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正月

2021年、初詣の異変

■コロナ禍に見舞われた初詣
 今年の初詣は巣鴨のとげぬき地蔵に出かけました。行ってみて驚いたことは、元日なのにシャッターを下ろしている商店が7,8軒もあったことです。駅からとげぬき地蔵に向かう立地条件のいい商店街なのに、店が閉じられているのです。中には、更地になっているところが2箇所もありました。

 かつては「おばあちゃんの原宿」といわれ、賑わいを見せていただけに、寂寥感に襲われそうになります。行き交う人々の中に高齢者は少なく、外国人や家族連れが目立っています。日本の今後を象徴しているのでしょうか。

 コロナ感染を恐れ、自宅に引きこもっているのでしょう、今年は高齢者の数も少なく、参拝者は去年の半分以下でした。おかげで、押し合うこともなく、ゆっくりとお参りをすることができましたが、初詣の活気はどこにもありません。

 なにもとげぬき地蔵に限りません。ドコモ・インサイトマーケティングが2021年1月1日に実施した調査結果によると、全国各地の神社等の参拝客は去年に比べ、大幅に減っていることがわかりました。

こちら → https://www.nikkei.com/article/DGXZQODZ301LR0Q0A231C2000000

 地方都市ほど減少が目立つという結果でした。

 コロナ感染を回避するため、事前に、三が日を避けた「分散参拝」や、12月から先行して正月の縁起物を販売する「幸先詣」を呼び掛けたことも原因の一つかもしれません。

こちら → https://www.nikkei.com/article/DGXMZO66775290Y0A121C2CE0000

 現在、日本には大小さまざまな神社があります。それがコロナ禍のせいで、参拝に制約が設けられたり、さまざまな行事が中止になったりしています。

 初詣の風景は明らかに例年とは異なっていましたが、実は、大晦日の光景も同様でした。

■参列者のいない大晦日の神社
 2020年12月31日、夜12時前に近くの神社に行ってみました。このところ、大晦日のこの時刻に家を出るのが恒例になっています。

 月明かりに照らされ、神社に出かけるのが楽しみでした。冷気漂う中、神社までの道のりを歩いていると、2020年から2021年への境界を、この足で跨いでいるような気分になるからでした。

 車は滅多に走っておらず、たまに歩いている人がいたとしても、それは大抵、参拝に出かける人か、参拝を終えて帰っていく人々でした。そういう人々に出会うと、見知らぬ人なのに、どういうわけか、親しみをおぼえてしまいます。

 月明かりにしても、ピンと張りつめた清澄な空気にしても、気持ちを切り替え、日常生活から解放させてくれる効果があります。次第に日常の雑事を忘れ、まるで誘われるように、今年もまた、大晦日の神社という異空間に向かっていました。

 あと5分ほどで神社に着くといった辺りで、ふと、奇妙な感じがしてきました。

 例年なら、家を出るとすぐ、お囃子の笛の音が聞こえてくるのですが、どういうわけか、今年は何も聞こえてきません。もうすぐ神社だというのに、いつもの騒々しさがないのです。

 いつもは空気が澄みわたっているせいか、家を出ると早々に、遠方から弾んだような調子が響いてきます。近づくにつれ、その音が大きくなり、賑わいが伝わってきます。その微妙な変化が耳に快く、気持ちが浮き立ってくるのが通例でした。

 ところが、今回、なんの音も運んできません。辺り一帯の空気は、依然としてピンと張りつめたまま、まるで時間が止まったかのようです。

 不思議でした。

 ひょっとしたら、コロナのせいで神社が閉鎖されているのでは・・・? 嫌な予感がしました。

 いよいよ神社を囲む石の柵が見えてきました。近づいて見ると、明かりはついていますが、境内は閑散としています。

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 正面に回ってみても、見えるのは氏子さんばかりで、参列者はほとんどいません。いつもなら、参拝者が長蛇の列を作っているところが、ただ、提灯が立ち並んでいるだけになっています。右側のテント付近にいる人々は氏子さんたちでした。

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■中止になった大晦日の神事
 改めて境内を見回すと、お焚き上げもなければ、お神楽の奉納もなく、もちろん、いつもなら振舞ってもらえる甘酒もありませんでした。

 いつもはお焚き上げが行われる場所には、参拝者から持ち込まれたお守りや神札が積み上げられていました。今回、さまざまな儀式が中止になったことを知らなかったのでしょう。

 私が神社に着いたとき、若者数人が固まっていましたが、参拝者のいない境内を見て、「三蜜でもないのに、なんでやらないの?」といい合いながら、帰っていきました。彼らは一年の終わりにここで参拝することを楽しみにしていたのかもしれません。

 いつもは境内に華やかさを演出してくれるお神楽の奉納もなく、賑やかに演じられてきた舞台は、戸が閉じられ、ただの暗い空間でしかありませんでした。

 もちろん、身体を温めてくれる甘酒も準備されていません。いつもなら参拝者に振る舞うのに忙しく立ち振る舞っていた氏子さんたちは閑を持て余しているように見えました。

 神社に着いた途端、あまりにもいつもと違う光景に、私は拍子抜けしてしまいました。恒例の行事に参加できなかったというだけではなく、なにか大切なものを失ってしまったのではないかという思いにさせられたのです。

■お焚き上げの心理的効果
 このところ、一年の終わりはいつもこの神社で手を合わせ、来年の幸を願うのが習慣になっていました。

 お囃子の笛の音や、お焚き上げのメラメラと燃え盛る音が好きでした。聞いていると、知らず知らずのうちに、過ぎ去った諸々の出来事が脳裏を過ります。

 いやなこと、辛かったこと、困難をきわめたこと等、思い出すのはどちらかといえば、ネガティブなことが多いのですが、溜まっていた滓が一気に表に出てくるような感じです。

 そんな折、お焚き上げのメラメラと燃え盛る音を聞き、熱い炎に曝されていると、その滓がいつしか消え去り、不思議に気持ちが軽くなっていくような気がするのです。

 そうして炎が高く立ち上っていく様子をみているうちに、たとえどんなことがあったとしても、しっかりと受け止めていこうという気持ちになっていきます。

 神社という異空間がそう思わせるのでしょうか。

 境内にいると、背後からお囃子の音も聞こえてきます。調子よく響く音に乗って、やがて、気持ちの切り替えが進み、お焚き上げの炎とともに、ネガティブな思いは浄化されていきます。

 だからといって、なにもお焚き上げの周りにいたり、お神楽が演じられている舞台の傍にいる必要はありません。神事によって派生する音を聞いているだけで、その効果があります。

 長い参列者の列に従って、拝殿に向かって少しずつ歩んでいきます。そのうちに、いつしか気持ちが晴れていき、拝殿に着くころには、新たな一年を迎えようという前向きな気持ちになっています。境内の中で行われる神事を見聞きするだけで、そのような気持ちの変化が生まれているのです。

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 ところが、今年はそういうわけにはいきませんでした。それは、神社という空間に、いつもの装置がなかったからでした。

 一年の終わりを象徴する、長い参列者の列、お焚き上げの炎、奉納されるお神楽、氏子さんたちが振舞ってくれる甘酒・・・、そういうものがなかったせいで、今年は神社が異空間になりえませんでした。その結果、煩悩の浄化には至らず、もやもやが晴れないまま、鬱屈した気分が残りました。

■神社の機能は?
 神社の前まで来て、引き返す人が何人もいました。「なぜ、神社まで規制しないといけないの?」と怒っている若者たちもいました。確かに、密閉空間でもないのに、なぜ、参拝規制をしなければならないのか。お焚き上げ、お神楽などを中止しなければならないのか。私にもわかりません。

 今回、コロナのせいで参拝が規制されましたが、そのたおかげで、神社の機能を思い知らされました。そのことは収穫だったといえるかもしれません。これまで当たり前だったことが当たり前ではなくなったことによって、その存在意義を考えさせられる効果があったのです。

 実際、大晦日に神社に参拝に訪れていたのは、ただの習慣にすぎませんでした。ところが、今回、いつもの年末神事がなくて考えさせられたのが、私たちにとって、神社がどのような心理的機能を果たしていたかということでした。

 立ち去り際に振り向くと、神社の入り口に掲げられた提灯に、「鎮守御祭禮」と書かれているのに気づきました。

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 なんとなく、気になります。

 Wikipediaを見ると、「鎮守」とは「その土地や寺、氏などを鎮護する神をまつる社」と説明されています。この説明文からは、神社はこれまで、その地域の精神的ハブとして、機能してきたことが示唆されています。

 実際、今回、小耳にはさんだ若い参拝者たちの会話からは、神社が地元民の精神的ハブとして機能していることを垣間見ることができたような気がします。

 ちなみに、ゼネラルリサーチが実施した調査では、2021年の初詣に行くと回答した比率は20代が最も多いという結果でした。

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 今後、コロナ禍を経て、大きなパラダイムシフトが起きるのは必至です。そんな未来社会を考えると、初詣をして参拝したくなるのも無理はありません。若者ほど不確実性の高い未来を長く生きていかなければならないのですから・・・。

■地域の精神的ハブとしての神社
 日本学術会議会員で、宗教民俗学が専門の宮家準氏は、氏人と氏神との関係について、興味深い説明をしています。

 「この森(里山)のカミは、その麓に住む氏人たちから農耕や生活を守る氏神として崇められて、氏上を中心に祭りが行われた。氏人が死亡した時には、森に葬られた。死によって肉体を離れて、森や山に行った死霊は、盆・正月・追善法要などによって子孫から供養されて、33回忌の弔いあげを終えると、カミとなって氏神と融合した。この最後の法事の際には墓地に榊などの生木の塔婆を立て、これが根付くとカミになった証として喜ばれた」
(※ 『学術の動向』2002年4月)

 とても示唆深い説明でした。ヒトと自然との関係について、氏神を媒介に、永続的に循環するシステムが組み込まれていることがわかります。

 ヒトは誰しも生きて、死んでいきますが、死後の弔いはその子孫によって行われます。

 死後の弔い方法について、宮家氏は、「33回忌の弔いあげを終えると、カミとなって氏神と融合」し、「最後の法事の際には墓地に榊などの生木の塔婆を立て、これが根付くとカミになった証として喜ばれた」と説明しています。

 この説明の中には、ヒトが生まれたところで生き、そして、死んでいき、死後も子孫をはじめ地元で見守ってもらえるというインクルーシブな考えが見られます。その中心になっているのが、鎮守のカミであり、鎮守の森(杜)なのです。

 そういう考え方を知って、改めて、神社の入り口に掲げられていた提灯に書かれていた「鎮守御祭禮」を思い返してみると、氏神と氏人との祭礼こそが、連綿と続いてきたヒトと地域社会を安定させるシステムとして機能してきたのではないかという気がしてきました。

 そこに、ヒトを安心させ、地域を安定させる思考が反映されているからこそ、神社が地域社会の人々の精神的ハブであり続けたのでしょう。

 そして、無自覚のまま神社に集ってきた若者たちもまた、無意識のうちにこのインクルーシブな考えに引き込まれ、安心感を得ていたのではないかという気がしてきたのです。

 グローバル資本主義体制下では、技術主導で社会が目まぐるしく変化していきます。AI主導で社会が運営されるようになると、これまでの仕事の多くはなくなってしまうことが予測されています。そんな中、長い未来を抱えて生きていかなければならない若者ほど不安感は強く、精神の拠り所を求めざるをえないのでしょう。

 大晦日から元旦にかけて見聞したいくつかのシーンを通し、私は、今こそ、生きていくための精神的ハブが必要とされているのではないかと思いました。そして、小さな地元の神社こそがその役割を果たすのではないかという気がしてきたのです。それは、神社を媒介とし、ヒトと自然が循環していたかつての仕組みの中に、持続する社会の根本原理があると思えたからでした。

 2021年、明けましておめでとうございます。

 今年もどうぞよろしくお願いいたします。(2021/01/02 香取淳子)

2020年、明けまして、おめでとうございます。

■富士山は日本一の山
 昨年12月初旬、羽田空港から伊丹空港に向かう途中、右手に富士山が見えました。慌ててスマホを取り出し、撮影したのが下の写真です。


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 冠雪した富士山は、みごとなまでに華麗でした。しかも、山頂から裾野に向けて広がる稜線には、雄々しさが感じられます。限りなく美しく、威厳がありました。改めて、富士山は日本一の山だと思いました。

 富士山は日本の象徴といわれてきましたが、それは、美しく、威厳のある姿に日本社会を彷彿させるものがあったからでしょう。撮影した富士山を手にしているうちに、ふと、日本の持つ美しさについて、思いを巡らせてみたいという気になりました。

 そうこうしているうちに、もう大晦日です。

 年越しそばを食べ、夜もすっかり更けてくると、そのうちに近くのお寺から除夜の鐘が響いてきます。静けさの中で、心に染み入るように深く、ゆっくりと響く鐘の音です。聞いていると、これもまた日本の美しさの一つといえるのかもしれないと思えてきます。

■除夜の鐘、お焚き上げ
 除夜の鐘を聞くと、どういうわけか、いつも、気持ちが洗われるような気になってしまいます。一年を振り返り、不愉快に思ったこと、失敗したこと、後悔するようなこと、心の隅に溜まった澱のようなもの一切合切を、この鐘の音がゆっくりと洗い流してくれるような気持ちになっていくのです。

 すでに12時を過ぎ、新年を迎えています。

 寒い中、鐘の音の誘われるように家を出て、お寺とは反対方向の神社に向かいました。

 大勢の人々が、参拝のために並んでいます。


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 参拝者には、甘酒がふるまわれていました。
私も一杯いただきましたが、口にした途端、たちまち身体中が温まっていくのを感じました。甘酸っぱい味わいが、大晦日のこの行事と結びついて記憶に残ります。

 甘酒を飲んで身体の内部が温まりましたが、今度はお焚き上げの焚火で、身体の外部も温められました。神社の境内で、パチパチと軽い音を立てながら、火の粉を散らしながら、勢いよく火が燃えあがっていました。


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 ここで、去年のお札やお守り、正月飾りなどが焼却されているのです。
お焚き上げには、浄火によってそういったものを天に還すという意味があるそうです。そういえば、燃え盛る炎は、天に向かってめらめらと高く昇っていました。

 炎にはどうやら、ヒトの心を強く揺さぶる力があるようです。じっと見ていても、決して飽きることがありません。それどころか、見つめているうちに、次第に内省的になっていくのを感じます。ゆらめく炎の奥に、来し方行く末を思わせる何かが潜んでいるようでした。

 ヒトは老い、やがて死んでいきます。残された人生をどう生きていくか、日々、心にとどめて暮らしていこうという気になりました。

■元旦のとげぬき地蔵
 今年の元旦はとげぬき地蔵に行ってみることにしました。巣鴨地蔵通り商店街は、かつて「おばあちゃんの原宿」といわれたところです。


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 久しぶりに商店街を歩いてみると、意外にヒトが少なく、驚きました。以前、来たときは混み合っていて、歩くのも大変でしたが、今回はかなり余裕があります。


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 しかも、一目で高齢者とわかる人々の数が大幅に減って、若者、家族連れ、中高年夫婦などが目立ちました。もはや「おばあちゃんの原宿」とはいえなくなっているのです。考えてみれば、「原宿」という言葉もいま、どれだけブランド価値があるのか疑問です。時代の移り変わりの速さには驚くばかりです。

 さて、とげぬき地蔵のある「高岩寺」に着きました。


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 高岩寺は巣鴨にある曹洞宗のお寺で、本尊は地蔵菩薩です。この地蔵菩薩は秘仏なので、その代わりに、その姿を掘った御影が境内に置かれています。参拝に来た人々はこの御影に祈願すると、ケガや病気などの平癒に効験があるとされています。

 私は境内で販売されていた石の小さなお地蔵さんを買いました。


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 赤い帽子に赤い涎掛けを付けています。その涎掛けには「御願い地蔵さん」と書かれており、背面には「御願いかなう 御願い地蔵さん」と書かれたシールが貼られていました。

■車内で見かけた高齢者
 帰る途中、地下鉄の車内で、隣に座った女性が、新聞の切り抜きに鉛筆でなにやら書いているのに気づきました。不思議に思って、ちらっと見てみると、なんと数独パズルをしていたのです。80歳は過ぎているでしょう、真剣な面持ちで鉛筆を握っています。再び、覗いてみると、「中級」と書かれています。


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 すでにいくつか数字が書き込まれていますが、とても難しそうです。

 帰宅してからネットで調べてみると、数独の解き方の映像があることがわかりました。中級の解き方のテクニックについての動画をご紹介しておきましょう。

こちら →https://youtu.be/xPvR6UsuW1w

 ちょっと見ただけでも、かなり難しそうです。地下鉄の電車内で見かけた女性は、脳トレのつもりで数独パズルを解いていたのでしょうか。

 電車を乗り換えて座った席の隣も、高齢女性が座っていました。こちらは真剣な表情でスマホに文字を打っています。ちらっと画面を見ると、「あけおめ」と書かれていました。どうやら年賀状のようです。びっくりしてしまいました。どうみても、70歳以上の女性です。それなのに、若者用語を使って、年賀用のメールを送信しているのです。孫宛に送っていたのかもしれませんが・・・。

 何か、大きな変化が起きつつあるのでしょうか。

■エイジレス社会に向けた動向か?
 高齢者の人口が増えるにつれ、日本社会はいつのまにか、高齢者の動向に左右されるようになっています。時代の動向は、技術、人口のマジョリティ層、社会体制などによって影響されますが、日本の場合、人口のマジョリティ層は高齢者で、今後さらに増加していきます。

 高齢者が少数ではなく、マジョリティになってしまった今、もはや特別扱いされることは少なくなってきました。老いても、自助努力が求められるようになっているのです。

 実際、元旦なのに、巣鴨とげぬき地蔵商店街では、明らかに高齢者とわかる人々の数が減っていました。また、帰りの電車内で見かけた高齢者はいずれも、まるで若い世代のような行動を取っていました。高齢者はもはや、いわゆる「高齢者」のままのんびりとは生きていけなくなっているのでしょうか。

 一方、大晦日には、数多くの若者たちが近くの神社に参拝に訪れ、お焚き上げを見守っていました。ここでは高齢者の姿は少なく、意外な気がしました。深夜で冷え込んでいたからでしょうか、やって来る高齢者がいたとしても甘酒を手にしたら、早々に引き上げていたのです。

 大晦日と元旦、たまたま、神社と電車内で見かけた光景はどちらも、私には意外なものでした。人々はもはや、高齢者だから、若者だからといった年齢意識に拘らず、自分にとって必要と思われる行動をとり始めているように思えました。技術革新によって、さまざまな障壁が壊されてきていますが、いよいよエイジレス社会に進みつつあるような気もします。今年はいったい、どのような年になるのでしょうか。

 今年も、どうぞよろしくお願いいたします。(2020/1/1 香取淳子)