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絵画

マクシミリアン・リュス ⑥ピサロと第8回印象派展

 カミーユ・ピサロは印象派の画家として認知され、長く活動していました。ところが、自分の画風になかなか自信が持てないでいました。ルノワール、モネ、セザンヌなどに比べ、自分の絵は地味で、人々の購買意欲をそそらないと思い込んでいたからでした。ピサロが生きた19世紀末といえば、市民階級が台頭し、美術市場の担い手として大きな存在になりつつあった頃だったのです。

■悩み、模索し続けるカミーユ・ピサロ

 1885年6月、カミーユ・ピサロは、画商ポール・デュラン・リュエルに次ぎのような手紙を書き送っていました。

 「小さな油彩画を制作し始めている。明るく輝くものが描きたいのだ。つまり、光と闇の境界線にできるだけせまりたい。それは簡単なことではないよ」(※ クレール・デュラン=リュエル・スノレールClaire Durand-Ruel Snollaerts)著、 遠藤ゆかり訳『ピサロ―永遠の印象派―』創元社、2014年、p.56.→以下、『ピサロ』と略称)

 デュラン・リュエルは1883年5月に初めてピサロの個展を開催してくれた画商でした。

 この文面からは、ピサロが依然として、自身の制作課題を、明るく輝くものを描き、光と闇の境界線に迫ることだと考えているのがわかります。その後、さまざまに試みても、おそらく、思い通りにはならなかったのでしょう。「簡単なことではないよ」という言葉の中に、意気消沈している彼の様子が目に浮かびます。

 デュラン・リュエルの画廊で初めて個展を開催してから、早や2年が経過していました。

 そういえば、1883年5月の個展開催前も、ピサロは息子のリュシアンに手紙を送り、同じような内容の不安を訴えていました。

 こうしてみると、どうやら、「明るく輝くものが描きたい」という思いはまだ達成されていなかったようです。果たして、彼はどのような作品を描こうとしていたのでしょうか。

 今回はまず、彼の絵の何が問題なのか、どう改善しようとしていたのか、どのような画家との出会いがあったのか、といったようなことを踏まえ、印象派画家として認知されていたピサロの苦悩や動揺を見ていきたいと思います。

 そこで、1885年以前の作品の中から、ピサロが明るさと輝きを求めて描いたと思われる作品を探したところ、《ルーアンのナポレオンふ頭》が目につきました。

 どのような作品なのか、見てみることにしましょう。

●カミーユ・ピサロ(Camille Pissarro)制作、《ルーアンのナポレオンふ頭》(Quai Napoléon, Rouen, 1883年)

 1883年に、ルーアンのナポレオンふ頭を描いた作品です。

(油彩、カンヴァス、54.3×64.5㎝、1883年、Philadelphia Museum of Art所蔵)

 大きく広がる青空から陽光が降り注ぎ、水面に反射しています。空も川面も明るく描かれ、空と川が渾然一体となって溶け合うように見える中で、橋が一つの境界線として両者を区切っています。画面右手には大きくカーブするふ頭が描かれ、その下には船が何艘も停泊しています。

 確かに、色遣いが以前よりも明るくなっています。空といい、川面といい、遠景の建物といい、淡い色彩同士を組み合わせ、モチーフをしっかりと描きながらも、画面全体に明るさを醸し出す工夫がされています。

 これが、失意のどん底に沈んだピサロがさまざまに試行して、到達した一つの境地なのでしょう。望んでいたように、画面が明るく、軽やかになっています。

 ところが、ピサロのもう一つの願望である輝きが表現されているとは言い難いのです。陽光を受けた川面はもっとキラキラと輝いていてもいいはずなのに、それが表現されておらず、広い空のどこかに、雲の隙間から洩れる光が捉えられていてもいいのに、そうなっていないのです。

 そもそも陽光の輝きを表現するために編み出されたのが、パレットで混色せずに直接、カンヴァスに絵具を置いて描く筆触分割法でした。印象派の画家たちが考え付いた画法です。

 ところが、この作品は、いかにも印象派風に描かれているにもかかわらず、光の輝きが感じられず、どちらかと言えば、明るいのにくすんで見えるのです。

 よく見ると、不自然に見える箇所もあります。船の描き方が画一的で興を削いでいるばかりか、舳先に使われたホワイトが強すぎて、違和感があります。おそらく、ピサロ自身もこの作品には満足できなかったのではないかという気がします。

 ただ、正面中ほどに見える橋と右手の建物、そして、手前に大きくカーブする埠頭や数本の杭など、モチーフの配置には、縦横の直線、曲線が巧みに組み合わされた興趣があります。しかも、快い安定感があります。

 引いて画面を見ると、大きな比重を占める空と川には雲や波がもたらす動きが感じられ、安定した構図の中で静と動がバランスよく配分されていることがわかります。素晴らしい画面構成です。

 興味深いことに、この作品には点描の兆しが見えます。空や川面、埠頭の際に生えた草の描き方に、筆触や色の配置に配慮した痕跡が見受けられます。「明るく輝くものを描く」ためにピサロが模索していた痕跡といえるのかもしれません。

■スーラから得た刺激

 画商デュラン・リュエルに制作上の悩みを吐露していたピサロは、1885年、たまたまアルマン・ギョーマン(Armand Guillaumin, 1841-1927)のアトリエで、ポール・シニャック(Paul Victor Jules Signac, 1863 – 1935)と出会いました。そこで、彼の友人スーラの科学的方法について知らされたのです。それを聞いた途端、ピサロはたちまち引き付けられ、是非ともスーラに会ってみたいと希望しました。

 同年10月になって、スーラ(Georges Seurat, 1859 – 1891)に会うことができ、ピサロは直接、その理論を詳細に聞くことができました。納得したピサロは、すぐさま、色彩の同時対照に基づく筆触分割法を学び、実践していきました(※ 前掲。黒田光彦、p.88.)。

 スーラはアメリカの物理学者オグデン・ルード(Ogden Rood,  1831-1902)の『近代色彩論』のフランス語訳やフランスの化学者ウジェーヌ・シュヴルール(Michel-Eugène Chevreul, 1786-1889)の『色彩の同時対比の法則』を読んだ上で、光学理論を応用して絵具の使い方に適用させていました。

 具体的にいえば、モチーフを小さな点の集合で描いていくという手法です。こうして描かれたものは、一定の距離を置いて眺めてみると、点の集合はひとかたまりの色を作り、光の揺らぎを表現することができるというわけです。

 先ほどご紹介した作品もそうですが、1880年代に入ってから、ピサロは、こまかいタッチを重ねて描く方法を試みていました。スーラの理論を受け入れる素地がピサロにはあったといえます。

 だからこそ、スーラの理論に出会い、カミーユ・ピサロは進むべき方向を確信したのでしょう。ようやく課題を解決し、失意から立ち直るきっかけを掴んだといえます。

 この時、スーラは26歳、カミーユ・ピサロは55歳、そして、息子のリュシアン・ピサロは22歳でした。自身の画法に自信を失っていたとはいえ、ピサロは、親子ほど年齢差のある若いスーラに、画法の教えを請うたのです。

 おそらく、当時のピサロはそれだけ深く、自身の画法に悩んでいたのでしょう。もちろん、老いてなお、30歳も年下の画家から新しい絵画理論を学ぼうとする意欲が失われていなかったこともあります。

 以後、ピサロは熱心にスーラの理論を周囲に説いて回り、自身でも積極的に筆触分割法、時には、点描法で制作を進めていきました。

 ピサロは、印象派の仲間たちに比べ、スーラたちの方が「科学的」だと評価していました。さらに、「私個人は、この芸術のなかに進歩があると確信しており、いつか途方もない成果を生み出すと考えている」とまで語っています(※ 『ピサロ』、前掲、p.59.)

 ピサロは、スーラの理論には印象派を超えたものがあり、科学的に構成されているからこそ、今後、素晴らしい芸術の進歩につながるだろうと考えていたのです。

 それでは、ピサロが筆触分割法で描いた作品をご紹介していきましょう。

■筆触分割法によるピサロの作品

●カミーユ・ピサロ作、《Meadows at Eragny》(1886年)

 カミーユ・ピサロがはじめて筆触分割の手法で描いたのがこの作品です。

(油彩、カンヴァス、60×74㎝、1886年、南オーストラリア州立美術館所蔵)

 タイトルは“Meadows at Eragny”で、「エラニーの牧草地」という意味です。筆触分割の手法で描かれているせいか、確かに、これまでの作品と比べ、画面が明るく、輝いて見えます。

 先ほど見た《ルーアンのナポレオンふ頭》とは輝きが全く異なります。

 空は淡いピンク、白、水色、ブルーを使って鮮やかに描かれており、そこから葉や草むらに落ちる陽光が輝いて見えます。葉の先に置かれたオレンジ色、黄色、紫、白などが、弾むような躍動感を生み出しています。光と影が色相環を踏まえ、はっきりと表現されているからでしょう。ピサロのこれまでの作品にはない斬新さが感じられます。

 1886年、さらに、《庭にいる母と子》(Mother and Child, in the Garden)という作品を描いています。

●カミーユ・ピサロ制作、《庭にいる母と子》(1886年)

 母親が庭の戸口を開けると、子どもが振り返りながら外に出ていくシーンが捉えられています。農村のほのぼのとした日常風景の一端が、柔らかい陽射しの中で表現されており、小さな幸せが感じられます。

(油彩、カンヴァス、41×32㎝、1886年、個人蔵)

 なんとも言えない柔らかさと温もり、そして、優しさに満ち溢れた画面です。あらゆるモチーフが、細かく区切られた色彩を構成要素として表現されているからでしょう。これまでの作品にはなかった輝きが随所に見受けられます。筆触分割法の効果でようやく、ピサロが願った「明るい輝き」を手に入れたことがわかります。

 この作品は、第8回印象展に出品されました。ところが、画期的な画法で制作されていたにもかかわらず、ほとんど注目されませんでした。

■第8回印象派展

 新理論を提唱するスーラとシニャックに、第8回印象派展に出品するよう呼び掛けたのは、カミーユ・ピサロでした。

 カミーユ・ピサロは第1回から第8回まで、すべての印象派展に出品したただ一人の画家でした。人望も厚く、印象派展の開催には大きな力を持っていました。

 1885年12月、ピサロの熱心な働きかけに応じてスーラは、印象派展の新たな展開についてピサロやモネと懇談しました。彼らは印象派展に自身の作品を出品できるかどうかを検討していたのです。長い議論の末、新しい点描主義の作品だけを一室に隔離して展示するという条件の下で、出品が認められました(※ 黒江光彦、前掲。p.88)。

 古参のカミーユ・ピサロが尽力したからこそ、スーラ、シニャック、リュシアン・ピサロなどの若手画家が、第8回印象派展に出品することができたのです。点描主義を世に知らせるという点で、ピサロは若い世代の芸術活動に大きな役割を果たしたといっていいでしょう。

 第8回印象派展は、一日450人ぐらいの観客が訪れたといわれています。印象派展最後となった展覧会ですが、観客動員数はこれまでの印象派展とあまり変わりませんでした。そして、スーラの作品がすぐさま巷の話題になったわけでもありませんでした。

 当初は、批評家も点描派の画家に大した注意を払わなかったようです。実際は、彼らの作品をどう評価していいかわからなかったのかもしれません。

 スーラはこの時、《グランド・ジャット島の日曜日の午後》(Un dimanche après-midi à l’Île de la Grande Jatte)を出品しました。

(油彩、カンヴァス、207.5×308.1㎝、1884-86年、シカゴ美術館所蔵)

 この作品はその大きさといい、実験的な画法といい、人々をおおいに驚愕させました。精緻に組み立てられたスーラの理論に基づく作品世界は、確かにこれまでの美術界にはないものでした。

 興味深いのは、グランド・ジャット島に遊びに来ているというのに、描かれている人々は皆、静かで、動きが感じられないということでした。まるで生気が抜き取られているかのようです。描かれている人物や動物だけでなく、木々や空、川でさえも動きを止め、画面に固定されているように見えます。すべてが整然とした秩序の中に収められているのです。

 冷静に、客観的に描かれているからでしょうか、観客は作品に感情移入することもできず、ひたすら見つめているだけです。純色のまま点の状態にして絵具を配置し、モチーフを形作り、画面構成しているからでしょうか。奇妙な魅力を放つ作品でした。

 この作品が発表された時、批評家のフェリックス・フェネオン(Félix Fénéon, 1861-1944)は、諸理論を踏まえ、独自に考案した画法で描かれたスーラの作品について、科学的で革新的で、印象派には見られない体系性があると述べています。

 ちなみに、シニャックは《婦人帽子店》(The Milliners, 1886年)を出品しています。

(油彩、カンヴァス、116×89㎝、1885-1886年、チューリヒ・ビュールレ財団所蔵)

 よく見ると、床や壁、そして、俯いてハサミを拾おうとしている女性の肩など、一部に筆触分割法が用いられていますが、それ以外の箇所はそうではありません。スーラの理論を推奨しながらも、シニャック自身はまだ点描法を会得していなかったようです。とはいえ、この作品が印象派の作品でないことは明らかでした。

 彼らの作品はいずれも、印象派展に出品された作品としてはあまりにも異質でした。

 しかも、スーラ、ピサロ、シニャックはそれぞれ、点描法、筆触分割、一部筆触分割といった具合に、スーラ理論の習熟度にも差異がありました。とはいえ、これだけの作品が一か所に展示されたのですから、インパクトがありました。

 最後の部屋にまとめて展示されるようにしたのはピサロだったようですが、まとめて展示されることによって、観客に分割画法をアピールする絶好の機会となったのです。

 画家や画商からは評判がよくなかった新しい画法でしたが、一部の評論家からは高く評価されていたようです。

 たとえば、評論家のフェリックス・フェネオン(Félix Fénéon)はスーラの作品を見て感銘を受け、雑誌“L’ART MODERNE”(1886年9月19日号)上で激賞しています。

 フェネオンはさらに、印象派の画家たちについて、彼らはすでに色彩分割を行っているが、恣意的に行っているだけなので、科学的で精密な体系化が必要だと指摘しています。(※ 永井隆則、「新印象主義」、『世界美術大全集』第23巻、1993年、小学館、pp.235-236)

 そして、フェネオンはスーラ理論に基づいて制作した一連の画家たちを、「新印象派」と名付けました。「新印象派」とネーミングされたことによって、その後、点描主義が一躍、注目を浴びるようになりました。

■ピサロは若い世代に何をもたらしたのか。

 第8回印象派展で画期的な働きをしたのが、カミーユ・ピサロでした。点描画法を実験的に試行していたスーラやシニャックを、美術界の表舞台に引っ張り出したのです。

 当時、まだ点描法は人々から認知されていませんでした。それにもかかわらず、印象派画家として名を成していたカミーユ・ピサロは、彼らの作品を印象派展に出品させたばかりか、自身も点描主義を標榜し、実践しはじめました。その結果、彼は、画家仲間たちからも、世間からも理解されず、評判を落としてしまいました。

 積極的に点描法を推進した結果、ピサロは関係者から反発され、ついには生計を脅かされる羽目に陥ってしまったのです。それまではピサロに好意的だった画商のデュラン・リュエルでさえ、点描画法で制作した彼の絵をごくわずかしか買いませんでした(『ピサロ』、前掲、p.61)。

 点描画法に転向したピサロは、どんな言い訳も通用しないほど、大きなリスクを背負い込むことになりました。それでもピサロは屈することなく、次々と点描画法で作品を仕上げていきました。スーラの理論を周囲に推奨するだけではなく、自身も積極的に点描主義を実践していったのです。

 ピサロは高齢でありながら、真摯に点描画法に取り組みました。その姿勢に刺激を受けたシニャックもまた、急速に点描画法で制作するようになりました(※ 黒江光彦、前掲。p.88)。

 若い世代のグループに入り込んだピサロはこのようにして、率先して、点描画法で制作しながら、若い画家に影響を与え、新しい芸術運動を推進していったのです。

■ピサロにとっての点描法

 それでは、ピサロは点描法によって何を得、何を失ったのでしょうか。

 点描法という新しい絵画技法を世に押し出す上で、ピサロが大きな力となったことは確かです。ところが、その一方で、彼は画家や画商、世間から批判され、作品が売れなくなってしまうほどのリスクを被りました。

 果たして、ピサロは点描画法を使うようになって、何を得たのでしょうか。はたまた、念願だった画風の改善はできたのでしょうか。

 まずは彼が点描法を会得し、実作を重ね始めた時期の作品をご紹介しましょう。

●《耳の聞こえない女の家とエラニーの鐘楼》(La Maison de la sourde et le Clocher d’Éragny)、1886年制作

 ピサロは1884年に、パリ郊外のエラニーに転居していました。タイトルから想像すると、そこの隣家に聴覚障碍の女性が住んでいたのでしょう。彼女が庭仕事をしている光景を描いた作品です。

(油彩、カンヴァス、65.09×80.96㎝、1886年、インディアナポリス美術館所蔵)

 明るく輝かしい陽光が辺り一面に射し込み、のどかで平和な暮らしの一端が巧みに描かれています。これまでのピサロには見られなかった太陽の煌めきが画面に溢れています。点描法の成果といえるでしょう。

 この作品を見ていると、ピサロが悩みぬいた自身の画風の欠点が克服されているように見えます。モネやルノワールのような派手な輝きはありませんが、落ち着いて、心に深く沁みこむ輝きがあり、見ていると、気持ちが豊かになっていくような気がします。

 手前右に木陰を描き、ほとんどのモチーフを中景から遠景にかけての範囲内に配しています。モチーフの大小、曲線や直線の形状を踏まえて、レイアウトし、動きがあって、しかも安定した構図を組み立てています。これまで通り、ピサロらしい考え抜かれた構図で、素晴らしいと思います。

 それに加え、この作品には色彩の深さ、調和、バランスなども秀逸です。自身の得意なところを踏まえ、点描画法の特性を活かして素晴らしい作品に仕上がっていると思います。

 さらに、第8回印象派展に出品した後、1888年に描き直した作品があります。《窓からの眺め》というタイトルです。

 この作品は実際は1886年に描かれたのですが、ピサロは描き直した上で、制作年を1888年に変更したと言われる作品です(※ 『ピサロ』、前掲、p.60)。

 ●カミーユ・ピサロ制作、《La vue de ma fenêtre》(1888年)

 《窓からの眺め》(La vue de ma fenêtre)というタイトルの作品です。

(油彩、カンヴァス、65×80㎝、1888年、オックスフォード、アシュモレアン博物館所蔵)

 当時、カミーユ・ピサロが住んでいた家の窓から外を眺めた風景画です。庭を見下ろすと、女性が働いており、屋外に視線を移すと、バザンクール村へと続く草原が広がっています。牧歌的な農村の日常生活が、抑えた筆致で捉えられています。

 先ほどの作品よりもさらにスーラの理論の忠実に描かれています。

 点描画法のせいでしょうか、画面からは生き生きとした躍動感は感じられません。生気が抜き取られたかのようです。安定感のある構図の下、ひたすら静寂で平穏、平和な世界が表現されていました。

 ピサロはその後も点描法で描き続けました。

 点描派を標榜しながらも、ピサロにはまだ迷いがあったのかもしれません。同時期に描かれた作品には、もう少しラフに、スーラ理論から逸脱して描かれたものがあります。

 《エラニーでのリンゴの収穫》です。

●カミーユ・ピサロ、《エラニーでのリンゴの収穫》(La récolte des pommes à Éragny)1888年制作

 《エラニーでのリンゴの収穫》(La récolte des pommes à Éragny)は、ピサロの点描画作品の中で、代表的なものだといわれています。

(油彩、カンヴァス、60.9×73.9㎝、1888年、Dallas Museum of Art所蔵)

 一見、いかにもスーラ理論に充実な点描法で描いた作品に見えます。ところが、よく見ると、畑の部分は点、木の幹は短い線、男性のシャツは小さな十字形で描かれています。スーラやシニャックが点しか使わなかったのに対し、ピサロは自己流の点描法で描いていたのです。

 この作品のためにピサロは多くのデッサン、方眼紙を使ったグアッシュ画、油彩による下絵など、入念に準備したといわれています(※ 『ピサロ』、前掲、p.56)。

 興味深いことに、ピサロはこの時期、画商デュラン・リュエルに次のような手紙を書き送っています。

 「油彩画やグアッシュ画を制作するのに、3~4倍の時間がかかっている。困っているよ」(※ 『ピサロ』、前掲。p.60)

 ピサロはスーラの理論に惚れ込み、その技法を完璧に会得していました。ところが、忠実に実践しようとすれば、限りなく時間がかかってしまうことがわかってきました。終にピサロは、4年間、熱中した点描画法を投げ出してしまったのです。

 その理由として、ピサロは次のように述べています。

 「束の間の感覚に従うことが出来ない、生命感や動きを与えることができない、自然の変化に富んだ効果に従うことが出来ない、自分のデッサンに個性を与えることができない、等々から私は断念せざるをえなかった」(※ 『ピサロ』、前掲、p.64)

 こうしてピサロは点描法から離れることになりましたが、その後も新印象派の画家たちとは親密な関係を続けました。1891年3月29日にスーラが突然、亡くなった時、「これは芸術にとって大きな損失だ」といい、激しい衝撃を受けていました(※ 『ピサロ』、前掲、p.65)。

 点描法を放棄しても、理論を組み立てたスーラは高く評価していたのです。

 1891年4月1日、ピサロは息子のリュシアンに向けて、次のような手紙を書いています。

 「昨日、スーラの葬儀に行ってきた。シニャックがこの大きな不幸に打ちのめされていた。おまえのいうことは正しいと思う。点描主義はもう終わりだ」(※ 『ピサロ』、前掲、p.128)

 そして、シニャックに対しては何度も点描技法をやめるよう忠告しています。

 1894年1月27日にシニャックに宛てた手紙の写しを息子のリュシアンにも送っていますが、それを見ると、次のような文面でした。

 「手法そのものが良くないのだと思います。この手法は役に立つどころか、硬直化と冷たさをもたらします」(※ 前掲、p.129)

 手法とは点描技法のことです。ですから、点描技法は硬直化と冷たさをもたらすとわざわざ手紙でシニャックに警告しているのです。いったんはのめり込んでみたものの、離れてみると、ことさらにその欠点が目につくのでしょう。とはいえ、ピサロが感じていることは私も同感です。

 スーラの《グランド・ジャット島の日曜日の午後》を見てもわかるように、点描法を厳密に使うと、モチーフを硬直化させ、画面からモチーフの動きや体温を失わせてしまうのです。だからこその魅力もあるのですが、どのような画題にも適用できるものではないということをピサロはいいたかったのかもしれません。

■新印象派の画家たちとピサロ

 息子のリュシアン・ピサロとリュス、ゴーソンらは、ラニー・シュル・マルヌで点描主義運動を展開するとともに、Salons des Artiste Indépendantsに参加し、結束を固めていました(※ “Maximilien Luce et Léo Gausson”, Silvana, 2019, p.19.)。

 カミーユ・ピサロもまたラニーの小さな町でリュスやゴーソン、カヴァッロペドゥッツィらとの交流を楽しみ、庇護者としての役割を果たしていました(※ 前掲)。点描画法と出会うきっかけとなったラニー派との関係も深めていたのです。

 ピサロは新印象派の画家の中でもとくに、自分と同じようにアナーキズムの思想をもっていたリュスやゴードンらと好んで親交を結んでいました(※ 『ピサロ』、前掲、、p.57)。

 リュスについてピサロは、1895年4月11日、息子リュシアンに次のような手紙を向けて送っています。

 「リュスは運が悪い。ふたつの海の間を漂っている。(略)彼の強さ、厳しさ、少し粗野な面をつくっていたものは消えてしまった。残念だ」(※ 『ピサロ』、前掲、p.129)

 突如、スーラが亡くなり、拠り所を失ってしまったリュスを、ピサロは心配していたのでしょうか。あるいは、自分は点描法から抜け出したのに、リュスがまだ点描法で書き続けていたことを、年長の画家として危惧していたのでしょうか。

 リュスはスーラが亡くなった後もしばらく、点描法で描き続けています。19世紀末の科学主義の時代、点に還元してモチーフを形作って画面を構成する点描法は時代の動きに敏感な画家には馴染みがよかったのかもしれません。

 点描主義、点描法に惹かれた画家たちにはどういう特性があったのでしょうか、ふと、気になってきました。(2022/4/30 香取淳子)

マクシミリアン・リュス ⑤ピサロはなぜ、ラニー派に参加したのか。

 ゴーソンやリュス、ペドゥッツィらがラニー派を結成した頃、リュシアン・ピサロとその父親であるカミーユ・ピサロ(Camille Pissarro, 1830-1903)もこのグループに参加しました。当時、彼はすでに印象派の画家として認知されていました。それにもかかわらず、どういうわけか、息子とほぼ同世代の若いグループに加わって、点描主義を標榜し始めたのです。

 一体、なぜなのでしょうか。

 今回は、カミーユ・ピサロは、なぜラニー派に参加したのか、その背景について考えてみたいと思います。

■風景画家としてのカミーユ・ピサロ

 年表でピサロの略歴を振り返ってみると、1868年から1870年まで彼は毎年、サロンに入選していることがわかりました。風景画家として一定の評価を得ていたのです。

 1871年には、画商ポール・デュラン・リュエル(Paul Durand-Ruel, 1831 – 1922)が絵を2点購入してくれるほど、評価が高まっていました(※ 『ピサロ/シスレー/スーラ』年表、集英社、1973年)。

 モネとともに美術館を回り、イギリス風景画を研究していたのもこの頃でした。

 1872年にピサロは、パリ近郊のポントワーズ(Pontoise)に定住しました。ポントワーズにはオワーズ川が流れ、美しい田園風景が広がっています。ドービニー、セザンヌ、ゴッホ、カイユボットなどの画家たちが好んで住むようになり、印象派の拠点になっていました。ピサロにとってよほど居心地が良かったのでしょう、その後、17年間もここに住み続けました。

 ピサロはここに転居してからというもの、セザンヌ(Paul Cézanne, 1939-1906)と共に、頻繁に風景画を描いています。

 彼らが当時、同じ場所で描いたポントワーズの風景画があります。ご紹介しておきましょう。

●カミーユ・ピサロ(Camille Pissarro)制作、《Orchard with Flowering Trees, Spring, Pontoise》、1877年

 爽やかで心地よい、春の風景が捉えられています。

(油彩、カンヴァス、65.5×81㎝、1877年、オルセー美術館所蔵)

 巨木を中心に画面が左右に分割されています。太くて黒い幹は高くそびえ、その両側からは多くの枝が伸び、それらの枝先には無数の白い花が咲いています。やや引いて見ると、まるで巨木の先端を頂点とする三角形のように見えます。

 上に伸びる枝、下に垂れる枝、手前に張り出した枝、それぞれの枝先には白い花が咲き、さまざまな曲線を創り出しています。

 一方、木々の背後に建ち並ぶ建物からは、さまざまな直線が印象づけられます。三角の先端部、四角い窓、台形の屋根など、いずれもくっきりと描かれ、画面に起伏を生み出しています。

 直線や斜線、曲線を活かした見事な構図です。おかげで、開花期の瑞々しさや爽快感がリズミカルに捉えられています。

 見上げれば、青い台形の屋根、濃紺の先端部、オレンジ色の窓枠、白い壁などがそれぞれ、小さいながらも存在を主張し、曇った空を背景にはっきりと刻み込まれています。視線を落とすと、辺り一面、白い花が目を射るように乱舞しています。

 白い花々や建物の白壁、そして、空を覆う白い雲が、前景、中景、遠景に分散して配置され、画面に統一感と爽やかさがもたらされています。白を基調に、オレンジや青を差し色にして画面構成されています。

 興味深いのは、白い花に形の大小、色の強弱をつける一方、さまざまな筆触によって、画面に動きを生み出し、風のそよぎを感じさせていることでした。春の訪れと爽やかな息吹が加味されています。

 巧みな構図と色遣いで春の訪れが繊細に、そして、リズミカルに描かれていました。

 一方、色彩の力で精彩を放っているのが、セザンヌの作品です。

●ポール・セザンヌ(Paul Cézanne)制作、《Le Jardin de Maubuisson, Pontoise》1877年

 ピサロと同じ時、同じ場所で描かれた作品です。セザンヌは、はっきりとした色彩で、やや荒っぽく、ポントワーズの風景を捉えています。

(油彩、カンヴァス、50×61㎝、1877年、個人蔵)

 ピサロと違って、手前の木々はまばらで細く、小さく、存在感がありません。木々の背後にみえる建物は、細部までしっかりと描かれているわけではありませんが、色彩に精彩があります。モチーフの捉え方はおおざっぱで、何をメインに描こうとしているのかは曖昧ですが、鮮やかな色彩とその荒っぽい筆触が印象的です。

 このように、同じポントワーズの風景を描いても、ピサロとセザンヌには大きな違いがありました。

 両者を比較すると、建物はほぼ同じでしたが、手前の木々が大きく異なっていました。ピサロは画面真ん中に巨木を配置し、その木をメインに、周辺に枝や花々を散らし、三角形を構成するような構図でした。おかげで画面に安定感と瑞々しい華やぎがもたらされていました。

 一方、セザンヌの方は、木々が貧弱で、しかも、畑の草と木の葉に色彩の区別がありません。建物はやや丁寧に描かれていますが、その下の畑や木々の描き方が雑なのです。中ほどの木に白いものがいくつか見えますが、ひょっとしたら、白い花なのでしょうか・・・?

 比較してみると、セザンヌは見たものから受ける印象に従って、思いつくまま、自由に描いているように見えます。そのせいか、画面はまだ制作途中、あるいは、習作のように見えます。

 その結果、ピサロの作品で捉えられていた繊細さや春の華やぎは、セザンヌの作品にはなく、色彩と筆触による力強さばかりが強く印象づけられます。

 ピサロはおそらく、見たままの風景をできるだけ写実的に捉えようとしながらも、メリハリのある構図を創り出すために多少、修正していたのかもしれません。同じ場所で描いた両者の作品を見比べてみて、改めて、風景の捉え方の個性が感じられます。

 おそらく、この違いの中にピサロの作品の本質の一つが示されているのでしょう。

■評論家からの批評

 1880年頃、ピサロは自分の作品に満足できず、悩んでいました。というのも、美術評論家でありコレクターでもあったシャルル・エフルッシ(Charles Ephrussi, 1849 – 1905)からの批評を気にしていたからでした。

 エフルッシは1880年、「ピサロ(の絵)は鮮やかな色で堅苦しく描く。彼の描法によると春や花も陰鬱になり、空気は重くなる・・・」と評していました。それを知ったカミーユ・ピサロはすっかり自信をなくしていたのです。(※ 黒田光彦「作家論:ピサロ/シスレー/スーラ」、『現代世界美術全集20』、p.87. 集英社、1973年)

 エフルッシは果たして、ピサロのどの作品について、上記のように批評していたのでしょう。

 気になって、調べてみました。

 1880年に批評したことがわかったということは、それ以前の作品を見て、そのような評価を下したことになります。そこで、1880年以前の作品の中から、春、あるいは花を画題にして描いた作品を探してみました。

 すると、《果樹園》(Orchard in Bloom, Louveciennes, 1872年)というタイトルの作品を見つけることができました。

 果たして、エフルッシの批評は納得できるものだったのでしょうか。この作品を見てみることにしましょう。

●カミーユ・ピサロ(Camille Pissarro)制作、《果樹園》(Orchard in Bloom, Louveciennes, 1872年)

 果樹の花が一斉に開き、華やいだ春のひとときを捉えた光景です。

(油彩、カンヴァス、45.1×54.9㎝、1872年、National Gallery of Art所蔵)

 青空には真っ白の雲が浮かび、その下に枝いっぱいに白い花をつけた木が、正面に描かれています。よく見ると、画面奥の方まで、木々が立ち並んでいます。春というよりは初夏の気配が感じられます。これらの花はやがて実となって、人々を楽しませてくれるのでしょう。

 華やかな季節のはずなのに、どういうわけか、画面全体がくすみ、どんよりとしています。

 地面には木の影が濃く刻み付けられており、陽射しの強さが示されています。まばゆいばかりの光が辺り一面、降り注いでいるはずですが、画面から煌めきは伝わってきません。むしろ、乾いた土、生気のない花や木々の方が強く印象づけられます。

 果樹の下で作業をしている男性と女性の姿が小さく描かれていますが、ハイライトを差して、人物を際立たせることはされていません。そのせいか、彼らの姿に開花期を迎えた喜びは感じられず、労苦ばかりが強く印象づけられました。弾むような春の息吹を、画面から感じることはできませんでした。

 これでは、エフルッシが「春や花も陰鬱になり、空気は重くなる・・・」と評したのも無理はないと思ってしまいます。

 この作品は、カミーユ・ピサロが、1874年に開催された第1回印象派展に出品した風景画5点のうちの一つでした。この作品は、注目され、他の印象派の作品と比較される場に展示されていたのです。

 同じ時期に描かれた風景画をもう一つ、見てみることにしましょう。

●カミーユ・ピサロ(Camille Pissarro)制作、《白い霜》(Gelée blanche, 1873年)

 田畑なのでしょうか、原っぱなのでしょうか、全体が群青色の縞模様で覆われています。一体、この縞模様は何なのかと気になってしまいます。なんとも奇妙な光景です。

 タイトルを見ると、《白い霜》です。この縞模様に見えるものによって、おそらく、一面に白い霜が張った様子が表現されているのでしょう。

(油彩、カンヴァス、65.5×93.2㎝、1873年、Musée d’Orsay所蔵)

 タイトルを見て、それから、画面の手前右下に所々、白い小さな塊が描かれているのを見て、ようやく、霜が張った状態が描かれているのだということがわかります。

 右側だけで十分、わかるのに、左半分にも均等に縞模様が描かれています。ピサロは律義にも、ほぼ同じ間隔で、似たようなラインを野原全体に引いているのです。その結果、リアリティが損なわれ、奇妙な絵になっていまいました。

 左半分の縞模様はもっと薄くして目立たなくするか、いっそのこと白を淡く載せるだけでよかったのではないかという気がします。

 興味深いのは、傾斜のある小道を農夫が柴を背負って歩いている姿が、画面半ばに描かれていることです。おそらくストーブの燃料にするのでしょう。この人物を配することによって、画面が引き締まり、ストーリー性のある構図になっています。

 もし、タイトル通り、白い霜が張っているように描かれていれば、この人物を画面半ばに配したことの効果が画面に表れ、趣き深い作品になっていたことでしょう。 

 先ほど見た《果樹園》といい、この《白い霜》といい、せっかく季節の特徴を捉えた画題を扱いながら、表現すべきところが表現されておらず、省略すべきところが省略されていないため、画面に精彩がなくなってしまっていることがわかります。

 改めて、エフルッシの言葉が思い出されます。

 彼は、「ピサロ(の絵)は鮮やかな色で堅苦しく描く」と評していました。当時のピサロの作品を見たところ、確かに批評通りでした。

 《果樹園》では鮮やかな白色を乱舞させながら、輝きを生み出すことができず、《白い霜》では明るく鮮やかな色を使いながら、意味不明の縞模様によって、画面を硬直させているだけでした。

 おそらく、ハイライトを置いて画面に精彩を加えることをせず、また、観客の想像に任せればいい箇所まで、律義に描いてしまっていたからでしょう。その結果、画面が堅苦しく硬直し、観客が興趣を感じる余地が削がれていました。

 それでは、カミーユ・ピサロ自身、エフルッシの批評をどのように受け止めていたのでしょうか。

■個展開催を控えたピサロの不安

 ピサロは画家には珍しく、頻繁に、友人や息子に宛てて手紙を書いていました。手紙を書くことによって、創作につきものの不安や不満を発散し、気持ちの立て直しを図っていたのでしょう。作品批評については特に敏感に反応していました。

 息子に宛てた手紙をご紹介しましょう。

 1883年5月、モネやルノワールに続き、カミーユ・ピサロの個展の開催が予定されていました。画商ポール・デュラン・リュエル(Paul Durand-Ruel, 1831 – 1922)が企画したピサロにとって初めての個展でした。

 個展開催を控え、不安に駆られたカミーユ・ピサロは、息子のリュシアン(Lucien Pissarro, 1863- 1944)に、次ぎのような手紙を書き送っていました。

 「私の作品は、このような輝きのある作品の後では、もの悲しい、大人しい、光沢のないものに見えるだろう」(※ 前掲)

 特異な画風や画題で話題を呼んでいたモネやルノワールに比べ、カミーユ・ピサロは自身の作品が地味で精彩がなく、話題性に乏しいと思い込んでいました。彼らと比較されると、個展の成功が危ぶまれると不安を覚えていたのです。

 この文面からは、先ほどご紹介したエフルッシからの批評がまだ尾を引いており、ピサロの創作意欲に影響を与えていたことがわかります。

 確かに、彼の作品は、モネやルノワールに比べればはるかに話題性に乏しく、地味でした。画風に目新しさがなく、かといって、独自性があるわけでもありませんでした。

 当時、モネは43歳、ルノワールは42歳、そして、ピサロは53歳でした。10歳も若い彼らに、ピサロは気後れするような気持ち、言い換えれば、劣等感のようなものを抱いていたのです。ひょっとしたら、それは、自身の画風を確立するのが遅かったことと関係していたのかもしれません。

■ピサロが気にしたモネとルノワール

 たとえば、モネ(Claude Monet, 1840年11月14日-1926年12月5日)は30代半ばで画風を確立していましたし、ルノワール(Pierre-Auguste Renoir, 1841年2月25日-1919年12月3日)も30代後半には独自の画風を確立していました。画題にしろ、画風にしろ、両者には若いころから確固たるものがあったのです。

 それでは、モネやルノワールが、どのような作品を描いていたのかを見てみることにしましょう。

 同世代のモネとルノワールは20代後半の頃、何度か一緒に郊外に出かけ、イーゼルを並べて絵を描いていたことがありました。

 探して見ると、1869年にパリ郊外のセーヌ河畔の行楽地、「ラ・グルヌイエール」(La Grenouillère)で描いた作品が見つかりました。モネが29歳、ルノワールが28歳の時の作品です。

 ブージヴァル(Bougival)はセーヌ川岸にあり、19世紀後半、印象派の画家たちが集って絵画を語り合い、絵を制作していた行楽地でした。そのセーヌ河畔の行楽地に、水上カフェのある水浴場「ラ・グルヌイエール」(La Grenouillère)があります。

 1869年の夏、モネとルノワールはそこでイーゼルを並べ、絵を描いたといわれています(※ 『印象派美術館』、小学館、2004年)。

 両者の作品を見比べてみることにしましょう。

●クロード・モネ(Claude Monet)制作、《ラ・グルヌイエール》(La Grenouillère)、1869年制作

 まず、モネ(Claude Monet, 1840-1926)の作品から見てみることにしましょう。

(油彩、カンヴァス、66×86㎝、1869年、ストックホルム国立美術館所蔵)

 画面を見た途端に印象づけられるのは、手前から画面中ほどまで描かれている川面です。さざ波を立ててゆったりと揺らぐ様子が、深く、陰影のある色合いで描かれています。左から右にかけての水面の動きには、穏やかで深淵な自然の息遣いが感じられます。

 向こう岸に立ち並ぶ木々は、褐色に近い淡い緑色で描かれています。荒っぽく言えば、濃い緑色で描かれた水面とは補色関係になっているのです。

 ボートが何艘か浮かんでいますが、いずれも舳先を円形の出島に向け、ほぼ同心円上に停泊しています。岸辺からの細い橋、水上カフェからの橋とも連結しており、この円形の出島がこの絵のメインモチーフに位置づけられています。

 淡い色で描かれた遠景の木々、手前左上から垂れ下がる暗緑色の枝、そして、濃淡に所々、補色の橙色を散らした水面によって、陽光が煌めく行楽地のひとときが見事に捉えられています。モチーフの配置といい、色彩バランスといい、味わい深い作品に仕上がっています。

 考え抜かれた構図の下、行楽地で楽しむ人々が俯瞰で捉えられています。人と自然が悦楽の中で調和するよう描かれているのです。

 一方、ルノワールは人物に力点を置いて、同じ場所を描いていました。

●ルノワール(Pierre-Auguste Renoir)制作、《ラ・グルヌイエール》(La Grenouillère)、1869年

 この作品で、まず、観客の目が行くのは、円形の出島でしょう。そこに着飾った男女が大きな木の下で所狭しとばかりに集っており、華やかな賑わいが画面から立ち上っています。

(油彩、カンヴァス、99.7×74.5㎝、1869年、メトロポリタン美術館所蔵)

 左側には白い帆をつけたヨットが浮かび、右上にはボートに乗った人々がこのリゾート地を楽しんでいる様子が描かれています。泳いでいる人もいれば、談笑している人もいて、さまざまな愉楽、悦楽の様相がスケッチされており、画面に賑わいをもたらしています。

 よく見ると、左手前のボート、女性のドレス、水上カフェの庇や柱、遠景の木々などに、わずかにオレンジ色が差し色として添えられています。全般に淡く明るい色で構成された画面に、この差し色を添えることによって、華やかな画面の中に穏やかさと暖かさがもたらされていたのです。

 同じ場所でイーゼルを並べ、同じ対象を描いているのに、モネとルノワールの作品には明らかな違いが見られました。

 どのモチーフに力点を置くのか、構図をどうするか、色彩のバランスをどうするか、差し色をどの程度使うのか、等々、それぞれの作品を比較すると、画家としての個性がはっきりと画面に反映されていました。

 《ラ・グルヌイエール》は、モネにとっても、ルノワールにとっても、まだ画風を確立する前の作品です。それでも画面のそこかしこに、後年の画風を読み取ることができます。20代後半の作品ですでに、それぞれの個性が確立され始めていたことがわかります。

 これらの作品を取り上げ、紹介している動画がありましたので、ご紹介しましょう。

こちら → https://youtu.be/2iSmHoV__qw

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 ラ・グルヌイエールはミドルクラスを対象としたパリ郊外のリゾート地でした。当時、人々は休日になるとここに来て、ボートを漕いだり、カフェで会話を楽しんだりしていました。

 モネとルノワールは共に、ブルジョワジーの生活を描いた作品に関心を抱いていましたから、このリゾート地は、恰好の画題だったのです。ここで彼らが共に、印象派のスタイルでブルジョワジーの生活の一端を捉えた作品を制作したのは当然の成り行きでした。

 さて、動画では、ボートや木々、人々の描き方について、両者の違いが指摘されていました。改めて、画家としての資質、個性の違いが感じられます。

 私はモネの作品には、考え抜かれた色遣いが秀逸だと思いました。まず、川面の動きが光と影の下、深みのある色でくっきりと描かれているのに惹かれました。さらに、手前の水面を際立たせるように、遠景の水面や背景の木々が黄褐色を交えた色で表現されていることに興味深く感じました。

 ボートの側面や波の合間に散らされたオレンジの差し色も効いています。多様な色を使いながら、補色関係を踏まえ、画面全体の色彩バランスが図られており、素晴らしいと思いました。

 一方、ルノワールの作品は、パステル調の色遣いがすでにこの頃から際立っていたのが印象的です。

 いずれも、彼らがまだ若く、夢を追っていた頃の作品です。興味深いのは、動画の中でプレゼンテーターが、彼らが金銭的成功を収めるのは、この数年後だと言っていたことでした。実際、その後、彼らの作品は多くの人々に受け入れられ、成功しています。

 モネとルノワールの作品を見ると、いずれも、すでにこのころから、ブルジョワジーを魅了する要素を秘めていたことがわかります。

■市民の意向が反映される美術市場

 思い返すのは、カミーユ・ピサロは息子宛ての手紙の中で、モネやルノワールの個展の後では、自分の作品が見劣りするのではないかと書き記し、深刻に悩んでいたことでした。

 ピサロが息子に手紙を出した頃、モネやルノワールはすでに多数の観客の注目を集める画家になっていたのでしょう。

 そこで、調べてみると、クロード・モネの個展が1883年2月に開催されていました。場所は画商デュラン・リュエルが新しくマドレーヌ通りで開いた画廊でした。そこで、初期から最近作までの56点が展示されました。

 展覧会についてはピサロなどの批評は好意的でしたが、作品の売れ行きは悪かったようです。評判に反し、売れ行きが悪いので、モネはデュラン・リュエルに対し、展示方法や作品の選択、宣伝方法について激しく非難したそうです。(※ http://philatelic-art.com/Impression/Monet/nenpu_mo.htm

 美術市場が広がり、上流階級だけではなく、市民階級までも顧客となり始めた時代でした。たとえ批評家や画家たちから作品が高く評価されたとしても、作品の売れ行きがいいとはいえなくなっていたのです。

 もちろん、作品の売れ行きが悪くては、画家や画商にとって個展が成功したとはいえません。モネがデュラン・リュエルに対し、出品作品の選択、展示方法、宣伝方法などについて文句をいったのは、画廊側に売る為の戦略が欠けているように思えたからでしょう。

 その後、1か月を経て、1883年4月に開催されたのが、ルノワールの個展でした。この時もモネと同様、デュラン・リュエルが新しくマドレーヌ通りに開いた画廊で開催されました。初期作品から最新作まで約70点が展示されました。

 ルノワールは1878年から1881年まで毎年、立て続けにサロンに入選していました。当時、サロンに入選することは一般大衆にとって、その作品の評価を保証するものでした。購入意欲に大きく影響していたのです。

 ピサロは当時、アマチュア画家のウジェーヌ・ミュレへの手紙の中で、「ルノワールはサロンで大成功をおさめた」と記し、「貧乏はとても辛いですから」と書き添えています。(※ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AB%EF%BC%9D%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%AE%E3%83%A5%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%8E%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AB

 このことからも、サロンで入選すれば、売れ行きの保証になっていたことがわかります。立て続けにサロンに入選したルノワールは、マルセル・プルーストからも激賞され、以後、肖像画の注文が大幅に増えていきました。

 そして、1883年5月に同画廊で開催予定だったのが、ピサロの個展でした。

 ピサロがこの時期、思い悩んでいたのも無理はありませんでした。サロン入選者であり、著名作家からも激賞され、しかも、ブルジョワジーの嗜好に合う作品を描いていたルノワールの個展直後の開催だったのですから・・・。

 当時、新興ブルジョワジーの台頭とともに、美術市場に変化が訪れており、売る為の戦略が必要になりつつあったのです。

 デュラン・リュエルが買い上げた画家のトップはルノアールで1500点、次いでモネ1000点、そして、ピサロ800点、シスレー400点の順でした。新しく開いた画廊で彼らの個展を所蔵数の順に開催したのは当然でした。画家たちのお披露目を兼ねていたのです。ちなみに、シスレーはピサロの後、同年6月に個展を開催しています。

 パリで新しく開いた画廊で、デュラン・リュエルは印象派の画家たちの個展を立て続けに開催しました。作品の売れ行きなどから、彼はおそらく、新しい時代の動きを察知したのでしょう。その後、美術市場の開拓のため、アメリカでの印象派展を企画しました。

 1886年4月から5月にかけて彼はニューヨークで印象派展を開催し、大成功を収めました。パリ・モンマルトルに集っていた画家たちが創始した新しい芸術運動を、画商デュラン・リュエルが世界に認知されるきっかけを作ったのです。

 美術市場を取り巻く一連の動きの中で、ピサロはどのような思いでいたのでしょうか。

■ピサロはなぜ、ラニー派に参加したのか。

 ピサロは初めての個展開催を控え、1880年のエフルッシの批評を気にしていました。確かに、第1回印象派展に出品された、1872年の作品を見ると、その批評は決して的外れなものではありませんでした。指摘されるような要素は確かにあったのです。

 ただ、その後、ピサロの画風は大幅に改善されています。

 たとえば、1877年にセザンヌと共に、同じ場所で描いた風景画では、画面に鮮やかさが生み出され、ぎこちなさが消えて、優雅な華やぎさえも醸し出されていました。ピサロがエフルッシの批評を気にしていたからこそ、その後、画風を変えたのでしょう。

 ただ、根幹部分は変わっていないように見えます。

 彼の作品をいくつか見てくると、絵としてまとまっていますが、大胆さに欠け、写実の基盤から大きく逸脱することが出来ないように思えるのです。とくに、色遣いや色構成が平板に見えます。そのせいか、構図の取り方は巧みなのですが、それが観客に対する訴求力に活かされておらず、魅力に乏しいのです。

 そのような絵の特質がおそらく、ピサロの自信のなさ、焦りに繋がっていたのではないかと思います。

 折しも、新興ブルジョワジーの台頭とともに、顧客の意向や嗜好が絵の売れ行きを左右し始めていました。

 親しくしていたモネ、ルノワール、セザンヌなどが特徴のある画風で注目を集めていたのに対し、ピサロの画風は地味でした。しかも、彼自身、まだ確固たる信念の下、納得できる画風を築き上げることができていませんでした。

 そんな頃、ピサロは息子リュシアン・ピサロを通して、ラニー派を知りました。当時、ピサロが置かれていた状況を考えれば、印象派として知られていた彼が突如、若い世代のグループに参加したのも、当然のことのように思えてきます。

 スーラに会って話を聞き、彼が提唱した「点描」画法に、ピサロは引き込まれました。それは、印象派が辿り着いた「筆触分割」画法をさらに徹底させ、光学理論を取り入れた、画期的な科学的画法でした。

 すでに50半ばを過ぎていたピサロは、若い仲間とともに点描画法にのめり込んでいきました。

 その背景には、画家としての不安や焦りばかりではなく、必要であれば、新しいものを積極的に取り込んでいこうとする進取の気性が介在していたと思います。時代が大きく変わろうとしていた時期でした。(2022/3/23 香取淳子)

マクシミリアン・リュス ④ラニー派と呼ばれた頃

 カロリュス・デュランなど著名な画家の下で学ぶ一方、同輩との交流を通して、リュスは美術界の新しい潮流に触れていきました。ラニー=シュル=マルヌで生まれ、育ったゴーソンとの出会いは新しい潮流に乗るきっかけを作ってくれました。今回はラニー派と呼ばれた頃のリュスとその仲間たちの初期作品を見ていきたいと思います。

■ラニー=シュル=マルヌで生まれ、育ったゴーソン

 1876年頃、木版画家フロマンの仕事場でリュスは、風景画家レオ・ゴーソン(Léo Gausson, 1860-1944)や、エミール・ギュスターヴ・カヴァッロ・ペドゥッツィ(Émile-Gustave Cavallo-Péduzzi, 1851-1917)と出会います。彼らはやがて、親しく交流するようになりました。

 知り合った時、リュスが18歳、ゴーソンが16歳、ペドゥッツィが25歳でした。画家を目指す若者たちはたちまち意気投合し、折に触れ、絵画について語り合うようになっていきます。

 当時、ゴーソンはパリ郊外のラニー=シュル=マルヌに住んでいました。パリ中心部から26.1km離れた東部マルヌ県に位置し、マルヌ川が静かに流れているところです。彼はここで生まれ育ちました。

こちら → https://hrvwiki.net/Wikipedia_L%C3%A9o_Gausson

 ゴーソンのキャリアを見ると、まず国立装飾芸術学校の夜間教室に通い、彫刻を学んでいます。ところが、リュスと出会った頃にはすでに絵画に転向し、風景画を描くようになっていました。

 スペイン出身の地元の画家Antonio Cortes (1827-1908)から、バルビゾン派について聞いていたといいますから、彼が風景画を描くようになっていたのは、その影響を受けていたからかもしれません。

 バルビゾン派とは、フォンテンブローの森を中心に集まって制作していた画家たちの総称です。彼らは1830年代から1870年代にかけてフランスで活動し、自然主義的な観点から風景画を写実的に描くのが特徴でした。

 それまでは背景としか見なされてこなかった風景を、彼らはメインモチーフとして取り上げ、ありのままに描きました。そのような制作姿勢が当時、台頭してきた市民階級の共感を呼びました。バルビゾン派の登場に伴い、美術市場では風景画への需要が高まっていきました。

 ゴーソンが彫刻から風景画家に転向したのは当然のことだったのかもしれません。

 生まれ故郷であるラニー=シュル=マルヌにはマルヌ川が流れ、周辺には緑豊かな田園風景が広がっていました。画家たちが景色を鑑賞し、題材を探すには恰好の土地だったのです。

 当時はおそらく、人々の気持ちをほっと落ち着かせ、和ませる光景がいたるところに見られたのでしょう。現在も景観を保つために行政が枯れ葉の処理をし、それを腐葉土として再利用して緑の保護に取り組んでいます。

こちら → https://www.lagny-sur-marne.fr/cadre-de-vie/environnement/ville-verte/

 リュスは一時期、この地を訪れ、ゴードンやペドゥッツィらと共に過ごしたことがありました。

 リュスが最初に滞在したのは1876年ですが、その後も頻繁に、ラニー=シュル=マルヌを訪れていたようです。兵役から戻ってきてからは、1885年の夏と1887年の夏、ゴーソンに会いに来ています。

 1885年といえば、この時期、ゴーソンは自身の絵画に新たに科学的な技法を導入しようと考えており、その思いをしたためた長い手紙をエミール・ゾラに書いていました。

こちら → https://lagny-sur-marne.wiki/lsm/L%C3%A9o_Gausson

 一方のペドゥッツィは、1884年に初開催されたアンデパンダン展に出品した後、数年間は毎年、展覧会に出品しています。(※
https://lagny-sur-marne.wiki/lsm/%C3%89mile-Gustave_Cavallo-P%C3%A9duzzi )

 こうしてみると、ゴーソン、ペドゥッツィはいずれもこの時期、意欲に燃えて、新た強い画法に取り組もうとしていたことがわかります。

 そこにリュスが加わり、3人はともに周囲を散策してはモチーフとなるスポットを渉猟し、時には共通の関心事である風景画について語り合い、また、時には、新しい画法を議論して過ごしていました。

 1885年、彼ら3人にルシアン・ピサロ(Lucien Pissarro, 1863 – 1944)が加わり、4人はラニー派を結成しました(※ https://lagny-sur-marne.wiki/lsm/Groupe_de_Lagny)。

 ラニーの景色を題材に絵を描きながら、折に触れて、スーラ―が考案した新しい画法について議論し、その画法を試行していたのです。

 当時、彼らはどのような絵を描いていたのでしょうか。

 調べてみると、1885年に描かれたリュスとゴーソンの作品を見つけることができました。彼らがラニー=シュル=マルヌのどこに着目して制作したのかがわかります。それぞれ、見ていくことにしましょう。

●リュス制作、《ラニー周辺の風景》(1885年頃)

 のどかな田園風景が広がっています。リュスが1885年頃に描いた作品で、タイトルは《ラニー周辺の風景》です。

(油彩、カンヴァス、44×57.3㎝、1885年頃、ホテル・デュー美術館)

 手前に広がる草地に所々、黄色の花が咲いています。その上に穏やかな陽光が伸び、心和むような風景が広がっています。画面には右に大きな木、左側にはやや小さな木が立ち並び、画面全体のバランスがとてもよくレイアウトされています。

 草地の背後には赤褐色の屋根、白い壁の家が立ち並び、和やかに暮らす人々の生活を彷彿させます。家々の下には道路なのでしょうか、白い線が横に伸び、画面をバランスよく切り取っています。

 この作品に私は少し違和感を覚えてしまいましたが、それは、空が灰色がかった色で描かれていたからでした。

 大きな木、小さな木々に光が射し、草地にも明るい陽光が伸びています。これだけの太陽の光が射しているなら、空の色がこれほど暗いはずはないと思ったのです。家々の屋根といわず、壁といわず、明るい光が射し込み、白く光っています。その下の小道も同様です。

 それなのに、なぜ、空がこれほどまでに暗いのでしょうか・・・。いまにも雨が降って来そうなほどどんよりとした色合いにせいで画面の整合性が失われています。

 リュス自身、後年になって、そのことに気づいたのではないかと思います。

 1887年に友人のジョルジュ・タルディフ(Georges Tardif)に宛てた手紙の中で、この空の色について不満を記しているのです。(※ “Maximilien Luce et Léo Gausson”, Silvana, 2019, p.17.)

 はじめてラニーを訪れて以来、リュスは何度も出かけてはラニー周辺を散策し、画題となる場所を探していました。おそらく、陽光の中で輝く風景を捉えたかったからでしょう。

 この作品の木々や草地、家々の描かれ方と、空の色に対するリュスの不満からは、当時、彼が陽光の恵みを感じさせる明るさを求めていたことが感じられます。

 一方、ラニーで生まれ育ったゴーソンは同時期、マルヌ川を捉えた風景を描いています。

●ゴーソン制作、《ラニー、マルヌ川の洗濯船》(1885年)

 リュスの《ラニー周辺の風景》と同時期に描かれた作品です。ゴーソンが取り上げたのは、マルヌ川の橋げた近くの洗濯船でした。

(油彩、カンヴァス、46×65㎝、1885年、ガティエンボネ美術館)

 マルヌ川の対岸から、橋桁近くの洗濯船が捉えられています。画面の大半は、波打つマルヌ川の川面で占められています。

 興味深いのは、手前の岸辺の草が黄褐色で明るく輝き、その輝きが川の中ほどで、煌めく川面に呼応していることでした。これによって、左手前から中ほど中央へと観客の視線が誘導されます。

 さらにその先の対岸には、家々が建ち並び、その屋根や壁もまた、射し込む光によってひときわ明るく輝いています。雑草が風にそよぐ岸辺からマルヌ川を経て対岸の建物へと、降り注ぐ陽光によって、画面に統一感が生み出されています。そのせいか、この作品には、陽光がもたらす恵みへの憧れが感じられます。

 ところが、空はどんよりとし、岸辺や川面、家々の屋根や壁に落ちる明るい陽射しに呼応していません。この作品でも、空の色が不釣り合いに暗く、画面の整合性を失わせています。

 画面の下半分を占めるモチーフが、さまざまな形で太陽光を巧みに取り入れて表現されているのに反し、その光を発しているはずの空がアンバランスに思えるほど暗いのです。

 先ほどご紹介したリュスの作品も、空の色はどんよりとして暗く、違和感がありました。同時期に描かれたゴーソンの作品も同じように暗いということからは、ひょっとしたら、ラニー=シュル=マルヌの空自体、実際にこのような色だった可能性が考えられます。

 さて、この作品のタイトルは《ラニー、マルヌ川の洗濯船》です。うっかりすると、見落としてしまいそうですが、タイトルからは、ゴーソンが描いていたのは、マルヌ川の橋桁近くの洗濯船だったと思われます。

 確かに、橋桁近くの川辺に何かが見えます。ひょっとしたら、これが洗濯船なのかもしれませんが、よく見ても、すぐにはわからないほど、対岸の風景の中に沈み込んでしまっています。

 目を凝らして画面を見ると、屋根付きの船が対岸に何艘か、停泊しているのがわかります。はたしてこれが洗濯船なのかどうか、よくわかりません。そこで、調べてみると、1923年以前とされるマルヌ川の洗濯船を撮影した写真が見つかりました。

 写真撮影されているぐらいですから、当時、地元の人々にとっては馴染みの光景であり、生活風景の一つだったのでしょう。ラニー生まれのゴーソンにとってはとりわけ、欠かせない画題だったのかもしれません。

 洗濯船について、さらに調べてみると、動画が見つかりました。これを見ることで具体的にこの船の機能がわかり、当時の人々の生活の一端を知ることができました。

こちら → https://youtu.be/fZU1SPdIqPc

 1969年に撮影された映像です。川に停泊させた船の中から、中高年女性たちが腰をかがめて、川の水でごしごしと力を込めて洗っているのです。数多くの衣類を際限なく洗濯する女性たちの姿を見ていると、非常に辛い仕事であることがわかります。

 このような写真や映像を見た上で、改めてゴーソンの作品を見ると、彼がなぜ、この画題を選んだのかがわかるような気がしてきました。空がどんよりと描かれているのも、決して不自然ではなく、彼女たちの気持ちが反映されたもののように思えてきます。

 ゴーソンの作品を一見すると、単なる風景画にしか見えませんが、タイトルにこだわって、画面を見直してみると、実は、美しい風景の中に、過酷な労働の現場が捉えられていることに気づきます。

 この作品からは、ゴーソンが科学的な画法だけではなく、社会的課題についても関心を抱いていることが示唆されています。

 同時期にラニー=シュル=マルヌを描いたペドゥッツィの作品を、見つけることができませんでした。1888年頃に当地で描かれたと思われる《Les lavandières》を見つけることができましたので、ご紹介することにしましょう。

●ペドゥッツィ制作、《Les lavandières》(1888年頃)

 タイトルの“lavandière”は、洗濯女という意味です。この作品に何故、こんなタイトルが付けられているのか、すぐにはわかりませんでした。

(油彩、」カンヴァス、45.8×38㎝、1888年頃、所蔵先不詳)

 この作品を見て、まず、印象に残るのは、真正面に見える白い建物です。手前右から小さな道が小川を超えて伸び、遥か遠くの白い建物にまで続いています。まるで観客を誘導していくかのように、この小道は小川や周囲の草むら、そして、傾斜地に建つ建物の前の塀のようなものまで、案内しながら見せてくれます。

 画面中ほどには、葉を落として幹だけになった木々が数本、高く聳え立っている様子が描かれています。これらの木々はのどかなこの景観を縦に区切るだけではなく、その奥行きと広がり、高さを感じさせる一方、大きく広がる空の存在に気づかせてくれます。

 改めて空を見ると、淡い水色、ピンク、クリーム色で色構成されているのが印象的です。画面半分ほどの面積を占める空の下、たなびく雲の合間から射し込む陽光が、辺り一面を柔らかく、暖かく包み込んでいます。

 点描画法と淡いパステル調の色遣いで描かれた画面はなんともいえず優しく、見る者を穏やかな気持ちにさせてくれます。

 一見、風景画にしか見えませんが、タイトルは「洗濯女」です。不思議に思い、画面をよく見ると、左前景に蛇行する小川の縁で女性が洗濯している様子が描かれています。

 点描画法で描かれているので、気づきにくいですが、手で洗濯ものを掴み、川の水で洗っている女性の様子がわかります。

 そういえば、ゴーソンもまた、洗濯をテーマに、《ラニー、マルヌ川の洗濯船》を描いていました。当時、洗濯がどれほど大変な仕事だったのか、ゴーソンやペドゥッツィの作品からは、洗濯が女性に課せられた大変な労働の一つだったことがわかります。

 風景画の中にさり気なく、洗濯する女性を描いたゴーソンやペドゥッツィの制作姿勢に、彼らの社会観や芸術観、絵画に求める社会性が透けて見えてきます。

 それにしても、なんとユニークで興趣のある構図なのでしょう。

 高く伸びた木々が創り出す縦の線、建物群が建つ坂の左に下がる斜めの線、それに呼応するように、長い雲が右に垂れさがった斜めの線、この二つの斜線は画面をはみだした外側で交差していそうです。細い小道は「く」の字状に折れ曲がり、手前から奥に流れる小川は緩く蛇行し、柔らかい曲線を創り出しています。

 縦線や斜線、曲線がモチーフを繋ぎ、画面に奥行きと広がり、動きと活力をもたらしています。そればかりではありません。点描法による描き方とパステル調の色遣いが、風景の中にさり気なくモチーフを配置した構図と見事にマッチして相乗効果を上げ、画面から爽やかで快い雰囲気が醸し出されているのです。

 ゴーソン、リュス、ペドゥッツィ、ルシアン・ピサロがラニー派を結成したのが1885年、それからわずか3年で、この作品が点描法で描かれているのが興味深く、ペドゥッツィがこれ以前にどのような作品を描いているのかが気になって、調べてみました。

 すると、1880年にラニーの光景を描いたと思われる《Les toits de chaume》というペドゥッツィの作品を見つけることができました。

●ペドゥッツィ制作、《Les toits de chaume》(1880年制作)

 “Les toits de chaume”は、「藁ぶき屋根」という意味です。この作品も《Les lavandières》と同様、風景の中に人物を配置した作品です。

(油彩、カンヴァス、83.5×61.3㎝、1880年、所蔵先不明)

 ペドゥッツィは1880年に母を亡くし、7月に結婚して11月にはラニーに引っ越しています。(※ https://fr.wikipedia.org/wiki/%C3%89mile-Gustave_Cavallo-P%C3%A9duzzi

 ラニーに転居した頃に描かれているので、この作品はおそらく、ラニーの風景を描いたものでしょう。日が落ちる前の陽光が画面左に並ぶ藁ぶき屋根に反射しています。正面奥に見える石造りの建物から続く小道を女性が荷車を押して、こちらに向かってきています。

 この女性はペドゥッツィ母親の追憶の姿なのでしょうか、それとも、結婚したばかりの妻なのでしょうか。描かれた女性は荷車を押して何かを運んでいます。《Les lavandières》と同様、女性が働く姿が、風景の中に溶け込むように描かれています。

 藁ぶき屋根の家、周辺の草むら、背後の木々など、この作品のモチーフのほとんどが暗褐色、暗緑色がで描かれています。そのため、画面が暗く、一見、モチーフを識別しがたいのですが、屋根の縁、小道の際など、要所要所に明るい色がハイライトとして配されているので、画面の暗さはむしろこの作品を深める効果をもたらしています。

 1880年に描かれたこの作品には点描画法の片鱗も見えません。むしろクールベのような写実主義の作品に見えますし、ピサロのような印象派の作品にも見えます。ペドゥッツィはこの時期、まだ画風を確立していなかったのでしょう。

 ただ、風景の中に働く女性を配置するという点、淡いパステル調の色調の中に雲がどんよりと垂れこめている空が描かれ、その空の面積が画面のほぼ半分ほどを占めているという点など、1888年に描かれた《Les lavandières》と1880年に描かれた《Les toits de chaume》には共通性があります。

 これがおそらく、ペドゥッツィが好む画題なのでしょうし、画風なのでしょう。

 《Les toits de chaume》は夕刻の光景が情緒豊かに描き出されています。右の木の奥から淡い陽光が水平に射し込み、藁ぶきの屋根の傾斜部分を照らしています。荷車を押しながら帰路に就く女性を添えることで、残照に照らし出された農村の一光景が輝いて見えます。

 この作品が描かれたのが1880年、ペドゥッツィが29歳の時の作品です。このころはまだ印象派風の画風でした。リュスと出会って4年経っていますが、まだ点描画法の欠片も見えません。ところが、1888年の作品は明らかに点描画法で描かれています。

 ラニー派といわれる彼らはいったい、いつ頃、点描画法を取り入れるようになったのでしょうか。

 ちょうど1885年頃、ゴーソンらのグループに、カミーユ・ピサロとリュシアン・ピサロの親子が参加しました。カミーユ・ピサロ(Camille Pissarro, 1830-1903)は当時、ラニー派の画家たちに、自身が惹きつけられているスーラの理論と画法を説いていたといいます。

 それにしても、印象派の画家として名を成していたカミーユ・ピサロがなぜ、ゴーソンらのグループに参加したのでしょうか。(2022/2/28 香取淳子)

マクシミリアン・リュス ③リュスは何故、デュランの画法に倣ったのか。

 前回書きましたように、リュスが描いた《オクタヴィアおばさんの肖像》(1880年)は、一見、デュランの《母の肖像》(1876年)と遜色のない、見事な出来栄えでした。ところが、どういうわけか物足りなさを感じさせられたのです。

 一体、何に引っかかりを覚えたのでしょうか。

 そこで、今回はまず、なぜ、私がリュスの作品に物足りなさを感じたのか、その理由を探ることから始めたいと思います。

■リュスの《オクタヴィアおばさんの肖像》(1880年)vs デュランの《母の肖像》(1876年)

 リュスの《オクタヴィアおばさんの肖像》の場合、まず、印象に残るのは、肌の艶の良さです。光と影を意識し、ハイライトを多用しているせいか、高齢者の肌にしては艶が良すぎるような気がします。

(油彩、カンヴァス、77.9×66.7㎝、1880年、ホテル・デュー美術館所蔵)

 確かに、加齢はしっかりと顔貌に刻み込まれています。額の皺、目の下のたるみ、そして、鼻の両側から口角の外側にほうれい線といった具合に、明暗を意識した色遣いで、老いの諸相が丁寧に捉えられています。

 正面を見据える目は、瞼を支える筋力が重力に負けて垂れ下がり、瞳の面積が小さくなっています。そして、向かって左側の目は充血しており、血管がもろくなった高齢者特有の現象が的確に描かれています。顔面のどこからも「老い」を見逃さず、見事なまでに表現されているところに、リュスの観察力の鋭さを感じさせられます。

 顔貌に現れた老いは逐一、捉えられ、光と影を意識して色表現されています。まるで実物を目の前にしているかのような錯覚に陥ってしまいます。写実的で、躍動感に溢れた描かれ方をしているせいでしょうか、老いてなお元気で暮らしている様子がうかがい知れます。

 一方、デュランの《母の肖像》の場合、額の皺やほうれい線など、老いの様相が細かく描かれているわけではありません。どちらかといえば、ラフなタッチと色遣いで顔貌の「老い」がさり気なく、表現されています。

(油彩、カンヴァス、サイズ不詳、1876年、オルセー美術館がサントクロワ美術館に寄託)

 光と影を意識して描かれていますが、ハイライトは鼻先に少し置かれている程度です。それだけに、全般に肌に艶がなく、萎んで見えます。脂っ気のない高齢者特有の肌が際立って見えるのです。

 萎んだ肌、くぼんだ眼窩から静かにこちらを見つめる視線、そして、歯の一部が欠けているのではないかと思えるような口元、それらが一体となって、老いと孤独、寂寥感を強く感じさせます。

 こうして見比べてみると、デュランの作品の方が、はるかに優れた表現力を感じさせます。両者とも光と影を意識して高齢者の顔貌を描いているのですが、ハイライトの置き方で、これだけの違いが出ているのです。

 一方は表面的な老いをきめ細かく描くにとどまり、他方は内面の老いを深く描くことができているように思えます。

 両作品に見られる大きな違いは、肌の艶でした。

 ハイライトを多用し、肌の艶を写実的に表現したリュスは、おそらく、そのせいで、内面の「老い」を描くことができませんでした。枯れる、萎びるといった要素を表すことができなかったからだと思います。

 肖像画では、明るく、きめ細かな肌、生き生きとした肌の艶、さらには、顔を引き立てるための衣装、等々が一般的です。デュランの肖像画のほとんどがそうでした。おそらく、その技法に倣って、リュスは《オクタヴィアおばさんの肖像》(1880年)を仕上げたのだと思います。

 一方、それまでの画風とは違って、デュランが写実的に仕上げたのが《母の肖像》でした。艶もなく、萎んで見える肌が、内面の老いを深く描き出していました。

 デュランの数多くの作品の中で、リュスが影響されたのは、この《母の肖像》だとされています。ところが、興味深いことに、この作品に刺激されて制作した《オクタヴィアおばさんの肖像》(1880年)は、デュランがこれまで肖像画で採用していた画法だったのです。

■明るく、きめ細かな肌、顔を引き立てる衣装

 デュランのさまざまな肖像画を見てくると、画力が秀でているばかりか、モデルの魅力を最大限に引き出す技術に長けているといわざるをえません。モデルから美しさ、品格、あるいは、威厳を引き出し、それを的確に表現する技能に卓越したものがあるのです。依頼者からはさぞかし喜ばれたことでしょう。

 果たして、デュランは何に留意して肖像画制作に臨んでいたのでしょうか。

 肖像画家として人気のあったデュランが心掛けていたのが、明るく、きめ細かな肌であり、モデルの顔を引き立てる衣装であり、構図でした。

 たとえば、《フェドー夫人の肖像》(Portrait de Madame Ernest Feydeau)という作品があります。デュランが1870年に制作された作品で、こちらは、いかにも肖像画といった趣があります。

 この作品にはデッサン、色味を確認するためのラフスケッチなどが残されています。デュランがどのように肖像画を仕上げていったのか、その過程を追うことができる資料が残されているのです。

■《フェドー夫人の肖像》、その制作過程を見る

●《フェドー夫人の肖像》(1870年)

 この作品は1870年に制作されました。当時、デュランは33歳で、肖像画家として人気が高まっていた頃の作品です。その2年前には画家クロワゼット(Pauline Marie Croizette:1839-1912)と結婚していました。

(油彩、カンヴァス、230×164㎝、1870年、リール美術館)

 黒地の背景の下、妖艶な女性がこちらを向いてかすかに微笑んでいます。毛皮で縁取られた銀色のドレスの光沢が目に鮮やかです。アクセントとして取り入れられたブルーの髪飾り、胸元のリボン、そしてドレスの下からのぞくブルーのペチコート・・・、それらすべてが、上品で華やかなフェドー夫人の美しさを強調しています。

 豪華なドレスの足元には黒の子犬が描かれています。どうやら黒チワワのようです。一般に、チワワは飼い主に忠実な性格をしているといわれていますが、まさにその通りの様子で夫人を見上げています。たくし上げられたドレスの裾から、ブルーのペチコートが露になって、黒い子犬の姿を引き立てています。

 子犬の頭、背中、床を踏む後ろ足は、斜めのラインでつながっており、光沢のあるドレスの斜め下に流れる皺のラインと呼応しています。画面上の流れを生み出し、子犬の視線が行き着くよう計算された構図が秀逸です。

 しかも、縦230㎝、横164㎝の巨大なサイズの作品です。大邸宅でなければ飾ることができませんし、描かれるモチーフもそれなりの重みが必要です。

 夫人の華やかな美しさ、豪華なドレス、優雅な佇まい・・・、それらが一体となって、この大画面に負けない魅力を放っていました。デュランが肖像画家として人気を博していた理由がわかるような気がします。

 調べていくと、この作品を仕上げるまで、デュランが念入りに準備をしていたことがわかりました。まず、デッサンから見ていくことにしましょう。

●デッサン

 克明に描かれたデッサンです。

 モチーフの形状も構図も完成作品とほぼ同じですが、異なる点がいくつかあります。

 まず、背景です。夫人がカーテンの前に立っている構図が採られています。カーテンにそっと手をかけ、顔と身体の隣に黒の空間を作っています。夫人の顔面やドレスを際立たせようとしたのでしょうが、カーテンの存在がはっきりしすぎていて、メインモチーフの豪華さを弱めています。

 次に異なるのが、夫人の体の向きです。デッサンでは、夫人の顔から足元に向けてのラインが比較的まっすぐになっています。とくに、上半身、腹部周りの量感がやや乏しく、権威を感じさせるだけのボリュームが足りません。

 このデッサンを見ていると、持ち上げたドレスの裾の毛皮のラインと、光沢のある布の皺のライン、子犬の背面から足へのラインが呼応するよう、最初から構想されていたことがわかります。

 完成作品とデッサンとを見比べてみると、これら一連の斜めのラインと夫人の顔の傾げ方とが連動しており、上品な仕草の中に見られるややコケティッシュな表情が浮き彫りにされていることがわかります。

●ラフスケッチ

 この作品のために、デュランは色彩をチェックするためのラフスケッチも描いていました。

 ここでは、光と影を意識した色彩構成が試行されています。完成作品と見比べてみると、最初から、髪飾り、胸元の花、ドレスの裾からのぞくペチコートを鮮やかな空色で統一しようとしていたことがわかります。

 肖像画全体の差し色として、ブルーを選んだのです。夫人のイメージに近いからか、全体を上品で落ち着いた雰囲気にしたかったからなのか、暖色ではなく、寒色を選んでいるのです。

 大きな面積を占めるドレスの色は、ブルーの補色である黒みがかったオレンジ色で試しています。一方、襟元、袖口、ドレスの裾を縁取る毛皮はその色に合わせ、焦げ茶色で統一されています。

 さらに、明るく見える箇所、光沢のある個所はアイボリーホワイトを置き、光と影を意識し、その効果を想像しながら、ラフに色構成がされています。

 結果として、ドレスの色は銀色になり、襟元、袖口、裾を縁取る毛皮は黒に変更されています。

 こうして見てくると、克明なデッサンを描き終え、構想を定着させた後もなお、デュランがさまざまに試行錯誤を重ねていることがわかります。一枚の肖像画を仕上げるために、かけた多大な努力に比例し、画面は華やかでありながら、品格のある仕上がりになっています。

 もちろん、デュランは家族の肖像もいくつか描いていますが、こちらも依頼された肖像画と同様、モデルは着飾って、ポーズを決めて画面に収まっていることに変わりはありません。

 ところが、《母の肖像》(1876年)はそれらの肖像画とは一線を画していました。デュランの肖像画に見受けられる新古典主義的要素が見当たらないのです。

 デュランの制作過程の一端を見てくると、どちらかと言えば、リュスの《オクタヴィアおばさん》(1880年)の方が、デュランの肖像画の画法を引き継いでいるように思えます。高齢者をモデルにしながらも、写実的に描かれたその肌艶に生の輝きが感じられるからでした。

■リュスはデュランから何を学んだのか。

 それでは、リュスはデュランから何を学んだのでしょうか。

 《フェドー夫人の肖像》(1870年)の制作過程を、色付けの側面から見ていくと、何故デュランがモチーフに生命を吹き込むことができたのかがわかるような気がします。

 光と影を意識して、モチーフの色構成を綿密に行い、色彩によって動きを生み出し、画面全体の調整を図っていました。だからこそ、二次元の平面画像に生き生きとした生命の輝きを持ち込むことができたのではないかと思います。

 こうしてモチーフに躍動感を与えることができているからこそ、上流階級から人気のある肖像画家になれたのではないかという気がするのです。デュランの手にかかると、二次元の世界に封じ込められたはずのモデルに、三次元の世界の躍動感がもたらされるのです。

 《オクタヴィアおばさん》(1880年)の肌艶の良さを思い返すと、リュスが、デュランの典型的な肖像画の画法を踏まえて描いていたことがわかります。リュスはおそらく、デュランの色遣いの技法を真似たのでしょう。

 ところが、デュランの画法を真似て、《オクタヴィアおばさん》を描きながらも、リュスはデュランの画法を好ましいとは思っていなかったと指摘されています。

(※ “Léo Gausson Maximilien Luce,Pionniers du néo-impressionnisme”, p.14. Silvana, 2019)

 リュス自身、この技法では表面的なリアルさしか捉えられないことに気づいたからかもしれません。

 もっとも、この作品を描くことはリュスにとって、当時、主流だったアカデミズムの教育を受けたのと同等の価値があったようです。

 アカデミー会員であったデュランの指導を受け、その画法を真似ることによって、リュスはしっかりとしたアカデミー教育を受けていることを示すことができました(※ 前掲 p.14. Silvana, 2019)。難しい国立美術学校に入学しなくても、デュランの下で学んだという経歴はそれと同等のキャリアとみなされるメリットがあったのです。

 当時、画家を志す者にとって、アカデミーは美術界の権威でした。

■アカデミーを席巻していた新古典主義

 フランス革命後、サロンにはアカデミーの会員以外も出品できるようになりました。ところが、その後、不適切な絵画が出品されるようになり、アカデミーの改革が行われた結果、審査制度が導入されました。審査員はもちろん、アカデミーの会員です。ドミニク・アングルが新古典主義の正統を受け継ぎ、それに対抗して、ジェリコーやドラクロアなどのロマン主義の潮流も生まれていました。

 市民階級の台頭とともに芸術の大衆化が進み、サロンはやがて、新興市民階級を対象とする作品展示場の様相を呈するようになっていきました。ナポレオン三世の統治下でパリの大改造が行われ、パリはヨーロッパ最先端の文化都市となりました。作品展示場としてのサロンの役割はさらに大きくなり、画家が作品を売るにはサロンでの成功が不可欠になっていったのです。

 ところが、その審査は新古典主義を規範とする保守的なアカデミズムに則って行われました。様々な画風の画家が登場し、美術市場が拡大していたにもかかわらず、審査基準は依然として新古典主義を規範としていたのです。

 マネやモネ、ルノワールといった画家たちが次々と落選し、サロンの審査基準は明らかに市場の動向と合わなくなっていました。バルビゾン派、バティニョール派、印象派などの画家たちが活躍しはじめており、サロンやアカデミーに代表される美術界の権威が失墜して行くのは目に見えていました。

 デュランは美術アカデミーの会員でした。1889年から1900年まで万国博覧会の審査員を務め、1890年には国民美術協会(Société nationale des beaux-arts)の設立に貢献しています。そして、1904年にはレジオンドヌール勲章を受勲し、ローマ賞を受賞していないのに、1905年から1913年までローマのアカデミー・フランスの校長を務めています。

(※ https://www.villamedici.it/en/directors/duran-carolus/

 スペインやイタリアの肖像画の伝統を学び、上流階級の肖像画を数多く手掛けながら、新古典主義の画風を確立していました。デュランはアカデミズムの体制に馴染み、サロンの審査基準そのものであり、当時のフランス美術界の権威の一つでした。

 確かに、デュランが描いた数々の肖像画には、スペインやイタリアの伝統的な肖像画の痕跡が見られます。その一方で、アカデミーの主流である新古典主義の要素も見受けられます。デュランはルネサンス以来の伝統を踏まえ、フランスのアカデミズムの真髄を把握した画家だったのです。

 1880年、アカデミーと美術行政との対立を機に、ついに国家主催のサロンが取り止めになりました。官製のサロンが閉鎖された年に、リュスは、《オクタヴィアおばさんの肖像》を描いています。

■《オクタヴィアおばさんの肖像》1879年作 vs 1880年作

《オクタヴィアおばさんの肖像》(1880年)について、色々調べていくうちに、この作品以外に、リュスはもう一つ、《オクタヴィアおばさんの肖像》を描いていました。描かれたのは1879年、この作品の1年前でした。

 リュスは1879年に《オクタヴィアおばさんの肖像》を描き、気に入らなかったのか、1880年に再び、同じタイトルで制作していたのです。両者のどこがどう違うのか、まずは1879年制作の作品から見ていくことにしましょう。

●もう一つの《オクタヴィアおばさんの肖像》(Portrait de la tante Octavie、1879)

 1879年頃、リュスはもう一つ、《オクタヴィアおばさんの肖像》という作品を描いていることがわかりました。リュスが描いたとは思えないほど、1880年に描かれた作品とは画風が異なっています。とても素朴で、どちらかといえば、稚拙に見えます。別人の作品ではないかと疑ってしまうほどですが、Wikimedia Commonsには、Maximilien Luce – Portrait de la tante Octavieと記されているので、リュスの作品だということは確認されており、保証されています。

(油彩、カンヴァス、サイズ不詳、1879年頃、所蔵先不詳)

 一見、写生風の作品です。

 暗い室内で、高齢女性が椅子に座り、絵のようなものを、身をかがめて覗き込んでいます。膝はひざ掛けで覆われ、近くの暖炉には火があり、テーブルにはポットとティーカップのようなものが置かれています。質素な暮らしぶりですが、寒さをしのげる暖かさはありそうです。粗いタッチのなかに、高齢女性の暮らしぶりが手に取るようにわかる作品です。

 ちょっと気になったのが、暖炉の描き方です。構造的な面に違和感があります。本当にリュスの作品かどうか、疑問に思ったのがこの箇所でした。

 もっとも、これはリュスが21歳の時の作品です。それまで木版画職人としての修業をし、画家になろうと決意してからまだ3年しか経っていません。描き方に稚拙な部分があっても当然といえば、当然でした。

 さて、1879年に描かれた作品は、肖像画というよりも、オクタヴィアおばさんの生活の一端を捉えた一種の風俗画です。

 この作品から推し量れるのが、当時のリュスの画風であり、画力だとするなら、自然主義、写実主義こそ、21歳のリュスが求めていたものだといえるでしょう。この作品からはデュランの影響の片鱗すら見ることはできません。

 当時、クールベ(Gustave Courbet, 1819-1877)、ドーミエ(Honoré-Victorin Daumier,1808-1879)など、日常生活を画題に写実的に描く画家が登場していました。描き方は稚拙ですが、リュスが1879年に描いた《オクタヴィアおばさんの肖像》は、この系統に属する作品のように思えます。

●デュランに影響された《オクタヴィアおばさんの肖像》(1880年)

 リュスが1880年に制作した《オクタヴィアおばさんの肖像》は、モデルが上半身で捉えられ、衣装と顔貌が写実的に描かれています。モデルは観客を正視するアングルで描かれており、まさに肖像画といえる作品でした。肖像画家として人気のあったデュランの《母の肖像》と遜色のない出来栄えだといえるでしょう。

 リュスはわずか1年間で、デュランが得意とする肖像画の骨法を習得していたのです。

 1880年に制作された《オクタヴィアおばさんの肖像》は、デュランの影響が歴然としていました。1979年に描かれた同じタイトルの作品とは大幅に異なっています。画法が異なっているのは当然として、モデルとの距離の取り方、明暗、レイアウト、背景、さらには、対象に対する観察力まで大きな違いが見られるのです。

 同じタイトルでありながら、まるで別々の画家が手掛けたように、異なっています。1880年の作品は、リュスが自分を抑え、デュランを模倣することに徹して、描いたことがわかります。

 そう考えると、1880年に制作された《オクタヴィアおばさんの肖像》の中にこそ、肖像画家デュランからリュスが学んだエッセンスが詰め込まれているはずです。

 果たして、それは何でしょうか。

 その一つはすでに、デュランの《母の肖像》との比較で考えてみました。それは、デュランが肖像画で駆使していた光と影を意識した色構成でした。ハイライトを多用し、生き生きとした肌艶を表現する技法を、リュスはデュランから学び取ったと思われます。

 それでは、1879年の作品との比較で何が見えてくるのでしょうか。調べていると、面白い記事が見つかりました。

 「カロリュス・デュランが対象とする上流階級の肖像画とは対照的に、リュスは労働者階級の肖像を好んだ」と書かれています。

(※ https://ago.ca/agoinsider/unconventional-impressionist

 そのような観点からみれば、リュスがデュランの画風を好まなかった理由がわかるような気がします。リュスの出自を考えれば、労働者階級の生活や人々を描きたいと思うのは当然でした。

 実際、リュスが1879年に描いた《オクタヴィアおばさんの肖像》では、顔貌だけを捉えるのではなく、質素な暮らしぶりまでも捉えられています。肖像画といいながら、リュスは顔貌や衣装だけではなく、その生活背景までも描こうとしていました。日々の営みによって人は生き、考え、感じ、暮らしているという信念に基づくものでしょう。

 リュスは労働者階級の息子として生まれ、モンパルナスで育ちました。1871年のパリコミューンを13歳の時に経験しています。リュスは、働かなければ食べていけない人々の側に立って、世界を観ていたのではないかという気がします。

 一方、デュランはもっぱら上流階級の人々に支持され、人気肖像画家として一世を風靡していました。ものの見方、対象の捉え方が違って当然でした。もちろん、デュランの新古典主義的な画風を好ましいと思っていなかったでしょう。

 それではなぜ、リュスはデュランの下で学んでいたのでしょうか。それについて図説では、次のような興味深い解説が寄せられていました。

 「デュランの教えには必ずしも満足していなかったが、国立美術学校に入学したのと同様の教育を受けることができ、自信をもって絵を描き進めることができた」(※ 前掲)と記されており、デュランの下で学んだことの対外的効果が説明されていたのです。

 アカデミーの会員であり、後に美術界の要職を歴任することになるデュランの下で学ぶことによって、リュスは、当時のフランス美術界の体制に沿って活動していくためのパスポートを得たのです。

 そもそもリュスは、木版画職人として生計を立てていこうとしていました。ところが、技術進化のせいで木版画職人に未来がないと判断し、画家に転向しました。それだけに、美術界の動向に敏感にならざるをえなかったのでしょう。

 リュスは画家への転身を決意すると、デュランのアトリエに入り、油彩画技法を学んでいました。ところが、デュランの下で学びながらも、リュスは必ずしも彼の画法を好んではいなかったそうです。

 図録では、その理由として、デュランがいかにもサロンの画家らしい形式的でオーソドックスな描き方をしていたからだと記されています(※ “Léo Gausson Maximilien Luce,Pionniers du néo-impressionnisme”, p.14. Silvana, 2019)。

 ところが、《オクタヴィアおばさんの肖像》(1880年)には、デュランの肖像画技法がしっかりと取り入れられていました。好んでいなかったとはいえ、デュランの技法をリュスは完璧にマスターしていたのです。当時のフランス美術界でのデュランの位置づけを振り返ると、リュスの行為は当然と言えば当然でした。(2022/1/31 香取淳子)

マクシミリアン・リュス ②カロリュス・デュランに学ぶ

■カロリュス・デュランの下で学ぶ

 リュスは木版画職人としての修業を終えると、木版工房で働きながら、画塾に通ったり、著名な画家のアトリエに出入りしたりし、独自に絵画を学んでいました。

 1876年になると、肖像画家カロリュス・デュラン(Carolus-Duran, 1837-1917)の下で学び始めます。当時、デュランは、パリの上流階級の人々を数多く描き、肖像画家として人気がありました。すでに数々の賞を受賞し、画家としても教育者としても評価されていました。1904年にはレジオンドヌール勲章を受勲するほどの大御所でした。

 そのデュランに師事し、リュスは油彩画の手ほどきを受けるようになります。きっかけとなったのはアカデミー・シュイスでした。そこで教えていたデュランと出会い、無給の学生として彼のアトリエに受け入れられることになったのです。(※ https://ago.ca/agoinsider/unconventional-impressionist

 デュランは若い頃、スペインに旅し、ベラスケス(Diego Rodríguez de Silva y Velázquez, 1599-1660)の作品から強く影響を受けたといわれています。

■ベラスケスの肖像画

 ベラスケスは17世紀のスペインを代表する画家です。国王フェリペ4世に気に入られ、宮廷画家として長年、国王や王女、宮廷の人々の肖像画を描いてきました。彼が、王女マルガリータ・テレーサを描いた一連の作品の一つに、《白い服の王女マルガリータ・テレーサの肖像(La infanta Margarita)》(1656年)があります。

(油彩、カンヴァス、105×88㎝、1656年、ウィーン美術史美術館)

 スペイン国王フェリペ4世の長女、マルガリータ・テレーサが5歳の時の肖像画です。ぷっと膨らんだ頬、緊張した口元、白く透き通るような肌、なんと愛くるしいのでしょう。やや不安げで、可憐な表情が生き生きと描き出されています。綺麗に梳かしつけられた金髪もまだ薄く、柔らかく、この時、マルガリータがわずか5歳でしかないことを思い起こさせてくれます。

 ところが、身に纏っているドレスには、銀糸で模様が刺繍された光沢のある布地が使われています。そして、首回り、襟、胸元、袖などには、金と黒の刺繍が施されており、人目を引きます。さらには、腰幅を広く見せるため、異様なほど大きなペチコーまで着用しています。

 まだ年端もいかない幼児なのに、成人女性と同じようなスタイルの衣装を着用しているのです。

 胸やラグランスリーブの端、袖口にはオレンジ色の花飾りが付けられています。おそらく、可愛らしさを演出するためでしょう。子供らしさを感じさせる要素はそれだけですが、この豪華な服を着せられたマルガリータは健気にも、姿勢正しくポーズを取っています。

 ひょっとしたら彼女はこの窮屈さを、王室に生まれた者の定めとして、我慢しなければならないものの一つとして、幼いながらも、受け入れていたのでしょうか。

 いま見れば、この衣装があまりにも豪華で、堅苦しく、儀式的なので、違和感を覚えてしまいますが、おそらく、これが当時のスペイン宮廷の様式だったのでしょう。

 王家の肖像画には、富みと権力を所有する者の証として、権威と威厳が備わっていなければなりませんでした。たとえ幼いマルガリータが対象だとしても、ベラスケスはそのための設定を避けることはできなかったのでしょう。

 ベラスケスが手掛けた肖像画には、権威、威厳、豪華、華麗、上品といった要素がふんだんに盛り込まれていました。写真技術がまだ発明されていなかった時代、肖像画こそが個人や家族のステイタスシンボルとして機能していたからでした。

 実際、肖像画は個人を確認する証明書としても、個人や家族の歴史を記録するアーカイブとしても有効でした。

 興味深いエピソードがあります。

 マルガリータが、神聖ローマ皇帝レオポルト1世と結婚する前のことです。それ以前から両者の婚姻は既定路線だったのですが、マルガリータが適齢期になると、スペイン宮廷はベラスケスに描かせた子供の頃の肖像画をいくつか、レオポルト1世に送ったそうです。遠路はるばる会いに行く危険を避けて、肖像画で代用したのです。(※ https://www.habsburger.net/en/chapter/leopold-i-marriage-and-family

 このエピソードからは、肖像画が、本人の確認あるいは、本人のアーカイブも兼ねて機能していたことがわかります。それだけに、肖像画に写実性は不可欠でした。

 ベラスケスはそのための油絵技法を長年にわたって錬磨し続けてきたのです。それを後世のマネやデュランが高く評価し、影響されました。

 それでは、ベラスケスの影響を受けたとされるデュランが、どのような肖像画を描いていたのか、見ていくことにしましょう。

■デュランの肖像画

 肖像画の中でも、「母と子」は重要な画題の一つでした。家族愛、家族の絆の象徴であり、上流階級にとっては、一族の繁栄を示すもの、あるいは、富の継承を示唆するものでもあったからです。デュランも、母と子の肖像画を描いています。

 たとえば、《母と子(フェドー夫人と子供たち)》(Mother and Children (Madame Feydeau and Her Children), という作品があります。

●《母と子(フェドー夫人と子供たち)》(1897年)

 この作品では、フェドー夫人とその子供たちが描かれています。当時、人気のあった劇作家、ジョルジュ・フェドー(Georges Feydeau, 1862-1921)の妻とその子供たちがモデルです。

(油彩、カンヴァス、190.5×127.8㎝、1897年、国立西洋美術館)

 二人の子供を抱きかかえたフェドー夫人が静かにこちらを見つめています。豪華な黒い衣装とネックレス、大きく開いた胸元に飾られた赤い花が彼女を引き立てています。華やかで上品、いかにも上流階級の女性といった面持ちです。

 膝に寄りかかって母を見上げている男の子は、白い襟飾りのついた黒の正装をしています。その横顔と白い襟以外は、母の黒いドレスに溶け込み、一体化しています。男の子の肩にそっと置かれた母の手に、慈愛が感じられます。

 一方、女の子は光沢のあるベージュ色の衣装を身につけています。襟元には同系色の凝った刺繍が施されており、なんとも豪華なドレスです。これも正装なのでしょう。左手に大きな淡い橙色のバラを持ち、右手を母の膝に置いて、寄りかかるように立っています。母の左手と女の子の右手が触れ合っており、二人の愛情が通い合っているのが感じられます。

 もっとも、女の子の表情はぎこちなく、やや不自然に見えます。この絵のためにポーズを取っているからでしょうか、緊張している様子が感じられます。この作品が日常的な光景を捉えたものではなく、輝かしい瞬間を記録に残そうとする意図の下に、描かれているからでしょう。

 確かに、この作品は家族の肖像画としては完璧でした。

 画面からはまず、家族の絆、愛が感じられます。そして、上品、安定、厳粛さのようなものも感じられます。依頼者が肖像画に求めたであろうものが、過不足なく盛り込まれているのです。

 母と子供たちの配置、色彩バランスなどを考え、じっくりと時間をかけて構想されたのでしょう。だからこそ、画家が企図した通りのメッセージが画面からは伝わってくるのです。この作品を見ていると、デュランが肖像画家として人気を博していた理由がわかるような気がします。

 それでは、構図と色彩の面から、この作品を見ていくことにしましょう。

●人物の配置と構図

 まず、母と子供たちとの関係を、所作の面からみていきましょう。

 男の子は母の膝に身を置き、上目遣いに見上げています。母の手は男の子の背に置かれており、互いの信頼と愛が感じられます。一方、女の子は母を見ているわけではありませんが、身体をぴったりと母に寄せ、傍に立っています。手の甲を母の手に触れ、緊張感をやわらげている様子が見て取れます。

 所作の面から、母と子供たちとの関係を見ると、男の子も女の子も母に身を寄せ、安心感を得ている様子です。一方、母は、左右の手を使って、安心させるように、子供たちの身体に触れています。保護し、保護される関係が母と子供たちの所作から描き出されています。

 次に、配置の面から母と子の関係を見てみましょう。

 この作品を見て、まず目に入ってくるのは、やや首を傾げた母の顔です。その母を頂点に、寄りかかる男の子の姿勢が、母の身体の傾きに呼応しています。母の頭と男の子の頭を繋ぐラインは、ちょうど、画面の右上から左下に走る対角線と重なり、母を頂点とする三角形の斜辺になっています。

 一方、女の子はすっくと立ち、頭を母の方にやや傾けています。その姿勢は、背筋を伸ばしながらも、頭だけを右に傾けた母の姿勢に呼応しています。こうして母と女の子は近づき、二人の頭を繋ぐラインは、肩まで伸びる髪の毛、膨らみのあるパフスリーブへと続き、これもまた、母を頂点とする三角形の斜辺になっています。

 これら二つの斜辺をつなぐと、三角形になります。わかりやすく赤線で図示すると、次のようになります。

 こうしてみると、改めて、この3人の頭が母を頂点とする三角形になるよう配置されていることがわかります。しかも、ほぼ正三角形です。もっとも安定感のある構図が導入されているのです。

 さらに、母の頭を頂点に、男の子の頭が底辺の左底角、女の子の頭が右斜辺の真ん中に位置づけられています。女の子の方が年上で、男の子が年下であるという序列まで示されているのです。

 そして、母と子供たちは、互いに顔を近づけるような姿勢で描かれており、母と子の親密さが表現されています。それぞれの顔の傾き、あるいは視線の方向から、相互の愛情と信頼が表されていることがわかります。

 それでは、色彩の面から、何を読み取ることができるのでしょうか。

●色彩

 床と背景を覆っているのは、焦げ茶色をベースとしたベルベットのような風合いの生地に見えます。画面の半分以上がこの色彩とテクスチャで占められているので、上品で、しかも、落ち着いた印象があります。

 さらに、母と男の子は黒の正装、女の子は光沢のある、やや明るいベージュ色の正装をしています。背景色を除くと、黒の面積が大きく、それ以外は光沢のあるベージュ色です。そのせいか、画面全体に厳粛さと威厳、上品さと落ち着きが醸し出されています。

 ベージュ色のドレスに目を向けると、女の子が手にした淡い橙色のバラの花が、不自然なほど下方に描かれているのが気になります。しかも、この花が大きすぎるのです。否応なく、観客の目は下方に誘導されます。

 そうすると、バラの花弁がいくつか、その下の床に散っているのに気づきます。こうして、さり気なく豪華さが演出され、しかも、画面にちょっとした動きが生み出されているのです。

 そこから見上げた位置に赤いバラが描かれ、大きく開いた母の胸元を飾っています。女の子のドレスに置かれたバラからはやや斜めのライン上にあります。二つの花はそれぞれの衣装を引き立て、彼女たちの存在感を高めています。

 さらに、これら二つの花を結んだラインは、母と娘の頭を結んだラインと並行しています。それぞれのラインを水色で図示すると、次のようになります。

 こうしてみると、二つの花を結ぶラインは、母と娘の髪の毛を結ぶラインとほぼ2倍の長さで、平行に描かれていることがわかります。しかも、その起点はいずれも、母と息子の頭を結ぶ左上から右下への対角線上にあります。

 二つのラインは、母と娘の親密さを示すとともに、二人の関係を支える構造的なラインとしても機能しているのです。

 こうしてみてくると、いずれのラインも母と子供たちを巡る、保護―非保護の関係が示されており、強い家族の絆が表現されていることがわかります。

 興味深いのは、男の子が黒い服を着て、母のドレスの中に溶け込んでいるのに対し、女の子はベージュ色のドレスを着て、黒い服の母とは分離した存在であることが示されていることです。

 この色遣いには、母と男の子の関係、母と女の子の関係が示されているように見えます。年少で、いまだに母に依存している男の子に対し、年長で、母から自立しはじめている時期の女の子という、依存関係の強弱が示されているようにみえます。

 もっとも、母と娘が身につけている花に着目すれば、別の側面が見えてきます。

 その母の胸元を飾っている赤い花が情熱を示すとすれば、女の子が手にしたごく淡い橙色の花は穏やかな従順さを示しています。つまり、デュランは、たとえ色彩で分離されていても、母は情熱を持って娘を庇護し、娘は従順に母に従うという母と娘の関係を、構図と色彩から表現していると考えられるのです。

 こうしてみてくると、デュランが、構図の面からも色彩の面からも明確なコンセプトの下、この母と子供たちの関係を表現していたことがわかります。

 デュランは、厳粛さ、上品さ、豊かさ、華麗さなどの要素を組み込んだ上で、家族の愛、家族の絆を画面に描き出していたのです。依頼者はおそらく、この作品の出来栄えに納得し、感謝したに違いありません。

 この作品を見ていると、肖像画家としてのデュランの人気が定着していった理由がよくわかります。

 宮廷画家ベラスケスからデュランが得たものの一つは、写実性を踏まえた上で、依頼者が求める理念、あるいは概念を画面に組み込むことでした。

■デュランの肖像画に見るベラスケスの影響

 写実的で、しかも、筆触の妙を効かせたベラスケスの油彩画技法は、当時、マネ(Édouard Manet, 1832-1883)から、高く評価されていました。近代美術の父といわれるマネが、「画家の中の画家」だと絶賛していたのです。

 ベラスケスを高く評価し、その影響を受けていたのは、マネばかりではありませんでした。デュランもまた、ベラスケスの影響を強く受け、写実的で古典的な肖像画を数多く描いてきました。

 とくに、上流階級の人々を描くことでは定評がありました。リュスが育った環境では、決して出会うことのない人々でした。彼らは当然、庶民とは服装も違えば、所作も異なります。

 デュランが参考にしたのは、ベラスケスの肖像画でした。宮廷画家として活躍したベラスケスの諸作品から、服装や調度品、所作などを参考にしたのです。

 たとえば、《ウィリアム・アスター夫人(Mrs. William Astor)》(油彩、カンヴァス、212.1×107.3㎝、メトロポリタン美術館)という作品があります。デュランが1890年に描いたもので、この時の衣装とポーズは17世紀の肖像画家ベラスケスを参考にしたと記されています。(※ https://www.metmuseum.org/art/collection/search/435849

 実際、デュランの肖像画をいくつか見てみましたが、モデルはいずれも正装をし、ポーズを決めた姿勢で描かれていました。おそらく、宮廷画家ベラスケスを参考に肖像画を描いていたからでしょう。どの画面からも、華麗で厳か、富みと繁栄を感じさせる要素が強く、醸し出されていました。

 デュランが描く肖像画を見ていると、肖像画が社会的ステイタスを示す価値を持っていた時代の名残が感じられます。

 デュランが肖像画家として人気を博するようになったのは1868年以降です。先ほどのメトロポリタン美術館の説明では、1890年には肖像画家として絶頂期を極めていたとされています。その30年弱の間、フランスは大きな社会変動に見舞われています。

 とくに、1871年3月26日から5月28日にかけてのパリ・コミューンは画家たちにとっても大きな出来事でした。ところが、そのパリ・コミューンを経てもなお、上流階級にとっては肖像画が必要だったのです。

 さて、人気のある肖像画家として活躍していた1876年、デュランは一風変わった肖像画を描いています。自分の母親を描いた作品です。

 デュランの肖像画をいくつも見てきましたが、この肖像画は異質でした。

■デュラン、母親の肖像画を描く

 肖像画家デュランにしては珍しく、モデルを見たまま、ありのままに描いています。

●《母の肖像》(Portrait de ma mère)1876年

 1876年、ちょうどリュスがデュランのアトリエで学び始めた年、デュランは母親を描いています。作品タイトルは、《母の肖像》(Portrait de ma mère)です。

(油彩、カンヴァス、サイズ不詳、1876年、オルセー美術館がサントクロワ美術館に寄託)

 暗い背景の中から顔面だけが浮き出るように、高齢女性が描かれています。静かで穏やかに観客を見つめています。その透徹した視線には高邁な精神が感じられます。

 悟りの境地に達しているからでしょうか。何事にも動じることなく、凛とした姿勢で、老いと孤独に、静かに向き合う高齢女性の姿が心に残ります。

 さっと描いたように見える中に、端的に対象の本質が捉えられていました。冷静な観察力が強く感じられる作品です。

 おそらく、コンセプトを練り上げることもなく、時間もかけずに制作したのでしょう。カンヴァスに向かったデュランが、老いた母親を美化しようとせず、ありのままに描いていたことがわかります。

 ありのままとはいっても、髪の毛や帽子、首回りで結ばれたリボンなどの描き方を見ると、決して写実的に描かれているとはいえません。どちらかといえば、雑なのです。ところが、不思議なことに、むしろその方が、リアルに捉えられた視線と口元の表情が強調されて見えます。

 描き方に粗と密の部分を創り出すことによって、老いた母親の本質を冷静に捉え、含蓄のある作品に仕上がっているのです。

 キュレーターのアニー・スコッツ-デヴァンブレシー(Annie Scottez- De Wambrechies)は、人生の荒波を超えて生きてきた母親の個性がしっかりと描かれているとデュランの表現力を評価しています。ジェリコー(Théodore Géricault, 1791-1824)やマネ(Édouard Manet, 1832-1883)と並ぶ表現力の持ち主だといっているのです。(※https://www.latribunedelart.com/carolus-duran-une-superbe-sensation-d-art-un-poeme-de-labeur

 リュスは1876年、デュランのアトリエで働くようになります。そこで、デュランが手掛けるさまざまな肖像画を目にしてきました。それらの肖像画を見て、感じること、考えさせられること、多々あったと思いますが、リュスがもっとも刺激を受けたのが、《母の肖像》でした。

■リュス、おばさんの肖像画を描く

 デュランの《母の肖像》の制作過程をつぶさに見てきたリュスは、1980年、おばさんの肖像画を描きました。デュランと同様の画法で描いたといわれています。(※ “Léo Gausson Maximilien Luce,Pionniers du néo-impressionnisme”, Silvana, 2019)

 《オクタヴィアおばさんの肖像》は、リュスがデュランから何を学んだのかを示唆する重要な作品といえます。

●《オクタヴィアおばさんの肖像》(1880年)

 デュランが《母の肖像》を描いたのと同様の画法で描いたとされるのが、リュスの《オクタヴィアおばさんの肖像》です。

(油彩、カンヴァス、77.9×66.7㎝、1880年、ホテル・デュー美術館所蔵)

 高齢女性が両手を前で組み、こちらを見ています。老いてはいますが、肌艶がよく、とても元気そうです。顔の表情がリアルに表現されています。

 額に刻まれた深い皺、眉間から鼻先までの鼻梁の肉付き、鼻翼から伸びるほうれい線、すぼめた口元など、老化によって起きる顔面の変化が的確に捉えられています。

 図録では、リュスが光と影に留意して顔面の表情をリアルに描いたのは、デュランが母親の肖像を描いた時に使ったのと同じ手法を取ったからだと書かれています。(※ “Léo Gausson Maximilien Luce,Pionniers du néo-impressionnisme”, p.14. Silvana, 2019)

 果たして、そうでしょうか。

 確かに、この作品では、光が当たったところと影になった部分とが丁寧に描き分けられ、眉間の縦皺、額に波打つ横皺、目の下のたるみなどがとても写実的に描かれています。

 顔面の骨格を踏まえ、鼻先、たるんだ頬の縁、目の下や目尻などにわずかながら赤味が添えられています。老いに伴う皮膚の変化が的確に表現されているのです。

 光と影、明と暗を使い分けて、顔の質感、量感を表現しているところには、ルネサンス以来の写実性が感じられます。つまり、この作品には、デュランが影響を受けたといわれるベラスケスに繋がる写実性が見受けられるのです。

 実際、この作品を見ていると、オクタヴィア小母さんを目の前にしているかのような錯覚に襲われます。それほど、リアルに、生き生きと描かれています。

 とはいえ、デュランの《母の肖像》と比べると、何かが足りないのです。それが一体、何なのか、二つの作品を比較してみる必要があるでしょう。(2021/12/29 香取淳子)

マクシミリアン・リュス ① 木版画職人から画家へ

■「スイス プチ・パレ美術館展」で出会った、リュスの二つの作品

 2021年11月5日、滋賀県の佐川美術館で開催されていた「スイス プチ・パレ美術館展」に行ってきました。展示作品は、
スイス プチ・パレ美術館展 が所蔵する65点で、いずれも創設者オスカー・ゲーズ(Oscar Ghez, 1905-1998)のコレクションです。

 息子のクロード・ゲーズ(Claude Ghez)氏は図録の冒頭で、父は不当に過小評価されている画家たちの作品を対象に収集していたと記しています。自身の審美眼を信じ、評論家に取り上げられず、美術史からも見落とされがちな画家たちに光を当てようとしていたというのです。そのせいで、いくつかの美術雑誌からは長い間、批判され続けていたそうです。(※ 図録『スイス プチ・パレ美術館展』イントロダクション)

 たしかに、会場に展示されていたのは、ルノワールの作品以外、これまでに見たことのない作品ばかりでした。

 オスカー・ゲーズはコレクションを始めた当初、ユトリロやボッティーニなどモンパルナスとベル・エポックの画家を好んでいました。その後、新印象派とポスト印象派のコレクション、フォーヴィスムへと関心が移り、コレクションの幅が広がっていったといいます。実業家であったオスカー・ゲーズは、次のような方針の下、収集を進めていたようです。要約すれば、①作品購入費の基準を設定し、同じ作家の作品を購入し続ける、②抽象芸術は避ける、というものでした。(※ 前掲。)

 その結果、収集されたのは、オスカー・ゲーズの審美眼に適い、購入することができた19世紀末から20世紀初頭にかけての作品ばかりでした。そして、1965年、彼はジュネーブの旧市街近くに建てられた邸宅を購入し、内装を改修してプチ・パレ美術館を創設しました。1968年のことでした。

ジュネーブ プチ・パレ美術館

 第二帝政時代の古典主義様式の建物です。見るからに優雅な佇まいが印象的です。

 ここに、19世紀末から20世紀初頭にかけて、パリで醸成された美術の潮流を表現したコレクションが、展示されているのです。建物といい、コレクションといい、まさに20世紀に向けたパリの夜明けを象徴する美術館だといえます。

 こうして自身の美術館を創設したオスカー・ゲーズは、不当に過小評価されていると思っていたコレクションを次々と、一般公開していったのです。

 さて、展示作品の中で、もっとも印象深かったのが、マクシミリアン・リュス(Maximilien Luce, 1858-1941)の《若い女の肖像》(Portrait de jeune femme)です。多くの作品が展示されている会場で、この作品を見た瞬間、惹きつけられてしまいました。1893年に制作されたこの作品は斬新で、小ぶりながら、私にはひときわ輝いて見えました。

(油彩、カンヴァス、55×46㎝、1893年、スイス プチ・パレ美術館)

 若い女性がまばゆい太陽の光を浴びて、こちらを眺めています。かつて見た映画の一シーンのように思え、どこか懐かしい気持ちにさせられました。

 もちろん、初めて見る作品でした。これを描いたマクシミリアン・リュスが、どのような経歴の画家なのかも知りません。画風からわかるのは、ただ、スーラやシニャックの影響を受けているのではないかということだけでした。

 何故、そう思ったのかといえば、境界線や輪郭線を使わずに、さまざまな色を載せた斑点のようなもので、モチーフが造形されていたからです。もっとも、だからといって、はっきりとスーラやシニャックの影響を受けているともいいきれません。

 というのも、確かに、斑点のようなもので、画面全体が構成されているのですが、それは、私が知っているスーラやシニャックなどの作品で見られた点とは明らかに異なっていました。この作品で使われていたのは、粒の揃った小さな点ではなく、大きく、しかも、不揃いでした。

 茫漠とした形状の捉え方に、スーラやシニャックの緻密さは見られませんが、モチーフのエッセンスは見事に捉えられています。しかも、眩いような光と若い女性の輝きが情感たっぷりに表現されているのです。

 何とも不思議な作品でした。

 会場には、リュスの作品としてもう一つ、風景画が展示されていました。タイトルは、《La Meuse à Feynor》(フェイノールのムーズ川)です。

(油彩、カンヴァス、60×73㎝、1909年、スイスプチ・パレ美術館)

 夕暮れ前のムーズ川の光景が、色彩バランスとタッチの妙を効かせ、情緒豊かに捉えられています。1909年に制作されたこの作品には、《若い女の肖像》とは違って、どちらかといえば、印象派の趣がありました。

 果たして、リュスはどのような画家だったのでしょうか。

 会場で作品を見てからというもの、気になって仕方がありません。わずか2点しか展示されていなかったというのに、画風がまるで異なっていました。しかも、どちらも、自由でのびのびとした筆遣い、色の使い方、対象の捉え方、そのどれもが魅力的でした。

 帰宅してから、さっそく調べてみました。ところが、リュスの経歴に関する記述としては、Wikipediaぐらいしか見当たりません。それ以外に入手できるものとしては、図録に掲載された作品を紹介する記事の中で、断片的に紹介されている情報ぐらいでした。

 リュスについて日本で得られる情報は、予想外に少なかったのです。展示作品から強い印象を受けていたせいか、意外でした。

 とはいえ、Wikipediaからは、リュスが木版画職人として修業を積んでいたこと、ゴブラン織りの工場で働いていたことなどがわかっています。

 そこで、今回は、リュスの経歴を追いながら、木版画職人がどのようにして画家になっていったのかを考えてみたいと思います。

■マクシミリアン・リュス(Maximilien Luce, 1858-1941)

 1858年3月13日、パリのモンパルナスで、リュスは誕生しました。父は鉄道員、母は店員でした。彼は労働者階級の子どもとして生まれ育ったのです。生計を立てるための労働をせずに、画家として生きていけるような出自ではありませんでした。

 リュスは、14歳(1872年)から3年間、木版画職人として修業しています。生活の資を得るため、木版画職人になる道を選択していたのです。おそらく、子どもの頃から絵が好きだったのでしょう。見習いとして働きながら、夜は工芸学校で絵画を学んでいました。リュスが油彩画を始めたのはその時でした。

 修業を終えると、1876年には、版画家のウジェーヌ・フロマン(Eugène Froment, 1844-1926)の工房で働き始めました。元々、絵心があったのでしょう、リュスは、時を経ず、挿し絵入り新聞「イリュストラシオン」や「The  Graphic」などの挿し絵として使う木版画を制作するようになっていきました。

 商業誌のための挿絵を制作していた経験を通して、画力が鍛えられただけではなく、市場ニーズをくみ取るセンスも涵養されていた可能性があります。19世紀末から20世紀初頭にかけて、大きく変貌を遂げていった美術界の潮流に乗って、リュスは画家としての地位を確立していたようにも思えます。

■版画修業をしながら、絵画を学ぶ

 リュスは仕事として木版画を制作する傍ら、アカデミー・シュイス(Académie Suisse)に通って特別コースを受講していました。

 アカデミー・シュイスは、1815年にパリのシテ島、オルフェーヴル通りに開校された私立の画塾です。授業料が安かったので、貧しい画学生でも、モデルを使った授業を受けることができました。その後、グランド・シュミエール通りに移転し、アカデミー・コラロッシに改名しました。ここで学んだ画家には、カミーユ・コロー、オノレ・ドーミエ、ギュスターヴ・クールベなどがいます。

 リュスは、肖像画家カロリュス・デュラン(Carolus-Duran, 1837-1917)のアトリエで学んでいましたが、デュランも、1859年から1861年まで、アカデミー・シュイスで学んでいました。当時、有為の若手画家が学ぶ画塾だったようです。

 このような来歴をみてくると、リュスが木版画職人にとどまらず、画家に必要とされるさまざまな技量を身に着ける努力を怠らなかったことがわかります。

 ちょうどその頃、制作したのが、《モンルージュの広い庭》です。

(油彩、カンヴァス、43×37、1876年頃、個人蔵)

 まだ18歳ごろの作品ですが、明と暗、そして、暖色と寒色のコントラストが強く、非常に印象的です。

 陽光に照らされた明るい小道が、手前から奥へと観客を誘導するように伸びています。小道は途中で、葉の茂みに中に消えてしまい、その代わりに目につくのが、明るい陽射しを受けた建物の一部です。

 こんもりと茂った林の向こう側に、聳えるように建物が立っています。観客は、暗い木々の茂みのちょっとした隙間から、覗き見るような恰好で、その建物と向き合うことになります。とても興味深い構図です。

 遠近法を踏まえ、明暗を際立たせた構図で描かれているせいか、単なる風景画に収まらない物語性を感じさせられます。

 荒い筆触と、陽光が生み出すドラマティックな画面構成からは、印象派の影響を受けているようにも見えます。なんとも妙味のある作品でした。

 ちょうど、その頃、リュスは、画家マイヤール(Diogène Ulysse Napoléon Maillart, 1840-1926)から勧められ、ゴブラン国立織物製作所の入学試験を受け、合格しました。当時、肖像画家マイヤールからも指導を受けていたのです。

 マイヤールの経歴を見ると、パリの国立高等装飾学校で教育を受けた後、国立高等美術学校(通称:École des Beaux-Arts)のレオン・コニエ教室で学んでいます。1648年に設立された王立絵画彫刻アカデミーの後継だとされています。多くの著名な画家を排出しています

 1864年に23歳でローマ賞を受賞してローマに留学し、1869年に帰国して以来50年間、国立ゴブラン織物製作所で絵画の教授を務めました。1885年にはレジオンドヌール勲章を受勲しており、肖像画家として多数の作品を残しています。(※ https://fr.wikipedia.org/wiki/Diog%C3%A8ne_Maillart

 このゴブラン国立織物製作所で、リュスは、シュヴルールの色彩理論に触れることになりました。

■シュヴルールの色彩理論との出会い

 W. B. アシュアワース氏は、次のように、シュヴルールが色彩理論を構築した経緯を、次のように説明しています。

 化学者のシュヴルール(Michel-Eugène Chevreul, 1789-1889)は、1824年、ゴブラン国立織物製作所の工場長になりました。そこで、色彩の研究をするとともに、染色の苦情にも応対していました。

 なぜ、染色にムラが生じるのか、彼は、ゴブラン織物の製造過程をつぶさに調べました。その結果、色ムラは染色の問題ではなく、色の組み合わせによるものではないかということに気づきました。パターンの色と背景になる地色との間に、同時対比によって色の見え方に違いが生じることを突き止めたのです。

 そこで、シュヴルールは、色の組み合わせについて実験を繰り返し、色の対比と調和について研究しました。1839年には、『色彩の同時対比の法則とこの法則に基づく配色について』を著しています。色彩を「類似色の調和」と「対比色の調和」の2種類に分類し、独自の色彩理論を構築したのです。シュヴルールは、光の混合と色彩の混合とは全く異なると指摘しています。(※ Dr. William B. Ashworth, Jr.:https://www.lindahall.org/michel-chevreul/

 リュスは、国立ゴブラン織物製作所に在籍することができたおかげで、シュヴルール色彩理論の手ほどきを受け、実践しながら、色彩について考える機会を得ていたのです。

 ゴブラン織りは、敷物やバッグなどの日用品だけではなく、鑑賞用のタピストリーも製作されていました。タピストリーの中には、まるで絵画のようにリアリティがあり、情感に富んだものもあります。

 例えば、《チュイルリー公園からのトルコ大使の退場》という作品があります。

(ゴブラン織り、サイズ不詳、1734-37年、ルフェーブルとモメルク工房)

 馬に乗った多数の人々が巨大な広場に集っています。手前の人々の顔がそれぞれ描き分けられており、出発前の慌ただしさが、さらっと表現されています。タイトルからすれば、これがチュイルリー公園なのでしょう。遥か遠方に、パンテオンのドームが見えます。

 さまざまな種類の色糸を使って、モチーフが織り上げられています。当時の様子がありありと目に浮かびます。絵具で表現するのとまったく遜色のない、リアリティのある絵柄に圧倒されてしまいました。この作品を見るだけでも、ゴブラン織りの職人がいかに色彩に敏感でなければ務まらないかがわかります。

 リュスが国立ゴブラン織物製作所に在籍した以前から、光と色彩に敏感な画家たちは、種々の色彩理論に注目しはじめていました。

 たとえば、シャルル・ブラン(Charles Blanc, 1813-1882)の『デッサン諸芸術の文法』(1867年)、アメリカ人物理学者オグデン・ルード(Ogden Nicholas Rood, 1831-1902)の『近代色彩論:芸術および工業への応用』(1881年にフランス語に翻訳)、シュヴルール(Michel-Eugène Chevreul, 1786-1889)の『色彩の同時対照の法則』(1839年)などです。

■色彩理論を手掛かりに

 当時、光と色彩に敏感な画家たちが、色彩理論に注目するようになっていました。押し出しチューブ式油絵具が発明されて以来、アトリエを出て、戸外で絵を描く画家が増えつつありました。

 1841年、イギリス在住のアメリカ人画家ジョン・G・ランド(John Goffe Rand, 1801-1873)が、錫製の押し出しチューブ式油絵具を発明しました。その後、彼はキャップの部分をねじ式に改良し、さらに使いやすくなりました。

 チューブ式油絵具のおかげで、画家たちはアトリエから戸外に出て描くようになり、自然がもたらす美しさに気づくようになっていたのです。

 色彩と光を意識して作品を制作していたルノワールは、「チューブ式絵具がなければ、印象派は生まれなかった」と語っていたほどでした。(※ https://en.wikipedia.org/wiki/John_G._Rand

 印象派の画家たちは、葉陰から洩れる太陽の陽射し、陽光に照らされて、きらきらと輝く水面等々、そのようなものの中に、美しさを見出しました。アトリエにこもって描いていただけでは、決して発見できなかった自然の美でした。

 もちろん、画家たちは輝く陽光や、照らし出された木々や水面の明るさを、画布上で表現しようとしました。ところが、混色を重ねると、次第に、暗く、くすんだ色になってしまいます。彼らが求めた瞬間の輝きを捉え、表現することはできませんでした。

 見たままの色彩を創り出しながらも、明るく、輝くような画面を創り出すにはどうすればいいのか、画家たちは色彩理論を手掛かりに、模索せざるをえなかったのです。

 押し出しチューブ式油絵具が開発され、画家たちが戸外で容易に絵を描けるようになったからこそ、発見できたのが、揺らぎ、輝く、自然の美でした。それを表現するための画法を模索していた画家たちが拠り所にしたのが、色彩理論でした。19世紀の科学技術の発達によって手にすることが出来た画材であり、色彩の理論でした。

 こうしてみてくると、リュスは、画家として正規の道を歩んでいませんでしたが、十代の頃から、物の形をいかに捉えるか、色彩の仕組みを知り、それをどう組み合わせ、画面に反映させていくかについて学ぶ機会があったことがわかります。

■十代で身につけた画家としての技量と知識

 労働者階級の子どもとして生まれたリュスは、生活の資を得るため、まずは木版画職人を目指しました。当時はまだ、挿し絵のための木版画職人に需要があったからです。14歳から3年間、そのための修業をしますが、夜は工芸学校に通い、油彩画を学んでいました。

 修了後は版画家フロマン工房で働きながら、アカデミー・シュイスに通い、さらには、美術アカデミーの会員であった肖像画家カロリュス・デュラン(Carolus-Duran, 1837-1917)のアトリエでも学んでいました。1876年のことでした。

 すでに大きな評価を得ていた画家たちから、リュスは貪欲に、描くことについての技量と知識を吸収していったのです。

 ディオジェーヌ・マイヤールはローマ賞を得てローマに留学(1864-1869)し、カロリュス・デュランはリール市の絵画コンクールで受賞し留学資格を得て、イタリアに留学(1862-1864)しています。

 興味深いことに、両者はほぼ同時期に、イタリアに渡って絵画を学んでいるのです。しかも、共に、肖像画を数多く残していますが、いずれも自然主義的な写実主義といえる画風です。イタリアルネサンスに特徴づけられた傾向を引いていることは明らかでした。

 さらに、両者は、レジオンドヌール勲章を受勲しています。ディオジェーヌ・マイヤールは1885年、カロリュス・デュランは1905年です。いずれも、絵画領域で大きな功績を挙げたことが評価され、受勲したのです。

 このようにしてリュスは、十代の多感な頃に、すでに大きな社会的評価を得ていた画家たちの知己を得ていたのです。彼らから、それぞれの画論や画法を学ぶことはいうまでもありません。

 さらに、フロマンの工房では、同世代の風景画家レオ・ゴーソンや、点描画家のエミール・ギュスターヴ・カヴァッロ・ペドゥッツィと出会い、親しく交わるようになっていました。

 ゴブラン織物製作所で実践していたシュヴルールの色彩理論が、スーラの絵画理論に応用されていたことは、彼らから知らされたのです。絵画についての議論が弾み、やがて、共に過ごし、その理論を実践して絵画制作をするようになります。

 当時、木版画職人でしかなかったリュスですが、さまざまな有為の画家たちと出会い、交流し、アドバイスを得てきました。出会いを求め、そのような場所に積極的に出かけていたからでしょう。そして、出会った後、交流が続いたのは、リュスが、画家としての可能性を周囲に感じさせていたからでしょう。

■木版画職人から、画家への道

 実際、リュスには画才があったのでしょう。それはまず、木版画で発揮されました。見習い期間が終わったばかりの若輩ながら、フロマンについてロンドンまで出かけ、当地で木版画を制作して、披露したこともあったのです。

 木版画の修業を終え、軍隊に入るまでのリュスは、木版画職人として働きながらも、絵画に関する技量や知識を極めるため、努力を怠りませんでした。その真摯な姿勢は周囲の人々に快く受け入れられ、交流の幅が広がりました。

 そのような画家たちとの交流の中で才能が豊かに育まれ、徐々に、その才能が周囲に認知されていくことになります。フロマンの工房で働いている間、リュスは着実に、画家としての実力を蓄えていきました。

 その後、1879年から4年間、リュスは兵役に従事しました。ところが、任務を終えた1883年、習得してきた木版画技術がすでに時代遅れになっていることを知ります。リトグラフが主流になりつつあったのです。

 18世紀末に発明されたリトグラフは、19世紀半ば以降、急速に普及していきました。描写したものをそのまま紙に刷ることができ、多色刷りができます。しかも、版を重ねるにつれ、独特の艶のある質感を出すことができますから、リトグラフの普及に拍車がかかったのは当然のことでした。

 リトグラフは、水と油の反発作用を利用した版画なので、製作過程は複雑で、時間もかかりますが、木版画よりも多様で深みのある表現が可能でした。印刷物の需要が高まるにつれ、リトグラフが木版画に取って代わるようになっていたのです。リュスが兵役を終えてパリに戻って来た頃、挿し絵用の木版画職人は必要とされなくなりつつありました。

 たとえば、ドイツ人画家アレクサンダー・ドゥンカー(Alexander Duncker, 1813-1897)が描いた、《1883年のボレク》(Borek (Borkau) in 1883)という作品があります。

(リトグラフ、サイズ不詳、1883年、所蔵先不詳)

 これは、リトグラフで描かれた作品の一例ですが、古典派の作品を想起させる表現方法です。色彩といい、テクスチャといい、タッチの効果といい、この画面を見るだけでも、リトグラフが表現手段として木版画よりはるかに優れていることは明らかです。

 当時、ロートレック(Henri Marie Raymond de Toulouse-Lautrec-Monfa, 1864-1901)やミュシャ(Alfons Maria Mucha, 1860-1939)などが、この技法で版画やポスターなどを制作していました。

 多彩な表現が可能なリトグラフがこのまま普及していけば、早々に、木版画職人は必要なくなるとリュスは考えました。そこで、彼は、木版画職人として生計を立てることを諦め、画家に転向しようと決意します。

 リュスが兵役を終えた1883年、先ほど、ご紹介したドゥンカーが上記の作品をリトグラフで制作し、発表しました。

 19世紀末は技術の進化に合わせ、表現世界にも怒涛の勢いで変化の波が押し寄せてきていたのです。リュスが時代の変わり目を感じて人生を再考し、画家に転向しようとしたのは当然の成り行きでした。

(2021/12/18  香取淳子)

佐川美術館とスイス プチ・パレ美術館展

■佐川美術館へ

 「スイス プチ・パレ美術館展」が、滋賀県の佐川美術館で開催されました。開催期間は2021年9月14日から11月7日まででしたが、私がこの展覧会の開催を知ったのが遅く、会場を訪れたのは、終了2日前の11月5日でした。

 佐川美術館は、守山市水保町北川にあり、最寄り駅はJR湖西線の堅田駅です。交通案内を見ると、美術館に行くには、琵琶湖大橋を渡らなければなりません。そこで、駅前でレンタカーを借りて、美術館に向かいました。

 地図を見ると、広い琵琶湖を横切る線で最も短いのが、堅田から守山へのラインでした。琵琶湖大橋がここに設置されたのは当然だと思いました。

堅田から守山

 金曜日でしたが、琵琶湖大橋を走行する車は少なく、視界を遮るものは何もありません。1400mほどの橋を渡る途中、車中から、壮大な景色を堪能することができました。

 巨大な雲が空を覆うように、至近距離で、いくつも浮かんでいます。重量感のある壮大な光景が目の前に広がっていました。空があまりにも近く、なんだか天界に近づいていくような気がしてきます。

琵琶湖大橋から空を見る

 下車して、橋を撮影したのが下の写真です。

琵琶湖大橋

 ややカーブを描いた橋の曲線によって、空と湖面とが優雅に切り取られていました。千切れ雲が浮かぶ空の青と、湖面のやや深い青とが調和し、見事な景観を創り出していました。

 そうこうするうちに美術館通りに入ると、街路樹がやや褐色がかってきていました。もうまもなく紅葉するのでしょう。

美術館通り

 紅葉すれば、この辺り一帯はそれこそ、美術を鑑賞するのにふさわしいプロムナードになるのでしょう。

■佐川美術館そのものが美術品?

 佐川美術館に着きました。

佐川美術館

 なんという光景でしょう。美術館の周りは水庭で囲われ、なみなみと湛えられた水面に、空や雲、木々が映っています。

 訪れた時は、このようにどんよりとした雲が空を覆っていました。晴れ渡った空の下ではおそらく、別の景観が見られるのでしょう。とはいえ、水庭が創り出す、なんともいえない風情には気持ちが引き込まれました。大きく広がった空を背景に、平屋建ての美術館が佇んでいる姿そのものが、壮大な芸術作品でした。

 場所を変えれば、このような景観もあります。

水庭に臨むアプローチに置かれた彫刻

 水面を臨むアプローチに彫刻作品が置かれています。屋根の稜線と円柱とで、空と建物、水庭が鋭角的に切り取られ、この光景もまた一幅の絵になっていました。

 そして、入口に向かうアプローチの右手奥には、水庭の中に彫刻作品が設置されていました。

入口に向かうアプローチ

 この写真だとよく見えないので、やや拡大してみました。こうすれば、なんとか、2本目の円柱の中ほど奥に、鹿の像が置かれているのが見えるでしょう。

水庭の中に立つ鹿の像

 この像は、彫刻家の佐藤忠良氏が1971年に札幌冬季オリンピックを記念して制作された《蝦夷鹿》です。野生動物がいまにも駆け出していこうとする瞬間が見事に作品化されていました。前足を上げて立っている鹿の姿がとても印象的でした。

■水庭

 建物の中にまだ入っていないというのに、外周だけでこれだけ感動させられてしまったのです。ここを訪れた人は誰しも、私と似たような気持ちになるにちがいありません。その要因は何かといえば、ひとえに、想像を超えた広さの水庭でしょう。

 美術館の周囲がなんと広い水庭で囲まれていたのです。予想もしませんでした。その水庭に、空や雲、木々が刻一刻と変化していく様子が、次々と映し出されていきます。見飽きることのない光景でした。

 ごく自然な営みの中に、どれほど心打つ美しさが潜んでいることか。変幻自在に創り出される光景が、どれほど興趣に富んでいることか。この水庭は、普段は意識することもない自然の美に気づかせてくれる仕掛けだといえるかもしれません。

 アプローチを歩いていくと、足元の水面にさざ波が立ち、目には見えない風の存在を感じさせてくれます。静かで安定した光景の中で、水面が創り出す絶え間ないささやかな動きが、まるで生命の営みのように思えてきます。

 平屋建てのシンプルな建物と水庭、そして、自然とのマッチングが素晴らしく、圧巻でした。

 建物の概要を示したページがありましたので、ご紹介しておきましょう。

こちら → https://www.sagawa-artmuseum.or.jp/outline/

 ここで記されているように、佐川美術館は、佐川急便株式会社が創業40年の記念事業の一環として1998年3月、設立されました。

■コレクション

 日本画家の平山郁夫氏、彫刻家の佐藤忠良氏の作品が常設展示されています。

 平山郁夫氏の所蔵作品は次の通りです。

こちら → https://www.sagawa-artmuseum.or.jp/plan/hirayama/collection.html

 佐藤忠良氏の所蔵作品は次の通りです。

こちら → https://www.sagawa-artmuseum.or.jp/plan/sato/collection.html

 また、2007年9月には、陶芸家の樂吉左衛門氏の作品を展示する「樂吉左衛門館」が新設され、展示作品の幅が広がりました。

 樂吉左衛門氏の所蔵作品は次の通りです。

こちら → https://www.sagawa-artmuseum.or.jp/plan/raku/collection.html

 その一方で、今回のような特別企画展を随時、開催し、美術館として充実した活動を展開しています。

 受付を経て、会場に向かいます。入口を入ると、正面に大きなポスターが掲示されていました。

スイス プチ・パレ美術館展

 このポスターで使用されているのは、ルノワール(Renoir, Auguste,1841-1919)の作品、《詩人アリス・ヴァリエール=メルツバッハの肖像》です。

■印象派を代表するルノワールの作品

 強いライトに照らされているせいか、この写真では、衣装の光沢ばかりが強調されて見えます。

 会場に入ると、印象派を代表する作品として展示されていました。実際の作品は次のような色調の画面でした。

(油彩、カンヴァス、92×73㎝、1913年、プチ・パレ美術館所蔵)

 どちらかといえば、地味な色合いの衣装をモチーフの女性はまとっています。ところが、白のハイライトが巧みに使われているせいか、輝くような光沢が際立ち、ゴージャスな印象を与えます。もちろん、このハイライトによって、布の皺、衣装の質感、滑らかさ、柔らかさなどが的確に表現されており、身体の曲線もよくわかります。

 いかにもルノワールの作品らしい豊満な女性の身体が、光沢のある衣装に包まれています。落ち着きのある色彩にもかかわらず、随所にハイライトを効かせた光沢のせいで、華やかさが強調されていました。

 ボリューム感のある身体に比べ、頭部は小さく、ややアンバランスに見えます。ところが、華やかな色彩を使わず、画面構成されているので、静かに笑みを湛えた女性の知的な表情が、逆に強く印象に残ります。

 傍らに花が置かれ、肘掛け椅子に片手を置き、静かにほほ笑む女性・・・、と、モチーフに注意しながら、画面を眺めているうちに、ふと、同じような構図の作品を見たことがあるという気がしてきました。

 記憶を辿りながら、ネットで確認してみると、ルノワールが1915-1917年頃に制作した《バラのある金髪の女性》というタイトルの作品でした。

 この展覧会では展示されていませんでしたので、念のため、《バラのある金髪の女性》をご紹介しておきましょう。

(油彩、カンヴァス、64×54㎝、1915-1917年頃、オランジュリー美術館所蔵)

 豊満な身体つきの女性が椅子の肘に片方の手をかけ、座っています。傍らには花が生けられた花瓶が置かれ、微かな笑みを浮かべ、夢見るような視線を投げかけています。

 そのポーズ、艶のある肌など、この二つの作品には共通している部分があります。

 両者に違いがあるとすれば、それは年齢による女性美の違いでしょう。髪の毛の色、衣装、表情、肌の艶などで描き分けられています。

■晩年に近づいたルノワールの女性観

 《詩人アリス・ヴァリエール=メルツバッハの肖像》は、黒いひっつめ髪で、光沢のあるドレスをまとっています。ドレスの布地やデザイン、ネックレス、指輪からは、正装した女性がパーティで一休みしているように見えます。

 椅子の片肘をついて座っているだけなのに、この女性からは威厳と自信、安定感が感じられます。微かに笑みを湛えた顔は知的で聡明、とても落ち着いています。

 一方、《バラのある金髪の女性》は、カールした赤毛の耳近くに花を挿し、普段着のような服装で、その肌に若さが感じられます。胸元が大きくあいた服の縁は刺繍のようなものがほどこされ、軽くはおったベストは赤褐色で、赤毛と背後の壁色とマッチしています。女性の口元からは笑みがこぼれ、あどけなさの残る表情が印象的です。

 両作品ともモチーフ、構図が似ているばかりでなく、筆遣いも似通っています。とりわけ、腕や胸の肌の艶の出し方、衣装に施したハイライトの効かせ方などに共通の技法が感じられます。

 制作年を見ると、《詩人アリス・ヴァリエール=メルツバッハの肖像》はルノワール、72歳の時の作品で、《バラのある金髪の女性》は74歳から76歳の時の作品です。ルノワールは78歳でなくなっていますから、いずれも晩年に近い時の作品でした。

 両作品とも、カラフルな筆遣いの中にハイライトを効かせ、年齢に応じた女性の美しさが描き分けられていました。若さ、清楚、可憐、深さ、落ち着き、知性、理性、といったような年齢に深く関連した要素、あるいは、概念が、巧みに表現されているのです。

 晩年に近づいてからの、この二作品を見ていると、老いてなお、深化しつづけているルノワールの観察力、画力に驚嘆させられます。女性の内面をしっかりと観察して捉え、それを画面に定着させる方法にさらに磨きがかかっていることがわかります。

 ルノワールは幼女から老女まで、数多くの女性を描いてきましたが、晩年に近づくにつれ、彼なりの女性観が確立されてきたのかもしれません。

 そうそう、ルノワールにこだわり過ぎて、入口のところで手間取ってしまいました。そろそろ会場に入っていくことにしましょう。

■スイス プチ・パレ美術館

 この展覧会では、スイスのプチ・パレ美術館が所蔵する作品65点が展示されていました。同館のコレクションが日本で紹介されるのは約30年ぶりなのだそうです。

 さらに興味深いことに、この美術館は個人が設立した美術館でした。

 スイス プチ・パレ美術館はジュネーブにある私設美術館です。なぜわざわざ「スイス プチ・パレ」と名付けているかといえば、プチ・パレ美術館そのものはすでにパリ8区に存在しているからです。

 パリ8区にあるプチ・パレ美術館は、1900年のパリ万国博覧会のために建てられました。万博後の1902年に、常設展示と特別展のあるパリ市立美術館になりました。

こちら → https://www.petitpalais.paris.fr/

 パリ市立美術館は、館内をヴァーチャルに見ることができるようになっています。

こちら → https://client.paris-gigapixels.fr/petit-palais/

 画面上の「↑」は進む方向を指し、「i」は作品情報を示しています。クリックすると、それぞれが表示されます。

 これを見てわかるように、パリ市立美術館のコレクションの質、規模は相当なものですし、丁寧な作品情報も提供されています。

 今回、佐川美術館でその所蔵作品が展示されているのは、上記のパリ市立美術館の「プチ・パレ美術館」ではなく、ジュネーブにある「スイス プチ・パレ美術館」です。

 スイス プチ・パレ美術館は、チュニジア生まれの実業家オスカー・ゲーズ(Oscar Ghez, 1905-19981)が1968年に創設した美術館です。ホームページを探してみたのですが、見つかりませんでした。それでもなんとか、建物の入り口付近の写真だけは見つけることができましたので、ご紹介しておきましょう。

スイス プチ・パレ美術館入口

 息子のクロード・ゲーズ(Claude Ghez)氏によると、1950年代に次々と家族を失ったオスカー・ゲーズは、悲嘆にくれる気持ちを慰めるように絵画のコレクションにのめり込むようになったそうです。当初は、ユトリロなどのモンマルトルとベル・エポックの画家たちの作品を集め、次いで、新印象派、ポスト印象派、そして、フォーヴィスム、エコール・ド・パリの画家たちの作品を集めていったといいます。

 コレクション熱が高じたオスカー・ゲーズは、1960年には経営していたゴム事業を売却し、すべてのエネルギーを絵画コレクションに注ぎ込むようになります。ちょうどその頃、手に入れたのが、先ほどご紹介した、ルノワールの《詩人アリス・ヴァリエール=メルツバッハの肖像》でした。

 これは、ゲーズが収集したコレクションの中の代表作品の一つです。

 1965年、オスカー・ゲーズは、スイスのジュネーブ旧市街に建てられた優雅な邸宅を購入しました。第二帝政時代の新古典主義様式の建築物です。

 先ほどの写真だけでは外観がよくわかりません。そこで、ネットで探してみると、全景がわかる写真を見つけることができました。

スイス プチ・パレ美術館全景

 ちょっと小ぶりですが、たしかに、見るからに優美な建物です。外壁のコーナーに設えられた上下階、4本の円柱はマドレーヌ寺院のファサードを彷彿させます。この建物を改装し、1968年に開館したのがスイス プチ・パレ美術館です。

 創設者であるオスカー・ゲーズは、コレクターとして自身の審美眼に、絶大な自信を持っていたようです。専門家がほめた作品の購入を嫌い、どちらかといえば、世間の評価が得られない画家、あるいは、美術史で顧みられないような画家の作品を好んで収集したそうです。

 購入資金の問題もあったのかもしれません。いずれにせよ、不当に過小評価されている画家たちの作品に着目して収集し、この美術館で公開して、光を当てていったのです。

 今回、佐川美術館で展示されていたのは、そのようなコンセプトで収集された作品65点で、以下のように分類されます。

1.印象派、2.新印象派、3.ナビ派とポン=タヴァン派、4.新印象派からフォーヴィスムまで、5.フォーヴィスムからキュビスムまで、6.ポスト印象派とエコール・ド・パリ、などに分類され、展示されていました。

 これまで見たこともない作品がほとんどでした。コレクターのオスカー・ゲーズが自身の審美眼の従い、不当に過小評価されている作品を中心に収集したからでしょう。個人が創設した美術館ならではのユニークなコレクションでした。

 興味深いのは、佐川美術館もスイス プチ・パレ美術館もともに、個人が収集したコレクションを元に設立された美術館でした。

 佐川美術館は佐川急便株式会社の総業40周年事業の一環として設立されています。一方、スイス プチ・パレ美術館は、ゴム事業を手掛けるオスカー・ゲーズによって創設されました。個人の審美眼、意向が反映されたユニークな美術館といえます。

 今回、19世紀末から20世紀初頭にかけての評価の定まっていない画家たちの作品を見る機会を得ました。展示作品の中で私が最も印象づけられたのは、新印象派の作品です。どの作品もはじめて見るものばかりでした。

 作品内容については次回、ご紹介していくことにします。

 その前に、琵琶湖について少し、触れておきましょう。

■琵琶湖を臨む

 今回、宿泊したのは琵琶湖マリオットホテルです。

マリオットホテル

 白亜の建物のすぐ傍から林が広がっています。

ホテル傍らの木々

 木々の背後に見える空が限りなく青く、吸い込まれていきそうです。眺めているうちに、いつの間にか、気分が開放され、さわやかな気分になっていきました。

 道路を隔てた先の浜辺では、松林が広がっています。

ホテル前の浜辺

 松林の背後には青空が広がり、所々、たなびく雲がなんとも優雅です。

 浜辺を少し歩くと、砂が堆積して広がったところに、「BIWAKO」の文字が一つずつ、オブジェのように建てられていました。

標識

 どんよりした厚い雲が立ち込める一方、木々の合間から、強い陽射しが射し込み、松林の影を浜辺に濃く焼き付けていました。

 さらに歩いていくと、打ち寄せられた枯れ木が転がっていました。

打ち寄せられた枯れ木

 これを見ると、まるで海辺に打ち上げられた枯れ木のように見えます。それほど琵琶湖は大きく、広く、まるで海のようでした。枯れ木はすでに風化し、砂の色と交じり合っています。

 どこまでも広がる浜辺には、小さな波が打ち寄せていました。この小さな波がどこからか、枯れ木を運んできたのでしょう。

打ち寄せるさざ波

 海と違って、琵琶湖の波は波頭も小さく、とても繊細です。そのまま空を見上げると、波打ち際まで広がっている松林の中で、ひときわ高い木と並行して雲が立ち上っていました。不思議な光景でした。

青空の広がる松林

 目を転じると、松林の奥にマリオットホテルが見えます。

松林から見るマリオットホテル

 青空に雲がたなびく中、松林に守られるように、ホテルが立っていました。なんとも風雅な光景です。

 夜、ホテルの部屋から、素晴らしい夜景を堪能することができました。

ホテルから見た夜景

 そして、朝景色もまた興趣あふれる光景でした。

ホテルから見た朝景色

 大きく広がる青空の下、早朝の清冽な空気が感じられます。琵琶湖を臨んでいるからでしょうか、人々が活動する前の清涼感が、辺り一面にたちこめていたのです。

■美術館とコレクション

 今回はじめて、滋賀県守山市の佐川美術館を訪れ、「スイス プチ・パレ美術館展」を鑑賞してきました。興味深かったのは、佐川美術館もスイス プチ・パレ美術館もともに、事業家が創設した美術館だということでした。

 佐川美術館の建物と外周は、それ自体が芸術作品のように素晴らしいものでした。写真で見る限り、スイス プチ・パレ美術館の建物と外周もまた、第二帝政時代の新古典主義様式を踏襲し、シンプルな優雅さを備えていました。

 新古典主義様式のコンセプトを簡単にいえば、ギリシャ・ローマの古典主義に倣う一方、写実性を重視し、市民的自由を反映させたものといえるでしょう。スイス プチ・パレ美術館のコレクションには、このコンセプトが反映されているように思いました。

 創設者のオスカー・ゲール氏の審美眼が反映されたコレクション内容はユニークで、これまでに見たことのない作品をいくつも見ることができました。

「スイス プチ・パレ美術館展」は、いってみれば、私設美術館のコレクション展でした。美術史から抜け落ちたような作品を見ることができ、新たな発見がありました。一連の作品を通し、芸術家と作品、コレクター、コレクションと美術館、相互の関係について考えさせられました。(2021/11/14 香取淳子)

マンチュリア文字とペインティングの融合:サマンは満洲文化を取り戻せるか。

■溝口・赫舍里・暁文絵画展

 溝口・へセリ・シャオウェン氏の個展が10月18日から23日まで、銀座6丁目のギャラリーGKで開催されました。22日に出かけようと思っていたのですが、一日中雨だったので、最終日の23日、お昼ごろに出かけました。久しぶりに出かけてみると、銀座4丁目の交差点は人通りも多く、それを目当てに衆院選の立候補者が声高に呼びかけていました。

 

 23日の東京都のコロナ感染者数は32人で、7日連続で50人以下になりました。ひと頃に比べれば激減しています。これでようやく、日常を取り戻せそうです。マスク着用とソーシャルディスタンスは不可欠だとしても、今後は絵画鑑賞も自由にできるようになるでしょう。

 さて、向かう先は、溝口・赫舍里・暁文絵画展です。タイトルだけ見ると、3人展かと思ってしまいますが、実は溝口・へセリ・シャオウェン氏お一人の展覧会です。日本人と結婚して溝口姓、それに満洲名の赫舍里、中国名の暁文セットにした名前です。3つの文化を背景に、創作活動を展開されている満州族出身の画家です。

 今回、満洲文字と絵を絡ませて構成された作品が展示されるということでした。 果たして、どのような作品を鑑賞することができるのでしょうか。 大変、興味があります。

 それでは、展示作品の中からいくつか印象に残ったものを、ご紹介をしていくことにしましょう。

■心中サマン

 タイトルの横に「心中サマン」と書かれた作品がいくつかありました。さっそく鑑賞していくことにしましょう。

●《万物精霊》

 まず、画面の上に文字が整然と縦書きで書かれていたのが印象的でした。

(2017年頃、制作)

 画面右中央に椿の葉のような広めの葉が何枚か、描かれています。深みのある濃い緑色に濃淡が施され、なんとも艶やかです。その葉の上といわず、周りの大気といわず、辺り一面に大小さまざまな黒い斑点が散らばり、まるで得体の知れない物体が浮遊しているように見えます。そして、葉の真ん中では白い葉脈が走り、それぞれの葉にちょっとした動きを生み出しています。葉の大きさ、向き、その重なり具合などが丁寧に描かれており、ひそやかな生の営みを感じさせられます。

 厚みのある葉の形状が、グラデーションの中でしっかりと描かれています。葉の広がりは画面の半分ほどを占めているにもかかわらず、背景色とのコントラストが少なく、しかも、濃いグレーの濃淡と斑点が画面全体を覆っているせいか、存在感が弱く、沈み込んで見えます。

 ひょっとしたら、小鳥を目立たせるための色構成なのかもしれません。

 左上方には小鳥が一羽、枝に止まって、その下に広がる葉を見下ろしています。明るい黄土色と白の羽毛で覆われた姿が、その周辺を明るく照らし出し、眼下に広がる薄暗い葉とは対照をなしています。ここに、どこへでも飛んでいける自由を持つ鳥と、どこにも移動することができず、その場にい続けるしかない植物との対比を見ることもできます。

 さて、鳥の周辺以外、画面は寒色の濃淡で構成されています。それだけに、整然と縦に書かれた金色の満洲文字が目につきます。何が書かれているのか意味がわかりませんが、主要なモチーフを残し、金の満洲文字が画面を全体装飾するように覆っているのです。

 眺めていると、特徴的な文字の形に気づきました。

 Wikipediaで調べてみると、「満洲」という意味でした。

 改めて画面を見ると、この文字が繰り返し出てきています。画面全体に書かれたこの文字の中に、今はない満洲を哀惜する作者の心情を感じ取ることができます。

●《心中薩満》

 会場で見たときは、水色に近い藍色で覆われた画面が印象的でしたが、写真に写すと、群青色に近い色調になってしまいました。そのぶん、金で描かれた大小さまざまのサマンが強調されて見えます。

(2014年頃、制作)

 芋の葉のような形の葉が3枚、すっくと上に向かって伸び、1枚は下に折れたように垂れています。上に伸びる力と下に垂れる力を拮抗させているような画面構成が斬新です。その葉を取り巻くように、金色の大小さまざまなものが円を描くように配置されています。よく見ると、仏像のようにも見えます。

 上半分をクローズアップして見ました。

 

 大きいもの、小さいもの、立っているもの、座っているもの、手を曲げているもの、手を下ろしているもの、多種多様な姿をした仏像のようなものが無数に描かれています。

 全身がはっきりと描かれているものがあれば、半身あるいは一部分が背景に溶け込んでいるものもあります。葉を取り巻く辺り一帯に、この仏像のようなものが浮遊しているのです。

 空間自体に深みがあり、何か厳かなものを感じさせられます。時空を超えた何か・・・、それが何か、わかりませんが、気になってタイトルを見ると、その横に、説明が書かれていました。

「私は天を観た。天も私を観た。天・地・人・生命・自然・神・万物霊」とだけ書かれています。

 上を向く3枚の葉は天を指し、下を向く1枚の葉は地を指しているのでしょう。あるいは未来を指し、過去を指しているのかもしれません。これらの葉を取り巻く無数の仏像のようなものはおそらく、人でもあり、神でもあるのでしょう。

 仏像のように見えるものの中には、背景の中に半身、あるいは一部分が溶け込んでしまっているものがあります。つまり、実体ではなく、形象であり、想念であり、さらにいえば、生命そのもの、あるいは万物の霊そのものなのでしょう。

 とても引き込まれます。

 気になったので、今度は下半分をクローズアップしてみました。

 

 今まで気づかなかったのですが、満洲文字が整然と縦書きで藍混じりの淡い色で書かれています。目を凝らさなければ見えないほどですが、この満洲文字が添えられることによって、絵で描かれた空間に絵の構成とは別の秩序が与えられているように見えました。

 この下半分にも仏像のようなものが、大小さまざまな形態で描かれています。はっきりとした姿を現しているものもあれば、ぼんやりとしているもの、重なり合っているもの、さらには、周囲に溶け込んでしまっているもの、多種多様な姿の中に万物の霊を見る思いがします。物質ではなく霊魂だからこそ、至る所に浮遊し、時に重なり合い、時に溶け合い、共にこの世界の構成要素として存在しているのでしょう。

 見ているうちに、何かとても重要なことに気づかされた思いがしてきました。

 すべての存在にはおそらく、ふつふつと湧き上がるように魂が宿り、そこかしこに浮遊しているのでしょう。この作品を見て、それに気づかされたからこそ、あらゆるものの尊厳を冒してはならないという気持ちが、ごく自然に沸き起こって来たのです。

 この作品については、後に、作家の溝口・へセリ・シャオウェン氏から、写真が送られてきました。会場で見たのと同じ色調です。

 

 私が会場で撮影したものよりも、背景の藍色が淡いせいか、葉や花瓶の筆触がよくわかります。

 そして、もう一つ、心中サマンと書かれた作品がありました。

●《水仙図》

 会場で見ると、もう少し明るい色合いだったような気がするのですが、写真撮影すると、やや暗い色調になっています。

(2015年頃、制作)

 花の咲いた水仙が2株、対角線上に配置されています。葉は思い思いの方向に嫣然と揺らぎ、葉先は軽やかに空に舞っています。その形状はなまめかしい動きを表しており、まさに女性の象徴です。

 どういうわけか、2株ともしっかりと根の部分まで描かれています。根は宙に浮いていて、しかも、跳ねています。つまり、この水仙は土を介さないで、存在していることが示されています。そして、根の下の部分、茎の周り、その周辺一帯に、金の浮遊物が浮いています。

 こちらは仏像のように見えるものは数えるほどしか描かれていません。微細な破片のほとんどが、その形状から何かを想像できるものではなく、ただの浮遊物のようにしか見えません。

 ただ、右側の茎の周辺、真ん中の花の周辺に、気体のような金の浮遊物が密集しているのが奇妙です。

 花が咲き、茎が揺れる辺りに、この浮遊物が集中しているのです。このことからは、呼吸する、花を咲かせる、風に揺れる、といった大気に付随した生命活動と関連していることが示されています。気体のように目に見えないものが、このような形で可視化されているといっていいのかもしれません。

 目に見えないものをそのように可視化できれば、この世に存在するあらゆるものに命が宿り、霊魂があることを示すことができます。

 この作品に満洲文字は書かれていませんでしたが、仏像のようなものはいくつか描かれていました。それ以外に、先ほどご説明した気泡のようなもの、気体のようなもの、さらにいえば、気のようなものが随所に描かれており、生命現象、あるいは、精神現象そのものが描き込まれているように思いました。

 この作品についても、後に、作家の溝口・へセリ・シャオウェン氏から、写真が送られてきました。会場で見たのと同じ色調です。

 

 私が会場で撮影したものよりも、藍色の濃淡がよくわかります。全般に淡い藍色になっているので、暈し表現が効いているのを見て取ることができます。繊細でしなやかな葉の動き、曲線の妙味が秀逸です。

 ご紹介してきた三作品には共通して、「心中サマン」という語が書き添えられていました。そして、モチーフである鳥や葉、花の上や周囲に、満洲文字や仏像のようなものが描かれていたのも共通していました。

 そのせいか、画面全体が神秘的で荘厳な雰囲気で包まれているように思えました。満洲文字と絵画が融合することによって、神秘的で奥深い世界が創出されていたのです。まさに満洲文字が創り出す精神の小宇宙でした。

 ふと、中国の絵画理論といわれる「絵画六法」を思い出しました。

■絵画六法

 中国南北朝の時代に謝赫という画家がいました。彼は『古画品録』の序の中で、「絵画六法」という中国の絵画理論を記しています。原文は次の通りです。

  • 気韻生動是也
  • 骨法用筆是也
  • 応物象形是也
  • 随類賦彩是也
  • 経営位置是也
  • 伝移模写是也

 王凯氏はこれについて、次のように述べています。

「この絵画六法は顧愷之の絵画理論を発展させたもので、絵画の優劣を決めるための基準を与え後世の画論の重要な指標となった。(中略)中でも気韻生動が最も重要な法とされる。気韻とは神韻、神気、生気、壮気などとも言い換えられることがあるが、見る人を感動させる力であり、調和の取れたリズムを持つことを指す」(※ 王凯、『中国絵画の源流』pp.26-27. 秀作社出版、2014年6月)

「気韻生動」とはすなわち「气韻生动」で、見る者の精神を活性化することと解釈することができます。画面を見た鑑賞者の気持ちが動かされることを、作品の評価基準の一つに挙げているのです。

 絵画の存在意義に関連する重要な要素だと思います。

 最後の伝移模写について、王凯氏は次のように述べています。

 「张璪(唐代)は「外師造化、中得心源」と述べた。自然を教師としながら自分の心の中にあるものを源泉として作品を描く、という意味である。(中略)「伝移模写」は単なる絵を移すこと、まねて写すこと、或いは複製ではないことが明らかになった」(※ 王凯、前掲。pp.21-22.)

 この箇所を読んでいて、私は、溝口・へセリ・シャオウェン氏が会場で話されていたことを思い出しました。彼女は「中国では美大に入ると、1,2年生はしっかりと宋代の画家の作品の模写をさせられる」と話されていたのです。線とか色、形などに忠実に模写するのはもちろんのこと、重視されたのはその画家の魂を汲み取ることだということでした。

■宋代に確立された山水画、花鳥画

 何故、宋代の画家なのかということを聞きそびれてしまったので、ちょっと調べてみました。すると、宋代は中国絵画史のピークであり、転換期でもあったそうです。この時期に山水画と花鳥画の様式が確立され、特に山水画は中国絵画を代表するジャンルともなっています。

 山岡泰造氏は、宋代の山水画について、次のように記しています。

 「宋代は山水画のさまざまな構成要素が出揃った時代であり、しかもそれに無数の変化と個性を与えるための線描(及び線描を否定するや墨法)の多様性が生まれた時代であった。したがって、そこに成立する情景も複雑で多岐にわたるものであった」(※ 山岡泰造「宋代の山水画論について(一)」『関西大学東西学術研究所紀要』p.77. 2003年3月)

 このような状況を知ると、画力を養うための模写には、宋代の作品は恰好の教材だったことがわかります。

 山岡氏はさらに、次のようにも述べています。

 「輪郭線すなわち描画には画く人の気持ちが反映して速度や肥痩やリズムが生まれる。そしてそれによって表される物の形にも線を通して画く人の気持ちがあらわれるのである。画く人の気持ちは、その人が画こうとする対象(具体的な対象がない場合でも幻想的対象)から受け取るものであり、それを構成要素およびそれらによる構成に反映させることによって、見る人による対象(絵画)が成立するのである」(※ 前掲)

 作者の気持ちを画面に反映させることができるようになったのも、水墨画ならではの写意を表すための技法と構図が宋代に出揃ったからにほかならないのでしょう。

 再び、王凯氏に戻ると、彼は次のように「絵画六法」を総括していました。

 「絵画六法」の「法」はただの単純な絵画技法ではない。高度な哲学思想の本質をもって把握しなければならない論理である。この「法」は、宇宙、天地、生命の「気」の論説であり、即ち、天文、地理、社会、歴史、政治、軍事などに繋がり、認識論、方法論、特徴論、画法論、創作論、そして鑑賞論を含み、主体と客体の「真・善・美」の思想方式という科学的論理を持つものである」(※ 王凯、『中国絵画の源流』p.12. 秀作社出版、2014年6月)

 このような認識が広く一般に受け入れられているからこそ、中国では絵に文字が書かれても違和感がないのでしょう。違和感がないどころが、むしろ格調が高くなると考えられていた節があります。大画家はしばしば大書家でもありました。詩、書、画は、人の精神活動の現れとして同根なのです。

 それでは、個展会場に戻りましょう。

■満洲文字と絵画の融合

 会場を見渡すと、満洲文字が書かれた作品もあれば、仏像のような画像が描き込まれた作品もありました。それぞれメインモチーフと見事に調和し、画面を豊かなものにしていました。印象に残った作品をいくつかご紹介していくことにしましょう。

●《ハイピスカス》

 花のように見えますが、何の花かはわかりません。モチーフの色彩、画面の色調に圧倒されました。近づいて、タイトルを見ると、《ハイピスカス》と書かれています。

(2016年頃、制作)

 よく見ると、この作品にも満洲文字が散りばめられています。画面右中央から左下にかけて、斜めに縦書きで同じ文字が書かれています。どういう意味なのかわかりません。目を凝らすと、画面左端と右端にも縦長に文字が書かれています。さらに、モチーフを取り巻く恰好で、文字が淡く、書かれています。そのせいか、文字はほとんどモチーフの周辺に溶け込んでいます。

 ちょっと引いて、画面全体を見ると、満洲文字がモチーフを補完するように配置されて書かれています。そのせいか、画面が安定し、独特の深みが表出しています。

 文字ではなく画像が散りばめられている作品もありました。

●《菊神》

 画面の色調に惹かれ、足を止めて見入ったのが、この作品でした。タイトルは《菊神》です。

(2018年頃、制作)

 黄色の絹地を使って描いたそうです。右下に文字が書かれていますが、アルファベット表記で、溝口・へセリ・シャオウェンと書かれていますから、これは署名です。

 この作品ではまず、モチーフと背景の色調がとても似通っていることに気づきます。

 このような色構成をすると、モチーフはともすれば、背景の色調に溶け込み、沈んでしまいかねません。ところが、この作品はそうはなっておらず、むしろ、背景とモチーフとが一体となって、深い哀愁を帯びた情感を醸し出しています。

 花びらであれ、花芯であれ、葉であれ、茎であれ、丹念に精緻に描き込まれているからでしょう。まるで工筆画のようです。

 モチーフは輪郭線とぼかしで正確に写し取るように描かれています。そのせいか、背景と似た色彩で描かれているのに、モチーフは決して背景の中に埋没することなく、むしろ、くっきりと存在感を示すことができています。

 よく見ると、葉の上に仏像のようなものが見えます。

 少し、クローズアップして見ましょう。

 

 この仏像のようなものは葉脈と同じ色で描かれているので、うっかりしていると見落としてしまいますが、よく見ると、手前の葉の上に4カ所、仏像のようなものが立っている姿で描かれています。さらに視線を上げると、花の上に描かれた茎にも、形は判然としませんが、仏像のようなものが描かれています。

 至る所に神がいて、この世界を秩序立てて安定を図り、守っているというメッセージなのでしょうか。

 満洲文字ではなく、仏像のような画像を使ったのは、おそらく、この作品のモチーフが工筆画のような精密さで描かれているからでしょう。ここでは敢えて文字をつかわず、画像を使って、工筆画のもつ硬さをやわらげ、画面のバランスを取ろうとしたのではないかと思いました。

 そういえば、先ほどご紹介した《ハイピスカス》は、至る所に文字が書かれていました。こちらのモチーフは写意画の画法で描かれていました。荒く、大胆に描かれたモチーフには文字をレイアウトし、堅苦しさを持ち込み、硬軟のバランスに配慮した画面構成になっていました。

 最後に、文字を全面に打ち出した作品がありましたので、ご紹介しましょう。

●《女神》

 まず、文字が全面に押し出された作品です。画面全体に上から縦書きで文字が整然と描かれています。

(2016年頃、制作)

 絵は文字の下に描かれているのですが、辛うじて女性の顔が見える程度です。やや暗い色調の中にピンク系の色が適宜、散らされ、文字の背後から明るさを出しています。《女神》というタイトルからは、歴史の匂いが感じられます。

 案の定、「1599」という数字が繰り返し、書かれています。気になったので、Wikipediaで調べてみると、明代に女真を統一していたヌルハチがモンゴル文字の表記を応用して「無圏点字」を制定した年だとされていました。

  ところが、無圏点字は、モンゴル文字の体系をそのまま使っていたので、満洲語を表記するのは問題が多かったようです。そこで、ヌルハチの子ホンタイジの時代に、従来の文字に点や丸を添えて、満洲語の一音が一文字で表記するように改良されました。それが1632年です。改良された文字のことを「有圏点字」というそうです。

 改めて、この作品を見ると、いくつかの文章は、確かに文字の横に〇が付いていたり、点が付いていたりしています。ところが、2行目、5行目、8行目、9行目で、アルファベット表記の文章も見えます。2行目はフランス語かと思って調べてみましたが、意味が通じません。アルファベット表記の文字だということがわかっても、何語かはわかりませんでした。

 ちなみに、清代では、満州文字は「清文」、「国書」と呼ばれ、モンゴル文字、漢文とともに三体といわれていたそうです。ところが清朝末期の西太后は満州族でありながら、満洲文字は読めなかったそうです。

 興味深いことに、民間の漢人は満州語と満洲文字の習得は禁止されていました。漢人で満州語や満洲文字を学ぶことが許されていたのは、科挙合格者の状元(首席合格者)、榜眼(第2位で合格)などの成績優秀者に限られていたといわれています。

 なぜかといえば、清代の公文書は満洲文字と漢文が併用されており、満洲文字で書かれた文書の方が漢文で書かれたものより、詳細に記述してあることが多かったからだそうです。使用文字によって情報内容を操作するとともに、情報へのアクセスに制限をかけていたのでしょう。清代の官職で満洲文字を理解できるものが優位に立てるのは当然でした。

 このことからは、文字が国の統治にいかに深く関わっていたかがわかります。

 清朝初期の記録は、満州語で書かれたものしか残っておらず、ごくわずかの人しか当時のことは理解できません。先例や伝統が優先される事象に対応できるのは、満洲語を理解出来る者だけでした。満洲語を使えるというだけで、彼らは権力を保持できましたが、いったん文字が使われなくなると、そこで記録は途絶えてしまいます。

■サマンは満洲文化を取り戻せるか?

 現在、満洲文字によって支えられ、存在していたはずの文化が、人々の記憶から失われかねない事態になっています。

 今回、溝口・へセリ・シャオウェン氏の個展で、満洲文字と絵を融合させた作品を何点か鑑賞する機会を得ました。これまでご紹介してきたように、それらの作品を通して、文字は、絵の価値を損なうことなく、むしろ、格調や深みを付与できることがわかりました。

 満洲文字が画面に添えられることによって、絵だけでは得られない深みを感じさせられました。満洲文字の意味はわかりませんが、 思索につながる深さを感じさせられたのは、 おそらく、文字そのものがもつ抽象化された概念がそこに含まれているからでしょう。

 翻って、日本の場合を考えてみると、明治期の西欧化政策の下、「書ハ美術ナラズ」として書画は分離されました。中国由来の書画一体観の下、日本で連綿と形成されてきた江戸時代までの文化が断ち切られたのです。

 このときは近代化政策の一環として、明治政府が美術も西洋基準に合わせようとしたからでした。いつの世も、文化は政治経済によって断ち切られ、変貌させられがちです。それでも、その文化を愛でる人々がいる限り、再び、息を吹き返し、甦っていくことでしょう。満洲文字に支えられた文化も同様だと思います。

  いつの日か、 それこそ サマンの力によって、満洲文化を取り戻すことができるでしょう。 (2021/10/25 香取淳子)

画家たちが愛した「フォンテンブローの森」を見る。

■風景画とアカデミズム

 18世紀末から19世紀初頭にかけて、社会動向を反映して美術界にも大きな変化が訪れていました。

 たとえば、風景は長い間、肖像画、歴史画の背景でしかありませんでした。ところが、産業革命を経て市民階級が台頭してくると、次第にありのままの光景を描いた風景画が求められるようになります。そのような美術市場の動向を反映し、アカデミズムにも風景画を認める動きが出てきていたのです。

 鈴木一生氏は当時のフランス美術界について、次のように書いています。

 「一般に人気が高かったのは、歴史物語を含まないオランダ絵画に代表される自然主義風景画であった。実際、19世紀初頭の絵画市場において、高い値が付く絵画のほとんどは、アカデミーからは下位ジャンルだと見做されていたオランダの風景画や風俗画であった。(中略)オランダ絵画は、同時代の新古典主義の画家と比べても圧倒的高値で売買されていた」 (※ 鈴木一生、「1810 年代後半の歴史風景画の変化」『成城文藝』第239号、pp.22. 2017年4月)。

 市民階級には、ありのままに描かれた風景画が好まれていたのです。このような状況をアカデミーも無視することができず、ローマ留学賞に風景画部門を加えるような動きがでてきました

 当時、アカデミーが風景画の理想として挙げたのが、プッサン(Nicolas Poussin、1594年6月15日-1665年11月19日)の作品でした。

 鈴木一生氏は、「イタリアの情景をプッサンやクロードのように描く、それはまさに歴史風景画の理想であった。(中略)歴史画の延長でありながら、独立した風景画を賛美しようとする意図があった。つまり、アカデミーの中での風景画の格上げとは、風景画に精神性を加えること、プッサンといった巨匠と同時代の風景画を結びつけることであった」と書いています(※ 前掲書。pp.34-35. )。

 その代表として挙げられているのが、ニコラ・プッサンの《蛇のいる風景》です。

(油彩、カンヴァス、119.4×198.8㎝、1648年制作、ロンドン、ナショナル・ギャラリー所蔵)

 手前に暗褐色の道と土手、中ほど両側に暗緑色の大木、そして、その奥左側に建物、さらに奥右側に建物を配し、上部三分の一ほどは雲がかった空が描かれています。画面には3人の人物が描かれていますが、目を凝らさないとよく見えません。

 とはいえ、葉陰から漏れる陽光に照らし出された人物の動作から、なにやら事件が発生しているようです。まるでライトを浴びた舞台のように、道の一部が照らし出されているので、人物が何をしようとしているのかを想像することができます。

 この作品を見た瞬間は風景画ですが、よく見ると、小さく描かれた人物の動作と配置によって、鑑賞者に物語を想像させるような仕掛けになっています。物語の内容によっては宗教画であり、歴史画でもあるという組み立てになっているのです。

 1810 年代後半から1820 年代にかけてのサロンではようやく、風景画が認められつつありました。とはいえ、風景画に対する見解はさまざまでした。プッサンのような歴史風景画にこだわる人々がいる一方で、市民の嗜好を反映した自然主義的な風景画を認めようとする人々もいました。

 1820 年代以降になると、アカデミーの中でも自然主義的な風景画に好意的な見解がさらに増えていきました。

 一部の画家たちが、そのような風潮に呼応するような動きを見せます。

■フォンテンブローの森

 パリの南方約60㎞のところに、バルビゾンという名の村があります。フォンテンブローの森に隣接しており、19世紀の半ばあたりから画家たちが滞在するようになりました。ここに来れば、ありのままの自然を観察し、作品化することができるので、画家たちに好まれたようです。

 ところが、18世紀半ばから19世紀にかけてイギリスで起こった産業革命の影響がフランスにも及び、19世紀半ばごろには、あちこちで環境破壊が起こっていました。人々の利便性を高め、生産性を向上させるための破壊活動でした。

 産業革命後の近代化がパリ郊外にまで及びはじめ、伸びやかに広がったフォンテンブローの森が破壊されそうになりました。周囲に鉄道や工場が建設され、バルビゾン周辺の環境が破壊されそうになっていたのです。それに向かって立ち上がったのがルソーやミレーなどバルビゾンに移住した自然派の画家たちでした。

 たとえば、テオドール・ルソー(Théodore Rousseau)は森の樹木が伐採されていくのを憂え、当時の皇帝ナポレオン3世に伐採禁止を直訴しました。その結果、1853年には森の中のバ・ブレオーやフランシャール、アプルモン谷など風光明媚な場所624ヘクタールが、国の自然保護区に指定されました。1861年になると、保護区はさらに1,097ヘクタールにまで拡大されたといいます(※ 井出洋一郎、『バルビゾン派』、p.5. 東信堂、1993年)。

 もっとも、それで問題が解決したわけではありませんでした。

 政府はその後、手間のかかる広葉樹を切り倒し、成長が早く利用しやすい松などの針葉樹に植え替え作業を進めようとしました。木々を伐採してしまうわけではないので、反対運動は起こらないと思ったのかもしれません。

 木々が伐採してしまわないから問題がないわけではありません。広葉樹から針葉樹への植え替え作業そのものが自然の生態系を壊してしまうことになるのです。

 ルソーは再び、ミレーと共に反対運動を起こし、今度は皇后に働きかけて、森の内部まで植え替えを進めさせないようにしたといいます(前掲)。

 革新的な風景画家であったばかりか、 ルソーは 自然保護活動の先駆けでもあったのです。

 こうしてルソーら画家たちの働きかけがなければ、破壊されかねなかったフォンテーヌの森の原型が保たれました。バルビゾン村の人々はその功績を称え、後の画家たちがルソーとミレーのレリーフを岩に刻んで碑を建てています。

https://www.fra5.net/une/barbizon.htmlより)

 ありのままの自然を好んだ画家たちは、身を挺して、フォンテンブローの森を守ってきたのです。そして、新たな表現世界のトポスとして、この森をモチーフに次々と作品化していきました。

 彼らはバルビゾン村を中心に、隣接するフォンテンブローの森などを写生して風景画を描き、やがてバルビゾン派と称されるようになります。

 たとえば、ルソーは1829年からフォンテンブローの森を訪れ、木々を描くようになっていますが、コローも同年春、バルビゾンに移住し、フォンテンブローで制作し始めています。ルソーは17歳、コローは33歳の時でした。

 そこで、今回は、ルソー(Théodore Rousseau)とコロー(Jean-Baptiste Camille Corot)を取り上げ、トポスとしての「フォンテンブローの森」について考えてみたいと思います。

■ルソー

 バルビゾン村の画家グループの中心人物が、テオドール・ルソー(Théodore Rousseau、1812年4月15日―1867年12月22日)でした。彼は1829年、17歳の時からフォンテンブローの森を訪れ、木々や情景を観察していは次々と制作していきました。やがて、他の画家たちと共に、「1830年代派」と呼ばれるようになります。

 バルビゾンの自然を愛したルソーの作品にはとくに、これまでの画家には見られない斬新な風景表現が随所に見受けられ、注目されました。制作年が若い順に、三作品をご紹介しましょう。

●《森の大樹》

 たとえば、1835年から40年の間に描かれた《森の大樹》という作品があります。

(油彩、カンヴァス、39.0×30.0㎝、1835-40年、村内美術館所蔵)

 画面中央に、枯れてざっくりと裂け、木肌が剥き出しになった幹が描かれています。背後にはうっそうとした木々の茂みが広がっています。

 木々の葉、枝、幹を、黄褐色、暗褐色、暗緑色の濃淡で描き分け、生い茂る木々の深みが巧みに表現されています。近景、中景、遠景を意識して、色構成を考え、モチーフが配置されているからでしょう。

 空から降り注ぐ陽光が随所に射し込み、葉先や幹が所々、明るく照らし出されており、画面に生気がもたらされています。豊かな森の営みが浮き彫りにされ、見ているだけで、森のひそやかな息遣いが聞こえてくるような気がします。

 メインモチーフの選び方といい、構図、筆触を活かした描き方といい、とても斬新で、しかも迫真力があります。

 裂けた幹そのものがドラマティックで、ただの枯れた木にすぎないのに強烈な存在感があります。自然をありのままに描きながらも、そこにモチーフの捉え方一つで大きなドラマが感じられます。近景と遠景とを描き分け、ドラマティックな効果をあげているのです。

 確かに、新古典主義、歴史風景画などとは明らかに異なっています。現代の作品だと言っても違和感のないほど、対象の捉え方にルソーの独自性が見られ、新鮮です。

  この作品を見ると、一部とはいえ当時の人々が、ルソーの斬新な風景表現に注目していた理由がわかります。

 幹の裂けた木肌の描き方には、印象派を想起させるような、光を意識した色遣いが感じられます。明らかに新時代の作品でした。

 風景を背景として描くのではなく、歴史を重ね合わせ、理想的に描くのでもなく、ありのままに描きながらも、独立した一つの作品として存在させているのです。モチーフの切り取り方、構図、色構成などが細密に工夫されているからでしょう。

●《フォンテーヌブローの森のはずれ、日没》

 ルソーは数多くの風景画を描いていますが、構図が面白くて惹きつけられたのが、《フォンテーヌブローの森のはずれ、日没》でした。ルソーが36歳ごろに描いた作品です。

(油彩、カンヴァス、142×198㎝、1848-49年制作、ルーヴル美術館所蔵)

 左右と上部が木々、下部が下草で覆われています。そのせいか、四方が暗緑色で囲まれる格好になり、鑑賞者の視線は必然的に、画面中央に誘導されます。

 視線を誘導されるまま、画面に目を凝らすと、右側中央寄りの木の一部は切り取られ、左側中央寄りの木もまた上部が無くなっているのに気づきます。画面中央を取り囲む左右の木の一部が欠損しているのです。さらに、中央右寄りに、褐色で描かれた歪な恰好の木の幹は大きく傾き、今にも倒れそうになっています。

 いずれのモチーフも不安定で、鑑賞者に不安をよびおこすような形状であり、配置でした。鑑賞者の視線を集める画面中央に、欠損状態の木々をレイアウトし、不安感を強調するような画面構成になっているのです。

 王立森林局がフォンテーヌブローの森を切り開こうとしていた時期に描かれたのでしょうか。この作品にはルソーの主張が感じられます。

 傷んだ状態の木々が、鑑賞者の視線を集めやすい中央に配置されています。しかも、中央の目立つ位置に描かれた木の幹は大きく歪み、倒れかかっているように見えます。欠損状態、歪な状態の木々を画面の中央にレイアウトすることによって、ルソーは、森林の伐採に警告を鳴らしているように思えるのです。

 画面中央の左下を見ると、うっかりすると見落としてしまいそうなほど小さく、沈み込む太陽が描かれています。その小さな光源は辺り一面に光を注ぎ込み、日没の哀愁を画面中央近辺で浮彫にしています。見ていると、しみじみとした情感がかき立てられます。

 前景を見ると、手前から中ほどにかけて、牛が群れて水を飲んでいる姿が捉えられています。夕陽の輝きの中で、牛や木々の影が水面に落ち、そこには日没の哀愁と、無事一日が終わったというかすかな安堵が感じられます

 さらに目を凝らすと、画面中央左寄りに人の姿が見えます。牛飼いなのでしょうか。明るい残照の下、風景の中に溶け込んでしまっているように見えます。

 こちらは、不安感を誘うような木々の形状とは逆に、穏やかな陽射しに包まれた人と動物の安らかなひとときが捉えられています。まるで森林が果たしてきた人や動物への恵みを訴えかけているかのような作品でした。

 陽光の扱いと筆触を活かした描法に、印象派の要素が感じられます。この作品は1850年と1851年のサロン、そして、1855年の第1回パリ万博に出品されました。フランス美術界でルソーの評価を高めたといわれています。

 この作品には、不安感をあおる要素と安堵感をもたらす要素とが混在しており、風景だけを描きながらも、鑑賞者に思索を促すところがあります。そのあたりにアカデミー側が格調の高さを感じたからかもしれません。

 その後も一貫して、ルソーは写実的に風景を描き続けました。自然を愛し、ありのままに描く姿勢を貫き通したのです。

●《アプルモンの樫、フォンテーヌブローの森》

 ルソーの代表作の一つとされるものに、《アプルモンの樫、フォンテーヌブローの森》があります。40歳の時の作品です。

(油彩、カンヴァス、64×100㎝、1852年、オルセー美術館所蔵)

 なんとも壮大な作品です。

 大きな樫の木々の下で牛が三々五々、草をはみ、水を飲んでいます。空いっぱいに雲が広がり、その合間から射しこむ陽射しが柔らかく、辺り一面を明るく照らし出しています。静かで平和なひとときが見事に描かれています。

 手前には緑色の下草が広がっており、中ほどはやや褐色がかった巨木、そして、その背後には所々、水色が混じったどんよりとした曇り空と色彩バランスも巧みです。

 この作品では近景、中景、遠景の色彩バランス、そして、モチーフの配置の妙が際立っています。単なる風景を描いただけのように見える作品ですが、さりげなく、しかも見事にメッセージが描き込まれています。

 圧倒的に大きな存在感を示す自然の下、動物とヒトが調和し、平和裏に生きている姿が暖かく、哀愁をこめて描かれています。自然を愛する者ならではのモチーフの選択、配置、構図といえます。

 この作品は1852年のサロンに出品されました。そして、1855年に開催された第1回パリ万博に出品され、その後、1865年にモルニー公爵に買い上げられました。ようやくアカデミーから評価され、権威筋から購入されたのです。

 ルソーは1867年、第2回パリ万博で審査委員長に任命されました。

 画家としてステップアップしていくにつれ、最初はアカデミーから相手にされなかった風景画が次第に権威づけられ、絵画の一ジャンルとして認められるようになりました。

 ルソーはその後も一貫して、フォンテンブローの森やバルビゾン周辺の自然を描き続けました。ここでご紹介したのはルソーの作品のほんの一部でしかありません。バルビゾンの雰囲気を把握するため、さらに多くのルソーの作品を動画でご紹介しておきましょう。

こちら → https://youtu.be/2JtTg9oYAJI

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■コロー

 カミーユ・コロー(Jean-Baptiste Camille Corot、1796年7月16日-1875年2月22日)もまたルソーと同様、自然を愛し、フォンテンブローの森を様々に描いてきました。

 前回、《荷車―マルクーシの思い出》(1855年)、《モルトフォルテーヌの思い出》(1864年)、《孤独》(1866年)をご紹介しましたので、今回は、また別の作品をご紹介していくことにしましょう。

 コローは1840年代から偉大な風景画家として知られるようになりますが、そのきっかけとなったのが、1833年にサロンに出品した《フォンテーヌブローの森の浅瀬》でした。

●《フォンテーヌブローの森の浅瀬》

 1833年、サロンに出品したのが、《フォンテーヌブローの森の浅瀬》(原題はForest of Fontainebleau)です。2等賞を受賞しました。コロー、37歳の時の作品です。

(油彩、カンヴァス、90.2×128.8㎝、1830年制作、ワシントン、ナショナル・ギャラリー所蔵)

 画面の半分ほどはうっそうと生い茂る木々で占められています。右側には大きな木々が茂って浅瀬に影を落とし、その左手奥には剥き出しになった土手の上に木々が生い茂っています。

 画面中ほどから右下にかけて、蛇行する川に沿った周辺に陽が射し、下草や岩や水を明るく照らし出しています。光と影、明と暗を巧みに配置しながら、水辺に流れる静かなひとときが描出されています。

 深い暗緑色の葉と暗褐色の幹が背後からの陽射しを遮り、その下の浅瀬に暗い影を落としています。画面は静謐を湛え、寝そべって読書する女性の姿を引き立てています。

 深い静寂がしっかりと描き出されているからこそ、読書するという内省的行為が引き立てられています。風景と人の行為とが見事に調和し、鑑賞者の気持ちを惹き付けます。

 当時のフランス美術界では、アカデミックな風俗画や肖像画がもてはやされていました。風景はその時もまだ、神話や歴史をテーマとした人物画の背景でしかなかったのです。

 そのような風潮の中で、自然主義的な風景画が受賞することはなく、ルソーなど、1836年にサロンに《牛の山下り》という作品を出品しましたが、落選してしまいました。その大胆な自然主義が新古典主義画壇の反感を呼んだのです。以後10年間というもの、サロンに出品しても落選し続けたため、ルソーは「落選王」と揶揄されていたそうです(井出洋一郎、前掲)。

 ところが、コローの《フォンテーヌブローの森の浅瀬》は、風景画でありながら、サロンで2等賞を受賞しています。

 いったい、何故なのでしょうか。

 再び、この作品を見てみると、風景画とはいえ、ここでは風景と人物が等価で描かれています。風景は決して、人物の背景ではありませんが、かといって、風景そのものが自己主張し、メインモチーフとして取り上げられているわけでもないのです。

 ルソーとの違いはおそらく、そのあたりにあるのでしょう。なによりもまず、風景との向き合い方が異なっているように思えます。風景そのものの中に表現する意味を見出すのではなく、人物との調和にその意味が見いだされ、描かれているのです。

 そのせいか、コローの風景はルソーとは違って、ややパターン化された描き方に見えます。

 コローはどのような作品にも人物を描き込んでいます。しかも、女性です。そのせいでしょうか、コローの作品にはどこかしら詩情が感じられ、抒情性が感じられます。

 18世紀末に刊行された『芸術家のための実践遠近法基礎』という本の中で、著者のヴァランシエンヌは自然を捉える方法は二つあるとし、①自然をあるがままに示す方法、②自然を理想的に、豊かな想像力に基づいて描く方法、があるといっています(鈴木一生、「1810年代後半の歴史風景画の変化」『成城文藝』第239号、p.35. 2017年)。

 バルビゾン派が認められるまではおそらく、風景画はもっぱら、②の要素のある作品が評価されてきたのでしょう。実際、コローの作品には②の要素がありました。その後の作品も同様です。

 たとえば、1850年に制作された《朝、ニンフの踊り》という作品があります。

●《朝、ニンフの踊り》

 こちらも風景と女性(ニンフ)をモチーフにした作品です。とはいえ、風景の描き方が先ほどの作品とはやや異なっています。

(油彩、カンヴァス、98×131㎝、オルセー美術館所蔵)

 大きな木の下でニンフたちが手をつなぎ、踊っています。柔らかな陽光が彼女たちの肩や背に落ち、白く艶やかな肌が煌めいて見えます。朝のさわやかな大気の下、彼女たちの賑やかな声が聞こえてきそうです。

 木々は空高く枝を伸ばし、太い幹に支えられています。右側半分ほどを占める、うっそうと生い茂る暗緑色の葉には所々、陽が射し込み、そこから陽射しが漏れて、踊るニンフたちや下草を明るく輝かせています。

 よく考え抜かれた構図です。

 右側の巨木からは生い茂る葉が中央部分で垂れ下がり、まるでそこだけくり抜いたかのように空洞ができています。その背後には、はるか彼方に、うっすらと丘が見え、空が大きく広がっています。

 木の周辺では、手をつないだニンフたちが弧をえがくように配置されています。朝の陽射しが、木々や下草、ニンフたちの上に明と暗を創り出し、それが画面に動きとリズムを生み出しています。生命の躍動を感じさせる絵柄です。

 伸びやかな自然の下で、自然と万物が調和して生きる、平和なひとときが描かれているといってもいいでしょう。まさに神話の世界です。

 この作品で印象深いのは、中央部分に描かれた背の高い木です。右側の木々とは違って軽やかで、風にそよぐ囁きさえ聞こえてきそうです。枝は細く、枝先に付いた葉は淡色で描かれており、霞がかったように、背後の空に溶け込んでいます。そこになんともいえない幻想的な詩情が感じられ、その下で踊るニンフたちの姿と見事に調和しています。

 うっそうと葉の生い茂る暗緑色の右側木々、そして、淡色で軽やかに描かれた真ん中の木、そこには、モチーフの色彩、形状、配置などに見事なコントラストの妙味が感じられます。

 コローは自然をありのままに描いたのではなく、想像力を働かせ、美しさの極致を求めて再構成し、このように表現したのでしょう。自然に触発されたとはいえ、理想を求めて画面構成され、創り出された美しさがこの作品にはありました。

 真ん中の木の枝先の葉が、暗緑色の幹にかぶっているところの描き方、そして、下草の描き方には、印象派を彷彿させるところもあります。

 こうしてみてくると、コローの作品が人気を得た理由がわかるような気がします。モチーフを見れば自然主義であり、構図を見ればロマン主義でもあり、新古典派の要素があり、印象派の要素もあるといった多面的要素が見られるのです。

 当時の美術界で目指されたさまざまな要素が取り込まれているようでいて、全体画面を見れば、しっかりとコローの世界が創り出されているのです。

 実は、コローは1821年から22年にかけて当時、風景画家として著名だったアシール=エトナ・ミシャロン(Achille-Etna Michallon、1796年10月22日―1822年9月24日)の下で学んでいます。

 ミシャロンは1817年、初めてローマ賞に風景画部門を設立された際の受賞者でした。受賞作品は《倒れた女性》です。

(油彩、カンヴァス、105×81㎝、1817年制作、ルーヴル美術館所蔵)

 彼は幼い頃から、美術に興味を抱き、18世紀後半の著名な風景画家ピエール=アンリ・ド・ヴァランシエンヌ(Pierre-Henri de Valenciennes、1750年12月6日―1819年2月16日)に学びました。

 ヴァランシエンヌは、先ほどもご紹介しましたように、『芸術家のための実践遠近法基礎』という書物を革命暦8年(1799-1800年)に刊行しています。画家であり、理論家であり、教育者でもあったのです。

 試みに、ヴァランシエンヌが1810年に描いた《バッカスと森の風景》を見てみましょう。

(油彩、カンヴァス、40.5×55㎝、1810年制作、アメリカ、バーミンガム美術館所蔵)

 非常に精緻に風景が描かれています。左手奥から射し込む柔らかな陽光が、巨木の幹や枝や葉に反射して彩りを添え、下草を明るく照らし出しては、鑑賞者の視線を集め、巨木の根元で展開されている物語に関心を誘います。

 モチーフといい、色彩といい、よく出来た新古典主義の作品といえるでしょう。

 コローの作品(1850年)、コローが師事したミシャロンの作品(1817年)、ミシャロンが師事したヴァランシエンヌの作品(1810年)を見比べてみると、いずれも壮大な風景の下、人の姿が小さく描かれているという点で共通しています。

 当時の分類でいえば、歴史風景画です。

 巨木の下で、人々の行為が捉えられ、神話か、歴史を題材にして構想されたという点でも共通しています。風景だけを描いていたのでは鑑賞者に理解されない、あるいは、評価されないという懸念があったのでしょうか。

 三作品を見比べてみると、風景の描き方に違いを見て取ることができます。物語の舞台として巨木が設定されていますが、その巨木の描き方に違いがみられるのです。

 ヴァランシエンヌが葉や枝、幹までも均等に精緻に描いているのに対し、ミシャロンは同系色の明暗で生い茂る葉を描いています。そして、コローはさらに大胆に葉を一塊として捉え、細部を省略して描いています。

 時代が下るにつれ、風景の捉え方、木々の捉え方に違いが見られます。三作品を見ているうちに、それは写実の捉え方が異なってきているからではないかという気がしてきました。

 それでは、再び、コローの作品を見ていくことにしましょう。

 コローは各地を旅行し、風景を描いてきましたが、パリ郊外のヴィル・ダブレーの風景もまた、彼が好んで描いた場所です。両親から譲り受けた邸宅がここにあったからですが、ここで描いた作品の中で、これまでとはいっぷう変わった作品がありました。

●《ヴィル=ダブレ―の池》

 展覧会場でこの作品を見ると、ひょっとしたら、見落としてしまうかもしれません。画面が大きいわけでもなく、色調は地味で暗く、際立ったモチーフもありません。鑑賞者の目を引き付けられる要素が見当たらないので、多数の作品の中では埋もれてしまうのではないかと思いました。コロー71歳の時の作品です。

(油彩、カンヴァス、47.5×74㎝、1867年制作、アメリカ、ポートランド美術館所蔵)

 この作品もこれまでと同様、風景と人物が描かれています。ところが、人物の姿はこれまでとは違って、判然と描かれておらず、風景の中に溶け込んでしまっています。近くに2頭、牛が描かれているので、かろうじて牛飼いなのかと思う程度の漠然とした描き方です。

 周辺の木々も草木もなにもかも、形状は不分明ですし、色彩によって識別することもできません。すべてが曖昧模糊とした状態で表現されています。人物や動物は小さく、色彩で識別することもできないほど、目立たないように描かれているせいか、風景が強く印象付けられます。

 もっとも、個々のモチーフを見ると、訴求力が弱く、存在感が希薄です。ところが、画面全体を見ると、幻想的で哀愁を帯びた情感が感じられ、この景観そのものがもたらす漠然とした情緒が感じられます。

 画面を理解するのではなく、何か得体の知れないものが、心の奥深く、ふつふつと沸き起こってくるのを感じさせられるのです。ノスタルジーなのでしょうか。

 近景では地面を覆う下草が暗緑色、所々に水面が光る池やその周辺が暗色で描かれています。周囲には牛飼いや牛なども描かれているのですが、辺り一帯の風景の中に沈み込んでしまっています。

 そして、中景は褐色や暗褐色の草木や灌木、暗緑色の大木、褐色の高い木など、もっぱら木々が大きな面積を占めています。曇り空を背景に、ここで描かれた木々が目立ちます。

 その木々の背後には柔らかな陽射しが射し込み、その奥に広がるエリアを照らし出しています。実際、左側中ほど奥には建物が描かれており、ここで人々が暮らしていることを知らせてくれます。

 背後に曇り空が広がる中、形状、色彩、高低がそれぞれ異なる木々を、波打つように配置することによって、画面に柔らかなリズムと遠近感を生み出しています。

 この作品にも、構図の妙味を感じさせられました。

 さらに、光の使い方が卓越していると思いました。ひっそりとした佇まいの中で暮らす人々の生活を、木々の背後から射し込む鈍い陽光だけで、情感豊かに描き出すことができているのです。暗褐色をベースにした柔らかな色遣いとモチーフの形状が幻想的で、哀愁を感じさせ、その哀愁の中に滔々と流れる詩情を感じさせます。

 老境に入ったコローは明らかに以前とは異なる世界を創出していました。とても深く、心が揺さぶられる思いがします。

■トポスとしてのフォンテーヌブローの森

 今回、ルソーとコローの作品を取り上げ、題材としてのフォンテンブローの森について考えてみました(コローは前回、取り上げた作品を除いて選択したので、フォンテンブロー以外の作品も一つ含まれています)。

 バルビゾン派と呼ばれる画家たちのうち、ルソーとコローだけ取り上げたのですが、彼等の作品を見ていると、フォンテンブローの森は自然を愛する画家たちのトポスとして機能しているように思えました。

 彼等は、フォンテンブローの森やその周辺の風景をさまざまに描いてきました。改めて、二人の作品をいくつか見てみると、モチーフの取り上げ方、描き方、構図、それぞれの個性が明瞭で、しっかりとした作品世界が構築されているのがわかります。

 たとえば、17歳の頃からフォンテンブローの森に着目し、制作してきたルソーは、自然そのものをモチーフにしていました。ありのままの自然を観察し、カンヴァス上に表現してきました。

 それまで誰も取り組んでこなかった木々や丘、空などの風景からドラマを引き出し、ストーリーを組み立て、独自の世界を創り上げたのです。歴史主義、古典主義、ロマン主義に束縛された視点からはとうてい生み出せない世界でした。

 ルソーはだからこそ、サロンには受け入れられず、長い間、落選し続けたのです。素直に対象に向き合って作品化されているせいか、ルソーの作品は今見ても、とても斬新です。本質を突いた表現には時空を超えたものがあり、心動かされます。

 松葉良氏はルソーについて、以下のように書いています。

「バルビゾンの画家達の中で風景画においてもっともすぐれた画家はテオドール・ルソーである。彼が求めたものは、大地や丘、そして森や樹木などの不変の姿であり、常に画家と自然との間の共感であったといえる。そして、一個の小画面が宇宙につらなり、森羅万象がことごとく蘇生するアニミズムの神秘の世界が彼の念願であった」

(松葉良「バルビゾンの画家達とカミーユ・コロー」『文藝論叢』第25号、2012年)

 今回、ルソーの作品を見直してみて、私もそのように思いました。彼の作品には、時を経ても古びない永遠性がありました。それはおそらく、自然をしっかりと観察し、本質を見抜き、ありのままに描いたからこそ得られたのだと思います。

 フォンテンブローの森を守るために活動したルソーは、1836年からバルビゾンに定住したそうです。彼が住居兼アトリエとして使っていた建物が残っています。

https://cercledesamisdebarbizon.com/2018/11/11/miracle-a-barbizon-latelier-rousseau-redevient-enfin-un-site-dexposition-magnifique/

 この建物は今、村立博物館として使われています。

 ルソーは生涯、バルビゾンを愛し、住み続け、そして、骨を埋めました。フォンテンブローの森を守っただけではなく、その後、154年を経てもなお、村に貢献しているのです。

 一方、コローは、1821年から22年まで新古典主義のミシャロンに師事していました。ほんの1年ほどで終わってしまったのは、ミシャロンが肺炎を患い、わずか25歳で、生を閉じたからでした。

 そのミシャロンは、風景画家として名を成したヴァランシエンヌに師事していました。ヴァランシエンヌの作品を見ると、まさにアカデミーが認めた歴史風景画でした。ミシュランもその傾向を受け継いでいますが、新古典主義の要素も見られます。

 そのせいか、コローの作品には新古典主義の影響が見られます。時系列で作品を見ていくと、少しずつその影響が消えているのがわかります。とはいえ、容易に脱出しきれないようで、どの作品にも、どこかしら、新古典主義の痕跡が見られます。

 もっとも、老境に入って制作された作品には、独自色が濃厚になっています。風景に人物を添えるという点は崩さず、風景そのものに焦点を当て、語らせるという意図が見えるのです。

 新古典主義を踏まえながらも、試行錯誤を経て、独自の幻想的な世界を創り出したことがわかります。ルソーとは異なったスタイルで、コローもまた風景そのものが語る世界を創り出していたのです。

 美術のジャンルでは下位に位置づけられていた風景画ですが、産業革命を経て台頭してきた市民階級がやがて、美術市場に変容を迫るようになります。彼等がありのままの姿を描いた風景画を求めたからでした。

 当時、オランダ絵画が好まれたのは、人々のありふれた日常が描かれていたからでした。

 ところが、フランスアカデミーには、プッサンのような歴史風景画、あるいはミシャロンのような新古典主義風景画こそが正統だという認識が残っていました。百歩譲って風景画を認めるにしても、格調高い風景画家を目指すには、イタリアの風景を対象に描くべきだという認識だったのです。

 ルソーもコローも自然主義的な風景画を制作し続けた結果、19世紀後半には、フランスアカデミーの認識を覆すことができました。「フォンテンブローの森」が、トポスとして機能していたからでしょう。(2021/10/11 香取淳子)

コロー、ターナーを通して、フォンタネージの風景画を考える。

■お雇い美術教師:A・フォンタネージ

 このところ、明治初期、工部美術学校の教師として招聘されたイタリア人のアントニオ・フォンタネージについて調べています。

 関連文献を渉猟していると、1855年、彼がパリ万国博覧会を訪れた際、コロー(Jean-Baptiste Camille Corot)やドービニー(Charles-François Daubigny)、テオドール・ルソー(Théodore Rousseau)などの作品を見て刺激を受けていたことがわかりました。

 果たして、彼らのどのような作品を見て、刺激を受けたのでしょうか、気になりました。

 そこで、コローなどの作品を展示している展覧会はないかと探してみると、2021年6月25日から9月12日まで、SOMPO美術館で「風景画のはじまり コローから印象派へ」展が開催されていました。

こちら → https://www.sompo-museum.org/exhibitions/2021/musees-reims-2021/

 残念ながら、すでに展覧会は終了していましたが、念のため、作品リストを見てみると、油彩、版画など約80点が展示されていました。いずれもフランスのシャンパーニュ地方にあるランス美術館所蔵の作品です。

こちら → https://www.sompo-museum.org/wp-content/uploads/2021/06/pdf_ex_musees-reims_list.pdf

  約80点のうち、最も多かったのが、ジャン=バティスト・カミーユ・コローの作品で、計19点、その内訳は油彩画16点、版画2点、エッチング1点でした。次いで多かったのが、シャルル・フランソワ・ドービニーで、計7点、油彩画2点、版画5点です。テオドール・ルソーはわずか1点、油彩画が展示されていただけでした。

 コローは1796年7月16日にパリで生まれ、1875年2月22日に亡くなっています。そして、ドービニーは1817年2月15日にパリで生まれ、1878年2月19日に亡くなっていますから、コローとは21歳の年齢差があります。そして、ルソーは1812年4月15日にパリで生まれ、1867年12月22日に亡くなっています。コローとは16歳差です。

 3人ともバルビゾン派に属しているといわれ、コローが切り開いた風景画という新ジャンルを共に育んでいった間柄のようです。

 そこで今回は、コローの作品を中心に19世紀半ばの風景画を概観し、フォンタネージへの影響を考えてみたいと思います。

■A・フォンタネージに影響を与えたバルビゾン派

 バルビゾン派とは、19世紀の 前半から60年代にかけて、パリ南東約60 ㎞の小村「バルビゾン(Barbizon)」を主な拠点として制作活動を行っていた画家達の総称です。そのうち、ミレー、ルソー、 デュプレ、ディアズ、トロワイヨン、 ドービニー、コローら7名が有名で、「バルビゾンの七星」と呼ばれています。

 そのバルビゾン派が登場したのはちょうどフランスで商品経済が活性化しはじめたころでした。フランス革命を経て、産業革命を経験し、市民階層が形成されつつありました。王侯貴族だけではなく、生活に余裕のある市民層もまた、美術作品を愛で、所有したいという欲望をかき立てられるようになっていました。

 ロンドンやパリなどの大都会では美術市場が形成され、自然をモチーフとするバルビゾン派やハーグ派などの作品が好まれ、求められるようになっていたのです。ハーグ派とは1860年から1890年までの間にオランダのハーグで活動していた画家たちの総称です。バルビゾン派と同様、共通の土地に結び付いたモチーフを描いていた画家を指します。

 これまでの宗教画、歴史画、肖像画、人物画、静物画などとは違い、新たなモチーフとして風景を選ぶ画家たちが台頭し始めていたのです。ちょうど産業革命を経て、新興勢力が台頭し、商品経済が活発になり始めていた頃でした。

 商品経済の進展に伴い、国際的な展示場が必要になっていたのです。国境を越えた流通のハブとして万国博覧会が登場してきました。1851年に開催されたロンドン万博が最初で、以後、交互にロンドンとパリが会場となりました。

 絵画の領域でもサロンとは別に、国際的なデモンストレーションの場が必要とされるようになっており、万国博覧会が注目を集めていました。

■フォンタネージが訪れた第1回パリ万国博覧会

 フォンタネージがイタリアからわざわざ訪れたのが、1855年5月15日に開催された第1回パリ万国博覧会でした。11月15日までの半年間、さまざまな工業製品、工芸品、美術品などが展示され、この回からすべての展示品に売値が示されるようになったといいます。国際展示場としての位置づけが明確にされたのです。この時、フォンタネージはコローの作品を見たのです。

 当時、画家としてのコローはどのような位置づけだったのでしょうか。

 1848年、サロンの審査員制度が廃止されたのに伴い、コローは新たな審査委員に任命されました。52歳の時です。彼が審査員になると、それまで認められなかったさまざまな画家たちが受け入れられるようになりました。コロー自身も受賞し、作品2点がフランス政府、その後も1点、ルーヴル美術館に買い上げられました。ようやく画家として軌道に乗り始めたのです。

 ところが、1851年2月、母が亡くなりコローは落ち込んでしまいます。気持ちを慰めるため彼はフランス各地を旅行し、制作に励み、次々と作品を生み出していきますが、ドーフィネ地方で出会ったのがドービニーでした。以来、コローは彼に助言し、手助けするようになります。

 1852年から1853年にかけてはスイス、オランダの各地を訪れ、制作をしました。コローは実際にさまざまな土地を訪れ、スケッチをし、風景画を次々と制作していきました。自身の画風というものを着実に確立していったのです。

■《荷車―マルクーシの思い出》

 1855年のパリ万博に、コローは《荷車―マルクーシの思い出》という作品を出品しました。

(油彩、カンヴァス、97×130㎝、1855年頃制作。オルセー美術館所蔵)

 フォンタネージが見たのはおそらく、この作品なのでしょう。手前で作業をする人が描かれ、やや後ろに馬車のようなものがあり、そこにも人がいます。農村の人々の生活の一端が優しく、丁寧に描かれています。そのせいか、ありふれた風景を描いただけなのに、画面から豊かな詩情が溢れ出しています。

 風景をメインモチーフとして取り上げていますが、その中に小さく人物を入れ込むことによって、風景はただの風景ではなくなっているのです。

 この風景は、人々が生きる場としての空間であり、雲がたなびき、風がそよぎ、陽が射し込み、木々が生い茂り・・・、といった自然の営みが行われる空間でもあることを感じさせてくれます。

 さらに、この作品は人が生きることを俯瞰してみる視点に気づかせてくれます。色彩を抑制し、自然のおおらかな姿に力点を置いて描かれているからでしょう。

 この作品は、ナポレオン三世によって購入されました。

 宗教画や歴史画や肖像画を見飽きた人々にとって、この画面がどれほど新鮮に感じられたかがわかります。この作品には人が生を営む場としての自然が素直に捉えられています。だからこそ、見ているうちに、いつしか、鑑賞者を内省させていく力を持っているのです。

 万博に出品した作品がナポレオン三世に購入され、コローの画家としての認知度は高まり、風景画家としての地位も揺るぎないものになっていきました。

■第2回ロンドン万国博覧会に出品

 1962年に開催された第2回ロンドン万博にも、コローは作品を出品しています。受賞はしませんでしたが、この時初めてドーバー海峡を渡り、イギリスの画家たちの面識を得ることができました。興をかき立てられたのでしょうか、一週間の滞在期間中に3点の小作品を仕上げています。

 ところが、彼の作品を見たイギリス人はフランス風景画の新派という程度の認識しか示さなかったと言います(※ ケネス・マッコンキー、「銀色のたそがれ」と「ローズピンクの曙」、図録『カミーユ・コロー展』、1989年より)。

 帰国後の1864年、コローの代表作の一つとしてよく知られた、《モルトフォルテーヌの想い出》という作品を描いています。やはり風景画ですが、画風が明るくなっています。

(油彩、カンヴァス、89×65㎝、1864年制作。ルーヴル美術館所蔵)

 湖の傍に、葉を落として太い幹が目立つ一本の木が立っています。木の周辺には女性と子どもたちが描かれています。女性は背伸びして両手を高く上げ、木から何かを掴もうとし、小枝に触れています。枝についた実を取ろうとしているのでしょうか。

 木の下には子どもが二人います。一人は身をかがめて何かを拾っており、もう一人は片手を伸ばし、女性に何か話しかけているようです。この女性は母親なのでしょうか。湖畔で柔らかな陽射しを浴び、母と子どもたちがのどかに過ごす光景が優しい色調で描き出されています。

 空から降り注ぐ穏やかな陽射しが、湖面といわず、背後の木々や丘といわず、辺り一面を優しく柔らかな色合いに染め上げています。湖面には木々が影を落とし、手前の巨木の葉陰からは穏やかな陽射しが漏れてきています。幸せな気分が画面全体に醸し出されており、見ていると、気持ちが和みます。

 風景画とはいっても、先ほどご紹介した《荷車―マルクーシの思い出》とは明らかに印象が異なります。暖かな陽射しの中で母と子の心温まる情景を描いたこの作品は、画面が明るく人と自然が調和しており、一種の理想化された絵柄の風景画といえるでしょう。

 それに反し、《荷車―マルクーシの思い出》は寒色と暗色で描かれているので、陰鬱で沈み込んだ印象があります。

 風景をメインモチーフに人の姿を小さく描いて添えるという点では共通していても、色彩の使い方といい、構図、モチーフの絵柄といい、両者の印象は大幅に異なっているのです。

 訪英後の作品である《モルトフォルテーヌの想い出》は、自然と人をありのまま描くというよりは、理想的に描く方向で調整されています。人の気持ちを和ませる柔らかな色彩が多用され、情感をかき立てるようにモチーフが造形されているように見えます。

ひょっとしたら、コローはロンドン万博に出向いた際、当時、風景画で著名なターナー(Joseph Mallord William Turner)の作品を見たのではないでしょうか。

■ターナーの影響?

 そう思うと急に、コローは著名な風景画家ターナーの作品を見たに違いないという気がしてきました。訪英した当時、ターナー(1775年4月23日―1851年12月19日)はすでに亡くなっていましたが、コローが風景画の先達ターナーの作品を見なかったはずはありません。

 そこで、ターナーの作品をチェックしてみました。すると、初期の作品と1819年にイタリアを訪れた後の作品とでは画風が全く異なっていることがわかりました。ターナーは1802年にアカデミーの正会員になっています。イタリアを訪れる前はいかにもアカデミー受けのする写実的な風景画を描いていました。空や大気、陽光などを丁寧にリアリスティックに描くのが特徴でした。

 ところが、イタリアを訪れ、明るい光を色彩に刺激を受けた後、画風が変わってしまいました。形よりも色彩に力点を置いた作品が多くなっているのです。

 そこで、ターナーの初期の作品をチェックしてみました。すると、《小川を渡る》という作品に、《モルトフォルテーヌの想い出》との類似性を感じさせられました。

(油彩、カンヴァス、193×165㎝、1815年制作。テート・ギャラリー所蔵)

 木々に囲まれた水辺で、穏やかな陽光を浴び、女性が横座りになっており、その姿が水に映っています。浅い川なのでしょう、川向うにはもう一人女性がいて、岩に手をかけています。川辺で憩う二人の女性の姿がいかにも古典的、アカデミックな捉え方で描かれています。

 木々は陽光で明るく輝き、川べりもまた暖かな陽射しで溢れています。画面から幸せな気分が溢れています。人と自然が調和している様子が表現されており、理想化された風景画といえるでしょう。

 明るい空と陽光を反映した木々の煌めき、そして、柔らかな陽射しが岩や川面、草木のあちこちに感じられます。見ているとつい、幸せな気分になってしまうところが、コローの《モルトフォルテーヌの想い出》と似通っています。

 風景を描きながらも暖色と寒色を巧みに使い分け、景観にメリハリをつけて描いているせいか、画面がドラマティックに構成されています。ありのままの自然を描いたというより、風景画の理想形が描かれているのです。

 メインモチーフは自然の壮大さを感じさせるように描き、サブモチーフである人の姿は見る者に物語を感じさせるような姿勢、あるいはポジションで描かれています。単に風景をありのままに描くのではなく、見栄えよく自然を切り取り、モチーフを配置しているせいか、ピクチャレスクに見えるのです。

 この点でもコローの《モルトフォルテーヌの想い出》と、ターナーの《小川を渡る》は似通っています。

 こうして見比べてみると、渡英する前と後で見られるコローの風景画の変化に、ターナーの初期作品が影響していることがわかります。

■第2回パリ万国博覧会に出品

 そして1867年、コローは第2回パリ万博に作品6点を出品しました。それらの作品のうち代表的なものは、《孤独》でした。

(油彩、カンヴァス、95×130㎝、1866年制作。ティッセン=ボルネミッサ美術館)

 木の傍に一人の女性が座っています。その目の前には湖のようなものが広がっており、周囲はうっそうとした小高い木々に包まれています。《孤独》というタイトル通り、人気のない場所で女性が一人、横たわっている姿が気になります。何か物思いにふけっているのでしょうか、顔を湖面のかなたに向けている姿に引き込まれ、見入ってしまいます。

 目の前の湖面には木々が深く影を落とし、薄暗さに拍車をかけています。とはいえ、たなびく雲もまた水面に映り、うっそうとした風景にちょっとした明るさを添えています。見ていると、気持ちが次第に内面に向かっていくのが感じられます。つい、内省、沈思黙考という言葉が脳裏を過ぎります。

 この作品には観客の気持ちを深く内省化させる力があるように思えます。

 手前の草むらや木々の葉先に白い点が添えられているせいか、暗い画面の中にもちょっとした華やぎが感じられます。ロマン主義的な要素とでもいえるでしょう。小花のように見えますし、葉に落ちた陽光が反射しているようにも見えます。陽射しや風、大気によって微妙に変化する自然の美しさ、妙味といったものがきめ細かく捉えられています。

 ありふれた風景を描きながらも、うっかりすると見落としがちな美しさをしっかりと捉え、表現している点が秀逸だと思いました。暗い画面だからこそ、淡い色、白色などがハイライトとして効いているのです。

 この作品は、風景をメインモチーフにしながらも、人物を描き込んでいるという点で、これまでの作品と共通しています。

 ところが、《モルトフォルテーヌの想い出》とは明らかに色彩の使い方が異なっています。もっぱら寒色、暗色を使い、全体に沈み込んだ色調で構成されています。色調の面からいえば、ターナーの影響を受ける以前の、《荷車―マルクーシの思い出》の描き方に戻ったかのようです。

 画面の両側にはうっそうと葉の生い茂る巨木、そして、真ん中の巨木は葉先が淡い色で描かれています。おそらく、そのせいでしょう、葉先が背後の空に溶け込み、暗色の太い幹がいっそう目立って見えます。暗く沈み込んだ色調の中で、女性がただ一人座って、水面に顔を向けている姿が強く印象づけられます。

 木々の描き方を見ると、メインの巨木の葉の色は薄く、枝先だけを白く点で描いています。その巨木の下で女性が座り、目の前の水面に顔を向けています。水面の周りを木々が覆っていますから、川ではなく、湖なのでしょう。

 女性の手前は、地面を這う草で覆われ、その草の葉先には小さな白い点がいくつか描かれています。ひょっとしたら、小さな白い花なのかもしれません。ごく小さな白い点々にもかかわらず、それらは静謐な画面の中にひっそりとした賑わいをもたらしています。

 コローはこうして、もっぱら寒色、暗色を多用しながら、淡い色や白色を効果的に使い、ピクチャレスクな画面を創り出しているのです。

 見る者に何かを感じさせずにはおかない構図であり、絵柄です。人を内省させる力を持った《荷車―マルクーシの思い出》とは違って、この作品には古典的で、洗練された味わいが加味されています。そのあたりにターナーの初期作品の影響がみられるといえかもしれません。

 この作品もナポレオン三世によって買い上げられました。

 《孤独》をはじめとするコローの出品作品について、美術誌『アート・ジャーナル』が取り上げ、「汚れた色で主題をあくせく描いている」と評しました(※ 前掲。ケネス・マッコンキー)。

 確かに、色調やモチーフだけを見れば、そう見えるかもしれません。ただ、構図や人物の姿勢や配置、暗色と淡色のバランスなどに配慮して描かれたこの作品には、詩情豊かな心情が見事に描き出されています。評者は寒色や暗色を「汚れた色」と思ったのでしょうが、沈んだ色の画面だからこそ、奥深い味わいや自然ならではの妙味を引きだすことができたのです。白色や淡い色をハイライトとして効果的に使ったからでした。

 この雑誌にはラファエル前期の色彩を重視する傾向があったといわれています。そのような観点で見れば、暗い色調で創り出されたコローの画面を肯定的に捉えられなかったのも無理はないのかもしれません。

 とはいえ、この時、コローの出品作品が美術誌に取り上げられたのです。それだけでも、コローの風景画が批評家たちから無視できない存在になっていたことの証だといえるでしょう。

■フォンタネージ制作、《The loneliness》

 興味深いことに、フォンタネージもコローと同じタイトルの作品を描いています。1875年に制作されていますので、来日の前年に描かれたものです。

(油彩、カンヴァス、149×114㎝、1875年制作。レッジョ エミリア美術館所蔵)

 夕暮れ時なのでしょうか、少し赤味を残した空が画面の半分以上に広がっています。その日最後の輝きを放ちながら陽が暮れ落ちていく様子が印象派風のタッチで描かれています。

 画面の手前には女性が一人、岩のようなものに腰掛けています。帽子の縁と背中に夕陽が落ち、顔はよく見えませんが、物思いに沈んでいるように見えます。女性が座る岩の周辺にはところどころ、夕陽に反射し、水面が光っています。ほとんど水がなくなった川なのでしょう。

 筆触を活かした描き方に、なんともいえない情感が込められています。

 明るさの残る夕暮れの空の両側に、黒褐色の木々が枝を伸ばしています。秋なのでしょうか、葉は少なく、枝や幹が黒く、強く描かれています。その背後に見える暮れなずむ空の色の微妙なグラデーションが素晴らしく、引き込まれて見てしまいました。

 引いて見ると、改めて、夕暮れ時の空の美しさが見事に表現されていることがわかります。夕暮れ時は一日の終わりであり、昼から夜、そして、今日から明日への橋渡しにつながる時でもあります。いってみれば、時の境界です。それが夕焼け空の下、一人岩に腰掛けている女性に託して描かれているのです。

 卓越した象徴表現であり、風景と人の心情を巧みに統合して表現したともいえる風景画です。この作品を見ていると、フォンタネージの絵画論を垣間見ることができるような気がしました。

■フォンタネージの絵画論

 フォンタネージは、1876年に工部美術学校に招聘され、学生たちに絵画論を講義していました。その講義録の中で、風景を描く際、描くものを取捨選択することの必要性と有効性について説いていました。

 ほとんどの風景はありのままに描いても良い作品にはなりえません。だから、要らないものは省き、モチーフの配置を考え、画面構成をする必要があるといっているのです。さらに興味深いことに、彼は、削除はしてもいいが、加えてはならないと言っているのです。

 確かに、既に存在するものは自然の摂理の中で組み立てられていますから、それを削除しても全体構成を大きく歪めることにはなりません。ところが、新たに考え付け加える場合、自然に組み立てられたものとの調和、統合を図るのが容易ではありません。そのようなことを踏まえ、彼はありのままの風景から何かを削除することは良しとしても、加えることは拒否していたのではないかと思います。

 改めて《The loneliness》を見ると、左側の木々のいくつかは原風景から省かれたものがあるかもしれないと思いました。木々のいくつかを削除することによって、木々の分量が左右で異なり、アンシンメトリーな構図になります。その結果、夕暮れ時の空をいっそう情感豊かなものに感じさせることができ、さらには、真ん中に配置された女性の前方に広がりを感じさせる効果が生まれています。

 さらに、女性の帽子の縁と背中に白のハイライトを入れ、足元やその周辺にランダムに白のハイライトを入れています。そのせいか、夕陽の下、一人ぽつねんと座る女性の心情が強く伝わってきます。

 ありのままの風景を描いたように見えて、実は、「省く」という作業、あるいは、ハイライトを入れるという作業を通して、はじめて、作品として豊かなものに仕上げていくことができることをこの作品から学んだような気がしました。

 カメラで撮影することと見ることの違い、ボイスレコーダーで記録することと聞くことの違いも実は、そのようなところにあるのでしょう。ヒトはカメラのようには見ていませんし、ボイスレコーダーのようには聞き取っていません。選択的に見、選択的に聞き取っているのが実状です。

 省くことよって訴求効果を高めることができるのは、余計な刺激を削除することによって、ヒトの感覚を訴えたいことにフォーカスさせることができるからでしょう。そう考えると、フォンタネージの絵画論には含蓄深いものがあるといわざるをえません。(2021/09/28 香取淳子)