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岩倉具視幽棲旧宅⑪:使節団はアメリカで何を見たのか(6)奴隷制と南北戦争

岩倉具視幽棲旧宅⑪:使節団はアメリカで何を見たのか(6)奴隷制と南北戦争

 前回、星条旗のデザインの変化を通して、アメリカ合衆国の建国経緯を振り返ってみました。その過程で見えてきたのが、自由、平等の国を謳いながら、奴隷制を廃止しなかったアメリカの矛盾です。

 そこで、今回は、まず、奴隷制がどのようにして制度化され、アメリカ社会に組み込まれていったのか。その歪な制度に政治家はどのように立ち向かい、廃止することに成功したのかといったことを考えてみたいと思います。

 その上で、岩倉使節団のメンバーである久米邦武がそれについてどう感じたのかといったことについて触れてみたいと思います。

■アメリカ建国の理念とその矛盾

 思い返せば、アメリカの独立宣言は、イギリスの政治思想家ジョン・ロックらの自由主義的考え方に基づいたものでした。独立宣言を起草したジェファーソン(Thomas Jefferson, 1743- 1826)らは、ジョン・ロック( John Locke, 1632 – 1704)の政治思想を踏まえ、独立のための理論的根拠を練り上げました。

 というのも、ロックが提唱した社会契約や抵抗権についての考えは、名誉革命(1688-1689)を理論的に正当化する基盤となっていたからでした。国家と国民との関係を社会契約という概念で捉え、そこに国民の側の抵抗権を介在させるという斬新なものでした。

 このようなロックの考えは、アメリカの独立宣言(1776年7月4日)に取り入れられ、その後、フランスの人権宣言(1789年8月26日)にも大きな影響を与えました(※ Wikipedia)。

 たとえば、ロックの『社会契約論』では、国の指導者がイギリス人の権利を踏みにじった場合、人々には指導者を打倒する権利があるとされています。このような考え方が名誉革命を正当化し、アメリカ独立戦争の際の政治的根拠にされたのです。

 独立宣言の前文では、「全ての人間は平等に造られている」と唱え、「生命、自由、幸福の追求」の権利が掲げられています。そのように人間としての基本的権利を謳い上げたところに、『社会契約論』のエッセンスを見ることができます。

 独立宣言を起草したメンバーには、基本的人権を重視する姿勢がありました。だからこそ、その高邁な理念を掲げることによって、アメリカ植民地13州は意思統一を図り、独立を勝ち取ることができたのです。

 ところが、いったん、独立国として承認されると、為政者たちはその理念をすっかり忘れてしまったかのように見えました。「全ての人間は平等に造られている」と唱えておきながら、基本的人権を主張できるのは白人だけに留め置き、奴隷制の廃止を認めようとしなかったのです。

 なぜ、高邁な理念を掲げて建国した為政者たちは、独立戦争後も、その理念とは矛盾する奴隷制を容認していたのでしょうか。

 そもそも、なぜ、これほど大きな矛盾があるにもかかわらず、識見の高い為政者たちは奴隷制を放置したのでしょうか。

 そこで、再び、独立宣言を振り返ってみました。すると、先ほどご紹介した前文以外に、「国王の暴政と本国(=イギリス)議会・本国人への苦情」に関する28ヶ条の本文が加えられていたことがわかりました。

 なぜ、本国イギリスと戦うのかについての理由が逐一、掲げられていたのです。ジェファーソンらは、論拠を示して戦いを挑んでおり、独立戦争の正当性を示していたのです。起草メンバーたちがきわめて理知的で、論理的な思考の持ち主であったことがわかります。

 実際、独立宣言を主導したジェファーソンの来歴を見ると、政治哲学者としてイギリスやフランスに知己が多く、博学で、傑出した人物だったといわれています。その後、第3代アメリカ合衆国大統領として行政手腕を発揮したばかりか、バージニア大学の創設者として、学問領域の充実にも携わっています(※ Wikipedia)。

 それほどの人物が中心になって、アメリカ合衆国を建国したというのに、なぜ、奴隷制が放置されたままだったのでしょうか。

 この疑問を解くには、まず、植民地時代のアメリカ社会を把握しておく必要があるのかもしれません。

■バージニア植民地の場合

 最初のアメリカ植民地は、バージニア州です。そして、独立宣言を起草したジェファーソンはバージニア入植者の古い家系の出身でした。

 そこで、まず、彼の出身地であるバージニア植民地の来歴を把握することから、アメリカの奴隷制について考えてみることにしましょう。

 バージニア植民地は1607年に開かれました。イギリス人によって開拓された最初のアメリカ植民地です。

 なぜ、バージニアという名称なのかといえば、ロンドンの商人たちが、国王ジェームズ1世から勅許状を得て設立したのが、バージニアという名の会社だったからです。彼らは北アメリカ大陸で植民事業を立ち上げようとしていたのです。

 商人たちは出資者を募り、最初の入植者105人を北アメリカ大陸に送り出したのが、1606年12月のことでした。

 入植団は1607年4月26日に、アメリカ東海岸のヘンリー岬に到着しました。そして、入植に適した土地を求めてジェームズ川をさかのぼり、河口から約48キロメートルの地点に上陸しました。彼らはそこを入植地と定め、川に名付けたのと同様、国王ジェームズ1世にちなんでジェームズタウンと命名しました。

こちら →
(※ Wikipedia。図をクリックすると、拡大します)

 上の地図はちょっと見にくいので、Jamestownの文字の下に赤線を引き、該当場所に赤丸印をつけました。このジェームズタウンが、アメリカ大陸におけるイギリス初の植民地となりました。

 地図を見ると、入植地のジェームズタウンは、大西洋の荒波を避け、バージニア半島を遡った所にあります。蛇行するジェームズ川をより安全に航行できる地域が選ばれていることがわかります。

 先ほどの地図よりもわかりやすい地図を見つけました。これだと、バージニア半島とジェームズ川、ジェームズタウンの位置関係がよくわかります。さっそく、見てみましょう。

こちら →
(※ Wikipedia、図をクリックすると、拡大します)

 淡いオレンジ色の部分がバージニア半島です。ジェームズ川と書かれた流域の河口辺りは、ハンプトンやノーフォークが入り組み、やや複雑な地形になっています。このような地形であれば、確かに、大西洋からの荒波を避けることができるでしょう。そこからさらに48キロメートル遡った先に、ジェームズタウンが設置されたことの理由がわかります。

 最初の入植者たちは、用心に用心を重ねて、入植地を決定していたのです。

 ジェームズ川は元々は、先住民族からポウハタン川と呼ばれていたといわれています。バージニア半島に広がっていたポウハタン連邦の酋長の名前に因んで付けられていたのです(※ Wikipedia)。

 ところが、イギリスから入植者たちがやって来て、勝手に、国王ジェームズ1世に因んだ名前に変えてしまいました。入植とはすなわち、先住民を追い払い、彼らの土地や河川を簒奪し、改名することだったのです。

 ジェームズ川は、当初15年間はイギリスからの物資や入植者たちの輸送に役立ちました。その後、1612年になると、実業家ジョン・ロルフがタバコの栽培に成功し、これがイギリスで大人気となりました。その結果、ジェームズ川は、プランテーションからタバコを運ぶ航路として大きな役割を果たすことになったといいます(※ 前掲)。

 タバコ産業の発展によって、ロンドンのバージニア会社は、財政的に大きな成功を収めました。植民地事業が発展し、本国に大きく貢献したのです。当然のことながら、バージニア会社はさらなる発展を目指し、投資を募っては入植者を増やしました。
 
 当初、入植者はもっぱら、イギリス本国から追放された囚人や浮浪者だったといいます。ところが、タバコ栽培でバージニアの経済が活性化するにつれ、イギリスからは数多くの貧困労働者がやってきました。彼らは渡航費や生活費も持たずにやって来て、無賃渡航契約者として一定期間、プランテーションで働き、年季が明けると、報酬をもらって自営農民として独立しました。

 タバコ栽培が盛んになってから、プランテーションの労働力需要はますます高まっていきました。終には、イギリスからの移民だけでは足りなくなってしまいました。隷属して働いてくれる奴隷が必要になったのです。

 1619年に、オランダのフリーゲート艦が、アフリカから20人の黒人を連れてきました。バージニア植民地にとって、はじめての黒人労働者でした。彼らは当初、年季奉公人として働いていました。ところが、労働力を失いたくない雇用者は、年季が満了しても彼らを奉公人に留めておくようになりました。これが慣習化し、雇用の形態が年季制から終身制になっていったのです。

 奴隷労働がプランテーション経営に不可欠になっていたからでした。

■黒人奴隷の制度化

 黒人奴隷の数はタバコ産業が活性化するにつれ、増えていきました。

 たとえば、1649年のバージニアの黒人奴隷は、人口の2%で約200人、1670年は人口の5%の約2000人でした。ところが、1700年には人口の28%の約20000人、1715年は24%の約23000人、1754年には40%の116000人、そして、1770年には42%の約187000人と年を追うごとに、増え続けていったのです。
(※ 楪博行、「アメリカにおける奴隷制度とその変遷」、『人間学研究』No.6、2006年、p.3.)

 このように黒人奴隷が増えていくにつれ、彼らの自由を奪い、強制的に労働させることが慣習化していきました。

 楪博行氏は、バージニア植民地で黒人奴隷の身分制度が確立していくのは、1660年から70年にかけてであったと記し、次のように具体例を示しています。

 1660年、1661年に制定されたのは、黒人奴隷が逃亡することを防ぐための法でした。1662年には父の法的地位に関わりなく、奴隷の母から生まれた子は奴隷とする法が制定されました。そして、1663年には奴隷が許可なく移動することを禁止する法が成立し、1667年には、キリスト教の洗礼を受けたとしても、奴隷の母から生まれた子は自由にはなれないことが定められました。

 さらに、1668年法では、奴隷ではない自由な身分の黒人女性に、納税義務、農場労働で植民地に貢献すること等が課せられ、イギリス人女性とは異なる扱いが規定されました(※ 前掲。p,3)。

 一連の法制度の成立過程を見てくると、ほとんど毎年のように、奴隷を拘束するための法律が制定されていたことがわかります。いずれも、奴隷の逃亡や反抗、反乱などを防ぎ、身分を固定化することによって、強制労働に従事させるためのものでした。

 タバコ生産に従事する黒人奴隷たちを描いた絵があります。1670年の作品です。ご紹介しましょう。

こちら →
(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Slaves_working_in_the_tobacco_sheds_on_a_plantation_(1670_painting).jpg、図をクリックすると、拡大します)

 上半身裸の黒人奴隷が、それぞれ、タバコ製造のさまざまな工程に関わり、黙々と働いている様子が描かれています。自由を束縛し、指示通りに働く労働者をプランテーション経営者は望んでいたのでしょう。黒人奴隷の数が増えるにつれ、経営者たちは、彼らを管理するための法制度を整備する必要に迫られたのだと思われます。

 実際、プランテーションの活性化に伴い、黒人奴隷を管理するための制度は整備され、各植民地に浸透していきました。

 たとえば、許可なく移動することの禁止、集会することの禁止、奴隷に対する傷害や殺人の合法化、終身の強制労働、といった具合です。さまざまな規制を設けては、暴力、恐怖による管理を合法化していきました。

 さらに、奴隷を所有物として位置付け、遺言や差し押さえの対象、あるいは、課税対象にするようになっていきました。人ではなく、物として奴隷を扱うようになっていったのです。さまざまな自由をはぎ取り、拘束し、抵抗する権利を奪い、強制労働に従わせるための法の目を張り巡らせていきました。

 奴隷の制度化は、バージニア植民地だけではなく、南部ではどの植民地でも、ほぼ同様の法的規制が設けられ、深化していきました。

■奴隷制と植民地の産業構造

 一方、アメリカ北部の植民地では、奴隷制は発達しませんでした。北部の産業構造は、プランテーションを基盤としておらず、奴隷労働による収益は取るに足るものではなかったからです。

 一口に、アメリカ植民地とはいっても、産業構造の違いによって、奴隷に依存する度合いが異なっていたことがわかります。それに伴い、北部と南部とでは、奴隷制に関する認識は大幅に異なっていました。

 もっとも、北部と南部とで差異がみられるとはいえ、その違いは、奴隷労働がどれほど地場産業で必要とされているかの違いでしかありませんでした。奴隷制そのものは法の下、アメリカ植民地の経済構造に深く組み込まれていたのです。

 それでは、イギリス本国で、奴隷制はどのような法の下で管理されていたのでしょうか。

 楪博行氏は、イギリス本国と植民地の奴隷法との関連について、次のように結論づけています。

 「各植民地の奴隷法の意図は、奴隷を管理しそれから収益をあげつつ、その反乱を防止する禁止側面のみの警察的意味を持つものであった。(中略)イギリス枢密院の植民地に対する積極的な奴隷政策は、植民地において受容され、ついには各植民地での奴隷法の制定によって正当化が図られることになった」(※ 前掲。p.8.)

 アメリカの各植民地は、どうやら、独自の判断で奴隷法を制定してきたわけではなかったようです。背後に、イギリス枢密院からの積極的な政策支援がありました。だからこそ、人権を踏みにじるような法律でも、なんの支障もなく、成立してきたという経由がありました。アメリカ植民地でのローカルな判断は、いってみれば、イギリス枢密院のお墨付きを得て、正当化されてきたのです。

 アメリカ植民地の黒人奴隷に対する支配の網は、時間をかけて、四方八方隈なく、張り巡らされていました。しかも、それらはイギリス本国から容認されていました。イギリス本国にとってはなによりも、植民地のプランテーションからあがる収益が重要だったからでした。

 黒人奴隷は、アメリカ植民地から逃れられないように、制度化されて、プランテーションに組み込まれていました。彼らを取り巻く、二重三重に張り巡らされた支配の網の目は、ジョン・ロックの社会契約論によって突き崩せるほど脆いものではありませんでした。

 一連の奴隷法の制定過程をみてくると、ジェファーソンがどれほど人道主義的な見解を持っていたとしても、奴隷制を廃止することはできず、放置せざるをえなかったのかもしれません。建国理念とは矛盾するとはいえ、奴隷制はそれほど深くイギリス本国と結びつき、そして、アメリカの各植民地に根付いていたのです。

 1872年にアメリカを訪れた久米は、アメリカの奴隷制について、次のように書いています。

 「合衆国が独立する頃、黒人奴隷は50万人(当時のアメリカ全人口の6分の1)に達していた。憲法を制定する時、この制度が非道であるということもわかっていたのであるが、すぐにこれを廃止することが難しいので、奴隷輸入税を1808年までと定めた。ところが、1790年頃、アメリカ人ホイットニーが綿花を紡ぐ機械を発明、それが南部の綿花栽培をいっそう促したので、南部ではさらに黒人の労役が盛んになった。またイギリス人も蒸気機関によって紡績を行うようになり、その利益が増大したことから、奴隷輸入に関する年限が過ぎても南部の綿花栽培諸州における奴隷売買はやむことがなかった」(※ 久米邦武編、水澤周校注、『米欧回覧実記』1、p.231.)

 タバコ栽培の次は、綿花栽培が盛んになりました。そのために、黒人労働への需要はますます高まっていったのです。

 実は、奴隷の輸入については1808年以降、廃止する方向で調整されていました。ところが、南部の綿花栽培が活況を呈するようになるにつれ、奴隷労働への需要が高まりました。それに伴い、奴隷制廃止の動きは止まり、そのまま継続されていきました。

 とはいえ、時代が進むにつれ、アメリカはやがて、奴隷制廃止に向かわざるをえなくなります。イギリス本国での動きが変わったからです。

 イギリスでは、1833年8月23日に奴隷制廃止法が成立し、イギリスの植民地での奴隷制度を違法としています。

 ところが、アメリカ南部では、プランテーション農園主の政治的発言力が大きく、当時、奴隷制はむしろ強化される傾向にありました。それに反し、アメリカ北部の諸州では奴隷制はすでに廃止されていました。

 南北の経済構造の違いから、やがて奴隷制が南部と北部との対立の焦点となり、先鋭化していきます。

■南軍vs北軍

 1860年の大統領選で、共和党のエイブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln ,1809- 1865)が当選しました。奴隷制度に反対していた政治家が、大統領に選出されたのです。

 リンカーンが大統領に選出されると、奴隷制存続を主張するミシシッピ州やフロリダ州など南部11州は、アメリカ合衆国を脱退してしまいました。そして、これら南部の諸州は新たにアメリカ連合国を結成しました。

 南部諸州で構成されたアメリカ連合国と、アメリカ合衆国にとどまった北部23州との間で戦争が勃発しました。

 奴隷制を争点に、アメリカ合衆国(北軍)とアメリカ連合国(南軍)とが戦う南北戦争(1861-1865)が始まったのです。奴隷制度を巡ってアメリカが二つの国に分断され、同胞が熾烈な戦いを繰り広げることになりました。

 南軍と北軍がどのような分布になっていたのか、当時のアメリカ地図をご紹介しましょう。

こちら →
(※ Wikipedia、図をクリックすると、拡大します)

 青がアメリカ合衆国の諸州です。そして、赤がアメリカ連合国諸州で、水色はどちらとも旗色を明らかにしていない境界州です。白は南北戦争の前、あるいは戦争中に、まだ州に昇格していない領域です。

 こうして色分けすると、一見して南軍側か北軍側かがわかります。南と北で別れているのです。

 奇妙なことに、カリフォルニア州、オレゴン州、ネバダ州などが北軍側に色分けされています。西海岸の諸州が北軍に属しているのです。

 なぜなのか、不思議な気がしました。
 
 そこで、調べてみると、どうやらリンカーンが署名した法律(ホームステッド法)が、西海岸の諸州に影響を与え、彼らが北軍支持に回ったようなのです。

■ホームステッド法と奴隷解放宣言

 1862年5月20日、リンカーン大統領が署名し、ホームステッド法(自営農地法)を発効させました。これは自作農を推奨する法令で、公有地を開拓し、最低5年間居住すれば、無償で160エーカーの土地が与えられるというものです。

 アメリカでは、「独立自営農」という概念が伝統的に有力でした。ホームステッド法でその数を増やそうという動きは、実は、1850年代から存在していたのです。ところが、「独立自営農」を増やすことは、奴隷制を脅かすことになるとして、プランテーション経済に依存する南部諸州が強く反対していました。

 この法律が発令された結果、北軍は西部開拓民に大きく支持されるようになりました。西海岸諸州が北軍支持に回った背後に、ホームステッド法の発効があったことは明らかでした。

 さらに、1863年1月1日、リンカーン大統領は、奴隷解放宣言に署名しました。なんと南北戦争の最中に、リンカーンは奴隷解放宣言に署名したのです。奇策としかいいようがありませんが、実は、このことが戦況を北軍側に有利に導きました。

 実際、解放宣言によって解放されたばかりの奴隷の多くが北軍や海軍に加わり、他の奴隷達のために勇敢に闘うようになりました。奴隷解放宣言が、解放奴隷たちの戦意を高揚させ、北軍の士気を高めたことは明らかでした。

 この時点で、リンカーンが奴隷解放宣言を行っていなかったとしたら、南北戦争はもっと長引いていたかもしれません。

 奴隷解放宣言を契機に、南北戦争の争点は急速に変化し、すべてのアメリカ人に自由を浸透させるための大義を持つ戦いになっていきました。南北戦争がちょうど3年目に突入したときでした。
(※ https://americancenterjapan.com/aboutusa/translations/2389/

■ゲティスバーグの戦い

 アメリカ合衆国軍とアメリカ連合国軍が、1863年7月1日から3日にかけて、総力を結集して戦った場所が、ゲティスバーグです。ペンシルベニア州アダムズ郡郊外にあり、南北戦争史上最大の激戦地となりました。奴隷解放宣言後、6カ月を経た時の戦いです。

 これが南北戦争の事実上の決戦となって、アメリカ合衆国(北軍)の勝利に終わりました。

 1863年7月1から3日にかけてのゲティスバーグの戦いで、数多くの死傷者が出ました。北軍の戦死者は3000人以上、南軍の戦死者は4000人近く、また負傷者・行方不明者の合計は南北でそれぞれ2万人を超えました。
(※
https://americancenterjapan.com/aboutusa/translations/3481/#:~:text=%E5%8D%97%E8%BB%8D%E3%81%AF%E5%8C%97%E8%BB%8D,%E4%B8%87%E4%BA%BA%E3%82%92%E8%B6%85%E3%81%88%E3%81%9F%E3%80%82

 当時の戦闘シーンを描いた絵があります。

こちら →
(※ https://history-maps.com/ja/story/Battle-of-Gettysburgより。図をクリックすると、拡大します)

 画面左手にはためいているのが、南軍の旗で、右手に見えるのが北軍、すなわちアメリカ合衆国の旗です。

 同国民が、奴隷制を巡って戦ったのが、南北戦争です。したがって、この戦争は、独立戦争とは違って、理念によってアメリカ人の気持ちを一つに結束させる戦いではありませんでした。経済システムに組み込まれた奴隷制度を争点としていただけに、むしろ、国を二分させる性質を持つ戦いでした。

■戦意か、兵力、兵站か

 開戦当初から、北軍が優勢でした。というのも、北部には既存の政府組織が存在し、中央集権的な政治体制だったからです。意思決定のプロセスがスムーズで、さまざまな難題に迅速に対応することができました。

 一方、南部はそれぞれの所属州の発言力が強く、南部連合国のデイヴィス大統領は、意思決定に非常に苦慮していたといわれています。

 さらに、北部は約400万前後の人口であったのに対し、南部はわずか100万強で、人口規模に大きな差がありました。しかも、北部は工業化が進み、敷かれた鉄道の長さも南部の2倍以上でした。鉄道を利用して、北部は食料や武器を兵士に運ぶことが容易にできたのです。兵站の面でも北部に優位性がありました。

 このように、人口規模やインフラ、意思決定などの面で、南部は北部に相当、見劣りがしていました。

 ところが、南軍には、奴隷制を維持して南部の生き方を守る、あるいは、侵攻してくる北軍から郷土を守るといった明確な目的がありました。兵力や兵站の面では北軍に見劣りがしても、戦闘意欲だけは強かったのです。

 奴隷制を維持できなければ、即、南部の経済基盤が崩れかねないという危機感が強かったからでしょう。それだけに士気が高く、戦意が高揚していました。

 それに比べ、北部の目標は、合衆国を守る、つまり、南部を合衆国に連れ戻すといった曖昧なものでした。そこには、戦意を喚起し、命をかけてまで戦おうとするモチベーションをかき立てる力はありませんでした。

 南北戦争は、勝利を導くものは戦意なのか、それとも、人口規模、兵站などのインフラ装備なのかが問われる戦いでもあったのです。

 一方、南北戦争は、奴隷制を争点にした南北の戦いであったと同時に、工業化の進んだ地域とそうではない地域との戦い、あるいは、ナショナリズムとローカリズムとの戦いといったように、当時の社会の分岐点を巡る戦いでもありました。

 その南北戦争の中で、もっとも激しかったのが、ゲティスバーグの戦いでした。

■リンカーンの演説
 
 10月17日から、新しくできたゲティスバーグの国立墓地で、死者の埋葬が始まりました。

 1863年11月19日に行われた献納式で、リンカーン大統領は演説を行いました。アメリカ史上最も有名な演説の一つといわれています。

こちら → https://youtu.be/8HXEgdiIkng
(※ CMはスキップするか、×で消してください)

 約2分間の短い演説の最後で、リンカーンは、「人民の、人民による、人民のための政治を、地上から決して絶滅させないために、われわれがここで固く決意することである」と締めくくっています。

 リンカーンの思いがひしひしと伝わってくるような演説です。戦死者を悼み、その栄誉を称えるとともに、アメリカ建国の精神を人々の心に覚醒させる力がありました。言葉が再び、アメリカ人の心に建国の精神を蘇らせたのです。

 リンカーンのこの演説は、北軍の勝利を確実なものにしました。

 1865年3月に北軍は最後の攻勢を仕掛け、アポマトックス方面の作戦が開始されました。4月1日のファイブフォークスの戦いで打撃を受けた南軍は、4月3日に南部の首都リッチモンドから撤退せざるをえず、西へと退却しました。

 そして、4月9日、北軍と南軍との間でアポマトックス・コートハウスの戦いが起き、南軍のリー将軍が降伏して、南北戦争は事実上終了しました(※ Wikipedia)。

■リンカーンの死

 1865年4月14日、リンカーンは妻と観劇中に銃撃され、翌15日に亡くなりました。犯人は俳優で南軍シンパのブース(John Wilkes Booth, 1838 – 1865年)でした。

 その時の様子を描いた鉛筆画があります。

こちら →
(※ Wikimedia、図をクリックすると、拡大します)

 ブースはフォード劇場の裏口に午後9時ごろ到着し、リンカーンのいるボックス席に入り込み、ドアを閉めました。そして、背後からそっと大統領に近づき、後頭部めがけて銃弾を発射したのです。

 画面では、警官が制止しようと身を乗り出していますが、間に合わなかったのでしょう。小型のデリンジャーピストルから立ち上る白い煙が、惨劇の状況を物語っています。

 ブースは以前からリンカーン大統領を誘拐し、南軍の捕虜を解放させようとしていたといわれています。

 ところが、1865年4月10日、南軍のリー将軍が北軍に降伏したので、暗殺する意味はなくなったと諦めかかっていました。ところが、4月11日、リンカーンがホワイトハウスの前で黒人の参政権を認めたいと演説していたのを聞いて、再び、暗殺を決意したといいます(※ Wikipedia)。

 1860年、リンカーンは奴隷制廃止を掲げて大統領に選出されました。そして、その理念のために南北戦争を回避できず、国を二分するほどの戦いを強いられました。結局、戦争には勝利したのですが、黒人の参政権を認めたいと演説したせいで、南軍のシンパから暗殺されてしまいました。

 奴隷解放という目的を達成し、その後、参政権を認めようという展望を語ったところで、リンカーンは命を絶つことになったのです。

 南部に深く根付いた奴隷制は、そう簡単に払拭できるものでもなかったことがわかります。

 リンカーンが亡くなった後、8カ月を経てようやく、憲法が修正され、奴隷解放の制度が整備されました。

 1865年12月、憲法が修正され、アメリカ合衆国のあらゆる地域に暮らすすべての奴隷が自由の身となりました。合衆国憲法修正13条によって、アメリカのすべての奴隷制度は終焉を遂げたのです(※ https://americancenterjapan.com/aboutusa/translations/2389/)。

■政治家としての矜持

 振り返ってみれば、憲法を修正し、奴隷制度を廃止させる基盤となったのが、奴隷解放宣言でした。

 その奴隷宣言を執筆している最中のリンカーン大統領らを描いた油彩画があります。

こちら →
(油彩、カンヴァス、274.3×457.2㎝、1864年、United States Capitol、図をクリックすると、拡大します)

 画面に描かれている人物は8人で、左から順に、エドウィン・M・スタントン陸軍長官(着席)、サーモン・P・チェイス財務長官(起立)、アブラハムリンカーン大統領(着席)、ギデオン・ウェルズ海軍長官(着席)、カレブ・ブラッド・スミス、内務長官(起立)、ウィリアム・H・スワード国務長官(着席)、モンゴメリー・ブレア郵便局長(起立)、エドワード・ベイツ司法長官(着席)です。

 奴隷解放宣言を執筆するリンカーンをはじめ、メンバーの表情はいずれも硬く、厳しいものがあります。北部と南部、国を二分する争点だっただけに、彼らの思いはさまざまだったでしょうし、理念だけではすまない情感も種々、去来していたでしょう。

 それでも、彼らは断行しました。理想を掲げて建国したアメリカ合衆国をさらに一歩、前進させることに熱意を注いだのです。

 描かれている人物たちが一様に、思いつめたような表情を浮かべているのが印象的です。その表情からは、南部を敵に回しながらも、建国の精神に立ち返り、奴隷解放宣言を組立てようとしている政治家たちの気概を見るような気がしました。

 この暗い画面には、理想を追求する政治家たちの矜持を見て取ることができます。

 この絵が描かれた1864年は、ホワイトハウスのイースト・ルームに展示されていましたが、その後は国会議事堂に収められています。
(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Emancipation_proclamation.jpg

 久米は、奴隷解放に人生を賭けたリンカーンについて、次のような感想を述べています。

 「西洋人はその持論を貫くためにその精神力のすべてを賭ける。できなかった場合には命を損なうところまでに至るのである。その志篤く、忍耐深いことはどうだろう。このようでなくては、今の時代に仕事を成功させることは難しいのである」
(※ 久米邦武編、水澤周校注、『米欧回覧実記』1、p.350.)

 久米をはじめ岩倉使節団一行は、明治という新しい体制の国家建設に意気込み、学びの一環として、訪米していました。そこで、アメリカ建国の精神、その精神と矛盾する奴隷制、そして、奴隷制を焦点とした南北戦争、南北戦争勝利後の凶事、それら一切合切を現地で知りました。

 彼らは一体、何を感じていたのでしょうか。

 少なくとも、久米は、理想と現実との矛盾に対峙し、問題解決していこうとする政治家の姿勢に、意思の強さと忍耐強さ、志の高さを感じていたようです。

 ちなみに、1872年3月25日、ワシントン滞在中に、使節団一行は黒人学校を訪れています(※ https://www.jacar.go.jp/iwakura/history/index.html)。

 久米ら一行が黒人学校を訪れたのは、リンカーン大統領(Abraham Lincoln, 1809 – 1865)が、奴隷解放宣言(1863年1月1日)を行ってから9年ほど経た頃でした。

 当時、白人と黒人は別々の学校に通っており、人種間の格差は歴然としていました。法的に奴隷制は廃止されましたが、まだ奴隷制の残滓はそこかしこに残っていたに違いありません。

 ところが、奴隷解放宣言以後、黒人の中には巨万の富を築いた者もいれば、下院議員に選出した者もいました。運と環境と努力次第で、指導的立場に就く者もいたのです。

 久米はそのことに着眼し、次のように述べています。

 「皮膚の色と知能の優劣は無関係であることははっきりしている。だからこそ有志の人々は黒人教育に力を尽くし、学校を作るのである」(※ 前掲。p.232-233.)

 人は誰しも自由で平等であり、基本的人権は守られなければならないというのが、ジョン・ロックの考えでした。それに基づいているのが独立宣言であり、アメリカ建国の精神でした。

 現地でそれらを見聞した久米は、基本的人権を踏まえた国家と国民との関係は、社会契約と概念を介在させることによって成立すると理解したのでしょう。だからこそ、そのような関係は教育によってこそ維持することができ、実践することができるのだと思ったのではないかという気がします。

 使節団一行は、近代国家としての制度整備をしていかなければならない責務を担っていました。それだけに、奴隷制を巡る一連の事例から、教育の重要性を汲み取ったことでしょう。中には、国家と国民との関係を、社会契約として捉える視点の重要性を感じ取った人もいたかもしれません。(2024/1/12 香取淳子)

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