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「平仙レース」に見る、日本の近代化過程① 創業者・平岡仙太郎

■「平仙レース」の写真展示

 2022年3月26日、三寒四温の日々が続いているとはいえ、だんだん暖かくなってきました。ひょっとしたら、もう桜が咲いているかもしれないと思い、久しぶりに入間川遊歩道に出かけました。

 途中、文化創造アトリエ前の交差点で、信号が変わるのを待っていると、向かい側の、「文化創造アトリエ・アミーゴ」(以下アミーゴ)の車寄せ道路側の壁面に、写真と説明文が展示されているのが目に入りました。近づいて見ると、「平仙レース」というタイトルが見えます。

こちら →
(筆者撮影。図をクリックすると、拡大します)

 ざっと見たところ、「平仙レース」に関する写真や説明文が掲示されているようでした。

 展示写真を見てみました。

 「まとい」や「神輿」、女子従業員のための寮、寮での生活、昭和天皇・皇后両陛下の当地ご訪問、レース工場の航空写真など、「平仙レース」の過去をうかがえる写真がいくつも展示されています。もはや人々の記憶にはなく、振り返ることすらできないほど遠くなってしまった日本の過去が、白黒写真の中にしっかりと捉えられていました。

 見ているうちに、通り一遍に見て済ませられるような展示内容ではないような気がしてきました。一連の写真の背後に見過ごすことのできない何かを感じたのです。

 「平仙レース」とは一体、何なのでしょうか。

 そこで、今回は、展示写真を中心に、郷土資料、関連資料を踏まえ、「平仙レース」から何が見えてくるのか、探ってみたいと思います。

■平岡レースとは何か

 展示写真の中には、昭和33年頃の「平仙レース」工場の写真がありました。

こちら →
(展示写真より。図をクリックすると、拡大します)

 説明文は、「かつて仏子には「平仙レース」という日本有数のレース工場があったことをご存じですか?」という文章で始まっています。

 上の写真は昭和33年頃に撮影されたものですが、広い敷地に特徴のある建物が並んでいます。この地域の有力な機業家であった平岡仙太郎が、1928年に設立した「平仙レース」工場でした。

 なぜ、「平仙レース」なのかといえば、地元の有力な機業家であった平岡仙太郎(1893-1939)が、大正末期にレース工場を設立したことに由来しています。平岡仙太郎が創始したレース工場だから、「平仙レース」なのでした。

 それでは、平岡仙太郎とはどのような人物だったのでしょうか。

■平岡仙太郎とは

 展示資料によると、平岡仙太郎は1893年、織物業を営む平岡専吉の長男として生まれ、川越染色学校を卒業すると、そのまま家業を継ぎました。この辺り一帯は幕末から明治・大正にかけて、全国でも有数の織物生産地でした。

 入間地方は痩せた土地で、農産物の収穫が少なく、農家の人々は副業として、瘦せた土地でも育つ桑の木を植えて養蚕を行い、織物を作って、市場に出していました。この地域一帯で盛んだったのが、織物業だったのです。

 当時、織物市場は川越、所沢、扇町屋、飯能などにありました。ところが、江戸時代も1844年頃になると、織物の取引が江戸に近い所沢市場に移っていきました。その結果、実際の織物生産の中心は入間でしたが、入間、川越、飯能、所沢などで織られた織物は、総称して、「所沢織物」と呼ばれるようになったそうです。市場が所沢だったからです(『ときの夢を織る~入間の繊維産業の歩み~』、pp.5-7. 2005年1月。入間市)。

 いずれにしても、入間は織物の生産拠点だったのです。そのような環境の中で生まれ育った平岡仙太郎はきっと、織物業を天職と思っていたのでしょう。

 説明文には、「稼業を継いでからは、力織機を増設したり、分工場を設立したりして次第に、経営を拡大していきました」と書かれています。力織機という耳慣れない言葉が使われているので、気になって調べてみると、次のようなものでした。

こちら →
(Wikipediaより。図をクリックすると、拡大します)

 力織機とは、1785年に、イギリス人エドモンド・カートライト(Edmund Cartwright)が発明した機械動力式の織機のことで、英語のpower loomをそのまま日本語に訳したものでした。

 それまでの手織機に代わって織物生産の主役となって産業革命を主導したとされています。これが普及してから、それまでの手織機の使用は、工芸品や伝統的な布を織る場合に限られるようになったそうです。

 上の写真は豊田自動織機G3型です。G型をベースに構造を強化し、厚地が織れるようにした織機です。実は、豊田佐吉は1924年に、このG型自動織機を発明し、完成させていました。(※ https://www.tcmit.org/exhibition/textile/fiber03/)

 平岡仙太郎が事業を継いだ頃はおそらく、このG型自動織機が日本の繊維業界に出回っていたのでしょう。積極果敢に新しい機械を導入して新規事業を展開し、経営拡大を図っていました。

 繊維業は明治、大正、昭和と日本の中心的な輸出産業の一つでした。高品質の製品を大量に生産し続けるには、機械の導入、品質管理、新規製品の開発などが不可避でした。

■なぜ、レース工場を設立したのか。

 平岡仙太郎は稼業を継ぐと、経営を拡大する一方、繊維業界の動向を見ながら、刺繍レースへと主力製品を変えていきました。新しい技術を積極的に導入し、事業効率を高めながら、時代に即した新製品の開発を手掛けていったのです。

 大正末期にレースの生産に着目していた彼は、昭和に入って早々、1928年に平仙レース工場を設立し、1929年から操業を始めました。

 展示資料には、1923年に関東大震災が発生し、①手工レースが壊滅状態に陥ったこと、②浜口内閣が緊縮財政政策を取り、輸入品で贅沢とみなされたレースの関税を3割から10割に引き上げたこと、等々から、レースの国内生産に踏み切ったと、その理由が書かれていました。

 気になったのは、「浜口内閣が緊縮財政を取り・・」、と書かれている箇所でした。関東大震災後、内閣は頻繁に交代しています。果たして、一内閣の経済政策だけで新規事業に踏み切れるものか、納得しかねたのです。

 そこで、当時、誰が経済政策を担当していたのか、調べてみました。

■緊縮財政政策下で振り絞った知恵

 調べてみると、関東大震災後、不安定な社会状況を反映するかのように、内閣は頻繁に交代していました。急死したり(加藤高明)、暗殺されかけたり(浜口雄幸)、不穏な社会状況の下、かじ取りを迫られていたことがわかりました。

 興味深いことに、震災後の数年間、浜口雄幸が一貫して大蔵大臣を務めています。

 震災時は、第22代の第2次山本権兵衛内閣(1923年9月2日から1924年1月7日)で、大蔵大臣は井上準之助でした。次の第23代清浦奎吾内閣(1924年1月7日-6月11日)の大蔵大臣は勝田主計でした。

 いずれも短期間で終わっていますが、震災直後の経済政策を主導したのが井上準之助です。彼は善後策として、一定期間の支払い猶予、震災手形制度などの緊急措置を行いました。

 その後、第24代の加藤高明内閣(1924年6月11日‐1926年1月30日)の大蔵大臣は、浜口雄幸でした。第25代の第1次若槻礼次郎内閣(1926年1月30日-1927年4月20日)でも、彼は大蔵大臣を務めました。

 展示説明では、「浜口内閣の緊縮財政政策」と書かれていましたが、浜口が総理大臣になったのは、第27代内閣(1929年7月2日-1931年4月14日)で、確かに、浜口雄幸が総理大臣だった頃、平岡仙太郎はレース工場を操業しています。

 浜口内閣の大蔵大臣は井上準之助でした。浜口に請われ、立憲民政党の井上が民政党内閣の大蔵大臣に就任しています。浜口は、総理大臣になると、自身と同じ考えの井上を大蔵大臣に起用したのです。高橋是清の弟子でありながら、井上準之助は緊縮財政派だったからでした。

 その井上は、凶弾に倒れた浜口内閣の後、第2次若槻内閣(1931年4月14日-12月13日)でも大蔵大臣を務めました。

 こうしてみてくると、関東大震災後の数年間、政府は一貫して、緊縮財政政策を取ってきたことがわかります。そのような経済政策の結果、国民や中小企業は苦難の淵に追いやられることになりました。

 その後、立憲政友会の犬養毅内閣(1931年12月13日-1932年5月26日)になると、高橋是清が大蔵大臣に起用されました。彼が積極財政を展開してようやく、日本が構造的なデフレ状況から脱却することができました。

 1931年の経済成長率は0.4%でしたが、高橋是清が積極財政を展開すると、1932年には4.4%、1933年には11.4%、そして、1934年には8.7%と劇的な回復をみせたのです。(※ Wikipedia「濱口雄幸」より)

 平岡仙太郎は1929年、緊縮財政下でレース工場の操業を開始しました。ところが、その後、積極財政政策が展開されたため、順調に業績を伸ばしていくことができたのです。

■レース製品

 日本はレース製品をスイス、イギリス、フランスなどからの輸入に頼っていました。輸入品なので奢侈品として高い関税をかけられていたのです。

 展示資料によると、緊縮財政下では10割もの税金が欠けられていたといいます。そのようなレース製品だからこそ、国内生産することに仙太郎は商機を見出していたのです。国産にすれば、少なくとも半値にはなるので、大幅な利益を見込むことができます。

 経営者として合理的で、野心的な判断でした。

 レース工業に着目した仙太郎は、昭和2年(1927)からレース工場の設立に取り組みました。そして、1928年にレース工場を設立したのです。レース機械をドイツから導入し、技術者を招いて指導を受け、1929年に機械による刺繍レースの生産を始めました。

 展示資料によると、1928年暮れにドイツ製レース機械を2台購入したそうです。購入代金は3~4万円(現在価格で6~7000万円)、鉄道で運搬したといいます。ドイツ人技師のカール・フランケ、ワルターが3週間ほど滞在し、機械の組み立てや操作の指導を行いました。

 予想した通り、国内向けレースは好調でした。展示写真の説明によれば、ほぼ一年で、レース機械の減価償却ができたといいます。仙太郎に先見の明があったことが証明されました。

 1929年から30年にかけては、機械を10台購入し、横浜から車で運搬しています。前回と同様、ドイツ人指導者が組み立て、後の2台は社員が組み立てを行いました。

 そして、1931年には、機械12台を購入し、今度は社員が中心になって組み立てました。ところが、途中で、作業の中心人物に召集令状が来て入隊してしまったため、最後の1台は仙太郎自身が組み立てたそうです。仙太郎が現場技術に明るい経営者であったことがこれでわかります。

 その後、逐次、設備を改善し、技術の向上に努めた結果、海外の製品に劣らない優秀な製品ができるようになっていきました。

 展示されていた「平仙レース」をご紹介しておきましょう。

こちら →
(筆者撮影。図をクリックすると、拡大します)

 洗練された色遣い、繊細で豪華、上品な図案が印象に残ります。

 1931年頃から、「平仙レース」は海外に輸出されるようになりました。当時の主な輸出先はインドで、サリー用の生地として使われたそうです。

 そして、1934年、機械24台を購入し、レース機械は合計で48台になりました。その後、リバーレース機械2台を購入し、この時、工女の数は300人ほどになっていました。

 展示されていたレース製品をもう一つ、ご紹介しておきましょう。

こちら →
(筆者撮影。図をクリックすると、拡大します)

 精巧で優雅、可愛らしさのある図案が印象的です。

 それにしても不思議なのは、なぜ、ドイツからレース機械を輸入したのかということでした。というのも、当時、日本はもっぱら、スイス、イギリス、フランスからレース製品を輸入していたからです。

 調べてみると、16世紀以降、ドイツでは織機でレースが生産されていました。19世紀になると、レース産業は急速に発展し、20世紀初頭には、ドイツの主要都市にレース教習所が作られたといいます。やがて、機械レースが一般的になり、手作りレースは植民地で生産されるだけになったようです(※ Wikipedia「ドイツのレース」)。

 これだけではなぜ、平岡仙太郎がドイツ製のレース機械を購入していたのかわかりませんが、その後、リバーレース機械を2台購入していることを考え合わせると、彼がハンドメイドに近い繊細で優雅な出来栄えを望んでいたからかもしれません。

 レバーリース機は高級レースを生産するための機械でした。国内外とも、やがては高級レースへの需要が高まると仙太郎は考えていたのでしょう。

 以後、改良を重ねた平仙レースは、たちまちのうちに、日本で最高の品質に達し、海外でも高い評価を受けるようになっていました。事業は好調に伸びていきました。

 こうして、平岡仙太郎は、創業からわずか10年余りで、日本屈指のレース工場に変貌させていたのです。

■技術の開発、継承をどうするか

 平岡仙太郎は創業から短期間でレース工場を築き上げました。日々、研鑽を積み、改良を重ねた結果、良質のレース製品を生産する技術を獲得しました。彼にとって最大の課題は、どうすれば、その技術を将来にわたって保持し、継承していけるかということでした。

 展示資料によると、解決策として、彼は次のようなことを考えたそうです。すなわち、①県繊維工業試験場(現アミーゴ)の設置、②組合の整染工場の設立、などでした。

 いずれも、繊維事業者にとって必要な技術力の錬磨の場であり、学び、研究、指導の場でもありました。このようにして、「平仙レース」と地元繊維業界との架け橋を作っておけば、平仙の技術そのものが消滅してしまうことがないだろうと考えたからでした。

 平岡仙太郎は実際、1936年に県会議長に就任すると、土地や建物を県に寄付し、1937年に仏子染織指導所を誘致しています。他の産地に負けない優れた品質の製品を作り続けるためでした。おかげで、戦中、戦後とさまざまな苦難に見舞われながらも、「平仙レース」の製品や入間の繊維業界の製品は品質を保つことができました。

 仏子染織指導所の建物は現在、「入間文化創造アトリエ・アミーゴ」として地域の人々の文化活動、芸術活動に使われています。空撮写真をご紹介しておきましょう。

こちら →
(アミーゴHPより。図をクリックすると、拡大します)

 16角形の建物の面積は105㎡で、現在、スタジオとして使われています。

 赤いのこぎり屋根の建物は、繊維試験場の建物を残し、ホールとしてリニューアルされました。面積は210㎡あり、グランドピアノ、音楽設備一式が装備されています。

こちら →
(筆者撮影。図をクリックすると、拡大します)

 もちろん、織物工房や染色工房もあります。

こちら →
(筆者撮影。図をクリックすると、拡大します)

 織物や染色を気軽に体験できる場として設置されています。布を織ったり、染色したりすることによって、子どもたちが織物や染色の仕組みを学び、地場産業を知る機会を提供しています。

 繊維業の発展に尽力していきた平岡仙太郎の思いは、繊維業者だけではなく、このような形でも次世代に引き継がれていくのでしょう。

■地域住民とともに

 展示資料によると、西武公民館のロビーに「まとい」がガラスケースに収められて展示されているそうです。

こちら →
(展示資料より。図をクリックすると、拡大します)

 この「まとい」は、まだ自動車が珍しかった1934年、アメリカ・フォード社製の消防車を2台、平岡仙太郎と地元民とが配備したことが称えられ、授与されたものです。消防車2台のうち1台は仙太郎、もう1台は元加治村民からの寄付でした。

 当時のポンプ車は高価で、近隣の村や町にはまだ導入されておらず、地元はもちろんのこと、近隣まで、このポンプ車で消火活動を行ったそうです。

 地域の安全を守る消防活動に、仙太郎と地元村民が1台ずつ寄付したとところに、彼の深い配慮を感じます。自分一人の手柄にせず、村民と共に生きる姿勢を見せたのです。

 仙太郎がいかに地元を愛し、安全を願っていたか、そして、地元の人々と様々な思いを分かち合い、共に地域を守っていこうとしていたか、このエピソードからは、仙太郎の心遣いと郷土愛が感じられます。

 さらに、平岡仙太郎は、仏子の八坂神社に神輿を寄付しています。

 神輿を作る際、彼は、8割は自分が出資するが、残りの2割は氏子が出資した方がいいといったそうです。自分が全額出資してもいいが、そうすると、氏子の信仰心が希薄になるといって、氏子たちにも出資を呼び掛けたというのです。おかげで、近隣にはない立派な神輿を作ることができました。

こちら→
(展示資料より。図をクリックすると、拡大します)

 この神輿は、近隣のものとはくらべものにならないほど、立派なものでした。それは、外見が並外れて豪華で素晴らしいからですが、氏子たちの心がこもったものになっているからでもありました。仙太郎が主導して氏子たちをまとめ、その信仰心を形にしていったのです。

■銅像が語るもの

 1937年に日中戦争が始まると、レース製品の輸出は禁止されました。さらに、緊縮財政下で国内需要もなくなり、経営が困難になっていきました。その後、第2次大戦へと大きく傾き、経済統制はさらに強化されました。

 この時、入間地域の繊維業者の3分の2が廃業に追い込まれたといいます。

 第2次大戦が始まった1939年、平岡仙太郎は45歳の若さで亡くなってしまいました。「平仙レース」のため、地場産業のため、地域住民のため、粉骨砕身して生きてきた平岡仙太郎が、この世を去ってしまったのです。

 地元繊維業界にとっては大きな損失でした。1935年には所沢織物工業組合を設立して理事長となり、仙太郎は業界の発展に力を尽くしていました。それだけに、仙太郎の死は大きな打撃でした。地元繊維業界は、時代の動向を察知し、業界をまとめて牽引していく旗振り役を失ってしまったのです。

 所沢織物商工共同組合は2019年7月、平岡仙太郎を偲び、かつて「平仙レース」第2工場があった場所に、平岡家本宅に合った銅像を移築し、碑を建てました。

こちら →
(筆者撮影。図をクリックすると、拡大します)

 碑文を読むと、平岡仙太郎のさまざまな功績が偲ばれます。

 関東大震災を経て、日中戦争から第2次世界大戦にいたる大変な時期を、彼は積極果敢に生きてきました。銅像に刻まれた穏やかながらも、凛々しく、毅然とした表情が印象的です。

こちら →
(筆者撮影。図をクリックすると、拡大します)

 ふと思い立って、背後にスーパーの看板が見える角度から撮影してみました。かつて「平仙レース」第2工場があったところで、彼にとっては思い出深い場所です。

こちら →
(筆者撮影。図をクリックすると、拡大します)

 こうしてみると、平岡仙太郎はいまなお、地場産業を見守り、地域社会を守ろうとしているかのように見えます。銅像が設置された場所は、背後にかつての「平仙レース」第2工場があり、対角に、彼が誘致した仏子染織指導所(現アミーゴ)を臨んでいます。まさに彼が活躍した場なのです。

 それでは、「平仙レース」から何が見えてきたのでしょうか。

 展示写真からはさまざまなものが捉えられていました。それを要約すると、明治、大正、昭和にかけての近代化の過程が、白黒写真の中にしっかりと捉えられていたといえるでしょう。

■「平仙レース」を通して見えてきた日本の近代化過程

 振り返ってみれば、欧米列強から開国を強いられた日本は、明治、大正、昭和にかけて近代化を急ぎました。拙速ながらも、近代国家にふさわしい制度整備を行い、殖産興業政策を展開してきました。その一つが繊維産業でした。

 「平仙レース」で展示写真を見ていると、日中戦争、第2次世界大戦を経て、戦後復興期に至る日本の近代化過程の一端を概観できるように思いました。

 果たして、近代化は必然だったのでしょうか。大きな地殻変動が起きているいま、改めて、近代化の総括をしておく必要があるのではないかという気がしました。

 明治の日本は産業革命を経ず、欧米列強から近代化を強いられました。閉じた社会からいきなり開かれた社会へと方向転換させられたまま、現在に至っています。近代化の行きつく先がグローバル化であり、そのグローバル化の弊害が、さまざまな領域で顕著になってきているのが現状です。

 そして、令和の今、コロナに始まり、気候変動による大災害、ウクライナ事変に伴う戦争の危機など、体制転換を予感させる出来事が立て続けに起こっています。それらは、やがて来る幕末期に匹敵する激動の時代の予兆のように思えるのです。

 いずれ、誰もが否応なく、社会体制の転換を経験することになるのでしょうが、その後、どのような未来を迎えることになるのか、現在の延長線上で思い描くことは困難です。ひょっとしたら、幕末期の人々のように、これまでとは全く異なった社会体制を強いられるようになるのかもしれません。

 たまたま出会った、「平仙レース」の展示写真から、日本の近代化過程の一端を垣間見ることができました。いくつもの白黒写真を見ていくうちに、再び、大きな社会変動の時期を迎えているのではないかという思いに駆られてしまいました。(2022/3/30 香取淳子)

Henry Lauは現代版モーツァルトか? ④ヒット曲 “Despacito” のカバーを聞き比べてみる。

■TEDでスピーチするHenry Lau

 YouTubeを見ていた時、たまたまHenry Lauの動画に出会いました。久しぶりだと思って開いてみると、なんと彼がTEDでスピーチしているのです。TED×The Bundというコーナーでの動画でした。こんなところで見かけるとは思いもしなかったので、驚いてしまいました。

こちら →
(YouTube映像より)

 TEDといえば、英語のプレゼンテーションが通常なのに、Henry Lauの場合、中国語のスピーチで、しかも、字幕も付いていません。それでも聞き続けていると、要点だけはテロップが付けられていたせいか、なんとなくわかったような気がしました。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=D4Hwpl4az4E

 2022年2月24日にアップされた動画です。TEDでの収録がいつだったのかわかりませんが、私が見た時点ですでに3955回視聴されていました。演奏やパフォーマンスだけではなく、スピーチでもHenryは人々を強く惹きつける魅力を持っていることがわかります。

■The best is yet to come, just keep asking yourself WHY NOT.

 “The best is yet to come, just keep asking yourself WHY NOT.”というのが、このスピーチのタイトルです。これまでの人生を振り返り、「最高のものはまだ来ていない、なぜなのか自問し続けよ」という教訓を会場の人々に向けてプレゼンテーションしていたのです。

 彼はそれまでの人生でぶつかったターニングポイントを3つ挙げ、それぞれが自分にとっての飛躍のチャンスだったといいます。

 一つ目は、ヴァイオリンとpoppingの発表を同じ時間帯で披露しなければならなくなった時、彼はユニークな芸当を編み出しました。

 クラシック音楽を奏でるヴァイオリンを弾きながら、ロボットのような動き方をするpoppingを組み合わせるという前代未聞のパフォーマンスを創り出したのです。以来、この芸当はHenryの得意技になりました。

 二つ目のターニングポイントは、両親が望む進路と自分が求める進路とが異なっていたことでした。幼い頃からクラシック音楽の教育を受け、ヴァイオリンでもピアノでも受賞し、才能が認められていた彼に対し、両親は音楽大学に進むことを望んでいました。

 ところが、Henryは韓国のエンターテイメント企業のグローバルオーディションに合格し、両親の望まない方向を選択してしまいます。単身、韓国に乗り込み、スターダムに駆け上がろうとしていましたが、ファンから「Henry Out!」コールを受け続け、ボイコットされていきます。

 苦しみぬいた末、Henryは一歩身を引いて、バークリー音楽大学で学ぶことにします。そのまま韓国にいれば危機に陥っていたでしょう。再起不能になっていたかもしれません。不意に襲われた危機をHenryは転機に変えたのです。バークリー音楽大学では、それまで欠けていた歌唱を習い、作曲を勉強しています。こうして次の段階に向けて、技量を高めていったのです。

 そして、第3のターニングポイントとして、Henryは、「さまざまな苦境は、自分を向上させる機会に変えていく」結論づけます。苦難と向き合い、考え抜いて対処することで、自身の枠を広げ、技能を高めていく機会に変えることができるというのです。

■なぜ、危機を転機に変えることができたか

 Henryはカナダで生まれ育ったので、英語ネイティブですが、韓国語を独学で学び、KPOPスターとなった後、中国語を学び、TEDでは中国語でプレゼンテーションしています。しかも、クラシックからポップスまでカバーできる音楽のジャンルも幅広く、パフォーマンスも超一流です。

 このような豊かな才能の持ち主だからこそ、危機を転機に変えることが出来たのではないかという気がします。とはいえ、彼のこれまでの生き方を見ていると、何事にも真摯に取り組み、努力を惜しまなかったからこそ、危機を転機に変えることができたのだとも思えます。

 つまり、危機を転機に変えることができるのは才能なのか、それとも、努力なのかということが気になっているのです。

 危機を転機に変えるというのは、おそらく、「言うは易く行うは難し」の類の箴言なのでしょうが、実際に経験してきたHenryが言うと、気持ちが鼓舞されます。不思議なことに、今後、何かあったとしても前向きに取り組んでいこうかなという気持ちになってしまうのです。

 それにしても、Henryはなぜ、さまざまな危機に遭遇しながらも、それらを転機に変えることができたのでしょうか。

 ひょっとしたら、音楽という大きなジャンルからはみ出ることなく、生きてきたからではないでしょうか。もし、そうであれば、一見、危機に思える事柄も経験値を高める事案にすぎず、転機に向けたプッシュ要因になるばかりか、その後の展開にプラス要因として作用する可能性も高いはずです。

 いずれにしても、Henryは見事なまでに、遭遇した苦難を自身の音楽の豊かさにつなげていきました。それには、自身の演奏能力はもちろんのこと、他人が創作した楽曲の真髄を把握し、それに自身の解釈を加え、表現する能力に長けているからでしょう。

 Henryがどれほど音楽の解釈に優れた能力を持ち、そして表現力に長けているか、試みに、他人の楽曲をどれほど独自のフィルターをかけて演奏しているかを見ていくことにしたいと思います。

 Henryはヒット曲を何曲かヴァイオリンでカバーしています。それぞれがオリジナル曲とは別の味わいがあって、惹きつけられます。

 ここでは、“ Despacito”を取り上げ、聞き比べてみることにしましょう。ルイス・フォンシ(Luis Fonsi)が2017年1月にリリースした曲で大ヒットしました。

■“ Despacito”のカバー曲、聞き比べ

●Despacito by Henry Lau
 2018年12月22日に公開された2分22秒の動画を見てみることにしましょう。DespacitoをHenryがヴァイオリンで演奏しています。この動画では前半部分です。

こちら → https://youtu.be/Tau4Zd4cS40
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 曲の真髄を捉え、見事なまでにヴァイオリン曲として弾きこなしています。テンポと抑揚に、K-POPアーティストならではのハギレの良さとリズム感があり、現代性が感じられます。

 元の曲がどのようなものであったか、聞いてみることにしましょう。

●Despacito by Luis Fonsi

こちら → https://youtu.be/kJQP7kiw5Fk
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 Luis Fonsi が2017年1月13日にリリースした4分41秒の動画です。ストーリー仕立てで映像構成されており、この曲の雰囲気をよく表したものになっています。

●Despacito by Hauser

 2021年7月5日に公開された2分3秒の動画で、Hauserが演奏するチェロでカバーされています。

こちら → https://youtu.be/yj2Y5O88lIw
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 この曲の雰囲気がしっかりと再現されています。南国のリゾート地ではおそらく、このようにけだるい雰囲気の中でエロティシズムが満喫されているのでしょう。

 チェロの音色が意外にこの曲に合っていることがわかりました。

 2台のチェロで演奏されている動画もありました。2017年7月9日に公開された3分9秒の映像です。

こちら → https://youtu.be/D9LrEXF3USs
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 チェロという楽器のせいか、深いところで感情が刺激され、酔わせられます。

●Despacito by Peter Bence

 Peter Benceがピアノでカバーしている3分34秒の動画もありました。2017年7月27日に公開されています。

こちら → https://youtu.be/GmtTDvNcXcU
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 ピアノでカバーしているといいながら、ハープシコードのような音色です。ちょっと古風な音の響きがこの曲の持つ哀愁とうまくかみ合っていると思いました。ただ、ピアノのという楽器の音色そのものが断続的な響きなので、この曲が持つ、ヒトの情感にしっとりとまとわりついてくるような要素は表現しきれてないように思えました。

●Performs Despacito by Luis Fonsi
 
 Luis Fonsi(ルイス・フォンシ)がスタジオでダンサーを従え、歌を披露しているライブ映像がありました。2017年8月16日に公開された3分42秒の動画です。

こちら → https://youtu.be/djMWv_o3iHk
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 明るく、陽気なラテン系のエロティシズムがスタジオ中に満ち溢れています。

●Despacito by Facundo Pisoli
 
 Facundo Pisoliがレストランで、サックスでこの曲を演奏しています。2017年4月21日に公開された3分58秒の動画です。

こちら → https://youtu.be/8wIZs2JwYMU
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 まず、サックスもこの曲に合うと思いました。華やかでありながら、哀愁を感じさせる音色にけだるいエロティシズムを感じさせられます。ただ、演者に余裕がないせいか、曲の情感を充分に引き出せていないように思えました。

■“ Despacito”の情感に影響する楽器、パフォーマンス

 “ Despacito”のカバー曲を聞き比べてみた結果、この曲が持つ哀愁や情感を表現するには、楽器が持つ音色が大きく影響していることがわかりました。Henryが弾くヴァイオリンでは繊細な音色で深い哀愁が良く表現されていました。

 ただ、ヴァイオリンはチェロに比べ、楽器が小さいせいか音が細く高く、エロティシズムや深い情念を表現するのは難しいと思いました。その足りない分をHenryはパフォーマンスで補っていましたが・・・。

 オリジナル曲を歌ったLuis Fonsiは映像クリップではストーリー仕立て、スタジオ収録映像ではダンサーのパフォーマンスがこの曲に情念とエロティシズムを加えていました。

 Hauserがチェロでカバーしたものは、この曲の真髄をよく表現できていたと思います。チェロの深い音色とダンスパフォーマンスがマッチし、南国の気だるい雰囲気の中で充満する情念やエロティシズムがうまく表現されていました。

 こうして見てくると、楽器の音色、音楽に合わせたパフォーマンスが曲の総合的な印象に大きく影響していることがわかります。もちろん、どのような音色を出すかは、演者による曲の解釈、経験値、そういうものが作用するでしょう。

 “ Despacito”のカバー曲を聞き比べていくと、HenryがTEDでプレゼンテーションしていたような、「危機を転機に変える」という発想だけでは曲の深みを出せないかもしれないという気がしてきました。

 「危機を転機に変える」のは、人生訓として優れたものではあっても、さまざまな喜怒哀楽を呑み込んだうえで、人間というものを深く理解するには不十分ではないかという気がしてきたのです。「危機を転機に変える」こともできないような立場に立ち、さまざまな理不尽な経験をしてはじめて、人や人生について深い理解ができ、表現ができるのではないかという気持ちになりました。(2022/2/28 香取淳子)

テレビ長崎制作『忘れない ~普賢岳噴火災害30年~』を見て、視聴者として思うこと。

■テレビ長崎制作、『忘れない ~普賢岳噴火災害30年~』の再放送

 10月に入ったばかりの頃、知り合いから連絡があって、『忘れない ~普賢岳噴火災害30年~』が再放送されることを知りました。再放送の日時は11月13日(土)の27時から27時55分までで、録画しなければ見られないような放送時間帯でした。

 さっそく録画予約したのですが、普段、テレビを見なくなっているので、録画予約したことを忘れていました。たまたま、ホーム画面から録画一覧を見て、思い出したのが、今朝でした。再放送から2週間以上も経っていました。

 さっそく、メモを取りながら、画面に向かいました。さまざまなことを感じさせられ、考えさせられました。久々に見応えのあるテレビ番組を見た思いがしました。

こちら →
(クリックすると、図が拡大します)

「普賢岳」と聞くと、私は条件反射的に、もくもくと立ち上る巨大な火砕流を思い出してしまいます。不気味なあの映像を、当時、テレビ画面で何度も見ました。そのせいか、現場にいなかったにもかかわらず、恐怖心を植え付けられ、記憶に定着してしまったのです。「火砕流」という言葉もあの時、はじめて知りました。

 あれからすでに30年余が経ってしまいました。

 画面いっぱいに広がる火砕流は、今にも巻き込まれてしまいそうだと錯覚してしまうほどでした。それほど、真に迫っていたのです。その後、さまざまな災害報道を見てきましたが、あの時の火砕流を捉えた映像ほど、危険が迫っていることを感じさせられたものはありません。それほど近く、火砕流が捉えられていたのです。

 臨場感あふれる映像を手に入れるために、どれほどの人々が犠牲になったのでしょうか。

 普賢岳噴火災害を考えるたび、その思いが胸を過ぎります。多くの犠牲者のことを思うと、何故?という疑問が消えませんでした。

 ところが、今回、『忘れない ~普賢岳噴火災害30年~』を見終えた時、どういうわけか、モヤモヤした気持ちが吹っ切れたような気がしたのです。長い間、重くのしかかっていた救いようのない気持ちが、この番組を見終えた時、いくぶん、晴れたような気分になったのです。

 もちろん、この時の災害報道の本質は変わることがないと思います。今後も、災害報道の在り方を問い続けなければならないのは当然のことですが、これを教訓として後の世代に残していくことも重要だと考えさせられたのです。

 この番組では、地元住民をキーパーソンに、災害後の対応について、時間をかけて丁寧に取材されていました。その結果、マスコミへの怒りから、全ての犠牲者を悼む姿勢へと、住民の気持ちが徐々に変化しく様子が手に取るようにわかりました。地元住民主導で、大惨事の周辺を整備し、慰霊の場とされたことを知りました。

 今回は、番組映像を適宜、交えてこの番組をご紹介し、何故、私がこの番組を見て、救いようのない気持ちが明るくなったのかについて考えてみたいと思います。

 まずは普賢岳の噴火から見ていくことにしましょう。

■噴火する普賢岳

 1990年11月17日、雲仙普賢岳は、198年ぶりに噴火活動を始めました。その後も噴火活動は続き、1991年2月ごろから次第に激しくなっていきました。

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 5月24日には、溶岩塊が崩落し、普賢岳東斜面にはじめて火砕流が発生しました。

 以後、火砕流が頻発するようになり、5月26日には火砕流による負傷者が出ました。九州大学島原地震火山観測所は上木場地区の住民に警告を発し、避難勧告を行いました。

 所長が会見し、「すべては我々の想像以上の事態」だと指摘し、火砕流を警戒するため、避難勧告をすべきと判断していたのです。

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 実は、1990年に普賢岳噴火を確認した直後に、小浜町は「普賢岳火山活動警戒連絡会議」を発足し、長崎県も「災害警戒本部」を設置していました。島原市も避難勧告を行っていました。

 普賢岳の噴火活動が始まってから、行政機関はそれぞれ避難勧告等の対策を行っていたのです。もちろん、報道機関に対しても避難勧告地域からの退去を要請していましたが、残念なことに、応じられませんでした。

 6月3日、噴火開始後、最大の火砕流が発生します。

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 この日、火砕流が水無瀬川沿いに約4.3km流れ落ち、多くの人々が犠牲になりました。その内訳は、報道関係者16人、消防団員12人、一般住民6人、タクシー運転手4人、火山研究者3人、警官2人でした。

■なぜ大惨事になってしまったのか。

 当時、九州大学島原地震火山観測所所長だった太田一也氏は、2021年6月3日、長崎新聞の取材に答え、次のように語っています。

 「何と言っても、大火砕流惨事の最大の要因は、報道陣のゆがんだ使命感。迫力ある映像を他社と競う過熱取材ではなかっただろうか。報道の自由を振りかざし、取材のためなら少々のことは許されるという特権意識も問題だった。避難勧告を法的拘束力がないからと軽視した希薄な防災意識がそれらを後押ししてしまった。

 報道陣としての誇りとおごりを履き違え、取材で得た火砕流に関する知識を、自らの危険回避に生かせなかった。避難を勧告された定点で、迫力のある火砕流映像を危険をおかしてまで撮影する社会的責任があったとは思えない。
社会が必要とする火砕流の伸び具合や被災状況は、ヘリを使った上空からの撮影や我々観測者側の情報提供で把握できたはず。それは連日報道されていて内容も十分だった。間近な地上からの映像は、住民が必要としていたものではなく、報道各社が紙面や番組の視聴率を競うのに必要だったということに過ぎないと思う」
(※ 長崎新聞、2021年6月3日、https://nordot.app/773029708419317760?c=174761113988793844)

 太田氏は当時を振り返って、火砕流大惨事の原因として、次のようなマスコミの取材態度を挙げています。

① 迫力ある映像を他社と競う過熱取材
② 取材のためなら、少々のことは許されるという特権意識
③ 社会が必要とする火砕流や被災状況はヘリコプターを使った上空からの映像、観測者側の情報で十分。

 さまざまな情報を総合すると、その通りだと思います。

 当時、私が救いようのない気持ちになっていたのは、マスコミの取材態度にこのような問題があると思っていたからでした。

 マスコミが取材の自由、報道の自由を保障されているのは、人々から知る権利に応えるためですが、取材現場では往々にして、それをはき違え、「取材のためなら少々のことは許される」と、強引な取材をしてしまいがちです。

 災害報道ではとくに、被災者にとってどのような情報が必要なのかという観点からの取材が重要になります。

 そのような観点からいえば、太田氏の指摘のように、「火砕流や被災状況はヘリコプターを使った上空からの映像、観測者側の情報で十分」だという気がします。それを被災地にどう伝え、全国にはどう伝えるかが問題ですが、喚起力に強い情報よりも、客観的データに基づく情報の方が信頼できるでしょう。

 ところが、マスコミは、「地上からの間近な映像」を求めました。太田氏がいうように、「住民が必要としていたものではなく、報道各社が紙面や番組の視聴率を競うのに必要だった」からでしょう。

 テレビではとくに、淡々とした語り口よりも、メリハリの効いた語り口、大げさで面白おかしい語り口が求められます。その方が、多数の人々に訴求力があるからにほかならないからですが、話し言葉で情報を伝えるというテレビの特性が関係しているかもしれません。

 もちろん、映像も同様です。事実を客観的に伝える映像よりも、見る者に恐怖感を与えたり、ワクワクドキドキさせるような映像が求められがちです。これもまた、強く感情に訴えかける映像の方が手っ取り早く、多くの人々にアピールできるからでしょう。

■6月3日、届かなかった警告
 
 番組タイトルの前に、いくつかキー・シーンが挿入されていました。その中で象徴的なものを一つ、ご紹介しておきましょう。

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 高熱の火砕流を浴び、燃える車体が映し出されています。その映像の右下に表示されているのが、「届かなかった警告」というテロップです。おそらく、報道車両なのでしょう。この番組のコンセプトの一つが象徴的に表現されているシーンです。マスコミの取材態度を問題視する視点が端的に捉えられていました。

 太田一也氏は、さらに、長崎新聞の取材に答え、次のように述べています。

 「タクシー運転手4人を含めた報道関係の死者20人が、当時の撮影場所だった定点周辺にいた。消防団員は定点より400メートル下の北上木場農業研修所を活動拠点にしていたが、危険性の高まりから、5月29日、島原市災害対策本部を通じた私の退去要請を受けて300メートル下流の白谷公民館に退去していた。

 しかし、日本テレビの取材スタッフが、住民が避難して無人となった民家の電源を無断で使用する不祥事が発覚。消防団員は6月2日、留守宅の警備も兼ね、同研修所に戻ってしまった。亡くなった警察官2人についても、報道陣らに対する避難誘導のため定点に急行。戻る途中に同研修所前で火砕流にのみ込まれた。

 報道陣が避難勧告さえ守っていれば、少なくとも消防団と警察官は死なずに済んだはず。住民にも犠牲者が出たが、報道陣が避難勧告に従っていれば、危険を感じて無断入域を控えたと思う」
(※ 長崎新聞2021年6月3日、
https://nordot.app/773028450044198912?c=174761113988793844)

 番組でも、制止する消防団の手を振り切って、立ち入り禁止区域に入ろうとする取材記者の姿が捉えられていました。マスコミがいかに傲慢に取材活動を繰り広げていたかが一目でわかるシーンでした。当時の状況を示す貴重な映像です。

 さらに、住民が避難して空き家になった家に入り込み、勝手に電話を使ったり、電気を使ったりするマスコミ関係者もいました。常識を超えた取材活動は目に余るほどで、住民からの苦情が相次いでいました。

 消防団員や警官は、マスコミ関係者が危険地域に入り込むこと、空き家になった住宅に侵入すること、等々を防ぐために、見守りを強化していました。

 6月3日、多くの犠牲者が出たのが、「定点」と呼ばれるマスコミ関係者がいた場所と、消防団員の詰め所になっていた「農業研修所」でした。

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■「定点」と「農業研修所」

 避難勧告を受けて住民がいなくなった後も、狭い道路は、マスコミ各社の車や機材で溢れていました。彼らが陣取っていたのが、「定点」と呼ばれる場所です。災害後は目印のため、三角錐が置かれています。

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 ここからは、普賢岳を正面から撮影することができました。だからこそ、避難勧告を出されても、マスコミは聞き入れなかったのです。「定点」と呼ばれる場所に陣取ったまま、現地で危険な取材行為を繰り返していました。すべては過熱する取材合戦、撮影合戦のためでした。

 当時、主要メディアは新聞、テレビでした。人々が社会で何が起こっているかを把握するには、マスコミに依存するしかなかったのです。そのマスコミはNHK以外、広告収入を経営基盤にしています。

 その広告収入に大きく関係してくるのが、どれだけ多く見られたか、どれだけ多く読まれたかを示す指標です。テレビであれば、視聴率、新聞であれば、発行部数でした。それらが番組や紙面の価値を図る指標として機能し、広告収入に関係していたのです。

 とりわけ、災害報道には、一目で人々をくぎ付けにする力があります。刻刻と変化し続ける雲仙普賢岳の噴火は、恰好のニュース素材として、目を離せなくなっていたのでしょう。大挙して押しかけたマスコミ陣が危険を顧みず、取材行動を重ねた結果、定点周辺で、マスコミ関係者16名もの犠牲者を出しました。

 一方、消防団員や警官がなくなったのは、北上木場の農業研修所周辺でした。

■故郷を守って、犠牲になった人々

 北上木場の農業研修所周辺は、地域の公民館的な役割を果たしていました。火砕流が頻発し始めて、避難所はさらに下流の公民館に移されました。それに伴い、地元消防団も下流に移動したのですが、マスコミ関係者が無人の民家から勝手に電源や電話を使用したりすることが相次いたので、警戒のために上流に戻ってきていたのです。

 研修所を消防団の詰め所として使用しはじめたのが、6月2日でした。火砕流による多くの犠牲者が出たのは、その直後のことだったのです。マスコミに避難を呼び掛けるため、上流周辺を巡回していた警官も、この周辺で亡くなっていました。

 消防団や警官は、住民や民家を守り、そして、マスコミ関係者まで守ろうとしていたのに、命を落としてしまったのです。遺族や関係者はどれほど辛く、悲しく、無念の思いにさいなまれたことでしょう。

 地元を守るため、故郷を守るために尽力していた多くの人々が、理不尽にも、亡くなってしまったのです。しかも、犠牲者たちは地元の人々にとって、息子であり、兄弟であり、夫であり、同僚でした。

 番組の中で、「私の人生も、あの6月3日で大きく変わった」という人がいました。また、「心の底に消防団員のことが、ずっとあり続ける」という人がいました。おそらく、ほとんどの住民がそのような思いを抱いて、災害後、生きてきたのでしょう。

 研修所の跡地は2002年から、地元住民の手で整備され始めました。砂防ダムなどを設置して、安全を確保してから、慰霊の場が作られました。ここには、被災したパトカーや消防自動車が掘り起こされ、保存されています。

 そして、2002年12月、パトカーや消防車が掘り起こされました。いずれも、11年という歳月を経て、変形してしまっていました。火山灰を落とし、なんとか保存できるよう工夫が凝らされています。

 その後、2003年11月には、火山灰の中から、半鐘が見つかり、「慰霊の鐘」と名付けられました。消防団員が火災を知らせるために使っていたものでした。

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 消防団員だった息子を亡くした父親が、「お前たちが消防団で守って来た鐘が戻って来たよと、伝えたい」と語っていたのが印象的でした。その表情からは、殉職した息子を愛しむ気持ちがひしひしと伝わってきます。

 毎年、火砕流が発生した6月3日午後4時8分、慰霊の鐘を鳴らし、遺族、住民、関係者が追悼します。

 もちろん、慰霊碑も建立されています。

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 慰霊碑に向かって手を合わせる人々の中に、背中に「島原」の文字がある法被を着た男性がいます。あの時、かけがえのない同僚を失った人々です。この慰霊碑に刻まれている名前は、消防団員と警官だといいます。地元のために殉職した人々だけがまつられているのです。

■「定点」周辺の整備

 マスコミ関係者が亡くなった「定点」周辺は、長い間、整備されず、白い三角錐が置かれているだけでした。「マスコミのせいで・・・」という遺族や地元住民、関係者の気持ちに呼応したものといえます。

 もっとも、被災後30年が経ち、人々の気持ちにも変化が訪れます。

 地元住民は、毎年、6月3日を「いのりの日」と定め、その前に周辺一帯の草刈り作業を行ってきましたが、その際、「定点」周辺も整備しようという話がでたというのです。2020年5月のことでした。

 地元で造園業を営む宮本秀利氏や、当時、被災地域の安中地区公民館に勤務していた杉本伸一氏などが立ち上がり、「定点」周辺の整備に着手しました。彼らはまず、地元住民の了解を得ることから始めました。そして、地元住民が一体となって、遺族、関係者と共に、すべての犠牲者の慰霊のために動き出したのです。

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 悲しみ、憎しみを乗り越え、共に、全ての犠牲者を悼むという姿勢に心打たれました。

 ついに、新聞社の取材車両が掘り起こされました。

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 30年ぶりの姿です。ほとんど形を留めていません。高熱の火砕流に巻き込まれた痕跡がありありと見えます。

 そして、チャーターされたタクシーが掘り起こされました。

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 タクシー会社の社長が、放置されただけでは、このような姿にはなりませんと語っています。

 「定点」周辺からは、新聞社の取材車両と、タクシー2台が掘り起こされ、遺構として整備されました。

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 30年の時を経て、地元住民の気持ちに変化が生まれました。悲しみ、恨み、憎しみを乗り越え、全ての犠牲者を弔いたいという気持ちが育まれていったのです。やがて、マスコミ関係者が遺した車両や機材が遺構として、整備されたました。

 「定点」周辺の整備、保存を主導した宮本氏は、「あっという間の30年、放置していて申し訳なかった」と語っています。

■普賢岳噴火災害を忘れない

 造園業の宮本氏は、「時間が経つとすべて、忘れられていくが、忘れてはならないものがある」と述べ、若い世代に継承できる企画を実践しています。普賢岳の噴火災害、そして火砕流で犠牲になった人々のことは決して忘れてはいけないと、島原の高校3年生が卒業記念に、慰霊の植樹に取り組めるようにしたのです。

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 記念植樹をすれば、普賢岳噴火災害を知らない若者たちの胸にも、犠牲者のことが深く刻み込まれるでしょう。さらには、災害の教訓、取材の在り方、あるいは、生きることそのものについても、深く考える契機になるかもしれません。

 あの時の災害経験を後の世代につなぐ、素晴らしい企画だと思いました。

 「定点」では、ジオパークガイドの林京子氏から、高校生が説明を受けています。

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 当時、マスコミが拠点としていた「定点」に立ち、林氏は、高校生に向かって、「ここで、どういう気持ちで火砕流を撮ろうとしていたのか」と問いかけています。取材すること、撮影することの意義を考えてみる機会を提供していたのです。ここで話を聞いた高校生たちは将来、どんな分野に進もうと、他にかけがえのない経験をしたことといえるでしょう。

 あの日の出来事が、このようにして若い世代に受け継がれていました。

 甚大な被害を出したからこそ、あの日の出来事を、忘却の彼方に追いやらないための工夫をし続ける必要があるのです。

■被災地取材の行き過ぎを乗り越えて

 テレビ長崎は3人の犠牲者を出しています。2019年6月3日、慰霊のためのプレートが設置されました。

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 彼らは、定点よりさらに上流の民家を、撮影ポイントにしていたといいます。

 犠牲者の一人がカメラマン坂本憲昭氏です。その長男、篤洋氏は小学校4年生の時、父を亡くしました。当時はマスコミのせいで地元の人が亡くなったといわれ、辛かったといいます。

 そして最近は、来るたびに車両が朽ちていくのがわかり、このまま災害も何もかも忘れられていくのではないかと思っていたそうです。

 ところが、今回、それらが掘り起こされ、遺構として整備されたので、ほっとしたといいます。地元の人々に受け入れられたことが形となったからでした。

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 このシーンを見ていて、何故私が、この番組を見て救われたような気持ちになったのかがわかったような気がしました。

 「定点」周辺が整備されたのを見て、篤洋氏と同様、私も地元住民から受け入れられたような気になったからでした。

 当時、私は普賢岳の噴火映像を毎日のように、テレビで見ていました。あの巨大な火砕流が民家や人々を呑み込み、流下していった様子を心配しながら、見ていたのです。おそらく、多くの人々が当時、私と同じような気持ちで、画面を見ていたことでしょう。

 いってみれば、一視聴者として、この災害報道に関わっていたのですが、それが数(視聴率)としてカウントされ、集約されて、現場の取材記者たちをつき動かし、過熱取材を招いていた可能性があります。

 その結果、現場にいたカメラマン、記者たちは、被災地の住民ではなく、圧倒的に規模の多い、全国の野次馬たちの意向を反映して、度を越した取材をしていた可能性が考えられます。被災地の意向は数値化されませんが、全国の視聴者の意向は数値化されるからです。

 一方、カメラを持つと、怖いものがなくなるともいわれます。それは、カメラを携えていると、どんな対象でも容易に近づくことができるからでしょうし、撮影するという行為を通して、対象よりも優位に立てるからでしょう。

 そういえば、写真や映像を撮影することを、英語では「shoot」と表現されることを思い出しました。対象に狙い定めてピンポイントで撮る行為は、獲物を狙って射る行為と似ているのかもしれません。

 改めて、当時の人々が、「特権意識をふりかざした」とか「傍若無人な態度」で取材したと、マスコミを非難していたことを思い出しました。

■「祈り」と「感謝」の気持ち

 宮本氏は、『合掌』というタイトルの巨大な石のモニュメントを作り、寄贈しました。

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 二つの石が向かい合うように設置され、山に向かって合掌した形になっています。これには、「祈りと感謝」の意味を込めたといいます。悲しみ、憎しみ、恨みはそう簡単に忘れることはできません。それを乗り越えていくには、それらのネガティブな感情を上回る感情に置き換えていく必要があるのでしょう。

 「祈り」と「感謝」の気持ちには、個々人の感情を乗り越える力があります。多くの犠牲者を出した地元住民が、このように気持ちを切り替え、災害を乗り越えようとしている姿に感銘を受けました。

 被災時取材の行き過ぎを乗り越え、人々が向かうべき新たな方向を、このように提示してくれているのです。心が動かされました。

 地元住民たちの気持ちが、「すべての犠牲者のために」、「定点」周辺を整備し、遺構を作り、慰霊をしたいという思いに変化しました。そこに、「祈り」と「感謝」の気持ちが介在していることを見て取ることができます。

 当時の一視聴者として、本当に、気持ちが救われます。

 宮本氏は「長い間、放置して申し訳ない」と語っていましたし、当時、消防団員だった喜多淳一氏は「被災地を花でいっぱいにしたい」と花づくりに励んでいます。そして、まるで喜多さんの気持ちを汲んだかのように、花が美しく開花しました。

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 供えられた花は優しく、風に揺れています。犠牲者を悼み、故郷を守ろうとする住民の気持ちを反映しているように、健気で、美しく、とてもしなやかでした。

 喜多さんは、「マスコミのせいという気持ちは結構、強かったけど、皆、それぞれ、自分の仕事をしていて犠牲になったんだからと思うと、一緒かなと思うようになった」と語っています。

 30年余の歳月を経て、「全ての犠牲者」を悼むという方向に気持ちが変化していったのです。おそらく、同じような思いを抱いている地元住民の方々は多いのではないでしょうか。

 当事者たちのこのような気持ちの変化を画面で追うことができ、見ていて、気持ちが明るくなりました。それこそ、被災地取材の行き過ぎを乗り越えることができたのです。

 素晴らしい番組でした。

 この番組を制作したテレビ長崎の槌田禎子氏は、取材で、「定点」の清掃作業に居合わせ、宮本氏らの地元住民と会話を交わしたことがきっかけとなって、今回の番組の構想につながったと語っています。
(※ https://www.fujitv.co.jp/fujitv/news/20211065.html)

 その後一年間、取材を重ね、地元住民の気持ちに寄り添いながら、スタッフと共に、含蓄のある素晴らしい番組に仕上げています。

 造園事業者の宮本氏、当時、安中地区公民館に勤務していた杉本伸一氏、元島原消防団員の喜多淳一氏、犠牲となったテレビ長崎カメラマンの長男、坂本篤洋氏など、キー・パーソンへの丁寧な取材が活かされ、普賢岳災害報道を巡る過去・現在がよくわかるような構成になっていました。

 さらに、普賢岳噴火災害を「忘れない」ための取り組みもいくつか紹介されており、未来に向けての展望も感じさせられました。テレビドキュメンタリーの可能性を感じさせられた番組でした。(2021/11/30 香取淳子)

河原のススキに見る、宮沢賢治とゴッホ

■秋の深まる入間川

 2021年10月28日、久しぶりに入間川遊歩道を訪れてみました。案の定、桜の巨木はいっせいに葉を落とし、焦げ茶色の幹と枝を惜しげもなく身を晒していました。もうすっかり秋の気配が漂っています。

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 入間川に沿ってどこまでも伸びる小道は、まるで一点透視図法で描かれた風景画のようです。葉を落とした桜並木の合間には、葉が丸く刈り込まれた濃緑色の灌木ツツジが、整列したように並んでいます。

 桜並木とツツジはいずれも暗色で、この光景に広がりと奥行きを感じさせます。幹はどこまでも高く、枝は多方面に伸びており、薄曇りの空を背景に、巨大なオブジェが展示されているようでした。

 遊歩道には枯れ葉も落ちておらず、掃き清められているようです。この小道がどこか別次元の世界に誘おうとしているかのようにも見えます。

 周囲に人影もなく、辺り一帯が静寂に包み込まれています。秋は物思いに耽るシーズンとはよく言ったものだと思いながら、桜木の幹に目をやると、所々、裂けている箇所があれば、苔むしている箇所もあります。

 幹の太さはそのまま、この木が風雪に耐えて生き永らえてきたことの証といえるのでしょう。時の経過をしっかりと刻み込んだ巨木が並び、剥き出しになった枝の合間から、冷気を含んだ風が吹いてきます。

 再び、寒い冬を迎えようとしています。空気、風、草木・・・、そこかしこに秋を感じさせられます。

 ふと、思いついて道路に降りてみると、草むらの中でススキが風に揺れていました。

●風になびくススキ

所々、褐色に変色した草むらもまた、秋の様相を呈していました。そんな中、目についたのがススキです。ひときわ背の高いススキが、申し訳なさそうに、ひっそりと風に揺れていたのです。

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 画面の手前に見えるススキが、気弱そうに佇んでいる姿がとても印象的でした。背が高いので、すぐ目に着いたのですが、改めて見ると、葉、茎、穂、すべてが地味です。もっとも目立つ部分である穂でさえ、形状に華やかさがなく、色彩も周囲に溶け込んでしまいかねないほど淡いアースカラーです。

 むしろ、背後の桜の巨木の方が目立っていました。葉を落とし、太い幹や枝、小枝が剥き出しになっているのですが、生気のない濃い焦げ茶色が逆に力強く、目を射るのです。

 アピール力の強さという点でいえば、幹や枝の形状も関係しているかもしれません。

 それにしても、葉を落とした桜木の幹のなんと太く、エネルギッシュなことでしょう。一抱えできないほどの太さです。その太い幹から太い枝があちらこちらに伸び、空中にくっきりと文様を描きだしていました。さらにその先から無数の小枝が伸び、雲で覆われた空を背景に、縦横無尽に線描きしていました。

 どっしりと構えた桜の巨木に対し、手前のススキはなんともひ弱に見えます。

 大木の幹や太い枝はよほどの嵐でも来ない限り、その存在を脅かされることもなく、自信に満ちた姿を誇示し続けることができるのでしょう。ところが、手前のススキはちょっとした風にも大きく身を反らし、時に倒れそうになっているほどでした。

 遊歩道に戻ってみると、川べりにススキが群生しているのが見えました。

●群生するススキ

 先ほど見た巨木の枝が、大きくしなって川辺に向かって垂れています。その先の方にススキが寄り添うように、淡いベージュの穂先を揺らしているのが見えました。

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 群生しているせいか、こちらは先ほど見たススキよりも存在感があります。目立たない淡いアースカラーも群れると、それなりの訴求力があることがわかります。淡い褐色に変色しはじめた茎に支えられ、秋ならではの光景に変貌しつつありました。

 ススキが川辺に群れる姿はいかにも秋の光景です。

 派手さがなく、気をてらうところがなく、それでいて、人の気持ちを静かに揺さぶる力がススキにはあります。見ていると、心の奥深くで何かかき立てられるような気がするのです。

 川面には、空に浮かぶ雲が映し出され、その雲が川の流れよりも速く、大きく流れていきます。その様子を見ていると、今年もあっという間に10月の終わりになってしまったという、悔恨の情とも、慚愧の念ともつかない、奇妙な気持ちに襲われます。今年もまた無為に時を過ごしてしまったという後悔の気持ちとでもいえばいいのでしょうか。

 さらに上流の方に向かって歩いていくと、川鳥が泳いでいるのが見えました。

●川べりに集う鳥

 獲物を見つけたのでしょうか、鳥が三羽、川面に嘴を突っ込んでいます。

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 鳥が水面をつつくと、そこから、波紋が広がっていきます。それでも川はなにごともなかったかのように静かに流れ続けています。水面で展開されている鳥と魚の争いには目もくれず、悠然と流れているのです。そんな様子はまるで、ただ場所を貸しているだけだといわんばかりに見えました。

 空中から水中の獲物を狙う鳥を見ていると、水面は鳥にとっては捕獲の場、魚にとっては捕獲される場だということを改めて思い知らされます。生死の境界であり、生物全体にとっては生を育み、生を営む場でもあります。さまざまな生の営みの場でもあり、川もまた生きているのです。

 さらに進んでいくと、ススキが密集している箇所がありました。

●密集する川辺のススキ

 川辺一面にススキが密集しています。

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 こちらのススキは、茎も葉も褐色に変色しています。そういえば、穂先も先ほどのものより白く、ふさふさしているように見えます。

 急に晴れてきたようです。

 空を覆っていた雲が遠のき、晴れ間が見えてきました。川面には青空が映り、向かい側には人が数人、集っているのが見えます。晩秋のひとときを川べりで憩い、楽しんでいるようです。コロナ下で外出自粛制限が出されて以来、このような光景を見ることが増えました。ここなら、マスクを外し、自由に会話し、水と戯れることもできます。

 改めて、川辺は人にとって、憩いの場でもあることを思い出させてくれます。

 手前を見ると、陽光を受けた桜木の枝が、くっきりとその影を土手の草むらに落としています。そして、巨大な幹は、その影を深く、地面の上に落としています。姿は見えないのに、桜はその影で、草むらや地面に暗色の模様を刻み込み、しっかりと存在を誇示しているのです。

 密集するススキと河原の間を、入間川が滔々と流れています。さざ波を立てながら、絶えず動き、留まることを知らない様子は、まるで巨大な生き物のように見えます。この流れに乗れば、どこかに連れて行ってくれそうです。川は地上に敷かれたレールのようでした。

 眺めているうちに、ふと、『銀河鉄道の夜』を思い出してしまいました。

銀河鉄道の夜

 ひょっとしたら、川から連想したのかもしれません。カンパネルラが川に落ち、そのまま行方不明になってしまったことを思い出したのです。ずいぶん昔に読んだきりで、ストーリーのほとんどはすっかり忘れています。ところが、そのシーンだけ、はっきりと脳裡に甦ってきたのです。

 それは、おそらく、いじめっ子のザネリが川に落ち、彼を救ったカンパネルラがそのまま川に流され、死んでしまったというストーリー展開に、子どもながら納得できないものを感じていたからでしょう。何十年もの間、心の隅にわだかまりが残っていたのです。

 帰宅してから、さっそく、『銀河鉄道の夜』を読み返してみました。

 星まつりの夜、ジョバンニは親友のカンパネルラと銀河鉄道に乗って、天の川を渡ります。ちょうどその日、ジョバンニたちは授業で天の川のことを習ったばかりでした。

 ジョバンニとカンパネルラは銀河鉄道でさまざまな人と出会い、次々と不思議な体験をします。乗客は全て途中で下車し、最後はまた二人きりになってしまいました。その時の二人の会話が深淵で、考え込まされました。

 子どもの頃、読んだ時は気づかなかった箇所です。

 ジョバンニが「ほんたうに、みんなの幸いのためならば、僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない」というと、カンパネルラは「僕だって、さうだ」といいます。

 そして、ジョバンニが「けれども、ほんたうの幸いは一体何だらう」と問うと、カンパネルラは「僕わからない」といい、ジョバンニが「僕たち、しっかりやらうねえ」といって気持ちを鼓舞するのです。
(以上、『宮沢賢治全集7』p.292、筑摩書房、2001年、より。適宜省略して引用)

 このような二人の会話の後、カンパネルラは、ザネリを救った後、川に流され、死んでしまいます。ジョバンニと共に、銀河鉄道でさまざまな人と出会い、人のために尽くそうという思いに駆り立てられたばかりだというのに、その思いを実行したとたん、カンパネルラは命を落としてしまったのです。

 宮沢賢治はこのエピソードで人間界の不条理を伝えようとしたのでしょうか。

 読み返してみて、もう一つ、気になった箇所がありました。

 「青白く光る銀河の岸に、銀いろの空のすすきが、もうまるでいちめん、風にさらさらさらさら、ゆられてうごいて、波を立てているのでした」(前掲。p.251)

 「その小さなきれいな汽車は、そらのすすきの風にひるがへる中を、天の川の水や、三角点の青じろい微光の中を、どこまでもどこまでもと、走っていくのでした」(前掲。p.252)

 ジョバンニたちが銀河鉄道に乗り込む辺りで、ススキが何度も文中に出てくるのです。リンドウも出てきますから、一つには、秋の情景を表現するためでしょう。ところが、なぜか、ススキだけは繰り返し、出てくるのです。

 「銀いろの空のすすき」とか、「青白い微光」という表現を見ると、ススキの穂先が時に銀色に光って見えることがあるから、文中に取り入れたのかもしれません。

 ただ、上記の写真を見てわかるように、ススキの白い穂先は、藍色の川にとてもマッチしています。夜空を走る銀河鉄道の脇で、ススキが穂をたなびかせている光景は、想像しただけで、とても美しく幻想的です。穂先が白ではなく銀色だったら、さらに幽玄の美が加味されるでしょう。

 そう思って、道路側に降りてみると、密集しているススキの中に、そのような色合いに見えるものがありました。

●銀色に輝くススキの群れ

 実際は、淡いベージュ色ですが、陽の当たり具合で、ススキの穂が銀色に輝いて見える時があったのです。

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(図をクリックすると、拡大します)

 確かに、このようにつややかな穂先であれば、夜空で見ると、銀色に輝いて見えるかもしれません。
 
 ジョバンニたちが銀河鉄道に乗って、車窓から見るススキが次第に遠ざかっていく光景で、ススキは重要な役割を果たします。穂先が銀色なら、ススキはこの情景にとてもマッチし、哀感を帯びた幻想的な美しさを醸し出すことができるでしょう。

 そんなことを思いながら、歩いていくと、穂先がふさふさになりかかっているススキを見つけました。

●穂先がふさふさになりかかったススキ

 艶やかな穂の先が裂け、ふさふさになりかかっているススキがありました。

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(図をクリックすると、拡大します)

 このススキは、穂先が裂けてふさふさとし、白くなっています。調べてみると、これは花が咲き終わり、実がなった状態なのだそうです。ススキはどれが花なのか、実なのか、色彩でも形でも見分けがつきません。それぞれが地味で、自己主張しないので、わからないのです。

 そんなススキでも寄り集まると、見事な景観になります。

 そういえば、見事なススキを写真で見たことがありました。仙石原のススキです。

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(https://www.ten-yu.com/cms/s_navi/sengoku_autumn_2016より)

 草原一体にススキが埋め尽くし、その上をイワシ雲が覆っています。ススキは、イワシ雲の隙間から漏れる陽光を受けて、輝いています。草原で波打つススキと、ウロコのように空に張り付いた雲が向かい合って、絶妙なコントラストを作り上げています。色彩といい、形状といい、この写真では、ススキとイワシ雲の調和が見事に捉えられています。

 見ていて、ふと、ゴッホの《糸杉と星の見える道》を思い出しました。

■糸杉と星の見える道
 ゴッホ(Vincent Willem van Gogh, 1853-1890)著名な作品の一つに、《糸杉と星の見える道》があります。1890年5月に描かれた作品です。

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(油彩、カンヴァス、91×72㎝、1890年、クレラー・ミュラー美術館所蔵)

 この作品を一目見て、印象づけられるのは、その筆触です。メインモチーフの糸杉といい、道路、月や太陽、そして、背景といい、画面すべてが短い単位で区切られた筆触で描かれています。そのせいか、すべてのものが揺らぎ、浮遊し、不安を感じさせます。

 私が仙石原のススキ草原の写真を見て、この作品を連想したのは、この筆触のせいでした。波打つススキの穂と空を覆うウロコのような雲に、ゴッホの筆触を感じさせられたのです。

 ゴッホは1890年7月29日に亡くなっていますから、この作品は死の2か月前に描かれたことになります。

 糸杉をメインモチーフに描かれた作品は多く、ゴッホが弟に当てた手紙の中で、「糸杉に心惹かれている」と書き、「その美しいラインはエジプトのオベリスクのように調和がとれている」と述べていたそうです。

 オベリスクとは、古代エジプトで神殿などに建てられた石造りの記念碑です。四角形で、上に向かって細くなり、先端はピラミッドの形をしているそうです。ゴッホは糸杉をこの形状にたとえ、「美しいラインは調和がとれている」といっています。ですから、ゴッホ自身はオベリスクに構造美を感じていたのでしょう。

 翻って、この作品の糸杉を見ると、画面の中ほど下から上部にかけてまっすぐに屹立している姿が描かれています。先端は画面に収まり切れず、さらに上方に伸びています。枝ぶりは左右にバランスがとれており、微妙に色彩を変化させて筆触を際立たせています。

 糸杉の左側に見えるのが星、右上に見えるのが月です。夜空のはずなのに、辺りは煌々と明るく、照らし出された道を人が歩いているのが見えます。シカゴ大学のキャサリン・パワーズ・エリクソン(Kathleen Powers Erickson)は、この糸杉を「死のオベリスク」と形容しているそうです。

 この作品を見る限り、メインモチーフの糸杉には不安感が感じられる一方、構造美が感じられます。明るい色調を随所に配置しながら、糸杉を描いたという点で、逆に生への希求が感じられます。

 もっとも、制作されたのが、死の2か月前ということに着目すれば、死を予想させる何かが画面に含まれていても不思議はありません。

■賢治とゴッホに見る死の影
 
 今回、入間川遊歩道の近辺で、さまざまな形状のススキを見ました。その過程で、連想したのが、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』とゴッホの《糸杉と星の見える道》でした。ススキの形状、風景との間で醸し出される雰囲気、情感といったものから連想してしまったのですが、いずれも、その作品の中に、死に結び付くものがありました。

 晩秋は晩節でもあり、末期にちかづく季節です。その時期に存在感を高めるススキには死を連想させる何かがあったとしても不思議はないのかもしれません。

 宮沢賢治が『銀河鉄道の夜』の初稿を書いたのは1924年、その後、1931年頃まで推敲を繰り返したそうです。思い入れの強い作品だったのでしょう。賢治が亡くなったのは1933年ですから、それこそ晩年までこだわり続けた作品といえるでしょう。

 一方、ゴッホは先ほどもいいましたように、最晩年に《糸杉と星の見える道》を描いていますから、死を見つめた思いが込められた作品といえます。

 この作品には『天路歴程』の影響がみられると先ほどご紹介したK. P. エリクソンが指摘しているといいます。『天路歴程』とは、Wikipediaによれば、プロテスタントの間でよく読まれた宗教書ともいわれる寓意物語です。人は人生において苦難を経、葛藤を繰り返しながら、キリストに近づいていくという世界観が盛られています。

 賢治の場合も、『銀河鉄道の夜』の中に次のような文章を書いています。

 「みんなはつつましく列を組んで、あの十字架の前の天の川のなぎさにひざまづいていました。そして、その見えない天の川の水をわたって、ひとりの神々しい白いきものの人が手をのばして、こっちへ来るのを二人は見ました」(前掲。p.291.)

 明らかにキリストの存在が表現されています。ジョバンニとカンパネルラが「ほんたうの幸いのために」行動しようと思うのは、このシーンの後でした。

 こうしてみると、賢治もゴッホも死を前にして、キリストなるものの存在に関心を示し、自身も何か行動しようとしていたことが示唆されています。

 ゴッホは《糸杉と星の見える道》の中に、人生行路と聖なる存在を込めました。賢治もまた、『銀河鉄道の夜』の中で、ジョバンニとカンパネルラが銀河鉄道の中で出会う人々の中に人生行路を表現しています。そして、カンパネルラの行動の中にキリストなるものを表現したのです。

 入間川沿いの巨木からは、時に寒く、時に温かく、折々に発生するさまざまな試練を経て生き延びてきた歴史が感じられました。そして、ススキからはしなやかに風に揺れながら、晩節をやり過ごし、寒い冬を迎えようとしているのが感じられました。

 周囲に人がいなかったせいか、ことさらに晩秋の静寂が感じられました。(2021/10/31 香取淳子)

コロナ下で見たヒガンバナ

■花芽、蕾のヒガンバナ
 2021年9月12日、コロナ下の三蜜を避け、気分転換を図るため、久しぶりに入間川の遊歩道に行ってきました。

 夏の間、あれほど生い茂っていた桜木が、いつの間にか葉を落とし、そこかしこに散らばった枯れ葉が、辺り一面を秋色に染めていました。もう、すっかり秋の気配です。

 ふと、道路脇に目を落とすと、落ち葉の合間から淡い黄緑色の茎が何本か伸びています。葉がなく、茎がむき出しになっています。茎だけの姿がなんともおぼつかなく、いかにも頼りなさそうに見えました。

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 よく見ると、茎の先に小さな花芽が付いています。淡い色に包まれていて、まだ何色の花が咲くのかわかりませんが、新たな命が開花を待っているのです。周囲の雑草がきれいに刈り取られているせいか、地面からすっくと伸びた姿がとても印象的でした。

 周囲を見渡すと、濃い赤が透けて見えている花芽もありました。

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 はっきりとした赤い色が見えるので、これは花芽というより、もう少しで蕾になろうとしている移行期のもののようです。この花芽とも蕾ともつかないものを見て、ようやく、この茎だけの植物の正体がわかりました。

 ヒガンバナです。

 そういえば、間もなくお彼岸を迎える季節になっていました。ヒガンバナは時期を違えることなく、新芽を出してきているのです。改めて、自然のタイムスケジュール管理のすごさに驚かされました。

■葉のないヒガンバナ
あらゆる生命体は適正なタイムスケジュールの下、生を受け、一定のライフサイクルを経て、死を迎えるのでしょう。ヒガンバナを見たとき、自然のメカニズムの一端を見たような思いがしました。

 先の方に、赤い蕾が群生しているのが見えます。

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 蕾の重みのせいでしょうか。茎が倒れ掛かっているのがいくつかあります。おそらく、葉がないのでバランスが取れず、蕾を支えきれないのでしょう。改めて、葉のないことの不思議に思い至りました。

 それにしても、ヒガンバナにはなぜ、葉がないのでしょうか。

 そういえば、ヒガンバナは、花が咲こうとしている時に葉がなく、花が咲き終わると、葉が伸びてくるといわれていることを思い出しました。「葉見ず、花見ず」の花だといわれているのですが、葉のない期間、ヒガンバナはどのようにして光合成をおこなっているのでしょうか。

 ネットで検索してみました。すると、私と同じような疑問を持った人がyahooの知恵袋に疑問を提出していました。それに対する回答がとてもわかりやすかったので、ご紹介しておきましょう。
(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1219402062)

秋:お彼岸の頃に開花→他の草木も葉が未だ茂っていて、ヒガンバナが光合成を行うのに邪魔! 他の草木の葉が枯れだす頃に葉を展開(ヒガンバナの葉は草丈が低いので、他の草木が枯れ始めると葉を伸ばし始める)。

冬:他の草木が枯れてしまった冬場、草丈の低いヒガンバナの葉は、精一杯光合成を行って養分を球根に蓄える。(ヒガンバナは、人の手が入った開けた明るい環境が好きで、常緑林の下部のように、冬でも薄暗いような環境では育たない)。

春:他の草木の葉が茂り始めると、ヒガンバナは休眠の準備。

夏:草丈の高い草木が葉を茂らす夏場、ヒガンバナの地上部は枯れ、地下の球根の状態で秋の開花時期を待つ。

この説明を見ると、ヒガンバナはどうやら、普通の植物のライフサイクルとは逆になっているようです。

■赤いヒガンバナ
 遊歩道を歩いていくと、落ち葉の中から這い出てきたかのようなヒガンバナの群生が見えます。すっきりと長い茎の先に、赤い蕾がいまにも花弁を開こうとしているかのようです。

 先ほどのものよりさらに茎が長くなっているように見えます。茎が長い割には姿勢を崩すこともなく、どれも毅然とした恰好で立っています。これから花開こうとするものならではの力強さが感じられます。

 一方、垂れ下がっている巨大な桜木の枝から葉はほとんど落ち、残っている葉も黄色く色づいています。

 ついこの間まで、遊歩道を両側から包み込むように、桜木が葉を繁らせていました。いつの間にか、その桜木から葉が落ち、ところどころ残った葉もすっかり色褪せています。落ちた枯れ葉がアスファルト道路に張り付いているのを見ると、思わず、哀愁を感じさせられてしまいます。

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 遊歩道を囲む木々は生の輝きを失って葉を落とし、晩節に入ろうとしているのです。ところが、川べりには赤いヒガンバナがちらほら見えます。こちらは今が盛りとばかり、艶やかな姿を見せています。

 余分な負担を減らし、休眠しようとする木々があれば、これから生を謳歌しようとするものもあります。老若が共生して、川べりを彩っていました。

 この場面だけで、季節の移り変わりがはっきりと見て取れます。

 まるで桜木の枝が誘導するかのように、枝先に広がる川べりには、赤い一塊の花が咲いていました。雑草の中で赤いヒガンバナがすっくと立ち、寄り添うように咲いているのが可愛らしく、見ていると、ふっと気持ちが緩んでくるのを感じます。

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■テントを張って川辺で遊ぶ若者たち
 季節に合わせて様相を変えていく自然の営みに驚嘆しながら、ヒガンバナを見ていると、突如、嬌声が聞こえてきました。

 入間川を見ると、向こう岸で青とオレンジ色のテントが見えます。川を隔てた向かい側の浅瀬で、若者たちがテントを張っていたのです。

こちら →
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 川面に若者たちの賑やかな声が響き渡ります。静けさに満ちたこの辺り一帯が、ヒガンバナと若者たちで生気を取り戻したようでした。

 緊急事態宣言が9月30日まで延長され、三蜜を回避し、外出自粛が要請されています。どこにも行き場がなくなった若者たちが週末、テントを張って興じる楽しみを見つけたのでしょう。

 ここなら、三蜜を避けることができ、仲間と共に開放感を味わうことができます。嬉々とした若者たちの声が躍動する生を感じさせてくれます。コロナ下で封印されていた賑わいを味わうことができ、ちょっとした幸せを感じました。

 とはいえ、このところ、若者の感染者数が拡大しているといわれます。

こちら →
https://www.sankei.com/article/20210828-7BAHM54QKRNG7C3GBQRYF5LIFE/

 しかも、これまで重症化しにくいといわれていた30代、20代、10代の中から重症者が出始めているそうです。その結果、専門家は若年層にもワクチン接種を進める体制づくりが必要だと指摘しているといいます。

 一方、若者ほどワクチンの副反応が強いとも報道されています。

 そのせいか、若者たちが川辺で楽しんでいる賑わいにも、心なしか、哀感がこもっているように思えてなりませんでした。コロナで職を失い、行動を制限され、挙句の果ては、ワクチン接種で強い副反応を経験しなければならないのですから・・・。

■赤い色は生きるエネルギーの象徴?
 なおも遊歩道を歩いていくと、巨大な桜木の近くで、赤いヒガンバナが群れて咲いているのが見えました。

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 まだ蕾のものもあれば、開花したものもあります。ここでも、ヒガンバナは密集して咲いていました。まるで身を寄せ合って、自らを守ろうとしているかのように見えます。

 遊歩道から道路側に降りてみると、斜面に、真っ赤なヒガンバナが一塊になって、咲いていました。

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 開花して間もないのでしょうか、この花は形が乱れることもなく、完璧に美しい姿を維持していました。赤いリボンで造られたかのような花の中心から、雄蕊が限りなく細く長く、繊細な弧を描いています。折れもせず、傷つきもせず、まるで花弁を保護するかのように、放射線状に外側に伸びているのです。周囲の濃い緑の葉にヒガンバナの赤が映え、ひときわ輝きを増しています。

 近くで見たせいか、この赤いヒガンバナからは情熱を感じさせられました。葉がなくても決してひ弱ではなく、むしろ生きるエネルギーのようなものすら感じさせられました。

 遊歩道の先の方を見ると、白い花が一つ、濃い緑の葉陰で咲いているのが見えました。

■白いヒガンバナ
 近づいて見ると、白いヒガンバナでした。白い花というだけでも珍しいのに、こちらは群れることなく、一つだけ孤高を楽しむように咲いていました。

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 先ほど見た赤いヒガンバナと形状は同じなのですが、こちらの花にはそこはかとない優雅さや気品が感じられます。他とは距離を置いて、一つだけ凛とした姿勢で立っていたからでしょうか。

 遊歩道に戻ってみると、桜の巨木の幹の下の方に、白いヒガンバナがひっそりと咲いていました。小さくて、うっかりすると見落としてしまいそうでした。

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 巨木の幹を背後にしているせいか、優雅な形状がくっきりと浮き彫りにされていました。こちらも、群れをなさず、孤立して咲いていましたが、葉がないせいか、巨木に張り付いているように見えます。

 ちょっと違和感を覚えました。

 白いヒガンバナというだけでも珍しいのに、群生せず、一つだけ咲いているのを二度も続けて見たのです。違和感を払拭しきれないまま歩いていると、今度は、白いヒガンバナが群生していました。

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 興味深いことに、この一塊のヒガンバナは、花を咲かせているものがあれば、今にも開花しそうな蕾、成り立ての蕾、花芽の者、といった具合に成長の度合いの異なるものが寄り添うように群生していました。同じ根から生まれたとはいえ、その成長度合いがこれほど異なるのも珍しいのかもしれません。

■彼岸に咲くヒガンバナ
 遊歩道の向かい側には葉を落とした桜木が佇み、その先には入間川が見えます。この白いヒガンバナを見ているうちに、不意に、「彼岸」という言葉が脳裏でこだまし始めました。そして、どういうわけか、これらの白い花々が、川を越えて旅立っていった人々の化身のように思えてきました。

 毎年、彼岸の頃になると、決まって、花を咲かせるのがヒガンバナです。

 川のこちら側で咲く白いヒガンバナは、まるで彼岸から戻ってくる祖霊を待ち構えて佇んでいるかのように見えます。

■天界の白い花?
 群生している白いヒガンバナの中に、華麗な姿を見せているものがありました。クローズアップしてみましょう。

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 先ほどの赤いヒガンバナと形状は同じですが、白いせいか、清らかで聖なるものという印象を受けます。

 この白く繊細な形状の花を見ていると、ふいに、「曼殊沙華」という言葉が脳裏を過ぎりました。「曼殊沙華」はヒガンバナの別名ですが、宗教的な響きが感じられます。清らかで優雅な姿形から、この世のものではない、幽玄の美が滲み出ていたからでしょうか。

 goo辞書を見ると、曼殊沙華について、「《(梵)mañjūṣakaの音写。如意花などと訳す》仏語。白色柔軟で、これを見る者はおのずから悪業を離れるという天界の花」と説明されています。

 古代インドのサンスクリット語で、この花に命名されたのが曼殊沙華なのだそうです。つまり、曼殊沙華とはそもそも仏教語であり、その意味は、白くて柔軟なこの花を見ると、自然に良い行いをするようになる天界の花だというのです。

 実際、私はこの白いヒガンバナを見ているうちに、なにか奥深い世界に引き込まれるような気がしました。おそらく、古代インドの人々もそうだったのではないかと思います。確かに、この白いヒガンバナには、時空を超えて人に霊的なものを感じさせる何かがありました。

 ヒガンバナは葉がなく、長い茎の上に、優雅で繊細な姿の花を戴いています。その姿は決して尋常の花とはいえません。

 通常の花のライフサイクルとは逆のライフサイクルを辿っているのです。だからこそ、ヒガンバナを目にしたとき、ことさらに、この世の花とは思えないほど優雅で幽玄の美を湛えていると思えるのでしょう。

 古代インドの人々がヒガンバナを「天界の花」と認識し、曼殊沙華と命名したのは、「通常ではありえない」「白い」「優雅」といった要素があったからだという気がします。

■コロナ下で見たヒガンバナ
 さらに、道路側を歩いていくと、赤と白の彼岸花が隣り合わせに咲いているのに出会いました。赤はまだ開花しきっていませんが、白はどの花も満開です。

こちら →
(クリックすると、図が拡大します)

 あまり見かけない白いヒガンバナがここでは満開でした。

 お彼岸を前に、滅多に見ない白いヒガンバナをいくつも見かけました。そのせいか、つい、彼岸を連想してしまいました。

 実際、コロナ下の今、これまで以上に死が身近になりました。「彼岸、此岸」という言葉が実感を伴って感じられるようになったのです。

 いまだに、Covit-19の由来を特定できず、変異株が次々と現れては、留まることがありません。毎日、感染者数、死者数が報道され、誰もがコロナを意識せずに暮らすことができなくなってしまいました。

 ワクチンを打ってもその効果は限定的で、感染を防ぐことはできず、しかも、変異株に有効かどうかも定かではありません。その一方で、ワクチンの副反応で命を落とす人もでてきています。詳細は明らかにされないまま、不安だけが募っているというのが現状です。

 そんな折、元ジョンズ・ホプキンズ大学のロバート・ヤング博士が4種類のワクチンの成分分析をした結果を公表されました。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します。日本語訳:中桐香代子氏)

 この表を見てわかるように、どのワクチンにも酸化グラフェンや金属が含まれています。

 実は、ファイザーの元研究者がワクチンに酸化グラフェンが含まれていると指摘したことがありました。2021年7月29日のことです。

こちら →
https://vaccineliberationarmy.com/2021/07/29/former-pfizer-employee-exposes-deadly-graphene-oxide-in-the-covid-vaccine/

 ファイザー社とモデルナ社のmRNAワクチンに酸化グラフェン含まれているといいます。
(※ http://blog.livedoor.jp/wisdomkeeper/archives/52066994.html)

 不思議なことに、関係者から重要な情報が提供されたにもかかわらず、政府はそれについて検証することもなく、いままでワクチンが投与されてきました。挙句の果てはワクチンパスポート発行によって、各世代に接種を強行しようとすらしています。

 ロバート・ヤング博士の分析結果を紹介した中桐香代子氏は、厚生労働省に次のような質問を提起しています。

こちら → https://ameblo.jp/kayokonakagiri8/image-12695698547-14995864802.html

 果たしてどのような回答が返ってきたのでしょうか。

 この度、ファイザー社やジョンズ・ホプキンズ大学の元研究者から相次いで、ワクチンに関する情報提供がありました。おそらく身の危険を顧みず、彼女と彼は、良心に従った行動をとったのでしょう。コロナ下の「白い天界の花」だといわざるをえません。(2021/9/15 香取淳子)

Henry Lauは現代版モーツァルトか?③K-POP活動を中断、バークリーへ

ジュリアードではなく、K-POPへ

 オーディションを受けた翌週、Henryは合格通知を受け取りました。ところが、両親に反対されたので、一旦は丁重に断ったそうです。とくに父親は猛反対で、彼の大学進学を強く願っていました。

 Henryは後に、次のようなことを語っています。

「両親はずっとカナダにいて、いまアジアがどのような状態になっているか知らなかったし、K-POPもいまほどは知られていなかったので、反対するのも無理はなかった」
(※ http://www.mtv.com/news/3125103/henry-lau-interview-hollywood-journey/)

 実は、Henryにもまだ迷う気持ちがありました。子どもの頃からバイオリニストを目指して練習を積み重ねてきたのですから、それも当然でした。しかも、ジュリアード音楽院に進学する予定で、出願手続きまでしていたのですから、気持ちの切り替えが必要でした。

 揺れ動く思いを払拭するため、母親と一緒に、Henryは韓国のSM Entertainmentを訪れました。現地を見て、彼の気持ちは固まりました。母親もまた納得し、帰国してから父親を説得してくれたといいます。こうしてようやく家族の同意を得ることができ、HenryはK-POPの道に進むことができたのです。

 韓国SM Entertainmentに所属すれば、クラシックの道に進むよりもはるかに多くの人々に受け入れられ、音楽の道を進んでいくことができると感じたのでしょう。バイオリニストとK-POP、どちらを選択するかと迫られたら、やはり、K-POPを選択するしかなかったのではないかという気がします。

Super Junior-Mのメンバーとしてスタート

 2007年9月、HenryはSuper Junior-Mのメンバーとして、バイオリンパートを含む“Don’t Don”という曲でデビューしました。SM Entertainmentは、彼の持ち味を活かす方向でセッティングしてくれたのです。そして、10月、SM Entertainmentは、2008年にHenryをSJMの中国向けサブユニットとしてデビューさせると公式に発表しました。

 SM Entertainmentは、広東語、北京語を話せるHenryをより活かせる場は中国だと考えたのでしょう。中国は今後、発展を期待できる巨大なエンターテイメント市場でもありました。

 中国TVのバラエティ番組にHenryがグループ出演していた動画を見つけました。2008年8月30日に公開されています。

こちら → https://youtu.be/L1h0by0iIWk
(広告はスキップしてください。2分40秒あたりから、リンボーゲームが始まります)

 グループの中で誰が一番、身体が柔らかいかを競うリンボーゲームのコーナーで、Henryは最終的に、床から80㎝まで下げられた棒の下をかいくぐり、勝者となりました。身体の柔軟性を証明したのです。

 会場から拍手喝采を浴びたことはいうまでもありません。

 そういえば、オーディションの時、Henryがリンボーダンスの動きを取り入れたパフォーマンスで、会場を沸かせたことがありました。バイオリンを弾きながら、身体の柔軟性を極限まで見せつけたものでした。それは、すでに高校生の時、実践済みの動きでしたが、再び、中国TVのバラエティ番組で披露したのです。

 グループ最年少のHenryでしたが、ダンスやパフォーマンスにひときわ優れた能力をもっていることが徐々に、知れわたっていきます。

 やがて、Henryの得意とするバイオリンを演奏する場面も取り入れられ、誰の目にも、レベルの高いエンターテナーだということがわかるようになります。新人とはいいながら、次第に、一目置かざるを得ない存在になっていったのです。

 ダンス能力を買われたのでしょうか、その頃、フィリピンで行われた公演では、女性ダンサー2人を従え、ソロで舞台に立っています。

SSII in Philippines-Henry’s solo Sick of Love

 これは2010年4月13日に公開され、約4万人が視聴しています。2分20秒の動画です。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=tg9MXOktCY4
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 女性ダンサー二人をバックに、ソロでダンスを披露しています。この時期はまだSuper Junior-Mのメンバーとしてグループ活動をしている期間なのですが、よほどダンス能力を認められたのでしょう。あるいは、ファンからの声援の高さがこの企画に反映されたのかもしれません。

 大観衆を前に、Henryはソロで企画されたフィリピンでの舞台に立っています。歌も歌っていますが、ダンスがメインのショーでした。両手、両足をリズミカルに動かし、切れ味のいい、若さ溢れるダンスが印象的です。

 デビューしてわずか3年で、Henryは早くも海外でソロ公演をできるK-POPタレントになっていました。

 デビュー後2,3年頃の動画をみると、すでに、いかにもK-POPタレントらしくなっており、TVのバラエティ番組出演か、ダンスやパフォーマンス中心の舞台で活躍しています。動画をいくつか見ているうちに、ひょっとしたら、クラシック音楽を目指したHenryは後悔しているのではないかとちょっと気になりました。

 そこで、インタビュー記事を読み返してみると、興味深い内容が掲載されていました。

 なぜ、ジュリアードではなく、韓国SM Entertainmentを選んだのかと問われ、Henry は、次のように答えているのです。

 「私はダンスと歌が同じように大好きです。 ところが、クラシックの道に進めば、それを諦めなければなりません。K-POPの道を選ぶと、踊ったり歌ったりできます。だからといって、バイオリンやピアノを弾けなくなるということではありません。そう考えると、選択肢は一つしかありません。韓国SM Entertainment に所属することでした」
(※ http://www.mtv.com/news/3125103/henry-lau-interview-hollywood-journey/)

 一方、フォーブスの記事によると、デビュー当時、グループのメンバーとちょっとした軋轢があったようです。経歴が異質なのでそぐわない面があったのかもしれませんし、中国のTV番組を見ているとグループ出演なのにHenryが目立ちすぎているという印象を受けましたから、そのせいかもしれません。あるいは、文化の違いが影響していた可能性もあります。いずれにしても初期の数年間、Henryは一歩引いて、身を処していたようです。

バークリー音楽大学で学ぶ

 Henryは後に、このような経験は自分にとってはよかったと語っています。その期間、米ボストンにあるバークリー音楽大学に通うことができたからでした。
(※ https://www.forbes.com/sites/tamarherman/2019/04/18/henry-lau-talks-global-career-aspirations-upcoming-projects-how-haters-have-helped-him-thrive/?sh=273fddf04ca7)

 たまたまバークレー音楽大学でHenryと出会ったファンがその時の様子を記し、ネット上にあげていました。2010年7月3日のことです。それによると、Henryはどうやら12週間の作曲コースに在籍していたようです。
(※ https://sup3rjunior.com/2010/07/03/100702-henry-at-berklee-college-of-music-fanaccount/)

 実際、Henryは当時を振り返り、それまでは楽器を演奏したり、ダンスをしたりするだけで、歌ったり、作曲したりすることはなかったので、それらすべてをバークリーで学ぶことができたのはよかったと語っています(前掲URL)。

 バークリー出身の有名な中国人として中国のサイトには、Henryの名前が記載されています。
(https://web.archive.org/web/20140714112749/http://www.mfastudy.cn/xuexiao/html/230.html)

 バークリーでの勉強期間を経て、Henryは韓国に戻り、2013年に ‘Trap’を発表しました。ソロデビューを果たした最初の曲が‘Trap’だったのです。

Trap

 2013年6月22日に公開され、約24万回視聴されています。4分39秒の動画です。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=ANILESJmvIY
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 ピアノをイントロにHenry はまず、しっかりと観客の気持ちを掴みます。頃合いを見計らって、メインメロディをゆっくりとピアニシモにしたかと思うと、ささやくように、“I’m trapped”とつぶやき、すばやく、ピアノの上に飛び乗ります。

 そこで歌いながら、ステップを踏んで、軽く数歩後ずさりしてから、ピアノから飛び降ります。ここからが、ダンスの見せ場になります。男性ダンサー数人を従え、力強く、しかも軽快にダンスを披露していくといった展開です。

 髪を金髪に染め、フードをかぶり、当時、流行していたのでしょうか、シティボーイ風の衣装です。別人かと思ってしまうほど、風貌が変わっていました。いつの間にか、外見は完全にK-POPスターに変身していましたが、スニーカーで踏みしめる足さばきは依然としてリズミカルで、切れ味がよく、見事でした。要所要所の動作をストップして見せ場を作り、フォームの良さを強調して見せているところもダイナミックな印象を与えます。

 この曲はピアノで始まり、歌とダンスが披露され、やがて静かにピアノで終わるといった構成です。

 同時期に、衣装、装置を変えて、公開されたバージョンもありました。2013年6月10日に公開され、こちらは約352万回視聴されています。

こちら → https://youtu.be/kkXsptpE00A
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 この‘Trap’はさらに、2019年にバイオリンのイントロを加えて再構成され、リリースされています。

’VIOLIN INTRO+TRAP’

 2019年12月30日に公開され、約56万回視聴されています。4分59秒の動画です。

こちら → https://youtu.be/m43xjLQvEU4
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 暗闇の舞台に置かれたトラックに青いライトが当たり、ドラムの単調なリズムが強く響き、次第に会場の気分を一つにまとめあげていきます。やがて、何本もの線状の青いライトがHenryを映し出すと、バイオリンを手にした彼が荘厳な趣の曲を奏で始めます。

 背景の照明がオレンジ色に変わったと思うと、カメラが近づき、Henryの姿を捉えます。

こちら →
(ユーチューブ映像より。図をクリックすると、拡大します)

 ピアノがイントロのバージョンとは違って、劇的で力強い導入です。以前とは異なり、リーゼント風の黒髪で、黒のスタジャンを着ています。シティボーイ風であることに変わりはありませんが、バイオリンのイントロ版には甘さが消え、洗練された印象が強調されています。

 ジュリアード音楽院に入学せず、K-POP界に入ることを選択したHenryは当初、Super Junior-Mのメンバーとして活動していました。望んだこととはいえ、これでよかったのかと思い悩んだ時もあったのでしょう。先ほどもいいましたように、この時期、一時、休職し、2010年7月には米ボストンにあるバークレー音楽大学で作曲を学んでいます。

 その成果として2013年7月7日に発表したのが、この‘Trap’でした。18歳でデビューし、24歳でソロアルバムをリリースできるようになっていたのです。バイオリン、ピアノ、歌、ダンスを組み合わせた新領域の音楽を開拓することができたHenryは、いつの間にか、理想の音楽に向けて大きく一歩、踏み出していました。

 デビュー後わずか6年でこれだけの成果を出せたのは、鋭敏な感性、揺るがない意思、絶え間ない努力の賜物としかいいようがありません。(2021年7月5日 香取淳子)

 以下、次回に続く。

Henry Lauは現代版モーツァルトか?②クラシックキャリアを超え、SMオーディションに参加

 前回、バイオリン、ピアノを中心にHenryの演奏の一端を見てきました。動画をちらっと見るだけで、彼が卓越した才能の持ち主だということがわかります。バイオリニスト、ピアニストとして秀でているだけではなく、パフォーマーとしても優れたセンスの持ち合わせているのです。

 Henryは一体、どのようなキャリアの持ち主なのでしょうか。興味津々です。

 そこで、今回は、ユーチューブとネット情報を中心に、彼のキャリア形成について見ていきたいと思います。

幼少期からバイオリン、ピアノに親しむ

 Wikipediaによると、Henryは1989年にトロントで生まれた中国系カナダ人です。父が香港出身の広東人、母は高尾出身の台湾人で、兄、妹の3人兄弟の真ん中です。

こちら → https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_Lau

 Henryは5歳のころからバイオリンを習い始めたようです。日本でもだいたいその頃からバイオリンを習い始めますが、それは、バイオリンの場合、身体サイズに合わせて、楽器のサイズを選択できるからです。ピアノは大人と同じ鍵盤を弾かなければなりませんが、バイオリンは8分の1サイズからスタートすれば、演奏するのになんら支障はありません。

 5歳の時の発表会の動画がありましたので、ご紹介しましょう。

こちら → https://youtu.be/NWkuMNSqOqs
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 緊張しながらも最後まで音を外さず、弾き終えています。5歳という年齢を考え合わせると、並大抵の集中力ではないことがわかります。

 7歳になると、Henryはピアノを習い始めます。以来、ほとんど毎日、バイオリンとピアノの練習に明け暮れていたのでしょう。

 15歳の時にはカナダ王立音楽院主催の大会で、バイオリンとピアノ部門(いずれもレベル10)で優勝しています。幼少のころからクラシック音楽に馴染み、日々、技能を磨いてきたことの成果が出たのです。

将来はバイオリニストへ

 Henryは子どもの頃から自宅で毎日、バイオリンを弾き、ピアノを弾いてその技量を高めていました。そして、高校では、課外活動でバイオリンクラブの部長を務め、指導的立場にも立っていたようです。家庭でも学校でも、クラシック音楽の世界に浸って過ごしていたのです。もちろん、好きでなければ続きません。

 16歳の時の動画が見つかりました。

こちら → https://youtu.be/47WbLx08chA
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 この動画を見ると、Henryがすでに相当の弾き手であることがわかります。これだけの技能の持ち主なら、自分自身はもちろんのこと、家族もまた、将来の進路はクラシック音楽の世界だと思っていたはずです。

 実際、Henryは後になって、米ケーブルTV・MTV記者のインタビューに答え、子どもの頃からずっとクラシックの道に進みたいと思っていたと語っています。
(※ http://www.mtv.com/news/3125103/henry-lau-interview-hollywood-journey/

 ところが、高校に入ってからのある日、Henryは予想もしなかったことを経験します。

 先ほどのインタビューの中で、彼は次のように語っていたのです。

 「高校に入って、学校の催し物に出てみると、女子生徒は皆、クラシック演奏よりもポップスやダンスの方に夢中になり、熱狂的になるのを知った。それで、私は間違ったことをしていると思い、さっそく、歌やダンスを学び始めました」(※ 上記URL)

 彼は高校に入ると早々に、バイオリンクラブの部長をしていました。ところが、女子生徒たちがクラシックよりもポップスの方に夢中になると知ってからは、すぐに、新たにダンスやポップスのクラブを立ち上げ、その責任者になっています。

 これまでHenryは、クラシック音楽を学び、研鑽を積み重ねてきました。上手になればなるほど、両親には喜んでもらえました。ところが、同世代からは、クラシック音楽にいくら秀でていても、その努力に見合う評価を得られないことを知りました。「私は間違ったことをしていると思った」と語ったほどですから、よほど悔しい思いをしたのかもしれません。

クラシックか、ポップスか?

 Henryは新しくクラブを立ち上げると、夢中になって、ポップスやポップダンスを習得しました。学び始めて一年もすると、舞台に立てるほどの力をつけていたといいます。クラシック音楽の技能に加え、新たにポップスの技能まで身につけてしまったのです。

 ちょうどその頃、Asian Backstreet Boysがネット上で話題になっていました。この話題もHenryを悩ませることになっていました。クラシックのバイオリニストになるか、それとも、ネットで活躍するAsian Backstreet Boysみたいになるか、決断を迫られたと語っています(前掲URL)。

 Asian Backstreet Boysが何なのか、私はよくわかりませんでした。そこで、調べてみると、2006年頃、ユーチューブが生んだ初代国際スターのことでした。広州美術大学彫刻科専攻の美大生が口パクで歌っている動画を投稿し、一躍人気を得たグループのことを指すそうです。彼らの動画を見つけましたので、ご紹介しましょう。

こちら → https://youtu.be/N2rZxCrb7iU
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 この動画はなんと、1529万回も視聴されています。

 前の方で、口パクで歌っているのが、韦炜と黄艺馨で、後ろでパソコンを操作しているのが肖静です。この3人がチームを組み、ネット上で世界を席巻していたのが、ちょうどHenryが高校生の頃でした。現在はBack Dorm Boysにグループ名を変更し、活躍を続けているようです(※ https://en.wikipedia.org/wiki/Back_Dorm_Boys)。

 Henryにしてみれば、口パクだけの素人でも、ネットで拡散すれば、世界中の話題を集められるのが不思議であり、興味深くもあったのでしょう。あるいは、クラシック音楽の世界と違って、素人でも容易に視聴者を引き付けられるネットの世界が脅威に思えたのかもしれません。

 しかも、彼らは中国人です。これまで世界を席巻してきた欧米人ではなく、アジア人が音楽の新領域を開拓しはじめていたのです。

 ネット時代の音楽界はこれまでとは明らかに異なったものになっていると、高校生のHenryが察知していた可能性があります。

 興味深いことに、この時期、Henryは電子バイオリンを習っています。自身の音楽能力をネットに対応できるよう変貌させているのです。

 さらに転機になったのが、自分が責任者となっているダンスとバイオリンのクラブの催し物を同時に開催しなければならなくなったことでした。

 この時、Henry は苦肉の策として、ダンスとバイオリンを同時に行うことを思いつきます。バイオリンを演奏しながら、ダンスをし、観客を喜ばせるパフォーマンスも披露するというアイデアです。

クラシック音楽界の将来に対する危機感

 高校に入ってから、彼はクラシックに限らず、ポップスやポップダンス、電子バイオリンの演奏といった具合に、音楽やパフォーマンス活動の幅を広げています。一連の行動を考え合わせると、Henryはおそらく、自分の将来をクラシック界に絞り込んでしまうことに、一抹の不安を覚えるようになっていたのではないかという気がします。

 先ほどもいいましたように、Henryは学校の催し物で、クラシック音楽よりもポップスやポップダンスに女子生徒たちが夢中になっている現実を知って、自分は間違ったことをしていると思ったと語っていました。

 高校に入ってさまざまなことを見聞するようになると、Henryは時代とズレたことをしているのではないかという不安に襲われ始めたのでしょう。ちょうどネットが普及し、人々は音楽も動画もネット経由で視聴するようになりはじめていました。そのような時代に旧態依然としたクラシックだけでやっていけるのかという漠然とした不安に襲われ始めていたのではないかと思うのです。

 だからこそ、彼はポップスやポップダンス、エレキバイオリンなどを習い始めたのでしょうが、結果として、Henryは現代社会に求められる感覚やセンスを身につけることになりました。

 ネット時代にはクラシックもポップスも同じ土俵で勝負しなければなりません。そうなれば、エンターテイメント性の強いポップスの方が有利なのは当然です。

 すでにスマホが普及しはじめており、クラシック音楽界がネット環境下で生き残るにはどうすればいいのかを考えていかなければならない時代を迎えていました。そのことを高校生のHenryは敏感に察知していたのでしょう。

2006年、韓国SM Entertainmentオーディションの開催

 トロントで2006年、韓国SM Entertainment Global Auditionが開催され、Henry はそれに応募しました。3000人の応募者中から選ばれたのはわずか2人で、Henry はそのうちの一人でした。

 Henry のスキルなら当然のことでした。

 当時、Henry はジュリアード音楽院に出願し、入学のための準備を進めていました。それなのになぜ、韓国SM Entertainmentのオーディションを受けたのでしょうか。子どもの頃から毎日のようにバイオリンを弾き、ピアノの練習をし、クラシックの道を目指していた彼がなぜ、SM Entertainmentのオーディションに応募したのでしょうか。

 Henryは後になって、Forbesの記者の質問に答え、次のように言っています。

 韓国SM Entertainment がトロントでオーディションをすることを知った友人が、「HenryならK-POPスターになれるよ」と言って、応募を勧めたといいます。その友人はさらに、「絶対になれるよ!」と太鼓判を押したので、応募する気になったというのです。
(※ https://www.forbes.com/sites/tamarherman/2019/04/09

 もちろん、彼にその気がなかったわけではありません。Asian Backstreet Boysのことを知っていたぐらいですから、K-POPにはおおいに関心を抱いていたはずです。友人の勧めはその呼び水になっただけのことでしょう。

 Henryはオーディションに応募しました。

 いったん応募すると決めたら、彼のことですから、勝つための戦略を練ります。演目としてビバルディの曲を使い、曲の速い部分でポップダンスを取り入れました。サワリの部分を華麗に弾きながら、同時に、パフォーマンスとポップダンスを見せるという戦略でした。

 バイオリンで奏でるクラシック音楽の素晴らしさに、随所に身体の柔軟性を見せるパフォーマンスを絡ませ、時に、ポップダンスまでも披露してみせました。オーディション向けにショーアップして演奏する姿に懸命さが感じられます。

 オーディション時の動画を見つけましたので、見てみることにしましょう。2分36秒です。

こちら → https://youtu.be/5fbUKgMQtPs
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 多少ぎこちない箇所があるとはいえ、バイオリン、パフォーマンス、ポップダンスの卓越したスキルを披露するには十分な構成でした。高校生のHenryがオーディションのためにバイオリンとポップダンス、パフォーマンスをミックスして見せる新領域のエンターテイメントを開発したのです。

 とくに人目を引いたのが、反り返ってバイオリンを弾く場面でした。

こちら →
(ユーチューブ映像より。図をクリックすると、拡大します)

 Henryはこの写真よりもさらに後ろに反り返り、床に背中がつきそうになるまで、身体を倒していきます。それもバイオリンを弾きながらですから、もはやアクロバットとしかいいようがありません。観客はハラハラドキドキしながら見てしまう・・・、といった仕掛けです。

 おそらく、リンボーダンスの動きを取り入れたパフォーマンスなのでしょう。観客の気持ちを引き付ける一方、バイオリンを弾く手に緩みはなく、しっかりとビバルディの難曲を弾き終えました。

 Henryがオーディションのために考え出した演目は、誰もが知るクラシックの名曲に、ポップダンスやアクロバティックなパフォーマンスを絡ませ、ショーアップして構成したものでした。自身のスキルを最大限に見せるための工夫が非凡でした。

 大変な逸材です。韓国SM Entertainmentの選考者たちは飛び上がって喜んだことでしょう。アジア市場を制覇できる可塑性に満ちたスターの卵が舞い込んできたのですから・・・。
(2021年7月4日 香取淳子)

以下、次回に続く。

Henry Lauは現代版モーツァルトか?①卓越した技能

■Henryに夢中
 
 最近ユーチューブを見ることが多いのですが、ふとした偶然でHenry Lauに出会って以来、ほとんど毎日、見るようになってしまいました。それでも、まったく見飽きることがありません。完全にはまってしまったのです。

 なぜかしら?と考えてみたのですが、二つほど理由が考えられます。一つには、その面影が今はいない下の弟に似ているせいかもしれません。弟も音楽が大好きで演奏会を開き、ファンのような人に付きまとわれたりしたこともありました。Henry のように細面でハンサム、身長は183㎝ありました。目はHenryよりもう少し大きく、どこにいても人目を引く存在だったのです。

 そして、もう一つは、Henry の有り余るほどの才能です。多分、音楽の才能だけではないでしょう。語学の才能、全体状況を瞬時に把握し、最適の行動を選択できる能力、切れ味のいいダンスなど、身体能力の高さ・・・、Henryは全般に右脳の働きが優れている人なのかもしれません。非凡な人だけが放つ輝くようなオーラに、私は惹かれました。

2020年9月号の“Forbes”韓国版では、Henryが表紙を飾りました。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 オールラウンドなエンターテナーとして、“2020 Korea Power YouTuber”の一人に選ばれ、表紙を飾ることになったのです。てっきり、トップ10に入っていると思ったのですが、そうではありませんでした。

こちら → https://10mag.com/top-10-korean-youtubers-of-2020/

 トップ10に入っていたのは、お笑い系、食べ物系、子ども向け、化粧系、バラエティ系などでした。日本でも同様です。一般の人々にはやはりそのような内容が好まれるのでしょう。

 Henryが評価されたのは、ユーチューブチャンネルを開設して5カ月間で100万人の登録者を獲得しただけではなく、質の高い内容の音楽番組を提供していることが評価されたようです。

 “2020 Korea Power YouTuber”のリストは、フォーブスコリアが米国のフォーブス本社と協議してまとめられました。選考過程でアメリカ人の視点が入ったからこそ、アーティストとして、人々にポジティブな影響を与えていることが重視されたのかもしれません。

 私が見始めたのも、質の高さに驚いたからでした。それでは、Henryの音楽をみていくことにしましょう。まず、私が偶然、目にして驚いた映像からご紹介します。

■Henry & Shin Jiho(ピアノとバイオリンの協奏)
 
 Henryと若手ピアニストShin Jihoとが共演している映像で、2014年12月27日に公開されました。4分32秒の映像です。これは約786万回視聴されています。

こちら → https://youtu.be/SdzliZRtEo8
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 私はまず、深みのあるバイオリンの音色に引き込まれました。ピアノの伴奏ともぴったり呼吸があっており、久々に快いクラシック音楽を聴いたような気がしました。

 ところが、途中から曲調が変わり、現代ポップスのようになりました。途端に、Henryはバイオリンを横に抱え、まるでウクレレを弾いているかのようにリズムを取りながら、指でつま弾き始めたのです。

 観客は湧きました。ひと段落して落ち着きが戻ったかと思うと、今度はバイオリンでポップスを弾き始めます。観客は思わず笑顔になり、身体でリズムを取り始めます。すると、Henryは立ち上がり、バイオリンを弾きながら、足芸を見せるのです。マイケルジャクソンのような、床を擦るような動き方です。

 観客は手を叩いて、喜びます。

 頃合いを見て、Henryはエンディングに入ります。そして、ピアノのJihoと呼吸を合わせて、鮮やかに終わります。

 わずか4分32秒の映像でしたが、緻密で緩急自在の構成に驚いてしまいました。

 Henryはまさに卓越したバイオリニストであり、パフォーマーであり、なによりも観客を喜ばせるエンターテナーでした。どの観客も幸せそうに顔をほころばせているのが、とても印象的でした。質のいいエンターテイメントを見た思いです。

 実は、Henryはピアノも弾けるのです。

Jiho × Henry piano battle(ピアノの競演)
 
 先ほどはバイオリンとピアノの協奏でしたが、今度はJihoと Henryがピアノで競演するという企画です。2021年5月1日に公開され、38251回視聴されています。6分26秒の映像です。

こちら → https://youtu.be/8Y6kdg6I0Fg
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 最初から演出過剰かなという気がしました。二人とも実力がありますから、演奏だけで十分観客を引き付けられるのにと、ちょっと不満でした。冒頭の芝居がかった演出、Henryのラフな服装など、せっかくの演奏を台無しにすると思いました。

 ところが、そんなことを思ったのも最初だけで、すぐ二人の演奏に引き込まれていきました。しっかりとしたタッチで深い音色が快く、ピアノの音がこれほど豊かな響きを持っていたのかと驚かされました。

 とくに印象的だったのが、単純な音だけで二人が絡み合うところです。息がぴったり合っていて、音の応酬が面白く、まるで二人が会話をしているように思えました。連弾ではなく、音の絡み合い、つまり、相互作用が快活に二人の間で、展開されていたのです。

 ひょっとしたら、若い二人がピアノ演奏の新しい地平を切り開こうとしていたのかもしれません。

 日本人ピアニストとの共演もありました。
 
Henry × Yiruma Collaboration ‘River Flows in You’(日本人との共演)
 
 これは日本人ピアニストとの共演です。2014年8月1日公開に公開され、約425万回視聴されています。

こちら → https://youtu.be/wR_nfACHXw4
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 これまでとは違って、劇的な要素は少なかったですが、互いの呼吸を合わせながら、丁寧に弾いている姿勢が好ましく思えました。優しい曲を丁寧に弾いていくことで、音への気配りが感じられます。音の柔らかさに気づかいながらも、しっかりと音が出ていました。

 テンポの速い部分になっても、Henryは軽々と、音を飛ばさず流していきます。とくに速い箇所になると、Henryの安定したタッチ、音の切れといったようなものが強く印象づけられます。

’Faded’ on 2 piano live(イントロを一人で2台のピアノを演奏)
 
 Henryが一人で、2台のピアノでFaded’を弾いています。これはイントロですが、とてもインパクトがあります。この映像は2019年11月11日に公開され、約472万回視聴されています。

こちら → https://youtu.be/iVOH8tZZhws
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 まるでマジシャンのように2台のピアノを演奏しています。Henryは最初、左手でメロディだけを弾きます。主旋律を弾き終えると、今度は振り返って、もう一つのピアノに向かい、右手で伴奏をつけます。やがて、2台のピアノで右手と左手でメロディと伴奏を同時に弾いていきます。

 人間技とは思えないほど器用に、Henryは2台のピアノを扱っているのです。驚いてしまいました。しかも、これほど難しい弾き方をしているのに、不思議なぐらい、音がぶれることはありませんでした。

 左手でメロディ、右手で伴奏を2台のピアノで別々に弾いて、音が合っているのですから、驚きました。一種のパフォーマンスだと思いますが、これほどの芸当ができるのはHenry以外にいるでしょうか。

 次第に強く、速く、劇的に展開していきます。そして、歌い始めるといった展開です。舞台の中央にくるとダンサーが踊り、歌が中心になります。

 この時の演出はとても良かったと思います。舞台全体が白黒で統一されており、メカニックな印象でした。それだけに冒頭のピアノの単純なメロディが心に刺さります。Henryの服装も白黒、ダンサーは白か黒のどちらかに統一されていました。

 会場は幾何学的な視覚印象を与えるように設営されており、観客を異次元に誘い込む工夫が随所に見られました。そのせいか、Henry が2台のピアノを使って、メロディと伴奏を弾きわける技がことさらに素晴らしく見え、パフォーマーとしての演出が冴えていると思いました。演奏する行為そのものがショーアップされていたのです。(2021年6月30日 香取淳子)

 以下、次回に続く。

進化したタンポポ、夏目漱石、生存戦略

■道端で見かけたタンポポ
 2021年5月5日、スーパーに行く途中、道端でタンポポが咲いているのを見かけました。狭い空き地にひっそりと、草むらの中に紛れ込むようにして咲いていたのです。


(図をクリックすると、拡大します)

 花を咲かせているタンポポはわずか三つでした。それ以外は、綿毛が密で球形になったもの、まばらになったもの、綿毛がすっかり飛び散ったものなど、ヒトでいえば、老年期、終末期にさしかかったタンポポばかりでした。

 すべてが花を咲かせた状態だったら、どれほど見応えがあったでしょう。見えている茎の数からいえば、開花期には,30本ものタンポポが咲き乱れていたはずです。コンクリートの建物と道路の間に囲まれた殺風景な空間がいっとき、黄金に輝く華やかなステージになっていた様子が目に浮かびます。

 行動を制限され、鬱々と過ごしていた人々はきっと、煌めくタンポポの花に元気づけられたにちがいありません。なにしろ、ここのタンポポときたら、のこぎり型のギザギザの葉を大きく広げて、他のタンポポと距離を取っているのです。その様子はまるで三蜜を回避し、ソーシャルディスタンスを確保しているかのようでした。

 しかも、群れて咲いているのです。ヒトになぞらえれば、仲良く集い、コミュインケーションを楽しんでいるようにも見えます。コロナ下でこのタンポポ集団は、どんな環境下でも生を謳歌できることを示してくれていたのです。

 そう思うと、このタンポポ集団がたとえようもなく愛おしくなってきました。

 そもそも、この道は普段は滅多に通らないのですが、この日、たまたま通りかかったにすぎません。このところ「Stay Home」とやらにも飽き飽きしていました。運動不足を解消するにも、気分転換を図るにも、散歩ぐらいしか方法はなく、普段は行くことのない、この道を通ってみたのでした。

 その途上でたまたま、見かけたのが、このタンポポです。すでに盛りを過ぎていましたが、黄色の花からは元気をもらい、ふわふわした綿毛からはどこへでも飛んでいける自由を感じさせてもらいました。その途端、どんよりとした鬱々とした気分が晴れ、思ってもみなかった気分転換ができたのです。

■タンポポの不思議
 タンポポは地面スレスレに花を咲かせています。うっかりすると、ヒトや犬に踏みつぶされてしまいそうなほど低い位置でした。

 見ているうちに、タンポポの花には茎がほとんどないことに気づきました。平べったい黄色の花が、緑の葉の上にべったりと張り付いているのです。おそらく、そのせいで、地面に這いつくばっているように見えたのでしょう。

 見渡すと、辺り一帯は雑草が生い茂っています。その草むらの中で、黄色の花はひときわ輝いて見えました。鮮やかな黄色が目に眩しく、強く印象づけられます。まるでその存在を誇示しているかのようでした。

 これだけ存在感が強ければ、地面すれすれの低い位置で咲いていても、決して踏みつけられることはないでしょう。交通信号に採用されているように、赤や黄色は人に注意喚起を促す色です。しかも、黄色は赤よりも明度が高く、草むらで見るとなおのこと目立ちます。人目を引く鮮やかな黄色の花弁は、開花期のタンポポが生き残っていくための防衛機構の一つといえるのです。

 さらに近づくと、綿毛のタンポポが見つかりました。まだ風に吹き飛ばされておらず、完全な球形をしています。


(図をクリックすると、拡大します)

 花を咲かせているタンポポのすぐ傍で、綿毛になったタンポポが風に揺れています。すっくと佇む白い綿毛のタンポポの下に、黄色の花がそっと顔をのぞかせています。見比べてみるまでもなく、老いた綿毛のタンポポの方が、花を咲かせた若いタンポポよりも茎が長いのが、ちょっと不思議なでした。

 なぜなのでしょうか。

 一般に、ヒトもその他の植物も老いると縮み、小さくなるはずです。それなのに、タンポポは老いている方が縮みもせずに茎が長くなっており、背丈が高くなっているのです。気になって、周囲を見渡してみましたが、どれを見てもやはり、花を咲かせている方が綿毛よりも茎が短いことがわかりました。


(図をクリックすると、拡大します)

 この写真では、さまざまな形状のタンポポを見ることができます。球形の綿毛、ほとんど綿毛が飛び散ったもの、花の咲いたもの、そして、花が萎れて縮み、茶褐色になったもの、といった具合です。

 タンポポにもライフサイクルという概念があるとすれば、空き地のわずかな一角で、4つのライフステージのタンポポをまとめて見ることができたといえるでしょう。

■タンポポのライフサイクル
 タンポポには、一般の植物と同様、タネ、発芽、成長、開花、タネ分散の5段階があります。先ほどご紹介したタンポポはこの5段階のうち、開花(黄色い花)、タネ分散(綿毛)の時期に相当します。

 それでは、先ほどの写真に戻ってみましょう。

 長い茎の先に寝そべっているように見えるのが、まさにいま青春を謳歌している黄色の花です。その上に、綿毛をみごとに膨らませ、完全な球形になっているタンポポが見えます。よく見ると、白い綿毛が隙間なく、密集しているのがわかります。

 その右側のタンポポは、ほとんど綿毛が飛び散り、無残な姿を晒しています。種子をまき散らしてその使命を終え、末期を迎えているのです。

 さて、球形をした綿毛の下には、黄色の花が二つ、地面近くに咲いており、さらにその下に、花弁が褐色になったタンポポが二つ、葉陰に隠れているのが見えます。こちらはほとんど見落としてしまいそうなほど、縮んで小さくなっていますが、よく見ると、これも茎が長く横に伸びています。

 つまり、この一角では、①開花、②タネ分散の2ステージについてそれぞれ二つの段階があることが示されていました。すなわち、①開花ステージでは、花が咲き、枯れるまで、②タネ分散ステージでは、球形の綿毛からまばらな綿毛までです。それぞれ、段階を経て変化し、終末を迎えることが示されているといえます。

 開花期で興味深いのは、①花が開いた状態のものよりも、花が枯れて褐色になっているものの方が茎が短いこと、②両者ともに茎が横に伸びていることでした。このことからは、老いるにつれ、背が低く、茎が横たわっていくことがわかります。

 一方、タネ分散期のタンポポの場合、完全な綿毛と、綿毛がほとんどまばらになったものとに、茎の長さに変化はありません。こうしてみてくると、茎の長さは、タンポポのライフサイクルと密接な関係があるのではないかと思えます。

 そこで調べてみると、とても興味深い記事がみつかりました。

■ライフステージによって変化する茎の長さ
 「タンポポ(蒲公英)の綿毛のできるまで過程」というタイトルの記事によると、タンポポは、花が咲き終わると、茎は地面に横たわり、茎を通して根や葉から花に養分を送ります。その後、2週間ほど経って綿毛が膨らむころ、再び、茎が立ち上がるというのです。(※ https://santa001.com/)

 Wikipediaでも、同じような説明がされていました。タンポポの茎は分岐せず、花が咲き終わると、一旦、倒れますが、その後、花が咲いていたときよりも茎の丈は高くなると書かれています。

 これらの説明を総合すると、タンポポが茎の長さを変える要因は、老化であり、ライフサイクルに合わせた営みだということがわかります。

 さらにWikipediaの説明を読み進めると、タンポポは50㎝以上もの長さで、太いゴボウのような根をもっていると書かれていました。草丈は15㎝しかないのに、根は長いものでは1メートルにも及んでいるというのです。

 この説明からは、太く長い根がタンポポの茎の自由な動きを支えていることがわかります。しっかりと大地に根を張っているからこそ、タンポポの茎は、花が咲き終わると倒れ、綿毛が膨らむと長く伸びるという柔軟な動きができるのです。

 それではなぜ、開花期は茎が短いのでしょうか。

 タンポポといえばこれまで、地面近くに咲いている小さな花というイメージでした。実際、ここで咲いているタンポポの花も茎が短く、地面に這いつくばっているように見えます。


(図をクリックすると、拡大します)

 Wikipediaには、開花時のタンポポの茎の短さについても説明がありました。茎が短く、のこぎり状の葉が水平に広がっているのは、花や茎が踏みつけられたり、折られたりしても、容易に、再生できるからだそうです。

 つまり、茎が短く葉が水平に広がっているのは、開花期に身を守るための防衛メカニズムの一環だといえるのです。

 花弁が縮み、褐色になっているこのタンポポは、すでに花を咲かせる使命が完了しています。そこで、次のステージに備えて横に寝そべり、綿毛が膨らむのを待っているのでしょう。その姿はまるで妊婦がしずかに横たわり、胎児に栄養分を送っているかのようでした。

 タンポポの逞しさと賢さに感心してしまいました。

 用意周到な生き残り戦略がライフステージごとに組み込まれているからこそ、他の植物なら生きていけないような厳しい環境下でも繁殖していけるのでしょう。改めて、環境への柔軟で最適化された対応が生存戦略には不可欠だと思いました。

 翻って人間社会はいま、コロナ禍で、飲食、旅行、アパレル、エンタメなどの業界が大きな打撃を受けています。外出自粛、三蜜回避を要請された結果、これまで事業を支えてきた環境が激変してしまったのです。

 対応しきれずに廃業に追い込まれた事業者が多々ある一方で、この艱難辛苦を乗り越え、新たな事業スタイルを模索している事業者もあるようです。何もコロナ禍に限りません。5Gの普及にAIの進化、データドリブン経済の浸透など、今後、どの業界にも大きな変化が訪れることは明らかです。

 事業者ばかりではなく、現代社会を生きる人々もまた、タンポポのように逞しく、賢い対応力が求められる時代に突入したのでしょう。

 そんなことをぼんやりと考えているとき、興味深い新聞記事に出会いました。

■環境激変に耐えられるか
 2021年5月15日、日経新聞コメンテーターの梶原誠氏は、「30年後、その会社はあるか」というタイトルの記事を寄稿しています。

 記事の冒頭で梶原氏は、2021年5月1日に開催された米バークシャー・ハザウェイのオンライン株主総会で、同社会長のカリスマ投資家ウォーレン・バフェット氏のスピーチを引用しています。

 バフェット氏は、GAFAMが牽引する世界時価総額上位20社を示し、「30年後、何社が残っていますか?」と問いかけ、32年前の1989年の上位20社を提示したそうです。その結果、この32年間で、世界時価総額の上位20社は大幅に変化していました。日本企業、米国のエクソン、IBMなどがランキングから消え、代わりにGAFAMやテンセントなどの中国企業に置き換わっていたのです。

 バフェット氏はこのデータを踏まえ、企業間競争がいかに厳しいかを訴えたといいます。

 梶原氏は、このバフェット氏の警告を踏まえ、実例を紹介しながら、生き残りのためには何が必要なのかを説明しています。

 判断基準にしたのは、投資信託「コモンズ30ファンド」(30年間成長できる日本企業)に採用された銘柄の2019年末と2021年4月末のデータです。この2時点の業績を比較し、上昇に転じた銘柄の特徴を分析して、以下のようにまとめています。


(2021年5月15日日経新聞より。図をクリックすると、拡大します)

 この表で示されたSociety(社会)、Agility(俊敏)、Technology(技術)、Overseas(海外)、Resilience(復元)、Integration(融合)は、梶原氏が抽出した、上昇に転じた企業の成長要因です。上から順にみていくことにしましょう。

 たとえば、医薬品メーカーと医師をオンラインでつなぐエムスリーは、62位から26位に急上昇しています。逼迫する医療需要に応えた業務が、業績向上に寄与しています。この場合、社会的要請に対応できていることが成長要因になっていると梶原氏は分析しています。

 佐川急便を傘下に持つSGホールディングスは、176位から97位に上昇しています。コロナ下での海外での荷動き低迷を見越し、それまでの統合計画を断念しました。その決断を評価し、梶原氏は激動の時代には臨機応変に即時対応できる能力が必要だと指摘しています。

 半導体の検査装置で独占的なシェアを握るレーザーテックは、258位から86位に上がりました。政府が推進しようとしているDXにもデータセンターにも高性能の半導体が必要になるからです。今後の社会に不可欠な技術が成長要因になっているといえます。

 そして、部品メーカーのシマノは、83位から68位に上昇しています。海外売上高比率が約90%にも上っているからでした。人口減が進む日本では海外市場の重要性が今後、ますます高まるでしょう。海外市場の開拓は成長には不可欠の要因といえます。

 生理用品・紙おむつなどを販売するユニ・チャームはコロナ下でマスクを手掛け、58位から57位にランクアップしました。ランキング上位を保ち、わずかながらもアップしています。環境の変化に素早く対応した結果だといえるでしょう。梶原氏はこれをResilience(復元)力が寄与したと考えます。

 日本電産は、企業成長の原動力として、M&Aを積極的に展開しています。

こちら → https://www.nidec.com/jp/corporate/about/ma/

 「回るもの、動くもの」に特化してM&Aを行い、技術や販路を育て上げるために要する時間を買うという戦略の下、手っ取り早い成果につなげています。このような買収戦略によって日本電産は、27位から13位に上昇しました。

 梶原氏は、上記の6企業が採った戦略の特徴をそれぞれ、Society(社会)、Agility(俊敏)、Technology(技術)、Overseas(海外)、Resilience(復元)、Integration(融合)と表現し、これらの特徴を備えた企業こそ、今後、激変する環境下で生き残る可能性が高いと指摘しています。

 社会が変化すれば、社会的ニーズも変化します。その変化を見逃さず、朝令暮改といわれようと気にせず、迅速に適応していくことが必要になります。それには社会が求める高度な技術を装備することが不可欠ですし、収益を安定させようとすれば、国外を視野に入れた販売戦略も必要です。環境の変化で業績が悪化しても、臨機応変に対応していく野生の回復力が求められますし、自前ではできないことはM&Aで補うことも必要になります。

 こうして企業の生存戦略の一端を見てくると、改めて、タンポポの巧みな生存戦略に感心させられます。

■環境に最適化された生存戦略
 先ほど、タンポポの茎の長さがライフステージによって変化するといいましたが、実は、葉の形も生息場所によって変化します。たとえば、日陰では、太陽の光をできるだけ多く取り込むため、葉の数は少なく、葉の面積を増やすためにタンポポの葉特有の切れ込みも少なくなっています。

 逆に、日当たりのいい場所では、切れ込みを深くし、葉が重なっても下の葉にも太陽光が射し込むような工夫がされています。より多くの太陽光を浴びるために、環境に応じて葉の形状を変化させているのです。

 さらに、綿毛の段階で背が高くなるのは、広範囲に飛散できるようにするためでしたが、綿毛の構造もまた、できるだけ空中に長く滞在できるような構造になっていることが明らかになっています。

こちら → https://www.discoverychannel.jp/0000038949/

 身体の構造を環境に適合させることによって、タンポポはより多く、より広範囲に、種子をまき散らす工夫ができているのです。

 タンポポがどれほど賢い植物であるか、どれほど巧みな生存戦略を展開しているかがまとめられているので、ご紹介しましょう。

こちら → https://geolog.mydns.jp/www.geocities.jp/tampopo7007/kasikoi.html

これを見ると、タンポポが開花の終了から種子の実りを経て、種子の拡散に至るまで、環境要因を踏まえ、用意周到な戦略を練って生き延びていることがわかります。ライフサイクルに応じて身体の形状や構造を変化させるだけではなく、季節のもたらす気候の負荷を回避し、他の草花との競争を避けることによっても生き残りを図っているのです。

 そんなタンポポのしたたかさを、明治の文豪、夏目漱石はしっかりと見抜いていました。

■夏目漱石が捉えたタンポポ
 私は最近、夏目漱石を読み返しています。物事の本質を見抜き、的確で簡潔な表現力で構築された世界に魅力を覚えるようになったからでした。

 はたして、漱石はタンポポをどう捉えていたのでしょうか。ふと気になって、調べてみると、次のような句があることがわかりました。

 「犬去つて むつくと起る 蒲公英が」(夏目漱石)
(https://sosekihaikushu.at.webry.info/200912/article 18.htmlより)

 この句には見慣れない語句、「蒲公英」が含まれていますが、これはタンポポの漢語表記で、「たんぽぽ」と読みます。中国で使われている漢語表記をそのまま和名「タンポポ」に当てはめたもののようです。

 漱石は『明暗』を執筆していた際、漢詩を書くことを日課にしていたほどですから、タンポポも漢語表記の方が馴染み深かったのでしょう。改めて、漱石にとって漢詩は、小説と同様、思想を表現する手段だったことがわかります。

 この句も、漢詩の好きな漱石らしく、無駄な字句を省き、簡潔で本質を突いた表現が印象的です。

 この句はとても素直に、犬が立ち去った後、タンポポがむっくりと起き上がる様子が捉えられています。タンポポが擬人化されており、犬が立ち去るのをしっかりと見届けてから、注意深く身を起こしている様子がありありと目に浮かびます。「むつくと」という表現になんともいえない愛らしさとユーモアが感じられ、気持ちが和やかになります。

 一見、日常的な光景を綴っただけのように見えますが、タンポポの生態を知らなければ、「むつくと起る」というような表現はできません。タンポポの茎は開花期を過ぎれば横倒しになり、綿毛ができると途端に起き上がって茎丈が高くなることを漱石は知っていたのです。博学に支えられたスケッチの確かさが秀逸です。

 ありふれた光景の中で、漱石が目を止めたのは、したたかさに生き抜くタンポポの野性味でした。

■変化に適応し、高度に進化したタンポポ
 タンポポは寒帯から熱帯まで幅広く、さまざまな気候の下で生息しているといいます。しかも、路傍、空き地、畑地、牧草地、芝地、樹園地、川岸など、生息場所を選びません。日本では、沖縄から北海道まで全国各地でタンポポを見ることができますが、その多くは西洋タンポポ(外来種)と在来種との雑種だといわれています。

 外来種の侵入が確認されたのは1904年、北海道で食用や飼料として輸入された栽培種からだとされています。

こちら → https://www.nies.go.jp/biodiversity/invasive/DB/detail/80640.html

 今では、全国のタンポポの約8割が、外来種の西洋タンポポか、在来種との雑種だといわれています。在来種のタンポポは、外来種の西洋タンポポに席巻されながらも、交配して雑種となって生息範囲を広げ、生き残ることができたのです。

 こうしてみてくると、日本で生息していた在来種は外来種と交わることによって遺伝子が強化され、より多様な環境で生きられるようになったことがわかります。これも進化の一形態といえるのかもしれません。

 Wikipediaによると、タンポポは非常に進化しており、植物進化の系統ではトップグループに属するといいます。進化を重ね、さまざまな環境やライフステージに最適化させた生存戦略を編み出す一方、外来種との交配によって遺伝子を強化していったからでした。こうしてみてくると、生存戦略とは、より確実に子孫を残すための繁殖戦略だともいえるでしょう。

 コロナ禍に右往左往していても始まりません。気候変動、技術の進化、エネルギーの変化、世界的な人口増と先進諸国の高齢化、等々。社会を激変させる要因は次々に控えています。新型コロナは、今後はさらに大きな変化が押し寄せてくる前触れに過ぎないのではないかと思います。

 危機にどう対応するか、どのように生き延びるか、激変した社会に適応できる柔軟性をどう身につけていくか、したたかなタンポポを見倣う必要があるのかもしれません。(2021/5/30 香取淳子)

八重桜とコロナ変異株に見るしたたかな生存戦略

■入間川遊歩道
 2021年4月16日、久しぶりに入間川遊歩道に行ってきました。といっても、ほぼ2週間ぶりです。新緑の季節になると、遊歩道の風景は目まぐるしく変化します。

 案の定、桜は散って葉だけになり、前回、見たときとは全く異なった風景が、目の前に広がっていました。


(図をクリックすると、拡大します)

 早緑の葉が風にやさしくなびいているのを見ると、葉桜も悪くないなという気がしてきます。

 葉桜に覆われた遊歩道の先の方に、ピンクの花が咲いているのが見えます。


(図をクリックすると、拡大します)

 どう見ても、桜には見えませんでしたが、近づくと、どうやら八重桜のようです。厚ぼったくて、強靭で、どう見ても、この花には桜のイメージはありません。存在感が強すぎるのです。まるで牡丹のようでした。


(図をクリックすると、拡大します)

 さらに近づいていくと、満開の花弁の量と質感に圧倒されます。潔さの象徴のようなソメイヨシノとは違って、濃厚で生命力旺盛、なんともいえないしたたかさがあります。

 通り過ぎようとして、ふと、木の下で立ち止まってしまいました。

 見上げると、幾重にも重なった無数の花弁に覆われ、空が見えなくなっているほどでした。八重桜は豪華絢爛、見ていると、知らず知らずのうちに、気持ちが華やいでいくのが感じられました。


(図をクリックすると、拡大します)

 つい2週間ほど前に見た花とは、花弁の様相が全く異なっています。あまりにも違っているので、違和感を覚えたほどでした。

■八重桜
 たった一本なのに、際立った存在感を放っている桜木でした。通り過ぎて、振り返ってみると、改めて、この木が異質だということがわかります。


(図をクリックすると、拡大します)

 前回、見た桜はソメイヨシノでした。そよ風が吹いただけで、さらさらと花弁が舞い、散っていきます。そこには、パッと咲き、パッと散っていく潔さがあって、かつて多くの日本人が共有していた精神を連想させてくれました。ソメイヨシノ特有の淡白でさらりとした美しさが、遊歩道の両側に満ちていたのです。

 ところが、目の前で咲き乱れている花は、一見、桜とは思えないほど濃厚な印象です。八重桜と思い込んでいましたが、とたんに、確信が持てなくなってきました。

 気になって、スマホで調べてみると、カンザンという名称の八重桜でした。江戸時代にオオシマサクラを基にして作られたサトザクラの一種なのだそうです。

 さらに調べると、この桜の特徴は八重咲で、花弁は20枚から50枚、花と葉が同時に咲くと書かれていました。たしかに、どの花も花弁がいっぱいで、遠くから見ると、ふんわりと丸く、もこもこした感じです。花の量には圧倒されますが、葉もしっかりと付いています。

 それにしても、びっしりと隙間なく花が生い茂った姿がなんと逞しいことでしょう。見るからに儚げなソメイヨシノとは違って、生命力の強さが感じられます。

 そのまま遊歩道を歩いていくと、また、異なる花弁をつけた桜の木に出会いました。


(図をクリックすると、拡大します)

 こちらも花弁が多く、もこもこした感じです。白に近い淡いピンク色の花が、無数に咲き乱れ、辺り一帯を明るくしています。こちらもしっかりと葉が付いています。

 立ち止まって、スマホで調べてみると、イチヨウ(一葉)という名の八重桜でした。江戸時代以前からある栽培品種で、サトザクラの一種だそうです。花と葉が同時に開き、花弁の色は淡紅色ですが、花弁の内側が白いので、開花が進むと、白く見えるようになると書かれていました。目の前で咲き誇っている花の様相、そのものです。

 白っぽい色彩のせいか、こちらの方が多少はソメイヨシノに近い気がします。

■八重桜とソメイヨシノ
 わずか2週間ほどえ、入間川遊歩道の主役が入れ替わっていたのです。ソメイヨシノはすっかり花を落とし、葉だけになっていました。その代わりに、八重桜が咲き、早緑で覆われた川辺を、華やかに彩っていたのです。

 ぼんやりと眺めているうちに、不意に、変異という言葉、多様性という言葉が脳裏をかすめました。

 ソメイヨシノが先なのか、八重桜が先なのかはわかりません。ただ、異なった品種が存在することによって、桜という種そのものが、長く生き続けているのではないかという気がしてきたのです。
 
 スマホで調べると、カンザンという品種は、欧米で最も普及している日本原産の桜だそうです。寒冷地でも生育が良好で、花が大きく花弁の濃い紅色が、欧米人の美的感覚に合っているため、広く育てられているといわれています。

 イチヨウ(一葉)という品種は、オオシマザクラを基に生まれた日本原産の八重桜だと書かれていました。カンザンにしろ、イチヨウにしろ、サトザクラ群に属する日本原産の八重桜だったのです。

 一方、日本のイメージとして定着しているソメイヨシノは、江戸時代後期に開発された品種でした。昭和の高度成長期に、日本各地で植えられた結果、現在では、日本の桜の90%を占めるようになり、日本のイメージとなっていったようです。

 興味深いことに、亜種に見えたカンザンやイチヨウが日本原産のサトザクラの系統をひき、日本古来の品種と思えたソメイヨシノが江戸時代後期に開発された品種でした。

 帰宅して調べてみると、日本の桜は、ヤマザクラ、オオシマザクラなどの10種を基本に変異種を含めると、100種類以上が自生しているそうです。そこからさらに、さまざまな品種が開発され、合わせて200種類以上もあるといわれています。

こちら → https://gardenstory.jp/plants/42373

 種類の多さが桜という種そのものを長く生き続けさせてきたのかもしれません。品種が多いということは、多様な環境に適応できるということが示されており、桜の生存戦略の一つといえるでしょう。

 毎年、時期になれば、桜前線が報道されます。不思議なことに、南北に長い日本列島、どこでも桜が見られるのです。各地の環境に適して変異した品種、あるいは、人工的に開発された品種のおかげで、桜は長く生き残ってきたのでしょう。


(2021年版 お花見ガイドより)

 種類が多ければ、適応できる環境も広がり、長く生存し続けられるようになることがわかります。

■大阪府、緊急事態宣言の発令を要請
 2021年4月21日、朝起きて日経新聞を広げると、真っ先に、「大型商業施設も休業」という大文字のタイトルが目に飛び込んできました。その横に「大坂、緊急事態を要請」という副題も見えます。第1面です。

こちら → https://www.nikkei.com/article/DGKKZO71207890R20C21A4MM8000/

 連日のコロナ感染の拡大に歯止めのかからない大阪府が根を上げ、4月20日、政府に緊急事態宣言の発令を要請したのです。飲食店に対しては3案(①全面休業、②土日祝日休業、平日午後8時まで、③酒類提供を自粛し、午後8時まで)を検討し、大型商業施設にも休業を求める方向で政府と協議すると書かれていました。

 吉村知事は、「人と人との接触をできるだけ減らすために必要な措置を取る」とし、デパート、テーマパーク、ショッピングセンター、映画館、地下街など大勢の人が集まる場所を閉鎖する必要があるというのです。

 大阪府では、すでに「まん延防止等重点措置」が実施されていますが、その効果が弱く、より強力な防止対策が必要だと判断したからだそうです。気になるのは、大阪に引き続き、東京都も要請の方向で準備に入り、兵庫県も最終調整を進めているということでした。

 コロナ感染騒動から1年以上経ちました。政府をはじめ各自治体には、感染に関するさまざまなデータが集積しているはずです。ところが、いまなお、感染者数だけを根拠に、人の流れを止める方向でしか対策が練られていないように見えます。それが不思議ですが、さらに、多くの人々がそれに同意し、異を唱えないのが不可解です。

 そもそも、なぜ、大阪で突出して感染者数が多いのでしょうか。

 そのことの解明もないまま、徒に人の流れを止めても、それほど効果は期待できないのではないかという気がします。感染者はどういう経路で感染したのか、どういう行動をしたから感染したのか、といったような感染のメカニズムを明らかにし、その結果に基づき、人の流れを規制するというのが筋ではないかと思うのです。

 人が密集している場所といえば、満員電車、パチンコ店などが思い浮かびますが、果たして、そこから感染者が出たのでしょうか。

 私が知っているかぎりでいえば、カラオケ、ジム、居酒屋等の飲食店です。対面で長時間、マスクを外して、人と人がコミュニケーションを交わす場所で感染者が多数、出ています。つまり、人と人が密集し、滞留時間が長く、対面でマスクを外して接触するという条件が重なった場所で、感染が起きているのです。

 感染者が急増しているからといって、闇雲に人の流れを止めて解決するものではないと思うのは、その点なのです。

 感染経路や感染メカニズムを踏まえ、人の流れに関するデータを考え合わせて、対策を練らなければ、有効な結果が得られないのではないかという気がしてなりません。

 むしろ、人の流れを止め、経済活動を滞らせることによって、自殺に追い込まれる人が増えるのではないかと心配です。

 過去一年間のコロナ禍で、飲食、アパレル、サービス関係の仕事をしている人々の多くが職を失い、生活に苦しんだあげく、中には命を絶ってしまった人もいました。

 職を失い、生活費が尽きたところで、死を選択せざるを得なくなった人が多いとすれば、産業をつぶすようなことはしてはならず、感染防止策と併せて、生活をしのぐための経済支援をする必要があるでしょう。

 実際、昨年の自殺者数はリーマン・ショック以来の多さでした。

■新型コロナ死者数よりも多かった自殺者数
 警視庁と厚生労働省は2021年1月22日、2020年の自殺者数は前年比750人増(3.7%増)の2万919人だったと発表しました。これまで10年連続で減少していたのに、リーマン・ショック直後の2009年以降、11年ぶりに自殺者が増加したといいます。


(日経新聞2021年1月22日より)

 このグラフを見ると、2月から3月にかけて上がり、一旦下がって、6月から上がり始め、10月でピークになり、減少に転じています。国民全員に一時金が配布され、事業者への支援金が支給されたせいか、生活費が尽き、命を絶つ決意をするまで、多少、引き延ばされたのかもしれません。

 興味深いのは、男性は11年連続で減少しているのに対し、女性は2年ぶりに増加したということです。人口10万人当たりの自殺者数は0.8人増えて、16.6人でした。さらに、年齢別でみると、数として最も多いのは40代ですが、増減率でみると、20代が17%増(329人増)と最も高かったそうです。コロナ禍で倒産に追い込まれたのは飲食、アパレル、旅行などの業界でしたが、いずれも若い女性が多く働いている職場です。

 一方、厚生労働省は2021年2月22日、人口動態速報を発表しました。それによると、2020年の死者数は138万4544人で、前年に比べ、9373人も減少していました。


(2021年2月22日、日経新聞より)

 死因別にみると、大きく減少しているのが、呼吸器系疾患の肺炎でした。やはり呼吸器系疾患のインフルエンザも4番目に大きく減少しています。反対に、増えているのが、老衰、新型コロナ、がんという順でした。

 三蜜を避け、マスクを着用するといった新型コロナに対する防止策が、他の呼吸器系疾患の発生を抑制していたと考えられます。新型コロナによる死者数は約3500人でしたが、呼吸器系疾患による死者数はなんと約1万6000人も減少したというのです。

 コロナ禍にあえいだ2020年、世界各国で死者数は増えました。ところが、日本では減少しており、コロナ感染者数も人口規模からいえば、驚異的に少ないのです。

 なぜ、日本で感染者数、死者数が少ないのでしょうか。そのことに着目し、様々な角度から分析して感染対策を練り上げるという発想も必要でしょう。せっかく世界に稀なデータを持ちながら、日本政府はなぜ、欧米と同様、三蜜回避、人の流れを止めるという対策しか思いつかないのでしょうか。

 米テレビのCBS NEWSは、日本の自殺者がピークに達した2020年10月、次のような報道をしています。

こちら →
https://news.yahoo.co.jp/articles/468823530bb795058b5d12e78a29eb6889f409c1?page=1

(source: https://www.cbsnews.com/news/japan-suicide-coronavirus-more-japanese-suicides-in-october-than-total-covid-deaths/)

 このニュースばかりではなく、Bloombergニュースでも、日本ではコロナ禍によりメンタルヘルスに問題が生じ、自殺が増えたと解釈されています。そのようなケースもあるでしょうが、20代女性の場合、コロナ禍で職を失い、生活費を捻出できなくて自殺に追いやられたケースが多いのではないかと思われます。

 それだけに、感染者数が増えたからといって、安直に人の流れを止める方向に舵を切るのはどうかと思います。過去一年の不幸なデータを踏まえれば、できるだけ産業を潰さないような形で、感染を防ぐ方法を考える必要があると思うのです。

 感染対策として、もちろん、ワクチン接種も必要です。ところが、治験が十分でないワクチンを投与された結果、さまざまな副反応が報告されています。

■ワクチン接種
 朝読んだ記事には、感染対策として、「封じ込めのカギを握るのはワクチン接種だ。変異型の感染力が高くても人の免疫力が高まれば発症を抑えられる。海外では接種が先行している国で感染の拡大を押さえられている例がある」と書かれていました。

 感染対策の一環として、すでに高齢者や医療従事者を中心に、ワクチン接種は始まっています。

 ところが、2021年4月8日、アストラゼネカとオックスフォード大学が共同開発したワクチンで19人が死亡し、100万人に約4人の割合で血栓を発症するリスクがあると発表されました。

こちら → https://www.jiji.com/jc/article?k=2021040701380&g=int

 英政府は30歳未満には別のワクチンを投与するとし、18歳未満を対象にした治験を一時中止しました。一方、同記事には、WHOの諮問委員会がアストラゼネカのワクチンと血栓との因果関係について、「確証はない」と強調したことも記されていました。製薬会社に配慮したのかもしれません。

 薬害エイズ、子宮頸がんワクチンをはじめ、数多くの薬害を経験してきた日本では、ワクチン投与に関し、慎重で臨んでほしいと思います。英政府のように、リスクがあると判断すれば、自国が開発したワクチンでも即刻、使用をやめ、治験を中止するといった英断が必要でしょう。
 
 また、2021年4月14日には、ワクチンを投与された後、死亡した女性が報道されていました。

こちら → https://www.yomiuri.co.jp/national/20210414-OYT1T50205/

 医療従事者だから、この女性は早期にワクチンを投与されたのでしょう。基礎疾患はなく、副反応を疑う症状もないまま、接種後、10日ほどで亡くなっています。死因は脳内出血だったといいます。

 やはり、ワクチンを2回接種した女性の医療従事者が感染したことが報告されています。

こちら → https://www.yomiuri.co.jp/national/20210412-OYT1T50018/

 これについて、厚生労働省担当者が、「ワクチンを接種して感染リスクを低くすることができるが、ゼロにできるわけではない」と述べたことが記されています。

 さらに、次のような報道もありました。

 2021年4月14日21時04分の『Newsweek』日本版によると、人口の4割がワクチン接種を済ませているにもかかわらず、ミシガン州で爆発的に感染者が増えているというのです。

こちら → https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2021/04/post-96075.php

 感染力の強い英国型変異ウイルスN501Yが、その原因だといいます。

 しかも、このウイルスに感染すると、死亡率も高いという報告もあります。

こちら → https://www.tokyo-np.co.jp/article/98385

 英エセスター大学が3月に発表した報告によると、変異型と従来型の感染者、それぞれ約5万5000人について調べたところ、死者は変異型が227人、従来型が141人だったということです。その一方で、ロンドン大学はこれとは違う結果を発表しており、治験が十分でないまま投与されているワクチンの現状が示されています。

■日本型対策は考えられないのか?
 日本の場合、感染者数は圧倒的に少なく、死者も少ないといわれています。なぜそうなのかということを明らかにすれば、そこからヒントを得て、有効な感染対策を立てることもできるのではないでしょうか。

 過去一年のコロナ経験を振り返ってみれば、日本の場合、世界各国に比べれば、感染者数は少なく、死者数も少ないことが判明しました。

 コロナ禍で各国では死者数が増えていたというのに、日本だけが減少していたのです。しかも、大幅に減少したのが呼吸器系疾患による死でした。明らかに新型コロナへの感染対策が他の呼吸器疾患に効いていたのです。

 第4波が到来した現在、感染者の大半は英国型変異株によるものだといわれています。しかも、こちらは感染力が強く、重症化しやすいとも報道されています。ですから、2020年の従来株に有効であったものが、この変異株にも効くかどうかはわかりません。

 ただ、未知のウイルスに対し、日本人はかなり抵抗力を持っていました。問題は、その従来株から派生した変異株にも有効なのかどうかです。

 それを把握するには、なによりもまず、今回、なぜ、大阪で感染者が激増しているのか、感染者の特性、感染経路などを明らかにする必要があります。そうした上で、従来株と比較し、英国型の変異株に対する対策を練り上げるのを優先すべきだと思うのですが・・・。

 ところが、長崎大学は興味深い研究成果を発表しています。「5-ALA」と呼ばれるアミノ酸が新型コロナウイルスの治療薬として期待できるというのです。

こちら → https://www.nagasaki-u.ac.jp/ja/about/info/science/science225.html

 長崎大学では、試験管で培養したコロナウイルスに「5-ALA」を投与すると、増殖が抑制されることを確認しました。この方法は、すでにサプリメントとして使われているので、安全性が高く、安定的に、適切な価格で供給することができるメリットがあるといいます。すでに使われているサプリメントを利用するので、室温での安定性が高く、経口で投与できます。安全でしかも利用しやすいメリットがあるのです。

 まだ治験が十分ではなく、安全性が確認できていない現在のワクチンよりも、すでに安全が確認された薬剤を利用するメリットは、はるかに大きいといえるでしょう。

■八重桜、コロナ変異株に見る生存戦略
 ふと、先日、入間川で見た八重桜を思い出しました。スマホで撮影した写真を探していると、別の角度から写した写真が見つかりました。


(図をクリックすると、拡大します)

 手前に枯れた桜の木が見えます。その背後に無数の花を咲かせた八重桜の木が見えます。カンザンです。

 枯れる木と旺盛な生命力をみせつけている木が、ともに一枚の画面に写っています。どちらも桜木です。両方の桜木を見ているうちに、ふと、最近、猛威を振るい始めたコロナ変異株が重なって見えてきました。

 そして、最近、読んだ記事を思い出したのです。

こちら → http://jsv.umin.jp/news/news20210225.html

 2021年2月時点で、「高い感染効率やワクチン効果への影響が懸念されている変異株は、以下の3系統変異株である」とし、①英国型変異株、②南アフリカ型変異株、③ブラジル型変異株が挙げられています。

 ウイルスの特性として、「ウイルスの生存は宿主集団における効率的な増殖と伝播に依存する」とされています。そして、そのウイルス側の長期生存戦略は、「宿主免疫反応からの逃避」であり、その逃避法としてもっとも有効なのは「遺伝子変異」である、と書かれていました。

 ヒトから見れば、感染力が強くて重症化しやすい、やっかいな変異株です。ところが、ウイルスから見れば、必死の生存戦略の一環なのです。

 従来株よりも旺盛な感染力でヒトに脅威を与えている変異株を連想させたのが、入間川遊歩道で見かけた八重桜でした。

 カンザンというその八重桜は、実は、ヤマザクラの変異株でした。

 それが生命力旺盛に花を咲かせているのを見て、コロナ変異株を重ね合わせてしまったのです。桜もウイルスも変異することによって生き延びているのだとすれば、もはやこの勢いを止めることはできないでしょう。自然の営みの一環だからです。

 コロナ変異株も、いずれは、インフルエンザのように、ヒトがあまり気にしないで共存していかざるをえない呼吸系疾患の一つに位置づけられるようになるのでしょう。(2021/04/21 香取淳子)