■元寇によって運命が分かれた松浦党
1260年に即位し、第5代皇帝となったモンゴル帝国のフビライ・ハンは、1271年に国号を「大元」と定め、首都を北京に移して、元を建国しました。
フビライが皇帝となったときはまだ、中国の前王朝として南宋が残っており、日本はその南宋と密な交易がありました。フビライにしてみれば、日本が魅力的な資源国に見えたのでしょう。
その後、フビライは中国的な官制を採用して、本格的な南征を開始しました。中国を支配下に置いたばかりか、朝鮮半島まで侵攻しました。
当時、日本の九州沿岸部は、中国沿岸部や朝鮮半島と交易していましたから、彼らを通してフビライの猛攻は伝わっていたのでしょう。この勢いではやがて、フビライは日本を襲撃するのは必至でした。
文永八(1271)年、幕府は、鎮西御家人に加え、九州に知行地を与えられていた東国御家人にも、博多湾一帯を警固するよう命じました。松浦党をはじめとする肥前国御家人には、姪浜一帯が、警備分担領域として割り当てられていました。
幕府としてはとりあえず、防衛体制を敷いたのです。
さて、波多氏は、初代の波多持以降、岸岳城を本拠に、現在の北波多付近を拠点にして勢力を拡大していきました。第二代、第三代については詳しいことはわからないのですが、第四代当主の波多勇は、元寇の際、姪の浜附近を守り、戦功を立てたとされています。
一方、同じ松浦党の肥前御家人である佐志房は、元軍が、文永十一(1274)年十月十六から十七日にかけて、肥前沿岸の松浦郡および平戸島・鷹島・能古島の松浦党の領地に襲来しました。その際、嫡男の佐志直、二男の佐志留、三男の佐志勇らとともに果敢に応戦し、死力を尽くして戦ったのですが、全員、戦死してしまいました(※ 外山幹夫、『肥前松浦一族』、新人物往来社、2008年、p.66.)。
同じ松浦党といいながら、波多勇は戦功をあげ、佐志房は息子三人とともに戦死してしまいました。元寇によって、波多氏と佐志氏の運命は大きく分かれてしまったのです。
■佐志氏の無念
それでは、元軍がどのようなルートで日本に侵攻してきたのか、地図で確認しておくことにしましょう。
こちら →
(※ https://wearewhatwerepeatedlydo.com/japanese-history27/、図をクリックすると、拡大します)
赤い矢印が文永の役の侵攻ルートで、青い矢印が弘安の役の侵攻ルートです。
高麗を発った元と高麗の連合軍二万八千人は、九百艘の艦船に分乗し、文永十一(1274)年十月五日、対馬の小茂田浜を襲撃しました。
襲撃された対馬の人々は、多勢に無勢でなす術もなく、暴虐の限りを尽くされました。男性たちは非業の死を遂げ、女性たちは生け捕られ、奴隷として連れ去られました。九日ほどの間に対馬は見るも無残な姿になり果てたのです。
十月十四日に猛撃された壱岐もまた、対馬と同様、悲惨な目に遭わされました。
十六、十七日に襲撃されたのが、平戸、鷹島といった肥前の沿岸部です。ここを警固していたのが、佐志房、嫡男の佐志直、二男の佐志留、三男の佐志勇でした。彼らは、死力を尽くして戦ったのですが、力及ばず、全員、戦死してしまいました。数多くの兵士たちは戦死し、島民たちは捉えられ、虐殺されました。
(※ https://www.pref.saga.lg.jp/kiji00346510/3_46510_8_201634164253.pdf)
元軍はその後、十月二十日に博多湾に侵攻しました。こちらは少弐経資、大友頼泰など、鎮西御家人の指揮の下、松浦党たちが応戦しました。先ほどの地図に、姪の浜の文字が見えます。波多勇が戦功をあげたとされる場所です。
山崎氏が整理した家系図では、波多氏の第四代当主の勇は、元寇の際、姪の浜付近を守ったと記されています(※ http://www2.harimaya.com/sengoku/html/hata_k.html)。
こうしてみてくると、元寇による被害の度合いは、防衛力の多寡に比例していると考えられます。松浦党が単独で応戦したところが、悉く、壊滅に近いほど甚大な被害を受けているのです。奮戦したにもかかわらず、元軍の圧倒的な戦略にはかなわなかったのです。
佐志氏の陣営は、数百人が討たれるほどの大損害を被りながらも、執拗な夜襲を繰り返し、応戦していたといいます。少人数で力の限りを尽くしましたが、領主とその息子三人すべてが戦死してしまいました。
一方、同じ松浦党でも波多氏の場合、鎮西奉行の指揮下で戦い、余裕のある布陣を組むことができたのでしょう。おかげで、波多勇は姪の浜で戦功を立てることができました。
ちなみに、松浦党は、居住する地域によって、斑島(まだらじま)氏、佐志氏、波多氏、有浦氏、値賀氏、石志氏、相知(おうち)氏、大川野氏などの上松浦党と、松浦氏(平戸松浦氏)、青方(あおかた)氏、宇久氏、平戸氏、大島氏、志自岐(しじき)氏、中村氏、早田氏、山代氏などの下松浦党に大別されます。
(※ https://www.town.genkai.lg.jp/site/kankou/89560.html)
佐志氏も波多氏も同じ上松浦党の氏族でした。
■報われなかった松浦党
鎌倉幕府と御家人は、「御恩」と「奉公」という主従関係で結ばれていました。武士たちは通常、戦って戦功を立てれば、幕府から恩賞を与えられました。勝利した相手の土地や価値財産などを収奪し、恩賞として武士に与えることができたのです。
ところが、元寇は「防衛戦」だったので、幕府は領地を没収することも、財産を獲得することもできませんでした。つまり、幕府は元軍と戦い、防衛してくれた武士たちになんの恩賞も与えることができなかったのです。
幕府にとっても武士にとっても、元寇は、得るものが何もなく、消耗し、奪われるだけの戦いでした。
とくに松浦党の武士たちの場合、武器の調達や軍船の建造、長年の博多警備(異国警固番役)で莫大な借金を抱えていました。それなのに恩賞がなく、生活は困窮し、貧困に追い込まれました(※ https://www.matsura.or.jp/rekishi/matsuratou/)。
この「恩賞のない戦い」に対する武士たちの不満の蓄積が、幕府への信頼を失わせ、のちの鎌倉幕府滅亡へと繋がりました。
鎌倉幕府が滅び(1333年)、南北朝時代の内乱が始まると、社会はさらに混乱します。元寇で恩賞をもらえず、飢えた松浦党の御家人やその一族は、国内で食べていくことができなくなりました。生き残るために仕方なく、高麗や中国沿岸へ船を出し、物資を略奪するようになります。いわゆる「倭寇」の誕生です。
統治していた地域が、国防の最前線であったにもかかわらず、松浦党の防戦体制は圧倒的に不十分でした。武器しろ、軍勢にしろ、兵力にしろ、元軍とは圧倒的に見劣りがしました。小規模の松浦党だけでは、どう足掻いたとしても、元軍の襲来を追い返すことはできず、壊滅的な打撃を被りました。
松浦党が管轄していた地域は、日本にとっての防衛最前線でした。それだけに手痛い打撃を受けたのですが、その一方で、海外に近く、交易の拠点でもありました。元軍の襲来で疲弊しきったこの地域の人々が、やがて海外に活路を見出すようになるのは当然のことでした。海洋技術に優れ、武術にも長けた人々が、生活できなくなっていたのです。海の向こうに生活物資を求めたとしても不思議はありませんでした。
武装集団による無法な活動が多々、発生するようになりました。
■倭寇
倭寇の活動は、十三世紀から認められていますが、激しかったのは、十四から十五世紀と、十六世紀の二つの時期だといわれています。南北朝の争乱(1337-1392)の時期にまず、九州では倭寇の活動が盛んになりました。
そもそも朝鮮では「三島の倭寇」と呼ばれ、日本の盗賊集団が大変恐れられていました。「三島」とは、主に壱岐、対馬、松浦を指し、時に、壱岐、対馬、博多を表すこともありました。倭寇の「倭」は日本人を指し、「寇」は侵略や盗賊を意味します。中国や朝鮮側から名づけられた呼称でした。
朝鮮半島や中国沿岸で略奪を行った武装集団は、取引を行っていたこともあったようで、商人集団でもありました。構成メンバーは、元々、九州北部や瀬戸内海の豪族や漁民が中心でしたが、朝鮮半島出身者も参加していたといわれています。いずれにしても、倭寇が日本を拠点にし、朝鮮半島や中国沿岸に出かけて行った略奪行為を指すことに変わりはありません。
倭寇は活動時期によって、前期倭寇と後期倭寇の二つに大別されます。
前期倭寇(13世紀末〜14世紀)は、日本人の浪人や対馬、壱岐、松浦の武士たちによる活動を指します。彼らは元寇(1274、1281)によって疲弊し、さらに、南北朝の動乱(1336-1392)によって困窮化していました。生き延びるために、仕方なく、朝鮮半島や中国沿岸部を襲撃したと考えられています。
■朝鮮半島からみた倭寇
倭寇の活動が本格化したのが、高麗王朝第31代恭愍(きょうびん)王の治世(1352-74)でした。日本の南北朝動乱の時期に相当します。恭愍王が王位に就いて数年後の1358年、倭寇に襲撃されて国家財政が窮乏し、百官の俸禄を支給できなくなるほど大きな経済的な打撃を受けました。
倭寇の略奪目標になっていたのが、食糧や生活必需品でした。食い詰めた挙句の略奪行為だったことがわかります。高麗王朝は損失をできるだけ少なくするため、沿岸地方の倉庫を内陸部に移すなどの処置をしました。
恭愍王治世下の倭寇には、次のような特徴があったとされます。
1. 米穀など生活必需品の獲得が目的だったので、租税としての米穀を運ぶ船 と備蓄しておく官庫が攻撃対象となった。
2. 高麗の南部沿岸ばかりでなく、首都付近まで攻撃した。
3. はじめは二十隻ぐらいの船団から、兵数三千、船数四百といった大規模な倭寇が出現するようになった。
(※ 田中健夫、『倭寇』、講談社学術文庫、2012年、p36)
以上のような特徴からは、日本で追い詰められ、生きていけなくなったので、朝鮮半島の人々を襲撃し、略奪をしていたことがわかります。また、最初は少数だった倭寇が、略奪に成功するにつれ、数が増えていった様子もうかがえます。さらに、食料や生活物資を奪っただけではなく、人を拉致し、労働力として連れ帰ったこともあったようです。
朝鮮人を拉致する様子を描いた作品が、『續三綱行實圖』(韓国国立中央図書館所蔵)に残されています。
こちら →
(※ https://courrier.jp/news/archives/362444/、図をクリックすると、拡大します)
前期倭寇を描いたものだとされています。
壱岐、対馬、松浦などは元来、土地はやせ、耕作地も少ない地域でした。飢饉や戦乱が続くと、人々はたちまち生きていけなくなりました。彼らが鮮半島や中国沿岸部に出向き、乱暴狼藉の限りを尽くすようになるのは、生きるため、半ば必然の行為でした。
これらの地域は容易に、倭寇の拠点に転化しました。
倭寇が朝鮮半島や中国に頻繁に出没するようになったのは、南北朝の争乱期だったといわれています。
建武三(1336)年に、後醍醐天皇が奈良の吉野へ逃れて開いた「南朝」と足利尊氏が京都に立てた「北朝」とが並立した56年間の動乱期を指します。明徳三(1392)年に、室町幕府三代将軍の足利義満が両朝を統一するまで、不安定な社会が続きました。
このような当時の日本の社会情勢を考え合わせると、倭寇は生き延びるために、中国や朝鮮に出かけ、略奪を繰り返していたといえます。
恭愍王の治世の後半から、第32代辛禑(しんぐう)王の時代(1375-88)にかけて倭寇の侵略が極度に狂暴になりました。欲しい物を奪うだけではなく、家屋の損壊も行っていたのです。
倭寇が食糧や物品を略奪した後、まるで証拠を隠滅するかのように、家に火を放つ様子を描いた絵があります。
こちら →
(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:WakouAttack.jpg、図をクリックすると、拡大します)
この絵のタイトルは「倭寇の襲撃」で、14世紀の絵と説明されています。倭寇の活動がもっとも活発だった時期に描かれた作品です。生活物資を略奪するだけではなく、不要な犯行まで重ねていたところに、倭寇の鬱屈した気持ちが透けて見えます。
■倭寇は武士の残党か?
郷土史家の稲村賢敷氏(1894-1978)は、倭寇の構成員について、規律があって、戦い慣れした武士団だと述べています(※ 稲村賢敷『琉球諸島における倭寇史跡の研究』吉川弘文館、1957年)。
倭寇は単なる海賊ではなく、南北朝の動乱で敗れた南朝方の武士たちで、兵糧や物資を求めて南下してきた集団ではないかと、郷土史家の稲村賢敷氏(1894-1978)は推察しています。そして、その南下した勢力の中に、肥前松浦地方を拠点とする松浦党が含まれていた可能性を指摘しているのです。
この頃の倭寇は、数十隻から数百隻の船隊を繰り出し、重装備の武士も加わって、食糧を略奪したとされています。秩序ある社会の中で生きてきた人々が、なんらかの理由で略奪行為に手を染めざるをえなくなったのでしょう。稲村氏は、南朝方の菊池氏や肥前の松浦党が、北朝との戦いのための物資獲得を目的に行っていたのではないかと推察しています。
ちなみに、菊池氏とは、南北朝時代に肥後国(熊本県)を本拠地とし、南朝方の主力として活躍した武家です。第15代当主の菊池武光(1319-1373)は、後醍醐天皇の皇子である懐良親王を迎え、1359年の「筑後川の戦い」で北朝軍を破り、九州の南朝勢力を大きく拡大させました(※ https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/en/R5-00382.html)。
そして、肥前の松浦党の人々は確かに、一時期、「倭寇」として恐れられていました。彼らが結束して行動しはじめたのは、元寇で本拠地が襲撃され、困窮化して以来だとされています。元寇で襲撃され、壊滅寸前に追い詰められたのですから、朝鮮半島や中国沿岸部への略奪行為は、半ば報復、あるいは、反撃の意味合いがあったのかもしれません。
いずれにしても、松浦党の人々は、飢饉や戦乱がない時は、玄界灘の荒海に船を漕ぎだし、漁業に携わる一方、朝鮮半島や中国沿岸部の人々との交易を行っていました。倭寇といわれ、海賊扱いされている人々は本来、勇敢で、海洋技術に優れた海に生きる民だったのです。
■略奪から交易へ
朝鮮や中国は、倭寇の被害に悩まされ、時に軍事攻撃をし、また、時に懐柔策を取り、貿易を許可し、略奪行為をなくすための対策を取りました。
たとえば、朝鮮は、1419年の己亥東征(応永の外寇)で、対馬を攻撃し、倭寇の根拠地を破壊しました。また、倭寇のリーダーや協力者を捕らえて官職を与え、朝鮮国内に定住させ、監視するといった懐柔策を取ったことがありました。
倭寇の拠点を潰し、リーダーや協力者を捉えて朝鮮国内に定住させる一方、合法的な貿易を許可し、海賊行為を抑止しようとしたのです。倭寇の非合法な行為を合法的な行為に転換し、平和な関係を築こうとしたのです。
一方、中国の明は、海防を強化して倭寇集団を掃討、あるいは、福建省沿岸での貿易を許可、さらには、日本の戦国大名に倭寇の取り締まりを要請するといった対策を取りました。
朝鮮にしても、中国にしても、倭寇の略奪行為を止めさせ、合法的な交易へと関係改善を図っていたのです。
このような動きに対し、日本側は、倭寇対策として、勘合貿易を始めました。倭寇や密貿易と区別し、正式な遣明使船が確認するため、勘合(勘合符)を使用したので、勘合貿易と名づけられました。当時の中国を支配していたのは明でしたから、日明貿易ともいわれます。
応永十一(1404)年に開始された日明貿易は、日本(室町幕府)と中国(明)の間で行われた公式の朝貢貿易を指します。朝貢貿易とは、中国の皇帝へ貢ぎ物(朝貢)を差し出し、皇帝がその見返りとして、「回賜(かいし)」という豪華な返礼品を与える形態の貿易です。
中国の皇帝が、周辺国の君主を臣下として認める「冊封」体制のなかで行われ、政治的儀礼の一部ですが、前近代の東アジアを中心に行われていました。朝貢貿易を行うことによって、日本が、中国の皇帝に従属したことになりますが、実質的には、貢物より返礼品の方がはるかに価値が高く、室町幕府三代将軍の足利義満は大きな利益を得ることになりました。
日本からの貢物としての輸出品は、金、真珠、刀剣、硫黄、水銀、漆器、屏風、扇などに加え、人参・松子・虎豹皮などの朝鮮産品、焚香料・香辛料・染料などの南海産品でした。中国からは、宋銭・明銭を問わず、膨大な銅銭が流入する一方、生糸・絹・陶磁器などの高級な手工業品も多量に輸入されました。
(※ 中島楽章、「永楽年間の日明朝貢貿易」、『史淵』、140号、p.89、2003年)
高麗や明、室町幕府などは、国家体制を維持するために、倭寇の略奪行為を交易行為へと転換させようとしたのです。それに伴い、博多商人を通して貿易を独占した大内氏、堺商人と結びついて利権を得た細川氏、琉球を支配下に置きアジア物産を介して利益を得た島津氏など、日明貿易を通して莫大な富を積み上げました。
博多港など自領の港を利用する倭寇を規制する一方、私的な貿易も行っていたのです。
それでは、朝鮮半島や中国沿岸部に近く、元来、現地住民と交易を行っていた松浦党の人々はどうだったのでしょうか。交易の拠点の一つであった壱岐の様子をみておきましょう。
■壱岐を分割統治していた松浦党の五氏族
元寇襲来まで壱岐を治めていたのは、大宰府の少弐氏(しょうにし)から派遣された、守護代の少弐資時(すけとき)らでした。ところが、弘安の役(1281)では、4万もの蒙古東路軍が、まず、対馬を襲い、次に、壱岐に攻め込みました。北西部海岸(瀬戸浦)と勝本から上陸した元軍を迎え撃ったのが、壱岐守護代、当時19歳の少弐資時でした。圧倒的な戦力に押され、船匿城(ふなかくしじょう)で全滅したと伝えられています。
(※ https://www.ikikankou.com/spot/10124)
この時の応戦で、壱岐の在庁官人や防衛体制は、壊滅的な打撃を受けました。守護代が没落して、壱岐は統治の空白地帯となっていました。そこへ、対岸の肥前国を本拠地としていた松浦党の各氏族が、新しい領地や東アジア交易の拠点を求めて、次々と進出してきたのです。
南北朝時代の動乱の最中でした。内部争いをしている場合ではありません。
壱岐の領有権や交易利権をめぐる一族間の争いを防ぐため、松裏党は、応安二(1369)年頃、島を五つのエリアに分ける分割統治の体制を正式に確立しました。すなわち、志佐、佐志、呼子、鴨打、塩津留の五氏による分割統治です。
当時の境界は、現在の「町境」のように一箇所にまとまった領地ではありませんでした。交易に必要な「港(浦)」と、それを支える背後の「穀倉地帯(里)」を各氏族がセットで確保するように、複雑に入り組んで設定されていました。
五氏はそれぞれ、壱岐に「代官」を派遣して現地の統治や港の管理を行わせており、漁業権の調停や朝鮮への貿易船(歳遣船)の発着については、お互いに合議や取り決めを行いながら島を運営していました。
(※ https://www.town.genkai.lg.jp/uploaded/life/63324_614912_misc.pdf)
表向きは正式ルートの海外貿易、裏では倭寇(海賊)で、莫大な利益を得ていました。五氏族は、壱岐を倭寇の本拠地にして、それぞれが、縄張りをもって、壱岐を分冶していました。このとき、覩城(とじょう)に住んでいたのは、この周辺を支配していた、志佐氏でした。
(※ http://www.ikishi.sakura.ne.jp/hatashinryaku.html)
いつ築城されたのか、年代は定かではありませんが、平治年間(1159年〜1160年)には長田壱岐守平忠政、寿永年間(1182年〜1185年)には長田忠致が居たといいます。その後、松浦党直谷城の志佐氏の城となり、代官真弓氏が管理していました。
こちら →
(※ https://www.hb.pei.jp/shiro/iki/to-jyo/、図をクリックすると、拡大します)
松浦党の代表的な在地領主であった志佐氏は、玄界灘を拠点に、朝鮮との海上交易を活発に行っていました。朝鮮王朝から公式な通交許可である「図書(銅印)」を受け取り、壱岐などを拠点にして活動し、朝鮮側の記録にもその名を残すほど重要な役割を果たしていました(※ https://saikaikouko.jp/No3/murakawa2001.pdf)。
志佐氏は、当時、印通寺港を使って、荷揚げをしていた倭寇の一人だったのです。
こちら →
(※ https://discoverjapan-web.com/article/147629、図をクリックすると、拡大します)
志佐氏は、松浦郡志佐(現・松浦市)を本拠とする有力な松浦党の一族で、一時期は壱岐守護と称したこともありました。
志佐氏の代官の真弓源武史は、壱岐の覩城を居城として勢力を張り、その富の源泉は朝鮮貿易をはじめとする東アジアに広がる交易でした。真弓氏自身、朝鮮国から「図書」を受けて貿易船を派遣したほどの豪族だったのです。
覩城を発掘調査した結果、そこからベトナム産の陶磁器が出土しました。このことから、志佐氏は、中国や東南アジアと中継貿易を行っていた琉球人とも直接関係があったとみられています(※ 前掲URL)。
志佐氏の本拠地は、耕作地が乏しかったため、必然的に海外との交易に頼らざるを得ず、朝鮮との海上交易で得た利益で九州本土から穀物を輸入し、生活を支えていました。
正式な使節としての進上や公的な貿易のほか、当時のこの地域の豪族は「倭寇」の側面も持ち合わせており、半ば非合法な経済活動も含めて利益を上げていたと考えられています。
(※ https://shimanoyakata.hira-shin.jp/index.php/view/314)
元寇で壊滅的な打撃を受けた壱岐をその後、分割統治するようになった松浦党の五氏族が、朝鮮との交易等を通して莫大な利益をあげていたのです。五氏族以外の松浦党が恨みに思ったとしても不思議はありません。
■波多氏、覩城を襲撃
松浦党の一族である波多氏は、もちろん、彼らを苦々しく思っていました。海上交易には不利な地を領地としていた波多氏は、海外交易による恩恵を享受できなかったのです。
室町時代の波多氏は、松浦一族である佐志氏、呼子氏、鴨打氏、塩津留氏らと共同して海外交易を行っていました。ところが、港は他の氏族が押えていたので、波多氏は海外交易を十分に行えませんでした。
佐志氏、呼子氏、鴨打氏、塩津留氏がどの地域を支配していたのか、地図で確認しておきましょう。すぐわかるように、該当する氏族名の横に、黄色のマーカーを記しておきました。
こちら →
(※ http://www2.harimaya.com/sengoku/html/matu_zu.html、図をクリックすると、拡大します)
この図を見ると、呼子氏と塩津留氏がきわめて有利な箇所を支配していることがわかります。佐志氏と鴨打氏の領土はそれよりはやや山側だとはいえ、波多氏よりはるかに海に近く、交易に適した地を収めていたことがわかります。
しかも、志佐氏を含めた五氏族は、壱岐島を分割統治していました。壱岐島は対馬に極めて近く、対馬から半島へはわずか50㎞しか離れていません。朝鮮半島との貿易には恰好の土地だったのです。
波多氏が、富と戦力を狙って、壱岐の支配権の握ろうとしたのは当然の成り行きでした。
文明四(1472)年、岸岳城の城主、波多泰の軍勢が、突然、数百隻の軍船で壱岐に攻め込みました。壱岐を分割統治していた松浦党五氏族の連合軍は、志佐氏の居城であった覩城に集まり、応戦しましたが、あえなく敗れてしまいました。
その結果、佐志氏らの代官を追い払い、壱岐島を支配下におくことに成功しました。波多氏がもっとも勢力を振るったのは、泰のあとを継いだ波多興の時代です。
■波多氏、上松浦の首領に
興は、周防の大内氏と同盟を結ぶ一方、島原の有馬氏、潮見の渋江氏、平戸の松浦氏、相神浦の松浦丹後守ら近隣の豪族との婚姻を通して友好関係を保ち、肥前の戦国大名としての地位を築き上げました。
また、天文三(1534)年に、大内義隆(1507-1551)が肥前の大名・少弐資元(1491-1536)を攻めた際には、少弐氏の重鎮である龍造寺家兼(1454-1546)と話し合い、少弐と大内の和睦を成立させています。そして、天文十三(1544)年、龍造寺盛家が上松浦に侵入してくると、立川で撃破して、龍造寺氏に付け入る隙を見せませんでした。
以後、波多氏は岸岳城を本拠にし、壱岐島に海外交易の拠点を確保し、戦力、財力を強化しました。興は、やがて、他の上松浦一族を圧する存在に成長し、上松浦の首領として仰がれるまでになりました。
松浦党の拠点であり、倭寇の拠点でもあったこの地域では、秀吉の九州征伐までは、島ごと、浦ごとに細分化された地域勢力が形成されていました。その中で、波多氏は、上松浦の首領となり、その子孫は上松浦の支配者として、戦国末期まで肥前国の豪族として活躍しました。
波多氏の家系図を見ると、第十四代の泰の時代に壱岐を攻略し、財力と戦力を手にしたことを確認することができます。
こちら →
(※ http://www2.harimaya.com/sengoku/html/hata_k.html、図をクリックすると、拡大します)
波多泰は、壱岐に攻め入ることによって、地の利のなさを克服し、権勢を手にしたのです。それを引き継いだ第十五代の興の時代に、波多氏はさらに発展し、全盛期を築くことができました。
動乱期に勢力を拡大した波多氏のケースを見ていると、一族の命運は、継承者の「資質」に大きく左右されることを実感させられます。(2026/07/17 香取淳子)

























































