ヒト、メディア、社会を考える

04月

洛中洛外図屏風:戦国武将が掘り起こした美術表現の世界

■「京を描くー洛中洛外図の時代―」展
 4月12日、久しぶりに京都に行って、「京を描くー洛中洛外図の時代―」展(2015年3月1日~4月12日)を見てきました。会場は京都文化博物館で、中京区三条高倉にあります。三条高倉といえば京都の中心市街です。そこからほど近い御池高倉に、かつて足利尊氏の邸宅がありました。

当時、武家は京内に邸宅を建てないという慣習があったようです。ところが、足利尊氏は北条氏を打ち破った功績によって後醍醐天皇から認められ、武家でありながら、京内に居を構えることができたのです。跡地には石標が残されています。日曜日だったせいか、周辺は観光客や買い物客で賑わっていました。この辺りは昔も今も京の中心、ヒトの集まる場所であることに変わりはないようです。

この展覧会では国立歴史民俗博物館所蔵のコレクションを中心に、63点の洛中洛外図屏風、関連資料として4点の参考図版が展示されていました。チラシの表面に使われていたのが歴博乙本(屏風六曲一双 紙本金地着色、国立歴史民俗博物館所蔵)の洛中洛外図屏風でした。

こちら →特別展
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この作品は、歴博甲本(屏風六曲一双 紙本着色、国立歴史民俗博物館所蔵)、東博模本(屏風絵の写し十一幅 紙本淡彩、東京国立博物館所蔵)、上杉本(屏風六曲一双 紙本金地着色、米沢市上杉博物館所蔵)と同様、室町時代後期に描かれた洛中洛外図屏風の一つで、狩野派の画家によって描かれたといわれています。以上の4点が初期の洛中洛外図屏風で、戦国時代の諸相が捉えられているといわれています。

それでは、洛中洛外図屏風とはいったいどういう屏風なのでしょうか。

■初期の洛中洛外図屏風
 洛中洛外図屏風を見るのは今回が初めてです。よくわからないことも多いので、各種資料を参考にしながら、鑑賞することにしました。まず、洛中洛外図とはどういうものなのか、京都市の案内を見てみることにしましょう。
 
こちら →https://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/pdffile/toshi17.pdf

 この案内にあるように、「洛中洛外図屏風」は京都の市街と郊外を鳥瞰し、そこから神社仏閣、内裏や公家の御殿、町屋や農家を描くことによって、人々の生活や風俗などを表したものです。

多くは六つ折れ(六曲)の屏風二つがセットになっていて、一双と呼ばれています。一双の屏風の片方を一隻と呼び、右側を右隻、左側を左隻といいます。滋賀県立美術館によると、六曲一双の屏風は以下のような作りになっています。右隻と左隻で違う画面を描き、対の関係になっているものが一般によく見られるようです。

こちら →http://f.hatena.ne.jp/shiga-kinbi/20110303164018

洛中洛外図屏風の場合、右隻に京都の東側、左隻に京都の西側が描かれました。
Wikipediaによると、初期の洛中洛外図は、「右隻に内裏を中心にした下京の町なみや、鴨川、祇園神社、東山方面の名所が描かれ、左隻には公方御所をはじめとする武家屋敷群や、船岡山、北野天満宮などの名所が描かれている。また、初期洛中洛外図屏風を向かって見ると、右隻では、上下が東西、左右が北南となる。一方左隻では、上下が西東、左右が南北となる」とされています。
どうやら、これが一つの形式となっていたようです。さらに、「右隻に春夏、左隻に秋冬の風物や行事が描かれている」とも記されています。

こうしてみると、初期の洛中洛外図屏風には一つの形式があり、その形式の中で絵師たちが京都の四季、神社仏閣、名所や御所、人々の生活や風俗、地形を描いていたことがわかります。洛外図屏風はいってみれば、当時の総合地図であり、図鑑であり、生活事典でもあったのです。

■なぜ作られたのか 
洛中洛外図はなぜ作られたのでしょうか。
洛中洛外図屏風が出現した経緯について、カタログでは以下のように説明されています。

「応仁・文明の大乱が収束し、人々が京都再建に勤しんでいた十六世紀初頭の永正三年(1506年)十二月二十二日、越前の戦国武将、朝倉貞景の所望で「一双に京中を描く」屏風が作られたとの記録が現れる(『実隆公記』)。これが洛中洛外図に関する現存最古の記録である。幕府権力が衰微し、有力者が抗争を繰り広げたこの時期、京都を総合的に把握し絵に表そうとする最初の試みが戦国武将の下でなされたことは、この主題の生まれ持った性格を考える上で大変意義深い」

たしかに、戦後の混乱期に「京都を総合的に把握し絵に表そうとする」人物がいたことには驚かされます。しかも、それが戦国武将だったのです。一般に武士は文化知識層ではないと考えられています。それが、応仁の乱以降、戦国武士が京都に滞在するようになった結果、文芸に関わり、その保存や興隆にも貢献するようになったとされています。戦国武士と文芸に関する著書の多い米原正義氏によると、越前朝倉家はそのような文芸をたしなむ戦国武将の一人に数えられるといいます。

とりあえず、Wikipediaを見てみると、「甘露寺中納言来る、越前朝倉屏風を新調す、一双に京中を画く、土佐刑部大輔(光信)新図、尤も珍重の物なり、一見興有り」と、出典(『実隆公記』)の該当箇所が示されていました。

越前朝倉家が発注して絵師(土佐光信)に描かせた屏風を、実隆は甘露寺中納言から見せられたようです。それを見た実隆はとても珍しく貴重な屏風だと思い、興味をおぼえたと書いているのです。

屏風は元来、源氏物語絵巻のような故事、人物、事物、風景などをモチーフに描かれることが多かったようです。ですから、京都の地理や都市構造をモチーフにした屏風などそれまで見たこともなかったのでしょう、三条西実隆は意表を突かれ、大きな関心を寄せています。当時、第一級の文化人とされた彼がわざわざ「尤も珍重の物なり」と日記に書いたのです。京都を総合的に把握し、それを絵画の形式で表現したこの屏風絵はそれほど新奇で画期的なものでした。

このモチーフはやがて戦国武将の間で、大きな潜在需要を掘り起こしていきます。ですから、その後、幕末までの約350年間、洛中洛外図は描かれ続けたのです。現在、百数十点の存在が確認されているそうです。

■戦国武将による発注
注目すべきは、絵師にそのようなモチーフの屏風絵を依頼した越前朝倉家でしょう。越前朝倉家は南北朝時代に但馬朝倉家から分かれて越前に移り、後に戦国大名になりました。そして、この屏風を絵師に発注したのは9代目の朝倉貞景だといわれています(Wikipedia)。

『日本人名大辞典』によると、朝倉貞景(1473-1512)は、「越前の守護。一族の内紛を抑え、さらに加賀一向一揆の侵攻を撃退して朝倉家の越前支配を確立した」と記されています。優れた戦略家で、しかも統治能力にも長けていたようです。また、『朝日日本歴史人物事典』によると、以上の内容に加え、「『宣胤卿記』は、その画才が天皇の耳にも聞こえていたと伝えている」と記されています。朝倉貞景に画才があったというのです。画才のある武将が屏風絵を発注したというのも、また大変、興味深いことです。

この『宣胤卿記』は公家の中御門宣胤が綴った日記で、執筆期間は1480年から1522年に亘っています。戦国時代の公家の生活についての情報が豊富だといわれています。この日記からは、朝倉貞景が武将でありながら画才があると周囲に認識されており、天皇をはじめ公家たちから一目置かれていたことが示唆されているといえるでしょう。

戦国武将であった朝倉貞景はおそらく、花鳥風月を愛でるよりは統治や攻略に役立つ情報を好んだのでしょう。ですから、もともと画才のあった彼は、京の都にまつわるさまざまなモチーフをどのように取り上げ、どのように配置すべきかについても絵師に指示していた可能性があります。

そう考えると、納得がいきます。京都を総合的に把握し屏風絵を描くよう依頼されても、なんの指示もなければ、絵師は戸惑うだけで、絵筆を執ることさえ叶わなかったでしょう。これまで目にしたこともないモチーフです。描くよう命じられたとしても、絵師にしてみれば、ただ困惑するだけだったでしょう。それを一双の屏風として仕上げたのですから、絵師になんらかの助言があったと考える方が自然です。つまり、モチーフや構図のアイデアは発注者の朝倉貞景が提供し、絵師はそれを聞いて屏風絵を描く、という分業が考えられるのです。

残念ながら、この屏風は現存していません。たまたまこの屏風を見た三条西実隆が日記に発注者と絵師の名前を記録していました。1506年、16世紀初頭のことです。そして、当代一流の文化人であった実隆の感想から、このモチーフの斬新さが明らかになったのです。一方、同じく公家であった中御門宣胤の日記から、武将であった朝倉貞景に絵心があったこともわかりました。

こうしてみると、発端となった洛中洛外図は、公家とも交流のあった絵心のある戦国武将・朝倉貞景のアイデアから生み出されたといえそうです。詳細な地理、建物の配置や構造、人々の暮らし、四季折々の風俗、文化など、京都の総合的な情報を凝縮して一望できるのが、洛中洛外図屏風です。断片的に京都の佇まいを捉えた屏風はあっても、総合的に捉える試みはそれまでありませんでした。まさに戦国武将ならではの発想で、新しい美術表現の地平を切り開いたのです。

■地理情報、生活情報の宝庫
 さきほど紹介した京都市の案内によると、初期の作品は室町後期の応仁・文明の乱後の復興期の諸相が描かれていたようです。この乱で京都の町は壊滅状態になり、その後の復興過程で市街地が上京と下京に分断されました。この二つの市街地は南北に通ずる中央の道路だけでつながっており、その道路が室町通りだったと考えられています。初期の洛中洛外図はこのような都の状況を反映するかのように、一隻を上京、もう一隻を下京中心に描かれていたのです。

 この時期はおそらく、京都を総合的に把握する情報が求められていたのでしょう。とくにその必要性を感じていたのが都の統治を目指していた戦国武将だったと思われます。彼らは人々の生活、建物の配置、道路状況、等々、さまざまな情報を欲したと思いますが、もっとも手に入れたかったのは、京の都の地理情報だったと考えられます。

現存する最古の洛中洛外図屏風といわれる「歴博甲本」は、1520年代から30年代にかけて制作されたと考えられていますが、京都の地理が大変、詳しく描かれています。たとえば、歴博甲本の左隻はこのように描かれていました。

こちら →34_eCf301.ai
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 これを見ると、まさにgoogle mapも顔負けしそうなほどの立体地図です。主要な道路、神社仏閣、公家などの邸宅の位置が詳細に描かれています。統治のための戦略を練るには不可欠の情報であり、計画立案のための恰好の資料になったことでしょう。この図の文字はわかりやすく活字に置き換えられていますが、実際の文字は草体仮名で表示されています。

地理情報ばかりではありません。四季折々の景色や祭事が活写されており、総勢1426人の生活シーンがきめ細かく描かれています。たとえば、国立歴史民俗博物館は、「歴博甲本」で描かれた人物すべてをデータベース化しています。興味があれば、それぞれの人物像を一覧することもできますし、属性で検索することもできます。

こちら →
http://www.rekihaku.ac.jp/rakuchu-rakugai/DB/kohon_research/kohon_people_DB.php

 公家であれ、武士であれ、町衆であれ、当時の人々がどのように暮らしていたか、これを見ると、一目でわかります。絵ですから、人々がどこで、どのような服装で、何をしていたのかが具体的に理解できるのです。当時の社会や生活、文化を把握するには第一級の資料といえるでしょう。

初期の洛中洛外図屏風としては、この歴博甲本以外に、東博模本、上杉本、歴博乙本の4点が現存します。いずれも戦国時代の様相が丁寧に描かれており、美術作品としてはもちろん、歴史、生活文化、社会、政治を把握する資料としても大きな価値があります。屏風絵にどのような意味が込められていたのか、興味は尽きることがありません。次回は上杉本を中心に見ていくことにしましょう。(2015/4/27 香取淳子)

「FACE展2015」で見た和田和子氏の作品

■FACE展2015
「FACE展2015」は、損保ジャパン日本興亜美術館を会場に、2月21日から3月29日まで開催されていました。「VOCA展2015」に物足りない思いをしていた私は、その帰途、「FACE展2015」に立ち寄ってみたのです。FACE展もVOCA展と同様、参加するのは今回が初めてです。こちらはVOCA展とは違って公募形式で「年齢、所属を問わず、真に力がある作品」が募集されています。出品のための条件が課せられていなかったせいか、幅広い層から作品の応募があったようです。

出品数は748点にも及びました。前年、前々年よりも減少したといいますが、それでも相当な数です。応募作品はすべて作品本位で公平厳正に審査され、70点の入選作品が選定されました。入選倍率は10.7になります。さらに、その中から合議制で9点の受賞作品が選ばれました。モチーフ、マチエールとも多種多様で、それぞれに魅力があり、見応えがありました。私が強く印象づけられたのは、グランプリの宮里紘規氏の「WALL」と、優秀賞の和田和子氏の「ガーデン(木洩れ日)」でした。

受賞作品が展示されているコーナーに入った途端、目についたのが、宮里紘規氏の「WALL」と、和田和子氏の「ガーデン(木洩れ日)」だったのです。たまたまこの二作品は並べて展示されていましたが、見た瞬間に、その場をすぐには立ち去り難い思いに捉われました。いずれも内容に深みが感じられたからです。おそらくそのせいでしょう、表現者の深層に近づいてみたいという気持ちが沸々と湧き上がってきたのです。

今回は和田和子氏の作品を見ていくことにしましょう。

■和田和子氏の「ガーデン(木洩れ日)」
「ガーデン(木洩れ日)」(2014年制作)は、162×194㎝のキャンバスに油彩で写実的に描かれた作品です。色彩にもモチーフにも派手さはありません。もちろん、奇をてらったところもなければ、気負ったところもありません。色調は柔らかく、モチーフもごく自然に配置されています。どちらかといえば、地味で目立たないように見える作品です。ところが、そんな作品に私は一目で惹き付けられてしまったのです。

こちら →和田和子

なぜ、そういう思いに捉われたのか、自分ながら不思議な気がして、しばらく絵の前に佇んでいました。

「木洩れ日」といえば、通常、木々の葉越しに陽光が差し込んでくる光景を指します。ですから、下から上を見上げる構図でなければ、その光景を捉えることはできないはずです。ところが、この絵は木の上から俯瞰する恰好で庭を捉えているのです・・・、と書いてきて、ふと、私が勝手に俯瞰だと思ってしまっただけなのではないかという気がしてきました。絵の構図が何だか変なのです。

■俯瞰とアイレベル、視点の交錯
改めてこの作品を見てみると、俯瞰にしては、木の幹が太すぎます。まるで巨木の幹のように太く描かれています。画面全体の4分の1ほどを占めているでしょうか、まさにこの絵の中心といえます。ですから、見る者の視線はまず、この幹に留まります。その太い幹から何本も枝が分かれて伸びていますが、そのうちの目立つ二本の枝はまるで女性の太腿から脛にかけての部分のように見えます。

付け根の太さといいその形態といい、とても肉感的で、シンクロナイズドスイミングの水中から浮き出た脚のようにも見えます。枝の付け根でしかないのですが、そこにかすかなエロティシズムが漂っていて、太い木の幹に表情を添えています。構図の不自然さから目を逸らす仕掛けのようにも思えます。不思議なことに、葉はまばらにしか描かれていません。

こちら →メイン幹

俯瞰すれば、垂直方向に樹木を捉えますから、木の上部の葉しか見えないはずです。ですから、葉がもっと茂っていなければならないし、幹や枝がこのようにはっきりと見えるはずはありません。さらにいえば、枝の伸びている方向が不自然です。よく見ると、幹の下には何本もの根が張り、巨木を支えています。ですから、この部分は明らかにアイレベルで捉えた構図なのです。

こちら →幹

では、なぜ私はこの絵を俯瞰の構図と思ってしまったのでしょうか。

もう一度、この絵を見てみると、太い幹はやや左よりに対角線のように配置され、画面を左右に分断しています。左側にはオベリスクに絡まる白い花と葉、右側には水連が浮かぶ水桶、植木鉢やプランターなどが配置され、それぞれのモチーフは俯瞰で捉えられています。

しかも、太い幹の下から右上方に向けて、地面には木の影らしきものが伸びています。俯瞰でなければ捉えられません。そして、影の伸びた先には柵のないウッドデッキがあり、そこで女性が椅子に座り、図鑑を見ています。その女性の背中には葉影が落ちています。陽光が左上方から射していることが示されています。ウッドデッキにもその周辺の地面にも葉影が落ちています。ですから、この部分に関しては陽光が左上方から射し込んでいることになります。つまり左上方からの俯瞰図なのです。

このように見てくると、私が木の上から庭を俯瞰した絵と思ってしまったのは、絵の中心に描かれた大きな木以外のモチーフはすべて俯瞰で捉えられていたからだということがわかります。ところが、俯瞰の方向は一様ではなく、幹の右側が左上方からの俯瞰、左側が左斜め真上からの俯瞰といった具合に異なっています。たとえば、左側に配置されたオベリスクに絡まる一群の花は左斜め真上からの俯瞰です。

こちら →左部分

こうして見てくると、この絵には複数の視点が導入されていることがわかります。ところが、一見すると、庭を写実的に再現したようにしか見えません。大きな違和感を覚えさせることがないのです。ただ、複数の視点で捉えられたモチーフが一枚のキャンバスに収められていますので、見る者は、平面の絵を見ながらも、立体を見るときのような視線の動きをしてしまうのでしょう。まさに複数視点による視線誘導です。

これと似たような発想で絵を描いていた画家がいました。セザンヌです。

■セザンヌの構図
イタリア人の美術批評家にリオネルロ・ヴェントゥーリというヒトがいます。彼はセザンヌが描いた絵とその実景写真とを比較するという手法で、セザンヌの絵の構造を明らかにしました。(リオネルロ・ヴェントゥーリ著、辻茂訳、『美術批評史』、みすず書房、1971年)

たとえば彼は、セザンヌのサント・ヴィクトワール山を描いた作品とその実景写真を比較し、絵には「造形的なダイナミズム」があるのに、写真にはそれがなく、山のボリュームは弱々しいと書いています。モチーフを写実的に再現することが必ずしもモチーフの本質を捉えることにはならないといい、セザンヌの絵には意図的な作為が施されているというのです。

絵画と写真とを比較する手法でセザンヌを研究したのはリオネルロ・ヴェントゥーリだけではありませんでした。アメリカ人の美術評論家であり大学教師でもあったアール・ローランも、同様の手法でセザンヌの描いた絵についてさらに精緻な実証研究をしています。(アール・ローラン著、内田園生訳、『セザンヌの構図』、美術出版社、1972年)

彼は風景画から静物画までさまざまなセザンヌの絵を取り上げ、実証的に研究しました。私が和田氏の作品を見て、思い出したのは果物をモチーフにした作品です。果物はセザンヌが好んで描いたモチーフの一つです。

セザンヌに「果物籠のある静物」という絵があります。和田和子氏の「ガーデン(木洩れ日)」ほど大胆ではないですが、やはり複数の視点を絵の中に持ち込んで、モチーフを配置しています。セザンヌの作品も一見、ごく自然にモチーフを写実的に再現した作品に見えます。

こちら →Paul_Cézanne_188

ローランは画家でもあったのですが、セザンヌの「果物籠のある静物」について上記の手法で実証研究を行った結果、この絵には複数の視点が導入されていると指摘しました。個々のモチーフがどの視点から捉えられたかを図示したうえで、複数の視点による効果を明らかにしたのです。

たとえば、基準になる視点を設置してこの絵を見てみると、モチーフの形態から判断してその視点で捉えられるものとそうではないものがあるとし、この絵に別の視点が導入されていると指摘しました。同様にして、さらに別の視点が取り入れられていることを実証し、この絵には複数の視点が導入されていると指摘しました。その結果、この絵を見るヒトはまるで絵の周囲を回り込みながら見ているような気になるというのです。

ローランはこのように大変、興味深い指摘をしています。たしかに、この絵を見ていると、観客は絵の周囲を回り込みながら見ているような気になるのかもしれません。複数の視点が導入されたことによる効果です。

ですが、この絵を注意深く見るヒトはなによりもまず、どこか違和感を覚えていたはずです。ちょっと不思議な感覚とでもいえばいいのでしょうか。絵の吸引力ともなる「違和感」です。

「ガーデン(木洩れ日)」の構図に違和感を覚えたとき、私はふと、セザンヌの「果物籠のある静物」を思い出してしまったのです。

■複数視点と色彩の制御による視線誘導
「ガーデン(木洩れ日)」を見る者はまず、太い木の幹を見てから枝を見、見下ろすようにして、庭やウッドデッキで本を広げている女性を見ていくことになります。後姿の女性に辿り着いたところで、何か見落としたような気がして再び、木の幹に戻り、左下に配置されたオベリスクに絡まる広い花や葉を見ます。そして、もう一度、庭を見下ろして女性の背中に目を落とすと、今度は木洩れ日の下で本を読む幸せを共有していることに気づきます。モチーフの間を回り込んで見ていくうちに、このモチーフ(後姿の女性)に感情移入できているからでしょう。俯瞰しているにもかかわらず、木洩れ日の下にいる錯覚に陥ってしまいます。葉の影から洩れる陽光と爽やかな空気が感じられるのです。

そのように感じてしまうのはおそらく、太い幹から回り込むようにしてさまざまなモチーフを見、最終的にもう一つの中心モチーフ(後姿の女性)を見ていくよう見る者の視線の動きが誘導されているからでしょう。「セザンヌの構図」を踏まえて「ガーデン(木洩れ日)」を読み解いてみると、この絵には複数の視点が盛り込まれており、それによって、見る者が自然に視点移動し、作品世界に引き込まれていくことがわかります。

不思議なことに、これだけ多くのモチーフが視点の異なる中で配置されているにもかかわらず、雑然としておらず、むしろ、秩序ある静寂さえ感じられます。それはおそらく色彩が厳密にコントロールされているからでしょう。よく見ると、すべてのモチーフに色彩のコントロールが加えられています。緑色系、寒色系で統一されているのです。

太い幹の左下でかなりのボリュームを占めるオベリスクに絡まる花や葉さえ、すべて白で表現されています。暖色系はごくわずか、植物図鑑の一部、本の一部、パラソルの一部に使われているにすぎません。このように厳密に色数が制限されているからこそ、複雑な構成であっても自然な調和が生み出されているのでしょう。さらに淡いモスグリーンの葉が画面全体にほどよく放散されています。これもまた絵全体に統一感を生む効果があります。

■知的な絵画の魅力
こうして見てくると、この絵はきわめて複雑な構造で組み立てられていることがわかります。一見、写実的に描かれているように見えて、その実、複数視点といい、色彩戦略といい、多様な仕掛けが施されています。決して自然に描いた作品ではないのです。ひょっとしたら、自然に描かれたものではないからこそ、見る者はきわめて自然にこの作品世界の中を回遊し、「木洩れ日」(自然)を感じ取ることができるのかもしれません。絵画ならではの魅力です。

構図の不思議、視点の違和感を読み解こうとしているうちに、快い木洩れ日の下、図鑑を読んでいる女性に感情移入してしまっていることに気づきます。コントロールされた色彩のせいかもしれませんが、葉影から洩れる陽光すら感じられます。しばらく見入っているうちにいつしか、爽やかな気分になっているのです。それが作者の狙いだとしたら、見事というしかありません。作品の背後から透けて見える知性に惹かれます。(2015/4/10 香取淳子)

FACE展2015:雑誌の切り抜きコラージュによる表現

■FACE展2015
VOCA展の会場に入ると、入り口近くに「FACE展2015」のチラシが置いてありました。見ると、会場は損保ジャパン日本興亜美術館で、開催期間は2015年2月21日から3月29日になっていました。閉幕がせまっています。急遽、VOCA展を見終ったら、FACE展ものぞいてみることにしました。

こちら →FACE展

VOCA展とは違って、FACE展は公募コンクール形式の展覧会です。損保ジャパン日本興亜美術財団が公益財団法人に移行したのを機に創設され、今年で第3回目になります。VOCA展と同様、こちらも新人の登竜門として位置づけられていますが、若手ではなく、新進という言葉が使われていました。募集要項を見ると、「年齢、所属を問わず、真に力がある作品」を公募するとされています。

こちら →http://www.sjnk-museum.org/program/past/2873.html

新たに活躍しそうな作家を発掘するため、年齢とは関係なく、作品本位で審査しようとしているのです。

■審査方式
審査方式もVOCA展とは異なっています。FACE展の方は、公募により全国から幅広く作品を募り、「美術評論家を中心とした審査員の公平な審査」によって選別して「将来国際的にも通用する可能性を秘めた」作品70点を入選作品とし、その中から「合議制でグランプリ、優秀賞、読売新聞社賞を選出し、各審査員が審査員特別賞を決定する」とされています。VOCA展とは違って、全審査過程で審査員による相対評価が貫かれているのです。

FACE展の審査方式は、審査員がすべての応募作品に目を通し、全作品の相対評価を何度も繰り返して最終選考に至るという仕組みです。審査員は大変でしょうが、恣意性が入り込む余地は少なく、より公平性の高い審査が行われます。審査方法および審査経過はカタログの中で開示されていますから、審査の透明性は確保されており、当然のことながら、信頼性も付随してきます。

興味深いことに、審査の際には作者名、年齢、性別、所属、題名などの情報は伏せられていたそうです。作品について審査員から質問があった場合、技法についてのみ、作品裏面に貼付された「作品票」記載の技法が審査員に対して開示されるという徹底ぶりでした。作品本位に審査することこそ、将来有望な新進作家を発掘できるという考えからでしょう。私も「国際的に通用する可能性を秘めた」新進作家を発掘するにはこの種の厳格さが不可欠だと思っています。

「FACE展2015」では、10代から80代にいたる748名が作品を出品したそうです。前回、前々回よりも出品数はかなり減少していますが、入選者数は逆に1点増えています。質の高い作品が多く寄せられたことがわかります。出品作品すべてに対して六次に亘る審査が行われ、入選作品70点が選ばれました。入選作品はすべて会場に展示されています。

入選者の性別は、男性38名、女性32名で、年齢は応募時20歳から69歳におよびました。年齢分布は、20代21名、30代22名、40代4名、50代7名、60代16名で、平均年齢は40.34歳だったそうです。20代、30代の応募が多く、年齢条件を付けなくても、若手作家を発掘できることがわかります。一方、年齢条件を付けなかったからこそ、60代からも多くの有望な作家を発掘することができました。年齢を問わないことは、エイジレス時代の新進作家の発掘に不可欠の要件かもしれません。

■受賞作品
入選作品70点の中から合議制で9点の受賞作品が選ばれました。モチーフ、マチエールとも多種多様で、それぞれに魅力があり、見応えがありました。

グランプリは宮里紘規氏の≪WALL≫(24歳、大学院生)。そして、優秀賞は、大橋麻里子氏の≪La Foret≫(23歳、大学院生)、和田和子氏の≪ガーデン(木洩れ日)≫(64歳、画家)、村上早氏の≪カフカ≫(22歳、画家)の3点でした。

読売新聞社賞は、平野淳子氏の≪記憶≫(59歳、画家)。そして、審査員特別賞は、黒木美都子氏の≪月読≫(23歳、大学院生)、大里早苗氏の≪Echoes≫(64歳、画家)、児玉麻緒氏の≪チュー≫(32歳、画家)、下野哲人氏の≪Black lines on the white White lines on the black≫(59歳、不詳)の4点でした。

20代と30代の若手画家、そして60歳前後の画家が受賞しているのです。さきほど紹介した世代別出品数と照らし合わせると、出品数の多い世代から受賞者の出る比率が高いことがわかります。年令条件を課さなかったからこそ、高齢世代にも希望を与え、多様な画風を掬い上げることができたのでしょう。受賞作品を見ると、さすが多数の作品の中から選ばれただけのことはあります。どの作品にも見る者に強く訴えかける力があり、引き込まれました。

とくに、私は宮里紘規氏の≪WALL≫と、和田和子氏の≪ガーデン(木洩れ日)≫に強く印象づけられました。画風はまったく異なるのですが、たまたま並べて展示されていたので、しばらくそのコーナーに佇んでいたほどです。今回は宮里氏の作品を中心に見ていくことにしましょう。

■宮里紘規氏の≪WALL≫
グランプリの≪WALL≫(ミクストメディア、194×162㎝、2014年)は、巨大な壁の前に佇む小さなヒトという構図の絵ですが、不思議な魅力がありました。何か気になるメッセージが発散されているような気がしてすぐには立ち去り難く、それを読み解きたいという気持ちにさせられてしまったのです。

こちら →wall

≪WALL≫というタイトルだから、勝手に、「壁」だと思って見ているのですが、左下に描かれたヒトに比べると、あまりにも巨大です。とても、通常、「壁」と聞いてイメージするものとはいえません。しかもその色彩がいわゆる壁の色ではないのです。遠目には淡い色調に見えるのですが、近づいてみると、それがさまざまな文字が印刷されたカラフルな紙片だということがわかります。

こちら →クローズアップ

よく見ると、シュレッダーで切り裂いた無数の紙片をコラージュして、「壁」が表現されているのです。それが面白く、何度も近づいては覗き込み、遠ざかっては眺めもしました。このような手法で表現されたこと自体に興味を覚えてしまったのです。その「壁」には、ただ面積が大きいからというだけではない、なんともいえない迫力がありました。しかも、緻密に張り付けられた無数の紙片が紡ぎだす色彩のハーモニーが快く感じられるせいか、巨大であるにもかかわらず、それほど圧迫感がないのです。

手法上の面白さに引きずられ、しばらく見入っていましたが、作品として何を表現しようとしていたのか、なぜ、このような手法を取ったのか、よくわかりませんでした。気になるメッセージを解読する手掛かりを見つけられなかったのです。ネットで検索してみると、宮里氏に対するインタビュー記事を見つけることができました。

こちら →http://netallica.yahoo.co.jp/news/20150216-00003548-cinraneta

なぜ、このような手法を使っているのかとインタビュアーから問われ、宮里氏は次のように答えています。

「絵の具で描いているとウエットというか、湿度があるような絵を描いてしまうんです。(中略)自分が感じている世界はもっとドライだし、うすっぺらい。絵の具は何か違うって疑問を抱いていた頃に、トム・フリードマンの作品と出会って、「これだ!」と絵の具を捨てて、一気にコラージュの方向に行ってしまった感じです」

宮里氏にはおそらく、画材とマチエールに対するきわめて繊細な感受性があるのでしょう。だからこそ彼は、絵の具だと湿度のある絵を描いてしまうと認識していました。絵の具では、彼が描こうとしている「ドライで薄っぺらい」世界を表現することはできなかったのです。制作技法を模索をしていた時期に出会ったのが、トム・フリードマンでした。

トム・フリードマンは、紙片など日常的な素材を使って表現活動を展開しているアメリカ人の美術家です。たとえば、次のような作品があります。

こちら →http://www.luhringaugustine.com/artists/tom-friedman/#/images/23/

これは、切り抜いたさまざまな雑誌の紙片をコラージュして制作された作品です。

宮里氏はどうやらこのトム・フリードマンの影響を受けて、絵の具の代わりに紙片をコラージュするようになったようです。それ以来、絵の具に感じていた違和感が払拭されて、しっくりきたといいます。ようやく描きたいものを描ける素材と手法に辿り着いたのでしょう。

宮里氏は「壁」を作品のテーマとして制作しつづけていますが、それについては以下のように述べています。

「何か大きいものに向かっている自分」というのは、一貫したテーマとしてあります。いつも目の前に何かが立ちはだかっていると感じているんですけど、その正体がわからないとずっと思っていて、それが何なのかを知るために、実際に「壁」を作品として作ってみよう、という考えでこのシリーズは続けています」

今回受賞した≪WALL≫はまさにその集大成としての作品だったのでしょう。もっとも、「壁」を作品として描いているとはいえ、作品で「壁の厚さ、重さ」を表現しているわけではないと彼はいいます。

「別に閉じ込められているわけではないし、出ようと思えば出られる。だけど、目の前にある邪魔なもの、そんな感じです。なんとなく息苦しい、みたいな」

ひょっとしたら、彼が表現しようとしているのは現代社会の閉塞感のようなものでしょうか。だとしたら、「壁」とはいっても、物理的な遮蔽物をイメージさせるものであってはならず、それこそ、厚みがなく重さもない心理的な遮蔽をイメージさせる表現でなければなりません。絵の具ではとても表現できなかったでしょう。シュレッダーにかけた紙片のコラージュだからこそ、厚みや重さを払拭した「壁」を表現することができたのかもしれません。

■≪WALL≫に見る現代社会の閉塞性
≪WALL≫はテーマといい、モチーフ、構図、マチエールといい、出色の作品です。宮里氏が一貫して「壁」をテーマに制作し続けてきたことの成果といえます。この作品に近づいてみると、コラージュに精緻な仕掛けが施されていることがわかります。ですから、会場で見なければ、この作品の良さを完全に理解することはできないでしょう。

≪WALL≫を離れて見ていると、コラージュされた紙片の色彩が織りなすハーモニーが快く、浮き立つ気分になります。宮里氏が求めた厚みや重さのない「壁」が、華麗でバーチャルな現代社会を連想させるからでしょうか。

一方、絵に近づき、左下に小さく描かれたヒトに感情移入してこの「壁」を見ると、果てしなく広がる巨大な「壁」に息苦しく、鬱陶しい気分にさせられます。「壁」を乗り越えられないことから来る挫折感、虚脱感が呼び覚まされてしまうからでしょうか。

このように、この作品は見る者の感情をさまざまに刺激し、喚起しますが、それだけではありません。宮里氏がテーマにした「壁」には、現代社会に生きるヒトなら誰もが感じているであろう閉塞感に通じるものが内包されています。巨大な「壁」を現代社会そのものと見なすことができるのです。

ですから、いったん目にすると、ヒトはつい引き込まれて見てしまうのでしょう。まさに現代の本質を描出した絵画といえます。このように、この作品には見る者の深層心理に訴えかける力があります。それは、斬新なアイデアと緻密な構成によって可能になったと思われますが、とくに秀逸だと思ったのが、左下に小さくヒトを配したところです。このモチーフを加えるだけで作品に立体感が生まれ、感情移入しやすくなりました。

この絵を見ていると、人目を引く巨大な「壁」に惹き付けられながらも、最終的に小さなヒトに感情移入して見ていることに気づきます。だからこそ、現代社会に生きるヒトが誰しも一度は味わうであろう挫折感、虚脱感に共鳴してしまうのですが、見る者の気持ちをそうさせてしまうのは、この絵に現代社会の本質が見事に表現されているからにほかなりません。

宮里氏には今後も継続して現代社会と切り結ぶような作品世界を展開していただきたいと思います。(2015/4/6 香取淳子)