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テレビ長崎制作『忘れない ~普賢岳噴火災害30年~』を見て、視聴者として思うこと。

テレビ長崎制作『忘れない ~普賢岳噴火災害30年~』を見て、視聴者として思うこと。

■テレビ長崎制作、『忘れない ~普賢岳噴火災害30年~』の再放送

 10月に入ったばかりの頃、知り合いから連絡があって、『忘れない ~普賢岳噴火災害30年~』が再放送されることを知りました。再放送の日時は11月13日(土)の27時から27時55分までで、録画しなければ見られないような放送時間帯でした。

 さっそく録画予約したのですが、普段、テレビを見なくなっているので、録画予約したことを忘れていました。たまたま、ホーム画面から録画一覧を見て、思い出したのが、今朝でした。再放送から2週間以上も経っていました。

 さっそく、メモを取りながら、画面に向かいました。さまざまなことを感じさせられ、考えさせられました。久々に見応えのあるテレビ番組を見た思いがしました。

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「普賢岳」と聞くと、私は条件反射的に、もくもくと立ち上る巨大な火砕流を思い出してしまいます。不気味なあの映像を、当時、テレビ画面で何度も見ました。そのせいか、現場にいなかったにもかかわらず、恐怖心を植え付けられ、記憶に定着してしまったのです。「火砕流」という言葉もあの時、はじめて知りました。

 あれからすでに30年余が経ってしまいました。

 画面いっぱいに広がる火砕流は、今にも巻き込まれてしまいそうだと錯覚してしまうほどでした。それほど、真に迫っていたのです。その後、さまざまな災害報道を見てきましたが、あの時の火砕流を捉えた映像ほど、危険が迫っていることを感じさせられたものはありません。それほど近く、火砕流が捉えられていたのです。

 臨場感あふれる映像を手に入れるために、どれほどの人々が犠牲になったのでしょうか。

 普賢岳噴火災害を考えるたび、その思いが胸を過ぎります。多くの犠牲者のことを思うと、何故?という疑問が消えませんでした。

 ところが、今回、『忘れない ~普賢岳噴火災害30年~』を見終えた時、どういうわけか、モヤモヤした気持ちが吹っ切れたような気がしたのです。長い間、重くのしかかっていた救いようのない気持ちが、この番組を見終えた時、いくぶん、晴れたような気分になったのです。

 もちろん、この時の災害報道の本質は変わることがないと思います。今後も、災害報道の在り方を問い続けなければならないのは当然のことですが、これを教訓として後の世代に残していくことも重要だと考えさせられたのです。

 この番組では、地元住民をキーパーソンに、災害後の対応について、時間をかけて丁寧に取材されていました。その結果、マスコミへの怒りから、全ての犠牲者を悼む姿勢へと、住民の気持ちが徐々に変化しく様子が手に取るようにわかりました。地元住民主導で、大惨事の周辺を整備し、慰霊の場とされたことを知りました。

 今回は、番組映像を適宜、交えてこの番組をご紹介し、何故、私がこの番組を見て、救いようのない気持ちが明るくなったのかについて考えてみたいと思います。

 まずは普賢岳の噴火から見ていくことにしましょう。

■噴火する普賢岳

 1990年11月17日、雲仙普賢岳は、198年ぶりに噴火活動を始めました。その後も噴火活動は続き、1991年2月ごろから次第に激しくなっていきました。

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 5月24日には、溶岩塊が崩落し、普賢岳東斜面にはじめて火砕流が発生しました。

 以後、火砕流が頻発するようになり、5月26日には火砕流による負傷者が出ました。九州大学島原地震火山観測所は上木場地区の住民に警告を発し、避難勧告を行いました。

 所長が会見し、「すべては我々の想像以上の事態」だと指摘し、火砕流を警戒するため、避難勧告をすべきと判断していたのです。

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 実は、1990年に普賢岳噴火を確認した直後に、小浜町は「普賢岳火山活動警戒連絡会議」を発足し、長崎県も「災害警戒本部」を設置していました。島原市も避難勧告を行っていました。

 普賢岳の噴火活動が始まってから、行政機関はそれぞれ避難勧告等の対策を行っていたのです。もちろん、報道機関に対しても避難勧告地域からの退去を要請していましたが、残念なことに、応じられませんでした。

 6月3日、噴火開始後、最大の火砕流が発生します。

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 この日、火砕流が水無瀬川沿いに約4.3km流れ落ち、多くの人々が犠牲になりました。その内訳は、報道関係者16人、消防団員12人、一般住民6人、タクシー運転手4人、火山研究者3人、警官2人でした。

■なぜ大惨事になってしまったのか。

 当時、九州大学島原地震火山観測所所長だった太田一也氏は、2021年6月3日、長崎新聞の取材に答え、次のように語っています。

 「何と言っても、大火砕流惨事の最大の要因は、報道陣のゆがんだ使命感。迫力ある映像を他社と競う過熱取材ではなかっただろうか。報道の自由を振りかざし、取材のためなら少々のことは許されるという特権意識も問題だった。避難勧告を法的拘束力がないからと軽視した希薄な防災意識がそれらを後押ししてしまった。

 報道陣としての誇りとおごりを履き違え、取材で得た火砕流に関する知識を、自らの危険回避に生かせなかった。避難を勧告された定点で、迫力のある火砕流映像を危険をおかしてまで撮影する社会的責任があったとは思えない。
社会が必要とする火砕流の伸び具合や被災状況は、ヘリを使った上空からの撮影や我々観測者側の情報提供で把握できたはず。それは連日報道されていて内容も十分だった。間近な地上からの映像は、住民が必要としていたものではなく、報道各社が紙面や番組の視聴率を競うのに必要だったということに過ぎないと思う」
(※ 長崎新聞、2021年6月3日、https://nordot.app/773029708419317760?c=174761113988793844)

 太田氏は当時を振り返って、火砕流大惨事の原因として、次のようなマスコミの取材態度を挙げています。

① 迫力ある映像を他社と競う過熱取材
② 取材のためなら、少々のことは許されるという特権意識
③ 社会が必要とする火砕流や被災状況はヘリコプターを使った上空からの映像、観測者側の情報で十分。

 さまざまな情報を総合すると、その通りだと思います。

 当時、私が救いようのない気持ちになっていたのは、マスコミの取材態度にこのような問題があると思っていたからでした。

 マスコミが取材の自由、報道の自由を保障されているのは、人々から知る権利に応えるためですが、取材現場では往々にして、それをはき違え、「取材のためなら少々のことは許される」と、強引な取材をしてしまいがちです。

 災害報道ではとくに、被災者にとってどのような情報が必要なのかという観点からの取材が重要になります。

 そのような観点からいえば、太田氏の指摘のように、「火砕流や被災状況はヘリコプターを使った上空からの映像、観測者側の情報で十分」だという気がします。それを被災地にどう伝え、全国にはどう伝えるかが問題ですが、喚起力に強い情報よりも、客観的データに基づく情報の方が信頼できるでしょう。

 ところが、マスコミは、「地上からの間近な映像」を求めました。太田氏がいうように、「住民が必要としていたものではなく、報道各社が紙面や番組の視聴率を競うのに必要だった」からでしょう。

 テレビではとくに、淡々とした語り口よりも、メリハリの効いた語り口、大げさで面白おかしい語り口が求められます。その方が、多数の人々に訴求力があるからにほかならないからですが、話し言葉で情報を伝えるというテレビの特性が関係しているかもしれません。

 もちろん、映像も同様です。事実を客観的に伝える映像よりも、見る者に恐怖感を与えたり、ワクワクドキドキさせるような映像が求められがちです。これもまた、強く感情に訴えかける映像の方が手っ取り早く、多くの人々にアピールできるからでしょう。

■6月3日、届かなかった警告
 
 番組タイトルの前に、いくつかキー・シーンが挿入されていました。その中で象徴的なものを一つ、ご紹介しておきましょう。

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 高熱の火砕流を浴び、燃える車体が映し出されています。その映像の右下に表示されているのが、「届かなかった警告」というテロップです。おそらく、報道車両なのでしょう。この番組のコンセプトの一つが象徴的に表現されているシーンです。マスコミの取材態度を問題視する視点が端的に捉えられていました。

 太田一也氏は、さらに、長崎新聞の取材に答え、次のように述べています。

 「タクシー運転手4人を含めた報道関係の死者20人が、当時の撮影場所だった定点周辺にいた。消防団員は定点より400メートル下の北上木場農業研修所を活動拠点にしていたが、危険性の高まりから、5月29日、島原市災害対策本部を通じた私の退去要請を受けて300メートル下流の白谷公民館に退去していた。

 しかし、日本テレビの取材スタッフが、住民が避難して無人となった民家の電源を無断で使用する不祥事が発覚。消防団員は6月2日、留守宅の警備も兼ね、同研修所に戻ってしまった。亡くなった警察官2人についても、報道陣らに対する避難誘導のため定点に急行。戻る途中に同研修所前で火砕流にのみ込まれた。

 報道陣が避難勧告さえ守っていれば、少なくとも消防団と警察官は死なずに済んだはず。住民にも犠牲者が出たが、報道陣が避難勧告に従っていれば、危険を感じて無断入域を控えたと思う」
(※ 長崎新聞2021年6月3日、
https://nordot.app/773028450044198912?c=174761113988793844)

 番組でも、制止する消防団の手を振り切って、立ち入り禁止区域に入ろうとする取材記者の姿が捉えられていました。マスコミがいかに傲慢に取材活動を繰り広げていたかが一目でわかるシーンでした。当時の状況を示す貴重な映像です。

 さらに、住民が避難して空き家になった家に入り込み、勝手に電話を使ったり、電気を使ったりするマスコミ関係者もいました。常識を超えた取材活動は目に余るほどで、住民からの苦情が相次いでいました。

 消防団員や警官は、マスコミ関係者が危険地域に入り込むこと、空き家になった住宅に侵入すること、等々を防ぐために、見守りを強化していました。

 6月3日、多くの犠牲者が出たのが、「定点」と呼ばれるマスコミ関係者がいた場所と、消防団員の詰め所になっていた「農業研修所」でした。

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■「定点」と「農業研修所」

 避難勧告を受けて住民がいなくなった後も、狭い道路は、マスコミ各社の車や機材で溢れていました。彼らが陣取っていたのが、「定点」と呼ばれる場所です。災害後は目印のため、三角錐が置かれています。

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 ここからは、普賢岳を正面から撮影することができました。だからこそ、避難勧告を出されても、マスコミは聞き入れなかったのです。「定点」と呼ばれる場所に陣取ったまま、現地で危険な取材行為を繰り返していました。すべては過熱する取材合戦、撮影合戦のためでした。

 当時、主要メディアは新聞、テレビでした。人々が社会で何が起こっているかを把握するには、マスコミに依存するしかなかったのです。そのマスコミはNHK以外、広告収入を経営基盤にしています。

 その広告収入に大きく関係してくるのが、どれだけ多く見られたか、どれだけ多く読まれたかを示す指標です。テレビであれば、視聴率、新聞であれば、発行部数でした。それらが番組や紙面の価値を図る指標として機能し、広告収入に関係していたのです。

 とりわけ、災害報道には、一目で人々をくぎ付けにする力があります。刻刻と変化し続ける雲仙普賢岳の噴火は、恰好のニュース素材として、目を離せなくなっていたのでしょう。大挙して押しかけたマスコミ陣が危険を顧みず、取材行動を重ねた結果、定点周辺で、マスコミ関係者16名もの犠牲者を出しました。

 一方、消防団員や警官がなくなったのは、北上木場の農業研修所周辺でした。

■故郷を守って、犠牲になった人々

 北上木場の農業研修所周辺は、地域の公民館的な役割を果たしていました。火砕流が頻発し始めて、避難所はさらに下流の公民館に移されました。それに伴い、地元消防団も下流に移動したのですが、マスコミ関係者が無人の民家から勝手に電源や電話を使用したりすることが相次いたので、警戒のために上流に戻ってきていたのです。

 研修所を消防団の詰め所として使用しはじめたのが、6月2日でした。火砕流による多くの犠牲者が出たのは、その直後のことだったのです。マスコミに避難を呼び掛けるため、上流周辺を巡回していた警官も、この周辺で亡くなっていました。

 消防団や警官は、住民や民家を守り、そして、マスコミ関係者まで守ろうとしていたのに、命を落としてしまったのです。遺族や関係者はどれほど辛く、悲しく、無念の思いにさいなまれたことでしょう。

 地元を守るため、故郷を守るために尽力していた多くの人々が、理不尽にも、亡くなってしまったのです。しかも、犠牲者たちは地元の人々にとって、息子であり、兄弟であり、夫であり、同僚でした。

 番組の中で、「私の人生も、あの6月3日で大きく変わった」という人がいました。また、「心の底に消防団員のことが、ずっとあり続ける」という人がいました。おそらく、ほとんどの住民がそのような思いを抱いて、災害後、生きてきたのでしょう。

 研修所の跡地は2002年から、地元住民の手で整備され始めました。砂防ダムなどを設置して、安全を確保してから、慰霊の場が作られました。ここには、被災したパトカーや消防自動車が掘り起こされ、保存されています。

 そして、2002年12月、パトカーや消防車が掘り起こされました。いずれも、11年という歳月を経て、変形してしまっていました。火山灰を落とし、なんとか保存できるよう工夫が凝らされています。

 その後、2003年11月には、火山灰の中から、半鐘が見つかり、「慰霊の鐘」と名付けられました。消防団員が火災を知らせるために使っていたものでした。

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 消防団員だった息子を亡くした父親が、「お前たちが消防団で守って来た鐘が戻って来たよと、伝えたい」と語っていたのが印象的でした。その表情からは、殉職した息子を愛しむ気持ちがひしひしと伝わってきます。

 毎年、火砕流が発生した6月3日午後4時8分、慰霊の鐘を鳴らし、遺族、住民、関係者が追悼します。

 もちろん、慰霊碑も建立されています。

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 慰霊碑に向かって手を合わせる人々の中に、背中に「島原」の文字がある法被を着た男性がいます。あの時、かけがえのない同僚を失った人々です。この慰霊碑に刻まれている名前は、消防団員と警官だといいます。地元のために殉職した人々だけがまつられているのです。

■「定点」周辺の整備

 マスコミ関係者が亡くなった「定点」周辺は、長い間、整備されず、白い三角錐が置かれているだけでした。「マスコミのせいで・・・」という遺族や地元住民、関係者の気持ちに呼応したものといえます。

 もっとも、被災後30年が経ち、人々の気持ちにも変化が訪れます。

 地元住民は、毎年、6月3日を「いのりの日」と定め、その前に周辺一帯の草刈り作業を行ってきましたが、その際、「定点」周辺も整備しようという話がでたというのです。2020年5月のことでした。

 地元で造園業を営む宮本秀利氏や、当時、被災地域の安中地区公民館に勤務していた杉本伸一氏などが立ち上がり、「定点」周辺の整備に着手しました。彼らはまず、地元住民の了解を得ることから始めました。そして、地元住民が一体となって、遺族、関係者と共に、すべての犠牲者の慰霊のために動き出したのです。

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 悲しみ、憎しみを乗り越え、共に、全ての犠牲者を悼むという姿勢に心打たれました。

 ついに、新聞社の取材車両が掘り起こされました。

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 30年ぶりの姿です。ほとんど形を留めていません。高熱の火砕流に巻き込まれた痕跡がありありと見えます。

 そして、チャーターされたタクシーが掘り起こされました。

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 タクシー会社の社長が、放置されただけでは、このような姿にはなりませんと語っています。

 「定点」周辺からは、新聞社の取材車両と、タクシー2台が掘り起こされ、遺構として整備されました。

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 30年の時を経て、地元住民の気持ちに変化が生まれました。悲しみ、恨み、憎しみを乗り越え、全ての犠牲者を弔いたいという気持ちが育まれていったのです。やがて、マスコミ関係者が遺した車両や機材が遺構として、整備されたました。

 「定点」周辺の整備、保存を主導した宮本氏は、「あっという間の30年、放置していて申し訳なかった」と語っています。

■普賢岳噴火災害を忘れない

 造園業の宮本氏は、「時間が経つとすべて、忘れられていくが、忘れてはならないものがある」と述べ、若い世代に継承できる企画を実践しています。普賢岳の噴火災害、そして火砕流で犠牲になった人々のことは決して忘れてはいけないと、島原の高校3年生が卒業記念に、慰霊の植樹に取り組めるようにしたのです。

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 記念植樹をすれば、普賢岳噴火災害を知らない若者たちの胸にも、犠牲者のことが深く刻み込まれるでしょう。さらには、災害の教訓、取材の在り方、あるいは、生きることそのものについても、深く考える契機になるかもしれません。

 あの時の災害経験を後の世代につなぐ、素晴らしい企画だと思いました。

 「定点」では、ジオパークガイドの林京子氏から、高校生が説明を受けています。

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 当時、マスコミが拠点としていた「定点」に立ち、林氏は、高校生に向かって、「ここで、どういう気持ちで火砕流を撮ろうとしていたのか」と問いかけています。取材すること、撮影することの意義を考えてみる機会を提供していたのです。ここで話を聞いた高校生たちは将来、どんな分野に進もうと、他にかけがえのない経験をしたことといえるでしょう。

 あの日の出来事が、このようにして若い世代に受け継がれていました。

 甚大な被害を出したからこそ、あの日の出来事を、忘却の彼方に追いやらないための工夫をし続ける必要があるのです。

■被災地取材の行き過ぎを乗り越えて

 テレビ長崎は3人の犠牲者を出しています。2019年6月3日、慰霊のためのプレートが設置されました。

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 彼らは、定点よりさらに上流の民家を、撮影ポイントにしていたといいます。

 犠牲者の一人がカメラマン坂本憲昭氏です。その長男、篤洋氏は小学校4年生の時、父を亡くしました。当時はマスコミのせいで地元の人が亡くなったといわれ、辛かったといいます。

 そして最近は、来るたびに車両が朽ちていくのがわかり、このまま災害も何もかも忘れられていくのではないかと思っていたそうです。

 ところが、今回、それらが掘り起こされ、遺構として整備されたので、ほっとしたといいます。地元の人々に受け入れられたことが形となったからでした。

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 このシーンを見ていて、何故私が、この番組を見て救われたような気持ちになったのかがわかったような気がしました。

 「定点」周辺が整備されたのを見て、篤洋氏と同様、私も地元住民から受け入れられたような気になったからでした。

 当時、私は普賢岳の噴火映像を毎日のように、テレビで見ていました。あの巨大な火砕流が民家や人々を呑み込み、流下していった様子を心配しながら、見ていたのです。おそらく、多くの人々が当時、私と同じような気持ちで、画面を見ていたことでしょう。

 いってみれば、一視聴者として、この災害報道に関わっていたのですが、それが数(視聴率)としてカウントされ、集約されて、現場の取材記者たちをつき動かし、過熱取材を招いていた可能性があります。

 その結果、現場にいたカメラマン、記者たちは、被災地の住民ではなく、圧倒的に規模の多い、全国の野次馬たちの意向を反映して、度を越した取材をしていた可能性が考えられます。被災地の意向は数値化されませんが、全国の視聴者の意向は数値化されるからです。

 一方、カメラを持つと、怖いものがなくなるともいわれます。それは、カメラを携えていると、どんな対象でも容易に近づくことができるからでしょうし、撮影するという行為を通して、対象よりも優位に立てるからでしょう。

 そういえば、写真や映像を撮影することを、英語では「shoot」と表現されることを思い出しました。対象に狙い定めてピンポイントで撮る行為は、獲物を狙って射る行為と似ているのかもしれません。

 改めて、当時の人々が、「特権意識をふりかざした」とか「傍若無人な態度」で取材したと、マスコミを非難していたことを思い出しました。

■「祈り」と「感謝」の気持ち

 宮本氏は、『合掌』というタイトルの巨大な石のモニュメントを作り、寄贈しました。

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 二つの石が向かい合うように設置され、山に向かって合掌した形になっています。これには、「祈りと感謝」の意味を込めたといいます。悲しみ、憎しみ、恨みはそう簡単に忘れることはできません。それを乗り越えていくには、それらのネガティブな感情を上回る感情に置き換えていく必要があるのでしょう。

 「祈り」と「感謝」の気持ちには、個々人の感情を乗り越える力があります。多くの犠牲者を出した地元住民が、このように気持ちを切り替え、災害を乗り越えようとしている姿に感銘を受けました。

 被災時取材の行き過ぎを乗り越え、人々が向かうべき新たな方向を、このように提示してくれているのです。心が動かされました。

 地元住民たちの気持ちが、「すべての犠牲者のために」、「定点」周辺を整備し、遺構を作り、慰霊をしたいという思いに変化しました。そこに、「祈り」と「感謝」の気持ちが介在していることを見て取ることができます。

 当時の一視聴者として、本当に、気持ちが救われます。

 宮本氏は「長い間、放置して申し訳ない」と語っていましたし、当時、消防団員だった喜多淳一氏は「被災地を花でいっぱいにしたい」と花づくりに励んでいます。そして、まるで喜多さんの気持ちを汲んだかのように、花が美しく開花しました。

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 供えられた花は優しく、風に揺れています。犠牲者を悼み、故郷を守ろうとする住民の気持ちを反映しているように、健気で、美しく、とてもしなやかでした。

 喜多さんは、「マスコミのせいという気持ちは結構、強かったけど、皆、それぞれ、自分の仕事をしていて犠牲になったんだからと思うと、一緒かなと思うようになった」と語っています。

 30年余の歳月を経て、「全ての犠牲者」を悼むという方向に気持ちが変化していったのです。おそらく、同じような思いを抱いている地元住民の方々は多いのではないでしょうか。

 当事者たちのこのような気持ちの変化を画面で追うことができ、見ていて、気持ちが明るくなりました。それこそ、被災地取材の行き過ぎを乗り越えることができたのです。

 素晴らしい番組でした。

 この番組を制作したテレビ長崎の槌田禎子氏は、取材で、「定点」の清掃作業に居合わせ、宮本氏らの地元住民と会話を交わしたことがきっかけとなって、今回の番組の構想につながったと語っています。
(※ https://www.fujitv.co.jp/fujitv/news/20211065.html)

 その後一年間、取材を重ね、地元住民の気持ちに寄り添いながら、スタッフと共に、含蓄のある素晴らしい番組に仕上げています。

 造園事業者の宮本氏、当時、安中地区公民館に勤務していた杉本伸一氏、元島原消防団員の喜多淳一氏、犠牲となったテレビ長崎カメラマンの長男、坂本篤洋氏など、キー・パーソンへの丁寧な取材が活かされ、普賢岳災害報道を巡る過去・現在がよくわかるような構成になっていました。

 さらに、普賢岳噴火災害を「忘れない」ための取り組みもいくつか紹介されており、未来に向けての展望も感じさせられました。テレビドキュメンタリーの可能性を感じさせられた番組でした。(2021/11/30 香取淳子)

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