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岩倉使節団の足跡:鍋島直大の場合

■随行留学生として、使節団に参加

 岩倉使節団は、不平等条約の改正交渉の準備、欧米の技術、文化、制度、思想等の把握を目的に、編成されました。1871年11月12日に横浜港を出発した岩倉使節団には、留学生たちも随行していました。その内訳は、華族14名、士族24名です。

 その中に、旧佐賀藩主で、維新政府で議定、外国官副知事などを務めた鍋島直大(1846-1921)も参加していました。25歳の時です。身の回りの世話役として、百武兼行(1842-1884)が付き添いました。

 使節団に随行して、アメリカ経由でイギリスに行き、オックスフォード大学で直大は文学を学び、百武は経済を学んでいます。岩倉使節団の日程表をみると、1871年11月12日に横浜港を出発し、サンフランシスコに着いたのが12月6日です。以後、アメリカ国内を視察して回り、使節団がイギリスに着いたのは1872年7月14日でした。

 ただ、使節団とはワシントンまで同行し、その後は一行と別れてロンドンに向かったという記述もあります(※ 三輪英夫、『佐賀県立博物館報』、No.27. 1975年、p.2.)。

 日程表では、岩倉一行がワシントンに着いたのが1月21日、ワシントンを発ったのが5月4日です。一方、鍋島らは4月頃ロンドンに着いたという情報もありますから、やはり、三輪のいうように、ワシントンで一行とは別れたのでしょう。

 鍋島直大の渡欧目的は、「開けたる世のよき事をわか国へ行ふ為めのつとめなりけり」でした。開国後の日本のために、イギリスで見聞を深め、そこで得てきた知識や経験を日本の発展のために持ち帰りたいというものでした。

 ところが、オクスフォード大で学び始めて2年後の1874年3月、江藤新平らが起こした佐賀の乱の報に接し、急遽、一時帰国することになりました。

■佐賀の乱

 佐賀の乱とは、1874年2月に江藤新平と島義勇らをリーダーとし、佐賀で起こった明治政府に対する反乱の一つです。不平士族による初めての大規模な反乱でしたが、政府が素早く対応したので、激戦の末に鎮圧されました。

 佐賀藩士・江藤新平(1834-1874)は、1871年の廃藩置県後、文部大輔、左院一等議員、左院副議長を経て、初代・司法卿を務めました。司法権統一、司法と行政の分離、裁判所の設置、検事・弁護士制度の導入など、次々と司法改革に力を注いできました。江藤は、積極果敢に、日本の近代司法制度の基礎を築いてきたのです。

 新政府の中で、これほど大きな業績を上げてきた江藤新平が、なぜ、反乱を企てたのでしょうか。

 江藤は、1873年に参議に転出し太政官・正院の権限強化を図りました。ところが、その年、征韓論争が起こり、西郷側に立っていた江藤は敗れて辞職したという経緯があります。

 西郷や江藤らは、欧米の共和制や自由民権の思想に親近感を抱いていましたが、欧米の視察から帰国した岩倉、大久保、伊藤らは共和制を評価せず、自由民権の思想を危険視するようになっていました(※ 松井孝司、「近代日本をリードした佐賀藩」、『近代日本の創造史』10巻、2010年、p.6.)。

 下野した江藤は、1874年に板垣退助、後藤象二郎らがに賛同して、民撰議院設立建白書に署名し、民撰議院 (国会) の設立を求めました。佐賀に帰郷後は、征韓党の指導者に推され、不平分子を率いて政府軍と戦いますが、敗れて処刑されています。

「東京日々新聞 六百五十六号」には、江藤が捕縛された時の様子を落合芳幾が描いた錦絵が掲載されています。

(※ Wikimedia。図をクリックすると、拡大します)

 「”佐賀縣下 肥前の國にて暴動せし賊軍一敗地に塗(まみ)れ首謀江藤氏遁走して加藤太助と変名し。明治七年三月下旬与州宇和島より甲浦に至り客舎に潜伏したりしを。高知縣より派出せる少属(せうさかん)細川 某 数名の捕吏(とりて)を率(したがへ)て。該地(そのち)の戸長に案内させ。主僕を捕縛に及ぶのとき。江藤氏騒げる景色なく従容として筆紙を採(と)り。岩倉殿下に一書を呈(てい)す其文(そのぶん) 頗(すこぶ)る激烈にて。征韓黨の巨魁とも称(いふ)へき胆力顕然たりとぞ “」

 轉々堂主人が書いた記事の内容は、上記のようなものでした。

■岩倉具視に宛てた書簡

 江藤新平は、捕縛された時は抵抗もせず、素直にしたがったようです。そして、紙と筆を求め、岩倉具視に宛てて、文章を綴ったそうです。その文面がなんとも激しく、さすが征韓党の首領らしい胆力を見せていたと轉々堂主人は書いているのです。

 振り返れば、江藤新平(1834-1874)は、若いうちから尊王討幕運動に参加し、明治維新とともに新政府に参加しました。東征大総督府軍監、江戸鎮台判事を勤め、軍事、治安を担当しています。その後、文部大輔や法制関係官職を歴任し、1872には司法卿に就任しました。

 法律知識に富み、司法権の独立、警察制度の一元化、改定律例の制定、『民法草案』の翻訳・編纂などを行い、司法行政を確立しました。1873年には参議となっています。幕末から新政府誕生に至るまで、新しい日本を創るために尽力していたことがわかります。

 とくに秀でた業績を残したのが、司法領域でした。実は、この司法権独立問題や征韓論をめぐって大久保利通、岩倉具視らと対立し、下野することになったようです。下野した当初は、板垣退助らの民選議院設立建白書の署名運動に参加していましたが、佐賀に帰ると、征韓強行、欧化反対の反動士族の首魁となって、1874年に挙兵したというのが佐賀の乱の次第です(※ 江藤新平関係文書)。

 その江藤が最期の際になって、岩倉には是非とも言っておきたいことがあったのでしょう。

 同じように国のために命をかけて尽力し、新政府のために大きな業績を残してきた江藤新平でした。それにもかかわらず、岩倉らと対立したために、結局は刑死の憂き目に遭うことになったのです。

 鍋島が帰国した際には、すでにこの騒動は収まっていました。

■西洋風の貴族の在り方

 日本に帰国して早々、鍋島に、内命「西洋風ノ貴族風ヲ学フベシ」が下りました。今度は、「西洋風の貴族らしさを学び」、それを日本に持ち帰るようにというのが任務でした。当然のことながら、単身では用が果たせません。鍋島直大はこの時、胤子夫人同伴で再渡欧しています。

 ロンドンに着くと、鍋島は学び、英国を中心に各地を巡遊して貴族たちと交流する一方、「プリンス・ナベシマ」として社交界でも活躍しました。近代国家として体裁を整えるには、これまで武士であった鍋島も社交を学び、洗練された立ち居振る舞いを学ばなければなりませんでした。

 もっとも、オックスフォード大学で文学を学び、研究していた鍋島にとって、この任務は適任だったかもしれません。次第に、西洋の社交術を身につけ、国際感覚を肌に沁み込ませていきました。

 1878年6月12日に再び、帰国の途に着きましたが、滞在中に、ロンドンで撮影された夫妻の写真があります。

(※ 文化遺産オンライン。図をクリックすると、拡大します)

 この写真を見ると、まだ洋服が馴染んでいないように思えます。いかにも借り物の服を着ているように見えますが、西洋文化、とくに西洋風の貴族の在り方を学ぼうとする気概だけは感じられます。

 帰国すると、鍋島は、翌1879年には外務省御用掛となり、同年、渡辺洪基、榎本武揚らと東京地学協会を設立しました。さらに、徳大寺実則、寺島宗則らと、共同競馬会社の設立などにも動いています。イギリスで得た知識や経験を踏まえ、次々と、イギリス貴族が行っていた事業を立ち上げていました。

■東京地学協会と共同競馬会社の設立

 東京地学協会にしても、共同競馬会社にしても、イギリス貴族が行っていることをそのまま、鍋島は日本に持ち込んでいたのです。

 たとえば、イギリスでは1830年に王立地学学会が設立されています。選ばれたメンバーがインフォーマルな晩餐会を開催して、最近の科学的な問題や発想について議論する「ダイニングクラブ」として始まっていました。

 当初の活動は、アフリカ、インド、極地、中央アジアなどの探検などでした。いずれも植民地支配と密接に関連しています。いかにも7つの海を支配したイギリス貴族らしい、趣味と実益をかねたクラブといえます。

こちら → https://www.rgs.org/about/

 こういう組織が日本にも必要だと思ったのでしょう、鍋島は、帰国した翌年の1879年に、地学協会を設立しています。

こちら → http://www.geog.or.jp/profile.html

 こちらは当初、探検記や外国事情を掲載する年報を発行し、地学に関する情報を発信していましたが、1893年に地学会と合併したことによって、地学の専門学術誌としての「地学雑誌」を引き継ぐことになりました。以後、地学協会の活動も、「地」を「読み」、「地」から「学ぶ」専門学術の発展・継承に貢献することを目指し、現在に至っています。

 一方、競馬は、当初からイギリス貴族の娯楽とみられています。有名なアスコット競馬場に貴族たちが着飾って集まり、観戦する様子を、私は映画で見たことがあります。実は、このアスコット競馬場はアン王女(在位1702年から1714年)が創設し、保護してきた競馬場でした。

 競馬にはさまざまな面で、王室が関わることが多く、ジェームズⅠ世(在位1603年から1625年)は、ニューマーケットがイギリス競馬の中心地となる礎を築きましたし、チャールズⅡ世(在位1660年から1685年)は、自らが手綱を取ってレースで優勝したこともあります。イギリスの競馬は王室の保護奨励の下で発展してきたのです。(※ https://www.jra.go.jp/keiba/overseas/country/gbr/

 それを見倣って、鍋島は、1879年、徳大寺実則、寺島宗則らと、共同競馬会社(Union Race Club)を設立しました。皇族、華族、政府高官、高級将校、財界人らがメンバーになっいる組織で、いってみれば、競馬を主催する社交クラブでした。

 共同競馬会社が催す競馬は、外務卿井上馨の提唱する欧風化政策に沿って、屋外の鹿鳴館とも位置付けられていました。上野不忍池で春、秋に開催され、東京在住の上流階級が集う華やかな社交の場となっていました。

 運営は、メンバーからの会費と宮内省、農商務省、陸軍の支援で行われていましたが、馬券が発売されることはなく、財政的に行き詰って、1892年には解散しています。

 これらを見ると、西洋文化を移植しても、根付くものもあれば、根付かないものもあるということの一例といえます。

■イタリア特命全権大使

 日本で落ち着く間もなく、1880年3月8日に鍋島直大は、駐イタリア特命全権公使の辞令を受けます。ところが、3月30日に妻胤子が亡くなってしまいました。これではイタリアでの活動がスムーズに進みません。急遽、権大納言広橋胤保の娘、栄子との婚約を済ませたうえで、鍋島は一足先にローマへ赴きました。

 1881年4月、栄子の到着を待って、鍋島は日本公使館で結婚式を挙げています。栄子は最初、岩倉具視の長男である具義と結婚していましたが、先立たれていました。ですから、直大とはどちらも再婚同士のカップルでした。

 イタリア赴任時代の鍋島直大を描いた肖像画があります。

(※ 油彩、カンヴァス、132.5×84.3㎝、1881年、徴古館)

 駐イタリア特命全権公使として赴任していた鍋島直大に、書記官として随行していた百武兼行が描いた大礼服姿の立像です。

 『集書』の「公使館舞會ノ概略」には、「公使閣下大礼服ノ真像本年百武書記官ヲ暇毎ニ丹精ヲ凝シテ揮写セラレシ一大額ヲ掲ク」との記述があるそうです。この作品は、百武が公務の合間をぬって描いたことが分かります。

 額には鍋島家の家紋である杏葉紋が、上半分に彫り込まれ、右下隅には日本列島、左下隅にはイタリア半島が彫り込まれています。鍋島家と日本、イタリアが調和するよう、額縁がデザインされているのです。直大の肖像画を収めるのにふさわしい格式の高さが感じられます。

 顔の部分をもう少し、アップして見てみることにしましょう。

(※ 前掲、部分。)

 間近でみると、直大の面持ちはなんとも優雅で、繊細です。英国を中心とした貴族たちの社交界で、「プリンス・ナベシマ」と呼ばれていたというのもわかります。これなら、イタリアの社交界でも十分、通用するでしょう。穏やかでありながら、凛とした威厳もあります。

 実際、鍋島がイギリスで磨いてきた社交術は、イタリアの王室や貴族たちとの社交の場で発揮されていたようです。

 大阪大学特任講師のカルロ・エドアルド・ポッツィ(Carlo Edoardo Pozzi)氏は、イタリアに保管されている書簡や公文書、新聞記事などを渉猟し、鍋島直大が当時、どのような外交的な働きをしていたのかを検証しています。

 その結果、鍋島は、日本公使館で華麗な夜会を度々開催し、それがマスコミに取材され、新聞に取り上げられていたと記しています。イタリア人に対する日本の認知度を高めていたのです。

 さらに、イタリア王室や上流階級の人々から、「プリンチペ・ナベシマ」として人気を博していたと報告しています。

(※ 「駐イタリア日本特命全権公使鍋島直大と日伊関係史におけるその役割(1880-1882)」、『イタリア学会誌』、70巻、2020年、p120-121.)

 鍋島栄子の写真も見つかりました。

(※ 文化遺産オンライン。図をクリックすると、拡大します)

 いつ頃撮影されたものかはわかりませんが、当時の日本人には珍しく、洋服の着こなしがこなれています。社交的でドレスがよく似合い、人あしらいが上手な栄子は、イタリアでも評判になっていたともいわれています。

 夫妻ともども、「ヨーロッパの貴族風」をしっかりと身につけていたのでしょう。そういう点で、鍋島はまさに、新政府から与えられた任務を完了させていたのです。

■可視化された鹿鳴館外交

 帰国した直大は、宮中顧問官となって、皇室の典礼・儀式に関する諮問に応ずる任務に就きました。明治天皇に仕えて、厚い信頼を得る一方、外務卿井上馨が主導する欧化政策の旗振り役となって、活躍することになります。

 1883年7月に鹿鳴館が建設されると、西洋貴族の礼儀作法に詳しい直大と栄子夫妻は、賓客の接待に欠かせない存在になりました。イタリアで磨きをかけた社交術に加え、ダンスが得意な栄子は、陸奥宗光夫人の亮子や戸田夫人の極子とともに「鹿鳴館の華」と称えられています。

 楊洲周延が『貴顕舞踏の略図』の中で、鹿鳴館での舞踏会の様子を描いています。

 ご紹介しましょう。

(※ Wikimedia、1888年、個人蔵)

 男性たちの顔や服はほとんど同じに見えます。違いと言えば、せいぜい髭があるかないかという程度です。女性たちも顔つきやヘヤスタイルは似通っています。ところが、来ているドレスの色や生地、模様などは個性的で、とても華やかです。

 壁側では女性が二人、ハープシコードのようなものを弾いており、当時の日本人の日常とは別世界が創り出されています。西洋風の華やかさが随所に見られ、目を楽しませてくれますが、一般の人からは反感を買うかもしれません。

 彼女たちが着ているドレスはどれも、カラフルで、手の込んだ模様と色合いがとても印象的です。

 一見、華やかですが、見ているうちに、なんともいえず哀れに思えてきました。女性たちは豪華なドレスに身をつつみ、ダンスをしていますが、身の丈にあっておらず、いじらしく思えてきたのです。

 つい、この前までは着物を着て暮らしていたのが、思いっきり背伸びをして、洋風を気取っているとしか見えないのです。そこには健気さはありますが、楽しさは伝わってきません。ひょっとしたら、これは当時の日本を象徴しているのではないかという気がしてきます。

 この浮世絵には、井上馨の欧化政策がみごとなまでに視覚化されていました。

 興味深いことに、当時、日本にいたフランス人の挿絵画家ビゴー(Georges Ferdinand Bigot, 1860 – 1927)もまた、鹿鳴館の様子をいくつか描いています。『トバエ』(TÔBAÉ)第1号に掲載された絵をご紹介しましょう。

(※ 『トバエ』(TÔBAÉ)第1号、1887年)

 背の高い西洋人に対し、日本人女性がカーテシー(Curtsy)をしている姿が描かれています。カーテシーというのは、片足を引いて軽く膝を曲げる所作のことで、ヨーロッパの伝統的な挨拶の仕方です。女性が位の高い者に対して行いますが、男性は行いません。

 この日本人女性は、男性に向かってカーテシーをしているので、欧米の礼儀作法をわきまえていることはわかります。ただ、その所作が優雅ではなく、元々、背が低いのがさらに低く見え、卑屈に見えてしまいます。隣の男性も背が低く、二人とも身体の割に顔が大きいので、どちらかといえば、ぶざまに見えます。

 当時の鹿鳴館の様子を外国人の眼から見れば、このように見えたのでしょう。

 この絵は、欧米から見た当時の日本を象徴しているようにも見えます。当時の日本は、形式の模倣から西洋世界に溶け込もうとしていましたが、内実が伴わないので、そぐわず、浮いて見えるのです。

 それはさまざまな領域でいえることでしょう。西洋から移植しても、日本文化にそぐわなければ、根付かないのです。

■岩倉使節団の足跡

 それでは、岩倉使節団の足跡を、鍋島直大のケースから振り返って見ることにしましょう。

 条約改正交渉の準備および欧米の技術、文化、制度、社会を視察し、調査するため、岩倉使節団は欧米に派遣されました。その中に留学生として随行したのが鍋島直大でした。

 イギリス、オックスフォード大学で文学を学び、社交を通して、イギリス貴族の所作、振舞を身に着けました。次に赴任したイタリアでは、さらに社交術に磨きをかけ、王室や貴族、政府要人との懇意な関係を構築しました。鍋島は当時の日本では、欧米要人と交流できる数少ない逸材でした。

 一方、欧化政策の一環として鹿鳴館を建て、外国要人を招いて歓待しようとしたのが、外務卿井上馨でした。当時の日本は、関税自主権の回復、治外法権の撤廃など、不平等条約改正交渉の準備に取り組んでおり、日本が欧米と同じような近代国家だということを理解してもらう必要がありました。

 欧州貴族の社交術を知る鍋島夫妻は、当然のことながら、井上の提唱する鹿鳴館政策に協力しました。おかげで、日本の社交にも少しずつ洋風マナーが伝わっていきました。案外、外国要人も好感を抱いてくれていたかもしれません。少なくとも、日本人の必死さ加減は伝わったことでしょう。

 ところが、鹿鳴館などの井上の極端な欧化政策が、国内に強い反感を呼び、1887年には外務大臣を辞任せざるをえませんでした。1883年に始まった鹿鳴館時代はわずか4年で終了したのです。パフォーマンスが派手だったわりには、外交交渉にメリットがあったわけではなく、条約改正交渉の役にも立ちませんでした。

 岩倉使節団派遣に始まる不平等条約改正交渉は、その後も粘り強く続けられました。陸奥宗光が外務大臣だった1894年、日英通商航海条約を調印をし、領事裁判権撤廃・対等の最恵国待遇・関税自主権の一部回復を締結しました。その後、他の14か国とも同じ内容の条約を調印しました。まずは治外法権の撤廃を実現することができたのです。

 1894年時点では、一部しか回復していなかった関税自主権ですが、小村寿太郎が外相だった1911年に完全に回復しました。差別的関税を撤廃する権利を獲得したのです。

 これでようやく、日本が対等に欧米に立ち向かっていける環境が整備されました。

 使節団にまつわるエピソードをいくつかみていくと、岩倉使節団の派遣そのものが何人もの逸材を生み出していることがわかります。欧米とのさまざまな交流を通して、日本人の能力が涵養され、やがて、日本のために貢献することができるようになっているのです。

 その好例を、今回、ご紹介した鍋島直大のケースに見ることができます。新政府が英断を下し、多数の意欲ある逸材を派遣したからにほかなりません。(2023/5/31 香取淳子)

HYBEと“Dynamite”に見るK-POPの未来

■HYBE、巨大経済圏を構築か?

 2021年7月20日、日経新聞に「BTS事務所、1億人経済圏へ」というタイトルの記事が掲載されていました。

こちら → https://www.nikkei.com/article/DGKKZO74027410Z10C21A7FFJ000/

 タイトルを見て興味を覚え、ざっと内容を読んでみました。K-POPの代表ともいえる「BTS(防弾少年団)」の所属事務所であるHYBEが「プラットフォーマー」への転換を急ぎ、オンライン上に1億人規模以上の巨大経済圏を築こうとしているというのです。

 すでに2020年12月期の決算で、HYBEの時価総額はK-POP業界の中で突出していました。


(2021年7月20日付日経新聞朝刊より)

 日本でも有名な「東方神起」や「少女時代」を抱えるSMエンターテイメントよりもはるかに高い時価総額をはじき出していたのです。売上高を見ると、そう大した違いはありませんが、営業益が抜群に高いのが注目されます。

 そもそも時価総額とは、株価に発行済株式数を掛けたもので、企業価値を評価する際の指標になっています。株価には、現在の業績だけではなく、将来の成長への期待が強く反映されますから、HYBEの企業方針、営業政策が今後のエンターテイメント界を牽引するものであることが示されているのです。

 それでは、先ほどの記事に戻ってみましょう。

 2020年はコロナ禍で最大の収益源であるライブの多くが中心になり、「公演売上高」は98%減にまで落ち込んだと書かれています。日本のエンターテイメント業界も同様でした。ところが、HYBEはそのような状況下でも増収増益を達成していたのです(上記の表を参照)。

 何故、そのようなことができたのでしょうか。

■Weverse(ウィバース)

 記事によると、それを誘導したのが、オンライン音楽配信、オンラインライブ、ファンクラブからの収益でした。そして、これらのネット上の顧客の接点となったのが、HYBEが自社で開発したウエブサービス「Weverse」でした。

こちら → https://www.weverse.io/?hl=ja

 Wikipediaを見ると、Weverse(ウィバース)は、HYBEとインターネット企業NAVERが共同出資したWeverse Companyによって開発された韓国のファンコミュニティプラットフォームだと説明されていました。

こちら → https://ja.wikipedia.org/wiki/Weverse

 初版は2019年6月10日にリリースされ、最新版は2021年5月30日に公開されています。OSはiOSかAndroidで、「Official for All Fans」をキャッチコピーに運営されているといいます。

 Weverse(ウィバース)は、アーティストとファンとの交流に特化し、ツィッター、インスタグラム、ユーチューブの機能を融合させた巨大なコミュニティサイトです。誰でも無料で利用できますから、文字や画像を通してファンとアーティストが直接交流できるのです。もちろん、有料コンテンツやメンバー限定のコンテンツ、グッズ販売などから収益を上げることが出来る仕組みです。

 英語、日本語、中国語、スペイン語、インドネシア語など多言語に対応しており、世界から約2700万人が利用しているそうです。HYBEはWeverse(ウィバース)をプラットフォームに、新たなK-POP業界のビジネスモデルを構築したのです。抜群の時価総額はこの画期的な事業展開が評価されてものでした。

 HYBEは、事業のさらなる拡大戦略を企図していました。

■買収

 先ほどの記事によれば、HYBEは韓国のネット大手ネイバーが運営するファンコミュニティサイト「V LIVE(ブイライブ)」を買収することを決め、HYBEに属していない人気アーティストの発信力を取り込む算段をしているそうです。

 これまでは競合関係にあったWeverse(ウィバース)とV LIVE(ブイライブ)が統合すれば、K-POP全体をカバーする会員数1億人規模にもなるプラットフォームが出来上がるという見通しなのです。

 Wikipediaによれば、V LIVE(ブイライブ)は韓国の動画配信サービスで、国内を拠点とする著名人がファンとのライブチャット、パフォーマンス、リアリティショーなどのライブ動画をインターネット上で放送することができるといいます。

こちら → https://ja.wikipedia.org/wiki/V_LIVE

 ストリーミング配信はオンラインか、iOSかAndroidのモバイル端末で、再生はPCで利用できるといいます。このサービスは2015年8月にリリースされ、NAVERが所有していました。ですから、HYBEとNAVERが共同出資してWeverse(ウィバース)を立ち上げた段階で、今回の統合が企図されていたことがわかります。

 V LIVE(ブイライブ)は、日本、中国、アメリカ、タイ、メキシコなど、15ヵ国に対応していました。Weverse(ウィバース)に統合すれば、さらに幅広い利用者を見込むことができます。

こちら → https://www.vlive.tv/home/chart?sub=VIDEO&period=HOUR_24&country=ALL

 そうなれば、幅広い利用者のニーズに応えられるアーティストの発掘が必要になってきます。HYBEはすでに2021年4月2日、米Ithaca Holdingsイサカ・ホールディングス)を買収すると発表しています。

こちら → https://news.yahoo.co.jp/articles/79fce4fbf9f20148111086be196cd3982a5cd9ba

 Ithaca Holdingsイサカ・ホールディングス)には、ジャスティン・ビーバーやアリアナ・グランデなどが所属しています。いずれもK-POPの枠を超えた発信力の高いアーティストです。ジャスティン・ビーバーのSNSのフォロワー数は累計4億人を超えるといいますから、Weverse(ウィバース)は世界のエンターテイメント業界を席巻することになるでしょう。

 それほど稼ぎ頭のアーティストを抱えていながら、Ithaca Holdingsイサカ・ホールディングス)はなぜ、買収に応じたのでしょうか。

 調べてみると、Ithaca Holdingsイサカ・ホールディングス)のオーナー、ブラウン(Scooter Braun)は、HYBEはその画期的なシステムとキュレーションによって、所属アーティストをさらに飛躍させるための支援をしてくれると期待していることがわかりました。

 HYBEに参画することは、音楽業界そのものを革新し、大きく変えるチャンスに乗ることだと認識しているのです。グローバル市場を席捲し、開拓し続ける姿勢に感動したせいか、ブラウン自身はどうやら、HYBEの取締役に就任するようです。

こちら → https://news.yahoo.co.jp/articles/66906bbebe21daa9fda2c4d41ab4e457dcf3615e

 もちろん、プラットフォームに対応した新人アーティストの発掘も欠かせません。

■新人アーティストの発掘

 HYBEはさらに、世界最大の音楽企業である米ユニバーサル・ミュージック・グループと連携し、米国で新人を発掘し、育成を開始するため、米国でオーディション番組を制作する予定だそうです(※ 2021年7月20日、日経新聞)。

 ちなみに、米ユニバーサル・ミュージック・グループは、アーティストやソングライターを発掘、育成することを目的とした企業グループです。

こちら → https://www.universal-music.co.jp/about-umg/

 会長のルシアン・グレンジ (Lucian Grainge)もまた、Ithaca Holdingsイサカ・ホールディングス)のブラウン(Scooter Braun)と同様、HYBEが最も革新的でグローバルな音楽企業だと認識していました。「良い音楽は言語と文化の壁を超えることができる」といい、今回の連携によって、「音楽産業の歴史に一線を画すことができる」と自負しています。

こちら → https://news.kstyle.com/article.ksn?articleNo=2162579

 HYBEは、米ユニバーサル・ミュージック・グループとの連携によって、オーディション番組を通し、新しいK-POPボーイズグループのメンバーを選抜するといいます。現在、2022年の放送開始を目途に進められていますが、優れた資質を持つ人材を発掘し、アメリカ市場はもちろん、グローバル市場で活躍できるように育成するというのです。

 オーディション番組で選ばれると、音楽だけではなく、パフォーマンス、ファッションなどビジュアル面で磨き込まれ、グローバル市場のアーティストとして鍛えられていきます。ミュージックビデオ、ファンコミュニケーションなどが結合されたプラットフォームを舞台に、音楽を通して幅広く人々の気持ちを捉えられるアーティストに作り替えられていくのです。

■HYBEのビジネスモデルと企業文化

 興味深いのは、Ithaca Holdingsイサカ・ホールディングス)のオーナー、ブラウン(Scooter Braun)も、ユニバーサル・ミュージック・グループの会長ルシアン・グレンジ (Lucian Grainge)も、HYBEのシステムが今後のグローバル市場を狙う上で欠かせないと認識していることでした。

 コロナ禍で急速にオンライン化が進み、あらゆる企業が業態変化を迫られている中、唯一、確かな足取りで歩を進めているHYBEに未来のエンターテイメント業界のビジネスモデルを見出したからなのでしょう。

 HYBEの拡大戦略を進めているのが、創業者のバン・シニョク(房時赫)取締役会議長です。世界的な大ヒット集団BTS(防弾少年団)を育成したことで知られています。

 彼の新人発掘手法は、オーディションでアイドルの卵を選抜し、歌やダンス、外国語などを習得する準備期間を経てデビューといった過程を踏ませます。

 このようなアイドル育成過程は、米ハーバード・ビジネス・レビューの事例研究でも取り上げられたほど、各方面で注目されています。HYBEは、「アイドルを成功に導く方程式を確立している」と絶大な評価を受けているのです。

 たとえば、2020年3月、米Fast Companyが発表した「2020年世界で最も革新的な50社」には、HYBEがなんと、Snap、Microsoft、Teslaに次いで、4位に選ばれているのです。その理由として、コミュニケーションプラットフォーム(Weverse)とeコマースプラットフォーム(Weverse Shop)が挙げられています。

(※ https://www.fastcompany.com/90457458/big-hit-entertainment-most-innovative-companies-2020

 こうしてみてくると、HYBEが確立したプラットフォームが他の追随を許さないものであることがわかります。Ithaca Holdingsイサカ・ホールディングス)のオーナー、ブラウン(Scooter Braun)や、ユニバーサル・ミュージック・グループの会長ルシアン・グレンジ (Lucian Grainge)が容易にHYBEに参画した理由がわかろうというものです。

 しかも、今後、エンターテイメント市場が大きくアジアにシフトしていくことは目に見えています。両社がHYBEに参画したのは経営者の判断として当然でした。アジア市場をはじめとするグローバル市場を席捲するには、HYBEとの連携が不可欠になっているのです。

 実際、HYBEは快進撃を続けていますが、それを牽引しているのが、創業者パン・シヒョクが育成したBTS(防弾少年団)でした。

 初めて英語の歌詞が付けられた楽曲だといわれる“Dynamite”を通して、BTSを見てみることにしましょう。

■“Dynamite”MVの再生回数が10億回を突破

 2021年4月13日、タワーレコード・オンラインニュースで、韓国BTS(防弾少年団)の’Dynamite’ MVの再生回数が10億回を突破したと報じられていました。

こちら → https://tower.jp/article/news/2021/04/13/tg005

 BTSはすでに、“DNA”(13億回)、“Boy with Luv”(11億回)で10億回以上の記録を出していますが、“Dynamite”もそれに続く大ヒットの様相をみせています。

 これは、2020年8月21日にデジタルシングルとして発売され、BTS としては初めてすべての歌詞が英語で書かれた楽曲です。

 すでにこの頃からHYBEが米市場をはじめ、グローバル市場を視野に入れた展開を試みていたことがわかります。果たして、“Dynamite”はどのような楽曲なのか、動画をいくつか見てみることにしましょう。

■BTS “Dynamite” official MV

 2020年9月26日に公開され、1億6904万3281回(2021年7月31日時点)、再生されています。3分30秒のオフィシャル動画です。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=BflFNMl_UWY

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 背景は明るいタッチのイラスト風に描かれたバスケットボールの練習用コートです。その前で、リズミカルな楽曲に合わせ、歌い、ダンスする7人のメンバーが、三角形で隊列を組んでいます。まもなく、6人が画面から消え、しばらくはメインボーカルがソロでダンスを披露します。時折クローズアップで映し出される顔には少年のような甘さが残っており、やや高い音声とマッチしています。


(ユーチューブ映像より)

 やがて向かって左から3人のメンバーが合流し、左側の眼鏡をかけメンバーがメインとなってダンスしているうちに、右側から3人が加わり、再び、7人で三角形の隊列が組まれます。その中からトップに躍り出てきたメンバーが中心となって歌い、ダンスを披露するといった展開です。次々と主役が移り変わり、メリハリの効いた構成になっていました。

 この曲の別バージョンのMVもありました。

■BTS ’Dynamite’@America’s Got Talent2020

  2020年10月22日に公開された動画は、7152万3776回(2021年7月31日時点)、再生されています。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=e81ad5MpfQ0

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  これはメンバー個々人に焦点を当てて構成されたMVです。遊園地のような場所を背景に、7人のメンバーそれぞれが個性豊かな服装で、ダンスを披露します。遊園地内、屋上、モホークガソリンスタンドの前、さらには、車に乗り込み、その車内で、メンバーはそれぞれソロで、歌い、ダンスをしながら移動して行きます。

 それぞれの持ち味を活かしたシチュエーションが考えられ、パフォーマンスが工夫され快い見せ場が随所に設定されています。こうしてメンバーたちのソロダンスが終わると、7人のメンバーが揃って、三角形の布陣でダンスするといった展開です。ショートストーリー風に展開されていく構成が魅力的です。

 メンバーはそれぞれ、個性を活かした衣装を着用しています。


(ユーチューブ映像より)


 最後辺りになると、遊園地内の各所で白煙が勢いよく立ち上っていく仕掛けが施されています。ダイナマイトの象徴なのでしょうか。クライマックスを飾る仕掛けのようでした。

■BTS ’Dynamite’@Best Artist2020

 2020年11月25日に公開されたこの動画は、2159万1572回(2021年7月31日時点)、再生されていました。リリース後3カ月を経て制作されたこの動画には、ファンに向けたメッセージが加えられていました。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=Rz3I0souiEw

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 このバージョンでは冒頭、ジョングクが右手を高く上げたのが印象的でした。カメラはその手をクローズアップで捉えています。


(ユーチューブ映像より)

 右手の指の関節の上には「ARMY」とペイントされ、薬指には「J」と記されています。メインボーカルのジョングクを示すイニシャルです。手の甲にはハートマーク、人差し指には王冠マークのようなものも描かれています。ファンに向けてのメッセージなのでしょう。きめ細かなファンサービスが感じられます。

 ペイントされた右手を高く掲げるシーンが、「ARMY」と呼ばれるファン組織を意識したパフォーマンスであることは明らかでした。

 このバージョンでもソロが終わると、左側から3人のメンバーが登場し、4人でパフォーマンスが行われますが、ここでも、それぞれ個性を活かしながら、アメリカを意識した衣装を着用しているのが印象的です。


(ユーチューブ映像より)

 さて、2020年8月21日に発売された“Dynamite”のMVを三種類見てきました。9月26日、10月22日、11月25日、ほぼ一カ月ごとに公開されたMVをご紹介してきました。いずれもダンス部分については変わりませんが、衣装や背景、小物といった道具立てについては大幅な変化が見られ、観客を飽きさせない工夫が凝らされていました。

 これらを見ていて、改めて、重要なパートを占めるのがダンスだということがわかりました。詳しく見ていくことにしましょう。

■“Dynamite”のダンス

 ダンスに焦点を当てた動画を見つけました。これを見ると、7人のメンバーが布陣を変化させながらダンスを披露していく様子がよくわかります。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=CN4fffh7gmk

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 画面にはまず、ランダムにポーズを取る7人が登場します。やがてその中の一人が中央に出てきてステップを踏み始めると、その他の6人は両脇に移動し、画面から見えなくなります。ソロでダンスが披露されます。

 2,3秒もすると、向かって左側から3人が踊りながら出てきて、4人体制でダンスが展開されます。画面の左半分を使って4人がステップを踏んで一回転するころ、向かって右側から3人が登場し、7人体制でダンスが披露されます。

 先ほどとは違ったメンバーがトップになり、2列目に2人、3列目に4人といったふうに、三角形の布陣になります。向かって左端にいたメンバーが左に寄って、ソロステップを踏みます。その他のメンバーはバックアップ態勢となって、左端を頂点とした不完全な三角形を成形します。

■“Dynamite”振り付けの練習

 2021年6月4日に公開され、1546万1956回(2021年7月31日時点)、再生されています。3分25秒の動画をご紹介しましょう。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=WhDsAW1ZzZ8

  メンバー全員、上が白のTシャツ、下が水色あるいはブルーのGパンという姿です。服装をシンプルに統一したことで、動きがとてもわかりやすく、振り付け自体がショーとして組み立てられていることがわかります。

 もちろん、衣装は白かブルー系で統一されているとはいえ、髪の毛の色、靴の色、帽子を持っているか否か、眼鏡をかけているか否か、などファッション小物でメンバーの個性はしっかりと識別されています。


(上記ユーチューブ映像より)

 BTSのメンバー7人のうち、Jinはブラウンヘアに白いスニーカー、Sugaは黒髪に黒と白のスニーカー、J-Hopeは黒髪に黄色のスニーカー、RMはブルーヘアに黒のスニーカー、Jiminは黒いスニーカーに黒い帽子、Vはブラウンヘアにブラウンのスニーカー、ブラウンの帽子で、眼鏡をかけ、Jungkook(後ろ向き)は黒髪に底部がネオングリーンの白いスニーカー、といった具合です。

 統一感をかもしながらも、メンバーの個性に配慮したファッションが印象的でした。このグループの特性が見事に表現されています。スタジオでの練習風景のせいか、メンバーの顔には全般にリラックスした表情が見られます。

■“Dynamite”に見るK-POPの未来

 “Dynamite”はメロディがシンプルなので頭に残りやすく、テンポもいいので、よくできたTVCMのようなアディクション効果がありました。これを聞くと誰もが知らず知らずのうちに、身体を動かし、リズムに乗って、幸せな気分になっていきそうです。

 見る者の視聴覚に絶え間ない刺激を与え続け、条件反射的に心身の反応を喚起するように創り出されているからでしょう。

 音楽はシンプルなメロディが繰り返されます。そして、ダンスはそのようなシンプルな曲に合わせて、隊列を変え、7人からソロ、ソロから4人体制、7人体制といった具合に、メリハリをつけた構成になっています。

 ダンスをしながら、数秒ごとに隊列を変更して、布陣を変えていきます。三角形、不定形、台形、そして再び、三角形というように、目まぐるしく陣容を変え、個々のメンバーを引き立てながら、視覚的な動きの美しさを楽しめるような振り付けでした。

 センターを務めるメンバーも適宜、入れ替わり、7人のメンバーが一体となって変容を繰り返しながらパフォーマンスを展開していく様子は、まるで生きている構造体のように見えました。

 衣装も同様、7人のメンバーそれぞれの個性を活かしながらも、全体として何を伝えたいのか、明らかなコンセプトの下、構成されていました。見事なまでに、アーティストの個とグループ全体の調和を図りながら、見る者の視聴覚に快い刺激を与える工夫がされていたのです。

 そういえば、HYBEのアーティスト育成システムが、音楽だけではなく、パフォーマンス、ファッション、ファンとの関係などに留意したものであったことを思い出しました。

 ヒトの感覚を断片的に刺激しながら、条件反射的な刷り込みをしていく手法に、デジタル化社会との親和性を感じさせられました。HYBEの大成功を見ると、K-POP業界、さらには、世界のエンターテイメント業界は今後、このような方向でのコンテンツ制作、アーティストの育成に大きく傾いていくのでしょう。

 これでいいのかなという思いが、ふと、脳裏をよぎりました。(2021年7月31日、香取淳子)

萩城下町で見た江戸文化とそのエッセンス

■世界遺産に登録された萩市の遺産
 萩市と聞いても私はこれまで、萩焼か吉田松陰、高杉晋作ぐらいしか思いつきませんでした。ところが、今回、萩市を訪れることになり、調べてみると、なんと萩市にある建築物が5つも世界遺産に登録されていました。2015年7月、これら萩市の遺産を含む「明治日本の産業革命遺産」が世界遺産に登録されていたのです。

 「明治日本の産業革命遺産」とは、九州・山口を中心にした8県11市におよぶ産業施設を主とした遺産群を指します。日本は非西欧圏で初めて産業国家として名乗りを上げました。その日本の近代化を支えた製鉄、製鋼、造船、石炭などの産業施設、あるいは、近代化に向けて、壮大な社会改革を実践した人々を偲ぶ建築群が、この世界遺産の対象となっています。

こちら →http://heiwa-ga-ichiban.jp/sekai/meijinihon/index.html

 登録された23の資産のうち、萩市の遺産は、萩反射炉、恵美須ケ鼻造船所跡、大板山たたら製鉄遺跡、萩城下町、松下村塾の5つです。

こちら →http://www.city.hagi.lg.jp/site/sekaiisan/h6085.html

 5月下旬、ふと思い立って、萩城下町と松下村塾を訪れてみました。最近、世界秩序が混沌とし始めてきました。東アジア情勢がきな臭くなり、不穏な雰囲気が漂い始めたので、あらためて明治維新のころを振り返ってみたくなったのです。

 訪れたのはいずれも、登録された萩市の遺産のうち、近代化に向けた意識改革を推進した人々を輩出したところです。幕末、明治期に萩市から、日本の国を大きく動かした人々が続出しています。いったい、なぜなのか。地政学的、歴史的、社会的要因などいろいろ考えられるでしょうが、まずは、現地を訪れてみようと思ったのです。

■萩の城下町
 萩の城下町は、阿武隈川から二手に分かれた橋本川(西側)と松本川(東側)に挟まれた三角州に造られました。関ケ原の戦いで敗れた毛利氏に与えられた領国は、交通が不便なだけではなく、町造りそのものも大変な場所でした。

 まず、海に面した指月山を背後に、萩城が築城されました。三角州の先端にありますが、地盤が固かったのと防御に適していたのでしょう。この萩城の周辺と寺が立ち並ぶ寺町一角だけは、地盤が比較的しっかりしていたといわれています。それ以外の場所は、三角州ですから、当時、屋敷一つを建てるにも地盤固めに相当、苦労したそうです。毛利氏に率いられて萩にやってきた人々は当初から逆境に立たされていたのです。

こちら →
(http://www.koutaro.name/machi/hagi.htmより。図をクリッすると拡大します。)

 世界遺産に登録されたのは、上記の図でいえば、二の丸、三の丸から平安総門に至る上級武士屋敷跡一帯と隣接した町屋の一部です。

 この城下町に一歩、足を踏み入れると、まるでタイムスリップしたかのように、江戸の街角が残っていました。長く続く土塀があるかと思えば、石積みの塀もあって、興趣をそそられます。往時の面影が至る所に残っていました。

 なかでも興味深かったのは、鍵曲(かいまがり)といわれている道づくりです。「鍵曲」とは、道の左右を高い塀で囲み、直角に(鍵のように)曲げるように作られた道をいいます。私は実際に、口羽家住宅近くの堀内鍵曲と、旧田中別邸近くの平安古鍵曲を歩いてみましたが、その一角に入ると、時間が止まったような、不思議な気分になります。

 上級武家屋敷のある一帯は、道の両側が長く伸びる瓦塀で挟まれていることが多いのですが、鍵曲がりに来ると、前方が塀でふさがれているので、前を見渡すことができず、迷路に迷い込んだような、不安な気持ちになってしまいます。前方と後方で挟み撃ちにされれば、逃げようがありませんから、思わず身構えてしまうのです。敵の侵入に備え、巧みな道路設計がなされていました。

 あらためて地図を見ると、堀内鍵曲は口羽家の近くありますが、この口羽家は毛利家一門です。また、平安古の鍵曲は旧田中別邸の近くにありますが、これもやはり毛利家の一門の右田毛利家の下屋敷跡です。こうしてみると、藩にとって重要な人物の屋敷はヒトで守られ、塀で守られ、そして、道路でも守られていたことがわかります。

■武家屋敷と夏みかん
 往時の人々の暮らしをあれこれ想像しながら歩いていると、どこからともなく、なんともいえない芳香が漂ってきました。見上げてみると、夏みかんが武家屋敷の塀瓦の上で鈴なりになっています。鮮やかな新緑の狭間から、まばゆいばかりの橙色をした夏みかんが瓦塀越しに、甘美な香りを辺り一面に放っていたのです。

こちら → 
(図をクリックすると拡大します。)

 毎年、この季節になると、旧田中別邸で「萩夏みかんまつり」が開催されます。今年は5月13日と14日でした。夏みかんは萩の名産ですが、その由来を聞いてますます、萩に親しみを覚えるようになりました。

 そもそも萩は江戸時代に毛利氏の城下町として栄えました。ところが、江戸末期、藩庁が山口に移転します。山陽道に出るにも、九州に出るにも、どう考えても萩は不利な地形だったからです。藩庁の移転を期に、重臣たちは萩を離れましたから、萩に残された士族たちは禄を失い、生活にも困るようになったそうです。

 そこで、明治9年(1876年)、旧萩藩士の小幡高政が中心となって、夏みかんを果物として栽培する事業に着手しました。もともと広大な武家屋敷には、夏みかんが植えられていました。栽培事業の素地はあったのです。しかも、夏みかんはそれほど手をかけなくても実ります。そこに着目した小幡らは夏みかんの栽培を組織的に行い、いわば地場産業として立ち上げたのです。精力的に取り組んだおかげで、10年ほどで大阪市場などに出荷され、高値で取引されるようになったといいます。

 江戸末期の藩庁の移転に続き、明治維新後は廃藩置県によって、広大な敷地を持つ上級武家屋敷から、主が立ち去ってしまいました。かつては政治経済の中心であった城下町にぽっかりと穴が開いたように、空き地ができてしまったのです。その空き地に次々と夏みかんが植えられました。

 上級武士屋敷は2000坪にも及ぶほど広大でしたから、植えられた夏みかんの木も膨大でした。1900年前後の生産額は当時の萩町の年間予算の8倍にもなったといいます。小幡高政の目論見通り、残された士族をはじめとする人々の生活を賄う糧になったのです。夏みかんは萩の名産として、その後、数十年、繁栄を誇ります。夏みかん以外の柑橘類や他の果物が出回るようになる1970年代ごろまで、夏みかんは萩の主要な産業として経済を支えてきたといいます。

 武家屋敷の内側に夏みかんが植えられ、それが産業として一定期間継続してきました。ですから、武家屋敷の形状そのものにも大きな変化がもたらされることがなく、そのまま維持されてきました。その結果、萩の武家屋敷の敷地割はほぼ江戸時代のまま、現在に伝えられることになりました。

 さらに、武家屋敷の長く続く塀が維持されてきたおかげで、夏みかんの実は風から保護されてきました。上級武家屋敷を取り囲む土塀や石積み塀、長屋、長屋門がそのまま夏みかんの実を護る役割を果たしたのです。主がいなくなっても夏みかんのためにも塀を壊すわけにはいかず、はそのままの形状で保たれた結果、城下町特有の見事な景観が維持されてきたのです。

■菊屋住宅
 さらに歩みを進め、外堀から御成道沿いに歩いていくと、藩の御用達を勤めた豪商の菊屋住宅がありました。現存する大型の町屋としては最古のものだそうです。建築史上、極めて貴重な建物だとされており、主屋、本蔵、金蔵、米蔵、釜場の五棟が国の重要文化財に指定されています。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します。)

 ちょうど五月人形飾りが展示されていました。入口には「五月人超飾り特別公開」と書かれた張り紙が掲示されています。会期は4月12日~6月中旬です。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します。)

 入ってみると、なるほど「特別公開」と銘打たれているだけあって、由緒ある品々なのでしょう、鎧、兜に武者人形、扇に太鼓、それぞれが豪華で、風格があります。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します。)

 また、「滅消病悪」と書かれた書をもつ男性を描いた掛け軸の下、凛々しい武者と従者が飾られていました。子どもの無病息災を祈って飾られていることが一目瞭然です。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します。)

 さらには、品のいい武者と従者、槍を持った若武者の人形なども飾られていました。人形の下には「源義家と従者」と書かれた紙が置いてありましたから、その謂れが気になりました。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します。)

 源義家といえば、八幡太郎といわれた平安後期の武将で、源義経、頼朝などの先祖に当たります。それがなぜ、武者人形として五月の節句に飾られているのでしょうか。気になってきました。

 家に帰って調べてみると、源義家は武術に秀でた人物で、その武威は物の怪ですら退散させたほどだといわれていたそうです。さらに、義家の弓矢は魔除け、病除けとして白川上皇に献上されたともいわれています。当時は幅広く知れ渡った英雄だったのでしょう、たしかに、上品な顔をした武者人形を見ると、背に多数の弓矢を背負っています。武威の象徴として、この武者人形が作られていることがわかります。

 義家が祀られている東京都北区の平塚神社には御神徳として、勝ち運、病気平癒、開運厄除け、騎馬上達、武芸上達、立身出世、等々と書かれています。

こちら →http://hiratsuka-jinja.or.jp/matsukami/index.html

 端午の節句に男の子のお祝いとして飾るには恰好の歴史上の人物といえるでしょう。

 さて、私がもっとも惹きつけられたのが、向かって右側の「槍持ち若武者」です。アップして見てみることにしましょう。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します。)

 現代ではもはや見かけることのできない顔立ちです。上品で奥ゆかしく、そして凛々しく、深い精神性すら感じさせられる知的な面持ちに感動してしまいました。大衆化社会の現代では、望むこともできない凛々しい顔立ちにしばらく見入ってしまいました。

 これは大正時代に製作された人形だそうですが、この顔立ちや姿形には海外との交流を絶って日本文化を熟成させてきた江戸時代の名残とそのエッセンスが感じられます。

■階層社会で育まれた文化
 1604年、毛利輝元の萩入国に従って、菊屋家は山口から萩に移りました。そして、城下の町造りに尽力して、呉服町に広大な屋敷を拝領したそうです。その後、代々、大年寄格に任命されており、この屋敷は度々、御上使の本陣に命ぜられたといいます。

 菊屋家の書院から庭を眺めると、左側に大きな平たい石が見えます。これは、お殿様がこの屋敷に立ち寄られたとき、駕籠を載せるために用意された石なのだそうです。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します。)

 さらには、殿様が駕籠を降りてすぐ手を洗うための専用の手水石があり、もちろん、殿様専用の門があります。菊屋家住宅のリーフレットには、菊屋家の先祖代々、「我が家は私有であって然様でなし」といわれたと書かれていますが、たしかに、菊屋家の人々は代々、御用屋敷としての体面を保つことを重視して生活してこられたのでしょう。当時の主従関係が偲ばれます。 

 現在、公開されているのは約2000坪の敷地のうち、約3分の1だそうです。今、見ているだけでも相当広いのに、実際はいったい、どれほど広いのか。想像するだけで、菊屋家に対する毛利家の信頼が厚かったことが理解されます。

 菊屋家の人々は主に従って萩の繁栄に尽力してこられたのでしょう。海岸の名(菊ケ浜)にも、そして、通りの名(菊屋横町)にも、菊屋の名が残されています。たとえば、菊屋横町と命名された菊屋住宅の側の小路は、白いなまこ壁がまっすぐに伸びており、壮観です。まるで江戸時代の文化が凝縮されているような景観で、引き込まれます。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します。)

■御成道をはさんで向か合う、二つの商家
 御成道をはさんで菊屋家の向かい側に、旧久保田家があります。江戸時代前期に建てられた菊屋家は、国指定の重要文化財ですが、江戸時代後期に建てられ、明治16年に大改修された旧久保田家は萩市指定の有形文化財です。いずれも繁栄を極めた商家で、保存状態もよく、特徴のある建物から往時の様子を偲ぶことができます。

 違いはといえば、菊屋家が毛利氏の萩入国に伴って移住し、上級武家屋敷に相当する敷地を拝領したのに対し、旧久保田家は幕末から明治にかけて建築された町家だということでしょう。

 菊屋家の場合、毛利家の信頼が厚く、本陣まで命じられていました。武士に準ずる待遇です。元はといえば、菊屋家の先祖が武士だったからでしょう。菊屋家の先祖は大内氏の時代には武士だったといわれています。それが大内氏が毛利元就に滅ぼされてのち、御用商人になったようです。そして、その孫の毛利輝元が関ケ原の戦いで破れた結果、領国を減じられ、萩に移住せざるをえなくなりました。徳川家康と並ぶ大名であった毛利氏が零落してしまったのです。

こちら →http://www.c-able.ne.jp/~mouri-m/mo_rekishi/

 菊屋家は零落した毛利氏に従って、萩に移住し、萩の町造りに尽力しました。御用商人として手厚く処遇され、2000坪にも及ぶ広大な敷地を与えられたのも当然といえるでしょう。

 一方、久保田家は初代が江戸後期に近江から萩に移り住んで呉服商を開いたそうです。二代目からは酒造業に転じたといわれています。その後、明治30年まで造り酒屋だったそうですから、こちらは生粋の商家だったのでしょう。

 こうしてみてくると、同じ商家とはいえ、その出自、歴史、毛利家との関わり方、家格の違いがあることがわかります。そのようなさまざまな違いがあるからでしょうか、両家に足を踏み入れたときの印象は大きく異なっていました。庭の規模、仕様が違っているのはもちろんのこと、展示された品々も異なっていたのです。

 ここでも五月人形が展示されていました。入口の「五月人形展」と書かれた紙には「開催中」と記されているだけで、会期は示されていませんでした。おそらく、菊屋家と同じ期間、開催されるのでしょう。

 段飾りにされた弓矢、立派な鎧兜が印象的です。

こちら →
(図をクリックすると。拡大します。)

 この鎧、兜は昭和のものです。これ以外にも数多くの五月人形が展示されていましたが、市民から寄贈されたものだということでした。

 旧久保田家で興味深かったのは、この灯籠です。灯籠を支えている部分が化石なのだそうです。繁栄した町家だからこそ入手できたのでしょう、滅多に見ることのできない貴重なものでした

こちら →
(図をクリックすると、拡大します。)

■五月人形に託されたもの
 菊屋家、旧久保田家のいずれの家でも、五月人形が飾られているのを見ました。端午の節句には鎧、兜、武者人形、従者などを飾って、子どもの健康や成長、出世が祈願されてきたことがわかります。端午の節句に鎧や兜を飾ることは、武家社会で生まれた風習なのだそうです。

 武家社会では、身の安全を願って神社にお参りをするとき、鎧や兜を奉納するしきたりがあったといわれています。鎧や兜は武将にとって自分の身を護る大切な道具であり、また、精神的なシンボルでもありました。

 江戸時代、武家政権が安定して以来、端午の節句は、家の後継ぎとして生まれた男の子が無事、成長していくことを祈り、一族の繁栄を願う重要な行事になったとされています。ですから、男の子の節句といわれる端午の節句にはまず、鎧や兜が飾られたのでしょう。

 一方、端午の節句に菖蒲湯に浸かるという風習も、江戸時代に定着したといわれています。

 香の強い菖蒲は中国では邪気を払う薬草とされています。それが日本に伝わって、春から夏にかけての端午の節句に、菖蒲湯に浸かるという風習が元々、日本にはあったそうです。それが江戸時代に定着したのは、おそらく、薬草である菖蒲(しょうぶ)が、「尚武」あるいは「勝負」と発音が同じだからでしょう。端午の節句に兜や鎧を飾るのと同様、菖蒲湯に入るのも、男の子の成長と出世を願う風習でした。武家政権が安定し、男系長子相続が定着した江戸時代の遺産といえるでしょう。

■江戸文化とそのエッセンス
 萩市の商家で五月人形展を見ました。鎧、兜に武者人形を飾る武家社会の風習が豪商に受け継がれ、今に至っています。私が見たのは、大正、昭和期に製作されたものでしたが、その頃はまだ男系長子相続制から派生した生活文化が根を張っていたのでしょう。

 それが今では、端午の節句は子どもの日として年中行事化されています。5月5日が近づくと、スーパーでは菖蒲の葉が売り出され、男の子であれ、女の子であれ、子どものいる家庭では、無病息災を願って菖蒲湯に入ります。

 薬草である菖蒲湯に浸かるという中国から伝わってきた風習に倣い、端午の節句、本来の「子どもの健康、安全、成長を願う」役割を取り戻しつつあるといえます。中国では、端午の節句には、子どもに「五毒肚兜」という特別の腹かけをさせて、安全と健康を祈願するそうです。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します。)

 5月になると、寒さから解き放たれた子どもたちは戸外での遊びに興じ始めます。ところが、その時期、小動物たちも活発に活動を始めます。子どもたちが戸外で遊んでいるとき、それらの小動物に咬まれたり、刺されたりして、その毒素が体内に入り込む危険性があります。それを「五毒」として注意喚起しているのです。「五毒」とは、「ヘビ、サソリ、クモ、ヤモリ、蛙」を指すそうです。腹かけの由来を知ると、「五毒肚兜」は、とても理に適った子どものための行事だということがわかります。(詳細は、下記URLをご参照ください。)

こちら →
http://katori-atsuko.com/?news=%E3%80%8C%E6%B1%9F%E6%88%B8%E3%81%A8%E5%8C%97%E4%BA%AC%EF%BD%9E18%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%81%AE%E9%83%BD%E5%B8%82%E3%81%A8%E6%9A%AE%E3%82%89%E3%81%97%EF%BD%9E%E3%80%8D%E5%B1%95%E3%81%8C%E9%96%8B%E5%82%AC

 ところが、日本の端午の節句は、五月人形を飾り、鯉のぼりをたてます。いずれも男の子の成長と出世を願っての行事です。子ども全般ではなく、もっぱら男の子の安全な成長と出世を祈願した行事だということが興味深いのですが、五月人形も鯉のぼりも菖蒲湯も、江戸時代に定着した風習だということを知ると、納得できます。武家政権が安定し、男系長子相続が定着した江戸時代だからこそ根付いた生活文化だったのです。

 その生活文化によって培われた誇り高い精神と、海を隔てて朝鮮半島を臨み、山陽道に出るにも、九州に出るにも不便な土地柄で育まれた逆境をバネとする精神が、吉田松陰を生み、高杉晋作を生み、その後継者たちを生んだのでしょう。

 海を隔てた広い世界の動きを察知する能力、西欧列強からの攻勢に備えた戦略的な動き、既存体制に歯向かって進む勇気、新しいものを貪欲に取り込む進取の気勢・・・。今回、コンパクトな萩の城下町を歩いてみて、その種の気概をもった人々が互いに共鳴しあって、果敢な行動に打って出た状況がよくわかるような気がしました。

 萩の城下町を歩き、松下村塾、高杉晋作生誕地などを訪れてみて、ヒトがその精神を十分に開花させ、思いもかけないほどの勇躍ができるのは、相互に意見を言い合える、進取の気性を持った人々から成る小さなコミュニティからではないかという気がしました。(2017/5/24 香取淳子)

回顧2015:ノーベル賞ダブル受賞に見る日本の生活文化

 今年もいよいよ残すところあと1日、悲喜こもごも、さまざまなことがありました。もっとも印象に残っているのが、大村智氏と梶田隆章氏のノーベル賞ダブル受賞です。このニュースに接したとき、近来になく、晴れやかで心豊かな気持ちになりました。十月初旬、立て続けに発表されたニュースに接したときの印象を思い起こし、お二人の業績を振り返ってみたいと思います。

■大村智氏の受賞
 2015年10月5日、北里大学特別栄誉教授の大村智氏がノーベル医学生理学賞を受賞したというニュースが飛び込んできました。スウェーデンのカロリンスカ研究所が2015年のノーベル医学生理学賞受賞者として、北里大学・大村智特別栄誉教授(80歳)、米ドリュー大学・ウィリアム・キャンベル博士(85歳)、中国中医学院・屠呦呦主席研究員(84歳)の三氏に決定したと発表したのです。

 さっそくネットで調べてみました。

 大村氏とキャンベル氏は「寄生虫によって引き起こされる感染症の治療に役立つ新薬Avermectinの発見」、屠氏は「マラリア治療に効果のある新薬Artemisininの発見」が評価され、受賞が決定されました。いずれも開発途上国で脅威となっている感染症対策に役立つ研究です。

こちら →http://www.nobelprizemedicine.org/

 カロリンスカ研究所が用意した報道用資料には、受賞対象となった三氏の研究内容が簡単に紹介されています。

こちら →
http://www.nobelprizemedicine.org/wp-content/uploads/2015/10/Press_ENG.pdf

 開発途上国では寄生虫によって引き起こされる感染症がいかに多いか、それによって人々がいかに壊滅的な打撃を受けているか。上記資料の世界地図を見ると、青色で示されている部分があります。いまだに多くの人々がこの種の感染症の脅威に晒されている地域です。

 大村氏が土壌細菌から発見してキャンベル氏が開発したアベルメクチン(Avermectin)、そして、屠氏が発見したアーテミシニン(Artemisinin)が、これらの地域でいかに多くの感染症患者を救ったか。いずれの場合も驚くほどの画期的な治療効果をあげているのです。

 報道用資料を見ると、カロリンスカ研究所はこれらの研究を「人類への計り知れない貢献」だとたたえています。まさに科学が膨大な数のヒトの命を救っているのです。今回の受賞者たちは科学の本来あるべき姿の一つを示したといえるでしょう。

■微生物の力
 5日夜、北里大学薬学部で大村智氏の記者会見が開かれました。驚いたことに、大村氏は受賞を喜びながらも、次のようにいわれたのです。

「私の仕事は微生物の力を借りているだけのもので、私自身がえらいものを考えたり難しいことをやったりしたわけじゃなくて、全て微生物がやっている仕事を勉強させていただいたりしながら、今日まで来てるというふうに思います。そういう意味で、本当に私がこのような賞をいただいていいのかなというのは感じます」
(http://thepage.jp/detail/20151007-00000001-wordleaf?page=2より)

 なんと謙虚なのでしょう、絶え間ない努力と研鑽の結果、手にしたノーベル賞であるにもかかわらず、このような反応を示されたのです。終始、穏やかな笑顔で臨まれる大村氏のテレビ会見を見て、私は驚いてしまいました。

 大村氏は、日本には微生物をうまく使いこなしてきた歴史がある一方で、人のため、世のために働くという伝統がある、そういう環境の中に生まれてきたことが今回の受賞につながったといわれました。自然と一体化した生活文化、人のために尽くすという生活規範、そのような生活環境の中で生まれ育ったことがノーベル賞受賞につながったといわれるのです。

 さらに、次のようにもいわれました。

「北里柴三郎先生、尊敬する科学者の1人なんですが、とにかく科学者というのは人のためにならなきゃ駄目だ。(中略)ですから人のために少しでもなんか役に立つことないかな、微生物の力を借りてなんかできないか、これを絶えず考えております。そういったことが今回の賞につながっているんじゃないかと思っています」(前掲URLより)

 大村氏は山梨大学を卒業後、定時制高校の先生をしながら東京理科大学大学院に入学し、修了後は母校の助手として研究者人生をスタートさせました。そして、その2年後、尊敬する北里柴三郎が設立した北里研究所に入所し、微生物の研究に打ち込みます。

 大村氏が山梨大学の助手時代に手掛けていたのはワインの研究でした。ワインをはじめ酒、納豆、味噌、醤油などの発行食品はヒトが微生物を有効に活用したものですが、一方で、腸チフス、赤痢、結核などヒトに悪影響を及ぼす微生物もあります。良いにしろ悪いにしろ、ヒトはこれまで微生物と深く関わり、共存して生きてきました。

 北里大学時代、大村氏は微生物が作る化合物を400種余り発見しました。その中の17種がヒトや動物の医薬品、あるいは、生化学研究用の重要な薬として実用化されているといわれます。まさに微生物の力を借りてヒトの生活向上に役立てているのです。

■日本の生活文化
 いくら効果があるといっても、開発途上国の人々に薬を飲ませるのは大変です。言語が多様で、服用する薬の適量を知るのに必要な体重計もありません。もちろん、医師や看護婦がいつも同行できるわけでもありません。そこで、大村氏は考えました。

 身長と体重とはほぼ比例するということを踏まえ、身長に応じて投与する錠数を区分するよう、集落の代表者に教えました。きわめて簡単な方法で誰にでも適切な量を投与できるようにしたというのです。大村智氏は画期的な新薬を開発したばかりか、このように、誰もが容易にその薬を使えるよう使用法にも工夫を凝らしたのです。

 大村氏は次のようにいったそうです。

「極めて安全な薬です。だから、医師でなくても、誰でも配ることができる。何回も飲むことで効果が出る薬がほとんどだが、この薬は年一回だけ飲めばよい」
(http://ghitfund.yahoo.co.jp/interview_04.htmlより)

 実際、このような方法を考案することによって、大村氏は劇的に感染症患者を減少させることに成功しました。単なる科学者ではなく、救済者としての面持ちさえ感じられます。

 大村氏の受賞記者会見からは、いまや消滅寸前の古き良き時代の日本の生活文化を感じさせられました。ヒトは目に見えないところでヒトや他の生物、自然界そのものと繋がっており、その繋がりの中で生かされています。

 私はすっかり忘れてしまっていましたが、かつて私たちは親世代から「ヒトのためになるように生きなさい」とよくいわれたものでした。そして、「情けは人の為ならず」ということも何度も聞かされました。ところが、いつの間にか、自分のために生きるのが当然のように思い、うまくいかなければ他人のせいにし、心満たされない日々を過ごすようになってしまっています。

 はたして、こんなことでいいのか・・・。

 大村氏の会見を見ていて、ふっとそんな思いに捉われてしまいました。ノーベル賞の受賞記者会見なのに、見ているうちに、思わず自分の生き方を振り返り、これでいいのかと反省させられてしまったのです。便利さと引き換えにヒトを支えてきた生活文化まで失いつつあるのではないかという気がしたのです。

 穏やかな笑顔で話される大村氏からは終始、不思議なオーラが放たれていました。

■梶田隆章氏の受賞
 翌日6日、東京大学宇宙線研究所所長の梶田隆章氏がノーベル物理学賞を受賞することがわかりました。この二日、立て続けにノーベル賞二部門での受賞が決まり、日本中が喜びに包まれました。今回も私はまずネットで受賞を知りました。

 6日夜、東京大学で梶田隆章氏の記者会見が開かれました。席上、梶田氏が次のようにいわれたのが強く印象に残っています。

「観測施設の『スーパーカミオカンデ』を建設したのは戸塚先生の功績であり、研究の代表者でもありました。ニュートリノに質量があることを証明したことについては、戸塚先生の功績が大きいと思います。もしも今も生きていたら共同で受賞したと思います」
(http://www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20151006/5485421.htmlより)

 ご自身の喜びとともに7年前にガンで亡くなった恩師の戸塚洋二氏の功績を称えられたのです。もちろん、2002年にノーベル物理賞を受賞された小柴昌俊氏の名前もあげられましたが、ノーベル賞受賞の記者会見という栄誉の場で、なによりもまず恩師戸塚氏の偉業を口にされたことに私は驚きました。偉業を我が物とせず、謙虚に先人を称える姿勢に感動したのです。

 ちなみに、スーパーカミオカンデとは、世界最大の水チェレンコフ宇宙素粒子観測装置のことで、1991年に建設が始まり、5年間にわたる建設期間を経たのち、1996年4月より観測が開始されました。(http://www-sk.icrr.u-tokyo.ac.jp/sk/より)

 梶田氏は次のようにもいわれました。

「自然現象が、非常にわれわれが観測しやすいようになっていてくれたおかげで発見できたので、本当にラッキーだと思っています」(前掲URLより)

 先人が素晴らしい研究環境を構築してくれたことに謝意を表明され、ご自身のことを梶田氏は「ラッキー」と表現されたのです。

 私はニュートリノのことも、スーパーカミオカンデのことも知りません。物理学のことはまったくわからないのですが、梶田氏の記者会見を見ていると、寝食を忘れるほどの努力を積み上げた結果、成し遂げることができた偉業であるにもかかわらず、自分を誇ることなく、あくまでも謙虚な姿勢で会見に臨まれたことに深く印象づけられました。

 もっとも、東京大学物理学科を卒業し、現在、東京大学大学院情報学環准教授の伊東乾氏は次のように書いています。

「今回の業績は、何千人という物理学徒の献身的な労苦によって達成されたものですが、もしその代表を選ぶなら、第一に名が挙がらねばならない人はノーベル賞を受けることができませんでした」
「戸塚洋二さん、この人こそ、ニュートリノ振動の観測で本当に汗を流し、足を棒にして働いた中心人物であり、同じ労苦を膨大な数の物理屋、技術者、協力者が惜しみなく提供して、宇宙の構造にとって最も本質的な成果の1つは得られました」(http://jbpress.ismedia.jp/articles/print/44956より)

 東京大学、そして、物理学の事情をよく知る人物からすれば、梶田氏の謙虚な姿勢は当然だったのかもしれません。

 会見中、梶田氏の謙虚な姿勢は終始一貫、崩れませんでした。日ごろからそのようなお人柄だからなのでしょうか、あるいは、戸塚氏をはじめ先人の苦労を忘れることができないという思いからなのでしょうか。いずれにしても、穏やかな笑顔の背後に謙譲を美徳としたかつての日本文化を重ね合わせることができます。

■偉業の背後にある日本の生活文化
 大村氏といい梶田氏といい、歴史に残る偉業を成し遂げたというのに、この謙虚さはいったいどこから来るのでしょうか。

 受賞発表後の記者会見をそれぞれテレビで見たのですが、いずれの場合も見終えて心の底から嬉しく、なんともいえないさわやかな気分に満たされました。テレビ中継された大村氏、梶田氏の笑顔が実に素晴らしいのです。

 ヒトは年齢を重ねると、その来歴が顔に出るといわれます。お二人の笑顔にはなんの外連味もなく、ヒトの気持ちを和ませる優しさと温かさがにじみ出ていました。テレビ会見を見ていて、ノーベル賞を受賞されるほどの偉業に打たれたのはもちろんのこと、画面を通して伝わってくる笑顔の背後に垣間見えるお二人のお人柄にも感激したことを思い出します。

 そして、12月8日、ノーベル賞受賞式に臨まれるお二人はストックホルムの宿泊先で会見に臨まれ、ここでも素晴らしい笑顔を見せられました。

こちら →201512080013_001_m
西日本新聞2015年12月8日より。

 2015年、さまざまなことがありました。もっとも印象に残ったのが、ノーベル賞受賞者お二人の背後に見受けられた日本の生活文化でした。

 思い起こせば、かつて私たちは親世代から繰り返し、「ヒトのために」、「出しゃばらず、威張らず」、「地道にコツコツと」、というようなことを言われて育ってきました。それがいつの間にか、「ヒトを出し抜き」、「自分を強くアピール」、「機を見るに敏」であることが求められるようになってしまっています。その結果、ヒトは気持ちの安らぎを得にくくなり、心身の病に罹りやすくなっています。はたしてこれでいいのかという思いがつのります。

 一年を振り返ったとき、まず、思い出されたのが、ノーベル賞受賞者お二人の爽やかな印象でした。お二人の記者会見からはかつては全国津々浦々、いきわたっていた日本の生活文化が浮き彫りにされていました。今回のノーベル賞受賞者から垣間見える日本の生活文化を改めて、見直す必要があるのではないかと思いました。(2015/12/30 香取淳子)