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岩倉具視幽棲旧宅④:列強の圧力、そして、胎動する留学への動き

岩倉具視幽棲旧宅④:列強の圧力、そして、胎動する留学への動き

 安政五カ国条約の締結以降、開港を求める列強の強硬な態度、あるいは、上陸した水兵たちとのトラブルをきっかけに、さまざまな事件が起こりました。言葉がわからず、制度もわからない中で発生した、異文化接触に伴う事件でした。

■兵庫開港要求事件

 安政5年(1858年)、強引に開国を迫る列強に押し切られるように、江戸幕府はアメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスとそれぞれ、修好通商条約を締結しました。まとめて安政五カ国条約といわれるものですが、いずれも将来に禍根を残す不平等条約でした。

 中でも、喫緊の課題は、兵庫港などの開港が1863年に予定されていたことでした。孝明天皇をはじめ、京都に近い兵庫港の開港に反対する勢力が強く、その年の実現は困難だったのです。

 そこで、幕府は文久元年(1862)、開港延期交渉のため、ヨーロッパに使節団を送りました。正使は竹内保徳、副使は松平康直、総勢36名に通訳2名の使節団でした。使節団は、イギリスでロンドン覚書を交換し、兵庫開港は5年間延長して1868年1月1日とすることで合意を得ました。

 ところが、慶応元年9月(1865年11月)、開港を待ちきれずにイギリス、フランス、オランダの連合艦隊が、いきなり、兵庫沖に侵入してきました。兵庫開港要求事件といわれるものです。

 そもそも、イギリス公使のパークスらは、勅許を得ないまま締結された安政五カ国条約に、不安を覚えていました。そこで、兵庫の早期開港と天皇の勅許を求め、幕府に圧力をかけたのです。

 イギリス4隻、フランス3隻、オランダ1隻の合計8隻からなる艦隊が、横浜を出港し、1865年11月4日に兵庫港に到着しました。パークスをはじめ、フランス、オランダの公使、アメリカの代理公使を乗せており、政治的圧力をかけてきたのは明らかでした。

 パークスらに追い立てられるように、幕府は、朝廷との交渉を進めました。ところが、孝明天皇は、安政五カ国条約については勅許しましたが、兵庫開港については依然として勅許せず、ロンドン覚書での合意を変更することはありませんでした。

 1868年1月1日、念願の兵庫港が開港しました。各国の艦隊が停泊しているのがわかります。イラストレイテッド・ロンドンニューズには、次のような、神戸開港を伝える銅版画が掲載されています。


(※ 神戸市立博物館。図をクリックすると、拡大します)
 
 上図の左下の白い部分が、外国人居留地です。神戸港の開港とともに、建設されました。ヨーロッパの都市計画技術に基づいて居留地を設計したのは、イギリス人土木技師ジョン・ウィリアム・ハート(John William Hart、1836 – 1900)でした。

 敷地は整然と整備され、格子状の街路、街路樹、公園、街灯、下水道などが設置されました。美しく調和のとれた街並みです。

 ジョン・ウィリアム・ハート(John William Hart、1836 – 1900)が、1878年に描いた絵が残されています。


(※ 神戸市立博物館。図をクリックすると、拡大します)

 外国人居留地は、各国領事、兵庫県知事、登録外国人から選ばれた3名以内のメンバーによる「居留地会議」という組織によって運営されていました。道路、下水、街灯などを管理するほか、警察隊を組織し、居留地内の犯罪を取り締まっていました。警察隊が捕らえた犯罪者は、各国の領事に引き渡され、各国の法律によって裁かれました。
(※ https://www.kobe-kyoryuchi.com/history/)

 安政五カ国条約によって、治外法権が認められていたからでした。日本で外国人が関与した事件が発生しても、日本の警察は裁くことができないのです。

 兵庫開港の直後に神戸事件、続いて、堺事件が起きました。いずれも外国人が日本に居留するようになったからこそ、起きた事件でした。

■神戸事件と堺事件

 1868年2月4日、備前藩の隊列が神戸の三宮神社近くにさしかかった時、付近の建物から出てきたフランス水兵2人が、行列を横切ろうとしました。これは、当時の日本人にとっては、大変、無礼な行動でした。

 日本側から見ると、この時のフランス水兵の行為は、非常に無礼な行為に当たります。

 隊長が制止しようとしましたが、言葉が通じず、水兵たちが強引に横切ろうとしたので、終には、切り付け、軽傷を負わせてしまいました。

 彼らはいったん、民家に逃げ込んだ後、今度は拳銃を取り出し、挑んできました。それを見た備前藩の兵士が発砲し、銃撃戦に発展してしまったというのが、この事件の経緯です。弾が撃たれたとはいえ、ほとんど当たっておらず、負傷者は2名ほどだったそうです(※ Wikipedia)。

 実際は小競り合い程度に過ぎなかったのですが、たまたま、隣の居留予定地を実況見分していた欧米諸国公使たちを巻き込むことになりました。発砲音を聞きつけたイギリスのパークス公使は激怒し、各国艦船に緊急事態を宣言し、その日のうちに、居留地の防衛を名目に、神戸中心地は占拠されてしまいました。

 諸国公使は、在留外国人の身の安全と事件の日本側責任者の厳重処罰を、明治政府に要求し、明治政府もそれに応諾せざるをえませんでした。

 この事件に遭遇したのは、備前藩でした。

 明治政府に命じられ、摂津西宮の警備に赴く途中の出来事でした。当時の武士のルールでは、行列を横切ることは非常に無礼なことで、切り付けられるのも当然だったのです。ところが、列強の憤りを買った結果、外交官列席の下で、フランス水兵に切り付け、軽傷を負わせた兵士が切腹させられた上、上司は謹慎処分にされました。

 列強と日本との力の差をまざまざと見せつけられる事件でした。

 外国人が日本で違法に近い行為をしても、罰せられるのは日本人という理不尽な悲哀を、当時の日本人は味わったのです。

 時を経ず、似たような事件が起きました。堺事件です。

 1868年3月8日、フランス水兵が上陸して狼藉を働いたと苦情を受けた土佐藩の警備隊長が、これらのフランス兵を帰艦させようとしました。ところが、言葉が通じず、帰艦しようとしないので、土佐藩の兵士が水兵を捉えようとしたところ、水兵は土佐藩の隊旗を奪って逃げようとしました。

 大切な隊旗が奪われたので、土佐藩の兵士は激怒し、とっさに発砲しました。これが契機となって、銃撃戦となり、フランス水兵11名が死亡しました。

 フランス人イラストレーター、ゴッドフリー・デュランド(Godefroy Durand, 1832 – 1896)が、この事件の様子を描いています。


(※ Wikimedia, Le Monde Illustré, 8 March 1868, 図をクリックすると、拡大します)

 今回もまた、日本側は煮え湯を飲まされるような処置を迫られました。

 明治政府は、賠償金15万ドルを支払ったうえに、土佐藩の指揮官および隊士20名の死刑を要求され、やむなく、呑まざるをえなかったのです。

 列強と当時の日本との国力の差は大きく、日本国内で狼藉を働いた外国人に対し、当然の処置をしただけなのに、処置した日本人が、逆に、極刑を強いられるという結果を免れることができなかったのです。

 どれほど無念の思いをしたことでしょう。

 このような理不尽なことをなくすには、まず、列強と並ぶ近代国家に変わって、不平等条約を解消する必要がありました。近代国家とみなされないからこそ、欧米は自分たちが優位な立場にいると思い、勝手なことをするのです。

 勝手なことをさせないためには、なによりも、欧米の技術や知識、学問を学び、彼らと同等だということを見せつける必要がありました。開国したからには、欧米と対等の技術、学術、制度や文化を持ち、対等にコミュニケーションできなければなりませんでした。

 おそらく、幕府の一部はそれに気づいていたのでしょう。

 1862年、初めての留学生が幕府から派遣され、オランダに出向いています。

■幕府が、留学生をはじめて派遣

 実は、幕府は西洋の学術や技術を導入するため、すでに、欧米に留学生を派遣する計画を立てていました。当初、軍艦の注文と留学生の派遣先として、アメリカを想定し、準備していましたが、南北戦争(1861-1865)が激化したため、1862年1月、アメリカが軍艦の製造を断ってきました。

 そこで、幕府は急遽、発注先をオランダに変え、軍艦の発注と留学生派遣を交渉し、早々に決定しています。

 1862年4月11日、幕府から命を受けたメンバーは、軍艦操練所から、榎本武揚(釜次郎)、沢太郎左衛門、赤松則良(大三郎)、内田正雄(恒次郎)、田口俊平、蕃書調所から、津田真道(真一郎)、西周(周助)、そこに、長崎で医学修行中の伊東玄伯、林研海が加わり、さらに鋳物師や船大工等の技術者である職方7名が一行に加わりました。
(※ https://www.ndl.go.jp/nichiran/s2/s2_6.html)

 1865年にオランダで撮影された彼らの写真があります。


(※ 津田真道関係文書47-3、国会図書館デジタルコレクション。図をクリックすると、拡大します)

 後列左から、伊東玄伯(医学)、林研海(医学)、榎本武揚(海軍機関学)、(布施鉉吉郎)、津田真道(法律経済)、そして、前列左から、沢太郎左衛門(砲術)、(肥田浜五郎)、赤松則良(造船学)、西周(法律経済)です。

 なお、内田正雄(海軍諸技術)と田口俊平(海軍測量術)はこの時、欠席しており、この写真に写っていません。また、写真に写っている後列の(布施鉉吉郎)と前列の(肥田浜五郎)は留学生ではありません。

 派遣された留学生は、軍艦操練所から5人、蕃書調所から2人、長崎養生所で医学を学ぶ2人の計9人、そして、船舶運用、造船製図、製鉄鋳物、測量機械、鍛冶術などの職方6名でした。

 メンバーの大部分を占めるのが、軍艦操練所からの5人と職方の6名です。

 軍艦の発注と抱き合わせの留学なので、当然と言えば当然ですが、幕府には、オランダに依頼した軍艦が竣工するまでの間、彼らにその立ち合いと監督を兼ねて、現地で先進的な造船学や航海術を学ばせたいという意図がありました。

 興味深いのは、その中に、西や津田らの洋学者、伊東や林らの医学生が加わっていたことでした。

 開明派の幕吏や蕃書調所からの強い要望があったからなのでしょうが、軍事技術以外の社会科学、人文学、医学など、近代化に必要な人材がメンバーに加えられていたことの意義は大きいといわざるをえません。

 たとえば、津田真道は帰国後、日本初の西洋法学を紹介しています。そして、明治維新後は、新政府の司法省に出仕して『新律綱領』の編纂に参画し、司法領域で大きな貢献をしています。

 また、西周は帰国後、徳川慶喜の側近として活動し、維新後は、徳川家によって開設された沼津兵学校初代校長に就任し、『万国公法』を訳刊しています。1870年10月22日には乞われて明治政府に出仕し、以後、兵部省・文部省・宮内省などの官僚を歴任しました。軍人勅諭・軍人訓戒などの起草に関与し、軍政の整備とその精神の確立などに努めています。

 幕府が派遣した最初の留学生たちは、欧米と並ぶ近代化を目指して、軍事と法を整備するだけでなく、近代医学を学び、医療の改善を図りました。その一方で、日本に西欧の技術や学術を持ち込んだのです。

 軍艦を発注しようとした際、幕府は留学生の派遣までは考えていませんでした。

 軍艦の製造を依頼するなら、ついでに留学生も派遣してはどうかと提案したのは、アメリカ人駐日公使のタウンゼント・ハリスでした。

■タウンゼント・ハリス(Townsend Harris, 1804-1878)

 アメリカの初代駐日公使タウンゼント・ハリス(Townsend Harris, 1804-1878)は、1856年に初代駐日総領事として来日した頃から、日本人や日本の日常生活を高く評価していました。

 『日本滞在日記』(1856年)には、日本人について、「喜望峰以東の最も優れた民族」と書かれており、好意的に捉えていることがわかります。下田の町についても、「家も清潔で日当たりがよいし、気持ちもよい。世界のいかなる土地においても、労働者の社会の中で下田におけるものよりもよい生活を送っているところはほかにあるまい。」と書き残しています(※ Wikipedia)。

 ハリスは、1858年に日米修好通商条約が締結されると、初代駐日公使となりました。

 江戸幕府は当初、軍艦の製造をアメリカに依頼していました。その際、ハリスは幕府に、ただ軍艦を発注するだけではなく、人材をアメリカに派遣し、軍事技術や理論なども学んできてはどうかと薦めたのです。

 彼は、日本人の能力を高く評価しており、「私は、蒸気機関の利用によって世界の情勢が一変したことを語った。日本は鎖国政策を放棄せねばならなくなるだろう。日本の国民に、その器用さと勤勉さを行使することを許しさえすれば、日本は遠からずして偉大な、強力な国家となるであろう。」(※ Wikipedia、前掲)と語っています。

 日本人に軍艦の製造現場を見せ、技術や理論を学ばせれば、たちまち、欧米列強に並ぶ国になるとハリスは思っていたのでしょう。

 この時、オランダに派遣された留学生は、田口良直(45歳)を除き、20代から30代の若者ばかりでした。意欲のある有能な若者が、列強に対抗できる技術や知識を身につけるために渡欧したのです。

 そして、帰国すると、期待どおりの成果をあげています。

 さて、列強の到来で国家存亡の危機を感じたのは、なにも、幕府だけではありませんでした。列強のアジア侵略を知る機会のあった藩士たちもまた、大きな危機感を覚えていました。

 たとえば、長州藩の吉田松陰(1830- 1859)、下総佐倉藩の西村茂樹(1828-1902)、そして、松代藩士の佐久間象山(1811-1864)などです。

 蘭学者の西村茂樹は1851年、佐久間象山に師事し、砲術修業をしています。ペリーが来航すると、西洋の砲術を修業しようとオランダ留学を思いつきます。藩老に相談すると、強く諫められたので、諦めたようです。

 同じようなことを考え、実行に移したのが、吉田松陰でした。松陰は佐久間象山の弟子でもありました。ペリー来航時に停泊中の軍艦に乗り込み、アメリカに密航しようとしたのも象山の考えに従ったからでした。

 それでは、吉田松陰について、振り返っておくことにしましょう。

■吉田松陰幽囚旧宅

 吉田松陰は長州藩士で、5歳の時、叔父吉田賢良の養子となりました。養父は山鹿流軍事師範を世襲している中級武士でした。19歳で山鹿流軍学の師範を継承しましたが、すでに時代遅れだと認識していました。1850年には長崎留学、1851年には江戸遊学と見聞を広めていくにつれ、その思いはますます強くなっていきました。

 1851年に江戸に留学した際、佐久間象山の木挽町にあった「五月塾」で砲術や兵学を学んでいたと思われます。

 アジア情勢、世界情勢を知った松陰は、1853年に黒船が来航すると、危機感を強めていきます。

 ところが、開国を迫る外国勢に対し、幕府は的確に対応できず、松陰は失望せざるをえませんでした。是非とも、自身の眼で海外情勢を知る必要があると思い、ペリー来航を絶好のチャンスだと思い、密航を企てたのです。

 実際、1854年にペリーが下田沖に再訪した際、松陰は小舟を漕いで黒船に乗り込みました。ところが、すぐさま捉えられ、幕府に送り返されて、幽閉処分になってしまったのです。

 松陰が幽閉された旧宅は、萩市にある松陰神社の境内にあります。木造瓦葺きの平屋建て214㎡の建物で、8畳3室、6畳3室、4畳、3畳7分、3畳半・3畳および2畳各1室のほか、板間・物置・土間などがある大きな建物でした。


(※ 萩市観光公式サイトより。図をクリックすると、拡大します)

 数年前にここを訪れたことがあります。静かな佇まいの中に、思索を醸成する豊かな時間の流れを感じさせられたことを思い出します。

 吉田松陰が幽閉されていたのは、東側にある3畳半の一室です。幽囚室と呼ばれていました。この幽閉部屋はもともと、四畳半でしたが、神棚を設けたため、狭くなったそうです。


(※ 萩市観光公式サイトより。図をクリックすると、拡大します)

 幽囚の間、松陰はここで、読書と著述に専念していましたが、やがて、近親者や近隣の子弟たちに、孟子や武教全書を講じるようになり、1856年9月20日には、禁固中でありながら、「武教全書」の講義を開始しています。

 そして1857年、叔父が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾を開塾しました。

■松下村塾

 そもそも松下村塾は、松陰の叔父である玉木文之進が、自宅で私塾を開いたのが始まりです。当時、この地域が松本村と呼ばれていたことから、「松下村塾」という名がつけられました。

 後に松陰の外伯父にあたる久保五郎左衛門が継承し、子弟の教育にあたりました。そして1857年に、28歳の松陰がこれを継いで、主宰することになりました。


(※ 萩市観光公式サイトより。図をクリックすると、拡大します)

 木造瓦葺き平屋建ての50㎡ほどの小舎です。当初からあった8畳の一室と、後に吉田松陰が増築した4畳半一室、3畳二室、土間一坪、中二階付きの部分から成っています。(※ 萩市観光公式サイト)。

 入口に掲げられた、流れるような書体で書かれた「松下村塾」の大きな看板が印象的です。

 松陰は、「学は人たる所以を学ぶなり。塾係くるに村名を以てす。」と『松下村塾記』に記しています。村名を冠した塾名に誇りと責任を感じ、志ある人材を育てようとしていました。

 長州藩の藩校である明倫館は、武士階級の者しか入れず、それも足軽・中間などの軽輩は除外されていました。

 ところが、松下村塾では、それとは対照的に、身分の分け隔てなく、塾生を受け入れていました。それを、藩校明倫館の塾頭を務めたことのある吉田松陰が引き継いだのです。

 松陰は、身分や階級にとらわれず、有志を塾生として受け入れました。わずか1年余りの期間でしたが、多くの逸材に魂を吹き込み、育て上げることができました。久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山田顕義、品川弥二郎など、歴史に残る逸材がここから育っています。ちなみに、山縣有朋、桂小五郎は、松陰が明倫館で教えていた頃の弟子で、松下村塾には入塾していません。

 こうしてみてくると、明治維新の原動力となり、明治新政府に活躍した多く人材を、吉田松陰が育ててきたことがわかります。

 松陰の教授方法は、実にユニークでした。

 一方的に師匠が弟子に教えるスタイルではなく、松陰が弟子と意見を交わし、議論しながら、問題点を探り、考えを深めていく熟議方法を採っていたのです。まさに、民主主義の基本的な性格をもつ教授スタイルでした。

 さらに、書物から学ぶだけでなく、実践を重視していました。もちろん、登山や水泳なども行っており、心身ともに鍛錬しようとしていたことがわかります。

 教育者だったからでしょうか、吉田松陰は多くの書物や書、箴言を残しています。

 たとえば、安政の大獄で収監される直前の1859年4月7日、友人の北山安世に宛てて書いた書状の中に、松陰は次のような言葉を残しています。

 「今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。草莽崛起の人を望む外頼なし」

 「幕府も諸侯ももはや酔っ払い同然の用なしだ。在野の人々が立ち上がるのを期待するしかない」と綴り、当時の為政者への絶望感を示す一方、在野の志のある人にわずかな期待をつないでいることがわかります。

 そして、「志士は溝壑に在るを忘れず」という言葉も残しています。「志ある人は、貧困の中、野垂れ死にすることも恐れず、志を貫くことを忘れるな」といっているのでしょう。
(※ 以上、松陰の文言部分はWikipediaより)

 松陰が残した言葉は、どれも、心に響きます。列強が押し寄せてきた激動の時代に、日本を失わないためにどうすればいいか、さまざまに模索していました。それが、残された文言の一つ一つに反映されています。

 やがて、松陰は命を顧みずに立ち上がり、そして、果てていったのです。

■『留魂録』と「夷の術を以て夷を防ぐ」

 松陰が処刑される前に書き残した『留魂録』という書があります。松下村塾の門弟のために著した遺書ともいえるものです。松下村塾門下生の間で、まわし読みされ、志士達の行動力の源泉となったといわれています。

こちら → http://www.yoshida-shoin.com/message/ryukonroku.pdf
(※ 国会図書館 デジタルコレクション)

 冒頭に書かれているのが、次の文言です。

 「身はたとひ武蔵野の野辺に朽ちぬとも、留め置かまし大和魂」

 松陰は『留魂録』を、処刑直前に書き上げました。江戸伝馬町の処刑場に行く前に、同じ牢屋で過ごした人達への別れの挨拶として、この辞世の句を高らかに吟誦したそうです(※ 泉賢司、「松陰精神を活かせ」、『國士館大学武徳紀要』第32号、2016年3月、p.11.)。

 松陰は、当時の志ある若者たちの気持ちをどれほど惹きつけたことでしょう。

 吉田松陰が非業の死を遂げてからも、長州藩では、「夷の術を以て夷を防ぐ」という考えが多くの若者たちに引き継がれました(犬塚孝明、「長州藩、イギリス留学生」、『世界を見た幕末維新の英雄たち』別冊歴史読本、64号、第32巻12号、p.120.、2007年3月22日、新人物往来社)。

 ところが、この「夷の術を以て夷を防ぐ」という考えは、吉田松陰自身の考えではなく、松陰の師であった佐久間象山の考えでした。さらに、調べてみると、象山のオリジナルな考えではなく、中国清代の思想家である魏源(1794 – 1857)の『聖武記』を踏まえ、象山がアレンジしたものでした。

 アヘン戦争の敗北に衝撃を受けて書かれたのが、『聖武記』です。この書の中で、魏源は、「夷を以て夷を攻む上策権奇と為す」(※ 新村容子、「佐久間象山と魏源」、『文化共生学研究』第6号、2008年3月、p.73.)と書いています。イギリスと戦うには、西洋の戦艦や武器を配備し、戦うのが妙策だと説いているのです。

 それをアレンジした考えが、佐久間象山が唱える「夷の術を以て夷を防ぐ」という策でした。

 松代藩士で、兵学者であり朱子学者でもあった佐久間象山(1811-1864)は、魏源の『聖武記』を読み、それを解釈して伝え、吉田松陰に大きな影響を与えていました。

 象山は、西洋列強の侵略を防ぎ、文明諸国と同レベルの国になるには、「夷の術を以て夷を防ぐ」しかないと考えていました。有為の人材を欧米に派遣し、現状を視察するとともに、陸海軍事技術、海防、築城の技術を直接、習得させる必要があると考え、その就業期間は3年と見込んでいました。

 この考えは、佐久間象山から、吉田松陰を経て、長州の藩士たちに受け継がれました。

■長州ファイブ
 
 長州藩の藩士、井上聞多は1863年、海軍学の習得を目指し、イギリスへの密航を企てました。同志2人を誘い、藩の上層部に申し出たのです。アジアの情勢、世界の情勢を知っている桂小五郎らが奔走したところ、藩から内命が下りました。

 4月18日、渡された論告書には、次のように書かれていました。

 「海外に渡り学業に励みたいとのこと、鎖国の現時勢では許可し難いが、外国といったん戦いを交えてしまえば、外国のすぐれた技術を学ぶことも難しくなる。そこで三人には五年間、「御暇」を下されるから、その間に「宿志」を遂げ、帰藩後は「海軍一途」をもって奉公するように努力せよ」(※ 犬塚孝明、前掲、p.120.)

 当時、密航すれば、死罪でした。長州藩としては、公然とは申し渡しができません。そこで、藩主毛利敬親は、論告という形で、三人の海外渡航を黙許したのです。

 海軍力の強化と西洋事情の研究が、喫緊の課題になっていたからにほかなりません。三人の渡航を知った伊藤博文と遠藤謹助も参加を申し出て、認められました。

 黙許とはいえ、藩主から渡欧を認めてもらうことができ、ほっとしたのもつかの間、次に彼らは、巨額の渡航費用の捻出に悩まなければなりませんでした。1年間の滞在費を含めると一人1000両は必要と聞かされたのです。

 藩主の手許金から支給された額では足りず、藩が銃砲購入資金として確保していた準備金から5000両を借り、ようやく資金の目途がつきました。

 渡航からロンドンでの生活の手配等については、駐日イギリスや、ジャーディン・マセソン商会(横浜・英一番館)、長崎のグラバー商会らの協力を得て行われました。そして、イギリス留学中は、ジャーディン・マセソン商会創業者の甥にあたるヒュー・マセソンが世話役として対応してくれることになりました。

 こうして準備を終えた一行は、1863年5月12日、横浜港を密かに発ちました。一週間ほどで上海に着きましたが、井上馨、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤博文、野村弥吉の5人は、初めて見た上海に驚いてしまいました。

 当時の上海は、東アジア最大の西欧文明の中心地として発展していました。彼らは、上海の繁栄と100艘以上の外国軍艦およびその他の蒸気船を目の当たりにして、世界認識が変わってしまったのです。

 明らかな技術の差、経済力の差を見て、彼らはすぐに、「攘夷」という考えがいかに無謀かを理解したのです。もはや鎖国を続けることはできず、外国を追い払うこともできず、早々に、開国せざるをえないと思うようになったのです。

 出発から4か月後の9月下旬に、一行はロンドンに着き、ロンドン大学で教授の指導を受けながら、分宿して語学勉強に取り組みました。

 ロンドンで撮影された写真が残されています。


(※ Wikimedia。図をクリックすると、拡大します)

 写真には、次のような説明が付いていました。

 「The Chōshū Five (長州五傑) were members of the Chōshū han of western Japan who studied in England from 1863 at University College London under the guidance of Professor Alexander William Williamson.」(※ Wikimedia)

 「長州五傑は、西日本の長州藩のメンバーで、1863年からロンドン大学で、アレクサンダー・ウィリアム・ウィリアムソン教授の指導の下で学んでいます」と書かれています。

 上段左が遠藤謹助、上段中が野村弥吉、上段右が伊藤俊輔(博文)、下段左が井上聞多(井上馨)、下段右が山尾庸三です。

 いずれも、丁髷を切り、スーツ姿で革靴を履いています。意気揚々とカメラに収まる姿は自信に満ちて見えます。異国の地で日夜、勉学に励み、進んだ学識や技術を身につけていることを実感し、やがては国のために働けると思っているからでしょう。

 井上と伊藤は海軍航海術、野村、山尾、遠藤は分理化学を専攻する予定でした。ところが、1864年、列強が長州藩を攻撃していることがロンドンの新聞に書かれていました。長州藩が列強と戦っていることを知ると、伊藤と井上は、さっそく帰国を決意します。

 列強と戦うことは無謀であると藩を説得するためでした。藩が滅亡するのを救うには、攘夷ではなく、開国だと説得しようとしたのです。

 伊藤と井上はわずか半年ほどロンドンに滞在しただけで帰国し、なんとか藩論を変えようと努力します。ところが、伊藤らの説得は、長州藩士たちを動かすことはできませんでした。

 結局、8月の下関戦争で、長州藩は英・仏・米・蘭の四カ国連合艦隊に敗れてしまいました。欧米との圧倒的な技術の差に負けたのです。敗北の結果、講和のための賠償金も大変な額でした。

 列強と和議交渉を担当したのが、高杉晋作と通訳を務めた伊藤でした。二人は、5つの講和条件のうち、賠償金と彦島の租借については拒絶を貫き通しました。おかげで賠償金は幕府が払うことで合意され、彦島の租借は回避することができたといいます(※ Wikipedia)。

■それぞれの貢献

 ロンドンに残った遠藤、野村、山尾はそのまま5年間、滞在して勉学に励み、卒業してから、帰国しています。帰国後は、それぞれの分野で近代国家建設のために貢献しています。

 遠藤は、造幣局の設置に貢献し、1881年に造幣局長になりました。日本の貨幣制度を整備し、近代日本造幣の粗とも呼ばれています。また、野村はロンドン大学で鉱山・土木を学び、帰国後は、鉄道頭になり、品川・横浜間の鉄道敷設をはじめ、京都・神戸間、そして、1889年には東海道線を全通させました(※ Wikipedia)。

 そして、山尾は帰国後、新政府に出仕し、工部省・工学寮設置を建白し、翌年工部省を得設立しました。1880年には工部卿となっています。

 わずか半年余りで日本に帰国した伊藤は、近代国家建設のため、手腕を発揮します。岩倉使節団に副使官として12カ国を歴訪し、帰国後は政府要職に就き、1885年に、初代総理大臣になっています。

 伊藤と共に帰国した井上は、明治政府樹立後は要職を歴任していましたが、1873年に辞職し、以後、実業界で活躍しました。1876年に渡欧し、財政経済を研究し、資本主義理論を学んでいます。1885年には外務大臣に就任し、実業界や外交で活躍しています。

 興味深いのは、長州ファイブといわれる5人のうち3人が、1863年1月31日の品川御殿山のイギリス公使館焼き討ちに参加していたことです。高杉晋作隊長の下、井上馨、伊藤博文が火付け役、山尾庸三が斬捨役として参加していたのです。

 イギリス公使館に焼き討ちを仕掛けたというのに、それから3カ月もしないうちに、イギリスへの密航を企て、しかも、首尾よく、藩主から論告を取り付けているのです。

 見つかれば、斬首の危険を冒してまで、幕末にイギリスに密航したのが、長州藩の藩士たちでした。黙許されたのは、欧米の技術や学術が藩にとっても必要だったからにほかなりません。

 密航した5人がその後、それぞれの領域で近代国家建設のために貢献していることを思うと、彼らにも、黙許した藩にも、先見の明があったといわざるをえません。

 5人のその後を見ていると、激動の時代、何が必要で、何をしなければならないかを見極める嗅覚が必要だということを感じさせられました。
(2023/6/30 香取淳子)

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