ヒト、メディア、社会を考える

2015年

回顧2015:パリ同時テロに見るグローバル時代の都市セキュリティ

 この一年を振り返ってみて、大きな衝撃を受けたのがパリ同時テロ事件でした。犯行グループ3チームが30分間に7カ所も襲撃するという事件に、9.11を連想してしまうほどの衝撃を受けました。襲撃されたのは、サッカー競技場、レストラン、ライブ演奏が行われていた劇場です。いずれも市民にとっては生活の場であり、楽しみの場でした。それが突如、銃撃犯に襲われたのです。

 改めてこの事件を振り返り、グローバル時代の都市セキュリティについて考えてみたいと思います。

■生活の場での惨劇
 2015年11月13日午後9時過ぎ、パリで同時テロが発生しました。私はまず、インターネットでこのニュースを知りました。その後、次々と犠牲者の数が増えていきます。テレビをつけると、タンカーで運ばれる人、座り込んでいる人、血を流している人、・・・、大変なことが起きていました。もし、私がその場にいたら・・・と、ぞっとしてしまいます。でも、ありえないことではありません。今回のような都市をターゲットにした無差別攻撃では誰もが犠牲者になりうるのです。理不尽にも命を落とされた方々、そのご家族、友人、知人の方々はどれほど悔しく、無念の思いに駆られていることでしょう。現場では大勢の人々が黙とうをささげました。

 私もこの場で犠牲になられた方々に追悼の意を表したいと思います。

 11月15日、時事通信は14日に行われたパリ検察の記者会見に基づき、犯人たちはわずか30分間に7か所を襲撃したと伝えています。被害現場は、サッカー競技場、パリ10区のレストラン、パリ11区のレストラン、そして、コンサートが開催されていたバタクラン劇場でした。実行犯は3つのチームに分かれ、競技場とレストラン、劇場をそれぞれ襲撃したようです。

 もっとも被害が大きかったのが、バタクラン劇場でした。当時、アメリカのロックバンドのライブが行われていたようです。そこに武装集団が乱入し、カラシニコフで観客をめがけて乱射したばかりか、人質を取って立てこもったそうです。パリ検察のモラン検事によると、テロによる死者は129人、負傷者は352人だということです。また事件現場で死亡した犯人は8人とされてきましたが、検事は7人だったと説明したそうです。

 現場はかなり混乱していたでしょうから、数字に多少の誤差はあるでしょうが、犠牲者は相当な数になりです。戦時下でもないのに、これほど多数の人が一度に殺されてしまうとは・・・。

 11月14日付の産経新聞によると、当時サッカー競技場ではフランスとドイツの親善試合が行われており、フランスのオランド大統領とドイツのシュタインマイヤ―外相が一緒に観戦していたといいます。13日午後9時20分、この競技場のゲート付近でも爆発があったそうです。

■その後の対応
 オランド大統領は急きょ、閣僚会議を開いて非常事態宣言をし、国境を封鎖しました。欧州諸国間の自由な移動を認めたシェンゲン協定に従って廃止していた出入国管理を復活させたのです。欧州26か国が締結するこの協定はEUを支える基盤の一つでした。ですから、この協定が崩壊すれば、単一通貨ユーロが意味をもたなくなり、EUの崩壊にもつながりかねない重大な事態です。

 AFPは11月14日、Islamic State(IS)がネット上に犯行声明を出したと報じました。ISは声明で「爆発物のベルトを身に着け、アサルトライフルを持った8人の兄弟たちが、十字軍フランスに聖なる攻撃」を実行したとネットに投稿したのだそうです。

こちら →http://www.afpbb.com/articles/-/3066679

 フランスがISの支配地域で行っている空爆を非難し、「(イスラム教徒に対する)十字軍の作戦を継続する限り」さらなる攻撃を実行すると警告しているそうです。

 ちなみにフランスは米国主導の有志連合によるISへの空爆に参加しています。2014年9月19日、フランス人男性がISによって殺害されたのを機に仏軍は空爆に参加したのです。

こちら →
http://www.newsdigest.fr/newsfr/actualites/pick-up/6705-france-launches-first-air-strikes-against-islamic-state-militants.html

 この経緯を見ただけで、暴力が暴力の連鎖を生み出していることは明らかです。実際、パリ同時テロ以降、有志連合の空爆に拍車がかかっています。これ以上、暴力を行使することなく、平和な関係を築くことはできないのでしょうか。

■テロをなくすことはできるか?
 平和外交研究所代表の美根慶樹氏はテロ対策として、①対応力の強化、②若者のIS参加の歯止め、③ISへの資金流入の遮断、④ISへの武器流入の制限、等々をあげています。

こちら →http://toyokeizai.net/articles/-/93246

 ISへのヒト、武器、金の流れを断つ一方、各国がテロへの対応能力を高めるとともに、国際刑事警察機構(INTERPOL)を通した国際協力の強化が必要だというのです。

 トルコのアンタルヤで開催された主要20か国首脳会議(G20アンタルヤサミット)では、11月16日、「全人類に対する容認できない侮辱」であり、「テロはいかなる状況でも正当化されない」とし、テロ撲滅のための特別声明が採択されました。

 外務省は総論(6)の(ア)で日本の立場を説明しています。

こちら →http://www.mofa.go.jp/mofaj/ecm/ec/page4_001554.html

興味深いのは、若者のIS への参加について、美根氏が以下のように書いていることです。

「欧州では一般に若者の失業率が高く、移民の状況はさらに深刻だと指摘されている。しかも、最近は難民の大量流入が各国で問題となり、その排斥を叫ぶ右翼政党が議席を増やす傾向にある。そうなると移民に対する偏見や差別はますますひどくなり、社会問題が深刻化する。そこがISにとって付け目であり、不満な若者をISの戦士としてリクルートしやすくなるという構図になっている」(前掲URLより)

 こうしてみると、どうやら経済の問題がその根底にあるといえそうです。働きさえすれば、誰もが生活できる状況を生み出していくことこそが、長期的にみて暴力の連鎖に歯止めをかけることができる対策の一つといえるのかもしれません。

 いずれにしても、この問題には政治、経済、社会の歪みが凝縮して現れており、一筋縄では解決できないことは確かでしょう。犯行者側にも言い分がありますから、今後も類似事件が発生する可能性はあります。ただ、理不尽に命を絶たれてしまう悲劇を減らすために、何かいい方法はないものでしょうか。

■グローバル時代の都市セキュリティ
 グローバル化に伴い、都市空間は今後ますます見知らぬヒトのるつぼとなっていくでしょう。そうなれば、ヒトの目だけではなく、カメラの目も借りなければ安全の確保には至らない状況が生まれてくるにちがいありません。

 思い起こせば、日本が鎖国をしていた江戸時代、海外からのヒト、モノ、情報は長崎の出島で一元管理されていました。そして、江戸に至る諸街道の関所では、「入り鉄砲に出女」に注意してヒトの出入りが取り締まられていました。江戸に武器が入ることと、江戸から諸大名の妻女(いわば人質)が出ていくことがチェックされていたのです。諸大名の謀反を防ぐため、参勤交代とセットで施行されていた制度でした。為政者にとってのセキュリティはこのような形で制度化されていたのです。

 いま多くの国が民主主義体制を取るようになり、ヒト、モノ、情報が自由に流通するようになりました。ICTの進展によってそれがさらに加速しています。このような情報機器の進展に合わせるように、為政者側は産業スパイ、テロなどを警戒して情報監視を制度化しています。

■US Freedom Act
 たとえば、アメリカのNSA(National Security Agency)は電子機器を使って情報収集し、分析した結果を随時、政府に報告していました。もちろん、秘密裡に行われていたのですが、契約社員のエドワード・スノーデン氏が2013年6月、NSAの諜報活動を英米紙に暴露したのです。NSAが米通信会社の通話記録、インターネット企業の電子メールや画像などから、敵対国だけではなく同盟国の政府要人や個人の情報まで収集していたことが明らかになって、大きな議論が巻き起こりました。

 スノーデン事件を受け、2015年6月2日、米議会上院はNSAによる通話記録の大規模収集を禁じる法案(USA Freedom Act)を賛成67、反対32の大差で可決しました。すでに下院は可決していましたから、オバマ大統領は上院の可決後すぐに署名し、この法律が成立したという経緯がありました。

こちら →
http://www.usatoday.com/story/news/politics/2015/06/02/patriot-act-usa-freedom-act-senate-vote/28345747/

 USA Freedom Actの成立によって、NSAの情報監視活動に制限が加えられたのです。

 その後、パリ同時テロが起こりました。ですから、パリ同時テロ事件に際し、スノーデン氏のせいでテロを未然に防げなかったとやり玉にあげ、USA Freedom Actの施行延期を要請するむきもあります。

こちら →https://www.rt.com/usa/322508-nsa-bill-delay-freedom-act/

 ただ、このような動きに対し、たとえば、ザ・ニューヨーカーのスタッフライター、エミー・ディヴィッドソンは、「パリ襲撃のせいでエドワード・スノーデンを責めるな」というタイトルの記事を書いています。

こちら →
http://www.newyorker.com/news/amy-davidson/dont-blame-edward-snowden-for-the-paris-attacks

 とくにCIA関係者などからスノーデン氏への批判が集中していることを踏まえ、これはCIAのブレナン長官らがスノーデン事件から何も学ばなかったことが示されているとし、今回の件で彼らが無力であったとしても、その責任は彼ら自身にあり、スノーデン氏のせいではないとの認識を彼女は示しているのです。

■都市セキュリティと監視カメラ
 このように、情報監視こそテロ対策だと考える人々がいる一方で、それはテロ対策にはならないばかりかプライバシーを侵害すると考える人々がいます。後者は、通話記録、メール等の大規模収集はプライバシーの侵害であり、成熟した民主主義国家が行うことではないという見解です。たしかに、情報監視は監視者側に多大な力を与えますし、目的外使用される可能性を考えれば、民主主義体制を破壊しかねい危うさがあります。

 実は、パリ同時テロ直前の11月12-13日、私は東京国際フォーラムで開催された「C&Cユーザーフォーラム&Iexpo2015」に参加していました。どのような先進技術が開発されているのか興味があったので行ってみたのですが、セキュリティに関してもICTを活用した機器が種々、考案されているようでとても興味深く思いました。

 監視カメラの技術も相当、高度なものになっていました。海外から多数のヒトが参加する2020年のオリンピック開催を視野に入れた技術動向なのかもしれません。駅、公共施設、広場など多数のヒトが集まる空間の安全をICTの利活用によって確保しようというのです。

 自動的に異常を検知する映像解析技術、さらには、個人ではなく群衆行動を解析する技術、等々が高度化すれば、混雑した中でもある程度、不審な動きはキャッチできるようになるでしょう。すでに群衆行動を解析する技術は開発されているようです。

こちら →http://jpn.nec.com/rd/innovation/crowd/index.html

 考えてみれば、最近の事件の多くが監視カメラによって犯人が特定され、解決に至っています。ですから、カメラによって自動的に異常を発見でき、瞬時に警戒態勢を取ることができれば、パリ同時テロなどの事件によって多くのヒトが犠牲になることを防げる可能性があります。

 グローバル化が進み、ヒトの移動が激しくなるにつれて、多様なヒトが多数集まる都市のセキュリティが重要になってくるでしょう。多様性の中では異質性が見逃されやすく、テロ等の犯行も容易になるからです。いまは国境を超えた移動も簡単になっていますから、逃亡もしやすい。しかも、大勢のヒトが犠牲になれば、グローバルに関心を集めますから、犯行グループは声高に主張をアピールすることができます。これまで以上に都市のセキュリティが脅かされていると考えた方がいいでしょう。

 監視カメラを設置すれば、犯行を抑止することができますし、事件があれば犯人特定に貢献できる確率が高くなりますが、その一方で、プライバシーが侵害されるという側面があります。それでも、安全とプライバシーとどちらを優先するかといえば、安全を選択するヒトが今後、増えていくでしょう。

 NSAが行ってきたような電話記録やメールや画像の収集は許せなくても、街頭やビル等へのカメラの設置は受け入れられやすいと思います。電話やメールはヒトの考えや意識の反映であり、プライバシーそのものですが、カメラ画像はヒトがその時間、その場にいるという記録でしかありません。プライバシーの侵害の度合いが低いという点で、安全と天秤にかけた場合、監視カメラの方が許される確率は高くなるような気がします。

 グローバル化が進む一方、ヒトとの絆が弱くなった現代社会では、社会の安全すらICTの利活用に依存しなければならなくなっているようです。

 来年こそはより平和な社会になり、人々が穏やかに生活できるような変化が起こることを祈りつつ、今年を終えたいと思います。(2015/12/31 香取淳子)

回顧2015:ノーベル賞ダブル受賞に見る日本の生活文化

 今年もいよいよ残すところあと1日、悲喜こもごも、さまざまなことがありました。もっとも印象に残っているのが、大村智氏と梶田隆章氏のノーベル賞ダブル受賞です。このニュースに接したとき、近来になく、晴れやかで心豊かな気持ちになりました。十月初旬、立て続けに発表されたニュースに接したときの印象を思い起こし、お二人の業績を振り返ってみたいと思います。

■大村智氏の受賞
 2015年10月5日、北里大学特別栄誉教授の大村智氏がノーベル医学生理学賞を受賞したというニュースが飛び込んできました。スウェーデンのカロリンスカ研究所が2015年のノーベル医学生理学賞受賞者として、北里大学・大村智特別栄誉教授(80歳)、米ドリュー大学・ウィリアム・キャンベル博士(85歳)、中国中医学院・屠呦呦主席研究員(84歳)の三氏に決定したと発表したのです。

 さっそくネットで調べてみました。

 大村氏とキャンベル氏は「寄生虫によって引き起こされる感染症の治療に役立つ新薬Avermectinの発見」、屠氏は「マラリア治療に効果のある新薬Artemisininの発見」が評価され、受賞が決定されました。いずれも開発途上国で脅威となっている感染症対策に役立つ研究です。

こちら →http://www.nobelprizemedicine.org/

 カロリンスカ研究所が用意した報道用資料には、受賞対象となった三氏の研究内容が簡単に紹介されています。

こちら →
http://www.nobelprizemedicine.org/wp-content/uploads/2015/10/Press_ENG.pdf

 開発途上国では寄生虫によって引き起こされる感染症がいかに多いか、それによって人々がいかに壊滅的な打撃を受けているか。上記資料の世界地図を見ると、青色で示されている部分があります。いまだに多くの人々がこの種の感染症の脅威に晒されている地域です。

 大村氏が土壌細菌から発見してキャンベル氏が開発したアベルメクチン(Avermectin)、そして、屠氏が発見したアーテミシニン(Artemisinin)が、これらの地域でいかに多くの感染症患者を救ったか。いずれの場合も驚くほどの画期的な治療効果をあげているのです。

 報道用資料を見ると、カロリンスカ研究所はこれらの研究を「人類への計り知れない貢献」だとたたえています。まさに科学が膨大な数のヒトの命を救っているのです。今回の受賞者たちは科学の本来あるべき姿の一つを示したといえるでしょう。

■微生物の力
 5日夜、北里大学薬学部で大村智氏の記者会見が開かれました。驚いたことに、大村氏は受賞を喜びながらも、次のようにいわれたのです。

「私の仕事は微生物の力を借りているだけのもので、私自身がえらいものを考えたり難しいことをやったりしたわけじゃなくて、全て微生物がやっている仕事を勉強させていただいたりしながら、今日まで来てるというふうに思います。そういう意味で、本当に私がこのような賞をいただいていいのかなというのは感じます」
(http://thepage.jp/detail/20151007-00000001-wordleaf?page=2より)

 なんと謙虚なのでしょう、絶え間ない努力と研鑽の結果、手にしたノーベル賞であるにもかかわらず、このような反応を示されたのです。終始、穏やかな笑顔で臨まれる大村氏のテレビ会見を見て、私は驚いてしまいました。

 大村氏は、日本には微生物をうまく使いこなしてきた歴史がある一方で、人のため、世のために働くという伝統がある、そういう環境の中に生まれてきたことが今回の受賞につながったといわれました。自然と一体化した生活文化、人のために尽くすという生活規範、そのような生活環境の中で生まれ育ったことがノーベル賞受賞につながったといわれるのです。

 さらに、次のようにもいわれました。

「北里柴三郎先生、尊敬する科学者の1人なんですが、とにかく科学者というのは人のためにならなきゃ駄目だ。(中略)ですから人のために少しでもなんか役に立つことないかな、微生物の力を借りてなんかできないか、これを絶えず考えております。そういったことが今回の賞につながっているんじゃないかと思っています」(前掲URLより)

 大村氏は山梨大学を卒業後、定時制高校の先生をしながら東京理科大学大学院に入学し、修了後は母校の助手として研究者人生をスタートさせました。そして、その2年後、尊敬する北里柴三郎が設立した北里研究所に入所し、微生物の研究に打ち込みます。

 大村氏が山梨大学の助手時代に手掛けていたのはワインの研究でした。ワインをはじめ酒、納豆、味噌、醤油などの発行食品はヒトが微生物を有効に活用したものですが、一方で、腸チフス、赤痢、結核などヒトに悪影響を及ぼす微生物もあります。良いにしろ悪いにしろ、ヒトはこれまで微生物と深く関わり、共存して生きてきました。

 北里大学時代、大村氏は微生物が作る化合物を400種余り発見しました。その中の17種がヒトや動物の医薬品、あるいは、生化学研究用の重要な薬として実用化されているといわれます。まさに微生物の力を借りてヒトの生活向上に役立てているのです。

■日本の生活文化
 いくら効果があるといっても、開発途上国の人々に薬を飲ませるのは大変です。言語が多様で、服用する薬の適量を知るのに必要な体重計もありません。もちろん、医師や看護婦がいつも同行できるわけでもありません。そこで、大村氏は考えました。

 身長と体重とはほぼ比例するということを踏まえ、身長に応じて投与する錠数を区分するよう、集落の代表者に教えました。きわめて簡単な方法で誰にでも適切な量を投与できるようにしたというのです。大村智氏は画期的な新薬を開発したばかりか、このように、誰もが容易にその薬を使えるよう使用法にも工夫を凝らしたのです。

 大村氏は次のようにいったそうです。

「極めて安全な薬です。だから、医師でなくても、誰でも配ることができる。何回も飲むことで効果が出る薬がほとんどだが、この薬は年一回だけ飲めばよい」
(http://ghitfund.yahoo.co.jp/interview_04.htmlより)

 実際、このような方法を考案することによって、大村氏は劇的に感染症患者を減少させることに成功しました。単なる科学者ではなく、救済者としての面持ちさえ感じられます。

 大村氏の受賞記者会見からは、いまや消滅寸前の古き良き時代の日本の生活文化を感じさせられました。ヒトは目に見えないところでヒトや他の生物、自然界そのものと繋がっており、その繋がりの中で生かされています。

 私はすっかり忘れてしまっていましたが、かつて私たちは親世代から「ヒトのためになるように生きなさい」とよくいわれたものでした。そして、「情けは人の為ならず」ということも何度も聞かされました。ところが、いつの間にか、自分のために生きるのが当然のように思い、うまくいかなければ他人のせいにし、心満たされない日々を過ごすようになってしまっています。

 はたして、こんなことでいいのか・・・。

 大村氏の会見を見ていて、ふっとそんな思いに捉われてしまいました。ノーベル賞の受賞記者会見なのに、見ているうちに、思わず自分の生き方を振り返り、これでいいのかと反省させられてしまったのです。便利さと引き換えにヒトを支えてきた生活文化まで失いつつあるのではないかという気がしたのです。

 穏やかな笑顔で話される大村氏からは終始、不思議なオーラが放たれていました。

■梶田隆章氏の受賞
 翌日6日、東京大学宇宙線研究所所長の梶田隆章氏がノーベル物理学賞を受賞することがわかりました。この二日、立て続けにノーベル賞二部門での受賞が決まり、日本中が喜びに包まれました。今回も私はまずネットで受賞を知りました。

 6日夜、東京大学で梶田隆章氏の記者会見が開かれました。席上、梶田氏が次のようにいわれたのが強く印象に残っています。

「観測施設の『スーパーカミオカンデ』を建設したのは戸塚先生の功績であり、研究の代表者でもありました。ニュートリノに質量があることを証明したことについては、戸塚先生の功績が大きいと思います。もしも今も生きていたら共同で受賞したと思います」
(http://www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20151006/5485421.htmlより)

 ご自身の喜びとともに7年前にガンで亡くなった恩師の戸塚洋二氏の功績を称えられたのです。もちろん、2002年にノーベル物理賞を受賞された小柴昌俊氏の名前もあげられましたが、ノーベル賞受賞の記者会見という栄誉の場で、なによりもまず恩師戸塚氏の偉業を口にされたことに私は驚きました。偉業を我が物とせず、謙虚に先人を称える姿勢に感動したのです。

 ちなみに、スーパーカミオカンデとは、世界最大の水チェレンコフ宇宙素粒子観測装置のことで、1991年に建設が始まり、5年間にわたる建設期間を経たのち、1996年4月より観測が開始されました。(http://www-sk.icrr.u-tokyo.ac.jp/sk/より)

 梶田氏は次のようにもいわれました。

「自然現象が、非常にわれわれが観測しやすいようになっていてくれたおかげで発見できたので、本当にラッキーだと思っています」(前掲URLより)

 先人が素晴らしい研究環境を構築してくれたことに謝意を表明され、ご自身のことを梶田氏は「ラッキー」と表現されたのです。

 私はニュートリノのことも、スーパーカミオカンデのことも知りません。物理学のことはまったくわからないのですが、梶田氏の記者会見を見ていると、寝食を忘れるほどの努力を積み上げた結果、成し遂げることができた偉業であるにもかかわらず、自分を誇ることなく、あくまでも謙虚な姿勢で会見に臨まれたことに深く印象づけられました。

 もっとも、東京大学物理学科を卒業し、現在、東京大学大学院情報学環准教授の伊東乾氏は次のように書いています。

「今回の業績は、何千人という物理学徒の献身的な労苦によって達成されたものですが、もしその代表を選ぶなら、第一に名が挙がらねばならない人はノーベル賞を受けることができませんでした」
「戸塚洋二さん、この人こそ、ニュートリノ振動の観測で本当に汗を流し、足を棒にして働いた中心人物であり、同じ労苦を膨大な数の物理屋、技術者、協力者が惜しみなく提供して、宇宙の構造にとって最も本質的な成果の1つは得られました」(http://jbpress.ismedia.jp/articles/print/44956より)

 東京大学、そして、物理学の事情をよく知る人物からすれば、梶田氏の謙虚な姿勢は当然だったのかもしれません。

 会見中、梶田氏の謙虚な姿勢は終始一貫、崩れませんでした。日ごろからそのようなお人柄だからなのでしょうか、あるいは、戸塚氏をはじめ先人の苦労を忘れることができないという思いからなのでしょうか。いずれにしても、穏やかな笑顔の背後に謙譲を美徳としたかつての日本文化を重ね合わせることができます。

■偉業の背後にある日本の生活文化
 大村氏といい梶田氏といい、歴史に残る偉業を成し遂げたというのに、この謙虚さはいったいどこから来るのでしょうか。

 受賞発表後の記者会見をそれぞれテレビで見たのですが、いずれの場合も見終えて心の底から嬉しく、なんともいえないさわやかな気分に満たされました。テレビ中継された大村氏、梶田氏の笑顔が実に素晴らしいのです。

 ヒトは年齢を重ねると、その来歴が顔に出るといわれます。お二人の笑顔にはなんの外連味もなく、ヒトの気持ちを和ませる優しさと温かさがにじみ出ていました。テレビ会見を見ていて、ノーベル賞を受賞されるほどの偉業に打たれたのはもちろんのこと、画面を通して伝わってくる笑顔の背後に垣間見えるお二人のお人柄にも感激したことを思い出します。

 そして、12月8日、ノーベル賞受賞式に臨まれるお二人はストックホルムの宿泊先で会見に臨まれ、ここでも素晴らしい笑顔を見せられました。

こちら →201512080013_001_m
西日本新聞2015年12月8日より。

 2015年、さまざまなことがありました。もっとも印象に残ったのが、ノーベル賞受賞者お二人の背後に見受けられた日本の生活文化でした。

 思い起こせば、かつて私たちは親世代から繰り返し、「ヒトのために」、「出しゃばらず、威張らず」、「地道にコツコツと」、というようなことを言われて育ってきました。それがいつの間にか、「ヒトを出し抜き」、「自分を強くアピール」、「機を見るに敏」であることが求められるようになってしまっています。その結果、ヒトは気持ちの安らぎを得にくくなり、心身の病に罹りやすくなっています。はたしてこれでいいのかという思いがつのります。

 一年を振り返ったとき、まず、思い出されたのが、ノーベル賞受賞者お二人の爽やかな印象でした。お二人の記者会見からはかつては全国津々浦々、いきわたっていた日本の生活文化が浮き彫りにされていました。今回のノーベル賞受賞者から垣間見える日本の生活文化を改めて、見直す必要があるのではないかと思いました。(2015/12/30 香取淳子)

吉田晋之介氏の個展 “Days”の不思議な魅力

■吉田晋之介氏の個展
 2015年10月31日(土)から11月28日(土)まで、東京・両国のGALLERY MoMo Ryogokuで、吉田晋之介氏の個展“Days”が開催されました。展示作品は2015年に制作された12点で、いずれも自然と人工物との関係に焦点が当てられています。人工物に依存して組み立てられている現代社会の諸相が、これらの作品によって巧みに表現されていました。マクロ的な観点から捉えたものもあれば、ミクロ的な観点から捉えたものもあります。意表を突くアイデアでモチーフが選定されているのが特徴です。

 たとえば、“Motherboard”(116.7×116.7㎝、油彩、2015年)という作品があります。

 マザーボードとは、CPUやメモリーなどパソコンの主要な部品を搭載したプリント基板のことで、いわば情報処理の中枢です。吉田氏はそれを地表に見立て、東京を俯瞰してこの絵を描きあげました。マクロ的な観点から捉えた作品の一つです。

こちら →motherboard

 マザーボードには東京湾があり、建物が密集するエリアの中央には皇居もあります。東京を象徴するいくつかのキーポイントを押さえたうえで、吉田氏はその外縁に、噴火する火山を描き、空と言わず海と言わず浮遊する無数の放射性投下物のようなものを描いています。自然の脅威であれ、人工物の脅威であれ、もはやヒトが安穏と生きていくことができなくなりつつある現状が、宇宙の視点で捉えられているのです。

 右も左も、上も下もない真っ黒な宇宙空間に、このマザーボードは浮かんでいます。無数の点で表現された宇宙の浮遊物と同様、宇宙空間のどこへ流されていくかもわからない不安定な姿を晒しています。それが見る者の不安感を誘い出します。

 画面中央に配置されたマザーボードを見ると、晴天の空にも見える青色で表現された海と、白と灰色で表現された建物群とに押され、緑の基盤が隆起した格好で、山々が形作られています。さらに見ると、その一角で火山が上方高く噴煙を上げています。まるで膨大な情報処理に耐えかねてCPUが爆発を起こしたかのようです。

 情報爆発時代を象徴するモチーフの形状と色彩、モチーフをマクロ的に捉えるために取り入れた宇宙空間、それらの配置が見事です。この作品には読み解きのための具体的な手がかりが残されており、観客の空想力は限りなく刺激されます。ICT主導で激変している現代社会、人工物に依存した現代社会をシンボリックに表現した作品といえるでしょう。

 この作品は「第1回アートオリンピア2015」(https://artolympia.jp/ao.html)学生部門3位となりました。

■“Days”の不思議
 ミクロ的な観点から自然と人工物を捉えた作品もあります。画廊に入ってすぐ右の壁に展示されている“Days” (200×200㎝、油彩、2015年)です。

こちら →CU3rpIfU8AAF7KQ
画廊入口から見た展示風景

 実は、私がもっとも興味を覚えたのが、この“Days”でした。絵に近づいてみると、絵の具をラフに載せたようにしか見えないのに、遠くで見ると、精緻にフォーカスされた写真のように見えます。何度も近づいては見、離れては見てみたのですが、なぜ、そう見えるのか、いっこうにわかりません。不思議な思いに捉われてしまいました。こうなっては直接、ご本人に尋ねるしかありません。個展最終日、再度、この絵の謎解きのために画廊を訪れました。

 吉田氏に尋ねてみると、「計算して描いています。絵ならではの遊びですよ」と即答されました。さらに、言葉を継いで、「写真は拡大しても縮小しても写真でしかありませんが、絵は違います。遠くで見るとリアルに見えますが、近くで見るとただの絵の具でしかない・・・」といわれるのです。おそらく、その落差が、吉田氏の捉える絵画ならではの妙味につながるのでしょう。

吉田氏の許可を得て、もっとも気になっていた葉っぱに近づいて撮影しました。

こちら →近づく (598x640)

 この写真を見ても明らかなように、近づくと、この葉が絵の具で描いたものだということがわかります。

 次に、私は遠くから撮影してみました。

こちら →P1020649 (625x640)

 白っぽく塗られただけの葉の片面が、まるで陽光を受けてさんさんと輝いているかのように見えます。精緻にフォーカスして撮影された写真のように見えてしまうのです。ところが、絵全体に視線を移していくと、何カ所か荒っぽく筆を走らせた箇所に気づきます。そこで、ふと我にかえったように、これが絵なのだということに気づかされます。

 吉田氏はいいます。

「すべてのモノにはその場所にあるべき明度と彩度で構成されたバルール(色価)があります。それが合っていれば、どんなに自由なタッチで描いてもリアルに見えますが、少しでもズレていれば、変な絵だという印象を与えます」

 私が“Days”を見て、写真のようにリアルだと思ったのは、膨大な量の木の葉を吉田氏が一枚一枚、バルールを合わせて全体を精密に構成した結果だったことがわかります。これでようやく謎が解けました。近くで見ると、荒っぽく塗られた絵の具でしかないのに、遠くで見ると、写真のようにリアルに見えたのは、実は正確なバルール合わせの結果だったのです。

 吉田氏はこの作品を構成するに際し、葉っぱを一枚一枚、丁寧に描くもの、荒く描くもの、崩して描くもの、というように選り分け、計算していったそうです。バルールを合わせるためでした。巨大なサイズの画面だということを考え合わせると、これがどれほど大変な作業だったか、吉田氏のエネルギッシュな創作力に驚かされます。

■風景画を超えて
 この絵を見ていると、暑い夏の日差しが感じられます。風にそよぐ葉の揺らぎすら、想像できてしまいます。葉の表面と葉陰とのコントラストに陽光の強さを感じるからでしょうし、縦方向に荒く走らせた筆のタッチに葉の動きを感じるからでしょう。

 よく見ると、右下の金網の一部が破られ、その周辺がやや広い面積で暗く描かれています。そのせいか、金網の奥に空間が感じられます。そこから少し視線を上げると、上方に白い小さな空間が設けられており、金網の奥に広がる空間がその地点で閉じていることがわかります。

 ちょっと気づきにくいのですが、白い紐状の導線のようなものが何カ所か下に垂れています。上部で横方向に伸びて金網に絡まり、やや斜め下方向に垂れているのもあります。重力に従っているわけでもないこの導線のようなものの配置が気になります。葉っぱと金網で構成されたこの絵の整合性を損ない、精緻に組み立てられたバランスを崩しているのです。

 もっとも、そのせいで、観客は逆にこの絵に深く引き込まれていきます。写真のような完結性が壊されることによって、見る側の参加度が高められるからでしょう。観客は無意識のうちに絵の欠損部分を補おうとする気持ちに駆られ、感情移入していった結果、描かれてもいない風の気配、大気の温度などを感じてしまうのです。吉田氏はさり気なく絵のバランスを崩すことによって、この絵を、風景画を超えた作品にしているのです。

 ひょっとしたら、絵のサイズも観客の感情移入に関係しているのかもしれません。実物よりやや大きいサイズで描かれていることが、観客の気持ちを引き込む効果に関係している可能性があります。吉田氏に尋ねると、友だちの作品の展示を見て、このサイズで描きたいと思ったということでした。200×200㎝のサイズです。

 “Days”はミクロな観点から自然と人工物をモチーフにした作品です。吉田氏によれば、個展のDM用にこれまでとは違うものを描こうと思って手がけた作品だそうです。描かれた木の葉は金網を超えて伸びています。まるで封じ込められることを振り切ろうとするかのようです。成長しようとする葉の勢いが感じられます。

 葉っぱは写真を参考に構成されていますが、金網は付け加えられました。金網は人工物であり、整然とした網目は数値的な世界を連想させます。この絵に不可欠なモチーフなのです。

■ミステリー作家を彷彿させる吉田氏の作家性
 「金網と植物だけではつまらない」と吉田氏はいいます。ですから、金網の一部を損壊し、意味のわからない導線をさり気なく、随所に垂らします。日常生活で見慣れた光景に意味不明の無機的なものを入れ込むことによってバランスを崩し、観客をかく乱させるのです。

 さらに、自身の遊び心を満足させるための仕掛けも施されています。

 吉田氏はいいます。
「この絵の見所としては、「見え」のレイヤーと「絵の具」のレイヤーとが逆転していることです。ヒトはまずこの絵の白く抜けた部分を見、それから葉っぱを見、そして、金網を見ます。これが「見え」のレイヤーです。ところが、一番後に描いたように見える金網は実は下地を生かしただけです。葉っぱはそれほど丁寧に描かず、奥の白く抜けた部分は最後に手を入れ、丁寧に描いています。「絵の具」のレイヤーの順序と「見え」のレイヤーの順序が逆になっていますが、このような遊びが可能なのが絵なのです」

 ヒトが手作業で創り出す一点ものの絵だからこそ、このような遊びができるのだと吉田氏はいいます。

 たしかに、この絵を一瞥すると、質感といい、量感といい、そのリアリティに圧倒されます。その感動が過ぎると、次に、観客の目はこの白く抜かれた空間に引き寄せられていきます。フェンスで囲われた葉っぱの向こう側の空間に想像力が刺激されるからでしょう。

 フェンスの上方に位置付けられたこの白い部分を撮影しました。この写真を手掛かりに吉田氏の創作過程を見てみることにしましょう。

こちら →P1020650 (480x640)

 近づいてこの部分を見ると、周辺の葉っぱはラフに筆を走らせただけなのですが、この白い部分は丁寧に塗り込まれ、周辺の葉陰もしっかりと縁取りされています。しかも、この部分は目のやや上に位置していますので、観客は見上げる恰好になります。この構図から心理的側面からも「見え」に深みを与える位相になっていることがわかります。

 この白い部分はいわば遠景ですが、そこから視線を下していくと、左側にさんさんと輝く葉が見えます。これは中景に相当します。ここでは、とくに丁寧に描かれたものに目が留まります。そして最後に、全体を覆う整然とした金網(近景)に目が留まるといった流れで、ヒトはこの絵を見ていくのでしょう。そのような観客の視線の動きを読み込んだうえで、吉田氏はこの絵の構図、描き方の丁寧さの度合い、絵の具の重厚さの度合いなどを決定していったようです。

 吉田氏はいいます。
「絵を描くことには、こう見えたら、ヒトは驚くだろうなと予測する楽しみがあります。また絵には、目で見るだけではなく、歩いて、絵に近づいたり離れたりしてみるという要素があります」

 だからこそ、こう描けばヒトにはどう見えるかを推測し、ヒトはそれを見てどう感じるかを想像しながら、キャンバスサイズを決め、構図を決定し、細部を詰めていくのでしょう。このようなシミュレーションを繰り返し、吉田氏のいう「見え」のレイヤーを固めていくことが、作品に深みを与えているのだと思いました。

 ディスプレイを通してみると平たい画像でしかなくても、絵にはこのような遊びの要素を取り込むことができます。そこが写真とは大きく異なる点ですが、吉田氏はそのような絵の特性を大切にしています。だからこそ、植物と金網をモチーフに風景を描いても、単なる風景画に留まるのではなく、シンボリックな作品に仕上げることができるのでしょう。

 さて、吉田氏はベラスケス(1599-1660、スペイン)を評価しています。
 ベラスケスの絵について、「近くで見ると、タッチが走っているけど、遠くで見ると王女に見える」といい、すでに1600年代に絵の具で遊んでいた画家がいたと高く評価しているのです。

 有名なのは『ラス・メニーナス』(Las Meninas, 1656年、プラド美術館所蔵)で、この絵にはいくつもの謎が仕掛けられており、いまだに多くの研究者の関心を集めています。

こちら →Las-Merninas
Wikipediaより。

 解説によると、「謎かけのような構成の作品で、現実と想像との間に疑問を提起し、鑑賞者と絵の登場人物との間にぼんやりとした関係を創造する」と書かれています。まさに、「こう見えたら、ヒトは驚くだろうなと予測する楽しみがある」という吉田氏の創作過程を彷彿させます。こうしてみてくると、吉田氏がベラスケスを高く評価する理由がとてもよくわかります。共通点があるのです。

■観客との対話を引き出す力
 今回、ご紹介した“Motherboard”と“Days”には、観客との対話を引き出す力があります。どの作品にも吉田氏がなんらかの仕掛けを絵に組み込んでいるからでしょう。吉田氏は「絵でヒトをだますのが好き」といいます。「だます」といえば人聞きが悪いですが、絵画表現上の一つの手法であり、とくにシュルレアリスムの画家によく見られる手法として知られています。たとえば、ルネ・マグリット(1898-1967、ベルギー)はその代表的な画家として知られています。

 私はルネ・マグリットの「白紙委任状」(1965年制作)が好きで、複製ポスターを額に入れて食堂に飾っています。何度も近づいては見、離れては見ているのですが、見るたびに不思議な感覚が喚起されます。

こちら →http://matome.naver.jp/odai/2138762921202942901/2138763844907799703

 馬に乗って森の中を散歩する女性の姿を描いた作品ですが、樹木によって馬と女性が不自然に切り取られた箇所があるかと思えば、背景の森によって馬と女性が見えなくなっている箇所があって、見ていると、不思議な思いに捉われてしまいます。おそらく、それがマグリットの狙いなのでしょう。マグリットはこの絵の中に敢えて見えない部分を作り出しています。

 ところが、それを見るヒトは無意識のうちに見えない部分を補いながら、見てしまいます。欠落部分を補おうとする意識が働くからですが、そのような意識が働くとき、ヒトは深くこの絵にコミットしています。おそらく、そのせいでしょう、ヒトはこの絵を見ると、不思議な感覚に包まれたまま、作品世界に深く入り込んでしまうのです。

 吉田氏の作品にはマグリットのこの絵に感じるような不思議な魅力が感じられます。それはおそらく吉田氏が意図的に絵に仕掛けを施しているからでしょう。画家からすれば、三次元空間を二次元に写し取るための「だまし」の技法の成果であり、観客にすれば、技法に「欺かれること」もまた絵の楽しみの一つなのです。こうして技法を媒介に画家と観客の対話が始まります。

 このようにみてくると、まるでミステリー作家のように、吉田氏は観客に知的なバトルを挑んでいるようにも見えます。「こうやって描いたら、こんなふうに見えるんだぜ」といいたげな吉田氏の笑顔には、観客に知的なバトルを挑む豪胆さが垣間見えるような気がします。

 吉田氏は中学3年までバスケットボールに興じていたそうです。そこで育まれたものは体力、運動神経だけではなく、知的な腕力だったのではないかと思えてなりません。視覚のトリックに関心を抱き、知的バトルに動じることのない若手画家の今後に期待したいと思います。(2015/11/30 香取淳子)

東京ドラマアウォード2015:グローバル市場進出ドラマの要件を探る

■海外ドラマ特別賞受賞作品を巡って
 2015年10月22日、千代田放送会館で「東京ドラマアウォード2015」の一環として、海外作品特別賞のシンポジウムと上映会が開催されました。プログラムおよび登壇者は以下の通りです。

こちら →http://j-ba.or.jp/drafes/press/pdf/drafespress20151013_1j.pdf

 登壇者は、タイから『サミー・ティトラ~夫の証~』のエグゼクティブ・プロデューサーと監督、韓国から『ミセン~未生~』のチーフ・プロデューサーと脚本家、日本からTBSのプロデューサー、NHKのエグゼクティブ・プロデューサーなど、いずれもヒットドラマを制作してこられた方々です。そして、モデレーターは、上滝徹也・日本大学名誉教授です。

 なぜ大ヒットドラマを制作することができたのか、ここでは報告に沿って、タイと韓国のケースをみていくことにしましょう。

 『サミー・ティトラ~夫の証~』は、年間最高視聴率14.9%を記録するほどタイで大ヒットした番組です。しかも、今回の作品をプロデュースしたエグゼクティブ・プロデューサーのA・トーンプラソム氏は、前作で主役を演じたタイを代表する女優だったそうです。実際、会場で見ると、まるでハリウッド女優のように美しく、華やかでした。

 もう一人の登壇者、A・ジットマイゴン氏はメロドラマにかけては定評があるといわれている女性監督です。彼女の名前をネットで検索すると、どういうわけか、中国のサイトで頻繁にヒットします。彼女が監督したドラマは中国でもよく見られているようです。たとえば、2009年に制作された『愛のレシピ』は中国語タイトル『爱的烹调法』としてネットで視聴できますし、DVDも販売されています。

こちら →li_17084_li_601_m2
http://movie.douban.com/photos/photo/2199671477/より。

 興味深いことに、この『愛のレシピ』の主人公は、『サミー・ティトラ~夫の証~』のエグゼクティブ・プロデューサーのA・トーンプラソム氏でした。どうやらお二人はこれまでになんどか、監督と主演女優のコンビとしてラブストーリーを制作されていたようです。

■身近な題材を手掛かりに
 今回、海外作品特別賞に選ばれた『サミー・ティトラ~夫の証~』もやはりラブストーリーです。2014年2月19日から4月20日まで、チャンネル3で13話が放送されました。You tubeから46秒のPR映像をご紹介しましょう。

こちら →https://www.youtube.com/watch?v=lTLkJ9o2nY8
最初にCMが流れた場合、スキップしてご覧ください。

 これは主人公と対立関係にある登場人物のやり取りのシーンです。このような激しさは日本のドラマではあまり見かけませんが、愛する男性を巡る女性同士の諍いはラブストーリーには付き物です。愛の得難さ、守り難さを描くには欠くことのできない仕掛けなのかもしれません。

 この作品を監督したA・ジェットマイゴン氏は、視聴者にはドラマを見て楽しんでもらいたいし、ドラマによって喚起される感情を深く味わってもらいたいといいます。だからこそ、波風の立つシーンを随所に設定し、日本人からみれば過剰だと思えるほどの感情表現を演出するのかもしれません。彼女は『サミー・ティトラ~夫の証~』の視聴率が高かったのは、身近に起こりうる出来事を題材にしたラブストーリーだったからだと説明しました。

 エグゼクティブPDのA・トーンプラソム氏も同様の見解です。たとえば、女性は配偶者を選ぶとき、相手のどこを見て適否を判断しているのか、最愛の配偶者を自分だけのものにしておきたいという欲求に駆られたとき、どのような行動に出るのか、といったようなことは誰もが身近に経験する出来事です。このドラマはそのような人生のパートナーとのラブストーリーを題材にしたので、視聴者の共感を得やすく、高視聴率につながったのだと分析しました。

■制作環境に基づいた戦略を
 それでは、韓国の場合はどうでしょうか。

 今回受賞した『ミセン~未生~』は、ケーブルテレビ局tvNによって制作され、2014年10月17日から12月20日まで放送されました。カタログを見ると、最終話でケーブルテレビとしては異例の10.3%もの視聴率を取ったそうです。地上波が圧倒的な強さを見せる韓国のドラマ市場でなぜケーブル局制作のドラマが大ヒットしたのでしょうか。

 脚本家のチョン・ユンジュン氏はこのドラマが視聴者の共感を生み出すことができたからだといいます。それも幅広く、深い共感を呼び起こすことができたからこそ、大ヒットにつながったのだという認識です。

 彼女もタイの制作者たちと同様、ラブストーリーは視聴者の共感を得やすいといいます。ところが、このドラマを制作するにあたって、ラブストーリー以外に視聴者の共感を得やすいものは何かと探したのだそうです。というのも韓国ではいま、視聴者を惹きつけるドラマの題材やテーマが枯渇しており、これまでのようにラブストーリーだというだけでは見てもらえる状況ではなくなっているからだというのです。

 一方、チーフPDのイ・チャンホ氏は、tvNは来年でようやく設立10周年を迎える歴史の浅いテレビ局なので、大衆受けする俳優がなかなか出演してくれないといいます。キャスティングはドラマを見てもらうための重要な要素です。ところが、それが難しいとなれば、ドラマを成功させることはできません。検討を重ねた結果、シナリオ中心のドラマ制作をめざすことにしたと説明しました。

 脚本家のチョン・ユンジュン氏も、tvNはテレビ局として認知度がきわめて低く、戦略的にならざるをえなかったといいます。韓国のドラマ市場は地上波で占拠されており、ケーブルが参入するのはきわめて難しい状況でした。どの層をターゲットにするのか、何を題材にどのようなテーマを設定するのか、それまでとは一線を画したドラマ作りを模索せざるをえなかったというのです。

 韓国で日本ドラマや米国ドラマを見ているのは20代だそうです。いってみれば、新しいジャンルのドラマを受け入れる可能性のある層です。そこで、制作陣はこれまではケーブルテレビの視聴者層ではなかった20代をターゲットに絞り込んだそうです。結果を見ると、このターゲティングは正解でした。

 主人公は26歳の男性です。

こちら →IMG_20150112_210011-300x200
http://kstyletrip.com/blog/?p=1072より。

 主人公のチャン・グレは7歳のときから囲碁の神童と呼ばれ、プロ棋士を目指して生きてきたのに、入段試験に落ちてしまいました。仕方なくアルバイトや日雇いの仕事をしていましたが、コネで総合商社に入社することができ、高学歴の社員に交じって働くようになったという設定です。学歴もなければ、社会経験もありません。どちらかといえば、一般の視聴者よりも低い立場の若者を主人公に設定したのです。

■幅広い共感を生むドラマ
 ITジャーナリストの趙章恩氏は、このドラマの韓国社会での反応を次のように記しています。

 「「未生」がヒットした理由は、自分の話のようだと共感する人が多いからだ。ネット上には、未生を自分の物語として受け止める書き込みが非常に多い。(中略)また、「未生」は就職準備中の大学生にも人気だ。ドラマの中に登場するインターンの仕事ぶりや社員らの処世術も見どころだからだ。」
 http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20141030/273187/より。

 これは日経ビジネスonline(2014年10月31日)に書かれた記事ですが、多くのヒトがこのドラマに共感したことは韓国メディアでも次々と取り上げられていました。幅広く視聴者の共感を誘うことが大ヒットの条件であることは明らかです。

 もっとも、非正規職を転々とする若者の間では、これは「勝ち組」の物語だとする批判的な意見もあったようです。韓国では学歴がなければ正規職に就くのが難しく、主人公が大手商社にコネ入社したという設定そのものが、リアリティのないファンタジーに過ぎないと思えたのでしょう。

 現実社会では、仮に大手商社に入社できたとしても仕事ができなければ、バカにされたあげく、退社させられてしまいます。厳しい環境で生きる多くのサラリーマンにとって、必死になって仕事を覚え、周囲に溶け込もうと努力する主人公の姿は、鏡に映った自分の姿でもありました。物語を構成するエピソードも、誰もがいつか、どこかで経験するような出来事です。多くのサラリーマンにとってはまさに身につまされる「自分の物語」だったのです。

 もちろん、似たような環境で働く女性は主人公に自分を重ね合わせることができますし、そうではない場合も恋人や夫、息子の姿を重ね合わせて視聴することができます。プロ棋士になれなかった27歳の男性を主人公にすることによって、このドラマは幅広い層の共感を得るのに成功しました。描かれるサラリーマンの生活は多くのヒトにとって身近なものであり、ドラマに同化できる格好の題材だったのです。

You tubeから2分8秒のPR映像をご紹介しましょう。

こちら →https://www.youtube.com/watch?v=luMWE_NeGso
最初にCMが流れた場合、スキップしてご覧ください。

『ミセン~未生~』の原作は、web仕様の漫画です。原作者のユンテホさんは主人公をプロ棋士の夢に破れた若者に設定した背景を次のように語っています。

 「出版社から提案があった。提案されたのは、囲碁とサラリーマンを結びつけた話だった。囲碁の世界には我々の生活にも役立つ哲学的な言葉や教訓が多い。出版社は囲碁9段の人が世間に向かって語るという話を希望していたが、納得がいかなかった。そこでプロの棋士になれなかった人が主人公になるのがふさわしいと思った。」
http://www.asahi.com/articles/ASH2Q4227H2QUHBI00L.htmlより。

 興味深いのは、「囲碁の世界には我々の生活にも役立つ哲学的な言葉や教訓が多い」という理由で、棋士を主人公にしようとしたことです。構想の段階で、漫画の原作者と出版社が教訓を得られやすい作品を志向していたことがわかります。

 ドラマ『未生』はこのような要素をさらに増幅させています。ラブロマンスの要素を抑え、サラリーマンの哀歓を中心にストーリーを展開させています。ですから、多くの視聴者の感情移入を誘って共感を深めただけではなく、さまざまなシークエンスから視聴者が人生訓を引き出せるようにすることができたのです。

 それでは、国境を超えたドラマには何が必要なのでしょうか。アジア市場、グローバル市場に不可欠な要素とは何なのでしょうか。

■アジア市場、グローバル市場に向けて
 韓国のイ・チャンホPDは、ドラマへの感情移入が最も大切だといいます。登場人物に同化し、感情移入を誘うことができれば、言語、文化が異なっていても主人公と共に悩み、悲しむことができ、ドラマが作り出す世界に入っていくことができます。ですから、愛や友情といったものをテーマにすれば、アジアの視聴者の共感を得ることができるのではないかというのです。

 一方、韓国のチョン氏は脚本家として、ドラマ作りにおいてアジア市場、グローバル市場というようなことは考えていないといいます。興味深いことに、国際共同制作については否定的な見解を吐露しています。

 たしかに、これまで日韓共同制作でいくつかドラマが制作されたことがありますが、成功したとはいえません。チョン氏がいうように、双方が対立した際、折り合いをつけるという解決方法を取ることによって、ドラマとしてのパワーを弱めてしまったからでしょう。調整するという行為には突出した部分を削るという作業が含まれます。これは、何人かの美人のパーツを寄せ集めてコンピュータで写真を合成しても、魅力ある顔にならないのと同様です。突出した部分を調整することによって魅力を半減させてしまったのです。

 もっとも、チョン氏は国際共同制作を完全否定しているわけではありません。もし、そういうことになれば、題材やテーマについて双方が合意の下で共同作業をしていく必要があるといいます。

 それぞれの文化を背負った制作陣が制作を巡って対立した場合、折り合いをつけることによってではなく調和を生み出し、ドラマのパワーを削ぐのではなく、引き出すことができれば、素晴らしい作品を生み出すことができるのかもしれません。

 チョン氏はさらに、世界に通じるドラマ作りについて、「もっとも韓国的なものがもっとも世界的なもの」といわれたことがあったが、文化の要素を盛り込んだものが継続的にヒットするとは思えないといい、ストーリーテリングこそが重要だと指摘します。

 そして、『未生』のように社会現象を盛り込んだドラマが中国や日本でも通用するのか疑問だといいます。社会問題そのものよりも、むしろ、社会問題に対応する普遍的な人間の感情、対立、どのように乗り越えることができたのかといったようなものが共感を生んできたのではないか。ですから、とくに普遍的な情緒を描くストーリーテリングが大切だといいました。

 タイの監督A・ジットマイゴン氏はアジアの文化には共通の要素がある、とくに人々の繊細さが共通しているので、共感できるテーマを選ぶことが大切だといいます。そして、文化に焦点を当て、海外に伝えていくことができれば素晴らしいと述べました。

 PDのA・トーンプラソム氏は、相手国の文化を知り、理解し合うことが大切だといいます。それには連続ドラマを見るのが一番だというのです。ただ、そのために自国の文化を必要以上にドラマに入れ込む必要はなく、見て、感じてもらえばいい。見ているうちにその国の文化が自然にわかってきます。ですから、俳優が交流することが大切だと指摘しました。

■グローバル市場:ドラマ進出の要件
 「東京ドラマアウォード」は2008年、放送コンテンツの海外発信のために、「市場性」「商業性」を重視した賞として創設されました。そして、「東京ドラマアウォード2015」の一環として、今回のシンポジウムが開催されました。登壇者はいずれも大ヒットドラマの制作者たちです。各人の発言がかみ合い、内容の充実したシンポジウムだったと思います。

 現在、ICTの進歩によって世界はどんどん狭くなっています。国境を超えることが容易になったのにともない、ヒトの人間観、人生観まで似てきています。とくに、ドラマをパソコンか、スマホ、タブレットで視聴する若者の感性は驚くほど似てきています。これまでに比べ、はるかに国境を越えて共感を得やすい社会状況になっているといえるでしょう。ドラマのアジア市場、グローバル市場を支える環境はすでに出来上がっているのです。

 それでは、ドラマの海外進出の要件は何なのでしょうか。

 登壇者の方々は、自国でヒットしたドラマの要因として異口同音に、身近な題材で共感を得やすいテーマを設定したことだと述べられました。裏返せば、多くの視聴者がドラマに求めるものがそういうものだということになります。先ほど述べたように、ICTの進歩によって国境を越えて社会状況、生活環境が似てきているとすれば、これをそのままドラマの海外市場進出の要件と考えることができそうです。

 ただ、ドラマのリズムやテンポといったテイストの部分で受け入れられにくい部分が出てくるかもしれません。まさに固有の文化に相当する領域ですが、そのような課題もストーリーテリングの力で乗り越えられるでしょう。

 テレビドラマは小説と違って、具体的な事物を映し出すことによって物語が構成されます。抽象化の度合いが低いだけに、目に見える現象に引きずられやすく、しっかりとしたストーリーテリングが必要になります。ストーリーテリングに魅力があり、視聴者に受け入れられさえすれば、そのような文化的差異が逆にドラマの魅力の源泉になるかもしれません。テレビドラマの今後に期待したいと思います。(2015/10/28 香取淳子)

『FALL OUT』から『渚にて』再訪

■『渚にて』と『FALL OUT』
 2015年10月18日、東京大学駒場キャンパス 21KOMCEE East の2F、K212教室で、ドキュメンタリー映画『FALL OUT』の上映会および討論会が開催されました。ちなみに、fall outとは放射性降下物を指します。

こちら →
http://www.australia.or.jp/repository/ajf/files/whatsnew/fallouttodai.jpg

 オーストラリア学会からこの知らせを受けたとき、私はぜひとも参加したいと思いました。『渚にて』をもう一度、考えてみる機会が欲しかったのです。実は中学2年生のころ、私はこの『渚にて』を見ています。担任の先生に引率されて映画館に見に行ったのですが、見終えてしばらく、人類は放射能汚染によって滅亡するのだという恐怖に捉われていました。この映画を見て、生まれてはじめて死を意識したことを思い出します。

 もちろん、人類が滅亡するといっても悲惨なシーンはどこにも出てきませんし、見た目の恐怖感もありません。むしろビーチで楽しむ人々の様子、とくにアンソニー・パーキンスとドナ・アンダーソンが演じた若いカップルの出会いは微笑ましく、友だちと「いいね」と語り合っていたほどでした。

 ところが、その幸せだったカップルとその子どもがやがて安楽死に追い込まれていきます。放射性降下物の南下がメルボルンにまで及んできたからでした。幸せな生活から一気に絶望のどん底に突き落とされてしまうのです。

 当時、中学生だったせいか、私は、中年のグレゴリー・ペックやエヴァ・ガードナーよりも、若いアンソニー・パーキンスが登場したシーンの方をよく覚えています。ですから、グレゴリー・ペックとエヴァ・ガードナーの関係にそれほど興味はなく、あまり覚えてもいなかったのですが、どうやら、この中年カップルの描き方を巡って原作者のネビル・シュートは、監督のスタンリー・クレイマーに強い不満を抱いていたようなのです。

 上映会で『FALL OUT』を見ると、シュートの娘が、「父はクレイマーが勝手にハリウッド風に変えたと怒っていた」と証言しています。シュートの作品ではそれまで登場人物が婚外交渉を持つよう設定されたことはなかったのだそうです。

 ところが、『渚にて』ではグレゴリー・ペックが演じる原子力潜水艦艦長の恋人役としてエヴァ・ガードナーが登場します。原作にはなかった変更ですが、このラブロマンスが人類滅亡のストーリーに華を添えていることは確かです。これについて、クレイマーの代弁者は「ハリウッドでやっていくにはあらゆる人を満足させなければならないから」と説明しています。

 娯楽映画にロマンスは付き物です。とくにハリウッド映画である限り、メッセージ性の高い社会派映画も決して例外ではありません。『渚にて』には婚姻外のラブロマンスが導入されました。DVDのジャケットを見ると、グレゴリー・ペックとエヴァ・ガードナーが抱き合うシーンの写真が使われています。原作者がハリウッド風に変更されたと怒る箇所であり、監督が商業映画として成功するよう調整した箇所でもあります。

 このように、いま、紹介したことは、『FALL OUT』によって明らかにされる『渚にて』の舞台裏のほんの一例です。映画『渚にて』を見ただけではわからなかった当時の諸状況を、ドキュメンタリー映画『FALL OUT』を見ることによって、より深く知ることができます。

 『FALL OUT』は、ローレンス・ジョンストン監督、ピーター・カウフマン製作によるドキュメンタリ―映画で、上映時間は86分です。映画『渚にて』(スタンレー・クレイマー監督、1959年製作)とその原作である小説『渚にて』(ネビル・シュート、1957年刊行)を題材に、関係者へのインタビューをつなぎ合わせて構成されています。

 18日のイベントはまず、ドキュメンタリー映画『FALL OUT』が上映され、その後、3人の登壇者によるコメントの発表という流れで進められました。

■若いカップルの役割
 『渚にて』には主人公の中年カップルと脇役の若いカップルが登場します。アメリカ原子力潜水艦艦長とその恋人、そして、オーストラリア海軍少佐とその妻、この二つのカップルです。オーストラリア海軍少佐は北半球からの不可解な電波を突き止めるため、この原子力潜水艦に乗り込んだという設定です。メインストーリーの展開には中年カップルがかかわり、サブストーリーを牽引する役割を担わされているのが、若いカップルです。

こちら →

AUSTRALIA. 1959. From left to right, American actors Gregory PECK, Ava GARDNER, Donna ANDREWS, Anthony PERKINS during the filming of "On the Beach" by Stanley KRAMER. 1959.

AUSTRALIA. 1959. From left to right, American actors Gregory PECK, Ava GARDNER, Donna ANDREWS, Anthony PERKINS during the filming of “On the Beach” by Stanley KRAMER. 1959.


http://www.magnumphotos.com/C.aspx?VP3=SearchResult&ALID=2K7O3R1PY8GQより。

 上の写真の4人にオーストラリア科学工業研究所の科学者を加えた5人が、放射性物質による人類滅亡のストーリーを展開させていきます。

 改めて『渚にて』を見直してみると、アンソニー・パーキンスとドナ・アンダーソンが演じた若いカップルが、実は重要な役割を果たしていることに気づきます。彼らはグレゴリー・ペックやエヴァ・ガードナーほど多く登場しているわけではありません。いわば脇役です。ところが、その脇役が一般視聴者の私たちにとても近いところに位置付けられており、この物語をしっかりと支えているのです。

 たとえば、二人が海岸で出会うシーンがあります。

こちら →On-Beach
http://www.cornel1801.com/video/On-Beach/ より。

 海岸で出会った二人は愛を育くむようになり、やがて子どもが生まれ、家庭を築き上げていく・・・、ごく普通の男女にみられる生活の一コマです。二人にとっては幸せの絶頂であり、決して忘れることのできない大切な思い出です。

 アンソニー・パーキンスとドナ・アンダーソンが安楽死の直前に思い起こすのもこの海岸での出会いでした。互いに愛を確認し、幸せな日々だったと感謝し合った後、ふと、妻のドナ・アンダーソンが「あの子、かわいそう」といい出します。愛を知らないまま、死んでいく運命にあるわが子を嘆いたのです。しかも、その死を自らが与えなければならないのです。

 このシーンでは核爆発の当事者ではないにもかかわらず、このような過酷な運命を受け入れざるをえないことの悲惨さが示されています。

 このように、映画『渚にて』ではラブロマンスが適度にちりばめられ、幸せそうに見える生活シーンが織り込まれていました。だからこそ、深刻なテーマの映画だったにもかかわらず、中学生の私は画面から目を背けることもなく真剣に見入っていたのでしょう。その結果として、ごく自然にこの映画が放ったメッセージを重く受け止めることができたのだと思います。

■強奪された自己決定権
 『FALL OUT』を見ると、原作者のシュートは安楽死についても、映画では米国風に美化していると批判していたといいます。ところが、中学生だった私は若いカップルが安楽死に至るシーンもよく覚えているのです。死を前にして静かに語り合うカップルの会話からは、無念さがひしひしと伝わってきたことを思い出します。見た目の悲惨さが描かれなかったからこそ、逆にメッセージを深く受け止めることができたといえます。

 安楽死のための錠剤を飲む直前に、二人が語り合うシーンをYou tubeで見つけました。4分27秒の映像をご紹介しましょう。

こちら →https://www.youtube.com/watch?v=AIFvXc_iMiI
最初にCMが流れますので、スキップしてからご覧ください。

 ごく普通に暮らしていた若いカップルの生活が、突如、放射能汚染によって破壊されてしまいます。北半球から南下してきた放射性降下物によって、自分たちの命が奪われるばかりか、愛しいわが子を自分の手で殺めなければならないことを知ったとき、どれほど悔しく、理不尽で、無念な思いに苛まれたことでしょう。それら一切が、若いカップルの静かな語らいの中に見事に表現されています。

 ここにこの映画のメッセージの一端が凝縮されているような気がします。

 このシーンは、コバルト爆弾によって北半球が壊滅し、南下してきた放射性降下物のせいでついにはオーストラリアのメルボルンで暮らしている人々まで死を免れなくなってしまうという状況の一端です。ここで表現されているのは、時空を超えた破壊力を持つ放射性物質の恐さであり、当事者でなくても地球にいる限り、一蓮托生で被害を被ってしまうことの理不尽さです。

 さらに、安楽死を選択せざるをえなくなった若いカップルの姿からは、自己決定権を奪われてしまったことの無念さが浮き彫りにされています。若いカップルとその子どもはヒトの生命力の象徴といえます。その若いカップルと幼い子どもが安楽死に追い込まれていくのです。もはや子孫を残すことはできません。このシーンによって、人類そのもの死滅が表現されているのです。

 2011年3月11日に発生した福島の原発事故以後、ふとした拍子に、記憶の奥底に眠っていたこのシーンが思い出されるようになりました。

■登壇者のコメント
 『FALL OUT』上映後に、制作者のピーター・カウフマン氏、中央大学教授の中尾秀俊氏、法政大学講師の川口悠子氏によるコメントが発表されました。

 制作者のピーター・カウフマン氏は、『渚にて』を深く掘り下げたくてこのドキュメンタリーを制作したといわれました。たしかに、今回、『FALL OUT』を見て、当時の政治状況、ハリウッドの見解、オーストラリア政府の核への見解、英国から見たオーストラリア、当時の政治家の反応、等々がよくわかりました。小説や映画と合わせてこの作品を見ることで、さまざまな観点から核に対する理解が深まります。

 カウフマン氏は福島原発事故からこの作品を着想し、オーストラリアの放送局に企画を持ち込んだそうです。けれども、実現せず、スクリーン・オーストラリアの財政支援によってようやくこの長編ドキュメンタリーが完成したといいます。そして、2015年3月19日、この映画は被爆地広島で公開されました。

こちら →
http://www.pcf.city.hiroshima.jp/ircd/joho/ibent%20428%20(FALL%20OUT).pdf
 
 以後、3月25日に京都で公開され、東京での公開は10月18日に開催されたこのイベントがはじめてだそうです。

 中尾氏は、『渚にて』の政治的文化的背景について、資料を駆使して説明されました。興味深かったのは、アイゼンハワー大統領が原子力の平和利用を唱えた翌年、ビキニ環礁で核実験を行ったこと、ソ連が1961年に実施した核実験「ツァーリ・ボンバ」は世界最大級のもので、広島に投下された原爆の3300倍にも及ぶものであったこと、などです。冷戦時代、核兵器は拡大の一途を辿っていたことがわかります。

 『FALL OUT』を見ていると、当時の国際政治の状況、社会状況などがよく見えてきます。『渚にて』はクレイマー監督の戦略で、世界18都市で同時に公開されましたが、そのオープニングには世界の政治家、著名人が多数、鑑賞したそうです。冷戦時代だからこそ、いっそう現実味を帯びて核問題に関心がもたれたのでしょう。『渚にて』は大成功を収め、以後、国連で核軍縮が議論されるようになったそうです。

 さて、川口氏は原作を読んでまず、「そんな感じでいいの?と思った」といわれました。それは、死をめぐる表現、加害者不在の描き方、偶発性が強調されて責任が拡散、等々への違和感からくるものなのでしょう。川口氏が「清潔な死」と表現されたのを興味深く思いました。そして、そこに米国の核イメージの反映を見、広島・長崎の被爆との不連続性を見るところに、氏のシャープな洞察力をみた思いがします。

 さらに、川口氏は、「どの立場から記憶するのか」「何を記憶するのか」という観点を提示し、「認識ギャップを埋める対話の可能性」を強調されました。実際、原爆を体験することは不可能です。だからこそ、誰もが当事者であるという意識をもち、立場の違いからくる認識ギャップを埋めていく必要があるのかもしれません。

 終了後、登壇者の方々を撮影させていただきました。左から順に、中尾氏、カウフマン氏、川口氏です。

こちら →IMG_2328 (2)

■『FALL OUT』、当事者意識
 『FALL OUT』の冒頭のシーンで、「この頭上に核兵器が。地球に住めなくなる日がくる」というアメリカのケネディ大統領のスピーチが流れます。そして、「一般社会に核兵器が溢れてきた。数が増えれば滅亡に近づく」という言葉が続きます。米ソ冷戦下の当時、放射能汚染がきわめて身近だったことがわかります。

 その後、第三次世界大戦は起こらず、核兵器による放射能汚染も起こりませんでしたが、2011年3月11日、将来に禍根を残す原発事故が福島で発生しました。『渚にて』で放射性降下物の破壊力を警告されていたにもかかわらず、この原発事故によって日本は放射性物質の汚染に晒されたのです。その後の対応も適切なものではありませんでした。もちろん、汚染物質が降下したのは日本ばかりではありません。風向きによって汚染物資は3日から6日で米大陸にも届いたそうです。

 福島原発事故からの教訓は、核兵器だけではなく、原子力発電所もまた大きなリスクを抱えていることが判明したことです。福島の原発事故によって、平和利用であれ、産業利用であれ、核物質はいったん爆発すれば、空間的にも時間的にもその破壊力は果てしなく広がり、しかも持続することがわかりました。

 ところが、いま、世界を見渡せば、クリーンエネルギー源として原子力発電所が多数、建設されています。核兵器を所有する国も以前に比べはるかに増えています。いつの間にか、いつでも、だれでも、どこでも、放射性物質の被害者になりうる時代になってしまっているのです。いまこそ、当事者意識を抱いて核問題を考える必要があるのかもしれません。

 『FALL OUT』を製作したカウフマン氏は、両親から『渚にて』がメルボルンで撮影されたことを聞いて育ったそうです。当時のメルボルンにとってこの映画がどれほど重要な価値を持つものであったか、人々がどれほど熱狂してロケハンを迎え入れたか、等々。ですから、『渚にて』に関してカウフマン氏はいわば当事者意識を持っていたといえます。

 さらに、ウラン産出国の国民としての立場からもカウフマン氏は核問題に関心を抱かれているようでした。オーストラリアはウランを大量に産出し、世界中に販売しています。エネルギー源として利用されているのかもしれませんし、核兵器に使われているのかもしれません。いずれにしても、オーストラリアは核問題から逃れられないという認識の中に、カウフマン氏の当事者意識を垣間見ることができます。

 ドキュメンタリー作品の製作にはテーマに関する製作者の当事者意識が深く関与するのでしょう。『FALL OUT』では、マンハッタン計画は取り上げられていますが、広島、長崎の被爆者は取り上げられていませんでした。当事者意識は関心領域とも深くかかわっていますから、これは当然のことかもしれません。

 こうしてみると、視聴者、読者は、どのようなコンテンツにも文化的、政治的、社会的バイヤスがかかっているのだという前提で見たり、聞いたり、読んだりする必要がありそうです。論議を呼ぶようなコンテンツについてはとくに、どの立場から製作されているのかも視野に収めておいた方がいいでしょう。

 『渚にて』が製作された時とは比較にならないほど、いま、世界中に核兵器、原子力発電所が溢れています。いつ何時、核爆発が起こり、放射性降下物によって世界が汚染されてしまわないとも限りません。そう考えると、今後、誰もが当事者なのだという意識を踏まえたうえで、川口氏のいう「認識ギャップを埋める対話」を進めていく必要があるのでしょう。『FALL OUT』を見て、『渚にて』を再訪し、私はさまざまな思いに駆られてしまいました。(2015/10/21 香取淳子)

世界の大学ランキング、増加する日本の子どもの「学びからの逃走」

■世界の大学ランキングの結果
 今年もまた世界大学ランキングが発表されました。昨年23位だった東京大学は今年43位と大きくランク落ちしました。京都大学も同様、昨年は59位だったのが今年は88位です。

こちら →http://www.huffingtonpost.jp/2015/10/01/tokyo-university_n_8230366.html

 アジアのトップはシンガポール国立大学、2位はランク42位の北京大学、そして、東京大学はアジアで3位という順です。上位10校のうち9校が英米の大学でした。

 興味深いのは、英米の難関校が上位を争う中、スイスのスイス連邦工科大チューリヒ校が9位に入っていることです。スイスのチューリッヒにある自然科学と工学を対象とした単科大学が奮闘しているのです。ウィキペディアによると、この大学は1855年に創設され、これまでにノーベル賞受賞者を21名も排出しているそうです。それだけ業績をあげている大学がランキング9位なのです。上位に食い込むのがいかに難しいかがわかります。

 評価項目は、以下の5分野から設定されています。

こちら →https://www.timeshighereducation.com/news/ranking-methodology-2016

• Teaching (the learning environment)
• Research (volume, income and reputation)
• Citations (research influence)
• International outlook (staff, students and research)
• Industry income (knowledge transfer)

①教育(教育環境)、②研究(量、収入、高い評価)、③引用(研究の影響)、④国際観(スタッフ、学生および研究)、⑤産業収入(知の移転)等々の5項目でした。それぞれの項目の配分比率は順に、30%、30%、30%、7.5%、2.5%でした。

 それぞれの項目について綿密な調査が行われ、各項ごとに集計して配分比率を加味し、結論が導き出されたのです。

■世界の大学学術ランキング
 大学ランキングを出しているのはいま紹介した「TIMES HIGHER EDUCATION」だけではありません。 「ACADEMIC RANKING OF WORLD UNIVERSITIES」も同様に世界の大学のランキングを出しています。

こちら →http://www.shanghairanking.com/ja/ARWU2015.html

 このランキングでは18位までが英米の大学で占められており、さきほどのスイス連邦工科大チューリヒ校は20位でした。そして、東京大学は21位、京都大学は26位といずれも上位にランクしています。日本のトップ校はアジアでもトップでした。

 一方、さきほどのランキングでアジア1位だったシンガポール国立大学はここでは101-150位で、北京大学、ソウル大学、復旦大学など50校と同順位でした。評価項目、評価手法等によってランキング順位が大きく異なってくることがわかります。

 世界の大学学術ランキングの評価手法は以下の通りです。

こちら →http://www.shanghairanking.com/ja/ARWU-Methodology-2015.html

 評価項目は4分野から6項目が設定されており、それぞれの配分比率は以下のようになっています。

教育質量    ノーベル賞やフィールズ賞を受ける卒業生の換算数 10%
教師質量    ノーベル賞やフィールズ賞を受ける教師の換算数  20%
        高被引用科学者数 20%
科学研究成果 《Nature》や《Science》で発表された論文数* N&S 20%
   (SCIE)と(SSCI)に収録された論文の換算数 20%
教師の平均表現 上述の五項の指標から得た教師の平均表現 10%
* 純粋な文系大学に対して、N&Sの指標ではなく、その比重に比例して、他の指標を使用。

 さきほどいいましたように、評価項目が異なればランキングも変わってしまうのですが、いずれのランキング結果でも英米の大学が上位を占めていることに変わりはありません。21世紀はアジアの時代といわれながら、学術方面ではまだまだ欧米に追い付いていないことがわかります。

 興味深いことに、こちらのランキングでは東京大学も京都大学もランキング順位は昨年と変わりません。もっとも5年前と比較すると、上位にランクされているとはいえ、それぞれ1位、2位程度、順位は下がっています。日本のトップ校が一定の評価を得ていることはわかりますが、やや下降傾向がみられることに留意する必要があるかもしれません。

 いずれにしても、二種類の大学ランキング調査からは程度の差はあれ、日本の大学の評価が落ちてきていることが示されています。知的能力こそ大きな価値を生み出す時代にこれでいいのかという気持ちになってしまいます。はたして子どもたちの学力はいまどうなっているのでしょうか。

■子どもたちの学力
 OECDが実施した「学習到達度調査」(PISA)の2012年度の結果を見ると、日本は数学的リテラシーが7位、科学的リテラシーが4位、読解力が4位という結果でした。この3分野で日本はいずれも前回を上回っており、2000年に同調査が始まって以来、高い順位を得たのです。

 さらに2014年4月、学校のカリキュラムにはない問題の解決に取り組む「問題解決能力」の結果が公表されました。これも日本は参加44か国・地域の中で3位という高い順位を収めています。

こちら →http://mainichi.jp/ronten/news/20140611dyo00m010013000c.html

 確かに喜ばしい結果ですが、ひょっとしたら、一時的なものかもしれません。そこで、PISAトップテンの推移を見ると、2006年は読解力が15位、科学的リテラシーが6位、数学的リテラシーが10位でした。とても喜べる順位ではありませんでした。

こちら →002
毎日新聞2014年6月11日より。図をクリックすると拡大されます。

 当時、この結果を見て、「PISAショック」が起きたといわれています。このままでいいのかと教育改革が叫ばれ、いわゆる「ゆとり教育」の見直しが行われました。新しい学習指導要領が2011年度から本格的に実施されたのです。それが2012年の調査結果に反映されたのでしょう。

 2012年のPISAでは数学的応用力に関する意識調査も行われました。その結果、日本の子どもはすべての項目で平均以下だったことが判明しました。とくに興味深いのが、「将来の仕事の可能性を広げてくれるから数学は学びがいがある」と回答した子どもの割合は52%でした。平均の77%を大きく下回っていたのです。

 この年、子どもたちの成績自体は確かに伸びています。ところが、学ぶことの意義や社会との関連付けについての意識を見ると、他国の子どもたちに比べ有意に低いことが判明したのです。このときの意識調査によって、日本の子どもたちの勉強に取り組む姿勢や心理的側面に大きな問題があることが示唆されたといえるでしょう。

■学びから逃走する子どもたち?
 思想家の内田樹氏が書いた『下流志向』という本があります。「学ばない子どもたち、働かない若者たち」という」サブタイトルがつけられています。私はこのサブタイトルに興味を覚えて購入しました。初版は2009年7月15日ですが、私が手にしているのが2015年3月18日刊行のものですから、28刷も版を重ねていることがわかります。この本には私と同様、大勢のヒトの興味関心を引く要素があったのでしょう。

 内田氏の次のような文章が印象に残りました。

 「教育機会から、主体的決意をもって、決然と逃走するということは、当然にも遠からず「下流社会」への階層効果を意味するわけですが、そういう下降志向の社会集団が登場してきた。これを日本社会における教育危機の重要な指標として、佐藤さんは分析したのですが、そのキーワードが「学びからの逃走」です」(『下流志向』、p.14)

 私は昔、『自由からの逃走』(エーリッヒ・フロム著)という本に引かれた時期がありました。個としてのヒトの気持ち、それらがまとまって生み出されていく大衆心理、そして、大衆心理によって突き動かされていく社会の動き、これらを総合的に分析していった手腕に引かれたのです。フロムはナチズムに傾倒していった当時のドイツ人を分析し、そのような社会心理のメカニズムの根底にあるのが「自由」だということを見出しました。

 自由には責任が伴い、ときに孤独が付随します。それに耐えきれなくなったヒトが自由を手放してしまったのです。自由を求めてヒトはこれまで様々な戦いを繰り返してきたはずなのに、せっかく手に入れた自由から逃げ出そうとする人々の存在を知り、フロムはナチズム旋風の巻き起こっていた当時の社会心理のメカニズムを分析しました。かつての私はこの鮮やかなロジックの立て方に感心し、引かれたのです。

 内田氏もこの本の「まえがき」でエーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』に触れています。

 さらに、内田氏はいいます。

 「僕はこの「学びからの逃走」は単独の現象ではなく、同時に、「労働からの逃走」でもあると考えています。この二つは同一の社会的な地殻変動の中で起きている。「学ぶこと」、「労働すること」は、これまでの日本社会においてその有用性を疑う人間はおりませんでした。(中略)学ばないこと、労働しないことを「誇らしく思う」とか、それが「自己評価の高さに結びつく」というようなことは近代日本社会においてはありえないことでした。しかし、今、その常識が覆りつつある。教育関係者たちの証言を信じればそういうことが起きています」(『下流志向』、p.15)

 「学びからの逃走」は容易に「労働からの逃走」に移行するというのです。たしかにメディアで報道される若者の事件、あるいは若者の意識調査などを見ていると、そうかもしれないと思わせられます。勉強する、努力する、頑張る、といった言葉が以前ほど使われなくなっていることを思えば、日本社会を根底から揺るがす風潮がじわじわと広がり始めているとも考えられます。

 憲法第26条には「国民の教育を受ける権利」が保障されています。教育を受ける権利は先人が獲得してきた権利で、子どもが人生の多様な選択肢を確保するための権利といえます。受けた教育のレベルによって人生の豊かさが左右されるからです。先人が苦労してつかみ取った生存権の一つといえるでしょう。

■女子教育を訴えたマララ・ユスフザイさん
 世界にはまだ教育機会を十分に与えられない国の子どもたちがたくさんいます。

 2014年12月10日、ノルウェーのオスロでノーベル平和賞受賞式が開催されました。受賞者の一人は17歳のパキスタン人、マララ・ユスフザイさんでした。このマララ・ユスフザイさんは2012年10月、女子が教育を受ける権利をと訴えてきたため武装勢力に頭を撃たれました。それにもめげず、教育を受けられない子どもたちのための活動を続けていることが評価され、平和賞を受賞することになったのです。

 このとき、マララ・ユスフザイさんが行ったスピーチをご紹介しましょう。

こちら →
http://www.huffingtonpost.jp/2014/12/10/nobel-lecture-by-malala-yousafzai_n_6302682.html
 
 マララ・ユスフザイさんは女子教育の必要性を体験を踏まえ、生き生きと訴えました。

「私たちは教育を渇望していました。なぜならば、私たちの未来はまさに教室の中にあったのですから。ともに座り、学び、読みました。格好良くて清楚な制服が大好きでしたし、大きな夢を抱きながら教室に座っていました。両親に誇らしく思ってもらいたかったし、優れた成績をあげたり何かを成し遂げるといった、一部の人からは男子にしかできないと思われていることを、女子でもできるのだと証明したかったのです」

 さらに、世界の指導者に向けて次のように訴えます。

「世界は、基本教育だけで満足していいわけではありません。世界の指導者たちは、発展途上国の子供たちが初等教育だけで十分だと思わないでください。自分たちの子供には、数学や科学、物理などをやらせていますよね。指導者たちは、全ての子供に対し、無料で、質の高い初等・中等教育を約束できるように、この機会を逃してはなりません」

 そして、なぜ教育の普及が進まないのか、反語の形で力強く訴えています。

「なぜ、銃を与えることはとても簡単なのに、本を与えることはとても難しいのでしょうか。なぜ戦車をつくることはとても簡単で、学校を建てることはとても難しいのでしょうか」

 感動的なスピーチでした。必死に教育を求める気持ちがひしひしと伝わってきます。
日本ユニセフは2013年春号の『ユニセフT•NET通信』で、マララ・ユスフザイさんの事件にちなみ、女子教育の厳しい現状を取り上げています。

こちら →http://www.unicef.or.jp/kodomo/teacher/pdf/sp/sp_54.pdf

 各地の現状や教育効果の個別事例が紹介されています。こうしてみると、たしかに教育の普及やその波及効果には時間がかかりますが、教育は確実に社会を改善できることがわかります。教育はなによりもまず貧困をなくし、平等で安定した社会をつくるための要件なのです。

■大学ランキングと子どもたちの「学びからの逃走」
 さきほど紹介した『下流志向』によれば、日本では教育の権利を自分から放棄する子どもたちが増えているといいます。教育を耐え難い労苦としか感じない子どもたちが増えているからでしょう。その結果、せっかく与えられた教育機会を放棄して、人生の多様な選択肢を狭めてしまい、犯罪に走らざるをえない子どもたちがなんと多いことか。メディアで報道されている事件を教育レベルと関連づけて分析すれば、なんらかの傾向が明らかになるのではないかと思うほどです。

 内田氏は次のようにも書いています。

「上層家庭の子どもは「勉強して高い学歴を得た場合には、そうでない場合よりも多くの利益を回収できる」ということを信じていられるが、下層家庭の子どもは学歴の効用をもう信じることができなくなっているということです。ここにあるのは「学力の差」ではなく、「学力についての信憑の差」です。「努力の差」ではなく、「努力についての動機づけの差」です」(『下流志向』、pp.97-98.)

 さまざまなニュース報道を見ていると、最近はその傾向が加速化されているような気がします。

 子どものころからの教育の差、学習に対する態度の差が、その後の出会いの差、機会の差、職業選択肢の差、そして、収入の差、生活レベルの差につながっていくのでしょう。こうしてみると、ヒトの幸せのためにも、社会の安定のためにも初期教育がいかに大切かということに思い至ります。大学はその最終ラウンドです。ところが、その大学の世界ランキングで日本の大学の順位が下がりつつあります。

 世界の大学ランキングで日本の順位を見て、ふと子どもたちの教育に思い及んだとき、私は図らずも現代日本社会をむしばみつつある「学び」と「労働」からの「逃走」という深刻な現象を知ることになってしまいました。

 初等教育を裾野とする教育体系の中で、なによりもまず、「学力についての信憑」そして、「努力についての動機づけ」を高める仕掛けを作っていく必要があるのではないかという気がしています。そうでもしなければ、「学びから逃走」する子どもたちがますます増え、結果として「労働からの逃走」を引き起こしかねません。「学び」を放棄した子どもたちは人生の多様な選択肢を失うことになるでしょうから、犯罪に手を染める可能性も高くなるかもしれません。そうなれば、社会の不安定化を引き起こすことになるのは必至です。早急になんらかの手を打つ必要があると思います。(2015/10/4 香取淳子)

エンターテイメントはインテリジェントICT化を阻む?

■iphone6sを購入したiPad組み込み装置
 9月25日、iphone6s、iphone6s plusが売り出されました。なんと三日間で1300万台も売れたそうです。過去最高の販売数だと各種メディアが伝えていますが、どれも似たような記事でした。そんな中、私が興味深く思ったのが、AFP=時事通信の記事で、シドニーでは女性がiPadを組み込んだ装置を行列に並ばせ、最新のiphone6sを買わせたという内容のものです。

 なぜ、そんなことができたのでしょうか。

 記事によると、iPhone 6s、iPhone 6s Plus発売の27時間前に、オーストラリア・シドニーのルーシー・ケリーさんは、iPadを電動立ち乗り二輪車のような機材に取り付け、アップルの店舗前に置いたそうです。下にその写真を載せました。これを見ると、ipadはカメラを取りつける三脚の上に装着されているように見えますが、実際に取り付けられていたのは二輪車です。だから、ヒトと同じように移動できるのでしょう。そのiPadの画面にはルーシーさんの顔が映し出され、そこからルーシーさんの声も聞こえてきたそうです。

こちら →
http://afpbb.ismcdn.jp/mwimgs/e/f/500×400/img_efc0ba799e975ba979031ac9cda7ec2c193757.jpg
AFP=時事通信の記事より。

 この装置はルーシーさんの代わりに他の客たちと一緒に行列に並び、現地時間25日午前8時の開店時刻になると、一番乗りの一団に加わってエレベーターで上の階に移動したといいます。そして、自分の番になると、iPadの画面上のケリーさんがあらかじめ装置に挟んでおいたクレジットカードを使うようアップルの店員に伝え、購入手続きを取ったのだそうです。

 iPadと二輪車を組み合わせた装置が、職場にいるルーシーさんの代わりに行列に並び、購入手続きを取りました。まるでロボットのような働きをしたのです。ユーザーがモバイル端末iPadの機能を活用し、人工知能の役割を担わせたケースです。

 すでにスマートフォンは急速に普及しています。

こちら →n4101010
総務省資料

 今回発売のiPhone 6sやiPhone 6s PlusにはA9チップが採用されており、処理速度は以前のものに比べ70%もアップしたそうです。さらに、縦横に加え、奥行による操作が可能になっただけではなく、通信速度、カメラ機能も大幅にアップしたといいます。このような高性能のスマートフォンが販売記録を更新しているのです。個人使用だけではなくビジネス使用も大幅に増えていくでしょう。となれば、今後、社会は大きく変化せざるをえません。ICTの高度化により、大きな社会変革が起ころうとしているのです。

■消えてなくなるヒトの仕事
 オックスフォード大学のCarl Benedikt Frey 氏と Michael A. Osborne氏は2013年9月、“THE FUTURE OF EMPLOYMENT : HOW SUSCEPTIBLE ARE JOBS TO COMPUTERISATION?”というタイトルの論文を発表しました。ICTの高度化によって将来、どういう職業が消滅する可能性があるかを調査に基づき割り出したのです。

こちら →
http://www.oxfordmartin.ox.ac.uk/downloads/academic/The_Future_of_Employment.pdf

 702の職種を対象に、今後どれだけICTにより自動化されうるかについての確率を算出することによって、ICTの高度化が雇用に与える影響を研究したのです。その結果、米国の総雇用者の約47%の仕事が自動化されるリスクが高いことが明らかになりました。つまり、現在の半数近くが消滅する可能性の高い職種だというのです。もちろん、この論文は世界の産業界に大きな衝撃を与えました。

 これを受けて総務省は2015年1月23日、「インテリジェント化が加速するICTの未来像に関する研究会」を立ち上げました。情報通信、ビッグデータ、 人工知能、脳科学、認知心理学等の分野の専門家がメンバーとなり、(1)ICTインテリジェント化のもたらす可能性 (2)具体的分野における可能性 (3)社会へのインパクト (4)ビジネス展開、国際競争における展望 (5)政策課題、等々について検討が行われました。

 総務省の第一回研究会でもオックスフォード大学のこの論文の骨子は検討材料として使われています。

こちら →スクリーンショット 2015-02-11 16.31.29
総務省研究会資料。クリックすると図が拡大されます。

 この研究会は5回行われた後、2015年6月、報告書が作成されました。

こちら →http://www.soumu.go.jp/main_content/000363712.pdf

 報告書では経済や雇用への影響については、ICTの高度化は今後長く継続し、世界経済と雇用に大きく影響するという認識がしめされています。そして、雇用の代替が進む一方で、新規雇用も創出されるとされています。

 現時点ではこの程度のことしかいえないのかもしれませんが、社会の不安を最小限後に抑えるには、新規雇用できる領域を早期に開拓していかなければなりません。それにはどのような仕事内容が自動化されにくいのか、産業としてある程度の市場規模を確保できるのかというようなことを考える必要があるでしょう。

■Wearable Tech Expo2015の開催
 2015年9月7日と8日、東京ファッションタウンビル TFTホールで、Wearable Tech Expo2015が開催されました。プログラムは以下の通りです。

こちら →https://www.wearabletechjapan.com/ja/program/

 興味興味深かったのが、8日に行われた「AIとロボットのある社会、人の存在はこうなる」というタイトルのトークセッションです。登壇者はロボット開発者の林要氏、SNS会社の堀江貴文氏、脳科学者の中野信子氏で、モデレーターは湯川鶴章氏です。人工知能とロボットは人間の代替をどこまで可能にするのか、既存の産業にどのように影響するのか、等々について話し合われました。

 このトークセッションについては以下のようにまとめられていますので、ご紹介しましょう。

こちら →http://japan.cnet.com/sp/wearabletech2015/35070753/?tag=nl

 興味深いのは、ロボットが人間の労働力に置き換わった場合に生き残る産業は何かについての三者の見解です。

 堀江氏は「僕が今投資先として注目しているのは、エンターテイメント産業」といい、林氏も「“感動させることができる”っていう意味でもエンターテイメントなんだと思う。人々の無意識下に働きかけるものは何か?と考えると、五感だったりするわけで。ロボットが浸透した最後に残る人間の仕事が、エンターテイメントとかホスピタリティになるのではないか」といいます。一方、中野氏は「労働力が機械に代替されても、自己実現的な欲求を満たすことが人間には必要だ」といい、「この欲求は機械にはなかなか代替できない。もしかすると、そこを埋めるのがエンターテイメントかもしれない」といいます。

 立場や見識の異なる三者が異口同音に、今後、生き残る産業としてエンターテイメントをあげたのです。もちろん、それぞれニュアンスは異なります。

■インテリジェントICT化を阻むもの
 これまでロボットはルーティン化した作業しかできないとされてきました。ところが、ICTの高度化により、人間の知能、知性に近づいた作業ができるようになっているといわれています。インテリジェントICT化を阻むものの領域がどんどん狭くなってきているのです。その結果、さきほど紹介したように多くの職業が今後、自動化され人手を必要としなくなっていくと予想されています。

 Carl Benedikt Frey氏らは自動化が困難だとする要因として9項目を想定しました。すなわち、知覚と操作にかかわるものとして、①指の器用さ、②手先の器用さ、③狭小空間・変則的な姿勢、創造的知性として、④オリジナリティ、⑤芸術性、社会的知性として、⑥社会洞察力、⑦交渉、⑧説得、⑨他者への気遣い、等々です。これらを指標として702の職種の自動化に対する脆弱性の確率を算出したのです。

 これらの項目はルーティン化、規則性に馴染まず、臨機応変の対応力、共感性、独自性、内省化、意識下の衝動、身体的感受性の高さ、等々が見受けられます。非合理の源泉であり、感動を生み出す要素でもあります。

 こうしてみると、堀江氏ら三人がロボット時代に生き残る産業の一つとしてエンターテイメントをあげたのもなんとなく理解できます。なによりもまず、エンターテイメントはヒトの心の充足に深く作用します。ですから、表現技法としてICTを取り入れることはあっても、その内容をICTによって自動的に生み出すことはありえません。

 もちろん、作品のアイデアをネットから得ることがあるでしょうし、SNSでアイデアを洗練させていくこともあるでしょう。でも、究極的にはヒトの知性や知能、経験や認識の独自性などの複合的な作用によって作品は生み出されます。だからこそ、ヒトの心に深く訴えかけることができ、インテリジェントICT化社会になっても独自の価値を維持し続けられるのだと思います。(2015/9/30 香取淳子)

『傾城の雪』にみるエンターテイメントの神髄

■興味の尽きない中国の歴史ドラマ
 2015年9月10日からチャンネル銀河で『傾城の雪』(全50話)が始まりました。中国の歴史ドラマはドラマティックで面白く、毎回、引き込まれて見てしまいます。どのドラマでも地位や権力をめぐる権謀術数が渦巻き、陰謀、冤罪、栄枯盛衰が描かれているからでしょう。ヒトの世の常であり、業でもある人生の諸相が中国の歴史を舞台に生き生きと表現されており、それが視聴者の気持ちを捉えるのです。

 中国歴史ドラマを見始めたのは2年ほど前ですが、見るたびに、ドラマの質が向上していることがわかります。テレビドラマとはいえ膨大な製作費と時間がかけられているからでしょう。ハリウッドと同様、巨額の製作費と時間を費やしても、魅力ある作品を制作しさえすればコスト回収できる状況ができつつあるのかもしれません。

 歴史ドラマとはいえ、宮廷ドラマは見た目が華やかで楽しめますし、戦記物はアクションシーンに迫力があります。メリハリの効いたストーリー、展開の速さ、卓越したカメラワーク、演技達者な俳優陣、心に残るセリフ・・・。中国の歴史ドラマにはドラマを見慣れた現代人の眼を楽しませてくれる要素に満ち溢れているのです。

 さて、『傾城の雪』はこれまで見慣れてきた歴史ドラマとは違って、明の時代の刺繍職人を中心に展開されるドラマです。最初はそれほどでもなかったのですが、3話目ぐらいから、やみつきになってしまいました。平日2話連続で放送されるこのドラマを今では夢中になって見ています。いったい、どんなドラマなのか。予告編(1分45秒)を見つけたので、ご紹介しましょう。

こちら →https://youtu.be/orLaZknSyN0

 前回の『宮廷の諍い女』も面白かったのですが、このドラマには現代の視聴者が見ても違和感をおぼえさせない魅力があります。時代状況、社会状況は明らかに現代の日本社会とは異なるのですが、なるほどそういうこともあるなと思いながら見てしまうのです。登場人物の性格、運命、主要な人物の敵対関係など、ドラマの基本要素が緻密に設定されているからでしょう。

こちら →https://www.ch-ginga.jp/feature/keiseinoyuki/

 メインのストーリーは、主人公の江嘉沅をめぐって二人の男性、杭景风と徐恨が恋の鞘当てをし、さらに、年長の方天羽が加わってストーリーが複雑に展開されるというラブストーリーです。明の正徳年間に繍女・江嘉沅をめぐって展開された三人の男たちの愛憎劇を参考に構想されたそうです。

■視聴者をぐいと引き込むストーリー展開
 ドラマではもちろん、それぞれの男性を恋する女性たちも登場します。そして、彼女たちはさまざまな愛の断面を見せながら、いくつもの愛憎劇を繰り広げていくのです。このような愛を巡るメインストーリーに、嫉妬による冤罪、刺繍職人と宮廷、刺繍職人と養蚕農家、当主家の人々とその使用人、刺繍の技能と評価といった背景的要素を絡ませたサブストーリーが組み入れられていきます。それらが相互に作用し、メインストーリーに豊かな彩りが添えられ、視聴者を深い感動に誘うのです。

 たとえば、冤罪によって獄中で自殺した父と後追い自殺をした母の法要を執り行うことになった第17話を見てみることにしましょう。

 法要は主人公の江嘉沅が身を寄せていた杭敬亭の家で行われました。ところが、せっかくの法要だというのに身内以外、誰もお線香をあげにきません。杭敬亭の妻は怒って自室に戻ってしまうのですが、そのとき、皇帝に仕える太監の白常喜がやってきて、江学文を追悼し、杭敬亭の労をねぎらうシーンがあります。

こちら →法要シーン
9月22日放送シーンを撮影。

 太監の白常喜は杭敬亭の労をねぎらった後、最後に江嘉沅に近づき、なにか願いごとはないかと聞きます。これまで何度か江嘉沅に苦い思いをさせられてきた白常喜が、彼女に声をかけたのです。取り巻く人々の間に一瞬、緊張が走ります。

 このシーンに登場する人物は皆、このドラマで主要な役割を演じる人びとです。白常喜のわざとらしい問いかけの後、カメラは主要な人物の顔を次々とクローズアップしていきます。セリフはないのですが、顔の表情だけで視聴者には登場人物たちの心情が手に取るようにわかります。

 これまでのストーリーの流れで視聴者は、どの人物が何をどのように考え、どの人物に敵対意識をもっているかがわかっています。それぞれに思惑があり、彼女の答え方ひとつでそれが一触即発しかねない微妙なシーンです。江嘉沅が白常喜に楯突くのではないかと心配するヒト、期待するヒト・・・、映し出されたクローズアップを見て、視聴者もまたさまざまに思いを巡らせます。

 そして、視聴者の気持ちをしっかりと引き込んだと思われるころ、画面では、江嘉沅が「お願いがあります」と丁重に切り出すのです。視聴者にとっては予想外の返答ですが、視聴者を安心させると同時に次ぎの展開を導く効果があります。脚本、演出、カメラワーク等々が見事に調和し、視聴者の予想を裏切った上で、ストーリー展開に自然な流れを持たせます。そして、これがその後の展開の伏線となるのです。

 このように視聴者の気持ちの動きを的確に読み込みながら、ストーリーが展開されていきますから、視聴者は知らず知らずのうちに、この作品世界の中にはまってしまいます。結局、私はこの第17話あたりから、放送を待ちきれなくなってしまいました。

 話の展開が気になって仕方なく、ネットで探しました。見つけたのが中国のサイトですが、放送を待ちきれずに第18話から見続けて、ついに最終話まで見てしまいました。一日10話以上、見たことになります。

こちら →http://www.dramaq.com.tw/allure/ep1.php

 ドラマには漢字の字幕がついていますから、中国語のセリフを聞き取れなくても、意味はわかります。ストーリーに引き込まれ、無理をして最後まで見てしまったのです。集中して見続けた結果、目の痛みが止まらなくなりました。眼科で目薬を処方してもらい、痛みをおさえながら、見終えたのです。

■エンターテイメントの神髄
 なぜ、これほどまで夢中になってしまったのか。一つには登場人物の設定が巧みだったことが考えられます。BSフジが作成した人物相関図をご紹介しましょう。

こちら →http://www.bsfuji.tv/keiseinoyuki/soukan/index.html

 主人公の父・江学文と許婚の父・杭敬亭は表面上、友達同士ですが、刺繍職人としての技量を競う仲でもありました。ところが、江学文は「刺繍の神」と称えられ、両者に格差が生まれてしまいます。それを怨み妬み、反発し、杭敬亭はいつかその座を奪い取ろうと野心を抱くようになります。嫉妬心が生み出す怨嗟です。その子どもである江嘉沅と杭景风は生まれたときから親同士が決めた許婚です。杭景风は長じてからもその気持ちに変わりませんが、江嘉沅の方は徐恨と出会い、気持ちが揺らぎ始めます。

 杭景风の恋敵となるのが、若い頃、杭敬亭が江学文の名を騙って雲南省の繍女を孕ませ生まれた徐恨です。20年後、徐親子は彼らの住む蘇州にやってきます。育ての父である徐雷が江学文を、繍女であった妹を孕ませた張本人だと思い込み、その報復を目指してやってきたのです。ところが、徐恨はたまたま江学文の娘・江嘉沅と出会い、恋心を抱くようになります。

 江学文をライバル視する杭敬亭の下で働くようになった徐雷は策略をめぐらせ、江学文に濡れ衣を着せたあげく、江学文を自殺に追い込むことに成功します。念願が叶った徐雷は徐恨を連れて帰郷しようとしますが、杭敬亭に引き留められます。その際、酔った勢いで、徐恨が20年前、雲南省で江学文によって孕ませられた妹の子であることを告げてしまいます。かつて江学文の名を騙って雲南省の繍女と関係を持った杭敬亭はこのとき、徐恨が自分の子どもであることを知ることになります。

・・・、ストーリーの紹介はこのぐらいにしておきましょう。

 もちろん、視聴者を夢中にさせた原因は複雑怪奇な人間関係だけではありません。人物の対立関係を明白にし、それを終盤まで揺るがせにしなかったことも一因でしょう。極端なほどのキャラクター設定がストーリーの強度を高めたのです。

 とくに興味深いのは、杭景风の妹・杭景珍と、母・白玉琴です。彼女たちは物語の設定上、脇役でしかないのですが、そのキャラクターが強烈なのです。二人とも上には媚びへつらい、使用人には苛めともいえるほど厳しく、得になると思えば、平気で嘘をつき、何の苦も無く涙を流します。主人公の江嘉沅に終始一貫、悪辣な態度を取り続けるのがこの二人です。

 ちょっとした落ち度を見つけては誰彼かまわずまくしたてる母と同様、娘もまた際限なく悪態をつき、罵詈雑言を浴びせかけます。彼女たちの背後にあるのは特権意識であり、下位の者に対する差別意識であり、露骨な損得勘定と利己的な保身です。回を重ねて見ているうちに、このような母の下で育てば、このような娘になってしまうのだろうと思えてくるのが不思議です。

 母から受け継いだ傲慢な態度に加え、江嘉沅に対する嫉妬が加わります。その結果、杭景珍は彼女を陥れるためにはなんでもしかねないほど憎悪するようになっています。実際、父を死に追いやり、母を刑死させることになる放火も、彼女が江嘉沅を陥れるために実行したことの結果なのです。

■娯楽の神髄と人生哲学
 このドラマを見ていると、愛、怨念、嫉妬、競争心、保身など、ヒトの複雑な感情の下で人間関係がゆがみ、運命もまたゆがんでいくことがわかります。しかも、それが別の結果を生み、それぞれが連鎖していくのです。50話にものぼる長編を飽きさせずに展開することができたのは、緻密なストーリー構築だけではなく、その背後に流れる人生哲学に個別の文化を超えた普遍性が感じられるからでしょう。

 このドラマのストーリーを展開させていく大きな柱になっているのが、怨念による「報復」だとすれば、ドラマ全体で大きく浮き彫りにされていくのが「因果応報」の思想です。

 若い頃、江学文の名を騙って繍女を孕ませ、そのまま立ち去った杭敬亭は、杭景风の子を身ごもった佩艺が自殺した際、「报应」(因果応報)と呻くようにいいます。以後、杭敬亭は気弱になり、心を病んでいきます。そして、声高にまくしたてる妻や娘の言い分を拒否し、過去を償おうとします。

 それに反し、妻と娘はますます横暴になり、歯止めが効かなくなっていきます。差別意識や特権意識とがセットになった彼女たちのプライドが現状認識を誤らせているのですが、そのことに気づきません。結局、母は娘の犯行現場を目撃しながら、自首させることもできず、逆に娘からどこか遠い所に行ってしまうよう脅かされる始末です。それでも、母は娘に寄り添おうとします。

こちら →母娘シーン
http://www.dramaq.com.tw/allure/ep50.phpを撮影。

 これは処刑の前日、母が獄中で娘に手紙を書きながら、娘とのやり取りを思い出しているシーンです。母は自分の育て方の非を認め、どんなことがあってもやはり私はあなたが一番可愛いと泣きながら訴えています。娘の犯した罪を被っただけではなく、その娘に対し最後まであなたが可愛いと伝え、娘を保護しようとしているのです。

 画策して江家を滅ぼした杭家はこうして内部から自滅していくのですが、このドラマには若い男女の愛だけではなく、親子の愛が様々な切り口で描き出されています。それが全編に通底しており、作品を豊かなものにしています。

 圧巻は最後の50話です。白玉琴(杭敬亭の妻、杭景风と杭景珍の母)の処刑直前、主人公の江嘉沅と徐恨は自分たちの子どもを抱え、刑場に立たされた彼女に会いに来ます。杭敬亭の子である徐恨と江嘉沅との子どもは杭家の血を引いています。処刑されようとしている白玉琴に、杭家の血を引く子どもを引き合わせたのです。まさに命が絶たれようとする直前です。どれほど白玉琴の気持ちが救われたことか。これで彼女も未来につながる希望を抱いて死んでいくことができます。このシーンは娘の罪を被った白玉琴にプラスの因果応報が与えられたと見ることができます。

 中国のウィキペディアを見ると、このドラマのジャンルは、「古装」(時代劇)、「励志」(感動)と分類されています。時代劇であり、感動を呼ぶ作品だということです。確かに私も何度、このドラマを見て涙を流したかわかりません。ひたむきな愛、無償の愛、犠牲をいとわない愛などに触れたとき、ふいに目が潤んでしまうのです。

 このドラマが文化を超えて訴えかけるのは、感動をもたらす人生哲学があるからでしょう。改めて、エンターテイメントにはヒトの人生を肯定的に捉える哲学が不可欠だということに気づきます。調べてみると、脚本を担当したのは台湾出身の李顺慈氏と香港出身の沈芷凝氏です。いずれも女性であり、純粋な本土のヒトではありません。

 より自由度の高い環境で生育した脚本家たちだからでしょうか、没落した江嘉沅が食堂を開くシーンがあるのですが、女性が自立することによって生き生きとした生を取り戻す様子が描かれています。どんなことでも自分ができることで収入を得、生きていく力を身につけていくことの重要さが示されています。さらに、杭家の母と娘が繰り返す暴力的ともいえる言葉のやり取りでは、女性の脚本家ならではのセリフが随所にあふれています。久々に引き込まれたドラマでした。(2015/9/25 香取淳子)

102歳のクリエーター・篠田桃紅氏

■『百歳の力』
 新幹線の発車までに時間の余裕があったので、京都駅の書店に立ち寄ってみました。入ってすぐの所、カウンターの近くに新刊書が平積みにされていました。書店ではよくある配置です。そのまま通り過ぎようとして、ふと、「103歳の現役美術家、唯一の自伝!」というキャッチコピーに目が留まりました。さらに、「10万部突破!」というコピーも目に飛び込んできました。本のタイトルは『百歳の力』、著者は「篠田桃紅」です。これでは手に取らないわけにはいきません。

 奥付を見ると、初版は2014年6月22日、私が手に取っていたのは、2015年7月13日に発行された第八刷目の本でした。本が売れない今の時代に、わずか1年で八刷も版を重ねていたのです。よほどヒトの心を捉えるものがあったのでしょう。

 ざっと眼を通しただけで、気になるフレーズがいくつも見つかりました。新幹線の中で読むにはちょうどいいでしょう。私はそのまま、レジに進みました。
 
 篠田桃紅氏は1913年3月28日生まれですから、いま、102歳です。それが現役のクリエーターだというのですから、驚きです。著名人なので、ずいぶん前から名前だけは知っていました。書道家だと思っていたのですが、この本を見ると、どうやら美術家でもあるようです。その程度の認識ですから、私はこれまで篠田氏の書を見たこともなければ、画を見たこともありませんでした。

 ところが、書店でたまたまこの本を手に取り、ちらっと読んだだけで興味をかき立てられました。近来になく、心に響くものがありました。私は偶然出会ったこの書に導かれるようにして、篠田桃紅氏が築き上げてきた創作の世界に入っていくことになりました。

■無限の世界へ
 これまで私が思い込んでいたように、篠田氏はたしかに書道家でした。この本を読むと、5歳のころから父に書の手ほどきを受け、桃紅という雅号もその父から与えられたというのです。書道家として生きることを運命づけられていたかのような生い立ちでした。

 興味深いことに、篠田氏は子どものころから制約を受けることを快く思わなかったようです。当然のことながら、適齢期になると、結婚を前提としない生き方を選択するようになります。結婚に伴う制約をなによりも恐れたからでした。当時は女性が一人で生きていくことがとても難しかった時代でした。ところが、篠田氏は女学校を卒業するとまもなく家を出て、書道を教えることで生計を立てはじめます。幼いころから才能を発揮していた書道を支えに、キャリア人生をスタートさせたのです。

 第4話「人生というものをトシで決めたことはない」の冒頭に、「無限の世界へ出る」と題された文章があります。これが篠田氏の創作を知る上で大変、参考になります。

「私は好きなように書きたかった。自分のやりたいことをやりたかったから、字を書く決まりの紐をほどいて、無限の世界に出ることにした」と書き、続けて、「字を書いているということは紐つきなんですよ。範囲が決まっている。自由がない。自由がないのがいやだったのね。だから、墨で抽象画を描くようになった」と書いています。(『百歳の力』pp.106-107.)

 この文章を読んで、私は軽い衝撃を受けました。字を書くことに制約があるとは、これまで思ったこともなかったからです。でも、いわれてみれば、たしかに、文字にはいくつもの制約があります。どのような形状の文字であれ、文字は一つのマス目に収まるようなサイズで均質化され、それらは縦方向一列、あるいは、横方向一列に並べて配置されています。さらに、その文字の組み合わせで意味が伝達されるようになっています。

 ですから、たとえ、数語であっても文字である限り、一定のルールに従って書かなければなりません。それを篠田氏は「自由がない」と感じてしまうのです。そのような感性の鋭敏さがおそらく創作の原動力になっているのでしょう。

■書から画へ
 たとえば、篠田氏の作品に、平仮名と図を組み合わせた「katachi」という作品があります。

こちら →katachi
http://free-stock-illustration.com より。

 篠田氏の作品には珍しく、文字と非文字が組み合わされています。ここで書かれている文字はかなり形を崩して書かれていますが、一目で、平仮名だということがわかります。平仮名の痕跡がそれとなく残されているからでしょう。

 平仮名を全く知らないヒトが見てもおそらく、これらの線で構成された造形物が文字だということはわかるでしょう。個々の図形は均質化され、一つのラインに沿って並べられているからです。右側に縦方向に書かれた2行の黒い文字、そして、左側に、こちらも縦方向ですが、やや斜めに書かれた2行の赤い文字、いずれも和文で文字を書く場合の法則にしたがっています。

 一方、この作品には3つの非文字の造形物が描かれています。いずれも板のように見える造形物ですが、一ヵ所で接合されており、その上にさきほどの文字列が配されています。ちょっと引いてこの画を見たとき、何が見えてくるかと言えば、真っ先に目につくのが、この板のような造形物です。この造形物は画面に方向性と奥行きを与えるばかりか、力強い形態と色彩によって見る者を奥深い世界に引き込んでしまうからです。ここでは文字はちょっとした装飾にしか見えません。

 同じように文字と非文字を組み合わせた作品に、「fantasy」というタイトルの作品があります。

こちら →fantasy
米ニューメキシコ州、Glenn Green Galleries所蔵。

 こちらは4枚の石のような形状のものの上に、象形文字から漢字に進化する過程の字が書かれています。白っぽい石の上には黒の字、その下の黒の石の上には赤の字、そして、一番下の石には金の線画のようなものが書かれています。ここでは文字と非文字が拮抗する力で構成されていますが、ヒトの眼を引くのは黒、赤、金で彩色された文字です。ところが、これらはいわゆる文字ではなく、象形文字の進化形あるいは線画と言った方がふさわしいものです。

 文字と非文字を組み合わせた作品「katachi」と「fantasy」を見ていると、篠田氏が「書」を線芸術として捉え、やがて「画」に進んでいった理由がなんとなくわかるような気がしました。毛筆と墨という日本古来のメディアには、「書」に拘束されない幅広い表現の可能性があるのです。幼い頃から書に親しんできた篠田氏は、毛筆と墨のもたらす美術的深淵を熟知しておられたのでしょう。書から画へと、活動領域を広げられ、そして、現在に至っています。

■岐阜県立美術館
 日本で多数の篠田作品を所蔵しているのが、岐阜県立美術館です。1950年代から現在に至る篠田コレクションは約800点を超えるといわれています。まさにここで、篠田桃紅氏の世界を堪能することができるのです。

こちら →http://www.gi-co-ma.or.jp/collection/index.html

 今年も「篠田桃紅 静謐な白」展(2015年5月31日~7月16日)が開催されました。約30点が展示されたようです。

こちら →http://www.gi-co-ma.or.jp/exhibition/150603/index.html

 篠田氏が毛筆と墨によって、「無限の世界」へ飛翔したことはすでに述べました。この展覧会はどうやらその墨がもたらす余白の「白」に着目して構成されているようです。

 展覧会のタイトルは「静謐な白」です。篠田氏は墨の深さと勢いによってもたらされる「静謐な白」に心惹かれているといわれています。たしかに、墨の深さは余白の白を際立たせ、墨の勢いは余白の静謐感を高めます。そして、黒白は明度の差を表す一方、そのコントラストによって相互に引き立てあいます。一方、ヒトの世は明暗、禍福があざなえる縄のようにやってきます。

 篠田氏は『百歳の力』の中で、詩人の草野心平の言葉を引いて次のように書いています。

「富士が美しいのは、底に火があって、てっぺんに雪がある。その両極があること、それが富士を丈高くしている。ああいう美しいものはこの世にない」(p.148)

 篠田氏も同様に、富士山には両極があるからこそ、崇高で壮大なのだと書いています。富士山が崇高で壮大なのは決して日本一高い山だからではないのだというのです。このような対象の捉え方は、次のような見解につながります。

「感覚というものは、言葉にはなりにくいものです。はっきりしない。たとえば熱い、冷たい、という単純なものは伝えうるけど、それ以上のこまやかで複雑なものはたいへんに難しい。そうした感覚を表現しうるのが抽象で、言葉に置き換えられないものが抽象という芸術です」(ppp.170-171)

 篠田氏は、「無限の世界」を求めて、書から画に活動領域を移してきました。当然のことながら、描く世界も抽象の世界です。具象であれば、見ればすぐに何が描かれているのかがわかります。ですから、それだけで見るヒトの感覚が拘束されてしまうというのです。範囲が決まってしまうと、ヒトはそれ以上の感覚を持つのが難しい。ところが、何が描かれているのかわからなければ、無限のその感覚を押し広げることができる・・・、だからこそ、篠田氏は墨と毛筆で抽象の世界を表現してきたのです。

 このような見解を持ち続けていること自体、篠田氏が102歳でなお現役のクリエーターであることの明らかな証左といえましょう。さらに彼女は、抽象は無限の想像力を誘い出す一つの道筋なのだとも書いています。根っからの自由人であり、クリエーターなのです。この本を読んでから、私は慌てて篠田氏の作品を鑑賞し、その創造力に圧倒されるとともに、想像力を限りなく刺激されました。(2015/8/13 香取淳子)

日経新聞社、グローバルメディア市場へ

■記者会見のUstream中継
 2015年7月24日午後5時、日経新聞社は都内のホテルで、フィナンシャル・タイムズ・グループ(以下、FT)の買収について記者会見を行いました。

 この日の未明、ネットではすでにこのニュースは流れていました。ですから、私はメディア報道よりも早く知っていたのですが、どういうわけか現実味を持ってこのニュースを受け止めることができませんでした。私の認識では、日経新聞社は日本のローカルなメディアですが、ファイナンシャルタイムズは世界に名だたるグローバルメディアです。メディアとしての格、影響力がまったく違いますから、即座には信じられなかったのです。

 どうしてこのような買収が可能になったのか。買収後、日経はどのようなFT活用プランを考えているのか。約1600億円といわれる買収金額を回収できる算段はついているのか、等々。いくつもの疑問が脳裏を掠めました。

 実際、これまで日本メディアが大手海外メディアを買収したことはありません。勝手な思い込みかもしれませんが、海外メディアの買収などはマードックのような海千山千の辣腕経営者がすることであって、日本のメディア企業がすることではないと思い込んでいたのです。

 やがてネットだけではなく、テレビも新聞もこのニュースを報じるようになりました。ところが、新聞各紙の報道を見ても、表面的な報道に終始しており、どれも満足できるものではありませんでした。これだけ野心的な事業を行ったヒトたちの顔が見えないし、肉声が聞こえてこないのです。

 そこで、ネットを見ると、この会見は丸ごとUstreamで中継されていました。質疑応答を含め、1時間にわたる中継でしたが、その一部始終を視聴することができたのです。会見に臨んだのは、岡田直敏社長、喜多恒雄会長、二人の専務取締役の総勢4人でした。買収劇の当事者たちです。

 Ustream中継の映像をご紹介しましょう。

こちら →http://www.ustream.tv/recorded/68617663

 日経は新聞社でありながら、「http://channel.nikkei.co.jp/」で、このような映像も配信していたのです。

■パートナーの獲得
 まず、喜多恒雄会長からFT買収についての概略が説明されました。喜多氏は、メディアが今後も成長し続けていくには、デジタル化とグローバル化を推進していく必要があり、それには相応しいパートナーと協同して対応していくことが肝要だと話されました。これがFT買収についての日経側の基本的な考え方でした。

 FTと日経はこれまで、人材交流、共同編集等を行ってきた歴史があり、メディアとしての理念や価値観を共有してきたといいます。その流れの中で今回の買収に至ったと喜多氏は説明されましたが、実はFTの買収を巡って日経は、独メディアのシュプリンガーと最後まで争ったという報道もあります。

 たとえば、『東洋経済online』は、「日経によるFT電撃買収は、うまくいくのか」(小林恭子, 2015/7/24)という記事を載せています。そこでは、親会社であるPearsonがFTの売却先を求めいくつかのメディア企業と交渉していたことが明らかにされています。さらに、ドイツのシュプリンガーとは1年前から交渉を進め、日経がこの話に加わったのはわずか2か月前だったとも書かれています。

 一方、会長の喜多氏は会場で、FTの親会社であるPearsonからは5週間前に投資銀行を通してFT買収の打診があったと説明しています。ですから、交渉開始時期は『東洋経済online』の記事とほぼ一致しています。Pearsonから日経に打診があり、その後、様々なやり取りがあったのでしょう。そして、23日朝、ロイターは58年間FTを所有してきたPearsonが売却についての最終段階に入ったと報じています。

こちら →
http://www.reuters.com/article/2015/07/23/pearson-ma-financialtimes-confirmation-idUSASN00092320150723

 会長の喜多氏も、23日、日経とPearson双方が長時間にわたって電話会議を行い、具体的な価格を決めたと説明しています。時間をかけて交渉してきたシュプリンガーに比べ、日経はかなり後から交渉に参加しましたが、きわめてスムーズに買収交渉を成立させたのです。巨額の買収額のおかげでしょう。

 朝日新聞DIGITAL(2015/7/25配信)は、「日経は、約1600億円を現金で支払うと突然提案した。シュプリンガーを上回る内容だったとみられ、FTは関係者の話として「最後の10分で逆転した」と報じた」と書いています。

こちら →http://www.asahi.com/articles/ASH7S7674H7SULFA03L.html

■買収額に見合う投資なのか?
 FTグループの買収額は8億4440万ポンド(約1600億円)でした。これは日本のメディア企業による海外企業の買収としては過去最高額だそうです。ちなみにブルームバーグはこの買収額に関連づけて、「FT買収額Wポストの5倍、営業利益の35倍」というタイトルの記事を載せています。

こちら →http://www.bloomberg.co.jp/news/123-NRYRPY6JTSEA01.html#

 この記事には、FTの親会社であるPearsonは米紙ワシントンポストをアマゾンに売却したとき(2013年)よりはるかに有利な条件で日経と契約を交わしたと書かれています。日経がFTグループの企業価値を2014年度の売上高の訳2.5倍と見積もったのに対し、2013年にアマゾンに売却されたワシントンポストは売上高を60%も下回る価格だったというのです。そして、この買収額には「査定による裏付け」がなく、「知名度の高い資産へのフランチャイズ・バリューを反映しているにすぎない」と書いています。

 買収額については会場からも質問が出ました。「ワシントンポストの5倍近い金額を投じるメリットは何か?」と問われたのです。

 岡田直敏社長はこれについて、「FTの買収により、記事の相互利用だけではなく、ノウハウの交換、人材交流などで両者が深くつながることができ、それによって新たなシナジー効果を期待できる」とし、「FTの資産価値、ブランド価値、さらには日経とのコラボによる価値の増大を考えれば、この金額が高すぎることはない」と説明しました。

 たしかに、FTの買収によって日経は読者数では世界最大の経済メディアになります。巨大メディアだからこそできるさまざまなサービスの開発、コンテンツの提供が今後、可能になるでしょう。そこから新たな収益を見込むことができます。

 なによりも、FTの買収によって日経は時間をかけずにグローバルメディア市場に打って出ることができます。日経のブランド構築に大きな効果が期待できるでしょう。日経は今後、成長が著しいアジアをターゲットに成長戦略を描いているようですから、収益の向上はすでに算段できているのかもしれません。

■英語媒体の強化
 メディアを取り巻く今後の状況を考えれば、日本の読者を主要な対象にした日本のメディアに限界があることは確かでしょう。日本のマーケットは今後、大幅に縮小していきます。人口が減少するだけではなく、高齢化がさらに進むからです。そのような人口動態を考えれば、メディア企業といえども海外に目を向け、海外読者を取り込んでいく必要があるでしょう。

 たとえば、2014年12月のABCデータによると、日経の購読者数は朝刊が273万2989部でした。他紙よりも減少の程度は低いといわれていますが、それでも10年前に比べ10%減になっています。しかも、2013年、日経新聞は大幅な読者減を経験しています。

こちら →http://www.garbagenews.net/archives/2141533.html

 ただ、日経読者の意識・行動についての調査結果を見ると、「新聞の海外報道に関心がある」読者の比率は64.3%、「英語を学んでみたい(現在、学んでいる)」読者の比率は56.2%、いずれの数値も朝日、毎日、読売をはるかにしのいでいます(『日本経済新聞媒体資料2015』、p.9)。しかも、社長、役員など企業の意思決定者層へのカバレッジは他紙・他誌を圧倒しているのです(前掲、p.6)。

 以上の結果を総合すると、体力のあるうちに海外に打って出ようという戦略が日経幹部の間で検討されていたとしても不思議はありません。彼らはおそらく、以上のような現状認識を踏まえ、2013年に英語版で多メディア対応のNikkei Asian Reviewを創設したのでしょう。だとすれば、今回の買収はその延長線上にある経営戦略の一つと考えられます。

こちら →http://asia.nikkei.com/

 人口構成が若く、教育に熱心な国は必ず発展していきます。そのような国では貧しいことが原動力となり、ヒトは積極的に学び、働き、モノを買おうとし、新しいことにチャレンジしようとするからです。私はハノイやホーチミンなどインドシナ半島には何度か出かけていますが、行くたびにそのことをひしひしと感じます。

 成長市場はいま東南アジアにあり、そこでの共通言語は英語です。日経がFTと協同すれば、アジア市場をさらに開拓することができ、アジアの経済動向に大きな影響を与える可能性があります。これまで日本メディアの弱点とされてきた英語による発信力の弱さをFTの買収によって克服すれば、メディア激変期にも日経は成長し続けることができるでしょう。

 東京新聞(2015年7月15日夕刊)で興味深い記事を見つけました。記事のタイトルは「ソフトパワーの世界ランクで日本は8位」というものです。以下のような内容でした。

 英国を拠点とする国際コンサルタント会社「ポートランド」によると、文化など非軍事の国力「ソフトパワー」の世界ランキングは、一位が英国、二位がドイツ、三位が米国、日本は八位でした。日本については、「独自の文化や技術開発力で優れている」のに、「高い教育を受けていても英語によるコミュニケーションができないことがある」と分析されているというのです。

こちら →PK2015071502100173_size0
東京新聞より。

上の図に見るように、上位は欧米諸国がほぼ独占しています。この世界ランキングの記事からも、英語による情報発信力の差異がソフトパワーの強弱に関連しているといえそうです。グローバル化は共通言語としての英語の地位をさらに高めました。グローバル化対応を強化しようとしている日経が英語による経済情報の発信強化に努めるのは理の当然といえるでしょう。

■FT買収によるシナジー効果
 岡田直敏社長は会場で、「FTとの一体化によって、グローバル競争の中でかなり強力なメディアになれるのではないかと思っている」という認識を示されました。「IT mediaニュース」(7月24日配信版)によれば、FTのデジタル版「FT.com」の有料読者数は約50万人、日経電子版は約43万人ですから、この買収で一挙に93万人に膨れ上がります。経済ニュースメディアとしては当然、世界一となりますから、岡田社長のいうように、「グローバル競争の中でかなり強力なメディア」になることは確実でしょう。

 日経新聞電子版(7月24日配信)によれば、日経とFTを併せた有料読者数93万人はニューヨークタイムズの91万人を抜いて世界一、新聞発行部数はウォールストリートジャーナル(146万部)の2倍強です。紙媒体と電子媒体を併せ持つビジネスメディアは、日経・FTとウォールストリートジャーナルを傘下に持つダウ・ジョーンズの2強体制に集約されることになります。今後、経済情報の領域では、これに通信のブルームバーグを加えた三者がグローバル市場で競い合うことになるのです。

 FT買収による日経は数の上で優位に立てるというだけではありません。FTのコンテンツを活用することもできます。FTは世界の企業の時価総額をランキングする「ファイナンシャル・タイムズ・グローバル500」を毎年、発表しています。2014年版をご紹介しましょう。

こちら →
http://www.ft.com/intl/cms/s/0/988051be-fdee-11e3-bd0e-00144feab7de.html#axzz3gxgyV300

 これを見るとわかるように、欧米日のデータはしっかり把握できていますが、アジアは新興国として「Emerging 500」にカテゴライズされています。日本以外のアジアはすべて、ロシア、ブラジル、インド、サウジアラビア、トルコ、ヨルダンなどと一括して扱われているのです。これだけ見ても、今後、大きく成長すると思われるアジアのデータの集積がFTには不十分であることがわかります。

 一方、日経は2013年に「Nikkei Asian Review」を刊行して以来、アジアの企業情報の収集に力を入れています。アジアの優良企業についての情報を現在、「Asian 100」として提供していますが、やがてこれらが大きな情報価値となって日経の企業価値を高めてくれるでしょう。

こちら →
http://asia.nikkei.com/magazine/20141120-THE-REGION-S-TOP-COMPANIES/NIKKEI-Announcement/List-of-ASEAN-100-companies

 こうした状況を考え合わせると、FTを買収した日経が経済情報の領域で大きなパワーを発揮するようになるのは必至です。

■デジタル化、多メディア対応
 日経新聞社は他社に先駆け、2010年に日経新聞電子版を刊行しました。以来、着実に購読者数を増加させ、2015年1月5日時点で39万0891部に至っています。しかも、これまで新聞を読んでいなかった層が日経電子版の購読者になっているようなのです。

 永江一石氏によると、2013年7月に電子版の有料会員になった読者のうち18%が新聞の非読者層だったそうです。さらに、女性会員の比率や20~30歳代の比率も当初から2013年7月までで7~8%増えているといいます(http://blogos.com/article/80747/)。

 これにはさまざまな要因が考えられますが、ネット利用に慣れた若者層が増加していることから、サイトへのアクセス時間の短さが関係していると思われます。下の図は新聞各社のサイトへのアクセス時間のデータです。

こちら →69cb3242585ab77658440e1db09d4671
アルゴス・ジャパンのデータより(前掲 永江氏記事 URL)

 これを見ると、圧倒的に早いのが日経新聞です。電子版へのアクセスはモバイルからが多いといわれていますが、アクセスが集中すると、速度が遅くなってしまいますし、時にはダウンしてしまうこともあります。読者をイライラさせることがないよう、日経が電子版の視聴環境に細心の注意を払っていることがわかります。これは単なる一例です。

 一方、FTもデジタル対応でもっとも成功しているメディアの一つとされています。Lionel Barber編集長は2013年初、年頭の挨拶としてメールで、「digital first strategy」を展開する旨の通達をスタッフに出しました。

こちら →
http://www.theguardian.com/media/2013/jan/21/lionel-barber-email-financial-times

 急速に変化するメディア環境下で、これまで通りクォリティの高いジャーナリズムを下支えするには、デジタル時代にふさわしくFTは大変革をしなければならないと檄を飛ばしているのです。実際、グーグル、リンクトイン、ツィッターなどの新興メディアによって日常的に旧メディアは浸食されるようになってきました。ですから、Lionel Barber編集長は、これらの新興メディアを含め、激化する競争市場でFTの未来を守るには「digital first strategy」で対処するしかないと宣言しているのです。そして、この「digital first strategy」は成功しました。

 岡田社長は会場で、このようなFTのデジタル対応を高く評価しておられました。FTが大量のエンジニアを抱え、デジタル対応に万全の手を打ってきたからです。顧客管理、プロモーション、大量データを分析する技術など、日経がFTから学ぶべきところは多いと話しておられました。さらに、「日経が電子新聞の販路を開拓するのに有利だし、日経データベースなどにも協力してもらえる」と期待しておられました。FTを買収することによって、ビジネス面、コンテンツ面での大きなシナジー効果が期待できるのです。

 会場から新興メディアに対してはどうかという質問が出されました。

 たとえば、ハフィントンポストのようにわずか数年で月間2500万人を超える読者を獲得した新興メディアがあります。その勢いに注目したAOLが2011年にハフィントンポストを買収したのですが、質問者はおそらく、それを念頭に置いていたのでしょう。デジタル化の強化に努めるのなら、そのような新興メディアはどうなのか?と尋ねたのです。

 すると、岡田社長は、「新興メディアには大きな関心を持っている」としたうえで、「日経はクオリティ・ジャーナリズムを目指す。価値あるコンテンツを有料で提供し、健全なジャーナリズムを目指していく」と表明されました。つまり、新興メディアの技術やサービスについては注目し、活用できるものは活用していくが、日経が目指すものはあくまでもメディア機関としてのクォリティの高さだというのです。

 このような日経の姿勢は当然、FTの編集権の独立を維持し、スタッフの雇用を維持するという方針につながります。

■編集権の独立、雇用の維持
 さて、メディアの買収でもっとも気になるのが、編集権の独立です。
この点について喜多会長も岡田社長も異口同音に、編集権の独立は維持するし、雇用も維持すると明言されました。FTの経営や報道のスタイルを変えようとは思っていない。FTはFTのままで強くなることが日経にとってもいいことだ」と説明されたのです。

 会場からこの件について、編集権の独立は明文化されているのかという質問がありました。岡田社長の口ぶりからはどうやら明文化はされていないようですが、「編集に口出しすることはない」と再び、断言されました。FTの方針を尊重することこそが日経にとってのメリットであるという方針を崩されることはありませんでした。

 興味深いことに、FTの親会社のPearsonも、FTとの間で編集の独立を保証するといった契約あるいは文書を交わしてこなかったようなのです。

 PearsonのCEO・John Fallon氏はFTを日経に売却した経緯について説明しているビデオがあります。

こちら →https://youtu.be/jTdk6-9ryUo

 John Fallon氏は「PearsonがFTを所有してきた58年間の間、そういうものが必要だと考えたヒトは誰もいなかった。それよりも、企業文化やリーダーシップ、どんな組織構造なのか、実際にどう行動してきたのかという実績が重要なのです」といっています。そして、「独立していることを重視する価値観、物事を深く考え、かつ公正なジャーナリズムを追求しているといった点で、日経とは企業文化が似ている」と日経への信頼を表明しています。

 実際、PearsonはこれまでFTの編集の独立を認めてきたからこそ、FTが世界の尊敬を集めるメディアになってきたという事実があります。日経もまた、FTの独立を保証していく中で最高のパートナーシップを発揮できるようにしていくことでしょう。

■日経、グローバルメディア市場へ
 会見に臨んだ会長、社長、二人の専務いずれも、フロアからの質問に誠実に答えておられました。著名なグローバルメディアを巨額で買収したというのに、驕りもなく衒いもなく、淡々と事実を述べておられる姿勢に好感が持てました。おそらく地道で誠実な交渉の積み重ねの上でこのような大事業を成し遂げることができたのでしょう。

 人口動態から今後の世界を展望すると、アジアに大きな成長の機運があることは確実です。そのアジアに向けて、日経は強力なパートナーとともにメディア市場の開拓に着手しました。

 日経はすでに多数のスタッフをアジアに張り付けているといいます。現地の企業データ、経済情報を着実に収集し、経済動向の分析基盤を構築しているのです。その上で、今回のFTの買収です。もはや日本メディアばかりでなく、欧米メディアも当分はこのFT&日経グループに追随できないでしょう。快挙といわざるをえません。欧米とアジアをカバーするグローバルメディアとして大きく成長していってもらいたいと思います。(2015/7/26 香取淳子)