ヒト、メディア、社会を考える

絵画

百武兼行 ④:百武の師、リチャードソン・ジュニアはどんな画家だったのか?

■百武、リチャードソン・ジュニアから油彩画を学ぶ

 百武がロンドンに滞在していた頃の作品は、油彩画13点、水彩画1点でした。これらの中で人物を中心に描いた作品はきわめて少なく、現存しているものの中では、前回、ご紹介した《母と子》だけでした。

 中には人物を点景として添えられた作品もありますが、風景の比重が高く、すべてが風景画といえるものでした。

 おそらく、百武が師事していた画家が、風景を専門とするトーマス・マイルズ・リチャードソン・ジュニア(Thomas Miles Richardson Jr., 1813-1890)だったからでしょう。

 果たして、百武はロンドンで、どのぐらい絵を描いたのでしょうか。

 百武がロンドン滞在中に描いた作品を見ると、画面に制作年が描き込まれているのは、油彩画7点、水彩画1点でした。最も早いのが1876年で4点、他の4点はいずれも1878年です(※ 三輪英夫編『近代の美術53 百武兼行』、至文堂、1979年、p.33.)。

 公務で忙しかったにもかかわらず、1876年と1878年に集中して制作していたことがわかります。

 百武は1874年に油彩画を学び始めていますから、1876年といえば、ちょうど油絵の描き方を一通りマスターした段階です。この期間に制作点数が多いのは、学んだばかりの技術を確実なものにするため、さまざまな画題の下で、実践していたのでしょう。

 私は単純にそう思ったのですが、三輪氏は別の見解を示しています。

 百武が1876年に数多く制作していたことについて、三輪氏は、「明治八年の末か九年の春には、アカデミーに絵を出品する」という、『光風』での記述と合致すると述べているのです(※ 前掲)。

 『光風』に掲載された「百武伝」に、「アカデミーに絵を出品する」という記述があったことから、三輪氏は、この時期、百武が数多くの作品を制作したことはアカデミーに出品するためだったと解釈しているのです。

 アカデミーに出品したとされているのが、《田子の浦図》と《日本服を着た西洋婦人像》です。タイトルからはどうやら、いずれも日本的要素を織り込んだ作品のようです。三輪氏によれば、《日本服を着た西洋婦人像》は好評を博したそうですが、残念ながら、紛失しており、現在は見ることができません。

 受賞できなかったとしても、油彩画を学び始めて間もない百武が、アカデミーに出品しようとしていたことには驚きました。油彩画を学ぶ機会を与えられたからには、それなりの結果を示さなければならないという思いだったのでしょうか。

 ちなみに、百武が師事していたリチャードソン・ジュニアは、1832年から1889年の間、ロイヤル・アカデミーその他に出品し続けていました。制作すれば、発表し、出来栄えを世に問うのは、画家として当然のことだったのです。

 師を見倣って、百武もまた、アカデミーに出品しようとしていたのかもしれません。

 それでは、百武にとってリチャードソン・ジュニアは、どのような師だったのでしょうか。まずは、リチャードソン・ジュニアの画家としての来歴を見ておくことにしましょう。

■リチャードソン・ジュニアの来歴

 リチャードソン・ジュニア(Thomas Miles Richardson Jr. , 1813-1890)は、トーマス・リチャードソン(Thomas Miles Richardson Sr. ,1784-1848)の三男として、ニューカッスルで生まれました。

 風景画家であった父の指導を受け、リチャードソン・ジュニアは、地元ニューカッスルで画家としてのキャリアをスタートさせています。はじめて展覧会に出品したのは、14歳の時でした。その後も描き続けて、技術を磨き、次第に才能を開花させていきました。1830年代には、水彩による風景画は高く評価されるようになり、商業的にもかなりの成功を収めるようになっていました。

 こうして地元で活躍する一方、リチャードソン・ジュニアは、英国協会とロンドンのロイヤル・アカデミーにも、作品を送り続けていました。権威付けが欲しかったのかもしれませんし、活動の舞台が地元ニューカッスルだけでは物足りなかったのかもしれません。いずれにしても、このことからは、画家として生きていく決意を固めていたことがわかります。

 彼が好んで描いたのが、イングランド北東部、あるいは、スイスやイタリアのアルプス地方の景色でした。そのような高原の風景を求め、国内、国外を問わず、さまざまな場所に旅行しました。1837年には、フランス、スイス、イタリア、ドイツ、オランダを旅行し、それぞれの景色をスケッチしています。

 1838年にはそれらのスケッチをまとめ、26枚の図版で構成された『大陸のスケッチ』(“Sketches on the Continent”)というタイトルの大型画集を出版しています。図版のうち11枚は、彼自身が制作したリソグラフでした。(※ https://www.stephenongpin.com/artist/236675/thomas-miles-richardson-jr

 リチャードソン・ジュニアにとって初めての画集、『大陸のスケッチ』は、A Ducotes & C. Hullmandells Lithographic Practicals で印刷されました。56×38cmの大型本で、再版はされなかったようです。(※  https://www.mountainpaintings.org/T.M.Richardson.html

 その『大陸のスケッチ』に収められた作品の一つが、大英博物館に所蔵されています。

 タイトルは《Ascending the Gt St Bernard》です。

(リソグラフ、紙、26×35.4㎝、1838年、大英博物館蔵)

 伸びやかな筆の動きが印象的な作品です。背後に見える山並みは、まるで水墨画かのように淡く、稜線だけがくっきりと描かれています。画面中央には、二人の人物と馬が配されていますが、その周囲は無彩色で表現されています。そのせいか、画面全体に落ち着きと静謐さが感じられます。抽象的で、しかも、柔らかな風景表現に、日本の水墨画との親和性が感じられます。

 この作品は、次のように説明されていました。

 「道に二人の人物が描かれている山の風景。一人は馬に乗り、もう一人は馬から降り、杖を手に、足には犬を連れて馬の横に立っている。 リチャードソンの「大陸のスケッチ」より。」(※ https://www.britishmuseum.org/collection/object/P_1959-0411-15

 画集の説明書きをそのまま引き写したものなのでしょうが、あまりにも素っ気なく、即物的な説明です。

 背後に連なる山並みの表現には、風景画家としてよく知られたターナー(Joseph Mallord William Turner、1775 – 1851)に通じるところもないわけではありませんが、全般に、淡白で、優しく柔軟な印象があります。その一方で、空白が多く、省略の多い表現が際立っており、西洋画にはあまり見られない画風です。

 当時の評論家はこの作品を見て、どう説明したらいいか戸惑ったに違いありません。それほどこの作品には、西洋画にはない柔らかさ、そして、融通無碍な雰囲気がありました。旅行先で見たまま、感じたままを即興で描いたせいか、このスケッチには、筆運びに勢いと伸びやかさがあり、気の流れが感じられます。

 なぜ、この作品は東洋的な味わいのある画風なのでしょうか。それが気になって調べてみると、リチャードソン・ジュニアの兄、ジョージ・リチャードソン(George Richardson, 1808-1840)に、似たような印象の作品がありました。

 タイトルは《North Shore, Newcastle upon Tyne》です。

(エッチング、シート、サイズ不詳、制作年不詳、所蔵先不詳)

 リチャードソン・ジュニアの長兄ジョージもやはり画家を志しており、地元の名簿に「歴史と風景の画家」と自ら宣伝していたほどでした。18歳になると、人物画、風景画、動物画を絵画クラスで教えるようになっており、その後、弟であるリチャードソン・ジュニアと共に、ニューカッスルで美術教室を開いています。(※ https://www.saturdaygalleryart.com/george-richardson-biography.html

 こうしてみてくると、リチャードソン・ジュニアは、風景画家である父親ばかりか長兄からも、絵画的刺激を受け、指導を得られる環境にいたことがわかります。

 それでは、再び、リチャードソン・ジュニアの作品に戻ることにしましょう。

 初期作品を見ていくと、リチャードソン・ジュニアにはしては珍しく、油彩画が残されていました。《Highland Lake Scene》というタイトルの作品で、《Ascending the Gt St Bernard》の2年ほど前に制作されています。

■油彩画

 それでは、リチャードソン・ジュニアの油彩画、《Highland Lake Scene》を見てみることにしましょう。

(油彩、ボード、25×38.1㎝、1835年頃、Laing Art Gallery蔵)

 背景の山並みの描き方が、先ほどの《Ascending the Gt St Bernard》にとてもよく似ています。油彩とリソグラフというメディアの違いがありますが、山が霧にけぶる様子をしっとりと描き出している点では共通しています。

 淡く、優しい色で稜線を柔らかく表現し、山と山の狭間は白を加えて暈し、空気遠近法を巧みに取り込んでいるのが印象的です。

 手前から中央にかけて、静かな湖面を描き、手前中央に水辺の草むらを配し、その右側に数頭の牛と牛飼いが描かれています。風景画の中にさり気なく、人々の生活シーンが取り入れられています。

 引いて見ると、牛飼いや牛は濃い褐色か淡い褐色で描かれているので、風景の中に溶け込んで見えます。人や動物が描かれているのですが、風景の一部として組み込まれてしまっています。

 ここにリチャードソン・ジュニアの人間観、自然観が浮き彫りにされているように思えました。人も動物も草木も岩も皆、大自然の一部なのです。

 さて、一般に、風景に適したカンヴァスサイズはPサイズといわれ、その縦横比率は1対1.51です。一方、この作品の縦横比率は、1対1.524ですから、ほぼPサイズだといえます。この作品が、風景画として安定感のあるサイズの中に収められていることがわかります。

 制作されたのが1835年、リチャードソン・ジュニアがまだ22歳の頃の作品です。ところが、構図といい、配色といい、油彩でありながら、堅苦しくなく、優しく柔らかく、まるで熟達した画家のように洗練された表現が印象的です。

 この作品にはすでにリチャードソン・ジュニアの独自性が浮き彫りにされています。

 画面には、油彩画ならではの重量感の中に、水彩画のような柔軟性が混在しており、興趣のある作品になっていました。伸びやかな筆遣いには、水彩との親和性が感じられます。この作品を見て居ると、リチャードソン・ジュニアの絵の才能は明らかに、水彩画領域にあるように思えてきます。

 水彩画家としての評価を高めていきながら、リチャードソン・ジュニアは、兄であり、画家仲間でもあるジョージとともに、地元ニューカッスルで美術教室を開催し、運営していました。

 それでは、再び、リチャードソン・ジュニアの来歴に戻ることにしましょう。

■旧水彩画協会(OWCS)の会員に推挙

 1843 年、彼は、「旧水彩画家協会」(Old Water-Colour Society:OWCS) の会員に選出されました。生来の天分に加え、これまでの地道な努力が認められたのです。

 OWCSは、1804 年にウィリアム・フレデリック・ウェルズ(William Frederick Wells)によって設立された水彩画家協会です。1812 年には、油彩・水彩画家協会として改組され、その後、1820 年には水彩画家協会に戻りましたが、1831 年に分裂し、新水彩画家協会という別のグループが設立されました。

 それを機に、1804 年に設立された方は旧水彩協会、あるいは単にオールド ソサエティといわれるようになり、新水彩画協会とは区別されるようになったのです。

 その後、ジョン・ギルバート卿(Sir John Gilbert ,1817 – 1897)が会長だった1881 年に、王立水彩画家協会として王室憲章を取得しました。そして、1988 年には、王立水彩協会(the Royal Water-colour Society)に再び名称変更したという経緯があります。(※ https://en.wikipedia.org/wiki/Royal_Watercolour_Society

 このような経緯を見てもわかるように、OWCSは当時、権威のある水彩画家の団体でした。その団体から、リチャードソン・ジュニアは1843年、会員として選出されたのです。30歳の時です。快挙といわざるをえません。

 水彩画家としての栄誉にあずかったリチャードソンは、3年後の1846年、ロンドンに移住しました。さらなる飛躍を求め、活動拠点をニューカッスルからロンドンに移したのでしょう。

 リチャードソン・ジュニアは、1851 年にはOWCS の正会員になり、以後、77歳で亡くなる、その前年まで、毎年、夏と冬には同協会の展覧会に出品していました。最終的には 700 点を超える水彩画を展示していたそうです。

 彼にとって、生きることは各地を旅行し、旅先の風景をスケッチすることでした。スコットランドやイングランド北部、そしてヨーロッパ各地を広範囲に旅行し、気に入った風景を描き、表現力を向上させていきました。

 さまざまな場所を訪れ、精力的にスケッチしては作品化し、その成果を展覧会で発表していたのです。その都度、画題に相応しい表現方法を探り、試行錯誤を重ねながら、水彩画の奥義を究めていきました。

 名実ともに水彩画家として生き、天分を存分に開花させて、リチャードソン・ジュニアは、画家人生を終えたのです。

 風景画家として生きたリチャードソン・ジュニアが追いかけていた画題の一つが、スコットランドにあるベン・ネビス山でした。

■ベン・ネビス山

 ベン・ネビス山は、ハイランド地方ロッホアバー地区に連なる、グランピアン山地の西端に位置し、イギリス諸島の最高峰です。スコットランドの山々の中でも、特に、その知名度は高く、地元住民や登山家の間では、「ザ・ベン」として知られています。

 現在、ベン・ネビス山への登山者は、年間10万人にものぼっていますが、その4分の3は、ふもとのグレン・ネビスから山の南斜面を進む、「ポニー・トラック」から登るといわれています(※ Wikipedia)。

 「ポニー・トラック」は、ベン・ネビス山に登る登山道の一つです。リチャードソンが訪れた頃、人々はもっぱらこの登山道を利用していました。ポニー・トラックは、グレン・ネビスの東側にある海抜20メートルのアチンティーからスタートします。

 この登山道は、そもそも、仔馬が天文台に食糧を運ぶための道として作られました。無理なく歩行できるように、この登山道は、ジグザグ道にし、勾配を緩やかにする工夫がされています。

(※ http://ben-nevis.com/walks/mountain_track/mountain_track.phpより)

 これは、頂上から見た写真ですが、ジグザグ道のおかげで勾配が緩やかになっているのがわかります。周囲には岩が多く、荒涼とした光景です。

 草木の生えた場所もありますが、ベン・ネビス山の頂上に近づいていくにつれ、登山道は岩と小石だらけになります。

(※ http://ben-nevis.com/walks/mountain_track/mountain_track.phpより)

 このような険しい地形の風景をリチャードソン・ジュニアは好んで描いていました。

 初期の頃は、風景画に適したPサイズで描いていましたが、やがて、パノラマサイズで横長に描くようになっています。高原や山地、湖畔など、広がりのある大自然の魅力を余すところなく表現できるよう、リチャードソンは、作品ごとに工夫していました。

 
 ベン・ネビス山 関連の作品の一つが、《Glen Nevis, Inverness-shire 》です。

 ベン・ネビス山の麓のグレン・ネビスを描いた作品で、OWCSの展覧会に出品されました。

■リチャードソン・ジュニアの作品を評したジョン・ラスキンとは?

 美術評論家のジョン・ラスキン(John Ruskin, 1819- 1900)は、1857年にリチャードソン・ジュニアが OWCSの展覧会に出品 した作品《Glen Nevis, Inverness-shire 》を評し、次のように述べています。

 「リチャードソンは徐々に表現力を身につけてきている。コバルト(青)とバーントシェンナ(茶色)を拮抗させて、とても気持ちのいい画面にしている」(※ https://www.stephenongpin.com/object/790470/0/a-rocky-stream-in-scotland

 まるで以前からリチャードソン・ジュニアを知っているかのような言い方です。実際に知り合いであったかどうかはわかりませんが、少なくとも、作品については知っていたのでしょう。作品の出来栄えの変化を通して画家としての進歩を認めていますから・・・。

 ジョン・ラスキンは、リチャードソン・ジュニアとほぼ同時期に生きた美術評論家であり、芸術家のパトロンでした。

 オックスフォード大学を卒業した後、長期滞在のためジュネーブを訪れました。そこで手にした雑誌にターナーの批判記事が掲載されているのを見て憤慨し、ターナー擁護のために論文を書きました。それらをまとめて、1843年に出版したのが、『近代画家論』第1巻(Modern Painters, vol.1)でした。

 出版の契機となったのは1843年ですが、オックスフォードの学生時代に、ラスキンはこの本を構想しており、実際に書き始めてもいました。ターナーの独創的な構想力に着目していたのです。

 当時のターナー(Joseph Mallord William Turner,1775- 1851)は、イギリスを代表する風景画家として一定の評価を得ていました。ところが、一部の批評家からは、彼の風景画は自然に忠実ではないと批判されていました。批判内容は、色彩の面でも、地形的な表現の面でも、明らかに自然の姿に忠実ではないというものでした。つまり、真実の姿を描いていないという批判です。

 それらの批判に対し、ラスキンは、「真実は自然の対象に忠実であると同時に、自然を描く画家の観念にも忠実であるのだという、いわば、真実の両義性を根拠に、半ば強引に自然に忠実なるターナー像を主張して」擁護したと、橘高彫斗氏は指摘しています。

(※ 橘高彫斗、「ラスキン『近代画家論』第一巻における風景画鑑賞と享受の過程」、『美学』第71巻1号、2020年6月30日、p.25.)

 ちょっとわかりにくいですが、ラスキンは、画家が自然の対象に忠実だということは、一般に、自然をありのままに表現することと捉えがちですが、実は、自然を見る画家の「思考と印象」にも忠実であるべきだと指摘していたのです。

 風景画には、自然に対する両義性が必要だとラスキンは考えていました。ところが、ターナーを批判する人々のほとんどが、その片側しか見ておらず、自然を見る画家の「思考と印象」についての側面を見落としているというのです。

 描かれた画面を表層的に見るだけで、その真意を汲み取ろうとしないから、ターナーを誤解し、批判するのだとラスキンは考えていました。

 風景画の芸術的価値は、自然を単に表層的になぞるだけではなく、画家が自然を見て感じ、内省した心のあり様が画面に反映されていなければならないと、ラスキンは考えていたのです。そのような側面があるからこそ、鑑賞者の心を動かし、感銘を与えるというのです。

 ターナーを擁護するためとはいえ、ラスキンは、深い学識と経験、直観力に基づき、風景画のあるべき姿を論理的に組立てていました。

 そのラスキンが、《Glen Nevis, Inverness-shire 》(1857年)を見て、「表現力を身につけてきている」と評したのです。ラスキンは、以前からリチャードソン・ジュニアの作品に注目していたのでしょう、だからこそ、この作品に進歩の痕跡を見ることができたのだと思います。

『近代画家論』第1巻で、絵画に対する緻密な観察力と考察力を見せたラスキンは、たちまち美術評論家として成功を収め、その後、『ヴェネツィアの石』(The Stone of Venice, 1851-1853)を出版してからは、美術評論家として不動の地位を築きました。

 それでは、ラスキンが評した作品、《Glen Nevis, Inverness-shire 》を見てみることにしましょう。

■《Glen Nevis, Inverness-shire 》に見る、コバルトブルー、バーントシェンナ、そして、白

 ネビス山の麓にあるのが、グレン・ネビスです。そのグレン・ネビスの渓谷が描かれています。

(水彩、紙、84.5×130㎝、1857年、所蔵先不詳)

 やや高みから、グレン・ネビスの渓谷を展望した作品です。両側にごつごつした岩肌が見え、その隙間に白く塗られた枯れ木が何本か見えます。自然の険しさを感じさせられる光景です。

 左右から、バーントシェンナの濃淡で彩られた岩石が、中央の窪みに向けて迫っています。迫力のある画面に、圧倒されてしまいます。画面に慣れてくると、遠方に、まるで緊張した視覚を解きほぐすかのように配されたコバルトブルーが見えます。そして、手前には、差し色のように適宜、散らされた白が目に留まります。

 確かに、ラスキンが指摘するように、この作品で目立つのはバーントシェンナ、コバルトブルー、そして、白でした。

 褐色や焦げ茶色など、バーントシェンナの濃淡で覆われた岩山の背後に、微かにコバルトブルーの空が見えます。大量の岩山の色とわずかな空の色とが緊張感を保ちながら、画面に一種のハーモニーを奏でていました。

 補色関係にある二つの色を、分量に大きな差をつけて配分し、色相差で対立させて緊張を生み出す一方、分量の多寡によってバランスを図っているように思えます。緊張とバランスの塩梅が絶妙でした。

 遠方を見れば、淡いバーントシェンナで色づいた濃淡の雲が、青い空の上を軽く覆いかぶさっています。その狭間には、コバルトブルーが、申し訳なさそうにそっと置かれています。その結果、ごくわずかのコバルトブルーが、バーントシェンナの濃淡で覆われた岩山を息づかせ、密やかな躍動感を与えていたのです。

 岩で覆われた単調な渓谷を、巧みな色構成でメリハリをつけ、軽やかな筆遣いで、活き活きと描き出していました。

 この作品を評し、ラスキンは、「コバルトとバーントシェンナを拮抗させて」と表現していました。画面の造形上のコントラストをさらに劇的に見せているのは、絶妙な色構成の効果だと言いたかったのかもしれません。

 白の使い方の巧みさにも触れておく必要があるでしょう。

 青空を覆い隠す淡いバーントシェンナで表現された厚い雲、そして、その狭間にごくわずかに置かれた白が、背後から射し込む陽光を表すとともに、画面に明るさを添え、快さを感じさせてくれます。

 背後の山波の稜線にも、見え隠れするように白が置かれ、それらは雲のようであり、光の反射面のようにも見えます。単調になりがちな渓谷の風景が、エッジの効いた白の使い方で画面が引き締めら、興趣あるものになっています。

 画面手前には、枯れ木や馬、人の衣服が、白でアクセントをつけて、描かれています。渓谷で暮らす人々の生活の一端が、さり気なく表現されていました。色彩によって振り分けられた硬軟の塩梅が絶妙でした。

■モチーフの組み合わせ

 ジョン・ラスキンは、リチャードソン・ジュニアが好んで使ってきたモチーフに触れ、それらが、《Glen Nevis, Inverness-shire 》の中でも使われていたとし、次のように説明しています。

 「彼は常に、高原の風景を、同じモチーフを様々に組み合わせて描いているが、それはメドレーに過ぎない。同じモチーフとは、岩だらけの土手、ある場所は青く、別の場所は茶色になっている土手であり、よじれたスコットランドモミの木、シダ、犬、馬に乗っている人などである」

 画面をよく見ると、手前に、人や馬が描かれています。まず、岩山の開けた場所に、腰を下ろして語り合っている二人がいます。その傍らで犬がまるで見張っているかのように、顔をこちらに向けています。そして、語らう二人の近くには、男が一人、背を向けて立っており、その傍らで白い馬が草を食んでいます。

 険しい岩山の中に訪れた安らかなひと時であり、憩いのひと時が表現されているのです。寄り添って集う人や動物が、軽やかなタッチで描かれているところに、生命あるものの温もりが感じられます。

 一方、彼らの周囲を取り巻く、剥き出しになった岩肌は、いかにも荒々しく、強靭でした。そんな中、白い枯れ木が今にも倒れそうになっている様子が描かれています。エッジの効いた白が、辺り一帯に漂う荒涼とした雰囲気をさらに強化していました。

 人や動物が休息している場所と、その周囲の殺伐とした光景との対比が、なんともドラマティックです。そのコントラストが、画面に緊張感をもたらし、興趣を添えていました。

 ラスキンは、そのような画面の状況を、次のように評していました。

 「そのようなモチーフ全体が、さまざまな原酒をブレンドして作ったシャンパンが醸し出す陽気さの影響を受け、快く、楽しいものになるよう企図されている」と述べているのです。(※ https://www.stephenongpin.com/object/790470/0/a-rocky-stream-in-scotland

 実際、リチャードソン・ジュニアが描く初期作品のモチーフは、どれもほぼ決まっていました。モチーフの組み合わせに変化をもたせ、作品としての独自性を打ち出す一方、それらのモチーフのハーモニーによって、観客にとっての快さを演出していたのです。

 もっぱら峻厳な自然をテーマに描いてきたリチャードソン・ジュニアだからこそ、人や馬、犬といったモチーフを必要としていたのでしょう。それらのモチーフは画面の中で相互に絡み合って、自然の過酷さの中に、ほっとした安らぎをもたらしていました。画面に漲る緊張を、いくばくか緩和させる機能を果たしていたのです。

(2023/9/27 香取淳子)

 

百武兼行 ③:ロンドン時代の人物画、《母と子》について考える。

 前回、ご紹介しましたように、百武兼行(1842 – 1884年)がロンドンで描いた作品のほとんどが風景画でした。師事したのが風景専門の画家だったからです。ところが、唯一、人物を描いた作品が残されていました。

 それが、《母と子》です。

 どのような作品なのか、まずは画面を見てみることにしましょう。

■《母と子》(1878年)

 この作品は、《バーナード城》と同じ、1878年に描かれました。ロンドン時代に描かれた唯一の人物画です。

(油彩、カンヴァス、112×85㎝、1878年、有田工業高校)

 子どもを背負い、山道を歩いてくる女性の立ち姿が、画面中央に描かれています。山の頂上付近なのでしょうか、踏み固められた土が平らになって、道となったような山道です。その周辺一帯には、穏やかな陽射しが降り注ぎ、のどかな山村生活の一端がしのばれます。

 母子の傍らには、白とこげ茶のぶち犬が、まるで見守ってでもいるかのように、寄り添って歩いています。犬の脚が細すぎるのが気になりますが、尻尾を立て、女性を見上げる所作がなんとも微笑ましく、気持ちの和む光景です。

 これまでの百武はもっぱら、風景画を描いてきました。ところが、どういうわけか、この作品では珍しく、人物を取り上げています。しかも、正面から、全身像を捉えているのです。

■母と子の表情からくる違和感

 メインモチーフである母と子は、画面中央のやや左寄りに描かれています。女性は正面を向いて立ち、子どもは母の背中に負ぶわれ、肩越しに顔を覗かせています。いずれも観客を正視する恰好で描かれています。

 顔面部分にフォーカスしてみましょう。

(※ 前掲。部分)

 母にしろ、子どもにしろ、一見して、人物の描き方がいかにも不自然なのがわかります。表情といい、身体表現といい、リアリティに欠け、なんともいえない違和感があるのです。

 まず、表情からみていきましょう。

 母の表情は硬く、まるで観客を凝視しているように描かれています。口元に笑みはなく、寛いだところもありません。そのせいか、怒っているように見え、どちらかといえば、恐い表情です。

 ひょっとしたら、緊張していたのかもしれません。あるいは、疲れていたのかもしれません。仮にそうだとしても、子どもを背負って、山道を歩いている時、子どもにはちょっとした話しかけぐらいはしていたはずです。そうすると、多少、表情は緩みますから、このような恐い表情にはなりえません。

 違和感を覚え、子どもの顔に目を移すと、背中に負ぶわれている子どももまた、怯えたような表情をしています。探ろうとする目つきで、母親の背中からそっとこちらを覗いているのです。

 のどかなはずの光景なのに、母の表情も、子どもの表情も、何か恐いものにでも出会って、緊張している時の表情なのです。ところが、そのようなものは画面に何一つ、描かれていません。

 この母子を恐がらせ、緊張させているものは、ひょっとしたら、この画面の外にあるのかもしれませんが、そのようなことがあるとすれば、まず、傍らの犬が反応するはずです。

 そう思って、犬を見ると、正面を向かず、女性の方を見上げています。緊張している様子もありません。犬はただ、母子の傍らで、寄り添うようにして歩いているだけでした。つまり、このことからは、母子の正面、あるいは周囲に、彼らを緊張させるようなものは存在していないということになります。

 再び、子どもの顔を見てみました。

 改めて見ると、背中におんぶされている子どもの顔は、ただ大人の顔を小さくしただけのような描かれ方でした。幼さや丸味、柔らかさといった、子どもらしい特徴が何一つ、捉えられていないのです。

 ひょっとしたら、百武の人物表現が拙いからでしょうか。ふと、そんな気がしてきました。

 この母子の表情に違和感を覚え、奇異な印象を抱いてしまいましたが、それは、百武が西洋人の顔貌を表現するのに慣れていなかったからかもしれません。母と子が描かれている状況と、その表情とがマッチしないので、不自然に思い、違和感を覚えてしまった可能性があるのです。

 そう思って、見直すと、不自然なのは、顔面だけではありませんでした。よく見ると、身体表現もまた不自然でした。

■母と子の身体表現

 母や子の身体表現を見ると、一見して明らかに、骨格を踏まえて描かれていないことがわかります。ですから、やはり、奇異な印象を覚えてしまいます。

 それでは、母と子の上半身にフォーカスして、画面を見てみることにしましょう。

(※ 前掲。部分)

 まず、気になったのが、母にしがみつく子どもの手と腕です。手が小さすぎますし、シャツの先から伸びている手首と手の甲に、力が入っているようには見えませんでした。母のブラウスを掴むには、それなりの力を出しているはずです。筋肉が動けば、手首も手の甲もそれに応じて変化しているはずですが、その痕跡はどこにも見られません。

 そもそも、子どもは母の背中からずり落ちないように、手と腕を使って、ブラウスの下の母の腕をしっかりと掴んでいるはずです。そうすると、それにしたがって、母のブラウスにも皺が寄るはずですが、そのようにはブラウスの皺は描かれていませんでした。

 さらに、もう一方の手も、ブラウスの端を掴んでいましたが、ちょっと掴んでいるだけで、母の腕をしっかりと掴んでいるようには見えません。

 そもそも、子どもは、母の背中から、向かって右側に大きくはみだすように描かれています。正面よりもかなり右にずれているので、両方の手が、母の腕のほぼ同じ位置を掴むことはありえません。

 子どもが母の真後ろにいた場合、両手の位置は、この絵のように、ほぼ同じ位置になるのでしょうが、子どもの位置がこれだけ大きく右に寄っていますから、もう一方の手はおそらく、母の腕の付け根、あるいは、肩辺りを掴むことになるのではないかと思うのです。

 さらにいえば、子どもを後ろ手で支える母の上腕から肘にかけての表現も、不自然と言えば、不自然でした。

 子どもをおんぶするには、肩や上腕、後ろに回した腕にそれなりの負担がかかります。たとえ、ブラウスの上からでもそれが表現されていなければ、なりません。ところが、そうではなく、ダブダブに膨らんだ袖で肝心の部分が覆われていたので、曖昧に処理されているという印象を受けてしまいました。

 このように、せっかくの人物画なのに、全般的に、人の身体構造、身体の動きと筋肉との関係など、肝心のところが考慮されておらず、違和感が残りました。人物画に不可欠な要素が欠けていたので、リアリティを感じられず、不自然な印象を受けてしまったのです。

 それに反し、母と子に寄り添って歩いている犬はとてもうまく描かれていると思いました。

■犬の表現

 女性のすぐ横で、そっと寄り添うように、白とこげ茶色のぶち犬が歩いています。母と子の描き方がぎこちなかったのに比べ、こちらはとても自然に描かれています。ちょっと見上げたように、顔を傾けた仕草がとても愛らしく、印象的でした。

(※ 前掲。部分)

 夕暮れ時なのでしょうか、画面下半分は淡い褐色に染まっています。中景から前景に至る淡い土色の小道にも、薄い赤褐色が、所々に落ち、夕刻ならではの華やぎを醸し出しています。その中を歩く犬もまた、淡い赤褐色に包まれています。見ているだけで、のどかな山村の幸せを感じさせられます。

 犬は、歩く姿勢、首、胴体、脚、尻尾などの身体部位、そして、艶やかな毛並み、どれをとっても皆、とてもリアルに表現されています。犬が歩いている山道の中心部分は、人が歩いて踏み固められ、土が白くなり、周囲よりもやや低くなっています。犬が歩く傍らには小石がいくつも剥き出しになって転がっており、そこに、背後から鈍い陽射しを受けたぶち犬の影が、淡く長く伸びています。

 リアリティがあり、しかも、豊かな詩情性を感じさせる表現です。なんとも巧みな描き方だといわざるをえません。油彩画を学びはじめてわずか2年しか経っていないとは思えないほどです。

 人物と比較し、犬があまりにも巧みに描かれていたので、ひょっとしたら、百武は、動物をモチーフに描いていたのではないかと思い、ロンドン滞在中の作品をチェックしてみました。

 すると、風景画が多いのですが、中には動物を描いた作品もありました。

 風景ばかりではなく、牛や馬、虎など、動物のスケッチを多少はしていたようです。その中に犬の顔面のスケッチが残されていました。

 《素描 犬図》とされている作品です。

(鉛筆、紙、28×39㎝、制作年不詳、所蔵先不詳)

 手前は、耳が垂れ、鼻先の長いぶち犬なので、ダルメシアンでしょう。後ろは、耳は垂れ、鼻先が長く、大きな目をしているので、マンチェスターテリアのように見えます。スケッチといいながら、いずれも、特徴がよく捉えられており、犬の性格まで表現されているように見えます。

 後ろの犬には首元に蝶ネクタイが結ばれていますから、スケッチされたのは、家族から愛された愛玩用の犬だったのでしょうか。両方の犬とも、目つきがユーモラスで、愛らしさがあります。

 このようなスケッチの経験があるからこそ、百武は、《母と子》の中で、リアリティのある犬を描くことができたのでしょう。犬の身体表現については、牛や馬、虎など、動物の素描経験が役立っているように思います。百武はロンドン滞在中に、牛や馬については骨格を踏まえて、さまざまな姿態をスケッチしていました。

 さて、この作品は百武にとって、ロンドン時代、唯一の人物画でした。ところが、これまで見てきたように、肝心の人物の出来具合はそれほどよくありません。母と子の添え物のように描かれていた犬と比較すれば、雲泥の差でした。多少でも描いたことがある犬はごく自然に表現できていたのです。

 どれだけ数多く描いたかということが、うまく描けるか否かに大きく影響していることがわかります。

 それでは、研鑽を積んできた風景についてはどうでしょうか。この作品では、風景は背景として画面に組み込まれています。

 背景を見ていくことにしましょう。

■背景の妙味

 背景として描かれた風景は、遠近法を踏まえ、陽光の射し込み具合を考えて描かれています。そのせいか、画面に奥行きがあり、リアリティが感じられます。画面全体に安定感があり、丁寧に描かれた前景には、活き活きとした躍動感さえ醸し出されていました。

 画面の上半分が、大きく広がる空、そして、下半分は、メインモチーフが歩く山道といった具合に、はっきりと二つに分かれており、その連続性は希薄です。まるで別々の風景が繋ぎ合わされているかのように見えますが、それは、おそらく、色調が大きく二つに分かれているからでしょう。

 上半分で描かれているのは、どんよりとした雲に覆われた空と微かに見える遠くの山並みです。それら一切合切が、所々、青の混じった白に近い淡いグレーの濃淡で表現されているのです。

 空と遠景の山並みとは境目なく、混じり合っているように見えます。そして、空が限りなく広いように見えますから、むしろ、空を際立たせようとして、その色調にしたのかもしれません。

 雲が幾層にも果てしなく、広がっています。しかも、たいていが分厚く、巨大です。そのボリューム感には圧倒されてしまいます。

 歌田真介氏は、この作品をX線写真で見た結果について、次のように述べています。

 「明るい部分は厚塗りで、暗い部分は薄塗りである。そして遠景から描きはじめて、手前に向かって描いている。(中略)遠景あるいは背景から描くことは、はじめに空間の位置や色彩を決めることであり、それにバランスするよう主たるモチーフを描くことになるので、合理的な方法である。「母と子」の場合、広い空が明るいことから、シルバー・ホワイトを主とした、かなり厚塗りで「はり」のあるものになっている」

(※ 歌田真介、「百武兼行の技法」、三輪英夫編『近代の美術 53』、至文堂、1979年、p.94.)

 画面を見ていただけではわからない作品の制作過程について、歌田氏は、X線撮影した写真を通して明らかにしました。

 興味深いのは、百武は、シルバー・ホワイトを使って、空を厚塗りしていたということでした。シルバー・ホワイトという絵具を使って、量感のある雲を表現していたというのです。

 ホルベインは、シルバー・ホワイトについて、次のように説明しています。

 「中世〜近世の絵画で、重要な白だった鉛白をベースにしたホワイト。黄みで温かみがある色調が特長です。顔料の鉛白の有害性と、黄ばみやすさ、硫黄を含んだ絵具やガスでの暗色化懸念から、現在では主流を外れていますが、乾燥が早くしかも堅牢で上層をしっかり受け止める長所があり、描き始めから中描きに使われます。着色力が低いので、混色用にも適しています」

(※ https://www.holbein.co.jp/blog/art/a183

 当時、シルバー・ホワイトしか選択肢がなかったからかもしれませんが、百武はシルバー・ホワイトを使って厚塗りをし、空を仕上げました。おかげで、存在感のある空になったといえるでしょう。

 シルバー・ホワイトは、黄色味があり、温かさが感じられる色調を創り出すことができました。だからこそ、百武は、黄色などの暖色系を使わず、白とグレー、淡い青を使って、雲間から洩れる陽光の輝きを表現したのでしょう。

 実際、この作品の風景には、メインモチーフを深く包み込むような奥行きと広がりが感じられます。背景として後方に控えているだけではなく、大きな存在感を示しているのです。その結果、背景とメインモチーフの力が拮抗して、画面に緊張感を与え、見応えのある作品になっているような気がします。

 風景に目を注ぐと、メインモチーフの拙さが気にならなくなってくるほどでした。そのような錯覚を覚えるのは、百武が、メインモチーフを引き立てながらも、背景そのものが存在感を持てるよう、構図や色構成に配慮していたからではないかと思います。

■画面を支える構造的なライン

 興味深いのは、画面左に見える山の頂上が、女性の肩のラインと同じ位置で描かれ、そこから右下に下がっていることでした。まるで観客の視線を無意識のうちに右下方に誘い込んでいく試みのようにも思えます。この斜めのラインが、淡いグレーの濃淡で表現された遠景の中に、静かな動きと流れを生み出しているのです。

 一方、画面の下半分は、褐色を基調に表現されており、メインモチーフを支えるリアルな空間として機能しています。

 たとえば、犬の足元に転がっている石や土くれが、とても丁寧に、写実的に描かれています。足元のリアリズムが、メインモチーフのぎこちない表現を目立たなくしているように思いました。

 中景右寄りには、こんもりとした木が黒褐色で小さく描かれており、背後の山並みとの境界となっています。そして、前景右側を見ると、褐色の草木がカーブを描いて揺れ、地面に影を落としています。

 興味深いことに、その中景の木と前景の草木の影が弧状に配置されており、繋げば、大きな曲線の一部になります。

 こうして画面下半分に、曲線が生み出す柔らかさと優しさが生み出され、躍動感が醸し出されています。何気なく描かれたように見える、これらの風景的要素の組み合わせの中に、巧みな視線誘導が感じられます。

 さらに、画面右下に伸びる草木の影と、女性の足元から伸びる影、そして、画面左側の灌木の影が、ほぼ平行で左下方に伸びています。そして、画面右下の草木の影と、画面左側の灌木とが対角線上に配置されて、画面に安定感をもたらしています。

 こうして見てくると、風景の中にさり気なく込められた、左から右への斜線、中景から前景に向けての曲線、そして、前景で右から左下に平行に伸びる3つの影線、これらのラインがこの作品の中で大きな役割を果たしているように思えてきます。

 斜線、曲線、平行線といった幾何学的要素が、自然の風景の中から引きだされ、再編成されて画面に組み込まれているといえます。それが、この作品を構造的にしっかりとしたものに見せているような気がしました。

 百武が実際にこのような風景を見て描いたのかどうか、わかりませんが、取り上げた風景の要素を使って、画面に動きをもたらし、流れを生み出し、画面を構造化する効果を導いていたことは確かです。

 それが、メインモチーフを支え、安定感のある作品にしあげていたといえるでしょう。百武が描いた風景は、背景とはいいながら、単なる背景に留まらず、なんともいえない妙味を画面にもたらしていたのです。

 そこには絵画を越えた学識が必要で、わずか2年ほどの油彩画歴で身に着くものではありません。百武が持ち合わせていた絵の天分に加え、幅広い教養が影響していたという気がします。いずれにしたも、背景のおかげで、この作品が含蓄のある作品に仕上がっていたといえるでしょう。

■《母と子》から見えてくる、ロンドンでの学び

 百武兼行はロンドンではじめて、油彩画を学びました。前回、ご紹介しましたが、ロンドンで師事していたのは、風景画家のリチャードソン・ジュニア(Thomas Miles Richardson, Jr. 1813-1890)でした。鍋島直大の胤子夫人とともに、週1回、公館に来てもらって、公務の合間に、指導を受けていたのです。

 今回、取り上げたこの作品は、リチャードソンから学びはじめて約2年後の作品です。そして、《バーナード城》とほぼ同時期に描かれました。

  《バーナード城》 に大きな進展がみられていたように、百武は、風景画については、わずか2年間でさまざまなことを習得していました。とくに、見たままの自然の風景の中から、必要な要素を引きだし、再編成して組み合わせ、作品を強化する手法を、確実に身につけていたように思えます。

 たとえば、《バーナード城》では、流れゆく川面の波頭を際立たせ、砂州の小石を丁寧に描いていました。波頭や小石に着目し、その存在を観客の目に留まるように描いていたのです。そうすることによって、悠々と流れる時、あるいは、無常観といったものへの関心を観客の心のうちに呼び覚ましていたのです。

 この作品に、西洋の風景を描きながら、日本的情感を感じさせられるのは、百武のそのような工夫のせいでした。

 《バーナード城》 の空いっぱいに広がる雲の表現も、《母と子》と同様、ボリューム感溢れるものでした。こちらも、おそらく、シルバー・ホワイトで厚塗りしていたのでしょう。この雲の存在感が、前景で広がる砂州と川の流れの存在感と拮抗しており、画面に緊張感を生み出していました。

 このように、モチーフの組み合わせと構図によって、画面に緊張感を生み出し、作品を構造的に堅牢なものにするという点で、《バーナード城》と《母と子》の背景には類似性がありました。

 こうしてみると、百武はどうやら、リチャードソンから学びはじめて2年後には、油絵の技法を獲得していたことがわかります。さらに、作品の強度を高める構図、あるいは、作品に情感を盛り込むための着眼点などを、自分なりに会得していたのではないかという気がします。

 《母と子》の背景部分を見ると、風景画家から学んだ成果以上のものが表出しているように思えます。まず、背景として選んだ風景が、メインモチーフを活かせるように再構成し、工夫の跡が見られました、さらに、背景を二分し、双方が拮抗して画面に緊張感を持たせることによって、その構造を堅牢なものにする工夫もされていました。

 リチャードソンの作品と比較しなければ、明言はできませんが、これらは、いずれも百武独自の着眼点のような気がします。

 さらにいえば、母と子の傍らに犬を配して画面構成したところに、百武のバランス感覚が感じ取れます。人物表現については未熟であるとの自覚があったのでしょう。

 一方、動物については素描や油彩画作品が何点か残されていました。画題として取り組み始めていたようで、それなりの手応えを感じてもいたのでしょう。だからこそ、メインモチーフの絵として不十分なところを補うように、犬を添えていたのだと思います。

 それにしても、背景としての風景は、確かに、稚拙なメインモチーフを支える機能を果たしていました。背景を色調で二つに分割し、その緊張感がメインモチーフを引き立てるように構成されていたのが見事でした。

 さり気なく、そして、洗練された方法で、背景としての風景が、メインモチーフの造形的欠陥を補っていたのです。百武のセンスの良さ、学識の高さを思わずにはいられません。

(2023/8/31 香取淳子)

百武兼行 ②:ロンドンで初めて、油彩画を学ぶ

 前回は《鍋島直大像》を取り上げ、なぜ、画家でもない日本人が、西洋画の画法でここまで立派な肖像画を描くことができたのか、考えてきました。まず、この作品が描かれたローマでの絵の学びを振り返り、次いで、パリでの学びに遡って、その軌跡を振り返ってみました。百武が西洋人画家から何を学んだのかを辿ってみたのです。

 その結果、肖像画の出来栄えに関する疑問は一応、解けました。それでもまだ、なぜ?の思いは去りません。

 そもそも、画家になろうとしていたわけでもなかった百武が、なぜ、油彩画を手掛けるようになったのかがわからなかったのです。

 そこで、百武の来歴を見ると、ロンドン滞在中に、油彩画を学んでいることがわかりました。

 オックスフォード大学に留学していた鍋島直大らは、佐賀の乱が勃発したため、一旦帰国しました。ところが、乱はすでに収まっていました。佐賀に戻ってまもなく、新たな命を受け、再び渡英しています。今度はオックスフォードではなく、ロンドンに居を構えました。

 ロンドンで、師事したのが、風景画家のリチャードソンでした。

 そこで今回は、①百武はなぜ、油絵を描くようになったのか、②ロンドンで師事したリチャードソンはどのような画家だったのか、③彼からどのような影響を受けたのか、等々について考えてみたいと思います。

 まず、来歴からみていくことにしましょう。

■再び、ロンドンへ

 1874年3月、佐賀の乱が起こったことを知らされた鍋島直大は、急遽、百武を伴い、帰国しました。リバプールから乗船し、ニューヨーク、サンフランシスコを経由し、7月20日に横浜港に着きましたが、その頃にはすでに反乱は収まっていました。

 鍋島らは東京に2週間滞在して、明治新政府に一時帰国の報告をし、関係者に面会した後、佐賀に戻りました。佐賀には5日間ほど滞在しただけで、鍋島直大は落ち着く間もなく、1874年8月13日に再び、百武らを伴い渡欧します。

 前回とは違って、今度は、胤子夫人も同行しました。というのも、この時、鍋島に与えられた任務が、「西洋風の貴族の在り方」を学ぶようにというものだったからです。随員の田中永昌や夫人の世話係の北島以登子を伴っての渡航でした。

 長崎を出発し、上海、シンガポール、サイゴンを経由し、紅海からスエズ運河に入りました。そこから地中海に出て、ナポリに上陸しています。50日間にも及ぶ船旅でした。その後は陸路でマルセイユに向かい、胤子夫人の洋服を新調してパリで一時、滞在した後、ロンドンに着いたのは、11月23日でした。すでに雪が降り始めていました。

 鍋島は、以前とは違って、オックスフォードではなく、ロンドンに拠点を置きました。ケンジントン宮殿に近い、クランリカード ガーデンズにある大きな家でした(※ Andrew  Cobbing, “The Japanese Discovery of Victorian Britain”, JAPAN LIBRARY, 1998, pp.136-137.)。

 ロンドンからオックスフォードまでは約80㎞離れています。ですから、今回の渡英で、直大は、大学での学びよりも、イギリスの文化や社交を直接学ぶことに力点を置いていた可能性があります。

 コビングは、岩倉、蜂須賀、鍋島のような支配階級の子息は、ケンブリッジやオックスフォードなどに私費留学をし、西洋の文化を身に着けようとしていたと書いています。鍋島直大については、海外留学させてほしいと1871年に父に懇願していたことまで記しています(※ 前掲、p.31)。

 この時、鍋島直大は25歳でした。次代を担う若者として、欧米の技術、文化、制度を学ぶ必要があると判断していたのでしょう。国を背負って立とうとする若者の覇気を感じさせられます。

 考えてみれば、当時、アジア諸国は次々と、列強の侵攻を受け、悲惨な目に遭っていました。それを知った日本の支配階級の一部は、その対応策として、列強と並ぶ近代国家を目指しました。開国を迫る列強に対抗するため、自身を変革する必要があると判断し、それに向けて動き出していたのです。

 その頃、中国の支配階級は、外国と取引することを恥ずべき事だと考えていたとコビングは記しています。列強との接触を忌避し、近代化を拒否したのです。その結果、中国はたちまち、欧米列強の草刈り場になってしまいました。

 一方、日本では、進取の気性に富んだ武士や公家の一部が幕末の時点ですでに、西洋の技術や文化を学ぼうとしていました。列強と同等の技術や文化を学び、身に着けることによって、ようやく、彼らと対等に交流できるということを察知していたのです。

 彼らの子息が岩倉具経(1853-1890)であり、蜂須賀茂韶(1846-1918)であり、鍋島直大(1846-1921)でした。
彼らは、明治になると早々、渡英し、ケンブリッジ大学やオックスフォード大学で学んでいます。

 コビングは、日本から来ていた留学生のうち、蜂須賀と鍋島は妻を伴って来ており、彼女たちは初めてイギリス政府からパスポートを受け取った日本人女性だったと記しています(※ 前掲、p.122)。

 胤子夫人もまた、彼らと同様、進取の気性に富んでいたのでしょう。華族の夫人という立場で渡英した彼女は、ロンドンに到着するなり、さまざまなことを学び始めました。貴族階級の女性先駆者として、使命感のようなものを感じていたのではないかと思われます。

 さまざまな習い事のうちの一つが絵画でした。

■胤子夫人のお相手として、油彩画を学ぶ

 ロンドンに到着すると、胤子夫人には英国老婦人が付き、英語や生活習慣に慣れるよう手配されました。週一回、ダンスやピアノの稽古に励み、さらに、女性の嗜みとして、針仕事や裁縫、西洋刺繍にも取り組んでいました。

 日本の貴族階級の女性として、胤子夫人は、相応の西洋文化を身につける必要があったのです。やがて、西洋刺繍には絵画的センスが必要だということがわかってきました。

 そこで、胤子夫人は、画家から指導を受けることになりました。週に一度ぐらいの割合で、自宅に来てもらい、絵画を学ぶようになったのです(※ 三輪英夫編『近代の美術53 百武兼行』、p.25. 1979年7月、至文堂)。

 1875年のことでした。

 ヨーロッパでは、王侯貴族など名家の子女は、お抱えの家庭教師から、自邸内でマンツーマンのレッスンを受けるのが慣わしでした。学問や教養、芸術、マナー、衣装、美容など一切合切を、彼女たちは、一流の講師から自宅で学んでいたのです。

 胤子夫人もその慣わしに倣ったのでしょう。自宅で画家から直接、絵画指導を受けるようになりました。

 とはいえ、英国人の男性画家から、油彩画の指導を受けるのですから、多少の不安があったのかもしれません。しかも、油彩画は初めてでした。胤子夫人は後に、次のようなことを書き記しています。

 「初めてやるのに一人と云ふ訳にはいかず、百武氏が御相手をすると云ふ事から画の稽古を始めた」(※ 三輪英夫編、前掲、p.26.)

 三輪氏はこの文章から、「百武がすでに洋画になじんでいたというニュアンスを読み取れるように思える」と書いています。

 確かに、百武が共に学んでくれれば、胤子夫人も安心して、学び始めることができるでしょう。多少なりとも油彩画の知識があればなおのこと、百武の存在が、夫人が油絵を学び始める大きなプッシュ要因になったと考えられます。

 その一方で、胤子夫人は、「此様云ふ事から百武氏の洋画は始まった」(※ 前掲)とも書いています。百武はここで油彩画を学び始めたと明言しているのです。そうだとすれば、先ほどの文章はただ単に、一人ではなく、百武もいるから安心して学べるという程度の意味合いだったにすぎないのかもしれません。

 いずれにしても、胤子夫人が油彩画を学ぶ際のお相手として、百武も画家から直接、絵画指導を受け始めたことがわかりました。幼い頃から鍋島直大のお相手として共に勉強をしてきた百武にとって、これもまた公務の一つといえるものなのかもしれません。

■鍋島胤子夫人

 ロンドン時代の胤子の写真があります。

(※ http://easthall.blog.jp/archives/16127037.html

 外出用の服装なのでしょう。網のかかった帽子にパラソル、襟と袖回りにフリルのついたドレスを着て、写真に収まっています。いかにも貴族の女性らしい装いです。ロンドンでの生活にも多少、慣れてきたのでしょう、その表情には、自信のようなものさえ醸し出されています。

 上記の写真からは、短期間のうちに、一通りの知識やマナーを身につけ、胤子が日本の貴族の女性として、英国上流社会に馴染んでいる様子がうかがわれます。

 油彩画についても同様、西洋画法を着実に習得し、たちまち実力をつけていったのでしょう。佐賀市のHPには鍋島胤子について、次のような記述がありました。

 「日本閨秀画家の先駆者鍋島胤子があり、現代では久米桂一郎、岡田三郎助などの洋画の大家がある」

(※ https://www.city.saga.lg.jp/site_files/file/usefiles/downloads/s33349_20120903053915.pdf

 胤子が女性洋画家の先駆者と位置付けられていることがわかります。実際、油彩画でもそれなりの成果をあげ、評価も得ていたようです。黒田清輝は、「侯爵邸に叢中の卵の画が掲げてあるのを存じていますが、なかなかよく出来ていたように思います」と書き、鍋島胤子は日本の貴婦人の中で最初に油彩画を研究したと紹介しています(※ 三輪英夫編、前掲、p.25.)。

 胤子の作品は現存せず、残念ながら、現在、見ることはできません。とはいえ、黒田が見たという作品の白黒写真はありました。

(※ 三輪英夫編、前掲、p.35.)

 色彩がわからないのが残念ですが、画面いっぱいに伸びやかな筆致で捉えられた卵と籠と草花が印象的です。光と影、明と暗がしっかりと描き分けられ、モチーフに立体感と奥行きが感じられます。

 西洋刺繍のため、美的センスを磨くことを目的に、胤子夫人は画家から絵画指導を受け始めました。上記の作品を見ると、元々、画才があり、絵を描くのが好きだったのかもしれません。とりわけ、観察力、表現力に優れたものがあるように思えました。

 百武兼行と鍋島胤子夫人、二人が師事したのが、風景画家のリチャードソンでした。

■トーマス・マイルズ・リチャードソン・ジュニア(Thomas Miles Richardson Jr., 1813-1890)

 年譜には、1875年頃から胤子の付き添い役として、百武は、風景画家リチャードソンに師事したと書かれています。

 リチャードソンが果たして、どのような画家なのか気になります。調べてみると、確かに、トーマス・マイルズ・リチャードソンという人物がすぐ見つかりました。

こちら → https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Miles_Richardson

 ニューカッスル生まれの風景画家です。ただ、このリチャードソンは1784年生まれで1848年には亡くなっています。百武らが絵を習い始めたのが、1875年頃ですから、どうやら、彼らが師事したリチャードソンではなさそうです。

 上記のWikipediaには、リチャードソンの6人の子どもたちはいずれも画家を継いだと書かれています。そのうち、生存期間が明らかなのは、Edward Richardson(1810-1874)と, Thomas Miles Richardson Jr.(1813-1890)だけでした。生没年が判明していることから、この二人は当時、多少は名前を知られた画家だったことがわかります。

 しかも、このうちの一人は、父の名前の後にジュニアが付加されたThomas Miles Richardson Jr.です。ジュニアと称されているのは、画家としては父と遜色のないレベルだとみなされていたからと思われます。生存期間から判断すると、百武と鍋島胤子は、このリチャードソン・ジュニアから絵画の指導を受けていたのではないかと思われます。

 三輪英夫氏もまた、このリチャードソンについて、「正確なことはわからないが、おそらくニューカッスル生まれのトーマス・マイルズ・リチャードソン・ジュニアではないか」と推測しています(※ 三輪英夫編、前掲、p.29)。

 三輪氏はさらに、次のように詳しく、リチャードソン・ジュニアを紹介しています。

 「このリチャードソンは、ニューカッスル水彩画家協会の創立者リチャードソン・シニアを父として、ニューカッスル・アポン・タインに生まれ、父や兄弟同様、風景画家として知られた。油絵も描いたが、1848年以後は主に水彩画をよくし、イギリス国内の各地をはじめ、フランス、スイス、イタリア、ドイツを訪れ、その地に取材した風景画を多く残している。前景に人物を配し遠景を眺望する形の風景画を得意にした。1832年から1889年の間ロイヤル・アカデミーその他に出品を続けるとともに、1842年にはO.W.S.(Old Watercolour Society)の創立会員に、1851年にはスコットランド王立アカデミーの会員になっている」

(※ 三輪英夫編、前掲、p.29.)

 これを読むと、リチャードソンは油彩画の画家というより、水彩画の画家として知られていたようです。

 ただ、リチャードソン・ジュニアについては、まだWikipediaに掲載されていません。

こちら → https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Miles_Richardson_Jr.1813-1890

 仕方なく、ネットで調べてみると、クリスティーズや画廊のサイトで、トーマス・マイルズ・リチャードソン・ジュニアの作品がいくつか掲載されていることがわかりました。リチャードソン・ジュニアについては、ネットでそれ以上の情報は得られませんでした。

 しかも、ネットで見ることができた作品はいずれも水彩画でした。三輪氏の説明に従うと、1848年以降の作品ということになります。

 まずは、百武らが師事したリチャードソン・ジュニアの作品を見てみることにしましょう。

●《The Town and Lake of Nemi, South Italy》(1880年)

 イタリアを紀行して描いた作品、《南イタリアのネミの町と湖》です。

(水彩、グワッシュ、紙、パネル、78.3×68㎝、1880年、所蔵先不詳)

 柔らかな陽射しに包まれた、穏やかな風景画です。色合いが優しく、繊細な筆遣いが印象的な作品です、

 よく見ると、手前には、立ち止まって語り合っている人々が描かれ、その周囲に馬が座り、やや後ろには、数頭の馬と馬追いのような人が見えます。おそらく、旅人がこの峠で休憩している光景を描いたものなのでしょう。生活風景の一環としての風景画といえます。

 画面はやや高みから捉えられ、構成されています。そのせいか、辺り一帯を過不足なく、見渡すことができます。湖と遠景の山並み、そして、空を彩る淡い青のグラデーションが、清澄な空気の質感を感じさせます。それが、画面全体を包み込み、当地の人々の安寧な生活を浮き彫りにしています。

 上品な色調がなんとも快く、刺繍の絵柄としても、大きな壺や皿の絵柄としても秋の来ない絵柄だと思いました。

 さらに、イタリアの風景を描いた作品がありました。

●《Luveno, Lake Maggiori》(ルヴェーノ、マッジョーレ湖)

 イタリア北部に位置するマッジョーレ湖 は、イタリア第2の大きさの湖で、観光地としても知られています。

 リチャードソン・ジュニアはヨーロッパ各地を訪れ、風景画を描いていたとされていますが、イタリアも好んで訪れた土地の一つだったようです。

 マッジョーレ湖の湖畔から捉えられた作品があります。

(※ https://jamesalder.co.uk/thomas-miles-richardson-junior/luveno-lake-maggiori2/1

 手前に、ボートで作業する人の姿が描かれています。オールの先が海に浸かり、そこから波が楕円状に広がっており、湖面の表情が繊細なタッチで捉えられています。中景には湖面に浮かぶ何艘かの船が描かれ、湖畔右手には古城のような建物が建っています。

 現在の生活と過去を偲ばせる建物とが調和して描かれているのが印象的です。色調といい、タッチといい、透明感のある画面に詩情が溢れています。

 スコットランドの風景を描いた作品もありました。ご紹介しましょう。

●《Scottish Landscape》(スコットランドの風景)

 小高い丘の上から遠方の山並みを捉えた風景です。

(水彩、紙、43.18×60.96㎝、制作年不詳、所蔵先不詳)

 画面手前、やや中景よりに、二人の男性が岩に腰を下ろして、なにやら語らっています。その先には白い馬か羊のようなものも見えます。旅の途中なのでしょうか。大きな木をアクセントに、背後に山々が広がる風景が描かれています。

 穏やかな陽射しが、丘一面に降り注ぎ、中景以降の山並みは、淡い青のグラデーションで描かれており、雲の合間に霞んで見えます。

 手前のモチーフに落ちた柔らかい陽射しと、山並みと一体化したような淡い空に、清澄な空気の広がりが感じられます。空気遠近法によるぼかし表現が幻想的で、詩情あふれる空間を作り出しています。

 これまで見てきた作品と同様、手前に人が描かれ、背後に優しい青の空が配された繊細な印象の作品です。描く対象が違っても、似たような絵柄であり、画風です。

 いずれも空気遠近法を使って描かれています。遠くなるほど、山並みの青色が薄くなり、白に近づいていきます。その白が、空に浮かぶ雲と重なり合って、まるで空に溶け込んでしまいそうに見えます。

 リチャードソン・ジュニアが描く作品のモチーフと画面構成は、優しく安定感があり、西洋刺繍の絵柄にも、磁器の絵柄にも似つかわしいように思えます。

 このような画風のリチャードソンを見ると、百武は、果たして、彼から何を学んだのかという気がしました。

 それでは、リチャードソン・ジュニアに師事していた頃の百武の作品を、いくつか見てみることにしましょう。

■ロンドンでの百武の作品

《城のある風景》 (1876年)

 油彩画を習い始めた次の年に描かれたのが、《城のある風景》です。

(油彩、カンヴァス、40×56.1㎝、1876年、微古館)

 前景に川と川辺で働く二人の人物を配し、中景に船と工場のような茶色の建物群、遠景にはそびえる城郭と空を配した画面構成です。取り立てて印象に残る作品ではありません。むしろ、中景の建物群の描き方、川面に映る船や建物の影の描き方には、未熟さが感じられます。

 構図は、先ほど見てきたリチャードソンの作品に似通ったものがあります。手前に作業する人物を描き、中景に建物あるいは山並み、そして、背後に全体を包み込むような空を配するといったところに、類似性を感じさせられます。

 一方、川辺で働く二人の人物の影の付け方には違和感がありますし、中景に描かれた工場の建物群や手前の船は、遠近法が用いられていないせいか、不自然に見えます。

 雲の描き方、左側の木々や川面なども、リアリティに欠けて見えます。陽の射し込む方向を気にせず、パースを意識せずに描いていることから、まだ西洋画の技法を習得できていないことがわかります。

 とはいえ、これは油彩画を学び始めてまだ1年しか経っていない頃の作品です。しかも、随行員としての仕事や、経済学の勉強の合間に週一回、絵画指導を受けていただけでした。学びの時間の短さを思えば、むしろ上出来だといえるのかもしれません。

 1876年には、このような作品を描いていた百武ですが、その2年後の1878年には明らかに画力をあげた作品を仕上げています。

 《バーナード城》です。

 バーナード城は当時、画題として大変、好まれていたようです。多くの画家がこの城を取り上げ、作品化していました。たとえば、風景画家として有名なターナー、そして、リチャードソン・ジュニアの父などです。

 それらの作品を比較してみれば、百武の特徴を見出すことができるかもしれません。

 そこで、まず、百武の《バーナード城》を取り上げ、次いで、風景画家として著名なターナーの《バーナード城》、百武が師事したリチャードソン・ジュニアの父、リチャードソン・シニアの《バーナード城》をご紹介し、百武の作品の特徴を考えていくことにしたいと思います。

■百武作、《バーナード城》(1878年)

 《城のある風景》を描いてから、わずか2年しか経っていないとは思えないほど、上達しています。

(油彩、カンヴァス、83×114㎝、1878年、宮内庁)

 この作品も、前作《城のある風景》と同様、前景に川、中景に木々と橋、遠景に聳え立つ城郭と雲が描かれています。

 城の窓から空が見えているところに、廃墟となったバーナード城のもの悲しさが伝わってきます。観察した結果を見逃さず、哀感を誘う表現で捉え直しているところに、熟達の跡が見えます。茶褐色を多用し、古色蒼然とした色調で覆われた画面に、哀愁を感じさせられます。

 画面上部を見ると、どんよりと立ち込める雲が表情豊かに描かれており、哀切感が強調されています。

 そして、手前に視線を落とすと、流れる川の所々に白波が立ち、水の流れは留まることなく、下方に下っているのが見えます。脈々と流れる川が、背後に見える古城の空しさをことさらに強く、印象づけているのです。

 水の流れが、時間を越えて生き続けているのに対し、人が造った城は、時を経て古び、人が住まなくなれば、その生命を失ってしまうことが対比的に示されているのです。秀逸な画面構成だと思いました。

 次に、風景画家として有名なイギリス人画家ターナーが描いた作品を見てみましょう。

■ターナー作、《バーナード城》(1825年)

 イギリスの有名な風景画家ターナー(J. M. W. Turner, 1775 –1851)もまた、バーナード城を描いていました。

(油彩、カンヴァス、30.5×41.9㎝、1825年、Yale Center for British Art)

 砂州が画面右側に見えますから、百武の作品よりも左寄り、やや高みから城を捉えた光景です。前景に、川を挟む両岸の巨岩、そして遠景に、バーナード城と橋が淡く描かれています。その背後から、太陽が鈍い光を放ち、いまにも沈もうとしています。

 微かな陽光は川面を照らし、辺り一帯を穏やかな光で包んでいます。淡い色調で、川と空、そして、巨岩に囲まれた廃墟と橋がうっすらと捉えられ、画面全体に神秘的な雰囲気が漂っています。

 淡い色調とぼんやりとした構図の中に、ターナーの作品世界がしっかりと表現されていました。幻想的で、詩情溢れる風景画です。

 ターナーが描いた《バーナード城》に夕刻がもたらす幻想性と神秘性が表現されているとするなら、百武が描いた《バーナード城》には、ひしひしと迫る哀切感が、色濃く表現されているといえるでしょう。

 二つの作品を見比べているうちに、ふと、百武は、廃墟化した古城に、自身を重ね合わせていたのではないかという気がしてきました。百武が属していた武士階級は、維新で消滅しました。その実感はまだなかったでしょうが、やがてはこの廃城のように、消え去る運命にあることを察知していたような気がします。この作品には、それほど哀感迫るものがありました。

 油彩画を学び始めてまだ時間が経っていないというのに、百武の描いた画面からは切々とした情感が浮き彫りにされていたのです。

 百武は果たして、師事していたリチャードソン・ジュニアから、このような表現法を学んだのでしょうか。

 百武の風景画を2点、見てきましたが、いずれも、師であるリチャードソン・ジュニアの画風とは明らかに異なっていました。モチーフの設定や構成などにわずかに影響の痕跡は見受けられますが、肝心の画風にその痕跡を見出すことはできなかったのです。

 念のため、父親のトーマス・マイルズ・リチャードソン(Thomas Miles Richardson,  1784–1848)の作品を見てみることにしました。

 調べてみると、数ある風景画の中に、バーナード城を描いた作品がありました。ご紹介しましょう。

投稿を表示

■リチャードソン・シニア作、《バーナード城》(1826年)

 先ほどご紹介したターナーの作品とほぼ同時期の作品です。

(油彩、カンヴァス、サイズ不詳、1826年、所蔵先不詳)

 この作品は、百武の作品とは違って、バーナード城の先、橋の手前から捉えられています。画面右側に、バーナード城が描かれ、手前に二人の子どもが描かれています。

 男の子は川をのぞき込み、女の子は、その子が川に落ちてしまわないように、背中に手をまわして支えています。好奇心に満ちた子どもたちの姿が、さり気なく捉えられていたのです。

 画面中央左寄りから、沈む夕陽が空から山、そして、川面を照らし出し、まるで観客の視線を垂直方向に誘導しているかのようです。観客はごく自然に、子どもたちの存在に気づくといった画面構成になっていました。

 そのせいか、子どもたちの姿が日没の輝きの中で、違和感なく捉えられていました。リアルな生活の一端として捉えられ、活き活きと表現されていたのです。

 その一方で、残照がバーナード城の周辺一体を茜色に染め上げ、古城が放つ哀切感を殊更に強く、印象づけています。夕刻の古城と子どもたちを対比的に捉え、静と動、過去と現在が見事に表現されています。

 リチャードソン・シニアが表現した陰影のある茜色の色調は、百武の《バーナード城》の色調に似ていました。曇天の下での光景と、日没前の光景との違いはありますが、バーナード城とその周辺を鈍い褐色で表現したところに共通性があったのです。

 哀切感のあるこの色調によって、画面に風情が添えられていました。さらに、百武の作品では白波の立つ水の流れ、そして、リチャードソン・シニアの作品では子どもたちの姿を丁寧に描くことによって、逆に、古城が放つ哀切感を強く印象づけていました。

 バーナード城を題材にした、百武の作品、当時、イギリスで著名な風景画家ターナーの作品、百武が師事したリチャードソン・ジュニアの父、シニアの油彩画作品を見比べてみました。

 その結果、見えてきたのが、モチーフに対する百武の感性でした。

■モチーフに対する百武の感性

 バーナード城を描いた油彩画作品を何点か見てきました。百武、ターナー、リチャードソン・シニア、同じ画題を扱いながら、三者三様、切り口が異なれば、込められたメッセージもさまざまでした。それぞれ、独自の世界が表現されていたのです。

 百武の作品との類似性を感じたのが、リチャードソン・シニアの作品でした。

 ひょっとしたら、百武はリチャードソン・シニアの作品を見たことがあったのかもしれません。通り一遍のものではない情感が画面から滲み出ていたところに、百武の作品と似たものが感じられました。

 そう感じたのは、画面の色調のせいかもしれません。

 百武が実際にこの作品を見たことがあったのかどうか、わかりません。ただ、古城を含めた周辺一帯を、このような色調で表現したところに、モチーフに対する感性の類似性を感じたのです。

 この作品を見た瞬間、百武は師であるリチャードソン・ジュニアよりもむしろ、その父リチャードソン・シニアの影響を受けているのではないかという気がしました。

 百武の作品もリチャードソン・シニアの作品も、夕刻の煌めく光景の中に過去と現在を対比的に表現しているところに妙味が感じられます。

 リチャードソン・シニアは、好奇心に満ちた子どもたちの振る舞いを画面に組み込み、生の輝きを表現していました。一方、百武は、流れゆく川の水を丁寧に描くことによって、生の姿を捉えていました。古城を背景に生の姿を組み込み、画面構成をしたところに、両者の感性の似かよりを感じさせられたのです。

 いずれも廃城となったバーナード城の哀感を際立たせ、作品の興趣を深める点で効果がありました。とはいえ、生の捉え方には大きな違いがありました。

 百武が、流れ続ける水を描くことによって、生を表現していたのに対し、リチャードソン・シニアは、好奇心溢れる子どもたちの行為を通して、生を捉えていたのです。

 百武が永遠の営みを続ける自然の中に生を見出していたとすれば、リチャードソン・シニアは若い生命体の姿の中に生を見ていたともいえます。このような生の捉え方の違いの中に、両者が背負っている東西文化の差異が見られるような気がします。

 水の流れに着目した百武の作品には、滅びては生きる有為転変をさり気なく表現したところに、無常を感じさせられました。「もののあわれ」の中に美しさを感じる日本的感性が見受けられたのです。

 ふと、鴨長明の有名な一節、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」を思い起こさせられました。

 一方、好奇心に満ちた子どもの行為に着目したリチャードソン・シニアの作品には、今まさに生きていることの証である「躍動感」が捉えられていました。この躍動感こそ、ギリシャ彫刻を発端とする西洋美術が追求してきたものでもあります。

 西洋画の技法を身につけた百武は、川の流れの中に自然の営みを見出し、その有為転変の中に生の実態を捉えました。百武は、西洋画法でバーナード城周辺をモチーフとして捉えながら、実は、日本的感性を絵筆に載せていたのです。

 ロンドンで油彩画指導を受け始めてわずか3年で、百武は、油彩画作品から日本的感性を発信できるようになっていました。肥前の風土、そして、鍋島直大のお相手役として身につけてきた教養や学問によって花開いた日本的感性でした。(2023/7/29 香取淳子)

百武兼行 ①:百武はなぜ、西洋画の技法で《鍋島直大像》を描くことができたのか。

 前回、鍋島藩第11代当主の鍋島直大の肖像画が、明治初期に描かれていたことをご紹介しました。側近の百武兼行が描いた立像です。当時の日本人が描いたとは思えないほど立派な、西洋の画法に則って描かれた作品でした。

 なぜ、画家でもない日本人が、ここまで立派な肖像画を描くことができたのか、見れば見るほど、不思議でなりません。

 そこで、今回は、百武がなぜ、西洋風の肖像画を描くことができたのか、百武の来歴を踏まえ、考えていくことにしたいと思います。

■鍋島直大の立像

 ローマ滞在中の鍋島直大を描いた肖像画が残されています。書記官として随行していた百武兼行が1881年、大礼服姿の直大立像を描いたものです。

 ご紹介しましょう。

(油彩、カンヴァス、132.5×84.3㎝、1881年、徴古館)

 画面には、鍋島直大の威厳と風格、繊細さと品性など余すところなく描き出されています。いずれも貴族の肖像画に必要な要素です。それが、西洋の肖像画家に勝るとも劣らない筆さばきで、35歳の直大像の中に活き活きと表現されていたのです。

 骨格を踏まえて描かれた顔面や体躯、微妙なグラデーションを使って再現されたきめ細かな肌の艶、白い手袋を持つ手の甲など、まるで生きているかのようなリアリティが感じられます。

 明治初期、日本人画家が油絵に求めたものは、この画面に見られる、生きているように見えるリアリティでした。水墨画であれ、大和絵であれ、これまで日本人が見てきた絵にはみられないリアリティです。

 高橋由一をはじめ、ごく一部の日本人画家が西洋画に求めていたリアリティが、この画面には見事に描出されていました。画家ではなく、書記官として鍋島に随行していた百武兼行が、仕事の合間に描いたこの作品の中に、当時の日本人画家が渇望したリアリティが描き出されていたのです。

 驚かされたのはなにも、リアリズムに則って、この肖像画が描かれていたからだけではありません。透明感のある肌艶には、鍋島直大の若さが溢れ、思慮深い目元や意思的な口元からは、使命感と気概が漲っていたからでした。

 百武は、西洋の画法に従って鍋島の顔を写実的に描いていたばかりか、その内面までも、目の表情や口元、透明感のある肌艶を通して浮かび上がらせていたのです。

 改めて見て、この作品には、写実的に描くための観察力や表現力だけではなく、鍋島に対する百武の深い理解と敬愛が感じられます。

 それでは、描かれた鍋島直大と、描いた百武兼行はどのような関係だったのでしょうか。来歴から探ってみることにしたいと思います。

■鍋島直大のお相手役として選ばれた百武兼行

 鍋島直大は、肥前佐賀藩第10代藩主・鍋島直正の長男として、弘化3年(1846)に江戸で生まれました。15歳になった文久元年(1861)に、佐賀藩最期の第11代藩主となり、明治新政府の下では、もっぱら外交官として活躍しています。

 その鍋島直大のお相手役に選ばれたのが、百武兼行でした。直大が4歳、百武が8歳の時です。

 江戸時代には、元服前の藩主の嫡男のお相手役として、上級家臣の子弟が、部屋住みの身分で、召し出されることがありました(※ Wikipedia)。このお相手役は、藩主の嫡男にとって、友達であり、ライバルであり、伴走者としても位置付けることができます。次代の藩主として順調に成長していくには不可欠の存在でした。

 百武兼行はおそらく、聡明で、気配りができ、穏やかで、優しい子どもだったのでしょう。8歳の時に、鍋島直大のお相手役に選ばれました。以来、佐賀藩の第11代藩主となる直大とは、共に遊び、共に学びながら、成長していきました。

 佐賀藩の教育レベルは高く、教育内容は多岐にわたっていました。

 佐賀藩には、弘道館という藩校がありました。直大の父である直正は、第10代藩主になると、その予算を増額し、藩士の子弟教育を充実させました。1830年のことでした。

こちら → https://www.kodokan2.jp/main/14.html

 弘道館の教諭であった草場珮川や武富圯南から、直大と百武は、和漢文や漢籍をはじめ、衣冠職掌典故や書画などの手ほどきを受けていました。もちろん、武術も学んでいたでしょうし、文久年間(1861-1864)からは英語の学習も進めていました。

 実は、幕府が派遣した77名の万延の遣米使節団(1860年)に、佐賀藩は小出千之助ら藩士7名を参加させています。激動の時代を切り抜けるため、いかに積極的に海外情報を得ようとしていたかがわかります。

こちら → https://www.pref.saga.lg.jp/kiji00366322/3_66322_123025_up_z8c8ebvw.pdf

 帰国後、小出千之助が「世界の通用語が英語である」と報告したのを受けて佐賀藩は、蘭学研究から英語研究に切り替えています。欧米を知ろうとすれば、まず、英米を知らなければならず、それには英語学習が必要だと認識したからでした。

 佐賀藩は1867年、長崎に英学校致遠館を設立しました。フルベッキ(Guido Herman Fridolin Verbeck, 1830 – 1898)が着任して教鞭をとったのは1868年からです。

 近代化のためには欧米の技術、制度、文化を知らなければならず、それには勉学が重要だと佐賀藩は認識していました。1840年代は蘭学研究、1860年代からは英語研究といった具合に、覇権国に照準を合わせながら、欧米の知識や技術、制度や文化を学ぶことを奨励していました。

 そのような時代動向を見据えた教育環境の中で育ったのが、直大と百武でした。

 やがて直大が14歳になり、江戸に参府しなければならなくなると、それに伴い、百武も江戸溜池の鍋島藩邸に住むようになりました。江戸でも直大に随行して、さまざまな経験を積み、さまざまな知識を得ています。

 次代藩主のお相手役として、少年期を経て成年に至る過程で、百武は、直大とほぼ同様の経験を積み、幅広い知識を持ち合わせるようになっていました。二人の間には、主従の関係でありながら、兄弟でもあり、友達でもあるといった密接な関係が築かれていきます。

■以心伝心で通じる間柄

 このような来歴を知ると、百武がなぜ、《鍋島直大像》を写実的に描くだけではなく、その内面を画面上に浮き彫りにすることができたのかが、わかるような気がします。

 人格形成期を共に過ごし、幕末から維新にかけての激動期を共に乗り越えてきたからこそ、以心伝心でわかりあえる関係を築き上げることができたのでしょう。それが、肖像画の顔面に反映されていたのです。

 視線や目元、口元、頬の描き方がとても繊細で滑らかで、油彩筆で描いたとはとても思えません。まるで、面相筆で描いたかのように繊細で柔らかな筆致が印象的です。細部を柔軟に、気の流れに逆らうことなく描くことができていました。

 以心伝心で直大の気持ちを捉えることができたからこそ、直大の表情の一部始終を的確に表現することだでき、その結果として、内面世界を浮き彫りにできたのではないかという気がします。

 幼少期からのさまざまな想いを込めて、百武は絵筆を取り、画面を創り上げていったのでしょう。これまでの歳月を思うと、その喜びは何にも代えがたいものだったにちがいありません。

 百武は、大礼服を身につけた直大の晴れ姿を、自身の手で描くことが出来たのです。苦楽を共にして、激動の時代を乗り切ってきた感慨が、画面を通して伝わってきます。

 それにしても、なぜ、直大の随員に過ぎなかった百武が、油彩でこれほど立派な肖像画を描くことができたのでしょうか。依然として疑問が残ります。

 なぜ、西洋の肖像画家に勝るとも劣らない《鍋島直大像》を描くことができたばかりか、鍋島の内面まで描き出すことができたのでしょうか。

 《鍋島直大像》を描いた頃の百武を振り返り、生活状況や制作環境を踏まえた上で、この疑問に迫っていきたいと思います。

■ローマでの絵の学び

 百武は、1881年、《鍋島直大像》を仕上げています。1880年7月9日に横浜港を発っていますから、ローマに赴任して1年後には、この作品を完成させたことになります。驚くほど速い仕上がりです。

 百武にとって3度目の渡欧でした。日本を離れる時から、赴任地ローマで絵を学ぼうという気持ちを固めていたのかもしれません。

 この時の渡欧には、絵を学ぶために公使館雇いとなった松岡寿と、パリに留学する五姓田義松も同行していました。二人とも工部美術学校を退学して洋行を志す画家でした。

 松岡寿や五姓田義松と道中を共にしたことが、百武に画家としての自覚を促したのかもしれません。ローマに到着すると、百武は、早々に、油絵の研究をはじめています。

 一行が日本を離れのは、7月初旬でした。ローマに着いてもしばらくは、直大の随員として、外交官として、公使館の事務長として、百武は多忙をきわめていたはずです。それなのに、1880年10月頃には、もう絵を習い始めているのです。

 それも、公使館に画家を招き、公務の傍ら、画法を学び、研究し、制作するという変則的な学び方でした。激務の傍ら、絵を学ぶには、画家に公使館まで来てもらうしかなかったからでしょう。直大の配慮の下、百武は、ローマで絵画の研究をすることができるようになったのです。

■パリでの絵の学び

 実は、これ以前にも、百武は油絵を学んだことがありました。1878年6月から1879年秋までの間、パリで本格的に絵画の勉強をしていたのです。

 この時の采配にも、鍋島直大の配慮がみられます。

 1878年6月12日、鍋島夫妻は帰国のためにフランスを発ちました。当然、百武も同行しなければならなかったはずですが、彼はパリに残っています。夫妻の計らいで、1年間、パリに滞在し、油絵の研究を進めることができるようにしてもらったからでした(※ 『近代の美術』53、1979年、至文堂、p.40.)。

 この期間は公務もなく、純粋に絵画研究に励むことができました。

 パリでは、美術学校教授のレオン・ボナ(Léon Joseph Florentin Bonnat, 1833 – 1922)に師事し、油彩画法を学びました。この時の1年間というもの、百武は体系的に絵画を研究し、ひたすら制作に専念することができたのです。レオン・ボナの下で油絵について体系的に学び、基礎的技法を身につけていったのでしょう。おかげで、その後、表現力を飛躍的に高めていったと思われます。

■チェザーレ・マッカリ(Cesare Maccari, 1840-1919)

 さて、百武が、ローマで早々に絵の勉強を始めることができたのは、パリでの師レオン・ボナがチューロンを紹介してくれたからでした。ところが、時を経ず、チューロンは身を引き、百武に、王立ローマ美術学校名誉教授のチェザーレ・マッカリ(Cesare Maccari, 1840-1919)を紹介しています(※ 前掲、p56.)。

 果たして、チューロンがどのような画家だったのか、わかりませんが、教え始めて早々に、自身は身を引き、チェザーレ・マッカリを紹介したということは、百武がすでに高度なレベルに達しているとチューロンが判断したからかもしれません。

 チェザーレ・マッカリは、当時、イタリアではアカデミックな画家として著名でした。歴史画の領域で多くの作品を残しています。だから、チューロンは自分よりもマッカリの方が適任だと思ったのかもしれません。

 いずれにせよ、百武は公務の合間を縫って、当時、ローマで歴史画家として著名なマッカリから絵を学ぶことになりました。

 それでは、マッカリがどのような画家なのか、彼の作品を見てみることにしましょう。

■チェザーレ・マッカリ、《モナリザを描くダヴィンチ》(1863年)

 彼の作品を何点か見てみましたが、大勢の人物が画面に登場する作品が多く、顔の表情まで詳しく認識できる作品はあまり多くありません。ここでは、百武の肖像画と比較できるよう、敢えて、人物の顔がはっきりとわかる作品を取り上げることにしました。

 たとえば、《モナリザを描くダヴィンチ》(1863)という作品があります。

(油彩、カンヴァス、97×130㎝、1863年、カッシオーリ美術館)

 画面には、モナリザと、彼女を観察しながら描いているダヴィンチ、そして、その周辺にいる若者たちが描かれています。ダヴィンチが著名な作品《モナリザ》を描いている光景を題材にした作品です。歴史に残る画家が著名な作品を描いている光景を題材にしているので、これも一種の歴史画といえるのでしょう。

 17世紀から19世紀にかけての西洋では、歴史画は肖像画や風俗画よりも、絵画ヒエラルキーのなかで上位に位置づけられていました。歴史画が高く評価されているので、その頃のアカデミズムでは、歴史画を専門的に描く画家が大勢いたのです。マッカリもその一人でした。

 果たして、百武はマッカリの作品に満足していたのでしょうか。

 この作品を一見すると、まず、《モナリザを描くダヴィンチ》というタイトルでありながら、描かれている人物の誰も、描いているダヴィンチに関心を寄せていないのが不自然に思えました。

 絵を描いているダヴィンチの傍で、楽器を奏でる者がいたり、モナリザをのぞき込んでいる者がいたりします。後ろで、振り返るようにダヴィンチを見ている若者も、その角度からは制作中の絵も、絵筆を取るダヴィンチの手元もみえません。とても、《モナリザを描くダヴィンチ》というタイトルの作品とは思えなかったのです。

■生気がなく、統合性のない画面

 ダヴィンチがモナリザをモデルに描いている光景ではなく、モナリザを囲み、若者たちが戯れている光景が描かれているという印象が残ります。モナリザとポーズを取る3人の若者が画面中央にレイアウトされているからでしょう。

 しかも、彼らの顔や着ているカラフルな衣装には光が当たり、明るく、華やかで、観客の目を引きます。一方、ダヴィンチは横顔をわずかに見せているだけで黒い帽子に黒い服を着ており、背景に沈み込んでしまっています。

 モチーフの配置と画面の明暗の付け方からは、モナリザと3人の若者が強調され、メインモチーフのように見えます。肝心のダヴィンチよりも彼らの方が強く印象づけられてしまうのです。

 もちろん、描かれたモチーフはそれぞれ、丁寧に写実的に描かれています。

 モナリザのスカートの襞、マンドリンを弾く若者の袖、足元の絨毯は、光沢の具合、模様、質感など、モノの形状や身体の構造に忠実に、写実的に描かれています。さすがに西洋画だと思わせられます。

 ところが、彼らの顔や所作を見ると、いずれもまるで蝋人形のように見えてしまいます。手の動き、顔の表情、傾き、どれも硬直し、血が通っていないように見えるのです。一つ一つのモチーフは一見、リアルに描かれているようでいて、実際には、どれもリアルには見えませんでした。生気が感じられないのです。

 明暗のコントラストが強すぎるからでしょうか。

 まるでステージを照らす照明のように、上からの光源がモナリザと3人の若者を照らし出しています。人物の顔面はそれぞれ個性的に描き分けられていますが、照明が強すぎて、フラットに見えます。顔の形状は、皮膚の下の骨格を踏まえ、立体的に描かれているのですが、明るすぎる光源の下、平板で抑揚にかけ、リアリティが感じられないのです。

 身体表現も同様です。座っている様子、身体を傾け、覗き込んでいる様子、見上げている様子、虚空を見つめている様子、それぞれ、身体構造を踏まえ、立体的に丁寧に描かれています。

 ところが、それぞれの所作もまた、フリーズしてしまったかのように硬直しています。動きのポーズを取っていながら、動きが表現されていないのです。

 それぞれのモチーフは、形状あるいは身体構造上、正確に描かれているのですが、相互に関連づけられていないせいか、場面全体としての統合性が感じられません。強調したいモチーフは明るく、中央の位置に配置し、そうではないモチーフとの差異を創り出し、物語性を高めているのでしょうが、リアルに見えないだけではなく、不自然でした。

 マッカリの作品は肖像画ではないので、百武の作品とは比較しにくいのですが、この作品を見る限り、人物の顔面の描写は、百武の作品の方がはるかに優れていると思いました。

 ふと、百武はチェザーレ・マッカリから何を学んだのか、そもそも、影響は受けているのだろうか、という素朴な疑問が湧いてきました。

 そこで、百武の《鍋島直大像》とマッカリの《モナリザを描くダヴィンチ》を比較してみることにしたいと思います。

■人物の顔面を比較

 まず、マッカリの作品について、改めて、中央に描かれたモナリザと3人の若者の顔をクローズアップしてみました。

(※ 前掲。部分)

 それぞれの顔は写実的に描かれています。一見、本物そっくりに見えるのですが、顔に生気がありません。先ほど、蝋人形みたいだと表現したように、表情は硬く、皮膚の下に血が通っているようには見えません。

 確かに、一人一人の表情は描き分けられており、それぞれの顔面にリアリティはあります。ただし、それは、骨格を踏まえ、構造的に不自然ではないという点でのリアリティです。表面的には写実的に描かれているように見えるのですが、人物を描いていながら、それぞれの人物が持っているはずの生気が表現されていないのです。

 比較のため、百武の《鍋島直大像》の顔部分をクローズアップしてみましょう。

(※ 前掲。部分)

 艶があり、張りのある若々しい肌が印象的です。額と眉毛の上、そして鼻筋に、皮脂が適宜、浮いています。この顔面に浮き出た皮脂が、エネルギーを感じさせ、内面生活の豊かさ、精神活動の豊かさを感じさせます。

 歴史画として描かれた人物の顔と、肖像画として描かれた顔と単純に比較することはできないのですが、先ほどもいいましたように、マッカリが描いた人物の顔は、平板で、肌の艶や張りといったものは見受けられませんでした。

 一方、百武が描いた人物の顔は、顔面構造に従って、写実的に描かれているだけではなく、画面に活き活きとした生気が浮き出ていました。西洋の画法に則りながら、東洋の気を感じさせるものがあったのです。

 顔面構造を踏まえ、写実的に描かれているという点ではマッカリも百武も同様でした。ところが、写実的に描かれた顔面に、生気が現れているか否かという点で、大きな違いが見られたのです。

 こうして比較してみると、《鍋島直大像》は、ローマ滞在時に描かれたとはいえ、マッカリの影響を受けた作品とはいいがたいことがわかります。

 それでは、この作品は、一体、誰の影響を受けているのでしょうか。

 考えられるのはただ一人、1878年から79年にかけて、パリで師事していたレオン・ボナです。

■レオン・ボナ(Léon Joseph Florentin Bonnat, 1833 – 1922)

 1833年に生まれたレオン・ボナは、エコール・デ・ボザール(École des Beaux-Arts)で学び、肖像画家として知られるようになりました。1867年にレジオンドヌール勲章(シュヴァリエ章)を、1869年にはサロン賞を受賞し、初めて芸術アカデミーのサロン審査員に選出されています。

 百武が教えを請うようになった1878年にはすでに、保守的なサロンの重鎮となっていました。百武はアカデミーの技法を身につけ、すでに肖像画家として著名になっていたレオン・ボナから手ほどきを受けていたのです。

 百武の画期的な作品は、レオン・ボナの薫陶によるものでした。

 ボナはその後、1888年にエコール・デ・ボザールの教授となり、1905年5月にはポール・デュボア(Paul Dubois)の後を継いで学長になっています。当時のフランスの美術界で中心的な地位を確立した画家だったのです。

 それでは、レオン・ボナの作品を見てみることにしましょう。

 マッカリと比較するため、似たような題材の作品を取り上げ、百武の《鍋島直大像》への影響があるのか否かを探ってみたいと思います。

 取り上げるのは、《ヴィクトル・ユーゴの肖像》(1879年)です。

 数ある肖像画の中から、なぜ、この作品を取り上げたかというと、レオン・ボナが、ヴィクトル・ユーゴ(Victor-Marie Hugo, 1802-1885)の肖像画を描く様子をスケッチし、版画にした作品があったからです。

 まず、その版画作品から、ご紹介していくことにしましょう。

■《ヴィクトル・ユーゴを描く レオン・ボナ 》(1879年)

 1879年に、レオン・ボナがユーゴを描く光景を、ジュール=ジュスタン・クラヴリー(Jules-Justin Claverie, 1859-1932)がスケッチし、その絵をフレデリック・ウィリアム・モラー(Frederick William Moller)が版画にした作品があります。

(※ Wikimedia)

 まず、目につくのが、正面に座ってこちらを見ているユーゴです。ついでその傍らで、大きなカンヴァスに絵筆を滑らせているレオン・ボナ、そして、描く様子を見ているギャラリーです。

 おそらく、実際に見た光景をスケッチしたものでしょう。画面中央に、モデルとなったユーゴと描きかけのカンヴァスとレオン・ボナが描かれており、何がメインモチーフなのかがはっきりとわかる構図です。マッカリの作品と違って、違和感はありません。

 手前の紳士、淑女は真剣な面持ちで、ユーゴを描くレオン・ボナの様子を背後から見つめています。画面右横からは、子どもたちが興味津々、身を乗り出して覗き込んでいます。

 まるで実演ショーのようです。

 絵を描いている画家そのものが、鑑賞の対象になっていることがわかります。レオン・ボナはまさに時の人だったのでしょう。この版画は、当時、彼が肖像画家としていかに著名だったのかを示すものだといえます。

 この画面からは、レオン・ボナに対する敬意が感じられます。

 考えてみれば、この版画もマッカリの《モナリザを描くダヴィンチ》も、著名なモチーフを著名画家が描くという点で、画題としては同種でした。

 ところが、描かれた内容は大幅に異なっていました。マッカリの作品では、描かれている人物たちは、モナリザを描いているダヴィンチに興味を示していませんでした。絵を描いている傍で、3人の若者は勝手な行動をしており、ダヴィンチに対する関心も敬意もありませんでした。

 同じような画題でありながら、捉え方の違いをみると、改めて、果たして、百武はマッカリに満足していたのかという疑問が湧いてきます。

 それでは、レオン・ボナが描いた《ヴィクトル・ユーゴの肖像》を見ていくことにしましょう。

■ ヴィクトル・ユーゴの肖像》 (Portrait of Victor Hugo、1879年)

 レオン・ボナが46歳の時に、77歳のユーゴを描いた肖像画です。肖像画家として評価され、サロンの重鎮になっていた頃の作品で、晩年に近い文豪の威厳や風格を余すところなく表現しています。

(油彩、カンヴァス、138×110㎝、1879年、ヴェルサイユ宮殿)

 ユーゴは、分厚い本に左肘をついて、左手の人差し指を頭に差し込み、何か考え事をしているようなポーズを取っています。右手はどういうわけか、チョッキに差し込み、真剣な表情でこちらを見つめています。

 肖像画に似つかわしくない、不可解なポーズと仕草が気になります。

 レオン・ボナはなぜ、このようなポーズのユーゴを描いたのでしょうか。

 これがユーゴらしさを表すものなのかどうかはわかりませんが、通常の肖像画とは一線を画したポーズと所作が、私には謎でした。

 そこで、調べてみると、次のような写真がみつかりました。

(※ Wikimedia)

 1876年に撮影されたユーゴのグラビア写真です。レオン・ボナがユーゴの肖像画を描いたのが1878年ですから、ほぼ同じ時期の写真でした。ユーゴは日頃、このような仕草をすることが多かったのかもしれません。

 再び、レオン・ボナの作品に戻ってみましょう。当時のグラビア写真と見比べてみると、写真よりもはるかに精密で、迫真的な肖像画です。

 眼の前の対象を、機械的な正確さで、写し取るカメラで捉えた姿よりも、はるかに迫真的な姿が、絵具と絵筆を使って、カンヴァスの上に表現されていたのです。

 秀でた額、額に深く刻み込まれた皺、意思が強く、感性豊かな目つき、目の下の深いたるみ、さらには、髭や頭髪に混じる白髪の輝きなど、顔面だけでも強烈な訴求力があります。

 それに、不可思議な手の仕草が加わります。

 左手の人差し指を頭に差し込み、右手は親指を残して4本の指をチョッキの中に入れています。左手の薬指には金の指輪がはめられ、右手の甲には血管が浮き立っています。老いてはいても、成功した人物であることが表現されています。

 左右の手が示すものが一体、何なのか、いまだに気になります。単なる仕草にすぎないのか、あるいは、何らかのメッセージが示されているのか、何度見ても一向にわかりません。仮に何らかのメッセージだとしても、それを解読する手掛かりはないのです。

 謎を感じると、観客はさらに、画面に引き付けられることでしょう。非常にインパクトの強い肖像画です。

 明暗のきわだった画面構成も、この作品の特徴といえます。

 左上にある光源が、顔と手、ワイシャツの襟と袖を強く照らし出しています。まるで暗闇の中から顔と手だけが浮き上がっているように見えます。背景は暗く、着用している服も黒色なので、ワイシャツの襟と袖の白さが際立って見えます。

 この襟と袖の白さが、暗がりの中で、顔と手を引き立てる役割を果たし、ユーゴの内面世界への関心が喚起されます。正面を見つめているようであり、虚空を眺めているようでもあるユーゴの表情が気になり、画面に見入ってしまうのです。

 傍らのテーブルや本、座っている椅子には淡い光が当たり、ひっそりとした静けさを醸し出しています。それが、思索にふけるユーゴの表情に現実味を添え、画面に深みを与えていました。

 暗い背景の下、顔面の表情と手の所作に、観客の視線が集中するように画面構成されているのも大きな特徴でした。そのせいか、リアリズムの極致ともいえる表現でありながら、画面からは豊かな情感が浮き上がっています。

 これこそ、百武が求めていたものではなかったかという気がしてきます。

 レオン・ボナが描いた《ヴィクトル・ユーゴの肖像》には、写実的に捉えられたユーゴの表情から、その内面がくっきりと浮き彫りにされていました。画面から発散される迫力を感じた時、私は、百武はレオン・ボナの影響を受けていると確信したのです。

 明暗のコントラストの強い画面構成、写実的に描きながらも、その内面を描出する工夫などがこの肖像画の特徴でした。振り返れば、その特徴はまさに、ベラスケスの人物像の特徴でもありました。

 そう思うと、急に、レオン・ボナは、ベラスケスの影響を受けているのではないかという気がしてきました。

 確認するため、ベラスケスの作品を見てみることにしましょう。

■ベラスケス、《マルタとマリアの家のキリスト》(1618年)

 ベラスケス(Diego Rodríguez de Silva y Velázquez, 1599 – 1660)は、スペインの宮廷画家として、数多くの作品を残しています。その中から、極めてリアルに市井の人物を描いた作品をご紹介しましょう。

(油彩、カンヴァス、60×103.5㎝、1618年、ナショナル・ギャラリー(ロンドン))

 この作品は、イエス・キリストがマルタとマリアの家を訪れている場面が描かれています。新約聖書のルカによる福音書 (10章38-42) に基づいた場面です(※ Wikipedia)。

 肖像画ではありませんが、画面左側に描かれたマルタの表情が、迫真的に表現されているのが印象的です。

 ルカの福音書によると、マリアと姉マルタは共に暮らしており、イエス・キリストと親しかったそうです。ある時、イエス・キリストが彼女たちの家を訪れました。その際の情景を描いたのがこの作品です。

 画面右上には「画の中の画」のようなものが描かれており、キリストとその足元に座っているマリアの姿が見られます。マリアはキリストの傍らで、その話に耳を傾けているのです。

 一方、手前に描かれた姉のマルタは、キリストをもてなすためにニンニクをすり潰しています。キリストをもてなすための料理を作っているのですが、不満そうな顔つきがとてもリアルに描かれています。自分だけが働き、マリアが手伝いもしないでキリストの傍にいることが気に入らないのです。

 それを聞いたキリストは、不満を漏らすマルタに比べ、キリストの話を聞いているマリアの方がよほど優れていると、マルタを諭します。

 日常生活には、マリアのように、キリストの話を聞いて、真理を求めようとする側面と、マルタのように、客がくればもてなすための料理をつくろうとする、つまり、折々に求められる課題をこなそうとする側面があります。

 このエピソードでは、キリストが、マリアの方が優れていると評価しました。そのことから、具体的な課題をこなすことより、真理を求めようとすることの方が重要だという解釈が示されています。

 とても複雑で、深淵な内容の作品なのです。

 さて、左やや上方からの光源が、マルタの顔、衣装、ニンニクをすり潰す手をくっきりと見せています。光源は微妙な陰影を生み、マルタの気持ちを浮き彫りにする一方、手の動きを描き出しています。

 小道具としての金属のすり鉢、ニンニク、魚、卵なども、きわめて精密に、そして、写実的に描かれています。

 宗教画の要素があり、静物画の要素もあり、市井の人の日常生活の一端をさり気なく描いた風俗画の要素もある見事な作品です。

 驚いたことに、これはベラスケス19歳の時の作品でした。

■百武が求めたものは、ベラスケス由来のリアリズムか?

 哲学者であり、神学者でもあった山田昌氏は、「マルタとマリア」のエピソードについて、次のように語っています。

 「マリアは他のことは何もしないで、じっとイエス様の言葉に耳を傾けていた、それに対して、マルタの方はお勝手でもって、いろいろごちそうを作ってもてなそうと働いていた、そういう2つの生活が、「観想的生活」と「活動的生活」との、ひとつのモデルであるのだ、そしてまた、イエス様は、マリアが一番いい場所を選んだと、つまり、活動的生活より観想的生活の方が優位である、優れていると、こう言われたと、そういう解釈です」

(※ 山田昌、『藤女子大学キリスト教文化研究所報告』2巻、2001年3月、p.3.)

 マルタとマリアのエピソードについては、このような解釈が伝統的な解釈となっていたと語っています。エックハルト(Meister Eckhart, 1260年頃 – 1328年4月30日以前)によって、新たな解釈が提示されるまでは、この「観想的生活」優位の解釈が定着していたのです。

 興味深いことに、ベラスケスはこのエピソードを踏まえて、《マルタとマリアの家のキリスト》を描く際、マリアを遠景に置き、マルタを前景に置いて、きわめて写実的にその表情を描いています。つまり、「活動的生活」に力点を置いた画面構成をしているのです。

 ベラスケスが、理想あるいは観念よりも、現実を踏まえた生活実践を重視していたことがわかります。しかも、生活実践の中から生まれた不平不満を人物の表情を通して浮かび上がらせようとしていました。

 描かれた人物から、生の感情を蘇らせ、画面に生気をもたらせようとしていたのです。

 それでは、マルタの顔をクローズアップしてみましょう。

(※ 前掲。部分)

 横睨みをしているような目つきや、硬く閉じた口元には、自分だけが料理を作らされているというマルタの不満が滲み出ています。この表情を見れば、誰でも、マルタの気持ちは手に取るようにわかります。顔面を見るだけで、その内面が読み取れるように描かれているのです。

 そして、赤味の差した頬のちょっとした窪み、すりこぎ棒を握る、太く赤らんだ手指には、マルタの実直さと、日々の労働の大変さが表現されています。

 驚くほど迫真的な描き方です。油彩画でありながら、柔らかな質感を出すことができているのです。顔面構造、身体構造を踏まえたうえで、表情の現れやすい目元や、口元を、柔らかいタッチで描いているからでしょう。見事です。

 《マルタとマリアの家のキリスト》には、モチーフの捉え方、画面構成、明暗のコントラストの強さなど、ベラスケスの画法を、端的に見ることができます。

 先ほどご紹介した《ヴィクトル・ユーゴの肖像》と比べてみると、レオン・ボナは明らかに、ベラスケスの影響を受けていることがわかります。

 マッカリの作品でみてきたように、ともすれば、硬直した表現になりがちな油絵ですが、ベラスケスが描く肌はとても柔らかく、顔もまた活き活きとして表情豊かに表現されていました。タッチが滑らかだからなのでしょうし、均質な色を均等に、カンヴァスに置くことをしなかったからでしょう。

 ベラスケスの作品を見てようやく、なぜ、レオン・ボナが迫真的な肖像画が描けるのかがわかったような気がします。そして、百武がなぜ、油彩で表情豊かな《鍋島直大像》を描くことができたのかがわかってきました。

 百武はいってみれば、ベラスケス由来のリアリズムを、レオン・ボナから学んでいたのです。

 レオン・ボナに師事したわずか1年ほどの期間に、百武は、ベラスケスの画法を吸収していたことになります。生来、豊かな画才を持ち合わせていたのでしょう。

(2023/6/24 香取淳子)

ゴダールを偲ぶ ①:『気狂いピエロ』冒頭シーン

■回顧2022年:ゴダールの訃報

 2022年9月13日、ネットニュースでゴダールが亡くなったことを知りました。91歳でした。驚いたというよりは、なにか奇妙な感覚に襲われました。とっくの昔に過ぎ去った青春時代が突如、甦ってきたのです。

 ゴダールといえば、私の青春時代を彩った華麗な文化人たちのうちの一人です。名前を聞くだけで、タバコをくわえ、ラッシュ・プリントをチェックしていたゴダールの有名な写真が思い出されます。

 フィルムを光にかざし、黒メガネの奥から見上げるゴダールの姿です。当時、この姿を見て、なんと洒落て、カッコよく思えたことでしょう。

(※ https://www.blind-magazine.com/en/news/philippe-r-doumic-the-photographic-treasures-of-french-cinema/より)

 フィリップ・R・ドゥーミク(Philippe R. Doumic)が撮影したこの写真は、ゴダールの溢れる知性と強力な破壊力を鮮明に映し出しているように思えました。映画界に新たなムーブメントを巻き起した男のしなやかで強靭な精神力が、この写真から放散されていたのです。黒メガネとタバコはその象徴にも思えました。

 『勝手にしやがれ』(À bout de souffle、1960年)で一躍有名になった彼は、『気狂いピエロ』(Pierrot Le Fou、1965年)でその名を不動のものにしました。

 『気狂いピエロ』が日本で公開されたのが1967年7月、いそいそと映画館に出かけたことを鮮明に思い出します。雑誌を通して、評判は知っていましたが、私が実際に、ゴダールの映画を見たのは、この時が初めてでした。

 その後、『中国女』(La Chinoise、1969年)、『ウィークエンド』(Week-end、1969年)など、ゴダール作品が日本で公開されるたび、待ちわびるようにして、映画館に行きましたが、『気狂いピエロ』で感じたような衝撃を味わうことはできませんでした。

 『気狂いピエロ』は、私にとって、それまでに見たことがないほど斬新で、刺激的で、痛快な映画でした。

 1970年10月には、『彼女について私が知っている、二、三の事柄』(Deux ou trois choses que je sais d’elle)が公開されました。タイトルが映画らしくなくて面白いと思いましたが、忙しくなっていたこともあって、結局、映画館に行くことはありませんでした。映画雑誌で関連情報を得ただけに終わっています。

 こんなふうにして、私はいつしか、ゴダールから遠ざかってしまいました。そして、今年9月、不意にゴダールの訃報に接したのです。

 驚いたことに、ゴダールは安楽死を選択していました。

 一瞬、どう考えていいかわからず、頭が空白状態になってしまいました。ところが、次の瞬間、いかにもゴダールらしいと気持ちを切り替えることができました。生命の終わりの期日を、自然に任せるのではなく、医療に任せるのでもなく、潔く自ら決定していたのです。

 『気狂いピエロ』を見た時と同じような衝撃を与えられました。

 そこで、ゴダールを偲びながら、私がもっとも衝撃を受けた『気狂いピエロ』について振り返り、その後、その死に方について、諸々、綴ってみたいと思います。

■『気狂いピエロ』(Pierrot Le Fou、1965年)冒頭シーン

 ゴダール作品でもっとも衝撃を受けたのが、『気狂いピエロ』でした。とはいえ、今、覚えているのは、冒頭のシーン、パーティのシーンとラストシーンだけです。

 ストーリーはほとんど覚えていません。ただ、ペダンティックで孤高な主人公が、劇画のように荒唐無稽な展開の果て、ダイナマイトを使って爆死するということぐらいです。

 当時、私がなぜ、この作品に強い衝撃を受けたのか、なぜ、これらのシーンだけが記憶に残っていたのか。ゴダールについて語るために、まず、それらを思い起こすことから始めたいと思います。

 記憶をはっきりさせるため、今回、DVDを購入し、詳細に見てみました。まず、冒頭のシーンから見ていくことにしましょう。

●タイトル画面

 映画が始まるなり、ペダンティックな画面に強い衝撃を受けたことを記憶していますが、改めてDVDを見てみると、タイトル画面もまた、斬新でした。

(※『気狂いピエロ』、2017年、KADOKAWAより)

 同じフォント、サイズで必要最低限の映画の概要が示されています。赤で主演のジャン・ポール・ベルモンドとアンナ・カリーナ、そして、青でタイトルの「PIERROT LE FOU」の文字、最後に、監督のジャン・リュック・ゴダールの赤い文字が、黒地の画面に一文字ずつタイピングされて表示されていきます。

 タイピングで一字ずつ打ち出し、画面に表示していく方法が、当時はとても珍しく、画期的な表現方法に思えました。しかも、全ての文字が大小、強弱をつけず、均等で表されているのです。

 それだけではなく、キャストと監督の区別もされていませんでした。区別されているのはただ一つ、青で表示されたタイトルと、赤で表示された製作陣(主人公と監督)の違いだけでした。

 ここにゴダールの趣向の一つを見ることができます。リニアではなくノンリニアへの志向性、あるいは、要素に還元する志向性、さらには、生成過程への関心・・・、とでもいえるようなものを確認できたような気がします。

●ベラスケス

 タイトル総ての文字が表示されると、その画面に被るようにナレーションが始まり、明るいテニスコートの場面になります。

 低い男性の声で、つぶやくようにナレーションが読み上げられます。

 「ベラスケスは50歳をすぎ、事物を明確に描こうとせず、その周りを黄昏と共にさまよった」

 画面では、黄色のシャツに白のスカートを身に着けた若い女性が、明るい陽射しを浴びて、ボールを打ち返しています。

 それに被るのが、次のナレーションです。

 「背景の透明感と影の中に、色調の鼓動をつかみ、それを核にして静かな交響楽を奏でた」

 このナレーションは画面を説明しているわけではなく、画面と何らかの関係があるわけでもありません。それなのに、スクリーンからは次々と、映像と音声によって、別々の情報が流されてきたのです。

 圧倒されて、思考停止状態になっていました。

 正確に言えば、フランス語音声、日本語文字、映像など3種の媒体から発信される情報を、観客は考える暇もなく、受け取らざるをえなかったのです。しかも、映像と音声(ナレーション)は別々の内容だったので、観客自身がそれらを統合し、理解していかなければならず、圧倒されてしまったのです。

 奇妙な感覚を覚えさせられます。

 若い頃の私は、この冒頭のシーンで早々と、ゴダールの虜になってしまったのです。当時、フランス語を勉強しはじめてまだ、2,3年でした。聞き取ることはできず、もっぱら、字幕(文字)に頼って、内容を理解していましたが、それでも、所々しか、わかりません。

 その字幕が、会話のセリフではなく、文章語だったからです。しかも、格調の高い文章で、抽象語が多く、理解できないまま、画面が進み、焦ったことを思い出します。

 やがて、画面が変わり、本屋の店先で、男が本を選ぶシーンになります。

(※ 前掲)

 たくさんの本を抱え、男が本屋から出てきます。ここでも男のナレーションが続きます。

 「彼が描いたのは、浸食し合う形態と色調の神秘的な交感そのもの」

 「どんな衝撃にも中断しない。密やかで絶え間のない進歩のよる交感である」

 男はどうやら、冒頭からずっと、ベラスケスについて語り続けているようです。

 そして、絵画のような夜景になります。

(※ 前掲)

 その夜景に、次のようなナレーションが被ります。

 「空間が支配する表面を滑る大気の波のようにー」

 「自らを滲みこませることで輪郭づけ、形づくり芳香のごとく、至る所に広がる軽い塵となって、四方に広がりゆく、エコーさながらである」

 場面は一転し、バスタブに浸かって、タバコをくわえ、本を読む男のシーンになります。男はここでようやく、主人公フェルディナンとして登場するのです。

 そして、このシーンから、ナレーションと映像は一致します。

(※ 前掲)

 冒頭から続いてきたナレーションは、バスタブのシーンからは、実際に、男が音読する本の内容になっていきます。刺激的な言葉が次々と、画面に表示されていきます。

「彼の生きた世界は悲惨だった」

「堕落した国王、病弱な王子たち」

「貴公子然と装う道化師たち」「無法者たちを笑わせる」

「道化師は宮廷作法、詐術、虚言に締め付けられ」「告白と悔悟に縛られていた」

「破門、火刑裁判、沈黙・・・」

 男は、一体、何の本を読んでいるのでしょうか。

● “Histoire de l’Art L’Art moderne 2”

 気になって、タイトルがはっきりと映っているシーンを探して見ると、かろうじて、『Elie Faure  Histoire de l’Art  L’Art moderne 2』と書かれているのがわかりました。エリー・フォールの『芸術史 近代芸術2』だったのです。

 そこで、Wikipedia でElie Faureについて調べてみると、ゴダールの『気狂いピエロ』の冒頭のシーンで、ジャン・ポール・ベルモンドが演じた主人公が、エリー・フォールの『芸術史 』をバスタブに浸かって、娘に読み聞かせていることが、記載されていました。

(※ https://en.wikipedia.org/wiki/%C3%89lie_Faure

 エリー・フォール(Élie Faure、1873-1937)は、フランスの医者であり芸術史家でありエッセイストでした。この本は1919年から1921年にかけて刊行された『芸術史』シリーズのうちの第2巻です。

 日本語に翻訳されていないかと探してみると、谷川渥・水野千依訳で、『美術史 4 近代美術』として国書刊行会から、2007年11月21日に出版されていました。

 図書館から借りて読むと、ベラスケスに関するナレーションのフレーズはすべて、この本から採用されたものだということがわかりました。

 たとえば、バスタブに浸かって、本を読んでいる時のナレーションは過激だと思いましたが、本で書かれている文言そのものでした。

 「彼が生きていた世界は悲惨なものであった。堕落した国王、病気がちの王子たち、白痴、侏儒、障碍者、王子の身なりをさせられ、みすからを笑いものにして、不道徳な人々を笑わせることを務めとする怪物のごとき道化師たち。彼らはみな、礼儀作法、陰謀、虚言に締めつけられ、懺悔と悔恨に縛られていた。破門や火刑、沈黙、なおも恐ろしい権力の急速な崩壊、いかなる魂も成長する権利をもたなかった土地」(※ 『美術史 4 近代美術』、p.142)

 若い頃、私が一連のシーンを見て、刺激を受けたのは、この字幕の言葉に勢いがあったからでした。映像よりも、ナレーションのペダンティックな言葉遣いに酔っていたのです。魅力的な言葉は、ゴダールが書いたセリフなのだと勝手に思い込み、夢中になっていました。

 ところが、今回、『美術史 4 近代美術』を読んでみると、エリー・フォールの文章そのものが力強く、刺激的なものだったことがわかりました。

 ゴダールは、自分で書いた脚本に従って、製作していたわけではなかったのです。そもそも脚本があったのかどうか、わかりません。

 映画の概要を見ると、脚本の項目にゴダールの名前がありますが、ラフなものだったのではないかと思います。脚本に拘束されることをゴダールは嫌ったはずです。まるでドキュメンタリー映画を製作するように、美術書を読むシーンを撮影していたのでしょう。俳優に依存して、その実在性を創り出しながら、作品を製作していたような気がします。

 その後の展開を見てもわかるように、ゴダールはいわゆるハリウッド的なストーリーを破壊し、シーン毎のアクチュアリティを大切にした監督でした。切り替えがなく、ナレーションを際立たせたバスタブのシーンに、ゴダールの拘りが現れているように思いました。

 とはいえ、美術書のどの箇所をナレーションに採用するかは監督であるゴダールが決めているはずです。

 急に、ゴダールの来歴が気になってきました。彼はなぜ、映画製作の道に進んだのか、なぜ、この作品の冒頭で、ベラスケス論を滔々と披露したのか、とくに、美術との関係を知りたいと思いました。

 少し横道に逸れてしまいますが、ゴダールの少年時代から映画製作に至るまでの過程を辿ってみる必要があるかもしれません。

● 少年時代から映画製作まで

 調べてみると、一家は1948年にスイスに転居し、ゴダールはローザンヌの学校に通っています。その頃、絵画に夢中になり、よく描いていたそうです。1949年の夏には、母親がモントリアンで彼の個展を開催したほどでした(※ コリン・マッケイブ、『ゴダール伝』、 pp.47-48. 2007年、みすず書房)。

 元々、数学が得意だったゴダールですが、母親に個展を開催してもらうほど、絵画にものめり込んでいたのです。ところが、1949年の秋にはパリに戻り、人類学の免状を取るため、ソルボンヌに登録しています(前掲。P.48.)

 得意だった数学でもなければ、夢中になっていた美術でもなく、どういうわけか、ゴダールは人類学を専攻しているのです。

 不思議に思って、調べてみると、当時、クロード・レヴィ=ストロース(Claude Lévi-Strauss, 1908-2009)が、アメリカから帰国し、1949年にコレージュ・ド・フランス(Collège de France)に創設された社会人類学講座を担当することになっていました(※ Wikipedia クロード・レヴィ=ストロースより)。

 レヴィ=ストロースはアメリカで1948年頃に完成させた論文を携えて、フランスへと帰国していました。1949年には論文審査を経て、公刊されたのが、『親族の基本構造』(Les Structure Élémentaires de la Parenté)でした。『ゴダール伝』を執筆したコリン・マッケイブ(Colin MacCabe, 1949- )は、ゴダールが1949年にレヴィ=ストロースの講演を聞いたと言っていたことを記しています。

 こうしてみると、ゴダールが人類学を専攻したのは、おそらく、この講演がきっかけになったのでしょう。もちろん、知識欲旺盛なゴダールは、それ以前からレヴィ=ストロースのことは知っていたでしょう。著作も読んでいた可能性もあります。

 レヴィ=ストロースはフランスに帰国して以来、フランス思想界を牽引してきました。

 ゴダールが、『勝手にしやがれ』で注目を浴び、『気狂いピエロ』でその名を不動にした1960年代から1980年代にかけて、とくに、現代思想としての構造主義を担った中心人物の一人でした。

 興味深いことに、レヴィ=ストロースの父は画家で、彼は幼い頃から芸術的環境の中で育ったそうです。ゴダールは直感的に何かを感じ取っていたのかもしれません。レヴィ=ストロースが帰国したことを知ると、ゴダールは早々に、人類学専攻に登録しているのです。

 雑多な情報の中から、知の時流を察知するゴダールの直観力には驚かざるをえません。

 最初の映画製作、そして、ヌーヴェルヴァーグの旗手として話題を集めた後も、ゴダールは長い間、注目を浴び続けてきました。それは、おそらく、旺盛な知的好奇心、知的な流行に対する感度の高さといったものが影響しているのでしょう。

 さて、レヴィ=ストロースを追って人類学を専攻したと思われるのに、ゴダールは授業にはほとんど出席せず、映画館に通い詰め、やがて、『カイエ・デュ・シネマ』(“Cahiers Du Cinéma”、1951年創刊)に、映画批評を手掛けるようになっていました。

 映画批評をし、映画理論を構築していくうちに、ゴダールが、映画製作への思いを募らせていくのは当然のことでした。制作資金を作る為、スイスの大型ダムの建設現場で働くことを決意しますが、建設現場に着いた途端、ゴダールはダムの建設についての映画を作ることを思いつきます(※ 前掲、『ゴダール伝』、p.92)。

 撮影技師を雇って製作し、1954年の夏に公開されたのが、最初の短編映画『コンクリート作戦』(Opération béton、16分)です。

 産業史を踏まえ、ドキュメンタリーの技法に則って製作されたこの作品は、撮影も編集も巧みだったため、1958年、ヴィンセント・ミネリ(Vincente Minnelli)主演の『お茶と同情』(Tea and Sympathy、1956年)の併映として映画館で上映されました(※ 前掲)。

 その後、ゴダールはこの作品を、当のダム建設会社に売り、2年間は製作費に困らないだけのお金を手に入れたそうです。

 数本の短編を製作した後、『勝手にしやがれ』(À bout de souffle、90分)が1959年に製作され、1960年に公開されました。これが最初の長編映画です。

 この作品は、「ベルリン国際映画祭銀熊賞 」(監督賞、ジャン・リュック・ゴダール、1960年)、「ジャン・ヴィゴ賞」(1960年)、「フランス批評家連盟批評家賞」(1961年)と立て続けに受賞しています。

 この『勝手にしやがれ』で撮影を担当し、以後、ゴダールの作品のほとんどの撮影を担当したのが、ラウール・クタール(Raoul Coutard (1924 -2016)です。彼は、ゴダールが映画界に巻き起こしたヌーヴェルヴァーグについて、「あるとき、現実の、日常の、あるがままのものをそのまま捉えて見せた」と表現しています(※ 『ユリイカ特集:60年代ゴダール』、1998年10月、p.123)。

 ラウール・クタールは、もちろん、『気狂いピエロ』の撮影も担当していました。

 再び、浴室のシーンに戻ってみましょう。

● 小さな女の子の登場

 バスタブに浸かって、口にタバコをくわえたまま、声を出して本を読んでいた男が、突然、何かに気づきます。本から目を離して見上げたかと思うと、「よくお聞き」と画面の外に視線を送り、語りかけます。

 何事が起ったのかと思う間もなく、小さな女の子が入って来て、近づき、恐る恐るバスタブに手をかけます。浴室の外で父親の様子をうかがっていたのでしょう。ちらと父親を見ますが、男は知らん顔で本に目を走らせ、読み続けます。

 女の子がすぐ近くに立っているというのに、男は優しく言葉をかけるわけでもなく、頭を撫でるでもなく、構いもせずに、ひたすら本を読み続けるのです。

 「ノスタルジックな魂が漂う」「醜さも悲しみもなく」

 「みじめな幼年期も残酷な感覚もない」

(前掲)

 ページをめくる時、男は一瞬、女の子を見ますが、すぐに本に戻って読み続けます。

 「ベラスケスは夕刻の画家だ」といい、女の子をしっかりと見つめ、

 「空間と沈黙の画家である」と語り、再び、本に戻ります。

 小さな女の子に向かって、男は滔々と本を読み続けます。しかも、子供が理解できるとも思えない難しい言葉で、ただただ、本を読んでいるのです。その様子は、語り聞かせるというよりも、自分に酔って声を出しているようでした。

 「真昼に描こうと、暗い室内で描こうと」「戦争や狩りが荒れ狂おうと変わらない」

 「燃える太陽の下では」

「めったに外出しないためー」

「スペインの画家は夜と親しんだ」

 突然、妻が慌ただしく浴室に入って来て、「子供に分かるわけないわ」といい、女の子を連れだそうとします。

 男はあっさりと、「さあ、子供は寝な」と言って、女の子を風呂場から追い出します。

 こうして、それまで浸っていた想念の世界から、男は、いきなり現実世界に引き戻されるのです。

 ここまでが冒頭のシーンです。

 声を出すかどうかは別として、バスタブで本を読むというのは、ごくありふれた日常生活の一つです。そのごく日常的な行為が、ほとんど切り替えなしの映像で流されます。

 場面は変わらないので、観客はナレーションに注目せざるをえません。そのナレーションで語られているのが、エリー・フォールの『美術史』から引用したベラスケス論です。

 切り取られて、引用された言葉はどれも、17世紀スペインならではの陰鬱で孤独で、悲観的なものでした。この一連のナレーションに、この作品の展開が示唆されているような気がしました。

 もちろん、それを語って聞かせる主人公の性格、趣向、世界観なども表現されていました。さらには、ちょっとした会話から、子どもとの関係、妻との関係も、この浴室のシーンだけで如実に伝わってきます。

 このシーンにはおそらく、リアリティがあり、アクチュアリティがあったからでしょう。

● リアリティとアクチュアリティ

 この浴室シーンの異様なところは、途中で女の子を呼び入れたり、後に妻が入ってきたりしても、主人公がひたすら、浴室で本を読み続けていることでした。つまり、同じ時間と場所を共有していても、コミュニケーションが成立していない家族関係が示唆されているのです。

 誰もが経験するようなこのシーンには確かに、再現性があり、リアリティがありました。

 さらに、時間と場所を共有していながら、それぞれの意識空間から出ることができず、関わることのできない辛さ、悲しさも表現されていました。それは主人公の心情を強調して表現されているだけでなく、この作品の要約になっているようにも思えました。

 すなわち、分業化が進んだ消費社会の中で、個人もまた商品のように、絆が切り離され、数としてカウントされだけの存在になっていることの示唆です。

 この浴室のシーンにはリアリティばかりではなく、リアリティを支えるアクチュアリティが感じられたのです。

 それは、延々と続く、ペダンティックな言葉の羅列の中に、主人公の心情が見事に託されていたからでしょう。社会とそりが合わず、捨て鉢な気分にならずにいられない主人公の気持ちに引きずられた結果、観客は考える暇もなく、作品世界の中に誘導されていったのです。

 主人公が文章語で語るベラスケス論(エリー・フォールの『美術史』からの引用)は、主人公の疎外感をことさらに鋭く抉り出します。ベラスケスの時代に重ね合わせて表現されているだけに、客観性を担保しながらも、強烈に印象づけられます。疎外の原初形態がイメージされるからでしょう。

 滔々と『美術史』読み続ける主人公の姿にも、妙に、リアリティとアクチュアリティが感じられました。ただセリフを読んでいるだけではなく、実際にありえそうだし、実感がこもっているように見えたのです。

 思い返せば、ゴダールの最初の作品はドキュメンタリーの短編でした。その後、最初に製作された長編映画『勝手にしやがれ』もドキュメンタリータッチの作品でした。ゴダールが作品に、リアリティばかりか、アクチュアリティも求めていたことが推察されます。

 少年の頃、母親に個展を開催してもらうほど、絵画に夢中になっていたゴダールは、絵や画家については、その後も頻繁に論評を行っています。絵画については相当、造詣が深かったようなのです。

 『気狂いピエロ』の冒頭で、主人公がなぜ、エリー・フォールの『美術史』を引用してベラスケス論を展開したのか、若い頃は、その必然性がわかりませんでした。改めて、映画を見たいま、別に不自然だとは思わず、なぜ、エドゥアール・マネではなかったのかという程度の違和感しかありません。

 というのも、ゴダールがエドゥアール・マネを非常に高く評価していることを知ったからです。

 蓮実重彦氏は、ゴダールが「マネとともに近代絵画は生誕したとつぶやいてから、近代絵画、すなわち映画が生誕したのだといいそえる」と書いています(※ 蓮実重彦『増補版 ゴダール マネ フーコー』、2019年、p.19)。

 実は、そのエドゥアール・マネが、「画家の中の画家」として評価していたのが、ベラスケスだったのです。冒頭のシーンで紹介した文章は、ベラスケスが描いた《ラス・メニーナス》(1656年、プラド美術館所蔵)について書かれたものでした。

 さらに、興味深いことに、主役を演じたジャン・ポール・ベルモンドの両親が画家でした。父親はフランス美術アカデミーの会長もつとめた彫刻家で画家であり、母親も画家だったのです。(※ Wikipedia ジャン=ポール・ベルモンドより)

 作品を支えるものとして、リアリティを重視したゴダールは、リアリティを支えるものとして、アクチュアリティを必要としていました。セリフ以外にその俳優から発散される雰囲気、所作、表情といった非言語的な要素がもたらす効果を看過しなかったのです。

 ジャン・ポール・ベルモンドをこの作品の主人公に起用したのは、来歴といい風貌といい、家庭環境といい、ゴダールがイメージするキャラクター特性を備えていたからだと思います。

 ゴダールを偲ぶため、『気狂いピエロ』を振り返ってみました。

 最初に見てから半世紀も過ぎた今、改めてDVDで見て、その斬新さに驚かせられっぱなしでした。媒体の特性に迫ろうとしているところがあり、実験的な要素もあり、時を超えて思考し、飛翔しようとするゴダールに未だに解釈が追いつきません。

 そのせいで、冒頭シーンを見てきただけで、マリアンヌとの出会いにもまだ達していません。次回はこのシーンから見ていくことにしたいと思います。(2022/12/29 香取淳子)

絵画の再生とは何か?:過去と現在を繋ぐ平子雄一氏の表現世界

■「平子雄一×練馬区立美術館コレクション」展の開催

 「平子雄一×練馬区立美術館コレクション」展が今、練馬区立美術館で開催されています。開催期間は2022年11月18日から2023年2月12日までです。11月19日、秋晴れに誘われて出かけてみると、美術館手前の公園脇に、案内の看板が設置されていました。

 

 降り注ぐ陽光が、紅葉した葉を鮮やかに照らし出しています。その一方で、葉陰から洩れた陽が所々、看板に落ち、生気を与えています。穏やかな秋の陽射しが、まるで絵画鑑賞を誘いかけているようでした。

 看板には「inheritance, metamorphosis, rebirth (遺産、変形、再生)」と副題が書かれています。おそらく、これが平子氏の作品コンセプトなのでしょう。

 新進気鋭の画家・平子雄一氏は、果たして、どのような作品を見せてくれるのでしょうか。

 会場に入ってみると、練馬区立美術館の「ごあいさつ」として、展覧会開催の主旨が書かれていました。その内容は、同館が所蔵する作品の中から、平子氏が10点を選び、それらの作品を分析し、解釈して、新たに制作した作品を展示するというものでした。まさに、「平子雄一×練馬区立美術館コレクション」展です。

 このような美術館側の開催主旨を汲んで、平子氏は作品タイトルを考えたそうです。コレクションという遺産(inheritance)を、アーティストが変形(metamorphosis)し、現代的な感覚のもとに再生(rebirth)させるという意味を込めているといいます。

 看板を見た時、展覧会のサブタイトルだと思った「inheritance, metamorphosis, rebirth (遺産、変形、再生)」は、実は、平子氏が名付けた作品タイトルだったのです。

 果たして、どのような作品なのでしょうか。

■《inheritance, metamorphosis, rebirth》(2022年)

 会場に入ってすぐのコーナーで、壁面を覆っていたのが、平子雄一氏の作品、《inheritance, metamorphosis, rebirth》でした。あまりにも巨大で、しばらくは言葉もありませんでした。

(アクリル、カンヴァス、333.3×9940.0㎝、2022年)

 巨大な画面に慣れてくると、この作品が、コンセプトの異なる4つのパートから成り立っていることがわかってきました。

 引いて眺め、近づいて個別パートを見ていくうちに、描かれている光景やモチーフは異なっているのに、色遣いやタッチ、描き方が似ていることに気づきました。そのせいでしょうか、4つのパートには連続性があって、巨大な画面全体に独特の統一感が見られました。

 この統一感をもたらしているものこそ、平子氏の対象を捉える眼差しなのでしょう。

 巨大な画面なのに圧迫感がなく、ごく自然に、平子氏の作品世界に引き入れられていきました。画面の隅々まで、平子氏の感性、世界観が溢れ出ていたからでしょう。描かれている木々やキャラクター、その他さまざまなものに注ぐ平子氏の眼差しには、限りなく温かく、優しく、楽観的で、自由奔放な柔軟性が感じられました。

 気になったのは、コレクション作品の痕跡が、この作品のどこにあるのか、わからないということでした。そもそも、この作品は、練馬区立美術館が所蔵している作品を参照して制作されているはずです。

 訝しく思いながら、会場を見渡すと、対面の壁面に展示されていたのが、平子氏が参照した作品10点と各作品に対する感想、そして、制作に際してのアイデアスケッチでした。

 まず、平子氏がコレクション作品をどう選び、どう捉えたのかを見ていきたいと思います。

■平子氏は、コレクション作品をどう選び、どう捉えたのか

 練馬区立美術館が所蔵する作品の中から平子氏が選んだのは10作品で、それらは、対面の壁に展示されていました。もっとも古いのは小林猶次郎の《鶏頭》(1932年)、もっとも新しいのは新道繁の《松》(1960年)です。1932年から1960年に至る28年間の作品が10点、選ばれたことになります。

 画題はいずれも風景か植物でした。このうち何点か、印象に残った作品をご紹介していくことにしましょう。

 その後、開催されたアーティストトークの際、平子氏が評価していたのが、新道繁の《松》でした。

(油彩、カンヴァス、116.0×91.3㎝、1960年、練馬区立美術館)

 「松」というタイトルがなければ、とうてい松とは思えなかったでしょう。幹や枝に辛うじてその痕跡が残っているとはいえ、全体に抽象化されて描かれています。まっすぐに伸びた幹は、色遣いが柔らかく優しく、秘められた奥行きがあります。そこに、松に込められた日本人の伝統精神が感じられます。

 調べてみると、確かに、新道繁(1907~1981)は「松」をよく描いています。渡仏した際、ニースで受けた印象から、松を題材にするようになったそうですが、以後、「松」を描き続け、第3回日展に出品した《松》(1960年)は日本芸術院賞を受賞しています。(※ https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10156.html

 平子氏は、この作品について素晴らしいと評価し、「飽きが来たとき、デフォルメした」と解釈していました。同じモチーフを描き続けてきたからこそ、新道繁は、この段階(抽象化)に到達することができたと推察していたのです。

 私は平子氏のこの推察をとても興味深く思いました。たとえ、写実的に形態を写し取ることから描き始めたとしても、何度も同じモチーフを描いていると、やがて、本質に迫り、価値の再創造を図らざるをえなくなります。そのような創造の進化過程で起きる画家の内なる変化を指摘しているように思えたからでした。

 さて、吉浦摩耶《風景》について、平子氏は、自然をエリアに分けて描こうとする視点に着目しています。自然による造形と人工的な造形とが混在していても、それぞれのエリアを分けることによって、作品として成立させているところに注目しているのです。

 靉光《花と蝶》に対し、平子氏は、「とても、いい。びっくりした」と評価していました。

(油彩、カンヴァス、72.6×60.8㎝、1941-42年、練馬区立美術館)

 葉が何枚も重なって、覆い繁る中で、花と蝶がひっそりと葉陰に隠れるように描かれています。写実的に描かれておらず、色と模様でようやく蝶であり花だとわかるぐらいです。花も蝶も平面的で、実在感がありません。

 もっとも、不思議な生命感は感じられました。背後には明るい陽光が射し込み、おだやかに手前の葉や蝶や花を息づかせています。そのほのかな明るさが、平面的に見えた花や蝶に命を吹き込んでくれているのです。

 柔らかな陽光をさり気なく取り入れることによって、平面的に描きながらも、さまざまな生命が確かに生きていることに気づかせてくれる作品でした。

 平子氏はこの作品について、「デフォルメの仕方が人工っぽくて面白かった。植物をそのまま写実的に描くのではなく、人工物のように見えながら、生命力を感じさせる」といっており、靉光の独特のタッチに興味を示していました。

 確かに、独特の画風でした。

 興味を覚え、調べてみると、靉光の作品でもっとも多く取り上げられているのが、《眼のある風景》(1938年)でした。

(油彩、カンヴァス、102.0×193.5㎝、1938年、国立近代美術館)

 一見、肉塊のようにも、コブのようにも、ヘドロのようにも見える塊が、褐色の濃淡でいくつも描かれています。陽の当っているところがあれば、陰になっているところもあって、身体の中にできた腫瘍のようにも思えます。

 よく見ると、画面の真ん中に眼が見えます。

 澄んだ眼の表情には、混沌のさ中、何かをしっかりと見据えているような冷静さが感じられます。下の方には、血管の断面のような穴が開いた箇所がいくつかあります。何が描かれているか、皆目わかりません。それだけに、澄んだ眼の表情が強く印象に残ります。

 「眼のある風景」というタイトルを踏まえると、この絵は混沌の中でも見失ってはならないのが理性ということを示唆しているのでしょうか。

 この作品は、独自のシュールレアリスムに達した作品として評価されているようです。その後に制作された《花と蝶》にも、わずかにその片鱗を見ることができます。シュールレアリスムの系譜を引いたこの作品には、リアリズムを超えた実在感が感じられるのです。

 平子氏は、シュールレアリスムの傾向を持つ靉光の《花と蝶》に、「植物をそのまま写実的に描くのではなく、人工物のように見えながら、生命力を感じさせる」と評価していました。

 リアリティとは何かという問いかけをこの作品は内包しています。

 写真技術による絵画の存在意義への脅威はとっくに過ぎ去り、いまや、デジタル技術による脅威の時代に入っています。従来の絵画手法で、写実的にモチーフを表現するだけでは、躍動する生命力を感じさせることができなくなっているのかもしれません。

 平子氏が選んだコレクション作品は10点でしたが、ここでは、平子氏がとくに心を動かされたと思われる作品を取り上げ、ご紹介しました。

 平子氏がそれらの作品から得たものを要約すれば、「人工と自然のエリア分け」であり、「人工物のようにデフォルメし、生命力を感じさせる」でした。

 それでは、平子氏はこれらの作品を踏まえ、どのような構想の下、過去の作品を再生しようとしたのでしょうか。

■制作のための構想

 平子氏が選定した美術館のコレクション作品に混じって、アイデアスケッチが展示されていました。今回の作品を制作するにあたっての構想を示すものです。パート毎に、それぞれのコンセプトが書き込まれていました。

 アイデアが書き込まれたメモ書きに、①から④の番号が振られています。どうやら、平子氏は当初から、4つのパートに分けて描こうとされていたようです。

 それでは、このメモ書きを順に見ていくことにしましょう。

① 当時の風景。当時の人(作家)が見た、感じたであろう自然や植物の感覚を意識して描く。ありふれた景色である。

② 参考にした作品の色使い、技法等織り交ぜる。絵画の系譜を意識する空間。作家として生きた時間が交わる感じ。

③ 今日のプロジェクト。挑戦する自分を意識した自画像に近いポートレート。

④ ①を反転させた様々な景色。現代の人(自分含め)が捉える自然、過去の自然と現代の自然とどちらが本物か。

 これを見ると、平子氏は、まず、コレクション作品を通して過去の画家が捉えた自然を描き(①)、次いで、それを解析して構想を練り(②)、そして、制作に仕上げていく自身を描き(③)、最後に、過去の画家が捉えた自然と、自身が捉えた自然とどちらがより真の姿を捉えているかを問う風景を描こう(④)としていたようです。

 パート①からパート④までの一連の流れを見ると、平子氏が、美術館側から提供された課題に対し、自然を題材に、起承転結の構成を踏まえて、再生しようとしていたことがわかります。

 それでは、具体的にどのような過程を経て、コレクション作品が再生されたのか、平子氏の《inheritance, metamorphosis, rebirth》を見ていくことにしましょう。

■コレクション作品を踏まえて再生された《《inheritance, metamorphosis, rebirth》》

 アイデアスケッチによると、平子氏は、風景画に始まり、風景画で終わる4部構成に収斂させて、自身の作品を構想していました。そして、「承」と「転」に相応するパート②とパート③には、木のキャラクターを取り入れていました。

 不思議に思って、パート③のメモ書きを見ると、「自画像に近いポートレート」と書かれています。それで、わかりました。この木のキャラクターこそ、作者自身であり、作者が手掛けようとするテーマの語り部でもあったのです。

 まず、パート①から見ていくことにしましょう。

●パート①

 平子氏は、当時の画家が描いた自然がどのようなものであったか知りたくて、コレクション作品を選んだといいます。メモ書きには、「当時の風景。当時の人(作家)が見た、感じたであろう自然や植物の感覚を意識して描く。ありふれた景色である」と書かれています。

 参照したと思われるのが、田崎廣助の《武蔵野の早春》(1940年)、西尾善積の《練馬風景》(1937年)でした。いずれも木立の中を小道が続き、遠景に至るという構図で、どちらかといえば、よく見かける風景画です。

(展示作品。パート①)

 中景の両端に大きな木が2本、立っています。一方は葉が付き、他方は枝が切り取られて、葉が落ちています。その合間を曲がりくねった小道が上方へと続き、雑木林の中に消えています。その背後は靄がかかり、巨大な山がそびえています。

 平子氏は、《武蔵野の早春》や《練馬風景》から、木立の合間を小道が続き、空に至るという構図を援用したのでしょう。とはいえ、これらの作品の構図通りにパート①が描かれているかといえば、そうではありませんでした。

 小道は不自然なカーブを描き、小道を挟み、巨木が2本しか描かれていません。コレクション作品から構図を借りながらも、木立の部分を大きくデフォルメしていたのです。

 象徴的なのは木々の扱いです。コレクション作品では小道を木立が挟んでいるのですが、平子氏の作品では木は2本しか描かれておらず、しかも、自然のまま、伸びやかに枝を伸ばし、葉をそよがせているという通常の木の状態ではなかったのです。

 一方は枝が短く切られて葉がなく、一方は枝が少なく、剪定された松のように、葉が丸く切りそろえられています。つい、幹や枝を人工的に曲げて、時間をかけて形を整えられた松の木の盆栽を連想してしまいました。

 さらに、木の幹や枝は、褐色がかった黄土色の濃淡で表現されていました。これを見ると、新道繁の《松》で描かれた幹の色が思い浮かびます。もっとも、新道繁の《松》の場合、松の幹が抽象化されており、必然的にあのような色調になっていました。奥行きが感じられ、淡々と年月を重ねる松の木のイメージにも重なります。

 一方、平子氏のパート①の場合、木々の描き方は明るく、平たく、奥行きが感じられませんでした。おそらく、デフォルメして表現しようとしていたからでしょう。背景にも同色の塊が見えますし、枝が切り取られた低木も、その背後の木も同色で描かれています。

 また、画面の手前右には、枝を切られ横倒しになっている巨木の幹があり、上部が褐色、下部が濃褐色で描かれています。これもやはり、平たく、奥行きが感じられません。

 デフォルメして描かれているからでしょうし、そもそも平子氏がヒトの手の入った自然を薄っぺらいものと捉え、その薄っぺらさを表現するために取った手段なのでしょう。このような自然の捉え方に、平子氏の現代的な感性を感じずにはいられません。

 こうしてみてくると、木々の枝や葉がデフォルメして描かれているところに、平子氏の特色があり、自然観が見えてくるような気がします。

 一方、デフォルメされた明るい林の背後には、うっそうと葉の生い茂る木々が見え、その奥に靄のかかった山が見えます。こちらには自然が持つ深さと厚みが感じられます。

 近景、中景はデフォルメされたモチーフで構成され、遠景は鬱蒼とした林と靄のかかった山が描かれています。そこに、放置された自然ならではの重厚感、ヒトを容易に寄せ付けない威厳と峻厳さが醸し出されていました。

 近景、中景、遠景を繋ぐものが、巨木の合間を蛇行する小道でした。曲がりくねった小道が、自然が整備され開発されたエリアと、手付かずのまま残された自然のエリアを繋いでいるのです。

 よく見かける風景画の構図を借りて、人に都合よく開発され、人の美意識に沿うよう改変させられている自然の姿と、容易に開発できない自然の姿とが融合して描かれていました。このパート①の中に、人と自然とのかかわりの一端が凝縮して表現されていました。

 それでは次に、パート②を見ていくことにしましょう。

●パート②

 作者の分身でもある木のキャラクターが、ベッドに足を投げ出し、座っています。朝食の時間なのでしょうか、傍らにはコーヒーやパンが置かれ、寄り添った黒猫に優しく手をかけています。

 活動前のひとときなのでしょう、リラックスした雰囲気が漂っています。足元には、黒い帽子と赤いコートが置かれているところを見ると、食事が終わると、外出する予定なのかもしれません。

(展示作品。パート②)

 ベッドの周りには、多数の本が隙間なく、床に直接、積み上げられ、その上に、花の入った壺や花瓶、スイカやキュウリなどが置かれています。積み上げられた本が適度の高さとなっており、小テーブル代わりに使われているのです。

 一見、雑然として見える室内ですが、本はきちんと積み重ねられ、花や葉は花瓶や壺、植木鉢に、そして、果物は籠の中に入れられているせいか、モノが多いわりには整然とした印象があります。

 木のキャラクターは、さまざまな花や葉や野菜に取り囲まれ、考え事をしているようです。多数の書物を渉猟して情報を得、参照しながら、構想を巡らせているように見えます。背後の壁面には多数の絵がかけられています。これらの作品も参考にしながら、アイデアを絞り込んでいるのでしょう。

 これは、作者が思索するための空間なのです。

 それにしても、室内の色遣いがなんと鮮やかなことでしょう。思索の場に似つかわしくないように思えますが、真剣に思考を積み重ねながらも、決して深刻ぶることのない軽やかさがあります。そこに、新しさと若さが感じられました。

 しげしげと眺めているうちに、ふと、先ほど見たアイデアスケッチとは絵柄が異なっているような気がしてきました。

 そこで、改めてアイデアスケッチを見てみると、木のキャラクターは確かに、前景真ん中に描かれていますが、ベッドが見当たりません。

(アイデアスケッチ。パート②)

 このスケッチに添えられたメモには、「参考にした作品の色使い、技法等織り交ぜる。絵画の系譜を意識する空間。作家として生きた時間が交わる感じ」と書かれています。平子氏はこのパートを、コレクション作品と向き合い、制作した画家と交流する場と位置付けていたようです。

 さて、アイデアスケッチでは、右端に高い木がそびえ立ち、上の方に空が見えます。これだけ見ると、明らかに戸外の景色です。当初、平子氏は、風景の中に思索の場を設定しようとしていたのでしょう。風景や植物を描いた画家との交流の場として、戸外の景色が相応しいと思われたのかもしれません。

 興味深いことに、このアイデアスケッチにはベッドこそ描かれていませんでしたが、壺のようなものが多数、描かれており、本もスケッチされています。室内に置かれているようなものが多数、アイデアスケッチの中に描かれていたのです。この段階では、構想の場を室内にするか、戸外にするか、平子氏が逡巡していたことがうかがえます。

 ところが、ポスターに掲載された画像ではベッドが描かれていました。実際に制作してみると、ベッドが必要だと思われたのでしょう。確かに、画面真ん中にベッドを設置することによって、白いシーツが余白スペースとして効いています。

(ポスター画像、パート②)

 ポスター画像は、展示作品ほどモノがあふれているわけではありませんが、ベッドを置くことによって、思索の場を可視化できていることがよくわかります。

 木のキャラクターは、さまざまな情報を取り入れ、検証し、構想アイデアを結晶化させようとしています。アイデアをシャープにするには、脳内空間から雑念が取り払われなければなりません。白いベッドは、いってみれば、雑念を取り払った後の脳内空間であり、構想を練り上げるためのワークスペースとして機能しているのです。

 メモ書きで示されたように、このパート②を作品構想の場と位置付けるなら、ベッドは不可欠でした。

 さて、平子氏はこのパート②について、「「引用を避けつつ、引用している」と話していました。そして、「他の作家のモチーフを自分なりに描くというのは、作家として安易なことをやっている」といい、さらに、「もう二度とやらないが、すごい誘惑がある」とも語っていました。

 微妙な作家心理がうかがえます。

 平子氏が練馬区立美術館から求められたのは、過去の作家が創り出したモチーフなり、構図なり、色彩など(inheritance)を変形させて(metamorphosis)、自分のものとして描くこと(rebirth)でした。それは、創作者としては安易なやり方だが、心惹かれるものがあるといっているのです。

 だからこそ、平子氏は、一目で引用したことがわかるような引用の仕方ではなく、その本質を踏まえ、自身の作品に引き寄せて創り直すということを徹底させたのでしょう。

 改めて、展示作品を見てみると、雑然とした室内に、赤が効果的に配置されていることに気づきます。コートの赤、木のキャラクターが着ているセーターの赤、花瓶敷きの赤、柿の赤といった具合に、鮮やかな赤が差し色として室内随所に使われ、画面を引き締めるとともに、一種のリズムを生み出していました。

 この赤を見ていて、連想させられたのが、野見山暁治の《落日》で使われていた赤でした。

(油彩、カンヴァス、145.6×97.5㎝、1959年、練馬区立美術館)

 これは、平子氏が選んだ10作品のうちの1点です。

 赤く染まって沈んでいく落日に使われた赤が、印象的でした。これが、パート②に取り入れられたのでしょう。コートやセーター、花瓶敷きなどに使われ、画面に独特の秩序と動きを生み出していました。これもまた一種の引用といえます。

 不思議なことに、寂寥感が込められていた《落日》の赤が、パート②では、明るさと軽やかさ、洒脱さを画面にもたらしていました。野見山暁治の赤を、平子氏なりの感性とセンスで処理し、活用することによって、独自の光景を創り出していたのです。

 ちなみに、平子氏はこのパート②を最後に仕上げたそうです。さまざまに思索を重ね、逡巡しながら、このような形に仕上げていったのでしょう。

 それでは、パート③についてはどうでしょうか。

●パート③

 パート②で登場した木のキャラクターが、ここでは正面向きで大きく描かれています。メインモチーフとして表現されているのは明らかです。自然を愛する画家の肖像画ともいえる絵柄です。

(展示作品。パート③)

 両腕でリンゴを抱え、手で絵筆を握りしめ、絵具で汚れたスモックを着て、木のキャラクターが立っています。背後には、絵筆やさまざまな刷毛、筆洗い、照明器具、双眼鏡やラジオ、時計、カメラなどが棚に置かれ、画家の周辺には創作のためのメモがいくつもピンアップされています。

 構想段階(パート②)の室内とは明らかに異なります。

 いざ、制作しようとすれば、表現のための道具が必要です。画家の背後の棚に、具体的な作業に必要なさまざまなものが置かれています。それらのモノは、背後の壁面に陳列され、まるで画家の創作活動を支え、しっかりと見守っているかのように見えます。

 パート③では、理念だけでは処理できない、実践段階の様相が描かれていました。

 パート②とパート③は、木のキャラクターによって繋がっています。パート②で、木のキャラクターは遠景で捉えられ、多数の書物や植物とほぼ等価で描かれていました。さまざまな情報が絡み合い、連携し合い、時に、否定し合いながら構想をまとめていくには、主従があってはならないからでしょう。

 ところが、パート③では近景で捉えられ、制作する主体として大きく表現されています。一つの作品世界を完成させるには、主体が確立されていなければならないからだと思います。

 このように、パート②とパート③では、木のキャラクターのサイズに違いが見られました。そこに、作家の完成作品への関与の度合いが示されており、構想段階で描いた作品世界は、一つの過程にすぎず、実践段階では容易に変更されることが示されているといえます。

 ちなみに、平子氏はこのパート③には、「今日のプロジェクト挑戦する自分を意識した自画像に近いポートレート」というメモ書きを寄せています。

 それでは、パート④はどうでしょうか。

●パート④

 空は暗く、枝が切り取られ、幹だけが目立つ木の背後から、白い月がほのかな光を放っています。遠景には残照が広がっており、辺り一帯は黒ずんだ牡丹色に染まっています。上空を見ると、赤い火の粉が空に飛び、火口から噴出するマグマのようにも見えます。ヒトが対抗できない自然の威力を感じさせられます。

(展示作品。パート④)

 一方、麓から手前にかけてのエリアでは、木々の葉は緑ではなく、赤や黄色、ピンクで描かれています。まさに人工的に作られた自然が描かれているのです。

 たとえば、前景では黄色の小花が群生していますが、夜なので気温が下がっているはずなのに、花弁を閉じずにしっかりと開いたままになっています。しかも、大きさもほぼ同じでいっせいに咲いています。まさに人工的に作られているとしかいいようがありません。

 さらに、小道の左側には切り倒された巨木の幹が2本、横倒しになっていますが、手前が赤、その後ろがピンクで描かれています。その後方も同様、麓に至るまでのすべての植物が、リアルな植物ではありえない色で表現されているのです。鮮やか過ぎて、意表を突かれます。

 改めて、メモ書きを見ると、平子氏はこのパートについて、「①を反転させた様々な景色。現代の人(自分含め)が捉える自然、過去の自然と現代の自然とどちらが本物か」と書いていました。

 過去の画家が捉えた自然をパート①で表現し、それを反転させて、現代の画家が捉えた自然をパート④で表現したというのです。

 実際、見比べてみると、モチーフはそれぞれ反転して描かれていました。そればかりではありません。時間帯を夜にし、色を人工的なものに置き換えて、パート①の風景が表現されていました。

 こうしてみてくると、平子氏は、参照した画家たちと現代の画家(自分)との捉え方の違いを、どれだけ自然界と離れているか(人工的か)の度合いで判断しようとしているように思えます。

 比較の基準となっているのが、パート①でした。

■展示作品とポスター画像との違い

 比較しながら、パート④を見ているうちに、展示作品が、ポスター画像と異なっていることに気づきました。色がまるで違っているのです。展示作品では木の葉が黄色でしたが、ポスターではたしか、木の葉が赤でした。

 念のため、ポスター画像から、パート④の部分を抜き出し、確認してみることにしましょう。

 思った通り、葉の色が違っていました。ポスターでは剪定されて丸味を帯びた葉に赤が使われ、手前の草も赤でした。

(ポスター画像 パート④)

 植物の色が変容させられているだけではなく、手前から奥につながる小道が描かれていません。周囲の植物も整理されて描かれていないせいか、まだヒトの手が入っていない原野のようにも見えます。

 一方、展示作品の方は、曲がりくねった小道が奥につながり、手前から画面半ばまでの自然がきちんと整備されています。その反面、山の麓から後のエリアは、人の手が入っていない自然界が描かれており、威圧的な存在感を放っています。

 展示作品とポスター画像との大きな違いは、ここにありました。

 すなわち、手つかずの自然を取り入れているかどうか、そして、ヒトの手の入ったエリアと放置されたままのエリアが一枚の画面の中で、はっきりとわかるように描かれているかどうかです。

■過去と現在を繋ぐ平子雄一氏の表現世界

 選択されたコレクション作品は、1932年から1960年までの作品でした。

 1932年といえば、満州事変の後、軍部の政治的影響力が拡大し、政党内閣制が崩壊の危機に瀕していた時期です。その後、第2次大戦を経て、戦後復興を果たし、高度経済成長期に入ったのが1960年でした。この期間はまだ圧倒的に農村人口の多い時代です。

 そのような時代状況を反映していたのでしょうか、パート①で描かれた風景には、せいぜい木を伐採するといった程度の人工化しか見られません。そして、人里に近いところは整備されていますが、山に向けての後方エリアは、まだ手付かずの自然が残っているといった状態でした。

 ところが、パート④では、気温に関係なく花を咲かせ、葉や幹に自然界にない色を付与した状態が描かれています。平子氏が現代の自然や植物をこのように認識していることが示されているのです。

 実際、私たちは、夜になればイルミネーションで照らされ、赤、黄色、青、紫といった色に変貌させられる植物の姿を日常的に見ています。その一方で、室内には、空気清浄化の機能を持った本物そっくりの観葉植物を置き、健康な生活を送っていると思い込んでいます。

 科学技術の進歩によって、いまや、自然を人工的なものに見せることができるようになったばかりか、人工的なものを自然と見間違えるほどに仕立て上げることもできるようになっています。

 いつごろからか、私たちは、何がリアルか、リアルでないかにそれほど意味があるとは思わなくなってしまいました。それよりも、役に立つか、効率的か、居心地がいいか、といった自己本位の評価基準で対象を捉えがちになっています。

 私たちの自然に対する意識もまた、変わってしまいました。「どちらが本物か」という問いすら持たずに、自然をコントロールし、ヒトに都合のいい形に作り替えておきながら、平然と、自然と共存しているような錯覚に陥っているのが現状です。

 残念なことに、私たちは、自然と共に生きることを止め、自然を利用することだけを考えるようになってしまいました。自然に耳を傾け、自然をありのままに受け入れることを止めた私たちは、もはや、自然界の憤りを感じるセンスを失ってしまっているのかもしれません。

 昨今、増え続ける異常現象は、人間優先で行われてきた自然利用や自然のコントロールに、自然界が悲鳴を上げ始めた証拠なのかもしれないのです。

 そんな今、平子氏は、4つのパートで構成された巨大な作品《inheritance, metamorphosis, rebirth》を通して、観客に大きな問いを投げかけています。「炭鉱のカナリア」のように、繊細な感性を持つ画家ならではの警告なのでしょう。

 パート①からパート④への変遷過程について、私たちは一人一人、改めて問い直す必要があるのではないかと思います。技術の絶え間ない進化は、自然界を追い詰めてきただけではなく、やがて、ヒトを追い詰めていくに違いありません。

 日本政府はメタバースに(metaverse)向けて舵を切り、ビジネス界が動き出しています。そうしなければ、世界に伍していけないからですが、過去を振り返ることなく、ヒトの生活を踏まえることなく、ただ技術の進化だけを進めていいのかという疑問が残ります。(2022/11/29 香取淳子)

《草上の昼食》:マネは何を表現しようとしていたのか。

 前回、石井柏亭《草上の小憩》を取り上げ、マネ《草上の昼食》の影響がどこにあるのかを見てきました。改めてマネの《草上の昼食》を何度も見ることになったのですが、見れば見るほど、人物モチーフの取り合わせが奇妙に思えてきます。

 マネは《草上の昼食》で一体、何を表現しようとしていたのでしょうか。

 そこで今回は、制作過程や時代背景を踏まえ、マネが制作当時、何に関心を寄せていたのかを把握し、《草上の昼食》で何を表現しようとしていたのかを考えてみることにしたいと思います。

 《草上の昼食》の解説を見ると、ほぼ一致して、この作品はティツィアーノの《田園の奏楽》とラファエロの《パリスの審判》の影響を受けていると指摘されています。果たして、どこがどのように影響されているのでしょうか。

 まず、定説となっているこれら二つの作品を見ていくことから始めたいと思います。

■《田園の奏楽》と《パリスの審判》

 多くの評論家や学者、好事家が一致して指摘するのは、マネは、ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(Tiziano Vecellio, 1488頃-1576)の《田園の奏楽》(Concerto campestre, 1509年)をルーヴル美術館で見て、着衣の男性と裸身の女性が田園で憩うという作品の着想を得たということです。

 そして、手前の男女3人の配置については、1515年頃にマルカントニオ・ライモンディ(Marcantonio Raimondi, 1480-1534)によって制作された、ラファエロ(Raffaello Santi, 1483-1520)の《パリスの審判》(Giudizio di Paride, 1515年)を基にした銅版画に影響されたということでした。

 《田園の奏楽》にしても、《パリスの審判》にしても、16世紀前半に制作された宗教画です。

 それでは、二つの作品を順に見ていくことにしましょう。

●ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(Tiziano Vecellio)《田園の奏楽》(Concerto campestre, 1509年頃)

 この作品は長い間、イタリア人画家ジョルジョーネ(Giorgione, 1477年頃 – 1510年)が描いた作品といわれてきました。ところが、最近の学説ではその弟子ティツィアーノ(Tiziano Vecellio, 1488年頃-1576年)の作品だとされています。

(油彩、カンヴァス、105×137㎝、1509年頃、ルーヴル美術館)

 着衣の二人の男性と裸身の女性が草原に腰を下ろし、その近くに、裸身の女性が立ったまま、水差しから水を注いでいる姿が描かれています。座った女性は後ろ向き、立っている女性は前を向いています。暗い色調の木立の中で、画面手前の二人の裸身の明るさが目立ちます。

 二人とも完全な裸身というわけではなく、立っている女性は太腿から膝下にかけて布を巻きつけ、座っている女性は右太腿に巻き付けた布の上に腰を下ろしています。いずれも豊穣の象徴としての豊満な姿が描かれています。

 座っている男女3人は一見、仲睦まじく、団欒しているように見えます。ところが、よく見ると、どうやらそうではなさそうです。というのも、男性二人は親密に話し合っているのに、彼らは目の前の女性とは何ら関わりがなさそうなのです。

 二人の男性を見てみましょう。

 赤い帽子を被り同色の服を着た男性は楽器を奏でながら、隣の茶色の帽子を被った男性と何やら親し気に語っています。

(前掲、部分)

 至近距離に裸身の女性が座っているというのに、男性二人がなんら関心を示している様子はありません。赤い服を着た男性など、裸身の女性とは足が触れ合わんばかりに近いところにいるのに、まるで女性など存在していないかのように、隣の男性との会話に夢中です。

 もちろん、彼等はすぐ傍に裸身の女性が立って、水差しから水を注いでいるのにも気づかないようです。不思議なことに、男性は二人とも、裸身の女性になんの興味も示していないのです。

 ということは、この裸身の女性たちは生身の人間ではなく、女神あるいはニンフと理解すべきなのでしょう。そう考えれば、着衣の男性と裸身の女性を描きながら、この作品が顰蹙を買うこともなく、ルーヴル美術館に展示されていた理由もわかります。

 女神あるいはニンフだからこそ、裸身を描いても拒絶されなかったのです。

 16、17世紀の美術理論ではデコールム(decorum)という概念が重視されていました。宗教画、歴史画などの作品では、個々の人物の描き方が適切で、主題や表現ともに品位を保つ配慮が必要とされていたのです(※ https://karakusamon.com/word_bijyutu.html)。

 ティツィアーノは晩年、フェリペ2世の依頼で、宗教画と「ポエジア」と呼ばれる古代神話連作絵画を制作していました。神話に仮託した裸婦が描かれることも多かったといわれています。《田園の奏楽》を見てもわかるように、理想的な裸身を描く技量を持っていたからでしょう。

 ティツィアーノはデコールムに則って、魅力的な裸体を描くことができたのです。

 さて、マネの《草上の昼食》が影響を受けたといわれるもう一つの作品が、《パリスの審判》です。

●ラファエロ・サンティ(Raffaello Santi)《パリスの審判》(The Judgment of Paris、1515年)

 ラファエロ・サンティ(Raffaello Santi, 1483-1520)はイタリアの画家であり建築家です。明確でわかりやすい構成と、人間の壮大さを謳い上げる世界を視覚化したことで評価されています。ラファエロの作品は絵画でもドローイングでも評価が高く、ローマ以外でも彼の作品を元にした版画が出回り、よく知られていました。

 そのラファエロが《パリスの審判》を描いたのをライモンディ(Marcantonio Raimondi,1475年頃‐1534年頃)が版画にしたのが、下の作品です。

(銅版画、サイズ不詳、1515年、ドイツ、シュトゥットガルト州立美術館)

 裸身の神々や天使が多数、描かれています。調和の取れた構図の下、それぞれが生き生きとした表情と動作で描かれ、見事です。その画面の一角に、《草上の昼食》のモチーフの配置とよく似た部分があります。

(前掲、部分)

 左の男性は膝に肘をついて、こちらを見て居ます。右の男性は足を投げ出し、武器のようなものを両手に持っています。3人とも男性ですが、この人物配置はまさに《草上の昼食》の人物配置です。マネがこの作品をヒントにしたことは明らかです。

 こうして二つの作品を見てくると、これらが《草上の昼食》に大きな影響を与えていたことがわかります。いずれも16世紀前半、ルネサンス盛期の作品です。これまで数多くの評論家や学者たちが指摘してきたように、画題といい、構図といい、マネがこれらのルネサンス期の作品を参考に《草上の昼食》を描いていたことは明らかです。

 ただ、それがわかったとしても、マネがこの作品を通して何を表現しようとしていたのかはわかりません。

 果たして、マネはこの作品を通して、何を表現しようとしていたのでしょうか。

 再び、マネの《草上の昼食》の画面に立ち戻って、考えてみることにしましょう。

■画面を構成する「水浴」と「ピクニック」の光景

 やや引いて画面全体を見ると、気になるのは、上下二つに分かれた画面構成です。異なる二つの光景が一つの画面に描かれているのです。

 まず、中景から遠景にかけて、薄衣を着て水浴をしている女性が描かれています。前回指摘した人物配置図でいえば、三角形の頂点に当たる部分です。そして、前景から中景にかけては、着衣の男性二人と裸身の女性が談笑している光景が描かれています。

(油彩、カンヴァス、208×265.5㎝、1863年、オルセー美術館)

 画面の上下で別々の光景が描かれているのです。上方は水浴する場面であり、下方はピクニックをしている場面です。いずれも癒しの光景とみることができます。奇妙なことに、この異なる二つの光景は森の木立の下、一見、違和感なく接合されています。

 二つの光景は着衣の男性の背後に見える緑の草地で描き分けられ、背後の川面には巨木の樹影が映し出されています。そのせいか、川辺と森とがごく自然に繋がって見えます。暗緑色の木々で覆われた画面の中で、裸身の女性と肌色のシュミーズを着た女性の姿がまるで光源のように辺りを照らし出しています。暗緑色の木立の中で、そこだけスポットライトを浴びているかのようです。

 よく見ると、水浴の女性は斜め下に視線を落としています。

(前掲。部分)

 まるで森にピクニックを楽しむ男女3人を見ているように見えます。この女性は裸身ではなくシュミーズをまとっていますから、女神ではなくニンフでもありません。生身の女性が視線をピクニックを楽しむ男女に向けているのです。

 この女性の視線は、時空の異なる二つの光景をさり気なく連携させるだけではなく、マネの関心の移行を示しているともいえます。すなわち、「水浴」から「ピクニック」への関心の流れです。

■水浴

 「水浴」から「ピクニック」への流れは、神話世界のイメージから現実世界のイメージへの流れであり、理想主義から現実主義への流れともみることが出来ます。ひょっとしたら、ここにマネの制作過程での意識の流れを追うことができるかもしれません。

 そもそも、この作品の1863年に開催されたサロン出品時のタイトルは《水浴》でした。ところが、モネがこの作品に刺激されて《草上の昼食》(1865-1866年)を描いたのを見たマネが、1867年に開催された個展でこの作品のタイトルを《水浴》から《草上の昼食》へと変更してしまったのです。

 マネはなぜ、タイトルを《水浴》から《草上の昼食》に変えたのでしょうか。

 マネの《草上の昼食》の画面を見返して見ると、「水浴」よりも「ピクニック」の方に比重が置かれているのは明らかです。この画面構成をみれば、マネがタイトルを変更した理由もわからなくはありません。

 ただ、画面上部に水浴の光景を描き、タイトルを《水浴》にしていたことを考えれば、マネは当初、水浴を画題に制作しようとしていたのではないかと思われます。その後、なんらかのきっかけがあって、ピクニックの光景をメインに描くようになったのでしょう。

 実は、1862年にマネは水彩でこの作品の下絵を描いています。

(水彩、紙、33.9×40.3㎝、1862年、オックスフォード、個人蔵)

 これを見ると、人物モチーフの配置、ポーズなど本作とほとんど変わりません。1862年の時点で、裸身の女性に着衣の男性二人、その背後に水浴する女性といった構図は定まっていたことがわかります。

 ただ、下絵では、裸身の女性と隣の男性が仲睦まじく寄り添い、同じ方向を見て居るのに対し、本作では、至近距離にいながら二人の間には距離があります。二人はやや離れて座り、女性は正面を見つめているのに男性はやや視線をずらして描かれているのです。

 また習作では手前にバスケットからパンや果物などが転がり出ている様子は描かれておらず、ピクニックという雰囲気はありません。ピクニックの要素は本作の制作段階で描き加えられたと考えられます。

 実は、《草上の昼食》の前にマネが描いていた作品があります。

 《驚くニンフ》(1861年)と《テュイルリー公園の音楽祭》(1862年)という作品です。これらの作品はどうやら、マネが《草上の昼食》で取り上げた二つの光景、「水浴」と「ピクニック」に関係がありそうです。

 まず、《驚くニンフ》から見ていくことにしましょう。

■《驚くニンフ》(La Nymphe surprise,1860- 1861)

 恥じらいを含ませながら驚くニンフの表情が印象的です。

(油彩、カンヴァス、146×114cm、1860-1861年、アルゼンチン、ブエノスアイレス国立美術館)

 モデルは、マネの恋人であったピアニストのスザンヌ・リーンホフです。当時、マネは父親に反対されて結婚できずにいましたが、父親が亡くなった2年後、彼女と結婚しています。

 マネは、レンブラント(Rembrandt Harmenszoon van Rijn , 1606 – 1669年)の《スザンナと長老たち》(Susanna and the Elders , 1647年)に刺激されて、この作品を制作したといわれています。(※ https://en.wikipedia.org/wiki/La_Nymphe_surprise

 それでは、《スザンナと長老たち》(1647年)は一体、どのような作品なのでしょうか。見ておくことにしましょう。

(油彩、パネル、76.6×92.8㎝、1647年、Gemäldegalerie, Berlin)

 この《スザンナと長老たち》(1647年)を参考にして描かれたのが、マネの《驚くニンフ》でした。

 確かに、裸身の一部を白い布で覆い、胸を手で隠すようにしてこちらを見るポーズは、《驚くニンフ》によく似ています。違っているのは、《スザンナと長老たち》では二人の老人に襲われそうになる状況が描かれているのに、《驚くニンフ》ではそうではないということです。

 状況が描かれていないので、マネの《驚くニンフ》では、驚きと困惑の原因がわからないのです。

 ひょっとしたら、マネは敢えて、レンブラントの作品からスザンナのポーズと表情だけを取り入れ、彼女が置かれた状況は削除して、《驚くニンフ》を描いたのかもしれません。そうした方がおそらく、作品が宗教的世界に拘束されにくいと判断したからでしょう。

 レンブラントのこの作品は、実は、旧約聖書『ダニエル書補遺』の「スザンナ」のエピソードから題材を得て描かれたものでした。美しい人妻スザンナが水浴するのをのぞき見た二人の長老たちが、彼女を襲おうとしているシーンです。

 この「スザンナ」のエピソードはよほど強く、画家たちの創作意欲を刺激したのでしょう。数多くの画家たちがこれを題材に作品を仕上げています。

(※ https://www.aflo.com/ja/fineart/search?k=%E3%82%B9%E3%82%B6%E3%83%B3%E3%83%8A%E3%81%A8%E9%95%B7%E8%80%81%E3%81%9F%E3%81%A1&c=AND

 レンブラントは数多くの画家たちのうちの一人だったのです。この題材なら、宗教的価値、道徳的価値があり、しかも、裸婦を描いても、デコールムを気にする必要がないのです。

 さて、《驚くニンフ》で描かれた表情は、レンブラントの《スザンナと長老たち》よりもさらに穏やかで、優しく、官能的に描かれています。木立の背後に川の流れが見え、自然の営みの中でそっと切り株の上に腰を下ろした女性の姿がなんとも優雅です。

 興味深いことに、マネはこの作品では、暈し表現を取り入れ裸身を豊かに表現し、アカデミズムの手法に則った描き方をしています。そのせいか、この作品は宗教画に分類されています。デコールムの点でこの作品が批判されなかったことがわかります。

 一方、《草上の昼食》では、水浴する女性は裸身ではなく、当時のマナーの従って、シュミーズを身につけています。生身の女性が描かれていました。

 こうして時系列でみてくると、マネは、《驚くニンフ》の女性を《草上の昼食》の上部に描かれた水浴する女性に移し替えて描いたように思えます。宗教画に題材を取りながら、当時の現代社会を表現しようとしていたのではないかという気がするのです。

 さて、この水浴する女性が視線を投げていたのが、ピクニックの光景でした。

 ちょうどこの頃、マネは、《テュイルリー公園の音楽会》(1862年)という作品を仕上げています。木立の中で憩うという点では大掛かりなピクニックのようなものでした。

■《テュイルリー公園の音楽会》(Music in the Tuileries , 1862年)

 第2帝政期のパリでは、上流階級が月に一度、テュイルリー公園に集まり、野外コンサートを開催していました。その時の光景を描いたのが、この作品です。

(油彩、カンヴァス、76×118㎝、1862年、ロンドン、ナショナル・ギャラリー)

 男性はシルクハットをかぶり、女性は華やかなドレスを着ています。大勢の人々が正装で公園に集まっているのです。画面手前では女性が二人こちらを眺め、その足元で子供たちが遊び、中ほどでは人々が談笑しています。

 また、手前には日除けのための日傘が置かれ、休息するための瀟洒な鉄製の椅子があちこちに置かれています。戸外らしさを感じさせるのはそれだけで、画面全体に優雅な社交界の雰囲気が漂っています。

 ところが、よく見ると、中心部分の描き方が実に雑です。絵具がただ意味もなく、塗りたくられているだけなのです。もちろん、その辺り一帯の人や物の形は判然としません。手前や左の人物は表情がわかるほど丁寧に描かれているのに、なぜ、中心部分がこれだけ雑に描かれているのか、不思議でした。

 やり過ぎと思えるほど、中心部分が雑に描かれているので、やや引いて画面を見ると、その傍らに立つ白いズボンの男性の姿が鮮明に印象づけられます。

 この男性はマネの弟のウジェーヌ・マネだそうです。画面には、マネ自身を含め、ボードレールや画家仲間のラトゥールなど、マネの友人が数多く描かれているといわれています。(※ Wikipedia)

 部分的に雑に描いているのは、群衆の中で特定の人物を際立たせるための手法かもしれません。そう思って、改めて、画面を見直してみると、丁寧に描かれた人物の周囲は、雑に絵具が塗られています。いかにもマネらしい革新的な表現方法でした。

 さて、この作品は1863年にマルティネ(Galerie Martinet)画廊で開催された個展で展示されました。ところが、観客や批評家たちから下絵のようだと酷評されたといいます。予想通りの反応でしたが、その一方で、若い画家たちはこの作品に新鮮なものを見出し、評価していたそうです。(※ Françoise Cachin, “Manet : « J’ai fait ce que j’ai vu »”, Paris, Gallimard, 1994. 藤田治彦監修、遠藤ゆかり訳、『マネ―近代絵画の誕生』、創元社)

 興味深いのは、画面の色彩構成とモチーフの配置です。全体に男性が多く、黒のシルクハットに黒のジャケット、グレーあるいは白のズボンといった無彩色で統一されているせいか、手前のドレス姿の女性が目立ちます。

 白みを帯びたベージュのドレスを着た二人の女性は補色である水色のリボンのついた帽子を被っています。その水色は暗緑色の木立の背後に見える空の色と呼応し、画面を引き締めています。

 聴衆は、わずかに見える空の真下を頂点とした三角形の形の中に収まっています。幾何学的に計算されつくした構図であり、大勢の人物配置です。木々も人物も平板に描かれていますが、それだけに手前の鉄製の椅子が印象づけられます。

 音楽会に集まった聴衆が混乱せず、画面に収められているのは、大きな三角形の下、構造化されて表現されていたからでしょう。この作品は、色彩構成と空間構成の点で、《草上の昼食》に影響していると思われます。

 さて、《テュイルリー公園の音楽会》は、画面構成など表現方法はもちろんのこと、画題そのものも一部の人々には新鮮な印象を与えていた可能性があります。

 この作品には、19世紀後半のパリの上流階級の生活の一端を見ることができるだけではなく、新たな時代の楽しみ方が示されていました。戸外でレジャーを楽しむという贅沢が人々を捉え始めていたのです。

 ピクニックもその一つです。

■19世紀後半の近代化の諸相

 マネが《草上の昼食》(1863年)で取り上げたのは、二つの異なる光景、「水浴」と「ピクニック」でした。「水浴」は《驚くニンフ》(1860-1861年)の系譜を引き、「ピクニック」は《テュイルリー公園の音楽会》(1862年)の流れを汲んでいます。

 19世紀後半のフランスでは、急速に近代化が進み、鉄道が敷かれてパリに多数の人々が流入し、都市を中心に人々の生活が大きく変化していきました。そんな中、裕福な人々が週末には自然豊かな郊外に出かけ、余暇を楽しむようになっていました。

 マネが《草上の昼食》で描いた光景は、そのような都市生活者の変化の一端を捉えたものでした。

 マネ自身、ほとんど毎日のようにテュイルリー公園に出かけ、見たものをスケッチをしていたといいます。戸外でのスケッチを楽しみ、その一環として仕上げたのが、《テュイルリー公園の音楽会》でした。

 もっとも、この頃はまだ戸外でのレジャーは上流階級のものでしかありませんでした。それが証拠に、この作品に登場する人々は皆、シルクハットにドレスを着用しています。戸外での演奏会なのに、まるで王宮の舞踏会に出かけるような格好をしているのです。

 産業化が進行しつつあったとはいえ、まだレジャー用のファッションが開発されるまでには至らなかったのでしょう。《草上の昼食》の男性二人もピクニックに不釣り合いな正装をしています。

 さて、「水浴」にしても、「ピクニック」にしても、19世紀後半に見出された娯楽であり、自然への回帰現象の一つともいえるものでした。

 たとえば、入浴という習慣はフランスでは19世紀になるまで浸透しなかったそうです。19世紀末になっても浴室のある家庭は少なく、人々は大きなたらいに水を張って身体を洗っていた程度だといわれています。

 新しい生活習慣となりつつあった入浴風景を、印象派の画家たちは数多く描いていますが、マネにもそのような作品があります。《Le Tub》(1878年)という作品です。

■裸婦を通して、マネが描こうとしたもの

 産業化に主導されて、近代化が進み、時代は大きく変化していきました。もはやデコールムを気にしなくてもよくなっていたのでしょう。マネは1878年、生活風景の中で堂々と、女性の裸身を描いています。

●《Le Tub》(1878年)

 《Le Tub》(1878年)は、《草上の昼食》よりも15年も後の作品ですが、水浴する女性とポーズが、《草上の昼食》の水浴する女性のポーズとよく似ています。

(パステル、カンヴァス、54.0×45.0㎝、1878年、オルセー美術館)

 パステルならではの柔らかな色調で、日常の生活光景の中の裸身が優しく捉えられているのが印象的です。

 まず、やや身を屈めた弓形の曲線と、足元の金盥の丸い曲線が、画面に柔らかさをもたらしているのに気づきます。次いで、その背後に見える化粧台のようなものが作る水平線が画面を適宜、区切り、絶妙な構図を創り出していることに感心します。

 柔らかく、瑞々しい女性の肌が、同系色の色調の中でまとめられています。金盥の青味を帯びた濃淡の色が、肌の補色として使われるだけではなく、化粧台の影色としても使われており、画面に穏やかなメリハリが生まれているところに興趣が感じられます。

 奇をてらうことなく、淡々と日常生活の光景を描きながら、優しさと穏やかさ、静かな安定を描き出しているところに、マネの円熟した画力を感じさせられます。

 興味深いことに、この女性のポーズは、《草上の昼食》の水浴する女性のポーズを反転させたものでした。視線を落としながらも観客の方を向いています。見られていることを意識している表情です。この眼差しを見て、この作品が《驚くニンフ》の系譜を引いていることがわかりました。

 そういえば、《草上の昼食》の裸身の女性は、この女性よりもさらにしっかりと観客を見据えていました。

 実は、ルーベンスの作品にもこの女性と同じようなポーズ、表情の女性が描かれているものがあります。

 ちょっと見てみることにしましょう。

●ルーベンス(Pierre Paul Rubens)《Nymphs and Satyrs》(ニンフとサテュロス、1635年)

 ルーベンス(Pierre Paul Rubens,1577-1640)に《ニンフとサテュロス》(Nymphs and Satyrs)という作品があります。

(油彩、カンヴァス、136×165㎝、1615-1635年、プラド美術館)

 森の中で白い裸身のニンフたちが何人も描かれています。そのニンフたちに混じってサテュロスの姿も見えます。サテュロスはギリシア神話に登場する半人半獣の精霊です。ローマ神話にも現れ、ローマの森の精霊ファウヌスやギリシアの牧羊神パーンと同一視されることも多々あるようですが、豊穣の化身、あるいは、欲情の塊として表現されてきました。

 この作品を見ると、木に登ってたわわに実った実をもぎ取っているのはサテュロスたちで、その実をもらって幸せそうにしているのがニンフたちです。サテュロスが豊穣の化身であることは明らかで、牧歌的な光景の中に自然の恵みの豊かさが描かれています。

 画面左下には巨大な壺が置かれ、そこから水が流れ出ています。

 気になったのは、この壺のようなものにもたれるようにして座っているニンフの姿勢が、《草上の昼食》の裸身の女性のポーズとそっくりだったことです。

(前掲、部分)

 ひょっとしたら、マネはこの作品を見て、何らかの影響を受けていたのかもしれません。そう思ったのは、実は、マネはルーベンスの作品を模写していた時期があるからです。

 1849年頃、マネはトマス・クチュールのアトリエに入り、6年間修業していましたが、その間、ルーヴル美術館でティツィアーノやルーベンスの作品を模写していたといわれています。また、1856年にクチュールのアトリエを去った後もなお、ベラスケスやルーベンスの作品の模写を続けていました。

 ルーベンスの表現方法について、マネは熟知していたと思われます。

 そのルーベンスの《ニンフとサテュロス》で、大勢のニンフたちの中で、一人のニンフだけが観客を直視していたことに気づきました。敢えて、このようなニンフを描いたことに、17世紀の作品でありながら、新鮮さを感じました。ルーベンスはこのニンフを、意思を持つ女性として描いているように思えたのです。

 そして、このニンフの表情とポーズが、《草上の昼食》の裸身の女性ととてもよく似ていることに興味を覚えました。違いといえば、マネはルーベンスが描いたこのニンフの姿形を踏まえながら、自身の作品では、平面的に描いていたことです。

 《テュイルリー公園の音楽会》もそうですが、マネはモチーフを平面的に描くことによって、現代性を加味しようとしていたのではないかという気がします。

 産業化が進行し、生活に変化が生まれていた19世紀後半、マネは絵画界で一足先に、近代化を実行しようとしていたように思えます。(2022/10/31 香取淳子)

石井柏亭《草上の小憩》は、マネ《草上の昼食》のオマージュ作品か?

■「日本の中のマネ」展の開催

 「日本の中のマネ」展が今、練馬区立美術館で開催されています。開催期間は2022年9月4日から11月3日、開催時間は10時から18時(入館は17時30分)までです。

 私はこの展覧会の開催を図書館に置いてあったチラシで知りました。「マネ」という文字に引かれ、案内チラシを手に取ってみたのですが、ちょっと違和感を覚えました。中折れチラシの表と裏に大きく掲載されていた絵は、いずれもマネの作品ではなかったのです。

 妙だと思い、絵の部分を見直してみると、小さな文字で、作品の概要が書かれています。片方の面に掲載されていたのが、石井柏亭の《草上の小憩》、もう片方の面に載せられていたのが、福田美蘭の《帽子を被った男性から見た草上の二人》でした。

 練馬区立美術館の近くで目にした看板も、この二つの絵で構成されていました。案内チラシの表と裏を拡大し、横長にしたものでした。

看板

 右側が石井柏亭の作品で、左側が福田美蘭の作品です。福田美蘭の作品は、着衣の男性のすぐ傍に裸身の女性が座っている絵柄なので、見るとすぐ、マネの有名な《草上の昼食》を思い起すことができます。

 ところが、石井柏亭の《草上の小憩》の場合、あまりにも日本的な絵柄だったので、容易にマネの影響を観て取ることはできませんでした。

 なぜ、石井の《草上の小憩》がチラシに掲載されていたのでしょうか。そもそも、石井柏亭はマネとどう関係しているのでしょうか・・・。そのようなことが気になりながらも、取り敢えず、会場の中に入ってみました。

 すると、展覧会は、「第1章 クールベと印象派のはざまで」、「第2章 日本所在のマネ作品」、「第3章 日本におけるマネ受容」、「第4章 現代のマネ解釈」という章立てで構成されていました。

 この章立てを見る限り、どうやら、マネそのものを取り上げた展覧会ではなさそうです。

■日本の中のマネ

 マネの作品は、「第2章 日本所在のマネ作品」というコーナーにまとめて展示されていました。全展示作品104点の内、マネの油彩画はわずか6点、パステル画1点、チョーク画1点、エッチング40点、リトグラフ3点、石版画1点だけでした。

 しかも、油彩画の《散歩(ガンビー婦人)》は見たことがありますが、それ以外は、知らない作品ばかりです。

 念のため、出品作品のリストを見ると、いずれも日本の美術館等が所蔵している作品でした。コロナ下の今、海外からマネの作品を借用するのが難しくなっていることが推察されます。

 こうしてみてくると、この展覧会が、「日本の中のマネ」を掬い上げることに焦点を当てた構成になっていた理由がよくわかります。

 「日本の中のマネ」を掬い上げ、「明治期の出会いから現代にいたる、日本人画家によるマネの受容過程を探る」という視点を導入して関連作品を俯瞰すれば、日本人にとっての西洋画の意味をより深く理解できるようになるかもしれません。展示作品よりも企画力が印象に残る展覧会でした。

 それにしてもなぜ、石井柏亭の《草上の小憩》が取り上げられているのでしょうか。マネとは絵柄や作風が違いすぎるので、気になって仕方がありませんでした。そこで、展覧会のチラシをよく読むと、石井柏亭は「マネの《草上の昼食》にインスピレーションを得て」、《草上の小憩》を手掛けたと書かれていました。

 だとすれば、パッと見ただけではわからない影響の痕跡を、《草上の小憩》の中に見出すことができるはずです。この石井作品から「日本の中のマネ」を掬い上げることができれば、「日本人画家によるマネの受容過程」の一例を見ることができます。

 そこで、今回は、石井柏亭の《草上の小憩》を取り上げ、マネの《草上の昼食》とどのように関わっているのかを探ってみることにしたいと思います。

 まずはマネの作品《草上の昼食》を振り返ってその特性を把握し、つぎに、石井柏亭がそれをどう解釈し、自身の作品《草上の小憩》にマネの痕跡を残していったかを見ていくことにしましょう。

■エドゥアール・マネ(Édouard Manet)制作、《草上の昼食》(Le Déjeuner sur l’herbe, 1862-1863)

 《草上の昼食》はマネの有名な作品です。

 この作品は当初、《水浴》というタイトルで、1863年の公式サロンに出品されました。この時のサロンでは988人しか入選せず、落選作品は2800にも及びました。マネが出品した3点はすべて落選しています。

 落選者たちの不満の声に応えるように、ナポレオン三世は、その二週間後に、「落選展」を開催しました。初日だけで7000人もが参加したといわれるこの「落選展」で、観客の注目を一斉に集め、そして顰蹙を買ったのが、マネのこの作品(《水浴》は後に、《草上の昼食》と改題)でした。

 それでは、この作品を見てみることにしましょう。

(油彩、カンヴァス、208×265.5㎝、1862-1863年、オルセー美術館)

 西洋画で裸身を見るのは別に珍しくもないのですが、この作品では、裸の女性が恥ずかしげもなく、着衣の男性と談笑し、その背後に薄衣を着て水浴びをしている女性がモチーフとして取り上げられています。当時の人々にとっては、意表を突く光景でした。

 この作品を見た観衆は、モチーフの「不道徳」、「はしたなさ」に激しい非難を浴びせたそうです(※ 後藤茂樹編、『マネ』、集英社、1970年、p88.)。

 正装した男性の隣で、裸身の女性が脱いだ衣服の上に平然と腰を下ろしている姿を目にすれば、「はしたない」と思うのも当然の反応でしょう。

 傍らには、帽子や上着のようなものが散乱し、バスケットからは果物やパンが転がり出ています。慌てて衣服を脱いだ後の乱雑さが丁寧に描かれています。瑣末な周辺状況が詳細に描写されることによって、この光景のふしだらな印象がさらに強められています。

 古来、西洋画では数多く裸身の女性が描かれてきましたが、大抵の場合、女神か、何らかの寓意、或いは、理想的な女体を示すものとして表現されてきました。日常生活の中で描かれることはなく、一般女性とは別世界の存在として描かれてきたのです。

 だからこそ、観客は裸体画を見ても格別に違和感を覚えず、拒否することもなく、むしろその美しさを称賛した例も数多く見られます。

 たとえば、マネが出品したこの1863年のサロンに、アカデミズムの画家アレクサンドル・カバネル(Alexandre Cabanel, 1823-1889)も出品していました。彼の作品は入選しましたが、それは《ヴィーナスの誕生》というタイトルの裸体画でした。

 興味深いことに、カバネルとマネは同時期に、裸体画をサロンに出品していたのです。ところが、カバネルの作品は入選したのに、マネの作品は落選し、その後、開催された「落選展」でも落選しました。そればかりか、以後しばらくは観衆から非難され続けたのです。

 両者の裸体画に、一体、どのような違いがあったのでしょうか。カバネルの《ヴィーナスの誕生》を見てみることにしましょう。

(油彩、カンヴァス、130×205㎝、1863年、オルセー美術館)

 これは、19世紀のアカデミック絵画としてよく知られた作品で、ナポレオン三世が購入したほどでした(※ カバネル、Wikipedia)。アカデミーからも観衆からも、そしてナポレオン三世からも称賛された作品だったのです。

 天使が描き添えられているとはいえ、《ヴィーナスの誕生》の裸身は、仰向けになって身をよじり、横たわっていて、とても官能的です。

 ところが、《草上の昼食》の裸身は、膝を立て、肘をついて座っているだけです。エロティシズムという観点から見れば、《ヴィーナスの誕生》の方がはるかに煽情的でした。それでも、観衆やアカデミーの評価は真逆だったのです。

 こうしてみてくると、裸身が描かれているからといって、マネの《草上の昼食》が非難されたわけではないことがわかります。

■カバネルとマネ、なぜ、評価が大きく分かれたのか?

 それでは、なぜ、《草上の昼食》が非難され、《ヴィーナスの誕生》は称賛されたのでしょうか。

 一つには、絵柄、あるいは、モチーフの構成に原因があると考えられます。

 カバネルの《ヴィーナスの誕生》では、泡立つ波の上で、伸びやかに寝そべる裸の女性が描かれています。描かれた状況を見ても、均整の取れた美しい身体を見ても、裸身をさらけ出しているのが人間の女性ではないことは明らかです。

 ヴィーナスは、海から誕生した女神アフロディテともいわれ、「ヴィーナスの誕生」は、これまで何人もの画家が手掛けてきた画題です。有名な作品として、1483年頃、ボッテイチェリによって描かれた《ヴィーナスの誕生》があります。

 まさに神話の世界であり、豊穣の寓意が美しい裸身に託して表現されてきました。カバネルの作品でも、寝そべるヴィーナスの真上を、まるで見守かのように、天使たちが飛び回っています。神話の世界、豊穣の寓意が示されているのです。

 カバネルがこの作品で表現したのは、アカデミズムの画家ならではの伝統的な画題あり、モチーフの構成でした。

 もちろん、裸身の描かれ方も、マネの作品とは異なっていました。

 《ヴィーナスの誕生》では、女性の乳白色の肌はきめ細かく、滑らかで、筆触の跡が見えないよう描かれています。アカデミズムの画家たちが踏襲してきた技法です。そして、身体は理想的なプロポーションであることがわかるように描かれており、ギリシャ以来の裸体美の観念に基づいて表現されています。

 カバネルの《ヴィーナスの誕生》はこのように、モチーフの構成であれ、描き方であれ、いわゆるアカデミズムの骨法を踏まえて表現されていたのです。

 一方、《草上の昼食》はモチーフの構成、裸身の描き方、そのいずれについても、アカデミズムのルールから逸脱しています。

 そもそも、裸身の女性が着衣の男性二人と談笑し、背後に水浴する女性が描かれている光景そのものが異様です。手前には脱ぎ捨てた衣服やバスケットから果物やパンが転がり出て、乱雑な様子が描かれています。生活秩序が破壊されているばかりか、理想的なプロポーションを見せるわけでもない普段の姿勢の裸身と相まって、猥雑な印象が強化されているのです。

 ピクニックを楽しんだりすることもある神聖な森が、このような絵柄で描かれているのを見て、観衆の多くが穢されたような気分になったとしても無理はありません。

 描かれているのは、女神でもなく、有名な歴史上の女性でもなく、一般女性なのです。描かれた対象と観客との距離が近すぎました。しかも、この女性は裸身のまま、臆することもなく正面を見据え、脱ぎ捨てた衣服の上に座っています。一見、穏やかな表情ですが、不敵な印象すらあります。

 絵柄、あるいは、モチーフの構成でいえば、神話や歴史の空間ではなく、日常の生活空間で女性の裸身が描かれていることに、この作品の特徴があります。そのこと自体、アカデミックのルールを破ることを示唆しており、一部の画家にとっては斬新で、先駆的でもあったのですが、大多数の観衆や画家には受け入れられず、不興を招いたと思われます。

 先ほども触れましたが、裸身の描かれ方も、これまでアカデミーで受け入れられてきた裸体画とは異なっていました。

 たとえば、《草上の昼食》の女性は、膝を曲げて座り、その膝頭に肘をついて頬を支えています。とても理想のプロポーションを見せる姿勢とはいえず、しかも、腹部や腿の裏側のたるみもしっかりと描かれています。

 肌はやや黄色味を帯びた白色で、首筋や腹部に大きく皺が刻み込まれ、写実的に表現されていました。

 理想のプロポーションだとわかるようにモチーフをレイアウトし、肌は乳白色で筆触の跡を残さず、滑らかに描くという、これまで受け入れられてきた裸体の描き方から、この作品は大きく逸れていたのです。

 それら一切合切が、当時のパリの観衆から不謹慎、不道徳だとして非難された原因だったのでしょう。その一方で、一部の画家たちや評論家には、先駆的で斬新、革新性を感じさせる作品だったのでしょう。

 それでは、石井柏亭はこの作品にどう影響され、どのようなオマージュ作品を残したのでしょうか。

■石井柏亭《草上の小憩》(1904年)

 チラシに掲載されていたのが、石井柏亭の《草上の小憩》(1904年)です。マネの《草上の昼食》に似たタイトルですが、絵柄は全く異なっていました。一見しただけでは、この作品のどこにマネの影響の痕跡があるのかわかりません。

(油彩、カンヴァス、92×137.5㎝、1904年、東京国立近代美術館)

 はたして、この作品のどこに、《草上の昼食》へのオマージュがあるのでしょうか。詳しく見ていくことにしましょう。

 晴れた冬の日、陽だまりの中で若者たちが憩う、和やかなひと時が捉えられています。《草上の昼食》との類似性があるとすれば、若い男女が野外でリラックスしている光景が描かれているということぐらいです。

 まずは、そのあたりから見ていくことにしましょう。

 手前に描かれた少女は、前髪を下ろして首をかしげ、あどけない表情をこちらに見せています。手袋をはめた手を組んで腿に置き、足を揃えて横座りをしています。無理やり上体を起こそうとしており、不自然な姿勢ですが、大人びて見え、ややコケティッシュです。

 後ろの女性は、髪を三つ編みにし、片肘をついて横になっています。見るからに不安定な姿勢です。しかも、低い位置から見上げるようにして、正面を見据えているせいか、表情に媚びが感じられます。

 一方、男性は二人とも帽子を被っています。学帽を被った男性は、膝を立てて座っており、無理のない姿勢です。被っているのが角帽ではなく丸帽ですから、中学生か高校生なのでしょう。素朴な印象を受けます。

 その右側に座っている男性は、膝を伸ばして座っており、リラックスしている様子です。縁が柔らかく波打った形の帽子を被っていて、落ち着いた雰囲気があり、社会人に見えます。4人の中では最年長者なのでしょう。

 彼らがどういう関係なのかはわかりませんが、年齢差があって仲睦まじく、リラックスした様子で、戸外で寛いでいる様子を見ると、兄弟姉妹なのかもしれません。

 まず、これらのモチーフから、マネとの関連を見ていくことにしましょう。

■モチーフを比較して見えてきたこと

 描かれているのは、男女4人が林の中の草地で、和やかなひと時を過ごしている光景です。一見、日常的な生活風景のように見えますが、よく見ると、女性二人のポーズが不自然でした。とくに違和感を覚えたのが、三つ編みの女性です。

 なんと、この女性は草地に肘をついて、身体を横たえているのです。しかも、若い女性です。どんな事情があったにせよ、着物を着た女性が、戸外で取るような姿勢ではありません。見るからに不安定で、肘をついた手を片方の手で押さえ、辛うじて横向きの身体を支えています。不自然なまでに崩した姿勢がふしだらに見え、身持ちの悪さを感じさせられました。

 ふと、この三つ編みの女性は、《草上の昼食》の裸身の女性を日本風に焼き直したものではないかという気がしました。

 横たわって、低い位置から見上げる女性の姿勢そのものが、媚態に見えたからです。そう思うと、すぐさま、マネの作品に浴びせられた「不謹慎」、「ふしだら」といった非難が脳裏に浮かびました。

 他のモチーフも同様、マネの作品との関連性が見受けられます。

 たとえば、《草上の昼食》では、男性は後ろに房のついた帽子を被り、白シャツにネクタイを締め、黒いコート姿で描かれていました。男性二人は正装をしているのに、女性は裸身、あるいは薄衣でした。男性と女性とで、描き方の落差が際立っていました。

 一方、《草上の小憩》でも、男性二人は帽子を被っており、佇まいに乱れはありません。学帽に制服、縁のある帽子に上着とズボンという格好です。これは、《草上の昼食》の男性たちの正装に相当します。帽子によって身分や所属が示され、男性が社会階層という秩序原理の中に位置づけられていることが踏まえられているのです。

 もう一人の女性モチーフ、《草上の昼食》の水浴をしている薄衣の女性は、《草上の小憩》では、手前に描かれたあどけない表情をした少女に相当します。両手を組んで腿に置き、足を揃えて横座りした姿勢が、幼いながらややコケティッシュでした。三つ編みの女性よりも挑発の度合いが低いという点で、裸身の女性よりも挑発の度合いの低い水浴びをする女性の置き換えに思えます。

 こうしてみてくると、石井柏亭は女性モチーフを、コケティッシュの度合いによって描き分け、マネの作品の女性モチーフに対応させていたように思えます。裸身の女性を、大胆なポーズを取っている三つ編みの女性に置き換え、背後で水浴する女性を、ポーズのせいでややコケティッシュに見える少女に置き換えたと思われるのです。

 それでは、構図についてはどうでしょうか。

■構図、明暗のコントラスト、画面の透明感について

 《草上の小憩》を見ると、4人が座っている草地の周囲は踏み固められ、手前の少女を頂点に、背後の一直線に並んだ木々を底辺とした逆三角形になっています。該当部分を黄色のマーカーで図示してみました。

(前掲。黄色マーカーで表示)

 遠景に広がりが感じられる構図です。陽だまりの中、4人は思い思いのポーズで、草地に腰を下ろしています。木々の背後に空が大きく広がり、その合間に人家も見えており、人里近い林の中の草地だということがわかります。

 枯れた草地には、所々に緑の草が見え、冬とはいえ、春の気配が感じられます。冬から春への移行期ならではの穏やかな温もりが画面から浮かび出ています。

 よく見ると、画面全体に万遍なく、黄土色の短い線がランダムに散らされています。空といわず、制服や着物といわず、色彩を主張するようなモチーフの上には全般に、黄土色の短い線が散らされていたのです。まるで強い色彩を弱めるかのように見えます。

 その結果、画面全体に明暗のコントラストが弱められる一方、統一感が生まれ、陽光は優しく柔らかく、和やかな雰囲気が醸し出されていました。若者たちの日常生活の一端が、ほのぼのとした感触を残しながら、描かれていたのです。

 それでは、マネの《草上の昼食》はどうだったのでしょうか。

 《草上の昼食》では、男女3人が手前で寛ぎ、その背後で女性が1人、水浴びをしている光景が描かれています。4人のモチーフは、遠景でわずかに見える空を頂点とし、手前の男女を底辺とする三角形の中にすっぽりと収まっています。とても安定した構図です。該当部分を黄色のマーカーで図示してみました。

(前掲。黄色でマーク)

 この安定感のある構図が、不謹慎に見える光景に、清澄で泰然自若の趣を添えているように思えます。木々の合間から射し込む陽光と二人の女性の肌の明るさが、鬱蒼とした森に活力を与え、明暗のコントラストの強さが、一種の清涼感を添えていたからかもしれません。

 モチーフの構成こそ、スキャンダラスで猥雑に見えますが、その背後から、まるで高精細度の画面を見ているような、透明感のある清澄な雰囲気が醸し出されていたのです。

 暗緑色の森の中で、女性の裸身がひときわ明るく周囲を照らし出し、その明るさはややトーンを下げて、水浴する女性から遠景の空へとつながっています。光と影、明るさと暗さのバランスが絶妙でした。

 明暗のコントラストが強く、事物の境界がはっきりと描かれているせいか、画面からは不思議な透明感が感じられます。世俗を超えた透明感のようなもの、あるいは、清澄な雰囲気のようなものが画面全体から感じられたのです。光と影、明暗のコントラストを意識した色遣いとモチーフの配置の効果なのでしょう。

 興味深いのは、手前左にバスケットからパンや果物が乱雑に転がっている様子が丁寧に描かれていることでした。マネはなぜ、そうしたのかと考え、ふと、気づきました。雑多で混乱した状況を丁寧に描き出すことによって、安定した画面の硬直化を崩そうとしていたように思えてきたのです。

 着衣の男性の傍らに裸身の女性を配置したのと同様、敢えて破調を創り出そうとするところに、既存の描き方に満足できないマネの感性を見ることができます。調和を乱そうとすえば、軋轢が生じ、エネルギーが生まれます。斬新で革新的な志向性はそのような心持の中にこそ存在するような気がします。

 観衆やアカデミーからの激しい非難とは別に、この作品に斬新な力が漲っていることは確かでした。

■《草上の昼食》の斬新さ、革新性

 マネのこの作品には暴力的なまでの斬新さがありました。当時の観衆の激しい非難がそれを証明しています。

 マネの場合、裸身の女性と着衣の男性2人が談笑している光景が非難されました。裸身に対する非難というより、日常の生活空間の中で、裸の女性が正装した男性とともに過ごす光景への非難でした。そのような光景が当時の人々に「不謹慎」、「不道徳」という印象を植え付け、嫌悪の感情を喚起させていたからでした。

 こうしてみると、《草上の昼食》のエッセンスは、「不謹慎」、「不道徳」、「ふしだら」の可視化にあったと考えられます。

 実際、着衣の男性の隣にマネは裸身の女性を描くだけではなく、そのすぐ傍らに、脱ぎ捨てられた衣服や帽子、バスケットから転がり出たパンや果物を丁寧に描かれており、「ふしだら」が強調されていました。

(前掲作品の一部)

 脱いだ衣服の上に座った裸体のすぐ傍に、リボンのついた帽子や衣服が散乱しています。バスケットは傾き、中から果物やパンが転がり出ています。倒れた酒瓶もあります。まさに生活秩序の破壊であり、既存の価値体系の転覆の象徴ともいえる光景です。

■オマージュ作品

 《草上の昼食》は当時、一大センセーションを巻き起こし、マネは観衆やアカデミーの画家たちから一斉に非難されました。当時の観衆やアカデミーの画家たちはひょっとしたら、この作品に潜む寓意に気づいたからこそ、激しく非難したのかもしれません。

 一方、一部の画家たちは作品に込められたこの寓意を称賛し、オマージュ作品を手掛けました。モネ、セザンヌ、ピカソといった画家たちはこの作品に刺激され、次々とオマージュ作品を制作していったのです。

 エドゥアール・マネ(Édouard Manet, 1832-1883)は、伝統的な絵画の約束事に囚われず、アカデミーからの解放を先導した旗手だといわれていますが、《草上の昼食》を見ると、なるほどと納得せざるをえません。

 そのオマージュ作品を、日本で初めて手掛けたのが、石井柏亭でした。

 私は初めて石井柏亭の《草上の小憩》を見た時、なぜ、この作品が《草上の昼食》のオマージュといえるのかわかりませんでした。いかにも日本的な生活風景が描かれていたからです。

 ところが、両作品をモチーフの側面から比較してみると、男女4人のモチーフはそれぞれ、《草上の昼食》から見事に翻案されていることがわかりました。そして、構図や明暗のコントラスト等については、マネの作品を真逆に置き換え、日本の情景や社会状況に適合させていました。

 そうすることができたのは、石井柏亭が、《草上の昼食》のエッセンスを的確に汲み取っていたからにほかなりません。西洋絵画に込められた寓意を読み取り、咀嚼し、日本文化に適合させて表現できる能力を備えていたからこそ、石井は、モチーフを的確に日本風に翻案することができたのです。

 《草上の小憩》は、西洋絵画や西洋文化を充分理解していなければ、制作不可能でした。また、日本文化や当時の日本社会を充分に理解していなければ、適切に翻案することもできなかったでしょう。見事なオマージュ作品といえます。(2022/9/28 香取淳子)

近藤オリガ展:《路傍の石》について、想像力を巡らせてみた。

■「近藤オリガ展」の開催

 「近藤オリガ展」が、「ギャラリーNEW新九郎」で、2022年8月3日(水)から15日(月)(8月9日は休廊)まで開催されました。

 私は開催初日の8月3日に訪れましたが、その後、思いもかけない用事がいくつも重なって、ご報告するのが遅れ、今になってしまいました。

 さて、画廊のあるダイナシティウエストは、湘南をイメージさせる、明るく、開放的なショッピングモールでした。

 駐車場からショッピングモールに入ると、ショップが並ぶ廊下の片側が開放されて吹き抜けになっており、階下や階上を見通せる構造になっています。ふと、ずいぶん前に訪れたことのあるハワイのアラモアナショッピングセンターや、モスクワのグム百貨店などを思い出してしまいました。

 「ギャラリーNEW新九郎」は、4Fのレストラン街の一角にありました。

 すでに何人かの観客が、熱心に鑑賞しておられました。どの作品も興趣に富み、近藤オリガ氏ならではの幽玄の世界がしっかりと描き出されていました。見応えのある作品ばかりでした。

 展示作品の中で、とくに引きつけられたのが、《路傍の石》です。優しく、優雅で、心の奥底にまで、そっと染み入ってくるような深い情感が感じられました。水墨画を思わせる画面には、これまでの作品とは一線を画した何かが潜んでいるような気がしました。

 画面には、謎解きを迫るミステリーの要素があり、何かを訴えかけてくるようなメッセージも感じられます。とても、気になる作品でした。

 優美なタッチで表現されたモチーフと、その構図、グラデーションを駆使した深い色調からは、ドラマティックなストーリーが見えてきます。見ていると、思わず、この作品の解釈を試みてみたいという気になってしまいました。

 そこで、今回は、ちょっと趣向を変えて、この《路傍の石》から、私が何を読み取ったのか、思いつくままに、綴っていきたいと思います。

 もちろん、これから述べることは、私の勝手な思い込みにすぎません。想像力逞しく思いを馳せた結果、作者の意図とは異なってしまったかもしれませんし、見当違いの解釈になっているかもしれません。そのことをご承知おきいただいて、お読みいただければ、幸いです。

■近藤オリガ氏の近作《路傍の石》

 この作品の前に立った時、なにか得体の知れない衝撃のようなものを受けました。静かでありながら、激しく、何かを訴えかけてくるような画面だったのです。なぜ、そう感じたのか、わからないまま、しばらく、その場を去ることができませんでした。

(油彩、カンヴァス、46×61㎝、2022年)

 謎めいたモチーフに、水墨画の趣のある画面、そして、日本の小説を思い起こさせるタイトル・・・、気になることばかりでした。見た瞬間に引き込まれてしまいましたが、その後、しばらく見入っていても、何故、引き込まれたのか、この作品が何を言おうとしているのか、なかなか言語化することができません。

 最初の段階で言えるのはただ、西洋文化と日本文化とが、乳白色の画面の中で一体化し、新たな表現の地平が切り拓かれているということだけでした。厚みと西洋画の蓄積を感じさせる油彩画の画面に、余分なものを一切省き、モチーフがただ二つ、描かれていたのです。双方の文化の知性と精神性、美しさを巧みに引きだしながら、作品として完成させられていると思いました。

 観客の知的好奇心を限りなく刺激する作品でした。

 画面の隅々まで、作者の神経が行き届き、ドラマティックな緊張感が漲っています。モチーフの選択とその構図にはストーリー性があり、時空を超えて想像力を喚起していく拡張性がありました。もちろん、観客に問いかけ、思考を促すメッセージ性もあります。それら一切合切が、繊細で優美なタッチで表現されていたのです。

 見れば見るほど、この作品には、美学、哲学、人道主義などが奥深く内在していることが感じられます。画面から自然に滲み出てくるそれらの要素に、私はすっかり心を奪われてしまいました。明らかに、観客に何かを訴えかけようとしている作品でした。

 オリガ氏は果たして、この画面にどのようなメッセージを込めていたのでしょうか。

 まずは、画面に仕掛けられた謎を解くことから、この作品に迫っていきたいと思います。

■モチーフの形状、その素材への違和感

 私が、なぜ、《路傍の石》に強く引きつけられたかといえば、まず、画面中央に大きく描かれたモチーフが気になったからでした。

 奇妙なモチーフです。これは一体、何なのでしょうか。

●モチーフの形状

 一見、リュックのようなものに見えます。ところが、リュックにしてはありえない表現がされており、気になったのです。リュックの部分をアップにして、詳しく見ていくことにしましょう。

(前掲、部分)

 ぱっと見て、何カ所かの傷が気になります。

 上部の持ち手の辺りに、大きな亀裂が横に深く入っています。その裂け目には丸味があって、粘土のような材質に見えます。左端から下方に向けてひび割れており、その先にクギが打ち込まれています。ここだけ見ると、クギが打ち込まれたから、亀裂が走ったように見えますが、それにしては溝が小さく浅いのが不可解です。

 リュックは、射し込んだ光によって、左側が明るく照らし出され、ちょっとした凹み傷が何カ所かついているのがわかります。滑らかな表面だからこそ見えるのですが、とても小さく、しかも、浅いものなので、ざっと見ただけでは、傷があることなど、ほとんど気づきません。

 気になるのは、むしろ、クギのすぐ上が大きくたわみ、横に波打っていることでした。たわみ部分の上部は白く、やや盛り上がっていて、段差があります。おそらく、ここにも亀裂が深く入っているのでしょう。

 そのせいか、左肩から右の中ほどにかけて、微妙な膨らみが二か所ほど出来ています。その膨らみ具合は、乳白色の濃淡を使って丁寧に描かれており、手触りのよさそうな質感が伝わってきます。

 それだけに痛ましく思えるのが、リュックの下部、右端から左下にかけて斜めに走る長い亀裂です。亀裂の周辺は大きく凹み、そのせいでリュックは傾き、潰れかかっているように見えます。縦にも亀裂がいくつか入り、左側の一部はいまにも剥がれ落ちそうです。実際、破片が地面に落ちています。

 キャンバス布地のリュックなら、引き裂かれることはあっても、このように亀裂が入って破損し、その破片が地面に散らばることはありえません。メインモチーフは、リュックの形をした造形物ですが、どういうわけか、リュックと聞いて連想される素材ではなかったのです。

 これが最初の謎でした。

●素材への違和感

 リュックの表面は石膏のように滑らかで、すべすべしていました。ところが、その滑らかな肩の部分にクギが打ち込まれ、亀裂が入っているのです。

 石膏なら割れてしまいますから、このモチーフの素材はもっと強度の高い鉱物なのでしょう。違和感を覚えながらも、ちょっと引いて見ると、巨大な石が紐に縛られ、地面に据えられているように見えます。

 そういえば、この作品のタイトルは《路傍の石》でした。

 ひょっとしたら石かもしれないと思い、改めて画面を見ると、下方のひび割れがなんとも不自然です。石にしては亀裂部分が薄すぎるのです。まるでプラスティックかゴムのような感触です。

 不思議です。

 この造形物は、やや引いて見ると、形と色彩から、石に見えましたが、近づいてよく見ると、表面のすべすべした滑らかさから、粘土あるいはゴム仕様のものに見えます。いずれにしても、リュックには似つかわしくない素材ですが、形からいえば、この造形物はどう見ても、リュックとしかいいようがありません。

 オリガ氏はなぜ、この造形物をメインモチーフに据えたのでしょうか。

 この造形物には、①リュックだとすれば素材に違和感があること、②何カ所も傷つけられていること、③紐で縛られた後、その紐が断ち切られた痕跡があること、などのドラマティックな特徴がみられます。

 こうしてみると、この造形物に、何らかのメッセージが託されているのは明らかです。オリガ氏はおそらく、メッセージを託すには、リュックの形をしたこの造形物が最適だと判断されたのでしょう。

 だとすれば、一体、何に使われるリュックなのか、その形式からなんらかの手掛かりが得られるかもしれません。

 そこで、ネットで検索してみました。すると、似たような形式のリュックが見つかりました。

●軍用リュックか?

 これは、ロシア軍が使っている3日間突撃用のリュックです。収納しやすく、持ち運びが容易なように設計されており、抜群の拡張機能を備えています。

(※ https://www.amazon.co.jp/より)

 たとえば、容量を調整するため、側面にはクイックバックルの付いた紐が4つ装備されています(※ https://www.ebay.com/itm/333647436413)。軍用リュックには、移動しやすく、本体にさまざまなものを装着でき、しかも、容易に脱着できる機能が不可欠だからです。

 バックルなどの部品のなかった時代の軍用リュックはどう対応していたのでしょうか。試みに、かつて日本軍が使っていた背嚢(リュック)を見てみました。昭和18年の検印があるものです。

(※ https://www.amazon.co.jp/

 驚くほど多くの紐が、本体に取り付けられています。それらの紐を使った結果が上の写真です。飯盒や、草木を刈り取るためのカマ、そして、マットのようなものまで、紐で背嚢に装着できるようになっています。食事、仮眠、行軍に不可欠な備品を、紐を使って簡便に脱着できるよう、設計されていたことがわかります。

 いずれの場合も、軍用リュックには、紐が重要な役割を果たしていることがわかります。

 再び、《路傍の石》に戻ってみましょう。

(前掲)

 このリュックにも、やはり、紐が付いています。ところが、上部と下部を結んだ紐はとても細く、リュックの容量を広げたり、他のものを装着できるような機能はみられません。

 しかも、紐は本体に装着されておらず、ただ、亀裂部分から中身がこぼれ出てしまわないように使われているだけのように見えます。

 興味深いのは、リュックの置かれた地面にクギが打ち込まれ、そのクギに紐の切れ端が残っていることでした。

 その切れ端はやや不自然なほどピンと張ってよこに伸びています。同じような紐の切れ端が、リュックの上部、取っ手部分にもあり、やはり不自然なほど、まっすぐ上に伸びています。

 これらの紐の切れ端がたわむことなく、硬度を保っている様子を見ると、たった今、断ち切られたばかりのように見えます。

 リュックを地面につなぎ留めていた紐は、はたして、何者によって断ち切られたのでしょうか。

 気になって、思いを巡らせようとしたとき、リュックの背後にごく小さく描かれた僧侶の姿が目に入ってきました。巨大なリュックの影に隠れ、ほとんど意識に上ってこなかったこのモチーフが、突如、視界に入り込んできたのです。

●軍用リュックと僧侶

 改めて画面を見ると、《路傍の石》で描かれているモチーフは二つ、傷つけられた軍用リュックと、その背後で立ち去っていく僧侶の後ろ姿です。

 圧倒的に大きく、画面中央に描かれているのが、軍用リュックです。ですから、この作品のメインモチーフがこの軍用リュックだとすれば、サブモチーフは僧侶です。二つのモチーフは独立したものというより、従属関係にあるといえるほど、至近距離に配置されています。

 それでは、小さく描かれた僧侶の部分をアップしてみましょう。

(前掲、部分。)

 僧侶はやや前かがみになって、俯き加減に歩いています。その姿は小さくても、佇まいははっきりと描かれています。袈裟の裾を軽く揺らしながら、立ち去っていく僧侶のしっかりとした足取りが、目に見えるようです。

 周囲を見渡すと、天といわず、地といわず、僧侶の周辺には光明が差し込んでいます。手前をみると、破損した軍用リュックにも、明るい陽光が降り注いでいます。

 軍用リュックといい、僧侶といい、これら二つのモチーフから共通に受け取れるイメージは、戦争であり、戦争によってもたらされる大量の死です。それだけに、これらのモチーフに、おぼろげながらも乳白色の光が射していることに、かすかな救いが感じられます。

 改めて気になってきたのが、画面全体を覆う乳白色の空間です。

●乳白色の空間

 この作品では、乳白色の空間に、適宜、墨色の濃淡を取り入れて、モチーフが表現されています。そのせいか、最初見たときは、水墨画を連想してしまいました。色彩を抑え、シンプルに構成された画面に、日本文化を感じさせられたのです。

 ところが、よく見ていくと、乳白色の濃淡でグラデーションを重ね、光や雲間が表現されており、軍用リュックの表面には滑らかな質感があります。油彩画ならではの重厚さがあり、直観というより思考の厚みが感じられました。油彩画表現の長い歴史を見る思いがしたのです。

 西洋文化と日本文化を折衷させた見事な画面構成といえるでしょう。

 画面を見ているうちに、乳白色の濃淡で表現された空間こそ、この作品の基調を創り出しているのではないかという気がしてきました。

 乳白色の濃淡によって、さまざまな方向から射し込む陽光が表現され、そのグラデーションによって、時間を超越した空間が感じられます。まさに、地平線も境界線もない茫漠とした空間です。そんな中で、拠って立つ基盤もないまま、二つのモチーフは、まるで寄り添うように、画面中央に集中して配置されていました。

 そもそも、この作品は、二つのモチーフだけで構成されています。これらのモチーフを支えているのは、画面一体に施された乳白色の濃淡で表現された色彩空間です。白に近い淡色は、天から射し込む光源を表す一方、その光を受けて強調されるモチーフのマチエールと、その存在感を示していました。

 乳白色に墨を混じえた濃色によって、光の射さない雲間やモチーフの凹みが表現されており、さらに濃い色で、モチーフが地面に落とす影が表されていました。そして、墨色によって、紐やクギ、袈裟などのモチーフの形状がリアルに表現されていました。

 傷ついた軍用リュックは、乳白色の色調のせいか、生命体が白骨化したシンボルのようにも見えます。そして、その背後で小さく描かれた僧侶は、弔い、あるは、供養のために添えられているように思えます。

 描かれたモチーフを何度も見返すうちに、そういえば、どこかで見たことがある光景だと思えてきました。とくに意識したのがこの画面を覆う乳白色の色調です。

 さっそく、戦場や戦争をキーワードに画像検索をしてみました。すると、ロシア人画家ヴェレシチャーギンの作品に、《路傍の石》と似たような色調のものを見つけることができました。

■ヴァシーリー・ヴァシーリエヴィチ・ヴェレシチャーギン(В. В. Верещагин, 1842-1904)の作品

 ヴェレシチャーギンは、19世紀後半から20世紀初頭にかけて活躍した画家で、戦場をテーマにした作品を数多く残しています。

 彼は作品を仕上げるために、何度も戦場を取材していますが、ボリス・エゴロワによれば、それは、「自分ですべて体験しなければならない。戦闘や襲撃、勝利、敗北の現場に居合わせ、飢え、寒さ、病気、怪我に苦しまなければならない」という考えからでした(※ https://jp.rbth.com/arts/84420-vasily-vereshchagin-sensou-wo-rikai-shita-gaka)。

 この方針を貫き通したヴェレシチャーギンは、日露戦争(1904-1905)開戦直後の1904年4月13日、中国沿岸で機雷に触れた戦艦と共に海に沈み、命を落としてしまいました。

 そのヴェレシチャーギンの作品から、私は、オリガ氏の《路傍の石》を読み解くヒントを得ることができたのです。

 まず、《戦争の結末》(1871年)という作品から、見ていくことにしましょう。

●《Апофеоз войны》(戦争の結末、1871年)

 画面中央に白骨化した頭がい骨が積みあげられ、小山のようになっています。カラスが何羽もやってきては、白骨の山を漁っています。真上の空には多くのカラスが飛び交い、隙あらば、ついばみに来ようと、この小山を狙っています。ぞっとするような光景です。

(油彩、カンヴァス、127×197㎝、1871年、モスクワ・トレチャコフ美術館)

 周辺の枯れ木にも、多数のカラスが止まって、隙を狙っています。かと思えば、地面に転げ落ちた骸骨の上に足を止め、小山を眺めているカラスもいます。こうなっては、もはや人間としての尊厳も何もあったものではありません。

 まさに、《戦争の結末》です。

 陽光はさんさんと降り注いでいるのですが、生命の痕跡はどこにもなく、ただ、黒いカラスだけが飛び交っています。見渡す限り、カラスと枯れ木、白骨化した頭がい骨しかない荒涼とした平原の先に、破壊された建物が見えます。空しく、やりきれない思いに駆られてしまいます。

 ボリス・エゴロワはこの作品について、次のように述べています。

 「当初、ヴェレシチャーギンはこの絵を、『ティムールの勝利』と名付けるつもりだった。だが、具体的な時代と結び付けることをやめ、「過去、現在、未来のあらゆる偉大な征服者ら」に捧げることにした」(※ 前掲、URL)

 とても興味深い指摘です。

 数々の戦場に足を運んだヴェレシチャーギンは、この光景の中にこそ、戦争の本質があると思ったのでしょう。だから、具体的な時代や地名をタイトルにすることはせず、時代を超え、場所を超えて、問題提起できるよう、《戦争の結末》というタイトルに変更したというのです。

 《戦争の結末》の色調に、私は、オリガ氏の《路傍の石》との類似性を感じました。

 この乳白色で描かれた骸骨の小山を見て、ようやく、《路傍の石》の乳白色の軍用リュックは、ひょっとしたら、戦争で亡くなった兵士たちの象徴かもしれないと思い至ったのです。

 確かに、乳白色で描かれた二つの作品のメインモチーフは、いずれも、戦争や死を象徴している点で共通していました。

 ところが、黒色あるいは墨色で描かれたサブモチーフは、その位置づけが大きく異なっているように思えます。《戦争の結末》では、カラスというサブモチーフによって、メインモチーフの悲惨さが強調されていました。戦争による大量死が客観的に、まるで自然現象の一つのように捉えられていたからです。

 それに対し、《路傍の石》では、僧侶というサブモチーフによって、メインモチーフの無念な思いが浮き彫りにされていました。傷つけられた乳白色の軍用リュックは、戦争による負傷あるいは死を象徴し、リュックを縛り付けていた紐は、戦争に赴かせる強制力を表していました。

 そう考えたとき、《路傍の石》では、僧侶が小さく描かれていた理由がわかるような気がしました。

 僧侶が描かれているのは、弔いや供養のためではなく、生前の束縛を解き放ち、死者の無念な気持ちに寄り添う役割を担っていたのではないかと思ったのです。感情移入して戦場の死が捉えられているように思えるだけに、情感豊かにそのメッセージが伝わってきます。

 さて、ヴェレシチャーギンには、僧侶を登場させた、《敗北、パニヒダ》(1878-79年)という作品もあります。ただ、その役割は、《路傍の石》とは大きく異なっています。

●《Побежденные. Панихида》(敗北、パニヒダ、1878-79年)

 この作品を観た時、私はすぐに、《路傍の石》の世界に近いと思いました。

(油彩、カンヴァス、179×300㎝、1878-1879年、モスクワ・トレチャコフ美術館)

 荒涼とした平原を前に、司祭がなにやら壺のようなものを振っています。傍らには軍人が帽子を脱いで直立しており、厳かな雰囲気です。よく見ると、平原には夥しい数の死者が枯草の中に横たわっています。どうやら、弔いの行事が行われているようです。

 作品のタイトルは、《敗北、パニヒダ》です。

 パニヒダとは、正教会において、死者が神の国に安住できるように祈る儀式であり、死者の信仰を受け継いで、共に永遠の国に与れるよう祈願するもの(※ Wikipedia、パニヒダより)だそうです。

 確かに、この作品では、司祭が振り香炉を振りながら、パニヒダを捧げています。よく見なければ気づかないのですが、枯草の広がる平原の中に、兵士たちが累々と横たわっています。

 所々、白くけぶって見えるのは雪なのでしょうか。白色が混じっているせいで、画面のほぼ半分が、明るい黄土色混じりの乳白色で描かれています。空にはどんよりとした雲が垂れ込めており、その雲間からかすかに乳白色の陽光が降り注いでいます。天もまた弔意を示しているかのようでした。

 僧侶というモチーフだけではなく、色調の面でも、この作品には《路傍の石》との類似性が感じられます。

 こうしてみてくると、ヴェレシチャーギンの二つの作品からは、乳白色の色調が意味するところがぼんやりと分かってきます。《路傍の石》で、乳白色で描かれていた軍用リュックは、明らかに白骨化した兵士の象徴と考えられます。

 そこで、気になってくるのが、《路傍の石》というタイトルです。

 「路傍の石」といってすぐに思いつくのは、かつて映画化されたこともある、山本有三の小説です。ところが、オリガ氏がこの小説をご存じないとすれば、「道端に転がっている石」という意味で使われているのかもしれません。

 念のため、「路傍の石」でネット検索してみました。すると、山本有三の小説『路傍の石』関連の項目ばかりが検索結果に上がってきます。となれば、やはり、『路傍の石』の内容あるいは教訓をひととおり、知っておく必要があるでしょう。

■小説『路傍の石』

 山本有三(1887-1974年)は、大正から昭和にかけて活躍した小説家で、代表作の一つに『路傍の石』があります。栃木県にある山本有三の文学碑には、『路傍の石』から引いたセリフが刻まれています。

 「たったひとりしかない自分を、 たった一度しかない一生を、 ほんとうに生かさなかったら、 人間は生まれてきたかいがないじゃないか」

(※ https://www.tochigi-edu.ed.jp/furusato/detail.jsp?p=175&page=1

 これは、『路傍の石』の主人公・吾一が、度胸自慢のために鉄橋にぶら下がって、死にかけたことを知った担任の教師が、彼に教え諭した際のセリフです。

 先生は、死の危険を冒すことになった吾一に対し、「たった一人しかない自分」、「たった一度しかない一生」なのだと、かけがえのない命の大切さを教えます。そして、その大切な命を、「ほんとうに生かさなかったら、生まれてきたかいがない」と諭したのです。

 この教えを胸に刻み付けた吾一は、その後、さまざまな苦難に遭遇しながらも、自分の能力を活かして生きていける場を見つけます。たった一度の人生を全うしていくというのが、小説『路傍の石』の筋書きです。とても人道的な内容の教訓です。

 オリガ氏は、この小説のエッセンスを踏まえ、作品に《路傍の石》と名付けたのでしょうか。だとしたら、モチーフ、構図、画面の色調などに、オリガ氏の人間観、死生観が反映されているに違いありません。

 再び、《路傍の石》の画面に戻ってみましょう。

 やはり、強く印象づけられるのは、乳白色の画面であり、その濃淡で描かれた巨大な軍用リュックです。

 ヴェレシチャーギンの作品に照らし合わせると、オリガ氏はおそらく、戦場に赴かざるを得なかった若者の気持ちを、傷つけられた軍用リュックに重ね合わせたのでしょう。

 そして、リュックを縛り付けていた細い紐が断ち切られていたところに、オリガ氏のメッセージが込められているように思えました。すなわち、たった一度しかない人生だからこそ、自分を全うして生きるべきだという、小説『路傍の石』からの教訓です。

 傷つけられた軍用リュックは、自尊心のために死の危険を冒しかかった吾一であり、無念にも戦場で若い命を落とさざるをえなかった兵士たちの象徴なのです。自らの意思に基づくものであれ、強いられたものであれ、死の危険を冒してはならず、「たった一度の人生を全う」することこそ、与えられた使命なのだというメッセージです。

 それにしても、この乳白色の空間は、なんと奥深く、典雅で思索的な空間を提供してくれているのでしょう。

 実は、スペインの画家サルヴァドール・ダリに、色調や滑らかなタッチが、《路傍の石》の画面に似ている作品があります。馬の石化現象をモチーフにした珍しい作品です。

 それでは、1933年のダリの作品から見てみることにしましょう。

■サルヴァドール・ダリ(Salvador Dalí, 1904-1989年)の作品

 ダリの作品の中では、気づいただけで三つ、《路傍の石》と似たようなイメージのものがありました。まず、《地質学的生成》(1933年)という作品から見ていくことにしましょう。石化しかかっている馬をメインモチーフに描いた作品です。

●《Le devenir géologiaue》(地質学的生成、1933年)

 画面の色調の滑らかさが似ていたからでしょうか、私はこの作品に、オリガ氏の《路傍の石》に通じるものを感じさせられました。

 メインモチーフは、乳白色の砂漠を歩く石化しかかった馬です。

(油彩、カンヴァス、21×16㎝、1933年、個人蔵)

 果てしなく広がる砂漠で、白い馬がこちらに向かって来ています。前髪の上には両耳に挟まれるようにして、金色の頭がい骨、そして、尻尾に支えられるようにして、金色の頭がい骨が描かれています。

 なんとも不思議なモチーフです。

 画面手前には、大きく影を落とした地面が、広がっています。その中央近辺に、巨大な金色の卵が描かれています。まるで向かって来る馬と対峙しようとしているかのようです。楕円形の卵は、やや傾きながら、転がりもせず、陽を浴びて黄金色に輝いています。

 馬上の頭がい骨は二つとも黄金色に煌めいています。茫漠とした砂漠の中で、これら三つのモチーフはアクセントになり、画面全体に不思議な調和をもたらすポイントになっています。

 試みに、これらの頂点を青いマーカーでつないでみると、歪な三角形を成していることがわかります。

(3つの頂点を青でマーク)

 砂漠の背後には、地平線が見え、ごく低い丘のようなものがつらなっています。その左側の丘と右側の黄金色の巨岩、そして、手前の卵をつなぐと、やはり歪な三角形になります。興味深いことに、先ほど青でマークした三角形がその中にすっぽりと入り、画面全体が実は安定感のある構図になっていることがわかります。

 遠景には、右側に配置された二つの巨岩の合間に、小さな人影が見えます。灼熱の太陽に横から照らし出されて、影が異様に長く、夕方に近い時刻だということがわかります。

 辺り一帯は限りなく暑く、そして、乾燥しているのでしょう。草木はなく、見えるものといえば、砂漠に岩石、石化しかかった馬、骸骨、そして、得体の知れない卵だけです。

 卵といえば、実は、ダリは非常な関心を抱いており、卵の家を作って住んでいたほどでした。庭の至る所に、卵のオブジェが設置されていたそうです。

(※ https://kamimura.com/?p=17415

(※ 上記URL.より)

 ダリは、この作品でお気に入りの卵を使って、遠景と近景をつなぎ、画面全体を安定させるための基点にしていたのです。

 ところで、よく見ると、馬の様子が変です。腹部が異様に膨らみ、右側にはみ出しています。しかも、胸の辺りは大きくひび割れて、穴が開いています。

 馬の部分をアップしてみましょう。

(前掲、部分)

 まるで陶器が割れた後のような穴です。足には縦に亀裂がいくつも入っています。肩から腹にかけての部分も不自然に膨らんでおり、石化しかかっていることがわかります。さらに、前髪も石化しかかっており、まるで氷柱のように、太く白く垂れさがっています。

 この作品でダリは、一体、何を表現しようとしていたのでしょうか。

 まず、メインモチーフは石化しかかっている白い馬であり、サブモチーフは黄金色の骸骨といえるでしょう。白い馬は今、まさに永遠の時間を手に入れようとしているところの生命体ですし、骸骨は生を終え、一定期間を経た後の生命体の姿です。いずれも生と死を考えさせるモチーフだというところに、ダリの制作意図があるような気がします。

 この時期、ダリは死について思いを巡らせていたのでしょう。この作品の場合、少なくとも、生を終えた生命体のその後の姿を二種、画面に提示し、完結させているところが特徴だといえます。乳白色に暖色、寒色を混ぜて表現された砂漠の色調が美しく、印象に残ります。

 実はこの少し前、ダリは似たような画風の作品を描いていました。《降りてくる夜の影》という作品です。《地質学的生成》を読み解くヒントが得られるかもしれません。

 この作品を見てみることにしましょう。

●《Las sombras de la noche que cae》(降りてくる夜の影, 1931年)

 ダリが生涯の伴侶となる人妻ガラと出会ったのが1929年の夏、その後、再会して恋に落ち、スペインの漁村ポルト・リガトに拠点を得て、二人は同棲し始めます。そこで、制作したのが、この作品でした。

(油彩、カンヴァス、61×50㎝、1931年、ダリ美術館、フロリダ)

 画面手前に大きく黒い影が広がり、その縁に小さな石、すぐ後ろに中ぐらいの石、そして、画面の両側には巨岩、後方の海岸線にも巨岩が立っています。右手前に白い布で包まれた奇妙なモチーフがありますが、全体に、生命体の欠片もなく、荒涼とした光景です。

 《地質学的生成》はおそらく、この作品を踏まえ、制作されたのでしょう。モチーフ、構図などに類似性が見受けられます。

 もっとも、この作品は、《地質学的生成》に比べ、画面手前に占める影の割合が大きく、不安感が色濃く漂っています。この時期のダリの心象風景が大きく反映されているのかしれません。

 実は、ガラを愛するようになってから、ダリはいっそう神経過敏になり、彼女を失う不安に駆られるようになっていました。

 ダリは同年、《記憶の固執》(1931年)という作品を描いています。こちらは荒涼とした風景ではありませんが、依然として画面に占める影の部分は大きく、奇妙なモチーフがことさらに印象に残る作品です。

 ちょっと見てみることにしましょう。

●《La persistencia de la memoria》(記憶の固執、1931年)

 これは有名な作品ですから、ご存じの方も多いのではないかと思います。

(油彩、カンヴァス、24×33㎝、1931年、New York, The Museum of Modern Art所蔵)

 時計が三つ、描かれていますが、一つは木の枝にかけられ、もう一つはテーブルのようなものの端から垂れ下がり、最後のものはまるで鞍のように、横たわった物体の背中に掛けられています。

 いずれも、ぐにゃりと折れ曲がっています。まるで足拭きマットか、厚手のラグのような柔らかさです。

 とても時計とは思えない材質ですが、表面には長針、短針があり、それぞれ数字を指しています。ですから、この造形物はやはり、時計なのでしょう。ところが、この三つの時計は、同じ場所に置かれていながら、刻んでいる時刻が異なっています。

 時計がマットのように軟化し、一定の時刻を刻むことができなくなってしまったのでしょうか。

 そこで、思い出したのが、《路傍の石》の軍用リュックです。

 形状はリュックですが、素材はキャンバス布地ではなく、石のようなものでした。リュックが石なら、重くて持ち運べないはずですが、それでも、このリュックはキャンバス布地では描かれていませんでした。

 二つの作品に見られる、このメタモルフォーゼは何を意味しているのでしょうか。

■生命体は永遠の時間を持てるのか

 《記憶の固執》の場合は、時計が軟化して機能せず、《路傍の石》の場合は、リュックが石化して本来の機能を失い、シンボルになっていました。

 その結果、何がもたらされたのかといえば、ダリの作品の場合は、時間を消滅させることで永遠を手にし、オリガ氏の作品の場合は、石化によって永遠の時間を手に入れていました。

 いずれも、時計あるいは軍用リュックを敢えて、別の素材に変容させることによって、本来の機能を喪失させ、永遠あるいは永遠の時間に置き換えたと考えられるのです。

 さて、この時期のダリの作品三点に共通するのは、砂漠あるいは砂浜という場所であり、そこに広がる大きな黒い影でした。茫漠と広がる空間を大きく占拠する黒い影に、ダリの不安感が示されているといえます。

 当時、ダリは愛するガラを得て、創作に励む一方、大きな不安にも駆られていました。深く愛するがゆえに、いつか別れの時が来ることを恐れていたのです。

 たとえば、《降りてくる夜の影》(1931年)では、荒涼とした風景の中に、募る不安と解決策のない恐怖が表現されていました。《記憶の固執》(1931年)では、歪んだ三つの時計に、時間の消滅が示唆されており、そして、辿り着いたのが、《地質学的生成》(1933年)でした。

 その《地質学的生成》では、生命体の死後について二通り考えられていました。それは、時間の経過に伴う白骨化であり、石化による永遠化です。生命体と時間について、明確に意識できるようになって、ダリの不安感は多少、和らいだのかもしれません。

 《路傍の石》の場合、やや様相が異なります。

 ダリの作品ばかりではなく、ヴェレシチャーギンの作品や山本有三の『路傍の石』を介して、ようやく、《路傍の石》を読み解くことができる難解さがあります。

 ヴェレシチャーギンの作品を通して見れば、《路傍の石》の軍用リュックは、死を覚悟して、戦場に赴かざるをえない若者の象徴といえます。そして、山本有三の『路傍の石』を通して見れば、軍用リュックは、一度しかない人生を全うできなかった若者の悲哀を表していると考えられます。

 興味深いことに、この軍用リュックは、ロシア軍の3日間突撃用のものでした。ラップトップなども入れられるようになっており、近代戦を戦える仕様になっています。

 そこで、連想されるのが、2022年2月24日に端を発したロシアのウクライナへの侵攻です。

 誰もが、早々に終結することを願っていたのに、いまだに停戦の気配は見えません。一旦、戦争が起きれば、やがて、次の戦争を生み、そして、さらなる戦争に進展するといったメカニズムを目の当たりにすることになったのです。

 その結果、多くの命が犠牲になっており、ヴェレシチャーギンの作品で描かれていたような状況が現実のものになっています。

 数多くの戦場を取材した彼は、戦争がもたらす悲哀や悲惨を直接的に表現していました。おそらく、直接的な表現の方が、人々に戦争の恐怖を覚えさせ、悲惨さを感じさせられると考えていたからでしょう。彼の作品の画面の端々から、戦争の抑止力になればという願いが見えてきます。

 《路傍の石》の場合、直接的な表現ではありませんでした。軍用リュックが戦争のシンボルとして扱われていましたが、それがわかったのは、ヴェレシチャーギンの作品を参照することができた後でした。

 軍用リュックには、深く亀裂が入っており、ありえない材質で描かれていました。ドラマティックな緊張感が漲るモチーフだったのです。

 観客にとってはこれが大いなる謎でした。半ば必然的にこのモチーフ注目せざるをえず、調べていくことによって、ようやく、ヴェレシチャーギンの作品に辿り着いていくという仕掛けでした。

■時空を超える知性と典雅な美しさ

 《路傍の石》には、モチーフの選択、その形状、構図、色調などに、観客を引き寄せ、深く考えさせる要素があったことは確かです。

 一枚のカンヴァスの中に、観客の関心を喚起する要素、知りたいという欲求をかき立てる要素、そして、作者が問題提起する事象について熟慮させる要素、などが組み込まれていたのです。

 たとえば、そのための謎がいくつか、画面に仕掛けられていました。この謎が実に巧妙で、ヴェレシチャーギンの作品やダリの作品に辿り着かなければ、とうてい、解き明かすことはできなかったほどのものでした。

 この点に私はまず、作者の豊かな知性と作品の拡張性を感じさせられました。謎ばかりではありません。《路傍の石》には、優美な画面がもたらす洗練された訴求力があり、私は圧倒されてしまいました。

 画面を覆う乳白色の色調は、繊細で優雅なタッチで表現されており、観客の意識下に大きく影響していたのではないかと思います。

 画面全体に及ぶこの色調は、微妙なグラデーションを重ね、時空を超えた世界を創り出していました。救いの光明を感じさせる箇所があれば、時に、深い悲しみを感じさせる箇所もあって、その濃淡は、この世に生まれ、やがては死んでいく人間が織りなす人生の襞のようにも見えました。

 この深淵な色調に、刹那的に切り取られた当該時間を感じさせられる一方、滔々と流れる永遠の時間を感じさせられたのです。

  関連作品を見比べてみて、改めて、この作品がいかに奥深く、知性的なものであるかがわかります。しかも、作品の中にはさり気なく、観客の思考を促す形で、作者のメッセージが込められていたのです。優美なタッチの中に、美学、哲学、人道主義などを内在させた芸術作品といえるでしょう。(2022/8/31 香取淳子)

マクシミリアン・リュス ⑨民衆を捉える敬愛の眼差し

 前回、1890年から1894年にかけてリュスが描いた点描画作品をご紹介してきました。

 厳格な点描法に従って描いた作品もあれば、ドットを大きく、不揃いにして描いた点描画もありました。

 たとえば、太陽光に照らされたモチーフを描く場合、リュスは、ドットを小さく、揃えたタッチで描き、陽光の存在を際立たせていました。一方、陽光はさまざまな影を生み出しますが、影色を工夫し、均質なタッチで描くことによって、画面に陰影とリアリティをもたらしていました。

 点描画法によって、陽光の輝きとモチーフのリアリティをともに、表現していたのです。

 一方、日没、あるいは、闇夜の下でモチーフを描く場合、ドットを大きく、不揃いなタッチで描いていました。小さなドットでは表現しきれない情緒や情感といったものを、自由度の高いタッチで描出していたのです。

 おかげで、日没の微妙なトーンを表現することができていましたし、闇夜を照らす街灯、あるいは、月光といった光源そのものがもたらす幻想性を表現することもできていました。

 陽光の下での自然や人物の姿に始まり、日没時のパリの光景、闇夜の市街地や波止場の情景といった具合に、時間帯の異なる画題を取り上げ、モチーフに与える光と影の効果を探っていたといえるでしょう。

 この時期の作品を観る限り、リュスは、点描法について、光と影の両側面から、その表現効果を実験していたのではないかという気がします。

 これらの作品の中で、点描法を使いながら、陰影があり、リアリティもある画面を創り出していたのが、人物をモチーフにした作品でした。

 そこで、今回は、その後の作品の中から、市井の人々をモチーフにした作品を取り上げ、見ていくことにしたいと思います。

■市井の人々

●《La Rue Mouffetard》(ムフタール通り、1889-1890年)

 パリ左岸にあるムフタール通りは、パリ市中でもっとも賑わう通りの一つです。丘の上にあったおかげで、1853年から1870年にかけて行われたパリ大改造の際も、この通りは作り替えられることなく、昔の面影を残しているといわれています。

 リュスはこの作品を、俯瞰アングルで描いています。人々が行き交うムフタール通りの賑わいを画面に収めるためなのでしょう。確かに、この俯瞰アングルのおかげで、手前の広場での人々の動き、通りの奥に広がる人々の流れがよくわかります。

(油彩、カンヴァス、80.3×63.8㎝、1889-1890年、Musée d’Orsay所蔵)

 手前の広場では、人々が値段を交渉したり、物を買ったり、売ったりしています。話し込んでいる人がいるかと思えば、両腕に荷物を抱えている人、思案している人もいます。奥のムフタール通りでは小さな店が並び、その前を人々が商品を物色しながら、行き交っています。

 服装といい、姿勢といい、ちょっとした振る舞いといい、リュスは、集まった人々それぞれの特徴を見逃さず、仔細に描き分けています。しかも、この場の賑わいを、点描画法で描き出しているのです。

 興味深いのは、さまざまな動きをする市井の人々を、それぞれの特徴を踏まえて描きながら、画面が混乱していないことでした。何故だかわかりませんが、画面がきわめて秩序だって構成されているように見えるのです。

 一つには、色の使い方、もう一つは、建物の垂直ラインの使い方にあるのではないかという気がします。

 まず、色の使い方で印象に残ったのは、手前の広場と奥のムフタール通りの路面が白っぽい色で統一されていることでした。行き交う人々の土台に明るい白を使うことで、人々の服装を引き立てる一方、広場と通りが共通の空間であることを意識させる効果があります。

 また、広場には白いワンピースの女性に白い大きなエプロンを付けた女性、そして、ムフタール通りに入っていく所には、白いスーツを着た男性、通りの中ほどには白いエプロンの子どもや女性が、配置されています。まるで白い衣服によって観客の視線を誘導しているかのように見えます。これら、白い衣服の人物を広場や通りに適宜、配置することで、奥行き、特に縦方向の広がりを感じさせます。

 そして、もう一つは、並び立つ建物の垂直ラインが一種の罫線の役割を果たしているのではないかということです。これら建物に潜む垂直ラインが、雑多なモチーフを秩序立てて見せる効果をもたらしていたように思えました。

 建物の色彩についていえば、手前の建物は暖色系と寒色系とを並べて色構成されており、画面を引き締める役割を担っていました。

 この作品では、大勢の人々を描きながらも、混乱することなく、賑わうムフタール通りの様子が、活き活きと捉えられていました。メインカラーを何にするか、構図をどうするか、フレームとなる建物の役割をどうするか、といったようなことを考え、制作にとりかかっていたからだという気がします。

 その結果、スーラ―由来の厳格な点描法で描きながらも、生気を失うことなく、動きのある光景が捉えられていました。構図の効果であり、モチーフの配置、色構成の効果といえます。

 さらに、もう一つ、市井の人々の生活光景を捉えた作品があります。

●《The Quai Saint-Michel and Notre-Dame》(サンミッシェル埠頭とノートルダム、1901年)

 ノートルダム大聖堂を背景に、サンミッシェル埠頭を捉えた作品です。

(油彩、カンヴァス、73.0×60.5㎝、1901年、Musée d’Orsay所蔵)

 まず、目につくのは、背後に聳え立つノートルダム大聖堂です。辺りはすでに陽は落ち、大聖堂の建物だけが、残照を受けて輝いています。大きく、威容を誇る姿に圧倒されます。

 しかも、点描法で描かれているせいか、荘厳なゴシック様式の建築に、典雅な美しさが加わっています。暮れなずむひととき、ノートルダム大聖堂は、堂々とした美しさと力強さを見せつけていました。

 それに引き換え、サンミッシェル埠頭を行き交う人々が、なんと暗く、力なく見えることでしょうか。

 人々が描かれている辺り一帯は、すでに陽が落ち、夕刻の気配が立ち込めています。描かれているのは、おそらく、仕事を終え、用事を済ませ、家路を急ぐ人々なのでしょう。

 手前には、背負い子を背負い、俯き加減に歩く男性、子どもに手を引かれた高齢女性、中ほどには、台車を引く男性、人力車を引く男性、いずれも背中を丸め、遠目からも疲れて見えます。埠頭を歩く人々もまた、精彩がありません。

 さらに、遠方に目を向けると、ノートルダムに向かう橋には、大勢の人々が描かれています。こちらは、個を識別できないほど小さく描かれており、ただの群衆とみるしかありません。

 こうしてみると、この作品は、画面中ほどで分割される二つのモチーフで構成されているといえるでしょう。

 一方は、残照を浴びて煌めくノートルダム大聖堂であり、他方は、名もなく、力もない市井の人々です。ノートルダム大聖堂に象徴されるものが権力と富と名声だとすれば、陽光の恩恵もなく、精彩を欠きながら生きていかざるをえない民衆の象徴といえるでしょう。

 この二つのモチーフを対比して描くことによって、リュスは、当時のパリの社会構造、あるいは、社会状況を浮き彫りにしているように思えました。

 点描法はこの二つのモチーフ、どちらにも馴染んでいます。まず、ノートルダム大聖堂については、点描法のおかげで、荘厳でありながら、繊細な美しさ、品の良さを加味して表現することができていました。

 一方、市井の人々については、点描法のおかげで、均質化した民衆という側面を表現することに成功しています。人々は、小さなドットを重ねて描かれながらも、姿形が特徴を踏まえて描かれているので、彼らの生活ぶりを推察することもできます。

 均質化した小さなドットで色彩を置いていく点描法だからこそ、この二つのモチーフの特徴を活かして表現することができたといえるでしょう。

 リュスは、黄昏時の光と影の部分を見事に使い分けながら、名もなく、富みもなく、力もない民衆と、権力と富と名声の象徴とを表現していたのです。構図といい、色構成といい、素晴らしい出来栄えの作品です。

 さて、市井の人々をモチーフにした二つの作品、《La Rue Mouffetard》と《The Quai Saint-Michel and Notre-Dame》を見てきました。共通するのは、市井の人々に対するリュスの暖かな眼差しです。

 なぜ、そうなのかということを考える前に、もう一つ、別の作品を観ておくことにしましょう。

 《The Quai Saint-Michel and Notre-Dame》が描かれたのが1901年、その30年前の1871年、パリでは民衆が蜂起し、自治政府が作られました。いわゆるパリ・コミューンです。

 当時、リュスは18歳、ちょうど木版画職人の見習い工を終え、ゴブラン製作所で働いていた時期でした。

 多感な時期にリュスは、暴動を経験し、血なまぐさい殺戮を何度も目にしてきました。政府軍との戦いで殺された人々の記憶はしっかりと脳裡に刻み込まれていたのでしょう。リュスはパリ・コミューン時の経験を踏まえ、1903年から1904年にかけて、作品化しました。

 無残にも、路上に放置されたままの犠牲者たちの姿を描いた作品です。

■立ち上がり、路上のつゆと消えた民衆

 リュスがこの作品の制作に取り掛かったのが1903年、そして、終えたのが1905年でした。2年もかけて、この大作に挑んでいたのです。数多くの悲惨な記憶の中から、どの光景をモチーフとして選び、どう描くか、さまざまに試行錯誤を重ねたに違いありません。

 そして、リュスが選んだのが、路上に放置された犠牲者たちの姿でした。

●《A Street in Paris in May 1871》(1871年5月コミューン下のパリの街路、1903-1905)

 手前の路上に、1人の女性と3人の兵士が血を流し、倒れています。後方にも1人、兵士が倒れています。

(油彩、カンヴァス、151×225㎝、1903-1905、オルセー美術館)

 手前で放置された犠牲者たちは、建物から長く伸びた影によって覆われ、強い陽射しから守られているように見えます。一方、後方の兵士は建物の影が及ばない中、放置されています。もっとも、横向きで俯いた姿勢なので、少なくとも顔面は、強い陽射しから保護されているように見えます。

 リュスは光と影を使い、モチーフに対する思いを巧みに表現していました。

 パリ・コミューン時、リュスの心には深く、無念の思いが刻み込まれたに違いありません。だからこそ、犠牲者の尊厳を守り、弔いの気持ちを表しつつ作品化しようとしたのではないかと思います。

 そのために、彼は建物から伸びる長い影を利用しました。影が一種の覆いのように、犠牲者たちを保護するような構図を考えたのです。そして、背後の建物や歩道を淡い色でスケッチ風にまとめ、大きく広がる影の存在を際立たせるようにしていました。

 このようにして表現された影がもたらす優しさは、犠牲者たちに対するリュスの哀悼の気持ちでもあったと思います。

 このようなリュスの思いは、犠牲者たちの描き方にも、反映されていました。

 この作品では、凄惨な殺戮現場でありながら、犠牲者たちはまるで眠っているように見えます。

 彼らの顔や身体に損傷は見られません。ただ、口から血を吐き、頭や耳から血を流しているぐらいです。そのせいか、仰向けに倒れている男性も女性もその表情は、とても穏やかです。使命感で戦い、命を落としたことを誇りに思っているようにすら見えます。

 それは、おそらく、リュスが死者の尊厳を傷つけることなく、凄惨な現場を描こうとしていたからでしょう。そこに、リュスの、犠牲者に対する敬意の念が込められているように思えます。

 この作品から読み取れるのは、リュスの犠牲者に対する敬意と優しさでした。

 たとえば、同じパリ・コミューンの犠牲者を描いた作品でも、次のようなものもあります。比較のために、ちょっと見てみることにしましょう。

●《Casualties of the Paris Commune, 1871》(パリ・コミューンの犠牲者、1871年、1871年)

 この作品は1871年に制作され、作者不詳の作品です。

(紙、鉛筆、サイズ不詳、1871年、個人蔵)

 作者はおそらく、犠牲者たちの姿を見たままに描いたのでしょう。

 数多くの犠牲者たちが並べられ、その周囲には棺桶がいくつも置かれています。窓から陽光が射し込み、身体の一部を照らし出しています。犠牲者が物体として扱われ、処理されていく苛酷な現実が描かれていました。

 この作品からは、犠牲者たちへの弔いの気持ち、尊厳を守ろうとする気持ちはいささかも感じられませんでしたが、悲しいことに、これが現実なのです。

 改めて、犠牲者たちに対するリュスの優しさが好ましく思えてきます。

 同じパリ・コミューン時の犠牲者を扱いながら、リュスの作品《A Street in Paris in May 1871》と作者不詳の作品《《Casualties of the Paris Commune, 1871》》には大きな違いがありました。

 記憶と記録による違いとでもいえばいいのでしょうか。

 事件発生後30年余を経た後、リュスはこの作品の制作に着手しました。その後、2年を経て完成させています。その間、リュスの中で当時の記憶は次第に純化し、見たくないものは除外していくと、あのようなモチーフと画面構成になったのだと思われます。

 一方、製作者不詳の作品は、当時、作者が見たままの光景が作品化されています。当時の現場からの報告であり、現場写真と同様、優れた報道記録といえます。

 労働者階級の息子として、モンパルナスで生まれ育ったリュスは、彼らに深くシンパシーを感じてきました。肖像画家カロリュス・デュランの下で学びながらも、華麗なブルジョワジーの肖像画を描くことはなく、老いた小母さんの肖像画を描いたにすぎませんでした。というのも、リュスが労働者階級としてのスタンスを保持し続けたからでした。

 リュスは、労働者が働く姿を捉えた作品をいくつか残しています。二つほど、ご紹介しましょう。

■労働者

 リュスには、過酷な現場で働く労働者を描いた作品がいくつかあります。その一つに、製鉄所で働く人々をモチーフにしたものがあります。

●《L’Aciérie》(製鉄所、1899年)

 燃え盛る炎を前に、男たちが作業をしています。

(油彩、カンヴァス、92×73.3㎝、1899年、個人蔵)

 熱気は、後方で休憩している男たちのところまで、立ち込め、画面全体が炎で照り輝いています。辺り一面、どこもかしこも、火の粉が舞い散っている様子が、点描法ならではの細かいタッチで、巧みに表現されています。

 改めて、点描法は光の粒子や火の粉を表現するとき、その効力を最大限に発揮することを思い知らされました。

 この作品の場合、炉の壁面や床、男たちの衣服や帽子に、サーモンピンクが適宜、散らされています。それは、観客に火の粒子をイメージさせる一方、炉で働く男たちの苛酷な労働を象徴するものとして効いているのです。

 点描法のタッチに、サーモンピンクという色を載せて、現場に立ち込める熱気を丁寧に掬い上げ、過酷な労働現場をイメージ豊かに表現しているのです。

 ところが、過酷な労働現場のはずなのに、描かれている画面からは、その実感が伝わってきません。

 一体、何故なのでしょうか。

 改めて、画面を見てみました。

 舞い散る火の粉を浴びながら、男たちは炎に向かって気持ちを一つにし、働いています。男たちの視線はすべて炎に向けられ、その炎が焦点化されています。そこに、男たちの主体性が感じられ、観客の目を画面に引き込む力を放っていました。

 労働を苦役と捉えるのではなく、神聖な行為と捉える男たちのリリシズムを感じさせられたのです。使命感を持って、一致団結して働くことに意義を見出し、そのための労苦を厭わないという心構えが醸し出すリリシズムです。

 さきほど、ご紹介したパリ・コミューンの犠牲者といい、この製鉄所の男たちといい、リュスは、民衆や労働者をモチーフとして共感を持って描き、そこから美しさを引き出していることに気づきます。

 リュスにはこれ以外にも、労働現場を描いた作品があります。

●《Les batteurs de pieux》(杭打ち機、1902年)

 杭打ち機を集団で動かしている男たちの光景が描かれています。背後には煙が立ち上る煙突がいくつも描かれており、沿岸部の工場地帯であることがわかります。

(油彩、カンヴァス、154×196㎝、1902年、Musée d’Orsay所蔵)

 男たちは皆、帽子をかぶり、上半身は裸で、杭打ち機の紐を引っ張っています。6人の男たちが力を合わせて紐を引っ張り、杭打ち機を引き上げては落とし、穴を掘る作業をしているのです。

 過酷な労働現場であることは確かです。

 男たちの剥き出しになった腕や肩、脇腹に陽光が当たり、キラキラと輝いているように見えます。思い思いの姿勢で紐を引っ張る男たちの、隆々とした筋肉の盛り上がりが、陽射しの中で強調されています。過酷な労働を引き換えに手にした精悍な肉体です。

 画面を見ているうちに、ふと、リュスは、逞しい身体つきの男たちを賛美して描いているのではないかという気がしてきました。

 そう思ってしまうほど、描かれている男たちは明るく、生き生きとした表情を浮かべていたのです。

 彼らはおそらく、引き上げ作業の際は大きな声を掛け合い、気持ちを一つにしながら、渾身の力を振り絞っていたのでしょう。そのせいか、画面からは労働賛歌の雰囲気が濃厚に滲み出ています。

 ここでも、光と影がうまく活用されていました。もちろん、点描画法も同様です。

 点描法は、背後の工場群のくすんだ様子を描くのに活かされていました。その一方で、男たちの盛り上がった筋肉の上で光る汗粒の表現にも活かされていました。くすみの表現にも輝きの表現にも点描法が活用されていたのです。

 労働現場を描いた作品からは、リュスが労働者をいかに肯定的に捉えていたかがわかります。

■パリ・コミューンと労働者階級

 労働者階級を中心とする民衆が一時、パリを占拠し、自治政府を樹立していたことがありました。それがパリ・コミューンです。先ほどご紹介した作品、《A Street in Paris in May 1871》の背景となる政治状況でした。

 リュスの作品には、「1871年5月」という文言が入っています。これは、血の一週間といわれる時期を指しており、1871年3月18日に樹立された世界最初の社会主義政府パリ・コミューンが消滅に向かっていく期間でもありました。

 当時の様子をまとめた16分58秒の動画がありますので、ご紹介しましょう。9分以降、「血の一週間」について説明されます。

こちら → https://youtu.be/4a31larqXts

(広告はスキップするか、×で消してください)

 この頃、民衆は、「市民の生命は鳥の羽根ほどの重さもない。イエスかノーかを問わず、逮捕され銃殺される」といわれる状況に置かれていました。

 そんな折、ドイツの占領軍が包囲する停戦下で、正規軍の崩壊と民衆の武装蜂起という、きわめて特殊な状況下で、パリ・コミューンは成立したのです(※ 福井憲彦編『フランス史下』、2021年3月、山川出版社、p.124-125.)

 パリ各区から選出された代議制による組織であるパリ・コミューンは、民衆の生活を守るための政策を打ち出し、推進しようとしていました。ところが、彼らには、社会政策として標榜していた政策を実現するための時間はなく、政府軍との攻防に明け暮れざるをえませんでした(※ Guillaume de Berthier de Sauvigny, 鹿島茂監訳『フランス史』2019年4月、講談社、p.472-473.)

 元来、民衆蜂起を母体とした自治政府でした。理論的にも組織的にも脆弱だったばかりか、軍事的にも大きな弱点がありました。

 政府軍が態勢を立て直してくると、コミューン側は劣勢を覆すことはできなくなり、いったんは降伏を決断します。ところが、「降伏などせず、闘いながら死ぬこと、これこそがコミューンの偉大さを形成」するという声に押され、死闘を繰り広げざるをえませんでした。

 この「血の週間」と呼ばれる凄惨な市街戦は、パリを奪還しようとする政府軍とコミューン側との間の熾烈な戦いでした。無差別殺人が至る所で発生し、老若男女を問わず、多くの市民が殺傷されていったのです。

 20万人といわれたコミューン側は、終には、3万人にのぼる戦死者を出し、瓦解しました。1871年5月28日、パリ市全域は鎮圧され、コミューンは崩壊したのです(※ 福井憲彦、前掲、p.125.)。

 1871年3月18日から1871年5月28日までのわずか72日間、労働者階級を中心とする民衆が、パリ自治政府を樹立していました。

 彼らは、自治都市パリを基点に、全国にコミューン連合を広げていこうとしていました。そこに着目し、アナーキストたちは、パリ・コミューンをあるべき社会組織として理想視(※ 福井憲彦、前掲、p.126.)していたといいます。

 実は、思想的にリュスは、アナーキズムに共鳴しており、アナーキストが出版した刊行物に挿し絵を描いたりしていました。当時の政治状況、社会状況、文化状況を考えると、当然のことといえるかもしれません。(2022/7/31 香取淳子)