ヒト、メディア、社会を考える

中国漫画展

ひとコマ漫画に凝縮された中国の世相

■「ピリリ!と面白い中国漫画展」
 日中友好会館美術館でいま、「ピリリ!と面白い中国漫画展」(5月28日~6月28日)が開催されています。

こちら →http://www.jcfc.or.jp/blog/archives/6236

 開催初日の5月28日、私はオープニングイベントの開始直前に会場に着いたのですが、すでに漫画家、政治家をはじめ関係者の方々が多数出席されていました。来賓の挨拶の後、オープニングのテープカットが行われました。

こちら →テープカット (640x480)

 展示会場に入るとまもなく、中国の著名な漫画家・徐鵬飛氏の作画実演が始まりました。徐氏は人民日報「風刺とユーモア」編集長を長年務めてこられ、現在は名誉編集長です。また、中国美術家協会漫画芸術委員会でリーダー役を果たされています。

 徐氏は用意された紙の中央付近に絵を描き終わるとすぐに、「日本の漫画家の皆さんもどうぞ」と呼びかけました。呼びかけに応じ、日本の漫画家は次々とその周辺に絵を描いていきました。一枚の紙に日中の漫画家が絵を描いていくという行為を通して、会場は一気に和やかな雰囲気に包まれました。徐氏のすばらしい計らいです。

 ちばてつや氏も描いていました。

こちら →ちばてつや (220x306)

 出来上がった絵を囲んで日中の漫画家や関係者がカメラに収まりました。

こちら →絵を囲む (640x480)

 ご覧のように、どの顔にも笑みがこぼれています。見ているうちにふと、ユーモアを生み出せる人々が交流を担っていけば、日中関係もより和やかなものになるのではないかと思ってしまいました。ユーモラスな絵を見て、心が緩み、顔に笑みが浮かぶとき、ヒトは他者を受け入れる心境になっています。そのような機会を増やしながら、相互理解を深めていく必要があるのではないかと思ったのです。

■漫画「競争」に見る中国の現代社会
 会場では、浙江省出身の漫画家の作品61点が展示されていました。どれも力作で、一枚の絵の中にこれだけ風刺を込めることができるのかと感心させられるほどでした。もっとも惹き付けられたのが、林忠業氏の「競争」(2008年)です。

こちら →競争

 画面は右上と左下を結ぶ対角線で分けられています。その対角線上に雲が浮かび、切り立った崖の上に開けた台地の高度が強調されています。その左上の部分にはゴール地点が設けられ、右下部分にゴールを眺める無数の人々が並んでいます。その間をつなぐのが、ヒトが一人ようやく通れるような細い道があります。右下に並んで待つ人々は崖から転落する危険を冒さなければ、左上のゴールに達することができません。待つ側は膨大な数であり、ゴールにたどり着けるのはごくわずか・・・、まさに熾烈な競争社会中国の一端が見事に表現されています。

 中国では経済発展に伴い、中産階級が急増しました。その結果、大学受験や就職試験、職場での昇進など、さまざまな領域で熾烈な競争が繰り広げられるようになっています。そのような厳しい世相がこのひとコマ漫画で的確に表現されているのです。

 たしかに日本の高度成長期でもベビーブーム世代の若者たちは競争を強いられ、受験地獄という言葉が生まれたほどでした。とはいえ、経済が成長するに伴い、就職先もそれなりに受け皿が増えていきました。若者は努力しさえすれば、何事も成し遂げられるという夢を抱くことができたのです。目標を掲げ、それに向かって努力すれば、どのようなものであれ、必ず得るものはあったのです。ですから、当時、日本では受験競争がむしろ若者を鍛える場になっていたといえます。ゴールに至る道が現代中国よりもう少し多様で、広かったからでしょう。

 ところが、この漫画ではゴールに至る道は一本しかなく、しかもヒト一人がようやく通れるほどの狭さです。迂回路もなければ、脇道もありません。これではゴールを目指そうとする者のほとんどが蹴落とされ、谷底に落ちてしまいます。

 画面の右下には「スタート!」の合図を待って無数の人々が待機しています。目の前に伸びるゴールに至る細い道は、両側が絶壁で、一歩でも道を踏み外したら、すぐさま奈落の底です。彼らは平静さを装いながら、どれほど深い絶望感にさいなまれていたことでしょう。

■ほとんどの人が負ける競争社会
 帰宅して、この漫画を連想させる興味深い記事を見つけました。中国ウォッチャー田中信彦氏が書いた、「ほとんどの人が負ける競争社会~中国で広まる不満情緒の源泉とは」というタイトルのエッセイです。

 田中氏は、「中国では社会で尊重される価値観の尺度がひとつしかない」といい、「社会から「尊重される仕事」とそうでない仕事が人々の間で明らかに認識されていて、誰もがそういう立場に立とうとする」としたうえで、次のように書いています。

「中国社会では全員が単一の基準で判断されるレースに参加しているようなものだ。そんなことをしても大半の人には勝てる見込みがほとんどないと私などは思ってしまうのだが、中国の人々は「分を知」って競争を回避することを潔しとせず、誰もが果敢(無謀?)にも競争に挑んでいく。その姿は壮観ですらある」(WISDOM、2010年1月25日)

 この漫画のように細い一本道しかない状況(「単一の基準で判断されるレース」)では、ごくわずかのヒトしかゴールにたどり着くことはできません。勝者より敗者の方が圧倒的に多いのは当然で、ほとんどのヒトが負けることになります。まさに、林忠業氏の描いたひとコマ漫画「競争」で表現されている世界そのものです。

 田中氏はこのような過当競争の背後に中国の勤労観があると指摘しています。長い間、中国では「支配層になるための唯一かつ誰にでも開かれた道が科挙であり、科挙に劣る条件こそが「文」にほかならない」と記し、「この観念は非常に深く中国社会に根を張っており、現在でも基本的に変わっていない」というのです。そして、高学歴化の実態を以下のように記しています。

「中国では大卒者が過剰で、大学を卒業しても就職先がないという現象が深刻化している。その問題も根源はこの「文」志向にある。学生本人も両親も、高い費用をかけて名も知れぬ大学で手もコスト的に引き合わないことは分かっている。それよりも専門学校にでも通って実務を身につけ、現場で技能を学んだほうが今の社会にはるかに有用なのだが、「実務」や「技能」という言葉は「文」の香りが薄い。より現場に近く、体を使うニュアンスが強いからである」(前掲)

 林氏がこの漫画を描いたのが2008年です。5年も前に高学歴化競争の弊害を風刺していたのですが、その後、事態はさらに深刻化しているようです。

 2013年8月に北京大学を訪れた際、北京大学の先生が、最近は大学生がなかなか就職できなくなっていると嘆いていたことを思い出します。北京大学はまだしも、そこそこ名の通った大学の学生でさえ就職が難しくなっているというのです。実際、北京大学のレストランで働いていたのは中山大学を卒業した学生でした。卒業しても就職できなかったので、北京に出てきたというのです。そして、いわゆる頭脳労働ではなく、肉体労働に従事していたのです。彼女は将来を悲観していました。こんな状況では結婚できるのかどうか、家庭を持てるのかどうか、心配していたのです。

■不満感の増大
 田中氏は、以下のように興味深い指摘をしています。

「中国のネット掲示板などを見ていると、最近とみに「豊かにはなったが、幸福感がない」といった趣旨の議論が目立つ」と指摘したうえで、「社会の価値観を多様化し、より多くの人々が「分相応」な幸福感を持てるようにすることが差し迫った課題である」と述べています。

 貧しいとき、ヒトは一途に豊かさを追い求めますが、ある程度豊かになってくれば、今度は何を目標にして生きていけばいいのかわからなくなってしまいます。そして、人々はいたずらに他人と比較し、不満感、不充足感を募らせていくのです。かつて日本もそうでした。日本では今、その不満足感が格差感に転化され、自ら努力するより行政に要請することが増え、要求が通らなければ怒り、短絡的な犯行が増えているように思います。アメリカでも同様、過去と比較し、全般に生活レベルがあがっているのにもかかわらず、人々の生活満足感は逆に低くなっているという論文を読んだことがあります。

 林忠業氏の「競争」には、このように深い文化的社会的意味が含まれていて、大変、興味深く思いました。しかも、絵柄にはユーモアがあり、ほっとさせられるところがあります。対比を明確にした構図、曲線を多用した描き方、色彩の調和、そして、どこかユーモラスなゴール側の人々、鋭く問題点を突きながら、対象を見つめる目は実に暖かい・・・、そのことに快さを感じてしまうのです。

 今回はこの作品だけを紹介しましたが、展示されている作品はどれも中国の現代社会の諸相を鋭く切り取り、一枚の絵として表現されています。ですから、絵として鑑賞することができ、しかも、そこに込められた意味を解読する面白さもあります。大変、見応えがありました。風刺漫画には、文字に勝る表現ができるのだということを実感した次第です。(2015/6/2 香取淳子)