ヒト、メディア、社会を考える

2019年

聴覚障碍者は、パラリンピックに出場できない…?

■パラリンピックに参加できない聴覚障碍アスリート

 パラリンピックについて調べていると、「パラリンピックと聴覚障害者」というタイトルの記事を見つけました。ネットでは珍しく、縦書きで書かれていたので興味を覚え、つい、目を走らせてしまいました。

 ご紹介しましょう。

こちら →http://www.asiawave.co.jp/bungeishichoo/bsessay/1434.pdf

 この記事の第2段落目で、次のような文章が書かれていました。

 「ところで、世界のさまざまな障碍者が一堂に集い、熱戦を繰り広げるスポーツの祭典パレリンピックではあるが、パラリンピック委員会から参加の認められていない障害があることを、世間は承知しているのだろうか。私は還暦がすぎた聴覚障碍者の老いぼれ。子供の頃から病弱でスポーツは何をしても下手でプロ野球やオリンピックをテレビ観戦する程度の関心しかもたないまま、いつのまにか人生を振り返る年代になった。こんなスポーツとは無縁な私だが、パラリンピックに聴覚障碍者の参加が認められていないことに、疑問の思いを述べたい。」

 なんと、聴覚障碍者は、パラリンピック委員会から大会への参加を認められていないというのです。そんなことがあるとは思いもしませんでしたから、私はすっかり驚いてしまいました。

 この文章をネットに投稿したのは、聴覚障碍者の徳安利之氏でした。文中では、「還暦がすぎた聴覚障碍者の老いぼれ」と書かれています。

 徳安氏はさらに、次のように文章を続けています。

 「2000年開催のシドニーパラリンピックから、開会式の様子を注視して来たが、前回のロンドンパラリンピックでも聴覚障碍者の競技の参加がなくて疎外感と失望で、残念に思いながら開会式の様子をテレビで眺めていた。世界の様々な身体障碍者アスリートが全く参加していないことに気付き、是正を呼びかける人が、政府やパラリンピック委員会や各スポーツ関係者にはいないのだろうか。」

 近年のパラリンピック大会を見るたびに、聴覚障碍者が参加していないので、疎外感と失望感を覚え、沈み込んでいたというのです。

 そして、徳安氏は次ぎのように文章を締めくくっています。

 「せめて2020年の東京大会では聴覚障碍者アスリートも参加した、全ての障碍者が一堂に集う、まことの障碍者のスポーツの祭典パラリンピックになることを願っている。」

 徳安氏はここ10年来、複雑な思いでパラリンピック大会を見てこられたのでしょう。そして、60歳を過ぎてもまだ、パラリンピック大会に出場できない聴覚障碍者の現状を見て、老いにムチ打ち、ネットに投稿しました。より多くの人々に現状を知ってもらいたかったのでしょう。

 聴覚障碍者がなぜ、出場できないのか、それなのに、なぜ、誰も、出場できるように動き出さないのかと、徳安氏は疑問を投げかけているのです。文面からは悲痛な思いが伝わってきます。

 いったい、何故、聴覚障碍者たちはパラリンピック大会に参加できないのでしょうか。さっそく、調べてみることにしました。

■国際パラリンピック委員会と国内外の聴覚障碍者団体

 まず、日本パラリンピック委員会(以下、JPC)のHPを見てみました。すると、2019年度日本パラリンピック委員会加盟競技団体の名簿には、一般財団法人全日本ろうあ連盟スポーツ委員会をはじめ、21もの関連団体名が記載されていました。

こちら →https://www.jsad.or.jp/paralympic/jpc/data/2019/2019jpc_group_190716.pdf

 そして、JPCの運営委員会の委員名簿にも、一般財団法人全日本ろうあ連盟スポーツ委員会・委員長の名前がありました。

こちら →https://www.jsad.or.jp/paralympic/jpc/pdf/jpc_member_190621.pdf

 上記二つの名簿からは、全日本ろうあ連盟スポーツ委員会等の聴覚障碍者団体がJPCに参加していることがわかります。

 ところが、JPC強化委員会、JPCアスリート委員会の名簿には聴覚障碍者団体に該当する名前がありません。聴覚障碍者団体はJPC加盟競技団体に加盟し、その運営委員会にも参加しているのに、肝心の選手の強化等の委員会には参加していないのです。このことからは、団体として、一般財団法人全日本ろうあ連盟スポーツ委員会はJPCに参加しているのに、アスリートは参加していないことがわかります。

 一体、どういうことなのでしょうか。

 そこで、さきほどのJPCの画面を下方にスクロールすると、国際組織・国際障碍別競技団体の項目に移動します。

■JPCに加盟していない、ICSD国際ろう者スポーツ委員会

 この項目では、次のようなスポーツの国際組織や団体が紹介されていました。

 IPC国際パラリンピック委員会をはじめ、IWAS国際車いす・切断者スポーツ連盟、CPISRA国際脳性麻痺者スポーツ・レクリエーション協会、IBSA国際視覚障碍者スポーツ連盟、Inas国際知的障碍者スポーツ連盟、ICSD国際ろう者スポーツ委員会、APCアジアパラリンピック委員会など7団体です。ここには聴覚障碍者団体も記載されていました。

こちら →https://www.jsad.or.jp/paralympic/jpc/index.html

 各団体のJPCへの加盟状況を見ると、ICSD国際ろう者スポーツ委員会以外の6団体はすべてJPCに加盟しています。

 ところが、ICSD国際ろう者スポーツ委員会だけは、JPCには加盟せず、日本ろう者スポーツ協会に加盟しているのです。そして、概要欄には、「聴覚障がい者のスポーツを統括する団体。1924年発足。1995年、IPC脱退」と書かれていました。

 なにやら複雑な事情がありそうです。

 そこで、一般財団法人全日本ろうあ連盟スポーツ委員会のHPを見てみました。すると、何故、パラリンピックに参加しないのか、その理由が書かれていました。

こちら →https://www.jfd.or.jp/sc/deaflympics/games-about

 これを見て、ようやく聴覚障碍者がパラリンピック大会に参加できない理由がわかりました。一言でいえば、ICSD国際ろう者スポーツ委員会が国際パラリンピック委員会に参加していないからでした。ICSD は1995年に脱退したまま、今に至っています。だから、聴覚障碍者はパラリンピック大会に参加できないのです。

 それでは、いったい何故、ICSD国際ろう者スポーツ委員会は国際パラリンピック委員会を脱退したのでしょうか。

 それを調べる前に、まず、一般財団法人全日本ろうあ連盟のHPを見てみました。すると、理事長名で「2020オリンピック・パラリンピックの東京開催決定について」という文書が掲載されているのがわかりました。

こちら →https://www.jfd.or.jp/2013/09/10/pid11306

 興味深いのは、「聴覚障害者のオリンピックであるデフリンピックも4年毎にパラリンピックと同様、あらゆる人民の平等で平和な社会を理念に掲げており、今回の東京開催決定は誠に嬉しい限りです」と書かれていたことです。

「聴覚障害者のオリンピックであるデフリンピックも4年毎にパラリンピックと同様、あらゆる人民の平等で平和な社会を理念に掲げており」という文章からは、聴覚障碍者には「デフリンピック」という独自の国際スポーツ大会があり、それがパラリンピックと同等の位置づけになっていることがわかります。

 どうやらデフリンピックの存在が、聴覚障碍者がパラリンピックに参加できないことに関係していそうです。

 それでは、デフリンピックとはいったい、どのような競技大会なのでしょうか。

■ろう者のためのオリンピック

 調べてみると、聴覚障碍者を対象にした国際スポーツ大会がすでに、パラリンピック以前に存在していました。それが、CISSです。

 CISSとはフランス語の“Comité International des Sports des Sourds”の略で、「国際ろう者競技大会」という名称です。1924年8月24日にパリで設立された当初、この名称でスタートしました。その後、何度か改称されましたが、今でもこの名称が英語表記ICSD(International Committee of Sports for the Deaf)と併記されています。

こちら →https://www.jfd.or.jp/sc/deaflympics/icsd-constitution

 ところが、この組織は1967年に世界ろう者競技大会(World Games of the Deaf)に名称変更し、2001年5月11日、国際オリンピック委員会(IOC)の承認を得て、「デフリンピックス(Deaflympics)」と改称し、現在に至っています。

「デフリンピックス」(Deaflympics)という名称は、「ろう者(Deaf)+オリンピック(Olympics)」の造語で「ろう者のオリンピック」という意味を表しているといいます。

■デフリンピック、パラリンピック、スペシャルオリンピック

 国際オリンピック委員会が、「オリンピック」という名称の使用を許可しているのは、デフリンピック(Deaflympics)、パラリンピック(Paralympics)、スペシャルオリンピック(Special Olympics)だけです。

 この3つのうち、スペシャルオリンピックはこれまで一度も聞いたことがありません。そこで、調べてみると、スペシャルオリンピックとパラリンピックを比較した説明がありました。

こちら →http://media.specialolympics.org/soi/files/press-kit/SO-andPARALYMPICS_2014_FactSheet_Final.pdf

 これを読むと、スペシャルオリンピックスが、知的障害のある人々のためのスポーツ大会であることがわかりました。さまざまなレベルの選手が参加することができるそうです。技能を競い合うというより、互いを受け入れ、包み込み、尊重し合うコミュニティの形成を目的とした国際スポーツ大会のようです。

 一方、パラリンピックへの参加者は、切断者(身体の一部が切断された者)、脳性麻痺、知的障害、視覚障害、脊髄損傷などに限定されており、厳しい資格審査を経て、ようやく参加することができます。

 障碍者とはいえ、高い技能と実績を持つアスリートたちが競い合う場として、パラリンピックは設定されています。ですから、アスリートは競技ごとに、障碍の部位や程度によって、厳密にクラス分けされます。厳格な基準やルールを設定することで、公平性を帰しているのです。

 こうしてみてくると、エリートアスリートたちが、厳しい鍛錬の下、自己ベストを尽くし、メダルを競い合うのがパラリンピックだといえます。

 オリンピックが健常者の国際スポーツ大会だとすれば、デフリンピック、パラリンピック、スペシャルオリンピックはそれぞれ障碍者の国際スポーツ大会なのです。この三者は障碍の部位、その性質によって区分けされており、それぞれ独自の基準とルールが設けられています。

 改めて、三つの国際障碍者スポーツ大会の設立時期をみると、最も早いのが聴覚障碍者を対象にしたデフリンピックで1924年、その次がパラリンピックで1960年、そして、知的障碍者を対象にしたスペシャルオリンピックスが最も遅く、1968年にスタートしました。

 一口に障碍者といっても、パラリンピックの対象者である車いす・切断者、脳性麻痺者、脊髄損傷者、視覚障害者などは、外見で障碍者であることがすぐわかります。ところが、デフリンピックの対象者である聴覚障碍者、スペシャルオリンピックの対象者である知的障碍者は、外見ではなかなか判断できないところがあります。

 このように見てくると、国際オリンピック委員会が3つの組織にオリンピックの名称使用を認めたのは、障碍者をひとくくりにはできず、それぞれ独自の設定が必要だということがわかります。

■障碍の違い

 デフリンピックは、最も早く組織された国際スポーツ大会でした。聴覚障碍者は外見からは障碍者であることがわかりにくく、そのために周囲から誤解されやすく、援助を受けにくく、孤立しやすかったからかもしれません。同じような悩みを持つ人々がスポーツをきっかけに集い、心身機能を向上させるとともに、聴覚障碍者独自のコミュニティを築き上げる必要があったのでしょう。

 国際スポーツ大会を励みに日々、鍛錬すれば、身体機能を強化できますし、達成感、心理的解放感を得ることもできます。スポーツ大会を通して聴覚障碍者の存在が多くの人々に知られるようになれば、誤解を防ぎ、待遇改善を期待することもできるでしょう。さらには、聴覚障碍者が相互に連携し合える環境を整備することもできます。

 次いで組織化されたのが、パラリンピックでした。こちらは、一目で障碍が明らかな人々を対象にした国際スポーツ大会です。元はと言えば、戦争や事故で身体に損傷を負った人々のリハビリテーションとして行われました。スポーツをすれば、身体機能が改善されますし、気持ちの発散にもなります。スポーツを通して、肯定的に自分を捉えることができるようになれば、社会参加も可能になります。

 最も遅く組織化されたのが、知的障碍者を対象にしたスペシャルオリンピックでした。こちらは、外見では障碍が判別しにくく、しかも、どちらかといえば、自身で苦境を表現しにくい人々です。

 私はこれまでスペシャルオリンピックという言葉を聞いたことがありませんでした。とりあえず概略だけでも知っておこうと思い、HPを開いてみました。活動内容に関するページを開いてみると、意外なことがわかりました。

こちら →https://www.jidaf.org/blank-5

 知的障碍者は、スペシャルオリンピックという独自の大会があるにもかかわらず、パラリンピックに参加していました。2000年のシドニー、2012年のロンドン、2016年リオ、そして、2020年東京といった具合に、競技種目は少ないとはいえ、パラリンピックに出場しているのです。

 先ほどもいいましたように、Inas国際知的障碍者スポーツ連盟は、JPCに加盟しています。ですから、知的障碍アスリートたちはパラリンピック東京大会にも参加することができるのです。

 そもそも、パラリンピックがオリンピックと同時開催されるようになったのが、1960年です。以来、3つの障碍者スポーツ大会の中で、パラリンピックに対する人々の認知度は群を抜いて高くなっています。そこに出場できるか否かはアスリートたちの気持ちの持ち方にも大きく影響してくるでしょう。

 知的障碍者は、スペシャルオリンピックに参加する一方で、パラリンピックにも参加していました。パラリンピックにも出場できるようにすることによって、アスリートたちのモチベーションはあがりますし、社会から認知されやすくもなります。Inas国際知的障碍者スポーツ連盟は、知的障碍者の出場機会を増やしていたのです。

 一方、ICSD国際ろう者スポーツ委員会は、聴覚障碍者独自の基準、ルール、環境設定の下、独自の国際スポーツ大会を行ってきました。パラリンピックの認知度が高くなってきても、デフリンピックにこだわっているのです。

 外見からは障碍の度合いを判別しがたいのが、聴覚障碍者と知的障碍者ですが、パラリンピックとの関係については、知的障碍者団体の方が柔軟に対応しているように見えます。

■シドニー大会での事件

 知的障碍者がパラリンピックに参加しているのを知って、私は驚いたのですが、実際は、2000年のシドニー大会から2012年のロンドン大会までの12年間、一度もパラリンピックに参加していませんでした。

 なぜ、シドニー大会からロンドン大会まで12年間もの空白があったのでしょうか。

 調べてみると、シドニー大会で不正があったからだそうです。

こちら →https://blog.canpan.info/nfkouhou/archive/632

 バスケットで出場したスペインの知的障碍者チームの中に、複数の健常者を紛れ込んでいたといいます。外見では障碍の度合いが判別できないので、そのようなことが起きたのですが、その結果、このチームは金メダルを獲得してしまいました。

 この一件が発覚してからというもの、不正を犯したスペインチームの金メダルがはく奪されただけではなく、知的障碍者全体がパラリンピックに参加できなくなってしまいました。以後、12年間もパラリンピックに参加できない状態が続いたのです。

 それでは、知的障碍者とはどういう障碍を持つ人々なのでしょうか。HPを見ると、以下のように説明されています。

こちら →https://anisa.or.jp/

 これを読むと、法律的な定義はないものの、知的能力に障がいがあり、何らかの支援を必要とする人々とされています。

 定義が曖昧なように、知的障碍者は、外見では健常者との区別がつきにくいのが特徴です。それだけに、スペインチーム事件のような不正も起こりやすく、障碍者スポーツ大会の公平性をどう担保するかが重要になってくるのでしょう。

■パラリンピックの厳格な基準

 JPAでは以下のような基準を設けています。

こちら →https://jaafd.org/sports/basic-knowledge

 障碍の程度を4種類に分け、緑を健常者とし、赤(重度)、橙(中等度)、黄(軽度)といった具体に、色で判別しています。そして、クラス分けイメージ図によって、競技種目、障碍の部位と程度がわかるように色分けされています。

パラリンピックHPより

 上記の図では「T」か「T/F」というアルファベットがありますが、これは、「T」がTrackすなわち、走競技あるいは跳競技を指し、「F」がFieldすなわち、砲丸投げなどの投てき競技を指しています。

 そして、10桁の数字は障碍の種類、1桁の数字は障碍の程度を示し(数字が小さいほど軽度)、身体を部位に沿って分割された図は障碍の場所と程度を示しています。

 これを見ると、いかにきめ細かく障碍の程度、クラス分けが行われているかがわかります。障碍者の国際スポーツ大会だからこそ、このように厳密に公平性を組み込んでいるのです。

こちら →https://jaafd.org/pdf/top/classwake_qa_rr.pdf

 そう考えてくると、聴覚障碍者団体がパラリンピックに参加しようとしないのは、障碍の内容に関した理由があるのかもしれないという気がしてきます。

 ちなみに2019年の冬季デフリンピックはイタリアで開催されました。

こちら →https://www.jfd.or.jp/sc/vv2019/arc/3697

 これを見ると、非常に活発で、しかも、その内容が充実しています。ICSD国際ろう者スポーツ委員会が、聴覚障碍者のための国際スポーツ大会を完成度高く挙行できていることに驚かざるをえません。

■デフリンピックの独自性

 全日本ろうあ連盟スポーツ委員会の説明によると、1989年に国際パラリンピックが発足したとき、ICSD国際ろう者スポーツ委員会も加盟していたそうです。ところが、1995年にIPCを脱退してしまいました。デフリンピックの独創性を追求するためだったと説明されています。

 気になるのが、「独創性」ですが、全日本ろうあ連盟スポーツ委員会は、デフリンピックの独創性として、次の諸点をあげています。

① コミュニケーション全てが国際手話によって行われ、競技はスタートの音や審判の声による合図を視覚的に工夫する。それ以外はオリンピックと同じルールで運営される。

② パラリンピックがリハビリテーション重視の考えで始まったのに対し、デフリンピックはろう者仲間での記録重視の考えで始まっている。

 すなわち、①聴覚障碍者に特化したコミュニケーション様式、試合運び、②聴覚障碍者同士の切磋琢磨、等々がデフリンピックの条件であり、目標とされているのです。こうした「独創性」を理解するには、デフリンピックとは何かということを知っておく必要があるでしょう。

 全日本ろうあ連盟スポーツ委員会は、デフリンピックについて次のような説明をしています。

 「身体障碍者のオリンピック(パラリンピック)に対し「デフリンピック」は、ろう者のオリンピックとして、夏季大会は1924年にフランスで、冬季大会は1949年にオーストリアで初めて開催されています。障害当事者であるろう者自身が運営する、ろう者のための国際的なスポーツ大会であり、また参加者が国際手話によるコミュニケーションで友好を深められるところに大きな特徴があります」

https://www.jfd.or.jp/sc/deaflympics/games-aboutより)

 これを読むと、デフリンピックは聴覚障害のレベルに応じて企画されたスポーツの祭典であり、聴覚障碍者たちの相互交流の場であることがわかります。

 もちろん、参加資格もそれに沿ったものでした。

 デフリンピックへの参加資格として、国際ろう者スポーツ委員会は、①音声の聞き取りを補助するために装用する補聴器や人工内耳の体外パーツ等をはずした裸耳状態で、聴力損失が55デシベルを超えている聴覚障碍者、②各国のろう者スポーツ協会に登録している者、等々としています。

 また、いったん競技会場に入ったら、練習時間か試合時間かに関係なく、補聴器等を装用することは禁止されています。国際ろう者スポーツ委員会によると、これは、選手同士が耳の聞こえない立場でプレーするという公平性を担保するという観点から、設定されたそうです。

 こうしてみてくると、聴覚障碍者がパラリンピックに参加しないのは、国際ろう者スポーツ委員会が聴覚障碍者の立場に立って、総合的に判断した結果によるものだということがわかります。

 聴覚障碍者がパラリンピック委員会から排除されているのではなく、国際ろう者スポーツ委員会の考えの反映だったのです。聴覚障碍者の独自性、主体性を尊重して、国際スポーツ大会を運営していこうとすれば、デフリンピックにこだわらざるを得ないのでしょう。

■聴覚障碍者にとってのパラリンピック、デフリンピック

 冒頭でご紹介したように、聴覚障碍者もパラリンピックに参加してほしいという要望はあります。パラリンピックの認知度が高まれば高まるほど、各国でそのような願いは出てくるでしょう。

 興味深いことに、2012年のロンドン大会ではごく少数ですが、オリンピックあるいはパラリンピックに出場した聴覚障碍者がいました。

 英国ガーディアン紙は2012年7月6日、次のような記事を掲載しています。

こちら →https://www.theguardian.com/commentisfree/2012/sep/06/paralympic-games-deaf-athletes

 この記事では、2012年のロンドン大会にはごく少数の聴覚障碍者が出場したと報じられています。パラリンピックには聴覚障碍者に対応した種目がなく、本来は出場できないはずですが、別の障碍枠でパラリンピックに出場したのです。

 記事全体を読んでわかることは、聴覚障碍者は、他の障碍(脳性麻痺など)がある場合、その障碍種目でパラリンピックに出場できますし、補聴器を装着すれば、オリンピック種目で出場することができるということでした。

 世界ろう者スポーツ委員会委員長の クレイグ・クローリー氏は、国際パラリンピック委員会には新たな障害者を参加させる仕組みがないので、聴覚障害者が出場できるようにしようとすれば、新たな分類を追加しなければならないと述べています。

 もちろん、試合運びの基準やルールなども大幅に異なります。

 たとえば、デフリンピックでは、号砲ではなく閃光のような視覚的合図を使い、レフェリーは笛ではなく旗を使うといいます。デフリンピックではろう者に合わせた道具や技術を使用しているのです。

 また、大多数のアスリートと観客の間の主要なコミュニケーション手段として、手話を使うといいます。さらに重要なことは、デフリンピックは、さまざまなレベルの聴覚障碍があるアスリートが、障碍の程度に応じた基準の下、平等に競争できるようにしているとクローリー氏はいいます。

 この記事を読んで、障碍者の国際スポーツ大会で公平性を担保するのがいかに難しいかがわかるような気がしてきました。デフリンピック、パラリンピック、スペシャルオリンピックと三種の大会が設定されているのは、過去のさまざまな経験、障碍者にとっての利便性などを踏まえた結果なのでしょう。

 それでも、聴覚障碍者もパラリンピックに参加してほしいという要望が強かったのでしょうか。東京パラリンピックには一部聴覚障碍者スポーツも参加するという噂が立っていたようです。

 それを正式に否定したことになるのが、IPCの次の文書でした。

こちら →https://www.paralympic.org/news/ipc-statement-regarding-deaf-sports-and-paralympic-games

 当時IPC会長であったフィリップ・クレーブン氏の言動が誤って引用されたとし、2013年10月19日付で、IPCは上記のような訂正文をHPに掲載しています。

 「現在、パラリンピック競技大会にろう選手を含めるための計画やスケジュールはありません」という文書を掲載したページが今なお消去されていないので、2020年パラリンピックも聴覚障碍者の種目はないということになります」

 さらに調べていくと、ネットに次のような記事が掲載されていました。

こちら →https://www.japantimes.co.jp/news/2018/10/04/national/social-issues/deaf-community-looks-bring-olympics-japan-2020/#.XgRfr0f7RPY

 2018年10月4日付の“The Japan Times”がニュースとして、「聴覚障碍者団体は2020年後、日本でのデフリンピック大会の開催を」という見出しの記事を掲載していました。

 私が興味深いと思ったのは、全日本ろうあ連盟スポーツ委員会 事務局長 倉野直紀氏の見解でした。

 倉野氏は全日本ろうあ連盟がデフリンピック大会を日本で開催できるよう働きかけを行っていくというのです。具体的には2025年に夏のデフリンピックに照準を合わせ、日本での開催に向けてキャンペーンを展開していくといいます。

 私は記事の中の、この箇所を読んで、とても素晴らしいと思いました。障碍内容の異なるパラリンピックに参加しようとするのではなく、デフリンピック大会を盛り上げ、認知度を高めていこうとしているのです。

 2025年といえば、国際聴覚障碍者大会が開催された1924年のほぼ100年度に当たります。その記念すべき年に日本でデフリンピックを開催し、聴覚障碍者の存在をアピールしていくというのです。そのアイデアに、とてもポジティブなものを感じました。

 異なる存在を異なるがままに受け入れられるようにするには、できるだけ多くの人々に知ってもらい、理解してもらうための発信力と積極的な姿勢が欠かせないと思います。(2019/12/29 香取淳子)

1964年東京オリンピックで生み出され、普及したピクトグラム

■ブルーインパルスが描いた五輪マーク

 2019年11月3日、入間航空祭が開催されました。出かけてみると、自衛隊入間基地のある稲荷山公園駅には臨時改札口が設けられており、大勢の人々がまるで飲み込まれていくかのように、そこから次々と基地内に入っていきました。例年は20万人ほどがここを訪れますが、曇天のせいか、今年はいつもより少なめでした。それでも、翌日の新聞を見ると、入場者数は12万5千人だと報じられていました。

 雨が降りそうな気配でしたが、ブルーインパルスの展示飛行は予定通り、13:05から14:05まで行われました。例年のように、青空を背景にくっきり見えるというわけにはいきませんでしたが、大空を駆け抜ける操縦術のすばらしさ、低空飛行の迫力はいつも通りでした。

 振り返ってみれば、1964年10月10日、この入間基地から、ブルーインパルスの飛行部隊はオリンピックの祝賀飛行のために飛び立って行ったのです。戦後復興から間もない時期でした。日本が国力を総動員して臨んだのはいうまでもありません。開会式のアトラクション飛行もその一つでした。発足してまだ日の浅いブルーインパルスが、大空を舞台に華麗な飛行技術を世界中に見せつけ、驚かせたのです。機体はF-86F戦闘機でした。


(航空自衛隊HPより)

 1964年10月10日午後2時半、ブルーインパルスのメンバーたちは、入間基地から離陸し、湘南上空でいったん待機してから、国立競技場に向かいました。開会式の進行に合わせ、時間調整をしていたのです。そして、聖火ランナーが入場すると、予定通り、5機の編隊は機体の後尾から青、黄、黒、緑、赤色のスモークをはき出し、快晴の大空に鮮やかな五輪のマークを描き出しました。


(2018年3月28日、ガジェット通信より)

 この写真ではスモークが白く見えますが、実際は五輪マークに合わせ、5色のスモークが使われていました。五機がそれぞれ着色されたスモークを吐き出しながら、一定の間隔で輪を描いていくと、30秒後には、東西6㎞以上にわたって五つの輪が大きく広がっていくという仕掛けでした。

 五機が一定の間隔で円を描くという飛行は、当時、極めて難しかったそうです。ブルーインパルスの部隊は、開会式に向けて何度も練習しながら、一度も満足に円を描くことができなかったといいます。ところが、本番になると、まるで奇跡が起こったかのように大きな円が5つ、五輪マークと同じように円の一部が相互に重なり合って、大空に描き出されました。苦労が報われる、素晴らしい出来栄えでした。

 これほど壮大なアトラクションはオリンピック史上、初めてでした。しかも、この開会式は世界に向けてテレビで生中継されていましたから、ブルーインパルスによる快挙はリアルタイムで、世界中の人々に知られることになったのです。

 ブルーインパルスは1960年、浜松北基地(現在、浜松基地)の第1航空団第2飛行隊内に、「空中機動研究班」として設置されました。それが、4年目にはオリンピックという晴れ舞台で、日本人の機体操縦術の高さを国内外に見せることに成功したのです。

 青空を背景に大きく描かれた五輪マークは、国境を越え、民族を超え、人々の心に刻み込まれました。シンプルな絵柄がどれほどイメージ喚起力に優れているか、それは、1964年オリンピックの大会ロゴも同様でした。

■1964年のオリンピック大会ロゴ

 1959年5月26日、第55次IOC総会で、東京が1964年のオリンピック開催地として選出されました。開催が決定されると、すぐさま「東京オリンピック組織委員会」が設置され、国家プロジェクトとしての取組みが始まりました。

 興味深いのは、1960年春早々に、デザインプロジェクトが開始されたことでした。美術評論家の勝見勝氏を座長に、デザイン界の重鎮11名を構成メンバーとするデザイン懇談会が組織されたのです。

 そのデザイン懇談会によって、1960年6月に大会ロゴの指名コンペが行われ、約20案の中から選ばれたのが、グラフィックデザイナーの亀倉雄策氏が制作した「日の丸」でした。


(Wikipediaより)

 日の丸を大きく描き、その下に金色の五輪マーク、「TOKYO 1964」と三層構造でレイアウトしたデザインです。飾り気がなく、シンプルで明快なデザインですが、赤と金色の配色が華やかで、しかも、厳かな印象を与えます。時間を経ても古びることのない、究極の美しさが表現されています。

 亀倉雄策氏はこのデザインについて後に、「考えすぎたりしないように気をつけて作ったのが、このシンボルです。日本の清潔さ、明快さとオリンピックのスポーティな躍動感を表してみたかったのです」(「オリンピックメモリアルVOL.2」より)と語っています。

 亀倉氏の思いの詰まったこのロゴは、オリンピックに向けた国民の意思統一に大きな役割を果たしました。シンプルでわかりやすいデザインが、戦後復興を経て、新たな日本を構築しようとしていた日本人の気持ちをまとめ、力強く鼓舞していったのです。

 時を経て、国境を越えて、このデザインはヒトの心を捉えて離さない力を持っていました。

 アメリカのグラフィックデザイナーのミルトン・グレイザーは、歴代の大会ロゴの中でもとくに東京オリンピックの大会ロゴを高く評価し、100点満点中92点をつけています。

「注目すべきはそのバランスのとれた明快さだ。日本の国旗である昇る太陽を思わせる赤丸が金色の五輪の上に鎮座し、五輪の下にヘルヴェチカのボールドで「TOKYO 1964」と書かれている」と記し、このロゴの極限を追求した美しさを称賛しているのです。

こちら →

https://www.wired.com/2016/08/milton-glaser-rated-every-olympics-logo-ever-favorite/

 グレイザーは1924年のパリオリンピックから2022年の北京オリンピックまでの大会ロゴを評価しているのですが、80点から90点と評価したロゴは全体の一部でしかなく、ほとんどのロゴは酷評されています。

 初期のロゴについていえば、例えば、ベルリン大会(1936年)は「奇妙で焦点がない」、サンモリッツ大会(1948年)は「旅行パンフレットのように奇異だ」といった具合です。

 この記事を掲載した『Wired』の編集部は、グレイザーの評価内容について、「明らかに複雑すぎるものを嫌っている。彼にとって、よいオリンピックロゴの基準とは、明快さと意外性のバランスのようだ」と記しています。酷評された大会ロゴが多く、編集部としてはこのように書かざるをえなかったのでしょう。

 確かに、1964年東京大会ロゴへの高評価には、グレイザーの美意識、デザイン観が反映していたといえるでしょう。とはいえ、このロゴが長年、国内外で高い評価を得てきたことも事実です。それはおそらく、このロゴには、シンプルで明確にメッセージを伝える力が備わっているだけではなく、デザイン、レイアウト、色彩、それぞれがイメージ喚起力に優れ、ヒトの心に残るものが含まれていたからでしょう。

「日の丸」は、オリンピック大会を統一するロゴとしての条件を完璧に満たしていたのです。

■オリンピックのデザイン・ポリシー

 1960年5月7日から16日まで、世界デザイン会議が東京で開催され、27か国、二百数十名のデザイナーや建築家が参加しました。会議開催の中心メンバーは、勝見勝、亀倉雄策、丹下健三らでした。彼らは、各分野のデザイナーたちが、分野を超え、国境を越えてつながることのできる機会を設定したのです。若手デザイナーを啓発するためであり、日本のデザインを海外に知らせるためでもありました。日本の威信をかけて開催されたイベントだったのです。

 当時、デザイン界で名を馳せていたハーバート・バイヤー、ブルーノ・ムナーリ、ルイス・カーンなどもこの世界デザイン会議に参加していました。この会議を経て初めて日本で「デザイン」という言葉が市民権を得たほど、重要な会議でした。その後、分野を超えて、デザイナー相互の協調が推進され、1964年のオリンピックでそれが活かされました。

 世界デザイン会議の中心メンバーだった勝見勝氏は、1963年11月、オリンピック組織委員会の嘱託になり、正式にデザインワークの指揮を執ることになりました。1964年2月には組織委員会の総務課に「デザイン室」を設置し、実働部隊として若手デザイナー30名を招集しました。当時、『グラフィックデザイン』の編集長をしていた勝見氏は、個々のデザイナーの特性をよく把握しており、適材適所で人材を配置しました。そのおかげで、大きな成果をあげることができました。

 さらに、勝見氏は一連の仕事を進めるに際し、デザイン・ポリシーを徹底させて、統一感を図っていました。具体的にいえば、「エリア計画部会」「シンボル部会」「標識量産部会」などのプロジェクトに分け、書体、エリアカラー、ピクトグラム、標識などの基準を定めたデザインマニュアルを制定し、制作を進めていったのです。

 このデザインマニュアルは大会終了後、『デザイン・ガイド・シート』にまとめられました。

こちら →https://www.kosho.or.jp/products/detail.php?product_id=7215654

 これを見ると、東京オリンピック大会に必要な種々の情報を、的確に視覚伝達できるよう、デザイン業界が一丸となって、活動を展開していたことがわかります。

■デザインの社会的効用

オリンピックは、デザインの社会的効用を可視化できる絶好の機会でした。しかも、日本はアジアで初めての開催国です。デザイナーたちがこの機を逃す手はありません。先駆者としての意気込みに支えられて、さまざまな困難を乗り越え、ピクトグラムの作成していきました。

 戦争で350万人もの若壮年層が犠牲になっており、日本社会に大きな人口の空白地帯ができていました。当時、20代後半から30代の人々は、犠牲になった世代の肩代わりをしながら、戦後の復興を支えてきたのです。デザイン業界も同様でした。

 デザインワークに携わった若手デザイナーたちにはオリンピックを契機に、デザインの力で日本を復興させるという意気込みが充満していたのではないかと思います。

 彼らは貪欲に世界の情報を把握し、キャッチアップしようとしていました。勝見勝氏らが1960年に東京で世界デザイン会議を開催したのも、若手デザイナーたちに、海外や分野を超えたデザイナーたちとの交流の場を設けるためでした。相互に情報交換し、刺激し合える機会を提供することで、日本のデザイン力を高めようとしていたのです。

 実際、この世界デザイン会議を通して、デザイン関係者の間で、専門分野を超えた共同作業の在り方、デザイン・ポリシーの徹底、デザイナーの社会的責任などが共有されるようになっていきました。

 東京国立近代美術館の木田拓也氏は、「東京オリンピックはこうした課題にこたえるための「実験場」でもあった」と指摘していますが、その指揮を執ったのが、勝見勝氏でした。(『デザイン理論』65号、2014年)

 勝見氏の指揮の下、彼らはピクトグラムの導入に成功しました。競技であれ、施設であれ、とりわけ効果が顕著だったのが、一目で意味がわかるシンプルなデザインでした。オリンピックの大会ロゴをはじめ、さまざまなピクトグラムにその精神は活かされていました。シンプルなデザインだからこそ、情報が明確に伝わることを彼らは確信していたのでしょう。

■国際ジュネーブ会議で提唱された国際交通標識

 勝見勝氏はデザインプロジェクトの座長に選ばれた当初から、ヨーロッパ方式のデザインを取り入れようと思っていたようです。ヨーロッパ方式のデザインとは、1947年8月から9月にかけて開催された国際ジュネーブ会議で提案されたサインランゲージを指します。この会議では、国際交通標識の制定が提案されていました。

 当時、ヨーロッパでは車が普及しはじめており、それに伴い、国境を越えて旅行する人々が増えていました。そこで検討課題になっていたのが、各国共通の交通標識の導入でした。

 各国共通の交通標識を導入すれば、たとえ大勢の人々が国境を越えて車で行き来するようになったとしても、道に迷うことも少なく、事故も起こりにくくなるでしょう。陸続きのヨーロッパでは、喫緊の課題として国際交通標識の導入が論議されていたのです。そして、国際ジュネーブ会議にその議案書が提出されました。

 勝見氏は、国際ジュネーブ会議で提案された国際交通標識こそ、オリンピック東京大会の標識デザインの参考になると考えていました。つまり、オリンピック大会の標識は、交通標識のように単純明快で、誰が見ても、一目で理解しやすく、その意味が正確に伝わるものでなければならないと考えていたのです。

■勝見勝氏が提唱した「絵ことば」

 勝見氏は『朝日ジャーナル』(1965年10月3日号)に「絵言葉の国際化」というタイトルの論考を寄稿しています。その文章の中で印象に残った個所を、ご紹介しておきましょう。

「地球のあらゆる地域から人々が集まり、多種多様な言語の氾濫するオリンピックのような国際行事では、たとえ公用語がきまっていても、視覚言語の役割は大きい。東京大会マークの制定と、その一貫した適用、五輪マークの五色の応用、競技場別の色彩の設定、競技シンボルや、施設シンボルの採用など、その後のデザイン計画は、すべて視覚言語の重視というポリシーにそって進められてきた」

 これを読むと、勝見氏が1964年オリンピックの競技や施設等のデザインはどうあるべきか、どのように取り組み、どう実行していくかといったことを具体的に考えていたことがよくわかります。

 さらに、勝見氏は興味深い指摘をしています。

「わが国には、<視覚言語>という生硬な訳語がはやりだす前から、ちゃんと<絵ことば>という用語があり、また、紋章という世界でも最も完成した視覚言語の一体系が存在していた。われわれの先祖は紋章のデザインに、明快で微妙な造形力を発揮すると同時に、それを建築から家具や什器や服飾にいたるまで、あらゆるものに適用して、今日の流行語をつかえば、ハウス・スタイルをととのえ、固定のイメージをうちだし、デザイン・ポリシーを貫いていたのである」

 日本の生活文化の中で、紋章という視覚言語が機能していたことを、勝見氏のこの一文は思い出させてくれます。

 現代社会では、着物を着るヒトが激減し、什器を使う機会も減ってしまっています。若いヒトの中には、「紋章」を知らないヒトがいるかもしれません。紋章は日本では長い間、世代を超えて継承されてきた家族を象徴する生活文化でした。いまでは、家族制度の崩壊とともに廃れてしまっていますが、当時はまだ、紋章は生活文化の中で視覚言語として機能していたのでしょう。

 勝見氏は、日本の生活文化に根付いた紋章のもつシンプルなデザイン性、言語といえるほどの明確性に着目しました。そして、国際交通標識の導入に動き始めたヨーロッパの動向を踏まえ、日本の生活文化の中に根付いていた紋章の機能を加味した絵ことば(ピクトグラム)を次々と開発していきました。おかげで、どれほどオリンピック大会がスムーズに運営されたことでしょう。一連のピクトグラムを通して、シンプルなデザインの社会的効用を確認することができたのです。

■コミュニケーション・バリアフリーを目指す

 敗戦から19年目、アジアで初めて開催された東京オリンピック大会は、非アルファベット圏で初めて開催されるオリンピックでもありました。参加したのは94か国、5133人の選手および関係者でした。日本語がわからないままプレーをし、観戦をし、日本に滞在する数多くの外国人を支える必要がありました。

 当時、外国人と接する日本人はごく限られた人々でした。ほとんどの日本人は外国人と接触したこともなく、大勢の外国人を迎え入れなければならない状態でした。もちろん、通訳ボランティアが大活躍しましたが、四六時中、つきっきりというわけにはいきません。

 そこで必要とされたのが、通訳がいなくても外国人が行動できるための標識でした。

 なにも外国人に限りません。大会期間中、大勢の選手や観客が会場内や周辺を行き来します。彼らがスムーズに競技を観戦できるようにするには、誰もが一目でわかる標識が必要でした。それは統一されたものでなければならず、また、文化の違いを超えてわかりやすいものでなければなりませんでした。

 武蔵野美術大学名誉教授の勝井三雄氏は、当時、競技プログラムや駐車ステッカーなどのデザインを担当していました。彼らは、シンプルでわかりやすいデザインを工夫して創り出しました。


http://u-note.me/note/47506082より)

 上記は競技のピクトグラムですが、施設案内のピクトグラムもあります。とくに重要なのが、外国人を最初に出迎える空港の案内標識でした。

 上記は、羽田空港で使われた施設案内のピクトグラムです。制作者の村越愛策氏は当時を思い起こし、以下のように述べています。

「当時の羽田空港の看板といえば、「禁煙」を示すもの一つとっても、手書きのものが乱雑に標示されていただけでした。それも文字だけのものでしたから、非常にわかりにくかったんです。「これではいかん」ということで、建設業界から東京オリンピック組織委員会に設けられた「デザイン連絡協議会」に依頼がありました。そこで日本のデザイン界の第一人者であり、東京オリンピックのデザイン専門委員会委員長を務めた勝見勝先生の出番となったのです。その勝見先生からご指名をいただいた私の作業は1962年から始まって、約1年間の期間しかありませんでした」(前掲URLより)

 これらのデザインは当時、若手11人のデザイナーたちが苦心して作り上げたものでした。ところが、勝見氏はこれらのピクトグラムを「社会に還元すべきだ」という考えから、デザインの著作権を放棄しようと提案しました。若手デザイナーたちもいさぎよくこれに同意し、著作権放棄の署名をしました。

 その結果、これらのピクトグラムは日本だけではなく、全世界で案内表示として使われるようになりました。国境を越え、文化を超え、年齢を超え、誰もがわかるピクトグラムを開発したばかりでなく、著作権放棄をしてその普及を進めた功績がどれほど素晴らしいものであったか、勝見勝氏をはじめとする当時のデザイナーたちの先進性、革新性、社会貢献への意識の高さには驚かざるをえません。

 競技のピクトグラムに携わった勝井三雄氏は、勝見氏の東京オリンピックのデザインにおける業績として、以下のように述べています。

「国際的なコミュニケーションという問題意識を国内に持ち込んだ」ことが勝見氏の何よりも大きな功績だと認識し、「ピクトグラムは今では社会のあらゆる場で使われていますが、勝見さんが「絵ことばの国際リレー」と名づけたことで、日本から世界に広がる。その起点を作ったのがオリンピックだった」と述べています。(Newsletter of the National Museum of Modern Art, Tokyo; Aug.-Sep. 2013)

 東京オリンピックの開催を機に、日本人は世界で初めての快挙を次々と成し遂げました。それらはレガシーとしてその後、世界に大きな影響を及ぼしました。その一つが、今回、ご紹介してきたピクトグラムでした。

 オリンピック終了後も、世界各地でピクトグラムは使用されるようになり、さらには人々のコミュニケーション・バリアフリーに大きく寄与することになりました。当時、オリンピックを主導した人々の先見の明、社会貢献への意識の高さに尊敬の念を覚えてしまいます。(2019/11/25 香取淳子)

2020東京オリンピック・パラリンピック:レガシーとして残せるものは何か

■マラソン・競歩開催地の変更を巡って

 2019年10月30日、都内でIOC調整委員会会議が開催されました。IOC調整委員長のコーツ氏、組織委員会の森会長、橋本五輪相、小池都知事らが出席し、マラソン・競歩の開催地を東京から札幌に変更することについての調整が行われました。

小池都知事はこの日も、「開催都市に相談されないまま提案された異例の事態」だとし、会場変更に反対の姿勢を示したままでした。


2019年10月31日、日経新聞より

 マラソンといえば、オリンピックの花形競技です。しかも、マラソンレース沿道の住民にとってはチケットを購入しなくても観戦でき、楽しむことができますし、自治体にとっては、中継に伴ってその街並みが世界に発信されれば、観光意欲を刺激する可能性もあります。札幌で開催されることになれば、そのような機会が失われてしまいますから、都も関連自治体も賛成するわけにいかないのでしょう。

 一方、IOC調整委員長のコーツ氏も、札幌への変更はIOC理事会で決定したことだとして、譲りませんでした。

フジ系ニュース映像より

 もっとも、理解してもらうための説明は尽くすとコーツ氏は言っています。冷静に説得しようとする様子からは、開催地の変更は受け入れてもらえるという自信が滲み出ていました。たしかに、選手や観客の健康への影響を考えれば、IOC側に理があるといえますし、そもそもオリンピックの競技会場自体、IOC理事会の承認事項になっていますから、森組織委員会会長のいうように、IOCが決定したのだから、受け入れざるを得ないのでしょう。

 2019年10月30日の日経新聞夕刊には、マラソンを札幌で開催する場合、チケット販売は行わず、沿道で観戦することになるとされ、東京開催で販売されたチケットは払い戻しで対応すると書かれていました。

 一連の騒ぎになる前から、私は東京の夏でオリンピックを開催するのは、選手にとっても観客にとっても大変なことになると思っていました。周囲も同じような見解で、大丈夫かしらと話し合っていました。ですから、コーツ氏の言い分はとてもよく理解できました。むしろ、IOCの方からこのような提案をしてくれたことで、ほっとしたほどでした。東京の夏の酷暑を知っている多くのヒトは同じような気持ちになったことでしょう。ようやく適切な対応をしてくれたという気持ちでした。

 マラソン・競歩の開催地の変更を巡る騒動は冷静さを欠き、選手や観客への配慮は見られません。それどころか、東京都側の面子や政治経済的利益ばかりが目につきました。なんのためにオリンピックを開催するのかと疑ってしまうほどでした。

■ドーハでの事態を踏まえ、IOCが決断

 10月16日、IOC(国際オリンピック委員会)は、マラソンと競歩は北海道で開催することを検討していると発表しました。

こちら →https://www.bbc.com/japanese/50078117

 マラソンや競歩に参加する選手の健康への影響を考えると、東京よりは気温が6℃ほど低い北海道で開催するのが妥当だというのがIOCの言い分です。東京都はこれまで暑さ対策としていろいろ検討してきたのですが、いずれも現時点の準備状況では酷暑には対応できないと判断し、IOCが出してきた提案でした。

 後で知ったのですが、IOCがこのような判断をした理由に、カタールのドーハでの不祥事がありました。

 2019年9月27日にドーハで女子マラソンが開催されたのですが、気温30℃、湿度70%を超える悪条件の下で決行されたため、68人の出場者のうち28人が途中で棄権し、完走率は過去最低の58.8%を記録することになったのです。

こちら →https://www.j-cast.com/2019/09/30368895.html?p=all

 IOCはこの件を重視し、高温多湿の日本の夏でも同様のことが起こらないかと危惧したのでしょう。どうやら、この件の後、マラソンと競歩の開催地変更の検討に入ったようです。

 ところが、札幌への変更については、小池都知事が反発し、一部の人々も反対しています。毎日新聞が10月27日、28日に実施した調査結果では、開催地の変更を「支持する」は35%、「支持しない」が47%だったといいます。サンプル数、母集団の属性がわからないのでなんともいえませんが、オリンピック東京大会なのに、これでは札幌大会ではないかというのが一般的な反対意見のようです。

 とりわけ、マラソンは人気のある競技で、観客動員数も多いことが見込まれます。ですから、開催地が変更になっては困るヒトもいるのでしょう。実際、東京でのコースにされていた沿道の自治体(千代田区、港区、新宿区、中央区、台東区、渋谷区)も反対しています。

 最終決定が下されるのは10月30日でしたが、小池都知事の強固な反対で結論はずれ込み、3日後になりました。とはいえ、反対の声がどれほど高まったとしても、選手の健康、観客の健康が第一だというIOCの主張に対抗することはできないでしょう。

 国際陸上競技連盟(IAAF)会長・セブ・コー氏も、「来年の五輪で、マラソンと競歩の最善のコースを確保するため、我々は大会組織委員会と連携していく」と表明しているそうです。最終的には、IOCが検討している方向で決着がつくのでしょう。

■暑さ対策はどうなっていたのか

 実際、東京の夏は近年、猛暑日が続いています。総務省消防庁の調べによると、2019年5月から9月の期間、熱中症で、救急車で搬送されたのは7万1317人で過去2番目に多く、そのうち死者は126人だったそうです。月別で見ると、8月が3万6755人で最も多く、前年より6345人多かったといいます。

 このような現実を知れば「暑さ対策に責任をとれるのか」と迫るIOCの提案を受け入れざるを得ないでしょう。果たして、東京の酷暑を組織委員会や東京都はどう考え、どのように対処しようとしていたのでしょうか。

 まず、オリンピック組織委員会のHPを見てみることにしましょう。

こちら →https://tokyo2020.org/jp/

 直近のニュースとして、暑さ対策に取り組むイベントが10月29日に開催されたことが取り上げられていました。

こちら →https://tokyo2020.org/jp/news/event/20191029-01.html

 若手イノベーターたちが専門家やアスリートを交え、真剣に議論を重ねている様子が報告されています。ここでの議論だけで、暑さ対策への解決策が生み出されるわけではありませんが、議論の過程を公開することによって、さらに多くの知恵を集め、練り上げていけば、真夏の東京大会に向けた最適解が得られる可能性もあるでしょう。とはいえ、もはや残された時間はわずかです。悠長に構えてはいられません。

 それでは、東京都はどうなのでしょうか。小池都知事は5月24日の記者会見で、暑さ対策として「かぶる傘」の試作品を発表しました。


2019年5月27日付朝日新聞より

 これを見たとき、まず、こんなもの誰がかぶるのかと思いました。観戦の邪魔になるだけだし、長く着用していると、蒸れてきて気持ちが悪くなるのではないかという気がしました。身に着けるものは、機能とデザインの両方を満足させるものでないと、消費者にはなかなか受け入れてもらえないでしょう。

 もちろん、暑さ対策グッズをいくつか用意しているようですが、どれも体温を超える東京の酷暑への対策として適切なものだとは思えませんでした。また、東京都はこれ以外に、道路に散水することによって気温を下げる実験をしたりしていますが、果たしてどれほどの効果があるのでしょうか。

 そこで、グッズ以外の東京都の暑さ対策の項目をみると、むしろ、熱中症で倒れた後の処置に力点を置いているように思えます。

こちら →

http://www.kankyo.metro.tokyo.jp/climate/heat_island/atsusa_taisaku_suishinkaigi.files/R1_SANKOU2.pdf

 熱中症で倒れることを前提とした対策なのです。たしかに近年、東京の夏の暑さは尋常ではありません。体温を超えるほどの酷暑が続く日本の夏の実態を考えれば、炎天下で長時間競技することになるマラソンや競歩は札幌で行うべきだというIOCの主張に抗うことはできないでしょう。

■なぜ、真夏に開催するのか

 それにしても、なぜ、真夏の暑い時期に開催することになったのか、といった疑問が再び、浮上してきました。

 オリンピック東京大会が決定されたことを知ったとき、まっさきに思い浮かんだのは、なぜ、わざわざ酷暑の真夏に開催するのかということでした。おそらく、同じような思いをしたヒトは多かったでしょう。

 ところが、時間が経つにつれ、いつの間にか、酷暑という悪条件で競技をすることの危険性を忘れてしまっていました。調べてみると、1964年の東京オリンピックは10月10日から14日までの15日間、涼しく過ごしやすい時期に開催されていました。その後、1968年のメキシコ五輪も10月に開催されています。

 ただ、それ以降のオリンピックは7月か8月に開催されています。2020年の夏季オリンピック立候補都市に対しても、IOCは、「7月15日から8月31日の間」という条件を課しています。夏季オリンピックなので、それが開催条件の一つなのです。

 もちろん、その背後には夏季に開催した方が、視聴率が稼げると判断している米TV業界の事情があります。9月や10月に開催されれば、フットボールや大リーグの優勝戦といった他の大きなスポーツイベントと重なってしまいます。オリンピックは万人の関心を呼ぶコンテンツなのに、秋に開催すると、イベントが競合し合って視聴率を稼げない可能性があるのです。なんといっても米TV業界は、長年にわたって巨額の放映権料をIOCに支払っています。IOCもその意向を無視することはできないでしょう。

 ですから、2020年夏季オリンピックは、「7月15日から8月31日の間」という条件を付けての募集でした。具体的な日程は開催国のスポーツ団体が相互に調整して決めますから、夏季オリンピックの開催時期に関していえば、IOCに非はありません。

■酷暑の東京開催をIOCはなぜ、許可したのか

 IOCに非があるとすれば、酷暑の東京で開催することをなぜ、許可したのかということになります。そこで、選考過程で東京開催に対し、どのような評価がされているかを見ると、意外なことがわかりました。

「今大会の開催地選考でも東京の計画への評価は高く、2012年5月の1次選考でも総合評価のコメントで立候補都市の中で唯一「非常に質が高い」と記述され、正式立候補都市に選出された。同じアジアのドーハが1次選考で脱落したため、前回同様に一定のアジア票は確保できるとの見方が強い。課題として挙げられているのは、IOC の報告書で指摘された夏季のピーク時における電力不足と都民の低い支持率である」(Wikipediaより)

 第2次選考過程で懸念されていたのが、「夏季ピーク時における電力不足と都民の低い支持率である」だったのです。IOCの報告書には、酷暑が選手や観客に与える健康へのダメージについては何も書かれていませんでした。不思議なことです。

 選考を行ったIOCの理事会のメンバーは、ひょっとしたら、真夏の東京の暑さを知らなかったのかもしれません。

 そこで、2次選考に残った三都市の申請データの中から、開催期間と期間中の気温の項目を見ると、マドリードが「8月7日から8月23日」の期間で、気温が「24-32℃」、イスタンブールが「8月7日から8月23日」の期間で、気温が「24-29℃」、東京が「7月24日から8月9日」の期間で、気温が「26-29℃」(以上、Wikipediaより)と記されていました。

 申請データに記されていた7月下旬から8月上旬にかけての東京の気温は「26-29℃」で、体感している気温とは大きく異なっています。これでは、熱中症で倒れるヒトが続出する東京の暑さが伝わってきません。

 念のため、気象庁のデータから、2018年度の東京の年間気温を見てみました。すると、7月、8月は明らかに、年間最高の気温を記録していることがわかります。


気象庁より

 日本がIOCに申請した気温データ「26-29℃」を、上のグラフに照らし合わせてみると、一日の最低気温と平均気温に該当します。つまり、オリンピック招致委員会は、最高気温を避け、都合のいいデータだけ出して申請していたことがわかります。

 こうしてみてくると、日本のオリンピック招致委員会は、虚偽とはいわないまでも、正確とはいえないデータを提出して、開催の許可を得ていたことになります。姑息な手段を弄して、「開催地の決定」になったのですが、なぜ、それほどまでにして日本は、東京で夏季オリンピックを開催したかったのでしょうか。

■東京オリンピック・パラリンピック開催の意義はどこにあるのか

 今回、オリンピックを開催するといっても、もはや国威発揚のためでもなければ、民族意識を高めるためのものでもありません。一体なんのための開催なのでしょうか。

 Wikipediaを見ると、申請時点での東京オリンピック開催意義は、「スポーツの力によって、震災から復興した姿をみせるとともに、災害や紛争に苦しむ人々を勇気づけることを理念」に掲げられています。そこで、オリンピック組織委員会のHPを見ると、この理念に該当するページがありました。

こちら →https://tokyo2020.org/jp/games/caring/

 たしかに、「スポーツの力によって、震災から復興した姿をみせる」ことはできています。ただ、それだけではあまりにもオリンピック・パラリンピックを支える理念としては弱いと思い、トップページを見ると、今回の大会ビジョンとして3つのコンセプトが掲げられていました。

こちら →https://tokyo2020.org/jp/games/vision/

 「スポーツには世界と未来を変える力がある」とし、①「全員が自己ベスト」、②「多様性と調和」、③「未来への継承」、等々の項目が掲げられています。項目ごとにそれぞれ、具体案が示されていますが、総花的で統一性がなく、何を目指そうとしているのかが見えてきません。

 2020年に東京大会を開催することの意義はどこにあるのかと思いながら、各項を見ていくと、「成熟国家となった日本が、今度は世界にポジティブな変革を促し、それらをレガシーとして未来へ継承していく」というフレーズがありました。東京大会ならではの意義はおそらく、ここにあるのでしょう。

■レガシーとして残せるものは何か

 成熟し、超高齢社会となった日本では、いま、誰もが「老い、病、死」を身近に感じながら暮らさざるをえなくなっています。ともすればネガティブに捉えられがちなこれらの要素を、ポジティブに捉えなおし、生活の中に組み込んでいく必要に迫られているのです。

 超高齢社会だからこそ、受け入れざるをえないネガティブな要素をポジティブなものに変換していくには、技術の力を借りる必要があるでしょう。技術の力を借りながら、ポジティブな変革を進め、未来に継承していくようにできれば、今後、先進諸国で続出する超高齢社会にも大きく寄与できるようになるでしょう。

 そういえば、1964年の東京オリンピックの際、世界に向けて生中継するためのTV技術が進化しました。世界最初に五輪を世界に中継した静止衛星 はボーイング社のシンコム3号といいますが、帯域が狭いために、衛星伝送されたのは映像信号のみで、音声は海底ケーブルで送られたといいます。

 当時のTV技術者たちは別の用途で使われていた静止衛星を、世界にオリンピック競技を中継するために利用し、イノベーションを引き起こしたのです。

 そして、開会式、レスリング、バレーボール、体操、柔道などの競技がカラー放送されました。リアルにビビッドな状態で視聴者に競技内容が伝わるよう工夫されたのです。こうして世界で初めてのTV中継技術がオリンピック東京大会のレガシーとして残されました。

 それでは、2020年の東京オリンピックでは、何をレガシーとして残せるのでしょうか。

 たとえば、NHKは8Kでの東京オリンピック中継を過去最大規模で実施し、開閉会式や注目される競技で行い、スタジアムの興奮をそのまま日本全国に届けるとしています。

こちら →https://sports.nhk.or.jp/olympic/

 しかも、2019年6月7日に改正放送法が成立したので、NHKはすべての番組をインターネットで同時配信できるようになりました。現在はまだ開始されていませんが、これからはパソコンやスマホでNHKの番組を見ることができるようになります。もちろん、今回の東京オリンピックでも、臨場感あふれる映像を中継するためのTV技術が開発されています。

 一方、パラリンピックのサイトの情報も充実しています。

こちら →https://sports.nhk.or.jp/paralympic/article/gallery/

 写真家の越智貴雄氏は、「パラアスリートは道なき道を歩む先駆者であるからこそ、バイタリティーもすごい!」といい、パラアスリートの決定的瞬間をカメラに収めていったようです。たしかに、写真を見ると、その一つ一つにバイタリティーが感じられ、気持ちが鼓舞されていきます。

 障碍者がアスリートとして輝く場が提供されるのだとすれば、高齢者や障碍者が観客として、気楽にオリンピック競技を楽しめる場が提供されるべきだと思います。つまり、オリンピックを機に生番組への字幕の付与や解説放送の提供が進めば、これまで以上に多くの高齢者や障碍者が自宅に居ながらにして、競技を楽しめるようになるでしょう。

 先ほどもいいましたように、日本は超高齢社会に突入しており、今後もその傾向は続きます。だとすれば、TVは今後も基幹メディアとして一定の役割を果たし続けるでしょう。情報装置としてはもちろん、娯楽装置、対人代替装置としても活用できるようTVを高度化する一方で、使い勝手のいいものにしていけば、高齢者が自立して暮らしていくための一助とすることができます。

 オリンピックが国内外に向けた大きなプロバガンダの機会であることは確かです。今回のオリンピック・パラリンピックでは、オリンピック中継を通して、日本が高齢者や視聴覚障碍者、外国人にも優しい放送を提供していることを伝えることができればいいと思います。それでこそ、成熟した社会がオリンピックを通して残せるレガシーだという気がします。(2019/10/31 香取淳子)

墨・鑑 現代の水墨芸術四人展:王恬氏の作品にみる墨芸術の新領域

■「墨・鑑 現代の水墨芸術四人展」の開催

 中国文化センターで、「墨・鑑 現代の水墨芸術四人展」が開催されました。上海梧桐美術館、中国文化センター、シルクロード生態文化万博組織委員会が主催し、上海龍現代美術館、德荷当代芸術センターの共催で行われました。開催期間は2019年9月2日から6日まで、開催時間は10:30~17:30(最終日は13:00まで)でした。

 出品された4人の水墨芸術家は、王恬氏、汪東東氏、林依峰氏、呉笠帆氏です。私は開催初日に出かけたのですが、会場に入るとすぐ正面のところに、出品者の顔写真が掲示されていました。


左から順に、王恬氏、汪東東氏、林依峰氏、呉笠帆氏

 この写真の前で、関係者が勢ぞろいしたところで撮影しました。胸に赤いリボンをつけているのが、今回の四人展の画家で、左から、王恬氏、林依峰氏、汪東東氏です。

 四人展なのに、リボンを付けた方が3人です。不思議に思われたかもしれませんが、実は、この日、呉笠帆氏は、残念ながら所用があって出席されませんでした。作品はもちろん、会場に展示されていました。

 展覧会に出品された4人の作家はそれぞれ、長年にわたって墨の力、その奥深さを追求してこられました。会場をざっと一覧しただけでも、彼らがいかに墨芸術に新しい息吹を吹き込もうとし、墨芸術の幅を広げる努力をしてきたかがわかります。展示作品はいずれも現代の鑑賞者の感性を刺激し、新たな表現領域に誘ってくれるものでした。

 中国文化センターのHPに、出展作品の一部が掲載されていましたので、ご紹介しておきましょう。

 左から順に、汪東東氏の『半壁』(水墨紙本、30×30㎝、2019年制作)、呉笠帆氏の『風里的密码』(水墨紙本、70×85㎝、2019年制作)、林依峰氏の『岩幽杳冥』(紙本設色、57×25㎝、2017年制作)、王恬氏の『上海小姐』(水墨紙本、137×68㎝、2018年制作)です。

 どの作家も水墨画の伝統を踏まえ、新たな表現領域を開拓して、着想を作品化していることがわかります。墨が持つ表現の可能性、あるいは、筆が持つ表現の可能性を最大限に生かし、個性豊かな表現世界を切り拓いていたのです。

 展示作品を見ていると、この展覧会は「四人展」というより、むしろ、4人の個展が同じ会場で開催されているといった趣きでした。作家の個性が作品を通して相互に刺激し合い、墨芸術のさらなる可塑性を感じさせる空間になっていたのです。

 さて、私は4人の中で、とくに、王恬氏の作品に強く印象づけられました。なによりも、さまざまな現代女性が水墨画で描かれているのが新鮮でした。墨ならではの力強さと繊細さによって、現代女性の諸相が的確に表現されていたことに感心したのです。

 それでは、王恬氏とはいったい、どのような画家なのでしょうか。

 そういえば、入口に掲載されていた写真に、王恬氏の略歴が付けられていたことを思い出しました。その部分を拡大してみることにしましょう。

 これを見ると、王恬氏は、上海師範大学芸術学院水墨画専攻を卒業後、上海美術学院現代水墨画研究科に進み、大学院修了後、著名芸術家の張培礎氏に師事し、一貫して、水墨画を極めてこられてきたようです。

 残念ながら私は張培礎氏を知りません。いったい、どのような画家なのでしょうか。張培礎氏をネットで検索してみると、抒情的な美しさが漂う作品が多いことがわかります。

こちら →https://www.easyatm.com.tw/wiki/%E5%BC%B5%E5%9F%B9%E7%A4%8E

 王恬氏は水墨画を専門的に学び、その後もさまざまな観点から水墨画の可塑性を追求し続け、現在は、華東政法大学文伯学院芸術学部の教授をされています。「墨力」表現手法の創設者であり、中国水墨画界でかなりの影響力を持つ人物のようです。

 それでは、作品をご紹介していくことにしましょう。

■王恬氏が捉えた女性たち

 王恬氏の作品は、会場に9点、展示されていました。いずれも女性の肖像画です。まず、印象に残った作品を何点か取り上げ、紹介していこうと思ったのですが、作品を選ぶ段階で迷ってしまいました。どれも個性的で魅力があって、選ぶことができませんでした。王恬氏の表現世界を伝えようとすれば、出品作品すべてを紹介する必要がありました。

 さて、9点の作品を見ていると、いくつかの属性によってカテゴライズできるように思えました。すなわち、生きてきた歳月(年齢)、職業・階層、色彩、等々です。私が便宜的に設定したこのカテゴリーに従って、作品をご紹介していくことにしましょう。

【生きてきた歳月】

 年齢という観点から女性を捉えた作品が3点ありました。「静かな歳月」、「ときめく少女」「留学中の中学生」です。いずれも女性として生きてきた歳月の長短によって、その精神のあり方、佇まいの様相が異なっていることが示されています。それぞれの作品を見ていると、改めて、生きてきた歳月がいかに女性の佇まいに大きな影響を与えているか、考えさせられます。

●「静かな歳月」

 窓を背に、足を組んで、椅子に深く腰を下ろしている女性が描かれています。タイトルは「静かな歳月」です。清楚で上品な中年女性です。その容姿からは、穏やかに、誠実に、そして、賢明に生きてきた来歴を見て取ることができます。


紙本に水墨、137×66㎝、2018年制作

 眼鏡の奥からまっすぐ観客に向けられた視線が印象的です。正視は通常、相手に緊張感を与えるものですが、この女性の場合、目尻がやや垂れ下がっているせいか、視線は決して強さや冷たさを感じさせるものではなく、むしろ穏やかで、慈愛深さが感じられます。

 ノースリーブの服を着ていますが、襟元は詰まっており、ネックレスなどの装飾品も身につけていません。全体に思慮深く、聡明な印象があります。どのような立場に立たされても、この女性はおそらく、誠実に、賢明に対処してきたのでしょう。その結果、生きてきた歳月が深い味わいとなって、表情、姿勢、佇まいに色濃く反映されています。

●「ときめく少女」

 赤いスポーツウエアをラフに着込んだ若い女性が椅子に座っています。他人の目をまったく意識していないのでしょう、足を外股に大きく広げています。目を閉じて俯き、どうやら、物思いに耽っているようです。


紙本に水墨、137×68㎝、2019年制作

 前髪を垂らし、横の髪を雑に後ろに束ねた様子、あるいは、赤いスポーツウエアをちょっと着崩した姿からは、まだ取り繕うことを知らない幼さが感じられます。

 タイトルは「ときめく少女」です。そういわれてみれば、俯き加減の色白の肌に、ほんのりと朱が差しています。恋心に酔っているのでしょうか。微笑ましい若さが表現されています。

●「留学中の中学生」

 まるでランジェリーのように、露出の高い服を着た若い女性が椅子に座っています。顔や肌は黒く、髪の毛はオレンジ色で描かれています。


紙本に水墨、90×68㎝、2019年制作

 肩幅が広く、胸や太ももの肉付きもよく、身体つきからは、成熟した女性のように見えます。ところが、タイトルを見ると「留学中の中学生」とあります。驚いてしまいますが、この女性はまだ十代半ばの少女なのです。

 母国ではおそらく、このような格好が許されているのでしょう。ひょっとしたら、この女性はまだ危険な目に遭遇していないのかもしれません。あまりにも無防備な姿に、若さの持つ未熟さ、思慮のなさ、奔放さが感じられます。

【職業・階層】

 職業あるいは階層の観点から女性を捉えた作品があります。「キャリアウーマン」、「上海レディ―」、「庶民派美しい娘」の3点です。それぞれの作品を見ていると、職業あるいはその階層がいかに強く女性の佇まいに影響しているかがわかります。

 それでは、見ていくことにしましょう。

●「キャリアウーマン」

 大柄の女性が肩ひじをついて指で頬を抑え、片方の手は膝に置いて足を組んで、椅子に座っています。何か考え事をしているような風情です。


紙本に水墨、137×68㎝、2019年制作

 口元をきつく結び、何かを凝視しているかのような視線で、遠方を見つめています。その表情からは意思の強さ、果敢な行動力が感じられます。表題通り、まさに、「キャリアウーマン」です。おそらく、ビジネスの最前線で活躍している女性なのでしょう。白の衣服の上から緑色の大判のスカーフを羽織っており、この女性がオシャレにも気を配っていることがわかります。

●「上海レディ」

 やや小柄の女性がサングラスをかけ、足を横に流して組んで、座っています。目の表情はわからないのですが、プライドの高そうな表情が印象的です。


紙本に水墨、137×68㎝、2019年制作

 最初にご紹介したHPの写真では、この作品のタイトルは「上海小姐」と書かれていましたが、会場では「上海レディ」になっていました。日本人向けに翻訳されたのでしょう。ちょっと気取ったポーズの取り方がまさに、大都会上海に住む誇り高い「上海レディ」を連想させます。

 この女性は、これまで「上海っ子」としての矜持を持って生きてきたのでしょう。サングラスの下から、ちょっとヒトを見下したような表情が見えます。厚底の靴を履き、ショートカットのヘアスタイルからは流行に敏感な女性であることもわかります。その容姿からは誇り高く生きてきた歳月が読み取れます。

 年齢はおそらく、「静かな歳月」で描かれた女性と同世代なのでしょう。眼鏡をかけ、足を組み、ノースリーブで襟元の詰まった服を着ているという点で、両者は共通しています。ところが、その雰囲気は明らかに異なります。この二つの作品からは、どのように生き、何を気持ちの拠り所にして歳月を重ねてきたのか、一定の年齢になれば、それがそのまま容姿に現れてしまうことが示唆されています。

●「庶民派美しい娘」

 若い女性が手をだらりと下げ、足を揃えることもせず、だらしなく椅子に座っています。


紙本に水墨、137×68㎝、2019年制作

 目は大きく、眉も揃えられ、唇は赤く塗られています。しっかりとメイクされた顔は現代的な小顔の美人に見えます。きっとオシャレな女性なのでしょう。黒い服の上から、唇の色に合わせた赤いスカーフを軽く首に巻き付けています。いかにも現代的なファッションセンスを感じさせる格好なのですが、姿勢に締まりがなく、ストイックな精神性が感じられません。

 そういえば、タイトルは「庶民派美しい娘」でした。改めてこの作品を見ると、しっかりとメイクしており、外面的に美しいことは確かなのですが、この女性に精神性は見受けられず、ただ流行を追っているだけという印象を拭えません。大都会でよく見かける若い女性の典型だといえるでしょう。

【色彩】

 タイトルに色彩の名前が入った作品がありました。「白衣のおんな」、「紫色のおんな」、「青色の女の子」の3点です。色彩と関連づけて、女性が捉えられています。

●「白衣のおんな」

 大柄の女性が両手を重ね、足を組んで座っています。組んだ片足のふくらはぎから膝までがスカートの下から見えています。


紙本に水墨、137×66㎝、2018年制作

 白衣といわれてイメージするのは看護師、医者、研究者などですが、この女性はどうやらそのどれでもなく、白い服を着た作業員のように見えます。とろんとした目つきであらぬ方向を眺め、だらしない口元を見ると、どこか捨て鉢で、虚無的なイメージがあります。

 仕事に満足しているわけではなく、かといって、家庭があるようにも思えません。もはや若くもなく、自分の居場所を見つけられないでいる不安感が、このような虚無的な表情を生み出しているのかもしれません。

●「紫色のおんな」

 長い髪を巻き毛にした女性が足を組み、椅子に座っています。都会的なセンスで外見を整えていますが、顔の表情からはやや投げやりな雰囲気が感じられます。


紙本に水墨、137×68㎝、2019年制作

 赤い唇を半開きにした女性の表情からは、物憂く、気だるい気分が漂ってきます。何事も卒なくこなせる女性なのでしょう。濃い赤紫色の服に、同系統のスカーフをまとい、腕には黄土色の時計をつけています。ファッションセンスの良さが感じられます。

 おそらく大都会で働く女性なのでしょう。慌ただしく過ぎていく日常生活の中で、ふと我に返ったとき、すべてがおっくうで、投げやりな気持ちになってしまった・・・、というような瞬間が捉えられているように思えます。目を伏せた表情からは疲れを読み取ることができます。若さはとっくに去ってしまい、時折、老いを感じるようにもなっているのでしょう、この女性の容姿からはどことなく厭世気分が感じられます。

●「青色の女の子」

 若い女性が、足を揃え、背筋をまっすぐ伸ばして座っています。緊張しているのでしょうか。片方の肘をつき、もう一方の手を長く伸ばして、椅子の脚部を抑えています。その姿勢は、まるで必死になって身体を支えているかのように見えます。


紙本に水墨、90×68㎝、2018年制作

 おそらく他人の視線を意識しているのでしょう、ことさらに首筋を伸ばし、強張った表情を見せています。よく見ると、目が大きく、鼻筋の通った美人顔ですが、その表情にはどこか無理をしているような硬さがあります。そして、表情や所作全体からは、生硬な若さが感じられます。

 この作品のタイトルは、「青色の女の子」です。ところが、どういうわけか、この女性は淡いピンクの服を着ています。タイトルにある青色は大きな椅子カバーに使われているだけです。不思議に思って、よく見ると、女性の肌が薄い青色で描かれています。それも、透明感のある薄い青色が、顔や首、腕や足など、部位によって濃淡をつけながら使われていました。

 これで、ようやく、この女性が淡いピンクの服を着ている理由がわかりました。若い女性の青味がかった、透明感のある肌を際立たせるには、淡いピンクの服が必要だったのでしょう。確かに、淡いピンクによって、薄い青色で表現された肌の透明感、ハリの良さが引き立てられていました。

 一方、左腕や肘、スカートからはみ出た両腿と膝は、やや濃い青色で描かれ、椅子カバーの青色と溶け合っています。このように、濃淡を効かせて青色を使うことによって、画面全体から若い女性の持つ生硬さ、清潔感、透明感といったものが巧みに描出されていました。

■墨で描かれた現代女性の諸相

 一連の作品を見ていくと、王恬氏は、若い女性であれ、中年女性であれ、すべての対象を椅子に座った状態で描いていることに気づきます。いわば制限された条件の下で女性を描いているのですが、作品は9人9様、個性豊かに表現されています。彼女たちが見せた表情、所作、態度の中から、王恬氏はその本質を的確に抽出し、瞬間的に、表現していたからでしょう。

 それぞれの作品には、独特の流れがあり、勢いがあり、動きがありました。それこそ水墨画の真髄が存分に発揮されていたのです。ふとした瞬間に見せる女性たちの表情が、筆の大胆なタッチや繊細なタッチ、あるいは、勢いによって見事に捉えられていました。しかも、描き方がとても自然でした。

 そのせいか、写実的に描かれたのではないのに、描かれた女性たちは皆、どこかで見かけたような気がするほど、生き生きとしたリアリティがありました。そして、どの作品にも普遍性が感じられました。現代社会に生きる女性たちの生態が的確に捉えられていたのです。描かれたのは上海の女性たちですが、東京でも見かけそうな女性ばかりでした。

 王恬氏は、大都会で生きる女性たちの本質を見抜き、筆と墨の力で見事に、その生態を描き切っていました。見れば見るほど、王恬氏の観察力の鋭さ、表現力の的確さに感心せざるをえません。対象を捉える鋭さに加え、大胆で洒脱な墨表現が作品を興趣に富んだものにしていました。現代社会で生きる女性たちを、水墨画の技術で描き、それぞれを典型にまで高めて表現していたのです。

■ぼかし表現が浮き彫りにする現代社会の疲弊

 大都会だからこそ、留学生という形で異文化が入り込んできます。「留学中の中学生」にはそれが反映されていました。明らかに東洋人ではない体格、肌色、髪の毛の色、そして、中学生とは思えない所作、服装などに異文化が表現されていたのです。

 顔面にはぼかしが入れられ、表情は判然としませんが、疲れているように見えました。海外からの留学生は、たとえ夢を抱いてやってきたとしても、やがて文化の違いが気になり始め、意思の疎通が十分ではない状況に疲れてくる時期を迎えます。描かれた中学生はおそらく、その時期にさしかかっていたのでしょう。中学生なのに、全身からどことなく、疲弊が感じられました。

 この作品には、異文化との共存が強いられる現代社会の一端が表現されていました。

 顔面にぼかしが入れられていた作品は他にもありました。「庶民派美しい娘」「紫色のおんな」などの作品です。いずれも顔面にぼかしが入れられているので、表情はよくわかりませんが、態度や姿勢、所作などには疲弊している様子が感じられます。流行を追いかけ、見た目は華やかに装っていても、実は疲れ切っている女性たちが描かれていました。

 誰もが競争を強いられて生きていかざるをえない現代社会の一端が、このような形で表現されているといえます。

■墨の線が浮き彫りにする内面世界

 その一方で、顔の表情がはっきりわかる作品もあります。「キャリアウーマン」、「白衣のおんな」、「静かな歳月」、「青色の女の子」、「ときめく少女」などです。

 仕事のことが頭から離れない女性(「キャリアウーマン」)がいるかと思えば、ふとした瞬間に、来し方行く末を考え、虚無的になってしまう女性(「白衣のおんな」)、さらには、紆余曲折を経て、いまは平穏な日々を送る女性(「静かな歳月」)、あるいは、若さゆえの生硬さが抜けきらない女性(「青色の女の子」)、恋心を隠すことができない女性(「ときめく少女」)、等々。

 いずれの作品も、表情や所作から、女性の心の内を推し量ることができます。繊細で大胆な墨の線によって簡略化され、誇張化された描法が、女性たちの本質を浮彫にしているからでしょう。対象を写実的に描いたのでは、ここまで深く、内面世界を描き出すことはできなかったと思います。

 たとえば、「ときめく少女」の場合、目も鼻も墨で線がさっと引かれているだけです。きわめて単純化された造形ですが、そこにほんのりと桜色を差すことによって、この女性の初々しさを強調する効果が見られました。

 口元を見れば、上下の唇の間に太い横線が粗く引かれており、一見、口を半開きにしているように見えます。下唇は分厚くて大きく、とても無骨に見えます。ところが、厚い下唇の上方のラインに沿って、少しだけ朱を差すころによって、女性らしさを滲ませることに成功しています。「ときめく少女」の心理状態を、このように、墨の線に朱を添えるだけで表現しているのです。

 髪の毛の描き方も絶妙です。前髪をバラっと垂らしたところに、墨の線で太く、勢いをつけて流れを作り出しています。耳上、耳下の髪の毛もやはり、太く勢いよく、流れるように墨の線を濃く引いています。髪の毛を後ろに束ねている様子を、大胆なタッチで描いているのです。

 王恬氏は、強い墨の力で、少女のストレートな髪の毛を端的に表現する一方、誇張された筆遣いで、ストレートな心情を描き出していました。墨の濃淡、線の太さ、勢い、流れといったもので、造形されたものに生命を与えていることがわかります。

 全身に目を移すと、女性は上半身を傾け、腰が引けたような恰好で椅子に座っています。脚を大きく広げている様子が、墨の太い線を使って、両太ももの内側をしっかりと固定するように描かれています。この姿勢には、羞恥心の欠片も見られません。外面を気にする余裕もないほど、恋煩いをしていることが示されています。足元でのぞく白い運動靴が、この女性が少女であることを思い起こさせてくれます。

 「キャリアウーマン」、「白衣のおんな」、「静かな歳月」、「青色の女の子」なども同様、墨の力で表情と所作を柔軟に描き出すことによって、それぞれの女性たちの内面世界が巧みに表現されていました。

■日本的感性に響く墨芸術

 「四人展」で見た作品のうち、墨で描かれた女性肖像画9点を紹介してきました。王恬氏が描いた女性像からは、墨だからこそ、可能になった表現がいくつか見受けられました。

 墨汁を浸した筆を紙の上で走らせるので、油彩画とは違って、筆に勢いが出ます。筆を寝かせれば太い線を引くこともできますし、筆先だけで緻密な線を引くこともできます。墨汁の量によって、「ぼかし」や「かすれ」を表現することができます。筆遣いひとつで大胆にも緻密にも、強くも弱くも表現できるのです。

 大都会では、ヒトは常に競争に晒され、強さを強いられて生きています。ともすれば、疲弊し、虚無的になってしまいがちます。王恬氏の作品には、そのような現代社会の様相が女性たちの姿を通して表現されていました。水墨画という伝統を踏まえ、現代社会の諸相が見事に描き出されていたのです。

 複雑で捉えがたい現代社会でも、工夫すれば、水墨画の形式の中でその諸相を表現することができることがわかります。描かれた女性たちには普遍性があり、それぞれが現代社会の典型とみなすことができました。モチーフの取り上げ方、画面構成、色の使い方などに工夫が凝らされていたからでしょう。

 私はそこに、引き込まれました。上海の女性たちが描かれているにもかかわらず、まるで東京で暮らしている女性たちを見るように、感情移入して鑑賞していたのです。水墨画という表現形式が日本人の感性にマッチしているからでしょうか。

 一連の作品を見ていると、軽やかに、現代社会の空気を漂わせながら、その諸相を抉り出すなど、油彩画では表現しきれないという気がしてきました。誇張表現、省力表現、抽象表現などが可能な水墨画技術は、ひょっとしたら、現代社会を描き出す手法としてふさわしいのかもしれません。墨芸術の新しい領域を見た思いがしました。素晴らしいと思います。(2019/9/8 香取淳子)

第20回日本・フランス現代美術展2019:河瀬陽子氏の油彩画にみる日本の伝統と感性

■第20回日本・フランス現代美術展の開催

 2019年8月8日、六本木に用事があって出かけたついでに、国立新美術館に立ち寄ってみました。1Fで当日の展覧会プログラムを見ると、ちょうど第20回日本・フランス現代美術展が開催されていることがわかりました。

 この展覧会は、3年ほど前に一度、鑑賞したことがあります。なかなか見応えのある展覧会だったことを思い出し、さっそく、3Fの会場を訪れてみました。予想外に観客が多く、ちょっと驚きましたが、開催2日目だったからでしょうか。開催期間は2019年8月7日から8月18日でした。

 さて、会場に入ってすぐのコーナーには書と工芸品が展示されていました。ざっと見渡したところ、どの作品もレベルが高く、コーナー全体が力強く、引き締まって見えました。

 次のコーナーには油彩画が展示されていました。このコーナーに足を踏み入れた途端、引き付けられたしまった作品があります。藍色を基調とした女性肖像画4点です。女性と花をモチーフにした一見、ありふれた題材の作品ですが、観客を立ち止まらせる力がありました。油彩画なのに、どの作品からもしっとりとした情感が滲み出ていたのです。

 一目で引き付けられた女性肖像画4点は、河瀬陽子氏の作品でした。

■河瀬陽子氏の作品

 それではまず、展示されていた順に、作品をご紹介していくことにしましょう。

●グラジオラス

 左端に展示されていたのが、「グラジオラス」という作品です。


(キャンバスに油彩、アクリル、72.8×60.6㎝)

 色取り豊かな大判のスカーフが印象的です。女性の肩をゆったりと包み込んだスカーフには柔らかく肌になじむ心地いい風合いが感じられます。このスカーフに穏やかな優しさが表現されているとすれば、女性の背後に描かれたグラジオラスには、花でありながら、鋭角的な堅固さが感じられます。まっすぐ聳えるように咲いていたからでしょう。

 さまざまな色が組み込まれたスカーフに優しい柔らかさを感じたのに、グラジオラスの花には揺るぎない強さを感じてしまいました。それは、おそらく、大きな白い花弁が垂直方向に油絵具を厚く塗られ、粗削りに大胆に描かれていたからでしょう。

 ネットで調べてみると、グラジオラスの名の由来はラテン語の「剣」(グラディウス、Gradius)で、葉の形が剣を連想させるから名付けられたのだそうです。原産地はアフリカですが、ヨーロッパで品種改良が進み、日本には明治になって輸入されたといわれています。

 グラジオラスの花には様々な色がありますが、この作品では白い花が選ばれています。しかも、油絵具で花弁が大きく、厚く塗られていますから、白さがことさらに強調されています。全体に暗い色調の中で、観客の視線はごく自然に、グラジオラスの花に誘導されてしまうのです。

 メインモチーフの女性は、横顔が逆光の中で描き出されています。ですから、沈み込んでいるようであり、物思いに耽っているようにも見えます。ひっそりとした風情で佇んでいる女性に、そこはかとない哀愁を感じさせられました。

●賛歌

 その隣に展示されていたのが、「賛歌」です。


(キャンバスに油彩、アクリル、60.6×72.8㎝)

 若い女性が、やや俯き加減になって、両手を重ね合わせて膝に置き、咲き乱れる花々の中で腰を下ろしています。その姿はポーズを取っているようであり、何か考えごとをしているようでもあります。表情ははっきりとしないのですが、そこはかとない憂いが漂っているように見えます。

 逆光の中で捉えられているせいでしょうか、それとも、濃い藍色で表現されているせいでしょうか。画面全体に物静かな哀愁が漂っており、気持ちが引き付けられます。心の奥底で何か響き合うものがあるように感じられます。

 不思議なことに、見ていると、ひっそりともの静かに座っている女性の存在そのものに、鮮やかな華やかさが感じられてきます。一体、何故なのでしょうか。

 それは、おそらく、女性の周囲に散りばめられた色使いが卓越しているからでしょう。

 色とりどりの小さな花が、画面の右半分を占めるほど、咲き乱れています。その花々の色が、女性の髪の毛や顔に乱反射し、華やかさを添えています。赤や青が大胆に、そして、粗削りなまま前髪や頭頂部に置かれており、女性の若さが表現されています。

 一方、頬や肘に軽く置かれた淡い朱色には、血行の良さが感じられます。画面全体を覆う、濃い藍色が醸し出す深淵さの中に、自由闊達に明るい色彩が飛び散っている様子からは、華やかさが演出されているように思えましたし、粗削りな若さが表現されているようにも思えました。

●スターチス

 その隣が「スターチス」という作品です。


(キャンバスに油彩、アクリル、72.8×60.6㎝)

 斜め横顔の女性の立ち姿が描かれています。この作品もまた、女性が逆光の中で捉えられているせいか、表情は判然とせず、シルエットだけが浮き彫りにされています。

 画面の下半分に群生している紫色の小花が、表題のスターチスなのでしょうか。緑色の茎と紫色の小花の群れが点在する中で、女性がすっくと佇む女性の姿は、孤高であり、そこには気高さすら感じられます。

 画面は藍色の濃淡とスターチスの茎の緑といった具合に、色数が限りなく抑えられて表現されています。そのせいか、全体に影絵のような印象があります。白く描かれた背景には所々、濃い藍色で描かれた痕跡が見えます。それが遠景に淡く浮彫にされた山並みのようにも見えたりします。

 地平がなく、画面の下まで白い絵具がランダムに塗られているので、まるでスターチスが雲の合間に群生しているように見えます。空間の多い背景は水墨画の構図のようにも見えます。

 スターチスは乾燥しても色褪せることがないといわれています。そのスターチスに取り囲まれるように、女性はまっすぐに視線をかなたに向けて佇んでいます。斜め横から捉えられた女性の立ち姿からは毅然とした優雅さが感じられます。

●セイタカアワダチ草

 その隣に展示されていたのが、「セイタカアワダチ草」です。


(キャンバスに油彩、アクリル、60.6×72.8㎝)

 ソファーの背に左肘をつき、その近くに右手を配し、やや身をよじった姿勢で、女性が座っています。ちょっと気取ってポーズをとっているような姿勢が印象的です。視線を伏せ、横顔を見せていますが、女性の表情ははっきりしません。

 女性は逆光で捉えられ、影の中でひそやかにその姿が浮き彫りにされています。背後から光が射しているのでしょう、女性の後ろ髪や背や肩、上腕の後ろ側が明るく描かれているのが印象的です。

 画面に明るさを添えるように、黄色の小花が背後に散らばって描かれています。雑草のように見えますが、これが表題のセイタカアワダチソウなのでしょう。小さいせいか、群生していても、存在感は希薄です。この作品では花よりも、縞の入った幅広のソファーカバーの方が目立っています。

 このソファーカバーは、青系統の色をベースに白い線で縞模様が織り込まれ、その上に赤系統の色がランダムに添えられています。柔らかく、手触りのいい布の触感が伝わってくるようです。しかも、その赤系統の色はソファーカバーばかりか、女性の手や頬、髪の毛にまで飛んで描かれており、画面全体にちょっとした華やぎが生み出されています。

 以上、河瀬陽子氏の4作品を見てきました。これらの作品には、連作といっていいような共通項がありました。いずれも花と女性をモチーフに描かれていること、逆光の中で女性が捉えられていること、背後に陽の落ちた曇天が選ばれていること、ベースカラーに濃い藍色が使われていること、等々でした。

 そして、どの作品からも、そこはかとない哀愁が感じられました。

■河瀬氏が語る混色の魅力

「グラジオラス」、「賛歌」、「スターチス」、「セイタカアワダチ草」、いずれの作品も、逆光の中で描かれた女性をメインモチーフに、花と色彩豊かな布製品(スカーフ、レースの襟元、柔らかいシフォンの襟飾り、ソファーカバー)をサブモチーフに、画面が構成されていました。

 女性は濃い藍色をベースに描かれ、背景にはどんよりと沈み込むような空が設定されており、なんともいえず深い情感に満ちた世界が表現されていました。花や布に配された赤や黄色、黄緑色などの明るい色に、華やぎを感じさせられます。油彩画でありながら、日本的情緒が巧みに掬い上げられています。

 食い入るように見つめていると、背後から突然、「その絵、お好きですか?」と声をかけられました。振り向くと、白髪の女性が笑みを浮かべ、そっと立っていました。即座に、「とても、好きです」と答えると、「私が描きました」とおっしゃいます。

 まさか、作家がこの場に居合わせるとは・・・。

 驚いてしまいました。意表を突かれ、すぐには、言葉を継ぐこともできませんでした。ようやく事態を認識してからは、まず、一連の作品のモデルについて聞いてみようと思いました。想像上の女性なのか、実在の女性なのか気になっていたからでした。

 尋ねてみると、河瀬氏は微笑みながら、「どの絵も同じモデルですよ」といいます。さらに、「プロのモデルではないけど、美人なので、同じモデルをもう何十年も描き続けています」と説明してくれました。

 年を重ねても、創作意欲を刺激するような風情のある女性なのでしょう。モデル本人にもっとも似ているのが、「スターチス」に描かれた女性だそうです。

 ただ、せっかくモデルを使っても、描いているうちにどんどん自分の好きな姿形に変わっていくと河瀬氏はいいます。モデルによってイメージが喚起され、描いているうちに、河瀬氏の理想像に結晶化させていくからでしょう。どの作品も具象画でありながら、モチーフが抽象化され、実在を超えた普遍性があると感じさせられたのはそのせいかもしれません。

 もう一つ、作品に制作年が書かれていなかったのが気になっていました。そこで、河瀬氏に聞いてみると、何年にもわたって描いているので、制作年として特定できないということでした。ただ、作品が描かれた順番としては、「スターチス」の後、「セイタカアワダチ草」、そして、「グラジオラス」、「賛歌」だそうです。

 穏やかな笑みを絶やさないまま、河瀬氏はふと、「私は混色が好きなんですよ」とつぶやくように教えてくれました。とっさに意味を理解できずにいた私に気づくと、すぐさま、「いろんな色を混ぜ合わせ、偶然、思いもかけない色が出てきたときが、とても好きなんです」と説明してくれました。

 そして、河瀬氏は一息ついて言葉を継ぎ、「これから、講評が始まりますよ」と教えてくれました。

■フランス人が評した河瀬作品の「美しさ」

 作品の前でしばらく待っていると、講評が始まりました。評者は欧美JIAS代表の馬郡文平氏と、フランス人彫刻家でサロン・ドトーヌ会長のシルヴィ・ケクラン氏でした。


(左から順に、河瀬陽子氏、馬郡文平氏、通訳、シルヴィ・ケクラン氏)

 聞いていて、もっとも印象に残ったのが、シルヴィ・ケクラン氏のコメントでした。

 河瀬氏の4作品について、彼女は、どの作品も目にした途端に、色が目に飛び込んでくるといいます。作品それぞれにテーマカラーが設定されており、それが女性や周辺のモチーフに組み入れられ、見事に全体と調和しているというのです。

 そういわれてみれば、確かに、「グラジオラス」は白、「賛歌」はオレンジがかった赤、「スターチス」は紫、そして、「セイタカアワダチ草」は黄土色といった具合に、それぞれの作品にふさわしい色が選択され、シンボルカラーとして使われていました。

 ケクラン氏はさらに、どの作品も女性が逆光の中で描かれていることに着目します。逆光なので暗く描かれているのは当然なのですが、濃淡のコントラストがつけられているので、そこに重苦しさはなく、むしろ繊細で、柔らかな透明感が演出されているように見えるというのです。

 4作品それぞれに、女性と花を通して伝わってくる奥深さが感じられるとケクラン氏は言葉を重ね、総じて、「綺麗」というより、「美しい」作品だと結論づけられました。画面に内包された精神性を深く読み取られたのです。最高の称賛といえるでしょう。

 河瀬氏を見ると、時折、頷きながら、とても満足そうな表情でした。

 講評が終わったので、河瀬氏に経歴について聞こうとすると、ネットに出ているのでそれを見てといわれました。ひょっとしたら、河瀬氏は知る人ぞ知る人なのかもしれないと思い、帰宅してから調べてみると、なんと、会場で見た「グラジオラス」は、第19回日本・フランス現代美術展2018で大賞を受賞した作品でした。

こちら →https://www.obijias.co.jp/report/?id=1552616809-683939

 上の記事を読むと、「スターチス」は第47回ベルギー・オランダ美術展に出品されており、「セイタカアワダチ草」は準大賞を受賞しています。私が知らなかっただけで、実は、河瀬氏は各方面ですでに評価されている画家だったようです。

■油彩画に取り入れられた藍色

 それにしても、シルヴィ・ケクラン氏はなぜ、河瀬氏の作品を繰り返し、「美しい」と評したのでしょうか。私が聞いた限り、彼女は講評の中で、4回も「美しい」という言葉を使っていました。よほど強く印象づけられたのでしょう。

 私も、河瀬氏の一連の作品に強く引き付けられました。それはケクラン氏のいうように、「美しい」からではなく、画面全体から漂ってくる哀愁のようなものによって、しみじみとした情感をかき立てられたからでした。

 描かれているのは若い女性と花です。いってみれば、哀愁や哀感とは無縁のモチーフなのですが、どういうわけか、私はどの作品からも哀切の情感を喚起させられ、その虜になってしまっていたのです。

 河瀬氏の作品に強く引き付けられたという点では、私もケクラン氏と同様でした。ただ、私の場合、画面から放たれる、切なく、もの悲しく感じられるものに引き付けられ、作品の前から離れられなくなっていました。私の心の奥底に潜んでいた何かと響き合い、しみじみとした情感が掻き立てられていたのでしょう。

 改めて河瀬氏の4作品を見直してみると、どの作品も濃い藍色をベースに仕上げられており、どんよりとした曇り空が背景に使われています。明度も彩度も抑制された色調の中で、作品ごとに設定されたテーマカラーが程よく画面上に置かれ、画面全体に絶妙な調和が保たれていました。

 一方、日本人である私は、濃い藍色と曇り空を基調にして描かれた画面から、哀愁を感じさせられました。とくに、濃い藍色で捉えられた女性像に、深い哀切の情が喚起され、心に沁みました。

 そもそも、日本では古くから藍染が行われてきました。江戸時代、幕府の奢侈禁止令によって、紫色や紅梅色が禁止されて以来、とくに、藍染めが盛んになったようです。濃い藍色には奢侈が抑制されていた時代を彷彿させる要素があったといえるでしょう。

 河瀬作品にベースカラーとして使われていた濃い藍色が日本人である私に哀愁を感じさせたのは、そのような文化的背景が画面を通して伝わってきたからではないかという気がします。

■ラフなタッチに潜む、自然体

 こうしてみてくると、ケクラン氏が繊細で透明感があると評した要因と、私が哀愁を感じた要因とは同じものではなかったかという気がしてきます。つまり、濃い藍色をベースに曇り空を配した画面構成こそが、一連の作品を強く印象づける要因ではなかったかと思えてくるのです。

 もう一つ、気になるところがありました。

 それは、どの作品もラフなタッチで描かれていたことです。色の重ね方、絵具の厚み、形の取り方など、描き方が粗削りでした。具象画でありながら、細部まで丁寧に描かれておらず、雑とも思えるタッチでモチーフの要点が抑えられていたのです。

 それが、画面のあちこちに「抜け感」を生み出す働きをしていました。そのせいか、油彩画でありながら、くどさがなく、すっきりとした透明感が感じられました。フランス人であるケクラン氏は、おそらく、この点に着目し、河瀬氏の作品には繊細で透明感があると評されたのでしょう。

 さっと流すような筆のタッチ、境界線が曖昧なようでいて、実は、確かな筆運び、ランダムなようでいて、実は、要点を抑えた色の差し方、等々が、いわゆる油彩画らしくなく、画面の中に空気の流れや風のそよぐ音を感じさせます。

 私が河瀬氏の作品に懐かしさを感じたのはおそらく、油彩画なのに、どこかしら日本的な感性を思わせるものがあったからでしょう。どの作品も自然体でモチーフが捉えられており、奇抜だと思えるほど大胆に差し色を使いながら、不思議なほど、画面に調和と安定感がありました。

 会場で撮影した写真を何度も見ているうちに、いつの間にか、私もケクラン氏と同様、一連の作品を「美しい」と思うようになっていました。ベースカラーの濃い藍色に哀愁を感じる一方、ラフな筆さばきと一部、繊細な筆のタッチに日本的な感性を感じるようになったからでした。そして、ベースカラーの藍色と硬軟取り混ぜた筆さばきといった、二つの要素は見事に絡み合い、日本の美を感じさせる画面に仕上げていました。

 第20回日本・フランス現代美術展で、河瀬陽子氏の作品4点に出会いました。どの作品も、ベースカラーに濃い藍色が使われており、日本の伝統を連想させられました。一方、油彩画でありながら、硬軟取り混ぜた筆さばきには日本の感性が感じられました。斑なく緻密に塗り固めるのではなく、「抜け感」が感じられるタッチで描かれていた画面に、豊かな情感を感じさせられたのです。

 河瀬陽子氏は、油彩画の中に日本の伝統と感性を結実させ、ハイブリッドな美を創り出していたのです。素晴らしいと思いました。(2019/8/30)

◆ 河瀬氏の作品を鑑賞したのは8月8日でしたが、その後、忙しくて手をつけられず、ようやく8月31日にアップすることができました。

Disney実写版『アラジン』:欲望の連鎖が紡ぐ21世紀のストーリー

■Disney実写版『アラジン』

 7月12日、たまたま時間が空いたので、近くのユナイテッドシネマでDisneyの実写版『アラジン』(字幕版)を見てきました。

こちら → https://www.disney.co.jp/movie/aladdin.html

 意外なことに、客席は半分も埋まっていませんでした。ちょっと驚きましたが、6月7日に公開されすでに5週目の終わりだったこと、平日だったことなどを思えば、その程度の観客数でも別段、不思議はないのかもしれません。

 ところが、帰宅してネットで検索してみると、公開された6月7日以降の週間ランキングは連続1位でした。

こちら →http://www.kogyotsushin.com/archives/weekly/201906/

 7月のデータを見ても、第1週はやはり1位、勢いは衰えていません。全国的な統計を見れば、実は、5週連続1位を記録していたのです。確かに、エンターテイメントとしては、とてもよく出来た映画でした。

 試みに、映画の雰囲気を知ってもらうために、公式ホームページで紹介されていた60秒の映像をご覧いただきましょう。

こちら →https://youtu.be/mxL6e5vQ0RE

 この映像を見てようやく、私が見た劇場で観客数が少なかった理由がわかったような気がしました。

 『アラジン』は、2D(字幕版)、2D(吹替版)、IMAX(字幕版)、4DX3D(吹替版)の4種類が上映されていましたが、私が見たのは2D字幕版でした。これは1日3回上映されており、私は午後に用事があったので、午前に上映開始されるのを選びました。しかも、平日でしたから、週末の午後、吹替版なら観客数はもっと多かったのかもしれません。

 さて、オリジナルの『アラジン』は1992年に制作されたアニメ作品です。それを実写にリメイクし、2019年6月7日に公開されたのがこの作品です。それでは、2019年実写版『アラジン』がどのようなものだったのか、2分20秒の予告映像(字幕版)をご覧いただきましょう。

こちら → https://youtu.be/EbsZrpwmsq0

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 ほんの一部分にすぎませんが、これを見ただけでも、この映画の音楽がどれほどテンポ良く、メリハリの効いたリズムであったか、ノリのいいものであったか、そして、映像のキレがどれほど良く、臨場感に満ちたものであったかがわかろうというものです。

■2019年実写版『アラジン』

 もっとよくコンテンツを知っていただくために、アメリカ版予告映像&制作スタッフのトーク映像をご紹介しましょう。先ほどご覧いただいた予告映像よりも長め(12分41秒)です。重複するシーンもありますが、ご了承ください。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=foyufD52aog

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 冒頭のシーンは、スピード感溢れるテンポで構成されています。ところが、その後、逃げ延びたアラジンが街中で侍女に扮したジャスミンに出会うシーンになると、動きがなくなり、二人が視線を交わすだけになります。アクションを見せるシーンの後は、心理的な駆け引きを見せるシーンを用意し、メリハリをつけていることがわかります。

 ハラハラドキドキするシーンがあるかと思えば、陽気にノリノリ気分になってしまうシーンもあります。アップテンポでリズミカルな音楽とメリハリの効いた映像がぴったりと絡み、観客を飽きさせることなく、気持ちを明るく弾ませてくれる作品になっていました。

 ちなみに監督はイギリス人のガイ・リッチー(Guy Ritchie)、その経歴を見ると、若いころはコマーシャルやミュージックビデオを多く制作していたようです。

 直近の作品の傾向を見てみると、2015年に監督したスパイアクション映画『コードネーム U.N.C.L.E.(アンクル)』は、1960年代のテレビドラマ『0011ナポレオン・ソロ』のリメイク映画ですし、2017年に監督した『キング・アーサー』は、アーサー王伝説を題材としたアクション映画です。

 このような制作作品の傾向からは、ガイ・リッチーこそ、この作品に最もふさわしい監督だったといえるでしょう。

 実際に、劇場の大画面でこの作品を見ると、アクションシーンや魔法のシーンなどが素晴らしく、とても印象的でした。実際にはありえないシーンも、特撮技術によって実写映像に溶け込むように編集されており、視覚的訴求力の高い画面に仕上がっていました。とくに、サルやトラ、オームといった準レギュラーの動物たちの造形や動きが見事に表現されていました。

 キャラクターの造形といい、アクションシーン、魔法のシーン、アップテンポのダンスシーンなど、エンターテイメントとして必要な要素はすべてカバーされていたのです。5週連続でランキング1位というのも納得できます。

 それでは、1992年に制作されたアニメ版と比較するとどうなのでしょうか。

■実写版『アラジン』vs アニメ版『アラジン』

 まず、興行収入を比較することから始めましょう。

 1992年に制作されたアニメ版『アラジン』は制作費2800万ドルに対し、世界から得た興行収入は5億405万ドルでした。

こちら → https://www.boxofficemojo.com/movies/?id=aladdin.htm

 なんと制作費の約18倍にも達しています。

 一方、2019年に制作された実写版『アラジン』は制作費1億8300万ドルに対し、チェックした時点で(2019年7月14日)、世界から得た興行収入は9億6153万9269ドルです。

こちら → https://www.boxofficemojo.com/movies/?id=disneyfairytale22019.htm

 米国での公開が5月24日、日本での公開は6月7日ですから、今後、さらに数字は伸びると思いますが、現時点での興行収入は制作費の約5.25倍です。

 同じ条件で比較するため、オープニング1週間の興行収入で両者を比較すると、1992年のアニメ版は1928万9073ドル(1131劇場)で、2019年の実写版は9150万929ドル(4476劇場)でした。上映劇場が約4倍なので、それに応じた興行収入になっています。

 上映劇場数がオリジナルの4倍になっているのは、実写版にリメイクすることによって、観客のターゲット層を、子ども向け家族だけでなく、青年層にまで広げることができたからだと推察できます。

 次に、二つの作品のポスターを比較してみることにしましょう。

ポスター比較 (映画comより)


 左が実写版(2019年)、右がアニメ版(1992年)です。

 いずれも、三日月を背景に、魔法のジュータンに乗ったアラジンと王女ジャスミンの姿が中心に置かれています。モチーフ、背景、構図、いずれをとっても似かよっています。2019年版はおそらく、1992年版を意識して制作されたのでしょう。

 もっとも、よく見ると、両者には微妙な違いが見られます。

 実写版はアラジンとジャスミンが互いに顔を見つめ合っているのに対し、アニメ版は身を寄せ合って、愛を語らうシーンが捉えられています。意思を確認し合うシーンに力点が置かれているのが2019年版だとするなら、身体的な触れ合いに力点が置かれているのが1992年版といえるでしょう。

 一方、実写版には「その願いは、心をつなぐ。そしてー世界は輝きはじめる」というコピーが添えられ、アニメ版には「愛は冒険を生む。冒険が愛を育てる」というコピーが添えられています。

 これらのコピーからは、実写版ではアラジンとジャスミンの生き方や世界とのつながり方にウエイトが置かれているのに対し、アニメ版では二人の愛と冒険に力点が置かれていることが示されています。

 こうしてみてくると、アニメと実写といった形式の違い以外に、1992年と2019年という制作年の違い、すなわち、時代精神の違いといったようなものがみられるのです。

 さらに、実写版には魔法のランプの精ジーニーの姿が左下に大きく描かれているのに対し、アニメ版にジーニーの姿はありません。つまり、実写版ではジーニーを含めた主要登場人物を三人とみなし、その生き方、世界観が描かれているのに、アニメ版ではアラジンとジャスミン二人の愛の物語で完結しているのです。

 アニメ映画であれ、実写映画であれ、それぞれの作品には時代の風潮や価値観、世界観が反映されざるをえないことを感じさせられます。

 さて、ストーリーの展開の観点からみると、2019年の実写版は1992年に制作されたアニメ映画をリメイクしたものだとはいえ、いささか異なる面があるようです。

こちら → 

https://www.cinemablend.com/news/2472222/disneys-aladdin-10-differences-between-the-remake-and-the-original

 この記事の筆者は、登場人物の生き方や世界観に21世紀の現在にマッチするよう修正されていたると考えています。そのような側面での改変によって、21世紀の観客を大きく魅了するエンターテイメントになりえたのかもしれません。

 それでは、アメリカ版ポスターを通して、作品の構造を見てみることにしましょう。

■アメリカ版ポスターが示す作品の構造

 まず、アメリカ版ポスターに表現されている主要な登場人物と、ターニング・ポイントとなる主要なシーンをご紹介しておきましょう。

アメリカ版・ポスター


 このポスターは、とても興味深い画面構成になっています。

 中央に、魔法のランプを見つめる主人公のアラジンが大きく描かれています。これを全体の中心線だとすると、左半分にやや引いて、ジャスミン王女、そして、右半分にはランプの精であるジーニーの顔が大きく、まるで観客をのぞき込むような恰好で描かれています。

 左右にレイアウトされたこの二人は物語の主要なキャラクターです。

 色調の観点からいえば、ポスターの左半分は黄金をイメージさせる黄土色、右半分はその補色である濃いブルーをベースカラーに設定されており、アラジンを挟んで二つの領域に分けられています。

 左側が宮殿を舞台に、権力闘争が展開されるリアルな世界が描かれているとするなら、右側は魔法のランプが隠されていた洞窟を舞台に、夢を実現するファンタジックな世界が描かれているといえるでしょう。

 まず、左側から見てみましょう。

 王女の衣装を着たジャスミンが毅然とした姿を見せており、その背後には、黄金で輝く宮殿の内部が描かれています。細部に装飾が施され、何もかもが黄金色で輝いており、それが奥深くどこまでも続いているのです。宮殿がいかに広大で、豪華なものかが示されています。

 王女のボディガードの虎(ラジャー)は黄金色に輝いていますし、その隣に描かれた王女の父、アグラバー国王もまた輝く光の中で、威厳のある立ち姿で描かれています。その下には彼らが支配するアグラバーの城下が描かれています。ですから、左側は富と権力が示されているといえるでしょう。

 それでは、右側はどうでしょうか。

 アラジンの右肩の背後からランプの精ジーニーが大きな顔を覗かせています。このポスターの中で最も大きく描かれているばかりか、ジーニーだけが観客と視線を交差できるような描かれ方をしています。眉を軽く上げ、おどけた表情を見せながらも、視線はダイレクトに観客に向けているのです。

 ご説明したのは、先ほどのポスターの上半分です。切り取ると、このようになります。

アメリカ版ポスター上半分

 改めて、この三人の視線の向きをチェックしてみると、主人公のアラジンは視線を伏せ、ジャスミンは視線を遠方に投げています。つまり、この二人は観客と目を合わせないように描かれているのです。つまり、二人はあくまでも物語の登場人物であって、語り手ではないということが示されています。

 一方、ジーニーは笑みを浮かべ、視線をダイレクトに観客に向けています。ですから、このジーニーこそ、物語の全容を把握し、観客に向かって面白おかしく語りかける語り部のように見えます。そういえば、『アラジン』はアラビアンナイトの一話でした。この映画のオープニングは、行商人が子どもたちを前にお話をして聞かせるシーンだったことを思い出します。

 それでは、何がこの物語のキーポイントになるのでしょうか。それは、魔法のランプの精が叶えてくれる「願い事」すなわち、欲望です。

 主要な登場人物の欲望がどんなものだったのか、見ていくことにしましょう。

■ランプの精が叶えてくれる願い事

 物語は、侍女に扮して城外に出た王女ジャスミンがアラジンと出会うことからはじまします。宮殿に閉じ込められるようにして暮らしている王女ジャスミンにとって、城外に出ることは、まだ見ぬ世界を知ることであり、夢でした。

アグラバーの城外 (ユーチューブ映像より)

 ところが、一歩、城外に足を踏み入れると、そこは秩序もなく、雑多なものが混在している空間でした。物売りの声が聞こえるかと思えば、盗人が追われる騒動もありました。喧騒に満ちた街中は興味が尽きず、キョロキョロと見回っている間に、ジャスミンは露店の立ち並ぶ一角にやってきていました。

 そこに突如、現れたのがアラジンでした。

 アラジンは盗みを咎められ、追われていました。階段を駆け上り、屋上伝いに追手をかわしながら、華々しいアクションシークエンスを繰り広げた後、ようやく人混みに紛れ込み、ほっとしたときに出会ったのが、ジャスミンでした。

アラジンとジャスミン アメリカ版クリップ

 挨拶代わりに、アラジンはジャスミンから母の形見の腕輪を盗みます。驚くジャスミンを見て満足し、すぐさま腕輪を返却します。ところが、相棒の小ザル(アブー)がいつの間にか、また盗んでしまいました。これでは信用を失ってしまうとばかりに、アラジンは返却のために宮殿に忍び込みます。このとき、アラジンはジャスミンを侍女だと思い込んでいました。

 首尾よくジャスミンに会うことができ、腕輪を返すことはできたのはいいのですが、アラジンは衛兵に捉えられてしまいます。その処遇を担当したのが国務大臣のジャファーでした。彼は、ジャスミンが実は王女だということをアラジンに教え、洞窟に入って魔法のランプを取ってくれば、チャンスを与えるといい、大金持ちになれるぞと唆します。


アラジンとジャファー (ユーチューブ映像より)

 権力志向の強いジャファーは、国務大臣であることに不満を持ち、ひたすら王になることを願っていたのです。通常手段では不可能なこの願いも、魔法のランプを使えば叶えることができるのではないかと思い、アラジンに命じたのでした。

 アラジンはサルのアブーを伴って、洞窟の中に入っていきます。

 洞窟の中に入ったアラジンは崖の上に置かれているランプを見つけ、なんとか手に取り、下に降りた途端に、ランプの精であるジーニーが突如、現れます。アラジンは何も知らずに、ランプをこすってしまったのです。


アラジンとジーニー  アメリカ版クリップ

 ジャファーの命令に従ってようやく手にした魔法のランプから、思いもしないランプの精霊が現れ、三つの願いをかなえてあげるというのです。

 これがこの物語の第一のターニング・ポイントになります。

■アラジン、アリ王子として宮殿へ

 ジーニーはさっそく、ランプの使い方や願い事のルールなどをアラジンに教えます。

こちら → https://youtu.be/DuPUlLXiTQQ

 どんな願いも聞き入れてくれるというので、アラジンはジャスミンに会いたいといいます。王座を求めるジャファーと違って、アラジンの願い事はなんとささやかなものなのでしょう。ただ、ジャスミンに会いたいというだけのものでした。

 ところが、相手は王女です。会うには、宮殿に入るという大きなハードルを乗り越えなければなりません。正々堂々と、誰にも邪魔されることなく宮殿に入り、しかも、歓待されるという状況を創り出さなければなりません。

 それには、どこかの国の王子になり、表敬訪問をするという体裁を取らなければならないのです。

 ジーニーはいろいろなアイデアを出しながら、最終的にアラジンを架空の国「アバブワ」のアリ王子に仕立て上げます。もちろん、ジーニーが魔法を使って変身させられるのは外見だけですが、いろいろな衣装を試着させてみて、最終的に、白いターバンにいかにも王族らしい衣装に決定します。

ジーニーに変身させられたアラジン ユーチューブ映像より。

 砂漠を背景に、次々とアラジンを変貌させていくシークエンスは、ジーニー主導のコメディタッチで表現されています。魔法使いならではの面白さが、特撮技術とジーニー役の俳優ウィル・スミスのコミカルな演技で組み立てられており、笑いを誘う部分です。

 こうしてアラジンは、ランプの精ジーニーの魔法によってアリ王子に変身し、ジャスミンのいる宮殿に向かいます。

こちら →https://youtu.be/2URgeV4ilcU

 ジーニーが踊りながら先導する行進がなんとも陽気で、華やかです。華麗な衣装のダンシングチームが踊りながら行進した後は、ダチョウが突進していきます。そして、アブーが変身させられた象に乗って、アリ王子に変身したアラジンが現れます。大勢の人々が見ている沿道から、歓声が沸いています。

 宮殿のバルコニーからは王やジャスミンが、何事が起こったのかとアラジンの一行を見守っています。

宮殿から見下ろす王とジャスミン ユーチューブ映像より。

 そうそう、うっかりして、大切な登場人物を紹介し忘れていました。アラジンの相棒、小ザルのアブーです。

アラジンとアブー アメリカ版ポスター

 アラジンの肩に乗って、威嚇するように大きく口を開け、こちらを睨みつけています。時にいたずらもしますが、アラジンにはとても頼りになる相棒です。宮殿に向かう際はジーニーによって巨大な象に変身させられ、アラジンを乗せて行進しています。

 派手で豪華な行進で入城するというジーニーの作戦は成功しました。

 得体の知れないアリ王子ですが、ジーニーが先導する行進があまりにも豪華で派手だったので、財力の豊かな国から表敬にきた王子だと勘違いされたのでしょう、つゆほども警戒されることなく、アラジンの一行は宮殿に迎え入れられたのです。

■王座を狙うジャファー

 アリ王子の顔を見るなり、国務大臣のジャファーはアラジンだと気づきます。そして、その華麗な変身ぶりを見て、アラジンが魔法のランプを手に入れたと察知します。

 そもそも、この物語の発端の一つはアラジンとジャスミンの出会いであり、もう一つの発端はジャファーの王座狙いでした。国の重鎮である国務大臣を務めていたとはいえ、いつまでも二番手でいることに安住できないジャファーの欲望が、この物語のもう一つの発端だったのです。

 ジャファーは、宮殿に忍び込んだアラジンを捉え、ジャスミンが王女であるkとを教え、さらに、洞窟にある魔法のランプを取り出して来いと命令しました。魔法の力で王座を得たいというのが彼の狙いだったからです。

  それなのに、アラジンは今、魔法のランプを使ってアリ王子となり、宮殿に現れています。ジャファーが怒るのも当然でした。アラジンは魔法のランプを横取りしたばかりか、大胆にも宮殿に赴き、王や王女ジャスミンに表敬訪問をしているのです。

 アラジンはそれほど見事にアリ王子に変身していました。これを見たジャファーは、改めて、魔法のランプの力の凄さを認識したことでしょう。なんとしてでも、ランプを取り戻そうと画策します。

 さて、アリ王子(アラジン)は表敬の挨拶の際、ジャスミンに贈り物を申し出ます。最初の申し出(ジャムなどの贈り物)には関心を示さなかったジャスミンですが、二度目に申し出た、行きたいと思ったところにはどこへでも、魔法のジュータンに載せて連れて行ってあげるという提案には喜びました。

 この時、ジャスミンもまた、アリ王子が実はアグラバーの街で出会ったアラジンだということに気づきます。ただ、ジャファーとは違って、アリ王子が扮装して街に出ていた仮の姿がアラジンだったと解釈したのです。

 見かけは王子でも中身はアラジンなので、宮殿のお偉方とのやり取りにはボロが出ます。その隙を狙ったジャファーは、ランプがどこにあるか言わなければ、お前の正体をばらすぞとアラジンを脅し、縛り上げて海に投げ込んでしまいます。

海に投げられるアラジン ユーチューブ映像より。

 

 危機一髪のところ、機転を利かせたジーニーが変則的に第2の願いを使って、アラジンを助けます。ところが、その間に、ジャファーにランプを奪われてしまいます。

ランプを手にしたジャファー  アメリカ版クリップ

 サルタンの衣装を着たジャファーの姿です。向かって左手の人差し指を突き出し、左手にはランプを持っています。まるで勝利宣言をしているかのようです。魔法の力で仮に、国王になりたかったジャファーの夢が叶った瞬間でした。

 これが第二ターニング・ポイントのシーンです。

 その後、魔法の力を失ったアラジンは追い詰められていきます。ジャファーはジーニーに命じ、アラジンとアブーを氷に閉ざされた荒地に追いやってしまいます。これもまた、危機一髪のところで、魔法のジュータンに乗って宮殿に戻ってくることができました。

 アラジンがいない間に、ジャファーはジャスミンに、結婚を承諾しなければ、父である王と侍女ダリアを殺すと脅します。ジャスミンは仕方なく応じ、結婚式を迎えたその日、魔法のジュータンによって救い出されたアラジンとアブーが駆けつけます。

■最後のお願い

 ジャファーはイアーゴを獰猛な肉食鳥に変身させ、彼らを追いかけさせます。魔法のランプを手にしても、こすらなければ効力はありませんから、ジャファーはそれを阻止しようとしたのです。壮絶なチェイスが繰り広げられます。

 これが第三のターニング・ポイント、そして、クライマックスシーンです。

 アラジンはジャファーを挑発するように、お前はまだジーニーに及ばない、宇宙で一番パワフルな存在になるには最後のお願いをするしかないよ、とけしかけます。挑発に乗ったジャファーは、宇宙で一番パワフルな存在にしてくれとジーニーに願います。

 ジャファーの願いを聞いたジーニーはその意味がよくわからず、魔法の力が強大なランプの精になりたいのかと思い、ジャファーを精霊に変えて、ランプに閉じ込めてしまいます。おまけに、ランプにつながれたジャファーは、道連れにイアーゴを引きずり込みました。これで敵は全て、ランプの中に閉じ込められてしまったことになります。

一切を見届けたジーニーは、ジャファーとイアーゴが入ったランプを魔法の洞窟に投げ戻します。ようやく恐怖から解き放たれたアラジンは約束を守って、最後のお願いでジーニーをランプの精から解き放って人間に変え、自由にします。

 そして、ジャスミンに対しては、魔法のジュータンに乗って、行きたいところにはどこへでも連れていくという約束を果たしました。

魔法のジュータンに乗るジャスミンとアラジン アメリカ版クリップ

 一方、王はジャスミンを次期王にすることを宣言します。

 ジャスミンをどこかの国の王子と結婚させて国を譲りたいと思っていた王でしたが、ジャスミンの自分でこの国を治めたいという希望を聞きいれたのです。宮殿内の不祥事にもうろたえることなく、問題解決できる能力を認めたからでしょう。

 人間になったジーニーはジャスミンの侍女ダリアを結婚し、ジャスミンもまたアラジンと結婚します。こうして登場人物たちはハッピーエンドを迎えるのです。

 最後を締めくくるように、最初に登場した行商人の家族が再び、登場します。子どもたちにお話を聞かせるという体で始まった物語がこうして幕を閉じたのです。語り部はジーニー、そして、聞いているのは、ジーニーとダリア夫婦の子どもたちでした。

■欲望の連鎖が紡ぐストーリー

 この作品はアニメ版の実写化です。アニメ版は『アラジンと魔法のランプ』を原作にしたファンタジックな異国のラブロマンスですが、実写版の場合、それだけでは訴求力が足りません。子ども向けのアニメ作品を実写化するには、大人が見ても楽しめる要素が必要だったでしょう。

 21世紀の大人が見ても楽しめる要素として、特撮技術による躍動的なアクションシーン、意表をつく魔法シーン、さらには、ダンスシーン、コミカルなシーンなどが次々と、弾力的に叩き込むように加えられました。観客は誰しも、スピード感あふれる画面展開にくぎ付けになってしまったことでしょう。よく出来たエンターテイメントでした。

 興味深いのは、実写化に際し、「願い事」(欲望)の連鎖に力点を置いて、ストーリーが展開されていたことでした。21世紀の観客は1992年の観客とは違って、単なるラブロマンスには引き込まれません。時代精神と絡ませた世界観、あるいは人生観を組み込まなければ、観客を夢中にさせることはできないでしょう。

 脚本を担当したのはジョン・オーガスト(John August)ですが、監督のガイ・リッチー(Guy Ritchie)も加わっています。

 ストーリー構成を見ると、登場人物たちの欲望が連鎖し、プロットを展開していくような仕組みになっていることがわかります。登場人物たちの欲望が問題を発生させ、解決したかと思えば、さらにその別の問題が発生するといった格好で、ストーリーが展開されるという構造になっているのです。

 この作品の主要な登場人物は五人います。


左から、ジャファー、ジーニー、アラジン、ジャスミン、ダリア  アメリカ版クリップ

 いずれもが、それぞれの人生観、世界観に基づく欲望を抱いています。

 たとえば、王女ジャスミンは城外の世界を見て見識を深めたいという欲望、アラジンはたまたま街で出会ったジャスミンにもう一度会いたいという欲望、ジャファーは王座に就きたいという欲望、ジーニーは人間になりたいという欲望、ジャスミンの侍女ダリアは結婚して家庭を持ちたいという欲望、といった具合です。

■欲望の中空構造を象徴するアラジン

 この五人の中でただ一人、欲望が変化している人物がいます。それは、アラジンです。「ジャスミンに再び会いたい」という素朴な欲望から、やがて、(ジャスミンに会うため)、「王子になりたい」になり、(ジャスミンの希望を叶えたいため)、「ジャスミンが望むところはどこへでも魔法のジュータンに乗って行きたい」になっていきます。

 なぜ、このように変化するのかといえば、アラジンの究極の欲望が、他人の欲望の実現でしかないからでしょう。いってみれば、アラジンには自身の欲望というものがないのです。

 たとえば、ジャファーとジャスミンの欲望は国の支配に関わっています。自身の権力志向を満足させるために王座を狙うのがジャファーだとすれば、ジャスミンは女性もまた支配者になりうるという立場から王権を手にすることを願っています。

 「スピーチレス~心の声」という新曲の中で、ジャスミンの思いは存分に表現されています。

こちら →https://youtu.be/b8z9l9kqGCs

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 このようなジャスミンの思いは現代女性を代表するものであり、ここに21世紀ならではの時代精神が表現されています。

 そして、ジーニーとダリアの欲望は、「人間として」あるいは、「家庭人として」生きていきたいというものです。ヒトを繋ぎとめてきたさまざまな絆から解き放たれた現代人の一部は再び、ヒトとは何かを問い、家庭に拠り所を求めようとしています。そのような現代潮流の一端がかれらの欲望に反映されています。

 このように、アラジン以外の登場人物はそれぞれ、自己実現のための欲望を持っており、それを実現させるために行動しています。

 ところが、アラジンは違います。物欲はなく、権力欲もなく、自己実現のための欲望もなく、ただひたすら他人の欲望を実現させるために、「願い事」をします。まるでランプの中のように、アラジンには欲望が空洞になっているのです。

 考えて見れば、だからこそ、個性的な登場人物たちが、アラジンを中心に、調和を保ちながら、存在できているように見えるのでしょう。自身の欲望を持たないアラジンが、一種の中空構造の役割を果たすことによって、欲望の衝突がもたらす悲劇を回避することができているように思えるのです。

 このような観点から実写版『アラジン』を読み解くと、この映画から現代社会に有益な示唆を得たような気がします。

 自己実現、自己利益のための欲望が巨大なエンジンとして、社会を動かしているのが現代社会です。だとするなら、どこかに空っぽの空間を作らなければ、社会そのものがやがて、欲望の衝突によって自己崩壊を招きかねないでしょう。現代社会の歪を考えると、中空構造の機能を捉えなおしてもいいのではないかという気がしました。(2019/7/16 香取淳子)

シドニー・ビエンナーレ2018:芸術監督・片岡真実氏のパースペクティブを振り返る。

■オーストラリア学会・30周年国際大会の開催

 2019年6月15日から16日、青山学院大学でオーストラリア学会・30周年国際大会が開催されました。

オーストラリア学会30周年国際大会

 

 オーストラリア学会から送られてきたプログラムを見て、16日の朝、片岡真実氏が講演されることを知りました。片岡真実氏といえば、シドニー・ビエンナーレ2018で、アジア人で初めての芸術監督を務められた方です。残念ながら、私はこのビエンナーレに行っておりませんが、気にはなっていました。

 一体、どのような内容だったのか、概要だけでも把握できればと思い、6月16日、青山学院大学に出かけてみました。

 聳え立つ木々の豊かな緑の下、学内は気持ちのいい落ち着きと静けさに包まれていました。

青山学院大学

 

 片岡真実氏(森美術館副館長兼チーフキュレーター)の特別講演は、「多文化社会とアートーオーストラリアにおける文化創造の最前線」というセッションの冒頭で行われました。

講演する片岡真実氏

 

 とくに印象に残ったのは、このビエンナーレのテーマ設定に際し、片岡氏が、「世界を見るパースペクティブとして東洋的価値観を取り入れたい」と考えていたということでした。

■世界を見るパースペクティブ

 片岡氏はアジア人で初めて芸術監督に任命された方でした。当然のことながら、そのことは念頭に置かれていたのでしょう、片岡氏の発言を聞いて、俄然、興味が湧いてきました。

 いつごろからか、私は、いまの世界状況を打開するには西洋的価値観では難しいのではないかと思うようになっていました。まずは、世界各地の文化リーダーが集まる場所で、価値観のシフトが可視化される必要があるのではないかと考え始めていたのです。それだけに、この時の片岡氏の「東洋的価値観を取り入れたい」という発言に、私は引き付けられました。

 1973年に開始されたシドニー・ビエンナーレの芸術監督はそれまで、イギリス人が務めることが多かったといいます。ところが、2018年の芸術監督に片岡氏が選ばれました。欧米の価値観だけでは世界情勢をとらえきれないことが共通認識になりつつあったからかもしれません。

 片岡氏はアジア人として、これまでのシドニー・ビエンナーレの歴史に一石を投じる覚悟で臨んだのだと思います。1973年から2016年までの参加者名簿を会場に展示するという試みもその一つでした。

アーティストの名簿

 

 アーカイブはすでにできていますが、アーティスト名簿の掲示はまた別の効果があるような気がします。このように会場の一角にこれまでのアーティストの名前を掲示することによって、シドニー・ビエンナーレを縦断的に俯瞰することができ、それを踏まえて未来を見据える効果もあるように思いました。

 さて、第21回シドニー・ビエンナーレのテーマは、「SUPER POSITION : Equilibrium and Engagement」です。片岡氏は、量子力学の概念をテーマに取り入れるとともに、五行思想の考えからをサブタイトルに取り入れたのです。

■SUPER POSITION : Equilibrium and Engagement

 テーマの「SUPER POSITION」というのは、聞き慣れない言葉です。Wikipediaを見ると、量子力学の基本的な性質だと定義されており、「重ね合わせ」を指すそうです。これだけではよくわからないので、調べて見ました。すると、関連映像を見つけることができました。慶応大学の伊藤公平教授とオックスフォード大学のジョン・モートン教授による説明です。

こちら → https://youtu.be/ReOgrsEef8I

 これを見ると、「重ね合わせ」という概念は、電子などが複数の異なった状態で同時に存在し、一つの状態に特定できないことを指すようです。もっとも、そう聞いても、なかなか具体的には理解しがたい概念です。

 片岡氏はこのSUPER POSITIONについて、不確定性の理論だと説明した上で、この不確定性は、現代の世界を象徴するものとして捉えられているといいます。そして、片岡氏はその一例として、「現在のオーストラリアの下には、かつてのオーストラリアの地図がある」と説明し、「同時に二つのルールが存在する中で生きている」という認識を示してくれました。それを聞いてようやく、わかったような気になりました。

 そういえば、オーストラリアには、先住民のアボリジニが住んでいました。彼らには太古の昔からその地で連綿と生を紡いできた歴史がありました。かつて彼らはその歴史文化に基づく地図を持っていたことでしょう。ところが、いまやその地図はありません。1788年に上陸してきたイギリス人によってオーストラリアは植民地化されてしまったからです。

 いつ頃から現在の地図が作られたのかを知りたくて調べて見ると、オーストラリア大陸の古い地図を見つけることができました。

1872年の地図

http://kowtarow1201.seesaa.net/article/287819144.html より)

 

 上の写真は、1872年にアメリカで発行された地図から、オーストラリア大陸の部分を取り出したものです。この地図を見ると、イギリス人が上陸してからわずか84年後、オーストラリア大陸はすでに、統治に便利なように区切られていたことがわかります。

 北オーストラリア、アレキサンドラ、西オーストラリア、南オーストラリア、ビクトリア、ニューサウスウェールズ、クィーンズランドなど、北オーストラリアとアレキサンドラ以外は現在の州名のままです。さらに、海岸沿いには、現在の都市名がいくつも見えます。

 現在の地図も示しておきましょう。

現在の地図

 

 二つの地図を比べて見ると、1788年にオーストラリア大陸にやってきたイギリス人はわずか84年で、先住民の土地、言語、文化を簒奪したばかりか、行政区まで制定していたことを確認することができました。入植者たちが、先住民の土地に自分たちの居住地、街区、行政区を作っては、次々と新しく命名していったのでしょう。この地図の背後から、先住民が生きてきた痕跡が透けて見えてくるような気がします。

 このような経緯を振り返ると、片岡氏のいうように、現在のオーストラリア人は、意識するにせよ、しないにせよ、「同時に二つのルールが存在する中で生きている」といわざるをえないのかもしれません。

 ちなみに、入植者が入り込んだ1788年当時、アボリジニの人口は30万人から100万人だったと推定されていますが、1920年には7万人にまで減少してしまったそうです。現在の人口規模は65万人にまで回復しているそうですが、かつては250もの言語を持ち、多様な文化の下で暮らしていたアボリジニは、言語だけみても、現在は75にまで減少してしまったそうです。

 古い地図が新しい地図に書き換えられていく過程で、先住民の土地や文化は、多くの場合、入植者のものに置き換えられていきました。それでも、先住民たちは、記憶、言語、生活文化、ヒトとヒトの交わり中で、存続することができた言語や生活文化もあります。

 つまり、片岡氏は、現在のオーストラリアには、先住民の文化、入植者の文化、その後、オーストラリアに移植された文化等々が、さまざまな状態で同時に存在しており、何か一つの状態に特定できない現象があるというのです。「SUPER POSITION」とはまさにこのような現象を指すのでしょう。

 「SUPER POSITION」(重ね合わせ)はすでに、オーストラリアだけで見られる現象ではなくなっています。いまや、世界中、さまざまな国や地域でこのような現象を見出すことができるでしょう。しかも今、ハンチントンのいう「文明の衝突」がさまざまな場所で見受けられるようになっています。

 オーストラリアで開催されるシドニー・ビエンナーレだからこそ、そして、文明の衝突が懸念される世界情勢の現在だからこそ、片岡氏は「SUPER POSITION」をテーマに据えたかったのでしょう。

 さて、第21回シドニー・ビエンナーレにはサブタイトルが付けられており、それは、「 Equilibrium and Engagement」でした。

■ Equilibrium and Engagement(均衡とエンゲージメント)

 片岡氏は講演で、「世界を見るパースペクティブとして東洋的価値観を取り入れたい」といわれました。言葉を継いで、「五行思想を東洋の価値観として、世界に向けて発信していきたい」といわれました。

 そういえば、第21回シドニー・ビエンナーレのポスターを見ると、この五行思想が反映された図案になっていました。

ポスター

 

 中国で生まれた自然哲学に、五行思想というものがあります。万物は火・水・ 木・金・土など五種類の元素から構成されており、これらは「互いに影響し合い、その生滅盛衰によって天地万物が変化し、循環する」という考え方です。

 ポスターの5色は、Wikipediaの五行についての説明図の色とほぼ同じです。


(Wikipediaより)

 

 この説明図では、五行は相互に「相生」(順送りに相手を生み出していく、陽の関係)と、「相剋」(相手を打ち滅ぼしていく、陰の関係)の関係にあることが、矢印(外側に示された黒の矢印と、内側に示された白の矢印)で示されています。

 片岡氏は以下のような図を使って、テーマについて説明されていました。


Equilibrium and Engagement

 

 この図を見ると、「相生」に相当する語として「CREATS」が当てられ、「相剋」に相当する語として、「DESTROYS」が当てられています。

 森羅万象の象徴である五元素の間には、相生と相剋の二つの側面が五元素の間を巡ることによって、穏当な循環が生まれ、それによって宇宙の永遠性が保証されるという考え方が、五行思想だといわれています。

 サブタイトルの「Equilibrium and Engagement」とは「均衡」と「関与」であり、まさに、この世のものにはヒエラルキーがなく、バランスを取りながら、全体が遊動しているという世界観です。この世界観こそ、アジア人で初めてシドニー・ビエンナーレの芸術監督になった片岡氏が世界に向けて発信したかったものでした。

 前置きがだいぶん長くなってしまいました。

 それでは、私が興味を覚えた四人の作家の作品について、第21回シドニー・ビエンナーレのHPを参照しながら、あるいは、関連情報を加えながら、ご紹介していくことにしましょう。

こちら → https://www.biennaleofsydney.art/archive/21st-biennale-of-sydney/

 ホーム画面のタイトルの下に掲載されているのは、Ai wei wei氏の「クリスタルボール」です。まず、Ai wei wei氏の作品からご紹介していくことにしましょう。

■Ai wei wei(艾未未)氏の作品

 2018年のシドニー・ビエンナーレで、もっとも印象深かったのが、Ai wei wei氏の“Law OF the Journey”という作品でした。


Law of the Journey

 

 全長60mにも及ぶ巨大なゴムボートのインスタレーションです。このボートには258人もの難民が、ひしめき合うように乗っています。これまでに見たこともにない、壮大な創作のエネルギーを感じさせられます。2017年に制作された作品です。

 このインスタレーションの一環として、4つのビデオ作品も展示されていたようです。日本でも上映された“Human Flow”もその一つでした。

 彼が制作した“Human Flow”(『ヒューマン・フロー/大地漂流』)2019年はオスカー賞の有力候補になったほどの作品で、日本では2019年1月12日に公開されました。

こちら →http://www.humanflow-movie.jp/

 この映画のサイトのホーム画面にも、難民が鈴なりになってボートに乗り、国を脱出しようとしているところの写真が掲載されています。

 Ai wei wei氏は、第2次大戦後、世界で6500万人もの人々が、飢饉や気候変動、戦争などを免れるため、故国を離れざるとえなかったといいます。そして、彼が制作した『ヒューマン・フロー/大地漂流』は、そのような人々の大規模な移動を、力強い映像で表現した素晴らしいドキュメンタリーです。この作品では、危機に陥った難民の驚異的な規模とその深刻な個人への影響が明らかにされています。

こちら → https://www.humanflow.com/synopsis/

 Ai wei wei氏の体験が、このようなドキュメンタリー映画として作品化されていたばかりか、今回、出品された作品にも結晶化されていたのです。

 Wikipediaによると、Ai wei wei氏は1957年に北京市に生まれた中国の現代美術家で、キュレーター、建築家であり、文化評論家、社会評論家でもある多彩な人物のようです。1981年から1993年までニューヨークでパフォーマンスアートやコンセプチュアルアートの制作に励んでいたといいます。

 1993年に中国に戻り、以後、中国現代美術の中心的人物であったようですが、その活動を咎められ、軟禁されてしまいます。保釈後、2015年にドイツに渡り、ベルリンで創作活動をしていましたが、2018年にはそこも離れ、世界各地で作品発表を行っているといいます。

●Law of the Journey

 このインスタレーションがどれほど巨大なものであったか、会場に設置しているところを撮影した写真がありましたので、ご紹介しておきましょう。


Law of the Journey 設置場面

 

 上の写真の右側に、クリスタルボールが置かれているのが見えます。Ai wei wei氏が出品したもう一つの作品です。写真ではとても小さく見えますが、これでも直径1メートルはある大きな球体です。巨大な水晶玉を使った作品で、2017年に制作されました。

●Crystal Ball

 この作品は、第21回シドニー・ビエンナーレのホーム画面に掲載されていました。巨大な球体がまるで世界の運命を占うかのように、設置されていました。壊さないように運び込むのが大変な作業だったと片岡氏はいいます。

クリスタルボール

 

 こうしてみてくると、片岡氏がAi wei wei氏の作品をいかに重視していたかがわかります。Ai wei wei氏は、さまざまな文化の交差するところに身を置き、その衝突を経験しながら、現代社会を俯瞰し、作品を制作していたのです。第21回シドニー・ビエンナーレの真髄はこれらの作品に集約されていたといっていいでしょう。

■Lili Dujourie氏の作品

 やや傾向の異なる作品もありました。Lili Dujourie氏の、「American Imperialism」(アメリカ帝国主義)というタイトルの作品です。

アメリカ帝国主義

 

 真っ赤な壁が鑑賞者に強烈な印象を残します。横から見ると、この壁に立てかけられているのが、こげ茶磯の薄い銅版だということがわかります。赤い壁とこの銅板の間に、赤く塗られていないままの白い壁の部分が見えます。一見しただけでは見ることのできない、この部分に、Lili Dujourie氏のメッセージが隠されているようにも見えます。

横から見た「アメリカ帝国主義」

 Lili Dujourie氏の初期作品は、1960年代、70年代の政治的社会的状況への批判的なものが多かったといわれています。1972年に制作されたこの作品は、鑑賞者には理解しにくく表現されていますが、ベトナム戦争など、当時のアメリカとその外交政策への批判が込められているように見えます。

■Esme Timbery氏の作品

 意表を突く作品は他にもありました。Esme Timbery氏が2008年に制作した作品で、壁一面に子どものスリッパが200セット、展示されていました。このインスタレーションは、多様な貝殻を組み合わせたデザインの素晴らしさと、輝かしく配色された色彩の組み合わせが印象的でした。


貝殻で作った子ども用スリッパ

 

 それにしても、200組の子供用スリッパで構成されたインスタレーションには驚いてしまいました。

 拡大して見ることにしましょう。


拡大したスリッパ

 5×9.5×5サイズの貝殻で作ったスリッパのセットがこのように整然と、展示されていたのです。色の合わせ方、さまざまな貝殻を寄せ集め、個性を追求した造形的な美しさ、それぞれが見事な手仕事といわざるをえません。

 引いて見ると、このようになります。


壁面いっぱいのスリッパ

 ヒトが履いていないスリッパだけが、整然と200セットも並べられています。

 華やかな色彩に彩られた壁面は、一見、美しく見えますが、考えてみれば、不気味な空間でもあります。というのも、これらのスリッパがすべて子どもサイズだからです。子どもがおらず、スリッパだけが多数、秩序づけて並べられているこの作品からは、母親の涙が感じられるような気がしてなりません。

 このインスタレーションを見ると、オーストラリアの歴史を知る鑑賞者は、ごく自然に、1869年から1969年に至るまでの期間、児童隔離政策が採用されていたことを思い出してしまうでしょう。

 実は、オーストラリアの先住民は18世紀に、暴力的に植民地化され、土地や文化を簒奪されたばかりではなく、19世紀末から20世紀半ばにかけて、児童隔離政策による種族根絶の危機すら経験してきたのです。

 このインスタレーションからは、アボリジニが耐えてきた悲哀を読み取ることができるだけではなく、長年の悲しみと苦労が見事なまでに昇華され、作品化されており、芸術作品として深い意義と味わいを感じ取ることができます。

 暴力的に支配され、土地や文化を簒奪されてきた先住民たちがどれほどの悲しみと悲惨な思いを抱えて生きて来たか、まして、子どもを奪われた母親たちがどれほど悲嘆にくれて暮らしてきたか、それにもかかわらず、彼女たちは美しい貝殻を集めてスリッパを作り続けてきました。Esme Timbery氏の作品はそのような過去と現在を表現したものでした。

 Esme Timbery氏は、オーストラリアの先住民Bidjigal族のアーティストとして活躍しています。海岸沿いのアボリジニは数千年にわたって貝殻で装飾品を作ってきました。彼女の曾祖母もその伝統を受け継ぎ、1910年にはイギリスで作品を発表したこともあるそうです。

 Esme Timbery氏はそのようなアボリジニの伝統を受け継ぎ、色彩の組み合わせもデザインも現代的なセンスで作品を仕上げました。そこには連綿と続いてきた文化と迫害の歴史が込められており、鑑賞者の気持ちに強く訴えかけるものがありました。

■Roy Wiggan氏の作品

 Esme Timbery氏の作品と同様、心の奥深く、原初的な感情が揺さぶられるような思いのする作品がありました。Roy Wiggan氏の「ilma」で、1994年に制作されたものです。

iluma

 

 鮮やかな色彩がとても印象的です。外側から青、橙、緑、茶、白、赤、といった具合にコントラストの強い色を隣同士に並べ、中には小さく、黒、黄と並べ、その下に赤でWという文字を平たくしたような曲線で構成されています。これが何を意味するのかはわかりませんが、整然と並べられ、秩序だって構成されているので、なんらかの記号のようにも見えます。

 シドニー・ビエンナーレ2018のHPを見ると、この作品のタイトルである「ilma」は、バルディ族(西オーストラリア州キンバリー地区に居住するアボリジニ)の儀式や、物語や音楽や法律を教えるための手段を指す言葉のようです。

 色彩やデザインによって、動物や植物だけではなく、気象学的事象や海洋現象、さらには、形而上学的概念なども表現できるようです。材質としては、伝統的なものでは樹皮、木綿、羽毛などが使われ、現在は、合板、アクリル絵の具、コットンウールなどが使われるようになっているといいます。

 さて、Roy Wiggan氏の作品「ilma」は、ニューサウスウェールズ州立美術館から委託され、Wiggan氏が1994年に制作したものだそうです。HPによると、その内容は、コーン・ベイ(西オーストラリア州、キンバリー)と彼の父親が生き延びた特別の物語を踏まえたものだと説明されています。

「ilma」は展覧会に出品する目的で制作された作品ではありませんが、Wiggan氏は、この作品が展示されることによって、鑑賞者が文化遺産を保存することの意義を感じてくれればと考え、出品依頼に応じたといいます。というのも、Wiggan氏はilmaの制作者であるばかりか、部族の長老として、若い世代に知識や伝統や習慣を伝えることによって、過去と未来の間に架け橋になるよう奨励してきたからでした。

 このようなHPの説明を読むと、この作品が単なる一個人の表現物を超えたものだということがわかります。長年にわたる民族の歴史、文化、情報が込められて表現された作品であり、いってみれば、文化遺産なのです。

 この作品が展示されているコーナーをご紹介しておきましょう。

展示コーナー

 

 「ilma」と似たような図柄の作品が二点、並べられています。その隣の壁面には、縦長に丸い図案が繋げられているように見える作品が5点展示されていました。遠目で見ると、記号というよりむしろ、装飾品のように見えます。

 今回、ご紹介した一連の作品を振り返ると、片岡氏が設定したテーマが現在の社会状況にふさわしく、しかも選ばれたアーティストたちの作品がそれに応えられる質の高いものだったという気がします。

 第21回シドニー・ビエンナーレでは、「SUPER POSITION」というテーマにふさわしい作品がいくつも展示されていました。今回、ご紹介した一連の作品はとくに、シドニーで今、開催されるビエンナーレならではの問題意識が明確に反映されており、見応えがありました。

■東洋の価値観とは

 第21回シドニー・ビエンナーレでは、35ヵ国から69名のアーティストが参加しました。日本人アーティストも3人、参加していましたが、今回取り上げたのは中国のAi wei wei(艾未未)氏、フランスのLili Dujourie氏、オーストラリア(アボリジニ)のEsme Timbery氏、Roy Wiggan氏、わずか4人の作品です。

 私はHPの写真で見ただけで、これらの作品を取り上げることに決めました。それは、彼らの作品はいずれも、社会、歴史、政治、文化といったヒトが生きていくためのベースになるものが取り上げられ、芸術の域にまで高められて、表現されているように思えたからでした。

 今回、ご紹介した作品はいずれも、私にとってはとても新鮮で、気持ちの奥深く揺さぶられるような深い意義を感じさせられました。このようなアーティストたちに参加の機会を提供した片岡真実氏に、キュレーターとしての優れた力量を見る思いがしました。

 果たして、片岡氏はどのようにアーティストを選び、出品作品を選んだのでしょうか。

 調べて見ると、2018年6月28日に公表されたインタビュー記事(VISUAL SHIFT, 2018/06/28)を見つけることができました。

 私が最初にご紹介したAi wei wei氏の「Law OF the Journey」について、片岡氏は、「まず、目に入るのは、60mの巨大な難民ボートですが、その台座周囲には論語や聖書、ギリシャ哲学、ハンナ・アーレントなどから多くの引用が散りばめられています」と述べています。

 写真を見た限りでは、そこまではわからなかったのですが、Ai wei wei氏の作品は、物質的な圧倒的迫力ばかりでなく、作品を読み解くための文字情報までも添えられていたというのです。これには驚きました。

 そして、片岡氏は現代アートについて、「これまで現代アートは西欧を軸に展開されていたので、それと日本だけを見ていればよかったのですが、そこから中国、インド、東南アジアと注目される地域が拡大し、一つの価値観では語れなくなってきました」と答えているのが印象的でした。

 今回、「SUPER POSITION」をテーマに設定したのは、まさにそのような現代美術を取り巻く環境が片岡氏の視野にあったからでしょう。

 私がご紹介した作品のいずれもが、価値観とその衝突を発端とし、その亀裂を表現しながらも、それを昇華させ、芸術の域にまで高められていたところが素晴らしいと思いました。衝突をそのまま放置せず、感情をコントロールしながら、別のエネルギーに転化させていくところに東洋的な価値観の役割が見られるような気がします。

 世界はいま、ICT技術の進展によって、これまでの秩序の体系が崩れはじめ、次第にアナーキーな状況に向かおうとしています。

 第21回シドニー・ビエンナーレで片岡真実氏が提供したコンセプトを振り返ると、調和のとれた世界システムを構築していくには、日本人こそ適しているのではないかという気がしてきます。

 日本人はこれまで、外来文化をその都度、日本文化と調和させ、異質のものを併存した状況で享受してきました。まさに、「SUPER POSITION」の状態を、「Equilibrium and Engagement」の状態に変化させてきたのです。今回、作品をいくつかご紹介していくうちに、日本人こそ、ヒエラルキーのないままヒトが存在しうるシステムを構築できる感性を持ち合わせているのではないかと思うようになりました。(2019/7/6 香取淳子)

金山農民画に見る、レトロでポップな感覚

■「金山農民画」展の開催

 日中友好美術館で、「金山農民」展が開催されました。開催期間は2019年6月6日から26日、開館時間は10:00~17:00です。6月13日付の日経新聞でこの展覧会の開催を知り、是非とも行ってみたいと思っていたのですが、なんとか都合をつけられたのが6月25日、終了日の前日でした。

 ビルに入ると、すぐ左手に会場が見えました。「中国のレトロ&ポップ」の文字が印象的です。

展覧会

 会場入り口の設えは黄色をベースカラーとし、タイトル通り、「レトロ&ポップ」な絵柄の作品が掲示されていました。なんともいえない懐かしさを覚えたことを思い出します。

 中国の美術に「農民画」というジャンルがあることを知ったのは、6月13日付け日経新聞の「農民の、農民による絵画」というタイトルの記事でした。筆者の陸学英氏によると、金山というのは上海市金山区のことで、「中国三大農民画の郷」といわれているといいます。

 チラシの説明文を読むと、金山農民画は、もともと絵を描くのが好きだった農民たちが余暇時間に描いたのが始まりだとされているようです。会場にはその金山の農民画70点が展示されていました。農民画と聞いて、てっきり、農村風景を写実的に描いた作品だと思い込んでいたのですが、実際はカラフルで装飾的な作品が多く、それぞれ不思議な味わいがありました。

展示作品はどれも農民の生活風景を描いたものですが、便宜上、モチーフの捉え方に沿って、いくつかに分類し、ご紹介していくことにしましょう。

なお、ショーケースの中に展示されていた作品は写真を撮影しにくかったので、壁に展示されていたもののみ取り上げることにします。結果として、建物を描いた作品は取り上げることができなかったこと、また、取り上げた作品の中には照明が反射して写り込んでいるものがあること、等々についてはご了承いただければと思います。

■近景で捉えたモチーフ

 まずは近景でモチーフを捉えた作品から、ご紹介しましょう。

●薬草を採る娘

 会場に入ってすぐ右側の壁に展示されていたのが、「薬草を採る娘」でした。

薬草を採る娘

 画面中央に娘が、正面を向き、手を組み、やや緊張した面持ちでこちらを見つめています。背景には色とりどりの花々、蝶々などの動植物がぎっしりと描かれています。タイトルから推察すれば、これらは薬草の花なのでしょう。画面の左下には花々に埋もれるようにザルが描かれていますし、少女は黒いエプロンをつけています。

 その働きぶりが表彰されたのでしょうか、日焼け防止用の帽子を被り、胸には大きな花のついたリボンをつけています。薬草摘みの作業が評価され、このようにカラフルで美しく描かれているのです。

 この作品からは、農村では労働に応じて表彰されていたことがわかります。三つ編みにした髪に花を飾り唇に紅を挿し、やや緊張した面持ちには晴れがましさとともに恥じらいも見受けられます。まるでハレの日に記念撮影をしているかのような絵柄でした。農村の少女の初々しさが好ましく思えます。

●花と鶏

 まるで西洋画でよく見かける肖像画のように、鶏が横向きで描かれています。鶏が主人公として扱われており、背後に木に咲いた花々が描かれています。これまでに見たことのない絵柄です。

花と鶏

 深い緑色の地を背景に、鶏が中央に描かれ、その周囲に色とりどりの花をつけた小枝が描かれています。鶏の足は奇妙な楕円形のものの上に置かれています。足元は不安定ですが、身体部分は逆三角形のラインで描かれており、安定感があります。

 それにしても、奇抜な絵柄です。普段は地面を徘徊している鶏がどういうわけか、花を咲かせた木の中央に描かれています。木を支える土台であるはずの土が、いくつかの楕円形に分かれて描かれています。下草なのでしょうか、そこには小さな草花が描かれています。鶏がいかに農村の生活にとって大切な存在なのかが、わかるようなモチーフの取り扱いです。鶏も花も枝も装飾的に描かれています。これもまた農村の一光景なのでしょう。

 この作品を見ていると、色とりどりの花は幸せの象徴として捉えられていたのではないかという気がしてきました。

●旬の野菜

 会場の中ほどの壁に展示されていたのが、この作品です。あまりにも装飾的でポップな感覚の画面構成に驚いてしまいました。タイトルは、「旬の野菜」です。

旬の野菜

 色とりどりの野菜が画面いっぱいに隙間なく、描かれています。それぞれの野菜は大きさや色彩を考慮してバランスよく並べられており、とても美しく、つい、見入ってしまいます。

 農村の生活で豊かさをもたらせてくれるのは、野菜であり、その色合いや形状は彼らにとって、まさに美そのものなのでしょう。一つ一つがまるで人格をもっているかのように、丁寧に、個性豊かに、そしてシンプルに描かれていました。

 さまざまな野菜が一枚の画面に収められたこの作品はまるで、農村に住む人々は誰しも、が喜びも悲しみも共有して暮らしていることを象徴しているようにも見えます。さまざまな野菜画面一面に描き切ることによって、農村の価値と、その依って立つ基盤を描くことができたといえます。すばらしい象徴性があると思いました。

■中景で捉えた生態

 それでは、中景で捉えた農村の生態を描いた作品をご紹介しましょう。

●アシの池

 アシの池で遊ぶ5羽の白鳥が描かれています。タイトルは「アシの池」です。

アシの池

 白鳥はアシの生える池を好むようですから、この作品はそのような白鳥の生態を捉えて描かれたものなのでしょう。アシの葉にしても、水草にしても、シンプルな画像を多数、描くことによって、アシの池の様子が端的に表現されています。

 実際は、まるで図案のようなシンプルな画像をコラージュすることによって、一つの作品世界が創り上げられています。使われている色数も少なく、白鳥の白さが印象的です。記号的な要素の強い作品だと思いました。

●雪蓮花図

 展示作品の中では地味な色合いの作品で、印象に残ったのが、「雪蓮花図」でした。


雪蓮花図

 色数が少ないのに、どこかしら華やぎがあり、その一方で、落ち着いた色調で静かな中にも豊かさが感じられる作品でした。華やかさを感じさせられたのはおそらく、蓮の花が大きく明るく描かれていたからでしょうし、豊かさを感じさせられたのは、蓮池の様子が賑やかに描かれていたからでしょう。

 たしかに、蓮の花が咲き乱れているかと思えば、蓮の実がいくつもできており、トンボが飛んでいるかと思えば、蓮の葉の下の水面に、小さな魚が泳いでいます。植物も動物も共に、蓮池の中で調和して生きています。そのことが豊かさを感じさせるゆえんでもあるのでしょう。

 地球上で生きるものは一切合切、このように調和して生きていくのが道理だと訴えかけているようにも見えます。

 考えてみれば、蓮の花が咲く一方で、大きな蓮の実が成っているのは妙な話です。花が枯れてから実がなるのが通常ですから・・・。奇妙といえば、蓮の花は7月から8月にかけて咲くといわれているのに、トンボが飛んでいます。つまり、この絵の中に様々な季節の蓮池の様子が取り込まれているといっていいでしょう。蓮の生態を一覧できるように描かれた作品だといえるのかもしれません。

■遠景で捉えた群像

 それでは、遠景でモチーフを捉えた作品をご紹介しましょう。

●村はずれの魚市場

 村人が作業する光景を描いた作品があります。「村はずれの魚市場」というタイトルの作品です。


村はずれの魚市場

 種類ごとに分類された魚が入った水桶が、画面中央にいくつも置かれ、その間を縫うように、人々が働いています。ホースを持って水を桶に補充するヒト、水桶から魚を取り出しているヒト、会計をしているヒト、等々。画面上方には買い物客が傘を差し、手にかごをぶら下げて並んでいます。子連れのヒトもいれば、女性同士、単身で訪れたヒトもいます。

 右側のテーブルには、重さを量る吊り秤とソロバンが置かれています。魚の重さを量り、値段を計算するためでしょう。そして、会計を終えたヒトは魚をかごに入れたり、手で持ったりして帰っていきます。その手前にあるのは調理台なのでしょう、処理された魚の骨が見えます。

 この一枚の絵から、村の人々が魚を購入する様子がつぶさにわかります。タイトルからすると、どうやらこの魚市場は村はずれに設置されているようです。おそらく、辺り一帯が魚の臭いで充満しているからでしょう。

●納涼

 暑い夏の夕べ、村人が憩うひと時を描いた作品もあります。「納涼」というタイトルの作品です。

納涼

 中央に描かれているのが、家の前に椅子を出し、親子が団扇を片手に涼んでいる姿です。テーブルの上にはスイカとラジカセが置かれています。涼みながら、音楽を聴き、スイカを食べているのでしょう。腹帯だけの子どもがスイカを口に含んでいます。和やかな親子団欒のひととき、家族の後ろを犬が動き回り、周辺はひまわりが大きく花を咲かせています。

 一方、右側の家族は夫婦二人だけで夕涼みをしています。小テーブルにはポットが置かれていますから、お茶を飲んでいるのでしょう。二人とも団扇を手にしています。家々の周囲は実をつけた木々が立ち並び、豊穣がもたらす幸せが描かれています。

 画面真ん中には石の階段のようなものが置かれ、その左下に小さな船が一艘、停泊しています。水上には水連のような花が咲き、どういうわけか、その水連に接するように、画面右側にはかぼちゃがたくさんぶら下がっている棚があります。ありえない設定ですが、別段、違和感はありません。リアリティには欠けていますが、むしろ、農村生活で必要なアイテムが重視されて、描かれているように思えます。

●上海の祝日

 農村のヒトもたまには都会に出かけることもあるのでしょう。上海のにぎやかさを描いた作品があります。タイトルは、「上海の祝日」です。

上海の祝日

 サーチライトがさまざまな方向からカラフルな色を投げかけ、夜空を輝かせています。高層ビルが林立し、その下には新幹線が走り、龍踊を楽しむ人々の群れが描かれているかと思えば、バスが走り、車が走り、人々が歩いている姿が描かれています。さまざまなものが混在する上海の喧騒が、カラフルでイラストのような画像で表現されています。

 目にしたものをすべて一枚の絵に収めているのですが、そこには上海という都市のもつ多様性、先進性、そして、伝統と近代の混在が一目で分かる様に描かれています。真ん中に白い新幹線を配置することによって、カラーバランスが図られ、絵の混雑さが緩和されています。

■俯瞰で捉えた群像

 一連の作品の中で私が興味を覚えたのは、俯瞰で捉えられた群像の姿です。

●カニ獲り

 上海カニで有名なカニ獲りの様子を描いた作品です。タイトルは絵柄そのままの、「カニ獲り」です。

カニ獲り

 河川の何ヵ所かが、波打つような曲線を組み込んで設置された垣根で囲われています。その中に浮かぶ一艘の船には男が一人、櫓をこいでいます。船には大きな籠が置かれ、それ以外の道具は見当たりません。カニは生け捕りにしているのでしょう、籠の口は小さく、中ほどが大きく膨らむ形になっています。捕獲した蟹を逃がさないような構造になっていることがわかります。

 無数の水草の周辺をカニが動き回り、所々、ピンクの花も咲いています。カニの形や大きさが一様なら、水草も花も一様でした。図案化された絵柄が印象的です。

●春雨を干す

 春雨を干す作業が俯瞰画像の中で見事に捉えられています。作品タイトルは、「春雨を干す」です。

春雨を干す

 春雨を干す作業がカラフルに、そして、シンプルに描かれています。干された春雨を吊るすラインが斜め平行にどこまでも延々とつながっており、圧倒される景観が創り出されています。

 黒地を背景に、白く垂れ下がる春雨のラインが、画面の基調を作っています。その狭間で働く色とりどりの衣装を着けた女性たちの姿は、鑑賞者に視覚的な快さを感じさせます。カラーバランスの効果といえるでしょう。

 その一方で、画面を斜めに切り取るいくつもの平行線(春雨を吊り下げた竿のライン)が、静かな作業の中に整然とした動きを生み出しています。生と動、地の黒と春雨の白に対し、働く女性たちのカラフルな装い、色彩の対比が活かされ、シンプルでありながら、動きがあり、リズムも感じられる画面構成になっていました。

●ザリガニ養殖

 「ザリガニ養殖」というタイトルの作品があります。ザリガニを養殖するなど、考えてみたこともなかったので、このタイトルを見て、驚きました。

ザリガニ養殖

 調べて見ると、アメリカザリガニ産業はいま、中国で急成長中の新産業なのだそうです。中国水産学会(2017年)の報告によると、2016年度の総生産量は89.91万トンにも及び、中国はいまや、世界最大のアメリカザリガニの生産国になっているようです。

https://www.sankeibiz.jp/macro/news/180501/mcb1805010500001-n1.htm より)

 それにしても、この作品の構図とモチーフには牧歌的で、しかも、多様な情報が詰め込まれた面白さがあります。

 居宅を中心に、道路や地面を青色で三方向に延びるように描き、そのラインで区切られた三つのゾーンは、地を黄緑色で塗り潰し、川に見立てています。黄緑色の地のゾーンにはザリガニが無数に描かれ、その合間に何種類かの水草も描かれています。

 右側のゾーンには、船から餌を投げる男性が描かれ、居宅から下に伸びる道路では女性が餌を撒いています。居宅を中心に周囲がザリガニの生産拠点になっているのでしょう。家族総出で餌やりをしている光景が描かれています。

 中心部の居宅付近では、トラックが横付けになり、その右には収穫したザリガニを詰めた袋が数個描かれています。収穫したザリガニをこれから出荷するのでしょうか。この一枚の俯瞰図の中に、生産から収穫、そして出荷までの一連の作業が収められていることがわかります。

 家の背後に林のようなものが描かれる一方、家の手前には花を咲かせた大きな木が描かれています。これらは豊穣のシンボルとして描かれているのでしょうか。

●田植えに忙しい五月

 まるで地図のようだと思って近づいて見ると、「田植えに忙しい五月」というタイトルの作品でした。


田植えに忙しい五月

 道路や地面はオーカー色で描かれ、空が黄緑、田は青やモスグリーン、イエローグリーン黄色、黄緑とさまざまな色が使われています。モチーフを識別するため、カラーバランスを考えながら、着色されていることがわかります。

 区切られた田では、それぞれ別々の農作業が行われています。たとえば、左上の田では、数名が横並びになって苗床から、苗の束を作っています。畔道には苗を運ぶ女性が描かれています。その真下の田では、女性が数名、横並びになって苗を植え付けています。そして、その後ろには苗が束ねられて置かれています。

 すでに苗が整然と植えられた田がある一方で、牛を使って男性が土を耕している田もあります。その真下の田では、男性が殺虫剤のようなものを撒いていますし、右上の田では男性が肥料のようなものを撒いています。手前の道路には鍬を担いだり、肥料のようなものを運んだりしている人々が描かれています。

 興味深いことに、画面右下に水車が描かれています。近くの水溜まりから動力で水を汲み上げ、水田に放出している様子が描かれています。水田耕作に欠かせない水がこのように補給されているのです。

 さらに、画面上方を見ると、家々が立ち並び、その背後に、農村の人々を守っているかのように、木々が高くそびえているのが見えます。のどかで平和な農村の田植えの風景が、カラフルにシンボリックに表現されることで、過酷な農作業も実は楽しい側面があるのだと教えてくれているような気がします。

 こうしてみると、農村の田植え時の作業全般が、一枚の絵に見事に描かれていることがわかります。

■日常生活の一コマにドラマを見る

 室内の光景もまた、面白い観点から捉えられていました。二点ほどご紹介しましょう。

●「端午節」

 端午の節句のための粽作りをしている女性の立ち姿が描かれています。「端午節」というタイトルの作品です。


端午節

 テーブルの上に大きな籠が置かれ、その中に出来上がったばかりの粽が次々と詰められています。その右側には粽を包むための笹の葉、そして粽の中に入れる餡が大きな鉢に盛られています。テーブルの下を見ると、大きな酒甕が置かれています。これも端午の節句を祝うために用意されているのでしょう。

 女性は一心不乱に粽を作っていますが、ふと、テーブルの下に目を向けると、脚部に猫が手をかけテーブルの上の餡を狙っています。日常の何気ない光景がユーモラスに捉えられています。

●「逃げ場がない」

 日常生活の中に、ちょっとしたドラマの片鱗がうかがえる作品がありました。タイトルは「逃げ場がない」です。


逃げ場がない

 「逃げ場がない」というタイトルを見て、どういうことかと思い、絵をよく見ると、豪華な料理がセットされたテーブルの下で、鼠が二匹の猫に挟み込まれ、絶体絶命の状況に置かれています。

 左の猫はいまにも鼠の尻尾を捕まえようとしていますし、右の猫は正面から鼠に手をかけようとしています。まさに危機一髪ですが、鼠はおそらく、テーブルの上の豪華な料理をすこしばかり失敬したのでしょう、猫はそれを見逃さず、鼠を前と後ろから挟み撃ちし、根鼠を苦境に追い込んでいます。

 まさに「逃げ場がない」状況です。ドラマティックなシーンが日常生活の一コマの中にあることを教えてくれる作品です。

■投げ網、张美玲vs姚喜平

 「投げ網」というタイトルの作品が二点ありましたので、ご紹介しましょう。

●姚喜平氏の「投げ網」

 全般に色調の暗いのが、姚喜平氏の「投げ網」でした。

投げ網

 上方に一艘の船が描かれ、女性が漕ぎ、男性がそこから網を投げ、魚を捕獲しています。網の中には大きな魚が三匹、入っています。右下や真下にも同様の船が描かれていますが、こちらは網をなげたばかりで円を描いた状況で描かれています。

 陸ではバケツのようなものを持っている女性や子ども、男性の姿が描かれています。家族なのでしょうか、待ちわびている様子がうかがえます。画面の隅は水になびく海草がぎっしりと描かれ、画面の密度を高めています。

 この作品には投げ網漁に関わる人々が過不足なく描かれていますし、色彩のバランス、モチーフの配置なども的確で、状況説明に終わらないものが表現されていました。

●张美玲氏の「投げ網」

 暗い色調の中で投げ網につけられた赤いブイと船をこぐ男性が持つ櫓の赤が画面に彩りを添えています。

投げ網

 画面の中で赤いブイをつけた三つの投げ網がこの作品の中心に位置づけられています。その周辺は遠目に見ると、淡いブルーで色取られ、外周が暗い色調で構成されているように見えます。

 近づいて見ると、黒く見えたのは海草ですべて、一様に垂直に立ち、右から左方向への波に流されているからでした。魚は同じような大きさのものが、投げ網の周辺を回遊しており、そのせいか、そこで渦巻いているように見えます。

 三つの投げ網は三角形状に位置付けられ、それぞれ、黄色の綱で船に結び付けられています。右上の船には二人の男性が乗っており、一人は網を投げ、一人は櫓を漕いでいます。

 右下と真下の船は網を投げる男性が見えるだけです。

 海草が多数、垂直に描かれているせいか、画面が硬直して見えます。その硬直性を緩和させるために、漁網のブイの赤さを強調して描いたのかもしれません。モチーフの配置や色彩バランスにやや密度が欠けるかなという印象を持ちました。

■概念の絵画化

 展示作品全般にシンボリックな描き方がされていると思いましたが、その中でもとくに印象に残ったのが、「母の愛」という作品でした。概念の絵画化が図られているような気がします。

●母の愛

 それにしても、不思議な印象の残る作品でした。「母の愛」というタイトルがつけられていますが、絵柄からはその意味がわかりません。

母の愛

 真ん中に円状の網が描かれ、その中にカエルが多数泳いでいます。円の周縁に、東西南北の方向に4人の女性が配置され、その手前にそれぞれ、オタマジャクシが円を作っています。この絵柄がどういう意味を持つのか、考えてみてもわかりませんでした。

 タイトルを見ると、「母の愛」ですから、カエルがオタマジャクシを守ろうとしている光景なのでしょうか。そう思ってこの作品を見ると、カエルは女性の手元に近づき、噛みつこうとしているものも見られます。まるで、背後のオタマジャクシを庇おうとしているかのように、攻撃的になっています。

 この作品は完全に図案化されています。

 4人の女性が囲い込む網の外は、画面の四隅を結ぶ対角線上の、網の外縁にある部分から四隅まで、それぞれ四本の木の幹が描かれています。四隅を頂点に枝が垂れ下がり、葉が茂っている様子が描かれています。

 幹の焦げ茶色、葉の緑、そしてカエルとオタマジャクシが入ったオフホワイトの水中、ブルーの網、4人の女性の青い服に赤いエプロン、オーカー色の帽子、色の取り合わせの見事なばかりか、それぞれが背景色の黒に調和しています。図案の妙味と卓越したカラーバランスが相俟って、見事な作品になっていました。

 ここでも自然の中のヒトと小動物の関わり合いが描かれています。牧歌的であり、生命の原初的な姿が表現されていました。とてもシンボリックで、色のバランスもよく、図案としても美しいと思いました。

■プリミティブな表現の持つ訴求力

 金山農民画展の展示作品の中から17点ご紹介してきました。いずれもカラフルで大胆な構図、いくつもの視点を取り込んだ斬新な画面が魅力的でした。この展覧会のサブタイトル通り、「レトロ&ポップ」な感覚に満ち溢れた作品を見ていると、どこか懐かしく、そして、心弾むような気持ちになっていくのを感じました。気持ちが解放されていくのがわかるからでしょう。

 レトロな感覚が呼び覚まされたのは、描かれたモチーフのせいかもしれませんし、平坦な描き方のせいかもしれません。もはや目にすることができないような農村の光景だからこそ、懐かしい感情が湧き上がってきたのだと思います。そして、過ぎ去った日々への愛惜の情が喚起され、生きること、生きていくことの原初的な姿に想いを馳せるたからでしょう。

 一見、幼く見える描き方には、プリミティブな訴求力を感じました。画家たちが日常生活の中で見聞きしたことを、素直に受け止め、そのまま表現したからこそ、国境を越え、鑑賞者の気持ちに訴えかける力を持ちえたのだと思いました。

 たとえば、最後にご紹介した「母の愛」という作品の場合、カエルとオタマジャクシの入った網の水槽のようなものは、真上からの視点で描かれています。ところが、その周囲に座る4人の女性の姿は、真上からでも、真横からでも、どんな方向からでも捉えられません。四方に描かれた木も同様です。

 おそらく、ここで描かれたモチーフはすべて、立体であるにもかかわらず、平面で描かれているからこそ、さまざまな視点を一枚の絵の中に混在させても、モチーフは違和感なく調和し、存在することができているのでしょう。

 一連の作品を見ているうちに、このような描き方の中に、私たちがすでに失ってしまった何か大切なものが含まれているのではないかという気がしてならなくなりました。紙であれ、キャンバスであれ、描くという行為は、三次元のものを二次元の世界に置き換えることですが、その際、私たちは三次元の姿をどうすれば、二次元の世界で表現できるのかということを追求してきました。

 ところが、この展覧会に出品された作品はいずれも、三次元のものを二次元のままで表現されており、そこに斬新さが見受けられたのです。ひょっとしたら、二次元のまま表現しても、観客に違和感を抱かせないためのルールがあるのかもしれません。いずれにしても、この展覧会に出品された諸作品を見て、プリミティブな表現の持つ訴求力について考えてみたいという気持ちになりました。(2019/6/30 香取淳子)

第43回風子会展覧会:油彩画に織り込まれた日本的感性

■第43回「風子会展覧会」の開催

 2019年6月20日、「クリムト」展を見ようと思い、東京都美術館に行ってみると、チケット売り場はもちろんのこと、会場入り口にも長蛇の列ができていました。これでは会場に入っても、ゆっくり鑑賞することはできないでしょう。

クリムト展ロビー風景

 クリムト展は早々に諦め、1Fで開催されていた公募展に行ってみることにしました。第3展示室で開催されていたのが、風子会主催の展覧会で、今年で43回目になるといいます。開催期間は2019年6月14日から21日までですから、ちょうど最終日の前日でした。

風子会展覧会

 会場では油彩画83点と木工作品2点が展示されていました。

会場内展示作品

 テーマがさまざまなら、画風もまたさまざまな力作が展示されていました。作品を次々と見ていくうちに、画面の背後から作家の個性が色濃く浮き上がって見えてきます。素晴らしい作品がたくさん展示されていたのですが、今回は、とくに印象に残った作品だけをご紹介していくことにしましょう。

■「慈愛」

 まず、入口近くに展示されていた作品に目が留まりました。現代的な母子像です。モチーフと背景の色調が調和し、画面全体に統一感のある柔らかな雰囲気が醸し出されていました。近づいて見ると、母親の眼差しが限りなく優しく、深淵でした。その表情に引き込まれ、しばらく見入ってしまいました。

慈愛

(キャンバスに油彩、1,303×970mm)

 それにしても、なんと穏やかで、慈愛に満ちた眼差しなのでしょう。視線はひたすら、赤ちゃんに向けられています。赤ちゃんの頭部は母親の手よりも小さいので、おそらく、まだこの世に生を受けて間もないのでしょう、目を閉じたまま無心に親指をしゃぶり、必死で生きていこうとしています。

 母親はやや前かがみの姿勢でしっかりと赤ちゃんを抱え、その寝姿をじっと見つめています。まるで全身で赤ちゃんを支え、保護しているかのように見えます。愛おしく思う一方で、親として大きな責任も感じているのでしょう、きりっと結んだ口元に覚悟のほどがうかがえます。

 ジーンズを履いた母親が、木製ベンチに座って赤ちゃんを抱きかかえる姿からは、無償の愛が透けて見えます。自己犠牲をいとわず、見返りを求めない愛・・・、いまではもはや得難いものになってしまっていますが、この作品にはそれがありました。久しぶりに母子関係の原点を見る思いがしました。

 なによりもこの作品には、鑑賞者に安らぎと平穏を感じさせる安定感がありました。もちろん、それはモチーフや絵柄のせいでしょうし、あるいは、全体の色調や構図のせいかもしれません。

■水平線を軸にした構成

 画面の中央に、赤ちゃんを抱いた母親の全身が配置されています。よく見ると、木製ベンチにはいくつもの水平線が内在しています。 脚部に始まり、腰板の手前とその奥、そして、背面といった具合です。 それらは長方形や台形などの形をしていますが、そこにはいくつもの水平線が内在しており、画面はそれらによって区切られています。

 大きな画面に木製ベンチを置くことによって、ごく自然な形で、潜在的な水平線をいくつも設定することができていたのです。その結果、片足を組んで赤ちゃんを抱きかかえる母親の不安定な姿勢を安定化させて見せる効果がありました。

 しかも、木製ベンチに潜在するこれらの水平線は、上方に向かうにつれ、狭くなっています。それが平面に奥行きを感じさせる一方、前かがみになった母親の姿勢を構造的に安定して見せる効果を生み出していました。

 母親の頭頂部を頂点だとすると、赤ちゃんの頭を支える左肘と、脚部を抱えるために伸ばした右手の肘とが底辺となって、三角形を形作っています。この三角形の底辺の水平線は、背後の木製ベンチに潜む水平線と調和し、ブレることなく画面を秩序付け、安定させています。

 まるで積木を重ねるように、いくつもの四角形を積み上げた上に三角形が置かれているので、構造的に安定して見えるのです。こうしてみてくると、森氏は、いくつもの水平線を含むモチーフを画面に取り込むことによって、自然な形で幾何学的に安定した構図を生み出していることがわかります。

 さらには、動きを生み出す斜線(顔の傾き、肩のライン、組んだ脚など)や曲線(セータ、ベンチに敷かれた布など)が加えられ、それらが、安定をもたらす水平線と巧みに組み合わされて、調和のとれた画面構成になっていました。

 そういえば、左上方に描かれた葡萄の枝もまた、横からほぼ水平に突き出しています。もし、このモチーフがなければ、母親の背後に意味のない空白ができてしまい、画面がダレてしまうでしょう。このモチーフを取り入れたおかげで、垂れさがる葡萄の実と上方に伸びる葉(いずれも曲線)が、背面から母子を柔らかく包み込む効果を生み出しています。

■色調に置き換えられた背景

 興味深いことに、この作品には背景がありません。画面には木製ベンチ、母親と赤ちゃん、葡萄の枝、というモチーフが描かれているだけです。正確にいうと、背景は、区切りも何もない淡い色調だけなのです。

 床面と思える部分は淡いモスグリーン、木製ベンチの背景あたりから次第に黄土系の肌色に変化し、そこから上方は淡いグラデーションで処理されています。ですから、どこから床でどこからが壁、どこまでが地面でどこからが地上なのか判然としません。それでも、画面には奥行が感じられ、モチーフにはしっかりとした実在感があります。

 見れば見るほど、不思議な気持ちになります。モチーフそのものはリアルに描かれ、実在感はあるのですが、背景はグラデーションをきかせた淡いアース系の色調で代替されています。ですから、モチーフはすべて、宙に浮いているように見えますし、抽象化された空間にモチーフが配置されているようにも思えます。

 この作品からは余分なものは一切、そぎ落とされています。だからこそ、慈愛という概念そのもの、あるいは、母子関係の原初的な姿が浮き彫りにされているように思えました。

 会場にはもう一つ、森和子氏の油彩画が展示されていました。こちらは風景画です。

■「林をぬけると男体山」

 小品ながら、目に留まったのが、「林をぬけると、男体山」という作品です。画面からホッとする安らぎと温もりを感じさせられ、引き込まれて見てしまいました。表示を見ると、作者は先ほどご紹介した森和子氏でした。

林をぬけると男体山

(キャンバスに油彩、410×318mm)

 会場の照明が額縁のアクリル面に映り込んでしまっているのが残念ですが、黄昏時の白樺林を描いた作品です。木の幹の数ヵ所と背後の山並みが、淡い紫系の色合いで描かれています。残照によって色合いが変化したのでしょう。その色調がなんともいえず、幻想的で洗練された美しさを創り出しており、惹かれました。

 画面右方と上方には淡い残照が描かれており、白樺の幹の白さをことさらに印象づけています。背後の山並みや白樺の幹のいくつかに置かれた淡い紫色が、下方の水面にも置かれ、画面全体に快い静謐感をもたらしています。黄昏時の微妙な光景が、柔らかな色調の中で見事に捉えられていました。

 画面中央より少し下に、明るいオーカー色で小道のようなものが描かれています。白樺の林をぬけると、おそらく、男体山に続く道に出るのでしょう。一本、一本、異なる表情を見せて立つ白樺の林の間を、爽やかな風がそっと吹き抜けていっているように見えます。

 先ほどご紹介した人物画といい、この風景画といい、森和子氏の作品には独特の世界が創り出されています。それが気になってスタッフに尋ねてみると、会場内におられるということでしたので、探し出し、「なぜ、この絵を描こうと思ったのか」聞いてみました。

 すると、森氏は、「山道を歩いていくと、男体山が見えてきたから、ああ、この林をぬけたら男体山だなと思って描いた」と説明してくれました。そして、下草の下に流れる小川のようなものは「水溜まり」だといいます。

■太陽の下、大地に根を据え、風にそよぎながら存在する

 森氏は、「空気はいつも流れているし、風は吹いている。光は射し込んでいるけど、いつも同じではない」といい、風景画を描く場合の心得として、「それをキャンバスの上で捉えようとすると、色合いで表現するしかない」と教えてくれました。

 確かに、空気には形がないし、色がついているわけでもありません。風も同様です。目で見て捉えることはできないけれども、確かに、存在しています。目に見えないものを見える形にする手段として、森氏は色合いで表現するというのです。

 また、森氏は光にもこだわっていました。光にも形も色もありませんが、反射してモノを明るく見せたり、輝かせて見せたりします。もちろん、光量も光の方向もまたいつも同じではありません。光が当たっている箇所もあれば、当たらない箇所があってモノの形が浮き彫りにされますが、それも、いつも同じではありません。つまり、自然界に存在するものは何一つ、固定されたものはないのです。

 風景を描く際、森氏は、描こうとする対象そのものだけではなく、そこに吹く風、包み込む空気、そして、射し込む光など、一切合切を含めて対象を捉えようとしていました。ですから、瞬間、瞬間で動いている空気も風も光も同様に、キャンバスに収めようとするのですが、そのような形のないもの、色のないものをどのように捉え、表現するのかといえば、色合いだというのです。

 たとえば、画面右側の白樺の木は左側に比べ、明らかに色合いが淡く、柔らかな色調で処理されています。おかげで、右方からの残照が幹に反映されていることがわかります。左右の幹を色分けすることによって光の存在を明らかにしているのです。

 さらに、木々の葉は一様に右に流れ、下草の葉は左右に流れるように描かれています。ですから、上方では左から右に風が吹き、下方はそれよりも弱い風が吹いていることがわかります。下草の下には水が流れています。森氏が「溜水」だと説明してくれた水流ですが、その水流の色合いに、空気の流れや水温が感じられます。

 対象を詳細に観察しているからこそ、森氏は、微妙な色合いの中に風や空気、光をモチーフの中に取り込むことができているのでしょう。微妙な色合いを創り出し、濃淡を効かせて組み合わせることによって、画面上にモチーフばかりか目には見えない自然現象(大気、風、光)を表現できているのです。

■再現するのではなく、表現する行為

 森氏の作品に私がほっとさせられるのは、おそらく、単にモチーフが描かれているだけではなく、それらを支えている大気、風、光までも捉えられているからでしょう。目に見えないものが表現されているので、作品を見たとき、モチーフを取り巻くニュアンスをくみ取ることができます。 人物画であれ、風景画であれ、そこに「生」を読み取ることができるのです。 だからこそ、鑑賞者はありのままの状態で捉えられているように思い、見ていて気持ちが和み、落ち着くのでしょう。

 森氏は自身の描き方について、「見た光景そっくりに描くのではなく、いったん心で受け止めて、それから描く」といいます。つまり、描くという行為は観察の結果、現実を再現するのではなく、まずは心で受け止め、自身のフィルターを通してから表現する行為だというのです。当然、要らないものは省き、要るものは加えることもあるでしょう。写実といっても、森氏の場合、現実をそのまま引き写すのではなく、対象を観察したときに心に映った像を描いているのです。

 振り返ってみると、私がこれまでさまざまな展覧会で見てきた油彩画作品のほとんどが、現実の再現に終始していたような気がします。 森氏のような油彩画の作品はあまり見たことがありませんでした。ですから、森氏の作品に新鮮味を覚え、興味を抱いたのです 。

 ところが、風子会展覧会では、西山加代氏の、「古木に咲く」、「窓辺にて」、「雨上がり」というタイトルの三作品にも、森氏の作品に通じるものを感じました。森氏にそういうと、実は、西山氏は森氏のお弟子さんだといいます。
似たような印象を受けたのがお弟子さんの作品だと知って、驚いてしまいました。

 森氏が出品されていたのは人物画と風景画であり、西山氏はすべて植物画でした。ところが、モチーフが異なっているのに、私は両氏の作品に似たような印象を抱いていたのです。ということは、つまり、森氏には独自の作風があり、それが西山氏に着実に受け継がれていることが示されているといえるでしょう。

 それでは、森氏のお話しを聞きながら、西山氏の「古木に咲く」を見てみることにしましょう。

■「古木に咲く」

 会場で一目見て、なぜか懐かしい気持ちがし、引き付けられてしまったのが、「古木に咲く」でした。

古木に咲く

(キャンバスに油彩、1,455×1,120mm)

 古木に赤バラと白バラが咲いています。その奥にはレンガの壁があり、手前右には名前も知らない草木が生えています。庭の一角なのでしょう、陽光が花や葉に射し込み、所々、明るく輝き、弾むような煌きを見せています。ささやかな幸せが感じられる光景です。

 森氏はいいます。

 「真っ白なキャンバスに向かうと、勢い込んで、見たもの全てを描こうとしがちです。大きなサイズになるほど、そうですね。でも、そうすると、すべてが説明になってしまいます。だから、一番、描きたいもの、目立つものを中心に描くようにと指導しましたね」

 そういえば、中央の大きなバラとその右上のバラは細部まで丁寧に描かれているのに、それ以外は形が崩れ、小さくなり、ただ色が置かれているだけのものもあります。葉も同様です。中央の大きなバラの周辺は葉の形をしていますが、だんだん形が崩れ、色彩がおかれるだけになっていきます。

 おかげで作品に奥行きが感じられ、モチーフが立体的に見えてきます。・・・、ということは、このような描き方は一種の遠近法といえるものなのでしょう。

 画面上方を見ると、みどりや黄色、白の混ざった明るい色だけが、左上から右下方向に流れるように描かれています。強烈な陽光が射し込んでいるのでしょうし、そこから微かな風も吹いているのでしょう。大気の流れが感じられます。

 その光の先が足元の草木に射し込み、葉先が白く光っています。形のない光と風がこのような形で表現されており、その実在を感じることができます。

■天地人三才

 この作品の構図について、森氏は「生け花と同じね」と説明してくれましたが、そのとき、私にはその意味がよくわかりませんでした。そこで、帰宅してから調べて見ると、未生流の生け花の造形理論に、森氏の説明に近いものがありましたので、ご紹介しておきましょう。ちなみに、未生流は文化文政期に生け花の様式を確立した流派です。

こちら → http://misho-ryu.com/about/course/

 とくに印象に残ったのが、「天地人三才」という考え方です。すべての生物は、天地の恩恵があってこそ存在しうるという認識の下、「天」と「地」の中に「人間」が存在すると考えるのが、三才説です。

 天がもっとも高い位置、地はもっとも低い位置、そして、人間はその中間の位置に配置されますが、その頂点を結ぶと、直角二等辺三角形になるというものです。未生流では、これがもっとも基本的な花形で、このように造形すると、一つの調和した世界が創り出されるという考え方です。

 その「天地人三才」の造形理論を応用したのが、この作品の構図だというわけです。二等辺三角形を構図の中に組み込むことによって、構造的な安定感が生まれるというのです。そう言われて改めて、西山氏の他の作品を見ると、「窓辺にて」、「雨上がり」も同様の造形理論に基づき、構成されていることがわかりました。

 確かに、安定した構図だからこそ、モチーフの形を崩しても絵画として成立するのでしょう。

 どの作品も、主役、脇役、端役といった具合にモチーフに強弱をつけ、比重の置き方の違いに応じた描き方がされていました。そのせいか、画面にリズムが生み出され、モチーフが放つ情緒のようなものまでも表現されていました。余分なものを排除し、適宜アクセントをつけることによって、作品の訴求ポイントが明確になっていたからでしょう。

■虚実等分の理

 80点余に及ぶ展示作品の中で、私は森氏の作品、そして、西山氏の作品に引き付けられました。それらに、これまで見てきた油彩画作品にはないものを感じ、新鮮味をおぼえたからでした。

 それらの作品には、ほっとするような安らぎやヒトを内省的にさせる静謐感があり、どこか懐かしい気持ちにさせられる情緒といったようなものがありました。生活感覚に馴染む居心地の良さが感じられたのです。油彩画でありながら、そこに柔軟な日本的感性を読み取ることができたからでしょう。

 実は、私は 最近、 油彩画作品に息苦しさを感じるようになっていました。それだけに、今回の展覧会で油彩画でありながら、日本的感性が感じられる作品に出会い、ほっとしたのです。そして、なぜ、そう感じたのかを考えてみたいと思ったのです。

 そういえば、先ほどご紹介した未生流の造形理論の中で、「虚実等分の理」というものがあったことを思い出しました。江戸時代、文化文政期に創流した未生斎一甫は、次のように考えていたといいます。

「あるがままの自然がただ尊いのではなく、人の手を介することで更なる本質的な美を表現することこそいけばなの本義である」というのが、「虚実等分」の考え方です。未生斎一甫は生け花の基本哲学としてこのような思想を提唱したのです。生け花の理論ですが、森氏の作品や西山氏の作品から、この考え方を読み取ることができるような気がしました。

 生け花では自然のままの花を使うことはしません。枝葉を切り落とし、姿を変え、花瓶を含めた全体の調和を考えながら、枝の高さや曲げ具合を調節し、形を整えていきます。未生斎一甫がいうように、あるがままの自然(現実の再現)ではなく、作者が自身のフィルターを通して加工する(心で捉えた現実を表現)ことによって、美を創り出すことができるのでしょう。

 一連の作品を見、そして、未生流の造形理論を知った結果、「虚実等分の理」や「天地人三才」の考え方の中に、日本的感性の基盤の一つがあるような気がしてきました。

■油彩画と日本的感性

 それでは、なぜ、森氏はこのような画法を築き上げたのでしょうか。尋ねてみると、お父様が絵を描く方だったそうです。油彩画を描くという行為が森氏の中ではすでに何十年も日常のものになっており、そこで培われてきた技法だったのでしょう。油彩画に関する知の集積が親子間で継承されてきたのだと思います。

 そういえば、会場に木工作品が二点、展示されていましたが、これも森氏の作品です。一つは傘立てです。

傘立て

  黒地に赤いバラの花が鮮やかに描かれています。

  もう一つは小さな衝立です。

衝立

 こちらはグラデーションの効いた背景色の中に、三面を使ってそれぞれ、ピンクのバラが可愛らしく、華やかに描かれています。

 いずれも木片にジッソを塗り、ヤスリで平にしてからアクリルで描き、ニスを塗って仕上げたといいます。これら木工作品を見ていると、生活の中にごく自然に油彩画が取り入れられていることがわかります。森和子氏の一連の作品を見ているうちに、日本人の日常生活にようやく油彩画が根付き始めたかなという気がしてきました。

 考えてみれば、日本に油彩画が取り入れられてまだ150年余、多くの人々にとって油彩画は長い間、展覧会で見たり、画集や本で見たりするものでしかありませんでした。今回、森和子氏や西山加代氏の作品と出会い、私にとって新たな発見がありました。そして、これを敷衍させれば、日本人にとって輸入文化でしかなかった油彩画もいずれ、日本文化と融合した形で油彩画の新境地が切り拓かれるようになるかもしれないと思うようになりました。(2019/6/26 香取淳子)

「女・おんな・オンナ」展:浮世絵は日本人の心に何を育んだのか。

■「女・おんな・オンナ」展の開催

 「女・おんな・オンナ」展(2019年4月6日~5月26日)が、渋谷区の松涛美術館で開催されていました。新聞広告でこの展覧会のことを知り、タイトルに興味をそそられたので、17日に行ってきました。サブタイトルは「浮世絵にみる女のくらし」です。

こちら →https://shoto-museum.jp/exhibitions/182ukiyoe/

 会期中に何点か展示替えがあったようですが、17日時点の出展数は136点で、浮世絵を中心にさまざまな装身具などが展示されていました。

こちら →https://shoto-museum.jp/wp-content/user-data/exhibitions/182ukiyoe/list.pdf

 会場は、「たしなむ」「愛でる」「あそぶ」「まなぶ」など、女性の生活行動にまつわる10章で構成されており、江戸時代の女性たちがどのように暮らしていたのか、実感をもって鑑賞できるような工夫がされていました。浮世絵以外に展示されていた着物や香道具、鏡台や化粧道具などはそれ自体が興味深く、まさに、「女・おんな・オンナ」というタイトルがぴったりの展覧会でした。

 同館の学芸員によると、この展覧会はそもそも春画の企画展として構想されたそうです。ところが、検討を重ねるうちに、女性の生活に焦点を当てたものにしようということになって、このような構成になったといいます。展覧会の監修は石上阿希氏(国際日本文化研究センター、特任助教)で、随所に女性ならではの視点と深い学識に支えられた研究者の視点が感じられました。

■『教訓親の目鑑 理口者』

 展覧会チラシの表に掲載されていたのが、喜多川歌麿が描いた『教訓親の目鑑 理口者』という作品です。


江戸博物館所蔵

 なによりもまず、典型的な浮世絵美人が寝転んで書を読んでいる絵柄に驚いてしまいました。しかも、読んでいる書のタイトルが『絵本 太閤記』です。女性の口元は黒く、いわゆる「お歯黒女性」なので、既婚者です。それが、育児もせず、家事もせず、昼間から寝転んで戦記物を読んでいるのですから、驚いてしまったのです。

 ところが、見ているうちにとても痛快な気分になっていきました。

 男性中心の社会状況の中で、取り繕うことなく主体性を失うこともなく、気ままにおおらかに生きている女性が実際にいたとすれば、なんと小気味いいことでしょう。思わず笑みがこぼれ、拍手喝采したい気持ちが込み上げてきました。

 実は、この展覧会はその種の驚きと小気味よさに満ち溢れていました。浮世絵を取り上げた展覧会だったからでしょうか、画面の端々から、女性たちがさまざまな場で生を謳歌している様子をうかがい知ることができたのです。

 そういえば、浮世絵は「浮き世」を絵にしたものです。ですから、画面には、どうせはかないこの世なら、浮かれて暮らそうというような楽観的な思いが込められています。その時代の風俗が描かれることが多く、とりわけ、一般の人々が好む美人画、役者絵、芝居絵、名所絵、春画などが題材として取り上げられてきました。

 もっぱら大衆の興味関心を引く題材が取り上げられ、大衆の嗜好性が反映されていたからこそ、浮世絵は人々の生活実態を巧みに描き出すことができていたのかもしれません。

 そもそも浮世絵は肉筆画から始まり、木版画によって多くの人々が楽しめるようになったといわれています。当初は、墨一色で摺られた墨摺絵あるいは紅摺絵などが主流で、錦絵のような華やかな色合いを楽しむことはできませんでした。

 ところが、その後、多色摺りの錦絵の手法が開発されると、華やかな色合いはもちろんのこと、多様な色味を表現できるようになりました。しかも、木版なので同じ絵柄を量産することができます。人々が安価に入手できるようになった結果、浮世絵はたちまち江戸時代の大衆娯楽として確固たる地位を占めるようになったのです。

 こうして出版業が活性化していくと、半ば必然的に、浮世絵に消費者が好む題材や視点が取り込まれるようになります・・・と書いてきて、ふと、先ほどご紹介した『教訓親の目鑑 理口者』が脳裏に浮かびました。

 あの絵柄は、ひょっとしたら実際の姿ではなく、当時の女性たちの潜在する願望を取り入れて描かれたものではなかったか・・・、そんな気がしてきたのです。それほど、『理口者』という作品には江戸時代の女性に対する私の固定概念を崩す力がありました。

 さて、浮世絵には肉筆画と木版画がありますが、会場で掛軸として展示されているのが肉筆画で、額装されて展示されているのが木版画でした。そして、本企画の原点となった春画は、第十章「色恋―たのしむ」のコーナーで20数点展示されていました。ここでも浮世絵ならではの洒脱な画材、構図が印象的でした。老若男女を問わず、大らかに性を楽しんでいた様子が浮き彫りにされていました。

 それでは、春画以外で印象に残った浮世絵をいくつかご紹介していくことにしましょう。

■『風俗士農工商』

 興味深いタイトルに引かれ、立ち止まって見入ってしまったのが、三枚で一組になった大判の錦絵でした。渓斎英泉が描いたものです。


千葉市美術館所蔵

 左側に二人、中央に三人、右側に二人と計七人の女性が描かれています。どの顔も同じような容貌で描かれていたせいか、絵柄はそれほど印象に残りませんでした。ところが、その上方の余白に書かれた文字を見て驚きました。「風俗士農工商」と書かれているのです。この文字を見てから、改めて画面を見ると、女性たちは皆、同じような面立ちですが、髪の結い方、衣装、履物、持ち物などは大きく異なっていることに気づきます。

 左側の二人は明らかに働く女性です。腰を下ろしている女性は藁で作った包みにシジミのようなものを入れて売っています。一方、立っている女性は左手に薬缶を持ち、右手で大きな桶を抱え、そこには湯呑茶碗と弁当のようなものが入っています。この女性はおそらく、農作業をしている人々に食事を運んでいる農婦なのでしょう。川で獲ったシジミを売る女性、農作業の合間に食事を運ぶ女性、この二人がセットで「農」としての身分が表現されています。

 画面中央に描かれた三人のうち真ん中の女性は扇を持ち、足袋を履き、着物の柄も他の二人に比べて一段と豪華です。当時、武士の女性は外出する際、扇を手にするのがたしなみだとされていましたから、明らかに武家の女性です。口元を見るとお歯黒ですから、きっと武士の奥方なのでしょう。左右にお付きの女中を従えています。こちらの三人は女性の姿を借りて、身分としての「士」が表現されています。

 そして、右側の二人も左側と同様、明らかに働く女性です。二人とも素足に高下駄を履き、右の女性は黒い法被のようなものを着て、肩には金槌や鉋のようなものを担いでいます。明らかに大工の装いですが、江戸時代、女性も大工として働いていたのでしょうか。ちょっと調べた限りではそのような記述は見当たりませんでした。ですから、これもまた、浮世絵美人の姿を借りて、「工」という身分を表したものなのかもしれません。

 大工の隣の女性はいかにも花魁らしく、結った髪に豪華な簪を挿し、上等の着物に前結びの帯をしています。身なりから判断すると遊女ですが、身分としては何に相当するのでしょうか。すでに「農」と「士」は描かれていますから、消去法でいえば、右側の二人には「工」と「商」が割り当てられているはずです。大工姿の女性は明らかに「工」を表しているので、遊女は「商」と分類されているのでしょう。どうやら風俗業は当時、商業と捉えられていたようです。

 この作品では、江戸時代に制度化されたといわれる「士農工商」という身分が、女性の姿を借りて見事に表現されていました。まさに一目瞭然という言葉通りでした。生業によって身分が固定化され、それに応じて、女性たちの身なり、ヘアスタイル、持ち物などが厳格に規定されていたことがわかります。

 外面を構成する諸要素がこのように身分によって厳格に規制された結果、まるで記号化されているかのように、誰が見てもその身分がすぐにわかる仕掛けになっていたのです。ところが、どういうわけか、女性たちの顔は一様に浮世絵の美人顔なのです。身分制度を表現した錦絵にもかかわらず、女性の容貌にはひとかけらの差異も見出せません。それが私には不思議でした。

■なぜ女性の姿で身分制度を描いたのか

 興味深く思い、この展覧会の図録を広げてみました。すると、本展の監修者である石上阿希氏が冒頭、「浮世絵は何をうつしたのか」という文章の中で、「なぜ渓斎英泉は敢えてこれほど均一的な人物群像図を描いたのか」と問いかけ、その理由をこの作品が「見立絵」だからだと記している箇所を見つけました。私は見立絵というものを知りませんでしたが、石上氏はこれについて以下のように説明しています。

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「見立絵は古典や史実などを題材として当世風俗で描くことで重層的なイメージをつくりだし楽しむものであるが、英泉はこの手法で、本来様々な年齢層の男女であるべきところの「士農工商」を美人に置き換えて描いた。(中略)これらの絵は、「浮世絵は何をうつしたか」を考える上で一つの重要な示唆を与えてくれる。何故制作者は、「男」の姿のままで実態を写しとるのではなく「女」、正確には「若くて美しい」女の姿で描くことを選んだのだろうか。その理由の第一は、これが多くの人々を対象にした商品だという点である。(中略)つまり、そのままを描いて出版することに問題がある場合、それを回避するために「女」という外見が選ばれることもあったのである。(中略)若くて美しい女のみが描かれるというこの不自然な点はこれらの図に限ったことではなく、多くの浮世絵版画に共通する特徴である。その理由はそれぞれあるにせよ、そこに描かれているのは、当時の社会に存在する多様な人々の中から選ばれたごく一部の人物の、ごく一部の側面であった」

(図録『女・おんな・オンナ』展、2019年4月、pp6-7.より)

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 石上氏のこの文章を読むと、浮世絵だからこそ、美人の姿を借りて描いたということになります。リアルに描くより、その方がはるかに大きな訴求力を持つからでした。さらに、事実をありのままに描いたのでは差しさわりのあるような場合、批判を回避するため、浮世絵美人に差し替えたというようなこともあったのでしょう。

 こうしてみてくると、石上氏の指摘通り、浮世絵を鑑賞するには、描かれたものをそのまま受け取るのではなく、その背景を省察し、描かれなかったものに思いを巡らす必要があることがよくわかります。制約の厳しい社会状況下で描かれたことを考えれば、むしろ、描かれなかったものを省察する方が実態に迫ることができるのかもしれません。

 もっとも、身分制度に縛られながらも、女性は気立てや器量、意思や機転などによって、その人生を変えることができたようです。さまざまな女性の暮らしを雙六の形式で表現した浮世絵がありました。『新板娘庭訓出世雙六』というタイトルの作品です。

■『新板娘庭訓出世雙六』

 渓斎英泉は、一枚の錦絵に女性の人生のさまざま段階を雙六形式で表現しています。


江戸東京博物館所蔵

 振り出しとして、生娘、女房、おてんば娘、めかけ、花嫁等が設定されており、サイコロを振って出た目数に従って進むというゲームです。上がりは「万福長者極楽隠居」でした。子守りや茶屋女、針医者など様々な女性の職業を経て、人生の終盤に至るのです。女性の人生は容貌や心がけ次第で出世したり、没落したりすることが、雙六を通して表現されていました。たとえば、おてんば娘の場合、育ち(出生身分)が悪ければ飯盛り女にしかなれず、蓮っ葉もの(性分)だと茶屋女、器量(容貌)が良ければ妾に慣れるといった具合です。

 この雙六には、どんな立場にいても心身を磨き、努力していれば、それなりの境遇が得られるという教えが含まれていますから、タイトル通り、女性に対する教訓集だったと見ることができます。面白いと思ったのは、上がりが豊かな楽隠居に設定されていたことでした。当時、家族に支えられ、経済的、時間的に余裕のある暮らしが理想とされていたようです。今も昔もその点では同じだと思い、彼女たちが急に身近に思えてきました。

 それにしても江戸の人々はなんとユニークな発想をしていたのでしょうか。出生時の身分がどうであれ、容貌や気立てなどによってその後の人生が好転することもあれば、暗転することもあるという人生訓が雙六というゲームの中で示されているのです。とても示唆深く、見ていて飽きることのない作品でした。

●「紫絽地鷹狩模様染縫小袖」

 会場に入ってすぐのコーナーで、江戸時代の着物が展示されていました。「紫絽地鷹狩模様染縫小袖」というもので、武家の女性が着用した小袖だと説明されていました。絽の生地に雪景色が描かれており、生地には風通しの良さ、絵柄には涼を感じさせる工夫が見られます。

 そういえば、浮世絵はどれも、着物がとても精緻に描かれています。絵柄はもちろんのこと、生地の質感も容易に想像できるほど丁寧に描かれているのが印象的でした。当時の女性たちが装うことに関心を抱いていたからでしょう。細部まで丁寧に描かれているところを見ると、ひょっとしたら、浮世絵は着物のカタログの役割を果たしていたのかもしれません。

 国産の生糸生産量は江戸時代に大幅に増加したといわれています。社会が豊かになるにつれ、女性たちの関心が装うことに向かい、浮世絵がそれに拍車をかけたからだと思います。浮世絵によって女性が可視化され、絵柄までも精緻に描かれた着物や帯が女性たちの消費意欲を喚起したのでしょう。

 生地の製法、染色等の技術、デザインなどが高度化し多彩な反物を生産できるようになるにつれ、呉服屋も繁盛していきました。そんな様子が描かれている浮世絵が何点か展示されていました。ご紹介しておきましょう。

■『かいこやしない草』

 着物に関する浮世絵で会場に展示されていたのは、『かいこやしない草』の第五と第十二の2点です。まず、第五から見ていくことにしましょう。これは北尾重政の作品です。


神奈川県立歴史博物館所蔵

 女性が桑の葉をちぎりもせず、そのまま蚕に与えている様子が描かれています。説明書きを見ると、「蚕は大眠(第4眠)を脱皮した後、桑の葉をたくさん食べるようになるので、刻んでいては間に合わないから」と書かれています。生糸の生産を急いでいる様子がうかがえます。

 子連れで働きに来ているのでしょうか、右側の女性の後方には子どもが張り付き、なにやらむずがっている様子です。左側の女性はそちらを気にしながら、せわしく手を動かし桑の葉を巻いています。働いている二人はいずれも裸足です。

 その二人をまるで監視しているかのように、下駄をはいた女性が見ています。ここでは三者三様、着物や帯の柄や生地の質感が丁寧に描かれており、身分の差がはっきりと表現されています。

 彼女たちが育てた蚕から繭が生み出され、生糸になります。その生糸を織ると反物となり、染色等の工程を経て、多種多様な女性の装いとなっていきます。

 第十二は、呉服屋が武士のお屋敷を訪問し、反物の説明をしているシーンが描かれています。作者は勝川春章で、中版の錦絵です。


太田記念美術館所蔵

 反物を持参した呉服商が、女性に説明しているシーンが描かれています。呉服商は膝に反物(「ちりめん」と書かれた紙)を置き、にこやかに説明しています。縮緬の反物を使えばこのような素晴らしい着物に仕上がりますよ、とでも説明しているのでしょう。

 女性は思案しているのか、長い煙管を口から外し懐中に手を入れたまま、着物の仕上がりパターンをじっと眺めています。後方の女性は反物を手に取ってしげしげと柄を眺め、生地の手触りを確認するかのように広げています。ここでも三者三様、着物の文様、色合い、素材感などが見事に表現されています。

 背後には風景を描いた屏風が置かれ、 女性は手の込んだ文様の着物を着ていますから、きっと裕福な家なのでしょう。だからこそ、呉服商はたくさんの反物を携えて訪問しているのです。現在に置き換えれば、デパートの外商に相当するのでしょう。呉服商の背後には三井のマークの入った大きな長持ちが置かれています。

 1683年に創業された越後屋三井呉服店は、店頭販売と定価販売で庶民の気持ちを捉え、繁盛したといわれています。店頭販売に力点を置くことによって、庶民が着物を購入しやすくなったことは確かでした。量産された浮世絵によって可視化された女性像が、女性の潜在的な欲求をあぶりだし、着物の販促効果を高めていったと思われます。

 そういえば、いずれの絵にも上方に説明書きがそえられていました。浮世絵と文字との馴染みがよく、当時の絵師や出版業者のセンスの良さがよくわかります。文字による説明を画面に配置することによって、内容がより正確に伝わる効果があります。こうしてみてくると、浮世絵は一種のジャーナルとして機能していたのではないかと思います。

 さて、『かいこやしない草』については東京農工大学附属図書館が電子書籍を出していますので、ご紹介しておきましょう。

こちら →http://web.tuat.ac.jp/~biblio/electron/files/ukiyoebook.pdf

 浮世絵によって女性が可視化された結果、美しくなりたいという女性の潜在欲求が喚起されました。それに伴い、生糸をはじめ、着物関連の生産者、仲介業者、消費者が相互に関連し合いながら、経済の活性化が進んでいきました。まず生糸産業が活性化し、社会が経済的に豊かになっていく過程で浮世絵が大きな役割を果たしていのです。

 浮世絵によって女性が可視化されたことで変化したものがもう一つあります。それは見られる存在としての市井の女性の登場です。

■『柳屋お藤』

 それまで美人として人々からもてはやされていたのは遊女か役者でした。ところが、経済的に豊かになってくると、町娘たちも装いを凝らし、輝き始めます。浮世絵師たちは好んで市井の美女を描くようになりました。明和の時代、名を馳せたのが、笠森お仙と柳屋お藤でした。お仙は水茶屋、お藤は楊枝屋の看板娘でした。

絵師の鈴木春信はこの二人をセットで何枚か描いています。

 左がお藤で、右のお茶を出している女性がお仙です。どちらも同じような浮世絵の美人顔でした。絵を見ているだけでは、美人と評判のこの二人のどこがどのように美しいのかわかりません。そこで、調べて見ると、『売飴土平伝』の中に二人の容貌を比較した文章があり、その内容が紹介されていましたので、ご紹介しておきましょう。

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 若き日の大田南畝は、『売飴土平伝(あめうりどへいでん)』(鈴木春信画)のなかの「阿仙阿藤優劣弁(おせんおふじゆうれつのべん)」という文章を書いて、二人の美女の容貌を比較し、論評している。 それによれば、お仙は「琢(みが)かずして潔(きれ)いに、容(かたち)つくらずして美なり」と化粧や髪飾りに頼ることなく、「天の生(な)せる麗質、地物の上品」をそなえているとする。一方のお藤は、眉を淡く掃き口紅は濡れたように化粧上手、象牙の櫛や銀の簪で髪を美しく飾って、隙(すき)がない。俗にいう「玉のような生娘(きむすめ)とはそれ此れ之を謂うか」と嘆賞する。両者の美の雌雄は決しがたく、人気も二分されて軍配の上げようがなく困ったところに王子稲荷大明神が現れて裁定を下し、決着する。お藤の方は浅草という繁華の地に在るのに対して、お仙の方は谷中の端の日暮里(ひぐらしのさと)という郊外で、しかもいち早く評判を取ったことから、お仙が勝ちとされるのである。「一たび顧みれば、人の足を駐(と)め、再び顧みれば、人の腰を抜かす」

https://julius-caesar1958.amebaownd.com/posts/4202761より)。

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 上記の文章を読むと、二人の美しさの違いがよくわかります。笠森お仙の方は化粧もせず、若さが匂い立つような美しさで、柳屋お藤の方は化粧上手で、都会の女性らしい磨き込んだ美しさがあったようです。

 さて、会場で展示されていたのは、北尾重政が描いた『柳屋お藤』で、細判紅摺絵です。


国立歴史民俗博物館所蔵

 楊枝屋の看板娘だったので、商品を展示した店先に立っている姿が描かれています。髪の結い方、ちょっとした仕草などに都会的で洗練された美しさがあるような気がします。実際、お藤は、先ほどご紹介したように化粧上手で、美しく見せるのが巧みな女性だったようです。

 浮世絵で描かれることによって、アイドル的な存在になっていったのが、笠森お仙であり、柳屋お藤でした。実際に美しかった小売店の看板娘が、浮世絵で描かれることによって著名になり、さらに多くの人々を惹きつけました。

 彼女たちが店先に立てば、評判を聞きつけてやってきた客たちが競い合ってお茶を所望し(笠森お仙)、楊枝(柳屋お藤)を買い求めます。美人による販促効果は抜群でした。浮世絵は当時、広報メディアとしても大きな役割を果たしていたことがわかります。

■浮世絵は何を育んだのか

 この展覧会のサブタイトルは「浮世絵にみる女のくらし」です。その名の通り、さまざまな浮世絵を通して女性の生活状況がわかるように構成されており、とても見応えがありました。

 それにしても、男性中心の身分制社会の下で女性たちはなんと逞しく、そして、しなやかに生きていたのでしょう。展示された浮世絵には、一生懸命に生き、生を謳歌していた女性の姿が随所に浮き彫りにされており、とても勇気づけられました。

 一方、一連の浮世絵からは、身分の違いを問わず、「よそおう」ことが女性たちにとってきわめて重要だったことが見えてきました。庶民の女性たちはいくつになっても働き者で慈愛深く、身綺麗にしておくことが求められ、身分の高い女性は対面を保つため、格式のある装いと態度振る舞いを求められていたのです。

 そして、浮世絵は美人画という形式で女性を可視化し、美しくなりたいという女性の潜在欲求を喚起しました。しかも、着物や帯が多色摺りで精緻に描かれますから、女性にとっては商品カタログの役割も果たしていました。その結果、浮世絵が庶民の娯楽として定着していくと、着物の需要が高まり、生糸が増産され、染色技術、デザイン力、縫製技術などが高度化していきました。浮世絵が経済活性化の糸口を開いたといっていいでしょう。

 庶民の女性たちが装いを凝らして輝き始めると、絵師たちが美しい市井の娘たちを描くようになります。彼女たちは浮世絵に描かれることによってアイドル化し、著名になっていきました。もちろん、その販促効果は抜群で、商品流通の活性化にも寄与しました。

 浮世絵は肉筆画から多色摺りの木版画(錦絵)の過程を経て、庶民の娯楽となっていきました。女性はもちろん男性もまた浮世絵の消費者になっていったのです。それに伴い、政治権力からの圧力を回避し、厳格な規制を低減化する知恵が生み出されたような気がします。浮世絵の画面から透けて見える楽観性、諧謔性はまさに庶民の知恵といえるものでしょう。

 浮世絵によって育まれた庶民の精神的パワーこそが、ひょっとしたら、幕末の混乱から維新後の改革をしなやかに受け入れた日本人の精神の土壌となっていたのかもしれません。(2019/5/29 香取淳子)