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生活文化

彼岸花が今、満開です。

■入間川遊歩道の彼岸花
 2020年10月2日、お天気がいいので入間川遊歩道を訪れてみました。つい先日、こちらに来た時はまだ道路脇に彼岸花は咲いていませんでした。ところが、今回は赤い花が満開で、眩いほどでした。

こちら 
(遊歩道脇の彼岸花、図をクリックすると、拡大します)

 ふと、道路際を見ると、桜の巨木の下に満開の赤い彼岸花が群れて咲いています。

こちら →
(満開の彼岸花、図をクリックすると、拡大します)

 豪華な花の絨毯です。その先に、入間川がゆったりと静かに流れているのが見えます。穏やかな秋の日の幸せを感じさせられます。

 再び、遊歩道に戻ると、両側に赤と白の彼岸花が咲いていました。

こちら →
(紅白の彼岸花の遊歩道、図をクリックすると、拡大します)

 まるで慶事を迎えているような気分になります。

 すっかり忘れていましたが、彼岸花は赤い花ばかりではなく、白い花もあります。紅白の花に彩られたこの遊歩道はさしずめ、慶事への道といっていいのかもしれません。

 ふと気になって、道路側に降りてみました。

■赤い彼岸花、白い彼岸花
 階段際にも白を赤の彼岸花が咲いていました。

こちら →
(階段脇の彼岸花、図をクリックすると、拡大します)

 白い彼岸花と赤い彼岸花がそれぞれ一塊になって、階段脇を華やかに彩っていました。何の変哲もない階段がひときわ輝いて見えます。

 道路側から見ると、赤い彼岸花が層をなして花開き、その間に白い彼岸花が興趣を添えています。

こちら →
(鮮やかな赤のボリューム、図をクリックすると、拡大します)

 鮮やかな赤のボリュームに圧倒されそうです。

 さらに進むと、今度は白い彼岸花が際立っているところがありました。

こちら →
(白い彼岸花、図をクリックすると、拡大します)

 白い彼岸花が三カ所でまとまって咲いており、緑色の葉の多い道路脇で存在感を放っていました。

 ふと、見上げると、桜の木の周辺に赤い彼岸花や白い彼岸花、そして、ピンク色の芙蓉の花などが咲き乱れていました。

こちら →
(巨木の下のさまざまな花、図をクリックすると、拡大します)

 まるで桜の巨木にもたれかかるように、赤や白、ピンクの花が咲いています。相互に支え合い、絡まり合って生きている姿に見えました。

■数か月で主役の交代
 道路側をさらに歩いていくと、手前に赤、少し先に白の彼岸花が群生しています。その背後には葉を落とした桜の巨木が見えました。

こちら →
(桜の木の下で、図をクリックすると、拡大します)

 つい数か月前はこの遊歩道の主役だった桜が今では、咲き誇る彼岸花の脇役となって、その鮮やかさを引き立てています。日の移ろいを感じさせられます。

 さらに歩くと、今度はアジサイの葉の下に赤い彼岸花が群れて咲いていました。つい先日、目を楽しませてくれていたアジサイの花が、いつの間にか茶色に変色し、そしてまた、いつの間にか、葉だけになっていました。

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(アジサイの葉の下の彼岸花、図をクリックすると、拡大します)

 その葉の下に陰ができており、赤い彼岸花が身を寄せ合うように咲いていたのです。その様子はまるで強い太陽の光を避けているようにも見えました。主役の座を降りたアジサイが真っ盛りの彼岸花を守っていたのです。

 このように遊歩道の主役は次々と変わっていき、その都度、さまざまな美しさを見せてくれます。

■次の主役がスタンバイ
 再び、遊歩道に戻ると、左手に芙蓉がピンク色の花を咲かせているのに気づきました。鮮やかなアジサイに気を取られ、まったく気づきませんでした。ところが、芙蓉がいつの間にか、ひっそりと優雅な姿を現していたのです。

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 次の主役として、芙蓉がスタンバイしているのでしょうか。

 川に向かって彼岸花が草むらに真っ赤な色を添えています。それを見守るかのように、道路に影を落としながら、芙蓉の花がゆったりと揺れていました。

 入間川遊歩道を歩いていると、時がうつろい、そして、循環していくのを、折々の花の姿によって知らされます。陽光を浴びながら花々を見、入間川のゆったりとした流れを見ていると、格別の味わいが感じられます。ささやかな幸せを実感できるひとときです。(2020/10/2 香取淳子)

彼岸花が咲きました。

■川辺の彼岸花
 2020年9月19日、久しぶりに入間川の遊歩道を訪れてみました。暴風雨の後だったせいか、たくさんの桜の葉は吹き飛ばされて地面に落ち、その一部が歩道脇に溜まって、落ち葉の層が出来ていました。それぞれが黄褐色に色づいており、一足早い秋の訪れを感じさせられます。

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(落ち葉の遊歩道、図をクリックすると、拡大します)

 日中はまだ30度近い気温が続いていました。歩くと汗ばみ、木陰が恋しくなるほどです。外にいると、いまだに夏だとしかいいようがありません。とはいえ、そんな中でも時折、そよ吹く風に微かな冷気が感じられます。

 そういえば、騒がしかったセミの鳴き声もひと頃よりは勢いが衰えてきました。夜になれば、虫の音が聞こえてきます。耳を澄ませ、注意深く周囲を見れば、そこかしこに秋の気配を感じることができます。これまで気づかなかっただけで、秋は着実に訪れてきているのです。

 遊歩道の脇に目を向けると、もはや夏はすっかり去っていることがわかります。

こちら →
(落ち葉の向こうに赤い花、図をクリックすると、拡大します)

 つい先日まで青々と輝いていた桜葉は、いつの間にか落ち、遊歩道沿いの土手は秋色に染め上げられていました。色変わりした落ち葉がなだらかなスロープ上に拡散し、まるで川辺に秋を運んでいるかのようです。

 近づいて見ると、スロープの先にうっすらと赤い花が咲いているのが見えました。その手前には桜木の枝があり、低く垂れています。枝先は川に向かって細く伸び、遊歩道からのヒトの視線を赤い花に誘導しようとしているかのように見えます。

こちら →
(小枝の先に赤い花、図をクリックすると、拡大します)

 さらに近づくと、ちょうどその枝先にかかるところに、赤い花がいくつか咲いています。どうやら彼岸花のようです。

こちら →
(彼岸花、図をクリックすると、拡大します)

 近づいてみると、たしかに、彼岸花でした。

■長い茎に支えられた彼岸花
 なだらかなスロープを降りていくと、また別の場所に彼岸花が群生していました。

こちら →
(群生する彼岸花、図をクリックすると、拡大します)

 どの花も長い茎に支えられ、すっくと立っている姿が印象的です。

 スロープを上っていくと、綺麗に花開いた彼岸花がありました。アップで撮影したのが次の写真です。

こちら →
(彼岸花アップ、図をクリックすると、拡大します)

 長く伸びた茎に上に、独特の形状をした花がかすかに揺れています。細く優雅な曲線がとても印象的です。大きな赤い花弁が鮮やかで、ひときわ目立っていました。とはいえ、どこかしら寂しげな風情が漂っているのが気になります。

 孤立して咲いているからでしょうか。

 そう思って周りを見渡すと、すぐ近くに、まとまって咲いている彼岸花が目に入りました。

こちら →
(すっくと立つ彼岸花、図をクリックすると拡大します)

 桜の木の傍で、数本の彼岸花が支え合うように、寄り添って咲いています。豪華な赤い花弁がことさらに際立って見えます。ところが、どういうわけか、これらの花にもそこはかとない寂寥感が漂っています。

 何故、そう思ってしまうのでしょうか。

 しげしげとみているうちに、どの花も葉がないことに気づきました。すっくと伸びた長い茎の上に、大きな赤い花が載っているだけなのです。改めて全体を見ると、何とも奇妙な姿でした。見下ろすと、川べりで咲いている数本の彼岸花にも、同じように葉がありません。

 そこはかとなく寂寥感が漂っているように思えたのは、おそらく、この花の茎にはひとつも葉が付いてなかったからでしょう。本来あるべきものがないので、欠落感、喪失感を覚え、この花自体が寂しそうに見えたのかもしれません。

 喪失感といえば、全国どこでも、毎年、お彼岸の頃になると咲くといわれています。Oxford Languagesの定義によると、彼岸には、①向こう岸、②仏道に精進して煩悩を脱し、涅槃に達した境地。この二つの意味があります。

 彼岸とは「あの世」を指し、故人がいる世界を意味します。日本人にはこの彼岸の時期にお墓参りをする風習があります。お墓参りをすることによって、故人を偲び、感謝し、日々の煩悩を振り払うことによって、安寧の心境を得ることを行事化しているのです。

 彼岸花はまさにお彼岸のための花でした。

 私が子どもの頃は、この花を「曼殊沙華」と呼んでいました。「まんじゅしゃげ」という音の響きにかすかな違和感があって、馴染めないものがありました。それは、初めてこの花を見たのがお寺だったせいか、ちょっと恐いような、不吉なイメージがあったからかもしれません。

■ちょっと不吉なイメージの彼岸花
 なんだか気になったので、調べてみると、水戸市植物公園園長の西川綾子氏は彼岸花について、次のように言っています。

「まず花が咲き、後から葉っぱが伸びるという通常の草花とは逆の生態をもっています。その葉と花を一緒に見ることがない性質から「葉見ず花見ず」と呼ばれ、昔の人は恐れをなして、死人花(しびとばな)や地獄花(じごくばな)などと呼ぶこともありました」
(※ https://horti.jp/2459)

 たしかに、土手に咲いた彼岸花を見ると、葉がありませんでした。明らかに一般の花とは異なっていました。まっすぐに伸びた茎の印象がことさらに強く、どこかしら寂しげな様子に見えたのですが、それが、西川氏の説明でわかったような気がします。

 彼岸花は一般の草花とは逆の生態を持っており、その異質性が見る者に違和感を与え、寂寥感を覚えさせていたのかもしれません。

 私はふと、子どもの頃、彼岸花を縁起のよくない花だと思い込んでいたことを思い出しました。そのような思いの源泉もまた、西川氏の説明でわかったような気がします。

 昔の人はこの花を「死人花」とか「地獄花」と呼んでいたと西川氏はいいます。この花を恐れ、不吉だと思うからこそ、そのような名前で呼んでいたのでしょう。見た目が変わっているだけではなく、この花の名称そのものが不吉なイメージを拡散していたのです。

 実際、彼岸花につけられた別名を見ると、「幽霊花」「剃刀花」「狐花」「捨子花」「毒花」「痺れ花」といった具合に、ロクなものがありません。縁起でもないものばかりです。

 これでは誰もこの花に寄り付こうとしないでしょう。

 西川氏は、「彼岸花の球根には毒があります。地中に潜むモグラやネズミは、他の植物の根はかじっても、彼岸花のものはかじらないと言われています」と説明しています(※ 前掲)

 なんと恐ろしいことでしょう。彼岸花は有毒だというのです。だからこそ、昔の人はこの花に近づかないように警告を発する意味で不吉なイメージの名前をつけていたのかもしれません。

 彼岸花には「花全体にリコリンやガラタミンなど約20種の有毒アルカロイド」が含まれています。誰もがつい手に触れてしまう、花全体に有毒アルカロイドが含まれているというのです。

 調べてみると、アルカロイドは、「“Alkali”(塩基)と“oides”(~類)を語源とした言葉」で、塩基性のものが多いが、イヌサフランに含まれるコルヒチンのように塩基性のないアルカロイドも存在する」そうです。

 そして、「モルヒネなどを含むアヘンや、ツボクラリンなどを含むクラーレのように、強い生理作用をもち、古くから薬や毒として使われてきた」と説明されています
(※ https://dic.nicovideo.jp/a/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%83%89)。

 花全体が有毒だというのですから、近づかないよう注意喚起する必要があります。一連の不吉な名前はそのための昔の人の知恵といえるでしょう。

 しかも、毒があるのは花ばかりではありませんでした。

 花が咲かない時期の彼岸花は、「ノビルやアサツキに似ている植物で、誤って食べてしまい体調を崩す」ことがよくあるそうです。しかも、「誤って食べた場合、特別な解毒剤などはないため、催吐薬や下剤を投与しての対症療法を行う必要がある」といわれています(※ https://horti.jp/3233)。

 さらに毒性の強いのが球根だそうです。「毒は特に球根に多く含まれ、毒抜きせずに食すと30分以内に激しい下痢や嘔吐に見舞われ、ひどい場合は呼吸不全や痙攣、中枢神経麻痺といった深刻な症状を引き起こす」といわれています。

 彼岸花には、「球根1gあたりに約0.15mgのリコリン、0.019gのガラタミンを含んでいる」とされていますが、「リコリンの致死量は10gなので、球根を1個食べても重篤な症状に至ることは基本的に少ない」そうです。とはいえ、「乳幼児が摂取して中毒症状が起こった場合、嘔吐物が気管内に吸い込まれて窒息してしまう場合がある」そうです(※ 前掲)。

 花にも茎にも、そして、球根にも毒があるなんて・・・、なんと危険な植物なのでしょう。想像もしませんでした。

 とくに球根に毒をもつ植物として、彼岸花は古くから知られていたようです。「球根に毒があるので、地中の動物にも効果があると信じられており、そのため、彼岸花は昔からお墓の近くに植えられてきた」そうです。それは、「もぐらやネズミ、土中の生き物から土葬した遺体を守り、傷つけられないようにするため」でした(※ 前掲)。

 調べれば調べるほどいろんなことがわかり、ますます彼岸花が不吉な花に思えてきます。

■曼殊沙華
 彼岸花には「曼殊沙華」という別名があります。私は子どもの頃、この花を曼殊沙華と呼んでいました。お寺で見かけ、そのとき一緒にいた祖母から「まんじゅしゃげ」だと教えてもらったからです。そのせいか、この花からお寺やお経を連想していたのですが、今回、調べてみて、そのことを確認することになりました。

 「曼殊沙華」という言葉を調べていると、「法華経」に行きつきました。

 『法華経』第一序品に、「是時天雨曼陀羅華。摩訶曼陀羅華。曼殊沙華。摩訶曼殊沙華。而散仏上。及諸大衆。」という文言があります。この文言の中に、「曼殊沙華」という言葉が出てきます。曼殊沙華については、「柔らかく白い天界の花」のことで、「この花を見るものを悪業から離れさせるという意味がある」と説明されています。
(※ https://www.kosaiji.org/hokke/kaisetsu/hokekyo/1/01-2.htm)

 この中では、「曼陀羅華」という言葉と対のようになって出てきますが、こちらは「色が美しく芳香を放ち、見るものの心を悦ばせるという天界の花」という意味だそうです。(※ 前掲)。

 このような説明を総合すると、この文言は、「この時、天から曼陀羅華、摩訶曼陀羅華、曼殊沙華、摩訶曼殊沙華といった天界の花がふってきて、仏と人々の上に降りそそいだ」というような意味になるのでしょうか。

 また、「曼殊沙華」には「この花を見るものを悪業から離れさせる意味がある」と説明されていました。ですから、この花には人を防衛したり、守護する機能があるといえます。

 先ほど、彼岸花には花も葉も茎も根もすべて毒があると説明しました。曼殊沙華の説明に従えば、有毒なので、他のものから受ける被害を食い止める効果があるといえます。

 そういわれて思い出すのは、次のような説明でした。

 精製された彼岸花の球根は、「石蒜(セキサン)」や「ヒガンバナ根」の名で漢方薬として利用されることがあります。消炎作用や利尿作用があり、茎を刻んで搾取した汁で患部を流すとよいとされているほか、根をすりつぶしたものを張り薬にすると、むくみやあかぎれ、関節痛を改善する効果が期待されます。また、最近では彼岸花に含まれるガランタミンが記憶機能を回復させるとして、アルツハイマー型認知症の薬に利用されるようになりました。(※ https://horti.jp/3233)

 まさに、毒と薬は表裏一体なのです。

 この花にはさまざまな不吉なイメージの名前がありました。それが今、ほぼ彼岸花、あるいは曼殊沙華で統一されています。この二つの名前には、毒性を持ったこの花のポジティブな側面とネガティブな側面とが表現されており、昔の人々の知恵を引き継ぎ、名称が定着してきたプロセスが感じられます。

■俳句に詠まれた彼岸花(曼殊沙華)
 彼岸花はその独特の花の形状や不吉なイメージから、古来、数々の和歌や俳句に詠まれてきました。俳句では秋の季語になっていますから、数多くの秋にちなんだ句が詠まれています。
(※ http://www5c.biglobe.ne.jp/~n32e131/aki/higanbana.html)

 ここでは正岡子規と夏目漱石の句を取り上げ、見ていくことにしましょう。

 たとえば、正岡子規に次ぎのような句があります。

 「秋風に枝も葉もなし曼殊沙花」

 見たままを詠み込んだ、とてもシンプルな句です。とはいえ、彼岸花(曼殊沙華)の花の特徴がしっかりと押さえられており、ありのままの自然を見つめようとする子規の作家としての姿勢を見て取ることができます。

 「葉見ず花見ず」として知られた彼岸花(曼殊沙華)には、花が咲く時期には葉がなく、花が枯れた後に葉がでるという特徴がありました。そこからさまざまな言い伝えが生まれ、さまざまな印象形成がされてきました。

 また、子規には次のような句があります。

 「ひしひしと立つや墓場のまん珠さげ」

 先ほどの句は「曼殊沙花」と表現されていましたが、この句は「まん珠さげ」と表現されています。ですから、この「珠」はおそらく、数珠を表現しているのでしょう。数珠を手にさげ、お墓の前で先祖の安寧を祈っている人の姿が浮かびます。

 一方、「まん珠さげ」を「曼殊沙華」と読み替えれば、この句は、花と茎しかない曼殊沙華が墓場でまっすぐ立っているという、見たままをスケッチ風に表現された句になります。

 茎だけでまっすぐ立っている曼殊沙華の姿には、「ひしひしと」としか表現できない緊張感が込められています。そこに正岡子規の鋭敏な感性と知性が感じられます。

 先ほどいいましたように、曼殊沙華は球根に強い毒性を持っています。だからこそ、曼殊沙華は墓場に植えられることが多く、収められた遺体を動物から守る使命を帯びていたのです。正岡子規が生きた明治の頃はまだその名残があったのでしょう。スケッチ風にシンプルに表現しながら、曼殊沙華の特性を踏まえ、本質を突いた句になっています。

 一方、夏目漱石に次のような句があります。

 「曼珠沙花あつけらかんと道の端」

 この句には、いかにも漱石らしいユーモアがあります。「あっけらかんと」という語には諧謔性があり、「道の端」という表現には庶民性があります。そして、「あっけらかんと道の端」になると、道端や川辺など卑近な場所に咲くことに、権力に阿らない自由、高邁な理想主義に馴染まない庶民性強調されます。漱石は共感を込めてこの句を創ったのでしょう。

 また、漱石には次のような句もあります。

 「仏より痩せて哀れや曼珠沙華」

 この句もまた、いかにも漱石らしいシニカルな表現が印象的です。仏には断食などの修行を重ねて悟りを開くというイメージがあります。ですから、仏は「痩せて」いるというイメージが一般的です。

 ところが、漱石はその「仏より痩せて哀れや」という印象を曼殊沙華に抱いているのです。法華経によれば、曼殊沙華は天から降ってくる吉祥の花です。ところが、茎だけで葉のない曼殊沙華は「痩せて」貧相に見えます。果たして、天の花の御利益があるのかという皮肉が「哀れや」という語に込められています。

 漱石は、「痩せて」という語に植物としての曼殊沙華の特性を詠む一方、過酷な修行をして悟りを開くということに疑問を投げかけています。権威に阿らず、自身の観察力を信じた漱石ならではの皮肉が込められているのです。

 正岡子規と夏目漱石の彼岸花(曼殊沙華)を詠んだ句を見比べてみると、両者とも彼岸花(曼殊沙華)の特性に着目し、自身の持ち味を生かしながら、句を創っていることがわかります。

■彼岸花の両義性
 埼玉県日高市には巾着田曼殊沙華公園という彼岸花の名所があります。ここには彼岸花約500万本が自生しており、毎年9月中旬から咲き始めます。例年、全国から20万人以上の観光客が訪れていましたが、今年は新型コロナウイルス感染拡大防止のため、花が咲き始める前に芽が刈り取られたようです。

こちら →
https://news.yahoo.co.jp/articles/dae271111698e95983150d55741e553fb9e16cfa

 そこまでする必要があるかと思いますが、コロナ感染予防のために、罪のない彼岸花が花の咲く前に刈り取られてしまったというのです。コロナによってまた一つ、人々の楽しみが奪われました。

 いつも通りなら、次のような華麗な光景を見ることができるはずでした。

こちら →
(tabi channelより)

 彼岸花が群生すると、この世のものとも思えない艶やかで豪華な世界が創り出されます。

 毎年、数多くの観光客が訪れていたのも、このような滅多にみることのできない美の世界が生み出されていたからでしょう。赤く染め上げられたこの辺り一体は、自然の力が生み出す魔界といってもいいかもしれません。

 ふと、彼岸花の英語名が「red magic lily」だということを思い出しました。興味深いことに、その名称に「magic」という語が使われているのです。洋の東西を問わず、人々は彼岸花の異質性に魔力を感じていたのでしょうか。

 先ほどもいいましたが、彼岸花には毒性がある一方で、薬効もあります。少し補足しておきましょう。

 熊本大学薬学部・薬草園・植物データベースでは、以下のような薬効がまとめて紹介されています。

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 鎮痛作用があり,肩こり,膝の痛みに,すりおろした鱗茎をガーゼや布に包んで足の土踏まずに貼る.体のむくみにも同様に利用する.全草に強い毒性があるため口にしてはいけない.鱗茎にはデンプンを多く含むため,砕いた鱗茎を水にさらして毒性を除いて食用にされた.鱗茎をすりつぶし糊状にしたものは,屏風やふすまの下張り使うと虫が付かないとされ,昔利用されていた.
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(http://www.pharm.kumamoto-u.ac.jp/yakusodb/detail/003655.php)

 こうしてみると、彼岸花はまさに両義性の植物だといえるでしょう。

 再び、遊歩道に戻ってみると、桜の木の大きく垂れた枝の下に、彼岸花がそっと寄り添うように咲いているのが見えました。

こちら →
(大きく垂れた枝の下の彼岸花、図をクリックすると、拡大します)

 おそらく、ここでも毒性の強い彼岸花の球根が、川辺の土中の植物の根などを動物による被害から守っているのでしょう。桜の木がこれほど大きく」枝を伸ばせるのも、そのような影の力があるからだと思うと、急に、彼岸花が可憐でいとおしく思えてきました。
(2020/9/23 香取淳子)

続 雨上がりの午後、アジサイを鑑賞する。

 このたび、アジサイの色が、土壌のせいだけではなく、時の経過によっても変化することを知りました。それからというもの、はたして実際にそうなのか、この目で確認したくて仕方がありませんでした。ところが、その後、雨が続き、なかなか出かけることができません。

2020年6月21日、ようやく雨が上がりましたので、さっそく、入間川遊歩道に行ってきました。

■色変わりしていたアジサイ
 着いてみると、数日前とは様相が大きく異なっていました。まず、前回、ご紹介した場所のアジサイを見てみましょう。


(図をクリックすると、拡大します)

 6月14日の午後、この辺りのアジサイは白に近い薄紫色でした。ところが、その一週間後、訪れてみると、花の色はほとんどが赤く変色していました。

 念のため、道路側に降りてみましたが、やはり、薄い紫色だったアジサイが赤くなっていました。一斉に色づき、しかも、どの花も一回り大きくなっています。


(図をクリックすると、拡大します)

 赤くなったアジサイの一つに近づいて見ると、気のせいか、やや萎れているように見えました。さらに目を近づけると、褪せたような色の花びらには筋が縦にいくつも入っています。

 ふと、幼いころに見た祖母の手の爪を思い出しました。

 ある日、祖母は手を広げて爪を見つめながら、しみじみとした口調で小学生の私に、「年を取ると、爪に筋が入るようになる」といったのです。見ると、祖母の爪には縦に筋がたくさん入っていました。どのような脈絡でそのような話になったのか、すっかり忘れてしまいましたが、祖母の爪としみじみとした口調だけは記憶に残っています。

 祖母によれば、爪に縦筋が入るようになるのが老化のシグナルの一つでした。だとすれば、この花びらもまた、老化が進行しているといえるでしょう。

 それでは、アップしてみましょう。


(図をクリックすると、拡大します)

 見ると、確かに、花びらには勢いがありません。ところが、花びらの色に差異はなく、ほぼ均等に変化しています。ですから、この花の場合、どの部位も一様に老いているといえるでしょう。青から赤への変化が完了し、やがて枯れていく(死)ための準備段階に入ったように見えます。

■老化現象のタイムラグ
 何気なく周辺を見渡してみると、すべての花びらが完全に赤くなっているわけではなく、わずかに青い部分が残ったアジサイもありました。見てみましょう。


(図をクリックすると、拡大します)

 手前の花を見ると、多くの花びらが赤く変色している中で、微妙に青色が残っている箇所があります。その後ろの花は逆に、青い花びらが多い中、赤に変化しかかっている箇所が見えます。

 興味深いことに、どちらも花びらの色が一様ではなく、場所によって微妙に異なっています。改めて、同じ株の花でも、同じ土壌の花でも、色の変化にはタイムラグがあることがわかります。

 見ているうちに、ふと、ヒトの老化も同じようなものではないかという思いが胸を過ぎりました。一定の年齢になると、ヒトには、膝の痛み、ぎっくり腰、歯の痛みやぐらつき、内臓疾患、高血圧などの老化現象が、さまざまな身体部位に現れます。

 同じ年齢の人でも老化現象は一様ではないと思った途端、アジサイの色の変化、そして、その微妙な差異が、なんだかとても人間臭く思えてきました。目の前のアジサイはそれぞれ、バリエーションに富んだ色合いで、その存在を誇示しているようにも見えます。


(図をクリックすると、拡大します)

 微妙に異なる色の組み合わせが、それぞれのアジサイの個体識別になっていました。老化による色の変化が、個体ごとにその個性を引き出していたのです。遠目からはそれが一種の華やぎに見えました。

■成熟するということ
 再び、遊歩道に戻って、歩いていくと、先日見たガクアジサイが一段と大きくなっていました。


(図をクリックすると、拡大します)

 中心部が大きくなりすぎていて、白い周辺花がそれほど目立ちません。成熟することによって、白の占める割合が相対的に少なくなってしまったからでしょう。そのせいか、先日、このガクアジサイに感じたきらきらした印象がすっかり消え失せていました。

 一週間ぶりに見たガクアジサイは、中心部も周辺花も大きく成熟する一方で、花全体からは生硬さ、初々しさが失われていたのです。このガクアジサイに、時の経過による色の変化は見られませんでしたが、時の経過による成熟は見られました。

 成熟は明らかに、成長期の輝きを花から奪っていました。

■老化にどう向き合えばいいのか
 一週間ぶりに遊歩道のアジサイを見て、まず、花の色が赤く変色していることを確認しました。さらに、花が大きく成熟していることも確認しました。いずれも時の経過(老化)による作用です。

 アジサイを遠目で見れば、ただ色が赤く変わっただけのように見えます。ところが、近づいてみると、その花びらには筋がいくつも入り、萎れていました。それを見たとき、自然は残酷に時を刻んでいくものだということを感じさせられました。

 梅雨の季節、人々の目を楽しませてくれたアジサイも、やがては萎びて枯れ、大地に戻っていくのでしょう。それが自然のサイクルなのです。その観点からいえば、この数日間のアジサイの色の変化は、滅びの前の華やかさといえるものなのかもしれません。

 ヒトも同様、老化が進み、やがては大地に還っていく定めに抗うことはできません。老化現象をどう受け入れ、身体のさまざまな機能不全と共に生きていくか、それは、超高齢化社会の日本に課せられた大きな課題です。

 アジサイのように、たとえ遠目からだけでも、そして、一瞬だけでも、成熟期の輝きを得ることができれば、その後に訪れる衰退、あるいは衰弱を潔く受け入れることができるようになるかもしれません・・・。ふっとそんな気がしました。(2020/6/22 香取淳子)

雨上がりの午後、アジサイを鑑賞する。

■雨上がりの遊歩道
 2020年6月14日の午後、雨が上がったので、入間川遊歩道に出かけてみました。着いてみると、道路際には大小さまざまなアジサイが咲き誇っていました。つい先日、見たときはまだ薄色だったのに、わずか数日で花弁はすっかり濃くなっていたのです。いかにもアジサイといった色合いの花々が、雨で濡れた遊歩道を華やかに彩っていました。


(図をクリックすると、拡大します)

 遊歩道に沿って、空色、紫、赤紫、青紫など、藍色を基調としたアジサイの花が群生しています。先の方には、かすかに赤味がかった色の花も咲いているようにみえます。色や形、大きさが異なる花々が、それぞれ存在を誇示しながらも、全体として調和しており、情緒豊かな空間が形成されていました。

 雨上がりの午後、この遊歩道を歩きながら、アジサイを鑑賞することにしましょう。

■アジサイ
 アジサイは漢字で紫陽花と書きます。アジサイの代表的な色が紫だからなのでしょうか。ここで見られる色も、淡い色調のもの、赤味がかったもの、ピンク系のものとさまざまですが、藍を含んだ紫色が基調になっているところに統一感が感じられます。

 もう少し、近づいてみましょう。


(図をクリックすると、拡大します)

 これを見ると、小さな花弁が多数、重なり合うように寄り集まって、半球形を形作っています。雨が上がったばかりなので、葉にはまだしずくが残っています。そこに憂愁が感じられ、アジサイが梅雨時の花だということを思い知らされます。

 雨に打たれ、風に倒されそうになりながらも、持ちこたえ、いったん風雨が収まれば、まるで何事もなかったかのように、しっかりと頭をもたげ、健気に咲いているところが印象的でした。

 それにしても、なんと微妙な色合いなのでしょう。薄青の花弁の中心には淡い黄色が広がっており、両者の境目がはっきりしません。色と色とが溶け合っているかのようです。薄水色が中心の花もあれば、薄黄色が中心の花もあります。それぞれの色彩バランスが微妙で、なんともいえない上品な趣があります。


(図をクリックすると、拡大します)

 この半球形のものが、いわゆる「アジサイ」と呼ばれる品種です。この季節になると、道路際や庭先でよく見かけるのが、この形状の花でした。これはごく一般的なアジサイなのでしょう。

■ガクアジサイ
 そんな見慣れた形のアジサイの隣に、形状の異なる花が群生していました。近づいてみましょう。


(図をクリックすると、拡大します)

 これらの花はどれも、真ん中がこんもりと盛り上がり、周囲は4枚一組の花弁のようなもので構成されています。ガクアジサイです。学生の頃、お茶の先生に教えてもらったことがあるので、名前は知っていました。

一風変わった形状の花ですが、群生しているのを見ると、白の花弁のようなものが濃い緑の葉に映え、遠目からはきらきらと輝いているように見えます。

 それでは、クローズアップして、このガクアジサイを見てみることにしましょう。


(図をクリックすると、拡大します)

 近づいて見てみると、中心部が大きく盛り上がっているのに対し、白い花のようなものは下方に垂れているのがわかります。盛り上がった部分には薄青と白の小さな実のような粒粒がぎっしりと詰まり、その上にさらに小さな胞子のようなものまでついています。そのせいでしょうか、中心部分にはこの花の生命が宿っているように思えます。

 一方、白い花弁のようなものは周辺に分散し、しかも、垂れています。見た目は華やかなのですが、近づいてみると、中心部に比べ、生命体としての存在感は希薄でした。

 花弁は通常、重なりあって花芯を守る構造になっていると思っていたのですが、ガクアジサイの場合、包み込む形状ではなく、隅の方で分散して広がっているだけでした。まるで守ろうとするものが何もないかのようにただ開いているだけなのです。何とも不思議な花でした。

 さっそく立ち止まり、スマホで調べてみると、粒粒に見えていたものが、実は花と花芯で、花弁だと思っていたものが、実際は、蕚片だということがわかりました(※『あじさい』2008年7月)。

 先ほどいいましたが、この花に近づくと、無数の粒粒で盛り上がった中心部に存在感があり、生命の営みが感じられました。目に見えない生命力が、この中心部分から発散されているのを感じたのです。

 説明によれば、実のように見えた粒粒は、花芯と花弁の寄り集まったものでした。そして、白い花に見えた部分は、蕚(ガク)が大きくなった周辺花でした。花ではないのに、花に見える飾り花として機能しているのです。周辺花は飾り花ですから、当然のことながら、雄蕊も雌蕊もありません。

 実際、上の写真をよく見てみると、周辺花は花弁状のガクが4枚付いているだけで、その中心部は平たく、薄く、空虚に見えます。

 私はガクアジサイの花の形状とその名前は知っていましたが、花の構造まで走りませんでした。今回、調べてみて驚きました。なんと花のように見えていた部分が、実は、蕚(ガク)だったのです。

 本来、花を支える裏方のはずが、美しい花として成長し、鑑賞者の目を引き付けていたのです。ガクが変形した周辺花でありながら、実際の花よりも鑑賞者を引き付ける魅力を放っていました。だからこそ、この花は、ガクアジサイと名付けられたのでしょう。

花弁ではないので、雄蕊、雌蕊を守り支える必要はなく、その機能もないガクが、装飾性だけを追求した結果、得られた美しさだといえるかもしれません。

■日本が原産地
 ガクアジサイは日本が原産地だといいます。

 Wikipediaでアジサイを調べると、原種は日本に自生するガクアジサイだと書かれています。最初にご紹介した、いわゆるアジサイは、ガクアジサイを改良して園芸品種にしたものだそうです。ガクアジサイの周辺花を多数重ね、球形になるように改良されたのが、この季節によく見かける、ごく一般的なアジサイだというわけでした。

 典型的な青紫のアジサイが、この遊歩道脇にも咲いていました。小さな花びらが凝集し、ボールのように丸い形をしています。

この花をクローズアップして見ることにしましょう。


(図をクリックすると、拡大します)

 近づいてみると、重なりあった多くの花びらのようなものは、花芯を持たず、中心部は薄黄色で、色彩で識別できるようになっているだけでした。生命につながるものは見られず、当然、その機能もなく、まさに飾り花の名にふさわしいものでした。

 こうしてみると、確かに、この花が、ガクアジサイの周辺花を多数寄せ集め、球形になるよう改良された品種であることがわかります。

 かつての日本人は、湿地に自生していたガクアジサイをこのように改良し、園芸種として普及させてきました。その結果、いまやガクアジサイよりも、アジサイの方が一般的に知れ渡っています。色といい、形といい、アジサイは日本の6月になくてはならない花になっているのです。

■コントラストが創り出す美しさ
 アジサイの陰に隠れてしまっていますが、ガクアジサイもまた、独特の美しさを備え、限りなくヒトを魅了します。

 少し歩くと、青と黄のコンビネーションの美しいガクアジサイが咲いていました。


(図をクリックすると、拡大します)

 色彩のコントラストが鮮やかで、目立ちます。この花を見ていると、あらためて、青と黄色が補色関係にあることを思い知らされます。色彩のコントラストの強さが装飾性を高め、人工的な美しさを引き出しています。大小、それぞれの花を見ていくと、周辺花の青色とその中心部の薄黄色とのバランスが微妙で、浮き立つような存在感があります。

 さらに歩いていくと、紫と薄黄のガクアジサイが咲いていました。淡い色合いでありながら、しっかりとした個性が感じられ、しかも、上品な趣があります。アップして見ていくことにしましょう。


(図をクリックすると、拡大します)

 こちらは中心部も淡い紫色と薄黄色で構成されています。花弁に見えるガクには濃い紫と薄黄が配され、中心部の丸い実のようなものには淡い紫と薄黄が配されています。色彩の微妙なコントラストに、濃淡によるアクセントが加味されて、計算されつくしたかのような美しさです。

■カシワバアジサイ
 遊歩道を降りて、さらに、歩いていくと、奇妙な花に出会いました。


(図をクリックすると、拡大します)

 一般に、花は上を向いて咲くものなのに、この花は首を垂れ、下を向いています。花を支える茎が折れてしまったのかと思い、近づいてみましたが、そんなことはありませんでした。花弁部分が異様に大きく、しかも、垂れていたので、折れているように見えていただけでした。

 こんなふうに下を向いて咲く花もあるのかと興味をそそられ、周囲を見回してみましたら、他にも似たような花がいくつかありました。桜木の下には、これと似たような花がいくつか咲いていました。横向きになっているものがあれば、いまにも首が折れてしまいそうなものもあります。いずれも花がまっすぐに立っていないのです。不思議な光景でした。


(図をクリックすると、拡大します)

 再び、立ち止まって、スマホで調べてみると、この形状の花は、カシワバアジサイというのだそうです。花は八重で、長い穂になって咲くといいます。葉の形が柏の葉に似ているから、この名前が付いたようです(※ 『あじさい』2008年7月)。

 もう一度、上記の写真を見てみましょう。

 確かに、説明されたように、葉は柏の葉に似ています。花は八重で、長い穂にもなっています。ところが、なぜ、このように垂れて咲いているのか、その説明がないので、腑に落ちませんでした。なぜ、このような形状になってしまったのでしょうか。ちなみにこの品種の原産地は北米東部だそうです。

 釈然としないまま、遊歩道を歩いていると、陽が射してきました。雨上がり後、木々の間隙を縫って、突如、陽光が射しこんできたのです。その陽射しを受けて、アジサイの発色が良くなったような気がします。

 色とりどりのアジサイがことさらに輝いて見えました。


(図をクリックすると、拡大します)

 アジサイといえば紫色というのが一般的なイメージですが、ここでは、赤味の強いピンク、水色、薄紫、薄黄色など、それこそ色とりどりの花弁が豪華絢爛、見応えがありました。

 不思議なのは、同じところに咲いているのに、なぜ、これだけバラエティ豊かな色彩をしているのか、ということです。中には同じ株のものもあるでしょう。それなのに、なぜ、これだけ多様な色彩のアジサイが一か所に群れて、咲いているのでしょうか。

■アジサイの花の色
 Wikipediaで調べてみました。すると、アジサイの花の色については次のように書かれていました。とても詳しく説明されているので、関連部分だけ抜き出して、引用しておきましょう。

「アジサイは土壌のpH(酸性度)によって花の色が変わり、一般に「酸性ならば青、アルカリ性ならば赤」になると言われている(リトマス試験紙と逆なので注意されたい)。これは、アルミニウムが根から吸収されやすいイオンの形になるかどうかに、pHが影響するためである。
すなわち、土壌が酸性だとアルミニウムがイオンとなって土中に溶け出し、アジサイに吸収されて花のアントシアニンと結合し青色を呈する。逆に土壌が中性やアルカリ性であればアルミニウムは溶け出さずアジサイに吸収されないため、花は赤色となる。したがって、花を青色にしたい場合は、酸性の肥料や、アルミニウムを含むミョウバンを与えればよい。

 同じ株でも部分によって花の色が違うのは、根から送られてくるアルミニウムの量に差があるためである。花色は花(萼)1グラムあたりに含まれるアルミニウムの量がおよそ40マイクログラム以上の場合に青色になると見積もられている。ただし品種によっては遺伝的な要素で花が青色にならないものもある。これは補助色素が原因であり、もともとその量が少ない品種や、効果を阻害する成分を持つ品種は、アルミニウムを吸収しても青色にはなりにくい。

 また、花色は開花から日を経るに従って徐々に変化する。最初は花に含まれる葉緑素のため薄い黄緑色を帯びており、それが分解されていくとともにアントシアニンや補助色素が生合成され、赤や青に色づいていく。さらに日が経つと有機酸が蓄積されてゆくため、青色の花も赤味を帯びるようになる。これは花の老化によるものであり、土壌の変化とは関係なく起こる」
(※ 詳細はhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%B5%E3%82%A4)

 これを読むと、まず、アジサイの花の色は、土壌のpH(酸性度)によって変化し、一般に、酸性なら青、アルカリ性なら赤になるようです。それは、土壌が酸性だとアルミニウムがイオンとなって土中に溶け出し、アジサイに吸収され、花のアントシアニンと結合して青色になります。反対に、土壌が中性かアルカリ性なら、アルミニウムは溶け出さず、アジサイに吸収されないので、赤色になるといった具合です。

 さらに、同じ株でも部分によって花の色が違うのは、根から送られてくるアルミニウムの量に差があるからだそうです。こうしてみると、アジサイの花の色はどうやら、土壌の酸性度、アルミニウム、個別株の遺伝的な要素などに影響されるといえそうです。

 そればかりではありません。開花からの経過時間によっても、花の色は変化するようです。

 そういえば、確かに、数日前に遊歩道で見かけたアジサイの色が、今回、濃い青色に変化していました。時間が経過すると、赤味を帯びるようになると説明されていますが、以前に見たときにはなかった赤味がかったアジサイを、今回は多数、見かけました。

 このような変化は、アルカリ性の強い土壌だからではなく、花の老化による色の変化だという説明です。土壌の酸性度ばかりではなく、時間の経過によっても、その色が変化していくという点にアジサイの大きな特徴があるようです。

 それでは、時と場所によって色が変化するアジサイを、人々はどう捉えてきたのでしょうか。

■色の変化をヒトはどうみたか
 アジサイはさまざまな種類がありますが、アジサイ全般に共通する花言葉とは、「移り気」「浮気」「変節」というものだそうです(※ https://www.creema.jp/blog/532/detail)。

 実際、アジサイの色は青から赤まで多様です。しかも、咲いたときから一貫して同じ色であり続けることもありません。このようなアジサイの色の変化は、誰もが日常的に認識できる大きな特徴です。つまり、同じアジサイでも、同じ株のアジサイでも、場所(土壌の酸性度)と時間(老化)によって、色が次々と変化していくのです。

 古来、ヒトは、アジサイの本質は、「変化」にあると見てきました。だからこそ、アジサイの花言葉として、「移り気」「浮気」「変節」を割り当てたのです。西洋アジサイの花言をみると、「移り気」「浮気」「高慢」「無常」でした。人々は洋の東西を問わず、次々と変化するアジサイの色に注目し、その特性を掬い取って、ヒトの人格に適用してきたのです。

「気持ちが変わりやすい」、「不実」、「一貫性がない」、というようなアジサイに重ね合わせた人格イメージは、万葉の時代にも見られます。

■大伴家持の和歌
 先ほど、アジサイの原産地が日本であるといいましたが、その割には、和歌に詠まれていないのが気になりました。万葉集に収録されているのはわずか2首です。そのうちの一つが、大伴家持の歌でした。

 言問はぬ 木すら紫陽花 諸弟らが 練りの村戸に あざむかえけり(第四巻 七七三)
(※ https://art-tags.net/manyo/poet/yakamochi.html)

 この歌は、大伴家持が坂上大嬢に贈った歌の一つとされています。坂上大嬢は、後に大伴家持が妻にする女性です。

 この歌の意味は次のように解釈されています。

「ものを言わない木でさえ、紫陽花のように移りやすいものがあります。(言葉をあやつる)諸弟(もろえ)たちの言葉にすっかりだまされてしまいました」
(※ https://art-tags.net/manyo/four/m0773.html)

 諸弟が何を指すのか、誰を指すのか、まだ解釈が定まっているわけではなさそうですが、大筋は理解できます。

 言葉を操るわけではない花の中にも、紫陽花のように変節しやすいものがあります。まして、言葉を操る諸弟(もろえ)ならなおのこと、変節を疑ってかかるべきなのに、騙されてしまいました・・・、というような意味なのでしょうか。

 いずれにしても、大伴家持が生きた時代にはすでに、紫陽花に「移り気」「変節」といったイメージがついていたことがわかります。

 ただ、私はこの歌をみて、「あざむかえけり」という箇所が気になりました。アジサイの色が変化していくだけで、「あざむく」という言葉を使うかしらと疑問に思ったのです。

 もっとも、アジサイの花に見えるものが実はガクで、実に見えるものが実際は花と花芯だということを、大伴家持が知っていたとすれば、話は違ってきます。花でもないものを花と思わせてきたアジサイは、ヒトを欺く花ともいえます。ですから、的を射た表現だということになります。

 このように解釈すると、この歌は「紫陽花」を取り入れることによって、季節と情感、人となり、人間関係、そして、人間観を余すところなく捉えることができているといえるでしょう。

 鬱陶しい梅雨の時期、随所で見かけるのがアジサイです。そのアジサイが、植物の通常システムから多少、逸脱していることを知って、私は大変、興味深く思いました。

 花に見えるものが花ではなくガクで、実に見えるものが実際は花と花芯であるというパラドックス、そして、場所(土壌の酸性度)と時(老化)によって、その都度、色を変えていくという変幻性、いずれも想像力を強く刺激してくれます。

 ヒトは場所と時間によって不在証明をすることができます。ところが、アジサイは場所と時間によって色を変え、見た目を次々と変貌させていきます。ですから、もしアジサイが自由に移動できるとすれば、場所と時間は不在証明にはなりません。植物なので、移動ということはありえませんが、雨の日の憂さ晴らしに、そのような想像力を働かせてみても、案外と面白いかもしれません・・・。(2020/6/18 香取淳子)

子どもの日:ショウブは私たちに何をもたらせてくれていたのか。

■子どもの日の入間川
 ゴールデンウィークだというのに、街角は人影もまばらで、閑散としています。ちょっと前まではスーパーでよく見かけていた子どもの姿も、入店規制されるようになったせいか、最近はほとんど見かけなくなりました。誰もが家に引きこもっているのでしょうか。

 それでも、スーパーではショウブが売られていました。子どもの日が近づくと、必ず、店頭に並ぶ季節商品です。入口付近に置かれているのを見かけると、わたしは、半ば条件反射的に、手を伸ばしてしまいます。

 手にした途端に、鼻を衝くのが、ちょっとクセのあるショウブの匂いです。他では経験したことのない、あの独特の香りに誘われるように、私の脳裏に、実家のヒノキの浴槽に浮かべられたショウブの葉が蘇ります。

 毎年、子どもの日になると、母はショウブを湯船に入れ、子どもたちを入浴させていました。ショウブ湯に浸かると、年中、健康でいられると言いながら、長いショウブの葉を湯に浮かべるのです。

 子どものころの私は、ショウブの匂いがあまり好きではありませんでした。ところが、母が毎年、子どもの日になると、決まってショウブ湯を使わせるので、いつしか、当然と思うようになってしまいました。

 母は年中行事を大切にする人でした。子どもの日に、ショウブ湯や粽、柏餅を欠かすことはありませんでした。ショウブにしても、粽や柏の葉にしても、どれも香りの強い植物です。とくに独特の香りを放つのがショウブでした。

 スーパーでショウブを見かけると、つい、買い求めてしまうのは、おそらく、ショウブが放つあの独特の香りのせいでしょう。あの香りがトリガーとなって、過ぎ去った子どもの日を再び、甦らせ、息づかせてくれるのです。

 5月5日、入間川遊歩道を訪れてみました。

 並木の緑は、わずか数日のうちに、いっそう濃くなっていました。時が駆け足で過ぎ去っていったのをこの目で確認しているようでした。この季節は葉の色や形、大きさが激しく変化します。可視化されているだけに、いっそう、時の過ぎるのが速いように思えるのでしょう。

■シャガ
 入間川遊歩道を歩いていると、路辺に小さな菓子箱が置いてありました。


(図をクリックすると、拡大します)

 菓子箱の中には、引き抜いたばかりの草のようなものがいくつも入っています。そういえば、以前、ここには、スイセンの球根が置かれていたような気がします。

 足を止めて、改めて見てみると、「どうぞご自由に シャガ」と書かれた紙札が添えられています。この草のようなものは、おそらく、「シャガ」という植物なのでしょう。

 すぐさま、スマホで検索してみると、アヤメ科の植物で、多年草だと説明されており、花弁の写真が掲載されていました。


(Wikipediaより。図をクリックすると、拡大します)

 模様入りの見事な花弁です。ただの草がこんなに綺麗な花を咲かせるようになるのでしょうか・・・。だとすれば、きっと、この辺に生えているはずだと思い、周辺を探してみました。

 道路に降りてみると、土手にスマホで見たのと似たような花が咲いているのを見つけました。


(図をクリックすると、拡大します)

 こちらは白ではなく、青紫ですが、ひらひらした花弁の形状が似ています。近づいてみることにしましょう。


(図をクリックすると、拡大します)

 こうしてみると、遠目には似ているように見えましたが、近づいて見比べてみると、なんだか少し違うような気がします。花の形状や模様が明らかに異なっています。シャガは模様入りと白の花弁が交互に組み合わされていましたが、こちらはそうではなく、縦に繋がって花が咲いています。しかも、シャガにはあった黄色と後の細かい斑点模様が、こちらにはないのです。

 ひょっとしたら、別の花かもしれません。気にしないで歩き進めることにしました。

■川辺で遊ぶ子ども
 川の方から子どもの声が聞こえてきました。見ると、河川敷には子どもや大人が数人、何やらのぞき込んでいます。川面に彼らの影が映り込み、のどかな光景が見られました。

 その近くに、青い小さなテントのようなものが見えます。どうやら、傍らで大人が座り込んでいるようです。ひょっとしたら、テントの中で子どもが休んでいるのかもしれません。


(図をクリックすると、拡大します)

 新型コロナウイルスのせいで、外出自粛が続いています。学校は休校になり、図書館、遊園地、公園も閉鎖です。いま、子どもたちの行き場はどこにもないのです。だからといって、いつまでも家に閉じ困っているわけにもいきません。親は思案の末、子どもの日ぐらいは・・・、という思いで、河原に家族で繰り出してきたのでしょう。

 河川敷には、のびやかな子どもたちの声に交じって、大人の声が響いていました。

 少し歩くと、川の中に入っている子どもがいました。周囲に保護者のような大人はいませんから、おそらく、地元の子どもたちなのでしょう。


(図をクリックすると、拡大します)

 それぞれ網のようなものを持ち、夢中になって、川面を覗いています。小魚でも獲っているのでしょうか。

 しばらく佇んで、子どもたちの姿を見ていると、桜木の葉を通して快い風がさぁーと吹いてきます。それがなんともいえず爽やかで、久しぶりに、気持ちが和んでいくような気がしました。

 のどかな光景が目の前に広がっており、気持ちが癒されました。

■ショウブの葉が連想させる刀身
 遊歩道に目を転じると、柔らかな陽光が、桜木の幹や枝の陰影を、路面にくっきりと刻み込んでいるのに気づきました。


(図をクリックすると、拡大します)

 木々の隙間から漏れた陽射しはそのまま伸びて、道路脇の草むらを柔らかく照らし出しています。まるでそこだけスポットライトを浴びたかのように、すらっと伸びた葉の形状が鮮やかに、浮き彫りにされていました。

 普段なら、きっと見過ごしてしまっていたでしょう。ところが、この時ばかりは、足を止めずにはいられませんでした。何の変哲もない草むらが陽光を浴びて、ひときわ輝いていたのです。まるで見てほしいといわんばかりでした。

 長く伸びた陽射しが、ありふれた光景を非日常の世界に変貌させていました。際立っていたのが、手前に群生している草です。一本、一本、根本から明るく照らし出されており、まるで剣のような鋭利さを見せています。

 周囲の草むらに沈み込み、存在感もなく群生していた葉が、陽光に照らされた途端に、主役になりました。まるでスポットライトを浴びているかのように、その葉の長さと形状がくっきりと浮き立ち、刀身のようでした。

 近づいてみると、先日、スーパーで買い求めたショウブとそっくりでした。背が高く、葉が剣のような形状をしています。手で触れてみると、しっかりとした厚みがあり、まさしく、先日、浴槽に浮かべたショウブと同じ感触でした。


(図をクリックすると、拡大します)

 刀身のような葉を見ていると、なぜ5月の節句を男の子の節句としたのかがわかるような気がしてきました。

 ショウブ(菖蒲)の形状は刀身を連想させるばかりか、ショウブは「尚武」(武道)と発音が同じです。

 慶應大学教授の許曼麗氏は、「菖蒲」の読み方について、次のように説明しています。

「萬葉集には菖蒲を詠んだ歌が十三首ある。ところが、この菖蒲について、古代の歌人たちは「あやめ」と混同していたようである。萬葉歌においては、表記は「昌蒲」、「菖蒲」、「安世女(売)具佐(左)」など様々であるが、いずれも、アヤメ、又はアヤメグサと読ませている。菖蒲(草)を詠んだ歌も、すべてアヤメ(グサ)と読ませている」(※ 「和歌が語る端午の様相」『慶應義塾大学商学部創立五十周年記念日吉論文集』、pp.97-108. 2007年)

 古来、菖蒲はアヤメと呼ばれてきたと許氏はいいます。それが、鎌倉時代になって、ショウブと呼ばれるようになったそうなのです。次のように記しています。

「鎌倉時代になり、菖蒲は「アヤメ」ではなく、「ショウブ」すなわち、尚武という意味が加えられ、伝来の歳時行事と渾然一体となり、現代生活の中、我々もよく知っている単語の節句の形を成したのである」

 古来、「アヤメ」と呼ばれてきた菖蒲が、鎌倉時代になってから、尚武という意味を付加するため、「ショウブ」になったと指摘しています。武家社会の価値観を反映し、「菖蒲」の呼称に変化が生じたというのです。5月5日を男の子の節句として武者人形を飾る風習もこれで理解できました。

 そもそも端午の節句は、中国から伝来した生活行事でした。

 許氏は、「五月は悪い月である。そのため、禁忌が多い」とし、「五色の糸で香袋を縫っては体に付けたり、粽を食べたり、雄黄酒を額に塗ったりする。または艾草で人形(艾人)を、菖蒲で蒲剣を作って家の扉に飾る」と記しています(※ 前掲)。

 日本では五月の節句は子どもの日、あるいは男の子の節句とされていますが、中国では五月は忌月とされており、端午節には避邪除災の行事が集中しているようです。中国から伝来してきた生活文化も、長い年月を経るうちに、日本社会に合うようアレンジされてきたのでしょう。

 ショウブは古来、薬効があるとされてきた植物の一つでした。そのせいか、ショウブ湯に入るという風習はいまなお、続いています。中国から伝来してきた行事のうち、健康志向のものは日本の生活文化として根付いているといえるのかもしれません。
 
■マムシに注意!
 遊歩道をさらに歩いていくと、巨大な桜木の下に、妙な立て看板がありました。


(図をクリックすると、拡大します)

 「マムシに注意!」と大きな赤い字で書かれています。これを見た途端、こんなところにマムシが出るのかと驚いてしまいました。マムシの名前は知っていますが、私はこれまで、一度も見たことはありません。

 それだけにこの看板にはちょっとした違和感を覚えてしまったのですが、桜木の下で生い茂る草むらを見ているうちに、ひょっとしたら、本当にマムシが出るのかもしれないと思えてきました。

 というのも、江戸東京博物館で開催された「江戸と北京~18世紀の都市と暮らし~」という展覧会で見た、子どもの腹かけに蛇の絵が描かれていたことを思い出したからでした。

 この展覧会を鑑賞したのは2017年4月8日でしたが、いまだに印象に残っています。特に印象に残っているのが、子どもの腹かけでした。(※ http://katori-atsuko.com/?s=%E6%B1%9F%E6%88%B8%E3%80%80%E5%8C%97%E4%BA%AC)

 中国では端午の節句になると、「五毒肚兜」といわれる腹かけを子どもたちに着用させ、健康を祈願するといいます。腹かけには「五毒」とされる「ヘビ、サソリ、クモ、ヤモリ、蛙」が図案化され、刺繍されています。

「五毒」がわかりやすくデザインされた腹かけをネットで見つけましたので、ご紹介しておきましょう。


(図をクリックすると、拡大します)

 なぜ、端午の節句にこのような図案の腹かけを子どもに着用させるのか、私は不思議でなりませんでした。さっそく、百度で調べてみました。すると、概略、次のような説明が出ていました。

 5月になると、ヘビ、サソリをはじめとする害虫が草むらから出てきます。子どもたちもまた、陽気になった戸外で遊ぶようになります。ですから、子どもたちが害虫から危害を加えられる危険性が高くなります。そこで、中国では、子どもや親に害虫に気をつけるよう、警告するために、あのような図案の腹かけをさせる風習が生まれたというのです。

「マムシに注意!」という立て看板を見て、ふと、江戸博物館で見た腹かけを思い出し、中国の生活文化の実用性、実利性を感じました。

 中国では端午の節句になると、子どもに「五毒肚兜」の腹かけを着用させる一方で、ショウブ湯に入れて、健康を祈願してきました。日本では端午の節句には武者人形を飾り、鯉のぼりを立て、ショウブ湯に入ります。中国の年中行事のうち、ショウブ湯を今に残る生活文化として取り入れてきたのです。ショウブには薬効があることが知られていたからでしょう。

 ショウブが薬草として重宝されていたことは、和歌にも表現されています。

■歌に詠まれた薬猟
 許曼麗氏は、「端午」という言葉の初出は、『続日本紀』の仁明天皇承和6年(839年)5月5日の項で、「是端午之節也、天皇御武徳殿、観騎射」と書かれていることを紹介しています。また、それより228年も前の推古天皇19年(611年)5月5日に、「十九年夏五月五日薬猟於菟田野、取鶏鳴時集于藤原池上以会明乃往之・・・」(『日本書紀』)の記述があるとし、端午にまつわる行事はそれ以前に中国から日本に伝わっていたと指摘しています(※ 前掲)。

 端午の節句はすでに万葉の時代には中国から伝来しており、関連行事も行われていたそうです。興味深いのは、5月5日に薬猟という行事が行われ、鹿茸や薬草を採っていたということです。時代が下るにつれ、形式的なものになり、騎射や競走馬に変わっていったようですが、薬草を採ることが宮中の行事になっていたとは、私には驚きでした。

 薬猟に関し、許氏は、次のような大友家持の歌を紹介しています。

 「かきつはた 衣に摺り付け ますらおの きそひ狩りする 月は来にけり」
(杜若 衣に摺り付け 丈夫の競い狩りする 月は来にけり)

 これは、『万葉集』に収録された歌ですが、許氏は、「杜若で染め上がった艶やかな服を着て、五月の競狩りに赴く古代人の姿が浮き出ている」と解釈しています。

 堂々とした立派な男性が端午の節句には杜若で染めた服を着て、薬猟に出かける時季が来たと詠っているのですが、私はこの句の中で、なぜ、「杜若」が使われているのかが気になりました。薬猟を歌に詠むとすれば、「杜若」ではなく、薬草の「菖蒲」ではないのかと思ったからでした。

「菖蒲」には薬効があるとされ、端午の節句に薬猟をするのはそのためだといわれていました。

 そこで、杜若と菖蒲の関係がどうなのか、調べてみることにしました。

■杜若か、菖蒲か、アヤメか
 語源由来辞典を引いてみると、杜若は、「花汁を摺って衣に染めるための染料にしていたところから、カキツケハナ(掻付花)カキツケバタ(書付花)の説が通説になっている」と説明されています。

 杜若は語源からいっても、染料としての役割が重視されていたといっていいでしょう。

 念のため、Wikipediaを見ると、杜若はアヤメ科の植物で、湿地に群生すると説明されています。写真が掲載されていましたので、ご紹介しておきましょう。


(Wikipediaより。図をクリックすると、拡大します)

 これが杜若です。中心の花弁は直立し、周辺の花弁は垂れています。その組み合わせが興味深く、独特の美しさを生み出していました。

 入間川の土手にも、これと似たような形状と色彩の花が群生していました。


(図をクリックすると、拡大します)
 
 近づいてみると、遠目には似ているように見えましたが、こうして見比べてみると、直立している花弁の形状が異っているように思えます。

 Wikipediaで調べてみると、これと似たような花が見つかりました。


(Wikipediaより。図をクリックすると、拡大します)

 花菖蒲と書かれています。

 確かに、よく似ています。入間川の土手で咲いていたのは盛りを過ぎていますが、直立した花弁の丸みや花弁のひらひらした様子が、この花菖蒲にそっくりです。

 そういえば、花菖蒲はアヤメともいわれます。

 そこで、Wikipediaを見ると、次のように説明されていました。

 アヤメの多くが山野の草地に自生しており、他のアヤメ属の種であるハナショウブやカキツバタのように湿地に生えることは、まれである。葉は直立し、高さ40-60cm程度。5月頃に径8cmほどの紺色の花を1-3個付ける。外花被片(前面に垂れ下がった花びら)には網目模様があるのが特徴で、本種の和名の元になる。花茎は分岐しない。北海道から九州まで分布する。

 また、次のようにも説明されています。

 古くは「あやめ」の名はサトイモ科のショウブ(アヤメグサ)を指した語で、現在のアヤメは「はなあやめ」と呼ばれた。アヤメ類の総称として、厳密なアヤメ以外の種別にあたる、ハナショウブやカキツバタを、アヤメと呼称する習慣が一般的に広まっている(※ Wikipediaより)

 こうしてみると、アヤメ、杜若、花菖蒲はいずれも、アヤメと呼称されていることがわかります。似たような葉や花の形状から、遠目には見分けがつきにくいからでしょう。

 Wikipediaのアヤメの項に、その見かけ方が表にまとめられています(※ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A4%E3%83%A1)。

 これを見ると、大きな違いといえば、アヤメや杜若は、花の色数が少ないのに対し、花菖蒲はさまざまな色があるということです。

 土手にはさまざまな色の花が咲いていましたが、おそらく花菖蒲なのでしょう。

■種類の豊富な花菖蒲
 再び、道路に降りて、土手を見てみましょう。遊歩道からやや下がったところにピンク系の花が群生しています。


(図をクリックすると、拡大します)

 背後に桜の巨木が見えます。桜の木を中心に、辺り一帯の草花が集落を形成しているかのようでした。

 中でも気になるのは、彩り豊かな花菖蒲です。入間川沿いの土手には、複雑な形状をしたさまざまな花菖蒲が咲いていました。いずれも背は高く、葉は先ほど見たショウブのように、刀身のような形状をしています。

 印象に残ったものをいくつかご紹介していきましょう。

 まず、直立しているピンクの花弁に赤紫の垂れた花弁、この色合わせが面白く、見とれてしまいました。群生しています。


(図をクリックすると、拡大します)

 近づいてみると、こんなふうです。


(図をクリックすると、拡大します)

 まるでアヤメのように斑紋があります。何度見ても、やはり、花菖蒲かアヤメか、見分けが付きません。黄色の斑紋があるせいか、この花からは豪華な印象を受けます。

 白と濃い赤紫の取り合わせが素晴らしい花も群生していました。


(図をクリックすると、拡大します)

 どこかしら気高さがあります。

 近づいてみると、ここにもやはり、黄色の斑紋が見えます。


(図をクリックすると、拡大します)

 背が高く、草むらにすっくと立った姿が際立っています。
 
 見渡すと、直立した青の花弁に垂れた紫の花弁という取り合わせの花もありました。


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 こちらも群生しています。

 近づいてみると、華麗な佇まいが印象的です。


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 黄色というより黄土色の斑紋が大きく、そこだけまるで金色の文様が付いているかのようでした。これもやはり成熟しており、豪華な雰囲気を漂わせています。

 花菖蒲はなんと種類が豊富なのでしょう。

 これまでご紹介したのは主に、二色で構成された花でした。クリーム色、一色で存在感を放っている花もありました。


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 直立した花弁が丸みを帯びており、遠目からはバラのように見えました。柔らかな色合いが優しさを感じさせます。手前に見える葉も背が高く、形を崩さず、刀身のようにしっかりと立っていました。

 さまざまな花菖蒲が咲き乱れている土手は、まるで個性を競う展示場のようでした。どの花も背が高く、花弁の色や形状に存在感があって、惹きつけられます。花菖蒲の形状や色彩や文様は多様で、魅力に満ち溢れていました。

■5月の節句に、ショウブの薬効を思う
 許氏は、「杜若は菖蒲(あやめ)と非常に類似した植物である。しかし、菖蒲と同じように辟邪(悪魔を追い払う)の効果があると思われたのか否かは定かではない」と記しています(※ 前掲)。

 古来、ショウブは薬草として認知され、生活に取り入れられてきました。その後、時代が下るにつれ、美しい花を咲かせる花菖蒲に人々の関心が移っていきました。隠れた薬効よりも、見た目の美しさが価値を持つようになったからでしょう。

 ショウブはサトイモ科の多年草の植物で、滅多に花を咲かせることはなく、「アヤメ」や「花菖蒲」とは明らかに異なるといわれています。特に地下茎には芳香があり、薬効があるとされています。中国ではその芳香が邪気を払い、長寿の源泉になると考えられてきたそうです。

 日本に伝わってきた当初はそのようなところに価値が置かれ、薬猟といった行事にも取り入れられていたようです。ところが、そのような行事はやがて形骸化し、今ではせいぜい、子どもの日にショウブ湯に入るぐらいになってしまっています。

 いつごろからか、薬草を生活に取り入れ、健康を維持していく生活習慣が廃れてしまったように思えます。縦断的な生活文化を伝える担い手がいなくなり、横断的なマスメディア主導の生活文化が中心になっていったせいでしょう。

 そんな今、新型コロナウイルスに世界中が翻弄されています。

 食糧の確保、防疫対策がどれほど大切なことか。様々に行動を規制され、経済的に追い詰められたいま、ようやく、縦断的に生成されてきた生活文化の価値を思い知らされているような気がします。(2020/5/12 香取淳子)

桜が散り、ツツジが咲きました。

■早緑色に染まった遊歩道
 4月16日、入間川の遊歩道に出かけると、桜の花は散り、葉桜として道の両側を覆っていました。あれほど華麗だった川辺から華やかさがすっかり失われ、まったく別の場所に来たような気分にさせられました。

 いつの間にか、遊歩道を取り囲む桜の木々が、華やかさから若さへと、アピールポイントを変貌させていたのです。

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 可憐な淡いピンクの花は、早緑色の葉桜となっていました。もちろん、ピンクであろうが、早緑であろうが、桜花(葉)の可憐さに変わりはありません。小さく群生した葉桜は、風にそよそよと揺らぎながら、太くて黒い幹や枝を引き立てていました。軽やかに揺れる桜葉は、雄々しく伸びる幹や枝の堅固さをことさらに強調し、見事な明と暗、動と静のコントラストを見せています。

 早緑(さみどり)という表現がぴったりの光景が、目の前に開けていました。

 見上げると、小枝の先に群生する葉が風にそよいでいました。葉の一つ一つがなんと小さく、そして、なんと繊細な動きを見せているのでしょう。薄く、柔らかく、まるでその先に見える空に溶け込んでいるかのようでした。

 よく見ると、周囲と溶け合っているようでいながら、一枚一枚、その形状は意外に明瞭で、空を背景に、しっかりと自らの存在を誇示していました。

 今、何気なく、早緑という言葉を使ってしまいましたが、これほど見事に春の訪れを示す言葉はないでしょう。

 桜の花が散ったかと思えば、そっとやって来て、その葉を淡く柔らかな色合いに染め上げます。そして、いつの間にか、誰も気づかないうちに去ってしまう・・・、そんなところに、「早緑(さみどり)」の妙味があります。

 ほんのひととき、自らを輝かせるところに、なんともいえず微笑ましい謙虚さが感じられるのです。まるで春の訪れを伝えるためだけに色づくのが「早緑」です。主張しているわけではないのに、不思議な存在感があって、心惹かれます。

 5月5日、再び、訪れてみると、桜の葉はすでに、「早緑」から「緑」に変貌しつつありました。

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 これを見ると、葉が大きくなり、色合いもやや濃くなりはじめているのがわかります。群生している葉が大きくなったせいか、桜並木はうっそうとした趣をみせはじめていました。

■母が教えてくれた「さみどり」
 どういうわけか、私はこの言葉が好きで、この季節になると使ってみたくなります。使う場がなければ、ひそかに、「さ・み・ど・り」と、一語一語区切って発音してみることもあるぐらいです。

 口に出してみると、言葉の響きが優しく、柔らかく、次第に、安らぎに満ちた気持ちになっていきます。ひょっとしたら、この言葉がきっかけで、若い頃の母を思い出すからかもしれません。

 小学校に入る直前の春、母と一緒に庭にいたことがあります。ちょうど木々が芽吹き始めたばかりで、そこかしこに柔らかい新芽が小枝から顔を出していました。黄緑色に光る葉の様子を見つめていると、母はその一つを指さし、「これは、さみどり、っていうのよ」と教えてくれました。

 聞きなれない言葉だったので、不思議に思い、「きみどり?」と聞き返すと、「さみどり、よ」と、はっきりと口調で母はいいました。そして、若葉に手を触れ、「小さな緑だから、さみどりっていうのよ」と説明してくれました。

 私は「きみどり」は知っていましたが、「さみどり」はそれまで聞いたことがありません。この時、はじめて聞いた言葉でした。

 母の説明を聞いて、緑にも小さいのがあることを知って、なんだか、とても嬉しくなってしまいました。途端に、「みどりいろ」をした葉や草がとても身近に思えるようになったことを思い出します。

 どんなものでも、小さなものが好きだった私は、「小さな、みどり」という母の説明に惹きつけられました。そして、ヒトと同じように「みどり」にも、赤ちゃんや子ども、大人、老人といったものがあるのだと思うと、急に親近感を覚え、世界が広がったような気がしたものでした。

 この時期の葉の色を表現するのに、黄緑という言葉があります。ところが、「さみどり」という言葉を知ってからというもの、私にとって「きみどり」は、単に色を表現した色彩語にすぎなくなりました。音の響きが強く、しかも、「さみどり」に含まれている馥郁とした味わいも感じられず、ただ色彩情報を伝えるだけの記号でした。

 母は「さみどり」を、「小さいみどり」と説明してくれました。ところが、いま、パソコンで「さみどり」と入力すると、「早緑」と漢字に変換されて、「小緑」にはなりません。また、辞書には「さみどり」は「早緑」と登録され、「若葉や若草の緑色」と説明されています。ひょっとしたら、母は、小さな私が理解できるように、「さみどり」を「小さな、みどり」と説明してくれたのかもしれません。

 当時、母は30歳前後でした。優しく、穏やかな中に、どこか毅然としたところがありました。ちょうどこの時期の「さみどり」のような人だったといえるかもしれません。自己主張することなく、周囲と調和して暮らしていました。それでいて、決して流されることなく、そこかしこに母らしさを貫いていました。そんなところを見て、私は子ども心に、母には毅然としたものがあると感じていたのでしょう。

■桜木の間に咲くツツジ
 4月26日、木々の間にツツジが咲いていました。遊歩道には一定の間隔で、桜木の間にツツジが植えられています。そのツツジが花開くと、葉桜になっていた並木道が一転して、新たな景観を見せていました。

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 明るい陽射しを浴びて、木々や枝が遊歩道にくっきりとした陰影を落としています。ピンクがかった鮮やかな赤が、桜木の緑に華を添え、どことなく浮き立つ気分にさせてくれます。

 それにしても、なんと目に鮮やかな光景なのでしょう。

 大きく太い桜木の下に、そっと寄り添うように、灌木のツツジが咲いています。

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 つい一週間ほど前までは可憐な風情を漂わせていた桜が、いつの間にか、葉桜になり、緑が濃くなってくると、今度は、雄々しい威容を見せ始めていました。太くがっしりとした幹や枝には、時を経て、風雪に耐えてきた強さが表れています。改めて、桜には可憐さと雄々しさが共存していることがわかります。

 巨木の根元に蹲るように花を咲かせたツツジが、いま、この遊歩道の主人公です。遠くを見ると、白いツツジ、そして、その先には赤いツツジが見えます。

 まず、赤系ピンク色の花にズームインしてみましょう。

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 近づいてみると、存在を強く主張するかのように大きく開いた5枚の花弁が、ことさらに印象的です。この季節になると、どこでも見かけるツツジですが、じっと見ると、平凡ななかにも生活に根付いた美しさが感じられます。

 白い花も見事です。

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 花は大きく、花芯が数本、優雅な弧を描いています。ありふれた花なのに、こうして近づいてみると、典雅な美しさがあり、意外な存在感があります。

 中には、赤と白の花を咲かせる木を交えて植えられているところもありました。

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 こちらの花弁は開花しきっていないせいか、まだ小さく、量では圧倒されますが、花そのものの存在感はそれほどでもありません。むしろ、その後方に見える桜木の早緑色の葉が、さわやかに背後の空を染め上げているのが目につきます。

 枝先を見れば、早緑色の葉がさらに淡く、柔らかさを湛えたまま、まるで空に溶け込んでしまいそうです。枝先の辺り一帯は霞みがかったようにぼんやりとし、エッジがきわだっていないせいか、気持ちが緩み、思わずまどろんでしまいそうです。

 ふと、「みどりの空」という表現が思い浮かびました。

■みどりの空
 かつて、日本には「みどりの空」という表現があったそうです。

 国文学者の森田直美氏は、色彩語としての「みどり」の色相領域を古典文学の様々な表現を踏まえ、考察しています。結論として、古典文学の「みどり」にはブルーが含まれていた可能性があると指摘しています(※ 「古代における「みどり」の色相領域を再考する」、『中古文学』第78号、2006年12月)。

 古典文学から様々な表現が紹介されていました。その中で、興味をひかれたのが、次の句です。

 かすみはれ みどりの空ものどけくて あるかなきかにあそぶ糸遊
(霞晴れ 緑の空ものどけくて あるかなきかに 遊ぶ糸遊)

 この歌は『和漢朗詠集』415の「読み人知らず」の作品です。この歌については、うっすらと記憶に残っていますから、きっと、高校の時に学習したのでしょう。うららかな春の日の情感がとてもよく表現されています。

 糸遊というのは、陽炎(かげろう)を指します。

 霞が晴れ、天気のいい春の日には、温度が上がった地面から空気が立ち上り、ゆらゆら揺れているように見えることがあります。それを、作者は、「あるかなきかにあそぶ糸遊」と表現し、愛で、楽しんでいるのです。

 この歌からは、平安時代の人々が自然現象の中に、愛おしさや美しさを見出し、それを言葉にして楽しんでいたことがわかります。そこには自然を観察し、なんらかの価値を発見し、作品化する過程が介在します。つまり、歌を詠むという行為には、美を堪能するセンスと表現欲、高度な言語処理能力が必要なのです。平安時代の人々は、それを一種の娯楽として楽しんでいました。なんと素晴らしい文化を日本人は育んでいたのでしょう。

 入間川遊歩道の葉桜やツツジを見れば、平安人はどのような歌を詠むでしょうか。

■「さみどり」の下で感じた、小さな幸せ
 早緑の季節に、遊歩道を歩いていると、わけもなく若い頃の母が思い出され、記憶に残る平安時代の歌が脳裏を横切りました。

 暖かい陽光を背に受けてゆっくり歩き、時に立ち止まって、歩を進めているうちに、幸せな気分が満ち溢れてきました。それはきっと、「さみどり」を教えてくれた若い頃の母や、「みどりの空」を詠み込んだ平安時代の歌人が、忘れかけていた大切なものを思い出させてくれたからでしょう。

 機能性、合理性が優先され、あらゆるものが尺度化された生活空間の中で暮らしていると、色彩ですら、カラーチャートに従って認識するようになってしまいます。

 あれほど気持ちを動かされた「さみどり」は、小学校に入ると、たちまち、無いも同然になってしまいました。母が教えてくれた「さみどり」は、カラーチャートのどこにも見当たらなかったのです。

 いつしか、草や葉を表現する色は、「黄緑」「緑」「深緑」に限定されてしまいました。クレパスやクレヨンの色彩のバリエーションがこのぐらいだったからです。気持ちを揺り動かされることなく、選択し、組み合わせて表現するしかありませんでした。そのことに、子どもの頃から、なんとなく違和感を覚えていました。それはおそらく、これらの言葉が色彩を即物的に表現する語でしかなかったからでしょう。

 草や葉にもライフサイクルがあり、生きてきた時間は着実にその色に反映されます。ところが、機能的に尺度化されたカラーチャートの色彩には、その種の情報が含まれていません。幼かった私が、「さみどり」という言葉から感じ取った葉の生命を、「きみどり」という語からは感じられないのです。「きみどり」は、機能的に色彩を識別する記号でしかありません。

 そんなことを思いながら、ふと、路辺を見下ろすと、下草に埋もれるように、小さな段ボール箱が置かれていました。

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 近づいてみると、水仙の球根が多数、入っていました。それらの球根の間に、「ご自由にお持ち帰りください」と書かれた札が添えられています。

 立ち止まって、見ているうちに、再び、幸せな気分になっていきました。(2020/5/7 香取淳子)

桜を見て、新型コロナウイルス由来のパラダイムシフトを思う。

■新型コロナウイルスが一変させた街の光景
 新型コロナウイルスがいま、世界を大きく変貌させています。メディアは日々、感染者数、死者数を報道し、人々の危機感を煽っています。一方、政府や都府県などの行政は人々に外出の自粛を求め、対面接触の自粛を要請しています。おかげで街の光景は一変してしまいました。

 通りを歩いても、道を行きかう人々はみなマスクをし、誰とも語らうことなく、足早に歩いています。見渡せば、ほとんどのお店はシャッターを下ろし、開店しているのはわずか、スーパー、コンビニ、ドラッグストアなどです。

 スーパーで買い物をして、清算しようとすると、いつもと違ってレジ前には透明のシールが設置されています。飛沫感染を防ぐためですが、キャッシュカードも自分で操作して支払う仕組みに変わっていました。店内では間隔を空けて並ぶよう何度もアナウンスがあり、レジ前にはラインが引かれ、待つ位置が決められています。いつの間にか、さまざまなところで非対面、非接触が徹底されていました。

 ほんの一か月ほど前は、街もこれほど閑散としていませんでした。まだお店は開いており、人々は明るく言葉を交わしながら、街を歩いていました。ところが、いまはそれが遠い昔の光景のように思えます。

 3月、4月といえば、例年、卒業式、入学式の季節です。これまでは晴れ姿の親子連れを度々、目にしたものですが、今年はそのような光景を目にすることもありませんでした。入園式、入学式、入社式など、桜とセットで行われてきた晴れの儀式も今年は行われず、ただ、桜だけが咲いて、散っていきました。

 2020年春、新型コロナウイルスが猛威を振るい、激動の様相を見せ始めています。その余波を受けて、桜が咲いて、散っていくプロセスを楽しむこともできないまま、春が過ぎていこうとしているのです。そこで、今回は、桜の開花から散るまでの様子を振り返ってみたいと思います。

 そういえば、3月29日、桜が咲いたというのに、季節外れの雪が降りました。ひょっとしたら、なんらかの予兆だったのでしょうか。

■季節外れの雪
 2020年3月29日、朝起きると、雪が降っていました。窓を開けると、辺り一面が少しずつ雪で白く覆われていくのが見えます。じっと見ているうちに、入間川の桜がどうなっているのか、気になってきました。

気になり始めると、もう居ても立っても居られません。雪が降りしきる中、西武線に乗り、桜並木を見に出かけました。酔狂だといわれるかもしれませんが、桜の季節に雪が降るなど、滅多に経験できるものではありません。出かけなければ、きっと後悔すると思い、出かけてみたのですが、決断して正解でした。

 着いてみると、入間川の遊歩道はこれまでとは違った趣を見せていました。

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 花も木も遊歩道も、いたるところ、雪に覆われていました。中には、雪の重みで枝がいまにもスロープについてしまいそうな木もありました。

 花弁もまた雪の重みで、大きくしな垂れています。見上げてみると、桜の花びらに雪が積もり、大きく膨らんで見えました。ボリューム感たっぷりで、前回見た、可憐な風情はすっかり消え失せていました。

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 路面をみると、一面に桜の花が散り、淡いピンクの道がどこまでも続いていました。風が吹き、雪が吹雪いて、花びらが散り、遊歩道を優雅な模様で飾り立てていたのです。

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 ただのアスファルトの遊歩道が、桜の花のおかげで、見違えるように変身していました。季節外れの雪と桜の花によって、辺り一帯が幻想的で、風雅な様相に変貌していたのです。

 もちろん、雪が降ったからと言って、これでもう今年の桜が終わったというわけではありません。まだ4月に入っていないのです。

■最後の輝きを見せる桜
 2020年4月6日、再び、入間川沿いの桜並木を訪れました。澄み渡った青空の下、桜の花は眩いばかりの美しさを見せていました。

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 黒く太い幹から四方八方に伸びた枝には、可憐な風情の花弁が群れたまま、軽やかに風にそよいでいます。淡いピンクの桜花は、黒く太い幹に引き立てられるように、辺り一面を明るく輝かせています。

 思わず、見惚れてしまいました。花と幹の色彩が絶妙なコントラストを見せていただけではありません。動と静、軽と重、儚さと堅固さといった具合に、想念をさまざまに刺激するコントラストが、桜の花と幹のモティーフには含まれていたのです。

 桜の花は鮮やかでありながら、清らかで、潔く、そして、可憐な風情を漂わせています。一方、黒く太い幹や枝に小さな花びらが群生する様子は妖しく、なんともいえない美しさをたたえています。

 見ているうちに、ふと、梶井基次郎の「桜の樹の下には死体が埋まっている!」というフレーズが脳裏をよぎりました。高校生のときに読んだままですが、美しさを表現するにはあまりにも衝撃的なので印象深く、いまだにこのフレーズを覚えていたのです。

 梶井は桜の花を見て、その美しさに打たれます。その部分を原作から引用してみましょう。

「いったいどんな樹の花でも、いわゆる真っ盛りという状態に達すると、あたりの空気のなかへ一種神秘な雰囲気を撒き散らすものだ。それは、よく廻った独楽が完全な静止を澄むように、また、音楽の上手な演奏がきまってなにかの幻覚を伴うように、灼熱した生殖の幻覚させる後光のようなものだ。それは人の心を撲たずにはおかない、不思議な、生き生きとした、美しさだ」(※青空文庫より)

 梶井は桜の花を、「どんな樹の花でも」と一般化しながら、生命の盛りを迎えると、それは周囲に神秘的な雰囲気を発散させるというのです。ちょうど燃え盛る生への欲求が放つ後光のようなものであり、そのオーラが見る者の心を打つといいます。桜の花には、そのような得体の知れない、輝くような美しさがあるというのです。

 梶井は、桜の花を美しいと思い、それが得体の知れなさに根差していると思うだけに、やがて不安になっていきます。

 そして、次のように解釈します。

 「おまえ、この爛漫と咲き乱れている桜の樹の下へ、一つ一つ屍体が埋まっていると想像してみるがいい。何が俺をそんなに不安にしていたかがおまえには納得がいくだろう」(※ 青空文庫より)

 梶井は、その得体の知れない美しさの起源を、「一つ一つ屍体が埋まっている」と想像することで納得するのです。この世のものとも思えないほどの美しさには、「死」のイメージが作用しているからだと考え、理解したといっていいでしょう。

 ところが、そう解釈して納得できるようになってみれば、今度は、不安に襲われてしまうのです。ここに、梶井の美に対する複雑な心理的反応を読み取ることができます。

 梶井は、桜の花の背後に、成熟と死を想像することで、その美しさを観念的に完結させています。そして、成熟し、いま、まさに枯れようとするとき、桜は最後の美しさを見せると総括するのです。

■多義性を孕む美しさ、そして、哀れの情感
 古来、日本を代表する花として、桜は多くの人々から好まれてきました。それは、桜にこのような多義性が含まれているからかもしれません。とくに、生と死といったアンビバレントな要素を合わせもつところに、多くの日本人は哀れを感じ、美しさを感じるようになっていたのでしょう。

 さて、桜並木は所々、木々の陰を路面に落としながら、どこまでも伸びています。路面を見ていると、まるで、どこか別世界に誘われでもするかのような錯覚に襲われます。

 ふと我に返り、頭上を見上げると、すでに花は落ち、葉だけをのぞかせている枝がいくつもあります。桜の花はもはや峠を越し、華やかさを失いつつあるということなのでしょう。とはいえ、下の写真を見ると、左上の枝にはまだ多くの花弁が陽光を受け、白く光って見えます。まさに、最後の輝きを見せているのです。

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 見ていると、ふと、「花の色は 移りにけりな・・・」というフレーズが頭の中で響き渡りました。子どもの頃、百人一首で親しんだ歌で、すぐにも暗唱することができます。

 「花の色は 移りにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」

 これは、古今集に収録された小野小町の歌です。

 毎年、お正月を迎えると、家族で百人一首を楽しんでいました。子どもながら、「花の色は 移りにけりな」というところが気になって、すぐに覚えてしまいました。意味もはっきりとわからないまま、この歌は私の十八番でした。

 この写真の桜の木には、花が散って葉だけになった枝もあれば、まだ華麗な花弁を残している枝もあります。それを見て、脳裏をかすめたのが、この歌でした。桜を見るたび、反射的に思い出してしまいます。それは、時の経過がモノの姿を変え、存在意義すら大きく変えてしまう現実が詠み込まれているからでしょう。

 小野小町はたいそう美人だったといいます。だからこそ、時が移ろうにつれ、衰えていく容色に耐えられない悲しみを抱いたのかもしれません。

 鮮やかに開花してはすぐさま散ってしまう桜の花には、確かに、時の経過が凝縮して示されています。生(咲く)から死(散る)へのプロセスがとても短いのです。小野小町が桜にわが身を重ね合わせ、歌を詠んだのも、このドラマティックなプロセスに歌心を刺激された可能性があります。

 子どもの頃はわからなかったこの歌の意味がいま、手に取るようにわかるようになりました。大したこともできないまま、歳を重ねていくうちに、いつの間にか、容色が衰え、身体の自由も効かなくなってしまったという思い・・・。悔いてもはじまらないのですが、この歌には、高齢になれば誰しも味わうに違いない感情がとてもよく表されていると思います。

 それでは、桜並木に戻ってみましょう。

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 この写真を見ると、上の方の枝にはまだ淡いピンクの花がついていますが、下の方の枝はすでに葉桜になっています。そして、桜花や葉桜をつけた枝がやさしく風にそよいでいます。花が散った後の新芽と、散らずに残った花とが一本の樹の中でみごとに共存しているのです。

 ヒトとは違って桜は、花が散れば、すぐさま若葉が出て、早緑の輝きを見せ始めます。死(散る)と誕生(新芽)がほぼ同時に発生します。死と生が密接に結びついているのです。桜ならではの情感といえるでしょう。

 さまざまな表情を見せてくれる桜の木をみてくると、古来、ヒトが桜にさまざまな思いを託して来た理由がわかったような気がします。

 さて、桜にはソメイヨシノと八重桜があります。これまでご紹介してきたのはソメイヨシノでした。3月中旬から下旬にかけて開花します。

 入間川遊歩道には、それよりも遅く開花する八重桜も植えてありました。

■葉桜から八重桜へ
 4月15日、性懲りもなく、また、入間川遊歩道を訪れました。

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 予想通り、ソメイヨシノは完全に葉桜になっていました。よく見ると、その先に赤紫色の花が見えます。

 近づいてみると、見事な八重桜でした。向きを変えて撮影したのがこの写真です。

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 ソメイヨシノとは違って、このボリューム感に圧倒されます。花の下から撮影すると、さらに、どっしりとした重厚感が感じられます。

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 桜といいながら、この花には可憐という表現は似合いません。楚々とした風情はなく、どちらかといえば、豪華なボタンのような印象です。

 新型コロナウイルスのせいで、桜見会は中止され、さまざまなイベントも次々と中止になりました。その代わりといってはなんですが、今回、入間川の桜並木をご紹介しました。人の往来も少なく、ゆっくりと桜の様相を見ることができたような気がします。

■新型コロナウイルスはパラダイムシフトの予兆か?
 桜の花が咲き、散って葉桜になってもなお、新型コロナウイルスの猛威はとどまりません。いまや世界中に拡散し、日々、感染者数、死者数が増えています。それに合わせ、各国政府は一様に、都市封鎖、外出禁止、外出自粛などの対策をとっています。新しいウイルスに対する治療方法はまだ確定されておらず、確たる治療薬もまだ開発されていません。ですから、感染源を物理的にシャットダウンするしか方法がないのが現状です。

 その結果、さまざまな社会活動に対する影響が出ており、経済活動が停滞しています。あっという間に、世界中が貧困化し、生命を絶とうとする人さえ出かねない状況に陥ってしまったのです。感染して死ぬか、経済的に行き詰って死ぬかの二択がささやかれるほど、死が身近なものになってきました。

 どうやら、このまま感染が終息しなければ、好むと好まざるとにかかわらず、人々は行動を制限された生活を強いられることになりそうです。仮に終息したように見えたとしても、ウイルスがヒトの体内で息を潜めているかもしれません。いずれにせよ、感染を避けるために、非対面、非接触のコミュニケーションに移行せざるをえなくなっています。

 テレワーク、オンライン授業、オンライン会議などは、新型コロナウイルス騒動によって、大きく推進されるでしょう。折しも先進諸国では5Gネットワークが開始されています。5G、AI、ビッグデータを活用した社会変革もまた当然、推進されるでしょう。

 このまま年内に終息するのか、あるいは、ウイルスが常態化してしまうのか、それはわかりません。仮に年内に終息したとしても、おそらく、新型コロナウイルス発生以前の社会にはもはや戻ることはできないのではないかと思います。

 世界が歩調を合わせて、感染者数、死者数を逐一報道し、一斉に都市封鎖、外出制限などの対策をとっています。感染力は弱いといわれ、死者数はインフルエンザの方が多いといわれながらも、各国とも過剰に思えるほどの対策をとっています。時間差で似たような政策を展開しているのをみると、世界各国が一斉に、新型コロナウイルスの発生を契機に、パラダイムシフトに取り組んでいるようにみえるのです。

 今年、桜が咲いてから、季節外れの雪が降りました。大きな社会変動の予兆でなければいいのですが・・・。(2020/4/20 香取淳子)

桜の花が咲きました。

■土手に咲く桜
 西武線の仏子駅で下車し、10分ほど歩くと、入間川沿いの遊歩道に辿り着きます。毎年、桜の季節になると、ここを訪れることにしていますが、今年は3月23日、時間に余裕ができたので出かけてみました。

 桜を鑑賞するにはちょっと早すぎたようですが、それでも一部、花が咲きかかっていました。遊歩道からは、生い茂る草が緑のスロープとなって川辺まで伸び、巨大な桜の根をしっかりと支えています。

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 枝の一部に花が咲き、その淡いピンクの花弁が夕陽に照らされて、ことさらに輝いて見えました。風にそよぐ可憐な風情がなんともいえず、つい、見入ってしまいます。まだ蕾のままの枝もあれば、花開いた枝もあり、同じ幹から出た枝でも、開花の時期はそれぞれで、そんなところに微妙な生命の営みを見る思いがしました。

 桜の花をじっと見つめていると、ふと、父の姿が思い出されました。

 春が近づくと、父は、家から歩いて5分ほどの川べりに植えられた桜を見るのを待ちかねるように過ごします。幅10mほどの小さな川ですが、やはり、川の両側に桜が植えられていて、毎年、春になると見事な桜花を楽しませてくれます。

 いつだったか、帰省した折、一緒に川沿いを散策していると、父が突然、「願わくば、花の下にて我死なん、その如月の望月のころ」と口ずさんだことがありました。そのとき、父はたぶん、80歳ぐらいだったと思います。私は驚いて思わず、振り返ってみましたが、父は何もいわず、ただ、桜の花をじっと見上げていました。

 他を寄せ付けない雰囲気に、私は声をかけることもできず、父の視線を追って、桜を見上げました。淡いピンクの花弁の背後には、所々、雲を漂わせながら、青空が広がっていました。

 その時に見たのと同じような光景が、ちょうど目の前に広がっていました。

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 見ているうちに、不意に、天高く吸い込まれていくような気持ちになりました。そして、なんとなく、あの時の父の気持ちがわかったような気がしてきたのです。

 私も、心の中でこの句を口ずさんでみました。

 「願はくば、花の下にて春死なむ、その如月の望月のころ」

 これは、続古今和歌集に収録された西行法師の歌です。花といい、月といい、この歌には日本人が好むモチーフが詠み込まれています。しかも、生命の誕生をイメージさせる「春」と、生命の終焉を意味する「死」が、一つの句の中に違和感なく、共存しているのです。日本人の感性が色濃く表出しているように私には思えました。

 日本人が桜を好むのは、この二律背反ともいえるアンビバレンツな感覚を呼び覚ましてくれるからではないでしょうか。ふっと、そんな気がしてきました。

 入間川沿いの桜木は、そのときに見た枝よりもはるかに太く、しっかりとしていて、一部咲きの小さな桜花をいっそう儚げに見せていました。手を伸ばせば、いまにも届きそうに見えるほど近く、桜花をつけた枝は垂れ下がっています。まるで手に取ってほしいと言わんばかりです。

父の気配を感じました。

 あのときの願いとは違って、父は紅葉の秋、まるで桜が散っていくように、さっと旅立っていきました。長患いすることもなく、83歳で人生を終えました。

■桜のトンネル
 さて、桜で両側を囲われたこの並木道は、入間川の上流に向けて、約300m続きます。昭和42年から43年にかけて植えられたそうです。

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 私は桜の季節になると、毎年、ここを訪れています。満開の時期に、この遊歩道を歩くと、桜トンネルをくぐる気分に浸ることができます。穏やかに流れる川面を眺めては、降り注ぐ桜の花弁を浴び、自然が与えてくれる悦楽を堪能することができるのです。

 ここに来るたび、日本人が古来、桜を愛でてきたことを再確認するような気分になりますが、今回もそうでした。桜といえば、すぐに思いつくのが本居宣長です。

 本居宣長はたいそう桜を好んだそうで、いくつも歌にしています。高齢になってから詠んだものに、有名な一句があります。

 「敷島のやまとごころを、人問はば、朝日に匂ふ山桜ばな」

 61歳の時に詠まれたといわれています。この歌は軍国主義と結びつけて取り上げられることが多く、歌意がそのまま伝わっていないように思えます。それが残念ですが、私は、この歌の中に、本居宣長の日本観が的確に表現されているのではないかと思っています。

 この歌は、「大和心はどういうものかと人に聞かれれば、朝日に照り輝く山桜のようだと答えよう」という意味を表しています。日本的な感性がどういうものか、山桜を引き合いにして、表現しているのです。

 街中や公園で桜を見るのではなく、山や川べりで桜を見ると、おそらく、宣長がこの歌に託した意味がよくわかるのでしょう。入間川沿いの遊歩道で桜を見て、私は改めて、宣長が捉えていた日本文化の真髄がわかったような気がしました。

 本居宣長もまた西行法師と同様、桜花に日本人の感性を見出し、その文化を重ね合わせてみていたのでしょう。

■夕陽が創り出す光景
 私が入間川沿いの遊歩道を訪れたのは、まもなく夕刻になろうとするころでした。桜の枝の後方に、沈む太陽が見え、辺り一面を暮色に染め上げていました。

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 宣長が詠んだ句に倣えば、この光景には、「夕陽に照り輝く川べりの桜花」とでも表現できるような妙味がありました。

 宣長は「大和心」を、「朝日に匂ふ山桜ばな」の美しさを感じ取る心だと歌に詠みました。ところが、今回、私は夕刻の桜を見て、「夕陽に照り輝く川べりの桜花」には、さらに、「あはれ」とでもいえるような風情が加わっていることに気づきました。「朝日に匂ふ山桜ばな」に劣らない魅力が、「夕陽に照り輝く川べりの桜花」にはあると思ったのです。

 太陽を背にすると、一部咲きの桜花が夕陽に照らされ、淡いピンクの花弁をそよがせているのが見えます。

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 背後に巨大な雲が流れているせいか、一部咲きのピンクの桜花がことさらに小さく見えます。なんともいえず可憐で、美しく、まるでそこだけが煌めいているかのようです。

 一方、太陽に向かうと、逆光になり、下の写真のようにすべてが色を失います。夕刻には、このようにポジとネガ、それぞれの美しさやその興趣を、同時に味わうことができるのです。

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 輝きの中だけに美しさが存在するのではなく、輝きを失ったところにも美しさを見出すのが、日本的な感性であり、日本文化の本質ではないかと私は思います。

 私が、桜に惹かれ、日本的感性が呼び覚まされると思うのは、桜にはそのようなアンビバレントな要素が多分にあるからなのです。

 もう一度、夕陽に包まれた光景を見てみましょう。桜木の枝の背後に、太陽が深く沈み込み、強い残照が川面に反映しています。

 まるで沈みかかった太陽が、最後の力を振り絞り、強大なエネルギーを空と川に放っているかのようでした。残照は辺り一面を別世界に変貌させていました。夕陽がもたらすこの空間は、明るい昼間から暗い夜へ誘う境界ともいえるものでした。

 見ていると、父が好んだ御文章が思い出されてきます。

■御文章
 どういうわけか、父は「御文章」が好きでした。子どもの頃、これを聞くのが怖かったのですが、文章のリズムがよく、しかも、父が朗々と、歌い上げるように詠むので、いまだに頭の隅にこびりついています。

Wikipediaからその一説をご紹介しましょう。

 「それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそ儚きものは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。されば、いまだ萬歳の人身をうけたりという事を聞かず。一生すぎやすし。今に至りて誰か百年の形体[8]を保つべきや。我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、遅れ先立つ人は、元のしずく、末の露より繁しと言えり。されば、朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、即ち二つの眼たちまちに閉じ、一つの息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李の装いを失いぬるときは、六親眷属あつまりて嘆き悲しめども、さらにその甲斐あるべからず」

 子どもの頃、私が怖いと思ったのは、「朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身なり」という箇所でした。他の部分は意味がわからなかったのですが、ここだけはなんとなく意味がわかり、ヒトはあっという間に歳をとって、死んでしまうのだと思い、怖かったのです。

■彼岸としての夕刻
 いつもと違って、今回、夕刻に一部咲きの桜を見ました。そのせいか、桜の下に佇んでも、華やぎは感じられず、むしろ、桜のもつアンビバレントな要素に気づかされました。そして、その光景の中に、一種の境界とでもいえるようなものを感じさせられたのです。

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 蕾をつけた桜木の背後に、大きく広がった雲を抱えた青空と、それを反映した川面が見えます。地表の建物や土手が、空と川の境界になるのですが、夕刻のせいか、その地表部分が暗くてよく見えません。

 夕刻には、彼岸の存在感が強調されるのでしょうか。ヒトが生きて、暮らす地表がよくみえず、天空に広がった雲と、それを映し出した川、そして、手前の大きな桜木ばかりが目につきます。

 そういえば、桜並木を見に訪れたのは3月23日は、2020年のお彼岸期間最後の日でした。(2020/3/26 香取淳子)

2020年、明けまして、おめでとうございます。

■富士山は日本一の山
 昨年12月初旬、羽田空港から伊丹空港に向かう途中、右手に富士山が見えました。慌ててスマホを取り出し、撮影したのが下の写真です。


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 冠雪した富士山は、みごとなまでに華麗でした。しかも、山頂から裾野に向けて広がる稜線には、雄々しさが感じられます。限りなく美しく、威厳がありました。改めて、富士山は日本一の山だと思いました。

 富士山は日本の象徴といわれてきましたが、それは、美しく、威厳のある姿に日本社会を彷彿させるものがあったからでしょう。撮影した富士山を手にしているうちに、ふと、日本の持つ美しさについて、思いを巡らせてみたいという気になりました。

 そうこうしているうちに、もう大晦日です。

 年越しそばを食べ、夜もすっかり更けてくると、そのうちに近くのお寺から除夜の鐘が響いてきます。静けさの中で、心に染み入るように深く、ゆっくりと響く鐘の音です。聞いていると、これもまた日本の美しさの一つといえるのかもしれないと思えてきます。

■除夜の鐘、お焚き上げ
 除夜の鐘を聞くと、どういうわけか、いつも、気持ちが洗われるような気になってしまいます。一年を振り返り、不愉快に思ったこと、失敗したこと、後悔するようなこと、心の隅に溜まった澱のようなもの一切合切を、この鐘の音がゆっくりと洗い流してくれるような気持ちになっていくのです。

 すでに12時を過ぎ、新年を迎えています。

 寒い中、鐘の音の誘われるように家を出て、お寺とは反対方向の神社に向かいました。

 大勢の人々が、参拝のために並んでいます。


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 参拝者には、甘酒がふるまわれていました。
私も一杯いただきましたが、口にした途端、たちまち身体中が温まっていくのを感じました。甘酸っぱい味わいが、大晦日のこの行事と結びついて記憶に残ります。

 甘酒を飲んで身体の内部が温まりましたが、今度はお焚き上げの焚火で、身体の外部も温められました。神社の境内で、パチパチと軽い音を立てながら、火の粉を散らしながら、勢いよく火が燃えあがっていました。


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 ここで、去年のお札やお守り、正月飾りなどが焼却されているのです。
お焚き上げには、浄火によってそういったものを天に還すという意味があるそうです。そういえば、燃え盛る炎は、天に向かってめらめらと高く昇っていました。

 炎にはどうやら、ヒトの心を強く揺さぶる力があるようです。じっと見ていても、決して飽きることがありません。それどころか、見つめているうちに、次第に内省的になっていくのを感じます。ゆらめく炎の奥に、来し方行く末を思わせる何かが潜んでいるようでした。

 ヒトは老い、やがて死んでいきます。残された人生をどう生きていくか、日々、心にとどめて暮らしていこうという気になりました。

■元旦のとげぬき地蔵
 今年の元旦はとげぬき地蔵に行ってみることにしました。巣鴨地蔵通り商店街は、かつて「おばあちゃんの原宿」といわれたところです。


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 久しぶりに商店街を歩いてみると、意外にヒトが少なく、驚きました。以前、来たときは混み合っていて、歩くのも大変でしたが、今回はかなり余裕があります。


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 しかも、一目で高齢者とわかる人々の数が大幅に減って、若者、家族連れ、中高年夫婦などが目立ちました。もはや「おばあちゃんの原宿」とはいえなくなっているのです。考えてみれば、「原宿」という言葉もいま、どれだけブランド価値があるのか疑問です。時代の移り変わりの速さには驚くばかりです。

 さて、とげぬき地蔵のある「高岩寺」に着きました。


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 高岩寺は巣鴨にある曹洞宗のお寺で、本尊は地蔵菩薩です。この地蔵菩薩は秘仏なので、その代わりに、その姿を掘った御影が境内に置かれています。参拝に来た人々はこの御影に祈願すると、ケガや病気などの平癒に効験があるとされています。

 私は境内で販売されていた石の小さなお地蔵さんを買いました。


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 赤い帽子に赤い涎掛けを付けています。その涎掛けには「御願い地蔵さん」と書かれており、背面には「御願いかなう 御願い地蔵さん」と書かれたシールが貼られていました。

■車内で見かけた高齢者
 帰る途中、地下鉄の車内で、隣に座った女性が、新聞の切り抜きに鉛筆でなにやら書いているのに気づきました。不思議に思って、ちらっと見てみると、なんと数独パズルをしていたのです。80歳は過ぎているでしょう、真剣な面持ちで鉛筆を握っています。再び、覗いてみると、「中級」と書かれています。


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 すでにいくつか数字が書き込まれていますが、とても難しそうです。

 帰宅してからネットで調べてみると、数独の解き方の映像があることがわかりました。中級の解き方のテクニックについての動画をご紹介しておきましょう。

こちら →https://youtu.be/xPvR6UsuW1w

 ちょっと見ただけでも、かなり難しそうです。地下鉄の電車内で見かけた女性は、脳トレのつもりで数独パズルを解いていたのでしょうか。

 電車を乗り換えて座った席の隣も、高齢女性が座っていました。こちらは真剣な表情でスマホに文字を打っています。ちらっと画面を見ると、「あけおめ」と書かれていました。どうやら年賀状のようです。びっくりしてしまいました。どうみても、70歳以上の女性です。それなのに、若者用語を使って、年賀用のメールを送信しているのです。孫宛に送っていたのかもしれませんが・・・。

 何か、大きな変化が起きつつあるのでしょうか。

■エイジレス社会に向けた動向か?
 高齢者の人口が増えるにつれ、日本社会はいつのまにか、高齢者の動向に左右されるようになっています。時代の動向は、技術、人口のマジョリティ層、社会体制などによって影響されますが、日本の場合、人口のマジョリティ層は高齢者で、今後さらに増加していきます。

 高齢者が少数ではなく、マジョリティになってしまった今、もはや特別扱いされることは少なくなってきました。老いても、自助努力が求められるようになっているのです。

 実際、元旦なのに、巣鴨とげぬき地蔵商店街では、明らかに高齢者とわかる人々の数が減っていました。また、帰りの電車内で見かけた高齢者はいずれも、まるで若い世代のような行動を取っていました。高齢者はもはや、いわゆる「高齢者」のままのんびりとは生きていけなくなっているのでしょうか。

 一方、大晦日には、数多くの若者たちが近くの神社に参拝に訪れ、お焚き上げを見守っていました。ここでは高齢者の姿は少なく、意外な気がしました。深夜で冷え込んでいたからでしょうか、やって来る高齢者がいたとしても甘酒を手にしたら、早々に引き上げていたのです。

 大晦日と元旦、たまたま、神社と電車内で見かけた光景はどちらも、私には意外なものでした。人々はもはや、高齢者だから、若者だからといった年齢意識に拘らず、自分にとって必要と思われる行動をとり始めているように思えました。技術革新によって、さまざまな障壁が壊されてきていますが、いよいよエイジレス社会に進みつつあるような気もします。今年はいったい、どのような年になるのでしょうか。

 今年も、どうぞよろしくお願いいたします。(2020/1/1 香取淳子)

原ひろ子先生を偲ぶ

 いつの間にかもう10月28日、原ひろ子先生が亡くなられてから、あっという間に三週間が過ぎてしまいました。日が経つにつれ、その存在がいかに大きかったかを思い知らされています。最近、ようやく気持ちの整理がついてきましたので、この場で、原ひろ子先生を偲びたいと思います。

■突然の訃報
 2019年10月11日、「原ゼミの会」から訃報メールが届きました。原ひろ子先生が10月7日、午後6時38分に亡くなられたというお知らせでした。突然のことで驚いてしまいました。なんといっても、まだ85歳、思いもよらないことでした。

 定年退職して帰京してからは毎年、私は、「原ゼミの会」で原ひろ子先生にお目にかかっていました。先生の含蓄のあるお話しを聞くのが楽しみでした。毎回、言葉の端々から何かしら新鮮な刺激を受け、気持ちが鼓舞されていくのを感じさせられていました。今年は6月に開催される予定でした。ところが、腰椎骨折をされて、まだ痛みが残っているということで延期になってしまったのです。

 私の知り合いでも腰椎骨折を経験している人が何人かいますが、だいたい3か月を過ぎる頃から痛みが取れるということを聞いていました。ですから、そろそろ「原ゼミの会」開催のお知らせがくる頃だと思っていた矢先の訃報でした。

■東京大学大学院修了式での告辞
 その後、メンバーから連絡があり、2019年9月13日、東京大学大学院修了式で五神真・東京大学総長が告辞の中で、原ひろ子先生について触れられていたことを知りました。これから社会に出ていく大学院修了者に向けて、はなむけの言葉として、原先生の生き方とその業績を紹介されたのです。

こちら →https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/about/president/b_message01_07.html
(英語表記の後、日本語表記があります)

 東京大学総長の五神真氏が原ひろ子先生のどこに着目されたのか、告辞内容をかいつまんでご紹介しておきましょう。

 原先生は、東京大学が女性に門戸を開いた最初の年に合格されました。1953年に入学された際、入学者約2000名中、女性はわずか8名でした。

 学部、修士課程では文化人類学を専攻され、日本の農・山・漁村で精力的にフィールドワークをされました。やがて「狩猟採集民について研究してみたい」と思うようになり、1959年、アメリカに留学されました。フルブライト奨学金を得てピッツバーグ大学大学院博士課程に進み、1960年にはブリンマー大学大学院人類学科に移り、1961年にカナダ極北で生活するヘヤ―・インディアンの調査研究を開始されました。

 当時、カナダ極北の地で生活する狩猟採集民は、リーダーがおらず、フラットな社会組織だと考えられていました。そこで、研究対象をヘヤー・インディアンに定めた原ひろ子先生は、大学院留学生の立場で、カナダの国立博物館に手紙を書いて支援を取り付け、現地に乗り込み、フィールドワークに励まれたのです。

 戦後間もない時期に、原ひろ子先生はなんと積極果敢に研究者人生を切り拓いてこられたのでしょう。

 青年期のこのような経験を知るだけでも、原ひろ子先生がいかに先進的で革新的な考えの持ち主であり、創造性豊かな努力家であったかがわかります。東京大学総長の五神真氏が、大学院修了者に向けた告辞の中で、原ひろ子先生を取り上げられた理由がよくわかります。

 大学院修了者たちは今後、不確実性の高い社会の中で研究活動を展開していかなければなりません。果たして研究者になれるのか、彼らは時に迷い、時に沈み込むこともあるでしょう。どのような場に身を置くことになろうとも、原ひろ子先生のように積極果敢に、そして、柔軟に道を切り拓いていこうとする姿勢がなければ、成果を得ることは難しいでしょう。原先生の来歴を告辞の中で紹介された五神真氏の思いがひしひしと伝わってきます。

■原ひろ子先生のお顔
 2019年10月13日、代々木斎場で執り行われたお通夜に行ってきました。先生のご遺影はにこやかで、可愛らしく、見ていると、悲しみの中でいっとき、気持ちが和んでいくような気がしました。茶目っ気のある先生の笑顔を思い出してしまったのです。研究者としての厳しさを見せられる反面、どんなヒトをも包み込むおおらかさがあり、笑顔の素晴らしい先生でした。

 最後に、お棺の中の先生にお別れをさせていただきました。先生は軽くお化粧を施されており、まるで少女のような初々しさが感じられました。普段、お化粧されないだけに、頬に薄く差された紅が印象的でした。可愛らしく、そして、穏やかで、とてもいいお顔でした。

 先生と出会った頃を思い出します。

■原ひろ子先生との出会い、そして、得たこと
 大学院在籍時、私は社会学系の研究室に所属していました。ところが、修了しても行き場がなく、途方に暮れていたところ、原ひろ子先生からお声をかけていただき、原研究室の補佐員になることになったのです。

 研究室に通うたびに何かしら新しい発見があり、ワクワクするような知的な刺激を受けていたことを思い出します。というのも、先生が直観力に優れ、観察力に優れた研究者だったからです。

 当時、私は数量化したデータを統計処理し、解析するという手法で調査研究を行っていました。まだ統計手法もそれほど洗練されていませんでしたので、果たしてこれで実態に即した分析ができるのかと疑問に感じていました。それなりに結果は出せるのですが、気持ちにそぐわないものを感じていたのです。

 ベースになる人間観、世界観を、私はもっぱら書物から得た知識によって作り上げていました。それでヒトや社会がわかったような気になっていたのですが、原先生と出会ってからは少しずつ、そのような認識の基盤が崩れていきました。

 原先生は、ヒトの何気ない言動、ありふれた事象の一つ一つに意義を見出し、生活文化の一環として捉えておられました。とても鋭く、説得力があり、魅力的でした。概念によってがんじがらめになって、方向を見失っていた私がようやく見つけた納得できるスタンスであり、パースペクティブでした。

 先生と接することによって私は、概念化以前、すなわち、言葉によって集約される以前の状態にまで、想像力を働かせることができるようにならなければいけないと気づかされたのです。

 もっとも、日常生活の断片から意義ある情報を掬い取るには、生来、直観力、観察力に優れていなければならず、さらには、柔軟な思考回路がなければ、観察結果を知見として結実させることも難しいでしょう。文化人類学というのは研究者の資質、能力に大きく依存した学問だという印象を持ったことを思い出します。

 原先生と接するようになってから私は、「生活文化」という概念に強く印象付けられ、そこに研究者としてのアイデンティティを覚えるようになっていきました。ですから、当時、論文を書いたり、学会発表をしたりする際、私は誇らしい気分で、所属先を「お茶の水女子大学生活文化研究会」としていたほどでした。もちろん、所属メンバーは私一人でしたが・・・。

■研究者として育てていただいたこと
 さて、私は補佐員として原研究室の事務作業を行う一方で、共同研究にも参加させていただきました。1983年、東大小児科の小林登先生を班長とする共同研究「厚生省母子相互研究班」の中の原ひろ子班(文化人類学)の一員に加えていただいたのです。原先生を長とし、文化人類学の馬場優子氏と実証社会学の私の3人のチームでした。

 この共同研究で私は初めて、原先生のご指導の下、文化人類学的手法で研究を行うことになりました。当時2歳9か月から3歳4か月の幼児4人に対し継続的に参与観察や心理テストを行い、それに合わせ、母親に対する調査を行いました。ホリスティックな観点から、母子コミュニケーションとテレビ視聴行動との関係について、実態把握を試みたのです。とても有益な経験でした。研究成果の一つは、「テレビとお話」というタイトルで、小林登・小嶋謙四郎・原ひろ子・宮澤康人編『新しい子ども学』第2巻(海鳴社、1986年)に収録されました。

 大学院終了後の数年間、私は原ひろ子先生という稀有な研究者を身近に感じながら過ごしました。おかげで、研究者としてのアイデンティティを確立することができ、研究者としての基礎的経験とその体力を身につけることもできました。調査研究、学会発表、論文執筆という一連の過程を先生の下で学ばせていただいたのです。

 さらに、ヒトとしての大きな収穫は、先生の言動から得た「気づき」の重要性でした。

■原ゼミの会
 「原ゼミの会」のメンバーもそれぞれ、研究者として、実践者として、先生にしっかりと鍛えられてきたのでしょう。定年退職後、東京に戻ってきてから、私は毎年、「原ゼミの会」に参加していますが、毎回、メンバーのパワフルな活動ぶりに驚嘆させられています。研究活動であれ、実践活動であれ、全国各地で「原ゼミ」のメンバーがパワーを炸裂させているのです。先生はいつも、にこやかにメンバーの報告を聞いておられました。

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 2016年7月10日、私は幹事の一人として「原ゼミの会」の開催を担当しました。このときも、和気あいあいとした雰囲気の中、メンバーからさまざまな研究活動や実践活動が報告されました。原ひろ子先生は終始にこやかに、メンバーの報告を聞いておられたことを思い出します。ご自身も第一線の研究者として幅広く活躍しながら、後輩の女性たちのパワーを引き出し、そして、暖かく見守ってくださっていたのです。

■読み返してみた『ヘアー・インディアンとその世界』
 先生のことを思い出しているうちに、ふいに、『ヘアー・インディアンとその世界』を読み返してみたくなりました。

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 今回、時間をかけて読んでみて、もっとも印象深かったのは、死をめぐる叙述の部分、すなわち、病院で聞いた話、そして、実際に死に際のヘヤー・インディアンに接した経験でした。

 原先生は、イヌヴィーク病院で聞き取り調査をした結果、死を間近にしたヘヤー・インディアンは、「経口食を拒否し、家族や親せき、知人に会いたがり」、やがて、「ついに黙ってしまって一晩のうちに死んでしまうのがほとんど」(p.365)だと書いています。
 
 また、実際に見聞したチャー二―の事例から、「死ぬと言い出してからは、紅茶を時折口に含むだけ」になり、テントに集まった家族、親戚、知人に見守られ、「横臥してぼそぼそと思い出話を続けるチャー二―に、みんなはフムフムと相槌を打っている」と原先生は書いています。

 チャー二―を取り囲んだ人々が、「それから?」と言って、話を促したりしないのは、(臨死の人の場合)「霊魂が肉体を出たり入ったりする」とヘヤー・インディアンの人々が考えているからだそうです。「人が目を閉じ、静止するとき、その人は自分の守護霊と交信するのだから、誰もそれを乱してはいけない。その人が目を開け、再びまわりの者とはなしはじめるまで待つ」(pp.367-368)というのです。

 さらに、「良い死に顔をして死んだ者の霊魂は、再びこの世に生まれるべく旅につく」とも考えられており、「良い死に顔で死ぬことは、死にゆく本人の願いでもあり、見送る人々の願いでもある」(p.368)と原先生は記しています。

 『ヘヤ―・インディアンの世界』を読み返してみて、改めて、超高齢社会への大きな示唆を得たような気がしました。
 
 印象深かったのは、ヘヤ―・インディアンの人々が淡々と、「死の自己決定権」とでもいえるようなものを行使していたことでした。先ほどご紹介しましたように、彼らは死期を悟ると、食べ物を口にせず、近親者を集めてお話しをし、生命を終える準備をします。原先生の記述によれば、病院であれ、生活の場であれ、ヘヤ―・インディアンのそのような態度は変わることがありませんでした。時を超え、連綿と継承されてきた死生観だからなのでしょう。

■超高齢社会への示唆
 「守護霊」のお告げを受けると、ヘヤ―・インディアンの人々は死に支度を始めます。今様にいえば、身体の衰えを知ると、「死を自己決定」し、周囲にそれを告知してから、死の準備に入るのです。

 具体的に言えば、食を絶つ一方で、ローソクの火が消えるように、命が尽きるまで、集まった人々を前に次々と思い出を語り、さまざまな想いを語り、この世に別れを告げていきます。そのように肉体の死とその精神的な受け入れとを同期させることによって、死を完結させるのです。

 一方、集まった家族や親せき、知人たちにとっても、これは死を考えるいい機会になります。死期を悟った人が語るさまざまな思いを聞き、その心情に思いを馳せることによって、死を穏やかに受け入れることができます。自然の摂理として死を受け止めることができるからこそ、永遠の別れを静かに受け入れることができるようになるのでしょう。「再生」という概念がその場にいるヒトたちに共有されているからこそ成り立つ生活文化だと思いますが、見事だといわざるをえません。

 それに反し、コマーシャリズムに突き動かされて暮らしているうちに、日本人はいつの間にか、老いや死を受け止める生活哲学を見失ってしまったように思えます。若さ、明るさ、健康をアピールする商品が溢れる社会状況の中で、人々はひたすら若さ、効率性、清潔を追い求めて暮らしています。老いや死にはネガティブなイメージが付与され、生の一環として捉えられずに切り離されて、施設や病院に追いやられています。

 このような文化状況下の2019年、日本の高齢人口(65歳以上)は28.4%と過去最多となりました。今後、この比率はますます増大する見込みです。老いや死を受け止め、それを昇華させていく生活文化、あるいは生活哲学がないまま、果たして、超高齢社会を乗り切れるのでしょうか。

 欲望の肥大化によって稼働している現代社会では、「足るを知る」という言葉は空虚に響きます。そのような社会に生きる私たちは、ヘヤ―・インディアンの人々が共有していた自然と一体化した死生観など持ちようがありません。高齢者人口は今後、増加の一途を辿るというのに、高齢者はこれまでになく、不安で惨めで、落ち着きのない晩年を過ごさざるをえなくなっています。

 原先生は、ヘヤ―・インディアンの再生観について、下記のように記しています。

 「ヘヤ―・インディアンの再生観には、死者と生者を含めての時間を超えた、ヘヤ―の世界における人と人との深いつながりが認識されているように思われる。病や死に直面しての人々の心のつながりや、再生観に見られる人と人とのつながりは、ヘヤ―を外から眺めるとき、まことに重要な事象であると思われる。重要だというのは、この事象が、ヘヤ―文化が固有のヘヤ―文化として少数の人口によって支えられ、世代から世代へと伝えられるうえでの凝縮性というか求心性を保つ役割を担っていると考えられるからである」(p.374)

 この箇所を読んでいて、ふと、現代社会が見失った最も大切なものは、人々の根幹を支える生活文化であり、歴史ではないかと思えてきました。横断的なパースペクティブが優先されて、縦断的なパースペクティブが置き去りにされてしまった結果、人々はまるで根無し草のように、「今を生きる」だけの存在になってしまっているのではないかという気がしてきたのです。

 改めて、コマーシャリズムによる生活文化ではなく、縦断的で根のある生活文化の重要性がわかってきました。とはいえ、果たして、ヒトが生きて、死んでいく過程を支える生活文化、あるいは、生活哲学を、現代社会の中で構築することは可能なのでしょうか・・・。原先生を偲び、言われたことを思い出しているうちに、なんだか、先生から新たな研究課題をいだたいたような気分になってしまいました。(2019/10/28 香取淳子)