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「平仙レース」に見る、日本の近代化過程① 創業者・平岡仙太郎

「平仙レース」に見る、日本の近代化過程① 創業者・平岡仙太郎

■「平仙レース」の写真展示

 2022年3月26日、三寒四温の日々が続いているとはいえ、だんだん暖かくなってきました。ひょっとしたら、もう桜が咲いているかもしれないと思い、久しぶりに入間川遊歩道に出かけました。

 途中、文化創造アトリエ前の交差点で、信号が変わるのを待っていると、向かい側の、「文化創造アトリエ・アミーゴ」(以下アミーゴ)の車寄せ道路側の壁面に、写真と説明文が展示されているのが目に入りました。近づいて見ると、「平仙レース」というタイトルが見えます。

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(筆者撮影。図をクリックすると、拡大します)

 ざっと見たところ、「平仙レース」に関する写真や説明文が掲示されているようでした。

 展示写真を見てみました。

 「まとい」や「神輿」、女子従業員のための寮、寮での生活、昭和天皇・皇后両陛下の当地ご訪問、レース工場の航空写真など、「平仙レース」の過去をうかがえる写真がいくつも展示されています。もはや人々の記憶にはなく、振り返ることすらできないほど遠くなってしまった日本の過去が、白黒写真の中にしっかりと捉えられていました。

 見ているうちに、通り一遍に見て済ませられるような展示内容ではないような気がしてきました。一連の写真の背後に見過ごすことのできない何かを感じたのです。

 「平仙レース」とは一体、何なのでしょうか。

 そこで、今回は、展示写真を中心に、郷土資料、関連資料を踏まえ、「平仙レース」から何が見えてくるのか、探ってみたいと思います。

■平岡レースとは何か

 展示写真の中には、昭和33年頃の「平仙レース」工場の写真がありました。

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(展示写真より。図をクリックすると、拡大します)

 説明文は、「かつて仏子には「平仙レース」という日本有数のレース工場があったことをご存じですか?」という文章で始まっています。

 上の写真は昭和33年頃に撮影されたものですが、広い敷地に特徴のある建物が並んでいます。この地域の有力な機業家であった平岡仙太郎が、1928年に設立した「平仙レース」工場でした。

 なぜ、「平仙レース」なのかといえば、地元の有力な機業家であった平岡仙太郎(1893-1939)が、大正末期にレース工場を設立したことに由来しています。平岡仙太郎が創始したレース工場だから、「平仙レース」なのでした。

 それでは、平岡仙太郎とはどのような人物だったのでしょうか。

■平岡仙太郎とは

 展示資料によると、平岡仙太郎は1893年、織物業を営む平岡専吉の長男として生まれ、川越染色学校を卒業すると、そのまま家業を継ぎました。この辺り一帯は幕末から明治・大正にかけて、全国でも有数の織物生産地でした。

 入間地方は痩せた土地で、農産物の収穫が少なく、農家の人々は副業として、瘦せた土地でも育つ桑の木を植えて養蚕を行い、織物を作って、市場に出していました。この地域一帯で盛んだったのが、織物業だったのです。

 当時、織物市場は川越、所沢、扇町屋、飯能などにありました。ところが、江戸時代も1844年頃になると、織物の取引が江戸に近い所沢市場に移っていきました。その結果、実際の織物生産の中心は入間でしたが、入間、川越、飯能、所沢などで織られた織物は、総称して、「所沢織物」と呼ばれるようになったそうです。市場が所沢だったからです(『ときの夢を織る~入間の繊維産業の歩み~』、pp.5-7. 2005年1月。入間市)。

 いずれにしても、入間は織物の生産拠点だったのです。そのような環境の中で生まれ育った平岡仙太郎はきっと、織物業を天職と思っていたのでしょう。

 説明文には、「稼業を継いでからは、力織機を増設したり、分工場を設立したりして次第に、経営を拡大していきました」と書かれています。力織機という耳慣れない言葉が使われているので、気になって調べてみると、次のようなものでした。

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(Wikipediaより。図をクリックすると、拡大します)

 力織機とは、1785年に、イギリス人エドモンド・カートライト(Edmund Cartwright)が発明した機械動力式の織機のことで、英語のpower loomをそのまま日本語に訳したものでした。

 それまでの手織機に代わって織物生産の主役となって産業革命を主導したとされています。これが普及してから、それまでの手織機の使用は、工芸品や伝統的な布を織る場合に限られるようになったそうです。

 上の写真は豊田自動織機G3型です。G型をベースに構造を強化し、厚地が織れるようにした織機です。実は、豊田佐吉は1924年に、このG型自動織機を発明し、完成させていました。(※ https://www.tcmit.org/exhibition/textile/fiber03/)

 平岡仙太郎が事業を継いだ頃はおそらく、このG型自動織機が日本の繊維業界に出回っていたのでしょう。積極果敢に新しい機械を導入して新規事業を展開し、経営拡大を図っていました。

 繊維業は明治、大正、昭和と日本の中心的な輸出産業の一つでした。高品質の製品を大量に生産し続けるには、機械の導入、品質管理、新規製品の開発などが不可避でした。

■なぜ、レース工場を設立したのか。

 平岡仙太郎は稼業を継ぐと、経営を拡大する一方、繊維業界の動向を見ながら、刺繍レースへと主力製品を変えていきました。新しい技術を積極的に導入し、事業効率を高めながら、時代に即した新製品の開発を手掛けていったのです。

 大正末期にレースの生産に着目していた彼は、昭和に入って早々、1928年に平仙レース工場を設立し、1929年から操業を始めました。

 展示資料には、1923年に関東大震災が発生し、①手工レースが壊滅状態に陥ったこと、②浜口内閣が緊縮財政政策を取り、輸入品で贅沢とみなされたレースの関税を3割から10割に引き上げたこと、等々から、レースの国内生産に踏み切ったと、その理由が書かれていました。

 気になったのは、「浜口内閣が緊縮財政を取り・・」、と書かれている箇所でした。関東大震災後、内閣は頻繁に交代しています。果たして、一内閣の経済政策だけで新規事業に踏み切れるものか、納得しかねたのです。

 そこで、当時、誰が経済政策を担当していたのか、調べてみました。

■緊縮財政政策下で振り絞った知恵

 調べてみると、関東大震災後、不安定な社会状況を反映するかのように、内閣は頻繁に交代していました。急死したり(加藤高明)、暗殺されかけたり(浜口雄幸)、不穏な社会状況の下、かじ取りを迫られていたことがわかりました。

 興味深いことに、震災後の数年間、浜口雄幸が一貫して大蔵大臣を務めています。

 震災時は、第22代の第2次山本権兵衛内閣(1923年9月2日から1924年1月7日)で、大蔵大臣は井上準之助でした。次の第23代清浦奎吾内閣(1924年1月7日-6月11日)の大蔵大臣は勝田主計でした。

 いずれも短期間で終わっていますが、震災直後の経済政策を主導したのが井上準之助です。彼は善後策として、一定期間の支払い猶予、震災手形制度などの緊急措置を行いました。

 その後、第24代の加藤高明内閣(1924年6月11日‐1926年1月30日)の大蔵大臣は、浜口雄幸でした。第25代の第1次若槻礼次郎内閣(1926年1月30日-1927年4月20日)でも、彼は大蔵大臣を務めました。

 展示説明では、「浜口内閣の緊縮財政政策」と書かれていましたが、浜口が総理大臣になったのは、第27代内閣(1929年7月2日-1931年4月14日)で、確かに、浜口雄幸が総理大臣だった頃、平岡仙太郎はレース工場を操業しています。

 浜口内閣の大蔵大臣は井上準之助でした。浜口に請われ、立憲民政党の井上が民政党内閣の大蔵大臣に就任しています。浜口は、総理大臣になると、自身と同じ考えの井上を大蔵大臣に起用したのです。高橋是清の弟子でありながら、井上準之助は緊縮財政派だったからでした。

 その井上は、凶弾に倒れた浜口内閣の後、第2次若槻内閣(1931年4月14日-12月13日)でも大蔵大臣を務めました。

 こうしてみてくると、関東大震災後の数年間、政府は一貫して、緊縮財政政策を取ってきたことがわかります。そのような経済政策の結果、国民や中小企業は苦難の淵に追いやられることになりました。

 その後、立憲政友会の犬養毅内閣(1931年12月13日-1932年5月26日)になると、高橋是清が大蔵大臣に起用されました。彼が積極財政を展開してようやく、日本が構造的なデフレ状況から脱却することができました。

 1931年の経済成長率は0.4%でしたが、高橋是清が積極財政を展開すると、1932年には4.4%、1933年には11.4%、そして、1934年には8.7%と劇的な回復をみせたのです。(※ Wikipedia「濱口雄幸」より)

 平岡仙太郎は1929年、緊縮財政下でレース工場の操業を開始しました。ところが、その後、積極財政政策が展開されたため、順調に業績を伸ばしていくことができたのです。

■レース製品

 日本はレース製品をスイス、イギリス、フランスなどからの輸入に頼っていました。輸入品なので奢侈品として高い関税をかけられていたのです。

 展示資料によると、緊縮財政下では10割もの税金が欠けられていたといいます。そのようなレース製品だからこそ、国内生産することに仙太郎は商機を見出していたのです。国産にすれば、少なくとも半値にはなるので、大幅な利益を見込むことができます。

 経営者として合理的で、野心的な判断でした。

 レース工業に着目した仙太郎は、昭和2年(1927)からレース工場の設立に取り組みました。そして、1928年にレース工場を設立したのです。レース機械をドイツから導入し、技術者を招いて指導を受け、1929年に機械による刺繍レースの生産を始めました。

 展示資料によると、1928年暮れにドイツ製レース機械を2台購入したそうです。購入代金は3~4万円(現在価格で6~7000万円)、鉄道で運搬したといいます。ドイツ人技師のカール・フランケ、ワルターが3週間ほど滞在し、機械の組み立てや操作の指導を行いました。

 予想した通り、国内向けレースは好調でした。展示写真の説明によれば、ほぼ一年で、レース機械の減価償却ができたといいます。仙太郎に先見の明があったことが証明されました。

 1929年から30年にかけては、機械を10台購入し、横浜から車で運搬しています。前回と同様、ドイツ人指導者が組み立て、後の2台は社員が組み立てを行いました。

 そして、1931年には、機械12台を購入し、今度は社員が中心になって組み立てました。ところが、途中で、作業の中心人物に召集令状が来て入隊してしまったため、最後の1台は仙太郎自身が組み立てたそうです。仙太郎が現場技術に明るい経営者であったことがこれでわかります。

 その後、逐次、設備を改善し、技術の向上に努めた結果、海外の製品に劣らない優秀な製品ができるようになっていきました。

 展示されていた「平仙レース」をご紹介しておきましょう。

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(筆者撮影。図をクリックすると、拡大します)

 洗練された色遣い、繊細で豪華、上品な図案が印象に残ります。

 1931年頃から、「平仙レース」は海外に輸出されるようになりました。当時の主な輸出先はインドで、サリー用の生地として使われたそうです。

 そして、1934年、機械24台を購入し、レース機械は合計で48台になりました。その後、リバーレース機械2台を購入し、この時、工女の数は300人ほどになっていました。

 展示されていたレース製品をもう一つ、ご紹介しておきましょう。

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(筆者撮影。図をクリックすると、拡大します)

 精巧で優雅、可愛らしさのある図案が印象的です。

 それにしても不思議なのは、なぜ、ドイツからレース機械を輸入したのかということでした。というのも、当時、日本はもっぱら、スイス、イギリス、フランスからレース製品を輸入していたからです。

 調べてみると、16世紀以降、ドイツでは織機でレースが生産されていました。19世紀になると、レース産業は急速に発展し、20世紀初頭には、ドイツの主要都市にレース教習所が作られたといいます。やがて、機械レースが一般的になり、手作りレースは植民地で生産されるだけになったようです(※ Wikipedia「ドイツのレース」)。

 これだけではなぜ、平岡仙太郎がドイツ製のレース機械を購入していたのかわかりませんが、その後、リバーレース機械を2台購入していることを考え合わせると、彼がハンドメイドに近い繊細で優雅な出来栄えを望んでいたからかもしれません。

 レバーリース機は高級レースを生産するための機械でした。国内外とも、やがては高級レースへの需要が高まると仙太郎は考えていたのでしょう。

 以後、改良を重ねた平仙レースは、たちまちのうちに、日本で最高の品質に達し、海外でも高い評価を受けるようになっていました。事業は好調に伸びていきました。

 こうして、平岡仙太郎は、創業からわずか10年余りで、日本屈指のレース工場に変貌させていたのです。

■技術の開発、継承をどうするか

 平岡仙太郎は創業から短期間でレース工場を築き上げました。日々、研鑽を積み、改良を重ねた結果、良質のレース製品を生産する技術を獲得しました。彼にとって最大の課題は、どうすれば、その技術を将来にわたって保持し、継承していけるかということでした。

 展示資料によると、解決策として、彼は次のようなことを考えたそうです。すなわち、①県繊維工業試験場(現アミーゴ)の設置、②組合の整染工場の設立、などでした。

 いずれも、繊維事業者にとって必要な技術力の錬磨の場であり、学び、研究、指導の場でもありました。このようにして、「平仙レース」と地元繊維業界との架け橋を作っておけば、平仙の技術そのものが消滅してしまうことがないだろうと考えたからでした。

 平岡仙太郎は実際、1936年に県会議長に就任すると、土地や建物を県に寄付し、1937年に仏子染織指導所を誘致しています。他の産地に負けない優れた品質の製品を作り続けるためでした。おかげで、戦中、戦後とさまざまな苦難に見舞われながらも、「平仙レース」の製品や入間の繊維業界の製品は品質を保つことができました。

 仏子染織指導所の建物は現在、「入間文化創造アトリエ・アミーゴ」として地域の人々の文化活動、芸術活動に使われています。空撮写真をご紹介しておきましょう。

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(アミーゴHPより。図をクリックすると、拡大します)

 16角形の建物の面積は105㎡で、現在、スタジオとして使われています。

 赤いのこぎり屋根の建物は、繊維試験場の建物を残し、ホールとしてリニューアルされました。面積は210㎡あり、グランドピアノ、音楽設備一式が装備されています。

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(筆者撮影。図をクリックすると、拡大します)

 もちろん、織物工房や染色工房もあります。

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(筆者撮影。図をクリックすると、拡大します)

 織物や染色を気軽に体験できる場として設置されています。布を織ったり、染色したりすることによって、子どもたちが織物や染色の仕組みを学び、地場産業を知る機会を提供しています。

 繊維業の発展に尽力していきた平岡仙太郎の思いは、繊維業者だけではなく、このような形でも次世代に引き継がれていくのでしょう。

■地域住民とともに

 展示資料によると、西武公民館のロビーに「まとい」がガラスケースに収められて展示されているそうです。

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(展示資料より。図をクリックすると、拡大します)

 この「まとい」は、まだ自動車が珍しかった1934年、アメリカ・フォード社製の消防車を2台、平岡仙太郎と地元民とが配備したことが称えられ、授与されたものです。消防車2台のうち1台は仙太郎、もう1台は元加治村民からの寄付でした。

 当時のポンプ車は高価で、近隣の村や町にはまだ導入されておらず、地元はもちろんのこと、近隣まで、このポンプ車で消火活動を行ったそうです。

 地域の安全を守る消防活動に、仙太郎と地元村民が1台ずつ寄付したとところに、彼の深い配慮を感じます。自分一人の手柄にせず、村民と共に生きる姿勢を見せたのです。

 仙太郎がいかに地元を愛し、安全を願っていたか、そして、地元の人々と様々な思いを分かち合い、共に地域を守っていこうとしていたか、このエピソードからは、仙太郎の心遣いと郷土愛が感じられます。

 さらに、平岡仙太郎は、仏子の八坂神社に神輿を寄付しています。

 神輿を作る際、彼は、8割は自分が出資するが、残りの2割は氏子が出資した方がいいといったそうです。自分が全額出資してもいいが、そうすると、氏子の信仰心が希薄になるといって、氏子たちにも出資を呼び掛けたというのです。おかげで、近隣にはない立派な神輿を作ることができました。

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(展示資料より。図をクリックすると、拡大します)

 この神輿は、近隣のものとはくらべものにならないほど、立派なものでした。それは、外見が並外れて豪華で素晴らしいからですが、氏子たちの心がこもったものになっているからでもありました。仙太郎が主導して氏子たちをまとめ、その信仰心を形にしていったのです。

■銅像が語るもの

 1937年に日中戦争が始まると、レース製品の輸出は禁止されました。さらに、緊縮財政下で国内需要もなくなり、経営が困難になっていきました。その後、第2次大戦へと大きく傾き、経済統制はさらに強化されました。

 この時、入間地域の繊維業者の3分の2が廃業に追い込まれたといいます。

 第2次大戦が始まった1939年、平岡仙太郎は45歳の若さで亡くなってしまいました。「平仙レース」のため、地場産業のため、地域住民のため、粉骨砕身して生きてきた平岡仙太郎が、この世を去ってしまったのです。

 地元繊維業界にとっては大きな損失でした。1935年には所沢織物工業組合を設立して理事長となり、仙太郎は業界の発展に力を尽くしていました。それだけに、仙太郎の死は大きな打撃でした。地元繊維業界は、時代の動向を察知し、業界をまとめて牽引していく旗振り役を失ってしまったのです。

 所沢織物商工共同組合は2019年7月、平岡仙太郎を偲び、かつて「平仙レース」第2工場があった場所に、平岡家本宅に合った銅像を移築し、碑を建てました。

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(筆者撮影。図をクリックすると、拡大します)

 碑文を読むと、平岡仙太郎のさまざまな功績が偲ばれます。

 関東大震災を経て、日中戦争から第2次世界大戦にいたる大変な時期を、彼は積極果敢に生きてきました。銅像に刻まれた穏やかながらも、凛々しく、毅然とした表情が印象的です。

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(筆者撮影。図をクリックすると、拡大します)

 ふと思い立って、背後にスーパーの看板が見える角度から撮影してみました。かつて「平仙レース」第2工場があったところで、彼にとっては思い出深い場所です。

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(筆者撮影。図をクリックすると、拡大します)

 こうしてみると、平岡仙太郎はいまなお、地場産業を見守り、地域社会を守ろうとしているかのように見えます。銅像が設置された場所は、背後にかつての「平仙レース」第2工場があり、対角に、彼が誘致した仏子染織指導所(現アミーゴ)を臨んでいます。まさに彼が活躍した場なのです。

 それでは、「平仙レース」から何が見えてきたのでしょうか。

 展示写真からはさまざまなものが捉えられていました。それを要約すると、明治、大正、昭和にかけての近代化の過程が、白黒写真の中にしっかりと捉えられていたといえるでしょう。

■「平仙レース」を通して見えてきた日本の近代化過程

 振り返ってみれば、欧米列強から開国を強いられた日本は、明治、大正、昭和にかけて近代化を急ぎました。拙速ながらも、近代国家にふさわしい制度整備を行い、殖産興業政策を展開してきました。その一つが繊維産業でした。

 「平仙レース」で展示写真を見ていると、日中戦争、第2次世界大戦を経て、戦後復興期に至る日本の近代化過程の一端を概観できるように思いました。

 果たして、近代化は必然だったのでしょうか。大きな地殻変動が起きているいま、改めて、近代化の総括をしておく必要があるのではないかという気がしました。

 明治の日本は産業革命を経ず、欧米列強から近代化を強いられました。閉じた社会からいきなり開かれた社会へと方向転換させられたまま、現在に至っています。近代化の行きつく先がグローバル化であり、そのグローバル化の弊害が、さまざまな領域で顕著になってきているのが現状です。

 そして、令和の今、コロナに始まり、気候変動による大災害、ウクライナ事変に伴う戦争の危機など、体制転換を予感させる出来事が立て続けに起こっています。それらは、やがて来る幕末期に匹敵する激動の時代の予兆のように思えるのです。

 いずれ、誰もが否応なく、社会体制の転換を経験することになるのでしょうが、その後、どのような未来を迎えることになるのか、現在の延長線上で思い描くことは困難です。ひょっとしたら、幕末期の人々のように、これまでとは全く異なった社会体制を強いられるようになるのかもしれません。

 たまたま出会った、「平仙レース」の展示写真から、日本の近代化過程の一端を垣間見ることができました。いくつもの白黒写真を見ていくうちに、再び、大きな社会変動の時期を迎えているのではないかという思いに駆られてしまいました。(2022/3/30 香取淳子)

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