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絵画

展示拒否された《オルナンの埋葬》について考えてみる。

 1855年のパリ万博で展示拒否されたクールベの作品は、なにも《画家のアトリエ》だけではありませんでした。その5年前に制作された《オルナンの埋葬》もまた、門前払いされていたのです。

 そこで今回は、《オルナンの埋葬》を取り上げ、展示拒否の理由について考えてみたいと思います。

 まずは、《オルナンの埋葬》の画面から見ていくことにしましょう。

■《オルナンの埋葬》((Un enterrement à Ornans, 1849-1850)

 ギュスターヴ・クールベ( Gustave Courbet, 1819 – 1877)が、1849年から1850年にかけて制作したのが、この作品です。

(油彩、カンヴァス、315×668㎝、1849‐1850年、オルセー美術館蔵)

 大勢の人々が葬式に集まっている光景が描かれています。中央に大きく穴が掘られ、その際で片膝をついた男が神父を見上げています。神父は厳かな表情で聖書を広げており、どうやらこれから埋葬が始まろうとしているところのようです。

 背後には荒涼とした風景が広がっています。夕刻なのでしょうか、それとも、未明なのでしょうか。陽が落ちた空はどんよりと暗く、まるで参列者の気持ちを代弁しているかのように見えます。

 画面右側には、黒い喪服を着た人々が参列しています。皆、一様に顔を伏せ、ハンカチを目に当てている人もいれば、鼻と口を覆っている人もいます。故人を悼み、哀しみに打ちひしがれている様子がうかがえます。

 全体に沈鬱な雰囲気が漂う中、白い布のせいで、ひときわ明るく見えるのが、画面の左側です。

 中でも際立って見えるのが、お棺に被せられている十字マークのついた白い布です。その周辺には二人の子どもがおり、いずれも白い服をまとい、赤茶色の帽子をつけています。手前の子どもは聖具を持ち、神父のすぐ後ろに続いています。もう一人の子どもは顔を上向けて、お棺をかつぐ人になにやら問いかけているようです。そのすぐ隣には、長い棒状の十字架を持つ人がおり、やはり白い服を着ています。

 この白い服を着た人たちは、どうやら、神父の手助けをして儀式を執り行う役割を担っているようです。

 十字架を持った人はやや上目づかいで、こちらを見ています。どういうわけか、画面の中でただ一人、鑑賞者と視線を合わせるように描かれ、何かを訴えかけているように見えます。彼が持つ十字架には、哀悼の標識のようにキリスト像が付けられています。

 画面左側のお棺を担いだ人々は皆、黒い帽子、黒い衣装を身に着け、肩から白いマフラーを垂らしています。顔を伏せているので、表情はよくわかりません。

 こうしてみてくると、埋葬へのかかわり方によって、身に着けた衣装の白と黒の配分の違いがあるように見えてきます。

 たとえば、黒い帽子をかぶり、黒い服の肩から白いマフラーをかけているのが、お棺をかついでいる人々です。そして、黒いチョッキの下に白いシャツを着たのが、墓穴を掘った人、黒いマントに白のふち飾りをつけたのが、神に祈りを捧げ、聖書を朗読する神父といった具合です。

 一方、白の割合の多い衣装をまとっているのが、聖具を持った子どもであり、十字架を持った神父の補佐役でした。子どもであれ、大人であれ、儀式に必要な聖具を携え、埋葬の儀式で重要な役割を負った人々です。

 彼らが、喪の色であり、純粋無垢の色であり、神聖な色でもある白の服をまとっているのは、そのためなのでしょう。

■参列者たち

 さて、白でもなければ黒でもない、赤茶色の服と帽子を身に着けた男が二人、中央に描かれています。帽子や服装からは聖職者ではないようですが、なんらかの役目を担っているように見えます。美術評論家のルービン(James Henry Rubin, 1944-)によれば、この二人は、教区の世話役なのだそうです(* ジェームズ・H・ルービン著、三浦篤訳、『クールベ』、岩波書店、2004年、p.78.)

 さらに、中央右寄りに、もう二人、白でも黒でもない衣装を身に着けた人物がいます。よく見ると、燕尾服です。黒ではありませんが、礼装として着用されるフォーマルな衣装です。傍らには白い猟犬もいます。いったい、どういう人物なのでしょうか。

 彼らについて、ルービンは、次のように説明していました。

「一世代前の身なりをした年長の男が二人いるが、彼らはウードとテスト双方の友人で、リベラルな共和主義の信念を共有していた」(* ルービン、前掲。p.76.)

 ウードとは、1848年8月に亡くなったクールベの祖父であり、テストとは、翌9月初めに亡くなった大叔父のクロード=エティエンヌ・テストです。ここに描かれた二人は、亡くなった祖父と大叔父の友人で、彼らとはリベラルな共和主義の信念を共有していたというのです。

 画面から、彼らが描かれている部分を抜き出してみましょう。

(* 前掲。部分)

 燕尾服の男が二人、膝までのズボンをはき、その下に、白や淡いグリーンのタイツを履いています。

 いつ頃の服装なのか、気になって、調べてみました。すると、時代ごとの変化が図示され、説明されているページが見つかりました。

(* https://oekaki-zukan.com/articles/12023

 上の図でみると、二人の友人たちが着用していたのは、まさに19世紀初頭の衣装でした。それ以前のものに比べ、襟が大きくなり、コートの前が短くなって、アクティブな感じがします。装飾性が薄れ、軍服のような印象です。

 調べてみると、確かにルービンがいうように、彼らが着ているのは一世代前の衣装でした。二人とも黒の山高帽子をかぶっていますから、礼服として着用していたのでしょう。

 そういえば、ルービンは、クールベの祖父も大叔父も、彼らと共和主義の信念を共有していたと書いていました。ひょっとしたら、古き良き第一共和政を偲び、敢えて、この時、着用していたのかもしれません。

 ルービンはさらに、二人の左側に立っている髭の男は、オルナンの村長で、その隣は、村では著名な法律家だと記しています。こうしてみると、オルナンの主要なメンバーが総出で、クールベの大叔父の埋葬に臨んでいたことがわかります。

■新しく造られた墓地での埋葬

 《オルナンの埋葬》は、縦315㎝、横668㎝にも及ぶ巨大な画面に、大勢の参列者を登場させた渾身の力作です。一人ひとり、丁寧に描かれており、当時の人が見れば、すぐにも誰なのか分かったに違いありません。

 完成させるのに、膨大なエネルギーを費やしたはずです。

 おそらく、相次いで身内を亡くした悲しみが、クールベの創作意欲をかき立てたのでしょう。あるいは、大叔父が、新しく町外れの造られた墓地に、初めて埋葬された人物になったせいでもあるかもしれません。

 大叔父は、町外れに新しく造られた墓地に、最初に埋葬された人物でした。画面からは、感傷的な思いを振り払い、見たままの光景をありのままに描こうとする姿勢が感じられます。クールベにとっては大きな出来事でしたが、個人的な思いを断ち切るようにして、この作品を描いているのです。

 画面を見ているうちに、ルービン(James Henry Rubin, 1944-)がこの作品について、ちょっと気になる指摘をしていたことを思い出しました。

 該当箇所を引用してみましょう。

 「亡くなった祖父の家の屋根裏部屋に設けたアトリエで、クールベは《オルナンの埋葬》を描き始めた。題名に不定冠詞を使うことによって、クールベはこの埋葬に対して特別な地位を主張しなかった。つまり、それは故郷の町における「ある埋葬」にすぎないのである」

(* ジェームズ・H・ルービン著、三浦篤訳、『クールベ』、岩波書店 、2004年、p.75.)

 改めて、この作品の原題を見ると、《Un enterrement à Ornans》となっていました。確かに、不定冠詞の「un」が付けられています。敢えて定冠詞を置かなかったところに、クールベの意図があるというのが、ルービンの解釈でした。

 これでは、大切な大叔父の埋葬が、まるで名もないオルナンの住民の埋葬のように見えてしまいます。もちろん、それを承知の上で、クールベは敢えて、タイトルに定冠詞を付けず、「Un」にしたのでしょう。

 それでは、クールベはなぜ、タイトルに定冠詞「le」を使わず、不定冠詞「un」を使ったのでしょうか。

■クールベの意図は何か?

 そもそも、クールベの父は、周辺3つの村を含めた地主で、オルナンにもブドウ畑と邸宅を所有していました。羽振りのいい地主だったのです。母はオルナンの地主の娘で、その父もまた地主であり、徴税吏でもありました。フランス大革命当時からの共和派で、自信家で粘り強く、魅力的な人物でした。クールベに少なからぬ影響を与えたといいます(* 稲葉繁美「ギュスターヴ・クールベ生涯と作品」、『ギュスターヴ・クールベ展カタログ』1989年、p.148.)。

 このように、クールベの一族は代々、地元オルナンを含めた地域の富裕層であり、知識階級であり、名士でした。決して名もない一住民ではなかったのです。ところが、クールベは大叔父の埋葬を、オルナンの一住民の埋葬として作品化しました。

 いったい、なぜなのでしょうか。

 考えられる理由としては、大叔父が、町外れに新しく造られた墓地に、初めて埋葬された人物だったことです。

 墓地はそれまで居住区内に設置されていましたが、衛生改革の一環として、新たに町外れに設置されることになりました。ナポレオンがパリを対象に進めていた政策ですが、周辺にまで広がっていたのです。

 教会は当然、人里離れた場所に墓地を設置することに反対しました。旧来の考えに縛られた住民にとっても受け入れがたかったでしょう。埋葬に関わることなので、相当の意識変革が必要でした。

 ところが、クールベの大叔父の家族は、最初の埋葬者になることを受け入れました。私的な思いよりも公共の利益である、衛生改革を優先させたのです。それだけに、クールベは、大叔父の埋葬を貴重なものと捉えたに違いありません。

 オルナンで生き、そして、死を迎えた人が受け入れるべき埋葬例として、記録しておこうとしたのではないかという気がするのです。

 オルナンにとってはまさに、歴史的事件でした。

■オルナンの歴史として記録する

 人口の増加に伴い、大都市パリでは、衛生面の問題が多々発生するようになっていました。その一例が墓地です。

 たとえば、パリ中央市場に隣接したイノサン墓地には、亡くなった人々の遺体が放置されて悪臭を放ち、衛生面から大きな社会問題となっていました。1786年にようやく撤去され、パリ中心部に墓地を造ることが、衛生上の理由から禁止されるようになりました。その後、ナポレオンの指示によって、19世紀の始めには3つの新しい墓地が当時のパリの境界周辺に設置されました(* https://paris-rama.com/paris_history_culture/016.htm)。

 以来、パリでは、衛生改革の一環として、墓地の立地に規制がかけられるようになりました。墓地は居住区の外に設置しなければならないと法律で定められたのです。その後、パリに倣ってオルナンでも、町外れに墓地が新たに造られることになりました。

 オルナンは、パリの南東345キロメートルに位置しています。

オルナン

 中世から塩を運ぶ道の中継地点として、栄えてきた地域です。人の往来があり、歴史があり、伝統のある町でした。それだけに、新たな墓地の設置をめぐっては、町を二分する議論が交わされていたようです。

 これまでの伝統を守りたいという守旧派と、ナポレオンが進める衛生改革に倣おうとする改革派との間で、対立が起きていたのです。

 ルービンは、新しい墓地の設置をめぐる諍いについて、次のように記しています。

「その墓地の場所は、伝統的な統制を維持したいと考える地方の教会と、居住区域の外に墓地を置くことによってナポレオンの下で制度化された近代の衛生上の措置に従いたいとする、町の住民のより世俗的な分派とのあいだで争いの的となっていた」(* 前掲。p.75)

 訳語がわかりにくいですが、墓地を新たに居住区域外に設置することについて、地元の教会を中心とする勢力と、一部の先進的な住民たちとの間でもめていたようなのです。

 クールベの大叔父が新しく造られた墓地に埋葬されているので、最終的には、ナポレオンが進める衛生改革に従おうとする先進的な住民の意見が通ったことがわかります。決着したのが、画面で描かれている場所でした。

 改めて、《オルナンの埋葬》を見てみると、背景は明らかに郊外の風景でした。参列者の背後に、ほぼ無彩色の岩山が描かれており、なんとも殺風景で、荒涼とした雰囲気が漂っています。

 そもそもオルナンは、町の中心にルー川が流れ、その川向こうに、町を見下ろすように、岩山が広がっているような場所でした。

(* https://www.mmm-ginza.org/special/201110/special01.html

 クールベはこの地で生まれ、育ち、そして、絵画の手ほどきを受けました。パリに出て、画家になってからは、オルナンを画題にした作品をいくつも手がけています。オルナンへの思い入れが強かったことがうかがい知れます。

 そのオルナンで墓地が新しく造られ、初めて埋葬された人物が大叔父だったのです。クールベが、埋葬の場面を描いておこうと決意したのも不思議はありませんでした。

■大叔父を悼む

 大叔父への哀悼の気持ちを表現したかったのでしょうし、なによりも、オルナンで生まれ育った人間として、強い創作衝動に駆られたのではないかと思います。

 そう思えるのが、クールベのモチーフの取り上げ方であり、描き方です。参列者が実に詳細に、写実的に描かれています。実際にこの絵の前に立って、画面を見たとしたら、まるでその場にいあわせているかのような錯覚を覚えたに違いありません。

 ルービンによれば、《オルナンの埋葬》で描かれた人物は、すべてオルナンの住民でした。しかも、50人ほどの人々がほぼ等身大で描かれており、当時の人が見れば、すぐ誰だとわかるほどリアルに描写されていたようです。

 家族、友人、オルナンの名士たちがことごとく、取り上げられていたばかりか、亡き祖父ウードまでも、お棺をかつぐ人として描かれていました(* ルービン、前掲。pp.75-78.)。

 祖父だとされるのは、お棺に寄り添うように、すぐ脇に立ち、顔を左に向けて俯いている人物です。黒い帽子を目深にかぶっており、その表情はよくわかりませんが、ルービンによれば、これがひと月前に亡くなったクールベの祖父なのだそうです。

 すでに亡くなり、埋葬に参加できない祖父を、クールベは、大叔父のお棺を担ぐ人として登場させ、哀悼の意を表す機会を与えていたのです。

 タイトルに不定冠詞を使い、まるでクールベとは関わりのない一住民のような扱いをしながら、実は、さり気なく、見る人が見ればわかるといった体で、大叔父へのオマージュを捧げていたのです。

 こうしてみると、《オルナンの埋葬》には、クールベの、家族や親族に対する想い、オルナンの地そのものへの想いが込められていることがわかります。実際、写実的に描かれた画面からは、そのような深い情感が満ち溢れていたのでしょう。

 扱ったモチーフの数の多さといい、画面の巨大さといい、《オルナンの埋葬》は確かに、オルナンで発生した一大事件を記録した大作でした。まさに、オルナンの歴史画ともいえるものだったのです。

 この作品は当時、スキャンダラスな作品だとして、話題を呼びました。

 巨大な画面に埋葬の光景が描かれ、名もない群集がほぼ等身大で多数、描かれていたからです。しかも、クールベは、遠近法、陰影法を無視し、ありのままの光景を美化せず、理想化せず、写実的に描きました。

 モチーフといい、画題といい、画面の大きさといい、画法といい、すべてが当時の美術界のルールから逸脱していました。まさにアカデミズムへの挑戦といえるものでした。

 一方、この作品は、美術界ばかりではなく、為政者たちをも刺激していたに違いありません。

 ちょうど、この頃、クールベはたて続けに、話題作を制作しています。そのきっかけとなったのが、《オルナンの食休み》でした。振り返ってみることにしましょう。

■《オルナンの食休み》(L’Après-dîner à Ornans)

 クールベは長い間、サロンに出品しても、なかなか受賞することができませんでした。ところが、1849年6月15日に開催されたサロンでは、出品した11点の作品のうち7点が入選しています。ほとんどがオルナンの生家近くの風景を描いたものでした。

 入選した中の1点が《オルナンの食休み》で、これは2等賞を受賞しました。

(油彩、カンヴァス、195×257㎝、1848‐49年、リール美術館蔵)

 この作品は、国家の買い上げとなり、リール美術館に収められました。これによって、クールベはその後、無鑑査の特権を享受することになりました。その後は、落選の憂き目を見ることもなく、出品作品を自由に展示できることになったのです。

 この作品を見たドラクロワは、「誰にも依存せず、前触れもなく出現した革命家」とクールベを称し、アングルは、「過度の資質ゆえに芸術そのものからもはみ出してしまった」と評しています(* 稲葉繁美編、「ギュスターヴ・クールベ 生涯と作品 年譜」、『ギュスターヴ・クールベ展カタログ』、1989年、p.149)

 当時、画壇の大御所であったロマン派のドラクロワは、クールベを美術界の革命家と呼び、新古典派のアングルは、有り余る才能ゆえに芸術からはみ出してしまったと評していたのです。両者の評価からは、クールベの作品が当時の画壇では異質であり、評価の対象にならなかったことが示されています。

 実際、これまでのサロンであれば、決して受賞できなかったような作品でした。

■臨時政府下のサロンで2等賞

 1848年のサロンは、二月革命直後の3月に開催されました。王政を倒して樹立された臨時政府の下で開催されたのです。臨時政府は、過激派であれ穏健派であれ、共和主義者で構成されており、5月4日に憲法制定国民会議が開催されるまで続きました。

 サロンが開催されたのは革命直後でしたから、臨時政府はおそらく、過激派が多数を占めていたのでしょう。そのせいか、この時のサロンは無審査で行われました。

 実は、それまでのサロンは審査基準が狭量で、一部の画家たちの不興を買っていました。ドーミエ、テオドール・ルソーなどは1847年、サロンとは別の独立した展覧会を組織する決議をしていたほどでした。

 そのような画家たちの動きを踏まえたものか、それとも、出品しさえすれば、どんな作品でも展示されるべきだという過激な共和主義者の考えに基づいたものなのか、理由はよくわかりませんが、この時のサロンは無審査でした。

 その結果、クールベは出品作品10点すべてを展覧することができました。ところが、それは、他の画家も同様で、この時のサロンの展示点数は5500点にも及ぶことになって、混乱をきわめました。

 玉石混交の作品の中で、目クールベの作品が目立つことはなく、話題を呼ぶこともありませんでした。興味深いことに、クールベは、父親に送った手紙の中で、「共和政は芸術家に最適の政体ではない」と書いています(* 稲葉、前掲。p.149)

 クールベはおそらく、審査がなくどんな作品でも展示されるという仕組みは、優れた作品を選び出す機能をもっていないと言いたかったのでしょう。

 その反省から、1849年のサロンでは、審査が復活されています。

 出品者たちが選出した審査委員で構成された委員会が、鑑査を行うという方式が採用されたのです。より多様な作品を選出するという点では、以前の審査方法より優れていました。

 新たな審査方式の下、クールベが出品した11点のうち7点が入選しました。そのうちの1点が、2等賞を受賞した《オルナンの食休み》だったというわけです。

 ようやくクールベの作品世界に日が差してきました。

■新しい写実主義

 クールベの作品は、これまでサロンを牛耳ってきたアカデミーや一般大衆から受け入れられることはありませんでした。たいていの作品が、スキャンダラスな作品として罵倒され、異様な作品だと評され、退けられてきたのです。

 労働者あるいは庶民の生活を画題にし、対象を美化せず、理想化せず、ありのままに描いていたからでした。

 クールベの作品に多少は理解を示していたドラクロワでさえ、「羊の群れにとびこんできたオオカミ」と表現し、異端児扱いをしていたのです(* 清水正和、「19世紀パリ近代化と芸術家たちの対応」、『甲南女子大学研究紀要』35号、1999年、p.65)。

 当時、クールベの作品そのものが、アカデミーに対する挑戦だったのです。

 その後、クールベは《石割り》(Les Casseurs de pierre)を制作しています。

(油彩、カンヴァス、165×259㎝、1849年、1945年に爆撃を受けて焼失)

 こちらもまた、大きな作品です。一人の男がハンマーを持って石を割り、もう一人の男が割られた石をザルに入れて運んでいます。一人は帽子をかぶり、もう一人は後ろ向きになっているので、二人の顔は見えません。

 顔が見えないだけに、彼らの所作が強く印象づけられます。その所作の中に、労働の過酷さが滲み出ています。

 たとえば、膝をついてハンマーを打ち下ろす姿には、疲れが見えますし、膝でザルを支えながら、割られた石を運ぶ後姿には、労働の過酷さが見えます。オルナンの岩山で仕事をしているのでしょうか、山際には陰がありますが、二人の男が作業している場所には、陽が照り付けています。

 サロンで入選して以来、たて続けに描いた作品はいずれも、このような労働者の生活の一端を捉えたものでした。アカデミックな美術界にはない画題です。オルナンを舞台に発表した作品からは、この頃、クールベは自身の絵画世界を確立しつつあったように思えます。

 画壇の主流であった新古典主義やロマン主義に抗い、新たな写実主義を打ち立てようとしていたのです。

■なぜ展示拒否されたのか

 審査方式が変わった後、2等賞を受賞したのが、《オルナンの食休み》でした。それに続き、《石割り》、《オルナンの埋葬》とクールベは、故郷をモチーフに作品を制作してきました。いずれも二月革命直後に制作されており、労働者が社会の表舞台に出てきてからの作品です。

 それまでにはなかった作風だと評価されるようになり、新たな潮流を作り出しました。いずれの作品も、描かれたモチーフや情景に社会が反映されていました。そして、モチーフとして取り上げられた労働者たちの所作や表情の中に、労働の過酷さや疲労感、希望のなさが浮き彫りにされていたのです。

 クールベはこれらの作品を通して、名もない人々の哀歌を奏でようとしていたように思えます。モチーフはなんであれ、画面には、生きることの意味を問い、生き続けることの価値を問う深いメッセージが込められていたのです。

 ご紹介した三つの作品に違いがあるとすれば、それは、描かれた人物の人数の多寡でした。

 《オルナンの食休み》と《石割り》は、労働後の休憩時であれ、労働中であれ、生活苦が彼らの所作を通して描かれていました。モチーフの数は、2人から4人です。

 ところが、《オルナンの埋葬》の場合、圧倒的多数の人物が、ほぼ等身大で描かれていました。すべて名もない庶民の群像です。それまで絵画で描かれたこともなければ、もちろん、描く価値があるとも思われなかったモチーフです。

 しかも、遠近法を無視し、陰影法も気にせず、アカデミックな技法から逸れた描き方でした。

 ただ、画面に力がありました。描かれた人物や情景が放つエネルギーが、それまでの絵画にはない魅力を放っていました。

 もちろん、それに気づく人もいれば、気づかない人もいたでしょう。気づいたとしても、ほとんどの人がそれを的確に言語化できなかったのではないかと思います。

 たとえば、当時の大御所、ドラクロワは、クールベの絵が放つ力に気づいていましたが、長年にわたって刷り込まれた固定観念から、
「羊の群れにとびこんできたオオカミ」 と表現するしかありませんでした。

 そして、為政者たちはこの作品に、ドラクロワがいう「羊の群れにとびこんできたオオカミ」を感じたのではないかという気がします。つまり、危険を感じ、恐怖を覚えたのです。

 登場人物の数が多ければ多いほど、画面から放たれるエネルギーは強くなります。

 1855年のパリ万博で展示拒否されたのは、《画家のアトリエ》と《オルナンの埋葬》でした。おそらく、膨大な登場人物が発散する巨大な生のエネルギーが、為政者に危険を感じさせ、恐怖を覚えさせたのではないかと思うのです。

 《オルナンの埋葬》が描かれたのは、二月革命の後でした。民衆であれ、知識階級であれ、新しい社会を求めて、人々が立ち上がった時期でした。それらの人々の力によって、王政は倒されました。為政者たちは、名もない人々、生活苦にあえいでいる人々が群集化すると危険だということをよく知っていました。

 彼らが等身大の庶民が多数、描かれた作品を見て、恐怖を覚えたとしても無理はありませんでした。

 権力に抵抗し、人としての尊厳や自由を求め、新たな世界を切り開こうとしていた時代だったからこそ、為政者たちは、人々が群れ集まることを恐れました。群集になると、人は容易に狂暴化することを経験していたからでした。

 もちろん、アカデミックなルールを無視したクールベの画法が、為政者に社会秩序の混乱を連想させ、恐怖心をかき立てたとも考えられます。

 こうしてみてくると、クールベの二つの作品が展示拒否されたのは、アカデミックな画法を踏まえずに、多数の人物を名もない人々を取り上げ、写実的に描いていたからではないかという気がします。(2024/6/21 香取淳子)

クールベの作品はなぜ、1855年のパリ万博で展示拒否されたのか?

■1855年のパリ万博

 初めての万国博覧会は、1851年にロンドンで開催されました。それに刺激されて、ナポレオン三世が開催を決意したのがパリ万博(1855年5月15日~11月15日)です。このパリ万博では、モンテーニュ大通りの独立したパビリオンで、本格的な美術展示が行われました。万博としては初めてのことでした。

 フランスならではの独自性を加えて、万博に新機軸を打ち出し、価値の創出を図ったのでしょう。

 美術品を展示するために、本格的なパビリオンを設置した理由について、ナポレオン三世は次のように述べています。

  「産業の発達は美術、工芸の発達と密接に結びついている。(中略)フランスの産業の多くが美術、工芸に負っている以上、次回の万国博覧会で美術、工芸にしかるべき場所を与えることは、まさにフランスの義務である」(* 鹿島茂、『絶景、パリ万国博覧会』、pp.123-124.)

 ナポレオン三世は、万博会場に本格的な美術品の展示スペースを設けることを、フランスの義務とまで言っているのです。 1855年パリ万博で、本格的な展示スペースが設けられることになったのはフランスで開催されたからだといえるかもしれません。

■万博に美術セクション

 このパリ万博から、美術部門は飛躍的に拡充され、万博の大きな呼び物の一つとなりました。「産業の祭典」から「芸術と産業の祭典」へと変身したのです。主会場のシャンゼリゼ大通りに隣接した「産業宮」とセーヌ河畔の「機械館」に加え、モンテーニュ大通りに面した場所に、2万平方メートルの展示室を持つ「美術宮」(通称モンテーニュ宮)が建てられました。

 それに伴い、恒例の「サロン」展は中止され、すべての作品展示はこの万博美術展に集約されることになりました。「美術宮」を万博会場に設置することによって、美術を通したフランスの国威発揚の場が創り出されたのです。

 そこでは主に 、ドラクロワ、アングルなど、当時の画壇の巨匠たちの作品が展示されました。

 たとえば、ドラクロワの《アルジェの女たち》、アングルの《第一執政ナポレオン・ボナパルト》などです。

 

 一方、出品しても、審査員から展示拒否された作品もありました。

 たとえば、クールベはこの時、13点の作品を万博事務局に提出していましたが、そのうち、《画家のアトリエ》と《オルナンの埋葬》は展示を拒否されています。

■抗議のため、個展を開催

 クールベはこれに抗議し、「レアリスム」というタイトルの個展を自己資金で開催しました。万博の美術会場と同じモンターニュ通りに、この個展会場を設け、40点余りの自作を一般に公開しました(*https://www.chiba-muse.or.jp/ART/Courbet/index.html) 。

(* https://j6rsyq3ia6hq.blog.fc2.com/blog-entry-340.html

 建物の正面と横に、「EXPOSITION COURBET」の文字が見えます。まさにクールベの個展会場です。展示拒否されたクールベは万博開催期間中、ここで自身の作品を展示していたのです。

 当時、画家が自分の作品だけを展示した「個展」を開催する習慣はありませんでした。ですから、これが世界初の「個展」だといわれているのです(* https://www.artpedia.asia/gustave-courbet/)。

 興味深いことに、せっかく「個展」を開催したにもかかわらず、クールベの個展に見に来る人はほとんどいませんでした。入場料を半額に下げても、入場者は増えなかったそうです。

 ところが、画壇の大家であったドラクロアは、この作品について、「異様な傑作だ」と評価していたそうです(* https://www.y-history.net/appendix/wh1204-026.html

 果たして、どのような作品だったのでしょうか。

 それでは、クールベの《画家のアトリエ》から見ていくことにしましょう。

《画家のアトリエ》 (L’Atelier du peintre)

 

 クールベ ( Gustave Courbet, 1819 – 1877)は、スイス国境の小さな田舎町オルナンで生まれ、法学を学ぶためにパリに出てきましたが、途中で転向して画家になりました。フランスの第二共和制から第二帝政・第三共和政の時代に生き、「生まれながらの共和主義者」と自称していたようです。

 当時、画壇の主流であった古典主義やロマン主義の潮流には抗い、ありのままの現実を捉え、表現しようとする写実主義の流れの中にいる画家でした。

 《画家のアトリエ》は、クールベが36歳の時に制作された作品です。

(油彩、カンヴァス、361×598㎝、1855年、オルセー美術館蔵)

 

 画面には数多くの人々が描かれており、一見しただけでは何を描こうとしているのか、よくわかりません。まず、視線がひきつけられるのは、画面中央の右寄りに描かれたヌードモデルです。暗い画面の中でそこだけ白く、明るく描かれているので、つい、視線が引き寄せられてしまうのです。

 ところが、よく見ると、さまざまな風体の人物が描かれているのがわかります。それだけではなく、犬や骸骨、果ては、カンヴァス後ろの壁に、磔にされているような裸体の男性まで描かれています。

 異様なほどのモチーフの数の多さと乱雑にも思える多様さで、クールベは、いったい、何を伝えようとしているのでしょうか。

 しばらく画面を見ているうちに、一見、混沌として見える画面ですが、それなりの秩序にしたがって描かれているのではないかという気がしてきました。というのも、大勢の人々を描いた画面は、三つに部分で構成されているように見えてきたからです。

 ひょっとしたら、画面を分割して見ることが、この絵を理解するための手がかりになるのかもしれません。  

 まず、中心部分を抜き出してみましょう。

 暗い画面の中で唯一、明るい光が当たっている部分であり、何よりも、画家クールベが描かれているところです。

(* 前掲。部分)

 

 裸体のモデルは、脱ぎ捨てた衣服の端で身体の前を覆いながら、やや首をかしげ、画家の手元を見つめています。画家は筆を持った右腕を高く上げ、気取ったポーズでなにやら説明しているように見えます。足元近くでは、幼い子供がまっすぐに立ち、画家を見上げています。

 この一角だけを見れば、不自然だと感じることもなく、なんの違和感もありません。

 モデルの胸と臀部の乳白色の肌の輝き、裸身の前を隠すために手にした明るい衣服の裾の豪華さが、暗い色調の画面の中で際立って見えます。

 一方、右側に見える男性たちは一種の背景として捉えることができます。彼らの姿には画家と同質の雰囲気があり、連続性が感じられます。

 この箇所だけ見れば、モチーフのレイアウト、画面全体の色構成、明暗、遠近、いずれをとってもバランスの取れたいい作品といえます。足元でじゃれている猫の尻尾が太すぎて不自然なのが気になりますが、ヌードモデルを頂点に、手前に三角形の形で広がる淡い黄土色のジュータンを配置しているところ、バランスの取れた色構成になっていると思います。

 さて、この部分で描かれているモチーフは、左から、モデル(女性)、画家(男性)、子供の順で配置されています。年齢といい、性別といい、体形、姿勢といい、変化があって、バランスのいい組み合わせであり、配置になっています。そのせいか、モチーフが相互に立てられており、安定感のある構図です。

 男性と女性は至近距離で描かれ、親愛な様子がうかがえます。一方、子供はやや離れたところにまっすぐに立ち、自立しているようにも思えます。二人の男女を父と母に見立てれば、この三人は両親と子という関係に置き換えることができます。これは次代に続く家族の最小単位であり、これまた安定感があります。

 興味深いのは、女性はどう見ても絵のモデルにしか見えないのに、画家が描いているのは風景画だということです。しかも、筆を持つ画家の右腕の位置も不自然です。さらに、子供が見つめているのは、画家の手指ではなく、画家の顔です。

 こうして細かく見ると、一見、調和がとれ、安定感があるように見えた中心部分が、実は、なんともチグハグで、違和感があることに気づきます。

 次に、画面の右部分を取り出して、見てみることにしましょう。

(*前掲、右部分)

 ここでは、圧倒的に男性が多く描かれています。本を読んでいる人がいるかと思えば、真剣な表情で前方を見ている人もいます。全般に服装がきちんとし、顎鬚を生やし、それなりの地位のある人々のように見えます。

 手前の女性が羽織っているケープには光沢があり、奥の女性が来ている明るい色のワンピースはデザインがよく、良質の素材のように見えます。衣服からは、裕福な家の女性のように見えます。とくに手前の女性は艶のいい顔に生き生きとした表情を見せています。

 こうしてみると、右側部分で描かれている人々はどうやら、社会的地位もお金もあり、余裕のある生活をしている人々のように思えます。

 そう思って、再び、画面を見ると、手前の女性の足元に、腹ばいになって人が見えます。手に筆を持ち、絨毯の上に紙を広げ、なにやら書きつけています。眼鏡をかけており、年配の人物のようです。

 暗くてわかりにくいので、この人物を黄色の矢印で示しておきました。

(* 前掲、部分)

 立っている人、座っている人、それぞれが前方を見つめているのに、この人物は、周囲の人々に合わせることをせず、独自の世界に没入しています。周囲の人々もそれを黙認しているのが不思議です。

 そういえば、この部分で独自の世界に浸っているのがあと二人います。群れから離れて一人静かに本を読んでいる人、天窓から射し込む陽射しを浴びて、周りを気にせず、女性と戯れている人物です。

 こうしてみてくると、この部分で描かれている人々は二種類に大別されていることがわかります。社会のルールに従って生き、それなりの地位を得て、豊かに暮らしている多数の人々と、社会的秩序の中にいながら、自身の生き方を貫き、それが許されている3人といった違いです。

 それでは、左側に描かれた人々を見てみることにしましょう。

(* 前掲、部分)

 こちらは一見して、人々の表情に生気がありません。ほとんどすべての人がうなだれており、疲れ切って睡魔に襲われているように見えます。奥の方に異国の服装をしている人がいて、金色の布に包まれた何かを抱え、嘆き悲しんでいます。

 右側には、手前の黒い帽子をかぶった人は両手を膝に置き、うなだれています。よく見ると、頬に赤い血の跡が見えます。切り付けられたのでしょうか、頬から口にかけてかなり広い範囲で傷跡が残っています。その足元にはナイフが転がっているのが見えます。

 その人の隣に、骸骨のようなものが見えます。さらに、その前には、痛みを抑えるように脇腹に手を当て、ズボンも履かず、むき出しの足を出してくず折れるように膝をついている人がいます。そして、右奥の壁には、裸体の男性が、まるでキリストのように、磔の姿勢でつるされています。

 一方、左側には、軍人のような人もいれば、狩人のような人もいます。立っていられるだけの体力がある人々なのでしょう。それでも、ほとんどがうなだれています。貧困と傷害、苦難と痛苦しかないような人生がうかがえます。

 そのような悲惨な生活をうかがわせる人々の中で、唯一、前を向いている人物がいます。おそらく聖職者なのでしょう、抱えるようにして持っている本(聖書?)に手を置き、心配そうな表情を浮かべています。

 この部分で生気が感じられるのは、この聖職者と白のブチ犬だけです。この猟犬には攻撃性が見られ、状況に抗う姿勢が感じられます。この左側部分は全体に、暗く、沈鬱で、苦悩しか感じられません。

 再び、中央部分に戻ってみましょう。

 画家はモデルと語らいながら、呑気に風景を描いています。ところが、左側のモチーフからは、その巨大なカンヴァスの裏側には、悲惨な世界が横たわっていることが示されています。

 先ほどよりも少し範囲を広げ、中心部分と左右両側の一部を抜き出してみました。

(* 前掲、部分)

 明らかにこの世界の光と影が表現されていることがわかります。右側にいる人々が光に相当するとすれば、左側にいる人々は影に相当します。そして、絵を描く人も、文章を書く人も、本を読む人も、光の側に描かれています。

 クールベが、政治的、経済的、社会的に上位に立つ人々の中に、絵であれ、文章であれ、創作者を位置付けており、芸術や文学、哲学等を高く評価していることが示されています。

 一見すると、わかりにくかった《画家のアトリエ》でしたが、画面を3つに分割し、細部を見てから、全体を見直すと、改めて、非常に示唆深い作品だということがわかります。人生の深淵、世界の構造がこの作品の中にしっかりと描きこまれているのです。

 確かに、ドラクロアがいうように、この作品は「異様な傑作」でした。

 それでは、なせ、この作品が1855年パリ万博で展示拒否されたのでしょうか。それについて考えるには、パリ万博の当局が何を望んでいたかを知らなければなりません。

 このパリ万博で展示されていたのは、ドラクロワの《アルジェの女たち》であり、アングルの《第一執政ナポレオン・ボナパルト》でした。

 まずは、ドラクロアの《アルジェの女たち》を見てみることにしましょう。

■《アルジェの女たち》(Femmes d’Alger dans leur appartement)

 ドラクロワ(Ferdinand Victor Eugène Delacroix, 1798 – 1863)が、36歳の時に描いた作品です。

(油彩、カンヴァス、180×229㎝、1834年、ファーブル美術館蔵)

 左上の窓からまばゆい光が入り込み、女性たちを照らし出しています。いずれも端整な顔立ちに白い肌、豊満な身体つきが印象的です。3人は思い思いの衣装を身につけ、イヤリング、ネックレス、髪飾り、指輪、アンクレットなどで着飾っています。

 左側の女性は端整な顔を正面に向け、右腕を肘置きについて、膝頭をそろえ横すわりになっています。真ん中の女性は胡坐をかいて座り、右側の女性は左膝を立て、右膝をついて座っています。

 座り方はさまざまですが、皆、裸足です。話し合うこともなく、物憂げな表情を浮かべています。水タバコを吸っていたのでしょうか、右の女性は水パイプの管を持っています。辺りには、けだるい雰囲気が漂っています。

 右端には、黒人女性が立ち去ろうとして振り向きざま、彼女たちを見下ろしている様子が描かれています。女性たちの世話係なのでしょうか、画面に描かれた4人の女性のうち、彼女だけはスリッパを履き、忙しそうに立ち働いているように見えます。

 この作品は、ドラクロワが実際にアルジェリアのハレムを訪れた経験に基づいて、描かれました。

 ハレムとは、イスラム世界において家屋内の女性専用の居場所を意味します。中東の都市生活の中で、女性を隔離する風習が厳格化していったのがハレムです。とくに、王侯貴族や富裕層の家庭でこの風習が顕著にみられましたが、中流以下では一夫一妻の家庭が普通でした。

 厳格なルールの下、女性たちの生活が拘束されていたのです。厳格なルールの一例をあげれば、素顔を見られても、罪とならないのは,女性の父や息子たち,兄弟,兄弟の息子たち,姉妹の息子たち,および女性たちの奴隷たちだけでした。このようなハレムの風習は社会の近代化とともに消滅しつつあるが,現在でも若干はその余風があるといわれています。(* 前嶋 信次、https://kotobank.jp/word/%E3%83%8F%E3%83%AC%E3%83%A0-117620)。

 ドラクロワは中東文化に興味を抱いていましたが、1832年、フランス使節団の記録係として、モロッコ、スペイン、アルジェリアを訪れる機会を得ました。34歳の時でした。

 フランスは1830年6月、アルジェリアを植民地にしており、外交上、その西隣モロッコとの友好関係を樹立しておかなければなりませんでした。政治的必要性から使節団が派遣されたのですが、画家ドラクロワにとっては幸いでした。

 18世紀のナポレオンによるエジプト遠征以来、フランスでは東方への関心が高まっていました。画家たちは、東方の風俗や風景を描き始め、「オリエンタリズム」という流行現象が起こっていたほどです。

 ドラクロワも中近東や北アフリカなどのイスラム文化圏に憧れており、滞在中は、地中海の強烈な陽射しや鮮やかな色彩に歓喜し、寸暇を惜しんで風景や人物をスケッチしていました(* 高橋明也へのインタビューより。https://artscape.jp/study/art-achive/10176044_1982.html)。

 アルジェリアを訪れたドラクロワは、かねてから興味のあったハレムに、立ち入ることができました。ある船主のハレムに案内されたのです。ドラクロワは感極まって、「なんと美しいことだろう、まるでホメロスの時代のようだ」と叫んだといいます(* 前掲。URL)

 異国の風俗習慣を描いた作品が、なぜ、パリ万博で展示されたのでしょうか。しかも、万博開催よりも21年も前の作品です。

 考えられるのは、ドラクロワが大御所だったからだけではなく、当時の画家たちが憧れていた中東世界が華麗に表現されていたこと、フランスにとっては勝利を彷彿させる作品であったこと、等々に因るのではないでしょうか。アルジェリアはフランスが1830年に占領したばかりの国でした。

 フランスの優位を示すとともに、当時の人々の異国情緒をも満足させることのできる作品でした。実際、多くの画家たちが、異国情緒あふれたこの作品に刺激されました。

 たとえば、ルノワールは《アルジェリア風のパリの女たち》(1872年)を描き、ピカソは《アルジェの女たち(バージョン0)》(1955年)を描いています。

 敢えて21年も前の作品を展示したのは、この作品が当時、多くの鑑賞者を魅了する要素を備えていたからにほかなりません。

 さて、万博会場に展示されたのは、もう一方の大御所、アングルの《第一執政ナポレオン・ボナパルト》でした。

 それでは、見てみることにしましょう。

■《第一執政ナポレオン・ボナパルト》(Premier Consul Napoléon Bonaparte)

 アングル(Dominique Ingres, 1780~1867)が捉えたナポレオンの姿です。若く、雄々しく、壮麗です。

(油彩、カンヴァス、226×144㎝、1803‐1804、リージュ美術館蔵)

 ナポレオンが皇帝になる前、第1執政であったころの肖像画です。第1執政になったのは1799年11月、ブリュメールのクーデタによって総裁政府を打倒した後、執政政府を打ち立てた時です。軍事クーデタで政体が変更され、フランス革命は終わりを告げることになりました。

 これが、ナポレオンが独裁権力を掌握する第一歩となりました。

 いかにも凛々しく,精悍なナポレオンの立像を捉えています。アングルは新古典主義絵画の領袖らしく、美しく、毅然としたナポレオンを極めて精緻に描いています。威厳があり、権威の裏付けとしての正統性の感じられる姿といえます。

 アングルは数多くのナポレオン像を描いていますが、パリ万博に出品したのはこの作品でした。

 1799年の憲法制定後就いた第一執政の行政権は強く、ナポレオンはその専制的権力をもって財政確立のためにフランス銀行を設立し、行政、司法制度を改革し、警察力を強化しました。軍事的独裁体制を樹立したのです(* https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=2310)。

 未来に向かって突き進んでいく、エネルギッシュな時の姿を描いているからでしょう。革命の意義を忘れず、フランスを強い国に導いていこうとする姿勢が敬愛されていた頃の姿です。

 実は、ナポレオンの肖像画は数多く描かれており、いかにも英雄らしい姿を描いたのはダヴィッド(Jacques Louis David, 1859~1890)でした。ナポレオン自身もダヴィッドの描く昭三画を好んでいたようでした。

 ところが、アングルの場合、ダヴィッドの描く雄々しさに加え、アカデミックが要求する精緻さと優雅さを添えていた点で、肖像画として含蓄のあるものになっていたといえるでしょう。

 そのような一味違う表現が可能だったのは、アングルのデッサン力によるものでした。彼のデッサン力は素晴らしく、近代絵画の巨匠の中でその右に出る者はいないといわれたほどでした(* https://www.nmao.go.jp/archive/exhibition/1981/post_20.html)。

 皇帝時代のナポレオンではなく、有り余るエネルギーをフランスのために使っていた頃の姿です。栄光にあふれ、フランスを導く勇士であり、強靭化しようとする指導者の姿です。

 ナポレオン三世が開催したパリ万博に、この作品が展示されるのは当然でした。

 ドラクロワの作品にしても、アングルの作品にしても、まさしく、ナポレオン三世が1855年という時期に開催したパリ万博で展示されるのにふさわしい作品だったことがわかります。

 両作品とも、フランスが領土を拡大していた時代を彷彿させる画題であり、権威を否定するものではなく、現実社会の暗部を見ようとするものでもありません。しかも、画風は、新古典主義であり、ロマン主義でした。現実を直視するのではなく、鑑賞者に、未来と希望を感じさせる作品だったのです。

■なぜ、クールベの《画家のアトリエ》は展示拒否されたのか

 先ほどもいいましたが、クールベの《画家のアトリエ》を見たドラクロワは、「異様な傑作」という表現で、評価していました。「異様」だけど、「傑作」だというのです。まさに言い得て妙、という気がします。

 当時、このような画題を作品化する画家はいなかったのでしょう、だから、「異様」と表現したのだと思います。ただ、画面には現実世界の真実が余すところなく表現されており、「傑作」としかいいようがない、というのが、ドラクロワの率直な感想だったのだと思います。ドラクロワには、この作品の優れた点がよくわかっていたのでしょう。

 さて、ドラクロワには《民衆を導く自由》(Liberty Leading the People)という作品があります。

(油彩、カンヴァス、260×325㎝、1830年、ルーブル美術館蔵)

 これは、1830年7月革命を起こし、フランス国王シャルル10世を打倒したことを記念して制作された、とても有名な作品です。

 乳白色の胸を露わにした女性が、右手で三色旗を高く掲げ、左手に銃剣を握りしめ、倒れた人々を踏みつけ、つき進んでいく姿が描かれています。人々を鼓舞するかのように、後ろを振り返り、叱咤激励している雄々しい姿です。

 足元は死体の山になっており、多くの犠牲を払いながら、自由を求めて突き進む姿が表現されています。

 アングルのように英雄を描くのではなく、市井の女性を一種の女神として描いています。表現もアングルのような精緻さはありませんが、逆に、メッセージを伝える力は抜群です。訴求ポイントを的確に押さえ、ドラマティックに画面構成をしているからでしょう。

 描かれた世界は為政者を震え上がらせるものです。民衆の力の凄さ、犠牲をいとわず、自由を求めて突き進むエネルギー、そのようなものが画面いっぱいにあふれています。この作品は、悲惨な場面を描きながら、実は鑑賞者に勇気を与える結果になっています。

 こうしてみてくると、なぜ、クールベの《画家のアトリエ》が展示拒否され、ドラクロワの作品が展示されたのかがわかってきます。

 同じように政治的課題を題材としながら、クールベの作品では現状分析にとどまり、未来が見えてきません。それに対し、ドラクロワの作品は、悲惨な現実を描きながら、未来に対する可能性や希望が感じられるからでしょう。

 ナポレオン三世は1855年パリ万博を開催するに際し、フランスならではの新機軸を打ち出し、価値創出を企図していました。フランスらしく、美術作品のために独立した展示会場を設けたのはそのためでした。

 だからこそ、当局は、題材はどのようなものであれ、未来に希望を感じさせる作品を求め、それを否定するような作品は、展示拒否したのではないかという気がします。

(2024/5/31  香取淳子)

百武兼行⑩:幕末のイギリス留学、三藩三様

■イギリスの東アジア進出

 佐賀藩藩士の島内平之助は、アメリカからの帰国途中に立ち寄った香港で、英仏軍によって北京が攻撃されたことを聞き及んでいました。1860年9月、第二次アヘン戦争末期に勃発した武力衝突事件です。

 当時、香港はイギリスの支配下にありました。この時、島内が見聞きした出来事の記録は、「米国見聞記」(1861年)に収められ、藩主の鍋島直正に提出されました。

 海外情報を入手しにくい時代に、鍋島直正は、藩士から直接、隣国清朝の悲惨な状況を把握することができていたのです。彼は、海外渡航する藩士には必ずといっていいほど、現地での情報収集を指令していましたが、これは、その成果の一つでした。

 当時、もっとも注目しなければならなかったのが、イギリスの動きでした。ヴィクトリア朝(1837-1901)の最盛期で、産業革命による経済発展が成熟しており、市場拡大のため、東アジアに進出してきていたのです。

 その手先になっていたのが、イギリス東インド会社です。交易を通して各地に進出し、やがて植民地化し、現地の資源を収奪していました。自由貿易主義の下、イギリスは巧妙にアジアでの侵略行為を進めていたのです。

 1858年には、インドの植民地を東インド会社からヴィクトリア女王に委譲させ、二度にわたるアヘン戦争によって、清を支配下に置きました。次のターゲットは明らかに、日本でした。

 そんな最中、佐賀藩で、ちょっとした事件が起こりました。

■石丸安世らの密航事件

 1865年(慶応元年)10月、佐賀藩士の石丸安世(1834-1902)が、突然、行方不明になりました。

(※ Wikipediaでは生年が1839年となっているが、それでは、その後の石丸の経歴と辻褄が合わない。『佐賀県立博物館・美術館報』(No.65)では、1834年(天保5)が生年とされており、佐賀県人物データベースも同様。したがって、本稿でも1834年生年を採用した)

 行方をくらましたのは、石丸ばかりではありませんでした。佐賀藩士の馬渡八郎(生没年不明)、広島藩士の野村文夫(1836-1891)も居所がわからなくなっていました。3人の内、2人は佐賀藩士でした。当然のことながら、佐賀藩は追っ手を差し向け、石丸らの行方を追いました。

 ところが、一応、各方面を捜索したようですが、藩はそれほど熱心には探さず、早々に打ち切ったといいます。

 結局、石丸ら3人は、親交のあったグラバー(Thomas Blake Glover, 1838 – 1911)の手引きで、貨物帆船チャンティクリーア号に乗り込み、イギリスに密航していたことがわかりました(※ Wikipedia)。

 藩に迷惑を掛けたくないという気持ちが強かったのでしょう。石丸らは渡航前に脱藩し、藩との関係を断ち切っていました。

 当時、密航は死罪でした。

 1635年(寛永12)にいわゆる第3次鎖国令が発布され、密航は死罪となっていました。幕府は、中国やオランダなど外国船の入港を長崎に限定する一方、日本人の渡航及び日本人の帰国を禁じたのです。

 その後、島原の乱(1637年)が勃発したので、幕府はさらに鎖国令を厳格化しました。新たな宣教師が国内に潜入するのを防ぐため、1639年(寛永16)に、全ポルトガル船の日本への入港を禁止したのです。これが最終版の第5次鎖国令です。

 こうして1639年以降、佐賀藩と福岡藩は、長崎港の西泊と戸町の両番所に陣屋を築き、交代で長崎の警備を担当するようになりました。当時、長崎奉行は2000~3000石の旗本で,外事案件に対処できる家臣団や軍事力がありませんでした。警備に関しては、近隣の佐賀藩と福岡藩が担当せざるをえなかったのです。両藩は毎年4月に交代し、9月までの貿易期には約1000人が在勤していました(※ https://www.historist.jp/word_j_na/entry/036127/)。

 佐賀藩は、長崎警固を担う幕府の軍役でした。

 重責を担っているのですから、藩士の密航など、あってはならないことでした。密航者を捜索するのは当然のことだったのです。

 そもそも佐賀藩には、忘れることのできない苦い経験がありました。

 オランダ国旗を掲げ、オランダ船を装ったイギリス軍艦フェートン号が入港してきた事件がありました。このフェートン号事件(1808年)の際、佐賀藩の警固の不備が明らかになってしまったのです。

 佐賀藩は警備を担当していましたが、長い間、大した事件も起こらなかったので、定められた警衛人員を勝手に減らしていたのです。その結果、フェートン号が入港し、オランダ船を拿捕した時も職務を果たせませんでした。関係者は責任を取って自害し、藩主も幕府からお咎めを受けました。

 そのような苦い経験があっただけに、再び、幕府が定めたルールを犯すわけにはいきませんでした。石丸らが脱藩して密航という形で渡英したのも、無理はなかったのです。

 さて、藩士が脱藩し、その直後に行方不明になりました。しかも、一人ではありませんでした。当然のことながら、藩主鍋島直正には報告されていたでしょうが、直正は事前にこの件を把握していなかったのでしょうか。

 そもそも藩主直正の許可がないまま、石丸らは密航という大それたことをしたでしょうか。直正はこの密航事件にいくばくか関与していたのではないでしょうか。

 思い起こすのは、当時の社会状況です。

 すでに1863年6月27日には長州藩から5名、1865年4月17日には薩摩藩から19名がイギリスに向けて密航していました。長州藩と薩摩藩は、イギリスと戦った雄藩です。そこから、志ある藩士たちが次々とイギリスに向かったのです。

 情報通の直正はおそらく、そのことを知っていたはずです。

 まず、長州藩からみていくことにしましょう。

■長州藩士たちのイギリス渡航

 長州藩からは、井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)の5名がイギリスに渡航しました。いわゆる長州五傑です。

 彼らの写真をご紹介しましょう。

(※ Wikipedia)

 上から順に、遠藤謹助(上段左)、野村弥吉(上段中央)、伊藤俊輔(上段右)、井上聞多(下段左)、山尾庸三(下段右)の配置で写っています。

 この写真は、彼らがロンドンに到着した1863年に撮影されました。蝶ネクタイの正装で革靴を履き、緊張した面持ちでポーズを取っている姿が初々しく、微笑ましく思えます。

 渡航時の年齢は、遠藤が27歳、野村が20歳、伊藤が22歳、井上が28歳、山尾が26歳でした。それぞれが何らかの職務を経験し、時代状況を把握できている年齢だといえます。帰国後はイギリス留学の経験を活かし、さまざまな分野で、日本の近代化に貢献しました。

 それから130年後の1993年、ロンドン大学内に、長州ファイブ(Choshu Five)として、顕彰碑が建てられました。当時、彼らの中の一体、誰が、こんなことを想像したでしょうか。

 先陣を切って渡英した彼らの留学経験が、その後の日本の近代化に大きく影響したことは確かでした。

 まず、彼らの渡航経緯からみていくことにしましょう。

 最初にイギリス渡航を思い立ったのは、山尾庸三(1837 – 1917)と野村弥吉(1843 -1910)でした。

 彼らはなぜ、渡航しようと思ったのでしょうか。先ずは彼らの来歴から見ていくことにしましょう。

■山尾庸三

 山尾庸三(1837-1917)は、長州藩重臣の息子でした。1852年(嘉永5)に江戸に赴き、同郷の桂小五郎に師事した後、江川塾の門弟となりました。

 江川塾とは、幕臣の江川英龍(1801-1855)が、高島流の砲術をさらに改良した西洋砲術の普及を目的に、全国の藩士に教育するため江戸で開いた塾でした。佐久間象山、大鳥圭介、橋本左内、桂小五郎(後の木戸孝允)、黒田清隆、大山巌、伊東祐亨などが彼の下で学んでいました(※ Wikipedia)。

 山尾はおそらく桂小五郎から、江川塾のことを聞いたのでしょう。江川は海防ばかりか造船技術の向上にも力を注ぎ、1854年(嘉永7)に日本に来航していたロシア帝国使節プチャーチン一行への対処も差配していました(※ https://egawatarouzaemon.sa-kon.net/page010.html)。

 江川は、爆裂砲弾の研究開発や近代的装備による農兵軍の組織までも企図していましたが、結局、激務で体調を崩し、1855年(嘉永8)に亡くなってしまいます。学びながら実践を繰り返す江川の影響を山尾が深く受けていたことは確かでした。

 1861年(文久元年)、山尾は幕府の船「亀田丸」に乗船し、ロシア領のアムール川流域を査察しています(※ Wikipedia)。

 実は、ロシアの南下政策に備えるため、幕府は1799年(寛政11)に松前藩が統治していた東蝦夷地を直轄地にし、幕府が外交上の問題に直接、関与できる体制を築き上げていました。1802年(享和2)には、蝦夷奉行(同年、箱館奉行と改称)が設置され、その翌年には箱館の港を見おろせる場所に奉行所を建てていたのです。

 ところが、懸念すべきこともなく過ぎたので、幕府は1821年(文政4)、箱館奉行の役割を終了させました。財政難でしたし、対外関係の緊急課題は去ったと判断したからでした。

 ところが、ペリー艦隊が浦賀に来航し、和親条約を結んだ後、1854年(安政元年)4月に箱館に入港してきました。幕府は慌てて、箱館奉行所を34年ぶりに復活し、幕府直轄地に戻しました。

 再設置された箱館奉行所の任務は、開港にともなう諸外国との外交交渉、蝦夷地の海岸防備、箱館を中心にした蝦夷地の統治でした。開港場となった箱館には、各国の領事館が置かれ、箱館奉行所は外国との重要な窓口となりました。

(※ https://hakodate-bugyosho.jp/about1.html#:~:text=%E3%81%9D%E3%81%93%E3%81%A7%E5%B9%95%E5%BA%9C%E3%81%AF%E3%80%81%E5%AF%9B%E6%94%BF11,%E6%89%80%E3%82%92%E5%BB%BA%E3%81%A6%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82

 上図で、赤で囲われている箇所が、箱館奉行所です。

 山尾は1861年にアムール川流域を視察した後、箱館に滞在して武田斐三郎(1827- 1880)に師事し、航海術と英語を学びました。

 武田斐三郎は、ロシアのプチャーチンやアメリカのペリーとの交渉の場に通訳として参加していただけではなく、箱館奉行所では武器の製造まで担当していました。まさに海防を担うにはふさわしい人物でした。

 山尾が箱館に滞在して、武田に師事したのも当然のことでした。次々と押し寄せてくる欧米ロシアの艦隊に対応するには、まず、航海術と英語を学ばなければなりませんでした。

 山尾が海防に関心を抱いていたのは、実際にアムール川流域を視察してロシアの南下政策を実感しただけではなく、地元長州藩もまた海防を考えなければならない地政学的位置づけにあったからでしょう。

 地図を見ると、長州藩は日本海に面している一方、瀬戸内海への入り口である下関海峡にも面しています。

(※ https://www.touken-world.jp/edo-domain100/choushuu/

 実際、幕末には、この界隈を欧米列強の船が次々と押し寄せてきました。頑丈な装備の船が海上を通過するのを見るたび、人々は、危機感を抱いていたに違いありません。山尾が航海術や英語力を高めなければならないと考えるのは当然のことでした。

 彼は単に書物から学ぶだけではなく、実践も積み重ねてもいました。

■留学願いを藩に提出

 1863年(文久3年)3月、山尾は、長州藩がジャーディン・マセソン商会から購入した「癸亥丸」の測量方を務め、横浜港から大阪を経由して三田尻港まで航行しています。この時、「癸亥丸」の船長を務めたのが野村弥吉でした。

 二人は相通じるところがあったのでしょう。帰藩すると、山尾と野村はただちに、イギリス留学の願いを藩に提出しました。彼らとは別に、井上馨(1836 – 1915)も洋行願いを出しており、3名の渡英が決定されました。後に、伊藤博文と遠藤謹助が加わり、渡航者は結局、5名となりました(※ Wikipedia)。

 藩主毛利敬親(1819-1871)が藩命を下し、5名のイギリス留学が決定したのですが、当時、日本人の海外渡航は禁止されていました。そこで、5名は脱藩したことにし、密航者扱いで渡英しています。

 ちなみに、渡航前に英会話ができるのは野村だけで、他の4人は辞書を引きながらなんとか応対できる程度だったそうです(※ Wikipedia)。

 井上と野村は藩主の許可を得ると、早々に京都を発ち、6月22日に駐日イギリス総領事エイベル・ガウワー(Abel Anthony James Gower, 1836-1899)を訪ねて洋行の志をのべ、周旋を依頼しました。そして、6月27日、彼の斡旋でジャーディン・マセソン(Jardine Matheson)商会の貿易船チェルスウィック(Chelswick)号で横浜を出港しました。

 ロンドンに着いたのが、1863年11月4日でした。

■長州藩の留学生を支えたヒュー・マセソン

 伊藤俊輔(博文)、遠藤謹助、井上聞多(馨) らは、イギリス人化学者ウィリアムソン(Alexander William Williamson, 1824 – 1904)の斡旋で、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)の法文学部に聴講生の資格で入学することができました。そればかりか、ウィリアムソンの家に寄留させてもらい、留学生の化学教育も彼が担当してくれました。

 至れり尽くせりの待遇ですが、それは、現地の大物起業家ヒュー・マセソンが手配してくれたからでした。

 ヒュー・マセソン (Hugh Matheson、1821-1898)は、マセソン商会 (Matheson and Company) のシニアパートナーで、リオ・ティント鉱業グループの創設社長でした。

 彼は1863年に、ジャーディン・マセソン商会横浜支店長のケズウィックから、日本人留学生の世話を頼まれました。そこで彼は、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)の化学教授であるアレクサンダー・ウィリアムウィリアムソンを紹介するとともに、同大学への聴講学生登録の便宜を計ったのです。

 長州藩からの留学生は皆、このUCLで学びました。

 山尾庸三と野村弥吉(井上勝)は、約6年間にわたってヒュー・マセソンの世話になり、最先端技術を習得することができました。

 たとえば、山尾庸三はUCLで2年間、英語と基礎化学を学び、修了後、成績優秀者として優等賞を授与されています。分析化学で4位、理論化学で10位でした。

 その後グラスゴーに移り、やはりヒュー・マセソンの紹介で、グラスゴーのネピア造船所 (Napier Shipyard) で徒弟工として技術研修を受けながら、夜はアンダーソン・カレッジ(後に、the University of Strathclyde)の夜学コースで学びました。

 その間、ヒュー・マセソンの友人のコリン・ブラウン(Colin Brown)の自宅に下宿しています。

 また、野村弥吉は、1868年(明治元年)まで、UCLで鉱山技術や鉄道技術などを学び、同年9月、無事、UCLを卒業してから帰国しました。留学した藩士のうち、山尾と野村が最も長くロンドンに滞在したことになります。

 井上馨と伊藤博文の滞在はわずか1年でした。下関戦争が勃発したので、彼らは急遽、帰国したのです。残った3人は、1865年(慶応元年)にイギリスに留学してきた薩摩藩第一次英国留学生と出会い、異国での交流を喜び合いました。

 その後、遠藤謹助(1836-1893)は病気が悪化し、1866年(慶応2)に帰国しました。残ったのは野村と山尾とふたりです。彼らは遠藤が去った後も2年にわたって勉学に励み、明治元年9月、無事、UCLの卒業を果たしました。

 木戸孝允からは、再三、「母国で技術を役立てるように」と要請されていました。そこで、卒業を機に11月、山尾と野村は帰国の途に就きました。

 こうしてみてくると、長州藩士たちの留学生活はきわめて恵まれたものであったように思えます。

 なぜかといえば、井上と野村がまず、駐日イギリス総領事に留学の斡旋を依頼したからでしょう。その結果、総領事の斡旋で、ジャーディン・マセソン商会横浜支店長のケズウィック(William Keswick, 1834–1912)を紹介してもらうことができました。渡航の手配から現地での留学手続きまで、マセソン商会の関係者がさまざまな便宜を図ってくれたのです。

 イギリスで影響力のある人物に依頼したので、現地での留学生活がスムーズに運んだのではないかという気がします。ヒュー・マセソンが地元の実業界、教育界の大物だったので、有用な人物を知り合うことができ、学習の機会も、実践の機会も与えられましたのでしょう。

 伊藤博文と井上馨は長州藩の事情、遠藤謹助は病気の悪化で、早期に帰国せざるをえませんでしたが、彼らは帰国後、新政府の下で大活躍をしています。

 野村と山尾は5年余も滞在し、学業を全うしてUCLを卒業しました。帰国後、山尾は工部省の設立に尽力し、科学技術の振興に貢献しました。野村は鉄道事業に携わり、その発展に寄与した結果、日本の鉄道の父と呼ばれるほどになりました。

 なぜ、彼らが大活躍できたのかといえば、密航という形を取りながらも、正規のルートで留学し、所定の課程を学修することが出来たからではないかと思います。彼らにはなによりも、長州藩の藩命があり、駐日イギリス大使の斡旋があり、マセソン協会の支援がありました。

 だからこそ、理論から実践に至る西洋の科学技術をある程度、身につけることができ、日本に持ち帰ることができたのだと思います。

 それでは、薩摩藩の場合はどうだったのでしょうか。

■薩摩藩士の渡航と薩英戦争

 薩摩藩からイギリスへの渡航者は19人でした。渡航した19名のうち、16名が撮影された写真があります。

(※ https://www.pref.kagoshima.jp/ak01/chiiki/kagoshima/takarabako/shiseki/satsumahan.html

  これら留学生の中には、寺島宗則(1832-1893)や五代友厚(1836-1885)が含まれています。いずれも薩英戦争が勃発した際、乗船していた汽船が拿捕され、捕虜になった経験のある薩摩藩士です。

 実は、薩摩藩のイギリス渡航と、この薩英戦争とには深い関係がありました。

 薩英戦争(1863年8月15日 – 17日)とは、薩摩藩とイギリスの間で起こった武力衝突です。1862年(文久2)9月14日に、横浜港付近の生麦村で発生した事件を巡る戦闘でした。

 生麦事件の解決とその補償を迫るイギリスと、それを拒否しようとする薩摩藩が、鹿児島湾で激突したのです。

 その経緯を簡単に説明しておきましょう。

 1863年8月15日にイギリス艦隊5隻が、薩摩藩の蒸気船3隻の舷側に接舷し、イギリス兵50~ 60人ほどが乱入してきました。薩摩藩蒸気船の乗組員が抵抗すると、銃剣で殺傷し、乗組員を強制的に陸上へ排除し、船を奪い取ってしまったのです。

 このとき、船奉行添役として乗船していた五代友厚や船長の寺島宗則は、捕虜としてイギリス艦隊に拘禁されました。

 捕虜となっていた五代友厚は、西洋の技術を目の当たりにし、圧倒的な差を実感しました。

(※ Wikipedia)

 その後、解放されましたが、イギリス軍の捕虜になって罪人扱いされていた五代友厚は、そのまま薩摩藩に帰るわけにもいきませんでした。幕吏や攘夷派から逃れるためにも、長崎に潜伏せざるをえなかったのです。

 長崎には出島があり、外国人居留地がありました。さまざまな人が行き交い、いろんな噂が流れていました。それらの情報を見聞きするにつれ、五代は時代が大きく変化していることを実感するようになりました。

■五代友厚が出した上申書

 長崎に滞在している間に、五代はトーマス・グラバーと懇意になりました。グラバーから世界情勢を聞き、列強の動きを知るにつけ、国の未来に危機感を募らせていきました。なんとかしなければと思うようになった彼は、1864年6月頃、薩摩藩に、今後の国づくりに関する上申書を提出したのです(※ https://ssmuseum.jp/contents/history/)。

 それは、「これからは海外に留学し、西洋の技術を習得しなければ、世界の大勢に遅れ、国の発展に役立たない」というような内容でした。新式器機の購入による藩産業の近代化、近代技術・知識獲得のための海外留学生の派遣、外国人技術者の雇用、さらには、これらの経費に対する詳細な捻出方法(上海貿易等)などが書かれていました(※ 前掲URL)。

 五代は、長崎でさまざまな情報に接するにつけ、また、グラバーから世界情勢を知るにつけ、時代は刻々と変化していることを実感しました。そして、時代を大きく変化させている中心が、西洋の科学技術だということを察知したのでしょう。

 藩への上申書には、最新技術を導入して藩の産業を近代化すること、西洋の最先端技術や知識を習得するため留学生を派遣すること、外国人技術者を起用し、最新技術を移入すること、などが喫緊の課題として盛り込まれていました。

 こうした五代の上申書が契機となって実現したのが、薩摩藩主導のイギリス留学でした。

■薩摩藩遣英使節団

 長州藩との違いは、薩摩藩首脳が英国留学の必要性を認め、正式の使節団として渡航者たちをイギリスに送り出したことです。藩士五代友厚の上申書に基づくものだったとはいえ、薩摩藩藩主や首脳部は彼の危機感を共有しました。そして、藩の未来を託して使節団のメンバーを構成したのです。

 薩摩藩は、英国への留学生派遣を、近代化に向けた継続的な事業と考えていたのでしょう。人選から、費用、寄留先まで薩摩藩が引き受けています。未来を託した留学生は、薩摩藩開成所で学ぶ者の中から選ばれました。

 1865年2月13日、視察員4人と留学生15人が選ばれ、藩主から留学渡航の藩命が下されました。当時は、日本人の海外渡航は禁止されていたので、表向きの辞令は、「甑島・大島周辺の調査」というものでした。しかも、万が一の場合を考え、一人ひとり、藩主から変名を与えられていました(※ https://ssmuseum.jp/contents/history/)。

 海外渡航が漏れれば、密航者として扱われ、死罪になりました。まだ日本人の海外渡航は禁じられていたからこそ、変名まで用意しなければならなかったのです。

 1635(寛永12)年以来、鎖国政策の一環として日本人の海外渡航が禁止されてきました。解禁されるのは、1866年(慶應2)でした(※ 鈴木祥、「明治期日本と在外窮民問題」、『外交資料館報』第33号、2020年、p.21.)。

 幕府はすでに1860年(万延元年)に遣米使節団を送っており、1862年(文久2)にも遣欧使節団を送っていました。欧米との交渉が不可避になりつつあったのです。そのような状況下で、薩摩藩が独自の遣英使節団を送ったとしても不思議はありませんでしたが、幕府以外は、まだ密航者扱いでしか海外渡航できなかったのです。

 薩摩藩がイギリス渡航する頃はまだ解禁されておらず、十分に警戒する必要がありました。こうして準備万端整えた留学生ら一行は、1865年4月17日、グラバーが用立てた蒸気船「オースタライエン号」に乗船し、鹿児島県の先端、羽島沖を出発しました。

 次に、渡航者のメンバーをみておくことにしましょう。

■渡航者の内訳

 薩摩藩遣英使節団は、新納久脩(32歳)を使節団長として、五代友厚(27歳)、松木弘安(寺島宗則、32歳)らの外交使節団と、薩摩藩開成所学頭の町田久成(27歳)と留学生14人、通訳1名から構成されていました。

 留学生はいずれも薩摩藩開成所の生徒で、中には、13歳から17歳までの10代が5名含まれていました。

 薩摩藩開成所とは、1864年(元治元年)に設置された薩摩藩の洋学校です。中国の『易経』の中の故事にちなみ、「あらゆる事物を開拓、啓発し、あらゆる務めを成就する」ことを奨励する意味が込められています。翻訳や学問だけでなく、みずから学びを実践に繋いでいくという意図があるといわれています(※ Wikipedia)。

 リストの中に、後に政治家、外交官、思想家、教育者として活躍する森有礼の名前がありました。当時、17歳でした。

 留学生の中で一人、「長崎遊学生」という肩書きでリストに載っていたのが、中村博愛(22歳)です。調べてみると、薩摩藩の子息でした。長崎でオランダ医学、薩摩藩開成所で英語を学んでいたので、『長崎遊学生』なのでしょう。薩摩藩の留学生として選ばれ、イギリスでは化学を学び、明治政府の下では、外交官、官僚、政治家として活躍しています。

 このように渡航者リストからは、薩摩藩の将来ビジョンが見えてきます。新しい時代を切り開いていこうとする信念の下、まずは、西洋技術を学び、欧米列強に対抗できるよう近代化を進めようとする展望です。

 渡英した彼らを記念し、鹿児島中央駅の前に、「若き薩摩の群像」が設置されています。

(※ Wikipedia)

 手を高く掲げる者もいれば、胸を張って遠くを見つめている者もいます。まさに、「あらゆる事物を開拓、啓発し、あらゆる務めを成就する」ことを胸に刻んでいるように見えます。それぞれが大きな希望を抱いて渡航したのでしょう。未来に向かって突き進もうとする様子に力強さが感じられます。

 薩摩藩は、藩士たちを使節団として構成し、イギリスに向けて送り出しました。意欲ある若者に将来を託していたからでした。

 思い返すのは、佐賀藩の対応です。

 佐賀藩は、藩士を積極的に海外渡航させることはしませんでした。むしろ逆に、脱藩して密航した石丸らに、追っ手を差し向けていました。

 もちろん、深追いさせず、早々に引き上げさせています。とはいえ、密航者に追っ手を差し向けるという対応からは、佐賀藩が幕府の命に背くことを極端に恐れているように思えます。おそらく、当時なお、フェートン号事件の苦い経験が尾を引いていたからでしょう。

 藩主の直正は、長州藩や薩摩藩が決行した密航留学について、どのように思っていたのでしょうか。

 少なくとも、薩摩藩の一行が、グラバーが手配した貿易船に乗り、鹿児島沖から密かに出航したことは知っていたはずです。

■鍋島直正とグラバー

 アンドリュー・コビング(Andrew Cobbing, 1965- )氏は、『鍋島直正公伝』や『長崎談叢』の記述を踏まえた上で、次のように概括しています。

 直正が、「素より法を守るに厳格なれば、表面には敢て之を軽々に看過せられぬ」と主張したと紹介する一方、後年、グラヴァ―自身が、「石丸と云ふ人と馬渡と云ふ人を閑叟公から頼まれて英吉利へやった」と回想していたと記しています(※
アンドリュー・コビング 、『幕末佐賀藩の対外関係の研究』、鍋島報效会、1994年3月、p.76.)。

 この記述からは、直正の微妙な立場がよくわかります。

 佐賀藩は、長崎警護を担当していましたから、幕府の鎖国禁止令に背くわけにはいきませんでした。そうかといって、長州藩や薩摩藩が次々と藩士をイギリスに渡航させているのを、ただ指をくわえて眺めているわけにもいかなかったのでしょう。

 興味深いことに、直正は1865年5月22日にグラバーに面会しています(※ 前掲。p.76.)

 二人がどんな用件で会っていたのかはわかりませんが、時期が時期だけに、気になりました。薩摩藩の藩士19名がイギリスに発った直後であり、石丸安世らが密航するまでに5カ月あります。この5カ月を留学の諸手配をするのに必要な期間だとみることもできます。

 もちろん、別件でグラバーに面会していた可能性もあります。グラバーは、直正にとって商取引の相手でした。商用でたまたま、この時期に会っていただけなのかもしれません。

 佐賀藩は1854年3月から、マセソン商会から委託されたグラバー商会を通して高島炭を、上海や香港に輸出するようになっていました。蒸気船の燃料として、カロリーの高い塊炭である高島炭が、欧米諸国から求められたからでした(※ 森 祐行、「日本における選炭技術の変遷とその後の展開」、『資源処理技術』vol.45, No.2、1998、p.16.)。

 佐賀藩内の高島炭鉱から産出される塊炭は、当時、東アジアを航行していた欧米の蒸気船の燃料として需要が高かったのです。直正は藩政改革に伴う財源として、欧米からの需要の高い高島炭に目をつけました。

 高島炭の取引で、直正が頼りにしたのはグラバー商会でした。

 西洋の技術による高島炭鉱の開発と、高島炭を海外に販売するため、直正は1868年、佐賀藩とグラバー商会との合弁会社を設立しています(※ 前掲、p.17.)。

 もっとも、合弁会社の件は石丸らの密航事件とは直接、関係していないでしょう。石丸らの密航事件は1865年で、合弁会社設立の3年後です。注目すべきは、直正とグラバーの間にはすでに商取引の関係があり、知己の間柄だったことです。

 直正は必要とあれば、いつでも、グラバーに渡航を依頼することができたのです。しかも、石丸はグラバーとは懇意な関係でした。

 なにより、グラバーは、長州五傑のイギリス渡航の手配をし、薩摩藩遣英使節団のイギリス留学の世話をしていました。日本人渡航禁止の時代に、渡英、現地での滞在、教育機関の手配といった重責を担う役割を果たしていたのです。

 グラバーはまさに、幕末日本とイギリスとを繋ぐキーパーソンだったといえます。

 果たして、グラバーはどのような人物だったのか、石丸はなぜ、彼と知り合いになったのか、簡単に見ておきましょう。

■グラバーと石丸安世

 スコットランド・アバディーンシャーで生まれたグラバー(Thomas Blake Glover, 1838-1911)は、1859年(安政6)に上海へ渡り、当時、東アジア最大の商社だったジャーディン・マセソン(Jardine Matheson )商会に入社しました。同年9月19日、開港後まもない長崎にやって来ると、同じスコットランド人K・R・マッケンジー(K.R. Mackenzie)が経営する貿易支社に勤務しました(※ Wikipedia)。

 グラバーが長崎にやって来たのは1859年、21歳の時でした。この時、石丸は、長崎海軍伝習所で航海術や語学などを学んでおり、3年目を迎えていました。25歳でした。

 石丸安世は、藩校弘道館で儒学や武術を学んでいましたが、1854年(安政元年)に藩主の直正に命じられて蘭学寮に入り、物理や化学など西洋の科学技術を修めています。

 直正は、弘道館で学んでいた16、17歳の生徒の中から、成績の優秀な生徒を選んで二つに分け、家格の低い藩士の次男、三男に蘭学寮で、物理や化学などを学ばせました。この時、秀才として選ばれ、蘭学寮に入ったのが、石丸安世、小出千之助、江藤新平らでした(※ https://www.pref.saga.lg.jp/kiji00367689/index.html)。

 蘭学寮は、佐賀藩年寄であった朱子学者の古賀穀堂(1777 – 1836)の具申書「学政管見」に基づき、1851年(嘉永4)に設置されました。西洋の科学技術の必要性を痛感していた鍋島直正が古賀の提案を受けて設立したのです。

 直正は、上級家臣から下級武士まで全藩士の子弟の入学を求めました。優秀な成績を収めれば、身分にかかわらず抜擢していきました。その一方で、25歳までに成果を収めなければ、家禄を減らし、役人に採用しませんでした。厳しい「文武課業法」を制定し、徹底して藩士の子弟たちに勉学を推奨したのです。

 直正が構築した教育システムは、家格で役職が決まる当時の門閥制度に風穴を開ける教育改革といえるものでした(※ 前掲。URL.)。まさに能力主義の教育システムであり、近代化を推進できるメンタリティを涵養するシステムでもありました。

 石丸はこの蘭学寮で勉学を修めると、1856年(安政3)、再び、藩主に命じられて、長崎海軍伝習生になりました。以後、海軍伝習所が閉鎖になる1859年までここで学んでいます。

 海軍伝習所とは、江戸幕府が1855年(安政2)に長崎で開設した海軍士官の養成機関です。幕臣や雄藩の藩士の中から生徒を選抜し、オランダ軍人を教師に、蘭学(蘭方医学)や航海術、化学、医学、測量等などの諸科学を学ばせていました。軍艦操練所が築地に整備されたので、1859年(安政6)に閉鎖されています(※ Wikipedia)。

 安政期の伝習所を考証し、復元した図があります。陣内松齢が描いたもので、現在、鍋島報效会に所蔵されていますので、ご紹介しましょう。

(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:NagasakiNavalTrainingCenter.jpg

 多数の和船が行き交う中、図の右上に、ちょうど扇形の出島の先辺りに、黒煙をはいている船が見えます。これが、オランダから提供された木造の外輪蒸気船スンビン号です。実際にこのような蒸気船を使って、生徒たちは航海術などの勉強をしていたのです。

 スンビン号は、1855年(安政)に、長崎海軍伝習所の練習艦として、オランダから幕府に贈呈された軍艦です。 幕府にとって初めての木造外車式蒸気船でした。

 この蒸気船を描いた作品がありました。作者はわかりませんが、1850年に制作されています。ご紹介しましょう。

(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Paddle_steamer_Soembing_gift_by_King_William_III.jpg

 海軍伝習所では、軍艦の操縦だけでなく、造船や医学、語学などが教えられていました。海軍士官として欧米に対抗できるような教育を行っていたのです。ところが、1859年(安政6)、築地の軍艦操練所が整備されたので、長崎海軍伝習所は閉鎖されてしまいました。

 閉鎖後、長崎海軍伝習所の卒業生たちは、幕府海軍や各藩の海軍、さらには明治維新後の日本海軍で活躍したそうです(※ Wikipedia)。

 ところが、石丸はそのようなコースを歩んでいないのです。海軍伝習所が閉鎖された後、その英語力を買われた石丸は、貿易業務のために、藩の英語通訳として長崎に赴任していました。主な業務の傍ら、長崎の外国人居留地に出向いては、彼らから情報収集する業務も担当していたそうです(※ Wikipedia)。

 1861年(文久元年)、石丸安世は、小出千之助、中牟田倉之助、大隈八太郎(重信)、馬渡八郎らと共に英学を学ぶよう命じられ、長崎英語伝習所で学び始めます。外国人から直接、学べるということで評判になっていました(※ Wikipedia)。

 1861年、石丸は再び、藩命で長崎に滞在し、今度は英語を学び始めることになったのです。西洋の最先端技術を学ぶにはまず、英語を学ばなければならないというのが直正の見解でした。

 一方、グラバーは1861年、長崎を去ったマッケンジーの事業を引き継ぎ、フランシス・グルーム(Francis Groom)と共に、「グラバー商会」を設立しています。フランシスは、神戸を開発したアーサー・グルーム(Arthur Hesketh Groom, 1846-1918)の兄でした。

 石丸が再び、長崎英語伝習所で学ぶようになった頃、グラバーはグラバー商会を立ち上げ、オーナーとして貿易事業を采配するようになっていました。

 当初は生糸や茶の輸出を中心とした貿易業を営み、「ジャーディン・マセソン商会」の長崎代理店となっていました。

 ところが、1863年に、尊攘派公家と長州藩を朝廷から排除した文久の変(文久3)が起こると、これからは政治的混乱状態になると予想したのでしょう。グラバーは、討幕派の藩であれ、佐幕派の藩であれ、幕府であれ、要求があれば誰にでも、武器や弾薬を販売し始めました。

 グラバーは、刻々と変化する日本の政治情報を渇望しました。一方、石丸は欧米列強の日本に関する情報を必要としていました。

 グラバーと石丸が長崎で出会い、懇意になっていた可能性が出てきました。

■直正は、石丸らの密航に関与していたのか

 長崎英語伝習所で英語を学び、英語力を鍛えました。長崎の居留地に行っては、外国人を相手に会話力を磨いていたのでしょう。石丸安世は、佐賀藩随一の英語の達人だったといわれるようになっていました。

 石丸は英語力だけではなく、コミュニケーション能力、状況判断力、情勢分析力なども秀でていました。貴重な人材です。藩主の直正が見逃すはずはありませんでした。

 1863年(文久3)の下関戦争、薩英戦争の際、石丸は、英字新聞から戦況を把握し、戦闘の様子や損害について、逐一、藩に報告を送り続けていました。英語を理解できる人が皆無に近い状況下で、石丸は、欧米の情報収集およびその分析を一手に引き受けていたのです。

 このように、諜報活動ともいえる役割を与えられていたのですから、石丸と直正の間には絶大な信頼関係があったに違いありません。

 しかも、脱藩して密航したのが、下関戦争、薩英戦争の後です。とても、直正に無断で密航を決行したとは思えません。

 この件について、コビング氏は資料に基づき、諸状況を考え合わせた上で、次のように推測しています。

 「長崎にいた石丸が他藩の密航に関する情報を拾いながら、留学に対する興味をグラバーに示した結果、グラバーが石丸を誘い、最後に許可を下した直正がグラバーに依頼する展開であったのではないか」というものです(※ 前掲。p.76.)

 懇意にしていた石丸を留学させたいと思ったグラバーが、そのことを直正に伝え、直正が内密にその許可を与えたのではないかというのがコビング氏の見解でした。

 グラバーが求める日本の政治情報を伝える一方、石丸は、巷で噂になっている他藩の密航情報について、グラバーに確認していたのかもしれません。将来を考えれば、海外渡航は必然でした。グラバーに熱い渡航の思いを打ち明けていたとしても不思議ではありません。

 さらに、コビングは次のようにも記述していました。

「鍋島河内が「英国グラバが私費を以て石丸、馬渡を本国に遊ばしめたる」と述べたように、グラヴァ―が佐賀藩士二人の留学費用を負担する事になった」(※ 前掲。コビング、p.76.)

 佐賀藩二人の渡航費、滞在費用等をグラバーが支払ったというのです。それは事実だったのかもしれませんし、グラバーが支払った体にして、実際は直正が費用を出していた可能性もあります。

 実際に直正はグラバー商会と商取引がありました。後に合弁会社を設立するぐらいですから、グラバーが石丸らの費用を負担したとしても、それは、両者の取引の一環といえます。いずれにしても、直正が石丸らの渡英に関与している痕跡を残したくなかったことだけは明らかだといえるでしょう。

■幕末のイギリス留学、三藩三様

 さて、長州藩、薩摩藩に引き続き、佐賀藩も藩士が密航してイギリス留学を果たしました。いずれもイギリス人の手を借りて、渡航や留学、滞在の手配をすることができ、現地で学ぶことができました。

 海外渡航が禁止されていた時代のイギリス留学が、欧米の現状を把握し、西洋の科学技術を学ぶための突破口となったことは確かです。その後、有為の士が海外を目指しました。とはいえ、こうして振り返ってみると、幕末のイギリス留学も三藩三様だったことがわかります。

 藩と幕府との関係、藩とイギリスとの関係、藩の将来ビジョンといったようなものが関係していたのでしょうが、最も大変だったと思われるのが、佐賀藩藩士の渡英でした。

 藩からは正式に認可されることなく、渡英しており、渡航から留学、滞在に至るまでもっぱらグラバー頼みで行われました。他藩の場合とは違って、佐賀藩の場合、石丸とグラバーの個人的な信頼関係から、イギリス留学が実現したのです。

 石丸は1834年生まれで、グラバーは1838年生まれですから、二人は4歳違いです。石丸は英語の達人といわれるほどでしたから、お互いに打ち解け、何でも話し合える関係になっていたのかもしれません。

 有能な人材に、イギリスでの学習機会を与えたいという思いが、グラバーの積極的な支援になっていたように思えます。激動の時代を生きた二人が、洋の東西を越えて認め合い、好感を抱き、心の交流を積み重ねた結果といわざるをえません。(2024/3/16 香取淳子)

百武兼行⑨:近代化への取り組みと写真術

 前回、佐賀藩に写真術が導入されたプロセスを見てきました。今回も引き続き、西洋の近代技術が何故、渇望されたのか、当時の社会状況を踏まえ、考えてみることにしたいと思います。

 まず、写真術が導入された過程を振り返ることから、始めることにしましょう。

■最初に写真術を導入した薩摩藩

 前回、見てきたように、幕末日本にいち早く写真術を導入したのは、薩摩藩と佐賀藩でした。いずれも長崎経由で撮影機材を入手し、それぞれ別個に、試行錯誤を繰り返し、研究を重ねた上で、実際に藩主の写真撮影を行っていました。

 薩摩藩が1857年に銀板写真を撮影し、佐賀藩が1859年に湿板写真を撮影しています。

 ちょうどその頃、江戸幕府は、ヨーロッパ諸国とロシアに使節団を派遣することを決定しています。1858年に締結した修好通商条約について、ヨーロッパとは開港開市の延期交渉、ロシアとは樺太国境画定交渉をする必要があったからです(※ https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/j_uk/02.html)。

 文久元年12月22日(1862年1月21日)、幕府派遣の使節団は渡欧しました。横浜から長崎を経て、香港、シンガポールを経由し、エジプトを経て、フランス、イギリス、オランダ、プロシャ(ベルリン)、ロシアといった行程でした。

 この遣欧使節団に、佐賀藩の川崎道民(随行医師)と薩摩藩の松木弘安(後の寺島宗則、通訳兼医師)が参加していました。彼らは、医師として、通訳として、遣欧使節団の構成メンバーでした。

 興味深いことに、彼らはオランダに着くと、公務の合間に、わざわざ写真館に出かけていました。そして、名刺型の肖像写真を撮影し、日本に持ち帰っています。日本では見たこともない持ち運びの出来る写真でした。

 両者はいずれも、写真術に関わりがありました。佐賀藩の川崎道民は撮影経験があり、松木弘安は薩摩藩が行っていた写真術研究のメンバーだったのです。

 そもそも日本で最初にダゲレオタイプの写真を撮影したのが、薩摩藩の市来四郎(1829-1903)でした。彼は、松木弘安(1832-1893)や川本幸民(1810-1871)らと共に、島津斉彬の指示の下で写真術の研究をしていました。砲術など火薬に関する勉学を修め、西洋技術に明るくことが目に留まり、島津斉彬に認められていたのが、この市来四郎でした。

 また、川本幸民は、漢方医を学んだ後、西洋医学を学ぶため、江戸に留学しました。医学ばかりか、蘭学や物理、化学にも精通していました。彼は、翻訳書を出版したことで、島津斉彬に認められ、薩摩藩籍になりました。元はといえば、三田藩の侍医の息子です。医師であり、蘭学者でした(※ Wikipedia)。

 薩摩藩で造船所建設の技術指導をした後、蕃書調所の教授となり、1861年に『化学新書』を出版しています。化学書を多数執筆したので、日本化学の祖ともいわれています。

 一方、松木は長崎で蘭学や医学を学んだ後、江戸に赴いて川本幸民から蘭学を学び、蘭学塾に出講しました。その後、蕃書調所の教授手伝いとなってから帰郷し、薩摩藩主・島津斉彬の侍医となっています。その後、再び、江戸に出て蕃書調所で蘭学を教えながら、今度は、英語を独学し、横浜で貿易実務に関わったという異色の経歴の持ち主です(※ Wikipedia)。

 こうしてみてくると、日本で最初に写真撮影をした薩摩藩には、西洋の技術や知識、情報に精通したエリートが集結していたことがわかります。西洋の科学技術を積極的に導入することを目的に、藩主の島津斉彬が、各地から優秀な人材を呼び寄せていたからにほかなりません。

 写真術の導入はその一環と捉えることができます。

■2番目に湿板写真を撮影した佐賀藩

 幕末日本で2番目に写真撮影をしたのが、佐賀藩の川崎道民でした。医師として万延元年使節団の訪米に随行した川崎は、折を見つけ、写真館に通い詰めました。現地の技師から直接、指導を受けて、写真術を身につけるためでした。

 カメラや機材、書物だけでは知り得ない実際の運用方法を、川崎は、現地で写真技師に教えを請い、日参して学び、撮影できるようになったのです。前回、報告したように、彼の熱心な取り組みは現地メディアにも報じられていました。

 このようなエピソードからは、川崎が一見、個人的な興味関心から、アメリカで写真術を身につけてきたようにみえます。確かに、好奇心が旺盛で、学習意欲の高い川崎には、そのような側面もあったのでしょう。

 とはいえ、当時、一介の藩士が、個人的な動機だけで、写真術を学ぶことが許されたとも思えません。

 実は、渡米前に、挨拶に伺った川崎は、藩主の鍋島直正から、現地で情報を収集してくるように指令されていました(※ https://1860kenbei-shisetsu.org/history/register/profile-68/)。

 現地での写真術の習得はおそらく、鍋島直正が求めた技術情報収集の一環だったのでしょう。

 海外渡航の前に、情報収集の指令を受けていたのは、何も川崎道民に限りません。

 たとえば、遣米使節団には、6名の佐賀藩士が参加していました。そのうちの一人、島内平之助(1883-1890)は、佐賀藩の火術方に所属していましたが、川崎と同様、渡米前に、直正から種々の視察および情報収集の指令を受けています。

 指令通り、島内は帰国後、米国見聞記と砲術調査書を文久元年(1861)に書き上げ、藩主に報告しています。(※ 岩松要輔、「幕末佐賀藩士が見た中国」、『International Symposium on the History of Indigenous Knowledge』2012年、p.89)

■海外渡航の藩士に向けた情報収集の指令

 鍋島直正は、藩士たちの海外渡航の機会を捉えては、彼らに現地での情報収集を命じていました。貴重な海外渡航の機会を無駄にしなかったのです。実際、彼らからさまざまな現地情報を得た直正は、藩を取り巻く内外の情勢判断に役立てることができました。

 島内平之助は、帰国途中で香港に立ち寄った際の見聞録を残していました。

 船上から見た香港の地形、停泊する外国船や清国の船の様子を描く一方、英仏連合軍に攻撃された北京の状況を書き記していたのです。さらに、この時、交流していた米国人士官が、日本が努力して軍備を整えれば、英仏の強兵といえども軍艦を向けることはできないとささやいたことも書き添えていました(※ 前掲)。

 香港で見かけた光景と、伝え聞いた北京への英仏の攻撃事件から、島内はおそらく、明日は我が身と思ったことでしょう。その思いを米国人士官の言葉として書き添えていました。軍事力がなければ、いとも簡単に欧米から蹂躙されてしまうことを、島内はこの時、実感したのです。貴重な経験でした。

 島内が書き記した香港での経験は、鍋島直正の内外の情勢分析に大きな影響を与えたことでしょう。

 新聞社も通信社もなかった時代、海外渡航した藩士たちの情報こそが、直正に貴重な情報をもたらしていました。藩士たちは公務の合間に、現地を視察するだけでなく、情報収集するだけでなく、それを記録に残していたのです。情勢判断のための資料として、なによりも得難いものでした。

 一方、万延元年(1860)の遣米使節団に島内らと共にアメリカに赴いた川崎道民は、文久2年(1862)の遣欧使節団にも医師として随行しました。その川崎道民もまた、アメリカからの帰国後、視察報告として、(航米実記)を記しています。

 現在、東京国立博物館に保存されていますので、下巻の巻頭部分をご紹介しましょう。

(※ https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0091102

 名前の上に、「西肥」と書かれており、西の肥前(佐賀藩)出身であることが示されています。川崎道民は佐賀藩医松隈甫庵の四男として天保2年(1831)に生まれ、須古(現彼杵郡白石町)の侍医川崎道明の養子になっていますから、確かに、肥前の西部出身なのです。

 下巻の冒頭では、ニューヨークはアメリカ全州のうち最も繁栄した大都会だということから書き起こしています。大都市ニューヨークでの滞在期間中に、川崎道民はさまざまな出来事を見聞します。

 それらの中で、もっとも印象深かったのが、写真と新聞でした。

 いずれも広報媒体として優れた機能を持っています。客観性、再現性、拡散性があり、不特定多数に対して均一の情報を発信するには、最適の媒体でした。川崎は衝撃を受けました。アメリカで初めてその実用例を見た時の衝撃は、ヨーロッパでさらに強化されました。

 オランダでは名刺型写真を撮影し、日本では得られない写真の進化形も経験しています。持ち運びのできる写真は個人の証明写真ともいえるものでした。西洋の新しい技術が人々の生活の中に入り込み、人と人、人と社会との関係を変貌させていくことを予感していたのかもしれません。

 アメリカでもヨーロッパでも見かけた新聞にも川崎は興味を持ちました。対象を機械的に写し出すことが出来る写真には客観性があり、出来事をありのままに伝える新聞とは親和性があると考えたのでしょう。

 日本にも新聞が必要だと感じた川崎道民は、明治5年(1872)、佐賀県で初めての新聞「佐賀県新聞」を発行しています。地域での啓蒙活動に使うつもりで立ち上げましたが、残念ながら、発行部数が伸びずに資金繰りがつかず、2か月後には廃刊されました(※ 前掲URL)。

 川崎道民が発刊した新聞は、政府や県の仕事を県民に伝える記事で構成されていました。同一情報を不特定多数に拡散できる新聞の機能を使うことによって、県民に幅広く行政情報を伝えようとしたのですが、時期が早すぎたのか、結局は失敗しました。

 ちなみに、日本で最も早く開設された新聞事業は、1871年1月28日に横浜で発行された「横浜毎日新聞」です。こちらは当初、貿易に関する情報が紙面の中心でしたが、次第に民権派の新聞と目されるようになっていきました。1906年7月に「東京毎日新聞」と改名され、1940年11月30日に廃刊されています(※Wikipedia)。

 「横浜毎日新聞」は発刊後、紆余曲折を経ながらも、1940年11月末まで継続しています。ところが、「佐賀県新聞」はわずか2か月で廃刊になってしまいました。人口規模のせいでしょうか、それとも記事内容のせいでしょうか、いずれにしても、新政府誕生とともに、新聞事業が立ち上がっていたことには留意すべきでしょう。

 幕末から欧米列強が次々と、日本の近海を訪れ、開国を迫っていました。そのような動乱期に生きた川崎道民だからこそ、誰にも分け隔てなく情報を拡散できる新聞の必要性を感じていたのかもしれません。

 欧米列強の脅威は、誰よりも鍋島直正が感じていたにちがいありません。だからこそ、渡航する藩士に現地での情報収集を命じていたように思います。

■フェートン号事件の余波

 当時、海防への懸念を募らせていた鍋島直正は、積極的に、西洋技術の導入を図り、研究開発を進めていました。

 たとえば、1850年に日本初の実用反射炉を完成させています。威力の強い鉄製の洋式大砲を鋳造するためでした。この反射炉を使って、1851年には、日本で初めて鉄製大砲を鋳造しています。反射炉の操業と大砲の製造には多額の費用がかかり、時には、佐賀藩の年間歳入の4割にも上ったこともあったようです(※ Wikipedia)。

 それでも、鍋島直正は、積極的な西洋技術の導入を推進し続けました。海防の必要性を強く感じていたからでした。

 実は、鍋島藩にはフェートン号事件という苦い経験があったのです。

 文化5年(1808)、イギリス海軍のフリゲート艦フェートン号が、オランダ国旗を掲げて長崎港に入ってきました。慣例に従って、オランダ商館員2名と長崎奉行所の通詞が出迎えのため、船に乗り込もうとしました。その途端、商館員2名が拉致され、イギリス船に連行されてしまいました。偽の国旗を掲げたイギリス船に騙され、長崎港への侵入を許してしまい、オランダ商館員が拉致されたというのが、フェートン事件のあらましです。

 そのフェートン号が描かれている絵を見つけました。

(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Phaeton_(frigate).jpg

 画像が荒く、書かれている文字を読むことはできないのですが、帆船です。

 帆船時代には、戦列艦よりも小型・高速・軽武装で、戦闘のほか哨戒、護衛などの任務に使用された船をフリゲート艦と称したそうです(※ Wikipedia)。

 急遽、対応を迫られた長崎奉行所は、フェートン号に対し、オランダ商館員を解放するよう書状で要求しました。ところが、フェートン号側からは水と食料を要求する返書があっただけでした。

 攻撃したくても、できませんでした。

 実は、その年、長崎を警衛する当番は佐賀藩でした。ところが、これまで大した事件もなかったので、経費削減のため、守備兵を幕府に無断で10分の1ほどに減らしていたのです。事件の際、長崎には本来の駐在兵力はわずか100名程度だったという状態でした(※ Wikipedia)。

 仕方なく、長崎奉行所は急遽、九州諸藩に応援の出兵を求めました。彼らの到着を待っている間に、水と食料を得たイギリス船は長崎港を去ってしまいました。

 結果だけを見れば、日本側に人的、物的な被害はなく、人質にされたオランダ人も無事に解放されていますから、事件は平穏に解決したように思えます。ところが、長崎奉行の松平康英は、国威を辱めたとして切腹し、鍋島藩の家老など数人も、勝手に兵力を減らしていた責任を取って切腹しています。

 そればかりではなく、幕府は、鍋島藩が長崎警備の任を怠っていたことを咎め、11月には第9代藩主鍋島斉直(1780-1839)に100日の閉門を命じました。鍋島斉直は、直正の父で、1805年に家督を継いでいます。

 フェートン号事件が起こったのは1808年ですから、直正がまだ7歳の時です。幼心に強烈な印象が刻み込まれたことでしょう。なによりも、フェートン号事件以後、長崎警備の費用が嵩み、藩の財政を圧迫していきました。

 直正は17歳で、第10代藩主になりましたが、財政難から藩政改革に乗り出さざるを得ませんでした。磁器や茶、石炭などの産業の育成、交易に力を注ぐ一方、藩校である弘道館を拡充し、出自にかかわらず優秀な人材を登用するといった教育改革を行いました。

 もちろん、長崎警備も強化しています。

 二度と同じようなことを起こさないため、海防を強化しなければなりませんでした。ところが、財政難だった幕府からは支援が得られなかったので、独自に西洋の軍事技術を導入していきました。

 まずは、精錬方(佐賀藩の理化学研究所)を設置し、反射炉をはじめ科学技術を積極的に取り込み、実用化していきました。

 鍋島直正が軍事や資源開発、産業化に関する科学技術に大きな関心を寄せていたのは確かです。とはいえ、川崎道民に対する指令やそのエピソードからは、それだけではなかったようにも思えます。写真術が持つ記録性、正確な再現性などにも関心を抱いていたような気がするのです。

■写真術と西洋の科学技術の導入

 砲術や火薬といった武器でもなく、資源開発のための掘削に仕えるわけでもない写真術の研究が、佐賀藩の中で、どのような位置づけになっていたのかはわかりません。ただ、鍋島家が設置した博物館「徴古館」には、初期の湿板カメラが残されていますので、このカメラから、何か推察できるものがあるかもしれません。

 これは、川崎道民が1959年に、鍋島直正を撮影したカメラです。

 この湿板カメラには、相当、使い込んだ痕跡がみられるといいます。佐賀藩の科学研究施設であった精煉方(佐賀藩が1852年11月に設けた理化学研究所)で、使用されていた可能性があるとされています(https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/216303)。

 人物を撮影しただけではなく、精密機器の記録装置としても使われていたのかもしれません。

 佐賀藩では精錬方を設置し、西洋の科学技術を研究し、実用化できるようにしていました。諸研究のうち、軍備強化の一環として建造されたのが、製砲工場でした。

 陣内松齢が昭和初期に描いた作品、「多布施公儀石火矢鋳立所図」が残されています。

(絹本着色、68.6×85.1cm、昭和初期、公益財団法人鍋島報效会蔵)

 この図は、1854年に佐賀県多布施川沿いに建造された製砲工場です。ここには次のような解説が記されています。

「嘉永6年(1853)のペリー来航後、幕府は佐賀藩に鉄製砲50門を注文し、品川に台場を建設することとした。これを受けて佐賀藩では、先の築地反射炉に続き、嘉永6年7月多布施川沿いに新たに公儀石火矢鋳立所(製砲工場)を設けて鋳造にあたり、150ポンド砲2門を献上した。本図は昭和初年に描いた考証復元図で、2基(4炉)の反射炉が向かい合っている」(※ https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/218840

 ここでは当初、多布施反射炉での大砲鋳造に関する洋書の翻訳、薬剤や煙硝、雷粉などの試験を行っていました。やがて、範囲を広げるようになり、蒸気機関や電信機についても研究を行うようになっています(※ Wikipedia)。

 次いでに、蒸気機関車を見ておきましょう。

(※ 鍋島報效会蔵)

 上の写真は、蒸気機関研究のため、佐賀藩精煉方が、安政2年(1855)に製作に着手したとされる蒸気車の雛形です。2気筒の蒸気シリンダーがありますが、ボイラーは単管で蒸気の発生量は少なく、動力の不足を補うために、歯車の組み合わせによるギヤチェンジを行っていたと考えられています(※ https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/199422)。

 その2年前の嘉永6年(1853)に、精錬方の田中久重、中村奇輔、石黒寛二らが、外国の文献を頼りに製作した、軌間130 mmの蒸気機関車や、蒸気船の雛型(模型)があります(※ Wikipedia)。

(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Model_steam_locomotive_by_Tanaka_Hisashige_and_others.jpg

 この模型は、外国語の文献だけで、田中久重らが作り上げたものです。

 先ほど、ご紹介した1855年の雛形と見比べてみると、構造自体に大きな変化はないように見えます。この模型を手掛かりに、1855年の模型が製作されたことがわかります。構造体をほぼそのままに、細部を調整し、実用化段階の材料を使って作られたのが、1855年の模型だといえるでしょう。

 機関車部分、レールなどは鋼鉄で作られており、とても精緻な構造物です。

 イギリスで最初に蒸気機関車が作られたのが1804年、紆余曲折を経て、実際に営業運転できるようになったのが、1825年でした。総延長40キロの走行ができるようになったのです。1840年代には急速に鉄道が発展し、主要都市間を結ぶ鉄道網が敷かれといいます。

 そういえば、ダゲレオタイプの写真術が公開されたのが1839年です。以後、肖像写真に始まり、風景写真、報道写真、証明写真など、さまざま用途で写真が使われるようになっていきます。

 西洋の科学技術は、機械的反復性をテコに、急速に社会を変貌させていきました。

 1855年の雛形を見ると、鋼鉄を使い、精密な仕様で製作されています。蒸気機関だからこそ、とくに頑丈で高精度のものでなければならなかったのでしょう。西洋の科学技術を習得するには、そのメカニズムを把握するだけではなく、機械的な正確さが不可欠だったことがわかります。

 先ほどもいいましたが、川崎道民が使ったカメラには、何度も使用された形跡がありました。精錬方で使用されていたのではないかと考えられています。このことからは、佐賀藩の科学技術研究所では、西洋の文献以外に、写真術を使って西洋の科学技術の解明を図っていた可能性も考えられます。

 こうしてみてくると、西洋の科学技術の導入に積極的だった薩摩藩と佐賀藩が、最初に写真術を導入したのは、おそらく、写真ならではの正確な再現性、複製性が、西洋の科学技術の導入に不可欠だったからではないかと考えられます。

 さて、幕末日本でいち早く写真術を導入したのが、薩摩藩と佐賀藩でした。この両藩にはいくつか共通性が見受けられます。

 いずれも藩主が有能でした。藩を取り巻く国内情勢、海外情勢を的確に把握し、将来動向を見据えた上で、積極的な藩政改革を行っていました。幕末の動乱期に、右往左往するのではなく、確固たる信念をもって、藩を采配していたのです。

 その中心にあるものは、西洋技術の導入でした。

 西洋の科学技術を導入するために、両藩とも有為の人材を積極的に登用しました。そして、藩内の教育を向上させ、充実させる一方、江戸や長崎に遊学させたり、海外渡航の機会を与えたりしていました。

 欧米列強に立ち向かうには、まずは、西洋の科学技術を理解し、実用化し、実践できる人材の育成が肝要だったからでした(2024/2/29 香取淳子)

百武兼行⑧:幕末・維新の佐賀藩を見る

 百武は佐賀藩の藩士の子どもとして生まれ、8歳の時、後に第11代、最後の藩主となる鍋島直大の「お相手役」に選ばれました。以来、生涯にわたって、その枠の中で生きてきました。

 そこで、今回は佐賀藩とはどういう藩だったのか。彼を直大のお相手役に選んだ藩主・鍋島直正はどのような人だったのかを見ていくことにしたいと思います。

■湿板写真に収まった佐賀藩主の鍋島直正

 1859年に撮影された第10代佐賀藩主の鍋島直正の写真があります。

(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Nabeshima_Naomasa.jpg

 第10代藩主鍋島直正を撮影した肖像写真です。アメリカ製のケースに「御年四十六/安政六年己未年十一月於江戸/溜池邸/藩醫川崎道民拝寫」と書かれた紙が貼付されています。撮影日時、場所、撮影者が記録されていたのです。

 佐賀藩医の川崎道民(1831-1881)が、江戸溜池の中屋敷で、安政6年(1859)に撮影した湿板写真でした。

 湿板写真とは、1851年にイギリス人のフレデリック・スコット・アーチャー(Frederick Scott Archer , 1813-1857)が発明した写真技術です。湿っているうちに撮影し、硫酸第一鉄溶液で現像し、シアン化カリウム溶液で定着してネガティブ像を得るタイプのもので、ガラス湿板そのものがネガであり、プリントでもありました。

 最初の写真技術であるダゲレオタイプに比べ、感度が高く、露光時間が5秒から15秒と短い上に、ダゲレオタイプと遜色のない画質でした。しかも、ダゲレオタイプよりもはるかに安価だったので、短期間でダゲレオタイプやカロタイプの写真を凌駕してしまいました(※ Wikipedia)。

 アングロタイプの写真技術がイギリスで発明されたのが1851年でした。それから、わずか8年後に、はるか遠く離れた極東の江戸で、湿板写真が撮影されていたのです。

 なぜ、そのようなことが可能だったのでしょうか。

 そもそも、写真を撮影するには、撮影機材や感光紙、撮影のための備品がなければならず、撮影技術者が必要でした。写真についての知識と技術、太陽光や露光に関する知識がなければ、撮影はできませんでした。

 仮に撮影機材一式を入手できたとしても、それを操作できる人がいなければ、写真を撮影することはできなかったのです。

 それでは、なぜ、川崎道民は鎖国していた日本で住んでいながら、鍋島直正を写真撮影することができたのでしょうか。

 おそらく、川崎道民が佐賀藩の医師であり、鍋島直正が佐賀藩主だったからでしょう。

■幕府直轄地、長崎に隣接する佐賀藩

 佐賀藩は、幕府直轄地の長崎に隣接するだけではなく、福岡藩とともに、長崎を隔年で警備していました。対外情報や製品、技術の入手という点で、他藩に比べ、圧倒的に有利な立場にいたのです。

 鎖国時代の貿易相手国は、中国とオランダに限られていました。とはいえ、長崎が唯一の対外窓口だったので、外国からの技術や製品、情報は、中国やオランダを経由して、まず長崎に入って来たのです。

 平戸にあったオランダ商館が、出島に移設されたのが1641年、以来、1859年までの218年間、対外貿易は、もっぱら長崎の出島を通して行われていました。

 たとえば、長崎の御用商人、上野俊之丞は、嘉永元年(1848)にダゲレオタイプを初めて輸入しています。これを薩摩藩が入手し、初めて日本人がダゲレオタイプの写真を撮影したのが、1857年です。撮影者は薩摩藩の市来四郎で、被写体は薩摩藩主、島津斉彬でした。

 ここに、長崎に海外からの技術や情報や製品が入って来て、そこから、各地に拡散していくというものの流れを見ることができます。ものの流れは情報の流れであり、技術、知識、人の流れでもありました。

 さて、佐賀藩の川崎道民が、鍋島直正を撮影したのが、湿板写真でした。

 当時の湿板カメラが保存されており、その構成、形状等から、いくつかの事が推察されています。

 木製鏡筒のレンズや内部の釘の形状などから、残されたカメラは、初期の国産の湿板カメラだと推測されています。Ⅹ線写真によると、前に一枚、後ろに二枚のレンズが確認されており、初期の国産カメラとしては最も多いレンズで構成されていることもわかっています。

 さらに、カメラ後部は、湿板特有の硝酸銀による汚れが目立ち、かなり使用した形跡が見られることから、佐賀藩の科学研究施設であった精煉方で使用されていた可能性も考えられると推察されています。(※ https://www.nabeshima.or.jp/collection/index.php?mode=detail&heritagename=%E6%B9%BF%E6%9D%BF%E3%82%AB%E3%83%A1%E3%83%A9 )。

 ダゲレオタイプよりも後に発明された湿板写真のカメラが、鍋島家に保存されていました。かなり使い込んだ様子がうかがえること、科学研究のために使われていたこと、等々からは、藩主であった鍋島直正が、積極的に西洋の科学技術を取り入れようとしていたことが示されています。

 当時、長崎は、人、物、情報、技術のハブでした。

 そのハブに隣接しているという特性を活かし、佐賀藩は最先端技術の導入に積極的でした。その一環として写真技術が位置付けられます。

■ポンぺの来日

 コロジオン湿板法(湿板写真)が日本に導入されたのは、安政年間(1854-1860)でした。興味深いことに、ちょうどその頃、長崎に海軍伝習所が開設されました。そして、西洋医学、航海術、化学などを教えるため、オランダから教師団が入って来ていたのです。

 ペリーの来航後、幕府は海防体制を強化するため、西洋式軍艦の輸入を決定しました。それに伴い、海軍士官を養成する長崎海軍伝習所を設立しました。1855年のことでした。

 1857年にオランダから派遣された第2次教師団の中に、軍医のポンペ・ファン・メーデルフォールト(Johannes Lijdius Catharinus Pompe van Meerdervoort, 1829 – 1908)がいました。

 彼はオランダ医学を教える傍ら、日本人伝習生たちに湿板写真を教えていました(※ 高橋則英、「上野彦馬と初期写真家の撮影術」、『古写真研究』第3号、2009年、p.18.)。

 当時の写真が残されています。この写真がいつ撮影されたのかわかりませんが、海外伝習所が閉鎖されたのが1859年ですから、1857年から1859年の間に撮影されたものなのでしょう。

 ポンペは、湿板写真の研究について熱心に取り組んでいたそうです。ポンペに師事し、化学を勉強していた上野彦馬は、彼と共に写真の研究にも励んでいました。感光板に必要な純度の高いアルコールには、ポンペが分けてくれたジュネパ(ジン)を使ったそうです(※ Wikipedia)。

 長崎海軍伝習所の講義時間割りをみると、病理学、解剖学、生理学などのオランダ医学に関する教科はもちろんのこと、化学、採鉱学などの教科も教えられていました(※ Wikipedia)。

 医学以外に、化学や工学なども教科として取り上げられていたのです。

 弘道館で勉強していた川崎道民は、藩主鍋島直正に奨励され、長崎でオランダ医学を3年間、学んでいます(※ https://1860kenbei-shisetsu.org/history/credit/)。

 時期を特定できないのですが、海軍伝習所で学んでいたとすれば、湿板写真の研究を進めていたオランダ人軍医のポンぺから、川崎道民もまた、写真術の一切合切を学んでいたのではないかと思われます。

 オランダ人軍医のポンぺは、湿板写真導入のためのキーパーソンでした。

 このケースからもわかるように、長崎には、最先端の製品が海外から持ち込まれるだけではなく、最先端技術を指導するための人員もまた海外から入ってきていたのです。

 学ぼうとする意欲の高い者、好奇心の旺盛な者、最先端技術に敏感な者にとっては刺激の多い場所であり、夢が叶えられる場所でもあったのでしょう。

 それでは、川崎道民の来歴についてみてみることしましょう。

 佐賀藩医松隈甫庵の四男として生まれた川崎道民は、医師川崎道明の養子となりました。鍋島直正の勧めで、長崎でオランダ医学を学び、その後、大槻磐渓の塾で蘭方医学を学んで佐賀藩医となりました。

 幕府が派遣した万延元(1860)年の遣米使節団、そして、文久元(1862)年の遣欧使節団に、川崎道民は御雇医師として参加しました。

■ニューヨークで撮影された川崎道民の肖像写真

 万延元年にアメリカ訪問中に撮影された写真が残されています。

(※ https://www.wikiwand.com/ja/%E5%B7%9D%E5%B4%8E%E9%81%93%E6%B0%91

 当時にしては珍しく、カラー写真です。

 初期のカラー実験では、像を定着させることができず、退色しやすく、使いものになりませんでした。

 ようやく完成した高耐光性のカラー写真は、1861年に物理学者のジェームズ・クラーク・マクスウェル(James Clerk Maxwell, 1831 – 1879)によって撮影されたものでした。3原色のフィルターを1枚ずつかけて3回撮影し、スクリーン上で合成することによって、撮影時の色を再現することに成功したのです(※ Wikipedia)。

 川崎道民のカラー写真は1860年に撮影されています。カラー写真が発明されたのが1861年ですから、それ以前に、この写真は撮影されていたことになります。

 一体、どういうことなのでしょうか。

 再び、道民のカラー写真を見てみると、色合いがやや不自然です。色の粒子が荒いので、絵画のように見えます。一見して、色彩が用紙に緊密に定着していないことがわかります。

 ひょっとしたら、白黒写真に彩色したものなのかもしれません。実は、白黒写真に彩色することで、カラー写真のように見せることもできました。

 1875年頃に撮影された写真があります。白黒写真を後に彩色したものです。

(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Carandini.jpg

 よく見ると、やはり、色合いが不自然です。色の粒子はそれほど荒くないですが、自然のままの状態を再現したようには見えません。

 こうしてみると、川崎道民のカラー写真もおそらく、白黒写真に彩色をしたものなのでしょう。写真そのものが珍しかった時代に、わざわざカラーの肖像写真を撮っていたところに、川崎道民のチャレンジ精神と進取の気性が感じられます。

 さらに、川崎道民は医師として使節団に参加していたはずなのに、公務の合間に、写真館に入り浸っていたようです。

■ブレッディ写真館で写真術を学ぶ

 ニューヨーク・ヘラルド新聞は、一行がニューヨークに到着してからというもの、出来事を細かに報道しています。そのうち、6月19日号(The New York herald, June 19,1860)に、川崎道民に関する記事が3本、掲載されていました。

 一つ目は、彼が大型書店で、英語の辞書や英文法の本を買ったことを報じたものです。現地で自由に行動したくて、英語の勉強をしていたのでしょうか。それでも、専門的な内容になると、通訳が必要になったようです。

 二つ目は、通訳付きで、ブレッディ(Brady)写真館に出かけ、写真撮影技法のレッスンを受けていたことが報じられています。

 三つ目は、その後、連日のように写真館に出向き、熱心に学んでいることが報道されています。

 ヘラルド紙の記者にしてみれば、川崎道民が通訳を連れて、訪れていた先が写真館だったというのが興味深く、記事にできると思ったのでしょう。医者だということはわかっていただけに、なぜ、写真に夢中になっているのかわからなかったのかもしれません。

 記者は、川崎道民が写真館のブレッディから複数の写真機器をもらうことになるだろうと書き、呑み込みが早いので、帰国するまでにはエキスパートになるだろうとまで記しています(※ 三好彰、「アメリカ人が見た川崎道民」、『佐賀大学地域学歴史文化研究センター研究紀要』第13号、2018年、pp.102-103.)

 6月21日号のヘラルド新聞にも川崎道民は取り上げられていました。

 この日もあの医師がブレッディ写真館で講習を受けていたと記し、傍らでその様子をみていた通訳と会話を交わしながら、写真の撮り方を学んでいたという内容でした(※ 前掲。P.103.)。

 地元記者から呆れられるほど、写真に夢中になっていた川崎道民は、幕府から派遣された3人の医師のうちの1人でした。他の医師とは違って、通訳を伴って現地の書店に出かけて本を買ったり、写真館で撮影技法を学んだり、骨相学の店や新聞社、さらにはキリスト教の教会にも出かけていました。好奇心が旺盛で、知識欲に溢れていたのでしょう、積極的に現地を探訪し、情報収集していたことがわかります。

■随行医師として

 使節団に参加していた医師は、御典医の宮崎立元正義(34歳)、御番外科医師の村山伯元淳(32歳)、そして、御雇医師の川崎道民(30歳)でした。宮崎と村山は上位の使節メンバーを診る医師で、川崎はそれ以外のメンバーを担当する医師として派遣されていたようです(※ Wikipedia)。

 3人は日本の医師団として、現地記者から注目されていたようです。

 ワシントンに到着したばかりの彼らについて、5月14日付けのイブニング・スター新聞(Evening star (Washington DC. May 14, 1860)は、速報を流しています。医師について書かれた部分を抜き書きすると、次のように書かれていました。

 「3人の医師は物静かだが、他の随員に比べて知的ではなく、探求心に欠ける。(中略)医学者と交流すれば、帰国後大いに役立つはずだが、見る限りでは期待できない」(※ 三好彰、前掲。p.96.)

 後になって判明したのですが、当初、記者が日本の医師たちを知的ではないと思ったのは、「坊主頭」だったからです。

 ところが、3人の日本人医師が、アメリカの医師団との会合で、専門的なやり取りをする様子を見聞きした結果、記者たちは最初の印象を多少、改めたようでした。

 とはいえ、オランダ医学しか学んでいない日本の医師たちを見て、現地の医師は頼りないと思ったようです。医学専門誌に次のような記事が掲載されていました。

 「日本の医者はいかがわしい。使節団を日本に送り届けるナイアガラ号にはアメリカの外科医が3人乗っているので安心だ」と書かれたりしています。(※ American Medical Gazette, August 1860, p.616.)

 現地報道を見ていると、アメリカ側は、川崎道民ら3人の日本の医師と、アメリカの医師たちが対話できる場を何度か設けていたことがわかります。科学的知識を持つ専門家同士なら、スムーズに医療情報を交換しあえると考えたのでしょう。ところが、アメリカの医師たちの質問に受け答えできていたのはもっぱら川崎道民だったといいます。

 6月2日付のサンベリー・アメリカ新聞(Sunbury American, June 02.1860)は、3人の医師の対応について、次のように記しています。

 「ホルストン教授がアメリカ医学のことを話した時に、第三の医師(川崎道民)がノートを取った。(中略)これまでアメリカは日本の医学を誤解していた。アメリカも日本も科学が進歩しているので、その内にどんな病気も直せるようになるだろう」(※ 前掲。p.98.)

 どうやら川崎道民は、メモを取りながら、聞いていたようです。多少は英語を聞き取れたからなのか、それとも、正確を期すためなのか、わかりませんが、このような態度が現地記者には好感を持たれたような気がします。

 長崎でオランダ医学を学び、西洋医学を把握していると自負していたからこそ、彼は、臆することなく、アメリカで専門家同士の対話に応じることができていたのかもしれません。

 海外に出てもしっかりと自己表現することができ、現地から様々なことを学ぼうとする姿勢が評価されたのでしょうか、幕府は再び、川崎道民を、随行医師として欧州に派遣することを選びました。

 今度は、文久元(1862)年の遣欧使節の随行医師として、川崎道民は参加することになりました。

 出発前に鍋島直正に拝謁した際、彼は、直正から情報収集の特命を帯びたといいます。(※ https://1860kenbei-shisetsu.org/history/register/profile-68/

 直正が、川崎道民の語学力、コミュニケーション能力、機敏性、判断力、探求心などを信じていたからにほかなりません。彼なら、訪れた先々で、さまざまな情報を収集してくるに違いないと踏んでいたのでしょう。

 この一件からは、鍋島直正が、激動の時代に何をすべきかを考え、そのための検討材料として、欧米の社会情報、技術情報を把握しようとしていたことがわかります。

 さて、鍋島直正を撮影したこの写真は、日本人が撮影した写真としては2番目に古く、現在、(財)鍋島報效会 徴古館に所蔵されています。

 最も古いのは、島津斉彬を写したダゲレオタイプ(銀板写真)の写真です。

■銀板写真(ダゲレオタイプ)で撮影された島津斉彬

 島津斉彬の肖像写真は、安政4年(1857)9月17日に鹿児島城内で、薩摩藩士の市来四郎によって撮影されました。

(※ https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/213559

 画質が荒く、像が鮮明ではありませんが、日本人がはじめて撮影に成功した写真として、貴重なものです。

 銀板写真(ダゲレオタイプ)は、フランス人ダゲール(Louis Jacques Mandé Daguerre, 1787 – 1851)が、1839年8月19日にフランス学士院で発表した世界初の写真撮影法です。湿板写真技法が確立するまでの間、1850年代に最も普及していた技法でした。

 銀メッキを施した銅板に、沃素または臭素を蒸着させて感光材とし、写真機に装着して、撮影します。その後、水銀蒸気にさらすと感光した部分が黒く変化し、陽画が現れるので、洗浄して感光材を除去し、画像を定着させるという技法です。

 露光時間が長く、画像が左右反転像になること、複製ができず、1回の撮影で得られる画像は1枚に限られていることなどの欠点があります(※ https://www.bunka.go.jp/kindai/bijutsu/trends_01/index.html)。

 興味深いのは、市来四郎が『斉彬公御言行録』の中で、撮影した日の様子について、「十七日、天気晴朗、午前ヨリ御休息所御庭ニオイテ(此日ハ御上下御着服ナリ)三枚奉写」と回想していたことです(※ https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/213559)。

 市来は、「天気晴朗」と書き出し、午前から撮影を始めたと記しているのです。天気が良かったので、この日、午前中に撮影を開始したのでしょう。

 ダゲレオタイプでは、露光に時間がかかるので、早くから撮影を始めたのだと思います。ダゲレオタイプは感度が低く、レンズの開放値も低かったので、露光時間が日中屋外でも10-20分もかかっていました。

 ところが、アメリカでは、ダゲレオタイプで撮影した家族の肖像写真が数多く残されています。後に写真湿板が発明され、ヨーロッパでは、ダゲレオタイプが駆逐されてしまった後でも、アメリカでは、しばらくダゲレオタイプによる肖像写真が好まれていたのです(※ Wikipedia)。

 実は、ヨーロッパでも肖像画を好む人は、ダゲレオタイプの肖像写真を好む傾向がありました。ダゲレオタイプの写真は、機械的な再現性が徹底されておらず、緻密さが欠けるだけに、絵画に近い感触を味わうことができるからでした。

 さて、写真術に関する情報は、ヨーロッパで発明されてから10年ほどで日本に伝わっていました。少数ながら撮影機材も長崎経由で輸入されており、佐賀藩や薩摩藩などの大名や蘭学者たちが研究を行っていました。

■写真研究の先駆者たちに見る佐賀、薩摩の先進性

 薩摩藩の島津斉彬は、西洋の科学技術研究の一環として、嘉永2年(1849)ころから写真術の研究を進めていました。市来四郎(1829-1903)、松木弘安(後の寺島宗則、1832-1893)、川本幸民(1810-1891)らが研究にあたっていたといいます。斉彬も自ら実験に手を染めていたそうですが、成功しませんでした。

 松木、川本はいずれも長崎や江戸で医学や蘭学を学んでおり、オランダ語の文献を読むことはできました。さらに、薩摩藩は長崎経由で写真機や薬品など入手することもできました。ところが、独学に近い状態では、西洋の技術を日本人の手で移入することは難しかったのです。

 中断していた写真術の研究は、斉彬の藩主としての地位が確立してから、あらためて、再開されました。ようやく写真として成功したのが、1857年に撮影されたダゲレオタイプの肖像写真でした(※ https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/213559)。

 一連の経緯を知ると、西洋の最新技術は、現地で直接、指導を受けなければ、容易に獲得できるものではなかったことがわかります。

 さて、現地の写真館に通い詰めて写真技術を身につけた川崎道民は、その後、遣欧使節団の随行医師として渡航しています。偶然なのでしょうが、その使節団の一員に、写真術を研究していた薩摩藩の松木弘安(寺島宗則)が通訳兼医師として参加していました。

 川崎道民が31歳、松木弘安(寺島宗則)が35歳でした。いずれも医学を学び、蘭学を学んでいました。そして、写真という興味の対象も共有していました。

 川崎と松木は、視察のためオランダを訪問した際、写真館に立ち寄って、9.7×6.4㎝の名刺型肖像写真を撮影していました。彼ら以外に、森山栄之助の肖像写真も残されていました。やはり、9.7×6.4㎝の名刺型肖像写真です(※『肖像―紙形と古写真―』、東京大学資料編纂所、2007年6月)。

 森山栄之助(1820-1871)は、蘭語、英語の通訳として後日、遣欧使節団に加わった人物です。オランダで撮影された名刺型肖像写真は、この3人以外のものは残されていませんでした。おそらく、彼らはオランダで別行動をして、写真館を訪れ、名刺型の肖像写真を撮影してもらったのでしょう。写真へのこだわりと技術の進化に対する関心が見受けられます。

 江戸幕府が派遣した文久の遣欧使節は、川崎道民と松木弘安との出会いを生みました。

 彼らがオランダで撮った写真は名刺型のものでした。写真の進化形といっていいでしょう。写真術の新しい利用方法が示されたといえます。

 写真は複製することができ、さまざまな大きさのものにアウトプットすることができ、さらには、記録装置として抜群の機能を発揮することもできます。近代科学をさらに発展させる要素を彼らは写真の中に見ていたのでしょうか。

 藩主が主導して、早くから写真術に関心を持ち、研究を進めてきた薩摩藩や佐賀藩の有志は、写真術が科学の発展に重要な影響を与えると予感していたに違いありません。

 百武が生きた佐賀藩には、進取の気性に富み、チャレンジ精神、好奇心の旺盛なことを奨励する雰囲気があったのではないかという気がしています。(2024/1/31 香取淳子)

百武兼行⑦:有田皿山代官の子として成長した百武兼行

 百武兼行がなぜ、西洋画をきわめることができたのか、今回は、生い立ち、生育環境を振り返ることによって、その謎に迫ってみたいと思います。

■皿山代官の子として成長

 百武兼行は天保13年(1842)6月7日、佐賀藩士百武兼貞と母ミカとの次男として、佐賀市片田江で生まれました。現在、片田江七小路の辺り一帯は、江戸時代、佐賀城下の武家屋敷の地として中級武士が居住していたそうです(※ 「佐賀市歴史探訪39」)。

 兄が早世したため、兼行は次男でしたが長男として、養育されています。幼名を安太郎といい、やがて、兼行を名乗るようになりました。これは、父兼貞跡を襲族することを許可する書状で確認することができます。明治7年(1874)10月31日付の佐賀県から送付された書状です(※ 三輪英夫編『近代の美術 53 百武兼行』、至文堂、1979年、p.18.)。

 三輪英夫は、このような兼行の生い立ちを記した上で、「青年期の安太郎の環境を知る上で、父兼貞の動向も看過できない」と述べています。おそらく、兼行に大きな影響を与えていたと思っていたのでしょう。

 兼貞は長崎で務めたことがあり、鍋島藩京都留守居に抜擢されたこともありました。外交的で才気ある人物だったようです。

 慶応3年(1867)には、有田皿山代官に任命されています。有田皿山代官といえば、佐賀藩の経済を支える機関のトップです。その要職に兼貞は46歳の時に就任しているのです。兼貞は、有能で、機敏に判断することができ、社会の激変期にはなくてはならない存在だと思われていたのでしょう。

 さて、有田皿山代官とは聞きなれない言葉です。『人々が創った有田の歴史』によると、次のように説明されています。

 皿山というのは、焼物をつくる所という意味で、白川にあった皿山代官所では佐賀本藩から赴任した侍が租税の徴収や陶磁器生産関係の他に犯罪人の取締りや逮捕などの仕事を行った。初代皿山代官の山本神右衛門から最後の百武兼貞までの224年間に現在確認できているのは42人の代官である(※ http://www.marugotoarita.jp/kanko/aritahego/history1.html)。

 この説明に照らし合わせると、百武の父、兼貞は最後の皿山代官であり、有田の陶磁器生産から上がる租税の徴収や生産の管理、犯罪人の取り締まりなどを行っていたことがわかります。

 陶磁器生産は佐賀藩を支える経済基盤の一つでした。ところが、兼貞が就任した頃は、世界的な激動の余波を受けて、生産体制に大きな変革が迫られている時期でした。

 当時、アヘン戦争の影響で、中国国内は混乱していました。景徳鎮での生産量が減り、中国からのヨーロッパ向け輸出は激減していました。その結果、東インド会社は日本との貿易にシフトし始めていたのです。

 東インド会社は長年、アジアからヨーロッパに向けての輸出製品として、絹織物、茶、胡椒、綿花、陶磁器などを扱っていました。ところが、中国の政治的混乱を機に、ヨーロッパ向け輸出陶磁器として、有田焼が着目されるようになっていたのです。

 元々、華やかな絵付けが特徴の有田焼は、ヨーロッパの王侯貴族に好まれ、宮廷の装飾としても使われていました。さらに、19世紀後半になると、産業革命を経て勃興していたブルジョア階級の間で、アフタヌーン・ティーを楽しむ生活文化が広がっていました。室内装飾のための調度品であれ、華やかな絵柄のティーセットであれ、高品質の有田焼への需要が高まっていたのです。

■ヨーロッパの王侯貴族に好まれた有田焼

 果たして有田焼がどのようなものなのか、一例として、香蘭社が制作したティーセットをご紹介しましょう。

こちら → https://japanesecrafts.com/blogs/news/arita

 上記HPの記事の中のティーセットをご覧ください。

 まず、カップの外側とソーサーが濃い藍色、カップの内側に描かれた花は淡い藍色、カップの取っ手と縁、そして、ソーサーの縁は金色で色構成されているのが印象的です。藍色を基調に、金色をアクセントにした外側に対峙するように、内側には白地に淡い藍色の花を浮かび上がらせているのです。色数を抑え、高貴さを醸し出しているところに、センスの良さが感じられます。

 さらに、カップ上部の縁のデザイン、取っ手のデザイン、カップ底部の杯のようなデザインが優雅で目を引きます。色彩といい、デザインといい、洗練された優美さが感じられます。

 これが、「香蘭社スタイル」といわれる色とデザインなのだそうです。香蘭社は、今からおよそ300年前に、初代深川栄左衛門が有田で磁器製造を始めた事業を継承し、現在に至っています。

 これはほんの一例ですが、有田焼は、このような華やかな絵付けが特徴です。そのせいか、実用品としてよりも美術品としての価値が高く、現在でも古いものが、世界中の博物館や宮殿などに数多く残されているそうです(※ https://japanesecrafts.com/blogs/news/arita)。

■有田焼の由来

 有田の陶磁器生産は、17世紀初に始まりました。鍋島直茂(1538-1618)が朝鮮出兵に参加し、連れ帰った朝鮮人陶工の李参平が、有田町泉山に磁石を発見したからでした。こうして磁器生産ができるようになったのです。

 金ヶ江家に代々伝わる『金ヶ江家文書』によると、李参平は、慶長の役の際に鍋島直茂の軍勢の道案内をしたと記録されています。そして、日本軍撤退の際、敵の手助けをしたことで、李参平らが土地の者たちから報復を受けるのではないかと心配した直茂が、李参平とその一族を日本に連れてきたと伝えられています(※ 木本真澄、「有田焼400年の歴史」)。

 有田焼の祖、李参平はこうして朝鮮半島から有田にやってきました。優れた陶工であり、彼らのリーダーとして、有田の泉山を発見し、磁器の生産に成功したのです。その結果、鍋島藩主から金ヶ江三兵衛という日本名を授かったといいます(※ 前掲。)

 それまで有田は人もいないような地域でしたが、磁器の生産が始まると入植者が増え、「有田千軒」といわれるほどの賑わいを見せるようになりました。当時貴重品だった磁器は高値で売れたため、有田の窯元や有田焼を扱う商人たちは大いに潤いました。そして、「運上金」と呼ばれる税金によって佐賀藩の財政も豊かになりました(※ 前掲。)。

 磁器生産を開始するようになって、有田地域は人が増え、活性化し、鍋島藩は窯業でその収益で財源が豊かになりました。李参平は鍋島藩に大きな経済的貢献をしていたのです。

 さて、鍋島藩が手掛けた有田焼は、もっぱら将軍家への献上品や、大名などへの贈答品として生産されました。約200年間というもの、藩直営の御用窯で生産され続けてきたのが鍋島焼です。

 鍋島焼は販売を目的にしておらず、採算を度外視した生産を行っていました。藩内の名工を抜擢し、制作されてきただけあって、大名の道具として重厚な風格をもつ様式美を確立したといわれています(※ 大木裕子、「有田の陶磁器産業クラスター」、『京都マネジメント・レビュー』、第21号、2012年、p5.)。

■柿右衛門式

 初代柿右衛門は中国の赤絵の調合法を伝え聞いて、試行錯誤を重ね、1640年には赤絵付を成功させました。さらに、1670年頃には、濁し手と呼ばれる乳白色の素地の上に、余白を残して繊細な絵画的構図を表現する色絵磁器の技術を完成させて、柿右衛門式と呼ばれるようになりました(※ 前掲。p.4.)

 一例として、柿右衛門式の花器をご紹介しましょう。17世紀後半に制作された作品です。

(※ http://www.toguri-museum.or.jp/gakugei/back/1109.php

 まず、目につくのが、上部に描かれた大きな2輪の菊の花です。花はそれぞれ、朱色と黄色を反転させて描かれており、そのハーモニーが見事です。花の周辺には、緑と藍色で葉や茎が描かれ、所々に、開きかかった菊の蕾が配されています。白地に適宜、余白を残しながら、モチーフを引き立てるように描かれています。モチーフの配置といい、色構成といい、弾力性のある構成が印象的です。高さは25.6㎝あります。

 柿右衛門式は、このように透明感のある白地に、赤や緑、黄色などの顔料を使った美しい絵付けが特徴だといわれますが、上の作品はまさにその典型といえるでしょう。

 この白地は、「濁手」とも「乳白手」とも呼ばれるものですが、透き通るような輝きがあり、描かれた文様を引き立てる役割を果たしていることがわかります。そして、白地に施す絵付けに使われるのが、「染付顔料」と「色絵顔料」です。

■染付顔料と色絵顔料

 この2種類の顔料について、『学芸の小部屋』(2011年9月号)では、「染付の青と色絵の青」というタイトルの下、説明されています。

 まず、染付について、ご紹介しましょう。

 「染付とは、素焼きをした段階の素地に、呉須(ごす)と呼ばれる青色顔料で絵付けをし、その上に透明な釉薬を施した後に本焼き焼成する技法です。断面を見ると、下図のようになります。文様は釉薬によってコーティングされていますので、うつわの表面はなめらかで、ゴシゴシと擦っても文様が剥がれ落ちることはありません」(※ 『学芸の小部屋』、2011年9月号))

(染付の断面図)

 素地の上に呉須顔料が置かれ、その上に、釉薬が顔料をすっぽり覆うように施されているのがわかります。これでは、呉須で描かれた文様が剥落することはないでしょう。

 次に、色絵について、ご紹介しましょう。

 「色絵とは、白磁や染付など、釉薬をかけて本焼き焼成し終わった器の上に、低い温度で熔けるガラス質の顔料を使って絵付けをし、もう一度焼成し、文様を焼き付ける技法です。断面は下図のようになります。顔料はガラスの表面に付着した水滴のように、表面張力によってやや丸みを帯びた塊になります。そのため、うつわの表面を指でなぞると、僅かにでこぼこしていることが分かります。また、文様はうつわの一番外側にあって、コーティングされていない状態です。赤や金色は摩擦に弱く、長年使っていると文様が落ちてしまい、その他の色は物理的衝撃に弱く、ひびが入って剥落してしまいます。」(※ 前掲。)

(色絵の断面図)

 こちらは、染付とは違って、釉薬は素地の上に施されています。したがって、色絵は剥き出しの状態になっていることがわかります。しかも、染付の場合と違って、表面がぽっこりと浮き上がっているので、ちょっとした摩擦で剥がれやすくもなるのでしょう。

 さらに、染付と色絵の違いについて、次のように説明されていました。

 「染付は、上にかかる釉薬の層にある程度厚みをもたせることで青色が美しく発色します。したがって、釉薬を薄くかけなければならない濁手に染付は用いられません。濁手の作品に用いられている青色はすべて、染付ではなく色絵の青なのです」(※ 前掲。)

 先ほど、ご紹介した柿右衛門式の花器は、「染付と色絵を併用した」作品なのだそうです。

 この花器の頸部、底部の藍色は染付であり、胴部に描かれた文様やその両脇の花唐草はすべて色絵だと説明されているのです(※ 前掲。)

 染付と色絵の特色を踏まえた上で、それらを併用することによって、最大限の美しさを引き出し、しかも、剥落しにくい作品に仕上げているのです。ここに、磁器表現の極みを目指し、試行錯誤を重ねてきた陶工たちの研鑽を垣間見ることができます。

■皿山代官所

 17世紀後半、有田皿山には150軒前後の窯元が設立されていました。製品は商人によって、関西方面、江戸や関東方面にも売られるようになっていたといいます。窯業が活性化し、有田の名が広がっていたのです。

 それに伴い、陶工たちは工夫を重ね、他には見られない質の高い磁器を生産するようになっていました。技術の集積によって、磁器表現の可塑性が追求され続けていました。その活動を保護するかのように、生産現場を管理する皿山代官所が設置されました。大木裕子氏によると、寛文年間(1661~1672年)には設置されていたようです。

 皿山代官所の設置は、技術の流出を防ぐ一方、高品質な色絵磁器を生産するため、生産量をコントロールするためでした。いってみれば、製造技術の漏洩を防ぎ、品質管理をし、将来に備えた製品改良のための機関でした。

 さらに、赤絵屋と呼ばれる赤絵師を一か所に集め、営業を認める名代札を授けていました。

 赤絵屋とは、赤絵屋とは、有田で上絵付けを専門とする業者のことを指します。有田では、色絵を焼き付ける窯を赤絵窯と呼びます。

 赤絵作品の一例をご紹介しましょう。

(※ 香蘭社)

  香蘭社が制作した飯椀です。大きく山茶花の絵が描かれており、日常食器に取り入れられた典型的な図案です。赤絵の特徴は、にじみにくい赤の色絵の具の特性を活かして、器全体に「細描」と呼ばれる細かい描き込みを施したスタイルだといわれていますが、この飯椀にも、赤地に細かな描き込みがされています。

 さて、赤絵屋には、営業許可証が必要なだけではなく、相続制になっていました。特に赤絵の調合は嫡子相伝で、情報管理され、製造秘密が守られていました。製造情報、製品情報が漏れることを回避するためでした。

 赤絵は、鉄分を含んだ絵具を使い、釉薬の上に焼成して赤や茶色の模様を表現する技法です。赤を主に、緑、黄、紫、藍、黒などの色絵具を用いて上絵付けをしたものを指します。ですから、調合の秘法は秘匿しなければならず、それだけ厳密に情報管理をしていたものと思われます。

 ちなみに、赤絵付けを専業とする界隈は一か所に集中させられていたので、「赤絵町」を呼ばれていたようです。

 1867年に皿山代官に任命された百武兼貞は、藩を支える経済基盤を統括する要職に就いたことになります。彼が就任した頃、日本はまさに列強から開国を迫られ、欧米に対抗するためにも西洋の技術を習得する必要に迫られていました。

■ワグネルを有田に招聘

 皿山代官に就任した百武兼貞は、良質の磁器を大量生産するため、製法の改良を模索していました。というのも、アヘン戦争後の中国の磁器減産に伴い、ヨーロッパへの輸出需要が高まっていたからでした。国内技術だけでは抜本的な改良に対応できなくなっていました。

 そんな折、ドイツ人技師であり、化学者であったゴットフリード・ワグネル(Gottfried Wagener, 1831 – 1892)が長崎にやって来たのです。兼貞が目をつけたのは当然のことでした。ワグネルこそ、彼が待ち望んでいた人物でした。

 ワグネルは、アメリカ企業のラッセル商会が、石鹸工場を設立するため、社長直々に、長崎に招聘した技師でした。技術開発の要請を受けた彼は、1868年5月15日に長崎に到着しましたが、求められた製品開発がうまくいかず、結局、工場を軌道に乗せることはできませんでした(Wikipedia)。

 ちょうどその頃、有田では、パリ万博(1867年)からの帰国者が、陶器用の絵具を持ち帰っていました。ところが、誰もその使用法がわからず、苦慮していました。

 皿山代官の百武兼貞は、この絵具の使い方がわかる技術者を探していました。ワグネルが長崎にやってきたことを知った兼貞は、これ幸いとばかりに、彼を有田に招聘しました。

 こうしてワグネルは有田で、酸化コバルト絵具の使用法や、石塊で焼成する陶器窯の築造法などを指導し、新しい製造技術を伝えることになったのです(※ 『東京工業大学百年史 通史』、1985年、p.64.)。

 有田に招かれたワグネルは、7人の職人を相手に、コバルト青、クローム鉄、全臙脂(えんじ色)など陶器用の絵具の使用法を教えました。兼貞にとってはこれで一つ、問題が解決しました。パリ万博からの帰国者が持ち帰った絵具の使い方がわかったのです。

■呉須顔料の製造

 さらに、ワグネルは、呉須顔料など高価な輸入品を使わずに、同質のものを製造できることを教えました。コバルトに硬度の白土を混和して焼けば、安価で便利に仕上がることを陶工たちに説き、石炭窯を築いて試作したのです(※ 杉谷昭、「人物を中心とした 文化郷土史―佐賀県―」、p.89.)。

 呉須顔料とは陶磁器に用いる顔料の一種で、焼成によって釉と溶け、青い色を出すものです。マンガン・鉄などの不純物をふくむ酸化コバルトを主体とする顔料で、天然の鉱物です。

 江戸時代に中国から日本へ伝わってきており、呉須で下絵を書き釉をかけた磁器を、日本では染付、中国では青花と呼びます。有田焼の染付が有名で、様々な青色を出せるため人気があります(※ https://enogu-fukaumi.co.jp/chishiki-gosu)。

 たとえば、呉須顔料を使って制作された花器があります。

(※ 大倉陶園HP)

 これは現代、制作されたものですが、白地にコバルトブルーで描かれた唐草模様が美しく、惹き込まれます。

 日本の伝統技法「呉須染付」を用いて制作されています。吸水性のある素焼きの磁器素地に、水でといた呉須顔料で下絵を描き、その上に釉薬をかけ、本焼窯で焼成します。釉薬と呉須とが融合し、渋みのある冴えた色になります。高さは36㎝です。

(※ https://okuratouen.com/SHOP/12A-7241.html

 呉須唐草とは、呉須という顔料で描かれた唐草文様を指します。コバルトを主成分としている呉須顔料は、他の絵の具とは違って、素焼きの状態で着色するため、色あせることはないといわれています。

 描かれた唐草文様は、つる草が四方八方に伸びて絡み合っており、生命力を象徴する文様です。子孫繁栄や長寿を意味するため、仏教美術、彫刻、染色、織物、蒔絵など、工芸美術でも人々に愛されてきました。

■ワグネルが有田に残したもの

 ワグネルのおかげで、安価で発色の良い合成呉須が有田で使用されはじめました。

 天然の高価な呉須顔料ではなく、合成の呉須顔料の製造法を教えてもらったおかげで、有田の窯業は安価で良質の陶磁器を生産できるようになりました。ワグネルは、兼貞が模索していた製造法の改良まで成し遂げてくれていたのです。

 こうしてワグネルは、ヨーロッパで使用されている陶器用絵具の使い方を教えてくれたばかりか、安価に製造できる方法まで伝授してくれました。兼貞が期待していた以上の貢献をしてくれたといえるでしょう。

 さて、ワグネルが有田で窯業の技術指導に当たっていたのは、1870年4月から8月にかけてでした。そんなに短くて事足りたのかと思えるほどですが、ワグネルはわずかな期間で、求められた絵具の使用法をはじめ、製法の改良につながる技術や知識まで陶工に伝授しました。

 それほど有能なワグネルを、明治政府がそのまま長崎に滞在させておくはずがありませんでした。西洋の科学技術の指導者として、明治政府はワグネルの上京を求めました。

 明治3年(1870)10月にワグネルは上京し、まず大学南校へ、そして、翌年には大学東校のお雇い教師となっています。列強の技術水準に追いつくために、明治政府は西洋の技術者の獲得に必死でした。

 実は、このわずかな滞在期間に、百武兼行は、ワグネルから西洋絵具の使い方を教えてもらっていました。

 ひょっとしたら、この経験が彼の中で深く沈潜し、やがて、西洋画の習得に励む意欲につながったのかもしれません。百武は、ワグネルに出会ってはじめて、西洋絵具ならではの表現世界に触れ、これまでとは異なった発色、造形、あるいは、モチーフ、デザインなどに心惹かれた可能性があります。

 興味深いことに、百武兼行の父、兼貞が皿山代官であったように、画家久米桂一郎(1866 – 1934)の祖父の久米邦郷も皿山代官でした。鍋島藩出身の洋画家の父と祖父がともに、皿山代官だったのです。絵付けなどを日常生活の中で見て育ったことがなにかしら関係しているのでしょうか。(2023/12/31 香取淳子)

百武兼行 ⑥:1876年に制作された作品について考える。

■1876年に制作された作品

 百武は鍋島胤子とともに、1875年初からリチャードソン・ジュニアに師事し、油彩画を学び始めました。思わぬ機会に恵まれ、勢い込んで制作に励んだのでしょう。最初の頃の作品がいくつか残されています。制作年のはっきりしている作品のうち、最初期のものは、《松のある風景》、《城のある風景》、《橋のある風景》、《田子の浦図》でした。

 いずれも1876年に制作されており、未熟さを残しながらも、味わいのある作品になっていました。学び始めて1年余ですでに、作品と呼べるような絵を描いていたことがわかります。

 そこで、今回は、1876年に制作されたこの四作品のうち、これまでに取り上げたことがある《松のある風景》を除き、《城のある風景》、《橋のある風景》、《田子の浦図》の三作品について、考えてみたいと思います。

 果たして、これらの三作品はどのようなものだったのか、まずは作品内容から見ていくことにしましょう。

●《城のある風景》

 《城のある風景》というのがこの作品のタイトルですが、日本の城とは形状が異なっているせいか、どれが城なのかすぐにはわかりませんでした。ただ、中央に頑丈な建物が見えます。塔のような形状で、どっしりとした存在感があります。おそらく、城の一部なのでしょう。

(油彩、カンヴァス、40.6×56.1㎝、1876年、所蔵先不明)

 よく見ると、この建物の上に小さな櫓が建てられています。ということは、これは、監視機能、防衛機能を持つ建物だということになります。きっと西洋の城につきものの、小堡(バービカン、barbican)なのでしょう。バービカンとは聞きなれない言葉ですが、城の出入り口辺りに設けられた塔を指し、敵からの襲撃に備える防御施設としての役割を果たしています。

 そのバービカンの背後に大きな建物が見えますが、これが住居棟なのでしょう。その上に奇妙な不定形のものが、空に向かって伸びるように描かれています。無彩色なので曇り空に紛れ、つい見逃してしまいそうですが、形状からは、どうやら旗のようです。

 なぜ、城に旗が掲げられるのか不思議に思いましたが、イギリスでは、旗は城主がいるかいないかを知らせる合図として使われていたようです。たとえば、イギリス王室が所有するウィンザー城では、女王が城にいるときは王室旗が、不在のときは英国国旗が掲げられていたといわれています。

 改めて、住居棟の上の旗らしいものを見ると、無彩色で、シンボルマークもなく、ただの布にしか見えません。しかも、この布は力なく垂れ下がり、どんよりと白っぽく描かれた曇り空に溶け込んでいます。

 そういえば、バービカンの壁に白い粉のようなものが散っているのが見えます。その左側にはこんもりとした大きな白い塊が描かれ、周囲の木々の葉先も白く描かれています。どうやら少し前まで、雪が降っていたようです。

 前景に目を移すと、犬が川べりを歩き、その傍らで二人の男がなにやら作業をしています。男たちの傍らに魚が二尾、地面に置かれていますから、彼らはどうやら、白い袋に魚を入れているようです。

 一方、対岸の小舟には男が背を向けて立ち、犬が寄り添っています。その先の建物にも人が描かれていますが、小さすぎて何をしているのかよくわかりません。おそらく、これが城のある町の日常なのでしょう。のどかな暮らしの一端がうかがえます。

 画面全体を見ると、褐色とグレーをベースに、黒に近い緑が適宜、配され、アクセントとされています。色数少なく画面構成されているせいか、落ち着いた印象を受けます。空と川がグレーの濃淡で描かれており、上と下から、褐色で描かれた建物と地面を挟み込み、画面をほぼ二分する恰好になっています。

 油彩画を学び始めてわずか1年余しか経ていないことを考えれば、巧みな画面構成だといえるでしょう。

 ただ、建物の描き方がいかにも不自然でした。パースを考えずに描いているからでしょう。とくに褐色の建物が、構造的にありえないような描かれ方をしているのが気になりました。百武はこの時点ではまだ、透視図法を学んでいなかったのかもしれません。

 画面全体は淡い色彩で描かれており、まるで水彩画のような印象を受けます。

 次に、《橋のある風景》を見てみることにしましょう。

●《橋のある風景》

 この作品も全般に淡い色で描かれており、立体感がなく、重厚感もなく、水彩画のように見えました。

(油彩、カンヴァス、60.9×91.3㎝、1876年、所蔵先不明)

 画面で大きな面積を占めているのは、背後に連なる山々と巨岩ですが、いずれも淡く、平板に描かれており、単なる背景に過ぎません。この作品で印象に残るのが、中景に描かれた木橋であり、それを支える黒褐色の岩、そして、橋の下を勢いよく流れている渓流でした。

 大きな岩にぶつかっては大きく波立ち、波頭が白く泡立っている川の流れが印象的です。ここでは、流れに沿った動きが描き出され、刻々と変化する渓流の妙味が表現されています。

 もっとも、画面左側の赤褐色の地面、そして、画面右側の黒褐色の大きな岩の描き方が粗雑なのが気になりました。観客がもっとも目に留めやすい前景から中景にかけてのモチーフなのにもかかわらず、粗雑に描かれているのです。それが、残念でした。

 好意的に見れば、百武は、渓流の流れを際立たせるために、敢えてその周囲を雑に描いたのかもしれません。とはいえ、雑な印象を拭い去ることはできず、この作品からは、旅先で慌てて描いたスケッチのような印象を受けました。

 橋の上にごく小さく、まるで記号のように、人物が描かれています。これを添えるだけで、単なるスケッチに見えていたものが絵らしくなっているように思えます。

 それでは、次に、《田子の浦図》を見てみましょう。

●《田子の浦図》

 リチャードソン・ジュニアに師事しながら、百武はアカデミーに作品を2点、出品していました。これがその出品作品のうちの一つです。もう一つは、現存していませんが、日本の着物を着せた西洋婦人像で、会場では好評を博したと伝えられています。(※、三輪英夫編『近代の美術 53 百武兼行』、至文堂、1979年、p.2.)

 この作品には、《田子の浦図》というタイトルがつけられており、日本の風景をモチーフにしています。アカデミーに出品する作品の訴求ポイントとして「日本」を意識していたのでしょう。

(油彩、カンヴァス、40.5×55.8㎝、1876年、所蔵先不明)

 穏やかな夕べ、一艘の船が浅瀬に浮かんでいる様子が描かれています。船には3人の男が立っており、そのうち2人は明らかに日本の着物を着ています。一日の仕事を終え、片付け作業をしているのでしょう。日暮れ時の静けさと落ち着きが感じられる作品です。

 後方に見えるのは、富士山でしょうか。典型的な日本の風景です。

 夕空には赤褐色が混じり、その色がそのまま海に映し出されています。その褐色を帯びた空と海に挟まれるように、山並みと一艘の船が描かれています。残照が当たり一面に広がり、やや傾いた帆柱に哀愁が漂っています。

 ロンドンにいながら、なぜ、百武はこのような風景を描くことができたのでしょうか。一瞬、不思議に思いましたが、考えてみれば、「田子の浦」は、古くから和歌の題材になり、浮世絵にも取り上げられてきた名所でした。富士山を望む駿河湾西沿岸にあり、歌枕になるほど、日本人に親しまれてきた景勝地です。「田子の浦」の歌であれ、光景であれ、百武の脳裡に刻み込まれていたに違いありません。

 たとえば、有名な山部赤人の和歌に次のような一首があります。

 「田子の浦に うち出でてみれば白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ」

 これは百人一首の選歌として知られていますが、元はといえば、『新古今和歌集』に収録されたものでした。「田子の浦」は、手前が海、中ほどに三保の松原、その背後に富士山を望むことができる絶景です。

 百武は日本の典型的な景勝地を、アカデミー出品作品の画題に選んでいたのです。もちろん、浮世絵画家がこの恰好の画題を見逃すはずはありませんでした。浮世絵にもいくつか、「田子の浦」は取り上げられています。

 たとえば、葛飾北斎(1760 – 1849)の次のような作品は、『富嶽三十六景』の中に収められています。

(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Shore_of_Tago_Bay,_Ejiri_at_Tokaido.jpg

 この作品のタイトルは「東海道江尻田子の浦略図」です。1830年頃に制作されました。前景に船を配置し、中景に三保の松原を含む集落、そして、後景に雄大な富士山を描いています。メリハリの効いた色遣いで、江戸時代の人々の美意識に適った作品といえます。

 歌川広重(1797 – 1858)もまた、「田子の浦」を画題に描いています。

(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Hiroshige,_The_station_Ejiri_2.jpg

 北斎よりもやや視点を高くして「田子の浦」を切り取った構図です。前景に描かれた浜辺と、後景に描かれた富士山が落ち着いた色合いで描かれており、蛇行する田子の浦に浮かぶ数艘の帆船を優雅に見せています。前景、中景、後景のバランスがよく、縦長の画面を活かした構図になっています。

 当時、景勝地としての「田子の浦」は、和歌や絵によって、大勢の人々に知れ渡っていたのでしょう。百武もこれらの絵を見ていた可能性があります。だからこそ、アカデミーへの出品作品を制作しようとした際、即、「田子の浦」を画題に選んだのだと思います。

 そして、百武は、「田子の浦」に典型的なモチーフである船と富士山を取り込み、《田子の浦図》を描いたのです。残念ながら、受賞はしませんでしたが、油彩画で日本的画題を表現しようとしていたところに、百武の心情が浮き彫りにされているような気がします。

 褐色をベースに色構成をした画面は、夕刻のもの悲しい風情が余すところなく表現されており、興趣ある作品になっています。

 もっとも、作品としては未熟といわざるをえない側面がありました。手前の浅瀬、浜辺の描き方が雑なのが気になりました。画面全体をしっかりと描き込むということに慣れていないように思えます。全般に立体感がなく、平板で、西洋画技法の習得が不十分だという印象を受けました。

■初期作品の特徴

 1876年に制作された百武の三作品を見ていくと、それぞれ画題が異なり、モチーフも違っているのですが、共通する要素がいくつか見られました。ざっくり言うと、次のようにまとめられます。

 すなわち、「水彩画のように見える」「モチーフの捉え方が平板である」「細部の表現が雑である」「塗りムラが見られる」、等々です。

 なぜ、そう思ったのか、見ていくことにしましょう。

 《城のある風景》、《橋のある風景》、《田子の浦図》、どれを見ても、一見、水彩画のように見えました。そこで、まず、なぜ、そう見えたのか、考えてみました。

 作品を見直してみると、いずれの作品も同じ色面が連続していることが多いことに気づきました。このような筆遣いの特徴から、百武はほとんどのモチーフを、絵具を筆に載せ、油を含ませ、線を引くように描いていたのではないかという気がします。

 たとえば、《城のある風景》の場合、中景で描かれた褐色の建物部分、囲いの部分、その後ろの城壁の部分、いずれも絵具を筆に載せ、線を引くように描いているように見えます。だからこそ、色面が均質化し、平板に見えているのではないかと思いました。

 手前の人物表現についても同様です。洋服の袖や影になる部分は濃い褐色をつかっていますが、やはり、線を引くように描かれているので、凹凸感がなく、平板に見えます。

 《橋のある風景》はとくに、その特徴が顕著でした。背後の山々には稜線の描き方に起伏が見られ、多少、立体感が感じられますが、手前の地面や岩の描き方はただ、色を塗っただけのように見えます。おそらく、絵具を載せた筆を画面上を引っ張るように、上下あるいは左右に使っているからでしょう。

 《田子の浦図》の場合、夕暮れ時の光景なので、それほど違和感はありませんでした。シルエットのように見える表現でも不自然ではなかったのです。ところが、手前の浅瀬と浜辺は、陽光を受けて明るいせいか、描き方の平板さ、雑さが際立ってしまいました。

 さて、思いついた箇所を中心に、取り上げてみましたが、「水彩画のように見える」ということは、平板で立体感がないということと関係しており、筆の使い方と深く関連しているのではないかという気がしました。

 水彩画だから平板だというわけでもないのです。

 たとえば、百武の師であるリチャードソン・ジュニアは水彩画家でした。彼の作品を見ると、水彩画でありながら、油彩画と見まがうほど立体的に描かれています。

■水彩画家リチャードソン・ジュニア

 リチャードソン・ジュニアには、《Ben Nevis》(1880年)という作品があります。

(※ https://www.1st-art-gallery.com/Thomas-Miles-Richardson-Jnr./Ben-Nevis.html

 雲や山々、川辺で働く農夫や馬など、どのモチーフをとってもリアリティがあり、見事な表現に驚かされます。水彩画ですが、絵具を一律に塗りこめるのではなく、色面毎に細かく色を変えていることがわかります。

 しかも、空からの陽光の射し込み具合を考えて、影をつけ、明るい部分と暗い部分を描き分けています。だからこそ、手前に描かれた農夫や馬などのモチーフが活き活きと、存在感を持って見えるのでしょう。

 こうして見てくると、百武の初期作品を見て、水彩画のようだと思ったのは必ずしも妥当な判断だったとはいえないことがわかります。リチャードソン・ジュニアのように、西洋画の技法をしっかりと身につけて、水彩画を描けば、このような重厚感のある作品を仕上げることができるということがわかります。

 逆に、百武の初期作品は油彩画でありながら、そうは見えませんでした。西洋画の技法に則って描かれていないので、立体感がなければ、重厚感もなかったのです。

 百武の初期作品にはいずれも、「水彩画のように見える」という共通性がありました。それは、百武がその時点で、西洋画の技法をマスターしていなかったことを意味することになります。

 そして、「モチーフの捉え方が平板である」、「細部の表現が雑である」、「塗りムラが見られる」といった初期作品の共通性についても、実は、百武が、この時点ではまだ西洋画の基本を習得していなかったからだということに帰着します。

 もっとも、油彩画を習い始めてわずか1年余でこれだけの作品を仕上げることができたのは、百武の努力とセンスの良さ、吸収力が関係していたといわざるをえません。もちろん、師であるリチャードソン・ジュニアとの相性がよかったからでもあるのでしょう。

■リチャードソン・ジュニアと百武兼行

 リチャードソン・ジュニアは生前、北イングランドとスコットランドの高地を描いた水彩画、イタリアとスイスの風景を描いた美しいパノラマ画が人気を博し、高値で取引されていました。(※ https://somersetandwood.com/thomas-miles-richardson-junior-returning-home-original-1851-watercolour-painting-jy-551)

 当時、絵を描くだけで生活していくのは大変だったようです。ところが、リチャードソン・ジュニアの作品は多くの人々に好まれ、高値で取引されたというのです。しっかりとした技術を身につけ、ロマン主義的な表現力を発揮していたからこそ、数多くの人々を惹きつけることができたのでしょう。

 Andrew Cobbing氏は、リチャードソン・ジュニアと百武との関係について、次のように記しています。

 「リチャードソン・ジュニアは、イタリアの田舎やスコットランドの高原地方を描くのを好み、百武は彼のお供をして、定期的にスコットランドを訪れていた。1878年に北部ダーラム州に出かけた際には、《バーナード》を描いた」

(※ Andrew Cobbing, THE JAPANESE DISCOVERY OF VICTORIAN BRITAIN, JAPAN LIBRARY, 1998, pp.136-137.)

 リチャードソン・ジュニアは、定期的にスコットランドにスケッチ旅行をしていましたが、百武も一緒に出かけていたというのです。

 ロンドンからスコットランドに行くには、直線で533.3㎞です。当時は交通機関も発達していませんから、少なくとも一週間以上は寝食を共に過ごしていたのでしょう。しかも、スコットランドには定期的に出かけていたようですから、百武がリチャードソンと友好な関係を築き、多くを学んでいたことがわかります。

■リチャードソン・ジュニアとは

 前回はリチャードソン・ジュニアがなぜ、《A Rocky Stream in Scotland》を描いたのか、考えてきました。別人が描いたのではないかと思えるほど、《A Rocky Stream in Scotland》の画面が異質だったからです。モチーフ自体に大きな変化はないのですが、それまでの画風とはまったく異なっていたのです。

 《A Rocky Stream in Scotland》を描く前と描いた後の作品を比較検討してみた結果、当時の美術批評家ラスキン(John Ruskin, 1819 – 1900)の指摘を気にして、この作品を描いたのではないかという結論に至りました。

 ラスキンは《Glen Nevis, Inverness-shire》(1857年)について、次のように評していました。

 「リチャードソンは、徐々に筆遣いが巧みになっており、コバルトとバーントシェンナを快く拮抗させている。しかし彼はいつも、高原の風景を、同じようなモチーフのさまざまな寄せ集めとしか考えていない。それらのモチーフとは、岩だらけの土手であり、ある場所では青く、別の場所では茶色で描かれているものだ。そして、よじれたスコットランドモミの木、シダ、犬、馬に乗っている人などである」(※ https://www.stephenongpin.com/object/790470/0/a-rocky-stream-in-scotland

 ラスキンは、筆遣いや色遣いについては評価していましたが、モチーフや構図については「同じようなモチーフをさまざまに寄せ集めて」描いているに過ぎないとして、難色を示していたのです。

 おそらく、このような指摘が気になって、リチャードソン・ジュニアは、《A Rocky Stream in Scotland》を描いたのではないかと私は推察しました。つまり、リチャードソン・ジュニアはラスキンの批評に発奮して、一生に一度、画風を全く変えてしまうという壮大な実験をしたのです。

 ところ、その後、リチャードソン・ジュニアはこのような画風の作品を描いておらず、これまで通り、同じような画題を同じような画風で描き続けています。革新的な画風に挑むこともなく、手練れの水彩画家として一定の社会的評価を得ており、それで満足していたように思えます。

 リチャードソン・ジュニアは西洋画の技法を確実に身につけ、ロマン主義的な作風の絵を描き続けました。おかげで当時の人々に好まれ、収入も得ることができました。新たな領域に挑戦することもなく、人々のニーズに合わせてひたすら絵を描き、それなりの社会的評価を得て、一生を終えました。

 はじめて油彩画を学ぶ百武兼行にとって、リチャードソン・ジュニアこそ、西洋画の基本技術を学ぶには恰好の師だったのではないかという気がします。(2023/11/30 香取淳子)

百武兼行 ⑤:リチャードソン・ジュニアはなぜ、《A Rocky Stream in Scotland》を描いたのか?

■リチャードソン・ジュニアの作品傾向

 リチャードソン・ジュニアは、峻厳な自然を好んで描き、その中に、人々の生活の一端を点景として添えることを好みました。厳しい自然環境の下、人々が助け合いながら生きている様子を、敢えて、画面に取り込んでいたのです。そうすれば、鑑賞者の気持ちに響くことがわかっていたからでしょう。

 ラスキンが、リチャードソン・ジュニアは、同じテーマの下、同じようなモチーフを使って、繰り返し作品を制作してきたと指摘していたことが思い出されます。

 前回、ご紹介したように、ジョン・ラスキンは、リチャードソン・ジュニアがどの作品にも好んで使ってきたモチーフがあるとし、次のように説明していました。

 「彼はいつも、高原の風景を、同じようなモチーフのさまざまな寄せ集めとしか考えていない。それらのモチーフとは、岩だらけの土手、ある場所では青く、別の場所では茶色で描かれている。そして、よじれたスコットランドモミの木、シダ、犬、馬に乗っている人などである」(※ https://www.stephenongpin.com/object/790470/0/a-rocky-stream-in-scotland

 改めて、リチャードソン・ジュニアの作品を見てみると、確かに、作品全般について、ラスキンが指摘するような傾向が見られました。

 興味深いのは、ほとんどの作品に、犬、馬、人が取り入れられていることでした。荒涼とした風景の中に点景として、それらのモチーフが添えられており、温もりを感じさせられます。

 はっきりとわかるように描かれているものもあれば、よく見なければ風景に溶け込んでしまっているものもあります。

 リチャードソン・ジュニアの作品の多くは、死後、散逸してしまっていますが、残された作品を見ると、描く対象は変わっても、取り上げられるモチーフや描き方が変わることはほぼありませんでした。

 ところが、作品を見ていくうちに、お馴染みのモチーフを使わず、描き方も大幅に異なった作品があることに気づきました。

 岩を全面的に打ち出した作品で、タイトルは、《A Rocky Stream in Scotland》です。

 さっそく、見てみましょう。

■《A Rocky Stream in Scotland》

 この作品を見た瞬間、抽象画かと思ってしまいました。画面がリアルではなく、一見、何が描かれているのかわからなかったのです。

(水彩、鉛筆、厚紙、34.5×84.5㎝、制作年不詳、スコットランド美術館蔵)

 タイトルを見てようやく、この作品が、スコットランドの岩だらけの渓谷を描いたものだということがわかりましたが、それでも、まだ、淡い褐色でベタ塗りされた色彩の塊が岩だとは思えません。

 描かれたモチーフには、物体としての量感がなく、質感もなく、陰影もありませんでした。ただ、マットなバーントシェンナが、画面の随所に、しかも、大量に置かれているだけだったのです。とうてい岩には見えず、せいぜい赤土にしか見えませんでした。

 ラスキンは、リチャードソン・ジュニアが好んで使ってきたモチーフについて、次のように述べていました。

 「岩だらけの土手、ある場所では青く、別の場所では茶色に描かれている土手であり、よじれたスコットランドモミの木、シダ、犬、馬に乗っている人などである」

 ラスキンが指摘する、リチャードソン・ジュニア定番のモチーフが、この《A Rocky Stream in Scotland》には見られなかったのです。

 この作品の中に、定番モチーフがあるとすれば、「岩だらけの土手」あるいは、「茶色に描かれている土手」ぐらいでした。

 この作品では、人間の温もりを象徴するモチーフはカットされ、自然の荒々しさを象徴するモチーフだけが取り上げられていたのです。

 しかも、これまでの作品とは明らかに、表現方法が異なっていました。対象をリアルに描くのではなく、形状をフラットにし、色をマットなものにして、抽象的に表現していたのです。

 それにしても、リチャードソン・ジュニアは、なぜ、この作品を抽象的に表現したのでしょうか。

 改めて、画面を見ると、この作品では、岩や山肌にリアリティがないのはもちろんのこと、渓谷を流れる川もまた、とても川には見えませんでした。白い幅広の線が幾筋か引かれているだけだったのです。川に見えないのも当然でした。

 リチャードソン・ジュニアは、果たして、この作品で何を描きたかったのでしょうか。

■自然界で繰り返される死と生の象徴か?

 興味深いのは、バーントシェンナが、マットな色合いのまま、画面の左右両側から中央に向けて下ってきていることでした。双方がぶつかる辺りの底面に、白い幅広の線が上方に向けて、散るように描かれています。その様子は、大量の赤土に抗うように、流れていく川のように見えなくもありません。

 荒々しい自然の一端が、モチーフの形状によってではなく、マットな色遣いによって、表現されていたのです。バーントシェンナが、岩や山肌や木々を覆い隠すように包み込んでいる様子が印象的です。自然が孕む暴力性を可視化した作品だともいえます。

 その一方で、画面中央付近に散らされた白が、画面に鮮やかさと清涼感を添えていました。棒状に描かれた白はまるで枯れ枝のように見えますし、グラデーションを効かせて帯状に描かれた白は、流れる川の波頭のようにも見えました。

 白を使って、枯れ枝(静)と波頭(動)が強調されていたのです。それは、自然界で繰り返される死(枯れ枝)であり、生(波頭)の象徴でもありました。バーントシェンナで覆われた画面の中で、白が際立っていました。

 無機質な画面の中に、白を加えることによって、静と動の対比が生み出されていたのです。とても斬新な表現方法だと思いました。

 とくに白の使い方に、卓越したセンスが感じられます。

 言い換えれば、バーントシェンナのマットな色調が、画面からリアリティを喪失させ、エッジの効いた白が、アクセントとして画面を息づかせていたのです。それが、鑑賞者の感覚を翻弄し、戸惑わせ、新鮮な感覚を喚起していたように思います。

 ひょっとしたら、この作品の狙いはそこにあったのかもしれません。

 そう思うと、この作品を2枚の厚紙を繋いでパノラマサイズにし、通常よりも横長の画面にしていたことにも納得がいきます。

■なぜパノラマなのか?

 この作品の画面サイズは、34.5×84.5㎝でしたから、縦横の比率は1対2.45です。空すらも見えない、岩だらけの渓谷を描くのに、わざわざパノラマサイズにする必要があったのでしょうか。初めて見たとき、不思議に思いました。

 広い浜辺を描くわけでもなく、広大な山並みを描くわけでもありません。岩だらけの渓谷を描くのに、なぜ、パノラマサイズにする必要があったのか、当初は理解できませんでした。ところが、この作品が、異次元の感覚を喚起することが狙いであったとすれば、このサイズにしたことがわからなくもありません。

 鑑賞者を異次元の世界に誘導するには、抽象的な画面をこのサイズで表現することの意義があったのでしょう。

 彼の作品を出来る限り多く、見てみました。その結果、このような画風で、このようなサイズの作品は、他に見当たりませんでした。まるで別人が描いたのかと思うほど、それまでとは異なっていました。

 リチャードソン・ジュニアにとって、おそらく、これは、最初で最後の作品ではないかという気がします。

 もっとも、ただ一つ、この作品と非常によく似た作品があったことを思い出しました。

 前回、ご紹介した、《Glen Nevis, Inverness-shire 》(1857年)です。

■《Glen Nevis, Inverness-shire 》との類似性

 あくまでも私の直観に過ぎませんが、《A Rocky Stream in Scotland》を見た時、ふと、《Glen Nevis, Inverness-shire 》を制作した直後に描かれた作品ではないかという気がしました。それほど、両作品のモチーフの構成、構図、画面の色構成はよく似ていました。

 たとえば、左右両側の巨大な岩石、横倒しになった枯れ木、川の流れといったモチーフの構成、さらには、バーントシェンナの濃淡で覆われた画面にエッジの効いた白が配置された色構成など、作品を組立てている基本要素が同じだったのです。

 このような基本要素の似かよりを見ると、リチャードソン・ジュニアを創作に駆り立てた発想が同じだったといわざるをえません。

 《Glen Nevis, Inverness-shire 》が1857年に制作されたことはわかっていますが、《A Rocky Stream in Scotland》がいつ制作されたのかは不明です。ですから、どちらが先に描かれたのかはわからないのですが、少なくとも同時期の作品だということはいえるでしょう。

 しかも、先ほどいいましたように、制作時期は、《A Rocky Stream in Scotland》が後のような気がします。それほど間を置かず、《Glen Nevis, Inverness-shire 》の直後に描かれたのではないかと思いました。

 果たして、実際はどうなのでしょうか。それを確認するには、《A Rocky Stream in Scotland》と《Glen Nevis, Inverness-shire 》を見比べ、両作品の相違性をみる必要があるでしょう。

■《Glen Nevis, Inverness-shire 》との相違性

●《Glen Nevis, Inverness-shire 》の構成

 まず、《Glen Nevis, Inverness-shire 》 のモチーフがどのように構成されているかを見てみましょう。

(水彩、紙、84.5×130㎝、1857年、所蔵先不詳)

 左右から、バーントシェンナの濃淡で彩られた岩石が、中央の窪みに向けて迫っています。迫力のある画面に、圧倒されてしまいそうです。画面に慣れてくると、遠方に、まるで緊張した視覚を解きほぐすかのように、コバルトブルーが配されています。そして、差し色のように適宜、散らされた白が快く、目に留まります。

 この作品は、画面中央から上部にかけて空が開けています。ちょうど逆三角形の形で空が構成されており、手前に広がる岩石の重苦しさを緩和する効果が見られます。

 空の部分を青のマーカーで記して見ました。

(※、前掲。青)

 雲が垂れ込めているとはいえ、空にかなりの分量が割かれているので、画面の軽重バランスが取れています。画面サイズは風景を描くのに適したPサイズでした。サイズといい、構成といい、画面には何の違和感もなく、自然の峻厳さが伝わってきます。

 淡い色で描かれているのが、左上の巨岩の上部、中央手前の台地、そして、右手前の巨石でした。それらは、陽光が射し込む地点であり、左上の巨岩から人々や動物がいる地点へと、鑑賞者の視線を誘導する役割を果たしていました。

 該当部分を黄色マーカーで記して見ました。

(※、前掲。青、黄色)

 鑑賞者は淡い色に誘導されて、まず、後景の淡い色の雲を見、次に、左上の巨岩を見、そして、中央手前にいる人々や動物に視線を移動させるでしょう。そこで、荒々しい渓谷の中に展開される生活の一端を見るのです。

 黄色のマーカーで図示したように、人々や馬や犬がいる場所は平坦なので、安定感があります。その背後には、白い枯れ木が倒れ掛かっており、不安定な造形物が添えられています。ここでの生は、死と隣り合わせであることが示されています。

 こうして見てくると、《Glen Nevis, Inverness-shire 》は、自然の暴力性を強調して見せようとしているように思えます。峻厳な自然の中に、人々や動物の平和な姿を組み込むことによって、それを可視化していました。巨岩や枯れ木などのモチーフによって、鑑賞者の想像力を刺激し、感情に訴えるストーリーを紡ぎ出していたのです。

 
 《Glen Nevis, Inverness-shire 》 には、しっかりとした構造の下で組み立てられた作品世界がありました。鑑賞者を惹きつける魅力はあると思いました。

 それでは、《A Rocky Stream in Scotland》はどうでしょうか。


●《A Rocky Stream in Scotland》の構成

 まず、この作品にはリチャードソン・ジュニアお定まりのモチーフがます。犬や馬、人といった定番のモチーフが取り入れられていないのです。これまで、画面に温もりや安らぎをもたらしていたモチーフが欠けており、自然の猛々しさがもろに画面に表出してしまっています。

 そのせいか、画面には、息詰まるような圧迫感があります。

 しかも、この作品では、多くの部分が赤土のように見えるバーントシェンナで覆われています。辛うじて、空に見える部分が上部にわずかに描かれています。青マーカーで囲ってみました。

(※ 前掲。青マーカー)

 空のように見えるとはいいながら、あまりにも面積が小さいので、明るさが足りず、画面を覆うバーントシェンナが与える緊張感を緩和する役割を果たしていません。

 この作品で、圧倒的な分量を占めているのが、赤土にも見える
バーントシェンナ です。そこから所々、姿を見せているのが、岩石です。質感も量感もなく、もちろん、陰影もありません。ひたすらマットなバーントシェンナが画面を覆っているだけです。

 しかも、《A Rocky Stream in Scotland》 は、2枚の厚紙を繋ぎ、パノラマサイズで描かれていました。現実離れしたシュールな世界が広がっていたのです。

●画面サイズ

 一方、《Glen Nevis, Inverness-shire 》の画面サイズは、84.5×130㎝ですから、縦横比は1対1.538です。風景画によく使われるPサイズの縦横比が1対1.414で、海景が1対1.618です。風景よりもやや横幅が広く、海景よりはやや狭いといったサイズです。

 両者を比較するには、画面サイズを統一する必要があるでしょう。

 そこで、《A Rocky Stream in Scotland》の画面サイズに合わせ、類似性の高い部分を残して、《Glen Nevis, Inverness-shire 》の画面上部を切り取ってみました。大きく変化したのが、空の部分なので、そこを青のマーカーで囲ってみました。 

(※ 前掲。青)

 空の大部分が欠落することで、《Glen Nevis, Inverness-shire 》の印象は大きく異なりました。画面に余裕がなくなり、緊張感だけが残ります。改めて、空という余白部分がいかに大きな役割を果たしていたかがわかります。

 変更前のオリジナルと比べると、《Glen Nevis, Inverness-shire 》をサイズ変更すると、作品として成立しなくなってしまうことがわかります。遠近感が崩れてしまうのです。

 空の部分を切り取って、余白が少なくなった結果、鑑賞者が画面を見て、想像力を羽ばたかせる余地が少なくなったからでしょう。改めて、風景画には、鑑賞者が自由に想像力を広げられるだけの余白が必要なのだということを感じさせられました。

 一方、《A Rocky Stream in Scotland》は、具体的に描かれていないので、空の部分が少なくても気になりません。もともと、遠近の概念が画面に持ち込まれていないからでしょう。

 両作品を比較し、類似性と相違性をみてきました。改めて、同じ発想で描かれた作品だということがわかります。空の配置、背せり立つ巨岩で囲まれた渓谷の位置づけ、等、構図はほとんど同じでした。

 リチャードソン・ジュニアは、同じ場所を、同じ色構成、同じ構図で描いていたのです。両作品の大きな違いが、モチーフの描き方であり、色調、筆遣い、画面サイズでした。

■なぜ、《A Rocky Stream in Scotland》を描いたのか?

 《A Rocky Stream in Scotland》では、モチーフの形状は簡略化され、境界線もなく、それぞれ、色が置かれているだけでした。陰影も量感も質感もなく、フラットな状態で描かれていました。

 《Glen Nevis, Inverness-shire 》を見ていなければ、具体的なものをイメージすることはできなかったでしょう。それほど、描かれたモチーフにリアリティはなく、抽象的な描き方に終始していました。

 では、なぜ、リチャードソン・ジュニアは、このような作品を描いたのでしょうか?

 考えられるのは、ラスキンの評です。

 ラスキンは《Glen Nevis, Inverness-shire 》(1857年)について、次のように評していました。

 「リチャードソンは、徐々に筆遣いが巧みになっており、コバルトとバーントシェンナを快く拮抗させている。しかし彼はいつも、高原の風景を、同じようなモチーフのさまざまな寄せ集めとしか考えていない。それらのモチーフとは、岩だらけの土手であり、ある場所では青く、別の場所では茶色で描かれているものだ。そして、よじれたスコットランドモミの木、シダ、犬、馬に乗っている人などである」

(※ https://www.stephenongpin.com/object/790470/0/a-rocky-stream-in-scotland

 ラスキンは、筆遣いや色遣いについては評価していましたが、モチーフや構図については「同じようなモチーフをさまざまに寄せ集めて」描いているに過ぎないとして、難色を示していたのです。

 おそらく、このような指摘が気になって、リチャードソン・ジュニアは、《A Rocky Stream in Scotland》を描いたのではないかと思うのです。

 実際、《A Rocky Stream in Scotland》では、《Glen Nevis, Inverness-shire 》の色構成、色遣いはそのままにし、定番モチーフのいくつかを大幅にカットして描いていました。

 また、画面全体をマットな色遣いにし、平板なタッチに変えていました。ラスキンから、筆遣いや色遣いについては向上したと評価されていたからでしょうか、敢えて、それまでのやり方を変えているように見えました。

 前回、ご紹介したように、ラスキンは、風景画には自然に対する両義性が必要だと考えていました。そして、次のように述べています。

 「形態の真実だけではなく、印象の真実があり、物質の真実だけではなく思想の真実がある。そして、印象と思想の真実は、両方の内で何千倍も重要な真実である。それゆえ、真実は普遍的に適用される用語であるが、模倣は有形の事物だけを認容する狭い芸術分野に限られる」(※、ジョン・ラスキン、内藤史朗訳、『芸術の真実と教育』、2003年、法蔵館、p.29)

 こうしてみてくると、リチャードソン・ジュニアがなぜ、《A Rocky Stream in Scotland》を描いたかの理由がわかるような気がします。

 おそらく、ラスキンの批評がとても気になっていたのでしょう。

 ラスキンは当時、新進気鋭の美術評論家として名声を確立していました。そのラスキンの批評に応えようとして、リチャードソン・ジュニアはこの作品を描いたのでしょう。

 当時、リチャードソン・ジュニアは44歳でした。水彩画界では、一通り名の知られた画家になっていました。

 その彼が、《A Rocky Stream in Scotland》で、大きな冒険をしていたのです。

 印象的なのは、左右両側からの岩だらけの斜面がぶつかる底面に、川が流れている構図です。《Glen Nevis, Inverness-shire 》では、その様子がリアルに描かれていました。その同じ場面を、《A Rocky Stream in Scotland》では、敢えて象徴的に描き、自然の暴力性を表現していました。

 ラスキンがいうように、自然を忠実に模倣するのではなく、画家がその自然を観察し、考えを重ねた結果を表現していたのです。荒々しく、寂寥感のある自然の中に、煌めく一抹の清涼感を表現することが出来たのではないかと思います。

 画期的な表現でしたが、当時の社会ではなかなか受け入れられなかったのでしょう。リチャードソン・ジュニアの自己変革の姿勢は続きませんでした。

 その後、制作された作品は見る限り、いずれもこれまでの画風に戻っていました。

 たとえば、1875年に制作された、《Eagle Crag and Gate Crag, Borrowdale, Cumberland》という作品があります。

■ 《Eagle Crag and Gate Crag, Borrowdale, Cumberland》 (1875年)

 この作品では、ラスキンが指摘していた定番モチーフが使われています。

(水彩、ボディーカラー、鉛筆、紙、55.5×86.0㎝、1875年、ニューサウスウェールズ州立美術館)

 画面の右手前に、岩だらけの山を切り開いた道を下ってくる人々がいます。岩と似たような色で描かれているので、よく見なければわかりませんが、犬がおり、手前に見えるのは、馬に乗っている男の姿です。

 もう少し、近づいてみましょう。

(※ 前掲。部分)

 子どもを胸に抱えた男が馬に乗ったまま、身体を傾け、傍らを歩く女性に話しかけています。女性は手に大きな荷物を抱え、男の方に顔を向けています。遠目からは家族に見えます。その手前を犬が歩いており、まるで彼らを先導しているかのようです。

 よく見ると、その後にも、馬や人々や荷車のようなものが続いているのがわかります。こちらはさらに色は周囲と同系色で、形状もはっきりとしていません。ほとんど岩山に溶け込んでしまっています。

 色彩の面でも、形態の面でも、自然と一体化して生きる人々が捉えられています。モチーフをこのように表現することによって、厳しい自然環境の下、寄り添うように生きる人々の姿が、鮮明に印象づけられます。

 この作品もまた、背後に巨大な岩山、手前には、山道の開けた場所が設定されています。陽光が射し込む中に犬や馬、人々が配置されており、生活感あふれる構図です。ストーリーが感じられる組立てになっており、鑑賞者が理解しやすい画面になっていました。

 百武兼行がリチャードソン・ジュニアから油彩画の手ほどきを受けはじめたのは、1874年でした。ちょうど、《Eagle Crag and Gate Crag, Borrowdale, Cumberland》が描かれていた頃です。

 依然として、定番のモチーフを使い、鑑賞者の情感を誘う画面構成にも変化はありません。荒涼とした自然を取り上げ、その点景として人物を配する構図もこれまで通りでした。

 この作品を描いたのが、リチャードソン・ジュニアが62歳の時です。もはや変わりようがなかったのかもしれません。

 果たして、百武はリチャードソン・ジュニアから何を学んだのでしょうか。ふと、気になってきました。(2023/10/4 香取淳子)

百武兼行 ④:百武の師、リチャードソン・ジュニアはどんな画家だったのか?

■百武、リチャードソン・ジュニアから油彩画を学ぶ

 百武がロンドンに滞在していた頃の作品は、油彩画13点、水彩画1点でした。これらの中で人物を中心に描いた作品はきわめて少なく、現存しているものの中では、前回、ご紹介した《母と子》だけでした。

 中には人物を点景として添えられた作品もありますが、風景の比重が高く、すべてが風景画といえるものでした。

 おそらく、百武が師事していた画家が、風景を専門とするトーマス・マイルズ・リチャードソン・ジュニア(Thomas Miles Richardson Jr., 1813-1890)だったからでしょう。

 果たして、百武はロンドンで、どのぐらい絵を描いたのでしょうか。

 百武がロンドン滞在中に描いた作品を見ると、画面に制作年が描き込まれているのは、油彩画7点、水彩画1点でした。最も早いのが1876年で4点、他の4点はいずれも1878年です(※ 三輪英夫編『近代の美術53 百武兼行』、至文堂、1979年、p.33.)。

 公務で忙しかったにもかかわらず、1876年と1878年に集中して制作していたことがわかります。

 百武は1874年に油彩画を学び始めていますから、1876年といえば、ちょうど油絵の描き方を一通りマスターした段階です。この期間に制作点数が多いのは、学んだばかりの技術を確実なものにするため、さまざまな画題の下で、実践していたのでしょう。

 私は単純にそう思ったのですが、三輪氏は別の見解を示しています。

 百武が1876年に数多く制作していたことについて、三輪氏は、「明治八年の末か九年の春には、アカデミーに絵を出品する」という、『光風』での記述と合致すると述べているのです(※ 前掲)。

 『光風』に掲載された「百武伝」に、「アカデミーに絵を出品する」という記述があったことから、三輪氏は、この時期、百武が数多くの作品を制作したことはアカデミーに出品するためだったと解釈しているのです。

 アカデミーに出品したとされているのが、《田子の浦図》と《日本服を着た西洋婦人像》です。タイトルからはどうやら、いずれも日本的要素を織り込んだ作品のようです。三輪氏によれば、《日本服を着た西洋婦人像》は好評を博したそうですが、残念ながら、紛失しており、現在は見ることができません。

 受賞できなかったとしても、油彩画を学び始めて間もない百武が、アカデミーに出品しようとしていたことには驚きました。油彩画を学ぶ機会を与えられたからには、それなりの結果を示さなければならないという思いだったのでしょうか。

 ちなみに、百武が師事していたリチャードソン・ジュニアは、1832年から1889年の間、ロイヤル・アカデミーその他に出品し続けていました。制作すれば、発表し、出来栄えを世に問うのは、画家として当然のことだったのです。

 師を見倣って、百武もまた、アカデミーに出品しようとしていたのかもしれません。

 それでは、百武にとってリチャードソン・ジュニアは、どのような師だったのでしょうか。まずは、リチャードソン・ジュニアの画家としての来歴を見ておくことにしましょう。

■リチャードソン・ジュニアの来歴

 リチャードソン・ジュニア(Thomas Miles Richardson Jr. , 1813-1890)は、トーマス・リチャードソン(Thomas Miles Richardson Sr. ,1784-1848)の三男として、ニューカッスルで生まれました。

 風景画家であった父の指導を受け、リチャードソン・ジュニアは、地元ニューカッスルで画家としてのキャリアをスタートさせています。はじめて展覧会に出品したのは、14歳の時でした。その後も描き続けて、技術を磨き、次第に才能を開花させていきました。1830年代には、水彩による風景画は高く評価されるようになり、商業的にもかなりの成功を収めるようになっていました。

 こうして地元で活躍する一方、リチャードソン・ジュニアは、英国協会とロンドンのロイヤル・アカデミーにも、作品を送り続けていました。権威付けが欲しかったのかもしれませんし、活動の舞台が地元ニューカッスルだけでは物足りなかったのかもしれません。いずれにしても、このことからは、画家として生きていく決意を固めていたことがわかります。

 彼が好んで描いたのが、イングランド北東部、あるいは、スイスやイタリアのアルプス地方の景色でした。そのような高原の風景を求め、国内、国外を問わず、さまざまな場所に旅行しました。1837年には、フランス、スイス、イタリア、ドイツ、オランダを旅行し、それぞれの景色をスケッチしています。

 1838年にはそれらのスケッチをまとめ、26枚の図版で構成された『大陸のスケッチ』(“Sketches on the Continent”)というタイトルの大型画集を出版しています。図版のうち11枚は、彼自身が制作したリソグラフでした。(※ https://www.stephenongpin.com/artist/236675/thomas-miles-richardson-jr

 リチャードソン・ジュニアにとって初めての画集、『大陸のスケッチ』は、A Ducotes & C. Hullmandells Lithographic Practicals で印刷されました。56×38cmの大型本で、再版はされなかったようです。(※  https://www.mountainpaintings.org/T.M.Richardson.html

 その『大陸のスケッチ』に収められた作品の一つが、大英博物館に所蔵されています。

 タイトルは《Ascending the Gt St Bernard》です。

(リソグラフ、紙、26×35.4㎝、1838年、大英博物館蔵)

 伸びやかな筆の動きが印象的な作品です。背後に見える山並みは、まるで水墨画かのように淡く、稜線だけがくっきりと描かれています。画面中央には、二人の人物と馬が配されていますが、その周囲は無彩色で表現されています。そのせいか、画面全体に落ち着きと静謐さが感じられます。抽象的で、しかも、柔らかな風景表現に、日本の水墨画との親和性が感じられます。

 この作品は、次のように説明されていました。

 「道に二人の人物が描かれている山の風景。一人は馬に乗り、もう一人は馬から降り、杖を手に、足には犬を連れて馬の横に立っている。 リチャードソンの「大陸のスケッチ」より。」(※ https://www.britishmuseum.org/collection/object/P_1959-0411-15

 画集の説明書きをそのまま引き写したものなのでしょうが、あまりにも素っ気なく、即物的な説明です。

 背後に連なる山並みの表現には、風景画家としてよく知られたターナー(Joseph Mallord William Turner、1775 – 1851)に通じるところもないわけではありませんが、全般に、淡白で、優しく柔軟な印象があります。その一方で、空白が多く、省略の多い表現が際立っており、西洋画にはあまり見られない画風です。

 当時の評論家はこの作品を見て、どう説明したらいいか戸惑ったに違いありません。それほどこの作品には、西洋画にはない柔らかさ、そして、融通無碍な雰囲気がありました。旅行先で見たまま、感じたままを即興で描いたせいか、このスケッチには、筆運びに勢いと伸びやかさがあり、気の流れが感じられます。

 なぜ、この作品は東洋的な味わいのある画風なのでしょうか。それが気になって調べてみると、リチャードソン・ジュニアの兄、ジョージ・リチャードソン(George Richardson, 1808-1840)に、似たような印象の作品がありました。

 タイトルは《North Shore, Newcastle upon Tyne》です。

(エッチング、シート、サイズ不詳、制作年不詳、所蔵先不詳)

 リチャードソン・ジュニアの長兄ジョージもやはり画家を志しており、地元の名簿に「歴史と風景の画家」と自ら宣伝していたほどでした。18歳になると、人物画、風景画、動物画を絵画クラスで教えるようになっており、その後、弟であるリチャードソン・ジュニアと共に、ニューカッスルで美術教室を開いています。(※ https://www.saturdaygalleryart.com/george-richardson-biography.html

 こうしてみてくると、リチャードソン・ジュニアは、風景画家である父親ばかりか長兄からも、絵画的刺激を受け、指導を得られる環境にいたことがわかります。

 それでは、再び、リチャードソン・ジュニアの作品に戻ることにしましょう。

 初期作品を見ていくと、リチャードソン・ジュニアにはしては珍しく、油彩画が残されていました。《Highland Lake Scene》というタイトルの作品で、《Ascending the Gt St Bernard》の2年ほど前に制作されています。

■油彩画

 それでは、リチャードソン・ジュニアの油彩画、《Highland Lake Scene》を見てみることにしましょう。

(油彩、ボード、25×38.1㎝、1835年頃、Laing Art Gallery蔵)

 背景の山並みの描き方が、先ほどの《Ascending the Gt St Bernard》にとてもよく似ています。油彩とリソグラフというメディアの違いがありますが、山が霧にけぶる様子をしっとりと描き出している点では共通しています。

 淡く、優しい色で稜線を柔らかく表現し、山と山の狭間は白を加えて暈し、空気遠近法を巧みに取り込んでいるのが印象的です。

 手前から中央にかけて、静かな湖面を描き、手前中央に水辺の草むらを配し、その右側に数頭の牛と牛飼いが描かれています。風景画の中にさり気なく、人々の生活シーンが取り入れられています。

 引いて見ると、牛飼いや牛は濃い褐色か淡い褐色で描かれているので、風景の中に溶け込んで見えます。人や動物が描かれているのですが、風景の一部として組み込まれてしまっています。

 ここにリチャードソン・ジュニアの人間観、自然観が浮き彫りにされているように思えました。人も動物も草木も岩も皆、大自然の一部なのです。

 さて、一般に、風景に適したカンヴァスサイズはPサイズといわれ、その縦横比率は1対1.51です。一方、この作品の縦横比率は、1対1.524ですから、ほぼPサイズだといえます。この作品が、風景画として安定感のあるサイズの中に収められていることがわかります。

 制作されたのが1835年、リチャードソン・ジュニアがまだ22歳の頃の作品です。ところが、構図といい、配色といい、油彩でありながら、堅苦しくなく、優しく柔らかく、まるで熟達した画家のように洗練された表現が印象的です。

 この作品にはすでにリチャードソン・ジュニアの独自性が浮き彫りにされています。

 画面には、油彩画ならではの重量感の中に、水彩画のような柔軟性が混在しており、興趣のある作品になっていました。伸びやかな筆遣いには、水彩との親和性が感じられます。この作品を見て居ると、リチャードソン・ジュニアの絵の才能は明らかに、水彩画領域にあるように思えてきます。

 水彩画家としての評価を高めていきながら、リチャードソン・ジュニアは、兄であり、画家仲間でもあるジョージとともに、地元ニューカッスルで美術教室を開催し、運営していました。

 それでは、再び、リチャードソン・ジュニアの来歴に戻ることにしましょう。

■旧水彩画協会(OWCS)の会員に推挙

 1843 年、彼は、「旧水彩画家協会」(Old Water-Colour Society:OWCS) の会員に選出されました。生来の天分に加え、これまでの地道な努力が認められたのです。

 OWCSは、1804 年にウィリアム・フレデリック・ウェルズ(William Frederick Wells)によって設立された水彩画家協会です。1812 年には、油彩・水彩画家協会として改組され、その後、1820 年には水彩画家協会に戻りましたが、1831 年に分裂し、新水彩画家協会という別のグループが設立されました。

 それを機に、1804 年に設立された方は旧水彩協会、あるいは単にオールド ソサエティといわれるようになり、新水彩画協会とは区別されるようになったのです。

 その後、ジョン・ギルバート卿(Sir John Gilbert ,1817 – 1897)が会長だった1881 年に、王立水彩画家協会として王室憲章を取得しました。そして、1988 年には、王立水彩協会(the Royal Water-colour Society)に再び名称変更したという経緯があります。(※ https://en.wikipedia.org/wiki/Royal_Watercolour_Society

 このような経緯を見てもわかるように、OWCSは当時、権威のある水彩画家の団体でした。その団体から、リチャードソン・ジュニアは1843年、会員として選出されたのです。30歳の時です。快挙といわざるをえません。

 水彩画家としての栄誉にあずかったリチャードソンは、3年後の1846年、ロンドンに移住しました。さらなる飛躍を求め、活動拠点をニューカッスルからロンドンに移したのでしょう。

 リチャードソン・ジュニアは、1851 年にはOWCS の正会員になり、以後、77歳で亡くなる、その前年まで、毎年、夏と冬には同協会の展覧会に出品していました。最終的には 700 点を超える水彩画を展示していたそうです。

 彼にとって、生きることは各地を旅行し、旅先の風景をスケッチすることでした。スコットランドやイングランド北部、そしてヨーロッパ各地を広範囲に旅行し、気に入った風景を描き、表現力を向上させていきました。

 さまざまな場所を訪れ、精力的にスケッチしては作品化し、その成果を展覧会で発表していたのです。その都度、画題に相応しい表現方法を探り、試行錯誤を重ねながら、水彩画の奥義を究めていきました。

 名実ともに水彩画家として生き、天分を存分に開花させて、リチャードソン・ジュニアは、画家人生を終えたのです。

 風景画家として生きたリチャードソン・ジュニアが追いかけていた画題の一つが、スコットランドにあるベン・ネビス山でした。

■ベン・ネビス山

 ベン・ネビス山は、ハイランド地方ロッホアバー地区に連なる、グランピアン山地の西端に位置し、イギリス諸島の最高峰です。スコットランドの山々の中でも、特に、その知名度は高く、地元住民や登山家の間では、「ザ・ベン」として知られています。

 現在、ベン・ネビス山への登山者は、年間10万人にものぼっていますが、その4分の3は、ふもとのグレン・ネビスから山の南斜面を進む、「ポニー・トラック」から登るといわれています(※ Wikipedia)。

 「ポニー・トラック」は、ベン・ネビス山に登る登山道の一つです。リチャードソンが訪れた頃、人々はもっぱらこの登山道を利用していました。ポニー・トラックは、グレン・ネビスの東側にある海抜20メートルのアチンティーからスタートします。

 この登山道は、そもそも、仔馬が天文台に食糧を運ぶための道として作られました。無理なく歩行できるように、この登山道は、ジグザグ道にし、勾配を緩やかにする工夫がされています。

(※ http://ben-nevis.com/walks/mountain_track/mountain_track.phpより)

 これは、頂上から見た写真ですが、ジグザグ道のおかげで勾配が緩やかになっているのがわかります。周囲には岩が多く、荒涼とした光景です。

 草木の生えた場所もありますが、ベン・ネビス山の頂上に近づいていくにつれ、登山道は岩と小石だらけになります。

(※ http://ben-nevis.com/walks/mountain_track/mountain_track.phpより)

 このような険しい地形の風景をリチャードソン・ジュニアは好んで描いていました。

 初期の頃は、風景画に適したPサイズで描いていましたが、やがて、パノラマサイズで横長に描くようになっています。高原や山地、湖畔など、広がりのある大自然の魅力を余すところなく表現できるよう、リチャードソンは、作品ごとに工夫していました。

 
 ベン・ネビス山 関連の作品の一つが、《Glen Nevis, Inverness-shire 》です。

 ベン・ネビス山の麓のグレン・ネビスを描いた作品で、OWCSの展覧会に出品されました。

■リチャードソン・ジュニアの作品を評したジョン・ラスキンとは?

 美術評論家のジョン・ラスキン(John Ruskin, 1819- 1900)は、1857年にリチャードソン・ジュニアが OWCSの展覧会に出品 した作品《Glen Nevis, Inverness-shire 》を評し、次のように述べています。

 「リチャードソンは徐々に表現力を身につけてきている。コバルト(青)とバーントシェンナ(茶色)を拮抗させて、とても気持ちのいい画面にしている」(※ https://www.stephenongpin.com/object/790470/0/a-rocky-stream-in-scotland

 まるで以前からリチャードソン・ジュニアを知っているかのような言い方です。実際に知り合いであったかどうかはわかりませんが、少なくとも、作品については知っていたのでしょう。作品の出来栄えの変化を通して画家としての進歩を認めていますから・・・。

 ジョン・ラスキンは、リチャードソン・ジュニアとほぼ同時期に生きた美術評論家であり、芸術家のパトロンでした。

 オックスフォード大学を卒業した後、長期滞在のためジュネーブを訪れました。そこで手にした雑誌にターナーの批判記事が掲載されているのを見て憤慨し、ターナー擁護のために論文を書きました。それらをまとめて、1843年に出版したのが、『近代画家論』第1巻(Modern Painters, vol.1)でした。

 出版の契機となったのは1843年ですが、オックスフォードの学生時代に、ラスキンはこの本を構想しており、実際に書き始めてもいました。ターナーの独創的な構想力に着目していたのです。

 当時のターナー(Joseph Mallord William Turner,1775- 1851)は、イギリスを代表する風景画家として一定の評価を得ていました。ところが、一部の批評家からは、彼の風景画は自然に忠実ではないと批判されていました。批判内容は、色彩の面でも、地形的な表現の面でも、明らかに自然の姿に忠実ではないというものでした。つまり、真実の姿を描いていないという批判です。

 それらの批判に対し、ラスキンは、「真実は自然の対象に忠実であると同時に、自然を描く画家の観念にも忠実であるのだという、いわば、真実の両義性を根拠に、半ば強引に自然に忠実なるターナー像を主張して」擁護したと、橘高彫斗氏は指摘しています。

(※ 橘高彫斗、「ラスキン『近代画家論』第一巻における風景画鑑賞と享受の過程」、『美学』第71巻1号、2020年6月30日、p.25.)

 ちょっとわかりにくいですが、ラスキンは、画家が自然の対象に忠実だということは、一般に、自然をありのままに表現することと捉えがちですが、実は、自然を見る画家の「思考と印象」にも忠実であるべきだと指摘していたのです。

 風景画には、自然に対する両義性が必要だとラスキンは考えていました。ところが、ターナーを批判する人々のほとんどが、その片側しか見ておらず、自然を見る画家の「思考と印象」についての側面を見落としているというのです。

 描かれた画面を表層的に見るだけで、その真意を汲み取ろうとしないから、ターナーを誤解し、批判するのだとラスキンは考えていました。

 風景画の芸術的価値は、自然を単に表層的になぞるだけではなく、画家が自然を見て感じ、内省した心のあり様が画面に反映されていなければならないと、ラスキンは考えていたのです。そのような側面があるからこそ、鑑賞者の心を動かし、感銘を与えるというのです。

 ターナーを擁護するためとはいえ、ラスキンは、深い学識と経験、直観力に基づき、風景画のあるべき姿を論理的に組立てていました。

 そのラスキンが、《Glen Nevis, Inverness-shire 》(1857年)を見て、「表現力を身につけてきている」と評したのです。ラスキンは、以前からリチャードソン・ジュニアの作品に注目していたのでしょう、だからこそ、この作品に進歩の痕跡を見ることができたのだと思います。

『近代画家論』第1巻で、絵画に対する緻密な観察力と考察力を見せたラスキンは、たちまち美術評論家として成功を収め、その後、『ヴェネツィアの石』(The Stone of Venice, 1851-1853)を出版してからは、美術評論家として不動の地位を築きました。

 それでは、ラスキンが評した作品、《Glen Nevis, Inverness-shire 》を見てみることにしましょう。

■《Glen Nevis, Inverness-shire 》に見る、コバルトブルー、バーントシェンナ、そして、白

 ネビス山の麓にあるのが、グレン・ネビスです。そのグレン・ネビスの渓谷が描かれています。

(水彩、紙、84.5×130㎝、1857年、所蔵先不詳)

 やや高みから、グレン・ネビスの渓谷を展望した作品です。両側にごつごつした岩肌が見え、その隙間に白く塗られた枯れ木が何本か見えます。自然の険しさを感じさせられる光景です。

 左右から、バーントシェンナの濃淡で彩られた岩石が、中央の窪みに向けて迫っています。迫力のある画面に、圧倒されてしまいます。画面に慣れてくると、遠方に、まるで緊張した視覚を解きほぐすかのように配されたコバルトブルーが見えます。そして、手前には、差し色のように適宜、散らされた白が目に留まります。

 確かに、ラスキンが指摘するように、この作品で目立つのはバーントシェンナ、コバルトブルー、そして、白でした。

 褐色や焦げ茶色など、バーントシェンナの濃淡で覆われた岩山の背後に、微かにコバルトブルーの空が見えます。大量の岩山の色とわずかな空の色とが緊張感を保ちながら、画面に一種のハーモニーを奏でていました。

 補色関係にある二つの色を、分量に大きな差をつけて配分し、色相差で対立させて緊張を生み出す一方、分量の多寡によってバランスを図っているように思えます。緊張とバランスの塩梅が絶妙でした。

 遠方を見れば、淡いバーントシェンナで色づいた濃淡の雲が、青い空の上を軽く覆いかぶさっています。その狭間には、コバルトブルーが、申し訳なさそうにそっと置かれています。その結果、ごくわずかのコバルトブルーが、バーントシェンナの濃淡で覆われた岩山を息づかせ、密やかな躍動感を与えていたのです。

 岩で覆われた単調な渓谷を、巧みな色構成でメリハリをつけ、軽やかな筆遣いで、活き活きと描き出していました。

 この作品を評し、ラスキンは、「コバルトとバーントシェンナを拮抗させて」と表現していました。画面の造形上のコントラストをさらに劇的に見せているのは、絶妙な色構成の効果だと言いたかったのかもしれません。

 白の使い方の巧みさにも触れておく必要があるでしょう。

 青空を覆い隠す淡いバーントシェンナで表現された厚い雲、そして、その狭間にごくわずかに置かれた白が、背後から射し込む陽光を表すとともに、画面に明るさを添え、快さを感じさせてくれます。

 背後の山波の稜線にも、見え隠れするように白が置かれ、それらは雲のようであり、光の反射面のようにも見えます。単調になりがちな渓谷の風景が、エッジの効いた白の使い方で画面が引き締めら、興趣あるものになっています。

 画面手前には、枯れ木や馬、人の衣服が、白でアクセントをつけて、描かれています。渓谷で暮らす人々の生活の一端が、さり気なく表現されていました。色彩によって振り分けられた硬軟の塩梅が絶妙でした。

■モチーフの組み合わせ

 ジョン・ラスキンは、リチャードソン・ジュニアが好んで使ってきたモチーフに触れ、それらが、《Glen Nevis, Inverness-shire 》の中でも使われていたとし、次のように説明しています。

 「彼は常に、高原の風景を、同じモチーフを様々に組み合わせて描いているが、それはメドレーに過ぎない。同じモチーフとは、岩だらけの土手、ある場所は青く、別の場所は茶色になっている土手であり、よじれたスコットランドモミの木、シダ、犬、馬に乗っている人などである」

 画面をよく見ると、手前に、人や馬が描かれています。まず、岩山の開けた場所に、腰を下ろして語り合っている二人がいます。その傍らで犬がまるで見張っているかのように、顔をこちらに向けています。そして、語らう二人の近くには、男が一人、背を向けて立っており、その傍らで白い馬が草を食んでいます。

 険しい岩山の中に訪れた安らかなひと時であり、憩いのひと時が表現されているのです。寄り添って集う人や動物が、軽やかなタッチで描かれているところに、生命あるものの温もりが感じられます。

 一方、彼らの周囲を取り巻く、剥き出しになった岩肌は、いかにも荒々しく、強靭でした。そんな中、白い枯れ木が今にも倒れそうになっている様子が描かれています。エッジの効いた白が、辺り一帯に漂う荒涼とした雰囲気をさらに強化していました。

 人や動物が休息している場所と、その周囲の殺伐とした光景との対比が、なんともドラマティックです。そのコントラストが、画面に緊張感をもたらし、興趣を添えていました。

 ラスキンは、そのような画面の状況を、次のように評していました。

 「そのようなモチーフ全体が、さまざまな原酒をブレンドして作ったシャンパンが醸し出す陽気さの影響を受け、快く、楽しいものになるよう企図されている」と述べているのです。(※ https://www.stephenongpin.com/object/790470/0/a-rocky-stream-in-scotland

 実際、リチャードソン・ジュニアが描く初期作品のモチーフは、どれもほぼ決まっていました。モチーフの組み合わせに変化をもたせ、作品としての独自性を打ち出す一方、それらのモチーフのハーモニーによって、観客にとっての快さを演出していたのです。

 もっぱら峻厳な自然をテーマに描いてきたリチャードソン・ジュニアだからこそ、人や馬、犬といったモチーフを必要としていたのでしょう。それらのモチーフは画面の中で相互に絡み合って、自然の過酷さの中に、ほっとした安らぎをもたらしていました。画面に漲る緊張を、いくばくか緩和させる機能を果たしていたのです。

(2023/9/27 香取淳子)

 

百武兼行 ③:ロンドン時代の人物画、《母と子》について考える。

 前回、ご紹介しましたように、百武兼行(1842 – 1884年)がロンドンで描いた作品のほとんどが風景画でした。師事したのが風景専門の画家だったからです。ところが、唯一、人物を描いた作品が残されていました。

 それが、《母と子》です。

 どのような作品なのか、まずは画面を見てみることにしましょう。

■《母と子》(1878年)

 この作品は、《バーナード城》と同じ、1878年に描かれました。ロンドン時代に描かれた唯一の人物画です。

(油彩、カンヴァス、112×85㎝、1878年、有田工業高校)

 子どもを背負い、山道を歩いてくる女性の立ち姿が、画面中央に描かれています。山の頂上付近なのでしょうか、踏み固められた土が平らになって、道となったような山道です。その周辺一帯には、穏やかな陽射しが降り注ぎ、のどかな山村生活の一端がしのばれます。

 母子の傍らには、白とこげ茶のぶち犬が、まるで見守ってでもいるかのように、寄り添って歩いています。犬の脚が細すぎるのが気になりますが、尻尾を立て、女性を見上げる所作がなんとも微笑ましく、気持ちの和む光景です。

 これまでの百武はもっぱら、風景画を描いてきました。ところが、どういうわけか、この作品では珍しく、人物を取り上げています。しかも、正面から、全身像を捉えているのです。

■母と子の表情からくる違和感

 メインモチーフである母と子は、画面中央のやや左寄りに描かれています。女性は正面を向いて立ち、子どもは母の背中に負ぶわれ、肩越しに顔を覗かせています。いずれも観客を正視する恰好で描かれています。

 顔面部分にフォーカスしてみましょう。

(※ 前掲。部分)

 母にしろ、子どもにしろ、一見して、人物の描き方がいかにも不自然なのがわかります。表情といい、身体表現といい、リアリティに欠け、なんともいえない違和感があるのです。

 まず、表情からみていきましょう。

 母の表情は硬く、まるで観客を凝視しているように描かれています。口元に笑みはなく、寛いだところもありません。そのせいか、怒っているように見え、どちらかといえば、恐い表情です。

 ひょっとしたら、緊張していたのかもしれません。あるいは、疲れていたのかもしれません。仮にそうだとしても、子どもを背負って、山道を歩いている時、子どもにはちょっとした話しかけぐらいはしていたはずです。そうすると、多少、表情は緩みますから、このような恐い表情にはなりえません。

 違和感を覚え、子どもの顔に目を移すと、背中に負ぶわれている子どももまた、怯えたような表情をしています。探ろうとする目つきで、母親の背中からそっとこちらを覗いているのです。

 のどかなはずの光景なのに、母の表情も、子どもの表情も、何か恐いものにでも出会って、緊張している時の表情なのです。ところが、そのようなものは画面に何一つ、描かれていません。

 この母子を恐がらせ、緊張させているものは、ひょっとしたら、この画面の外にあるのかもしれませんが、そのようなことがあるとすれば、まず、傍らの犬が反応するはずです。

 そう思って、犬を見ると、正面を向かず、女性の方を見上げています。緊張している様子もありません。犬はただ、母子の傍らで、寄り添うようにして歩いているだけでした。つまり、このことからは、母子の正面、あるいは周囲に、彼らを緊張させるようなものは存在していないということになります。

 再び、子どもの顔を見てみました。

 改めて見ると、背中におんぶされている子どもの顔は、ただ大人の顔を小さくしただけのような描かれ方でした。幼さや丸味、柔らかさといった、子どもらしい特徴が何一つ、捉えられていないのです。

 ひょっとしたら、百武の人物表現が拙いからでしょうか。ふと、そんな気がしてきました。

 この母子の表情に違和感を覚え、奇異な印象を抱いてしまいましたが、それは、百武が西洋人の顔貌を表現するのに慣れていなかったからかもしれません。母と子が描かれている状況と、その表情とがマッチしないので、不自然に思い、違和感を覚えてしまった可能性があるのです。

 そう思って、見直すと、不自然なのは、顔面だけではありませんでした。よく見ると、身体表現もまた不自然でした。

■母と子の身体表現

 母や子の身体表現を見ると、一見して明らかに、骨格を踏まえて描かれていないことがわかります。ですから、やはり、奇異な印象を覚えてしまいます。

 それでは、母と子の上半身にフォーカスして、画面を見てみることにしましょう。

(※ 前掲。部分)

 まず、気になったのが、母にしがみつく子どもの手と腕です。手が小さすぎますし、シャツの先から伸びている手首と手の甲に、力が入っているようには見えませんでした。母のブラウスを掴むには、それなりの力を出しているはずです。筋肉が動けば、手首も手の甲もそれに応じて変化しているはずですが、その痕跡はどこにも見られません。

 そもそも、子どもは母の背中からずり落ちないように、手と腕を使って、ブラウスの下の母の腕をしっかりと掴んでいるはずです。そうすると、それにしたがって、母のブラウスにも皺が寄るはずですが、そのようにはブラウスの皺は描かれていませんでした。

 さらに、もう一方の手も、ブラウスの端を掴んでいましたが、ちょっと掴んでいるだけで、母の腕をしっかりと掴んでいるようには見えません。

 そもそも、子どもは、母の背中から、向かって右側に大きくはみだすように描かれています。正面よりもかなり右にずれているので、両方の手が、母の腕のほぼ同じ位置を掴むことはありえません。

 子どもが母の真後ろにいた場合、両手の位置は、この絵のように、ほぼ同じ位置になるのでしょうが、子どもの位置がこれだけ大きく右に寄っていますから、もう一方の手はおそらく、母の腕の付け根、あるいは、肩辺りを掴むことになるのではないかと思うのです。

 さらにいえば、子どもを後ろ手で支える母の上腕から肘にかけての表現も、不自然と言えば、不自然でした。

 子どもをおんぶするには、肩や上腕、後ろに回した腕にそれなりの負担がかかります。たとえ、ブラウスの上からでもそれが表現されていなければ、なりません。ところが、そうではなく、ダブダブに膨らんだ袖で肝心の部分が覆われていたので、曖昧に処理されているという印象を受けてしまいました。

 このように、せっかくの人物画なのに、全般的に、人の身体構造、身体の動きと筋肉との関係など、肝心のところが考慮されておらず、違和感が残りました。人物画に不可欠な要素が欠けていたので、リアリティを感じられず、不自然な印象を受けてしまったのです。

 それに反し、母と子に寄り添って歩いている犬はとてもうまく描かれていると思いました。

■犬の表現

 女性のすぐ横で、そっと寄り添うように、白とこげ茶色のぶち犬が歩いています。母と子の描き方がぎこちなかったのに比べ、こちらはとても自然に描かれています。ちょっと見上げたように、顔を傾けた仕草がとても愛らしく、印象的でした。

(※ 前掲。部分)

 夕暮れ時なのでしょうか、画面下半分は淡い褐色に染まっています。中景から前景に至る淡い土色の小道にも、薄い赤褐色が、所々に落ち、夕刻ならではの華やぎを醸し出しています。その中を歩く犬もまた、淡い赤褐色に包まれています。見ているだけで、のどかな山村の幸せを感じさせられます。

 犬は、歩く姿勢、首、胴体、脚、尻尾などの身体部位、そして、艶やかな毛並み、どれをとっても皆、とてもリアルに表現されています。犬が歩いている山道の中心部分は、人が歩いて踏み固められ、土が白くなり、周囲よりもやや低くなっています。犬が歩く傍らには小石がいくつも剥き出しになって転がっており、そこに、背後から鈍い陽射しを受けたぶち犬の影が、淡く長く伸びています。

 リアリティがあり、しかも、豊かな詩情性を感じさせる表現です。なんとも巧みな描き方だといわざるをえません。油彩画を学びはじめてわずか2年しか経っていないとは思えないほどです。

 人物と比較し、犬があまりにも巧みに描かれていたので、ひょっとしたら、百武は、動物をモチーフに描いていたのではないかと思い、ロンドン滞在中の作品をチェックしてみました。

 すると、風景画が多いのですが、中には動物を描いた作品もありました。

 風景ばかりではなく、牛や馬、虎など、動物のスケッチを多少はしていたようです。その中に犬の顔面のスケッチが残されていました。

 《素描 犬図》とされている作品です。

(鉛筆、紙、28×39㎝、制作年不詳、所蔵先不詳)

 手前は、耳が垂れ、鼻先の長いぶち犬なので、ダルメシアンでしょう。後ろは、耳は垂れ、鼻先が長く、大きな目をしているので、マンチェスターテリアのように見えます。スケッチといいながら、いずれも、特徴がよく捉えられており、犬の性格まで表現されているように見えます。

 後ろの犬には首元に蝶ネクタイが結ばれていますから、スケッチされたのは、家族から愛された愛玩用の犬だったのでしょうか。両方の犬とも、目つきがユーモラスで、愛らしさがあります。

 このようなスケッチの経験があるからこそ、百武は、《母と子》の中で、リアリティのある犬を描くことができたのでしょう。犬の身体表現については、牛や馬、虎など、動物の素描経験が役立っているように思います。百武はロンドン滞在中に、牛や馬については骨格を踏まえて、さまざまな姿態をスケッチしていました。

 さて、この作品は百武にとって、ロンドン時代、唯一の人物画でした。ところが、これまで見てきたように、肝心の人物の出来具合はそれほどよくありません。母と子の添え物のように描かれていた犬と比較すれば、雲泥の差でした。多少でも描いたことがある犬はごく自然に表現できていたのです。

 どれだけ数多く描いたかということが、うまく描けるか否かに大きく影響していることがわかります。

 それでは、研鑽を積んできた風景についてはどうでしょうか。この作品では、風景は背景として画面に組み込まれています。

 背景を見ていくことにしましょう。

■背景の妙味

 背景として描かれた風景は、遠近法を踏まえ、陽光の射し込み具合を考えて描かれています。そのせいか、画面に奥行きがあり、リアリティが感じられます。画面全体に安定感があり、丁寧に描かれた前景には、活き活きとした躍動感さえ醸し出されていました。

 画面の上半分が、大きく広がる空、そして、下半分は、メインモチーフが歩く山道といった具合に、はっきりと二つに分かれており、その連続性は希薄です。まるで別々の風景が繋ぎ合わされているかのように見えますが、それは、おそらく、色調が大きく二つに分かれているからでしょう。

 上半分で描かれているのは、どんよりとした雲に覆われた空と微かに見える遠くの山並みです。それら一切合切が、所々、青の混じった白に近い淡いグレーの濃淡で表現されているのです。

 空と遠景の山並みとは境目なく、混じり合っているように見えます。そして、空が限りなく広いように見えますから、むしろ、空を際立たせようとして、その色調にしたのかもしれません。

 雲が幾層にも果てしなく、広がっています。しかも、たいていが分厚く、巨大です。そのボリューム感には圧倒されてしまいます。

 歌田真介氏は、この作品をX線写真で見た結果について、次のように述べています。

 「明るい部分は厚塗りで、暗い部分は薄塗りである。そして遠景から描きはじめて、手前に向かって描いている。(中略)遠景あるいは背景から描くことは、はじめに空間の位置や色彩を決めることであり、それにバランスするよう主たるモチーフを描くことになるので、合理的な方法である。「母と子」の場合、広い空が明るいことから、シルバー・ホワイトを主とした、かなり厚塗りで「はり」のあるものになっている」

(※ 歌田真介、「百武兼行の技法」、三輪英夫編『近代の美術 53』、至文堂、1979年、p.94.)

 画面を見ていただけではわからない作品の制作過程について、歌田氏は、X線撮影した写真を通して明らかにしました。

 興味深いのは、百武は、シルバー・ホワイトを使って、空を厚塗りしていたということでした。シルバー・ホワイトという絵具を使って、量感のある雲を表現していたというのです。

 ホルベインは、シルバー・ホワイトについて、次のように説明しています。

 「中世〜近世の絵画で、重要な白だった鉛白をベースにしたホワイト。黄みで温かみがある色調が特長です。顔料の鉛白の有害性と、黄ばみやすさ、硫黄を含んだ絵具やガスでの暗色化懸念から、現在では主流を外れていますが、乾燥が早くしかも堅牢で上層をしっかり受け止める長所があり、描き始めから中描きに使われます。着色力が低いので、混色用にも適しています」

(※ https://www.holbein.co.jp/blog/art/a183

 当時、シルバー・ホワイトしか選択肢がなかったからかもしれませんが、百武はシルバー・ホワイトを使って厚塗りをし、空を仕上げました。おかげで、存在感のある空になったといえるでしょう。

 シルバー・ホワイトは、黄色味があり、温かさが感じられる色調を創り出すことができました。だからこそ、百武は、黄色などの暖色系を使わず、白とグレー、淡い青を使って、雲間から洩れる陽光の輝きを表現したのでしょう。

 実際、この作品の風景には、メインモチーフを深く包み込むような奥行きと広がりが感じられます。背景として後方に控えているだけではなく、大きな存在感を示しているのです。その結果、背景とメインモチーフの力が拮抗して、画面に緊張感を与え、見応えのある作品になっているような気がします。

 風景に目を注ぐと、メインモチーフの拙さが気にならなくなってくるほどでした。そのような錯覚を覚えるのは、百武が、メインモチーフを引き立てながらも、背景そのものが存在感を持てるよう、構図や色構成に配慮していたからではないかと思います。

■画面を支える構造的なライン

 興味深いのは、画面左に見える山の頂上が、女性の肩のラインと同じ位置で描かれ、そこから右下に下がっていることでした。まるで観客の視線を無意識のうちに右下方に誘い込んでいく試みのようにも思えます。この斜めのラインが、淡いグレーの濃淡で表現された遠景の中に、静かな動きと流れを生み出しているのです。

 一方、画面の下半分は、褐色を基調に表現されており、メインモチーフを支えるリアルな空間として機能しています。

 たとえば、犬の足元に転がっている石や土くれが、とても丁寧に、写実的に描かれています。足元のリアリズムが、メインモチーフのぎこちない表現を目立たなくしているように思いました。

 中景右寄りには、こんもりとした木が黒褐色で小さく描かれており、背後の山並みとの境界となっています。そして、前景右側を見ると、褐色の草木がカーブを描いて揺れ、地面に影を落としています。

 興味深いことに、その中景の木と前景の草木の影が弧状に配置されており、繋げば、大きな曲線の一部になります。

 こうして画面下半分に、曲線が生み出す柔らかさと優しさが生み出され、躍動感が醸し出されています。何気なく描かれたように見える、これらの風景的要素の組み合わせの中に、巧みな視線誘導が感じられます。

 さらに、画面右下に伸びる草木の影と、女性の足元から伸びる影、そして、画面左側の灌木の影が、ほぼ平行で左下方に伸びています。そして、画面右下の草木の影と、画面左側の灌木とが対角線上に配置されて、画面に安定感をもたらしています。

 こうして見てくると、風景の中にさり気なく込められた、左から右への斜線、中景から前景に向けての曲線、そして、前景で右から左下に平行に伸びる3つの影線、これらのラインがこの作品の中で大きな役割を果たしているように思えてきます。

 斜線、曲線、平行線といった幾何学的要素が、自然の風景の中から引きだされ、再編成されて画面に組み込まれているといえます。それが、この作品を構造的にしっかりとしたものに見せているような気がしました。

 百武が実際にこのような風景を見て描いたのかどうか、わかりませんが、取り上げた風景の要素を使って、画面に動きをもたらし、流れを生み出し、画面を構造化する効果を導いていたことは確かです。

 それが、メインモチーフを支え、安定感のある作品にしあげていたといえるでしょう。百武が描いた風景は、背景とはいいながら、単なる背景に留まらず、なんともいえない妙味を画面にもたらしていたのです。

 そこには絵画を越えた学識が必要で、わずか2年ほどの油彩画歴で身に着くものではありません。百武が持ち合わせていた絵の天分に加え、幅広い教養が影響していたという気がします。いずれにしたも、背景のおかげで、この作品が含蓄のある作品に仕上がっていたといえるでしょう。

■《母と子》から見えてくる、ロンドンでの学び

 百武兼行はロンドンではじめて、油彩画を学びました。前回、ご紹介しましたが、ロンドンで師事していたのは、風景画家のリチャードソン・ジュニア(Thomas Miles Richardson, Jr. 1813-1890)でした。鍋島直大の胤子夫人とともに、週1回、公館に来てもらって、公務の合間に、指導を受けていたのです。

 今回、取り上げたこの作品は、リチャードソンから学びはじめて約2年後の作品です。そして、《バーナード城》とほぼ同時期に描かれました。

  《バーナード城》 に大きな進展がみられていたように、百武は、風景画については、わずか2年間でさまざまなことを習得していました。とくに、見たままの自然の風景の中から、必要な要素を引きだし、再編成して組み合わせ、作品を強化する手法を、確実に身につけていたように思えます。

 たとえば、《バーナード城》では、流れゆく川面の波頭を際立たせ、砂州の小石を丁寧に描いていました。波頭や小石に着目し、その存在を観客の目に留まるように描いていたのです。そうすることによって、悠々と流れる時、あるいは、無常観といったものへの関心を観客の心のうちに呼び覚ましていたのです。

 この作品に、西洋の風景を描きながら、日本的情感を感じさせられるのは、百武のそのような工夫のせいでした。

 《バーナード城》 の空いっぱいに広がる雲の表現も、《母と子》と同様、ボリューム感溢れるものでした。こちらも、おそらく、シルバー・ホワイトで厚塗りしていたのでしょう。この雲の存在感が、前景で広がる砂州と川の流れの存在感と拮抗しており、画面に緊張感を生み出していました。

 このように、モチーフの組み合わせと構図によって、画面に緊張感を生み出し、作品を構造的に堅牢なものにするという点で、《バーナード城》と《母と子》の背景には類似性がありました。

 こうしてみると、百武はどうやら、リチャードソンから学びはじめて2年後には、油絵の技法を獲得していたことがわかります。さらに、作品の強度を高める構図、あるいは、作品に情感を盛り込むための着眼点などを、自分なりに会得していたのではないかという気がします。

 《母と子》の背景部分を見ると、風景画家から学んだ成果以上のものが表出しているように思えます。まず、背景として選んだ風景が、メインモチーフを活かせるように再構成し、工夫の跡が見られました、さらに、背景を二分し、双方が拮抗して画面に緊張感を持たせることによって、その構造を堅牢なものにする工夫もされていました。

 リチャードソンの作品と比較しなければ、明言はできませんが、これらは、いずれも百武独自の着眼点のような気がします。

 さらにいえば、母と子の傍らに犬を配して画面構成したところに、百武のバランス感覚が感じ取れます。人物表現については未熟であるとの自覚があったのでしょう。

 一方、動物については素描や油彩画作品が何点か残されていました。画題として取り組み始めていたようで、それなりの手応えを感じてもいたのでしょう。だからこそ、メインモチーフの絵として不十分なところを補うように、犬を添えていたのだと思います。

 それにしても、背景としての風景は、確かに、稚拙なメインモチーフを支える機能を果たしていました。背景を色調で二つに分割し、その緊張感がメインモチーフを引き立てるように構成されていたのが見事でした。

 さり気なく、そして、洗練された方法で、背景としての風景が、メインモチーフの造形的欠陥を補っていたのです。百武のセンスの良さ、学識の高さを思わずにはいられません。

(2023/8/31 香取淳子)