ヒト、メディア、社会を考える

07月

日経新聞社、グローバルメディア市場へ

■記者会見のUstream中継
 2015年7月24日午後5時、日経新聞社は都内のホテルで、フィナンシャル・タイムズ・グループ(以下、FT)の買収について記者会見を行いました。

 この日の未明、ネットではすでにこのニュースは流れていました。ですから、私はメディア報道よりも早く知っていたのですが、どういうわけか現実味を持ってこのニュースを受け止めることができませんでした。私の認識では、日経新聞社は日本のローカルなメディアですが、ファイナンシャルタイムズは世界に名だたるグローバルメディアです。メディアとしての格、影響力がまったく違いますから、即座には信じられなかったのです。

 どうしてこのような買収が可能になったのか。買収後、日経はどのようなFT活用プランを考えているのか。約1600億円といわれる買収金額を回収できる算段はついているのか、等々。いくつもの疑問が脳裏を掠めました。

 実際、これまで日本メディアが大手海外メディアを買収したことはありません。勝手な思い込みかもしれませんが、海外メディアの買収などはマードックのような海千山千の辣腕経営者がすることであって、日本のメディア企業がすることではないと思い込んでいたのです。

 やがてネットだけではなく、テレビも新聞もこのニュースを報じるようになりました。ところが、新聞各紙の報道を見ても、表面的な報道に終始しており、どれも満足できるものではありませんでした。これだけ野心的な事業を行ったヒトたちの顔が見えないし、肉声が聞こえてこないのです。

 そこで、ネットを見ると、この会見は丸ごとUstreamで中継されていました。質疑応答を含め、1時間にわたる中継でしたが、その一部始終を視聴することができたのです。会見に臨んだのは、岡田直敏社長、喜多恒雄会長、二人の専務取締役の総勢4人でした。買収劇の当事者たちです。

 Ustream中継の映像をご紹介しましょう。

こちら →http://www.ustream.tv/recorded/68617663

 日経は新聞社でありながら、「http://channel.nikkei.co.jp/」で、このような映像も配信していたのです。

■パートナーの獲得
 まず、喜多恒雄会長からFT買収についての概略が説明されました。喜多氏は、メディアが今後も成長し続けていくには、デジタル化とグローバル化を推進していく必要があり、それには相応しいパートナーと協同して対応していくことが肝要だと話されました。これがFT買収についての日経側の基本的な考え方でした。

 FTと日経はこれまで、人材交流、共同編集等を行ってきた歴史があり、メディアとしての理念や価値観を共有してきたといいます。その流れの中で今回の買収に至ったと喜多氏は説明されましたが、実はFTの買収を巡って日経は、独メディアのシュプリンガーと最後まで争ったという報道もあります。

 たとえば、『東洋経済online』は、「日経によるFT電撃買収は、うまくいくのか」(小林恭子, 2015/7/24)という記事を載せています。そこでは、親会社であるPearsonがFTの売却先を求めいくつかのメディア企業と交渉していたことが明らかにされています。さらに、ドイツのシュプリンガーとは1年前から交渉を進め、日経がこの話に加わったのはわずか2か月前だったとも書かれています。

 一方、会長の喜多氏は会場で、FTの親会社であるPearsonからは5週間前に投資銀行を通してFT買収の打診があったと説明しています。ですから、交渉開始時期は『東洋経済online』の記事とほぼ一致しています。Pearsonから日経に打診があり、その後、様々なやり取りがあったのでしょう。そして、23日朝、ロイターは58年間FTを所有してきたPearsonが売却についての最終段階に入ったと報じています。

こちら →
http://www.reuters.com/article/2015/07/23/pearson-ma-financialtimes-confirmation-idUSASN00092320150723

 会長の喜多氏も、23日、日経とPearson双方が長時間にわたって電話会議を行い、具体的な価格を決めたと説明しています。時間をかけて交渉してきたシュプリンガーに比べ、日経はかなり後から交渉に参加しましたが、きわめてスムーズに買収交渉を成立させたのです。巨額の買収額のおかげでしょう。

 朝日新聞DIGITAL(2015/7/25配信)は、「日経は、約1600億円を現金で支払うと突然提案した。シュプリンガーを上回る内容だったとみられ、FTは関係者の話として「最後の10分で逆転した」と報じた」と書いています。

こちら →http://www.asahi.com/articles/ASH7S7674H7SULFA03L.html

■買収額に見合う投資なのか?
 FTグループの買収額は8億4440万ポンド(約1600億円)でした。これは日本のメディア企業による海外企業の買収としては過去最高額だそうです。ちなみにブルームバーグはこの買収額に関連づけて、「FT買収額Wポストの5倍、営業利益の35倍」というタイトルの記事を載せています。

こちら →http://www.bloomberg.co.jp/news/123-NRYRPY6JTSEA01.html#

 この記事には、FTの親会社であるPearsonは米紙ワシントンポストをアマゾンに売却したとき(2013年)よりはるかに有利な条件で日経と契約を交わしたと書かれています。日経がFTグループの企業価値を2014年度の売上高の訳2.5倍と見積もったのに対し、2013年にアマゾンに売却されたワシントンポストは売上高を60%も下回る価格だったというのです。そして、この買収額には「査定による裏付け」がなく、「知名度の高い資産へのフランチャイズ・バリューを反映しているにすぎない」と書いています。

 買収額については会場からも質問が出ました。「ワシントンポストの5倍近い金額を投じるメリットは何か?」と問われたのです。

 岡田直敏社長はこれについて、「FTの買収により、記事の相互利用だけではなく、ノウハウの交換、人材交流などで両者が深くつながることができ、それによって新たなシナジー効果を期待できる」とし、「FTの資産価値、ブランド価値、さらには日経とのコラボによる価値の増大を考えれば、この金額が高すぎることはない」と説明しました。

 たしかに、FTの買収によって日経は読者数では世界最大の経済メディアになります。巨大メディアだからこそできるさまざまなサービスの開発、コンテンツの提供が今後、可能になるでしょう。そこから新たな収益を見込むことができます。

 なによりも、FTの買収によって日経は時間をかけずにグローバルメディア市場に打って出ることができます。日経のブランド構築に大きな効果が期待できるでしょう。日経は今後、成長が著しいアジアをターゲットに成長戦略を描いているようですから、収益の向上はすでに算段できているのかもしれません。

■英語媒体の強化
 メディアを取り巻く今後の状況を考えれば、日本の読者を主要な対象にした日本のメディアに限界があることは確かでしょう。日本のマーケットは今後、大幅に縮小していきます。人口が減少するだけではなく、高齢化がさらに進むからです。そのような人口動態を考えれば、メディア企業といえども海外に目を向け、海外読者を取り込んでいく必要があるでしょう。

 たとえば、2014年12月のABCデータによると、日経の購読者数は朝刊が273万2989部でした。他紙よりも減少の程度は低いといわれていますが、それでも10年前に比べ10%減になっています。しかも、2013年、日経新聞は大幅な読者減を経験しています。

こちら →http://www.garbagenews.net/archives/2141533.html

 ただ、日経読者の意識・行動についての調査結果を見ると、「新聞の海外報道に関心がある」読者の比率は64.3%、「英語を学んでみたい(現在、学んでいる)」読者の比率は56.2%、いずれの数値も朝日、毎日、読売をはるかにしのいでいます(『日本経済新聞媒体資料2015』、p.9)。しかも、社長、役員など企業の意思決定者層へのカバレッジは他紙・他誌を圧倒しているのです(前掲、p.6)。

 以上の結果を総合すると、体力のあるうちに海外に打って出ようという戦略が日経幹部の間で検討されていたとしても不思議はありません。彼らはおそらく、以上のような現状認識を踏まえ、2013年に英語版で多メディア対応のNikkei Asian Reviewを創設したのでしょう。だとすれば、今回の買収はその延長線上にある経営戦略の一つと考えられます。

こちら →http://asia.nikkei.com/

 人口構成が若く、教育に熱心な国は必ず発展していきます。そのような国では貧しいことが原動力となり、ヒトは積極的に学び、働き、モノを買おうとし、新しいことにチャレンジしようとするからです。私はハノイやホーチミンなどインドシナ半島には何度か出かけていますが、行くたびにそのことをひしひしと感じます。

 成長市場はいま東南アジアにあり、そこでの共通言語は英語です。日経がFTと協同すれば、アジア市場をさらに開拓することができ、アジアの経済動向に大きな影響を与える可能性があります。これまで日本メディアの弱点とされてきた英語による発信力の弱さをFTの買収によって克服すれば、メディア激変期にも日経は成長し続けることができるでしょう。

 東京新聞(2015年7月15日夕刊)で興味深い記事を見つけました。記事のタイトルは「ソフトパワーの世界ランクで日本は8位」というものです。以下のような内容でした。

 英国を拠点とする国際コンサルタント会社「ポートランド」によると、文化など非軍事の国力「ソフトパワー」の世界ランキングは、一位が英国、二位がドイツ、三位が米国、日本は八位でした。日本については、「独自の文化や技術開発力で優れている」のに、「高い教育を受けていても英語によるコミュニケーションができないことがある」と分析されているというのです。

こちら →PK2015071502100173_size0
東京新聞より。

上の図に見るように、上位は欧米諸国がほぼ独占しています。この世界ランキングの記事からも、英語による情報発信力の差異がソフトパワーの強弱に関連しているといえそうです。グローバル化は共通言語としての英語の地位をさらに高めました。グローバル化対応を強化しようとしている日経が英語による経済情報の発信強化に努めるのは理の当然といえるでしょう。

■FT買収によるシナジー効果
 岡田直敏社長は会場で、「FTとの一体化によって、グローバル競争の中でかなり強力なメディアになれるのではないかと思っている」という認識を示されました。「IT mediaニュース」(7月24日配信版)によれば、FTのデジタル版「FT.com」の有料読者数は約50万人、日経電子版は約43万人ですから、この買収で一挙に93万人に膨れ上がります。経済ニュースメディアとしては当然、世界一となりますから、岡田社長のいうように、「グローバル競争の中でかなり強力なメディア」になることは確実でしょう。

 日経新聞電子版(7月24日配信)によれば、日経とFTを併せた有料読者数93万人はニューヨークタイムズの91万人を抜いて世界一、新聞発行部数はウォールストリートジャーナル(146万部)の2倍強です。紙媒体と電子媒体を併せ持つビジネスメディアは、日経・FTとウォールストリートジャーナルを傘下に持つダウ・ジョーンズの2強体制に集約されることになります。今後、経済情報の領域では、これに通信のブルームバーグを加えた三者がグローバル市場で競い合うことになるのです。

 FT買収による日経は数の上で優位に立てるというだけではありません。FTのコンテンツを活用することもできます。FTは世界の企業の時価総額をランキングする「ファイナンシャル・タイムズ・グローバル500」を毎年、発表しています。2014年版をご紹介しましょう。

こちら →
http://www.ft.com/intl/cms/s/0/988051be-fdee-11e3-bd0e-00144feab7de.html#axzz3gxgyV300

 これを見るとわかるように、欧米日のデータはしっかり把握できていますが、アジアは新興国として「Emerging 500」にカテゴライズされています。日本以外のアジアはすべて、ロシア、ブラジル、インド、サウジアラビア、トルコ、ヨルダンなどと一括して扱われているのです。これだけ見ても、今後、大きく成長すると思われるアジアのデータの集積がFTには不十分であることがわかります。

 一方、日経は2013年に「Nikkei Asian Review」を刊行して以来、アジアの企業情報の収集に力を入れています。アジアの優良企業についての情報を現在、「Asian 100」として提供していますが、やがてこれらが大きな情報価値となって日経の企業価値を高めてくれるでしょう。

こちら →
http://asia.nikkei.com/magazine/20141120-THE-REGION-S-TOP-COMPANIES/NIKKEI-Announcement/List-of-ASEAN-100-companies

 こうした状況を考え合わせると、FTを買収した日経が経済情報の領域で大きなパワーを発揮するようになるのは必至です。

■デジタル化、多メディア対応
 日経新聞社は他社に先駆け、2010年に日経新聞電子版を刊行しました。以来、着実に購読者数を増加させ、2015年1月5日時点で39万0891部に至っています。しかも、これまで新聞を読んでいなかった層が日経電子版の購読者になっているようなのです。

 永江一石氏によると、2013年7月に電子版の有料会員になった読者のうち18%が新聞の非読者層だったそうです。さらに、女性会員の比率や20~30歳代の比率も当初から2013年7月までで7~8%増えているといいます(http://blogos.com/article/80747/)。

 これにはさまざまな要因が考えられますが、ネット利用に慣れた若者層が増加していることから、サイトへのアクセス時間の短さが関係していると思われます。下の図は新聞各社のサイトへのアクセス時間のデータです。

こちら →69cb3242585ab77658440e1db09d4671
アルゴス・ジャパンのデータより(前掲 永江氏記事 URL)

 これを見ると、圧倒的に早いのが日経新聞です。電子版へのアクセスはモバイルからが多いといわれていますが、アクセスが集中すると、速度が遅くなってしまいますし、時にはダウンしてしまうこともあります。読者をイライラさせることがないよう、日経が電子版の視聴環境に細心の注意を払っていることがわかります。これは単なる一例です。

 一方、FTもデジタル対応でもっとも成功しているメディアの一つとされています。Lionel Barber編集長は2013年初、年頭の挨拶としてメールで、「digital first strategy」を展開する旨の通達をスタッフに出しました。

こちら →
http://www.theguardian.com/media/2013/jan/21/lionel-barber-email-financial-times

 急速に変化するメディア環境下で、これまで通りクォリティの高いジャーナリズムを下支えするには、デジタル時代にふさわしくFTは大変革をしなければならないと檄を飛ばしているのです。実際、グーグル、リンクトイン、ツィッターなどの新興メディアによって日常的に旧メディアは浸食されるようになってきました。ですから、Lionel Barber編集長は、これらの新興メディアを含め、激化する競争市場でFTの未来を守るには「digital first strategy」で対処するしかないと宣言しているのです。そして、この「digital first strategy」は成功しました。

 岡田社長は会場で、このようなFTのデジタル対応を高く評価しておられました。FTが大量のエンジニアを抱え、デジタル対応に万全の手を打ってきたからです。顧客管理、プロモーション、大量データを分析する技術など、日経がFTから学ぶべきところは多いと話しておられました。さらに、「日経が電子新聞の販路を開拓するのに有利だし、日経データベースなどにも協力してもらえる」と期待しておられました。FTを買収することによって、ビジネス面、コンテンツ面での大きなシナジー効果が期待できるのです。

 会場から新興メディアに対してはどうかという質問が出されました。

 たとえば、ハフィントンポストのようにわずか数年で月間2500万人を超える読者を獲得した新興メディアがあります。その勢いに注目したAOLが2011年にハフィントンポストを買収したのですが、質問者はおそらく、それを念頭に置いていたのでしょう。デジタル化の強化に努めるのなら、そのような新興メディアはどうなのか?と尋ねたのです。

 すると、岡田社長は、「新興メディアには大きな関心を持っている」としたうえで、「日経はクオリティ・ジャーナリズムを目指す。価値あるコンテンツを有料で提供し、健全なジャーナリズムを目指していく」と表明されました。つまり、新興メディアの技術やサービスについては注目し、活用できるものは活用していくが、日経が目指すものはあくまでもメディア機関としてのクォリティの高さだというのです。

 このような日経の姿勢は当然、FTの編集権の独立を維持し、スタッフの雇用を維持するという方針につながります。

■編集権の独立、雇用の維持
 さて、メディアの買収でもっとも気になるのが、編集権の独立です。
この点について喜多会長も岡田社長も異口同音に、編集権の独立は維持するし、雇用も維持すると明言されました。FTの経営や報道のスタイルを変えようとは思っていない。FTはFTのままで強くなることが日経にとってもいいことだ」と説明されたのです。

 会場からこの件について、編集権の独立は明文化されているのかという質問がありました。岡田社長の口ぶりからはどうやら明文化はされていないようですが、「編集に口出しすることはない」と再び、断言されました。FTの方針を尊重することこそが日経にとってのメリットであるという方針を崩されることはありませんでした。

 興味深いことに、FTの親会社のPearsonも、FTとの間で編集の独立を保証するといった契約あるいは文書を交わしてこなかったようなのです。

 PearsonのCEO・John Fallon氏はFTを日経に売却した経緯について説明しているビデオがあります。

こちら →https://youtu.be/jTdk6-9ryUo

 John Fallon氏は「PearsonがFTを所有してきた58年間の間、そういうものが必要だと考えたヒトは誰もいなかった。それよりも、企業文化やリーダーシップ、どんな組織構造なのか、実際にどう行動してきたのかという実績が重要なのです」といっています。そして、「独立していることを重視する価値観、物事を深く考え、かつ公正なジャーナリズムを追求しているといった点で、日経とは企業文化が似ている」と日経への信頼を表明しています。

 実際、PearsonはこれまでFTの編集の独立を認めてきたからこそ、FTが世界の尊敬を集めるメディアになってきたという事実があります。日経もまた、FTの独立を保証していく中で最高のパートナーシップを発揮できるようにしていくことでしょう。

■日経、グローバルメディア市場へ
 会見に臨んだ会長、社長、二人の専務いずれも、フロアからの質問に誠実に答えておられました。著名なグローバルメディアを巨額で買収したというのに、驕りもなく衒いもなく、淡々と事実を述べておられる姿勢に好感が持てました。おそらく地道で誠実な交渉の積み重ねの上でこのような大事業を成し遂げることができたのでしょう。

 人口動態から今後の世界を展望すると、アジアに大きな成長の機運があることは確実です。そのアジアに向けて、日経は強力なパートナーとともにメディア市場の開拓に着手しました。

 日経はすでに多数のスタッフをアジアに張り付けているといいます。現地の企業データ、経済情報を着実に収集し、経済動向の分析基盤を構築しているのです。その上で、今回のFTの買収です。もはや日本メディアばかりでなく、欧米メディアも当分はこのFT&日経グループに追随できないでしょう。快挙といわざるをえません。欧米とアジアをカバーするグローバルメディアとして大きく成長していってもらいたいと思います。(2015/7/26 香取淳子)

シンガポール国立博物館の来歴と「SINGAPURA: 700 YEARS」

■シンガポール国立博物館

シンガポール国立博物館は、1849年にラッフルズ・インスティテューションの図書館の一部として設置されたのがその起源だといわれています。ですから、元々の名称はThe Raffles Library and Museumでした。英領シンガポールの時代に図書館に併設して博物館が作られたのです。

シンガポール国立博物館に行くと、ちょうど、「SINGAPURA: 700 YEARS」(2014年10月28日から2015年8月10日)が開催されていました。この展覧会は序章の「シンガポールの考古学」ゾーンと「古代シンガポール」から現在のシンガポールに至る5つのゾーン、合計6つのゾーンで構成されていました。シンガポールの歴史を知るまたとない機会です。

そこで、今回は趣向を変えて、「SINGAPURA: 700 YEARS」に沿ってシンガポールの歴史を辿りながら、シンガポール国立博物館の来歴をみていくことにしましょう。

■SingapuraからSingaporeへ

古代のシンガポールは土着民から「海の町」を意味するTemasekと呼ばれていたようです。それが、14世紀になると、Singapuraという呼び名が定着してきたといわれています。その頃を起点とすれば、現在は「シンガポール700年」になるのでしょう。とはいえ、近代以前のシンガポールはまだ判然としないことも多いようです。

こちら →detail_img

Singapura 700 years, パンフレットで使われている画像です。

近代シンガポールの礎が築かれたのは1819年のことでした。当時、シンガポールはまだ上の写真のような小さな漁村でしかありませんでした。ところが、シンガポールをはじめ東南アジアの海域では、ヨーロッパ諸国の植民地開拓者たちが交易の拠点を求めて、熾烈な争いを展開していました。インドと中国の間にはさまれたこの海域一帯が経済的な重要性を持っていたからです。

イギリス東インド会社福総督であったラッフルズもその一人です。彼は単なる漁村にすぎなかったシンガプーラの地政学的重要性に着目しました。しかも、そのときオランダはまだシンガポールに手を付けていませんでした。これ幸いとばかりにラッフルズは、当時、この地を支配していたジョホール王国と早々と友好条約を締結しました。そして、名称もSingapuraから英語風のSingaporeに改め、次々と都市化を推進していったのです。

「Singapura: 700 years」では、「植民地シンガポール(Colonial Singapore)」と題されたコーナーでこのあたりの事情が扱われています。

ラッフルズは一度シンガポールに立ち寄っただけで、ここが交易の需要な拠点になることを見抜いたのです。すばらしい慧眼の持ち主だったとしかいいようがありません。そして、彼はさっそく商館建設の許可をもらうために、ジョホール王国と交渉しました。その後、シンガポールはラッフルズの見立て通り、交易拠点として重要な役割を果たしました。そればかりか、マレー半島で産出されるゴムなどの天然資源の積出港としても発展していきました。

そのラッフルズがシンガポールの金融街を背景に、威風堂々と腕を組んで立っています。

こちら →images

19世紀初頭に活躍した人物なのですが、背景の超高層ビル群と妙にマッチしています。

シンガポールはいまアジアの金融センターとして驚異的な発展を遂げていますが、彼が現代社会に生きていたとしたら、おそらく積極果敢に情報経済の領域を切り開いていったことでしょう。

さて、シンガポールは1824年、ジョホール王国からイギリスの植民地として正式に割譲されました。やがて、ペナン、マラッカなどとともにイギリスの海峡植民地に組み入れられていきます。そして、1832年にはその海峡植民地の首都に定められます。

イギリスはシンガポールを無関税の自由港とし、その自由港政策を積極的に展開しました。だからでしょうか、シンガポールに大勢のヒトが流入してきました。その結果、1819年1月には150人程度だった人口がわずか5年で1万人にまで急増したといわれています。労働者、貿易商、行政管理として、中国、インド、インドネシアなどから多くの移民がシンガポールに移住してきたのです。もちろん、イギリスをはじめヨーロッパ人もいました。当時からすでに多民族国家の兆しがあったのです。

こちら →SINGAPURA-700-Years-Colonial-Singapore-5-Image-courtesy-of-National-Museum-of-Singapore-1024x682

http://www.themuse.com.sg/ より

日傘をさす着飾った女性、シルクハットを被った紳士、ヨーロッパ上流社会の衣装を身につけたヒトがいる一方で、半裸でモノを運ぶ労働者、馬を引くインド人などがいます。植民地時代の生活の一シーンが模型で再現されています。服装や労働内容などから、支配の構造が一目で理解できます。

シンガポールは英領のインドやオーストラリア、中国大陸との間で取引される貿易の中継地点でした。各地から成功を夢見てやってきた商人や労働者などによってシンガポールは賑わい、急速に発展していきました。

 

■The Raffles Library and Museum

それまで仮設のようなものであった博物館は1887年、スタンフォードロード沿いの現在の位置にThe Raffles Library and Museumとして正式に開設されました。実はこの年、ラッフルズホテルが開業しています。古典的なコロニアル様式の建物は往時のまま保存されています。

こちら →ラッフルズホテル

ホテルの開業に伴い、ラッフルズ・インスティテューションの図書館に併設されていた博物館も移転せざるをえなかったのでしょう。興味深いのは、新しく建てられた図書館であり博物館でもあるこの施設に、ラッフルズの名前が冠されていることです。場所は移動しても、名称は継承されたのです。当時の為政者たちのラッフルズに対する敬意の表れと見ることができます。

ラッフルズ(Thomas Stamford Raffles, 1781-1826)は、シンガポールの創設者であったばかりか、植物学、動物学、歴史学などの学者でもありました。

日本語版Wikipedia によると、1817年には『ジャワの歴史』を著し、ナイトの称号を授与されています。さらに、彼はジャングル調査隊を組織して現地を探索することもあったようです。世界最大級の花「ラフレシア」は、発見した調査隊の隊長であったラッフルズの名前と隊員の名前にちなんで付けられたのだそうです。

ジャワ島、マレー半島など、ラッフルズが関わった地域の珍しいモノや資料、遺物などが彼のもとに持ち込まれました。おそらく、膨大な量のモノや資料を整理し、収納するための施設が必要になったのでしょう、彼の死後23年目の1849年、仮設の形で設えられたのが、Raffles Instituteの図書館に併設された博物館でした。先ほどもいいましたが、これがシンガポールの元祖博物館です。

英語版Wikipediaには、ラッフルズの死後33年目の1859年、彼の甥のフリント(William Charles Raffles Flint )が、ラッフルズが収集した膨大な量のインドネシアの遺物や民族誌などを大英帝国博物館に寄贈したと記されています。ラッフルズは植民地開拓者として英国に寄与しただけではなく、東南アジアの膨大な歴史遺産を英国にもたらしました。大英帝国時代の成功者の一つのモデルといえるでしょう。

こうしてみると、大英博物館が収奪のコレクションだといわれる理由がわかります。ラッフルズのような植民地開拓者が、世界中からイギリスに持ち帰った歴史遺産が、大英博物館にコレクションとして収納されているのです。収奪された側にしてみれば、腹立たしいでしょうが、このようにしてイギリスに持ち帰られたからこそ、歴史的遺産は失われることなく、損なわれることなく、現在まで保存されてきたともいえます。

ちなみに今年、日本で大英博物館展が開催されています。

こちら →http://www.history100.jp/

さて、ラッフルズは探検隊を組織してジャングルを探索していました。ですから、彼が探究心に溢れ、開拓者精神の旺盛な人物だったことは容易に想像できます。ひょっとしたら、夢想家であり、冒険家だったのかもしれません。大英帝国の繁栄を支えてきた時代精神をラッフルズの中に見出すことができそうです。

シンガポールの博物館はラッフルズの膨大なコレクションを収納することから始まりました。その博物館の現在の姿がこれです。

こちら →800px-National_Museum_of_Singapore_3,_Aug_06

白く荘厳な建物が威容を誇っています。コロニアルスタイルの建物のそこかしこに権勢と栄華の残滓を見ることができます。まるで七つの海を支配した時代のイギリス人を見ているかのようです。この写真は2006年の改修後のものですが、改修に際しては、歴史ある外観についてはその雰囲気を維持することに努め、内部を大幅に改装して機能性を高めたようです。

 

■昭南島博物館(SYONAN-TO Museum)

1941年12月8日の真珠湾攻撃は、毎年ニュースで報道されるせいもあって、私たちはよく知っています。でも、同じ時期、日本軍がシンガポールを攻めていたことを知っている日本人はきわめて少ないのではないでしょうか。

1941年末にマレー半島に上陸した日本軍は、翌年2月7日から15日にかけて、インド軍、マラヤ軍、オーストラリア軍、イギリス軍等の連合軍と戦いました。さらに、出撃してきたイギリス戦艦をマレー沖で撃沈しました。日本軍はこのシンガポールの戦いに勝利したのです。当時の状況をBBCが要点を整理して記しています。

こちら →

http://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/dates/stories/february/15/newsid_3529000/3529447.stm

その結果、イギリスの植民地だったシンガポールは1942年、日本の支配下に置かれました。為政者の変更に伴い、シンガポールは「昭南島」(SYONAN-TO)と改称され、行政組織として昭南特別市が設置されました。そこでは過酷な軍政が敷かれていたといわれています。

こちら →日本軍占領下

ここでも模型を使って当時の様子が再現されています。痛ましい出来事が多々あったようです。私たちが生まれる前の出来事だと片づけてしまうわけにはいかないでしょう。戦時下とはいえ、日本軍がシンガポールで行った非人道的行為をしっかりと記憶にとどめておく必要があると思います。

シンガポールの為政者がイギリス軍から日本軍へと変更するのに伴い、博物館の名称も「The Raffles Library and Museum」から「昭南島博物館」に変更されました。

 

■国立博物館(The National Museum)

1945年8月、第2次大戦が終結して日本軍が去り、シンガポールにイギリス軍が戻ってきました。日本軍の圧政からは解放されましたが、イギリスの統治も過酷なものだったようです。シンガポールに平和は訪れませんでした。

やがて、マレー半島全体にイギリスからの独立、自治を求める動きが活発になってきました。1957年、マラヤ連邦がイギリスから独立し、1959年、シンガポールはイギリスの自治領になりました。そして、1963年、独立したマラヤ連邦、ボルネオ島のサバ・サラワク両州とともにシンガポールはマレーシア連邦の一員となりました。

ところが、マレーシアとシンガポールとの間で対立が起こります。マレーシアのアブドゥル・ラーマン首相はマレーシア人優遇政策を採ろうとし、シンガポールの人民行動党党首リー・クアンユー氏はマレーシア人も華人も平等政策をと主張したからでした。

対立は激化し、1965年8月9日、マレーシアから追放される形でシンガポールは都市国家として分離独立せざるをえなくなりました。独立を国民に伝えるテレビ演説の際、リー・クアンユー氏は思わず涙したといわれます。彼が人前で涙を見せたのはこのときと母が亡くなったときの2回だけだといわれるほど、有名なエピソードです。

こちら →リークアンユー涙

これは、シンガポールに駐在経験のあるブロガーのNaoki SUGIURA氏が撮影したもので、その時のテレビ演説のワンカットです。リー・クアンユー氏の苦渋に満ちた表情がとても印象的です。天然資源に乏しく、水源さえ他国に依存しなければならない小さな都市国家を今後、どのように運営していけばいいのか、不安でいっぱいだったのでしょう。

たしかに、シンガポールが取り組まなければならない問題は山積していました。

現在、独協大学教授の森健氏はかつて、「シンガポールの国家介入と経済開発」という論文の中で、独立直後のシンガポールの課題は次の2点に大別できるとし、①種族間・種族内対立問題、②輸出志向型工業化戦略の実現化、をあげています。(滋賀大学傳田功教授退官記念論文集、1993年11月、pp.45-61)すなわち、国内の安定と経済的な自立の確立です。

リー・クアンユー氏はテレビ演説で見せた涙を振り払うかのように、独立直後から、矢継ぎ早に建国のための政策を打ち出していきます。

国防政策としてはスイスに倣い、非同盟と武装中立を宣言しました。経済政策としては外国資本誘致による輸出志向型工業化戦略を打ち立てる一方、国外からの観光客を誘致するために観光局を設置し、外貨獲得の手段の一つとしました。一連の初期政策のおかげでシンガポールの失業率は、独立直後の14%から10年後の1975年には6.5%にまで減少したといわれています。

課題であった民族間対立についても同様、リー・クアンユー氏は卓越した政策を行っていきます。1970年代から80年代にかけては、シンガポール独自のアイデンティティを創り上げる運動を展開しました。多民族から成る国内の融合を図るにはそれが一番だと考えたからでしょう。もちろん、言語政策にも気を配っています。異なる民族間では英語、同じ民族間では中国語、マレー語、タミル語(いずれも公用語)、というように融通を効かせた対応をしています。

もちろん、博物館も例外ではありません。独立を機に博物館は隣接する建物に移転され、1969年にはThe National Museumと改名されました。そのコンセプトも明確にされ、東南アジアの歴史、芸術、民族学に焦点を当てた博物館になったのです。この博物館の名称に初めて「National」の文字が付きました。国家主導で運営していくのだという政府の姿勢の表れなのかもしれません。

 

■シンガポール国立博物館(National Museum of Singapore)

21世紀に入ってもなおシンガポールの発展はとどまるところを知りません。それはおそらくシンガポール政府が時代に適合するよう、社会体制や経済体制を整備してきたからでしょう。もちろん、IT政策しかり文化政策しかり、です。

シンガポール国立博物館ではITがうまく取り入れられています。たとえば、以下のURLをクリックすると、館内の地図が表示されます。そこで、地図に付されたオレンジ色の〇印をクリックすると、そこからのアングルで館内を見ることができます。

こちら →http://www.pbase.com/bmcmorrow/singaporemuseum&page=2

シンガポール国立博物館は2003年から2006年に至る増改築の後、旧棟と新棟からなるNational Museum of Singaporeとして、現在に至っています。この博物館の名称にSingaporeが加わったのです。Singaporeという国家名をはじめて強く打ち出したことになります。

先ほども述べましたが、そもそもこの博物館は独立後、東南アジアの歴史、芸術、民族学に焦点を当てた博物館として位置づけられました。そして、今回の改名で、シンガポールという国名が加わりました。ですから、シンガポールこそが今後発展が予測される東南アジアの文化のハブだと強く示唆しているようにも見えます。

これまで見てきたように、この地にThe Raffles Library and Museumとして正式にオープンして以来、この博物館は3度も改名しています。いずれも、社会変化に対応したネーミングの変化でした。まさに近代シンガポールの歴史をこの博物館が体現しているのです。とすれば、今回の名称変更に何を読み取ればいいのでしょうか。

シンガポール国立大学のLily Kong氏は、独立後のシンガポール政府の芸術・文化政策について整理した上で、政治的観点からの政策(1960年代~70年代)、経済的観点からの政策(1980年代)を経て、最近は社会的観点からの政策に関心が払われていると指摘しています。(”Ambitions of a Global City: Arts, Culture and Creative Economy in “Post-Crisis” Singapore”, International Journal of Cultural Policy, 18, no.3: pp.279-294.)

この観点を参考にすれば、志向されているのは、シンガポールという社会と芸術・文化の融合でしょう。ヒトが日常感覚の中で芸術・文化に親しみ、味わい、愛しむ、そのような相互作用を重視しはじめたからなのかもしれません。

そういえば、「SINGAPURA: 700 YEARS」展では多くの史実が、模型を使ったシーンで説明されていました。立体なので写真よりも見る側との相互作用性が高く、そのシーンが記憶に残りやすいことに着目されたからかもしれません。博物館で展示されているものがより親しみやすいものになっていたことは確かです。

今回、「SINGAPURA: 700 YEARS」展に沿って、国立シンガポール博物館の来歴を見てきました。そこから見えてくるのは、社会状況に応じた博物館政策であり、その実践でした。都市国家シンガポールは今後、ますますスマートになっていくような気がします。(2015/7/6 香取淳子)