■クリント・イーストウッドが主演・監督する「運び屋」
3月14日、たまたま時間が空いたので、「運び屋」(2018年制作、米映画)を見てきました。現在88歳のクリント・イーストウッドが87歳の時に監督・主演を演じた作品です。イーストウッドといえば著名な俳優なので、これまでに写真は何度か雑誌等で見たことがありますが、映画はまだ見たことがありませんでした。
ポスターに掲載された顔写真には、90歳近い高齢者ならではの味わい深さがありました。
目深にかぶった帽子の下から見える横顔・・・、深く刻み込まれた皺、何か言いかけようとしているような口元・・・、どれ一つとって見ても老齢と深い孤独とが滲み出ていることがわかります。ふと見ると、鼻先の脂肪が光って見えます。老いたとはいえ、まだ気力が残っていることが示されています。
画面右下には、残照の下、ピックアップトラックが一台、広大な荒野の中の道を走っているのが見えます。黄昏の光景に絡め、運び屋としてひたすら運転し続けた孤高の人生が浮き彫りにされているのです。この映画のエッセンスが見事に表現されたポスターでした。
この映画の原題は「The Mule」、2018年12月14日に公開された米映画で、制作費は5000万ドル、興行収入は3月14日時点のデータで103,804,407ドルです。すでに米国内だけで制作費の2倍以上の興行収入を得ていることになります。
こちら →https://www.boxofficemojo.com/movies/?page=main&id=themule.htm
今後、高齢化が進む先進諸国での上映が増えていけば、観客も大幅に増加していくでしょう。興行収入は、さらに増える可能性があります。
「運び屋」というタイトルを見ると、誰しも条件反的に、犯罪映画を思い浮かべてしまうでしょう。私もてっきり、派手なアクションシーン満載の犯罪映画だろうと思っていました。ところが、実際は、そうではなく、味わい深い人生ドラマになっていました。運び屋が高齢者なので、華々しいアクションシーンを設定することができなかったのでしょう。
その代わりに、高齢者ならではのエピソードが随所に組み込まれており、犯罪映画であるにもかかわらず、ほのぼのとした情感溢れる作品に仕上がっていました。人生を考え、家族を思い、ヒトとしての生き方を考えさせられる映画になっていたのです。この映画はきっと、国境を越え、幅広い観客から共感を得られるようになるでしょう。
■実話を原案に映画化
この作品は、ニューヨークタイムズに掲載された記事(2014年7月11日付)に着想を得て制作されました。
ハリウッド・レポーターのボリス・キット氏によると、2014年11月4日、制作会社インペラティブ・エンターテイメントはこの記事の権利を獲得し、ルーベン・フライシャーを監督として映画化に着手したといいます。ニューヨークタイムズに記事が掲載されてから三か月後のことでした。
こちら →https://www.hollywoodreporter.com/news/zombieland-director-tackling-tale-87-746038
記事の内容は、デイ・リリー(day lily)の栽培で受賞経験もある園芸家が、メキシコを拠点とする麻薬組織の運び屋をしており、2011年、87歳の時に逮捕されたというものでした。麻薬の運び屋というだけなら、よくある犯罪記事にすぎませんが、制作陣はおそらく、運び屋が87歳だったという点に興味を抱いたのでしょう。
制作陣が記事の段階で権利を押さえていたことからは、映画化の原案としての可能性の高さが示唆されています。確かに、麻薬の運び屋が超高齢者だったという意外性は、さまざまな側面から深く掘り下げることができます。取り上げ方によっては、年齢を問わず、訴求力の強い作品に仕上げることができます。
晩節をどう生きるかに焦点を合わせれば、大きな社会的関心を喚起する可能性がありました。なんといっても、先進諸国では高齢化が進行しています。そのような現状を考えあわせれば、90歳近いクリント・イーストウッドが監督・主演を担うこの映画が話題作になるのは明らかでした。
もっとも、この記事が掲載された時点では、まだ主演が誰になるか決まっていませんでした。
この記事を書いたサム・ドルニックも、2018年12月5日付けのニューヨークタイムズ誌上で、クリント・イーストウッドがこの映画を監督し主演もするとは考えもしなかったと書いています。
こちら →https://www.nytimes.com/2018/12/05/reader-center/clint-eastwood-movie-drug-mule-sinaloa-cartel.html
さらに彼は、上記の記事の中で、「ツイッターが暇つぶしだなんて誰が言ったんだ?」と皮肉っています。実はこの記事のネタは、サム・ドルニックがたまたまネットでツイッターをスクロールしていたとき、警察の記録簿から見つけたものでした。ですから、彼は、ツイッターは決して暇つぶしの手段などではなく、貴重な情報源なのだといいたかったのでしょう。
先ほどいいましたように、サム・ドルニックがツイッターで見つけたのは、イリノイ州に住む89歳の園芸家が1400ポンド以上のコカインを、メキシコ系麻薬組織の運び屋として移動させていた廉で、デトロイトで刑を申告されたという情報でした。逮捕時87歳だった運び屋が2年余を経て実刑を宣告されたのです。
その情報を見てサム・ドルニックは、これはニューズバリューがあるだけではなく、物語に仕立て上げられる内容だと判断しました。そして、老いた運び屋の人生をニューヨークタイムズの記事にしようと思いついたのです。
この情報には、彼のジャーナリスト魂が刺激されるだけの訴求力がありました。ヒトの心を強く動かすものがあったのです。それはおそらく、90歳に近い高齢者が麻薬組織の運び屋として働いていたということでしょう。
それまで犯罪歴もない高齢が、なぜ、晩節を汚すようなことをしたのか、私も興味津々です。そこには高齢者ならではの心理、あるいは、生活環境がなにがしか影響を及ぼしていたのかもしれません。いずれにせよ、予想もできない事件でした。だからこそ、主演・監督ともクリント・イーストウッドに変更されたのでしょう。
当初、ルーベン・フライシャーを監督に起用し、制作体制を組んでいたはずが、どういう経過があったのかわかりませんが、いつの間にか、クリント・イーストウッドがこの映画の監督になっていました。90歳近い高齢者が運び屋であるこの物語にリアリティを持たせるには、主演・監督とも同世代である必要があったのでしょう。
それでは、メイキング映像をみていただくことにしましょう。
こちら→ https://youtu.be/HA5z-fQKxpc
出演者たち、そして、クリント・イーストウッドの言い分を聞いていると、彼が主演・監督を務めたからこそ、この映画が成立したことがよくわかります。
■ストーリー構成
冒頭のシーンでは、デイ・リリー(daylily)の花がクローズアップされます。主人公アールが大切に栽培している花です。ユリ科の植物で、その名(day lily)の通り、花が咲くのは一日限りですが、アールは手間暇かけ、愛しむように栽培しています。
映画ではこの冒頭のシーンに続き、アールが品評会で金賞を受賞するシーンになります。晴れやかなアールの笑顔がとても印象的です。ところが、周囲から次々と浴びせられる称賛に応じているうちに、うっかり一人娘の結婚式に出るのを忘れてしまいます。栽培家としては高い評価を得ても、家族を顧みることがなかったことの象徴として、このエピソードが組み込まれています。仕事を優先し、他人にかまけて家族をないがしろにしてきたせいで、アールはその後、一人娘や妻から見放されていきます。
12年後、老いたアールは家族から見放され、家は差し押さえられて、お金も底をついてしまっていました。インターネット時代にアールの仕事が追い付かなくなっていたのです。孫娘だけは心配してくれていましたが、お金がなく、祖父としての役目を果たすこともできません。そんな折、お金になるといわれ、何を運ぶか知らされないまま、目的地まで届ける仕事を引き受けます。
いわれるままに運転するだけで、予想もしなかった大金を手にして、アールは驚きます。
いまにも壊れそうなピックアップトラックに乗っていたアールは、大金を手にしたので新車を購入し、再び、運び屋の仕事を引き受けます。
途中、ふと気になってトランクを開けると、バッグがたくさん積み込まれています。中を開けると、白い袋がたくさん入っていました。明らかに麻薬です。唖然としていると、背後から近づいてきた警官に、「どうしたんですか?」と声をかけられます。
警官とやり取りをしているうちに、警察犬が激しく吠え出しました。それを聞いて警官は車に戻りますが、アールは危険を察知し、自分の方から犬に近づき、痛み止めの薬を嗅がせます。麻薬犬の嗅覚を混乱させることによって、麻薬が車から発見されることを回避します。とっさに知恵を巡らせ、危機をやり過ごしたのです。
機転の利くアールは、その後、厳重な警察の取り締まりの目をかいくぐって何度も、大量の麻薬を運びます。麻薬組織のボスは喜び、アールの仕事はさらに増えていきます。
豪腕の運び屋がいると判断した警察は、敏腕警官を担当に抜擢し、取り締まりを強化します。担当警官はまさか90歳近い高齢者が運び屋だとは思いもしません。ですから、取り締まりの最中にアールと直接会話する機会があったのに、彼こそが当人だと気づくこともありませんでした。むしろ共通の話題に話を弾ませ、いっとき、心を通わせていたほどでした。
食堂で隣り合わせた担当警官が、忙しさにかまけ、家族の記念日を忘れていたことを知ると、アールは、さっそく自身の経験を話し始めます。記念日を忘れることがいかに大きなダメージを家族に与えるか、自身の辛い過去を話しました。一人娘からはその後12年半も口をきいてもらえない、悲しい体験を吐露したのです。
それを聞いて、警官の気持ちは一気にアールに引き寄せられていきます。同じ悩みをかかえた人生の先輩として、アールに親しみを感じてしまいます。追う者と追われる者がいっとき、家族の話題で心を通い合わせるシーンでした。この時の警官が後にアールを逮捕することになります。
さて、回を重ねるたびに運ぶコカインの量が増え、手にするお金も増えていきます。それに伴い、組織からの監視は厳しくなっていきます。車に監視カメラが取り付けられ、見張り役によってアールの行動は逐一、監視されるようになります。
それでも、アールは好きなところで車を停め、好きな食堂に立ち寄り、好きなものを食べ、自由自在に動き回っています。そんなある日、孫娘から電話があり、祖母(アールの妻)が危篤だという知らせを受けます。
いったんは仕事だからと断りますが、思い直し、病床に伏せる妻のところに駆けつけます。思いもかけないアールの帰宅に家族は戸惑い、娘は拒否反応を示します。
それでもアールは強引に、病床の妻メアリーに寄り添います。死に瀕したメアリーは、ひどい夫でひどい父親だったけど、最愛のヒトだったといい、アールを許してくれます。そんなアールと母メアリーを見て、娘もついにアールを許すようになります。
メアリーの死を契機に、アールは娘と和解しました。メアリーのおかげでアールは家族に受け入れられたといっていいでしょう。人生の終わりになってようやく、アールに安堵の時が訪れたのです。
ところが、安堵の時を得たのも、つかの間、黒のピックアップカーを追跡していた警察にアールは捕まってしまいます。
それにしても、法廷でのアールの態度がなんといさぎよく、見事だったことでしょう。麻薬組織の運び屋として晩節を汚したアールが、まるで汚名を返上するかのように、弁護士を制し、いさぎよく罪を認めたのです。
弁護人が、軍人として国のために果敢に戦ってきたこと、人の良さや高齢であることを麻薬組織から利用されただけだということ、等々を主張してアールを弁護したのに、アールは「全てにおいて有罪」だと主張し、自ら刑を受けることを望んだのです。
エンディングでは、刑務所の中で花栽培に従事するアールの姿が映し出されます。そして、下記のようなフレーズの歌が流れます。
「老いを迎え入れるな、
もう少し、生きたいから、
老いに身をゆだねるな、
ドアをノックされたら、
いつか、終わりが来るとわかっていたから、
立ち上がって、外に出よう」
歌詞といい、声のトーンといい、しみじみとした味わいがあり、胸に沁み込みます。トビー・キースが歌う「Don’t Let the Old Man In」をご紹介しておきましょう。
こちら →https://www.youtube.com/watch?v=RLp9pkWicdo
これを聞いていると、次第に、90歳近い年齢で主演・監督を務めたクリント・イーストウッドからのメッセージのように聞こえてきます。
■実話の映画化に不可欠な要素は何か。
この映画のメインプロットは、ニューヨークタイムズに掲載された記事を踏まえて、作成されています。それを支えるサブプロットとして、家族との関係、老いていく者の矜持、などが組み込まれ、ストーリーが立体的に構成されていました。だからこそ、犯罪映画でありながら、味わい深い作品に仕上がっていたのでしょう。
つまり、実話にフィクションを加えることによって、大勢のヒトの気持ちを打つ、情感豊かな映画に仕上がったのだと思います。それでは、フィクションに不可欠な要素は何だったのか、考えてみることにしましょう。
2014年にニューヨークタイムズに記事を書いたサム・ドルニックは、先ほどご紹介した2018年12月5日付けの記事の中で、興味深いことを書いています。この記事を書くに際し、彼は記事の骨組みになるようないくつかの疑問を、数か月にわたって調べたというのです。
たとえば、なぜ、そのようなことをしたのか? 騙されやすい人だったのか? 詐欺師だったのか? 天才的な犯罪者だったのか? ・・・、といったような疑問です。いろいろ調べた結果、サム・ドルニックはそれらの疑問についてはそれぞれ見解を得ることができたといいます。それでも、ジャーナリストとしての彼にできるのはせいぜいそこまでだというのです。
サム・ドルニックは、ジャーナリストとしては、調べて知りえたことしか書くことはできないといいます。事実を書くことこそがジャーナリストの仕事の鉄則だというのです。ところが、記事に書く実在の人物は、複雑で、矛盾し、謎めいていて、しかも驚くべき経歴を持つ人々なのです。
ですから、たとえば、最初にコカインをトラックに運び入れたとき、どう思ったのか、と尋ねても、実際には決して答えてもらえなかっただろうとサム・ドルニックは書いています。そして、仮に調査しつくしたとしても、なぜ運び屋をやったのかわからないし、おそらく当人ですら、わからなかったに違いないといいます。つまり、事実をいくら積み上げても、きめ細かな心理などを浮き彫りにすることはできなかっただろうというのです。
サム・ドルニックの記事を読み、映画制作者は閃きを感じました。だからこそ、この記事を脚本家のニック・シェンクに送付したのです。そして、シェンクは脚本家としての発案で、高齢の麻薬運び屋に手の込んだバックストーリーを創りました。すなわち、父親に憤慨している娘、家族への罪の意識、ピーカンパイへの好みといったような要素を加え、バックストーリーを創ったのです。
まさにこの点に、実話からの映画化に際し、フィクションを創り出す専門陣営・ハリウッドが介入する余地があったといえるでしょう。ジャーナリストが紡ぎだした記事では埋めることのできない溝をフィクションで補い、ストーリーを完璧なものにしたのです。
警察情報から実話として記事を作成したのはジャーナリストのサム・ドルニックでした。ところが、それだけでは映画化することはできず、脚本家ニック・シェンクは新たにフィクショナルな要素をいくつか付け加えました。複雑で矛盾した現実社会を生きてきた実在の人物をリアリティ豊かに再現するための装置ともいえるものです。
確かに、父親を拒否し続ける娘を登場人物に設定しなければ、アールの深い孤独を浮き彫りにすることはできず、家族に対する罪の意識も観客に深く伝わってこなかったでしょう。そして、出来心で一回だけ運び屋をやったというのではなく、その後何度も麻薬組織の片棒を担いでいたことの理由もわからなかったでしょう。
老いさらばえて、家族から見放されていたアールは、どこかでヒトから認められたかったのだと思います。大金を手にしたアールが、まるで家族に対する罪の意識を振り払うかのように人助けをしていたのも、その種の承認欲求の現れでしょう。退役軍人クラブの再建に尽力したときに見せたアールの表情のなんと晴れやかなことか・・・。ヒトは何歳になっても、家族や他人から認められたいのだということがわかります。
さらに、アールはピーカンパイが大好きだという設定でした。ピーカンパイというのは、ナッツを上に載せたパイのような焼き菓子です。子どもが大好きなお菓子ですから、ピーカンパイが好きだというだけで、老いたアールに子どもらしさ、可愛らしさのイメージを加えることができます。映画の中ではトランクを開けていたとき、近づいてきた警官に、アールはとっさの知恵を働かせて、ピーカンパイを話題にし、煙に巻いていました。
このように脚本家ニック・シェックが新たに付け加えた要素は、ストーリーを強化し、キャラクター像を立体的なものにする効果がありました。なにより大きな効果は、父親を拒否し続ける娘を設定することによって、単なる運び屋のストーリーを情感豊かな人生ドラマに変貌させたことでしょう。
その結果、観客の心を打つ素晴らしい映画に仕上がりました。実話にフィクショナルな要素を加えてはじめて、ストーリーが強化され、登場人物それぞれにリアリティが感じられ、感情移入も可能な作品世界が生み出されたのです。
この映画の作品化過程をストーリー構成の観点から読み解いてみて、さまざまなことがわかってきました。
同じストーリーを扱うとはいっても、ジャーナリストの領分と脚本家の領分とは異なるということ、映画にはフィクショナルな要素が、事実の隙間を埋めるために必要だということ、などを思い知ったのです。
もちろん、映画の構成要素はストーリーだけではありません。映像や音楽・音響もまた重要な役割を担っています。ただ、今回は、実話からの映画化という点で、「運び屋」に興味を抱いたので、ストーリー構成の観点からこの映画について考えてみました。総合芸術としての映画はこのように複雑多岐で多様、多義的で融通無碍、だからこそ、面白いのだと思いました。(2019/3/17 香取淳子)