ヒト、メディア、社会を考える

10月

マンチュリア文字とペインティングの融合:サマンは満洲文化を取り戻せるか。

■溝口・赫舍里・暁文絵画展

 溝口・へセリ・シャオウェン氏の個展が10月18日から23日まで、銀座6丁目のギャラリーGKで開催されました。22日に出かけようと思っていたのですが、一日中雨だったので、最終日の23日、お昼ごろに出かけました。久しぶりに出かけてみると、銀座4丁目の交差点は人通りも多く、それを目当てに衆院選の立候補者が声高に呼びかけていました。

 

 23日の東京都のコロナ感染者数は32人で、7日連続で50人以下になりました。ひと頃に比べれば激減しています。これでようやく、日常を取り戻せそうです。マスク着用とソーシャルディスタンスは不可欠だとしても、今後は絵画鑑賞も自由にできるようになるでしょう。

 さて、向かう先は、溝口・赫舍里・暁文絵画展です。タイトルだけ見ると、3人展かと思ってしまいますが、実は溝口・へセリ・シャオウェン氏お一人の展覧会です。日本人と結婚して溝口姓、それに満洲名の赫舍里、中国名の暁文セットにした名前です。3つの文化を背景に、創作活動を展開されている満州族出身の画家です。

 今回、満洲文字と絵を絡ませて構成された作品が展示されるということでした。 果たして、どのような作品を鑑賞することができるのでしょうか。 大変、興味があります。

 それでは、展示作品の中からいくつか印象に残ったものを、ご紹介をしていくことにしましょう。

■心中サマン

 タイトルの横に「心中サマン」と書かれた作品がいくつかありました。さっそく鑑賞していくことにしましょう。

●《万物精霊》

 まず、画面の上に文字が整然と縦書きで書かれていたのが印象的でした。

(2017年頃、制作)

 画面右中央に椿の葉のような広めの葉が何枚か、描かれています。深みのある濃い緑色に濃淡が施され、なんとも艶やかです。その葉の上といわず、周りの大気といわず、辺り一面に大小さまざまな黒い斑点が散らばり、まるで得体の知れない物体が浮遊しているように見えます。そして、葉の真ん中では白い葉脈が走り、それぞれの葉にちょっとした動きを生み出しています。葉の大きさ、向き、その重なり具合などが丁寧に描かれており、ひそやかな生の営みを感じさせられます。

 厚みのある葉の形状が、グラデーションの中でしっかりと描かれています。葉の広がりは画面の半分ほどを占めているにもかかわらず、背景色とのコントラストが少なく、しかも、濃いグレーの濃淡と斑点が画面全体を覆っているせいか、存在感が弱く、沈み込んで見えます。

 ひょっとしたら、小鳥を目立たせるための色構成なのかもしれません。

 左上方には小鳥が一羽、枝に止まって、その下に広がる葉を見下ろしています。明るい黄土色と白の羽毛で覆われた姿が、その周辺を明るく照らし出し、眼下に広がる薄暗い葉とは対照をなしています。ここに、どこへでも飛んでいける自由を持つ鳥と、どこにも移動することができず、その場にい続けるしかない植物との対比を見ることもできます。

 さて、鳥の周辺以外、画面は寒色の濃淡で構成されています。それだけに、整然と縦に書かれた金色の満洲文字が目につきます。何が書かれているのか意味がわかりませんが、主要なモチーフを残し、金の満洲文字が画面を全体装飾するように覆っているのです。

 眺めていると、特徴的な文字の形に気づきました。

 Wikipediaで調べてみると、「満洲」という意味でした。

 改めて画面を見ると、この文字が繰り返し出てきています。画面全体に書かれたこの文字の中に、今はない満洲を哀惜する作者の心情を感じ取ることができます。

●《心中薩満》

 会場で見たときは、水色に近い藍色で覆われた画面が印象的でしたが、写真に写すと、群青色に近い色調になってしまいました。そのぶん、金で描かれた大小さまざまのサマンが強調されて見えます。

(2014年頃、制作)

 芋の葉のような形の葉が3枚、すっくと上に向かって伸び、1枚は下に折れたように垂れています。上に伸びる力と下に垂れる力を拮抗させているような画面構成が斬新です。その葉を取り巻くように、金色の大小さまざまなものが円を描くように配置されています。よく見ると、仏像のようにも見えます。

 上半分をクローズアップして見ました。

 

 大きいもの、小さいもの、立っているもの、座っているもの、手を曲げているもの、手を下ろしているもの、多種多様な姿をした仏像のようなものが無数に描かれています。

 全身がはっきりと描かれているものがあれば、半身あるいは一部分が背景に溶け込んでいるものもあります。葉を取り巻く辺り一帯に、この仏像のようなものが浮遊しているのです。

 空間自体に深みがあり、何か厳かなものを感じさせられます。時空を超えた何か・・・、それが何か、わかりませんが、気になってタイトルを見ると、その横に、説明が書かれていました。

「私は天を観た。天も私を観た。天・地・人・生命・自然・神・万物霊」とだけ書かれています。

 上を向く3枚の葉は天を指し、下を向く1枚の葉は地を指しているのでしょう。あるいは未来を指し、過去を指しているのかもしれません。これらの葉を取り巻く無数の仏像のようなものはおそらく、人でもあり、神でもあるのでしょう。

 仏像のように見えるものの中には、背景の中に半身、あるいは一部分が溶け込んでしまっているものがあります。つまり、実体ではなく、形象であり、想念であり、さらにいえば、生命そのもの、あるいは万物の霊そのものなのでしょう。

 とても引き込まれます。

 気になったので、今度は下半分をクローズアップしてみました。

 

 今まで気づかなかったのですが、満洲文字が整然と縦書きで藍混じりの淡い色で書かれています。目を凝らさなければ見えないほどですが、この満洲文字が添えられることによって、絵で描かれた空間に絵の構成とは別の秩序が与えられているように見えました。

 この下半分にも仏像のようなものが、大小さまざまな形態で描かれています。はっきりとした姿を現しているものもあれば、ぼんやりとしているもの、重なり合っているもの、さらには、周囲に溶け込んでしまっているもの、多種多様な姿の中に万物の霊を見る思いがします。物質ではなく霊魂だからこそ、至る所に浮遊し、時に重なり合い、時に溶け合い、共にこの世界の構成要素として存在しているのでしょう。

 見ているうちに、何かとても重要なことに気づかされた思いがしてきました。

 すべての存在にはおそらく、ふつふつと湧き上がるように魂が宿り、そこかしこに浮遊しているのでしょう。この作品を見て、それに気づかされたからこそ、あらゆるものの尊厳を冒してはならないという気持ちが、ごく自然に沸き起こって来たのです。

 この作品については、後に、作家の溝口・へセリ・シャオウェン氏から、写真が送られてきました。会場で見たのと同じ色調です。

 

 私が会場で撮影したものよりも、背景の藍色が淡いせいか、葉や花瓶の筆触がよくわかります。

 そして、もう一つ、心中サマンと書かれた作品がありました。

●《水仙図》

 会場で見ると、もう少し明るい色合いだったような気がするのですが、写真撮影すると、やや暗い色調になっています。

(2015年頃、制作)

 花の咲いた水仙が2株、対角線上に配置されています。葉は思い思いの方向に嫣然と揺らぎ、葉先は軽やかに空に舞っています。その形状はなまめかしい動きを表しており、まさに女性の象徴です。

 どういうわけか、2株ともしっかりと根の部分まで描かれています。根は宙に浮いていて、しかも、跳ねています。つまり、この水仙は土を介さないで、存在していることが示されています。そして、根の下の部分、茎の周り、その周辺一帯に、金の浮遊物が浮いています。

 こちらは仏像のように見えるものは数えるほどしか描かれていません。微細な破片のほとんどが、その形状から何かを想像できるものではなく、ただの浮遊物のようにしか見えません。

 ただ、右側の茎の周辺、真ん中の花の周辺に、気体のような金の浮遊物が密集しているのが奇妙です。

 花が咲き、茎が揺れる辺りに、この浮遊物が集中しているのです。このことからは、呼吸する、花を咲かせる、風に揺れる、といった大気に付随した生命活動と関連していることが示されています。気体のように目に見えないものが、このような形で可視化されているといっていいのかもしれません。

 目に見えないものをそのように可視化できれば、この世に存在するあらゆるものに命が宿り、霊魂があることを示すことができます。

 この作品に満洲文字は書かれていませんでしたが、仏像のようなものはいくつか描かれていました。それ以外に、先ほどご説明した気泡のようなもの、気体のようなもの、さらにいえば、気のようなものが随所に描かれており、生命現象、あるいは、精神現象そのものが描き込まれているように思いました。

 この作品についても、後に、作家の溝口・へセリ・シャオウェン氏から、写真が送られてきました。会場で見たのと同じ色調です。

 

 私が会場で撮影したものよりも、藍色の濃淡がよくわかります。全般に淡い藍色になっているので、暈し表現が効いているのを見て取ることができます。繊細でしなやかな葉の動き、曲線の妙味が秀逸です。

 ご紹介してきた三作品には共通して、「心中サマン」という語が書き添えられていました。そして、モチーフである鳥や葉、花の上や周囲に、満洲文字や仏像のようなものが描かれていたのも共通していました。

 そのせいか、画面全体が神秘的で荘厳な雰囲気で包まれているように思えました。満洲文字と絵画が融合することによって、神秘的で奥深い世界が創出されていたのです。まさに満洲文字が創り出す精神の小宇宙でした。

 ふと、中国の絵画理論といわれる「絵画六法」を思い出しました。

■絵画六法

 中国南北朝の時代に謝赫という画家がいました。彼は『古画品録』の序の中で、「絵画六法」という中国の絵画理論を記しています。原文は次の通りです。

  • 気韻生動是也
  • 骨法用筆是也
  • 応物象形是也
  • 随類賦彩是也
  • 経営位置是也
  • 伝移模写是也

 王凯氏はこれについて、次のように述べています。

「この絵画六法は顧愷之の絵画理論を発展させたもので、絵画の優劣を決めるための基準を与え後世の画論の重要な指標となった。(中略)中でも気韻生動が最も重要な法とされる。気韻とは神韻、神気、生気、壮気などとも言い換えられることがあるが、見る人を感動させる力であり、調和の取れたリズムを持つことを指す」(※ 王凯、『中国絵画の源流』pp.26-27. 秀作社出版、2014年6月)

「気韻生動」とはすなわち「气韻生动」で、見る者の精神を活性化することと解釈することができます。画面を見た鑑賞者の気持ちが動かされることを、作品の評価基準の一つに挙げているのです。

 絵画の存在意義に関連する重要な要素だと思います。

 最後の伝移模写について、王凯氏は次のように述べています。

 「张璪(唐代)は「外師造化、中得心源」と述べた。自然を教師としながら自分の心の中にあるものを源泉として作品を描く、という意味である。(中略)「伝移模写」は単なる絵を移すこと、まねて写すこと、或いは複製ではないことが明らかになった」(※ 王凯、前掲。pp.21-22.)

 この箇所を読んでいて、私は、溝口・へセリ・シャオウェン氏が会場で話されていたことを思い出しました。彼女は「中国では美大に入ると、1,2年生はしっかりと宋代の画家の作品の模写をさせられる」と話されていたのです。線とか色、形などに忠実に模写するのはもちろんのこと、重視されたのはその画家の魂を汲み取ることだということでした。

■宋代に確立された山水画、花鳥画

 何故、宋代の画家なのかということを聞きそびれてしまったので、ちょっと調べてみました。すると、宋代は中国絵画史のピークであり、転換期でもあったそうです。この時期に山水画と花鳥画の様式が確立され、特に山水画は中国絵画を代表するジャンルともなっています。

 山岡泰造氏は、宋代の山水画について、次のように記しています。

 「宋代は山水画のさまざまな構成要素が出揃った時代であり、しかもそれに無数の変化と個性を与えるための線描(及び線描を否定するや墨法)の多様性が生まれた時代であった。したがって、そこに成立する情景も複雑で多岐にわたるものであった」(※ 山岡泰造「宋代の山水画論について(一)」『関西大学東西学術研究所紀要』p.77. 2003年3月)

 このような状況を知ると、画力を養うための模写には、宋代の作品は恰好の教材だったことがわかります。

 山岡氏はさらに、次のようにも述べています。

 「輪郭線すなわち描画には画く人の気持ちが反映して速度や肥痩やリズムが生まれる。そしてそれによって表される物の形にも線を通して画く人の気持ちがあらわれるのである。画く人の気持ちは、その人が画こうとする対象(具体的な対象がない場合でも幻想的対象)から受け取るものであり、それを構成要素およびそれらによる構成に反映させることによって、見る人による対象(絵画)が成立するのである」(※ 前掲)

 作者の気持ちを画面に反映させることができるようになったのも、水墨画ならではの写意を表すための技法と構図が宋代に出揃ったからにほかならないのでしょう。

 再び、王凯氏に戻ると、彼は次のように「絵画六法」を総括していました。

 「絵画六法」の「法」はただの単純な絵画技法ではない。高度な哲学思想の本質をもって把握しなければならない論理である。この「法」は、宇宙、天地、生命の「気」の論説であり、即ち、天文、地理、社会、歴史、政治、軍事などに繋がり、認識論、方法論、特徴論、画法論、創作論、そして鑑賞論を含み、主体と客体の「真・善・美」の思想方式という科学的論理を持つものである」(※ 王凯、『中国絵画の源流』p.12. 秀作社出版、2014年6月)

 このような認識が広く一般に受け入れられているからこそ、中国では絵に文字が書かれても違和感がないのでしょう。違和感がないどころが、むしろ格調が高くなると考えられていた節があります。大画家はしばしば大書家でもありました。詩、書、画は、人の精神活動の現れとして同根なのです。

 それでは、個展会場に戻りましょう。

■満洲文字と絵画の融合

 会場を見渡すと、満洲文字が書かれた作品もあれば、仏像のような画像が描き込まれた作品もありました。それぞれメインモチーフと見事に調和し、画面を豊かなものにしていました。印象に残った作品をいくつかご紹介していくことにしましょう。

●《ハイピスカス》

 花のように見えますが、何の花かはわかりません。モチーフの色彩、画面の色調に圧倒されました。近づいて、タイトルを見ると、《ハイピスカス》と書かれています。

(2016年頃、制作)

 よく見ると、この作品にも満洲文字が散りばめられています。画面右中央から左下にかけて、斜めに縦書きで同じ文字が書かれています。どういう意味なのかわかりません。目を凝らすと、画面左端と右端にも縦長に文字が書かれています。さらに、モチーフを取り巻く恰好で、文字が淡く、書かれています。そのせいか、文字はほとんどモチーフの周辺に溶け込んでいます。

 ちょっと引いて、画面全体を見ると、満洲文字がモチーフを補完するように配置されて書かれています。そのせいか、画面が安定し、独特の深みが表出しています。

 文字ではなく画像が散りばめられている作品もありました。

●《菊神》

 画面の色調に惹かれ、足を止めて見入ったのが、この作品でした。タイトルは《菊神》です。

(2018年頃、制作)

 黄色の絹地を使って描いたそうです。右下に文字が書かれていますが、アルファベット表記で、溝口・へセリ・シャオウェンと書かれていますから、これは署名です。

 この作品ではまず、モチーフと背景の色調がとても似通っていることに気づきます。

 このような色構成をすると、モチーフはともすれば、背景の色調に溶け込み、沈んでしまいかねません。ところが、この作品はそうはなっておらず、むしろ、背景とモチーフとが一体となって、深い哀愁を帯びた情感を醸し出しています。

 花びらであれ、花芯であれ、葉であれ、茎であれ、丹念に精緻に描き込まれているからでしょう。まるで工筆画のようです。

 モチーフは輪郭線とぼかしで正確に写し取るように描かれています。そのせいか、背景と似た色彩で描かれているのに、モチーフは決して背景の中に埋没することなく、むしろ、くっきりと存在感を示すことができています。

 よく見ると、葉の上に仏像のようなものが見えます。

 少し、クローズアップして見ましょう。

 

 この仏像のようなものは葉脈と同じ色で描かれているので、うっかりしていると見落としてしまいますが、よく見ると、手前の葉の上に4カ所、仏像のようなものが立っている姿で描かれています。さらに視線を上げると、花の上に描かれた茎にも、形は判然としませんが、仏像のようなものが描かれています。

 至る所に神がいて、この世界を秩序立てて安定を図り、守っているというメッセージなのでしょうか。

 満洲文字ではなく、仏像のような画像を使ったのは、おそらく、この作品のモチーフが工筆画のような精密さで描かれているからでしょう。ここでは敢えて文字をつかわず、画像を使って、工筆画のもつ硬さをやわらげ、画面のバランスを取ろうとしたのではないかと思いました。

 そういえば、先ほどご紹介した《ハイピスカス》は、至る所に文字が書かれていました。こちらのモチーフは写意画の画法で描かれていました。荒く、大胆に描かれたモチーフには文字をレイアウトし、堅苦しさを持ち込み、硬軟のバランスに配慮した画面構成になっていました。

 最後に、文字を全面に打ち出した作品がありましたので、ご紹介しましょう。

●《女神》

 まず、文字が全面に押し出された作品です。画面全体に上から縦書きで文字が整然と描かれています。

(2016年頃、制作)

 絵は文字の下に描かれているのですが、辛うじて女性の顔が見える程度です。やや暗い色調の中にピンク系の色が適宜、散らされ、文字の背後から明るさを出しています。《女神》というタイトルからは、歴史の匂いが感じられます。

 案の定、「1599」という数字が繰り返し、書かれています。気になったので、Wikipediaで調べてみると、明代に女真を統一していたヌルハチがモンゴル文字の表記を応用して「無圏点字」を制定した年だとされていました。

  ところが、無圏点字は、モンゴル文字の体系をそのまま使っていたので、満洲語を表記するのは問題が多かったようです。そこで、ヌルハチの子ホンタイジの時代に、従来の文字に点や丸を添えて、満洲語の一音が一文字で表記するように改良されました。それが1632年です。改良された文字のことを「有圏点字」というそうです。

 改めて、この作品を見ると、いくつかの文章は、確かに文字の横に〇が付いていたり、点が付いていたりしています。ところが、2行目、5行目、8行目、9行目で、アルファベット表記の文章も見えます。2行目はフランス語かと思って調べてみましたが、意味が通じません。アルファベット表記の文字だということがわかっても、何語かはわかりませんでした。

 ちなみに、清代では、満州文字は「清文」、「国書」と呼ばれ、モンゴル文字、漢文とともに三体といわれていたそうです。ところが清朝末期の西太后は満州族でありながら、満洲文字は読めなかったそうです。

 興味深いことに、民間の漢人は満州語と満洲文字の習得は禁止されていました。漢人で満州語や満洲文字を学ぶことが許されていたのは、科挙合格者の状元(首席合格者)、榜眼(第2位で合格)などの成績優秀者に限られていたといわれています。

 なぜかといえば、清代の公文書は満洲文字と漢文が併用されており、満洲文字で書かれた文書の方が漢文で書かれたものより、詳細に記述してあることが多かったからだそうです。使用文字によって情報内容を操作するとともに、情報へのアクセスに制限をかけていたのでしょう。清代の官職で満洲文字を理解できるものが優位に立てるのは当然でした。

 このことからは、文字が国の統治にいかに深く関わっていたかがわかります。

 清朝初期の記録は、満州語で書かれたものしか残っておらず、ごくわずかの人しか当時のことは理解できません。先例や伝統が優先される事象に対応できるのは、満洲語を理解出来る者だけでした。満洲語を使えるというだけで、彼らは権力を保持できましたが、いったん文字が使われなくなると、そこで記録は途絶えてしまいます。

■サマンは満洲文化を取り戻せるか?

 現在、満洲文字によって支えられ、存在していたはずの文化が、人々の記憶から失われかねない事態になっています。

 今回、溝口・へセリ・シャオウェン氏の個展で、満洲文字と絵を融合させた作品を何点か鑑賞する機会を得ました。これまでご紹介してきたように、それらの作品を通して、文字は、絵の価値を損なうことなく、むしろ、格調や深みを付与できることがわかりました。

 満洲文字が画面に添えられることによって、絵だけでは得られない深みを感じさせられました。満洲文字の意味はわかりませんが、 思索につながる深さを感じさせられたのは、 おそらく、文字そのものがもつ抽象化された概念がそこに含まれているからでしょう。

 翻って、日本の場合を考えてみると、明治期の西欧化政策の下、「書ハ美術ナラズ」として書画は分離されました。中国由来の書画一体観の下、日本で連綿と形成されてきた江戸時代までの文化が断ち切られたのです。

 このときは近代化政策の一環として、明治政府が美術も西洋基準に合わせようとしたからでした。いつの世も、文化は政治経済によって断ち切られ、変貌させられがちです。それでも、その文化を愛でる人々がいる限り、再び、息を吹き返し、甦っていくことでしょう。満洲文字に支えられた文化も同様だと思います。

  いつの日か、 それこそ サマンの力によって、満洲文化を取り戻すことができるでしょう。 (2021/10/25 香取淳子)

画家たちが愛した「フォンテンブローの森」を見る。

■風景画とアカデミズム

 18世紀末から19世紀初頭にかけて、社会動向を反映して美術界にも大きな変化が訪れていました。

 たとえば、風景は長い間、肖像画、歴史画の背景でしかありませんでした。ところが、産業革命を経て市民階級が台頭してくると、次第にありのままの光景を描いた風景画が求められるようになります。そのような美術市場の動向を反映し、アカデミズムにも風景画を認める動きが出てきていたのです。

 鈴木一生氏は当時のフランス美術界について、次のように書いています。

 「一般に人気が高かったのは、歴史物語を含まないオランダ絵画に代表される自然主義風景画であった。実際、19世紀初頭の絵画市場において、高い値が付く絵画のほとんどは、アカデミーからは下位ジャンルだと見做されていたオランダの風景画や風俗画であった。(中略)オランダ絵画は、同時代の新古典主義の画家と比べても圧倒的高値で売買されていた」 (※ 鈴木一生、「1810 年代後半の歴史風景画の変化」『成城文藝』第239号、pp.22. 2017年4月)。

 市民階級には、ありのままに描かれた風景画が好まれていたのです。このような状況をアカデミーも無視することができず、ローマ留学賞に風景画部門を加えるような動きがでてきました

 当時、アカデミーが風景画の理想として挙げたのが、プッサン(Nicolas Poussin、1594年6月15日-1665年11月19日)の作品でした。

 鈴木一生氏は、「イタリアの情景をプッサンやクロードのように描く、それはまさに歴史風景画の理想であった。(中略)歴史画の延長でありながら、独立した風景画を賛美しようとする意図があった。つまり、アカデミーの中での風景画の格上げとは、風景画に精神性を加えること、プッサンといった巨匠と同時代の風景画を結びつけることであった」と書いています(※ 前掲書。pp.34-35. )。

 その代表として挙げられているのが、ニコラ・プッサンの《蛇のいる風景》です。

(油彩、カンヴァス、119.4×198.8㎝、1648年制作、ロンドン、ナショナル・ギャラリー所蔵)

 手前に暗褐色の道と土手、中ほど両側に暗緑色の大木、そして、その奥左側に建物、さらに奥右側に建物を配し、上部三分の一ほどは雲がかった空が描かれています。画面には3人の人物が描かれていますが、目を凝らさないとよく見えません。

 とはいえ、葉陰から漏れる陽光に照らし出された人物の動作から、なにやら事件が発生しているようです。まるでライトを浴びた舞台のように、道の一部が照らし出されているので、人物が何をしようとしているのかを想像することができます。

 この作品を見た瞬間は風景画ですが、よく見ると、小さく描かれた人物の動作と配置によって、鑑賞者に物語を想像させるような仕掛けになっています。物語の内容によっては宗教画であり、歴史画でもあるという組み立てになっているのです。

 1810 年代後半から1820 年代にかけてのサロンではようやく、風景画が認められつつありました。とはいえ、風景画に対する見解はさまざまでした。プッサンのような歴史風景画にこだわる人々がいる一方で、市民の嗜好を反映した自然主義的な風景画を認めようとする人々もいました。

 1820 年代以降になると、アカデミーの中でも自然主義的な風景画に好意的な見解がさらに増えていきました。

 一部の画家たちが、そのような風潮に呼応するような動きを見せます。

■フォンテンブローの森

 パリの南方約60㎞のところに、バルビゾンという名の村があります。フォンテンブローの森に隣接しており、19世紀の半ばあたりから画家たちが滞在するようになりました。ここに来れば、ありのままの自然を観察し、作品化することができるので、画家たちに好まれたようです。

 ところが、18世紀半ばから19世紀にかけてイギリスで起こった産業革命の影響がフランスにも及び、19世紀半ばごろには、あちこちで環境破壊が起こっていました。人々の利便性を高め、生産性を向上させるための破壊活動でした。

 産業革命後の近代化がパリ郊外にまで及びはじめ、伸びやかに広がったフォンテンブローの森が破壊されそうになりました。周囲に鉄道や工場が建設され、バルビゾン周辺の環境が破壊されそうになっていたのです。それに向かって立ち上がったのがルソーやミレーなどバルビゾンに移住した自然派の画家たちでした。

 たとえば、テオドール・ルソー(Théodore Rousseau)は森の樹木が伐採されていくのを憂え、当時の皇帝ナポレオン3世に伐採禁止を直訴しました。その結果、1853年には森の中のバ・ブレオーやフランシャール、アプルモン谷など風光明媚な場所624ヘクタールが、国の自然保護区に指定されました。1861年になると、保護区はさらに1,097ヘクタールにまで拡大されたといいます(※ 井出洋一郎、『バルビゾン派』、p.5. 東信堂、1993年)。

 もっとも、それで問題が解決したわけではありませんでした。

 政府はその後、手間のかかる広葉樹を切り倒し、成長が早く利用しやすい松などの針葉樹に植え替え作業を進めようとしました。木々を伐採してしまうわけではないので、反対運動は起こらないと思ったのかもしれません。

 木々が伐採してしまわないから問題がないわけではありません。広葉樹から針葉樹への植え替え作業そのものが自然の生態系を壊してしまうことになるのです。

 ルソーは再び、ミレーと共に反対運動を起こし、今度は皇后に働きかけて、森の内部まで植え替えを進めさせないようにしたといいます(前掲)。

 革新的な風景画家であったばかりか、 ルソーは 自然保護活動の先駆けでもあったのです。

 こうしてルソーら画家たちの働きかけがなければ、破壊されかねなかったフォンテーヌの森の原型が保たれました。バルビゾン村の人々はその功績を称え、後の画家たちがルソーとミレーのレリーフを岩に刻んで碑を建てています。

https://www.fra5.net/une/barbizon.htmlより)

 ありのままの自然を好んだ画家たちは、身を挺して、フォンテンブローの森を守ってきたのです。そして、新たな表現世界のトポスとして、この森をモチーフに次々と作品化していきました。

 彼らはバルビゾン村を中心に、隣接するフォンテンブローの森などを写生して風景画を描き、やがてバルビゾン派と称されるようになります。

 たとえば、ルソーは1829年からフォンテンブローの森を訪れ、木々を描くようになっていますが、コローも同年春、バルビゾンに移住し、フォンテンブローで制作し始めています。ルソーは17歳、コローは33歳の時でした。

 そこで、今回は、ルソー(Théodore Rousseau)とコロー(Jean-Baptiste Camille Corot)を取り上げ、トポスとしての「フォンテンブローの森」について考えてみたいと思います。

■ルソー

 バルビゾン村の画家グループの中心人物が、テオドール・ルソー(Théodore Rousseau、1812年4月15日―1867年12月22日)でした。彼は1829年、17歳の時からフォンテンブローの森を訪れ、木々や情景を観察していは次々と制作していきました。やがて、他の画家たちと共に、「1830年代派」と呼ばれるようになります。

 バルビゾンの自然を愛したルソーの作品にはとくに、これまでの画家には見られない斬新な風景表現が随所に見受けられ、注目されました。制作年が若い順に、三作品をご紹介しましょう。

●《森の大樹》

 たとえば、1835年から40年の間に描かれた《森の大樹》という作品があります。

(油彩、カンヴァス、39.0×30.0㎝、1835-40年、村内美術館所蔵)

 画面中央に、枯れてざっくりと裂け、木肌が剥き出しになった幹が描かれています。背後にはうっそうとした木々の茂みが広がっています。

 木々の葉、枝、幹を、黄褐色、暗褐色、暗緑色の濃淡で描き分け、生い茂る木々の深みが巧みに表現されています。近景、中景、遠景を意識して、色構成を考え、モチーフが配置されているからでしょう。

 空から降り注ぐ陽光が随所に射し込み、葉先や幹が所々、明るく照らし出されており、画面に生気がもたらされています。豊かな森の営みが浮き彫りにされ、見ているだけで、森のひそやかな息遣いが聞こえてくるような気がします。

 メインモチーフの選び方といい、構図、筆触を活かした描き方といい、とても斬新で、しかも迫真力があります。

 裂けた幹そのものがドラマティックで、ただの枯れた木にすぎないのに強烈な存在感があります。自然をありのままに描きながらも、そこにモチーフの捉え方一つで大きなドラマが感じられます。近景と遠景とを描き分け、ドラマティックな効果をあげているのです。

 確かに、新古典主義、歴史風景画などとは明らかに異なっています。現代の作品だと言っても違和感のないほど、対象の捉え方にルソーの独自性が見られ、新鮮です。

  この作品を見ると、一部とはいえ当時の人々が、ルソーの斬新な風景表現に注目していた理由がわかります。

 幹の裂けた木肌の描き方には、印象派を想起させるような、光を意識した色遣いが感じられます。明らかに新時代の作品でした。

 風景を背景として描くのではなく、歴史を重ね合わせ、理想的に描くのでもなく、ありのままに描きながらも、独立した一つの作品として存在させているのです。モチーフの切り取り方、構図、色構成などが細密に工夫されているからでしょう。

●《フォンテーヌブローの森のはずれ、日没》

 ルソーは数多くの風景画を描いていますが、構図が面白くて惹きつけられたのが、《フォンテーヌブローの森のはずれ、日没》でした。ルソーが36歳ごろに描いた作品です。

(油彩、カンヴァス、142×198㎝、1848-49年制作、ルーヴル美術館所蔵)

 左右と上部が木々、下部が下草で覆われています。そのせいか、四方が暗緑色で囲まれる格好になり、鑑賞者の視線は必然的に、画面中央に誘導されます。

 視線を誘導されるまま、画面に目を凝らすと、右側中央寄りの木の一部は切り取られ、左側中央寄りの木もまた上部が無くなっているのに気づきます。画面中央を取り囲む左右の木の一部が欠損しているのです。さらに、中央右寄りに、褐色で描かれた歪な恰好の木の幹は大きく傾き、今にも倒れそうになっています。

 いずれのモチーフも不安定で、鑑賞者に不安をよびおこすような形状であり、配置でした。鑑賞者の視線を集める画面中央に、欠損状態の木々をレイアウトし、不安感を強調するような画面構成になっているのです。

 王立森林局がフォンテーヌブローの森を切り開こうとしていた時期に描かれたのでしょうか。この作品にはルソーの主張が感じられます。

 傷んだ状態の木々が、鑑賞者の視線を集めやすい中央に配置されています。しかも、中央の目立つ位置に描かれた木の幹は大きく歪み、倒れかかっているように見えます。欠損状態、歪な状態の木々を画面の中央にレイアウトすることによって、ルソーは、森林の伐採に警告を鳴らしているように思えるのです。

 画面中央の左下を見ると、うっかりすると見落としてしまいそうなほど小さく、沈み込む太陽が描かれています。その小さな光源は辺り一面に光を注ぎ込み、日没の哀愁を画面中央近辺で浮彫にしています。見ていると、しみじみとした情感がかき立てられます。

 前景を見ると、手前から中ほどにかけて、牛が群れて水を飲んでいる姿が捉えられています。夕陽の輝きの中で、牛や木々の影が水面に落ち、そこには日没の哀愁と、無事一日が終わったというかすかな安堵が感じられます

 さらに目を凝らすと、画面中央左寄りに人の姿が見えます。牛飼いなのでしょうか。明るい残照の下、風景の中に溶け込んでしまっているように見えます。

 こちらは、不安感を誘うような木々の形状とは逆に、穏やかな陽射しに包まれた人と動物の安らかなひとときが捉えられています。まるで森林が果たしてきた人や動物への恵みを訴えかけているかのような作品でした。

 陽光の扱いと筆触を活かした描法に、印象派の要素が感じられます。この作品は1850年と1851年のサロン、そして、1855年の第1回パリ万博に出品されました。フランス美術界でルソーの評価を高めたといわれています。

 この作品には、不安感をあおる要素と安堵感をもたらす要素とが混在しており、風景だけを描きながらも、鑑賞者に思索を促すところがあります。そのあたりにアカデミー側が格調の高さを感じたからかもしれません。

 その後も一貫して、ルソーは写実的に風景を描き続けました。自然を愛し、ありのままに描く姿勢を貫き通したのです。

●《アプルモンの樫、フォンテーヌブローの森》

 ルソーの代表作の一つとされるものに、《アプルモンの樫、フォンテーヌブローの森》があります。40歳の時の作品です。

(油彩、カンヴァス、64×100㎝、1852年、オルセー美術館所蔵)

 なんとも壮大な作品です。

 大きな樫の木々の下で牛が三々五々、草をはみ、水を飲んでいます。空いっぱいに雲が広がり、その合間から射しこむ陽射しが柔らかく、辺り一面を明るく照らし出しています。静かで平和なひとときが見事に描かれています。

 手前には緑色の下草が広がっており、中ほどはやや褐色がかった巨木、そして、その背後には所々、水色が混じったどんよりとした曇り空と色彩バランスも巧みです。

 この作品では近景、中景、遠景の色彩バランス、そして、モチーフの配置の妙が際立っています。単なる風景を描いただけのように見える作品ですが、さりげなく、しかも見事にメッセージが描き込まれています。

 圧倒的に大きな存在感を示す自然の下、動物とヒトが調和し、平和裏に生きている姿が暖かく、哀愁をこめて描かれています。自然を愛する者ならではのモチーフの選択、配置、構図といえます。

 この作品は1852年のサロンに出品されました。そして、1855年に開催された第1回パリ万博に出品され、その後、1865年にモルニー公爵に買い上げられました。ようやくアカデミーから評価され、権威筋から購入されたのです。

 ルソーは1867年、第2回パリ万博で審査委員長に任命されました。

 画家としてステップアップしていくにつれ、最初はアカデミーから相手にされなかった風景画が次第に権威づけられ、絵画の一ジャンルとして認められるようになりました。

 ルソーはその後も一貫して、フォンテンブローの森やバルビゾン周辺の自然を描き続けました。ここでご紹介したのはルソーの作品のほんの一部でしかありません。バルビゾンの雰囲気を把握するため、さらに多くのルソーの作品を動画でご紹介しておきましょう。

こちら → https://youtu.be/2JtTg9oYAJI

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■コロー

 カミーユ・コロー(Jean-Baptiste Camille Corot、1796年7月16日-1875年2月22日)もまたルソーと同様、自然を愛し、フォンテンブローの森を様々に描いてきました。

 前回、《荷車―マルクーシの思い出》(1855年)、《モルトフォルテーヌの思い出》(1864年)、《孤独》(1866年)をご紹介しましたので、今回は、また別の作品をご紹介していくことにしましょう。

 コローは1840年代から偉大な風景画家として知られるようになりますが、そのきっかけとなったのが、1833年にサロンに出品した《フォンテーヌブローの森の浅瀬》でした。

●《フォンテーヌブローの森の浅瀬》

 1833年、サロンに出品したのが、《フォンテーヌブローの森の浅瀬》(原題はForest of Fontainebleau)です。2等賞を受賞しました。コロー、37歳の時の作品です。

(油彩、カンヴァス、90.2×128.8㎝、1830年制作、ワシントン、ナショナル・ギャラリー所蔵)

 画面の半分ほどはうっそうと生い茂る木々で占められています。右側には大きな木々が茂って浅瀬に影を落とし、その左手奥には剥き出しになった土手の上に木々が生い茂っています。

 画面中ほどから右下にかけて、蛇行する川に沿った周辺に陽が射し、下草や岩や水を明るく照らし出しています。光と影、明と暗を巧みに配置しながら、水辺に流れる静かなひとときが描出されています。

 深い暗緑色の葉と暗褐色の幹が背後からの陽射しを遮り、その下の浅瀬に暗い影を落としています。画面は静謐を湛え、寝そべって読書する女性の姿を引き立てています。

 深い静寂がしっかりと描き出されているからこそ、読書するという内省的行為が引き立てられています。風景と人の行為とが見事に調和し、鑑賞者の気持ちを惹き付けます。

 当時のフランス美術界では、アカデミックな風俗画や肖像画がもてはやされていました。風景はその時もまだ、神話や歴史をテーマとした人物画の背景でしかなかったのです。

 そのような風潮の中で、自然主義的な風景画が受賞することはなく、ルソーなど、1836年にサロンに《牛の山下り》という作品を出品しましたが、落選してしまいました。その大胆な自然主義が新古典主義画壇の反感を呼んだのです。以後10年間というもの、サロンに出品しても落選し続けたため、ルソーは「落選王」と揶揄されていたそうです(井出洋一郎、前掲)。

 ところが、コローの《フォンテーヌブローの森の浅瀬》は、風景画でありながら、サロンで2等賞を受賞しています。

 いったい、何故なのでしょうか。

 再び、この作品を見てみると、風景画とはいえ、ここでは風景と人物が等価で描かれています。風景は決して、人物の背景ではありませんが、かといって、風景そのものが自己主張し、メインモチーフとして取り上げられているわけでもないのです。

 ルソーとの違いはおそらく、そのあたりにあるのでしょう。なによりもまず、風景との向き合い方が異なっているように思えます。風景そのものの中に表現する意味を見出すのではなく、人物との調和にその意味が見いだされ、描かれているのです。

 そのせいか、コローの風景はルソーとは違って、ややパターン化された描き方に見えます。

 コローはどのような作品にも人物を描き込んでいます。しかも、女性です。そのせいでしょうか、コローの作品にはどこかしら詩情が感じられ、抒情性が感じられます。

 18世紀末に刊行された『芸術家のための実践遠近法基礎』という本の中で、著者のヴァランシエンヌは自然を捉える方法は二つあるとし、①自然をあるがままに示す方法、②自然を理想的に、豊かな想像力に基づいて描く方法、があるといっています(鈴木一生、「1810年代後半の歴史風景画の変化」『成城文藝』第239号、p.35. 2017年)。

 バルビゾン派が認められるまではおそらく、風景画はもっぱら、②の要素のある作品が評価されてきたのでしょう。実際、コローの作品には②の要素がありました。その後の作品も同様です。

 たとえば、1850年に制作された《朝、ニンフの踊り》という作品があります。

●《朝、ニンフの踊り》

 こちらも風景と女性(ニンフ)をモチーフにした作品です。とはいえ、風景の描き方が先ほどの作品とはやや異なっています。

(油彩、カンヴァス、98×131㎝、オルセー美術館所蔵)

 大きな木の下でニンフたちが手をつなぎ、踊っています。柔らかな陽光が彼女たちの肩や背に落ち、白く艶やかな肌が煌めいて見えます。朝のさわやかな大気の下、彼女たちの賑やかな声が聞こえてきそうです。

 木々は空高く枝を伸ばし、太い幹に支えられています。右側半分ほどを占める、うっそうと生い茂る暗緑色の葉には所々、陽が射し込み、そこから陽射しが漏れて、踊るニンフたちや下草を明るく輝かせています。

 よく考え抜かれた構図です。

 右側の巨木からは生い茂る葉が中央部分で垂れ下がり、まるでそこだけくり抜いたかのように空洞ができています。その背後には、はるか彼方に、うっすらと丘が見え、空が大きく広がっています。

 木の周辺では、手をつないだニンフたちが弧をえがくように配置されています。朝の陽射しが、木々や下草、ニンフたちの上に明と暗を創り出し、それが画面に動きとリズムを生み出しています。生命の躍動を感じさせる絵柄です。

 伸びやかな自然の下で、自然と万物が調和して生きる、平和なひとときが描かれているといってもいいでしょう。まさに神話の世界です。

 この作品で印象深いのは、中央部分に描かれた背の高い木です。右側の木々とは違って軽やかで、風にそよぐ囁きさえ聞こえてきそうです。枝は細く、枝先に付いた葉は淡色で描かれており、霞がかったように、背後の空に溶け込んでいます。そこになんともいえない幻想的な詩情が感じられ、その下で踊るニンフたちの姿と見事に調和しています。

 うっそうと葉の生い茂る暗緑色の右側木々、そして、淡色で軽やかに描かれた真ん中の木、そこには、モチーフの色彩、形状、配置などに見事なコントラストの妙味が感じられます。

 コローは自然をありのままに描いたのではなく、想像力を働かせ、美しさの極致を求めて再構成し、このように表現したのでしょう。自然に触発されたとはいえ、理想を求めて画面構成され、創り出された美しさがこの作品にはありました。

 真ん中の木の枝先の葉が、暗緑色の幹にかぶっているところの描き方、そして、下草の描き方には、印象派を彷彿させるところもあります。

 こうしてみてくると、コローの作品が人気を得た理由がわかるような気がします。モチーフを見れば自然主義であり、構図を見ればロマン主義でもあり、新古典派の要素があり、印象派の要素もあるといった多面的要素が見られるのです。

 当時の美術界で目指されたさまざまな要素が取り込まれているようでいて、全体画面を見れば、しっかりとコローの世界が創り出されているのです。

 実は、コローは1821年から22年にかけて当時、風景画家として著名だったアシール=エトナ・ミシャロン(Achille-Etna Michallon、1796年10月22日―1822年9月24日)の下で学んでいます。

 ミシャロンは1817年、初めてローマ賞に風景画部門を設立された際の受賞者でした。受賞作品は《倒れた女性》です。

(油彩、カンヴァス、105×81㎝、1817年制作、ルーヴル美術館所蔵)

 彼は幼い頃から、美術に興味を抱き、18世紀後半の著名な風景画家ピエール=アンリ・ド・ヴァランシエンヌ(Pierre-Henri de Valenciennes、1750年12月6日―1819年2月16日)に学びました。

 ヴァランシエンヌは、先ほどもご紹介しましたように、『芸術家のための実践遠近法基礎』という書物を革命暦8年(1799-1800年)に刊行しています。画家であり、理論家であり、教育者でもあったのです。

 試みに、ヴァランシエンヌが1810年に描いた《バッカスと森の風景》を見てみましょう。

(油彩、カンヴァス、40.5×55㎝、1810年制作、アメリカ、バーミンガム美術館所蔵)

 非常に精緻に風景が描かれています。左手奥から射し込む柔らかな陽光が、巨木の幹や枝や葉に反射して彩りを添え、下草を明るく照らし出しては、鑑賞者の視線を集め、巨木の根元で展開されている物語に関心を誘います。

 モチーフといい、色彩といい、よく出来た新古典主義の作品といえるでしょう。

 コローの作品(1850年)、コローが師事したミシャロンの作品(1817年)、ミシャロンが師事したヴァランシエンヌの作品(1810年)を見比べてみると、いずれも壮大な風景の下、人の姿が小さく描かれているという点で共通しています。

 当時の分類でいえば、歴史風景画です。

 巨木の下で、人々の行為が捉えられ、神話か、歴史を題材にして構想されたという点でも共通しています。風景だけを描いていたのでは鑑賞者に理解されない、あるいは、評価されないという懸念があったのでしょうか。

 三作品を見比べてみると、風景の描き方に違いを見て取ることができます。物語の舞台として巨木が設定されていますが、その巨木の描き方に違いがみられるのです。

 ヴァランシエンヌが葉や枝、幹までも均等に精緻に描いているのに対し、ミシャロンは同系色の明暗で生い茂る葉を描いています。そして、コローはさらに大胆に葉を一塊として捉え、細部を省略して描いています。

 時代が下るにつれ、風景の捉え方、木々の捉え方に違いが見られます。三作品を見ているうちに、それは写実の捉え方が異なってきているからではないかという気がしてきました。

 それでは、再び、コローの作品を見ていくことにしましょう。

 コローは各地を旅行し、風景を描いてきましたが、パリ郊外のヴィル・ダブレーの風景もまた、彼が好んで描いた場所です。両親から譲り受けた邸宅がここにあったからですが、ここで描いた作品の中で、これまでとはいっぷう変わった作品がありました。

●《ヴィル=ダブレ―の池》

 展覧会場でこの作品を見ると、ひょっとしたら、見落としてしまうかもしれません。画面が大きいわけでもなく、色調は地味で暗く、際立ったモチーフもありません。鑑賞者の目を引き付けられる要素が見当たらないので、多数の作品の中では埋もれてしまうのではないかと思いました。コロー71歳の時の作品です。

(油彩、カンヴァス、47.5×74㎝、1867年制作、アメリカ、ポートランド美術館所蔵)

 この作品もこれまでと同様、風景と人物が描かれています。ところが、人物の姿はこれまでとは違って、判然と描かれておらず、風景の中に溶け込んでしまっています。近くに2頭、牛が描かれているので、かろうじて牛飼いなのかと思う程度の漠然とした描き方です。

 周辺の木々も草木もなにもかも、形状は不分明ですし、色彩によって識別することもできません。すべてが曖昧模糊とした状態で表現されています。人物や動物は小さく、色彩で識別することもできないほど、目立たないように描かれているせいか、風景が強く印象付けられます。

 もっとも、個々のモチーフを見ると、訴求力が弱く、存在感が希薄です。ところが、画面全体を見ると、幻想的で哀愁を帯びた情感が感じられ、この景観そのものがもたらす漠然とした情緒が感じられます。

 画面を理解するのではなく、何か得体の知れないものが、心の奥深く、ふつふつと沸き起こってくるのを感じさせられるのです。ノスタルジーなのでしょうか。

 近景では地面を覆う下草が暗緑色、所々に水面が光る池やその周辺が暗色で描かれています。周囲には牛飼いや牛なども描かれているのですが、辺り一帯の風景の中に沈み込んでしまっています。

 そして、中景は褐色や暗褐色の草木や灌木、暗緑色の大木、褐色の高い木など、もっぱら木々が大きな面積を占めています。曇り空を背景に、ここで描かれた木々が目立ちます。

 その木々の背後には柔らかな陽射しが射し込み、その奥に広がるエリアを照らし出しています。実際、左側中ほど奥には建物が描かれており、ここで人々が暮らしていることを知らせてくれます。

 背後に曇り空が広がる中、形状、色彩、高低がそれぞれ異なる木々を、波打つように配置することによって、画面に柔らかなリズムと遠近感を生み出しています。

 この作品にも、構図の妙味を感じさせられました。

 さらに、光の使い方が卓越していると思いました。ひっそりとした佇まいの中で暮らす人々の生活を、木々の背後から射し込む鈍い陽光だけで、情感豊かに描き出すことができているのです。暗褐色をベースにした柔らかな色遣いとモチーフの形状が幻想的で、哀愁を感じさせ、その哀愁の中に滔々と流れる詩情を感じさせます。

 老境に入ったコローは明らかに以前とは異なる世界を創出していました。とても深く、心が揺さぶられる思いがします。

■トポスとしてのフォンテーヌブローの森

 今回、ルソーとコローの作品を取り上げ、題材としてのフォンテンブローの森について考えてみました(コローは前回、取り上げた作品を除いて選択したので、フォンテンブロー以外の作品も一つ含まれています)。

 バルビゾン派と呼ばれる画家たちのうち、ルソーとコローだけ取り上げたのですが、彼等の作品を見ていると、フォンテンブローの森は自然を愛する画家たちのトポスとして機能しているように思えました。

 彼等は、フォンテンブローの森やその周辺の風景をさまざまに描いてきました。改めて、二人の作品をいくつか見てみると、モチーフの取り上げ方、描き方、構図、それぞれの個性が明瞭で、しっかりとした作品世界が構築されているのがわかります。

 たとえば、17歳の頃からフォンテンブローの森に着目し、制作してきたルソーは、自然そのものをモチーフにしていました。ありのままの自然を観察し、カンヴァス上に表現してきました。

 それまで誰も取り組んでこなかった木々や丘、空などの風景からドラマを引き出し、ストーリーを組み立て、独自の世界を創り上げたのです。歴史主義、古典主義、ロマン主義に束縛された視点からはとうてい生み出せない世界でした。

 ルソーはだからこそ、サロンには受け入れられず、長い間、落選し続けたのです。素直に対象に向き合って作品化されているせいか、ルソーの作品は今見ても、とても斬新です。本質を突いた表現には時空を超えたものがあり、心動かされます。

 松葉良氏はルソーについて、以下のように書いています。

「バルビゾンの画家達の中で風景画においてもっともすぐれた画家はテオドール・ルソーである。彼が求めたものは、大地や丘、そして森や樹木などの不変の姿であり、常に画家と自然との間の共感であったといえる。そして、一個の小画面が宇宙につらなり、森羅万象がことごとく蘇生するアニミズムの神秘の世界が彼の念願であった」

(松葉良「バルビゾンの画家達とカミーユ・コロー」『文藝論叢』第25号、2012年)

 今回、ルソーの作品を見直してみて、私もそのように思いました。彼の作品には、時を経ても古びない永遠性がありました。それはおそらく、自然をしっかりと観察し、本質を見抜き、ありのままに描いたからこそ得られたのだと思います。

 フォンテンブローの森を守るために活動したルソーは、1836年からバルビゾンに定住したそうです。彼が住居兼アトリエとして使っていた建物が残っています。

https://cercledesamisdebarbizon.com/2018/11/11/miracle-a-barbizon-latelier-rousseau-redevient-enfin-un-site-dexposition-magnifique/

 この建物は今、村立博物館として使われています。

 ルソーは生涯、バルビゾンを愛し、住み続け、そして、骨を埋めました。フォンテンブローの森を守っただけではなく、その後、154年を経てもなお、村に貢献しているのです。

 一方、コローは、1821年から22年まで新古典主義のミシャロンに師事していました。ほんの1年ほどで終わってしまったのは、ミシャロンが肺炎を患い、わずか25歳で、生を閉じたからでした。

 そのミシャロンは、風景画家として名を成したヴァランシエンヌに師事していました。ヴァランシエンヌの作品を見ると、まさにアカデミーが認めた歴史風景画でした。ミシュランもその傾向を受け継いでいますが、新古典主義の要素も見られます。

 そのせいか、コローの作品には新古典主義の影響が見られます。時系列で作品を見ていくと、少しずつその影響が消えているのがわかります。とはいえ、容易に脱出しきれないようで、どの作品にも、どこかしら、新古典主義の痕跡が見られます。

 もっとも、老境に入って制作された作品には、独自色が濃厚になっています。風景に人物を添えるという点は崩さず、風景そのものに焦点を当て、語らせるという意図が見えるのです。

 新古典主義を踏まえながらも、試行錯誤を経て、独自の幻想的な世界を創り出したことがわかります。ルソーとは異なったスタイルで、コローもまた風景そのものが語る世界を創り出していたのです。

 美術のジャンルでは下位に位置づけられていた風景画ですが、産業革命を経て台頭してきた市民階級がやがて、美術市場に変容を迫るようになります。彼等がありのままの姿を描いた風景画を求めたからでした。

 当時、オランダ絵画が好まれたのは、人々のありふれた日常が描かれていたからでした。

 ところが、フランスアカデミーには、プッサンのような歴史風景画、あるいはミシャロンのような新古典主義風景画こそが正統だという認識が残っていました。百歩譲って風景画を認めるにしても、格調高い風景画家を目指すには、イタリアの風景を対象に描くべきだという認識だったのです。

 ルソーもコローも自然主義的な風景画を制作し続けた結果、19世紀後半には、フランスアカデミーの認識を覆すことができました。「フォンテンブローの森」が、トポスとして機能していたからでしょう。(2021/10/11 香取淳子)