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波多三河守親公 ⑤:動乱期を乗り越え、最盛期を迎えた波多氏

■元寇によって運命が分かれた松浦党

 1260年に即位し、第5代皇帝となったモンゴル帝国のフビライ・ハンは、1271年に国号を「大元」と定め、首都を北京に移して、元を建国しました。

 フビライが皇帝となったときはまだ、中国の前王朝として南宋が残っており、日本はその南宋と密な交易がありました。フビライにしてみれば、日本が魅力的な資源国に見えたのでしょう。

 その後、フビライは中国的な官制を採用して、本格的な南征を開始しました。中国を支配下に置いたばかりか、朝鮮半島まで侵攻しました。

 当時、日本の九州沿岸部は、中国沿岸部や朝鮮半島と交易していましたから、彼らを通してフビライの猛攻は伝わっていたのでしょう。この勢いではやがて、フビライは日本を襲撃するのは必至でした。

 文永八(1271)年、幕府は、鎮西御家人に加え、九州に知行地を与えられていた東国御家人にも、博多湾一帯を警固するよう命じました。松浦党をはじめとする肥前国御家人には、姪浜一帯が、警備分担領域として割り当てられていました。

 幕府としてはとりあえず、防衛体制を敷いたのです。
 
 さて、波多氏は、初代の波多持以降、岸岳城を本拠に、現在の北波多付近を拠点にして勢力を拡大していきました。第二代、第三代については詳しいことはわからないのですが、第四代当主の波多勇は、元寇の際、姪の浜附近を守り、戦功を立てたとされています。

 一方、同じ松浦党の肥前御家人である佐志房は、元軍が、文永十一(1274)年十月十六から十七日にかけて、肥前沿岸の松浦郡および平戸島・鷹島・能古島の松浦党の領地に襲来しました。その際、嫡男の佐志直、二男の佐志留、三男の佐志勇らとともに果敢に応戦し、死力を尽くして戦ったのですが、全員、戦死してしまいました(※ 外山幹夫、『肥前松浦一族』、新人物往来社、2008年、p.66.)。

 同じ松浦党といいながら、波多勇は戦功をあげ、佐志房は息子三人とともに戦死してしまいました。元寇によって、波多氏と佐志氏の運命は大きく分かれてしまったのです。

■佐志氏の無念

 それでは、元軍がどのようなルートで日本に侵攻してきたのか、地図で確認しておくことにしましょう。

こちら →
(※ https://wearewhatwerepeatedlydo.com/japanese-history27/、図をクリックすると、拡大します)

 赤い矢印が文永の役の侵攻ルートで、青い矢印が弘安の役の侵攻ルートです。

 高麗を発った元と高麗の連合軍二万八千人は、九百艘の艦船に分乗し、文永十一(1274)年十月五日、対馬の小茂田浜を襲撃しました。

 襲撃された対馬の人々は、多勢に無勢でなす術もなく、暴虐の限りを尽くされました。男性たちは非業の死を遂げ、女性たちは生け捕られ、奴隷として連れ去られました。九日ほどの間に対馬は見るも無残な姿になり果てたのです。

 十月十四日に猛撃された壱岐もまた、対馬と同様、悲惨な目に遭わされました。

 十六、十七日に襲撃されたのが、平戸、鷹島といった肥前の沿岸部です。ここを警固していたのが、佐志房、嫡男の佐志直、二男の佐志留、三男の佐志勇でした。彼らは、死力を尽くして戦ったのですが、力及ばず、全員、戦死してしまいました。数多くの兵士たちは戦死し、島民たちは捉えられ、虐殺されました。
(※ https://www.pref.saga.lg.jp/kiji00346510/3_46510_8_201634164253.pdf

 元軍はその後、十月二十日に博多湾に侵攻しました。こちらは少弐経資、大友頼泰など、鎮西御家人の指揮の下、松浦党たちが応戦しました。先ほどの地図に、姪の浜の文字が見えます。波多勇が戦功をあげたとされる場所です。

 山崎氏が整理した家系図では、波多氏の第四代当主の勇は、元寇の際、姪の浜付近を守ったと記されています(※ http://www2.harimaya.com/sengoku/html/hata_k.html)。

 こうしてみてくると、元寇による被害の度合いは、防衛力の多寡に比例していると考えられます。松浦党が単独で応戦したところが、悉く、壊滅に近いほど甚大な被害を受けているのです。奮戦したにもかかわらず、元軍の圧倒的な戦略にはかなわなかったのです。

 佐志氏の陣営は、数百人が討たれるほどの大損害を被りながらも、執拗な夜襲を繰り返し、応戦していたといいます。少人数で力の限りを尽くしましたが、領主とその息子三人すべてが戦死してしまいました。

 一方、同じ松浦党でも波多氏の場合、鎮西奉行の指揮下で戦い、余裕のある布陣を組むことができたのでしょう。おかげで、波多勇は姪の浜で戦功を立てることができました。

 ちなみに、松浦党は、居住する地域によって、斑島(まだらじま)氏、佐志氏、波多氏、有浦氏、値賀氏、石志氏、相知(おうち)氏、大川野氏などの上松浦党と、松浦氏(平戸松浦氏)、青方(あおかた)氏、宇久氏、平戸氏、大島氏、志自岐(しじき)氏、中村氏、早田氏、山代氏などの下松浦党に大別されます。
(※ https://www.town.genkai.lg.jp/site/kankou/89560.html

 佐志氏も波多氏も同じ上松浦党の氏族でした。

■報われなかった松浦党

 鎌倉幕府と御家人は、「御恩」と「奉公」という主従関係で結ばれていました。武士たちは通常、戦って戦功を立てれば、幕府から恩賞を与えられました。勝利した相手の土地や価値財産などを収奪し、恩賞として武士に与えることができたのです。

 ところが、元寇は「防衛戦」だったので、幕府は領地を没収することも、財産を獲得することもできませんでした。つまり、幕府は元軍と戦い、防衛してくれた武士たちになんの恩賞も与えることができなかったのです。

 幕府にとっても武士にとっても、元寇は、得るものが何もなく、消耗し、奪われるだけの戦いでした。

 とくに松浦党の武士たちの場合、武器の調達や軍船の建造、長年の博多警備(異国警固番役)で莫大な借金を抱えていました。それなのに恩賞がなく、生活は困窮し、貧困に追い込まれました(※ https://www.matsura.or.jp/rekishi/matsuratou/)。

 この「恩賞のない戦い」に対する武士たちの不満の蓄積が、幕府への信頼を失わせ、のちの鎌倉幕府滅亡へと繋がりました。

 鎌倉幕府が滅び(1333年)、南北朝時代の内乱が始まると、社会はさらに混乱します。元寇で恩賞をもらえず、飢えた松浦党の御家人やその一族は、国内で食べていくことができなくなりました。生き残るために仕方なく、高麗や中国沿岸へ船を出し、物資を略奪するようになります。いわゆる「倭寇」の誕生です。

 統治していた地域が、国防の最前線であったにもかかわらず、松浦党の防戦体制は圧倒的に不十分でした。武器しろ、軍勢にしろ、兵力にしろ、元軍とは圧倒的に見劣りがしました。小規模の松浦党だけでは、どう足掻いたとしても、元軍の襲来を追い返すことはできず、壊滅的な打撃を被りました。

 松浦党が管轄していた地域は、日本にとっての防衛最前線でした。それだけに手痛い打撃を受けたのですが、その一方で、海外に近く、交易の拠点でもありました。元軍の襲来で疲弊しきったこの地域の人々が、やがて海外に活路を見出すようになるのは当然のことでした。海洋技術に優れ、武術にも長けた人々が、生活できなくなっていたのです。海の向こうに生活物資を求めたとしても不思議はありませんでした。

 武装集団による無法な活動が多々、発生するようになりました。

■倭寇

 倭寇の活動は、十三世紀から認められていますが、激しかったのは、十四から十五世紀と、十六世紀の二つの時期だといわれています。南北朝の争乱(1337-1392)の時期にまず、九州では倭寇の活動が盛んになりました。

 そもそも朝鮮では「三島の倭寇」と呼ばれ、日本の盗賊集団が大変恐れられていました。「三島」とは、主に壱岐、対馬、松浦を指し、時に、壱岐、対馬、博多を表すこともありました。倭寇の「倭」は日本人を指し、「寇」は侵略や盗賊を意味します。中国や朝鮮側から名づけられた呼称でした。

 朝鮮半島や中国沿岸で略奪を行った武装集団は、取引を行っていたこともあったようで、商人集団でもありました。構成メンバーは、元々、九州北部や瀬戸内海の豪族や漁民が中心でしたが、朝鮮半島出身者も参加していたといわれています。いずれにしても、倭寇が日本を拠点にし、朝鮮半島や中国沿岸に出かけて行った略奪行為を指すことに変わりはありません。

 倭寇は活動時期によって、前期倭寇と後期倭寇の二つに大別されます。

 前期倭寇(13世紀末〜14世紀)は、日本人の浪人や対馬、壱岐、松浦の武士たちによる活動を指します。彼らは元寇(1274、1281)によって疲弊し、さらに、南北朝の動乱(1336-1392)によって困窮化していました。生き延びるために、仕方なく、朝鮮半島や中国沿岸部を襲撃したと考えられています。

■朝鮮半島からみた倭寇

 倭寇の活動が本格化したのが、高麗王朝第31代恭愍(きょうびん)王の治世(1352-74)でした。日本の南北朝動乱の時期に相当します。恭愍王が王位に就いて数年後の1358年、倭寇に襲撃されて国家財政が窮乏し、百官の俸禄を支給できなくなるほど大きな経済的な打撃を受けました。

 倭寇の略奪目標になっていたのが、食糧や生活必需品でした。食い詰めた挙句の略奪行為だったことがわかります。高麗王朝は損失をできるだけ少なくするため、沿岸地方の倉庫を内陸部に移すなどの処置をしました。

 恭愍王治世下の倭寇には、次のような特徴があったとされます。

1. 米穀など生活必需品の獲得が目的だったので、租税としての米穀を運ぶ船 と備蓄しておく官庫が攻撃対象となった。
2. 高麗の南部沿岸ばかりでなく、首都付近まで攻撃した。
3. はじめは二十隻ぐらいの船団から、兵数三千、船数四百といった大規模な倭寇が出現するようになった。
(※ 田中健夫、『倭寇』、講談社学術文庫、2012年、p36)

 以上のような特徴からは、日本で追い詰められ、生きていけなくなったので、朝鮮半島の人々を襲撃し、略奪をしていたことがわかります。また、最初は少数だった倭寇が、略奪に成功するにつれ、数が増えていった様子もうかがえます。さらに、食料や生活物資を奪っただけではなく、人を拉致し、労働力として連れ帰ったこともあったようです。

 朝鮮人を拉致する様子を描いた作品が、『續三綱行實圖』(韓国国立中央図書館所蔵)に残されています。

こちら →
(※ https://courrier.jp/news/archives/362444/、図をクリックすると、拡大します)

 前期倭寇を描いたものだとされています。

 壱岐、対馬、松浦などは元来、土地はやせ、耕作地も少ない地域でした。飢饉や戦乱が続くと、人々はたちまち生きていけなくなりました。彼らが鮮半島や中国沿岸部に出向き、乱暴狼藉の限りを尽くすようになるのは、生きるため、半ば必然の行為でした。

 これらの地域は容易に、倭寇の拠点に転化しました。

 倭寇が朝鮮半島や中国に頻繁に出没するようになったのは、南北朝の争乱期だったといわれています。

 建武三(1336)年に、後醍醐天皇が奈良の吉野へ逃れて開いた「南朝」と足利尊氏が京都に立てた「北朝」とが並立した56年間の動乱期を指します。明徳三(1392)年に、室町幕府三代将軍の足利義満が両朝を統一するまで、不安定な社会が続きました。

 このような当時の日本の社会情勢を考え合わせると、倭寇は生き延びるために、中国や朝鮮に出かけ、略奪を繰り返していたといえます。

 恭愍王の治世の後半から、第32代辛禑(しんぐう)王の時代(1375-88)にかけて倭寇の侵略が極度に狂暴になりました。欲しい物を奪うだけではなく、家屋の損壊も行っていたのです。

 倭寇が食糧や物品を略奪した後、まるで証拠を隠滅するかのように、家に火を放つ様子を描いた絵があります。

こちら →
(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:WakouAttack.jpg、図をクリックすると、拡大します)
 
 この絵のタイトルは「倭寇の襲撃」で、14世紀の絵と説明されています。倭寇の活動がもっとも活発だった時期に描かれた作品です。生活物資を略奪するだけではなく、不要な犯行まで重ねていたところに、倭寇の鬱屈した気持ちが透けて見えます。

■倭寇は武士の残党か?

 郷土史家の稲村賢敷氏(1894-1978)は、倭寇の構成員について、規律があって、戦い慣れした武士団だと述べています(※ 稲村賢敷『琉球諸島における倭寇史跡の研究』吉川弘文館、1957年)。

 倭寇は単なる海賊ではなく、南北朝の動乱で敗れた南朝方の武士たちで、兵糧や物資を求めて南下してきた集団ではないかと、郷土史家の稲村賢敷氏(1894-1978)は推察しています。そして、その南下した勢力の中に、肥前松浦地方を拠点とする松浦党が含まれていた可能性を指摘しているのです。

 この頃の倭寇は、数十隻から数百隻の船隊を繰り出し、重装備の武士も加わって、食糧を略奪したとされています。秩序ある社会の中で生きてきた人々が、なんらかの理由で略奪行為に手を染めざるをえなくなったのでしょう。稲村氏は、南朝方の菊池氏や肥前の松浦党が、北朝との戦いのための物資獲得を目的に行っていたのではないかと推察しています。

 ちなみに、菊池氏とは、南北朝時代に肥後国(熊本県)を本拠地とし、南朝方の主力として活躍した武家です。第15代当主の菊池武光(1319-1373)は、後醍醐天皇の皇子である懐良親王を迎え、1359年の「筑後川の戦い」で北朝軍を破り、九州の南朝勢力を大きく拡大させました(※ https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/en/R5-00382.html)。

 そして、肥前の松浦党の人々は確かに、一時期、「倭寇」として恐れられていました。彼らが結束して行動しはじめたのは、元寇で本拠地が襲撃され、困窮化して以来だとされています。元寇で襲撃され、壊滅寸前に追い詰められたのですから、朝鮮半島や中国沿岸部への略奪行為は、半ば報復、あるいは、反撃の意味合いがあったのかもしれません。

 いずれにしても、松浦党の人々は、飢饉や戦乱がない時は、玄界灘の荒海に船を漕ぎだし、漁業に携わる一方、朝鮮半島や中国沿岸部の人々との交易を行っていました。倭寇といわれ、海賊扱いされている人々は本来、勇敢で、海洋技術に優れた海に生きる民だったのです。

■略奪から交易へ

 朝鮮や中国は、倭寇の被害に悩まされ、時に軍事攻撃をし、また、時に懐柔策を取り、貿易を許可し、略奪行為をなくすための対策を取りました。

 たとえば、朝鮮は、1419年の己亥東征(応永の外寇)で、対馬を攻撃し、倭寇の根拠地を破壊しました。また、倭寇のリーダーや協力者を捕らえて官職を与え、朝鮮国内に定住させ、監視するといった懐柔策を取ったことがありました。

 倭寇の拠点を潰し、リーダーや協力者を捉えて朝鮮国内に定住させる一方、合法的な貿易を許可し、海賊行為を抑止しようとしたのです。倭寇の非合法な行為を合法的な行為に転換し、平和な関係を築こうとしたのです。

 一方、中国の明は、海防を強化して倭寇集団を掃討、あるいは、福建省沿岸での貿易を許可、さらには、日本の戦国大名に倭寇の取り締まりを要請するといった対策を取りました。

 朝鮮にしても、中国にしても、倭寇の略奪行為を止めさせ、合法的な交易へと関係改善を図っていたのです。

 このような動きに対し、日本側は、倭寇対策として、勘合貿易を始めました。倭寇や密貿易と区別し、正式な遣明使船が確認するため、勘合(勘合符)を使用したので、勘合貿易と名づけられました。当時の中国を支配していたのは明でしたから、日明貿易ともいわれます。

 応永十一(1404)年に開始された日明貿易は、日本(室町幕府)と中国(明)の間で行われた公式の朝貢貿易を指します。朝貢貿易とは、中国の皇帝へ貢ぎ物(朝貢)を差し出し、皇帝がその見返りとして、「回賜(かいし)」という豪華な返礼品を与える形態の貿易です。

 中国の皇帝が、周辺国の君主を臣下として認める「冊封」体制のなかで行われ、政治的儀礼の一部ですが、前近代の東アジアを中心に行われていました。朝貢貿易を行うことによって、日本が、中国の皇帝に従属したことになりますが、実質的には、貢物より返礼品の方がはるかに価値が高く、室町幕府三代将軍の足利義満は大きな利益を得ることになりました。

 日本からの貢物としての輸出品は、金、真珠、刀剣、硫黄、水銀、漆器、屏風、扇などに加え、人参・松子・虎豹皮などの朝鮮産品、焚香料・香辛料・染料などの南海産品でした。中国からは、宋銭・明銭を問わず、膨大な銅銭が流入する一方、生糸・絹・陶磁器などの高級な手工業品も多量に輸入されました。
(※ 中島楽章、「永楽年間の日明朝貢貿易」、『史淵』、140号、p.89、2003年)

 高麗や明、室町幕府などは、国家体制を維持するために、倭寇の略奪行為を交易行為へと転換させようとしたのです。それに伴い、博多商人を通して貿易を独占した大内氏、堺商人と結びついて利権を得た細川氏、琉球を支配下に置きアジア物産を介して利益を得た島津氏など、日明貿易を通して莫大な富を積み上げました。

 博多港など自領の港を利用する倭寇を規制する一方、私的な貿易も行っていたのです。

 それでは、朝鮮半島や中国沿岸部に近く、元来、現地住民と交易を行っていた松浦党の人々はどうだったのでしょうか。交易の拠点の一つであった壱岐の様子をみておきましょう。

■壱岐を分割統治していた松浦党の五氏族

 元寇襲来まで壱岐を治めていたのは、大宰府の少弐氏(しょうにし)から派遣された、守護代の少弐資時(すけとき)らでした。ところが、弘安の役(1281)では、4万もの蒙古東路軍が、まず、対馬を襲い、次に、壱岐に攻め込みました。北西部海岸(瀬戸浦)と勝本から上陸した元軍を迎え撃ったのが、壱岐守護代、当時19歳の少弐資時でした。圧倒的な戦力に押され、船匿城(ふなかくしじょう)で全滅したと伝えられています。
(※ https://www.ikikankou.com/spot/10124

 この時の応戦で、壱岐の在庁官人や防衛体制は、壊滅的な打撃を受けました。守護代が没落して、壱岐は統治の空白地帯となっていました。そこへ、対岸の肥前国を本拠地としていた松浦党の各氏族が、新しい領地や東アジア交易の拠点を求めて、次々と進出してきたのです。

 南北朝時代の動乱の最中でした。内部争いをしている場合ではありません。

 壱岐の領有権や交易利権をめぐる一族間の争いを防ぐため、松裏党は、応安二(1369)年頃、島を五つのエリアに分ける分割統治の体制を正式に確立しました。すなわち、志佐、佐志、呼子、鴨打、塩津留の五氏による分割統治です。

 当時の境界は、現在の「町境」のように一箇所にまとまった領地ではありませんでした。交易に必要な「港(浦)」と、それを支える背後の「穀倉地帯(里)」を各氏族がセットで確保するように、複雑に入り組んで設定されていました。

 五氏はそれぞれ、壱岐に「代官」を派遣して現地の統治や港の管理を行わせており、漁業権の調停や朝鮮への貿易船(歳遣船)の発着については、お互いに合議や取り決めを行いながら島を運営していました。
(※ https://www.town.genkai.lg.jp/uploaded/life/63324_614912_misc.pdf

 表向きは正式ルートの海外貿易、裏では倭寇(海賊)で、莫大な利益を得ていました。五氏族は、壱岐を倭寇の本拠地にして、それぞれが、縄張りをもって、壱岐を分冶していました。このとき、覩城(とじょう)に住んでいたのは、この周辺を支配していた、志佐氏でした。
(※ http://www.ikishi.sakura.ne.jp/hatashinryaku.html)

 いつ築城されたのか、年代は定かではありませんが、平治年間(1159年〜1160年)には長田壱岐守平忠政、寿永年間(1182年〜1185年)には長田忠致が居たといいます。その後、松浦党直谷城の志佐氏の城となり、代官真弓氏が管理していました。

こちら →
(※ https://www.hb.pei.jp/shiro/iki/to-jyo/、図をクリックすると、拡大します)

 松浦党の代表的な在地領主であった志佐氏は、玄界灘を拠点に、朝鮮との海上交易を活発に行っていました。朝鮮王朝から公式な通交許可である「図書(銅印)」を受け取り、壱岐などを拠点にして活動し、朝鮮側の記録にもその名を残すほど重要な役割を果たしていました(※ https://saikaikouko.jp/No3/murakawa2001.pdf)。

 志佐氏は、当時、印通寺港を使って、荷揚げをしていた倭寇の一人だったのです。

こちら →
(※ https://discoverjapan-web.com/article/147629、図をクリックすると、拡大します)

 志佐氏は、松浦郡志佐(現・松浦市)を本拠とする有力な松浦党の一族で、一時期は壱岐守護と称したこともありました。

 志佐氏の代官の真弓源武史は、壱岐の覩城を居城として勢力を張り、その富の源泉は朝鮮貿易をはじめとする東アジアに広がる交易でした。真弓氏自身、朝鮮国から「図書」を受けて貿易船を派遣したほどの豪族だったのです。

 覩城を発掘調査した結果、そこからベトナム産の陶磁器が出土しました。このことから、志佐氏は、中国や東南アジアと中継貿易を行っていた琉球人とも直接関係があったとみられています(※ 前掲URL)。

 志佐氏の本拠地は、耕作地が乏しかったため、必然的に海外との交易に頼らざるを得ず、朝鮮との海上交易で得た利益で九州本土から穀物を輸入し、生活を支えていました。

 正式な使節としての進上や公的な貿易のほか、当時のこの地域の豪族は「倭寇」の側面も持ち合わせており、半ば非合法な経済活動も含めて利益を上げていたと考えられています。
(※ https://shimanoyakata.hira-shin.jp/index.php/view/314)

 元寇で壊滅的な打撃を受けた壱岐をその後、分割統治するようになった松浦党の五氏族が、朝鮮との交易等を通して莫大な利益をあげていたのです。五氏族以外の松浦党が恨みに思ったとしても不思議はありません。

■波多氏、覩城を襲撃

 松浦党の一族である波多氏は、もちろん、彼らを苦々しく思っていました。海上交易には不利な地を領地としていた波多氏は、海外交易による恩恵を享受できなかったのです。

 室町時代の波多氏は、松浦一族である佐志氏、呼子氏、鴨打氏、塩津留氏らと共同して海外交易を行っていました。ところが、港は他の氏族が押えていたので、波多氏は海外交易を十分に行えませんでした。
 
 佐志氏、呼子氏、鴨打氏、塩津留氏がどの地域を支配していたのか、地図で確認しておきましょう。すぐわかるように、該当する氏族名の横に、黄色のマーカーを記しておきました。

こちら →
(※ http://www2.harimaya.com/sengoku/html/matu_zu.html、図をクリックすると、拡大します)

 この図を見ると、呼子氏と塩津留氏がきわめて有利な箇所を支配していることがわかります。佐志氏と鴨打氏の領土はそれよりはやや山側だとはいえ、波多氏よりはるかに海に近く、交易に適した地を収めていたことがわかります。

 しかも、志佐氏を含めた五氏族は、壱岐島を分割統治していました。壱岐島は対馬に極めて近く、対馬から半島へはわずか50㎞しか離れていません。朝鮮半島との貿易には恰好の土地だったのです。

 波多氏が、富と戦力を狙って、壱岐の支配権の握ろうとしたのは当然の成り行きでした。 

 文明四(1472)年、岸岳城の城主、波多泰の軍勢が、突然、数百隻の軍船で壱岐に攻め込みました。壱岐を分割統治していた松浦党五氏族の連合軍は、志佐氏の居城であった覩城に集まり、応戦しましたが、あえなく敗れてしまいました。

 その結果、佐志氏らの代官を追い払い、壱岐島を支配下におくことに成功しました。波多氏がもっとも勢力を振るったのは、泰のあとを継いだ波多興の時代です。

■波多氏、上松浦の首領に

 興は、周防の大内氏と同盟を結ぶ一方、島原の有馬氏、潮見の渋江氏、平戸の松浦氏、相神浦の松浦丹後守ら近隣の豪族との婚姻を通して友好関係を保ち、肥前の戦国大名としての地位を築き上げました。

 また、天文三(1534)年に、大内義隆(1507-1551)が肥前の大名・少弐資元(1491-1536)を攻めた際には、少弐氏の重鎮である龍造寺家兼(1454-1546)と話し合い、少弐と大内の和睦を成立させています。そして、天文十三(1544)年、龍造寺盛家が上松浦に侵入してくると、立川で撃破して、龍造寺氏に付け入る隙を見せませんでした。

 以後、波多氏は岸岳城を本拠にし、壱岐島に海外交易の拠点を確保し、戦力、財力を強化しました。興は、やがて、他の上松浦一族を圧する存在に成長し、上松浦の首領として仰がれるまでになりました。

 松浦党の拠点であり、倭寇の拠点でもあったこの地域では、秀吉の九州征伐までは、島ごと、浦ごとに細分化された地域勢力が形成されていました。その中で、波多氏は、上松浦の首領となり、その子孫は上松浦の支配者として、戦国末期まで肥前国の豪族として活躍しました。

 波多氏の家系図を見ると、第十四代の泰の時代に壱岐を攻略し、財力と戦力を手にしたことを確認することができます。

こちら →
(※ http://www2.harimaya.com/sengoku/html/hata_k.html、図をクリックすると、拡大します)

 波多泰は、壱岐に攻め入ることによって、地の利のなさを克服し、権勢を手にしたのです。それを引き継いだ第十五代の興の時代に、波多氏はさらに発展し、全盛期を築くことができました。

 動乱期に勢力を拡大した波多氏のケースを見ていると、一族の命運は、継承者の「資質」に大きく左右されることを実感させられます。(2026/07/17 香取淳子)

波多三河守親公 ④ 波多氏始祖の事績は脚色されていた?

■武士にとっての始祖

 武士にとっての始祖、すなわち武家の棟梁は、清和源氏と桓武平氏の2つの家系です。彼らは天皇の血を引く貴族でしたが、地方に下って武装し、武士団のトップとして全国の武士を束ねました。

 清和源氏の始祖は源経基(894-961)で、清和天皇(850-881)の孫が臣籍降下して、源氏を名乗ったのが始まりです。その後、源義家(1039-1106)などが、東国武士との主従関係を強固にし、後に、その子孫の源頼朝(1147-1199)が鎌倉幕府を開きました。

 一方、桓武平氏の始祖は平高望(850?-917?)で、桓武天皇(737-806)の曾孫が臣籍降下して、平氏を名乗ったのが始まりです。関東地方に土着して勢力を広げました。その子孫である平清盛(1118-1181)は、武士として初めて太政大臣に就任し、貴族のものだった政治の実権を握り、平氏政権を確立しました。

 波多三河守の始祖は、これら二大流派ではなく、源氏の流派の一つ、水軍や警護など、いわば専門職として武士界を支えた流派である嵯峨源氏の系譜につながります。

■嵯峨源氏の流れを引く、波多氏の始祖

 『武家家伝』には、波多氏は、平安末期から肥前松浦地方で活躍した上松浦党の最大の一族で、始祖は、東松浦郡波多村を中心に所領した源久(松浦久)の二男(波多源次郎持)だと記されています。

   (※ 源氏、松浦氏、波多氏は一文字の名前が多く、判別しにくいので、以後、名前の下に下線を引いておきます)

 波多氏の始祖である持の父、源久(1064-不詳)は、平安後期の武将で、松浦久とも名乗っており、渡辺綱(953-1025)の曾孫にあたります。

 その源久の曽祖父の渡辺綱は、第52代嵯峨天皇を祖に持つ嵯峨源氏の源融(822-895)の子孫で、正式には源綱を名乗っていました。武蔵国足立郡に生まれましたが、父の死に伴い、母方の里である摂津国西成郡渡辺に移住し、渡辺氏の始祖となりました。平安中期の武将です。

 源久は、延久元年(1069)に、肥前国の御厨検校に任ぜられて松浦に下向し、そのまま赴任地に土着しました。久は、やがて松浦の中心に位置する志佐郡今福梶谷に館を構え、久安元年(1145)に、背後の城山に梶谷城を築き、松浦氏発展の基礎を築きました。

 源久(松浦久)から、波多郷を与えられた二男の松浦持(生没年不詳)は、康和四(1102)年に波多の地に移り住みました。それを契機に、地名に因んで波多姓を称し、従五位下に叙せられました。これが波多氏の始祖となる波多持です。

 さて、この系譜が示すように、源久は、嵯峨源氏の流れを引くというのが定説になっています。(※ http://www2.harimaya.com/sengoku/bukemon/bk_matura.html)。

 したがって、その二男である波多持もまた、嵯峨源氏の流れを引く系譜につながるといえます。その一方で、源久は、渡辺水軍の流れを引く武将でもありました。

■渡辺水軍の流れを引く、波多氏の始祖

 渡辺綱の子孫は、摂渡辺党と呼ばれる摂津国の武士団を形成し、住吉(住之江)の海(大阪湾)を本拠地に、瀬戸内海の水軍を統轄していました。淀川の河口である渡辺津を管理し、高度な航海術と水軍の戦闘能力で巨大な勢力を築きました。

 渡辺氏は、平安時代から鎌倉時代までは朝廷や源氏を軍事力で支え、戦国時代は大阪湾一帯を拠点に、独自に活躍していた武士団であり、水軍の家系だったのです。摂津を拠点として勢力を蓄えた渡辺氏は、やがて日本各地にその支流を拡散していきました。

 支流の一つが、北九州の松浦党でした。強力な水軍として名を馳せた松浦党は、摂津国の渡辺党から派生した武士団だったのです。松浦党の始祖である源久(渡辺久)は、渡辺綱の曽孫であり、両者は血縁関係にありました。

 そして、波多氏の始祖が、松浦党の始祖である源久の二男の波多持です。つまり、渡辺綱から源久に流れた水軍の血が、波多持に直接、受け継がれていたといえるのです。渡辺党の卓越した航海術を受け継いだ波多氏が、やがて強力な水軍を率いて、玄界灘を支配するようになったのも、当然の成り行きだったのでしょう。

 源久から、波多の地を受けた波多持は、その後、岸岳城を本拠として活動し、発展していきました。

 興味深いことに、波多持が波多一族の始祖とされていますが、必ずしも、この系統で波多氏が継続してきたわけではなく、佐志氏の一派から波多姓の人物が分かれた形跡もあるとされています。(※ http://www2.harimaya.com/sengoku/html/hata_k.html)。

 波多氏の系譜については、松浦党大系図、源光寺松浦党系譜、松浦拾風土記の松浦党系図などに記述があります。それぞれ照らし合わせてみると、相互に異なる記述がみられ、必ずしも信用できるものではありません。

 そこで、本稿では、郷土史家の山崎猛夫氏が整理した波多家系図に依拠し、波多氏の系譜を見ていくことにしたいと思います。

こちら →
(※ http://www2.harimaya.com/sengoku/html/hata_k.html、図をクリックすると、拡大します)

 まずは初代の波多持が、どのようにして波多氏の基盤を築き、どのようにして松浦党を率いるようになっていったのかをみていくことにしましょう。

■波多持、岸岳城を築く

 波多持が、岸岳城を築造したのは、久安(1145-1151)年間だとされています(※ 『波多津町誌』、1999年、伊万里市波多津公民館、p64)。

 岸岳城は簡易で、きわめて質実、かつ剛健な山城でした。攻めにくく、守りやすいよう天然の地形を活かして、築造されました。防御機能を優先させ、機能的に築城されたことがわかります。

 たとえば、岸岳城の石垣の遺構が残されていますが、このような巨石が、岸岳山頂の尾根全体に、延々と1キロにもわたって、弓状に築かれています。一端を見るだけで、峻厳な山の地形を踏まえ、防衛機能を優先させた造りになっていることがわかります。

こちら →
(※ https://shirobito.jp/castle/2788、、図をクリックすると、拡大します)

 上の写真を見ると、巨大な石垣が、急斜面の上に築かれています。いかに攻めるのが難しく、防御に適しているかを念頭に築城されたことがわかります。地形に沿って、堅牢な石垣を積み重ね、ひたすら、容易に攻め込まれないような城壁を建造していたのです。

 この城に居館はありませんでした。ひたすら防衛のための城であり、その機能を果たすことを最優先して造られました。まさに天然の要害を利用した山城だったのです。

 波多持は、この岸嶽(岳)を本拠地として、活動していましたが、保元の乱(1156年)で、戦死しました。(※『武家家伝』)。

 岸岳城の完成からわずか5年後のことでした。

 ここまで書いてきて、ふと、気になりました。

■波多持は、果たして、保元の乱で戦死したのか?

 山崎猛夫氏が作成した年譜には、波多持は保元の乱で戦死したと書かれていましたが、果たして、実際にそうだったのか、疑問を覚えたのです。

 波多持の生没年は不詳ですが、康和四(1102)年に、父の松浦久から波多郷に領地を得て、波多姓を名乗るようになったことはわかっています。新たに一族の始祖となり、地域を統治し、開拓する役割を担ったのです。当然のことながら、ある程度の統治能力がなければ、領主の座は務まりません。

 したがって、康和四(1102)年当時、波多持は少なくとも元服を済ませ、いくらか実績を積み上げた20代〜30代前後の働き盛りだったのではないかと思われます。

 一方、岸岳城の築造は、久安(1145-1151)年間だとされています。波多氏を創設した時の推定年齢から推し量れば、築城期間、波多持は60代半ばから70代後半だったことになります。つまり、保元の乱の頃は70代から80代になっていたはずです。戦陣に赴くには、高齢すぎます。

 しかも、城主としての立場もあります。

 年齢からいっても、城主という立場からいっても、波多持が、保元の乱に参戦することはありえないのです。

 そこで、年譜をいくつか調べてみましたが、山崎猛夫氏による年譜以外に、波多持が保元の乱に参戦したという記述はありませんでした。

 とはいえ、まったく根拠のないことを郷土史家の山崎氏が書くはずがありません。ひょっとしたら、松浦党の誰かと混同して記述した可能性が考えられます。

 だとすれば、松浦党の誰かが、保元の乱に参戦し、戦死していたことになります。

 調べてみると、松浦党の棟梁である松浦久などは、鎮西八郎と恐れられた源為朝と深い主従関係にあったとされていました。この縁で、松浦党の武士たちは為朝を頼って上洛し、彼の一党として崇徳上皇方で白河北殿の警固に就いたとされています(※ Wikipedia)。

■松浦地方と源為朝

 郷土史家の松代松太郎が、著書『東松浦郡史』の中で、次のように記していました。

 「松浦と為朝との関係は、彼の廿八騎中に松浦の二郎左中次と云う者が加わっている点のみである。然し松浦地方には為朝関係の伝説が頗る多い。但し其の証據となる資料はないようで、到底伝説の域を脱することが出来ぬ。よってこれらは後日の研究に待つ事とする」
(※ https://tamatori.sakura.ne.jp/news/matuurasi/matuurasi2.html

 「松浦地方には、為朝にかかわる伝説がとても多い」が、信頼できるものは、「彼の廿八騎中に松浦の二郎左中次と云う者が加わっている点のみである」という見解を示しているのです。

 ここで記されている「為朝」とは、源為朝のことです。源為朝(1139-1170)は、源為義(1096-1156)の八男で、源頼朝(1147-1199)や源義経(1159-1189)兄弟の叔父にあたります(※ Wikipedia)。

 実際、源家の家系図を見ると、源為義には十人の男子がおりますが、その中の八番目が為朝です。分かりやすいように、名前の右側に青線を引いておきました。

こちら →
(※ https://www.touken-world.jp/tips/87237/、、図をクリックすると、拡大します)

 源為義の長男・義朝には九人の男子がおり、三番目が頼朝、九番目が義経です。彼らの叔父さんに当たる為朝が、鎌倉幕府を築き、武士の時代を切り拓いた由緒正しい家系の武将であることがわかります。ちなみに、源頼朝は鎌倉幕府を開いたので赤枠で囲ってあります。

 『保元物語』によると、為朝は、身長2mを超える巨体のうえに気性が荒かったといいます。目尻が切れ上がった鋭い目つきをしており、「天を翔る鳥、地を走る獣、恐れずといふ事なし」と表現されているほど、恐れられる外貌だったようです。

 歌川国芳が描いた源為朝像です。

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(※ wikimedia. 、図をクリックすると、拡大します)

 眼光鋭く、威風堂々とした姿が印象的です。剛弓の使い手で、他に並ぶ者がないほど、勇ましくて強く、そして、傍若無人で乱暴者でした。十三歳の時、父の為義に持てあまされて、九州に追放されたほどです。九州に追放されてからは、手下を集めて暴れまわり、一帯を制覇して鎮西八郎を名乗るようになっています。

 郷土史家の松代氏は、松浦地方には為朝にまつわる伝説が多いと記していますが、地元勢とやりあう中、いくつもの武勇伝が残されているのでしょう。松浦地方を制覇すると、鎮西八郎を名乗っていますが、鎮西(九州)を平定した八郎(八番目の息子)という意味で、自称したのでしょう。

■戦死した松浦小次郎

 保元の乱が勃発すると、為朝は京に向かい、父とともに崇徳上皇方で参戦します。その際、松浦地方の若武者たちが共に上洛したいと申し出たのですが、大勢を引き連れて行くと不穏な事態になるとし、精鋭だけを伴ったのが二十八騎といわれる若武者たちです。

 松代氏は、保元の乱が勃発して源為朝が上洛する際、九州の兵の中から、特に武勇に優れた「二十八騎」を、直属の精鋭部隊として、引き連れて行ったと記しています。これは、『保元物語』に基づいた記述で、二十八騎の中の一人に、「松浦の二郎左中次」の名が記されています(※ https://ohta-masakazu.blog.jp/archives/12092986.html)。

 確認するため、『松浦源氏創成期年表』を見ると、保元(1156)の項に、「松浦小次郎、白河殿に死す」と書かれていました(※ 古賀稔康、『松浦源氏創成期 遺跡山ン寺』、伊万里市教育委員会、p.29、昭和48年4月25日刊)。

 保元の乱に関連した二つの資料のいずれにも、松浦姓の者が登場します。同じ人物だと思われますが、名称がやや異なっています。

 たとえば、『保元物語』では、「松浦の二郎左中次」と称され、「源為朝が率いて上京した廿八騎」の一人と記されています。

 名称の一部に「左中次」が組み入れられていますが、中世の武士の俗名は、朝廷の官職名を真似て作られることが多く、この「左中次」も、天皇の護衛や宮中の警備を担当した「左近衛府」に倣ったものだとされています。つまり、護衛官「松浦二郎」というほどの意味なのでしょう。「二郎」とは次男坊を指します。

 一方、『松浦源氏創成期年表』では、保元元年の項に、事項として、「保元の乱、松浦小次郎白河殿に死す」と書かれていました。名前は、「松浦小次郎」と称され、「次男」を表す「次郎」に「小」をつけ、親しみを込めた名称で記載されているのです。

 この年表では、松浦小次郎は、白河殿(白河天皇の離宮)で戦死したとされていますが、源為朝は、実際、白河殿に攻め入っておいます。
(※ http://www.kikuchi2.com/chusei/gun/hogenall.html, @『白河殿攻め落す事』S0202)

 松浦小次郎は、戦死しましたが、為朝の父・為義もこの時、戦死しています。保元の乱は、貴族(藤原)の内紛が絡んだ皇位継承争いでしたが、その勝敗を武士が決定したという点で、注目される内乱でもありました。

 松浦小次郎は、源為朝に随って、保元の乱に参戦した結果、『保元物語』に名前が書き残されることになりました。戦死しましたが、松浦家にとっては歴史に残る、名誉なことでした。

■波多氏家系図での誤記載

 『松浦源氏創成期年表』には、小次郎の伝承年齢は55歳、推定実年齢は32歳だったと書かれています。保元の乱で戦死したとされるのは、なによりもまず、年齢からいって、波多持ではなく、この松浦小次郎だったと思われます。

 もちろん、波多持が、崇徳上皇とも後白河天皇ともなんお関係もないのに、わざわざ保元の乱に参戦するはずもありません。

 このようにみてくると、年齢からいっても、源為朝との関係からいっても、保元の乱で戦死したのは、松浦小次郎だったといえます。

 波多氏の系譜で、波多持が保元の乱で戦死と書かれているのは、明らかに誤記です。

 そして、この松浦小次郎の名前は、松浦源氏総本家の下松浦御厨家の系譜の中にもありました。『松浦家世伝』には、松浦源氏の総本家の下松浦の御厨家の系譜として、次のように記されていました。

 御厨公― 清(松浦源二郎、御厨執行)― 直(松浦小次郎、叙五位御厨執行)― 定(松浦授、御厨執行)― 正(丹後守)
(※ https://www.town.genkai.lg.jp/uploaded/life/63324_614912_misc.pdf

 この系譜からは、松浦家の直が、松浦小次郎だということが示されています。『保元物語』に書かれていた「松浦の二郎左中次」が、実は、松浦小次郎であり、下松浦の御厨家の直であったことがわかります。

 これらの資料を見てきて、改めて、保元の乱で戦死したのは、波多持ではなく、松浦小次郎であったことを確認することができました。現時点でみれば、間違うはずのない事実でした。

 それでは、なぜ、山崎氏は、波多氏の年譜で、波多持は保元の乱で戦死と記さしたのでしょうか。

■なぜ、誤った事実が記載されたのか?

 まず、保元の乱と松浦地方との関係について、見ていくことにしましょう。

 保元の乱(1156年)は、次期天皇を巡る崇徳上皇と後白河天皇との権力争いに、貴族(藤原家)の内紛が絡み合い、武士が初めて政治の勝敗を決めた平安時代の内乱です。これは、中央で展開された政治争乱であり、九州西端の松浦地方とは一見、なんの関係もないように見えます。

 ところが、保元の乱で崇徳上皇に味方した源為朝(鎮西八郎)が、乱以前に、九州に追放されていたことがありました。武力に長けた為朝が、次々と西九州地方を制覇していく中で、為朝と松浦地方の武士たちとの間に、事実上の主従関係が結ばれていったのです。

 彼らは、源為朝が上京する際、為朝に随って参戦したいと申し出ました。大勢を引き連れていけば、相手側を刺激し、不穏な事態になるとし、為朝は、鎮西の逸材二十八騎だけを伴いました。選りすぐりの猛者たちの一人が、松浦党の松浦二郎でした。

 彼は、崇徳上皇側に立って奮戦しましたが、白河殿で戦死しました。

 『保元物語』に、松浦二郎の名が記され、松浦家の系図にもその名と事績が記載されています。由緒正しい家柄の源為朝に随って、奮戦した結果、戦死と引き換えに名誉を得ました。九州西端の若武者にすぎなかった松浦二郎は、保元の乱で名を挙げました。敗者の側で戦い、死亡したとはいえ、松浦党の威信を高めたのです。

 上皇と天皇の争いに、貴族の諍いが絡んで、大きな内乱となりましたが、中央政治の勝敗を決めたのは新興階級の武士でした。その貴重な歴史の一コマに、松浦地方の若武者が名を刻んだのです。

 ところが、その松浦二郎の戦死が、どういうわけか、波多持の戦死として波多氏の系譜に記載されていました。

 郷土史家の山崎猛夫氏はおそらく、松浦二郎を波多持と取り違え、始祖・波多持の項に、「保元の乱で戦死」と書き入れていたのです。

 そもそも波多持と松浦二郎とは、松浦党の武士だとはいいながら、年齢が違えば、役職も違い、名前も氏族も異なっています。そんな二人を、取り違えることなど、ありうるのでしょうか。

 調べてみると、興味深いことがわかりました。

 外山幹夫氏によると、松浦氏系図の一つ、鶴田系図(源寿氏が記したもの)では、源久の三男持(波多氏系図では二男持)は、波多源二郎と称していたと記されているのです(※ 『肥前松浦一族』、人物往来社、2008年刊、pp.51-52)。

 山崎氏がこれを見ていたとすれば、波多持を源二郎と思い込み、源二郎(松浦二郎)の戦功を、波多持の事績として、系譜に記載してしまった可能性が考えらます。

 保元の乱が勃発した時期と彼らが生きた時代を考え合わせると、すぐに間違いだとわかるのですが、それでも敢えて誤った事績を系譜に掲載したとすれば、もう一つの理由が考えられます。

■箔付けのための誤記載か?

 考えられるのが、波多持への権威の付与です。

 波多持は、波多氏の始祖でありながら、特に目立つ業績はありません。ただ、源久(松浦久)の二男だというだけで、波多郷を所領地として得て、波多氏を名乗るようになった人物です。

 波多氏一族の初代としては、見劣りのする経歴といわざるをえません。

 仮にも一族の始祖となれば、対外的にも、一族を束ねていくにも、それなりの権威が必要です。

 たとえば、波多持の父、源久(松浦久)は、渡辺綱を曽祖父とし、第52代嵯峨天皇を祖に持つ嵯峨源氏の源融(822-895)の子孫でした。清和源氏の源頼光に仕えた「頼光四天王」の筆頭として知られる武将の曽孫であり、また、嵯峨天皇の血を引く嵯峨源氏の子孫でもあったのです。

 つまり、源久(松浦久)は、伝説的な武将の曽孫であり、天皇家とつながる家系の子孫でした。この血統だけで充分、松浦氏の始祖としての権威を保つことができました。ところが、波多持は、その源久の二男というだけで、波多氏を率いる始祖となったのです。輝かしい祖先からの威光も、嫡男ではなく二男の波多持には、それほどの効果もなかったでしょう。

 しかも、波多持には特筆すべきエピソードもありませんでした。始祖にふさわしい箔付けになるようなものが何もなかったのです。そのような状況下で、波多氏の系譜を作成した人物が、始祖として威信を保つには、なんらかの事績が必要だと考えたとしても決して不思議はありません。

さらなる検証が必要なことはいうまでもありませんが、始祖の事績に脚色が加えられていた可能性が考えられるのです。(2026/6/30 香取淳子)

波多三河守親公 ③ 波多氏を生んだ松浦地方と松浦党

■日本の陶器生産

 波多親は、戦国時代に陶器生産を始めました。それも、秀吉が朝鮮に出兵する以前のことです。陶器製造をはじめたからといって、製造技術があったわけでもなければ、製造方法を知っていたわけでもありません。

 そもそも日本古来の焼物は、釉薬を使わない素焼きの土器でした。釉薬を使い、高温で焼成する技術は、中国や朝鮮半島から伝来したものでした。日本の焼物は、それら伝来の技術を使い、土器から陶器へ、陶器から磁器へと発展しました。

 少なくとも5世紀前半には、朝鮮半島から陶質の土器が持ち込まれるのとほぼ同時期に、その生産技術が伝えられています。陶邑地域(大阪府)で、須恵器(日本の陶器のルーツ)の生産が始まったことが明らかになっています。

こちら →
(※ 宮内庁HPより。図をクリックすると、拡大します)

 上の写真は、大阪府仁徳天皇陵の東側の造出(半円形または方形の壇状の施設)で、平成十(1998)年に採取された須恵器の大甕です。本陵における祭祀を考える上で重要な資料とされています。
(※ https://www.kunaicho.go.jp/learn/culture/shoryobu/syuzou-r09.html)

 大阪府堺市南区、和泉市、岸和田市、大阪狭山市に広がる泉北丘陵は、五世紀中頃から続く日本最大級の須恵器の生産地でした。1,000基以上の窯跡が存在し、朝鮮半島からの技術によって、須恵器を大量に生産し、日本各地に供給していました。同様の窯が、福岡、香川、兵庫、岐阜、愛知などでも発掘されています(※ Wikipedia)。

 焼物といえば、一般に陶磁器を指すようになっていますが、実は、陶器と磁器では、材料や焼成温度に大きな違いがあります。その違いが、それぞれの焼物の特質となっています。

 具体的には、陶器は、主に陶土、磁器は、主に砕いた陶石を原料とします。陶器は低温(約800〜1200℃)で焼成され、吸水性があって温かみを感じさせますが、磁器は高温(1300℃前後)で焼成され、ガラス化するため吸水性がなく、硬く白いのが特徴です。

 平安時代の末期から、日本でも、堅く耐水性に優れた陶器が、常滑、渥美、越前、信楽、丹波、備前などで生産されるようになりました。以後、鎌倉時代にかけて、陶器製造が盛んになりましたが、鎌倉後期になると、窯業地の淘汰が進み、瀬戸、常滑、備前、丹波、信楽、越前に集約されていきました。現在の愛知県、岡山県、兵庫県、滋賀県、福井県に所在していました。

 いずれも京都に比較的近く、それなりの市場を形成しやすく、しかも、陶器製造に適した陶土を入手しやすい土地でした。

 これらはやがて、六古窯と呼ばれるようになります。

こちら →
(※ https://www.gov-online.go.jp/hlj/ja/march_2026/march_2026-01.html。図をクリックすると、拡大します)

 六古窯では、日用品の陶器が製造され、市場が形成されました。陶器市は最初、寺社の境内や門前などで、祭祀の時に開催されていましたが、やがて、定期的に開催されるようになります。これらの市場が、その後、営々と陶器生産を支え、現在に至っています。

 ところが、六古窯の中に、波多の名前もなければ、唐津の名もありません。

 波多親公は、それまで陶器を生産したこともない土地で、陶器製造を始めていたのです。

 実際、波多親は朝鮮から陶工を呼びよせ、材料を取り寄せ、そっくりそのまま朝鮮方式で、陶器を造らせました。当時の日本よりも技術力の高い朝鮮の陶工が、波多氏の下で、陶器生産に携わったのです。当然のことながら、出来上がったのは、いかにも高麗風の焼物でした。

 和物よりも硬質で、茶人好みの質朴さ、奥深さがありました。

 当時、茶人の一部は、高麗茶碗を賞玩するようになっていましたが、ほとんどの人にとって、高麗物はまだ、日用雑器にすぎませんでした。それが、茶の湯の普及に伴い、高麗物の質朴な風合いが好まれるようになり、価値が生まれました。いつしか、「一井戸(または高麗)、二楽、三唐津」と称されるようになっています(※ http://www2.town.nakadomari.aomori.jp/hakubutsukan/kikakuten/h12-su/karatsu-kaisetsu1.htm)

 波多親公が始めた陶器は、後に、唐津焼の源流とされ、古唐津と呼ばれるようになりました。いまや、日本の陶器界で一定の地位を占めるまでに至っているのです。

 それでは、なぜ、波多親公が陶器生産を開始することができたのか、地理的、社会的、歴史的状況を踏まえ、考えてみたいと思います。

■松浦地方とは?

 波多氏が治めていた松浦地方は、長崎県北部から佐賀県北西部に位置し、玄界灘に突き出した地域です。東は唐津湾、西は伊万里湾、北は壱岐水道に面しています。伊万里湾に代表される複雑なリアス式海岸と、北松浦半島を中心とする起伏の激しい丘陵地帯が、この地方の大きな特徴です。

こちら →
(※ 国交省HPより。図をクリックすると、拡大します)

 松浦地方は、大部分が丘陵性の玄武岩台地からなる地形で、平地に乏しく、農業には適していません。平坦地が少ないので、海岸沿いの山間部に、開墾した棚田が広がっています。

 気候は、対馬暖流の影響を受けて温暖ですが、台地の上はやや冷涼で、冬期には北西の季節風が強くなります。また、河川に乏しく、保水力に乏しい地理的特性のせいで、常に、干害に悩まされてきました。
(※ https://www.mlit.go.jp/kokudoseisaku/chisei/kokudoseisaku_chisei_tk_000126.html

 そもそも農業には、水はけがよく、保水力があり、適度な有機物を含む土壌が必要です。さらに、平坦で、日当たりがよく、風通しの良い土地なら、最適です。農耕という観点からは、平坦地が少なく、保水力に乏しい松浦地方は、そもそも農業に適していませんでした。

 一方、上の地図を見ればわかるように、松浦地方は、長崎県北部から佐賀県北部の入り組んだ海岸線に沿ったところにあります。朝鮮半島や中国沿岸部に近く、人々は古来、農業ではなく漁業を営み、海上交易を行い、生計を立ててきたのです。

 松浦地方の人々は、地理的特性から、半ば必然的に、海に活路を見出していました。漁業を生業とし、東アジアを結ぶ海上交易の拠点として、朝鮮半島や中国沿岸部の人々と交易を行い、栄えてきました。

■松浦党とは?

 平安時代末期から戦国時代にかけて、松浦地方は、松浦党と呼ばれる武士団が割拠していました。

 松浦地方は、中国や朝鮮半島に近い航路の要衝で、古来、海運、交易、漁業などが生活の基盤でした。その生活基盤を守るには、海域の治安の維持、朝鮮半島や中国からの外敵に対する武装集団が必要でした。

 松浦党は、松浦氏を中心とした一族が、地元の武士や海民と団結した48の連合体です。地縁、血縁で人々がつながっており、地元の権益を守ってきました。とくに、水軍としての能力に長けており、「海の武士団」とも呼ばれていたようです。

 始祖は、平安時代の源久(みなもとの ひさし)です。その後、一族が広がって、連合体となり、「松浦四十八党」と呼ばれるようになりました。各地に分かれた子孫たちが、土地の地名を名乗り、連合体を形成していったのです。

 松浦党は、松浦氏の宗家を中心に、48家に分かれて繁栄してきましたが、後に、松浦党の領袖として一族を束ねるようになったのが、波多氏です。

 どの氏族が、どの地域を支配していたのかを示した図があります。

 波多氏の領地がわかるように、名前の横に赤線を記しておきました。他に比べ、海からやや離れている地域が波多氏の領地だということがわかります。

こちら →
(※ http://www2.harimaya.com/sengoku/html/matu_zu.html。図をクリックすると拡大します)

 鎌倉前期まではこのようにして、松浦党は48家がそれぞれ独立して、各地を治めていました。ところが、元冠襲来(1274-1281)を契機に、松浦党は、「一揆」と呼ばれる合議制の組織形態をとり、共通の課題に対応していくようになります。

 元寇との激戦が、松浦党を変貌させたのです。

■元寇 

 ユーラシア大陸を制覇したチンギス・ハンの孫であるフビライ・ハンは、東アジア全域を支配する野望を抱き、日本もその支配下に置こうとしました。鎌倉時代、第八代執権北条時宗の治世下で、フビライは日本に国書と使者を送りましたが、幕府はそれを黙殺しました。

 フビライ・ハンが日本に向けて最初に国書を発したのは、1266年(文永3年)のことでした。
(※ https://www.archives.go.jp/about/activity/international/jp_mn50/ch01.html#:~:text=%E6%96%87%E6%B0%B811%E5%B9%B4%EF%BC%881274,%E3%81%AB%E5%B1%8A%E3%81%91%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82

 その後、合計6回にもわたって、フビライ・ハンは、国書を日本に送りつけましたが、北条時宗は黙殺し続けました。

 その結果が、文永の役(1274年10月17日前後)でした。
 
 「海の武士団」と呼ばれた松浦党は、古来、周辺海域を熟知していました。その実績を見込まれて、元寇の際、鎌倉幕府から博多湾の警護を命じられました。松浦党は死力の限りを尽くし、抗戦しました。元軍の船を海底に沈めて、戦力を削ぎ、果敢に防衛戦を展開しました。

 ところが、兵力の差は歴然としていました。

 この時の戦闘で、松浦党の当主、佐志四郎左衛門尉房は、長男の佐志二郎直、二男の留、三男の勇とともに、肥前国星賀(現在の佐賀県唐津市)に上陸した元軍と交戦し、全員戦死してしまいました。

 元軍とは圧倒的な戦闘能力の差がありました。

 元軍と交戦した松浦党はまず、戦術の違いに驚きました。

 当時の日本の武士は「やあやあ我こそは」と名乗りを上げる「一騎打ち」が主流でしたが、元軍は組織的な戦いを行いました。密集した陣形を組み、指揮官の鳴らす太鼓やドラの音を合図に、一斉に動いて包囲し、攻撃するのです。

こちら →
(※ https://www.nagasaki-tabinet.com/feature/genko。図をクリックすると、拡大します)

 一人の武士に向かって、元軍は複数で狙い撃ちするのです。これでは、どんなに秀でた戦闘能力を持つ武士でも、勝ち目は全くありません。

 しかも、元軍は新兵器で襲撃してきたのです。

 内部に火薬と鉄片を詰めた爆弾による爆音や火光、そして毒矢による攻撃など、松浦党をはじめとする日本の武士団は非常に困惑し、次々と打倒されていきました。
(※ https://www.touken-world.jp/tips/7050/#:~:text=%E5%85%83%E8%BB%8D%E3%81%AF%E3%80%8C%E9%8A%85%E9%91%BC%E3%80%8D%EF%BC%88,%E5%8D%B1%E9%99%BA%E3%81%AA%E7%89%A9%E3%81%A7%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82)

 博多は壊滅状態になり、松浦地方も同様でした。

 そして、弘安四(1281)年五月、再び元軍が襲来しました。高麗から東路軍4万人と900隻、中国の沿岸からは江南軍10万人と3,500隻が日本に向かって来たのです。

 実は、二回目の襲来までに、鎌倉幕府執権であった北条時宗は、「異国警固版役」と称し、兵力と防護力を着々と整えていました。異国警固版役として、防衛体制の構築を行い、九州各地の沿岸に20kmにも及ぶ高さ2mの防塁(石を積んだ防護構築物)を築いたのです。

 さらに、西国の武士団に昼夜を問わず、海岸沿いを警護させ、兵力を高めるために、御家人ではない武士も幕府の指揮下に置きました。

 もちろん、兵器と戦法も変更しました。

 まず、元軍の上陸を阻止するため、元軍よりも射程距離の長い弓を使用しました。次に、元軍の集団戦法を阻止するため、陸上戦を避け、元寇船に乗り込み、攻撃をする作戦に変更しました(※ 前掲、URL)。

 北条時宗は、文永の役の敗因を分析し、対策を講じていたのです。元軍を陸上に侵攻させず、海上で追い払う作戦に変更していました。

 それでも、兵力の差は圧倒的でした。

 弘安の役(1281年)では、松浦党の本拠地である鷹島(長崎県松浦市)が戦場となり、激しい襲撃を受けました。この鷹島では、台風から生き残った元軍の兵士と日本の武士が激しい陸上戦を展開しており、「元寇最後の決戦場」と伝えられています。

 鷹島は、前回の文永の役の際、上陸した元軍によって、住民は惨殺され、若い女性たちは奴隷として連行されていきました。島は凄惨な状況に置かれていたのです。

 七年後の弘安の役では、台風(神風)の襲来によって、なんとか元軍の上陸を回避できました。元軍の船が多数、鷹島沖に沈没した結果、鷹島が最後の激戦地となりました。こうして二度にわたる元寇によって、甚大な被害を受けた鷹島は、14世紀末頃まで無人島化していたといわれています。
(※ https://reskill.nikkei.com/article/DGXDZO38081170X10C12A1EL1P01/)

 国防のため、死闘を尽くした松浦党もまた、甚大な被害を受け、組織形態を変えざるをえなくなりました。

■一揆という組織形態

 松浦党は最前線で、元軍と戦い、経験したことのない戦法に遭遇しました。集団で取り囲み、完璧に仕留めるという戦法でした。集団の力、結束力というものをいやというほど思い知らされたのでしょう。松浦党は、元寇以後、集団の力によって、身を守ることができるように組織形態を変えました。

 松浦党の構成メンバーは、血縁だけでなく、地縁でも結ばれた48家の小規模領主たちでした。

 居住する地域によって、斑島氏、佐志氏、波多氏、有浦氏、値賀氏、石志氏、相知氏、大川野氏などの上松浦党と、松浦氏(平戸松浦氏)、青方氏、宇久氏、平戸氏、大島氏、志自岐氏、中村氏、早田氏、山代氏などの下松浦党に大別されていました(※ 玄海町HP)。

 各氏族は独立性が高く、それぞれが独自に行動していました。

 ところが、元寇以降、一揆という組織原理の下、行動するようになりました。大きな課題に対しては、大同小異で一致団結し、組織的に行動するようになったのです。

 「一揆」とは、「揆を一にして、結束すること」を指します。

 巨大な権力を持たず、各氏族が対等な立場で結ばれた松浦党は、「一揆」という独自の組織形態を創り出したのです。
(※ https://www.pref.saga.lg.jp/kiji00346510/3_46510_7_201634151023.pdf)

 以来、共通の難題に遭遇すれば、これら48家は集まって評議を行い、評決して決定し、松浦党として一致団結して、統一行動をとるようになりました。中世の時代に、地方の小豪族が民主的に協議し、共通の課題を解決していたことはきわめて稀有なことでした。

 そして、南北朝の混乱期に松浦党は、この組織形態を強化していました。

■一揆契諾状

 元々、連合体だった松浦党ですが、南北朝の混乱期に、居住地によって、「上松浦党」と「下松浦党」の二つに大きく分かれるようになりました。氏族それぞれが南北両朝の勢力争いに深く関わるようになっていたのです。

 たとえば、南北朝の騒乱が始まった当初、肥後の菊池氏と連携し、懐良親王(征西将軍宮)ら南朝を支える勢力として活動した氏族が多く見られました。

 その一方で、少弐氏らと呼応して北朝側に味方する氏族もありました。また、平戸の松浦氏や佐志氏など、当初は南朝側として戦い、後に北朝側に転じた氏族もありました。

 このように、松浦党の中には、北朝に帰順する氏族、南朝方として独自の活動をする氏族、そして、一族の保身のために、様子見しながら、北朝と南朝の間を揺れ動く氏族などが混在していたのです。

 これは、北朝方、南朝方がそれぞれ、軍の勢力を優位にするため、松浦党の各氏族に働きかけた結果でもありました。

 動乱が激化していくにつれ、働きかけも強まっていきました。松浦党としては、外部勢力からの干渉を防ぎ、一族の結束を守る必要に迫られました。そこで、取り入れられたのが、「一揆契諾状」です。

 「一揆契諾状」とは、松浦党内で交わされた契約文書です。

 松浦党を味方につけようとする働きかけが、各勢力によって行われましたが、特に熱心だったのは、応安四(1371)年に、九州探題に任命されて下向してきた今川了俊でした。

 今川了俊は着任すると、早々に、南朝方の菊池武光や島津氏久らの勢力と抗争を繰り広げ、九州における北朝(幕府)の支配力を強化しました。すでに下松浦党(平戸・北松浦)は、今川了俊の働きかけに応じていました。

 もはや氏族それぞれの判断に任せておくわけにはいかなくなっていました。一揆制度を強化しておかなければ、松浦党が組織崩壊する可能性もあったのです。

 そこで、松浦党は、一族の結束を維持して、外部勢力に対抗するために、「一揆契諾状」を交わし、合議制による団結を強化しました。

 現在、一揆契諾状は、応安元年(1373)、永徳四年(1384)、嘉慶二年(1388)、明徳三年(1392)など、合計四通が残されています。これには、参加者の連署や花押が残されていました。受諾の確認と責任の所在が明記されているのです。

 その主な内容は、次のようなものでした。

一、 一揆衆は、一致協力して足利将軍に忠誠を誓うこと
一、 争いごとは、武力ではなく、話し合いで解決すること
一、 夜盗、強盗、窃盗等を取り締まること
一、 年貢や領地の争いは、話し合い、多数決を行うこと
一、 一旦、決めたことは必ず守ること

(※ 「海とともに時代を生きた武士団」、file:///C:/Users/2012k/OneDrive/%E3%83%87%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%83%E3%83%97/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E5%85%9A.pdf、p.25)

 そもそも松浦党は、強力な一人のリーダーに率いられた組織ではなく、それぞれが独立した中小領主たちの「契約」によって結ばれた連合体でした。だからこそ、社会の混乱時には、このような契約書が必要だったのでしょう。

 興味深いことに、これら四通一揆契諾状は、南北朝動乱の収束状況に応じて出されていました。

 最初に、一揆契諾状が交わされたのは、今川了俊が南朝方の勢力と戦い、北朝の支配力を強めつつあった応安元年(1373)です。次が、北朝方が南朝方を圧倒しつつあった永徳四年(1384)です。そして、北朝方が、北九州から肥後国(熊本県)にかけての南朝方(征西府)をほぼ制圧し、幕府の支配体制を固めつつあっ、嘉慶二年(1388)が続きます。最後に、南北朝に対立が解消された明徳三年(1392)といった具合です。

 足利義満は明徳三年(1392)十月、「明徳の和約」を締結しました。
 
 これによって、南朝の後亀山天皇が、北朝の後小松天皇に三種の神器を譲渡し、南北朝の対立が解消されたのです。その結果、これまで南朝方として抗戦していた肥後の菊池氏や阿蘇氏が幕府側に帰順し、室町幕府の権力が九州全域に及ぶことになりました。

■波多氏を生んだ松浦地方と松浦党

 松浦党は、元寇を契機に、合議制の組織体系を作り上げました。その後、南北朝の混乱期を迎えると、「一揆」という組織に、「一揆契諾状」を絡ませ、組織の機能強化を図りました。

48家が会議をし、評決をした場所が、松浦党唐津会議所跡地として、残されています。現在の唐津神社の周辺にあります。

こちら →
(※ https://kandayoshinobu.seesaa.net/article/201703article_11.html。図をクリックすると、拡大します)

 この場所は、上松浦党(現在の唐津周辺)の有力者たちが集まる拠点の一つであったと考えられています。松浦党を波多氏が支配していた頃のことです。

 南北朝時代が終わり、その後、戦国時代に入ると、強力な戦国大名による一円支配が進みました。対等な連合体としての「一揆契諾」という形態は徐々に姿を消していきました。「一揆契諾状」はまさに、期間限定の制度だったといわざるをえません。

 約六十年間にわたった南北朝の動乱(1330年代〜1390年代)の期間中に、地方の治安維持を担当していた「守護」が、軍事、警察、経済的権限を強め、領国を支配する「守護大名」へと変貌していきました。やがて、大名が群雄割拠する戦国時代の幕開けになるのです。
 
 さて、松浦党の始祖である源久は、嵯峨源氏の血を引きますが、単なる貴族ではなく、武力を持って土地を支配し、後の強力な武士団「松浦党」の基礎を築いた人物でした。

 松浦郡今福(現在の長崎県松浦市)に梶谷城を築いて拠点とし、自ら「松浦」を名乗りました。やがて、彼の子孫たちが各地に分散して領主となり、松浦党は連合体としての武士団「松浦党」へと発展していきました。

 その松浦党の組織のシンボルとして、松浦家の家紋入古旗が残されています。松浦家の家紋である三星・梶葉・二引両が染め出されている船幟です。

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(※ 長崎県指定有形文化財、1562年、松浦資料博物館蔵。図をクリックすると、拡大します)

 三星紋は、源融が、源氏の姓をうけて臣籍にくだる際に使用したと伝えられています。まだ、梶葉紋は、松浦家第八代久のときから使用したとされています。そして、二引両は、松浦家第十六代勝が、筑前多々良浜の戦において足利尊氏から下賜されたものです。松浦家第二十五代隆信(1529-1599)の時代に使用されたと考えられています(※ https://www.matsura.or.jp/shiryou/)。

    (※ 松浦氏や波多氏の名前は一字が多く、わかりにくいので、以後、名前の下に下線を引いておきます)

 上図にみるように、松浦家の家紋には、源氏にルーツがあることを示す三星紋、松浦姓を名乗るようになってからの梶葉紋、そして、足利尊氏から下賜された二引両が使われています。一族の歴史と栄誉が一目でわかる家紋になっているのです。

 さて、梶葉紋は、諏訪大社などの神紋として有名で、武士の間で信仰の象徴として好まれており、諏訪氏や平戸松浦氏などが使用しました。この梶葉紋が使われ始めたのが、松浦家第八代当主の松浦久の時代でした(※ https://www.matsura.or.jp/rekishi/nenpyo/)。

 この松浦家第八代当主の松浦久(源久)の二男。松浦持が、波多氏の始祖となり、波多持となりました。肥前国松浦郡の波多の地に移り住んだことで、波多氏を称するようになったのです。平安時代の後期、康和四年(1102)頃のことでした。

 波多氏は、源氏の系譜を引きますが、清和天皇を祖とする清和源氏ではなく、嵯峨天皇を祖とする「嵯峨源氏」でした。

 嵯峨源氏は、当初は高い身分の貴族(公家源氏)として朝廷で活躍していました。ところが、時代が下るにつれて、地方に下って武力を持った子孫たちが、「武士」としての性格を強めていきました。波多氏はその流れをくみます。

 こうして誕生した波多氏は、農業に適さず、海防最前線の松浦地方で、合議制を重視し、高い自律性と海上交易で力を誇った松浦党の下、着実に勢力を育んでいきました
(2026/5/1 香取淳子)

波多三河守親 ② 古唐津、高麗茶碗、楽焼

■「書院の茶」から、「草庵の茶」へ

 肥前国松浦郡の岸岳城の城主・波多親公は、秀吉の朝鮮出兵以前に、朝鮮人陶工を呼びよせ、陶器生産を始めていました。岸岳城下で、朝鮮式の登り窯を築造させ、朝鮮の生産方式をそのまま導入して、陶器を作らせていたのです。

 岸岳古窯跡群からは、多数の陶器類が出土しました。それらはいずれも、胎土は日本のものを使いながら、高麗物といえる焼物でした。釉薬が施されており、たとえ日常雑器にすぎないものでも、茶陶に見立てることができる風格が備わっていました。

 当時、茶人たちは、朝鮮伝来の高麗茶碗を茶席で賞玩するようになっていました。高麗茶碗には、唐物にはない質朴な味わいがあったからです。唐物を好ましく思わない茶人たちが、高麗物の素朴さ、質素な佇まいに価値を見出していたのです。高麗茶碗こそ、茶の湯を象徴する価値があるという見方、美意識などが茶人たちの間で浸透しつつありました。

 室町時代に、足利将軍家や武家、公家の間で流行していたのが、「書院の茶」といわれる茶の湯のスタイルです。書院造の座敷で、高価な唐物(中国製の茶道具)を飾り、別室で点てた茶を客人に提供するという様式です。豪華さと格式を重んじるのが特徴で、武将たちが政治利用したのは、この種の茶会でした。

 一方、それとは対極の、「草庵の茶」という茶の湯のスタイルが立ち上がっていました。侘び茶の祖とされる村田珠光(1423-1502)が、提唱したものです。こちらは、質朴さや不完全さの中に、精神的な豊かさを求めようとするのが特徴です。高価な唐物にこだわらず、日常的な茶器を使って、心からのもてなしをすることに価値を置きました。

 中国から伝来した喫茶文化は、「書院の茶」から、時代を経て、質素を旨とする「草案の茶」へと移行していきました。茶の湯の潮流が変化していく過程で、使われる茶道具にも変化が見られました。茶器に対する嗜好性に変化が生じていたのです。

 草庵の茶の原型となった逸話が残されています。

■草庵の茶の原型

 室町時代に制作された「お伽草子」に、『おようの尼絵巻』があります。老僧が、「おようの尼」という名の老婆の仲介で、若い女性との一夜をもちかけられ、期待していました。ところが、ようやく女性が現れ、夜が明けて顔を見ると、その老婆本人だったという滑稽譚です。この絵巻は、サントリー美術館に所蔵されています。

 この絵巻の導入部で、「おようの尼」が老僧の庵を訪ねてくるシーンがあります。老僧の庵には、風炉や釜、茶碗、茶入などの茶道具が一式置かれており、日常的に茶を嗜んでいたことがわかります。

こちら →
(※ 室町時代、 サントリー美術館蔵、図をクリックすると、拡大します)

 室町時代の僧侶の間では、茶を飲むことは日常の楽しみであり、また来客をもてなす重要な作法でもありました。このシーンは、老僧が世俗から離れて過ごす日常の一端が示されています。

 神津朝夫氏は、絵巻に描かれた茶道具について、「ここに描かれた道具はどれも粗末なものであって、書院会所の喫茶とは無縁であり、のちの茶の湯とはつながるものだった」と記し、「その茶道具は部屋から見える場所に置かれ、法師はその「そばへ立ち寄り」茶をたてている」と書いています(※ 神津朝夫、『茶の湯の歴史』pp.136-137.)。

 粗末な茶道具を使い、客から見える場所で、茶を点てているのです。高価な唐物の茶道具を使い、別室で点てた茶を客人に提供するという、「書院の茶」とは明らかに異なっています。

 ここに草庵の茶の原型があるといえます。

 実際、浄土宗の僧侶・珠光は、応仁・文明の乱(1467-1477)の後、京都から生地の奈良に戻り、遁世生活を送っていました。草庵に来訪者があれば、茶を点てて、もてなしていたといいます。その時、使っていたのは、蓋の割れた陶製の風炉釜、継ぎのある茶碗、竹の茶入れ、竹柄杓でした。

 この村田珠光の精神を受け継いだのが、堺の豪商であり、連歌師の武野紹鴎 (1502-1555)でした。珠光のわび茶をより簡素化し、洗練させたといわれています。そして、千利休 (1522-1591)は、武野紹鴎の「わび」の精神を極限にまで追求し、極小の茶室「待庵」を創作して、草庵の茶を完成させました。

■「待庵」と古唐津

 「待庵」とは、天正十(1582年)の山崎の戦いの際、羽柴秀吉の陣中に、千利休によって建てられた二畳隅炉の茶室のことです。その後、解体して、仏教寺院・妙喜庵に移築されました(Wikipedia)。

 茶室は切妻造杮葺きで、書院の南側に接して建っています。内部の写真をご紹介しましょう。

こちら →
(※ https://www.kyoto-kankou.or.jp/info_search/3221、図をクリックすると、拡大します)

 茶席は二畳です。次の間と勝手の間を含んだ全体の広さが、四畳半大という極めて狭い空間です。南東隅に、にじり口を開け、にじり口から見た正面に、床が設けられています。室内の壁は黒ずんだ荒壁仕上げで、藁すさ(細かく切った稲藁)の見える草庵風になっています。この荒壁には仕上げ塗りが施されておらず、当時の民家でよくみられる様式だったといいます(※ Wikipedia)。

 「待庵」の内部を見ると、全般に黒ずんでおり、藁すさの見える荒壁には、寂寥感を感じさせられます。軸が掛けられているとはいえ、飾り気がなく、寂寞とした侘びの世界が創出されています。

 村田珠光が、来訪者にお茶を点てたというのは、おそらく、このような雰囲気の空間だったのでしょう。「待庵」は、まさに「草庵の茶」を象徴する茶室でした。

 茶人たちが「草庵の茶」を提唱し始めて以来、高価な唐物茶器よりも、安価で素朴な味わいのある高麗茶碗、あるいは、和物茶碗の需要が高まっていきました。

 波多親公が岸岳城下で、高麗風の陶器製造に携わっていたのは、1580年代から1593年頃までの約10数年間でした。ちょうど千利休の最盛期に当たります。「草庵の茶」が提唱され、庶民までが茶の湯を嗜むようになっていた時代でした。

 権威付け、あるいは、格付けのための茶の湯ではなく、もてなしの一つであり、来訪者との心の交流のためでもありました。権威を誇示し、権力をちらつかせて、政治利用していた茶の湯から、瞑想し、心を解き放つ場としての茶の湯へと、潮流が大きく変わりつつあった頃でした。

 そんな折、波多親公が製造させていた焼物は、和物でありながら、高麗茶碗風であり、「草庵の茶」に似つかわしいものでした。それらは、波多氏以降の焼物と区別するため、古唐津と呼ばれています。

 古唐津の逸品が残されています。松浦系道園窯で造られた無地の茶碗です。

■松浦系道園窯で発掘された茶碗

 波多親公が築造させた「岸岳系窯跡群」の中に、松浦系道園窯があります。絵唐津で知られる窯跡ですが、そこから出土した古唐津の焼物の中に、無地の茶碗があります。

こちら →
(※ https://serpent-rhythm.com/items/15793、図をクリックすると、拡大します)

 この茶碗は、1590〜1600年代に焼成されたとされています。波多氏が改易されたのが文禄三(1594)年ですから、ひょっとしたら、波多親公が、まだ城内を采配していた頃に仕上がった焼物かもしれません。

 素朴で、重厚感のある茶碗です。やや斜めに傾いた上部に、黒い模様のようなものが見え、興趣を添えています。長石の混じる灰釉が下の方までかかっており、奥深い風情があります。形といい、色合いといい、質感といい、力強く印象的な茶碗です。

 この茶碗には、朝鮮で使用されていた日用雑器そのままの趣が見受けられます。岸岳城下で製造されたからといって、デザインや文様などに、日本的な作為が加えられることもなかったようです。朝鮮人陶工が、故国で作っていたのと同じ方法で、焼成した茶碗だということがわかります。

■武将からの注文で製造された高麗茶碗

 当時、武将の中には、高麗茶碗を輸入するだけでなく、好みを反映させた茶碗を、朝鮮で作らせていたようです。

 日本からの注文によって、朝鮮で焼かれたとされる、割高台茶碗をご紹介しましょう。

こちら →
(※ 高さ9.1㎝ 口径14.3~10.4㎝ 高台径7.6~7.5㎝、李朝時代/16世紀、本間美術館所蔵、図をクリックすると、拡大します)

 やや大振りの磁器質風の茶碗です。

 高台を四方に断ち割り、胴は楕円形に歪ませ、腰には箆(へら状の工具を用いて表面を削り、磨き、文様を描く技法)が施されています。

 このようなデザインの茶碗が、武将たちに好まれていたといいます。敢えて高台(茶碗の底にある足)を四方に断ち割ったところ、そして、へりを楕円形に歪ませたところに、この茶碗の造形に強いこだわりが感じられます。

 この茶碗は、初代庄内藩主の酒井忠勝(1594-1647)が所持し、のちに本間家が拝領したといわれています(※ 文化遺産オンライン)。

 武将の嗜好性が反映された茶碗です。

■高麗由来の茶碗にみられる共通点と相違点

 古唐津の無地茶碗も、高麗茶碗も、ほぼ同時期の高麗由来の茶碗です。二つを見比べてみると、古唐津と高麗茶碗はいずれも、飾らない、素朴な味わいがあるという点でとてもよく似ていることがわかります。

 もちろん、違いもあります。

 両者の違いといえば、古唐津の方は粗削りで、無骨な力強さがあるのに反し、武将の注文で作られた高麗茶碗には、洗練された温かみと斬新な意匠性が感じられることです。

 武将が好み、敢えて高麗で造らせたといわれる茶碗の意匠には、高麗茶碗が本来、備えている質朴さと力強さに、洗練された滑らかさが加わっていました。さり気なく、角の取れた滑らかさが加味されていたのです。その滑らかさの中に、戦国時代を経て、江戸時代を生きた武将の秘かな願いが込められているように思えます。

 一方、高麗茶碗の仕様をそっくり引き継いだ古唐津には、朝鮮の日用雑器にすぎない素朴さ、頑丈さの中に、逞しい生命力が感じられます。

 武将が朝鮮に注文を出して作らせた割高台茶碗といい、岸岳古窯跡から発掘された古唐津といい、高麗由来の茶碗には、総じて、素朴さや無骨さ、釉薬がもたらす変化を受け入れる鷹揚さが見られました。ここに、侘茶を嗜む茶人たちから賞玩された、高麗茶碗の真髄があるような気がします。

■高麗茶碗

 高麗茶碗は、16世紀半ば頃から、日本の茶道で用いられるようになりました。記録に残る最も古いものは、天文六(1537)年の十四屋宗伍( ?-1552 )の茶会で披露された「高ライ茶碗」で、これは、『松屋会記』(1533-1650期間の茶会記、3巻)に記載されています。(※ Wikipedia)

 わざわざ高麗茶碗を披露するための茶会が開催されたこともありました。

 堺の豪商であり、茶人でもあった山上宗二(1544-1590)は、永禄八(1565)年五月七日に、高麗茶碗を披露するための茶会を開いています。客として招待したのは、千利休、草部屋道設、武野宋瓦、今井宗久でした。

 錚々たるメンバーですが、この頃になると、高麗茶碗が茶人の間に浸透していたことがわかります。道具組みは、鶴瓶の水指、茶桶の建水、高麗茶碗でした。この高麗茶碗について、堺の商人であり茶人の今井宗久(1520-1593)は、「土薬面白くみごと也」と評しています(※ 中村修也、『戦国茶の湯倶楽部』、大修館書店、2013年、p.65)。

 宗久は、釉薬が茶碗に味わい深い風情を添えていることを讃えているのです。これまで茶会でありがたがられるのは、唐物でしたが、この頃、高麗茶碗の妙味を茶人たちが理解し、賞玩するようになっていたことがわかります。

 天正年間(1573-1592)になると、茶の湯はさらに浸透し、高麗茶碗は一定の地位を獲得するようになっていました。

 高麗茶碗の輸入が増え、国内でも和物茶器が増産されるようになりました。増えた茶の湯人口に対応した現象だと考えらます。唐物よりは安価で、和物よりも妙味があり、茶席での鑑賞にも耐えるということで、高麗茶碗が重宝されるようになったのかもしれません。

 茶人ばかりか、武将もまた、茶会で高麗茶碗を使うようになっていました。有名なのは豊臣秀吉です。

 たとえば、豊臣秀吉は、三木の付城で茶会を開催したことがあります。兵糧攻めのため、三木城の周囲に多数の付城を築造したのですが、そのうちの一つで、茶会を開催していたのです。天正六(1578)年十月十五日のことでした。

 今井宗久(1520-1593)は、その茶会に参加しており、「紹鷗之平カウライ茶碗」が披露されたと記しています(※ 矢部良明、『茶人 豊臣秀吉』、角川ソフィア文庫、2025年、p.22)。

 紹鷗が所持していたはずの高麗茶碗が、その茶席で披露されていたというのです。

 紹鷗とは、武野紹鷗(1502-1555)のことで、侘び茶の中興の祖といわれた人物です。宗久にとっては師匠であり、義理の父親でもありました。だからこそ、秀吉の茶会で披露された高麗茶碗が、紹鴎が所持していたものだとすぐにわかったのでしょう。

 紹鷗が所持していたはずの高麗茶碗を、なぜ、秀吉が手に入れていたのかはわかりません。ただ、三木合戦中の茶会で披露されたことは、秀吉が、高麗茶碗を高く評価していたことを意味します。

 そもそも高麗茶碗は、李氏朝鮮時代に日常雑器として作られた焼物でした。紹鴎ら茶人によって、その不完全さや粗野な作風に、侘びの美が見出され、侘び茶の道具として見立てられたにすぎません。

 それが、やがて天下人になろうとする秀吉が開催した茶会で披露されたのです。

■武野紹鷗が所持していた高麗茶碗

 三木の付城で披露されたものと同じかどうかはわかりませんが、武野紹鷗が所持していたとされる高麗茶碗があります。ご紹介しましょう。

こちら →
(※ 高7.8㎝、口径16.3㎝、高台径5.7㎝、朝鮮王朝時代、石水博物館蔵、図をクリックすると、拡大します)

 これは、「紅葉山」という銘の入った井戸茶碗です。武野紹鴎が所持していたと伝えられ、高麗茶碗がもたらされ始めた頃の作と考えられています。施釉時に付いた陶工の指痕や、「かいらぎ」(陶磁器の表面に釉薬が溶けきらず、縮れて粒状に残った、独特の模様)が文様となっており、独特の風情が感じられます。

 侘び、寂びを感じとる美意識がなければ、この茶碗の良さを十分に理解できないでしょう。陶工の指痕が残っていたり、溶けきらなかった釉薬が縮れて粒状になって残っていたり、いってみれば、製陶の不完全さがこの茶碗に興趣を添えているのです。

 侘びの精神がこの茶碗に凝縮されており、そのエッセンスが全体から滲み出ているように思えます。この茶碗を見ていると、武野紹鴎が大切に所持していた理由がよくわかるような気がしてきます。

■紹鴎が目指した「茶の湯」

 紹鷗の茶の湯は、今井宗久、津田宗及、千利休に影響を与え、彼らによって侘び茶が継承されました。

 紹鷗は、目指している茶の湯の境地について、「連歌は枯れかじけて寒かれと云ふ。茶の湯の果てもその如く成りたき」という言葉を残したと伝えられています。
(※ https://www.omotesenke.jp/list2/list2-3/list2-3-3/

 これは連歌師であった、室町時代の心敬(1406-1475)の言葉から引いたもので、「華やかさや生気を捨て、寒々とした枯れ木のような質素さと厳しさを追求せよ」ということを意味しています。

 侘び茶の精神を象徴する言葉であり、武野紹鷗から千利休へと引き継がれていった侘びの世界に美を見出すことのできる感性を表しています。

 利休はこの二人を、侘びの世界の先人として、「術は紹鷗、道は珠光より」と説き、武野紹鷗(1502-1555)と村田珠光(1423-1502)の茶の湯の境地を高く評価していました。

 侘びの精神を茶の湯に取り入れたのが村田珠光だとすれば、その精神を組み入れた作法を編み出したのが武野紹鷗だと、利休が認識していたことがわかります。

 和歌であれ、連歌であれ、彼らは、欠落を表す言葉の中に、美を見出していました。不足すること、欠落していることの中には、想像力を豊かに刺激するものがあり、躍動感を覚えさせてくれます。

 そして、想像力が羽ばたいているときは、いっとき、生きている現実世界から離れることができます。それを茶の湯の境地に転じたところに、侘びの世界があるといえるのでしょう。それは、戦場で生と死に対峙し武士、あるいは、生活苦に苛まれる庶民の気持ちを強く捉えたにちがいありません。

 室町時代の後期になると、喫茶文化は庶民の間にまで普及しましたが、時代状況を考えると、当然のように思えます。そして、その庶民を対象にした茶器が、安価な高麗茶碗や和物茶碗だったのです。

 公家や武士らが行う茶会では、依然として、高価な「唐物」(中国製の茶器)、「名物」(由緒ある由来の茶器)が重んじられていました。とはいえ、侘びの美意識が広がっていくにつれ、武士の間でも、高麗茶碗への需要、和物への関心が高まっていきました。

 振り返ってみれば、高価な唐物を尊ぶ風潮を嫌った村田珠光が提唱したのが、侘び茶の始まりでした。次いで、武野紹鷗が、高麗茶碗に新たな光を当てて、侘び茶を発展させました。そして、利休は、侘び茶の理念を追求し、楽焼と呼ばれるようになる和物を創って、侘び茶の様式を完成させました。

■利休の好みに沿って創り出された楽焼

 千利休は、天正二(1574)年に、今井宗久や津田宗及と共に、織田信長の茶頭になりました。茶頭とは、戦国時代から江戸時代に、将軍や大名に仕え、茶事全般(道具管理、お茶を点てる等)を司った茶人を指します。

 織田信長の茶頭として、利休は、茶会における茶道具の管理、お茶を点てる、茶会を進行する、等々の茶会全般の諸事を担当していました。戦国時代はとくに、茶の湯が政治利用されていましたから、政治的な演出が重要視されました。茶道具に対するこだわりや、茶会を進行させる力量などが問われたのです。

 茶頭として日々、研鑽する中で、利休の茶道具に対する審美眼は研ぎ澄まされ、茶の湯の世界に対する認識は深められていきました。自身の嗜好に合う茶碗を創り出したいと思ったのでしょう。

 利休は、侘びの世界を表現する茶碗の開発に挑みました。

 天正八(1580)年、利休は、京の瓦師であった長次郎に「ハタ(縁の部分)ノ反リタル茶碗」や「ゆがミ茶碗」を作らせ、茶会で使ったのです(※ Wikipedia)。

 利休の構想を受け入れ、新たな趣の茶碗を創ったのが、長次郎(生没年不詳)でした。

 祖先は、「あめや」(阿米也)という中国からの渡来人で、装飾瓦を制作していた工人だと伝えられています。その長次郎に命じて、利休は、侘び茶のための茶道具を開発させてのです。それが、「楽茶碗」という斬新なスタイルの茶碗でした。(※ https://www.omotesenke.jp/)

 楽茶碗は、轆轤を使わず、手捏ね(両手で土を立ち上げ形作る技法)で成形し、ヘラで削って形を整え、仕上げをします。手捏ねによる自然な成形、ヘラによる究極の造形、といった二つの工程を通して、製造するのです。

 手捏ねによる自然美に、美意識に基づく修正を加えて、究極の形に仕上げます。利休の求めるわび茶にふさわしい茶碗は、このようにして創り出されました。

 『松屋会記』(安土桃山・江戸初期の茶会記。3巻)によると、奈良の中坊源吾の朝会で、「宗易形ノ茶ワン」という記述があり、これが、「樂茶碗(長次郎茶碗)」の初見だと考えられています。
(※ https://www.310plus.com/sadou-beginners-guide-post/sen-soueki-rikyu-timeline-1

 長次郎は、天正年間(1573-1591)に、千利休の好みに合わせ、「宗易形」といわれる茶碗を創りました。その後、長次郎が造る茶碗は、「今焼」、「聚楽焼」と呼ばれ、楽焼と呼ばれるようになるのは、利休が秀吉に仕えた後、楽家が二代目の常慶福になってからです。
(※ https://www.kitayamakaikan.jp/exhibition/past/2010/pdf/exhibition_20101009.pdf

 長次郎は、「黒」と「赤」の楽茶碗を創りました。

■長次郎の赤楽茶碗、黒楽茶碗

 千利休の構想に従って、長次郎は、赤楽茶碗、黒楽茶碗を開発しました。

 楽焼の技術は、16〜17世紀の明時代の後期に、中国南部(福建省付近)で生産された緑・黄・紫の鉛釉が特徴的な「華南三彩」の系譜を引くとされています。長次郎(阿米也)がその技術を持っていたからですが、彼は、低火度釉の施釉陶器である交趾焼の技法も持っていたころから、福建省あたりの出身と考えられています。

 交趾焼(こうちやき)とは、中国南部(後に福建省と判明)で焼かれ、ベトナム経由の貿易船(交趾船)で、江戸時代の日本に渡来した色鮮やかな低火度鉛釉陶器を指します。主に、摂氏1200℃以下の比較的低い温度で溶融する釉薬を使って作られた陶器で、黄、緑、紫などの色釉と、「一珍盛り」(釉薬をスポイトや筒に入れ、絞り出しながら線や模様を描く陶芸の装飾技法)による立体的な線描が特徴だとされ、茶席で重宝されました(※ https://www.yamanaka-gato.com/page/46)。

 福建省で行われていた製造技術を使って、長次郎は、楽茶碗を開発しました。これには、赤楽・黒楽の二種類があり、いずれも半筒型を基本としています。まずは、赤楽茶碗(無一物)を見てみましょう。

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(※ 口径11.2 高8.5 高台高0.7 同径5.0、文化遺産オンライン、図をクリックすると拡大します)

 低火度の赤楽釉をかけた楽茶碗です。素地や釉調から、天正年間後期の作と考えられています。これは、長次郎の赤楽茶碗の代表作であり、茶道史上、陶磁史上、桃山時代における重要な焼物とされています。大名茶人として名を馳せた、松平不昧公(1751-1818)が所持しており、中興名物としても有名です(※ 文化遺産オンライン)。

 ちなみに、中興名物とは、江戸時代初期に茶人の小堀遠州が、唐物(中国製)中心の「名物」の価値観を見直し、国焼(日本製)や高麗物(朝鮮製)から見立てた優れた茶道具の総称です。

 さて、長次郎の茶碗の中でも,赤楽の「無一物」と黒楽の「大黒」は,利休好みの茶碗の典型だといわれています。いずれも同じ発想で作られており、これらの形状にこそ,利休の構想が象徴されているといえます。

 それでは、黒楽茶碗を見てみましょう。

 代表作の「大黒」は、どっしりとした安定感のある半筒形をしており、高台(底の足部分)が低く、赤楽の「無一物」と同様、丸みを帯びたフォルムが力強さを感じさせます。まさに利休好みの形状です。

 その形状にさらに変化を加えたのが、「俊寛」です。

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(※ 高7.9㎝、径11.3㎝、高台径4.8㎝、三井記念美術館蔵、図をクリックすると拡大します)

 手捏による腰の張った半筒形の茶碗です。ふっくらとした丸味のある形状が印象的です。口縁を内に抱え込み、胴の中ほどをわずかに絞り、腰は強く曲げ、高台脇にかけて、面取り風の箆削りを施しています。

 見込みは広く(抹茶碗や皿の内側の底面が広く設計されている)、中央に茶溜り(茶碗の内側の底にある、丸いくぼみ)を浅く作り、周辺も箆で削り込んで、薄造りにしています。

 黒釉(鉄分を多く含み、黒色に発色する陶磁器の釉薬)は、高台(容器の底にある、台状の脚部分)の内まで掛けられており、艶のないしっとりとした釉調(釉薬による質感や表情、色合い)を醸成しています(※ 文化遺産オンライン)。

 柔らかみのある端正な姿に、黒釉がよく調和し、落ち着いた佇まいを示しています。長次郎の黒楽茶碗の中でも傑作といえるものです。

■下剋上時代の古唐津生産、そして、楽焼の開発

 利休は、侘び茶の精神に沿って、茶碗をデザインし、長次郎に作らせました。福建省出身とされる長次郎は、華南三彩の技法、あるいは、交趾焼の技法を身につけていました。それらの技術を踏まえ、利休の意向に沿って仕上げたのが、後に楽焼と呼ばれるようになる茶碗です。

 長次郎の茶碗の特色は、装飾性や個性的な表現をできるかぎり排除し、重厚で深い存在感が表出するよう工夫されていました。その独創的な造形には、千利休の侘びの思想が濃厚に反映されていました。華美を排し、質朴を尊び、侘びを慈しむ、禅の流れを汲むものでした。

 利休が長次郎に造らせた楽焼は、いずれも力強さと優雅さを兼ね備えた逸品でした。そして、二つの色合いの楽茶碗のうち、利休はとくに、黒の茶碗を好んだといわれています(※ https://www.omotesenke.jp/)。

 そもそも利休は、呂宋壺(フィリピンのルソン島を経由して中国南部から日本へ輸入された陶器の茶壺)や、高麗茶碗などの輸入品を茶道具に使っていました。いずれも産地では日用雑器扱いの大量生産品でした。当時、茶会の主流であった、精緻で、端正な中国製の天目茶碗ではなく、侘びた風情のある持つ茶道具を、利休は好み、ついには、和物の楽焼を開発してしまいました。

 利休は、いってみれば、茶の湯の下剋上を果たしていたのです。

 一方、波多親公は、独自に、朝鮮から陶工を呼び寄せ、後に、古唐津と呼ばれる焼物を製造させました。高麗由来の陶器で、朝鮮では日用雑器でした。波多親公は、陶器生産の領域で、茶の湯の下刻上を支えたといえるでしょう。

 時は戦国時代、まさに下剋上の世の中でした。利休の最盛期であり、侘び茶が庶民層にまで浸透していました。朝鮮由来の日用雑器や和物を茶碗に見立て、草庵を茶室に行う、侘び茶を浸透させることによって、利休は、武家や公家の手から庶民の手に、茶の湯を開放したのです。

 単なる権力闘争ではなく、これまでの価値観や体系を根本から破壊し、新しい価値観と秩序、世界観を形作る文化変容が静かに広がっていました。その一端を担ったのが、波多親公でした。(2026/4/10 香取淳子)

波多三河守親公 ① 戦国時代の茶器需要

■発掘調査された岸岳古窯跡

 波多氏の居城であった岸岳城の周辺に、古い窯跡がいくつも残されており、それらは岸岳古窯跡群と総称されています。

 たとえば、旧北波多村には、皿屋窯、皿屋上窯、帆柱窯、飯洞上・下窯などの5窯、そして、旧相知町には、道納屋窯、平松窯、大谷窯などの3窯がそれぞれ確認されています。

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(※ 村上伸之、「肥前陶磁の源流」、『国立歴史民俗博物館研究報告』第94集、2002年3月、p.444、図をクリックすると、拡大します)

 『岸岳古窯跡群IV-統括報告書―』(2018年3月)によると、それらは、波多氏が朝鮮半島から陶工を招聘して、築いたものだといわれています。諸説ありますが、その始まりは、1580年代から90年代だと考えられています(※ 『岸岳古窯跡群IV-統括報告書―』、p.9)。

 窯の形式は、朝鮮系の連房式登り窯(焼成室(房)を斜面に複数連ねた窯)で、一般に割竹式と呼ばれるものです。外形は、竹を二つに割って伏せたような形状で、内形は、竹の節に当たるところが隔壁になり、天井も下部から上部まで連房した蒲鉾形です。ここで製造された陶器は古唐津と呼ばれています。

 古唐津の陶器を生産した古窯址は、現在、百数十ヵ所、確認されていますが、岸岳の飯洞甕下窯のように良好な状態で保存されているのは他にありません。

 まず、飯洞甕下窯の全景をご紹介しましょう。

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(※ 前掲、口絵1。図をクリックすると、拡大します)

 これは、全長19m、幅2mの階段式の連房登り窯です。窯壁の部分を補強した痕跡がみられ、通焔孔(炎や熱風を通すための通路)にも、適当な大きさに水成岩を割り、粘土で付着させています。窯の高さは非常に低く、平均1.2m前後だと推定されています。

 岸岳古唐津窯の中では唯一、窯の上部構造である、隔壁が残存しており、肥前の登窯の構造を研究する上で、特に重要な遺跡です。この形式の窯では、窯詰め(焼成のために窯の中へ配置する作業)、焚き方などをこれまでの窯よりも、能率化することができます。それは、焼成時の上昇温度の均一化が得られるからだといわれています。

 飯洞甕上窯は、岸岳山麓の檜林の中にあり、そのすぐ下を渓流が流れています。また、北方約50mには、飯洞甕下窯があり、二つとも丘陵の西斜面に位置しています。

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(※ 前掲、口絵5。図をクリックすると、拡大します)

 発掘作業をする人々の姿が、撮影されています。

 この窯から出土した製品は全て陶器で、碗、皿、小杯、甕、等々でした。釉薬は、青唐津と呼ばれる土灰釉(雑木を燃やした天然の灰を原料とする釉薬)が主で、皿、碗、袋物等に広く用いられていました。透明釉(焼成後に光沢のある透明なガラス層を形成し、下絵の模様や土の色を活かす釉薬)は、碗や皿類に一部使用されていますが、丸皿はほぼ全て土灰釉でした。鉄絵や彫文装飾のものもありますが、その数は極少でした。
(※ https://www.sashoren.ne.jp/kitahata/karatuyaki_hp/1handoukameuekama/handokameuekama.htm

 その隣にあるのが、帆柱窯です。大字稗田字帆柱の国有林地内に所在し、等高線にほぼ直行して南東向きの斜面に築かれています。朝鮮の陶工たちが、築造した初期登り窯技術を、知る上で、非常に重要な遺跡です。

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(※ 前掲、口絵4。図をクリックすると、拡大します)

 窯は約21度の急勾配の斜面に作られています。その西側には、山地面を加工した段がみられ、窯壁から約50㎝離れて、柱穴と思われるピットが検出されました。焼成室の規模は、幅奥行とも約2.1mで、奥壁は高さ約15㎝で、温座の巣(磁器を焼成する登り窯で、室間の熱を冷まさずに炎を導く装置)となっています。
(※ https://www.sashoren.ne.jp/kitahata/karatuyaki_hp/5hobasirakama/hobasirakama.htm)

 この窯跡からは、陶器や陶片、窯道具などが、コンテナ約3箱分出土しました。製品としては、碗・皿・片口・瓶・甕・鉢などがあり、窯道具としてはトチン・ハマ(焼成の際に、器の変形を少なくするために下に敷く、素焼きの台)が出土しています。

■出土した焼物

 岸岳古窯跡から、さまざまな焼物が出土しました。

 たとえば、皿類があります。

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(※ 前掲、口絵7。図をクリックすると、拡大します)

 そして、碗類があります。

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(※ 前掲、口絵8。図をクリックすると、拡大します)

 さらに、小杯、瓶類があります。

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(※ 前掲、口絵9。図をクリックすると、拡大します)

 さきほどご紹介した飯洞甕下窯では、鉄絵装飾の初期製品が焼かれていました。

 鉄絵の技法とは、鉄分を含んだ顔料(鬼板、鉄砂など)を筆に含ませ、素焼き前、または直接、胎土(土器や陶磁器の本体を形づくる材料となる土)に、草花や動物、器物などを描く技法を指します。その上から、灰釉(植物の灰を主原料とした天然釉薬)や長石釉が掛けられ、焼成されることで、黒褐色や飴色の文様が半透明の釉薬の下に現れます。
(※ https://kusaomi-yomoyama.seesaa.net/article/201010article_3.html

 また、発掘調査の結果、飯洞甕上窯には、焼成室間の段差が無く、割竹形の登窯で最も古い形態の一つであることが、確認されています。

 この窯では、緑透色の土灰釉と透明釉が、多用されていました。これらは、その後、唐津焼諸窯の主流となる釉薬ですが、この窯の構造とも相まって、特色のある焼物が作られていました。

 発掘調査された古窯群や、出土した多数の焼物などから、窯の構造はもちろんのこと、使用された釉薬など、陶器生産に関わる全てが、朝鮮の影響を大きく受けていることが明らかになったのです。

■波多親公が、陶器生産を始めた時代背景

 長年にわたる岸岳古窯発掘調査によって、肥前の陶器生産の基盤は、李朝の生産技術を基盤としていたことが確認されました。波多親公は、朝鮮の材料や技術や生産様式をそっくりそのまま導入して陶器生産を始めていたのです。

 こうして日本の陶器製造に、新たな地平が切り開かれました。

 岸岳城跡周辺から発掘された陶器類には、それまでの日本の陶器には見られない味わい深さがありました。とくに茶器や水指などの茶道具は、色合いやデザイン、形状がバラエティに富み、独特の奥深さが滲み出ていました。朝鮮の製造システムを導入することによって、観賞に耐えるものが次々と製造されていたのです。

 波多氏が陶器製造を始めたのが、1580年代から1590年代にかけての期間だと考えられています。まさに戦国時代の真っただ中で、その頃、武将たちの間で茶の湯が流行していました。

 それは、織田信長や豊臣秀吉などのトップリーダーが、政治的手段として、茶の湯を利用していたからでした。もちろん、殺伐とした社会状況下で、茶の湯は武将たちの精神的な癒やしにもなっていました。

●茶の湯の政治利用

 そもそも、茶を嗜む喫茶文化は、鎌倉時代に、禅宗と共に、日本に流入してきました。南北朝時代になると、守護大名たちが競って、茶会を催すようになり、茶の湯は、いつしか、武家社会の饗応の一種となっていったのです。

 室町時代には、将軍の御成(外出)が、主従関係を示す武家儀礼として機能し始めます。それに合わせ、室礼(建具や調度品を配置して、茶席を作る)が重視されるようになりました。その結果、武将は、茶の湯を開催して権力を見せつけるだけではなく、茶道具そのものに政治的な意味を持たせるようになりました。

 論考褒章として、家臣に茶器を授与するようになったのです。

 大名は競って、唐物(中国製)、とりわけ「名物」と呼ばれる茶道具を集めるようになりました。唐物、あるいは、高額で希少性のある茶器が高く価値づけられるようになっていきました。

 たとえば、足利将軍に由来する茶器が市場に流出すると、「名物」茶器として認識され、名物を鑑賞する茶会が開かれるようになります。このような「名物」飾りを行う茶の湯は、大名茶湯と呼ばれていました(※ Wikipedia)。

 茶の湯を政治的に利用したのが、織田信長です。

 まず、室町将軍に所縁のある東山御物を中心に、「名物狩り」といわれる、茶道具の蒐集を行いました。これには、東山御物を蒐集することで、足利将軍家の権威を自らに投影しようとする、信長の目的があったと考えられています。

 信長は、収集した御物を誇示するために、茶会を開き、褒美としてそれら名物を、功績のあった配下の武将に与えました。「名物」茶道具は、一国一城に匹敵すると位置づけ、論功行賞に用いたのです。(※ 竹本千鶴、『織豊期の茶会と政治』、思文閣出版、2006年、pp.23-24)。

 茶の湯は、武家社会を生き抜く外交手段として、あるいは、戦争に明け暮れる日々の癒しと安寧を求める場として、さらには、一種の教養として、武士にとっては必須アイテムになっていったのです。

 波多氏が陶器製造を開始したのは、ちょうど戦国時代の真っただ中でした。

 秀吉が、三木城に籠った別所長治を兵糧攻めにした天正八(1580)年から、天正十七(1589)年の小田原征伐、天正十八(1890)年の奥羽再仕置きに至る期間に相当します。秀吉による天下統一がまだ達成されておらず、全国各地で戦国大名たちが群雄割拠しており、殺伐とした社会状況でした。

 戦国時代、武将にとって茶の湯は、ますます必要不可欠な文化になっていきました。質のいい茶器の需要が高まっていたのです。

 当時は、戦場でも茶の湯が開催されていました。

■秀吉、三木の付城で、初陣茶会

 三木合戦とは、天正六(1578)年三月から、天正八(1580)年一月十七日までの一年十ヶ月にわたる戦いを指します。秀吉を主将とする織田信長勢と、毛利輝元を後ろ盾とする三木城主別所長治勢とが、三木城を戦場に激しい戦いを繰り広げました。

 興味深いことに、秀吉はこの時、三木城を取り巻く付城の一つで、初陣茶会を開いているのです。

 三木城は難攻不落の城でした。苦戦した秀吉は、三木と明石浦魚住との間の通路を塞ぎ、兵糧の搬入を遮断しました。三木城の食糧不足が深刻になった段階で、秀吉は三木城に攻勢をかけたのです。別所長治は、城兵の助命を条件に降伏せざるをえず、秀吉の降伏勧告を受け入れました。天正八(1580)年一月十八日、別所一族は自害し、三木城を明け渡しました。

 勝因となったのが、付城戦術でした。

 付城とは、相手の数倍の数の兵で城を囲み、水や食料、その他の備蓄、軍需物資などの枯渇を図る戦術です。相手方の正確な状況判断を困難にさせることによって、絶望感を与え、士気の低下を誘発する効果があります。

 三木合戦の場合、秀吉は、周囲に付城をいくつも築造することによって、兵糧攻めを行いました。

 付城は、三木城の周囲を東西約6km、南北約5kmの範囲に、約40城が存在していたとみられます。三木市が遺跡として把握しているものは28城あり、そのうち明確に付城遺構として現存しているものは21城を数えます(※ 三木市ホームページ)

 三木合戦のさ中、天正六(1578)年十月十五日に、秀吉は茶会を開催しました。この戦場の茶会には、堺を代表する豪商であり茶人であった津田宗久が参加していました。宗久は、手水の間に、「四十石」の茶壷が置かれていたことを記しています。

■唐物茶壷

 「四十石」といえば、天正(1573-92)年間で高名な真壷の一つでした。その頃、「3日月」、「松島」、「八重桜」、「四十石」、「松花」などが名だたる茶壷でした。ところが、「3日月」と「松島」は、信長の手元にあったので、本能寺の変の際に焼失し、「八重桜」は、近江国の坂本城で、明智秀満の死と共に消滅しました。足利義政が所有していた茶壷のうち、三品がなくなってしまったのです。以来、「四十石」が天下一の壺と称されており、「松花」と共に秀吉の手元にありました。
(※ https://turuta.jp/story/archives/9757)

 「八重桜」については、次のような言い伝えもあります。

 明智秀満は、本能寺の変では先陣を切って攻め入り、計画通りに信長を倒しました。こののち光秀から別働隊を与えられ、山崎の戦いには加わらずに信長の本拠地だった安土城に入ります。

 ところが、光秀敗死の報告が入ったため、秀満は安土城を捨てて坂本城に向かいました。坂本城に向かう道中、秀吉の家臣・堀秀政と遭遇した秀満は、馬と一緒に泳いで琵琶湖をわたったといわれ、「明智左馬助湖水渡り」の伝説が生み出されました。

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(※ 歌川豊宣筆『新撰太閤記』)

 安土城と坂本城は琵琶湖を挟み、ほぼ東西に向かいあっていました。秀満は咄嗟の判断で、湖水渡りに挑んだのでしょう。なんとか坂本城までたどり着いたのですが、堀秀政の軍勢に包囲されて万策尽きてしまいます。

 秀満はついに、坂本城に残されていた光秀の妻子を刺し殺し、城に火を放って自らも命を絶ちました。秀満はこれに先立ち、光秀がコレクションした茶器や刀剣などの名品が消失しないよう、目録を添えて、秀吉側の堀秀政に引き渡したといわれます。
(※ https://shirobito.jp/article/619)

 一方は、明智秀満の死とともに、「八重桜」が消失したというエピソードであり、他方は、「八重桜」をはじめとする名物を残すため、コレクションリストとともに、敵方に引き渡したというエピソードです。

 主君に殉じ、「名物」もろとも死を選ぶのか、それとも、「名物」の命を尊重し、敵方に託して移譲し、自らは自害するのか、二つのエピソードからは、究極の選択を迫られた明智秀満の姿が思い浮かびます。

 どちらのエピソードが真実なのかはわかりません。ただ、主君から預かった「名物」を守り抜こうとした明智秀満の立場からすれば、どちらのエピソードの可能性も考えられます。唐物茶器そのものが貴重であっただけでなく、なによりも、茶器は主君とのつながりの象徴でもあったからです。

 さて、残った唐物茶壷の二つのうち、「四十石」は、葉茶七斤半(約4.5kg)が入る容量の真壺で、逸品とされていました。秀吉はこの茶壷に信長からもらった茶葉を入れていました。茶壷といい、信長からもらった茶葉といい、誇示するには十分なほどの最高級のものを秀吉は所有していました。
 
 戦場で開いた茶席で、それらを惜しげもなく、披露していました。

■現存する唐物茶壷「松花」

 当時、秀吉が所有していたとされるのが、「四十石」と「松花」でした。ところが、現存するのは「松花」だけになってしまいました。以来、「松花」は最も著名な「大名物」であり、茶会記などにも頻繁に登場しています。唐物茶壺の典型を知ることができる、貴重な作品だといえます。

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(※ 唐物茶壷、高39.7㎝ 口径11.6㎝ 胴径33.2㎝ 底径12.7㎝、南宋から元時代、徳川美術館所蔵。図をクリックすると、拡大します)

 唐物茶壷「松花」は、南宋から元の時代(1201-1400)に製作された、大型の四耳壺(肩部に4つの環状のツマミが付いた陶器の壺)です。肩の四方に耳をつけ、素地は鉄分を多く含んだ灰色の陶胎(陶器の素地)で、器の表面は黒褐色から赤褐色に焼け焦げています。

 外面は、胴下半まで、白化粧土(赤土などの色土の表面に塗る白色の粘土泥)を施していますが、胴下部から底部は、土見せとしています。一部は淡赤褐色を呈し、裾は底に向かって、幾条もの流れを作り、風情を添えています。

 胴上半の化粧土(成形後の素地の表面にコーティングし、色や質感を変えるために用いる白色または着色された泥状の粘土)の上には、灰釉(植物の灰を主原料とした天然の釉薬)を施して、二重掛けとしています。灰釉は暗黄緑色を呈し、全体に胡麻のような小さな黒斑が見られます。釉の裾には、一部青色を呈する釉溜まりを作っています。
(※ 文化遺産オンライン)

 素朴でありながら、端正な形状には、奥ゆかしさが感じられます。二重掛けされた白化粧土(赤土などの色土の表面に塗る白色の粘土泥)や、灰釉の一部が流れ出し、興趣ある変容を生み出しています。

 こうしてみると、確かに、「松花」は、現存する唐物茶壺を代表する作品の風格を備えています。

 日本に持ち込まれて以来、茶人や権力者に所持されてきた来歴が確認されており、茶道文化史上貴重な資料にもなっています。

 所持歴をみると、まず、もと管領・斯波氏が所持していたと伝えられ、以後、村田珠光、北向道陳、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康へと伝わっています。そして、駿府御分物として徳川義直へ譲られ、その後、尾張徳川家に伝来しました。
(※ 文化遺産オンライン)

 茶会記録によると、天文十一(1542)年四月九日、松屋久政茶会(『松屋会記』)で、初めて、この茶壷の存在が確認されています。天正年間には津田宗及および他の茶会(『天王寺屋会記』)にも、たびたび登場しています。また、天正十五(1587)年の北野大茶之湯では、豊臣秀吉の茶席で、今井宗久の道具として用いられたことがわかっています(※ 前掲)。

 「松花」には多くの為政者たちの所有歴があり、しかも、重要な茶会で、何度も披露されてきました。為政者や武人から、高く評価されて権威づけられ、政治の場で活用されてきたからに他なりません。

 さて、唐物茶壷「松花」には、素朴な中に奥ゆかしさがあり、見る者の心を和ませてくれる佇まいがあります。この唐物茶壷に似た雰囲気が、岸岳城古窯跡から発掘された陶器類に見受けられました。

 出土品の中から、碗と瓶を見てみることにしましょう。

■飯洞甕上窯から出土した碗と瓶

 飯洞甕上窯から出土した碗と瓶を見てみることにしましょう。

 まず、碗です。

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(※ 口径 12.6㎝、底径 5.2㎝、器高 6.5㎝、「北波多村文化財調査報告書」。図をクリックすると、拡大します)

 釉薬は土灰(釉薬の媒溶剤)が使われており、畳付(底部分)には、回転糸切(ろくろ上の作品を切り離す)痕が残っています。

 次に、飯洞甕上窯から出土した瓶を見てみることにしましょう。

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(※ 口径 不詳、底径 5.0㎝、器高 不詳、「北波多村文化財調査報告書」。図をクリックすると、拡大します)

 釉薬は土灰(釉薬の媒溶剤)が使われており、ロクロで成形されています。

 飯洞甕上窯から出土した陶器の釉薬は、いわゆる青唐津と呼ばれる土灰釉が主で、皿、碗、袋物などに広く用いられていました。透明釉は、碗や皿類に一部使用されていましたが、丸皿は、ほぼ全て土灰釉でした。

 ちなみに、透明釉とは、焼成後にガラス質の透明な膜となり、素地や下絵の柄を見せる陶芸用の釉薬を指します。

 石灰釉(長石、石灰、カオリン、珪石を主原料とする一般的な透明釉)や灰釉(植物の灰を主原料とした天然の釉薬)が代表的なもので、1200℃〜1250℃の温度で溶けるものが多く、染付や色釉の保護・艶出しに使われます。

 碗や皿類の畳付(底部分)は、ロクロを回転して丁寧に削っています。
(※ https://www.sashoren.ne.jp/kitahata/karatuyaki_hp/1handoukameuekama/handokameuekama.htm#20)

 観賞に耐える陶器が、岸岳古窯跡から多数、出土していたのです。岸岳城周辺で製造されていたのは、当時、武士の間で流行っていた茶席には恰好のものでした。

■戦国時代に求められた茶の湯

 時間をかけて茶葉を挽き、湯を沸かして茶を点てて、一碗の茶を静かに喫するというのが、喫茶文化です。鎌倉時代に伝わってきたとされる喫茶文化は、戦場の中でも、必要とされていました。茶の湯に関わる一連の行為を通して、武将たちは、つかのま、戦場の殺伐とした気分を落とし、平常心を取り戻すことができたからです。

 戦場で武士は、敵と戦い、生か死を迫られます。生き残るには、敵を倒すための強い精神力が不可欠ですが、首尾よく生き残ったとすれば、今度は、人を殺したことの罪悪感に襲われます。戦う前のはかり知れない不安と、生き残った後の強い自責の念に苛まれるのです。

 避けることのできないその種の恐怖あるいは、葛藤から逃れるには、克己心が必要でした。

 禅宗は、座禅の修行を通じて、自己の内面を見つめ、本来備わっている仏性に気づいて悟りを開くことを目指します。経典に収められた知識よりも、座禅という実際の修行を重視するのです。

 修行の中心は座禅です。正しい姿勢で座り、心と体、呼吸を整えることで、精神統一を行います。そして、自ら気づき、自ら悟っていくのです。経典や言葉によって教えられるのではなく、修行を通して、自ら会得していくのが、禅宗の教義です。生と死に向き合って、生きていかざるをえない武士にとって、心と体を整え、精神統一を行う禅宗は、なによりも生きる支えになりました。

 禅宗は、鎌倉時代に日本に伝来し、武士を中心に広まりましたが、それは、戦場に赴く武士たちが、その種の精神的支えを必要としていたからでした。その禅宗とともに日本に入ってきたのが茶の湯の文化でした。

 波多氏が岸岳城下で、朝鮮陶工を呼び寄せ、陶器製造を始めたのが、戦国時代の真っただ中でした。全国各地で戦闘が繰り広げられる一方、茶の湯は政治文化として、武将たちに深く浸透していきました。良質の茶器が求められ、茶器の価値づけが行われるようにもなっていました。波多氏の陶器生産は当時の社会的需要に応じたものだったのです。
(2026/3/31 香取淳子)

波多三河守親公と唐津焼の起源

■岸岳古唐津

 前回、有田焼についてご紹介してきましたが、肥前地方でもっとも古い焼物は唐津焼です。その起源については諸説あって、定説はありません。ただ、戦国時代に松浦党(肥前松浦地方で組織された武士団の連合)の波多氏が、居城の岸岳城周辺で陶器生産を行わせていたことは明らかになっています。

 実際、岸岳城周辺から窯跡や焼物が出土しており、出土した焼物は岸岳古唐津と呼ばれています。「古唐津」と呼ばれているということは、これが唐津焼の源流なのでしょう。

 平成三十(2018)年、岸岳城周辺を発掘調査した報告書が刊行されました。

■岸岳古窯跡の発掘調査

 唐津市教育委員会は、平成九年度から平成十七年度(「1997-2005)にかけて、発掘調査を行いました。その結果をまとめ、「唐津市文化財調查報告書 第178集」として刊行したのが、『岸岳古窯跡群IV-統括報告書―』(2018年3月)です。

 この報告書の「第1章 はじめに」では、唐津焼の起源について、次のように記されています。

 「岸岳古窯跡の起源については諸説があるが、文禄・慶長の役に先立ち、上松浦党の盟主である波多氏が、朝鮮半島から陶工を呼んで1580~90年代に開窯したと考えられている。この説によると岸岳古窯跡は、唐津焼の源流であるだけではなく、日本最古の登り窯群ということとなる。」(※ 『岸岳古窯跡群IV-統括報告書―』、p.1)

 この記述によって、岸岳古窯跡が、①秀吉による朝鮮出兵以前に、波多氏が朝鮮から陶工を呼んで開窯したものであると考えられていること、②唐津焼の源流であるだけではなく、日本最古の登り窯群であるといえること、等々を確認することができました。

 さらに、次のようなこともわかりました。

 「肥前陶器は、慶長年間(1596~1615) 頃には急速に商圏を広げ、伝統的な窯業地である瀬戸・美濃製品と、国内市場をほぼ2分するまでに成長する。「瀬戸・美濃焼」が従来の国産技術により製作されたのに対し、「唐津焼」はその当初から、朝鮮半島の先進的な技術体系を、丸ごと移植した形で生産を開始しており、特に「登窯」と呼ばれる大型の窯は、一度に大量の製品を低コストで焼くことが可能で、国産高級陶器と同等品を、より低価格で供給できるようになった。なおこの技術体系は、肥前では陶器のみならず磁器生産においても根幹的技術として共有され、さらに「登窯」の構造は、肥前国内だけではなく瀬戸・美濃など全国の窯業地に伝わっていく。」(※ 前掲、p.19)

 興味深いのは、瀬戸焼、美濃焼が国産技術によって製造されていたのに対し、唐津焼が、「その当初から朝鮮半島の先進的な技術体系を、丸ごと移植した形で生産を開始」した焼物であり、「登窯」を使って製造されていたことでした。

 そして、朝鮮の技術を使って製造された唐津焼が、慶長年間のわずか二十年足らずの間に、急速に商圏を拡大し、伝統的な産地である瀬戸や美濃の焼物と陶器市場を二分するまでに成長したというのです。当時、朝鮮の焼物技術やデザインの方が、国産のものよりはるかに秀逸であったからに他なりません。

 その一つが製造方式でした。

●登り窯の導入

 松浦郡の波多三河守の岸嶽(岳)城山に築造された飯洞瓶窯が、唐津焼の始まりだといわれています。この窯は「竹割式の登窯」で「現在も深林中に多少残って居る」と書かれています。おそらく、これらの窯が発掘調査の対象となったのでしょう。

 割竹形連房式登窯とは、側壁が直線的で一基の窯の内部が複数の焼成室に分割されているもので、焼成室間の段差が少なく、通焔孔は粘土を巻いたり、石を四角柱状に加工したものを柱にしていました。

こちら →
(※ Wikipedia、図をクリックすると、拡大します)

 16世紀末、波多氏が、朝鮮半島の陶工たちに築造させたのが、割竹形連房式登窯でした。そして、この窯で焼かれた最古の焼物が、岸岳古唐津です。

 肥前では磁器を生産する際も、「登窯」を使いました。炉内を仕切り、斜面等の地形を利用して燃焼ガスの対流を発生させる仕組みの「登窯」は、焼物を焼成する際、高温を一定に保てるからでした。陶器を焼く温度は1000度から1300度ですが、磁器は1300度から1400度の高温を一定に保つ必要があるのです。
(※ https://saga-museum.jp/ceramic/yakimono/qa/05.html)

 報告書には、発掘調査された「登窯」の全景写真が添えられていました。

こちら →
(※ 前掲、報告書、口絵写真、図をクリックすると、拡大します).

 確かに、炉の中が一定の大きさで区切られているのがわかります。斜面を利用して高低差をつけて、熱の対流を発生させ、一定温度に保つ仕組みになっているのです。

 「登窯」は、一定レベルの品質を保持したまま、大量に焼物を生産するのに有効でした。これまで日本の陶工たちが使っていた窯では不可能なほど生産性の高いものだったのです。朝鮮から導入されたこの様式の窯はやがて各地の窯業地に導入されていきました。

 出土した焼物には藁灰釉が施された焼物がありました。

●藁灰釉の茶碗

 岸岳城下の窯で製造された焼物には、藁灰釉の碗や皿がありました。藁灰釉とは、稲の藁を焼いた灰を主成分とする釉薬で、酸化焼成で白く乳濁した色合いになるのが特徴です。これもまた、それまでの日本にはなく、朝鮮から伝わった技法でした。

 藁灰釉を使った茶碗の画像がありましたので、ご紹介しましょう。

こちら →
(※ https://touroji.com/choice/cyousengaratsu.htmlより。図をクリックすると、拡大します)

 この茶碗は、唐津焼の一種である朝鮮唐津だと説明されています(※ 上記URL)。下が鉄釉(黒)、上が藁灰釉(白)の組み合わせで作られており、素朴な味わいの中に、そこはかとない奥行きが感じられます。釉薬が混ざり合った部分がにじみ、藁灰釉の中に鉄釉がゆらめく様子が美しく表現されているのが印象的です。

 藁灰釉ならでは白く乳濁した上部を、黒の鉄釉部分が下から支える構図で、炎のように文様化されています。鉄釉と藁灰釉の対比、相互に混ざり合った部分のにじみ具合が秀逸です。このような表現を可能にしたのが藁灰釉でした。

 このように材料から技法、製造装置に至るまで、丸ごと朝鮮から移植して製造された唐津焼が、当時の日本の陶器市場を席捲していたのです。

 発掘調査された岸岳古唐津の報告書には、さまざまな焼物の写真が掲載されていました。

こちら →
(※ 前掲、報告書、口絵写真、図をクリックすると、拡大します)

 この写真を見ると、大きな壺や茶碗、茶器、小皿など、さまざまな焼物が作られていたことがわかります。いずれも素朴な味わいのある陶器です。

 とくに茶器と思える焼物には、大橋康二氏が指摘するように、「千利休(1522-1594)の侘び寂の影響を受けた形跡」が見受けられます(※ 大橋康二、「江戸初期における肥前磁器の開発過程について」、『佐賀県立九州陶磁文化館 研究紀要』第6号、2021年、p.3)。

 釉薬を施された唐津焼の茶器の普及が、茶の湯の普及と密接な関係にあったことは疑いようがありません。

 そして、唐津焼は、慶長年間に、国産の瀬戸焼や美濃焼と市場を二分するほどの勢いで発展しました。それは、朝鮮人陶工によって伝えられた技法と「登窯」という製造装置によって、より質の高い焼物を、より安価で大量に生産できるようになったからでした。

 岸岳古窯跡調査の結果から、釉薬が施された唐津焼は、秀吉の朝鮮出兵以前に焼かれていたことがわかりました。果たして、これが唐津焼の起源なのでしょうか?

■唐津焼の始まりはいつか?

 唐津焼の始まりについては、次のような記述があります。少々、長いですが、引用しましょう。

 「唐津焼の起源は勿論傳説であるが、今より千六百六十餘年前、神功皇后三韓御征伐の御時人質として三韓の王子を連れられ松浦郡草野郷に御凱陣の上同郡左志郷内に置き、高麗小次郎冠者、新羅太郎冠者、百済藤平冠者と呼び給ふた。今以て此地を小次郎冠者居住の地を小十冠者村、太郎冠者の所を大良村、藤平冠者の所を藤の平村と世々三王子の名を稱へて居る。小次郎冠者は居所の地で陶器を製造し神功皇后へ献納した。其当時は陶器の一種瓦の極めて堅硬の物で、まだ釉薬を施してはない。」(※ 金原京一、「肥前古窯に就て」、『大日本窯業協會雑誌』40巻、480号、1932年、p.790)

 この文章からは、①陶器の製造が朝鮮渡来の技術であること、②三韓征伐の際、人質として連れてこられた高麗の小次郎冠者が、製造して神功皇后に献納したこと、③この陶器には、まだ釉薬が施されていないこと、等々がわかります。

 ちなみに、三韓征伐とは、神功皇后が朝鮮半島の新羅、百済、高句麗を制圧し、服属化したという伝承を指し、『日本書紀』の神功皇后紀に記されています。三世紀ごろのお話です。また、文中、何か所か「冠者」という単語がでてきますが、成人男子という意味です。

 さて、それから約四百年後の斉明天皇の頃、唐津の山麓で、高麗製陶の技法で、大形の茶碗が作られましたが、それにも釉薬は施されていませんでした。

 釉薬のある陶器が製造されるのは、それからさらに六百餘年後のことでした。

 「釉薬のある釉薬のある唐津焼は、今より六百餘年前元享年間に東松浦郡波多三河守の岸嶽城山飯洞瓶窯に始まって居る。系統は朝鮮北方系にして窯は竹割式の登窯で現在も深林中に多少残って居るのである。之より帆桂窯、飯洞瓶上窯、小次郎冠者窯、岸岳皿屋敷窯、道納屋谷窯、平松窯、大谷窯と分窯が出来」と記されています。(※ 金原京一、前掲、p.790)

 釉薬が施された陶器を唐津焼とするなら、元享年間(1321-1324)、すなわち、鎌倉時代が始まりだということになります。「波多三河守の岸嶽城山飯洞瓶窯に始まって居る」と記されており、波多三河守が岸岳の城山飯洞瓶窯で焼かれたものが最初だということが示されています。

 ところが、先ほどご紹介した発掘調査報告書では、「1580-90年代」が、唐津焼の起源だと書かれており、金原氏の見解とは齟齬があります。その後、書かれたいくつかの論文を読むと、年代は明記されてはいないものの、秀吉の朝鮮出兵以前が期限だという点で見解が一致していました。

 調べてみると、唐津焼の起源については、先ほどご紹介した金原京一氏の鎌倉時代説、水町和三郎氏の室町時代説、佐藤進三氏の桃山末期説などがあることがわかりました。
(※ https://kusaomi-yomoyama.seesaa.net/article/201009article_1.html)

 識者によって三者三様、唐津焼の起源の時代認定は異なっていました。とはいえ、織田信長以前の遺跡から出土した例がなく、天正十九年(1591)年、天正二十(1592)年のものは現存しているので、唐津焼の始まりは天正年間だと考えられています(※ 大橋康二、『日本のやきもの 唐津』、淡交社、2003年、pp.82-83)。

 松浦郡の波多三河守が、岸岳城山飯洞瓶窯で、朝鮮陶工に造らせたものが、唐津焼の起源なのです。朝鮮式の窯で、朝鮮陶工によって、朝鮮技法に則って焼成されたものが唐津焼でした。窯から材料、製造技法に至るまで、まるごと朝鮮から移植した焼物だったのです。

 最後の領主が波多三河守親公でした。

■波多三河守親公

 波多三河守親公の来歴を調べていると、次のような文書があるのに気づきました。

 「岸岳城主波多三河守は、嵯峨天皇の皇子源融公を始祖とし、七代の後孫源新太郎久公を党祖とする。平安後期久公九州に下向し、その第二子源二郎持公は、波多郷に封を受けて此の地に来り、岸岳山麓に舘を構え、郷名により波多氏を名乗る。のち岸岳城に拠り、子孫相承けて封土を守り、経倫に努め、波多三河守親公に至る。その間、時により盛衰をみるも上松浦諸氏の中に在りて、一等他を抜きんじ智勇兼備と庶民悦服の仁政を以て、上松浦党の首領となり、その雄名は鎮西青史に輝く」 
(※ https://web.people-i.ne.jp/~houanji/hatamikawanokami.html、読みやすくするため、句読点は筆者が追加)

 郷土史家の山﨑猛夫氏が、「波多三河守」について、平成五(1993)年四月十二日付で書いた文章です。

 これを読むと、波多三河守は、嵯峨天皇(786-842)の皇子を始祖とする家系で、七代目源新太郎久公を党祖(松浦党)とし、平安後期に九州に来たようです。第二子の源二郎持公が、波多郷を授けられて岸岳山麓に居を構え、波多氏を名乗るようになりました。

 以後、波多氏は、岸岳城を築城し、代々、領地を守って仁政を敷き、第17代党首波多三河守親公まで続いたことがわかります。平安時代から戦国時代までの間、紆余曲折あったでしょうが、波多氏は、総じて、松浦の領地を穏やかに治めてきた由緒ある武士の家系だったのでしょう。

■武将に好まれた朝鮮伝来の茶器

 発掘調査からは、岸岳城下で朝鮮陶工によって窯がいくつも築造され、さまざまな焼物が生産されていたことがわかりました。松浦党の波多三河守は、朝鮮半島に近い地の利を生かし、容易に朝鮮陶工を連れてくることができたのです。

 唐津焼を代表するものとして絵唐津があります。絵唐津茶碗の白眉といわれる「鉄絵菖蒲文茶碗」をご紹介しましょう。

こちら →
(※ 口径12.0㎝、高さ9.7×9.3㎝、1580-1610年代、田中丸コレクション蔵、図をクリックすると、拡大します)

 上の写真は、絵唐津の茶碗です。淡い灰釉に鉄顔料で描かれた菖蒲の姿に何ともいえない興趣があって、印象的です。絵唐津は、鉄顔料で絵付けし、長石釉を掛けて焼き上げる技法で造られており、唐津焼の代表的な焼物です。草花や抽象的な文様を奔放に描いた絵柄が特徴で、侘びさびが感じられます。慶長年間以降、盛んに生産されるようになりました。

 当時、茶の湯が武将や豪商の間で流行っており、素朴な味わいのある茶器への関心が高まっていました。特に好まれていたのが、高麗茶碗など朝鮮伝来の茶器でした。

 それでは、高麗茶碗が一体、どのようなものなのか、ご紹介しておきましょう。

こちら →
(※ 井戸茶碗、銘/喜左衛門(国宝)、16世紀、大徳寺孤篷庵蔵)

 上の写真は、朝鮮伝来の高麗茶碗の中でも、格別の佇まいを見せているものです。喜左衛門の銘が入った井戸茶碗で、粉青砂磁の井戸茶碗ならではの風格が印象深く、唯一、国宝に指定されています(※ https://yoi-art.seesaa.net/article/201312article_1.html)。

 枇杷色の釉薬を施されたこの茶碗には、素朴な風情が感じられる一方、力強さもあります。まさに戦国武将の精神や茶人の美意識に合致した焼物だといえます。「井戸茶碗」として珍重され、侘び茶の象徴になったといいます。

 最後に、唐津焼の水差しをご紹介しておきましょう。

こちら →
(※ https://touji-gvm.com/showroom/000117madarakaratsu/、図をクリックすると、拡大します)

 上の写真は古唐津斑釉水指で、唐津焼の一種の焼物です。古唐津斑釉が施されており、青や黒色の斑の模様が器面に出ているのがわかります。長石と藁灰を混ぜた釉薬を上から掛け、焼成することで、胎土に含まれる鉄分が滲み出てきて、白濁した唐津の釉薬と混ざり、斑模様になっているのです。この斑模様に特徴があるので、斑唐津とも呼ばれています。

■侘びさびの精神と美学

 絵唐津の茶碗と高麗茶碗、そして、古唐津焼の水差しをご紹介してきました。いずれも淡く素朴な味わいの中に幽遠な趣が感じられます。いつまで見ていても、見飽きることのない深さがあるのです。

 茶碗の形状には歪みがあり、絵柄は粗く、決して精緻なものではありません。水差しの表面も不規則な斑模様になっています。いずれも、どこかしら歪みがあり、不揃いで、不完全な形状をしているのが印象的です。

 その不完全性の中に、想像力を働かせる余地があり、思考を促す手がかりがあるのでしょう。器の色彩にも、不均衡、不均質であるがゆえの複雑さと奥行きが感じられます。利休が大成した精神や美学が、これらの焼物に内包され、息づいていることがわかります。

 波多三河守が、窯業を領地の基幹産業として、発展させようとしたのも当然でした。

 唐津焼の中には、侘びさびの精神と美学がしっかりと組み込まれていたのです。今後、茶の湯が武将の嗜みとして、生活文化の中に根付いていくとすれば、唐津焼に対する需要は高まるはずでした。質の高い唐津焼を量産すれば、領内の財政基盤を高めることができると考えたのかもしれません。

 波多三河守親公は窯業に力を入れ、量産体制に入りました。

 この時期に波多三河守親公が生産していた唐津焼は、さまざまな地域に陶器や茶碗、皿などが関西、山形、秋田などで出土しています。
(※ 大橋康二、「世界に輸出された肥前陶器」、『佐賀県立九州陶磁文化財 研究紀要』第10号、2025年、p.5)

 秀吉が朝鮮出兵を企てる以前に、波多三河守親公は唐津焼を生産開始していたのです。

(2026/02/14 香取淳子)

朝鮮人陶工・李参平が開発した有田焼

■李参平

 文禄・慶長の役で朝鮮に遠征した西国大名たちは、慶長三(1598)年、豊臣秀吉が亡くなったために撤退する際、朝鮮人陶工を日本に連れ帰りました。彼らは九州地方を中心に釉がかかった施釉陶器(成形・素焼きした陶器の表面に、ガラス質の釉薬を掛けて本焼きした焼き物)の生産を始めました。

 この文禄・慶長の役には、当時、藩主であった龍蔵寺氏に代わって鍋島直茂(1538-1618)が出陣し、多久 安順(1566-1641)も随行していました。

 西国大名のうち、佐賀藩が最も多くの朝鮮人を連れ帰ったといわれています。その中には、医薬に通じた者、能書家、製塩家、農民、漆工、飴工などが含まれており、陶工の数はそれほど多くなかったようです(※ 丸山雍成、「有田焼の生成・発展と流通構造(一):その若干の素描」、『九州文化史研究所紀要』、30号、1985年、p.56)。

 この時、連れてこられた陶工の中の一人が李参平でした。鍋島直茂は。多久安順に命じて佐賀城下まで連れてこさせ、出身地にちなんで日本名を金ケ江三兵衛とし、多久に預けています。よほど李参平を見込んでいたのでしょう。

 実は、朝鮮遠征時に彼は、鍋島直茂や多久安順に忠誠を尽くし、信頼を得ていました。しかも、朝鮮で焼き物の経験があり、陶土についても知識がありました。鍋島らにとって、きわめて有用な人材だったのです。

 多久安順は、李参平に「焼物試」の免許を与え、自由に能力を発揮できるようにしました。まずは良質の陶石探しに着手しました。質のいい焼物を造るには良質の陶石が必要でした。

 陶磁器に適した良質の土を見つけるため、李参平は佐賀藩領内の各地を巡回しました。いくつも掘削しては土質を調べていくうちに、とうとう有田で最高の場所を見つけました。それが有田郷上白川でした。

 上白川に居住して焼物を造ったところ、確かに質のいい焼物が仕上がりました。当時、人里離れた辺鄙なところでしたが、評判を聞きつけた陶工たちが集まるようになり、次第に繁盛していきました。やがてその辺一帯が皿山となり、近隣随一の陶磁器製作の場となりました(※ 丸山、前掲、p.59-60)。

 日本で最初の磁器が誕生し、安定して磁器を製造できるようになりました。

 李参平のホームページには次のように記されています。

 「金ヶ江家文書によると、鍋島藩初代藩主鍋島直茂公によって佐賀の地に連れてこられた李参平は初め鍋島藩の老中、多久家に預けられます。その領内で今までの技術を活かし築窯しましたが、思い通りの焼物が出来ませんでした。やがて、白磁に適した陶土を探すため鍋島藩内を歩きまわります。そして、1616年に李参平が有田の泉山にて良質の磁器鉱を発見したと書かれています」
(※ https://toso-lesanpei.com/history)

 木本真澄氏は李参平の功績を讃え、次のように記しています。

 「言葉も通じない異国の地で未開の土地を耕しながら磁器の原料の陶石を見つけ、生産にこぎつけた偉業に感服するばかりです。李参平はリーダーシップも備えた人物だったようで、『皿山代官旧記覚書』によると、窯焼き120人を統率する有田皿山のリーダーになっています」
(※ 大木真澄、『有田焼400年の歴史』、http://arita-episode2.jp/ja/history/history_3.html)

 初代李参平の像があります。

こちら →
(※ https://toso-lesanpei.com/history、図をクリックすると、拡大します)

 彼の業績を象徴するように、白磁で造られた座像です。

 正面を見つめる眼差しに、哲学者の趣が見られます。言葉も通じない異国の地で、磁器製造に適した土地を見つけて陶石を切り出し、精錬して磁器を製造していった者ならではの気迫も感じられます。開拓者精神があり、失敗に負けない信念があり、完成作品に仕上げていく粘り強さが滲み出ているように思えます。

 それでは、李参平が発見した泉山磁石場はいったい、どのような場所なのか、見てみることにしましょう。
 
■泉山磁石場

 泉山磁石場は、元和二(1616)年、朝鮮人陶工・李参平(金ケ江三兵衛、生年不明-1655年没)によって発見されました。

こちら →
(※ https://www.driveconsultant.jp/detail/spot/1880.html、図をクリックすると、拡大します)

 泉山の陶石には磁器に欠かせない石英やセリサイトが含まれています。その他に、カオリナイト、長石、少量の酸化鉄などが含まれています。わずかとはいえ酸化鉄が含まれているので、上の写真を見てわかるように、剥き出しになった岩肌が黄色くなっています。

 陶石が発見されてからは、200年以上にわたって、徐々に切り出され、今では写真で見るような形状になってしまっています。十九世紀後半ごろから、有田地域の窯元は、熊本県天草から高品質の陶石を購入し始め、現在、有田焼のほとんどは天草の陶石で作られています。泉山磁石場は1980年に、国指定史跡に指定されました。

■大名たちはなぜ、朝鮮人陶工を連れ帰ったのか?

 出征した西国大名たちは、慶長三年に朝鮮から撤退する際、現地の陶工たちを数多く、連れ帰りました。なぜかといえば、当時、武士階級の間で茶文化が流行しており、茶器に対する関心が高まっていたからでした。

 茶人・千利休(1522-1591)は、織田信長(1534-1582)に仕え、その後、豊臣秀吉(1537-1598)にも仕えました。武士階級のトップ2と相対しながら、次第に茶道を確立していきました。それまでの中国ものを高級とする見方から、李朝の民窯の焼物を良しとする見方になり、侘び、寂の美を確立させていったのです。
(※ 山田友治、「李朝白磁の特質」、『東京工芸大学芸術学部紀要』巻13、2007年、p.63)

 利休の茶人としての評価が高まる一方、上層の武士階級の間では、茶器の名品を権力者に贈答すること、大名同士で茶器を贈答し合うこと、茶の作法を習得し、茶会を開催すること、等々が、浸透していきました。政治関係の円滑化に大きな役割を果たしていたのです。

 このような当時の状況を知れば、朝鮮の陶磁器に強い憧れを抱いていた西国大名たちが、朝鮮から撤退する際、多くの陶工を連れ帰った理由がわかろうというものです。

 大名たちはそれぞれ、領地内に朝鮮人陶工を使って、領主主導の陶器窯を築かせました。卓越した技術を持つ陶工たちを厚遇したこともあって、各窯から優れた製品が次々と生産されるようになりました。

 たとえば、薩摩藩は、朝鮮陶工に築かせた宇都窯や御里窯を、後に、鹿児島城下に移して堅野窯を御庭焼(大名や公家が自らの城内や別邸に窯を築き、趣味や観賞用として作らせた陶磁器)としました。そして、佐賀藩などの技術を導入して、色薩摩を作り出すことに成功しています。

 宇都窯では、黒色系の彩釉(陶磁器の表面にガラス質の釉薬を施し、色鮮やかな色彩や美しいグラデーションを表現する技法)が行われ、これは古帖左(こぢょうさ)焼と呼ばれています。また、釉陶(釉薬)も作られるようになりましたが、その土と釉薬は朝鮮産を使っています。

 福岡藩、熊本藩も同様です。朝鮮人陶工を連れ帰った西国大名はそれぞれ、朝鮮の技術を取り入れ、独自の作品を作るようになりました。

 そのような中で、際立って成果を上げていたのが佐賀藩でした。

 次回、詳しくみていくことにしましょう。
(2026/1/31 香取淳子)

佐賀「唐人町」にみる専門職外国人の受け入れ方

■唐人町

 JR佐賀駅を出て、佐賀県立図書館に向かって歩いていた時、歩道脇に石像が設置されているのに気づきました。道路側ではなく、建物側の壁面に置かれていたのです。花が添えられ、水の入ったコップが二個、置かれています。一瞬、お地蔵さんかと思ってしまったのですが、傍らに「忍者恵比須」と書かれた板が掲げられています。その上にはQRコードまで表示されていました。読み取って開いてみると、日本語、中国語、英語、韓国語で音声ガイドが用意されていました。「恵比須DEまちづくりネットワーク」がガイドしてくれるようです。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 板には、次のような内容の説明が記されていました。

 「知的で涼しげな笑み。一五九九年、鍋島直茂公は、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に通訳を務めた高麗人の居住地として唐人町を作りました。当時、その鍋島藩の様子を探るため、隣の黒田藩がスパイとしてこの恵比須さんを送り込んだという伝説が残っています。平らで肩まで垂れた福耳は、遠く小さな声を拾うためなのかもしれません。(社)佐賀観光協会」

 この説明書きを読んで、ここが韓国から渡来した人々が居住する町だということがわかりました。たしかに、街灯の柱にも、「唐人町」と書かれた小旗が取り付けられています。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 他にも何かがあるはずだと思い、辺りを見回してみると、近くに「唐人町の由来」と書かれた石碑がありました。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 唐人町について、最初の段落で、次のように説明されていました。

 「天正十九(1591)年、佐賀藩に召抱えられた高麗人李宋歓(りそうかん)は、秀吉の朝鮮出兵の際、通詞役として、また陶工たちの招聘(しょうへい)にも重要な役割を果たした。宋歓は利敵行為をしたため故国に帰ることができず、佐賀に留まることになった。藩主鍋島直茂はこのことを不憫におもい、佐賀城下の十間堀川以北の愛敬島村に、慶長四(1599)年宋歓が連れ帰ってきた高麗人の一団を住まわせた。その中にのちの鍋島更紗を創始した九(く)山道(ざんどう)清(せい)もいた。唐人(異国人)の住む町として、唐人町と名づけた」(※「唐人町由来」より)

 どのような経緯があって佐賀藩に召抱えられるようになったかわかりませんが、高麗人の李宋歓は、秀吉の朝鮮出兵の際、鍋島直茂に随行して、地理案内および通訳として重要な働きをしているのです。

■鍋島直茂の朝鮮出兵

 朝鮮出兵に際して、直茂は龍造寺(戦国時代から江戸時代初期にかけての肥前国の戦国大名)家臣団を率い、加藤清正を主将とする日本軍二番隊の武将として参加しました。この朝鮮出兵を経て、龍造寺家臣団の直茂への傾倒が一層促進される効果があったとされています。この戦争中、直茂は一度も帰国することなく、慶長二(1597)年になってからようやく子息の勝茂と交代で日本に帰国しています。

 朝鮮戦役で戦功をあげ、その後の関ヶ原の戦いでもうまく立ち回った鍋島直茂、勝茂父子に対し、幕府は竜造寺氏からの禅譲を認める姿勢をとりました。周辺もそれを承認した結果、鍋島勝茂は幕府公認の下で、龍造寺家の遺領を引き継ぎ、佐賀藩主となり、父直茂の後見下で藩政を行うことになりました。(※ Wikipedia)。

 実際は慶長十三(1608)年に、鍋島家による領国支配が確立していましたが、幕府から鍋島勝茂に領地安堵の沙汰が出たのは慶長十八(1613)年でした。幕府の承認という側面からみれば、勝茂が祖となるはずですが、鍋島家略系図では藩祖を鍋島直茂とされています。
(※ https://www.nabeshima.or.jp/main/23.html)

 ここで、「肥前佐賀の領主としての鍋島家の基礎を築く」と書かれているように、鍋島直茂は多大な努力をして、肥前の領主としての地位を獲得しました。様々な局面をうまく繋ぎ、有利な状況を作り上げていったからでしょう。その一つが、朝鮮出兵でした。これを機に、佐賀での政治的地盤を優勢に導いています。直茂の洞察力と卓越した知略の賜物だといわざるをえません。

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(※ 文化遺産オンライン、図をクリックすると、拡大します)

 絵画とはいえ、眼光鋭く、しっかりとした面立ちからは知謀にたけた政治家であることがわかります。

 さて、朝鮮戦役の影響は、明にも朝鮮にもその後、衰退の原因となる深刻な財政難を残しました。攻勢をしかけた豊臣家にも家臣団の内紛をもたらしました。それぞれ悪影響を被りましたが、秀吉に指示され参加した西国大名の中には、多数の奴婢を連れ帰ることでこの戦役の代償を得た大名もあったといわれています(※ Wikipedia)。

 ところが、鍋島直茂は奴婢を連れ帰ったりはしませんでした。日本に帰還する際、他の西国大名たちとは違って、有能な陶工や繊維職人たちを連れ帰っているのです。直茂が現地の事情に明るい李宋歓を随行していたからにほかなりません。

■李宋歓に対する処遇

 李宋歓は、直茂が帰還する際、陶工たちを連れ帰る上でも大きな役割を果たしました。当時の日本では得難い技能をもつ陶工や更紗職人などを選別し、説得し、佐賀に連れ帰ったのです。それが、佐賀にとって、日本にとっていかに大きな功績であったか、後の展開を見れば一目瞭然です。

 もちろん、韓国にとっては大きな損失でした。李宋歓がとった行為は利敵行為とみなされ、帰国できなくなってしまいました。そこで、藩主鍋島直茂は、李宋歓が連れ帰った高麗人たちが住む場所を提供し、唐人町と名づけました。これがこの町の由来ですが、李宋歓にはさらに特権が当たられました。

 李宋歓の功績に対して、鍋島直茂は苗字帯刀を許し、十人扶持と海外貿易の永代御用達商の免状を与えました。その結果、李宋歓は、唐物の繊維品、陶磁器、金物類、荒物など日本にないめずらしい物を輸入しました。海外商品を扱う商人が唐人町に集まってきて、今日の唐人町の基礎ができたというわけです(※「唐人町由来」より)。

 ちなみに、「十人扶持」とは、十人分の家臣や奉公人の生活費に相当する扶持米が支給される俸禄のことです。また、「海外貿易の永代御用達商の免状」とは、海外貿易に関してはその家が存続する限り、あるいは幕府の需要がある限り、安定して取引を行う権利が与えられたのです。

 興味深いのは、李宋歓が連れ帰った人々の中には、陶工もいたし、後に鍋島更紗を創始した九山道清もいたということです。彼らによって、後の鍋島藩の主要な産業基盤が構築されたといっても過言ではありません。

■唐人神社

 「唐人町由来」の石碑の近くには、小さな神社が設置されていました。

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 小ぶりながらも、お賽銭箱があり、鈴を鳴らす鈴緒があって、神社としての機能を備えていました。その下に、「唐人神社の由来」と書かれた石碑があり、そこには、次のように説明されていました。

 「高麗人宋歓は佐賀領主鍋島直茂の招聘を受け、慶長四(1599)年この地に一族と居住し、唐人町と称した。宋歓は文禄・慶長の役の功績によって海外貿易の永代御用達商の免許を得て商業に励み、今日の唐人町の基礎ができた。宋歓は居宅の一角に石碑を建て、故郷を偲び、のち唐人塚と呼ばれた。この碑は昭和三十年七月、道路拡張のため、町西裏にある唐人町会館の構内に移された。同四十年七月、石碑を祭神として、「唐人神社の社殿」を新築。町の守護神として崇め、毎年夏の例祭を施行している」

 藩主直茂から、居住地や身分、俸禄を与えられても、李宋歓は故郷を離れたことからくる、心の虚しさを埋めることはできなかったのでしょう。居宅の一角に石碑を建て、故郷を偲んだといいます。それが、後に、「唐人神社」となり、故郷を離れた韓国人たちの心の砦になったのです。

 それにしても、高麗人の李宋歓がなぜ、秀吉が朝鮮に出征する際、日本にいたのでしょうか?しかも、直茂に随行して、日本側の通訳として現地で活躍しているのです。なぜ、そのようなことが可能だったのでしょうか?

■李宋歓を引き取った鍋島直茂
 
 なぜ、李宋歓が鍋島家に仕えるようになったのか、その経緯を知りたかったのですが、なかなか見つかりませんでした。寺内信一氏の説明によってようやく、理解することができました。

 寺内氏は李宋歓について、次のように解説しています。

 「朝鮮人。姓は達、名は越。朝鮮咸鏡北道吉州の刺史達賢の子。1587年(天正一五)海難に遭って筑前国黒崎(福岡県粕屋郡志賀町勝馬)に漂着した。1591年(天正一九)肥前鍋島家に引き取られ、文禄の役の際にはその地理案内および通訳の任に当てられた。出征中彼の地の陶工を斡旋仲介して藩主直茂に従い帰化させた。その委細は宗歓の子孫で佐賀唐人町の荒物商川崎四郎が1840年(天保一一)六月に提出した由緒書に明らかであります」
(※ https://turuta.jp/story/archives/43632)

この説明の中で、興味深いのは、「1587年に海難に遭遇して黒崎に漂着し、その四年後に鍋島家に引き取られたという文言です。李宋歓は海難に遭い、黒崎に漂着したのが、当時、日本にいた理由だというのです。

 黒崎といえば、黒田藩の所領でした。藩主黒田長政に先見の明があれば、漂着した李宋歓をすぐにも召抱えていたでしょう。日本を平定した秀吉が勢いにのって、やがて朝鮮に進出するのは目に見えていたはずです。実際、秀吉はその四年後には朝鮮出兵を決めています。家臣だった黒田藩は五千人の軍役を課せられました。

 李宋歓が海難に遭遇し、黒崎に漂着したのが1587年、鍋島家に引き取られるまでの四年間、どこで何をしていたのでしょうか。なぜ、黒田藩は藩内に漂着した李宋歓を引き取らなかったのでしょうか。秀吉が朝鮮に出兵するとなれば、通訳が必要なのは明らかでした。それなのに、黒田藩は李宋歓を引き取りませんでした。

 藩主の度量の違いでしょうか。鍋島藩主・直茂は黒田藩内に漂着した李宋歓を召し抱え、秀吉が朝鮮出兵の際には地理案内および通訳として起用しました。それだけではありませんでした。李宋歓は現地で陶工を選抜し、直茂に帰属させて日本に連れ帰りました。

 ここでつながってくるのが、冒頭にご紹介した「忍者 恵比須」の石像です。説明書きには、「当時、その鍋島藩の様子を探るため、隣の黒田藩がスパイとしてこの恵比須さんを送り込んだという伝説が残っています」と書かれていました。この説明文を読んだときには、どういうことかよくわからなかったのですが、寺内氏の説明を読んでから、なんとなくわかるような気がします。

 なぜ、黒田藩は鍋島藩の動向を探る必要があったのか、それはおそらく、鍋島直茂の動きをよく理解できなかったからではないでしょうか。

 鍋島直茂は、黒田藩内に漂着した李宋歓を召抱えました。渡来人とはいえ、彼の能力や人柄を見抜いたからでしょう。直茂には、度量、料簡、胆力がありました。高麗人を取り立てることによる誤解を招くかもしれませんが、むしろ、召抱えることによる大きなチャンスに賭けました。

 鍋島直茂は単に、朝鮮出兵に参加し、政治的基盤を固めただけではありません。李宋歓を伴っていたので、現地を視察することができ、有能な人材を日本に連れ帰ってくることができたのです。漂着民とはいえ、直茂が彼の能力と人柄を見抜き、信頼していたからにほかなりません。

 鍋島直茂が連れ帰った高麗人の中には、九山道清がいました。鍋島更紗と呼ばれる更紗を伝えています。道清は、後に九山左衛門と改名し、藩の庇護を受け、諸大名や幕府への献上品をつくっていました。技法は木版ずりと型紙ずりを併用した独特なもので、色染めも精巧を極めていたといいます。(※ 石碑「鍋島更紗の由来」より)

 直茂が連れ帰った高麗人の中に陶工もいました。『葉隠聞書382』によると、「鍋島直茂・朝鮮陣凱旋の時陶工を伴なひ帰りて有田焼を創む」との表題の下、次のように説明されています。

 「日本の寶になさるべくと候て、焼物上手頭6,7人召連れられ候、金立山に召置かれ、焼物仕り候、其の後伊萬里の内、藤河内山に罷り移り、焼物仕り候。それより日本人見習ひ、伊萬里有田方々に罷り成り候由」
(※ 『佐賀県立博物館報』No.38)

 陶工たちを連れ帰ったのは、彼らがやがて日本の宝になると直茂が判断したからでした。実際、彼らは大きな功績を上げました。最初は金立山、そして、伊万里、藤河内山へと場所を変えて製造していましたが、陶工団はやがて伊万里や有田で焼物を始めるようになります。

■佐賀「唐人町」が示すもの

 鍋島更紗にしても、鍋島焼にしても、直茂が帰還の際。工人たちを日本に連れて帰ろうと判断しなければ、ありえませんでした。当時、日本にはなかった織物、陶磁器の製造技術を彼らはもたらしてくれました。それらはやがて、佐賀藩の経済基盤を支える産業に成長し、維新後は輸出産業の一端を担うようになったのです。

 鍋島直茂に先見の明があったからだけではありません。高度や技術をもたらしてくれた渡来人に対し、誠実に接してきたからではなかったかと思います。有能な人材を家族ごと受け入れただけではなく、渡来人に対し、城下に居住地を確保し、身分、俸禄も与えました。さらに、故郷を離れて覚える心細さを解消するかのように、唐人神社まで作っていました。能力に応じ、手厚く処遇をしていたばかりか、安心して働ける環境を整備していたのです。

 実際、高度な技術を持つ渡来人たちは、後々まで佐賀藩のため、日本のために役立ってくれました。藩主が正当に彼らを受け入れ、処遇していたからにほかなりません。

 翻って今、単純労働力として外国人を求める産業界の風潮に、危惧を覚えざるをえません。代替の利く労働なら、機械あるいはロボットで補完できるのではないかと思うのです。

 今回、佐賀の「唐人町」で見たのは、日本にはない高度な技術力をもつ渡来人の受け入れ方でした。鍋島藩は、彼らを手厚く処遇し、居住や収入面での環境整備を図ったばかりか、彼らの気持ちに沿って、唐人神社まで作っていました。渡来人が異国でも心安らかに働けるよう配慮されていたのです。(2025/12/31 香取淳子)
 

果敢に改革を進める高市内閣、卑劣な妨害工作を仕掛ける反対勢力

■果敢に改革を進める高市内閣

●日本成長戦略本部の設置

 11月4日、高市政権は成長戦略の方向性や具体策を示す日本成長戦略本部を始動させました。人工知能(AI)やエネルギー安全保障など17項目を戦略分野と位置づけ、官民投資によって、日本の成長の原動力にするといいます。高市政権が戦略分野として掲げたのはAIや半導体、エネルギー安全保障、防衛産業などです。

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(※ 日経新聞、2025年11月4日、図をクリックすると、拡大します)

 これら17項目に優先順位を付けていませんでしたが、各項目には担当大臣を指名し、各府省庁を挙げて取り組む姿勢を示しています。その一方で、省庁横断の重点項目として労働市場改革や賃上げ環境の整備を挙げており、高市首相は、「リスクや社会課題に対して、先手を打って供給力を抜本的に強化する」と述べ、政府が投資を主導する姿勢を明確にしました。

 本部の設置にあたっては、「官民連携の戦略的投資を促進する」との方針を確認しています。来年夏にも新たな成長戦略をまとめる方針で、一部の施策は策定を急ぐ総合経済対策に盛り込むともいいます。また、高市首相は同本部で、「日本経済の供給構造を強化」するよう指示する一方、民間の有識者12人を交えた日本成長戦略会議を設置することを決めました。

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(※ 日経新聞、2025年11月4日、図をクリックすると、拡大します)

 これら有識者には積極財政派も登用されており、「分配」を重視した石破茂前政権からの大きな方向転換となります。成長戦略にはリスクもあるといわれますが、高市早苗氏が首相になった途端、改革のための政策が次々と打ち出され、社会のムードが俄然、明るくなったような気がします。

 このところ増税ばかりで疲弊しきっていた人々が、高市首相の登場でようやく希望を見出せる心境になったのでしょう。高市首相はさまざまな社会課題に果敢に立ち向かい、解決していこうとする姿勢を見せてくれます。それが頼もしく、人々は将来に展望が開けたような気分になっているのかもしれません。

 高市首相は成長戦略本部の設置に伴い、自民党内にも成長戦略の組織を立ち上げました。驚くべきことに、その本部長に就いたのが岸田文雄元首相でした。岸田氏が立ち上げた「新しい資本主義」を高市首相が「日本成長戦略」に置き換え、本部長に据えることによって、岸田氏の動きに制限をかけたことになります。

 これについて岸田氏は、「政権ごとに政策、看板政策の名称などを変えるのは当然のことだ」と述べ、「新しい官民連携を進めていかなければならない」という見方を示したといいます(※ 日経新聞、2025年11月4日)。岸田氏を本部長に起用することによって、自民党側のバックアップ体制も整備されたことになります。

 さて、成長戦略担当相として中心になるのは城内実経済財政相です。城内氏は、「新しい資本主義実現会議で議論されたことを踏まえ、日本成長戦略会議を立ち上げる」と説明しています(※ 日経新聞、2025年10月31日)。ここでも用意周到な人事が目を引きます。

 一部メンバーを留任させて前政権との継続を図りながら、高市首相が重視する新たな成長戦略を展開できるような布陣を敷いていたのです。さすが高市首相といわざるをえません。看板に手を添えた高市首相と城内成長戦略相の表情がなんと晴れやかなことでしょう。

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(※ 日経新聞、2025年11月4日、図をクリックすると、拡大します)

 この看板には、成長戦略によって経済力を高め、そして、防衛力、外交力を高め、さらに経済力を高めるといった連環が込められているのです。二人の表情には掲げたビジョンを信じ、それに邁進しようとする意気込みが漲っています。

 日本のために「働いて、働いて、働きぬく」と決意表明した高市氏の熱量に閣僚たちは圧倒されたのでしょう。何も城内氏に限りません。高市内閣の顔ぶれを見ると、その表情が意気込みと決意、エネルギッシュな行動力が迸っているように感じられます。これまでの内閣にはないことでした。

 高市首相は、さまざまな課題への対策を明確に示し、実行に向けた人材配置を徹底させたばかりか、担当者にはそれぞれ指示書を送っていたのです。これほど有能で、胆力のある首相はこれまでにいたでしょうか。しかも課題に対する取り組みの一つ一つが的確で、スピーディで、緻密なのです。

 多くの人々が懸念している移民対策についても同様でした。11月4日、移民対策会議も開催されていました。

●外国人政策

 高市首相は4日、首相官邸で外国人政策に関する関係閣僚会議を開き、外国人による不法行為等について検討するよう指示を出しました。

 近年、日本各地で外国人の不法滞在に伴う犯罪、外国人による迷惑行為、社会保険料の未払い、医療費の未払い、運転免許証の切り替えや土地取得に伴う不祥事などが目立つようになってきました。それによって、日本人の日々の生活や日本の防衛そのものが脅かされかねない状況になってきているのです。

 「日本人ファースト」を掲げた参政党が大きく票を伸ばしているのも、外国人による犯罪や不祥事等が増えていることに起因しています。内閣としては外国人による諸問題への防止対策、取引規制や手続きの厳格化等に着手し、適切に対処しなければ国民に見放されかねません。

 関係閣僚会議で取り上げられた主な協議事項は以下の通りです。

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(※ 日経新聞、2025年11月4日、図をクリックすると、拡大します)

 この会議で高市首相は、「ルールを守って暮らす外国人の方々が住みづらくなるような状況をつくってはならない」と関係閣僚に伝えたそうです。一部の外国人による不法行為のせいで、日本人が外国人全般を排斥することのないよう、ルールを厳格化し、違反者への処罰を厳格化するというのです。出入国在留管理庁の幹部も、「適切な規制が、結果的に排外主義の高まりを抑えることにもつながる」と話しています(※ 前掲)。

 実際、共同通信が7月に実施した世論調査では、出入国管理や不動産取得など外国人への規制を「強めるべきだ」との回答が65.6%にのぼり、「現行通りでいい」(26.7%)、「緩めるべきだ」(4.4%)を上回りました(※ 日経新聞、2025年11月4日)。

 喫緊の課題は、不法滞在者の送還であり、不動産取引のルールの厳格化です。

 少子高齢化が進む日本では外国人への労働依存が高まっているのは事実です。地域によっては外国人が経済活動の重要な担い手となっていることも少なくありません。外国人労働者が不可欠になっている産業も多く、政策的な位置づけの明確化や課題に対して具体な対応策を打ち出すことが迫られています。

 土葬問題、モスク建築問題など、これまで考えられもしなかった宗教に関係する問題も多々、発生するようになっています。もはや地方自治体では解決できないレベルの問題が多発しているのが現状です。

 さて、「外国人の受け入れ・秩序ある共生社会実現に関する関係閣僚会議」のトップには、木原稔官房長官が就き、外国人政策の担当を兼務する小野田紀美経済安全保障相らが加わることになります。これは石破茂前政権の「外国人材の受け入れ・共生に関する関係閣僚会議」を改組したもので、「秩序ある」という文言を加えたところにこの組織の性格を見ることができます。

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(※ 日経新聞、2025年11月4日、図をクリックすると、拡大します)

 真ん中に高市首相、向かって右が木原官房長官、向かって左が小野田経済安全保障担当大臣です。三人三様、緊張した面持ちが印象的です。これまでの内閣では対処できなかった難題に取り組もうというのですから、無理もありません。その表情からは難局に対処できる能力と柔軟性、そして、自信がもたらす風格が感じられます。見ていると、ようやく安心して任せられる内閣が誕生したという気持ちになります。

 高市首相は2025年10月24日、力強く所信表明を行いました。

■所信表明

 2025年9月7日の石破前首相の退陣表明に伴い、10月4日に自民党総裁選挙が行われました。その結果、高市早苗氏が当選し、女性初の自民党総裁が誕生しました。その後、高市氏が首相に選ばれるまで、政局が混乱しましたが、17日後の10月21日には第2次石破内閣は総辞職し、第104代内閣総理大臣に高市早苗氏が指名されました。こうして日本で初めて女性の内閣総理大臣が誕生したのです。

 自民党総裁に選出されてから内閣総理大臣に選ばれるまで、通常では考えられない紆余曲折があったことに触れておく必要があるでしょう。高市氏の自民党総裁就任後に公明党が連立政権からの離脱を表明したのです。誰もが予想しなかったことですが、これで、高石市が首相になれるかどうかわからなくなってしまいました。

 自民党単独では過半数を得られない高市氏は、日本維新の会を連立与党に迎え、ようやく少数政権与党として内閣を発足させることができました。しかも、日本維新の会が閣僚ポストを要求しなかったため、第2次橋本改造内閣以来、実に約27年ぶりに閣僚全員が自民党議員で占められることになったのです。

 高市内閣が発足したのが2025年10月22日、そして、高市首相が所信表明をしたのが10月24日でした。

こちら → https://youtu.be/vEqNcJQRwD0
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 力強く、語る姿が印象的です。

 第219回臨時国会で、高市内閣総理大臣の所信表明演説が行われました。所信表明は文書でも発表されています。

こちら → https://www.jimin.jp/news/policy/211670.html

 高市氏はまず、「日本と日本人の底力を信じ、日本の未来を切り拓く責任を担い、この場に立って」いると切り出します。次いで、「今の暮らしや未来への不安を希望に変え、強い経済を作り、日本列島を強く豊かにしていく。世界が直面する課題に向き合い、世界の真ん中で咲き誇る日本外交を取り戻す」と目標を高く掲げます。そして、「絶対にあきらめない決意をもって、国家国民のため、果敢に働いていく」と実現に向けて、固い決意を示します。

 取り組む課題として挙げられた分野はいずれも安全保障の観点から捉えられており、国土を強靭化する一方、国民及び国民の生活を守ろうとする姿勢が強く反映されています。

■維新との連立政権合意書

 もちろん、維新との連立政権ですから、所信表明通りに高市政権が運営されていくわけではありません。政策に落とし込む段階で維新との合意書を踏まえ、協議を重ねていくことになります。とはいえ、両党は大筋で合意していますから、高市首相が所信表明で見せた方向性に変わりはないでしょう。

 ちなみに両党首がサインした連立政権の合意書は次のようなものでした。

こちら → https://partsa.nikkei.com/parts/ds/pdf/20251020/20251020.pdf

 冒頭の部分をご紹介しましょう。

 まず、前段で、両党は、「国家観を共有し、立場を乗り越えて安定した政権を作り上げて、国難を突破し、”日本再起”を図る」ことを目的に「日本の底力」を信じ、全面的に協力し合うことを決断したと宣言しています。

 次いで、「厳しく複雑な国際安全保障環境を乗り越えるには、日本列島を強く豊かにし、誇りある”自立する国家”としての歩みを進める内政および外政政策を推進せねばならない」とし、「日米同盟を基軸に、極東の戦略的安定を支え、世界の安全保障に貢献する」という覚悟を述べています。

 さらに、リアリズムに基づき、「安全保障環境の変化に即応し、国民を守り、わが国の平和と独立を守る」とし、両党は国際政治観および安全保障観を共有すると表明しています。

 そして、「国民の生活は経済成長によって向上する」という共通認識の下、両党は「責任ある積極財政」によって、「効果的な官民の投資拡大を進める一方、肥大化する非効率な政府の在り方を見直し、歳出改革を徹底」するとしています。積極財政によって経済成長を成し遂げる一方、歳出を見直すことで、社会課題の解決に資金を振り向けるというのです。

 合意書の冒頭部分をご紹介しただけですが、本気で日本を守り、日本人の生活を守っていこうとする高市首相の心意気が感じられます。高市氏がきわめて合理的な判断のできる政治家であり、強い信念をもって課題解決に挑もうとしていることがわかります。

 そもそも維新の共同代表の藤田文武氏は、高市氏の真摯な態度に感動し、尊敬できる政治家だと述べていました。そして、代表の吉村洋文氏は、高市氏の国を思う熱量に驚いたと言っていました。二人とも高市氏を信頼できる政治家だと確信したからこそ、支援しようと思い、連立に応じたのでした。日本と日本人の生活を守ることを目的に、内政外交を行っていくという点で、両党の党首の想いは同じなのです。

 さて、維新は連立の条件として12項目の受け入れを要求しています。容易に受け入れられると思われるものもありますが、もちろん、難しいものもあります。

こちら → https://www.nri.com/jp/media/column/kiuchi/20251017.html

 受け入れ難いとされているものの一つが、「国会議員定数の1割削減」です。

■国会議員定数の1割削減

 維新の吉村代表は10月17日、「議員定数の削減を自民党との連立の絶対条件にする」と述べ、比例代表の定数減を念頭に、「次期衆院選で定数465のおよそ1割にあたる50議席を減らすよう」提案していました(※ 日経新聞、2025年10月18日)。

 興味深いことに、この案は有権者から賛同の声が多く寄せられています。というのも、有権者の多くが、小選挙区で落選した候補者が比例で復活できる仕組みに不満を持っていたからです。そもそも有権者が否定したから落選した候補者が、比例で当選できる仕組みは民意を否定するものでしかありません。選挙制度の本質を歪めるものであり、なくせばいいと思っていた有権者は少なくなかったのです。

 一方、野党や少数政党は「国会議員定数の1割削減」に断固、反対しています。それは理念からではなく、単に、自分たちの存続にかかわるからでした。かつて民主党(現:立民、国民)の野田前首相は、議員定数の削減を条件に解散したことがありました(※ 産経新聞、2016年2月19日)。そのことを忘れてしまったかもように、いま、立憲民主党や国民民主党は削減案に反対しています。

 11月4日の衆議院本会議で、日本維新の会共同代表の藤田文武氏は、議員定数削減に関して、次のような質問をしました。

こちら → https://youtu.be/1Q-mBmRPaBo
(※ CMはスキップするか、削除して視聴してください)

 この日の代表質問の中で、藤田氏が最も会場を湧かせたといいます。コメント欄を見ても、藤田氏の発言を評価するものが多く、たとえば、「足を引っ張ったり、ヤジ飛ばすんじゃなくて、日本の国民の事を本気で考えてくれる」というコメントに見られるように、国会中継を見ている多くの視聴者に好印象を与えていたようでした。

 比例選出議員が多い政党は全般に、定数削減に反発していますが、かつて民主党(立民、国民)は定数削減を要求していたことがあったのです。しかも、日本はいま、人口減少が進んでいます。それに応じて国会議員の削減も必要でしょう。なんといっても巨額の費用がかかっていますから、国会議員も量よりも質への転換を図るべきでしょう。

 高市自民党総裁が誕生してから、連立政権からの公明党の離脱、維新との連立によって高市政権の誕生といった一連の政治過程を国民は見てきました。その結果、これまでいかに多くの政治家たちがビジョンもなく真摯さに欠け、実行力がなく言葉遊びに終始した議論しかできなかったかに気づくことになりました。

 この激動の時代に、多くの政治家が国民を置き去りにしたまま、利権に走り、ぬくぬくと過ごしていたことがわかったのです。彼らは国民のためではなく、自分たちに都合のいい利権の枠組みを作り、その中で居座っていただけでした。そのような政治家は自民党だけではなく、野党の中にもいました。

 今後、そのような既存勢力が高市氏の足を引っ張り、高市内閣が進めようとする改革政策を妨害してくるのは必至です。

 外国勢力に脅かされそうになっている日本、停滞し続ける日本経済、それらに真摯に対峙しようとするのが高市首相であり、高市内閣です。その内閣に対し、自民党や野党、メディアを含めた既存勢力が、どんな卑劣な手段を使ってでも抵抗し、妨害し続けるのは目に見えています。

■立憲民主党による卑劣で執拗な嫌がらせ

 衆院予算委員会は7日午前、高市早苗首相と全閣僚が出席する基本的質疑を実施しました。最初の質問者で自民党の斎藤健元経済産業相は、首相への期待を語った一方、「あまりにハードワークだ」と心配を表明しました。首相は7日午前3時過ぎに公邸入りし、予算委に備えていたというのです(※ 産経新聞、2025年11月7日)。

 高市首相が、なぜそんなに早い時間に公邸入りしたかというと、通常は2日前の正午までに提出しなければならない質問書を、立民などはわざとぎりぎりまで提出しないからだということがわかりました。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=uHTJiY8qC3c
(※ CMはスキップして視聴してください)

 質問通告の期限を守らない政党は立民と共産党だということがデータでもはっきりと示されています。

こちら →
(※ https://work-life-b.co.jp/20210422_11719.html より。図をクリックすると、拡大します)

 ルール違反を犯しているのが最も多いのが、立憲民主党でした。関係各庁からは、次のような不満が寄せられています。

 「通告を一度した後、何度も差し替え、時には前日22時や、休日など、非常識な時間に行うことも多い」(内閣官房)、「定時以降になっても通告すらわからないまま、最後に出された要旨は、「要旨対応問い合わせ不可、要求大臣は全大臣。質問項目は〈内外の諸情勢について〉のみ」(経済産業省)、「前日昼ごろから定時後まで何度も何度も差し替え用紙を送付してくるので、対応に苦慮する」(内閣官房)といった具合です。

 立憲民主党や共産党がいかに言論の府を痛めつけ、台無しにしているかがよくわかります。国会で言論を戦わせるのではなく、首相を疲弊させ、消耗させる場として使っているのです。(※ https://work-life-b.co.jp/20210422_11719.html)

 似たようなことは以前にもありました。かつて、民主党(現在;立民&国民)の代議士、中川正春元文部科学相が、「安倍晋三首相の睡眠障害を勝ち取りましょう」と発言したことがありました。
(※ https://www.sanspo.com/article/20160217-GPJIAK22UVKGLBP35NQKGRHH4Q/)。

 これは2016年2月17日の出来事ですが、このとき、代議士会では中川氏をいさめる発言は他の議員から出なかったといいます。なんと民主党は、質問書の提出を遅らせ、首相に質問を集中させて揚げ足を取り、疲弊させては睡眠障害に追い込もうという悪辣な手段を取っていたのです。

 現在、立民が高市首相に取っているのが、まさにこの戦略でした。

 門田氏も指摘するように、かつて民主党、いま、立民の国会議員たちは今回、高市首相を疲弊させようといわんばかりに、質問書を遅らせて提出し、準備不足から失言を引き出そうとしたり、他の大臣が答えるべき質問をわざと高市首相に答えさせようとしたり、悪辣な細工をしていました。立民の黒岩氏、枝野氏、岡田氏、今回の質問はいずれも建設的な質問ではなく、揚げ足取りであり、高市首相を疲弊させるための質問でしかなかったのです。

 思い返せば、高市首相の所信表明演説でヤジを飛ばしたのも立民の三人の議員たちでした。立法府である国会を汚す行為しかしてこなかったのが、かつての民主党(現:立民、国民)でしたが、今回もまた、卑劣で悪辣な手段に終始しているのが立民でした。

 どうやら立民の議員たちは一丸となって、日本を貶め、日本の国力を削ごうとしているようです。

■立憲民主党の中国共産党中央統一戦線工作部への挨拶まわり

 実際、立民の岡田克也氏は、立民の議員たちを引き連れて北京に赴き、2024年8月29日に石泰峰氏(中国共産党中央統一戦線工作部のトップ)と会って、固く握手しているのです。

こちら →
(※ https://jp.news.cn/20240830/bfa4f93aa3914e3189bba3fa1e02aab8/c.html より。図をクリックすると、拡大します)

 中国共産党中央統一戦線工作部とは、中国共産党の外部にいる人々や団体に焦点を当てて工作活動を行う組織です。具体的にいえば、海外にいる華人、政治的、商業的、宗教的、学術的な影響力を持つ人々や、利益団体を代表する人々などを対象に工作活動を行います。彼らが中国共産党の利益に賛同する、あるいは役立つように仕向けるのです。一方、共産党に対する潜在的な批判者に対しては、分断されたままの状態を維持しようと努めます(※ Wikipedia)。

 そもそも中国による対外諜報活動は、中華人民共和国国家安全部(MSS)、中華人民共和国公安部(MPS)、中国共産党中央統一戦線工作部(UFWD)、中国人民解放軍(PLA)統合参謀部情報局などの共産党・政府機関を通じて指導され、遂行されていますが、それ以外にも、多数のフロント組織および中央企業がこれに関与しています。近年は特に、中国共産党中央委員会の統一戦線工作部が、プロパガンダを中心とした非伝統的な情報活動を行うことで注目されています(※ Wikipedia)。

 岡田氏が率いる立憲民主党の議員たちが北京を訪問して面会したのは、中央統一戦線工作部のトップと幹部たちでした。なんと日本の国会議員団が中国共産党のスパイ組織のトップや幹部たちに会っていたのです。そこでどのような話し合いが行われたのか、約束が交わされたのかはわかりませんが、両トップが握手している姿が撮影されており、会合の様子が中国メディアで報道されています。

 岡田克也氏が率いる立民党の議員たちが中国共産党の統一戦線工作部のトップや幹部たちと公式に面会していた事実は看過できないでしょう。

 中国共産党統一戦線工作部は、すでに西側諸国では警戒の対象になっています。

 BBCはアメリカやオーストラリアなどの捜査当局が、いくつかのスパイ事件でこの組織に言及しており、中国政府が外国への介入に利用していると非難してきたことを報じています。(※ https://www.bbc.com/japanese/articles/cz0rxr1jzp4o)

 防衛研究所もまた、中国の浸透工作の影響についての論考を発表しています。冒頭の部分をご紹介しておきましょう。

 「近年、影響工作と呼ばれる心理・認知の領域における国家の活動が、相手国の安全保障にあたえる影響に関心が集まっている。影響工作とは、情報を制御し、相手国の認識や判断を操作したり混乱させることで、自分たちに有利な状況を作り出す行動を指す。とりわけ注目されるのが、中国の影響工作である」
(※ 山口信治、「中国の影響工作概観」、『NIDSコメンタリー』第288号、2023年12月8日、pp1-7.)

 山口氏は結論として、次のように記しています。

 「中国の影響工作はどのような問題を民主主義国にもたらすだろうか。それには、社会の分断と混乱がもたらされること、政策イシューについて中国に有利な方向に世論が誘導されること、人権や民主といった普遍的価値が相対化されること、選挙への介入を通じて政治体制に影響すること、現在の国際秩序が価値・イデオロギー面から揺さぶられ不安定化することなどが挙げられる」(※ 前掲)

 一連の動きがわかってくると、立憲民主党の存在が日本にとって害悪でしかなかったことがわかります。

 立民の議員たちは果たして日本の国益を守れる議員たちなのでしょうか。日本の国益に反する行為を率先して行い、中国に忠義立てする立民の議員たちは、そもそも日本人なのでしょうか。

■浸透工作によって崩壊寸前の日本に登場してきた高市内閣

 外国勢力が日本の政治家、政府、マスコミの中に深く浸透していたことが、一連の政治過程でわかってきました。

 仮に高市政権が誕生していなかったらと思うと、ぞっとします。いつの間にか日本は外国勢力に乗っ取られそうになっていたのです。浸透工作によって崩壊寸前の危機に瀕していたのです。平和ボケした日本人は淘汰される運命にあったかもしれませんし、日本という土地に住むことはできても、縮こまって社会の片隅で生きていかなければならなくなっていたかもしれません。

 日本や日本人の生活が脅かされないために、国民はいまこそ、政治に関心を持ち、高市内閣が進める改革を見守っていく必要があるでしょう。

 高市首相は内閣発足と同時に、次々と改革政策を打ち出しています。いずれもしっかりと考え抜き、練り上げられた政策です。激動する世界情勢を踏まえ、大国に挟まれた地政学的難題、少子高齢化など、日本に特有の大きな課題に真摯に向き合う姿勢を見せているのです。

 積極果敢に政策を推し進める一方、高市首相は、「国家国民のため、政治を安定させる。政権の基本方針と矛盾しない限り、各党からの政策提案をお受けし、柔軟に真摯に議論し」、「国民の皆様の政治への信頼を回復するための改革にも全力で取り組んでまいります」と述べています。

 是々非々で他党とも連携し、日本や日本国民のために尽力していくと宣言しているのです。これまでのどの党首にも見られない謙虚な態度には驚きました。

 これでは人気がでないはずはありません。

■高市政権への高い支持とマスコミによる印象操作

 高市内閣の人気は世論調査にはっきりと表れていました。

 高市内閣発足時の支持率は68%(10月25、26日に朝日新聞社が実施)でした。

 石破政権終盤の支持率は30%台後半で、24年10月に退陣した岸田政権の終盤の支持率は20%台でしたから、高市内閣の支持率は2倍以上にも及びます。高市政権に対する国民の期待がどれほど大きいものかがわかろうというものです。

 高市内閣の高い支持率に不安を覚えたマスコミが早速、工作を仕掛けました。

 2025年10月24日、日本テレビは、高市早苗内閣の支持率を示す折れ線グラフで、「支持しない」と答えた人は18%だったにもかかわらず、折れ線グラフの位置が36%付近を指すよう図を変えていました。日本テレビはミスだと認め、謝罪しました。正しくは、高市内閣を「支持する」と答えた人は71%、「支持しない」と答えた人は18%でしたから、グラフもそのように示さなければなりませんでした。

 ところが、グラウで18%を36%に置き換え、表現していたのです。気づいた視聴者がXで拡散し、大勢の人々が気付くことになりました。日テレとしては印象操作のつもりだったのでしょうが、国民の眼はごまかせません。Xで批判の声が寄せられ、慌てて訂正したという次第です。

 それで思い出すのが、時事通信のカメラマンの発言です。

 10月7日、自民党本部で高市早苗新総裁を取材するため、マスコミ各社の人員が待機していました。その様子をライブ配信するYouTube映像に、「支持率下げてやる」、「支持率下げるような写真しか出さねえぞ」といった音声が載ってしまったのです。この部分が視聴者によって切り取られ、SNSを中心に拡散されました。

 マスコミの報道現場から偏向報道の意向が伝わってしまったのです。批判の声が高まったのも当然でした。後に、この時、発言したのが時事通信のカメラマンだったことがわかりました。時事通信社は9日、同社所属カメラマンの発言であることを認め、当人を厳重注意処分にしたと発表しましたが、それだけで収束させています。

 この一件からは、一部のマスコミは日常的に報道内容に細工を加え、印象操作をしていたことがわかります。

 問題視されたのは、日テレの折れ線グラフの置き換えであり、時事通信のカメラマンの発言でした。いずれも言葉ではなく、図や写真、映像といった視覚的要素によるものでした。言葉や文字よりも画像や映像の方が端的に人々の脳裏に刻み込まれるので、印象操作するには効果的だったのでしょう。

 両マスコミの小細工はまさに、中国共産党統一戦線工作部が進めている心理・認知の領域への影響工作といえるものでした。

 その後、高市政権への支持率はさらに上がっていきました。直近の調査では、高市内閣を「支持できる」という人は、先月の石破内閣の支持率と比較して38.3ポイント上昇し、82.0%にも達しました。一方、「支持できない」という人はわずか14.3%でした。

こちら →
(※ JNN世論調査、図をクリックすると、拡大します)

 政権発足直後の支持率としては2001年以降の政権で、小泉内閣に次ぐ2番目に高い数字です。ところが、自民党の支持率は28.9%にすぎません。高市内閣への評価は高くても自民党への評価は低いという結果がでたのです。高市内閣への支持率の高さは、高市首相への評価にほかならないことが明らかになりました。

 若者の支持が高いのも特徴の一つです。

 Studyplusトレンド研究所が、2025年10月末から11月初旬にかけて、学習管理アプリ「Studyplus」ユーザーの高校生・大学生8806人を対象に「高市新総理に関するアンケート」を実施しました。その結果、高市新総理を「応援したい」と回答した人は、なんと93.5%に達しました。「応援したい」と答えた人(8230人)にその理由を聞いたところ、「政治家として信頼できそう」が最も多く、次いで「女性として活躍しているのがかっこいい」という意見が目立ちました。
(※ https://news.yahoo.co.jp/articles/c4e23e3d26949278e0cb12aecdd4e2a64183326d)

 若者の支持率が高いという調査結果からは、高市内閣が長期政権になる可能性が高いことが示唆されています。それだけに今後、外国勢力の影響を受けた政治家やマスコミ、既得権益層からの妨害がより一層、激烈なものになっていくことでしょう。

 高市内閣が目指す改革がスムーズに進むよう、国民はメディアリテラシーを高め、印象操作に気をつけながら、温かく見守っていく必要があるでしょう。
(2025/11/09 香取淳子)

JICAホームタウン事業は、IOM由来の構想か?

■日本企業の関心を高めたTICAD9

 2025年8月20日から22日まで、第9回アフリカ開発会議(TICAD9)が横浜市で開催されました。TICADとは、日本が主催するアフリカの開発をテーマとする国際会議です。今回は、セミナー開催やブース展示への企業からの応募が多く、早々に募集を締め切ったといわれています。

 日本企業のアフリカに対する関心は、飛躍的に高まってきているのです。

 第1回アフリカ開発会議(TICAD1)が開催された1993年、当時のアフリカの人口は7億人でしたが、2025年には倍増し、名目GDPも4.5倍になりました。今後も、人口増加、経済成長が続く見込みです。

 当初は開発や援助を目的に始まったTICADでしたが、徐々にビジネスにも注目されるようになり、いまや数多くの日本企業が関連イベントに参画するようになっています。ジェトロはTICAD9期間中に、テーマ別イベントとして「TICAD Business Expo & Conference」を開催しました。「Africa Lounge」では、アフリカ各国が自国の投資環境やビジネス機会を紹介し、「Japan Fair」には過去最多となる約200社・団体(うち中小企業107社)の日本企業が参加しました。新たな試みとして、ポップカルチャーのテーマ展示も行っています。(※ https://www.jetro.go.jp/biz/areareports/special/2025/0601/367cee2c7426309d.html

 2024年のTICAD閣僚会合および第9回アフリカ開発会議(TICAD 9)のパートナー事業は以下の通りです。

こちら → https://www.mofa.go.jp/mofaj/af/af1/pagew_000001_00685.html

 2024年6月18日から2025年12月7日までの事業内容を見ると、多種多様なビジネスに関わる企画で、セミナーやイベントが開催されていることがわかります。

 TICAD9期間中には、アフリカから49カ国の代表、国際機関の代表などが、これに参加しました。本会合では、アフリカ連合(AU)議長国アンゴラのジョアン・ロウレンソ大統領と石破茂首相が共同議長を務め、「革新的な課題解決の共創、アフリカと共に」というテーマの下、官民連携や若者・女性のエンパワーメント、地域統合・連結性などについて議論しました。
(※ https://www.jetro.go.jp/biznews/2025/08/d5aea3529df13834.html
 
 TICAD9期間中に石破総理大臣は、アフリカ各国首脳や地域機関・国際機関の代表等と計34件の会談を実施し、岩屋毅外務大臣は、アフリカ各国の閣僚や地域機関・国際機関の代表等と計30件の会談を実施しました。

 TICAD9が政財官をはじめ、大学、企業、各種団体を巻き込む大きなイベントだったことがわかります。日本のアフリカへの期待がそれほど大きいものだったともいえます。

 ちなみに、2025年は、日本主催のTICADばかりか、大阪・関西万博が開催される貴重な年です。アフリカの政財界から要人が来日し、併せて開催されたビジネスフォーラムや投資セミナーには、アフリカのビジネスパーソンが多数参加しました。アフリカビジネスに関心を持つ日本企業にとって絶好の機会になっています。

 大阪には、ナショナルデーに合わせて、各国の要人が来日しました。その機会を捉え、万博会場でもビジネスフォーラムやセミナーが開催されました。日本とアフリカの経済交流が促進され、この1年は日本企業のアフリカビジネス拡大に向けた取り組みが充実することでしょう。
(※ https://www.jetro.go.jp/biz/areareports/2025/3cce223b9cc3eb1f.html

 それでは、アフリカでのビジネスの現状はどうなのでしょうか。

■アフリカに進出した日本企業の現状

 ジェトロが2024年12月に発表した「2024年度進出日系企業実態調査(アフリカ編)」によると、アフリカに拠点を構える日系企業のうち、黒字を見込む企業はアフリカ全体で前年比1.4ポイント増の59.8%で、比較可能な2013年以降の最高を更新したことが報告されています。

 この調査結果は、「営業黒字の比率が過去最高」、「投資環境に課題も」、「事業拡大意欲は高い」といったキャッチーな見出しの下、以下のように要約されています。

こちら →
(※ 『2024年度海外進出日系企業実態調査|アフリカ編』、2024年12月12日、p.2、図をクリックすると、拡大します)

 TICAD9で注目を集めた「投資」については、投資環境の魅力として、「所在国の市場規模と成長性」があげられ、課題として「規制・法令の整備、運用」がそれぞれ増加し、最多になっています。

 市場規模やその成長性などが魅力だとしながらも、まだ、制度整備が整っておらず、課題もあるという認識です。

 具体的には次のようにまとめられています。

こちら →
(※ 前掲。p.31、図をクリックすると、拡大します)

 投資環境面での課題として、「規制・法令の整備、運用」の面では、「行政手続きの煩雑さ」が前年と同様、最大の73.7%でした。まだ制度整備が改善されていないということになります。

 「財政・金融・為替面」の面では、前年と同様、「不安定な為替」が約7割でトップでした。さらに、「不安定な政治・社会情勢」でも、前年と同様、「政治リスク」と「治安」が多いと認識されていました。イスラエル・ハマスの衝突やフーシ派の攻撃の影響などが不安材料として数多く挙げられていました。

 企業活動に関する環境については、具体的に次のようにまとめられていました。

こちら →
(※ 前掲。p.32、図をクリックすると、拡大します)

 たとえば、「インフラの未整備」では、前年と同様「電力」が最大で81.7%、「雇用・労働の問題」でも、前年と同様「人材の確保」が69.3%で最大でした。現地で企業活動を展開するには、基本となる電力の安定供給や人材の確保に大きな問題があるようです。

 そればかりではありません。通関に関する制度整備がまだ整っていないようです。「貿易制度面」については、「通関等諸手続きが煩雑」が61.1%、次いで「通関に時間を要する」が59.7%でした。

こうしてみてくると、アフリカは最後のフロンティアといわれながら、実際に現地で企業活動を展開するには、まだ整備されていない部分があることを認識しておかなければならないことがわかります。

 日本企業が危惧しているのは、治安リスクです。

こちら →
(※ 前掲。p.37、図をクリックすると、拡大します)

 多くの日本企業が、アフリカに地政学上の課題を感じていることがわかります。企業活動に、「大いに影響がある」と「やや影響がある」の合計は86.4%にも達していました。

 政治的対立や紛争にも危惧を覚えていました。とくに、イスラエルとハマスの衝突や紅海でのフーシ派の攻撃を心配した企業が多くみられました。その一方で、2022年に始まったロシアによるウクライナ侵攻の影響があると回答した企業も多く、改めて、アフリカには地政学的課題が多いことが思い知らされます。

 たしかに私もこれまで、アフリカには、貧困や紛争、未開といったイメージが強く、よほどの冒険家でもない限り、あまり関心を抱くことはないだろうと思っていました。ところが、ジェトロの報告を読んでいくと、多くの日本企業がアフリカに商機を見出していることがわかりました。

日本企業が今後も生き延びていくために、地理的にも心理的にも遠いアフリカに、進出せざるをえなくなっているのです。

■市場としてのアフリカ

 アフリカで最も人口の多いのがナイジェリアで、すでに2億2000万人を超えています。25年後には現在の1.6倍に増えてアメリカを抜き、インド、中国に次ぐ世界第三の人口大国になると予測されています。

こちら →
(※ 2024年8月26日、日経新聞より。図をクリックすると、拡大します)

 人口規模からいえば、世界の4分の1を占める巨大な市場になるのです。しかも、若年人口の層がきわめて厚く、2025年の年齢中央値が19.3歳です。若くて体力のある年齢層が、労働力の中心になっていくのです。となれば、社会が活性化し、若者によって消費が促進されるのは必然でしょう。

 労働力不足や消費の低迷にあえぐ日本企業が、このナイジェリアをはじめとするアフリカ市場に活路を見出そうとするのは当然のことでした。

 たとえば、日本企業約200社と団体が、TICAD Business Expo & Conference (TBEC)に出展しました。これらの企業はTICAD9を契機に、日本の技術やサービスこそアフリカの発展に貢献できるとアピールし、ビジネスチャンスにつなげようとしていました。

 その結果、日本企業とアフリカとの間で、過去最大の324件の署名文書が交わされました。前回のTICAD8時の92件を大きく上回るものでした。
(※ https://www.meti.go.jp/press/2025/08/20250822001/20250822001-2.pdf

 改めて、日本企業が大きく動きはじめていることがわかります。膨大な若い労働力と豊富な鉱物資源に支えられた、アフリカ市場の潜在力に反応しつつあるのです。アフリカの経済成長力と鉱物資源は、日本の経済安全保障上も揺るがせにできないものでした。

 とはいえ、手放しでアフリカ市場に期待していいものなのでしょうか。

 ふと思い出したのが、さきほどご紹介したように、アフリカに進出した企業の約7割が、今後の課題として「人材確保」を挙げていたことでした(※ 前掲。p.32)。現地で雇用しようと思っても、必要な人材を確保できないのです。

 若い人口が多いとはいえ、果たして日本企業が求める要件を満たしているのかどうかは疑問なのです。

■アフリカの人口事情

 “The Economist”によると、大陸外に暮らすアフリカ出身の移民は少なくとも2000万人に達し、1990年の3倍に増加したそうです。この数は、インド人や中国人の移民の人数を上回っているといいます。(※ 日経新聞、2025年5月6日)

こちら →
(※ 前掲。図をクリックすると、拡大します)

 アフリカ系移民のおよそ半数は欧州に住んでいますが、90年以降、移民に対する反発を受けて低下し、米国、中国、サウジアラビア、トルコなどでアフリカ系移民の数が急増しています。

 一般に、先進国では労働年齢人口(15歳から64歳)が減少し、労働力不足が深刻化すると予測されています。その一方で、これまで「労働力輸出国」と見なされてきたメキシコやフィリピンでも、人口が高齢化し、所得水準が上がるにつれ、国外移住する人の割合が小さくなっています。

 いまやアフリカだけが、2050年までに労働年齢人口が約7億人も増加すると予測されているのです。

 多くのアフリカ諸国では、人々はいまだに貧しく、海外への移住を望んでいます。アフリカ諸国では、労働人口は増えていますが、彼らを受け入れるだけの雇用の場がなく、必要な数のわずか約5分の1しか就労できないからです。

 つまり、アフリカでは、労働年齢人口が激増しているにもかかわらず、国内に雇用の場がなく、生きていくには海外に出ていかざるを得ないというのが現状なのです。若くて才覚があり、渡航費を負担できる人々はすでに外国に移住していました。

 残されたのは、若くても才覚がなく資力もないような人々でした。ジェトロの調査によると、アフリカに進出した日本企業が課題として挙げていたのが、「人材の確保」でした。アフリカには確かに若い労働力が多いのですが、彼らのほとんどは日本企業が求める要件を満たすような人材ではなかったのです。

 気になるのは、国際移住機関(IOM)のエイミー・ポープ事務局長の発言です。

■IOMエイミー・ポープ事務局長、アフリカからの移民を推奨

 TICAD9に出席するため来日したIOM(the International Organization for Migration、国際移住機関)のエイミー・ポープ(Ms. Amy E. Pope)事務局長は、8月20日、横浜市内で毎日新聞の取材に応じ、次のような発言をしています。

 「少子高齢化と深刻な労働力不足に直面する日本のニーズと、若年層の雇用創出が課題のアフリカ諸国のニーズとは合致している」と述べ、「働き手の公正な待遇と報酬を確保し、コミュニティーの一員として参加できる環境を整えることが不可欠だ」と訴えていました(※ 毎日新聞、2025年8月21日)。

 驚いたことに、IOMの事務局長が、日本の労働力不足対策として、アフリカからの移民を押し付けてきているのです。それも、単にアフリカは人口が増加し、日本は逆に人口が減少しているといった現象だけを踏まえ、ただ数字合わせをしたにすぎないような対策です。

 しかも、「働き手の公正な待遇と報酬を確保し、コミュニティーの一員として参加できる環境を整えることが不可欠だ」と受け入れ条件にまで言及しています。まるでJICAのアフリカ・ホームタウン事業を彷彿させるような内容の提言をしているのです。

 日本が労働力不足に陥っていることは確かですが、その不足分をアフリカからの移民で補えるとは考えられません。実際、アフリカに進出した日本企業の多くが、アフリカでの「人材獲得」には課題があると指摘していました。単なる数合わせで労働力不足は解決できないことは歴然としているのです。

 ところが、国連機関の一部であるIOMの事務局長エイミー・ポープ氏は、日本の労働力不足はアフリカからの移民によって補うべきだといい、乱暴にも日本の社会政策に介入してきているのです。

 毎日新聞のインタビューに答えた翌8月21日、ポープ氏はIOM主催でJICA共催のイベント、「人の移動がつなぐ、アフリカ人財と日本企業がともに拓く未来」に参加し、基調講演を行いました。

こちら →
(※ IOMよりXへの投稿。図をクリックすると、拡大します)

■「人の移動がつなぐ、アフリカ人財と日本企業がともに拓く未来」

 このシンポジウムの前提として、次のような見解が示されています。

 まず、「日本における外国人労働者は230万人で過去最高を記録しているが、2040年には、現在日本で暮らす外国人住民数のほぼ倍の688万人の外国人労働者が必要になる(JICA緒方貞子平和開発研究所の推計)。国籍別の移住労働者の数は、アジア諸国が上位を占め、日本におけるアフリカからの人材活用は、非常に限られている」と述べています。彼女の日本についての現状認識です。

 次いで、「アフリカ大陸は今後人口増加が見込まれる唯一の地域であり、若い才能にあふれている。近年では、アフリカ人によるスタートアップ企業の創設も増加しており、アフリカの成長への注目が世界的に増している」と述べ、アフリカの今後に対する展望が示されています。

 そして、「日本が長年にわたり続けてきた、アフリカ地域への産業人材育成の経験を活かし、アフリカにとっても日本にとってもウィン・ウィンとなるような人の移動や人材への投資の可能性は大きい」と日本からの投資を奨励しています。

 シンポジウムの登壇者は、カーフア・トーファス(駐日ウガンダ共和国大使)、メリエム ボウホウト(横河電機株式会社アフリカビジネス推進センター事業開発マネージャー)、宍戸健一(JICA理事長特別補佐)、宮城勇也(株式会社NINAITE取締役事業本部長)、椿 進(Asia Africa Investment and Consulting(AAIC)ファウンダー/代表パートナー)など、アフリカの政府、日本の企業、JICA、JICA傘下のNGO団体、シンガポールの金融コンサルタントです。

 シンポジウムは、日本企業がアフリカ人を雇用することによって、日本にとっては経済が活性化するメリットがあり、アフリカには、①日本で雇用されたアフリカ人が稼いだお金を母国へ送金することによる経済効果、②日本で培った経験やスキルをアフリカで利活用し、社会経済の発展につなげる、③アフリカと日本を「環流」する人々を通して、アフリカの持続的な開発に貢献できる、④日本での雇用経験が、人材育成に寄与し、アフリカの将来を担う人材の向上を図る、などのメリットがあるという観点で構成されていました。

 アフリカ人労働者の権利保護や、共生社会への実現にむけた日本社会の変容、円滑な統合を進める上での課題についても考えていく必要があるとしています。
(※ https://japan.iom.int/event/TICAD9_sympodium

 シンポジウムの内容は、このように日本企業の労働力不足の現状を踏まえ、日本企業がアフリカ人を雇用することによる双方のメリットをアピールするものでした。パネリストの人選もその内容に見合っています。

 基調講演を行った後、ポープ事務局長は、岩屋毅外務大臣と会談しています。岩屋大臣が、世界の人道状況の改善に、IOMと共に取り組んでいきたいと述べると、これまでの日本の協力を感謝しており、人道危機への対応において今後も引き続き協力を求めていると応答しています。その後、行われたのが、アフリカの各地と日本の民間セクターとの連携についての意見交換でした。
(※ https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/pressit_000001_02615.html

 このような経緯をみると、岩谷大臣とポープ事務局長との対談は予め、セッティングされていたように思えます。TICAD9開催の前に、日本政府とIOMのポープ氏はおそらく、日本企業によるアフリカ移民の受け入れについて話し合い、何らかの約束をしていたのでしょう。

 果たして、エイミー・ポープ氏とはどういう人物なのでしょうか。

■米民主党政権下で要職を務め、女性初のIOM事務局長へ

 調べてみると、ポープ氏は2023年10月、女性として初めてIOMの事務局長に就任した人物でした。IOMに着任する前は、バイデン米国大統領の下で移民問題担当上級顧問、オバマ大統領の下では国土安全保障担当副大統領補佐官を務めていました。民主党政権下で要職に就いていたのです。

 ホワイトハウスでの在任中、ポープ氏は移民問題に対処するための包括的な戦略を策定し、実施してきました。移民問題の専門家として学術論文を執筆したり、チャタムハウス(Chatham House、イギリスのシンクタンク)で活動したり、世界の移民問題に関する課題に取り組んできました。また、米国司法省や米国上院で役職を務め、ロンドンに拠点を置く法律事務所シリングスのパートナーを務めたこともあります。

 このような経歴をみると、彼女は確かに移民問題の専門家であり、その知見を活かして米国の行政にかかわるようになったことがわかります。そのようなキャリアを経て、いまや国際移住機関の事務局長として、他国に介入して移民政策を奨励するまでになっているのです。

 ところが、日本ではいま、移民に対する抗議行動が高まり、JICAはアフリカ・ホームタウン事業を撤回せざるを得なくなってしまいました。ポープ氏のプランが座礁しかかっているのです。

 ポープ氏は、再び、日本企業にアフリカ移民の受け入れを迫っています。

■競争政策の一環として、移民の受け入れを

 国連機関のひとつであるIOMは、これまで一貫して、合法的な移民を推進してきました。TICAD9に参加したポープ氏は、シンポジウムで基調講演を行い、岩屋外務大臣とも面談してきました。首尾よく日本企業や政府を取り込み、日本のアフリカ移民の受け入れは万全だと思ったことでしょう。

 ところが、アフリカ・ホームタウン事業への抗議行動が高まり、収拾がつかなくなりました。JICAは結局、9月25日にはこの企画の撤回を発表しました。ポープ氏にとっては予想もしない出来事だったにちがいありません。

 2025年10月2日、日経新聞は次のようなポープ氏の見解を紹介しています。

 「日本はまさに人口動態上の課題に直面している。急速に高齢化している。同時に、日本がこれまで競争力を培ってきたあらゆる分野において需要を満たす労働力がなければ、日本は競争力を失う。外国人材の受け入れへの国民の支持を失うリスクとは、今後数年間における日本の経済的優位性を損なう可能性があるということだ」

 アフリカ移民を受け入れなければ、日本は早晩、経済的優位性を失うと警告しているのです。

 そして、「TICAD9では高技能者、低技能者、その中間の技能者など、あらゆるレベルのアフリカ人労働者を採用する必要があるという日本企業の声を何度も耳にした」と述べる一方、「アフリカでは雇用機会が不足しており、現地には非常に高い教育を受けた若者層が存在する。こうした若者が日本で働ける方法を見つけることは賢明な投資だ」と日本企業の支援を要請しています。

 アフリカには高学歴の若者が多数いることを強調し、日本企業の懸念を払しょくしようとしているのです。

■JICAホームタウン事業は、IOM由来の構想か?

 ポープ氏は、これまで移民の受け入れに関してはもっぱらメリットを強調していましたが、この記事では、移民の受け入れに伴うデメリットにも触れています。

 「カナダやオーストラリアなど移民大国で大きな問題となったのは住宅だ」といい、「日本の成長に必要な外国人材の受け入れを拡大するには、言語や文化の相互理解ばかりでなく、住宅への対応が必要」と述べているのです。

カナダはこれまで、経済成長と人手不足対策として移民に依存してきました。まさに、IOM事務局長のポープ氏にとっては理想的な国でした。

 1970年代初頭以来、カナダは移民を擁護し、「多文化主義」を推進してきました。ところが、移民が急増すると、家賃が高騰し、医療などのサービスが逼迫してきて、デメリットが目立つようになりました。その結果、「国民感情は悪化し、次の選挙で勝機が脅かされかねない状況」となり、移民受け入れにブレーキをかけざるをえなくなりました。(※ Steven Scheer、トムソン・ロイター、2024年2月23日)

 世論調査の支持は大幅に下がり、2025年1月6日、カナダのトルドー首相は、自由党の党首と首相の職を辞任すると表明しました。9年間にわたって国を率いてきましたが、退陣を求める声が与党内で大きくなり、辞任せざるをえなくなったのです。(※ https://www.bbc.com/japanese/articles/c89x4pq2glqo)

 ポープ氏は、このようなカナダのケースを踏まえ、移民を受け入れるには住宅対策が必要だと述べているのですが、ロイターやBBCの報道を見ると、事態は深刻でした。

 カナダは移民を大量に受け入れてきた結果、家賃や住宅価格の高騰を招いたばかりか、医療など基本的なサービスが悪化し、政権が崩壊してしまったのです。トルドー前首相はこれまでの移民政策は失敗だったと認めています。

 移民政策そのものに問題があったのではないかと思われますが、ポープ氏は、移民の受け入れに必要な住宅対策を怠ったからだと認識しています。

 彼女は、国連加盟国、民間セクター、市民社会組織、すべての関係者との連携が、移民の力を活用する鍵であると強く信じています。その一方で、社会体制は現実の社会に適応する必要があると認識し、移民のニーズを優先する包括的な解決策を支援してきました。(※ https://jp.weforum.org/stories/authors/amy-pope/

 だからこそ、日本に対しても、「言語や文化の相互理解といったソフト面だけでなく、住宅などハード面の対応も必要」だと提言するのです。

 JICAがアフリカのホームタウンに認定したのは、地方の4つの市でした。人口が減り、高齢者の比重が高くなっている地域です。これらの地域では、今後さらに人口が減って、住宅価格が低下するのも目に見えていました。

 小さな地方の自治体の不安につけ込むように、アフリカ・ホームタウン事業が立ち上げられました。

 JICAは、「ホームタウン」というネーミングでアフリカの若者立ちの関心を呼ぶ一方、受け入れ側には人口減の穴埋め、労働力不足の解消といったメリットをアピールしていたのでしょう。

 「ホームタウン」という言葉の持つ実質的価値、機能的価値、そして、シンボリックな価値が渾然一体となって、双方の人々の気持ちに刺さりました。訴求力が強すぎた結果、アフリカ・ホームタウン事業は撤回せざるをえませんでしたが、そもそものアイデアはIOMのポープ氏の考え方に基づいたものではなかったかという気がしています。
(2025/10/4 香取淳子)