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岩倉具視幽棲旧宅⑧:使節団はアメリカで何を見たのか(3)インディアンの戦い

岩倉具視幽棲旧宅⑧:使節団はアメリカで何を見たのか(3)インディアンの戦い

■インディアン地域への侵略と抗争

 一方、東から西に向かって建設工事を進めていたユニオン・パシフィック鉄道は、経路が大平原でした。ほとんどが平地だったので、工事は順調に進んでいました。現場労働者は、アイルランド人移民、南北戦争の退役軍人、モルモン教徒などが多く、工事自体にはとくに、問題はありませんでした。

 ところが、工事がインディアンの領土にさしかかると、問題が発生しました。

 平原のインディアンたちは、鉄道建設のために土地を没収されたうえに、1830年に調印されたインディアン移住法(Indian Removal Act)に基づき、保留地(Reservation)に強制移住させられていました。

 しかも、鉄道の路線は、その保留地を横断する形となっており、狩猟民族である彼らの狩り場を荒らしていたのです。

 さらに、インディアンにとっては生活の糧であったバッファローが、鉄道設備を壊すからという理由で、手当たり次第に駆除されていきました。路線が建設されている期間に、大平原に生息していた数百万頭のバッファローが組織的に殺戮されました。80年代になると、ほとんど絶滅に瀕してしまいました。
(※ 小野修「ネブラスカのインディアン」『主流』40号、1979年、pp.85-86.)

 数千単位で移動するバッファローの群れが、数日かけて通過するのはざらでした。当然、敷設した線路を破壊することもあったでしょう。鉄道建設者側はそれに怒り、バッファローを大量に殺戮していったのです。

 インディアンたちが、鉄道建設を白人による新たな侵略と捉えるのも、当然でした。スー族をはじめとする血気盛んなインディアン部族は、しばしば建設労働者を攻撃しました。

 久米は、列車がハンボルト荒野を通りかかった時の様子を、次のように記しています。

 「この地域は、かつてすべてインディアンの領域であったが、近年になってアメリカ人が彼らを駆逐してその土地を奪った。そこでインディアンたちはみな恨んだり怒ったりしており、鉄道がはじめてできた頃は、インディアンが群れ集まって鉄道を破壊したり、線路に大きな岩を転がしたりして、いろいろ妨害を図り、怒りのあまり列車の乗客に毒矢を射掛けたりもした」(※ 久米邦武編、田中彰校注、『特命全権大使 米欧回覧実記』1、1999年(初版1977年)、岩波書店。p.132.)

 もちろん、このようなインディアンの抵抗を受けて、ユニオン・パシフィック鉄道も黙ってはいませんでした。治安維持のためと称して狙撃手を配置し、スー族をはじめとするインディアンたちを大量に虐殺したのです。

 アメリカ軍の騎兵隊がインディアンを襲撃している様子を描いた図があります。1876年の日付があります。

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(図をクリックすると、拡大します)

 武器もなく、裸に近い恰好で逃げるインディアンたちはどれほど悔しい思いをしていたことでしょう。インディアンにしてみれば、自分たちの領土内に勝手に侵入してきてバッファローを大量に殺してしまったのですから・・・。後ろから何人もの騎兵が銃を構え、インディアを追っていく姿が描かれています。

 大抵の場合、インディアン部族は、圧倒的な兵力と武器を持つアメリカ政府軍に屈服するか、敗退せざるをえませんでした。ところが、中には、スー族のように勇敢に戦い、一時的に勝利を収めたこともありました。

 たとえば、1866年頃、スー族は他部族と連合戦線を組み、政府軍をワイオミング州から撤退させ、政府の道路建設を撤回させたうえに、フィル・カーニー砦とリーノウ砦を1868年に放棄させたことがありました。(※ 久米邦武編、前掲。p.93.)。

 スー族など勇敢なインディアンたちの天敵となったのが、陸軍の軍人カスター(George Armstrong Custer, 1839 – 1876)でした。彼はジョンソン政権から陸軍中佐に任命され、第7騎兵隊の連隊長に就任しました。そのカスターがシャイアン族とスー族への攻撃に参加したのです。1867年のことでした。その後、数々の戦功を立てていきます。

 1868年11月27日、カスター一隊は、現在のオクラホマ州の西部を流れる雪深いワシタ川べりで、野営していたシャイアン族和平派のブラック・ケトル酋長のバンドを急襲しました。子どもであろうが、女性、老人であろうが、見境なく銃撃を加え、全滅させてしまいました。

 まさに、民族虐殺が行われたのです。これは「ウォシタ川の戦い」と白人からは呼ばれていますがが、実際には一方的な虐殺だったといいます(※ Wikipedia)。

 テントを襲うカスター隊の様子が描かれた絵があります。

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(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Seventh_Cavalry_Charging_Black_Kettle_s_Village_1868.jpg)
(図をクリックすると、拡大します)

 平和的に解決しようとしていたシャイアン族の人々を卑怯にも夜襲したのです。防御も不十分なテントの中で休んでいるインディアンの人々を誰かれ見境なく、撃ち殺したのです。寝込みを襲われたシャイアン族の人々はたまったものではありません。何事が起ったかわからないまま次々と殺されていきました。

 こうしてカスターは、シャイアン族の土地を補給拠点にしようとしていたアメリカ軍にとっても作戦目標を達成したのです。そして、インディアンとの戦いで得た勝利とされ、シャイアン族の南部領土はアメリカ合衆国が占領するようになりました。実際は無差別虐殺だったにもかかわらず、です。さらに、カスターはこの虐殺によって、軍から褒められ、カスター英雄視されるようになったのです。
(※ Wikipedia)

 民主主義を謳いながら、なんと野蛮なことかと思いますが、使節団一行はおそらく、そのような事情を知らないまま、敷設された鉄道に揺られ、一路、東に進んでいました。

使節団一行を乗せた列車は、1872年2月23日、ワイオミング州に入りました。当時、ワイオミング州はまだ準州でした。1868年当時のアメリカの地図を見ると、茶色で示したところが準州となります。

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(※ Wikipedia、図をクリックすると、拡大します)

 車窓から見た光景を、久米は次のように記しています。

 「西のユタ準州からウァイオミング準州を過ぎるまでがアメリカの最も未開の土地である。列車が疾走しても開発された土地に達するまでにはまるまる四日はかかる。枯れた野草の原がどこまでも続き、ところどころにインディアンのキャンプが見える」
(※ 久米邦武編、前掲。p.158.)

 列車はインディアンの居住地を疾走していきます。そして、2月24日、ララミー村を通り過ぎ、ネブラスカ州に入ります。

 久米は次のように記しています。

 「ここは人口600、常備兵の砦があって、歩兵・騎兵200人が駐屯しインディアンに備えている。ここから進んで東に行くに従い、地形はさらに平らになり、貧弱だった草もだんだん茂って来たようにおもわれた」
(※ 久米邦武編、前掲。p.161-162.)

 実はこの辺り一帯はスー族インディアンの居住地であり、鉄道建設を巡って、スー族とアメリカ政府が抗争を繰り返したところでした。

■インディアンの聖地、ブラックヒルズ

 サウスダコタ州とワイオミング州の州境にある山地が、ブラックヒルズです。

 ブラックヒルズは、スー族インディアンにとって神聖な場所でした。その写真がありますので、ご紹介しましょう。

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(※ Wikipedia。図をクリックすると、拡大します)

 岩肌が剥き出しになり、ところどころに草木が生えている岩山で、最高地点は2206メートルもあるといいます。少なくとも紀元前7000年頃から、インディアンたちが住み始め、散在していたそうです。18世紀になると、ミネソタからやって来たスー族が、ここをパハ・サパ(ブラックヒルズ)と名づけ、自然崇拝で偉大な精霊の宿る聖地として崇めていました(※ Wikipedia)。

 そのスー族は、インディアン居住地を侵略し続けるアメリカ連邦政府に戦いを挑むような血気盛んなインディアンでした。生活手段を奪われ、虐殺されながらも、果敢に抗争を続けてきましたが、両者はようやく、和平条約を結ぶことになりました。

 それが、使節団一行が列車で通り過ぎたララミーでした。

 アメリカ連邦政府とスー族は、1868年4月29日から11月6日までの間に、第二次ララミー砦条約(Treaty of Fort Laramie、第一次は1830年)を締結しました。

 ブラックヒルズ一帯は「永遠にスー族のものであり、狩りの場であり、白人の立ち入りは禁止される」という文言に基づき、アメリカ連邦政府は、ここはスー族の独占的使用のために確保された居留地だと認め、スー族に確約したのです。署名は、スー族の居住地フォート・ララミーでなされました。
(※ https://www.archives.gov/education/lessons/sioux-treaty

 条約締結時の写真があります。

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(※ Wikipedia。図をクリックすると、拡大します)

 この写真は、ワイオミング州フォート・ララミーで、陸軍副司令官ウィリアム・T・シャーマン(William Tecumseh Sherman, 1820 – 1891)らとスー族が、この平和条約に署名するときの様子を撮影したものです。

椅子に座るアメリカ側と、地面に座るスー族側とを見ていると、両者の力関係がはっきりと示されています。

写真を見ているうちに、ようやく平和条約を結んだとはいえ、いつまでそれが保証されるのか、疑問に思えてきました。あまりにも素朴なインディアンの姿を見ていると、狡猾なアメリカ政府側に早晩、してやられることは容易に予想できたからです。

案の定、ブラックヒルズで金が発見されると、アメリカ政府は1876年、スー族に戦争を仕掛けてこの条約を反故にし、1877年にはブラックヒルズを差し押さえてしまいました。(※前掲。URL)

 近代的武器を持たないインディアンが、いかにアメリカ政府から理不尽な目に遭わされてきたのか、土地を奪われ、生活手段を剥奪され、人権を蹂躙されてきたのか・・・。

 ひとたび、居留地で金鉱が発見されると、スー族はアメリカ連邦政府から、戦争を仕掛けられ、条約は反故にさせられ、いとも簡単に聖地を奪われてしまうのか・・・、ブラックヒルズでの出来事は、その一例にすぎません。

 こうしてみてくると、大陸横断鉄道の建設は、インディアンから土地を奪い、生活の資であったバッファローを絶滅寸前にまで追いやる結果となったことがわかります。

 さらに、インディアンの聖地で金鉱が発見されると、アメリカ連邦政府は、スー族に戦争を仕掛けて条約を反故にし、ついには、不毛の荒廃地へと追い払ってしまいました。

 自己利益のためには平気で条約違反をするのは、中国人労働者に対しても同様でした。

■西から東にアメリカ大陸を横断して、一行は何を感じていたか。

 使節団一行は、大陸横断鉄道に乗って、西から東に移動しました。湿地帯、山岳地帯、不毛の地などを通り過ぎ、そこで働き、生活する人々を車窓から見てきました。初めて目にした光景に、さまざまな感慨を抱いたに違いありません。

 たとえば、久米は次のように記しています。

 「米国の広い土地を通過して来て、その来し方から将来像を想像してみると、わが身に引き比べてきわめて切実な感慨を持つ。ロッキーの荒野からオマハに着いて、やっと人間世界に立ち戻ったと感じたものであったが、オマハの市街も、もちろん寂しげな町を言わなければならない。(中略)世界の大きな富は資源や資本の多寡にかかわるのではなく、それを利用する能力にかかわるのだということをますます信ずることとなった。(中略)人口増加が国家の利益にとってきわめて重要なポイントであることがはっきり証明できる」
(※ 久米邦武編、前掲。pp.166-167.)

 大都会を見たかと思えば、過疎地帯を見てきた結果、土地を利用する人口の多さこそ、国力になるのだと久米は考えるようになります。

 そして、日本については次のように記しています。

 「発展の最大の決め手である人口について見れば、米国とほとんど同数である。(中略)わが国にはまだ利用されぬ平地もあり、放置されている山地もあって、どの階級の人も貧弱な富しか持たないのはなぜか。結局は知識を持たぬ民衆は労働力として使用しがたく、無能の民衆は事業に用いることができないし、無計画な事業は成功が難しいということである」
(※ 久米邦武編、前掲。pp.167-168.)

 人口はアメリカとほぼ同数でも、国土が活用されておらず、全般に貧しいという認識を久米が抱いていることがわかります。

 さらに、言葉を継いで、次のように述べています。

 「有益な知識を与えるにあたっては読み書き算数、物理などの実際的な知識から始める。移民たちに生活のための技術や手段がほぼ身についたならば、指導者はこれに規則を与え、仕事の目標を示して厳しく監督しながら、信賞必罰の態度を持つとともに率先躬行して産業を興すことを試みる」(※ 前掲。pp.168.)

 このようにすれば、国が発展するとアメリカ指導者層は考えていると指摘しています。移民を受け入れても、ルールを守るよう指導し、厳しく監督すれば、産業振興の基盤にもなるというのです。

 ところが、東洋はそうではなく、上層階級が学ぶのは、空理空論か浮ついた文芸だけだと指摘しています。上層については、実利、実践的なことは卑しいこととして遠ざけていると批判しています。アメリカの指導者層と比較すると、違いがしっかりと認識されるようになったのでしょう。

 そして、「中層の人々は守銭奴でなければ偶然の利益を追求するだけで、財産を築き、しっかりした事業を確立させようという気持ちは全く持たない」と述べています。これもまた、アメリカと比較し、日本人事業者の計画性のなさ、行き当たりばったりの経営を批判しています。

 だから、「下層階級は、衣食がようやく足りて、その日その日の暮らしだけを追い、辛うじて生きているような状態にある」とし、「そんな人間が一億いたとしても、国の利益には何の役にも立たない」と断言しています。

 勉強もせず、将来ビジョンもなく、その日暮らしのマインドで生活する人なら、いくら人数が多くても何の役にも立たないと嘆いているのです。過酷なアメリカの自然環境、そして、移民やさまざまな人種の生活をみてきて、そう感じたのでしょう。

 大陸横断鉄道に乗って移動したからこそ、見えてきたアメリカの現実であり、生きることの大変さを知り、ふと、日本の生活や社会を振り返ってみたのでしょう。そこから見えてきたものは、日本が学ぶべき今後の社会の在り方であり、人々の在り方でした。

 久米は次のようにも述べています。

 「アメリカの荒れて未開の大地も、人が集まれば開かれる。東洋の肥沃な土地といえども、国の利益が自然に生ずるわけではなく、収穫物が自然に価値を生むわけでもない。人の力を用いなくてはならないのである。いまから国のためになにか計画しようとするものは、このことを痛感し、どんなことについて奮励すべきかということを考えなくてはならない」(※ 久米邦武編、前掲。p.169.)

 いくら荒れ果てた土地でも人の力があれば、土地を活用し、人々にとっての収益を集めることができる、ところが、いくら肥沃な土地を持っていたとしても、何も考えずに暮らしていれば、今以上の収穫物を得ることもできず、場合によっては価値のない土地にしてしまうかもしれない、最終的に力となるのは人だと久米は述べています。アメリカで発見した久米にとっての一つの現実だったのでしょう。

 この件を読んだだけで、使節団一行にとってアメリカ大陸を鉄道で横断した経験は何にも代えがたいものであり、さまざまな発見があったことがうかがい知れます。民主主義を謳いながら、実はルールを平気で破り、寝込みを襲撃しても、勝利さえすればいいという野蛮さは今にも通じるものなのかもしれません。いろいろ考えさせられます。
(2023/10/31 香取淳子)

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