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02月

川端龍子作品《海洋を制するもの》に見るジャーナリズム性

■川端龍子展

 2021年2月21日、川端龍子記念館に行ってきました。たまたま図書館で見かけたこの展覧会のキャッチコピーが気になったからでした。絵画の展覧会には珍しく、「時代を描く:龍子作品に見るジャーナリズム」というタイトルだったのです。

 開催期間は2020年12月9日から2021年3月21日です。ずいぶん前に開催されていたようですが、私はこの展覧会のことを知りませんでした。

 

 チラシには《怒る富士》の写真が掲載され、次のように開催趣旨が説明されていました。

「本展では、太平洋戦争末期の不安や憤りを赤富士に表現した《怒る富士》(1944年)や、終戦間際に自宅が爆撃にあった光景を飛び散る草花に著した《爆弾散華》(1945年)、多くの犠牲者を出した狩野川台風の被害から復興を目指す人々の力強さを伝える28メートルの大作《逆説・生々流転》(1959年)等、龍子が時代を力強く描き上げた作品群を紹介します」

 この展覧会では、どうやら、戦争や台風など大きな災禍を画家の目で捉えた作品が、展示されているようです。

 太平洋戦争のさなか(1944年)、終戦の直前(1945年)、そして、戦後の台風禍(1959年)など、折々の災禍を川端龍子氏がどのように捉え、作品化したのか、次第に興味が湧いてきました。

 さて、西馬込駅南口を出て、スマホで道案内を確認しながら、桜のプロムナードを進んでいくと、大田区立龍子記念館らしい建物が見えてきました。木立の下に横断幕が見えます。

 

 この横断幕で使われていたのが、《逆説・生々流転》でした。

 見たことがある絵柄だと思って、チラシを取り出して見ると、その裏側に、やはり《逆説・生々流転》(部分)と書かれた作品の一部が掲載されていました。横断幕で使われていたものはさらに横長でクレーン車で電車を引き上げる様子なども描かれています。おそらく、この展覧会のメインの作品なのでしょう。

 それでは、展示室に入ってみることにしましょう。

■大きさに圧倒され、長さに驚かされた壮大なスケールの画面

 展示室に足を踏み入れた途端、驚いたのは、壁面を覆うほどの作品の大きさでした。最初に展示されていたのが《龍巻》(1933年)で、293.0×355.0㎝の作品です。その隣の《海洋を制するもの》(1936年)はそれよりさらに大きく、289.5×456.0㎝でした。

 次のコーナーで展示されていたのは《杜会を知らぬ子等》(1949年)で、壁面のほとんどを覆ってしまうほど大きく、サイズは243.6×721.7㎝でした。

 その隣にコーナーを跨いで展示されていたのが、チラシや横断幕にその一部分が掲載されていた《逆説・生々流転》で、サイズは48.3×2806.1㎝でした。28メートルにも及ぶ長さだったのです。

 このように、展示室に入ってまず驚いたのは、作品の大きさであり、その長さでした。その他の作品も同様、いずれも予想をはるかに超えたスケールだったのです。かなり引き下がらなければ、とうてい、全体像を視野に収めることはできません。

 これだけ大きな作品、あるいは、長い作品を見るのは初めてでした。おそらく、川端龍子氏は作品のスケールについてなんらかの信念をお持ちなのでしょう。となれば、気軽に作品を鑑賞するわけにはいかないのではないかという気がしてきたのです。

 そもそも、私は、この展覧会のタイトル「時代を描く 龍子作品におけるジャーナリズム」に興味を覚え、やってきました。ですから、今回は、展示作品の中でもとくにジャーナリズム性を強く感じられる作品に絞って、見ていくことにしたいと思います。

 展示作品の中で私が川端龍子氏のジャーナリズム精神を感じたのは、《海洋を制するもの》、《逆説・生々流転》、《怒る富士》、《爆弾散華》、《花摘む雲》、《國亡ぶ》などの6点でした。このうち5点は、モチーフは何であれ、戦争を主題にしたもので、1点が台風による災禍を描いたものです。

 この6点のうち、言葉で説明されなくても、画面からジャーナリズム性を感じることができたのは、《逆説・生々流転》と《海洋を制するもの》でした。

《逆説・生々流転》の場合、複数の画題が時系列に沿って取り上げられ、全体が構成された作品でした。それぞれの画題にジャーナリズム性があり、総体として物語性のある訴求力の強い作品になっていましたが、単体として画面からジャーナリズム性が感じられたのは《海洋を制するもの》だけでした。

 そこで、今回は、《海洋を制するもの》を取り上げ、川端龍子氏のジャーナリズム精神がどのように作品化されたのかを見ていくことにしようと思います。

■《海洋を制するもの》

 私が展示作品の中でもっともジャーナリスティックだと思ったのが、この作品でした。造船所で働く人々の姿が生き生きと描かれています。

(絹本彩色、額装・六枚一組、289.5×456.0㎝、1936年、龍子記念館所蔵)

 学芸員の説明によると、川端龍子氏は実際に、神戸にある川崎造船所を取材して、この作品を仕上げたそうです。

 画面を見ると、まず、3人の人物に目が留まります。

 画面の中ほどに描かれた3人の作業員は、それぞれの持ち場で働いています。持ち場によって異なった三者三様の姿勢や表情が丁寧に描かれているせいか、この作業現場にリアリティが感じられます。

 全身全霊で作業に取り組んでいる者がいれば、ちょっと気を抜いている者もいるといった状況はおそらく、どのような作業現場でも見られる光景なのでしょう。真剣に作業する2人の背後に手を休めている者を配置することによって、モチーフ間にメリハリをつけることができ、実在感を増すことができています。

 ここでのメインモチーフは、画面手前の青いつなぎを着た作業員でしょう。画面のほとんどを覆っている茶褐色ではなく、その補色である青色のつなぎを着ているところからも、作者がこの人物を中心に据えていることは明らかです。

 しかも、この人だけが顔の表情がはっきりと描かれています。髪を逆立て、目を見開き、口を堅く結んでいます。一見、憤怒の表情に見える形相ですが、よく見ると、怒っているのではなく、全身全霊で取り組んでいるエネルギッシュな表情にも見えます。

 作業員はいずれも半裸で、褐色に日焼けし、肩や胸の筋肉が盛り上がっているのがわかります。しかも、皆、裸足です。ここに作業状況の過酷さが表現されています。その一方で、手前の人物の表情に作業への揺るぎない使命感が表現されており、画面から力強いエネルギーが伝わってきます。

 次に、人物の背景に目を向けると、カーブした鉄板、建造中の船の一部、無数の木材で組み立てられた足場、クレーンなど、作業を支える作業場の光景が丁寧に描かれており、3人の作業の背後にある造船事業が的確に可視化されています。

 この作品が制作されたのが1936年、同年2月26日には陸軍青年将校らが決起して内閣は総辞職に追い込まれています。その前年に開催されたコミンテルン大会で、西洋ではドイツ、東洋では日本を標的に攻撃することが決定されており、中国では抗日戦線が激化しはじめていました。

 そして、翌1937年には日中戦争、1939年には第二次世界大戦が勃発、1941年には太平洋戦争に突入といった具合で、当時は不穏な社会状況の真っただ中にあったのです。このような状況下で造船所は政府の新造船援助を受け、次第に活況を呈し始めていました。この時期、造船所を描くことは間接的に戦争を描くことでもありました。

 そのようなマクロ状況を踏まえ、川端龍子氏は、川崎造船所で働く人々をミクロ的にキャンバスに収めています。

 戦争といえば、兵士、負傷した人、戦車、戦闘機、戦闘シーン、爆撃などを描いて表現するのが常でした。ところが、川端龍子氏は、造船所で働く作業員とその作業場を描くことで戦争を間接的に表現していたのです。

 作品化に際して選択されたこのモチーフは、《花摘雲》の場合と同様、間接的に戦争を表現し、そこに作者の心情を盛り込めるものだったといえるでしょう。

 それでは、作業員はどのように描かれたのかを見てみることにしましょう。

■作業員はどう描かれたのか

まず、手前の青いつなぎを着た作業員からみていくことにしましょう。

 

 足を大きく開いて身体のバランスを取りながら、電気ドリルを使って鉄板に穴をあけています。手には大きな手袋をはめ、真剣な表情で作業をしています。ドリルが鉄板とぶつかった箇所は火花が飛んでいるのか、明るく描かれています。顔も肩も素足もこげ茶色で描かれ、連日の作業で日焼けしていることが示されています。

 髪は逆立ち、顔は憤怒の表情で描かれ、連日、大変な作業に懸命に取り組んでいる様子が伝わってきます。この人物の表情からは、力強いエネルギーが感じられます。

 次に、溶接をしている真ん中の作業員をみてみましょう。

 

 顔を溶接用のお面のようなもので保護し、大きな手袋をはめて作業をしています。顔の表情はわかりませんが、半裸の背中は褐色に日焼けし、頬や腕も褐色に日焼けしていることがわかります。こちらも連日、熱い太陽の下、溶接作業をしているのでしょう。作業をしている場所からは燃え盛る火が描かれており、どれほどの熱さの下、作業をしているのか、その過酷さを見て取ることができます。この人も靴を履いておらず、裸足です。

 最後に、背後でこの作業を見ている作業員を見てみましょう。

 

 こちら首に手ぬぐいを巻き付けています。汗を拭き取るためでしょう、帽子をかぶり、眼鏡をかけています。やはり手袋をはめ、手に棒のようなものを持っていますが、作業をしているわけではなさそうです。休憩しているのでしょうか、それとも、監督しているのでしょうか。やはり上半身裸で、顔も腕も胸も腹も褐色に日焼けしています。ズボンの下を見ると、やはり裸足でした。

 こうしてみると、作業員それぞれの仕事内容とその表情、身体が描き分けられており、当時の造船所の光景が端的に捉えられていることがわかります。

 それでは、これらの作業を取り巻く背景はどう描かれているのか、画面の上部と下部を取り上げ、見てみることにしましょう。

■背景はどう描かれたのか

 作業員の背景を見ると、建造中の船が3艘、それぞれの周囲を取り囲み、無数の木材で足場が組まれています。そして、その合間に巨大な作業用クレーンが空を覆うように置かれており、どれほど大きな作業現場なのかが示されています。

 

 興味深いことに、日本画家でありながら川端龍子氏は、船も木材もクレーンも消失点を意識し、透視図法を使って描いています。そのせいか、巨大で、雑多な作業現場を描きながらも、安定した構図の画面になっています。

 そして、なにより、この作業所の広さ、奥行きが構造的にしっかりと表現されているのが印象的でした。その背後に見えるやや曇りがちな空には、作者の心情が込められているのでしょうか。

 それでは次に、画面の下部を見ていくことにしましょう。

 

 カーブした鉄板の下には大きな木の支えが何本か用意されています。支え木の下には一列に穴の開いた鉄板が置かれ、その下もまた木で支えられているのが見えます。鉄に穴を上げる作業、鉄を溶接する作業、すべてが巨大な支え木の上で行われているのです。

 この角度から見ると、改めて、作業員たちがすべて裸足で、その足が黒く汚れていること、ズボンの境目、手袋の内側からわずかに白い肌がみえる以外、茶褐色の鉄板よりもさらに黒ずんだ肌をしていることなどがよくわかります。川端龍子氏はさり気なく、作業員たちが身体を酷使して作業を行っていることを示そうとしているのでしょうか。

 この部分からは、作業内容や作業道具、作業を行う際の作業員の姿勢が着実に伝わってきます。色彩表現の確かさが事物を立体的にリアリティのある対象として浮かび上がらせているからでしょう。同系統の色彩を使いながらも、微妙な差異を利用して明暗を表現し、立体感を生み出しながら、労働内容の可視化を実現させているのです。

 驚きました。

 日本画の画材を使いながら、作業現場をここまで丁寧に、実在感のある表現方法で描き、リアリティのある画面に仕上げているとは・・・。この作品は、まさに事実を伝えようとするジャーナリズム精神の賜物といえるでしょう。

■洋画の技法、日本画の技法を使った写実性

 私がなぜ、この作品を展示作品の中でもっともジャーナリスティックだと思ったかといえば、上記で述べてきたように、きわめて写実的に描かれているからでした。

 ジャーナリズムに必要なのは事実に即して情報を伝達することですが、それにはまず対象を写実的に表現しなければなりません。この作品の場合、透視図法、明暗法など洋画の技法を使い、きわめて写実的にモチーフを描き、画面を立体的、構造的に構成していました。

 その一方で、画面全体から柔らかさと温かみが感じられるのは、筆触の痕跡を残した日本画の技法によるのではないかと思います。

 たとえば、作業員の背中や肩、腕などの一部は墨で一振り、黒い線が引かれています。この稜線によって、なんともいえない身体の柔らかさと硬さとが表現されており、洋画にはない味わいが醸し出されています。

 よく見ると、墨による稜線はズボンの襞や木材にも使われており、画面全体を柔らかく、優しい雰囲気に仕上げています。

 私がこの作品をジャーナリスティックだと思った理由はもう一つあります。

■5WIHが描き込まれた画面

 ジャーナリズムで重要なのは、いわゆる5W1Hを踏まえた情報の様式です。事実を伝える際の不可欠の要素として、いつ(when)、誰が(who)、どこで(where)、何を(what)、なぜ(why)、どのように(how)行ったのか、という側面を押さえておく必要があるのです。

 私がこの作品をもっともジャーナリスティックだと思ったのは、画面の中に、いつ、誰が、どこで、何を、どのように行ったのか、という情報の伝達に必要な5W1Hが盛り込まれていたからでした。

 2.26事件の起こった1936年に制作された(when )この作品には、3人の作業員(who)が、造船所(where)で、造船のために(why)、鉄板を(what)、溶接したり、ドリルで穴を開けたりして加工(how)している姿が描かれています。このこと自体に、ミクロ的なジャーナリズム精神が発揮されています。いわゆるベタ記事ともいうべき情報の捉え方であり、伝え方です。

 ところが、その背後に建造中の巨大な3艘の船が描かれており、当時の造船業を巡る社会的情勢が可視化されています。ここにマクロ的なジャーナリズム精神が発揮されていると考えられます。つまり、ベタ記事の背後にある社会情勢、時代の趨勢といったものまで捉えられているのではないかという気がするのです。

■時代を知るがゆえに時代を超えることが出来る

 改めて、この展覧会のチラシを見てみました。すると、次のような興味深い文章を見つけました。

 「川端龍子は「大衆と芸術接触」を掲げて、戦中、戦後の激動の時代、大衆の心理によりそうように大画面の作品を発表し続けました。そして、「時代を知るがゆえに時代を超えることが出来る」という考えから、これまで日本画で描かれてこなかった時事的な題材を積極的に作品化しました。それらの作品には、龍子が画家となる前に新聞社に勤めていたことから、時代に対するジャーナリスティックなまなざしが強く表されています」(展覧会チラシより)

 こうしてみると、川端龍子氏はより多くの人々に芸術を知ってもらいたくて大画面の作品を制作し続けていたことがわかりました。さらに、「時代を知るがゆえに時代を超えることが出来る」という考えの下、ジャーナリスティックな画題に挑んでいたこともわかりました。川端龍子氏は、展示されていた諸作品のようにスケールの大きな、興味深い画家でした。

 《海洋を制するもの》を描いた時点で、川端龍子氏には日本がこのまま戦争に突き進んでいることが目に見えていたのでしょう。造船所を取材し、時代がどう動いていくのかを明確に把握したからこそ、青いつなぎの服を着た作業員の顔をあのような表情に描いたのかもしれません。

 あれは、憤怒の表情にも見えますし、真剣に作業に取り組む熱意の表れともとれる表情でした。

 ひたすら働き続けるしかない末端の作業員にしてみれば、たとえ戦争に突入することがわかったとしても、不可抗力のままその波に飲み込まれていかざるをえません。時代の流れに掉さすことはできないのだとすれば、憤怒の表情しか浮かばないでしょう。

 作業員ができることといえば、持ち場で真剣に仕事に打ち込むしかないのです。時代の波に飲み込まれながらも、やがて、時代が変われば、真剣に仕事に打ち込んだことこそが時代を超える礎になるというメッセージを、川端龍子氏は作業員のあの表情に託していたのかもしれません。

 川端龍子氏の作品は今回はじめて見たのですが、スケールが大きい割には威圧感がなく、どの作品も素直に画面を鑑賞することができました。どれも調和のとれた柔らかみのある色彩で表現されていたせいかもしれません。あるいは、モチーフを捉える視点に温かさが感じられたからかもしれません。

 見たこともないようなスケールに圧倒されてしまいましたが、諸作品からは、川端龍子氏の画家として、人としての度量の大きさを感じ取ることができました。(2021/2/28 香取淳子)