ヒト、メディア、社会を考える

絵画

堀込幸枝氏の個展:塗って、削って、重ねる技法の妙味

■堀込幸枝展
 堀込幸枝展が2016年1月16日から30日まで、銀座のギャラリー椿(GALLERY TSUBAKI、http://gallery-tsubaki.net)で開催されています。私は堀込氏の作品をこれまでに一度、グループ展で見たことがあります。ですから、その後、どのような創作活動を展開されているのか知りたくて、開催初日の16日、画廊を訪れました。

 はじめて堀込幸枝氏の絵を見たのは2015年4月、このとき、『White air』(53×45.5㎝、キャンバスに油彩、2014年)という作品に深く印象づけられました。湿り気を帯びた空気感に引き込まれるように、しばらく、この絵の前に佇んでいたことを思い出します。

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(今回の個展では展示されていません)
 
 この絵を見たとき、どういうわけか、私は既視感をおぼえました。過去の記憶を手繰っていくと、ほどなく、河瀨直美監督の『萌えの朱雀』(1997年公開)の一シーンが目の前に浮かんできました。もう何年も前に見た映画です。すっかり記憶の底に沈んでいたはずなのに、この絵を見たとき、何かに触発されるように脳裏によみがえったのです。改めてDVDを見て見ました。

 このシーンでは、雨戸を開け放つと、パノラマのようにどこまでも連なる奥深い山々が視界に飛び込んできます。その山々には霧か靄のようなものがかかり、白くけぶって見えます。まるで山々がひそやかに息づいているかのような気配です。座敷では二人の人物が言葉もなく外に向かって静かに座っていますが、山々を見守るような姿勢のシルエットがしっとりとした風景に溶け込んでいます。家の中と外に境界はなく、ヒトと自然が見事に調和しているシーンでした。

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 このシーンの構図は、登場人物の後姿を左右の近景で捉え、遠景に白くけぶった山々を配置したものです。ちょうど真ん中が抜けていますから、観客は左右の視野角にヒトの黒いシルエットを収めて、遠方の風景を見る恰好になります。ですから、これは、そこで生活するヒトと風景を一括りにして捉えた構図といえます。

 『萌えの朱雀』で河瀨監督は史上最年少で、第50回カンヌ国際映画祭の新人監督賞を受賞しました。日本の山村を描いた作品が洋の東西を問わず、文化を超えてヒトを惹きつけ、評価されたのです。ヒトが生きていくことの本質に迫るものがあったからでしょう。ヒトが自然と一体化して暮らしている山村を舞台に、物語は展開されます。その物語を象徴するような構図だったので、私はこのシーンを強く記憶していたのかもしれません。

 堀込氏の『White air』を見た瞬間、私はこの構図を思い出したのです。

 多くの展示作品の中であのとき、なぜ私は堀込氏のこの作品に心を捉われてしまったのか、それはおそらく、この絵に私の知的好奇心を刺激する何かがあったからでしょう。今回、DVDを見てようやく、それが何だったのかわかりました。

 映画の冒頭シーンでは雨戸が開け放たれており、外気がそのまま座敷に入り込んでいます。ヒトと外を隔てる境界はなく、周辺一帯が同じ空気に包まれている安堵感が漂っています。

 一方、堀込氏の絵画ではガラスビンとその奥の風景との境界が希薄でした。ですから、ガラスビンと風景が一体化しており、その相乗効果によって不思議な景観が生み出されていました。ガラスビンを介在させることによって、興趣深い風景が造形されているのです。

 『White air』を見て私は連鎖反応的に、『萌えの朱雀』を思い出しましたが、いずれも境界の処理がきわめて繊細だという点で共通しています。私の知的好奇心を喚起したのは、両者の境界の捉え方の類似性だったことがわかりました。

 この絵をよく見ると、手前中央にガラスのビンが置かれています。ところが、このビンにはガラス特有の反射光はなく、底部がはっきりと描かれているからガラスビンだということがわかる程度です。もちろん、ガラスだから透明で、ビンを通して後ろの山が見えますし、その透け具合もクリアではなく、ビンが置かれた台や風景にしっくりと溶け込んでいます。

 実際、『White air』では、モノとモノ、モノと風景との境界が極めて希薄に描かれています。まるで存在を主張することなく、周囲に溶け込むという存在の在り方そのものが表現されているようにも見えます。こうしてみると、昨年、私が初めてこの絵を見て強く印象づけられたのは、ひょっとしたら、これが本来あるべき、モノ、ヒト、自然の在り方なのかもしれないと思わせられたからかもしれません。あのとき私はおそらく、この絵に触発されて、何か大切なものを発見したのでしょう。

■境界の描き方
 今回、椿ギャラリーに入って最初に目に入ってきたのが、『Magic 2』(130.5×97.0㎝、油彩、2016年)でした。この絵で大きな比重を占めている緑の部分が、『White air』の抑制された緑の色によく似ています。

こちら →IMG_2438

 この作品でも中央に大きくガラスが描かれています。変形ガラスビンなのでしょうか、それとも巨大ガラス玉なのでしょうか、いずれにしてもこの作品では、厚みのあるガラスの存在が強調されています。ガラス玉に写り込んだ風景はガラスの曲線に沿って屈折して描かれており、底部は白く描かれています。ですから、色彩は依然として境界線のない多層化された色彩の連続で構成されているのですが、モチーフの形状は『White air』よりも明瞭になっています。

 明らかに前回とは画風が異なっています。そう思って、展示作品をざっと見渡して見ると、2015年、2016年に制作された作品はいずれもモチーフの形状が明瞭になっているのです。堀込氏に何か、心境の変化でもあったのでしょうか。

■モチーフ的解釈から現実的解釈へ
 変化の理由を堀込氏に尋ねると、「これまではモチーフ的解釈で描いていたが、今回は現実的解釈で描いている」と説明されました。静物画から絵を学び始めた堀込氏は、風景も一種の静物として捉えて描いてきたそうです。堀込氏のいう「モチーフ的解釈」です。ところが、それでは本質を捉えられないのではないかと思い、最近は自然を素直に見つめ、その面白さを取り入れてみることにしたというのです。

 たしかに、『Magic 2』を見ると、ガラスに写り込んだ自然の中には長い葉のようなものがいくつも伸び、水中で揺らぐように描かれています。以前の作品には見られない具象性があります。おそらくそれは、堀込氏がこの時点で捉えた自然の本質の一端なのでしょう。まるでコントロールできない自然の要素が表現されているかのようです。もっとも、観客にしてみれば、そのような表現の中に、変化と自由と動きによる面白さが添えられたように思えるのです。

 作風の変化について堀込氏はさらに、「絵画を教える経験を通して、自分も自然を学ばなければならない、モチーフとして自然を捉えるだけではなく、素直に自然を見つめ、その本質を捉える必要があると思った」と話してくださいました。そして、風景だけではなく、「葉や花も今回はストレートに描いてみた」ともいわれました。

 たとえば、『キンモクセイ』(91.0×72.5㎝、油彩、2016年)という作品があります。

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 これまでとは違ってこの作品も、ガラスや葉、花などのモチーフの形状がはっきりと認識できるように描かれています。堀込氏のいう「モチーフ的解釈から現実的解釈」に変えて制作されたからでしょうか、私はより素直に花や葉が描かれているという印象を受けました。もちろん、画法はこれまでと変わりませんし、ガラスもクリアな輝きは抑えられ、鈍い透明感で表現されています。

■モチーフとしてのガラスのビン
 展示作品を見ていくと、どの作品にもガラス、水が基本モチーフとして取り上げられているのがわかります。この点について尋ねると、堀込氏はガラスビンの後ろに透けて見える世界を描くのが好きで、ここ10年ぐらいずっとガラスビンを描き続けているといわれました。

 たとえば、『Bottles』(130.5×97㎝、油彩、2007年)という作品があります。

こちら →IMG_2426
(今回の個展では展示されていません)

 オレンジや透き通った薄緑の液体、そして透明の液体が入っているボトルが3本、描かれています。ガラスビンそれぞれの大きさと配置、3本のビンが交差する辺りの描き方などに興趣がありますが、この作品でもモチーフそれぞれの境界は薄く、背景も影もすべてが混然一体になっているかのよう描かれています。そのせいか、どこにでもありそうで、実はどこにもない不思議な世界が描出されているのです。

 ビンをさらに抽象化させた作品もあります。たとえば、『Bottles』(116.5×91㎝、油彩、2008年)という作品です。

こちら →IMG_2428
(今回の個展では展示されていません)

 やはり3本のビンが描かれていますが、こちらはモノトーンで、モチーフの形状が抽象化されています。これらのビンに口はなく、もはや立体でもありません。ですから、見ようによってはただの図形のように見えますが、二つのビンが重なっているところの描き方で、ガラスビンが描かれているということがわかります。

 この絵にはモチーフを引き立てる背景もなければ、ビンが置かれているはずの台も描かれていません。モノの存在を支える諸要素を取り払い、さらには色彩と形状の余分な要素までも剥ぎ取り、ガラスビンの本質を浮き彫りにした作品です。

 それだけに、左上方から差し込み、右下方に落ちる光が印象に残ります。この柔らかい光がガラスビンに微妙な陰影を与え、その存在を繊細に浮き彫りにするという構図です。このようなガラスビンの描き方を見ていくと、堀込氏の画風がこの時期、具象から抽象へと変化していったのがわかります。

■ガラスの質感
 堀込氏は「生理的にガラスの質感が好きだ」といい、「ガラスは飽きない」ともいいます。その理由として、ガラスを通してみた世界は面白いし、ガラスに水を入れてみても、光を添えてみても面白いからと説明してくれました。

 たとえば、展示作品の中に、『Magic 1』(116.5×91、油彩、2015年)という作品があります。

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 まず、目につくのが水の入ったガラスです。キャンバス中央よりもやや下方にガラス底があり、その曲面に上方から透過した屈折光によって形状が変化した花か葉のようなものが描かれています。花びらなのか葉なのか、わかりません。グレーがかったピンクと緑色の平たく丸い粒状のものがいくつも重なって球の形に凝縮され、水の入ったガラスを支えています。

 背景はモノトーンで、ガラス玉が宙に浮かんだような構図で描かれています。この絵からも実在の基盤が排除されているのがわかります。とくにこの作品ではグレーがかったピンクのグラデーションが印象的です。この色彩のせいか、時空を超えた幽玄の世界が表現されているようにも見えます。

 最新作だと思われる『In the garden』(162.0×130.5㎝、油彩、2016年)という作品があります。

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 この絵を見ると、白い花と葉が入っているガラス底が平らで、しっかりと接地していますから、安定感があります。左方向から差し込む陽光を受けて、接地面に長く影を落としています。ガラス底面に描かれた白とその右下に小さく塗られた白の反射光が、光の確かな存在を表しており、鮮やかな印象を与えます。シャープな影といい、ガラスに反映された光といい、これまでの堀込氏の作品にはない鋭角性が見られます。

■塗って、削って、重ねる技法
 堀込氏は油絵が好きだといいます。といっても、油がギトギトしたような作品ではなく、パステルのように見えて、実はツヤがあるような油絵が好きだといいます。そういわれてみると、たしかに彼女の作品は淡い色調で、限りなく繊細でありながら、興味深いことに、限りなく強靭でもあります。

 作品を作る場合、堀込氏はまず、F6のキャンバスにパステルで完成形を作成し、その絵で全体のイメージを確認してから、油絵の制作に入るのだそうです。油絵ですから、下地を作ってから形を取り始めますが、興味深いのは、キャンバスに厚く塗った絵の具をナイフでいったん、全部そぎ落としてしまうことです。

 そぎ落とすことによって、キャンバスに残像が残ります。そこに柔らかい刷毛でまた絵の具を塗り、ナイフでそぎ落とすという作業を繰り返します。そのような作業を何度も繰り返していくと、浅い残像が幾重にも積み重なり、パステルの質感が生まれるのだそうです。

 たとえば、さきほど紹介した『Magic 1』で描かれた花弁も、そのような作業の積み重ねの結果、生み出された微妙な色合いで表現されています。

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 花弁一つとってみても、外側から内側へのグラデーションが見事に表現されています。キャンバスに近づいてみると、絵の具が平坦に均されていることがわかります。大きな刷毛で塗った絵の具をナイフでそぎ落とし、残像を重ねて色を生み出してきたからでしょう。そのような作業の繰り返しの結果、彼女が求める色が現れてくるのです。

 堀込氏は、このような作業工程を経てはじめて、滑らかでいい味の色を出せるといいます。削って、塗って、また、削って・・・、という作業の繰り返しの結果、残像が積み重なって、微妙な色合いがジワッと出てくる、そのような色の出方が好きだといいます。

 『In the garden』では、ナイフで削った痕跡がキャンバスに残っています。

こちら →IMG_2436

 これは痕跡部分を拡大した写真です。ちょっと見えづらいかもしれませんが、上方やや右寄りに縦に白く小さな線があります。これがナイフで削った痕跡です。通常は削った上でまた絵の具を塗って、平らにしていくのですが、この絵ではこの部分が残されています。

 よく見ると、白い花弁のグラデーションの中でこの白い痕跡はめしべの本体である花柱にも見えます。種子や実になる部分です。堀込氏は敢えてこの痕跡を残すことで、この絵の中にひっそりと生命の営みを盛り込んだのかもしれません。

■モチーフを手掛かりに、技法の深化を
 時系列で堀込氏の作品を見ていくと、徹底的にガラスビンにこだわって制作し続けたことで、確かな技法を掴み、それを洗練させていったような気がします。ガラスというモチーフとの出会いを大切にし、それを表現するための技法に妥協しなかったことが彼女の画力を向上させてきたように思います。

 堀込氏は油絵なのにパステルみたいな質感を出すために、工夫して、独特の技法を生み出しました。塗ってはナイフで削り、その浅い残像を重ねて色を生み出し、形を浮き彫りにしていく画法は、聞いていると、気の遠くなるような作業です。ところが、彼女はそのような作業工程を経ないと納得できる色が出ないから、決して苦ではないといいます。

 制作に時間はかかりますが、この技法のおかげで、どこから見ても一目で、堀込氏の作品だということがわかります。彼女の質感へのこだわりが他の誰も真似のできない画風を作り出しているのです。

 絵の具を塗ったのではなく、染めたような風合いを出すことにこだわり、彼女はヒトがまねることのできない独特の技法を編み出しました。このユニークな技法はすでに大学4年生の時に確立されていたようです。

 今回、一連の展示作品を見ていくと、堀込氏が新たな視点で制作に臨み、新しいステージに進みつつあることがわかります。もちろん、技法そのものは変わりませんし、ガラスや水といったモチーフもこれまでと変わりません。技法もモチーフも継続して深化させることによって、新たな表現の地平を切り拓くことができるでしょう。時間をかけて練り上げてきたことの成果が今後、少しずつ現れてくるような気がしています。

 絵画の極みを求め、奮闘する若手画家の今後に期待したいと思います。(2016/1/18 香取淳子)

絵画のゆくえ2016:近藤オリガ氏の作品

■FACE受賞作家展
 「絵画のゆくえ2016:FACE受賞作家展」(2016年1月9日から2月3日まで)が新宿の損保ジャパン日本興亜美術館で開催されています。FACE展2013からFACE展2015までの3年間に、「グランプリ」および「優秀賞」を受賞した作家たち12名の受賞後の作品約80点が展示されています。

こちら →http://www.sjnk-museum.org/program/current/3405.html

『FACE』は新進作家の登竜門として2012年度に創設された公募コンクールです。応募要件に年齢・所属が問われませんから、毎回、幅広い層から多数の応募があります。今年もFACE展2016が2月20日から3月27日まで開催されますが、その前に開催されるこの展覧会はこれまでの『FACE』総決算といえるでしょう。

 今回の展覧会では、受賞後、作家たちがどのような創作活動を展開しているかに焦点が当てられています。新進作家のフォローアップであり、絵画の直近の動向を把握し、未来を予測する手掛かりにもなるでしょう。とても興味深い展覧会です。私はFACE2015しか見ていませんので、ちょうどいい機会だと思い、開催初日の1月9日、出かけてみました。

 会場は作家ごとに展示コーナーが用意され、12名の作家が受賞後に制作された作品約80点が展示されていました。ざっと見渡したところ、私はFACE2013で受賞された作家の方々の作品に強く引き付けられました。展示されていたのは4人の作家の作品でしたが、いずれも画材に工夫の跡がみられ、画力も優れていました。それぞれ個性が際立っており、それこそ新進作家ならではの斬新さが感じられました。

 とくに印象深かったのが、近藤オリガ氏と永原トミヒロ氏の作品です。

 ちょうどこの日、14時から、FACE2013のグランプリを受賞した堤康将氏、そして、優秀賞を受賞した永原トミヒロ氏、近藤オリガ氏、田中千智氏のアーティストトークが行われました。それぞれの作品の前で30分間、作家によるお話しがあり、その後、観客からの質問に応じるという形式のトークです。

 今回はこのときのトークを踏まえ、近藤オリガ氏の作品を見ていきたいと思います。

 FACE2013で近藤オリガ氏が受賞したのは、『思いに耽る少年』(130×194㎝、油彩画、2012年)でした。

こちら →思いに耽る少年

 今回の展示作品の中には含まれていませんでしたが、ここで描かれた少年は近藤オリガ氏の孫で、重要なモチーフの一つです。色調といい、構図といい、西洋絵画の伝統を踏まえた描き方が印象に残ります。

■ベラルーシ出身の画家、近藤オリガ氏
 近藤オリガ氏は1958年ベラルーシ共和国マギレフ市生まれの画家です。ベラルーシ国立美術大学を卒業後、1980年代はベラルーシ国内および東欧で個展、グループ展などで作品を多数発表し、数多く受賞しています。1988年にはベラルーシ美術家連盟の会員にもなっています。1990年代は西欧にも活動の幅を広げ、とくにドイツでは1995年以降、各地で個展を開催してきたといいます。

 2007年に来日してさっそく創作活動を開始し、2008年以降、毎年、公募コンクールで受賞しています。近藤オリガ氏が洋の東西を問わず、高い評価を受けている画家だということがわかります。

 それでは、近藤オリガ氏の展示作品を見ていくことにしましょう。

■ザクロの樹と父の肖像
 まず、『ザクロの樹と父の肖像』(162×162㎝、油彩画、2014年)から見ていくことにしましょう。

こちら →IMG_1740

 この絵を最初に見たとき、不思議な感覚に捉われました。子どもの姿がとてもリアルに描かれているのに、その存在を支える具体的な背景が台座以外に何も描かれていないのです。しかも、幼児の方は正面を向いているのに、その下で幼児を見上げている少女は後ろ姿しか描かれていません。視線が交差していないのです。そして、この二人を包み込んでいるのが、広大な海を彷彿させる空間です。だからでしょうか、私はこの絵を見たとき、時間も場所も消えているような気がしたのです。

 アーティストトークでは、近藤オリガ氏(以下、オリガ氏)はロシア語で話され、ご主人の近藤靖夫氏(以下、近藤氏)が日本語に通訳されました。

 オリガ氏の説明によると、この絵の幼児は父親だそうです。その下で左手を突いて座っている少女がオリガ氏で、画家であった父から子どものときから絵の手ほどきをうけたといいます。この絵の前で彼女は父親に教えられたことをとても感謝しているといいました。

こちら →IMG_1735

 そのような説明を聞いて、改めてこの絵を見ると、今度は幼児がザクロを手にし、少女が手をついている先にもザクロが描かれているのが気になってきます。そういえば、この絵のタイトルも「ザクロの樹と父の肖像」です。ザクロに何か意味が託されていたのでしょうか。残念なことに、私はオリガ氏にこのことを聞きそびれてしまいました。

 調べてみると、ザクロはギリシャ神話の「ペルセポネの略奪」にちなみ、死と復活を象徴する果物なのだそうです。私は知らなかったのですが、中世ではザクロは「再生」の象徴として聖母像によく描かれていたそうです。

 そのような知識を得て、再びこの絵を見ると、オリガ氏の気持ちが痛いようにわかってきます。時間と空間を敢えて排除したようなこの絵の構図からは、もはや時間と空間を共有できない父親への哀惜の思いが感じられます。そして、幼児が手にし、少女の手の先にも置かれているザクロはおそらく再生を意味しているのでしょう。ザクロを配置することによって、画家であった父がオリガ氏を通して再生し、復活しているというメッセージがこの絵からひしひしと伝わってくるのです。

■みかん?それともザクロ?
 会場で一目見て、私が引き付けられてしまったのが、『みかん?それともザクロ?』(116×116㎝、油彩、2015年)でした。ただザクロの実が描かれているだけなのですが、心が揺さぶられるように美しく、そして、吸い込まれるように深いのです。しばらく佇んで見入っていました。

こちら →IMG_2411
慌てて撮影したので、少しずれてしまいました。

 ザクロは熟したら、割れるといいます。このザクロは割れていて、左側の実に無数の赤いタネが見えています。全体に暗い色調の中で、タネはまるでルビーのような深紅の輝きを見せ、モチーフに華やぎを添えています。

 興味深いことに、外皮はミカンなのです。外皮をミカンの皮にしたことによって、このザクロが割れたのではなく、剝いたように見えるところが興味深く思えました。

 ミカンの皮は剝いたとき、このような形状になりますが、ややしなるように描かれた外皮の形状が割れたザクロに安定感を与えています。外皮にはところどころ黄金の輝きが見られ、したたかな生命力が感じられます。そして、白い内皮がモチーフの構造を際立たせ、奥行きを生み出しています。

 トークの制限時間が30分間だったせいか、この絵についてオリガ氏は説明されませんでした。おそらく説明の必要がなかったのかもしれません。モチーフの形状といい、色彩のバランスといい、構図といい、ヒトの気持ちに訴えかける絵の力が強烈なのです。

■モチーフとしてのザクロ
 4人の画家のアーティストトークが終わり、ショップに立ち寄ると、この作品のエスキースが販売されていました。よほど購入しようかと思ったのですが、会場で見た作品とはどこか違います。深い興趣が感じられないのです。画材が違うのかもしれないと思い、美術館の方に尋ねると、油彩画とのことでした。画材は展示作品と同じです。

 画材が同じだとすると、エスキースだからでしょうか、あるいは、サイズのせいでしょうか。展示作品に込められていた心に深く訴えかけるような美しさに欠けるのです。とはいえ、このエスキースも当然、一点物です。一瞬、購入しようかと思ったのですが、思い直し、本物の方がいいというと、美術館の方は私がコレクターだと勘違いされたようで、オリガ氏のところに案内してくださいました。

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後日、近藤氏からご連絡をいただき、このエスキースがキャンバスではなく、油紙に描かれたものだったこ とがわかりました。これで、私が一目で見て、展示作品とは質感が異なると思った理由が判明しました。画材やサイズが異なれば、同じように描かれたものでも、そこから観客が受ける印象は大幅に異なってくるのですね。写真とは異なる絵画の一側面を認識させられました。
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 『みかん?それともザクロ?』が一番、素晴らしいと思ったというと、ご主人の近藤氏は、この絵はアートオリンピアで入賞した作品だといわれました。

 後で調べてみると、たしかに、この作品はアートオリンピアで入選しています。このときのタイトルは『日本に捧げる』でした。

こちら →https://artolympia.jp/img-template.php?no=11690&type=A

 ザクロをモチーフに、オリガ氏はこれ以外にもいくつか制作されているようです。第75回新制作展で新作家賞を受賞した『ザクロ』(162×162㎝、油彩、2011年)は、すでに海外の方が購入されたようです。

こちら →ザクロ

 赤いタネが少なく、やせ細ったザクロが描かれているせいか、この絵からはまず荒涼感、寂寥感が漂ってきます。その一方で、天空から降りてくる光が地上を照らし、ザクロにも鈍い輝きを与えているのに気づきます。よく見ると、確かな希望が表現されているのです。つまり、この絵にはザクロのシンボルである死と復活が描かれているように思えてきます。ヒトが生きていく上で避けて通れない死と、それを乗り越えた暁に得られる復活が抑制の効いたタッチで描かれているのです。

こうしてみてくると、オリガ氏にとってザクロというモチーフは特別のもののように思えてきます。

■200年、300年通用する絵画を目指して
 展示されていたオリガ氏の作品は7点でしたが、いずれもしっかりとした描写力によってモチーフが捉えられており、観客を力強く引き込み、考えさせる力がありました。伝統的な西洋絵画の技法を踏まえ、オリガ氏ならではの感性で組み立てられた構図やモチーフの造形などが、絵を見た観客に自然に内省を促すからでしょう。

 オリガ氏のトークでもっとも印象に残っているのが、「時代の流れに迎合することなく、200年、300年通用する絵を描いていく」といわれたことでした。それを聞いて私は、なんとなくオリガ氏の画風に納得がいくような気がしました。オリガ氏の作品を見ていくうちにいつしか、時代に迎合せず、凛とした姿勢で伝統的技法を踏襲していくことこそ、作品の生命を永らえさせることに繋がるのではないかと思うようになっていたからでした。

 西洋絵画の伝統的な技法を習得されたオリガ氏は作品を通して、東欧から西欧、そして、近年は日本でも高い評価を受けるようになりました。そのことを思えば、「200年、300年」という言葉がとてもリアルに響いてきます。文化の異なる空間を易々と超えられたからには、時間も容易に越えられるはずです。

 たとえば、私たちがよく知っているベラスケス(1599-1660)やルーベンス(1577-1640)は400年以上前の画家ですし、カレンダーやポスターで日常的にその作品を目にするゴッホ(1853-1890)やルノワール(1841-1919)なども100年以上前の画家です。それを考えると、時代に迎合するのではなく、むしろ時代と対峙し、その本質を表現していくことこそ、作品の命を永らえさせることになるのではないかという気がしてきます。

 オリガ氏に、『ひまわり―福島への祈りー』(130×162㎝、油彩、2012年)という作品があります。これも私が強く心惹かれた作品の一つです。

こちら →ひまわり

 2011年の福島原発事故は、ベラルーシ出身のオリガ氏にとって相当、ショックな出来事だったようです。というのも1986年のチェルノブイリ原発事故でもっとも被害を受けたのがベラルーシだったからです。福島原発事故が起こったとき、オリガ氏はたまたまベラルーシに戻っていたそうですが、当時の記憶がすぐ甦り、日本が心配でたまらずドイツ経由ですぐに戻ってきたそうです。当時、成田空港は日本から脱出する外国人で溢れていたというのに、彼女はわざわざ日本に戻ってきたのです。

 この作品についてオリガ氏は、「ベラルーシの草原に咲いていたひまわりを持ち帰り、福島の復興を祈って、描いた」と述べられました。ひまわりはタネが多く、タネが落ちれば、そこから多くの芽が出て、新しい命が育まれます。福島の再生を祈って、この絵が描かれたのです。

 オリガ氏はトークの最後で、「私にとって芸術とは世界を認識する一つの方法だ」と述べられました。絵画を通して世界を認識するという観点があれば、おそらく、モチーフや構図、色調の中に、時代に迎合することなく、時代の本質を取り込めるはずです。そして、時代の本質を描くことができれば、200年、300年は通用する作品になるでしょう。『ひまわり』はそのような作品の一つになると思います。

 凛とした姿勢で創作活動を展開されているオリガ氏だけに、今後、日本をテーマにどのような作品を制作なさるのか、とても楽しみにしています。(2016/1/14 香取淳子)

吉田晋之介氏の個展 “Days”の不思議な魅力

■吉田晋之介氏の個展
 2015年10月31日(土)から11月28日(土)まで、東京・両国のGALLERY MoMo Ryogokuで、吉田晋之介氏の個展“Days”が開催されました。展示作品は2015年に制作された12点で、いずれも自然と人工物との関係に焦点が当てられています。人工物に依存して組み立てられている現代社会の諸相が、これらの作品によって巧みに表現されていました。マクロ的な観点から捉えたものもあれば、ミクロ的な観点から捉えたものもあります。意表を突くアイデアでモチーフが選定されているのが特徴です。

 たとえば、“Motherboard”(116.7×116.7㎝、油彩、2015年)という作品があります。

 マザーボードとは、CPUやメモリーなどパソコンの主要な部品を搭載したプリント基板のことで、いわば情報処理の中枢です。吉田氏はそれを地表に見立て、東京を俯瞰してこの絵を描きあげました。マクロ的な観点から捉えた作品の一つです。

こちら →motherboard

 マザーボードには東京湾があり、建物が密集するエリアの中央には皇居もあります。東京を象徴するいくつかのキーポイントを押さえたうえで、吉田氏はその外縁に、噴火する火山を描き、空と言わず海と言わず浮遊する無数の放射性投下物のようなものを描いています。自然の脅威であれ、人工物の脅威であれ、もはやヒトが安穏と生きていくことができなくなりつつある現状が、宇宙の視点で捉えられているのです。

 右も左も、上も下もない真っ黒な宇宙空間に、このマザーボードは浮かんでいます。無数の点で表現された宇宙の浮遊物と同様、宇宙空間のどこへ流されていくかもわからない不安定な姿を晒しています。それが見る者の不安感を誘い出します。

 画面中央に配置されたマザーボードを見ると、晴天の空にも見える青色で表現された海と、白と灰色で表現された建物群とに押され、緑の基盤が隆起した格好で、山々が形作られています。さらに見ると、その一角で火山が上方高く噴煙を上げています。まるで膨大な情報処理に耐えかねてCPUが爆発を起こしたかのようです。

 情報爆発時代を象徴するモチーフの形状と色彩、モチーフをマクロ的に捉えるために取り入れた宇宙空間、それらの配置が見事です。この作品には読み解きのための具体的な手がかりが残されており、観客の空想力は限りなく刺激されます。ICT主導で激変している現代社会、人工物に依存した現代社会をシンボリックに表現した作品といえるでしょう。

 この作品は「第1回アートオリンピア2015」(https://artolympia.jp/ao.html)学生部門3位となりました。

■“Days”の不思議
 ミクロ的な観点から自然と人工物を捉えた作品もあります。画廊に入ってすぐ右の壁に展示されている“Days” (200×200㎝、油彩、2015年)です。

こちら →CU3rpIfU8AAF7KQ
画廊入口から見た展示風景

 実は、私がもっとも興味を覚えたのが、この“Days”でした。絵に近づいてみると、絵の具をラフに載せたようにしか見えないのに、遠くで見ると、精緻にフォーカスされた写真のように見えます。何度も近づいては見、離れては見てみたのですが、なぜ、そう見えるのか、いっこうにわかりません。不思議な思いに捉われてしまいました。こうなっては直接、ご本人に尋ねるしかありません。個展最終日、再度、この絵の謎解きのために画廊を訪れました。

 吉田氏に尋ねてみると、「計算して描いています。絵ならではの遊びですよ」と即答されました。さらに、言葉を継いで、「写真は拡大しても縮小しても写真でしかありませんが、絵は違います。遠くで見るとリアルに見えますが、近くで見るとただの絵の具でしかない・・・」といわれるのです。おそらく、その落差が、吉田氏の捉える絵画ならではの妙味につながるのでしょう。

吉田氏の許可を得て、もっとも気になっていた葉っぱに近づいて撮影しました。

こちら →近づく (598x640)

 この写真を見ても明らかなように、近づくと、この葉が絵の具で描いたものだということがわかります。

 次に、私は遠くから撮影してみました。

こちら →P1020649 (625x640)

 白っぽく塗られただけの葉の片面が、まるで陽光を受けてさんさんと輝いているかのように見えます。精緻にフォーカスして撮影された写真のように見えてしまうのです。ところが、絵全体に視線を移していくと、何カ所か荒っぽく筆を走らせた箇所に気づきます。そこで、ふと我にかえったように、これが絵なのだということに気づかされます。

 吉田氏はいいます。

「すべてのモノにはその場所にあるべき明度と彩度で構成されたバルール(色価)があります。それが合っていれば、どんなに自由なタッチで描いてもリアルに見えますが、少しでもズレていれば、変な絵だという印象を与えます」

 私が“Days”を見て、写真のようにリアルだと思ったのは、膨大な量の木の葉を吉田氏が一枚一枚、バルールを合わせて全体を精密に構成した結果だったことがわかります。これでようやく謎が解けました。近くで見ると、荒っぽく塗られた絵の具でしかないのに、遠くで見ると、写真のようにリアルに見えたのは、実は正確なバルール合わせの結果だったのです。

 吉田氏はこの作品を構成するに際し、葉っぱを一枚一枚、丁寧に描くもの、荒く描くもの、崩して描くもの、というように選り分け、計算していったそうです。バルールを合わせるためでした。巨大なサイズの画面だということを考え合わせると、これがどれほど大変な作業だったか、吉田氏のエネルギッシュな創作力に驚かされます。

■風景画を超えて
 この絵を見ていると、暑い夏の日差しが感じられます。風にそよぐ葉の揺らぎすら、想像できてしまいます。葉の表面と葉陰とのコントラストに陽光の強さを感じるからでしょうし、縦方向に荒く走らせた筆のタッチに葉の動きを感じるからでしょう。

 よく見ると、右下の金網の一部が破られ、その周辺がやや広い面積で暗く描かれています。そのせいか、金網の奥に空間が感じられます。そこから少し視線を上げると、上方に白い小さな空間が設けられており、金網の奥に広がる空間がその地点で閉じていることがわかります。

 ちょっと気づきにくいのですが、白い紐状の導線のようなものが何カ所か下に垂れています。上部で横方向に伸びて金網に絡まり、やや斜め下方向に垂れているのもあります。重力に従っているわけでもないこの導線のようなものの配置が気になります。葉っぱと金網で構成されたこの絵の整合性を損ない、精緻に組み立てられたバランスを崩しているのです。

 もっとも、そのせいで、観客は逆にこの絵に深く引き込まれていきます。写真のような完結性が壊されることによって、見る側の参加度が高められるからでしょう。観客は無意識のうちに絵の欠損部分を補おうとする気持ちに駆られ、感情移入していった結果、描かれてもいない風の気配、大気の温度などを感じてしまうのです。吉田氏はさり気なく絵のバランスを崩すことによって、この絵を、風景画を超えた作品にしているのです。

 ひょっとしたら、絵のサイズも観客の感情移入に関係しているのかもしれません。実物よりやや大きいサイズで描かれていることが、観客の気持ちを引き込む効果に関係している可能性があります。吉田氏に尋ねると、友だちの作品の展示を見て、このサイズで描きたいと思ったということでした。200×200㎝のサイズです。

 “Days”はミクロな観点から自然と人工物をモチーフにした作品です。吉田氏によれば、個展のDM用にこれまでとは違うものを描こうと思って手がけた作品だそうです。描かれた木の葉は金網を超えて伸びています。まるで封じ込められることを振り切ろうとするかのようです。成長しようとする葉の勢いが感じられます。

 葉っぱは写真を参考に構成されていますが、金網は付け加えられました。金網は人工物であり、整然とした網目は数値的な世界を連想させます。この絵に不可欠なモチーフなのです。

■ミステリー作家を彷彿させる吉田氏の作家性
 「金網と植物だけではつまらない」と吉田氏はいいます。ですから、金網の一部を損壊し、意味のわからない導線をさり気なく、随所に垂らします。日常生活で見慣れた光景に意味不明の無機的なものを入れ込むことによってバランスを崩し、観客をかく乱させるのです。

 さらに、自身の遊び心を満足させるための仕掛けも施されています。

 吉田氏はいいます。
「この絵の見所としては、「見え」のレイヤーと「絵の具」のレイヤーとが逆転していることです。ヒトはまずこの絵の白く抜けた部分を見、それから葉っぱを見、そして、金網を見ます。これが「見え」のレイヤーです。ところが、一番後に描いたように見える金網は実は下地を生かしただけです。葉っぱはそれほど丁寧に描かず、奥の白く抜けた部分は最後に手を入れ、丁寧に描いています。「絵の具」のレイヤーの順序と「見え」のレイヤーの順序が逆になっていますが、このような遊びが可能なのが絵なのです」

 ヒトが手作業で創り出す一点ものの絵だからこそ、このような遊びができるのだと吉田氏はいいます。

 たしかに、この絵を一瞥すると、質感といい、量感といい、そのリアリティに圧倒されます。その感動が過ぎると、次に、観客の目はこの白く抜かれた空間に引き寄せられていきます。フェンスで囲われた葉っぱの向こう側の空間に想像力が刺激されるからでしょう。

 フェンスの上方に位置付けられたこの白い部分を撮影しました。この写真を手掛かりに吉田氏の創作過程を見てみることにしましょう。

こちら →P1020650 (480x640)

 近づいてこの部分を見ると、周辺の葉っぱはラフに筆を走らせただけなのですが、この白い部分は丁寧に塗り込まれ、周辺の葉陰もしっかりと縁取りされています。しかも、この部分は目のやや上に位置していますので、観客は見上げる恰好になります。この構図から心理的側面からも「見え」に深みを与える位相になっていることがわかります。

 この白い部分はいわば遠景ですが、そこから視線を下していくと、左側にさんさんと輝く葉が見えます。これは中景に相当します。ここでは、とくに丁寧に描かれたものに目が留まります。そして最後に、全体を覆う整然とした金網(近景)に目が留まるといった流れで、ヒトはこの絵を見ていくのでしょう。そのような観客の視線の動きを読み込んだうえで、吉田氏はこの絵の構図、描き方の丁寧さの度合い、絵の具の重厚さの度合いなどを決定していったようです。

 吉田氏はいいます。
「絵を描くことには、こう見えたら、ヒトは驚くだろうなと予測する楽しみがあります。また絵には、目で見るだけではなく、歩いて、絵に近づいたり離れたりしてみるという要素があります」

 だからこそ、こう描けばヒトにはどう見えるかを推測し、ヒトはそれを見てどう感じるかを想像しながら、キャンバスサイズを決め、構図を決定し、細部を詰めていくのでしょう。このようなシミュレーションを繰り返し、吉田氏のいう「見え」のレイヤーを固めていくことが、作品に深みを与えているのだと思いました。

 ディスプレイを通してみると平たい画像でしかなくても、絵にはこのような遊びの要素を取り込むことができます。そこが写真とは大きく異なる点ですが、吉田氏はそのような絵の特性を大切にしています。だからこそ、植物と金網をモチーフに風景を描いても、単なる風景画に留まるのではなく、シンボリックな作品に仕上げることができるのでしょう。

 さて、吉田氏はベラスケス(1599-1660、スペイン)を評価しています。
 ベラスケスの絵について、「近くで見ると、タッチが走っているけど、遠くで見ると王女に見える」といい、すでに1600年代に絵の具で遊んでいた画家がいたと高く評価しているのです。

 有名なのは『ラス・メニーナス』(Las Meninas, 1656年、プラド美術館所蔵)で、この絵にはいくつもの謎が仕掛けられており、いまだに多くの研究者の関心を集めています。

こちら →Las-Merninas
Wikipediaより。

 解説によると、「謎かけのような構成の作品で、現実と想像との間に疑問を提起し、鑑賞者と絵の登場人物との間にぼんやりとした関係を創造する」と書かれています。まさに、「こう見えたら、ヒトは驚くだろうなと予測する楽しみがある」という吉田氏の創作過程を彷彿させます。こうしてみてくると、吉田氏がベラスケスを高く評価する理由がとてもよくわかります。共通点があるのです。

■観客との対話を引き出す力
 今回、ご紹介した“Motherboard”と“Days”には、観客との対話を引き出す力があります。どの作品にも吉田氏がなんらかの仕掛けを絵に組み込んでいるからでしょう。吉田氏は「絵でヒトをだますのが好き」といいます。「だます」といえば人聞きが悪いですが、絵画表現上の一つの手法であり、とくにシュルレアリスムの画家によく見られる手法として知られています。たとえば、ルネ・マグリット(1898-1967、ベルギー)はその代表的な画家として知られています。

 私はルネ・マグリットの「白紙委任状」(1965年制作)が好きで、複製ポスターを額に入れて食堂に飾っています。何度も近づいては見、離れては見ているのですが、見るたびに不思議な感覚が喚起されます。

こちら →http://matome.naver.jp/odai/2138762921202942901/2138763844907799703

 馬に乗って森の中を散歩する女性の姿を描いた作品ですが、樹木によって馬と女性が不自然に切り取られた箇所があるかと思えば、背景の森によって馬と女性が見えなくなっている箇所があって、見ていると、不思議な思いに捉われてしまいます。おそらく、それがマグリットの狙いなのでしょう。マグリットはこの絵の中に敢えて見えない部分を作り出しています。

 ところが、それを見るヒトは無意識のうちに見えない部分を補いながら、見てしまいます。欠落部分を補おうとする意識が働くからですが、そのような意識が働くとき、ヒトは深くこの絵にコミットしています。おそらく、そのせいでしょう、ヒトはこの絵を見ると、不思議な感覚に包まれたまま、作品世界に深く入り込んでしまうのです。

 吉田氏の作品にはマグリットのこの絵に感じるような不思議な魅力が感じられます。それはおそらく吉田氏が意図的に絵に仕掛けを施しているからでしょう。画家からすれば、三次元空間を二次元に写し取るための「だまし」の技法の成果であり、観客にすれば、技法に「欺かれること」もまた絵の楽しみの一つなのです。こうして技法を媒介に画家と観客の対話が始まります。

 このようにみてくると、まるでミステリー作家のように、吉田氏は観客に知的なバトルを挑んでいるようにも見えます。「こうやって描いたら、こんなふうに見えるんだぜ」といいたげな吉田氏の笑顔には、観客に知的なバトルを挑む豪胆さが垣間見えるような気がします。

 吉田氏は中学3年までバスケットボールに興じていたそうです。そこで育まれたものは体力、運動神経だけではなく、知的な腕力だったのではないかと思えてなりません。視覚のトリックに関心を抱き、知的バトルに動じることのない若手画家の今後に期待したいと思います。(2015/11/30 香取淳子)

102歳のクリエーター・篠田桃紅氏

■『百歳の力』
 新幹線の発車までに時間の余裕があったので、京都駅の書店に立ち寄ってみました。入ってすぐの所、カウンターの近くに新刊書が平積みにされていました。書店ではよくある配置です。そのまま通り過ぎようとして、ふと、「103歳の現役美術家、唯一の自伝!」というキャッチコピーに目が留まりました。さらに、「10万部突破!」というコピーも目に飛び込んできました。本のタイトルは『百歳の力』、著者は「篠田桃紅」です。これでは手に取らないわけにはいきません。

 奥付を見ると、初版は2014年6月22日、私が手に取っていたのは、2015年7月13日に発行された第八刷目の本でした。本が売れない今の時代に、わずか1年で八刷も版を重ねていたのです。よほどヒトの心を捉えるものがあったのでしょう。

 ざっと眼を通しただけで、気になるフレーズがいくつも見つかりました。新幹線の中で読むにはちょうどいいでしょう。私はそのまま、レジに進みました。
 
 篠田桃紅氏は1913年3月28日生まれですから、いま、102歳です。それが現役のクリエーターだというのですから、驚きです。著名人なので、ずいぶん前から名前だけは知っていました。書道家だと思っていたのですが、この本を見ると、どうやら美術家でもあるようです。その程度の認識ですから、私はこれまで篠田氏の書を見たこともなければ、画を見たこともありませんでした。

 ところが、書店でたまたまこの本を手に取り、ちらっと読んだだけで興味をかき立てられました。近来になく、心に響くものがありました。私は偶然出会ったこの書に導かれるようにして、篠田桃紅氏が築き上げてきた創作の世界に入っていくことになりました。

■無限の世界へ
 これまで私が思い込んでいたように、篠田氏はたしかに書道家でした。この本を読むと、5歳のころから父に書の手ほどきを受け、桃紅という雅号もその父から与えられたというのです。書道家として生きることを運命づけられていたかのような生い立ちでした。

 興味深いことに、篠田氏は子どものころから制約を受けることを快く思わなかったようです。当然のことながら、適齢期になると、結婚を前提としない生き方を選択するようになります。結婚に伴う制約をなによりも恐れたからでした。当時は女性が一人で生きていくことがとても難しかった時代でした。ところが、篠田氏は女学校を卒業するとまもなく家を出て、書道を教えることで生計を立てはじめます。幼いころから才能を発揮していた書道を支えに、キャリア人生をスタートさせたのです。

 第4話「人生というものをトシで決めたことはない」の冒頭に、「無限の世界へ出る」と題された文章があります。これが篠田氏の創作を知る上で大変、参考になります。

「私は好きなように書きたかった。自分のやりたいことをやりたかったから、字を書く決まりの紐をほどいて、無限の世界に出ることにした」と書き、続けて、「字を書いているということは紐つきなんですよ。範囲が決まっている。自由がない。自由がないのがいやだったのね。だから、墨で抽象画を描くようになった」と書いています。(『百歳の力』pp.106-107.)

 この文章を読んで、私は軽い衝撃を受けました。字を書くことに制約があるとは、これまで思ったこともなかったからです。でも、いわれてみれば、たしかに、文字にはいくつもの制約があります。どのような形状の文字であれ、文字は一つのマス目に収まるようなサイズで均質化され、それらは縦方向一列、あるいは、横方向一列に並べて配置されています。さらに、その文字の組み合わせで意味が伝達されるようになっています。

 ですから、たとえ、数語であっても文字である限り、一定のルールに従って書かなければなりません。それを篠田氏は「自由がない」と感じてしまうのです。そのような感性の鋭敏さがおそらく創作の原動力になっているのでしょう。

■書から画へ
 たとえば、篠田氏の作品に、平仮名と図を組み合わせた「katachi」という作品があります。

こちら →katachi
http://free-stock-illustration.com より。

 篠田氏の作品には珍しく、文字と非文字が組み合わされています。ここで書かれている文字はかなり形を崩して書かれていますが、一目で、平仮名だということがわかります。平仮名の痕跡がそれとなく残されているからでしょう。

 平仮名を全く知らないヒトが見てもおそらく、これらの線で構成された造形物が文字だということはわかるでしょう。個々の図形は均質化され、一つのラインに沿って並べられているからです。右側に縦方向に書かれた2行の黒い文字、そして、左側に、こちらも縦方向ですが、やや斜めに書かれた2行の赤い文字、いずれも和文で文字を書く場合の法則にしたがっています。

 一方、この作品には3つの非文字の造形物が描かれています。いずれも板のように見える造形物ですが、一ヵ所で接合されており、その上にさきほどの文字列が配されています。ちょっと引いてこの画を見たとき、何が見えてくるかと言えば、真っ先に目につくのが、この板のような造形物です。この造形物は画面に方向性と奥行きを与えるばかりか、力強い形態と色彩によって見る者を奥深い世界に引き込んでしまうからです。ここでは文字はちょっとした装飾にしか見えません。

 同じように文字と非文字を組み合わせた作品に、「fantasy」というタイトルの作品があります。

こちら →fantasy
米ニューメキシコ州、Glenn Green Galleries所蔵。

 こちらは4枚の石のような形状のものの上に、象形文字から漢字に進化する過程の字が書かれています。白っぽい石の上には黒の字、その下の黒の石の上には赤の字、そして、一番下の石には金の線画のようなものが書かれています。ここでは文字と非文字が拮抗する力で構成されていますが、ヒトの眼を引くのは黒、赤、金で彩色された文字です。ところが、これらはいわゆる文字ではなく、象形文字の進化形あるいは線画と言った方がふさわしいものです。

 文字と非文字を組み合わせた作品「katachi」と「fantasy」を見ていると、篠田氏が「書」を線芸術として捉え、やがて「画」に進んでいった理由がなんとなくわかるような気がしました。毛筆と墨という日本古来のメディアには、「書」に拘束されない幅広い表現の可能性があるのです。幼い頃から書に親しんできた篠田氏は、毛筆と墨のもたらす美術的深淵を熟知しておられたのでしょう。書から画へと、活動領域を広げられ、そして、現在に至っています。

■岐阜県立美術館
 日本で多数の篠田作品を所蔵しているのが、岐阜県立美術館です。1950年代から現在に至る篠田コレクションは約800点を超えるといわれています。まさにここで、篠田桃紅氏の世界を堪能することができるのです。

こちら →http://www.gi-co-ma.or.jp/collection/index.html

 今年も「篠田桃紅 静謐な白」展(2015年5月31日~7月16日)が開催されました。約30点が展示されたようです。

こちら →http://www.gi-co-ma.or.jp/exhibition/150603/index.html

 篠田氏が毛筆と墨によって、「無限の世界」へ飛翔したことはすでに述べました。この展覧会はどうやらその墨がもたらす余白の「白」に着目して構成されているようです。

 展覧会のタイトルは「静謐な白」です。篠田氏は墨の深さと勢いによってもたらされる「静謐な白」に心惹かれているといわれています。たしかに、墨の深さは余白の白を際立たせ、墨の勢いは余白の静謐感を高めます。そして、黒白は明度の差を表す一方、そのコントラストによって相互に引き立てあいます。一方、ヒトの世は明暗、禍福があざなえる縄のようにやってきます。

 篠田氏は『百歳の力』の中で、詩人の草野心平の言葉を引いて次のように書いています。

「富士が美しいのは、底に火があって、てっぺんに雪がある。その両極があること、それが富士を丈高くしている。ああいう美しいものはこの世にない」(p.148)

 篠田氏も同様に、富士山には両極があるからこそ、崇高で壮大なのだと書いています。富士山が崇高で壮大なのは決して日本一高い山だからではないのだというのです。このような対象の捉え方は、次のような見解につながります。

「感覚というものは、言葉にはなりにくいものです。はっきりしない。たとえば熱い、冷たい、という単純なものは伝えうるけど、それ以上のこまやかで複雑なものはたいへんに難しい。そうした感覚を表現しうるのが抽象で、言葉に置き換えられないものが抽象という芸術です」(ppp.170-171)

 篠田氏は、「無限の世界」を求めて、書から画に活動領域を移してきました。当然のことながら、描く世界も抽象の世界です。具象であれば、見ればすぐに何が描かれているのかがわかります。ですから、それだけで見るヒトの感覚が拘束されてしまうというのです。範囲が決まってしまうと、ヒトはそれ以上の感覚を持つのが難しい。ところが、何が描かれているのかわからなければ、無限のその感覚を押し広げることができる・・・、だからこそ、篠田氏は墨と毛筆で抽象の世界を表現してきたのです。

 このような見解を持ち続けていること自体、篠田氏が102歳でなお現役のクリエーターであることの明らかな証左といえましょう。さらに彼女は、抽象は無限の想像力を誘い出す一つの道筋なのだとも書いています。根っからの自由人であり、クリエーターなのです。この本を読んでから、私は慌てて篠田氏の作品を鑑賞し、その創造力に圧倒されるとともに、想像力を限りなく刺激されました。(2015/8/13 香取淳子)

シンガポール国立博物館の来歴と「SINGAPURA: 700 YEARS」

■シンガポール国立博物館

シンガポール国立博物館は、1849年にラッフルズ・インスティテューションの図書館の一部として設置されたのがその起源だといわれています。ですから、元々の名称はThe Raffles Library and Museumでした。英領シンガポールの時代に図書館に併設して博物館が作られたのです。

シンガポール国立博物館に行くと、ちょうど、「SINGAPURA: 700 YEARS」(2014年10月28日から2015年8月10日)が開催されていました。この展覧会は序章の「シンガポールの考古学」ゾーンと「古代シンガポール」から現在のシンガポールに至る5つのゾーン、合計6つのゾーンで構成されていました。シンガポールの歴史を知るまたとない機会です。

そこで、今回は趣向を変えて、「SINGAPURA: 700 YEARS」に沿ってシンガポールの歴史を辿りながら、シンガポール国立博物館の来歴をみていくことにしましょう。

■SingapuraからSingaporeへ

古代のシンガポールは土着民から「海の町」を意味するTemasekと呼ばれていたようです。それが、14世紀になると、Singapuraという呼び名が定着してきたといわれています。その頃を起点とすれば、現在は「シンガポール700年」になるのでしょう。とはいえ、近代以前のシンガポールはまだ判然としないことも多いようです。

こちら →detail_img

Singapura 700 years, パンフレットで使われている画像です。

近代シンガポールの礎が築かれたのは1819年のことでした。当時、シンガポールはまだ上の写真のような小さな漁村でしかありませんでした。ところが、シンガポールをはじめ東南アジアの海域では、ヨーロッパ諸国の植民地開拓者たちが交易の拠点を求めて、熾烈な争いを展開していました。インドと中国の間にはさまれたこの海域一帯が経済的な重要性を持っていたからです。

イギリス東インド会社福総督であったラッフルズもその一人です。彼は単なる漁村にすぎなかったシンガプーラの地政学的重要性に着目しました。しかも、そのときオランダはまだシンガポールに手を付けていませんでした。これ幸いとばかりにラッフルズは、当時、この地を支配していたジョホール王国と早々と友好条約を締結しました。そして、名称もSingapuraから英語風のSingaporeに改め、次々と都市化を推進していったのです。

「Singapura: 700 years」では、「植民地シンガポール(Colonial Singapore)」と題されたコーナーでこのあたりの事情が扱われています。

ラッフルズは一度シンガポールに立ち寄っただけで、ここが交易の需要な拠点になることを見抜いたのです。すばらしい慧眼の持ち主だったとしかいいようがありません。そして、彼はさっそく商館建設の許可をもらうために、ジョホール王国と交渉しました。その後、シンガポールはラッフルズの見立て通り、交易拠点として重要な役割を果たしました。そればかりか、マレー半島で産出されるゴムなどの天然資源の積出港としても発展していきました。

そのラッフルズがシンガポールの金融街を背景に、威風堂々と腕を組んで立っています。

こちら →images

19世紀初頭に活躍した人物なのですが、背景の超高層ビル群と妙にマッチしています。

シンガポールはいまアジアの金融センターとして驚異的な発展を遂げていますが、彼が現代社会に生きていたとしたら、おそらく積極果敢に情報経済の領域を切り開いていったことでしょう。

さて、シンガポールは1824年、ジョホール王国からイギリスの植民地として正式に割譲されました。やがて、ペナン、マラッカなどとともにイギリスの海峡植民地に組み入れられていきます。そして、1832年にはその海峡植民地の首都に定められます。

イギリスはシンガポールを無関税の自由港とし、その自由港政策を積極的に展開しました。だからでしょうか、シンガポールに大勢のヒトが流入してきました。その結果、1819年1月には150人程度だった人口がわずか5年で1万人にまで急増したといわれています。労働者、貿易商、行政管理として、中国、インド、インドネシアなどから多くの移民がシンガポールに移住してきたのです。もちろん、イギリスをはじめヨーロッパ人もいました。当時からすでに多民族国家の兆しがあったのです。

こちら →SINGAPURA-700-Years-Colonial-Singapore-5-Image-courtesy-of-National-Museum-of-Singapore-1024x682

http://www.themuse.com.sg/ より

日傘をさす着飾った女性、シルクハットを被った紳士、ヨーロッパ上流社会の衣装を身につけたヒトがいる一方で、半裸でモノを運ぶ労働者、馬を引くインド人などがいます。植民地時代の生活の一シーンが模型で再現されています。服装や労働内容などから、支配の構造が一目で理解できます。

シンガポールは英領のインドやオーストラリア、中国大陸との間で取引される貿易の中継地点でした。各地から成功を夢見てやってきた商人や労働者などによってシンガポールは賑わい、急速に発展していきました。

 

■The Raffles Library and Museum

それまで仮設のようなものであった博物館は1887年、スタンフォードロード沿いの現在の位置にThe Raffles Library and Museumとして正式に開設されました。実はこの年、ラッフルズホテルが開業しています。古典的なコロニアル様式の建物は往時のまま保存されています。

こちら →ラッフルズホテル

ホテルの開業に伴い、ラッフルズ・インスティテューションの図書館に併設されていた博物館も移転せざるをえなかったのでしょう。興味深いのは、新しく建てられた図書館であり博物館でもあるこの施設に、ラッフルズの名前が冠されていることです。場所は移動しても、名称は継承されたのです。当時の為政者たちのラッフルズに対する敬意の表れと見ることができます。

ラッフルズ(Thomas Stamford Raffles, 1781-1826)は、シンガポールの創設者であったばかりか、植物学、動物学、歴史学などの学者でもありました。

日本語版Wikipedia によると、1817年には『ジャワの歴史』を著し、ナイトの称号を授与されています。さらに、彼はジャングル調査隊を組織して現地を探索することもあったようです。世界最大級の花「ラフレシア」は、発見した調査隊の隊長であったラッフルズの名前と隊員の名前にちなんで付けられたのだそうです。

ジャワ島、マレー半島など、ラッフルズが関わった地域の珍しいモノや資料、遺物などが彼のもとに持ち込まれました。おそらく、膨大な量のモノや資料を整理し、収納するための施設が必要になったのでしょう、彼の死後23年目の1849年、仮設の形で設えられたのが、Raffles Instituteの図書館に併設された博物館でした。先ほどもいいましたが、これがシンガポールの元祖博物館です。

英語版Wikipediaには、ラッフルズの死後33年目の1859年、彼の甥のフリント(William Charles Raffles Flint )が、ラッフルズが収集した膨大な量のインドネシアの遺物や民族誌などを大英帝国博物館に寄贈したと記されています。ラッフルズは植民地開拓者として英国に寄与しただけではなく、東南アジアの膨大な歴史遺産を英国にもたらしました。大英帝国時代の成功者の一つのモデルといえるでしょう。

こうしてみると、大英博物館が収奪のコレクションだといわれる理由がわかります。ラッフルズのような植民地開拓者が、世界中からイギリスに持ち帰った歴史遺産が、大英博物館にコレクションとして収納されているのです。収奪された側にしてみれば、腹立たしいでしょうが、このようにしてイギリスに持ち帰られたからこそ、歴史的遺産は失われることなく、損なわれることなく、現在まで保存されてきたともいえます。

ちなみに今年、日本で大英博物館展が開催されています。

こちら →http://www.history100.jp/

さて、ラッフルズは探検隊を組織してジャングルを探索していました。ですから、彼が探究心に溢れ、開拓者精神の旺盛な人物だったことは容易に想像できます。ひょっとしたら、夢想家であり、冒険家だったのかもしれません。大英帝国の繁栄を支えてきた時代精神をラッフルズの中に見出すことができそうです。

シンガポールの博物館はラッフルズの膨大なコレクションを収納することから始まりました。その博物館の現在の姿がこれです。

こちら →800px-National_Museum_of_Singapore_3,_Aug_06

白く荘厳な建物が威容を誇っています。コロニアルスタイルの建物のそこかしこに権勢と栄華の残滓を見ることができます。まるで七つの海を支配した時代のイギリス人を見ているかのようです。この写真は2006年の改修後のものですが、改修に際しては、歴史ある外観についてはその雰囲気を維持することに努め、内部を大幅に改装して機能性を高めたようです。

 

■昭南島博物館(SYONAN-TO Museum)

1941年12月8日の真珠湾攻撃は、毎年ニュースで報道されるせいもあって、私たちはよく知っています。でも、同じ時期、日本軍がシンガポールを攻めていたことを知っている日本人はきわめて少ないのではないでしょうか。

1941年末にマレー半島に上陸した日本軍は、翌年2月7日から15日にかけて、インド軍、マラヤ軍、オーストラリア軍、イギリス軍等の連合軍と戦いました。さらに、出撃してきたイギリス戦艦をマレー沖で撃沈しました。日本軍はこのシンガポールの戦いに勝利したのです。当時の状況をBBCが要点を整理して記しています。

こちら →

http://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/dates/stories/february/15/newsid_3529000/3529447.stm

その結果、イギリスの植民地だったシンガポールは1942年、日本の支配下に置かれました。為政者の変更に伴い、シンガポールは「昭南島」(SYONAN-TO)と改称され、行政組織として昭南特別市が設置されました。そこでは過酷な軍政が敷かれていたといわれています。

こちら →日本軍占領下

ここでも模型を使って当時の様子が再現されています。痛ましい出来事が多々あったようです。私たちが生まれる前の出来事だと片づけてしまうわけにはいかないでしょう。戦時下とはいえ、日本軍がシンガポールで行った非人道的行為をしっかりと記憶にとどめておく必要があると思います。

シンガポールの為政者がイギリス軍から日本軍へと変更するのに伴い、博物館の名称も「The Raffles Library and Museum」から「昭南島博物館」に変更されました。

 

■国立博物館(The National Museum)

1945年8月、第2次大戦が終結して日本軍が去り、シンガポールにイギリス軍が戻ってきました。日本軍の圧政からは解放されましたが、イギリスの統治も過酷なものだったようです。シンガポールに平和は訪れませんでした。

やがて、マレー半島全体にイギリスからの独立、自治を求める動きが活発になってきました。1957年、マラヤ連邦がイギリスから独立し、1959年、シンガポールはイギリスの自治領になりました。そして、1963年、独立したマラヤ連邦、ボルネオ島のサバ・サラワク両州とともにシンガポールはマレーシア連邦の一員となりました。

ところが、マレーシアとシンガポールとの間で対立が起こります。マレーシアのアブドゥル・ラーマン首相はマレーシア人優遇政策を採ろうとし、シンガポールの人民行動党党首リー・クアンユー氏はマレーシア人も華人も平等政策をと主張したからでした。

対立は激化し、1965年8月9日、マレーシアから追放される形でシンガポールは都市国家として分離独立せざるをえなくなりました。独立を国民に伝えるテレビ演説の際、リー・クアンユー氏は思わず涙したといわれます。彼が人前で涙を見せたのはこのときと母が亡くなったときの2回だけだといわれるほど、有名なエピソードです。

こちら →リークアンユー涙

これは、シンガポールに駐在経験のあるブロガーのNaoki SUGIURA氏が撮影したもので、その時のテレビ演説のワンカットです。リー・クアンユー氏の苦渋に満ちた表情がとても印象的です。天然資源に乏しく、水源さえ他国に依存しなければならない小さな都市国家を今後、どのように運営していけばいいのか、不安でいっぱいだったのでしょう。

たしかに、シンガポールが取り組まなければならない問題は山積していました。

現在、独協大学教授の森健氏はかつて、「シンガポールの国家介入と経済開発」という論文の中で、独立直後のシンガポールの課題は次の2点に大別できるとし、①種族間・種族内対立問題、②輸出志向型工業化戦略の実現化、をあげています。(滋賀大学傳田功教授退官記念論文集、1993年11月、pp.45-61)すなわち、国内の安定と経済的な自立の確立です。

リー・クアンユー氏はテレビ演説で見せた涙を振り払うかのように、独立直後から、矢継ぎ早に建国のための政策を打ち出していきます。

国防政策としてはスイスに倣い、非同盟と武装中立を宣言しました。経済政策としては外国資本誘致による輸出志向型工業化戦略を打ち立てる一方、国外からの観光客を誘致するために観光局を設置し、外貨獲得の手段の一つとしました。一連の初期政策のおかげでシンガポールの失業率は、独立直後の14%から10年後の1975年には6.5%にまで減少したといわれています。

課題であった民族間対立についても同様、リー・クアンユー氏は卓越した政策を行っていきます。1970年代から80年代にかけては、シンガポール独自のアイデンティティを創り上げる運動を展開しました。多民族から成る国内の融合を図るにはそれが一番だと考えたからでしょう。もちろん、言語政策にも気を配っています。異なる民族間では英語、同じ民族間では中国語、マレー語、タミル語(いずれも公用語)、というように融通を効かせた対応をしています。

もちろん、博物館も例外ではありません。独立を機に博物館は隣接する建物に移転され、1969年にはThe National Museumと改名されました。そのコンセプトも明確にされ、東南アジアの歴史、芸術、民族学に焦点を当てた博物館になったのです。この博物館の名称に初めて「National」の文字が付きました。国家主導で運営していくのだという政府の姿勢の表れなのかもしれません。

 

■シンガポール国立博物館(National Museum of Singapore)

21世紀に入ってもなおシンガポールの発展はとどまるところを知りません。それはおそらくシンガポール政府が時代に適合するよう、社会体制や経済体制を整備してきたからでしょう。もちろん、IT政策しかり文化政策しかり、です。

シンガポール国立博物館ではITがうまく取り入れられています。たとえば、以下のURLをクリックすると、館内の地図が表示されます。そこで、地図に付されたオレンジ色の〇印をクリックすると、そこからのアングルで館内を見ることができます。

こちら →http://www.pbase.com/bmcmorrow/singaporemuseum&page=2

シンガポール国立博物館は2003年から2006年に至る増改築の後、旧棟と新棟からなるNational Museum of Singaporeとして、現在に至っています。この博物館の名称にSingaporeが加わったのです。Singaporeという国家名をはじめて強く打ち出したことになります。

先ほども述べましたが、そもそもこの博物館は独立後、東南アジアの歴史、芸術、民族学に焦点を当てた博物館として位置づけられました。そして、今回の改名で、シンガポールという国名が加わりました。ですから、シンガポールこそが今後発展が予測される東南アジアの文化のハブだと強く示唆しているようにも見えます。

これまで見てきたように、この地にThe Raffles Library and Museumとして正式にオープンして以来、この博物館は3度も改名しています。いずれも、社会変化に対応したネーミングの変化でした。まさに近代シンガポールの歴史をこの博物館が体現しているのです。とすれば、今回の名称変更に何を読み取ればいいのでしょうか。

シンガポール国立大学のLily Kong氏は、独立後のシンガポール政府の芸術・文化政策について整理した上で、政治的観点からの政策(1960年代~70年代)、経済的観点からの政策(1980年代)を経て、最近は社会的観点からの政策に関心が払われていると指摘しています。(”Ambitions of a Global City: Arts, Culture and Creative Economy in “Post-Crisis” Singapore”, International Journal of Cultural Policy, 18, no.3: pp.279-294.)

この観点を参考にすれば、志向されているのは、シンガポールという社会と芸術・文化の融合でしょう。ヒトが日常感覚の中で芸術・文化に親しみ、味わい、愛しむ、そのような相互作用を重視しはじめたからなのかもしれません。

そういえば、「SINGAPURA: 700 YEARS」展では多くの史実が、模型を使ったシーンで説明されていました。立体なので写真よりも見る側との相互作用性が高く、そのシーンが記憶に残りやすいことに着目されたからかもしれません。博物館で展示されているものがより親しみやすいものになっていたことは確かです。

今回、「SINGAPURA: 700 YEARS」展に沿って、国立シンガポール博物館の来歴を見てきました。そこから見えてくるのは、社会状況に応じた博物館政策であり、その実践でした。都市国家シンガポールは今後、ますますスマートになっていくような気がします。(2015/7/6 香取淳子)

シンガポール美術館で見た栗林隆氏の作品

■Singapore Art Museum at 8Q
 美術館や博物館を訪問する予定だったので、今回はMRTブラスバサー駅近くのホテルに宿泊することにしました。この地域には美術館や博物館が多く、なにかと便利だろうと思ったからです。駅を出るとすぐ目の前がシンガポール美術館です。

こちら →シンガポール美術館 (640x480)

 そこから、2分も歩かないうちに分館であるSingapore Art Museum at 8Qに着きます。ホテルに向かってクィーンズ通りを歩いていると突然、「Cool!(カッコイイ!)」という声が聞こえたので、声の方向に近づいてみると、ショーウィンドウ越しになにやらオブジェのようなものが見えます。

こちら →ショーケース木

 さらに近づくと、木の断片が入った透明のケースを組み合わせた不思議な造形物が展示されているのが見えました。おそらく木を模したものなのでしょう。道路に面したショーウィンドウが実はSingapore Art Museum at 8Qの展示スペースになっているのです。このショーウィンドウは「コ」の字型の建物の道路側部分に相当します。

こちら →
http://www.yoursingapore.com/see-do-singapore/arts/museums-galleries/8q-sam.html

 作品の脇のパネルには、「TAKASHI KURIBAYASHI, Trees, 2015, Mixed media installation」と書かれています。どうやら制作者は日本人のようです。「Trees」という作品タイトルの下には、「What is our relationship with nature?」と題された文章が続きます。ですから、これが2015年に制作されたTakashi Kuribayashi氏の作品で、問題提起型のインスタレーションだということがわかりました。

 紹介文ではさらに、「Takashi Kuribayashi is an established Japanese artist whose work focuses on the boundaries that separate human civilization from the nature world」と記されていました。「Kuribayashi氏は定評のある日本人アーティストで、人類文明と自然界を区別する境界領域に焦点を当てて制作をしている」というのです。

■栗林隆氏の「Trees」
 ホテルに着くとさっそくwifiに接続し、ネットでチェックしました。すると、Takashi Kuribayashi氏が現代美術アーティストの栗林隆氏だということがわかりました。これまでにも何度かシンガポールで作品の展示をされているようです。さらに、シンガポール特派員ブロガーの仲山今日子さんが栗林氏の展示に関する記事を書いていたのを見つけました。

 彼女は次のような説明文を寄せています。

「シンガポールの都市開発で切り倒されてしまう木を輪切りにして、ガラスのボックスに封じ込めたもの。栗林さんのテーマは、「ボーダー(境界線)」。自然とは何か?と考えると、公園の木は、「自然界に存在する」という意味では「自然」、だけれども、「人の手が加わっている」という意味では、「不自然」。

自然なのか、不自然なのか?人間の解釈によって変わる、そのあいまいな境界線を表現したそう。木にからまるシダ類も、日向と日陰に間、つまり境界線に存在している、あいまいな存在を表現しているのだとか。

初日にも関わらず、木から出た樹液が既にたまっているボックスもあり、切り離されたひとつひとつの生命体のような気が、閉じられたガラスのボックスの中に、まったく新しい小さな宇宙を創りだしているかのようです」
(http://tokuhain.arukikata.co.jp/singapore/2015/03/post_315.html より)

 おそらく展示初日に取材されたのでしょう、樹液がボックスにたまっていたといいます。それだけでこのインスタレーションの衝撃力が生々しく伝わってきます。取材を終えた時に撮られた写真なのでしょうか、作品の背後に栗林氏が写っています。

こちら →栗林 木th_IMG_6294
仲山今日子氏の撮影。図をクリックすると拡大されます。

 ショーウィンドウの外から見ていただけではよくわからなかったのですが、この写真を見ると、その素晴らしさがよくわかります。覗き込んでいたヒトが「Cool!(カッコイイ!)」と大声を出していた理由も納得できます。

 この作品に出会ったヒトは誰でもまず、視線を透明のボックスの中にあるものに投げかけるでしょう。いったい何が入っているのだろうという素朴な疑問に駆られ、思わず視線を凝らしてしまうはずです。そして、何が見えてきたかといえば、切り取られた木の断片です。たとえば、こんなふうなものです。

こちら →木の根
仲山今日子氏の撮影。図をクリックすると拡大されます。

 ボックスに入っているのは木の根です。その根に黄緑色の小さな葉が付いています。切り取られても生命力を失ったわけではなく、土に戻せばそこから再び、芽がすくすくと伸びてきそうです。さらに、切り取られた木の根が透明のボックスに入れられることによって、このモチーフがいくつもの意味をもってきます。

 つまり、木を切り取るという人為的な行為、切り取られても黄色い葉を付け、いつでも生き返ることを示唆する木の生命力、そして、切り取られた木の根が収納されているのが、自然界には存在しないヒトが作った人工のボックス・・・、といった具合に、ヒトと自然界がかかわる3つの位相が巧みに表現されているのです。それがこのインスタレーションの基本的構成要素になっています。

 木の断片が入った透明ボックスを構成単位に、まるで積み木のように組み合わされて再構成された「木」には、自然界にはない強度と洗練された美しさが感じられます。まさに現代社会が象徴されているといえるでしょう。

 文明の名の下にヒトが行ってきたことといえば、木を伐り、その断片を一つずつガラスケースに入れて強度を高め、木に見えるようにつなぎあわせているにすぎないのかもしれません。自然を処理し、加工し、ヒトに都合よく保存し、再構成してみても、それは決して元の自然ではありません。

 栗林氏は鋭い文明批判をこのように含蓄のあるインスタレーションで表現しているのです。しかも、この作品はとても美しく、ヒトを引き付ける魅力があります。白黒で撮ると、さらに洗練されたイメージになります。

こちら →
http://www.oninstagram.com/photo/trees-by-takashi-kuribayashi-945574558285475865_13379139
(http://www.oninstagram.com/takashikuribayashi より)

■境界線に想いをこめて
 シンガポールでこんなに素晴らしい日本人アーティストの作品に出会えるとは思いもしませんでした。この作品を制作した栗林隆氏に興味を覚えました。調べてみると、たしかに「境界線」は彼にとって永遠のテーマのようです。

こちら →http://www.maujin.com/2012/archive/kuribayashi_takashi/

 どうやらドイツ留学が現在の栗林氏の核を作り上げているようです。境界線を意識して生活せざるをえなかったドイツに留学し、アートとは何か、生きるとは何か、表現するとは何か・・・、さまざまに考えを巡らせたのでしょう。

 境界線について彼は以下のような考えを示しています。

「境界線は人間同士や自然の中など、さまざまなところにあり、最もエネルギーに満ちた場所だと思っています。例えば、国境もそう。ヨーロッパはEUとしてボーダレスな世界を目指していますが、境界を取り除くほどに矛盾点が際立っているように見えるのが興味深いです」(前掲HPより)

 栗林氏が「境界線は(中略)最もエネルギーに満ちた場所だと思っています」と述べているところに私はとても興味を覚えました。

 たしかに、紛争は国境周辺で発生しやすく、異なる人種が交じり合えば緊張がみなぎりやすいのが通例です。モノやヒトの交流が日常的に行われていたとしても、いざとなれば、境界線を境に双方が挑みあうからです。かつてのベルリンのように壁を作ったとしても電波は洩れてきますし、ヒトは生命の危険に晒されても、より豊かな側に移動しようとします。

 境界線がある限り、その両側に差異が生み出され、その差異が原因となって両側が緊張し、エネルギーが醸成され、蓄積されていきます。ですから、栗林氏のいうように「もっともエネルギーに満ちた場所」になるのでしょう。境界線はまた異文化との出会いの場でもあります。

 栗林氏は「節目となった展示会」として、「トーキョーワンダーサイト2003」と「シンガポールビエンナーレ2006」をあげています。展示作品は「Emperors World 2003」と「Aquarium」で、いずれも境界線に関連するモチーフです。

こちら →ootb_002
「Emperors World 2003」
(http://www.tokyo-ws.org/archive/images/ootb_002.jpg より)

こちら →aquarium
「Aquarium」(2006)
(http://www.takashikuribayashi.com/#!/zoom/c40q/imageucu より)
 
 境界線というテーマを作品化する際、彼はペンギンや水槽をモチーフにしています。境界線を象徴する生き物として、あるいは場所としてそれらを想定しているからでしょう。

「ペンギンという生き物は、アザラシと同様に水中と陸上といった境界線を行き来する生き物です。そして、ペンギンは空を飛べないのに水中では飛んでいるように勢いよく泳ぐ。そういう中途半端な生き物なのに、体の模様は白と黒でハッキリしている。だから、僕にとっては非常に不思議な存在であり、境界線を象徴する生き物のように見えるんです」
(前掲HPより)

■アートの力
 シンガポール美術館の本館では「After Utopia」(1May-18Oct 2015)などいくつかの展覧会が開催されています。

こちら →http://www.singaporeartmuseum.sg/exhibitions/current.html

 そちらも見たのですが、栗林氏の作品を見た後ではどの展示作品にも物足りなさを覚えてしまいました。作品の形態はさまざまでしたが、何を伝えたいのか、作品として引き付けるものがあるか、見て美しいか、等々の観点から見ると、どれも栗林氏の作品にははるかに及ばないのです。

 さて、栗林氏は2006年のシンガポールビエンナーレの後、シンガポールについての感想を聞かれ、こんなふうに述べています。

「規制の厳しい国だって言われてるよね。政治や歴史、民俗を背景にしたいろんなタブーが多い国に、35か国から大勢のヨソモノがやって来て、街なかでアートをやった。どんな社会にもタブーはあって、内側の人はそれを暗黙のうちに、見ないように触らないようにして暮らしている。そうして保たれている街や社会という存在そのものに対して、ズバリと提示されると、人は目を開き、考えずにはいられなくなる。それがアートの力だと思ってるんです。ある意味でメディアや権力や政治以上に危険なものかもしれないね」
http://rootculture.jp/2006/11/_interview.html より)

 国が行う規制もなんのその、アートの力に対する揺るぎない信念がこの文言の背後に垣間見えます。ドイツをはじめさまざまな国で表現活動を展開し、ヒトの反応を読み込んできたからこそ到達しえた見解なのでしょう。今回のシンガポール訪問で、日本の現代美術アーティストが国境という境界線をアートの力でやすやすと乗り越え、地元のヒトを虜にしていく力量に触れることができました。喝采を送りたい気分です。栗林氏は現在、インドネシアを拠点に活動しておられるとのこと、「境界線」というモチーフの宝庫を踏み台に、さらに素晴らしい作品を!と期待しています。(2015/6/29 香取淳子)

ピナコテーク・ド・パリ、シンガポールにオープン:La Pinacothèque de Paris ouvre une antenne à Singapour

■地元のヒトが知らない美術館
 シンガポールに新しく美術館が開設されたと聞いて、6月18日、現地を訪問しました。ネットではこの美術館はフォートカニングセンターを改装して造られたと書かれていました。たぶん、フォートカニング公園の中にあるのでしょう。ところが、ホテルのスタッフに聞いても誰も知りません。本当にオープンしたのかどうか不安になってきました。

 オーチャード通りを歩いていると、たまたま、歩道橋の傍に美術館が5月30日にオープンしたことを示す垂れ幕がかかっているのが目に入りました。

こちら →歩道橋から (480x640)

 反対側にも図案の異なる垂れ幕がかかっていました。これだけ人通りの多いところに掛けられているのですから、オープンしたことは確実でしょう。これを見て、ひとまず、安心しました。とはいえ、地図を見ても、どのようにして行けばいいのかわかりません。フォートカニングが広すぎるのです。ただ、シンガポール国立博物館やプラナカン博物館に近いことがわかりましたから、そこのスタッフに聞けば、きっと行き方を教えてもらえるでしょう。

 翌日、プラナカン博物館を見学した後、スタッフに「シンガポールに新しくできた美術館の場所を教えてほしい」というと、彼はきょとんとし、ナショナル・ギャラリーならまだオープンしていないといいます。それではなく、フォートカニングに新しい美術館が5月にオープンしたはずだというと、ようやく、「ああ、フランスの美術館ね」といい、行き方を教えてくれました。私はネットで見て、シンガポールに新しく美術館ができたという認識をしていたのですが、シンガポール人の彼にはどうやら新しくできたのはフランスの美術館であって、シンガポールの美術館ではないという認識だったようです。

 とりあえず、教えられた道を行くと、途中で道が二つに分岐し、どちらかを選ばないといけません。そこで、通りかかった地元のヒトに聞くと、そんな美術館はこの辺にないといいます。そして、国立博物館に行く道を教えようとしたので、地図を見せて、フォートカニング公園に行く道を教えてもらうことにしました。

■フォートカニングにひっそりと佇む美術館
 傾斜のある道をしばらく歩いていくと、木々の遥か向こうに建物が見えてきました。その手前に緑の空間が広く開けています。白いテントのようなボックスがいくつも設えられており、イベントの準備が始まっているようにも見えますが、人影はありません。建物に近づいていくと、オーチャード通りで見たのと同じ図案の垂れ幕がかかっているのが見えました。

こちら →裏門から (640x480)

 ようやく美術館にたどり着いたと思ったのですが、階段を上って目の前のドアを開けようとしても、いっこうに開きません。見渡してみると、周囲にヒト一人いないことに気づきました。どうやらこれは美術館の裏側のようです。表に回ってみると、案の定、美術館のエントランスらしく、人影もありました。

こちら →正門入口 (640x480)

 美術館は地下1階、地上2階の建物でした。地下1階にはショップがあり、地上1階に≪Heritage Gallery≫と≪The Collections Gallery≫、地上2階に≪The Features Gallery≫があります。性質の異なる3つのギャラリーで構成されていました。

こちら →http://www.pinacotheque.com.sg/

 平日だったからか、それともオープンしたばかりだったからか、来館者はあまりいません。探し当てるのに苦労しただけに、なんとなく拍子抜けした気分になりました。

 帰りは正面からスロープを下って行くことにしました。ここは第2次大戦時、イギリス軍の施設として使われていたといいます。そのことを思い起こさせるように、カノン砲など当時の遺物が道の脇にいくつか展示されていました。

こちら →カノン (640x480)

 美術館を出て、緑のスロープを下って行くと、長い階段に辿り着きます。そこに佇むと、遠くに特徴のあるビルが見えます。マリーナベイサンズです。この美術館がどれほど高いところに位置しているかがわかるでしょう。

こちら →フォートカンニングから (640x480)

 見晴らしがとてもよく、シンガポールの街を一望できますし、海までも見通すことができます。第2次世界大戦時にはイギリスの軍事施設であったことを改めて思い起こさせられます。地上からは攻め込まれにくく、敵の様子を監視できる天然の要塞でした。

 これだけの地形ですから、この地域を支配しようとする者は誰しも、ここを拠点にしようとしたでしょう。かつては「禁じられた丘」と呼ばれ、1300年代にはマレーの君主が暮らしていたといわれています。園内にはその痕跡を示す壁画が残されていました。

こちら →遺跡 (640x480)

 ピナコテーク・ド・パリがシンガポールへの進出先として選んだ地は、これまでシンガポールの要塞として機能してきた場所でした。

■La Pinacothèque de Parisの分館
 ピナコテーク・ド・パリは2007年6月にマドレーヌ広場に開設された美術館です。歴史が浅いにもかかわらず、分野を問わないさまざまな企画展で多くの美術鑑賞者の関心を集めているといわれています。

こちら →http://www.pinacotheque.com/

 そのピナコテーク・ド・パリがアジアにはじめて分館を開設したのがシンガポールでした。シンガポールが今後、現代美術のアジアのハブになると見込んでのことでしょう。

こちら →http://www.pinacotheque.com.sg/

 たしかにシンガポール政府は2000年以降、着々とそのための布石を打ってきました。美術・芸術関連の予算を拡大して定期的に国際イベントを開催するだけではなく、美術品取引のための優遇措置も行っています。美術、芸術に関するヒト、モノ、情報、資本が世界中から集まってくるような環境整備を行ってきているのです。

 はたして思惑通りにシンガポールは美術、芸術分野でアジアのハブになれるのでしょうか。

 今回、シンガポールの美術館や博物館をいくつか訪問した限りでは、むしろ東南アジアの美術、芸術に見るべきものがあるように思いました。東京で見る日本の美術、芸術とはまた違った文化の味わいがあり、引き付けられたのです。ですから、シンガポールはアジアの美術、芸術分野のハブというよりは、当面、東南アジアのハブとして機能していくようになるでしょう。

 そのようなスタンスこそがシンガポールにとってもっとも可能性の高い将来像なのかもしれません。はじめてだったということもあるでしょうが、私もピナコテーク・ド・パリ、シンガポールを訪問し、もっとも見たいと思ったのが、西洋のコレクションではなく、地元の歴史的遺産のコレクションである≪Heritage Gallery≫でした。

■多様性の源泉
 実際、≪Heritage Gallery≫にはこれまで見たこともないような遺物が多数、展示されていました。シンガポールが多様な文化、文明の合流点であることがわかります。当然のことながら、展示されていた歴史遺産にはその年代ごとの多様な痕跡が残されていました。新石器時代の石像、ヒンドゥ仏教時代、スーフィーイスラム教時代、そして、中国のプラナカンの時代の遺物といった具合です。

こちら →http://www.pinacotheque.com.sg/heritagegallery.html
ページの下の方にスクロールすると、展示品がいくつか紹介されています。

 どれも初めて見るものばかりで興味深かったのですが、私が引き付けられたのはプラナカンの遺物です。プラナカンとは欧米に植民地化されていた東南アジア、特にマレーシアに15世紀以降、何世紀にもわたって移住してきた中国系移民を指すようです。

 交易が盛んになってくると、港を中心に中国人コミュニティができ、彼らがもたらした中国文化がマレー文化と融合していきます。とくに注目すべきは宝飾品です。プラナカンによってマレーシアにもたらされました。

こちら →プラナカン遺物
ショーケースのガラスに「EXIT」という緑色の文字が反射して逆さまに映ってしまっていますが、これは無視してください。

 展示されていたプラナカンの宝飾品にはいずれもきわめて手の込んだ細工が施されており、美しく優雅な趣があって、驚かされました。中国の洗練された王朝文化の片鱗が富裕なプラナカンを通して、このような形で残されていたのです。

≪Heritage Gallery≫では、新石器時代からプラナカン時代に至る地元の歴史遺産が展示されていました。それぞれの遺物にはそれぞれの時代の価値観、美意識が如実に反映されています。さまざまな展示品を見ていると、改めて、シンガポールが多様な文化の堆積の下に、都市国家を作り上げてきたことを知らされた気がします。

 シンガポールは多様な文化を受け継ぎ、今日の繁栄を手にしました。しかも、現在、大きな発展が予測されている東南アジアの只中に位置しています。今後、どのような形で周辺国と調和しながら、東南アジアの美術、芸術のハブとして機能していくのか、見守っていきたいと思います。(2015/6/26 香取淳子)

シンガポールで見たTran Thi Ngoc Hueさんの個展

■ION Art galleryで開催された個展“Rhythm of The Sea”
 シンガポールのショッピングモールION Orchardの4FにION Art galleryがあります。55-56Fの展望台に行くエレベーターに隣接していますので、すぐにわかります。

こちら →ION - Art Gallery

 展望台からの帰りに立ち寄ると、Tran Thi Ngoc Hueさんの個展が開催されていました。会場に入った途端に、鮮やかで奔放な色彩が目に飛び込んできました。個展のタイトルは“Rhythm of The Sea”です。開催期間は6月18日~21日、開催時間は朝11時から夜9時まで、それまでグループ展の多かった彼女にとっては初めての個展です。

 Invitation cardに使われていたのが、“Tide”(80cm×80cm, Acrylic on canvas, 2014)です。この作品はカタログの作品紹介ページのトップにも使われていました。きっとお気に入りなのでしょう。緑を基調に構成された色彩の組み合わせと大胆なストロークが弾むような潮の流れを感じさせます。

こちら →tide

 展示されていたのは2014年から2015年にかけて制作された18点で、すべて海をテーマにした作品でした。Tran Thi Ngoc Hueさんはフーコック(Phu Quoc)島に遊びに行って海を眺め、海と戯れ、海に気持ちを和ませられているうちに、これら一連の作品の着想を得たそうです。

 フーコック島はタイランド湾に位置するベトナム最大の島で、近年、リゾート地として開発が進んでいるようです。完全に商業化されているわけではないので、おそらくまだ手つかずの要素がたくさんあるのでしょう。

こちら →フーコック島

 そこに赴いたTran Thi Ngoc Hueさんはさまざまな海の表情を見て、強く創作意欲を刺激されたのでしょう。海が日々、表情を変えながら奏でるリズムを、荒々しさや快活さ、華やかさといったトーンで抽象的に描き出しています。

 たとえば、“Dressing up for ocean night”(80cm×80cm, Acrylic on canvas, 2014)という作品があります。

こちら →dress-up-for-ocean-night

 海の律動的なうねりを見ていると、まるで夜会のためにドレスアップしているように見えたのでしょう。寄せては引き返す波の動きを単なる波動運動と捉えるのではなく、このように擬人化して捉えているところにTran Thi Ngoc Hueさんの感性の幅が感じられます。

 私が面白いと思ったのは、“Undertow1”(100cm×100cm, Acrylic on canvas, 2015)です。これまでの作品と違って、色調が暗く、モノトーンの色彩の中に白が効いています。形状はさらに複雑になり流動的で、細部がきめ細かく表現されていて引き込まれます。

こちら →undertow

 実際の海には、どこまでも広がる青い空のような輝かしさだけではなく、ヒトもモノも、時には魂さえも呑み込んでしまう暗さや深さがあるはずです。そのような海の持つネガティブな側面を含めた深淵がこの作品では丁寧に描かれているのです。描き方にもそれまでとは異なる複層性が見られ、惹きつけられました。抽象的な表現の中に海のリアリティが描写されているのが素晴らしいと思いました。

■シンガポールはアジアの現代美術のハブ?
 ベトナム人のTran Thi Ngoc Hueさんは画家なのですが、実は、コレクターでもあるようです。彼女は2013年にシンガポールでOrient Paintingという会社を設立しました。世界に向けてベトナムやアジアの現代美術を紹介していくためだといいます。

 たしかに、シンガポールはその目的にふさわしい国かもしれません。すでに2000年からシンガポールは巨額の予算を投じて文化政策を重視した政策を展開し、芸術文化のアジアのハブになろうとしてきました。

 吉本光宏氏は『ニッセイ基礎研REPORT』(2001年1月)の中で、シンガポールでは情報省から独立した国立芸術評議会(National Art Council)と国立文化財局(National Heritage Board)が中心になって、「シンガポールを情報と芸術のグローバル都市に発展させる」という目的に沿った政策を展開していると指摘しています。

こちら →http://www.nli-research.co.jp/report/report/2000/01/li0101b.pdf

 その後の展開を見ると、実際、シンガポール・ビエンナーレ、アート・ステージ・シンガポールなど国際的イベントが定期的に開催されており、美術のハブとしての存在感を高めています。さらに、2010年には最高水準の警備態勢を誇る美術品などの保管施設をチャンギ空港近くにオープンさせています。当時、イギリスのクリスティーズ・インターナショナル・アジア部門の社長フランソワ・クリエル氏は「これをきっかけにシンガポールが香港や北京に匹敵するアジアの美術拠点になる」と予想していたほどです(Bloomberg:2010/05/18)。

 シンガポールではこのような美術品取引に対する優遇措置だけではなく、独立50周年を迎えた今年、二つの美術館が誕生します。すでに5月30日、シンガポール・ピナコテーク・ド・パリが開設されておりますし、10月にはナショナル・ギャラリー・シンガポールがオープンします。芸術、美術に関するモノ、情報、ヒトがシンガポールに集まってくる仕掛けが完成しつつあるのです。

 シンガポールに拠点を持てば、当然のことながら、世界に認知される確率は高くなるでしょう。そういう点で、Tran Thi Ngoc Hueさんのシンガポール進出は時宜を得たものだといえるかもしれません。アーティストとして自ら輝き、ベトナムやアジアの画家たちを世界に売り出していこうとする彼女の目的に沿った環境がいま、急ピッチで整備されつつあるのです。一連のシンガポールの文化政策を見ていくと、彼女の後に続くヒトは今後、増えていきそうな気がします。(2015/6/22 香取淳子)

この記事については、英語版を添付します。

English version

Ms. Tran Thi Ngoc Hue’s exhibition which I saw in Singapore

■ Solo exhibition “Rhythm of The Sea” was held at ION Art gallery.

ION Art gallery is in the fourth floor of the ION MALL, Singapore. It is next to the elevator to the observatory (55-56F), so you can easily find it.

Here →ION - Art Gallery

On the way back from the observatory, I came into ION Art gallery. Tran Thi Ngoc Hue’s solo exhibition had been opened there. As soon as I entered the hall, bright and spirited colors have jumped to the eye. Solo exhibition’s title was “Rhythm of The Sea”. For her it was the first solo exhibition. It was held from 11 am to 9 pm, during June 18- 21.

The Work “Tide” (80cm × 80cm, Acrylic on canvas, 2014) was used in the invitation card and also was used at the first page of the Works catalog. I’m sure it’s her favorite work. In this work I could feel the flow of the bouncy tide, because this picture was expressed by a bold stroke and a configuration of the base color green.

Here →tide

In the hall 18 works produced from 2014 through 2015 were exhibited.
All were the sea themed works. Ms. Tran Thi Ngoc Hue said that she went to Phu Quoc and got the inspiration from the sea. All the works were produced based on that inspiration.

Phu Quoc Island is Vietnam’s largest island located in the Gulf of Thailand. In recent years, it has been developed as a resort. Since not necessarily have been completely commercialized, probably will still have a lot of elements of the untouched.

Here →フーコック島

Tran Thi Ngoc Hue went to Phu Quoc Island and saw various expressions of the sea. These might have stimulated her creative motivation strongly. The rhythms of the tides momently have changed the look of the sea. I thought she was very interested in those rhythms. Based on the rhythm of the tides, she abstractly painted 18 works. Those are painted in harsh touch, in cheerful touch, in pomp touch.

For example, “Dressing up for ocean night” (80cm × 80cm, Acrylic on canvas, 2014)

Here →dress-up-for-ocean-night

When looking at the rhythmic swell of the sea, she may have seemed it to have dressed up for the evening. Ms. Tran Thi Ngoc Hue regarded the rhythmic swell of the sea not as mere wave but as the dressed up woman. She abstractly painted this work by technique of anthropomorphic. So I felt her sensibility wonderful.

The work which I felt the most interesting is “Undertow1” (100cm × 100cm, Acrylic on canvas, 2015). Unlike another works, color is dark. But white has been effectively used in the monotone canvas. The shape of the sea in this work is more mysterious and more complicated, than others. In addition, details were drawn in fine-grained representation, so I was attracted.

Here →undertow

If we look at the actual sea, perhaps, we might find diverse aspects of the sea. For example, not only the shininess of the sea such as a blue sky spread, but also the darkness and depth of the sea which swallows humans and things, sometimes even souls.
In this painting such a negative aspects were painted carefully. As a result, multi-layer properties that are different from other works could be expressed. In that point I was attracted.

■Is Singapore a Asian contemporary art hub?

Ms. Tran Thi Ngoc Hue is Vietnamese painter and a collector. She founded a company called “Orient Painting” in Singapore in 2013. She said the purpose was to introduce the contemporary art of Vietnam and Asia to the world.

Indeed, Singapore might be suitable country for that purpose. Already Singapore developed the policy with an emphasis on cultural policy to invest a huge amount of budget from 2000, they have been trying to be the Asian hub of arts and culture.

Here →http://www.nli-research.co.jp/report/report/2000/01/li0101b.pdf

In fact, international events, such as Singapore Biennale and Art Stage Singapore, have been held on a regular basis. Singapore has increased the presence of as an art hub.
In addition, Singapore opened the storage facilities with the highest level security for arts, near Changi Airport in 2010.
At the time, President Francois Criel of Christie’s International Asia department said that in the wake of this Singapore would become to be an Asian art hub comparable to Hong Kong and Beijing. (Bloomberg: 2010/05 / 18).

In Singapore, since 2000 the Arts promotion measures have been promoted. Especially preferential policies and international competitions for the Arts have been actively done. As a result, artists, arts goods, and arts information have been gathered in Singapore. Moreover, this year of independence 50th anniversary, two museums are opened.
Already Pinakothek de Paris Singapore was opened in May 30th. The National Gallery Singapore will open in October. This has also enhanced the power of Singapore in arts area.
In the future, I think artists, art goods and art information will accumulate more and more in Singapore. In this way Singapore is preparing for the requirements to become Asia’s art hub.

If you have some arts offices in Singapore, of course, probability of being recognized by the world will be high. From a point of this view, I think Ms. Tran Thi Ngoc Hue’s Singapore foray was very timely. Her purpose is to grow as an artist and to bring Vietnamese and Asian artists on the world market. Now in Singapore, environment for the artists are being developed. So, Singapore is probably the most appropriate city to her purpose. As I look at the series of Singapore’s cultural policy, the people who followed after her, I feel likely to continue to increase. (2015/6/22 Atsuko KATORI)

シャガール展:初期作品にみるキュビスムの痕跡とファンタジー

■没後30年シャガール展
 改修された姫路城を見に行くつもりが、姫路駅を降りた途端に気が変わりました。姫路市立美術館に行く方が先だと思ったのです。ちょうどそのとき、シャガール展が開催されていました。姫路城はいつでも見ることができますが、シャガール展(4月4日~5月31日)は開催期間が限定されています。駅を出て、青空に映える姫路城の天守閣を見たとき、迷うことなく美術館に向かう気持ちになっていました。

 姫路市立美術館は姫路城の東隣にあります。明治時代の赤レンガ造りの建物で、元は陸軍第10師団の兵器庫・被服庫でした。道路から美術館を眺めると、その背後に姫路城が見え、江戸時代から明治時代を経て現在に至る長い歴史を感じさせられます。周辺は深い緑で覆われており、赤レンガの西洋建築と白く輝いて見える白鷺城(姫路城)が見事な調和を見せていました。

こちら →zenkei

 この展覧会はシャガール(Marc Chagall, 1887-1985年)の没後30年を記念して開催されたもので、展示作品は油彩13点と版画集4編です。いずれも宇都宮美術館など日本の美術館や文化財団から出品された作品なのだそうです。

 シャガール展のチケットには油彩の「青い恋人たち」(1948 -53年)、そして、カタログには版画の「クロエ」(版画本『ダフニスとクロエ』1957-61年)が使われていました。どちらもシャガールの絵としてなじみ深く、この展覧会のサブタイトル「愛と色彩のファンタジー」にもふさわしい作品です。

 「I and the Village」、「七本指の自画像」など、著名な作品で展示されていないものがいくつもありましたが、それはおそらくこの展覧会が日本の諸機関が所蔵している作品を中心に企画されたからでしょう。とはいえ、国内だけでこれだけの作品を展示できたのですから、日本にもシャガールファンが多いことがわかります。観客の不充足感を補うかのように、シャガールの影響を受けた日本人画家の作品も展示されていました。

 会場を一瞥し、この展覧会は初期作品の展示に面白みがあると思いました。シャガールと聞いてすぐにイメージする画風とは異なった作品が目についたのですが、それがいずれも初期の作品だったからです。とくにパリに行く前の作品は画集等でも見たことがなく、貴重だと思います。

 初期作品を辿ってみれば、シャガールの試行錯誤のプロセスを見ることができるかもしれませんし、シャガールの心に潜む原風景を見ることができるかもしれません。ここには展示されていない作品も取り上げながら、シャガールの創作の源泉を探ってみることにしましょう。

■「村の祭り」(1908年制作)
 会場で初期作品として展示されていたのが、「村の祭り」(1908年)、「村のパン屋」(1910年)、「パイプを持つ男」(1910年)、「ランプのある静物」(1910-11年)、「花束」(1911年)、「静物」(1911-12年)でした。いずれも油彩です。暗い色調だったせいか、これらの作品にはシャガール特有のファンタジックな軽やかさがなく、どちらかといえば、泥臭く稚拙な印象を受けました。

 たとえば、「村の祭り」という作品があります。1908年に制作された油彩です。

こちら →村の祭り
カタログより

 ご覧のように、「村の祭り」で描かれたモチーフは奇妙なものばかりです。絵を見てまず目を向けてしまうのが、白いスカートを穿いた中央の人物です。暗い色調の中で一人だけ明るい服を着ているので必然的に観客の目が引き付けられます。この人物はなぜか身を屈めています。よく見ると、その後ろの人物はさらに深く身体を曲げています。そして、それぞれの人物の後には子どもが従っています。これは一体、何なのだろうと思って、その前方を見やると、白い棺のようなものを担いだ人物が二人描かれています。どうやら葬列のようです。

 絵の手前にはピエロのような服を着た人物がランプを持ったまま倒れています。死者を模しているのでしょうか、不思議な姿勢です。前景に描かれたこのモチーフが中景で描かれた葬列と関係があるとすれば、ひょっとしたら、これもまた死者を弔う一種の儀式なのかもしれません。そして、このピエロというモチーフは後景のサーカス小屋とリンクします。

 後景の中央にはサーカス小屋のようなものが描かれています。なぜ、こんなところにあるのか違和感を覚えてしまうのですが、その右側に傘をさしたヒトが描かれています。サーカス小屋に向かう観客なのでしょうか。左側には鉄棒の上で逆さまになっているヒトが描かれています。サーカスの演目を練習している座員なのでしょうか。後景で描かれているのはサーカスという祝祭の空間です。

 「村の祭り」について、中景を中心に前景、後景と順に読み解いていくと、死、道化、祝祭というキーワードを思い浮かべることができます。これでようやく絵のタイトルを理解することができました。「村の祭り」というタイトルにもかかわらず、祭りの喧噪さはどこにも描かれておらず、不思議に思っていたのです。

 ところが、この絵が中景(死)を中心に前景(道化)、後景(祝祭)で構成された作品だと考えれば、とてもよく理解できます。シャガールは一枚の絵の中に死にまつわる異次元の空間を持ち込んでいたのです。その企みは成功し、観客を深い想念の世界に引き込んで離しません。ひとたび目にすると、永遠に解くことのできない死の深淵について考えさせられてしまうのです。泥臭く、稚拙に見える絵の背後にヒトの情念の集積を感じざるをえないからでしょう。

 カタログではこの作品について、以下のように記されていました。

 「身の周りの世界で起きた出来事を暮らし色調で描き出すのは初期のシャガール作品に見られる特徴である。1908年に描かれた≪村の祭り≫はサンクトペテルブルグ時代(1907-1910)を代表する作品の一つである。シャガールは故郷で死や葬儀を目の当たりにしている。祭りの頃、ユダヤ教の教会に向かい死者のために輝いているローソクとともに祈りを捧げる。このようなシャガールの思い出が物語性の強い場面となって描き出されている」(『没後30年シャガール展』、p132)

 たしかに物語性の強い絵です。描かれたモチーフを踏み越えて観客は死をめぐる弔いの慣習を推し量ってしまうのです。そういえば、シャガールは1887年にロシア・ヴィテブスクで生まれたユダヤ人でした。とすれば、この絵の舞台は故郷ヴィテブスクで、モチーフはそこで目にした一般的な情景なのでしょうか。それとも、シャガールがその鋭敏な神経で捉えた独自の風景なのでしょうか。いずれにしても、不思議な世界です。

 「村のパン屋」(1910年)、「ランプのある静物」(1910-11年)も同様、モチーフは日常的なものなのですが、これまで見たこともないような形状や色彩で描かれており、因習と伝統の中に組み込まれたヒトの生活が偲ばれます。そして、それこそが画家シャガールのアイデンティティの基盤であり、創作の源泉なのかもしれません。

■静物(1911-12年制作)
 初期の作品の中で印象深かったのが、「静物」(1911-12年)でした。モチーフの捉え方に独特の味わいがあり、心に残ったのです。しかも、この作品は「ヴィテブスク独特の雰囲気」をいささかも感じさせることはありません。ですから、ヴィテブスクを知らない部外者の私でもシャガールの心象風景を理解できるような気がしたのです。

こちら →716px-Marc_Chagall,_1912,静物,_oil_on_canvas,_private_collection
カタログより

 よく見ていくと、この絵はどこかで見たことがあるような気がしてきました。どういうわけか、既視感があるのです。だからこそ、一目で引き付けられ、その場をすぐには立ち去り難い思いにさせられたのでしょうが、これといって思い当たる作品があるわけではありません。

 モチーフはバラバラに置かれ、ランプや水差し、テーブルクロスは線や三角で分割されて描かれています。果物やビン、コップなども線や楕円、円で輪郭がはっきりと描かれそれぞれの存在を個別に主張しているように描かれています。赤や緑、青などの原色とハイライトの白がきわだっているからでしょうか、描かれているモチーフは静物なのですが、不思議な情感が漂っているのです。

 カタログでは以下のように解説されています。

 「テーブルクロス、ランプ、瓶、果物、コップやお椀は、丸、三角、四角などの幾何学的形状で構成されており、フランスで出会ったキュビスムを取り込もうとしていることが確認できる」(前掲、p132)

 この作品にはキュビスムの影響があるというのです。そこで、取りあえず、Wikipediaを見てみると、シャガールは1910年にパリに行き、5年間、滞在していたようです。ですから、ちょうどこの作品を描いていたころ、彼はパリにいたことになります。そして、この時期、パリでは印象派、キュビスム、フォービズムなど、新しい芸術運動がさかんでした。

 再び、この作品を見てみると、たしかに、この作品にはキュビスムの影響が見受けられるように思えます。ですが、ビンにしても、ランプにしても、カップにしても具象性が強く、いわゆるキュビスム技法は感じられません。辛うじてその片鱗といえるのは敷かれているテーブルクロスぐらいでしょうか。

 この絵を見て即座にキュビスムだと判断しかねるのはもう一つ、その色彩です。キュビスムではモチーフを分割して表現する一方、色彩はモノトーンのグラデーションに落とし込んで表現されます。ところが、この作品では赤、青、緑などの原色に白のハイライトが配されており、それらがモチーフの形態を鮮明にしています。ここにキュビスムに収まりきれないシャガールの世界が感じられます。

 比較のために、キュビスムの創始者といわれるピカソの作品を見てみることにしましょう。シャガールの「静物」とほぼ同時期に制作されたピカソの作品に「マンドリンを持つ少女」(ピカソ、1910年制作)があります。

こちら →
http://www.moma.org/collection_images/resized/533/w500h420/CRI_151533.jpg

 モチーフは断片化され、辛うじて顔や髪、手やマンドリンに具象性が残っています。色彩はモノトーンのグラデーションです。

 ところが、1911年に制作された「ギターを持つ男」(ピカソ)ではモチーフはさらに断片化され、わずかに手やギター、食べ物を入れたグラスのようなものに具象性が残されているぐらいです。モノトーンのグラデーションで着彩されており、いかにもキュビスムの作品です。

こちら →http://f.tqn.com/y/arthistory/1/S/l/z/picparispma_2010_10.jpg

 やはりキュビスムの創始者といわれるブラックの同時期の作品に、ピカソの作品と同名の「ギターを持つ男」(ブラック、1911年制作)があります。

こちら →
http://www.moma.org/wp/moma_learning/wp-content/uploads/2012/07/Georges-Braque.-Man-with-a-Guitar-274×395.jpg

 この作品ではモチーフは極度に断片化され、具象性の痕跡を見つけるのがむずかしいほどです。色彩はやはりモノトーンのグラデーションですが、円や楕円、三角や矩形を組み合わせて表現されたモチーフには立体感があります。

 このように、シャガールの「静物」と同時期に制作されたピカソやブラックの作品を見てみると、シャガールはキュビスムの影響を受けたといわれながらも、具象性を捨てきれなかったことがわかります。とはいえ、明らかにキュビスムの影響を受けていることがわかる作品もあります。

■キュビスムの影響?
 これまで見てきたように、「静物」(1911-12年)にキュビスムの影響が感じられなくはないのですが、それほど強いものではありませんでした。ところが、「アダムとイブ」(1912年制作、セントルイス美術館所蔵)にはその影響がきわめて強く感じられます。

こちら →http://www.wikiart.org/en/marc-chagall/adam-and-eve-1912

 これを見ると、顔らしきもの、足らしきものの痕跡はあるのですが、主要モチーフは完全に断片化されています。三角形、矩形に分割して描かれており、抽象化されています。まさにキュビスムの技法で描かれています。

 ところが、上部に描かれている木やリンゴの形状を見ると、具象的で断片化されておらず、キュビスムとはいえません。しかも、全体を見ると、使われている色彩が黄色、白、緑に所々に赤を配した強い色調なのです。アールデコといってもいいほど洒落た色合いです。

 モチーフを複数の視点で捉え、それに対応して断片化して描くという点で、シャガールはキュビスムの影響を受けているといえますが、色彩面ではこだわりを捨てきれないようです。

 キュビスムの影響をもっとも受けているといわれるのが、「詩人、3時半」(1911年制作、フィラデルフィア美術館所蔵)です。

こちら →
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/6/64/Marc_Chagall,_1911,_Trois_heures_et_demie_(Le_po%C3%A8te),_Half-Past_Three_(The_Poet),_oil_on_canvas,_195.9_x_144.8_cm,_Philadelphia_Museum_of_Art.jpg

 たしかにモチーフを断片化した形状にはその痕跡が認められます。ところが、色彩はやはり青や赤の原色に白が使われており、シャガール特有の華やかさがあります。

 同時期の作品に、「ゴルゴダのキリスト」(1912年、ニューヨーク近代美術館)があります。

こちら →Marc_Chagall,_1912,_Calvary_(Golgotha)_Christus_gewidmet,_oil_on_canvas,_174.6_x_192.4_cm,_Museum_of_Modern_Art,_New_York
ニューヨーク近代美術館所蔵

 この作品もモチーフは複数の視点で捉えられ、断片化されて描かれていますが、モチーフは比較的、具象性を残し、赤や緑の原色で描かれています。モノトーンのグラデーションにこだわったピカソやブラックとは画風が大きく異なります。

 こうしてみてくると、たしかにパリ滞在時にシャガールはキュビスムの影響を受けていた痕跡がみられます。ところが、どの作品もモノトーンではなく原色に白のハイライトを効かせた着彩を施しています。これはロシアで描いた初期作品には見られない華やかな色彩です。ですから、当時、パリで盛んだったフォーヴィスムの影響を受けていた可能性も考えられます。しかも、キュビスムの影響を受けたといわれる作品もどこかに具象性を残しながら、モチーフを画いています。シャガールはどうやらキュビスムを全面的に受け入れることはできなかったようです。

■キュビスムの痕跡とファンタジー
 ここには展示されていませんでしたが、初期作品の中で忘れがたいのが、「I and the Village」(1911年制作)です。「静物」や「詩人、3時半」などと同時期に制作された作品で、私が好きな作品です。

こちら →Chagall_IandTheVillage
ニューヨーク近代美術館所蔵

 この絵はヤギと男の顔で画面が大きく二つに分割されています。画面の左上半分にヤギの横顔が描かれ、頬のあたりにヤギの乳を搾る女性の姿が小さく描かれています。ヤギの顔の3分の1から下はその下に見える円で白く分割されています。そして、右側には緑色の男の横顔が配置され、男の顔の鼻から下はその下の円で緑色に分割されています。まるでヤギと男がこの円でつながっているように見えますが、少し引いて見てみると、むしろ両者が互いに見詰め合う構図が強調されています。ヒトと動物が共生している生活空間を描こうとしていたのでしょうか。

 顔を寄せて見つめあうヤギと男がメインモチーフなのでしょう。その下に実をつけた木を持つ男の手が描かれ、ヤギ側には大きな実が一つ描かれています。ヒトと動物が果物を分け合って暮らしていることを示しているのでしょうか。生命あるものが苦難を共にして暮らしている様子が描かれています。

 後景にはカマを肩に担いで歩く村人、逆さまになった女性ヴァイオリニストなどが描かれています。その背後には村の建物が並んでいるのが見えます。この部分を拡大すると、以下のようになります。

こちら →上部
前掲。一部を拡大。

 この絵も中景で描かれた見つめあうヤギと男の顔を中心に、前景の果物と木、そして、後景のヴィテブスクでの生活シーンで構成されており、物語性の強い作品になっています。キュビスムの影響がみられるとすれば、様々な視点で捉えたモチーフを同一画面上に描いたというところぐらいでしょうか。

 中景から前景にかけて描かれた円もひょっとしたらキュビスムの影響といえるかもしれませんが、それはキュビスムのように要素に還元して単純化するための円ではなく、むしろモチーフを有機的に繋げるための円といえるでしょう。そして、この円が前景から中景にかけて配置されたことで幻想的な雰囲気が醸し出されています。

 面白いことに、ヤギの顔の中にヤギの乳を搾る女性が描かれています。これもおそらくヴィテブスクでの生活シーンなのでしょう、ヤギの顔の中にうまく収まっています。これに対し奇異な印象を持つヒトもいるかもしれませんが、青と白を巧みに組み合わせて描かれているので、むしろ牧歌的であり幻想的に見えます。

 初期作品をいくつか見ていくと、パリ滞在以後、シャガールは色彩の使い方が大きく変化したように思えます。「村の祭り」で見られたような暗い色調ではなく、赤、緑、青、黄色といった原色に白のハイライトを置いた華やかな色調を好むようになっているのです。その結果、何をモチーフにしようと、洗練されたファンタジックな画風になっているように見えます。

 とくに私は「I and the Village」に強く惹かれるものを感じます。それはおそらくシャガールがいかにこの村に愛着を覚え、アイデンティティの基盤にしてきたのか、この絵を見ていると、彼の創作の源泉が見えたような気がするからでしょう。(2015/6/13 香取淳子)

洛中洛外図屏風:上杉本に反映された足利義輝の願望

■「京を描くー洛中洛外図の時代―」展
 前回、見てきたように、最初に京都を一望できる絵を構想したのが、戦国武将の朝倉貞景でした。絵心があったとはいえ、武将が発案したというのは大変興味深い事実です。彼は屏風絵に慰安や娯楽ではなく、情報を求めたのです。このような洛中洛外図誕生の経緯を知れば、美術作品が担った政治的役割を考えてみる必要があるかもしれません。

 会場では、第2章として設定されたコーナーに初期の洛中洛外図が展示されていました。戦国時代の諸相が描かれているといわれる作品です。現存しているのは4点ですが、その中でもっとも有名な洛中洛外図屏風は上杉本だといわれています。

■山形県米沢市と上杉家
 上杉本は狩野永徳によって制作され、米沢藩上杉家に伝えられてきた洛中洛外図屏風です。2485人にも及ぶ人々が描かれているだけではなく、237件もの街路名や方位の文字注記が添えられており、その情報量は他を圧倒しています。初期の洛中洛外図屏風の中でもっとも有名だといわれているのも納得できます。

 資料によると、これは1565年に制作され、1574年に織田信長から上杉謙信へ源氏絵屏風とともに贈答されたといわれています。

こちら →
http://www.denkoku-no-mori.yonezawa.yamagata.jp/image/img2015set/byoubu2.gif

 会場に展示されていたのは現物ではなく、複製品でした。上杉本の各隻は159.6×362.2㎝という大きなもので、初期の作品の中ではもっとも迫力がありました。代々、上杉家に保存されてきましたが、平成元年に、上杉家16代当主・上杉隆憲氏から、上杉家文書、紙本著色厩図、太刀などとともに米沢市に寄贈されました。以後、米沢市上杉博物館に所蔵されており、平成7年には国宝に指定されました。上杉家に伝わる諸文書等とともに現在、上杉文華館で展示されています。

こちら →
http://www.denkoku-no-mori.yonezawa.yamagata.jp/rakuchyu_rakugai.htm

 米沢藩といえば、第9代目当主の上杉鷹山が有名で、「もっとも尊敬する日本の政治家」としてケネディやクリントンなど海外の政治家から高く評価されています。上杉神社の中には銅像が建てられていて、米沢市民から親しまれています。私はそこからほど近い米沢女子短期大学(社会情報学科)に1994年から7年間、勤務していました。ですから、上杉家関連の行事には参加したことがあります。

 こちら →http://uesugi.yonezawa-matsuri.jp/about/

 当時、名君といわれた鷹山公に興味がありました。危機に瀕していた藩政を立て直した手腕に興味を覚えたからでした。

 鷹山が藩主になったとき、米沢藩に深刻な財政難に陥っていました。そこで彼は、倹約・殖産奨励策を断行して藩財政を改善させ、藩校・興譲館を設立して人材育成に励んだのです。その結果、破綻寸前だった財政を立ち直らせることができました。経済を立て直すにはなによりもまず消費を抑え、殖産を奨励する必要がありました。一方、次代を担う人材を育成しておかなければ、藩の将来は望めません。そこで、藩校を設立し、教育重視の政策を行ったのです。このように鷹山公は時代を超え、国を超えて通用する政治哲学の持ち主でした。彼が奨励したウコギ(の垣根)、鯉の養殖はいま米沢名物になっています。

 私は米沢市に滞在した経験がありながら、鷹山公以外にあまり関心がありませんでした。そして、2001年3月に米沢女子短期大学を退職し、4月に長崎の大学に着任しました。伝国の杜・上杉博物館が開館したのが2001年9月29日でしたから、この洛中洛外図屏風の現物を見ていないのです。

■謙信に贈られた洛中洛外図
 洛中洛外図屏風・上杉本は、「永禄八年(1565年)に狩野永徳によって制作され、天正二年(1574年)に織田信長から上杉謙信へ源氏絵屏風とともに贈答された」とされています。各種資料からそのような結論が引き出されたのですが、屏風絵に描かれた光景から制作年代等について疑義が出されたことがあったようです。いわゆる「今谷説」です。

 『謎解き 洛中洛外図』(黒田日出男著、岩波新書、1996年)によると、「今谷説」がでるとすぐに建築史家、美術史家などから批判が出たようです。黒田氏はそれらを丁寧に検証しています。さらに、上杉年譜等について独自に再検討をした結果、『(謙信公)御書集』から天正2年3月付けの重要な記述を発見しました。

 「同年三月、尾州織田信長、為使介佐々市経兵衛遣于越府、被贈屏風一双、画工狩野四郎貞信、入道永徳斎、永禄八年九月三日画之、被及書札」という文章を発見したのです。これによって、「信長が洛中洛外図一双を謙信に贈った」というこれまでの定説が確定されることになりました。疑義が出されたことによって検証作業が進み、逆に、確信が深められたのです。

 丁寧な検証作業を踏まえ、黒田氏は以下のような興味深い推論を展開しています。

 「上杉本洛中洛外図は、将軍足利義輝が盟友上杉謙信に贈るために、永禄七年(1564年)末か同八年初めに、若き狩野源四郎(永徳)に命じて制作させていたものである。しかし、義輝は、その制作途中の同八年五月十九日に松永らに急襲されて非業の死を遂げてしまった。永徳は屏風の制作を続行し、この洛中洛外図屏風を義輝の百箇日の当日ないしその二日後の九月三日に完成させたが、注文主のいなくなった屏風をおそらくは自分のところへ置きつづけたのだと思われる。そして、新たな京都の支配者(天下人)に織田信長がなりつつあるのを見定めたところで、信長に自己の画業を売り込む一環として、金碧濃彩のこの上杉本洛中洛外図をその数奇な運命とともに信長に披露したのであろう。(中略)永徳から上杉本を見せられ、本来の受け取り手が謙信であることを聞かされた信長は、義輝に代わって屏風を贈ることにより謙信の信頼感衛を維持しようと企図したのであった」(前掲、pp.199-200)

 黒田氏は永徳についてかなり踏み込んだ解釈を展開していますが、当時の政治情勢や絵師の立場を考えると、このような解釈は妥当でしょう。

 当時、戦国大名たちは覇権を求め、抗争を繰り返していました。幕府の権力の復活を目指していた足利義輝は、戦国大名たちとの関係を改善しようとし、抗争の調停を積極的に行っていたようです。やがてその政治手腕は戦国大名たちから認められるようになり、織田信長や上杉謙信はわざわざ京に出向き拝謁していたほどだといいます。

 織田信長と今川義元が戦った桶狭間の戦いが永禄三年(1560年)、勝利した信長は勢力を増しました。また、今川義元が討ち取られたことによって、北条氏や武田氏と対立する上杉謙信は勢いづき、関東諸侯の多くが謙信側に付くようになりました。勢力図が変わったのです。

 以上のような当時の政治状況を考えれば、黒田氏の推測は納得できます。

■左隻に見る義輝の願望
 国立歴史民俗博物館の小島道裕氏はカタログの中で、「誰が見たかった京都か」という観点から洛中洛外図屏風を考察しています。上杉本については「足利義輝が見たかった京都」という小見出しをつけ、「室町幕府の再興をめざし、上杉謙信を頼みとした足利義輝が、謙信に贈るために狩野永徳に制作させた、と考えられている」として上で、以下のように記しています。

「上杉本に描かれていた幕府は「花の御所」で、左隻の中央左寄りの所に大きく描かれているが、義輝が現実に住んでいたのは、新たに建設した「二条御所」であり、室町幕府本来の御所として「花の御所」を描かせたと思われる。そこに向かう行列は上杉謙信のものとされ、それが細川邸から出版していることは、管領が細川から謙信に代わることを意味していると思われる」

こちら →上杉本左隻
上杉本左隻。
クリックすると図が拡大します。

 大変、興味深い解説です。ただ残念なことに、会場では屏風の細部がよく見えず、確認することができませんでした。そこで、パソコンで見ることができる陶版の洛中洛外図を見ると、たしかに、左下に描かれた建物には「公方様・室町殿」と説明されています。そして、カーソルを上に移動にすると、「細川殿」と描かれた建物があります。

こちら →http://www.rakuchu-rakugai.jp/world/world.html
赤丸印をクリックすると説明文が表示されます。

 室町殿に向かう行列が上杉家のものだとすれば、小島氏が指摘するように、この部分は管領が細川氏綱から上杉謙信に代わることを示唆していたのかもしれません。

■戦国武将のさまざまな思い
管領とは足利幕府の重要な政務に携わる役職を指します。応仁の乱以後、室町幕府の管領は細川家がほぼ独占していました。1486年から1507年まで細川政元が管領を務め、以後も細川家がこの職を継承しています。1936年から1549年まで管領を務めた細川晴元は、江口の戦い(1549年)で三好長慶に敗れ、将軍足利義輝も京を離れざるをえませんでした。その後も三好勢力との戦いに勝つことができず、細川氏綱を管領にするという条件でようやく三好長慶と和睦し、京に戻ることができたのです。最後の管領はこの細川氏綱で、1552年に着任し永禄六年(1563年)12月20日で没するまで担当しました。

 一方、上杉家は代々、関東管領の役職を担ってきました。資料によると、上杉謙信は1561年から1578年まで関東管領を務めています。川中島の戦いで勝利した上杉謙信は勢いづいており、関東諸侯もなびいていました。将軍とはいえ、三好長慶の傀儡であった足利義輝にしてみれば、上杉謙信は喉から手が出るほど欲しい人材だったでしょう。

 当時の政治情勢を調べてみると、たしかに、屏風絵のこの部分には足利義輝の強い願望が表現されているように思えます。細川氏綱から上杉謙信への管領の交代を願う義輝の願望であり、そして、将軍の権威復活への願望でもあったと思われるのです。

 小島氏はさらに、「このような内容を描くために、上杉本は、「花の御所」と細川邸が共にある左隻をいう構図になった」と記しています。「花の御所」とは足利将軍家の邸宅の総称で、室町通りに正門が設けられていたので、室町殿と呼ばれることもあったようです。この屏風絵が政治的意図を込めて描かれていたことが示されています。

こちら →花の御所

 この部分に焦点を当てて、この屏風絵を鑑賞すると、上杉本はまさに、「足利義輝が見たかった」洛中洛外図屏風といえるでしょう。三好長慶の傀儡になっていた足利義輝にしてみれば、この屏風を上杉謙信に贈ることによって、その意志を伝え、ともに天下を統治していこうとしていたのではないかと考えられるのです。当時、義輝は戦国諸侯の調停を行って友好を計り、着々とそのための手を打っていました。ところが、1965年、三好長慶の養嗣子らに御所で急襲され、亡くなってしまいます。

 この屏風絵を制作したとされる狩野永徳は、義輝の遺志をよく知っていたはずです。ですから、狩野永徳を介して、織田信長から上杉謙信に贈られたという可能性は十分、考えられます。ただ、当時の上杉謙信の勢いを考えれば、織田信長も謙信を懐柔する必要に迫られていたのではないかと思われます。

 信長がこの屏風を謙信に贈ったとされるのが1974年です。実はその前年の1973年に武田信玄が病没し、謙信の勢いはますます強くなっていました。1972年に信長は謙信と同盟を結び、信長が人質を越後に送ったとされていますが、それだけでは不十分だったのでしょう。

 なぜ描かれたのか、誰によって発注され、誰に向けて制作されたのか、誰のためのものなのかといった観点からこの屏風絵を見ると、戦国武将たちのさまざまな思いが透けて見えてくるのです。

■瀬田勝哉氏の見解
 瀬田勝哉氏は『洛中洛外の群像』(平凡社、増補版、2009年)で、上杉本を詳細に読み解いています。文献資料に基づき、モチーフに込められた意味を論理的に解き明かしていくプロセスにはまさに上質のミステリーの醍醐味があります。とくに興味深く感じたのは「公方の構想」と題された章でした。

 ここでは先ほど紹介した「今谷説」を取り上げ、それに対する諸批判を丁寧に検証したうえで、矛盾を明らかにしています。そして、写実にこだわりすぎれば、作者の構想を見失い、絵のもつイメージを矮小化してしまいかねないと指摘するのです。

 瀬田氏は文献資料と照合しながら、さまざまなモチーフに政治の痕跡を見出していきます。それらを踏まえ、義輝と上杉本との関係について、以下のような解釈を記しています。

 「上杉本『洛中洛外図』という屏風絵の中に表現された政治的な秩序は、こうした義輝の意図し構想した秩序とよく合致している。三好邸の冠木門の絵一つにしても、将軍御成によって公方の政治秩序に組み込んだことを示す具体的な表徴であった。つまり義輝こそは、このようにして上杉本の政治世界を微妙かつ大胆に構想してゆける主体として最もふさわしい公方であり、人物だということができるのである」(前掲、p.160)

 さらに、謙信とこの屏風については以下のような解釈を記しています。

 「謙信にとってこの屏風は、「戦国大名の京都憧憬を満たすもの」などという、生ぬるい包括的な説明ですまされるようなものではなかった。彼ははるかに深くこの絵の構想を読み得たにちがいない。絵のうしろに公方義輝という人物を見ていたからである。(中略)これを手にしたのが義輝死後のことだとしたら、期待をかけられ上洛を促されながらも、ついにその期待に応えることができなかった公方義輝への痛恨の思いにとらわれたことであろう」(前掲、p.176)

 当時の政治状況と重ね合わせてこの屏風絵を見ると、幕府の権力および権威の復活を目指し、あるべき政治秩序を構想していた将軍足利義輝の願望が切に表現されているといえます。

■なぜ屏風に描かれたのか
 洛中洛外図はなぜ屏風に描かれたのでしょうか。伝統のある絵巻物でもよかったはずです。むしろ絵巻物の方が制限なく自由に描けたのではないかと思うのですが、なぜ屏風だったのでしょうか。

 屏風絵という媒体に固有のフォーマットで、注文主の政治的意向を反映した作品が制作されたのは戦国期でした。興味深いことに、織田信長や豊臣秀吉など強力な戦国大名が政治の表舞台に登場してくると、政治的意向というよりは政治権力を表象する絵柄になっていきます。

 これに関し、高松良幸氏は「永禄三年の車争い図屏風」(『静岡大学情報学研究』20、pp.72-51)の中で、以下のように興味深い指摘をしています。

 「少なくとも絵を観る者に、そこに描かれている内容、注文主の様々な意図などを理解させる場合、絵巻物は、披見時、少人数にのみそれが可能であるのに対し、屏風絵は常時、多人数でそれが可能になるのである。戦国期の厳しい世相の中では、絵巻物の社寺への奉納などによる神仏の加護よりも、現実に絵を観る者に注文主が発するメッセージを看取させる方が重要だと考えられたのではなかろうか。そしてそれに相応しい画面形式として屏風絵が採用されたのではなかろうか」(p.60 )

 これを読むと、戦国期に政治的意図を反映させた屏風絵が制作されたという事実の背後に、同じコンテンツをより多くのヒトに見てもらいたいという発注者の政治的意図が潜んでいたことがうかがえます。まさに美術品の政治利用の始まりといえるでしょう。

 高松氏の指摘には、表現したい内容(コンテンツ)を、どのような媒体(メディア)に、どのような様式(フォーマット)で載せるのかという根本的な問題が含まれていて、大変興味深いものがあります。

 トロント大学でメディア論を担当していたマクルーハンは、「メディアはメッセージである」という有名なフレーズを残していますが、彼のメディア論にならっていえば、戦国期、屏風というメディアが政治的メッセージを発信できる道具として着目されたのです。

 たとえば、織田信長は狩野永徳に描かせた安土城の屏風を天正遣欧使節に託し、ローマ教皇に献納したといわれています。残念ながら、この屏風は現存していません。また、豊臣秀吉は「吉野花見図屏風」を描かせ、権勢を誇示しました。秀吉が公家衆や諸大名を引き連れて花見をする光景が華やかに描かれています。

 このように織田信長や豊臣秀吉など天下統一を目指した戦国武将はさらに積極的に、美術品でありながら政治的権威を示唆できる道具として屏風を活用しているのです。

 群雄が割拠した時代に初期の洛中洛外図屏風が制作され、戦国時代を生き抜くための羅針盤として機能していたとするなら、天下統一が間近になると、強力な大名が内外に向けてその威信を誇示し拡散する道具として活用されるようになったのです。
 
 屏風は絵巻物とは違って、一度により多くのヒトが見ることのできる媒体だったからでしょう。ヒトを操作する必要性が生じた戦国期だったからこそ、屏風の広報機能が見出されたといえます。洛中洛外図屏風からはさまざまに想像力が触発され、まだまだ興味は尽きることがありません。(2015/5/10 香取淳子)