ヒト、メディア、社会を考える

03月

境界に挑む:花澤洋太氏の作品、武田司氏の作品

■「新鋭美術家2016」ギャラリートーク
 私が都美術館を訪れた2月28日、花澤洋太氏と武田司氏のギャラリートークが行われていました。作家による作品解説を聞く機会など、滅多にあるものではありません。もちろん、私は参加しました。

 翌週、他の3人の方のギャラリートークがあったのですが、残念ながら、私は参加できませんでした。ですから、ここでは、花澤洋太氏、武田司氏の作品を取り上げてみたいと思います。お二人のトークを思い起こしながら、創作の極意を探ってみることにしましょう。

■花澤洋太氏の作品
 花澤氏は「もり」というタイトルの三作品を出品されていました。一目見て、その迫力に圧倒されてしまいました。巨大で、しかも重厚感が強烈なのです。たとえば、最初に展示されていた作品、「もり 2015」を見てみましょう。この絵がどれほど大きいか、立っている花澤氏と見比べてみれば、一目瞭然です。

こちら →花澤絵

 この絵を見ていると、絵画の訴求力が、キャンバスに描かれた内容だけではなく、絵の具やキャンバスといった画材とセットで生み出されていることに、気づかされます。

 私たちは普段、絵を見るとき、何が描かれているのか、どのように描かれているのか、その絵にどういう意味が込められているのか、・・・、といったようなことを把握しようとします。半ば条件反射的に、そのような反応をしてしまうのですが、それはおそらく、私たちが何事に対しても意味を求めてしまう性癖を持っているからでしょう。

 ところが、ごくまれに、絵を見た瞬間、感動してしまうといった場合があります。描かれている内容を理解し、意味を把握する前に心が揺さぶられてしまうのです。なによりもまず、絵の総合的な力によって、観客の五感が刺激され、心が揺さぶられるのでしょう。意識下に働きかける非言語的な力の強さです。

 花澤氏の作品にはその種の訴求力があったのです。きっと、平面キャンバスに描かれた絵画にはない何かがあるはずです。

■曲面に描く

 あらためて、「もり 2015」を正面から見てみました。

こちら →もり2015
(300×300、油彩、コラージュ、レリーフ状パネル、2015年)
(巨大すぎて、私のカメラには収めきれず、画像はyoutubeから引用。)

 暖色系の絵の具を使い、森を象徴的に表現した作品です。ところが、通常の作品とは迫力がまるで違うのです。そこで、絵に近づいてみると、浮き上がったところとそうでないところがあって、画面が平らではないことがわかりました。

こちら →波打つ画面

 絵の下の方を見ると、波打っているのがわかります。平面ではなく、曲面の支持体を使っているのです。支持体のうねりが画面にさまざまな曲面を作り出し、絵の具の表情を豊かなものにしていました。曲面なので、場所ごとに光の当たり方が異なりますから、反射光や影も異なり、絵の具がそれだけ多様な表情をみせるのです。

 しかも、横から見ると、絵の具の量がすごいのに驚かされます。キャンバスの上に厚く盛り上がっています。

こちら →絵の具

 花澤氏は20年ほど、このような手法で、作品タイトル「もり」を制作しているといいます。そういえば、今回、展示された作品もタイトルはすべて、「もり」でした。そして、描画手法もこれまで通り、木製の支持体の上にべニアを貼り、そのうえにさまざまなものを貼り、最終的に布地を貼って、油絵具を載せていくというものです。

 お話しを聞いていると、どうやら花澤氏は、フレスコ画を書いていた時期があったようです。フレスコ画と聞いても、私はよくわからなかったので、調べてみました。花澤氏がいわれたのはおそらく、フレスコレリーフといわれる技法ではないかと思います。

 この技法では、パネルを作り、その上に発砲スチロールなどで盛り上げて整形し、最後にキャンバスを貼ります。そこに漆喰ではなく、絵の具を載せていくのです。この技法であれば、さまざまなイリュージョンを投影できると花澤氏はいいます。レリーフの上の光の当たり方で、絵の具が盛られた画面の表情がさまざまに変化するからでしょう。

■「抵抗感」をテーマに
 花澤氏は、絵画を通して表現したいのは、「抵抗感」だといいます。レリーフ状のキャンバスに油絵の具を載せていけば、物理的抵抗感を表現しやすいだけではなく、ヒトとの関係で生じた溝やわだかまりなど、心理的抵抗感も表現しやすいというのです。 

 先ほど書きましたように、ここ20年来、花澤氏は一貫して「もり」というタイトルで制作をしてきました。森は木々の集合体ですが、ヒトの集合体ともみなすことができます。油絵の具と曲面のある支持体を使うことによって、そのような個と集合体との関係を、森というモチーフの中に「抵抗感」を盛り込みながら、表現できると考えておられるようです。

 油絵の具は色によってそれぞれ乾くスピード、透明感、積層が異なっており、描かれた画面はまるで一つの社会のようだと花澤氏はいいます。油絵の具には時間とともに色褪せていくものもあれば、透明感が出てくるものもあります。油絵の具で表現されたものには色彩の明度、彩度の差異による多様性だけではなく、その種の多様性もあるので、ヒトになぞらえることができるといいます。抽象的な表現によって抵抗感を描き出そうとする花澤氏にとって、油絵の具は恰好の画材なのでしょう。

 しかも、油絵の具には強い匂いがあります。色によって視覚を刺激するだけではなく、匂いによってヒトの嗅覚を刺激するのです。そして、キャンバスを触れば、絵の具の塗りこみ具合によって手触りが異なりますから、触覚も刺激されるのです。油絵の具そのものが、見ているヒトの諸感覚器官に「抵抗感」を与え、インスパイアします。

■平面作家の立体へのこだわり
 花澤氏は、曲面に油絵の具を使って描くという行為を通して、人智を超えた表現効果を得ました。個々の作家が計算しつくし、技術の限りを尽くしても得られない効果を、このような描画方法によって得ているのです。ふと洞窟壁画を思い出しました。

 洞窟の壁面を利用してバイソンの図が描かれているのを、テレビで見たことがあります。先史時代のヒトは、洞窟壁の曲面からバイソンの背中や尻を想起したのでしょう、顔料を適所に置くだけでみごとにリアルなバイソンを造形したのです。自然の形状から動物の形を引き出し、顔料を載せて意味ある像を創り出した表現力に驚いたことを思い出します。

 まだ言葉を創り出していなかったころから、ヒトはすでにモノを対象化し、象形化する力、あるいは概念化する力を持ち合わせていたことがわかります。ヒトに組み込まれた英知のすばらしさを思わずにはいられませんでした。

 花澤氏の作品を見ていて、ふいに、この動物壁画が思い出されたのです。洞窟壁の中に潜む姿を見出して引き出し、質感を持つ絵の具を載せて形にしていますから、絵画といいながら、実はモノとしての存在感も強烈なのです。
 
 メッセージとして伝わってくるのは描かれた内容ですが、その背後で、重みや厚みを持って存在するモチーフのリアリティが感じられます。花澤氏の作品の場合、見る角度や距離を変えると、絵が違って見えてきます。

 常にしなやかな視点を持っていたいと、花澤氏はいいます。そういう思いがあるからでしょう、ワークショップを開催し、さまざまなヒトとの出会いの場を作り出しています。絵を制作するという行為は自己との対話の結果、生み出されるものですが、それ以外に、ヒトを通して見えてくるものもあります。花澤氏はその両方が大切だという考えに基づいて、創作とワークショップの開催を通したヒトとの交流を進めています。

■武田司氏の作品
 ギャラリートークでご本人にお目にかかるまで、私は武田司氏をてっきり男性だと思っていました。お名前から、なんの疑問もなくそう思っていたのです。ところが、実際は白いスーツを着こなしたステキな女性でした。

こちら →画家
(最新作「目覚めの刻」(90×140㎝、錆漆レリーフ、螺鈿、卵殻螺鈿、蒔絵、2014年)の前で撮影)

 「新鋭美術家」として工芸作家が選ばれるのは武田氏がはじめてなのだそうです。それを意識されていたのでしょうか、武田氏はまず、「工芸が美術として評価されたことが嬉しい」と喜びの言葉を口にされました。

 お父様が漆作家なので、幼いころは絵を描いている父の部屋が遊び場だったようです。日常的に美術の世界に触れ、憧れていながら、作家になるつもりはなかったそうです。創作に悩んでいるときの父の姿を知っているだけに、とても憧れだけでは美術の世界に入っていけないと思っていたと武田氏はいいます。

 ところが、どうしても美術家の魅力には逆らえなかったようで、結局、武田氏はいま、工芸作家として、父と同じ道を進まれています。もっとも、子どものころから創作の苦悩を見てきたせいか、武田氏の場合、絵画性の強い作風で、とても惹きつけられます。

 たとえば、「穣」という作品があります。一見すると、工芸作品ではよく見かける図案のように見えますが、どこか違います。明暗の付け方が絵画的で、奥行きがあり、ストーリーが感じられます。

こちら →穣
(150×105㎝、錆漆レリーフ、螺鈿、蒔絵、2005年)

 錆絵レリーフといわれるもので、モチーフに立体的な表現を取り込みながら、造形しています。通常、漆といえば、鏡面を想像してしまいますが、武田氏は塗って盛り上げ、削ぐという方法で作品を制作しています。

■錆上げレリーフ
 「積」という作品があります。セーターを着た女性が横になっています。ざっくりしたタートルネックの網目が盛り上がっています。触ってみると、指先に滑らかなレリーフの感触が残ります。

 錆上げは半乾きの状態でカッティングすることで制作しますが、この作品の場合、奥から順に盛り上げていくために、タイミングを見ながら、制作していったそうです。精緻な作業によってリアリティが高められています。絵画的なモチーフを斬新な構図で表現されているので、つい漆作品だということを忘れてしまいそうになります。

こちら →積
(150×105㎝、錆漆レリーフ、螺鈿、蒔絵、2001年)

 一般の漆作品では見たこともないようなモチーフです。女性が目を閉じて横たわり、その下を紅葉した葉が散っています。背景色は晩秋を思わせます。高齢期の女性と晩秋が巧みな構図の下で描かれており、人生を深く、そして、しみじみと感じさせられます。

 武田氏は作品を制作するとき、同じサイズで絵を描いておき、それを隣に置いて、見ながら制作するのだそうです。それを聞いて納得しました。モチーフの選び方、形状、構図、どれをとってもとても絵画的なのです。漆を使って錆絵の技法で、絵画的なコンテンツを載せていくという制作方法です。これが武田氏独自の美術世界を創り出しているように思えます。

■鬼シリーズ
 会場で面白いと思ったのが、鬼をモチーフにした一連の作品です。先ほど紹介した「穣」も暗い部分に鬼の顔や身体部位がレリーフで表現されています。背景に鬼を配置することによって、この作品に文化史的な深みが滲み出ています。

 鬼が主人公として扱われている作品もあります。「散華」です。

こちら →散華
(150×105㎝、錆漆レリーフ、螺鈿、蒔絵、2007年)

 二匹の鬼が争っているようにみえる構図が面白くて、私はこの絵に注目しました。対角線上の上方に襲う側、下方に迎え撃つ側が配置されており、それぞれ赤と緑という反対色の帯を付けています。帯の色彩、形状、配置によって、画面に生き生きとした動きが与えられています。左上方と右下方には雲がシンボリックに表現され、鬼の下には星屑のように金粉がちりばめられています。天空での出来事を故事として見せる配慮がうかがえます。

 二匹の鬼はそれぞれ、両手に散華を持ち、その周辺には小さな散華が散っています。散華とは仏を供養するため、ハスの花をかたどった紙をまき散らすことをいうのだそうです。鬼の表情と姿態がどこかユーモラスで、仏の供養のための行事が身近に感じられます。

 私が面白いと思ったのが、「空」です。

こちら →空
(150×105㎝、錆絵レリーフ、螺鈿、蒔絵、2006年)

 この作品には3匹の鬼が登場しますが、顔を見せているのは2匹です。一匹は井戸に映る青空を眺め、もう一匹は格闘中なのでしょうか、すごい形相をして天空をにらみつけています。とはいえ、2匹ともどことなく愛嬌があり、なんともいえない可愛さがあるのです。

 鬼が足で踏みつけているのは屋根瓦だそうです。使わない屋根瓦が土に埋め込まれているのです。そういえば、鬼瓦という言葉があるぐらい、鬼は守り神として、これまで日本人の日常生活に組み込まれてきました。ヒトには姿を見せず、そっと見守ってくれる貴重な存在なのですが、現在、私たちはそんなことを考える余裕もない生活をしています。そもそも鬼の居場所が現代社会からなくなってしまっています。

 2匹の鬼のいる位相が異なっており、鬼の姿態を通して表現されてるものも異なっています。ところが、いずれも鬼がヒトの日常の生活空間の中に潜み、天上を見、下界を見てヒトを見持ってくれているのです。この作品で面白いと思ったモチーフは、土に埋め込まれた屋根瓦と青空を映し出した井戸です。

 鬼というモチーフを設定したことで、鬼シリーズ作品に深みと文化的な味わいを出すことができたと思います。

■女性をモチーフに
 鬼を絡め、女性をモチーフにした「現ー長谷雄草子より」という作品があります。

こちら →現
(150×105㎝、錆漆レリーフ、螺鈿、蒔絵、2009年)

 平安初期の絵巻物「長谷雄草紙」から着想した作品です。

 wikipediaを見ると、以下のように説明されています。少し長いですが、作品を把握するため、引用しましょう。
********
 双六の名手でもある長谷雄のもとに、ある夕暮れに妙な男が現れて双六の勝負を申し込んだ。長谷雄は怪しみながらも、勝負を受けて立った。勝負の場として長谷雄が連れて来られたのは平安京の朱雀門であり、男は何の足がかりもなく門をするすると昇り、昇れずにいた長谷雄を担ぎ上げて楼上に昇った。この男こそ、朱雀門の鬼が化けた姿であった。

 長谷雄は勝負に全財産を賭け、鬼は絶世の美女を賭けると言った。双六は長谷雄が勝ち続けた。勝負に敗れた鬼は後日、美しい女性を連れて長谷雄のもとを訪れ、百日間この女に触れてはならないと言い残し、女を置いて去って行った。
 長谷雄は最初は言いつけを守っていたものの、80日が過ぎる頃には我慢できなくなり、ついにその女を抱いた。たちまち女の体は、水と化して流れ去ってしまった。その女は、鬼が数々の人間の死体から良いところばかりを集めて作り上げたものであり、百日経てば本当の人間になるはずだった。
 さらにその3か月後、長谷雄の乗る牛車のもとにあの鬼が現れ、長谷雄の不誠実を責めて襲い掛かった。長谷雄が北野天神を一心に念じると、天から「そこを去れ」との声があり、鬼は消えるように去って行ったという。
********* 以上、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E9%9B%84%E8%8D%89%E7%B4%99より。

 「現ー長谷雄草子より」のモチーフは、この物語に登場する水となって流されてしまった美女でした。百体の死体から鬼が作り上げたという絶世の美女です。左下方に流されていく女性を糸のようなもので操っているのは鬼の手足です。モノトーンの中で表現された水の流れ、揺蕩う長い髪の毛に包まれた女性、しっかりと筋肉のついた鬼の手足、いずれも繊細でしかも鮮やかに描かれています。

 武田氏は、美女が斜めに流れ落ちてくるこの絵の構図を、ヒトが生まれ出てくるときをイメージしたといいます。たしかに、この絵を一目見た瞬間、退廃的な美しさを感じさせられます。ところが、しばらく見ていると、生命の真髄、生きること、存在することの意義を深く考えさせられていきます。表層から深層へと観客の意識を誘導する深さがあるのです。

 女性をモチーフにした武田氏の作品はいずれもとても美しく、流れるように繊細な線が印象的です。

 たとえば、最初に紹介した武田氏の写っている後ろに展示されている「目覚めの刻」は、セミの羽化になぞらえ、子どもが女性になっていく微妙な時期が巧みに表現されています。

 画面両サイドの暗い部分は土の中なのでしょう、植物の根や微生物のようなものがいくつも描かれています。そして、中央の明るい部分はおそらく地上なのでしょう、木の枝に絡まるように、薄いセミの羽をまとってまどろむ少女が描かれています。セミが土から出てきて羽化するように、少女は初潮を迎えました。

 いつでも生命を宿すことができるようになったのですが、まだ子どものように深い眠りの中にいます。やがて目覚めれば、大人になっていくにつれ、さまざまな危険に遭遇していくのでしょう。束の間の安らぎとでもいえばいいのでしょうか、少女の寝顔はとても安らかです。

 武田氏の作品は16点、展示されていました。ここでは一部を紹介しただけですが、表層の美しさに加え、描かれている内容の深さに感動してしまいます。現実の捉え方がとても深く、そして繊細なのです。

■表現の境界に挑む
 「新鋭美術家2016」に選ばれた方々はいずれも表現の境界に挑んでおらるように見受けられました。とくに花澤氏は平面作品に敢えて曲面の支持体を使って表現することで、従来の表現技法だけでは得られない表現の地平を切り拓いていました。

 一方、武田氏は工芸作品に絵画的手法を取り込むことによって、独特の世界を創り出していました。工芸作品の繊細で完成度の高い美しさと、絵画作品ならではの奥行きの深さを生み出していたのです。

 武田氏は、工芸品は美しく作らなければならないというセオリーがあるといいます。ですから、ゴールをしっかりと決めて作業を進めざるをえないのですが、そうすると、途中でこうしようと思っても、それができないのです。自由な発想をコントロールせざるをえなくなります。ですから、最初にアイデアをしっかりと練り込み、完成形を予測しながら制作していくことになります。

 ところが、絵画は積み重ねで世界を作っていきますから、最初の案はいつでも変えることができます。描き始めてからも、試行錯誤が許されるのです。とくに油絵の場合、上から絵の具を塗ってしまえば、別の絵にしてしまうこともできるぐらいですから、自由度はきわめて高いといえるでしょう。

 花澤氏、武田氏、両者とも表現の境界に挑むことによって、新たな表現の地平を切り拓いていました。お二人のギャラリートークを聞いていて、異なる美術領域で制作活動を展開していながら、共通点があることに気づきました。

 それは曲面に対する繊細さです。花澤氏は平面ではなく、敢えて曲面を細工した支持体に描いていましたし、武田氏はレリーフの厚みにミリ単位でこだわっていました。光の反射、影のでき方など微妙に異なるからでしょう。

 今回、ご紹介したお二人はまさに新鋭美術家の名にふさわしい画力と挑戦力を持ち合わせた作家です。今後、グローバルな表現舞台でもおおいに羽ばたかれることでしょう。日本の若手画家が切り拓いた画法がどれほど新しい世界を見せてくれるのか、期待しています。(2016/3/24 香取淳子)

新鋭美術家2016:圧倒される表現力

■「新鋭美術家2016」展の開催
 「都美セレクション 新鋭美術家2016」展(2016年2月19日ー3月15日)が、東京都美術館ギャラリーCで開催されています。

 新鋭美術家展とは、東京都美術館が、27の公募団体から選りすぐった作家を紹介する「公募団体ベストセレクション美術」展の出品作家の中から今後、活躍が期待される50歳以下の作家をさらに選別し、新鋭美術家としてそれぞれ個展形式で紹介する展覧会です。「公募団体ベストセレクション2015」展は以下のような公募団体からの出品がありました。

こちら →http://www.tobikan.jp/media/pdf/20150313_bestselection2015a.pdf

 「新鋭美術家」展は、2012年に都美術館を大規模改修後、公募団体の活性化を目的に毎回、開催されるようになったそうです。今年は第4回目に当たります。先述した「公募団体ベストセレクション2015」展から、花澤洋太(独立美術協会、洋画)、森美樹(日展、日本画)、西村大喜(国画会、彫刻)武田司(日展、工芸)、戸田麻子(二紀会、洋画)の5人の作家が選ばれ、新作を含めた作品が個展形式で展示されています。

こちら →http://www.tobikan.jp/media/pdf/20151225_newwave.pdf

■圧倒される表現力
 2月28日、「新鋭美術家2016」展に行ってみました。まず、花澤洋太氏の作品に驚きました。巨大な曲面を支持体にモチーフが描かれているのです。写真で見るのと違って、圧倒的な迫力があります。

こちら →https://youtu.be/DmC1YJj5_rY
(http://www.museum.or.jp/modules/topics/?action=view&id=778 より)

 その隣りのコーナーに展示されていたのが、森美樹氏の作品です。一連の作品を見ていると、心の奥底に埋もれていた感覚が次第に蘇ってくるような気がします。子どものころ持っていたはずの感覚です。

こちら →https://youtu.be/BQE1vmO4F1M
(http://www.museum.or.jp/modules/topics/?action=view&id=778 より)

 春、木々が芽吹き、花を咲かせ始めます。それを見て喜んだのも束の間、やがて枯れていくのを悲しむ・・・、身の周りで起こるそのような生命現象を、ただひらすらに受入れ、そして、少しずつ、そこからさまざまなことを学んでいった子どものころが思い出されてくるのです。

 モチーフといい、色彩といい、構図といい、森羅万象に対する切ないほどの愛おしさが画面から伝わってきます。静かで深く、観客に訴えかけてくる表現力が素晴らしいと思いました。

 壁面と反対側に展示されていたのが、西村大喜氏の作品です。どの作品にも温かさが感じられ、見ていると触ってみたくなり、気持ちが和んでいきます。

こちら →https://youtu.be/pzkjUoSCx8M
(http://www.museum.or.jp/modules/topics/?action=view&id=778 より)

 写真を見ているだけではわからないかもしれませんが、これはすべて石です。そっと撫でてみると、その形状にふさわしい柔らかさと温もりが感じられます。不思議なことに、一連の作品を見ていくうちに、気持ちが優しくなっていくような気がするのです。微妙な曲線によって作り上げられた調和の世界に居心地の良さが感じられるからでしょうか。硬い石で作り出されたいくつもの球面が、観客の心の底からそっと優しい気持ちを引き出してくれそうです。

 受付を挟んで反対側のコーナーに展示されていたのが武田司氏の作品です。工芸作家として今回、はじめて新鋭美術家に選ばれたのだそうです。どの作品も緻密な仕上がりの中に遊びがあり、豊かな着想力を感じることができます。

こちら →https://youtu.be/6Ww9vNinAtA
(http://www.museum.or.jp/modules/topics/?action=view&id=778 より)

 絵画のようなモチーフ、構図ですが、よく見ると、繊細な技巧で制作された漆工芸です。どの画面にも動きが感じられ、モチーフを超えた奥行きと柔らかさが感じられます。よく見ると、浮彫になっていて、女性や鬼の身体の曲線が巧みに表現されています。

 漆や螺鈿などを使って微妙な細部が表現されているだけではなく、それらを統合した全体像がまた素晴らしいのです。時間をかけて構想し、なんども練り直して制作されているからでしょう。表現力のすばらしさに驚きました。

 その隣のコーナーに展示されていたのが、戸田麻子氏の作品です。作品を一目、見て、衝撃を受けました。そして、戸田氏がまだ20代の女性だと知って、さらに驚きました。一連の作品には深い苦悩と、存在への問いかけが描かれていたのです。

こちら →https://youtu.be/1lBCLtcZsO8
(http://www.museum.or.jp/modules/topics/?action=view&id=778 より)

 衝撃を受けたのが、ニワトリの磔刑図です。意表を突くモチーフですが、羽根の白さ、トサカと内臓の赤によって、ニワトリの苦痛が直接的に表現されています。背景も暗い色調で描かれていますから、その苦痛がとてもリアルに伝わってきます。

 見ているうちに、気持ちが痛み、次第に内省的になっていきます。画面上で表現された苦痛が観客の心に投影され、苦悩を引き出すからですからでしょうか。戸田氏の構想力、構成力、そして、表現力に感嘆しました。

■2016年度の新鋭美術家
 2015年度の新鋭美術家展も素晴らしかったですが、今回はそれ以上に野心的な試みが見受けられ、今後がおおいに期待されます。公募展から推薦され出品された作品の中から5人の作家が選ばれるという仕組みの成果でしょうか。あるいは、年齢条件のせいでしょうか。
 
 若手作家としながらも、ここでは50歳以下に年齢が設定されています。その点もよかったのではないかと思いました。若すぎると、その時点で才気が感じられても、将来はまだわかりません。多くの画家は試行錯誤しながら、30代、40代になってようやく画家としての境地を切り開き、安定化させていくのだろうと思います。ですから、「今後活躍が期待される50歳以下」という条件は若すぎなくていいと思いました。

 今回、選ばれた5人の画家のうち、花澤洋太氏は49歳、森美樹氏は48歳、武田司氏は46歳です。もし、「40歳以下」という条件なら、このような圧倒的な画力を見せる画家が選に洩れてしまいます。幅広く年齢設定をしているおかげで、20歳の才気あふれる新人から、技術を蓄え、圧倒的な表現力をもつ中堅までの画家を対象にすることができました。見応えのある展覧会でした。

こちら →images
(西村氏の作品を手前に、左に花澤氏の作品、右に森氏の作品が展示されています)

 花澤氏、武田氏のギャラリートークに参加しましたので、両氏の作品については、あらためて、ご報告したいと思います。(2016/3/11 香取淳子)

「文研フォーラム2016」に参加し、OTT産業の今後を考える。

■OTTはメディア産業をどう変えるか
 2016年3月1日、千代田放送会館で「文研フォーラム2016」が開催されました。私はセクションAの「OTTはメディア産業をどう変えるか」に出席しました。放送事業者、メディア関係者、研究者など大勢の方が参加しておられました。

こちら →IMG_2022

 OTTとは、Over The Topの略語で、動画・音声などのコンテンツサービスを提供する事業者のことを指します。このセクションでは、James Farrell氏(Head of Content-Asia Pacific Amazon Prime Video & Amazon Studios)、David Weiland氏(EVP, Asia BBC Worldwide)、西田宗千佳氏(ITジャーナリスト)を登壇者に迎え、パネルディスカッションが行われました。

こちら →https://www.nhk.or.jp/bunken/forum/2016/program.html

 まず、柴田厚・上級研究員によってアメリカでの概況が説明され、田中孝宜・上級研究員によってイギリスでの概況が説明されました。説明はパワーポイントを使って行われたので、諸状況を把握しやすく、スムーズに議論の展開に入っていくことができました。

■米英のOTTをめぐる概況
 柴田氏は、アメリカではOTTの普及で放送のあり方が大きく変容していると報告しました。Netflix、Hulu、AmazonなどOTT三大事業者がシェアを広げており、それに押されるように、テレビ事業者が新たなOTTサービスを始めたといいます。

 たとえば、Univision NOWは2015年11月からヒスパニック住民のためにスペイン語コンテンツに特化して配信しはじめ、NBC Seesoは2016年1月からコメディ番組に特化して、エッジの効いた番組の配信を開始したそうです。

 柴田氏はアメリカのOTT業界はいま、混戦模様を呈しており、各事業者はパートナーとして協力しあうこともあれば、競合相手として競い合うこともある状況だといいます。そして将来、それらの事業者がシームレスにユーザーにコンテンツを提供するようになるだろうと予測します。

 一方、田中氏は、NetflixやAmazonなどが進出しているが、イギリスではBBC iPlayerがOTT事業をけん引しているといいます。BBC iPlayerは公共サービスとして無料でコンテンツを提供しており、利用者はBBCのテレビやラジオ番組のほぼすべてを視聴することができます。

 もちろん、SKYをはじめ有料サービスを提供している放送事業者もありますが、BBC以外の放送局も独自にOTTサービスを提供していますから、イギリスでは基本的に無料視聴が中心になっているといいます。そのせいか、NetflixやAmazonの影響をそれほど深刻に捉えていないようです。

■Amazon、BBC、ITジャーナリストの見解
 AmazonのJames Farrell氏は、2015年9月に開始されたAmazon Primeの現状を説明されました。プライム会員は翌日配達の便宜に加え、追加料金なしでコンテンツ配信サービスを受けることができます。

 Amazon Primeの加入者は増加し、視聴時間も増えているといいます。現在、コンテンツの70%は日本語で配信されていますが、まもなく、サマーズを起用したコンテンツなど、日本オリジナル版を提供していくといいます。Amazon Primeは日本向けのローカライズを進めているのです。

 一方、BBCのDavid Weiland氏はBBCの現況を説明した後、BBCの戦略として、①質の高いコンテンツ制作、②強力なグローバルブランドの構築、③デジタル化対応、等々を示されました。

 もとはといえば、見逃しサービスから発したBBC iPlayerですが、BBC Storeとリンクさせることによって、視聴者はいつでも番組を購入できます。そして、購入済みの番組はさまざまなデバイスによって視聴できる仕組みになっているのです。

こちら →http://www.bbc.co.uk/iplayer/features/buy-and-keep

 David Weiland氏は、新しいデバイスが登場するたびに、BBCではiPlayerとどうマッチングさせるかを考えるといいます。テクノロジーの進化に合わせ、iPlayerも進化させるというのです。テクノロジーが進化すれば、視聴傾向も変化しますから、新規テクノロジーにマッチングさせておかなければ、視聴者のBBC離れを引き起こしかねません。このような方針で臨むBBCはまさにICT時代の放送事業者といえるでしょう。

 David Weiland氏は、BBCがiPlayerを立ち上げたのは、視聴者が今後、オンライン視聴に移行していくと判断したからだといいます。

 たしかに、若者に限らず現代の視聴者はもっぱらスマホやタブレットで番組を見ており、テレビ番組だからといって必ずしもテレビで見ているわけではありません。このような現実を予想したからこそ、ネット配信に着手しなければ、出遅れてしまうとBBCは判断したのでしょう。BBC iPlayerが運用開始されたのは2007年12月からでした。

 ITジャーナリストの西田氏は、日本のOTT事業は海外に比べ、5年は遅れているといいます。日本の場合、そこから得られる利益が大きくないからだというのですが、その日本でも、現在、スマホやタブレットで映像コンテンツを視聴する人が増えています。となれば、将来、OTT事業が収益を生み出せるようになるかもしれません。

 西田氏は、どのようなコンテンツを提供していくかが大切だといいます。そして、テレビ東京が『妖怪ウォッチ』のネット配信で大成功を収め、全体としてのコンテンツビジネスを変えたことに注目します。

 それを聞いて、私はとても興味を覚えました。後で調べてみると、2015年度、たしかにテレビ東京は大幅に収益を上げていますが、それは、アニメなどのライセンス収入の大幅な増加によるものでした。地上放送では前年同期比1.1%増だったのに、アニメなどのライツ関連が346%も増加していたのです。

こちら →http://gamebiz.jp/?p=156867

 アニメはグローバル展開しやすく、コンテンツ流通のハードルを越えやすいのかもしれません。日本がOTT事業を推進していくうえで、どのようなコンテンツをどのように提供していくか、今後ますます重要になるでしょう。

 最近、目覚ましい躍進ぶりを見せているのが、Netflixです。DVDの宅配レンタルで1997年に事業を開始したNetflixがどのようにしてこのような発展を遂げることができたのか、フォーラムでは詳しく取り上げられなかったので、ここで少し触れておきます。

■Netflixの躍進
 OTTの加入者は増加し、視聴時間も増えてきました。最大手のNetflixは2016年1月現在、世界190か国以上、7000万人以上にサービスを提供しています。

こちら →helloWorld
Netflix media centerより。図をクリックすると拡大されます。

 Netflixはオリジナルシリーズ、ドキュメンタリー、長編映画など、1日、1億2500万時間を超えるコンテンツをオンラインで配信しています。会員はさまざまなオンライン接続デバイスで、いつでも好きな時に、好きな場所からコンテンツを視聴することができます。まさにOTTの最先端をいく事業者といえるでしょう。

 1997年にDVD宅配レンタルサービス事業を始めたNetflixは2007年、一部作品を対象に、VOD方式による動画配信サービスを開始しました。以後、急速に加入者を増やしていきます。

こちら →s2015TS314_3_2-580x327
(吉岡佐和子・情報通信総合研究所より)図をクリックすると拡大されます。

 吉岡佐和子氏は、Netflixの特徴として、他のOTT事業者に比べ、圧倒的にコンテンツが多いことをあげます。もっとも、さほど有名でない作品が多いことも指摘し、Netflixが以下のような工夫をしていることを紹介しています。

「最新のテレビシリーズを放送するHulu Plusとは異なり、ライセンス料が安く、さほど有名でない作品が多い。そのため、Netflixはユーザーの過去の動画視聴状況に関する莫大なデータを分析し、個々のユーザーの好みを把握して、その嗜好に近い作品をレコメンドしている。その結果、これまでユーザーが知らなかったような作品であっても、嗜好に合っているため楽しむことができる。ここがNetflixの最大の強みであり魅力なのである」
(http://www.icr.co.jp/newsletter/s2015ts314_3.htmlより)

 このようにNetflixは、ユーザーの視聴動向に沿ったコンテンツ提供サービスを展開しているというのです。ビッグデータを分析した結果を重視する経営姿勢は、テレビ番組を配信する際、シーズン終了後に一挙に全話を配信するという形式をとっていることにも表れています。

 視聴動向を分析した結果、多くの視聴者が全話を一挙にまとめて視聴するという傾向がみられたことを踏まえ、Netflixはこのような配信形式を採用するようになったというのです。これもまた、ビッグデータに基づくマーケティングを踏まえた戦略といえるでしょう。

 吉岡氏はさらに、Netflixはオリジナルコンテンツを制作する際にも、このようなデータに基づいて行っているといいます。

 「Netflixはオリジナルコンテンツの作成に莫大な投資を行っているが、そのストーリーや俳優は、視聴者がどういうストーリーを好んで見ているか、どの俳優の作品が多く見られているか、といった莫大な視聴データを用いて決定している。「House of Cards」はネットドラマ初となるエミー賞を受賞したが、これはNetflixの綿密な戦略により、受賞が約束されていたといっても過言ではないだろう」
(前掲URLより)

 「House of Cards」は政治・社会派テレビドラマシリーズで、Netflixが番組販売および配信をしています。2013年2月1日からシーズン1、2014年2月14日からシーズン2、2015年2月27日からシーズン3が配信されており、2016年3月4日からシーズン4が放送開始されます。各シリーズはそれぞれ13話配信されています。

こちら →http://www.imdb.com/title/tt1856010/

 この作品はネット配信で初公開されたドラマシリーズとして、2013年に第66回プライムタイム・エミー賞を受賞しました。以後、数々の賞を受賞しています。まさにビッグデータを駆使したコンテンツ制作の成果です。

 それでは、日本市場でOTTはどのような展開を見せるのでしょうか。

■日本市場とOTT
 日本でもNetflix、Hulu、Amazonなど三社のサービスが利用されています。放送コンテンツ配信サービスはいまや急速にグローバル化しつつあります。果たしてこれらの事業者が日本市場で成功するのか、否か。問題は、利用者がどれほどそのサービスを利用したいと思うのか、です。

 この三社にdTV、U-NEXTを加え、各社のサービスを比較したサイトを見つけましたので、ご紹介しましょう。

こちら →http://getnavi.jp/11513

 これを読むと、Amazon以外のほとんどのサービスが実質的に月額1000円で抑えられていることがわかります。ですから、現在のところ、価格面で競争優位に立っているところはありません。それではコンテンツの方はどうでしょうか。

 James Farrell氏はAmazonのさまざまな取り組みを紹介したうえで、重要なのはコンテンツだといいます。ヒットするようなコンテンツはそれほど手をかけなくてもヒットするともいいます。ICT時代では、いいコンテンツが埋もれたままになることはなく、いつか誰かの目に留まり、日の目を見るようになるからでしょう。そして、これからAmazonは日本オリジナル版を充実させていくといいます。

 BBCのDavid Weiland氏も質の高いコンテンツを目指しているといいます。コンテンツの制作ではヨーロッパの方が進んでいるが、Broadbandはアジアの方が進んでいるとし、OTTのアジア市場は今後、発展するだろうと予測しています。

 それでは、OTT事業者が配信するコンテンツは現時点で、どう評価されているのでしょうか。

 先ほど紹介したサイトによると、Netflix、Hulu、Amazonについて、コンテンツの面で比較すると、海外ドラマを見たいのならHulu、他では見られないオリジナルコンテンツを求めるならNetflix、そして、Amazonは他に比べ配信コンテンツ数は少ないが、プライム会員なら追加料金がいらないのでお得と、判定しています。(前掲。http://getnavi.jp/11513より)

■視聴者の立場からOTTを考える
 最後に、視聴者の立場からOTTについて考えてみることにしましょう。私の場合、どうだったのか、OTT受入れ状況を含め、最近の視聴傾向を振り返ってみることにしたいと思います。

 I-phone6sに買い替えた際、Netflixが標準装備されていましたが、私は加入しませんでした。ケーブルテレビで十分だと思ったのです。Amazonの場合も同様、私はプライム会員なので追加料金なしに動画コンテンツ提供サービスを利用できるのですが、いまだに利用していません。とくに見たいと思う番組がないのです。

 1日は24時間しかありませんし、見たいと思う動画コンテンツも限られています。どれほど多くの選択肢があったとしても、一人の人間が見られるコンテンツ数には限度があります。これが視聴者がOTTサービスを受け入れる際の大きな制約要因になるのではないかと思います。

 私の場合、現在はケーブルテレビを通して、様々な放送コンテンツを見ています。ニュース系統はCNNやBBC、CCTV大富などを見ていますし、ドラマは主にイギリスのミステリードラマをよく見ています。

 ケーブルテレビでは多数の番組が提供されていますから、私はこれまでいろいろなチャンネルを視聴してみました。視聴したいチャンネルが決まってきたいまも、たまに他のチャンネルに変えてみるのですが、満足できず、結局、上記のようなチャンネルでほぼ固定してしまいました。

 視聴者にはコンテンツに対する固有のニーズがあります。そのニーズに対応できるコンテンツが提供されれば満足し、コンテンツと視聴者の満足感の回路ができあがれば、やがてそれが習慣化されます。そして、視聴行動がいったん習慣化されれば、なかなか崩れないことが経験上、わかります。

 私は以前、iphoneで海外の番組を視聴していました。アルジャジーラの番組も視聴できましたから、シリアの政変などはiphoneで見ていました。その後、ipadで視聴するようになりましたが、長時間見続けると、画面が小さすぎて目が疲れます。

 モバイルデバイスはいつでもどこでも見られるというメリットはありますが、長時間、視聴するのは無理です。やはり大画面の高精細度テレビで視聴する魅力にはかないません。現在、視聴者はさまざまな状況下でコンテンツ消費を楽しみたいと思うようになっています。さまざまなデバイスでコンテンツを視聴できるOTT事業は、視聴者のその種のニーズに応えることができますから、大きく伸びていくでしょう。

 視聴者としての経験を踏まえ、OTT事業の今後をざっと見てきました。世界の動向と同様、日本でもOTT事業は進展していくでしょう。ただ、テレビ放送の時代と違ってネット配信の時代には、質の高いコンテンツの提供こそがOTT事業者生き残りのカギになると思います。

 今後、質の高いコンテンツをどのように見せていくのか、質をどのように維持していくのか、ビッグデータを活用した戦略が必要になってくるでしょう。さらに、ネットとテレビ、コンテンツ・ストアをシームレスに連携させる工夫をしていくことが、OTT事業の経営基盤の安定につながるのではないかと思います。(2016/3/9 香取淳子)

第12回中国全国美術展:中国リアリズムの煌めき

■「百花繚乱 中国リアリズムの煌めき」展の開催
 2016年2月25日、日中友好会館美術館で「百花繚乱 中国リアリズムの煌めき」展(2016年2月25日から4月10日)のオープニングセレモニーが開催されました。中国の全国美術展の一部を日本で鑑賞できる絶好の機会です。開催を楽しみにしていた私は定刻より早く会場に出向きましたが、すでに大勢の方々が談笑しながらフロアで開会を待っておられました。

日中の主催者および来賓の方々が挨拶された後、テープカットが行われました。

こちら →IMG_2565

 「百花繚乱 中国リアリズムの煌めき」展は、日本側主催者が第12回「全国美術展」で展示されていた576作品の中から厳選した76作品が展示されています。中国画、油彩画、水彩画・パステル画、版画、漆画、アニメーションなど、幅広いジャンルの美術作品が展示されています。どの作品もすばらしく、現代中国美術の表現力の高さ、多様さの一端をうかがい知ることができます。直近5年間の中国の現代美術の動向を知るまたとないチャンスといえるでしょう。

こちら →http://www.jcfc.or.jp/blog/archives/7421

 中国では5年に一度、政府主催による「全国美術展」が開催されます。2014年12月15日に開催された第12回全国技術展では、中国全土から2万点余りの作品が応募されました。その中から4391点の入選作品が選ばれ、さらに、その中から受賞作品、優秀作品、受賞ノミネート作品576点が、北京の中国美術館で展示されました。そして、その576作品の中から金賞7点、銀賞18点、銅賞49点、優秀賞86点が選ばれました。「全国美術展」はまさに現代中国を代表する美術作品の展覧会なのです。

こちら →http://12qgmz.artron.net/index.html?hcs=1&clg=2

 中国各地での巡回展の終了後、世界各地でこの展覧会の巡回がおこなわれています。日本では日本人主催者側が選んだ76作品で構成された展覧会がすでに2015年、奈良県立美術館、身延町なかとみ現代工芸美術館、長崎県美術館などで開催されています。日中友好会館美術館での開催は日本では4回目に当たり、本展終了後は福岡アジア美術館で開催されます。

 会場では、日本での展覧会のための作品選定に関わった3人の方々が作品を紹介されました。説明順に、中国画、油彩画、アニメーションの諸作品を見ていくことにしましょう。

■中国画に見るリアリズム
 森園敦氏(長崎県美術館)は中国画の代表作として、「団らんー家族愛」を取り上げられました。この作品は本展の最初に展示され、カタログの表紙にも使われていましたが、中国美術館でもトップに飾られていたそうです。陳治氏と武欣氏のご夫婦が制作された作品で、中国画部門で金賞を受賞しました。

こちら →団らん
(172×200㎝、シルクに顔料、墨、2014年)

 たしかにこの絵には強烈な存在感があります。決して派手ではないのですが、大きな画面から発散される温もりのようなものが観客の気持ちを吸い寄せていくのです。私は中国画を見るのは今回が初めてなのですが、この絵の繊細で優しい色遣いに気持ちがしっくり馴染みます。どこか日本画に通じるものがあるような気がしました。

 森園氏は、中国画には長い歴史があり、宮廷画家が手がけた花鳥風月をモチーフとした作品の系統と、文人による自然をモチーフにした作品の系統があったといいます。とくに、文人は絵の中に“意”を盛り込むことを重視し、制作していたそうです。

 文人は絵を見るヒトになんらかのメッセージを伝えることに意義を見出していたのでしょうか。それとも、写実的に再現するだけでは済まない表現衝動が文人にはあったのでしょうか。いずれにせよ、中国の文人画家たちが具象からなんらかの意味を抽出しようとしていたことに私は興味をおぼえました。具象から抽象に進み、やがて記号化されていった漢字の成り立ちを連想させられたからです。

 この絵は帰省した息子家族と老夫婦の再会を喜び合う光景をモチーフにしています。誰もが経験する日常生活の一コマですが、そのなんでもない日常の中に現代中国の世相が繊細に捉えられており、心を打ちます。リアリズムの手法によって、現代社会の深層が的確に表現されていることに感心しました。この絵については次回、再度取り上げ、掘り下げてみたいと思います。

 中国画部門で他に印象に残ったのは、「光陰の物語」です。

こちら →光陰の物語
(220×185㎝、顔料、紙、2014年)

 これは黄洪涛氏の作品で、中国画部門で銀賞を受賞しました。赤煉瓦の建物を背景に雪の積もった路面電車が詩情豊かに描かれています。淡い色調で表現された都会の風景と雪景色が調和し、美しい光景が描出されています。

 今回初めて、中国画を見たのですが、日本画とも重なる繊細で豊かな表現に感嘆しました。紙あるいはシルクという支持体に顔料あるいは墨で表現された世界には間接表現の奥ゆかしさがあり、惹かれます。

■油彩画に見るリアリズム
 南城守氏(奈良県立美術館)は油彩画部門の代表作として、「広東っ子の日常」を取り上げられました。李智華氏が制作された作品で、油彩画部門で銀賞を受賞しました。

こちら →広東っ子の日常
(176×200㎝、キャンバスに油彩、2014年)

 南城氏は、展示作品選定のため中国美術館を訪れた際、この作品が第一室で際立った存在感を放っていたといいます。日常の一コマを描いた作品ですが、その中に詩が感じられるというのです。

 この絵で描かれているのは、香港でも北京でも上海でも中国のどこでも、日常的に見かけるような光景です。休憩してたばこを吸っていたおじさんのこちらを見据える鋭い目が印象的です。

 そのおじさんの鋭い目につられ、その後ろを見ると、ショーケースがあり、所狭しと、焼き上げられた食肉がぶら下げられています。赤い椅子に座ったおじさんは、照明の下で鮮やかに輝く食肉へと観客の視線を誘導するための導入モチーフにすぎないようです。

 一方、右側の絵の中年女性は客足の途絶えたひととき、一息ついてリラックスしているようです。照明の後ろで顔は暗く、手前に並べられた食肉に目がいきます。こちらもヒトは背景として扱われています。

 ヒトが主人公かと思ってこの絵を見ていくと、光の当て方、色の使い方、画面全体に占めるボリュームなどから、実は食肉が主人公だということがわかります。たとえば、左側の絵は手前を暗く、右側の絵は手前を明るく、画面が構成されています。しかも、光が強く照射され、鮮やかに色彩が塗りこまれているのはいずれもヒトではなく、食肉なのです。

 南城氏はこの絵を見ていると、食欲が出てくるといいます。たしかに、この絵からは食肉のおいしそうな匂いすら感じられます。

 ところが、この絵をよく見ると、それほど細密にディテールが描かれているわけではありません。それでも圧倒的なリアリティが感じられますし、店番をするおじさんや中年女性の心象風景まで感じられます。それこそ緻密に考え抜かれた構図と明暗の付け方、タッチの鋭さのせいでしょう。油絵具の特性を活かした李智華氏の技法が秀逸です。リアリズムの極致といえるでしょう。

■独自性のあるアニメーション
 最後に、五十嵐理奈氏(福岡アジア美術館)はアニメーション部門で紹介したい作品として、「窓からの景色」を挙げられました。于上氏が制作した受賞ノミネート作品です。紙を切って造形し、一コマずつ動かして動画として仕上げた作品です。

こちら →IMG_1889
(5分12秒、アニメーション、2014年)

 上の写真は会場で放映されていた映像をカメラに収めたものです。次のようなカットもあります。

こちら →IMG_1890

中国のサイトではもう少したくさんの画像を見ることができます。

こちら →http://12qgmz.artron.net/index/exhibit_detail.html?id=52689&Cityid=585

 五十嵐氏が中国美術館で作品選定にあたった際、日本アニメと似たような作品、中国細密画に基づいた作品、墨絵風の作品が数多く展示されていたそうです。それだけに、紙を切り張りして制作したこの作品には独自性があって、惹かれたといいます。

 私はこの作品を見て、クレイアニメに似たような手法で制作されていることに興味を覚えました。クレイアニメと同様、着色しない白黒の紙という素材がすでに作品世界を作り上げているのです。テーマを視聴者に伝えるための表現の工夫が随所に見受けられます。

 このような作品が制作されるようになっていることを知り、驚きました。

 私は2011年から12年にかけて北京と河北省で大学生に対する意識調査を実施したことがあります。中国アニメは面白くないというのが学生たちのほぼ一致した見解でした。

 そこで、2013年、北京でアニメ制作者やアニメ会社の担当者に取材しました。彼らが一様に口にしていたのは、独自性のあるアニメーションを制作するのは難しいということでした。ある程度の視聴者数、観客数を見込める作品の制作を目指そうとすれば、オリジナリティはなかなか出せないというのです。

 今回の作品は短編でもあり、白黒の紙制作でもありますから、独自性はあっても商業化には向かないでしょう。ただ、アニメ制作に関し、このようなさまざまな試みが展開されているのはとても重要なことだと思います。制作者の裾野が広がることによって、切磋琢磨しあう機会が増えれば、より魅力的な作品が制作されるようになるでしょうから・・・。

■中国リアリズムの煌き
 学芸員の方々が紹介した作品を中心に、「百花繚乱 中国リアリズムの煌めき」展を概観してきました。会場にはさまざまな作品が展示されています。次々と見ていくうちに、私たち観客が絵に求めるものは、何なのかと思い始めました。

 絵の前に佇んでしばらく見入ってしまう作品があります。別に上手なわけでもなく、モチーフが斬新なわけでもない・・・、なぜだかわからないのに、妙に立ち去りがたい思いにさせられる作品です。

 ちょっと考えてみました。

 その絵の前を立ち去りがたくしているものは、おそらく、作品に込められたメッセージの力なのでしょう。観客との対話を引き出す力といっていいのかもしれません。見る者の目ではなく、気持ちに訴えかけてくる力です。

 私たち観客は、支持体の表層で表現されたリアリティではなく、作家の創作過程からにじみ出る内面のリアリティを見たいのです。どれほど深く現実を省察しているか、どれほど繊細に現実を観察しているか、そして、どれほど深層に近づきえているのかといったことが気になります。だからこそ、少しでもそうした要素を感じ取ることができれば、その絵と対話を始めたくなるのだと思います。

 今回の展示作品はそのような気持ちにさせられる作品が数多くありました。まさにこの展覧会のタイトルのように「百花繚乱」です。その状況が生み出されていることに、中国美術の可能性が感じられました。

今回、紹介できなかった作品で素晴らしいものがいくつもあります。次回、取り上げていきたいと思います。(2016/3/3 香取淳子)