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第53回練馬区民美術展に出品しました。

第53回練馬区民美術展に出品しました。

■第53回練馬区民美術展の開催

第53回練馬区民美術展が、2021年12月18日(土)から12月26(日)まで、練馬区民美術館で開催されました。


(図をクリックすると、拡大します)

第53回は、例年と違って、年末に開催されました。というのも、第52回は例年通り、2021年2月3日からの一週間、開催されたのですが、コロナのため、作品の展示のみで、審査が行われなかったからです。

コロナの収束を待って、年内にもう一度、ということで、第53回の開催時期が年末になったのでした。

もっとも、第52回は審査が行われなかったので、キャンセルする人が何人かいたのでしょう。実は、私も申し込みはしていたのですが、キャンセルしました。キャンセルした作品を今回、出品したのですが、そうでない人は、年に二度も展覧会に出品できるだけの作品を制作しなければならず、大変だったと思います。

今回、油彩画部門は例年に比べ、出品数が相当、少なかったような気がしますが、おそらく、そのせいでしょう。

さて、今回、私はF20号の油彩画、《虹》を出品しました。


(油彩、カンヴァス、60.6×72.7㎝、2021年)(図をクリックすると、拡大します)

スマホで慌てて撮ったせいか、写真がぼやけてしまいました。しかも、会場の照明がアクリル面に映り込んでいます。見苦しい写真になってしまったことをご了承ください。

■なぜ、《虹》を描いたか。

まず、なぜ、《虹》というタイトルの作品を出品したかということについて、少しお話をしておきたいと思います。

昨今、気象変動のせいで、世界各地で大水害が絶えません。集中豪雨のせいで水害が多発していますが、その都度、スマホで撮影された動画がネットにアップされます。そのような動画をユーチューブで見るたび、心が痛む思いをしていました。

当事者が撮影した映像なので、生々しい現場の様子が手に取るようにわかります。家々や木々、橋、車など、ありとあらゆるものが次々と、大きな濁流にのみ込まれていく様子をリアルタイムで見ていると、人間の非力さを実感せずにはいられませんでした。

その後、被災地の人々はどうなってしまったのでしょうか。とくに気になったのが、三峡ダム周辺で発生した豪雨と洪水です。被害の規模があまりにも巨大で、想像を絶するほどでした。

被災地からの動画を見るたびに、大災害にめげず、なんとか復興にこぎつけてほしいと願わずにはいられませんでした。そして、私にできることがあるとすれば、それは何なのか・・・、と考えるようになりました。

ふと、思いついたのが、水が引いた後、空に架かる虹を描くことでした。あれだけの集中豪雨だと、ひょっとしたら、空に虹がかかるかもしれません。それを描いてみたらどうだろうと思ったのです。

もちろん、実際に虹がかからなくても構いません。

単なる雨上がりの後でも、空に虹がかかっているのを見ると、ちょっと晴れやかな気分になります。豪雨や大洪水を経験したような人なら、大空にかかる虹を見た時、どれほど感動するだろうかと想像してみたのです。

■祈りを込めて

被災地の人々は大切な人、これまで大切にしてきた物をある日突然、失ってしまったのです。どれほど悲嘆にくれたことでしょう。時には、気持ちの拠り所を失い、何も考えられずに、生きる気力すら失ってしまいかねないこともあったでしょう。

大きな喪失感を埋め、生きる希望を見失わないために、何をすればいいのだろうかと考えてみました。行きついた先が祈りでした。そして、そういう状況を画面で表現してみたいと思いました。

そこで、虹のかかる風景の前に女性を配置してみました。後方上からライトを当てて、撮影した女性像です。


(図をクリックすると、拡大します)

この女性像を真ん中に置いてみると、豪雨が上がった後の荒涼たる風景に、安らぎが訪れるような気がします。

おそらく、被災地の多くがこのように荒涼とした風景に変貌してしまっているのでしょう。わずかに残った木々以外は、何もかも押し流されてしまい、巨大な岩石だけの殺風景な光景になっているのではないかと思います。

それだけに、被災地の人々には、現状を乗り越え、生きていくための気力が必要になってきます。共に祈り、祈ることによって癒され、安寧の気持ちを得られるような存在が欠かせなくなるでしょう。

私は、女性像にそのような思いを込め、画面構成をしました。

何度も手直しして描いているうちに、この女性の顔面に、苦悩と安らぎ、癒しの表情が出てきたように思えました。鎮魂のため、生き抜く気力と気持ちの安らぎを得るために祈る、ひたすら祈る・・・、そのような気持ちからこの絵を描きました。

ふと、思い立って、虹を描いた作品にどのようなものがあるのか調べてみました。

私が興味深いと思ったのが、《虹のある風景》(ルーベンス、1632-35年頃)、《バターミア湖の虹》(ターナー、1798年)、そして、《虹かかる》(山下清、制作年不詳)です。この三作品をみてみることにしましょう。

■ルーベンス《虹のある風景》

調べてみると、ルーベンス(Peter Paul Rubens, 1577-1640)が《虹のある風景》という作品を制作していることがわかりました。


(油彩、カンヴァス、86×130㎝、1632-35年頃、エルミタージュ美術館)(図をクリックすると、拡大します)

画面の手前に馬車に乗った男、農婦、放牧された牛と馬が描かれています。中ほどの川辺では、男が棒のようなものを持って、何かを捉えようとしています。右手には林が広がり、左手にも木々が見えます。林の背後には小高い丘のようなものが見え、そこから右にかけて大きな虹がかかっています。

この作品では、牧歌的な田園風景の中に、虹が組み込まれていました。そのせいか、農民の生活風景を描いたにすぎないこの作品に、厳かな輝きが添えられています。木々の描き方に古典主義的な画法を感じさせる一方、農民の生活風景を捉えたところにフランドル派の面影が見えます。

一方、風景画家ターナーが描いた虹は、一種独特の趣がありました。

■ターナー《バターミア湖の虹》

ターナー(J. M. W. Turner, 1775-1851)が、バターミア湖に架かる虹を描いています。


(油彩、カンヴァス、サイズ不詳、1798年、テート・コレクション)(図をクリックすると、拡大します)

湖面から傍の山にかかった虹が描かれています。七色といわれる虹ですが、黄色がかった白色でぼんやりと描かれているせいか、とても幻想的な画面になっています。

湖面に近いところだけが明るく、そこが光源のようになって、周囲を照らし出しています。自然の持つ峻厳さ、崇高さ、人間には及ばない力が、この画面からは強く感じられます。手前にごく小さく、小舟に乗っている人が描かれていますが、風景の中に埋没してしまっています。

色数を抑え、水墨画のように幻想的な世界を創り出しているところに、ロマン主義的な風合いを感じさせられます。

■山下清《虹かかる》

山下清がこのような作品を描いているとは思いもしませんでした。気どりも何もない、素朴な画面でいながら、心惹かれる作品でした。


(油彩、カンヴァス、40.0×50.0㎝、制作年不詳、所蔵先不詳)(図をクリックすると、拡大します)

この画面を見て、まず目につくのが、左側の大きな滝です。大量の水が流れ落ち、白く泡立って見える様子が描かれています。下の方は水蒸気でけぶって、岩の形がぼんやりとしています。

手前には大きな岩がゴロゴロを転がり、その上にうっすらと虹がかかっています。手前から右端へと、赤、黄色、水色で淡い弧を描くように、虹が描かれています。

虹の背後の右奥にはダムのようなものが描かれ、そこから大量の水が流れ落ちています。その上の空を見上げると、所々、わずかな晴れ間を残し、広く、雲で覆われています。

虹そのものを見つめ、その本質を捉えた作品だと思いました。

■画題としての《虹》

今回、私は画題として「虹」を選びました。それは集中豪雨、洪水などで被災された方々への鎮魂の思いを表したかったからです。その思いが的確に表現できたかどうかはわかりませんが、これを契機に過去の作品を調べたところ、これまで様々な画家が、虹を画題にしてきたことがわかりました。

ルーベンスの場合、農村の生活風景を輝かしく見せる要素として、虹を使っているように思えました。あくまでも背景的要素の一つとして取り上げていたのです。

一方、ターナーは、虹を使って、人間の及ばない異次元の世界を表現していました。虹や虹を取り巻く環境は、水蒸気の機能や特性を踏まえて構成されており、幻想的な絵画空間が創出されていました。

虹の本質を踏まえ、描かれていたのが山下清の作品でした。虹が水蒸気と太陽光によってできることが、的確に表現されていたのです。滝とダム、空一面の雲、そして転がる岩石などのレイアウトは、一見、稚拙に見えますが、原初的なエネルギーを感じさせられました。

「虹」を背景的要素の一つとして活用するのか、「虹」そのものを観察し、画題とするかによって違ってくるのでしょう。いずれにしても、さまざまな要素を併せ持つ「虹」は、画題として興味深いものがあると思いました。(2021/12/30 香取淳子)

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