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大学ランキング 下流志向

世界の大学ランキング、増加する日本の子どもの「学びからの逃走」

■世界の大学ランキングの結果
 今年もまた世界大学ランキングが発表されました。昨年23位だった東京大学は今年43位と大きくランク落ちしました。京都大学も同様、昨年は59位だったのが今年は88位です。

こちら →http://www.huffingtonpost.jp/2015/10/01/tokyo-university_n_8230366.html

 アジアのトップはシンガポール国立大学、2位はランク42位の北京大学、そして、東京大学はアジアで3位という順です。上位10校のうち9校が英米の大学でした。

 興味深いのは、英米の難関校が上位を争う中、スイスのスイス連邦工科大チューリヒ校が9位に入っていることです。スイスのチューリッヒにある自然科学と工学を対象とした単科大学が奮闘しているのです。ウィキペディアによると、この大学は1855年に創設され、これまでにノーベル賞受賞者を21名も排出しているそうです。それだけ業績をあげている大学がランキング9位なのです。上位に食い込むのがいかに難しいかがわかります。

 評価項目は、以下の5分野から設定されています。

こちら →https://www.timeshighereducation.com/news/ranking-methodology-2016

• Teaching (the learning environment)
• Research (volume, income and reputation)
• Citations (research influence)
• International outlook (staff, students and research)
• Industry income (knowledge transfer)

①教育(教育環境)、②研究(量、収入、高い評価)、③引用(研究の影響)、④国際観(スタッフ、学生および研究)、⑤産業収入(知の移転)等々の5項目でした。それぞれの項目の配分比率は順に、30%、30%、30%、7.5%、2.5%でした。

 それぞれの項目について綿密な調査が行われ、各項ごとに集計して配分比率を加味し、結論が導き出されたのです。

■世界の大学学術ランキング
 大学ランキングを出しているのはいま紹介した「TIMES HIGHER EDUCATION」だけではありません。 「ACADEMIC RANKING OF WORLD UNIVERSITIES」も同様に世界の大学のランキングを出しています。

こちら →http://www.shanghairanking.com/ja/ARWU2015.html

 このランキングでは18位までが英米の大学で占められており、さきほどのスイス連邦工科大チューリヒ校は20位でした。そして、東京大学は21位、京都大学は26位といずれも上位にランクしています。日本のトップ校はアジアでもトップでした。

 一方、さきほどのランキングでアジア1位だったシンガポール国立大学はここでは101-150位で、北京大学、ソウル大学、復旦大学など50校と同順位でした。評価項目、評価手法等によってランキング順位が大きく異なってくることがわかります。

 世界の大学学術ランキングの評価手法は以下の通りです。

こちら →http://www.shanghairanking.com/ja/ARWU-Methodology-2015.html

 評価項目は4分野から6項目が設定されており、それぞれの配分比率は以下のようになっています。

教育質量    ノーベル賞やフィールズ賞を受ける卒業生の換算数 10%
教師質量    ノーベル賞やフィールズ賞を受ける教師の換算数  20%
        高被引用科学者数 20%
科学研究成果 《Nature》や《Science》で発表された論文数* N&S 20%
   (SCIE)と(SSCI)に収録された論文の換算数 20%
教師の平均表現 上述の五項の指標から得た教師の平均表現 10%
* 純粋な文系大学に対して、N&Sの指標ではなく、その比重に比例して、他の指標を使用。

 さきほどいいましたように、評価項目が異なればランキングも変わってしまうのですが、いずれのランキング結果でも英米の大学が上位を占めていることに変わりはありません。21世紀はアジアの時代といわれながら、学術方面ではまだまだ欧米に追い付いていないことがわかります。

 興味深いことに、こちらのランキングでは東京大学も京都大学もランキング順位は昨年と変わりません。もっとも5年前と比較すると、上位にランクされているとはいえ、それぞれ1位、2位程度、順位は下がっています。日本のトップ校が一定の評価を得ていることはわかりますが、やや下降傾向がみられることに留意する必要があるかもしれません。

 いずれにしても、二種類の大学ランキング調査からは程度の差はあれ、日本の大学の評価が落ちてきていることが示されています。知的能力こそ大きな価値を生み出す時代にこれでいいのかという気持ちになってしまいます。はたして子どもたちの学力はいまどうなっているのでしょうか。

■子どもたちの学力
 OECDが実施した「学習到達度調査」(PISA)の2012年度の結果を見ると、日本は数学的リテラシーが7位、科学的リテラシーが4位、読解力が4位という結果でした。この3分野で日本はいずれも前回を上回っており、2000年に同調査が始まって以来、高い順位を得たのです。

 さらに2014年4月、学校のカリキュラムにはない問題の解決に取り組む「問題解決能力」の結果が公表されました。これも日本は参加44か国・地域の中で3位という高い順位を収めています。

こちら →http://mainichi.jp/ronten/news/20140611dyo00m010013000c.html

 確かに喜ばしい結果ですが、ひょっとしたら、一時的なものかもしれません。そこで、PISAトップテンの推移を見ると、2006年は読解力が15位、科学的リテラシーが6位、数学的リテラシーが10位でした。とても喜べる順位ではありませんでした。

こちら →002
毎日新聞2014年6月11日より。図をクリックすると拡大されます。

 当時、この結果を見て、「PISAショック」が起きたといわれています。このままでいいのかと教育改革が叫ばれ、いわゆる「ゆとり教育」の見直しが行われました。新しい学習指導要領が2011年度から本格的に実施されたのです。それが2012年の調査結果に反映されたのでしょう。

 2012年のPISAでは数学的応用力に関する意識調査も行われました。その結果、日本の子どもはすべての項目で平均以下だったことが判明しました。とくに興味深いのが、「将来の仕事の可能性を広げてくれるから数学は学びがいがある」と回答した子どもの割合は52%でした。平均の77%を大きく下回っていたのです。

 この年、子どもたちの成績自体は確かに伸びています。ところが、学ぶことの意義や社会との関連付けについての意識を見ると、他国の子どもたちに比べ有意に低いことが判明したのです。このときの意識調査によって、日本の子どもたちの勉強に取り組む姿勢や心理的側面に大きな問題があることが示唆されたといえるでしょう。

■学びから逃走する子どもたち?
 思想家の内田樹氏が書いた『下流志向』という本があります。「学ばない子どもたち、働かない若者たち」という」サブタイトルがつけられています。私はこのサブタイトルに興味を覚えて購入しました。初版は2009年7月15日ですが、私が手にしているのが2015年3月18日刊行のものですから、28刷も版を重ねていることがわかります。この本には私と同様、大勢のヒトの興味関心を引く要素があったのでしょう。

 内田氏の次のような文章が印象に残りました。

 「教育機会から、主体的決意をもって、決然と逃走するということは、当然にも遠からず「下流社会」への階層効果を意味するわけですが、そういう下降志向の社会集団が登場してきた。これを日本社会における教育危機の重要な指標として、佐藤さんは分析したのですが、そのキーワードが「学びからの逃走」です」(『下流志向』、p.14)

 私は昔、『自由からの逃走』(エーリッヒ・フロム著)という本に引かれた時期がありました。個としてのヒトの気持ち、それらがまとまって生み出されていく大衆心理、そして、大衆心理によって突き動かされていく社会の動き、これらを総合的に分析していった手腕に引かれたのです。フロムはナチズムに傾倒していった当時のドイツ人を分析し、そのような社会心理のメカニズムの根底にあるのが「自由」だということを見出しました。

 自由には責任が伴い、ときに孤独が付随します。それに耐えきれなくなったヒトが自由を手放してしまったのです。自由を求めてヒトはこれまで様々な戦いを繰り返してきたはずなのに、せっかく手に入れた自由から逃げ出そうとする人々の存在を知り、フロムはナチズム旋風の巻き起こっていた当時の社会心理のメカニズムを分析しました。かつての私はこの鮮やかなロジックの立て方に感心し、引かれたのです。

 内田氏もこの本の「まえがき」でエーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』に触れています。

 さらに、内田氏はいいます。

 「僕はこの「学びからの逃走」は単独の現象ではなく、同時に、「労働からの逃走」でもあると考えています。この二つは同一の社会的な地殻変動の中で起きている。「学ぶこと」、「労働すること」は、これまでの日本社会においてその有用性を疑う人間はおりませんでした。(中略)学ばないこと、労働しないことを「誇らしく思う」とか、それが「自己評価の高さに結びつく」というようなことは近代日本社会においてはありえないことでした。しかし、今、その常識が覆りつつある。教育関係者たちの証言を信じればそういうことが起きています」(『下流志向』、p.15)

 「学びからの逃走」は容易に「労働からの逃走」に移行するというのです。たしかにメディアで報道される若者の事件、あるいは若者の意識調査などを見ていると、そうかもしれないと思わせられます。勉強する、努力する、頑張る、といった言葉が以前ほど使われなくなっていることを思えば、日本社会を根底から揺るがす風潮がじわじわと広がり始めているとも考えられます。

 憲法第26条には「国民の教育を受ける権利」が保障されています。教育を受ける権利は先人が獲得してきた権利で、子どもが人生の多様な選択肢を確保するための権利といえます。受けた教育のレベルによって人生の豊かさが左右されるからです。先人が苦労してつかみ取った生存権の一つといえるでしょう。

■女子教育を訴えたマララ・ユスフザイさん
 世界にはまだ教育機会を十分に与えられない国の子どもたちがたくさんいます。

 2014年12月10日、ノルウェーのオスロでノーベル平和賞受賞式が開催されました。受賞者の一人は17歳のパキスタン人、マララ・ユスフザイさんでした。このマララ・ユスフザイさんは2012年10月、女子が教育を受ける権利をと訴えてきたため武装勢力に頭を撃たれました。それにもめげず、教育を受けられない子どもたちのための活動を続けていることが評価され、平和賞を受賞することになったのです。

 このとき、マララ・ユスフザイさんが行ったスピーチをご紹介しましょう。

こちら →
http://www.huffingtonpost.jp/2014/12/10/nobel-lecture-by-malala-yousafzai_n_6302682.html
 
 マララ・ユスフザイさんは女子教育の必要性を体験を踏まえ、生き生きと訴えました。

「私たちは教育を渇望していました。なぜならば、私たちの未来はまさに教室の中にあったのですから。ともに座り、学び、読みました。格好良くて清楚な制服が大好きでしたし、大きな夢を抱きながら教室に座っていました。両親に誇らしく思ってもらいたかったし、優れた成績をあげたり何かを成し遂げるといった、一部の人からは男子にしかできないと思われていることを、女子でもできるのだと証明したかったのです」

 さらに、世界の指導者に向けて次のように訴えます。

「世界は、基本教育だけで満足していいわけではありません。世界の指導者たちは、発展途上国の子供たちが初等教育だけで十分だと思わないでください。自分たちの子供には、数学や科学、物理などをやらせていますよね。指導者たちは、全ての子供に対し、無料で、質の高い初等・中等教育を約束できるように、この機会を逃してはなりません」

 そして、なぜ教育の普及が進まないのか、反語の形で力強く訴えています。

「なぜ、銃を与えることはとても簡単なのに、本を与えることはとても難しいのでしょうか。なぜ戦車をつくることはとても簡単で、学校を建てることはとても難しいのでしょうか」

 感動的なスピーチでした。必死に教育を求める気持ちがひしひしと伝わってきます。
日本ユニセフは2013年春号の『ユニセフT•NET通信』で、マララ・ユスフザイさんの事件にちなみ、女子教育の厳しい現状を取り上げています。

こちら →http://www.unicef.or.jp/kodomo/teacher/pdf/sp/sp_54.pdf

 各地の現状や教育効果の個別事例が紹介されています。こうしてみると、たしかに教育の普及やその波及効果には時間がかかりますが、教育は確実に社会を改善できることがわかります。教育はなによりもまず貧困をなくし、平等で安定した社会をつくるための要件なのです。

■大学ランキングと子どもたちの「学びからの逃走」
 さきほど紹介した『下流志向』によれば、日本では教育の権利を自分から放棄する子どもたちが増えているといいます。教育を耐え難い労苦としか感じない子どもたちが増えているからでしょう。その結果、せっかく与えられた教育機会を放棄して、人生の多様な選択肢を狭めてしまい、犯罪に走らざるをえない子どもたちがなんと多いことか。メディアで報道されている事件を教育レベルと関連づけて分析すれば、なんらかの傾向が明らかになるのではないかと思うほどです。

 内田氏は次のようにも書いています。

「上層家庭の子どもは「勉強して高い学歴を得た場合には、そうでない場合よりも多くの利益を回収できる」ということを信じていられるが、下層家庭の子どもは学歴の効用をもう信じることができなくなっているということです。ここにあるのは「学力の差」ではなく、「学力についての信憑の差」です。「努力の差」ではなく、「努力についての動機づけの差」です」(『下流志向』、pp.97-98.)

 さまざまなニュース報道を見ていると、最近はその傾向が加速化されているような気がします。

 子どものころからの教育の差、学習に対する態度の差が、その後の出会いの差、機会の差、職業選択肢の差、そして、収入の差、生活レベルの差につながっていくのでしょう。こうしてみると、ヒトの幸せのためにも、社会の安定のためにも初期教育がいかに大切かということに思い至ります。大学はその最終ラウンドです。ところが、その大学の世界ランキングで日本の大学の順位が下がりつつあります。

 世界の大学ランキングで日本の順位を見て、ふと子どもたちの教育に思い及んだとき、私は図らずも現代日本社会をむしばみつつある「学び」と「労働」からの「逃走」という深刻な現象を知ることになってしまいました。

 初等教育を裾野とする教育体系の中で、なによりもまず、「学力についての信憑」そして、「努力についての動機づけ」を高める仕掛けを作っていく必要があるのではないかという気がしています。そうでもしなければ、「学びから逃走」する子どもたちがますます増え、結果として「労働からの逃走」を引き起こしかねません。「学び」を放棄した子どもたちは人生の多様な選択肢を失うことになるでしょうから、犯罪に手を染める可能性も高くなるかもしれません。そうなれば、社会の不安定化を引き起こすことになるのは必至です。早急になんらかの手を打つ必要があると思います。(2015/10/4 香取淳子)