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05月

クールベの作品はなぜ、1855年のパリ万博で展示拒否されたのか?

■1855年のパリ万博

 初めての万国博覧会は、1851年にロンドンで開催されました。それに刺激されて、ナポレオン三世が開催を決意したのがパリ万博(1855年5月15日~11月15日)です。このパリ万博では、モンテーニュ大通りの独立したパビリオンで、本格的な美術展示が行われました。万博としては初めてのことでした。

 フランスならではの独自性を加えて、万博に新機軸を打ち出し、価値の創出を図ったのでしょう。

 美術品を展示するために、本格的なパビリオンを設置した理由について、ナポレオン三世は次のように述べています。

  「産業の発達は美術、工芸の発達と密接に結びついている。(中略)フランスの産業の多くが美術、工芸に負っている以上、次回の万国博覧会で美術、工芸にしかるべき場所を与えることは、まさにフランスの義務である」(* 鹿島茂、『絶景、パリ万国博覧会』、pp.123-124.)

 ナポレオン三世は、万博会場に本格的な美術品の展示スペースを設けることを、フランスの義務とまで言っているのです。 1855年パリ万博で、本格的な展示スペースが設けられることになったのはフランスで開催されたからだといえるかもしれません。

■万博に美術セクション

 このパリ万博から、美術部門は飛躍的に拡充され、万博の大きな呼び物の一つとなりました。「産業の祭典」から「芸術と産業の祭典」へと変身したのです。主会場のシャンゼリゼ大通りに隣接した「産業宮」とセーヌ河畔の「機械館」に加え、モンテーニュ大通りに面した場所に、2万平方メートルの展示室を持つ「美術宮」(通称モンテーニュ宮)が建てられました。

 それに伴い、恒例の「サロン」展は中止され、すべての作品展示はこの万博美術展に集約されることになりました。「美術宮」を万博会場に設置することによって、美術を通したフランスの国威発揚の場が創り出されたのです。

 そこでは主に 、ドラクロワ、アングルなど、当時の画壇の巨匠たちの作品が展示されました。

 たとえば、ドラクロワの《アルジェの女たち》、アングルの《第一執政ナポレオン・ボナパルト》などです。

 

 一方、出品しても、審査員から展示拒否された作品もありました。

 たとえば、クールベはこの時、13点の作品を万博事務局に提出していましたが、そのうち、《画家のアトリエ》と《オルナンの埋葬》は展示を拒否されています。

■抗議のため、個展を開催

 クールベはこれに抗議し、「レアリスム」というタイトルの個展を自己資金で開催しました。万博の美術会場と同じモンターニュ通りに、この個展会場を設け、40点余りの自作を一般に公開しました(*https://www.chiba-muse.or.jp/ART/Courbet/index.html) 。

(* https://j6rsyq3ia6hq.blog.fc2.com/blog-entry-340.html

 建物の正面と横に、「EXPOSITION COURBET」の文字が見えます。まさにクールベの個展会場です。展示拒否されたクールベは万博開催期間中、ここで自身の作品を展示していたのです。

 当時、画家が自分の作品だけを展示した「個展」を開催する習慣はありませんでした。ですから、これが世界初の「個展」だといわれているのです(* https://www.artpedia.asia/gustave-courbet/)。

 興味深いことに、せっかく「個展」を開催したにもかかわらず、クールベの個展に見に来る人はほとんどいませんでした。入場料を半額に下げても、入場者は増えなかったそうです。

 ところが、画壇の大家であったドラクロアは、この作品について、「異様な傑作だ」と評価していたそうです(* https://www.y-history.net/appendix/wh1204-026.html

 果たして、どのような作品だったのでしょうか。

 それでは、クールベの《画家のアトリエ》から見ていくことにしましょう。

《画家のアトリエ》 (L’Atelier du peintre)

 

 クールベ ( Gustave Courbet, 1819 – 1877)は、スイス国境の小さな田舎町オルナンで生まれ、法学を学ぶためにパリに出てきましたが、途中で転向して画家になりました。フランスの第二共和制から第二帝政・第三共和政の時代に生き、「生まれながらの共和主義者」と自称していたようです。

 当時、画壇の主流であった古典主義やロマン主義の潮流には抗い、ありのままの現実を捉え、表現しようとする写実主義の流れの中にいる画家でした。

 《画家のアトリエ》は、クールベが36歳の時に制作された作品です。

(油彩、カンヴァス、361×598㎝、1855年、オルセー美術館蔵)

 

 画面には数多くの人々が描かれており、一見しただけでは何を描こうとしているのか、よくわかりません。まず、視線がひきつけられるのは、画面中央の右寄りに描かれたヌードモデルです。暗い画面の中でそこだけ白く、明るく描かれているので、つい、視線が引き寄せられてしまうのです。

 ところが、よく見ると、さまざまな風体の人物が描かれているのがわかります。それだけではなく、犬や骸骨、果ては、カンヴァス後ろの壁に、磔にされているような裸体の男性まで描かれています。

 異様なほどのモチーフの数の多さと乱雑にも思える多様さで、クールベは、いったい、何を伝えようとしているのでしょうか。

 しばらく画面を見ているうちに、一見、混沌として見える画面ですが、それなりの秩序にしたがって描かれているのではないかという気がしてきました。というのも、大勢の人々を描いた画面は、三つに部分で構成されているように見えてきたからです。

 ひょっとしたら、画面を分割して見ることが、この絵を理解するための手がかりになるのかもしれません。  

 まず、中心部分を抜き出してみましょう。

 暗い画面の中で唯一、明るい光が当たっている部分であり、何よりも、画家クールベが描かれているところです。

(* 前掲。部分)

 

 裸体のモデルは、脱ぎ捨てた衣服の端で身体の前を覆いながら、やや首をかしげ、画家の手元を見つめています。画家は筆を持った右腕を高く上げ、気取ったポーズでなにやら説明しているように見えます。足元近くでは、幼い子供がまっすぐに立ち、画家を見上げています。

 この一角だけを見れば、不自然だと感じることもなく、なんの違和感もありません。

 モデルの胸と臀部の乳白色の肌の輝き、裸身の前を隠すために手にした明るい衣服の裾の豪華さが、暗い色調の画面の中で際立って見えます。

 一方、右側に見える男性たちは一種の背景として捉えることができます。彼らの姿には画家と同質の雰囲気があり、連続性が感じられます。

 この箇所だけ見れば、モチーフのレイアウト、画面全体の色構成、明暗、遠近、いずれをとってもバランスの取れたいい作品といえます。足元でじゃれている猫の尻尾が太すぎて不自然なのが気になりますが、ヌードモデルを頂点に、手前に三角形の形で広がる淡い黄土色のジュータンを配置しているところ、バランスの取れた色構成になっていると思います。

 さて、この部分で描かれているモチーフは、左から、モデル(女性)、画家(男性)、子供の順で配置されています。年齢といい、性別といい、体形、姿勢といい、変化があって、バランスのいい組み合わせであり、配置になっています。そのせいか、モチーフが相互に立てられており、安定感のある構図です。

 男性と女性は至近距離で描かれ、親愛な様子がうかがえます。一方、子供はやや離れたところにまっすぐに立ち、自立しているようにも思えます。二人の男女を父と母に見立てれば、この三人は両親と子という関係に置き換えることができます。これは次代に続く家族の最小単位であり、これまた安定感があります。

 興味深いのは、女性はどう見ても絵のモデルにしか見えないのに、画家が描いているのは風景画だということです。しかも、筆を持つ画家の右腕の位置も不自然です。さらに、子供が見つめているのは、画家の手指ではなく、画家の顔です。

 こうして細かく見ると、一見、調和がとれ、安定感があるように見えた中心部分が、実は、なんともチグハグで、違和感があることに気づきます。

 次に、画面の右部分を取り出して、見てみることにしましょう。

(*前掲、右部分)

 ここでは、圧倒的に男性が多く描かれています。本を読んでいる人がいるかと思えば、真剣な表情で前方を見ている人もいます。全般に服装がきちんとし、顎鬚を生やし、それなりの地位のある人々のように見えます。

 手前の女性が羽織っているケープには光沢があり、奥の女性が来ている明るい色のワンピースはデザインがよく、良質の素材のように見えます。衣服からは、裕福な家の女性のように見えます。とくに手前の女性は艶のいい顔に生き生きとした表情を見せています。

 こうしてみると、右側部分で描かれている人々はどうやら、社会的地位もお金もあり、余裕のある生活をしている人々のように思えます。

 そう思って、再び、画面を見ると、手前の女性の足元に、腹ばいになって人が見えます。手に筆を持ち、絨毯の上に紙を広げ、なにやら書きつけています。眼鏡をかけており、年配の人物のようです。

 暗くてわかりにくいので、この人物を黄色の矢印で示しておきました。

(* 前掲、部分)

 立っている人、座っている人、それぞれが前方を見つめているのに、この人物は、周囲の人々に合わせることをせず、独自の世界に没入しています。周囲の人々もそれを黙認しているのが不思議です。

 そういえば、この部分で独自の世界に浸っているのがあと二人います。群れから離れて一人静かに本を読んでいる人、天窓から射し込む陽射しを浴びて、周りを気にせず、女性と戯れている人物です。

 こうしてみてくると、この部分で描かれている人々は二種類に大別されていることがわかります。社会のルールに従って生き、それなりの地位を得て、豊かに暮らしている多数の人々と、社会的秩序の中にいながら、自身の生き方を貫き、それが許されている3人といった違いです。

 それでは、左側に描かれた人々を見てみることにしましょう。

(* 前掲、部分)

 こちらは一見して、人々の表情に生気がありません。ほとんどすべての人がうなだれており、疲れ切って睡魔に襲われているように見えます。奥の方に異国の服装をしている人がいて、金色の布に包まれた何かを抱え、嘆き悲しんでいます。

 右側には、手前の黒い帽子をかぶった人は両手を膝に置き、うなだれています。よく見ると、頬に赤い血の跡が見えます。切り付けられたのでしょうか、頬から口にかけてかなり広い範囲で傷跡が残っています。その足元にはナイフが転がっているのが見えます。

 その人の隣に、骸骨のようなものが見えます。さらに、その前には、痛みを抑えるように脇腹に手を当て、ズボンも履かず、むき出しの足を出してくず折れるように膝をついている人がいます。そして、右奥の壁には、裸体の男性が、まるでキリストのように、磔の姿勢でつるされています。

 一方、左側には、軍人のような人もいれば、狩人のような人もいます。立っていられるだけの体力がある人々なのでしょう。それでも、ほとんどがうなだれています。貧困と傷害、苦難と痛苦しかないような人生がうかがえます。

 そのような悲惨な生活をうかがわせる人々の中で、唯一、前を向いている人物がいます。おそらく聖職者なのでしょう、抱えるようにして持っている本(聖書?)に手を置き、心配そうな表情を浮かべています。

 この部分で生気が感じられるのは、この聖職者と白のブチ犬だけです。この猟犬には攻撃性が見られ、状況に抗う姿勢が感じられます。この左側部分は全体に、暗く、沈鬱で、苦悩しか感じられません。

 再び、中央部分に戻ってみましょう。

 画家はモデルと語らいながら、呑気に風景を描いています。ところが、左側のモチーフからは、その巨大なカンヴァスの裏側には、悲惨な世界が横たわっていることが示されています。

 先ほどよりも少し範囲を広げ、中心部分と左右両側の一部を抜き出してみました。

(* 前掲、部分)

 明らかにこの世界の光と影が表現されていることがわかります。右側にいる人々が光に相当するとすれば、左側にいる人々は影に相当します。そして、絵を描く人も、文章を書く人も、本を読む人も、光の側に描かれています。

 クールベが、政治的、経済的、社会的に上位に立つ人々の中に、絵であれ、文章であれ、創作者を位置付けており、芸術や文学、哲学等を高く評価していることが示されています。

 一見すると、わかりにくかった《画家のアトリエ》でしたが、画面を3つに分割し、細部を見てから、全体を見直すと、改めて、非常に示唆深い作品だということがわかります。人生の深淵、世界の構造がこの作品の中にしっかりと描きこまれているのです。

 確かに、ドラクロアがいうように、この作品は「異様な傑作」でした。

 それでは、なせ、この作品が1855年パリ万博で展示拒否されたのでしょうか。それについて考えるには、パリ万博の当局が何を望んでいたかを知らなければなりません。

 このパリ万博で展示されていたのは、ドラクロワの《アルジェの女たち》であり、アングルの《第一執政ナポレオン・ボナパルト》でした。

 まずは、ドラクロアの《アルジェの女たち》を見てみることにしましょう。

■《アルジェの女たち》(Femmes d’Alger dans leur appartement)

 ドラクロワ(Ferdinand Victor Eugène Delacroix, 1798 – 1863)が、36歳の時に描いた作品です。

(油彩、カンヴァス、180×229㎝、1834年、ファーブル美術館蔵)

 左上の窓からまばゆい光が入り込み、女性たちを照らし出しています。いずれも端整な顔立ちに白い肌、豊満な身体つきが印象的です。3人は思い思いの衣装を身につけ、イヤリング、ネックレス、髪飾り、指輪、アンクレットなどで着飾っています。

 左側の女性は端整な顔を正面に向け、右腕を肘置きについて、膝頭をそろえ横すわりになっています。真ん中の女性は胡坐をかいて座り、右側の女性は左膝を立て、右膝をついて座っています。

 座り方はさまざまですが、皆、裸足です。話し合うこともなく、物憂げな表情を浮かべています。水タバコを吸っていたのでしょうか、右の女性は水パイプの管を持っています。辺りには、けだるい雰囲気が漂っています。

 右端には、黒人女性が立ち去ろうとして振り向きざま、彼女たちを見下ろしている様子が描かれています。女性たちの世話係なのでしょうか、画面に描かれた4人の女性のうち、彼女だけはスリッパを履き、忙しそうに立ち働いているように見えます。

 この作品は、ドラクロワが実際にアルジェリアのハレムを訪れた経験に基づいて、描かれました。

 ハレムとは、イスラム世界において家屋内の女性専用の居場所を意味します。中東の都市生活の中で、女性を隔離する風習が厳格化していったのがハレムです。とくに、王侯貴族や富裕層の家庭でこの風習が顕著にみられましたが、中流以下では一夫一妻の家庭が普通でした。

 厳格なルールの下、女性たちの生活が拘束されていたのです。厳格なルールの一例をあげれば、素顔を見られても、罪とならないのは,女性の父や息子たち,兄弟,兄弟の息子たち,姉妹の息子たち,および女性たちの奴隷たちだけでした。このようなハレムの風習は社会の近代化とともに消滅しつつあるが,現在でも若干はその余風があるといわれています。(* 前嶋 信次、https://kotobank.jp/word/%E3%83%8F%E3%83%AC%E3%83%A0-117620)。

 ドラクロワは中東文化に興味を抱いていましたが、1832年、フランス使節団の記録係として、モロッコ、スペイン、アルジェリアを訪れる機会を得ました。34歳の時でした。

 フランスは1830年6月、アルジェリアを植民地にしており、外交上、その西隣モロッコとの友好関係を樹立しておかなければなりませんでした。政治的必要性から使節団が派遣されたのですが、画家ドラクロワにとっては幸いでした。

 18世紀のナポレオンによるエジプト遠征以来、フランスでは東方への関心が高まっていました。画家たちは、東方の風俗や風景を描き始め、「オリエンタリズム」という流行現象が起こっていたほどです。

 ドラクロワも中近東や北アフリカなどのイスラム文化圏に憧れており、滞在中は、地中海の強烈な陽射しや鮮やかな色彩に歓喜し、寸暇を惜しんで風景や人物をスケッチしていました(* 高橋明也へのインタビューより。https://artscape.jp/study/art-achive/10176044_1982.html)。

 アルジェリアを訪れたドラクロワは、かねてから興味のあったハレムに、立ち入ることができました。ある船主のハレムに案内されたのです。ドラクロワは感極まって、「なんと美しいことだろう、まるでホメロスの時代のようだ」と叫んだといいます(* 前掲。URL)

 異国の風俗習慣を描いた作品が、なぜ、パリ万博で展示されたのでしょうか。しかも、万博開催よりも21年も前の作品です。

 考えられるのは、ドラクロワが大御所だったからだけではなく、当時の画家たちが憧れていた中東世界が華麗に表現されていたこと、フランスにとっては勝利を彷彿させる作品であったこと、等々に因るのではないでしょうか。アルジェリアはフランスが1830年に占領したばかりの国でした。

 フランスの優位を示すとともに、当時の人々の異国情緒をも満足させることのできる作品でした。実際、多くの画家たちが、異国情緒あふれたこの作品に刺激されました。

 たとえば、ルノワールは《アルジェリア風のパリの女たち》(1872年)を描き、ピカソは《アルジェの女たち(バージョン0)》(1955年)を描いています。

 敢えて21年も前の作品を展示したのは、この作品が当時、多くの鑑賞者を魅了する要素を備えていたからにほかなりません。

 さて、万博会場に展示されたのは、もう一方の大御所、アングルの《第一執政ナポレオン・ボナパルト》でした。

 それでは、見てみることにしましょう。

■《第一執政ナポレオン・ボナパルト》(Premier Consul Napoléon Bonaparte)

 アングル(Dominique Ingres, 1780~1867)が捉えたナポレオンの姿です。若く、雄々しく、壮麗です。

(油彩、カンヴァス、226×144㎝、1803‐1804、リージュ美術館蔵)

 ナポレオンが皇帝になる前、第1執政であったころの肖像画です。第1執政になったのは1799年11月、ブリュメールのクーデタによって総裁政府を打倒した後、執政政府を打ち立てた時です。軍事クーデタで政体が変更され、フランス革命は終わりを告げることになりました。

 これが、ナポレオンが独裁権力を掌握する第一歩となりました。

 いかにも凛々しく,精悍なナポレオンの立像を捉えています。アングルは新古典主義絵画の領袖らしく、美しく、毅然としたナポレオンを極めて精緻に描いています。威厳があり、権威の裏付けとしての正統性の感じられる姿といえます。

 アングルは数多くのナポレオン像を描いていますが、パリ万博に出品したのはこの作品でした。

 1799年の憲法制定後就いた第一執政の行政権は強く、ナポレオンはその専制的権力をもって財政確立のためにフランス銀行を設立し、行政、司法制度を改革し、警察力を強化しました。軍事的独裁体制を樹立したのです(* https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=2310)。

 未来に向かって突き進んでいく、エネルギッシュな時の姿を描いているからでしょう。革命の意義を忘れず、フランスを強い国に導いていこうとする姿勢が敬愛されていた頃の姿です。

 実は、ナポレオンの肖像画は数多く描かれており、いかにも英雄らしい姿を描いたのはダヴィッド(Jacques Louis David, 1859~1890)でした。ナポレオン自身もダヴィッドの描く昭三画を好んでいたようでした。

 ところが、アングルの場合、ダヴィッドの描く雄々しさに加え、アカデミックが要求する精緻さと優雅さを添えていた点で、肖像画として含蓄のあるものになっていたといえるでしょう。

 そのような一味違う表現が可能だったのは、アングルのデッサン力によるものでした。彼のデッサン力は素晴らしく、近代絵画の巨匠の中でその右に出る者はいないといわれたほどでした(* https://www.nmao.go.jp/archive/exhibition/1981/post_20.html)。

 皇帝時代のナポレオンではなく、有り余るエネルギーをフランスのために使っていた頃の姿です。栄光にあふれ、フランスを導く勇士であり、強靭化しようとする指導者の姿です。

 ナポレオン三世が開催したパリ万博に、この作品が展示されるのは当然でした。

 ドラクロワの作品にしても、アングルの作品にしても、まさしく、ナポレオン三世が1855年という時期に開催したパリ万博で展示されるのにふさわしい作品だったことがわかります。

 両作品とも、フランスが領土を拡大していた時代を彷彿させる画題であり、権威を否定するものではなく、現実社会の暗部を見ようとするものでもありません。しかも、画風は、新古典主義であり、ロマン主義でした。現実を直視するのではなく、鑑賞者に、未来と希望を感じさせる作品だったのです。

■なぜ、クールベの《画家のアトリエ》は展示拒否されたのか

 先ほどもいいましたが、クールベの《画家のアトリエ》を見たドラクロワは、「異様な傑作」という表現で、評価していました。「異様」だけど、「傑作」だというのです。まさに言い得て妙、という気がします。

 当時、このような画題を作品化する画家はいなかったのでしょう、だから、「異様」と表現したのだと思います。ただ、画面には現実世界の真実が余すところなく表現されており、「傑作」としかいいようがない、というのが、ドラクロワの率直な感想だったのだと思います。ドラクロワには、この作品の優れた点がよくわかっていたのでしょう。

 さて、ドラクロワには《民衆を導く自由》(Liberty Leading the People)という作品があります。

(油彩、カンヴァス、260×325㎝、1830年、ルーブル美術館蔵)

 これは、1830年7月革命を起こし、フランス国王シャルル10世を打倒したことを記念して制作された、とても有名な作品です。

 乳白色の胸を露わにした女性が、右手で三色旗を高く掲げ、左手に銃剣を握りしめ、倒れた人々を踏みつけ、つき進んでいく姿が描かれています。人々を鼓舞するかのように、後ろを振り返り、叱咤激励している雄々しい姿です。

 足元は死体の山になっており、多くの犠牲を払いながら、自由を求めて突き進む姿が表現されています。

 アングルのように英雄を描くのではなく、市井の女性を一種の女神として描いています。表現もアングルのような精緻さはありませんが、逆に、メッセージを伝える力は抜群です。訴求ポイントを的確に押さえ、ドラマティックに画面構成をしているからでしょう。

 描かれた世界は為政者を震え上がらせるものです。民衆の力の凄さ、犠牲をいとわず、自由を求めて突き進むエネルギー、そのようなものが画面いっぱいにあふれています。この作品は、悲惨な場面を描きながら、実は鑑賞者に勇気を与える結果になっています。

 こうしてみてくると、なぜ、クールベの《画家のアトリエ》が展示拒否され、ドラクロワの作品が展示されたのかがわかってきます。

 同じように政治的課題を題材としながら、クールベの作品では現状分析にとどまり、未来が見えてきません。それに対し、ドラクロワの作品は、悲惨な現実を描きながら、未来に対する可能性や希望が感じられるからでしょう。

 ナポレオン三世は1855年パリ万博を開催するに際し、フランスならではの新機軸を打ち出し、価値創出を企図していました。フランスらしく、美術作品のために独立した展示会場を設けたのはそのためでした。

 だからこそ、当局は、題材はどのようなものであれ、未来に希望を感じさせる作品を求め、それを否定するような作品は、展示拒否したのではないかという気がします。

(2024/5/31  香取淳子)