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生活文化

萩城下町で見た江戸文化とそのエッセンス

■世界遺産に登録された萩市の遺産
 萩市と聞いても私はこれまで、萩焼か吉田松陰、高杉晋作ぐらいしか思いつきませんでした。ところが、今回、萩市を訪れることになり、調べてみると、なんと萩市にある建築物が5つも世界遺産に登録されていました。2015年7月、これら萩市の遺産を含む「明治日本の産業革命遺産」が世界遺産に登録されていたのです。

 「明治日本の産業革命遺産」とは、九州・山口を中心にした8県11市におよぶ産業施設を主とした遺産群を指します。日本は非西欧圏で初めて産業国家として名乗りを上げました。その日本の近代化を支えた製鉄、製鋼、造船、石炭などの産業施設、あるいは、近代化に向けて、壮大な社会改革を実践した人々を偲ぶ建築群が、この世界遺産の対象となっています。

こちら →http://heiwa-ga-ichiban.jp/sekai/meijinihon/index.html

 登録された23の資産のうち、萩市の遺産は、萩反射炉、恵美須ケ鼻造船所跡、大板山たたら製鉄遺跡、萩城下町、松下村塾の5つです。

こちら →http://www.city.hagi.lg.jp/site/sekaiisan/h6085.html

 5月下旬、ふと思い立って、萩城下町と松下村塾を訪れてみました。最近、世界秩序が混沌とし始めてきました。東アジア情勢がきな臭くなり、不穏な雰囲気が漂い始めたので、あらためて明治維新のころを振り返ってみたくなったのです。

 訪れたのはいずれも、登録された萩市の遺産のうち、近代化に向けた意識改革を推進した人々を輩出したところです。幕末、明治期に萩市から、日本の国を大きく動かした人々が続出しています。いったい、なぜなのか。地政学的、歴史的、社会的要因などいろいろ考えられるでしょうが、まずは、現地を訪れてみようと思ったのです。

■萩の城下町
 萩の城下町は、阿武隈川から二手に分かれた橋本川(西側)と松本川(東側)に挟まれた三角州に造られました。関ケ原の戦いで敗れた毛利氏に与えられた領国は、交通が不便なだけではなく、町造りそのものも大変な場所でした。

 まず、海に面した指月山を背後に、萩城が築城されました。三角州の先端にありますが、地盤が固かったのと防御に適していたのでしょう。この萩城の周辺と寺が立ち並ぶ寺町一角だけは、地盤が比較的しっかりしていたといわれています。それ以外の場所は、三角州ですから、当時、屋敷一つを建てるにも地盤固めに相当、苦労したそうです。毛利氏に率いられて萩にやってきた人々は当初から逆境に立たされていたのです。

こちら →
(http://www.koutaro.name/machi/hagi.htmより。図をクリッすると拡大します。)

 世界遺産に登録されたのは、上記の図でいえば、二の丸、三の丸から平安総門に至る上級武士屋敷跡一帯と隣接した町屋の一部です。

 この城下町に一歩、足を踏み入れると、まるでタイムスリップしたかのように、江戸の街角が残っていました。長く続く土塀があるかと思えば、石積みの塀もあって、興趣をそそられます。往時の面影が至る所に残っていました。

 なかでも興味深かったのは、鍵曲(かいまがり)といわれている道づくりです。「鍵曲」とは、道の左右を高い塀で囲み、直角に(鍵のように)曲げるように作られた道をいいます。私は実際に、口羽家住宅近くの堀内鍵曲と、旧田中別邸近くの平安古鍵曲を歩いてみましたが、その一角に入ると、時間が止まったような、不思議な気分になります。

 上級武家屋敷のある一帯は、道の両側が長く伸びる瓦塀で挟まれていることが多いのですが、鍵曲がりに来ると、前方が塀でふさがれているので、前を見渡すことができず、迷路に迷い込んだような、不安な気持ちになってしまいます。前方と後方で挟み撃ちにされれば、逃げようがありませんから、思わず身構えてしまうのです。敵の侵入に備え、巧みな道路設計がなされていました。

 あらためて地図を見ると、堀内鍵曲は口羽家の近くありますが、この口羽家は毛利家一門です。また、平安古の鍵曲は旧田中別邸の近くにありますが、これもやはり毛利家の一門の右田毛利家の下屋敷跡です。こうしてみると、藩にとって重要な人物の屋敷はヒトで守られ、塀で守られ、そして、道路でも守られていたことがわかります。

■武家屋敷と夏みかん
 往時の人々の暮らしをあれこれ想像しながら歩いていると、どこからともなく、なんともいえない芳香が漂ってきました。見上げてみると、夏みかんが武家屋敷の塀瓦の上で鈴なりになっています。鮮やかな新緑の狭間から、まばゆいばかりの橙色をした夏みかんが瓦塀越しに、甘美な香りを辺り一面に放っていたのです。

こちら → 
(図をクリックすると拡大します。)

 毎年、この季節になると、旧田中別邸で「萩夏みかんまつり」が開催されます。今年は5月13日と14日でした。夏みかんは萩の名産ですが、その由来を聞いてますます、萩に親しみを覚えるようになりました。

 そもそも萩は江戸時代に毛利氏の城下町として栄えました。ところが、江戸末期、藩庁が山口に移転します。山陽道に出るにも、九州に出るにも、どう考えても萩は不利な地形だったからです。藩庁の移転を期に、重臣たちは萩を離れましたから、萩に残された士族たちは禄を失い、生活にも困るようになったそうです。

 そこで、明治9年(1876年)、旧萩藩士の小幡高政が中心となって、夏みかんを果物として栽培する事業に着手しました。もともと広大な武家屋敷には、夏みかんが植えられていました。栽培事業の素地はあったのです。しかも、夏みかんはそれほど手をかけなくても実ります。そこに着目した小幡らは夏みかんの栽培を組織的に行い、いわば地場産業として立ち上げたのです。精力的に取り組んだおかげで、10年ほどで大阪市場などに出荷され、高値で取引されるようになったといいます。

 江戸末期の藩庁の移転に続き、明治維新後は廃藩置県によって、広大な敷地を持つ上級武家屋敷から、主が立ち去ってしまいました。かつては政治経済の中心であった城下町にぽっかりと穴が開いたように、空き地ができてしまったのです。その空き地に次々と夏みかんが植えられました。

 上級武士屋敷は2000坪にも及ぶほど広大でしたから、植えられた夏みかんの木も膨大でした。1900年前後の生産額は当時の萩町の年間予算の8倍にもなったといいます。小幡高政の目論見通り、残された士族をはじめとする人々の生活を賄う糧になったのです。夏みかんは萩の名産として、その後、数十年、繁栄を誇ります。夏みかん以外の柑橘類や他の果物が出回るようになる1970年代ごろまで、夏みかんは萩の主要な産業として経済を支えてきたといいます。

 武家屋敷の内側に夏みかんが植えられ、それが産業として一定期間継続してきました。ですから、武家屋敷の形状そのものにも大きな変化がもたらされることがなく、そのまま維持されてきました。その結果、萩の武家屋敷の敷地割はほぼ江戸時代のまま、現在に伝えられることになりました。

 さらに、武家屋敷の長く続く塀が維持されてきたおかげで、夏みかんの実は風から保護されてきました。上級武家屋敷を取り囲む土塀や石積み塀、長屋、長屋門がそのまま夏みかんの実を護る役割を果たしたのです。主がいなくなっても夏みかんのためにも塀を壊すわけにはいかず、はそのままの形状で保たれた結果、城下町特有の見事な景観が維持されてきたのです。

■菊屋住宅
 さらに歩みを進め、外堀から御成道沿いに歩いていくと、藩の御用達を勤めた豪商の菊屋住宅がありました。現存する大型の町屋としては最古のものだそうです。建築史上、極めて貴重な建物だとされており、主屋、本蔵、金蔵、米蔵、釜場の五棟が国の重要文化財に指定されています。

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 ちょうど五月人形飾りが展示されていました。入口には「五月人超飾り特別公開」と書かれた張り紙が掲示されています。会期は4月12日~6月中旬です。

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 入ってみると、なるほど「特別公開」と銘打たれているだけあって、由緒ある品々なのでしょう、鎧、兜に武者人形、扇に太鼓、それぞれが豪華で、風格があります。

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 また、「滅消病悪」と書かれた書をもつ男性を描いた掛け軸の下、凛々しい武者と従者が飾られていました。子どもの無病息災を祈って飾られていることが一目瞭然です。

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 さらには、品のいい武者と従者、槍を持った若武者の人形なども飾られていました。人形の下には「源義家と従者」と書かれた紙が置いてありましたから、その謂れが気になりました。

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 源義家といえば、八幡太郎といわれた平安後期の武将で、源義経、頼朝などの先祖に当たります。それがなぜ、武者人形として五月の節句に飾られているのでしょうか。気になってきました。

 家に帰って調べてみると、源義家は武術に秀でた人物で、その武威は物の怪ですら退散させたほどだといわれていたそうです。さらに、義家の弓矢は魔除け、病除けとして白川上皇に献上されたともいわれています。当時は幅広く知れ渡った英雄だったのでしょう、たしかに、上品な顔をした武者人形を見ると、背に多数の弓矢を背負っています。武威の象徴として、この武者人形が作られていることがわかります。

 義家が祀られている東京都北区の平塚神社には御神徳として、勝ち運、病気平癒、開運厄除け、騎馬上達、武芸上達、立身出世、等々と書かれています。

こちら →http://hiratsuka-jinja.or.jp/matsukami/index.html

 端午の節句に男の子のお祝いとして飾るには恰好の歴史上の人物といえるでしょう。

 さて、私がもっとも惹きつけられたのが、向かって右側の「槍持ち若武者」です。アップして見てみることにしましょう。

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 現代ではもはや見かけることのできない顔立ちです。上品で奥ゆかしく、そして凛々しく、深い精神性すら感じさせられる知的な面持ちに感動してしまいました。大衆化社会の現代では、望むこともできない凛々しい顔立ちにしばらく見入ってしまいました。

 これは大正時代に製作された人形だそうですが、この顔立ちや姿形には海外との交流を絶って日本文化を熟成させてきた江戸時代の名残とそのエッセンスが感じられます。

■階層社会で育まれた文化
 1604年、毛利輝元の萩入国に従って、菊屋家は山口から萩に移りました。そして、城下の町造りに尽力して、呉服町に広大な屋敷を拝領したそうです。その後、代々、大年寄格に任命されており、この屋敷は度々、御上使の本陣に命ぜられたといいます。

 菊屋家の書院から庭を眺めると、左側に大きな平たい石が見えます。これは、お殿様がこの屋敷に立ち寄られたとき、駕籠を載せるために用意された石なのだそうです。

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 さらには、殿様が駕籠を降りてすぐ手を洗うための専用の手水石があり、もちろん、殿様専用の門があります。菊屋家住宅のリーフレットには、菊屋家の先祖代々、「我が家は私有であって然様でなし」といわれたと書かれていますが、たしかに、菊屋家の人々は代々、御用屋敷としての体面を保つことを重視して生活してこられたのでしょう。当時の主従関係が偲ばれます。 

 現在、公開されているのは約2000坪の敷地のうち、約3分の1だそうです。今、見ているだけでも相当広いのに、実際はいったい、どれほど広いのか。想像するだけで、菊屋家に対する毛利家の信頼が厚かったことが理解されます。

 菊屋家の人々は主に従って萩の繁栄に尽力してこられたのでしょう。海岸の名(菊ケ浜)にも、そして、通りの名(菊屋横町)にも、菊屋の名が残されています。たとえば、菊屋横町と命名された菊屋住宅の側の小路は、白いなまこ壁がまっすぐに伸びており、壮観です。まるで江戸時代の文化が凝縮されているような景観で、引き込まれます。

こちら →
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■御成道をはさんで向か合う、二つの商家
 御成道をはさんで菊屋家の向かい側に、旧久保田家があります。江戸時代前期に建てられた菊屋家は、国指定の重要文化財ですが、江戸時代後期に建てられ、明治16年に大改修された旧久保田家は萩市指定の有形文化財です。いずれも繁栄を極めた商家で、保存状態もよく、特徴のある建物から往時の様子を偲ぶことができます。

 違いはといえば、菊屋家が毛利氏の萩入国に伴って移住し、上級武家屋敷に相当する敷地を拝領したのに対し、旧久保田家は幕末から明治にかけて建築された町家だということでしょう。

 菊屋家の場合、毛利家の信頼が厚く、本陣まで命じられていました。武士に準ずる待遇です。元はといえば、菊屋家の先祖が武士だったからでしょう。菊屋家の先祖は大内氏の時代には武士だったといわれています。それが大内氏が毛利元就に滅ぼされてのち、御用商人になったようです。そして、その孫の毛利輝元が関ケ原の戦いで破れた結果、領国を減じられ、萩に移住せざるをえなくなりました。徳川家康と並ぶ大名であった毛利氏が零落してしまったのです。

こちら →http://www.c-able.ne.jp/~mouri-m/mo_rekishi/

 菊屋家は零落した毛利氏に従って、萩に移住し、萩の町造りに尽力しました。御用商人として手厚く処遇され、2000坪にも及ぶ広大な敷地を与えられたのも当然といえるでしょう。

 一方、久保田家は初代が江戸後期に近江から萩に移り住んで呉服商を開いたそうです。二代目からは酒造業に転じたといわれています。その後、明治30年まで造り酒屋だったそうですから、こちらは生粋の商家だったのでしょう。

 こうしてみてくると、同じ商家とはいえ、その出自、歴史、毛利家との関わり方、家格の違いがあることがわかります。そのようなさまざまな違いがあるからでしょうか、両家に足を踏み入れたときの印象は大きく異なっていました。庭の規模、仕様が違っているのはもちろんのこと、展示された品々も異なっていたのです。

 ここでも五月人形が展示されていました。入口の「五月人形展」と書かれた紙には「開催中」と記されているだけで、会期は示されていませんでした。おそらく、菊屋家と同じ期間、開催されるのでしょう。

 段飾りにされた弓矢、立派な鎧兜が印象的です。

こちら →
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 この鎧、兜は昭和のものです。これ以外にも数多くの五月人形が展示されていましたが、市民から寄贈されたものだということでした。

 旧久保田家で興味深かったのは、この灯籠です。灯籠を支えている部分が化石なのだそうです。繁栄した町家だからこそ入手できたのでしょう、滅多に見ることのできない貴重なものでした

こちら →
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■五月人形に託されたもの
 菊屋家、旧久保田家のいずれの家でも、五月人形が飾られているのを見ました。端午の節句には鎧、兜、武者人形、従者などを飾って、子どもの健康や成長、出世が祈願されてきたことがわかります。端午の節句に鎧や兜を飾ることは、武家社会で生まれた風習なのだそうです。

 武家社会では、身の安全を願って神社にお参りをするとき、鎧や兜を奉納するしきたりがあったといわれています。鎧や兜は武将にとって自分の身を護る大切な道具であり、また、精神的なシンボルでもありました。

 江戸時代、武家政権が安定して以来、端午の節句は、家の後継ぎとして生まれた男の子が無事、成長していくことを祈り、一族の繁栄を願う重要な行事になったとされています。ですから、男の子の節句といわれる端午の節句にはまず、鎧や兜が飾られたのでしょう。

 一方、端午の節句に菖蒲湯に浸かるという風習も、江戸時代に定着したといわれています。

 香の強い菖蒲は中国では邪気を払う薬草とされています。それが日本に伝わって、春から夏にかけての端午の節句に、菖蒲湯に浸かるという風習が元々、日本にはあったそうです。それが江戸時代に定着したのは、おそらく、薬草である菖蒲(しょうぶ)が、「尚武」あるいは「勝負」と発音が同じだからでしょう。端午の節句に兜や鎧を飾るのと同様、菖蒲湯に入るのも、男の子の成長と出世を願う風習でした。武家政権が安定し、男系長子相続が定着した江戸時代の遺産といえるでしょう。

■江戸文化とそのエッセンス
 萩市の商家で五月人形展を見ました。鎧、兜に武者人形を飾る武家社会の風習が豪商に受け継がれ、今に至っています。私が見たのは、大正、昭和期に製作されたものでしたが、その頃はまだ男系長子相続制から派生した生活文化が根を張っていたのでしょう。

 それが今では、端午の節句は子どもの日として年中行事化されています。5月5日が近づくと、スーパーでは菖蒲の葉が売り出され、男の子であれ、女の子であれ、子どものいる家庭では、無病息災を願って菖蒲湯に入ります。

 薬草である菖蒲湯に浸かるという中国から伝わってきた風習に倣い、端午の節句、本来の「子どもの健康、安全、成長を願う」役割を取り戻しつつあるといえます。中国では、端午の節句には、子どもに「五毒肚兜」という特別の腹かけをさせて、安全と健康を祈願するそうです。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します。)

 5月になると、寒さから解き放たれた子どもたちは戸外での遊びに興じ始めます。ところが、その時期、小動物たちも活発に活動を始めます。子どもたちが戸外で遊んでいるとき、それらの小動物に咬まれたり、刺されたりして、その毒素が体内に入り込む危険性があります。それを「五毒」として注意喚起しているのです。「五毒」とは、「ヘビ、サソリ、クモ、ヤモリ、蛙」を指すそうです。腹かけの由来を知ると、「五毒肚兜」は、とても理に適った子どものための行事だということがわかります。(詳細は、下記URLをご参照ください。)

こちら →
http://katori-atsuko.com/?news=%E3%80%8C%E6%B1%9F%E6%88%B8%E3%81%A8%E5%8C%97%E4%BA%AC%EF%BD%9E18%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%81%AE%E9%83%BD%E5%B8%82%E3%81%A8%E6%9A%AE%E3%82%89%E3%81%97%EF%BD%9E%E3%80%8D%E5%B1%95%E3%81%8C%E9%96%8B%E5%82%AC

 ところが、日本の端午の節句は、五月人形を飾り、鯉のぼりをたてます。いずれも男の子の成長と出世を願っての行事です。子ども全般ではなく、もっぱら男の子の安全な成長と出世を祈願した行事だということが興味深いのですが、五月人形も鯉のぼりも菖蒲湯も、江戸時代に定着した風習だということを知ると、納得できます。武家政権が安定し、男系長子相続が定着した江戸時代だからこそ根付いた生活文化だったのです。

 その生活文化によって培われた誇り高い精神と、海を隔てて朝鮮半島を臨み、山陽道に出るにも、九州に出るにも不便な土地柄で育まれた逆境をバネとする精神が、吉田松陰を生み、高杉晋作を生み、その後継者たちを生んだのでしょう。

 海を隔てた広い世界の動きを察知する能力、西欧列強からの攻勢に備えた戦略的な動き、既存体制に歯向かって進む勇気、新しいものを貪欲に取り込む進取の気勢・・・。今回、コンパクトな萩の城下町を歩いてみて、その種の気概をもった人々が互いに共鳴しあって、果敢な行動に打って出た状況がよくわかるような気がしました。

 萩の城下町を歩き、松下村塾、高杉晋作生誕地などを訪れてみて、ヒトがその精神を十分に開花させ、思いもかけないほどの勇躍ができるのは、相互に意見を言い合える、進取の気性を持った人々から成る小さなコミュニティからではないかという気がしました。(2017/5/24 香取淳子)

回顧2015:ノーベル賞ダブル受賞に見る日本の生活文化

 今年もいよいよ残すところあと1日、悲喜こもごも、さまざまなことがありました。もっとも印象に残っているのが、大村智氏と梶田隆章氏のノーベル賞ダブル受賞です。このニュースに接したとき、近来になく、晴れやかで心豊かな気持ちになりました。十月初旬、立て続けに発表されたニュースに接したときの印象を思い起こし、お二人の業績を振り返ってみたいと思います。

■大村智氏の受賞
 2015年10月5日、北里大学特別栄誉教授の大村智氏がノーベル医学生理学賞を受賞したというニュースが飛び込んできました。スウェーデンのカロリンスカ研究所が2015年のノーベル医学生理学賞受賞者として、北里大学・大村智特別栄誉教授(80歳)、米ドリュー大学・ウィリアム・キャンベル博士(85歳)、中国中医学院・屠呦呦主席研究員(84歳)の三氏に決定したと発表したのです。

 さっそくネットで調べてみました。

 大村氏とキャンベル氏は「寄生虫によって引き起こされる感染症の治療に役立つ新薬Avermectinの発見」、屠氏は「マラリア治療に効果のある新薬Artemisininの発見」が評価され、受賞が決定されました。いずれも開発途上国で脅威となっている感染症対策に役立つ研究です。

こちら →http://www.nobelprizemedicine.org/

 カロリンスカ研究所が用意した報道用資料には、受賞対象となった三氏の研究内容が簡単に紹介されています。

こちら →
http://www.nobelprizemedicine.org/wp-content/uploads/2015/10/Press_ENG.pdf

 開発途上国では寄生虫によって引き起こされる感染症がいかに多いか、それによって人々がいかに壊滅的な打撃を受けているか。上記資料の世界地図を見ると、青色で示されている部分があります。いまだに多くの人々がこの種の感染症の脅威に晒されている地域です。

 大村氏が土壌細菌から発見してキャンベル氏が開発したアベルメクチン(Avermectin)、そして、屠氏が発見したアーテミシニン(Artemisinin)が、これらの地域でいかに多くの感染症患者を救ったか。いずれの場合も驚くほどの画期的な治療効果をあげているのです。

 報道用資料を見ると、カロリンスカ研究所はこれらの研究を「人類への計り知れない貢献」だとたたえています。まさに科学が膨大な数のヒトの命を救っているのです。今回の受賞者たちは科学の本来あるべき姿の一つを示したといえるでしょう。

■微生物の力
 5日夜、北里大学薬学部で大村智氏の記者会見が開かれました。驚いたことに、大村氏は受賞を喜びながらも、次のようにいわれたのです。

「私の仕事は微生物の力を借りているだけのもので、私自身がえらいものを考えたり難しいことをやったりしたわけじゃなくて、全て微生物がやっている仕事を勉強させていただいたりしながら、今日まで来てるというふうに思います。そういう意味で、本当に私がこのような賞をいただいていいのかなというのは感じます」
(http://thepage.jp/detail/20151007-00000001-wordleaf?page=2より)

 なんと謙虚なのでしょう、絶え間ない努力と研鑽の結果、手にしたノーベル賞であるにもかかわらず、このような反応を示されたのです。終始、穏やかな笑顔で臨まれる大村氏のテレビ会見を見て、私は驚いてしまいました。

 大村氏は、日本には微生物をうまく使いこなしてきた歴史がある一方で、人のため、世のために働くという伝統がある、そういう環境の中に生まれてきたことが今回の受賞につながったといわれました。自然と一体化した生活文化、人のために尽くすという生活規範、そのような生活環境の中で生まれ育ったことがノーベル賞受賞につながったといわれるのです。

 さらに、次のようにもいわれました。

「北里柴三郎先生、尊敬する科学者の1人なんですが、とにかく科学者というのは人のためにならなきゃ駄目だ。(中略)ですから人のために少しでもなんか役に立つことないかな、微生物の力を借りてなんかできないか、これを絶えず考えております。そういったことが今回の賞につながっているんじゃないかと思っています」(前掲URLより)

 大村氏は山梨大学を卒業後、定時制高校の先生をしながら東京理科大学大学院に入学し、修了後は母校の助手として研究者人生をスタートさせました。そして、その2年後、尊敬する北里柴三郎が設立した北里研究所に入所し、微生物の研究に打ち込みます。

 大村氏が山梨大学の助手時代に手掛けていたのはワインの研究でした。ワインをはじめ酒、納豆、味噌、醤油などの発行食品はヒトが微生物を有効に活用したものですが、一方で、腸チフス、赤痢、結核などヒトに悪影響を及ぼす微生物もあります。良いにしろ悪いにしろ、ヒトはこれまで微生物と深く関わり、共存して生きてきました。

 北里大学時代、大村氏は微生物が作る化合物を400種余り発見しました。その中の17種がヒトや動物の医薬品、あるいは、生化学研究用の重要な薬として実用化されているといわれます。まさに微生物の力を借りてヒトの生活向上に役立てているのです。

■日本の生活文化
 いくら効果があるといっても、開発途上国の人々に薬を飲ませるのは大変です。言語が多様で、服用する薬の適量を知るのに必要な体重計もありません。もちろん、医師や看護婦がいつも同行できるわけでもありません。そこで、大村氏は考えました。

 身長と体重とはほぼ比例するということを踏まえ、身長に応じて投与する錠数を区分するよう、集落の代表者に教えました。きわめて簡単な方法で誰にでも適切な量を投与できるようにしたというのです。大村智氏は画期的な新薬を開発したばかりか、このように、誰もが容易にその薬を使えるよう使用法にも工夫を凝らしたのです。

 大村氏は次のようにいったそうです。

「極めて安全な薬です。だから、医師でなくても、誰でも配ることができる。何回も飲むことで効果が出る薬がほとんどだが、この薬は年一回だけ飲めばよい」
(http://ghitfund.yahoo.co.jp/interview_04.htmlより)

 実際、このような方法を考案することによって、大村氏は劇的に感染症患者を減少させることに成功しました。単なる科学者ではなく、救済者としての面持ちさえ感じられます。

 大村氏の受賞記者会見からは、いまや消滅寸前の古き良き時代の日本の生活文化を感じさせられました。ヒトは目に見えないところでヒトや他の生物、自然界そのものと繋がっており、その繋がりの中で生かされています。

 私はすっかり忘れてしまっていましたが、かつて私たちは親世代から「ヒトのためになるように生きなさい」とよくいわれたものでした。そして、「情けは人の為ならず」ということも何度も聞かされました。ところが、いつの間にか、自分のために生きるのが当然のように思い、うまくいかなければ他人のせいにし、心満たされない日々を過ごすようになってしまっています。

 はたして、こんなことでいいのか・・・。

 大村氏の会見を見ていて、ふっとそんな思いに捉われてしまいました。ノーベル賞の受賞記者会見なのに、見ているうちに、思わず自分の生き方を振り返り、これでいいのかと反省させられてしまったのです。便利さと引き換えにヒトを支えてきた生活文化まで失いつつあるのではないかという気がしたのです。

 穏やかな笑顔で話される大村氏からは終始、不思議なオーラが放たれていました。

■梶田隆章氏の受賞
 翌日6日、東京大学宇宙線研究所所長の梶田隆章氏がノーベル物理学賞を受賞することがわかりました。この二日、立て続けにノーベル賞二部門での受賞が決まり、日本中が喜びに包まれました。今回も私はまずネットで受賞を知りました。

 6日夜、東京大学で梶田隆章氏の記者会見が開かれました。席上、梶田氏が次のようにいわれたのが強く印象に残っています。

「観測施設の『スーパーカミオカンデ』を建設したのは戸塚先生の功績であり、研究の代表者でもありました。ニュートリノに質量があることを証明したことについては、戸塚先生の功績が大きいと思います。もしも今も生きていたら共同で受賞したと思います」
(http://www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20151006/5485421.htmlより)

 ご自身の喜びとともに7年前にガンで亡くなった恩師の戸塚洋二氏の功績を称えられたのです。もちろん、2002年にノーベル物理賞を受賞された小柴昌俊氏の名前もあげられましたが、ノーベル賞受賞の記者会見という栄誉の場で、なによりもまず恩師戸塚氏の偉業を口にされたことに私は驚きました。偉業を我が物とせず、謙虚に先人を称える姿勢に感動したのです。

 ちなみに、スーパーカミオカンデとは、世界最大の水チェレンコフ宇宙素粒子観測装置のことで、1991年に建設が始まり、5年間にわたる建設期間を経たのち、1996年4月より観測が開始されました。(http://www-sk.icrr.u-tokyo.ac.jp/sk/より)

 梶田氏は次のようにもいわれました。

「自然現象が、非常にわれわれが観測しやすいようになっていてくれたおかげで発見できたので、本当にラッキーだと思っています」(前掲URLより)

 先人が素晴らしい研究環境を構築してくれたことに謝意を表明され、ご自身のことを梶田氏は「ラッキー」と表現されたのです。

 私はニュートリノのことも、スーパーカミオカンデのことも知りません。物理学のことはまったくわからないのですが、梶田氏の記者会見を見ていると、寝食を忘れるほどの努力を積み上げた結果、成し遂げることができた偉業であるにもかかわらず、自分を誇ることなく、あくまでも謙虚な姿勢で会見に臨まれたことに深く印象づけられました。

 もっとも、東京大学物理学科を卒業し、現在、東京大学大学院情報学環准教授の伊東乾氏は次のように書いています。

「今回の業績は、何千人という物理学徒の献身的な労苦によって達成されたものですが、もしその代表を選ぶなら、第一に名が挙がらねばならない人はノーベル賞を受けることができませんでした」
「戸塚洋二さん、この人こそ、ニュートリノ振動の観測で本当に汗を流し、足を棒にして働いた中心人物であり、同じ労苦を膨大な数の物理屋、技術者、協力者が惜しみなく提供して、宇宙の構造にとって最も本質的な成果の1つは得られました」(http://jbpress.ismedia.jp/articles/print/44956より)

 東京大学、そして、物理学の事情をよく知る人物からすれば、梶田氏の謙虚な姿勢は当然だったのかもしれません。

 会見中、梶田氏の謙虚な姿勢は終始一貫、崩れませんでした。日ごろからそのようなお人柄だからなのでしょうか、あるいは、戸塚氏をはじめ先人の苦労を忘れることができないという思いからなのでしょうか。いずれにしても、穏やかな笑顔の背後に謙譲を美徳としたかつての日本文化を重ね合わせることができます。

■偉業の背後にある日本の生活文化
 大村氏といい梶田氏といい、歴史に残る偉業を成し遂げたというのに、この謙虚さはいったいどこから来るのでしょうか。

 受賞発表後の記者会見をそれぞれテレビで見たのですが、いずれの場合も見終えて心の底から嬉しく、なんともいえないさわやかな気分に満たされました。テレビ中継された大村氏、梶田氏の笑顔が実に素晴らしいのです。

 ヒトは年齢を重ねると、その来歴が顔に出るといわれます。お二人の笑顔にはなんの外連味もなく、ヒトの気持ちを和ませる優しさと温かさがにじみ出ていました。テレビ会見を見ていて、ノーベル賞を受賞されるほどの偉業に打たれたのはもちろんのこと、画面を通して伝わってくる笑顔の背後に垣間見えるお二人のお人柄にも感激したことを思い出します。

 そして、12月8日、ノーベル賞受賞式に臨まれるお二人はストックホルムの宿泊先で会見に臨まれ、ここでも素晴らしい笑顔を見せられました。

こちら →201512080013_001_m
西日本新聞2015年12月8日より。

 2015年、さまざまなことがありました。もっとも印象に残ったのが、ノーベル賞受賞者お二人の背後に見受けられた日本の生活文化でした。

 思い起こせば、かつて私たちは親世代から繰り返し、「ヒトのために」、「出しゃばらず、威張らず」、「地道にコツコツと」、というようなことを言われて育ってきました。それがいつの間にか、「ヒトを出し抜き」、「自分を強くアピール」、「機を見るに敏」であることが求められるようになってしまっています。その結果、ヒトは気持ちの安らぎを得にくくなり、心身の病に罹りやすくなっています。はたしてこれでいいのかという思いがつのります。

 一年を振り返ったとき、まず、思い出されたのが、ノーベル賞受賞者お二人の爽やかな印象でした。お二人の記者会見からはかつては全国津々浦々、いきわたっていた日本の生活文化が浮き彫りにされていました。今回のノーベル賞受賞者から垣間見える日本の生活文化を改めて、見直す必要があるのではないかと思いました。(2015/12/30 香取淳子)