前回、パリ万博に関わった二人の幕臣について、ご紹介しました。一人は、小栗忠順(1827-1868)で、もう一人は、渋沢栄一(1840-1931)です。パリ万博への参加決定を促したのが小栗忠順だとするなら、万博使節団一行の欧州滞在から帰国までをサポートしたのが渋沢栄一でした。
二人はいずれも最後の将軍徳川慶喜(1837-1913)と深く関わっていました。外交、軍事の側面で慶喜にかかわっていたのが小栗忠順でした。
フランスの駐日公使ロッシュの助けを借りて、幕末の日本にとってもっとも重要で、もっとも困難な外交、軍事の課題に次々と取り組んでいきました。その結果、欧米列強に対抗できる軍事体制の基礎を作ったともいえる人物です。
そこで、今回は、小栗忠順と最後の将軍徳川慶喜との関係について考えてみたいと思います。
まずは徳川慶喜の来歴からみていくことにしましょう。
■徳川慶喜
徳川慶喜は天保8年(1837)、水戸藩主・徳川斉昭の七男として生まれました。母は有栖川宮織仁親王の第12王女の吉子女王です。武家の子であり、皇族の子でもあったのです。10歳の時、一橋家の養子となり、一橋徳川家を相続した後、徳川慶喜と名乗るようになりました。
1866年8月29日に、第14代将軍の家茂が亡くなりました。慶喜は、徳川宗家の継承はすんなり受け入れましたが、将軍職については拒み続けました。
当時、内政、外政とも幕府は危機に瀕していました。将軍職に就いても、労多くして、実りのないことがわかっていたからでしょうか。慶喜がようやく第15代将軍職に就いたのが、1867年1月10日のことでした。
すでに30歳になっていましたが、それだけに、慶喜はこれまでの将軍よりもはるかに多様な政治経験を積んでいました。その経歴を見れば、将軍職に就く前に、将軍後見職(1862年)に就き、辞任後は、禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮(1864年)に就いています。幕府ばかりか朝廷の要職にも就いていたのですが、これは先ほど述べた慶喜の出自が影響していたのでしょう。
さて、禁裏御守衛総督とは、聞きなれない言葉ですが、これは、幕末に朝廷が、幕府の了解のもと、禁裏(京都御所)を警護するため設置した役職です。それだけではありません。徳川慶喜はさらに、大坂湾周辺から侵攻してくる外国勢力に備えるため、摂海防禦指揮という役職にも任命されていました。
禁裏御守衛総督時代に撮影された慶喜の写真があります。
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(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Tokugawa_Yoshinobu_with_rifle.jpg、図をクリックすると、拡大します)
すっきりとした顔つきと、羽織に袴姿がなんとも印象的です。権威を誇示するような仰々しさがなく、シンプルな中にそこはかとない気品が感じられます。
この写真からは、慶喜の価値意識が滲み出ているように思えます。すなわち、伝統的な権威の意匠を脱ぎ捨て、コンパクトで機動的、行動力に秀でた実践力を重視する価値意識です。
おそらく、この頃から慶喜は、服装にも合理化、簡素化を図ろうとしていたのでしょう。写真撮影された姿からは、自らそれを実践していたことがわかります。
列強が次々と押し寄せ、その都度、為政者が判断を迫られる時代になっていました。もはや伝統に裏打ちされた権威が支配力の源泉ではなくなりつつありました。世界情勢を踏まえ、合理的で論理的な判断を下せる能力こそ、為政者に必要とされるようになっていたのです。
実際、外国勢にどう対応するかを巡って、国内で対立が激化していました。当時、押し寄せてくる課題に適切、的確に対処する能力がなければ、国が沈没しかねない状況に陥っていたのです。
慶喜が禁裏御守衛総督に就任したのは、1864(元治元年)3月25日です。朝廷から任命され、役料は幕府から受け取っていました(※ Wikipedia)。
変則的な職位でしたが、配下に京都守護職や京都所司代を従えた慶喜は、やがて在京幕府勢力の指導的役割を果たす存在になっていきました。
初代駐日フランス公使ベルクールの後任として、ロッシュ(Léon Roches, 1809 – 1900)が来日してきたのは、ちょうどその頃、1864年(元治元年)4月27日のことでした。
1865年頃に撮影された写真があります。
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(※ Wikipedia、図をクリックすると、拡大します)
56歳頃の礼服姿のロッシュです。やや威圧感があり、生真面目そうに見えます。アラビア語に堪能で、アフリカ諸国で総領事を務め、近代化改革のための助言を行ってきたといわれています(※ Wikipedia)。
そのロッシュがナポレオン3世によって1863年10月23日、駐日公使に任命されました。アラビア語は堪能でしたが、日本語には疎かったようで、初代ベルクールの通訳であったカションを公使館の通訳として雇用しています。
まずは初代のベルクールからみていくことにしましょう。
■初代駐日フランス公使ベルクール
ベルクール(Gustave Duchesne, Prince de Bellecourt, 1817 – 1881)は、初代駐日フランス公使として、1859年から1864年まで在職しました。1858年に制定された日仏修好通商条約に基づき、日本に派遣されました。
当初、ベルクールは全般に、高圧的な態度を見せていました。西洋諸国が中国に対し、武力介入するのを見てきたせいか、日本に対しても武力行使を否定しませんでした。
たとえば、1863年7月20日に発生したフランス海軍による下関砲台攻撃を是としていましたし、同年8月の英国海軍による鹿児島砲撃も支持していました。武力行使を当然視していたのです。
ところが、そのような好戦的な姿勢はやがて、フランス本国政府から批判されるようになりました。というのも、当時フランスは、メキシコ出兵(1861年12月8日‐1867年6月21日)で戦力を使っており、日本との摩擦はできるだけ避けたかったからです。
ベルクールは、フランス政府の意向を受けて、生麦事件の交渉以降、次第に親幕府的な態度をとるようになりました
たとえば、1863年秋、幕府が横浜の鎖港を言い出したとき、各国の公使はこれを拒否しました。ところが、ベルクールだけは理解を示し、幕府による横浜鎖港談判の使節団派遣を支援しています。
そのせいか、1864年(元治元年)にベルクールが任務を解かれ、代わりにレオン・ロッシュが着任することに決まったとき、老中はフランス政府にド・ベルクールの留任を嘆願するほどだったといいます(※ Wikipedia)。
ベルクールが親幕府的な立場を取っていたので、後任のロッシュも引き続き、幕府とは親密な関係を築いていきます。
■後任のレオン・ロッシュ
ロッシュは日本語に疎かったので、元箱館の宣教師で、ベルクールの通訳を務めていたメルメ・カション(Eugène-Emmanuel Mermet-Cachon, 1828-1889)を、公使館付きの通訳として雇用しました。
ところが、1866年(慶応2年)末にカションが帰国し、フランス公使館に通訳はいなくなりました。代わりに、塩田三郎らの幕臣が通訳を務めることになったのですが、これが、ロッシュの情報収集に偏りをもたらしていた可能性は否定できません。
フランス人通訳を介して情報を入手するのと、幕臣の通訳を介して情報を入手するのとでは受け取れる情報内容が大幅に異なってきます。幕府に都合の悪い情報は、幕臣は伝えないでしょうから、フランス側はもっぱら幕府側の情報に基づき、情勢分析をせざるをえなくなります。
実は、カションは再び、日本に戻る予定で帰国していました。ところが、徳川昭武使節団一行の世話係として、そのままフランスに留まることになったのです(※ Wikipedia)。
以後、フランス人通訳を雇用することができないまま、ロッシュの通訳はもっぱら幕臣が務めました。通訳を幕臣に依存している限り、反幕府勢力に関する情報を収集することは困難です。当時の混乱した社会状況をフランス公使が的確に把握できなかった可能性があるのです。
そのような偏った情報環境の下、初代のベルクールの影響もあって、ロッシュは幕府よりの姿勢を強めていきました。
■ロッシュの提案
1864年(元治元年)12月8日、ロッシュは幕府から、製鉄所と造船所の建設斡旋を依頼されています。以前からこの件を担当していた小栗忠順が、ロッシュに依頼したのですが、これを契機に、ロッシュはさらに幕府寄りの立場を取るようになっていきました。
その結果、幕府からさまざまな相談を受けるようにもなりました。ロッシュと幕府との間で成立した政索を整理すると次のようになります。
ロッシュが提案し、幕府が承認した主な政策は以下の通りです(※ Wikipedia)。
① 横須賀製鉄所建設:1865年1月24日約定書提出、10月13日工事開始。
② 横浜仏語伝習所設立:1865年4月1日開校。
③ パリ万国博覧会への参加推薦:1865年8月15日に幕府承諾。
④ 経済使節団を来日させ、600万ドルの対日借款・武器契約の売り込み:1866年
⑤ 軍事顧問団の招聘:1867年1月13日より訓練開始。
以上がロッシュの提案内容です。いずれも勘定奉行であった小栗忠順とロッシュが綿密に検討した上で作成し、幕府から承認を得たものです。
5件のうち、①、②、③、⑤は実現しています。
④については、一旦はフランス政府との間で成約していました。ところが、1866年にフランスに帰国したカションがパリの新聞に、「日本は一種の連邦国家であり、幕 府は全権を有していない」という論説を寄稿したのが原因で、フランス政府が対日借款の取り消しを要求してきたのです。
実際、フランス人が幕藩体制をみれば、連邦国家に見えるでしょう。その認識は間違っていないのですが、駐日公使館の通訳カションが、「幕府が全権を有していない」と書いたことがフランス政府の不安を駆り立て、契約の破棄に至ったことは明らかです。
フランス公使館が雇用していた通訳だけに、カションの寄稿内容はフランス政府を刺激しました。ようやく成約にこぎつけた600万ドルの対日借款がたちまち取り消され、小栗忠順とロッシュが積み重ねた努力が水泡に帰してしまったのです。
そればかりではありません。ロッシュもまた、幕府に極端な肩入れをしているとみなされました。フランス政府の意向を無視し、個人的な外交をしていると非難され、終には、フランス外務省から帰国命令が出されてしまったのです。
さて、ロッシュの提案はいずれも、勘定奉行の小栗忠順(1827-1868)が長年、考え抜き、準備してきたものでした。ロッシュの着任を契機にブラッシュアップされ、幕府の政権基盤を強化する目的で策定されています。
一連の政策を巡るフランスとの交渉をロッシュとともに進めていたのが、小栗忠順でした。
■小栗忠順
勘定奉行であった小栗忠順は、先ほどご紹介したロッシュの提案のすべてに関わっています。
1863年、まだ第14代将軍家茂の時代に、製鉄所建設案を幕府に提出しました。この時、幕閣からは反発されましたが、家茂が承認し、江戸幕府が製鉄所建設に動きました。まだロッシュが赴任する以前のことです。
製鉄所の建設を開始したのは1865年ですが、実は、それ以前に小栗が下準備をしていたのです。建設予定地の手配、鉄鉱石の検分、採掘施設の建設など、一連の作業は、小栗が済ませていました。
1865年4月1日には横浜仏語伝習所を開校する一方、パリ万国博覧会への参加を幕府に推薦し、1865年8月15日には承諾を得ています。
さらに、1866年には経済使節団を来日させ、600万ドルの対日借款で、武器契約の売り込みを行っています。この件は、フランス政府との間で一旦は成約していました。ところが、先ほどご説明したように、カションのせいで対日借款は取り消しになってしまいました。
最後に、フランスの軍事顧問団を招聘し、実際に1867年1月13日から訓練を開始しています。
こうしてみてくると、小栗が進めてきた一連の事業は、外交あるいは軍事に関連するものだということがわかります。日本が開国した暁には、必要になるだろうと思われる事業をピックアップし、それぞれを着実に開設あるいは開業できるよう手配していたのです。
先見の明があったからだけではありません。ロッシュとともに、フランス政府を相手に交渉を進めていったプロセスを考えれば、戦略と情報力、そして、胆力と行動力が彼に備わっていたからこそ、可能だったことがわかります。
将軍家茂の時代に着手し、慶喜の時代になっても引き続き、幕末の外交、軍事にかかわる政策を牽引していたのです。日本を欧米列強に負けない国に変貌させるためでした。
俊才だったからこそ、列強の脅威を強く感じていのでしょうし、そのための対策の必要性を感じていたのでしょう。愛国心に支えられ、信念をもって、これらの事業を推し進めてきました。その結果として、幕末の混乱の中、フランスの力を借りながら、近代的な軍事体制の構築に着手できています。
小栗は、遣米使節団の一員として、1860年に米艦ポーハタン号に乗って渡米し、地球を一周して帰国した経験がありました。日米修好通商条約批准のため、アメリカを訪れたのですが、当地で圧倒的な技術力の差を感じていたのです。
まずは技術力の差を縮めなければならないと彼が考えたのも当然でした。
赴任してきたばかりのロッシュに、洋式軍隊の整備をするにはどうすればいいか、横須賀製鉄所の建設を具体的にどう進めればいいのかなど、真剣に相談していました。それは、西欧の技術力の圧倒的な優位に対する恐れからであり、貧弱な国防体制への危機感からでした。
東善寺の前住職だった村上照賢が描いた小栗忠順の肖像画があります。
こちら →
(※ https://1860kenbei-shisetsu.org/history/register/profile-21/、図をクリックすると、拡大します)
いかにも繊細で、優しそう面持ちが印象的です。幕末の動乱期に小栗が積み上げてきた功績に比べ、あまりにも大人しそうな見かけに驚かされてしまいます。ギャップが大きすぎるのです。
一見、気弱そうに見える小栗のどこに、果敢な行動力と豪胆なエネルギーが潜んでいたのでしょうか。
この肖像画からははかり知れない綿密な思考と、それに裏打ちされた大胆な行動力を、小栗は持ち合わせていました。それが、将軍を巻き込み、フランス公使、フランス政府を巻き込み、彼が構想した一連の政索を実現させました。
一部、失敗に終わった政索があったとはいえ、幕末の動乱期に、フランスの力を活用して日本の軍事力強化を図っただけではなく、パリ万博を通して日本の存在をヨーロッパにアピールすることができたのです。
一介の勘定奉行が、幕府にとってかけがえのない大きな仕事をしてきたのです。
一方、徳川慶喜は、将軍職に就くことに躊躇していました。請われても、なかなか引き受けようとしなかった経緯があります。それほど、当時、内政、外政とも幕府は危機を迎えていたのです。
将軍職に就く以前の職歴を見ると、慶喜は、幕政と朝政、外国勢力に備える防衛をも担当しており、これまでの将軍は経験してこなかったような政治的経験をしていました。それだけに、さまざまなネットワークを通して、幕府の将来が見えていたのでしょう。
慶喜が将軍職に就いたのは1867年1月10日ですが、いずれ開国せざるをえないという認識を持っていたと思われます。就任すると、列強に対抗できるようにさまざまな制度改革を次々と行いました。
■慶応の改革
慶喜が正式に将軍に就任した慶応2年(1866)以降、改革されたものを「慶応の改革」といいます。
まず、既存の陸軍総裁、海軍総裁に老中を充てました。翌慶応3年(1867年)の5月には会計総裁、国内事務総裁、外国事務総裁にも老中を割り振り、老中をそれぞれ専任の長官にしました。唯一総裁に任じられていなかった老中首座の板倉勝静に、五局を統括調整する首相役をあてがい、事実上の内閣制度を導入しています(※ Wikipedia)。
こうしてヨーロッパの行政組織の要素を取り込む一方、諸藩や朝廷の権力を削減し、幕府を頂点とする中央集権国家に向けて、体制を変革させようとしたのです。
具体的には、人材登用を強化する人事制度改革、新税導入を含めた財政改革、旗本の軍役を廃止(銭納をもって代替)した軍制改革など、幕府を強化する改革を進めました。
諸外国が迫ってくる中、当時、もっとも重要な課題は、軍事改革でした。
■軍事改革
まず、幕府中枢に総裁制度を導入して陸軍局を設置し、従来の陸軍組織の上に、老中格の陸軍総裁を置きました。その一方で、築造兵といわれた工兵隊、天領の農民で組織した御料兵の編成なども行い、組織化を進めたのです。
こうして幕府直轄の軍事組織の一元化が進められ、旧来型組織は解体あるいは縮小されました。余剰人員のうち優秀な者は陸軍に編入され、武芸訓練機関であった講武所も陸軍に編入されて、陸軍所となりました。
もちろん、組織改革を行っただけではありませんでした。近代化された軍事を学ぶため、フランスに指導を仰ぎました。
シャルル・シャノワーヌ(Charles Sulpice Jules Chanoine, 1835 – 1915)大尉らフランス軍事顧問団による直接指導が導入され、その訓練を受ける伝習隊が新規に編成されることになりました。
1866年、日本に出発する前に撮影されたフランス軍事顧問団の写真があります。
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(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Members_of_French_Military_Mission_to_Japan_in_1867.png、図をクリックすると、拡大します)
中央で立っているのが団長のシャルル・シャノワーヌ、その左に座っているのがデュ・ブスケ、同右側がジュール・ブリュネです。顧問団一行は1866年11月19日にマルセイユ を出航し、慶応2年12月8日(1867年1月12日)に横浜に到着しました。
横浜に到着した翌日から、軍事顧問団は、エリート部隊であった伝習隊に対し、砲兵・騎兵・歩兵の三兵の軍事教練を開始しました。ところが、その数日後、兵士たちの基礎体力が不足していること、馬の取り扱い能力が不足していること、などが指摘されています。
訓練したみた結果、フランス軍人には、相当、てこ入れをしなければならないと思えたのでしょう。
慶応3年3月末の二日間、シャノワーヌは大坂に赴き、ロッシュとともに将軍徳川慶喜に謁見し、幕府陸軍の抜本的な改革をする必要があると述べています。慶喜は、それについては江戸の陸軍総裁松平乗謨が承り、必要経費は勘定奉行より支給すると回答しています(※ Wikipedia)。
フランスの軍人からはとても戦力にならないと思えたのかもしれません。提言を受けた慶喜は、具体的なことについては担当の陸軍総裁に任せ、必要経費は払うと回答しています。一応、前向きに対処しているのです。
さて、フランス軍人から訓練を受けた幕府軍の兵士たちも撮影されていました。
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(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Tokugawa_Shogunate_Soldiers_Boshin_War_c1867.png、図をクリックすると、拡大します)
1867年に撮影された写真です。西洋式の軍装に身を包んだ幕府軍の歩兵たちが撮影されているのですが、彼等の緊張した面持ちの中に、幼さが見え隠れしているのが印象的です。
興味深いことに、フランスの軍服を身につけた慶喜の写真も残されています。
こちら →
(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:TokugawaYoshinobu.jpg、図をクリックすると、拡大します)
この写真は1866年から1867年頃に撮影されたもので、現在、松戸市戸定歴史館に保存されています。慶喜が身を包んだ軍服は、ナポレオン3世から贈られました。フランスの軍事顧問団が来日した際に手渡されたものだといいます。
こうしてみると、幕府が一方的にフランスからの恩恵を受けているように見えますが、実は、フランスのために日本が尽力したこともありました。
たとえば、ナポレオン3世が幕府に強く要請し、慶喜が快く受け入れたものがあります。それは、蚕卵紙の輸出でした。井田氏は次のように、慶喜がナポレオン3世の要請に応じたことを記しています。
「ナポレオン3世の強い要請のもと、幕府・徳川慶喜は1万5千枚の蚕卵紙をおくりとどけることにした」(※ 井田浩三、「伊能図を元にした海外版刊行図」、『地図』56巻1号、2018年、p.40.)
蚕卵紙というのは、蚕のメスに、寒冷紗、クラフト紙、硫酸紙、糊引紙などの粘着性のある台紙の上で卵を産み付けさせた後、水で余分な糊を洗い落とし、更に塩水や風による自然乾燥によって不純な卵を落として製品化したものです(※ Wikipedia)。
当時のヨーロッパでは、蚕が原因不明の病に冒され、養蚕が壊滅の危機に瀕していました。先進性を誇るフランスも、日本や中国からの蚕卵の輸入に頼らざるをえない状況でした。ナポレオン3世からのたっての願いを聞き入れ、慶喜は蚕卵紙の輸出の応じたのです。結果として、フランスの危機を救うことになり、わずかとはいえ、互恵関係を築くことができました。
幕末の一時期、慶喜と小栗、ロッシュは共に、幕府の強化のためにフランスの力を借りて、制度改革を行いました。
彼等は、その後、どのような運命の展開を迎えたのでしょうか。
■慶喜、小栗忠順、ロッシュの命運
3人のうち、幕府の強化のためにもっとも力を尽くしたのは小栗忠順でした。
慶喜が打ち立てた「慶応の改革」のうち、ほとんどが以前から小栗忠順が構想していた政策でした。幕府を守るため、開国すべきという考えに立っていた小栗は、外国の意のままにならないために、なによりもまず、軍事力を近代化が必要だと実感していました。
当時の日本の軍事力ではとても列強には勝ち目がないことがわかっていたのです。だからこそ、軍艦は欧米から輸入するのではなく、自前で軍艦を建造する必要があると考えていました。1860年に訪れたアメリカで、欧米との技術力の差を小栗は痛いほど感じていたからでした。
そして、その圧倒的な技術力の差は、実際に建造できる力を身につけないと縮まらないとも考えていました。
軍艦を製造するには、製鉄所や造船所を建設しなければなりません。さらには、製造技術だけではなく、軍艦を操作する技術、西洋式の軍事訓練など、その周辺作業も学ぶ必要がありました。フランスの軍人や技術者を招聘し、指導を仰いだのはそのためでした。もちろん、フランス人から学ぶためにはフランス語を理解できなければならず、横浜仏語伝習所を設立しています。
このようにして、小栗は隈なく手を打ち、一定の段階までこぎつけました。
ところが、1867年11月9日、第15代将軍の慶喜は朝廷に大政奉還をし、幕府の屋台骨が崩れてしまったのです。続いて、1868年1月、鳥羽・伏見の戦いが勃発して、戊辰戦争に至りました。壊滅の道を進んでいくのです。
当時、小栗は、榎本武揚や水野忠徳らとともに、徹底抗戦を主張していました。具体的な戦略まで提案していたのです。小栗は軍事作戦にも長けていました。この作戦を採れば、勝てる目算があったといいます。
ところが、慶喜はこの作戦を採用しませんでした。穏便に済ませたかったのです。
最初に言いましたように、慶喜は武家の子であり、皇族の子でもありました。薩長が構想する朝廷を中心とする中央集権体制に移行するのも悪くないと考えていたのかもしれません。
家茂が亡くなった後も、慶喜はなかなか将軍職の承継を受け入れませんでした。幕府を中心とした中央集権体制ではなく、朝廷を中心とした中央集権体制に期待していた可能性があります。
幕府を存続させるための徹底抗戦を主張する小栗の作戦は、慶喜によって却下されました。
■それぞれの最期
その後、小栗は江戸を去り、高崎市の東善寺で静かな生活を送っていました。ところが、1868年5月27日、追手に引きずり出され、家臣らとともに処刑されてしまいました。家臣3人が先に次々と斬首され、最後に小栗が斬首されました。
享年40歳でした。不当だと訴えることもなく、ただ、家族の安全を願って、淡々と理不尽な死を受け入れました。小栗忠順は最期まで胆力のある人物でした。
一方、ロッシュはその後、まもなく公使を罷免され、1868年6月23日に日本を離れ、フランスに帰国しました。以後、外交官を辞めて引退し、ボルドー郊外で余生を過ごし、90歳で亡くなったといいます。
そして、慶喜は1868年4月11日、謹慎のため水戸に向かい、15日に到着しています。以後、水戸で暮らしていましたが、榎本武揚らが降伏して戊辰戦争が終結したのを期に、1869年9月、謹慎を解かれました。以後、静岡で趣味に没頭する生活を送り、1913年11月22日、76歳で亡くなっています。
三者三様の最期を思うと、理不尽な思いに駆られざるをえません。
なぜ、小栗忠順は無残な最期を迎えなければならなかったのでしょうか。
幕末の動乱期に、外交の力でフランス政府の支援を得て、軍事力を高める基盤を作り、その一方で、パリ万博参加を実現させて、列強に日本の存在を印象づけました。
幕末日本にとって誰もなしえなかったほどの功績をあげていながら、報われることなく、生を閉じざるをえなかったのでしょうか。(2024/4/30 香取淳子)