み出されていく大衆心理、そして、大衆心理によって突き動かされていく社会の動き、これらを総合的に分析していった手腕に引かれたのです。フロムはナチズムに傾倒していった当時のドイツ人を分析し、そのような社会心理のメカニズムの根底にあるのが「自由」だということを見出しました。

 自由には責任が伴い、ときに孤独が付随します。それに耐えきれなくなったヒトが自由を手放してしまったのです。自由を求めてヒトはこれまで様々な戦いを繰り返してきたはずなのに、せっかく手に入れた自由から逃げ出そうとする人々の存在を知り、フロムはナチズム旋風の巻き起こっていた当時の社会心理のメカニズムを分析しました。かつての私はこの鮮やかなロジックの立て方に感心し、引かれたのです。

 内田氏もこの本の「まえがき」でエーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』に触れています。

 さらに、内田氏はいいます。

 「僕はこの「学びからの逃走」は単独の現象ではなく、同時に、「労働からの逃走」でもあると考えています。この二つは同一の社会的な地殻変動の中で起きている。「学ぶこと」、「労働すること」は、これまでの日本社会においてその有用性を疑う人間はおりませんでした。(中略)学ばないこと、労働しないことを「誇らしく思う」とか、それが「自己評価の高さに結びつく」というようなことは近代日本社会においてはありえないことでした。しかし、今、その常識が覆りつつある。教育関係者たちの証言を信じればそういうことが起きています」(『下流志向』、p.15)

 「学びからの逃走」は容易に「労働からの逃走」に移行するというのです。たしかにメディアで報道される若者の事件、あるいは若者の意識調査などを見ていると、そうかもしれないと思わせられます。勉強する、努力する、頑張る、といった言葉が以前ほど使われなくなっていることを思えば、日本社会を根底から揺るがす風潮がじわじわと広がり始めているとも考えられます。

 憲法第26条には「国民の教育を受ける権利」が保障されています。教育を受ける権利は先人が獲得してきた権利で、子どもが人生の多様な選択肢を確保するための権利といえます。受けた教育のレベルによって人生の豊かさが左右されるからです。先人が苦労してつかみ取った生存権の一つといえるでしょう。

■女子教育を訴えたマララ・ユスフザイさん
 世界にはまだ教育機会を十分に与えられない国の子どもたちがたくさんいます。

 2014年12月10日、ノルウェーのオスロでノーベル平和賞受賞式が開催されました。受賞者の一人は17歳のパキスタン人、マララ・ユスフザイさんでした。このマララ・ユスフザイさんは2012年10月、女子が教育を受ける権利をと訴えてきたため武装勢力に頭を撃たれました。それにもめげず、教育を受けられない子どもたちのための活動を続けていることが評価され、平和賞を受賞することになったのです。

 このとき、マララ・ユスフザイさんが行ったスピーチをご紹介しましょう。

こちら →
http://www.huffingtonpost.jp/2014/12/10/nobel-lecture-by-malala-yousafzai_n_6302682.html
 
 マララ・ユスフザイさんは女子教育の必要性を体験を踏まえ、生き生きと訴えました。

「私たちは教育を渇望していました。なぜならば、私たちの未来はまさに教室の中にあったのですから。ともに座り、学び、読みました。格好良くて清楚な制服が大好きでしたし、大きな夢を抱きながら教室に座っていました。両親に誇らしく思ってもらいたかったし、優れた成績をあげたり何かを成し遂げるといった、一部の人からは男子にしかできないと思われていることを、女子でもできるのだと証明したかったのです」

 さらに、世界の指導者に向けて次のように訴えます。

「世界は、基本教育だけで満足していいわけではありません。世界の指導者たちは、発展途上国の子供たちが初等教育だけで十分だと思わないでください。自分たちの子供には、数学や科学、物理などをやらせていますよね。指導者たちは、全ての子供に対し、無料で、質の高い初等・中等教育を約束できるように、この機会を逃してはなりません」

 そして、なぜ教育の普及が進まないのか、反語の形で力強く訴えています。

「なぜ、銃を与えることはとても簡単なのに、本を与えることはとても難しいのでしょうか。なぜ戦車をつくることはとても簡単で、学校を建てることはとても難しいのでしょうか」

 感動的なスピーチでした。必死に教育を求める気持ちがひしひしと伝わってきます。
日本ユニセフは2013年春号の『ユニセフT•NET通信』で、マララ・ユスフザイさんの事件にちなみ、女子教育の厳しい現状を取り上げています。

こちら →http://www.unicef.or.jp/kodomo/teacher/pdf/sp/sp_54.pdf

 各地の現状や教育効果の個別事例が紹介されています。こうしてみると、たしかに教育の普及やその波及効果には時間がかかりますが、教育は確実に社会を改善できることがわかります。教育はなによりもまず貧困をなくし、平等で安定した社会をつくるための要件なのです。

■大学ランキングと子どもたちの「学びからの逃走」
 さきほど紹介した『下流志向』によれば、日本では教育の権利を自分から放棄する子どもたちが増えているといいます。教育を耐え難い労苦としか感じない子どもたちが増えているからでしょう。その結果、せっかく与えられた教育機会を放棄して、人生の多様な選択肢を狭めてしまい、犯罪に走らざるをえない子どもたちがなんと多いことか。メディアで報道されている事件を教育レベルと関連づけて分析すれば、なんらかの傾向が明らかになるのではないかと思うほどです。

 内田氏は次のようにも書いています。

「上層家庭の子どもは「勉強して高い学歴を得た場合には、そうでない場合よりも多くの利益を回収できる」ということを信じていられるが、下層家庭の子どもは学歴の効用をもう信じることができなくなっているということです。ここにあるのは「学力の差」ではなく、「学力についての信憑の差」です。「努力の差」ではなく、「努力についての動機づけの差」です」(『下流志向』、pp.97-98.)

 さまざまなニュース報道を見ていると、最近はその傾向が加速化されているような気がします。

 子どものころからの教育の差、学習に対する態度の差が、その後の出会いの差、機会の差、職業選択肢の差、そして、収入の差、生活レベルの差につながっていくのでしょう。こうしてみると、ヒトの幸せのためにも、社会の安定のためにも初期教育がいかに大切かということに思い至ります。大学はその最終ラウンドです。ところが、その大学の世界ランキングで日本の大学の順位が下がりつつあります。

 世界の大学ランキングで日本の順位を見て、ふと子どもたちの教育に思い及んだとき、私は図らずも現代日本社会をむしばみつつある「学び」と「労働」からの「逃走」という深刻な現象を知ることになってしまいました。

 初等教育を裾野とする教育体系の中で、なによりもまず、「学力についての信憑」そして、「努力についての動機づけ」を高める仕掛けを作っていく必要があるのではないかという気がしています。そうでもしなければ、「学びから逃走」する子どもたちがますます増え、結果として「労働からの逃走」を引き起こしかねません。「学び」を放棄した子どもたちは人生の多様な選択肢を失うことになるでしょうから、犯罪に手を染める可能性も高くなるかもしれません。そうなれば、社会の不安定化を引き起こすことになるのは必至です。早急になんらかの手を打つ必要があると思います。(2015/10/4 香取淳子)