ヒト、メディア、社会を考える

絵画

アーティストは社会的課題をどう表現したか:米谷健+ジュリア氏の作品を見る。

福島原発事故から10年、思考停止のままでいいのか?

 2021年6月23日、福井県の美浜原発3号機が再稼働しました。1976年に運転開始し、2011年3月11日の東電・福島第1原発事故まで稼働していた原発です。稼動期間は35年、稼働開始からは45年を経ています。原子炉をはじめ諸施設には多少なりとも経年劣化が生じているはずです。

 老朽化した原発を再稼働してもいいのかと素人ながら、不安に感じてしまいますが、新聞報道によると、4カ月限定で稼動するだけで、10月には再び稼動を停止する予定だといいます。今回の再稼働はおそらく、夏の電力需要を賄うための臨時的なものなのでしょう。

 政府は2030年度には温暖化ガスを46%削減すると宣言しました。その目標を達成するには再生可能エネルギーだけでは足りず、原発で総発電量の2割を賄わざるを得ないといいます。そして、総発電量の2割を得るには30基ほどの原発の再稼働が必要になるともいわれています。

 ところが、これまでに再稼働したのは今回の美浜原発を含めて10基しかなく、すでに老朽化しているものが多いそうです。福島原発事故後の2012年に原子炉等規制法を改正し、原則として稼動期間を40年としましたが、それでも、その基準に照らし合わせると、現在33基ある原発のうち、2030年末時点で稼動可能な原発は20基まで減少するといいます。

 電力源として原発を使用するなら、建て替えが必要なことはいうまでもありません。新設、増設も考えなければならないでしょう。ところが、第5次エネルギー基本計画では、原発の建て替え(リプレース)や新設、増設について言及されておらず、結論が先送りにされています。

こちら→ https://www.nippon.com/ja/currents/d00419/

 脱炭素をめざすとすれば、電力源としての原発は当面、必要であるにもかかわらず、福島原発事故以来、建て替え、新設、増設が検討されておらず、原発政策はいまだに思考停止状態になっているのです。

 事故後の10年間、原発をめぐるさまざまな議論も避けられてきました。脱炭素社会に向けてエネルギー政策をどう捉えていくのか、原発を継続するのかしないのか、しっかりとした議論を踏まえ、早急に安全で安定した電力供給のためのエネルギー政策を整備していく必要があるでしょう。

福島大学で開催されたオーストラリア学会

 2021年6月12日と13日、福島大学でオーストラリア学会が開催されました。福島原発事故10周年を記念して企画されたのが、「フクシマ」を巡る二つのシンポジウムです。両シンポジウムは豪日交流基金(AJF)の助成を得て行われました。福島原発事故は日本だけではなくオーストラリアにも大きな衝撃を与え、日豪関係にも影響していたからでした。

こちら →

http://www.australianstudies.jp/doc/2021_ASAJ_annual_conference_progra_j.pdf

 事故後10年を経たいま、多くの人々の原発に対する関心は次第に薄れてきているうえに、問題は依然として解決されていません。それだけに、事故後の10年間を総括し、そこから何が明らかになり、どのような教訓が得られたのかを洗い出し、今後どのように取り組んでいけばいいのかを検討する必要がありました。

 今回のオーストラリア学会はコロナ下とはいえ、オンラインだけではなく、対面でも参加できるように設定されていました。会場をキーステーションにし、登壇者や司会者、国内外からの参加者が意見交換できるように設営されていたのです。

 会場の大スクリーンには、オンラインで参加した日豪双方の学者、関係者が映し出され、それぞれの分野からの見解が披露されました。私はオンライン(ZOOM)で参加しましたが、発言者以外は映像をオフ、音声はミュートにするという条件が課せられました。おかげで画面が煩雑にならず、発言内容に集中することができました。

 もっとも、ZOOMで参加したので、カメラワークが思い通りにならず、撮影した写真も不鮮明なものにならざるをえませんでした。

米谷健+ジュリア氏によるアーティストトーク

 12日のシンポジウム「フクシマの教訓」の前に、米谷健+ジュリア氏によるアーティストトークが行われました。「見えない恐怖、絶えない不安と表現の力」というタイトルで構成され、とても興味深い内容でした。

 トーク内容は原発事故にとどまらず、多岐にわたりましたが、ここでは、健氏が初期に取り組んだ作品、その後、ジュリア氏とユニットを結成してから発表した作品の中から、とくに、海洋汚染、福島原発事故に関連する作品を取り上げることにします。

 健氏は写真をふんだんに使いながら、アーティストになった経緯、作品への取り組み姿勢、これまで手掛けた作品等々を語っておられました。それらの作品を中心に、適宜、ネット等で得た情報を交えながら、ご紹介していくことにしましょう。

沖縄で伝統陶芸を学ぶ

 健氏は、東京外為市場で金融ブローカーとして3年間働いた後、辞職し、沖縄で陶芸を学びました。脱サラ後、紆余曲折を経て、向かった先が沖縄だったのです。そこで伝統陶芸壺屋焼き陶工の金城敏男氏に師事し、2000年から2003年まで陶芸を修業します。

 当時の作品として会場のスクリーンに映し出されたのが、次の写真です。

(会場写真を撮影)

 取っ手が付いたひし形の壺です。側面には、波頭の上を勢いよく飛び跳ねる魚が二匹、向き合う恰好で描かれています。素朴な味わいの中に躍動する生命力が感じられます。救いを求めるように向かった先の沖縄で発見した生命の輝きとでもいえるようなものが、この作品には見られます。

 実際、沖縄の海はカラフルで、さまざまな生物が生を謳歌しています。

(会場写真を撮影)

 ところが、その輝かしい海の世界もいまや一変してしまいました。サンゴの多くに白化現象が見られるようになり、死滅しはじめているのです。

(会場写真を撮影)

 サンゴが白化する原因は、海水温の上昇によるといわれています。とくに1980年代以降、世界的に白化現象が増加しました。沖縄では2001年と2007年の夏に白化現象が起こりましたが、これは沖縄特有の暖水塊の発生によるとされています。ちょうど健氏が沖縄で陶芸を学んでいる時期、サンゴの白化現象が話題を集めていたのです。

メルボルンで発表された作品

 健氏は2008年に、”Heat: Art and Clime Change”というタイトルの展覧会(RMT Gallery、メルボルン)に出品しています。ネットで検索すると、その展覧会のカタログがありましたので、ご紹介しておきましょう。

こちら →

https://www.academia.edu/5691163/HEAT_Art_and_Climate_Change_2008_

 最後のページに健氏の作品が掲載されています。

(上記カタログより)

 この作品のタイトルは、”The Dead Sea”です。気候変動によって自然界が大幅に変化していく様子を健氏はインスタレーションで作品化していたのです。沖縄での経験がよほど印象深かったのでしょう。

 そもそも健氏は、沖縄で伝統陶芸の修行をしていたはずです。それなのになぜ、メルボルンでインスタレーションを発表していたのでしょうか。経緯がわからず、驚きました。最初にご紹介した2000~2003年の素朴な味わいのある陶芸作品と、2008年のメッセージ性のあるインスタレーションとがどうしても結びつきません。

 そこで、ネットで検索してみると、健氏の略歴が掲載されていました。何かヒントが得られるかもしれません。作品と略歴とを照らし合わせてみましょう。

こちら →

https://mizuma-art.co.jp/wp-content/uploads/2018/02/Yonetani_cv_jp_20_08.pdf

 これを見ると、沖縄での陶芸修行を終えるとすぐに、オーストラリア国立大学School of Artに入学していることがわかります。

《踏絵》、2003年制作

 オーストラリア国立大学に入学してまもない2003年11月に、健氏は《踏絵》というタイトルの作品を発表しています。さっそくネットで検索してみました。

 すると、これはパフォーマンス型のインスタレーション作品だということがわかりました。まず、オーストラリアの絶滅危惧種11種の蝶を模って、25㎝×25㎝のセラミックのタイルを制作します。そのタイル2200枚を展覧会場の床に敷き詰め、参加者に踏み潰してもらうというものでした。

もっとも、この説明だけでは分かりづらいかもしれません。さらに検索すると、この作品の解説映像をネットで見つけることができました。ご紹介しておきましょう。

こちら → http://kenandjuliayonetani.com/ja/sakuhin/fumie/

 8カ月かけて制作した2200枚ものタイルは、1時間も経たないうちに参加者によって踏み潰されたといいます。確かに、画面を見ると、床一面に敷き詰められたタイルが粉々になっています。

 ところが、興味深いことに、参加者の中には、蝶が模られたタイルを踏み潰すことができなくて、床から拾い上げ壁に立てかけている人がいました。砕けてしまえば、もはや元に戻らないことに耐えられなかったからでしょう。それに続く人もいました。

 言われるままに踏みつぶした人、言われても踏みつぶせなかった人、踏みつぶした後、後悔した人、反応はさまざまでした。絶滅危惧種の蝶が模られたタイルをどう見るか、どう考えるか、指示されるままに踏み潰すことができたか、できなかったか。この作品はまさに、参加者の環境に対する意識を問う現代の「踏絵」でもあったのです。

 沖縄で伝統陶芸を学んだ健氏は、オーストラリア国立大学でSchool of Art & Design科のCeramicsを専攻しました。そこで学び始めて最初に発表したのが、この《踏絵》でした。

 8カ月もの時間をかけて制作したタイルですが、これは単に参加者の反応を引きだすための刺激剤にすぎません。作者から指示され、参加者たちが床一面のタイルを踏み潰した後、会場には、粉々に砕けたタイルと、踏みつぶされず壁に立てかけられたわずかのタイルが残されました。参加者のパフォーマンスを組み込んだ一連の過程そのものが、この作品の全貌でした。

 インスタレーションとパフォーマンスを組み合わせた新しい芸術の誕生といえるでしょう。

インスタレーションとパフォーマンス

 まず、11種の絶滅危惧種の蝶が模られたタイルを敷き詰めた会場そのものが、インパクトの強いインスタレーションでした。踏み潰される前の2200枚ものタイルを見ただけでも、参加者たちはそれぞれ何かを感じ取っていたことでしょう。

 さらに、参加者たちは作者から指示されます。その指示に従って、タイルを踏み潰し始めた時、参加者たちは足裏から伝わってくるタイルの壊れる感触をどう感じたのでしょうか。

 タイルを壊さず、壁に立てかけている人がいましたし、それに続く人もいました。おそらく、壊すことに抵抗を感じ、後ろめたい思いをしていたのでしょう。反対に、タイルを踏み潰すことに身体的な快感を覚えた人もいたかもしれません。中には、足裏から伝わってくる振動に、なにがしか申し訳なさを感じながらも、踏みつぶし続けた人もいたでしょう。

 インスタレーション、パフォーマンス、それぞれ参加者に与える効果は異なります。参加者の環境への認識の違いによってもその受け止め方は異なってくるでしょう。

 インスタレーションにこのようなパフォーマンスを組み込んだおかげで、この作品はメッセージ性が高く、発信力の強い仕上がりになっていました。自然と社会とヒトとのかかわりを、参加者に深く考えさせるだけのインパクトがあったのです。それは、この作品がしっかりとした構造を持ち、明確なコンセプトの下、制作されていたからにほかなりません。

 健氏は8カ月かけてモチーフとなるタイルを制作し、会場の床に敷き詰め、インスタレーション作品としました。それだけでも十分インパクトのある現代美術なのに、健氏はさらに、参加者を巻き込むパフォーマンスを組み込み、参加者への影響力を強化しました。これまでの健氏にはない発想であり、表現活動でした。

 沖縄で陶芸技術を学んでいたころは、せいぜい海洋生物への関心から海洋汚染に関心を抱いた程度ではなかったかと思います。ところが、オーストラリアで学び始めて早々に、これまでとはまったく異なった性質の作品を発表していたのです。

 一体、何があったのでしょうか。

Socially Engaged Art

 そこで、調べてみると、健氏が入学したオーストラリア国立大学School of Art & Design科では、学部生に対し、次のようなコースを設けていることがわかりました。

こちら → https://programsandcourses.anu.edu.au/2021/course/ARTV2801

 Socially Engaged Art実践というコースが設けられ、「社会実践」や「社会彫刻」などの実験が行われています。「社会実践」にしても、「社会彫刻」(人間社会のさまざまな事象を含めて造形しようとする)にしても、社会的な関わりの中で表現活動を実践していこうとするものです。

 アーティストは表現活動を行いますが、このSocially Engaged Artでは、作者とか作品という概念よりも、対話や相互作用そのものに価値を見出す特徴があるといいます。また、参加者を巻き込むインタラクティブな実践という点で、Relational Artと呼ばれる作品群とも通じるものがあるともいわれています(※ Artwordsより)。現代アートの一ジャンルなのでしょう。

 このような説明に照らし合わせると、健氏の《踏絵》はまさにSocially Engaged Artそのものだといえるでしょう。沖縄では得られなかった美術的境地をオーストラリアで獲得したことがわかります。

 健氏は沖縄で海洋汚染の現実を知りました。アートの力で環境破壊に対処していくことができればと願ったことがあったかもしれません。Socially Engaged Art実践というコースはそんな彼にぴったりの学びの場でした。

 以後、健氏は明確なコンセプトの下、参加者を巻き込みながら、アートの力を活用した社会実践を続けていくことになります。

 手始めに制作したのが、《踏絵》でした。この作品では、ヒトが自然界に及ぼしてきた破壊力を、静(インスタレーション)と動(パフォーマンス)の両面から参加者に認識させることができました。

 インスタレーションによって参加者の問題意識を喚起し、パフォーマンスによって身体感覚に基づいて熟考させる・・・、といった仕掛けがあったからです。参加者のそれまでの意識レベルがどうであれ、アートの社会実践を経験してもらうことによって、ヒトは自然とどうかかわればいいのか、参加者それぞれに自覚を促すことができたのです。

 新しい形態の芸術作品でした。

 以後、健氏はこの手法で、次々と作品を発表していきます。

《スィートバリアリーフ》、2009年制作

 修士号を取得した2005年には、砂糖を使った作品を制作し、シドニーやメルボルンで発表しています。これら一連の作品が認められからでしょう、2009年にはオーストラリア代表に選ばれ、ベネチアビエンナーレに出品しています。作品のタイトルは、《スィートバリアリーフ》です。

(会場写真を撮影)

 オーストラリア北東岸には有名なグレートバリアリーフがあります。小さなサンゴやポリプ(イソギンチャクなど固着して触手を広げるもの)などが数十億も集積して形成されている巨大なサンゴ礁です。

(世界遺産オンラインガイドより)

 この辺りには、400種以上のサンゴ、1500種の魚類をはじめ、多種多様な生物が生息しているといいます。約200万年前からの石灰岩が堆積し、その上にサンゴが生息しはじめ、壮大な景観を形成しており、1981年には世界自然遺産に登録されています。

 上空から見ると、このようになっています。

(世界遺産オンラインガイドより)

 見ると、全体に茶色っぽくなっています。気候変動による海水温の上昇でサンゴが白化し、サンゴ礁が死滅に瀕していることがわかります。さらに、水質汚染やサンゴを食べるオニヒトデの発生などで、サンゴ礁の存続自体が危うくなりかけているともいわれています。

 それでは、もう一度、先ほどのベネチアビエンナーレに出品された作品《スィートバリアリーフ》に戻ってみましょう。

 写真手前に見える水色の塊とモデルたちが手にしているオレンジと青の塊が、この作品のモチーフです。白化したサンゴが彩色されているように見えます。白い髪飾りを付け、白いドレスを着ているモデルたちは白化現象を象徴しているのでしょうか、それとも、漂白された砂糖を象徴しているのでしょうか。

 この作品を紹介したページがありましたので、ご紹介しましょう。

こちら → http://kenandjuliayonetani.com/en/works/sweetbarrierreef/

 この作品もまた、インスタレーションとして発表され、会場ではパフォーマンスが披露されていました。

 ここに掲載されたYouTube画面を見ると、着色されたモチーフの中身はどうやらケーキのようです。モデルたちが切り分けて参加者たちに配っています。《スィートバリアリーフ》という名の通り、これらのモチーフは甘いサトウキビで制作されていたのです。

 モチーフの制作に使われたサトウキビは、ヒトの欲望のメタファーであり、さらには、世界が歩んできた植民地化、近代化、消費主義化の象徴でもありました。

 たとえば、クィーンズランド州の東北部にインガムという町があります。元々はアボリジニの土地だったのですが、1880年、そこに植民地製糖会社が設立されました。以来、イタリア移民が雇われて砂糖の生産に大きく貢献し、発展を遂げてきたといいます。この例に限らず、植民地の歴史とサトウキビ農園とは密接なかかわりがあったのです。

こちら →

http://www.let.osaka-u.ac.jp/seiyousi/bun45dict/dict-html/00577_Ingham.html

 このように、オーストラリアは輸出産業としてサトウキビ生産を発展させてきました。ところが、生産が活発になるにつれ、やがて環境保護団体からサトウキビ農家に対する批判が高まっていきました。肥料や農薬に含まれる化学物質、赤土の河川への流出などが、サンゴ礁の生態系を脅かしているというのです。

 また、タイや沖縄では、サトウキビ畑の焼き畑が、大気汚染の原因になっていると問題になっています。

こちら → https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210120/k10012823751000.html

 各地のサトウキビ栽培が土壌汚染、大気汚染、海洋汚染を招いていることを作品化したのが、この《スィートバリアリーフ》でした。

 こうしてみてくると、健氏の一連の作品が世界各地で進んでいる環境汚染にメスを入れるものであることがわかります。

アーティストユニットの誕生、そして、福島原発事故

 2009年以降、米谷健氏とジュリア氏はユニットを結成し、作品を制作するようになりました。

 先ほどご紹介した経歴を見ると、ジュリア氏は2003年にオーストラリア国立大学で歴史学の博士号を取得しています。一方、健氏は2003年に陶芸科の修士課程に進んでいますから、二人は同時期にオーストラリア国立大学で研鑽し、研究した仲間だったことがわかります。

 ジュリア氏は大学院修了後、研究職にも就いていたようですが、学問の世界に限界を感じ、アートに魅力を覚えるようになったといいます。健氏との出会いがその引き金になったのかもしれません。もっとも、ジュリア氏のキャリアは研究職からスタートしているので、アートを手掛ける場合も、テーマを設定してから制作に入ることが多いといいます。

 環境破壊をテーマに作品を制作してきた健氏とはお似合いのカップルであり、未来を担うアーティストユニットだといえるでしょう。

(ZOOM画面を撮影したので、角度が限定され、画質も悪いですが、ご了承ください)

 さて、米谷健+ジュリアとしてアーティストユニットを形成して2年後に、福島原発事故が発生します。オーストラリアで福島原発事故を知ったとき、二人は是非とも原発をテーマに作品を制作したいと思ったそうです。

 元々、健氏は環境破壊に関心がありましたし、ジュリア氏も歴史学の研究者なので、技術の進化と社会との関連については興味があったはずです。世界を揺るがす原発事故を機に、二人の制作衝動が刺激されたのは当然でした。

 そもそも原発の燃料であるウランの資源量はオーストラリアがトップなのです。

ウラン資源量トップのオーストラリア

 ウラン資源は世界中に分布していますが、圧倒的な資源量を誇るのが、オーストラリアです。主要15ヵ国だけで世界の既知ウラン資源の95%を占めているのですが、そのうちオーストラリアは30%で、他を圧倒しています。

(日本電子力産業協会国際部報告書『ウラン2018―資源、生産、需要』、2019年2月、p.7より)

 2018年の上記資料をさらに具体的に見ると、オーストラリアのウラン資源量は世界第1位、産出量は第3位でした。

(前掲。p.6 )

 資源量、産出量ともトップクラスのオーストラリアですが、自国内に原子力発電所を持っていません。ですから、研究用以外のウランはすべてアメリカ、EU、日本などの原発所有国に輸出しているのです。

 これらの国だけで輸出量の約90%を占めるそうです。オーストラリアは世界有数のウラン輸出国だったのです。実際、2011年3月11日に爆発した福島第一原発全6基のうち5基の原子炉で、オーストラリア産ウランが使用されていたといいます。

 興味深いことに、オーストラリアは、世界有数のウラン輸出国として原発産業を支えていながら、自国内に原発を持っておらず、一方の日本は、ウラン資源もなく世界唯一の被爆国でありながら、狭い国土に福島原発事故以前は54基も稼動していました。

 福島原発以後、21基の原発の廃炉が決定され、現在稼働中の原発はわずか5発電所の9基だけでした(今回、4カ月限定で美浜原発が再稼働)。それも西日本に集中しており、いずれも「沸騰水型」の福島第1原発とはタイプの異なる「加圧型」だそうです(※ https://www.nippon.com/ja/japan-data/h00967/)。

 さて、オーストラリアは原発を持っておらず、一見、クリーンなイメージがありますが、実は世界有数のウラン輸出国であり、福島原発事故でもオーストラリアからのウランが使用されていました。

 そのことを申し訳なく思う人々がいました。オーストラリアのアボリジニです。

アボリジニに伝わる緑アリのドリーミング

 福島原発を運営する東京電力は、英国系採掘会社の子会社が運営するレンジャー鉱山から採掘されたウランを購入していました。このレンジャー鉱山は、オーストラリア北部特別地域に住むアボリジニ、ミラー族が先祖代々所有してきた土地でした。

こちら →

https://www.independent.co.uk/news/world/australasia/aborigines-block-uranium-mining-after-japan-disaster-2267467.html

 福島原発事故を知ったミラー族の長老イボンヌ・マルガルラ(Yvonne Margarula)は、国連事務総長に、ミラー族の人々が日本の惨状を心配し、原子力の緊急事態について懸念しているという内容の手紙を書いて送ったといいます。

 ウランを産出して輸出し、利益を得ている鉱山企業レンジャーではなく、先祖代々の土地を奪われたミラー族が、福島原発事故で被害にあった日本に申し訳なく思っているというのです。彼らはウランの採掘についても制限を求め、新たな採掘事業に反対しています。

 米谷健+ジュリア氏は、福島原発事故後、レンジャー鉱山を訪れ、その土地に住むアボリジニから話を聞いています。

こちら → http://yonetanikenandjulia.blogspot.com/2013/11/blog-post_22.html

 アボリジニのコミュニティの中には、代々語り継がれてきた、「その大地を掘り起こせば、たちまちその地中から巨大な緑色のアリが出現し、世界を踏み潰し、破壊するだろう」というドリーミングがあることを彼らは知りました。

 実際、西ドイツで1984年に制作された、“Where the green ants dream”(緑のアリが夢見るところ)という映画(100分)があります。このドリーミングを題材に映画化された作品です。7分2秒の紹介映像を見つけましたので、ご紹介しましょう。

こちら → https://youtu.be/2mtouaHkSfA

 探し求めてダーウィンにまで出かけた健+ジュリア氏は、ナバレック鉱山付近にGreen Ants Hillがあり、そこに巨大な緑アリのドリーミングがあることを聞きつけます。実際に話を聞いて、現地の長老からそれを作品化する許可を得ます。

 こうした地道な取材を積み重ね、2012年に制作されたのが、《What the Birds Knew》でした。

福島原発事故に触発されて制作された作品

《What the Birds Knew》、2012年制作

アボリジニに伝わる緑アリのドリーミングにヒントを得て、制作を開始し、出来上がったのが、全長6メートルの巨大アリです。数千個のウランガラス玉で仕上げられています。

こちら → https://www.mori.art.museum/en/collection/2737/index.html

 ガラスの中にウランが含まれているので、暗闇の中では緑色に発色します。

 緑色の巨大なアリのドリーミングは、ウランが埋蔵されている地域のアボリジニの間で代々、伝えられてきました。実際にウランを浴びた巨大なアリがかつて存在していたのかもしれません。それが暗闇で緑色に発色し、恐怖にかられたアボリジニが、ドリーミングを介して、大地を掘るなと後の世代に警告を発していたのかもしれません。

 実際に現地で古老から話を聞き、米谷健+ジュリア氏はこれを作品化しました。ウランガラスを使って制作された巨大アリは、伝えられる通り、暗闇では緑色に発色しています。暗闇で光る緑色は美しくもあり、妖しくもあります。それは、得体の知れない力を感じさせられるからでしょうか。

 このように、健+ジュリア氏は巨大アリをウランガラスで制作し、暗闇の空間に配置することで、アボリジニのドリーミングを再現し、現代社会のドリーミングとして再生させたのです。

《クリスタルパレス:万原子力発電国産業製作品大博覧会》2013年制作

 福島原発事故の後、制作開始され、2013年に完成したのが、《クリスタルパレス:万原子力発電国産業製作品大博覧会》という作品です。

こちら → http://kenandjuliayonetani.com/ja/sakuhin/crystalpalace/

 ウランガラス、シャンデリアフレーム、ブラックライトなどを素材としたインスタレーションです。それぞれサイズの異なるシャンデリア31個で構成されています。 

 モチーフとなったシャンデリアは豪華で輝かしく、モダニティの象徴ともいえるものでした。形や大きさの違いこそあれ、どれも一様に、暗闇では緑色に輝きますから、壮観といえば、壮観です。

 興味深いのは、これらのシャンデリアは、それぞれ、原発保有国の国名をつけられ、その国の原発から作り出される電力の総出力規模に応じたサイズで制作されていることでした。どの国がどれぐらいの量の原子力発電を行っているかが可視化されているのです。

 一方、この作品のタイトルもまた、いかにも、いわくありげな《クリスタルパレス:万原子力発電国産業製作品大博覧会》です。クリスタルパレスとは、1851年にロンドンで開催された第1回万国博覧会の会場となったガラス張りの建物のことですが、それにちなんでこの作品のタイトルが付けられたといいます。

 調べてみると、確かに、第1回万国博覧会はこのクリスタルパレスで開催されていました。蒸気機関に端を発した産業革命は、イギリスで発祥した石炭利用によるエネルギー革命でした。その後、エネルギー源は石油、原子力、太陽光、風力、地熱、水素など多様になっていきますが、推移の方向としては、資源の枯渇、温暖化などへの懸念から、化石燃料から再生可能燃料へ変化といえるでしょう。

 いずれにしても、現代社会への大きな転換期はこのイギリスで発祥した産業革命だったのです。

 さて、タイトルのコロンの後は、「万原子力発電国産業製作品大博覧会」です。「万国博覧会」をもじり、「国」を「原子力発電国産業製作品」に置き換えています。福島原発事故が起こってもなお、原発をエネルギー源にしている原発所有国を取り上げ、その産業製作品の博覧会という体を取っているのです。

 産業製作品として、華美で豪華なイメージのあるシャンデリアを選び、インスタレーション作品のモチーフとしています。産業革命は人々を伝統社会の枠組みから徐々に解放し、産業化の進行とともに消費社会に誘導していきましたが、奢侈品であるシャンデリアはコマーシャリズムの象徴として捉えることもできます。

原発事故後10年、これからどういう世界に向かうのか

 産業革命以来、石炭から、石油、原子力、天然ガス等多様な電源利用へと推移して、現在に至っています。すでに化石燃料は温暖化の原因であり、枯渇の可能性も指摘されています。電力の安定供給という側面からは原子力利用も当面は捨てきれませんが、放射能汚染の危険が常に付きまといます。

 早急に再生可能性エネルギーに変換していかなければならないのですが、冒頭でもいいましたように、いまだに2割は原子力を使わざるを得ないというのが現状です。

 2021年6月30日、経産省がエネルギー基本計画に将来、原子力発電所の建て替えを盛らない方向で調整に入ったと報道されました。

こちら → https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA0176A0R00C21A6000000/

 2014年のエネルギー基本計画で原発建て替えの表現を削除して以来、建て替え、新設、増設の判断は先送りされたままです。脱炭素の方向を打ち出したにもかかわらず、原発政策に関しては空白状態が続いているのです。

 危険を承知し、災禍を予測しながら、判断を先送りすることの無責任さには言葉を失ってしまいます。いつから日本の行政はこうなってしまったのか・・・。

 はたして、どうすればいいのでしょうか。

 今回、米谷健+ジュリア氏のアーティストトークに参加して、アボリジニがドリーミングを通してウランの危険性を警告していたことを知りました。大変、興味深く思う反面、私たちは豊かさ、便利さと引き換えに何を失ってしまったのかと自問せざるをえませんでした。

 オーストラリア国立大学では学部生に対し「Socially Engaged Art」というコースを設け、アートの社会実践を行っているといいます。アート作品は、展示され、鑑賞されて完結するものではなく、参加者との対話や相互作用を通し、新たな地平を築き上げることに作品としての価値を置くというものです。

 米谷健+ジュリア氏の作品を見てきました。いずれも参加者との相互作用を目的に、社会を考え、環境を問いかける仕掛けが秀逸でした。新しい現代アートの在り方を垣間見たような気がしました。(2021年6月30日 香取淳子)

「World Exhibition 2021」:作品と作家が抱える文化

■World Exhibition 2021の開催

 2021年4月29日、豊洲シビックセンター1Fギャラリーで開催された「World Exhibition 2021」に行ってきました。豊洲駅から徒歩1分、とてもアクセスのいい展示場で、授賞式に合わせて着いてみると、すでに何人か来ておられました。

 この展覧会の主催はAsian Artists Network(代表:山田陽子氏)、共催がアートスペース銀座ワン、後援が外務省/国際機関日本アセアンセンターです。外務省やアセアンセンターが後援者になっているので、気になって、案内ハガキを見ると、出品者は56名、そのうち、アジアからの出品者は18名でした。どうやら美術を通してアジアとの交流を図る展覧会のようです。

 会場では、油彩、アクリル、水彩、切り絵、オブジェなど様々なジャンルの作品が展示されていました。画材が違えば、手法も違う多様な作品を前にして、審査も難しかったのではないかと思いますが、当日14:00から、受賞者の発表、美術評論家の清水康友氏によるギャラリートークが行われました。

 受賞者はグランプリが片岡真梨奈氏、準グランプリが如月夕子氏といちまるのり氏、そして、特別準グランプリとして、momomi sato氏が受賞されました。

 事前に展示作品を一覧していましたが、受賞作品は私が好印象を抱いた作品ばかりでした。いずれも画法や画題、視点などが新鮮で、意欲的な姿勢が感じられます。もっとも、会場には、受賞しなかったけれども、印象に残る作品がいくつかありました。

 そこで今回は、①グランプリ受賞者の作品、②受賞はしなかったけれども印象に残った作品、③アジアの作家の中で印象に残った作品を見ていくことにしたいと思います。この展覧会では、作品概要としてサイズ、制作年などは書かれていませんでしたので、ここでは作家名とタイトルだけを記します。

■グランプリ受賞者の作品

 グランプリを受賞した片岡真梨奈氏は受賞作品以外にも出品されていました。これら2作品を見ると、片岡氏のスタイルはすでに出来上がっていて、独自の表現世界が築かれているように思えました。とても印象深く、しかも、快さの残る作品でした。まず、受賞作品から見ていくことにしましょう。

●片岡真梨奈氏《待ち合わせ》

 2枚のカンヴァスが、位置をややずらして繋げられ、一つの作品として構成されています。下のカンヴァスはペールベージュを基調に、上は白を基調にした色調でまとめられています。いずれも色彩のバランスが快く、優しい落ち着きが感じられます。

 一見、別々の絵が2枚、繋ぎ合わされているかのように見えますが、実は、上と下のモチーフは繋がっており、一つの光景が描かれています。

 下の絵には女性が道路際で立っている姿が描かれています。肩をすくめ、所在なげに佇んでいます。これがメインモチーフなのでしょう。待ち合わせをしているのに、その人はまだやって来ない、そんな時のちょっと不安な心情が、ペールベージュを基調とした画面に的確に表現されています。

 女性の傍らには歪んだ郵便ポストのようなものがあります。おそらく、これを目印にして待ち合わせているのでしょう。人気のない道路にただ一人、ぽつねんと立ちすくんだ様子がなにやら寂しげです。

 女性の背後には大きな木が上に伸び、上の絵につながっています。上の絵の地色が白いので、まるで下の絵を覆っていたペールベージュのフィルムを引き剝がしたかのように見えます。

 下の絵と上の絵とは、この大きな立木と背後のマンションとでつなぎ合わされていますが、いずれも歪んで描かれています。まるで台風のときのような強風に煽られ、大きく揺れているかのように見えます。

 上の絵では、葉を落とした枝が大きく揺れ、電線のようなものが何本も空に舞い、その空の真ん中に人形のようなものが描かれています。相当強い風が吹き荒れていることがわかります。ところが、不思議なことに、同じ光景のはずなのに、下の絵はそれほどでもありません。荒れているように見える上の絵は、ひょっとしたら、待っている女性の心象風景なのかもしれません。

 やや引き下がって、全体を見てみると、画面上に直線は一つもなく、かといって整った曲線というものもありません。あらゆる線はすべて不揃いに曲がりくねり、デコボコしています。道路標識、排水溝、郵便ポスト、センターライン、建物、塀、ステイコーンなど、本来まっすぐなはずの線や円がそうではなく、不定形で捉えられているのです。

 不揃いで、デコボコの線でモチーフが形作られているのがこの作品の特徴の一つです。そのせいか、画面全体からは柔らかく、優しく、ユーモラスな印象を受けました。陰影もなく、イラストのようなフラットな描き方の中に、自然の息遣いと和らぎを感じたのです。ふと、誰か忘れましたが、自然界に直線はないと言っていたことを思い出しました。

 一方、人工的な建物、塀、道路のセンターラインなど、本来、直線であるべき箇所も同じように歪んで描かれているので、不安感、あるいは、不全感といったようなものも感じられます。いってみれば、現代人の多くが抱え持っている心情が感じられたのです。

 片岡氏独特の描き方によって、日常的な光景を画題としながら、現代社会の日常に潜む不安が浮き彫りにされています。素晴らしいと思いました。この作品はアクリルで制作されています。

 会場を見て回ると、片岡氏はもう一つ、出品されていました。《あの子の/The child》というタイトルの作品です。

●片岡真梨奈氏《あの子の/The child》

 まるでイラストのようなフラットな描き方、歪んでデコボコのある輪郭線、調和のとれた色彩など、先ほど、ご紹介した《待ち合わせ》と似た特徴を備えています。この作品もアクリルで制作されています。

 落ち着いた赤と黄土色、これは夕焼けをイメージさせる色彩です。それに、夕闇をイメージさせるやや暖色がかった黒を射し色として加え、この三色で画面は構成されていました。色数が少ないにもかかわらず、詩情豊かな世界が表現されています。

 子どもにとって、夕焼け時といえば、外遊びをやめて、家に帰らなければならない時刻です。それを惜しむかのように、帽子をかぶった子どもが、画面の中央右側に佇んでいます。その後ろには影が長く伸びています。やや間をおいて、左の方にももう一人、小さな子どもの姿が見えます。この子どもの背後にも影が描かれています。

 よく見ると、さまざまなモチーフすべてに長く伸びる影が描かれています。そのせいか、画面全体から寂寥感が漂ってきます。遊び疲れて陽が沈む、誰もが子どものころ経験したあの寂寥感です。何気ない日常の光景を描きながら、観客を画面に引き寄せる魅力を持った作品でした。

■受賞しなかったけれども、印象に残った作品

●ワッレン真由氏《Big Kiss》

 会場を一覧した際、真っ先に目に飛び込んできたのが、この作品でした。

 画面からはみ出しそうに見えるほど大きく、子どもの顔が描かれています。唇を大きく突き出し、甘えるように見つめる視線に引き込まれます。子どもがふとした瞬間に、親密な相手にだけ見せる表情が生き生きと捉えられていました。

 わずかに見える背景も、子どもが来ている服も、この表情を活かすかのように、顔色と同系色でまとめられています。タッチは荒く、パステルか何かでさっとスケッチしたような印象ですが、実際は油彩とアクリルで制作されていました。

 おそらく、このような描き方だからこそ、子どもの一瞬の表情が捉えられているのでしょう。素朴でありながら、訴求力が強く、絵画が持つ原初的な力を見せつけられたような気がしました。

 ワッレン真由氏はもう一つ、作品を出品されていました。《Funny Face》です。

●ワッレン真由氏《Funny Face》

 先ほどの作品と同じような手法で、子どもの表情が捉えられています。こちらも子どもの瞬間の表情がスケッチ風に描かれています。

 画面いっぱいに、子どもが目を大きく見開き、両手で頬を突いている姿が描かれています。圧迫されたせいで、頬は歪み、それに合わせて唇がとがったように突き出ています。先ほどの《Big Kiss》と同じような恰好で唇が突き出ているのですが、こちらは頬が圧迫された結果なのです。多少は痛みもあるのでしょうか、子どもの目の表情が硬いのが気になります。

 《Big Kiss》の場合、明らかに子どもが自発的に見せた表情ですが、《Funny Face》の場合、「やってごらん」といわれて、子どもが無理やり両の拳で頬を突き、その圧力で現れた歪んだ表情です。目の表情が硬くなるのも当然でしょう。この画面からは「Funny」よりむしろ、「強制」のに文字が浮き上がってきます。

 ヒトの顔のインパクトが強いのは、多くの情報がその中に含まれているからだと思います。通常、観客はなによりもまず、ヒトの顔を注視し、無意識のうちに、その表情から情報を読み取り、その結果を総合的に判断します。ですから、時に、作家の意図とは違う反応を示してしまいます。《Big Kiss》ほど、この作品に引き込まれなかったのは、この目の表情のせいでした。

 さて、この会場の約32%はアジアからの出品者でした。印象に残った作品をご紹介していくことにしましょう。

■アジアの作家の中で印象に残った作品

●Le Than Thu氏の作品《Woman》

 描き方に特徴があったので、この作品の前で足を止めました。作者のLe Than Thu氏はベトナムの出身です。

 ベトナムのホーチミン市を訪れた際、このような描き方の作品を見たことがあります。絵具を厚く塗り、ナイフで適宜、削っていく方法です。一見、荒っぽく見えますが、さまざまな色を重ね、削って陰影を出し、女性ならではの微妙な表情が表現されています。とても繊細な仕上がりの作品になっていると思いました。

 背景や顔面の要所、要所に配された青系の色調が、この女性に都会的で洗練されたイメージを付加しています。憂いを含み、儚げな美しさが印象に残ります。この作品は紙を支持体にアクリルで制作されています。

●Wai Oo Mon氏《The Corridor》

 会場を一覧した際、陽射しの描き方に惹かれ、この作品に見入ってしまいました。タイトルは《The Corridor》、作者のWai Oo Mon氏はミャンマーの出身です。

 ミャンマーには行ったことがないのですが、ベトナムに行った際、ハノイでこのような建物を見かけました。長い廊下に射しこむ陽光が的確に捉えられています。モチーフの配置と構図が素晴らしいと思いました。

 手前から画面の中ほどまで、強い陽射しを受けた木々の葉影が描かれています。そこから先は廊下に葉陰がなく、歩く女性の右肩やスタートに光が当たっている様子が白色で表現されています。廊下の突き当りには木があり、その葉が陽光に照らし出され、明るくきらめいています。

 何気ない日常の光景を捉えているだけなのに、この作品には、見飽きることのない力がありました。

 たとえば、女性が歩く幅広で天井の高い廊下には、暑さを遮断するための、現地の人々の生きる知恵と生活文化が感じられます。文化と気候、歴史が感じられる奥深い作品でした。この作品はカンヴァスに油彩で制作されています。

●Aung Thu氏《Waiting》

 透明感のある色彩の柔らかさに惹かれ、この作品の前で足を止めました。《Waiting》というタイトルの作品です。作者はAung Thu氏、ミャンマーの出身です。

 誰が大切な人を待っているのでしょう。女性が髪に花を挿し、ベンチに座っています。背後の木の幹や枝の表現が、なんと詩情豊かに、美しく描かれているのでしょう。木の幹や枝など普段、気にもとめないのですが、これほど情感たっぷりに描かれると、見入ってしまわざるをえません。まるで、この木が主人公のようです。

 右側の木の幹、正面の建物、左下の大きな影、いずれも画面の中で大きな面積を占めている箇所です。それが紫色でまとめられているのです。そのせいで、木々の葉や草、女性の衣服などが柔らかく、爽やかに見えます。

 目では捉えられない、風や気温といったものが、この作品では柔らかい色彩を組み合わせて、表現されています。うだるような暑さの中、そっと気持ちのいい風が葉陰から吹いてくるのさえ感じられます。見ていると、気持ちが和み、幸せな気分になってきます。透明水彩の特徴を活かした描き方で、清涼感が感じられます。この作品は水彩で制作されました。

●溝口赫舎里氏《満洲魂》

 会場を一覧した際、気持ちの奥深く訴えかけてくるものがあると感じられたのが、この作品でした。作者は溝口赫舎里氏、中国の出身です。

 何の花でしょうか。まるで深海の底で花開いたかのような趣があります。海をイメージさせる群青色が基調になっているせいでしょうか。

 画面上方に、群青色の泡のようなものが無数に描かれています。ダイバーが吐き出す呼気にも見えます。この無数の泡のようなものには、上方に向けての動きが見られ、そこに生命の営みが感じられます。とはいえ、画面の中に他の生命体は見当たらず、この花だけが一群となって咲いています。

 花弁の先が白で強調され、花芯が金で表現されています。一群の白い花の中央は金色の花粉のようなものが散らばり、花はぼやけています。そこを中心に、辺り一帯から沸き立つように、金色の花粉のようなものが立ち上り、上方に向かっています。

 一体何が描かれているのでしょうか。ヒントを求めて、タイトルを見ると、《満洲魂》と書かれています。

 調べてみると、満洲族は清朝を起こし、栄華をきわめた後、現在は55を数える少数民族の一つとして、中華人民共和国に属しています。国政調査によると、2010年時点で人口は1038万人だそうです。かつて支配階級として繁栄を誇っただけに、いまなお満洲魂への想いは篤いのでしょう。は脈々と受け継がれているのでしょう。

 Wikipediaによると、満州族の教育水準は高く、人口1万人当たりの大学進学者数は1652.2人、中国平均は139.0人、漢族平均は143.1人です。満州族の教育水準がいかに高いかがわかります。そのせいか、満州族は固有の文化を失いながらも、民族意識はとても高いといわれているそうです。

 このような満州族の置かれた背景を知ったうえで、この作品をみると、改めて、この作品の奥深さがわかってくるような気がします。溝口赫舎里氏は《満洲魂》というタイトルで、この作品を制作しました。まさに魂を画面に入れ込んだのです。

 画面には、ダイバーが潜行できないほど深いところで、人知れず、ひっそりと咲いている一群の花が描かれています。深い悲しみも喜びも何もかも、一切合切を内に秘め、花として結実させている様子がうかがえます。一群の花の姿がたとえようもなく儚く、そして、健気でした。そのことに胸を突かれる思いがしました。

 民族の歴史を背負い、それを昇華し、芸術作品として仕上げていることに感銘したのです。やがて闇は晴れ、一群の花が地上で咲くときが来るにちがいないと思わずにはいられません。

■絵画を通してみたアジアの過去、現在、未来

 56人の作家の展示作品ざっと見て、深く印象に残った作品をご紹介してきました。①グランプリ受賞作品、②受賞しなかったけれども印象深い作品、③アジアの作家の印象に残った作品、等々です。作家の来歴もわからないまま、作品を見てきましたが、個々の画面には、アジアの画家たちの過去、現在、未来が色濃く反映されているように思えました。

 たとえば、片岡真梨奈氏の作品は、陰影もグラデーションもなく、輪郭線とマットな色遣いでモチーフが表現されていました。平面的な描き方のせいか、イラストのような味わいがあって、すべてがフラット化している現代社会の片鱗を感じさせられました。

 このような作品は、現代社会の潮流を皮膚感覚で受け止められる若者でなければ表現できないでしょう。すべてがデジタル化し、フラット化していく現代から未来にかけての文化を、この作品から読み取ることができます。

 ワッレン真由氏の作品は、スケッチ風に子どもの顔が画面いっぱいに表現されており、インパクトがありました。一瞬のヒトの表情を捉えるにはスケッチ風の粗さがマッチしていたのです。ただ、ヒトの顔は情報量が多く、クローズアップ画面にすると、それだけアラも目立つので注意する必要があると思いました。

 Le Than Thu氏の作品もヒトの顔をモチーフにしていますが、こちらはさまざまな色を重ね、厚塗りした絵具をナイフで削るという手法で描かれています。荒削りな中に、繊細さが感じられ、現代社会特有の都会的で洗練された文化を感じさせられました。

 Wai Oo Mon氏の作品は、技法をしっかりマスターしたうえでモチーフが表現されており、安定感がありました。この作品がいつ制作されたか知りませんが、現在、ミャンマーは大変な状況に置かれています。

 これまでもおそらく、ミャンマーにはさまざまな事変があったのでしょう。そのような社会状況下では、この作品で描かれたような平穏な日常が何よりも大切なのだと思います。そう思って、改めてこの作品を見ると、廊下に射し込む陽光の柔らかさ、突き当りに置かれた木の葉の輝きが丁寧に描かれており、いまさらながら、画題の持つ深淵さに気づかされます。

 Aung Thu氏の作品も同様です。木々や葉の描き方が優しく、気持ちが和みます。強烈なはずの陽光が柔らかい光に置き換えられ、透明水彩の特徴を活かしながら、平穏な日常生活の大切さが訴えられているような気がします。

 そして、溝口赫舎里氏の作品からは、失った文化への哀惜が感じられます。群青色を基調とした画面から、深く沈潜せざるをえない文化が表現されているように思えました。一方、花の中心一体は金粉が散らされて明るく輝き、やがては復活するという願いが込められているように見えます。

 会場にはこれ以外にさまざまな作品が展示されていました。伝統的技法で表現された作品もあれば、新たな表現世界を求めて技法や色遣いに工夫を凝らしている作品もありました。

 なにしろ出品者の32%がアジアの作家だったのです。それだけに、作品の端々に作家が生きた時代や社会の文化が顔をのぞかせており、とても興味深い展覧会でした。今後も継続して、このような展覧会が企画されることを期待しています。(2021/05/02 香取淳子)

黒田清輝氏の《智・感・情》を考えてみる。

■黒田記念館

 2021年3月27日、黒田記念館に行ってきました。3月28日にショップが閉店すると聞いて、行ってみることにしたのです。上野駅の公園口改札を出ると、快晴だったせいか、すでに大勢の人々が公園内を散策していました。それを横目で見ながら、公園を通りぬめると、東京国立博物館の向かい側に、黒田記念館の建物が見えてきました。

 なかなか由緒ある建物です。黒田清輝氏は、1924年(大正13年)に亡くなりましたが、その際、遺産の一部を美術の奨励事業に役立てるよう遺言したそうです。それをうけて、1928年(昭和3年)に建築されたのが、この黒田記念館です。

 正面から見ると、さらに歴史の重みを感じさせられます。

 入口の上部には、黒田記念館と刻印された半円の窓が設えられており、なかなか風情があります。入口の両側にはテラコッタの壺が置かれ、壁面には長めの外灯が備え付けられており、随所に西洋文化の奥ゆかしさが感じられます。設計したのは、当時、黒田氏と同じ東京美術学校で建築の教授を務めた岡田信一郎氏でした。

 建物の中に一歩、足を踏み入れた途端、明治時代にタイムスリップしたような気になりました。内装や調度品のそこかしこから明治近代化の香りが漂ってきたのです。

 内部を撮影することができませんでしたので、東京国立博物館広報室の奥田緑氏の説明をご紹介しておくことにしましょう。

こちら →

https://www.tnm.jp/modules/rblog/index.php/1/2017/06/14/%E5%BB%BA%E7%AF%89%E6%8E%A2%E8%A8%AA%E9%BB%92%E7%94%B0%E8%A8%98%E5%BF%B5%E9%A4%A8/

 上記の写真でわかるように、重厚感のあるアーチといい、アールヌーヴォー様式の階段の手摺りといい、曲線を活かした風雅な佇まいがとても印象的でした。建物の内部に、19世紀末から20世紀初頭にかけてのヨーロッパの美意識が凝縮されていたのです。日本近代洋画の父といわれた黒田清輝氏の作品を展示するのにふさわしい空間でした。

 この建物は2015年にリニューアルされたそうです。その際に新設されたのが、特別展示室です。そして、この部屋に展示されていたのが、黒田氏の代表作《湖畔》と《智・感・情》でした。


(上記URLより)

 この写真でははっきりを見えませんが、左側の壁に展示されているのが、あの有名な《湖畔》です。この部屋に入った途端、あまりにも小さく見えたので、近づいてサイズを確認したほどでした。実際に見ると、かなり大きく、表示を見ると、69.0×84.7㎝でした。

《湖畔》は、帰国後の1987年に制作された作品です。

 この《湖畔》が極端に小さくみえてしまうほど、その隣の壁面に展示されていた《智・感・情》は巨大な作品でした。1899年に制作された三部作ですが、いずれも180.6×99.8㎝で、それぞれが額装されていますから、いっそう大きく見えます。右側の壁面はこの三作品で占拠されていました。

 今回は、この《智・感・情》を取り上げ、考えてみることにしましょう。

■《智・感・情》

 《湖畔》は誰もが知っている有名な作品ですが、《智》、《感》、《情》もまた、一部にはよく知られた作品です。私も美術書や画集等で何度か見たことがあります。そのときは、三作品がセットで、《智・感・情》として掲載されており、まさかこれほど巨大な作品とは思いもしませんでした。

 この作品で気になったことといえば、絵画作品には珍しいタイトルと、明治時代の作品には珍しい裸婦像だということぐらいです。

 それでは、どのような作品なのか、見ていくことにしましょう。

会場では写真撮影ができませんでしたので、黒田記念館で購入した図録の該当部分を撮影してみました。


(図録、p.10-11.)

 向かって左から順に、《智》、《感》、《情》です。これが会場ではそれぞれ額装され、展示されていました。観客よりも大きな裸婦像が眼前に三体、並んでいるのですから、圧巻でした。

三体はいずれも、裸身の立像であることは共通しているのですが、ヘアスタイル、手のポーズ、顔面や視線の向きなどはそれぞれ異なっています。

 おそらく、その異なり方がタイトルと関連しているのでしょう、真ん中と右は手旗信号のように、何らかのメッセージを送っているように見えます。ところが、左は特に何らかの意味あるポーズのようには見えませんでした。

 もっとも、仮に手のポーズに何らかのメッセージが込められているとしても、それがタイトルとどのように関連づけられているのか、皆目わかりません。見れば見るほど、謎でした。

 黒田氏はこまめに日記をつけていましたが、この《智》、《感》、《情》に関しては、いつ、誰を描いたという記述はあっても、なぜ、そのようなタイトルにしたのかについては書かれていません。しかも、黒田作品のタイトルで、このような抽象的概念を指すものは他に見当たらないのです。

 モデルのポーズの意味がわからないだけではなく、タイトルも謎めいていたのです。

 それでは、画面を見ていくことにしましょう。

■理想のプロポーション

 改めて、《智》、《感》、《情》を見ると、これらの裸婦像はいずれも手足が長く、均整の取れた体つきをしているのに気づきます。日本人女性の顔なのに、体形は明らかに西洋人女性なのです。黒田氏の日記から、この三体の裸婦像は、小川花さん、幸さんという姉妹をモデルに描かれたことがわかっています。

東京文化財団研究所の山梨絵美子氏は、黒田氏が日記で、《智》、《感》、《情》の制作について、1897年2月16日から3月5日までに1枚目、3月10日から4月8日までに2枚目、4月12日から3枚目を描いたと記していると報告しています。(『生誕150年 黒田清輝』、p.205、美術出版社、2016年)

これだけでは、どの作品のモデルが小川姉妹のどちらかなのかはわかりませんが、三作品を見比べてみると、顔つきで、《智》と《感》のモデルが同一人物だということだけはわかります。

当時の日本人女性の体つきを写真や絵で見ると、頭が大きく、胴長で脚の短い体形でした。第二次大戦後、それも高度経済成長期を過ぎてから日本人女性の体形は大きく変貌しましたが、それ以前は生活様式や食生活などの関係で、西洋の女性とは体形に大きな違いがあったのです。

小川花さん、幸さん姉妹の写真が残っているわけではないので、断定はできないのですが、身体部分は実際のモデルとは異なるのではないかと思います。

画面で見るモデルはいずれも、あまりにも当時の日本人女性の体形とはかけ離れています。骨格といい、肉付きといい、プロポーションが良すぎるのです。黒田氏はおそらく、身体部分については西洋的基準に合わせ、大幅に修正していったのでしょう。

パラパラと図録をめくっていると、興味深い作品がありました。

今回、展示作品の中にはありませんでしたが、図録の中に、黒田氏が滞欧時に描いた裸婦像の習作が掲載されていたのです。

(木炭、紙、63.2×47.0㎝、1888年、黒田記念館蔵、図録、p.11より)

 これを見ると、身体部分のポーズが《智》のモデルのポーズとそっくりです。黒田氏がこの作品を描くとき、この西洋人女性の体形やポーズを参考にしたのは明らかです。

 もっとも、よく見比べてみると、この西洋人女性よりも《智》のモデルの方が、脚が長く、すらっとした体形をしています。乳房も張りがあって、若々しく見えます。つまり、黒田氏は日本人モデルを使いながらも、その身体に関しては滞欧時に描いた西洋人女性の体形を参考にし、それをさらに理想形に近づけるよう、創作していたと思えるのです。

 そう考えると、《智》、《感》、《情》という抽象的なタイトルも理解できるような気がしてきます。黒田氏はひょっとしたら、裸婦をモチーフに、ヒトの身体の原初的な意味や機能、そして、理想形を問いかけようとしていたのかもしれません。

 ちなみに、黒田清輝氏はフランスでは、アカデミズムの画家ラファエロ・コラン氏に師事していました。

 そのことを思い返せば、黒田氏が《智・感・情》で表現した裸婦の身体の理想形は、ラファエロ・コラン氏に倣った可能性がありますし、実際、そう思わる節もありました。

■ラファエロ・コラン氏の裸婦像と黒田清輝氏の《智》

 黒田氏が留学した当時のフランス・アカデミズムは、新古典主義とロマン主義を統合しようとしていた時期のようです。師のラファエロ・コラン氏は、アカデミズムの新古典主義やロマン主義を踏まえ、印象派や象徴主義などの影響も受けながら、裸婦像を数多く描いていました。

 黒田記念館では、ラファエロ・コラン氏が1870年に制作した《裸婦》も展示されていました。

(油彩、カンヴァス、88.0×168.4㎝、1870年、国立博物館蔵)

 伸びやかな腿と脛、張りのある胸が印象的です。当時はこのようなポーズが好まれて描かれていたようです。写実的であり、情感豊かな世界が表現されています。

 この作品を見ているうちに、三作品のうち、とくに《智》はこの作品も参考にして描かれたのではないかという気がしてきました。

 さきほどの図録から、《智》を取り出し、見てみることにしましょう。

(油彩、カンヴァス、180.6×99.8㎝、1899年、黒田記念館蔵)

 立像と仰臥像との違いはありますが、見比べてみると、スラリと伸びた脚、腰骨の張りなど、両作品は身体の捉え方、表現の仕方がとても良く似ています。形状が似ているだけではなく、腿や脛の肌の艶の出し方までに通っています。

 先ほど黒田氏が滞欧時に描いた裸婦を紹介しましたが、同じ西洋人女性でも、コラン氏の作品の方が、《智》で描かれた身体に近いという印象を受けました。いかにも写実的に描こうとしながらも、理想形を優先させているという点に共通性を感じたのです。

 さて、前にもいいましたように、《智》と《感》は顔面が似ており、同一人物だと思えるのですが、身体部分を比較すると、胸の大きさや張り具合はむしろ、《感》と《情》とが似通っています。《智》よりも、《感》と《情》の方が、モデルの乳房が小さく、より日本人女性の体形に近づけて描かれているように思えます。

 こうしてみてくると、黒田氏は西洋人女性を参考に、身体の理想形を目指して描き進めてプロトタイプを創り、二体目からは、わずかながら日本人女性らしさを身体に残そうとしていたように感じられるのです。

 ですから私は、三作品のうち、より西洋人女性の身体の特性を残した《智》が、最初に描かれたのではないかと思います。黒田氏の日記と照らし合わせれば、この作品のモデルは小川幸さんということになります。

 それにしても、黒田氏はなぜ、そこまで西洋的な理想形にこだわったのでしょうか。

■アカデミーの授業

 黒田氏はフランスに滞在し、アカデミー・コラロッシで、ラファエロ・コラン氏に師事しました。そこでは、ヌードのデッサンと彩画をアカデミック絵画の基本として学びました。黒田氏が学んだ西洋画の基礎は裸体画だったのです。

 図録を見ると、男女を問わず、裸体画が何点か掲載されていました。黒田氏がフランス滞在中に人体について多くを学んでいたことがわかります。黒田記念館にはそれらが所蔵されており、古典絵画の模写、石膏デッサン、裸体デッサン、油彩による裸体画といった順で、人体の構造と表現を学んでいたようです。アカデミズム絵画は、このようなカリキュラムの下、体系的に教育されていたのです。

 人体の仕組みを学ぶための解剖学講義の記録も残されていました。

(鉛筆、紙、9.3×15.5㎝、1888年、黒田記念館蔵)

 腕の部分の筋肉がしっかりと描かれています。人体を描くために、黒田氏がその内部組織まで学習していたことがわかります。この図を見ていると、ダヴィンチの有名な人体図が彷彿されます。

 そして、ふと、ルネサンス期の画家たちが、人体の理想的な比率や黄金比率などを研究し、普遍的な美を追求していたことを思い出しました。

 さらに、当時、手作業を重視する職人と、「教養科目を修めた紳士である」芸術家とを区別する風潮が残っていたことも思い出しました。芸術家の作品には知的要素がなければならないとされていたのです。このような状況を考え合わせると、アカデミズムの画家が構想主義、歴史主義、寓意主義に向かうのは当然のことでした。

 黒田氏がフランスからアメリカ経由で帰国したのが1893年、帰国直後は、《昔語り》といった歴史に画題を取った作品を制作しており、アカデミズムで学んだことの痕跡が見受けられます。そして、《智・感・情》を制作したのが1897年、こちらも裸婦をモチーフとしていますが、観念的な画題を扱っており、アカデミズムの影響が色濃く残っています。

■日本の近代化過程での裸婦像

 帰国後の1895年、黒田氏は第4回内国勧業博覧会に、滞欧時に制作した西洋女性の裸婦像《朝粧》を出品しました。それが大騒動を巻き起こしました。1893年に制作されたこの作品はフランスでは大好評でしたが、日本では猥褻物扱いをされ、非難されたのです。

 そして、1897年、第2回白馬会展に出品した《智・感・情》は、日本人をモデルにした初めての裸婦像でした。《朝粧》で大騒動を巻き起こし、そのほとぼりも冷めないうちに再度、裸婦像を出品したのです。黒田氏の強い意志を感じざるをえません。

 留学を終えて帰国した黒田氏は、フランスで習得した西洋的表現方法を伝えようとしてきました。対象を客観的に観察し、それをロジカルに組み立て、表現するという手法で制作した作品を国内の主要な展覧会で立て続けに発表したのです。モチーフは裸婦でした。

 黒田氏が学んだフランスでは、裸体画は人体表現の基礎であり、アカデミズムのカリキュラムの中では必須科目でした。人体を表現しようとすれば、その仕組みを理解するため、まず解剖学を学ばなければならなかったのです。裸体表現は写実の基礎であり、科学的思考法の基礎ともなりうるものだからこそ、黒田氏はまず、日本に裸婦像を導入したのです。

 そもそも日本の近代化過程で求められたのは、写実的表現であり、科学的思考であり、ものごとの構造的な把握でした。アカデミズム絵画を通して、黒田氏はそれらを習得しました。カリキュラムを見てもわかるように、模写、デッサン、油彩画に至る教育の基本は裸体画でした。黒田氏はそれを日本に持ち込もうとしただけでした。

 ところが、そのような作品は日本社会から強く拒否されました。裸婦をモチーフにしたことが受け入れられなかったのです。

 明治期、多くの留学生が当時、先進的な西欧に渡り、さまざまなことを学んできました。技術的、実用的な領域はまだしも、文化が深く関与している領域は、学んだことをそのまま適用できず、強引に持ち込もうとすれば、日本文化の厚い壁に阻まれてしまうことがわかりました。

■裸婦を巡る東西文化の違い

 《智・感・情》はその後、加筆されて、1900年に開催されたパリ万国博覧会に、《女性習作》というタイトルで出品されました。《湖畔》やその他3点とともに出品されたのですが、この作品だけが評価され、日本人に与えられた賞としては最高の銀牌を受賞しています。

 この作品をパリ万博に出品する際、黒田氏はなぜか、《女性習作》というタイトルに変更しています。《智・感・情》という観念的なタイトルはふさわしくないと思ったのか、あるいは、作品がこのタイトルにそぐわないと思ったのか、それとも・・・、いろいろ考えてみても、その理由はよくわかりません。

 理想や観念を掲げ、それに沿って絵を描くのは日本文化に馴染まないのでしょうか。あるいは、日本社会で受け入れられるために、日本文化に再適応する必要があったのでしょうか。いずれにしても、その後、黒田氏がアカデミズム風の作品を描かなくなっているのが気になります

 黒田氏は、西洋絵画で尊重される身体の理想形を追求しながら、日本人女性をモデルに裸婦像を制作しました。そこで優先されたのは、西洋的な理想形でしたが、ほんのわずか、日本人女性の特性の残そうとしたことに、黒田氏の心の揺らぎを感じました。

 ひょっとしたら、このときすでに黒田氏の内面には、フランスで身につけた思考法、表現法を突き崩す日本文化の片鱗が甦っていたのかもしれません。

 特別展示室で、《智・感・情》の隣に展示されていた《湖畔》は、フランスでは受賞できませんでしたが、日本ではとても評判がよく、いまなお、多くの人々から愛されています。《智・感・情》のように考えこませることはなく、意味を求める必要もなく、画面全体から漂ってくるリリシズムを楽しめるからでしょう。

 興味深いことに、《湖畔》にも《智・感・情》にも、観客を心地よくさせる清々しさが感じられました。描く対象が何であれ、黒田氏のフィルターがかかって、画面をそのテイストに染め上げてしまうからでしょう。何を描くかというのも重要ですが、いかに捉えるか、いかに表現するかということの方が重要で、そこにこそ、創作者の世界が構築されるのではないかと思いました。(2021/3/30 香取淳子)

川端龍子作品《海洋を制するもの》に見るジャーナリズム性

■川端龍子展

 2021年2月21日、川端龍子記念館に行ってきました。たまたま図書館で見かけたこの展覧会のキャッチコピーが気になったからでした。絵画の展覧会には珍しく、「時代を描く:龍子作品に見るジャーナリズム」というタイトルだったのです。

 開催期間は2020年12月9日から2021年3月21日です。ずいぶん前に開催されていたようですが、私はこの展覧会のことを知りませんでした。

 

 チラシには《怒る富士》の写真が掲載され、次のように開催趣旨が説明されていました。

「本展では、太平洋戦争末期の不安や憤りを赤富士に表現した《怒る富士》(1944年)や、終戦間際に自宅が爆撃にあった光景を飛び散る草花に著した《爆弾散華》(1945年)、多くの犠牲者を出した狩野川台風の被害から復興を目指す人々の力強さを伝える28メートルの大作《逆説・生々流転》(1959年)等、龍子が時代を力強く描き上げた作品群を紹介します」

 この展覧会では、どうやら、戦争や台風など大きな災禍を画家の目で捉えた作品が、展示されているようです。

 太平洋戦争のさなか(1944年)、終戦の直前(1945年)、そして、戦後の台風禍(1959年)など、折々の災禍を川端龍子氏がどのように捉え、作品化したのか、次第に興味が湧いてきました。

 さて、西馬込駅南口を出て、スマホで道案内を確認しながら、桜のプロムナードを進んでいくと、大田区立龍子記念館らしい建物が見えてきました。木立の下に横断幕が見えます。

 

 この横断幕で使われていたのが、《逆説・生々流転》でした。

 見たことがある絵柄だと思って、チラシを取り出して見ると、その裏側に、やはり《逆説・生々流転》(部分)と書かれた作品の一部が掲載されていました。横断幕で使われていたものはさらに横長でクレーン車で電車を引き上げる様子なども描かれています。おそらく、この展覧会のメインの作品なのでしょう。

 それでは、展示室に入ってみることにしましょう。

■大きさに圧倒され、長さに驚かされた壮大なスケールの画面

 展示室に足を踏み入れた途端、驚いたのは、壁面を覆うほどの作品の大きさでした。最初に展示されていたのが《龍巻》(1933年)で、293.0×355.0㎝の作品です。その隣の《海洋を制するもの》(1936年)はそれよりさらに大きく、289.5×456.0㎝でした。

 次のコーナーで展示されていたのは《杜会を知らぬ子等》(1949年)で、壁面のほとんどを覆ってしまうほど大きく、サイズは243.6×721.7㎝でした。

 その隣にコーナーを跨いで展示されていたのが、チラシや横断幕にその一部分が掲載されていた《逆説・生々流転》で、サイズは48.3×2806.1㎝でした。28メートルにも及ぶ長さだったのです。

 このように、展示室に入ってまず驚いたのは、作品の大きさであり、その長さでした。その他の作品も同様、いずれも予想をはるかに超えたスケールだったのです。かなり引き下がらなければ、とうてい、全体像を視野に収めることはできません。

 これだけ大きな作品、あるいは、長い作品を見るのは初めてでした。おそらく、川端龍子氏は作品のスケールについてなんらかの信念をお持ちなのでしょう。となれば、気軽に作品を鑑賞するわけにはいかないのではないかという気がしてきたのです。

 そもそも、私は、この展覧会のタイトル「時代を描く 龍子作品におけるジャーナリズム」に興味を覚え、やってきました。ですから、今回は、展示作品の中でもとくにジャーナリズム性を強く感じられる作品に絞って、見ていくことにしたいと思います。

 展示作品の中で私が川端龍子氏のジャーナリズム精神を感じたのは、《海洋を制するもの》、《逆説・生々流転》、《怒る富士》、《爆弾散華》、《花摘む雲》、《國亡ぶ》などの6点でした。このうち5点は、モチーフは何であれ、戦争を主題にしたもので、1点が台風による災禍を描いたものです。

 この6点のうち、言葉で説明されなくても、画面からジャーナリズム性を感じることができたのは、《逆説・生々流転》と《海洋を制するもの》でした。

《逆説・生々流転》の場合、複数の画題が時系列に沿って取り上げられ、全体が構成された作品でした。それぞれの画題にジャーナリズム性があり、総体として物語性のある訴求力の強い作品になっていましたが、単体として画面からジャーナリズム性が感じられたのは《海洋を制するもの》だけでした。

 そこで、今回は、《海洋を制するもの》を取り上げ、川端龍子氏のジャーナリズム精神がどのように作品化されたのかを見ていくことにしようと思います。

■《海洋を制するもの》

 私が展示作品の中でもっともジャーナリスティックだと思ったのが、この作品でした。造船所で働く人々の姿が生き生きと描かれています。

(絹本彩色、額装・六枚一組、289.5×456.0㎝、1936年、龍子記念館所蔵)

 学芸員の説明によると、川端龍子氏は実際に、神戸にある川崎造船所を取材して、この作品を仕上げたそうです。

 画面を見ると、まず、3人の人物に目が留まります。

 画面の中ほどに描かれた3人の作業員は、それぞれの持ち場で働いています。持ち場によって異なった三者三様の姿勢や表情が丁寧に描かれているせいか、この作業現場にリアリティが感じられます。

 全身全霊で作業に取り組んでいる者がいれば、ちょっと気を抜いている者もいるといった状況はおそらく、どのような作業現場でも見られる光景なのでしょう。真剣に作業する2人の背後に手を休めている者を配置することによって、モチーフ間にメリハリをつけることができ、実在感を増すことができています。

 ここでのメインモチーフは、画面手前の青いつなぎを着た作業員でしょう。画面のほとんどを覆っている茶褐色ではなく、その補色である青色のつなぎを着ているところからも、作者がこの人物を中心に据えていることは明らかです。

 しかも、この人だけが顔の表情がはっきりと描かれています。髪を逆立て、目を見開き、口を堅く結んでいます。一見、憤怒の表情に見える形相ですが、よく見ると、怒っているのではなく、全身全霊で取り組んでいるエネルギッシュな表情にも見えます。

 作業員はいずれも半裸で、褐色に日焼けし、肩や胸の筋肉が盛り上がっているのがわかります。しかも、皆、裸足です。ここに作業状況の過酷さが表現されています。その一方で、手前の人物の表情に作業への揺るぎない使命感が表現されており、画面から力強いエネルギーが伝わってきます。

 次に、人物の背景に目を向けると、カーブした鉄板、建造中の船の一部、無数の木材で組み立てられた足場、クレーンなど、作業を支える作業場の光景が丁寧に描かれており、3人の作業の背後にある造船事業が的確に可視化されています。

 この作品が制作されたのが1936年、同年2月26日には陸軍青年将校らが決起して内閣は総辞職に追い込まれています。その前年に開催されたコミンテルン大会で、西洋ではドイツ、東洋では日本を標的に攻撃することが決定されており、中国では抗日戦線が激化しはじめていました。

 そして、翌1937年には日中戦争、1939年には第二次世界大戦が勃発、1941年には太平洋戦争に突入といった具合で、当時は不穏な社会状況の真っただ中にあったのです。このような状況下で造船所は政府の新造船援助を受け、次第に活況を呈し始めていました。この時期、造船所を描くことは間接的に戦争を描くことでもありました。

 そのようなマクロ状況を踏まえ、川端龍子氏は、川崎造船所で働く人々をミクロ的にキャンバスに収めています。

 戦争といえば、兵士、負傷した人、戦車、戦闘機、戦闘シーン、爆撃などを描いて表現するのが常でした。ところが、川端龍子氏は、造船所で働く作業員とその作業場を描くことで戦争を間接的に表現していたのです。

 作品化に際して選択されたこのモチーフは、《花摘雲》の場合と同様、間接的に戦争を表現し、そこに作者の心情を盛り込めるものだったといえるでしょう。

 それでは、作業員はどのように描かれたのかを見てみることにしましょう。

■作業員はどう描かれたのか

まず、手前の青いつなぎを着た作業員からみていくことにしましょう。

 

 足を大きく開いて身体のバランスを取りながら、電気ドリルを使って鉄板に穴をあけています。手には大きな手袋をはめ、真剣な表情で作業をしています。ドリルが鉄板とぶつかった箇所は火花が飛んでいるのか、明るく描かれています。顔も肩も素足もこげ茶色で描かれ、連日の作業で日焼けしていることが示されています。

 髪は逆立ち、顔は憤怒の表情で描かれ、連日、大変な作業に懸命に取り組んでいる様子が伝わってきます。この人物の表情からは、力強いエネルギーが感じられます。

 次に、溶接をしている真ん中の作業員をみてみましょう。

 

 顔を溶接用のお面のようなもので保護し、大きな手袋をはめて作業をしています。顔の表情はわかりませんが、半裸の背中は褐色に日焼けし、頬や腕も褐色に日焼けしていることがわかります。こちらも連日、熱い太陽の下、溶接作業をしているのでしょう。作業をしている場所からは燃え盛る火が描かれており、どれほどの熱さの下、作業をしているのか、その過酷さを見て取ることができます。この人も靴を履いておらず、裸足です。

 最後に、背後でこの作業を見ている作業員を見てみましょう。

 

 こちら首に手ぬぐいを巻き付けています。汗を拭き取るためでしょう、帽子をかぶり、眼鏡をかけています。やはり手袋をはめ、手に棒のようなものを持っていますが、作業をしているわけではなさそうです。休憩しているのでしょうか、それとも、監督しているのでしょうか。やはり上半身裸で、顔も腕も胸も腹も褐色に日焼けしています。ズボンの下を見ると、やはり裸足でした。

 こうしてみると、作業員それぞれの仕事内容とその表情、身体が描き分けられており、当時の造船所の光景が端的に捉えられていることがわかります。

 それでは、これらの作業を取り巻く背景はどう描かれているのか、画面の上部と下部を取り上げ、見てみることにしましょう。

■背景はどう描かれたのか

 作業員の背景を見ると、建造中の船が3艘、それぞれの周囲を取り囲み、無数の木材で足場が組まれています。そして、その合間に巨大な作業用クレーンが空を覆うように置かれており、どれほど大きな作業現場なのかが示されています。

 

 興味深いことに、日本画家でありながら川端龍子氏は、船も木材もクレーンも消失点を意識し、透視図法を使って描いています。そのせいか、巨大で、雑多な作業現場を描きながらも、安定した構図の画面になっています。

 そして、なにより、この作業所の広さ、奥行きが構造的にしっかりと表現されているのが印象的でした。その背後に見えるやや曇りがちな空には、作者の心情が込められているのでしょうか。

 それでは次に、画面の下部を見ていくことにしましょう。

 

 カーブした鉄板の下には大きな木の支えが何本か用意されています。支え木の下には一列に穴の開いた鉄板が置かれ、その下もまた木で支えられているのが見えます。鉄に穴を上げる作業、鉄を溶接する作業、すべてが巨大な支え木の上で行われているのです。

 この角度から見ると、改めて、作業員たちがすべて裸足で、その足が黒く汚れていること、ズボンの境目、手袋の内側からわずかに白い肌がみえる以外、茶褐色の鉄板よりもさらに黒ずんだ肌をしていることなどがよくわかります。川端龍子氏はさり気なく、作業員たちが身体を酷使して作業を行っていることを示そうとしているのでしょうか。

 この部分からは、作業内容や作業道具、作業を行う際の作業員の姿勢が着実に伝わってきます。色彩表現の確かさが事物を立体的にリアリティのある対象として浮かび上がらせているからでしょう。同系統の色彩を使いながらも、微妙な差異を利用して明暗を表現し、立体感を生み出しながら、労働内容の可視化を実現させているのです。

 驚きました。

 日本画の画材を使いながら、作業現場をここまで丁寧に、実在感のある表現方法で描き、リアリティのある画面に仕上げているとは・・・。この作品は、まさに事実を伝えようとするジャーナリズム精神の賜物といえるでしょう。

■洋画の技法、日本画の技法を使った写実性

 私がなぜ、この作品を展示作品の中でもっともジャーナリスティックだと思ったかといえば、上記で述べてきたように、きわめて写実的に描かれているからでした。

 ジャーナリズムに必要なのは事実に即して情報を伝達することですが、それにはまず対象を写実的に表現しなければなりません。この作品の場合、透視図法、明暗法など洋画の技法を使い、きわめて写実的にモチーフを描き、画面を立体的、構造的に構成していました。

 その一方で、画面全体から柔らかさと温かみが感じられるのは、筆触の痕跡を残した日本画の技法によるのではないかと思います。

 たとえば、作業員の背中や肩、腕などの一部は墨で一振り、黒い線が引かれています。この稜線によって、なんともいえない身体の柔らかさと硬さとが表現されており、洋画にはない味わいが醸し出されています。

 よく見ると、墨による稜線はズボンの襞や木材にも使われており、画面全体を柔らかく、優しい雰囲気に仕上げています。

 私がこの作品をジャーナリスティックだと思った理由はもう一つあります。

■5WIHが描き込まれた画面

 ジャーナリズムで重要なのは、いわゆる5W1Hを踏まえた情報の様式です。事実を伝える際の不可欠の要素として、いつ(when)、誰が(who)、どこで(where)、何を(what)、なぜ(why)、どのように(how)行ったのか、という側面を押さえておく必要があるのです。

 私がこの作品をもっともジャーナリスティックだと思ったのは、画面の中に、いつ、誰が、どこで、何を、どのように行ったのか、という情報の伝達に必要な5W1Hが盛り込まれていたからでした。

 2.26事件の起こった1936年に制作された(when )この作品には、3人の作業員(who)が、造船所(where)で、造船のために(why)、鉄板を(what)、溶接したり、ドリルで穴を開けたりして加工(how)している姿が描かれています。このこと自体に、ミクロ的なジャーナリズム精神が発揮されています。いわゆるベタ記事ともいうべき情報の捉え方であり、伝え方です。

 ところが、その背後に建造中の巨大な3艘の船が描かれており、当時の造船業を巡る社会的情勢が可視化されています。ここにマクロ的なジャーナリズム精神が発揮されていると考えられます。つまり、ベタ記事の背後にある社会情勢、時代の趨勢といったものまで捉えられているのではないかという気がするのです。

■時代を知るがゆえに時代を超えることが出来る

 改めて、この展覧会のチラシを見てみました。すると、次のような興味深い文章を見つけました。

 「川端龍子は「大衆と芸術接触」を掲げて、戦中、戦後の激動の時代、大衆の心理によりそうように大画面の作品を発表し続けました。そして、「時代を知るがゆえに時代を超えることが出来る」という考えから、これまで日本画で描かれてこなかった時事的な題材を積極的に作品化しました。それらの作品には、龍子が画家となる前に新聞社に勤めていたことから、時代に対するジャーナリスティックなまなざしが強く表されています」(展覧会チラシより)

 こうしてみると、川端龍子氏はより多くの人々に芸術を知ってもらいたくて大画面の作品を制作し続けていたことがわかりました。さらに、「時代を知るがゆえに時代を超えることが出来る」という考えの下、ジャーナリスティックな画題に挑んでいたこともわかりました。川端龍子氏は、展示されていた諸作品のようにスケールの大きな、興味深い画家でした。

 《海洋を制するもの》を描いた時点で、川端龍子氏には日本がこのまま戦争に突き進んでいることが目に見えていたのでしょう。造船所を取材し、時代がどう動いていくのかを明確に把握したからこそ、青いつなぎの服を着た作業員の顔をあのような表情に描いたのかもしれません。

 あれは、憤怒の表情にも見えますし、真剣に作業に取り組む熱意の表れともとれる表情でした。

 ひたすら働き続けるしかない末端の作業員にしてみれば、たとえ戦争に突入することがわかったとしても、不可抗力のままその波に飲み込まれていかざるをえません。時代の流れに掉さすことはできないのだとすれば、憤怒の表情しか浮かばないでしょう。

 作業員ができることといえば、持ち場で真剣に仕事に打ち込むしかないのです。時代の波に飲み込まれながらも、やがて、時代が変われば、真剣に仕事に打ち込んだことこそが時代を超える礎になるというメッセージを、川端龍子氏は作業員のあの表情に託していたのかもしれません。

 川端龍子氏の作品は今回はじめて見たのですが、スケールが大きい割には威圧感がなく、どの作品も素直に画面を鑑賞することができました。どれも調和のとれた柔らかみのある色彩で表現されていたせいかもしれません。あるいは、モチーフを捉える視点に温かさが感じられたからかもしれません。

 見たこともないようなスケールに圧倒されてしまいましたが、諸作品からは、川端龍子氏の画家として、人としての度量の大きさを感じ取ることができました。(2021/2/28 香取淳子)

模写作品から見る留学時代の小堀四郎氏

■上杜会メンバーの留学

 逸材揃いと評された上杜会メンバーの中で、最も早く留学したのが、岡田謙三氏と高野三三男氏でした。彼らは東京美術学校を中退して、フランスに渡りました。それに刺激を受けた荻須高徳氏と山口長男氏は卒業後、上杜会第1回展を終えた後、早々にフランスに旅立っていきました。

 その荻須たちを横浜港で見送った小堀四郎氏、そして、神戸港で見送った小磯良平氏もまた、フランス留学を目指しました。こうして次々とメンバーがフランスに向かった結果、1929年には上杜会巴里支部を結成できるほどになっていました。同年12月8日には東京美術学校の和田季雄氏を招き、上杜会巴里支部会を開催しています。

 その和田季雄氏の著作を引用して、山田美佐子・荻須記念美術館館長は、上杜会メンバーのパリでの活躍ぶりを次のように記しています。

 「和田によると、1929(昭和4)年にサロン・ドートンヌに入選した美校出身者は、知っている限りで9名、そのうち3名が小磯、中西、荻須だという。荻須は1928年の初入選に続き2回目の入選であった」(※図録『わが青春の上杜会』p.50、2020年10月)

 渡仏して間もない小磯良平氏、中西利雄氏、荻須高徳氏が、サロン・ドートンヌに入選するという快挙を果たしていたのです。

 当時、彼ら以外に、高野三三男氏、荻野暎彦氏、山口長男氏、小堀四郎氏、藤岡一氏、竹中郁氏などが渡仏し、油彩画を極めようとしていました。そして、イギリスに留学した橋口康雄氏は、次第に版画への関心を強め、エッチングやリトグラフ、木版画を学ぶようになったそうです。

 「わが青春の上杜会」展の会場(Ⅰ-1)のコーナーでは、そのような上杜会メンバーの留学時代の作品が種々、展示されていました。どの画面からもいかにも留学生らしい、未熟ながらも、意気揚々とした勢いが感じられます。若いエネルギーが滲み出た諸作品でした。

 そんな中で、場違いな印象の残る作品が一つ、展示されていました。

■展示品の中でただ一つの模写作品

 視界に入った途端、意表を突かれる思いがしたのは、周囲の作品と比べてひときわ大きく、写実的に描かれた裸婦像でした。画題といい、古典的な画法といい、そのコーナーでは明らかに異質でした。


(油彩、カンヴァス、140.0×141.5㎝、1930年、豊田市美術館)

 近づいて表示プレートを見ると、小堀四郎(1902-1998)氏の作品でした。タイトルは「レンブラント作《ベッサベ・オー・バン》の模写」と書かれています。

 このタイトルを見た途端、腑に落ちました。

 実は、この作品を見た瞬間、私はなんともいいようのない違和感を覚え、それはすぐには去らなかったのです。

 留学生が描いた作品には、どこかしら、新鮮な驚きと西洋文化に対峙しようとする気迫が感じられます。20世紀のパリの街角や女性、風景などを画題にしたものが多く、目にした光景をなんとか作品化しようとする努力の痕跡が画面の随所に見受けられました。

 ところが、小堀氏の作品の場合、完成度はとても高いのですが、画面からはその種の生々しさが感じられませんでした。それで私はいいようのない違和感を覚えてしまったのですが、タイトルを見て、その理由がわかりました。

 小堀氏が描いていたのは、17世紀の画家レンブラントの作品の模写だったのです。完成度が高いのは当然でした。しかも、画題は旧約聖書から想を得たものでしたから、画面から、日本の留学生ならではの生々しい心情が伝わってこないのも当然でした。

 会場をざっと見渡したところ、模写作品が展示されているのは、小堀氏だけでした。

 見ているうちに、私の関心は次第に画家としての小堀氏に映っていきました。まず、気になったのが、留学生時代の作品として、なぜ、小堀氏だけが模写作品の展示だったのか、さらには、なぜ、同時代ではなく、17世紀の画家レンブラントの模写作品だったのかということでした。

■なぜ、留学時代の代表作が模写作品なのか。

 小堀氏もまた、他の上杜会メンバーと同様、異国の地フランスから得た刺激を基に、スケッチあるいは水彩画、油彩画としてさまざまな作品を残していたはずです。それなのに、なぜ、オリジナル作品ではなく、レンブラントの模写作品が展示されていたのか、私には不思議でなりませんでした。

 何か手がかりはないかと思い、図録を開いてみると、小堀氏について、次のような説明がありました。

 「パリ留学の5年間で小堀が最も時間をかけて取り組んだのは、古典名画の模写だった。1年のうち光線の明るい約4カ月に限って模写を行い、ルーヴル美術館には入館証を1928年から4年間更新し通い続けた。ルーヴルの数多くある名作の中から彼自身が感銘を受けたレンブラントやコロー、ドーミエの作品4点に絞って模写に取りかかり、最大の作品が本作である」(※ 図録『わが青春の上杜会』p.159、2020年10月)

 留学した小堀氏が最大の精力を傾けて取り組んだのが、ルーヴル美術館で展示されている古典名画の模写であり、そのうちの大作が、「レンブラント作《ベッサベ・オー・バン》の模写」だったというのです。だとすれば、これを代表作として挙げるのは当然といえるでしょう。

 さらに、図録の説明から、次のようなことがわかりました。

 「2年越しで8カ月かけたその完成度の高さに、顔見知りになった守衛には「まさか本物をもちだすんじゃあるまいね」と冗談めかして言われたという」(※ 前掲)

 小堀氏にとって、どれほど嬉しい誉め言葉だったでしょうか。この一件で、完成度の高い作品だったことが傍証されたといえます。小堀氏の地道な努力に比例して、この模写は完成度の高い作品に仕上がっていたのです。

 また、次のような説明もありました。

 「模写には技術の習得だけではなく、当時は日本人のほとんどが欧州の名画を観ることがかなわないことから、本物の素晴らしさをあまさず持ち帰るという目的も兼ねていた」(※ 前掲)

 小堀氏には、古典名画を模写することによって、西洋画の技術を習得するだけではなく、それを日本に持ち帰って、西洋画の素晴らしさを多くの人に味わってもらいたいという思いがあったようです。

 この時代に長期間、留学する機会を得た者ならではの使命感からなのでしょうか。西洋画を志しながらも留学できなかった人々への思いに、小堀氏の人となりの一端をうかがい知ることができます。

 小堀氏がこの作品の模写に心血注いだこと、完成度が高く仕上がったこと、小堀氏の留学目的にも適っていたこと、等々がわかってきました。これでようやく、この作品が小堀氏の留学時代の代表作とみなされた理由を理解することができました。

 さて、小堀氏は東京美術学校を卒業した翌年の1928年に渡欧し、1933年に帰国しています。帰国後早々、恩師藤島武二氏の奨めで、東京上野の松坂屋と名古屋の松坂屋での滞欧作品展を開催しました。展示作品183点の内のひとつがこの作品でした。

 当時、小堀氏の模写作品を見た熊岡美彦氏は、「コンクリートの基礎を置いて悠々と大作業の準備をして居る様な安固さが見えてたのもしい研究のあとである。古典を深く味わい、相当の渋さを出している」(※「小堀四郎滞欧作品感想」、『美術9-1』1934年1月号):図録『小堀四郎展』p.28より)と感想を述べています。

 原寸大で西欧の古典名画を模写することによって小堀氏が得た、作品の構造的把握や制作過程での堅牢さなどを、熊岡氏は評価しているのです。この時期、日本人留学生が油彩画を体得するには、現地で古典名画を模写することが有効な方法だったのかもしれません。

 それでは、「レンブラント作《ベッサベ・オー・バン》の模写」について見ていくことにしましょう。

■《ベッサべ・オー・バン》とは?

 小堀四郎氏の作品タイトル「ベッサベ・オー・バン」という日本語表記から、原題はフランス語の「Bethsabée au bain」(浴室のバトシェバ)なのでしょう。

 調べてみると、この作品のタイトルは、「Bathsheba at her bath」あるいは、「Bathsheba with King David’s letter」と英語表記されていることが多いのですが、小堀氏が模写したルーヴル美術館では、「Bethsabée au bain」とフランス語表記になっていたのだと思います。

 もちろん、タイトルが「Bathsheba at her bath」であれ、「Bathsheba with King David’s letter」であれ、描かれている内容に変わりはありません。この作品の画題は旧約聖書の有名な一節から引いたもので、『ダビデ王とバトシェバ』(Roberta K. Dorr著、有馬七郎訳、国書刊行会、1993年4月)として書籍化されています。この本の副題を見ると、なんと「歴史を変えた愛」でした。

 実は、浴室のバトシェバについては何人もの画家が取り上げ、さまざまに描いてきました。

こちら → https://en.wikipedia.org/wiki/Bathsheba_at_Her_Bath_(Rembrandt)

 旧約聖書のこの逸話は画題として訴求力があり、レンブラント以前にもいくつも作品化されていたのです。ルネサンス期の画家が好んで描いた画題でした。

 数ある作品の中で、レンブラントの「Bathsheba at her bath」は秀逸だと評されることが多かったようです。


(油彩、カンヴァス、142×142㎝、1654年、ルーヴル美術館)

 それは、レンブラントがこれまでの作品には見られない、豊かな色彩表現と力強い筆さばきによって、エロティックな情感を描いていたからだといわれています。イギリス人美術史家のケネス・クラーク(1903-1983)など、この作品はレンブラントのヌード作品の中でも特筆に値する秀作だといっているぐらいです。

 小堀氏が模写したのは、定評のあるレンブラントの古典名画だったのです。

 調べていると、レンブラントはこれ以外にも、「浴室のバトシェバ」という作品を描いていることがわかりました。1643年に制作された作品で、タイトルは「The toilet of Basheba」です。


(油彩、木板、57.2×76.2㎝、メトロポリタン美術館)

 この作品のバトシェバはリラックスした表情で、侍女の一人に足を洗ってもらい、もう一人の侍女に髪を梳いてもらっています。片手で白い布を抑えて身体を支え、もう一つの手で片方の乳房を抑えています。その表情は明るく輝き、嬉しそうにすら見えます。

 この画面にダヴィデ王からの手紙はなく、バトシェバの表情に不安のかけらもありません。これはおそらく、ダヴィデ王がはじめて見かけたときのバトシェバの姿なのでしょう。視線をまっすぐ観客に向け、微笑んでいる姿はまるで誘いかけているようにも見えます。

 このとき、バトシェバはウリアという兵士の妻でした。バトシェバに横恋慕したダヴィデ王はウリアを危険な戦地に送って戦死させたうえで、バトシェバを妻にしてしまいました。やがて、二人の間に息子が生まれますが、あまりにも非道なふるまいに怒った神はダヴィデ王のところに預言者ナタンを遣わします。ナタンは富者と貧者の譬え話をし、ダヴィデ王に自分が犯した罪を諭します。

 オランダの画家アールト・デ・ヘルダーが、そのシーンを描いています。

(油彩、カンヴァス、99.0×125.5㎝、1683年 東京富士美術館)

 「ダヴィデ王を諫めるナタン」というタイトルです。

 杖を手にしているのが預言者ナタンで、質素な身なりながらも威厳に満ちた表情でなにやら語り掛けています。一方、王冠を戴いたダヴィデ王は手に王笏を持ち、豪華な衣装に身を包んでいますが、その表情には不安と困惑が読み取れます。

 ダヴィデ王の威厳を象徴するように、王冠や王笏、衣装の豪華さが丁寧に描き込まれています。それに反し、ナタンの帽子や服装は見るからに質素です。両者の衣装の対比に、表情の対比を絡ませ、権力よりも道徳の方が尊いというメッセージを的確に表現しています。

 レンブラントが「Bathsheba at her bath」を描いたのが1654年、その11年前に「浴室のバトシェバ」が描かれています。ですから、小堀氏が模写した作品は、浴室のバトシェバを見染めたダヴィデ王が手紙を差し出すというアクションを起こしたときのものとなります。そして、それから29年後にレンブラントの最後の弟子によって描かれたのが、「ダヴィデ王を諫めるナタン」でした。

 一連の作品は旧約聖書の逸話を画題にして展開されていたのです。

 「ダヴィデ王を諫めるナタン」を描いたアールト・デ・ヘルダー(1645-1727)は、レンブラント(1606-1669)の最後の弟子のうちの一人でした。レンブラントに忠実で、18世紀に至るまでレンブラントのスタイルを継承したただ一人のオランダ人画家だとされています。

 小堀氏が真剣に模写したこのレンブラントの作品は、西洋文化に深く根付いた物語を画題に制作されていただけではなく、技術的にも西欧で高く評価されていたのです。

 それでは、小堀氏の模写作品とレンブラントの原作とを比較してみることにしましょう。

■《ベッサベ・オー・バン》の模写作品と原作

 この作品はすでにご紹介しましたが、原作と比較するため、再掲してみました。


(油彩、カンヴァス、142.0×141.5㎝、1930年、豊田市美術館)

 改めて見ると、この模写作品は全般に色調が暗く、メインモチーフのバトシェバの裸身以外はまるで存在していないかのようです。よく見ると、足元でかしづき、爪先を手入れしている侍女が描かれているのですが、その姿が判然としません。あまりにも暗い色調で描かれているので識別できないのです。

 それでは、どれほど暗く描かれているのか、比較のために、レンブラントの原作も再掲しておきましょう。


(油彩、カンヴァス、142×142㎝、1654年、ルーヴル美術館所蔵)

 原題は“Bathsheba at Her Bath”(浴室のバトシェバ)です。浴室のバトシェバを垣間見たダヴィデ王がその美しい姿に魅了され、横恋慕した結果、大きな罪を犯してしまうことになる重要なシーンです。

 バトシェバは手紙を持ち、途方に暮れ、うなだれたように横顔を見せています。その表情は、ダヴィデ王からの求愛の手紙に戸惑っているようにも見えます。乳白色の裸身は輝くように美しく、足の爪先を洗う侍女の首筋にはわずかに光が射しこんでします。

 全般に暗い背景の中で、侍女の顔立ちや手はくっきりと分かるように描かれており、ひそやかながら存在感を示しています。

 画面は、夫を犠牲にして権力の座につくことになる重要なシーンです。

 それだけに、微妙な情感のニュアンスを伝える表現が必要になりますが、レンブラントは、物思いに沈むバトシェバの頬にほんのりと紅色を射すことによって、うっとりとした表情に見えるようにしています。

 ダヴィデ王からの求愛に戸惑う反面、喜ぶ心情をも示しているのです。バトシェバのアンビバレントな感情が見事に表現できているといえるでしょう。

 画面の上半分は暗い色調で覆われ、バトシェバの乳白色の肌の美しさが強調されています。その一方、目立たないながらも、跪く侍女の横顔を暗い中でもわかるように描くことによって、コントラストを明瞭にしています。おかげで、バトシェバの美しさが権力を引き寄せていることを暗示することができています。

 画面の色構成、モチーフの構図によって、その背後にある物語を想起させ、それに説得力を持たせているのです。

 原作の大きさは142×142㎝で、小堀氏の模写作品は142.0×141.5㎝ですから、ほとんど差がありません。原寸通りに描かれていることがわかります。

 原作と模写作品を見比べてみると、ルーヴル美術館の守衛が言った通り、本物と見まがうほど、形状は酷似して描かれています。筆致も遜色ありません。ただ、小堀氏の模写は全体に暗褐色の色調で描かれているので、バトシェバの肌の美しさが表現しきれていませんでした。また、暗すぎて侍女の姿が目立たず、この画面の中で、権力を引き寄せる美の力を暗示しきれていないように思えました。

 それでは、小堀氏の模写作品に見られた暗い色調は、いったい何に由来するのでしょうか。

 「小堀四郎展」(2002年)の図録を開き、留学時代の作品を見てみました。風景作品にそのような傾向は見られませんでしたし、人物画もとくにそのような印象は受けませんでした。

 図録にはドーミエの模写作品が2点掲載されていました。この時期の小堀氏のオリジナルの作品と見比べてみると、レンブラントよりも、どちらかといえば、ドーミエの影響が強いような気がしました。やや荒削りな筆触にドーミエの模写の痕跡が示されているように思ったのです。

 ドーミエの模写作品を見てみることにしましょう。

■ドーミエ作「クリスパンとスカパン」の模写と原作

 ルーヴル美術館に展示されていた作品の中で、小堀氏が感銘を受けたといわれるのが、レンブラント、コロー、ドーミエでした。そのドーミエに、モリエールの喜劇「スカパンの悪だくみ」から着想して描いた作品があります。


(油彩、カンヴァス、60.5×84㎝、1864年頃、オルセー美術館)

 「クリスパンとスカパン」というタイトルの作品です。小堀氏が模写した当時、この作品はルーヴル美術館に展示されていました。画面中央に、二人の男が顔を寄せ合い、悪だくみの相談をしているシーンが描かれています。腕組みをして耳を貸す男のいかにもずる賢そうな表情が印象的です。

 これを模写した小堀氏の作品があります。


(油彩、カンヴァス、60.3×82.2㎝、1932年、豊田市美術館)

 原作とほぼ同じ大きさのカンヴァスに描かれています。できるだけ原作に忠実に制作しようとしていたのでしょう。ところが、この二つの作品を見比べると、一目瞭然でわかるのが、色調の違いです。

 小堀氏の模写作品は全体に暗い色調で描かれています。そんな色調の中、腕組みをした男の顔の額や白目の部分、頬の一部、顎、そして、耳打ちしている男の手と袖口など、部分的にハイライトが置かれています。

 その結果、観客の視線は半ば必然的に、腕組みをした男の表情に印象づけられます。強引といっていいほどの視線誘導によって、密談の光景に強くスポットライトを当て、この絵の物語性を高めているように見えます。

 なんといっても背景とのコントラストが強く、ハイライトの置き方が劇的です。それだけに、観客の視線は腕組みをしている男に奪われてしまい、耳打ちをしている男の存在感が希薄になっています。

 一方、原作の方は比較的明るい色調で描かれており、明暗が生み出すドラマティックな物語性に力点は置かれていないように思えます。むしろ、腕組みをする男の顔の表情と耳打ちをする男の横顔と手の所作を丁寧に描くことによって、男二人の密談の様子をくっきりと浮かび上がらせています。

 腕組みをした男の眼付、耳打ちをする男の小指を立てた手などの細部が丁寧に描かれています。そのせいか、男たちが悪だくみする様子が強調して表現されており、その光景がコミカルに伝わってきます。ハイライトを使ったドラマティック構成に依存することなく、顔面の表情や手の所作から庶民の生きざまを巧みに表現しているのです。

 こうして原作と比較してみると、あらためて、なぜ、小堀氏の模写作品は画面が暗いのか、気になってきました。

■ドーミエ作《洗濯女》の模写と原作

 そこで、もう一つのドーミエの模写作品「洗濯女」を図録で見てみました。


(油彩、カンヴァス、51.3×35.2㎝、1929年、豊田市美術館)

 こちらも画面が暗褐色で、目を凝らさなければ、人物を識別しにくい状況です。子どもの手を引く女性が描かれており、観客の感情を刺激するシーンであるにもかかわらず、暗いので、それが伝わりにくいのです。

 一方、原作は背景が明るいせいか、女性と子供が階段を上ってくる様子がはっきりとわかります。この作品も小堀氏が模写した当時はルーヴル美術館に展示されていました。

(油彩、カンヴァス、49×33.5㎝、1863年 オルセー美術館)

 女性は子どもの手を引き、袋からはみ出しそうになっているほど大量の洗濯物を抱えています。その姿からは疲労と日々の苦労を感じ取ることができます。

 この作品の画題自体は訴求力が強いはずです。ところが、全体の色調が暗いので、十分に観客を引き付けることができていないように思えました。原作に比べ、模写作品が粗削りな表現に見えてしまうのもおそらく、この色調のせいでしょう。

■小堀氏の模写作品を覆う暗褐色の色調

 ドーミエのこの二作品はいずれもドラマティックな訴求力を持ちうる画題でした。奸計であれ、悲哀であれ、生きている過程で庶民ならいつかは出会う場面が取り上げられ、作品化されていました。

 それだけに微妙な感情のニュアンスが画面上で表現されていなければなりません。それには、観客がモチーフをある程度、識別できるよう、要点を押さえたきめ細かな表現が必要になります。ドーミエの模写作品を図録で見ているうちに、暗い色調の下ではそれは難しいのだという気がしてきました。

 ところが、どういうわけか、図録で見ることができたドーミエの模写作品はどれも同じ傾向の暗い色調で覆われていました。そして、先ほども言いましたが、レンブラントの模写作品にもこれと同じ傾向が見受けられました。

 レンブラントの原作と小堀氏の模写作品を見比べてみると、本物かと見まがうほどによく似ています。時間をかけただけあって、形状も構図もタッチも何もかも丁寧に模写されていました。

 ところが、小堀氏の方はバトシェバの肌色がやや褐色気味に描かれているせいか、頬のほんのりとした赤味を識別できず、バトシェバの戸惑いながらも喜ぶといったアンビバレントな心情が伝わってきませんでした。

 そして、何より、肌が全般に暗褐色気味に描かれているので、乳白色の肌ならではの官能性が弱められているように思えました。また、全般に暗い色調のせいか、侍女の表情や手がわかりにくく、背後の布の描き方なども少し雑に見えました。

 ルーヴル美術館に通いつめ、刻苦精励、模写に励んだ小堀氏です。敢えて暗褐色の色調にしたというよりは、何らかの外部要因が影響した可能性が考えられます。ひょっとしたら、小堀氏が模写していた当時、ルーヴル美術館では描写に必要な光量が不足していたのかもしれません。

 何かヒントはないかと思い、改めて図録を見ると、小堀氏は模写に際し、「1年のうち光線の明るい約4カ月に限って模写を行い」(※ 図録『わが青春の上杜会』p.159、2020年10月)と書かれていました。

 上記の記述から、当時、館内で模写するには明らかに光量不足だったことがわかります。小堀氏自身、光量の少なさが作品に及ぼす悪影響を警戒し、模写する時期を制限していたのです。ですから、模写作品すべてに共通する暗褐色の色調はひとえに、小堀氏が模写した当時のルーヴル美術館の光量不足のせいだと思いました。

■小堀氏の人となりと古典名画の模写

 それにしても小堀氏はなぜ古典名画の模写から西洋画の画法を学ぼうとしたのでしょうか。

 図録をめくっていると、興味深い記述を目にしました。

 「できる限り忠実に模写をした。なかでも《イタリアの女》は先生がご覧になっても出来が良かったらしく、「模写は勉強になるでしょう。形や色だけでなく、雰囲気が出せたらもっと良くなる」とほめて下さった。また、「模写した絵には必ずキャンパル裏に、誰々の模写と銘記するように」と教えてくださった。出典を明らかにする、作者のオリジナルを大切にすることは、絵画のみならず、私たちの医学、生物学の研究分野でも共通した大事なことである」(高山昭三「小堀四郎先生と私」『小堀四郎展』2002年、p.126)

 元国立がんセンター研究所長の高山昭三氏は、小堀四郎氏から油彩画の手ほどきを受けていました。デッサンを習得し、油彩画に進んだ段階で、小堀氏の作品の模写をしていた時期があったそうです。上記の引用は、その際のエピソードですが、模写は勉強になるという考えは変わっていなかったようです。

 高山氏はさらに、小堀氏の恩師藤島武二氏への思いを次のように記していました。

 「先生は藤島武二先生を心から敬愛され、「「芸術は人なり、人間が出来なければ、芸術は生まれない」という教えを忠実に守り、毎日を精進された。更に、「般若心経を読め、碧巌録を読め」と薦めてくださった」(前掲)

 小堀四郎氏は東京美術学校では藤島武二教室の所属でした。人生のさまざまな局面で藤島武二氏に助言を求め、その教えを守っています。たとえば、1935年帝国美術院改組に伴い画壇に混乱が生じた際、「君が真に芸術の道を志すなら、でき得ればどこにも関係するな」といわれ、小堀は以後、官展を離れ、画壇を離れ、新作発表の場を上杜会展だけに絞っていったようです。

 律義な性格はすでにフランス留学時にも見られました。

「ツゥールの朝」(油彩、カンヴァス、50.0×60.8㎝、1928年)というタイトルの作品に添えられた文章です。そこに、当時の小堀氏の心境が次のように書かれていました(※ 図録『小堀四郎展』、p.23、2002年)。

 「僕は、極端な程、人に迷惑をかける事が嫌ひな性であるので到着怱々、言葉が自由でない僕が、先輩や友人達の貴重な勉強時間を妨げることを恐れて巴里に着くや、ルーブル美術館だけ案内して貰ったのみで親切な荻須君とも別れツゥールと云ふ田舎へ先づ語学を勉強するために約半年も引込んでしまったのであった」(※ 小堀四郎「荻須君と僕」『中央美術』40、1936年12月号)

 小堀氏はパリに着くと、ルーヴル美術館の場所だけ教えてもらうと、早々に、パリから列車で1時間ほど離れたツゥールに引き込み、約半年間、フランス語を学んでいたといいます。同朋に迷惑をかけないようにするためでした。

 ツゥールは訛りのない綺麗なフランス語を話す土地として知られていたようですし、歴史的建造物もあったようですから、別段、悪い選択だとはいえません。ただ、このエピソードからは、小堀四郎氏の人となりがひしひしと伝わってきます。

 フランス語に自信がなく、他人に迷惑をかけたくないという気持ちが強いからこそ、古典名画の模写を通して西洋画の骨法を学ぼうとしたのかもしれません。他人に迷惑をかけたくないという気持ちは、独立自尊の精神の現れともいえますが、その一方で、小堀氏の絵画修行に、折々に影響を及ぼしていたのです。

 「わが青春の上杜会」展で、小堀氏の作品はここで取り上げたレンブラントの模写以外に、「冬の花束」(油彩、カンヴァス、60.8×50.2㎝、1946年)と「滝・動中静(命の振源)」(油彩、カンヴァス、194.0×112.2㎝、1991年)でした。

 律義な人となりの小堀氏が世俗を離れ、地道に制作活動をつづけた結果、後年になるにつれ、精神性の高い作品を発表するようになっています。世間に媚びず、自然と人を見つめ、生きてきたことの成果といえるでしょう。「芸術は人なり」という言葉が深く身に沁みます。(2021/1/31 香取淳子)

「わが青春の上杜会」展:藤島武二氏、岡田三郎助氏、和田英作氏の裸婦像をめぐって

■秀才揃いの「上杜会」のメンバー

 2020年10月3日から12月13日まで、神戸市立小磯記念美術館で、「わが青春の上杜会」展が開催されました。見応えのある作品ばかりではなく、同窓の画家たちの人生を垣間見ることができ、とても印象深い展覧会でした。

 今回は、趣向を変えて、上杜会メンバーの指導教官の作品を見ていくことにしましょう。

 その前にまず、「上杜会」とは何かということを説明しておく必要があるでしょう。実は、この展覧会のチラシを手にしたとき、「上杜会(じょうとかい)」という見慣れない言葉に戸惑いました。一瞬、「上社会」と書かれているのかと思い、見直しましたが、やはり、「上杜会」でした。漢字の横に小さく、「じょうとかい」と振り仮名が振られています。

 チラシを裏返してみてようやく、その意味を理解することができました。「上杜会」とは、「上野にある東京美術学校(現東京芸術大学)の西洋画科を1927年に卒業した人々全員(中途退学者を含む44人)が、結成した美術団体」だったのです。

 さて、上杜会が結成されたのは1926年2月、卒業の一年前でした。同年12月25日には、大正天皇が47歳の若さで崩御され、昭和天皇が即位されました。急遽、大正から昭和へと元号が変わりました。そして、わずか一週間で1927年1月1日となり、早くも、昭和2年を迎えました。ですから、3月に卒業した彼らは、まさに昭和の幕開けとともに、画家人生のスタートを切ったことになります。

 ところが、1927年9月、彼らは第一回上杜会展を開催しています。卒業早々に展覧会を開催できるだけの力量があったことがわかります。上杜会のメンバーは、美校始まって以来の秀才揃いだといわれていたそうですが、このことからも、なるほどと合点がいきます。

 実際、在学中に帝展(帝国美術院美術展覧会)に入選する者が何人かいましたし、退学して欧州に留学した者もいれば、前衛的な芸術活動に参加し、そこで頭角を現す者もいました。上杜会のメンバーには、創作意欲にあふれた優秀な人材が揃っていたのです。

 その後、「上杜会」という場を得たメンバーたちは、切磋琢磨し合いながら、個性を育み、能力を磨き上げてきたのでしょう。会場を一覧すると、同窓でありながら、画風は似通っておらず、時間が経過するにつて、その個性に輝きが増してきているように見えました。

 ふと気になったのが、彼らは東京美術学校でどのような指導を受けてきたのかということでした。興味深いことに、会場にはまるでその疑問に答えるかのように、序―1のコーナーで、藤島武二、和田英作、岡田三郎助、小林萬吾、長原長太郎の作品が展示されていました。いずれも上杜会メンバー在籍時の教授陣です。

 彼らが入学した当初、西洋画科を創設した黒田清輝氏もおられたようですが、1924年に逝去されており、実際はこの5人が分担して学生の指導に当たっていました。

■西洋画科の教官

 豊田市美術館学芸員の成瀬美幸氏によると、当時の西洋画科は次のようなカリキュラムで指導が行われていました(図録『わが青春の上杜会』、p.8)。

 一年次に長原長太郎に石膏デッサン、二年次に小林萬吾に人体デッサンを学び、三年次に藤島武二、岡田三郎助、和田英作、いずれかの教室を選択するシステムになっていました。今風にいえば、3年次から始まるゼミの担当者が藤島、岡田、和田の三氏だったのです。

 成瀬氏は、「教授たちは、明治期から写実的外光描写を長年追求してきた日本美術界の改革者であり、1920年代にはおおむね50代を迎えていた」と記しています。中には、教授たちの画風に馴染めない学生がいたかもしれません。

 そもそもゼミ担当の三教官をはじめ、デッサン担当の長原長太郎氏、小林萬吾氏など、当時の西洋画科の教官全員が創立時からの白馬会会員でした。

白馬会は、明治美術会を脱会した黒田清輝氏、久米桂一郎氏、山本芳翠氏らが中心となって1896年に設立された美術団体です。旧派ないし脂派 (やには) と呼ばれた明治美術会に対し、白馬会は明るい画風を特徴としており、新派または紫派とも呼ばれていました。黒田氏を中心としたこの白馬会は、明治の洋画界の主流として、その後の発展に大きく寄与してきたのです。

 一方、明治美術会は白馬会設立後、急速にその勢力が衰え、1901年には解散しています。そもそもは西洋画科を設置しなかった東京美術学校に対抗して設立された美術団体でしたから、1896年に東京美術学校に西洋画科が創設され、黒田氏が指導者として迎え入れられると、もはや存続する意義はなくなってしまったのでしょう。

 1896年に設立された白馬会は1911年には解散しており、上杜会のメンバーが入学した頃は存在していませんでした。ところが、教授陣は全員、創立時からの会員だったのです。創設以来、西洋画科を指導したのが黒田氏ですから、当然といえば当然のことなのですが、西洋画科の教育方針全般に黒田氏の影響が及んでいるのは明らかでした。

 そもそも、西洋画科の教官はそれぞれ、どのような経緯で採用されたのでしょうか。上記5人のうち、3年次以降の指導を担当した藤島武二氏、岡田三郎助氏、和田英作氏の就任経緯を見ていくことにしましょう。

■藤島武二氏、岡田三郎助氏、和田英作氏の就任経緯

 三者は同校に西洋画科が新設されると、黒田清輝から推薦されて、教官に就任していました。なぜなのでしょうか。その経緯についてざっと調べてみました。

 たとえば、藤島武二氏の場合、黒田氏の推薦を得て、1896年、東京美術学校の助教授に就任しています。

こちら → https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8660.html

 岡田三郎助氏も同様、黒田氏に推薦されて、1896年に東京美術学校西洋画科の助教授に就任しました。ところが、翌年、文部省派遣留学生として渡仏し、1902年に帰国しています。しかも、在仏中は、黒田清輝氏が師事したラファエロ・コランの指導を受けていました。

こちら → https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8504.html

 和田英作氏の場合、曾山幸彦氏や原田直次郎氏に学んだ後、天真道場で黒田清輝氏や久保桂一郎氏から、西洋画の指導を受けていました。そして1896年、藤島や岡田と同様、黒田氏に推薦され、東京美術学校の助教授に任命されましたが、早々に教官を辞め、学生として西洋画科に入学し直しています。和田氏自身、助教授として西洋画を教えるにはまだ力量不足だと判断したのでしょう。

 翌年7月に卒業すると、改めて、西洋画科の助手に採用されました。それでもまだ研鑽を積む必要があったのでしょう、今度は1899年、文部省派遣留学生となって渡仏し、やはり、ラファエル・コランに師事しています。そして、1902年に帰国すると、東京美術学校の教授に任命されました。

こちら → https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8932.html

 このように、三者はいずれも、黒田清輝氏から推薦され、新設された西洋画科の教官として着任していました。そのうち岡田氏と和田氏は、就任後早々に、相次いで渡仏し、黒田氏が師事したラファエル・コラン氏から薫陶を受けていたのです。

 教官採用の経緯といい、教育内容の方向性といい、黒田清輝氏の意向で西洋画科の教育指導体制が基礎づけられていったことがわかります。黒田氏は、ラファエロ・コランの下で学んだアカデミズムを楚とし、西洋画の教育指導体制を構築しようとしていたのです。

こちら → https://www.tobunken.go.jp/kuroda/gallery/japanese/kuroda.html

 黒田氏は留学して学んだフランス・アカデミズムの方針に基づき、日本の西洋画教育の体制を整備していきました。

 採用して間もない岡田氏や和田氏を、ラファエロ・コラン氏の下で学ばせ、指導力の強化を図るとともに、相互交流を深めました。多くの若い才能を育てる一方、日本の洋画界を牽引していきました。

 黒田氏は、洋画界が辛酸をなめていた時期に、東京美術学校西洋画科の指導者として登場し、瞬く間に西洋画教育の基礎を築き、その後の洋画勃興の気運を作りました。黒田氏の行政手腕とその力量には感嘆せざるをえません。

 そもそも1887年に東京美術学校が開設された当初、西洋画科は設置されていませんでした。それがなぜ、1896年に西洋画科が新設されることになったのか。なぜ、黒田清輝氏がその陣頭指揮を執るようになったのか。その経緯をざっと振り返っておくことにしましょう。

■黒田清輝氏らの帰国と明治美術会

 1893年7月、黒田清輝氏と久米桂一郎氏はほぼ10年ぶりにフランスから帰国しました。近代化を推進しようとする社会的気運の高まる中、東京美術学校には依然として西洋画科はなく、日本画中心の教育体制のままでした。

 帰国した黒田氏らは、山本芳翠氏から譲り受けた画塾を天真道場と改称し、フランス留学で得た技術や知識、画法などを指導していました。

 興味深いのは、その教育指針に、「稽古は塑像臨写活人臨写に限る事」という規定を設けたことでした。

 つまり、描画教育の基礎として、塑像(石膏像)や活人(裸体)をモチーフに素描することを課していたのです。さらに、素描に使う画材も木炭を使用させ、細部の丁寧さよりも全体的な効果を重視する指導方針を取っていました(※ 田中淳、「黒田清輝の生涯と芸術」)。

 素描のモチーフといい、画材といい、黒田氏は、フランスで学んだアカデミズムの思想に基づいて指導に当たっていたのです。

 その一方で、帰国後早々、当時、唯一の洋画の美術団体であった明治美術会にも所属しています。明治美術会から期待されていたこともありますが、黒田氏自身も所属する必要性を感じていたのかもしれません。

 以後、黒田氏は滞欧時に描いた作品を次々に発表していきます。

■黒田清輝氏の「朝妝」

 たとえば、1894年、明治美術会第六回展に、黒田氏は「朝妝(ちょうしょう)」を出品しています。帰国する前に描かれた作品で、鏡の前に立つ裸婦像です。この時、明治美術会の画家たちに衝撃を与えましたが、別段、騒がれることもありませんでした。


(太平洋戦争時に、焼失)

 裸体のまま鏡の前に立ち、身支度する女性が描かれています。鏡を配することによって、後ろ姿と前姿の両方を示される構図になっています。画面中央左寄りに、後ろ姿の女性の裸身が見えます。腰をややひねってポーズを取る立ち姿が圧巻です。うっすらと赤味を帯びた白い肌が情感豊かに描かれています。

 一方、鏡には女性の前姿が映し出されています。陰になっているせいか、やや暗い色合いで描き分けられており、朝の光を意識した筆触が印象的です。

 翌1895年4月、京都で開催された第4回内国勧業博覧会に、黒田氏は再び、この「朝妝」を出品し、妙技二等賞を受賞しました。優れた技だと評価されたのです。

 実際、この作品は1893年、Société nationale des beaux-arts(国民美術協会)主催のサロンで、日本人ではじめて入選した作品でもありました。黒田氏にとっては、渡仏してラファエロ・コランに師事し、10年に及ぶ学習成果の一つといえるものだったのです。

■明治美術会からの脱会と白馬会の創設

 ところが、この作品をめぐって騒動が起きたのです。一般大衆が作品を鑑賞する博覧会に、裸体画を展示するとは何事かというジャーナリズムからの批判でした。当時の新聞各紙が一斉に、この作品は風俗を乱すものだと非難したのです。これが黒田氏の作品への印象を方向づけたといっても過言ではないでしょう。

 1895年10月、明治美術会の第7回展が開催され、黒田氏は滞欧時に制作した作品21点を出品しました。久米桂一郎氏や天真道場で学ぶ画家たちもそれぞれ渾身作を出品しました。一覧しただけで、誰もが、明治美術会に所属するこれまでの西洋画家の作品とは大幅に異なることがわかるものでした。

 新聞各紙はこぞってその違いを新旧洋画家の違いだと書きたてました。ジャーナリズムが、黒田氏らを新派、明治美術会の画家たちを旧派だとレッテル張りをしたのです(※ 田中淳、前掲)。

 一旦、このようなレッテル張りをされたら最後、その後の洋画作品はどれも、そのフレームワークで見られるようになりがちです。その結果、フレームワークによる差異が強調され、

 案の定、このときの各紙の報道が洋画界の対立構造を顕在化しました。これを契機に1896年6月、黒田氏と久米氏らは明治美術会を脱会し、有志と白馬会を結成することになったのです。

 黒田清輝氏らが率いる白馬会は、若手画家たちの共感を集め、明治後半の洋画界の主流となっていきました。

■西洋画科の創設

 白馬会が結成されたのが1896年6月でした。東京美術学校に西洋画科と図案科が新設されたのはその3か月後の9月ました。創設の経緯はおおよそ次のようなものでした。

 当時の校長、岡倉天心氏は美校の教育環境を整備するため、帝国議会に「美術学校拡張法案」を提出しました。それが修正されて可決されたのが、1895年3月でした。その修正案は、「今後、日本美術と西洋美術をともに奨励するという方針のもとに美校を拡張する」という内容で、天心の意図とは異なるものでした(*吉田千鶴子「東京芸術大学」、2013年10月)。

 法案が可決されると、当時の文相・西園寺公望氏は直ちに、黒田清輝氏と久米桂一郎氏を指導者に選び、西洋画科の教育を任せました。中心になって指導に当たったのが黒田清輝氏でした。教育の骨子を練り上げ、教官を採用し、カリキュラムを制定していきました。1896年は、明治後半の洋画界を牽引する人物として黒田氏が抜擢され、活躍を開始した年だったのです。

 先ほどもいいましたように、黒田らフランス留学経験者は、既存の洋画家たちの団体である明治美術会(脂派)とは馴染みませんでした。だからこそ明治美術会を離れ、白馬会を結成したのです。そのような経緯を思い起こせば、西洋画科の教官として、白馬会創立メンバーから選んだのはしごく当然のことでした。

 上杜会のメンバーが東京美術学校に在籍していた時、教官は皆、白馬会の創設メンバーでした。しかも、全員が黒田清輝氏の推薦で採用されていました。そのカリキュラムもまた、黒田氏がラファエロ・コランから学んだアカデミズムに則ったものでした。こうして官立の西洋画教育が整備され、明治後半の西洋画界を牽引していくことになるのです。

 それでは、ふたたび展示会場に戻り、上杜会のメンバー在籍時の教授陣の作品を振り返ってみることにしましょう。

■藤島武二氏、岡田三郎助氏、和田英作氏の裸婦像

 「序―1」のコーナーでは、教官5人の作品7点が展示されていました。どういうわけか、藤島武二氏が3点、それ以外が各一点という具合です。興味深いことに、7点のうち2作品が裸婦像でした。藤島武二氏と岡田三郎助氏の作品です。

 見ているうちに、ふと、大正時代になると、もはや裸婦を画題にしても騒がれなくなったのかと不思議に思いました。藤島氏の作品は制作年不詳ですが、岡田氏の作品は1926年の制作です。

 1895年には黒田氏の作品「朝妝」は裸体画だと非難され、大きな騒動になりました。その後、白馬会第二回展に出品された黒田清輝氏の作品「智・感・情」(1897年)もまた、裸婦像を描いたとして物議をかもしました。当時は、風紀を乱すという観点から芸術作品が批判されていたのです。

 あの大騒動から30年以上も経つと、人々は裸婦像を見ても気にならなくなったのでしょうか、それとも、見慣れて問題にしなくなったのでしょうか。

 とりあえず、藤島武二氏の「裸婦」(制作年不詳)、岡田三郎助氏の「裸婦」(1926年)を見ていくことにしましょう。

■藤島武二氏の「裸婦」(制作年不詳)

 当時の教官5名の作品が展示されていたコーナーで、藤島氏だけが3作品、展示されていました。「帽子の婦人像」(1908年)、「鉸剪眉(こうせんび)」(1927年)、そして、「裸婦」(制作年不詳)です。

 以前、藤島武二展に出かけたことがあります。そのときに展示されていた諸作品を思い起こすと、「帽子の婦人像」や「鉸剪眉」はいかにも藤島武二氏らしい画風の作品だといえます。

 ところが、「裸婦」は、藤島氏がこんな作品も描いていたのかと意外に思ってしまうほど、典型的な画風ではありませんでした。


(油彩、カンヴァス、63.0×51.0㎝、佐賀県立美術館)

 裸婦像とはいいながら、この作品の場合、まず、油彩ならではの荒削りな筆触に目がいってしまいます。パレットナイフで厚く絵具を置き、その上から荒く削り、さらに色を載せては下色を残しながら、削っていく・・・、そのような作業の繰り返しが、作品に独特の風合いを添えています。

 どことなく、青木繁氏の画風に似たものを感じさせられます。

 頬や脇、乳房、腰から腿にかけて、サーモンピンクが大胆に散らされています。そのせいか、ラフなタッチの中に柔らかで艶やかな肌、コケティッシュな女性の情感を感じさせられます。写実的に描かれるよりもはるかに深く、この女性の内面が表現されているといえるでしょう。

 画面の女性は正面から堂々と、裸身を見せています。やや首をかしげ、恥じることなく、腰をひねった姿勢がなんとも印象的です。全身から、やるせなさ、けだるさ、倦怠感といったようなものがにじみ出ています。当時の日本人女性には稀な興趣が感じられます。

 だからといって、西洋人女性とも思えません。この女性の肩幅は狭く、腰回りもそれほど大きくありません。西洋人女性らしい雰囲気を漂わせているのに、身体つきはそうではないのです。おそらく、西洋文化に馴染んだ日本人女性なのでしょう。

 西洋の雰囲気をまとった日本人女性の裸身が、独特の筆触と豊かな色彩で表現されているところに、この作品の妙味があります。

 一方、岡田三郎助氏の作品は、日本人女性らしい身体特性を備えた裸婦像でした。

■岡田三郎助氏の「裸婦」(1926年)

 藤島氏と同じコーナーに、岡田三郎助氏の「裸婦」が展示されていました。きめ細かなタッチで描かれた裸婦像です。柔らかく、しっとりとした肌にはいかにも日本的な風情が感じられます。


(デトランプ、カンヴァス、53.0×33.0㎝、1926年、ひろしま美術館)

 この作品は、カンヴァスにデトランプで描かれたようです。「デトランプ」という聞きなれない言葉が書かれていたので、調べてみました。すると、これは岩絵の具をポリビニール溶液に混ぜた画材で、比較的早く乾く性質があることがわかりました。

 さて、この作品では、裸婦といいながら、女性の後ろ姿が描かれています。丸味を帯びた肩、平たい臀部からは明らかに日本人女性だということがわかります。凹凸に欠けた裸身で、しかも後ろ姿ですから、どちらかといえば、印象に残りにくい作品です。ただ、この作品を見たとき、私はきめ細かな肌の美しさに強く引き付けられました。

 岡田氏はおそらく、日本人女性特有のきめ細かな肌をどのように表現するか、思案し、工夫を重ねたのでしょう。その結果、しつこさを払拭しきれない油彩ではなく、デトランプを使ったのではないかという気がします。色彩の混合を工夫するだけではなく、材質、技法などを変えて、裸婦像の表現に挑んだのです。

 ただ、残念ながら、この作品には観客の心を射抜く突き抜けたものが感じられませんでした。おそらく、岡田氏自身、そう感じていたのではないかと思います。というのも、この作品を発表した翌年、「あやめの衣」(1927年)を制作しているのです。


(油彩・厚紙、カンヴァス、1927年、ポーラ美術館)

 こちらは裸身ではなく、肩肌を脱いだ女性の後ろ姿ですが、先ほどの裸身よりもはるかに妖艶で、惹きつけられます。

 油彩画は通常、麻布のカンヴァスの上に油絵具を載せます。ところが、この作品の場合、岡田氏はカンヴァスの上にクラフト紙を置いて、その上に油絵具を載せているのです。そうすることによって、クラフト紙が油を吸収し、油絵具独特の光沢がなくなり、落ち着いた色合いになります。

 この技法を、岡田氏はフランス留学中に知ったといいます。

 日本人女性の肌、着物の質感などをリアルに表現するには油絵具は強すぎて、柔らかなニュアンスを表現するのが難しいのですが、このようにクラフト紙を介在させることによって、その難点を低減させることができます。

 興味深いことに、岡田氏は「裸婦」ではデトランプを使い、「あやめの衣」ではクラフト紙を使って油彩特有のテカリを抑えています。ひょっとしたら、岡田氏は油彩で日本人女性を表現することになにがしかの抵抗感をおぼえていたのではないかという気がします。

 ちょっと調べてみました。

 岡田氏は1897年から1902年にかけてフランスに留学し、ラファエロ・コラン氏に師事していました。コラン氏からは、ホルバイン、レンブラント、ボッチチェリなどの絵を模写するよう指導されていたといいます。

 ルーブル美術館に通って毎日、模写に励みながら、岡田氏は次第に、諸作品に反映された西洋文化の厚みに圧倒されてしまったそうです。模写しながら、日本人である自分はどのような絵を描いていこうかと悩んだといいます。ようやく辿り着いた先が、西洋と日本とが融合した絵でした。

 帰国後、洋画の技法を使って、着物姿の女性を描いていきました。「あやめの衣」は西洋文化と日本文化の融合した作品だといえるでしょう。岡田氏の傑作です。

■和田英作氏の「こだま」(1903年)

 「わが青春の上杜会」展に展示されていたのは、藤島氏と岡田氏の裸婦像でした。和田氏にも裸婦像はないかと調べてみたところ、実は、和田英作氏も裸婦像を描いていることがわかりました。

 和田氏は1900年にフランスに文部省留学生として渡仏し、アカデミイ・コラロッシに在籍してラファエル・コラン氏の指導を受けました。その留学中に制作した裸婦像が、「こだま」と題された作品です。


(油彩、カンヴァス、126.5×92.0㎝、泉屋博古館)

 薄暗い森の中で、大きく目を見開き、両手を両耳に当てた姿がなによりも印象的な作品です。人気のない森の中で、何かが木霊しているのでしょうか。描かれた女性の顔面からは、どことなく不安感がにじみ出ています。

 片腕にまとった薄衣は下半身を覆っていますが、上半身は裸身です。通常なら、観客の視線は身体に引き寄せられるのでしょうが、この作品の場合、両手と顔面に向けられてしまいます。なんといっても、この顔面と耳に手を当てた所作とが気になります。

 見ているうちに、ふと、ムンクの「叫び」を連想してしまいました。


(油彩、カンヴァス、91×73.5㎝、オスロ国立美術館)

 描かれた人物が男性なのか、女性なのか、若いのか老いているのか、基本的な属性すらわかりません。何かに怯えているかのように、耳を両手で塞ぎ、大きく口を開けています。髪の毛がないせいか、不安、恐怖、怯えといった情動がことさらに強調されています。

■「こだま」と「叫び」

「こだま」と「叫び」を見比べてみました。目を大きく見開き、両手を耳に当てているところが共通していますが、ムンクの作品の場合、不安感ばかりか恐怖心までも強く伝わってきます。遠景の赤い空、中景から近景にかけて流れるように落ちてくる黒い濁流のようなものが、手前の人物の恐怖心や不安感を強調しているからでしょう。独特の筆触と色彩とで創り上げられた心象風景です。

 一方、和田氏の作品の場合、両手は耳を塞いでいるのではなく、耳の後ろに当てて、何かを聞き取ろうとしているように見えます。作品タイトルから推察すれば、木々の間で微かに「こだま」する音を聞き取ろうとしているのでしょうか。この作品から不安感は感じられますが、恐怖心は感じられません。

 さて、「こだま」で描かれている裸婦は、顔貌といい、身体つきといい、明らかに西洋人女性です。留学中に描かれた作品なので、当然のことですが、その背景と裸婦の表情とに整合性がみられず、違和感が残ります。

 薄暗い森の中で、半裸で佇む女性を描いても、なんら不思議はありませんが、なぜ、両手を両耳に当てているのか、なぜ、大きく目を開き、口を半開きにしているのか、モチーフの表情と所作が意表を突くものであっただけに、気になりました。しっくりこないのです。

 これが抽象的な描き方なら、別段、不思議に思うこともなかったのでしょうが、リアリズムの手法で描かれていたせいか、違和感を覚えました。

 とくに両手を両耳に当てるという所作が強烈で、ムンクの作品を連想せずにはいられません。二番煎じのそしりを免れないという気がするのです。

 ちなみに、「叫び」が発表されたのが1893年、ムンクの日記によると、自身が感じた幻想を踏まえて描かれた作品だといわれています。

 一方、和田氏が渡仏したのは1900年3月で、以後、1903年7月に帰国するまで、アカデミックな洋画技法を学び、創作活動も展開していました。当然のことながら、1893年に制作されたムンクの「叫び」は知っていたでしょう。

 和田氏がこの作品に接したとき、大きく心を動かされたのではないでしょうか。当時、ラファエル・コランから学んでいたのはアカデミックな画法でした。それだけに、内面を重視したムンクの表現主義的な技法に惹かれるものがあったのではないかという気がします。

 1903年に帰国すると、和田氏は第5回内国勧業博覧会に「こだま」を出品し、2等賞を受賞しています。その後、1927年に開催された明治大正名作展では、「こだま」が展示されました。当時の日本社会では、一風変わったこの裸婦像が評価されていたことになります。

■裸体画は西洋画の基本

 岡田三郎助氏、和田英作氏は共にフランスに留学し、ラファエロ・コラン氏に師事しました。一方、藤島武二氏は、彼らよりも遅く、1904年に文部省の命を受け、渡欧しています。パリでは私塾に通った後、エコール・ボザールで学び、歴史画や肖像画で名を馳せたフェルナン・コルモンから薫陶を受けました。

 1907年12月にフランスでの滞在を終えた藤島氏は、次にコルモンの紹介で肖像画を得意としていたカロリュス・デュランに師事し、1910年1月に帰国しました。ローマに滞在することによって、ルネサンス期の美術に触れることができ、古代ローマの遺跡を訪ねることもできました。ラファエロ・コラン氏に師事した岡田氏や和田氏とはまた違った美術体験をしていたのです。

 ちなみに、フェルナン・コルモン氏は「海を見る少女」(油彩、カンヴァス、123.0 ×155.0㎝、1882年)という裸婦像を残していますし、カロリュス・デュラン氏も「アンドロメダ」(油彩、カンヴァス、210.0×95.0㎝、1887年頃)というタイトルの裸婦像を描いています。いずれもリアリズムの手法で描かれており、大作です。

 両氏に師事した藤島氏も留学中に、何点か裸体画を描いています。素描であったり、習作だったりするのですが、女性に限らず、男性も、さまざまなポーズで描かれており、西洋画では、裸体を描くことが人物画を習得するうえでの基本だったことがわかります。

 東京美術学校の西洋画科を主導した黒田清輝氏は裸婦像を発表するたび、一大騒動を巻き起こしました。それでも敢えて発表し続けたのは、裸体を描くことが西洋画の基本だったからでした。

 興味深いことに、黒田氏の弟子筋に当たる藤島氏、岡田氏、和田氏の裸婦像については別段、問題視されてはいませんでした。時代が変化したからなのか、観客の意識が変化したからなのかはわかりません。いずれにしても、黒田清輝が巻き込まれた数々の騒動を思い起こせば、創作者は常に変革者であり、そして、世間から非難を浴びる存在なのだということを思い知らされます。(2020/12/27 香取淳子)

「わが青春の上杜会」にみる同窓の力

■「わが青春の上杜会」開催

 神戸市立小磯記念美術館で、いま、「わが青春の上杜会」展が開催されています。開催期間は2020年10月3日から12月13日までなので、関西に出かけたついでに立ち寄ってみました。

 阪神電車の魚崎駅で六甲ライナーに乗り換え、アイランド北口駅で下車すると、すぐでした。六甲アイランド公園を神戸市立小磯記念美術館に向かって歩いていると、「わが青春の上杜会」展のポスターが掲示されていました。

 

 下っていくと、右側に瀟洒な建物が現れてきました。これが小磯記念美術館です。

 この美術館は、神戸で生まれ、神戸で制作を続けた画家・小磯良平氏を記念し、神戸市が1992年に設立したものです。

 小磯氏は1988年12月に亡くなりましたが、その翌年、遺族から、油彩・素描・版画などの約2000点の作品とともに、アトリエや蔵書、諸資料が神戸市に寄贈されたといいます。神戸市はそれらの作品をただ保存するだけではなく、さらに作品の収集に努め、現在、約3200点もの作品を所蔵します。そのような経緯を知ると、この美術館が、「神戸市立小磯記念美術館」と命名された理由がわかります。

 美術館の中庭にはアトリエが移築されていますから、そこで、小磯氏の制作情景を偲ぶことができます。作品を鑑賞するだけではなく、作品を生み出した場所を見て、作品化の過程を追うことができるのです。芸術を鑑賞する醍醐味を徹底的に味わうことができるのです。

 美術館は年に数回、展覧会を開催して、作品の入れ替えを行っています。その上、小磯良平氏に関する特別展も開催しています。今回の展覧会「わが青春の上杜会」はその特別展の一環でした。

 それにしても、「上杜会」というのは、どういう意味なのでしょうか。最初、聞きなれない言葉に戸惑いました。サブタイトルが「昭和を生きて洋画家たち」となっていますから、昭和に活躍した洋画家たちの作品が展示されるのだろうということはわかりますが、それ以外は皆目わかりません。

 パンフレットを見ると、「上杜会(じょうとかい)は、東京美術学校始まって以来の“秀才揃い”と称された1927年卒業生が、若き情熱を持って結成した美術団体です」と書かれています。これで、「上杜会」が美術団体の名前だということがわかりました。

■上杜会とは

 その後の説明を読み、「上杜」が、東京美術学校(現在;東京芸術大学)のあった「上野の杜(森)」にちなんで名づけられたことがわかりました。つまり、東京美術大学西洋画科を1927年に卒業した人たちのグループ名だったのです。

 パンフレットには、「東京美術学校始まって以来の“秀才揃い”」と書かれています。どうやら、その秀才たちが互いに刺激し合い、しのぎを削り合って、力を向上させていったようです。

 神戸市立小磯記念美術館の高橋佳苗氏は、小磯良平氏の次のような言葉を紹介しています。

 「油絵(科)はよう勉強した。好きで好きでしょうない連中ばっかりや。自分の技術は生半可なくせして、理想が高いからお互いに容赦せん。なんちゅうたかて、友だちの影響は大きい」(図録『わが青春の上杜会』、p.24)

 小磯氏が懐古していたように、当時、西洋画科の学生たちは、とてもよく勉強したようです。絵が好きでしょうがないから、制作技法にしろ、題材にしろ、議論し合い、遮二無二勉強したのでしょう。

 小磯氏の言葉からは、秀でた能力を持つ若者たちが理想を高くかかげ、切磋琢磨し合いながら、創作に励んでいた様子がうかがえます。

 小磯氏が「友だちの影響は大きい」と指摘していたように、優秀な学生たちは容赦なく相手の作品を批判しました。批判された側は、それに発奮してさらに努力するといった具合で、制作のための好循環が生まれ、メンバーの能力が飛躍的に向上していったのでしょう。

 それを証左する事例があります。

 東京美術学校に1922年に入学した学生たちは、当時もっとも権威のあった「帝国美術院美術展覧会(帝展)」に、次々と出品していました。

 たとえば、小磯氏は、先に帝展に入選した同級生たちから刺激を受け、1925年の第6回帝展で初入選し、1926年の第7回帝展で特選を獲得しました。その小磯氏の刺激を受けて、第7回帝展に猪熊弦一郎氏、矢田清四郎は入選といった具合でした。

 このように華々しい活躍を展開する同級生たちは、互いのつながりこそが創作の源泉になることがわかっていたのでしょう、卒業の一年前に、美校中退者や留学生を含め44人の同級生によって「上杜会」が結成されました。

 青春の真っ只中で結成されたクリエイティブ集団でした。入学した1922年から卒業の1927年までの間、彼らは相互に刺激を受け合いながら学び、創作家としての孵化期間を過ごしていたのです。

■展覧会の構成

 展覧会は、「上杜会」の結成を序とし、その後のメンバーの活躍を、①昭和2年から昭和11年(1927-1936)、②昭和12年から昭和20年(1937-1945)、③昭和21年から平成6年(1946-1994)の三部構成で組み立てられていました。

 同窓で切磋琢磨し合った若者たちが、上杜会を結成しました。メンバーがその後、どのように才能に磨きをかけ、それぞれの人生を切り開いていったのか、折々にどのような作品を残していったのか等々、長いスパンで画家の人生と作品を把握できる構成になっていました。

 上杜会のメンバーが、どのような人生行路を歩んできたのか、大きな時代の節目で創作家としてどう対処し、どのような作風を築き上げていったのか、同窓という観点から構成されていたので、作品をさまざまな観点から、立体的に鑑賞することができ、とても興味深い企画でした。

 展示作品を一覧して、惹かれたのは、小磯良平氏、猪熊弦一郎氏、犬丸順衛氏、牛島憲之氏、高野三三男氏、岡田謙三氏、矢田清四郎氏などの作品でした。このうち、最も若くして亡くなったのが、犬丸順衛氏(1903-1939)で享年35歳でした。最も長寿だったのが、牛島憲之氏(1900-1997)で97歳です。

 同窓でありながら、寿命という点では60年以上の開きがあるのです。

 興味深いことに、美校在籍時は両者とも、岡田三郎助教室に所属していました。青春の一時期、共に濃密な時を過ごしたというのに、一方は早く世を去り、他方は東京芸術大学で後進を指導したばかりか、1983年には文化勲章まで受章しています。運命を感じずにはいられません。

 まず、この両者の作品から見ていくことにしましょう。

■犬丸順衛:「永眠―父市郎次」

 会場でこの作品を見たとき、とても印象深く、しばらく佇んで見ていました。死に顔が描かれているというのに、不思議なほど穏やかに、しかも、尊厳を持って描かれているように思えたからでした。

(油彩、カンヴァス、50.5×60.4㎝、1926年)

 目を閉じた顔になんら迷いはなく、苦しみも感じられず、ひたすら静謐感が漂っています。しかも、額と顔の右側が明るく描かれているせいか、光に包まれて、安らかに昇天している途中のようにも見えます。柔らかな光の下、威厳を失わず、ただ眠っているだけのように描かれているところに、父を慕い、敬う犬丸氏の気持ちが透けて見えます。

 父が旅立ったのは、犬丸順衛氏が23歳、美校の最終学年を迎える年でした。

 絵筆を走らせながらも、静かに永遠の別れを受け入れようとしていたのでしょう。この作品には、悲しみを乗り越えようとする犬丸氏の悟り、あるいは、達観といったようなものが感じられます。心の奥深く語りかけてくるような作品でした。

■牛島憲之:「炎昼」

 会場でこの作品を見たとき、対象の捉え方になんともいえない斬新さを感じました。

(油彩、カンヴァス、121.0×60.5㎝、1946年)

 モチーフすべての境界が曖昧で、朦朧としており、捉えどころがありません。画面いっぱいに描かれた蔓性の植物がいったいどこから生えてきて、どこまで伸びているのかもわかりません。ぶら下がった白い実も同様、まるで周囲の空気に溶け込んでいるかのようにぼんやりと描かれています。

 一方、後ろの方に見える電柱は淡い色彩で描かれていますが、境界がはっきりしているので、小さくても存在感があります。遠方の小さな電柱が、大きく描かれた蔓性の葉と実と拮抗するパワーを持っているのです。

 この作品では全般に、近景のモチーフは大きく描かれているのですが、境界が曖昧で、色彩のコントラストも低く、存在感は希薄です。遠景のモチーフも周囲との色彩のコントラストは決して高いとはいえません。

 ところが、境界がはっきりと描かれているので、視認性が高く、存在感があります。そのせいか、なんの変哲もないモチーフなのに、ストーリー性が感じられます。全体にぼんやりとした色調の中で、近景と遠景のモチーフの描き分けに妙味があります。

 これは1946年、牛島氏が46歳の時の作品です。色合いといい、構図といい、なんともいえない魅力があって、長く見続けていても飽きることがありませんでした。見たものをそのまま描くのではなく、いったん内省化し、改めて作者の観点から組み立て直して、表現しているところに創意が感じられるからでしょう。

 細い線を部分的に取り入れることによって、独特の雰囲気を醸し出している作品がありました。洗練された雰囲気に惹かれました。岡田謙三氏の作品です。

■岡田謙三:「窓辺(ノクターン)

 窓辺で女性が二人、座っています。左側の女性は目を閉じ、肩ひじを窓枠に乗せ、何かに聞き入っているようです。ノクターン(夜想曲)でも聞いているのでしょうか。右側の女性は今にも立ち上がって、踊りだしそうです。

(油彩、カンヴァス、193.8×145.5㎝、1948年)

 この作品を見て、まず気づくのは、随所に細い線を書き込み、モチーフに動きと表情を加えていることです。

 左側の女性の傾いた頭部、そして、右側の女性の片側のフェイスライン、細い線を描き込んだだけで、その場の状況や顔の表情、感情までも表現できています。衣服や身体についても同様、細い線を要所、要所に描き込むだけで、身体の動きや構造、衣服の質感を表現することができています。

 不透明な淡い色調の画面からは、二人の女性が窓辺で過ごす午後のけだるさが伝わってきます。都会的な物憂さと繊細さが表現されています。

 これは1948年、岡田謙三氏が46歳の時の作品です。

 岡田氏は東京美学校を中退し、パリで学んでいます。そう言われて見ると、画面の色調といい、モチーフといい、いかにもフランス的なシャレた感覚が画面全体に満ち溢れています。

 この岡田氏を誘って1924年、共に中退してパリに遊学したのが高野三三男氏でした。彼もまた日本人画家には見られない作風の作品を手掛けています。

■高野三三男:「人形を持ったパリジェンヌ」

 金髪の女性が目を閉じ、赤いマニキュアを塗った指で人形を軽くつかんでいる様子が描かれています。いかにもパリジェンヌといった感じの、優雅でオシャレな女性です。

(油彩、カンヴァス、65.5×4.5㎝、1924-50年)

 全体に淡い色調でまとめられている中で、女性の真っ赤な口紅、金髪の巻き毛がひときわ目立ちます。典型的な西洋の女性美が描かれているのです。1924年から40年にかけて制作されたことになっていますが、おそらく、パリに出かけたときに描き始め、完成させたのが、その十数年後ということになるのでしょう。

 なぜ、そう思うのかといえば、高野氏が1937年に制作した「ヴァイオリンのある静物」の中で描かれた女性が、この「人形を持ったパリジェンヌ」で描かれた女性とそっくりなのです。金髪巻き毛の様子、真っ赤な唇、長いまつげ、透明感のある肌といった要素が驚くほど似ています。ということからは、高野氏がパリジェンヌという女性像をこのころに完成させたことが示されています。

 この作品で描かれているのは、都会的で、ちょっと傲慢なところがある一方で、完璧な美しさを心掛けるという女性の類型です。「人形を持ったパリジェンヌ」は、画面全体が淡い色調で収められているせいか、都会的で、洗練された優雅さが感じられ、惹かれます。

 パリに長く滞在していなければ、決して、このような作品を描くことはできないでしょう。この作品から浮き立ってくるのが、典型的な西洋の女性美の一つでした。

 一方、昭和初期の日本の女性美を過不足なく描いたのが小磯良平氏でした。

■小磯良平:「T嬢の像」

 第7回帝展で小磯氏が特選を獲得したのが、「T嬢の像」でした。

(油彩、カンヴァス、116.8×91.0㎝、1926年)

 着物を着た女性が手を組み、椅子に座っています。視線は窓の外に向けられ、何かに思いを馳せているように見えます。肌の艶、手指の繊細な表現、着物の質感など、見事な表現力です。華奢な女性が醸し出す嫋やかな風情、憂いを含んだちょっと寂し気な表情などが丁寧に捉えられています。日本の女性美の典型の一つといえるでしょう。

 これは小磯氏が23歳の時の作品です。上杜会のメンバーで、最も早く帝展に入選したのは永田一脩と中西利雄でした。小磯氏は彼らの刺激を受けて発奮し、第6回帝展で入選しました。ですから、入選した翌年に特選を受賞したことになります。小磯氏は、藤島武二教室に所属していました。

 小磯氏が特選を受賞した1926年に帝展に初入選したのが、猪熊弦一郎氏の「婦人像」と矢田清四郎氏の「足拭く女」でした。藤島武二教室の猪熊弦一郎氏が24歳、岡田三郎助教室の矢田清四郎氏は26歳でした。上杜会のメンバーが次々と入選していたのです。

 それでは、両者の作品を見ていくことにしましょう。

■矢田清四郎:「足拭く女」

 珍しく、裸婦像です。一見、模写かと思いました。

(油彩、カンヴァス、116.7×90.9㎝、1926年)

 それほど当時の日本人女性には珍しく均整の取れた体つきでした。そのポーズも日本人らしくありません。

 左腕を椅子の縁に置いて身体を支え、右手で足裏を拭いています。日常生活で見かける光景ですが、そこに意図しない美しさがにじみ出ています。足裏を掴んだ腕と身体の側面が三角形を型作り、安定感と適度な揺らぎのある構図になっています。

 左上の壁には小さな鏡が掛けられており、女性の後頭部と肩の一部が映っています。こもモチーフを加えることによって、空間の広がりと奥行きを感じさせるだけではなく、メインモチーフを生活実態のある女性像に仕上げる効果を生んでいます。

 背後に鏡を設定することによって、うつむき加減の女性の表情が、ことさらに印象づけられるからでしょう。そして、想像力がかきたてられます。バランスの取れた構図で品よくまとまっており、ありふれたものの中に見出された美しさとでもいえるようなものが感じられました。

■猪熊弦一郎:「馬と裸婦」

 猪熊弦一郎も1926年、「婦人像」で帝展に入選しました。ところが、その作品は今回の展覧会で展示されていませんでした。ネットで見ると、どうやら裸婦像のようです。そこで、展示作品の中から猪熊氏の裸婦像を見てみることにしましょう。

(油彩、カンヴァス、182.3×291.5㎝、1936年)

 これは、猪熊氏が最初に帝展に入選してから、10年後の作品になります。ネットで見た「婦人像」とは肌の色合いもポーズも異なりますが、リアリズムではない点で、作品の雰囲気は似ています。

 猪熊氏は藤島武二教室に所属していましたが、入学して早々に、肋膜を患い、休学をしていました。1926年に第7回帝展に初入選を果たしますが、その後、再び病状が悪化し、1927年には中退しています。

 それでは、「馬と裸婦」を見てみましょう。

 立っている裸婦と横たわっている裸婦が二人、前景に描かれています。身体に明るいサーモンピックがあしらわれているせいか、若々しく見えます。その背後には、馬が2頭、こちらに顔を向けているものとお尻を見せているものが描かれています。いずれもデフォルメされており、猪熊氏独特のフィルターを通した造形になっています。

 この作品を見てまず、目につくのは、立っている裸婦です。大きな乳房の片方は垂れ下がり、脛よりも長い太腿は太く、がっしりとしています。体形からいえば、日本人女性に見えます。

 黒い髪のおかっぱ頭で、意思の強そうな顔つきです。両手を腰に添え、恥じることなく堂々と裸体を曝して遠方を見据える姿からは、新時代の女性像を象徴しているように見えます。

 先ほどもいいましたように、猪熊氏は藤島武二教室の所属していました。ところが、上記の猪熊氏の作品は藤島武二氏の画風とは大幅に異なります。なぜなのか、ふと、気になり出しました。

 図録を読んでいると、関連する記述がありました。豊田市美術館の成瀬美幸氏が資料に基づき、次のように書いていたのです。

「デッサンが悪い、デッサンが悪いと言ってすーっと帰られる。(中略)教えないけど教えるような教育、心の教育を、昔の教授はしっかりと持っていました」

(図録『わが青春の上杜会』、p.16)

 どうやら、藤島氏はほとんど指導しなかったようです。これを読むと、藤島氏はおそらく、具体的な制作指導をせず、デッサンや作品との向き合い方など制作にかかわる心構えのようなものだけを伝授していたのでしょう。

猪熊氏の場合、美術学校を中退していますし、この時点ではどこかに留学した様子もありません。おそらく、インパクトの強いこの画風は、猪熊氏が独自に開発したものなのでしょう。とても引き付けられます。

■同窓の力

 上杜会のメンバーは44名でしたが、ここでは、たまたま私が興味を覚えた7作品をご紹介しました。いずれも初期の作品を取り上げました。

 作品をご紹介していく中で気づいたことがいくつかあります。

 たとえば、上杜会の、家族のような支援機能です。

 最初にご紹介した犬丸順衛氏は、35歳で亡くなっていますが、結核性脊椎カリエスのため郷里に引きこもっていました。そのような順衛に対し、多くの上杜会のメンバーがハガキを随時、書き送っています。親族の犬丸哲朗氏によると、それに刺激され、順衛もいつかはパリに行こうとフランス語の勉強をしていたといいます。

 とくに猪熊弦一郎、小磯良平などは頻繁に順衛にハガキを出していました。病床に伏せながらも、どれだけ心慰められていたことでしょう。順衛は卒業後10年余、養生しながらも絵筆を握って風景などを描いていました。絶筆は水仙を描いた色紙だといいますが、上杜会のメンバーとつながっているという意識が大きな心の支えになっていたに違いありません。

 親族の犬丸哲朗氏は、「順衛は妻帯もせず早逝してしまったが、決して不幸ではなかったよと教えてあげたい」と書いています。(図録『わが青春の上杜会』p.64-66)

 また、上杜会は美術情報の共有、外国生活での便宜供与など、画家として活躍するうえでの支援装置としても機能していたようです。

 たとえば、病気がちだった猪熊弦一郎氏は美術学校を中退します。その後も制作活動を続けていましたが、支えになり、刺激になっていたのは上杜会のメンバーとの交流でした。念願かなって35歳のとき、渡仏し、パリにアトリエを構えることができました。そのときも、頼りになったのが、上杜会のメンバーでした。

 実際、留学経験のある小堀四郎氏は、猪熊氏がパリで学ぶことを知ると、現地での生活の方法、美術館情報など事細かに描いて猪熊氏に送っています。また、パリに着いてから、猪熊氏は、現地で生活していた萩須高徳氏、高野三三男氏などと親しく行き来し、生活の便宜を図ってもらい、美術情報等を得ています。

 おかげで猪熊氏は、憧れのパリで数多くの名画に学ぶことができ、貪欲に制作に励むことができました。そればかりか、戦争の気運が高まる中、藤田嗣治氏に誘われ、早々に疎開し、難を逃れることができました。上杜会のメンバーの伝手で藤田氏とも親交を結んでいたおかげでした。

 戦況が悪化し、疎開しなければならなくなると、メンバーは互いに便宜を図り合いました。そして戦後、様々な苦難を乗り越えてきた彼らに待ち受けていたのは、美術の潮流の大きな変化でした。

 こうしてみてくると、上杜会のメンバーは、卒業してもその繋がりのおかげで励まされ、苦難を乗り越えてこられたのだということを実感させられます。上杜会のメンバーは東京美術学校の中でもきわめて優秀な人材が集まったといわれていますが、ただ優秀なだけではなく、お互いに刺激し合い、繋がり合うことによって、上杜会は、画家としての彼らを支え、創作に励むことができる環境作りに寄与してきたのではないかと思いました。

 長いスパンで上杜会を見てくると、メンバーたちは試行錯誤して制作し、相互に作品をチェックし合って、技術力、創作力を高める場として機能していたことがわかります。そもそも芸術など創作に関わる領域では、基本的なこと以外、学校で指導するのは難しいでしょう。それだけに学生たちにとっては刺激し合える環境が大きな意味を持ったのだと思います。

 この展覧会に参加し、上杜会メンバーの個々の作品を鑑賞できただけではなく、創作環境に必要なものとしての繋がりの場の大切さを思い知らされました。興味深い視点からの企画でした。(2020/11/30 香取淳子)

再構築:大小島真木氏の作品について考える。

■本展示を見る

 練馬区立美術館で開催されていた「Re construction 再構築」は、2020年8月9日から本展示が始まり、9月27日に終了します。

 プレ展示で大木島真木氏の制作現場を見た私は、是非とも本展示に参加したいと思い、彼女のアーティストトークが行われる9月12日に訪れる予定にしていました。心待ちにしていたのですが、コロナ感染予防のためにトークは中止になってしまいました。それを知った途端に、熱意が薄れ、訪れたのは9月15日でした。

 大小島真木氏の作品は、展示室3で展示されていました。多種多様のマテリアル、夥しい量の作品がそれぞれ、情報を発信しており、どこから見ていいのかわからないほどでした。暗い展示空間の中で、圧倒されるような作品世界が広がっていたのです。

 写真撮影が許可されていたので、印象に残ったところを何点か撮影しました。まずは、それらの写真を手掛かりに、大小島真木氏の作品を見ていくことにしましょう。

■展示作品の概要

 入口から入ってすぐ正面に展示されていたのが、この作品です。ここで描かれている大きな木はプレ展示の際、見かけたものです。細部が丁寧に描き込まれており、圧倒されるような迫力があります。近づこうとして、思いもかけず、下の台座に人形が置かれていたのに気づき、驚いてしまいました。

 壁面の大きな木と、下に置かれた人形の両方がフレームに収まるよう、やや低い位置から撮影してみました。

やや低い位置から撮影したゴレム

 人形は木の方に下半身を向けて、横たわっています。上半身は裸で、その上に草花が置かれ、下半身からはいくつもの枝木が生えています。枝はそのまま上に伸びて、背後の大きな木につながるようレイアウトされていました。なんとも異様で、グロテスクでした。

 もっとも、やや引いて見てみると、背景に設置された巨木の絵と調和していないというわけでもありません。暗闇が全てを包み込み、異形のものも何もかも、違和感なく共存させていたのです。不思議な空間でした。

 横たえられた人形は「ゴレム」、その背景に掲げられた大木は「胎樹」と名付けられていました。おどろおどろしい幕開けでした。

 意表を突かれ、私はしばらくこの人形を見つめていました。ふと左手を見ると、壁面に多数の心臓の形をベースにした作品が展示されていました。


Entanglement hearts series

 展覧会のポスターに採用されていたのは、この「Entanglement hearts series」30作品の中の一つでした。私はその絵に引き付けられ、プレ展示を見に来たのでした。とても刺激的な作品でしたが、今回、まとめてこのシリーズ作品を見ました。改めて、一連の作品の素晴らしさに引き付けられました。どの作品もオリジナリティにあふれ、見る者を考えこませる深淵さが秘められていたのです。

 つい、見入ってしまいました。そこからやや右に視点をずらすと、奥の方のショーケースが見え、中に黒いワンピースのようなものが展示されていました。

身体構造図

 近づいて見ると、膝から上の胴体部分に骨と血管が描かれています。奇妙なオブジェでしたが、ヒトの身体を構造的にみようとすれば、必要になってくる造形物なのかもしれません。

 そのショーケースの隣側に黒幕があり、矢印が付けられていたので、中に入ってみました。すると、ボディが一つ置かれており、その上にプロジェクションマッピングされた映像が、目まぐるしいほどに変化しながら映し出されています。「ウェヌス」と名付けられた作品でした。


ウェヌス

 ここは完全に真っ暗な空間でした。映像だけが刻々と変化して、ボディに映し出されていきます。暗闇なので、視線はボディに固定せざるをえず、半ば強制的に映像をみることになるのですが、映像そのものの意味はわからず、色彩と形状、動きだけが印象に残っています。

 ふと、どこからともなく、音楽とも音響ともいえないサウンドが流れてくるのに気づきました。映像とは必ずしも連動しているとはいえませんでしたが、闇の中で聞いていると、奇妙な感覚に襲われそうになります。これまで経験したことのない、音と映像によって創り上げられた世界でした。

 大小島氏はここで何を表現しようとしていたのでしょうか。

 気になったので、会場で配布された資料を見てみました。すると、大小島氏は、「ウェヌスの身体を覆う皮膚をなしているのは、岩肌の不毛の惑星を海と土の生命の惑星へと変容させた海中プランクトンたちの映像であり、そこに空を超えて宇宙空間をさまようプラネットたちの映像が重ねられています」と書いていました。

 この説明に従えば、ボディに投影されていた映像は海中プランクトン、あるいは、プラネットということになるのでしょう。

 そういえば、この作品のタイトルは「ウェヌス」でした。

 大小島氏は、「ローマ神話において海の泡から生まれ大地の女神になったウェヌスは、言うなれば、海と土の交点に立つ存在です」と説明しています。この作品もまた、大小島氏の作品世界を支える重要な役割を担っているのでしょう。身体という生命システムを考えるには、なにはともあれ、「海と土の交点」は必要不可欠だからです。

 さて、以上が、展示室3に展示されていた大小島氏の展示作品の概要です。

 大小島氏は果たして、どのような思いを込めて、これらの作品を創ったのでしょうか。

■大小島氏の制作意図と課題作品

 会場で配られた資料の中で、大小島真木氏は次のように作品の意図を説明していました。

*******

 「身体」を一つの独立した存在としてではなく、複数のものたちがそこに棲まい、協働する「共生圏」としてイメージすること、

*******

 このような考えの下で制作されたのが、「ゴレム」(含む「胎樹」)と「ウェヌス」でした。「ゴレム」はヘブライ神話の中に登場する「土」から作られた生きた人形であり、「ウェヌス」はローマ神話に登場する海の泡から生まれた大地の女神です。

 ゴレムにしても、ウェヌスにしても、大小島氏にとっては、「身体」を独立した存在としてではなく、複数のものがそこに入り込んで生き、暮らしていく場として捉えるための装置といっていいでしょう。

 問題意識として興味深いのは、「身体」を「共栄圏」としてイメージするという発想です。つい、「個体は系統発生を踏襲する」という言葉を思い出してしまいましたが、大小島氏は、「共栄圏」という言葉を持ち出していますから、種を超えた混合がイメージされているのでしょう。

 壮大な問題意識を持つ大小島氏が、練馬区立美術館の所蔵作品の中から選んだのが、荒木十畝氏の掛け軸と、池上秀畝氏の屏風でした。

 入口近くに展示されていたのが、荒木十畝氏の作品で、1922年に制作された絹本着色の「閑庭早春」です。


閑庭早春

 会場中ほどのショーケースに展示されていたのが、池上秀畝氏の作品で、1921年に制作された絹本着色の二曲一双の「桜花雙鳩・秋草群鶉図」です。


桜花雙鳩・秋草群鶉図

 一方は掛け軸、他方は屏風として装丁されていますが、ほぼ同時期に制作された花鳥画です。いずれも100年前に制作された日本画です。

 これら二作品が何故、課題作品として選ばれたのか、私にはわかりませんでした。パッと見たところ、再構築された作品と選ばれた作品とはあまりにもかけ離れていました。これらの作品がどのような脈絡で大小島氏の作品につながるのか、私にはとうてい理解できなかったのです。

 大小島氏はこれらの作品をどのように再解釈し、「ゴレム」と「ウェヌス」に再構築していったのでしょうか。

 再び、大小島氏の「作品解説」を見てみましょう。

 大小島氏は「作品解説」の中で、「私たちの身体のイメージを、ゴレムとウェヌスと名付けた二つの身体によって再構築することで」、「自然にとりまかれて生きている私たちの生そのもののイメージを再構築してみたい」と説明しています。

 それでは、再構築された作品のうち、まずは「ゴレム」から見ていくことにしましょう。

■ゴレム

 黒い円形の台に横たえられている人形が「ゴレム」です。真上から撮影してみたのが下の写真です。

真上から見たゴレム

 「ゴレム」はヘブライ神話の中に登場する「土」から作られた人形です。大小島氏はこの人形から、「人間の原型」となるようなイメージを感じ取ったといいますから、作品全体の中できわめて重要な役割を担うモチーフだといえます。

 それにしても、なんと異様な姿なのでしょうか。展覧会場でなければ、おそらく正視することすらできなかったでしょう。

 目から草花が生え、口には草のようなものがくわえられています。頭部と上半身をつなぐ首は十数本の小枝で作られています。まさに人体を冒瀆しているといってもいいような表現です。肋骨に相当する部分にはその形状に沿って、木の葉が置かれ、その下のおへそが異様に大きいのが印象に残ります。両腕に相当する部分には、カラフルな鳥の羽のようなものが置かれています。

 この作品を見たとき、私はどういうわけか、フェリーニの映画を思い出してしまいました。

 たとえば、『サテリコン』です。この映画を見たときの、なんともいえないおぞましさが甦りました。この映画は、ローマ時代の貴族たちの享楽的で堕落した生活を描いた作品で、内容に共通するところはありませんが、どういうわけか、その絵柄、作品のトーン、さらにはヒトの捉え方に近いものを感じ、思い出してしまったのです。

次のような画像があります。

サテリコン

 猥雑で、グロテスクで、欲望をむき出しにした貴族たちの姿が捉えられています。過剰な欲望は往々にして、ヒトを冒瀆しがちです。

 そういえばた、『フェリーニの道化師』には次のような画像があります。

道化師

 これは、いたぶられ役として登場する道化師たちです。白塗りの顔の下に救いようのない悲哀が透けて見えます。ここでは、道化師に対する観客の態度に、ヒトのおぞましい欲望を見ることができます。内容が似ているわけではないのに、この作品にも、私はその絵柄やヒトの捉え方に、「ゴレム」に感じたものと似たものを感じました。

 フェリーニはこの作品で短いエピソードをつなぎながら、「笑い」を巡るヒトの本性をあぶりだしていきます。彼の作品は全般に、線的な構造をもたず、エピソードをランダムに積み上げ、作品を構築していくところに特徴があります。

 その結果、無駄なものが多いのですが、逆に、ヒトの真髄に迫ることができているのではないかと思っています。そのせいか、私は、「ゴレム」を見たとき、つい、フェリーニを思い出してしまったのです。

 大小島氏の場合、フェリーニのように、作品を線的な構造、面的な構造に封じ込めようとしないだけではありません。さらに一歩進め、時空が堆積した構造の中で、構想を作品化しようとしているようにみえました。その果敢な姿勢に圧倒されてしまいました。

 さて、私は大小島氏の「ゴレム」を見て、フェリーニに近いものを感じました。なぜ、そう感じたのでしょうか。それを仔細に見ていくことで、大小島氏の作品世界に一歩、近づけるかもしれません。

 それでは、「ゴレム」に戻ってみましょう。

 斜め上から撮影したのが下の写真です。

横たわったゴレム

 横たわったゴレムの周囲に、さまざまなものが配置されています。ここからはよく見えないのですが、ゴレムの骨盤の辺りに動物の頭骨が置かれています。そして、手前の半円の中には、貝殻、ヒトの頭部、縄文土器、ガラス玉などが置かれ、それらは黒の円台の所々に描かれた細かな文字によって、他のモチーフとつながっています。

 一見、雑多なモチーフを寄せ集めて造形されています。猥雑で、過剰な印象を受けるのはそのせいでしょう。しかも、メインの「ゴレム」の造形がグロテスクで、おぞましささえ感じさせられます。とはいえ、それもまた現実世界の一側面なのです。

 現実世界は、限りなく多様なものが何段階もの層をなして存在し、相互につながり合っています。円形の黒い台座の上で表現されていたのはその種の世界観でした。私はおそらく、そこにフェリーニに似たものを感じてしまったのでしょう。

 おぞましさといえば、もう一つ、ゴレムの下半身が何本もの木の枝と葉に置き換えられていることでした。しかもそれらは壁面に向けて高く伸びています。まるで枝木が背後の大木に接合されているようでした。

 正面から捉えた写真を見ると、ゴレムの下半身から伸びた木の枝は、その背後に設置された「胎樹」につながっていることがわかります。

正面全体

 これで、「ゴレム」と「胎樹」がつながっていることがわかります。おぞましさを感じてしまったのは、ヒトが植物に接合されて造形されていることに、ヒトへの冒瀆を感じたからでした。とはいえ、冷静に考えると、ヒトが死んで、土に戻ると、そこから木が生え、やがて大樹に成長していくのは自然の摂理でもあります。

 布に描かれた「胎樹」が弧を描くように湾曲して設置されています。ゴレムが横たわる円形の台座に合わせたのでしょうか。「ゴレム」と「胎樹」、両作品を支える支持体に曲線が組み込まれています。

 そのせいか、ここにレイアウトされたすべてのモチーフが柔らかく包み込まれているように見えます。

■胎樹

 それでは、「胎樹」を見ていくことにしましょう。

 正面に大きな木が描かれています。私が大小島氏の制作中に見たものです。その時はまだ、途中までしか描かれておらず、全体像が見えませんでした。それが展示作品では、木はさらに大きく枝を伸ばし、その周辺にさまざまなものが描き込まれています。一つの完結した世界が創り出されていたのです。

 たとえば、木の中心部分は、まるでヒトのように、心臓、肺、背骨で構成されています。その上にさまざまなモチーフが描かれており、それぞれが相互に深く絡まり合っています。

木の中心部分

 まず、目がいくのは、中心部分の肺、心臓、大動脈などです。そこだけ淡く着色され、一目でここが中心だとわかる仕掛けになっています。それ以外のモチーフは黒の濃淡で描かれており、まるで墨絵のようです。よく見ると、ウィルスのようなもの、胞子のようなもの、クラゲ、ヒトデ、海草など、木の上に存在するはずのないものが無数に描かれています。

 木の枝はヒトの血管のように幾重にも枝分かれし、四方八方に伸びています。そうかと思えば、線状に並べられた小さな文字が、まるで砂地に文様を描くように、縦横に何本も引かれています。おそらく、何らかのメッセージが綴られているのでしょう。

 これらを見ていると、細部に隈なく情報量が盛り込まれ、想像力が刺激されます。その量に圧倒されて、眩暈がするほどです。木の様相を見ていると、グロテスク、猥雑、過剰というキーワードが思い浮かんできます。

 やや視線をずらすと、何か奇妙なものが目に入ってきました。近づいてみると、なんと胎児が二人、羊水に浮かんでいました。淡く着色されています。

胎児

 双子なのでしょか、胎児が二人、羊水の中で身を丸めています。胎盤の外側にはヒトの臓器のようなものが描かれ、無数の血管が描かれています。そして、胎児のへその辺りから太い管が伸び、臓器の下に巻き付いています。きっとへその緒なのでしょう。そのへその緒の行先を辿ると、なんと樹木の維管束のようなものとつながっていました。

 通常、胎児は母親とへその緒を通して、栄養や酸素を補給され、二酸化炭素や老廃物を排出します。へその緒があるからこそ、胎児は胎盤の中で生きることができるのです。

 ところが、この絵には、胎盤と臓器、へその緒しか描かれていません。ヒトが描かれていないので仕方がないのでしょうが、これらの臓器はへその緒を通して樹木の維管束とつながっていたのです。木の生命システムに組み込まれることによって、この胎児たちは生き続けることが示されているといえます。

 ありえない設定ですが、絵の中ではごく自然に、まるで接ぎ木でもするかのような簡便さで、この奇妙な接合が成立していました。

 さらにもう一つ、胎盤の中の子どもが描かれた箇所がありました。

幼児

 こちらは胎児ではなく、幼児でした。髪の毛が生え、指を口にくわえています。目を閉じていますが、表情がしっかりとしており、明らかに意思を持って行動できる幼児に見えます。ところが、ここでも太いへその緒が描かれており、幼児がへその緒を通して白い維管束のようなものに接合されています。

 先ほどとは違って、胎盤の中は水色で描かれています。ちょっと離れてこの箇所を見ると、まるで、幼児は青空の下にいるように見えます。おそらく、この幼児は、いったんは外に出て、外気を吸ったことがあるのでしょう。ところが、どういうわけか、再び、胎盤の中に戻り、へその緒をつけたまま指をしゃぶっているのです。

 ここでも現実にはありえない設定で、モチーフが描かれていました。

 不思議なのは、この幼児が背後から白いもので包まれていることでした。しかも、その白いものは、幼児が入った胎盤そのものを支えているようにも見えます。さらに、胎盤の周辺を取り巻くように、白色と黒色が反転しながら、小さな文字が描かれています。

 ちょっと気になりました。大小島氏はこの箇所で、何を表現しようとしていたのでしょうか。わからないまま、しばらく日が過ぎました。

 9月24日、美術館のHPを見て、大小島氏のアーティストトークの映像が掲載されていることを知りました。

こちら → https://youtu.be/mL7k1kdaT3w

 この映像を見てようやく、理解することができました。

 大小島氏は、インドネシアのトラジャ部族には、まだ乳歯も生えていない子どもが死ぬと、木に穴を掘って、そこに遺体を入れる風習があるといっています。子どもはそのまま木とともに生き、木の寿命とともに亡くなっていくというのです。

 興味深く思って、調べてみると、確かに、インドネシアのトラジャ族には、そのような風習があることがわかりました。

*******

 かつてはトラジャ族の土地では、乳児は死んでも天国には行けず、また生まれ変わると信じられていました。そのため、亡くなった子供がいつもミルクを飲めようにと、白い樹液が多く出るこの木に葬られていたのです。この木の幹に空けられた乳児の墓は、現地では「リアン・ビア」と呼ばれています。

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(※ https://www.ab-road.net/asia/indonesia/tanatoraja/guide/sightseeing/09789.html

 こうしてみると、指をくわえた幼児を背後から包み込んでいた白いものは、白い樹液だったのかもしれません。ミルク代わりに白い樹液のでる木の維管束にへその緒を介してつながれ、この幼児は成長し、木の寿命が来るまで生きるのでしょう。この小さなモチーフの中に、ヒトの生と死が表現されていたのでした。

 さて、会場でこの木の枝を見ていて、ふと気になって撮影していたのが、木の幹や枝にさまざまなものが絡みついている箇所でした。

絡み合い

 まるで水墨画のように、黒の濃淡やかすれ、暈しを活かしながら、柔らかい筆触で描かれています。

 ちょっとわかりにくいかもしれませんが、これは、幹から枝が張り出し、その枝からさらに小さな枝がいくつも伸びている部分です。小さな枝は透明度が高く、淡い色調で描かれています。

 そのせいか、小枝がまるで海の中で揺らめく海草のようにも見えます。その周囲にはプランクトンのようなもの、稚魚のようなものが浮遊しており、そこだけ見ると、深い海の底だと錯覚してしまいそうです。ここでも、現実にはありえない光景が描かれています。

■大小島氏はどう再解釈したか

 大小島氏が練馬区立美術館の所蔵作品の中から選んだのが、荒木十畝氏の掛け軸と、池上秀畝氏の屏風でした。なぜ、彼らの花鳥図から触発されて、このような作品世界を創り出すことになるのか、私にはどうしてもわかりませんでした。

 ヒントを求め、再び、アーティストトークの映像を見ました。それでようやく、大小島氏がなぜ、荒木氏と池上氏の作品を選んだのかがわかりました。

 彼女は、荒木作品について、「視点が土と近い状態に置き、そこから捉えられている」とし、池上作品については、「鳥が飛ぶ瞬間を自分と同一化し、その瞬間を捉えている」と感じたといいます。

 つまり、いわゆる花鳥図とは違って、両者はモチーフだけを切り取ってみているわけではないと大小島氏は感じたのでしょう。ここに、花であれ、鳥であれ、生きているものはすべて、それだけで存在しているわけではないという認識が透けて見えます。

 だからこそ、「私が創り出した身体はいろんなキメラ像でできている」と大小島氏は説明しています。

 ちなみに、キメラ(chimera)とは生物学用語で、「個体の中に異なる遺伝子の細胞が共存する現象、またはその個体を指す」と定義づけられており、ギリシャ神話に登場する生物「キマイラ」に由来するといいます(※ Wikipedia)。

 トーク映像で彼女の説明を聞いた瞬間、どうしてもわからなかった私の疑問が一挙に解き明かされたような気がしました。

■静止画に持ち込まれた動きを生み出す視点

 なぜ、大小島氏は荒木作品、池上作品を課題作品として選んだのかといえば、それは、両作品には、一見、スタティックな花鳥図に見えながら、実は、花や鳥を捉える視点に動的な生命体を把握する観察力が含まれていたからでした。

 荒木氏は視点を下方に置き、土から見る構図で花を描いています。花だけを切り取って捉えるのではなく、生えている根元から捉える視点が構図に示されています(前掲写真を参照)。

一方、池上氏は鳥が飛び立つ瞬間を捉え、作品に組み込んでいます。わかりやすくするため、その該当部分を切り取って、見てみましょう。

該当部分

 枝に留まる鳥と飛び立つ鳥、この二羽を描くことによって、池上氏は動きを表現しています。異なる位置の静止画を二つ配置し、動きをイメージさせる効果を生み出しているのです。これを見て思い出すのはパラパラ漫画であり、マイブリッジの走る馬を捉えた連続写真撮影です。

 1872年、イギリス生まれのアメリカ人、マイブリッジは、24個のカメラを並べて疾走する馬の一瞬、一瞬を撮影しました。これは動画の基礎となる実験でした。その後、フランスのリュミエール兄弟がシネマトグラフの特許申請をしたのが1895年です。映像の時代の幕が開けられました。

 ところで、池上作品は1921年、荒木作品は1922年の制作です。日本でも1920年代になると、全国に映画常設館が出来ていました。トーキーとはいいながら、動画を楽しめるようになっていたのです。

 当然のことながら、彼らも動画からなんらかの影響は受けていたでしょう。

 花鳥図の基本を崩さず、彼らは動的な視点を作品に組み込みました。それを大小島氏は見逃さず、多数の中からこの二作品を選択したのでしょう。

 大小島氏は、この二作品には動的な視点が含まれていると再解釈し、それに触発されて再構築したのが、「ゴレムとウェヌス」でした。そして、「だからこそ、私が創り出した身体はいろんなキメラ像でできている」と説明しています。

 私はここに、大小島氏が作品を再構築する際のキー概念があると思いました。

■キー概念としてのキメラ

 先ほどもいいましたように、キメラとは、「個体の中に異なる遺伝子の細胞が共存する現象、またはその個体を指す」生物学用語で、ギリシャ神話に登場する生物「キマイラ」に由来するといわれています。

 そういえば、「ゴレム」の腕から鳥の羽が生え、下半身からは木の枝が生い茂っていました。そして、それらの木の枝は「胎樹」に接木され、キメラ植物として大きく育っていました。

 そして、「胎樹」の中心部分にはヒトの心臓や肺、背骨が組み込まれており、枝にはヒトの胎盤が付着していました。胎盤の中の胎児は、へその緒を介して維管束と接合し、木の生命システムにつながっていました。胎児はヒトの身体から切り離されても、木の生命維持システムに組み込まれることによって、生きながらえていました。

 つまり、「ゴレム」と「胎樹」の二作品からは、ヒトと植物のキメラが創り出されていたのです。

 そもそも、泥人形の「ゴレム」は横たえられていました。おそらく、死者を意味していたのでしょう。ヒトは死ぬと土に還ります。その土でできた「ゴレム」から草木が生え、土に還元されたさまざまな栄養分を吸い、やがて大木として成長していきます。

 そこまでは誰もが想像できる領域です。

 大小島氏の発想がユニークなのは、その大木をキメラ植物として設定したことにあります。しかも、ヒトと植物との異質同体です。

 なんと飛躍した発想なのでしょう! 

 彼女は、木の幹にヒトの身体の中心部分を組み込み、胎児のへその緒を木の維管束と接合し、生命維持システムを協働させています。このようにして、木とヒトが融合したキメラが出来上がっているのです。

 「ゴレム」も「胎樹」もキメラをキー概念に構築されています。一見、解釈不能に見えたこの作品もこのキー概念に辿り着くことによって、私は理解することができました。

■再構築された作品

 大小島氏が選んだ課題作品は荒木氏、池上氏の日本画です。荒木、池上両氏の作品から彼女は、花鳥図でも動的な視点を取り入れることで対象を生き生きと捉えられるというエッセンスを汲み取りました。

 そのエッセンスを踏まえ、大小島氏は、「ゴレム」(含む「胎樹」)と「ウェヌス」という作品を再構築しました。

 ところが、配布された「作品解説」を読んでいると、再解釈から再構築までのプロセスにおおきな捻りがあることに気づいたのです。

 大小島氏は、会場で配布された「作品解説」の中で、次のように記しています。

*******

 今日、私たちの世界は人新世と呼ばれる新たな地質学的年代の中にあるとされています。自然の中で人間というアクターが極端に突出し、地球そのもののあり方さえも大きく変えてしまっている、そうした時代に生きる私たちの身体について、思いを馳せました。そして、私たちの身体のイメージを、ゴレムとウェヌスと名付けた二つの身体によって再構築することで、自然にとりまかれて生きている私たちの「生」そのもののイメージを再構築してみたいと考えました。

*******

 この箇所を読んで、大小島氏が再解釈から再構築までのプロセスに、「人新世」という概念を介入させたことがわかりました。このことは会場で作品を見ただけではわかりませんでした。

 「人新世」とは、人類が生きるために行う経済活動そのものが地球を破壊するという概念です。この概念を作品に組み込むために、大小島氏はキメラを核として、作品を再構築したのです。

 このところ、コロナウィルスの感染爆発にせよ、中国山峡ダムを中心とした洪水被害にせよ、「人新世」の時代に突入したことを示す事例が増えています。ヒトが自然を作り変えてきた結果、予想もしない大きな損害を被る時代に入っています。いずれも中国発の災害ですが、ここ十年余、もっとも経済発展の著しいのが中国でした。経済活動の活性化が自然を大きく改変してきたことの証左ともいえます。

 大小島氏は再構築した作品には、このような時代の潮流が巧に取り込まれていました。斬新な発想力によって再構築された大小島氏の作品は、知的刺激に満ちているだけではなく、近未来を見る重要な視点をも提供してくれているように思えました。

 実は、この種のジャンルの美術を見るのは初めてでした。それですっかり驚いてしまって、作品を見てから、しばらく、何も書けないでいました。なにかすごい作品を見てしまったという気はするのですが、鑑賞後、自分の中でそれをどう受け止めていいのかわからなかったのです。

 なにか言葉にならないものがふつふつと湧いては来るのですが、整理できないまま、時間が経ちました。知らなかった世界を知り、衝撃を受けたことは事実なのですが、それをどう自分の知の体系の中に収めていいのかわからなかったのです。

 会場で配布された大小島氏の「作品解説」を読んで多少わかったような気になりましたが、それでもまだわからないところがありました。ヒントを求めて彷徨い、練馬区立美術館のHPで大小島氏のアーティストトークを見て、わからなかったところもなんとか理解することができたような気がします。

 概念として理解できただけで、まだ腑に落ちるというところまではいっていないと思いますが、大きな衝撃を受けたのは事実です。

 今回の作品はさまざまな知識を動員して、それと照合させながら理解していくというプロセスをたどりました。それを一つ一つ、確認しながら、書いていったので長くなってしまいましたが、実はまだ思いついたことを書ききっていません。

 現代社会は限りなくフラットになる一方で、複雑極まりない側面を持ち、さまざまな知の集積体でもあります。そのような現代社会を表現しようとすれば、並大抵の知力では叶いません。

 展示作品を見ていると、あらゆる媒体、素材を使いこなし、それらをつなぎ合わせ、レイアウトする能力、そして、なにより莫大なエネルギーがなければならないと思いました。大小島真木氏は壮大なスケールの美術家であり、現代社会に関する思想家、プロデューサーだという気がします。

 美術家にとどまらない幅の広さを持つ大小島真木氏の今後の活躍におおいに期待したいと思います。(2020/9/26 香取淳子)

オンライン鑑賞で知ったCAO FEI氏の世界

 コロナ禍で、国内外のさまざまな展覧会が中止になりました。スイスのバーゼルで開催されるアート・バーゼル(Art Basel)も、今年は開催されませんでした。

 アート・バーゼルとは世界最大級の現代アート・フェアで、1970年以来、毎年6月に4日間、開催されています。その後、アート・バーゼル・マイアミビーチ、アート・バーゼル香港なども開催されるようになり、世界的な広がりをもっています。

こちら → https://www.artbasel.com/about/history

■2020年アート・バーゼルの中止

 2020年3月26日、アート・バーゼルは次のような文をホームページに掲載しました。コロナ感染拡大のため、9月17日から20日まで延期したという内容でした。

こちら →

 今年は延期で決定したと思っていたのですが、その後もコロナ感染の勢いは衰えを見せません。3か月後、開催できる見通しが立たなくなってきました。

6月6日、ギャラリー、コレクター、協賛企業、外部専門家などとの協議を経て、今年度のアート・バーゼルの中止が決定されました。

こちら → https://www.artbasel.com/stories/art-basel-june-edition-postponed-to-september

 海外からの作品輸送は可能なのか、輸送する際の安全を保障できるのか。さらには、出展ギャラリーや協賛企業の経済的な損失を補償できるのか、等々の懸念を払拭することはできなかったのでしょう。2020年のアート・バーゼルは比較的早く、中止という判断が下ささました。

 一方、アート・バーゼル事務局は、6月フェアの代わりにオンラインで鑑賞できるようにし、欧州、南北アメリカ、アジア、中東、アフリカなど35ヵ国と地域から参加した282の主要なギャラリーの国際的ラインアップを紹介します。

こちら → https://www.artbasel.com/stories/ovr-details-and-highlights

 オンライン・ヴューイング・ルームは6月17日から19日までがプレビューで、6月19日から26日の間、一般公開されました。そこでは、絵画、彫刻、ドローイング、インスタレーション、写真、ビデオ、デジタル作品など、近代から戦後、現代までの4,000点を超える優れた作品を見出すことができるようになっています。

 アート・バーゼルのグローバル・ディレクター、マーク・スピーグラー氏は、「デジタルプラットフォームでは、リアルな展示空間が提供できるものと完全に同じものを提供できないことは十分に承知しているが、アートの世界がこのような苦難の時代を乗り越えていけるように、我々はギャラリーや作家たちを支えていきたい」と語っています。

 アート・フェアが中止になって、作品鑑賞の場が失われてしまうよりも、デジタルプラットフォームを立ち上げ、ヴァーチャルな展示空間を提供してギャラリーやアーティストを支えていきたいというのです。

■オンライン・ヴューイング・ルーム

 アート・バーゼルが提供するオンライン・ヴューイング・ルームは、世界の主要なギャラリーとコレクター、芸術愛好家とをつなぐヴァーチャルなプラットフォームです。ここでは、二つの独立したテーマ(「OVR:2020」と「OVR:20c」)が設定され、9月と10月に開催されます。

 「OVR:2020」はこの重要な年に制作された作品に絞ったものであり、9月23日から26日まで展示されます。

 「OVR:20c」は1900年から1999年の間に制作された作品で、2020年10月28日から31日までの間、特集されます。

 どちらも出展者は100以下に抑えられ、それぞれ一度に6作品を展示することができるといいます。

こちら → https://www.artbasel.com/ovr

 興味深いのは、ジョヴァンニ・カーマイン氏、サミュエル・ロイエンバーガー氏、フィリパ・ラモス氏等、3人のアート・バーゼル・キュレーターによる鑑賞ツアーが組まれていることでした。キュレーターたちはいったい、どのような作品を取り上げているのでしょうか。

 試みに、ジョヴァンニ・カーマイン氏が取り上げた作品を見てみることにしましょう。

■キュレーターが取り上げた画像

 自由分野を担当するキュレーター、ジョヴァンニ・カーマイン( Giovanni Carmine)氏がお薦めとして取り上げたのは、サオ・フェイ(Cao Fei)氏, セシールB エヴァンス(Cécile B. Evans)氏, プラニート・ソイ(Praneet Soi)氏の3人です。

こちら → https://www.artbasel.com/stories/online-viewing-rooms-giovanni-carmine?lang=en

 そのうち、真っ先に紹介されていたのが、北京のアーティスト、サオ・フェイ氏の作品でした。作品概要に、「RMB City: A Second Life City Planning N.4」と書かれていますから、RMB Cityシリーズの一つなのでしょう。

 私はこの画像に最も惹きつけられました。

 この作品についてジョヴァンニ・カーマイン氏は、「サオ・フェイ氏の独創的な企画であるRMB Cityは、VRとデジタル技術が提供するさまざまな可能性を芸術に利用するというやり方で表現している」と解説しています。

 そういわれてみれば、この画像はアニメの一場面のような印象です。さらに、作品のタイトルは「A Second Life City Planning N.4」でしたから、ひょっとしたら、セカンドライフ(Second Life;コミュニケーションツール)を使った動画の一部なのかもしれません。しかも、この作品が制作されたのは2007年です。

 ちょうど2007年ごろ、日本でもセカンドライフ(Second Life)というコミュニケーションツールが話題に上ったことがあります。これは、ネット上の3D仮想空間で自分のアバターを操り、他の参加者とコミュニケーションできるツールです。

 すっかり忘れていましたが、サオ・フェイ氏の作品を見て、私は記憶の底に眠っていたセカンドライフを思い出しました。

 2007年当時のセカンドライフの画像を見てみることにしましょう。


出雲井亨、『日経XTECH』、2007年7月13日

 ここでは、遊園地で一人紅茶を飲んでいる男性が表現されています。描かれている男性はアバターで、湯気の出るティーカップ、その背後の観覧車もすべてユーザーが制作したものです。

 このように、セカンドライフというツールを使えば、ユーザーが設定したアバターを通して、仮想世界でのコミュニケーションを展開することができます。SNSに押され、いまではすっかり忘れ去られてしまいましたが、仮想空間でコミュニケーションできるツールとしてもてはやされた時期がありました。

 再び、サオ・フェイ氏の作品を見てみると、この女性はまさにアバターです。分身として、RMB Cityという仮想空間の中で、さまざまなコミュニケーションを展開しているのでしょう。

 サオ・フェイ氏は2007年から2011年までRMB Cityシリーズを制作し続けてきたといいます。

■サオ・フェイ氏の画像

 それでは、サオ・フェイ氏の画像を詳しく見ていくことにしましょう。


Cao Fei, RMB City: A Second Life City Planning N.4, 2007

 この画像でまず目につくのは、朱色の柱が立ち並ぶ宮殿、その端に立つ白いトサカのような帽子を被った女性、そして、左隅に描かれた車輪です。一見、奇妙なモチーフの取り合わせですが、斬新でしかも調和がとれていて、引き込まれます。

 左端の車輪は銀色で描かれ、白っぽいコスチュームの中で輝いている女性と調和しています。女性の髪の毛、トサカのような帽子、ブレスレット、腕に抱えた円形の造形物、黒いドットの入ったワンピース、いずれも白か銀色で描かれており、女性にメカニックな輝きを添えています。

 女性の背後には朱色の円柱が立ち並び、白色の中で輝く女性と見事な色彩のコントラストを形成しています。モチーフの背後には、紺碧の海と残照に輝く空が見えます。いずれもモチーフをくっきりと際立たせる効果のある色調です。

 女性の後ろには朱に塗られた10本ほどの円柱が続き、観客の視線を遠景に誘導する役割を担っています。半円の車輪から、女性が腕に抱えた円形の造形物へ、円形の造形物から先は垂直方向に変換し、立ち並ぶ円柱へと連鎖の輪が広がっていきます。

 円形を縦横に巧に変換させることによって、視覚的な動きが生み出されているのです。朱の円柱は対角線上に、幾何学的な調和を保ちながら、前景、中景、遠景をつないでいます。目を細めてみると、そうすることによって、画面を構造的に安定させる効果が得られていることがわかります。

 モチーフを見ると、きわめてメカニックな造形になっているのですが、全体にしっとりとした落ち着きがあります。絵画作品としての奥行が感じられるのです。そのような印象を与えるのはおそらく、背景のせいでしょう。海なのでしょうか、濃い青で表現された部分、そして、残照の輝きを見せる空がとても丁寧に絵画的に描かれているのです。

 奇妙なモチーフの取り合わせ、色彩のバランス、前景、中景、遠景をつなぐ幾何学的構造、そして、古典的絵画の味わいのある背景、それらが見事に調和しており、とても美しいと思いました。

 サオ・フェイ氏の独創的なプロジェクトRMB Cityは、VRなどデジタル技術を駆使して作品化されています。彼女が創り上げた仮想空間は魅力的です。

 カーマイン氏は、この作品について、シュールレアリストのユートピアであり、先見の明のあるコミュニティ構築実験だと評しています。

■RMB City: A Second Life City Planning N.4

 カーマイン氏のおかげで、私は彼女の作品の一端を知ることができました。果たして彼女はどのような思いで、この作品を制作したのでしょうか。気になって調べてみると、彼女がこの作品について語っているページが見つかりました。

こちら → https://www.fondationlouisvuitton.fr/en/the-collection/artworks/rmb-city-second-life-city-planning.html

 タイトルの「RMBシティ:セカンドライフシティプランニング」については、「人民の通貨」である人民元の頭字語であるRMBと名付け、ポストモダンの遊園地で、急速に進化する中国の都市の凝縮されたイメージを提供する」と彼女は語っています。

 そして、架空の島には、人民英雄記念碑、国立大劇場、中国北部の工場、レムコールハースのCCTVタワー、仏教寺院、毛沢東の像、三峡ダム、 国立競技場などを配置し、伝統、共産主義、資本主義のシンボルを衝突させ、現代の中国の複雑さを浮き彫りにするといいます。

 たしかに、この画像を見ると、中国を象徴するものが、所狭しとばかりに架空の島の上に表現されています。島に配置できなかったパンダやCCTVタワーなどは空中に浮かぶ格好でレイアウトされ、中国の過去、現在が象徴されています。


RMB City: A Second Life City Planning N.4

 斬新なデザインの建物は、現在目覚ましい勢いで開発を進めている先端セクノロジーを連想させますし、パンダや仏教寺院は中国文化の象徴、そして、黒煙は世界の工場といわれた中国の労働力を示しています。

 現在の中国は、パンダや仏教寺院に象徴される伝統文化を引きずりながらも、実際は共産主義体制の下、国家資本主義によって経済が運営されています。きわめて複雑な社会構造であり、当然のことながら、その社会的な歪みも大きくなっています。その象徴が工場から立ち上がる黒煙です。

 この画像だけでも面白いですが、実はこれは映像作品なのです。さっそく探してみると、彼女が制作した6分1秒の映像が見つかりました。ご紹介しましょう。

こちら → https://youtu.be/8-ig_lnO7uU

 さらに調べてみると、サオ・フェイ氏は2007年以降、セカンドライフに集中して作品を制作していることがわかりました。

 中国の近代化と資本主義的で理想主義的な展望を参照しながら、彼女はグローバルコミュニケーションが人々の想像力や価値観、生活様式に影響を与える状況をRMB Cityシリーズによって明らかにしていこうとしているのです。

こちら → https://kadist.org/work/rmb-city-a-second-life-city-planning-04/

 サオ・フェイ氏は、マルチメディア・アーティストで、現実世界と架空世界との相互作用に焦点を当てた作品で知られています。写真、パフォーマンス、ビデオ、デジタルメディア等々、境界を越えてさまざまな作品を制作してきた彼女は、20世紀後半の時代精神の権化であり、デジタル時代の若者文化の形成において、映像制作が果たしてきた役割を鮮やかに反映しています。

■サオ・フェイ氏が語る来歴とRMB City

 サオ・フェイ氏とはいったい、どのような人物なのでしょうか。作品を見ているうちに、俄然、興味が湧いてきました。調べてみると、ユーチューブに短いインタビュー映像がアップされていたのが見つかりました。2016年に開催された「Bentu Exhibition」でインタビューされたものです。

 それでは、ご紹介しましょう。

こちら → https://youtu.be/3hISycCZp9M

 興味深いのは、サオ・フェイ氏の両親がソ連で活動していたアカデミックな芸術家だったということです。当然のことながら、彼女は両親の資質を受け継ぎ、その影響を受けているのでしょう。

 ところが、彼女は1990年代後半の映像作品、とくに芸術映画に深く影響されたと語っています。そこにはアカデミックな教育システムにはない刺激があって、引き込まれ、その後の作品にそれは反映されていると述べています。

 サオ・フェイ氏は、中国の田舎の都市化、現在のグローバル化の動き、そして、人々の生活状況などに関心を抱き、作品化してきたといいます。労働者階級、とくに生産ラインの工場で働く人々が、相互に深くつながり合った世界にいながら、実際は、孤立して生きている状況に焦点を当てて制作してきたと語っています。

 とても興味深く思いました。現代社会の歪みをコンセプチュアルに思考し、デジタル技術を駆使して作品化していくところに現代アート作家ならではの真髄が感じられます。

 RMB city プロジェクトは2007年に始まり2011年に終わりました。この名前をつけたのは、RMBが人民元(Rénmínbì)の略語だからだそうです。RMBをプロジェクト名にすることによって、一連の作品が経済の観点から、中国の都市化のプロセスを凝縮していることが示唆されています。

 RMB cityと名付けられた作品に、次のようなものがあります。


RMB City 5, 2008, digital c-print, 120 × 160 cm

 1978年に広州で生まれた彼女は、改革開放後の中国の市場経済化を目の当たりに見て成長してきています。

 その成長過程で、社会に及ぼす経済の力を様々な局面で見てきたのでしょう。この作品には随所に市場化の要素が見られます。ポップカルチャーの影響も感じられますが、抑制されて表現されています。両親から受け継いだアカデミズムの影響でしょうか。

■現代社会を捉えるアーティストの感受性

 2007年にこのプロジェクトを始めたとき、サオ・フェイ氏はもっと楽観的な見方をしていたといいます。ところが、次第に中国経済は衰退し、2011年にこのプロジェクトを終える頃には、経済危機に陥り始めていたと彼女は述べています。

 当時、まだ世間一般にそのような認識はなく、人々はオプティミスティックで、楽しいことに夢中でした。ところが、彼女はそうではありませんでした。芸術家ならではの繊細な感覚で、彼女なりに中国の経済的危機を感じ取っていたのでしょう。

 作品のモチーフとして現代社会を照射したとき、見えてくるのは労働者の疲弊した姿、あるいは、孤立した姿だったのでしょう。メディアが発達し、相互に深くつながりあえる社会になっていながら、実はそうではないところに、彼女は社会の歪みを感じたのでしょう。

 社会を支え、経済を回していく役割を担っている労働者がそんな姿でいるところに、彼女は危機を感じ取っていたのかもしれません。労働者の心理的危機は社会そのものの危機であり、結果として経済の危機につながっていくのです。

 実際、2011年の中国の実質経済成長率を見ると9.2%で、2010年の10.4%よりも落ちています。しかも、年初から次第に成長率は落ちていき、10月-12月期は8.9%へとペースダウンしています。数字が物語っているように、実際は、もはや楽観的ではいられない状況になっていたことがわかります。

 サオ・フェイ氏の挑戦的な作品に気を取られ、つい、横道にそれてしまいました。2020年アート・バーゼルの中止から、コロナ下の美術市場を考えるつもりが、サオ・フェイ氏の刺激的な作品に出合ってしまいました。改めて、作品の力は作家の洞察力、思考力、感受性に支えられていると感じさせられました。(2020/8/31 香取淳子)

プレ展示「再構築」:大小島真木氏の制作現場を見る

■プレ展示「再構築」

 2020年7月23日、練馬区立美術館に行ってきました。

 今年、開館35周年を迎える同館は、記念事業として、一風変わった展覧会を企画しました。4名の作家(青山悟、大小島真木、冨井大裕、流麻二果)に、練馬区立美術館が所蔵する作品をそれぞれ再解釈し、再構築して制作してもらった作品を展示するというのです。展覧会のタイトルは企画内容そのものの「再構築」(RE CONSTRUCTION)でした。

こちら → https://www.neribun.or.jp/event/detail_m.cgi?id=202006161592286707

 2020年7月8日から8月2日までが、プレ展示「再構築」で、①参加型展示として、流麻二果氏、②公開制作として、大小島真木氏、冨井大裕氏の展示が企画されています。そして、4名の再構築された作品が展示される本展示は、2020年8月9日から9月27日までの期間開催されます。

 練馬区立美術館前に掲げられた看板には、4人の作品がそれぞれ取り上げられていました。

 この看板には、向かって左から冨井大裕氏、大小島真木氏、そして、その右隣りが青山悟氏、右端が流二麻二果氏の順で、代表作が取り上げられています。館内に置かれていたチラシは4パターン用意されており、看板に取り上げられていたのと同様、4人の画家の作品がそれぞれ掲載されていました。これらの作品をちらっと目にするだけでも、個性の異なる気鋭の作家たちだということがわかります。

 4人の作家たちは、同館所蔵の作品をどのように解釈し、再構築してみせてくれるのでしょうか、興味津々です。なんともユニークで、刺激的な企画の展覧会で、期待されます。

 私がもっとも引き付けられたのが、大小島真木氏の作品でした。見た瞬間、心に響くものを感じたのです。

 看板の写真を見ても、遠すぎて、いまひとつその醍醐味が伝わってきません。大小島氏の作品だけを取り出し、クローズアップして見てみることにしましょう。

 真ん中に配置された細長いモチーフの両側に、3個ずつ奇妙なモチーフが置かれています。よく見ると、心臓の形をしています。真ん中の細長いモチーフも、一番下に配置されているのは心臓でした。合計7個のモチーフに共通しているのが心臓だったのです。しかも、それぞれが奇妙なハーモニーを奏で、独特の世界を創り出しています。

■Entanglement hearts series

 チラシを見ると、作品の下に小さく、「Entanglement hearts series」(2020年、アクリル、鉛筆、油性色鉛筆、アルシュ紙)と、その概要が書かれています。タイトルにシリーズと書かれていますから、7つのモチーフに見えたものは、それぞれ独立した一つの作品なのでしょう。この作品が、シリーズ化して制作された「Entanglement hearts」を7点、寄せ集めてレイアウトし、一つの作品として再構築されたものだということがわかります。今回の展覧会のテーマである「再構築」がすでに実践されているのです。

「Entanglement hearts」というタイトルも絶妙です。絵柄をみれば、たしかに、心臓の形をしたモチーフにはそれぞれ、動物や植物、昆虫や海洋生物、爬虫類、人や原始人などが深く複雑に絡み合っています。どのモチーフも生命体を支える心臓をベースに、独特の観点から複雑な生命システムが描かれていました。

 見ているうちに、身体の奥底から原始的な感覚が甦ってくるような思いに襲われてしまいます。それぞれのモチーフが得体の知れない何かを発散しているからでしょうか。見えない何かに、強く刺激され、やがて、気持ちが大きく揺さぶられるようになるのです。

 いつの間にか、異次元の世界に誘われてしまいそうになります。

 異次元といっても、全く知らない世界ではありません。遠い昔に経験した記憶がありながら、普段はすっかり忘れ去っている世界とでもいったらいいのでしょうか。無意識の底に眠っていたものが、突如、甦り、原初的な感覚が呼び覚まされ、刺激されていくのを感じます。

 どのモチーフにも身体の奥底に呼び掛ける力がこもっているように見えます。しかも、どのモチーフからも、しなやかで知的な感性がほとばしっています。だからこそ、わくわくするような知的好奇心が刺激されるのでしょう。

 大小島真木氏はいったい、どのような作家なのでしょうか。チラシに掲載された作品を見ただけで、ふつふつと興味がわいてきました。是非とも、制作現場を見てみたいという気にさせられたのです。

■大小島真木氏の制作現場

 1Fの展示室で、大小島真木氏は制作されていました。すでに何人かの観客が見に来ておられ、大小島氏はにこやかに応対しておられました。

 大小島氏が手にされているのは、チラシに掲載されていたモチーフのうち、真ん中のものです。その左にはチラシの左下に配置されたモチーフがあり、右にはチラシの右上に配置されたモチーフが見えます。尋ねてみると、今回の展覧会のために30点、新作を制作されたそうです。

 それでは、本展示作品のための制作現場を見てみることにしましょう。

 普段はいくつもの作品が展示されている展示室に、大きな布が敷かれ、そこには制作途中のモチーフが描かれています。遠くから見ると、巨木の幹と枝のように見えます。布の周囲には脚立、ボディ、絵の具、筆、資料としての絵などが雑然と置かれていました。

 思わず、覗いてはいけない創造の空間に足を踏み入れた気持ちになります。

 圧倒されて、ぼんやりしていると、大小島氏から、「脚立を使ってもいいですよ」といわれました。ふと、その気になりかけましたが、脚立の高さを見て、気持ちがくじけ、立ったままで撮影したのが、制作途中のモチーフの中心部分です。

 手前に二つの肺があり、水色と赤味がかったピンクで左右、色分けされています。そのすぐ上に心臓があり、そして、その先に背骨がまっすぐ伸びています。

 やや引いて、全体像がわかるように俯瞰してみたのが、下の写真です。

 こうしてみると、先ほどご紹介した写真が、作品の中心部分だということを確認することができます。この作品の全体像は人体のようであり、巨木のようでもあります。俯瞰してみてはじめて、途方もなく大きな構想の下、制作されようとしていることがわかります。

 大小島氏はこの作品を、全体の枠組みを描いた後、肺、心臓、背骨といった中心部分を描いています。まだ制作途中だとはいえ、中心部分の構図はすでに確定されています。まるで、作品に命を吹き込みながら制作を進めているかのように、軸となる中心部分から着手されているのです。

 もちろん、中心を支える細部を固めるための準備も周到です。大きな布の周囲、あちこちに資料のようなもの、画材などが置かれています。

 たとえば、木の枝先のように見える部分の周囲には、それに関するスケッチや色合わせの資料が置かれています。

 また、色の重ね具合、色彩のバランス、さまざまな形状のパターン、それらの組み合わせなどの資料も種々、巨大な布の周囲に置かれていました。

 全体を支えるための細部を制作するための案が精緻に考え抜かれ、作品化するための準備もそれに伴い、万端に整えられていることがわかります。

 まだ制作途上だとはいえ、この制作空間を見るだけで、大小島氏がいかに構想力に長け、構築力に秀で、タフな知力の持ち主であるかがわかります。

■新作から透けて見える大小島氏の芸術観

 大小島氏は今回の展覧会のために、1か月余で新作30枚を仕上げたといいます。そのうち7点がチラシに掲載された作品に取り上げられていました。それぞれが豊かな構想力で練り上げられ、確かな表現技術を駆使して描かれていました。仕上がった作品を見て、大小島氏の旺盛な制作力と巧みな表現力に驚かざるをえませんでした。

 それでは、チラシに掲載されたモチーフの一つを取り上げ、大小島氏の芸術観を探ってみることにしましょう。

 これは、7点のうり、チラシの左上に掲載されていたモチーフです。このモチーフで一番目立つのが、眠ったように見える牛の顔であり、その頭上で大きく羽を広げた鳥です。牛の首の右辺りには大きく牙をむいた虎のような動物の顔、左下には獲物に食いつこうとしている狼のような動物が描かれています。口が赤くなっていますから、おそらく食いちぎった獲物の血なのでしょう。生命を維持するには他の動物、あるいは植物の生命を奪わなければならないことが示唆されています。

 心臓から血液が送り出されることによって、生命体が維持されるわけですが、その営みを支えていくには、他の生命体の命を奪う必要があるのです。残酷ではありますが、それこそが、生命を維持するためのシステムであり、自然の摂理なのだと訴えているかのようです。

 興味深いことに、このモチーフには下方に裸の人間が3人描かれており、何かを探しているように見えます。食べ物を漁っているのでしょうか。足には草のようなものが絡まり、鋭利な牙もなく、柔らかい肌を保護する体毛もない人間の脆さが描かれているように見えます。

 その一方で、モチーフ全体に、六角体で先にとげがある物体が随所に描かれています。この物体は、獰猛な鳥の羽の上、牙をむいた虎の胸倉、さらには、草むらのようなものの中にも多数、描かれています。こうして全体が絡みあい、心臓の形になるようレイアウトされています。

 このモチーフの随所に描かれた不思議な物体は、その造形から、どうやら、コロナウイルスのようです。

 大小島氏はこの作品を示しながら、「コロナが突然やってきたわけではないのに、果たして、コロナを敵と呼べるのか」と問いかけます。そして、「人間と菌を巡る物語を知る必要がある」と言葉を継ぎます。それを聞いていて、私はふと、大小島氏の芸術観を垣間見たような気がしました。

 改めて、コロナウイルスの画像を見てみました。

2020年4月24日付日経新聞より。

 コロナウイルスもまた生命体で、他の生命体に寄生して生き延びています。そのための手段として、他の生命体の内部にしっかりとくっつくための棘を持っています。生き延びるために他の生命体に絡みつくという点で、人や動物とそう大した違いがあるわけではないのです。

 そう考えると、このモチーフには、動物であれ、植物であれ、人であれ、コロナウイルスであれ、生を紡ぐためには相互に絡まり合い、複雑に寄生しながら生きていかざるをえないという現実が示されていることがわかります。

 このモチーフには、大小島氏の作品化のプロセスを端的に見て取ることができます。そればかりか、その芸術観も垣間見えたような気がしました。

■コロナ時代の芸術

 新型コロナウイルスはいっこうに終息する気配を見せず、感染者は日本はもちろん、世界中で日々、増加しています。もはや「アフターコロナ」(after corona)、「ポストコロナ」(post corona)という表現は適切ではなく、「ウィズコロナ」(with corona)と言わざるを得ない状況になっています。

 おそらく、新型コロナウイルス感染の広がりとともに、社会のパラダイムシフトが進んでいくことでしょう。非接触、非対面のコミュニケーションに移行せざるをえなくなり、やがてはテクノロジーに依存した社会に変容せざるをえなくなっています。

 一方、新型コロナウイルスは今回のcovid-19で終わるものではなく、今後も次々と新種が登場し、今回と同様、パンデミック現象を引き起こしていくでしょう。

 それを回避できないのは、世界人口が増加の一途を辿るにつれ、森林の伐採が進み、ウイルスを持っている野生動物と人間との距離が近づかざるをえなくなっているからでしょう。人口が増えると三蜜(密集、密閉、密接)を避けることが難しく、今後、新型ウイルスへの感染リスクが高まっていくと考えられるのです。

 さらに、グローバル化が進み、人が世界中を移動するようになっていることも、感染リスクを高めます。グローバル化がウイルス由来のパンデミック現象を引き起こし、それに拍車をかけるからだといえます。

 このように考えてくると、私がなぜ、大小島氏の作品を見たとき、衝撃を受けたかがわかるような気がしてきました。チラシに掲載されていたモチーフには、現代社会に突き付けられた課題が見事に描かれていたからでした。

 この作品を見ていると、現代社会に果たす芸術の役割が見えてくるような気がします。今回、私が経験したように、優れた作品は、観客に現代社会の矛盾や課題を感じさせ、そして、考えさせる力を持っています。それこそが、テクノロジーが支配するいまなお、芸術が持ち得るパワーなのだという気がするのです。

 大小島氏は今回制作中の作品をどのように完成されるのでしょうか、おおいに期待したいと思います。(2020/7/28 香取淳子)