ヒト、メディア、社会を考える

2025年

陶磁器業界の近代化に貢献したワグネルと納富介次郎

■有田駅で見かけた柿右衛門の陶板

 2025年12月15日午後二時過ぎ、ようやく有田駅に着きました。駅員がチケットを回収するシステムの駅でした。背後に小さな山が見えます。下車したホームの対面に、屋根付きの掲示板のようなものが見えました。ホームの階段を上って渡り、近づいてみると、陶板が展示されていました。

 左下に縦書きで「第十四代柿右衛門」と署名が入っています。遠目からは、一瞬、朝顔かなと思いましたが、よく見ると、ちょっと違っていました。ラッパのように開いた花弁の形状、傍らの葉の形に長い茎、そして、花芯には数本の雄しべが描かれています。おそらく、ユリの花でしょう。落ち着いた赤とベージュの花弁が優しく、穏やかな空間を創り出しています。

 伸びやかに広がる花々を、乳白色の余白が支える画面構成が印象的です。

 製作者の第十四代柿右衛門(1934-2013)は、三百数十年も続く「柿右衛門様式」の伝承者です。昭和五七(1982)年に、十四代柿右衛門を襲名しました。以来、「柿右衛門様式」の中に自分自身の個性を発揮するようになったそうです。「余白の美」を特徴とする「柿右衛門様式」の奥深さ、表現の可塑性に気づいたからでした。

 第十四代柿右衛門は、柔らかな白い磁器の地肌に、赤を中心とした鮮やかな色で、野の草花などを華やかに描くのが特徴だとされています。柿右衛門様式の伝統を継承しながら、自身を表現し、現代の生活空間に合った作品を追求しているのです。平成十三(2001)年、色絵磁器の分野で国の無形文化財、すなわち人間国宝に認定されました。(※ https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=D0009250414_00000

 その人間国宝の作品がさり気なく、駅に設置されているのです。確かにいま、有田にいるのだという思いを強くしながら、ホームを歩いているうちに、ふと、駅の脇に貨車が停車しているのに気づきました。

 この貨車で陶磁器を輸送するのでしょうか。コンテナが多数、積み上げられています。後ろには小さな山が見えます。

 さらにホームを歩いていくと、コンテナ置き場のようなものがありました。その背後に、「佐賀県陶磁器工業協同組合」の看板のかかった建物が見えます。

 写真を拡大すると、一階部分に、「有田窯元ギャラリー」というショップの名前が見えます。しかも、その隣に白い胸像が設置されています。この写真でははっきりしないので、調べてみると、ワグネル(Gottfried Wagener, 1831- 1892)の胸像でした。明治初期に鍋島直正に招聘され、有田で技術指導を行った人物です。

 眩いほど白い顔面に、強い信念が感じられます。

■ワグネルとは?

 ドイツ人化学者ワグネルは、アメリカ企業のラッセル商会の石鹸工場を設立するため、長崎に招聘されました。

 1868年3月29日にマルセイユを出発し、5月15日(慶応4年4月23日)に長崎に到着しています。ところが、石鹸工場は軌道に乗らず、工場は取りやめになってしまいました。その後、佐賀藩に雇われ、明治1870年4月から8月にかけて、有田町で窯業の技術指導を行っていました。ワグネルが有田で行った技術指導は次のようなものでした。

●石灰を用いた経済的な釉薬の開発、

●従来使われていた呉須に代わる安価なコバルト顔料の使用、

●薪不足を解決するための石炭窯の築造実験、(※ 武智ゆり、『近創史』、No.6, 2008年)

 わずか四か月ほどの期間でしたが、ワグネルは以上のような開発や技術指導を有田で行っていました。いずれも磁器製造の品質向上と経費節減につながるものです。ワグネルは、科学的手法によって有田焼製法の近代化に貢献していたのです。

 1870年11月頃には大学南校(現在の東京大学)のドイツ語教師として東京に移動し、文部省設立と大学改組に伴い、1872年には医療系の東校(現・東京大学医学部)の数学、博物学、物理学、化学などの教育を担当しています。

 1873年のウィーン万国博覧会では、事務局副総裁の佐野常民の強い要望で東校と兼任のまま事務局御用掛となりました。ヨーロッパの人々の嗜好がわかり、理化学分野の知識や技術があったからでした。役職名は「列品並物品出所取調技術誘導掛」で、博覧会への出品物、特に陶磁器などの選定や技術指導、目録および説明の作成を行いました。ワグネルの導きがなければ、とても受賞などできなかったでしょう。

 この時の万博で「名誉賞」を受賞したのが、「肥前有田 陶器製造所」でした。(※ 松田千晴、「万国博覧会と作品出品者」、2000年3月、p.28)

 有田での技術指導の効果が、受賞という形で得られたのです。ワグネルは万博出品に際し、「日本的で精巧な手工芸品」であることを求めました。粗雑な機械製品では西欧に負けると思ったのでしょう。近代化していない日本が競争優位に立てるとしたら、まさに「日本的で精巧な手工芸品」しかないと判断したのです。

 1876年に開催されたフィラデルフィア万国博覧会でも、ワグネルの指導、助言のもとで参加準備に入りました。ここでもワグネルは出品作品について厳しい基準を貫きました。その結果、磁器部門では有田から深川栄左衛門他二名が入賞しています(※ 前掲、p.29)。

 日本政府初参加のウィーン万博で受賞できたのも、フィラデルフィア万博で入賞できたのもワグネルによって、予め出品作品の基準を示されていたからでしょう。欧米人の嗜好を踏まえ、出品作品を選んだ結果、受賞できたといえます。

 これについては当時、日本らしさが失われたと批判する向きもありましたが、日本の陶磁器は人気を博し、飛ぶように売れたといいます。有田香蘭社の出品作品はとくに精巧な美しさで、高評価を得ていたようです。

 技術指導等によって、陶磁器製造の近代化に貢献していたワグネルは、販売ルートの拡大にも大きな役割を果たしていたのです。国際的な展示場であった万博で高評価を得た有田焼は、当然のことながら、輸出産業の花形になっていきます。

 有田駅のホームに立っているだけで、このような陶磁器界の歴史の一コマを感じさせられます。そのまま維新期の有田に思いを馳せていたい気持ちになってしまいますが、実は今回、有田に来たのは所用があったからでした。有田工業高校を訪れるのが主目的でした。

 有田駅から徒歩15分ぐらいのところに有田工業高校はありました。校門を入ると、まず目に入ってきたのが、白い胸像です。近づいてみると、初代校長納富介次郎先生の像と書かれています。

 納富介次郎の像が、なぜ、有田工業高校の玄関に設置されているのでしょうか?

■納富介次郎とは?

 天保十五(1844)年に、納富介次郎(1844-1918)は、佐賀藩の支藩である小城藩の藩士の柴田花守の次男として生まれました。実父からは日本画を学び、安政六(1859)年、十六歳の時に佐賀藩士で儒学者の納富六郎左衛門の養子になると、その翌年から長崎に出て、南画を学んでいることがわかりました。

 日本画であれ、南画であれ、納富介次郎は幼い頃からさまざまな画風の絵を学び続けてきたことがわかります。根っから絵が好きだったからか、それとも周囲が彼の絵の才能を見抜き、学びの場を提供していたからか、経緯はよくわかりませんが、彼がどんな時でも描くことを忘れず、画業の習熟に励んでいたことがうかがい知れます。

 文久二(1862)年に、納富介次郎は、幕府勘定吟味役である根立助七郎の従者として、上海に渡っています。同じ佐賀藩士の中牟田倉之助や長州藩士の高杉晋作と共に上海に出向いて貿易調査を行い、報告書を作成していました。従者とはいえ、十九歳の時に海外業務に携わっているのです。藩命を受けての業務であり、幕府の業務の一環でもありました。

 そういえば、納富は十七歳の時、長崎に出て南画を学んでいました。その時、おそらく、語学も習得したのでしょう。語学ができ、学習能力が高く、臨機応変に対応できる柔軟性と行動力を備えていたからこそ、納富は海外業務に抜擢されのではないかと思います。上海には明治二年(1869)年にも再訪しています。大阪佐賀藩商会と清の貿易業務を行うためでした。そして、明治四(1871)年には、横浜に出て貿易業務に携わっています。興味深いことに、この時、業務の傍ら、納富は油絵を学んでいたというのです。

 横浜には居留地があり、「イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ」の特派記者として来日していたイギリス人チャールズ・ワーグマン(Charles Wirgman、1832 – 1891)が、そこで日本人に油絵を教えていました。1865年に五姓田義松、1866年には高橋由一が入門していたことがわかっています。納富はおそらく、このワーグマンから学んでいたのではないかと思われます。

 実は、ワーグマンは1861年6月25日、イギリス公使オールコックの一行と共に長崎を訪れています。その頃、納富は長崎で南画を学んでいましたから、ワーグマンの噂は聞き及んでいたに違いありません、横浜に赴任した納富が、早々に、ワーグマンの許に出向いて油絵の教えを請うた可能性は高いです。

 納富が横浜で海外業務を担当していた明治四(1871)年、明治政府はオーストリア・ハンガリー帝国からウィーン万博への参加を打診されました。 万博は開国したばかりの日本が国際デビューするのに格好の舞台です。出品物を通して日本の豊かな国土や工芸品をアピールすることができますし、海外の展示品から最新の技術や文化を吸収することもできます。政府は参加することを決め、明治五(1872)年二月にその布告をしています。

■ウィーン万博、フィラデルフィア万博への参加

 明治六(1873)年(5月1日~11月1日)に、ウィーン万国博覧会が開催されました。これは日本政府がはじめて公式に参加し、出品した博覧会です。日本からは、官員、通訳、技術伝習生、御雇外国人、展覧会場の建設要員など、総勢100名近くが派遣されました。万博事務局総裁が大隈重信、現地を仕切る副総裁が佐野常民、ワグネルが顧問で出品物の選定や海外向けの目録、説明書を作成しました。佐賀藩の関係者が主要メンバーとして構成されていたのです。

 納富介次郎は、陶器製造図説編成兼審査官として、参加しました。語学ができ、絵画への造詣の深いこと、貿易業務に明るいことなどが認められたのでしょう。伊万里商社の陶工・川原忠次郎や京都の丹山陸郎は共に陶芸研究員として参加していました。

 ワグネルの斡旋によって、納富、川原は万博終了後もそのままヨーロッパに滞在し、ボヘミアのエルボーゲン製陶所(Elbogen Porcelain Factory)で伝習生として、陶磁器の製造を学びました。その後、彼らはフランスのセーブル製陶所(Manufacture de porcelaine de Sèvres)を見学した後、明治八(1875)年に帰国しています。

 納富や川原は日本人として初めて、ヨーロッパで陶磁器の製法を学び、著名な製造所でさまざまな製品を見てきた稀有な人物でした。この時の伝習経験を通して、納富は、工芸品として作品毎に制作する方法では量産化できず、貿易収支を改善するには限界があると認識するようになりました。

 欧米列強に伍していくには、量産体制を整える必要があると考えるようになり、組織的な人材育成にも取り組む必要があると考えました。納富は帰国後、次々と、工業学校あるいは工芸学校の創立に携わりましたが、それはヨーロッパでの伝習経験が契機となっていたのです。

 納富は、科学技術を駆使し、機能的で需要に応じた陶磁器を製造することが重要であるとも述べています。さらに、陶磁器の製造にはマーケティングが必要だという認識を示していました。商品である以上、日本の陶磁器が欧米でどれだけ需要があるか、顧客の嗜好はどのようなものか、コストに見合う生産ができるのか、といった市場調査が必要だというのです。

 こうしてみると、納富がヨーロッパで学んだものは、単に陶磁器の製造技術だけではなかったことがわかります。陶磁器の製造過程、販路、消費過程にも近代化が必要だということを学んでいたのです。

■自ら考案したデザイン

 帰国翌年の明治九(1876)年にフィラデルフィア万博が開催されました。納富は専任審査官として出品審査を行うばかりか、自らデザインした陶磁器なども出品しました。産地の職人から、明治政府あてに海外向けの作品の図案を示して欲しいという要望があったからでした。

 たとえば、「色絵紅葉山水文耳付花瓶」という作品があります。

 森谷美保氏は、「色絵紅葉山水文耳付花瓶」について、「花瓶の胴部には色づく紅葉が映える山中の滝の景色が絵にされ、主な文様は伝統的な山水風景だが、首と足は華やかな色彩で彩られ、瀟洒な耳が和洋折衷の雰囲気を漂わしている」と説明しています。(※ 森谷美保、2021年7月15日、日経新聞)。

 残念ながら、個人のコレクションなので、どのような作品なのか、「色絵紅葉山水文耳付花瓶」をここでご紹介することはできませんが、森谷氏の文章からは、日本の風景ならではの繊細な美しさが表現されているようです。

 この作品の器形図案は、納富介次郎が考案したものでした。図案を香蘭社へ配布し、同社の設立メンバーだった名工・深海墨之助が成形を手掛けたのです。絵付けを行ったのが瓢池園で、ウィーン万博を機に東京で創業した絵付け業者です。明治六(1873)年に、東京深川の森下町に設立された陶磁器の絵付工場には、絵師出身の絵付師を抱えており、絵画的な表現を得意としていたといわれています。

 器形デザイン、成形、絵付けなど陶磁器の製造過程で、それぞれの領域で最高の力量をもつ人材を起用し、作品化したのです。

 納富はウィーン万博に参加した後、ヨーロッパに滞在して陶磁器の製造経験を積みました。そこで学んだのが、これまでの日本の製法を変えなければ、貿易収支を改善できないということでした。さまざまな改革を試みましたが、その一つが工芸デザインの改革でした。

 フィラデルフィア万博への出品作品では、博覧会事務局が輸出品の器形や文様の図案を作成し、産地にそれを配布し、図案と同一の製品を制作させる方法が実践されました。これは質の高い作品を生産する方法であり、納富が開発した陶磁器製造の近代化の一環でした。

 納富介次郎が考案した図案は後に、「温知図録」と呼ばれるようになりました。「温知図録」はまさに官民一体で輸出用の陶磁器製造に取り組んだ成果の一例といえます。

■実践教育に邁進

 帰国後の明治一〇(1877)年、納富は塩田真(1837-1917)とともに、江戸川製陶所を設立しました。共にウィーン万博に参加し、その後オーストリアの製陶所で技術を学んだ仲間の一人です。ところが、営利を顧みない公共的な事業だったので、次第に経営難になり、七年後の明治一七年に閉鎖せざるをえなくなりました。

 当時、陶磁器業界でも近代化が求められるようになっていました。技術はもちろん、経営、組合、特許制度などすべての領域で改革が必要になっていたのです。海外経験のある納富らは、近代化の指導者として各地で活躍しています。

 たとえば、明治一六(1883)年、納富は石川県に招かれて陶器や漆器の製造を指導し、製品を中国に輸出するように勧めています。翌々年に再び招かれて、一年間の技術指導を行い、絵画品評会の審査長なども務めました。この期間に納富は、工芸品の生産体制の協同化、効率化を提言し、同業者組合の設立や物流の効率化なども推進しました。

 ヨーロッパでの陶磁器の製造経験を経て獲得した製法、生産体制の近代化を、納富は次々と実践し、広めていったのです。

 金沢での嘱託期間が終了すると、納富は石川県に働きかけて、人材育成に挑みます。明治二〇(1887)年に金沢工業学校(現・石川県立工業高等学校)が設立されると、その初代校長となりました。これは、日本初の中等実業教育機関で、専門画学部、美術工芸部、普通工芸部の三部が設けられていました。

こちら → https://cms1.ishikawa-c.ed.jp/kenkoh/%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%B4%B9%E4%BB%8B

 その後、明治二七(1894)年に富山県工芸学校(現・富山県立高岡工芸高等学校)を創立し、やはり初代校長となり、三年以上勤務しました。ここでは仏壇や高岡銅器の生産が盛んな現地の状況を踏まえ、木材彫刻、金属彫刻、鋳銅、髹漆の四科を設けました。

こちら → https://www.kogei-h.tym.ed.jp/school_information

 続いて、明治三一(1898)年には香川県工芸学校(現・香川県立高松工芸高等学校)を創立し、木工部と金工部を設置しました。ここでも三年以上にわたって初代校長を務めています。

こちら → https://www.kagawa-edu.jp/kogeih02/gakkousyoukai

 そして、郷里の佐賀県立工業学校(現・佐賀県立佐賀工業高等学校)の二代目校長として着任したのが、明治三四(1901)年です。その二年後の明治三六(1903)年には同校の分校だった佐賀県立有田工業学校(現・佐賀県立有田工業高等学校)を独立開校させ、初代校長になりました。

こちら → https://www.education.saga.jp/hp/aritakougyoukoukou/?content=__trashed-18__trashed

 納富介次郎は、明治二〇(1887)年から明治三六(1903)年までの十六年間、陶磁器の実践教育の場を次々と設立し続けてきました。金沢、高岡、高松、有田などで創立したこれら四校は、納富の理念を引き継ぎ、現在、互いに姉妹校となって、交流を重ねています。

 有田工業高校のホームページには、「校長あいさつ」として、次のように記されています。

 納富介次郎(佐賀県小城市出身)が創設した、石川県立工業高等学校、富山県立高岡工芸高等学校、香川県立高松工芸高等学校とは、平成一二(2000)年に姉妹校交流を締結している。以来、各校との交流を続け、さらに平成一七(2005)年、韓国陶芸高校とも姉妹校交流を締結し、生徒たちは互いの作品を交換し、鑑賞することを通して交流を深めている。

 納富が着手した実践教育の場は、百二十二年の歳月を経た今、姉妹校だけではなく、韓国にまで交流の輪を広げているのです。

 有田工業高校の校訓を見ると、次のように書かれていました。

「勉(ベん)脩(しゅう)- 愛し、創り、光れ」を掲げ、生涯学び続けること(勉脩)を基本に、自らを大切にするとともに他人を思いやり(愛し)、新しいことに積極的に挑戦し(創り)、社会に貢献できる人間になること(光れ)を目指している。(※ https://www.education.saga.jp/hp/aritakougyoukoukou/?sub_page=%E5%85%A5%E5%AD%A6%E6%A1%88%E5%86%85

 冒頭に「勉脩」を掲げ、学びを基本に、自身や他人を大切にし、新しいことに挑戦し、社会に貢献できるような人間になるようにと訴える内容が印象的です。実は、納富が設立した有田工業高校の前身は勉脩(べんしゅう)學舎でした。

■勉脩學舎

 明治十四(1881 )年、江越禮太は白川の地に、日本初の陶磁器工業学校「勉修学舎」を創設し、初代校長を務め、実践教育を行いました。どこよりも早く有田に、陶磁器の実業学校を創設したところに先見の明があったといえます。

 「安易さから脱するには、西洋の技や教えに学び、その長を取り、わが不足を補うことによって名工を育成する必要がある」と説き、窯業技術の普及を主張し、人材育成の場として勉脩學舎を開校しました。(※ 関西佐賀県人会、平成二十八年七月)

 江越禮太(1827-1892)は元小城藩士で、幼い頃から儒学者・草場佩(はい)川(せん)(1787-1867)に学び、その後、江戸で古賀茶渓(さけい)に師事し、長崎では英語を学びました。帰郷後は藩校である興譲館で英語を教えていましたが、明治二(1869)年、藩命で石丸安世らと西松浦郡山代郷で探鉱の開発を行っています。その後、有田白川小学校の教師として働き、明治十四(1881)年、私財に、深川栄左衛門、副島種臣、大隈重信などからの寄付金を加え、日本で最初の実業学校・勉脩學舎を創設しました。

(※ https://www.arita.jp/greats/detail/egoshi_reita.html

 勉脩學舎の入学資格は小学校卒で、教科は絵画、製陶技術、窯業術の三部で構成されました。勉脩学舎が廃校になった四年後に、有田徒弟学校に引き継がれ、佐賀県工業学校有田分校になりました。それを明治三六(1903)年に有田工業学校に昇格させたのが、初代校長となった納富介次郎です。

 納富はヨーロッパでの体験後、陶磁器業界の近代化を考えるようになっていました。帰国後、各地に実践学校を創設し、人材育成に邁進していったのはそのような思いからでした。納富の理念は、現在の有田工業高校にしっかりと受け継がれています。

■有田で見た、二つの白い胸像

 今回、有田を訪れてみて、有田の陶磁器業界が維新期の傑物たちによって支えられ、近代化の波を乗り越えてきたことがわかりました。そして、維新期の先駆者たちが掲げた理想が、実践教育の場を通して脈々と受け継がれ、進展してきたこともわかりました。

 まず、招聘されて長崎にやって来たドイル人化学者ワグネルが、維新期の沸騰するようなエネルギーに吞み込まれるように、陶磁器業界の近代化に渾身の力を注ぎました。それが改革を勢いづかせました。有田で陶磁器製造の大幅な技術革新が行われ、廉価で良質の製品を製造できるようになったのです。

 さらに、ワグネルは有田焼の真髄が超越技巧による繊細な美しさであることを見抜いていました。それこそが、競争優位に立てる要件だと看破していました。基準を落とさず、出品物を選定して臨んだ結果、ウィーン万博でも、フィラデルフィア万博での、有田焼の作品は激賞され、受賞することができました。西洋の審美眼を併せ持つワグネルならではの助言が効いたのです。

 維新期の日本に心血を注いだワグネルは、やがて病床に伏せるようになり、明治二十五(1892)年十一月八日、勲三等に叙せられ瑞宝章が贈与されたその日に、東京・駿河台の自宅で亡くなりました。帰国することなく、日本で生命を終えたのです。六十一歳でした。

 有田工業高校から有田駅に向かう道中、空を見上げると、分厚い雲が広がっていました。

 駅の背後に山が見えます。小高い山々に囲まれた有田で、二つの白い胸像に出会いました。維新期に、陶磁器業界の近代化に大きく貢献したワグネルと納富介次郎の胸像です。いずれも、信念の強さ、ピュアな志を表現しているかのような眩しいばかりの白が印象的でした。(2025/12/29 香取淳子)

高市首相の外交デビュー、成功要因は何か?

■就任早々の外交デビュー

 高市早苗氏が首相に就任してから、日本社会が明るくなってきたような気がします。国内では、 「責任ある積極財政」の方針の下、税率を上げずに税収を増加させて国民の生活を向上させようとしていますし、不法外国人等の問題についても積極的な対策を講じています。国民が懸念している問題に対峙し、積極的に解決しようとしているからでしょう。

 海外に対してもこれまでの首相たちの卑屈な姿勢とは違って、日本として言うべきことは主張し、対話を通して、問題解決を図ろうとしています。そのせいか、高市内閣になってから希望が見えてきたような気がするのです。

 就任して1か月も経っていないというのに、社会の雰囲気はがらりと変わりました。大きく変化したきっかけの一つは、外交によるプレゼンスの大きさです。高市首相は就任後、ASEAN国際会議で外交デビューし、トランプ大統領との会談、APEC首脳会議での、韓国大統領や中国主席との会談などを立て続けに行いました。いずれも、日本のプレゼンスをおおいに高めました。

 そこで、今回は、高市首相がどのように外交を捉え、これまでの首相とは違って、短い間で大きなプレゼンスを示すことができたのか、その要因を探ってみたいと思います。

■日本の国益を守るため、日本外交を取り戻す

 2025年10月21日、高市早苗氏は日本初の女性首相に就任しました。就任後初の記者会見で、「強い日本を作るため、絶対に諦めない」と決意のほどを語っています。


(※ 内閣府HPより)

 高市首相はこの記者会見で次のように述べていました。

 「来週は、マレーシアでのASEAN(東南アジア諸国連合)関連首脳会議、韓国ではAPEC(アジア太平洋経済協力)も開催されます。多くの国の首脳と顔を合わせる絶好のチャンスです。「自由で開かれたインド太平洋」を外交の柱として引き続き力強く推進し、時代に合わせて進化させ、基本的価値を共有する同志国やグローバルサウス諸国との連携を深める。そうした機会としたいと考えております。

 また、トランプ大統領と早期にお会いをして、日米関係を更なる高みに引き上げてまいります。日米関係は、同盟国として、日本の外交・安全保障政策の基軸でございます。二国間の課題にとどまることなく、インド太平洋地域の課題から、中東情勢、欧州・ウクライナに至るまで、日本と米国が直面する課題につきまして、率直な意見交換を通じ、首脳同士の信頼関係を深めてまいります」

「衆議院、参議院共に、自民党と日本維新の会を合わせても過半数には及ばない。少数与党による、厳しく、困難な船出」となりますが、「私は諦めません。この内閣は、「決断と前進の内閣」です。「国民の皆様と共に、あらゆる政策を、一歩でも二歩でも、前進させていく」と語っています。(※ https://www.kantei.go.jp/jp/104/statement/2025/1021kaiken.html

 興味深いのは、「日本の国益を守るため、世界の真ん中で咲き誇る日本外交を取り戻します」と決意を示していたことでした。力強い日本を取り戻すには、外交力で世界の中心にいなければならないという思いが強かったのでしょう。

 実際、高市早苗首相には、就任直後の10月26日から、2つの国際会議と4つの重要な首脳会談が予定されていました。首相はおそらく、それらの国際会議を念頭に、「世界の真ん中で咲き誇る日本外交を取り戻す」と語ったのでしょう。首相就任直後でタイトな日程だったとはいえ、アジア各国の首脳と会談できるチャンスを逃すことはできませんでした。

 高市首相は過密スケジュールの中で次々と、国際舞台へのデビューを果たしていきました。まずは、アセアン関連首脳会議です。

■アセアン関連首脳会議

 アセアン関連首脳会議が開催されたのは10月26日で、翌27日にはトランプ米大統領の訪日を控えていました。あまりにもハードなスケジュールなので、一時は欠席も検討されていたそうです。ところが、高市首相は、恒例の国際会議に参加しなければ、日本がアジアを軽視していると見なされかねないことを心配し、10月25日、クアラルンプールに向かったのだといいます(※ 高畑昭男、https//www.nippon.com/)。

 欠席すれば、ASEAN諸国に誤ったメッセージを送りかねないことを危惧したからでした。ネガティブな影響をできるだけ排除するため、高市首相は強行スケジュールを受け入れたのです。

 実際、高市首相が参加したのは正解でした。日本初の女性首相が誕生したばかりで、首脳たちの関心が高まっていました。一体、どのような人物なのか、「一目会いたい」という思いが強くなっていたのでしょう。

 参加者たちは一様に、温かく高市首相を迎え入れてくれました。高市首相もそれに応じ、会議が始まる前にすでに多くの首脳たちと分け隔てなく、にこやかにコミュニケーションを交わしていました。

 その時の様子を撮影したCNBCの動画が(16分7秒)がありますので、ご紹介しましょう。

こちら → https://youtu.be/sVQp0gR3gzY

(※ CMはスキップして視聴してください)

 冒頭から数分間、高市首相が多くの首脳たちとにこやかに挨拶を交わし、時にはハグしている様子が映し出されています。周囲の人々は一様に笑顔で迎え入れており、その場が温かい雰囲気で包まれていたことがよくわかります。会議が始まる前から、高市首相は参加者たちから大歓迎されていたのです。

 首相もまた表情豊かに明るく、彼らの歓待に応えていました。高市首相のこの態度がアジアの首脳たちにとてもいい印象を与えたのではないかと思います。そのせいか、ASEAN主要国やオーストラリア首脳などとの個別会談も次々とセットされました。

 国際会議としては、第28回ASEAN会議(10月26日)、第3回アジア・ゼロエミッション共同体(AZEC)首脳会議(10月26日)、そして、二国間協議としては、日豪首脳会談(10月26日)、日マレーシア首脳会談(10月26日)、日フィリピン首脳会談(10月26日)など、高市首相は短い滞在期間に次々とアジア各国の首脳と会談しているのです。

 高市首相は短期間のうちに、ASEAN諸国の首脳たちに、アジアを重視する日本の姿勢を印象づけることができました。会議前の様子を映し出したCNBCの動画によって、首相の卓越したコミュニケーション能力が伝わってきます。

■細やかな心配り

 興味深いのは、動画の8分2秒のところで、マレーシア大統領が高市首相に、トランプ大統領を迎える忙しい日程の中でよく参加してくれたと述べていることでした。周囲の心配をよそに、高市首相が強行スケジュールを押して会議に参加した誠意が会場の参加者たちに伝わったのです。高市首相がASEAN諸国の首脳に印象づけた誠実さは、やがて高市内閣への信頼になって友好関係の土台となっていくことでしょう。

 そればかりではありません。

 高市首相は、10月26日午後1時42分から約5分間、クアラルンプール日本人墓地を訪問し献花を行い、マレーシアで命を落とした先人を慰霊したのです。


(※ 内閣府HPより)

 その後、午後1時57分から約10分間、マレーシア国家記念碑を訪問し、記念碑への供花を行いました。


(※ 内閣府HPより)

 これらの行為によって、高市首相の人となりが強く印象づけられました。日本人墓地や記念碑に供花をすることによって、先人を敬い、歴史を大切にする姿勢が現地の人々に伝わります。それこそがまさに平和と安定の重要性を訴えるメッセージとなっていたのです。

 実際、高市首相は会議で中国を念頭に、南シナ海での威圧的な行動に「深刻な懸念」を示したうえで、台湾海峡の平和と安定の重要性を強調しました。そして、政府の安全保障能力強化支援(OSA)を使って、海洋の安全保障強化を後押しする方針を打ち出したのです。その一方で、人工知能(AI)や量子などの先端技術で共同研究を推進する考えも伝えていました。

 先ほどご紹介したように、首相はマレーシア、フィリピン、オーストラリアの首脳とも個別に会談しました。フィリピンとは、自衛隊とフィリピン軍が食料や燃料などを融通し合うことができる物品役務相互提供協定(ACSA)の実質合意に至っています。そして、豪州とは、重要鉱物の供給網での協力を確認しています。

 ASEANの本会議やAZEC首脳会議をはじめ、短い滞在期間に次々と個別に二国間で会談し、実質的な合意を得ていたのです。

■ASESANとインド太平洋地域の平和、安定、繁栄

 さて、ASEAN会議の冒頭で高市首相は、「ASEANと共にインド太平洋地域の平和、安定、繁栄を守り抜いていきたい」と呼びかけ、FOIP(Free and Open Indo-Pacific:自由で開かれたインド太平洋)を「時代の変化に合わせて進化させていく」と表明しました。

 さらに、ASEANが開放性や透明性を確保して地域協力を進めていく独自構想「インド太平洋に関するASEANアウトルック(AOIP)」と連携させる考えも示しました。

 第28回ASEAN会議では、このAOIPの推進に関する共同声明が採択されました。

こちら → https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/100924542.pdf

 FOIPとAOIPが本質的な価値観を共有し、法の支配に基づく国際秩序に寄与することを確認したのです。これには、力によってASEAN諸国に脅威を与えている中国を牽制する狙いがありました。

 第28回日ASEAN首脳会議は、10月26日午後4時10分から約65分間、マレーシアの首都クアラルンプールで行われました。その概要は以下の通りです。

こちら→https://www.mofa.go.jp/mofaj/a_o/rp/pageit_000001_00004.html

 この時、撮影された写真の中央に収まっているのは、日本の高市首相でした。


(※ 首相官邸HPより)

 首脳たちの真ん中で微笑んでいるのが高市首相です。明るいベージュのジャケットに黒のスカートといった装いは、品格があり、威厳を感じさせます。黒っぽいスーツ姿の男性陣の中で、ひときわ輝いて見える効果もありました。まるでアジア外交の中心は日本だといわんばかりの写真でした。

■トランプ大統領との会談

 帰国して間もない10月28日、高市首相は、迎賓館赤坂離宮でアメリカ合衆国のドナルド・トランプ大統領と首脳会談を行いました。


(※ 内閣府HPより)

 会談の様子は次のようなものでした。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=R_LJf7dIVR0

(※ CMはスキップして視聴してください)

 冒頭で、安倍晋三元首相に対する友情に感謝をしていると述べたうえで、高市首相は安倍路線を継承して政権運営をしていくと述べています。そして、強い日本外交を取り戻す決意を表明し、自由で開かれたインド太平洋の進展に向けても、日米でさらに協力を進めたいと述べ、「日米同盟の新たな黄金時代」の構築を呼びかけました。

 その後、大統領専用ヘリに乗って空母ジョージワシントンに着き、二人はスピーチを行いました。まずはトランプ大統領、そして、高市首相です。

こちら → https://youtu.be/znE1y-qls8A

(※ CMはスキップして視聴してください)

 高市首相はまず、地域の平和と安全のために尽力してくれている自衛隊と在日米軍の人々に感謝しました。日本の首相に感謝された彼らは日ごろの任務を思い、気持ちを奮い起こしたに違いありません。

■高市首相の米兵に向けたパフォーマンス

 それにしても日本の首相が、トランプ大統領とともに空母の演台に立って、大勢の米兵の前でスピーチするなど、考えられたでしょうか。歴史に残る一コマであり、世界に向けて日米同盟の絆をアピールする絶好の場となりました。

 興味深いのは、高市首相が大勢の兵士たちに向かって、腕を高く挙げて小躍りするパフォーマンスを見せたことでした。まるで大観衆を前にしたアーティストのようでした。すっかりその場の雰囲気の溶け込み、ごく自然に、このような仕草や動きをとることができたのでしょう。

 その場の雰囲気を読み、とっさに、それに応じたパフォーマンスができるのが、高市首相の強みだと思いました。

 このシーンを取り上げ、「はしゃぎ過ぎ」だと非難する向きもありますが、実は、大勢の人々には言葉よりも、このようなパフォーマンスこそが、端的にメッセージを伝えることができます。それは、音声メッセージよりも視覚メッセージのほうがはるかに強く、瞬間的にイメージを刷り込むことができるからです。

 確かにこのパフォーマンスは、高市首相とトランプ大統領が親密なのだということを世界中に印象づけることができました。これは外交上の大きな成果といえます。実際、このパフォーマンスを見た中国首脳が、習主席と高市首相との会談を急ぐ必要があると判断したと思われるふしが見られます。

 急遽、高市首相と習主席との対面会談が決まったのです。

 そもそも高市氏が首相に就任した際、習近平主席からはお祝いのメッセージがありませんでした。これまでの首相には就任するとすぐにお祝いのメッセージを送っていたにもかかわらず、高市首相にはなかったのです。タカ派のイメージが強い高市首相を嫌ってのことだったのか、それとも、高市政権が短命に終わると思っていたからか、理由はよくわかりませんが、高市首相を無視していたことは確かでした。

 ところが、中国首脳は世界中に配信された動画で、アメリカの空母上で、こぶしを高く掲げる高市首相のパフォーマンスを見たのです。中国首脳がどれほど焦ったことか、容易に想像できます。

 トランプ政権になってから、中国はアメリカから封じ込め政策を展開、強化され、経済危機に瀕していました。それだけに、米兵に向けた高市首相のパフォーマンスはとりわけ中国に強烈なメッセージを放ちました。もはや高市内閣を無視できなくなりました。中国首脳は、高市首相と習近平首席との対面会談を実現せざるをえなくなったのです。

 さて、高市首相はトランプ大統領へのプレゼントでも政策メッセージをアピールしていました。

■トランプ大統領への贈り物

 高市首相は10月28日、トランプ米大統領に帽子を贈りました。黒色をベースにしたキャップで、前立てに金色で「JAPAN IS BACK」と記され、つばの部分に高市首相とトランプ大統領のサインが入っています。


(※ 米ホワイトハウス関係者のXより)

 ここに記された「JAPAN IS BACK」は、首相が自民党総裁選の討論会で繰り返したキャッチフレーズです。トランプ大統領は「Make America Great Again」と書いた赤い帽子を被って大統領選を戦いましたが、それを模して作られたものです。高市内閣が掲げる政策方針が端的に示されています。

 さらにもう一つ、安倍元首相が2017年のトランプ大統領来日の際、ともにゴルフを楽しんだときにパターを贈りました。思い出の品であり、高市政権が安倍元首相の政策を継承する内閣であることを示したのです。空母でのパフォーマンスばかりか、大統領へのプレゼントにも高市首相の外交センスの良さが光っていました。

 次に高市首相を待ち構えていたのは、APEC(アジア太平洋経済協力会議)でした。

■APEC首脳会議への参加

●韓国大統領との会談

 日米会談を無事こなした高市首相は、10月30日、APEC首脳会議に出席するために韓国の慶州を訪れました。そこで、李在明大統領との初めての会談に臨みましたが、高市首相はスマイルと巧みな会話力で打ち解けた雰囲気を醸し出していました。

 この時、高市首相は、「韓国のりや韓国コスメ、韓国ドラマが好き」だとにこやかに語っていたのです。食やファッション、エンターテイメントといった韓国が誇る分野で李大統領を持ち上げ、気持ちをリラックスさせていたのです。

 さらに、高市首相は会談に先立ち、韓国の国旗、そして、日本の国旗に一礼しました。両国家への礼節を示したのです。これで一気に双方の緊張が解け、強硬派同士の対談がスムーズに流れました。対日強硬派とされてきた李在明氏ですが、なごやかに会談することができました。その結果、「未来志向の安定した関係をめざす」ことで合意し、日韓シャトル外交の継続を約束しました。


(※ 首相官邸HPより)

 APECのマークの前で握手する高市首相と韓国の李大統領の笑顔のなんと晴れやかなことでしょうか。この表情からは韓国での会談が一定の成果を上げたことが示されています。いくつもの課題を残しながらも、高市政権と韓国政府との外交がスタートしたのです。左に韓国、右に日本の国旗が置かれ、両氏が担う国家の重みを伝えています。

●中国主席との会談

 翌31日には中国の習近平主席との会談が実現しました。ここでも高市首相は、機転の良さを示しました。固い表情の習近平首席に向かって、「私は信念と実行力を信条としてきた。習主席と率直に対話を重ねてお互いの関係を良くしていきたい」と語りかけたのです。強面の中国に対し、まさに機先を制した格好でした。

 実際、高市首相は習首席に対し、率直に中国に対する懸案事項を説明し、迅速な対処を求めました。その内容は具体的には以下のようなものでした。

①日本産水産物の輸入の円滑化、日本産牛肉の輸入再開と10都県産の農水産物など残された輸入規制撤廃の早期実現、②尖閣周辺海域を含む東シナ海での中国によるエスカレーションや海洋調査活動、日本周辺の中国軍の活動の活発化への対応、③中国によるレアアース関連の輸出管理措置に関し、日中輸出管理対話および当局間の意思疎通を強化、④中国での邦人襲撃事件や拘束された邦人の安全確保および拘束中の邦人の早期釈放、等々です。

 そればかりではありません。

 台湾海峡の平和と安定が国際社会の上でなによりも重要だと指摘しただけではなく、南シナ海、香港、新疆ウイグル自治区等の状況に対し、深刻に懸念していることを表明しました。これまでの日本の首相が口にできなかったことを忖度することなく、述べたのです。

 中国側にしてみれば、予想していたこともあるでしょうし、予想外のこともあるでしょう。どの程度、受け入れられるか、相互に歩み寄れるか、今後の外交力が問われるところですが、高市首相がこれまでの首相が主張できなかったことをはっきりと表明したことには驚いたことでしょう。

 結局、今回の会談では首脳間での対話を進め、日中間の幅広い分野での重層的な意思疎通を行う重要性を確認したことに留まりました。とはいえ、日本初の女性首相が就任したばかりでこれだけ明確に中国に対して要求事項や懸念事項を堂々と述べたのです。画期的なことだといわざるをえません。

 会談後の写真撮影では両者の強張った表情が印象的です。会談内容がハードだっただけに緊張感が解けていないのでしょう。


(※ 内閣広報室より)

 それにしても、習近平首席があまりにも不愛想なのでびっくりしてしまいました。まるで不承不承、握手しているように見えます。それにつられたのか、いつもはにこやかな高市首相の表情も硬く、ひきつっているように見えます。

 もちろん、高市首相は厳しい要求を突き付けながらも、終始一貫、穏やかでにこやかに交渉を進めました。その結果、互いに対話を通じた「戦略的互恵関係」を進めることで一致したのです。

 そもそも高市首相は、韓国に対して、竹島や慰安婦、靖国神社、そして中国に対して、台湾、人権、靖国神社、等々の問題を巡って信念に基づく強硬態度を崩していません。だからこそ、高市首相は両国から警戒されていたのですが、首脳会談後の記者会見で、中国側は「懸念があるからこそ、よく話したい」と表明しています。話し合いの姿勢を見せたのです。

 高市首相は忖度することなく、日本側の立場を縷々説明し、話し合いによって理解を求めようと主張しました。それを見て、中国側が話し合いによって、相互の利益を図る対話重視路線にかじを切ったように見えます。

 それにしてもあまりにも不愛想な習近平首席の表情が気になります。そこで、彼が外国首脳と握手している写真を何枚か見てみましたが、どれも同じように仏頂面をしていました。少しでもにこやかな表情を見せると、権威が落ちてしまうと思っているかのようでした。ですから、この表情は、習近平首席が外国首脳と記念写真を撮る際の定番なのかもしれません。

 興味深いのは高市首相がXで挙げた画像です。


(※ 内閣広報室)

 なんとにこやかで穏やかな表情なのでしょう。高市首相もにこやかに習首席を見上げています。公式の場でなければ習主席とも、このようにとてもいい感じでコミュニケーションが取れていることがわかります。

■高市首相の外交デビュー、成功要因は何か?

 高市首相は就任してからわずか1週間ほどの間に、2つの国際会議と5つの重要な首脳会談をこなしました。ASEAN諸国の首脳たちとの会談を終えて帰国すると、トランプ大統領を迎え、それが終わると、韓国で開催されたAPECに参加し、韓国大統領、中国総書記などと会談を果たしていったのです。

 あまりにもスケジュールがタイトなので、準備不足もあったに違いありませんが、動画を見る限り、高市首相はほとんどの会議で成功を収めたように思います。会議の場面、あるいは会議前後の場面で、高市首相の類まれなコミュニケーション力が発揮されている様子が動画で確認することができました。

 たとえば、ASEANの会議前の様子を撮影した動画では、にこやかに誰とでも分け隔てなく接し、表情豊かにコミュニケーションを交わす様子が伝わってきます。この時、高市首相は明るいベージュのジャケットに黒のスカートといった装いでした。品格があり、威厳も感じられる服装です。

 このような高市首相のTPOを考慮したファッションやパフォーマンス、機転の良さが、海外要人とのコミュニケーションを円滑にし、ひときわ存在感を高めていたように思います。

 また、多数の米兵たちに囲まれ、トランプ大統領とともに演台に立った時は、周囲に溶け込むような黒系のパンツスーツを着用されていました。歓待の雰囲気を感じると即座に、にこやかな表情で右手を高く掲げ、それに対応していました。機転の利いたパフォーマンスであり、大勢の人が見てすぐわかる感謝のメッセージでした。

 今回の外交場面で忘れてならないのは、クアラルンプールの墓地での供花、マレーシア記念碑への供花、韓国国旗および日本国旗への一礼、といったマナーです。先人や死者、歴史を重んじる高市首相の姿勢が人々の心を打ちます。

 国際関係で緊張が高まる中、首相に就任したばかりの高市氏は外交デビューしました。どのような局面でも、外国首脳に対して怯むことなく、毅然と対峙していました。日本として譲れないことは断固とした態度を表明し、頼もしいリーダーの姿を見せてくれました。特に中国や韓国の首脳に対する態度には、これまでの首相たちとは違って忖度せず、毅然としたものがあり、国民を誇らしい気分にさせてくれました。

 一連の外交場面を見てくると、高市首相の外交デビューは明らかに成功したといえます。とりわけ高市首相のファッション、パフォーマンス、機転の利いた対応は、海外ばかりではなく、日本国内にも多大な訴求効果があったのです。

 成功要因は何かといえば、日本を取り巻く諸情勢を踏まえたうえでの課題を掌握していたこと、外国首脳に怯むことなく臨んだこと、TPOをわきまえ、品格と風格、清潔感のある装いをしていたこと、機転の利いたパフォーマンスを取り込み、海外の人々との心理的距離を縮めていたこと、等々ではないかと思います。

 これらの中には学習できるものもありますが、天与のものもあります。

 一連の外交動画を見ていると、高市首相はこの両方を備えた稀有な人物ではないかという気がしてきます。今後、さらに難しくなりそうな国際情勢下にいますが、高市内閣の外交力をもってすれば、日本もなんとかなるのではないかと思えてきます。そして、外交こそ、課題に対する周到な事前準備に加え、TPOを踏まえたファッション、機転の利いたパフォーマンスなど、ビジュアル要素が大切だということを思い知らされました。 (2025/11/16 香取淳子)

ホームタウン事業撤回は見せかけか? アフリカに対するJICAの根強い支援意欲

■ホームタウン事業撤回は見せかけか?

 東京都の小池百合子知事は、9月26日の記者会見で、JICAが「ホームタウン」事業を撤回したことについて問われ、「ひとえにJICAの判断」と述べました。(※ 2025年9月27日、産経新聞)

 実は、東京都の小池百合子知事は19日の記者会見で、都が8月にエジプトの経済団体「エジプト・日本経済委員会」と結んだ合意について、「見直しは考えていない」と述べていました(※ 2025年9月19日、日経新聞)。

(※ 9月19日、日経新聞より)

 この合意では、エジプト人労働者が日本国内で仕事を確保するための情報提供や研修プログラムの開発支援などが盛り込まれていました。移民受け入れにつながると批判する声が広がり、都庁前では合意撤回を求めるデモが行われていたのです。

 26日の小池知事の態度を見ていて、ふと、JICAのアフリカ・ホームタウン事業の撤回は本当なのかという疑問が湧いてきました。同じように激しく抗議されていながら、JICAは事業を撤回し、東京都は覚書を見直さないと表明しているのです。

 しかも、JICAの田中明彦理事長は、9月25日の記者会見で、「ホームタウン事業を撤回する」と表明する一方、「今後も国際交流を促進する取り組みを支援していく」と述べていました。

 これでは、JICAは本当にアフリカ・ホームタウン事業を撤回するのだろうかと疑いたくもなります。そもそも、外務省が所管するJICAの理事長が他国と交わした協定をそう簡単に撤回できるものなのでしょうか。

 ホームタウン事業の撤回は見せかけではないかと疑問に思っていたところ、JICA理事長の興味深い発言を見つけました。

■日本にとっての先行投資

 田中氏は、2025年8月14日、日経新聞社のインタビューに答え、「アフリカ向けの政府開発援助(ODA)は「日本にとっての先行投資」だと訴え、「アフリカ各国から信頼を得ることが(重要鉱物などの)資源や市場の獲得につながる」と強調しました。

 そして、「日本経済にとっては国際社会とのつながりが極めて重要だ。対等なパートナーシップでアフリカの自立と発展を支え、世界経済をポジティブな循環に変える好機だ」と述べ、20日から開催される第9回アフリカ開発会議が「重要な節目になる」と指摘していました。

 TICAD9のテーマである共創について、「国際協力の発展形になる。必ずしも正解がない今の時代には、既存の枠組みにとらわれず、どうすればいいのかをアフリカと共に考え、見いだすことが重要だ。それこそがイノベーションを生む」と語っています。(※ 日経新聞、2025年8月14日)

 田中氏の見解を総合すると、これまでの枠組みに拘らず、世界経済のポジティブな循環という観点を組み入れ、アフリカへの支援内容を考え直す必要があるということになります。

 米欧のODAの場合、途上国への資金贈与が基本ですが、日本のODAは相手国に返済の義務がある有償資金協力や技術協力が大半を占めています。だからこそ、日本の技術や知見を活用して、アフリカの社会的課題を解決する事業を創設することができます。

 アフリカの社会的課題を、日本の技術力とビジネス展開力とで解決できる事業を立ち上げることができれば、課題解決の持続性やポジティブな経済循環を期待できるでしょう。それこそ、アフリカにとっても日本にとっても有益だというわけです。

 実際、ウガンダでは、使った水の量に応じて料金を電子マネーで徴収するビジネスを立ち上げ、給水にまつわる様々な課題に対処することができました。

■電子マネー決済を活用した給水事業

 ウガンダには、水道に接続していない家庭が水を得る手段の一つとして公共水栓があります。公共水栓にバケツを持参し、管理人にお金を支払うことで水を購入する仕組みです。

(※ 国際開発ジャーナルオンライン、2025年9月22日更新)

 ところが、公共水栓の管理人が不在時は購入できず、使うたびに現金を持参しなければなりませんでした。さらに、管理人が水の料金を不当に値上げすることもあれば、売上金を盗難するという問題も発生していました。

 これらの問題を解決したのが、電子マネー決済システムを公共水栓に搭載することによる合理化でした。事前にお金をカードにチャージし、タッチするだけで水が買えるようになったばかりか、料金の不当な値上げや売上金の盗難も防ぐことができました。

 これには、日本の交通系ICカードの仕組みが活用されています。

 2023年11月に研修の一環で日本に訪れたウガンダ人研修生が、電子マネー決済システムに興味を持ったのがきっかけでした。

 ウガンダ人の要望を受けて、経済産業省のJ-Partnership制度を利用して2024年7月に現地調査を開始し、11月にカウンターパートである水環境省と基本合意書(MOU)を締結しました。そして、商店が並ぶマーケットエリアを中心に給水施設を5基建設し、12月に事業を開始したのです。事業計画から調査、現地との調整、建設作業、事業実施まで6カ月という短期間で実現できました。

 このプロジェクトを担当したのが、鉱研工業(株)の森山和義氏です。下の写真は、森山和義氏(左)と現地パートナーのMr. Nabende Innocent(右)です。

(※ 『国際開発ジャーナル』、2025年2月号)

 森山氏は、新卒で鉱研工業に入社し、政府開発援助(ODA)ではマリやブルキナファソ、ナイジェリア、ザンビア、マラウイなどアフリカを中心に井戸掘削および上水道建設事業に携わっています。

 JICA理事長の田中氏はこの事例を重視し、今後のアフリカ支援の在り方の新機軸にしようとしていたのでしょう。そう思うと、TICAD9が「共創」をテーマに組み立てられていたのもわかるような気がします。

■JICAの新たなスキーム「民間資金動員業務」

 8月21日、アフリカ開発銀行(AfDB)と財務省が、TICAD9ハイレベル政策対話として、「民間主導の成長に向けた国際開発金融機関(MDBs)と日本の連携」を主催しました。

こちら → https://afdb-org.jp/news/6578

 TICAD9では、EPSA6として次期TICADまでの今後3年間(2026~2028)に、最大55億ドルの資金協力することが発表されました。EPSA6の55億ドルという目標額は、20年前のEPSA1の初期目標額の5倍以上にあたります。

こちら → https://www.mof.go.jp/policy/international_policy/mdbs/afdb/250821.2.pptx.pdf

 前回のTICAD8(EPSA5)では、3年間(2023~2025)で最大50億ドルの資金協力でしたが、今回は5億ドルもの増額になっています。日本政府がアフリカとの関係を重視し、支援活動を強化しようとしていることが示されています。

 JICA田中理事長は、AfDBとEPSA6における協力に関する覚書に署名し、AfDBとの強固な連携の下、アフリカ支援に取り組んでいく方針を確認しました。

(※ 財務省より。左からカリウキAfDB副総裁、加藤財務大臣、田中JICA理事長)

 これを受けて、加藤勝信財務大臣は、JICAの新たなスキーム「民間資金動員業務」を創設すると発表しました。これは、民間資金の呼び水として、ファンドへの触媒的出資を行うというものです。

 この仕組みを図示すると、次のようになります。

(※ 日経新聞、2025年8月13日)

 このスキームはアフリカ向けを第1号案件とし、国による出資や信用保証でリスクを軽減し、民間投資を促すものです。社会課題の解決を目指すスタートアップに投資し、経済的リターンをも追求するアフリカに特化したファンドとなります。

■改正JICA法

 2025年4月に施行された改正JICA法によって、JICAの役割が広がりました。途上国企業の債券の一部取得や、支援先の地場金融機関の融資に対する信用保証が可能になったのです。運用基準なども見直し、ファンド組成の初期段階での投融資ができるようになりました。国が初期から信用力を与えることで、民間の投資家がファンドに資金を投じやすくするのが目的です。(※ 日経新聞、2025年8月13日)

 JICA改正法のポイントは、①民間資金導入の促進、②国内外の課題解決を有する主体との連携強化、③柔軟で効率的なJICA財務の実現、等々です。

こちら → https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/100796361.pdf

 一方、EPSA(アフリカの民間セクター開発のための共同イニシアチブ)の「ノンソブリン業務(Non-Sovereign Loans, NSL)」コンポーネントは、JICAがアフリカ開発銀行に対して低利のクレジットラインを供与し、同行の民間セクター事業を資金面で支える仕組みです。

 これまでEPSAによって、ウガンダのブジャガリ水力発電所、アフリカ初の汎大陸通信衛星「RASCOM」、東アフリカ海底通信ケーブルシステム、ナイジェリアのレッキ有料高速道路、ルワンダのキガリ大規模給水事業など、さまざまな重要インフラが構築されてきました。(※ https://afdb-org.jp/news/6553

 民間資金を活用しながら、現地と協力して課題解決のための事業がいくつも立ち上げられ、実際に運用されていることがわかります。民間資金を活用し、社会的課題の解決を事業化すれば、インセンティブを高めることができので、事業としても成功する可能性があるのでしょう。

 そうなれば、企業が出資したくなるような環境整備を図る必要があります。今回のJICA改正法はそのための方策の一つなのでしょう。支援を事業化することによって継続することができ、安定した関係構築にも寄与できるようになるのかもしれません。

■アフリカへの投資

 欧米では、政府機関が出資や信用保証、ファーストロス(一定額までの最初の損失)補償を通じて民間のリスクを減らす取り組みが広がっています。

 日本政府も、3年ごとに開催されるTICADのたびに、「援助から民間投資」へのシフトを奨励してきました。ところが、リスクを嫌う日本企業はアフリカ投資をためらい、欧米や中国などの主要国に比べて日本の投資額は大きく見劣りしているのが現状です。

 たとえば、中国の場合、新型コロナウィルス流行後に、アフリカへの投資はいったん減少しましたが、再び、「一帯一路」関連の投資を拡大しています。特に鉱物資源が豊富なアフリカへの投資が際立っており、途上国支援に後ろ向きなトランプ米政権の間隙を突いて、アフリカへの影響力拡大を図ろうとしているのがわかります。

 2025年1月から6月にかけての地域別投資額を見ると、アフリカ向けが増えているのが歴然としています。24年通年より37%も多い400億ドル(約6兆円)に達し、全体の3割超を占めています。

(※ 2025年9月13日、日経新聞)

 アフリカ向けが地域別で最大となるのは21年以来です。オーストラリアのグリフィス大学と中国の復旦大学にある研究機関の調査によると、中国化学大手の中国化学工程集団が、ナイジェリアで結んだ200億ドル規模のガス施設に関する建設契約が、アフリカ向け投資をけん引していたといいます。

 そもそもナイジェリアは、アフリカで最大、世界で第10位の天然ガス埋蔵量(約5兆9,000立方メートル)を誇るガス資源国です。輸出額でも、約9割を原油と天然ガスが占め、ナイジェリアの貴重な外貨獲得の柱となっています。(※ https://www.jetro.go.jp/biz/areareports/2024/bbbf799b03d4f461.html

 そのナイジェリアで中国が巨額を投じて、ガス施設を建設するというのです。明らかに、ナイジェリアでの資源権益を確保し、発言力を高めることを目指したものといえるでしょう。中国は経済危機にあるといわれながら、アフリカに莫大な投資を再開したのです。

 アフリカが最後のフロンティアとして注目を集めているからでしょう。

 資源が豊富で未開発な部分が多く残されている一方、急速に都市化し、デジタル技術の普及も進み、アフリカは無限の可能性を秘めているように思われています。世界中の企業や国家が、アフリカでの投資やビジネス展開を加速させているのが現状なのです。

 日本でも若手官僚たちが、アフリカでの産業政策と資源確保を連携させた取り組みを進めていました。

■ビジネスと資源確保を両輪で

 2024年6月24日、「アフリカに大注目!ビジネスと資源確保を両輪で」というタイトルの下、若手官僚たちの取り組みが紹介されていました。

(※ METI Journal ONLINE,2024年6月25日より。橋本雅拓氏(左)、岸紗理奈氏(中央)、延時大夢氏(右))

 橋本雅拓氏(通商政策局 中東アフリカ課 アフリカ室)は、アフリカは若い人口も多く、これから市場規模がどんどん大きくなることが見込まれていると指摘します。それだけに、社会課題の解決に関するビジネスチャンスが多く、デジタル技術を活用した課題解決ビジネスは、日本や先進国よりアフリカの方が実現しやすいという状況に着目します。

 このような状況を踏まえ、アフリカ室では、スタートアップ企業の動きを後押しするため、アフリカ各国での様々な社会課題の解決につながるビジネスモデルの検証・発信(AfDX事業)を行っているというのです。

 さらに、アフリカはさまざまな鉱物資源の産出国でもあります。先端産業に不可欠な鉱物資源の宝庫でもあるのです。

(※ METI Journal ONLINE,2024年6月25日)

 上図の下に示されたのが、先端産業に不可欠な資源です。どういう用途で使われているのか、最終的にどのような製品になるのかが図示されています。

 たとえば、パソコンやスマートフォンの液晶、中に入っている基盤なども、原料は鉱物資源です。自動車のモーターにはレアアース、蓄電池にはリチウム、ニッケル、コバルトといった具合に、現代生活に不可欠な鉱物資源が豊富なのがアフリカなのです。

 延時大夢氏(資源エネルギー庁 資源・燃料部 鉱物資源課)は、日本はベースメタル、レアメタルのいずれについても、ほぼ全量を海外からの輸入に頼っているのが現状だとし、2050年カーボンニュートラルの実現に向けては、鉱物資源を安定的に確保するための取り組みが不可欠だという見解です。

 さらに、鉱物資源の安定供給を確保するには、日本が強靱なサプライチェーンを構築しなければならず、鉱物資源のサプライチェーンを特定の国に依存することは避けなければならないという認識を示します。

 サプライチェーンの強靱化・多様化に向けた取り組みとして、資源外交を展開しており、南米のチリやペルー、豪州、カナダなどの国に加え、新たなフロンティアとしてアフリカに着目しているというのです。

 岸紗理奈氏(資源エネルギー庁 資源・燃料部 鉱物資源課)は、企業から出向している経験から、海外からの鉱物資源の確保は、企業単独では動きづらいことがあり、官民で連携していくことが大事だといいます。

 このように、資源確保であれ、ビジネスチャンスであれ、若手官僚は三者三様、アフリカへの期待を語っていました。人口は増加し続け、先端産業に必要な資源が豊富で、しかも未開発の部分が多く、ビジネスチャンスが無限だからです。

 ビジネスの観点からいえば、アフリカはまさに最後のフロンティアなのです。

 その認識が世界の為政者たち、企業家たちに共有されはじめていました。だからこそ、中国は経済危機といわれながら、アフリカに6兆円もの投資を決めたのです。そして、JICAもまた、TICAD9で多岐にわたるアフリカ支援事業を発表しました。

 アフリカ・ホームタウン事業は、TICAD9のために用意された数ある支援事業のうちの一つでした。実際、移民政策の一環でもあったのでしょう。ところが、収束することのない抗議行動に耐えかねて、JICAはホームタウン事業を撤回してしまいました。

 石破茂首相は、TICAD9が閉幕した8月22日、「アフリカの未来への投資拡大や産業協力強化、人材育成に取り組む」と述べ、「日本とアフリカが双方の需要を知り、関係強化の道筋が見いだせた」と語りました。(※ 日経新聞、2025年8月22日)

 この事業が、アフリカでの資源確保、ビジネスチャンスに関わっている限り、いずれ、名を変え、形を変えて、JICAは似たような支援事業を立ち上げるに違いありません。撤回はみせかけであり、日本の資源確保、ビジネスチャンスを企図したアフリカ支援はさらに強化されていくことでしょう。(2025/10/4 香取淳子)

アフリカ・ホームタウン事業;危険をスルーするJICAの罪

 2025年9月14日、JICAと外務省が「JICAアフリカ・ホームタウン」事業の改称を検討していると報じられました(※ 時事通信オンライン、2025年9月14日7時5分)。

 あの報道は誤報だったと懸命に訂正したにもかかわらず、抗議の声が収束する気配をみせなかったからでした。なんとも姑息な対応です。JICAと外務省にしてみれば、事業名さえ変更すれば、国民の怒りが収まるとでも思っていたのでしょう。

 この対応だけで、JICAと外務省が、各地で勃発した国民の怒りの本質を理解せず、表面的に取り繕おうとしていただけだということがわかります。まず、「JICAアフリカ・ホームタウン」事業に対する抗議行動を見ておくことにしましょう。

■JICA前でのデモ

 2025年8月28日の夕刻、東京都千代田区のJICA(国際協力機構、以下、JICA)本部前で、デモ活動が行われました。千葉県木更津市など国内の4市をアフリカ諸国の「ホームタウン」に認定したことに対する抗議行動です。

(※ https://www.threads.com/@medinews_channel/post/DOA0Qi9jrFI/mediaより)

 JICAの前に集まった人々は声を荒げ、「撤回しろ」、「白紙に戻せ」と繰り返し、「売国奴」、「解体」と怒声を浴びせました。拡声器を手にし、移民を受け入れれば、社会不安が高まる、治安が悪化する、などと口々に訴えたのです。終盤になると、参加者は150人以上にも及び、JICA本部をぐるりと取り囲むほどでした。

 事の発端は、JICAが8月21日、第9回アフリカ開発会議(TICAD9)に合わせ、山形県長井市をタンザニア、新潟県三条市をガーナ、千葉県木更津市をナイジェリア、愛媛県今治市をモザンビークの「ホームタウン」に認定したことが明らかになったからでした。

 ホームタウンに認定された4つの日本の地方都市と対応するアフリカの4カ国が、地図上で示されています。

(※ JICAのHPより)

 このニュースはまず、海外で波紋を呼びました。

 JICAアフリカ・ホームタウン事業を知った男性が、「ナイジェリア人よ、木更津へ行こう」と呼びかけた動画をTikTokで公開したのです。これが、28日までに2.4万回再生されました。一気に拡散されました。

 『日刊スポーツ』(2025年8月28日付)によると、次のような内容の動画でした。

 男性は冒頭で「信じられない!」と声をあげると「Negro Town in Japan! Finally bro let’s go(黒人の町が日本に! 仲間よ、行こう)」と切り出しました。

 そして、木更津が立地的に東京から近いことや、60代、70代の人口が多い工業地域で、若い人口が少ないことを説明しています。男性は、「ずっと言ってきた、日本を黒くしろ(Make Japan Black)と」と語り、JICAのアフリカ・ホームタウン事業について「これは大きな一歩」と評価していました。

 一方、ナイジェリア人については、「我々は子どもを作るし、一生懸命働く」と述べた上で、男性は、「(日本側は)スキルのあるナイジェリア人を呼ぼうとしているが、実際は黒人たちが来て、人口が増えることを望んでいる」と述べました。そして、男性は再び、「世界のナイジェリア人よ、木更津へ行こう」と呼びかけていたのです。(※ https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/202508280000402.html#goog_rewarded

 このような動画が拡散されたのですから、世界中が驚いたのも無理はありません。

 しかも、世界にJICAアフリカ・ホームタウン事業を伝えたのは、何もこのTikTokだけではありませんでした。ナイジェリア政府、BBC、タンザニア・タイムズなども一斉に、JICAの新事業について報道していたのです。

 一方、ほとんどの日本人は、JICAアフリカ・ホームタウン事業のことを知りませんでした。日本のメディアがこの件について一切、報道しなかったからです。BBCやタンザニア・タイムズ、ナイジェリア政府が報道すると、それがSNSで拡散され、多くの日本人が知るようになりました。

 多くの日本人はBBCやSNSを通してこのニュースを知り、憤慨しました。自分たちが知らない間に、日本の地方都市がアフリカのホームタウンに認定されていたのですから、無理もありません。

 まずはBBCの報道を見てみましょう。

■BBCの報道

 2025年8月23日、BBCは「JICA、木更津市をナイジェリア人の故郷に指定」というタイトルの記事をネットにアップしています。

こちら → https://www.bbc.com/pidgin/articles/cgm2p4d8m9mo

 この記事は、「国際協力機構(JICA)は、木更津市をナイジェリア人の故郷に指定しました」という文章から始まります。キャッチーな部分を冒頭に置いて、読者の関心を引いているのです。

 次いで、「ナイジェリア情報・国家指導省は、8月22日(金)に発表した声明で、文化外交の深化、経済成長の促進、そして労働力の生産性向上に向けた取り組みについて説明しました」とし、同省によると、「第9回アフリカ開発会議(TICAD9)の一環として、日本政府がこの取り組みを発表した」と記し、ニュースの出所を明らかにしています。

 そして、「日本政府は、木更津市に居住・就労を希望する、高度なスキル、革新性、そして才能を持つナイジェリアの若者向けに、特別なビザを創設する予定です」と具体的な内容に踏み込んでいます。この記事の核心部分です。

 日本政府は有能なナイジェリアの若者を求めており、木更津市に居住したり、就労を希望する場合は、「特別なビザを創設する」予定だと明記されているのです。

 この記事を読めば、誰もが、「世界のナイジェリア人よ、木更津へ行こう」と呼びかけたくもなるでしょう。なにしろ日本政府のお墨付きで、ナイジェリアの若者が木更津に住み、仕事をすることができるのです。

 実際、この記事の最後には「木更津市とは?」の見出しの下、木更津市の人口が13万6000人で、首都東京からわずか70キロしか離れていないこと、漁業や農業が盛んで、学校では英語教育が行われていること、などが書かれています。ナイジェリアの若者が木更津市に住み、仕事をする場合の基礎的情報が添えられていました。

 木更津市が東京に近いという情報は、ナイジェリアの若者には魅力的だったでしょう。木更津市に行きさえすれば、どんなチャンスに恵まれるかもしれないのです。しかも、学校で英語教育も行われているとなれば、木更津市でのコミュニケーションも可能です。不安定な社会状況のナイジェリアで生きる若者にとって、これは夢の広がるニュースでした。

 ところが、その後、この記事は修正されました。

  「数日後、日本政府は、移民の受け入れを促進する措置や、アフリカ諸国の住民向けの特別ビザの発行について、今後一切の措置を講じる予定はないと述べました」という一文が、この記事に追加されたのです。日本政府が抗議したからでしょう。

 JICAが26日(月曜日)にHPで訂正の声明文を出したことも書かれていました。この見出しの末尾には、ナイジェリア政府もその後、発表内容を訂正したと書かれています。訂正が遅かったからだと思われますが、ナイジェリア政府はおそらく、日本政府からの申し入れを渋々、受け入れたのでしょう。

■果たして、誤報だったのか?

 この記事のトップに、木更津市長とナイジェリア大使館臨時大使が認定状を手にし、その隣にJICA副理事長が収まった写真が添えられていました。

(※ BBCより鮮明なので、木更津市の写真を引用)

 三者三様、穏やかで、満足気な表情でカメラに収まっているのが印象的です。撮影されたのが8月22日ですから、まだ記事が訂正される前の写真です。この時、三人はそれぞれ、WIN-WINの思いでいたことでしょう。

 そして、記事の最後に、「ナイジェリア情報大臣によると、この協定を通じて、日本はアフリカ4カ国との既存の関係を公式に結び付けることで、アフリカ4カ国との交流を強化したい考えです」と書かれていました。JICAアフリカ・ホームタウン事業が日本政府からの提案であったことが明記されているのです。

 そういえば、JICAは、第9回アフリカ開発会議にあわせ、「日本アフリカ拠点大学ネットワーク構想」を立ち上げていました。これは、アフリカ域内の大学を拠点に日本とアフリカの教育連携と人材交流を促すもので、日本とアフリカの大学間連携を通して、2028年までに15万人を育てる計画を立てていました(※ 日経新聞、2025年8月19日)。

 とくに、アフリカ域内で理工・農学系の高度人材の育成を支援し、気候変動や食料・エネルギー分野で秀でた人材を育成することによって、知日あるいは親日の若手リーダーの輩出につなげようというのが、JICAの目論見でした。

 第9回アフリカ開発会議の開催を機に、JICAはさまざまな構想を立ち上げていました。いずれもアフリカの若者を支援し、人材交流を促進するというものでした。JICAアフリカ・ホームタウン構想はその一つでしたが、実は、日本アフリカ拠点大学ネットワーク構想も立ち上げられていたのです。

 こうしてみてくると、JICAアフリカ・ホームタウン構想は果たして、誤報だったのかという疑問が湧いてきます。

■アフリカの基礎教育の向上から高度人材育成まで

 JICAは第9回アフリカ開発会議を機に、二つの事業を立ち上げました。一つは、知的レベルの高い若者を対象にした「日本アフリカ拠点大学ネットワーク事業」であり、もう一つは、労働力レベルの若者を対象にした「JICAアフリカ・ホームタウン事業」です。JICAがアフリカの基礎教育の向上から、高度人材育成にまで関与し、支援しようとしていたことがわかります。

 こうしてみてくると、JICAや外務省が否定し、火消しに走った海外の報道やSNSの動画は決して誤報やデマではなく、事実だった可能性が出てきました。

 調べてみると、「基礎教育の向上から高度人材育成まで」というタイトルの記事がみつかりました。そこでは、「第8回アフリカ開発会議では高等教育分野での日本の取り組みの一つ」として、「日本・アフリカ間の大学ネットワークを通じた人材育成、留学生の受け入れによる5000人の高度人材育成を実施する」ことが挙げられていました。(※ 『国際開発ジャーナル』、2023年11月、pp.68-71))

 さらに調べてみると、日本・アフリカ大学連携ネットワーク(JAAN)の第1回年次総会が、2016年6月20日に筑波大学東京キャンパスで開催されており、16大学と1オブザーバー機関、そして8団体・機関から39名が出席していました。高度人材育成に関する組織は9年も前に立ちあげられていたのです。以後、毎年開催されており、日本とアフリカの大学間ネットワークは機能していることがわかります。

 第8回アフリカ開発会議(2022年8月27日と28日)の時点では、JICAアフリカ・ホームタウン事業はまだ構想されていませんでしたが、「みんなの学校」という事業は動いていました。

(※ https://www.jica.go.jp/TICAD/approach/special_report/20221031_01.html

 「みんなの学校」プロジェクトは、家族や地域住民が学校運営に参画し、授業の在り方や学校運営を考えていこうとするもので、JICAは個別に対応し、助言や技術支援を提供しています(※ 前掲URL)。

 基礎教育の向上を目的とした事業ですが、地域の活性化を図るとともに、コミュニティを強靭化する機能もあると考えられています。2021年に始まったプロジェクトで、満足に教育を受けられないアフリカの子どもたちのための支援事業でした。(※ https://www.jica.go.jp/information/topics/2021/20210428_01.html)。

 これが地域活性化を目指した基礎的教育事業だとすると、このプロジェクトがアフリカ・ホームタウン事業の先駆けなのかもしれません。となれば、アフリカ・ホームタウン事業は第8回アフリカ開発会議の時点で、構想されていたことになります。

 まずは、木更津市の事業内容を見てみることにしましょう。

■木更津市の事業内容および目的

 木更津市がJICAによって採択された事業の名称は、「青少年非認知能力向上プロジェクト~「規律」「尊重」「正義」の涵養による社会変革モデル~」で、対象期間は2026年1月からの3年間です。

 タイトルに含まれる「非認知的能力」とは、「知能検査や学力検査では測定できない能力」を指し、具体的には、「やる気、忍耐力、協調性、自制心など、人の心や社会性に関係する能力」を意味します。ここでは、「規律」「尊重」「正義」を意味し、それらを涵養することによって、社会を変革していくというものです。

 具体的な事業内容としては、ナイジェリアの大都市ラゴスとアブジャの学校で、「Baseballership TM教育メソッド」の普及モデルを構築すること、そして、木更津市では、市内の小・中学生を対象に多文化共生を学ぶ授業を行い、国際理解教育の要素も取り入れた「Baseballership TM教育メソッド」のイベントを開催するというものです。

 事業内容をみると、非認知能力の向上を、「Baseballership TM教育メソッド」に求めているところに大きな特徴があります。

 次に、事業の目的を見ると、「ナイジェリア連邦共和国では、急速な経済成長が続く一方、格差拡大や 汚職、犯罪、交通マナーなど社会課題も多い」という課題を解決するため、「同国の学校現場で不足している情操教育の機会をつくり、社会情動スキルの高い人材を育成する」と書かれています。(※ https://www.city.kisarazu.lg.jp/soshiki/kikaku/organiccity/1/12113.html

 このような事業目的を読んだとき、大きな違和感を覚えざるをえませんでした。

●なぜ木更津市が、ナイジェリアの社会問題の解決を図る必要があるのか?

 なぜ、日本の小さな地方都市が、遠く離れたナイジェリアの社会的課題解決のために、事業を起こさなければならないのでしょうか。

 たとえば、木更津市の人口は、2025年8月1日時点で、13万6,884人です。一方、ナイジェリアの人口は、2024年の世銀調査によると、2億3,268万人です。年々、人口が増加していますから、現時点ではさらに多くなっていることでしょう。

 さらに、ナイジェリアは、これまで国連安保理非常任理事国を5回にわたって務めており、国連PKOにも貢献し、アフリカのリーダー国の1つです、G7諸国だけでなく、新興諸国とも強い関係を築いている大国です(※ 外務省の基本データ)。

 ところが、政情不安なため、ナイジェリアではテロ、誘拐、武装強盗など犯罪の発生率の高く、外務省は多くの地域を危険レベル4あるいは3を出しています。これは、「「退避してください」、「渡航は止めてください」といったレベルです。特にイスラム過激派組織によるテロや誘拐が頻発しており、外国人を標的とした犯罪も多く、外務省が、慎重な対策を講じるよう警告しているほどです。

 たとえば、中東専門のジャーナリスト石田和靖氏は、「ナイジェリアは一人では行けないほど危険」と語っています。

こちら → https://youtu.be/w7YPgQldHfw

(※ 0:36~5:02まで。CMはスキップするか削除して、視聴してください)

 まず、ムルタラ・モハンマド国際空港に着いてからラゴスの市街に入るまでが大変だといいます。タクシーに乗れば、どこかに連れていかれて金品を盗まれるし、バスに乗れば、強盗に刺され金目のものを盗まれるので、知り合いのナイジェリア人に送迎をお願いするしかないというのです。

 危険レベルが高いせいか、2024年10月時点でナイジェリアに滞在する日本人は158人です。一方、日本に滞在するナイジェリア人は2024年12月時点で4318人です。相互にほとんど交流がないといってもいいでしょう。

 それほど交流がなく、しかも犯罪率の高いナイジェリアの社会的課題をなぜ、日本の小さな地方都市が解決のために動かなければならないのでしょうか。この事業の目標を何度見返してみても、木更津市がこの事業によって、何をしたいのかがよく見えてきません。

 しかも、この事業内容をみると、「Baseballership TM教育メソッド」という概念を主軸に組み立てられています。

●「Baseballership TM教育メソッド」とは何か、なぜこの事業に組み込まれているのか?

 この事業はナイジェリアと木更津市で展開されます。その際、キーになるのが、「Baseballership TM教育メソッド」です。一般にはまだ認知されていない概念を使って、この事業を展開しようとしているのです。

 再び、「申請概要」を見てみると、「本事業では、指定団体であるJ-ABS(一般財団法人アフリカ野球・ソフト振興機構)を通じて、ナイジェリア(アブジャ、ラゴス)の学校で「Baseballership TM教育メソッド」の普及モデルをつくる…」と書かれています。

 ナイジェリアの大都会の学校で、「Baseballership TM教育メソッド」の効果検証を行って一般化し、普及モデルをつくるというのですが、具体的な対象地域や方法が書かれていないし、どのぐらいのサンプル数で検証するのかも、よくわかりません。このメソッドの「普及モデルをつくる」というにはあまりにも事業内容が曖昧なのです。

 一方、木更津市にとって、この事業がどういう意味をもつのか、事業内容を読んでもよくわかりません。

 そもそも木更津市はなぜ、JICAの「草の根技術協力事業(地域活性型)」応募したのでしょうか。

■「草の根技術協力事業(地域活性型)」

 「草の根技術協力事業(地域活性型)」は、「NGOや自治体、大学等がこれまでに培ってきた経験や技術を活かして企画した途上国への協力活動をJICAが支援し、共同で実施する事業」であり、しかも、「地域住民に役立つ事業」が対象となります(※ JICAのHP)。

 紹介動画がありますので、ご紹介しましょう。

こちら → https://youtu.be/cBIMcD8QewQ

(※ JICAより)

 木更津市は、草の根技術協力事業のうち、「地域活性型」に応募しました。この事業は、地方公共団体が、JICAが指定する団体と提携した企画を提案することが条件になっています。木更津市はJ-ABSを指定して、ナイジェリアでの事業提案を行いました。(※ https://www.jica.go.jp/domestic/tokyo/activities/kusanone/index.html

 木更津市がなぜ、J-ABSを指定したのかといえば、J-ABS はJICAに登録された指定団体だったからです。また、木更津市は2020年に開催された東京オリンピック・パラリンピックで、ナイジェリアのホストタウンを務めたことがあったので、ナイジェリアを対象国に事業企画を考え、基礎教育に関する提案を行いました。

 その結果、木更津市の提案は採択されました。2024年度の応募件数は24件、そのうち採択されたのは8件、採択率は33%でした。(※ https://www.jica.go.jp/activities/schemes/partner/kusanone/chiiki/index.html

 この事業の応募要件はJICAが指定した団体と提携して事業を行わなければならず、企画もそれに合わせたものにしなければなりませんでした。この事業は一見、木更津市が自発的に提案したようにみえますが、実は、JICAが指定したJ-ABSの意向を色濃く反映したものだったのです。

 これでようやく、木更津市の事業概要に対する疑問が少し解けました。

 つまり、応募という形をとりながら、木更津市が自由に発想し、自発的に考案した提案ではなかったのです。事業内容は、JICAの指定団体J-ABSに紐づけられており、「Baseballership TM教育メソッド」を組み込むことは不可欠だったのです。

 調べていくうちに、この事業に関係する、JICA、J-ABS、「Baseballership TM教育メソッド」が相互に深く関わっていることがわかってきました。三者をつなぐ人物がいたのです。それは、J-ABSの代表理事である友成晋也氏でした。

■JICA、J-ABS、慶應義塾大学

 友成晋也氏は、慶応義塾大学の野球部出身で、卒業後はリクルートコスモス社を経て、JICAに入り、1996年に西アフリカのJICAガーナ事務所へ赴任しました。以来、JICAの職員としてガーナで働き、その傍ら野球を通して、アフリカの青少年の人材育成のための「ベースボーラーシップ教育メソッド」を考案し、実践しはじめました。

「Baseballership TM教育メソッド」を考案したのは、この友成晋也氏です。

 JICA在職時の2019年にJ-ABSを立ち上げ、2020年には退職し、2021年から代表理事を務めています。翌2022年には、JICAの支援を得てアフリカ事業を始めているのです。このメソッドを教育に取り込めば、アフリカの青少年に、「規律」「尊重」「正義」などを涵養することができると述べています(※ https://www.j-absf.org/greeting)。

 友成氏が代表理事に就任した翌年の2022年以来、J-ABSは継続的にJICAから財政支援を受けています。2023年7月25日には2024年度のガーナ支援事業に採択され、母校である慶應義塾大学野球部からは人的支援を得、慶應義塾大学SFC研究所のベースボール・ラボからは研究支援を得て、成果をあげています。

 2024年8月31日と9月1日に開催された、第1回ガーナ甲子園大会は、この時の助成によるものです。

こちら → https://youtu.be/5i7AMLSrfn4

(※ CMはスキップして視聴してください)

 現在、J-ABSは、アフリカ55甲子園プロジェクトを主軸に事業展開をしています。アフリカの54か国と1つの地域を対象に、野球を通じた人づくりと競技の普及を目的に、25年かけて、アフリカ各国で野球の全国大会の開催させる計画だといいます。

 こうしてみてくると、友成氏が勤務していたJICA、同氏が代表理事を務めるJ-ABS、同氏が開発した「Baseballership TM教育メソッド」は三位一体で、アフリカで野球を根付かせようとしているように思えます。

 アフリカの青少年の基礎学力向上のための事業としては、未知数ですが、慶應義塾大学野球部から人的支援、慶應義塾大学SFC研究所ベースラボからは研究支援を受け、着実に成果を収めつつあるのが現状です。

 一方、木更津市は、この事業のために場所を提供しているにすぎないようにみえます。はたして、木更津市にとって、どんなメリットがあるのでしょうか。

■木更津市にとって、メリットはあるのか?

 この事業は、実施期間が3年間で、助成金の上限が6000万円です。仮に上限が支給されたとして6000万円です。その中からどのぐらい活動資金としてJ-ABSに渡されるのかわかりませんが、アフリカでの活動経費、渡航費、人件費、滞在費、など諸経費を差し引くと、それほど残らないでしょう。

 一方、木更津市は、ナイジェリアからの来訪者に対する住宅の提供、生活面での対応、さらには小中学校での教育機会の提供などが求められます。文化や生活習慣の違うナイジェリア人を相手にするのですから、金銭以外の負担も計り知れないものになるにちがいありません。

 そこへもってきて、今回の大騒動です。

 8月23日以来、木更津市はクレーム対応に追われました。JICAや外務省が誤報だ、デマだと否定しても、抗議の声が収まる気配は見えず、木更津市は新たに、令和7年9月の日付で、文書を発表しました。

 内容はこれまでと同様、市民からの批判に応えるものでしたが、興味深いのは、文書の末尾に赤字で書かれた次の文章です。その部分をご紹介しましょう。

 「木更津市は、ナイジェリアからの移住・移民の受け入れを促進するといった事実は無く、今後もそのような取組を進めていく予定もありません。また、市としてナイジェリアからのインターンシップの受入れ計画もありません」(※ https://www.city.kisarazu.lg.jp/material/files/group/10/Stance_Japanese_.pdf

 確かに、それらの文言は事業概要にありませんでした。ところが、2026年から3年間、ナイジェリア人が継続して木更津にやって来て居住し、活動するのは事実です。授業を行い、イベントを開催することも、事業内容に盛り込まれています。木更津市はそのためにナイジェリア人に住居を用意し、生活面での支援をしなければならないのです。

 その結果、どういうことが起こるでしょうか。

 たとえば、専門職ビザで来日した場合、高度人材ポイントが70点以上であれば、3年間在留すれば、永住許可申請をすることができます。また、80点以上であれば1年以上在留しただけで、永住許可申請をすることができるのです。(※ https://dragonshinjuku-visa.com/archives/884/

 この事業の実施期間が3年間だということは、専門職ビザで来日したナイジェリア人は、事業が終了する段階で、日本に永住許可申請を出せることになります。移民政策ではないとJICAや政府は言い張りますが、実際はその可能性もあるのです。市民や多くの人々が懸念するのはその点でした。

■危険をスルーするJICAの罪

 今回、SNSで数多くの警告を発信していたのは、日本を愛する外国人たちでした。移民がどれほど社会を不安定にするか、彼らはよく把握していたからです。

 たとえば、ナイジェリア人と日本人のハーフである細川バレンタイン氏は、ショート動画をいくつもアップし、アフリカ・ホームタウン事業の危険性を警告しています。いずれも具体的で説得力がある内容なので、いくつかご紹介しましょう。

  • 外国人労働者を安易に入国させてしまうことの危険

こちら → https://www.youtube.com/shorts/_hGJC6klqWs?feature=share

  • 労働力不足だからといって移住させた結果、不法滞在者の急増

こちら → https://www.youtube.com/shorts/Szo7amopmZs?feature=share

  • 生活習慣、社会状況が違うナイジェリアと共存できるか?

こちら → https://www.youtube.com/shorts/yuH5n6LdCco?feature=share

  •  アフリカ・ホームタウン事業はなんとしても食い止めるべき

こちら → https://www.youtube.com/shorts/lQS6Y-VTj8k?feature=share

 これらのショート動画を見て、改めて、この事業の危険性を思い知らされました。

 表向きはナイジェリアの社会的課題を解決するためといいながら、実は、人口が激増しているナイジェリアから、木更津市へ労働力の流入を目的としています。JICAや外務省は否定していますが、これが移民政策の一環だからこそ、「アフリカ・ホームタウン」事業なのです。

 日本は現在、帰国させるための厳格なルールもなく、海外からの労働者を受け入れるので、不法滞在者が増えるばかりです。その結果、医療費の未払い、犯罪の増加、社会の不安定化など、不法滞在者が引き起こす諸問題を、日本人が税金を使って後始末をしなければならなくなっています。

 多くの人々が海外からの労働者の受け入れに反対し、SNSでの抗議も高まる一方ですが、それでも、JICAや日本政府はこの計画を止めないでしょう。仮に表向きは取りやめたように繕ったとしても、結局はなし崩し的に移民を受け入れていくに違いありません。というのも、経済界と同様、行政もまた労働力不足をなによりも恐れているからです。

 木更津市もおそらく、人口減への対応策として、この事業に参画したのでしょう。労働力補填のメリットに目を奪われて、ナイジェリア人の移住が抱える潜在的なリスク、あるいは、社会的損失についてはそれほど深く認識していなかった可能性があります。

 一方、JICAはこの事業に潜在するリスクを知りながら、木更津市の提案を採択し、ナイジェリアとの事業を立ち上げました。危険を承知で、地方都市を引きずり込み、長期的にはデメリットでしかない事業に関わらせました。そのことの罪は重いといわざるをえないでしょう。(2025/9/22 香取淳子)

「大阪、関西万博2025」⑤:「大屋根リング盆踊り」と「河内家菊水丸」が世界をつなぐ

■万博会場で開催された盆踊り大会

 もはや過去のものだと思っていた盆踊りが、「EXPO2025 真夏の陣」の一環として、開催されました。7月25日から28日までの間、万博会場では三種の盆踊り大会が企画されていたのです。

 その一方で、27と28日は、大阪府内各所で、地域に根付いた盆踊り大会が行われていました。参加者の属性や開催地の特性を踏まえ、きめ細かく盆踊り大会がスケジュールされていました。

こちら → https://www.expo-osaka2025.com/osakaweek/summer/

 メニューを見ると、なんとも粋な計らいだということがわかります。万博でのライブ・パフォーマンスだということを意識していたからか、ローカルとグローバルを組み合わせた絶妙なメニューになっているのです。

 果たして、どのような企画内容だったのか、7月25日から28までの間に開催された盆踊りについて、開催日順に、その概略をみておくことにしたいと思います。

●7月25日に開催されたのが、オープニング・イベントの「マツケンサンバ@EXPO2025」でした。申し込みおよび開催概要は次の通りです。

こちら → https://www.expo-osaka2025.com/osakaweek/news/news_0016.html

 この盆踊り大会は、EXPOアリーナ「Matsuri」で行われ、約6000人が参加したといわれています。タイトル通り、松平健氏を迎え、マツケンサンバが披露されました。

●翌7月26日は、「盆踊りギネス世界記録挑戦」という企画の下、盆踊りが開催されました。参加申し込みおよび開催概要は次の通りです。

こちら → https://www.expo-osaka2025.com/osakaweek/summer/guinness.html

 こちらもEXPOアリーナ「Matsuri」で行われました。挑戦曲は、万博のテーマソング、『この地球(ほし)の続きを』です。万博テーマに合わせた唄で、盆踊り大会のギネス記録に挑戦するという企画でした。

 ギネス記録を達成するには、参加者数、国籍数を競うだけでなく、参加者の90%以上が、挑戦曲に合わせ、振付通りに5分以上踊らなければならないという条件がありました。審査員によって踊り方がチェックされるという課題があったのです。

 もちろん、振付通りにはなかなか踊れないという人もいました。そういう人のためには、振り付けの練習動画が用意されていました。

 HP上に、「日本語レクチャー編」、「日本語フルバーション編」、「英語レクチャー編」、「英語フルバーション編」が掲載されています。日本人であれ、外国人であれ、誰もが気軽に盆踊りに参加できるよう、配慮されていました。

 さらにHP画面を下にスクロールしていくと、事前練習会まで準備されていることがわかりました。5月9日から7月18日までの11日間、対面の練習会が開催される一方、オンライン練習会も、初級、中級、上級とレベルに合わせて開催されていたのです。

 服装等については、「浴衣に草履などの伝統的な衣装、民族衣装でのご参加を推奨しますが、衣装は自由です。安全上、かかとの高い靴は避けていただき、動きやすい履物でお越しください」という注意書きが記されていました。

 参加者が浴衣を着ていたり、民族衣装を着用したりしていれば、会場が華やかになります。そして、一目で参加者の多様性を把握することもできます。ギネス記録を達成するためだけでなく、見た目の訴求力にも配慮した方策が取られていたことがわかります。

●7月28日は、「大屋根リング盆踊り」が開催されました。開催場所を、それまでのEXPOアリーナから大屋根リングのスカイウォークに移し、「大阪から世界をつなぐ」という大会コンセプトの下で行われました。

 参加申し込みおよび開催概要は次の通りです。

こちら → https://www.expo-osaka2025.com/osakaweek/summer/ring.html

  こちらも練習用動画が用意されていました。

こちら → https://youtu.be/PYfjs4utlQ4

(※ CMはスキップして視聴してください)

 河内家菊水丸氏の音頭取りによって、振付を練習できるようになっています。振付を担当するのは、河内家菊舞丸氏です。振付については、菊水丸氏が逐次、説明をしていましたから、この練習用ビデオは、伝統芸能である河内音頭を見せる場の一つにもなっているといえます。

●7月27日と28日は、万博会場ではなく、大阪府内各地で、「交流盆踊り大会」が開催されました。

こちら → https://www.expo-osaka2025.com/osakaweek/assets/files/summer/schedule.pdf

 27日はゲストの菊水丸氏のステージの後、15:00から府内14か所で、盆踊りが開催されています。そして、28日は、やはり菊水丸氏をゲストに14:55から、府内13か所で開催されました。

 この二日間はもっぱら大阪府内の各地で、盆踊り大会が行われていたことになります。府内各所で行われた盆踊りは、まさに地域の伝統行事であり、地域の絆を深め、地域アイデンティを確認するためのものでもあったのでしょう。

 以上、見てきたように、「EXPO2025 真夏の陣」として企画されていたのが、万博会場での盆踊り大会三種と、大阪府内27か所で開催された盆踊り大会でした。まさに大阪を起点に、盆踊りを介して大阪府の内外に盆踊りの情熱を伝えるという企画でした。

 それでは、一連の盆踊り大会が実際にどのようなものであったのか、そこから何が伝わってきたのか、万博会場で行われた三種の盆踊りを撮影した動画を取り上げ、考えてみることにしましょう。

■動画が捉えた万博会場での盆踊り

●7月25日、マツケンサンバ

 25日はオープニング・イベントとして、マツケンサンバが行われました。EXPOアリーナでの開催です。その時の様子を収めた動画がありますので、ご紹介しましょう。

こちら → https://youtu.be/E–TvECP-DQ

(※ CMはスキップして視聴してください)

 松平健氏が、マツケンサンバ音頭を歌い演じて10分10秒を過ぎたころに、吉村知事、横山市長、河内家菊水丸氏が登場します。トークがはずみ賑やかになったところで、松平氏は金色の衣装に着替え、マツケンサンバⅡが始まります。


(※ ユーチューブ映像より)

 やぐらのトップに立って歌い演じる松平健氏が映し出され、その下の段で踊る知事や市長の姿が捉えられます。そして、やぐらを取り囲み、踊る人々・・・、みな、開放感にあふれ、楽しそうです。

 この盆踊りには、6000人の人々が参加したそうです。

 カメラが捉えた人々のしぐさや表情を見ていると、踊りが上手だとか、下手だとかは関係なく、参加することにこそ意義があるのだと思わせてくれます。

●7月26日、万博会場の屋外アリーナで開催された、ギネス盆踊り

 26日に企画されていたのが、ギネスへの挑戦です。こちらは、同時に盆踊りを踊った「人数」と「国籍数」を競います。参加者の人数と国籍数で、ギネス世界記録に挑戦するイベントでした。


(※ ユーチューブ映像より)

 共同通信がまとめた1分45秒ほどの動画がありますので、ご紹介しましょう。

こちら → https://youtu.be/e1trPR_nTRI

(※ CMはスキップして視聴してください)

 参加者は、万博テーマソング「この地球(ほし)の続きを」に合わせ、踊りを披露しました。もちろん、どんな踊りでもいいというわけではありません。先ほどもいいましたが、ギネス記録を達成するには、参加者の9割以上が、決められた振り付け通りに、5分以上、正確に踊ることが条件になっています。

 参加者はオンラインや対面で練習を重ね、ギネス盆踊り大会に参加しました。その結果、ギネス公式認定員の発表によると、参加者数は3946人、国籍数は62カ国で、無事、記録達成となりました。約4000人が参加したのです。

 さらに参加人数が増えたのが、大屋根リングでの盆踊りです。

●7月28日、大屋根リングのスカイウォークで開催された盆踊り

 こちらは「大屋根リング盆踊り」と称され、「大阪から世界をつなぐ」とサブタイトルが付けられています。河内音頭の家元である河内家菊水丸氏が、音頭取りをした盆踊りです。これについては、5分33秒にまとめた動画がありますので、ご紹介しましょう。

こちら → https://youtu.be/myuL7qSJ6wc

(※ CMはスキップして視聴してください)

 河内音頭の継承者、河内家菊水丸氏が音頭取りを務め、万博のテーマ「いのち輝く未来社会のデザイン」に添った、「いのち輝く未来社会音頭」で、盆踊りが展開されました。大屋根リングの上には、国内外から約8000人が参加しており、圧巻でした。

 この動画のコメント欄には、次のような意見が寄せられていました。

 「大屋根リングで、家族みんなで踊ってきました! 最高でした!」

「素敵な思い出沢山できました!」

「やっぱり市長も知事も若手だと、街は活性化されるし、みんなが活き活きするア大屋根リング いいね 、大活用や 」

「大勢の人が1つになれる大屋根リング  グッドジョブです」

 参加者は口々に、感動を伝えています。大屋根リングという大舞台で、皆と一緒に盆踊りをしたことが、何にも代えがたい喜びとなり、感動したことが綴られているのです。

 大勢の人々が一つの場所に集い、音頭に合わせて踊ることこそが、一体感を生み、感動させるのだと実感させられました。盆踊りが、参加型のライブ・パフォーマンスであることが、参加者の距離感を失わせ、一体感を生んだのではないかという気がします。

■吉村知事、横山市長

 興味深いのは、オープニングの「マツケンサンバ盆踊り」、そして、「ギネス盆踊り」、フィナーレの「大屋根リング盆踊り」、万博会場で開催された大会にはすべて吉村知事と横山市長が登場していたことでした。

 しかも、「ギネス盆踊り」以外、知事と市長は浴衣姿で登場しています。彼らは櫓の上に立って、スターゲストの松平健氏や河内家菊水丸氏とトークしながら、会場を盛り上げていたのです。


(※ ユーチューブ映像より)

 吉村知事が、軽いジョークを交え、観衆を沸かせながら会場を盛り上げていく様子を見ていると、ちょっとした芸人に見えてきます。横山市長も同様です。会場に違和感なく溶け込んでいるのです。まさに大阪府知事であり、大阪市長だと妙に納得させられました。

 そもそも政治は大勢の人々が参加する祭りであり、人々の同意を得ながら推進させるべきものなのでしょう。

 浴衣を着た吉村知事と横山市長が、櫓の上で菊水丸氏と談笑し、その櫓の周りを多数の参加者が取り囲んでいます。菊水丸氏の音頭取りで盆踊りが始まると、日本人であれ、外国人であれ、手をかざし、脚を出し、踊りながら、歩み出します。

 国籍を超え、人種を超えて、参加者が一つになっていった瞬間でした。

 約8000人もの参加者たちが、河内音頭に合わせて踊り、大屋根リングのスカイウォークの上を動いていきます。それが大きな輪となって、大屋根リングを覆っています。まさに、「大阪から世界をつなぐ」というコンセプトそのものの光景でした。

■盆踊り大会を通して、何が見えてきたのか?

 盆踊りはかつて、日本の夏を彩る風物詩の一つでした。お盆の時期になれば、各地で櫓が組まれ、笛や太鼓、音頭取りの歌唱に合わせ、地元の人々が輪になって踊っていたものでした。

 
 そもそも盆踊りは、ご先祖様の霊を供養するための行事でした。ところが、宗教的意味合いはいつしか薄れ、地域社会の娯楽になっていました。娯楽の少ない時代に、盆踊りは人々に娯楽を提供し、村落共同体の結束を強める機能を果たしてきたのです。

 地域共同体が廃れていくにつれ、次第に、盆踊り大会はみられなくなっていきました。担い手がいなくなってしまったのです。現在でも行われているものは、おそらく、商店街主催、あるいは、自治体主催の盆踊り大会ぐらいでしょう。

 ところが、万博会場では「EXPO2025 真夏の陣」と称し、三種の盆踊り大会が開催されたのです。動画でご紹介したように、万博会場で行われた盆踊り大会はそれぞれ、多数の参加者を熱気と感動の渦に巻き込んでいました。

 一連の盆踊り大会を通して見えてきたのは、まず、盆踊りが熱気と感動、そして、一体感を生み出すということでした。

●会場に充満する熱気と感動、一体感

 ギネス盆踊り大会には、日本人と多数の外国人が参加していました。次の写真は、その光景を捉えた一コマです。


(※ ユーチューブ映像より)

 浴衣を着用した人々が、テーマソングを口ずさみながら、一斉に手を突き出しています。参加者が、振付に忠実に踊っている様子が映し出されていました。

 こんな光景もありました。


(※ ユーチューブ映像より)

 これも、ギネス盆踊り大会の一コマです。右下に「東エリア8」と書かれた赤い色の表示が見え、その左側に民族衣装を着た人々が手を高く挙げている姿が見えます。参加者たちは、国籍毎に分けられ、開会を待っているのです。

 大勢の参加者たちが夕日を浴び、開会を待っている様子が映し出されています。ひしめきあうように集っている人々の中に、所々、黄色の識別表示が見えます。


(※ ユーチューブ映像より)

 猛暑の中、これだけ大勢の人々が、このギネス盆踊りのために参集しているのです。それは、ギネス企画の魅力でしょうか、それとも、盆踊りの魅力でしょうか。

 結局、この日の盆踊りには62ヵ国、3946人が参加しました。事前に練習に励んでいたせいか、参加者たちは、5分間以上、振付通りに踊るという基準を易々と達成しました。世界に向けた企画が目標を達成したのです。ギネス記録への登録が果たされ、「大阪、関西万博2025」の認知度はさらに高まることになるでしょう。

 そして、「EXPO2025 真夏の陣」は、28日開催の「大屋根リング盆踊り」で、大団円を迎えました。

 これら三種の盆踊り大会を通して、見えてきたのは、参加者たちの熱気と感動、そして、一体感でした。赤く染まった夕焼け空の下、参加者たちはごく自然の一つの輪になっていたのです。

●河内音頭で、大阪から世界をつなぐ

 さて、「大屋根リング盆踊り」では、菊水丸の河内音頭が使われました。河内音頭は、大阪八尾市を中心とした河内地方に普及している盆踊り唄です。大阪のご当地音頭で、日本人であると、外国人であるとを問わず、参加者たちは盆踊りに参加していたのです。


(※ ユーチューブ映像より)

 大屋根リングの上で踊っていたのは、なんと約8000人にも及んでいました。見渡すかぎり、人、人、人の渦です。動画を見ていると、下の方から河内音頭が聞こえてきます。浪曲のようであり、民謡のようであり、また、ラップのようにも聞こえる唄でした。

 伝統芸能でありながら、現代的な民衆性を備えた音楽のようにも思えます。

 一連の万博盆踊りに登場していたのが、河内家菊水丸氏です。独自に開発した「新聞詠み」で有名になったといわれています。折々のニュースを題材として、節をつけ、音頭に詠み込んでいくという手法で制作されていました。

 たとえば、グリコ森永事件、豊田商事事件、リクルート事件など世間を騒がせた事件を、題材として取り上げ、音頭に詠み込むのです。観衆の誰もが知っている事件を取り上げ、唄に詠み込んで披露すれば、共感を得られやすいからでした。

 大衆の興味関心に沿って、誇張して制作するという点では、ワイドショーの制作手法に似ているともいえます。

 その後は、事件ばかりではなく、社会的課題なども題材として取り上げるようになりました。そのような題材でも、菊水丸氏の唄には、言葉遊びの要素があり、時に過激な表現やウケ狙いの表現もあって、大衆受けするものでした。

こちら → https://www.nikkansports.com/premium/entertainment/news/202507080000895.html

 おかげで、河内地方だけで踊られていた河内音頭が、いまでは全国的に認知され、広まっています。とくに盛んなのは、東京錦糸町の盆踊りで、1985年以来、毎年、「錦糸町河内音頭」が開催されています。

こちら → https://www.kinshicho-kawachiondo.jp/

 今年も開催されており、2日間で3万人もが参加する大盛況ぶりでした。参加型の娯楽だからでしょうか、その動員力には目を見張るものがあります。人々を熱狂させ、一体感を醸成しやすいことがわかります。それだけに、江戸時代には、幕府が開催場所や時間を規制するほど、危険視されていたといわれています。

 盆踊りには、誰でも参加できる気軽さと親近感があります。しかも、ライブ・パフォーマンスとしての開放感があり、日ごろのストレスを発散させる機能もあります。それだけに、参加者を高揚させ、熱狂させ、周囲と一体化させる力も強いのでしょう。

 振り返ってみて、あらためて、「EXPO2025 真夏の陣」の企画は素晴らしいと思いました。盆踊りというローカル文化が、万博会場というを舞台から、参加者を巻き込みながら、グローバルに発信されていたのです。

 オープニングからフィナーレの「大屋根リング盆踊り」まで、三幕構成でつなげたところに参加者を引き込み、盛り上げながら展開していく流れがありました。

 まずは、日本国内で認知度の高いマツケンサンバを1幕目に設定して、参加者の目を引き、2幕目は、海外に向けて、意表を突く恰好で、ギネス記録への挑戦、そして、3幕目は、地元大阪の河内音頭で、約8000人が大屋根リングの上で踊るという趣向でした。

 メリハリのある構成で三種の盆踊りが組み立てられていたからこそ、「大阪から世界をつなぐ」というメッセージがしっかりと発信されていたように思います。

(2025/8/9 香取淳子)

「大阪、関西万博2025」④:マルタ館で見る、幕末日本

■マルタ館の建設費未払い

 次々と起こる建設代金未払い問題が、マルタ館でも発生していました。下請け会社のI社は、約1億2千万円の未払いを抱え、現在、東京地裁に提訴しています。

(※ https://katori-atsuko.com/?news=%e3%81%be%e3%81%9f%e3%81%97%e3%81%a6%e3%82%82%e6%9c%aa%e6%89%95%e3%81%84%e8%a8%b4%e8%a8%9f%e3%80%81%e4%b8%87%e5%8d%9a%e5%8d%94%e4%bc%9a%e3%81%af%e3%81%a9%e3%81%86%e8%b2%ac%e4%bb%bb%e3%82%92%e5%8f%96

 2024年12月、マルタ館の工事は、外資系元請けのG社、一次下請けのS建設、I社が協議して、開始されました。G社は仮設物建築のスペシャリストで、世界中で万博やスポーツ大会の仮設物を作ってきた実績があります。内装工事を請け負ったI社の社長は当初、「こんな大きな会社と仕事ができるなんてすごい」と喜んでいたといいます。

 ところが、G社は協議の場でも平面図2枚しか渡さず、内装についてもほとんど指示を出しませんでした。G社のやり方に不安を感じたのか、1月末に、S建設と3次下請け業者は撤退してしまいました。以後、すべての責任がI社にのしかかってきたのです。

 マルタ館は、パビリオンの中ではもっとも遅く着工したので、工期が短く、しかも、図面は現場で何度も変更され、困難を極める仕事内容でした。それでもI社は不眠不休で働き、開幕までにマルタ館の工事を完了させました。ところが、元請けのG社は1億2千万円にも上る建設代金を支払っていないというのです。(※ http://www.labornetjp.org/news/2025/0617expo

 それでは、I社が苦労して完成させたマルタ館をご紹介しましょう。

(※ https://www.expo2025.or.jp/official-participant/malta/

 まず、やや湾曲した石造り風の壁面が、目につきます。自然石の素材感と洗練されたデザイン性が、なんとも印象的です。壁面の前には水が湛えられ、背後から光を受けると、石の壁や大きな木が水面に照らし出されるよう設計されています。光と水面を巧みに利用し、幻想的な雰囲気が醸し出されているのです。

 この素晴らしいパビリオンを、I社は、たった2枚の平面図を渡されただけで、完成させたのです。現場では、何度も設計変更を要求されたといいます。外国人とのやり取りの中で、コミュニケーションがスムーズにいかないことも多々、あったでしょう。それでもI社は開幕までに工事を完了させました。その責任感は、さすが日本の建設会社だといわざるをえません。ところが、その対価が支払われていないのです。

 マルタ館については、11分48秒の動画がありますので、ご紹介しましょう。

こちら → https://youtu.be/xybFRSzM3X0

(※ CMはスキップするか、削除してください)

 この動画を見ていて、わかったことがあります。それは、正面の湾曲した壁面が、昼間はスクリーンとして活用されていたことです。

(※ 前掲の公式動画から)

 大きなスクリーンに広大な海が映し出されています。入り口で並んでいる来場者たちは、まるで海の中に佇んでいるような気持ちになっていたにちがいありません。これは、マルタが地中海に浮かぶ小島であることを、来場者に直感的に理解させる仕掛けだといえます。

 はたして、マルタはどのような国なのでしょうか。

■マルタ共和国とは?

 古来、さまざまな勢力や国から支配されてきたマルタは、1974年12月13日、イギリスから独立し、マルタ共和国となりました。イタリアのシチリア島の南に位置し、マルタ島、ゴゾ島、コミノ島など3つの島々から構成されています。面積は316平方キロメートルで、東京23区の面積の約半分の大きさです。

 マルタの全体像が分かるような地図を探してみました。

(※ https://ritoful.com/archives/20113

 左が地中海での各国の位置関係を示す地図、右が3つの島から成るマルタ共和国の地図です。

 左の地図を見ると、マルタがイタリアのシチリア半島のごく近くに位置し、北アフリカのチュニジアにも近いことがわかります。イタリア、チュニジア、ギリシャ、トルコ、エジプトに挟まれ、地中海に浮かんでいる小さな島国が、マルタ共和国でした。

 マルタはまさに地中海の要衝の地なのです。

 右の地図を見ると、マルタ共和国は、マルタ島、ゴゾ島、コミノ島などから構成されており、一番大きいマルタ島に、首都ヴァレッタが置かれているのがわかります。

 ヴァレッタの写真がありますので、見てみることにしましょう。

(※ https://diamond.jp/articles/-/345221

 コバルト色をした地中海のまっただ中に、石造りの建物が海の際まで建てられているのが見えます。まさに要塞都市ですが、これが、マルタ共和国の首都、ヴァレッタです。ここに、マルタの地政学上の特徴をみることができます。

 地中海の真ん中に浮かぶマルタは、古来、さまざま勢力から侵略され、支配されてきました。1530年になると、聖ヨハネ騎士団がマルタを拠点に活動しはじめました。彼らはやがて、マルタ騎士団と呼ばれるようになります。

 これに危機感をおぼえたオスマン帝国は1565年、4万もの大軍を率いて、マルタを攻撃してきました。マルタ騎士団はわずか8千程度の兵力で、4ヶ月間、これに抵抗していました。そのうち、カトリック教国側の援軍がマルタに到着すると、オスマン軍はたちまち撤退していったという事件がありました。

 この襲撃に懲りたマルタは、翌1566年、防衛のために新たな要塞都市の建設に着手しました。出来上がった都市は、当時のマルタ騎士団の団長ラ・ヴァレットの名前に因み、ヴァレッタと名付けられました。マルタは、防衛を最優先させなければならないほど、地政学上のリスクが高い地域だったのです。

 実際、古代からさまざまな民族がマルタを通り、上陸し、支配しては、去っていきました。その結果、この小さな島には、数多くの遺跡が残され、多様な民俗文化が根付いています。

■マルタに残された、世界遺産の数々

 マルタには、新石器時代から人間が生活していたといわれ、マルタ島やゴゾ島には約30の、神殿と思われる巨石建造物が残されています。そのうち、ゴゾ島のジュガンティーヤ神殿は、1980年に世界遺産に認定されました。

 その後、マルタ島でも5つの巨石神殿が発見されました。これらが追加登録されて、ジュガンティーヤ神殿 を含む神殿群は、1992年にマルタの巨石神殿群と名称変更されました。

こちら → https://www.mtajapan.com/heritage

 ここでは、ジュガンティーヤ神殿の他に、ハジャーイム神殿、イムナイドラ神殿、タルシーン神殿などが紹介されています。風化が進み、現在は巨大なテントで覆われていますが、神殿内部の見学は可能で、一般公開されているそうです。

 これらの巨石遺跡に関する動画を見つけましたので、ご紹介しましょう。

こちら → https://youtu.be/0OD7W2qMRhA

(※ CMはスキップするか、削除してください)

 興味深いことに、島内の各所に平行に穿たれた2本の溝の跡が残されています。

(※ https://en.wikipedia.org/wiki/Misra%C4%A7_G%C4%A7ar_il-Kbir

 この溝は「カート・ラッツ(車輪の轍)」と呼ばれ、水路だという説と、神殿などに石を運ぶためのレールだという説があります。

 カート・ラッツと呼ばれる2本の平行線が、島の至る所に見られます。その一方、まるでジャンクションのように穿たれた石の溝も残されています。

(※ 前掲URL)

 こちらは、まるで鉄道のポイントのように見えます。このような分岐点が所々に存在していることから、マルタには、古代の運送の痕跡がそのまま残されているといえます。

 先ほどいいましたように、ヴァレッタは港を見下ろす格好で、シベラスの丘の上に建造されています。まさに石造りの城塞都市です。そして、このヴァレッタの街そのものも世界遺産に登録されているのです。

(※ Wikipedia)

 11世紀の以降のさまざまな様式の建造物が、ヴァレッタには残されています。バロック建築、マニエリスム建築、近代建築、新古典主義建築などです。これらの多様な建築様式の建造物もまた、1980年にユネスコの世界遺産に登録されました。

 こうしてみてくると、マルタが地中海の要衝の地だからこそ、さまざまな文化が堆積してきたことがわかります。もちろん、東洋と西洋をつなぐ交通の結節点にもなっていたでしょう。

 実は、幕末の日本人が、このマルタを訪れていた痕跡が残されていたのです。

■マルタ館で展示された日本の甲冑

 地中海のマルタと縁があったとは、とうてい思えないのに、マルタのパビリオンに、日本の甲冑が展示されていました。向かって左が西洋の鎧、右が日本の甲冑です。東西の武具が並べて展示されていたのです。

(※ マルタパビリオンの動画より)

 この甲冑は、2015年にマルタの武器庫で発見されたといいます。幕府がヨーロッパに派遣した使節団が、マルタに贈呈したものでした。1862年に欧州を訪れる途中、使節団はマルタに立ち寄っていました。その際、マルタから大歓迎された使節団が、その返礼として、甲冑を贈っていたのです。

 発見された時点で、すでに150年以上も経ていた甲冑です。当然のことながら、経年劣化が進み、欠損した箇所も目立つようになっていました。劣化部分や欠損部分については、京都美術品修復所が、1年半かけて修復を完了させました。2025年3月22日、読売新聞は、修復が終わった甲冑が、将軍家ゆかりの光雲寺で披露されたことを伝えていました。

(※ 読売新聞、2025年3月23日)

 使節団がマルタに贈ったのは、甲冑3点でした。それらが修理され、そのうち1点が、今回、マルタのパビリオンで展示されているのです。家老級の武士が身につける鉄製の高級甲冑だといいます。

(※ マルタパビリオンの動画より)

 たしかに、磨きこまれ、黒光りしている甲冑には、重々しい威厳と凛とした美しさがあります。なるほど、家老級の武士が身につける甲冑なのだと納得させられました。

 アンドレ・スピテリ駐日大使は「万博で甲冑を見て、マルタと日本の歴史的なつながりを感じてほしい」と話しています(※ 読売新聞、2025年3月23日)。

■遣欧使節団はなぜ、マルタに立ち寄ったのか?

 江戸幕府は、文久元年(1862年)にヨーロッパに使節団を派遣しました。1858年に交わされたオランダ、フランス、イギリス、プロイセン、ポルトガルとの修好通商条約のうち、新潟・兵庫の開港および江戸・大坂の開市の延期交渉、そして、樺太の国境画定交渉を進めるためでした。

 文久元年12月22日、(1862年1月21日)、幕府の使節団は、イギリス海軍の蒸気フリゲート艦、オーディン号(HMS Odin)に乗船し、欧州に向かいました。

 一行の渡欧経路を見ると、品川港を出発し、長崎、英領香港、英領シンガポール、英領セイロン、アデン保護領を経てエジプト・スエズに上陸し、鉄道でカイロからアレクサンドリアに出た後、再び船に乗って地中海を渡り、英領マルタを経て、4月3日にマルセイユに入っていました。

 フランスのマルセイユに入る前の3月28日、使節団は、たしかにマルタ島のヴァレッタに立ち寄っていたのです。

 一行が、なぜ、エジプトのアレクキサンドリアから直接、マルセイユに行かず、マルタに立ち寄ったのかといえば、カイロ滞在時に、フランス行きの船を手配することができなかったからでした(※ 前掲、pp.47-48)。

 当初の予定では、フランスを訪問するのが先でした。ところが、使節団一行をフランスに運ぶ船の手配ができず、ひとまず、イギリスの船でマルタまで行こうということになったのです。一行を運んだのは、イギリスの兵員輸送船ヒマラヤ号でした。

 当時、マルタは英領でした。イギリスは、1814年にマルタを支配下に置き、全盛期のイギリスを支えるための貿易、軍事上の重要な拠点にしていました。

 使節団が見たヴァレッタの印象は次のようなものでした。

 「マルタ島の印象は、全島がすべて岩で覆われた不毛の地のそれであった。とくに港の三方はみな城塞のようである」(※ 宮永孝、『文久二年のヨーロッパ報告』、pp.49. 1989年、新潮社)

 港に面したところはみな城塞のようだと書かれています。実際、ヴァレッタはマルタ騎士団によって、1566年に要塞都市に造りかえられていました。日本の武士の目に、石造りの街ヴァレッタが、堅固な要塞に見えたのは、当然のことだったのかもしれません。

■マルタに贈呈した甲冑

 さて、ヒマラヤ号がヴァレッタに入港すると、一行は大歓迎されました。

 「哨戒艇が六隻ばかり本船の周りにやって来て、護衛についた。それより三使は、日章旗を掲げた艀に乗り換え、セント・アングロ要塞から十五発の祝砲を受けながら上陸し、「ダンスフォード・ホテル」に入った」(※ 前掲、pp.49-50)。

 ヒマラヤ号からは、まず、三使が、日章旗を掲げた艀に乗り換え、祝砲を受けながら、ヴァレッタ上陸しました。三使とは、「全権公使」のことで、竹内安徳(正使、56歳)、松平康直(副使、33歳)、京極高朗(目付、39歳)の三名を指します。使節一行の主要メンバーです。

 一行は、これら三使の他に、事務方のトップである柴田剛中(組頭、46歳)をはじめ、福地源一郎、福沢諭吉、松木弘安(後の寺島宗則)、箕作秋坪ら、総勢36名で構成されていました。

 三使と柴田剛中の4人が、パリで撮影された写真が残されています。ご紹介しましょう。

(※ Wikipedia)

 左から、松平康直(副使)、竹内保徳(正使)、京極高朗(目付)、柴田剛中(組頭)です。

 正使の竹内保徳は、箱館奉行に任じられた際は海防や開発に尽力し、外交や蝦夷地の事情にも通じていました。しかも、「君子風の良吏なりければ正使の価値を備へたる人物」といわれ、温厚篤実で、ものに動じることもなく、樺太境界の交渉には適任でした(※ 前掲、p.17)。

 三使の中で、日本の伝統文化を貫き通したのは、副使の松平康直でした。洋行経験者から持参の必要はないといわれながらも、甲冑や槍などを持参することを主張し、その結果、三使だけは甲冑等の持参を許されたそうです(※ 前掲、p.19)。

 もちろん、彼は渡航中も、日本の礼儀作法を固持していました。

 幕府は、使節一行の渡航に際し、締盟六か国の国王や首相、政府高官に送る土産として、大量の漆器や甲冑を用意していましたが、ただ立ち寄っただけのマルタに、家老クラスの武士が着用する甲冑を3つも贈呈したのは、ひょっとしたら、副使の松平康直の意向が強く働いていたのかもしれません。

 さて、ヴァレッタで三泊すると、一行は再び、ヒマラヤ号に乗って、フランスに入りました。しばらく滞在すると、今度はフランスの軍艦「コルス」に乗って、午前十時ごろイギリスに向かいます。ドーバーに着いたのが、1862年4月30日(文久2年4月2日)の午後1時ごろでした。

■使節団が見た、第2回ロンドン万博

 翌1862年5月1日、ロンドンでは第2回万国博覧会が、サウスケンジントンにある王立園芸協会庭園の隣接地で開幕しました。この開会式には使節団の三使も招かれています。もちろん、使節団の面々も、ロンドン滞在中になんども万博会場に足を運びました。

 万博会場を訪れた一行の姿を描いた図が残されています。

(※ https://www.ndl.go.jp/exposition/data/R/086r.html

 羽織袴に刀を差し、物珍しそうにあちこち見てまわる使節一行の様子が描かれています。実際、見るもの、聞くものが目新しく、驚きに耐えなかったのでしょう。会場には、世界各国の物産が一堂に集められ、展示されていました。

 出品された品目は、金銀銅鉄製品、農工業製品、織物、蒸気機関、船舶、浮きドッグの模型、美術工芸品、銃砲など百種類を超えていました。使節団にとっては見たこともないものばかりでした。その会場の一角に、駐日公使オールコックが持ち込んだ日本の物産が展示されていました。

 使節団の一人、高島祐啓は次のように記しています。

 「日本ノ品ハ外国未曽有ノ奇物多トイヘトモ、惜ムラクハ彼ノ地ニ渡ル所皆下等ノ品多クシテ、各国ノ下ニ出シタルハ残念ナリト云フヘシ」(※ 前掲。p.78)

 日本から出品されたものには、ガラクタが多く、見るに耐えなかったというのです。高島がガラクタと認識していたのは、提灯、傘、木枕、油衣、蓑笠、草履などの日用品でした。英国人であるオールコックは、そのような日用品にも、展示価値があると判断したのでしょう。

■使節団は、第2回ロンドン万博で何を見たか?

 イギリスはこの頃、カナダ、オーストラリア、ジャマイカ、エジプト、南アフリカ、インドやその周辺にまで勢力圏を拡大し、広大な資源を有する植民地帝国を形成していました。目論んでいたのは、技術格差に基づく交易による世界制覇でした。

 当時、イギリス産の工業製品を、インドの綿花・アヘン、中国の茶、絹織物などと取引し、暴利をむさぼるという形で各地に進出していました。自由貿易を掲げて、取引を行い、イギリスの権益を最大化していくという方法です。

 たとえば、中国に対しては、1840年にアヘン戦争を起こして清朝を屈服させ、香港を獲得しました。さらに、太平天国の乱に乗じて、アロー戦争をしかけ、1860年に北京条約によって開港を増やし、権益を拡大しました。

 このような帝国主義的手法によって、イギリスは世界各地に進出し、勢力圏を拡大させていたのです。いち早く産業革命を終えたイギリスならではの優位性によるものでした。イギリスの手法を学んだ欧米列強が引き続き、アジアに進出してきていました。

 七つの海を支配し、大英帝国を築き上げたイギリスは、日本との交易を求め、鎖国下の日本を何度か訪れていました。使節一行がマルタに立ち寄ることになったのも、実は、幕末の混乱に乗じて列強と結ばされた条約の修正をめぐる交渉のためでした。

 そして、使節団の欧州渡航の手配をしたのが、初代イギリス駐日公使のオールコック(Sir John Rutherford Alcock KCB、1809 – 1897)でした。幕府の窮地を見て取った彼は、ヨーロッパ締盟国に、開港開市延期についての親書を送り、合わせて使節団を派遣する旨を伝達すればどうかと幕府に提案しました。

 この提案が受け入れられると、彼は、フランスをはじめ、交渉国とのスケジュール調整をし、渡航費用、滞在費などの分担交渉なども行いました。もちろん、ヨーロッパまでの航路も、香港、シンガポール、インド、エジプト、マルタといった具合に、すべて当時のイギリス領を経由したものでした。

 使節団は、欧州渡航の行程で、イギリスの政治的力を見せつけられたでしょうし、ロンドン万博会場では、経済力の基礎となった技術力を見せつけられていたことでしょう。会場には蒸気機関、銃砲、浮きドッグの模型などが展示されていました。帝国主義時代を支え、産業化社会を進展させた技術の一端が披露されていたのです。

 翻って、「大阪、関西万博2025」をみれば、「いのち輝く未来社会のデザイン」という総合テーマの下、披露されているのは、ロボット技術であり、生命技術、リサイクルシステムであり、自然エネルギー、等々です。

 これらの技術がはたして、「いのち輝く未来社会」を約束してくれるものなのかどうか・・・。実際、ユスリカの大量発生では、万博会場設営のために夢洲の生態系が破壊されたことが明らかになりました。

 新規技術の導入に際しては、技術単体の機能や効能を見るだけではなく、技術相互の影響や累積効果、間接的な影響等を見ていく必要があるでしょう。AIが一般化する時代の到来を迎え、これまではともすれば、なおざりにされてきた、総合的、全体的な観点から、技術を検証していく必要が高まってきていると思います。

(2025/7/1 香取淳子)

「大阪、関西万博2025」③:生態系を壊されたユスリカ、逆襲か?

■万博会場で発生した大量のユスリカ

 万博会場で大量の虫が発生していることが、開幕一か月後あたりから、SNSでさかんに取り上げられるようになりました。万博協会によると、5月14日頃から大量に確認され始めたといいます。

 SNSでの騒動に呼応して、新聞やテレビでも取り上げられるようになりました。たとえば、大阪のテレビ局MBSは5月22日、ユスリカの飛来について、次のように伝えています。

こちら → https://youtu.be/Oqytv2HySGE

(※ 5月22日MBSニュースより。CMはスキップするか、削除して視聴してください)

 番組では、大屋根リングにびっしりと張り付いている大量の虫が映し出されます。これらはユスリカという虫で、蚊のようにヒトの血を吸ったり病気を媒介したりすることはないと説明されていました。害がないとはいえ、決して気持ちのいいものではありません。


(※ MBSニュース映像より)

 この虫が、会場のいたるところで確認されているというのです。次いで、ユスリカの死骸がたくさん落ちている場所が映し出され、大群が飛来し、空を覆っている写真も示されました。


(※ MBSニュース映像より)

 これは暗くなり始めたころの写真ですが、まだ明るい時間帯でも、ユスリカは飛来してきているようでした。

 三人の女性がウチワや扇子で虫を追い払いながら、大屋根リングを歩いている様子が映し出されます。

 レポーターが女性にインタビューすると、いかにも関西人らしく、「虫も、万博見に来たんかなって、言ってるんですけど」と笑顔で答えていましたが、不快感がなかったとはいえないでしょう。

 深刻なのは、会場内の飲食店です。店長の話では、大量のユスリカが店内に入り込んで床に落ち、それを来客が踏むので床が汚れて、掃除が大変だというのです。客の印象も悪くなるでしょうし、場合によっては虫が食べ物に落ちることもあるでしょう。店舗にとっては衛生管理上のコストも嵩みます。

 ユスリカの大量飛来が発覚したのがゴールデン明けから5月半ばぐらいでした。以後、発見されるたびに、万博協会には報告されているはずですが、万博協会ははたして、どのような対応をしてきたのでしょうか。

■万博協会の対応

 万博協会は26日、発生を抑えるための対策本部(本部長・石毛博行事務総長)を設置したと発表しました。同日、開催された1回目の会合で、高科淳・副事務総長は、これまで薬剤を中心とした対策を行ってきたが、ユスリカの会場への大量飛来を抑えることができていないと説明しています。

 万博協会は、当初、薬剤を撒けば、何とかなるだろうと思っていたのでしょう。ところが、いっこうに効かず、かえって増えているような状態だったのです。高科氏は今後、「環境への影響を考慮しながら、大阪府や大阪市と協力し、全力かつ迅速に対応を続けていく」と述べています。

 その後も、ユスリカの飛来は止む気配を見せませんでした。

 おそらく、来場者や会場内の施設や店舗関係者、スタッフなどから、万博協会への問い合わせが殺到したのでしょう。

 万博協会は2025年6月2日、「大阪・関西万博会場におけるユスリカの大量飛来についての現状と対策状況」というタイトルのお知らせを万博HP上に掲載しています。(※ https://www.expo2025.or.jp/news/news-20250527-02/

 万博HP上に掲載されたとはいえ、新しい情報はなく、これまで報道されてきたことを、整理しただけのような内容でした。

 万博協会は、複数の事業者の協力を得て、調査を実施した結果、次のように報告しています。

①会場内に大量飛来しているのは、ユスリカ科の一種であるシオユスリカであること、

②シオユスリカは淡水と海水が混じる汽水域で発生しており、発生源は、ウォータープラザ及びつながりの海であること、

③夕方から夜にかけての時間帯で大量発生し、主な飛来場所は、会場南側の大屋根リングの上(スカイウォーク)や、東西の水辺エリアであるが、会場の広い範囲でも確認されている、等々。

 まず、大量発生している虫を特定し、その発生源を明らかにしたうえで、主な飛来場所と飛来時間帯を報告しています。次いで、ユスリカ対策として、雨水桝等には、ユスリカの成長抑制剤を散布したこと、協会施設には、忌避剤による侵入防止策、清掃、消毒を実施し、営業店舗等には、忌避剤を使用した侵入対策、清掃、消毒を支援してきたこと、等を説明しています。

 興味深いのは、発生源と思われるウォータープラザやつながりの海には、当初から成長抑制剤を投入しておらず、これまでは成長抑制剤を撒いてきた雨水桝等には、今後もそうするのかどうかの言及がなかったことです。

 このことからは、万博協会は当初、手っ取り早く駆除できる薬剤に飛びついたものの、その後、薬剤を使用することに慎重な姿勢を見せ始めたことがわかります。おそらく、薬剤をしばらく使ってみても、効果がなかったことが影響しているのでしょう。あるいは、薬剤散布による人体や環境への影響を懸念したからかもしれません。

 万博協会の対応の微妙な変化については思い当たる節があります。

■薬剤に害はないのか?

 万博公式サイトに、「ユスリカ対策のために使用している成長抑制剤とは何ですか。人体・環境に影響はないですか」という質問が掲載されていました(※ 大阪、関西万博公式サイト)。

 ユスリカの大量発生以来、このような内容の質問が数多く、万博協会に寄せられていたからでしょう。これに対する万博協会の回答は、次のようなものでした。

①これまで雨水桝に、ユスリカの幼虫が羽化して飛翔することを防ぐ目的で、成長抑制剤を投入してきたが、人体が触れる場所には投入していない、

②成長抑制剤は、安全性が確認された市販品を使っており、人体・環境に悪影響がないように、用法・用量を守って投入している、等々。

 気になるのは、回答文に、「人体が触れる場所には投入していない」とか、「人体・環境に悪影響がないように、用法・用量を守って投入」などの表現がみられることです。いずれも薬剤使用による人体への影響を否定しようとするものであり、万博協会の防御の姿勢を垣間見ることができます。

 どのような薬剤を使用するにせよ、生物を駆除する薬剤には、人体や環境になんらかの影響があると考えるのが自然です。大量に飛来してくるユスリカを駆除するには、相当の量が必要になるでしょう。空中に散布するとなれば、当然のことながら、人体や自然への悪影響も考えられます。

 そのせいか、万博協会はHP上ではどの薬剤を使っているかを明らかにせず、ただ、市販の製品を使用法、使用量を守って撒いていると説明しているだけでした。そして、どういうわけか、この時点で万博協会は、なぜユスリカが大量に発生したのかについては言及していません。

■夢洲は生物多様性ホットスポット

 夢洲でのユスリカ発生は、実は、専門家から4年前に指摘されていました。

 夢洲は、1977年に埋め立て免許が取得された、埋め立て処分場です。埋め立てている間に、湿地や砂礫地ができ、いつの間にか、コアジサシやシギ・チドリ類など、貴重な鳥の生息場所となっていました。さまざまな生物が暮らすようになっており、多様な生態系が生まれてきていました。その結果、夢洲は2014年に、大阪の生物多様性ホットスポットのAランクに指定されていたのです。


(※ https://www.pref.osaka.lg.jp/documents/20316/guide20book20compact.pdf

 生物多様性ホットスポットとは、地球規模での生物多様性が高いにもかかわらず、人類による破壊の危機に瀕している地域のことを指します(※ Wikipedia)。

 大阪湾沿岸の自然は、開発によって近世から現代にいたるまで、ずっと失われ続けてきました。その自然が、わずかながら夢洲で再生し、命あふれる生物多様性のホットスポットになっていたのです。埋立地の夢洲で、数多くの生命を支えていたのが、塩性湿地とヨシ原でした。

 ところが、2018年11月23日、パリで開催された博覧会国際事務局(BIE)の総会で、2025年万博の開催地として大阪が選ばれてしまいました。

 以来、野鳥王国、夢洲の運命が激変したのです。

■なぜ、夢洲が万博会場に選ばれたのか

 当初の会場案に、夢洲は含まれていませんでした。たとえば、2016年度に大阪府が民間コンサルに委託した「国際博覧会大作誘致に係る基本コンセプト(案)策定業務」の発注段階では、夢洲は検討対象ではなかったのです。

 ところが、コンサル業者が2016年8月末に府に納めた「国際博覧会大作誘致に係る基本コンセプト(案)」では、万博会場の予定地に「夢洲」が追加されていました。(※ http://hunter-investigate.jp/news/2017/04/-20252627-28-28.html

 なぜ、夢洲が追加されるに至ったのか、その経緯を簡単に振り返ってみましょう。

 夢洲は、2014年の調査では否定され、2015年の調査では、対象地にも入っていませんでした。突如、候補地に追加されたことが明らかになったのは、2016年7月です。

 7月22日に開かれた検討会議の第1回整備等部会の議事録に、興味深いやり取りが記録されています。委員から、なぜ、夢洲が候補地に追加されたのかと質問された事務局が、当時の松井一郎大阪府知事が独断で夢洲を万博予定地に追加したと回答していたのです(※ 前掲。URL)。

 その2か月ほど前の5月21日、松井知事(当時)は、菅義偉官房長官(当時)と東京で非公式に会談し、夢洲を会場に万博を開催し、終了後は統合型リゾート(IR)として利活用したいという方針を示し、誘致への協力を要請していました(※ 2016年5月23日付産経新聞)。

 大阪府知事の松井氏は5月21日に非公式に官房長官の菅氏と会談し、夢洲を会場とするプランを示し、万博誘致の要請をしていたのです。つまり、5月21日までに、夢洲を会場にするというプランは出来上がっていたことになります。

 2016年12月、経産省は、経済界代表や各界の有識者、地方自治体の代表者等で構成される「2025年国際博覧会検討会」を設置しました。そこで、『「2025日本万国博覧会」基本構想(府案)』(大阪府、2016年11月)に基づいて検討を重ね、パブリックコメントを踏まえて報告書をまとめました。そこには、開催場所として、「大阪府大阪市夢洲地区」と明記されていました。

(※ https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11646345/www.meti.go.jp/press/2017/04/20170407004/20170407004.html

 夢洲は2016年12月にはすでに、開催場所として政財界から承認され、確定していたのです。夢洲が、大阪の生物多様性ホットスポットのAランクに選定されてからわずか2年しか経っていませんでした。

 基本構想を策定した大阪府や大阪市は、そのことを知っていたはずですが、それには触れず、夢洲を会場に選んでいたことになります。

 ちなみに、夢洲が生物多様性ホットスポットAランクに指定されていることは、この時の検討会では知らされていなかったといいます。(※ https://www.ben54.jp/news/2334

 一連の経緯をみると、大阪府の万博用地選定の過程はきわめて不透明なものだったといわざるをえません。見えてくるのは、万博後の土地をIRとして利活用という大阪府の思惑です。

 万博は一過性の祭典ですが、地元にとって重要なのは、跡地を利用した地域開発、地域振興であり、新規事業の立ち上げなどです。継続的に経済効果が見込まれる事業企画こそが必要でした。

 大阪府と市は、万博開催を起爆剤に、大阪をはじめ関西圏の経済力、技術力、都市としての魅力を飛躍的に向上させることを目指しました。万博後の展開を重視すれば、開催場所は夢洲でなければならなかったのです。

 2018年11月23日、パリで開催された第164回博覧会国際事務局(BIE)総会で、2025年国際博覧会が大阪で開催されることが決定しました。この決定を受けて、経済界が動き始めました。

■スーパーシティ構想の一環としての夢洲

 2020年12月、内閣府がスーパーシティ型国家戦略特別区域の指定に関する公募を行ったところ、大阪府と市はこれに応募しました。

 大阪府と市は、2つのグリーンフィールド(夢洲、うめきた2期)で、3つのプロジェクト(夢洲コンストラクション、大阪・関西万博、うめきた2期)を立ち上げ、先端的サービスや規制改革を行うことを提案したのです。

 この提案は、国家戦略特区諮問会議での審議を経て、2022年4月、政令閣議決定により、大阪市域が区域指定されました。

(※ https://www.city.osaka.lg.jp/ictsenryakushitsu/page/0000592767.html

 これら3つのプロジェクトには、経済界が深く関わっています。

 たとえば、関西経済連合会は、2022年8月26日、「夢洲コンストラクション」から始まる関経連の夢洲まちづくりへの取り組み」を発表しました。これによると、夢洲はスーパーシティ構想の一貫として構想されていました。


(※ 『「夢洲コンストラクション」から始まる関経連の夢洲まちづくりへの取り組み』、p.12、関西経済連合会、2022年8月26日)

 このプロジェクトでは、夢洲は未来社会の実験場として、空飛ぶクルマの社会実装、自動運転での万博アクセス、未来医療の体験などが構想されていました。確かに、これらを実現させるには、広大な空き地が不可欠でした。

 万博会場に選定された夢洲は、まず、万博会場として活用し、万博が終われば、IR、上質なリゾート地といった具合に開発され、スーパーシティとしての未来が構想されていたのです。

(※ 前掲、p.14)

 未来社会を支える技術は、「空飛ぶクルマ」、「自動運転での万博アクセス」、「未来医療の体験」などを通して、万博会場で経験できるようにされていました。閉幕後はそのまま、実社会で利用できるように計画されていたのです。

 万博会場は、未来技術の体験の場であり、シミュレーションの場であり、社会実装に向けた場でもあったのです。

 当時、すでに夢洲とコスモスクエアを結ぶ「夢咲トンネル」に、鉄道部分が造られていました。比較的短期間で、鉄道を通すことも可能だったのです。電車が延伸すれば、夢洲から大阪都心までの所要時間は約20分になります。

 都心に近く、しかも、広大な空き地がある夢洲は、万博会場として最適なばかりか、閉幕後のIRにも恰好の地でした。

 経済界と行政は一丸となって、夢洲を未来社会のデザインで造り替えようとしていました。自然が時間をかけて育み、多様な生物が棲息する環境を、未来技術で覆い尽くそうとしていたとしていたのです。

 もちろん、それを懸念する声はありました。

 実は、2018年11月19日、大阪環境保全協会は、大阪府と大阪市等に対し、要望書を提出していました。万博が大阪で開催されることが決定される直前のことです。

■大阪府と市に対する保全協会からの要望

 大阪自然環境保全協会会長の夏原由博氏は、2018年11月19日、大阪府知事(松井一郎)、大阪市長(吉村洋文)、大阪府議会議長(岩木均)、大阪市会議長 (角谷庄一)宛てに、「夢洲の自然環境保全に関する要望及び質問書」を提出しました。

こちら → https://www.nature.or.jp/action/teigen/yumeshima.html

 この要望書に対し、大阪府からは2018年12月26日にメールで回答があり、大阪市からは2018年12月20日に添付ファイルで回答が寄せられました。いずれも、夢洲が生物多様性ホットスポットとして選定されていること、そして、その重要性については認識していると回答しています。

 さらに、両者は、万博開催事業が環境アセスメントの対象であることを踏まえ、生きもの保全対策に関する手続きをするのは万博協会だという点でも、共通の認識を示していました。

 もちろん、府は、万博協会が適切に手続きをするよう連携すると表明し、市も、手続き中に必要な調査を行い、影響があれば抑制すると回答していました。とはいえ、両者とも、万博協会が手続きの主体だと主張しており、半ば責任逃れのようにも思える回答でした。

 これでは、夢洲の自然環境が破壊されかねないと危機感を募らせたのでしょう。

 大阪自然環境保全協会は、2019年初から夢洲の生物調査を開始しました。調査を実施した保全協会の会員たちは、四季折々の生物たちの姿を詳細に捉え、データとして蓄積していきました。

 調査をした結果、さまざまなことがわかってきました。

■多様な生命を育んできた夢洲の葦原や水辺

 保全協会の会員の一人は、「今の夢洲は虫の王国です。多くのバッタ、多くのトンボ、多くのチョウ、そして“恐ろしいほどの数のユスリカ”がいます。それらが多くの生きものの命を繋いでいっています」と報告しています。

 実は、万博の開幕前から、夢洲にはすでに大量のユスリカがいたのです。

 ユスリカがいるからこそ、それを餌にするバッタなどの昆虫が生息し、昆虫を餌にするさまざまな鳥が生命を育むことができていました。湿地にいたユスリカが、生態系の底辺を支え、夢洲を多様な生物が生息する楽園にしていたことがわかりました。

 保全協会の会員は、調査をしていた時の経験を次のように記しています。

「私たちが夢洲をみてきた期間はわずか2,3年ですが、どれだけ大阪湾の自然の復活力が力強いものか、そしてそこに生きようとする命のなんとたくましいことか、人間の想定を超えるそのエネルギーに感動すら覚えました」

(※ https://www.nature.or.jp/action/yumeshimamirai/photobook/landscape.html

 多様な生物がこの夢洲の地で生息し、つながり合いながら、生命を育んでいました。調査していた会員たちは、そのことに感動し、四季折々の動植物の姿を多数、撮影し、記録に残していました。

 当時の写真を見ると、確かに、空き地だった場所が、季節が変わるとあっという間に草原に変わっていくことがわかります。草原にヒバリが巣材を運んでいるかと思えば、セッカがそれを警戒しています。

 湿地にはヨシが進出して生い茂り、夏になると、そこを爽やかな風が吹き渡ります。時には、カエルの大合唱をバックに、トンボや若ツバメが草原を飛び交っていました。昆虫や小動物、鳥たちなどが共に、草原で生命を輝かせていたのです。

 2019年7月初旬には、次のような光景が見られました。

(※ https://www.nature.or.jp/action/yumeshimamirai/photobook/landscape.html)

 この写真について、撮影者は次のように記しています。

 「7月初旬、2区の湿地に3000羽を超えるコアジサシが休んでいました。そして時折、群れになって飛び上がり、湿地の上を旋回します。おそらく渡りの前の大集合なのでしょう。夢洲で今年生まれた幼鳥もこの中に混ざって、その後すぐ旅立ちました」(※ 前掲URL)

 夢洲で撮影された写真を見ると、さまざまな生き物がのびのびと生命を育んでいる様子が伝わってきます。鳥たちは葦原で休み、餌をついばみ、繁殖していきます。夢洲には生き物たちの豊かな世界が広がっていました。

■工事の進行に伴い、草原の消滅

 まず、2019年7月26日に撮影された夢洲の草原の姿をご紹介しましょう。

(※ https://www.nature.or.jp/action/yumeshimamirai/photobook/prolog.html

 青々とした草原の中で、多数の白い鳥が行き交っています。夢洲はまさに鳥たちの楽園でした。草原には、鳥たちの餌となる昆虫や小動物が数多く生息していたからです。ところが、その草原が、万博の会場用地として造成され、土がむき出しになってくると、もはや昆虫や小動物が生きられる環境ではなくなってしまいました。もちろん、鳥たちもまた、棲むことができなくなってしまいました。

 次に、同じ場所で、2021年8月22日に撮影された写真をご紹介しましょう。

(※ 前掲URL)

 土砂の山の上に、鳥の姿が見えます。撮影者によると、ここにいたのは、チョウゲンボウの家族なのだそうです。ポツンと佇んでいる様子を見ると、草原が失われ、もはや棲めなくなったことを嘆き悲しんでいるようにも思えます。

 工事が始まってから、多様な生き物の楽園だった夢洲が、一転して、生き物の棲めない場所になっていったのです。

■万博協会による「環境影響評価準備書」に対する意見書

 2021年10月1日、大阪市は、万博協会が作成した「2025年日本国際博覧会環境影響評価準備書」(2021年9月)を公開し、縦覧を開始しました。

こちら → https://www.city.osaka.lg.jp/kankyo/page/0000544704.html

 大阪自然環境保全協会にとって、この準備書はとうてい納得できるものではありませんでした。事前に要望書を出していたにもかかわらず、万博協会の準備書は、環境への配慮が欠けたものになっていたのです。

(※ https://www.nature.or.jp/assets/files/ACTION/yumeshima/20211105expo2025_iken.pdf

 たとえば、準備書99ページで示された「表3.1(5)事業計画に反映した環境配慮の内容」について、「配慮のための前提が満たされていない」とし、「重要種への影響はほとんど回避・低減できていない」と、保全協会は指摘しています。

 さらに、「生物多様性ホットスポットとしての夢洲は、干潟・代替裸地として選定されているが、準備書ではそうした環境の保全・再生についての具体的な言及はない」と批判しています。

 保全協会は、大阪市が2021年12月11日に開催した「環境影響評価準備書に関する公聴会」に出席し、夢洲には多様な生き物が生息していることを説明し、環境保全を求めました。夢洲での調査結果を踏まえての要望でした。

 もちろん、環境保全協会は意見書を提出しました。さらには、「生き物たちの自然環境を守るために、ご一緒に環境影響評価準備書を読み解き、大阪市へ意見を送りましょう」と市民にも広く呼びかけました。

 再び、「準備書」の99ページを見ると、「配慮の内容」として、具体的に、「会場内にはグリーンワールドやウォーターワールドを整備し、自然環境の整備に配慮する」と書かれ、「グリーンワールド等の整備における植栽樹種については、在来種を中心に選定することにより生態系ネットワークの維持・形成に配慮し、外来種の混入防止に努める」と記されています。

 確かに、植物の生態系については具体的に書かれています。ところが、動物については具体的な内容は何も書かれていないのです。つまり、ウォーターワールドについてはなんら言及されていなかったといえます。

 興味深いのは、この「準備書」に対する大阪市長の意見です。

 2024年1月29日、「2025年日本国際博覧会環境影響評価準備書に関する市長意見」が公開されました。

 大阪市長は、「夢洲では多様な鳥類が確認されていることから、専門家等の意見を聴取しながら、工事着手までにこれら鳥類の生息・生育環境に配慮した整備内容やスケジュール等のロードマップを作成し、湿地や草地、砂れき地等の多様な環境を保全・創出すること」と表明していたのです。(※ https://www.city.osaka.lg.jp/kankyo/cmsfiles/contents/0000556/556173/iken.pdf

 大阪市長の意見には、具体性があります。とくに、「専門家等の意見を聴取しながら」、「工事着手までに・・・、整備内容やスケジュール等のトードマップを作成し」、「湿地や草地、砂礫地等の多様な環境を保全・創出すること」といった具合に、環境保全のためのポイントをついた見解が述べられています。

 動物の生態系を支える基礎部分について、ポイントを押さえて書かれています。「準備書」に欠けている点を補完する内容でした。

 大阪市長は、大阪市環境影響評価条例の規定に基づき、2022年2月9日付けで、「2025年日本国際博覧会環境影響評価準備書」について、事業者である万博協会に対する意見を述べていることがわかります。当時の大阪市長は松井一郎氏でした。

 一方、万博協会は、「準備書」で動物の生態系について言及しなかったばかりか、実際には、当時の大阪市長の補完的な意見すら無視していました。一過性の祭典を華麗に遂行し、無事に終わらせることを優先させたのです。

 その結果、万博協会は、「つながりの海」を造成するために、浅瀬を無くし、湿地もなくしてしまいました。

 万博協会にとって、「ウォータープラザ」や「つながりの海」は、大屋根リングとともに、万博会場をショーアップするための装置でした。その目的を達成するために、造成工事の過程で、水辺の環境保全を犠牲にしてしまいました。万博会場のデザインやショーアップ効果を優先させたからにほかなりません。

■「ウォータープラザ」と「つながりの海」に求められたショーアップ効果

 6月2日に記者会見した高科淳副事務総長は、ユスリカの発生源は海水が入る「ウォータープラザ」と「つながりの海」だと説明しました。

(※ 産経新聞、2025年6月4日)

 「ウォータープラザ」では水上ショーが行われ、「つながりの海」ではドローンショーが行われています。毎晩、夜空を舞台に、華麗な光のショーが、水辺で楽しめるように企画されていたのです。

 ドローンショーを見てみましょう。

こちら → https://youtu.be/br3YZUnuM2c

(※ CMはスキップするか、削除してください)

 色とりどりの光は、夜空を輝かせるだけではなく、水面をも煌めかせて、観客を幻想的な世界に引き込みます。地上からは、夜空に輝くショーを見ることができ、大屋根リングの上からは、間近でショーを見ることができるばかりか、見下ろせば、水面に反射した光の乱舞を見ることができます。

 夜空にライトアップされたショーは、水面に映し出されることによって、煌めきを倍加させていました。このようなショーアップ効果を狙って作られたのが、ウォータープラザであり、つながりの海でした。

■ユスリカが問う、「いのち輝く未来社会のデザイン」とは?

 会場に大量に飛来してきているのは、シオユスリカだと万博協会が発表しました。調べてみると、シオユスリカは、海水と淡水が混ざる汽水域や潮だまりなど浅い海水に発生し、昼間は植栽の中や、風があまり当たらない場所などに潜んでいるそうです。夕方になると、「群飛」と呼ばれる行動をとり、オスの成虫が集団で「蚊柱」を形成します。そこに突っ込んでくるメスとの出会いを待って、交尾に成功して卵を産めば、すぐに死んでしまうというのです(※ https://note.com/kincho_jp/n/n9c53051ca48e)。

 なぜ、ユスリカが大量に発生したかというと、万博会場を造成するため、多様な生き物が棲んでいた湿地や草地を壊してしまったからでした。

 もともとごみ処分場だった夢洲周辺の海水は、有機物を多く含み、滋味豊かです。ユスリカは、水中や湿った土の中から卵から幼虫になりますから、造成工事にもめげずに繁殖していったのでしょう。

 ところが、ユスリカを餌にしていた昆虫や鳥などは、造成工事によって棲み処を奪われ、駆逐されてしまいました。天敵がいなくなったユスリカが大量に発生し、会場のあちこちに蚊柱が立つのは当然の成り行きだったのです。

 「大阪、関西万博2025」は、「いのち輝く未来社会のデザイン」をテーマに掲げ、開催されています。ところが、実際には、「いのち輝く」自然の生態系を破壊し、その代わりに、ヒトの生命維持のための最新技術を展示したにすぎませんでした。ユスリカの大量発生は、まさに、「いのち輝く未来社会のデザイン」への逆襲だといえるでしょう。

(2025/6/22 香取淳子)

「大阪・関西万博2025」②:宮田裕章パビリオンとは?

■さまざまなパビリオン

 「大阪・関西万博2025」には、さまざまなパビリオンが建ち並び、来場者の目を楽しませてくれています。海外パビリオンは、斬新で個性的な建物が51、建造されています。外観には、それぞれの国の文化や伝統、特産や主張などが反映されており、興味津々です。

こちら →https://www.expo2025.or.jp/official-participant/

 一方、国内パビリオンとしては、国や地方自治体、組織団体のパビリオンが4,民間パビリオンが13、設置されています。

こちら →https://www.expo2025.or.jp/domestic-pv/

 それ以外に今回は、個人がプロデュースした、シグネチャーパビリオンが8、設置されています。各界で活躍する8人のプロデューサーが企画したテーマ性の強いパビリオンです。

こちら →https://www.expo2025.or.jp/project/

 プロデューサーに選ばれたのは、福岡 伸一(生物学者、青山学院大学教授)、河森 正治(アニメーション監督、メカニックデザイナー)、河瀨 直美(映画作家)、小山 薫堂(放送作家)、石黒 浩(大阪大学教授)、中島 さち子(音楽家、数学研究者、STEAM教育家)、落合 陽一(メディアアーティスト)、宮田 裕章(慶応義塾大学教授)です。

 これら8人のプロデューサーたちが、どういう基準で選ばれたのかはわかりませんが、少なくとも、「いのち輝く未来社会のデザイン」という万博のテーマに沿って、選出されたのは確かです。

 生物学、アニメ、映画、放送のクリエーター、ロボット工学、教育学、メディア・テクノロジー、データサイエンスなどを専門とする方々です。

 まずは、万博のテーマと最も関係の深そうな医学部教授である宮田裕章パビリオンを取り上げ、その内容を見ていくことにしたいと思います。宮田氏の専門はデータサイエンスです。

■宮田裕章パビリオン

 独創性を競い合うように目立つパビリオンが建ち並ぶ中で、ひときわユニークな建物が宮田裕章パビリオンでした。

 建物といっていいのかどうかわかりません。何本かの銀色の柱に囲まれ、雲の形をした庇のようなものがあります。ここに「Better Co-Being」と書かれているので、かろうじてこれが宮田パビリオンだということがわかる程度で、建物らしいものは何もありません。ただ、木立に囲まれて、建造物が建っているだけです。


(※ Better Co-Being 公式サイト)

 見てのとおり、屋根もなければ、天井もなく、壁もありません。内と外とを分ける隔てになるようなものが一切ないのです。これでは雨風をしのぐことができず、太陽の陽射しをもろに浴びてしまいます。建物という概念から大きく逸脱したパビリオンでした。

 もっとも、これだけ見てもパビリオンの外観がよくわかりません。パビリオンの全体像がもっとわかるように、少し引いて見ました。


(※ Better Co-Being 公式サイト)

 素晴らしい晴天の下、影ができているのは、パビリオンの名が書かれた庇のようなものの下だけでした。引いて見ると、覆うものが何もない建造物だということがよくわかります。木々で囲まれた空間の中に、銀色の柱が何本か立ち、その周辺一帯を細かなグリッドが無数に覆っています。その線が細すぎて、空に溶け込んでしまっているように見えます。まさに建物というよりは戸外に設置された遊具でした。

 上から見ると、森を思わせるたくさんの木々で覆われた空間の中に、無数のグリッドで構築されたパビリオンがひっそりと佇んでいるのがわかります。グリッドの天井に相当する部分は一面、雲のようなもので覆われており、周囲の木々と一体化しています。上から見ると、なおのこと、森の一部でしかなく、これがパビリオンだとはとうてい思えません。

 自然と一体化している様子を可視化したのが宮田パビリオンでした。設計はSANAA、施工は大林組です。

 SANAAとは、建築家・妹島和世氏と建築家・西沢立衛氏によるユニットで、1995年に設立されました。これまで数多くの賞を受賞しており、主な受賞作品に、金沢21世紀美術館、ニューミュージアム(アメリカ)、ルーヴル・ランス(フランス)などがあります。

 公式サイトに掲載された、宮田氏、妹島和世氏、西沢立衛氏との対談を見ると、宮田氏はこれらの作品を見て、SANAAに設計を依頼しようと思ったようです。プロデューサー宮田裕章氏の思いを具現化したのが、この奇妙な建造物だったのです。

 それでは、意表を突くこのパビリオンがどのようにして生み出されたのか、三者対談を踏まえ、探ってみることにしたいと思います。

■万博史上初の境界のないパビリオン

 万博会場の中心に、「静けさの森」が設置されています。「いのち輝く未来社会のデザイン」 の象徴として、会場の真ん中に造られました。万博記念公園をはじめ、大阪府内の公園などから、将来間伐予定の樹木なども移植し、新たな生態系を構築しています。植えられた樹種は、アラカシ、 イロハモミジ 、 エゴノキ、クヌギ 、 コナラ、 ヤブツバキ等々です。


(※ https://forest-expo2025.jp/)

 広さは約 2.3ha、樹木本数は約 1,500 本、水景施設は池1ヶ所 / 水盤3ヶ所です。ここでは、「平和と人権」 「未来への文化共創」 「未来のコミュニティとモビリティ」「食と暮らしの未来」 「健康とウェルビーイング」 「学びと遊び」「地球の未来と生物多様性」 など7つのテーマで、アート体験やイベントが実施されます。

 「静けさの森」は、テーマ事業プロデューサー宮田裕章、会場デザインプロデューサーは大屋根リングをデザインした藤本壮介、ランドスケープデザインディレクターは忽那裕樹、アートディレクターの長谷川祐子らが手掛けました。喧騒から離れた新しい命が芽吹く静かな森の中で、”いのち”をテーマにした様々な体験を通し、来場者が地球や自分自身の”いのち”に思いを馳せることができる空間になっています。

 実は、宮田氏は、「静けさの森」プロジェクトにプロデューサーとして関わっていました。その関係もあったのでしょう、自身のパビリオンをこの森とつながるようなものにしたいと思ったそうです。というのも、森は再生可能な資源であり、多様な生態系を育む群体なので、「共に歩む」、「お互いがつながる」という万博コンセプトを的確にアピールできると思ったからでした。

 マップで確認すると、確かに、宮田パビリオンは、「静けさの森」のすぐ近くに設営されていました。


(※ 公益社団法人2025年日本国際博覧会協会)

 静けさの森とつながるようなイメージのパビリオンの建造を望み、宮田氏が設計を依頼したのが、妹島氏と西沢氏が運営するSANAAでした。

 宮田氏の思いを聞いた西沢氏は、「箱的なパビリオンが建っているのではなく、境界を超えるような建築、中と外がつながる空間」をイメージしました。一方、妹島氏は、「人が出たり入ったり、雨や風も入ったり、森みたいな建築、中と外がつながるような空間」をイメージしました。その結果、出来上がったのが、天井も壁もないパビリオンでした。

 妹島氏は、このパビリオンは人間が、「完全にはコントロールできない空間なので、天候の変化を感じながらインタラクティブに楽しめる場所になると面白い」といいます。そして、西沢氏は、「快適性は気候風土、地域性と一体のものなのです。私たちが古来心地良いと感じてきた快適性というのは、このような明るく風通しのよい、透明な空間だとストレートに表現することは重要」だといいます。

 両者は、宮田パビリオンの本質を的確に捉え、実現しました。

 天井もなく、壁もなく、人間が完全にコントロールできない空間だからこそ、天候が変化するたび、対応せざるをえません。このパビリオンでは、来場者は自然につながりあうようになっていくのです。そうなれば、人は本来、持っていたはずの感性を取り戻していくことにもなるでしょう。

 古来、私たちが自然とのかかわりの中で培ってきた,風土に根ざして培われてきた快適性についての感覚も、取り戻すことができるようになるにちがいありません。

 西沢氏は、「建築物は、空間を占拠するところがある」とし、「共有を空間的に表すことができれば、面白い」と語っています。

 そもそも建築物というものは、壁であれ、天井であれ、なにかしら囲いを作ることによって、成立します。つまり、囲われた空間を占拠することによって、建物になりえているのです。

 ところが、このパビリオンは、グリッドと柱だけで構成された建造物です。囲わず、隔てず、空間を占拠せず、建物とはいえないほど開放な造りになっています。建物の概念を否定するような建造物なので、必然的に内と外とがつながらざるをえません。

■縁側を連想させる空間

 確かに、宮田パビリオンは境界のない建築物でした。

(※ Better Co-Being 公式サイト)

 雲の広がる青空から陽光がグリッドを潜り抜けて射し込み、風がグリッドの中を吹き抜けていきます。明るい空に溶け込むパビリオンは、まるで巨大なジャングルジムのようにも見えます。

 この写真を見ていて、ふいに思い浮かんだのが、日本家屋に設えられた縁側です。日本家屋の特徴ともいえる縁側は、建物の床が板で造られるようになってから生み出されました。母屋の周囲に庇の間が造られるようになったのが、縁側の起源だといわれています。

 敷地に余裕がなければ設えることができないので、縁側が一般家屋に取り入れられるようになったのは、それほど古くはありません。大正時代になってようやく、庶民の家でも、庭に面した部屋に縁側が造られるようになりました。

 縁側は、庭に面して造られているので、移り変わる季節の情緒を感じるには最適の場所でした。四季折々の微妙な変化を捉え、繊細な日本文化を育むのに恰好の空間になっていたのです。

 西洋家屋にも「ウッドデッキ」、「ベランダ」、「テラス」、「ポーチ」、「バルコニー」など、縁側に似たようなものがあります。いずれも家屋に付随していますが、縁側のように家の内と外とが一体化したものではありません。あくまでも戸外の空間なのです。

 一方、縁側の場合、夜は雨戸で閉じられていますが、朝になって雨戸が明けると、陽光が射し込み、風が入り込み、家の内と外とが交流します。家の中と外とが一体化し、戸外の自然と直接、触れ合える空間になっています。

 縁側は家の中に造られているので、外と縁側の間に一つ、縁側と室内の間に一つ、戸や壁があります。だから、縁側部分に空気の層ができます。つまり、縁側は家の内と外との空気の緩衝地帯になっているのです。だからこそ、縁側が断熱材として機能し、夏は太陽の熱を和らげ、冬は寒さを遮断してくれるのです。

 もちろん、縁側で日向ぼっこをすることもできれば、縁側に腰かけ、近所の人とお茶を飲み、雑談をすることもできます。縁側は、人と自然、人と人とがつなげる空間になっているからこそ、憩いの場ともなり、社交の場にもなってきたのでしょう。

 縁側を思い起こしてから、このパビリオンを見返すと、人と自然が直接、かかわりあう戸外の空間だという点で、西洋家屋のウッドデッキやテラスに近いものといえます。

 それでは、このパビリオンのコンセプトはどのように設定されていたのでしょうか。

■パビリオンのコンセプトは?

 施工を担当したのは、大林組でした。次のような観点から、このパビリオンの施工に臨んだといいます。

 「屋根も壁もないパビリオン。その姿で、時代の転換点における、建築の役割を再定義したいと思いました。森との境界線を引くのではなく、森と溶け合い、響き合うパビリオン。パビリオンの中に立つ来場者一人ひとりが、まだ見ぬ響き合いの時代を思い描くことでしょう」(※ https://www.obayashi.co.jp/expo2025/detail/pavilion_04.html

 設計図を見たとき、大林組の担当者はどれほど驚いたことでしょう。とはいえ、このパビリオンの形態がどんなに意表を突くものだったとしても、受け入れようとはしていたようです。この形態を時代の転換点を示唆するものだと認識することによって、これを踏まえて、未来社会における建築の役割を再定義したいと述べています。

 大林組の担当者はおそらく、境界線を引かないことによって生み出される、周囲と溶け合い、響き合える空間に着目したのでしょう。このような空間は、未来の建築に求められる一つの要素だと直感したからかもしれません。

 たしかに、来場者がこのパビリオンに入ると、内と外とが一体化しているので、直接、自然に触れることになります。刻々と変化する自然環境に反応していくうちに、次第に、原始的な感覚を取り戻していくことでしょう。ちょっとした陽射しの変化、風の流れ、空気の湿り気の具合に合わせ、身体が自然に反応するようになります。

 このパビリオンの中では、人と自然が相互作用を繰り返し、つながりあっていきます。その時、同じ空間にいる人と人も同様です。相互作用を通して、人と自然、人と人がつながりあえる空間こそ、実は、未来社会で求められる建築の一つの要素かもしれないのです。

 プロデューサーの宮田氏は、「共につながり、共に生きる」ことが未来の可能性を広げる重要なキーワードになると考え、パビリオンを、「Better Co-Being」と名付けたといいます。

 Better Co-Beingは、「様々な地域で大切にされてきた考えや表現との間に共通点を見出し、異なるコミュニティ同士を共鳴させる側面も有する」という考え方だといいます。

 「静けさの森という空間的なつながりだけでなく、レオナルド・ダ・ヴィンチの芸術活動を振り返りながら、過去から紡がれる様々な理念や表現との共鳴も試みている」とし、コンセプトを踏まえたパビリオンでの体験が企画されています(※ Better Co-Being 公式サイト)。

■パビリオンでの体験

 パビリオン内では、来場者同士がつながり、響き合う中で共に未来を描くという体験が企画されています。来場者は、その日その時間にたまたま出会った一期一会のつながりに基づき、グループを組んで、3つのシークエンスからなる共鳴体験を巡りながら、共に未来に向かうという構成になっています。

 たとえば、シークエンス1では、ベルリン在住の現代美術家、塩田千春氏が、「言葉の丘」と名付けたインスタレーションを展示しています。パビリオン内の小高い丘が広がる空間に、張り巡られた赤い糸と、線で形作られた机と椅子が浮かび上がるといった仕掛けになっています。

 宙を舞う文字は、多様な言語でいくつかのテーマを表し、糸の揺れとともに広大なネットワークを形成します。赤い糸と文字が織りなす詩的な空間が、交流の可能性を可視化し、未来に向けた共生の問いを突きつけるという展開になっています。

 このインスタレーションを手がけた塩田千春は、糸や日常的なオブジェクトを使い、「記憶」、「存在と不在」、「つながり」などの概念を探究し続けてきたアーティストです。

 次に、シークエンス2では、「人と世界の共鳴」をテーマに、各地域で培われてきた自然や文化、そこに根ざす人々の暮らしと響き合う作品が提示されます。音声を軸にして展開されているのが、宮島達男氏のサウンド・インスタレーション作品、「Counter Voice Network – Expo 2025」です。

こちら → https://youtu.be/ZNaYWY7OS8Y

(※ CMはスキップするか、削除して視聴してください)

 ちょっとわかりにくいですが、ここでは、さまざまな言語を使って、異なるリズムで「9、8、7……、1」というカウントダウンが聞こえてきます。数字の中で、「0」を発せず、カウントダウンの合間に、時折、静寂が訪れます。そのたびに、来場者には“死”や“無”を想起させるという仕掛けになっています。

 音の発生源に近づくと、カウントダウンを続ける人々の名前と言語が表示され、また、関連するモチーフやストーリーがWEBアプリ上に立ち上がります。

 来場者の共鳴体験をサポートするのが、WEBアプリです。これは、インスタレーションの解説をする一方、来場者の体験や選択を万博のテーマに沿って分析、表現し、来場者に多様な価値観への気づきを促すものです。

 さて、シークエンス2のインスタレーションを手掛けたのが、現代美術家の宮島達男氏でした。この作品は音声に焦点が当てられています。多様な音声が重なるサウンドスケープを聴きながら、来場者がパビリオン内で眺める景色は、森と空の境目がなく、すべてが融合し、溶け合った風景だという構成です。

 来場者はカオスな状態に陥ることになります。このようなパビリオン内での体験を経ると、来場者は必然的に、思索的、内省的にならざるをえません。結果として、「人と自然」、「人と人のつながり」を捉え直すようになるという展開になっています。

 そして、シークエンス3は、「人と未来の共鳴」がテーマで、来場者同士がつながり、共に世界に向き合うことで、より良い未来が訪れることが提示されます。集った人々が世界とのつながりを感じながら、ともに虹を創るという体験が、このシークエンスの骨格となります。

 宮田裕章氏とクリエイティブチームEiM が制作したのが、インスタレーション作品で、タイトルは、「最大多様の最大幸福」です。

 「最大多数の最大幸福」という概念は、限られた資源の下、合理的な指針として、産業社会で長く機能してきました。ところが、デジタル技術が発達した現代では、一人ひとりの違いを尊重しながら豊かさを生み出す仕組みが可能になっています。そこで、最大多様の最大幸福が可能になっていることを示唆するために、この作品が提示されています。

 実は、このパビリオンには大きな仕掛けがあります。頭上のキャノピーに仕込んだノズルから散水し、人工の雨を降らせることができます。人工的に雨を降らせれば、晴れた日には虹ができるのです。

(※ Better Co-Being 公式サイト)

 そのため、高さ7mのキャノピーに沿って約400本の繊細なワイヤーが張られ、それぞれにサンキャッチャーが取り付けられています。これらは不均質の集合として、多様性の祝福を象徴しています。晴れた日には自然光を浴びて虹色の輝きが広がり、曇天や雨の日には霧と人工光のコントラストが幻想的な光景をつくり出します。

 さらに、来場者の動きによって、降り注ぐ雨も変化し、日中と夜とで異なる表情を見せます。来場者はこの空間で、異質のものが交わり合うことで、新たな可能性が生まれる様相を体感することができます。

 そして、エピローグです。ここでは先ほどご紹介したWEBアプリが活躍します。来場者の体験と、大林組が提供した現地の環境データを重ね合わせ、未来のイメージを五感で感じられる映像が体験として創出されます。一人ひとりの記憶や意思が響き合い、世界との繋がりが映し出されるのです。

 球体LEDの装置が中心に据えられ、15名の来場者がそれぞれの体験やインスピレーションを持ち寄ることで、未来のイメージが可視化されます。

 これらのイメージは、リアルタイムで収集される気象データや空間そのものの特性と結びつき、未来への対話を生み出します。つまり、共鳴の場が映像として提示されるのです。それがやがて、来場者それぞれが、自分と他者、そして世界とのつながりを再考する場となります。未来は他者や世界との結びつきの中にあり、その結びつきが織り成す多様な響きこそが、新たな時代を形づくる鍵となることを理解できるようになるというわけです。

 それでは、宮田氏はこのパビリオンを通して、何を訴えたかったのでしょうか。

■宮田氏が訴えたいことは何か

 宮田氏は公式サイトで、このパビリオンのコンセプトとして、次のように述べています。

 まず、「デジタル技術は人間の可能性を広げる一方で、深刻な分断と人権制限の手段にもなり得る存在」だと指摘し、「そのような課題を直視した先にこそ、デジタル技術による真の価値創造の可能性がある」との認識を示します。

 そして、「データの共有や多様なつながりの可視化は、人と人、社会と自然、現在と未来をつなぐ新たな回路を築きうる」とし、「デジタル技術を「共鳴」の力へと転じ、未来へと続く価値創造の基盤として再定義したい」と語ったうえで、「共鳴とは、単なる可視化や情報交換の域を超え、互いの行動や意志が折り重なることで新たな社会像を形作っていくプロセスを指す」と説明し、「監視や統制の道具としてではなく、人間を主体的に多様な可能性に接続し、未来を共創する力へと昇華する」とその目的を述べています。

 つまり、宮田氏が訴えたいのは、デジタル技術の負の側面を排除して、有効活用し、人々が主体的で多様な可能性を手に入れられる社会にしていきたいということなのでしょう。宮田氏は最後に、パビリオンで提示するのは、「具象的な未来の姿」ではなく、「本パビリオンでの体験を通して、問いを立てるものである」と結論づけています。

 こうしてみてくると、宮田氏が訴えたかったことは、シークエンス3で提示された「最大多様の最大幸福」に尽きるのではないかという気がします。

 実際、気候変動など地球規模の危機によって、人々の意識や行動、社会システムも大きく変容せざるをえなくなっています。その一方で、デジタル技術によってさまざまな可能性が見えてきました。ですから、宮田氏がデジタル技術を利活用し、これまでは不可能だった「最大多様の最大幸福」の実現を目指そうとするのは理解できます。

 ただ、パビリオンで来場者に提示された体験の内容が、「最大多様」とどう結びつくのか、理念と実際との乖離が大きいというように感じました。多様性をどのように捉えるのか、多様性の受容と幸福感とがどう結びつくのかという点も明瞭ではありませんでした。

 とはいえ、最新デジタル技術を未来社会のために、利活用していこうとするチャレンジ精神は素晴らしいと思いましたし、万博の開催意義の一つもおそらく、そこにあるのでしょう。

(2025/5/30 香取淳子)

「大阪・関西万博2025」①:「大屋根リング」は歴史に残るか?

■開幕とともに、「1万人の第九」

 4月13日、「大阪・関西万博2025」が開幕しました。開幕式には、天皇、皇后両陛下をはじめ、石破首相など政財界の重鎮が参加していました。改めて、この万博が国をあげてのイベントだということを感じさせられます。

 「大阪・関西万博2025」については、「開幕までに完成しない」、「大屋根リングの土手が崩れた」、「工事現場で爆発事故が起こった」、「参加表明国が続々と辞退している」、「チケットが売れていない」など、ネガティブなニュースばかりを目にしていました。

 挙句の果ては、「パビリオンの建設が間に合わず、開催中止」とまでいわれていましたから、私はすっかり興味をなくしてしまっていました。

 ところが、4月13日、開幕してみると、あいにくの雨の中、なんと14万人もの来場者が押し寄せたのです。初日でとくに印象的だったのが、「1万人の第九」です。来場する人々を歓迎するため、大屋根リングには1万人の人々がずらりと立ち並び、ベートーベンの第九を合唱したのです。圧巻でした。

 ベートーベンの交響曲第九番は、壮大なスケールと深い感動を提供する作品だといわれています。力強く始まる第1楽章から、第4楽章の「歓喜の歌」に至るまで、壮大な音楽が展開されます。

 万博で合唱された「歓喜の歌」の歌詞は、フリードリヒ・シラーの詩「歓喜に寄せて」に触発されて創られており、人類の普遍的な愛と喜びを讃えています。合唱を取り入れたという点で、第4楽章は、交響曲の伝統的な枠組みを超えた革新的な試みでした。

 44秒ほどの短い動画をご紹介しましょう。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=Vk-JuSIm8U0

(※ CMはスキップするか、削除して視聴してください)

 この「1万人の第九」には、日本人をはじめ、中国人や韓国人など、6歳から93歳までの1万263人が参加しました。開場時間の午前9時に合唱が始まり、ベートーベンの交響曲第九番第4楽章の「歓喜の歌」が、迫力ある歌声で会場全体に響きわたりました。

 指揮者は世界を舞台に活躍している佐渡裕氏で、「1万人で歌うのはすごい光景で、ベートーベンも驚いていると思います。とてもうまくいき、すごく誇りに思います」と語っていました。

 家族と共に参加した40代の女性は、「いろんな方向から歌声が聞こえてきて、すごい迫力でとても感動しました。この1万人に入れてもらってよかったです」と話していました。(※ https://www3.nhk.or.jp/news/html/20250413/k10014776581000.html

 こうして開幕とともに、圧倒的なスケール感のある大屋根リングの上で、「1万人の第九」コンサートが開催されたのです。参加者は、日本人を中心に、中国、韓国からの老若男女でした。大空に響き渡る合唱団の歌声は会場を覆い、来場者たちを感動させたことでしょう。大屋根リングのスケール感を活かした素晴らしい企画でした。

 リングの下は、積み木のようにも見える大屋根リングが、実は、1万人以上の重量に耐えられる強靭な木造建築だということがわかります。

 夜になれば、この大屋根リングを観客席に見立て、水上ショーが行われます。夜空を背景に展開される幻想的なショーです。

■水と空気のスペクタクルショー

 水上ショーを構想したのは、大阪に本社を置く飲料メーカーのサントリーと空調メーカーのダイキンです。サントリーの鳥居副社長は当時、記者会見の席上で、世界中から「大阪、関西万博2025」を見るためにやってくる来場者を驚かせ、楽しませ、後々まで記憶に残るようなイベントを提供したいと語っています。

 サントリーのHPを見ると、「水と生きるSUNTORY」がキャッチコピーになっていますし(https://www.suntory.co.jp/)、ダイキンのHPを開くと、まず、「空気で答えを出す」というメッセージが掲げられています(https://www.daikin.co.jp/)。水上ショーを企画した両社は、「水」と「空気」をコンセプトに事業展開する企業でした。

 両社は、水と空気があるからこそ、すべての生き物は存在することができ、進化を遂げてきたという思いから、「水、空気、光、炎、映像、音楽を駆使して、生命の物語を描く」というコンセプトで、水上ショーを企画しました。

 ショーのタイトルは「アオと夜の虹のパレード」です。

 タイトルにはショーの概要が示されています。「アオ」は、主人公の子どもの名前で、「水」と「空気」それぞれに共通するイメージの「青」にちなんで名付けられています。そして、「夜の虹」とは、空気中の水分量が豊富で、月が明るい夜にだけ見られる自然現象で、虹が出ている間は、生きものに生命力がみなぎる奇跡の時間とされています。(※ 「あまから手帖 online」)

 明るい月夜に虹がかかった時、生きものたちによる祝祭が開かれるといわれている島がありました。ある時、アオは夜の虹と出会います。そこでアオは多様な生きものたちと交わり、心を通わせていきます。祝祭に歓喜するアオを通して、生命が輝く時をショーアップしたストーリーになっています。

 1分53秒のデモ動画をご紹介しましょう。

こちら → https://youtu.be/qW7Pv1p-nbQ

 この水上ショーは日没後に2回、リングの内側に広がる水辺「ウォータープラザ」で開催されます。リングの南側に広がる水辺に3万平方メートルのウォータープラザで、約300基の噴水が躍動し、レーザー照明が夜空を照らす中、音楽と響き合って幻想的な空間が創り出されます。

 そんな中、ウォーター・スクリーンに映し出される映像が、ストーリーを展開します。水と空気のおかげで生存できる生き物たちの壮大なスペクタクルショーです。クライマックスには実際に水しぶきや、炎の熱さも感じられるそうです。

 万博史上最大級の水上ショーは、毎晩2回開催され、1回約20分間行われます。迫力あるアトラクションが、入場者なら誰でも無料で見られるのです。

 それでは、ショーが開催される場所を確認しておくことにしましょう。

■ウォータープラザと「つながりの海」

 まず、万博会場のレイアウトがどのようになっているのか、図で確認しておくことにしたいと思います。


 これを見ると、夢洲は橋と地下鉄の二通りの経路で大阪とつながっていることがわかります。万博会場は、夢洲の南西の約半分、赤い破線で囲われている部分です。3つにゾーニングされており、もっとも大きいのがパビリオンのゾーンで65.7ヘクタール、次いで、水ゾーンの47ヘクタール、そして、西側に位置する緑ゾーンは42.9ヘクタールです。

 パビリオンゾーン以外には、水と緑のゾーンがほぼ同程度、割り当てられています。万博のテーマ「いのち輝く未来社会のデザイン」を踏まえ、ゾーニングされたことがわかります。

 次に、大屋根リングと水上ショーが行われるウォータープラザの位置関係を確認しておきましょう。


(※ https://www.pref.osaka.lg.jp/j_fusei/2503/cts0103_477.html

 この案内図を見ると、ウォータープラザは、大屋根リングの南側やや西寄りに三日月形で設定されていることがわかります。

 先ほど見た万博会場のレイアウトでは、このウォータープラザは水ゾーンに組み入れられていました。水ゾーン内の位置関係を把握するため、俯瞰して夢洲全体を見てみました。


(※ https://saitoshika-west.com/blog-entry-7618.html

 リングの外側は「つながりの海」と名付けられていますが、海そのものではなく、海とつながっているところです。「つながりの海」は護岸で囲われており、いってみれば、夢洲の中にあるため池のようなものです。

 ですから、本来なら、浸食されるはずがないのですが、3月7日、護岸が浸食されていることが発見されました。

■護岸の浸食

 今回、浸食が指摘されたのは以下の箇所でした。

(※ https://www.expo2025.or.jp/news/news-20250310-07/

 これを見ると、大屋根リングの外側(つながりの海)の方が、内側(ウォータープラザ)より浸食がひどいことがわかります。護岸の浸食が発生した当時の写真をご紹介しましょう。

(※ 前掲、URL)

 ちょっとわかりにくいかもしれませんが、これが「つながりの海」側の浸食部分です。

 万博協会はこの件について3月10日、護岸を砕石で覆い、浸食した護岸の保護を進めると発表しました。さらに、大屋根リングとウォータープラザ沿い外周道路の安全性には影響がないことを、学識経験者から確認を得たと報告しています。

 ウォータープラザ沿いの外周道路(EVバスや貨物車両等が走行)は、基礎梁と一体の鉄筋コンクリートの床スラブの上に、アスファルトによる舗装を実施しています。これは大屋根リング基礎構造と一体のものであり、外周道路も安定した構造となっていると説明しているのです。

 そして、浸食の原因としては、ウォータープラザとつながりの海に2月中旬より注水を行ったことだとしています。注水後に浸食の発生が確認されているので、これが原因だとしているのです(※ https://www.expo2025.or.jp/news/news-20250310-07/)。

 実際、2月17日から合計六つのポンプで大阪湾の海水が注入されました。海水が注入されたのは大屋根リングの南の外側にある「つながりの海」32ヘクタールと、その内側にある「ウォータープラザ」3ヘクタールです。

 「ウォータープラザ」はいったん予定水深に達しましたが、「つながりの海」は達しておらず、開幕までに水深1メートルになるよう調整しながら注水が続けられました。海水が十分に満ちると、ライトアップされたリングが水面に反射する光景が見られるからです(※ 朝日新聞、2025年3月2日)。

 万博協会は、海水を引き入れ始めたことで、リングの外側にかかる水圧が高くなっていたところに、風の影響で想定以上に波が高くなり、護岸の浸食がさらに広がったと状況説明しています。

 現在は修復されていますが、浸食の原因の一つは、水上アトラクションを見栄えよくするための結果だったともいえるでしょう。

■アトラクションの舞台として、観客席として機能する大屋根リング

 こうして紆余曲折を経ながらも、開幕すると、万博史上最大級の水上ショーが誕生しました。ラスベガスの有名な水上ショーに勝るとも劣らないアトラクションだという人もいます。

 いずれにしても、ウォータープラザでの水上ショーが、万博名物の一つになることは確かでしょう。夜だけではなく、昼間もここで、音楽に合わせて噴水が躍動する水上ショーが行われます。ウォータープラザでの水上ショーは開催期間中、夜も昼も、老若男女、誰もが楽しめるよう企画されているのです。

 ここでご紹介した、「1万人の第九」といい、万博史上最大級の水上ショーといい、圧倒的に迫力のあるアトラクションでした。一方はスケール感のある大屋根リングを舞台に見立ててコンサートを成功させ、もう一方は大屋根リングを客席と見立ててショーを成功させています。

 大屋根リングは、大勢の入場者を圧倒的な迫力で惹きつけるための装置として機能していたのです。

 実は、開幕前の大屋根リングが、YouTubeの中田チャンネルで紹介されていました。吉村大阪府知事が中田敦彦氏に万博会場を紹介し、説明していくという趣旨の動画でした。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=fwWlu7saGCU&t=196s

(※ CMはスキップするか、削除して視聴してください)

 この動画から、大屋根リングの箇所をご紹介していくことにしましょう。

■中田チャンネルで見た大屋根リング

 中田チャンネルの「大阪・関西万博2025」は、大屋根リングの上で、中田敦彦が両手を広げて叫んでいるシーンから始まります。「大阪万博、始まるぞ!」、「大屋根リング、デカい!」と大声を出しているのです。


 確かに、画面を見ただけでも、大屋根リングは想像を超える大きさでした。俯瞰しなければ、その全体像を一つの画面に収めることはできません。

 上から見ると、大屋根リングの全景はこのようになっています。

 リングの上はまるで道路のようになっていて、側面には芝生が植えられています。吉村知事は、この斜面はすり鉢状に設計されており、来場者はここで、お弁当を広げて食べてもいいし、寝転がってくつろぐこともできると説明していました。

 先ほど、ご紹介したウォータープラザについても、吉村知事は説明されていました。

 大屋根リングの内側が観客席になっていて、ウォータープラザで展開されるショーを見るという仕様になっています。周囲は海ですから、夜になれば、レーザー照明などで創り出された幻想的空間を楽しむことができるのです。

 もちろん、日中の風景も楽しめます。

 大屋根リングの先には海が見え、反対側には六甲山が見えます。海と山の風景が、大屋根リングの先に広がっているのです。一体、どういう仕掛けになっているのかと不思議に思っていると、吉村知事はいつの間にか下に降り、リングを支える木の説明をしています。

 大屋根リングを支える無数の木々は、釘を使わず組み立てられています。清水寺の舞台を作った技術が使われており、耐震性が高いそうです。木々の所々に節目が見られ、まるで林の中にいるような空間が生み出されていました。リングの下の空間は、無数の柱の合間から、太陽光がふんだんに入り込み、明るく、風通しがよく、快適さが充満しているように感じられます。

 これらの大屋根リングを支える多数の柱には、自然の中で育まれてきた日本文化が象徴されているように思えました。多数の木々が支え合い、つながり合い、暖かな空間が創り出されていたのです。まさに「いのち輝く未来社会をデザイン」をテーマとする、「大阪・関西万博2025」のシンボルといえます。

■さまざまに楽しめる大屋根リング

 大屋根リングは、「大阪・関西万博2025」の会場デザインプロデューサーである建築家の藤本壮介氏が構想し、「多様でありながら、ひとつ」というデザイン理念を表現した建造物です。

 2023年6月30日に木組み部分の組み立てを開始し、2024年8月21日に全周約2㎞がつながりました。建築面積は61,035.55㎡、内径は約615m 外径は約675m、全周は約2km、幅は30m、高さは約12m(外側約20m)という壮大なスケールが特徴です。

 日本の神社仏閣などの建築に使用されてきた伝統的な貫(ぬき)接合に、現代の工法を加えて建築された世界最大級の木造建築物です。使われた木材は、国産木材7割(スギ、ヒノキ)、外国産木材3割(オウシュウアカマツ)などです。

 会場の主動線として機能する円滑な交通空間であると同時に、雨風や陽射しなどを遮る快適な滞留空間として利用されるよう建造されています。(※ https://www.expo2025.or.jp/news/news-20250228-04/

 2025年3月4日、世界最大の木造建築物として、大屋根リングがギネス世界記録に認定されました。全周2㎞、幅30m、高さ約12m(外周は約20m)という壮大なスケールを思えば、当然の結果だと思います。

 リングを支える柱の下で撮影された関係者らの写真があります。

 向かって右がデザインプロデューサーの藤本壮介氏です。

 ギネスでは木造建築としてのスケールが評価されましたが、それ以外に、多様な機能をもつ建造物としても大屋根リングには大きな価値があります。

 先ほどもいいましたが、大屋根リングの屋上からは、会場全体を見渡すことができます。リングの外に目を向ければ、瀬戸内海の穏やかな海や夕陽を浴びた光景、振り返れば、大阪の街並み、そして、方向を変えれば、六甲山や明石海峡など、海と空に囲まれた万博会場ならではの魅力を楽しむことができます。

 さらに、リングの上は展望台として機能するばかりか、道路として機能し、舞台としても観客席としても機能しています。類まれな建造物だと思います。

 果たして、藤本氏は万博会場をどのような観点から構想したのでしょうか。

■藤本壮介氏の設計コンセプト

 藤本氏は、人を集める建築の条件について問われ、「一度見ただけで満足する、インパクト重視の施設とならないよう意識しました」と答えています。(※ https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/03069/020300011/

 藤本氏は、もはや建造物に意表を突く衝撃力は求められておらず、その場にいるからこそ可能な体験、あるいは居心地の良さといったものが求められるようになっていると認識しています。

 確かに、現代人のほとんどは、とどまるところを知らない競争に疲れ果て、先の見えない世の中に不安を覚え、すべてに疑心暗鬼になっています。インパクトの強いものを受け止めるだけの心の余裕が失っているような気がします。

 現代人のこのような心的傾向を踏まえ、藤本氏は、大屋根リングを設計する際、自然とのハーモニーを重視したのではないかと思います。だからこそ、リング状の木造建造物を構想したのでしょう。屋根の上の外周をすり鉢状の斜面にし、そこに芝生を植える設計にしたのではないかと思います。

 大屋根リングの上は二層になっています。一層目は黄色のセンターラインの入った幅広の道路が設置され、その上の二層目はその半分の幅の道路になっています。いずれも側面には芝生が敷かれ、縁にはスポットライトが多数、設置されています。

(※ https://www.nippon.com/ja/guide-to-japan/expo2025002/

 夜になって、このスポットライトが灯されれば、いきなり幻想的な世界が現れるという仕掛けです。

(※ https://dempa-digital.com/article/610580

 上の写真は、藤本氏らが大屋根リングの照明を確認した際に撮影されたものです。開幕に向けて、LED照明の色味や明るさなどを調整していたのです。リングの上の照明は季節に応じて調光することができるそうです(※ https://dempa-digital.com/article/610580)。

 大屋根リング全体がライトアップされた動画があります。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=eECndMY-WV0

 壮観としかいいようがない光景です。周囲が海なので、夜になれば、光が景観に抜群の効果をもたらします。これだけの夜景は滅多に見ることができるものではないでしょう。

 昼間、大屋根リングの上に上がれば、パビリオンを一望できます。リング上がいきなり展望台になるのです。歩き疲れれば、芝生に寝そべって、陽光を浴び、潮風を感じることもできます。芝生が敷かれているリングの側面は、四季折々の変化に応じて異なる表情を見せてくれるでしょう。

 このリングを構想した藤本氏は、ここに来れば来場者は、「パビリオンの展示を見ただけで帰るのはもったいない」「もうちょっとこの場所にいたい」と感じるはずだといいます。(※ 前掲、URL)

 自然に包まれた安らぎの中で、来場者は見てきたばかりの各国のパビリオン、産業パビリオンなどを思い出すかもしれません。そのような思いを抱いたまま、日常を離れたこの場にもっといたいと思うかもしれません。

 大屋根リングはまさに、人が自然と交わり、楽しめる場になっていました。全長2キロメートルにも及ぶ大きな輪になっているからでした。世界各国からやってきた人々はここで自由に集い、やがて交流するようにもなるでしょう。

 そのような万博のメイン会場が、日本ならではの資材と最新の技術を結集して、建造されていたのです。素晴らしいとしかいいようがありません。「大阪、関西万博2025」は、この大屋根リングのおかげで、歴史に残ることになるのではないでしょうか。

(2025/4/17 香取淳子)

カイユボットは第二帝政時代をどう描いたか ⑦:パリの邸宅で弟たちを描く

 この頃、カイユボットはプロレタリアートの働く姿を捉える一方で、実は、ブルジョワジーの姿も描いていました。今回はそれらの作品を見ていくことにしましょう。

■パリの邸宅を舞台に描く

 カイユボットは、1876年(4月11日から5月9日)に開催された第2回印象派展に、作品を8点、出品しました。そのうち、プロレタリアートを対象にしたものが2点、4点がブルジョワジーを対象にしたものでした。

 今回、ご紹介するのは、ブルジョワジーの生活を描いた4点のうち、《窓辺の男》(1875年)と《ピアノを弾く若い男》(1876年)の2点です。いずれもパリの邸宅を舞台に描かれています。

 それでは、1875年に制作された《窓辺の若い男》から見ていくことにしましょう。

■《窓辺の若い男》(Jeune homme à sa fenêtre、1875年)

 若い男性が、窓際に立って外を眺めている様子が描かれています。後ろ姿なので顔はわかりませんが、弟のルネ(René Caillebotte, 1851-1876)だといわれています。カイユボット(1848年8月19日生まれ)には弟が二人いますが、ルネはすぐ下の弟で、2歳半、年下になります。


(油彩、カンヴァス、117×82㎝、1875年、J. Paul Getty Museum, Los Angeles蔵)

 ジャケットのポケットに手を入れ、両脚を踏ん張るようにして立っているせいか、マッチョな印象があります。ややなで肩ですが、しっかりとした体躯に見えます。ところが、実際は体が弱く、自宅で療養をしていたようです。この作品が描かれた1年後の1876年11月1日には、26歳の若さで亡くなっているのです。

 窓を大きくあけ放って外を眺めている姿は、まるで外気をふんだんに取り込もうとしているように見えます。あるいは、新鮮な外気を吸い、大改造されたばかり街の風景をしっかりと目に焼き付けようとしていたのでしょうか。

 ルネは、一年後にはこの世を去っています。そう思うと、逆光で黒く見える後ろ姿全体が寂しく、悲しそうに見えます。表情をうかがうことのできないのに、切ない思いに駆られてしまいます。

 興味深いことに、ルネは大きくあけ放った窓の右端に立っています。そのせいで、内側に引いたガラス窓にその影が淡く映し出されています。たった一人しか描かれていないのに、画面に人の気配が感じられます。

 しかも、まるで街の風景を自分以外の誰かに見せようとしているかのように、ルネは、左側を大きく開けて立っているのです。おかげで観客の視線はごく自然に、背景の街並みに向かいます。

 バルコニー越しに見えるパリの街並みは、淡い色彩でまとめられており、洗練されたパリの様相が強く印象づけられます。ルネの右側の大きな窓ガラスもまた、淡いグレーで彩色されています。窓の外に広がるパリの街と似たような色調なのです。

 この色調のおかげで室内と室外とに連続性が生まれ、統一感が生み出されています。内と外とがみごとに一体化しているのです。絶妙な構図あり、色構成です。

 室内と室外との境界線になっているのが、ロココ調のオシャレな窓柵です。拡大してみることにしましょう。


(※ 前掲、部分)

 宮廷文化を踏襲したようなこの窓柵は、優美な曲線で造形されています。転倒防止の機能だけではなく、デザインや造形の美にこだわったナポレオン三世治世下の美意識が感じられます。

 窓のすぐ下を見ると、馬車が待機しており、その先には女性が一人、ドレスの裾を引きずるようにして歩いているのが見えます。ルネが眺めているのは、どうやら、その先の遠方の建物のようです。そこで馬車が一台、待機しているのが見えます。

 辺り一帯は瀟洒な建物が整然と立ち並び、大改造したばかりの美しいパリの風景が淡い色調で写実的に描かれています。

 カイユボットの父親が建てたこの邸宅は、ミロメニル77番地とリスボン通り13番地の角地に建っていました。ルネが立って外を眺めているのは、ミロメニル通りに面した窓だといわれています(※ http://caillebotte.net/work/index.php?no=032)。高級住宅地として開発された地域です。

 カイユボットはもう一人の弟、マルシャルマルシャル(Martial Caillebotte, 1853-1910)の姿も描いていました。

■《ピアノを弾く若い男》(Jeune Homme au Piano, 1876年)

 レースのカーテン越しに、柔らかな陽射しが室内に入り込んでいます。穏やかな陽光が、ピアノを弾く若い男性の背中と肩、そして、鍵盤に置かれた両手を明るく照らし出しています。見るからに幸せそうなひと時が描かれています。


(油彩、カンヴァス、81.3×116.8㎝、1876年、アーティゾン美術館蔵)

 演奏会が近づいているのでしょうか、男性は譜面に視線を注ぎ、演奏に余念がありません。譜面台の傍らには分厚い楽譜集のようなものが三冊ほど、置かれています。鏡面仕上げのグランドピアノがブルジョワジーの生活の一端を垣間見せてくれます。

 モデルとなっているのは、音楽家で写真家の弟、マルシャル・カイユボット(Martial Caillebotte)です。ギュスターヴ・カイユボット(Gustave Caillebotte)とは4つ違いですが、大変仲が良く、マルシャルが結婚するまで一緒のアパートに暮らしていました。この作品はマルシャルをモデルにした作品の中では最初のものだと言われています。(* http://caillebotte.net/blog/info/328

 1886年に撮影された二人の写真があります。向かって左がマルシャル、右がギュスターヴ・カイユボットです。


(※ Wikipedia)

 この写真からは、カイユボットが弟よりもかなり背が低く、小柄だということがわかります。《床の鉋かけ》(1875年)を見た時から、華奢な体躯だろうと想像していたのですが、この写真でそのことを確認することができました。

 さて、描かれた室内はいかにもブルジョワジーのものらしく豪華で、優美な仕様になっていました。カーテンや壁紙は繊細で優美な文様が織り込まれ、しかも、重厚感があります。カーテンのタッセルもまた多くのボンボンが付いた装飾性の高いものでした。


(※ 前掲、部分)

 カーテンといい、壁紙、絨毯といい、椅子といい、すべてが豪華な仕様で仕上げられた室内で、ひときわ存在感を放っているのが、光沢のある黒のグランドピアノです。部屋が狭く感じられるのは、マルシャルが弾いているのがグランドピアノだったからでしょう。

■ブルジョワジーを象徴するピアノ

 ピアノはもともと、王族や貴族社会の中で発達してきました。ところが、フランス革命後、王族や貴族が没落していくと、ピアノは新興ブルジョワジーの趣味として定着していきます。ナポレオン三世の下で羽振りを利かせていたカイユボット家がまさにその一例です。

 ピアノ演奏の場もそれに合わせるように、ブルジョワジーや亡命貴族たちの社交の場としてのサロン、あるいは、コンサートホールへと移っていきました。

 19世紀前半のフランスでは、エラール(Erard)とプレイエル(Pleyel)がピアノ・メーカーとして競い合っていました。1834年頃の年間生産台数は1000台に達し、1870年代からは生産台数2500台を維持していたそうです。(https://xstage.kuragemoyou.com/archives/14146)。

 マーシャルが弾いているのがどちらのメーカーのピアノなのか、よくわかりませんが、拡大してみると、マルシャルの手の上にエンブレムがみえます。装飾文字なので、よくわかりませんが、どうやらエラールのもののようです。

 1843年製の両社のピアノを比較したビデオがありましたので、ご紹介しましょう。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=d8GqpKhaMo4

(※ CMはスキップしてください)

 エラールのピアノは、19世紀に主にヨーロッパで活躍していたピアニストたちに愛用されたといわれています。それは、作曲家のインスピレーションを喚起するような楽器だったからですが、彼らに愛用されたことによってエラールは発展していきました(※ 『鍵盤楽器辞典』No.12 エラール)。

 さて、1876年の印象派展でこの作品が発表された時、何人かの批評家は、困惑したようです。というのも、やや俯瞰した視点で捉えたピアノの造形がアンバランスに見えるたからでした(* http://caillebotte.net/blog/info/328)。

 そういわれてみれば、確かに、ピアノの形が少し歪んで見えます。幅と奥行きのバランスが実物とは異なっているように思えます。大きなグランドピアノを無理やり画面に入れ込もうとしたせいでしょうか。ピアノの形状に違和感はありますが、この絵の雰囲気を壊してしまうほどアンバランスだというわけでもありません。

 この作品は、ピアノをモチーフの一つにすることによって、当時のブルジョワジーの生活を象徴的に表現することができています。

 さきほどご紹介した《窓辺の若い男》(1875年)の場合、ロココ調の窓柵にブルジョワジーの片鱗を感じさせられました。《ピアノを弾く若い男》の画面にも、レースのカーテンの背後にロココ調の窓柵が見えます。あらためて、この窓柵が、ブルジョワジーならではのアイテムの一つなのだと思い知らされます。

■カイユボットは二人の弟をどう描いたか

 まず、カイユボットは、《窓辺の若い男》で2歳年下の弟ルネをモチーフに描きました。逆光の下、背後からルネを暗色で捉え、背景に大改造されたばかりのパリを淡い色調で収めた作品です。室内と室外を明暗の対比の中で捉え、パリの街の風景とブルジョワジーの生活を、色調によって一体化して捉えた構図が秀逸です。

 その翌年、4歳年下の弟マルシャルを、豪華な室内でグランドピアノを弾く姿を描きました。王侯、貴族が親しんでいたピアノという楽器が、当時、新興勢力であったブルジョワジーの趣味になりつつありました。当時のリアルな状況がマルシャルの日常生活を通して捉えられていたのです。

 両作品ともタイトルに「若い男」という語が入っています。実際、ルネは25歳、マルシャルは23歳でした。実際、若い男であったことは確かですが、敢えてタイトルに入れたところに、新しいことに挑戦する若いエネルギーを表現したかったのではないかという気がします。

 たとえば、《窓辺の若い男》では、後ろ姿のルネよりも、その背後で広がるパリの街の風景の方が強く印象づけられます。ルネをモチーフにしながら、詳細に描かれているのは、ロココ調の窓柵であり、パリの街の風景であり、建物でした。いずれも大改造して生まれ変わったパリの街の美しさが淡い色調で写実的に捉えられていたのです。

 その画面構成に、パリの街を徹底的に改造したエネルギーへの賛美が感じられます。既存のものを壊し、便利で快適で美しい街づくりを完成させた挑戦心への賛美ともいえるでしょう。

 一方、《ピアノを弾く若い男》では、黒光りのするグランドピアノを弾くマルシャルに、当時のブルジョワジーの姿が象徴されているように思えます。王侯貴族の嗜みであったピアノ演奏が、新興階級であるブルジョワジーのものになりつつあった時代でした。

 譜面台の横に分厚い楽譜のようなものが三冊ほども置かれていますから、マルシャルはおそらく、相当な練習量を経て、素晴らしい演奏者になっていたのでしょう。何度も練習し、弾きこなせるようになるには、それなりの努力をしなければなりません。

 刻苦精励した暁に、成果を手にすることができるという仕組みが、新興ブルジョワジーの成り立ちと共通しているともいえます。王侯貴族ではなく、権力者や大土地所有者でもなく、市民階級がアイデアを実行に移し、努力すれば、それなりの成果が得られたのです。

■ブルジョワジーとしての認識

 カイユボット兄弟の父、マルシャル・カイユボット(Martial Caillebotte, 1799-1874)は、ノルマンディに生まれましたが、1830年にパリに引っ越し、フランス軍にベッドや毛布を供給する事業を始めました。軍需で富を得ると、高級住宅街に家を構えたばかりか、別荘や農場、不動産を次々と所有し、パリの再開発にも出資していました。精力的な実業家でしたが、その一方で、セーヌ県の商業裁判所の裁判官でもありました。

 初期産業化時代に時流を読み、激変の時代に適応しながら、事業を成功させ、社会的地位を得た人物だったのです。

 残念ながら、子どもたちにそのような事業の才能は受け継がれませんでしたが、カイユボットは弟たちを描く中でさり気なく、ブルジョワジーとして破格の成功を遂げた父親を画面に入れ込んでいました。

 身体が弱く、26歳で亡くなってしまったルネをモチーフにした作品では、その背後に大改造されたパリの街の風景を描き、父親の事業の一端を表現していました。

 仲の良かった弟のマルシャルは実業ではなく、芸術に進路を定めました。彼を描いた作品では、グランドピアノをモチーフの一つに選び、当時のブルジョワ階級の文化的傾向の一端を表現しています。

 これらの作品のいずれも、確かなデッサン力、肉付け、微妙な色調の差異に基づいて描かれていることがわかります。おそらく、二人の弟をそれぞれ描き分けようとしていたのでしょう、作品のテイストは異なりますが、いずれもレオン・ボナの下で学んだ写実的な手法で臨んでいます。

 カイユボットは、アカデミーが奨励した技術を完全に体得し、当時の時代状況、社会状況を巧みに組み込みながら、弟たちの姿を作品化しました。ブルジョワジーとしての認識があったからではないでしょうか。(2025/3/31 香取淳子)