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中国

溝口墨道&赫舎里暁文展:民族文化を踏まえ、新たな表現の時空への誘い

■「溝口墨道・赫舎里暁文夫婦 日・満興亜絵画展」の開催
 銀座6丁目の創英ギャラリーで今、「溝口墨道・赫舎里暁文夫婦 日・満興亜絵画展」が開催されています。開催期間は2018年11月1日から6日まで、開催時間は10:30~18:30(土曜、日曜は17:00まで)です。案内メールをいただいたので、開催初日の11月1日、訪れてみました。

 ディム銀座8Fにある会場には、溝口墨道氏の作品20点と赫舎里暁文氏の作品18点が展示されていました。ざっと見て、溝口氏の作品は水墨画をベースに生み出された独特の画風が印象的でしたし、暁文氏の作品は満洲文字を組み込んだ情緒豊かな作品が心に残りました。

 まず、暁文氏の作品から、印象に残った作品について、ご紹介していくことにしましょう。ここでご紹介する作品は、私が会場で作家の許可を得て撮影したものですが、照明が写り込み、作品の素晴らしさを損ねてしまっているものもありますことをご了承くださいますように。

■満洲の魂と日本の風情
 暁文氏は満洲で生まれ育ち、溝口氏と結婚して日本に来られました。展示作品を一覧すると、満洲文化に根付いた作品と日本文化を踏まえた作品とがあり、それらは題材別にカテゴライズされるように思えました。そこで、似たような題材の作品を二点、あるいは、三点取り上げ、類別してご紹介していくことにしましょう。

〇「心のサマン」(2014年)と「満洲之夢」(2013年)
 満洲の魂とでもいえるような心情がしなやかに作品化されていたのが、「心のサマン」と「満洲之夢」というタイトルの作品でした。どちらも画面に満洲文字が描き込まれており、それが画面に奥行きを与え、微妙な陰影を醸し出していました。そのせいでしょうか、心の奥深いところで画面に引き付けられ、気持ちが揺さぶられました。

 たとえば、「心のサマン」を見てみましょう。私がもっとも惹かれた作品です。

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 真ん中に壺に入れられた蓮の葉が描かれ、その周囲には無数のヒトといわず、動物といわず、この世のさまざまなものが判然としない形態で描かれています。中には仏像のように見えるものがあったので、暁文氏に尋ねると、仏像ではなくヒトだといいます。満洲文化には仏像はなく、満洲人はあらゆるものに神が宿り、至る所に神がいると考えるのだそうです。

 それを聞いて、再び作品を見ると、蓮の葉を取り巻くように描かれた無数のヒトや動物、モノ、文字のひとつひとつに、尊い命が宿っているように思えてきます。実際、それらのいくつかには部分的に金が使われ、光り輝いて見えます。精霊が宿っているのでしょうか。光に照らされた部分が神々しく見えます。ちなみに背後に描かれている数多くの文字は満洲文字で、祈りの言葉が書かれているそうです。

 そういえば、「心の中のサマン」というのがこの作品のタイトルでした。サマン(薩満)は英語でいえばシャーマンですから、作者の心の中のシャーマンが、記憶の底に眠る満洲のヒトやモノ、土地、文化を呼び起こそうとしているのでしょう。作者の思いがひしひしと伝わってきて、観客の心を強く打ちます。

 同じように植物をメインの題材にし、祈る心を表現したのが「満洲之夢」です。

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 画面中央に大きな花が二つ、上下で描かれています。この花の名前を知りたくて暁文氏に尋ねたのですが、私が「サボン」と聞き間違えてしまったせいで、帰宅してからネットで調べてみても、描かれた花の形状と合うものは見つかりませんでした。ただ、「夜、綺麗に咲く」と言われたことを思い出し、それを手掛かりに検索してみると、この花がサボテンの花だということがわかりました。満洲蘭ともいうそうです。

 作品に戻ってみましょう。

 海のように深い暗緑色に所々、濃い紫色を交えた背景に、白いサボテンの花が二つ、周囲から浮き上がって見えます。夜花開くという妖艶な美しさが際立っていましたが、根が失われているかのように勢いがなく、うなだれているようにも見えました。満洲蘭といえば満洲の国章でもあります。ひょっとしたら、暁文氏は、この花に満洲文化の現状を重ね合わせて描いたのかもしれません。

 中央の二つの花を取り巻くようにして、短い満洲文字がいくつも、垂直に書かれています。暁文氏に尋ねると、どれも祈りの言葉なのだそうです。そうだとすれば、いまにも消えかかりそうなサボテンの花(満洲文化)の蘇生を願い、祈る気持ちを表現しようとしたのでしょうか。

 一目で満洲文化由来だとわかる作品もありました。

〇「奉霊図」(1990年)と「満州人の太鼓踊」(1990年)
 切り絵風にデザインされた作品として興味深く思ったのが、「奉霊図」と「満州人の太鼓踊」でした。残念ながら、この二つの作品の来歴についてはうっかり暁文氏に聞きそびれてしまいました。感じたことを中心に綴っていくことにしましょう。

 まず、「奉霊図」から見ていくことにしましょう。

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 暁文氏に尋ねることができませんでしたので、この作品にどのような意味が込められているのかはわかりません。ただ、切り絵風にデザインされていますし、満洲文字が周囲に散りばめられていますから、この作品にもきっと、祈りの気持ちが込められているのでしょう。

 中国の伝統的な民間芸術といわれるのが切り絵です。その切り絵風にデザインされ、構成されたモチーフは装飾的で、工芸品の絵柄のようにも見えます。色彩に注目すると、真ん中の模様部分が白く明るく、左右、下方に黄色が散っています。そのせいか、この部分が膨らんで見え、まるで心臓のように、周囲に血液を送っているように見えます。所々、明るい黄色で着色された部分は血流に見えなくもありません。そのように見てくると、満洲文化はまだ生きていることが表現されているように思えてきます。

 そういえば、この作品のタイトルは「奉霊図」でした。「奉霊」という言葉には祖霊を祀る気持ちが込められています。そのことを考え合わせると、この作品には、消えかかっている満洲文化がまだ生き長らえており、いつかはきっと再生させるという暁文氏の思いが投影されているように見えます。

 さて、具体的に満洲の民族文化が描かれているのが、「満州人の太鼓踊」でした。

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 満洲人の民間芸能が描かれています。切り絵の手法で描かれているせいか、装飾的な美しさ、色彩のバランスの良さが印象的です。二人の女性が笑顔をこちらに向けて、小さな太鼓を叩きながら、踊っています。その背後の画面にはさり気なく、さまざまな満洲文字が書き込まれています。「奉霊図」とは違って、漢字も書かれているのが興味深く思えました。中国が実は多民族社会で、かつて満州族が支配した時期もあったことに気づかされます。

〇「故郷の山茶花」(2005年)と「雪つばき」(2017年)
 細密に描かれた工筆画として印象深かったのが、「故郷の山茶花」と「雪つばき」でした。いずれも、精密な描写の中に花弁と葉の嫋やかな優雅さが表現されています。

 優雅さと上品さが際立っていて印象的だったのが、「故郷の山茶花」でした。

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 左下から右上にかけての対角線上に、山茶花の花弁、葉、枝が伸びやかに描かれています。上に伸びる葉は画面を突き抜けるように描かれ、勢いの良さが表現されています。その一方で、左下には小さく伸びた枝に小さな葉と蕾がしっかりと描かれ、安定感が示されています。画面の対角線上に絶妙なバランスで花、葉、枝が配置され、山茶花の華やぎが感じられます。

 この絵を見たとき、私はまず、この構図に引かれました。山茶花の美しさがさまざまな局面から余すところなく捉えられていると思ったからでした。さらに、微妙なグラデーションで表現された花弁の色調、葉の形状とその表裏に刻まれた陰影、花芯の雄しべ、雌しべの繊細で細かな表情、それぞれの表現が精密で、嫋やかな風情が醸し出されており、引き込まれました。

 よく見ると、モチーフの背景には、色調を抑えた山茶花の花がいくつも描かれています。淡い色調で描かれた花々が背景の中に持ち込まれることによって、モチーフの山茶花が浮き上がって見えます。さり気なく、複層的にモチーフを強調する効果がもたらされているのです。そのせいか、画面全体から、余韻のある美しさとしっとりとした味わいを感じさせられました。

 日本的情緒が感じられたのが、「雪つばき」でした。

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 雪の重みで垂れ下がった葉や小枝に、雪がなおも降り続いています。冬の日、誰もがいつかは目にしたことのある光景です。そぼ降る雪の描き方が丁寧で、まるで目の前で雪が降っているような錯覚すら覚えます。ちらつく雪片の影でひっそりと花開いた椿の花が、なんと鮮やかで、華やかなことでしょう。日本の冬の日の光景が詩情を込めて捉えられています。

〇「秋韵二」(2017年)、「秋韵五」(2017年)、「秋韵四」(2018年)
 日本の自然を捉え、季節の叙情が見事に表現されているのが、「秋韵」シリーズの作品です。「秋韵」がどういう意味がよくわからなかったので百科で調べてみると、「秋韵犹秋声」と説明されていました。そこで、中国語の辞書でこの文章の意味を調べると、「秋の自然界の音声を指す。たとえば、風の音、落ち葉の音、虫の声」となります。結局、「秋韵」は風雅な秋の音色全般を指す言葉なのでしょう。

 まず、「秋韵二」から見ていくことにしましょう。

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 紅葉したもみじの葉が画面いっぱいに描かれており、その左側の背後には太陽が淡い色調で描かれています。その対極にある右側は幅広く、やや暗い色調で覆われているので、ぼんやりとした太陽が印象づけられます。

 何枚も重なりあった紅葉したもみじの葉陰から、遠慮がちに姿を現している太陽がいかにも秋らしい、静かな奥ゆかしさを感じさせます。微妙な濃淡を創り、色調を変え、形状を変え、それぞれの葉を描き分けることによって、何枚ものもみじの葉がささやいているようにも見えます。まるで秋の日に奏でられたシンフォニーのようです。

 「秋韵五」では木に登る猫が描かれています。

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 この作品は工筆画法で描かれており、猫の毛並み、枝、そして、画面からはみ出してしまうほどの太い幹の描き方が秀逸です。左側には一部紅葉した葉をつけた枝が、垂れ下がっているせいか、風にそよいでいるような動きが感じられます。右側からも同じような葉と小枝が姿をのぞかせています。とてもバランスのいい構成で、植物と動物、静と動の組み合わせの妙が感じられます。

 尻尾を立て、下を見下ろす猫の表情、姿態はまるで生きているようです。揺れ動いているように見える垂れ下がった小枝と伸びた葉、そして、下を見下ろしている猫が「動」を表現しているとするなら、猫が乗っている中ぐらいの太さの枝と、右側の太い枝は「静」を表しています。中ぐらいの枝も太い幹も細部まで描き込まれてはいません。静と動、そして、疎と密のバランスよく、画面に安定感があります。動物と植物が共に生き生きと表現されており、秋の日の光景が詩情豊かに捉えられています。

 「秋韵四」でも、猫が描かれています。

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 先ほどご紹介した作品と同じように、猫を克明に描きながらも、こちらはやや抽象的な作風です。興味深いことに暁文氏は、紅葉したもみじは葉だけをあしらい、猫もまた本体だけを取り上げ、描いています。モチーフはリアルに描きながら、そのリアリティを支える背景は描いていないのです。

 とはいえ、もみじを見つめる猫の表情のなんと可愛いことでしょう。この作品はモチーフをリアルに描きながらも、リアリティを生み出す要素を切り離したために、現実感が希薄です。その結果、もみじの葉をまるでお手玉のようにして遊ぶ猫の可愛らしさを引き出すことに成功しています。この作品には、背景的要素を切り離して描く日本画の特徴がみられるといっていいのかもしれません。

 ここでは取り上げませんでしたが、「秋韵一」「秋韵三」は、紅葉したもみじの木を前面に大きく打ち出した構図の作品でした。一連の「秋韵」シリーズでは、もみじの木、紅葉したもみじの木と太陽、あるいは、もみじの葉と猫、などが題材として扱われ、日本の秋の光景がやさしく、詩情豊かに表現されていました。

 こうしてみてくると、暁文氏はまず、さまざまな題材の中に、満洲人が積み上げてきた精神の歴史、心の遍歴を表現しようとしていることがわかります。その一方で、季節との関わりの中で日本の光景を取り上げ、自然を愛しんできた日本人の心情をしっとりと謳いあげます。

 満洲人であれ、日本人であれ、心の奥底でつながりあえるベースとなる自然、その自然の背後にある精霊、あるいは、それら一切合切を包み込む時空、その種の目に見えない世界が表現されているようでした。心の奥深いところで気持ちが揺すぶられるような思いがします。

 一方、溝口墨道氏の作品は、中国で見かけたさまざまな光景を墨人画の技法で描かれていました。

■中国百態シリーズ
 中国百態シリーズとして展示されていた墨人画のうち、印象に残った作品をご紹介していくことにしましょう。一連の作品には作品にまつわる文章がそれぞれ別途、絵の下に掲示されていました。

〇「上海航路の客船で、海が荒れたら日本人と中国人が二通りの様子になった」
 まず、「上海航路の客船で、海が荒れたら日本人と中国人が二通りの様子になった」というタイトルの作品を見てみましょう。

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 この作品では二十数年前、墨道氏が上海航路の客船で遭遇した出来事が描かれています。まず、この絵の下に掲示された説明文には以下のように書かれていました。

****
 ある時私は中国の研修生とおもわれる大勢の若い女性の団体と日本行きの船で一緒になった。彼女らは恥じえての日本行きで興奮気味でにぎやかに船のあちこちで話す風景が見られ、存在感では日本人を圧倒していた。
 翌日になると海が少し荒れ歩く時も右に左に揺られながら壁を伝うような有様だった。彼女らの様子を見て驚いた。全員が横になりまるでこの世の終わりかのように呻きながら船酔いで苦しんでいる。一方日本人はと言うと笑いながら「揺れますね」などと挨拶し食事もしている。
****   (該当箇所を引用)

 このような説明を読んでから改めて作品を見ると、なるほどそういうことかと思わせられます。

 画面中ほどの右側には、壁を伝い、ガニ股になってバランスを取りながら歩いている二人の人物が描かれています。同じライン上の左側には、仰向けになったり、横向きになったり、膝を抱えて座り込んでいる女性たちの姿が描かれています。荒れる上海航路の船上で見かけた中国人女性たちの反応がさまざまに捉えられているのです。

 絵は一般的には写真と同様、時間と場所を特定した出来事しか表現できません。ですから、画面で描かれた時空以外の情報を、説明文から得ることによって、解釈に厚みと深みが出てきます。

 たとえば、説明文では「彼女らは初めての日本行で興奮気味に賑やかに船のあちこちで話す風景が見られ、存在感では(同乗した)日本人を圧倒していた」と書かれています。海が荒れる以前、若い中国女性の一団がいかに元気よく賑やかだったか、この文面から容易に想像することができます。

 ところが、いったん海が荒れると一転して、絵で表現されたような有様になってしまいます。それが墨画で端的に表現されています。墨道氏はこれについて、「この時日本人には遺伝的に海洋民族の祖先を持っており、中国の内陸部から来た彼女らの祖先は海に出たことがないからその遺伝がないのだと直感した」と結論づけています。

 墨道氏がかつて目にした光景が墨人画で表現され、それに説明文が加えられることによって、時間空間の広がりが生み出されました。その結果、抽象化された一枚の絵から日中文化論を引き出すことができているといえます。

 そういえば、東北大震災の際、日本にいた中国人は恐怖におののき我先に逃げ出したという報道を読んだことがあります。一方、日本人は大震災、それに継いで大津波にも襲われながら、秩序を乱すことなく平然と救援を待っていたという報道を思い出しました。

 墨道氏が経験したことと同様、危機に際した日本人の行動は日本文化の一環として捉えることができるのかもしれません。

〇「大学生が大学の外の人々を下に見る」
 さて、「大学生が大学の外の人々を下に見る」というタイトルの絵も興味深い作品でした。

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 まず、絵の下に掲示された説明文を読んでみましょう。

****
 中国は、科挙に受かった筆を武器とする文人官僚が国を運営してきたので、刀を差した武士が国を運営してきた日本とは、社会が全く違う。現在でも画家・書家の社会的地位は、日本のそれとは比較にならないほど高い。(中略)
私が留学した芸大は、専攻分野では全国トップで千倍以上の倍率を勝ち抜いて入ったから、私から見れば普通の若い画学生に見えた彼らは正真正銘のエリートだった。
 そんな彼らの一人が、ある日校門の外を忙しく行き来する庶民を見ながら私に「彼らはずうっとああなんだよな」と少し笑いながら言った。私は少年のような彼が、悪気なく、一般大衆を一まとめにして自己とは違った階層とすることに少し驚いた。
****  (該当箇所を引用)

 説明を読んでから、上の作品を改めて見ると、状況がよくわかります。
画面の遠景には、開いた校門前を荷車を引く者、人力車をこぐ者、荷物を持ち俯き加減に歩く者など、いわゆる生活に追われた庶民が歩いています。生きるために労働力を提供せざるを得ない人々でしょう。そして、近景では、校門前を行き来する人々を見て何やら話し合う二人の人物が描かれています。

 画面を三等分し、上からほぼ三分の一のラインに小さく、コマネズミのように働かないと生きていけない人々を描き、そして近景にはエリート層の大学生を配置し、社会を構成する二つの階級を描き分けています。校門を一つの境界として、社会には二つの階層が存在していることを示唆しているのです。そして、支配する者の側に立つ学生の言葉として、「彼らはずっとああなんだよな」という言葉を添えています。つまり、支配層、被支配層に二分化された社会構造は今後も続くことが示唆されているのです。

 墨道氏は「日本では大学の外にいる人を別の階層と感じる学生はいないと思う。支配者と非支配者が厳然と分かれる体制の根は深くなかなか変わらないだろう」と記しています。

 中国の階層化された社会構造はかつての科挙制度の遺産でもあり、今後もなくなることはないのかもしれません。校門の外が大勢なの対し、内側はたった二人です。この作品は、少数の優秀な人々が大多数の無知な人々を支配する社会構造を可視化したといっていいでしょう。

 この作品を見て私は、中国の知識人がよく「读书人」と言ったり、「书面语」あるいは「口语」と言ったりするのを思い出しました。科挙制度の痕跡なのでしょうか、読書階級(知識人)とそうではない人々をはっきりと二分し、使用言語についても微妙な線引きがあることを思い出したのです。

〇「公平」を唱えるのはダメ人間
 そういえば、「「公平」を唱えるのはダメ人間」というタイトルの作品がありました。

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 まず、説明文を読んでみましょう。

****
 留学時代、住宅地に住んでいたが、近くの卵屋には沢山の卵が積まれていた。
 日本のように生産日、消費期限が管理されていないので、どの様に売っていたのであろうか。
 私は通りすがりの一見には古いものを高く、地域住民には普通のものを定価で、近所の常連客には新鮮なものを安く、友人家族には新鮮なものを無料で、というようにしているのではないかと見ていた。
**** (該当箇所を引用)

 この説明文を読んでから、改めてこの絵を見ると、卵がいっぱい詰まった箱を両側に置いて、男が首をかしげた様子が気になります。同じ商品なら誰に対しても同じ値段で売るのなら悩むこともないのでしょうが、卵の新鮮度という変数、そして、買い手との関係性という変数を考え合わせた上で、値段を設定するのはどれほど大変なことでしょう。男は首をかしげ悩んでいるように見えますが、それも無理はありません。買い手にはすべて定価で売る場合より、損をする可能性もあるのでは・・・、とも思ってしまいます。

 墨道氏はこれについて、「中国では「平等・公平」に慣れた我々日本人には理解しがたい状況が日々進行している。全てが個人の交渉力、情報力、財力、地位、友人の多さ等で流動的に決まっていく。(中略)「何々すべき」「こうあるべき」などは最も用をなさないのが中国社会である」と結論づけています。

 これを読んで、私はふと、かつて読んだ『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(マックス・ヴェーバー)を思い出しました。簡単にいうと、プロテスタンティズムが生み出した勤勉の精神や合理主義は、近代的、合理的な資本主義の精神に適合し、近代資本主義を誕生させたというのです。

 このような見方を敷衍すれば、なぜアジアで日本だけが近代資本主義を発達させることができたかということの説明がつきます。近代化以前に節約、勤勉を重視する生活価値観が育まれ、一部合理的精神も芽生えていた日本社会は、近代的資本主義が必要とする精神をすでに持ち合わせていたということになるからです。

 一方でこの見方は、利にさとく、商売上手に見える中国でなぜ近代資本主義が発達しなかったのかという疑問への回答にもなります。誰に対しても同じ値段で同じ品質のものを販売することのない中国社会では、信頼をベースとする経済活動が成立しないからです。

 以上、展示されていた作品のうち、ご紹介できたのはわずか3作品ですが、いずれも墨道氏が留学時代に日常生活で経験した光景を描いたものでした。ちょっとした生活の断片にも中国文化の一端がしっかりと捉えられており、興味深いものがありました。

■墨人画
 墨道氏は2004年にこの墨人画法を開発したといいます。1990年に水墨画を極めるために中国に留学した墨道氏は、本科生から大学院まで中国美術学院で学び、研究しました。帰国してさらに水墨画を極めた結果、開発したのが今回、展示されていた墨人画です。水墨画の歴史、技法を踏まえ、独自の世界を創り上げるために開発したのが、この墨人画技法だったのです。

 墨道氏は水墨画の真髄は美学にあるといいます。それは構図の妙であり、下描きをせず一気に描くという瞬発力によって生み出されます。たしかに墨道氏の手掛けた墨人画は構図の妙が際立っていました。モチーフに何を選び、どのようなサイズで、どの位置に配置するか、あらかじめ頭の中で練り上げられていたからでしょう。

 たとえば、先ほどご紹介した「大学生が大学の外の人々を下に見る」の場合、遠景に小さく校門とその前を行きかう人々(労働者)、そして、近景には二人の人物の立ち姿(大学生)がやや大きく描かれていました。いってみれば遠近法によって、あちら側とこちら側が明確に区別されているといえるでしょう。

 大きな白い余白の中に、モチーフだけが影絵のように黒く描かれています。それも濃淡のない黒のベタ塗りですから、ヒトやモノの形状は明確になります。荷車を引く者、人力車をこぐ者、荷物を抱えて運ぶ者、それぞれの労働の形態が端的に表現されています。一方、手前の二人はズボンのポケットに手を入れて立ち、校門辺りを指さしながら、余裕のある姿勢を見せています。いずれも黒一色で描かれ、余分な情報が削ぎ取られているせいか、モチーフの所作、振舞いがダイレクトに伝わってきます。一見して、余裕なく働く人々と知識階級に属する人々との差異が明らかで、メッセージ性の強い画面構成になっているのです。

 興味深いことに、背景には何も描かれず、モチーフに付随するはずの影すらありません。ところが、観客は大きな余白に地面を感じ、空を感じ、空気を感じ、話し声すら感じて、描かれたモチーフの実在を感じ取ります。さらに見続けていると、やがて、それら一切が消失し、モチーフが放つエッセンスだけが残っていきます。大きな余白と黒一色で描かれたモチーフがもたらす効果でしょうか。

 墨道氏は『墨人画』という小冊子の中で、以下のように書いています。

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 東洋絵画では、西欧絵画で単なる「描き残し」とされる「余白」が重視され、絵の重要な構成要部として積極的に扱われてきた。「余白」とは主題を際立たせる為とか、画家の稚拙さのための失敗ということでは決してなく、何かが描かれている部分と同等で、知覚・知識では捉えられないものを正しい方法(何も手を加えず心でしっかりと感じる)で絵の構成要素とする行為なのである。そこでは絵の具の厚みや遠近法に依らない二次元、三次元以上の高次元の豊富な内容が存在している。
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 これを読んで、私が最近、ぼんやりと感じていたことが明確になってきたような気がしました。絵画の世界ではリアルに見えるための技法がこれまで積み重ねられてきましたが、カメラが登場して以来、写実的に描くことに意味が感じられなくなりました。どのようなフィルターを通してモチーフを表現するかにエネルギーが注がれてきましたが、それもまた意味をなさなくなりつつあります。

 墨道氏の墨人画を見ていて、何か新しい表現の地平が切り拓かれているような気がしたのは、おそらく、余白、すなわち、無の中にこそ存在するものに目を向ける試みが新鮮に感じられたからかもしれません。
 
■民族文化を踏まえ、新たな表現の時空への誘い
 暁文氏の展示作品は、これまでご紹介してきたように、満洲文化、満洲民族文化に属するもの、日本文化を感じさせるものに類別されるでしょう。満洲で生まれ育ち、結婚を機に日本で暮らし始めた来歴が諸作品にそのまま反映されていたといえます。満洲人の精神、満洲を具体的に表象する文化、そして、日本文化が自然との関わりの中で奏でる情緒、それぞれが卓越した技法の下、見事に作品化されており、感心しました。

 一方、墨道氏の展示作品は、中国で学んだ水墨画を発展させて独自の画法である墨人画を開発し、中国の日常生活で垣間見えた光景の数々を捉えたものでした。抽象化され、洗練された技法だからこそ表現できる中国文化の一端が見事に捉えられていました。情報が氾濫する現代社会だからこそ、黒一色と余白で構成される墨人画の魅力が引き立つように思います。

 今回、溝口墨道氏と暁文氏ご夫妻の展覧会に参加させていただき、絵画が表現できる世界の広がりを感じさせられました。満洲、中国、日本の文化を踏まえ、新たな表現の時空に誘われているような気になりました。お二人の今後のご活躍を期待したいと思います。(2018/11/4 香取淳子)

中国の若手表現者にみるクリエイティビティの高さ

■「アートネクストジェネレーション在日本中国遊学者作品展」の開催
 2018年8月14日から24日、中国文化センターで「アートネクストジェネレーション在日本中国遊学者作品展」が開催されました。中国の若者たちは日本で何を学び、どのような表現活動を展開しているのでしょうか。ちょっとした興味を覚え、8月16日、会場を覘いてみました。

 会場には、さまざまなジャンル、さまざまなモチーフの個性豊かな作品が展示されていました。それぞれが斬新で、バラエティに富んだ表現力の豊さに驚いてしまいました。とりわけ以下の3つの作品が私にとっては印象深く、さまざまな点で刺激を受けました。

・「主人がいない時Ⅰ」(キャンバス、油絵顔料、查雯婷、2017年制作)、
・「ライオンナニーの旅」(手描きアニメーション、端木俊箐、2018年制作)、
・「阿頼耶識漫遊記」(キャンバス、漆喰、鉱物顔料、張源之、2017年制作)

 幸いなことに、8月16日、私が興味深く思った作品の作家、お二人にお話しを聞くことができました。ところが、もう一つ、気になった作品の作家はこの日、不在でした。そこで、8月22日に再度、会場を訪れ、作家にお話しを伺うことができました。
 
 今回は、印象に残った3点について、お話しを聞いた順にご紹介していくことにしましょう。

■主人がいない時Ⅰ
 会場に入ってすぐ、目に飛び込んできたのが、「主人がいない時Ⅰ」というタイトルの作品でした。現在、日本女子美術大学大学院修士課程に在学中の查雯婷さんが制作したものです。入口から遠く離れたコーナーに展示されていましたが、見た瞬間、強く引き付けられてしまうほど印象的な作品でした。

 まず、この作品から鑑賞することにしましょう。

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(1620×1300㎝、油彩、水彩、2017年制作。図をクリックすると、拡大します)

 巨大な猫が段差のある二つの本箱を、前両足と後両足で踏みつけ、平然とした面持ちでこちらを見ています。まるで自分がこの空間の主人公だといわんばかりの表情で、鋭い視線をこちらに向けています。射すくめるようなその目つきには恫喝するような威圧感すらあります。画面のほぼ3分の1を、この猫が占めており、強烈な存在感を放っています。

 一方、猫の周辺には、その存在の強さを緩和させるかのように、淡く柔らかなペールピンク系の背景色が施されています。その上に、四角いテーブルや本、ハートマークのついた円形テーブル、植木鉢がそれぞれバラバラに、どういうわけか、逆さまになって宙に浮かぶような恰好で描かれています。しかも、それぞれがとても小さいのです。どうやらモチーフによって大きさにウェイト付けがされているようです。

 それでは、モチーフの大きさの面からこの構図を見てみることにしましょう。

 猫の巨大さに比べて二つの本箱はやや小さく、背景に散らばった本やテーブルなどは極端に小さく描かれています。大きなモチーフを画面の中心に置き、中程度のモチーフを画面の下方に置くことによって安定感を確保し、小さなモチーフをさまざまな方向に散らすことによって、画面に奥行きと広がりを生み出していることがわかります。大中小のモチーフの配置を工夫することによって、安定感を確保し、奥行きと自由な広がりを演出しているのです。

 モチーフと構図との関係をさらに見てみることにしましょう。

 大きなモチーフ(猫)は斜めのライン、中程度のモチーフ(本箱)は垂直のラインでレイアウトされています。斜めのラインはやや不安定ですが、背中のなだらかな横ラインと湾曲して立っている尻尾の斜め縦ラインと呼応し、画面に柔らかな境界を創り出しています。ラインはいずれも引力に従っていますので、見ていて違和感はありません。

 ところが、背景に散らばった小さなモチーフはいずれも、重力が効かない空間で浮遊しているように描かれています。引力に従わないモチーフが猫の背中から尻尾のライン辺りで浮遊しているのです。一つの空間にさり気なくラインを設け、相反する価値観、あるいは世界観を表現しているように見えます。

 こうしてみてくると、いかにも若者らしいモチーフや構図に見えていたものが、実は、緻密に計算された上で考案されたモチーフであり構図だという気がしてきます。モチーフの大きさと配置によって空間を自在に創り出したばかりか、重力の効かない異空間をも創り出しているのです。この刺激的な構図に、融通無碍な遊び心と深い知性が感じられました。

 さて、遠くから見ていると、わからなかったのですが、近づいて見ると、猫の顔が逆になっていることに気づきます。口が上にあり、両耳がいずれも頬の辺りから出ているのです。それなのに、初めてみたとき、なぜ違和感を覚えなかったのでしょうか。

クローズアップした猫の顔を見てみましょう。

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 確かに、顔部分だけ逆さまになっています。赤い小さな口に繋げるように、黄色の小さな鼻が描かれており、両耳も頬に見えるところから出ています。

 ところが、逆さまに描かれた顔を見ても、どういうわけか、大した違和感はありません。いかにも猫の目らしい、インパクトの強さに比べれば、逆さになった赤い口やオレンジ色の鼻など、それほど印象に残るものではありません。むしろ、この猫が特別な存在であることを示す装飾品でしかないというようにも思えてしまうほどです。

 なぜ、そう思えるのか、不思議に思って、会場で撮影した写真を、帰宅してからひっくり返して眺めてみました。

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 猫の目がまるでパンダのように垂れて見えます。獰猛さは欠片もなく、これでは、ただのんびりとこちらを眺めているにすぎません。確かに、両耳や口や鼻は正常な位置に収まっており、その点はまったく違和感はありません。ところが、この顔つきではインパクトに欠け、猫に見えなくなってしまいます。こうしてみてきて、はじめて、作者にとって猫の顔を逆さにすることが必然だったことがわかります。

 もう一度、この顔を逆さにすると、途端に、目尻が上がって吊り目になり、猫がモノを凝視しているときの鋭い目つきになります。吊り目で描かれた眼光は鋭く、猛禽類の獰猛さが現れます。

 私が初めてこの作品を見て、強く印象づけられたのは、ひょっとしたら、この目のせいだったのかもしれません。そして、猫の顔が逆さになっていることに気づかなかったのも、おそらく、この猫の目がヒトの心を射抜くような強さで描かれていたからでしょう。逆さまになっていることから来る違和感を消し去るほどの威力があったのです。

 それでは、目の部分をクローズアップして見てみましょう。

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 強い光を放ち、吸い込まれてしまいそうな深い目をしています。まさに猫の目です。この目の強さを引き立てるように、周りの毛が一本一本、微妙に色を使い分けながら、丁寧に描かれています。目が圧倒的な威圧感を発しているのに反し、周囲の毛には優しく柔らく、快い温もりさえ感じられます。

 よく見ると、目の表現が毛の表現と微妙に異なっています。毛があくまでも柔らかく、滑らかに描かれているのに対し、目はまるでガラスの球体のように硬質の輝きを放ち、底知れない深淵さを感じさせます。猫の顔の中に二つの相反する要素が描かれているのです。

 なぜ、そう見えるのか不思議に思い、作家の查雯婷さんに尋ねてみました。すると、猫の全身は水彩で描き、猫の目とそれ以外のモチーフは油彩で描いたといいます。いわれてみると、この作品の説明に「油彩、水彩」と書かれていました。查雯婷さんはモチーフによって技法を変え、画面に適切な強弱をつけていたのです。

 どういうわけか、この絵の前に立つと、私は思わず深読みをしてみたくなるような誘惑に駆られます。それはおそらく、この作品にはさまざまな謎が仕組まれているからでしょう。推理小説を読むのにも似た面白さがあります。

 それにしても、なぜ、このような作品を制作しようと思ったのでしょうか。再び、查雯婷さんに尋ねてみました。

 すると、「動物がヒトの世界を見れば、どのような社会に見えるだろうか」という発想で、この作品を制作したといいます。そして、「猫が好きなので、猫を主人公にした」そうです。それが、上半分の画面で描かれたモチーフがすべて逆さまになっている理由だといいます。

 そういわれて改めて画面を見ると、逆さまになっているのは四角いテーブル、ハートマークのついた円形テーブル、「美術史」と書かれた本、読みかけの本、植木鉢などです。ヒトにとって大切なものでも猫にとってはなんの価値もないということを示しているのでしょう。

 猫が好きだから主人公にしたと查雯婷さんはいいます。ですから、猫に託して自身を表現しているとも考えられます。そうだとすれば、この絵の解釈がこれまでとは異なってきます。

 たとえば、猫が踏み台にしている二つの本箱には重厚な本が並べられています。それらの本はこれまでヒトが育んできた学識の象徴のようにも見えます。だとすれば、この部分は、過去の英知を踏まえ、現在を着実に生きていることをシンボリックに表現したものと考えられます。

 一方、猫は前脚を本箱の端ギリギリのところに置き、後ろ脚はどういうわけか片方をあげています。巨体を支えるには不自然な姿勢です。前脚はもう少しで落ちそうな不安感を与え、後ろ脚はもう少しで倒れそうな不安感を与えます。鋭い視線をこちらに向けていますが、その姿勢は不安定です。

 そう見て来ると、小さく描かれたモチーフが空中に浮遊し、すべて逆さまになっていることの理由もわからないわけではありません。画面の上半分は、未来の不安感が表現されているといえるでしょう。AI主導で展開していく未来社会は、これまでの価値観、世界観が顛倒してしまう可能性があります。

 こうしてみてくると、この作品を深読みしたくなる誘惑に駆られた理由がわかってきました。身近な材料をモチーフにしながら、ヒトの認識に挑戦し、未来への問いかけがさり気なくこの作品には含まれていたからでした。

 「主人がいない時Ⅰ」というのがこの作品のタイトルですが、「Ⅰ」という数字から想像できるように、查雯婷さんは今後も継続して、このシリーズを制作していくといいます。

■ライオンナニーの旅
 会場には映像装置が置かれ、アニメーションが映し出されていました。ちらっと見ただけで、その独特の画風にとても斬新な印象を受けました。今年、東京芸術大学大学院修士課程アニメーション専攻を修了した端木俊箐さんの作品です。

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(手描きアニメーション、2018年制作。図をクリックすると、拡大します)

 セリフも字幕も入らない7分ほどの手描きアニメーションでしたが、効果音とオリジナル音響で、作品の雰囲気はほぼ理解できたような気がします。なによりも素晴らしいのは、淡い色彩で綴られる画面でした。もちろん、映像だけではわからないところもありましたので、端木俊箐さんに尋ねながら、「ライオンナニーの旅」をご紹介することにしましょう。

 タイトル画面に描かれたキャラクターが、主人公のライオンナニーです。タイトル文字であれ、キャラクターの造形であれ、柔らかく、不揃いで、手描きアニメーションならではの身体性が感じられます。

 ライオンナニーは黄色を主に、柔らかく、省略した粗い線で造形されています。そして、背景は群青色の濃淡で描かれています。そのせいか、キャラクターの幼さと優しさ、おぼつかなさと不安感が表現されています。

 果たしてライオンナニーは作家の分身でしょうか。気になったので、端木俊箐さんに尋ねてみました。思った通り、「自分になぞらえて主人公を設定した」といい、「髪の毛が多いのがライオンみたいだから・・」と付け加えました。

 来日以来、端木俊箐さんは電車に乗るたびにスケッチをしていたそうです。車内で見かける人々を観察して、その場でスケッチしていたのです。それが蓄積し、一冊の本になるほどの分量になっていました。この作品のベースにはこの膨大なスケッチがあります。

 端木俊箐さんは、電車内で見かけたヒトや光景をスケッチしたものを整理し、その中から気に入ったものを選んでアニメーションの素材にしたといいます。時間をかけて描いてきたスケッチが材料になっているのですから、一コマ一コマが絵画作品の趣があるのも当然かもしれません。

 たとえば、ナニーが電車に乗っているときのシーンを見てみましょう。

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 満員電車の中で圧し潰されそうになっている様子が、独特のタッチで表現されています。混みあう電車内の情景を敢えてリアルに描かず、社内の人々を太くジグザグの折れ曲がった線だけで表現しています。この抽象化の効果が斬新で、主人公ナニーの心細さが見事に浮き彫りにされています。

 ナニーは黄色、そして、その周辺の人々は青系統の色の線で表現されています。乗客を青系統の色にすることによって、混みあう電車内の人々の冷たさが暗黙裡に表現されています。混みあった車内で、他人を構う余裕がなくなってしまえば、もはや血の通うヒトではなく、ただの棒でしかないのかもしれません。

 しかも、黄色と青は補色関係にありますから、ナニーの姿がいっそう際立ちます。この色遣いといい、余白を残した画面構成といい、柔らかく、繊細な感性に驚きました。それほど多くのアニメーションを見てきたわけではありませんが、これまでこのような画風のアニメーションを見たことがありません。

 一方、画面は絶えず、電車の効果音に合わせ、揺れ動いています。その度に、両脚を閉じ、両手を揃え、うなだれた姿勢のナニーも動きます。自分の意志ではなく、周りの動きによって動かされていることがわかります。補色の効果ばかりではなく、このような動きの表現によって、ナニーの痛み、心細さ、不安感などがとてもよく示されています。

 この作品の制作意図として、端木俊箐さんは、無邪気な子どもがさまざまな人々を見て世界を知り、成長していく様子を表現したといいます。

 冒頭から、車内で見かけた人々の姿態がさまざまに描かれたシーンが3分間ほど続きます。おそらく、これが、「さまざまな人々を見て世界を知る」ためのシークエンスなのでしょう。そして、3分59秒で場面が転換します。

 真っ暗なトンネルを抜けた後、停車した駅で、馬が乗車してくるのです。

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 まつ毛の長い馬で、とても優しそうです。馬の背後には、山々が淡い黄色やオレンジ、薄いオレンジで彩られているのが見えます。その色調のせいか、馬の穏やかな温かさが際立って印象づけられます。

 ナニーと馬はたちまち意気投合し、ともに語らい、車窓から走り去る風景を眺めて、楽しいひと時を過ごします。

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 これまで通りナニーは黄色で表現され、一方、ナニーが気持ちを通い合わせた馬は青色で表現されています。着色部分は少ないですが、補色関係にある色が使われているので、二人の様子がくっきりと浮き上がって見えます。

 電車内で二人はさまざまなことを語り合い、心を弾ませながら充実した時を過ごします。

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 車窓から見ると、風景が流れて見えるように、外から車内の二人を見ると、このように流れるように見えるのでしょう。黄色の太目の色帯が切れ切れになって横に流れていきます。豊かな発想力に裏付けられた表現です。

 やがて、馬が下車する駅に到着しました。馬はナニーも一緒に降りようと手を引っ張りますが、ナニーが下車する駅ではないので、ナニーは振り切って車内に留まります。電車のドアは自動的に開き、馬が下りていくと、まるで何事もなかったかのように、自動的にドアを閉じます。このシーンでは、個々人の感情にはお構いなく、世の中のシステムは動いているということが示されています。

 ナニーは再び、一人になって電車に揺られています。ナニーの下車する駅はまだです。

 ふと車窓から外をみると、名残惜しそうな表情でナニーを見つめる馬の姿がありました。先ほどまで楽しく語らっていたあの馬が、いつの間にかユニコーンになっています。

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 ナニーが見つめる中、ユニコーンは空高く、舞い上がっていきます。やがて、いまにも月に届きそうなほど遠くに行ってしまいました。もはや会うことも叶わない、永遠の別れが訪れたのです。

 ナニーは一人残されましたが、まだ下車する駅には到着していません。どれほど仲良くしていても、目的地が違えば、下車する駅も異なります。いつまでも一緒にいるわけにいかないことを馬との別離を通して、ナニーは学んだのです。

 そして、エンディングロールが流れます。

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 そこには、以下のような文が日本語、中国語、英語で表示されています。

「私達は人生で一番暗い時に出会い 
 限られた時間の中で別れる
 惑星が回り続けて
 交わった軌道も平行に戻った
 世界の隅に隠れたあの物語は
 私 君 星と月が知っている」

 ここで書かれていることが、この作品を制作する動機付けになったのでしょう。端木俊箐さんは実際、親友と二人で来日し、一緒に芸大に入ったといいます。しばらくは共に学び、共に旅行し、充実した時を過ごしていましたが、ほどなく、二人は別れることになりました。お互いの進路の違いのためでした。

 端木さんにとって、この経験はよほど深く心に残ったのでしょう、大切なヒトとの別離は時を経て、創作のエネルギーに転化されました。端木さんは、ナニーに自身をなぞらえ、馬に友人を仮託し、このアニメーションを制作したのです。

■阿頼耶識漫遊記
 入口近くに展示されていた作品です。描かれている内容はよくわからなかったのですが、画面全体から何か深いものが発散されており、気になりました。東京芸術大学大学院修士課程絵画科壁画第二研究室を2017年に終了した張源之さんの作品です。

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(900×1300㎝、漆喰、鉱物顔料、2017年制作。図をクリックすると、拡大します)

 この絵の前に立てば、いつまでも立っていたくなるような吸引力があります。それが一体、何なのか、どういうところに私は引き付けられているのか、よくわからないまま、この絵の前に立つと、古い記憶が次々と蘇ってくるような不思議な感覚に陥ります。本源的な何かに向き合っているような気持ちになってしまうのです。

 一体どういうヒトがこの絵を描いたのか、気になって仕方がなく、再び、会場を訪れました。

 8月22日、ようやく作家の張源之さんにお話しを聞くことができました。なぜ、私はこの絵に深いところで引き付けられているのか、質問をしながら、それを解明していくことができればと思います。

 まず、なぜ、角を生やした馬を取り上げたのか、尋ねてみました。すると、張源之さんは、これは「馬ではなく、牛」だといいます。インド仏教で聖なる動物とされている白い牛を表現したというのです。そう言われて、改めて首から肩にかけての骨格と肉の盛り上がり方を見ると、なるほど牛に見えます。

 それにしてもなぜ、画面の半分ほども占める面積でこの牛を描いたのでしょうか。そして、白い牛の真正面に描かれている、炎に包まれたヒトのようなものは一体、何なのでしょうか。

 再び、張源之さんに尋ねてみました。すると、「白い牛は知恵のシンボル」で、その前にあるのは、「私の曼陀羅」だというのです。

「私の曼陀羅」といわれた部分を拡大してみましょう。

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(図をクリックすると、拡大します)

 拡大して見ると、ヒトらしい像を中心に、下方には鳥の頭部のようなものがいくつも層をなして渦巻き状に左に流れ、上部から右は形を成さないまま白っぽい気体のようになって、牛の顔から角にかけて流れています。

 さらに、ちょっと引いて距離を置き、この部分を見てみました。すると、ヒトを渦の中心に、左方向で旋回する大きな渦巻きのように見えてきます。渦巻きの表面は裏が透けるように、淡い色調の絵具が置かれています。そのせいか、ヒトの精神作用が気体のようなものになって空中を飛び、牛の周囲に放散されているように見えます。

 ところが、気体のようなものを全身に浴びても、牛は穏やかな表情を変えることなく、目を静かに閉じています。その表情にはまるで瞑想にふける僧侶のような落ち着きがあり、静かな安定感が感じられます。ひょっとしたら、この光景が私の気持ちを深いところでしっかりと引き寄せたのかもしれません。

 それにしても、なぜ張源之さんはこの絵を描いたのでしょうか、気になって、尋ねてみました。

 日本に来て芸大で学び始めた頃、古美術見学旅行に参加し、奈良や京都で多くの壁画を見たそうです。描かれた天女の中に姿勢や色遣いが敦煌や西安の古墳壁画に似ているものを見つけ、張源之さんは日本との深いつながりを感じたといいます。この時の感動を表現したのがこの作品で、修士課程の修了制作だそうです。

 そういえば、この作品のタイトルは「阿頼耶識」でした。アラヤシキと読むのだそうですが、意味はまったくわかりません。張源之さんに聞くと、「仏教の言葉で、人類の共通の意識を指す」のだといい、さらに、「ユングの集合無意識のようなもの」だと説明してくれました。

 曼荼羅と聞いた時、なんとなくユングを思い浮かべましたが、張源之さんの説明を聞いて、私がこの絵に惹かれた理由がわかったような気がしました。おそらく、張源之さんが表現した精神世界に、時代を超え、居場所を超え、文化を超えて通じ合える何かがあったのでしょう。だからこそ、私の精神世界がそれに呼応したのです。それこそユングのいう集合無意識のように、深いところでつながっていたからこそ、この絵を見た瞬間、私は引き寄せられたのだという気がしました。

 さて、画面の右側にはさまざまな造形物が見えます。馬に乗っているヒト、建物の一部、花や木、犬、そして、僧侶のようなヒト、いずれも判然と描かれてはいませんが、それだけに、一体これは何なのだろうと不思議な気持ちにさせられます。

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(図をクリックすると、拡大します)

 気になったので、張源之さんに聞いてみました。すると、これらは張源之さんの夢、あるいは、これまでに出会ったヒトやモノだというのです。建物の一部に見えるものは寺院だといいます。子どものころから仏教のお寺に通っていたそうで、その時の思い出が寺院の一角や僧侶の姿に仮託して描かれていたのです。いずれもはっきりとわかるように描かれていなかったのは、それらがリアルな実体ではなく、記憶、あるいは想念の世界の存在だからでしょう。

 この部分を少し引いて見ると、それらは白い牛の身体に埋め込まれるように配置されていることがわかります。知恵のシンボルとされる白い馬の胴体部分に、記憶や想念の手がかりとなる具象の断片が、モチーフとして埋め込まれていたのです。

 見ることができず、意識することもできない世界が、この作品では余すところなく表現されていました。言ってみれば、ユングのいう集合無意識のようなものがこの絵に反映され、含蓄の深い絵が描出されていたのです。この作品を見た瞬間、何か気持ちの深いところで引き付けられ、離れがたい思いがしたのはそのせいでしょう。とても興味深い作品でした。

 さて、この作品は壁画の技法が採られています。下地は漆喰で、その上は鉱物顔料である顔彩が使われています。イタリアのフレスコ画の技法と違って接着剤としての膠が必要だと張源之さんはいいます。フレスコは生乾きの漆喰を薄く壁に塗り、それが乾かないうちに水で溶いた顔料で描いていく技法です。張さんの場合、漆喰に膠と使って顔料を定着させていきます。長い歴史を持つ壁画の画法を使って作品を仕上げたのです。

 その質感には圧倒的な迫力がありました。精神世界の深さを表現することができたのは、壁画の技法で制作したからかもしれません。古い技法だからこそ表現できた世界だともいえるでしょう。

 もちろん、描かれた内容もヒトの心の奥深く、形を成さないまま存在している精神の核ともいえるものを引き出していました。科学技術が進歩しても、いまだに解明しきれないのが精神の領域です。その未開拓の領域を張さんは、仏教徒という経験を活かして可視化しました。作品を見る限り、成功していると思います。

■中国アートネクストジェネレーションの台頭
 中国文化センターで開催された留学生たちの作品展を覗いてみて、そのクリエイティビティの高さに驚いてしまいました。今回は会場でお話しを聞くことのできた三人の作家の作品だけを取り上げましたが、他にも素晴らしい作品が多く展示されていました。

 私は日本の美大生の卒展や修了展などにも何度か行ったことがありますが、最近は似たような作品を目にすることが多く、失望していました。それだけに、今回、留学生の諸作品を見て、なかなか着想できないような斬新なテーマ、卓越した技法の諸作品を見て圧倒される思いがしました。

 なぜ中国の若手表現者たちは高いクリエイティビティを発揮できているのでしょうか。

・查雯婷さん(「主人がいない時Ⅰ」)
 たとえば、查雯婷さんは身近なモチーフをユニークな発想で作品化していました。素材の扱い方といい、形態上の処理といい、独特のフィルターが効いていて、画面全体に若々しいポップな感覚がみなぎっていました。

 中国の大学での専攻を聞くと、アニメーションでした。なぜ、専攻を変えたのかと聞くと、「自由に表現したかったから」といいます。手描きアニメーションならまだしも3Dアニメーションになると、他人の協力が必要で、グループ作業なので制作に時間がかかるし、自由に制作できない不自由さがあるからだと説明してくれました。

 子どもの頃から日本のアニメが大好きで、「名探偵コナン」や「ワンピース」、「進撃の巨人」などをよく見ていたといいます。それを聞いて、查雯婷さんの作品に現代的で、鋭角的なセンスを感じたのは、そのせいかもしれないと思いました。メリハリの効いた訴求力があったのです。

 作品の背後にはストーリーがあり、モチーフには、観客が違和感を覚える謎がいくつか仕組まれていました。言ってみれば、観客を引き込むフックがいくつかあったのです。その結果、この絵を見ると、ヒトは思わずその解明に向かいたくなるという複雑な仕掛けがあったのです。

 若者らしいモチーフの選択や色遣いなどを見ると、一見、取っつき易く、気軽に鑑賞できる作品のように見えます。ところが、実に複雑で、多元的、複層的な世界が表現されていました。とても知性的な作品だと思います。

・端木俊箐さん(「ライオンナニーの旅」)
 一方、端木俊箐さんは油絵を志しながらも、大学ではアニメーションを専攻することになったといいます。アニメーションの制作技術は中国の大学で学び、日本に来てからはもっぱら作品制作を続けているということでした。やはり日本のアニメが大好きで、とくにスタジオジブリやスタジオ4℃などの作品に興味があるといいます。細田守の長編アニメ「サマーウォーズ」も中国ではよく見ていたそうです。

 そう聞くと、私がこの作品に惹かれた理由もわかってくるような気がします。全編を通して、独特の画風で紡がれていましたが、おそらく、そこに、ジブリ系アニメの痕跡を感じたのでしょう。表現方法はまったく異なるのですが、画面から垣間見える本質に共通性が見受けられたのです。

 画面に映し出された一カット、一カットの絵が優しく、穏やかで、繊細でした。ストーリーよりも何よりも私はこの絵に惹かれました。ヒトの心に沿うようなきめ細やかな感性がありました。絵が好きで、描くことがなによりも大好きだったという端木俊箐さんの特性が、この作品に色濃く反映されていました。

・張源之さん(「阿頼耶識漫遊記」)
 蘭州市出身の張源之さんにとって、子どもの頃から敦煌の壁画は身近な存在でした。壁画は人類の歴史とともに誕生し、現在に至るまで生き続けている、古いけれど、とても斬新な芸術だと張源之さんはいいます。中国の大学では中国絵画、壁画を学びました。中国絵画を通して、筆の扱いや輪郭線の処理などを習得し、卒業後は敦煌現代石窟芸術センターで芸術設計ディレクターとして働いていました。

 張源之さんは12歳ごろから仏教に関心を抱くようになり、種々の本を読んで理解を深めていくうちに、敦煌壁画にも興味を持つようになったそうです。壁画にはヒトを感動させる深い精神世界があるといいます。

 今回の作品にはそれが見事に反映されていました。現代社会は自分ひとり良ければいい、お金があればいいという風潮が蔓延していますが、お金よりも精神が大切で、ヒトは皆、繋がって生きており、皆が幸せになってはじめて自分も幸せになれると張源之さんはいいます。大乗仏教の考え方ですが、作品にもその信念がしっかりと描き込まれていたように思います。

 お話しを聞いてみると、三者三様、それぞれ体験に裏打ちされた信念がありました。その信念が作品のオリジナリティを生み出し、画面から独特の訴求力が発散されていました。

 ここでご紹介した3人の作家に共通するのが、技術力の確かさと内発的なテーマの発掘でした。直接、お話しを聞いたからこそわかったことですが、それぞれ、自身の経験を踏まえ、それを拠り所としてコンセプトを創り出していました。

 自分が思い悩み、苦しんだ経験を深く掘り下げたからこそ、作品のコンセプトも明瞭になったのでしょう。表層にとどまらず、深層に至る深みを作品に反映させることができていました。よく考え抜かれたからこそ、説得力のある作品になったのでしょうし、見る者を感動させる力を持ちえたのだと思います。

 この展覧会に参加して、改めて、いい作品とは何かということを考えさせられました。手っ取り早く観客を虜にするには、それなりの技法があるのでしょう。ところが、今回、印象に残った三作品はその種のものではありませんでした。心血注いだ痕跡が画面の随所に見受けられ、それが見る者の気持ちを揺り動かしていたのです。もちろん、技術力も素晴らしく、日々の鍛錬と表現のための工夫を怠らない姿勢が印象的でした。

 今回、三者三様のクリエイティビティの高さに圧倒されましたが、それは、自身の経験を深く掘り下げるだけではなく、歴史を知り、文化を深く把握することによって、もたらされたものなのかもしれません。それには、自身を省察するだけではなく、先人の知識や経験を踏まえ、考えを深められる知性が必要なのでしょう。(2018/8/26 香取淳子)

ネット文学はチャイニーズ・ドリームになりうるか?

 AI、ICTが今、社会を激変させようとしています。多くのことが予測可能になり、可視化されつつあります。いつの間にか、知ろうとしさえすれば、自分の寿命までわかってしまいかねない時代になってしまいました。果たして、ヒトは将来に夢を抱いて生きていけるものなのでしょうか。

 そんなことをぼんやり考えているとき、ふと、「第8回コンテンツ東京」で出会った、ネット文学サイトを運営している中国企業の若い責任者の顔が思い浮かびました。混雑する展示場の一角で、熱く未来を語っていた姿がとても印象的でした。

 振り返ってみましょう。

■第8回コンテンツ東京
 「第8回コンテンツ東京」が東京ビッグサイトで開催されました。期間は2018年4月4日から6日まで、コンテンツに関連する7展が同時に開催され、1540社が出展しました。

 関連する7展とは、「クリエーターEXPO」「グラフィックデザインEXPO」「先端デジタル テクノロジー展」「映像・CG制作展」「コンテンツ マーケティングEXPO」「ライセンシング ジャパン」「コンテンツ配信・管理 ソリューション展」、等々です。

 セミナーであれ、商品やサービスの展示であれ、東展示棟を巡れば、関連事業の内容や各業界の新動向がすぐにもわかる仕組みになっていました。7展が同時に開催されていたので、効率的に激変するコンテンツ業界の動きを把握することができます。

 主催者側が撮影した初日の会場風景をみると、ヒトで溢れかえっているのがわかります。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 私は5日と6日の午後に訪れたせいか、これほど混んではいませんでした。アニメの最新動向を知りたくて、最初に訪れたのが映像・CG制作展でした。印象深かったのが、台湾の制作会社が創るキャラクターです。

■コンピュータを駆使した造形
 これを見て、なによりもまず、精緻な造り込みに惹き付けられました。微妙な色彩、光の処理、質感、本物かと見まがうほどの描写力であり、造形力です。しばらく見入ってしまいました。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します。SHINWORKより)

 素晴らしいと思いました。モチーフの企画力といい、形にしていく技術力といい、リアリティを添える色彩感覚といい、秀逸さがきわだっていたのが印象的です。

 制作したのは、台湾の制作会社「形之遊创意科技有限公司」です。

こちら →http://www.shinwork.com/

 訪れたときはわからなかったのですが、帰宅してネットを見ると、こちらはこのブースの共同出展社でした。主な出展社はXPEC Art Center INC.です。この会社もまた、魅力的なキャラクター造形をしていました。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します。XACより)

 背景色の諧調はまるで絵画のようにきめ細かく、深みがあり、見事としかいいようがありません。これをすべてコンピュータで作り上げているのです。上記の図の画素数は、通常の写真の何倍にも及ぶ精緻なものでした。この会社はゲーム、アニメ、CG映像などを専門分野としており、今回初めて、東京ビッグサイトに出展したようです。

こちら →http://www.xpecartcenter.com/

 これ以外にも、さまざまなテイストのキャラクターや映像が制作されていました。このような制作力の高い会社が、全世界からゲームやアニメのキャラクター造形を請け負い、CG、VFXなどの映像製作を請け負っているのです。

 果たして、日本は大丈夫なのでしょうか。ふと、そんな思いが胸をよぎりました。

 アニメ、ゲームの日本といわれながら、若手の人材不足が続いています。そのせいか、コンピュータを駆使した造形は、日本ではいまひとつです。その一方で、周辺国は技術力、構想力を高め、日本アニメに追随してきています。展示会場では、たまたま台湾の制作会社の作品の一部を見ただけですが、これでは日本の制作会社も決してうかうかしていられないなと思ってしまいました。

 さて、そのコーナーの一角で出展していたのが、中国最大のネットコンテンツ集団、阅文集团(China Literature Ltd.)でした。ふと見た、立て看板のキャッチコピーに惹かれ、思わず、足を止めました。

■阅文集团
 立て看板には、阅文集团はアニメならトップ20のうち80%、オンラインゲームなら累計ダウンロード数でトップ20の75%、そして、国内ドラマならトップ20の75%を占めると書かれていました。アニメであれ、ゲームであれ、ドラマであれ、阅文集团はどうやら、人気作品を量産している企業のようです。

 この立て看板が謳いあげているように、阅文集团が、ジャンルを問わず、中国のネット・エンターテイメントの領域を占拠しているのだとすれば、多少は、このブースの責任者から話を聞いておく必要があるかもしれません。

 実際、中国はいま、E-コマース、ネット決済などの領域で日本よりも一歩進んでいます。ネット・エンターテイメントの領域でも中国になにか新しい動きがあるかもしれません。そう思って、責任者に話を聞いてみることにしました。

 残念ながら、私の中国語はまだ込み入った会話ができるレベルではありません。責任者と話しているうちに、よほどもどかしく思ったのでしょう、通訳を介しての話し合いとなりました。

 おかげで誤解していたことがわかったこともありました。アニメゾーンで出展されていたので、私はてっきり、阅文集团をアニメ会社だと思っていたのですが、話をしているうちに、実はそうではなく、中心はネット文学のサイト運営だということがわかってきました。その派生事業として、ネット小説を原作とし、アニメやドラマなどを制作している事業者でした。

 帰宅してから調べてみると、阅文集团はたしかに中国最大の電子書籍専門サイトで、ネット文学のパイオニアと位置付けられていました。電子書店の運営と著作権マネジメントを収益の柱としており、中国のネット文学市場で過半数のシェアを占めるほどの大手です。

■ネット小説を原作に、多メディア展開
 阅文集团は、中国国内ですでにライセンスを所有しているネット小説を原作に、ドラマ化、映画化、ゲーム化、舞台化、音声小説化を手掛けています。ネット小説を軸に、コンテンツの多メディア展開を行っているのです。

 そのような事業内容を知って、ようやく、阅文集团がアニメ、ゲーム、ドラマ、映画などで、多数のヒット作品を抱えている理由がわかってきました。

 いずれも阅文集团のネット小説に基づいて制作されたコンテンツだったのです。小説の段階で評価の高いものを、アニメ、ゲーム、ドラマなどの原案にしているのですから、ヒットするのも当然なのかもしれません。

 たとえば、「全职高手」というアニメ作品があります。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します。http://www.sohu.com/より)

 阅文集团のパンフレットによれば、この作品は、WEBアニメでのリリース後、たった24時間で再生回数が1億回を突破し、総再生回数は10億以上を記録したそうです。Eスポーツのプロゲーマーである葉修が、さまざまな挫折を経験した後、Eスポーツの頂点を極めていくという物語です。

 絵柄やストーリー展開などにやや日本アニメの影響が感じられますが、舞台をEスポーツにしたところ、ITの躍進著しい中国のオリジナリティが感じられます。

 原作は蝴蝶藍のネット小説で、2011年2月28日に連載を開始し、2014年9月30日に完結した作品でした。中国のウィキペディア(维基百科)によると、連載中から好評で、10点満点でなんと9.4点の高評価が付いていたそうです。

 さらに、大ヒットした作品に、WEBアニメの「头破蒼穹」があります。こちらは再生回数13億回を達成し、中国国内の3Dアニメで最高記録を更新したそうです。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します。http://yule.52pk.com/より)

 このアニメも原作は、天蚕土豆という作者が手掛けたネット小説です。百度百科を見ると、この作者は1989年生まれですから、まだ29歳です。作者が若ければ、読者も若いですから、ネット上で作品についてのコミュニケーションを交わします。作家と読者がネット上で相互交流を重ねながら、ストーリーを楽しみ、創り上げていくというのが、中国のネット小説の醍醐味のようです。

 ネット小説は、作者と読者の垣根が限りなく低い、というのが一つの特徴です。作者がいつでも読者になり、その反対に、読者がいつでも作者になりえます。そのような可変性、あるいは、強い相互依存性がネット民に支持されて、ネット文学の隆盛を生み出しているのかもしれません。文学の新しい地平を開く現象が中国で生まれているのです。

 そのプラットフォームを提供しているのが、阅文集团でした。中国の若者の潜在欲求に応えるように、阅文集团は、誰もが、いつでも、どこでも、小説を書き、ネットにアップロードしていくことができるプラットフォームを構築しました。実にタイムリーな措置であり、未来の動向を的確に見据えた取り組みだと思いました。

 今回、「第8回コンテンツ東京」の展示場で、私ははじめて、阅文集团のことを知りました。調べれば調べるほど、ネット文学を支えるプラットフォーム構築の意義深さを思い知らされます。

 若い世代を中心に、デジタルベースで広範囲に展開されているので、今後ますます市場規模を大きくしていく可能性があります。さらに、低額で毎日更新されるシステムなのでコピーされる恐れはなく、ユーザーには有料でコンテンツを消費する習慣が根付いていくでしょう。さまざまな観点から、阅文集团はネット時代にふさわしい文化環境づくりをしていると思いました。

 もちろん、投資家たちはこの動向を見逃してはいませんでした。

■香港市場に上場
 中国のコンテンツ業界を代表する会社として、阅文集团は2017年11月8日、香港株式取引所に上場しました。公募の際には40万人以上が殺到し、倍率は626倍で、5200億香港ドル(約7兆5600億円)集まったそうです。

 これは2017年の香港市場の取引で最高額であったばかりか、史上2番目の高額でした。このことからは、阅文集团がそれだけ多くの投資家から注目されている企業だといえるでしょう。

 それでは、阅文集团の設立経緯と事業内容をみていくことにしましょう。

 阅文集团は2015年3月、テンセントグループの子会社テンセント文学と、盛大グループの傘下にあった盛大文学が統合されて、設立されました。小説や漫画の出版、アニメ、ドラマ、映画などの制作、グッズ販売を手掛けるだけではなく、中国国内の作家を育成できるプラットフォームを持つ会社です。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 卢晓明氏は2017年7月4日、『36kr』上で、中国のネット作家の約90%が阅文集团のプラットフォームに登録していると書いています。同社のHP、その他の資料から詳しくみると、2016年12月時点で、阅文集团のプラットフォームはグループ合わせて530万人の作家を抱え、中国全体でネット作家の88.3%に及びます。コンテンツの中核部分を創り出せる人材を、阅文集团が豊富に抱えていることがわかります。

 こうしてみてくると、阅文集团の事業内容がネット時代にふさわしく、今後、さらに発展する可能性があると、多くの投資家から見込まれているのも当然でしょう。

 そこで、阅文集团の業務内容を調べてみました。5分程度、コンパクトに紹介されたビデオがありましたので、ご紹介しましょう。

こちら →
https://www.weibo.com/tv/v/Fuk9FdCE9?fid=1034:376650955723ad29bf6f564d363a492b

 興味深いのは、アニメであれ、漫画であれ、映画であれ、原案になるのが、ネット小説だということです。ヒットしたネット小説に基づいて、さまざまなデジタルコンテンツが開発され、さまざまなチャンネルで展開されているのですが、それらの版権は当然、阅文集团が所有しています。

 日本では漫画原作のアニメ化、ドラマ化はすでにお馴染みですが、それと似たような事業展開なのでしょう。中国では漫画ではなく、小説を原作に多メディア展開しているところが面白いと思いました。小説といってもネット小説ですから、連載の過程で、繰り返し、ユーザーの目に留まっています。露出が多いという点で、ヒットにつながりやすい側面があります。

 それでは、ネット作家はどのようにして生まれるのでしょうか。

■作家を育成するプラットフォーム
 阅文集团には作家が作品を発表するためのプラットフォームがあります。そこには作家として作品を発表するための手順が具体的に示されています。

こちら →https://write.qq.com/about/help_center.html

 ネットで作品を発表したいと思えば、①阅文の「作家传区」に作家登録をした後、「作品管理」をクリックし、「创建作品」のボタンを押す。②アップロードしたいサイトを選び、作品名称、作品ジャンル、作品概要などの関連情報を記入する。そして、最後に新しく完成させた作品を提出する。③それが終わるとすぐにも、「作家传区」(作品管理)のページで、新しく書いた文章をアップロードすることができる。

 以上のような流れに沿っていけば、誰もがいつでも、どこでも、ネット上に作品を発表できるようになります。

 もちろん、作品としてふさわしくないものを制限するため、いくつかの条項も設けられています。具体的な条項は「作家自律公约」として、上記のサイトに載せられています。誰もがいつでも、どこでも、作家登録し、作品を発表できるとはいいながら、実際には、最低限のルールは課せられているのです。

 こうしてみてくると、阅文の「作家传区」はまさに、ネット時代の作家を育むための孵化器のように思えてきます。書きたいものがあるのに、それをどのようにして、世の中に発表していけばいいのかわからない新人も、この孵化器の中に入っていけば、なんとか小説の形にしていくことができるようになるのかもしれません。

 展示会場で、阅文集团のブース責任者に、原稿は一括アップロードなのかどうか尋ねたところ、このシステムでは、すべて連載形式で取り扱うといっていました。つまり、作家は、一話ずつネットにアップロードし、それを読んだ読者とやり取りをしながら、ストーリーを展開していくという仕掛けです。

 作家は、読者と相互交流を重ねながら、ストーリーを展開していきますから、場合によっては、当初考えていたストーリーが、読者の意向によって変わってしまうこともあるでしょう。あるいは逆に、読者のコメントを踏まえて、作家がアイデアを巡らせ、当初考えていたストーリーを強化し、より豊かな作品世界を生み出す場合も考えられます。

 阅文集团が構築したプラットフォームは、潜在する作家を発掘するだけではなく、どうやら、ネットを介在させた新しい文学の表現舞台ともなりつつあるようです。

■ネット文学で生活していけるのか?
 それでは、このシステムでネットデビューした作家は、果たして、作家を本職として生活していくことはできるのでしょうか。この点についても、展示会場でブース責任者に尋ねてみました。すると彼は、低額料金なので、ほとんどの登録作家はそれだけで食べていくことはできないが、最近はそれだけで十分、生活できる作家も出てきたといいます。

 ネット作家は毎日3000字原稿を書いて、ネットにアップロードするといいます。読者は読むたびに、お金を支払いますが、1回がせいぜい7円程度なので、大勢の読者を獲得しなければ、大した収入にはなりません。しかも、最初のうちは無料で提供しますから、まったく収入にはなりません。ある程度、進んでからようやく課金システムに組み込まれますが、作品が面白くなければ読者が付かず、収入がほとんどないということにもなります。

 ですから、作家は必然的に、読者の意向に耳を傾けざるをえなくなります。読者とのコミュニケーションが少なければ、読者が離れ、収入が得られなくなりますし、反対に、多くの読者の意向に沿った内容にすれば、収入が増えるというわけです。

 読者はネットで公開された小説を、最初は無料で読めますが、ある程度になると、お金を支払わないと読めないようになっています。無料で読める段階で魅力的な設定、展開にしておかないと、有料になってからの読者を獲得できません。

 面白ければ、有料になっても読者は読み続けます。その後は、読むたびに、自動的に口座から引き落とされていきますから、作家はまさに作品の力そのもので読者を引き付け、稼いでいく仕組みになっているのです。読者からのお金は阅文集团のプラットフォームに入りますが、そこから定期的に、読書回数に応じて作家の口座に振り込まれていきます。

 ネットを検索していて、興味深い記事に出会いました。

「扬子晚报」(2015年10月19日)は以下のように、2015年時点のネット作家の収入状況を報告しています。

******
少額課金で毎日小説が読める「ネット文学」の世界で億万長者が誕生し、話題になっている。しかし、そうした「売れっ子作家」は実際には数えるほど。ひとつのサイトに数百人がひしめいているネット作家の大半は、無収入だという。(中略)
ネット作家の9割は無収入だという。収入のある作家でも、1か月に1万元(当時のレートで約19万円)の印税収入のある作家は全体の3%にも満たないとされる。
小説連載の仕事もハードだ。ある程度の収入を得ようとすれば、毎日最低でも3000字を書き続けなければならないので、ほとんどの人は途中で投げ出してしまうのが現実だ。
******

 ブース責任者に尋ねても、ネット作家の収入状況はこのようなものでした。改めて、誰もが参加できる敷居の低さは、誰にも収入に道を開いてくれるわけではないことがわかります。ネット文学は、熾烈な競争をくぐり抜けて、読者を獲得する骨法を掴んだ作家だけがようやく、食べていけるだけの収入が得られる過酷な世界なのです。

■ネット文学はチャイニーズ・ドリームになりうるか?
 ただ、いったん、多数の読者が付くようになれば、その輪が拡大して大ヒットとなり、思いもかけず、大富豪になる場合もあります。

 たとえば、先ほど、ご紹介した「头破蒼穹」の作者、天蚕土豆は、2013年には印税だけで2000万元(約3億4200万円)の収入がありました。この作品は漫画化され、映画化されていますから、そのロイヤリティも入ってきます。総計、どれほど多額の収入を得たことでしょう。

 このような現実を知ると、中国の若者がネット作家になる夢を抱くようになったとしても決して不思議ではありません。

 「KINBRICKS NOW」(2013年6月7日)は、ネット文学について、「個人が自由に創作できる、中国では数少ないジャンル」とし、「無料の海賊版ではなく、有料コンテンツを消費する習慣がユーザーに根付いている数少ないジャンル」だと書いています。つまり、ネット文学は、自由に表現することができ、正当に稼げるジャンルだというのです。しかも、「中国のネット文学は検閲的縛りもない」ようです。

 そうなると、ネット文学は検閲を気にすることなく、個人が自由に創作することができ、しかも、場合によっては巨万の富を稼ぐこともできる夢のようなジャンルだということになります。中国の若者にとって、大きな夢を託すことができる場といえるでしょう。

 もちろん、読者の評価に晒され続けるという厳しさはあります。批判に晒され鍛えられ、作家として磨き抜かれてはじめて、多くの読者に支持される作家に成長していくのです。そのことを考えれば、その種の労苦は成功のための代償として、積極的に受け入れていく必要があるでしょう。

 このようにみてくると、作家と読者がネットでダイレクトにつながるこのプラットフォームはきわめて合理的で、公平性があり、隠れた才能を発掘できる素晴らしいシステムではないかという気がしてきます。「検閲がない」ということを加味すれば、それこそ、ネット作家こそがチャイニーズ・ドリームではないでしょうか。

 このプラットフォームは、中国という膨大な人口を抱える国で開発されました。いわゆる集合知が判断基準として機能するシステムとして、今後、さらに発展していく可能性があります。

 国の力ではなく、組織の力でもなく、個々のヒトの巨大な集合体が育む知の機構として、メイン文化の在り方にも大きく作用するようになるかもしれません。個々のデータの集合体であるビッグデータがさまざまな領域を可視化していくAI時代にふさわしいプラットフォームといえるでしょう。

 このプラットフォームには資格を問わず誰もが参加できますし、そこに政府の介入、検閲も入りません。しかも、努力次第で、巨万の富を稼げますし、社会的地位も得られます。現段階で、少なくとも中国では、ネット文学こそがチャイニーズ・ドリームだといえるのではないでしょうか。(2018/4/25 香取淳子)

第2回AI・人工知能EXPO: AI・人工知能時代の事業価値とは?

■第2回AI・人工知能EXPOの開催
 2018年4月4日から6日まで東京ビッグサイト東展示棟で、「第2回AI・人工知能EXPO」が開催されました。私が訪れたのは4月5日の午後でしたが、国際展示場正門駅を下車すると、人々が続々とビッグサイトに向かっているのが見えました。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 展示会場に向かって進むにつれ、ますますヒトの混み具合が激しくなってきました。AI・人工知能への関心がよほど高まっているのでしょう。思い返せば、その予兆はありました。私は、「AIが変えるビジネス」というセミナーに参加したかったのですが、申し込もうとした時点ですでに満席でした。

 代わりに、「注目の海外ベンチャー企業」というタイトルのセミナーに申し込みましたが、それでも、開催日までに二度ほど「キャンセルの場合、早めにご連絡ください」というメールがきました。そういうことはこれまでに経験したことがありませんでした。なんといっても東京ビッグサイトは巨大な催事場です。キャンセル待ちが出るとは思いもしませんでした。ところが、担当者によると、このセミナーにはなんと3000名もの申し込みがあったそうです。

 もちろん、セミナーばかりではありません、展示会場もヒトで溢れかえっていました。主催者が撮影した初日の会場風景を見るだけでも、AI・人工知能に対する人々の関心の高さがわかります。

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(図をクリックすると、拡大します)
 
 改めて周囲を見渡してみると、全国各地からさまざまな領域の人々がビッグサイトに馳せ参じていました。AIこそがこれからの社会の大きな変革要因になると多くのヒトに認識されていることがわかります。

 それでは、4月5日、15:00から始まったセミナーの一端をご紹介していくことにしましょう。

■注目の海外ベンチャー企業
 このセミナーでは、ViSenzeの共同創始者兼CEOのOliver Tan氏と、データサイエンティストでありDataRobotのCEOであるJeremy Achin氏が登壇し、講演されました。とくに私が興味を抱いたのが、Oliver Tan氏の講演内容でした。

 Oliver Tan氏の講演をかいつまんでご紹介しましょう。

 Tan氏は2012年にViSenzeを設立して以来、デジタルコンテンツ、eコマースなどの事業に取り組んできました。その間、①小売りにおける人工知能の活用、②ビジュアル・コンテンツの増進、③映像認識におけるイノベーション、等々の変化が起きているといいます。

 その背景として、Tan氏は3つの要因を挙げます。すなわち、非構造化データが大幅に増えた結果、ネット上はいま、データの洪水状態になっているということ、ハードウエアが高性能化し、演算当りの単価が安価になっているということ、利用可能なアルゴリズムがあるということ、等々です。

 非構造化データがどれほど増えたかといえば、現在、ネット上には30億以上の映像・画像が投稿されていることに示されています。なんと、ネット上の80%以上が映像や画像などのビジュアル・コンテンツだというのです。つまり、膨大な非構造化データがネットには溢れかえっているのです。ところが、タグが付いていないので、これらを利用することができません。せっかくのデータを活用できないのです。これが大きな問題となっているとTan氏はいいます。

 今、急成長しているのがビジュアル・サーチのAIなのだそうです。映像・画像などの非構造化データを利用するためのAIが注目されていますが、ネット上の情報の80%以上が映像・画像情報だということを考えれば、それも当然の成り行きでしょう。AI市場は今後、2022年までに50億規模の市場になるといわれていますが、中でも注目されているのが、非構造化データの処理に関わるAIだといえます。

 Tan氏は、ビジュアル・コンテンツの非構造化データを小売り事業に活用している先進事例の一つとして、アリババのマジックミラーを挙げました。簡単に触れられただけだったので、具体的にどういうものなのか知りたくて、帰宅してから調べてみました。

 内外のいくつかの記事から、このマジックミラーは、アリババの新たな小売り戦略とも関連する実験だったことがわかりました。

■アリババの実験
 アリババは2009年以来、毎年11月11日を独身の日とし、セールを行ってきました。売上は年々増加し、2017年11月11日は1682億元を達成しました。なんとたった一日で、日本円に換算すれば2兆87億円も売り上げたのです。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します。https://toyokeizai.net/より)

 「独身の日」は中国語で「光棍节」といい、ショッピングイベントとして大きな経済効果を上げています。独身者同士が集まってパーティを開いたり、プレゼントをしたりするための消費が促進されているのです。毎年決まった日にイベントセールを実施することで、独身者の潜在需要を掘り当てたのです。

 実際、この日の売上高を開始期から時系列でみていくと、年々大幅に増加していることがわかります。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します。Alibabaより)

 Yuyu Chen氏は「DIGIDAY」日本語版(2017年11月17日)で、これに関連し、興味深い指摘をしています。つまり、アリババにとって、独身の日はたった1日で数百億ドルの売り上げをもたらすショッピングの祭典というだけではなく、小売業界のイノベーションを誘導するさまざまな実験を行う機会でもある、というのです。

■オンラインとオフライン
 アリババについて調べているうちに、興味深い調査結果を見つけました。E-コマースで多大な実績を上げるアマゾンとアリババについて調査をした結果、人々の消費行動全体でみると、いずれも伝統的な店頭販売にははるかに劣ることが判明したのです。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します。https://www.cbinsights.com/より)

 アマゾンにしてもアリババにしても現在のところ、E-コマースを圧倒していますが、アメリカでは90%以上、中国も80%以上が店頭販売でモノが購入されていることがわかったのです。ですから、両社にとって、次の大きな成長機会は実店舗での販売をどのように取り込めるかということになります。

 アリババはすでにオフラインとオンラインの統合の利点を了解しており、2017年の「独身の日」で実店舗を中国国内にいくつか設置し、さまざまな実験を行いました。そのうちの一つが、先ほど言いましたマジックミラーです。

■マジックミラー
 これまでアリババはオンライン上にポップアップストア(期間限定ストア)を開設してきましたが、今回の「独身の日」セールで初めて、実店舗のポップアップストアを設置しました。

 中国国内12都市、52か所のショッピングモールでオープンし、10月31日から11月11日まで営業しました。新展開の目玉の一つがマジックミラーでした。

 「マジックミラー」と名付けられた画面では、買い物客はサングラスや化粧品、衣料品などの商品をバーチャルに試着することができます。試着してみて商品が気に入ったら、スクリーン上のQRコードをスキャンして、アリババのモバイル決済サービスAlipay(アリペイ)で購入することができるという仕組みです。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します。Alibabaより)

 実際に手に取ってみることのできない商品でも、この装置があれば、気軽にさまざまな商品を試してみることができます。消費者にしてみれば、これまでよりもはるかに容易に、納得した上で、意思決定をすることができるようになります。実店舗ならではの実験です。

 アリババはこのように、新しいテクノロジーを駆使して、さまざまな実験を行い、購入を決意する消費者側のデータを収集しているのです。新しい事業モデルを構築するには不可欠のデータを掘り起こしているともいっていいかもしれません。大量の消費者が集う「独身の日」はまさに、アリババにとって貴重なマーケティングの日だといえるでしょう。

 たとえば、今回、導入したマジックミラーの場合、小売における新しいアイデアが今後、投資に値するものなのか、それとも、修正が必要なものなのかを判断するための根拠として、アリババは消費者の反応と売上の結果を重視します。データ化された情報を駆使し、できるだけ精密に消費行動を把握し、事業モデルを組み立てていきます。

 大量の消費者が動く「独身の日」はアリババにとって、単に大量に商品が売れる場ではなく、大量の消費行動データが得られる場でもあります。つまり、次のステップを踏むための基盤にもなる重要なイベントなのです。

■アリババの「新小売り戦略」
 さて、今回、実店舗を設置した中国の各所で実験されたのが、マジックミラーであり、AR(拡張)ディスプレイエリアでした。いずれも、単なるオンラインイベントを超えた試みでした。Yuyu Chen氏は、これらの実験はアリババの新小売り戦略に沿ったものだと記しています。

 そこで、関連記事をネットで検索してみました。すると、下記のような記事がみつかりました。タイトルは「Jack Ma outlines new strategy to develop ‘Alibaba economy’」(ジャック・マー、「アリババ経済」を開発する新しい戦略を概説する)です。2017年10月17日付の記事ですから、「独身の日」の約1か月前の取材情報です。

こちら →
http://www.thedrum.com/news/2017/10/17/jack-ma-outlines-new-strategy-develop-alibaba-economy

 これを読むと、アリババのCEOジャック・マー氏は、「E-コマースは急速にビジネスモデルを進化させ、「ニューリテール」(新小売り)」の段階に入っているという認識を示しています。やがてはオンラインとオフラインの境界が消滅していくと彼は考えており、その対策として、各消費者の個人的なニーズに焦点を当てたサービスを展開しなければならないとしています。

 さらに彼は、中国ではアリババのニューリテール・イニシアチブ(新小売り戦略)は、5つの新しい戦略の出発点として形を成しつつあるといいます。この5つの新しい戦略とは、「ニューリテール」、ニューファイナンス」、「ニューマニュファクチュアリング」「ニューテクノロジー」「ニューエナジー」を指します。

 このような構想の下、1億の雇用を生み出し、20億の消費者にモノやサービスを提供し、1000億の収益性の高い中小企業を支援するプラットフォームになるよう計画しているとジャック・マーは宣言しています。さらに2036年までには、アリババのインフラがトランザクション価値を結びつける商業活動を支援し、世界ビッグファイブの経済としてランクされるようになるだろうとも予測しています。

 興味深いのは、ジャック・マー氏が、一般株主は我々に利益をあげることを期待しているが、我々の存在価値はお金を稼ぐことだけにあるのではないと強調していることでした。どうやら彼はアリババの事業を通して、商業活動以上の社会的活動を企図しているようです。

 ジャック・マー氏はこんなことも書いています。

「もしアリババが農村部や中国全土の貧困地域を手助けし、テクノロジーによって生活状況を改善することができるとすれば、世界のその他の地域にも大きな影響を与える機会を持てるようになる。テクノロジーは世界の富の格差を広げることの原因になるべきではない」と。

 このような考え方を知ると、アリババの存在価値がお金を稼ぐことだけにあるのではないとジャック・マー氏が強調していたことの背景がわかってきます。

 テクノロジーの力を活用して農村部や貧困地域を豊かにする一方で、この新小売り戦略は、グローバルなサプライチェーンの再構築をもたらし、グローバル化の形勢を大企業から中小企業へと変化させるだろうとジャック・マー氏はいいます。このことから、経済の合理化を進めるだけではなく、社会的公平性をも実現しようとしていることがうかがい知れます。

 三菱総合研究所の劉潇潇氏も、アリババ・グループのCEOジャック・マーク氏が2016年10月に発表した小売り戦略に注目しています。この戦略は、オンラインとオフラインをうまく使い分けることによって、より精密なターゲティングを行い、顧客により深い感動を与えることを目指す戦略だと指摘しています。(https://toyokeizai.net/)

 たしかに、この戦略は消費者の心を捉え、消費者とつながることを目指したものだと思います。とはいえ、2017年10月に取材された記事から、ジャック・マー氏の考え方を推察すると、私には、単なる顧客獲得を超えた大きな世界観に支えられた市場戦略のようにも思えてきます。

■事業が追及する価値とは?
 4月18日、日経新聞を読んでいて、興味深い記事に出会いました。価値創造リーダー育成塾で嶋口充輝氏(慶應義塾大学名誉教授)が行ったキーノート・スピーチを原稿に起こしたものでした。

「事業が追及する価値は、合理性・効率性を追求する「真」の競争から社会的責任や社会貢献を意識した「善」の競争、そして、品位や尊厳、思いやりなどの「美」を追求する競争へと移ってきました」と、まず、事業に対する現状認識を示しています。その上で、嶋口は、今後の展開として、以下のように続けます。

「これからの時代の企業は、その事業姿勢や行動を「美しさ」から発想し、「社会的有益性」を踏まえ、結果的に収益性や効率性に結び付ける「美善真」というスタイルが求められると思います」といい、「美しさ」主導の事業姿勢を「あるべき姿」と打ち出しています。

 一見、理想主義的な意見に思えたのですが、再び読み込むと、実はきわめて長期的展望に立った見解だという気がしてきました。そして、そういえば、ジャック・マー氏も似たようなことを言っていたなと、先ほどご紹介したアリババの新小売り戦略を思い出しました。思い返しているうちに、振り返って、第2回AI・人工知能EXPOの記事を書こうと思い立ったのでした。

■AI・人工知能時代の事業価値とは?
 AI・人工知能が中心になって社会を動かしていく時代に、求められる事業価値とはいったい、何なのでしょうか。今回、第2回AI・人工知能EXPOに参加してみて改めて、そのことを考えさせられました。

 もはやヒトはモノやサービスを、効率性、経済性、有益性だけで購入するわけではなくなってきています。そんな時代に事業活動を継続的に行っていくには、モノやサービスに消費者の心を動かす何かが付随していなければならないでしょう。心のつながりが生まれて初めて、事業活動が消費者から強く支えられ、継続していくことができるようになるのでしょうから・・・。

 そして、心のつながりの動機づけになるのは、なによりも、対象にたいする信頼感であり、尊敬の念であり、憧れであり、崇拝の念でしょう。

 そう考えてくると、AI・人工知能の時代には、美しさや品格といった数値化しがたい要素が価値を持ってくるような気がしてきます。

 今回、「注目の海外ベンチャー企業」というセミナーに参加し、Oliver Tan氏の講演内容から、私は、先進事例として紹介された、アリババの「独身の日」の実験に興味を抱きました。Tan氏はビジュアル・サーチAIの一例としてマジックミラーを紹介されたのですが、私はむしろ、「独身の日」に、実店舗で行われたこの実験の方に興味を覚えてしまったのです。

 種々、調べることになりましたが、その結果、いろんなことがわかってきました。セミナーが一種の触媒の役割を果たし、AI・人工知能時代の事業の意味を考えることになったのです。改めて、ヒトは選択的に話を聞くものなのだということを思い知らされました。(2018/4/20 香取淳子)

第15回アジア創造美術展:張暁文氏「満洲魂」に見る創作衝動の源泉

■「第15回アジア創造美術展」の開催
 2018年1月24日から2月5日まで、国立新美術館で「第15回アジア創造美術展2018」が開催されました。今回は日中友好を記念して開催されたせいか、日本、中国、韓国、スイス、ポーランドなどから300点余の作品、さらに、ウズベキスタン、キルギス、カザフスタン、タジキスタン、トルクメニスタン、バングラデシュから子どもたちの作品も展示されていました。まさに「アジア創造美術展」の名の通り、多様性に満ちた創造空間が、他の会場にはない雰囲気を醸し出していました。

 私が訪れたのは最終日でしたが、会場に足を踏み入れると、正面に自由闊達な創造空間が広がっており、異彩を放っていました。

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(図をクリックすると、拡大されます)

 まず、目の前に広げられている掛布団のようなものに驚かされます。何かと思って近づいてみると、巨大な白い紙の上に墨汁の濃淡で表現された作品世界が広がっていました。書といえばいいのでしょうか、あるいは墨絵といえばいいのでしょうか。入口のところでまず意表を突かれたのは、濱崎道子氏の作品でした。造形の新領域への挑戦が際立っていました。「胎動」というタイトルがつけられています。

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 根元が太く濃く、力強く上に伸びていく墨の勢いが勇壮で、印象的です。その合間を縫うように、かすれた線、小さな面がバランスを崩すように配置されています。そのせいか、作品全体に微妙な動きが生み出されています。しかも、その下には奇妙な膨らみがあり、そこから何かが新たに立ち上がっていくような気配が感じられます。まさに「胎動」です。

 二次元の世界に三次元の要素が組み入れられた濱崎氏の作品を見ていると、束の間、子ども心を取り戻したような気になります。歳月を経て、硬直化しパターン化してしまった思考の回路に、失われていた柔軟性が蘇ってくるような思いがしました。

■遊び心満載の会場
 さきほどの写真でいえば、会場正面の右上に、歩くヒトの影絵が掲示されています。これが、回り込んでみると、「アジア創造美術展」の幕の左側になります。

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 気になって、会場スタッフに尋ねると、これは亜細亜太平洋水墨画会会長の溝口墨道氏の作品でした。通常の作品が展示されているラインよりもやや高いところに、さり気なく掲げられており、入口だけではなく随所に展示されていましたから、この影絵がまるで観客を誘導していくガイドのように見えました。

 この影絵もまた、観客の奥深く沈潜していた子ども心を蘇らせてくれます。しかも、これが会場のあちこちに配置されていますから、この影絵を通して、個々の展示作品が有機的に繋がっていくような効果がみられます。とても斬新な仕掛けだと思いました。

 観客は会場の展示作品を見ているうちに、忘れていた童心を思い起こし、日常から解放されていきます。やがて、絵画を素直に鑑賞できる柔軟な心を取り戻していくのです。そればかりではありません。この影絵の存在によって、作品と観客とが童心で結ばれ、それらが会場全体に有機的に繋がり合って、一体化していくように思えました。すばらしいアイデアです。

 書の展示も一風、変わっていました。まるで積木を積み上げたような趣があります。遊び心満載の展示を見て、気持ちが緩みます。

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 このような仕掛けを見ていると、パターン化された日常生活の中で、ともすれば自分を見失いがちになっていることに気づかされます。その一方で、会場にいるだけで、自由奔放な気持ちを取り戻せそうな気持にもなっていきます。

 形を超え、色を超え、表現の次元を超えて飛翔する創造者の集団だからこそ提供できる、居心地の良さを感じました。諸作品を見ていくうちに、私は次第に気持ちが解放され、豊かに広がっていく思いがしました。

 そんな中、気になった作品があります。会場に入ってすぐのコーナーに展示されていた作品です。タイトルは「満洲魂」、張暁文氏の作品でした。後でわかったことですが、張暁文氏はさきほど紹介した亜細亜太平洋水墨画会会長の溝口墨道氏の奥様で、同会の副会長でした。

 作品サイズが大きいわけではなく、モチーフが目立つわけでもなく、遠目に映える作品でもありませんが、目にした途端、妙に気になったのです。この作品には、気持ちの奥深く、訴えかけてくる何かがありました。

 それでは、詳しく見ていくことにしましょう。

■張暁文氏の「満洲魂」
 この作品は、藍色を基調にした作品を中央に置き、その周囲に、紅色を基調にした作品4つが取り囲む格好で構成されています。離れてみると、5枚のキャンバスの配置が十字架のようにも見えます。このような展示構成のせいでしょうか、それとも色彩のせいでしょうか、見ているうちに、不思議に感情がかき立てられていきます。

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 近づいて見ると、左右、下に配置された紅色基調の作品には何やら文字が書かれています。漢字でもなければアルファベットでもなく、見たこともない文字です。タイトルに「満洲魂」とありますから、ひょっとしたら満洲文字なのかもしれません。

 しげしげと見入っていると、作者の張暁文氏が近づいて来られたので、尋ねてみました。やはり、満洲文字でした。紅色基調の4枚のキャンバスのうち、上の絵は門を示しているのだそうです。そう言われてみれば、丸い図形のようなものはドアのノッカーに見えます。どういうわけか、これには文字は書かれていません。

こちら →

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(図をクリックすると、拡大します)

 張氏は、この絵に「家」あるいは「故郷」という意味を託したといいます。

 一方、形状の違うぼんぼりのような灯りが描かれた左、右、下の絵、そして、真ん中に置かれた藍色の絵には、それぞれ満洲文字が添えられています。いったい、どのような意味が込められているのでしょうか。ふたたび、張氏に尋ねてみました。

■絵に添えられた満洲文字
 まず、左側の絵からみていくことにしましょう。

こちら →

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(図をクリックすると、拡大します)

 右側に蓮のつぼみのような形状の紅色のぼんぼりがレイアウトされ、その左側に満洲文字が書かれています。張氏によれば、これは、「高揚民族精神」、「振興満洲族文化」という意味なのだそうです。

 これと似たような形状のぼんぼりが描かれているのが、右側に置かれた絵です。

こちら →

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(図をクリックすると、拡大します)

 こちらは、左側にぼんぼりが置かれ、右側に満洲文字が書かれています。張氏によれば、これは、「満洲文字の歴史を鑑とする」「平和を祈る」という意味だそうです。

 2枚の絵はメインの絵を挟んで配置されています。両方ともぼんぼりが描かれているせいか、まるで左大臣と右大臣のように、紅色の絵が両側から、藍色の絵をしっかりと守る役割を担っているように見えます。

 さて、下の絵にも満洲文字が書かれています。

こちら →

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(図をクリックすると、拡大します)

 張氏によれば、これらは、「尊重」、「重視」、「起源」という意味だそうです。左右の絵に比べて文字数が少ないことを考え合わせれば、文字が添えられていない上の絵に対応して構成されているのかもしれません。そういえば、描かれているぼんぼりも、左右の絵とは形状や色が異なります。この絵のぼんぼりが白色だということは、上の絵のノッカーの白色に対応させたものともいえます。

 そして、真ん中には藍色基調のキャンバスがレイアウトされています。

こちら →

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(図をクリックすると、拡大します)

 ここにも文字が書かれています。張氏によると、「千年に一度、出会う奇跡」、「良書良友」、「永遠の平和」という意味だそうです。

■満洲語から読み解く「満洲魂」
 それでは、満洲語で書かれた文字からこの作品のメッセージを私なりに推測し、読み解いてみることにしましょう。

 まず、メインの藍色の絵の満洲文字からは、素晴らしい書や友に支えられていれば(「良書良友」)、「千年に一度、起こるような奇跡」に出会い、「永遠の平和」が訪れる、ということが示唆されています。これは作者の究極の願望であり、創作の目的でもあるのでしょう。

 ところで、このメインメッセージは4枚の紅色の絵で取り囲まれています。そのうち3枚には満洲文字が書かれていますから、それらを読み解いていけば、おそらく、私の拙い解釈を補ってくれるはずです。上から順にみていくことにしましょう。

 上の絵に文字はなく、ドアのノッカーが二つ描かれているだけです。張氏はこの絵について、「家」、「故郷」を示したといいます。ヒトが依って立つ基盤である「家」、そして、家を包み込む「故郷」です。この作品の発想の原点がここにあるような気がします。自分のアイデンティティを生み出し、支えてくれるのが、「家」(家庭)であり、故郷だという思いが込められています。

 さきほどもいいましたように、この絵と視覚構造的に対になっているのが、下の絵です。そこに書かれている満洲文字は、「尊重」、「重視」、「起源」でした。これを上の絵と関連づけて解釈するとすれば、ヒトの「起源」は家あるいは故郷にあるからこそ、家や故郷を尊重し、重視していかなければならない、と言っているように思えます。つまり、ここではヒトとして生きていくための心構えが説かれているのです。

 そして、左の絵に書かれているのが、「高揚民族精神」、「振興満洲文化」でした。ヒトが依って立つ基盤である家や故郷を存続させるためには、共通の価値基盤である文化を維持し振興していく必要があるということなのでしょう。すなわち、民族の精神を高揚することであり、張氏にとっては満洲文化を振興していくことになります。

 この絵と対になっているのが、右の絵です。ここに書かれているのが、「満洲文字、歴史を鑑とする」、「平和を祈願する」でした。これを左の絵と関連づけて解釈するとすれば、民族精神を高揚させ、満洲文化を振興するには、満洲文字や歴史を鑑とし、平和を祈願して生活し、生きていかなければならないと説いているといえます。

 こうしてみてくると、作品に文字が添えられていることに、二つの効用があるように思えます。私には判読できませんが、流れるような満洲文字が添えられていることによって、視覚的な興趣があります。そして、満洲文字の意味を理解すれば、さらに作品の深みが増すという効用です。

 一般に、日本では絵に文字を添えることをあまりしません。それだけに、私はこの絵に文字が添えられていることに興味をそそられました。調べてみると、中国では絵に文字を書き込むことはよくあるようです。

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中国では「書画同源」ということがしばしばいわれます。中国の文人にとって、書(文字)と絵画とは、絹(または紙)、墨、筆という同じ道具を使って制作する「線の芸術」であり、文人画家は書の筆法で墨竹、墨梅などの絵画を制作したそうです。近代以前の中国では「美術」に相当する語は「書画」でした。(Weblioより)
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「書画同源」という言葉があるぐらいですから、絵に文字を添えるという発想はごく自然なことなのでしょう。「満洲魂」を見ていると、満洲語が添えられていることによって、作品のメッセージ性がより鮮明に打ち出されていると思いました。

■紅色と藍色で表現された世界
 張氏の「満洲魂」は、紅色で制作された4枚の絵と、藍色で制作されたメインの絵で構成されていました。離れてみると、まるで十字架のようにもみえるユニークな画面構成が印象的です。

 赤といっても、元気、陽気、快活を象徴する色合いではなく、暖かさ、温もり、穏やかさを感じさせる落ち着いた紅色です。また、青といっても、澄み渡った晴天を連想させる蒼ではなく、底知れぬ海の深さを連想させる藍色です。一般的な中国人がお祝いの席で使う赤とも少し違うような気がしますし、内モンゴルなど北方の中国人が好む晴天の青とも異なります。

 紅色にしても藍色にしても、この作品で使われている色にはくすみがあります。そのせいか、5枚のキャンバスのすべてから、程度の差はあれ、そこはかとない哀愁を感じさせられます。それが、この作品の魅力の一つになっています。

 それにしても、なぜ、色彩を紅色と藍色に絞り込んでモチーフを表現しているのでしょうか。張氏に尋ねてみました。

 張氏は若いころ、宮廷画を勉強してきたそうです。宮廷画は、彩色が豊かで緻密な画風が特徴です。ところが、それでは自分らしさを表現できないと思い、今の画風になっていったといいます。さまざまな色を使えば、多くのことを表現できますが、逆に、いいたいことを明確に伝えることは難しいと張氏はいうのです。

 宮廷画の経験から、張氏は、シンプルにした方がメッセージを強く伝えられるという考えにたどり着いたようです。その結果、現在では、青と赤と基調に、差し色として何か一色、つまり、二色か三色でモチーフを表現するというスタイルに落ち着きました。

 そういえば、中国語に丹青という語があります。これは赤と青を指し、転じて絵具、彩色、絵画を指す言葉のようです。日本語でも、「丹青の妙を尽くす」とか、「丹青の技に長じる」という使われ方をしています。赤と青という色(丹青)は中国人にとって色彩の基本ですし、「丹青」という言葉は日本でも使われていたようです。

■「満洲魂」に込められたメッセージ
 さて、「満洲魂」のメインの絵は藍色基調で構成されていました。そのせいか、しっとりとした落ち着きがあり、どことなく悲しさも感じられました。その一方で、藍色の濃淡で表現されたモチーフには荒々しさも感じられます。不思議なことに、静の感情と動の感情が同時にかき立てられるのです。私は、この多様な感情を喚起する藍色の力に興味を覚えました。

 もちろん、色彩はモチーフと密接に関連しています。

 空さえも覆ってしまうほどの怒涛の海の波間に、よく見ると、右下に嫋やかな女性が顔をのぞかせています。荒々しい海の片隅でひっそりと姿を見せる女性、ここに、動と静、そして、強と弱が表現されています。このコントラストを私は面白いと思いました。

 絵柄から、私は勝手に海と思ってしまったのですが、作者はひっとしたら、時代の潮流を表現したかったのかもしれません。だとすれば、打ち寄せては砕ける波の狭間で、もがくわけでもなく、騒ぐわけでもなく、しっかりと前方を見つめている女性は、嫋やかさの中にしなやかさと芯の強さを併せ持つ存在として表現されているといえるでしょう。

 張氏はこの女性について、満州族の女性を表現したといいます。そう言われて、よく見ると、女性の頭上には大きな髪飾りが描かれています。このような髪飾りを、私は清朝の宮廷ドラマで、女性が着用しているのを見たことがあります。清朝の女性、すなわち、満州族の女性です。

 ネットで調べてみると、満州族の上流家庭の女性はこのような髪飾りをつけ、そこに宝石などの装飾品を縫い付けていたようです。

こちら →
(http://www.geocities.jp/ramopcommand/_geo_contents_/101223/fuuzoku09.htmlより)

 こうしてみてくると、満洲文字といい、モチーフに添えられた髪飾りといい、明らかに満洲文化とわかるものが絵の中に取り入れられていることがわかります。タイトル通り、「満洲魂」が表現されているのです。

 そして、これまで説明してきたように、メインの絵を取り囲む紅色基調の4枚の絵には、満洲民族にとっての満洲文化の意義が謳われています。

■創作衝動を支えるもの
 張氏は繰り返し、満洲文化を絵の中に取り入れていきたいといいます。それは、自分が依って立つ基盤である民族の精神がなくなると、自分を見失ってしまうからだというのです。

 今回のアジア創造美術展は、日中友好を記念して開催されました。ですから、中国メディアからも取材を受けたようです。ネットで見ると、いくつか取材記事が載っていました。とくに私が興味を覚えたのは、满族文化网の記事でした。

こちら →http://www.sohu.com/a/220126409_115482

 これを読むと、張暁文氏が満洲族の女性であること、両親が「正黄旗」の出身であることなどがわかります。「正黄旗」とは、「鑲黄旗」、「正白旗」と並ぶ上位の貴族です。

 張氏は子どものころは祖母の家で過ごすことが多く、そこで、満洲族の礼儀や伝統文化を身につけたといいます。さまざまな満洲族の生活用品や書画を目にする中で、当然のことながら、宮廷画にも馴染んでいたのでしょう。

 幼いころから絵が好きだったこともあって、張氏は画家を目指し、中国美術学院で学んでいます。当初は宮廷画を学んでいたそうですが、自分のスタイルを創り上げるため、いまの画風に変化させていったようです。

 こうした来歴をみても、張氏の創作衝動の源泉が満洲文化そのものにあることがわかります。「満洲魂」の中で如実に表現されていたように、自分が依って立つ満洲文化を伝え、維持していくために、絵を描いているともいえるでしょう。

 絵は端的にメッセージを伝えることができますし、見る者にさまざまな感情を喚起することもできます。「満洲魂」にひっそりと描かれた女性のように、張氏には、これからも強くしたたかに、満洲文化を振興していっていただきたいと思いました。

 第15回アジア創造美術展で諸作品を鑑賞し、自由な表現の中にこそ、ヒトを感動させる力が潜んでいることを思い知りました。改めて、表現方法をさまざまに模索していくことの大切さを感じました。張氏の作品をはじめ、見ごたえのある作品が多いと思ったのは、この展覧会には自由な創造の軌跡そのものが展示されていたからかもしれません。(2018/2/21 香取淳子)

トヨタ社長、中国版SNS“微博”開始:海図なき戦いに向けて

■トヨタとマツダが資本提携へ
 2017年8月4日、トヨタとマツダの両社長が会見し、資本提携すると発表しました。この資本提携を機に、米国に共同で新工場を建設し、世界規模で進むEV(電気自動車)シフトにも対応していくそうです。

こちら →https://jp.reuters.com/article/toyota-mazda-press-conference-idJPKBN1AK1C2

 会見の席上、豊田章男社長は現在の自動車業界について、「海図なき戦いが始まっている」と表現し、注目を集めました。そして、新しい競争相手に対抗するには、「とことん車づくりにこだわらなければならない」といい、そのためにもマツダとの提携に期待していると述べています。

 たしかに、ざっと調べてみただけで、大きな変化が日本のクルマ業界に押し寄せてきていることがわかります。トランプ政権の保護主義的な政策への対応、出遅れたEVシフトへの対応、環境規制への対応、さらには、グーグルなど他業種からの参入への対応、等々。トヨタとマツダが提携せざるをえないほど、自動車業界を取り巻く環境が激変しているのです。

 環境負荷への配慮から、多くの国でEV優遇策が推進されています。仏、英はガソリン車の販売を禁止する方針を打ち出していますし、中国では2018年からさらに規制が厳しくなり、メーカーには一定の割合でEVの販売が義務付けられるようになります。そして、アメリカではEV時代の到来に備え、ガソリン税に代わるマイル税(走行距離に応じて課される)が検討されているといいます。EVへの流れは急速で、すでにEVに舵を切った欧米中のメーカーが、自動運転とEVの組み合わせで日本車のシェアを奪おうとしているのではないかともいわれているほどです。

 もちろん、EVの普及には電力不足を招くリスクも伴います。ですから、効率のいい蓄電池の開発も含めた対応が必要になってくるでしょう。さらに、人工知能との組み合わせを考えれば、所有だけではなく、シェアを含めた利用方法も合わせて考えていく必要があるかもしれません。いずれにせよ、これまでにない対応が迫られているのです。

 日本の自動車業界は圧倒的な優位を維持し続けていると私は思っていましたが、いつの間にか潮流が大きく変わってきているようです。とても個々のメーカだけで対応できるものではなく、日本の基幹産業としての地位を維持するには当然、しっかりとした国家戦略も必要になってくるでしょう。

 世耕経済産業相は4日、閣議後の記者会見で両社の資本提携について問われ、「自動車業界は大きな曲がり角にあり、日本メーカーも戦略を練って具体的行動をとっているのだろう」といい「経産省としても政策に磨きをかけていく必要がある」と述べています(2017年8月4日、日経新聞夕刊)。

 実は、私が豊田章男氏に注目するようになったのは、「中国版SNS“微博”を開始した」というニュースを見たからでした。大企業のトップがなぜ?と不思議な印象を受けたのです。しかも、決して若くはありません。元記事に添付されていたレーサー姿の写真に、奇妙な違和感を抱いたことを覚えています。

ネットで簡単に自動車業界の現状を調べてみて、その背景がわかってきました。発想を大きく変え、可能性のあることにはなんでも挑戦しなければ、その存続が危ぶまれかねないほど、自動車業界はいま、大きな潮流に巻き込まれているのです。

■トヨタ社長、中国版SNS“微博”開始
 8月3日、ヤフーニュースのヘッドラインで「豊田社長、中国でSNSデビュー」というタイトルを見て、驚きました。早速、元記事に当たってみると、2017年8月2日、中国の澎湃新聞がトヨタの章男社長が中国版SNSの“微博”にアカウントを開設したと報じています。

 世界トップメーカーの社長が“微博”デビューをしたのです。これには驚きました。

 記事を読むと、「みなさん、こんにちは。豊田章男です。今日から微博を始めました。みなさんと友達になりたいと思っています」というメッセージとともに、ヘルメットを被ったレーサー姿で笑顔の写真が掲載されています。

 自己紹介の欄には「トヨタ自動車社長、レクサス主席テストドライバー」と書かれています。クルマ好きの中国消費者をメイン・ターゲットにしていることは明らかです。

こちら 
http://finance.sina.com.cn/chanjing/gsnews/2017-08-02/doc-ifyinwmp1485401.shtml

 澎湃新聞の記者はトヨタ中国の広報からのリリース情報として、「今後、中国メディアや皆さんの声に耳を傾けながら、輝かしいときを共有していけることを期待しています」というメッセージを紹介しています。当面は、豊田章男社長がインスタグラムに発表した内容を中国語訳し、微博に掲載していくようです。まずはレクサスのブランド力を高め、中国市場をレクサスの最大市場にしていくため、“微博”の内容もレクサスに特化したものにしていくとしています。

 さて、豊田章男社長が“微博”に投稿したのが2日の午前11時でした。ところが、その日の午後6時にはフォロワーが1万9000人にも達したといいます。そのうち3600人あまりがコメントを寄せていますが、興味深いのは、大多数が「中国でレクサスは作らないで。しっかりとした車を作って」という豊田章男社長へのお願いでした。

 担当記者にもネット民の反応がよほど印象深かったのでしょう、この記事のタイトルは、「豊田章男、微博開始、ネット民はレクサスを国産(中国産)にしないでと要求」でした。中国消費者の自国産への不信感と、その裏返しとしてのレクサス品質に対する絶大な信頼がうかがえます。

■トヨタの「モノづくり」精神への敬愛
 中国市場では、レクサスは一貫して輸入方式で販売されていますから、販売価格には関税が上乗せされています。ですから、中国で生産している他社の車に比べ、明らかに価格面でハンディを負っているのです。高品質であることは確かですが、価格も高いのです。

こちら →http://www.lexus.com.cn/

 レクサスを中国で生産(国産)し、国産車といて販売すれば、はるかに安い価格を設定できます。中国の消費者にとってはその方が明らかに有利になるのですが、それに対して中国のネット民から反対の声があがっているのです。信じられないような不思議な反応でした。そう思って、ネットで調べてみると、興味深い記事を見つけました。

 2017年2月4日付けのサーチナが、「愛国者もひれ伏す日本の匠・・・」というタイトルの記事を発表していました。

 「中国メディア《今天头条》は2日、レクサスの販売台数が4年連続で過去最高を更新、特に中国市場で根強い人気を誇っていると伝えた」というリードに続き、後段の文中で、「国産化(中国で生産)によって現在の高水準の品質コントロールが保てるかどうかが大きな問題だ」と指摘しています。

 そして、レクサスについて《今天头条》は、「”匠の精神”を強調し続けており、日本国内の生産工場で経験豊富な”匠”たちが逐次ハンマーや手を使って欠陥がないかをチェックするという昔ながらの手法を採用し、1台1台完璧な品質を確保している」と説明しているのです。

 こちら →http://news.livedoor.com/article/detail/12631220/

 さらに、Record chinaが発表した記事も見つけました。「<中国人観光客が見た日本>トヨタの工場に驚きの世界!見学ツアーでため息が出た」というタイトルの記事です。

 日本を訪れた中国人観光客はトヨタの工場を見学し、生産現場の物流と混流生産(1本の生産ラインで多車種、少量の車両製造を行う)に驚き、その感想を綴っています。

こちら →http://www.recordchina.co.jp/b159130-s0-c30.html

 このような経験をした中国人が次々と、ネットで紹介していきますから、レクサスの高度な品質については広く知れ渡っているのでしょう。豊田章男社長が微博デビューをした途端に、多数のネット民がアクセスし、「レクサスの国産化(中国で生産)を止めて欲しい」と訴えたことの理由がわかりました。中国の消費者は徹底した品質管理の下で製造される日本製品を敬愛しているのです。
 
■EV市場、中国がシェアトップに
 中国では大気汚染が深刻で、その対策として政府はEVの普及に力を入れています。2011年にはわずか7000台だったのが、2014年以降、急速にEVの販売台数が拡大し、2016年には米国を抜いて中国がEVシェアトップに躍り出ました。中国政府は2020年までEV支援策を継続する方針だそうですから、今後も中国市場での普及拡大は続きそうです。

 富士経済が環境対応車の世界市場について、以下のような結果をまとめました。これを見ると、現在は電気とガソリンのハイブリッド車(HV)が主流ですが、今後はより環境負荷の低いプラグインハイブリッド(PHV)や電気自動車(EV)の市場が拡大すると見込まれています。

こちら →
(http://www.itmedia.co.jp/smartjapan/articles/1706/27/news021.htmlより。図をクリックすると、拡大します)

 このグラフを見ると、EVは2025年以降、急速に拡大し、2035年には現在の13.4倍の630万台になると予測されています。それに反し、現在は主流のHVは2016年比2.5倍の458万台に過ぎません。高速充電への対応、航続距離の延伸など、まだ課題は残っていますが、世界的に見れば、今後、EVが主流になることは明らかなのです。

 もっとも、富士経済によると、日本での2035年のEV市場は36万台にとどまると予測されています。とはいえ、グローバル企業であるトヨタやマツダが手をこまねいているはずがありません。

 実際、2018年以降、中国市場ではEVやPHVなどの環境対応車を一定の割合で販売することを義務付けられるようになります。トヨタが得意としるHVはこれに該当しませんから、なんとしてもEVシフトに着手する必要がありました。ですから、今回のトヨタとマツダの資本提携、業務提携はEV市場への本格的な参入を見据えた対応なのです。

■EV市場ランキング
 三菱自動車がまとめたEV、PHEVの2015年の販売ランキングデータがあります。これを見ると、テスラ(米)がトップでした。さらに、2017年7月の発表を見ても、テスラは2年連続でEVシェア首位でした。このような数字からは、EVへの流れが加速していることがわかります。テスラは、2018年は現在の5倍に当たる年産50万台という拡大計画を掲げているそうです。

 それでは、ランキングに戻りましょう。

 テスラに続いて、日産のリーフ、三菱のアウトランダー、BYD(中)、BMW(独)・・・、となっていますが、このグラフの20位までにトヨタもマツダも入っていません。

こちら →
(https://www.hyogo-mitsubishi.com/news/data20160217153000.htmlより。図をクリックすると拡大します)

 興味深いのは、この20位までのランキングに中国車が8種も入っていることです。これはさきほどもいいましたように、中国では大気汚染がひどく、主な原因が車の排気ガスだとされています。ですから、環境規制がとても厳しく、しかも、EVについては優遇策が採られていますから、必然的に普及が促進されているのです。

 もっとも、中国製のEVが8種もランクインしているからといって、なにも驚くことはありません。海外で評価されて中国製EVの販売数量が多いのではなく、中国で販売された数量だけで、20位内に8種もランクインしているのです。中国では年間、約2500万台もの新車が販売されていますから、販売数でランキングすると、上位にランクされるという結果になるのです。いかに中国での販売量が膨大かがわかるというものでしょう。つまり、トヨタなどEVに出遅れた日本車メーカーも中国市場なら参入余地があるということになります。

 中国政府は2018年以降、新規制を施行し、EVなどの環境対応車の一定割合の販売を義務付けるといわれています。それに備え、トヨタは2019年、規制内容や優遇策を見極めたうえで、中国でEVの量産を始める方針を固めた(2017年7月22日、朝日新聞)と報じられています。

 こうした一連の流れを見てくると、今回、唐突な印象を受けた豊田章男氏の”微博”デビューですが、実は、中国市場でのEV量産化を踏まえた広報活動の一環なのかもしれません。

 はたして中国版SNSの影響力をどの程度、期待できるのでしょうか。

■中国市場を開拓ツールとしてのSNS
 中国における消費者心理について複数回、調査を実施した”accenture”は、中国ではインターネットで商品やサービスの情報を得ることが多いとしながらも、意思決定には職場の同僚や友人、家族などの影響が大きいと結論づけています(accenture『中国の消費者心理をつかむ』より)。とても興味深い知見です。

 同僚、友人、家族などからの情報が意思決定に大きく影響するという特性からは、中国の消費者にはSNSの影響力が大きいのではないかと推察されます。そこでSNSに関する調査結果をみると、「消費者の90%が商品やサービスなどの情報を得るため、微博などのSNSを利用しており、それらの情報を共有することにも積極的だ」とaccentureは指摘しています。このような調査結果からは、中国市場にスムーズに参入し、それなりの効果を挙げるにはSNSを活用するのが最も有効な手段だということがわかります。

 ところで、中国ではネット規制されており、FacebookやTwitterなどは使えません。その代わり、似たような機能を持つものとして、「QQ」、「微信」、「微博」、「人人網」などのSNSがあります。なかでも「微博」の普及は目覚ましく、2017年3月末の時点でアクティブユーザーが3億4000万人に達し、3億2800万人のTwitterを上回りました。

こちら →https://www.bloomberg.co.jp/news/videos/2017-05-31/OQUBAP6JTSF601

 このビデオでレポーターが指摘しているように、微博では必要なときにニュースを見ることもできるし、その他の生活関連の情報を見ることもできます。SNSでありながら、同時にメディアとしての機能も兼ね備えているのです。

 しかも、このレポーターによれば、微博はサービスを中国国内に特化し、海外に出ていくつもりはないといっています。だとすれば、中国市場に向けた情報発信装置としては最も期待できるSNSといえるのかもしれません。

■海図なき戦いに向けて
 8月4日、共同記者会見の席上で豊田章男社長が「海図なき戦い」と表現したように、いま、自動車業界を取り巻く環境が激変しています。環境規制、あるいは、グーグルやマイクロソフト、ソフトバンクといった他業界からの参入が業態を大きく変えようとしています。自動車業界内での提携だけでは対応しきれなくなっているのが、どうやら現状のようです。

こちら →
(日経新聞2017年8月5日、朝刊より。図をクリックすると拡大します)

 上の図を見てもわかるように、自動車業界はいま、同業他社や海外企業だけではなく、他業種とも連携しなければ問題に対応しきてなくなっているのです。

 この共同記者会見で興味深かったのは、トヨタの豊田章男社長の「グーグルなど新しいプレーヤーが現れている。車をコモディティにしたくない」という発言と、マツダの戸外雅道社長の「EVでは将来の予測が難しい。変動にフレキシブルに対応できる体制が必要だ」という発言でした。

 トヨタの社長の発言からは、車への熱い思い、そして、マツダの社長の発言からは、激変する未来に向けた用意周到な思いが見えてきます。両者の発言を見る限り、海図なき戦いにも十分、立ち向かっていけそうな気がします。

 自動車業界が迎えた潮流にはAIによる構造変化が大きく影響しています。ですから、この潮流はおそらく、さまざまな領域にも及んでいくことでしょう。今回の両社の提携が、さまざまな領域での変化への対応に、なんらかの示唆を与えてくれるものであればと思います。(2017/8/6 香取淳子)
 

景徳鎮現代陶磁作品展:「薪火の相伝」に見る伝統と革新

■景徳鎮現代陶磁作品展
 2017年6月15日から7月5日まで、日中友好会館美術館で景徳鎮現代陶磁作品展が開催されています。景徳鎮は古くから陶磁器の産地として知られ、私も一度は訪れ、卓越した諸作品を見てみたいと思っていました。

 今回の作品展では、その景徳鎮陶磁器の第一人者である秦錫麟氏とその弟子、邱含氏と陳敏氏の作品が展示されています。

こちら →http://www.jcfc.or.jp/blog/archives/10111

 受け取った案内状には、6月15日に開催されるオープニングイベントで、除幕式の後、作家の邱含氏と陳敏氏による制作実演が行われると書かれていました。願ってもない機会だと思いながらも、残念ながら、当日は所用があり出席できませんでした。

 後日、訪れてみると、会場には、邱含氏と陳敏氏、両氏の師匠である秦錫麟氏の作品、約100点が展示されていました。瓶、水差し、急須、皿、筆入れ、陶板、といった陶磁器作品です。白地を活かして藍色が配色されていたせいか、いずれも清廉な印象の残る作品でした。

 それでは、作品を見ていくことにしましょう。今回は、会場で写真撮影をしませんでしたので、チラシに掲載された作品を中心にご紹介していくことにしましょう。

■秦錫麟氏の作品
 秦錫麟氏の作品でチラシに掲載されていたのが、2012年に制作された青花釉裏紅瓶の「山花烂漫」です。

こちら →

 透き通るような白地に流麗な曲線を見せる青色、そして、大胆な赤い花弁の上に散らばった曇った緑色が映えています。このような図案は急須にも茶碗に用いられています。これが、秦錫麟氏が開拓した「現代民間青花」といわれるものなのでしょうか、いわゆる「青花」とは一味違う、現代的な感性を感じさせられます。

 「青花」とは、「青い文様」の意味で白地に青い文様を施した磁器を指します。素地に直接絵付けをし、その上から透明釉をかけて高温で焼くと、顔料が青色に発色します。元代に始まった技法だといわれています。

 この作品は「釉裏紅」で制作されていますが、図録を読むと、この釉裏紅というのが、14世紀の元朝の時代に景徳鎮で発展し、定着した銅系統の彩料を使った下絵付けの技法の一つなのだそうです。上絵付けの赤絵とは違って、顔料配分および焼成温度によって、さまざまな窯変が現れます。赤に緑や紫などの斑が混じったりすることがあれば、血のような真っ赤な色が出たりすることもあり、また、緑に赤い線に囲まれたりすることもあるようです。

 銅元素は高温によって還元する際、微妙な温度差や加熱時間、あるいは焼成環境によって、出来上がりの赤が非常に不安定になるといわれています。思い通りに発色させようとすれば、卓越した技術が必要になりますが、その技術を会得すれば、そのような特色を活かした微妙な色表現が可能になります。

 図録によると、秦錫麟氏は1980年代初期に「現代民間青花」の概念を提唱するとともに、その概念に沿った作品を制作し、理論を革新していったそうです。材料からデザインに至る多方面での研究を行い、現代デザインの理論を踏まえた上で、美意識や陶磁工芸の技術を結合して作品を制作しました。これまでの伝統的な民間青花に現代芸術の感性を加味し、新しい現代民間青花に発展させていいたのです。

 その成果の一つが上記の作品ですが、下記のような作品もあります。

こちら →

 これも先ほどの作品と同様、青花釉裏紅で制作された片口大皿で、「夢幻」というタイトルの作品です。繊細な青い縁取りの中、赤い花がところどころに散り、見ているうちに、淡い青のグラデーションで描かれた世界に沈み込んでいくような思いにさせられる幻想的な作品です。白の余白部分がゆとりの効果と奥行きを感じさせます。

 これらの作品以外にも秦錫麟氏の展示コーナーでは、多くの青花釉裏紅で制作された作品が展示されていました。いずれもシャープな切れ味と奥深さが感じられます。なるほど「現代民間青花」といわれるだけのことはあると思いました。

 ちなみに秦錫麟氏は中国工芸美術大師で、数々の栄誉に輝き、現代景徳鎮陶磁器の第一人者です。

 たまたま上海景徳鎮芸術瓦器有限公司のサイトを見てみると、なんと秦錫麟氏の作品が展示されており、当店一番の高額商品はこれと書かれていました。

■邱含氏の作品
 次に、邱含氏の作品をご紹介しましょう。チラシに掲載されていたのは、青花瓶の「山泉幽静」というタイトルの作品です。

こちら →

 どういうわけか、この作品は図録には掲載されていません。瓶の口部分が欠損した状態に形作られていますが、口の淵はしっかりと藍色で着色されており、形としても完成形になっています。ですから、いわゆる瓶の口とはいいがたいですが、これも斬新なデザインと考えていいでしょう。印象に残る作品です。

 口部分の特徴のある瓶といえば、図録には「臥石観景閑情逸致」というタイトルの作品が掲載されていました。この作品は口部分が折り曲げられており独特の厚みがあって、重厚感があります。図柄は「山泉幽静」と同様、風景に人物が添えられている点に、邱含氏の作品の特徴が表れています。

 会場で写真撮影をしなかったので、ネットで探してみると同じものはありませんでしたが、この作品と似たような形状と図案の作品がありました。

こちら →

 この作品の口部分は折れ曲がっているわけではありませんが厚く、その厚みを活かした装飾になんともいえない味わいがあります。その下に広がる藍色の濃淡で描かれた風景が絶妙です。邱含氏ならではの独自の世界が表現されています。

 会場で一連の作品を見ていると、邱含氏は風景や広い世界からヒトを捉える構図に特色がみられるように思いました。図録で確認してみましたが、改めて、邱含氏の豊かな感性と多彩な能力に驚かされます。

 会場で強く印象に残った粉彩陶板の作品があります。タイトルは「素装大地春」です。これもネットで探してみましたが、同じものは見つけられず、似たような作品がありました。「静聞図」というタイトルですが、こちらは多彩な色遣いで風景が丁寧に描かれています。

こちら →http://gallery.artron.net/works/3091_w188825.html

 微細な濃淡までしっかりと描かれ、木々や岩肌の微妙な表情が捉えられているので驚いてしまいます。ちなみに、邱含氏もまた中国工芸美術大師ですが、最も若いそうです。

 会場で展示されている多彩な作品を見ているだけで、邱含氏が山水をテーマにした青花釉裏紅、現代民間青花装飾、粉彩山水画、高温釉薬装飾、等々の技法に通じていることがわかります。作品を見ていると、とても奥深く、深遠な思想すら感じさせられます。

 会場では山水画が多く展示されていましたが、秦錫麟氏の弟子だとわかる作品も何点か展示されていました。その中で私が惹きつけられたのが、「酔春」というタイトルの青花裏紅の瓶です。白地に赤の図案が散り、その上に曇った緑が浮いたところなど、まさに秦錫麟氏の作品を彷彿させます。

 ところが、これもネットで探してみても、見つかりませんでした。そこで、似たような作品を探してもなかなか見つかりません。なんとか秦錫麟氏の弟子だということがわかる作品をと思い、ネットで見つけた作品をご紹介しておきましょう。

こちら →

 「春意盎然」というタイトルの作品です。赤地に曇った緑が浮いたところに、秦錫麟氏の弟子だということがわかります。

■陳敏氏の作品
 最後に陳敏氏の作品をご紹介しましょう。チラシに掲載されていたのは「春風得意」というタイトルの作品で、青花釉裏紅で制作された瓶です。

こちら →

 花が咲き乱れ、鳥が飛び、まさに春の情景です。花は赤で表現され、葉が青、そして、小鳥が二羽、下方から上向きで飛んでいます。小鳥を入れた図案が軽やかな動きを感じさせます。白地に大きな部分を占めている花の赤、それよりは小さな面積を占める葉の青、そして、小さな黄色い鳥、形態のバランス、色彩のバランスともに安定しており、居心地の良さがあります。

 安定しているとはいえ、大胆な赤の使い方、青のあしらい方に陳敏氏が秦錫麟氏の弟子だということがわかります。色遣いの大胆さに現代的な感性が感じられるのです。このような赤を活かした図案の中に、黄色の小さな鳥を添えたところにおそらく、陳敏氏の独自性があるのでしょう。この二羽の小鳥を加えることによって、この絵に優しさが生まれました。

 会場で陳敏氏の作品を見ていると、全般的に作品からほのぼのとした優しさが立ち上ってくるのが感じられます。

 たとえば、「紅葉と遊び」という作品があります。

こちら →

 これも青花釉裏紅の瓶ですが、瓶の上部を覆うように紅葉が描かれ、その下で遊ぶ二人の子どもの情景が描かれています。遊んでいる子どものそばにも紅葉の葉が散り、全体を優しく包んでいます。この瓶の形状といい、紅葉のバランスと子どもの仕草、表情など、ほのぼのとした温かさ、ヒトの温もりが感じられます。ここに陳敏氏の作品の特徴が表れているように思います。

 もちろん、この作品の赤の使い方、赤の上に浮き出た曇った緑などに、秦錫麟氏の明らかな影響が見て取れます。私はもともと、唐子の絵柄が好きなので、会場に入るとすぐに、陳敏氏の作品に引き付けられました。作品から放たれるなんともいえない優しさに、どういうわけか懐かしさを感じてしまったのです。ちなみに陳敏氏は中国陶磁芸術大師です。伝統の唐子の絵柄に赤や青のエッジの効いた図柄を加えたところが斬新です。

■「薪火の相伝」に見る伝統と革新
 今回の展覧会のタイトルには「相伝」という言葉が使われていました。馴染みのない言葉です。調べてみると、「技を伝える方法で、先生から生徒へ直接教えること。意図的に秘する場合や単純に言葉で伝え難い技法に使われる」という意味だそうです。なるほどと思いました。この展覧会の企画者の意図がタイトルから伝わってきそうです。

 この展覧会で、景徳鎮陶磁器の第一人者である秦錫麟氏とその弟子、邱含氏と陳敏氏の作品を見てきました。初めて見る作品ばかりでしたが、どの作品にも見受けられた伝統と革新の要素が刺激的でした。色彩そのものであれ、配色であれ、形状であれ、配置であれ、それぞれ自身の個性を活かしながら、伝統を踏まえ、革新を添えている、その塩梅が絶妙でした。

 「相伝」の中には伝統を伝える、あるいは、受け継ぐ要素がありますが、必ずしも完璧にそうすることはできないということが今回の展覧会でわかってきました。師匠の技法を弟子が受け継ぎ、制作しますが、コピーのように同じものを再生産するわけではありません。制作過程で最終的に支配するのは、制作者の自我のようなもの、あるいは独自の感性のようなもの、そういうものだという気がします。伝統を踏まえ、革新を紡ぐということはヒトの創作過程では必然のことではないかと、一連の作品を見ながら思いました。とても興味深い展覧会でした。(2017/6/30 香取淳子)

第12回中国全国美術展:中国リアリズムの煌めき

■「百花繚乱 中国リアリズムの煌めき」展の開催
 2016年2月25日、日中友好会館美術館で「百花繚乱 中国リアリズムの煌めき」展(2016年2月25日から4月10日)のオープニングセレモニーが開催されました。中国の全国美術展の一部を日本で鑑賞できる絶好の機会です。開催を楽しみにしていた私は定刻より早く会場に出向きましたが、すでに大勢の方々が談笑しながらフロアで開会を待っておられました。

日中の主催者および来賓の方々が挨拶された後、テープカットが行われました。

こちら →IMG_2565

 「百花繚乱 中国リアリズムの煌めき」展は、日本側主催者が第12回「全国美術展」で展示されていた576作品の中から厳選した76作品が展示されています。中国画、油彩画、水彩画・パステル画、版画、漆画、アニメーションなど、幅広いジャンルの美術作品が展示されています。どの作品もすばらしく、現代中国美術の表現力の高さ、多様さの一端をうかがい知ることができます。直近5年間の中国の現代美術の動向を知るまたとないチャンスといえるでしょう。

こちら →http://www.jcfc.or.jp/blog/archives/7421

 中国では5年に一度、政府主催による「全国美術展」が開催されます。2014年12月15日に開催された第12回全国技術展では、中国全土から2万点余りの作品が応募されました。その中から4391点の入選作品が選ばれ、さらに、その中から受賞作品、優秀作品、受賞ノミネート作品576点が、北京の中国美術館で展示されました。そして、その576作品の中から金賞7点、銀賞18点、銅賞49点、優秀賞86点が選ばれました。「全国美術展」はまさに現代中国を代表する美術作品の展覧会なのです。

こちら →http://12qgmz.artron.net/index.html?hcs=1&clg=2

 中国各地での巡回展の終了後、世界各地でこの展覧会の巡回がおこなわれています。日本では日本人主催者側が選んだ76作品で構成された展覧会がすでに2015年、奈良県立美術館、身延町なかとみ現代工芸美術館、長崎県美術館などで開催されています。日中友好会館美術館での開催は日本では4回目に当たり、本展終了後は福岡アジア美術館で開催されます。

 会場では、日本での展覧会のための作品選定に関わった3人の方々が作品を紹介されました。説明順に、中国画、油彩画、アニメーションの諸作品を見ていくことにしましょう。

■中国画に見るリアリズム
 森園敦氏(長崎県美術館)は中国画の代表作として、「団らんー家族愛」を取り上げられました。この作品は本展の最初に展示され、カタログの表紙にも使われていましたが、中国美術館でもトップに飾られていたそうです。陳治氏と武欣氏のご夫婦が制作された作品で、中国画部門で金賞を受賞しました。

こちら →団らん
(172×200㎝、シルクに顔料、墨、2014年)

 たしかにこの絵には強烈な存在感があります。決して派手ではないのですが、大きな画面から発散される温もりのようなものが観客の気持ちを吸い寄せていくのです。私は中国画を見るのは今回が初めてなのですが、この絵の繊細で優しい色遣いに気持ちがしっくり馴染みます。どこか日本画に通じるものがあるような気がしました。

 森園氏は、中国画には長い歴史があり、宮廷画家が手がけた花鳥風月をモチーフとした作品の系統と、文人による自然をモチーフにした作品の系統があったといいます。とくに、文人は絵の中に“意”を盛り込むことを重視し、制作していたそうです。

 文人は絵を見るヒトになんらかのメッセージを伝えることに意義を見出していたのでしょうか。それとも、写実的に再現するだけでは済まない表現衝動が文人にはあったのでしょうか。いずれにせよ、中国の文人画家たちが具象からなんらかの意味を抽出しようとしていたことに私は興味をおぼえました。具象から抽象に進み、やがて記号化されていった漢字の成り立ちを連想させられたからです。

 この絵は帰省した息子家族と老夫婦の再会を喜び合う光景をモチーフにしています。誰もが経験する日常生活の一コマですが、そのなんでもない日常の中に現代中国の世相が繊細に捉えられており、心を打ちます。リアリズムの手法によって、現代社会の深層が的確に表現されていることに感心しました。この絵については次回、再度取り上げ、掘り下げてみたいと思います。

 中国画部門で他に印象に残ったのは、「光陰の物語」です。

こちら →光陰の物語
(220×185㎝、顔料、紙、2014年)

 これは黄洪涛氏の作品で、中国画部門で銀賞を受賞しました。赤煉瓦の建物を背景に雪の積もった路面電車が詩情豊かに描かれています。淡い色調で表現された都会の風景と雪景色が調和し、美しい光景が描出されています。

 今回初めて、中国画を見たのですが、日本画とも重なる繊細で豊かな表現に感嘆しました。紙あるいはシルクという支持体に顔料あるいは墨で表現された世界には間接表現の奥ゆかしさがあり、惹かれます。

■油彩画に見るリアリズム
 南城守氏(奈良県立美術館)は油彩画部門の代表作として、「広東っ子の日常」を取り上げられました。李智華氏が制作された作品で、油彩画部門で銀賞を受賞しました。

こちら →広東っ子の日常
(176×200㎝、キャンバスに油彩、2014年)

 南城氏は、展示作品選定のため中国美術館を訪れた際、この作品が第一室で際立った存在感を放っていたといいます。日常の一コマを描いた作品ですが、その中に詩が感じられるというのです。

 この絵で描かれているのは、香港でも北京でも上海でも中国のどこでも、日常的に見かけるような光景です。休憩してたばこを吸っていたおじさんのこちらを見据える鋭い目が印象的です。

 そのおじさんの鋭い目につられ、その後ろを見ると、ショーケースがあり、所狭しと、焼き上げられた食肉がぶら下げられています。赤い椅子に座ったおじさんは、照明の下で鮮やかに輝く食肉へと観客の視線を誘導するための導入モチーフにすぎないようです。

 一方、右側の絵の中年女性は客足の途絶えたひととき、一息ついてリラックスしているようです。照明の後ろで顔は暗く、手前に並べられた食肉に目がいきます。こちらもヒトは背景として扱われています。

 ヒトが主人公かと思ってこの絵を見ていくと、光の当て方、色の使い方、画面全体に占めるボリュームなどから、実は食肉が主人公だということがわかります。たとえば、左側の絵は手前を暗く、右側の絵は手前を明るく、画面が構成されています。しかも、光が強く照射され、鮮やかに色彩が塗りこまれているのはいずれもヒトではなく、食肉なのです。

 南城氏はこの絵を見ていると、食欲が出てくるといいます。たしかに、この絵からは食肉のおいしそうな匂いすら感じられます。

 ところが、この絵をよく見ると、それほど細密にディテールが描かれているわけではありません。それでも圧倒的なリアリティが感じられますし、店番をするおじさんや中年女性の心象風景まで感じられます。それこそ緻密に考え抜かれた構図と明暗の付け方、タッチの鋭さのせいでしょう。油絵具の特性を活かした李智華氏の技法が秀逸です。リアリズムの極致といえるでしょう。

■独自性のあるアニメーション
 最後に、五十嵐理奈氏(福岡アジア美術館)はアニメーション部門で紹介したい作品として、「窓からの景色」を挙げられました。于上氏が制作した受賞ノミネート作品です。紙を切って造形し、一コマずつ動かして動画として仕上げた作品です。

こちら →IMG_1889
(5分12秒、アニメーション、2014年)

 上の写真は会場で放映されていた映像をカメラに収めたものです。次のようなカットもあります。

こちら →IMG_1890

中国のサイトではもう少したくさんの画像を見ることができます。

こちら →http://12qgmz.artron.net/index/exhibit_detail.html?id=52689&Cityid=585

 五十嵐氏が中国美術館で作品選定にあたった際、日本アニメと似たような作品、中国細密画に基づいた作品、墨絵風の作品が数多く展示されていたそうです。それだけに、紙を切り張りして制作したこの作品には独自性があって、惹かれたといいます。

 私はこの作品を見て、クレイアニメに似たような手法で制作されていることに興味を覚えました。クレイアニメと同様、着色しない白黒の紙という素材がすでに作品世界を作り上げているのです。テーマを視聴者に伝えるための表現の工夫が随所に見受けられます。

 このような作品が制作されるようになっていることを知り、驚きました。

 私は2011年から12年にかけて北京と河北省で大学生に対する意識調査を実施したことがあります。中国アニメは面白くないというのが学生たちのほぼ一致した見解でした。

 そこで、2013年、北京でアニメ制作者やアニメ会社の担当者に取材しました。彼らが一様に口にしていたのは、独自性のあるアニメーションを制作するのは難しいということでした。ある程度の視聴者数、観客数を見込める作品の制作を目指そうとすれば、オリジナリティはなかなか出せないというのです。

 今回の作品は短編でもあり、白黒の紙制作でもありますから、独自性はあっても商業化には向かないでしょう。ただ、アニメ制作に関し、このようなさまざまな試みが展開されているのはとても重要なことだと思います。制作者の裾野が広がることによって、切磋琢磨しあう機会が増えれば、より魅力的な作品が制作されるようになるでしょうから・・・。

■中国リアリズムの煌き
 学芸員の方々が紹介した作品を中心に、「百花繚乱 中国リアリズムの煌めき」展を概観してきました。会場にはさまざまな作品が展示されています。次々と見ていくうちに、私たち観客が絵に求めるものは、何なのかと思い始めました。

 絵の前に佇んでしばらく見入ってしまう作品があります。別に上手なわけでもなく、モチーフが斬新なわけでもない・・・、なぜだかわからないのに、妙に立ち去りがたい思いにさせられる作品です。

 ちょっと考えてみました。

 その絵の前を立ち去りがたくしているものは、おそらく、作品に込められたメッセージの力なのでしょう。観客との対話を引き出す力といっていいのかもしれません。見る者の目ではなく、気持ちに訴えかけてくる力です。

 私たち観客は、支持体の表層で表現されたリアリティではなく、作家の創作過程からにじみ出る内面のリアリティを見たいのです。どれほど深く現実を省察しているか、どれほど繊細に現実を観察しているか、そして、どれほど深層に近づきえているのかといったことが気になります。だからこそ、少しでもそうした要素を感じ取ることができれば、その絵と対話を始めたくなるのだと思います。

 今回の展示作品はそのような気持ちにさせられる作品が数多くありました。まさにこの展覧会のタイトルのように「百花繚乱」です。その状況が生み出されていることに、中国美術の可能性が感じられました。

今回、紹介できなかった作品で素晴らしいものがいくつもあります。次回、取り上げていきたいと思います。(2016/3/3 香取淳子)

『傾城の雪』にみるエンターテイメントの神髄

■興味の尽きない中国の歴史ドラマ
 2015年9月10日からチャンネル銀河で『傾城の雪』(全50話)が始まりました。中国の歴史ドラマはドラマティックで面白く、毎回、引き込まれて見てしまいます。どのドラマでも地位や権力をめぐる権謀術数が渦巻き、陰謀、冤罪、栄枯盛衰が描かれているからでしょう。ヒトの世の常であり、業でもある人生の諸相が中国の歴史を舞台に生き生きと表現されており、それが視聴者の気持ちを捉えるのです。

 中国歴史ドラマを見始めたのは2年ほど前ですが、見るたびに、ドラマの質が向上していることがわかります。テレビドラマとはいえ膨大な製作費と時間がかけられているからでしょう。ハリウッドと同様、巨額の製作費と時間を費やしても、魅力ある作品を制作しさえすればコスト回収できる状況ができつつあるのかもしれません。

 歴史ドラマとはいえ、宮廷ドラマは見た目が華やかで楽しめますし、戦記物はアクションシーンに迫力があります。メリハリの効いたストーリー、展開の速さ、卓越したカメラワーク、演技達者な俳優陣、心に残るセリフ・・・。中国の歴史ドラマにはドラマを見慣れた現代人の眼を楽しませてくれる要素に満ち溢れているのです。

 さて、『傾城の雪』はこれまで見慣れてきた歴史ドラマとは違って、明の時代の刺繍職人を中心に展開されるドラマです。最初はそれほどでもなかったのですが、3話目ぐらいから、やみつきになってしまいました。平日2話連続で放送されるこのドラマを今では夢中になって見ています。いったい、どんなドラマなのか。予告編(1分45秒)を見つけたので、ご紹介しましょう。

こちら →https://youtu.be/orLaZknSyN0

 前回の『宮廷の諍い女』も面白かったのですが、このドラマには現代の視聴者が見ても違和感をおぼえさせない魅力があります。時代状況、社会状況は明らかに現代の日本社会とは異なるのですが、なるほどそういうこともあるなと思いながら見てしまうのです。登場人物の性格、運命、主要な人物の敵対関係など、ドラマの基本要素が緻密に設定されているからでしょう。

こちら →https://www.ch-ginga.jp/feature/keiseinoyuki/

 メインのストーリーは、主人公の江嘉沅をめぐって二人の男性、杭景风と徐恨が恋の鞘当てをし、さらに、年長の方天羽が加わってストーリーが複雑に展開されるというラブストーリーです。明の正徳年間に繍女・江嘉沅をめぐって展開された三人の男たちの愛憎劇を参考に構想されたそうです。

■視聴者をぐいと引き込むストーリー展開
 ドラマではもちろん、それぞれの男性を恋する女性たちも登場します。そして、彼女たちはさまざまな愛の断面を見せながら、いくつもの愛憎劇を繰り広げていくのです。このような愛を巡るメインストーリーに、嫉妬による冤罪、刺繍職人と宮廷、刺繍職人と養蚕農家、当主家の人々とその使用人、刺繍の技能と評価といった背景的要素を絡ませたサブストーリーが組み入れられていきます。それらが相互に作用し、メインストーリーに豊かな彩りが添えられ、視聴者を深い感動に誘うのです。

 たとえば、冤罪によって獄中で自殺した父と後追い自殺をした母の法要を執り行うことになった第17話を見てみることにしましょう。

 法要は主人公の江嘉沅が身を寄せていた杭敬亭の家で行われました。ところが、せっかくの法要だというのに身内以外、誰もお線香をあげにきません。杭敬亭の妻は怒って自室に戻ってしまうのですが、そのとき、皇帝に仕える太監の白常喜がやってきて、江学文を追悼し、杭敬亭の労をねぎらうシーンがあります。

こちら →法要シーン
9月22日放送シーンを撮影。

 太監の白常喜は杭敬亭の労をねぎらった後、最後に江嘉沅に近づき、なにか願いごとはないかと聞きます。これまで何度か江嘉沅に苦い思いをさせられてきた白常喜が、彼女に声をかけたのです。取り巻く人々の間に一瞬、緊張が走ります。

 このシーンに登場する人物は皆、このドラマで主要な役割を演じる人びとです。白常喜のわざとらしい問いかけの後、カメラは主要な人物の顔を次々とクローズアップしていきます。セリフはないのですが、顔の表情だけで視聴者には登場人物たちの心情が手に取るようにわかります。

 これまでのストーリーの流れで視聴者は、どの人物が何をどのように考え、どの人物に敵対意識をもっているかがわかっています。それぞれに思惑があり、彼女の答え方ひとつでそれが一触即発しかねない微妙なシーンです。江嘉沅が白常喜に楯突くのではないかと心配するヒト、期待するヒト・・・、映し出されたクローズアップを見て、視聴者もまたさまざまに思いを巡らせます。

 そして、視聴者の気持ちをしっかりと引き込んだと思われるころ、画面では、江嘉沅が「お願いがあります」と丁重に切り出すのです。視聴者にとっては予想外の返答ですが、視聴者を安心させると同時に次ぎの展開を導く効果があります。脚本、演出、カメラワーク等々が見事に調和し、視聴者の予想を裏切った上で、ストーリー展開に自然な流れを持たせます。そして、これがその後の展開の伏線となるのです。

 このように視聴者の気持ちの動きを的確に読み込みながら、ストーリーが展開されていきますから、視聴者は知らず知らずのうちに、この作品世界の中にはまってしまいます。結局、私はこの第17話あたりから、放送を待ちきれなくなってしまいました。

 話の展開が気になって仕方なく、ネットで探しました。見つけたのが中国のサイトですが、放送を待ちきれずに第18話から見続けて、ついに最終話まで見てしまいました。一日10話以上、見たことになります。

こちら →http://www.dramaq.com.tw/allure/ep1.php

 ドラマには漢字の字幕がついていますから、中国語のセリフを聞き取れなくても、意味はわかります。ストーリーに引き込まれ、無理をして最後まで見てしまったのです。集中して見続けた結果、目の痛みが止まらなくなりました。眼科で目薬を処方してもらい、痛みをおさえながら、見終えたのです。

■エンターテイメントの神髄
 なぜ、これほどまで夢中になってしまったのか。一つには登場人物の設定が巧みだったことが考えられます。BSフジが作成した人物相関図をご紹介しましょう。

こちら →http://www.bsfuji.tv/keiseinoyuki/soukan/index.html

 主人公の父・江学文と許婚の父・杭敬亭は表面上、友達同士ですが、刺繍職人としての技量を競う仲でもありました。ところが、江学文は「刺繍の神」と称えられ、両者に格差が生まれてしまいます。それを怨み妬み、反発し、杭敬亭はいつかその座を奪い取ろうと野心を抱くようになります。嫉妬心が生み出す怨嗟です。その子どもである江嘉沅と杭景风は生まれたときから親同士が決めた許婚です。杭景风は長じてからもその気持ちに変わりませんが、江嘉沅の方は徐恨と出会い、気持ちが揺らぎ始めます。

 杭景风の恋敵となるのが、若い頃、杭敬亭が江学文の名を騙って雲南省の繍女を孕ませ生まれた徐恨です。20年後、徐親子は彼らの住む蘇州にやってきます。育ての父である徐雷が江学文を、繍女であった妹を孕ませた張本人だと思い込み、その報復を目指してやってきたのです。ところが、徐恨はたまたま江学文の娘・江嘉沅と出会い、恋心を抱くようになります。

 江学文をライバル視する杭敬亭の下で働くようになった徐雷は策略をめぐらせ、江学文に濡れ衣を着せたあげく、江学文を自殺に追い込むことに成功します。念願が叶った徐雷は徐恨を連れて帰郷しようとしますが、杭敬亭に引き留められます。その際、酔った勢いで、徐恨が20年前、雲南省で江学文によって孕ませられた妹の子であることを告げてしまいます。かつて江学文の名を騙って雲南省の繍女と関係を持った杭敬亭はこのとき、徐恨が自分の子どもであることを知ることになります。

・・・、ストーリーの紹介はこのぐらいにしておきましょう。

 もちろん、視聴者を夢中にさせた原因は複雑怪奇な人間関係だけではありません。人物の対立関係を明白にし、それを終盤まで揺るがせにしなかったことも一因でしょう。極端なほどのキャラクター設定がストーリーの強度を高めたのです。

 とくに興味深いのは、杭景风の妹・杭景珍と、母・白玉琴です。彼女たちは物語の設定上、脇役でしかないのですが、そのキャラクターが強烈なのです。二人とも上には媚びへつらい、使用人には苛めともいえるほど厳しく、得になると思えば、平気で嘘をつき、何の苦も無く涙を流します。主人公の江嘉沅に終始一貫、悪辣な態度を取り続けるのがこの二人です。

 ちょっとした落ち度を見つけては誰彼かまわずまくしたてる母と同様、娘もまた際限なく悪態をつき、罵詈雑言を浴びせかけます。彼女たちの背後にあるのは特権意識であり、下位の者に対する差別意識であり、露骨な損得勘定と利己的な保身です。回を重ねて見ているうちに、このような母の下で育てば、このような娘になってしまうのだろうと思えてくるのが不思議です。

 母から受け継いだ傲慢な態度に加え、江嘉沅に対する嫉妬が加わります。その結果、杭景珍は彼女を陥れるためにはなんでもしかねないほど憎悪するようになっています。実際、父を死に追いやり、母を刑死させることになる放火も、彼女が江嘉沅を陥れるために実行したことの結果なのです。

■娯楽の神髄と人生哲学
 このドラマを見ていると、愛、怨念、嫉妬、競争心、保身など、ヒトの複雑な感情の下で人間関係がゆがみ、運命もまたゆがんでいくことがわかります。しかも、それが別の結果を生み、それぞれが連鎖していくのです。50話にものぼる長編を飽きさせずに展開することができたのは、緻密なストーリー構築だけではなく、その背後に流れる人生哲学に個別の文化を超えた普遍性が感じられるからでしょう。

 このドラマのストーリーを展開させていく大きな柱になっているのが、怨念による「報復」だとすれば、ドラマ全体で大きく浮き彫りにされていくのが「因果応報」の思想です。

 若い頃、江学文の名を騙って繍女を孕ませ、そのまま立ち去った杭敬亭は、杭景风の子を身ごもった佩艺が自殺した際、「报应」(因果応報)と呻くようにいいます。以後、杭敬亭は気弱になり、心を病んでいきます。そして、声高にまくしたてる妻や娘の言い分を拒否し、過去を償おうとします。

 それに反し、妻と娘はますます横暴になり、歯止めが効かなくなっていきます。差別意識や特権意識とがセットになった彼女たちのプライドが現状認識を誤らせているのですが、そのことに気づきません。結局、母は娘の犯行現場を目撃しながら、自首させることもできず、逆に娘からどこか遠い所に行ってしまうよう脅かされる始末です。それでも、母は娘に寄り添おうとします。

こちら →母娘シーン
http://www.dramaq.com.tw/allure/ep50.phpを撮影。

 これは処刑の前日、母が獄中で娘に手紙を書きながら、娘とのやり取りを思い出しているシーンです。母は自分の育て方の非を認め、どんなことがあってもやはり私はあなたが一番可愛いと泣きながら訴えています。娘の犯した罪を被っただけではなく、その娘に対し最後まであなたが可愛いと伝え、娘を保護しようとしているのです。

 画策して江家を滅ぼした杭家はこうして内部から自滅していくのですが、このドラマには若い男女の愛だけではなく、親子の愛が様々な切り口で描き出されています。それが全編に通底しており、作品を豊かなものにしています。

 圧巻は最後の50話です。白玉琴(杭敬亭の妻、杭景风と杭景珍の母)の処刑直前、主人公の江嘉沅と徐恨は自分たちの子どもを抱え、刑場に立たされた彼女に会いに来ます。杭敬亭の子である徐恨と江嘉沅との子どもは杭家の血を引いています。処刑されようとしている白玉琴に、杭家の血を引く子どもを引き合わせたのです。まさに命が絶たれようとする直前です。どれほど白玉琴の気持ちが救われたことか。これで彼女も未来につながる希望を抱いて死んでいくことができます。このシーンは娘の罪を被った白玉琴にプラスの因果応報が与えられたと見ることができます。

 中国のウィキペディアを見ると、このドラマのジャンルは、「古装」(時代劇)、「励志」(感動)と分類されています。時代劇であり、感動を呼ぶ作品だということです。確かに私も何度、このドラマを見て涙を流したかわかりません。ひたむきな愛、無償の愛、犠牲をいとわない愛などに触れたとき、ふいに目が潤んでしまうのです。

 このドラマが文化を超えて訴えかけるのは、感動をもたらす人生哲学があるからでしょう。改めて、エンターテイメントにはヒトの人生を肯定的に捉える哲学が不可欠だということに気づきます。調べてみると、脚本を担当したのは台湾出身の李顺慈氏と香港出身の沈芷凝氏です。いずれも女性であり、純粋な本土のヒトではありません。

 より自由度の高い環境で生育した脚本家たちだからでしょうか、没落した江嘉沅が食堂を開くシーンがあるのですが、女性が自立することによって生き生きとした生を取り戻す様子が描かれています。どんなことでも自分ができることで収入を得、生きていく力を身につけていくことの重要さが示されています。さらに、杭家の母と娘が繰り返す暴力的ともいえる言葉のやり取りでは、女性の脚本家ならではのセリフが随所にあふれています。久々に引き込まれたドラマでした。(2015/9/25 香取淳子)

中国宮廷の女性たち:北京藝術博物館所蔵名品展

■麗しき日々?
 渋谷区松濤美術館でいま、北京藝術博物館所蔵名品展(2015年6月9日~7月26日)が開催されています。チラシを見ると、8万点にも及ぶ北京藝術博物館の収蔵品は、「特に清朝宮廷で用いられた服飾品、繍画や壁掛けなど観賞用の染織作品に優品があり、さらに清朝宮廷の女性たちが用いた種々の腕輪や首飾りなどの女性用宝飾品は質量ともに充実している」と書かれています。今回の展覧会はその北京藝術博物館の協力を得て、開催されたというのですから、見に行かないわけにはいきません。

こちら →IMG_2110

 チラシに使われていたのが、清代の公主の図です。公主と書いて「gōngzhǔ」と読むのですが、皇帝の娘のことを指します。この図はチケットにも美術館の垂れ幕にも使われていました。宮廷女性を語るには欠かせない存在なのでしょう。

こちら →公主
カタログより

 イヤリングにネックレス、まるで冠のような豪華な帽子、そして、手の込んだ刺繍が施された華麗な衣装をこの公主は身につけています。皇帝の娘という身分に相応しい衣装であり、装飾品なのでしょう、それぞれが鑑賞価値のある美術品です。銀や琥珀、玉などを精密に加工して優雅な装飾品に仕立て上げる技術は目を見張るほど高いものでした。

 たとえば、銀の点翆の髪飾りはこのように細工されています。

こちら →銀髪飾り
カタログより

 銀に孔雀の羽のようにみえる模様が細工されています。しかも、その羽先の部分には真珠が組み込まれ、ほどよいバランスで水色で彩色されています。これなら着用する女性の顔廻りをぐんと引き立ててくれることでしょう、とても繊細で上品な髪飾りです。髪飾りだけでこれだけ手が込んでいるのですから、他は推して知るべしでしょう。清朝の宮廷女性たちがどれほど貴重な美術品に包まれて生活していたかがわかります。彼女たちは富と権力の集中する宮廷で日夜、身を飾りたて、皇帝の寵愛を待っていたのです。

 富と権力が一体化した生活空間の中で、彼女たちはいったいどのように暮らしていたのでしょうか。

 展覧会は、「第1章 女性の手仕事―刺繍」、「第2章 鳳凰の儀容―服装」、「第3章―簪と朝の化粧―装飾品」、「第4章―薫り高き心―書画」「第5章―奇巧を尽くす」「第6章―文雅の室―文玩書籍」等、6章で構成され、さまざまな名品が展示されていました。順に見ていくと、宮廷女性たちの生活行動、生活文化、生活信条、生活価値観などがわかってくる仕掛けです。

■刺繍
 第1章で展示されていたのは、刺繍で絵や書を表現した垂れ幕や鑑賞用の織物でした。第2章では福を呼び込む縁起模様の豪華な刺繍の施された服装や肩飾りなど布装飾品が展示されていました。刺繍が書画を表現する手段として、あるいは、日常生活を彩る手段として、重要な役割を担っていたことがわかります。

 中国の刺繍は今でも有名ですが、当時、女性の手仕事として日常生活に組み込まれていたようです。民間女性が製作した刺繍製品は、実用品としても贈答品としても使われていました。日々の生活に彩りを添え、社交を円滑にするための手段として刺繍は必要不可欠だったのです。

 一方、宮廷の刺繍製品には高価な材料が使われ、優れた技術力が反映されています。刺繍は宮廷女性たちにとっては趣味や娯楽であり、時にはストレス解消の手段でもあったようです。

 清代貴族の女性について、カタログでは以下のように書かれていました。

 「古代の中国社会が女性に求めたものは「女子無才便是徳」ということで、読書は男性の特権でした。清代貴族の家庭では、女性は子供時代は差別されることなく、家庭の中で良妻教育を受け、詩を習い画を描きました。(中略)女性は結婚後は伝統的な礼教に縛られ、彼女たちの才能は夫を助け子供を教育することに向けられ、作品や事跡が伝えられることは多くはありませんでした」(『麗しき日々への想い』p.103)

 カタログによると、清代になってようやく女性も文字を扱うことができるようになったようです。とはいえ、それは男性でもなく女性でもない子どものうちだけでした。どれほど利発で才能に満ち溢れていたとしても、彼女たちは成人して結婚すれば、「夫を助け子供を教育することに」専念しなければならなかったのです。時を経てもなお、宮廷女性たちは皇帝の寵愛を競い合い、運よく皇太子が誕生すれば今度は皇位を狙う・・・、といった状況に置かれていることに変わりはありませんでした。寵愛を巡り、皇位を巡って陰謀が渦巻く魑魅魍魎とした世界から抜け出すことはできなかったようです。

 そもそも私が中国の宮廷女性に関心をもつようになったのは、昨年秋に「宮廷女官若曦」という宮廷ドラマを見てからでした。華やかに着飾った宮廷女性たちが皇帝の寵愛を求めて競い、子どもを授かれば今度は皇位を求めて画策するといった具合に、ストーリはパターン化しているとはいえ毎回、メリハリの効いた展開が面白く、夢中になって見ていたのです。いまなお中国宮廷ドラマの魅力から逃れることはできず、いつしか、実際の宮廷女性たちの生活はどうだったのか、実状を知ることができればもっと理解が深まるだろうと関心を抱くようになっていったのです。

 カタログに以下のような興味深い文章を見つけました。

「閨房独影の繍女、千針愁いを遂い、万线怨みを疏し、昏燭の壁に神情の傷を映ず」(前掲。p.73)

 第5章の扉に書かれた文章です。この文章からは、部屋で独り刺繍に打ち込み、運針作業を通して憎悪や悲嘆、怨嗟を洗い流そうとしている宮廷女性の姿が目に浮かぶようです。宮廷女性であっても、庶民の女性であっても当時は思うままに生きられず、刺繍という手作業を通して日々、ストレスを解消しようとしていたのでしょう。豪華で華やかな刺繍の背後に宮廷女性たちの深い悲しみと絶望感が見えてきます。

 展示品を見ていくと、興味深いことに、靴にも素晴らしい刺繍が施されていました。

■漢族の靴と満州族の靴
 「第2章 鳳凰の儀容―服装」のコーナーで興味を覚えたのが、靴でした。満州族の靴を見たとき、これならいまでも洒落た室内履きとして使えそうだと思いました。ところが、漢族の靴を見たとき、すぐにはこれが靴とは思えませんでした。一体これはなんだろうと思い、横に回ってしげしげと眺めてもわかりません。ふと名札に目をやると、「湖绿绢绣花卉纹高低弓鞋(漢族の女性用靴)」と書かれています。これでようやく靴だとわかりました。

こちら →漢族の靴
カタログより

 ご覧のように、非常に小さいです。しかもヒールがあります。どれほど歩きにくいことか。想像するだけで足に痛みが走りそうです。

 比較のために、並べて展示されていた満州族の靴を紹介しましょう。

こちら →満州族の靴 (1)
カタログより

 こちらは普通です。一目で靴だと認識できるサイズです。カタログを見ると、長さが24センチ、幅は10センチとされています。だとすると、漢族の靴として展示されていたのは、いわゆる纏足用の靴なのでしょう。カタログを見ると、長さが16センチ、幅はわずか4センチです。

 纏足という言葉は聞いたことがあり、おおよそのことは把握しているつもりですが、詳しくは知りません。そこで、取りあえずWikipediaで調べてみると、以下のように説明されていました。

 「幼児期より足に布を巻かせ、足が大きくならないようにするという、かつて中国で女性に対して行われていた風習をいう。 より具体的には、足の親指以外の指を足の裏側へ折り曲げ、布で強く縛ることで足の整形(変形)を行うことを指す。 纏足の習慣は唐の末期に始まった。 清国の時代には不健康かつ不衛生でもあることから皇帝が度々禁止令を発したが、既に浸透した文化であったために効果は無かった。辛亥革命以後、急速に行われなくなった」(Wikipedia)

 Wikipediaで説明のために掲載されている写真は会場で展示されていたのと同じ形状のものでした。それにしても中国ではなぜ長い間、纏足が行われてきたのでしょうか。それについて、Wikipediaでは以下のように説明しています。

「足の小さいのが女性の魅力、女性美、との考えがあったことは間違いない。足が小さければ走ることは困難となり、そこに女性の弱々しさが求められたこと、それにより貴族階級では女性を外に出られない状況を作り貞節を維持しやすくしたこと」(Wikipedia)
 
 足はヒトの身体を支え、歩行を司る重要な人体部位です。その足を自然の成長に任せるのではなく、意図的に小さく変形させるための靴が開発されていたのです。小さな足にこそ性的魅力があるとし、女性を身体的に弱く改造し、男性に従属せざるをえないようにしていたようです。女性に対する暴行の習慣化といわざるをえませんが、不思議なことに、この纏足という風習は1000年ごろには普及し、特段、女性たちから拒否されることもなく、清代末まで続いていたそうです。

 もちろん、纏足していては働くことができません。ですから、農家など労働に携わる女性に対しては行われなかったようです。労働をする必要のなかった富裕層の女性に対し、このような残酷な身体改造が習慣化していました。もっとも、「辛亥革命後、急速に行われなくなった」そうですから、女性を劣位に固定化する纏足という風習もまた近代化を目指す社会改革によって消滅していったといえそうです。

■華やかな生活に潜む心理的拘束
 チケットに使われている清代公主の顔部分をもう一度、見てみることにしましょう。おそらくこの顔が宮廷女性の代表といえるのでしょう。色白できめ細かな肌、とても端正な顔立ちです。嫋やかで上品、しかも洗練されていて、いかにも高貴な女性という印象です。

こちら →公主顔
カタログより。顔廻り部分。

 ただ、その表情からなんらかの意志が感じ取れることはありません。人形のようにただ美しく、そして、どこか悲しげです。公主ですから、自分でその地位を勝ち取ったわけではなく、生まれついての高位です。富と権力の中枢近くにいながら、実は非力なのです。時と場合によっては追放されたり、殺されたりすることもあるでしょうし、何らかの意図をもって行動すれば即、廃位されてしまいます。

 こうして見てくると、華やかな宮廷生活を送っているはずの女性たちが、実は、自発的な意思というものを放棄せざるをえず、あたかも心の纏足を強いられているかのように見えてきます。華やかな宮廷生活の中に心的拘束が仕組まれているとすれば、彼女たちが繰り広げる陰謀術数は生きるための叫びだったのかもしれません。どうやら中国宮廷ドラマを見る見かたが変わってきそうです。とても興味深い展覧会でした。中国の宮廷女性への関心がさらに喚起されたような気がします。(2015/6/15 香取淳子)