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吉田晋之介氏の個展 “Days”の不思議な魅力

吉田晋之介氏の個展 “Days”の不思議な魅力

■吉田晋之介氏の個展
 2015年10月31日(土)から11月28日(土)まで、東京・両国のGALLERY MoMo Ryogokuで、吉田晋之介氏の個展“Days”が開催されました。展示作品は2015年に制作された12点で、いずれも自然と人工物との関係に焦点が当てられています。人工物に依存して組み立てられている現代社会の諸相が、これらの作品によって巧みに表現されていました。マクロ的な観点から捉えたものもあれば、ミクロ的な観点から捉えたものもあります。意表を突くアイデアでモチーフが選定されているのが特徴です。

 たとえば、“Motherboard”(116.7×116.7㎝、油彩、2015年)という作品があります。

 マザーボードとは、CPUやメモリーなどパソコンの主要な部品を搭載したプリント基板のことで、いわば情報処理の中枢です。吉田氏はそれを地表に見立て、東京を俯瞰してこの絵を描きあげました。マクロ的な観点から捉えた作品の一つです。

こちら →motherboard

 マザーボードには東京湾があり、建物が密集するエリアの中央には皇居もあります。東京を象徴するいくつかのキーポイントを押さえたうえで、吉田氏はその外縁に、噴火する火山を描き、空と言わず海と言わず浮遊する無数の放射性投下物のようなものを描いています。自然の脅威であれ、人工物の脅威であれ、もはやヒトが安穏と生きていくことができなくなりつつある現状が、宇宙の視点で捉えられているのです。

 右も左も、上も下もない真っ黒な宇宙空間に、このマザーボードは浮かんでいます。無数の点で表現された宇宙の浮遊物と同様、宇宙空間のどこへ流されていくかもわからない不安定な姿を晒しています。それが見る者の不安感を誘い出します。

 画面中央に配置されたマザーボードを見ると、晴天の空にも見える青色で表現された海と、白と灰色で表現された建物群とに押され、緑の基盤が隆起した格好で、山々が形作られています。さらに見ると、その一角で火山が上方高く噴煙を上げています。まるで膨大な情報処理に耐えかねてCPUが爆発を起こしたかのようです。

 情報爆発時代を象徴するモチーフの形状と色彩、モチーフをマクロ的に捉えるために取り入れた宇宙空間、それらの配置が見事です。この作品には読み解きのための具体的な手がかりが残されており、観客の空想力は限りなく刺激されます。ICT主導で激変している現代社会、人工物に依存した現代社会をシンボリックに表現した作品といえるでしょう。

 この作品は「第1回アートオリンピア2015」(https://artolympia.jp/ao.html)学生部門3位となりました。

■“Days”の不思議
 ミクロ的な観点から自然と人工物を捉えた作品もあります。画廊に入ってすぐ右の壁に展示されている“Days” (200×200㎝、油彩、2015年)です。

こちら →CU3rpIfU8AAF7KQ
画廊入口から見た展示風景

 実は、私がもっとも興味を覚えたのが、この“Days”でした。絵に近づいてみると、絵の具をラフに載せたようにしか見えないのに、遠くで見ると、精緻にフォーカスされた写真のように見えます。何度も近づいては見、離れては見てみたのですが、なぜ、そう見えるのか、いっこうにわかりません。不思議な思いに捉われてしまいました。こうなっては直接、ご本人に尋ねるしかありません。個展最終日、再度、この絵の謎解きのために画廊を訪れました。

 吉田氏に尋ねてみると、「計算して描いています。絵ならではの遊びですよ」と即答されました。さらに、言葉を継いで、「写真は拡大しても縮小しても写真でしかありませんが、絵は違います。遠くで見るとリアルに見えますが、近くで見るとただの絵の具でしかない・・・」といわれるのです。おそらく、その落差が、吉田氏の捉える絵画ならではの妙味につながるのでしょう。

吉田氏の許可を得て、もっとも気になっていた葉っぱに近づいて撮影しました。

こちら →近づく (598x640)

 この写真を見ても明らかなように、近づくと、この葉が絵の具で描いたものだということがわかります。

 次に、私は遠くから撮影してみました。

こちら →P1020649 (625x640)

 白っぽく塗られただけの葉の片面が、まるで陽光を受けてさんさんと輝いているかのように見えます。精緻にフォーカスして撮影された写真のように見えてしまうのです。ところが、絵全体に視線を移していくと、何カ所か荒っぽく筆を走らせた箇所に気づきます。そこで、ふと我にかえったように、これが絵なのだということに気づかされます。

 吉田氏はいいます。

「すべてのモノにはその場所にあるべき明度と彩度で構成されたバルール(色価)があります。それが合っていれば、どんなに自由なタッチで描いてもリアルに見えますが、少しでもズレていれば、変な絵だという印象を与えます」

 私が“Days”を見て、写真のようにリアルだと思ったのは、膨大な量の木の葉を吉田氏が一枚一枚、バルールを合わせて全体を精密に構成した結果だったことがわかります。これでようやく謎が解けました。近くで見ると、荒っぽく塗られた絵の具でしかないのに、遠くで見ると、写真のようにリアルに見えたのは、実は正確なバルール合わせの結果だったのです。

 吉田氏はこの作品を構成するに際し、葉っぱを一枚一枚、丁寧に描くもの、荒く描くもの、崩して描くもの、というように選り分け、計算していったそうです。バルールを合わせるためでした。巨大なサイズの画面だということを考え合わせると、これがどれほど大変な作業だったか、吉田氏のエネルギッシュな創作力に驚かされます。

■風景画を超えて
 この絵を見ていると、暑い夏の日差しが感じられます。風にそよぐ葉の揺らぎすら、想像できてしまいます。葉の表面と葉陰とのコントラストに陽光の強さを感じるからでしょうし、縦方向に荒く走らせた筆のタッチに葉の動きを感じるからでしょう。

 よく見ると、右下の金網の一部が破られ、その周辺がやや広い面積で暗く描かれています。そのせいか、金網の奥に空間が感じられます。そこから少し視線を上げると、上方に白い小さな空間が設けられており、金網の奥に広がる空間がその地点で閉じていることがわかります。

 ちょっと気づきにくいのですが、白い紐状の導線のようなものが何カ所か下に垂れています。上部で横方向に伸びて金網に絡まり、やや斜め下方向に垂れているのもあります。重力に従っているわけでもないこの導線のようなものの配置が気になります。葉っぱと金網で構成されたこの絵の整合性を損ない、精緻に組み立てられたバランスを崩しているのです。

 もっとも、そのせいで、観客は逆にこの絵に深く引き込まれていきます。写真のような完結性が壊されることによって、見る側の参加度が高められるからでしょう。観客は無意識のうちに絵の欠損部分を補おうとする気持ちに駆られ、感情移入していった結果、描かれてもいない風の気配、大気の温度などを感じてしまうのです。吉田氏はさり気なく絵のバランスを崩すことによって、この絵を、風景画を超えた作品にしているのです。

 ひょっとしたら、絵のサイズも観客の感情移入に関係しているのかもしれません。実物よりやや大きいサイズで描かれていることが、観客の気持ちを引き込む効果に関係している可能性があります。吉田氏に尋ねると、友だちの作品の展示を見て、このサイズで描きたいと思ったということでした。200×200㎝のサイズです。

 “Days”はミクロな観点から自然と人工物をモチーフにした作品です。吉田氏によれば、個展のDM用にこれまでとは違うものを描こうと思って手がけた作品だそうです。描かれた木の葉は金網を超えて伸びています。まるで封じ込められることを振り切ろうとするかのようです。成長しようとする葉の勢いが感じられます。

 葉っぱは写真を参考に構成されていますが、金網は付け加えられました。金網は人工物であり、整然とした網目は数値的な世界を連想させます。この絵に不可欠なモチーフなのです。

■ミステリー作家を彷彿させる吉田氏の作家性
 「金網と植物だけではつまらない」と吉田氏はいいます。ですから、金網の一部を損壊し、意味のわからない導線をさり気なく、随所に垂らします。日常生活で見慣れた光景に意味不明の無機的なものを入れ込むことによってバランスを崩し、観客をかく乱させるのです。

 さらに、自身の遊び心を満足させるための仕掛けも施されています。

 吉田氏はいいます。
「この絵の見所としては、「見え」のレイヤーと「絵の具」のレイヤーとが逆転していることです。ヒトはまずこの絵の白く抜けた部分を見、それから葉っぱを見、そして、金網を見ます。これが「見え」のレイヤーです。ところが、一番後に描いたように見える金網は実は下地を生かしただけです。葉っぱはそれほど丁寧に描かず、奥の白く抜けた部分は最後に手を入れ、丁寧に描いています。「絵の具」のレイヤーの順序と「見え」のレイヤーの順序が逆になっていますが、このような遊びが可能なのが絵なのです」

 ヒトが手作業で創り出す一点ものの絵だからこそ、このような遊びができるのだと吉田氏はいいます。

 たしかに、この絵を一瞥すると、質感といい、量感といい、そのリアリティに圧倒されます。その感動が過ぎると、次に、観客の目はこの白く抜かれた空間に引き寄せられていきます。フェンスで囲われた葉っぱの向こう側の空間に想像力が刺激されるからでしょう。

 フェンスの上方に位置付けられたこの白い部分を撮影しました。この写真を手掛かりに吉田氏の創作過程を見てみることにしましょう。

こちら →P1020650 (480x640)

 近づいてこの部分を見ると、周辺の葉っぱはラフに筆を走らせただけなのですが、この白い部分は丁寧に塗り込まれ、周辺の葉陰もしっかりと縁取りされています。しかも、この部分は目のやや上に位置していますので、観客は見上げる恰好になります。この構図から心理的側面からも「見え」に深みを与える位相になっていることがわかります。

 この白い部分はいわば遠景ですが、そこから視線を下していくと、左側にさんさんと輝く葉が見えます。これは中景に相当します。ここでは、とくに丁寧に描かれたものに目が留まります。そして最後に、全体を覆う整然とした金網(近景)に目が留まるといった流れで、ヒトはこの絵を見ていくのでしょう。そのような観客の視線の動きを読み込んだうえで、吉田氏はこの絵の構図、描き方の丁寧さの度合い、絵の具の重厚さの度合いなどを決定していったようです。

 吉田氏はいいます。
「絵を描くことには、こう見えたら、ヒトは驚くだろうなと予測する楽しみがあります。また絵には、目で見るだけではなく、歩いて、絵に近づいたり離れたりしてみるという要素があります」

 だからこそ、こう描けばヒトにはどう見えるかを推測し、ヒトはそれを見てどう感じるかを想像しながら、キャンバスサイズを決め、構図を決定し、細部を詰めていくのでしょう。このようなシミュレーションを繰り返し、吉田氏のいう「見え」のレイヤーを固めていくことが、作品に深みを与えているのだと思いました。

 ディスプレイを通してみると平たい画像でしかなくても、絵にはこのような遊びの要素を取り込むことができます。そこが写真とは大きく異なる点ですが、吉田氏はそのような絵の特性を大切にしています。だからこそ、植物と金網をモチーフに風景を描いても、単なる風景画に留まるのではなく、シンボリックな作品に仕上げることができるのでしょう。

 さて、吉田氏はベラスケス(1599-1660、スペイン)を評価しています。
 ベラスケスの絵について、「近くで見ると、タッチが走っているけど、遠くで見ると王女に見える」といい、すでに1600年代に絵の具で遊んでいた画家がいたと高く評価しているのです。

 有名なのは『ラス・メニーナス』(Las Meninas, 1656年、プラド美術館所蔵)で、この絵にはいくつもの謎が仕掛けられており、いまだに多くの研究者の関心を集めています。

こちら →Las-Merninas
Wikipediaより。

 解説によると、「謎かけのような構成の作品で、現実と想像との間に疑問を提起し、鑑賞者と絵の登場人物との間にぼんやりとした関係を創造する」と書かれています。まさに、「こう見えたら、ヒトは驚くだろうなと予測する楽しみがある」という吉田氏の創作過程を彷彿させます。こうしてみてくると、吉田氏がベラスケスを高く評価する理由がとてもよくわかります。共通点があるのです。

■観客との対話を引き出す力
 今回、ご紹介した“Motherboard”と“Days”には、観客との対話を引き出す力があります。どの作品にも吉田氏がなんらかの仕掛けを絵に組み込んでいるからでしょう。吉田氏は「絵でヒトをだますのが好き」といいます。「だます」といえば人聞きが悪いですが、絵画表現上の一つの手法であり、とくにシュルレアリスムの画家によく見られる手法として知られています。たとえば、ルネ・マグリット(1898-1967、ベルギー)はその代表的な画家として知られています。

 私はルネ・マグリットの「白紙委任状」(1965年制作)が好きで、複製ポスターを額に入れて食堂に飾っています。何度も近づいては見、離れては見ているのですが、見るたびに不思議な感覚が喚起されます。

こちら →http://matome.naver.jp/odai/2138762921202942901/2138763844907799703

 馬に乗って森の中を散歩する女性の姿を描いた作品ですが、樹木によって馬と女性が不自然に切り取られた箇所があるかと思えば、背景の森によって馬と女性が見えなくなっている箇所があって、見ていると、不思議な思いに捉われてしまいます。おそらく、それがマグリットの狙いなのでしょう。マグリットはこの絵の中に敢えて見えない部分を作り出しています。

 ところが、それを見るヒトは無意識のうちに見えない部分を補いながら、見てしまいます。欠落部分を補おうとする意識が働くからですが、そのような意識が働くとき、ヒトは深くこの絵にコミットしています。おそらく、そのせいでしょう、ヒトはこの絵を見ると、不思議な感覚に包まれたまま、作品世界に深く入り込んでしまうのです。

 吉田氏の作品にはマグリットのこの絵に感じるような不思議な魅力が感じられます。それはおそらく吉田氏が意図的に絵に仕掛けを施しているからでしょう。画家からすれば、三次元空間を二次元に写し取るための「だまし」の技法の成果であり、観客にすれば、技法に「欺かれること」もまた絵の楽しみの一つなのです。こうして技法を媒介に画家と観客の対話が始まります。

 このようにみてくると、まるでミステリー作家のように、吉田氏は観客に知的なバトルを挑んでいるようにも見えます。「こうやって描いたら、こんなふうに見えるんだぜ」といいたげな吉田氏の笑顔には、観客に知的なバトルを挑む豪胆さが垣間見えるような気がします。

 吉田氏は中学3年までバスケットボールに興じていたそうです。そこで育まれたものは体力、運動神経だけではなく、知的な腕力だったのではないかと思えてなりません。視覚のトリックに関心を抱き、知的バトルに動じることのない若手画家の今後に期待したいと思います。(2015/11/30 香取淳子)

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