ヒト、メディア、社会を考える

中国

『傾城の雪』にみるエンターテイメントの神髄

■興味の尽きない中国の歴史ドラマ
 2015年9月10日からチャンネル銀河で『傾城の雪』(全50話)が始まりました。中国の歴史ドラマはドラマティックで面白く、毎回、引き込まれて見てしまいます。どのドラマでも地位や権力をめぐる権謀術数が渦巻き、陰謀、冤罪、栄枯盛衰が描かれているからでしょう。ヒトの世の常であり、業でもある人生の諸相が中国の歴史を舞台に生き生きと表現されており、それが視聴者の気持ちを捉えるのです。

 中国歴史ドラマを見始めたのは2年ほど前ですが、見るたびに、ドラマの質が向上していることがわかります。テレビドラマとはいえ膨大な製作費と時間がかけられているからでしょう。ハリウッドと同様、巨額の製作費と時間を費やしても、魅力ある作品を制作しさえすればコスト回収できる状況ができつつあるのかもしれません。

 歴史ドラマとはいえ、宮廷ドラマは見た目が華やかで楽しめますし、戦記物はアクションシーンに迫力があります。メリハリの効いたストーリー、展開の速さ、卓越したカメラワーク、演技達者な俳優陣、心に残るセリフ・・・。中国の歴史ドラマにはドラマを見慣れた現代人の眼を楽しませてくれる要素に満ち溢れているのです。

 さて、『傾城の雪』はこれまで見慣れてきた歴史ドラマとは違って、明の時代の刺繍職人を中心に展開されるドラマです。最初はそれほどでもなかったのですが、3話目ぐらいから、やみつきになってしまいました。平日2話連続で放送されるこのドラマを今では夢中になって見ています。いったい、どんなドラマなのか。予告編(1分45秒)を見つけたので、ご紹介しましょう。

こちら →https://youtu.be/orLaZknSyN0

 前回の『宮廷の諍い女』も面白かったのですが、このドラマには現代の視聴者が見ても違和感をおぼえさせない魅力があります。時代状況、社会状況は明らかに現代の日本社会とは異なるのですが、なるほどそういうこともあるなと思いながら見てしまうのです。登場人物の性格、運命、主要な人物の敵対関係など、ドラマの基本要素が緻密に設定されているからでしょう。

こちら →https://www.ch-ginga.jp/feature/keiseinoyuki/

 メインのストーリーは、主人公の江嘉沅をめぐって二人の男性、杭景风と徐恨が恋の鞘当てをし、さらに、年長の方天羽が加わってストーリーが複雑に展開されるというラブストーリーです。明の正徳年間に繍女・江嘉沅をめぐって展開された三人の男たちの愛憎劇を参考に構想されたそうです。

■視聴者をぐいと引き込むストーリー展開
 ドラマではもちろん、それぞれの男性を恋する女性たちも登場します。そして、彼女たちはさまざまな愛の断面を見せながら、いくつもの愛憎劇を繰り広げていくのです。このような愛を巡るメインストーリーに、嫉妬による冤罪、刺繍職人と宮廷、刺繍職人と養蚕農家、当主家の人々とその使用人、刺繍の技能と評価といった背景的要素を絡ませたサブストーリーが組み入れられていきます。それらが相互に作用し、メインストーリーに豊かな彩りが添えられ、視聴者を深い感動に誘うのです。

 たとえば、冤罪によって獄中で自殺した父と後追い自殺をした母の法要を執り行うことになった第17話を見てみることにしましょう。

 法要は主人公の江嘉沅が身を寄せていた杭敬亭の家で行われました。ところが、せっかくの法要だというのに身内以外、誰もお線香をあげにきません。杭敬亭の妻は怒って自室に戻ってしまうのですが、そのとき、皇帝に仕える太監の白常喜がやってきて、江学文を追悼し、杭敬亭の労をねぎらうシーンがあります。

こちら →法要シーン
9月22日放送シーンを撮影。

 太監の白常喜は杭敬亭の労をねぎらった後、最後に江嘉沅に近づき、なにか願いごとはないかと聞きます。これまで何度か江嘉沅に苦い思いをさせられてきた白常喜が、彼女に声をかけたのです。取り巻く人々の間に一瞬、緊張が走ります。

 このシーンに登場する人物は皆、このドラマで主要な役割を演じる人びとです。白常喜のわざとらしい問いかけの後、カメラは主要な人物の顔を次々とクローズアップしていきます。セリフはないのですが、顔の表情だけで視聴者には登場人物たちの心情が手に取るようにわかります。

 これまでのストーリーの流れで視聴者は、どの人物が何をどのように考え、どの人物に敵対意識をもっているかがわかっています。それぞれに思惑があり、彼女の答え方ひとつでそれが一触即発しかねない微妙なシーンです。江嘉沅が白常喜に楯突くのではないかと心配するヒト、期待するヒト・・・、映し出されたクローズアップを見て、視聴者もまたさまざまに思いを巡らせます。

 そして、視聴者の気持ちをしっかりと引き込んだと思われるころ、画面では、江嘉沅が「お願いがあります」と丁重に切り出すのです。視聴者にとっては予想外の返答ですが、視聴者を安心させると同時に次ぎの展開を導く効果があります。脚本、演出、カメラワーク等々が見事に調和し、視聴者の予想を裏切った上で、ストーリー展開に自然な流れを持たせます。そして、これがその後の展開の伏線となるのです。

 このように視聴者の気持ちの動きを的確に読み込みながら、ストーリーが展開されていきますから、視聴者は知らず知らずのうちに、この作品世界の中にはまってしまいます。結局、私はこの第17話あたりから、放送を待ちきれなくなってしまいました。

 話の展開が気になって仕方なく、ネットで探しました。見つけたのが中国のサイトですが、放送を待ちきれずに第18話から見続けて、ついに最終話まで見てしまいました。一日10話以上、見たことになります。

こちら →http://www.dramaq.com.tw/allure/ep1.php

 ドラマには漢字の字幕がついていますから、中国語のセリフを聞き取れなくても、意味はわかります。ストーリーに引き込まれ、無理をして最後まで見てしまったのです。集中して見続けた結果、目の痛みが止まらなくなりました。眼科で目薬を処方してもらい、痛みをおさえながら、見終えたのです。

■エンターテイメントの神髄
 なぜ、これほどまで夢中になってしまったのか。一つには登場人物の設定が巧みだったことが考えられます。BSフジが作成した人物相関図をご紹介しましょう。

こちら →http://www.bsfuji.tv/keiseinoyuki/soukan/index.html

 主人公の父・江学文と許婚の父・杭敬亭は表面上、友達同士ですが、刺繍職人としての技量を競う仲でもありました。ところが、江学文は「刺繍の神」と称えられ、両者に格差が生まれてしまいます。それを怨み妬み、反発し、杭敬亭はいつかその座を奪い取ろうと野心を抱くようになります。嫉妬心が生み出す怨嗟です。その子どもである江嘉沅と杭景风は生まれたときから親同士が決めた許婚です。杭景风は長じてからもその気持ちに変わりませんが、江嘉沅の方は徐恨と出会い、気持ちが揺らぎ始めます。

 杭景风の恋敵となるのが、若い頃、杭敬亭が江学文の名を騙って雲南省の繍女を孕ませ生まれた徐恨です。20年後、徐親子は彼らの住む蘇州にやってきます。育ての父である徐雷が江学文を、繍女であった妹を孕ませた張本人だと思い込み、その報復を目指してやってきたのです。ところが、徐恨はたまたま江学文の娘・江嘉沅と出会い、恋心を抱くようになります。

 江学文をライバル視する杭敬亭の下で働くようになった徐雷は策略をめぐらせ、江学文に濡れ衣を着せたあげく、江学文を自殺に追い込むことに成功します。念願が叶った徐雷は徐恨を連れて帰郷しようとしますが、杭敬亭に引き留められます。その際、酔った勢いで、徐恨が20年前、雲南省で江学文によって孕ませられた妹の子であることを告げてしまいます。かつて江学文の名を騙って雲南省の繍女と関係を持った杭敬亭はこのとき、徐恨が自分の子どもであることを知ることになります。

・・・、ストーリーの紹介はこのぐらいにしておきましょう。

 もちろん、視聴者を夢中にさせた原因は複雑怪奇な人間関係だけではありません。人物の対立関係を明白にし、それを終盤まで揺るがせにしなかったことも一因でしょう。極端なほどのキャラクター設定がストーリーの強度を高めたのです。

 とくに興味深いのは、杭景风の妹・杭景珍と、母・白玉琴です。彼女たちは物語の設定上、脇役でしかないのですが、そのキャラクターが強烈なのです。二人とも上には媚びへつらい、使用人には苛めともいえるほど厳しく、得になると思えば、平気で嘘をつき、何の苦も無く涙を流します。主人公の江嘉沅に終始一貫、悪辣な態度を取り続けるのがこの二人です。

 ちょっとした落ち度を見つけては誰彼かまわずまくしたてる母と同様、娘もまた際限なく悪態をつき、罵詈雑言を浴びせかけます。彼女たちの背後にあるのは特権意識であり、下位の者に対する差別意識であり、露骨な損得勘定と利己的な保身です。回を重ねて見ているうちに、このような母の下で育てば、このような娘になってしまうのだろうと思えてくるのが不思議です。

 母から受け継いだ傲慢な態度に加え、江嘉沅に対する嫉妬が加わります。その結果、杭景珍は彼女を陥れるためにはなんでもしかねないほど憎悪するようになっています。実際、父を死に追いやり、母を刑死させることになる放火も、彼女が江嘉沅を陥れるために実行したことの結果なのです。

■娯楽の神髄と人生哲学
 このドラマを見ていると、愛、怨念、嫉妬、競争心、保身など、ヒトの複雑な感情の下で人間関係がゆがみ、運命もまたゆがんでいくことがわかります。しかも、それが別の結果を生み、それぞれが連鎖していくのです。50話にものぼる長編を飽きさせずに展開することができたのは、緻密なストーリー構築だけではなく、その背後に流れる人生哲学に個別の文化を超えた普遍性が感じられるからでしょう。

 このドラマのストーリーを展開させていく大きな柱になっているのが、怨念による「報復」だとすれば、ドラマ全体で大きく浮き彫りにされていくのが「因果応報」の思想です。

 若い頃、江学文の名を騙って繍女を孕ませ、そのまま立ち去った杭敬亭は、杭景风の子を身ごもった佩艺が自殺した際、「报应」(因果応報)と呻くようにいいます。以後、杭敬亭は気弱になり、心を病んでいきます。そして、声高にまくしたてる妻や娘の言い分を拒否し、過去を償おうとします。

 それに反し、妻と娘はますます横暴になり、歯止めが効かなくなっていきます。差別意識や特権意識とがセットになった彼女たちのプライドが現状認識を誤らせているのですが、そのことに気づきません。結局、母は娘の犯行現場を目撃しながら、自首させることもできず、逆に娘からどこか遠い所に行ってしまうよう脅かされる始末です。それでも、母は娘に寄り添おうとします。

こちら →母娘シーン
http://www.dramaq.com.tw/allure/ep50.phpを撮影。

 これは処刑の前日、母が獄中で娘に手紙を書きながら、娘とのやり取りを思い出しているシーンです。母は自分の育て方の非を認め、どんなことがあってもやはり私はあなたが一番可愛いと泣きながら訴えています。娘の犯した罪を被っただけではなく、その娘に対し最後まであなたが可愛いと伝え、娘を保護しようとしているのです。

 画策して江家を滅ぼした杭家はこうして内部から自滅していくのですが、このドラマには若い男女の愛だけではなく、親子の愛が様々な切り口で描き出されています。それが全編に通底しており、作品を豊かなものにしています。

 圧巻は最後の50話です。白玉琴(杭敬亭の妻、杭景风と杭景珍の母)の処刑直前、主人公の江嘉沅と徐恨は自分たちの子どもを抱え、刑場に立たされた彼女に会いに来ます。杭敬亭の子である徐恨と江嘉沅との子どもは杭家の血を引いています。処刑されようとしている白玉琴に、杭家の血を引く子どもを引き合わせたのです。まさに命が絶たれようとする直前です。どれほど白玉琴の気持ちが救われたことか。これで彼女も未来につながる希望を抱いて死んでいくことができます。このシーンは娘の罪を被った白玉琴にプラスの因果応報が与えられたと見ることができます。

 中国のウィキペディアを見ると、このドラマのジャンルは、「古装」(時代劇)、「励志」(感動)と分類されています。時代劇であり、感動を呼ぶ作品だということです。確かに私も何度、このドラマを見て涙を流したかわかりません。ひたむきな愛、無償の愛、犠牲をいとわない愛などに触れたとき、ふいに目が潤んでしまうのです。

 このドラマが文化を超えて訴えかけるのは、感動をもたらす人生哲学があるからでしょう。改めて、エンターテイメントにはヒトの人生を肯定的に捉える哲学が不可欠だということに気づきます。調べてみると、脚本を担当したのは台湾出身の李顺慈氏と香港出身の沈芷凝氏です。いずれも女性であり、純粋な本土のヒトではありません。

 より自由度の高い環境で生育した脚本家たちだからでしょうか、没落した江嘉沅が食堂を開くシーンがあるのですが、女性が自立することによって生き生きとした生を取り戻す様子が描かれています。どんなことでも自分ができることで収入を得、生きていく力を身につけていくことの重要さが示されています。さらに、杭家の母と娘が繰り返す暴力的ともいえる言葉のやり取りでは、女性の脚本家ならではのセリフが随所にあふれています。久々に引き込まれたドラマでした。(2015/9/25 香取淳子)

中国宮廷の女性たち:北京藝術博物館所蔵名品展

■麗しき日々?
 渋谷区松濤美術館でいま、北京藝術博物館所蔵名品展(2015年6月9日~7月26日)が開催されています。チラシを見ると、8万点にも及ぶ北京藝術博物館の収蔵品は、「特に清朝宮廷で用いられた服飾品、繍画や壁掛けなど観賞用の染織作品に優品があり、さらに清朝宮廷の女性たちが用いた種々の腕輪や首飾りなどの女性用宝飾品は質量ともに充実している」と書かれています。今回の展覧会はその北京藝術博物館の協力を得て、開催されたというのですから、見に行かないわけにはいきません。

こちら →IMG_2110

 チラシに使われていたのが、清代の公主の図です。公主と書いて「gōngzhǔ」と読むのですが、皇帝の娘のことを指します。この図はチケットにも美術館の垂れ幕にも使われていました。宮廷女性を語るには欠かせない存在なのでしょう。

こちら →公主
カタログより

 イヤリングにネックレス、まるで冠のような豪華な帽子、そして、手の込んだ刺繍が施された華麗な衣装をこの公主は身につけています。皇帝の娘という身分に相応しい衣装であり、装飾品なのでしょう、それぞれが鑑賞価値のある美術品です。銀や琥珀、玉などを精密に加工して優雅な装飾品に仕立て上げる技術は目を見張るほど高いものでした。

 たとえば、銀の点翆の髪飾りはこのように細工されています。

こちら →銀髪飾り
カタログより

 銀に孔雀の羽のようにみえる模様が細工されています。しかも、その羽先の部分には真珠が組み込まれ、ほどよいバランスで水色で彩色されています。これなら着用する女性の顔廻りをぐんと引き立ててくれることでしょう、とても繊細で上品な髪飾りです。髪飾りだけでこれだけ手が込んでいるのですから、他は推して知るべしでしょう。清朝の宮廷女性たちがどれほど貴重な美術品に包まれて生活していたかがわかります。彼女たちは富と権力の集中する宮廷で日夜、身を飾りたて、皇帝の寵愛を待っていたのです。

 富と権力が一体化した生活空間の中で、彼女たちはいったいどのように暮らしていたのでしょうか。

 展覧会は、「第1章 女性の手仕事―刺繍」、「第2章 鳳凰の儀容―服装」、「第3章―簪と朝の化粧―装飾品」、「第4章―薫り高き心―書画」「第5章―奇巧を尽くす」「第6章―文雅の室―文玩書籍」等、6章で構成され、さまざまな名品が展示されていました。順に見ていくと、宮廷女性たちの生活行動、生活文化、生活信条、生活価値観などがわかってくる仕掛けです。

■刺繍
 第1章で展示されていたのは、刺繍で絵や書を表現した垂れ幕や鑑賞用の織物でした。第2章では福を呼び込む縁起模様の豪華な刺繍の施された服装や肩飾りなど布装飾品が展示されていました。刺繍が書画を表現する手段として、あるいは、日常生活を彩る手段として、重要な役割を担っていたことがわかります。

 中国の刺繍は今でも有名ですが、当時、女性の手仕事として日常生活に組み込まれていたようです。民間女性が製作した刺繍製品は、実用品としても贈答品としても使われていました。日々の生活に彩りを添え、社交を円滑にするための手段として刺繍は必要不可欠だったのです。

 一方、宮廷の刺繍製品には高価な材料が使われ、優れた技術力が反映されています。刺繍は宮廷女性たちにとっては趣味や娯楽であり、時にはストレス解消の手段でもあったようです。

 清代貴族の女性について、カタログでは以下のように書かれていました。

 「古代の中国社会が女性に求めたものは「女子無才便是徳」ということで、読書は男性の特権でした。清代貴族の家庭では、女性は子供時代は差別されることなく、家庭の中で良妻教育を受け、詩を習い画を描きました。(中略)女性は結婚後は伝統的な礼教に縛られ、彼女たちの才能は夫を助け子供を教育することに向けられ、作品や事跡が伝えられることは多くはありませんでした」(『麗しき日々への想い』p.103)

 カタログによると、清代になってようやく女性も文字を扱うことができるようになったようです。とはいえ、それは男性でもなく女性でもない子どものうちだけでした。どれほど利発で才能に満ち溢れていたとしても、彼女たちは成人して結婚すれば、「夫を助け子供を教育することに」専念しなければならなかったのです。時を経てもなお、宮廷女性たちは皇帝の寵愛を競い合い、運よく皇太子が誕生すれば今度は皇位を狙う・・・、といった状況に置かれていることに変わりはありませんでした。寵愛を巡り、皇位を巡って陰謀が渦巻く魑魅魍魎とした世界から抜け出すことはできなかったようです。

 そもそも私が中国の宮廷女性に関心をもつようになったのは、昨年秋に「宮廷女官若曦」という宮廷ドラマを見てからでした。華やかに着飾った宮廷女性たちが皇帝の寵愛を求めて競い、子どもを授かれば今度は皇位を求めて画策するといった具合に、ストーリはパターン化しているとはいえ毎回、メリハリの効いた展開が面白く、夢中になって見ていたのです。いまなお中国宮廷ドラマの魅力から逃れることはできず、いつしか、実際の宮廷女性たちの生活はどうだったのか、実状を知ることができればもっと理解が深まるだろうと関心を抱くようになっていったのです。

 カタログに以下のような興味深い文章を見つけました。

「閨房独影の繍女、千針愁いを遂い、万线怨みを疏し、昏燭の壁に神情の傷を映ず」(前掲。p.73)

 第5章の扉に書かれた文章です。この文章からは、部屋で独り刺繍に打ち込み、運針作業を通して憎悪や悲嘆、怨嗟を洗い流そうとしている宮廷女性の姿が目に浮かぶようです。宮廷女性であっても、庶民の女性であっても当時は思うままに生きられず、刺繍という手作業を通して日々、ストレスを解消しようとしていたのでしょう。豪華で華やかな刺繍の背後に宮廷女性たちの深い悲しみと絶望感が見えてきます。

 展示品を見ていくと、興味深いことに、靴にも素晴らしい刺繍が施されていました。

■漢族の靴と満州族の靴
 「第2章 鳳凰の儀容―服装」のコーナーで興味を覚えたのが、靴でした。満州族の靴を見たとき、これならいまでも洒落た室内履きとして使えそうだと思いました。ところが、漢族の靴を見たとき、すぐにはこれが靴とは思えませんでした。一体これはなんだろうと思い、横に回ってしげしげと眺めてもわかりません。ふと名札に目をやると、「湖绿绢绣花卉纹高低弓鞋(漢族の女性用靴)」と書かれています。これでようやく靴だとわかりました。

こちら →漢族の靴
カタログより

 ご覧のように、非常に小さいです。しかもヒールがあります。どれほど歩きにくいことか。想像するだけで足に痛みが走りそうです。

 比較のために、並べて展示されていた満州族の靴を紹介しましょう。

こちら →満州族の靴 (1)
カタログより

 こちらは普通です。一目で靴だと認識できるサイズです。カタログを見ると、長さが24センチ、幅は10センチとされています。だとすると、漢族の靴として展示されていたのは、いわゆる纏足用の靴なのでしょう。カタログを見ると、長さが16センチ、幅はわずか4センチです。

 纏足という言葉は聞いたことがあり、おおよそのことは把握しているつもりですが、詳しくは知りません。そこで、取りあえずWikipediaで調べてみると、以下のように説明されていました。

 「幼児期より足に布を巻かせ、足が大きくならないようにするという、かつて中国で女性に対して行われていた風習をいう。 より具体的には、足の親指以外の指を足の裏側へ折り曲げ、布で強く縛ることで足の整形(変形)を行うことを指す。 纏足の習慣は唐の末期に始まった。 清国の時代には不健康かつ不衛生でもあることから皇帝が度々禁止令を発したが、既に浸透した文化であったために効果は無かった。辛亥革命以後、急速に行われなくなった」(Wikipedia)

 Wikipediaで説明のために掲載されている写真は会場で展示されていたのと同じ形状のものでした。それにしても中国ではなぜ長い間、纏足が行われてきたのでしょうか。それについて、Wikipediaでは以下のように説明しています。

「足の小さいのが女性の魅力、女性美、との考えがあったことは間違いない。足が小さければ走ることは困難となり、そこに女性の弱々しさが求められたこと、それにより貴族階級では女性を外に出られない状況を作り貞節を維持しやすくしたこと」(Wikipedia)
 
 足はヒトの身体を支え、歩行を司る重要な人体部位です。その足を自然の成長に任せるのではなく、意図的に小さく変形させるための靴が開発されていたのです。小さな足にこそ性的魅力があるとし、女性を身体的に弱く改造し、男性に従属せざるをえないようにしていたようです。女性に対する暴行の習慣化といわざるをえませんが、不思議なことに、この纏足という風習は1000年ごろには普及し、特段、女性たちから拒否されることもなく、清代末まで続いていたそうです。

 もちろん、纏足していては働くことができません。ですから、農家など労働に携わる女性に対しては行われなかったようです。労働をする必要のなかった富裕層の女性に対し、このような残酷な身体改造が習慣化していました。もっとも、「辛亥革命後、急速に行われなくなった」そうですから、女性を劣位に固定化する纏足という風習もまた近代化を目指す社会改革によって消滅していったといえそうです。

■華やかな生活に潜む心理的拘束
 チケットに使われている清代公主の顔部分をもう一度、見てみることにしましょう。おそらくこの顔が宮廷女性の代表といえるのでしょう。色白できめ細かな肌、とても端正な顔立ちです。嫋やかで上品、しかも洗練されていて、いかにも高貴な女性という印象です。

こちら →公主顔
カタログより。顔廻り部分。

 ただ、その表情からなんらかの意志が感じ取れることはありません。人形のようにただ美しく、そして、どこか悲しげです。公主ですから、自分でその地位を勝ち取ったわけではなく、生まれついての高位です。富と権力の中枢近くにいながら、実は非力なのです。時と場合によっては追放されたり、殺されたりすることもあるでしょうし、何らかの意図をもって行動すれば即、廃位されてしまいます。

 こうして見てくると、華やかな宮廷生活を送っているはずの女性たちが、実は、自発的な意思というものを放棄せざるをえず、あたかも心の纏足を強いられているかのように見えてきます。華やかな宮廷生活の中に心的拘束が仕組まれているとすれば、彼女たちが繰り広げる陰謀術数は生きるための叫びだったのかもしれません。どうやら中国宮廷ドラマを見る見かたが変わってきそうです。とても興味深い展覧会でした。中国の宮廷女性への関心がさらに喚起されたような気がします。(2015/6/15 香取淳子)

ひとコマ漫画に凝縮された中国の世相

■「ピリリ!と面白い中国漫画展」
 日中友好会館美術館でいま、「ピリリ!と面白い中国漫画展」(5月28日~6月28日)が開催されています。

こちら →http://www.jcfc.or.jp/blog/archives/6236

 開催初日の5月28日、私はオープニングイベントの開始直前に会場に着いたのですが、すでに漫画家、政治家をはじめ関係者の方々が多数出席されていました。来賓の挨拶の後、オープニングのテープカットが行われました。

こちら →テープカット (640x480)

 展示会場に入るとまもなく、中国の著名な漫画家・徐鵬飛氏の作画実演が始まりました。徐氏は人民日報「風刺とユーモア」編集長を長年務めてこられ、現在は名誉編集長です。また、中国美術家協会漫画芸術委員会でリーダー役を果たされています。

 徐氏は用意された紙の中央付近に絵を描き終わるとすぐに、「日本の漫画家の皆さんもどうぞ」と呼びかけました。呼びかけに応じ、日本の漫画家は次々とその周辺に絵を描いていきました。一枚の紙に日中の漫画家が絵を描いていくという行為を通して、会場は一気に和やかな雰囲気に包まれました。徐氏のすばらしい計らいです。

 ちばてつや氏も描いていました。

こちら →ちばてつや (220x306)

 出来上がった絵を囲んで日中の漫画家や関係者がカメラに収まりました。

こちら →絵を囲む (640x480)

 ご覧のように、どの顔にも笑みがこぼれています。見ているうちにふと、ユーモアを生み出せる人々が交流を担っていけば、日中関係もより和やかなものになるのではないかと思ってしまいました。ユーモラスな絵を見て、心が緩み、顔に笑みが浮かぶとき、ヒトは他者を受け入れる心境になっています。そのような機会を増やしながら、相互理解を深めていく必要があるのではないかと思ったのです。

■漫画「競争」に見る中国の現代社会
 会場では、浙江省出身の漫画家の作品61点が展示されていました。どれも力作で、一枚の絵の中にこれだけ風刺を込めることができるのかと感心させられるほどでした。もっとも惹き付けられたのが、林忠業氏の「競争」(2008年)です。

こちら →競争

 画面は右上と左下を結ぶ対角線で分けられています。その対角線上に雲が浮かび、切り立った崖の上に開けた台地の高度が強調されています。その左上の部分にはゴール地点が設けられ、右下部分にゴールを眺める無数の人々が並んでいます。その間をつなぐのが、ヒトが一人ようやく通れるような細い道があります。右下に並んで待つ人々は崖から転落する危険を冒さなければ、左上のゴールに達することができません。待つ側は膨大な数であり、ゴールにたどり着けるのはごくわずか・・・、まさに熾烈な競争社会中国の一端が見事に表現されています。

 中国では経済発展に伴い、中産階級が急増しました。その結果、大学受験や就職試験、職場での昇進など、さまざまな領域で熾烈な競争が繰り広げられるようになっています。そのような厳しい世相がこのひとコマ漫画で的確に表現されているのです。

 たしかに日本の高度成長期でもベビーブーム世代の若者たちは競争を強いられ、受験地獄という言葉が生まれたほどでした。とはいえ、経済が成長するに伴い、就職先もそれなりに受け皿が増えていきました。若者は努力しさえすれば、何事も成し遂げられるという夢を抱くことができたのです。目標を掲げ、それに向かって努力すれば、どのようなものであれ、必ず得るものはあったのです。ですから、当時、日本では受験競争がむしろ若者を鍛える場になっていたといえます。ゴールに至る道が現代中国よりもう少し多様で、広かったからでしょう。

 ところが、この漫画ではゴールに至る道は一本しかなく、しかもヒト一人がようやく通れるほどの狭さです。迂回路もなければ、脇道もありません。これではゴールを目指そうとする者のほとんどが蹴落とされ、谷底に落ちてしまいます。

 画面の右下には「スタート!」の合図を待って無数の人々が待機しています。目の前に伸びるゴールに至る細い道は、両側が絶壁で、一歩でも道を踏み外したら、すぐさま奈落の底です。彼らは平静さを装いながら、どれほど深い絶望感にさいなまれていたことでしょう。

■ほとんどの人が負ける競争社会
 帰宅して、この漫画を連想させる興味深い記事を見つけました。中国ウォッチャー田中信彦氏が書いた、「ほとんどの人が負ける競争社会~中国で広まる不満情緒の源泉とは」というタイトルのエッセイです。

 田中氏は、「中国では社会で尊重される価値観の尺度がひとつしかない」といい、「社会から「尊重される仕事」とそうでない仕事が人々の間で明らかに認識されていて、誰もがそういう立場に立とうとする」としたうえで、次のように書いています。

「中国社会では全員が単一の基準で判断されるレースに参加しているようなものだ。そんなことをしても大半の人には勝てる見込みがほとんどないと私などは思ってしまうのだが、中国の人々は「分を知」って競争を回避することを潔しとせず、誰もが果敢(無謀?)にも競争に挑んでいく。その姿は壮観ですらある」(WISDOM、2010年1月25日)

 この漫画のように細い一本道しかない状況(「単一の基準で判断されるレース」)では、ごくわずかのヒトしかゴールにたどり着くことはできません。勝者より敗者の方が圧倒的に多いのは当然で、ほとんどのヒトが負けることになります。まさに、林忠業氏の描いたひとコマ漫画「競争」で表現されている世界そのものです。

 田中氏はこのような過当競争の背後に中国の勤労観があると指摘しています。長い間、中国では「支配層になるための唯一かつ誰にでも開かれた道が科挙であり、科挙に劣る条件こそが「文」にほかならない」と記し、「この観念は非常に深く中国社会に根を張っており、現在でも基本的に変わっていない」というのです。そして、高学歴化の実態を以下のように記しています。

「中国では大卒者が過剰で、大学を卒業しても就職先がないという現象が深刻化している。その問題も根源はこの「文」志向にある。学生本人も両親も、高い費用をかけて名も知れぬ大学で手もコスト的に引き合わないことは分かっている。それよりも専門学校にでも通って実務を身につけ、現場で技能を学んだほうが今の社会にはるかに有用なのだが、「実務」や「技能」という言葉は「文」の香りが薄い。より現場に近く、体を使うニュアンスが強いからである」(前掲)

 林氏がこの漫画を描いたのが2008年です。5年も前に高学歴化競争の弊害を風刺していたのですが、その後、事態はさらに深刻化しているようです。

 2013年8月に北京大学を訪れた際、北京大学の先生が、最近は大学生がなかなか就職できなくなっていると嘆いていたことを思い出します。北京大学はまだしも、そこそこ名の通った大学の学生でさえ就職が難しくなっているというのです。実際、北京大学のレストランで働いていたのは中山大学を卒業した学生でした。卒業しても就職できなかったので、北京に出てきたというのです。そして、いわゆる頭脳労働ではなく、肉体労働に従事していたのです。彼女は将来を悲観していました。こんな状況では結婚できるのかどうか、家庭を持てるのかどうか、心配していたのです。

■不満感の増大
 田中氏は、以下のように興味深い指摘をしています。

「中国のネット掲示板などを見ていると、最近とみに「豊かにはなったが、幸福感がない」といった趣旨の議論が目立つ」と指摘したうえで、「社会の価値観を多様化し、より多くの人々が「分相応」な幸福感を持てるようにすることが差し迫った課題である」と述べています。

 貧しいとき、ヒトは一途に豊かさを追い求めますが、ある程度豊かになってくれば、今度は何を目標にして生きていけばいいのかわからなくなってしまいます。そして、人々はいたずらに他人と比較し、不満感、不充足感を募らせていくのです。かつて日本もそうでした。日本では今、その不満足感が格差感に転化され、自ら努力するより行政に要請することが増え、要求が通らなければ怒り、短絡的な犯行が増えているように思います。アメリカでも同様、過去と比較し、全般に生活レベルがあがっているのにもかかわらず、人々の生活満足感は逆に低くなっているという論文を読んだことがあります。

 林忠業氏の「競争」には、このように深い文化的社会的意味が含まれていて、大変、興味深く思いました。しかも、絵柄にはユーモアがあり、ほっとさせられるところがあります。対比を明確にした構図、曲線を多用した描き方、色彩の調和、そして、どこかユーモラスなゴール側の人々、鋭く問題点を突きながら、対象を見つめる目は実に暖かい・・・、そのことに快さを感じてしまうのです。

 今回はこの作品だけを紹介しましたが、展示されている作品はどれも中国の現代社会の諸相を鋭く切り取り、一枚の絵として表現されています。ですから、絵として鑑賞することができ、しかも、そこに込められた意味を解読する面白さもあります。大変、見応えがありました。風刺漫画には、文字に勝る表現ができるのだということを実感した次第です。(2015/6/2 香取淳子)

中国安徽省“新徽派”の版画

■時に刻む木痕
中国安徽省“新徽派”を代表する版画家たちの作品約50点が日中友好会館美術館で展示されています。主催は日中友好会館と安徽省美術家協会、開催期間は1月22日~2月25日までです。私は2月5日、日中友好会館美術館に行ってきました。人民網日本語版によると、この展覧会は2004年にフランスに招聘されて行った版画展に続き、2回目の海外版画展になるそうです。選りすぐりの版画作品が展示されているといえます。

こちら→http://www.jcfc.or.jp/blog/archives/5910

安徽省で生まれた“徽派”の版画には唐代からの歴史があるといわれています。明、清の時代に“徽派”の版画は隆盛し、中国版画芸術の中で大きな一派を形成するようになったそうです。

チラシの説明によりますと、その後、20世紀の中ごろから、頼少其など安徽省の版画家たちが、魯迅が提唱した“新興木刻”を導入しながら、安徽省の自然や時代を反映した版画を創作するようになったそうです。彼らはやがて“新徽派”と呼ばれるようになり、今回はその“新徽派”を代表する1980年代から現代までの版画家たちの作品50点が展示されています。たしかに、これが版画なのかと思えるほど多彩な世界が表現されていました。ここでは風景画として印象に残った作品を2点、ご紹介することにしましょう。

■版画家・師晶氏が制作した「花径雨香」
入ってすぐのところに展示されていたのが、この作品です。一目で心惹かれ、しばらくその前で立ち尽くしてしまいました。

こちら→ images

これは、師晶(师晶)という版画家の「花径雨香(花径雨香)」(70×77㎝、木版、2014年)という作品です。しっとりとした情感が豊かに表現されています。だからでしょうか、目の前に広がる光景に心奪われ、私は思わず立ち尽くしてしまいました。

絵柄として特異なわけではありません。日本でも地方に行けばどこでも見られる光景です。ところが、この光景を一目みただけで、どういうわけか、心の奥底が深く揺さぶられるような郷愁を感じてしまったのです。

それは、見る者を誘い込む構図のせいだったのかもしれません。手前に灌木と村につながる小道を配し、手前から全体の3分の2に相当する部分までを黄色い小花で埋め尽くし、遠方に家並み、その背後に霧にけぶる小高い丘を配した構図です。

もし、手前に灌木がなく、小道だけを配した構図だったとしたら、黄色の分量が多すぎて圧迫感が生まれていたでしょうし、人工的すぎてリアルさに欠けるでしょう。色彩の構成から見る者に不快感を覚えさせる可能性もあります。さらには、単純なT字型の構図になってしまえば、見る者の想像力を喚起する力が弱くなります。こうしてみると、構図とモチーフの配置、色彩の配分等々がきわめて適切だということがわかります。

タイトルの下の説明文には以下のように記されていました。

「4月初旬の清明節に安徽省にスケッチに行った作者は、「ある村へと続く湿った道に点々と野の花が咲き、霧が立ち込める風景を見た。とても美しく、心に深く残った。作品には、その霧の湿度や陽光の温度、時の流れ、ふるさとへの深い情を描こうと思った」と語っている」

清明節とは祖先の墓参りをし、草むしりをして墓の周辺を掃除する日で、日本のお盆に相当する年中行事だそうです。作者はおそらく墓参りのために帰郷した際、霧のかかったこの光景を目にしたのでしょう。

村につながる小道の両側には、黄色の小花が辺り一面に咲き乱れています。亡くなった者であれ、生きている者であれ、故郷に戻ってくる者はみな大歓迎するといわんばかりに、可憐な花々が村に続く小道に華やぎを添えています。遠方には村の家並みが連なって見えますが、それが霧にけぶってぼんやりしています。

一見すると、冬から春にかけて季節が移ろうときの風情が巧みに表現されているとしか見えません。ところが、この版画からは、リアルであってリアルでない・・・、過去であって現在でもある・・・、いってみればさまざまな境界線の喪失してしまった異空間を垣間見ることができるのです。ひょっとしたら、それがこの版画に時空を超えた魅力を添え、見る者を惹きつけるのかもしれません。

この版画には、このときの光景だけではなく、ここで暮らしている人々の過去、現在、そして、未来を彷彿させるところがあります。連綿と営まれてきた生活が積み重なり、やがてその土地の文化を醸成していく・・・、それがこの一枚の木版画に情感たっぷりに表現されているのです、

■版画家・鄭震氏が制作した「夕暮れ時(薄暮时分)」
夕陽の光景を捉えた作品はよく見かけるのですが、この作品にはどことなく心に響くものがあって、しばらく見入っていました。

こちら →20140824011620220

これは、版画家・鄭震氏が制作した「夕暮れ時(薄暮时分)」(34×53㎝、木版、1979年)という作品です。鄭震氏は“新徽派”の第一世代の版画家で、創始者の一人なのだそうです。たしかな表現力の持ち主のようで、これはいまから35年も前の作品ですが、少しも色あせていません。むしろ、構図の斬新さが印象に残ります。

タイトルの横につけられた説明文では以下のように記されています。
「江南地方の風情を落ち着いた表現で描いている。夕暮れ時の陽射しによって森は寂しげに影を落とし、その向こうには、その地に暮らす人々と民家が描かれている」

それにしても、私はなぜ、この作品に惹き付けられてしまったのでしょうか。

考えて見れば、夕陽そのものを捉えた作品は数多くあるのですが、夕陽が反射した光景を捉えた作品はそれほどないのではないでしょうか。ですから、夕陽に照らされた対象を捉えることによって、夕陽を浮き彫りにしていくという発想に惹かれたのかもしれません。
あるいは、木々をメインに捉えた構図かもしれません。

この作品は、全体の4分の3ほどが木々で占められ、残り4分の1ほどが家並みで占められています。構図の面からいえば、夕陽に照らされた木々が主人公なのです。たしかに、それらは美しく彩色され、その背後に広がる青い空が木々をさらに輝かせて見せていることは事実です。ところが、私たちの視線は目の前の木々で止まるのではなく、その背後の家並みに移ってしまいます。たとえヒトの姿は見えなくても、そこにヒトの気配を感じるからだと思います。

■風景作品とヒトの気配
今回の展覧会で惹き付けられたのは、第一世代に属する版画家の作品(1979年制作)と現代の版画家(2014年制作)の2作品でした。いずれも風景作品で、その背後に家並みが配されているところが共通していました。これらの作品の前に立つと、郷愁を誘われるような、描かれた風景と一体となってしまうような不思議な感覚を覚えてしまったのですが、それは描かれた風景にヒトの生活が反映されていたからかもしれません。

ヒトが生活するところには物語があり、時を経て、やがて文化が醸成されていきます。だからこそ、作品の中にヒトの気配を感じさせるものがあると、ヒトはそちらの方に関心を示してしまうのでしょう。今回、私が魅力を感じた二つの版画作品をご紹介しましたが、いずれも単なる風景画ではなく、ヒトの気配を感じさせ、想像力を刺激する要素が込められていました。そのような要素こそが風景画の魅力を増すのかもしれません。(2015/2/6 香取淳子)

アリババの選択:パソコンからスマホ時代到来の象徴か?

■中国アリババ、米株式市場への上場を申請

中国アリババが米株式市場への上場を申請しました。5月6日のことです。よほどのビッグニュースだったのでしょう。海外メディアが一斉に取り上げていました。CNN等の報道によると、アリババの上場は米史上最大級の新規株式公開(IPO)になると専門家からは見られているようです。アリババの実際の株式公開は今夏以降だとされていますが、2012年にIPOで資金調達したフェイスブックをしのぐとさえいわれています。

中国のネット企業としては4月にもウェイボがナスダックに上場して2億8600万ドルの資金を調達したばかりです。相次いで中国ネット企業が米株式市場に上場していますが、なにか理由があるのでしょうか。最近、中国経済失速のニュースが絶えません。しかも各地で不穏な動きもあります。信州大学教授の真壁昭夫氏は、中国や香港など中国市場で株式公開を行うと、中国の規制によって現経営陣の支配力が低下することを懸念したからだと推察しています。

■ウォール街の興奮

ウォールストリートジャーナルは、「アリババの新規株式公開(IPO)によって米国はテクノロジー企業の上場先としての支配的な地位を占めるだろう」とアナリストが非公式に語ったことを伝えています。(THE WALL STREET JOURNAL, 2014/3/25) アリババの業績が堅調で、ビジネスモデルも確立した大企業だからです。この記事を書いたFrancesco Guerreraは、アリババやウェイボが米株式市場に上場を申請したことの理由を以下のように分析しています。

1.専門的投資亜やアナリストに加え、競合企業の大半がいる米市場には魅力がある、2.米国の技術は魅力的で、新規上場によって費やしたコスト以上の結果が得られる、等々です。中国のネット企業にとって米市場はその種の魅力があるのでしょうし、米市場にとって中国ネット企業の参入は規模の面で、興奮せざるを得ないほどの魅力があるのでしょう。

ちなみにロイターは以下のように、ネット関連企業の対比をグラフにしています。

ネット企業比較

 

出所:2014/5/5、ロイター作成

上記のグラフを見ると、アリババは売上高成長率、株価売上高倍率できわめて高い比率を示しています。このグラフを見る限り、アリババは今後ますます大きく成長していくことが予測されます。

■米ヤフーとの決別か?

日経産業新聞(2014/5/8付)は、この件について興味深い記事を載せています。上海の菅原透記者によるもので、彼は「待望の米上場に踏み切った裏には、発展期を支えた大株主の米ヤフーとの関係を事実上、断ち切る狙いがある」と分析しているのです。実際、アリババ関係者は「過去との決別」と語っているようです。アリババは2005年にヤフーから10億ドルの出資を得て、大きく成長しました。ところが、2011年ごろから両者の関係がまずくなったといいます。

アリババの創業者のジャック・マー氏、ヤフーの共同総合者のジェリー・ヤン氏、ソフトバンクの孫正義氏は創業以来、親交深く、ともに支えあいながら成長してきた起業家たちです。この三者はお互いに支えあってきましたが、ヤン氏が2009年にヤフーを退任した時点で、アリババと米ヤフーとの関係は終わっていたと関係者は語っているようです。アリババの米上場の報道に際し、孫正義氏が、「アリババは戦略的パートナー」といい「株式の売却は考えない」と語った(ロイター、2014/5/7)のも実はそのあたりの事情を配慮したからなのでしょう。

菅原記者は、アリババが米ヤフーと決別を狙っている理由として、アリババグループが2004年に設立したオンライン決済会社のアリペイの存在を挙げています。アリペイがマー氏が所有する中国企業に売却され、マー氏の所有になっていたことを米ヤフーが怒りました。アリババのマー氏はヤフーに間接的に収益の一部が渡るようにして折り合いをつけましたが、ヤン氏の退任を機に決別を企図したというのです。

■ネット時代の変化の兆しか?

米ヤフーは業績悪化に苦しんできました。たとえば、今年1月28日に発表された決算を見ると、4四半期連続の減収でした。オンラインディスプレイ広告と検索広告の料金が下がったからだといいます(ロイター、2014/1/28)。ところが、4月16日発表された決算をみると、アリババの好業績の影響を受けて、収益を向上させているようです。

詳細はこちら。http://www.bloomberg.co.jp/news/123-N43A0P6KLVS101.html

とはいえ、中核事業は依然として停滞しているようです。

詳細はこちら。http://japan.cnet.com/news/business/35046618/

検索大手として一時代を築いたヤフーに変化の兆しが見られるようになりました。ネットへの入り口がパソコンではなく、スマホに代表されるモバイル端末に移りつつあるからでしょう。ですから、アリババにとって、ソフトバンクはこれからも提携価値がありますが、検索だけの米ヤフーはその役割を終えつつあるとみなしたのかもしれません。

一方、アリババは4月28日、中国の動画配信サイト最大手の優酷土豆に出資すると発表しました。これでアリババの出資比率は16.5%になります(日経新聞、2014/4/29)。これによってアリババは自社のネット通販利用者の囲い込みを行い、娯楽事業を強化することになります。

アリババの最近の動きを見ると、ネットの主戦場がモバイル端末であり、ネット通販であり、動画サイトを通した娯楽だということになります。今後、アリババの動きも見逃すことができなくなりそうです。(2014/5/15 香取淳子)

 

ガルシア・マルケスと莫言

ガルシア・マルケスと莫言

今日は孔子学院で、「中国現代小説を読もう」講座がありました。授業が始まると、先生がガルシア・マルケスが亡くなりましたね、とおっしました。私も新聞を読んでそのことを知っていました。実はずいぶん前に必要があって、『物語の作り方』という本を読んだことがありました。そのガルシア・マルケスが2014年4月17日、メキシコの自宅で亡くなりました。享年87歳でした。

先生はさらに言葉を継いで、莫言はガルシア・マルケスの影響をとても受けていたのですよ、と教えてくださいました。ちょうど今、莫言の短編『拇指铐』を読んでいるところです。そこで、今日は、ガルシア・マルケスと莫言について、ちょっと考えてみたいと思います。

■莫言のスピーチ

莫言は2012年、ノーベル文学賞を受賞しました。スウェーデンアカデミーでの受賞の席で彼は「讲故事的人」(ストーリーテラー)という題のスピーチをしたそうです。このとき、彼は山東省の高密県の農村で少年時代を過ごしていますが、そこで経験した貧困、飢え、孤独などについて彼は多く語ったといいます。ですから、幼少期の経験が文学の根幹となっていることは確かなのです。

スピーチの詳細はこちら。 http://file.xdf.cn/uploads/121210/100_121210175134.pdf

実際、私がいま教室で読んでいる『拇指铐』は8歳の少年阿义が主人公の物語です。病に倒れた母を救うために薬を求めて町に出かけた少年が、親指錠をはめられてしまうという残酷な物語です。親指錠など日本では見たこともないですが、中国でもほとんど知られていないそうです。

通りすがりの人々がなんどか開錠しようと奮闘してくれるのですが、どのような方法を試みてもできず、少年は次第に疲労の極みに達してしまいます。自分ではどうすることもできない、貧しい農村の貧しい子どもだからこそ経験するような出来事なのでしょう。まさに不条理そももの、想像もできない辛い出来事が展開されていきます。意識が混濁する中で現れる幻想の世界、それこそが辛い現実を異化してくれるのでしょう・・・。

彼は故郷での経験をただ写実的に描いたのではありませんでした。いま、読んでいる短編でもそうですが、現実から空想に転化する場面が随所に描かれています。貧しさゆえに強いられる過酷な現実を幻想によって異化し、読者を奥深い精神世界に誘ってくれます。それが彼の作品を一味違うものにしているように思います。

実際、彼は幻覚現実主義の作家だといわれているようです。現実と幻想の世界を交差させて表現していくところに大きな特徴があるといわれているのです。ですから、莫言を農村作家だと強調しすぎると、そのあたりの洒脱な作風について説明がつかないのです。題材こそ幼少期の農村での経験から着想を得ていますが、その表現方法はさまざまな作品から影響を受けていたのではないでしょうか。

実は、莫言は大変な読書家で、古今東西のあらゆる小説を読んでいたといわれます。海外の作家でとくに莫言に影響を与えたのが、米国のウィリアム・フォークナーと、先日亡くなったコロンビアのガルシア・マルケスだといわれているのです。

■ガルシア・マルケスの影響

ガルシア・マルケスは1982年にノーベル文学賞を受賞しましたが、その受賞理由は、現実的なものを幻想的なものとを融合させて、豊かな表現の世界を切り開いたからだとされています。彼もやはり人口2000人ほどの寒村の生まれです。寒村での経験を想像力で補強し、豊かな作品世界を築き上げています。

代表作の『百年の孤独』は、彼の家族の話、故郷に伝わる伝承などを踏まえて構築されています。莫言も同様、幼少期の経験や故郷の話などが彼の作品世界の母体になっています。

興味深いことに、彼もまた、ノーベル賞受賞の演説で、「フォークナーが立ったのと同じ場所に立てたことはうれしい」と語っています。時代が違えば、国情も違うガルシア・マルケス(1982年受賞、コロンビア)と、莫言(2012年受賞、中国)に共通に影響を与えたのがフォークナー(1949年受賞、アメリカ)だというわけです。

時代も社会風土も異なる3人のノーベル文学賞の受賞者の共通する要素は何かといえば、農村です。フォークナーはミシシッピー州の田舎町で人生の大半を過ごし、作品の大部分はその田舎町をモデルにした架空の土地を舞台にしています。ガルシアマルケス、莫言も同様です。田舎を舞台にしているからこそ、描ける世界にこだわっているという点で共通するのです。

ちなみに、フォークナーはノーベル賞受賞に際し、次のようなスピーチをしています。

スピーチの詳細はこちら。 http://www.rjgeib.com/thoughts/faulkner/faulkner.html

ヒトとして、生きることと真摯に向き合おうとしています。

ただ、ガルシア・マルケスは、フランツ・カフカの影響も強く受けています。カフカの『変身』を読み、大きな衝撃を受けて自身の作風を確立したといわれています。ですから、莫言の、どちらかといえば素朴さの残る幻想性とはやや趣が異なるのではないかと思います。

以上、ちょっとかじっただけで、生半可なことを書いてしまいました。今日のところはこのぐらいにしておきましょう。また、気が向いたら、この領域にも踏み込んでいきたいと思います。(2014/4/22 香取淳子)