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シンガポール国立博物館

シンガポール国立博物館の来歴と「SINGAPURA: 700 YEARS」

■シンガポール国立博物館

シンガポール国立博物館は、1849年にラッフルズ・インスティテューションの図書館の一部として設置されたのがその起源だといわれています。ですから、元々の名称はThe Raffles Library and Museumでした。英領シンガポールの時代に図書館に併設して博物館が作られたのです。

シンガポール国立博物館に行くと、ちょうど、「SINGAPURA: 700 YEARS」(2014年10月28日から2015年8月10日)が開催されていました。この展覧会は序章の「シンガポールの考古学」ゾーンと「古代シンガポール」から現在のシンガポールに至る5つのゾーン、合計6つのゾーンで構成されていました。シンガポールの歴史を知るまたとない機会です。

そこで、今回は趣向を変えて、「SINGAPURA: 700 YEARS」に沿ってシンガポールの歴史を辿りながら、シンガポール国立博物館の来歴をみていくことにしましょう。

■SingapuraからSingaporeへ

古代のシンガポールは土着民から「海の町」を意味するTemasekと呼ばれていたようです。それが、14世紀になると、Singapuraという呼び名が定着してきたといわれています。その頃を起点とすれば、現在は「シンガポール700年」になるのでしょう。とはいえ、近代以前のシンガポールはまだ判然としないことも多いようです。

こちら →detail_img

Singapura 700 years, パンフレットで使われている画像です。

近代シンガポールの礎が築かれたのは1819年のことでした。当時、シンガポールはまだ上の写真のような小さな漁村でしかありませんでした。ところが、シンガポールをはじめ東南アジアの海域では、ヨーロッパ諸国の植民地開拓者たちが交易の拠点を求めて、熾烈な争いを展開していました。インドと中国の間にはさまれたこの海域一帯が経済的な重要性を持っていたからです。

イギリス東インド会社福総督であったラッフルズもその一人です。彼は単なる漁村にすぎなかったシンガプーラの地政学的重要性に着目しました。しかも、そのときオランダはまだシンガポールに手を付けていませんでした。これ幸いとばかりにラッフルズは、当時、この地を支配していたジョホール王国と早々と友好条約を締結しました。そして、名称もSingapuraから英語風のSingaporeに改め、次々と都市化を推進していったのです。

「Singapura: 700 years」では、「植民地シンガポール(Colonial Singapore)」と題されたコーナーでこのあたりの事情が扱われています。

ラッフルズは一度シンガポールに立ち寄っただけで、ここが交易の需要な拠点になることを見抜いたのです。すばらしい慧眼の持ち主だったとしかいいようがありません。そして、彼はさっそく商館建設の許可をもらうために、ジョホール王国と交渉しました。その後、シンガポールはラッフルズの見立て通り、交易拠点として重要な役割を果たしました。そればかりか、マレー半島で産出されるゴムなどの天然資源の積出港としても発展していきました。

そのラッフルズがシンガポールの金融街を背景に、威風堂々と腕を組んで立っています。

こちら →images

19世紀初頭に活躍した人物なのですが、背景の超高層ビル群と妙にマッチしています。

シンガポールはいまアジアの金融センターとして驚異的な発展を遂げていますが、彼が現代社会に生きていたとしたら、おそらく積極果敢に情報経済の領域を切り開いていったことでしょう。

さて、シンガポールは1824年、ジョホール王国からイギリスの植民地として正式に割譲されました。やがて、ペナン、マラッカなどとともにイギリスの海峡植民地に組み入れられていきます。そして、1832年にはその海峡植民地の首都に定められます。

イギリスはシンガポールを無関税の自由港とし、その自由港政策を積極的に展開しました。だからでしょうか、シンガポールに大勢のヒトが流入してきました。その結果、1819年1月には150人程度だった人口がわずか5年で1万人にまで急増したといわれています。労働者、貿易商、行政管理として、中国、インド、インドネシアなどから多くの移民がシンガポールに移住してきたのです。もちろん、イギリスをはじめヨーロッパ人もいました。当時からすでに多民族国家の兆しがあったのです。

こちら →SINGAPURA-700-Years-Colonial-Singapore-5-Image-courtesy-of-National-Museum-of-Singapore-1024x682

http://www.themuse.com.sg/ より

日傘をさす着飾った女性、シルクハットを被った紳士、ヨーロッパ上流社会の衣装を身につけたヒトがいる一方で、半裸でモノを運ぶ労働者、馬を引くインド人などがいます。植民地時代の生活の一シーンが模型で再現されています。服装や労働内容などから、支配の構造が一目で理解できます。

シンガポールは英領のインドやオーストラリア、中国大陸との間で取引される貿易の中継地点でした。各地から成功を夢見てやってきた商人や労働者などによってシンガポールは賑わい、急速に発展していきました。

 

■The Raffles Library and Museum

それまで仮設のようなものであった博物館は1887年、スタンフォードロード沿いの現在の位置にThe Raffles Library and Museumとして正式に開設されました。実はこの年、ラッフルズホテルが開業しています。古典的なコロニアル様式の建物は往時のまま保存されています。

こちら →ラッフルズホテル

ホテルの開業に伴い、ラッフルズ・インスティテューションの図書館に併設されていた博物館も移転せざるをえなかったのでしょう。興味深いのは、新しく建てられた図書館であり博物館でもあるこの施設に、ラッフルズの名前が冠されていることです。場所は移動しても、名称は継承されたのです。当時の為政者たちのラッフルズに対する敬意の表れと見ることができます。

ラッフルズ(Thomas Stamford Raffles, 1781-1826)は、シンガポールの創設者であったばかりか、植物学、動物学、歴史学などの学者でもありました。

日本語版Wikipedia によると、1817年には『ジャワの歴史』を著し、ナイトの称号を授与されています。さらに、彼はジャングル調査隊を組織して現地を探索することもあったようです。世界最大級の花「ラフレシア」は、発見した調査隊の隊長であったラッフルズの名前と隊員の名前にちなんで付けられたのだそうです。

ジャワ島、マレー半島など、ラッフルズが関わった地域の珍しいモノや資料、遺物などが彼のもとに持ち込まれました。おそらく、膨大な量のモノや資料を整理し、収納するための施設が必要になったのでしょう、彼の死後23年目の1849年、仮設の形で設えられたのが、Raffles Instituteの図書館に併設された博物館でした。先ほどもいいましたが、これがシンガポールの元祖博物館です。

英語版Wikipediaには、ラッフルズの死後33年目の1859年、彼の甥のフリント(William Charles Raffles Flint )が、ラッフルズが収集した膨大な量のインドネシアの遺物や民族誌などを大英帝国博物館に寄贈したと記されています。ラッフルズは植民地開拓者として英国に寄与しただけではなく、東南アジアの膨大な歴史遺産を英国にもたらしました。大英帝国時代の成功者の一つのモデルといえるでしょう。

こうしてみると、大英博物館が収奪のコレクションだといわれる理由がわかります。ラッフルズのような植民地開拓者が、世界中からイギリスに持ち帰った歴史遺産が、大英博物館にコレクションとして収納されているのです。収奪された側にしてみれば、腹立たしいでしょうが、このようにしてイギリスに持ち帰られたからこそ、歴史的遺産は失われることなく、損なわれることなく、現在まで保存されてきたともいえます。

ちなみに今年、日本で大英博物館展が開催されています。

こちら →http://www.history100.jp/

さて、ラッフルズは探検隊を組織してジャングルを探索していました。ですから、彼が探究心に溢れ、開拓者精神の旺盛な人物だったことは容易に想像できます。ひょっとしたら、夢想家であり、冒険家だったのかもしれません。大英帝国の繁栄を支えてきた時代精神をラッフルズの中に見出すことができそうです。

シンガポールの博物館はラッフルズの膨大なコレクションを収納することから始まりました。その博物館の現在の姿がこれです。

こちら →800px-National_Museum_of_Singapore_3,_Aug_06

白く荘厳な建物が威容を誇っています。コロニアルスタイルの建物のそこかしこに権勢と栄華の残滓を見ることができます。まるで七つの海を支配した時代のイギリス人を見ているかのようです。この写真は2006年の改修後のものですが、改修に際しては、歴史ある外観についてはその雰囲気を維持することに努め、内部を大幅に改装して機能性を高めたようです。

 

■昭南島博物館(SYONAN-TO Museum)

1941年12月8日の真珠湾攻撃は、毎年ニュースで報道されるせいもあって、私たちはよく知っています。でも、同じ時期、日本軍がシンガポールを攻めていたことを知っている日本人はきわめて少ないのではないでしょうか。

1941年末にマレー半島に上陸した日本軍は、翌年2月7日から15日にかけて、インド軍、マラヤ軍、オーストラリア軍、イギリス軍等の連合軍と戦いました。さらに、出撃してきたイギリス戦艦をマレー沖で撃沈しました。日本軍はこのシンガポールの戦いに勝利したのです。当時の状況をBBCが要点を整理して記しています。

こちら →

http://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/dates/stories/february/15/newsid_3529000/3529447.stm

その結果、イギリスの植民地だったシンガポールは1942年、日本の支配下に置かれました。為政者の変更に伴い、シンガポールは「昭南島」(SYONAN-TO)と改称され、行政組織として昭南特別市が設置されました。そこでは過酷な軍政が敷かれていたといわれています。

こちら →日本軍占領下

ここでも模型を使って当時の様子が再現されています。痛ましい出来事が多々あったようです。私たちが生まれる前の出来事だと片づけてしまうわけにはいかないでしょう。戦時下とはいえ、日本軍がシンガポールで行った非人道的行為をしっかりと記憶にとどめておく必要があると思います。

シンガポールの為政者がイギリス軍から日本軍へと変更するのに伴い、博物館の名称も「The Raffles Library and Museum」から「昭南島博物館」に変更されました。

 

■国立博物館(The National Museum)

1945年8月、第2次大戦が終結して日本軍が去り、シンガポールにイギリス軍が戻ってきました。日本軍の圧政からは解放されましたが、イギリスの統治も過酷なものだったようです。シンガポールに平和は訪れませんでした。

やがて、マレー半島全体にイギリスからの独立、自治を求める動きが活発になってきました。1957年、マラヤ連邦がイギリスから独立し、1959年、シンガポールはイギリスの自治領になりました。そして、1963年、独立したマラヤ連邦、ボルネオ島のサバ・サラワク両州とともにシンガポールはマレーシア連邦の一員となりました。

ところが、マレーシアとシンガポールとの間で対立が起こります。マレーシアのアブドゥル・ラーマン首相はマレーシア人優遇政策を採ろうとし、シンガポールの人民行動党党首リー・クアンユー氏はマレーシア人も華人も平等政策をと主張したからでした。

対立は激化し、1965年8月9日、マレーシアから追放される形でシンガポールは都市国家として分離独立せざるをえなくなりました。独立を国民に伝えるテレビ演説の際、リー・クアンユー氏は思わず涙したといわれます。彼が人前で涙を見せたのはこのときと母が亡くなったときの2回だけだといわれるほど、有名なエピソードです。

こちら →リークアンユー涙

これは、シンガポールに駐在経験のあるブロガーのNaoki SUGIURA氏が撮影したもので、その時のテレビ演説のワンカットです。リー・クアンユー氏の苦渋に満ちた表情がとても印象的です。天然資源に乏しく、水源さえ他国に依存しなければならない小さな都市国家を今後、どのように運営していけばいいのか、不安でいっぱいだったのでしょう。

たしかに、シンガポールが取り組まなければならない問題は山積していました。

現在、独協大学教授の森健氏はかつて、「シンガポールの国家介入と経済開発」という論文の中で、独立直後のシンガポールの課題は次の2点に大別できるとし、①種族間・種族内対立問題、②輸出志向型工業化戦略の実現化、をあげています。(滋賀大学傳田功教授退官記念論文集、1993年11月、pp.45-61)すなわち、国内の安定と経済的な自立の確立です。

リー・クアンユー氏はテレビ演説で見せた涙を振り払うかのように、独立直後から、矢継ぎ早に建国のための政策を打ち出していきます。

国防政策としてはスイスに倣い、非同盟と武装中立を宣言しました。経済政策としては外国資本誘致による輸出志向型工業化戦略を打ち立てる一方、国外からの観光客を誘致するために観光局を設置し、外貨獲得の手段の一つとしました。一連の初期政策のおかげでシンガポールの失業率は、独立直後の14%から10年後の1975年には6.5%にまで減少したといわれています。

課題であった民族間対立についても同様、リー・クアンユー氏は卓越した政策を行っていきます。1970年代から80年代にかけては、シンガポール独自のアイデンティティを創り上げる運動を展開しました。多民族から成る国内の融合を図るにはそれが一番だと考えたからでしょう。もちろん、言語政策にも気を配っています。異なる民族間では英語、同じ民族間では中国語、マレー語、タミル語(いずれも公用語)、というように融通を効かせた対応をしています。

もちろん、博物館も例外ではありません。独立を機に博物館は隣接する建物に移転され、1969年にはThe National Museumと改名されました。そのコンセプトも明確にされ、東南アジアの歴史、芸術、民族学に焦点を当てた博物館になったのです。この博物館の名称に初めて「National」の文字が付きました。国家主導で運営していくのだという政府の姿勢の表れなのかもしれません。

 

■シンガポール国立博物館(National Museum of Singapore)

21世紀に入ってもなおシンガポールの発展はとどまるところを知りません。それはおそらくシンガポール政府が時代に適合するよう、社会体制や経済体制を整備してきたからでしょう。もちろん、IT政策しかり文化政策しかり、です。

シンガポール国立博物館ではITがうまく取り入れられています。たとえば、以下のURLをクリックすると、館内の地図が表示されます。そこで、地図に付されたオレンジ色の〇印をクリックすると、そこからのアングルで館内を見ることができます。

こちら →http://www.pbase.com/bmcmorrow/singaporemuseum&page=2

シンガポール国立博物館は2003年から2006年に至る増改築の後、旧棟と新棟からなるNational Museum of Singaporeとして、現在に至っています。この博物館の名称にSingaporeが加わったのです。Singaporeという国家名をはじめて強く打ち出したことになります。

先ほども述べましたが、そもそもこの博物館は独立後、東南アジアの歴史、芸術、民族学に焦点を当てた博物館として位置づけられました。そして、今回の改名で、シンガポールという国名が加わりました。ですから、シンガポールこそが今後発展が予測される東南アジアの文化のハブだと強く示唆しているようにも見えます。

これまで見てきたように、この地にThe Raffles Library and Museumとして正式にオープンして以来、この博物館は3度も改名しています。いずれも、社会変化に対応したネーミングの変化でした。まさに近代シンガポールの歴史をこの博物館が体現しているのです。とすれば、今回の名称変更に何を読み取ればいいのでしょうか。

シンガポール国立大学のLily Kong氏は、独立後のシンガポール政府の芸術・文化政策について整理した上で、政治的観点からの政策(1960年代~70年代)、経済的観点からの政策(1980年代)を経て、最近は社会的観点からの政策に関心が払われていると指摘しています。(”Ambitions of a Global City: Arts, Culture and Creative Economy in “Post-Crisis” Singapore”, International Journal of Cultural Policy, 18, no.3: pp.279-294.)

この観点を参考にすれば、志向されているのは、シンガポールという社会と芸術・文化の融合でしょう。ヒトが日常感覚の中で芸術・文化に親しみ、味わい、愛しむ、そのような相互作用を重視しはじめたからなのかもしれません。

そういえば、「SINGAPURA: 700 YEARS」展では多くの史実が、模型を使ったシーンで説明されていました。立体なので写真よりも見る側との相互作用性が高く、そのシーンが記憶に残りやすいことに着目されたからかもしれません。博物館で展示されているものがより親しみやすいものになっていたことは確かです。

今回、「SINGAPURA: 700 YEARS」展に沿って、国立シンガポール博物館の来歴を見てきました。そこから見えてくるのは、社会状況に応じた博物館政策であり、その実践でした。都市国家シンガポールは今後、ますますスマートになっていくような気がします。(2015/7/6 香取淳子)