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百武兼行 ①:百武はなぜ、西洋画の技法で《鍋島直大像》を描くことができたのか。

 前回、鍋島藩第11代当主の鍋島直大の肖像画が、明治初期に描かれていたことをご紹介しました。側近の百武兼行が描いた立像です。当時の日本人が描いたとは思えないほど立派な、西洋の画法に則って描かれた作品でした。

 なぜ、画家でもない日本人が、ここまで立派な肖像画を描くことができたのか、見れば見るほど、不思議でなりません。

 そこで、今回は、百武がなぜ、西洋風の肖像画を描くことができたのか、百武の来歴を踏まえ、考えていくことにしたいと思います。

■鍋島直大の立像

 ローマ滞在中の鍋島直大を描いた肖像画が残されています。書記官として随行していた百武兼行が1881年、大礼服姿の直大立像を描いたものです。

 ご紹介しましょう。

(油彩、カンヴァス、132.5×84.3㎝、1881年、徴古館)

 画面には、鍋島直大の威厳と風格、繊細さと品性など余すところなく描き出されています。いずれも貴族の肖像画に必要な要素です。それが、西洋の肖像画家に勝るとも劣らない筆さばきで、35歳の直大像の中に活き活きと表現されていたのです。

 骨格を踏まえて描かれた顔面や体躯、微妙なグラデーションを使って再現されたきめ細かな肌の艶、白い手袋を持つ手の甲など、まるで生きているかのようなリアリティが感じられます。

 明治初期、日本人画家が油絵に求めたものは、この画面に見られる、生きているように見えるリアリティでした。水墨画であれ、大和絵であれ、これまで日本人が見てきた絵にはみられないリアリティです。

 高橋由一をはじめ、ごく一部の日本人画家が西洋画に求めていたリアリティが、この画面には見事に描出されていました。画家ではなく、書記官として鍋島に随行していた百武兼行が、仕事の合間に描いたこの作品の中に、当時の日本人画家が渇望したリアリティが描き出されていたのです。

 驚かされたのはなにも、リアリズムに則って、この肖像画が描かれていたからだけではありません。透明感のある肌艶には、鍋島直大の若さが溢れ、思慮深い目元や意思的な口元からは、使命感と気概が漲っていたからでした。

 百武は、西洋の画法に従って鍋島の顔を写実的に描いていたばかりか、その内面までも、目の表情や口元、透明感のある肌艶を通して浮かび上がらせていたのです。

 改めて見て、この作品には、写実的に描くための観察力や表現力だけではなく、鍋島に対する百武の深い理解と敬愛が感じられます。

 それでは、描かれた鍋島直大と、描いた百武兼行はどのような関係だったのでしょうか。来歴から探ってみることにしたいと思います。

■鍋島直大のお相手役として選ばれた百武兼行

 鍋島直大は、肥前佐賀藩第10代藩主・鍋島直正の長男として、弘化3年(1846)に江戸で生まれました。15歳になった文久元年(1861)に、佐賀藩最期の第11代藩主となり、明治新政府の下では、もっぱら外交官として活躍しています。

 その鍋島直大のお相手役に選ばれたのが、百武兼行でした。直大が4歳、百武が8歳の時です。

 江戸時代には、元服前の藩主の嫡男のお相手役として、上級家臣の子弟が、部屋住みの身分で、召し出されることがありました(※ Wikipedia)。このお相手役は、藩主の嫡男にとって、友達であり、ライバルであり、伴走者としても位置付けることができます。次代の藩主として順調に成長していくには不可欠の存在でした。

 百武兼行はおそらく、聡明で、気配りができ、穏やかで、優しい子どもだったのでしょう。8歳の時に、鍋島直大のお相手役に選ばれました。以来、佐賀藩の第11代藩主となる直大とは、共に遊び、共に学びながら、成長していきました。

 佐賀藩の教育レベルは高く、教育内容は多岐にわたっていました。

 佐賀藩には、弘道館という藩校がありました。直大の父である直正は、第10代藩主になると、その予算を増額し、藩士の子弟教育を充実させました。1830年のことでした。

こちら → https://www.kodokan2.jp/main/14.html

 弘道館の教諭であった草場珮川や武富圯南から、直大と百武は、和漢文や漢籍をはじめ、衣冠職掌典故や書画などの手ほどきを受けていました。もちろん、武術も学んでいたでしょうし、文久年間(1861-1864)からは英語の学習も進めていました。

 実は、幕府が派遣した77名の万延の遣米使節団(1860年)に、佐賀藩は小出千之助ら藩士7名を参加させています。激動の時代を切り抜けるため、いかに積極的に海外情報を得ようとしていたかがわかります。

こちら → https://www.pref.saga.lg.jp/kiji00366322/3_66322_123025_up_z8c8ebvw.pdf

 帰国後、小出千之助が「世界の通用語が英語である」と報告したのを受けて佐賀藩は、蘭学研究から英語研究に切り替えています。欧米を知ろうとすれば、まず、英米を知らなければならず、それには英語学習が必要だと認識したからでした。

 佐賀藩は1867年、長崎に英学校致遠館を設立しました。フルベッキ(Guido Herman Fridolin Verbeck, 1830 – 1898)が着任して教鞭をとったのは1868年からです。

 近代化のためには欧米の技術、制度、文化を知らなければならず、それには勉学が重要だと佐賀藩は認識していました。1840年代は蘭学研究、1860年代からは英語研究といった具合に、覇権国に照準を合わせながら、欧米の知識や技術、制度や文化を学ぶことを奨励していました。

 そのような時代動向を見据えた教育環境の中で育ったのが、直大と百武でした。

 やがて直大が14歳になり、江戸に参府しなければならなくなると、それに伴い、百武も江戸溜池の鍋島藩邸に住むようになりました。江戸でも直大に随行して、さまざまな経験を積み、さまざまな知識を得ています。

 次代藩主のお相手役として、少年期を経て成年に至る過程で、百武は、直大とほぼ同様の経験を積み、幅広い知識を持ち合わせるようになっていました。二人の間には、主従の関係でありながら、兄弟でもあり、友達でもあるといった密接な関係が築かれていきます。

■以心伝心で通じる間柄

 このような来歴を知ると、百武がなぜ、《鍋島直大像》を写実的に描くだけではなく、その内面を画面上に浮き彫りにすることができたのかが、わかるような気がします。

 人格形成期を共に過ごし、幕末から維新にかけての激動期を共に乗り越えてきたからこそ、以心伝心でわかりあえる関係を築き上げることができたのでしょう。それが、肖像画の顔面に反映されていたのです。

 視線や目元、口元、頬の描き方がとても繊細で滑らかで、油彩筆で描いたとはとても思えません。まるで、面相筆で描いたかのように繊細で柔らかな筆致が印象的です。細部を柔軟に、気の流れに逆らうことなく描くことができていました。

 以心伝心で直大の気持ちを捉えることができたからこそ、直大の表情の一部始終を的確に表現することだでき、その結果として、内面世界を浮き彫りにできたのではないかという気がします。

 幼少期からのさまざまな想いを込めて、百武は絵筆を取り、画面を創り上げていったのでしょう。これまでの歳月を思うと、その喜びは何にも代えがたいものだったにちがいありません。

 百武は、大礼服を身につけた直大の晴れ姿を、自身の手で描くことが出来たのです。苦楽を共にして、激動の時代を乗り切ってきた感慨が、画面を通して伝わってきます。

 それにしても、なぜ、直大の随員に過ぎなかった百武が、油彩でこれほど立派な肖像画を描くことができたのでしょうか。依然として疑問が残ります。

 なぜ、西洋の肖像画家に勝るとも劣らない《鍋島直大像》を描くことができたばかりか、鍋島の内面まで描き出すことができたのでしょうか。

 《鍋島直大像》を描いた頃の百武を振り返り、生活状況や制作環境を踏まえた上で、この疑問に迫っていきたいと思います。

■ローマでの絵の学び

 百武は、1881年、《鍋島直大像》を仕上げています。1880年7月9日に横浜港を発っていますから、ローマに赴任して1年後には、この作品を完成させたことになります。驚くほど速い仕上がりです。

 百武にとって3度目の渡欧でした。日本を離れる時から、赴任地ローマで絵を学ぼうという気持ちを固めていたのかもしれません。

 この時の渡欧には、絵を学ぶために公使館雇いとなった松岡寿と、パリに留学する五姓田義松も同行していました。二人とも工部美術学校を退学して洋行を志す画家でした。

 松岡寿や五姓田義松と道中を共にしたことが、百武に画家としての自覚を促したのかもしれません。ローマに到着すると、百武は、早々に、油絵の研究をはじめています。

 一行が日本を離れのは、7月初旬でした。ローマに着いてもしばらくは、直大の随員として、外交官として、公使館の事務長として、百武は多忙をきわめていたはずです。それなのに、1880年10月頃には、もう絵を習い始めているのです。

 それも、公使館に画家を招き、公務の傍ら、画法を学び、研究し、制作するという変則的な学び方でした。激務の傍ら、絵を学ぶには、画家に公使館まで来てもらうしかなかったからでしょう。直大の配慮の下、百武は、ローマで絵画の研究をすることができるようになったのです。

■パリでの絵の学び

 実は、これ以前にも、百武は油絵を学んだことがありました。1878年6月から1879年秋までの間、パリで本格的に絵画の勉強をしていたのです。

 この時の采配にも、鍋島直大の配慮がみられます。

 1878年6月12日、鍋島夫妻は帰国のためにフランスを発ちました。当然、百武も同行しなければならなかったはずですが、彼はパリに残っています。夫妻の計らいで、1年間、パリに滞在し、油絵の研究を進めることができるようにしてもらったからでした(※ 『近代の美術』53、1979年、至文堂、p.40.)。

 この期間は公務もなく、純粋に絵画研究に励むことができました。

 パリでは、美術学校教授のレオン・ボナ(Léon Joseph Florentin Bonnat, 1833 – 1922)に師事し、油彩画法を学びました。この時の1年間というもの、百武は体系的に絵画を研究し、ひたすら制作に専念することができたのです。レオン・ボナの下で油絵について体系的に学び、基礎的技法を身につけていったのでしょう。おかげで、その後、表現力を飛躍的に高めていったと思われます。

■チェザーレ・マッカリ(Cesare Maccari, 1840-1919)

 さて、百武が、ローマで早々に絵の勉強を始めることができたのは、パリでの師レオン・ボナがチューロンを紹介してくれたからでした。ところが、時を経ず、チューロンは身を引き、百武に、王立ローマ美術学校名誉教授のチェザーレ・マッカリ(Cesare Maccari, 1840-1919)を紹介しています(※ 前掲、p56.)。

 果たして、チューロンがどのような画家だったのか、わかりませんが、教え始めて早々に、自身は身を引き、チェザーレ・マッカリを紹介したということは、百武がすでに高度なレベルに達しているとチューロンが判断したからかもしれません。

 チェザーレ・マッカリは、当時、イタリアではアカデミックな画家として著名でした。歴史画の領域で多くの作品を残しています。だから、チューロンは自分よりもマッカリの方が適任だと思ったのかもしれません。

 いずれにせよ、百武は公務の合間を縫って、当時、ローマで歴史画家として著名なマッカリから絵を学ぶことになりました。

 それでは、マッカリがどのような画家なのか、彼の作品を見てみることにしましょう。

■チェザーレ・マッカリ、《モナリザを描くダヴィンチ》(1863年)

 彼の作品を何点か見てみましたが、大勢の人物が画面に登場する作品が多く、顔の表情まで詳しく認識できる作品はあまり多くありません。ここでは、百武の肖像画と比較できるよう、敢えて、人物の顔がはっきりとわかる作品を取り上げることにしました。

 たとえば、《モナリザを描くダヴィンチ》(1863)という作品があります。

(油彩、カンヴァス、97×130㎝、1863年、カッシオーリ美術館)

 画面には、モナリザと、彼女を観察しながら描いているダヴィンチ、そして、その周辺にいる若者たちが描かれています。ダヴィンチが著名な作品《モナリザ》を描いている光景を題材にした作品です。歴史に残る画家が著名な作品を描いている光景を題材にしているので、これも一種の歴史画といえるのでしょう。

 17世紀から19世紀にかけての西洋では、歴史画は肖像画や風俗画よりも、絵画ヒエラルキーのなかで上位に位置づけられていました。歴史画が高く評価されているので、その頃のアカデミズムでは、歴史画を専門的に描く画家が大勢いたのです。マッカリもその一人でした。

 果たして、百武はマッカリの作品に満足していたのでしょうか。

 この作品を一見すると、まず、《モナリザを描くダヴィンチ》というタイトルでありながら、描かれている人物の誰も、描いているダヴィンチに関心を寄せていないのが不自然に思えました。

 絵を描いているダヴィンチの傍で、楽器を奏でる者がいたり、モナリザをのぞき込んでいる者がいたりします。後ろで、振り返るようにダヴィンチを見ている若者も、その角度からは制作中の絵も、絵筆を取るダヴィンチの手元もみえません。とても、《モナリザを描くダヴィンチ》というタイトルの作品とは思えなかったのです。

■生気がなく、統合性のない画面

 ダヴィンチがモナリザをモデルに描いている光景ではなく、モナリザを囲み、若者たちが戯れている光景が描かれているという印象が残ります。モナリザとポーズを取る3人の若者が画面中央にレイアウトされているからでしょう。

 しかも、彼らの顔や着ているカラフルな衣装には光が当たり、明るく、華やかで、観客の目を引きます。一方、ダヴィンチは横顔をわずかに見せているだけで黒い帽子に黒い服を着ており、背景に沈み込んでしまっています。

 モチーフの配置と画面の明暗の付け方からは、モナリザと3人の若者が強調され、メインモチーフのように見えます。肝心のダヴィンチよりも彼らの方が強く印象づけられてしまうのです。

 もちろん、描かれたモチーフはそれぞれ、丁寧に写実的に描かれています。

 モナリザのスカートの襞、マンドリンを弾く若者の袖、足元の絨毯は、光沢の具合、模様、質感など、モノの形状や身体の構造に忠実に、写実的に描かれています。さすがに西洋画だと思わせられます。

 ところが、彼らの顔や所作を見ると、いずれもまるで蝋人形のように見えてしまいます。手の動き、顔の表情、傾き、どれも硬直し、血が通っていないように見えるのです。一つ一つのモチーフは一見、リアルに描かれているようでいて、実際には、どれもリアルには見えませんでした。生気が感じられないのです。

 明暗のコントラストが強すぎるからでしょうか。

 まるでステージを照らす照明のように、上からの光源がモナリザと3人の若者を照らし出しています。人物の顔面はそれぞれ個性的に描き分けられていますが、照明が強すぎて、フラットに見えます。顔の形状は、皮膚の下の骨格を踏まえ、立体的に描かれているのですが、明るすぎる光源の下、平板で抑揚にかけ、リアリティが感じられないのです。

 身体表現も同様です。座っている様子、身体を傾け、覗き込んでいる様子、見上げている様子、虚空を見つめている様子、それぞれ、身体構造を踏まえ、立体的に丁寧に描かれています。

 ところが、それぞれの所作もまた、フリーズしてしまったかのように硬直しています。動きのポーズを取っていながら、動きが表現されていないのです。

 それぞれのモチーフは、形状あるいは身体構造上、正確に描かれているのですが、相互に関連づけられていないせいか、場面全体としての統合性が感じられません。強調したいモチーフは明るく、中央の位置に配置し、そうではないモチーフとの差異を創り出し、物語性を高めているのでしょうが、リアルに見えないだけではなく、不自然でした。

 マッカリの作品は肖像画ではないので、百武の作品とは比較しにくいのですが、この作品を見る限り、人物の顔面の描写は、百武の作品の方がはるかに優れていると思いました。

 ふと、百武はチェザーレ・マッカリから何を学んだのか、そもそも、影響は受けているのだろうか、という素朴な疑問が湧いてきました。

 そこで、百武の《鍋島直大像》とマッカリの《モナリザを描くダヴィンチ》を比較してみることにしたいと思います。

■人物の顔面を比較

 まず、マッカリの作品について、改めて、中央に描かれたモナリザと3人の若者の顔をクローズアップしてみました。

(※ 前掲。部分)

 それぞれの顔は写実的に描かれています。一見、本物そっくりに見えるのですが、顔に生気がありません。先ほど、蝋人形みたいだと表現したように、表情は硬く、皮膚の下に血が通っているようには見えません。

 確かに、一人一人の表情は描き分けられており、それぞれの顔面にリアリティはあります。ただし、それは、骨格を踏まえ、構造的に不自然ではないという点でのリアリティです。表面的には写実的に描かれているように見えるのですが、人物を描いていながら、それぞれの人物が持っているはずの生気が表現されていないのです。

 比較のため、百武の《鍋島直大像》の顔部分をクローズアップしてみましょう。

(※ 前掲。部分)

 艶があり、張りのある若々しい肌が印象的です。額と眉毛の上、そして鼻筋に、皮脂が適宜、浮いています。この顔面に浮き出た皮脂が、エネルギーを感じさせ、内面生活の豊かさ、精神活動の豊かさを感じさせます。

 歴史画として描かれた人物の顔と、肖像画として描かれた顔と単純に比較することはできないのですが、先ほどもいいましたように、マッカリが描いた人物の顔は、平板で、肌の艶や張りといったものは見受けられませんでした。

 一方、百武が描いた人物の顔は、顔面構造に従って、写実的に描かれているだけではなく、画面に活き活きとした生気が浮き出ていました。西洋の画法に則りながら、東洋の気を感じさせるものがあったのです。

 顔面構造を踏まえ、写実的に描かれているという点ではマッカリも百武も同様でした。ところが、写実的に描かれた顔面に、生気が現れているか否かという点で、大きな違いが見られたのです。

 こうして比較してみると、《鍋島直大像》は、ローマ滞在時に描かれたとはいえ、マッカリの影響を受けた作品とはいいがたいことがわかります。

 それでは、この作品は、一体、誰の影響を受けているのでしょうか。

 考えられるのはただ一人、1878年から79年にかけて、パリで師事していたレオン・ボナです。

■レオン・ボナ(Léon Joseph Florentin Bonnat, 1833 – 1922)

 1833年に生まれたレオン・ボナは、エコール・デ・ボザール(École des Beaux-Arts)で学び、肖像画家として知られるようになりました。1867年にレジオンドヌール勲章(シュヴァリエ章)を、1869年にはサロン賞を受賞し、初めて芸術アカデミーのサロン審査員に選出されています。

 百武が教えを請うようになった1878年にはすでに、保守的なサロンの重鎮となっていました。百武はアカデミーの技法を身につけ、すでに肖像画家として著名になっていたレオン・ボナから手ほどきを受けていたのです。

 百武の画期的な作品は、レオン・ボナの薫陶によるものでした。

 ボナはその後、1888年にエコール・デ・ボザールの教授となり、1905年5月にはポール・デュボア(Paul Dubois)の後を継いで学長になっています。当時のフランスの美術界で中心的な地位を確立した画家だったのです。

 それでは、レオン・ボナの作品を見てみることにしましょう。

 マッカリと比較するため、似たような題材の作品を取り上げ、百武の《鍋島直大像》への影響があるのか否かを探ってみたいと思います。

 取り上げるのは、《ヴィクトル・ユーゴの肖像》(1879年)です。

 数ある肖像画の中から、なぜ、この作品を取り上げたかというと、レオン・ボナが、ヴィクトル・ユーゴ(Victor-Marie Hugo, 1802-1885)の肖像画を描く様子をスケッチし、版画にした作品があったからです。

 まず、その版画作品から、ご紹介していくことにしましょう。

■《ヴィクトル・ユーゴを描く レオン・ボナ 》(1879年)

 1879年に、レオン・ボナがユーゴを描く光景を、ジュール=ジュスタン・クラヴリー(Jules-Justin Claverie, 1859-1932)がスケッチし、その絵をフレデリック・ウィリアム・モラー(Frederick William Moller)が版画にした作品があります。

(※ Wikimedia)

 まず、目につくのが、正面に座ってこちらを見ているユーゴです。ついでその傍らで、大きなカンヴァスに絵筆を滑らせているレオン・ボナ、そして、描く様子を見ているギャラリーです。

 おそらく、実際に見た光景をスケッチしたものでしょう。画面中央に、モデルとなったユーゴと描きかけのカンヴァスとレオン・ボナが描かれており、何がメインモチーフなのかがはっきりとわかる構図です。マッカリの作品と違って、違和感はありません。

 手前の紳士、淑女は真剣な面持ちで、ユーゴを描くレオン・ボナの様子を背後から見つめています。画面右横からは、子どもたちが興味津々、身を乗り出して覗き込んでいます。

 まるで実演ショーのようです。

 絵を描いている画家そのものが、鑑賞の対象になっていることがわかります。レオン・ボナはまさに時の人だったのでしょう。この版画は、当時、彼が肖像画家としていかに著名だったのかを示すものだといえます。

 この画面からは、レオン・ボナに対する敬意が感じられます。

 考えてみれば、この版画もマッカリの《モナリザを描くダヴィンチ》も、著名なモチーフを著名画家が描くという点で、画題としては同種でした。

 ところが、描かれた内容は大幅に異なっていました。マッカリの作品では、描かれている人物たちは、モナリザを描いているダヴィンチに興味を示していませんでした。絵を描いている傍で、3人の若者は勝手な行動をしており、ダヴィンチに対する関心も敬意もありませんでした。

 同じような画題でありながら、捉え方の違いをみると、改めて、果たして、百武はマッカリに満足していたのかという疑問が湧いてきます。

 それでは、レオン・ボナが描いた《ヴィクトル・ユーゴの肖像》を見ていくことにしましょう。

■ ヴィクトル・ユーゴの肖像》 (Portrait of Victor Hugo、1879年)

 レオン・ボナが46歳の時に、77歳のユーゴを描いた肖像画です。肖像画家として評価され、サロンの重鎮になっていた頃の作品で、晩年に近い文豪の威厳や風格を余すところなく表現しています。

(油彩、カンヴァス、138×110㎝、1879年、ヴェルサイユ宮殿)

 ユーゴは、分厚い本に左肘をついて、左手の人差し指を頭に差し込み、何か考え事をしているようなポーズを取っています。右手はどういうわけか、チョッキに差し込み、真剣な表情でこちらを見つめています。

 肖像画に似つかわしくない、不可解なポーズと仕草が気になります。

 レオン・ボナはなぜ、このようなポーズのユーゴを描いたのでしょうか。

 これがユーゴらしさを表すものなのかどうかはわかりませんが、通常の肖像画とは一線を画したポーズと所作が、私には謎でした。

 そこで、調べてみると、次のような写真がみつかりました。

(※ Wikimedia)

 1876年に撮影されたユーゴのグラビア写真です。レオン・ボナがユーゴの肖像画を描いたのが1878年ですから、ほぼ同じ時期の写真でした。ユーゴは日頃、このような仕草をすることが多かったのかもしれません。

 再び、レオン・ボナの作品に戻ってみましょう。当時のグラビア写真と見比べてみると、写真よりもはるかに精密で、迫真的な肖像画です。

 眼の前の対象を、機械的な正確さで、写し取るカメラで捉えた姿よりも、はるかに迫真的な姿が、絵具と絵筆を使って、カンヴァスの上に表現されていたのです。

 秀でた額、額に深く刻み込まれた皺、意思が強く、感性豊かな目つき、目の下の深いたるみ、さらには、髭や頭髪に混じる白髪の輝きなど、顔面だけでも強烈な訴求力があります。

 それに、不可思議な手の仕草が加わります。

 左手の人差し指を頭に差し込み、右手は親指を残して4本の指をチョッキの中に入れています。左手の薬指には金の指輪がはめられ、右手の甲には血管が浮き立っています。老いてはいても、成功した人物であることが表現されています。

 左右の手が示すものが一体、何なのか、いまだに気になります。単なる仕草にすぎないのか、あるいは、何らかのメッセージが示されているのか、何度見ても一向にわかりません。仮に何らかのメッセージだとしても、それを解読する手掛かりはないのです。

 謎を感じると、観客はさらに、画面に引き付けられることでしょう。非常にインパクトの強い肖像画です。

 明暗のきわだった画面構成も、この作品の特徴といえます。

 左上にある光源が、顔と手、ワイシャツの襟と袖を強く照らし出しています。まるで暗闇の中から顔と手だけが浮き上がっているように見えます。背景は暗く、着用している服も黒色なので、ワイシャツの襟と袖の白さが際立って見えます。

 この襟と袖の白さが、暗がりの中で、顔と手を引き立てる役割を果たし、ユーゴの内面世界への関心が喚起されます。正面を見つめているようであり、虚空を眺めているようでもあるユーゴの表情が気になり、画面に見入ってしまうのです。

 傍らのテーブルや本、座っている椅子には淡い光が当たり、ひっそりとした静けさを醸し出しています。それが、思索にふけるユーゴの表情に現実味を添え、画面に深みを与えていました。

 暗い背景の下、顔面の表情と手の所作に、観客の視線が集中するように画面構成されているのも大きな特徴でした。そのせいか、リアリズムの極致ともいえる表現でありながら、画面からは豊かな情感が浮き上がっています。

 これこそ、百武が求めていたものではなかったかという気がしてきます。

 レオン・ボナが描いた《ヴィクトル・ユーゴの肖像》には、写実的に捉えられたユーゴの表情から、その内面がくっきりと浮き彫りにされていました。画面から発散される迫力を感じた時、私は、百武はレオン・ボナの影響を受けていると確信したのです。

 明暗のコントラストの強い画面構成、写実的に描きながらも、その内面を描出する工夫などがこの肖像画の特徴でした。振り返れば、その特徴はまさに、ベラスケスの人物像の特徴でもありました。

 そう思うと、急に、レオン・ボナは、ベラスケスの影響を受けているのではないかという気がしてきました。

 確認するため、ベラスケスの作品を見てみることにしましょう。

■ベラスケス、《マルタとマリアの家のキリスト》(1618年)

 ベラスケス(Diego Rodríguez de Silva y Velázquez, 1599 – 1660)は、スペインの宮廷画家として、数多くの作品を残しています。その中から、極めてリアルに市井の人物を描いた作品をご紹介しましょう。

(油彩、カンヴァス、60×103.5㎝、1618年、ナショナル・ギャラリー(ロンドン))

 この作品は、イエス・キリストがマルタとマリアの家を訪れている場面が描かれています。新約聖書のルカによる福音書 (10章38-42) に基づいた場面です(※ Wikipedia)。

 肖像画ではありませんが、画面左側に描かれたマルタの表情が、迫真的に表現されているのが印象的です。

 ルカの福音書によると、マリアと姉マルタは共に暮らしており、イエス・キリストと親しかったそうです。ある時、イエス・キリストが彼女たちの家を訪れました。その際の情景を描いたのがこの作品です。

 画面右上には「画の中の画」のようなものが描かれており、キリストとその足元に座っているマリアの姿が見られます。マリアはキリストの傍らで、その話に耳を傾けているのです。

 一方、手前に描かれた姉のマルタは、キリストをもてなすためにニンニクをすり潰しています。キリストをもてなすための料理を作っているのですが、不満そうな顔つきがとてもリアルに描かれています。自分だけが働き、マリアが手伝いもしないでキリストの傍にいることが気に入らないのです。

 それを聞いたキリストは、不満を漏らすマルタに比べ、キリストの話を聞いているマリアの方がよほど優れていると、マルタを諭します。

 日常生活には、マリアのように、キリストの話を聞いて、真理を求めようとする側面と、マルタのように、客がくればもてなすための料理をつくろうとする、つまり、折々に求められる課題をこなそうとする側面があります。

 このエピソードでは、キリストが、マリアの方が優れていると評価しました。そのことから、具体的な課題をこなすことより、真理を求めようとすることの方が重要だという解釈が示されています。

 とても複雑で、深淵な内容の作品なのです。

 さて、左やや上方からの光源が、マルタの顔、衣装、ニンニクをすり潰す手をくっきりと見せています。光源は微妙な陰影を生み、マルタの気持ちを浮き彫りにする一方、手の動きを描き出しています。

 小道具としての金属のすり鉢、ニンニク、魚、卵なども、きわめて精密に、そして、写実的に描かれています。

 宗教画の要素があり、静物画の要素もあり、市井の人の日常生活の一端をさり気なく描いた風俗画の要素もある見事な作品です。

 驚いたことに、これはベラスケス19歳の時の作品でした。

■百武が求めたものは、ベラスケス由来のリアリズムか?

 哲学者であり、神学者でもあった山田昌氏は、「マルタとマリア」のエピソードについて、次のように語っています。

 「マリアは他のことは何もしないで、じっとイエス様の言葉に耳を傾けていた、それに対して、マルタの方はお勝手でもって、いろいろごちそうを作ってもてなそうと働いていた、そういう2つの生活が、「観想的生活」と「活動的生活」との、ひとつのモデルであるのだ、そしてまた、イエス様は、マリアが一番いい場所を選んだと、つまり、活動的生活より観想的生活の方が優位である、優れていると、こう言われたと、そういう解釈です」

(※ 山田昌、『藤女子大学キリスト教文化研究所報告』2巻、2001年3月、p.3.)

 マルタとマリアのエピソードについては、このような解釈が伝統的な解釈となっていたと語っています。エックハルト(Meister Eckhart, 1260年頃 – 1328年4月30日以前)によって、新たな解釈が提示されるまでは、この「観想的生活」優位の解釈が定着していたのです。

 興味深いことに、ベラスケスはこのエピソードを踏まえて、《マルタとマリアの家のキリスト》を描く際、マリアを遠景に置き、マルタを前景に置いて、きわめて写実的にその表情を描いています。つまり、「活動的生活」に力点を置いた画面構成をしているのです。

 ベラスケスが、理想あるいは観念よりも、現実を踏まえた生活実践を重視していたことがわかります。しかも、生活実践の中から生まれた不平不満を人物の表情を通して浮かび上がらせようとしていました。

 描かれた人物から、生の感情を蘇らせ、画面に生気をもたらせようとしていたのです。

 それでは、マルタの顔をクローズアップしてみましょう。

(※ 前掲。部分)

 横睨みをしているような目つきや、硬く閉じた口元には、自分だけが料理を作らされているというマルタの不満が滲み出ています。この表情を見れば、誰でも、マルタの気持ちは手に取るようにわかります。顔面を見るだけで、その内面が読み取れるように描かれているのです。

 そして、赤味の差した頬のちょっとした窪み、すりこぎ棒を握る、太く赤らんだ手指には、マルタの実直さと、日々の労働の大変さが表現されています。

 驚くほど迫真的な描き方です。油彩画でありながら、柔らかな質感を出すことができているのです。顔面構造、身体構造を踏まえたうえで、表情の現れやすい目元や、口元を、柔らかいタッチで描いているからでしょう。見事です。

 《マルタとマリアの家のキリスト》には、モチーフの捉え方、画面構成、明暗のコントラストの強さなど、ベラスケスの画法を、端的に見ることができます。

 先ほどご紹介した《ヴィクトル・ユーゴの肖像》と比べてみると、レオン・ボナは明らかに、ベラスケスの影響を受けていることがわかります。

 マッカリの作品でみてきたように、ともすれば、硬直した表現になりがちな油絵ですが、ベラスケスが描く肌はとても柔らかく、顔もまた活き活きとして表情豊かに表現されていました。タッチが滑らかだからなのでしょうし、均質な色を均等に、カンヴァスに置くことをしなかったからでしょう。

 ベラスケスの作品を見てようやく、なぜ、レオン・ボナが迫真的な肖像画が描けるのかがわかったような気がします。そして、百武がなぜ、油彩で表情豊かな《鍋島直大像》を描くことができたのかがわかってきました。

 百武はいってみれば、ベラスケス由来のリアリズムを、レオン・ボナから学んでいたのです。

 レオン・ボナに師事したわずか1年ほどの期間に、百武は、ベラスケスの画法を吸収していたことになります。生来、豊かな画才を持ち合わせていたのでしょう。

(2023/6/24 香取淳子)

岩倉使節団の足跡:鍋島直大の場合

■随行留学生として、使節団に参加

 岩倉使節団は、不平等条約の改正交渉の準備、欧米の技術、文化、制度、思想等の把握を目的に、編成されました。1871年11月12日に横浜港を出発した岩倉使節団には、留学生たちも随行していました。その内訳は、華族14名、士族24名です。

 その中に、旧佐賀藩主で、維新政府で議定、外国官副知事などを務めた鍋島直大(1846-1921)も参加していました。25歳の時です。身の回りの世話役として、百武兼行(1842-1884)が付き添いました。

 使節団に随行して、アメリカ経由でイギリスに行き、オックスフォード大学で直大は文学を学び、百武は経済を学んでいます。岩倉使節団の日程表をみると、1871年11月12日に横浜港を出発し、サンフランシスコに着いたのが12月6日です。以後、アメリカ国内を視察して回り、使節団がイギリスに着いたのは1872年7月14日でした。

 ただ、使節団とはワシントンまで同行し、その後は一行と別れてロンドンに向かったという記述もあります(※ 三輪英夫、『佐賀県立博物館報』、No.27. 1975年、p.2.)。

 日程表では、岩倉一行がワシントンに着いたのが1月21日、ワシントンを発ったのが5月4日です。一方、鍋島らは4月頃ロンドンに着いたという情報もありますから、やはり、三輪のいうように、ワシントンで一行とは別れたのでしょう。

 鍋島直大の渡欧目的は、「開けたる世のよき事をわか国へ行ふ為めのつとめなりけり」でした。開国後の日本のために、イギリスで見聞を深め、そこで得てきた知識や経験を日本の発展のために持ち帰りたいというものでした。

 ところが、オクスフォード大で学び始めて2年後の1874年3月、江藤新平らが起こした佐賀の乱の報に接し、急遽、一時帰国することになりました。

■佐賀の乱

 佐賀の乱とは、1874年2月に江藤新平と島義勇らをリーダーとし、佐賀で起こった明治政府に対する反乱の一つです。不平士族による初めての大規模な反乱でしたが、政府が素早く対応したので、激戦の末に鎮圧されました。

 佐賀藩士・江藤新平(1834-1874)は、1871年の廃藩置県後、文部大輔、左院一等議員、左院副議長を経て、初代・司法卿を務めました。司法権統一、司法と行政の分離、裁判所の設置、検事・弁護士制度の導入など、次々と司法改革に力を注いできました。江藤は、積極果敢に、日本の近代司法制度の基礎を築いてきたのです。

 新政府の中で、これほど大きな業績を上げてきた江藤新平が、なぜ、反乱を企てたのでしょうか。

 江藤は、1873年に参議に転出し太政官・正院の権限強化を図りました。ところが、その年、征韓論争が起こり、西郷側に立っていた江藤は敗れて辞職したという経緯があります。

 西郷や江藤らは、欧米の共和制や自由民権の思想に親近感を抱いていましたが、欧米の視察から帰国した岩倉、大久保、伊藤らは共和制を評価せず、自由民権の思想を危険視するようになっていました(※ 松井孝司、「近代日本をリードした佐賀藩」、『近代日本の創造史』10巻、2010年、p.6.)。

 下野した江藤は、1874年に板垣退助、後藤象二郎らがに賛同して、民撰議院設立建白書に署名し、民撰議院 (国会) の設立を求めました。佐賀に帰郷後は、征韓党の指導者に推され、不平分子を率いて政府軍と戦いますが、敗れて処刑されています。

「東京日々新聞 六百五十六号」には、江藤が捕縛された時の様子を落合芳幾が描いた錦絵が掲載されています。

(※ Wikimedia。図をクリックすると、拡大します)

 「”佐賀縣下 肥前の國にて暴動せし賊軍一敗地に塗(まみ)れ首謀江藤氏遁走して加藤太助と変名し。明治七年三月下旬与州宇和島より甲浦に至り客舎に潜伏したりしを。高知縣より派出せる少属(せうさかん)細川 某 数名の捕吏(とりて)を率(したがへ)て。該地(そのち)の戸長に案内させ。主僕を捕縛に及ぶのとき。江藤氏騒げる景色なく従容として筆紙を採(と)り。岩倉殿下に一書を呈(てい)す其文(そのぶん) 頗(すこぶ)る激烈にて。征韓黨の巨魁とも称(いふ)へき胆力顕然たりとぞ “」

 轉々堂主人が書いた記事の内容は、上記のようなものでした。

■岩倉具視に宛てた書簡

 江藤新平は、捕縛された時は抵抗もせず、素直にしたがったようです。そして、紙と筆を求め、岩倉具視に宛てて、文章を綴ったそうです。その文面がなんとも激しく、さすが征韓党の首領らしい胆力を見せていたと轉々堂主人は書いているのです。

 振り返れば、江藤新平(1834-1874)は、若いうちから尊王討幕運動に参加し、明治維新とともに新政府に参加しました。東征大総督府軍監、江戸鎮台判事を勤め、軍事、治安を担当しています。その後、文部大輔や法制関係官職を歴任し、1872には司法卿に就任しました。

 法律知識に富み、司法権の独立、警察制度の一元化、改定律例の制定、『民法草案』の翻訳・編纂などを行い、司法行政を確立しました。1873年には参議となっています。幕末から新政府誕生に至るまで、新しい日本を創るために尽力していたことがわかります。

 とくに秀でた業績を残したのが、司法領域でした。実は、この司法権独立問題や征韓論をめぐって大久保利通、岩倉具視らと対立し、下野することになったようです。下野した当初は、板垣退助らの民選議院設立建白書の署名運動に参加していましたが、佐賀に帰ると、征韓強行、欧化反対の反動士族の首魁となって、1874年に挙兵したというのが佐賀の乱の次第です(※ 江藤新平関係文書)。

 その江藤が最期の際になって、岩倉には是非とも言っておきたいことがあったのでしょう。

 同じように国のために命をかけて尽力し、新政府のために大きな業績を残してきた江藤新平でした。それにもかかわらず、岩倉らと対立したために、結局は刑死の憂き目に遭うことになったのです。

 鍋島が帰国した際には、すでにこの騒動は収まっていました。

■西洋風の貴族の在り方

 日本に帰国して早々、鍋島に、内命「西洋風ノ貴族風ヲ学フベシ」が下りました。今度は、「西洋風の貴族らしさを学び」、それを日本に持ち帰るようにというのが任務でした。当然のことながら、単身では用が果たせません。鍋島直大はこの時、胤子夫人同伴で再渡欧しています。

 ロンドンに着くと、鍋島は学び、英国を中心に各地を巡遊して貴族たちと交流する一方、「プリンス・ナベシマ」として社交界でも活躍しました。近代国家として体裁を整えるには、これまで武士であった鍋島も社交を学び、洗練された立ち居振る舞いを学ばなければなりませんでした。

 もっとも、オックスフォード大学で文学を学び、研究していた鍋島にとって、この任務は適任だったかもしれません。次第に、西洋の社交術を身につけ、国際感覚を肌に沁み込ませていきました。

 1878年6月12日に再び、帰国の途に着きましたが、滞在中に、ロンドンで撮影された夫妻の写真があります。

(※ 文化遺産オンライン。図をクリックすると、拡大します)

 この写真を見ると、まだ洋服が馴染んでいないように思えます。いかにも借り物の服を着ているように見えますが、西洋文化、とくに西洋風の貴族の在り方を学ぼうとする気概だけは感じられます。

 帰国すると、鍋島は、翌1879年には外務省御用掛となり、同年、渡辺洪基、榎本武揚らと東京地学協会を設立しました。さらに、徳大寺実則、寺島宗則らと、共同競馬会社の設立などにも動いています。イギリスで得た知識や経験を踏まえ、次々と、イギリス貴族が行っていた事業を立ち上げていました。

■東京地学協会と共同競馬会社の設立

 東京地学協会にしても、共同競馬会社にしても、イギリス貴族が行っていることをそのまま、鍋島は日本に持ち込んでいたのです。

 たとえば、イギリスでは1830年に王立地学学会が設立されています。選ばれたメンバーがインフォーマルな晩餐会を開催して、最近の科学的な問題や発想について議論する「ダイニングクラブ」として始まっていました。

 当初の活動は、アフリカ、インド、極地、中央アジアなどの探検などでした。いずれも植民地支配と密接に関連しています。いかにも7つの海を支配したイギリス貴族らしい、趣味と実益をかねたクラブといえます。

こちら → https://www.rgs.org/about/

 こういう組織が日本にも必要だと思ったのでしょう、鍋島は、帰国した翌年の1879年に、地学協会を設立しています。

こちら → http://www.geog.or.jp/profile.html

 こちらは当初、探検記や外国事情を掲載する年報を発行し、地学に関する情報を発信していましたが、1893年に地学会と合併したことによって、地学の専門学術誌としての「地学雑誌」を引き継ぐことになりました。以後、地学協会の活動も、「地」を「読み」、「地」から「学ぶ」専門学術の発展・継承に貢献することを目指し、現在に至っています。

 一方、競馬は、当初からイギリス貴族の娯楽とみられています。有名なアスコット競馬場に貴族たちが着飾って集まり、観戦する様子を、私は映画で見たことがあります。実は、このアスコット競馬場はアン王女(在位1702年から1714年)が創設し、保護してきた競馬場でした。

 競馬にはさまざまな面で、王室が関わることが多く、ジェームズⅠ世(在位1603年から1625年)は、ニューマーケットがイギリス競馬の中心地となる礎を築きましたし、チャールズⅡ世(在位1660年から1685年)は、自らが手綱を取ってレースで優勝したこともあります。イギリスの競馬は王室の保護奨励の下で発展してきたのです。(※ https://www.jra.go.jp/keiba/overseas/country/gbr/

 それを見倣って、鍋島は、1879年、徳大寺実則、寺島宗則らと、共同競馬会社(Union Race Club)を設立しました。皇族、華族、政府高官、高級将校、財界人らがメンバーになっいる組織で、いってみれば、競馬を主催する社交クラブでした。

 共同競馬会社が催す競馬は、外務卿井上馨の提唱する欧風化政策に沿って、屋外の鹿鳴館とも位置付けられていました。上野不忍池で春、秋に開催され、東京在住の上流階級が集う華やかな社交の場となっていました。

 運営は、メンバーからの会費と宮内省、農商務省、陸軍の支援で行われていましたが、馬券が発売されることはなく、財政的に行き詰って、1892年には解散しています。

 これらを見ると、西洋文化を移植しても、根付くものもあれば、根付かないものもあるということの一例といえます。

■イタリア特命全権大使

 日本で落ち着く間もなく、1880年3月8日に鍋島直大は、駐イタリア特命全権公使の辞令を受けます。ところが、3月30日に妻胤子が亡くなってしまいました。これではイタリアでの活動がスムーズに進みません。急遽、権大納言広橋胤保の娘、栄子との婚約を済ませたうえで、鍋島は一足先にローマへ赴きました。

 1881年4月、栄子の到着を待って、鍋島は日本公使館で結婚式を挙げています。栄子は最初、岩倉具視の長男である具義と結婚していましたが、先立たれていました。ですから、直大とはどちらも再婚同士のカップルでした。

 イタリア赴任時代の鍋島直大を描いた肖像画があります。

(※ 油彩、カンヴァス、132.5×84.3㎝、1881年、徴古館)

 駐イタリア特命全権公使として赴任していた鍋島直大に、書記官として随行していた百武兼行が描いた大礼服姿の立像です。

 『集書』の「公使館舞會ノ概略」には、「公使閣下大礼服ノ真像本年百武書記官ヲ暇毎ニ丹精ヲ凝シテ揮写セラレシ一大額ヲ掲ク」との記述があるそうです。この作品は、百武が公務の合間をぬって描いたことが分かります。

 額には鍋島家の家紋である杏葉紋が、上半分に彫り込まれ、右下隅には日本列島、左下隅にはイタリア半島が彫り込まれています。鍋島家と日本、イタリアが調和するよう、額縁がデザインされているのです。直大の肖像画を収めるのにふさわしい格式の高さが感じられます。

 顔の部分をもう少し、アップして見てみることにしましょう。

(※ 前掲、部分。)

 間近でみると、直大の面持ちはなんとも優雅で、繊細です。英国を中心とした貴族たちの社交界で、「プリンス・ナベシマ」と呼ばれていたというのもわかります。これなら、イタリアの社交界でも十分、通用するでしょう。穏やかでありながら、凛とした威厳もあります。

 実際、鍋島がイギリスで磨いてきた社交術は、イタリアの王室や貴族たちとの社交の場で発揮されていたようです。

 大阪大学特任講師のカルロ・エドアルド・ポッツィ(Carlo Edoardo Pozzi)氏は、イタリアに保管されている書簡や公文書、新聞記事などを渉猟し、鍋島直大が当時、どのような外交的な働きをしていたのかを検証しています。

 その結果、鍋島は、日本公使館で華麗な夜会を度々開催し、それがマスコミに取材され、新聞に取り上げられていたと記しています。イタリア人に対する日本の認知度を高めていたのです。

 さらに、イタリア王室や上流階級の人々から、「プリンチペ・ナベシマ」として人気を博していたと報告しています。

(※ 「駐イタリア日本特命全権公使鍋島直大と日伊関係史におけるその役割(1880-1882)」、『イタリア学会誌』、70巻、2020年、p120-121.)

 鍋島栄子の写真も見つかりました。

(※ 文化遺産オンライン。図をクリックすると、拡大します)

 いつ頃撮影されたものかはわかりませんが、当時の日本人には珍しく、洋服の着こなしがこなれています。社交的でドレスがよく似合い、人あしらいが上手な栄子は、イタリアでも評判になっていたともいわれています。

 夫妻ともども、「ヨーロッパの貴族風」をしっかりと身につけていたのでしょう。そういう点で、鍋島はまさに、新政府から与えられた任務を完了させていたのです。

■可視化された鹿鳴館外交

 帰国した直大は、宮中顧問官となって、皇室の典礼・儀式に関する諮問に応ずる任務に就きました。明治天皇に仕えて、厚い信頼を得る一方、外務卿井上馨が主導する欧化政策の旗振り役となって、活躍することになります。

 1883年7月に鹿鳴館が建設されると、西洋貴族の礼儀作法に詳しい直大と栄子夫妻は、賓客の接待に欠かせない存在になりました。イタリアで磨きをかけた社交術に加え、ダンスが得意な栄子は、陸奥宗光夫人の亮子や戸田夫人の極子とともに「鹿鳴館の華」と称えられています。

 楊洲周延が『貴顕舞踏の略図』の中で、鹿鳴館での舞踏会の様子を描いています。

 ご紹介しましょう。

(※ Wikimedia、1888年、個人蔵)

 男性たちの顔や服はほとんど同じに見えます。違いと言えば、せいぜい髭があるかないかという程度です。女性たちも顔つきやヘヤスタイルは似通っています。ところが、来ているドレスの色や生地、模様などは個性的で、とても華やかです。

 壁側では女性が二人、ハープシコードのようなものを弾いており、当時の日本人の日常とは別世界が創り出されています。西洋風の華やかさが随所に見られ、目を楽しませてくれますが、一般の人からは反感を買うかもしれません。

 彼女たちが着ているドレスはどれも、カラフルで、手の込んだ模様と色合いがとても印象的です。

 一見、華やかですが、見ているうちに、なんともいえず哀れに思えてきました。女性たちは豪華なドレスに身をつつみ、ダンスをしていますが、身の丈にあっておらず、いじらしく思えてきたのです。

 つい、この前までは着物を着て暮らしていたのが、思いっきり背伸びをして、洋風を気取っているとしか見えないのです。そこには健気さはありますが、楽しさは伝わってきません。ひょっとしたら、これは当時の日本を象徴しているのではないかという気がしてきます。

 この浮世絵には、井上馨の欧化政策がみごとなまでに視覚化されていました。

 興味深いことに、当時、日本にいたフランス人の挿絵画家ビゴー(Georges Ferdinand Bigot, 1860 – 1927)もまた、鹿鳴館の様子をいくつか描いています。『トバエ』(TÔBAÉ)第1号に掲載された絵をご紹介しましょう。

(※ 『トバエ』(TÔBAÉ)第1号、1887年)

 背の高い西洋人に対し、日本人女性がカーテシー(Curtsy)をしている姿が描かれています。カーテシーというのは、片足を引いて軽く膝を曲げる所作のことで、ヨーロッパの伝統的な挨拶の仕方です。女性が位の高い者に対して行いますが、男性は行いません。

 この日本人女性は、男性に向かってカーテシーをしているので、欧米の礼儀作法をわきまえていることはわかります。ただ、その所作が優雅ではなく、元々、背が低いのがさらに低く見え、卑屈に見えてしまいます。隣の男性も背が低く、二人とも身体の割に顔が大きいので、どちらかといえば、ぶざまに見えます。

 当時の鹿鳴館の様子を外国人の眼から見れば、このように見えたのでしょう。

 この絵は、欧米から見た当時の日本を象徴しているようにも見えます。当時の日本は、形式の模倣から西洋世界に溶け込もうとしていましたが、内実が伴わないので、そぐわず、浮いて見えるのです。

 それはさまざまな領域でいえることでしょう。西洋から移植しても、日本文化にそぐわなければ、根付かないのです。

■岩倉使節団の足跡

 それでは、岩倉使節団の足跡を、鍋島直大のケースから振り返って見ることにしましょう。

 条約改正交渉の準備および欧米の技術、文化、制度、社会を視察し、調査するため、岩倉使節団は欧米に派遣されました。その中に留学生として随行したのが鍋島直大でした。

 イギリス、オックスフォード大学で文学を学び、社交を通して、イギリス貴族の所作、振舞を身に着けました。次に赴任したイタリアでは、さらに社交術に磨きをかけ、王室や貴族、政府要人との懇意な関係を構築しました。鍋島は当時の日本では、欧米要人と交流できる数少ない逸材でした。

 一方、欧化政策の一環として鹿鳴館を建て、外国要人を招いて歓待しようとしたのが、外務卿井上馨でした。当時の日本は、関税自主権の回復、治外法権の撤廃など、不平等条約改正交渉の準備に取り組んでおり、日本が欧米と同じような近代国家だということを理解してもらう必要がありました。

 欧州貴族の社交術を知る鍋島夫妻は、当然のことながら、井上の提唱する鹿鳴館政策に協力しました。おかげで、日本の社交にも少しずつ洋風マナーが伝わっていきました。案外、外国要人も好感を抱いてくれていたかもしれません。少なくとも、日本人の必死さ加減は伝わったことでしょう。

 ところが、鹿鳴館などの井上の極端な欧化政策が、国内に強い反感を呼び、1887年には外務大臣を辞任せざるをえませんでした。1883年に始まった鹿鳴館時代はわずか4年で終了したのです。パフォーマンスが派手だったわりには、外交交渉にメリットがあったわけではなく、条約改正交渉の役にも立ちませんでした。

 岩倉使節団派遣に始まる不平等条約改正交渉は、その後も粘り強く続けられました。陸奥宗光が外務大臣だった1894年、日英通商航海条約を調印をし、領事裁判権撤廃・対等の最恵国待遇・関税自主権の一部回復を締結しました。その後、他の14か国とも同じ内容の条約を調印しました。まずは治外法権の撤廃を実現することができたのです。

 1894年時点では、一部しか回復していなかった関税自主権ですが、小村寿太郎が外相だった1911年に完全に回復しました。差別的関税を撤廃する権利を獲得したのです。

 これでようやく、日本が対等に欧米に立ち向かっていける環境が整備されました。

 使節団にまつわるエピソードをいくつかみていくと、岩倉使節団の派遣そのものが何人もの逸材を生み出していることがわかります。欧米とのさまざまな交流を通して、日本人の能力が涵養され、やがて、日本のために貢献することができるようになっているのです。

 その好例を、今回、ご紹介した鍋島直大のケースに見ることができます。新政府が英断を下し、多数の意欲ある逸材を派遣したからにほかなりません。(2023/5/31 香取淳子)

ゴダールを偲ぶ ⑤:『気狂いピエロ』の俳優と監督、それぞれの晩年と死

■『気狂いピエロ』を振り返る

 そもそも私が、『気狂いピエロ』について書こうと思ったのは、ゴダールの死がきっかけでした。ゴダールが亡くなったという報道を見て、若いころ、惹きつけられた『気狂いピエロ』を思い出し、再考してみようと思ったのでした。

 若いころの記憶に沿って、ようやくラストシーンまでたどり着いたのが、前回でした。『気狂いピエロ』を振り返ることいよって、当時、何を考えていたのか、何をしたかったのか、何に気持ちが囚われていたのかが思い起こされ、懐かしい気持ちでいっぱいになりました。

 『気狂いピエロ』はまさに私の青春とセットになった映画だったのです。

 あれから遥かな年月を重ねた今、あの映画から、何を読み取ったかといえば、「晩年」あるいは、「死」でした。

 ゴダールは冒頭のシーンで、ベラスケスの晩年の絵画について、エリー・フォールの見解を引用し、ナレーションで、次のように流していました。

 「ベラスケスは50歳をすぎ、事物を明確に描こうとせず、その周りを黄昏と共にさまよった」

 実際に、エリー・フォールは本の中で、次のように書いていました。

 「ベラスケスは晩年に近づくほど、こうした黄昏時の諧調をいっそう探し求め、おのが心の誇りと慎み深さを表現する神秘に絵画に移行させようとした。彼は昼間を放棄し、室内の半暗がりに心を奪われていた。そこでは、移ろいがいっそう微妙かつ親密なものとなり、ガラスのなかの反映、外から射し込む光線、青い果実のごとき綿毛に覆われた若い娘の顔によって神秘性が増幅され、娘の顔は、散らばった薄明かりをことごとくそのぼんやりとした不透明な光のなかに吸収するように見える」(※ エリー・フォール、谷川渥・水野千依訳『美術史 4 近代美術』、p.147.  2007年)

 ベラスケスは晩年になって、色彩の捉え方、光の扱い方、対象の描き方に変化が生まれたというのです。

 そのことがよほど印象深かったのでしょう。ゴダールは冒頭シーンで、晩年になってからのベラスケスの変貌に言及していました。

 その一方で、ラストシーンでは、主人公が爆死した後、海と空が調和し、溶け合った映像を使い、「見つかった!永遠が」というセリフをかぶせていました。ランボーの詩を引用し、まるで生と死が溶け合っているかのような映像に、「永遠」という言葉をかぶせたのです。

 今回、改めて『気狂いピエロ』を観て、私は、晩年のベラスケスを引用した冒頭シーンと、「見つかった!永遠」という言葉をかぶせたラストシーンに、若い頃には気づかなかった新たな意味を見出したような気がしました。

 冒頭シーンでは、晩年になって事物の境界を曖昧にしはじめたベラスケスに着目し、ラストシーンでは、海と空が溶け合った光景に永遠を見ています。両者に共通する認識は、事物には境界がなく、すべてが連続しているということでした。

 当時、ゴダールは、「映画というのは、事物そのものではなく、事物と事物の間にあるもの」だと考えていました。境界のない世界こそが、自然界の本来の姿であり、宇宙の真の姿なのだと認識しており、それこそが映画が表現すべきものと考えていたのです。

 わずか35歳ごろの見解です。

 ベラスケスが晩年になってようやくたどり着くことのできた境地に、ゴダールは35歳で達していたのです。絵画を愛で、哲学、文学を好み、常に、新しい表現方法を模索してきたゴダールだからこそ、得ることができた老成し、熟成した境地だといえるかもしれません。

 長い時を経て、再び観たこの映画の冒頭シーンとラストシーンから、私は、生は死によって突然、断ち切られるのではなく、生と死は連続しているというゴダールの見解を受け取りました。

 若い頃は意識しなかったのに、同じシーンから、新たに深淵な意味を意味だし、とても惹きつけられました。

 それだけに、ゴダール自身の晩年は果たして、どのようなものだったのか、気になります。

■ゴダールの晩年

 手掛かりとして、老いてからのゴダールの写真を探してみました。撮影日がわかるものが少なく、かろうじて見つけたのが、下の写真です。

(※ https://www.shutterstock.com/g/makarenkodenis/sets/76481より)

 これは、写真家のDenis Makarenko氏が、2001年のカンヌ映画祭で撮影した写真です。当時、彼は多くの参加者を撮り、2011年11月12日にアップした48枚のうちの1枚です。老いてはいますが、むしろ落ち着きを円熟味を感じさせられます。

 ゴダールは1930年生まれですから、撮影時点では71歳、まだ晩年とはいえません。

 さらに、探して見ました。

 すると、2013年11月にスイス・ローザンヌで撮影された写真が見つかりました。83歳の頃の写真です。

(※ 2013年11月、EPA通信)

 まだ晩年とはいえませんが、それでも、71歳の時より明らかに老けて見えます。頬はこけ、髪の毛は少なくなり、ほぼ真っ白になっていました。依然として目に光があり、強い知性は感じられますが、やはり、83歳なりの老いがそこかしこに見受けられます。

 さらに最近の写真はないかと探してみました。すると、撮影日は記されていませんが、明らかに老いて見える写真が見つかりました。

 葉巻を吹かしながら、ぼんやりしているゴダールの姿が捉えられています。若い頃から何度も、タバコを嗜む姿が撮影されてきましたが、その後も、禁煙することなく過ごしてきたのでしょう、いかにもゴダールらしい生活ぶりの一端がわかる写真です。

 残念ながら、こちらはいつ撮影されたものかはわかりません。ただ、明らかに髪の毛が少なくなっていますし、目がやや虚ろです。気力を失っているようにすら見えます。おそらく、晩年に近い頃の写真なのでしょう。

(※ https://mikiki.tokyo.jp/articles/-/21558より)

 実は、この写真は、菊地成孔氏が、ゴダールの最新作、『イメージの本』について書いた文章に添えられていたものでした。ひょっとしたら、『イメージの本』が製作された頃の写真なのかもしれません。

 そこで、『イメージの本』の公式サイトを見てみると、なんとこの写真が掲載されていました。

 そこには、次のような説明がありました。

 「88歳を迎えてなお、世界の最先端でエネルギッシュに創作活動に取り組む監督の最新作『イメージの本』は、新たに撮影した映像に、様々な<絵画>、<映画>、<文章>、<音楽>を巧みにコラージュし、現代の暴力、戦争、不和などに満ちた世界に対する“怒り”をのせて、この世界が向かおうとする未来を指し示す 5 章からなる物語。本作で、ゴダール本人がナレーションも担当している。」(※ http://jlg.jp/より)

 先ほどの写真は、ゴダール88歳の時のものだったのです。しかも、この年、新しい映画『イメージの本』を製作、公開していました。まだ現役の監督として、映画を製作していた頃の写真だったのです。

 晩年の作品がどのようなものなのか、ちょっと覗いてみることにしましょう。

■映画『イメージの本』、シノプシスと予告編

 まず、映画の公式サイトから、シノプシスを見てみることにしましょう。

 「かつて私たちがどうやって思考を鍛えていたか、覚えている?」

 「たいてい、夢から出発していたものだ」

 「真っ暗闇の中で、これほど鮮やかな色彩が心に浮かぶなんてことが、どうして起こりうるのか、私たちは不思議に思っていた」

 「穏やかな、か細い声で、重大な事柄が語られる」

 「大切で、驚きを誘う、深く、正しい事柄が、嵐の夜に書き込まれた悪夢みたいだ」

 「西欧人の眼に」

 「失われた楽園たち」

 「戦争はここにある」 (※ http://jlg.jp/

 まるで詩のように綴られた数行の字句が、この作品のシノプシスでした。

 とてもシンプルですが、老いても衰えないゴダールの思索への思い、そして、老いてなお盛んになる人間への関心、社会への関心などが浮き彫りにされています。

 公式サイトには、2分16秒の予告映像が載せられていました。それでは、予告編を見てみることにしましょう。

こちら → https://youtu.be/vqYbehIzLw0

(※ コマーシャルはスキップするか、×で消してください)

 夢を抱き、思索を楽しみ、世界を新鮮な目で見つめることに、ゴダールは喜びを覚えてきました。いってみれば、知を求める人間ならではの楽園です。ところが、そうした楽園を人々はいつのまにか、失いつつあります。

 挙句の果ては、さまざまな形態の戦争を受け入れざるを得ない状況に追い詰められていくのではないかとゴダールは恐れたのでしょう。夢から出発したはずの心的衝動が、やがては、世界のダークサイトに到達せざるをえなくなることへの強い危機感が、この作品から感じられるのです。

 ゴダールがこの映画を製作した背後にあるのは、おそらく、創作活動を支える知の基盤が崩壊しつつあることへの不安なのでしょう。あるいは、人間味を失いつつある現代社会に対する危機感ともいえるでしょう。

 そういえば、『カイエ・デュ・シネマ』が、ゴダールの死を悼み、「ジャン=リュック・ゴダールが死んだ」という一文から始まる長い追悼文を公開していました。

 『カイエ・デュ・シネマ』は、ゴダールが若いころ、フランソワ・トリュフォーやエリック・ロメールらと共に、映画批評を書いていた、ヌーヴェルヴァーグを代表する映画批評誌です。

 その『カイエ・デュ・シネマ』が、ゴダールの作品は「古典になるだろう」と予想していました。さらに、ピカソやマティス、ジョイスら近代の偉人たちと同様に、ゴダールの芸術は「古いものへの膨大な知識に根差したものだった」と分析しています。(※ https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2209/14/news163.html

 ゴダールが、ピカソやマティス、ジョイスらのように、これまでの文学、哲学、美術、音楽、映画などを踏まえたうえで、画期的な世界を切り開いたことを称賛しているのです。

 実際、『イメージの本』は、さまざまなアーカイブ映像で構成され、84分の映画に仕上げられていました。小説、詩、映画、音楽、美術など芸術作品や、記録映像を断片的に引用し、ゴダールの内面世界が表現されていたのです。

 原爆映像があるかと思えば、デモや乱闘、銃撃シーンがあり、戦争や暴力への怒りが表現されていました。そうかと思えば、絵画、音楽、映画などの引用から、人を愛することの素晴らしさが伝えられていました。

 引用された作品の一例を挙げてみましょう。

■『大砂塵』(Johnny Guitar, 1954年, Nicholas Ray監督)

 映画から引用されたものに、『大砂塵』の一シーンがあります。

(※ 『イメージの本』予告映像より)

 男性の肩越しに撮影されたこのシーンでは、女性が目を見開き、男性を見つめる表情が印象的です。女性の顔だけがライトアップされ、その心情が強く観客の心に残るよう演出されています。

 映画『大砂塵』では、まだ鉄道も通っていない鉱山の町を舞台に、ストーリーが展開されます。上記のシーンに登場しつぁ女性は、男たちが集まる酒場の主人ヴィエンナです。堅固な意思をもつヴィエンナを演じたのが、ジョーン・クロフォード(Joan Crawford, 1904-1977)でした。

 ゴダールはよほど、この映画が気に入っていたのでしょう。『気狂いピエロ』でも、冒頭のシーンで触れていました。フェルディナンが妻に、『大砂塵』は見た方がいいと勧めていたことを思い出します。

 私も、『大砂塵』を観てみました。典型的な西部劇のストーリー展開だと思いましたが、その中に、女性同士の決闘という要素が取り入れられており、新鮮味がありました。それまでの西部劇とは一線を画した興趣があって、惹きつけられました。

 西部劇というフォーマットに、女性同士の決闘という新奇性を組み込みながら、愛に潜む暴力性がしっかりと浮き彫りにされていたのです。その組立てが興味深く、時を経てもなお風化することのない、素晴らしい映画だと思いました。

 言葉だけでは伝わりにくいでしょうから、この映画のサワリの部分をご紹介することにしましょう。

こちら → https://youtu.be/ZRsi9KpvDaU

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 女性同士の決闘シーンでは、思わず、ヴィエンナのもとに駆け寄ろうとしたキッドを、エマが撃ち殺し、それを見たヴィエンナが、エマを撃ち殺します。その結果、生き残ったのが、ヴィエンナとジョニー・ギター、愛し合う二人といった次第です。

 いかにも西部劇の世界でした。愛や志が銃によって支えられ、銃撃戦で生き残った者の意思が成就されるのです。一見、単純な西部劇のように見えて、実は、その単純さの中に、愛の背後にある暴力性が表現されていました。

 ペギー・リー(Peggy Lee, 1920-2002)が歌う哀愁のある主題歌が、この映画に興趣を添えていたことを付け加えておく必要があるでしょう。

 この映画がフランスで公開されると、カイエ・デュ・シネマの同人たちがこの映画を熱狂的に支持したそうです。後に映画監督としてデビューしたエリック・ロメールやジャン=リュック・ゴダールは、映画の中でたびたび『大砂塵』のシーンを引用したり、タイトルを口にしたりしています。(※ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%A0%82%E5%A1%B5

 たしかに、『気狂いピエロ』でも、『イメージの本』でも、ゴダールは『大砂塵』を引用していました。彼にとっての映画製作を支える何かが、この作品にはあるのでしょう。

 『気狂いピエロ』では、フィルム・ノアール系の展開が印象に残りました。そして、『イメージの本』では、ランダムに引用されたさまざまな暴力シーンが印象に残ります。総合すると、ゴダールは、愛を暴力とセットで表現されるべきと認識していた可能性があります。

■遺作としての映画『イメージの本』?

 さて、映画『イメージの本』は、88歳のゴダールが、4年の歳月をかけて製作した渾身の作品でした。ゴダールはタイトルを、『イメージの本』(Le Livre d’image)とつけました。字義からいえば、映像に関する本、あるいは、映像のカタログと捉えることができるでしょう。

 それにしてもなぜ、映画のタイトルに、「本」という語を入れたのでしょうか。しかも、本のページをめくるカットが随所に挿入されています。

 ゴダールは、映像もまた、文字情報のように、ページを振って格納できるようなイメージで捉えていたからでしょうか。そうだとすると、ページをめくるカットが挿入されていた理由もわかります。

 ページを繰って本の世界に入っていくように、映像もまた文字情報と同様、保管された貯蔵庫に何時でも容易にアクセスできるという感覚でいたのでしょう。

 実際、ゴダールは『イメージの本』を、さまざまなアーカイブ映像でつなぎ、84分の映画に仕上げていました。そこに、映像も文字と同様に、断片化し、知識として整理して格納できるというゴダールの認識を見ることができます。

 1960年代に、さまざまな映像をコラージュして創り出したのが、ゴダール独特の世界でした。文章の構成のように、線的にストーリーを組立て、映像を構成するのではなく、大したシナリオもなく、半ば即興的に撮影した映像をランダムに構成するのです。

 ゴダールは、ヌーヴェルヴァーグを生んだ監督として一世を風靡しましたが、映画『イメージの本』を見ると、老いてもなお、その認識世界は変わらないことがわかります。

 さて、『イメージの本』は、監督、脚本、編集はもちろん、ナレーションもまた、ゴダールが務めました。80歳後半を過ぎてからの旺盛な創作欲に驚かざるをえません。

 この作品は、2018年に開催された第71回カンヌ映画祭のコンペティション部門に出品されました。審査員たちは、映画祭史上初の「スペシャル・パルムドール」をゴダールに授与しました。パルム・ドールを超越する賞として、新たに設定された賞でした。

 最初に上映されたのは、2018年11月、スイスのテアトルヴィディローザンヌでした。ゴダールゆかりの地の映画館です。亡くなったのが、2022年9月13日ですから、この作品が製作され、公開されてから、3年数か月を経て、ゴダールはこの世を去ったことになります。この作品はゴダールの遺作になりました。

 興味深いことに、アンナ・カリーナは、2018年に開催された第71回カンヌ映画祭に出席していました。ゴダールの新作を観るためだったのかもしれません。

 ゴダールが自ら死を選んだ2022年9月には、『気狂いピエロ』に登場した俳優たちは皆、亡くなっていました。

 破天荒な役を演じて、観客を惹きつけたジャン・ポール・ベルモンドとアンナ・カリーナは、果たして、どのような晩年を過ごし、どのようにして亡くなったのでしょうか。

 まず、ジャン・ポール・ベルモンドからみていきましょう。

■ジャン・ポール・ベルモンド

 調べてみると、ジャン・ポール・ベルモンドは、2021年9月6日に、88歳で逝去していました。ベルモンドの死因は公表されていませんが、晩年は脳梗塞を発症し、身体が不自由だったそうです。

 そこで、晩年の写真を探して見ました。

 2019年10月18日、ブリュッセルで開催されたゴールデン グローブ・ ボクシング授賞式にゲスト出演した際、撮影された写真を見つけることができました。

(※ https://hollywoodlife.com/feature/who-is-jean-paul-belmondo-french-actor-dead-4509823/

 ベルモンドは1933年生まれですから、86歳の時の写真です。亡くなる2年前の写真ですから、ほぼ晩年のものといっていいでしょう。顔も頭髪も身体も、明らかに老いています。

 ところが、左手の指にはすべて、大きなリングをはめており、いかにも往年のスターであることを感じさせられます。ただ、腹部を見ると、上着のボタンが嵌らないほど、太っており、健康状態には問題があったのではないかと思わせられます。

 さらに、写真を探してみると、その3年前、2016年9月7日に撮影された写真が見つかりました。こちらは83歳の時の写真です。

(※ Andreas Rentz/Getty Images Europe)

 2016年9月8日にベルモンドは、第 73 回ベネチア映画祭で、栄誉金獅子賞を受賞しましたが、その時の写真です。ベルモンドの隣にいる女性はソフィー・マルソーです。フランス人の女優、監督、脚本家ですが、この時、足の悪いベルモンドを気遣い、支えていました。

 杖をつき、ソフィー・マルソーに支えられて歩くベルモンドを見ると、すでに、この頃から体調がすぐれなかったことがわかります。

 晩年に近い2枚の写真からは、ベルモンドが、83歳でベネチア映画祭で金獅子賞を受賞し、86歳でゴールデン グローブ・ ボクシング授賞式にゲストとして迎えられていることがわかりました。

 最晩年の2年間はどうだったのかわかりませんが、少なくとも、老いてなお俳優として評価され、好きだったボクシングで晴れの舞台を踏ませてもらっていました。

 上記二つの写真に見られるように、人々に囲まれて笑みを浮かべた表情はまるで好々爺のように見えます。健康こそ優れなかったかもしれませんが、ベルモンドはそれなりに充実した人生を送ったのではないかと思います。

 それでは、アンナ・カリーナはどうだったのでしょうか。

■アンナ・カリーナ

 調べてみると、アンナ・カリーナは、2019年12月14日に79歳で亡くなっています。死因は癌でした。

 やはり、晩年の写真を探してみると、2018年5月6日、第71回カンヌ映画祭の際、撮影された写真が見つかりました。

(※ https://natalie.mu/eiga/news/359604

 カリーナは1940年生まれですから、この時、78歳、晩年に近い頃の写真です。

 まず、目の周りの濃い化粧が印象的です。そして、目元や口元、首筋に隠そうとしても隠し切れない老いが見られます。とはいえ、決して、崩れているとはいえません。老いてもなお、それなりに姿形が保たれているといっていいでしょう。日頃、規則正しい生活をしていたように思えます。

 第71回のカンヌ映画祭に参加していたということは、おそらく、ゴダールの新作映画『イメージの本』が、「スペシャル・パルムドール」を受賞したことを祝うためだったのでしょう。

 カリーナにとって、ゴダールは忘れがたい人物だったはずです。78歳になってカンヌに駆け付けるほど、エールを送りたい気持ちが強かったのだと思います。

 1960年代、カリーナは、ゴダールに愛され、愛し、至福の時を過ごしました。ゴダールの初期作品のほとんどに出演していたカリーナは、ゴダールの名声が高まるにつれ、一躍、ヌーヴェルヴァーグのスターになっていきました。監督として主演女優として、二人はこの頃、映画史に残る業績を残したのです。

 その頃の写真が見つかりました。

(※ Agnès Varda撮影)

 ベルギー出身のフランスの映画監督アニエス・ヴァルダ(Agnès Varda)氏が撮影した写真です。彼女もまた、ヌーヴェルヴァーグの映画監督でした。

 さらに、こんな写真もありました。

(※ https://www.theguardian.com/film/2011/jul/12/jean-luc-godard-film-socialisme

 2011年7月12日付、ガーディアン紙に掲載された記事の写真です。

 60年代に撮影されたこれら二枚の写真を見ると、当時、ゴダールとカリーナがどれほど深く、愛し合っていたかがわかります。まさに愛を育みながら、同時に、映画製作に新たな息吹を吹き込んでいたのです。

 ゴダールが手掛けた初期作品のほとんどに、アンナ・カリーナが主役として起用されていました。1960年代の半ごろまで、二人は愛し合いながら、新しい感覚の映画を製作し続けていました。

 その頃のアンナ・カリーナを知るには恰好の映像が見つかりました。ゴダールの初期作品5編を簡単に紹介した動画です。

こちら → https://youtu.be/OnL8uGjk-_U

 この動画は、タイトルが、「追悼特集ジャン=リュック・ゴダール 5選」となっており、ゴダールの死を悼み、初期作品の概略が紹介されています。

 紹介されているのは、『女と男のいる舗道』(1962年)、『軽蔑』(1963年)、『はなればなれに』(1964年)、『アルファヴィル』(1965年)、『中国女』(1967年)です。

 『軽蔑』はセックス・シンボルとして有名だったブリジット・バルドーが起用されていますが、それすらも、内容は、当時のゴダールとカリーナの関係を反映されたものだったといわれています。

 また、『中国女』は、後にゴダールの妻になるアンヌ・ビアゼムスキー(Anne Wiazemsky)が主演を務めており、カリーナは出演していません。ゴダールとは1965年に離婚していました。

 上記の映像では取り上げられた5作品のうち3作品に、アンナ・カリーナが起用されています。ゴダールが創り出そうとしていた世界を、カリーナなら表現することができたからでした。

 コケティッシュな魅力があって、謎めいているかと思えば、少女のようでいて、既成の枠にとらわれない奔放さがありました。若い頃のカリーナには、大きく変貌する社会に沿って、しなやかに表現できる可塑性が感じられました。

 この動画で紹介されたゴダール初期作品のうち3作品は、いずれも、カリーナの一種独特の魅力を知るには恰好のものだといえるでしょう。

■ベルモンドとカリーナの死

 思い返せば、ジャン・ポール・ベルモンドにしても、アンナ・カリーナにしても、『気狂いピエロ』の中では、壮絶な死を遂げていました。まさに劇的な死です。とくに、ベルモンドが演じたフェルディナンの爆死シーンは壮絶でした。

 生と死の間に境目がなく、連続していることを表現するには、そのような劇的な死を設定が必要だったのでしょう。物理的に身体が破壊されたことを示さなければ、身体と精神の分離ができません。劇的な爆死シーンのおかげで、ラストシーンの風景にかぶるナレーションが強く、心に沁みました。

「見つかった!何が?」「永遠」

 身体は明らかに死に絶えたとしても、心にはまだ「永遠」を見つける余裕があるのです。生と死の連続性は、精神においてこそ可能だということが示されていました。

 このように、『気狂いピエロ』の中では、難解で深淵な哲学ともいえるものを表現してきた二人ですが、現実には、高齢になると誰もが罹りやすい病苦に悩まされ、亡くなっていたのです。

 老いを重ねて病に冒されても、自ら死を選ぶこともなく、ありのままの死を迎え入れていたのです。両者とも、晩年の写真を見ると、その顔にはスターであった頃の面影はほとんど感じられず、刻み込まれた老いの中に、一般的な高齢者の姿しか見受けられませんでした。

 一方、ゴダールは彼らとは違って、自ら死を選び、この世を去っていきました。

■自殺幇助について語るゴダール

 ゴダールがいつ頃から、具体的に安楽死を考えるようになったのかはわかりませんが、以前から、興味関心を抱いていたようです。

 たとえば、2014年5月、スイスの公共放送ラジオ・テレビジョン・スイス(RTS)とのインタビューで、ゴダールは自殺ほう助について、次のように語っていました。

 インタビュアーが、「あなたが死ぬとき」と前置きをし、自殺ほう助について聞くと、ゴダールは、「よく主治医や弁護士にこう尋ねる。ペントバルビタール・ナトリウムやモルヒネを頼んだら、くれるのかって。でもまだ好意的な返事はないね」と答えたといいます。(※ https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2209/14/news163.html

 ペントバルビタール・ナトリウムとは、鎮静催眠薬で、過剰摂取すれば、致死性が高い薬とされています。日本では睡眠薬としては用いられておらず、注文に際しては、「向精神薬試験研究施設設置者登録証」という資格が必要なのだそうです。

 いずれにせよ、このインタビューからは、ゴダールが安楽死について常日頃から考え、自殺ほう助も視野に入れて、自身の死に方について思いを巡らせていたことが示されています。

 ゴダールはスイスで、エグジット(Exit:スイスの自殺ほう助団体)から「自殺ほう助」サービスを受けました。

 エグジットは、スイスで国内最古で最多の登録者数の自殺ほう助団体です。スイス国内の永住者、国内外に住むスイス国籍者にサービスを提供しており、サービスを受けるには、会員になる必要がありますが、その登録者数は過去最高を記録したといいます。

(※ 宇田薫、「スイスの自殺ほう助団体の会員数が過去最高に増えている理由」、swissinfo.ch. 2023年3月23日)

 私は知らなかったのですが、安楽死には二種類あるそうです。

 医師が処方した致死量の薬物を患者自身が体内に取り込んで死亡するのが、自殺ほう助です。こちらは、医師はその場におらず、自分で致死薬を飲み、死に至ることとなっています。

 一方、医師など第三者が直接、患者に致死薬を投与するのが、積極的安楽死です。例えば四肢の麻痺などで、自ら点滴のバルブを開けることができない人でも、この方法なら、命を絶つことができます(※ 宇田薫「安楽死が認められている国はどこ?」swissinfo.ch. 2023年1月31日)。

 ゴダールは「自殺幇助」とされる安楽死の方法を選択しました。

 現時点では、スイス、ドイツ、オーストリア、イタリア、アメリカの一部の州で容認されている方法です。

 この方法では、医師が薬品を注入するといったことは認められておらず、処方された致死量の薬を付添人が運び、自分で服用するという方法で死を迎えなければなりません。国内だけでなく国外からの希望者を受け入れる団体もあり、一定の条件下で認められていますが、“利己的な動機で”自殺ほう助した者には5年以下の懲役または罰金が科せられるという制限も課せられています。(※ https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2209/14/news163.html

 利用者には、この制度が悪用されないための制約が課せられているのです。

■ゴダール自身が決めた人生のラストシーン

 ゴダールは2022年9月13日、スイス西部のボー州ロールにある自宅で、安楽死を決行しました。パートナーや友人や看護婦らの前で、自分で致死薬を飲み、「みんな、ありがとう」という言葉を残して、この世を去りました(※ 宮下洋一、「ゴダール『安楽死』の瞬間」、『文芸春秋』2022年12月号、p.354.)。

 ゴダール自身が計画した、人生のラストシーンでした。最期を見届けたうちの一人は、次のように述べています。

 「ゴダールさんは、亡くなる数か月前から、重い疲労を訴えるようになりました。食べたり飲んだりすることがうまくできなかった。特に、一年くらい前から歩くことが困難になったのです。起きることも難しくなり、杖なしでは歩けませんでした」(※ 宮下洋一、前掲。p.359.)

 実は、ゴダールは数年前に、エグジットに会員登録していたことがあります。ところが、一旦、解約し、再び、会員登録をしたのが、2022年9月の初めだったといいます(※ 宮下洋一、前掲。p.361.)

 安楽死を決意していたとしても、いざとなれば、心に迷いが生じたのでしょう。ゴダールはすんなりと「自殺ほう助」に至ったわけではなく、一度は会員登録を解除していたのです。

 いよいよ身体の自由が効かなくなってきたのが、死の数か月前です。その頃には、疲労を訴え、食べたり飲んだりすることがうまくできなくなっていたといいます。

 耐え難い激痛に悩まされていたわけではなく、苦しかったわけでもなく、歩きにくくなり、食べにくく、飲みにくくなっていたので、死を決行したようです。このままでは、やがて尊厳を保った生活は難しくなると思ったのかもしれません。

 再び、ゴダールの最期に立ち会った人の言葉を聞いて見ましょう。彼は、次のように言葉を継ぎます。

 「ゴダールは、昔から独立心が強く、自分の思いを突き通して生きてきました。だから、高齢になって、思い通り身体を動かせず、制限された生活になってしまったことを恨んでいました。孤独だったから逝きたかったのかというと、違うと思います。もともと孤独な生き方でしたから。頭ははっきりしていても、身体が動きませんでした」(※ 宮下洋一、前掲。p.360.)

 ゴダールは、ベルモンドのように脳梗塞の後遺症に悩んでいたわけではなく、カリーナのように癌だったわけでもありませんでした。どうやら、病状が悪化して死期が迫っているという状態でもなかったようです。

 病気とはいえませんでしたが、ゴダールは 身体の自由は利かなくなりつつありました。杖がなければ歩くことができず、自分で立ち上がることもできなくなっていたようです。身体機能が日々、衰えていくのを実感しながら、死ぬのは今しかないと思ったのでしょう。身体を自由に扱えなくなると、自殺ほう助すら認めてもらえなくなるのです。

 さまざまなケースを見てきた宮下氏は、安楽死を選ぶ人には国籍問わずに共通点があるといいます。その特徴として、「白人、裕福、心配性、高学歴」と、「自我が強い」を挙げています。

 そのような人々は、これまで自分で人生をコントロールしてきました。だから、周りに助けられることを好まない。不幸にも病気によって、多くのことを自分でできなくなっていくと、人生を自分でコントロールできなくなってしまう。だから、安楽死を選ぶというのです。(※ https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/56712

 おそらく、ゴダールはそのような人々に分類されるのでしょう。数として決して多くはないでしょうが、今後、高齢人口の増加とともに老化が原因で安楽死を望む人は確実に増えてくるはずです。

■未来を先取りしたゴダール

 ゴダールがサービスを受けたのは、フランス語圏にある自殺ほう助団体エグジット(Exit A.D.M.D.)スイス・ロマンドでした。

 ここでは、昨年、3401人が新たに会員登録しています。その結果、2022年末時点の会員数は3万3411人となりました。同団体の自殺ほう助で死亡した人は502人だったそうです。

 2023年4月に発行されたエグジットの『会報第 78 号 』から、グラフを二つ、ご紹介しましょう。

(※ https://www.exit-romandie.ch/files/1682340681-exit-bulletin-78-web-4250.pdf

 上のグラフは2000年から2022年までの自殺ほう助の推移が示されています。これを見ると、年々、自殺ほう助で亡くなる人が増えていることがわかります。ゴダールは2022年度に亡くなった人々のうちの一人です。

 下のグラフは2018年から2022年までの新規登録者数の推移が示されています。これを見ると、2019年が突出して高いですが、2022年度も増えており、累計会員数は3万3411人にも及んでいます。

 年を追うごとに、安楽死願望者が増えていることがわかります。

 たとえば、RTE(Regional Examination Commissions Euthanasis:地域審査委員会)のデータを見ても、安楽死を希望する人は年々、増えています。安楽死をした人の病態で最も多いのは癌で、過半数を占めます。次いで、神経系疾患、心臓・血管系疾患、肺疾患、老化、認知症、精神疾患となっています。(※ https://job.minnanokaigo.com/news/kaigogaku/no1192/

 現在のところ、老化が原因で安楽死を望む人は、まだそれほど多くないようですが、今後、世界的に高齢人口が増加していくに伴い、老化が原因で安楽死を望む人も増えていくはずです。

 いくつかご紹介したように、すでに、各種データではそのような傾向が出ています。

 しかも、高齢人口の多い日本で、独居世帯が増えているのです。家族で助け合うこともできず、自力で生きていけない人が増えれば、当然のことながら、安楽死願望者も増えていくでしょう。

 実際、安楽死や自殺ほう助を認める国が増えています。

 鋭敏な時代感覚を持っていたゴダールは、未来を先取りして「自殺ほう助」サービスを受けていた可能性も考えられます。いつの世も、時代精神を一足早く結晶化し、作品化してきたのが、ゴダールです。

 まだ人々がパソコンすら手にしていなかった1965年に、ゴダールは、 『アルファヴィル』という人工知能が管理する未来都市を描いた映画を製作していました。人口動態と技術動向とを考え合わせれば、今後の社会がどうなるか、そのエッセンスを読み取るのはそう難しいことではないでしょう。

 こうして見てくると、安楽死こそが、超高齢社会にとっての重要課題になることを、ゴダールは予見していたような気がしてなりません。

 自身の創作活動の集大成として、ゴダールは、映画『イメージの本』を製作しました。その後、3年余の逡巡の期間を経た2022年9月13日、正装をし、メガネを外してベッドの上に座り、ペントバルビタール・ナトリウムを飲み干しました。

 彼を見守る身近な人々に、「ありがとう」という時間はありました。ゴダールは晩節を汚すことなく、自分で自分の人生をコントロールし、91年の生涯を終えたのです。

(2023/4/30 香取淳子)

ゴダールを偲ぶ ④:『気狂いピエロ』、芸術、そして、死

 前回は、フェルディナンが原始的な生活をし、内省的に過ごすことができた時期をご紹介しました。彼にとっては、自分を見つめることができ、何をすべきかがわかった貴重な時期でした。

 その平和な時期が終わり、今度は一転して、フェルディナンとマリアンヌは劇画的な世界に突入していきます。そこで、今回は、ノワール系アクション・ストーリーに沿った展開をご紹介していくことにしましょう。

■ノワール系アクション・ストーリーの展開

 フェルディナンとマリアンヌの原始的な生活は、いつまでも続きませんでした。マリアンヌが、耐え切れなくなってしまったのです。彼女を深く愛しているフェルディナンは、その意向に従わざるをえず、島を出ることを決意します。二人の乗った船が、まもなく着岸しようとしていた時、マリアンヌは岸辺に見知った人物を見つけ、動揺します。

 こうして島から出た途端に、マリアンヌ主導でストーリーは動いていきます。フェルディナンはその巻き添えを食う恰好で、ノワール系アクション・ストーリー風に展開していきます。

●不可解なマリアンヌ

 岸辺にいたアジア系の小人は、やはり、マリアンヌの知り合いでした。赤いオープンカーのボンネットの上に乗って、トランシーバーで誰かと連絡を取り合っています。マリアンヌが近づくと、待っていたかのように、「やっぱり、会えた」といって迎え入れます。

(※『気狂いピエロ』、2017年、KADOKAWAより)

 この男はどうやら、マリアンヌとはなんらかの利害関係がありそうです。

 マリアンヌは、フェルディナンを振り返って、「すぐ戻るわ、適当な話をして追い払うから」と声をかけ、「兄の居所も男が知ってるわ」といい添えてから、小人と共にどこかに出かけてしまいます。

 フェルディナンはさっそく、日記を広げます。

 「エロチシズム、別れ、裏切り、殺人・・・」と、なんの脈絡もなく、言葉を並べていきます。おそらく、この時の彼の心情を綴ったものでしょうが、これらの言葉はまさにノワール系ストーリーのキーワードであり、その後の展開を見通すような内容でした。

 さて、「侯爵夫人の店」で待機していたフェルディナンは、電話連絡を受け、急いで指定のビルに向かいます。その姿を、ビルの上階から無表情に見下ろしているのが、マリアンヌです。彼女が人の気配を感じて振り向くと、真後ろに小人が銃を構えて立っていました。

(※ 前掲)

 先ほど、マリアンヌと一緒に出かけた小人です。

 次に、マリアンヌの手がクローズアップされ、ハサミを観客に向けて、暗号のように動かすシーンになります。前回、ご紹介したシーンです。背後の壁にはピカソの絵が掛けられています。まさに、脱文脈化された背景の下、脱コンティニュイティ化されたつなぎになっています。

 やがて、部屋に入って来たフェルディナンが、ハサミを首に突き刺された小人が、血を流して倒れているのを発見します。

 ここで観客は、フェルディナンが初めてマリアンヌのアパートに泊まった時、隣の部屋で死んでいた男もこのように、首にハサミを突きさされ、血を流して死んでいたことを思い出します。

 マリアンヌが、ハサミでこの小人を殺したのは、明らかでした。

 小人がすでに死んでいることを確認し、フェルディナンは、部屋中をくまなく探し回りますが、マリアンヌはどこにもおらず、タイプライターの上に、赤い服が脱ぎ捨てられているだけでした。

 フェルディナンは、マリアンヌに裏切られたのです。

 疑惑から確信に至ったと思うと、まもなく、フェルディナンは二人組の男に捕まってしまいます。

●巻き込まれるフェルディナン

 ドアから、ベランダの窓から、二人の男が部屋に入って来て、逃げ場を塞ぎ、マリアンヌを探しているフェルディナンを捕まえます。

 バスタブに浸けて、殺さないように痛めつけながら、彼らは執拗に、マリアンヌの居場所と金の在り処を聞き出そうとします。

 「首は絞めるな、顔に女の服をかぶせて、水をかけろ」

 フェルディナンは赤い服を顔にすっぽりかぶせられ、その上から水をかけられて、とても苦しそうです。

 「女が仲間を殺した時、一緒にいて、俺の5万ドルを奪って逃げた」、「どうせ、マリアンヌに載せられたんだろう」、「お前に恨みはない」、「女と金の在り処をいえばいい」

 そういいながら、男たちは銃をつきつけ、服の上から水をかけ続けます。

 苦しさに耐えきれず、「侯爵夫人の店だ」と、フェルディナンは答えてしまいます。

 それを聞くなり、男たちが出かけてしまったので、残されたフェルディナンは、日記を広げ、書き出します。

 「マリアンヌの裏切り・・・」「夕方の5時は恐ろしい」「血は見たくない」そして、再び、「夕方の5時は恐ろしい」

 二人組の男たちの脅し文句から、マリアンヌの正体が少しずつわかってきました。盗み、殺人、そして、裏切り・・・、フェルディナンとは別世界の女性でした。

 いつの間にか、線路沿いを歩いているシーンになります。フェルディナンはレールの上に腰を下ろし、「血は見たくない」と繰り返します。マリアンヌが手を下した直後の死体を、二度も見てしまったのです。気持ちが錯乱し、自分を失っていたのでしょう。

 マリアンヌに裏切られたフェルディナンは、発作的に死の誘惑に駆られていたようです。

 列車の音が聞こえてくると、フェルディナンは、恐怖を避けようとするかのように、膝の間に顔を埋めます。ところが、さらに列車が近づいてくるのがわかると、さっと立ち上がり、レールから離れ、スタスタと歩き出します。

 一旦は鉄道自殺を試みますが、実際に、列車が近づいてくると、フェルディナンは怖くなって逃げだしてしまったのです。フェルディナンの人物像が図らずも、浮き彫りにされたシーンです。

 そんなフェルディナンですが、日記だけは書き続けています。

 「街や港をさまよう・・・」、「彼は探す、マリアンヌ」、「見つからずに、日々が過ぎる」、「言葉は暗闇の中でも照らす、言葉が名付ける事物を」、「言葉は純粋性を保つ」

 そして、「マリアンヌ、海」、「魂、苦味、武器」と書き続けます。

 裏切られ、盗みや殺人の実行犯だとわかっても、フェルディナンのマリアンヌを愛する気持ちが萎えることはなかったのです。

●虚構と事実

 映画館の中でフェルディナンは、上着のポケットに入れたエリー・フォールの『美術史』を取り出し、読み出します。愛読書を取り出して平静を保ち、なんとかして自分を取り戻そうとしているかのようでした。

 このシーンにも既視感があります。

 『気狂いピエロ』の冒頭で、フェルディナンがバスタブに浸かって、この本を読んでいるシーンがありました。ベラスケスについて書かれた箇所を、理解できないでいる幼い娘に、読み聞かせていたのです。

 さて、館内では、ニュースのナレーションが響いています。

 「戦線の拡大と和平交渉の失敗にもかかわらず」、「ウィルソン首相は交渉継続を表明しました」

 そして、ベトナム戦争の映像が映し出されます。

 画面に被って、女性カメラマンの、「私たちが求めるのは、真実があるとして、真実探求のためー」、「いつ虚構の人物を見捨てたかということ」という音声が流れます。

 その画面を、フェルディナンが『美術史』を手にしたまま、深刻な表情を浮かべて眺めています。

(※ 前掲)

 「いつ虚構の人物を見捨てたか」…、このフレーズが気になったのでしょう。おそらく、当時のゴダールにとっても重要なものだったに違いありません。

 このシーンは、ニュース映像が女性カメラマンのナレーションで語られ、それを『美術史』を手にしたフェルディナンが見ているという複雑な構図でした。

 ただ、この複雑な構成の中に、ゴダールが当時、求めていたと思われる創作のエッセンスがさり気なく、端的に表現されていたように思います。

 ドキュメンタリー・ベースで展開されるゴダールの実験的な映画づくりには、当時、世界から関心が寄せられていました。彼はヌーヴェルヴァーグの旗手として、注目の的になっていたのです。

 若いころの私は、ゴダールのことを、硬軟取り混ぜた知の結晶のような存在だと思っていました。

 ゴダールは、意識の流れを試行するジョイスに刺激され、ヌーヴォー・ロマンに関心を抱いていました。さらには、ベラスケスに傾倒し、印象派やキュビズムの画家たちにも興味を抱いていました。

 実際、『気狂いピエロ』の画面には数多く、印象派やキュビズムの画家たちの作品が小道具として使われています。

 映画であれ、文学であれ、絵画であれ、芸術はそもそも、虚構と事実とをないまぜにして創り上げられるものなのでしょうが、とくにゴダールは、対象を捉える視点にこだわっていたような気がします。

 再び、画面に戻りましょう。

 相変わらず、マリアンヌを探し続けているのでしょうか。フェルディナンは港を歩き、船の傍にいます。すると、ふいに、「ピエロ!」と叫ぶ声がします。

 マリアンヌが笑いながら、近づいてきます。

 「昨日、浜辺の家に行って、ノートを取って来た、最後のページを見て」、「あなたのことを詩にしたの」

 「優しくて残酷」、「現実的で、現実的でなく」、「恐ろしくて滑稽」、「夜のようで、昼のよう」、「月並みで、突飛」、「素晴らしい」・・・。

 気を引くように語りかけるマリアンヌに、フェルディナンは、「二人とも殺人の容疑者だ」と冷たく言い放ちます。マリアンヌが「怖いの?」と聞くと、「この瞬間・・・、といった途端、過去になるが、つまり、この空の青さとか、僕らの関係が重要なのだ」といいます。

 相変わらず、二人の会話はかみ合っていません。リアリストのマリアンヌに対し、ロマンティストのフェルディナンの対比がはっきりしています。

 マリアンヌは、フェルディナンのつぶやきには応えず、「兄が待っているわ」は急がせます。フェルディナンは、「死体を見慣れているんだな」とつぶやきながも、マリアンヌの要求通り、歩き始めます。

(※ 前掲)

 再び、マリアンヌ主導で事態が動いていきます。そして、二人の会話はすれ違ったまま、続きます。

 フェルディナンが、「君の話は複雑だ、事件だらけ」というと、マリアンヌは、当然のことながら、「違うわ」と否定します。すると、フェルディナンはすかさず、「チャンドラー風に僕を殴った二人組」と水責めにされたと、恨みを口にします。

 マリアンヌへの拭い難い疑念が再び、フェルディナンの胸をよぎったのでしょう。「チャンドラー風」と形容されていますが、痛い目に遭わされた経験が、彼女への不信感を募らせていることがわかります。

 チャンドラー(Raymond Thornton Chandler, 1888-1959)は、犯罪小説、ハードボイルド系探偵小説で有名なアメリカの小説家であり、脚本家です。彼が書いた小説のほとんどが映画化されていますから、ゴダールは、拷問のシーンなどを参考にしていたのかもしれません。

●失意から爆死へ

 マリアンヌは、「兄が金を奪う」、「仲間にも秘密」、「追ってきたら、殺す」、「後は?言われたとおりに」と、次々とフェルディナンに告げます。兄と会った後の段取りを伝えているのですが、まるで命令しているかのようです。フェルディナンはもはや完全に隷属状態になっています。

 そして、マリアンヌが銃を構えるシーンになります。

(※ 前掲)

 「自由と自分を守るためなら、何人でも殺せる」、「キューバ、ベトナム、イスラエルを見て」というセリフを投げかけたかと思うと、マリアンヌは二人組を殺します。時局になぞらえ、目を逸らすことによって、殺人を正当化しているのです。

 明確な目的を持つリアリストのマリアンヌに対し、愛を語り、生の実在を考えるロマンティストのフェルディナンは、ただ従うしかありませんでした。

 マリアンヌからお金の入ったカバンを受け取ったフェルディナンは、車で逃走し、その後、ボーリング場でマリアンヌに会います。そのまま行動を共にしたかったのですが、フェルディナンは拒否され、30分後、港で落ち合う約束で、カバンを渡します。

 ところが、港に着いてみると、ボートはちょうど出たばかりでした。船上でマリアンヌが兄と抱き合っているのが見えます。

 またしても、裏切られたのです。

 フェルディナンは目についた漁船に飛び乗り、後を追い、島に着きます。

 「マリアンヌ!」と叫ぶと、どこからか、いきなり銃声が聞こえてきます。そして、兄とマリアンヌがカバンを抱え、上へ上へと岩山を駆け上っていくのが見えます。とっさにフェルディナンが撃つと、兄が転げ落ち、その後、マリアンヌもまた、頭から血を流して倒れ込みます。

 フェルディナンは、マリアンヌを殺す気は毛頭、ありませんでした。

 彼女を抱きかかえて小屋に運びながら、フェルディナンは、「仕方なかった」と声を詰まらせ、ベッドに寝かせます。すると、「お水を」と力なく、マリアンヌがいいます。まだ生きているのです。

 生きていることがわかると、「君のせいだ」とフェルディナンは責めます。すると、「ごめんね、ピエロ」とマリアンヌはふりしぼるように、かすかな声を出します。いつものように、「フェルディナンだ」と反応しながらも、「もう遅い」とつぶやきます。

 マリアンヌは左右にゆっくりと首を振ったかと思うと、ガクッと脱力し、こと切れました。

(※ 前掲)

 フェルディナンは、愛する女性を自分の手で撃ち殺してしまったのです。

 場面はすぐに切り替わり、日記を書くシーンになります。

 「ダイナマイト、機関銃、武器を供給、金曜日」という言葉が並びます。

 それから、フェルディナンは交換台に電話をかけ、パリにつながるのを待ちます。その間に、倉庫でダイナマイトを探します。ついでに、近くにあった青いペンキを見つけると、受話器を持ったまま、顔に塗り始めます。

 額に塗り、鼻に塗り、頬から顎にかけて塗っていくうちに、電話が鳴って、パリの自宅とつながりました。

 「奥様はいる?」、「子どもたちは元気?」と矢継ぎ早に、質問をしていきます。電話に出た家政婦は不審に思ったのでしょう、「どなたですか?」と尋ねたようです。すると、フェルディナンは慌てて、「いや、誰でもない」といって、電話を切ります。

 再び、日記に戻り、「芸術、死」と記します。

●芸術、死

 顔をペンキで青く塗ったフェルディナンが、赤と黄色のダイナマイトを両手に持ち、叫びながら、海をめがけて岩山を下っていきます。

 異様です。まさに”気狂いピエロ”でした。

 途中で腰を下ろしたフェルディナンは、まず、黄色いダイナマイトを巻き付けます。今度は、その上から赤いダイナマイトを巻き付け、紐でしばります。

(※ 前掲)

 ペンキで青く塗った顔の上に黄色のダイナマイト、その上から赤いダイナマイトを巻きつけているので、顔がすっぽりとカラフルなダイナマイトに包まれてしまいました。フェルディナンは、色の三原色で頭部全体を覆い、芸術的な死を準備しようとしていたのかもしれません。

 色の三原色は混ぜ合わせると、黒になります。

 巻き終わると、フェルディナンはマッチを擦って、引き縄に火をつけます。たちまち、縄に火がまわっていきますが、フェルディナンは、「僕はバカだ」といいながら、慌てて、火を消そうとします。

 レールに座っていたフェルディナンが、列車が近づく音がすると、その場を立ち去ったのと同様、直前になって、死を回避しようとしたのです。

 ところが、間に合わず、爆発してしまいました。最後の最後になって、取り乱した様子をみると、覚悟の死というわけでもなかったのかもしれません。

 次の画面は、遠景で捉えた爆発後の映像になります。

(※ 前掲)

 爆発の後、岩山の上から黒煙がもくもくと、空高く立ち上っていくのがわかります。顔に塗ったペンキの青、ダイナマイトの黄色と赤、それら「色の三原色」が交じり合って、黒煙となって、天に昇っているのです。

 まさに、フェルディナンが日記に書き記した「芸術、死」が実行されたのです。

 しばらく間をおいて、海の光景になりました。空と海との境目が淡く、まるで溶け合っているように見えます。

(※ 前掲)

「また、見つかった! 何が?」

「太陽と共に去った海が」

 このような字幕が画面に表示され、映画『気狂いピエロ』は終わります。

 初めてこの映画を観た時、とても心動かされたのが、このシーンでした。愛する人を、ちょっとした行き違いから殺してしまったフェルディナンが、やがて、ダイナマイトで自爆するのがクライマックスだとすれば、その後、訪れた静かなエンディングシーンです。

 この時のセリフがとても心地よく、脳裡に沁み込んでいったことを覚えています。

 ところが、今回、DVDを見て、字幕に表示されている言葉に違和感が残りました。記憶しているセリフとは異なっているような気がしたのです。

 改めて、ランボー詩集を見てみました。すると、次のような訳になっていました。

 「また、見つかった!」

 「何が? 永遠」

 「太陽に混じった」

 「海だ」

(※ アルチュール・ランボー、鈴木創士訳、『ランボー全詩集』、河出文庫、2010年、p.57.)

 この箇所は、ランボーの詩集『地獄の季節』の「錯乱 II – 言葉の錬金術 (Délires II – Alchimie du verbe)」の中の詩、「永遠」の一節です。

 ちなみに、この部分の原文は次のようになっています。

Elle est retrouvée.

Quoi ? – L’Eternité.

C’est la mer allée

Avec le soleil.

(※ https://www.poetica.fr/poeme-651/arthur-rimbaud-eternite/

 原文と照らし合わせてみると、映画の字幕は直訳過ぎるような気もします。とはいえ、「allée」と書かれており、「aller」が使われているので、映画の字幕のような訳でもいいのかもしれません。

 念のため、該当部分の詩の朗読を聞くと、やはり、「allée」になっていました。

こちら → https://youtu.be/AfQFcN_Nz18

(※ CMはスキップするか、×で削除してください)

 ただ、「太陽と共に去った海」という訳語では、具体的な情景をイメージすることができず、しっくりきません。

 そこで、辞書を引いて見ると、「aller avec qn/qc」で、「…と調和する」という意味になることがわかりました。だとすれば、「太陽と調和した海」ということになりますので、具体的にこの場の情景をイメージすることができます。

 改めて、見事なエンディングだと思います。

 ゴダールは、『気狂いピエロ』の中で、ランボーに限らず、詩人や画家、作家の作品、あるいは、映画から多数、引用していました。まさにコラージュによって、作品を複層化し、厚みを加え、妙味を添えていたのです。

■ゴダールが共感したベラスケスの晩年

 『カイエ』に映画評論を書いていた頃、ゴダールは、「映画はその古典性によってこそ、真に現代性をとらえることができる芸術になる」と主張していました(※ Colin MacCabe、堀潤之訳、『ゴダール伝』、p.88. みすず書房、2007年)。

 実際、『気狂いピエロ』は、エリー・フォールのベラスケス論の引用から始まっています。画面にコラージュされる本や絵画や音楽の多くは、誰もがよく知っている作品の一節でした。ゴダールは、過去から現在につながるさまざまな芸術作品の中から、その一端を取り込み、現代を表現しようとしていたのかもしれません。

 この本を書いたマッケイブは、『ゴダールの映画史』に匹敵するものを映画やテレビにおいて見出すことはできないが、『フィネガンズ。ウェイク』と比べることはできるとし、ジョイスはこの書の中で、「歴史と言語の全体を主題としており、その基本的な創作上の原則としてモンタージュを用いているーただし、一つ一つの単語の内部で作動するモンタージュである」と記しています(※ 前掲。p.314-315.)

 ジョイスについては、前回、ご紹介しましたが、ようやく自身の居場所を見つけた時、フェルディナンはどういうわけか、「ジョイス」の名を口にしていたのです。なぜ、そうだったのか、マッケイブの解説を読んでみると、わかるような気がします。

 ジョイスもゴダールも、モンタージュ、あるいは、コラージュという手法を使って、作品の中で、当代を表現しようとしていたのです。

 ランボーに引きずられ、創作の到達地点を見出したフェルディナンは、ジョイスに導かれ、その表現方法を見出していたといえるでしょう。

 一方、ゴダールは、リアリズムとモダニズムの間で模索していました。

 ゴダールは次のように述べています。

 「物語というのは、ひとが自分自身の外へぬけ出るのを助けるものなのだろうか、それとも、自分自身のなかにもどるのを助けるものなのだろうか?」

(※ Jean-Luc Godard、奥村昭夫訳『ゴダール映画史(全)』、p.316、筑摩書房、2012年)

  作者と作品との関係について、アイデンティティの観点から、ゴダールが思い悩んでいたことがわかります。

 『気狂いピエロ』を製作した頃、ゴダールは、「自分が気に入ったものや自分の心にふれたもの、自分の手に入ったものなどを映画にすれば、かならずよいものになると思って」いたといいます。

(※ Jean-Luc Godard、奥村昭夫訳『ゴダール映画史(全)』、筑摩書房、2012年、p.299)

 ちょうどその頃、ゴダールが読んでいたのが、エリー・フォールの『美術史』(※ “Histoire de l’Art”, Elie Faure, 谷川渥ら訳、『美術史 4 近代美術』、2007年)でした。

 その中で、ゴダールが心惹かれたのが、ベラスケス(Diego Rodríguez de Silva y Velázquez, 1599 – 1660)についての記述でした。その記述のどこに惹かれたのかについて、ゴダールは、次のように書いています。

 「ベラスケスはその生涯の終わりごろには、事物と事物の間にあるものだけを描いていたと記されていました。私は少しずつ、映画というのは、事物そのものではなく、事物と事物の間にあるもの、だれかとだれかの間にあるもの、観客と私の間にあるものだということに気づくようになりました」(※ 前掲、『ゴダール映画史(全)』、p.299.)

 そのエリー・フォールは、ベラスケスについて、次のように記しています。ちょっと長いですが、引用してみましょう。

 「ベラスケスは晩年に近づくほど、こうした黄昏時の諧調をいっそう探し求め、おのが心の誇りと慎み深さを表現する神秘に絵画に移行させようとした。彼は昼間を放棄し、室内の半暗がりに心を奪われていた。そこでは、移ろいがいっそう微妙かつ親密なものとなり、ガラスのなかの反映、外から射し込む光線、青い果実のごとき綿毛に覆われた若い娘の顔によって神秘性が増幅され、娘の顔は、散らばった薄明かりをことごとくそのぼんやりとした不透明な光のなかに吸収するように見える」(※ 前掲。『美術史 4 近代美術』、p.147.)

 こうしてみると、『気狂いピエロ』のラストシーンで、海と空が調和し、溶け合った映像が使われていた理由がわかるような気がします。

 当時、ゴダールは「映画というのは、事物そのものではなく、事物と事物の間にあるもの」だと考えていました。境界のない世界こそが、自然界の本来の姿であり、宇宙の真の姿なのだと認識していたのでしょう。

 今回、DVDで『気狂いピエロ』を見て、ラストシーンの素晴らしさを再認識しました。さらに、ゴダールが当時、映画製作もまた、分節化せず、分断化せず、事物と事物の間にあるものを重視していたことの得難さに気づきました。

 自爆シーンの後、この映画は、空との境目のない静かな海の風景で終わりました。まるで生と死にも境界はなく、すべてが滔々と続く、自然界の営みのようだと言っているように思えました。(2023/3/04 香取淳子)

ゴダールを偲ぶ ③:『気狂いピエロ』、ランボー、ジョイス、創作の到達地点

 前回からのシーンに引き続き、見ていくことにしましょう。

■マリアンヌとの逃避行

 パーティから抜け出したフェルディナンは、マリアンヌを送り届け、そのまま、アパートに泊まってしまいます。一夜を共にした翌朝、フェルディナンは隣室で、首にハサミを突き刺されて血を流した男が、ベッドに倒れているのを発見します。

 死体を見て驚く間もなく、フランクがアパートにやって来たので、仕方なく、彼を殴って倒し、二人は盗んだ車で逃亡します。

 フェルディナンはただ、現実から逃避したかっただけでした。ところが、わけもわからないまま、犯罪に巻き込まれてしまったのです。逃げるしか道はなく、そして、犯罪を重ねるしか、逃げ切ることはできませんでした。

 お金のない二人は、給油しても支払わずに逃げ、カフェに入ってはでっち上げの物語を語って小銭を稼ぎ、南へ南へと逃亡を続けます。

 警察の目を欺き、首尾よく逃げおおすには、自分たちの痕跡を消す必要がありました。

 郊外を走っている途中、二人はたまたま、大木にぶつかって自損事故で壊れた車を見つけました。近づいてみると、男女二人が死んでいました。かなり悲惨な事故です。

 二人にとっては、ちょうどおあつらえ向きの事故でした。

 フェルディナンとマリアンヌは事故状況を確認すると、その場に車を停め、ナンバープレートを外して燃やしてしまいます。事故で死んだように装い、自分たちの痕跡を消すためでした。

 黒煙が立ち昇る中、二人は歩いて逃亡を続けます。平原を歩き、川を渡り、やがて、森の中に入っていきます。マリアンヌはぬいぐるみを持ち、フェルディナンはピエ・ニクレのコミック本を持ち歩いています。

 二人とも言葉もなく疲れ切っている様子です。いつまでも歩き続けることはできないでしょう。そう思っていたら、次に、二人がガソリンスタンドで腰を下ろしているシーンになりました。

 疲れた二人はここで、目ぼしい獲物がやって来るのを待ち構えているのです。逃亡を続けるには車が必要でした。

 マリアンヌは道路に目を向け、獲物をチェックしているのに、フェルディナンはひたすら、コミック本を読み続けています。

(※『気狂いピエロ』、2017年、KADOKAWAより)

■ピエ・ニクレ(Les Pieds nickelés )

 フェルディナンが読んでいるコミック本のタイトルは、ピエ・ニクレ(Les Pieds nickelés )で、このフランス語を直訳すると、ニッケルメッキの足ということになります。調べてみると、この「ピエ・ニクレ」は、フランス19世紀末の俗語では、「勤労意欲が長続きしない連中」という意味になるそうです。

 「ピエ・ニクレ」は、ルイ・フルトン(Louis Forton、1879- 1934)が創作したコミックで、雑誌L’Épatantに連載されていました。鼻の尖ったクロキニョル、片目に眼帯を掛けたフィロシャール、あごひげのリブルダングの三人組を軸に展開されるピカレスクです。とても人気にあるコミックで、1934年にフルトンが亡くなると、別の漫画家が引き継ぎ、描き続けたそうです(※ https://note.com/lemmui/n/n4a5836edb54c)。

 ユーモアたっぷりのピカレスクは、時代を越え、世代を越えて、人々の気持ちのはけ口として求められ、楽しまれてきたのでしょう。

 掲載誌も同様でした。雑誌L’Épatantは1939年に廃刊になりましたが、その後も別の出版社に引き継がれ、このコミックは1908年から2015年まで続いたそうです。(※ https://fr.wikipedia.org/wiki/Les_Pieds_nickel%C3%A9s

 さて、ちょっと横道に逸れてしまいました。さっそく、先ほどのシーンに戻りましょう。

 歩き疲れた二人は、車を盗むため、ガソリンスタンドでチャンスを狙っていました。ところが、チャンスが訪れても、フェルディナンはこのコミックから目を外しません。マリアンヌは「ピエロ、フォードよ」といい、「早くして、一人でやるわよ」と犯行を促しますが、「読んでから」と受け流し、動こうとしないのです。

 そういえば、逃避行が始まって以来、フェルディナンはこのコミック本を持ち歩いていました。平穏な日常生活から突如、追われる立場になった彼には欠かせなかったのかもしれません。

 このピカレスク・コミックは、ちょっとした悪事を働くための指南書のようでした。ブルジョワの生活から一転して犯罪者になってしまったフェルディナンにとっては不可欠でした。それまでの自分とは別の自分に気持ちを切り替えるために手放せなかったのでしょう。

 再び、チャンスが訪れました。今度は、デラックスなオープンカーがガソリンスタントに乗り付けたのです。

 恰好の獲物を見つけた彼らは、そっと給油スタンドに近づきます。運転していた男が給油をスタッフに依頼し、助手席にいた女性を伴ってカフェに向かうと、その隙に、マリアンヌは車に乗り込みます。

 一方、フェルディナンは給油が終わるのを待って、車に乗り込みます。マリアンヌが持ち主の上着から抜き取ったお金でスタッフに支払い、そのまま乗り逃げします。

 画面には、「何世紀もが嵐のごとく、消え去った」と字幕が表示されます。

 嵐のような激動の日々が過ぎ、フェルディナンは次第に追い詰められていきます。絶望的な気持ちを表すかのようなセリフでした。

■死の匂い

 助手席でマリアンヌが新聞を読み、二人の犯罪が報道されているのを知ります。フェルディナンに、奥さんが警官に「狂ったとしか思えません」と答えていたことを告げると、「女は捨てられると、すぐ悪く言う」とフェルディナンはつぶやきます。

 そして、「なぜか、死の匂いを感じ始めてる」と言葉を継ぎます。

 「後悔してるんでしょ」とマリアンヌ。

 それには答えず、フェルディナンは「風景や木に死を感じる」といい、「女どもの顔や車にも」とつぶやき続けます。

(※ 前掲)

 現実から逃避しようとして、マリアンヌに関わったフェルディナンは、新聞報道で突如、現実に引き戻されます。妻の言葉を聞いて、自分が置かれた状況を知り、絶望的な気分に襲われたのかもしれません。目にした風景や木、女性や子ども、車などの外界に、自身の気持ちを投影し、救いようのない思いに囚われていました。

 ところが、マリアンヌは至って現実的に、自分たちの置かれた状況を認識しています。「一文無しで、どうするのよ」とフェルディナンを責め、「イタリアまでは無理」と不安感を顕わにします。マリアンヌとしては一刻も早く、フランス国外に出て、安心感を得たいのです。

 それに対し、「行けるところまで、行く」と、フェルディナンは素っ気なく答えます。

 「そこで何をするの?」とマリアンヌは尋ね、すぐに、「兄が見つかれば、お金をもらえるわ」、「そうすれば、ステキなホテルに泊まって、遊びましょ」と、彼女なりの解決策を口にします。

 ところが、運転席のフェルディナンはそれには答えません。マリアンヌの言葉を耳にしながらも、何か別の事を考えているようです。

 突如、後ろを振り返って、マリアンヌを嘲るように、「頭の中は遊びだけ」と言います。

(※ 前掲)

 訝しく思ったマリアンヌが、「誰に言ったの?」と尋ねると、「観客さ」とフェルディナンは思い入れたっぷりに答えます。

 マリアンヌは後ろを振り返って見ますが、もちろん、誰もいません。

 「頭も狂ったのね」とマリアンヌ。気持ちの通じないフェルディナンに愛想が尽き果てたようです。「私は二度と恋なんてしないわ」とつぶやきます。

 このシーンでは、二人の価値観、人生観の隔たりが明らかにされます。

■アンガージュマン(engagement)

 興味深いのは、ゴダールがこのシーンで、観客を映画の展開に巻き込もうとしていたことでした。これまでは、ただ画面を観るだけだった観客を、ここで一気に、物語の展開に巻き込もうとしていたのです。

 初めてこの映画を観た時、私はこのシーンをとても斬新だと思いました。というのも、ここにゴダールらしさを感じさせられたからでした。実存主義哲学の一端を見たような気がしたのです。

 当時、フランス思想界が識者の間で注目を集めていました。サルトル(Jean-Paul Sartre, 1905 – 1980)はその中心人物の一人でした。

 そのサルトルが提唱していたのが、「engagement」という概念です。「参加」と訳されますが、当時はもっぱら、政治的意味合いで使われていました。個人と社会とのかかわりが省察され、人間存在についての意義が論じられていました。

 当時、サルトルを聞きかじっていた私は、社会的状況への参加を「engagement」と捉えていました。ところが、このシーンを見て、映画と観客の間に、「engagement」を組み込もうとするゴダールの意図を感じさせられたのです。

 驚いたことに、ストーリーが進行する画面の中から、主人公が、画面の外側にいる観客に向かって、呼び掛けたのです。これは、一方的に流れる映画の展開に、いっとき、掉さすものであり、観客の意識を喚起するものでもありました。

 それが当時の私の目には、とても斬新に思えたのです。

 このシーンを見た時、私は、サルトルの「engagement」の概念を、この映画に持ち込もうとしているゴダールの試みに刺激されました。

 観客にストーリーへの参加を促すことこそ、まさに、映画における「engagement」といえるものでしょう。このシーンは、ゴダールが作品と観客との間に、積極的な関わり合いを持ち込んだ仕掛けのように私には思えました。

 そして、映画の存在意義を「engagement」の概念を介在させて見出そうとしているところに、当時のフランス思想界の影響を感じたのです。

 ゴダールの知的嗅覚がいかに鋭いか、いかに思想の流行に敏感か、いかに強く、既存の映画セオリーから離れようとしていたかを感じざるをえませんでした。

 さて、このシーンでは、享楽志向でリアリストのマリアンヌと、内省的でロマンティストのフェルディナンが対比されています。

 何もこのシーンに限りません。ストーリーが展開するにつれ、一事が万事、二人の感性や価値観、人生観の大きな隔たりが際立つようになっていきます。

 初めは、マリアンヌの外見や肉体に惹かれたフェルディナンでした。ところが、共に過ごす時間が長くと、徐々に、内面の隔たりの大きさが認識されていくようになったのです。

 お金もなく、破天荒な逃避行を続けていく過程で、二人の感性、価値観、人生観、世界観の違いがことさらに際立っていきました。

 決定的になったのが、海辺での原始的な生活でした。

■辿り着いた海

 郊外を通り過ぎると、二人が乗った車はどんどん人里を離れていきます。

 フェルディナンは、終に何かを悟ったかのように、「10分前は死を嗅いだが、今は逆」とつぶやきます。

 海が見えてきたのです。

 「見てごらん、海だ、波だ、空だ」と、晴れやかな顔つきを見せています。

(※ 前掲)

 マリアンヌは甘えるように、フェルディナンにもたれかかっていますが、その表情はなんともいえず暗く、複雑です。

 一方、フェルディナンは感極まったように、つぶやき続けます。

 「人生は悲しくとも美しい」、

 「突然、自由を感じ、思いのままにできる」

 フェルディナンはどうやら、居場所を見つけたようです。

 ところが、マリアンヌは、フェルディナンの心の底からのつぶやきを聞いても、ただ、「狂ってる」というだけです。

 フェルディナンは、「行きつくとこまで、一直線に走るだけ」というなり、突如、ハンドルを切って、海にジャンプします。

(※ 前掲)

 「地獄の季節」という字幕が画面に被ります。

■地獄の季節

 『地獄の季節』(” Une saison en enfer”)は、フランスの詩人ランボー(Arthur Rimbaud, 1854-1891)の詩集のタイトルです。ランボーがポール・ヴェルレーヌ(Paul Marie Verlaine, 1884-1896)とともにロンドン、ブリュッセルに滞在していた期間(1873年4月から8月)に執筆されました。9編の散文詩から構成されています(※ Wikipedia 地獄の季節)。

 それにしても、なぜ、このシーンに「地獄の季節」という字幕が挿入されたのでしょうか。

 先ほどご紹介した解説によると、『地獄の季節』は、「異端」あるいは「黒人」から構想された詩集でした。つまり、社会に受け入れられず、馴染めず、周縁に置き去りにされた人々の観点から着想された詩集だったのです。

 このことからは、ゴダールは、アウトサイダーとしてのフェルディナンに自身を重ね合わせ、その心情を表現しようとしていた可能性が考えられます。

 アウトサイダーは、周囲からアブノーマルと思われ、「狂っている」の一言で片づけられがちです。非現実的なことを言うと、決まって、そのようにレッテル貼りをされ、非難されるのですが、フェルディナンもまた、逃避行の中で、マリアンヌから何度も「狂っている」と揶揄されていました。

 「狂っている」というのが、どうやら、この映画のキーワードの一つだといえそうです。

 それでは、ランボーの詩集『地獄の季節』と「狂っている」とが果たして、どのように関連しているのでしょうか。

 試みに『ランボー全詩集』(Arthur Rimbaud、鈴木創士訳、河出文庫、2009年)から、「地獄の季節」を拾って読んでみました。

 「地獄の季節」の9編の中には、「狂気」に関連すると思われる詩が2編ありました。「錯乱 I – 狂気の処女、地獄の夫 (Délires I – Vierge folle. L’époux infernal)」と、「錯乱 Ⅱ -言葉の錬金術(Délires II – Alchimie du verbe)」です。

 このうち「錯乱 Ⅱ -言葉の錬金術」にフェルディナンの心情を表していると思われる散文詩がありました。

 「ずっと前から、俺はあり得べきすべての風景を手に入れることができると自信満々で、現代の絵画と詩の名声など取るに足りないものだと思っていた。(中略)まずは習作だった。俺は沈黙や夜々を書き、俺は言い表せないものを書き留めていた。俺は眩暈を定着させたのだった」(※ 『ランボー全詩集』、前掲、p.47-48.)

 念のため、ピックアップした箇所の原文を添えておきましょう。

 「Depuis longtemps je me vantais de posséder tous les paysages possibles, et trouvais dérisoires les célébrités de la peinture et de la poésie moderne.(中略)

 Ce fut d’abord une étude. J’écrivais des silences, des nuits, je notais l’inexprimable. Je fixais des vertiges.」

 ランボーは、可能性のある風景はすべて手に入れることが出来ると思い込んでおり、現代の絵画や詩で有名なものは大したことはないと思っていたようです。そして、なによりも重要なのは、まず習作することだといい、沈黙や夜など、言葉で表現しきれないものを書き留めることによって、その高揚感を固定させたというのです。

 このような解釈が合っているのかどうかわかりません。ただ、ランボーが現代の絵画や詩に見るべきものがないと思い、沈黙や夜など、言葉で表現しきれないものを書き留めていくことによって、眩暈にも似た高揚感を定着させることができたといっているところに、フェルディナンとの類似性を感じさせられました。

 そして、フェルディナンは、海を見つけるのです。

 「ついに、おお、幸福よ、おお、理性よ、俺は黒っぽい紺青を空から引っ剥がした、そして、生のままの光の黄金の火花となって、俺は生きた。喜びのあまり、俺はとんでもなくおどけて気違いじみた表現をとっていた」(※ 前掲、p.56.)

 海を見つけたフェルディナンは、喜び勇んで、車ごと波間に突っ込んでしまいます。まさにランボーの詩のように、「喜びのあまり、とんでもなくおどけて気違いじみた」行動をとってしまったのです。

 まさに、先ほどご紹介した、海に車ごとジャンプするシーンです。

■原始的な生活

 車ごと海にジャンプした後、二人は浜辺で夜を過ごします。

(※ 前掲)

 「月がよく見えるね」とフェルディナンがいうと、マリアンヌは「私には一人の男が見えるわ」と答えます。このシーンでも、ロマンティストのフェルディナンと、リアリストのマリアンヌの違いが浮き彫りにされています。

 二人の間に束の間、訪れた幸せのひと時でした。

 島で原始的な生活が始まると、やがて、マリアンヌは退屈し始めます。「私に何ができるの」、「私は何をすればいいの」と海辺を歩きながら、繰り返します。人のいない生活、自然だけを相手に暮らす生活に耐えられないのです。

 一方、フェルディナンは日記をつけはじめ、原始的な生活の中で得た着想をノートに記していきます。

 「もう何も聞こえない、私は上昇する」、「私は幸福を見た、目の前で」、

 「超自然的な激情で!」、「涙が流れ、しびれるほどに幸福で」、「鼓動は高鳴る」、といった具合に、フェルディナンは、次々と歓喜の心情をつぶやき、ノートに書きつけていきます。

(※ 前掲)

 所在なく浜辺を歩き続けるマリアンは、フェルディナンに近づくと、途端に、大きく声を張り上げます。

 「静かに! 執筆中だ」と、フェルディナンは声を荒げます。

■創作の到達地点

 海辺で原始的な生活をしながら、フェルディナンは本を読み、思いついたことをノートに書き綴っていきます。

 「小説の構想を得たぞ」、「もう、人の生活は書かず」、

 「人生そのものを、ただ、人生だけを書くつもりだ」とつぶやきます。

 それが、フェルディナンが見つけた創作の到達地点でした。

 そして、フェルディナンは観客に向かって、「人々の間には空間と」、「音と色彩がある」といいます。

(※ 前掲)

 いかにも年季の入った高齢者の口ぶりで、フェルディナンは語っています。

 ゴダールによれば、この時のフェルディナンの口ぶりは、俳優であり監督であったミシェル・シモン(Michel Simon, 1897-1975)の声色を真似たものだそうです(※ 前掲、『ゴダール全評論・全発言Ⅰ』、p.607-608.)。

 そういわれてみると、高齢のミシェル・シモンの声色だったからこそ、その人生と見識の重みが、この短いフレーズに込められていたのかもしれません。

 特徴のある声色がこのセリフに、人生そのものがもたらす情感を添えていたのです。

 このシーンでフェルディナンは、「人の人生」ではなく、「人生そのもの」を書くのだといい、さらに、「人々の間には空間と、音と色彩」があるという認識を示しています。

 つまり、人が生きてきた来歴を描くのではなく、人と人との間にあるもの、それも、音や色彩を含めた経験そのものを書くといっているのですが、このセリフを、老いたミシェル・シモンの声色で語らせることによって、ゴダールが抱いている世界観と、究極的で包括的な概念を表現することができていました。

 ゴダールは、言語では言い表せないようなものまでも言語で捉えようとしていました。人と人との間にある空間や音、色彩など、言語化できず曖昧模糊としたものを、言語で包括的に把握しようとしていたのです。そのために、このシーン前後のセリフは敢えて脱文脈化しようとしていたような気がします。

 その一方で、彼はノートに、「自然と向き合う人間」、「言語の描写力」と書きつけていました。創作は言葉によるものでなければならないという思いも強かったのでしょう。

 こうしてみてくると、日々、向き合っている自然、あるいは外界を言葉によって認識し、言葉によって描写し、表現していくというのが、フェルディナンの創作の到達地点であり、また、ゴダールにとっての創作の到達地点でもあったといえます。

 ゴダールは映画製作について、次のように語っています。

 「書くということがすでに、映画をつくるということだった。というのも、書くことと撮ることの間には、量的な違いはあっても、質的な違いがあるわけじゃないからだ。(中略)ぼくにとっては、自分を表現する方法のすべてが互いに密接に結びついているわけだ。すべてがひとかたまりをなしているわけだ。そして問題は、自分に適した側からそのかたまりととりくむすべを知るということなんだ」(※ Jean-Luc Godard、奥村昭夫訳、『ゴダール全評論・全発言Ⅰ』p.490.、筑摩書房、1998年)

 これは、初期の映画4本が製作された後、ゴダールがインタビューされた時に、答えたものです。

 ここでゴダールは、「書くことがすでに映画をつくること」といい、「自分を表現する方法すべて互いに密接に結びついている」といっています。このようなゴダールの考えを知ると、画面の中でフェルディナンが言おうとしていたことの意味がわかるような気がしました。

 それでは、引き続き、フェルディナンのつぶやきを聞いてみることにしましょう。

■キュビズムとの親和性

 創作の到達地点に達したと思ったからか、フェルディナンはさらにつぶやき続け、「そこへ到達するのだ」、「ジョイスが試みたがー」、「我々はもっとよくなるはずなんだ」と語ります。

 「ジョイスが試みたがー」というセリフを聞いて、ゴダールがこのシーンで何を言おうとしていたのかがわかるような気がしました。

 ジョイス(James Augustine Aloysius Joyce、1882-1941)といえば、アイルランド出身の詩人であり、小説家です。『ユリシーズ』(Ulysses, 1922)、『フィネガンズ・ウェイク』(Finnegans Wake, 1939)といった代表作があります。

 バージニア・ウルフなどとともに、ジョイスはモダニズムの作家として知られています。

 そのジョイスが「試みた」ことを、ゴダールは、「我々ならもっとよくなるはず」とフェルディナンに語らせているのです。つまり、言葉の紡ぎ手であるジョイスは文学の領域で実験的方法を試みたが、それは、映画製作者である「我々」なら、もっとうまくできるはずだというのです。

 ジョイスが試みた手法とは一体、どういうものなのでしょうか。

 木ノ内敏久氏は、ジョイスの作品はキュビズムと共通性があるとし、次のような共通点を挙げています。

 すなわち、①時空の概念の変容、②断片・素材の寄せ集めから統一的なイメージをつくるコラージュ、③過去の芸術様式の取入れ、です。

 これらの共通性に基づき、「外の空間は遠近法に基づいた単なる幾何学的媒体ではなくなり、自己認識や経験という内なる精神の働きとつながって、時間と空間の関係が新しく組み直される。現実世界が知的操作により再構成される過程が双方に認められるのである」と総括しています(※ 木ノ内敏久、「ジェイムズ・ジョイスと美学」『ソシオサイエンス』Vol.15. pp.77-92. 2009年3月)。

 つまり、外界は単なる客体ではなく、主体との精神的なつながりの下、知的操作が加えられ、再構成されるという認識でした。これが、モダニズムといわれる潮流の一側面です。

 モダニズムは20世紀前半に終焉を迎えたリアリズムの後に発生した芸術活動ですが、キュビズムの絵画であれ、ジョイスが試みた文学であれ、創作に際しては、認識の多様性あるいは意識の流れが重視されていました。

 『気狂いピエロ』が製作された60年代半ば、ゴダールはそのモダニズムを踏まえ、さらなる表現を模索していました。

■脱文脈の構造

 モダニズムを経たゴダールが、伝統的な語りの方法を採ることはありませんでした。映像と音声で線的な構造の下、物語を紡いでいくという手法は、もはや商業映画でしか見られなくなっていたのです。

 『気狂いピエロ』の後半で、ゴダールは、主人公フェルディナンが日記をつけるという設定にしていました。フェルディナンが内省的な思いを日記に記すとともに、つぶやくという語りの形式です。

 内省的なものであれ、抽象的なものであれ、彼の言葉には人を引き付ける力がありました。そのつぶやきによって、観客は彼の内面を読み、意識の流れを追い、シーンの断片から透けて見えるゴダールの世界観、人生観を把握することができたのです。

 ゴダールはまさに、語りの脱文脈化を図っていたといえるでしょう。

 脈絡のないストーリー展開、意表を突く人物の登場などにも、脱文脈化の意図が見受けられます。もちろん、背景にも、脱文脈化された小道具が使われていました。

 たとえば、後に、マリアンヌが小人をハサミで殺すことを暗示したシーンでは、背後の壁にキュビズムの画家・ピカソの絵が飾られていたのです。

(※ 前掲)

 観客は、小人とマリアンヌがどういう関係なのか、ストーリー展開のなかで小人がどういう役割を占めているのか、皆目、わからないまま、画面を見ています。否応なく画面に参加させられているわけですが、この脈絡のなさが作品に奇妙な厚みをもたらしていました。

 ゴダールはこのように、後半から一気に脱文脈化を進めています。多方向に断片化し、ディテールだけが印象に残る仕掛けの中で、線的構造の下では捉えられない現実を表現したいたのです。

 フェルディナンが発した数々の言葉には、ゴダールの思いが色濃く反映されていました。そこには、当時のフランス思想界、西洋芸術の動向、文学の潮流などが、断片的に散りばめられており、まるでゴダールがフェルディナンに憑依しているかのようでした。

 ゴダールは次のように語っています。

 「プロデューサーたちに言わせれば、ゴダールに映画を撮らせると、ジョイスだとか形而上学だとか絵画だとか、自分の好きなことを語ろうとする、でもその映画にはいつも商業的側面が含まれることになるはず」(※ 前掲、『ゴダール全評論・全発言Ⅰ』、p.508.)

 『気狂いピエロ』はフランスとイタリアの合作映画で、制作費は50万ドルかかっていました。日本円に換算すると、当時は1ドルが360円でしたから、約1億8千万円もかかっていたのです。ところが、制作費を回収しきれず、ゴダールにいわせれば、「経済的には失敗作」でした(※ 『ゴダール映画史』、前掲、p.331.)。

 脱文脈化を追求しすぎた結果といえるのかもしれません。

■ヌーヴェルヴァーグとして評価

 『気狂いピエロ』はフランスとイタリアの合作映画でした。それだけに、もしベルモンドが主演しなければ、製作許可すら取れなかった可能性もありました。ベルモンドはゴダールの前作『勝手にしやがれ』に出演し、一躍、有名スターになっていました。

 『勝手にしやがれ』は、ゴダールが1959年に、ベルモンド(Jean-Paul Belmondo, 1933-2021)とジーン・セバーグ(Jean Seberg, 1938-1979)を起用して製作した作品です。これがヌーヴェルヴァーグの代表作として大ヒットしていました。それに伴い、個性的な俳優ベルモンドがスポットライトを浴びていたのです。

 それまでゴダールが製作した作品の中で、『勝手にしやがれ』ほど、商業的価値が高いものはありませんでした。この映画の商業的成功とベルモンドの起用は、イタリア側プロデューサーを説得するには十分な材料でした。

 ところが、『気狂いピエロ』で、ゴダールはさらに独自色を強めました。シナリオがあっても無いのも同然で、その場で即興的に演出することが多かったのです。すべては撮影の段階で創り出されるというのがゴダールの映画製作のやり方でしたが、それがさらに徹底されたのです。

 俳優が対応しきれないのも無理はありません。

 実際、出演を快諾したベルモンドでさえ、『気狂いピエロ』の撮影中に、「これは映画じゃない」とゴダールにいったことがあったそうです。さらに、この映画のイタリア側のプロデューサーも、「これは映画じゃない」といい、イタリアでは公開しなかったといいます(※『ゴダール映画史』、前掲、pp.330-331.)。

 ちなみに、ベルモンドはその後、ゴダールが出演依頼をしても承諾していません。それほど、『気狂いピエロ』に出演したことを後悔していたのかもしれません。当時、これは映画の概念から外れた映画だったのです。

 もっとも、一部の批評家あるいは識者からはその斬新性が評価されていました。1965年には、先行上映したヴェネツィア映画祭で新進批評家賞、そして、英国映画協会賞を受賞し、ヴェネツィア国際映画祭では金獅子賞にノミネートされました。その翌年の1966年、カイエ・デュ・シネマ最優秀作品賞受賞を受賞しています(※ https://www.imdb.com/name/nm0000419/awards)。

 この作品でゴダールは経済的には失敗したかもしれませんが、ヌーヴェルヴァーグの映画監督として世界に名を馳せたのです。

 ゴダールは次のように語っています。

 「ぼくらには金のかかる映画はつくることができない。テレビにかかわることもできない。だから、ぼくは、自分が今いる場所について、労働について、家族について語りながら、金のかかる映画とかテレビとかに少しも劣らないほどおもしろい映画をつくろうと努めている。ぼくは自分がよく知らない場所については語ろうとしない。あるいは語る場合は、その場所に、ぼくが今いる場所を通過させることにしている」(※ 『ゴダール全評論・全発言Ⅱ』、前掲、p.170.)

 ゴダールのいうように、製作費をかけられないという制約が、ヌーヴェルヴァーグを生み出したのでしょう。即興演出、同時録音、ロケを中心とした撮影といったゴダール独特の手法は、確かに製作費節減になりました。だからといって作品の質が落ちたかといえばそうではなく、作品に瑞々しさや生々しさを添える効果が見られました。

 『気狂いピエロ』は当時、世界の知識層の話題を集め、今に至るまで語り継がれてきました。

 今回、改めてDVDでこの作品を観ましたが、当時、感じた斬新さに少しも陰りがなかったことが驚きでした。半世紀上も前に製作された作品ですが、脱文脈し、画面に観客を参加させようとする仕掛けが興味深く、古臭さを感じさせられることはありませんでした。

 むしろゴダールが採った映画製作の手法は、デジタル化によって線的構造が無効になりつつある現代社会との親和性が高いように思えました(2023/2/18 香取淳子)。

ゴダールを偲ぶ ②:『気狂いピエロ』、アウトサイダー、愛、逃避行

 ■ 原作

 『気狂いピエロ』は、ライオネル・ホワイト(Lionel White,1905-19859)の小説『Obsession』(1962年)を原作に、1965年5月24日から7月17日までの8週間で撮影されました。

 当時、私はこの映画に原作があったとは思いもしませんでしたが、今回、新潮文庫から『気狂いピエロ』というタイトルで訳書が出版されていることを知りました。2022年4月に出版されたばかりの本です。

 山田宏一氏は、次のような解説文を寄せています。

 「ニューヨーク郊外に暮らす38歳のシナリオライター、コンラッド。妻との仲は冷え切り、職も失い、鬱々とした生活を送っていた。ある夜、ベビーシッターの若い娘アリーを自宅へ送ったところ酔った勢いで一夜を共にしてしまい、目覚めると、隣室には見知らぬ男の死体が。どうやら男はアリーの元愛人らしい。かくして、暴力と裏切りと欲望にみちた二人の逃亡劇が幕を開けることに――。運命の女に翻弄され転落していく男の妄執を描いた犯罪ノワールの傑作。ゴダール映画永遠の名作の原作とされる幻の小説がついに本邦初紹介となる」

 私はストーリーを全く覚えていませんでしたが、今回、DVDを観ても、劇画的なストーリー展開にそれほど興味をおぼえませんでした。前回もいいましたように、私がこの映画で覚えているのは、冒頭のシーン、パーティのシーン、そして、ラストシーンだけなのです。

 これらのシーンには、意表を突かれるものがあったからこそ、しっかり覚えていたのでしょうし、感動したからこそ、心に深く刻み込まれていたのでしょう。

 今回、DVDを見返して見て、改めて、『気狂いピエロ』に夢中になっていたのは、ストーリーではなく、ゴダールが創り出したデティールそのものだったことがわかりました。

 前回、冒頭のシーンをご紹介しましたので、今回はパーティのシーン前後をご紹介していきましょう。

 このシーンでは、主人公の置かれた状況、そして、物語が展開するきっかけとなる女性との出会いが描かれています。

 原作では、「妻との仲は冷え切り、職も失い、鬱々とした生活を送っていた。ある夜、ベビーシッターの若い娘アリーを自宅へ送ったところ酔った勢いで一夜を共にしてしまい・・・」となっています。

 映画のストーリー設定は、ほぼ原作に倣っているといえるでしょう。

■ パーティ会場

 それでは、パーティに出かける前のシーンから、見ていきましょう。

●女学生との出会い

 この夜、妻の実家でパーティが開催される予定でした。それに出席しなければならないので、妻は夫を急がせていたのです。

 ところが、男は「僕は行かない」、「子供たちといる」といい出します。

 すると、妻は「フランクが連れて来る姪が、子守りをすることになっているの」といい、男の気を引くように、「女学生ですって」と付け加えます。

 男は「姪だって? どうせコールガールさ」と悪態をつきながらも、子守りを引き受けた姪に関心を示します。妻の思惑通り、男はどうやら、パーティに行く気になったようです。

 妻がその様子を見て、「パパが石油会社の社長を紹介するって」というと、夫は「クビにしたテレビ局を訴えるぞ」と虚勢を張ってみせます。

 妻は、「訴えてもいいけど、負けるだけよ」とさり気なく受け流し、「仕事を紹介されたが、おとなしく受けて」と説きます。

 ここまでのシーンで、男がテレビ局をクビになったこと、妻の実家が裕福で、今夜開催されるパーティでは男の就職先が用意されていること、男は、この妻の夫であり、父である立場にうんざりしていること、などが明らかにされていきます。

 やがて、フランク夫妻がやって来て、姪を紹介されると、妻は子供部屋に案内しながら、「用が出来たら、電話して」と告げています。廊下ですれ違った夫に妻は、「フランクの姪よ」と紹介し、そのまま子供部屋に入っていきます。

(※『気狂いピエロ』、2017年、KADOKAWAより)

 姪と男は見つめ合い、やがて、手を握り合います。

 男の名前はフェルディナン、姪の名前はマリアンヌです。二人は、雇い主の夫と子守りとして出会います。出会った瞬間に惹かれ合ったことがわかる場面です。

 フェルディナンは上着を着ながら、フランクに向かって、「愚かな頭に響く交響曲第5番」と言葉をかけます。まるで運命の出会いだと言っているようなものでした。そして、ベートーベンの交響曲第5番「運命」の有名な一節が流れます。

 当時、この選曲が通俗的だと思いましたが、今回、DVDを見ても同じような印象を抱きました。それまでは画面の一つ、一つに気持ちが引き込まれていたのですが、このシーンで、トーンダウンしたのです。

 さて、ここでは、主要な人物が登場し、主人公を取り巻く状況、社会状況、物語が起こるきっかけ、等々が明らかにされ、今後の展開が暗示されます。

 次に、画面は夜景になって、「妻の両親エスプレッソ邸でのパーティへ」の文字が表示され、いよいよストーリーが動き始めます。

 パーティ会場に進む前に、ちょっと触れておきたい場面があります。

 フェルディナンがまだマリアンヌに出会う前のシーンです。

●消費文化

 夫婦の部屋で、出かける準備をしている妻に向かって、バスローブ姿のフェルディナンがいきなり、「下着をつけないのか」と尋ねるシーンがありました。妻は手に下着のようなものを持っています。

 妻はすぐさま、「新製品のガードル“スキャンダル”よ」といい、広告が掲載された雑誌を見せます。

(※ 前掲)

 ヒップラインを補正する機能のあるガードルが、画面に大きく、映し出されます。

(※ 前掲)

 その画面に、「かつてはギリシャ」、「そして、ルネサンス文明、今やケツ文明の時代だ」という男のナレーションが被ります。

 当時、この場面を見て、私はとても面白いと思いましたが、今回も同じでした。これは、横行する消費文化に対するフェルディナンの反発を示しているだけではなく、ゴダールの思いでもあったのでしょう。

 映画が製作された1960年代半ばあたりから、技術進化に伴い、消費文化が加速度的に浸透していきました。

 このシーンは、浸透する消費文化への批判であり、通俗への嫌悪でした。これが、次のパーティ・シーンへの誘導にもなっているのです。

 それでは、パーティ会場に進みましょう。

●パーティ会場

 夜景に被って、「アルファロメオは、1キロ34秒で走れる」とテロップが表示されます。アルファロメオの宣伝文句ですが、観客はそれを眼にした後、パーティ・シーンに移行します。

 会場の画面全体を覆う赤い色調が斬新でした。

 フェルディナンがパーティ会場に入っていくと、壁を背にして立っている男が、椅子に座っている二人の女性に向かって、うんちくを垂れています。

(※ 前掲)

 「ディスク・ブレーキ、安定感のある走行性」、「比類のない乗り心地」、そして、「確実で速く」、「加速もよく安定している」と続けます。男が延々と話し続けているのは、アルファロメオの宣伝文句でした。

 立っている男が話し終えると、今度は、座っている女性が「若さを保つならー」、「石鹸にオーデコロン、香水もね」、「汗臭さを防ぐなら、“ブランティル”を」、「あれなら一日中、爽快」・・・、と、これまた、身に着ける商品の宣伝文句を語っています。

 男性も女性も、まるでそれしか話題がないかのように、パーティ会場で聞かれるのは、商品の宣伝文句のオンパレードでした。

 冒頭シーンで展開されていた饒舌で、シニカルで、ペダンティックな言葉の群れではなく、常套的で、浅く、表層的で、キャッチ―な言葉の羅列だったのです。それは、活字文化から視聴覚文化への移行を示すものであり、現代文化を象徴するものでもありました。

 そして、この冒頭シーンとパーティ・シーンの言葉の対比の中に、主人公フェルディナンの居場所のなさ、疎外感が巧に表現されていました。

 馴染めないまま、会場をさまよう中、フェルディナンは、なんとか、話し合える人物に出会うことができました。

●サミュエル・フラー監督

 うんざりしていたフェルディナンが目を止めたのが、壁にもたれて、所在なさそうにしているサングラスをかけた男性でした。この場面では、それまで画面を覆っていた赤のカバーははずれ、現実色になります。

(※ 前掲)

 フェルディナンがフランス語で話しかけてみても、通じません。近くの女性が通訳をしてくれて、ようやく、この男性がアメリカ人映画監督のサミュエル・フラーだということがわかりました。撮影のためにパリに来ているというのです。

 サミュエル・フラー(Samuel Fuller、1912 – 1997)は、アメリカの映画監督で、アメリカではB級映画監督と見なされていたようです。ところが、フランスなどでは高く評価され、後に米国本土でも再評価されたといわれています(※ Wikipedia)

 裏社会での取材経験や戦争体験、さらには米国南部での人種差別への取材経験を通し、サミュエル・フラーならではの人間観、世界観が培われたのでしょう。彼の映画は独特のエキセントリックな作風だとされています。

 そのサミュエル・フラー監督が、この場面に登場しているのです。

 彼が『悪の華』を撮っているというと、フェルディナンはすぐさま、「ボードレールはいい」と応じます。

 このやり取りの中に、ゴダールもまた、ボードレールを好んでいることがわかります。

 そういえば、『悪の華』も『気狂いピエロ』も、人間のダークサイドや疎外感、孤独などに焦点を当てて作品化されているところに、共通性があるように思えます。

 それでは、サミュエル・フラー監督はどうでしょうか。

 サミュエル・フラーがこの映画に出演した頃、どのような作品を製作していたかを調べると、該当するのは、『裸のキッス』(The Naked Kiss, 1964年10月29日公開、米国)ぐらいでした。

 この作品は、ネオ・ノワール(フィルム・ノワールの復活版)であり、メロドラマだと分類されています(※ https://en.wikipedia.org/wiki/Neo-noir)。

 暴力、アクション、恋愛のジャンルに位置づけられている作品なのです。

 果たして、どのような作品なのでしょうか。探して見ると、Youtubeにありましたので、ご紹介しましょう。

こちら → https://youtu.be/qGV90a3YHiI

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 確かに、ノワール系の作品です。

 ゴダールは当時、ライオネル・ホワイトの小説『Obsession』を原作に、『気狂いピエロ』を製作していましたから、フラー監督は誰よりも話したい相手だったにちがいありません。

 それを反映するかのように、画面では、フェルディナンが勢い込んで、「いつも映画とは何かを知りたかった」と尋ねています。

 すると、監督は、「映画とは戦場のようなものだ」といい、さらに、「愛」、「暴力」と続け、「つまりは感動だ」と答えています。

 サミュエル・フラー監督ならではの回答です。暴力、非情なアクションがあってこそ、愛が輝き、感動があるというのです。

 『気狂いピエロ』の原作もノワール・フィクションと分類されていました。ゴダールはパーティのシーンでサミュエル・フラー監督を登場させることによって、その後のストーリー展開の伏線を張っていたのかもしれません。

 主人公のフェルディナンは、冒頭のシーン、パーティのシーンでは、インテリの印象でした。ところが、その後の展開では、まるで『俺たちに明日はない』(Bonnie and Clyde, 1967年制作、米国)のような破天荒なロードムービーの主人公に変貌してしまうのです。

 なんらかの伏線を張っておく必要があったでしょう。

 そういえば、『気狂いピエロ』は編集後、しばらく、検閲機関との間でいざこざが続いたようです。というのも、原作の『Obsession』がNoir fictionと位置付けられており、検閲の対象になっていたからでした。

 題名を『気狂いピエロ』に変え、セリフを二か所削除することによって、なんとか上映が認められましたが、当時はまだ18歳未満の入場は禁止されていました(※ Alain Bergala著、奥村昭夫訳『60年代ゴダール』、pp.490-491. 原著2006年、翻訳版2012年、筑摩書房)。

 それでは、再び、パーティのシーンに戻りましょう。

●募る疎外感

 フェルディナンはフラー監督の返答を聞いて、納得したようにその場を去り、再び、会場内をあちこち歩きまわります。

 妻が男とキスしているのを横目で見ながら、そのまま通り過ぎると、画面は再びブルーで覆われ、人々の会話はコマーシャリズムに彩られたものになります。

 ようやくフランクを見つけると、「疲れた」といって、フェルディナンは座り込んでしまいます。

 そして、口を突いて出た言葉が次のようなものでした。

 「見るための目はある」、「聞くための耳も」、「話すための口も」といい、ところが、「全部がバラバラで統一を欠いている気がする」、「一つであるべきなのに」「いくつかに分かれている」といいだします。

 これらのシーンは青で覆われています。

(※ 前掲)

 フェルディナンは周囲に溶け込めず、アウェー感は限度に達しています。このパーティ会場では、統合した自分を維持することができなくなってしまっているのです。どうしていいかわからず、フェルディナンはひたすら、しゃべり続けています。

 聞いていた女性がとうとう、「しゃべりすぎよ、あんたの話は疲れる」といい出すと、フランクもそれに同意して「しゃべりすぎだ」といい、フェルディナンを見ます。

 身近な人からも突き放されてしまいます。

 フェルディナンは「孤独な男はそうなる」と反応し、「家で待っている」と疲れ切ったように、伝えます。

 身の置き所のなくなったフェルディナンにとって、この場から抜け出すしか自分を維持する方法はありませんでした。「孤独」という言葉で逃げ道を作りながら、「家で待っている」とフランクを安心させます。かろうじで社交性を忘れずに、パーティ会場を去ろうとするのです。

 なんの疑いもなく、フランクは素直に車の鍵を渡します。

 この場面は後のシーンの伏線になっています。

■ 現実からの逃避行

●マリアンヌとの再会

 家に帰ると、子供たちを寝かしつけたマリアンヌが、廊下の椅子に座って、うたた寝をしていました。

 ここにも孤独な人がいたのです。

 パーティから抜け出してきたことを訝しがられると、フェルディナンは、「そんな日もある、バカばかり会うと」と答えます。ようやく自分を理解してもらえる人に会った安堵感が、顔からこぼれています。

(※ 前掲)

 夜も遅いので、フェルディナンはマリアンヌを車で送っていくことにします。

 運転席と助手席で交わす二人の姿が映し出され、意外なことが次々と明らかになっていきます。

  「再会なんて、不思議」とマリアンヌがいうと、「ああ、4年ぶりだな」とフェルディナンが応じますが、すぐさま、「違うわ、5年半よ。あれは10月だったから」とすぐに否定されてしまいます。

 このシーンで、フェルディナンは妻と結婚する前に、マリアンヌと付き合っていたことがわかります。

 「結婚したの?」と聞かれ、「金持ちのイタリア女だ。面白い女じゃない」とフェルディナンが答えると、「離婚すれば?」とマリアンヌがけしかけます。

 ごく簡単に妻を説明し、妻との関係も明らかにします。それに乗じて、マリアンヌが思い切った提案をします。

 「そう望んだが、ひどく不精で」といい、「”望む”の中に”人生“がある」とフェルディナンははぐらかすように、自分の生活信条に切り替えて、答えます。

 このシーンで、マリアンヌと知り合った頃、フェルディナンはスペイン語の先生、その後はテレビ局で勤務し、今は無職の状態だということがわかってきます。これは先ほどの妻との会話内容とも呼応しており、フェルディナンが望むようにしか生きていけない人物だということが示されています。

 一方、マリアンヌは自分のことは多く語りません。「フランクとは長いのか?」と聞かれると、「なんとなく・・・、偶然から」と曖昧に答えるだけです。

 フェルディナンが「相変わらず謎めく女」というと、「自分のことを話したくないだけ」といって、気を逸らせるように、ラジオを付けます。

●数値化の進行

 ラジオから「米軍の戦死者は数多いが、ベトコン側にも115名の死者が出た」というニュースが流れてきます。それに対し、マリアンヌは鋭く反応します。

 南北対立が続いていたベトナムで、1964年8月2日、アメリカがトンキン湾事件を起こし、参戦しました。その結果、全面戦争に突入してしまったのです。以後、1975年にアメリカ軍が撤退するまで、北ベトナムと南ベトナムの間で米ソ代理戦争が続きました。

 映画が制作された1965年はその初期段階でしたが、戦況は日々、世界中に報告されていました。戦争被害を聞いても人々は何もすることはできず、ただ、死傷した人々を悼み、悲しむだけでした。

 そのニュースにマリアンヌは鋭く反応したのです。

 マリアンヌは、「無名だなんて、恐ろしい」、「115名のゲリラだけじゃ、何も分からない」、「一人ひとりが人間なのに、誰だかわからない」と怒ります。

 「妻や子供がいたのか」、「芝居より映画が好きなのか」、「何も分からない、戦死者115名というだけ」とつぶやき、無名の人間は数として報道されるだけで、一人の人格を持つ人間として伝えられないことに不満を漏らしています。

 おそらく、ゴダールの思いでもあるのでしょう。

 一人の人間として生きてきた歴史があるのに、ニュースでは死者も、ただ数としてカウントされるだけです。尊厳もなく、ただ無機的に扱われることへの怒りが、マリアンヌの口を通して伝えられます。

 ニュース報道への怒りは、すべてが数値化されてマッピングされる現代社会への反発でもあったといえるでしょう。

●人の尊厳はどこに?

 人はそれぞれ、さまざまな思いを抱き、さまざまに考えを巡らせながら、日々、生きています。そのことを無視し、戦禍の犠牲者すら、単なる数としてカウントされ、報じられることに、マリアンヌは憤っているのです。

 フェルディナンに何を聞かれても曖昧に答え、自分を顕わにしようとしなかったマリアンヌが初めて、素をさらけ出した瞬間でした。

 勢いづいたマリアンヌは、更に続けます。

 そのような報道姿勢は、写真についてもいえることだとし、男が写っている下に添えられたキャプションに言及します。

 「“卑怯者”とか、“粋な男”・・・」、「でも、それが撮られた瞬間」、「彼が何者で、何を考えていたか」、「妻のことか、愛人のことか」、「過去、未来、バスケの試合?」、「誰もわからない」と、日頃、気になっていることを漏らします。

 人を具体的に捉え、伝達できるはずの写真ですら、キャプションとしてステレオタイプなレッテルを貼られ、類別して処理されてしまうことへの不快感が示されています。

 一瞬を切り取って見せる写真も、ニュース報道と同様、対象の内面や来歴に触れることなく、伝えられます。テレビであれラジオであれ、新聞であれ雑誌であれ、マスコミでは全般に、物事が表層的に捉えられ、伝達されます。そのことがやがて、人間性の喪失につながることを懸念しているのでしょう。

 どのような人にも、これまで生きてきた過去があり、いま生きている現在があり、これから生きる未来があります。そのようなことに考えが及んでいないことへの不満は、まさに、数値化され、効率を優先させる現代社会への不満でもあります。

 自分について多くを語らなかったマリアンヌの性格、生活信条などが、このシーンで透けて見えます。

 おそらく、マリアンヌにも、当時のゴダールが投影されているのでしょう。

 「人生も物語のように」、「明晰で論理的で整然としていればいいのに」とマリアンヌはつぶやきます。

(※ 前掲)

 まるでゴダールが乗り移ったかのようです。

■ 映画は、アウトサイダーの居場所か?

 ゴダールは、『ゴダール全評論・全発言Ⅱ』(Jean-Luc Godard、奥村昭夫訳、筑摩書房、1998年)の中で、次のように語っています。

 「映画は人生なんだ。そしてぼくがしたいのは、映画を生きるのとおなじように人生を生きるということなんだ。映画づくりの中でぼくが最も楽しい思いをするのはどういうときかと言えば(中略)、なにかをつくり出していると感じられるときや資金を調達する時だ。映画をつくるという行為が、人生のなかでより臆病ではないやり方でふるまうことを可能にしてくれるときだ」(※ 前掲。p.225.)

 ここでは、ゴダールが映画製作に、自身を確認し、拡張する機能を託していることが示されています。

 「でも、違うのよ」とマリアンヌは言葉を継ぎます。

 実際はそうではなかったということを、ゴダールはいいたかったのでしょうか。

 フェルディナンが、「いや、思う以上にずっと似てる」と返答すると、マリアンヌはどういうわけか、「違うわ、ピエロ」といいます。

(※ 前掲)

 ここで初めて、タイトルの中の「ピエロ」という言葉が出てきます。

 当時、映画のタイトルが、なぜ「気狂いピエロ」なのかわかりませんでした。今回、DVDを見た時も、このシーンでなぜ、マリアンヌが突然、「ピエロ」といったのか、わかりませんでした。

 ところが、しばらく考えてみて、マリアンヌがこの場面で、フェルディナンを「ピエロ」と呼んだことで、「気狂いピエロ」(Pierrot Le Fou)の意味がわかってきたような気がしてきました。

 「気狂いピエロ」とは、おそらく、マリアンヌに無我夢中のお馬鹿なフェルディナンというほどの意味なのでしょう。

 この時、画面の中では、フェルディナンが、「僕は、フェルディナンだ」と言い返しています。ところが、マリアンヌの気持ちの中で、フェルディナンは、自分にぞっこんの「気狂いピエロ」でしかありませんでした。

 というのも、しばらく互いの気持ちを確認しあうような会話が続いた後、やがてフェルディナンはマリアンヌに向かって、「君は美しい、僕のお人形」というようになるからです。愛情の力学の下、二人の関係は、ここで明らかに、支配vs被支配の関係に陥ったのです。

 物語はその後、マリアンヌ主導で展開していくことになります。

 アウトサイダーとしての居場所を見つけるために、二人は現実から逃避し、あてどのない旅に出るのです。

 ゴダールは、『ゴダール映画史(全)』(Jean-Luc Godard、奥村昭夫訳、筑摩書房、2012年)の中で、次のように述べています。

 「私はいつも二つの国(フランスとスイス)の間で生きてきました。(中略)その結果、(中略)辺境というものに関心を持ち、むしろ辺境に自分の位置をとるようになりました。『気狂いピエロ』は私にとって、ひとつの時代の終わりではなく、ひとつの時代の真の始まりだったのです」(前掲。p.299.)

 先ほどご紹介しましたように、ゴダールは「映画は人生だ」といい、最も楽しいのは、「映画をつくるという行為が、人生の中でより臆病ではないやり方でふるまうことを可能にしてくれるときだ」と述べています。

 これらを総合すると、ゴダールは、自分を拡張した人物を登場人物に設定し、彼等の中に自分を投影しながら映画を製作し、自身の人生を試行していたのではないかという気がしてきます。

 そもそも、ゴダールはフランスとスイスを行き来しながら生活し、いつしか、アウトサイダーとしてアイデンティティを確立するようになっていました。そのようなアイデンティティ確立のきっかけになったのが、映画『気狂いピエロ』だったことは注目に値するでしょう。

 今回、ご紹介したいくつかのシーンには、そのようなゴダールの心情が随所で、吐露されていたように思います。(2023/1/30 香取淳子)

ゴダールを偲ぶ ①:『気狂いピエロ』冒頭シーン

■回顧2022年:ゴダールの訃報

 2022年9月13日、ネットニュースでゴダールが亡くなったことを知りました。91歳でした。驚いたというよりは、なにか奇妙な感覚に襲われました。とっくの昔に過ぎ去った青春時代が突如、甦ってきたのです。

 ゴダールといえば、私の青春時代を彩った華麗な文化人たちのうちの一人です。名前を聞くだけで、タバコをくわえ、ラッシュ・プリントをチェックしていたゴダールの有名な写真が思い出されます。

 フィルムを光にかざし、黒メガネの奥から見上げるゴダールの姿です。当時、この姿を見て、なんと洒落て、カッコよく思えたことでしょう。

(※ https://www.blind-magazine.com/en/news/philippe-r-doumic-the-photographic-treasures-of-french-cinema/より)

 フィリップ・R・ドゥーミク(Philippe R. Doumic)が撮影したこの写真は、ゴダールの溢れる知性と強力な破壊力を鮮明に映し出しているように思えました。映画界に新たなムーブメントを巻き起した男のしなやかで強靭な精神力が、この写真から放散されていたのです。黒メガネとタバコはその象徴にも思えました。

 『勝手にしやがれ』(À bout de souffle、1960年)で一躍有名になった彼は、『気狂いピエロ』(Pierrot Le Fou、1965年)でその名を不動のものにしました。

 『気狂いピエロ』が日本で公開されたのが1967年7月、いそいそと映画館に出かけたことを鮮明に思い出します。雑誌を通して、評判は知っていましたが、私が実際に、ゴダールの映画を見たのは、この時が初めてでした。

 その後、『中国女』(La Chinoise、1969年)、『ウィークエンド』(Week-end、1969年)など、ゴダール作品が日本で公開されるたび、待ちわびるようにして、映画館に行きましたが、『気狂いピエロ』で感じたような衝撃を味わうことはできませんでした。

 『気狂いピエロ』は、私にとって、それまでに見たことがないほど斬新で、刺激的で、痛快な映画でした。

 1970年10月には、『彼女について私が知っている、二、三の事柄』(Deux ou trois choses que je sais d’elle)が公開されました。タイトルが映画らしくなくて面白いと思いましたが、忙しくなっていたこともあって、結局、映画館に行くことはありませんでした。映画雑誌で関連情報を得ただけに終わっています。

 こんなふうにして、私はいつしか、ゴダールから遠ざかってしまいました。そして、今年9月、不意にゴダールの訃報に接したのです。

 驚いたことに、ゴダールは安楽死を選択していました。

 一瞬、どう考えていいかわからず、頭が空白状態になってしまいました。ところが、次の瞬間、いかにもゴダールらしいと気持ちを切り替えることができました。生命の終わりの期日を、自然に任せるのではなく、医療に任せるのでもなく、潔く自ら決定していたのです。

 『気狂いピエロ』を見た時と同じような衝撃を与えられました。

 そこで、ゴダールを偲びながら、私がもっとも衝撃を受けた『気狂いピエロ』について振り返り、その後、その死に方について、諸々、綴ってみたいと思います。

■『気狂いピエロ』(Pierrot Le Fou、1965年)冒頭シーン

 ゴダール作品でもっとも衝撃を受けたのが、『気狂いピエロ』でした。とはいえ、今、覚えているのは、冒頭のシーン、パーティのシーンとラストシーンだけです。

 ストーリーはほとんど覚えていません。ただ、ペダンティックで孤高な主人公が、劇画のように荒唐無稽な展開の果て、ダイナマイトを使って爆死するということぐらいです。

 当時、私がなぜ、この作品に強い衝撃を受けたのか、なぜ、これらのシーンだけが記憶に残っていたのか。ゴダールについて語るために、まず、それらを思い起こすことから始めたいと思います。

 記憶をはっきりさせるため、今回、DVDを購入し、詳細に見てみました。まず、冒頭のシーンから見ていくことにしましょう。

●タイトル画面

 映画が始まるなり、ペダンティックな画面に強い衝撃を受けたことを記憶していますが、改めてDVDを見てみると、タイトル画面もまた、斬新でした。

(※『気狂いピエロ』、2017年、KADOKAWAより)

 同じフォント、サイズで必要最低限の映画の概要が示されています。赤で主演のジャン・ポール・ベルモンドとアンナ・カリーナ、そして、青でタイトルの「PIERROT LE FOU」の文字、最後に、監督のジャン・リュック・ゴダールの赤い文字が、黒地の画面に一文字ずつタイピングされて表示されていきます。

 タイピングで一字ずつ打ち出し、画面に表示していく方法が、当時はとても珍しく、画期的な表現方法に思えました。しかも、全ての文字が大小、強弱をつけず、均等で表されているのです。

 それだけではなく、キャストと監督の区別もされていませんでした。区別されているのはただ一つ、青で表示されたタイトルと、赤で表示された製作陣(主人公と監督)の違いだけでした。

 ここにゴダールの趣向の一つを見ることができます。リニアではなくノンリニアへの志向性、あるいは、要素に還元する志向性、さらには、生成過程への関心・・・、とでもいえるようなものを確認できたような気がします。

●ベラスケス

 タイトル総ての文字が表示されると、その画面に被るようにナレーションが始まり、明るいテニスコートの場面になります。

 低い男性の声で、つぶやくようにナレーションが読み上げられます。

 「ベラスケスは50歳をすぎ、事物を明確に描こうとせず、その周りを黄昏と共にさまよった」

 画面では、黄色のシャツに白のスカートを身に着けた若い女性が、明るい陽射しを浴びて、ボールを打ち返しています。

 それに被るのが、次のナレーションです。

 「背景の透明感と影の中に、色調の鼓動をつかみ、それを核にして静かな交響楽を奏でた」

 このナレーションは画面を説明しているわけではなく、画面と何らかの関係があるわけでもありません。それなのに、スクリーンからは次々と、映像と音声によって、別々の情報が流されてきたのです。

 圧倒されて、思考停止状態になっていました。

 正確に言えば、フランス語音声、日本語文字、映像など3種の媒体から発信される情報を、観客は考える暇もなく、受け取らざるをえなかったのです。しかも、映像と音声(ナレーション)は別々の内容だったので、観客自身がそれらを統合し、理解していかなければならず、圧倒されてしまったのです。

 奇妙な感覚を覚えさせられます。

 若い頃の私は、この冒頭のシーンで早々と、ゴダールの虜になってしまったのです。当時、フランス語を勉強しはじめてまだ、2,3年でした。聞き取ることはできず、もっぱら、字幕(文字)に頼って、内容を理解していましたが、それでも、所々しか、わかりません。

 その字幕が、会話のセリフではなく、文章語だったからです。しかも、格調の高い文章で、抽象語が多く、理解できないまま、画面が進み、焦ったことを思い出します。

 やがて、画面が変わり、本屋の店先で、男が本を選ぶシーンになります。

(※ 前掲)

 たくさんの本を抱え、男が本屋から出てきます。ここでも男のナレーションが続きます。

 「彼が描いたのは、浸食し合う形態と色調の神秘的な交感そのもの」

 「どんな衝撃にも中断しない。密やかで絶え間のない進歩のよる交感である」

 男はどうやら、冒頭からずっと、ベラスケスについて語り続けているようです。

 そして、絵画のような夜景になります。

(※ 前掲)

 その夜景に、次のようなナレーションが被ります。

 「空間が支配する表面を滑る大気の波のようにー」

 「自らを滲みこませることで輪郭づけ、形づくり芳香のごとく、至る所に広がる軽い塵となって、四方に広がりゆく、エコーさながらである」

 場面は一転し、バスタブに浸かって、タバコをくわえ、本を読む男のシーンになります。男はここでようやく、主人公フェルディナンとして登場するのです。

 そして、このシーンから、ナレーションと映像は一致します。

(※ 前掲)

 冒頭から続いてきたナレーションは、バスタブのシーンからは、実際に、男が音読する本の内容になっていきます。刺激的な言葉が次々と、画面に表示されていきます。

「彼の生きた世界は悲惨だった」

「堕落した国王、病弱な王子たち」

「貴公子然と装う道化師たち」「無法者たちを笑わせる」

「道化師は宮廷作法、詐術、虚言に締め付けられ」「告白と悔悟に縛られていた」

「破門、火刑裁判、沈黙・・・」

 男は、一体、何の本を読んでいるのでしょうか。

● “Histoire de l’Art L’Art moderne 2”

 気になって、タイトルがはっきりと映っているシーンを探して見ると、かろうじて、『Elie Faure  Histoire de l’Art  L’Art moderne 2』と書かれているのがわかりました。エリー・フォールの『芸術史 近代芸術2』だったのです。

 そこで、Wikipedia でElie Faureについて調べてみると、ゴダールの『気狂いピエロ』の冒頭のシーンで、ジャン・ポール・ベルモンドが演じた主人公が、エリー・フォールの『芸術史 』をバスタブに浸かって、娘に読み聞かせていることが、記載されていました。

(※ https://en.wikipedia.org/wiki/%C3%89lie_Faure

 エリー・フォール(Élie Faure、1873-1937)は、フランスの医者であり芸術史家でありエッセイストでした。この本は1919年から1921年にかけて刊行された『芸術史』シリーズのうちの第2巻です。

 日本語に翻訳されていないかと探してみると、谷川渥・水野千依訳で、『美術史 4 近代美術』として国書刊行会から、2007年11月21日に出版されていました。

 図書館から借りて読むと、ベラスケスに関するナレーションのフレーズはすべて、この本から採用されたものだということがわかりました。

 たとえば、バスタブに浸かって、本を読んでいる時のナレーションは過激だと思いましたが、本で書かれている文言そのものでした。

 「彼が生きていた世界は悲惨なものであった。堕落した国王、病気がちの王子たち、白痴、侏儒、障碍者、王子の身なりをさせられ、みすからを笑いものにして、不道徳な人々を笑わせることを務めとする怪物のごとき道化師たち。彼らはみな、礼儀作法、陰謀、虚言に締めつけられ、懺悔と悔恨に縛られていた。破門や火刑、沈黙、なおも恐ろしい権力の急速な崩壊、いかなる魂も成長する権利をもたなかった土地」(※ 『美術史 4 近代美術』、p.142)

 若い頃、私が一連のシーンを見て、刺激を受けたのは、この字幕の言葉に勢いがあったからでした。映像よりも、ナレーションのペダンティックな言葉遣いに酔っていたのです。魅力的な言葉は、ゴダールが書いたセリフなのだと勝手に思い込み、夢中になっていました。

 ところが、今回、『美術史 4 近代美術』を読んでみると、エリー・フォールの文章そのものが力強く、刺激的なものだったことがわかりました。

 ゴダールは、自分で書いた脚本に従って、製作していたわけではなかったのです。そもそも脚本があったのかどうか、わかりません。

 映画の概要を見ると、脚本の項目にゴダールの名前がありますが、ラフなものだったのではないかと思います。脚本に拘束されることをゴダールは嫌ったはずです。まるでドキュメンタリー映画を製作するように、美術書を読むシーンを撮影していたのでしょう。俳優に依存して、その実在性を創り出しながら、作品を製作していたような気がします。

 その後の展開を見てもわかるように、ゴダールはいわゆるハリウッド的なストーリーを破壊し、シーン毎のアクチュアリティを大切にした監督でした。切り替えがなく、ナレーションを際立たせたバスタブのシーンに、ゴダールの拘りが現れているように思いました。

 とはいえ、美術書のどの箇所をナレーションに採用するかは監督であるゴダールが決めているはずです。

 急に、ゴダールの来歴が気になってきました。彼はなぜ、映画製作の道に進んだのか、なぜ、この作品の冒頭で、ベラスケス論を滔々と披露したのか、とくに、美術との関係を知りたいと思いました。

 少し横道に逸れてしまいますが、ゴダールの少年時代から映画製作に至るまでの過程を辿ってみる必要があるかもしれません。

● 少年時代から映画製作まで

 調べてみると、一家は1948年にスイスに転居し、ゴダールはローザンヌの学校に通っています。その頃、絵画に夢中になり、よく描いていたそうです。1949年の夏には、母親がモントリアンで彼の個展を開催したほどでした(※ コリン・マッケイブ、『ゴダール伝』、 pp.47-48. 2007年、みすず書房)。

 元々、数学が得意だったゴダールですが、母親に個展を開催してもらうほど、絵画にものめり込んでいたのです。ところが、1949年の秋にはパリに戻り、人類学の免状を取るため、ソルボンヌに登録しています(前掲。P.48.)

 得意だった数学でもなければ、夢中になっていた美術でもなく、どういうわけか、ゴダールは人類学を専攻しているのです。

 不思議に思って、調べてみると、当時、クロード・レヴィ=ストロース(Claude Lévi-Strauss, 1908-2009)が、アメリカから帰国し、1949年にコレージュ・ド・フランス(Collège de France)に創設された社会人類学講座を担当することになっていました(※ Wikipedia クロード・レヴィ=ストロースより)。

 レヴィ=ストロースはアメリカで1948年頃に完成させた論文を携えて、フランスへと帰国していました。1949年には論文審査を経て、公刊されたのが、『親族の基本構造』(Les Structure Élémentaires de la Parenté)でした。『ゴダール伝』を執筆したコリン・マッケイブ(Colin MacCabe, 1949- )は、ゴダールが1949年にレヴィ=ストロースの講演を聞いたと言っていたことを記しています。

 こうしてみると、ゴダールが人類学を専攻したのは、おそらく、この講演がきっかけになったのでしょう。もちろん、知識欲旺盛なゴダールは、それ以前からレヴィ=ストロースのことは知っていたでしょう。著作も読んでいた可能性もあります。

 レヴィ=ストロースはフランスに帰国して以来、フランス思想界を牽引してきました。

 ゴダールが、『勝手にしやがれ』で注目を浴び、『気狂いピエロ』でその名を不動にした1960年代から1980年代にかけて、とくに、現代思想としての構造主義を担った中心人物の一人でした。

 興味深いことに、レヴィ=ストロースの父は画家で、彼は幼い頃から芸術的環境の中で育ったそうです。ゴダールは直感的に何かを感じ取っていたのかもしれません。レヴィ=ストロースが帰国したことを知ると、ゴダールは早々に、人類学専攻に登録しているのです。

 雑多な情報の中から、知の時流を察知するゴダールの直観力には驚かざるをえません。

 最初の映画製作、そして、ヌーヴェルヴァーグの旗手として話題を集めた後も、ゴダールは長い間、注目を浴び続けてきました。それは、おそらく、旺盛な知的好奇心、知的な流行に対する感度の高さといったものが影響しているのでしょう。

 さて、レヴィ=ストロースを追って人類学を専攻したと思われるのに、ゴダールは授業にはほとんど出席せず、映画館に通い詰め、やがて、『カイエ・デュ・シネマ』(“Cahiers Du Cinéma”、1951年創刊)に、映画批評を手掛けるようになっていました。

 映画批評をし、映画理論を構築していくうちに、ゴダールが、映画製作への思いを募らせていくのは当然のことでした。制作資金を作る為、スイスの大型ダムの建設現場で働くことを決意しますが、建設現場に着いた途端、ゴダールはダムの建設についての映画を作ることを思いつきます(※ 前掲、『ゴダール伝』、p.92)。

 撮影技師を雇って製作し、1954年の夏に公開されたのが、最初の短編映画『コンクリート作戦』(Opération béton、16分)です。

 産業史を踏まえ、ドキュメンタリーの技法に則って製作されたこの作品は、撮影も編集も巧みだったため、1958年、ヴィンセント・ミネリ(Vincente Minnelli)主演の『お茶と同情』(Tea and Sympathy、1956年)の併映として映画館で上映されました(※ 前掲)。

 その後、ゴダールはこの作品を、当のダム建設会社に売り、2年間は製作費に困らないだけのお金を手に入れたそうです。

 数本の短編を製作した後、『勝手にしやがれ』(À bout de souffle、90分)が1959年に製作され、1960年に公開されました。これが最初の長編映画です。

 この作品は、「ベルリン国際映画祭銀熊賞 」(監督賞、ジャン・リュック・ゴダール、1960年)、「ジャン・ヴィゴ賞」(1960年)、「フランス批評家連盟批評家賞」(1961年)と立て続けに受賞しています。

 この『勝手にしやがれ』で撮影を担当し、以後、ゴダールの作品のほとんどの撮影を担当したのが、ラウール・クタール(Raoul Coutard (1924 -2016)です。彼は、ゴダールが映画界に巻き起こしたヌーヴェルヴァーグについて、「あるとき、現実の、日常の、あるがままのものをそのまま捉えて見せた」と表現しています(※ 『ユリイカ特集:60年代ゴダール』、1998年10月、p.123)。

 ラウール・クタールは、もちろん、『気狂いピエロ』の撮影も担当していました。

 再び、浴室のシーンに戻ってみましょう。

● 小さな女の子の登場

 バスタブに浸かって、口にタバコをくわえたまま、声を出して本を読んでいた男が、突然、何かに気づきます。本から目を離して見上げたかと思うと、「よくお聞き」と画面の外に視線を送り、語りかけます。

 何事が起ったのかと思う間もなく、小さな女の子が入って来て、近づき、恐る恐るバスタブに手をかけます。浴室の外で父親の様子をうかがっていたのでしょう。ちらと父親を見ますが、男は知らん顔で本に目を走らせ、読み続けます。

 女の子がすぐ近くに立っているというのに、男は優しく言葉をかけるわけでもなく、頭を撫でるでもなく、構いもせずに、ひたすら本を読み続けるのです。

 「ノスタルジックな魂が漂う」「醜さも悲しみもなく」

 「みじめな幼年期も残酷な感覚もない」

(前掲)

 ページをめくる時、男は一瞬、女の子を見ますが、すぐに本に戻って読み続けます。

 「ベラスケスは夕刻の画家だ」といい、女の子をしっかりと見つめ、

 「空間と沈黙の画家である」と語り、再び、本に戻ります。

 小さな女の子に向かって、男は滔々と本を読み続けます。しかも、子供が理解できるとも思えない難しい言葉で、ただただ、本を読んでいるのです。その様子は、語り聞かせるというよりも、自分に酔って声を出しているようでした。

 「真昼に描こうと、暗い室内で描こうと」「戦争や狩りが荒れ狂おうと変わらない」

 「燃える太陽の下では」

「めったに外出しないためー」

「スペインの画家は夜と親しんだ」

 突然、妻が慌ただしく浴室に入って来て、「子供に分かるわけないわ」といい、女の子を連れだそうとします。

 男はあっさりと、「さあ、子供は寝な」と言って、女の子を風呂場から追い出します。

 こうして、それまで浸っていた想念の世界から、男は、いきなり現実世界に引き戻されるのです。

 ここまでが冒頭のシーンです。

 声を出すかどうかは別として、バスタブで本を読むというのは、ごくありふれた日常生活の一つです。そのごく日常的な行為が、ほとんど切り替えなしの映像で流されます。

 場面は変わらないので、観客はナレーションに注目せざるをえません。そのナレーションで語られているのが、エリー・フォールの『美術史』から引用したベラスケス論です。

 切り取られて、引用された言葉はどれも、17世紀スペインならではの陰鬱で孤独で、悲観的なものでした。この一連のナレーションに、この作品の展開が示唆されているような気がしました。

 もちろん、それを語って聞かせる主人公の性格、趣向、世界観なども表現されていました。さらには、ちょっとした会話から、子どもとの関係、妻との関係も、この浴室のシーンだけで如実に伝わってきます。

 このシーンにはおそらく、リアリティがあり、アクチュアリティがあったからでしょう。

● リアリティとアクチュアリティ

 この浴室シーンの異様なところは、途中で女の子を呼び入れたり、後に妻が入ってきたりしても、主人公がひたすら、浴室で本を読み続けていることでした。つまり、同じ時間と場所を共有していても、コミュニケーションが成立していない家族関係が示唆されているのです。

 誰もが経験するようなこのシーンには確かに、再現性があり、リアリティがありました。

 さらに、時間と場所を共有していながら、それぞれの意識空間から出ることができず、関わることのできない辛さ、悲しさも表現されていました。それは主人公の心情を強調して表現されているだけでなく、この作品の要約になっているようにも思えました。

 すなわち、分業化が進んだ消費社会の中で、個人もまた商品のように、絆が切り離され、数としてカウントされだけの存在になっていることの示唆です。

 この浴室のシーンにはリアリティばかりではなく、リアリティを支えるアクチュアリティが感じられたのです。

 それは、延々と続く、ペダンティックな言葉の羅列の中に、主人公の心情が見事に託されていたからでしょう。社会とそりが合わず、捨て鉢な気分にならずにいられない主人公の気持ちに引きずられた結果、観客は考える暇もなく、作品世界の中に誘導されていったのです。

 主人公が文章語で語るベラスケス論(エリー・フォールの『美術史』からの引用)は、主人公の疎外感をことさらに鋭く抉り出します。ベラスケスの時代に重ね合わせて表現されているだけに、客観性を担保しながらも、強烈に印象づけられます。疎外の原初形態がイメージされるからでしょう。

 滔々と『美術史』読み続ける主人公の姿にも、妙に、リアリティとアクチュアリティが感じられました。ただセリフを読んでいるだけではなく、実際にありえそうだし、実感がこもっているように見えたのです。

 思い返せば、ゴダールの最初の作品はドキュメンタリーの短編でした。その後、最初に製作された長編映画『勝手にしやがれ』もドキュメンタリータッチの作品でした。ゴダールが作品に、リアリティばかりか、アクチュアリティも求めていたことが推察されます。

 少年の頃、母親に個展を開催してもらうほど、絵画に夢中になっていたゴダールは、絵や画家については、その後も頻繁に論評を行っています。絵画については相当、造詣が深かったようなのです。

 『気狂いピエロ』の冒頭で、主人公がなぜ、エリー・フォールの『美術史』を引用してベラスケス論を展開したのか、若い頃は、その必然性がわかりませんでした。改めて、映画を見たいま、別に不自然だとは思わず、なぜ、エドゥアール・マネではなかったのかという程度の違和感しかありません。

 というのも、ゴダールがエドゥアール・マネを非常に高く評価していることを知ったからです。

 蓮実重彦氏は、ゴダールが「マネとともに近代絵画は生誕したとつぶやいてから、近代絵画、すなわち映画が生誕したのだといいそえる」と書いています(※ 蓮実重彦『増補版 ゴダール マネ フーコー』、2019年、p.19)。

 実は、そのエドゥアール・マネが、「画家の中の画家」として評価していたのが、ベラスケスだったのです。冒頭のシーンで紹介した文章は、ベラスケスが描いた《ラス・メニーナス》(1656年、プラド美術館所蔵)について書かれたものでした。

 さらに、興味深いことに、主役を演じたジャン・ポール・ベルモンドの両親が画家でした。父親はフランス美術アカデミーの会長もつとめた彫刻家で画家であり、母親も画家だったのです。(※ Wikipedia ジャン=ポール・ベルモンドより)

 作品を支えるものとして、リアリティを重視したゴダールは、リアリティを支えるものとして、アクチュアリティを必要としていました。セリフ以外にその俳優から発散される雰囲気、所作、表情といった非言語的な要素がもたらす効果を看過しなかったのです。

 ジャン・ポール・ベルモンドをこの作品の主人公に起用したのは、来歴といい風貌といい、家庭環境といい、ゴダールがイメージするキャラクター特性を備えていたからだと思います。

 ゴダールを偲ぶため、『気狂いピエロ』を振り返ってみました。

 最初に見てから半世紀も過ぎた今、改めてDVDで見て、その斬新さに驚かせられっぱなしでした。媒体の特性に迫ろうとしているところがあり、実験的な要素もあり、時を超えて思考し、飛翔しようとするゴダールに未だに解釈が追いつきません。

 そのせいで、冒頭シーンを見てきただけで、マリアンヌとの出会いにもまだ達していません。次回はこのシーンから見ていくことにしたいと思います。(2022/12/29 香取淳子)

絵画の再生とは何か?:過去と現在を繋ぐ平子雄一氏の表現世界

■「平子雄一×練馬区立美術館コレクション」展の開催

 「平子雄一×練馬区立美術館コレクション」展が今、練馬区立美術館で開催されています。開催期間は2022年11月18日から2023年2月12日までです。11月19日、秋晴れに誘われて出かけてみると、美術館手前の公園脇に、案内の看板が設置されていました。

 

 降り注ぐ陽光が、紅葉した葉を鮮やかに照らし出しています。その一方で、葉陰から洩れた陽が所々、看板に落ち、生気を与えています。穏やかな秋の陽射しが、まるで絵画鑑賞を誘いかけているようでした。

 看板には「inheritance, metamorphosis, rebirth (遺産、変形、再生)」と副題が書かれています。おそらく、これが平子氏の作品コンセプトなのでしょう。

 新進気鋭の画家・平子雄一氏は、果たして、どのような作品を見せてくれるのでしょうか。

 会場に入ってみると、練馬区立美術館の「ごあいさつ」として、展覧会開催の主旨が書かれていました。その内容は、同館が所蔵する作品の中から、平子氏が10点を選び、それらの作品を分析し、解釈して、新たに制作した作品を展示するというものでした。まさに、「平子雄一×練馬区立美術館コレクション」展です。

 このような美術館側の開催主旨を汲んで、平子氏は作品タイトルを考えたそうです。コレクションという遺産(inheritance)を、アーティストが変形(metamorphosis)し、現代的な感覚のもとに再生(rebirth)させるという意味を込めているといいます。

 看板を見た時、展覧会のサブタイトルだと思った「inheritance, metamorphosis, rebirth (遺産、変形、再生)」は、実は、平子氏が名付けた作品タイトルだったのです。

 果たして、どのような作品なのでしょうか。

■《inheritance, metamorphosis, rebirth》(2022年)

 会場に入ってすぐのコーナーで、壁面を覆っていたのが、平子雄一氏の作品、《inheritance, metamorphosis, rebirth》でした。あまりにも巨大で、しばらくは言葉もありませんでした。

(アクリル、カンヴァス、333.3×9940.0㎝、2022年)

 巨大な画面に慣れてくると、この作品が、コンセプトの異なる4つのパートから成り立っていることがわかってきました。

 引いて眺め、近づいて個別パートを見ていくうちに、描かれている光景やモチーフは異なっているのに、色遣いやタッチ、描き方が似ていることに気づきました。そのせいでしょうか、4つのパートには連続性があって、巨大な画面全体に独特の統一感が見られました。

 この統一感をもたらしているものこそ、平子氏の対象を捉える眼差しなのでしょう。

 巨大な画面なのに圧迫感がなく、ごく自然に、平子氏の作品世界に引き入れられていきました。画面の隅々まで、平子氏の感性、世界観が溢れ出ていたからでしょう。描かれている木々やキャラクター、その他さまざまなものに注ぐ平子氏の眼差しには、限りなく温かく、優しく、楽観的で、自由奔放な柔軟性が感じられました。

 気になったのは、コレクション作品の痕跡が、この作品のどこにあるのか、わからないということでした。そもそも、この作品は、練馬区立美術館が所蔵している作品を参照して制作されているはずです。

 訝しく思いながら、会場を見渡すと、対面の壁面に展示されていたのが、平子氏が参照した作品10点と各作品に対する感想、そして、制作に際してのアイデアスケッチでした。

 まず、平子氏がコレクション作品をどう選び、どう捉えたのかを見ていきたいと思います。

■平子氏は、コレクション作品をどう選び、どう捉えたのか

 練馬区立美術館が所蔵する作品の中から平子氏が選んだのは10作品で、それらは、対面の壁に展示されていました。もっとも古いのは小林猶次郎の《鶏頭》(1932年)、もっとも新しいのは新道繁の《松》(1960年)です。1932年から1960年に至る28年間の作品が10点、選ばれたことになります。

 画題はいずれも風景か植物でした。このうち何点か、印象に残った作品をご紹介していくことにしましょう。

 その後、開催されたアーティストトークの際、平子氏が評価していたのが、新道繁の《松》でした。

(油彩、カンヴァス、116.0×91.3㎝、1960年、練馬区立美術館)

 「松」というタイトルがなければ、とうてい松とは思えなかったでしょう。幹や枝に辛うじてその痕跡が残っているとはいえ、全体に抽象化されて描かれています。まっすぐに伸びた幹は、色遣いが柔らかく優しく、秘められた奥行きがあります。そこに、松に込められた日本人の伝統精神が感じられます。

 調べてみると、確かに、新道繁(1907~1981)は「松」をよく描いています。渡仏した際、ニースで受けた印象から、松を題材にするようになったそうですが、以後、「松」を描き続け、第3回日展に出品した《松》(1960年)は日本芸術院賞を受賞しています。(※ https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10156.html

 平子氏は、この作品について素晴らしいと評価し、「飽きが来たとき、デフォルメした」と解釈していました。同じモチーフを描き続けてきたからこそ、新道繁は、この段階(抽象化)に到達することができたと推察していたのです。

 私は平子氏のこの推察をとても興味深く思いました。たとえ、写実的に形態を写し取ることから描き始めたとしても、何度も同じモチーフを描いていると、やがて、本質に迫り、価値の再創造を図らざるをえなくなります。そのような創造の進化過程で起きる画家の内なる変化を指摘しているように思えたからでした。

 さて、吉浦摩耶《風景》について、平子氏は、自然をエリアに分けて描こうとする視点に着目しています。自然による造形と人工的な造形とが混在していても、それぞれのエリアを分けることによって、作品として成立させているところに注目しているのです。

 靉光《花と蝶》に対し、平子氏は、「とても、いい。びっくりした」と評価していました。

(油彩、カンヴァス、72.6×60.8㎝、1941-42年、練馬区立美術館)

 葉が何枚も重なって、覆い繁る中で、花と蝶がひっそりと葉陰に隠れるように描かれています。写実的に描かれておらず、色と模様でようやく蝶であり花だとわかるぐらいです。花も蝶も平面的で、実在感がありません。

 もっとも、不思議な生命感は感じられました。背後には明るい陽光が射し込み、おだやかに手前の葉や蝶や花を息づかせています。そのほのかな明るさが、平面的に見えた花や蝶に命を吹き込んでくれているのです。

 柔らかな陽光をさり気なく取り入れることによって、平面的に描きながらも、さまざまな生命が確かに生きていることに気づかせてくれる作品でした。

 平子氏はこの作品について、「デフォルメの仕方が人工っぽくて面白かった。植物をそのまま写実的に描くのではなく、人工物のように見えながら、生命力を感じさせる」といっており、靉光の独特のタッチに興味を示していました。

 確かに、独特の画風でした。

 興味を覚え、調べてみると、靉光の作品でもっとも多く取り上げられているのが、《眼のある風景》(1938年)でした。

(油彩、カンヴァス、102.0×193.5㎝、1938年、国立近代美術館)

 一見、肉塊のようにも、コブのようにも、ヘドロのようにも見える塊が、褐色の濃淡でいくつも描かれています。陽の当っているところがあれば、陰になっているところもあって、身体の中にできた腫瘍のようにも思えます。

 よく見ると、画面の真ん中に眼が見えます。

 澄んだ眼の表情には、混沌のさ中、何かをしっかりと見据えているような冷静さが感じられます。下の方には、血管の断面のような穴が開いた箇所がいくつかあります。何が描かれているか、皆目わかりません。それだけに、澄んだ眼の表情が強く印象に残ります。

 「眼のある風景」というタイトルを踏まえると、この絵は混沌の中でも見失ってはならないのが理性ということを示唆しているのでしょうか。

 この作品は、独自のシュールレアリスムに達した作品として評価されているようです。その後に制作された《花と蝶》にも、わずかにその片鱗を見ることができます。シュールレアリスムの系譜を引いたこの作品には、リアリズムを超えた実在感が感じられるのです。

 平子氏は、シュールレアリスムの傾向を持つ靉光の《花と蝶》に、「植物をそのまま写実的に描くのではなく、人工物のように見えながら、生命力を感じさせる」と評価していました。

 リアリティとは何かという問いかけをこの作品は内包しています。

 写真技術による絵画の存在意義への脅威はとっくに過ぎ去り、いまや、デジタル技術による脅威の時代に入っています。従来の絵画手法で、写実的にモチーフを表現するだけでは、躍動する生命力を感じさせることができなくなっているのかもしれません。

 平子氏が選んだコレクション作品は10点でしたが、ここでは、平子氏がとくに心を動かされたと思われる作品を取り上げ、ご紹介しました。

 平子氏がそれらの作品から得たものを要約すれば、「人工と自然のエリア分け」であり、「人工物のようにデフォルメし、生命力を感じさせる」でした。

 それでは、平子氏はこれらの作品を踏まえ、どのような構想の下、過去の作品を再生しようとしたのでしょうか。

■制作のための構想

 平子氏が選定した美術館のコレクション作品に混じって、アイデアスケッチが展示されていました。今回の作品を制作するにあたっての構想を示すものです。パート毎に、それぞれのコンセプトが書き込まれていました。

 アイデアが書き込まれたメモ書きに、①から④の番号が振られています。どうやら、平子氏は当初から、4つのパートに分けて描こうとされていたようです。

 それでは、このメモ書きを順に見ていくことにしましょう。

① 当時の風景。当時の人(作家)が見た、感じたであろう自然や植物の感覚を意識して描く。ありふれた景色である。

② 参考にした作品の色使い、技法等織り交ぜる。絵画の系譜を意識する空間。作家として生きた時間が交わる感じ。

③ 今日のプロジェクト。挑戦する自分を意識した自画像に近いポートレート。

④ ①を反転させた様々な景色。現代の人(自分含め)が捉える自然、過去の自然と現代の自然とどちらが本物か。

 これを見ると、平子氏は、まず、コレクション作品を通して過去の画家が捉えた自然を描き(①)、次いで、それを解析して構想を練り(②)、そして、制作に仕上げていく自身を描き(③)、最後に、過去の画家が捉えた自然と、自身が捉えた自然とどちらがより真の姿を捉えているかを問う風景を描こう(④)としていたようです。

 パート①からパート④までの一連の流れを見ると、平子氏が、美術館側から提供された課題に対し、自然を題材に、起承転結の構成を踏まえて、再生しようとしていたことがわかります。

 それでは、具体的にどのような過程を経て、コレクション作品が再生されたのか、平子氏の《inheritance, metamorphosis, rebirth》を見ていくことにしましょう。

■コレクション作品を踏まえて再生された《《inheritance, metamorphosis, rebirth》》

 アイデアスケッチによると、平子氏は、風景画に始まり、風景画で終わる4部構成に収斂させて、自身の作品を構想していました。そして、「承」と「転」に相応するパート②とパート③には、木のキャラクターを取り入れていました。

 不思議に思って、パート③のメモ書きを見ると、「自画像に近いポートレート」と書かれています。それで、わかりました。この木のキャラクターこそ、作者自身であり、作者が手掛けようとするテーマの語り部でもあったのです。

 まず、パート①から見ていくことにしましょう。

●パート①

 平子氏は、当時の画家が描いた自然がどのようなものであったか知りたくて、コレクション作品を選んだといいます。メモ書きには、「当時の風景。当時の人(作家)が見た、感じたであろう自然や植物の感覚を意識して描く。ありふれた景色である」と書かれています。

 参照したと思われるのが、田崎廣助の《武蔵野の早春》(1940年)、西尾善積の《練馬風景》(1937年)でした。いずれも木立の中を小道が続き、遠景に至るという構図で、どちらかといえば、よく見かける風景画です。

(展示作品。パート①)

 中景の両端に大きな木が2本、立っています。一方は葉が付き、他方は枝が切り取られて、葉が落ちています。その合間を曲がりくねった小道が上方へと続き、雑木林の中に消えています。その背後は靄がかかり、巨大な山がそびえています。

 平子氏は、《武蔵野の早春》や《練馬風景》から、木立の合間を小道が続き、空に至るという構図を援用したのでしょう。とはいえ、これらの作品の構図通りにパート①が描かれているかといえば、そうではありませんでした。

 小道は不自然なカーブを描き、小道を挟み、巨木が2本しか描かれていません。コレクション作品から構図を借りながらも、木立の部分を大きくデフォルメしていたのです。

 象徴的なのは木々の扱いです。コレクション作品では小道を木立が挟んでいるのですが、平子氏の作品では木は2本しか描かれておらず、しかも、自然のまま、伸びやかに枝を伸ばし、葉をそよがせているという通常の木の状態ではなかったのです。

 一方は枝が短く切られて葉がなく、一方は枝が少なく、剪定された松のように、葉が丸く切りそろえられています。つい、幹や枝を人工的に曲げて、時間をかけて形を整えられた松の木の盆栽を連想してしまいました。

 さらに、木の幹や枝は、褐色がかった黄土色の濃淡で表現されていました。これを見ると、新道繁の《松》で描かれた幹の色が思い浮かびます。もっとも、新道繁の《松》の場合、松の幹が抽象化されており、必然的にあのような色調になっていました。奥行きが感じられ、淡々と年月を重ねる松の木のイメージにも重なります。

 一方、平子氏のパート①の場合、木々の描き方は明るく、平たく、奥行きが感じられませんでした。おそらく、デフォルメして表現しようとしていたからでしょう。背景にも同色の塊が見えますし、枝が切り取られた低木も、その背後の木も同色で描かれています。

 また、画面の手前右には、枝を切られ横倒しになっている巨木の幹があり、上部が褐色、下部が濃褐色で描かれています。これもやはり、平たく、奥行きが感じられません。

 デフォルメして描かれているからでしょうし、そもそも平子氏がヒトの手の入った自然を薄っぺらいものと捉え、その薄っぺらさを表現するために取った手段なのでしょう。このような自然の捉え方に、平子氏の現代的な感性を感じずにはいられません。

 こうしてみてくると、木々の枝や葉がデフォルメして描かれているところに、平子氏の特色があり、自然観が見えてくるような気がします。

 一方、デフォルメされた明るい林の背後には、うっそうと葉の生い茂る木々が見え、その奥に靄のかかった山が見えます。こちらには自然が持つ深さと厚みが感じられます。

 近景、中景はデフォルメされたモチーフで構成され、遠景は鬱蒼とした林と靄のかかった山が描かれています。そこに、放置された自然ならではの重厚感、ヒトを容易に寄せ付けない威厳と峻厳さが醸し出されていました。

 近景、中景、遠景を繋ぐものが、巨木の合間を蛇行する小道でした。曲がりくねった小道が、自然が整備され開発されたエリアと、手付かずのまま残された自然のエリアを繋いでいるのです。

 よく見かける風景画の構図を借りて、人に都合よく開発され、人の美意識に沿うよう改変させられている自然の姿と、容易に開発できない自然の姿とが融合して描かれていました。このパート①の中に、人と自然とのかかわりの一端が凝縮して表現されていました。

 それでは次に、パート②を見ていくことにしましょう。

●パート②

 作者の分身でもある木のキャラクターが、ベッドに足を投げ出し、座っています。朝食の時間なのでしょうか、傍らにはコーヒーやパンが置かれ、寄り添った黒猫に優しく手をかけています。

 活動前のひとときなのでしょう、リラックスした雰囲気が漂っています。足元には、黒い帽子と赤いコートが置かれているところを見ると、食事が終わると、外出する予定なのかもしれません。

(展示作品。パート②)

 ベッドの周りには、多数の本が隙間なく、床に直接、積み上げられ、その上に、花の入った壺や花瓶、スイカやキュウリなどが置かれています。積み上げられた本が適度の高さとなっており、小テーブル代わりに使われているのです。

 一見、雑然として見える室内ですが、本はきちんと積み重ねられ、花や葉は花瓶や壺、植木鉢に、そして、果物は籠の中に入れられているせいか、モノが多いわりには整然とした印象があります。

 木のキャラクターは、さまざまな花や葉や野菜に取り囲まれ、考え事をしているようです。多数の書物を渉猟して情報を得、参照しながら、構想を巡らせているように見えます。背後の壁面には多数の絵がかけられています。これらの作品も参考にしながら、アイデアを絞り込んでいるのでしょう。

 これは、作者が思索するための空間なのです。

 それにしても、室内の色遣いがなんと鮮やかなことでしょう。思索の場に似つかわしくないように思えますが、真剣に思考を積み重ねながらも、決して深刻ぶることのない軽やかさがあります。そこに、新しさと若さが感じられました。

 しげしげと眺めているうちに、ふと、先ほど見たアイデアスケッチとは絵柄が異なっているような気がしてきました。

 そこで、改めてアイデアスケッチを見てみると、木のキャラクターは確かに、前景真ん中に描かれていますが、ベッドが見当たりません。

(アイデアスケッチ。パート②)

 このスケッチに添えられたメモには、「参考にした作品の色使い、技法等織り交ぜる。絵画の系譜を意識する空間。作家として生きた時間が交わる感じ」と書かれています。平子氏はこのパートを、コレクション作品と向き合い、制作した画家と交流する場と位置付けていたようです。

 さて、アイデアスケッチでは、右端に高い木がそびえ立ち、上の方に空が見えます。これだけ見ると、明らかに戸外の景色です。当初、平子氏は、風景の中に思索の場を設定しようとしていたのでしょう。風景や植物を描いた画家との交流の場として、戸外の景色が相応しいと思われたのかもしれません。

 興味深いことに、このアイデアスケッチにはベッドこそ描かれていませんでしたが、壺のようなものが多数、描かれており、本もスケッチされています。室内に置かれているようなものが多数、アイデアスケッチの中に描かれていたのです。この段階では、構想の場を室内にするか、戸外にするか、平子氏が逡巡していたことがうかがえます。

 ところが、ポスターに掲載された画像ではベッドが描かれていました。実際に制作してみると、ベッドが必要だと思われたのでしょう。確かに、画面真ん中にベッドを設置することによって、白いシーツが余白スペースとして効いています。

(ポスター画像、パート②)

 ポスター画像は、展示作品ほどモノがあふれているわけではありませんが、ベッドを置くことによって、思索の場を可視化できていることがよくわかります。

 木のキャラクターは、さまざまな情報を取り入れ、検証し、構想アイデアを結晶化させようとしています。アイデアをシャープにするには、脳内空間から雑念が取り払われなければなりません。白いベッドは、いってみれば、雑念を取り払った後の脳内空間であり、構想を練り上げるためのワークスペースとして機能しているのです。

 メモ書きで示されたように、このパート②を作品構想の場と位置付けるなら、ベッドは不可欠でした。

 さて、平子氏はこのパート②について、「「引用を避けつつ、引用している」と話していました。そして、「他の作家のモチーフを自分なりに描くというのは、作家として安易なことをやっている」といい、さらに、「もう二度とやらないが、すごい誘惑がある」とも語っていました。

 微妙な作家心理がうかがえます。

 平子氏が練馬区立美術館から求められたのは、過去の作家が創り出したモチーフなり、構図なり、色彩など(inheritance)を変形させて(metamorphosis)、自分のものとして描くこと(rebirth)でした。それは、創作者としては安易なやり方だが、心惹かれるものがあるといっているのです。

 だからこそ、平子氏は、一目で引用したことがわかるような引用の仕方ではなく、その本質を踏まえ、自身の作品に引き寄せて創り直すということを徹底させたのでしょう。

 改めて、展示作品を見てみると、雑然とした室内に、赤が効果的に配置されていることに気づきます。コートの赤、木のキャラクターが着ているセーターの赤、花瓶敷きの赤、柿の赤といった具合に、鮮やかな赤が差し色として室内随所に使われ、画面を引き締めるとともに、一種のリズムを生み出していました。

 この赤を見ていて、連想させられたのが、野見山暁治の《落日》で使われていた赤でした。

(油彩、カンヴァス、145.6×97.5㎝、1959年、練馬区立美術館)

 これは、平子氏が選んだ10作品のうちの1点です。

 赤く染まって沈んでいく落日に使われた赤が、印象的でした。これが、パート②に取り入れられたのでしょう。コートやセーター、花瓶敷きなどに使われ、画面に独特の秩序と動きを生み出していました。これもまた一種の引用といえます。

 不思議なことに、寂寥感が込められていた《落日》の赤が、パート②では、明るさと軽やかさ、洒脱さを画面にもたらしていました。野見山暁治の赤を、平子氏なりの感性とセンスで処理し、活用することによって、独自の光景を創り出していたのです。

 ちなみに、平子氏はこのパート②を最後に仕上げたそうです。さまざまに思索を重ね、逡巡しながら、このような形に仕上げていったのでしょう。

 それでは、パート③についてはどうでしょうか。

●パート③

 パート②で登場した木のキャラクターが、ここでは正面向きで大きく描かれています。メインモチーフとして表現されているのは明らかです。自然を愛する画家の肖像画ともいえる絵柄です。

(展示作品。パート③)

 両腕でリンゴを抱え、手で絵筆を握りしめ、絵具で汚れたスモックを着て、木のキャラクターが立っています。背後には、絵筆やさまざまな刷毛、筆洗い、照明器具、双眼鏡やラジオ、時計、カメラなどが棚に置かれ、画家の周辺には創作のためのメモがいくつもピンアップされています。

 構想段階(パート②)の室内とは明らかに異なります。

 いざ、制作しようとすれば、表現のための道具が必要です。画家の背後の棚に、具体的な作業に必要なさまざまなものが置かれています。それらのモノは、背後の壁面に陳列され、まるで画家の創作活動を支え、しっかりと見守っているかのように見えます。

 パート③では、理念だけでは処理できない、実践段階の様相が描かれていました。

 パート②とパート③は、木のキャラクターによって繋がっています。パート②で、木のキャラクターは遠景で捉えられ、多数の書物や植物とほぼ等価で描かれていました。さまざまな情報が絡み合い、連携し合い、時に、否定し合いながら構想をまとめていくには、主従があってはならないからでしょう。

 ところが、パート③では近景で捉えられ、制作する主体として大きく表現されています。一つの作品世界を完成させるには、主体が確立されていなければならないからだと思います。

 このように、パート②とパート③では、木のキャラクターのサイズに違いが見られました。そこに、作家の完成作品への関与の度合いが示されており、構想段階で描いた作品世界は、一つの過程にすぎず、実践段階では容易に変更されることが示されているといえます。

 ちなみに、平子氏はこのパート③には、「今日のプロジェクト挑戦する自分を意識した自画像に近いポートレート」というメモ書きを寄せています。

 それでは、パート④はどうでしょうか。

●パート④

 空は暗く、枝が切り取られ、幹だけが目立つ木の背後から、白い月がほのかな光を放っています。遠景には残照が広がっており、辺り一帯は黒ずんだ牡丹色に染まっています。上空を見ると、赤い火の粉が空に飛び、火口から噴出するマグマのようにも見えます。ヒトが対抗できない自然の威力を感じさせられます。

(展示作品。パート④)

 一方、麓から手前にかけてのエリアでは、木々の葉は緑ではなく、赤や黄色、ピンクで描かれています。まさに人工的に作られた自然が描かれているのです。

 たとえば、前景では黄色の小花が群生していますが、夜なので気温が下がっているはずなのに、花弁を閉じずにしっかりと開いたままになっています。しかも、大きさもほぼ同じでいっせいに咲いています。まさに人工的に作られているとしかいいようがありません。

 さらに、小道の左側には切り倒された巨木の幹が2本、横倒しになっていますが、手前が赤、その後ろがピンクで描かれています。その後方も同様、麓に至るまでのすべての植物が、リアルな植物ではありえない色で表現されているのです。鮮やか過ぎて、意表を突かれます。

 改めて、メモ書きを見ると、平子氏はこのパートについて、「①を反転させた様々な景色。現代の人(自分含め)が捉える自然、過去の自然と現代の自然とどちらが本物か」と書いていました。

 過去の画家が捉えた自然をパート①で表現し、それを反転させて、現代の画家が捉えた自然をパート④で表現したというのです。

 実際、見比べてみると、モチーフはそれぞれ反転して描かれていました。そればかりではありません。時間帯を夜にし、色を人工的なものに置き換えて、パート①の風景が表現されていました。

 こうしてみてくると、平子氏は、参照した画家たちと現代の画家(自分)との捉え方の違いを、どれだけ自然界と離れているか(人工的か)の度合いで判断しようとしているように思えます。

 比較の基準となっているのが、パート①でした。

■展示作品とポスター画像との違い

 比較しながら、パート④を見ているうちに、展示作品が、ポスター画像と異なっていることに気づきました。色がまるで違っているのです。展示作品では木の葉が黄色でしたが、ポスターではたしか、木の葉が赤でした。

 念のため、ポスター画像から、パート④の部分を抜き出し、確認してみることにしましょう。

 思った通り、葉の色が違っていました。ポスターでは剪定されて丸味を帯びた葉に赤が使われ、手前の草も赤でした。

(ポスター画像 パート④)

 植物の色が変容させられているだけではなく、手前から奥につながる小道が描かれていません。周囲の植物も整理されて描かれていないせいか、まだヒトの手が入っていない原野のようにも見えます。

 一方、展示作品の方は、曲がりくねった小道が奥につながり、手前から画面半ばまでの自然がきちんと整備されています。その反面、山の麓から後のエリアは、人の手が入っていない自然界が描かれており、威圧的な存在感を放っています。

 展示作品とポスター画像との大きな違いは、ここにありました。

 すなわち、手つかずの自然を取り入れているかどうか、そして、ヒトの手の入ったエリアと放置されたままのエリアが一枚の画面の中で、はっきりとわかるように描かれているかどうかです。

■過去と現在を繋ぐ平子雄一氏の表現世界

 選択されたコレクション作品は、1932年から1960年までの作品でした。

 1932年といえば、満州事変の後、軍部の政治的影響力が拡大し、政党内閣制が崩壊の危機に瀕していた時期です。その後、第2次大戦を経て、戦後復興を果たし、高度経済成長期に入ったのが1960年でした。この期間はまだ圧倒的に農村人口の多い時代です。

 そのような時代状況を反映していたのでしょうか、パート①で描かれた風景には、せいぜい木を伐採するといった程度の人工化しか見られません。そして、人里に近いところは整備されていますが、山に向けての後方エリアは、まだ手付かずの自然が残っているといった状態でした。

 ところが、パート④では、気温に関係なく花を咲かせ、葉や幹に自然界にない色を付与した状態が描かれています。平子氏が現代の自然や植物をこのように認識していることが示されているのです。

 実際、私たちは、夜になればイルミネーションで照らされ、赤、黄色、青、紫といった色に変貌させられる植物の姿を日常的に見ています。その一方で、室内には、空気清浄化の機能を持った本物そっくりの観葉植物を置き、健康な生活を送っていると思い込んでいます。

 科学技術の進歩によって、いまや、自然を人工的なものに見せることができるようになったばかりか、人工的なものを自然と見間違えるほどに仕立て上げることもできるようになっています。

 いつごろからか、私たちは、何がリアルか、リアルでないかにそれほど意味があるとは思わなくなってしまいました。それよりも、役に立つか、効率的か、居心地がいいか、といった自己本位の評価基準で対象を捉えがちになっています。

 私たちの自然に対する意識もまた、変わってしまいました。「どちらが本物か」という問いすら持たずに、自然をコントロールし、ヒトに都合のいい形に作り替えておきながら、平然と、自然と共存しているような錯覚に陥っているのが現状です。

 残念なことに、私たちは、自然と共に生きることを止め、自然を利用することだけを考えるようになってしまいました。自然に耳を傾け、自然をありのままに受け入れることを止めた私たちは、もはや、自然界の憤りを感じるセンスを失ってしまっているのかもしれません。

 昨今、増え続ける異常現象は、人間優先で行われてきた自然利用や自然のコントロールに、自然界が悲鳴を上げ始めた証拠なのかもしれないのです。

 そんな今、平子氏は、4つのパートで構成された巨大な作品《inheritance, metamorphosis, rebirth》を通して、観客に大きな問いを投げかけています。「炭鉱のカナリア」のように、繊細な感性を持つ画家ならではの警告なのでしょう。

 パート①からパート④への変遷過程について、私たちは一人一人、改めて問い直す必要があるのではないかと思います。技術の絶え間ない進化は、自然界を追い詰めてきただけではなく、やがて、ヒトを追い詰めていくに違いありません。

 日本政府はメタバースに(metaverse)向けて舵を切り、ビジネス界が動き出しています。そうしなければ、世界に伍していけないからですが、過去を振り返ることなく、ヒトの生活を踏まえることなく、ただ技術の進化だけを進めていいのかという疑問が残ります。(2022/11/29 香取淳子)

《草上の昼食》:マネは何を表現しようとしていたのか。

 前回、石井柏亭《草上の小憩》を取り上げ、マネ《草上の昼食》の影響がどこにあるのかを見てきました。改めてマネの《草上の昼食》を何度も見ることになったのですが、見れば見るほど、人物モチーフの取り合わせが奇妙に思えてきます。

 マネは《草上の昼食》で一体、何を表現しようとしていたのでしょうか。

 そこで今回は、制作過程や時代背景を踏まえ、マネが制作当時、何に関心を寄せていたのかを把握し、《草上の昼食》で何を表現しようとしていたのかを考えてみることにしたいと思います。

 《草上の昼食》の解説を見ると、ほぼ一致して、この作品はティツィアーノの《田園の奏楽》とラファエロの《パリスの審判》の影響を受けていると指摘されています。果たして、どこがどのように影響されているのでしょうか。

 まず、定説となっているこれら二つの作品を見ていくことから始めたいと思います。

■《田園の奏楽》と《パリスの審判》

 多くの評論家や学者、好事家が一致して指摘するのは、マネは、ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(Tiziano Vecellio, 1488頃-1576)の《田園の奏楽》(Concerto campestre, 1509年)をルーヴル美術館で見て、着衣の男性と裸身の女性が田園で憩うという作品の着想を得たということです。

 そして、手前の男女3人の配置については、1515年頃にマルカントニオ・ライモンディ(Marcantonio Raimondi, 1480-1534)によって制作された、ラファエロ(Raffaello Santi, 1483-1520)の《パリスの審判》(Giudizio di Paride, 1515年)を基にした銅版画に影響されたということでした。

 《田園の奏楽》にしても、《パリスの審判》にしても、16世紀前半に制作された宗教画です。

 それでは、二つの作品を順に見ていくことにしましょう。

●ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(Tiziano Vecellio)《田園の奏楽》(Concerto campestre, 1509年頃)

 この作品は長い間、イタリア人画家ジョルジョーネ(Giorgione, 1477年頃 – 1510年)が描いた作品といわれてきました。ところが、最近の学説ではその弟子ティツィアーノ(Tiziano Vecellio, 1488年頃-1576年)の作品だとされています。

(油彩、カンヴァス、105×137㎝、1509年頃、ルーヴル美術館)

 着衣の二人の男性と裸身の女性が草原に腰を下ろし、その近くに、裸身の女性が立ったまま、水差しから水を注いでいる姿が描かれています。座った女性は後ろ向き、立っている女性は前を向いています。暗い色調の木立の中で、画面手前の二人の裸身の明るさが目立ちます。

 二人とも完全な裸身というわけではなく、立っている女性は太腿から膝下にかけて布を巻きつけ、座っている女性は右太腿に巻き付けた布の上に腰を下ろしています。いずれも豊穣の象徴としての豊満な姿が描かれています。

 座っている男女3人は一見、仲睦まじく、団欒しているように見えます。ところが、よく見ると、どうやらそうではなさそうです。というのも、男性二人は親密に話し合っているのに、彼らは目の前の女性とは何ら関わりがなさそうなのです。

 二人の男性を見てみましょう。

 赤い帽子を被り同色の服を着た男性は楽器を奏でながら、隣の茶色の帽子を被った男性と何やら親し気に語っています。

(前掲、部分)

 至近距離に裸身の女性が座っているというのに、男性二人がなんら関心を示している様子はありません。赤い服を着た男性など、裸身の女性とは足が触れ合わんばかりに近いところにいるのに、まるで女性など存在していないかのように、隣の男性との会話に夢中です。

 もちろん、彼等はすぐ傍に裸身の女性が立って、水差しから水を注いでいるのにも気づかないようです。不思議なことに、男性は二人とも、裸身の女性になんの興味も示していないのです。

 ということは、この裸身の女性たちは生身の人間ではなく、女神あるいはニンフと理解すべきなのでしょう。そう考えれば、着衣の男性と裸身の女性を描きながら、この作品が顰蹙を買うこともなく、ルーヴル美術館に展示されていた理由もわかります。

 女神あるいはニンフだからこそ、裸身を描いても拒絶されなかったのです。

 16、17世紀の美術理論ではデコールム(decorum)という概念が重視されていました。宗教画、歴史画などの作品では、個々の人物の描き方が適切で、主題や表現ともに品位を保つ配慮が必要とされていたのです(※ https://karakusamon.com/word_bijyutu.html)。

 ティツィアーノは晩年、フェリペ2世の依頼で、宗教画と「ポエジア」と呼ばれる古代神話連作絵画を制作していました。神話に仮託した裸婦が描かれることも多かったといわれています。《田園の奏楽》を見てもわかるように、理想的な裸身を描く技量を持っていたからでしょう。

 ティツィアーノはデコールムに則って、魅力的な裸体を描くことができたのです。

 さて、マネの《草上の昼食》が影響を受けたといわれるもう一つの作品が、《パリスの審判》です。

●ラファエロ・サンティ(Raffaello Santi)《パリスの審判》(The Judgment of Paris、1515年)

 ラファエロ・サンティ(Raffaello Santi, 1483-1520)はイタリアの画家であり建築家です。明確でわかりやすい構成と、人間の壮大さを謳い上げる世界を視覚化したことで評価されています。ラファエロの作品は絵画でもドローイングでも評価が高く、ローマ以外でも彼の作品を元にした版画が出回り、よく知られていました。

 そのラファエロが《パリスの審判》を描いたのをライモンディ(Marcantonio Raimondi,1475年頃‐1534年頃)が版画にしたのが、下の作品です。

(銅版画、サイズ不詳、1515年、ドイツ、シュトゥットガルト州立美術館)

 裸身の神々や天使が多数、描かれています。調和の取れた構図の下、それぞれが生き生きとした表情と動作で描かれ、見事です。その画面の一角に、《草上の昼食》のモチーフの配置とよく似た部分があります。

(前掲、部分)

 左の男性は膝に肘をついて、こちらを見て居ます。右の男性は足を投げ出し、武器のようなものを両手に持っています。3人とも男性ですが、この人物配置はまさに《草上の昼食》の人物配置です。マネがこの作品をヒントにしたことは明らかです。

 こうして二つの作品を見てくると、これらが《草上の昼食》に大きな影響を与えていたことがわかります。いずれも16世紀前半、ルネサンス盛期の作品です。これまで数多くの評論家や学者たちが指摘してきたように、画題といい、構図といい、マネがこれらのルネサンス期の作品を参考に《草上の昼食》を描いていたことは明らかです。

 ただ、それがわかったとしても、マネがこの作品を通して何を表現しようとしていたのかはわかりません。

 果たして、マネはこの作品を通して、何を表現しようとしていたのでしょうか。

 再び、マネの《草上の昼食》の画面に立ち戻って、考えてみることにしましょう。

■画面を構成する「水浴」と「ピクニック」の光景

 やや引いて画面全体を見ると、気になるのは、上下二つに分かれた画面構成です。異なる二つの光景が一つの画面に描かれているのです。

 まず、中景から遠景にかけて、薄衣を着て水浴をしている女性が描かれています。前回指摘した人物配置図でいえば、三角形の頂点に当たる部分です。そして、前景から中景にかけては、着衣の男性二人と裸身の女性が談笑している光景が描かれています。

(油彩、カンヴァス、208×265.5㎝、1863年、オルセー美術館)

 画面の上下で別々の光景が描かれているのです。上方は水浴する場面であり、下方はピクニックをしている場面です。いずれも癒しの光景とみることができます。奇妙なことに、この異なる二つの光景は森の木立の下、一見、違和感なく接合されています。

 二つの光景は着衣の男性の背後に見える緑の草地で描き分けられ、背後の川面には巨木の樹影が映し出されています。そのせいか、川辺と森とがごく自然に繋がって見えます。暗緑色の木々で覆われた画面の中で、裸身の女性と肌色のシュミーズを着た女性の姿がまるで光源のように辺りを照らし出しています。暗緑色の木立の中で、そこだけスポットライトを浴びているかのようです。

 よく見ると、水浴の女性は斜め下に視線を落としています。

(前掲。部分)

 まるで森にピクニックを楽しむ男女3人を見ているように見えます。この女性は裸身ではなくシュミーズをまとっていますから、女神ではなくニンフでもありません。生身の女性が視線をピクニックを楽しむ男女に向けているのです。

 この女性の視線は、時空の異なる二つの光景をさり気なく連携させるだけではなく、マネの関心の移行を示しているともいえます。すなわち、「水浴」から「ピクニック」への関心の流れです。

■水浴

 「水浴」から「ピクニック」への流れは、神話世界のイメージから現実世界のイメージへの流れであり、理想主義から現実主義への流れともみることが出来ます。ひょっとしたら、ここにマネの制作過程での意識の流れを追うことができるかもしれません。

 そもそも、この作品の1863年に開催されたサロン出品時のタイトルは《水浴》でした。ところが、モネがこの作品に刺激されて《草上の昼食》(1865-1866年)を描いたのを見たマネが、1867年に開催された個展でこの作品のタイトルを《水浴》から《草上の昼食》へと変更してしまったのです。

 マネはなぜ、タイトルを《水浴》から《草上の昼食》に変えたのでしょうか。

 マネの《草上の昼食》の画面を見返して見ると、「水浴」よりも「ピクニック」の方に比重が置かれているのは明らかです。この画面構成をみれば、マネがタイトルを変更した理由もわからなくはありません。

 ただ、画面上部に水浴の光景を描き、タイトルを《水浴》にしていたことを考えれば、マネは当初、水浴を画題に制作しようとしていたのではないかと思われます。その後、なんらかのきっかけがあって、ピクニックの光景をメインに描くようになったのでしょう。

 実は、1862年にマネは水彩でこの作品の下絵を描いています。

(水彩、紙、33.9×40.3㎝、1862年、オックスフォード、個人蔵)

 これを見ると、人物モチーフの配置、ポーズなど本作とほとんど変わりません。1862年の時点で、裸身の女性に着衣の男性二人、その背後に水浴する女性といった構図は定まっていたことがわかります。

 ただ、下絵では、裸身の女性と隣の男性が仲睦まじく寄り添い、同じ方向を見て居るのに対し、本作では、至近距離にいながら二人の間には距離があります。二人はやや離れて座り、女性は正面を見つめているのに男性はやや視線をずらして描かれているのです。

 また習作では手前にバスケットからパンや果物などが転がり出ている様子は描かれておらず、ピクニックという雰囲気はありません。ピクニックの要素は本作の制作段階で描き加えられたと考えられます。

 実は、《草上の昼食》の前にマネが描いていた作品があります。

 《驚くニンフ》(1861年)と《テュイルリー公園の音楽祭》(1862年)という作品です。これらの作品はどうやら、マネが《草上の昼食》で取り上げた二つの光景、「水浴」と「ピクニック」に関係がありそうです。

 まず、《驚くニンフ》から見ていくことにしましょう。

■《驚くニンフ》(La Nymphe surprise,1860- 1861)

 恥じらいを含ませながら驚くニンフの表情が印象的です。

(油彩、カンヴァス、146×114cm、1860-1861年、アルゼンチン、ブエノスアイレス国立美術館)

 モデルは、マネの恋人であったピアニストのスザンヌ・リーンホフです。当時、マネは父親に反対されて結婚できずにいましたが、父親が亡くなった2年後、彼女と結婚しています。

 マネは、レンブラント(Rembrandt Harmenszoon van Rijn , 1606 – 1669年)の《スザンナと長老たち》(Susanna and the Elders , 1647年)に刺激されて、この作品を制作したといわれています。(※ https://en.wikipedia.org/wiki/La_Nymphe_surprise

 それでは、《スザンナと長老たち》(1647年)は一体、どのような作品なのでしょうか。見ておくことにしましょう。

(油彩、パネル、76.6×92.8㎝、1647年、Gemäldegalerie, Berlin)

 この《スザンナと長老たち》(1647年)を参考にして描かれたのが、マネの《驚くニンフ》でした。

 確かに、裸身の一部を白い布で覆い、胸を手で隠すようにしてこちらを見るポーズは、《驚くニンフ》によく似ています。違っているのは、《スザンナと長老たち》では二人の老人に襲われそうになる状況が描かれているのに、《驚くニンフ》ではそうではないということです。

 状況が描かれていないので、マネの《驚くニンフ》では、驚きと困惑の原因がわからないのです。

 ひょっとしたら、マネは敢えて、レンブラントの作品からスザンナのポーズと表情だけを取り入れ、彼女が置かれた状況は削除して、《驚くニンフ》を描いたのかもしれません。そうした方がおそらく、作品が宗教的世界に拘束されにくいと判断したからでしょう。

 レンブラントのこの作品は、実は、旧約聖書『ダニエル書補遺』の「スザンナ」のエピソードから題材を得て描かれたものでした。美しい人妻スザンナが水浴するのをのぞき見た二人の長老たちが、彼女を襲おうとしているシーンです。

 この「スザンナ」のエピソードはよほど強く、画家たちの創作意欲を刺激したのでしょう。数多くの画家たちがこれを題材に作品を仕上げています。

(※ https://www.aflo.com/ja/fineart/search?k=%E3%82%B9%E3%82%B6%E3%83%B3%E3%83%8A%E3%81%A8%E9%95%B7%E8%80%81%E3%81%9F%E3%81%A1&c=AND

 レンブラントは数多くの画家たちのうちの一人だったのです。この題材なら、宗教的価値、道徳的価値があり、しかも、裸婦を描いても、デコールムを気にする必要がないのです。

 さて、《驚くニンフ》で描かれた表情は、レンブラントの《スザンナと長老たち》よりもさらに穏やかで、優しく、官能的に描かれています。木立の背後に川の流れが見え、自然の営みの中でそっと切り株の上に腰を下ろした女性の姿がなんとも優雅です。

 興味深いことに、マネはこの作品では、暈し表現を取り入れ裸身を豊かに表現し、アカデミズムの手法に則った描き方をしています。そのせいか、この作品は宗教画に分類されています。デコールムの点でこの作品が批判されなかったことがわかります。

 一方、《草上の昼食》では、水浴する女性は裸身ではなく、当時のマナーの従って、シュミーズを身につけています。生身の女性が描かれていました。

 こうして時系列でみてくると、マネは、《驚くニンフ》の女性を《草上の昼食》の上部に描かれた水浴する女性に移し替えて描いたように思えます。宗教画に題材を取りながら、当時の現代社会を表現しようとしていたのではないかという気がするのです。

 さて、この水浴する女性が視線を投げていたのが、ピクニックの光景でした。

 ちょうどこの頃、マネは、《テュイルリー公園の音楽会》(1862年)という作品を仕上げています。木立の中で憩うという点では大掛かりなピクニックのようなものでした。

■《テュイルリー公園の音楽会》(Music in the Tuileries , 1862年)

 第2帝政期のパリでは、上流階級が月に一度、テュイルリー公園に集まり、野外コンサートを開催していました。その時の光景を描いたのが、この作品です。

(油彩、カンヴァス、76×118㎝、1862年、ロンドン、ナショナル・ギャラリー)

 男性はシルクハットをかぶり、女性は華やかなドレスを着ています。大勢の人々が正装で公園に集まっているのです。画面手前では女性が二人こちらを眺め、その足元で子供たちが遊び、中ほどでは人々が談笑しています。

 また、手前には日除けのための日傘が置かれ、休息するための瀟洒な鉄製の椅子があちこちに置かれています。戸外らしさを感じさせるのはそれだけで、画面全体に優雅な社交界の雰囲気が漂っています。

 ところが、よく見ると、中心部分の描き方が実に雑です。絵具がただ意味もなく、塗りたくられているだけなのです。もちろん、その辺り一帯の人や物の形は判然としません。手前や左の人物は表情がわかるほど丁寧に描かれているのに、なぜ、中心部分がこれだけ雑に描かれているのか、不思議でした。

 やり過ぎと思えるほど、中心部分が雑に描かれているので、やや引いて画面を見ると、その傍らに立つ白いズボンの男性の姿が鮮明に印象づけられます。

 この男性はマネの弟のウジェーヌ・マネだそうです。画面には、マネ自身を含め、ボードレールや画家仲間のラトゥールなど、マネの友人が数多く描かれているといわれています。(※ Wikipedia)

 部分的に雑に描いているのは、群衆の中で特定の人物を際立たせるための手法かもしれません。そう思って、改めて、画面を見直してみると、丁寧に描かれた人物の周囲は、雑に絵具が塗られています。いかにもマネらしい革新的な表現方法でした。

 さて、この作品は1863年にマルティネ(Galerie Martinet)画廊で開催された個展で展示されました。ところが、観客や批評家たちから下絵のようだと酷評されたといいます。予想通りの反応でしたが、その一方で、若い画家たちはこの作品に新鮮なものを見出し、評価していたそうです。(※ Françoise Cachin, “Manet : « J’ai fait ce que j’ai vu »”, Paris, Gallimard, 1994. 藤田治彦監修、遠藤ゆかり訳、『マネ―近代絵画の誕生』、創元社)

 興味深いのは、画面の色彩構成とモチーフの配置です。全体に男性が多く、黒のシルクハットに黒のジャケット、グレーあるいは白のズボンといった無彩色で統一されているせいか、手前のドレス姿の女性が目立ちます。

 白みを帯びたベージュのドレスを着た二人の女性は補色である水色のリボンのついた帽子を被っています。その水色は暗緑色の木立の背後に見える空の色と呼応し、画面を引き締めています。

 聴衆は、わずかに見える空の真下を頂点とした三角形の形の中に収まっています。幾何学的に計算されつくした構図であり、大勢の人物配置です。木々も人物も平板に描かれていますが、それだけに手前の鉄製の椅子が印象づけられます。

 音楽会に集まった聴衆が混乱せず、画面に収められているのは、大きな三角形の下、構造化されて表現されていたからでしょう。この作品は、色彩構成と空間構成の点で、《草上の昼食》に影響していると思われます。

 さて、《テュイルリー公園の音楽会》は、画面構成など表現方法はもちろんのこと、画題そのものも一部の人々には新鮮な印象を与えていた可能性があります。

 この作品には、19世紀後半のパリの上流階級の生活の一端を見ることができるだけではなく、新たな時代の楽しみ方が示されていました。戸外でレジャーを楽しむという贅沢が人々を捉え始めていたのです。

 ピクニックもその一つです。

■19世紀後半の近代化の諸相

 マネが《草上の昼食》(1863年)で取り上げたのは、二つの異なる光景、「水浴」と「ピクニック」でした。「水浴」は《驚くニンフ》(1860-1861年)の系譜を引き、「ピクニック」は《テュイルリー公園の音楽会》(1862年)の流れを汲んでいます。

 19世紀後半のフランスでは、急速に近代化が進み、鉄道が敷かれてパリに多数の人々が流入し、都市を中心に人々の生活が大きく変化していきました。そんな中、裕福な人々が週末には自然豊かな郊外に出かけ、余暇を楽しむようになっていました。

 マネが《草上の昼食》で描いた光景は、そのような都市生活者の変化の一端を捉えたものでした。

 マネ自身、ほとんど毎日のようにテュイルリー公園に出かけ、見たものをスケッチをしていたといいます。戸外でのスケッチを楽しみ、その一環として仕上げたのが、《テュイルリー公園の音楽会》でした。

 もっとも、この頃はまだ戸外でのレジャーは上流階級のものでしかありませんでした。それが証拠に、この作品に登場する人々は皆、シルクハットにドレスを着用しています。戸外での演奏会なのに、まるで王宮の舞踏会に出かけるような格好をしているのです。

 産業化が進行しつつあったとはいえ、まだレジャー用のファッションが開発されるまでには至らなかったのでしょう。《草上の昼食》の男性二人もピクニックに不釣り合いな正装をしています。

 さて、「水浴」にしても、「ピクニック」にしても、19世紀後半に見出された娯楽であり、自然への回帰現象の一つともいえるものでした。

 たとえば、入浴という習慣はフランスでは19世紀になるまで浸透しなかったそうです。19世紀末になっても浴室のある家庭は少なく、人々は大きなたらいに水を張って身体を洗っていた程度だといわれています。

 新しい生活習慣となりつつあった入浴風景を、印象派の画家たちは数多く描いていますが、マネにもそのような作品があります。《Le Tub》(1878年)という作品です。

■裸婦を通して、マネが描こうとしたもの

 産業化に主導されて、近代化が進み、時代は大きく変化していきました。もはやデコールムを気にしなくてもよくなっていたのでしょう。マネは1878年、生活風景の中で堂々と、女性の裸身を描いています。

●《Le Tub》(1878年)

 《Le Tub》(1878年)は、《草上の昼食》よりも15年も後の作品ですが、水浴する女性とポーズが、《草上の昼食》の水浴する女性のポーズとよく似ています。

(パステル、カンヴァス、54.0×45.0㎝、1878年、オルセー美術館)

 パステルならではの柔らかな色調で、日常の生活光景の中の裸身が優しく捉えられているのが印象的です。

 まず、やや身を屈めた弓形の曲線と、足元の金盥の丸い曲線が、画面に柔らかさをもたらしているのに気づきます。次いで、その背後に見える化粧台のようなものが作る水平線が画面を適宜、区切り、絶妙な構図を創り出していることに感心します。

 柔らかく、瑞々しい女性の肌が、同系色の色調の中でまとめられています。金盥の青味を帯びた濃淡の色が、肌の補色として使われるだけではなく、化粧台の影色としても使われており、画面に穏やかなメリハリが生まれているところに興趣が感じられます。

 奇をてらうことなく、淡々と日常生活の光景を描きながら、優しさと穏やかさ、静かな安定を描き出しているところに、マネの円熟した画力を感じさせられます。

 興味深いことに、この女性のポーズは、《草上の昼食》の水浴する女性のポーズを反転させたものでした。視線を落としながらも観客の方を向いています。見られていることを意識している表情です。この眼差しを見て、この作品が《驚くニンフ》の系譜を引いていることがわかりました。

 そういえば、《草上の昼食》の裸身の女性は、この女性よりもさらにしっかりと観客を見据えていました。

 実は、ルーベンスの作品にもこの女性と同じようなポーズ、表情の女性が描かれているものがあります。

 ちょっと見てみることにしましょう。

●ルーベンス(Pierre Paul Rubens)《Nymphs and Satyrs》(ニンフとサテュロス、1635年)

 ルーベンス(Pierre Paul Rubens,1577-1640)に《ニンフとサテュロス》(Nymphs and Satyrs)という作品があります。

(油彩、カンヴァス、136×165㎝、1615-1635年、プラド美術館)

 森の中で白い裸身のニンフたちが何人も描かれています。そのニンフたちに混じってサテュロスの姿も見えます。サテュロスはギリシア神話に登場する半人半獣の精霊です。ローマ神話にも現れ、ローマの森の精霊ファウヌスやギリシアの牧羊神パーンと同一視されることも多々あるようですが、豊穣の化身、あるいは、欲情の塊として表現されてきました。

 この作品を見ると、木に登ってたわわに実った実をもぎ取っているのはサテュロスたちで、その実をもらって幸せそうにしているのがニンフたちです。サテュロスが豊穣の化身であることは明らかで、牧歌的な光景の中に自然の恵みの豊かさが描かれています。

 画面左下には巨大な壺が置かれ、そこから水が流れ出ています。

 気になったのは、この壺のようなものにもたれるようにして座っているニンフの姿勢が、《草上の昼食》の裸身の女性のポーズとそっくりだったことです。

(前掲、部分)

 ひょっとしたら、マネはこの作品を見て、何らかの影響を受けていたのかもしれません。そう思ったのは、実は、マネはルーベンスの作品を模写していた時期があるからです。

 1849年頃、マネはトマス・クチュールのアトリエに入り、6年間修業していましたが、その間、ルーヴル美術館でティツィアーノやルーベンスの作品を模写していたといわれています。また、1856年にクチュールのアトリエを去った後もなお、ベラスケスやルーベンスの作品の模写を続けていました。

 ルーベンスの表現方法について、マネは熟知していたと思われます。

 そのルーベンスの《ニンフとサテュロス》で、大勢のニンフたちの中で、一人のニンフだけが観客を直視していたことに気づきました。敢えて、このようなニンフを描いたことに、17世紀の作品でありながら、新鮮さを感じました。ルーベンスはこのニンフを、意思を持つ女性として描いているように思えたのです。

 そして、このニンフの表情とポーズが、《草上の昼食》の裸身の女性ととてもよく似ていることに興味を覚えました。違いといえば、マネはルーベンスが描いたこのニンフの姿形を踏まえながら、自身の作品では、平面的に描いていたことです。

 《テュイルリー公園の音楽会》もそうですが、マネはモチーフを平面的に描くことによって、現代性を加味しようとしていたのではないかという気がします。

 産業化が進行し、生活に変化が生まれていた19世紀後半、マネは絵画界で一足先に、近代化を実行しようとしていたように思えます。(2022/10/31 香取淳子)

石井柏亭《草上の小憩》は、マネ《草上の昼食》のオマージュ作品か?

■「日本の中のマネ」展の開催

 「日本の中のマネ」展が今、練馬区立美術館で開催されています。開催期間は2022年9月4日から11月3日、開催時間は10時から18時(入館は17時30分)までです。

 私はこの展覧会の開催を図書館に置いてあったチラシで知りました。「マネ」という文字に引かれ、案内チラシを手に取ってみたのですが、ちょっと違和感を覚えました。中折れチラシの表と裏に大きく掲載されていた絵は、いずれもマネの作品ではなかったのです。

 妙だと思い、絵の部分を見直してみると、小さな文字で、作品の概要が書かれています。片方の面に掲載されていたのが、石井柏亭の《草上の小憩》、もう片方の面に載せられていたのが、福田美蘭の《帽子を被った男性から見た草上の二人》でした。

 練馬区立美術館の近くで目にした看板も、この二つの絵で構成されていました。案内チラシの表と裏を拡大し、横長にしたものでした。

看板

 右側が石井柏亭の作品で、左側が福田美蘭の作品です。福田美蘭の作品は、着衣の男性のすぐ傍に裸身の女性が座っている絵柄なので、見るとすぐ、マネの有名な《草上の昼食》を思い起すことができます。

 ところが、石井柏亭の《草上の小憩》の場合、あまりにも日本的な絵柄だったので、容易にマネの影響を観て取ることはできませんでした。

 なぜ、石井の《草上の小憩》がチラシに掲載されていたのでしょうか。そもそも、石井柏亭はマネとどう関係しているのでしょうか・・・。そのようなことが気になりながらも、取り敢えず、会場の中に入ってみました。

 すると、展覧会は、「第1章 クールベと印象派のはざまで」、「第2章 日本所在のマネ作品」、「第3章 日本におけるマネ受容」、「第4章 現代のマネ解釈」という章立てで構成されていました。

 この章立てを見る限り、どうやら、マネそのものを取り上げた展覧会ではなさそうです。

■日本の中のマネ

 マネの作品は、「第2章 日本所在のマネ作品」というコーナーにまとめて展示されていました。全展示作品104点の内、マネの油彩画はわずか6点、パステル画1点、チョーク画1点、エッチング40点、リトグラフ3点、石版画1点だけでした。

 しかも、油彩画の《散歩(ガンビー婦人)》は見たことがありますが、それ以外は、知らない作品ばかりです。

 念のため、出品作品のリストを見ると、いずれも日本の美術館等が所蔵している作品でした。コロナ下の今、海外からマネの作品を借用するのが難しくなっていることが推察されます。

 こうしてみてくると、この展覧会が、「日本の中のマネ」を掬い上げることに焦点を当てた構成になっていた理由がよくわかります。

 「日本の中のマネ」を掬い上げ、「明治期の出会いから現代にいたる、日本人画家によるマネの受容過程を探る」という視点を導入して関連作品を俯瞰すれば、日本人にとっての西洋画の意味をより深く理解できるようになるかもしれません。展示作品よりも企画力が印象に残る展覧会でした。

 それにしてもなぜ、石井柏亭の《草上の小憩》が取り上げられているのでしょうか。マネとは絵柄や作風が違いすぎるので、気になって仕方がありませんでした。そこで、展覧会のチラシをよく読むと、石井柏亭は「マネの《草上の昼食》にインスピレーションを得て」、《草上の小憩》を手掛けたと書かれていました。

 だとすれば、パッと見ただけではわからない影響の痕跡を、《草上の小憩》の中に見出すことができるはずです。この石井作品から「日本の中のマネ」を掬い上げることができれば、「日本人画家によるマネの受容過程」の一例を見ることができます。

 そこで、今回は、石井柏亭の《草上の小憩》を取り上げ、マネの《草上の昼食》とどのように関わっているのかを探ってみることにしたいと思います。

 まずはマネの作品《草上の昼食》を振り返ってその特性を把握し、つぎに、石井柏亭がそれをどう解釈し、自身の作品《草上の小憩》にマネの痕跡を残していったかを見ていくことにしましょう。

■エドゥアール・マネ(Édouard Manet)制作、《草上の昼食》(Le Déjeuner sur l’herbe, 1862-1863)

 《草上の昼食》はマネの有名な作品です。

 この作品は当初、《水浴》というタイトルで、1863年の公式サロンに出品されました。この時のサロンでは988人しか入選せず、落選作品は2800にも及びました。マネが出品した3点はすべて落選しています。

 落選者たちの不満の声に応えるように、ナポレオン三世は、その二週間後に、「落選展」を開催しました。初日だけで7000人もが参加したといわれるこの「落選展」で、観客の注目を一斉に集め、そして顰蹙を買ったのが、マネのこの作品(《水浴》は後に、《草上の昼食》と改題)でした。

 それでは、この作品を見てみることにしましょう。

(油彩、カンヴァス、208×265.5㎝、1862-1863年、オルセー美術館)

 西洋画で裸身を見るのは別に珍しくもないのですが、この作品では、裸の女性が恥ずかしげもなく、着衣の男性と談笑し、その背後に薄衣を着て水浴びをしている女性がモチーフとして取り上げられています。当時の人々にとっては、意表を突く光景でした。

 この作品を見た観衆は、モチーフの「不道徳」、「はしたなさ」に激しい非難を浴びせたそうです(※ 後藤茂樹編、『マネ』、集英社、1970年、p88.)。

 正装した男性の隣で、裸身の女性が脱いだ衣服の上に平然と腰を下ろしている姿を目にすれば、「はしたない」と思うのも当然の反応でしょう。

 傍らには、帽子や上着のようなものが散乱し、バスケットからは果物やパンが転がり出ています。慌てて衣服を脱いだ後の乱雑さが丁寧に描かれています。瑣末な周辺状況が詳細に描写されることによって、この光景のふしだらな印象がさらに強められています。

 古来、西洋画では数多く裸身の女性が描かれてきましたが、大抵の場合、女神か、何らかの寓意、或いは、理想的な女体を示すものとして表現されてきました。日常生活の中で描かれることはなく、一般女性とは別世界の存在として描かれてきたのです。

 だからこそ、観客は裸体画を見ても格別に違和感を覚えず、拒否することもなく、むしろその美しさを称賛した例も数多く見られます。

 たとえば、マネが出品したこの1863年のサロンに、アカデミズムの画家アレクサンドル・カバネル(Alexandre Cabanel, 1823-1889)も出品していました。彼の作品は入選しましたが、それは《ヴィーナスの誕生》というタイトルの裸体画でした。

 興味深いことに、カバネルとマネは同時期に、裸体画をサロンに出品していたのです。ところが、カバネルの作品は入選したのに、マネの作品は落選し、その後、開催された「落選展」でも落選しました。そればかりか、以後しばらくは観衆から非難され続けたのです。

 両者の裸体画に、一体、どのような違いがあったのでしょうか。カバネルの《ヴィーナスの誕生》を見てみることにしましょう。

(油彩、カンヴァス、130×205㎝、1863年、オルセー美術館)

 これは、19世紀のアカデミック絵画としてよく知られた作品で、ナポレオン三世が購入したほどでした(※ カバネル、Wikipedia)。アカデミーからも観衆からも、そしてナポレオン三世からも称賛された作品だったのです。

 天使が描き添えられているとはいえ、《ヴィーナスの誕生》の裸身は、仰向けになって身をよじり、横たわっていて、とても官能的です。

 ところが、《草上の昼食》の裸身は、膝を立て、肘をついて座っているだけです。エロティシズムという観点から見れば、《ヴィーナスの誕生》の方がはるかに煽情的でした。それでも、観衆やアカデミーの評価は真逆だったのです。

 こうしてみてくると、裸身が描かれているからといって、マネの《草上の昼食》が非難されたわけではないことがわかります。

■カバネルとマネ、なぜ、評価が大きく分かれたのか?

 それでは、なぜ、《草上の昼食》が非難され、《ヴィーナスの誕生》は称賛されたのでしょうか。

 一つには、絵柄、あるいは、モチーフの構成に原因があると考えられます。

 カバネルの《ヴィーナスの誕生》では、泡立つ波の上で、伸びやかに寝そべる裸の女性が描かれています。描かれた状況を見ても、均整の取れた美しい身体を見ても、裸身をさらけ出しているのが人間の女性ではないことは明らかです。

 ヴィーナスは、海から誕生した女神アフロディテともいわれ、「ヴィーナスの誕生」は、これまで何人もの画家が手掛けてきた画題です。有名な作品として、1483年頃、ボッテイチェリによって描かれた《ヴィーナスの誕生》があります。

 まさに神話の世界であり、豊穣の寓意が美しい裸身に託して表現されてきました。カバネルの作品でも、寝そべるヴィーナスの真上を、まるで見守かのように、天使たちが飛び回っています。神話の世界、豊穣の寓意が示されているのです。

 カバネルがこの作品で表現したのは、アカデミズムの画家ならではの伝統的な画題あり、モチーフの構成でした。

 もちろん、裸身の描かれ方も、マネの作品とは異なっていました。

 《ヴィーナスの誕生》では、女性の乳白色の肌はきめ細かく、滑らかで、筆触の跡が見えないよう描かれています。アカデミズムの画家たちが踏襲してきた技法です。そして、身体は理想的なプロポーションであることがわかるように描かれており、ギリシャ以来の裸体美の観念に基づいて表現されています。

 カバネルの《ヴィーナスの誕生》はこのように、モチーフの構成であれ、描き方であれ、いわゆるアカデミズムの骨法を踏まえて表現されていたのです。

 一方、《草上の昼食》はモチーフの構成、裸身の描き方、そのいずれについても、アカデミズムのルールから逸脱しています。

 そもそも、裸身の女性が着衣の男性二人と談笑し、背後に水浴する女性が描かれている光景そのものが異様です。手前には脱ぎ捨てた衣服やバスケットから果物やパンが転がり出て、乱雑な様子が描かれています。生活秩序が破壊されているばかりか、理想的なプロポーションを見せるわけでもない普段の姿勢の裸身と相まって、猥雑な印象が強化されているのです。

 ピクニックを楽しんだりすることもある神聖な森が、このような絵柄で描かれているのを見て、観衆の多くが穢されたような気分になったとしても無理はありません。

 描かれているのは、女神でもなく、有名な歴史上の女性でもなく、一般女性なのです。描かれた対象と観客との距離が近すぎました。しかも、この女性は裸身のまま、臆することもなく正面を見据え、脱ぎ捨てた衣服の上に座っています。一見、穏やかな表情ですが、不敵な印象すらあります。

 絵柄、あるいは、モチーフの構成でいえば、神話や歴史の空間ではなく、日常の生活空間で女性の裸身が描かれていることに、この作品の特徴があります。そのこと自体、アカデミックのルールを破ることを示唆しており、一部の画家にとっては斬新で、先駆的でもあったのですが、大多数の観衆や画家には受け入れられず、不興を招いたと思われます。

 先ほども触れましたが、裸身の描かれ方も、これまでアカデミーで受け入れられてきた裸体画とは異なっていました。

 たとえば、《草上の昼食》の女性は、膝を曲げて座り、その膝頭に肘をついて頬を支えています。とても理想のプロポーションを見せる姿勢とはいえず、しかも、腹部や腿の裏側のたるみもしっかりと描かれています。

 肌はやや黄色味を帯びた白色で、首筋や腹部に大きく皺が刻み込まれ、写実的に表現されていました。

 理想のプロポーションだとわかるようにモチーフをレイアウトし、肌は乳白色で筆触の跡を残さず、滑らかに描くという、これまで受け入れられてきた裸体の描き方から、この作品は大きく逸れていたのです。

 それら一切合切が、当時のパリの観衆から不謹慎、不道徳だとして非難された原因だったのでしょう。その一方で、一部の画家たちや評論家には、先駆的で斬新、革新性を感じさせる作品だったのでしょう。

 それでは、石井柏亭はこの作品にどう影響され、どのようなオマージュ作品を残したのでしょうか。

■石井柏亭《草上の小憩》(1904年)

 チラシに掲載されていたのが、石井柏亭の《草上の小憩》(1904年)です。マネの《草上の昼食》に似たタイトルですが、絵柄は全く異なっていました。一見しただけでは、この作品のどこにマネの影響の痕跡があるのかわかりません。

(油彩、カンヴァス、92×137.5㎝、1904年、東京国立近代美術館)

 はたして、この作品のどこに、《草上の昼食》へのオマージュがあるのでしょうか。詳しく見ていくことにしましょう。

 晴れた冬の日、陽だまりの中で若者たちが憩う、和やかなひと時が捉えられています。《草上の昼食》との類似性があるとすれば、若い男女が野外でリラックスしている光景が描かれているということぐらいです。

 まずは、そのあたりから見ていくことにしましょう。

 手前に描かれた少女は、前髪を下ろして首をかしげ、あどけない表情をこちらに見せています。手袋をはめた手を組んで腿に置き、足を揃えて横座りをしています。無理やり上体を起こそうとしており、不自然な姿勢ですが、大人びて見え、ややコケティッシュです。

 後ろの女性は、髪を三つ編みにし、片肘をついて横になっています。見るからに不安定な姿勢です。しかも、低い位置から見上げるようにして、正面を見据えているせいか、表情に媚びが感じられます。

 一方、男性は二人とも帽子を被っています。学帽を被った男性は、膝を立てて座っており、無理のない姿勢です。被っているのが角帽ではなく丸帽ですから、中学生か高校生なのでしょう。素朴な印象を受けます。

 その右側に座っている男性は、膝を伸ばして座っており、リラックスしている様子です。縁が柔らかく波打った形の帽子を被っていて、落ち着いた雰囲気があり、社会人に見えます。4人の中では最年長者なのでしょう。

 彼らがどういう関係なのかはわかりませんが、年齢差があって仲睦まじく、リラックスした様子で、戸外で寛いでいる様子を見ると、兄弟姉妹なのかもしれません。

 まず、これらのモチーフから、マネとの関連を見ていくことにしましょう。

■モチーフを比較して見えてきたこと

 描かれているのは、男女4人が林の中の草地で、和やかなひと時を過ごしている光景です。一見、日常的な生活風景のように見えますが、よく見ると、女性二人のポーズが不自然でした。とくに違和感を覚えたのが、三つ編みの女性です。

 なんと、この女性は草地に肘をついて、身体を横たえているのです。しかも、若い女性です。どんな事情があったにせよ、着物を着た女性が、戸外で取るような姿勢ではありません。見るからに不安定で、肘をついた手を片方の手で押さえ、辛うじて横向きの身体を支えています。不自然なまでに崩した姿勢がふしだらに見え、身持ちの悪さを感じさせられました。

 ふと、この三つ編みの女性は、《草上の昼食》の裸身の女性を日本風に焼き直したものではないかという気がしました。

 横たわって、低い位置から見上げる女性の姿勢そのものが、媚態に見えたからです。そう思うと、すぐさま、マネの作品に浴びせられた「不謹慎」、「ふしだら」といった非難が脳裏に浮かびました。

 他のモチーフも同様、マネの作品との関連性が見受けられます。

 たとえば、《草上の昼食》では、男性は後ろに房のついた帽子を被り、白シャツにネクタイを締め、黒いコート姿で描かれていました。男性二人は正装をしているのに、女性は裸身、あるいは薄衣でした。男性と女性とで、描き方の落差が際立っていました。

 一方、《草上の小憩》でも、男性二人は帽子を被っており、佇まいに乱れはありません。学帽に制服、縁のある帽子に上着とズボンという格好です。これは、《草上の昼食》の男性たちの正装に相当します。帽子によって身分や所属が示され、男性が社会階層という秩序原理の中に位置づけられていることが踏まえられているのです。

 もう一人の女性モチーフ、《草上の昼食》の水浴をしている薄衣の女性は、《草上の小憩》では、手前に描かれたあどけない表情をした少女に相当します。両手を組んで腿に置き、足を揃えて横座りした姿勢が、幼いながらややコケティッシュでした。三つ編みの女性よりも挑発の度合いが低いという点で、裸身の女性よりも挑発の度合いの低い水浴びをする女性の置き換えに思えます。

 こうしてみてくると、石井柏亭は女性モチーフを、コケティッシュの度合いによって描き分け、マネの作品の女性モチーフに対応させていたように思えます。裸身の女性を、大胆なポーズを取っている三つ編みの女性に置き換え、背後で水浴する女性を、ポーズのせいでややコケティッシュに見える少女に置き換えたと思われるのです。

 それでは、構図についてはどうでしょうか。

■構図、明暗のコントラスト、画面の透明感について

 《草上の小憩》を見ると、4人が座っている草地の周囲は踏み固められ、手前の少女を頂点に、背後の一直線に並んだ木々を底辺とした逆三角形になっています。該当部分を黄色のマーカーで図示してみました。

(前掲。黄色マーカーで表示)

 遠景に広がりが感じられる構図です。陽だまりの中、4人は思い思いのポーズで、草地に腰を下ろしています。木々の背後に空が大きく広がり、その合間に人家も見えており、人里近い林の中の草地だということがわかります。

 枯れた草地には、所々に緑の草が見え、冬とはいえ、春の気配が感じられます。冬から春への移行期ならではの穏やかな温もりが画面から浮かび出ています。

 よく見ると、画面全体に万遍なく、黄土色の短い線がランダムに散らされています。空といわず、制服や着物といわず、色彩を主張するようなモチーフの上には全般に、黄土色の短い線が散らされていたのです。まるで強い色彩を弱めるかのように見えます。

 その結果、画面全体に明暗のコントラストが弱められる一方、統一感が生まれ、陽光は優しく柔らかく、和やかな雰囲気が醸し出されていました。若者たちの日常生活の一端が、ほのぼのとした感触を残しながら、描かれていたのです。

 それでは、マネの《草上の昼食》はどうだったのでしょうか。

 《草上の昼食》では、男女3人が手前で寛ぎ、その背後で女性が1人、水浴びをしている光景が描かれています。4人のモチーフは、遠景でわずかに見える空を頂点とし、手前の男女を底辺とする三角形の中にすっぽりと収まっています。とても安定した構図です。該当部分を黄色のマーカーで図示してみました。

(前掲。黄色でマーク)

 この安定感のある構図が、不謹慎に見える光景に、清澄で泰然自若の趣を添えているように思えます。木々の合間から射し込む陽光と二人の女性の肌の明るさが、鬱蒼とした森に活力を与え、明暗のコントラストの強さが、一種の清涼感を添えていたからかもしれません。

 モチーフの構成こそ、スキャンダラスで猥雑に見えますが、その背後から、まるで高精細度の画面を見ているような、透明感のある清澄な雰囲気が醸し出されていたのです。

 暗緑色の森の中で、女性の裸身がひときわ明るく周囲を照らし出し、その明るさはややトーンを下げて、水浴する女性から遠景の空へとつながっています。光と影、明るさと暗さのバランスが絶妙でした。

 明暗のコントラストが強く、事物の境界がはっきりと描かれているせいか、画面からは不思議な透明感が感じられます。世俗を超えた透明感のようなもの、あるいは、清澄な雰囲気のようなものが画面全体から感じられたのです。光と影、明暗のコントラストを意識した色遣いとモチーフの配置の効果なのでしょう。

 興味深いのは、手前左にバスケットからパンや果物が乱雑に転がっている様子が丁寧に描かれていることでした。マネはなぜ、そうしたのかと考え、ふと、気づきました。雑多で混乱した状況を丁寧に描き出すことによって、安定した画面の硬直化を崩そうとしていたように思えてきたのです。

 着衣の男性の傍らに裸身の女性を配置したのと同様、敢えて破調を創り出そうとするところに、既存の描き方に満足できないマネの感性を見ることができます。調和を乱そうとすえば、軋轢が生じ、エネルギーが生まれます。斬新で革新的な志向性はそのような心持の中にこそ存在するような気がします。

 観衆やアカデミーからの激しい非難とは別に、この作品に斬新な力が漲っていることは確かでした。

■《草上の昼食》の斬新さ、革新性

 マネのこの作品には暴力的なまでの斬新さがありました。当時の観衆の激しい非難がそれを証明しています。

 マネの場合、裸身の女性と着衣の男性2人が談笑している光景が非難されました。裸身に対する非難というより、日常の生活空間の中で、裸の女性が正装した男性とともに過ごす光景への非難でした。そのような光景が当時の人々に「不謹慎」、「不道徳」という印象を植え付け、嫌悪の感情を喚起させていたからでした。

 こうしてみると、《草上の昼食》のエッセンスは、「不謹慎」、「不道徳」、「ふしだら」の可視化にあったと考えられます。

 実際、着衣の男性の隣にマネは裸身の女性を描くだけではなく、そのすぐ傍らに、脱ぎ捨てられた衣服や帽子、バスケットから転がり出たパンや果物を丁寧に描かれており、「ふしだら」が強調されていました。

(前掲作品の一部)

 脱いだ衣服の上に座った裸体のすぐ傍に、リボンのついた帽子や衣服が散乱しています。バスケットは傾き、中から果物やパンが転がり出ています。倒れた酒瓶もあります。まさに生活秩序の破壊であり、既存の価値体系の転覆の象徴ともいえる光景です。

■オマージュ作品

 《草上の昼食》は当時、一大センセーションを巻き起こし、マネは観衆やアカデミーの画家たちから一斉に非難されました。当時の観衆やアカデミーの画家たちはひょっとしたら、この作品に潜む寓意に気づいたからこそ、激しく非難したのかもしれません。

 一方、一部の画家たちは作品に込められたこの寓意を称賛し、オマージュ作品を手掛けました。モネ、セザンヌ、ピカソといった画家たちはこの作品に刺激され、次々とオマージュ作品を制作していったのです。

 エドゥアール・マネ(Édouard Manet, 1832-1883)は、伝統的な絵画の約束事に囚われず、アカデミーからの解放を先導した旗手だといわれていますが、《草上の昼食》を見ると、なるほどと納得せざるをえません。

 そのオマージュ作品を、日本で初めて手掛けたのが、石井柏亭でした。

 私は初めて石井柏亭の《草上の小憩》を見た時、なぜ、この作品が《草上の昼食》のオマージュといえるのかわかりませんでした。いかにも日本的な生活風景が描かれていたからです。

 ところが、両作品をモチーフの側面から比較してみると、男女4人のモチーフはそれぞれ、《草上の昼食》から見事に翻案されていることがわかりました。そして、構図や明暗のコントラスト等については、マネの作品を真逆に置き換え、日本の情景や社会状況に適合させていました。

 そうすることができたのは、石井柏亭が、《草上の昼食》のエッセンスを的確に汲み取っていたからにほかなりません。西洋絵画に込められた寓意を読み取り、咀嚼し、日本文化に適合させて表現できる能力を備えていたからこそ、石井は、モチーフを的確に日本風に翻案することができたのです。

 《草上の小憩》は、西洋絵画や西洋文化を充分理解していなければ、制作不可能でした。また、日本文化や当時の日本社会を充分に理解していなければ、適切に翻案することもできなかったでしょう。見事なオマージュ作品といえます。(2022/9/28 香取淳子)