ヒト、メディア、社会を考える

05月

アンティークドールとオートマタに見る19世紀末のディレッタント文化

■神戸ドールミュージアム
 元町駅から徒歩3分のところに神戸ドールミュージアムがあります。三ノ宮駅からは、センター街を通り抜けてすぐのところに位置しています。ふと思いついて、ゴールデンウィークに行ってきました。ミュージアムといいながら、小さなお店のような佇まいで、1Fがショップで、2Fにアンティークドール、3Fにオートマタが展示されていました。

こちら →外観

 このミュージアムは館長・藤野直計氏のご両親が30年以上にもわたって収集してこられたコレクションを基に設立されました。こぢんまりとしていますが、収集家のセンスが凝縮されたコレクションは見応えがありました。

 2Fに展示されていたのが、ジュモーやアー・ティー、ブリュなど、フランスの代表的な製作工房の人形たちでした。背丈が40㎝から60㎝ぐらいのビスクドールが中心でしたが、中には90㎝にも及ぶものもあり、迫力があります。時を超えて伝えられてきただけに、どの人形にも愛らしさの中に風格が感じられました。

こちら →館内人形
神戸市案内より

 3Fにはオートマタが展示されていました。入ってすぐ目についたのが、ダンディ・ルネーでした。見覚えのある顔だったからです。調べてみると、これは1890年にフランスのVichy社が製作したオートマタ(Automata)でした。オートマタとは、18世紀から19世紀にかけてヨーロッパで製作された機械人形のことを指します。

 見覚えがあると思ったのは、メリエス(Marie Georges Jean Méliès)の「月世界旅行」のワンカットによく似ていたからです。この映画が公開されたのが1902年です。ですから、メリエスはVichyが製作したこのダンディ・ルネーの顔デザインからなんらかのインスピレーションを得ていたのかもしれません。

■貴重なコレクション
 このタンディ・ルネーはタバコを吸う機械人形で、ヘッドとボディはドイツのパピエ・マーシェ製で、1890年に制作されました。ところが、電気の普及に伴い、20世紀に入るとオートマタは新鮮味を失い、アンティークとして扱われるようになっていきます。ですから、ヨーロッパにいてもこれだけのものを手に入れるのは難しかったでしょう。よく入手できたものだと、コレクターの藤野氏の熱意には感心してしまいました。

こちら →ダンディ・ルネー
カタログより

 おそらく骨董市か骨董店で入手されたのでしょう、展示されていた「ダンディ・ルネー」はやや色が褪せ、少し傷ついていました。それだけに時間を越えて生き残ったモノに見られる重みと味わいがありました。

 新品同様のものもあります。

こちら →https://www.flickr.com/photos/maurice_albray/11492429406/in/photostream/

 これに比べると、展示品の方はアンティークならではの魅力がありました。ヒトであれ、モノであれ、時を経てきたものだけが持つ深みと味わいがあるのです。さらに、3Fには「ピエロの曲芸師」も展示されていました。やはり、Vichy社の製品です。これは1910年に制作されたものですが、実際に動いています。

 Vichy関連のサイトにこのオートマタと似たような動きをする映像を見つけましたので、ご紹介しましょう。

こちら →http://www.francoisjunod.com/automates/nineteenth/vichy_uk.htm

 これは1890年に制作された「Acrobat」というオートマタです。ハシゴに両手をかけ逆立ちをしたら、2回、右手をハシゴから離すというパフォーマンスをするのですが、「ピエロの曲芸師」はこれよりもう少し複雑で、音楽に合わせて逆立ちをし、バランスを取るように足を反らせてから、左手をハシゴから離すという動きをします。制作年が「Acrobat」より20年も遅いだけあって、このオートマタにはより複雑な動きが取り入れられています。

 3Fにはこのようなピエロ関連のオートマタだけで3点、それ以外にもさまざまなオートマタが展示されていました。貴重なコレクションです。

■オートマタを手掛けたGustave Vichy
 さて、ダンディ・ルネーにしても、「ピエロの曲芸師」にしても、Vichy社の製品です。Vichy社はなぜ、このようなものを製造するようになったのでしょうか。調べてみると、Vichy社を設立したVichy氏は時計を作る職人だったようです。当然、機械好きだったのでしょう。妻の協力を得て、やがて機械で動く装置を製作しはじめるようになります。そして、彼が49歳のとき、時計や機械仕掛けのおもちゃを製造、販売するVichy社を設立しました。1862年のことです。

 ところが、会社を立ち上げて間もなく彼は死に、その後、妻が代わって運営していましたが、1865年に倒産してしまいます。1866年に後を継いだのが息子のGustave Vichyでした。彼は、両親の会社の目玉商品であった機械仕掛けのおもちゃより、オートマタの製造を好んだようです。才能にも恵まれていたのでしょう。彼は次々と音楽仕掛けのオートマタやその他さまざまな仕掛けのオートマタを製造していきます。

 たとえば、「Buffalo Bill Smoker」というオートマタがあります。目や口の動き、そして、タバコの煙を吐き出す仕草、これらがすべて機械仕掛けで動いているのです。Gustave Vichyが1890年に制作しました。これについては1分02秒の映像がありますので、実際にどのような動きをしているのか、見てみることにしましょう。

こちら →https://www.youtube.com/watch?v=exoul-_8oyg

 このオートマタは神戸ドールミュージアムにはありませんが、19世紀末、Gustave Vichyが精力的にオートマタを製作していたことはわかります。19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパでは科学技術の発明、開発が相次ぎました。それに伴い、アンティークドールもオートマタもやがて廃れていくのですが、そのうちのいくつかが日本人の手に渡り、時を経て、このように展示されているのです。ここで展示されているオートマタを見ていると、19世紀末のディレッタント文化、そして、30年以上もの時間をかけて収集されてきたコレクションの歴史が感じられます。

■女性美の理想形を伝えるアンティークドールたち
 スタッフが「うちの看板娘」といっていたのが、ブリュ・ジュンでした。古風な顔立ちの多いアンティークドールの中でひときわ現代的な容貌をしており、目立ちます。

こちら →ブリュー・ジュン
カタログより

 これは1885年にフランスで製造されたもので、背丈は37㎝でそれほど大きくはありませんが、強い意志の感じられる顔立ちで、圧倒的な存在感がありました。衣装も帽子も他のアンティークドールとは趣が異なっています。

 ブリュ(Bru Jeune et Cie, Bru Jeune, 1866-99)は、1866年に設立されたフランスのビスクドールの製作工房です。1867年から77年まではファッションドールを製造しており、1878年から1883年まではべべドールを製造していました。この人形は1885年の製造で、ブリュ・ジュンです。

 2Fにはブリュ以外に、ジュモー(Jumeau, 1842-99)、ゴーチェ(Gaultier Freres, 1860-99)、A. T.(アー・テー)(A. Thuillier, 1875-90)、スタイナー(Jules Nichola Steiner, 1850-1910)、A. デオー(A. Dehors, )等々、当時の代表的な工房の人形たちが展示されていました。多いのはジュモーやブリュの人形たちで、これは一般的な好みとも一致します。

 ここで展示されているアンティークドールたちは工業製品とはいいながら、製作工房によって微妙に異なり、そこに豊かな個性が感じられました。優雅、上品、華麗、清楚、聡明、愛らしさ、優しさ、穏やかさといった女性美の理想形が、さまざまな容貌の中に余すところなく表現されているのです。

 人形という媒体を得て、女性美の理想形は時代を超えて伝えられていくのでしょう。長い歴史を背負った人形たちを見ていると、いつまでも見飽きることがありませんでした。これを機にアンティークドールについてさまざまに思いを巡らせてみたいと思いました。(2015/5/14 香取淳子)

洛中洛外図屏風:上杉本に反映された足利義輝の願望

■「京を描くー洛中洛外図の時代―」展
 前回、見てきたように、最初に京都を一望できる絵を構想したのが、戦国武将の朝倉貞景でした。絵心があったとはいえ、武将が発案したというのは大変興味深い事実です。彼は屏風絵に慰安や娯楽ではなく、情報を求めたのです。このような洛中洛外図誕生の経緯を知れば、美術作品が担った政治的役割を考えてみる必要があるかもしれません。

 会場では、第2章として設定されたコーナーに初期の洛中洛外図が展示されていました。戦国時代の諸相が描かれているといわれる作品です。現存しているのは4点ですが、その中でもっとも有名な洛中洛外図屏風は上杉本だといわれています。

■山形県米沢市と上杉家
 上杉本は狩野永徳によって制作され、米沢藩上杉家に伝えられてきた洛中洛外図屏風です。2485人にも及ぶ人々が描かれているだけではなく、237件もの街路名や方位の文字注記が添えられており、その情報量は他を圧倒しています。初期の洛中洛外図屏風の中でもっとも有名だといわれているのも納得できます。

 資料によると、これは1565年に制作され、1574年に織田信長から上杉謙信へ源氏絵屏風とともに贈答されたといわれています。

こちら →
http://www.denkoku-no-mori.yonezawa.yamagata.jp/image/img2015set/byoubu2.gif

 会場に展示されていたのは現物ではなく、複製品でした。上杉本の各隻は159.6×362.2㎝という大きなもので、初期の作品の中ではもっとも迫力がありました。代々、上杉家に保存されてきましたが、平成元年に、上杉家16代当主・上杉隆憲氏から、上杉家文書、紙本著色厩図、太刀などとともに米沢市に寄贈されました。以後、米沢市上杉博物館に所蔵されており、平成7年には国宝に指定されました。上杉家に伝わる諸文書等とともに現在、上杉文華館で展示されています。

こちら →
http://www.denkoku-no-mori.yonezawa.yamagata.jp/rakuchyu_rakugai.htm

 米沢藩といえば、第9代目当主の上杉鷹山が有名で、「もっとも尊敬する日本の政治家」としてケネディやクリントンなど海外の政治家から高く評価されています。上杉神社の中には銅像が建てられていて、米沢市民から親しまれています。私はそこからほど近い米沢女子短期大学(社会情報学科)に1994年から7年間、勤務していました。ですから、上杉家関連の行事には参加したことがあります。

 こちら →http://uesugi.yonezawa-matsuri.jp/about/

 当時、名君といわれた鷹山公に興味がありました。危機に瀕していた藩政を立て直した手腕に興味を覚えたからでした。

 鷹山が藩主になったとき、米沢藩に深刻な財政難に陥っていました。そこで彼は、倹約・殖産奨励策を断行して藩財政を改善させ、藩校・興譲館を設立して人材育成に励んだのです。その結果、破綻寸前だった財政を立ち直らせることができました。経済を立て直すにはなによりもまず消費を抑え、殖産を奨励する必要がありました。一方、次代を担う人材を育成しておかなければ、藩の将来は望めません。そこで、藩校を設立し、教育重視の政策を行ったのです。このように鷹山公は時代を超え、国を超えて通用する政治哲学の持ち主でした。彼が奨励したウコギ(の垣根)、鯉の養殖はいま米沢名物になっています。

 私は米沢市に滞在した経験がありながら、鷹山公以外にあまり関心がありませんでした。そして、2001年3月に米沢女子短期大学を退職し、4月に長崎の大学に着任しました。伝国の杜・上杉博物館が開館したのが2001年9月29日でしたから、この洛中洛外図屏風の現物を見ていないのです。

■謙信に贈られた洛中洛外図
 洛中洛外図屏風・上杉本は、「永禄八年(1565年)に狩野永徳によって制作され、天正二年(1574年)に織田信長から上杉謙信へ源氏絵屏風とともに贈答された」とされています。各種資料からそのような結論が引き出されたのですが、屏風絵に描かれた光景から制作年代等について疑義が出されたことがあったようです。いわゆる「今谷説」です。

 『謎解き 洛中洛外図』(黒田日出男著、岩波新書、1996年)によると、「今谷説」がでるとすぐに建築史家、美術史家などから批判が出たようです。黒田氏はそれらを丁寧に検証しています。さらに、上杉年譜等について独自に再検討をした結果、『(謙信公)御書集』から天正2年3月付けの重要な記述を発見しました。

 「同年三月、尾州織田信長、為使介佐々市経兵衛遣于越府、被贈屏風一双、画工狩野四郎貞信、入道永徳斎、永禄八年九月三日画之、被及書札」という文章を発見したのです。これによって、「信長が洛中洛外図一双を謙信に贈った」というこれまでの定説が確定されることになりました。疑義が出されたことによって検証作業が進み、逆に、確信が深められたのです。

 丁寧な検証作業を踏まえ、黒田氏は以下のような興味深い推論を展開しています。

 「上杉本洛中洛外図は、将軍足利義輝が盟友上杉謙信に贈るために、永禄七年(1564年)末か同八年初めに、若き狩野源四郎(永徳)に命じて制作させていたものである。しかし、義輝は、その制作途中の同八年五月十九日に松永らに急襲されて非業の死を遂げてしまった。永徳は屏風の制作を続行し、この洛中洛外図屏風を義輝の百箇日の当日ないしその二日後の九月三日に完成させたが、注文主のいなくなった屏風をおそらくは自分のところへ置きつづけたのだと思われる。そして、新たな京都の支配者(天下人)に織田信長がなりつつあるのを見定めたところで、信長に自己の画業を売り込む一環として、金碧濃彩のこの上杉本洛中洛外図をその数奇な運命とともに信長に披露したのであろう。(中略)永徳から上杉本を見せられ、本来の受け取り手が謙信であることを聞かされた信長は、義輝に代わって屏風を贈ることにより謙信の信頼感衛を維持しようと企図したのであった」(前掲、pp.199-200)

 黒田氏は永徳についてかなり踏み込んだ解釈を展開していますが、当時の政治情勢や絵師の立場を考えると、このような解釈は妥当でしょう。

 当時、戦国大名たちは覇権を求め、抗争を繰り返していました。幕府の権力の復活を目指していた足利義輝は、戦国大名たちとの関係を改善しようとし、抗争の調停を積極的に行っていたようです。やがてその政治手腕は戦国大名たちから認められるようになり、織田信長や上杉謙信はわざわざ京に出向き拝謁していたほどだといいます。

 織田信長と今川義元が戦った桶狭間の戦いが永禄三年(1560年)、勝利した信長は勢力を増しました。また、今川義元が討ち取られたことによって、北条氏や武田氏と対立する上杉謙信は勢いづき、関東諸侯の多くが謙信側に付くようになりました。勢力図が変わったのです。

 以上のような当時の政治状況を考えれば、黒田氏の推測は納得できます。

■左隻に見る義輝の願望
 国立歴史民俗博物館の小島道裕氏はカタログの中で、「誰が見たかった京都か」という観点から洛中洛外図屏風を考察しています。上杉本については「足利義輝が見たかった京都」という小見出しをつけ、「室町幕府の再興をめざし、上杉謙信を頼みとした足利義輝が、謙信に贈るために狩野永徳に制作させた、と考えられている」として上で、以下のように記しています。

「上杉本に描かれていた幕府は「花の御所」で、左隻の中央左寄りの所に大きく描かれているが、義輝が現実に住んでいたのは、新たに建設した「二条御所」であり、室町幕府本来の御所として「花の御所」を描かせたと思われる。そこに向かう行列は上杉謙信のものとされ、それが細川邸から出版していることは、管領が細川から謙信に代わることを意味していると思われる」

こちら →上杉本左隻
上杉本左隻。
クリックすると図が拡大します。

 大変、興味深い解説です。ただ残念なことに、会場では屏風の細部がよく見えず、確認することができませんでした。そこで、パソコンで見ることができる陶版の洛中洛外図を見ると、たしかに、左下に描かれた建物には「公方様・室町殿」と説明されています。そして、カーソルを上に移動にすると、「細川殿」と描かれた建物があります。

こちら →http://www.rakuchu-rakugai.jp/world/world.html
赤丸印をクリックすると説明文が表示されます。

 室町殿に向かう行列が上杉家のものだとすれば、小島氏が指摘するように、この部分は管領が細川氏綱から上杉謙信に代わることを示唆していたのかもしれません。

■戦国武将のさまざまな思い
管領とは足利幕府の重要な政務に携わる役職を指します。応仁の乱以後、室町幕府の管領は細川家がほぼ独占していました。1486年から1507年まで細川政元が管領を務め、以後も細川家がこの職を継承しています。1936年から1549年まで管領を務めた細川晴元は、江口の戦い(1549年)で三好長慶に敗れ、将軍足利義輝も京を離れざるをえませんでした。その後も三好勢力との戦いに勝つことができず、細川氏綱を管領にするという条件でようやく三好長慶と和睦し、京に戻ることができたのです。最後の管領はこの細川氏綱で、1552年に着任し永禄六年(1563年)12月20日で没するまで担当しました。

 一方、上杉家は代々、関東管領の役職を担ってきました。資料によると、上杉謙信は1561年から1578年まで関東管領を務めています。川中島の戦いで勝利した上杉謙信は勢いづいており、関東諸侯もなびいていました。将軍とはいえ、三好長慶の傀儡であった足利義輝にしてみれば、上杉謙信は喉から手が出るほど欲しい人材だったでしょう。

 当時の政治情勢を調べてみると、たしかに、屏風絵のこの部分には足利義輝の強い願望が表現されているように思えます。細川氏綱から上杉謙信への管領の交代を願う義輝の願望であり、そして、将軍の権威復活への願望でもあったと思われるのです。

 小島氏はさらに、「このような内容を描くために、上杉本は、「花の御所」と細川邸が共にある左隻をいう構図になった」と記しています。「花の御所」とは足利将軍家の邸宅の総称で、室町通りに正門が設けられていたので、室町殿と呼ばれることもあったようです。この屏風絵が政治的意図を込めて描かれていたことが示されています。

こちら →花の御所

 この部分に焦点を当てて、この屏風絵を鑑賞すると、上杉本はまさに、「足利義輝が見たかった」洛中洛外図屏風といえるでしょう。三好長慶の傀儡になっていた足利義輝にしてみれば、この屏風を上杉謙信に贈ることによって、その意志を伝え、ともに天下を統治していこうとしていたのではないかと考えられるのです。当時、義輝は戦国諸侯の調停を行って友好を計り、着々とそのための手を打っていました。ところが、1965年、三好長慶の養嗣子らに御所で急襲され、亡くなってしまいます。

 この屏風絵を制作したとされる狩野永徳は、義輝の遺志をよく知っていたはずです。ですから、狩野永徳を介して、織田信長から上杉謙信に贈られたという可能性は十分、考えられます。ただ、当時の上杉謙信の勢いを考えれば、織田信長も謙信を懐柔する必要に迫られていたのではないかと思われます。

 信長がこの屏風を謙信に贈ったとされるのが1974年です。実はその前年の1973年に武田信玄が病没し、謙信の勢いはますます強くなっていました。1972年に信長は謙信と同盟を結び、信長が人質を越後に送ったとされていますが、それだけでは不十分だったのでしょう。

 なぜ描かれたのか、誰によって発注され、誰に向けて制作されたのか、誰のためのものなのかといった観点からこの屏風絵を見ると、戦国武将たちのさまざまな思いが透けて見えてくるのです。

■瀬田勝哉氏の見解
 瀬田勝哉氏は『洛中洛外の群像』(平凡社、増補版、2009年)で、上杉本を詳細に読み解いています。文献資料に基づき、モチーフに込められた意味を論理的に解き明かしていくプロセスにはまさに上質のミステリーの醍醐味があります。とくに興味深く感じたのは「公方の構想」と題された章でした。

 ここでは先ほど紹介した「今谷説」を取り上げ、それに対する諸批判を丁寧に検証したうえで、矛盾を明らかにしています。そして、写実にこだわりすぎれば、作者の構想を見失い、絵のもつイメージを矮小化してしまいかねないと指摘するのです。

 瀬田氏は文献資料と照合しながら、さまざまなモチーフに政治の痕跡を見出していきます。それらを踏まえ、義輝と上杉本との関係について、以下のような解釈を記しています。

 「上杉本『洛中洛外図』という屏風絵の中に表現された政治的な秩序は、こうした義輝の意図し構想した秩序とよく合致している。三好邸の冠木門の絵一つにしても、将軍御成によって公方の政治秩序に組み込んだことを示す具体的な表徴であった。つまり義輝こそは、このようにして上杉本の政治世界を微妙かつ大胆に構想してゆける主体として最もふさわしい公方であり、人物だということができるのである」(前掲、p.160)

 さらに、謙信とこの屏風については以下のような解釈を記しています。

 「謙信にとってこの屏風は、「戦国大名の京都憧憬を満たすもの」などという、生ぬるい包括的な説明ですまされるようなものではなかった。彼ははるかに深くこの絵の構想を読み得たにちがいない。絵のうしろに公方義輝という人物を見ていたからである。(中略)これを手にしたのが義輝死後のことだとしたら、期待をかけられ上洛を促されながらも、ついにその期待に応えることができなかった公方義輝への痛恨の思いにとらわれたことであろう」(前掲、p.176)

 当時の政治状況と重ね合わせてこの屏風絵を見ると、幕府の権力および権威の復活を目指し、あるべき政治秩序を構想していた将軍足利義輝の願望が切に表現されているといえます。

■なぜ屏風に描かれたのか
 洛中洛外図はなぜ屏風に描かれたのでしょうか。伝統のある絵巻物でもよかったはずです。むしろ絵巻物の方が制限なく自由に描けたのではないかと思うのですが、なぜ屏風だったのでしょうか。

 屏風絵という媒体に固有のフォーマットで、注文主の政治的意向を反映した作品が制作されたのは戦国期でした。興味深いことに、織田信長や豊臣秀吉など強力な戦国大名が政治の表舞台に登場してくると、政治的意向というよりは政治権力を表象する絵柄になっていきます。

 これに関し、高松良幸氏は「永禄三年の車争い図屏風」(『静岡大学情報学研究』20、pp.72-51)の中で、以下のように興味深い指摘をしています。

 「少なくとも絵を観る者に、そこに描かれている内容、注文主の様々な意図などを理解させる場合、絵巻物は、披見時、少人数にのみそれが可能であるのに対し、屏風絵は常時、多人数でそれが可能になるのである。戦国期の厳しい世相の中では、絵巻物の社寺への奉納などによる神仏の加護よりも、現実に絵を観る者に注文主が発するメッセージを看取させる方が重要だと考えられたのではなかろうか。そしてそれに相応しい画面形式として屏風絵が採用されたのではなかろうか」(p.60 )

 これを読むと、戦国期に政治的意図を反映させた屏風絵が制作されたという事実の背後に、同じコンテンツをより多くのヒトに見てもらいたいという発注者の政治的意図が潜んでいたことがうかがえます。まさに美術品の政治利用の始まりといえるでしょう。

 高松氏の指摘には、表現したい内容(コンテンツ)を、どのような媒体(メディア)に、どのような様式(フォーマット)で載せるのかという根本的な問題が含まれていて、大変興味深いものがあります。

 トロント大学でメディア論を担当していたマクルーハンは、「メディアはメッセージである」という有名なフレーズを残していますが、彼のメディア論にならっていえば、戦国期、屏風というメディアが政治的メッセージを発信できる道具として着目されたのです。

 たとえば、織田信長は狩野永徳に描かせた安土城の屏風を天正遣欧使節に託し、ローマ教皇に献納したといわれています。残念ながら、この屏風は現存していません。また、豊臣秀吉は「吉野花見図屏風」を描かせ、権勢を誇示しました。秀吉が公家衆や諸大名を引き連れて花見をする光景が華やかに描かれています。

 このように織田信長や豊臣秀吉など天下統一を目指した戦国武将はさらに積極的に、美術品でありながら政治的権威を示唆できる道具として屏風を活用しているのです。

 群雄が割拠した時代に初期の洛中洛外図屏風が制作され、戦国時代を生き抜くための羅針盤として機能していたとするなら、天下統一が間近になると、強力な大名が内外に向けてその威信を誇示し拡散する道具として活用されるようになったのです。
 
 屏風は絵巻物とは違って、一度により多くのヒトが見ることのできる媒体だったからでしょう。ヒトを操作する必要性が生じた戦国期だったからこそ、屏風の広報機能が見出されたといえます。洛中洛外図屏風からはさまざまに想像力が触発され、まだまだ興味は尽きることがありません。(2015/5/10 香取淳子)