ヒト、メディア、社会を考える

花澤洋太&武田司

境界に挑む:花澤洋太氏の作品、武田司氏の作品

■「新鋭美術家2016」ギャラリートーク
 私が都美術館を訪れた2月28日、花澤洋太氏と武田司氏のギャラリートークが行われていました。作家による作品解説を聞く機会など、滅多にあるものではありません。もちろん、私は参加しました。

 翌週、他の3人の方のギャラリートークがあったのですが、残念ながら、私は参加できませんでした。ですから、ここでは、花澤洋太氏、武田司氏の作品を取り上げてみたいと思います。お二人のトークを思い起こしながら、創作の極意を探ってみることにしましょう。

■花澤洋太氏の作品
 花澤氏は「もり」というタイトルの三作品を出品されていました。一目見て、その迫力に圧倒されてしまいました。巨大で、しかも重厚感が強烈なのです。たとえば、最初に展示されていた作品、「もり 2015」を見てみましょう。この絵がどれほど大きいか、立っている花澤氏と見比べてみれば、一目瞭然です。

こちら →花澤絵

 この絵を見ていると、絵画の訴求力が、キャンバスに描かれた内容だけではなく、絵の具やキャンバスといった画材とセットで生み出されていることに、気づかされます。

 私たちは普段、絵を見るとき、何が描かれているのか、どのように描かれているのか、その絵にどういう意味が込められているのか、・・・、といったようなことを把握しようとします。半ば条件反射的に、そのような反応をしてしまうのですが、それはおそらく、私たちが何事に対しても意味を求めてしまう性癖を持っているからでしょう。

 ところが、ごくまれに、絵を見た瞬間、感動してしまうといった場合があります。描かれている内容を理解し、意味を把握する前に心が揺さぶられてしまうのです。なによりもまず、絵の総合的な力によって、観客の五感が刺激され、心が揺さぶられるのでしょう。意識下に働きかける非言語的な力の強さです。

 花澤氏の作品にはその種の訴求力があったのです。きっと、平面キャンバスに描かれた絵画にはない何かがあるはずです。

■曲面に描く

 あらためて、「もり 2015」を正面から見てみました。

こちら →もり2015
(300×300、油彩、コラージュ、レリーフ状パネル、2015年)
(巨大すぎて、私のカメラには収めきれず、画像はyoutubeから引用。)

 暖色系の絵の具を使い、森を象徴的に表現した作品です。ところが、通常の作品とは迫力がまるで違うのです。そこで、絵に近づいてみると、浮き上がったところとそうでないところがあって、画面が平らではないことがわかりました。

こちら →波打つ画面

 絵の下の方を見ると、波打っているのがわかります。平面ではなく、曲面の支持体を使っているのです。支持体のうねりが画面にさまざまな曲面を作り出し、絵の具の表情を豊かなものにしていました。曲面なので、場所ごとに光の当たり方が異なりますから、反射光や影も異なり、絵の具がそれだけ多様な表情をみせるのです。

 しかも、横から見ると、絵の具の量がすごいのに驚かされます。キャンバスの上に厚く盛り上がっています。

こちら →絵の具

 花澤氏は20年ほど、このような手法で、作品タイトル「もり」を制作しているといいます。そういえば、今回、展示された作品もタイトルはすべて、「もり」でした。そして、描画手法もこれまで通り、木製の支持体の上にべニアを貼り、そのうえにさまざまなものを貼り、最終的に布地を貼って、油絵具を載せていくというものです。

 お話しを聞いていると、どうやら花澤氏は、フレスコ画を書いていた時期があったようです。フレスコ画と聞いても、私はよくわからなかったので、調べてみました。花澤氏がいわれたのはおそらく、フレスコレリーフといわれる技法ではないかと思います。

 この技法では、パネルを作り、その上に発砲スチロールなどで盛り上げて整形し、最後にキャンバスを貼ります。そこに漆喰ではなく、絵の具を載せていくのです。この技法であれば、さまざまなイリュージョンを投影できると花澤氏はいいます。レリーフの上の光の当たり方で、絵の具が盛られた画面の表情がさまざまに変化するからでしょう。

■「抵抗感」をテーマに
 花澤氏は、絵画を通して表現したいのは、「抵抗感」だといいます。レリーフ状のキャンバスに油絵の具を載せていけば、物理的抵抗感を表現しやすいだけではなく、ヒトとの関係で生じた溝やわだかまりなど、心理的抵抗感も表現しやすいというのです。 

 先ほど書きましたように、ここ20年来、花澤氏は一貫して「もり」というタイトルで制作をしてきました。森は木々の集合体ですが、ヒトの集合体ともみなすことができます。油絵の具と曲面のある支持体を使うことによって、そのような個と集合体との関係を、森というモチーフの中に「抵抗感」を盛り込みながら、表現できると考えておられるようです。

 油絵の具は色によってそれぞれ乾くスピード、透明感、積層が異なっており、描かれた画面はまるで一つの社会のようだと花澤氏はいいます。油絵の具には時間とともに色褪せていくものもあれば、透明感が出てくるものもあります。油絵の具で表現されたものには色彩の明度、彩度の差異による多様性だけではなく、その種の多様性もあるので、ヒトになぞらえることができるといいます。抽象的な表現によって抵抗感を描き出そうとする花澤氏にとって、油絵の具は恰好の画材なのでしょう。

 しかも、油絵の具には強い匂いがあります。色によって視覚を刺激するだけではなく、匂いによってヒトの嗅覚を刺激するのです。そして、キャンバスを触れば、絵の具の塗りこみ具合によって手触りが異なりますから、触覚も刺激されるのです。油絵の具そのものが、見ているヒトの諸感覚器官に「抵抗感」を与え、インスパイアします。

■平面作家の立体へのこだわり
 花澤氏は、曲面に油絵の具を使って描くという行為を通して、人智を超えた表現効果を得ました。個々の作家が計算しつくし、技術の限りを尽くしても得られない効果を、このような描画方法によって得ているのです。ふと洞窟壁画を思い出しました。

 洞窟の壁面を利用してバイソンの図が描かれているのを、テレビで見たことがあります。先史時代のヒトは、洞窟壁の曲面からバイソンの背中や尻を想起したのでしょう、顔料を適所に置くだけでみごとにリアルなバイソンを造形したのです。自然の形状から動物の形を引き出し、顔料を載せて意味ある像を創り出した表現力に驚いたことを思い出します。

 まだ言葉を創り出していなかったころから、ヒトはすでにモノを対象化し、象形化する力、あるいは概念化する力を持ち合わせていたことがわかります。ヒトに組み込まれた英知のすばらしさを思わずにはいられませんでした。

 花澤氏の作品を見ていて、ふいに、この動物壁画が思い出されたのです。洞窟壁の中に潜む姿を見出して引き出し、質感を持つ絵の具を載せて形にしていますから、絵画といいながら、実はモノとしての存在感も強烈なのです。
 
 メッセージとして伝わってくるのは描かれた内容ですが、その背後で、重みや厚みを持って存在するモチーフのリアリティが感じられます。花澤氏の作品の場合、見る角度や距離を変えると、絵が違って見えてきます。

 常にしなやかな視点を持っていたいと、花澤氏はいいます。そういう思いがあるからでしょう、ワークショップを開催し、さまざまなヒトとの出会いの場を作り出しています。絵を制作するという行為は自己との対話の結果、生み出されるものですが、それ以外に、ヒトを通して見えてくるものもあります。花澤氏はその両方が大切だという考えに基づいて、創作とワークショップの開催を通したヒトとの交流を進めています。

■武田司氏の作品
 ギャラリートークでご本人にお目にかかるまで、私は武田司氏をてっきり男性だと思っていました。お名前から、なんの疑問もなくそう思っていたのです。ところが、実際は白いスーツを着こなしたステキな女性でした。

こちら →画家
(最新作「目覚めの刻」(90×140㎝、錆漆レリーフ、螺鈿、卵殻螺鈿、蒔絵、2014年)の前で撮影)

 「新鋭美術家」として工芸作家が選ばれるのは武田氏がはじめてなのだそうです。それを意識されていたのでしょうか、武田氏はまず、「工芸が美術として評価されたことが嬉しい」と喜びの言葉を口にされました。

 お父様が漆作家なので、幼いころは絵を描いている父の部屋が遊び場だったようです。日常的に美術の世界に触れ、憧れていながら、作家になるつもりはなかったそうです。創作に悩んでいるときの父の姿を知っているだけに、とても憧れだけでは美術の世界に入っていけないと思っていたと武田氏はいいます。

 ところが、どうしても美術家の魅力には逆らえなかったようで、結局、武田氏はいま、工芸作家として、父と同じ道を進まれています。もっとも、子どものころから創作の苦悩を見てきたせいか、武田氏の場合、絵画性の強い作風で、とても惹きつけられます。

 たとえば、「穣」という作品があります。一見すると、工芸作品ではよく見かける図案のように見えますが、どこか違います。明暗の付け方が絵画的で、奥行きがあり、ストーリーが感じられます。

こちら →穣
(150×105㎝、錆漆レリーフ、螺鈿、蒔絵、2005年)

 錆絵レリーフといわれるもので、モチーフに立体的な表現を取り込みながら、造形しています。通常、漆といえば、鏡面を想像してしまいますが、武田氏は塗って盛り上げ、削ぐという方法で作品を制作しています。

■錆上げレリーフ
 「積」という作品があります。セーターを着た女性が横になっています。ざっくりしたタートルネックの網目が盛り上がっています。触ってみると、指先に滑らかなレリーフの感触が残ります。

 錆上げは半乾きの状態でカッティングすることで制作しますが、この作品の場合、奥から順に盛り上げていくために、タイミングを見ながら、制作していったそうです。精緻な作業によってリアリティが高められています。絵画的なモチーフを斬新な構図で表現されているので、つい漆作品だということを忘れてしまいそうになります。

こちら →積
(150×105㎝、錆漆レリーフ、螺鈿、蒔絵、2001年)

 一般の漆作品では見たこともないようなモチーフです。女性が目を閉じて横たわり、その下を紅葉した葉が散っています。背景色は晩秋を思わせます。高齢期の女性と晩秋が巧みな構図の下で描かれており、人生を深く、そして、しみじみと感じさせられます。

 武田氏は作品を制作するとき、同じサイズで絵を描いておき、それを隣に置いて、見ながら制作するのだそうです。それを聞いて納得しました。モチーフの選び方、形状、構図、どれをとってもとても絵画的なのです。漆を使って錆絵の技法で、絵画的なコンテンツを載せていくという制作方法です。これが武田氏独自の美術世界を創り出しているように思えます。

■鬼シリーズ
 会場で面白いと思ったのが、鬼をモチーフにした一連の作品です。先ほど紹介した「穣」も暗い部分に鬼の顔や身体部位がレリーフで表現されています。背景に鬼を配置することによって、この作品に文化史的な深みが滲み出ています。

 鬼が主人公として扱われている作品もあります。「散華」です。

こちら →散華
(150×105㎝、錆漆レリーフ、螺鈿、蒔絵、2007年)

 二匹の鬼が争っているようにみえる構図が面白くて、私はこの絵に注目しました。対角線上の上方に襲う側、下方に迎え撃つ側が配置されており、それぞれ赤と緑という反対色の帯を付けています。帯の色彩、形状、配置によって、画面に生き生きとした動きが与えられています。左上方と右下方には雲がシンボリックに表現され、鬼の下には星屑のように金粉がちりばめられています。天空での出来事を故事として見せる配慮がうかがえます。

 二匹の鬼はそれぞれ、両手に散華を持ち、その周辺には小さな散華が散っています。散華とは仏を供養するため、ハスの花をかたどった紙をまき散らすことをいうのだそうです。鬼の表情と姿態がどこかユーモラスで、仏の供養のための行事が身近に感じられます。

 私が面白いと思ったのが、「空」です。

こちら →空
(150×105㎝、錆絵レリーフ、螺鈿、蒔絵、2006年)

 この作品には3匹の鬼が登場しますが、顔を見せているのは2匹です。一匹は井戸に映る青空を眺め、もう一匹は格闘中なのでしょうか、すごい形相をして天空をにらみつけています。とはいえ、2匹ともどことなく愛嬌があり、なんともいえない可愛さがあるのです。

 鬼が足で踏みつけているのは屋根瓦だそうです。使わない屋根瓦が土に埋め込まれているのです。そういえば、鬼瓦という言葉があるぐらい、鬼は守り神として、これまで日本人の日常生活に組み込まれてきました。ヒトには姿を見せず、そっと見守ってくれる貴重な存在なのですが、現在、私たちはそんなことを考える余裕もない生活をしています。そもそも鬼の居場所が現代社会からなくなってしまっています。

 2匹の鬼のいる位相が異なっており、鬼の姿態を通して表現されてるものも異なっています。ところが、いずれも鬼がヒトの日常の生活空間の中に潜み、天上を見、下界を見てヒトを見持ってくれているのです。この作品で面白いと思ったモチーフは、土に埋め込まれた屋根瓦と青空を映し出した井戸です。

 鬼というモチーフを設定したことで、鬼シリーズ作品に深みと文化的な味わいを出すことができたと思います。

■女性をモチーフに
 鬼を絡め、女性をモチーフにした「現ー長谷雄草子より」という作品があります。

こちら →現
(150×105㎝、錆漆レリーフ、螺鈿、蒔絵、2009年)

 平安初期の絵巻物「長谷雄草紙」から着想した作品です。

 wikipediaを見ると、以下のように説明されています。少し長いですが、作品を把握するため、引用しましょう。
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 双六の名手でもある長谷雄のもとに、ある夕暮れに妙な男が現れて双六の勝負を申し込んだ。長谷雄は怪しみながらも、勝負を受けて立った。勝負の場として長谷雄が連れて来られたのは平安京の朱雀門であり、男は何の足がかりもなく門をするすると昇り、昇れずにいた長谷雄を担ぎ上げて楼上に昇った。この男こそ、朱雀門の鬼が化けた姿であった。

 長谷雄は勝負に全財産を賭け、鬼は絶世の美女を賭けると言った。双六は長谷雄が勝ち続けた。勝負に敗れた鬼は後日、美しい女性を連れて長谷雄のもとを訪れ、百日間この女に触れてはならないと言い残し、女を置いて去って行った。
 長谷雄は最初は言いつけを守っていたものの、80日が過ぎる頃には我慢できなくなり、ついにその女を抱いた。たちまち女の体は、水と化して流れ去ってしまった。その女は、鬼が数々の人間の死体から良いところばかりを集めて作り上げたものであり、百日経てば本当の人間になるはずだった。
 さらにその3か月後、長谷雄の乗る牛車のもとにあの鬼が現れ、長谷雄の不誠実を責めて襲い掛かった。長谷雄が北野天神を一心に念じると、天から「そこを去れ」との声があり、鬼は消えるように去って行ったという。
********* 以上、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E9%9B%84%E8%8D%89%E7%B4%99より。

 「現ー長谷雄草子より」のモチーフは、この物語に登場する水となって流されてしまった美女でした。百体の死体から鬼が作り上げたという絶世の美女です。左下方に流されていく女性を糸のようなもので操っているのは鬼の手足です。モノトーンの中で表現された水の流れ、揺蕩う長い髪の毛に包まれた女性、しっかりと筋肉のついた鬼の手足、いずれも繊細でしかも鮮やかに描かれています。

 武田氏は、美女が斜めに流れ落ちてくるこの絵の構図を、ヒトが生まれ出てくるときをイメージしたといいます。たしかに、この絵を一目見た瞬間、退廃的な美しさを感じさせられます。ところが、しばらく見ていると、生命の真髄、生きること、存在することの意義を深く考えさせられていきます。表層から深層へと観客の意識を誘導する深さがあるのです。

 女性をモチーフにした武田氏の作品はいずれもとても美しく、流れるように繊細な線が印象的です。

 たとえば、最初に紹介した武田氏の写っている後ろに展示されている「目覚めの刻」は、セミの羽化になぞらえ、子どもが女性になっていく微妙な時期が巧みに表現されています。

 画面両サイドの暗い部分は土の中なのでしょう、植物の根や微生物のようなものがいくつも描かれています。そして、中央の明るい部分はおそらく地上なのでしょう、木の枝に絡まるように、薄いセミの羽をまとってまどろむ少女が描かれています。セミが土から出てきて羽化するように、少女は初潮を迎えました。

 いつでも生命を宿すことができるようになったのですが、まだ子どものように深い眠りの中にいます。やがて目覚めれば、大人になっていくにつれ、さまざまな危険に遭遇していくのでしょう。束の間の安らぎとでもいえばいいのでしょうか、少女の寝顔はとても安らかです。

 武田氏の作品は16点、展示されていました。ここでは一部を紹介しただけですが、表層の美しさに加え、描かれている内容の深さに感動してしまいます。現実の捉え方がとても深く、そして繊細なのです。

■表現の境界に挑む
 「新鋭美術家2016」に選ばれた方々はいずれも表現の境界に挑んでおらるように見受けられました。とくに花澤氏は平面作品に敢えて曲面の支持体を使って表現することで、従来の表現技法だけでは得られない表現の地平を切り拓いていました。

 一方、武田氏は工芸作品に絵画的手法を取り込むことによって、独特の世界を創り出していました。工芸作品の繊細で完成度の高い美しさと、絵画作品ならではの奥行きの深さを生み出していたのです。

 武田氏は、工芸品は美しく作らなければならないというセオリーがあるといいます。ですから、ゴールをしっかりと決めて作業を進めざるをえないのですが、そうすると、途中でこうしようと思っても、それができないのです。自由な発想をコントロールせざるをえなくなります。ですから、最初にアイデアをしっかりと練り込み、完成形を予測しながら制作していくことになります。

 ところが、絵画は積み重ねで世界を作っていきますから、最初の案はいつでも変えることができます。描き始めてからも、試行錯誤が許されるのです。とくに油絵の場合、上から絵の具を塗ってしまえば、別の絵にしてしまうこともできるぐらいですから、自由度はきわめて高いといえるでしょう。

 花澤氏、武田氏、両者とも表現の境界に挑むことによって、新たな表現の地平を切り拓いていました。お二人のギャラリートークを聞いていて、異なる美術領域で制作活動を展開していながら、共通点があることに気づきました。

 それは曲面に対する繊細さです。花澤氏は平面ではなく、敢えて曲面を細工した支持体に描いていましたし、武田氏はレリーフの厚みにミリ単位でこだわっていました。光の反射、影のでき方など微妙に異なるからでしょう。

 今回、ご紹介したお二人はまさに新鋭美術家の名にふさわしい画力と挑戦力を持ち合わせた作家です。今後、グローバルな表現舞台でもおおいに羽ばたかれることでしょう。日本の若手画家が切り拓いた画法がどれほど新しい世界を見せてくれるのか、期待しています。(2016/3/24 香取淳子)