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2023年

百武兼行⑦:有田皿山代官の子として成長した百武兼行

 百武兼行がなぜ、西洋画をきわめることができたのか、今回は、生い立ち、生育環境を振り返ることによって、その謎に迫ってみたいと思います。

■皿山代官の子として成長

 百武兼行は天保13年(1842)6月7日、佐賀藩士百武兼貞と母ミカとの次男として、佐賀市片田江で生まれました。現在、片田江七小路の辺り一帯は、江戸時代、佐賀城下の武家屋敷の地として中級武士が居住していたそうです(※ 「佐賀市歴史探訪39」)。

 兄が早世したため、兼行は次男でしたが長男として、養育されています。幼名を安太郎といい、やがて、兼行を名乗るようになりました。これは、父兼貞跡を襲族することを許可する書状で確認することができます。明治7年(1874)10月31日付の佐賀県から送付された書状です(※ 三輪英夫編『近代の美術 53 百武兼行』、至文堂、1979年、p.18.)。

 三輪英夫は、このような兼行の生い立ちを記した上で、「青年期の安太郎の環境を知る上で、父兼貞の動向も看過できない」と述べています。おそらく、兼行に大きな影響を与えていたと思っていたのでしょう。

 兼貞は長崎で務めたことがあり、鍋島藩京都留守居に抜擢されたこともありました。外交的で才気ある人物だったようです。

 慶応3年(1867)には、有田皿山代官に任命されています。有田皿山代官といえば、佐賀藩の経済を支える機関のトップです。その要職に兼貞は46歳の時に就任しているのです。兼貞は、有能で、機敏に判断することができ、社会の激変期にはなくてはならない存在だと思われていたのでしょう。

 さて、有田皿山代官とは聞きなれない言葉です。『人々が創った有田の歴史』によると、次のように説明されています。

 皿山というのは、焼物をつくる所という意味で、白川にあった皿山代官所では佐賀本藩から赴任した侍が租税の徴収や陶磁器生産関係の他に犯罪人の取締りや逮捕などの仕事を行った。初代皿山代官の山本神右衛門から最後の百武兼貞までの224年間に現在確認できているのは42人の代官である(※ http://www.marugotoarita.jp/kanko/aritahego/history1.html)。

 この説明に照らし合わせると、百武の父、兼貞は最後の皿山代官であり、有田の陶磁器生産から上がる租税の徴収や生産の管理、犯罪人の取り締まりなどを行っていたことがわかります。

 陶磁器生産は佐賀藩を支える経済基盤の一つでした。ところが、兼貞が就任した頃は、世界的な激動の余波を受けて、生産体制に大きな変革が迫られている時期でした。

 当時、アヘン戦争の影響で、中国国内は混乱していました。景徳鎮での生産量が減り、中国からのヨーロッパ向け輸出は激減していました。その結果、東インド会社は日本との貿易にシフトし始めていたのです。

 東インド会社は長年、アジアからヨーロッパに向けての輸出製品として、絹織物、茶、胡椒、綿花、陶磁器などを扱っていました。ところが、中国の政治的混乱を機に、ヨーロッパ向け輸出陶磁器として、有田焼が着目されるようになっていたのです。

 元々、華やかな絵付けが特徴の有田焼は、ヨーロッパの王侯貴族に好まれ、宮廷の装飾としても使われていました。さらに、19世紀後半になると、産業革命を経て勃興していたブルジョア階級の間で、アフタヌーン・ティーを楽しむ生活文化が広がっていました。室内装飾のための調度品であれ、華やかな絵柄のティーセットであれ、高品質の有田焼への需要が高まっていたのです。

■ヨーロッパの王侯貴族に好まれた有田焼

 果たして有田焼がどのようなものなのか、一例として、香蘭社が制作したティーセットをご紹介しましょう。

こちら → https://japanesecrafts.com/blogs/news/arita

 上記HPの記事の中のティーセットをご覧ください。

 まず、カップの外側とソーサーが濃い藍色、カップの内側に描かれた花は淡い藍色、カップの取っ手と縁、そして、ソーサーの縁は金色で色構成されているのが印象的です。藍色を基調に、金色をアクセントにした外側に対峙するように、内側には白地に淡い藍色の花を浮かび上がらせているのです。色数を抑え、高貴さを醸し出しているところに、センスの良さが感じられます。

 さらに、カップ上部の縁のデザイン、取っ手のデザイン、カップ底部の杯のようなデザインが優雅で目を引きます。色彩といい、デザインといい、洗練された優美さが感じられます。

 これが、「香蘭社スタイル」といわれる色とデザインなのだそうです。香蘭社は、今からおよそ300年前に、初代深川栄左衛門が有田で磁器製造を始めた事業を継承し、現在に至っています。

 これはほんの一例ですが、有田焼は、このような華やかな絵付けが特徴です。そのせいか、実用品としてよりも美術品としての価値が高く、現在でも古いものが、世界中の博物館や宮殿などに数多く残されているそうです(※ https://japanesecrafts.com/blogs/news/arita)。

■有田焼の由来

 有田の陶磁器生産は、17世紀初に始まりました。鍋島直茂(1538-1618)が朝鮮出兵に参加し、連れ帰った朝鮮人陶工の李参平が、有田町泉山に磁石を発見したからでした。こうして磁器生産ができるようになったのです。

 金ヶ江家に代々伝わる『金ヶ江家文書』によると、李参平は、慶長の役の際に鍋島直茂の軍勢の道案内をしたと記録されています。そして、日本軍撤退の際、敵の手助けをしたことで、李参平らが土地の者たちから報復を受けるのではないかと心配した直茂が、李参平とその一族を日本に連れてきたと伝えられています(※ 木本真澄、「有田焼400年の歴史」)。

 有田焼の祖、李参平はこうして朝鮮半島から有田にやってきました。優れた陶工であり、彼らのリーダーとして、有田の泉山を発見し、磁器の生産に成功したのです。その結果、鍋島藩主から金ヶ江三兵衛という日本名を授かったといいます(※ 前掲。)

 それまで有田は人もいないような地域でしたが、磁器の生産が始まると入植者が増え、「有田千軒」といわれるほどの賑わいを見せるようになりました。当時貴重品だった磁器は高値で売れたため、有田の窯元や有田焼を扱う商人たちは大いに潤いました。そして、「運上金」と呼ばれる税金によって佐賀藩の財政も豊かになりました(※ 前掲。)。

 磁器生産を開始するようになって、有田地域は人が増え、活性化し、鍋島藩は窯業でその収益で財源が豊かになりました。李参平は鍋島藩に大きな経済的貢献をしていたのです。

 さて、鍋島藩が手掛けた有田焼は、もっぱら将軍家への献上品や、大名などへの贈答品として生産されました。約200年間というもの、藩直営の御用窯で生産され続けてきたのが鍋島焼です。

 鍋島焼は販売を目的にしておらず、採算を度外視した生産を行っていました。藩内の名工を抜擢し、制作されてきただけあって、大名の道具として重厚な風格をもつ様式美を確立したといわれています(※ 大木裕子、「有田の陶磁器産業クラスター」、『京都マネジメント・レビュー』、第21号、2012年、p5.)。

■柿右衛門式

 初代柿右衛門は中国の赤絵の調合法を伝え聞いて、試行錯誤を重ね、1640年には赤絵付を成功させました。さらに、1670年頃には、濁し手と呼ばれる乳白色の素地の上に、余白を残して繊細な絵画的構図を表現する色絵磁器の技術を完成させて、柿右衛門式と呼ばれるようになりました(※ 前掲。p.4.)

 一例として、柿右衛門式の花器をご紹介しましょう。17世紀後半に制作された作品です。

(※ http://www.toguri-museum.or.jp/gakugei/back/1109.php

 まず、目につくのが、上部に描かれた大きな2輪の菊の花です。花はそれぞれ、朱色と黄色を反転させて描かれており、そのハーモニーが見事です。花の周辺には、緑と藍色で葉や茎が描かれ、所々に、開きかかった菊の蕾が配されています。白地に適宜、余白を残しながら、モチーフを引き立てるように描かれています。モチーフの配置といい、色構成といい、弾力性のある構成が印象的です。高さは25.6㎝あります。

 柿右衛門式は、このように透明感のある白地に、赤や緑、黄色などの顔料を使った美しい絵付けが特徴だといわれますが、上の作品はまさにその典型といえるでしょう。

 この白地は、「濁手」とも「乳白手」とも呼ばれるものですが、透き通るような輝きがあり、描かれた文様を引き立てる役割を果たしていることがわかります。そして、白地に施す絵付けに使われるのが、「染付顔料」と「色絵顔料」です。

■染付顔料と色絵顔料

 この2種類の顔料について、『学芸の小部屋』(2011年9月号)では、「染付の青と色絵の青」というタイトルの下、説明されています。

 まず、染付について、ご紹介しましょう。

 「染付とは、素焼きをした段階の素地に、呉須(ごす)と呼ばれる青色顔料で絵付けをし、その上に透明な釉薬を施した後に本焼き焼成する技法です。断面を見ると、下図のようになります。文様は釉薬によってコーティングされていますので、うつわの表面はなめらかで、ゴシゴシと擦っても文様が剥がれ落ちることはありません」(※ 『学芸の小部屋』、2011年9月号))

(染付の断面図)

 素地の上に呉須顔料が置かれ、その上に、釉薬が顔料をすっぽり覆うように施されているのがわかります。これでは、呉須で描かれた文様が剥落することはないでしょう。

 次に、色絵について、ご紹介しましょう。

 「色絵とは、白磁や染付など、釉薬をかけて本焼き焼成し終わった器の上に、低い温度で熔けるガラス質の顔料を使って絵付けをし、もう一度焼成し、文様を焼き付ける技法です。断面は下図のようになります。顔料はガラスの表面に付着した水滴のように、表面張力によってやや丸みを帯びた塊になります。そのため、うつわの表面を指でなぞると、僅かにでこぼこしていることが分かります。また、文様はうつわの一番外側にあって、コーティングされていない状態です。赤や金色は摩擦に弱く、長年使っていると文様が落ちてしまい、その他の色は物理的衝撃に弱く、ひびが入って剥落してしまいます。」(※ 前掲。)

(色絵の断面図)

 こちらは、染付とは違って、釉薬は素地の上に施されています。したがって、色絵は剥き出しの状態になっていることがわかります。しかも、染付の場合と違って、表面がぽっこりと浮き上がっているので、ちょっとした摩擦で剥がれやすくもなるのでしょう。

 さらに、染付と色絵の違いについて、次のように説明されていました。

 「染付は、上にかかる釉薬の層にある程度厚みをもたせることで青色が美しく発色します。したがって、釉薬を薄くかけなければならない濁手に染付は用いられません。濁手の作品に用いられている青色はすべて、染付ではなく色絵の青なのです」(※ 前掲。)

 先ほど、ご紹介した柿右衛門式の花器は、「染付と色絵を併用した」作品なのだそうです。

 この花器の頸部、底部の藍色は染付であり、胴部に描かれた文様やその両脇の花唐草はすべて色絵だと説明されているのです(※ 前掲。)

 染付と色絵の特色を踏まえた上で、それらを併用することによって、最大限の美しさを引き出し、しかも、剥落しにくい作品に仕上げているのです。ここに、磁器表現の極みを目指し、試行錯誤を重ねてきた陶工たちの研鑽を垣間見ることができます。

■皿山代官所

 17世紀後半、有田皿山には150軒前後の窯元が設立されていました。製品は商人によって、関西方面、江戸や関東方面にも売られるようになっていたといいます。窯業が活性化し、有田の名が広がっていたのです。

 それに伴い、陶工たちは工夫を重ね、他には見られない質の高い磁器を生産するようになっていました。技術の集積によって、磁器表現の可塑性が追求され続けていました。その活動を保護するかのように、生産現場を管理する皿山代官所が設置されました。大木裕子氏によると、寛文年間(1661~1672年)には設置されていたようです。

 皿山代官所の設置は、技術の流出を防ぐ一方、高品質な色絵磁器を生産するため、生産量をコントロールするためでした。いってみれば、製造技術の漏洩を防ぎ、品質管理をし、将来に備えた製品改良のための機関でした。

 さらに、赤絵屋と呼ばれる赤絵師を一か所に集め、営業を認める名代札を授けていました。

 赤絵屋とは、赤絵屋とは、有田で上絵付けを専門とする業者のことを指します。有田では、色絵を焼き付ける窯を赤絵窯と呼びます。

 赤絵作品の一例をご紹介しましょう。

(※ 香蘭社)

  香蘭社が制作した飯椀です。大きく山茶花の絵が描かれており、日常食器に取り入れられた典型的な図案です。赤絵の特徴は、にじみにくい赤の色絵の具の特性を活かして、器全体に「細描」と呼ばれる細かい描き込みを施したスタイルだといわれていますが、この飯椀にも、赤地に細かな描き込みがされています。

 さて、赤絵屋には、営業許可証が必要なだけではなく、相続制になっていました。特に赤絵の調合は嫡子相伝で、情報管理され、製造秘密が守られていました。製造情報、製品情報が漏れることを回避するためでした。

 赤絵は、鉄分を含んだ絵具を使い、釉薬の上に焼成して赤や茶色の模様を表現する技法です。赤を主に、緑、黄、紫、藍、黒などの色絵具を用いて上絵付けをしたものを指します。ですから、調合の秘法は秘匿しなければならず、それだけ厳密に情報管理をしていたものと思われます。

 ちなみに、赤絵付けを専業とする界隈は一か所に集中させられていたので、「赤絵町」を呼ばれていたようです。

 1867年に皿山代官に任命された百武兼貞は、藩を支える経済基盤を統括する要職に就いたことになります。彼が就任した頃、日本はまさに列強から開国を迫られ、欧米に対抗するためにも西洋の技術を習得する必要に迫られていました。

■ワグネルを有田に招聘

 皿山代官に就任した百武兼貞は、良質の磁器を大量生産するため、製法の改良を模索していました。というのも、アヘン戦争後の中国の磁器減産に伴い、ヨーロッパへの輸出需要が高まっていたからでした。国内技術だけでは抜本的な改良に対応できなくなっていました。

 そんな折、ドイツ人技師であり、化学者であったゴットフリード・ワグネル(Gottfried Wagener, 1831 – 1892)が長崎にやって来たのです。兼貞が目をつけたのは当然のことでした。ワグネルこそ、彼が待ち望んでいた人物でした。

 ワグネルは、アメリカ企業のラッセル商会が、石鹸工場を設立するため、社長直々に、長崎に招聘した技師でした。技術開発の要請を受けた彼は、1868年5月15日に長崎に到着しましたが、求められた製品開発がうまくいかず、結局、工場を軌道に乗せることはできませんでした(Wikipedia)。

 ちょうどその頃、有田では、パリ万博(1867年)からの帰国者が、陶器用の絵具を持ち帰っていました。ところが、誰もその使用法がわからず、苦慮していました。

 皿山代官の百武兼貞は、この絵具の使い方がわかる技術者を探していました。ワグネルが長崎にやってきたことを知った兼貞は、これ幸いとばかりに、彼を有田に招聘しました。

 こうしてワグネルは有田で、酸化コバルト絵具の使用法や、石塊で焼成する陶器窯の築造法などを指導し、新しい製造技術を伝えることになったのです(※ 『東京工業大学百年史 通史』、1985年、p.64.)。

 有田に招かれたワグネルは、7人の職人を相手に、コバルト青、クローム鉄、全臙脂(えんじ色)など陶器用の絵具の使用法を教えました。兼貞にとってはこれで一つ、問題が解決しました。パリ万博からの帰国者が持ち帰った絵具の使い方がわかったのです。

■呉須顔料の製造

 さらに、ワグネルは、呉須顔料など高価な輸入品を使わずに、同質のものを製造できることを教えました。コバルトに硬度の白土を混和して焼けば、安価で便利に仕上がることを陶工たちに説き、石炭窯を築いて試作したのです(※ 杉谷昭、「人物を中心とした 文化郷土史―佐賀県―」、p.89.)。

 呉須顔料とは陶磁器に用いる顔料の一種で、焼成によって釉と溶け、青い色を出すものです。マンガン・鉄などの不純物をふくむ酸化コバルトを主体とする顔料で、天然の鉱物です。

 江戸時代に中国から日本へ伝わってきており、呉須で下絵を書き釉をかけた磁器を、日本では染付、中国では青花と呼びます。有田焼の染付が有名で、様々な青色を出せるため人気があります(※ https://enogu-fukaumi.co.jp/chishiki-gosu)。

 たとえば、呉須顔料を使って制作された花器があります。

(※ 大倉陶園HP)

 これは現代、制作されたものですが、白地にコバルトブルーで描かれた唐草模様が美しく、惹き込まれます。

 日本の伝統技法「呉須染付」を用いて制作されています。吸水性のある素焼きの磁器素地に、水でといた呉須顔料で下絵を描き、その上に釉薬をかけ、本焼窯で焼成します。釉薬と呉須とが融合し、渋みのある冴えた色になります。高さは36㎝です。

(※ https://okuratouen.com/SHOP/12A-7241.html

 呉須唐草とは、呉須という顔料で描かれた唐草文様を指します。コバルトを主成分としている呉須顔料は、他の絵の具とは違って、素焼きの状態で着色するため、色あせることはないといわれています。

 描かれた唐草文様は、つる草が四方八方に伸びて絡み合っており、生命力を象徴する文様です。子孫繁栄や長寿を意味するため、仏教美術、彫刻、染色、織物、蒔絵など、工芸美術でも人々に愛されてきました。

■ワグネルが有田に残したもの

 ワグネルのおかげで、安価で発色の良い合成呉須が有田で使用されはじめました。

 天然の高価な呉須顔料ではなく、合成の呉須顔料の製造法を教えてもらったおかげで、有田の窯業は安価で良質の陶磁器を生産できるようになりました。ワグネルは、兼貞が模索していた製造法の改良まで成し遂げてくれていたのです。

 こうしてワグネルは、ヨーロッパで使用されている陶器用絵具の使い方を教えてくれたばかりか、安価に製造できる方法まで伝授してくれました。兼貞が期待していた以上の貢献をしてくれたといえるでしょう。

 さて、ワグネルが有田で窯業の技術指導に当たっていたのは、1870年4月から8月にかけてでした。そんなに短くて事足りたのかと思えるほどですが、ワグネルはわずかな期間で、求められた絵具の使用法をはじめ、製法の改良につながる技術や知識まで陶工に伝授しました。

 それほど有能なワグネルを、明治政府がそのまま長崎に滞在させておくはずがありませんでした。西洋の科学技術の指導者として、明治政府はワグネルの上京を求めました。

 明治3年(1870)10月にワグネルは上京し、まず大学南校へ、そして、翌年には大学東校のお雇い教師となっています。列強の技術水準に追いつくために、明治政府は西洋の技術者の獲得に必死でした。

 実は、このわずかな滞在期間に、百武兼行は、ワグネルから西洋絵具の使い方を教えてもらっていました。

 ひょっとしたら、この経験が彼の中で深く沈潜し、やがて、西洋画の習得に励む意欲につながったのかもしれません。百武は、ワグネルに出会ってはじめて、西洋絵具ならではの表現世界に触れ、これまでとは異なった発色、造形、あるいは、モチーフ、デザインなどに心惹かれた可能性があります。

 興味深いことに、百武兼行の父、兼貞が皿山代官であったように、画家久米桂一郎(1866 – 1934)の祖父の久米邦郷も皿山代官でした。鍋島藩出身の洋画家の父と祖父がともに、皿山代官だったのです。絵付けなどを日常生活の中で見て育ったことがなにかしら関係しているのでしょうか。(2023/12/31 香取淳子)

百武兼行 ⑥:1876年に制作された作品について考える。

■1876年に制作された作品

 百武は鍋島胤子とともに、1875年初からリチャードソン・ジュニアに師事し、油彩画を学び始めました。思わぬ機会に恵まれ、勢い込んで制作に励んだのでしょう。最初の頃の作品がいくつか残されています。制作年のはっきりしている作品のうち、最初期のものは、《松のある風景》、《城のある風景》、《橋のある風景》、《田子の浦図》でした。

 いずれも1876年に制作されており、未熟さを残しながらも、味わいのある作品になっていました。学び始めて1年余ですでに、作品と呼べるような絵を描いていたことがわかります。

 そこで、今回は、1876年に制作されたこの四作品のうち、これまでに取り上げたことがある《松のある風景》を除き、《城のある風景》、《橋のある風景》、《田子の浦図》の三作品について、考えてみたいと思います。

 果たして、これらの三作品はどのようなものだったのか、まずは作品内容から見ていくことにしましょう。

●《城のある風景》

 《城のある風景》というのがこの作品のタイトルですが、日本の城とは形状が異なっているせいか、どれが城なのかすぐにはわかりませんでした。ただ、中央に頑丈な建物が見えます。塔のような形状で、どっしりとした存在感があります。おそらく、城の一部なのでしょう。

(油彩、カンヴァス、40.6×56.1㎝、1876年、所蔵先不明)

 よく見ると、この建物の上に小さな櫓が建てられています。ということは、これは、監視機能、防衛機能を持つ建物だということになります。きっと西洋の城につきものの、小堡(バービカン、barbican)なのでしょう。バービカンとは聞きなれない言葉ですが、城の出入り口辺りに設けられた塔を指し、敵からの襲撃に備える防御施設としての役割を果たしています。

 そのバービカンの背後に大きな建物が見えますが、これが住居棟なのでしょう。その上に奇妙な不定形のものが、空に向かって伸びるように描かれています。無彩色なので曇り空に紛れ、つい見逃してしまいそうですが、形状からは、どうやら旗のようです。

 なぜ、城に旗が掲げられるのか不思議に思いましたが、イギリスでは、旗は城主がいるかいないかを知らせる合図として使われていたようです。たとえば、イギリス王室が所有するウィンザー城では、女王が城にいるときは王室旗が、不在のときは英国国旗が掲げられていたといわれています。

 改めて、住居棟の上の旗らしいものを見ると、無彩色で、シンボルマークもなく、ただの布にしか見えません。しかも、この布は力なく垂れ下がり、どんよりと白っぽく描かれた曇り空に溶け込んでいます。

 そういえば、バービカンの壁に白い粉のようなものが散っているのが見えます。その左側にはこんもりとした大きな白い塊が描かれ、周囲の木々の葉先も白く描かれています。どうやら少し前まで、雪が降っていたようです。

 前景に目を移すと、犬が川べりを歩き、その傍らで二人の男がなにやら作業をしています。男たちの傍らに魚が二尾、地面に置かれていますから、彼らはどうやら、白い袋に魚を入れているようです。

 一方、対岸の小舟には男が背を向けて立ち、犬が寄り添っています。その先の建物にも人が描かれていますが、小さすぎて何をしているのかよくわかりません。おそらく、これが城のある町の日常なのでしょう。のどかな暮らしの一端がうかがえます。

 画面全体を見ると、褐色とグレーをベースに、黒に近い緑が適宜、配され、アクセントとされています。色数少なく画面構成されているせいか、落ち着いた印象を受けます。空と川がグレーの濃淡で描かれており、上と下から、褐色で描かれた建物と地面を挟み込み、画面をほぼ二分する恰好になっています。

 油彩画を学び始めてわずか1年余しか経ていないことを考えれば、巧みな画面構成だといえるでしょう。

 ただ、建物の描き方がいかにも不自然でした。パースを考えずに描いているからでしょう。とくに褐色の建物が、構造的にありえないような描かれ方をしているのが気になりました。百武はこの時点ではまだ、透視図法を学んでいなかったのかもしれません。

 画面全体は淡い色彩で描かれており、まるで水彩画のような印象を受けます。

 次に、《橋のある風景》を見てみることにしましょう。

●《橋のある風景》

 この作品も全般に淡い色で描かれており、立体感がなく、重厚感もなく、水彩画のように見えました。

(油彩、カンヴァス、60.9×91.3㎝、1876年、所蔵先不明)

 画面で大きな面積を占めているのは、背後に連なる山々と巨岩ですが、いずれも淡く、平板に描かれており、単なる背景に過ぎません。この作品で印象に残るのが、中景に描かれた木橋であり、それを支える黒褐色の岩、そして、橋の下を勢いよく流れている渓流でした。

 大きな岩にぶつかっては大きく波立ち、波頭が白く泡立っている川の流れが印象的です。ここでは、流れに沿った動きが描き出され、刻々と変化する渓流の妙味が表現されています。

 もっとも、画面左側の赤褐色の地面、そして、画面右側の黒褐色の大きな岩の描き方が粗雑なのが気になりました。観客がもっとも目に留めやすい前景から中景にかけてのモチーフなのにもかかわらず、粗雑に描かれているのです。それが、残念でした。

 好意的に見れば、百武は、渓流の流れを際立たせるために、敢えてその周囲を雑に描いたのかもしれません。とはいえ、雑な印象を拭い去ることはできず、この作品からは、旅先で慌てて描いたスケッチのような印象を受けました。

 橋の上にごく小さく、まるで記号のように、人物が描かれています。これを添えるだけで、単なるスケッチに見えていたものが絵らしくなっているように思えます。

 それでは、次に、《田子の浦図》を見てみましょう。

●《田子の浦図》

 リチャードソン・ジュニアに師事しながら、百武はアカデミーに作品を2点、出品していました。これがその出品作品のうちの一つです。もう一つは、現存していませんが、日本の着物を着せた西洋婦人像で、会場では好評を博したと伝えられています。(※、三輪英夫編『近代の美術 53 百武兼行』、至文堂、1979年、p.2.)

 この作品には、《田子の浦図》というタイトルがつけられており、日本の風景をモチーフにしています。アカデミーに出品する作品の訴求ポイントとして「日本」を意識していたのでしょう。

(油彩、カンヴァス、40.5×55.8㎝、1876年、所蔵先不明)

 穏やかな夕べ、一艘の船が浅瀬に浮かんでいる様子が描かれています。船には3人の男が立っており、そのうち2人は明らかに日本の着物を着ています。一日の仕事を終え、片付け作業をしているのでしょう。日暮れ時の静けさと落ち着きが感じられる作品です。

 後方に見えるのは、富士山でしょうか。典型的な日本の風景です。

 夕空には赤褐色が混じり、その色がそのまま海に映し出されています。その褐色を帯びた空と海に挟まれるように、山並みと一艘の船が描かれています。残照が当たり一面に広がり、やや傾いた帆柱に哀愁が漂っています。

 ロンドンにいながら、なぜ、百武はこのような風景を描くことができたのでしょうか。一瞬、不思議に思いましたが、考えてみれば、「田子の浦」は、古くから和歌の題材になり、浮世絵にも取り上げられてきた名所でした。富士山を望む駿河湾西沿岸にあり、歌枕になるほど、日本人に親しまれてきた景勝地です。「田子の浦」の歌であれ、光景であれ、百武の脳裡に刻み込まれていたに違いありません。

 たとえば、有名な山部赤人の和歌に次のような一首があります。

 「田子の浦に うち出でてみれば白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ」

 これは百人一首の選歌として知られていますが、元はといえば、『新古今和歌集』に収録されたものでした。「田子の浦」は、手前が海、中ほどに三保の松原、その背後に富士山を望むことができる絶景です。

 百武は日本の典型的な景勝地を、アカデミー出品作品の画題に選んでいたのです。もちろん、浮世絵画家がこの恰好の画題を見逃すはずはありませんでした。浮世絵にもいくつか、「田子の浦」は取り上げられています。

 たとえば、葛飾北斎(1760 – 1849)の次のような作品は、『富嶽三十六景』の中に収められています。

(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Shore_of_Tago_Bay,_Ejiri_at_Tokaido.jpg

 この作品のタイトルは「東海道江尻田子の浦略図」です。1830年頃に制作されました。前景に船を配置し、中景に三保の松原を含む集落、そして、後景に雄大な富士山を描いています。メリハリの効いた色遣いで、江戸時代の人々の美意識に適った作品といえます。

 歌川広重(1797 – 1858)もまた、「田子の浦」を画題に描いています。

(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Hiroshige,_The_station_Ejiri_2.jpg

 北斎よりもやや視点を高くして「田子の浦」を切り取った構図です。前景に描かれた浜辺と、後景に描かれた富士山が落ち着いた色合いで描かれており、蛇行する田子の浦に浮かぶ数艘の帆船を優雅に見せています。前景、中景、後景のバランスがよく、縦長の画面を活かした構図になっています。

 当時、景勝地としての「田子の浦」は、和歌や絵によって、大勢の人々に知れ渡っていたのでしょう。百武もこれらの絵を見ていた可能性があります。だからこそ、アカデミーへの出品作品を制作しようとした際、即、「田子の浦」を画題に選んだのだと思います。

 そして、百武は、「田子の浦」に典型的なモチーフである船と富士山を取り込み、《田子の浦図》を描いたのです。残念ながら、受賞はしませんでしたが、油彩画で日本的画題を表現しようとしていたところに、百武の心情が浮き彫りにされているような気がします。

 褐色をベースに色構成をした画面は、夕刻のもの悲しい風情が余すところなく表現されており、興趣ある作品になっています。

 もっとも、作品としては未熟といわざるをえない側面がありました。手前の浅瀬、浜辺の描き方が雑なのが気になりました。画面全体をしっかりと描き込むということに慣れていないように思えます。全般に立体感がなく、平板で、西洋画技法の習得が不十分だという印象を受けました。

■初期作品の特徴

 1876年に制作された百武の三作品を見ていくと、それぞれ画題が異なり、モチーフも違っているのですが、共通する要素がいくつか見られました。ざっくり言うと、次のようにまとめられます。

 すなわち、「水彩画のように見える」「モチーフの捉え方が平板である」「細部の表現が雑である」「塗りムラが見られる」、等々です。

 なぜ、そう思ったのか、見ていくことにしましょう。

 《城のある風景》、《橋のある風景》、《田子の浦図》、どれを見ても、一見、水彩画のように見えました。そこで、まず、なぜ、そう見えたのか、考えてみました。

 作品を見直してみると、いずれの作品も同じ色面が連続していることが多いことに気づきました。このような筆遣いの特徴から、百武はほとんどのモチーフを、絵具を筆に載せ、油を含ませ、線を引くように描いていたのではないかという気がします。

 たとえば、《城のある風景》の場合、中景で描かれた褐色の建物部分、囲いの部分、その後ろの城壁の部分、いずれも絵具を筆に載せ、線を引くように描いているように見えます。だからこそ、色面が均質化し、平板に見えているのではないかと思いました。

 手前の人物表現についても同様です。洋服の袖や影になる部分は濃い褐色をつかっていますが、やはり、線を引くように描かれているので、凹凸感がなく、平板に見えます。

 《橋のある風景》はとくに、その特徴が顕著でした。背後の山々には稜線の描き方に起伏が見られ、多少、立体感が感じられますが、手前の地面や岩の描き方はただ、色を塗っただけのように見えます。おそらく、絵具を載せた筆を画面上を引っ張るように、上下あるいは左右に使っているからでしょう。

 《田子の浦図》の場合、夕暮れ時の光景なので、それほど違和感はありませんでした。シルエットのように見える表現でも不自然ではなかったのです。ところが、手前の浅瀬と浜辺は、陽光を受けて明るいせいか、描き方の平板さ、雑さが際立ってしまいました。

 さて、思いついた箇所を中心に、取り上げてみましたが、「水彩画のように見える」ということは、平板で立体感がないということと関係しており、筆の使い方と深く関連しているのではないかという気がしました。

 水彩画だから平板だというわけでもないのです。

 たとえば、百武の師であるリチャードソン・ジュニアは水彩画家でした。彼の作品を見ると、水彩画でありながら、油彩画と見まがうほど立体的に描かれています。

■水彩画家リチャードソン・ジュニア

 リチャードソン・ジュニアには、《Ben Nevis》(1880年)という作品があります。

(※ https://www.1st-art-gallery.com/Thomas-Miles-Richardson-Jnr./Ben-Nevis.html

 雲や山々、川辺で働く農夫や馬など、どのモチーフをとってもリアリティがあり、見事な表現に驚かされます。水彩画ですが、絵具を一律に塗りこめるのではなく、色面毎に細かく色を変えていることがわかります。

 しかも、空からの陽光の射し込み具合を考えて、影をつけ、明るい部分と暗い部分を描き分けています。だからこそ、手前に描かれた農夫や馬などのモチーフが活き活きと、存在感を持って見えるのでしょう。

 こうして見てくると、百武の初期作品を見て、水彩画のようだと思ったのは必ずしも妥当な判断だったとはいえないことがわかります。リチャードソン・ジュニアのように、西洋画の技法をしっかりと身につけて、水彩画を描けば、このような重厚感のある作品を仕上げることができるということがわかります。

 逆に、百武の初期作品は油彩画でありながら、そうは見えませんでした。西洋画の技法に則って描かれていないので、立体感がなければ、重厚感もなかったのです。

 百武の初期作品にはいずれも、「水彩画のように見える」という共通性がありました。それは、百武がその時点で、西洋画の技法をマスターしていなかったことを意味することになります。

 そして、「モチーフの捉え方が平板である」、「細部の表現が雑である」、「塗りムラが見られる」といった初期作品の共通性についても、実は、百武が、この時点ではまだ西洋画の基本を習得していなかったからだということに帰着します。

 もっとも、油彩画を習い始めてわずか1年余でこれだけの作品を仕上げることができたのは、百武の努力とセンスの良さ、吸収力が関係していたといわざるをえません。もちろん、師であるリチャードソン・ジュニアとの相性がよかったからでもあるのでしょう。

■リチャードソン・ジュニアと百武兼行

 リチャードソン・ジュニアは生前、北イングランドとスコットランドの高地を描いた水彩画、イタリアとスイスの風景を描いた美しいパノラマ画が人気を博し、高値で取引されていました。(※ https://somersetandwood.com/thomas-miles-richardson-junior-returning-home-original-1851-watercolour-painting-jy-551)

 当時、絵を描くだけで生活していくのは大変だったようです。ところが、リチャードソン・ジュニアの作品は多くの人々に好まれ、高値で取引されたというのです。しっかりとした技術を身につけ、ロマン主義的な表現力を発揮していたからこそ、数多くの人々を惹きつけることができたのでしょう。

 Andrew Cobbing氏は、リチャードソン・ジュニアと百武との関係について、次のように記しています。

 「リチャードソン・ジュニアは、イタリアの田舎やスコットランドの高原地方を描くのを好み、百武は彼のお供をして、定期的にスコットランドを訪れていた。1878年に北部ダーラム州に出かけた際には、《バーナード》を描いた」

(※ Andrew Cobbing, THE JAPANESE DISCOVERY OF VICTORIAN BRITAIN, JAPAN LIBRARY, 1998, pp.136-137.)

 リチャードソン・ジュニアは、定期的にスコットランドにスケッチ旅行をしていましたが、百武も一緒に出かけていたというのです。

 ロンドンからスコットランドに行くには、直線で533.3㎞です。当時は交通機関も発達していませんから、少なくとも一週間以上は寝食を共に過ごしていたのでしょう。しかも、スコットランドには定期的に出かけていたようですから、百武がリチャードソンと友好な関係を築き、多くを学んでいたことがわかります。

■リチャードソン・ジュニアとは

 前回はリチャードソン・ジュニアがなぜ、《A Rocky Stream in Scotland》を描いたのか、考えてきました。別人が描いたのではないかと思えるほど、《A Rocky Stream in Scotland》の画面が異質だったからです。モチーフ自体に大きな変化はないのですが、それまでの画風とはまったく異なっていたのです。

 《A Rocky Stream in Scotland》を描く前と描いた後の作品を比較検討してみた結果、当時の美術批評家ラスキン(John Ruskin, 1819 – 1900)の指摘を気にして、この作品を描いたのではないかという結論に至りました。

 ラスキンは《Glen Nevis, Inverness-shire》(1857年)について、次のように評していました。

 「リチャードソンは、徐々に筆遣いが巧みになっており、コバルトとバーントシェンナを快く拮抗させている。しかし彼はいつも、高原の風景を、同じようなモチーフのさまざまな寄せ集めとしか考えていない。それらのモチーフとは、岩だらけの土手であり、ある場所では青く、別の場所では茶色で描かれているものだ。そして、よじれたスコットランドモミの木、シダ、犬、馬に乗っている人などである」(※ https://www.stephenongpin.com/object/790470/0/a-rocky-stream-in-scotland

 ラスキンは、筆遣いや色遣いについては評価していましたが、モチーフや構図については「同じようなモチーフをさまざまに寄せ集めて」描いているに過ぎないとして、難色を示していたのです。

 おそらく、このような指摘が気になって、リチャードソン・ジュニアは、《A Rocky Stream in Scotland》を描いたのではないかと私は推察しました。つまり、リチャードソン・ジュニアはラスキンの批評に発奮して、一生に一度、画風を全く変えてしまうという壮大な実験をしたのです。

 ところ、その後、リチャードソン・ジュニアはこのような画風の作品を描いておらず、これまで通り、同じような画題を同じような画風で描き続けています。革新的な画風に挑むこともなく、手練れの水彩画家として一定の社会的評価を得ており、それで満足していたように思えます。

 リチャードソン・ジュニアは西洋画の技法を確実に身につけ、ロマン主義的な作風の絵を描き続けました。おかげで当時の人々に好まれ、収入も得ることができました。新たな領域に挑戦することもなく、人々のニーズに合わせてひたすら絵を描き、それなりの社会的評価を得て、一生を終えました。

 はじめて油彩画を学ぶ百武兼行にとって、リチャードソン・ジュニアこそ、西洋画の基本技術を学ぶには恰好の師だったのではないかという気がします。(2023/11/30 香取淳子)

百武兼行 ⑤:リチャードソン・ジュニアはなぜ、《A Rocky Stream in Scotland》を描いたのか?

■リチャードソン・ジュニアの作品傾向

 リチャードソン・ジュニアは、峻厳な自然を好んで描き、その中に、人々の生活の一端を点景として添えることを好みました。厳しい自然環境の下、人々が助け合いながら生きている様子を、敢えて、画面に取り込んでいたのです。そうすれば、鑑賞者の気持ちに響くことがわかっていたからでしょう。

 ラスキンが、リチャードソン・ジュニアは、同じテーマの下、同じようなモチーフを使って、繰り返し作品を制作してきたと指摘していたことが思い出されます。

 前回、ご紹介したように、ジョン・ラスキンは、リチャードソン・ジュニアがどの作品にも好んで使ってきたモチーフがあるとし、次のように説明していました。

 「彼はいつも、高原の風景を、同じようなモチーフのさまざまな寄せ集めとしか考えていない。それらのモチーフとは、岩だらけの土手、ある場所では青く、別の場所では茶色で描かれている。そして、よじれたスコットランドモミの木、シダ、犬、馬に乗っている人などである」(※ https://www.stephenongpin.com/object/790470/0/a-rocky-stream-in-scotland

 改めて、リチャードソン・ジュニアの作品を見てみると、確かに、作品全般について、ラスキンが指摘するような傾向が見られました。

 興味深いのは、ほとんどの作品に、犬、馬、人が取り入れられていることでした。荒涼とした風景の中に点景として、それらのモチーフが添えられており、温もりを感じさせられます。

 はっきりとわかるように描かれているものもあれば、よく見なければ風景に溶け込んでしまっているものもあります。

 リチャードソン・ジュニアの作品の多くは、死後、散逸してしまっていますが、残された作品を見ると、描く対象は変わっても、取り上げられるモチーフや描き方が変わることはほぼありませんでした。

 ところが、作品を見ていくうちに、お馴染みのモチーフを使わず、描き方も大幅に異なった作品があることに気づきました。

 岩を全面的に打ち出した作品で、タイトルは、《A Rocky Stream in Scotland》です。

 さっそく、見てみましょう。

■《A Rocky Stream in Scotland》

 この作品を見た瞬間、抽象画かと思ってしまいました。画面がリアルではなく、一見、何が描かれているのかわからなかったのです。

(水彩、鉛筆、厚紙、34.5×84.5㎝、制作年不詳、スコットランド美術館蔵)

 タイトルを見てようやく、この作品が、スコットランドの岩だらけの渓谷を描いたものだということがわかりましたが、それでも、まだ、淡い褐色でベタ塗りされた色彩の塊が岩だとは思えません。

 描かれたモチーフには、物体としての量感がなく、質感もなく、陰影もありませんでした。ただ、マットなバーントシェンナが、画面の随所に、しかも、大量に置かれているだけだったのです。とうてい岩には見えず、せいぜい赤土にしか見えませんでした。

 ラスキンは、リチャードソン・ジュニアが好んで使ってきたモチーフについて、次のように述べていました。

 「岩だらけの土手、ある場所では青く、別の場所では茶色に描かれている土手であり、よじれたスコットランドモミの木、シダ、犬、馬に乗っている人などである」

 ラスキンが指摘する、リチャードソン・ジュニア定番のモチーフが、この《A Rocky Stream in Scotland》には見られなかったのです。

 この作品の中に、定番モチーフがあるとすれば、「岩だらけの土手」あるいは、「茶色に描かれている土手」ぐらいでした。

 この作品では、人間の温もりを象徴するモチーフはカットされ、自然の荒々しさを象徴するモチーフだけが取り上げられていたのです。

 しかも、これまでの作品とは明らかに、表現方法が異なっていました。対象をリアルに描くのではなく、形状をフラットにし、色をマットなものにして、抽象的に表現していたのです。

 それにしても、リチャードソン・ジュニアは、なぜ、この作品を抽象的に表現したのでしょうか。

 改めて、画面を見ると、この作品では、岩や山肌にリアリティがないのはもちろんのこと、渓谷を流れる川もまた、とても川には見えませんでした。白い幅広の線が幾筋か引かれているだけだったのです。川に見えないのも当然でした。

 リチャードソン・ジュニアは、果たして、この作品で何を描きたかったのでしょうか。

■自然界で繰り返される死と生の象徴か?

 興味深いのは、バーントシェンナが、マットな色合いのまま、画面の左右両側から中央に向けて下ってきていることでした。双方がぶつかる辺りの底面に、白い幅広の線が上方に向けて、散るように描かれています。その様子は、大量の赤土に抗うように、流れていく川のように見えなくもありません。

 荒々しい自然の一端が、モチーフの形状によってではなく、マットな色遣いによって、表現されていたのです。バーントシェンナが、岩や山肌や木々を覆い隠すように包み込んでいる様子が印象的です。自然が孕む暴力性を可視化した作品だともいえます。

 その一方で、画面中央付近に散らされた白が、画面に鮮やかさと清涼感を添えていました。棒状に描かれた白はまるで枯れ枝のように見えますし、グラデーションを効かせて帯状に描かれた白は、流れる川の波頭のようにも見えました。

 白を使って、枯れ枝(静)と波頭(動)が強調されていたのです。それは、自然界で繰り返される死(枯れ枝)であり、生(波頭)の象徴でもありました。バーントシェンナで覆われた画面の中で、白が際立っていました。

 無機質な画面の中に、白を加えることによって、静と動の対比が生み出されていたのです。とても斬新な表現方法だと思いました。

 とくに白の使い方に、卓越したセンスが感じられます。

 言い換えれば、バーントシェンナのマットな色調が、画面からリアリティを喪失させ、エッジの効いた白が、アクセントとして画面を息づかせていたのです。それが、鑑賞者の感覚を翻弄し、戸惑わせ、新鮮な感覚を喚起していたように思います。

 ひょっとしたら、この作品の狙いはそこにあったのかもしれません。

 そう思うと、この作品を2枚の厚紙を繋いでパノラマサイズにし、通常よりも横長の画面にしていたことにも納得がいきます。

■なぜパノラマなのか?

 この作品の画面サイズは、34.5×84.5㎝でしたから、縦横の比率は1対2.45です。空すらも見えない、岩だらけの渓谷を描くのに、わざわざパノラマサイズにする必要があったのでしょうか。初めて見たとき、不思議に思いました。

 広い浜辺を描くわけでもなく、広大な山並みを描くわけでもありません。岩だらけの渓谷を描くのに、なぜ、パノラマサイズにする必要があったのか、当初は理解できませんでした。ところが、この作品が、異次元の感覚を喚起することが狙いであったとすれば、このサイズにしたことがわからなくもありません。

 鑑賞者を異次元の世界に誘導するには、抽象的な画面をこのサイズで表現することの意義があったのでしょう。

 彼の作品を出来る限り多く、見てみました。その結果、このような画風で、このようなサイズの作品は、他に見当たりませんでした。まるで別人が描いたのかと思うほど、それまでとは異なっていました。

 リチャードソン・ジュニアにとって、おそらく、これは、最初で最後の作品ではないかという気がします。

 もっとも、ただ一つ、この作品と非常によく似た作品があったことを思い出しました。

 前回、ご紹介した、《Glen Nevis, Inverness-shire 》(1857年)です。

■《Glen Nevis, Inverness-shire 》との類似性

 あくまでも私の直観に過ぎませんが、《A Rocky Stream in Scotland》を見た時、ふと、《Glen Nevis, Inverness-shire 》を制作した直後に描かれた作品ではないかという気がしました。それほど、両作品のモチーフの構成、構図、画面の色構成はよく似ていました。

 たとえば、左右両側の巨大な岩石、横倒しになった枯れ木、川の流れといったモチーフの構成、さらには、バーントシェンナの濃淡で覆われた画面にエッジの効いた白が配置された色構成など、作品を組立てている基本要素が同じだったのです。

 このような基本要素の似かよりを見ると、リチャードソン・ジュニアを創作に駆り立てた発想が同じだったといわざるをえません。

 《Glen Nevis, Inverness-shire 》が1857年に制作されたことはわかっていますが、《A Rocky Stream in Scotland》がいつ制作されたのかは不明です。ですから、どちらが先に描かれたのかはわからないのですが、少なくとも同時期の作品だということはいえるでしょう。

 しかも、先ほどいいましたように、制作時期は、《A Rocky Stream in Scotland》が後のような気がします。それほど間を置かず、《Glen Nevis, Inverness-shire 》の直後に描かれたのではないかと思いました。

 果たして、実際はどうなのでしょうか。それを確認するには、《A Rocky Stream in Scotland》と《Glen Nevis, Inverness-shire 》を見比べ、両作品の相違性をみる必要があるでしょう。

■《Glen Nevis, Inverness-shire 》との相違性

●《Glen Nevis, Inverness-shire 》の構成

 まず、《Glen Nevis, Inverness-shire 》 のモチーフがどのように構成されているかを見てみましょう。

(水彩、紙、84.5×130㎝、1857年、所蔵先不詳)

 左右から、バーントシェンナの濃淡で彩られた岩石が、中央の窪みに向けて迫っています。迫力のある画面に、圧倒されてしまいそうです。画面に慣れてくると、遠方に、まるで緊張した視覚を解きほぐすかのように、コバルトブルーが配されています。そして、差し色のように適宜、散らされた白が快く、目に留まります。

 この作品は、画面中央から上部にかけて空が開けています。ちょうど逆三角形の形で空が構成されており、手前に広がる岩石の重苦しさを緩和する効果が見られます。

 空の部分を青のマーカーで記して見ました。

(※、前掲。青)

 雲が垂れ込めているとはいえ、空にかなりの分量が割かれているので、画面の軽重バランスが取れています。画面サイズは風景を描くのに適したPサイズでした。サイズといい、構成といい、画面には何の違和感もなく、自然の峻厳さが伝わってきます。

 淡い色で描かれているのが、左上の巨岩の上部、中央手前の台地、そして、右手前の巨石でした。それらは、陽光が射し込む地点であり、左上の巨岩から人々や動物がいる地点へと、鑑賞者の視線を誘導する役割を果たしていました。

 該当部分を黄色マーカーで記して見ました。

(※、前掲。青、黄色)

 鑑賞者は淡い色に誘導されて、まず、後景の淡い色の雲を見、次に、左上の巨岩を見、そして、中央手前にいる人々や動物に視線を移動させるでしょう。そこで、荒々しい渓谷の中に展開される生活の一端を見るのです。

 黄色のマーカーで図示したように、人々や馬や犬がいる場所は平坦なので、安定感があります。その背後には、白い枯れ木が倒れ掛かっており、不安定な造形物が添えられています。ここでの生は、死と隣り合わせであることが示されています。

 こうして見てくると、《Glen Nevis, Inverness-shire 》は、自然の暴力性を強調して見せようとしているように思えます。峻厳な自然の中に、人々や動物の平和な姿を組み込むことによって、それを可視化していました。巨岩や枯れ木などのモチーフによって、鑑賞者の想像力を刺激し、感情に訴えるストーリーを紡ぎ出していたのです。

 
 《Glen Nevis, Inverness-shire 》 には、しっかりとした構造の下で組み立てられた作品世界がありました。鑑賞者を惹きつける魅力はあると思いました。

 それでは、《A Rocky Stream in Scotland》はどうでしょうか。


●《A Rocky Stream in Scotland》の構成

 まず、この作品にはリチャードソン・ジュニアお定まりのモチーフがます。犬や馬、人といった定番のモチーフが取り入れられていないのです。これまで、画面に温もりや安らぎをもたらしていたモチーフが欠けており、自然の猛々しさがもろに画面に表出してしまっています。

 そのせいか、画面には、息詰まるような圧迫感があります。

 しかも、この作品では、多くの部分が赤土のように見えるバーントシェンナで覆われています。辛うじて、空に見える部分が上部にわずかに描かれています。青マーカーで囲ってみました。

(※ 前掲。青マーカー)

 空のように見えるとはいいながら、あまりにも面積が小さいので、明るさが足りず、画面を覆うバーントシェンナが与える緊張感を緩和する役割を果たしていません。

 この作品で、圧倒的な分量を占めているのが、赤土にも見える
バーントシェンナ です。そこから所々、姿を見せているのが、岩石です。質感も量感もなく、もちろん、陰影もありません。ひたすらマットなバーントシェンナが画面を覆っているだけです。

 しかも、《A Rocky Stream in Scotland》 は、2枚の厚紙を繋ぎ、パノラマサイズで描かれていました。現実離れしたシュールな世界が広がっていたのです。

●画面サイズ

 一方、《Glen Nevis, Inverness-shire 》の画面サイズは、84.5×130㎝ですから、縦横比は1対1.538です。風景画によく使われるPサイズの縦横比が1対1.414で、海景が1対1.618です。風景よりもやや横幅が広く、海景よりはやや狭いといったサイズです。

 両者を比較するには、画面サイズを統一する必要があるでしょう。

 そこで、《A Rocky Stream in Scotland》の画面サイズに合わせ、類似性の高い部分を残して、《Glen Nevis, Inverness-shire 》の画面上部を切り取ってみました。大きく変化したのが、空の部分なので、そこを青のマーカーで囲ってみました。 

(※ 前掲。青)

 空の大部分が欠落することで、《Glen Nevis, Inverness-shire 》の印象は大きく異なりました。画面に余裕がなくなり、緊張感だけが残ります。改めて、空という余白部分がいかに大きな役割を果たしていたかがわかります。

 変更前のオリジナルと比べると、《Glen Nevis, Inverness-shire 》をサイズ変更すると、作品として成立しなくなってしまうことがわかります。遠近感が崩れてしまうのです。

 空の部分を切り取って、余白が少なくなった結果、鑑賞者が画面を見て、想像力を羽ばたかせる余地が少なくなったからでしょう。改めて、風景画には、鑑賞者が自由に想像力を広げられるだけの余白が必要なのだということを感じさせられました。

 一方、《A Rocky Stream in Scotland》は、具体的に描かれていないので、空の部分が少なくても気になりません。もともと、遠近の概念が画面に持ち込まれていないからでしょう。

 両作品を比較し、類似性と相違性をみてきました。改めて、同じ発想で描かれた作品だということがわかります。空の配置、背せり立つ巨岩で囲まれた渓谷の位置づけ、等、構図はほとんど同じでした。

 リチャードソン・ジュニアは、同じ場所を、同じ色構成、同じ構図で描いていたのです。両作品の大きな違いが、モチーフの描き方であり、色調、筆遣い、画面サイズでした。

■なぜ、《A Rocky Stream in Scotland》を描いたのか?

 《A Rocky Stream in Scotland》では、モチーフの形状は簡略化され、境界線もなく、それぞれ、色が置かれているだけでした。陰影も量感も質感もなく、フラットな状態で描かれていました。

 《Glen Nevis, Inverness-shire 》を見ていなければ、具体的なものをイメージすることはできなかったでしょう。それほど、描かれたモチーフにリアリティはなく、抽象的な描き方に終始していました。

 では、なぜ、リチャードソン・ジュニアは、このような作品を描いたのでしょうか?

 考えられるのは、ラスキンの評です。

 ラスキンは《Glen Nevis, Inverness-shire 》(1857年)について、次のように評していました。

 「リチャードソンは、徐々に筆遣いが巧みになっており、コバルトとバーントシェンナを快く拮抗させている。しかし彼はいつも、高原の風景を、同じようなモチーフのさまざまな寄せ集めとしか考えていない。それらのモチーフとは、岩だらけの土手であり、ある場所では青く、別の場所では茶色で描かれているものだ。そして、よじれたスコットランドモミの木、シダ、犬、馬に乗っている人などである」

(※ https://www.stephenongpin.com/object/790470/0/a-rocky-stream-in-scotland

 ラスキンは、筆遣いや色遣いについては評価していましたが、モチーフや構図については「同じようなモチーフをさまざまに寄せ集めて」描いているに過ぎないとして、難色を示していたのです。

 おそらく、このような指摘が気になって、リチャードソン・ジュニアは、《A Rocky Stream in Scotland》を描いたのではないかと思うのです。

 実際、《A Rocky Stream in Scotland》では、《Glen Nevis, Inverness-shire 》の色構成、色遣いはそのままにし、定番モチーフのいくつかを大幅にカットして描いていました。

 また、画面全体をマットな色遣いにし、平板なタッチに変えていました。ラスキンから、筆遣いや色遣いについては向上したと評価されていたからでしょうか、敢えて、それまでのやり方を変えているように見えました。

 前回、ご紹介したように、ラスキンは、風景画には自然に対する両義性が必要だと考えていました。そして、次のように述べています。

 「形態の真実だけではなく、印象の真実があり、物質の真実だけではなく思想の真実がある。そして、印象と思想の真実は、両方の内で何千倍も重要な真実である。それゆえ、真実は普遍的に適用される用語であるが、模倣は有形の事物だけを認容する狭い芸術分野に限られる」(※、ジョン・ラスキン、内藤史朗訳、『芸術の真実と教育』、2003年、法蔵館、p.29)

 こうしてみてくると、リチャードソン・ジュニアがなぜ、《A Rocky Stream in Scotland》を描いたかの理由がわかるような気がします。

 おそらく、ラスキンの批評がとても気になっていたのでしょう。

 ラスキンは当時、新進気鋭の美術評論家として名声を確立していました。そのラスキンの批評に応えようとして、リチャードソン・ジュニアはこの作品を描いたのでしょう。

 当時、リチャードソン・ジュニアは44歳でした。水彩画界では、一通り名の知られた画家になっていました。

 その彼が、《A Rocky Stream in Scotland》で、大きな冒険をしていたのです。

 印象的なのは、左右両側からの岩だらけの斜面がぶつかる底面に、川が流れている構図です。《Glen Nevis, Inverness-shire 》では、その様子がリアルに描かれていました。その同じ場面を、《A Rocky Stream in Scotland》では、敢えて象徴的に描き、自然の暴力性を表現していました。

 ラスキンがいうように、自然を忠実に模倣するのではなく、画家がその自然を観察し、考えを重ねた結果を表現していたのです。荒々しく、寂寥感のある自然の中に、煌めく一抹の清涼感を表現することが出来たのではないかと思います。

 画期的な表現でしたが、当時の社会ではなかなか受け入れられなかったのでしょう。リチャードソン・ジュニアの自己変革の姿勢は続きませんでした。

 その後、制作された作品は見る限り、いずれもこれまでの画風に戻っていました。

 たとえば、1875年に制作された、《Eagle Crag and Gate Crag, Borrowdale, Cumberland》という作品があります。

■ 《Eagle Crag and Gate Crag, Borrowdale, Cumberland》 (1875年)

 この作品では、ラスキンが指摘していた定番モチーフが使われています。

(水彩、ボディーカラー、鉛筆、紙、55.5×86.0㎝、1875年、ニューサウスウェールズ州立美術館)

 画面の右手前に、岩だらけの山を切り開いた道を下ってくる人々がいます。岩と似たような色で描かれているので、よく見なければわかりませんが、犬がおり、手前に見えるのは、馬に乗っている男の姿です。

 もう少し、近づいてみましょう。

(※ 前掲。部分)

 子どもを胸に抱えた男が馬に乗ったまま、身体を傾け、傍らを歩く女性に話しかけています。女性は手に大きな荷物を抱え、男の方に顔を向けています。遠目からは家族に見えます。その手前を犬が歩いており、まるで彼らを先導しているかのようです。

 よく見ると、その後にも、馬や人々や荷車のようなものが続いているのがわかります。こちらはさらに色は周囲と同系色で、形状もはっきりとしていません。ほとんど岩山に溶け込んでしまっています。

 色彩の面でも、形態の面でも、自然と一体化して生きる人々が捉えられています。モチーフをこのように表現することによって、厳しい自然環境の下、寄り添うように生きる人々の姿が、鮮明に印象づけられます。

 この作品もまた、背後に巨大な岩山、手前には、山道の開けた場所が設定されています。陽光が射し込む中に犬や馬、人々が配置されており、生活感あふれる構図です。ストーリーが感じられる組立てになっており、鑑賞者が理解しやすい画面になっていました。

 百武兼行がリチャードソン・ジュニアから油彩画の手ほどきを受けはじめたのは、1874年でした。ちょうど、《Eagle Crag and Gate Crag, Borrowdale, Cumberland》が描かれていた頃です。

 依然として、定番のモチーフを使い、鑑賞者の情感を誘う画面構成にも変化はありません。荒涼とした自然を取り上げ、その点景として人物を配する構図もこれまで通りでした。

 この作品を描いたのが、リチャードソン・ジュニアが62歳の時です。もはや変わりようがなかったのかもしれません。

 果たして、百武はリチャードソン・ジュニアから何を学んだのでしょうか。ふと、気になってきました。(2023/10/4 香取淳子)

百武兼行 ④:百武の師、リチャードソン・ジュニアはどんな画家だったのか?

■百武、リチャードソン・ジュニアから油彩画を学ぶ

 百武がロンドンに滞在していた頃の作品は、油彩画13点、水彩画1点でした。これらの中で人物を中心に描いた作品はきわめて少なく、現存しているものの中では、前回、ご紹介した《母と子》だけでした。

 中には人物を点景として添えられた作品もありますが、風景の比重が高く、すべてが風景画といえるものでした。

 おそらく、百武が師事していた画家が、風景を専門とするトーマス・マイルズ・リチャードソン・ジュニア(Thomas Miles Richardson Jr., 1813-1890)だったからでしょう。

 果たして、百武はロンドンで、どのぐらい絵を描いたのでしょうか。

 百武がロンドン滞在中に描いた作品を見ると、画面に制作年が描き込まれているのは、油彩画7点、水彩画1点でした。最も早いのが1876年で4点、他の4点はいずれも1878年です(※ 三輪英夫編『近代の美術53 百武兼行』、至文堂、1979年、p.33.)。

 公務で忙しかったにもかかわらず、1876年と1878年に集中して制作していたことがわかります。

 百武は1874年に油彩画を学び始めていますから、1876年といえば、ちょうど油絵の描き方を一通りマスターした段階です。この期間に制作点数が多いのは、学んだばかりの技術を確実なものにするため、さまざまな画題の下で、実践していたのでしょう。

 私は単純にそう思ったのですが、三輪氏は別の見解を示しています。

 百武が1876年に数多く制作していたことについて、三輪氏は、「明治八年の末か九年の春には、アカデミーに絵を出品する」という、『光風』での記述と合致すると述べているのです(※ 前掲)。

 『光風』に掲載された「百武伝」に、「アカデミーに絵を出品する」という記述があったことから、三輪氏は、この時期、百武が数多くの作品を制作したことはアカデミーに出品するためだったと解釈しているのです。

 アカデミーに出品したとされているのが、《田子の浦図》と《日本服を着た西洋婦人像》です。タイトルからはどうやら、いずれも日本的要素を織り込んだ作品のようです。三輪氏によれば、《日本服を着た西洋婦人像》は好評を博したそうですが、残念ながら、紛失しており、現在は見ることができません。

 受賞できなかったとしても、油彩画を学び始めて間もない百武が、アカデミーに出品しようとしていたことには驚きました。油彩画を学ぶ機会を与えられたからには、それなりの結果を示さなければならないという思いだったのでしょうか。

 ちなみに、百武が師事していたリチャードソン・ジュニアは、1832年から1889年の間、ロイヤル・アカデミーその他に出品し続けていました。制作すれば、発表し、出来栄えを世に問うのは、画家として当然のことだったのです。

 師を見倣って、百武もまた、アカデミーに出品しようとしていたのかもしれません。

 それでは、百武にとってリチャードソン・ジュニアは、どのような師だったのでしょうか。まずは、リチャードソン・ジュニアの画家としての来歴を見ておくことにしましょう。

■リチャードソン・ジュニアの来歴

 リチャードソン・ジュニア(Thomas Miles Richardson Jr. , 1813-1890)は、トーマス・リチャードソン(Thomas Miles Richardson Sr. ,1784-1848)の三男として、ニューカッスルで生まれました。

 風景画家であった父の指導を受け、リチャードソン・ジュニアは、地元ニューカッスルで画家としてのキャリアをスタートさせています。はじめて展覧会に出品したのは、14歳の時でした。その後も描き続けて、技術を磨き、次第に才能を開花させていきました。1830年代には、水彩による風景画は高く評価されるようになり、商業的にもかなりの成功を収めるようになっていました。

 こうして地元で活躍する一方、リチャードソン・ジュニアは、英国協会とロンドンのロイヤル・アカデミーにも、作品を送り続けていました。権威付けが欲しかったのかもしれませんし、活動の舞台が地元ニューカッスルだけでは物足りなかったのかもしれません。いずれにしても、このことからは、画家として生きていく決意を固めていたことがわかります。

 彼が好んで描いたのが、イングランド北東部、あるいは、スイスやイタリアのアルプス地方の景色でした。そのような高原の風景を求め、国内、国外を問わず、さまざまな場所に旅行しました。1837年には、フランス、スイス、イタリア、ドイツ、オランダを旅行し、それぞれの景色をスケッチしています。

 1838年にはそれらのスケッチをまとめ、26枚の図版で構成された『大陸のスケッチ』(“Sketches on the Continent”)というタイトルの大型画集を出版しています。図版のうち11枚は、彼自身が制作したリソグラフでした。(※ https://www.stephenongpin.com/artist/236675/thomas-miles-richardson-jr

 リチャードソン・ジュニアにとって初めての画集、『大陸のスケッチ』は、A Ducotes & C. Hullmandells Lithographic Practicals で印刷されました。56×38cmの大型本で、再版はされなかったようです。(※  https://www.mountainpaintings.org/T.M.Richardson.html

 その『大陸のスケッチ』に収められた作品の一つが、大英博物館に所蔵されています。

 タイトルは《Ascending the Gt St Bernard》です。

(リソグラフ、紙、26×35.4㎝、1838年、大英博物館蔵)

 伸びやかな筆の動きが印象的な作品です。背後に見える山並みは、まるで水墨画かのように淡く、稜線だけがくっきりと描かれています。画面中央には、二人の人物と馬が配されていますが、その周囲は無彩色で表現されています。そのせいか、画面全体に落ち着きと静謐さが感じられます。抽象的で、しかも、柔らかな風景表現に、日本の水墨画との親和性が感じられます。

 この作品は、次のように説明されていました。

 「道に二人の人物が描かれている山の風景。一人は馬に乗り、もう一人は馬から降り、杖を手に、足には犬を連れて馬の横に立っている。 リチャードソンの「大陸のスケッチ」より。」(※ https://www.britishmuseum.org/collection/object/P_1959-0411-15

 画集の説明書きをそのまま引き写したものなのでしょうが、あまりにも素っ気なく、即物的な説明です。

 背後に連なる山並みの表現には、風景画家としてよく知られたターナー(Joseph Mallord William Turner、1775 – 1851)に通じるところもないわけではありませんが、全般に、淡白で、優しく柔軟な印象があります。その一方で、空白が多く、省略の多い表現が際立っており、西洋画にはあまり見られない画風です。

 当時の評論家はこの作品を見て、どう説明したらいいか戸惑ったに違いありません。それほどこの作品には、西洋画にはない柔らかさ、そして、融通無碍な雰囲気がありました。旅行先で見たまま、感じたままを即興で描いたせいか、このスケッチには、筆運びに勢いと伸びやかさがあり、気の流れが感じられます。

 なぜ、この作品は東洋的な味わいのある画風なのでしょうか。それが気になって調べてみると、リチャードソン・ジュニアの兄、ジョージ・リチャードソン(George Richardson, 1808-1840)に、似たような印象の作品がありました。

 タイトルは《North Shore, Newcastle upon Tyne》です。

(エッチング、シート、サイズ不詳、制作年不詳、所蔵先不詳)

 リチャードソン・ジュニアの長兄ジョージもやはり画家を志しており、地元の名簿に「歴史と風景の画家」と自ら宣伝していたほどでした。18歳になると、人物画、風景画、動物画を絵画クラスで教えるようになっており、その後、弟であるリチャードソン・ジュニアと共に、ニューカッスルで美術教室を開いています。(※ https://www.saturdaygalleryart.com/george-richardson-biography.html

 こうしてみてくると、リチャードソン・ジュニアは、風景画家である父親ばかりか長兄からも、絵画的刺激を受け、指導を得られる環境にいたことがわかります。

 それでは、再び、リチャードソン・ジュニアの作品に戻ることにしましょう。

 初期作品を見ていくと、リチャードソン・ジュニアにはしては珍しく、油彩画が残されていました。《Highland Lake Scene》というタイトルの作品で、《Ascending the Gt St Bernard》の2年ほど前に制作されています。

■油彩画

 それでは、リチャードソン・ジュニアの油彩画、《Highland Lake Scene》を見てみることにしましょう。

(油彩、ボード、25×38.1㎝、1835年頃、Laing Art Gallery蔵)

 背景の山並みの描き方が、先ほどの《Ascending the Gt St Bernard》にとてもよく似ています。油彩とリソグラフというメディアの違いがありますが、山が霧にけぶる様子をしっとりと描き出している点では共通しています。

 淡く、優しい色で稜線を柔らかく表現し、山と山の狭間は白を加えて暈し、空気遠近法を巧みに取り込んでいるのが印象的です。

 手前から中央にかけて、静かな湖面を描き、手前中央に水辺の草むらを配し、その右側に数頭の牛と牛飼いが描かれています。風景画の中にさり気なく、人々の生活シーンが取り入れられています。

 引いて見ると、牛飼いや牛は濃い褐色か淡い褐色で描かれているので、風景の中に溶け込んで見えます。人や動物が描かれているのですが、風景の一部として組み込まれてしまっています。

 ここにリチャードソン・ジュニアの人間観、自然観が浮き彫りにされているように思えました。人も動物も草木も岩も皆、大自然の一部なのです。

 さて、一般に、風景に適したカンヴァスサイズはPサイズといわれ、その縦横比率は1対1.51です。一方、この作品の縦横比率は、1対1.524ですから、ほぼPサイズだといえます。この作品が、風景画として安定感のあるサイズの中に収められていることがわかります。

 制作されたのが1835年、リチャードソン・ジュニアがまだ22歳の頃の作品です。ところが、構図といい、配色といい、油彩でありながら、堅苦しくなく、優しく柔らかく、まるで熟達した画家のように洗練された表現が印象的です。

 この作品にはすでにリチャードソン・ジュニアの独自性が浮き彫りにされています。

 画面には、油彩画ならではの重量感の中に、水彩画のような柔軟性が混在しており、興趣のある作品になっていました。伸びやかな筆遣いには、水彩との親和性が感じられます。この作品を見て居ると、リチャードソン・ジュニアの絵の才能は明らかに、水彩画領域にあるように思えてきます。

 水彩画家としての評価を高めていきながら、リチャードソン・ジュニアは、兄であり、画家仲間でもあるジョージとともに、地元ニューカッスルで美術教室を開催し、運営していました。

 それでは、再び、リチャードソン・ジュニアの来歴に戻ることにしましょう。

■旧水彩画協会(OWCS)の会員に推挙

 1843 年、彼は、「旧水彩画家協会」(Old Water-Colour Society:OWCS) の会員に選出されました。生来の天分に加え、これまでの地道な努力が認められたのです。

 OWCSは、1804 年にウィリアム・フレデリック・ウェルズ(William Frederick Wells)によって設立された水彩画家協会です。1812 年には、油彩・水彩画家協会として改組され、その後、1820 年には水彩画家協会に戻りましたが、1831 年に分裂し、新水彩画家協会という別のグループが設立されました。

 それを機に、1804 年に設立された方は旧水彩協会、あるいは単にオールド ソサエティといわれるようになり、新水彩画協会とは区別されるようになったのです。

 その後、ジョン・ギルバート卿(Sir John Gilbert ,1817 – 1897)が会長だった1881 年に、王立水彩画家協会として王室憲章を取得しました。そして、1988 年には、王立水彩協会(the Royal Water-colour Society)に再び名称変更したという経緯があります。(※ https://en.wikipedia.org/wiki/Royal_Watercolour_Society

 このような経緯を見てもわかるように、OWCSは当時、権威のある水彩画家の団体でした。その団体から、リチャードソン・ジュニアは1843年、会員として選出されたのです。30歳の時です。快挙といわざるをえません。

 水彩画家としての栄誉にあずかったリチャードソンは、3年後の1846年、ロンドンに移住しました。さらなる飛躍を求め、活動拠点をニューカッスルからロンドンに移したのでしょう。

 リチャードソン・ジュニアは、1851 年にはOWCS の正会員になり、以後、77歳で亡くなる、その前年まで、毎年、夏と冬には同協会の展覧会に出品していました。最終的には 700 点を超える水彩画を展示していたそうです。

 彼にとって、生きることは各地を旅行し、旅先の風景をスケッチすることでした。スコットランドやイングランド北部、そしてヨーロッパ各地を広範囲に旅行し、気に入った風景を描き、表現力を向上させていきました。

 さまざまな場所を訪れ、精力的にスケッチしては作品化し、その成果を展覧会で発表していたのです。その都度、画題に相応しい表現方法を探り、試行錯誤を重ねながら、水彩画の奥義を究めていきました。

 名実ともに水彩画家として生き、天分を存分に開花させて、リチャードソン・ジュニアは、画家人生を終えたのです。

 風景画家として生きたリチャードソン・ジュニアが追いかけていた画題の一つが、スコットランドにあるベン・ネビス山でした。

■ベン・ネビス山

 ベン・ネビス山は、ハイランド地方ロッホアバー地区に連なる、グランピアン山地の西端に位置し、イギリス諸島の最高峰です。スコットランドの山々の中でも、特に、その知名度は高く、地元住民や登山家の間では、「ザ・ベン」として知られています。

 現在、ベン・ネビス山への登山者は、年間10万人にものぼっていますが、その4分の3は、ふもとのグレン・ネビスから山の南斜面を進む、「ポニー・トラック」から登るといわれています(※ Wikipedia)。

 「ポニー・トラック」は、ベン・ネビス山に登る登山道の一つです。リチャードソンが訪れた頃、人々はもっぱらこの登山道を利用していました。ポニー・トラックは、グレン・ネビスの東側にある海抜20メートルのアチンティーからスタートします。

 この登山道は、そもそも、仔馬が天文台に食糧を運ぶための道として作られました。無理なく歩行できるように、この登山道は、ジグザグ道にし、勾配を緩やかにする工夫がされています。

(※ http://ben-nevis.com/walks/mountain_track/mountain_track.phpより)

 これは、頂上から見た写真ですが、ジグザグ道のおかげで勾配が緩やかになっているのがわかります。周囲には岩が多く、荒涼とした光景です。

 草木の生えた場所もありますが、ベン・ネビス山の頂上に近づいていくにつれ、登山道は岩と小石だらけになります。

(※ http://ben-nevis.com/walks/mountain_track/mountain_track.phpより)

 このような険しい地形の風景をリチャードソン・ジュニアは好んで描いていました。

 初期の頃は、風景画に適したPサイズで描いていましたが、やがて、パノラマサイズで横長に描くようになっています。高原や山地、湖畔など、広がりのある大自然の魅力を余すところなく表現できるよう、リチャードソンは、作品ごとに工夫していました。

 
 ベン・ネビス山 関連の作品の一つが、《Glen Nevis, Inverness-shire 》です。

 ベン・ネビス山の麓のグレン・ネビスを描いた作品で、OWCSの展覧会に出品されました。

■リチャードソン・ジュニアの作品を評したジョン・ラスキンとは?

 美術評論家のジョン・ラスキン(John Ruskin, 1819- 1900)は、1857年にリチャードソン・ジュニアが OWCSの展覧会に出品 した作品《Glen Nevis, Inverness-shire 》を評し、次のように述べています。

 「リチャードソンは徐々に表現力を身につけてきている。コバルト(青)とバーントシェンナ(茶色)を拮抗させて、とても気持ちのいい画面にしている」(※ https://www.stephenongpin.com/object/790470/0/a-rocky-stream-in-scotland

 まるで以前からリチャードソン・ジュニアを知っているかのような言い方です。実際に知り合いであったかどうかはわかりませんが、少なくとも、作品については知っていたのでしょう。作品の出来栄えの変化を通して画家としての進歩を認めていますから・・・。

 ジョン・ラスキンは、リチャードソン・ジュニアとほぼ同時期に生きた美術評論家であり、芸術家のパトロンでした。

 オックスフォード大学を卒業した後、長期滞在のためジュネーブを訪れました。そこで手にした雑誌にターナーの批判記事が掲載されているのを見て憤慨し、ターナー擁護のために論文を書きました。それらをまとめて、1843年に出版したのが、『近代画家論』第1巻(Modern Painters, vol.1)でした。

 出版の契機となったのは1843年ですが、オックスフォードの学生時代に、ラスキンはこの本を構想しており、実際に書き始めてもいました。ターナーの独創的な構想力に着目していたのです。

 当時のターナー(Joseph Mallord William Turner,1775- 1851)は、イギリスを代表する風景画家として一定の評価を得ていました。ところが、一部の批評家からは、彼の風景画は自然に忠実ではないと批判されていました。批判内容は、色彩の面でも、地形的な表現の面でも、明らかに自然の姿に忠実ではないというものでした。つまり、真実の姿を描いていないという批判です。

 それらの批判に対し、ラスキンは、「真実は自然の対象に忠実であると同時に、自然を描く画家の観念にも忠実であるのだという、いわば、真実の両義性を根拠に、半ば強引に自然に忠実なるターナー像を主張して」擁護したと、橘高彫斗氏は指摘しています。

(※ 橘高彫斗、「ラスキン『近代画家論』第一巻における風景画鑑賞と享受の過程」、『美学』第71巻1号、2020年6月30日、p.25.)

 ちょっとわかりにくいですが、ラスキンは、画家が自然の対象に忠実だということは、一般に、自然をありのままに表現することと捉えがちですが、実は、自然を見る画家の「思考と印象」にも忠実であるべきだと指摘していたのです。

 風景画には、自然に対する両義性が必要だとラスキンは考えていました。ところが、ターナーを批判する人々のほとんどが、その片側しか見ておらず、自然を見る画家の「思考と印象」についての側面を見落としているというのです。

 描かれた画面を表層的に見るだけで、その真意を汲み取ろうとしないから、ターナーを誤解し、批判するのだとラスキンは考えていました。

 風景画の芸術的価値は、自然を単に表層的になぞるだけではなく、画家が自然を見て感じ、内省した心のあり様が画面に反映されていなければならないと、ラスキンは考えていたのです。そのような側面があるからこそ、鑑賞者の心を動かし、感銘を与えるというのです。

 ターナーを擁護するためとはいえ、ラスキンは、深い学識と経験、直観力に基づき、風景画のあるべき姿を論理的に組立てていました。

 そのラスキンが、《Glen Nevis, Inverness-shire 》(1857年)を見て、「表現力を身につけてきている」と評したのです。ラスキンは、以前からリチャードソン・ジュニアの作品に注目していたのでしょう、だからこそ、この作品に進歩の痕跡を見ることができたのだと思います。

『近代画家論』第1巻で、絵画に対する緻密な観察力と考察力を見せたラスキンは、たちまち美術評論家として成功を収め、その後、『ヴェネツィアの石』(The Stone of Venice, 1851-1853)を出版してからは、美術評論家として不動の地位を築きました。

 それでは、ラスキンが評した作品、《Glen Nevis, Inverness-shire 》を見てみることにしましょう。

■《Glen Nevis, Inverness-shire 》に見る、コバルトブルー、バーントシェンナ、そして、白

 ネビス山の麓にあるのが、グレン・ネビスです。そのグレン・ネビスの渓谷が描かれています。

(水彩、紙、84.5×130㎝、1857年、所蔵先不詳)

 やや高みから、グレン・ネビスの渓谷を展望した作品です。両側にごつごつした岩肌が見え、その隙間に白く塗られた枯れ木が何本か見えます。自然の険しさを感じさせられる光景です。

 左右から、バーントシェンナの濃淡で彩られた岩石が、中央の窪みに向けて迫っています。迫力のある画面に、圧倒されてしまいます。画面に慣れてくると、遠方に、まるで緊張した視覚を解きほぐすかのように配されたコバルトブルーが見えます。そして、手前には、差し色のように適宜、散らされた白が目に留まります。

 確かに、ラスキンが指摘するように、この作品で目立つのはバーントシェンナ、コバルトブルー、そして、白でした。

 褐色や焦げ茶色など、バーントシェンナの濃淡で覆われた岩山の背後に、微かにコバルトブルーの空が見えます。大量の岩山の色とわずかな空の色とが緊張感を保ちながら、画面に一種のハーモニーを奏でていました。

 補色関係にある二つの色を、分量に大きな差をつけて配分し、色相差で対立させて緊張を生み出す一方、分量の多寡によってバランスを図っているように思えます。緊張とバランスの塩梅が絶妙でした。

 遠方を見れば、淡いバーントシェンナで色づいた濃淡の雲が、青い空の上を軽く覆いかぶさっています。その狭間には、コバルトブルーが、申し訳なさそうにそっと置かれています。その結果、ごくわずかのコバルトブルーが、バーントシェンナの濃淡で覆われた岩山を息づかせ、密やかな躍動感を与えていたのです。

 岩で覆われた単調な渓谷を、巧みな色構成でメリハリをつけ、軽やかな筆遣いで、活き活きと描き出していました。

 この作品を評し、ラスキンは、「コバルトとバーントシェンナを拮抗させて」と表現していました。画面の造形上のコントラストをさらに劇的に見せているのは、絶妙な色構成の効果だと言いたかったのかもしれません。

 白の使い方の巧みさにも触れておく必要があるでしょう。

 青空を覆い隠す淡いバーントシェンナで表現された厚い雲、そして、その狭間にごくわずかに置かれた白が、背後から射し込む陽光を表すとともに、画面に明るさを添え、快さを感じさせてくれます。

 背後の山波の稜線にも、見え隠れするように白が置かれ、それらは雲のようであり、光の反射面のようにも見えます。単調になりがちな渓谷の風景が、エッジの効いた白の使い方で画面が引き締めら、興趣あるものになっています。

 画面手前には、枯れ木や馬、人の衣服が、白でアクセントをつけて、描かれています。渓谷で暮らす人々の生活の一端が、さり気なく表現されていました。色彩によって振り分けられた硬軟の塩梅が絶妙でした。

■モチーフの組み合わせ

 ジョン・ラスキンは、リチャードソン・ジュニアが好んで使ってきたモチーフに触れ、それらが、《Glen Nevis, Inverness-shire 》の中でも使われていたとし、次のように説明しています。

 「彼は常に、高原の風景を、同じモチーフを様々に組み合わせて描いているが、それはメドレーに過ぎない。同じモチーフとは、岩だらけの土手、ある場所は青く、別の場所は茶色になっている土手であり、よじれたスコットランドモミの木、シダ、犬、馬に乗っている人などである」

 画面をよく見ると、手前に、人や馬が描かれています。まず、岩山の開けた場所に、腰を下ろして語り合っている二人がいます。その傍らで犬がまるで見張っているかのように、顔をこちらに向けています。そして、語らう二人の近くには、男が一人、背を向けて立っており、その傍らで白い馬が草を食んでいます。

 険しい岩山の中に訪れた安らかなひと時であり、憩いのひと時が表現されているのです。寄り添って集う人や動物が、軽やかなタッチで描かれているところに、生命あるものの温もりが感じられます。

 一方、彼らの周囲を取り巻く、剥き出しになった岩肌は、いかにも荒々しく、強靭でした。そんな中、白い枯れ木が今にも倒れそうになっている様子が描かれています。エッジの効いた白が、辺り一帯に漂う荒涼とした雰囲気をさらに強化していました。

 人や動物が休息している場所と、その周囲の殺伐とした光景との対比が、なんともドラマティックです。そのコントラストが、画面に緊張感をもたらし、興趣を添えていました。

 ラスキンは、そのような画面の状況を、次のように評していました。

 「そのようなモチーフ全体が、さまざまな原酒をブレンドして作ったシャンパンが醸し出す陽気さの影響を受け、快く、楽しいものになるよう企図されている」と述べているのです。(※ https://www.stephenongpin.com/object/790470/0/a-rocky-stream-in-scotland

 実際、リチャードソン・ジュニアが描く初期作品のモチーフは、どれもほぼ決まっていました。モチーフの組み合わせに変化をもたせ、作品としての独自性を打ち出す一方、それらのモチーフのハーモニーによって、観客にとっての快さを演出していたのです。

 もっぱら峻厳な自然をテーマに描いてきたリチャードソン・ジュニアだからこそ、人や馬、犬といったモチーフを必要としていたのでしょう。それらのモチーフは画面の中で相互に絡み合って、自然の過酷さの中に、ほっとした安らぎをもたらしていました。画面に漲る緊張を、いくばくか緩和させる機能を果たしていたのです。

(2023/9/27 香取淳子)

 

百武兼行 ③:ロンドン時代の人物画、《母と子》について考える。

 前回、ご紹介しましたように、百武兼行(1842 – 1884年)がロンドンで描いた作品のほとんどが風景画でした。師事したのが風景専門の画家だったからです。ところが、唯一、人物を描いた作品が残されていました。

 それが、《母と子》です。

 どのような作品なのか、まずは画面を見てみることにしましょう。

■《母と子》(1878年)

 この作品は、《バーナード城》と同じ、1878年に描かれました。ロンドン時代に描かれた唯一の人物画です。

(油彩、カンヴァス、112×85㎝、1878年、有田工業高校)

 子どもを背負い、山道を歩いてくる女性の立ち姿が、画面中央に描かれています。山の頂上付近なのでしょうか、踏み固められた土が平らになって、道となったような山道です。その周辺一帯には、穏やかな陽射しが降り注ぎ、のどかな山村生活の一端がしのばれます。

 母子の傍らには、白とこげ茶のぶち犬が、まるで見守ってでもいるかのように、寄り添って歩いています。犬の脚が細すぎるのが気になりますが、尻尾を立て、女性を見上げる所作がなんとも微笑ましく、気持ちの和む光景です。

 これまでの百武はもっぱら、風景画を描いてきました。ところが、どういうわけか、この作品では珍しく、人物を取り上げています。しかも、正面から、全身像を捉えているのです。

■母と子の表情からくる違和感

 メインモチーフである母と子は、画面中央のやや左寄りに描かれています。女性は正面を向いて立ち、子どもは母の背中に負ぶわれ、肩越しに顔を覗かせています。いずれも観客を正視する恰好で描かれています。

 顔面部分にフォーカスしてみましょう。

(※ 前掲。部分)

 母にしろ、子どもにしろ、一見して、人物の描き方がいかにも不自然なのがわかります。表情といい、身体表現といい、リアリティに欠け、なんともいえない違和感があるのです。

 まず、表情からみていきましょう。

 母の表情は硬く、まるで観客を凝視しているように描かれています。口元に笑みはなく、寛いだところもありません。そのせいか、怒っているように見え、どちらかといえば、恐い表情です。

 ひょっとしたら、緊張していたのかもしれません。あるいは、疲れていたのかもしれません。仮にそうだとしても、子どもを背負って、山道を歩いている時、子どもにはちょっとした話しかけぐらいはしていたはずです。そうすると、多少、表情は緩みますから、このような恐い表情にはなりえません。

 違和感を覚え、子どもの顔に目を移すと、背中に負ぶわれている子どももまた、怯えたような表情をしています。探ろうとする目つきで、母親の背中からそっとこちらを覗いているのです。

 のどかなはずの光景なのに、母の表情も、子どもの表情も、何か恐いものにでも出会って、緊張している時の表情なのです。ところが、そのようなものは画面に何一つ、描かれていません。

 この母子を恐がらせ、緊張させているものは、ひょっとしたら、この画面の外にあるのかもしれませんが、そのようなことがあるとすれば、まず、傍らの犬が反応するはずです。

 そう思って、犬を見ると、正面を向かず、女性の方を見上げています。緊張している様子もありません。犬はただ、母子の傍らで、寄り添うようにして歩いているだけでした。つまり、このことからは、母子の正面、あるいは周囲に、彼らを緊張させるようなものは存在していないということになります。

 再び、子どもの顔を見てみました。

 改めて見ると、背中におんぶされている子どもの顔は、ただ大人の顔を小さくしただけのような描かれ方でした。幼さや丸味、柔らかさといった、子どもらしい特徴が何一つ、捉えられていないのです。

 ひょっとしたら、百武の人物表現が拙いからでしょうか。ふと、そんな気がしてきました。

 この母子の表情に違和感を覚え、奇異な印象を抱いてしまいましたが、それは、百武が西洋人の顔貌を表現するのに慣れていなかったからかもしれません。母と子が描かれている状況と、その表情とがマッチしないので、不自然に思い、違和感を覚えてしまった可能性があるのです。

 そう思って、見直すと、不自然なのは、顔面だけではありませんでした。よく見ると、身体表現もまた不自然でした。

■母と子の身体表現

 母や子の身体表現を見ると、一見して明らかに、骨格を踏まえて描かれていないことがわかります。ですから、やはり、奇異な印象を覚えてしまいます。

 それでは、母と子の上半身にフォーカスして、画面を見てみることにしましょう。

(※ 前掲。部分)

 まず、気になったのが、母にしがみつく子どもの手と腕です。手が小さすぎますし、シャツの先から伸びている手首と手の甲に、力が入っているようには見えませんでした。母のブラウスを掴むには、それなりの力を出しているはずです。筋肉が動けば、手首も手の甲もそれに応じて変化しているはずですが、その痕跡はどこにも見られません。

 そもそも、子どもは母の背中からずり落ちないように、手と腕を使って、ブラウスの下の母の腕をしっかりと掴んでいるはずです。そうすると、それにしたがって、母のブラウスにも皺が寄るはずですが、そのようにはブラウスの皺は描かれていませんでした。

 さらに、もう一方の手も、ブラウスの端を掴んでいましたが、ちょっと掴んでいるだけで、母の腕をしっかりと掴んでいるようには見えません。

 そもそも、子どもは、母の背中から、向かって右側に大きくはみだすように描かれています。正面よりもかなり右にずれているので、両方の手が、母の腕のほぼ同じ位置を掴むことはありえません。

 子どもが母の真後ろにいた場合、両手の位置は、この絵のように、ほぼ同じ位置になるのでしょうが、子どもの位置がこれだけ大きく右に寄っていますから、もう一方の手はおそらく、母の腕の付け根、あるいは、肩辺りを掴むことになるのではないかと思うのです。

 さらにいえば、子どもを後ろ手で支える母の上腕から肘にかけての表現も、不自然と言えば、不自然でした。

 子どもをおんぶするには、肩や上腕、後ろに回した腕にそれなりの負担がかかります。たとえ、ブラウスの上からでもそれが表現されていなければ、なりません。ところが、そうではなく、ダブダブに膨らんだ袖で肝心の部分が覆われていたので、曖昧に処理されているという印象を受けてしまいました。

 このように、せっかくの人物画なのに、全般的に、人の身体構造、身体の動きと筋肉との関係など、肝心のところが考慮されておらず、違和感が残りました。人物画に不可欠な要素が欠けていたので、リアリティを感じられず、不自然な印象を受けてしまったのです。

 それに反し、母と子に寄り添って歩いている犬はとてもうまく描かれていると思いました。

■犬の表現

 女性のすぐ横で、そっと寄り添うように、白とこげ茶色のぶち犬が歩いています。母と子の描き方がぎこちなかったのに比べ、こちらはとても自然に描かれています。ちょっと見上げたように、顔を傾けた仕草がとても愛らしく、印象的でした。

(※ 前掲。部分)

 夕暮れ時なのでしょうか、画面下半分は淡い褐色に染まっています。中景から前景に至る淡い土色の小道にも、薄い赤褐色が、所々に落ち、夕刻ならではの華やぎを醸し出しています。その中を歩く犬もまた、淡い赤褐色に包まれています。見ているだけで、のどかな山村の幸せを感じさせられます。

 犬は、歩く姿勢、首、胴体、脚、尻尾などの身体部位、そして、艶やかな毛並み、どれをとっても皆、とてもリアルに表現されています。犬が歩いている山道の中心部分は、人が歩いて踏み固められ、土が白くなり、周囲よりもやや低くなっています。犬が歩く傍らには小石がいくつも剥き出しになって転がっており、そこに、背後から鈍い陽射しを受けたぶち犬の影が、淡く長く伸びています。

 リアリティがあり、しかも、豊かな詩情性を感じさせる表現です。なんとも巧みな描き方だといわざるをえません。油彩画を学びはじめてわずか2年しか経っていないとは思えないほどです。

 人物と比較し、犬があまりにも巧みに描かれていたので、ひょっとしたら、百武は、動物をモチーフに描いていたのではないかと思い、ロンドン滞在中の作品をチェックしてみました。

 すると、風景画が多いのですが、中には動物を描いた作品もありました。

 風景ばかりではなく、牛や馬、虎など、動物のスケッチを多少はしていたようです。その中に犬の顔面のスケッチが残されていました。

 《素描 犬図》とされている作品です。

(鉛筆、紙、28×39㎝、制作年不詳、所蔵先不詳)

 手前は、耳が垂れ、鼻先の長いぶち犬なので、ダルメシアンでしょう。後ろは、耳は垂れ、鼻先が長く、大きな目をしているので、マンチェスターテリアのように見えます。スケッチといいながら、いずれも、特徴がよく捉えられており、犬の性格まで表現されているように見えます。

 後ろの犬には首元に蝶ネクタイが結ばれていますから、スケッチされたのは、家族から愛された愛玩用の犬だったのでしょうか。両方の犬とも、目つきがユーモラスで、愛らしさがあります。

 このようなスケッチの経験があるからこそ、百武は、《母と子》の中で、リアリティのある犬を描くことができたのでしょう。犬の身体表現については、牛や馬、虎など、動物の素描経験が役立っているように思います。百武はロンドン滞在中に、牛や馬については骨格を踏まえて、さまざまな姿態をスケッチしていました。

 さて、この作品は百武にとって、ロンドン時代、唯一の人物画でした。ところが、これまで見てきたように、肝心の人物の出来具合はそれほどよくありません。母と子の添え物のように描かれていた犬と比較すれば、雲泥の差でした。多少でも描いたことがある犬はごく自然に表現できていたのです。

 どれだけ数多く描いたかということが、うまく描けるか否かに大きく影響していることがわかります。

 それでは、研鑽を積んできた風景についてはどうでしょうか。この作品では、風景は背景として画面に組み込まれています。

 背景を見ていくことにしましょう。

■背景の妙味

 背景として描かれた風景は、遠近法を踏まえ、陽光の射し込み具合を考えて描かれています。そのせいか、画面に奥行きがあり、リアリティが感じられます。画面全体に安定感があり、丁寧に描かれた前景には、活き活きとした躍動感さえ醸し出されていました。

 画面の上半分が、大きく広がる空、そして、下半分は、メインモチーフが歩く山道といった具合に、はっきりと二つに分かれており、その連続性は希薄です。まるで別々の風景が繋ぎ合わされているかのように見えますが、それは、おそらく、色調が大きく二つに分かれているからでしょう。

 上半分で描かれているのは、どんよりとした雲に覆われた空と微かに見える遠くの山並みです。それら一切合切が、所々、青の混じった白に近い淡いグレーの濃淡で表現されているのです。

 空と遠景の山並みとは境目なく、混じり合っているように見えます。そして、空が限りなく広いように見えますから、むしろ、空を際立たせようとして、その色調にしたのかもしれません。

 雲が幾層にも果てしなく、広がっています。しかも、たいていが分厚く、巨大です。そのボリューム感には圧倒されてしまいます。

 歌田真介氏は、この作品をX線写真で見た結果について、次のように述べています。

 「明るい部分は厚塗りで、暗い部分は薄塗りである。そして遠景から描きはじめて、手前に向かって描いている。(中略)遠景あるいは背景から描くことは、はじめに空間の位置や色彩を決めることであり、それにバランスするよう主たるモチーフを描くことになるので、合理的な方法である。「母と子」の場合、広い空が明るいことから、シルバー・ホワイトを主とした、かなり厚塗りで「はり」のあるものになっている」

(※ 歌田真介、「百武兼行の技法」、三輪英夫編『近代の美術 53』、至文堂、1979年、p.94.)

 画面を見ていただけではわからない作品の制作過程について、歌田氏は、X線撮影した写真を通して明らかにしました。

 興味深いのは、百武は、シルバー・ホワイトを使って、空を厚塗りしていたということでした。シルバー・ホワイトという絵具を使って、量感のある雲を表現していたというのです。

 ホルベインは、シルバー・ホワイトについて、次のように説明しています。

 「中世〜近世の絵画で、重要な白だった鉛白をベースにしたホワイト。黄みで温かみがある色調が特長です。顔料の鉛白の有害性と、黄ばみやすさ、硫黄を含んだ絵具やガスでの暗色化懸念から、現在では主流を外れていますが、乾燥が早くしかも堅牢で上層をしっかり受け止める長所があり、描き始めから中描きに使われます。着色力が低いので、混色用にも適しています」

(※ https://www.holbein.co.jp/blog/art/a183

 当時、シルバー・ホワイトしか選択肢がなかったからかもしれませんが、百武はシルバー・ホワイトを使って厚塗りをし、空を仕上げました。おかげで、存在感のある空になったといえるでしょう。

 シルバー・ホワイトは、黄色味があり、温かさが感じられる色調を創り出すことができました。だからこそ、百武は、黄色などの暖色系を使わず、白とグレー、淡い青を使って、雲間から洩れる陽光の輝きを表現したのでしょう。

 実際、この作品の風景には、メインモチーフを深く包み込むような奥行きと広がりが感じられます。背景として後方に控えているだけではなく、大きな存在感を示しているのです。その結果、背景とメインモチーフの力が拮抗して、画面に緊張感を与え、見応えのある作品になっているような気がします。

 風景に目を注ぐと、メインモチーフの拙さが気にならなくなってくるほどでした。そのような錯覚を覚えるのは、百武が、メインモチーフを引き立てながらも、背景そのものが存在感を持てるよう、構図や色構成に配慮していたからではないかと思います。

■画面を支える構造的なライン

 興味深いのは、画面左に見える山の頂上が、女性の肩のラインと同じ位置で描かれ、そこから右下に下がっていることでした。まるで観客の視線を無意識のうちに右下方に誘い込んでいく試みのようにも思えます。この斜めのラインが、淡いグレーの濃淡で表現された遠景の中に、静かな動きと流れを生み出しているのです。

 一方、画面の下半分は、褐色を基調に表現されており、メインモチーフを支えるリアルな空間として機能しています。

 たとえば、犬の足元に転がっている石や土くれが、とても丁寧に、写実的に描かれています。足元のリアリズムが、メインモチーフのぎこちない表現を目立たなくしているように思いました。

 中景右寄りには、こんもりとした木が黒褐色で小さく描かれており、背後の山並みとの境界となっています。そして、前景右側を見ると、褐色の草木がカーブを描いて揺れ、地面に影を落としています。

 興味深いことに、その中景の木と前景の草木の影が弧状に配置されており、繋げば、大きな曲線の一部になります。

 こうして画面下半分に、曲線が生み出す柔らかさと優しさが生み出され、躍動感が醸し出されています。何気なく描かれたように見える、これらの風景的要素の組み合わせの中に、巧みな視線誘導が感じられます。

 さらに、画面右下に伸びる草木の影と、女性の足元から伸びる影、そして、画面左側の灌木の影が、ほぼ平行で左下方に伸びています。そして、画面右下の草木の影と、画面左側の灌木とが対角線上に配置されて、画面に安定感をもたらしています。

 こうして見てくると、風景の中にさり気なく込められた、左から右への斜線、中景から前景に向けての曲線、そして、前景で右から左下に平行に伸びる3つの影線、これらのラインがこの作品の中で大きな役割を果たしているように思えてきます。

 斜線、曲線、平行線といった幾何学的要素が、自然の風景の中から引きだされ、再編成されて画面に組み込まれているといえます。それが、この作品を構造的にしっかりとしたものに見せているような気がしました。

 百武が実際にこのような風景を見て描いたのかどうか、わかりませんが、取り上げた風景の要素を使って、画面に動きをもたらし、流れを生み出し、画面を構造化する効果を導いていたことは確かです。

 それが、メインモチーフを支え、安定感のある作品にしあげていたといえるでしょう。百武が描いた風景は、背景とはいいながら、単なる背景に留まらず、なんともいえない妙味を画面にもたらしていたのです。

 そこには絵画を越えた学識が必要で、わずか2年ほどの油彩画歴で身に着くものではありません。百武が持ち合わせていた絵の天分に加え、幅広い教養が影響していたという気がします。いずれにしたも、背景のおかげで、この作品が含蓄のある作品に仕上がっていたといえるでしょう。

■《母と子》から見えてくる、ロンドンでの学び

 百武兼行はロンドンではじめて、油彩画を学びました。前回、ご紹介しましたが、ロンドンで師事していたのは、風景画家のリチャードソン・ジュニア(Thomas Miles Richardson, Jr. 1813-1890)でした。鍋島直大の胤子夫人とともに、週1回、公館に来てもらって、公務の合間に、指導を受けていたのです。

 今回、取り上げたこの作品は、リチャードソンから学びはじめて約2年後の作品です。そして、《バーナード城》とほぼ同時期に描かれました。

  《バーナード城》 に大きな進展がみられていたように、百武は、風景画については、わずか2年間でさまざまなことを習得していました。とくに、見たままの自然の風景の中から、必要な要素を引きだし、再編成して組み合わせ、作品を強化する手法を、確実に身につけていたように思えます。

 たとえば、《バーナード城》では、流れゆく川面の波頭を際立たせ、砂州の小石を丁寧に描いていました。波頭や小石に着目し、その存在を観客の目に留まるように描いていたのです。そうすることによって、悠々と流れる時、あるいは、無常観といったものへの関心を観客の心のうちに呼び覚ましていたのです。

 この作品に、西洋の風景を描きながら、日本的情感を感じさせられるのは、百武のそのような工夫のせいでした。

 《バーナード城》 の空いっぱいに広がる雲の表現も、《母と子》と同様、ボリューム感溢れるものでした。こちらも、おそらく、シルバー・ホワイトで厚塗りしていたのでしょう。この雲の存在感が、前景で広がる砂州と川の流れの存在感と拮抗しており、画面に緊張感を生み出していました。

 このように、モチーフの組み合わせと構図によって、画面に緊張感を生み出し、作品を構造的に堅牢なものにするという点で、《バーナード城》と《母と子》の背景には類似性がありました。

 こうしてみると、百武はどうやら、リチャードソンから学びはじめて2年後には、油絵の技法を獲得していたことがわかります。さらに、作品の強度を高める構図、あるいは、作品に情感を盛り込むための着眼点などを、自分なりに会得していたのではないかという気がします。

 《母と子》の背景部分を見ると、風景画家から学んだ成果以上のものが表出しているように思えます。まず、背景として選んだ風景が、メインモチーフを活かせるように再構成し、工夫の跡が見られました、さらに、背景を二分し、双方が拮抗して画面に緊張感を持たせることによって、その構造を堅牢なものにする工夫もされていました。

 リチャードソンの作品と比較しなければ、明言はできませんが、これらは、いずれも百武独自の着眼点のような気がします。

 さらにいえば、母と子の傍らに犬を配して画面構成したところに、百武のバランス感覚が感じ取れます。人物表現については未熟であるとの自覚があったのでしょう。

 一方、動物については素描や油彩画作品が何点か残されていました。画題として取り組み始めていたようで、それなりの手応えを感じてもいたのでしょう。だからこそ、メインモチーフの絵として不十分なところを補うように、犬を添えていたのだと思います。

 それにしても、背景としての風景は、確かに、稚拙なメインモチーフを支える機能を果たしていました。背景を色調で二つに分割し、その緊張感がメインモチーフを引き立てるように構成されていたのが見事でした。

 さり気なく、そして、洗練された方法で、背景としての風景が、メインモチーフの造形的欠陥を補っていたのです。百武のセンスの良さ、学識の高さを思わずにはいられません。

(2023/8/31 香取淳子)

百武兼行 ②:ロンドンで初めて、油彩画を学ぶ

 前回は《鍋島直大像》を取り上げ、なぜ、画家でもない日本人が、西洋画の画法でここまで立派な肖像画を描くことができたのか、考えてきました。まず、この作品が描かれたローマでの絵の学びを振り返り、次いで、パリでの学びに遡って、その軌跡を振り返ってみました。百武が西洋人画家から何を学んだのかを辿ってみたのです。

 その結果、肖像画の出来栄えに関する疑問は一応、解けました。それでもまだ、なぜ?の思いは去りません。

 そもそも、画家になろうとしていたわけでもなかった百武が、なぜ、油彩画を手掛けるようになったのかがわからなかったのです。

 そこで、百武の来歴を見ると、ロンドン滞在中に、油彩画を学んでいることがわかりました。

 オックスフォード大学に留学していた鍋島直大らは、佐賀の乱が勃発したため、一旦帰国しました。ところが、乱はすでに収まっていました。佐賀に戻ってまもなく、新たな命を受け、再び渡英しています。今度はオックスフォードではなく、ロンドンに居を構えました。

 ロンドンで、師事したのが、風景画家のリチャードソンでした。

 そこで今回は、①百武はなぜ、油絵を描くようになったのか、②ロンドンで師事したリチャードソンはどのような画家だったのか、③彼からどのような影響を受けたのか、等々について考えてみたいと思います。

 まず、来歴からみていくことにしましょう。

■再び、ロンドンへ

 1874年3月、佐賀の乱が起こったことを知らされた鍋島直大は、急遽、百武を伴い、帰国しました。リバプールから乗船し、ニューヨーク、サンフランシスコを経由し、7月20日に横浜港に着きましたが、その頃にはすでに反乱は収まっていました。

 鍋島らは東京に2週間滞在して、明治新政府に一時帰国の報告をし、関係者に面会した後、佐賀に戻りました。佐賀には5日間ほど滞在しただけで、鍋島直大は落ち着く間もなく、1874年8月13日に再び、百武らを伴い渡欧します。

 前回とは違って、今度は、胤子夫人も同行しました。というのも、この時、鍋島に与えられた任務が、「西洋風の貴族の在り方」を学ぶようにというものだったからです。随員の田中永昌や夫人の世話係の北島以登子を伴っての渡航でした。

 長崎を出発し、上海、シンガポール、サイゴンを経由し、紅海からスエズ運河に入りました。そこから地中海に出て、ナポリに上陸しています。50日間にも及ぶ船旅でした。その後は陸路でマルセイユに向かい、胤子夫人の洋服を新調してパリで一時、滞在した後、ロンドンに着いたのは、11月23日でした。すでに雪が降り始めていました。

 鍋島は、以前とは違って、オックスフォードではなく、ロンドンに拠点を置きました。ケンジントン宮殿に近い、クランリカード ガーデンズにある大きな家でした(※ Andrew  Cobbing, “The Japanese Discovery of Victorian Britain”, JAPAN LIBRARY, 1998, pp.136-137.)。

 ロンドンからオックスフォードまでは約80㎞離れています。ですから、今回の渡英で、直大は、大学での学びよりも、イギリスの文化や社交を直接学ぶことに力点を置いていた可能性があります。

 コビングは、岩倉、蜂須賀、鍋島のような支配階級の子息は、ケンブリッジやオックスフォードなどに私費留学をし、西洋の文化を身に着けようとしていたと書いています。鍋島直大については、海外留学させてほしいと1871年に父に懇願していたことまで記しています(※ 前掲、p.31)。

 この時、鍋島直大は25歳でした。次代を担う若者として、欧米の技術、文化、制度を学ぶ必要があると判断していたのでしょう。国を背負って立とうとする若者の覇気を感じさせられます。

 考えてみれば、当時、アジア諸国は次々と、列強の侵攻を受け、悲惨な目に遭っていました。それを知った日本の支配階級の一部は、その対応策として、列強と並ぶ近代国家を目指しました。開国を迫る列強に対抗するため、自身を変革する必要があると判断し、それに向けて動き出していたのです。

 その頃、中国の支配階級は、外国と取引することを恥ずべき事だと考えていたとコビングは記しています。列強との接触を忌避し、近代化を拒否したのです。その結果、中国はたちまち、欧米列強の草刈り場になってしまいました。

 一方、日本では、進取の気性に富んだ武士や公家の一部が幕末の時点ですでに、西洋の技術や文化を学ぼうとしていました。列強と同等の技術や文化を学び、身に着けることによって、ようやく、彼らと対等に交流できるということを察知していたのです。

 彼らの子息が岩倉具経(1853-1890)であり、蜂須賀茂韶(1846-1918)であり、鍋島直大(1846-1921)でした。
彼らは、明治になると早々、渡英し、ケンブリッジ大学やオックスフォード大学で学んでいます。

 コビングは、日本から来ていた留学生のうち、蜂須賀と鍋島は妻を伴って来ており、彼女たちは初めてイギリス政府からパスポートを受け取った日本人女性だったと記しています(※ 前掲、p.122)。

 胤子夫人もまた、彼らと同様、進取の気性に富んでいたのでしょう。華族の夫人という立場で渡英した彼女は、ロンドンに到着するなり、さまざまなことを学び始めました。貴族階級の女性先駆者として、使命感のようなものを感じていたのではないかと思われます。

 さまざまな習い事のうちの一つが絵画でした。

■胤子夫人のお相手として、油彩画を学ぶ

 ロンドンに到着すると、胤子夫人には英国老婦人が付き、英語や生活習慣に慣れるよう手配されました。週一回、ダンスやピアノの稽古に励み、さらに、女性の嗜みとして、針仕事や裁縫、西洋刺繍にも取り組んでいました。

 日本の貴族階級の女性として、胤子夫人は、相応の西洋文化を身につける必要があったのです。やがて、西洋刺繍には絵画的センスが必要だということがわかってきました。

 そこで、胤子夫人は、画家から指導を受けることになりました。週に一度ぐらいの割合で、自宅に来てもらい、絵画を学ぶようになったのです(※ 三輪英夫編『近代の美術53 百武兼行』、p.25. 1979年7月、至文堂)。

 1875年のことでした。

 ヨーロッパでは、王侯貴族など名家の子女は、お抱えの家庭教師から、自邸内でマンツーマンのレッスンを受けるのが慣わしでした。学問や教養、芸術、マナー、衣装、美容など一切合切を、彼女たちは、一流の講師から自宅で学んでいたのです。

 胤子夫人もその慣わしに倣ったのでしょう。自宅で画家から直接、絵画指導を受けるようになりました。

 とはいえ、英国人の男性画家から、油彩画の指導を受けるのですから、多少の不安があったのかもしれません。しかも、油彩画は初めてでした。胤子夫人は後に、次のようなことを書き記しています。

 「初めてやるのに一人と云ふ訳にはいかず、百武氏が御相手をすると云ふ事から画の稽古を始めた」(※ 三輪英夫編、前掲、p.26.)

 三輪氏はこの文章から、「百武がすでに洋画になじんでいたというニュアンスを読み取れるように思える」と書いています。

 確かに、百武が共に学んでくれれば、胤子夫人も安心して、学び始めることができるでしょう。多少なりとも油彩画の知識があればなおのこと、百武の存在が、夫人が油絵を学び始める大きなプッシュ要因になったと考えられます。

 その一方で、胤子夫人は、「此様云ふ事から百武氏の洋画は始まった」(※ 前掲)とも書いています。百武はここで油彩画を学び始めたと明言しているのです。そうだとすれば、先ほどの文章はただ単に、一人ではなく、百武もいるから安心して学べるという程度の意味合いだったにすぎないのかもしれません。

 いずれにしても、胤子夫人が油彩画を学ぶ際のお相手として、百武も画家から直接、絵画指導を受け始めたことがわかりました。幼い頃から鍋島直大のお相手として共に勉強をしてきた百武にとって、これもまた公務の一つといえるものなのかもしれません。

■鍋島胤子夫人

 ロンドン時代の胤子の写真があります。

(※ http://easthall.blog.jp/archives/16127037.html

 外出用の服装なのでしょう。網のかかった帽子にパラソル、襟と袖回りにフリルのついたドレスを着て、写真に収まっています。いかにも貴族の女性らしい装いです。ロンドンでの生活にも多少、慣れてきたのでしょう、その表情には、自信のようなものさえ醸し出されています。

 上記の写真からは、短期間のうちに、一通りの知識やマナーを身につけ、胤子が日本の貴族の女性として、英国上流社会に馴染んでいる様子がうかがわれます。

 油彩画についても同様、西洋画法を着実に習得し、たちまち実力をつけていったのでしょう。佐賀市のHPには鍋島胤子について、次のような記述がありました。

 「日本閨秀画家の先駆者鍋島胤子があり、現代では久米桂一郎、岡田三郎助などの洋画の大家がある」

(※ https://www.city.saga.lg.jp/site_files/file/usefiles/downloads/s33349_20120903053915.pdf

 胤子が女性洋画家の先駆者と位置付けられていることがわかります。実際、油彩画でもそれなりの成果をあげ、評価も得ていたようです。黒田清輝は、「侯爵邸に叢中の卵の画が掲げてあるのを存じていますが、なかなかよく出来ていたように思います」と書き、鍋島胤子は日本の貴婦人の中で最初に油彩画を研究したと紹介しています(※ 三輪英夫編、前掲、p.25.)。

 胤子の作品は現存せず、残念ながら、現在、見ることはできません。とはいえ、黒田が見たという作品の白黒写真はありました。

(※ 三輪英夫編、前掲、p.35.)

 色彩がわからないのが残念ですが、画面いっぱいに伸びやかな筆致で捉えられた卵と籠と草花が印象的です。光と影、明と暗がしっかりと描き分けられ、モチーフに立体感と奥行きが感じられます。

 西洋刺繍のため、美的センスを磨くことを目的に、胤子夫人は画家から絵画指導を受け始めました。上記の作品を見ると、元々、画才があり、絵を描くのが好きだったのかもしれません。とりわけ、観察力、表現力に優れたものがあるように思えました。

 百武兼行と鍋島胤子夫人、二人が師事したのが、風景画家のリチャードソンでした。

■トーマス・マイルズ・リチャードソン・ジュニア(Thomas Miles Richardson Jr., 1813-1890)

 年譜には、1875年頃から胤子の付き添い役として、百武は、風景画家リチャードソンに師事したと書かれています。

 リチャードソンが果たして、どのような画家なのか気になります。調べてみると、確かに、トーマス・マイルズ・リチャードソンという人物がすぐ見つかりました。

こちら → https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Miles_Richardson

 ニューカッスル生まれの風景画家です。ただ、このリチャードソンは1784年生まれで1848年には亡くなっています。百武らが絵を習い始めたのが、1875年頃ですから、どうやら、彼らが師事したリチャードソンではなさそうです。

 上記のWikipediaには、リチャードソンの6人の子どもたちはいずれも画家を継いだと書かれています。そのうち、生存期間が明らかなのは、Edward Richardson(1810-1874)と, Thomas Miles Richardson Jr.(1813-1890)だけでした。生没年が判明していることから、この二人は当時、多少は名前を知られた画家だったことがわかります。

 しかも、このうちの一人は、父の名前の後にジュニアが付加されたThomas Miles Richardson Jr.です。ジュニアと称されているのは、画家としては父と遜色のないレベルだとみなされていたからと思われます。生存期間から判断すると、百武と鍋島胤子は、このリチャードソン・ジュニアから絵画の指導を受けていたのではないかと思われます。

 三輪英夫氏もまた、このリチャードソンについて、「正確なことはわからないが、おそらくニューカッスル生まれのトーマス・マイルズ・リチャードソン・ジュニアではないか」と推測しています(※ 三輪英夫編、前掲、p.29)。

 三輪氏はさらに、次のように詳しく、リチャードソン・ジュニアを紹介しています。

 「このリチャードソンは、ニューカッスル水彩画家協会の創立者リチャードソン・シニアを父として、ニューカッスル・アポン・タインに生まれ、父や兄弟同様、風景画家として知られた。油絵も描いたが、1848年以後は主に水彩画をよくし、イギリス国内の各地をはじめ、フランス、スイス、イタリア、ドイツを訪れ、その地に取材した風景画を多く残している。前景に人物を配し遠景を眺望する形の風景画を得意にした。1832年から1889年の間ロイヤル・アカデミーその他に出品を続けるとともに、1842年にはO.W.S.(Old Watercolour Society)の創立会員に、1851年にはスコットランド王立アカデミーの会員になっている」

(※ 三輪英夫編、前掲、p.29.)

 これを読むと、リチャードソンは油彩画の画家というより、水彩画の画家として知られていたようです。

 ただ、リチャードソン・ジュニアについては、まだWikipediaに掲載されていません。

こちら → https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Miles_Richardson_Jr.1813-1890

 仕方なく、ネットで調べてみると、クリスティーズや画廊のサイトで、トーマス・マイルズ・リチャードソン・ジュニアの作品がいくつか掲載されていることがわかりました。リチャードソン・ジュニアについては、ネットでそれ以上の情報は得られませんでした。

 しかも、ネットで見ることができた作品はいずれも水彩画でした。三輪氏の説明に従うと、1848年以降の作品ということになります。

 まずは、百武らが師事したリチャードソン・ジュニアの作品を見てみることにしましょう。

●《The Town and Lake of Nemi, South Italy》(1880年)

 イタリアを紀行して描いた作品、《南イタリアのネミの町と湖》です。

(水彩、グワッシュ、紙、パネル、78.3×68㎝、1880年、所蔵先不詳)

 柔らかな陽射しに包まれた、穏やかな風景画です。色合いが優しく、繊細な筆遣いが印象的な作品です、

 よく見ると、手前には、立ち止まって語り合っている人々が描かれ、その周囲に馬が座り、やや後ろには、数頭の馬と馬追いのような人が見えます。おそらく、旅人がこの峠で休憩している光景を描いたものなのでしょう。生活風景の一環としての風景画といえます。

 画面はやや高みから捉えられ、構成されています。そのせいか、辺り一帯を過不足なく、見渡すことができます。湖と遠景の山並み、そして、空を彩る淡い青のグラデーションが、清澄な空気の質感を感じさせます。それが、画面全体を包み込み、当地の人々の安寧な生活を浮き彫りにしています。

 上品な色調がなんとも快く、刺繍の絵柄としても、大きな壺や皿の絵柄としても秋の来ない絵柄だと思いました。

 さらに、イタリアの風景を描いた作品がありました。

●《Luveno, Lake Maggiori》(ルヴェーノ、マッジョーレ湖)

 イタリア北部に位置するマッジョーレ湖 は、イタリア第2の大きさの湖で、観光地としても知られています。

 リチャードソン・ジュニアはヨーロッパ各地を訪れ、風景画を描いていたとされていますが、イタリアも好んで訪れた土地の一つだったようです。

 マッジョーレ湖の湖畔から捉えられた作品があります。

(※ https://jamesalder.co.uk/thomas-miles-richardson-junior/luveno-lake-maggiori2/1

 手前に、ボートで作業する人の姿が描かれています。オールの先が海に浸かり、そこから波が楕円状に広がっており、湖面の表情が繊細なタッチで捉えられています。中景には湖面に浮かぶ何艘かの船が描かれ、湖畔右手には古城のような建物が建っています。

 現在の生活と過去を偲ばせる建物とが調和して描かれているのが印象的です。色調といい、タッチといい、透明感のある画面に詩情が溢れています。

 スコットランドの風景を描いた作品もありました。ご紹介しましょう。

●《Scottish Landscape》(スコットランドの風景)

 小高い丘の上から遠方の山並みを捉えた風景です。

(水彩、紙、43.18×60.96㎝、制作年不詳、所蔵先不詳)

 画面手前、やや中景よりに、二人の男性が岩に腰を下ろして、なにやら語らっています。その先には白い馬か羊のようなものも見えます。旅の途中なのでしょうか。大きな木をアクセントに、背後に山々が広がる風景が描かれています。

 穏やかな陽射しが、丘一面に降り注ぎ、中景以降の山並みは、淡い青のグラデーションで描かれており、雲の合間に霞んで見えます。

 手前のモチーフに落ちた柔らかい陽射しと、山並みと一体化したような淡い空に、清澄な空気の広がりが感じられます。空気遠近法によるぼかし表現が幻想的で、詩情あふれる空間を作り出しています。

 これまで見てきた作品と同様、手前に人が描かれ、背後に優しい青の空が配された繊細な印象の作品です。描く対象が違っても、似たような絵柄であり、画風です。

 いずれも空気遠近法を使って描かれています。遠くなるほど、山並みの青色が薄くなり、白に近づいていきます。その白が、空に浮かぶ雲と重なり合って、まるで空に溶け込んでしまいそうに見えます。

 リチャードソン・ジュニアが描く作品のモチーフと画面構成は、優しく安定感があり、西洋刺繍の絵柄にも、磁器の絵柄にも似つかわしいように思えます。

 このような画風のリチャードソンを見ると、百武は、果たして、彼から何を学んだのかという気がしました。

 それでは、リチャードソン・ジュニアに師事していた頃の百武の作品を、いくつか見てみることにしましょう。

■ロンドンでの百武の作品

《城のある風景》 (1876年)

 油彩画を習い始めた次の年に描かれたのが、《城のある風景》です。

(油彩、カンヴァス、40×56.1㎝、1876年、微古館)

 前景に川と川辺で働く二人の人物を配し、中景に船と工場のような茶色の建物群、遠景にはそびえる城郭と空を配した画面構成です。取り立てて印象に残る作品ではありません。むしろ、中景の建物群の描き方、川面に映る船や建物の影の描き方には、未熟さが感じられます。

 構図は、先ほど見てきたリチャードソンの作品に似通ったものがあります。手前に作業する人物を描き、中景に建物あるいは山並み、そして、背後に全体を包み込むような空を配するといったところに、類似性を感じさせられます。

 一方、川辺で働く二人の人物の影の付け方には違和感がありますし、中景に描かれた工場の建物群や手前の船は、遠近法が用いられていないせいか、不自然に見えます。

 雲の描き方、左側の木々や川面なども、リアリティに欠けて見えます。陽の射し込む方向を気にせず、パースを意識せずに描いていることから、まだ西洋画の技法を習得できていないことがわかります。

 とはいえ、これは油彩画を学び始めてまだ1年しか経っていない頃の作品です。しかも、随行員としての仕事や、経済学の勉強の合間に週一回、絵画指導を受けていただけでした。学びの時間の短さを思えば、むしろ上出来だといえるのかもしれません。

 1876年には、このような作品を描いていた百武ですが、その2年後の1878年には明らかに画力をあげた作品を仕上げています。

 《バーナード城》です。

 バーナード城は当時、画題として大変、好まれていたようです。多くの画家がこの城を取り上げ、作品化していました。たとえば、風景画家として有名なターナー、そして、リチャードソン・ジュニアの父などです。

 それらの作品を比較してみれば、百武の特徴を見出すことができるかもしれません。

 そこで、まず、百武の《バーナード城》を取り上げ、次いで、風景画家として著名なターナーの《バーナード城》、百武が師事したリチャードソン・ジュニアの父、リチャードソン・シニアの《バーナード城》をご紹介し、百武の作品の特徴を考えていくことにしたいと思います。

■百武作、《バーナード城》(1878年)

 《城のある風景》を描いてから、わずか2年しか経っていないとは思えないほど、上達しています。

(油彩、カンヴァス、83×114㎝、1878年、宮内庁)

 この作品も、前作《城のある風景》と同様、前景に川、中景に木々と橋、遠景に聳え立つ城郭と雲が描かれています。

 城の窓から空が見えているところに、廃墟となったバーナード城のもの悲しさが伝わってきます。観察した結果を見逃さず、哀感を誘う表現で捉え直しているところに、熟達の跡が見えます。茶褐色を多用し、古色蒼然とした色調で覆われた画面に、哀愁を感じさせられます。

 画面上部を見ると、どんよりと立ち込める雲が表情豊かに描かれており、哀切感が強調されています。

 そして、手前に視線を落とすと、流れる川の所々に白波が立ち、水の流れは留まることなく、下方に下っているのが見えます。脈々と流れる川が、背後に見える古城の空しさをことさらに強く、印象づけているのです。

 水の流れが、時間を越えて生き続けているのに対し、人が造った城は、時を経て古び、人が住まなくなれば、その生命を失ってしまうことが対比的に示されているのです。秀逸な画面構成だと思いました。

 次に、風景画家として有名なイギリス人画家ターナーが描いた作品を見てみましょう。

■ターナー作、《バーナード城》(1825年)

 イギリスの有名な風景画家ターナー(J. M. W. Turner, 1775 –1851)もまた、バーナード城を描いていました。

(油彩、カンヴァス、30.5×41.9㎝、1825年、Yale Center for British Art)

 砂州が画面右側に見えますから、百武の作品よりも左寄り、やや高みから城を捉えた光景です。前景に、川を挟む両岸の巨岩、そして遠景に、バーナード城と橋が淡く描かれています。その背後から、太陽が鈍い光を放ち、いまにも沈もうとしています。

 微かな陽光は川面を照らし、辺り一帯を穏やかな光で包んでいます。淡い色調で、川と空、そして、巨岩に囲まれた廃墟と橋がうっすらと捉えられ、画面全体に神秘的な雰囲気が漂っています。

 淡い色調とぼんやりとした構図の中に、ターナーの作品世界がしっかりと表現されていました。幻想的で、詩情溢れる風景画です。

 ターナーが描いた《バーナード城》に夕刻がもたらす幻想性と神秘性が表現されているとするなら、百武が描いた《バーナード城》には、ひしひしと迫る哀切感が、色濃く表現されているといえるでしょう。

 二つの作品を見比べているうちに、ふと、百武は、廃墟化した古城に、自身を重ね合わせていたのではないかという気がしてきました。百武が属していた武士階級は、維新で消滅しました。その実感はまだなかったでしょうが、やがてはこの廃城のように、消え去る運命にあることを察知していたような気がします。この作品には、それほど哀感迫るものがありました。

 油彩画を学び始めてまだ時間が経っていないというのに、百武の描いた画面からは切々とした情感が浮き彫りにされていたのです。

 百武は果たして、師事していたリチャードソン・ジュニアから、このような表現法を学んだのでしょうか。

 百武の風景画を2点、見てきましたが、いずれも、師であるリチャードソン・ジュニアの画風とは明らかに異なっていました。モチーフの設定や構成などにわずかに影響の痕跡は見受けられますが、肝心の画風にその痕跡を見出すことはできなかったのです。

 念のため、父親のトーマス・マイルズ・リチャードソン(Thomas Miles Richardson,  1784–1848)の作品を見てみることにしました。

 調べてみると、数ある風景画の中に、バーナード城を描いた作品がありました。ご紹介しましょう。

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■リチャードソン・シニア作、《バーナード城》(1826年)

 先ほどご紹介したターナーの作品とほぼ同時期の作品です。

(油彩、カンヴァス、サイズ不詳、1826年、所蔵先不詳)

 この作品は、百武の作品とは違って、バーナード城の先、橋の手前から捉えられています。画面右側に、バーナード城が描かれ、手前に二人の子どもが描かれています。

 男の子は川をのぞき込み、女の子は、その子が川に落ちてしまわないように、背中に手をまわして支えています。好奇心に満ちた子どもたちの姿が、さり気なく捉えられていたのです。

 画面中央左寄りから、沈む夕陽が空から山、そして、川面を照らし出し、まるで観客の視線を垂直方向に誘導しているかのようです。観客はごく自然に、子どもたちの存在に気づくといった画面構成になっていました。

 そのせいか、子どもたちの姿が日没の輝きの中で、違和感なく捉えられていました。リアルな生活の一端として捉えられ、活き活きと表現されていたのです。

 その一方で、残照がバーナード城の周辺一体を茜色に染め上げ、古城が放つ哀切感を殊更に強く、印象づけています。夕刻の古城と子どもたちを対比的に捉え、静と動、過去と現在が見事に表現されています。

 リチャードソン・シニアが表現した陰影のある茜色の色調は、百武の《バーナード城》の色調に似ていました。曇天の下での光景と、日没前の光景との違いはありますが、バーナード城とその周辺を鈍い褐色で表現したところに共通性があったのです。

 哀切感のあるこの色調によって、画面に風情が添えられていました。さらに、百武の作品では白波の立つ水の流れ、そして、リチャードソン・シニアの作品では子どもたちの姿を丁寧に描くことによって、逆に、古城が放つ哀切感を強く印象づけていました。

 バーナード城を題材にした、百武の作品、当時、イギリスで著名な風景画家ターナーの作品、百武が師事したリチャードソン・ジュニアの父、シニアの油彩画作品を見比べてみました。

 その結果、見えてきたのが、モチーフに対する百武の感性でした。

■モチーフに対する百武の感性

 バーナード城を描いた油彩画作品を何点か見てきました。百武、ターナー、リチャードソン・シニア、同じ画題を扱いながら、三者三様、切り口が異なれば、込められたメッセージもさまざまでした。それぞれ、独自の世界が表現されていたのです。

 百武の作品との類似性を感じたのが、リチャードソン・シニアの作品でした。

 ひょっとしたら、百武はリチャードソン・シニアの作品を見たことがあったのかもしれません。通り一遍のものではない情感が画面から滲み出ていたところに、百武の作品と似たものが感じられました。

 そう感じたのは、画面の色調のせいかもしれません。

 百武が実際にこの作品を見たことがあったのかどうか、わかりません。ただ、古城を含めた周辺一帯を、このような色調で表現したところに、モチーフに対する感性の類似性を感じたのです。

 この作品を見た瞬間、百武は師であるリチャードソン・ジュニアよりもむしろ、その父リチャードソン・シニアの影響を受けているのではないかという気がしました。

 百武の作品もリチャードソン・シニアの作品も、夕刻の煌めく光景の中に過去と現在を対比的に表現しているところに妙味が感じられます。

 リチャードソン・シニアは、好奇心に満ちた子どもたちの振る舞いを画面に組み込み、生の輝きを表現していました。一方、百武は、流れゆく川の水を丁寧に描くことによって、生の姿を捉えていました。古城を背景に生の姿を組み込み、画面構成をしたところに、両者の感性の似かよりを感じさせられたのです。

 いずれも廃城となったバーナード城の哀感を際立たせ、作品の興趣を深める点で効果がありました。とはいえ、生の捉え方には大きな違いがありました。

 百武が、流れ続ける水を描くことによって、生を表現していたのに対し、リチャードソン・シニアは、好奇心溢れる子どもたちの行為を通して、生を捉えていたのです。

 百武が永遠の営みを続ける自然の中に生を見出していたとすれば、リチャードソン・シニアは若い生命体の姿の中に生を見ていたともいえます。このような生の捉え方の違いの中に、両者が背負っている東西文化の差異が見られるような気がします。

 水の流れに着目した百武の作品には、滅びては生きる有為転変をさり気なく表現したところに、無常を感じさせられました。「もののあわれ」の中に美しさを感じる日本的感性が見受けられたのです。

 ふと、鴨長明の有名な一節、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」を思い起こさせられました。

 一方、好奇心に満ちた子どもの行為に着目したリチャードソン・シニアの作品には、今まさに生きていることの証である「躍動感」が捉えられていました。この躍動感こそ、ギリシャ彫刻を発端とする西洋美術が追求してきたものでもあります。

 西洋画の技法を身につけた百武は、川の流れの中に自然の営みを見出し、その有為転変の中に生の実態を捉えました。百武は、西洋画法でバーナード城周辺をモチーフとして捉えながら、実は、日本的感性を絵筆に載せていたのです。

 ロンドンで油彩画指導を受け始めてわずか3年で、百武は、油彩画作品から日本的感性を発信できるようになっていました。肥前の風土、そして、鍋島直大のお相手役として身につけてきた教養や学問によって花開いた日本的感性でした。(2023/7/29 香取淳子)

百武兼行 ①:百武はなぜ、西洋画の技法で《鍋島直大像》を描くことができたのか。

 前回、鍋島藩第11代当主の鍋島直大の肖像画が、明治初期に描かれていたことをご紹介しました。側近の百武兼行が描いた立像です。当時の日本人が描いたとは思えないほど立派な、西洋の画法に則って描かれた作品でした。

 なぜ、画家でもない日本人が、ここまで立派な肖像画を描くことができたのか、見れば見るほど、不思議でなりません。

 そこで、今回は、百武がなぜ、西洋風の肖像画を描くことができたのか、百武の来歴を踏まえ、考えていくことにしたいと思います。

■鍋島直大の立像

 ローマ滞在中の鍋島直大を描いた肖像画が残されています。書記官として随行していた百武兼行が1881年、大礼服姿の直大立像を描いたものです。

 ご紹介しましょう。

(油彩、カンヴァス、132.5×84.3㎝、1881年、徴古館)

 画面には、鍋島直大の威厳と風格、繊細さと品性など余すところなく描き出されています。いずれも貴族の肖像画に必要な要素です。それが、西洋の肖像画家に勝るとも劣らない筆さばきで、35歳の直大像の中に活き活きと表現されていたのです。

 骨格を踏まえて描かれた顔面や体躯、微妙なグラデーションを使って再現されたきめ細かな肌の艶、白い手袋を持つ手の甲など、まるで生きているかのようなリアリティが感じられます。

 明治初期、日本人画家が油絵に求めたものは、この画面に見られる、生きているように見えるリアリティでした。水墨画であれ、大和絵であれ、これまで日本人が見てきた絵にはみられないリアリティです。

 高橋由一をはじめ、ごく一部の日本人画家が西洋画に求めていたリアリティが、この画面には見事に描出されていました。画家ではなく、書記官として鍋島に随行していた百武兼行が、仕事の合間に描いたこの作品の中に、当時の日本人画家が渇望したリアリティが描き出されていたのです。

 驚かされたのはなにも、リアリズムに則って、この肖像画が描かれていたからだけではありません。透明感のある肌艶には、鍋島直大の若さが溢れ、思慮深い目元や意思的な口元からは、使命感と気概が漲っていたからでした。

 百武は、西洋の画法に従って鍋島の顔を写実的に描いていたばかりか、その内面までも、目の表情や口元、透明感のある肌艶を通して浮かび上がらせていたのです。

 改めて見て、この作品には、写実的に描くための観察力や表現力だけではなく、鍋島に対する百武の深い理解と敬愛が感じられます。

 それでは、描かれた鍋島直大と、描いた百武兼行はどのような関係だったのでしょうか。来歴から探ってみることにしたいと思います。

■鍋島直大のお相手役として選ばれた百武兼行

 鍋島直大は、肥前佐賀藩第10代藩主・鍋島直正の長男として、弘化3年(1846)に江戸で生まれました。15歳になった文久元年(1861)に、佐賀藩最期の第11代藩主となり、明治新政府の下では、もっぱら外交官として活躍しています。

 その鍋島直大のお相手役に選ばれたのが、百武兼行でした。直大が4歳、百武が8歳の時です。

 江戸時代には、元服前の藩主の嫡男のお相手役として、上級家臣の子弟が、部屋住みの身分で、召し出されることがありました(※ Wikipedia)。このお相手役は、藩主の嫡男にとって、友達であり、ライバルであり、伴走者としても位置付けることができます。次代の藩主として順調に成長していくには不可欠の存在でした。

 百武兼行はおそらく、聡明で、気配りができ、穏やかで、優しい子どもだったのでしょう。8歳の時に、鍋島直大のお相手役に選ばれました。以来、佐賀藩の第11代藩主となる直大とは、共に遊び、共に学びながら、成長していきました。

 佐賀藩の教育レベルは高く、教育内容は多岐にわたっていました。

 佐賀藩には、弘道館という藩校がありました。直大の父である直正は、第10代藩主になると、その予算を増額し、藩士の子弟教育を充実させました。1830年のことでした。

こちら → https://www.kodokan2.jp/main/14.html

 弘道館の教諭であった草場珮川や武富圯南から、直大と百武は、和漢文や漢籍をはじめ、衣冠職掌典故や書画などの手ほどきを受けていました。もちろん、武術も学んでいたでしょうし、文久年間(1861-1864)からは英語の学習も進めていました。

 実は、幕府が派遣した77名の万延の遣米使節団(1860年)に、佐賀藩は小出千之助ら藩士7名を参加させています。激動の時代を切り抜けるため、いかに積極的に海外情報を得ようとしていたかがわかります。

こちら → https://www.pref.saga.lg.jp/kiji00366322/3_66322_123025_up_z8c8ebvw.pdf

 帰国後、小出千之助が「世界の通用語が英語である」と報告したのを受けて佐賀藩は、蘭学研究から英語研究に切り替えています。欧米を知ろうとすれば、まず、英米を知らなければならず、それには英語学習が必要だと認識したからでした。

 佐賀藩は1867年、長崎に英学校致遠館を設立しました。フルベッキ(Guido Herman Fridolin Verbeck, 1830 – 1898)が着任して教鞭をとったのは1868年からです。

 近代化のためには欧米の技術、制度、文化を知らなければならず、それには勉学が重要だと佐賀藩は認識していました。1840年代は蘭学研究、1860年代からは英語研究といった具合に、覇権国に照準を合わせながら、欧米の知識や技術、制度や文化を学ぶことを奨励していました。

 そのような時代動向を見据えた教育環境の中で育ったのが、直大と百武でした。

 やがて直大が14歳になり、江戸に参府しなければならなくなると、それに伴い、百武も江戸溜池の鍋島藩邸に住むようになりました。江戸でも直大に随行して、さまざまな経験を積み、さまざまな知識を得ています。

 次代藩主のお相手役として、少年期を経て成年に至る過程で、百武は、直大とほぼ同様の経験を積み、幅広い知識を持ち合わせるようになっていました。二人の間には、主従の関係でありながら、兄弟でもあり、友達でもあるといった密接な関係が築かれていきます。

■以心伝心で通じる間柄

 このような来歴を知ると、百武がなぜ、《鍋島直大像》を写実的に描くだけではなく、その内面を画面上に浮き彫りにすることができたのかが、わかるような気がします。

 人格形成期を共に過ごし、幕末から維新にかけての激動期を共に乗り越えてきたからこそ、以心伝心でわかりあえる関係を築き上げることができたのでしょう。それが、肖像画の顔面に反映されていたのです。

 視線や目元、口元、頬の描き方がとても繊細で滑らかで、油彩筆で描いたとはとても思えません。まるで、面相筆で描いたかのように繊細で柔らかな筆致が印象的です。細部を柔軟に、気の流れに逆らうことなく描くことができていました。

 以心伝心で直大の気持ちを捉えることができたからこそ、直大の表情の一部始終を的確に表現することだでき、その結果として、内面世界を浮き彫りにできたのではないかという気がします。

 幼少期からのさまざまな想いを込めて、百武は絵筆を取り、画面を創り上げていったのでしょう。これまでの歳月を思うと、その喜びは何にも代えがたいものだったにちがいありません。

 百武は、大礼服を身につけた直大の晴れ姿を、自身の手で描くことが出来たのです。苦楽を共にして、激動の時代を乗り切ってきた感慨が、画面を通して伝わってきます。

 それにしても、なぜ、直大の随員に過ぎなかった百武が、油彩でこれほど立派な肖像画を描くことができたのでしょうか。依然として疑問が残ります。

 なぜ、西洋の肖像画家に勝るとも劣らない《鍋島直大像》を描くことができたばかりか、鍋島の内面まで描き出すことができたのでしょうか。

 《鍋島直大像》を描いた頃の百武を振り返り、生活状況や制作環境を踏まえた上で、この疑問に迫っていきたいと思います。

■ローマでの絵の学び

 百武は、1881年、《鍋島直大像》を仕上げています。1880年7月9日に横浜港を発っていますから、ローマに赴任して1年後には、この作品を完成させたことになります。驚くほど速い仕上がりです。

 百武にとって3度目の渡欧でした。日本を離れる時から、赴任地ローマで絵を学ぼうという気持ちを固めていたのかもしれません。

 この時の渡欧には、絵を学ぶために公使館雇いとなった松岡寿と、パリに留学する五姓田義松も同行していました。二人とも工部美術学校を退学して洋行を志す画家でした。

 松岡寿や五姓田義松と道中を共にしたことが、百武に画家としての自覚を促したのかもしれません。ローマに到着すると、百武は、早々に、油絵の研究をはじめています。

 一行が日本を離れのは、7月初旬でした。ローマに着いてもしばらくは、直大の随員として、外交官として、公使館の事務長として、百武は多忙をきわめていたはずです。それなのに、1880年10月頃には、もう絵を習い始めているのです。

 それも、公使館に画家を招き、公務の傍ら、画法を学び、研究し、制作するという変則的な学び方でした。激務の傍ら、絵を学ぶには、画家に公使館まで来てもらうしかなかったからでしょう。直大の配慮の下、百武は、ローマで絵画の研究をすることができるようになったのです。

■パリでの絵の学び

 実は、これ以前にも、百武は油絵を学んだことがありました。1878年6月から1879年秋までの間、パリで本格的に絵画の勉強をしていたのです。

 この時の采配にも、鍋島直大の配慮がみられます。

 1878年6月12日、鍋島夫妻は帰国のためにフランスを発ちました。当然、百武も同行しなければならなかったはずですが、彼はパリに残っています。夫妻の計らいで、1年間、パリに滞在し、油絵の研究を進めることができるようにしてもらったからでした(※ 『近代の美術』53、1979年、至文堂、p.40.)。

 この期間は公務もなく、純粋に絵画研究に励むことができました。

 パリでは、美術学校教授のレオン・ボナ(Léon Joseph Florentin Bonnat, 1833 – 1922)に師事し、油彩画法を学びました。この時の1年間というもの、百武は体系的に絵画を研究し、ひたすら制作に専念することができたのです。レオン・ボナの下で油絵について体系的に学び、基礎的技法を身につけていったのでしょう。おかげで、その後、表現力を飛躍的に高めていったと思われます。

■チェザーレ・マッカリ(Cesare Maccari, 1840-1919)

 さて、百武が、ローマで早々に絵の勉強を始めることができたのは、パリでの師レオン・ボナがチューロンを紹介してくれたからでした。ところが、時を経ず、チューロンは身を引き、百武に、王立ローマ美術学校名誉教授のチェザーレ・マッカリ(Cesare Maccari, 1840-1919)を紹介しています(※ 前掲、p56.)。

 果たして、チューロンがどのような画家だったのか、わかりませんが、教え始めて早々に、自身は身を引き、チェザーレ・マッカリを紹介したということは、百武がすでに高度なレベルに達しているとチューロンが判断したからかもしれません。

 チェザーレ・マッカリは、当時、イタリアではアカデミックな画家として著名でした。歴史画の領域で多くの作品を残しています。だから、チューロンは自分よりもマッカリの方が適任だと思ったのかもしれません。

 いずれにせよ、百武は公務の合間を縫って、当時、ローマで歴史画家として著名なマッカリから絵を学ぶことになりました。

 それでは、マッカリがどのような画家なのか、彼の作品を見てみることにしましょう。

■チェザーレ・マッカリ、《モナリザを描くダヴィンチ》(1863年)

 彼の作品を何点か見てみましたが、大勢の人物が画面に登場する作品が多く、顔の表情まで詳しく認識できる作品はあまり多くありません。ここでは、百武の肖像画と比較できるよう、敢えて、人物の顔がはっきりとわかる作品を取り上げることにしました。

 たとえば、《モナリザを描くダヴィンチ》(1863)という作品があります。

(油彩、カンヴァス、97×130㎝、1863年、カッシオーリ美術館)

 画面には、モナリザと、彼女を観察しながら描いているダヴィンチ、そして、その周辺にいる若者たちが描かれています。ダヴィンチが著名な作品《モナリザ》を描いている光景を題材にした作品です。歴史に残る画家が著名な作品を描いている光景を題材にしているので、これも一種の歴史画といえるのでしょう。

 17世紀から19世紀にかけての西洋では、歴史画は肖像画や風俗画よりも、絵画ヒエラルキーのなかで上位に位置づけられていました。歴史画が高く評価されているので、その頃のアカデミズムでは、歴史画を専門的に描く画家が大勢いたのです。マッカリもその一人でした。

 果たして、百武はマッカリの作品に満足していたのでしょうか。

 この作品を一見すると、まず、《モナリザを描くダヴィンチ》というタイトルでありながら、描かれている人物の誰も、描いているダヴィンチに関心を寄せていないのが不自然に思えました。

 絵を描いているダヴィンチの傍で、楽器を奏でる者がいたり、モナリザをのぞき込んでいる者がいたりします。後ろで、振り返るようにダヴィンチを見ている若者も、その角度からは制作中の絵も、絵筆を取るダヴィンチの手元もみえません。とても、《モナリザを描くダヴィンチ》というタイトルの作品とは思えなかったのです。

■生気がなく、統合性のない画面

 ダヴィンチがモナリザをモデルに描いている光景ではなく、モナリザを囲み、若者たちが戯れている光景が描かれているという印象が残ります。モナリザとポーズを取る3人の若者が画面中央にレイアウトされているからでしょう。

 しかも、彼らの顔や着ているカラフルな衣装には光が当たり、明るく、華やかで、観客の目を引きます。一方、ダヴィンチは横顔をわずかに見せているだけで黒い帽子に黒い服を着ており、背景に沈み込んでしまっています。

 モチーフの配置と画面の明暗の付け方からは、モナリザと3人の若者が強調され、メインモチーフのように見えます。肝心のダヴィンチよりも彼らの方が強く印象づけられてしまうのです。

 もちろん、描かれたモチーフはそれぞれ、丁寧に写実的に描かれています。

 モナリザのスカートの襞、マンドリンを弾く若者の袖、足元の絨毯は、光沢の具合、模様、質感など、モノの形状や身体の構造に忠実に、写実的に描かれています。さすがに西洋画だと思わせられます。

 ところが、彼らの顔や所作を見ると、いずれもまるで蝋人形のように見えてしまいます。手の動き、顔の表情、傾き、どれも硬直し、血が通っていないように見えるのです。一つ一つのモチーフは一見、リアルに描かれているようでいて、実際には、どれもリアルには見えませんでした。生気が感じられないのです。

 明暗のコントラストが強すぎるからでしょうか。

 まるでステージを照らす照明のように、上からの光源がモナリザと3人の若者を照らし出しています。人物の顔面はそれぞれ個性的に描き分けられていますが、照明が強すぎて、フラットに見えます。顔の形状は、皮膚の下の骨格を踏まえ、立体的に描かれているのですが、明るすぎる光源の下、平板で抑揚にかけ、リアリティが感じられないのです。

 身体表現も同様です。座っている様子、身体を傾け、覗き込んでいる様子、見上げている様子、虚空を見つめている様子、それぞれ、身体構造を踏まえ、立体的に丁寧に描かれています。

 ところが、それぞれの所作もまた、フリーズしてしまったかのように硬直しています。動きのポーズを取っていながら、動きが表現されていないのです。

 それぞれのモチーフは、形状あるいは身体構造上、正確に描かれているのですが、相互に関連づけられていないせいか、場面全体としての統合性が感じられません。強調したいモチーフは明るく、中央の位置に配置し、そうではないモチーフとの差異を創り出し、物語性を高めているのでしょうが、リアルに見えないだけではなく、不自然でした。

 マッカリの作品は肖像画ではないので、百武の作品とは比較しにくいのですが、この作品を見る限り、人物の顔面の描写は、百武の作品の方がはるかに優れていると思いました。

 ふと、百武はチェザーレ・マッカリから何を学んだのか、そもそも、影響は受けているのだろうか、という素朴な疑問が湧いてきました。

 そこで、百武の《鍋島直大像》とマッカリの《モナリザを描くダヴィンチ》を比較してみることにしたいと思います。

■人物の顔面を比較

 まず、マッカリの作品について、改めて、中央に描かれたモナリザと3人の若者の顔をクローズアップしてみました。

(※ 前掲。部分)

 それぞれの顔は写実的に描かれています。一見、本物そっくりに見えるのですが、顔に生気がありません。先ほど、蝋人形みたいだと表現したように、表情は硬く、皮膚の下に血が通っているようには見えません。

 確かに、一人一人の表情は描き分けられており、それぞれの顔面にリアリティはあります。ただし、それは、骨格を踏まえ、構造的に不自然ではないという点でのリアリティです。表面的には写実的に描かれているように見えるのですが、人物を描いていながら、それぞれの人物が持っているはずの生気が表現されていないのです。

 比較のため、百武の《鍋島直大像》の顔部分をクローズアップしてみましょう。

(※ 前掲。部分)

 艶があり、張りのある若々しい肌が印象的です。額と眉毛の上、そして鼻筋に、皮脂が適宜、浮いています。この顔面に浮き出た皮脂が、エネルギーを感じさせ、内面生活の豊かさ、精神活動の豊かさを感じさせます。

 歴史画として描かれた人物の顔と、肖像画として描かれた顔と単純に比較することはできないのですが、先ほどもいいましたように、マッカリが描いた人物の顔は、平板で、肌の艶や張りといったものは見受けられませんでした。

 一方、百武が描いた人物の顔は、顔面構造に従って、写実的に描かれているだけではなく、画面に活き活きとした生気が浮き出ていました。西洋の画法に則りながら、東洋の気を感じさせるものがあったのです。

 顔面構造を踏まえ、写実的に描かれているという点ではマッカリも百武も同様でした。ところが、写実的に描かれた顔面に、生気が現れているか否かという点で、大きな違いが見られたのです。

 こうして比較してみると、《鍋島直大像》は、ローマ滞在時に描かれたとはいえ、マッカリの影響を受けた作品とはいいがたいことがわかります。

 それでは、この作品は、一体、誰の影響を受けているのでしょうか。

 考えられるのはただ一人、1878年から79年にかけて、パリで師事していたレオン・ボナです。

■レオン・ボナ(Léon Joseph Florentin Bonnat, 1833 – 1922)

 1833年に生まれたレオン・ボナは、エコール・デ・ボザール(École des Beaux-Arts)で学び、肖像画家として知られるようになりました。1867年にレジオンドヌール勲章(シュヴァリエ章)を、1869年にはサロン賞を受賞し、初めて芸術アカデミーのサロン審査員に選出されています。

 百武が教えを請うようになった1878年にはすでに、保守的なサロンの重鎮となっていました。百武はアカデミーの技法を身につけ、すでに肖像画家として著名になっていたレオン・ボナから手ほどきを受けていたのです。

 百武の画期的な作品は、レオン・ボナの薫陶によるものでした。

 ボナはその後、1888年にエコール・デ・ボザールの教授となり、1905年5月にはポール・デュボア(Paul Dubois)の後を継いで学長になっています。当時のフランスの美術界で中心的な地位を確立した画家だったのです。

 それでは、レオン・ボナの作品を見てみることにしましょう。

 マッカリと比較するため、似たような題材の作品を取り上げ、百武の《鍋島直大像》への影響があるのか否かを探ってみたいと思います。

 取り上げるのは、《ヴィクトル・ユーゴの肖像》(1879年)です。

 数ある肖像画の中から、なぜ、この作品を取り上げたかというと、レオン・ボナが、ヴィクトル・ユーゴ(Victor-Marie Hugo, 1802-1885)の肖像画を描く様子をスケッチし、版画にした作品があったからです。

 まず、その版画作品から、ご紹介していくことにしましょう。

■《ヴィクトル・ユーゴを描く レオン・ボナ 》(1879年)

 1879年に、レオン・ボナがユーゴを描く光景を、ジュール=ジュスタン・クラヴリー(Jules-Justin Claverie, 1859-1932)がスケッチし、その絵をフレデリック・ウィリアム・モラー(Frederick William Moller)が版画にした作品があります。

(※ Wikimedia)

 まず、目につくのが、正面に座ってこちらを見ているユーゴです。ついでその傍らで、大きなカンヴァスに絵筆を滑らせているレオン・ボナ、そして、描く様子を見ているギャラリーです。

 おそらく、実際に見た光景をスケッチしたものでしょう。画面中央に、モデルとなったユーゴと描きかけのカンヴァスとレオン・ボナが描かれており、何がメインモチーフなのかがはっきりとわかる構図です。マッカリの作品と違って、違和感はありません。

 手前の紳士、淑女は真剣な面持ちで、ユーゴを描くレオン・ボナの様子を背後から見つめています。画面右横からは、子どもたちが興味津々、身を乗り出して覗き込んでいます。

 まるで実演ショーのようです。

 絵を描いている画家そのものが、鑑賞の対象になっていることがわかります。レオン・ボナはまさに時の人だったのでしょう。この版画は、当時、彼が肖像画家としていかに著名だったのかを示すものだといえます。

 この画面からは、レオン・ボナに対する敬意が感じられます。

 考えてみれば、この版画もマッカリの《モナリザを描くダヴィンチ》も、著名なモチーフを著名画家が描くという点で、画題としては同種でした。

 ところが、描かれた内容は大幅に異なっていました。マッカリの作品では、描かれている人物たちは、モナリザを描いているダヴィンチに興味を示していませんでした。絵を描いている傍で、3人の若者は勝手な行動をしており、ダヴィンチに対する関心も敬意もありませんでした。

 同じような画題でありながら、捉え方の違いをみると、改めて、果たして、百武はマッカリに満足していたのかという疑問が湧いてきます。

 それでは、レオン・ボナが描いた《ヴィクトル・ユーゴの肖像》を見ていくことにしましょう。

■ ヴィクトル・ユーゴの肖像》 (Portrait of Victor Hugo、1879年)

 レオン・ボナが46歳の時に、77歳のユーゴを描いた肖像画です。肖像画家として評価され、サロンの重鎮になっていた頃の作品で、晩年に近い文豪の威厳や風格を余すところなく表現しています。

(油彩、カンヴァス、138×110㎝、1879年、ヴェルサイユ宮殿)

 ユーゴは、分厚い本に左肘をついて、左手の人差し指を頭に差し込み、何か考え事をしているようなポーズを取っています。右手はどういうわけか、チョッキに差し込み、真剣な表情でこちらを見つめています。

 肖像画に似つかわしくない、不可解なポーズと仕草が気になります。

 レオン・ボナはなぜ、このようなポーズのユーゴを描いたのでしょうか。

 これがユーゴらしさを表すものなのかどうかはわかりませんが、通常の肖像画とは一線を画したポーズと所作が、私には謎でした。

 そこで、調べてみると、次のような写真がみつかりました。

(※ Wikimedia)

 1876年に撮影されたユーゴのグラビア写真です。レオン・ボナがユーゴの肖像画を描いたのが1878年ですから、ほぼ同じ時期の写真でした。ユーゴは日頃、このような仕草をすることが多かったのかもしれません。

 再び、レオン・ボナの作品に戻ってみましょう。当時のグラビア写真と見比べてみると、写真よりもはるかに精密で、迫真的な肖像画です。

 眼の前の対象を、機械的な正確さで、写し取るカメラで捉えた姿よりも、はるかに迫真的な姿が、絵具と絵筆を使って、カンヴァスの上に表現されていたのです。

 秀でた額、額に深く刻み込まれた皺、意思が強く、感性豊かな目つき、目の下の深いたるみ、さらには、髭や頭髪に混じる白髪の輝きなど、顔面だけでも強烈な訴求力があります。

 それに、不可思議な手の仕草が加わります。

 左手の人差し指を頭に差し込み、右手は親指を残して4本の指をチョッキの中に入れています。左手の薬指には金の指輪がはめられ、右手の甲には血管が浮き立っています。老いてはいても、成功した人物であることが表現されています。

 左右の手が示すものが一体、何なのか、いまだに気になります。単なる仕草にすぎないのか、あるいは、何らかのメッセージが示されているのか、何度見ても一向にわかりません。仮に何らかのメッセージだとしても、それを解読する手掛かりはないのです。

 謎を感じると、観客はさらに、画面に引き付けられることでしょう。非常にインパクトの強い肖像画です。

 明暗のきわだった画面構成も、この作品の特徴といえます。

 左上にある光源が、顔と手、ワイシャツの襟と袖を強く照らし出しています。まるで暗闇の中から顔と手だけが浮き上がっているように見えます。背景は暗く、着用している服も黒色なので、ワイシャツの襟と袖の白さが際立って見えます。

 この襟と袖の白さが、暗がりの中で、顔と手を引き立てる役割を果たし、ユーゴの内面世界への関心が喚起されます。正面を見つめているようであり、虚空を眺めているようでもあるユーゴの表情が気になり、画面に見入ってしまうのです。

 傍らのテーブルや本、座っている椅子には淡い光が当たり、ひっそりとした静けさを醸し出しています。それが、思索にふけるユーゴの表情に現実味を添え、画面に深みを与えていました。

 暗い背景の下、顔面の表情と手の所作に、観客の視線が集中するように画面構成されているのも大きな特徴でした。そのせいか、リアリズムの極致ともいえる表現でありながら、画面からは豊かな情感が浮き上がっています。

 これこそ、百武が求めていたものではなかったかという気がしてきます。

 レオン・ボナが描いた《ヴィクトル・ユーゴの肖像》には、写実的に捉えられたユーゴの表情から、その内面がくっきりと浮き彫りにされていました。画面から発散される迫力を感じた時、私は、百武はレオン・ボナの影響を受けていると確信したのです。

 明暗のコントラストの強い画面構成、写実的に描きながらも、その内面を描出する工夫などがこの肖像画の特徴でした。振り返れば、その特徴はまさに、ベラスケスの人物像の特徴でもありました。

 そう思うと、急に、レオン・ボナは、ベラスケスの影響を受けているのではないかという気がしてきました。

 確認するため、ベラスケスの作品を見てみることにしましょう。

■ベラスケス、《マルタとマリアの家のキリスト》(1618年)

 ベラスケス(Diego Rodríguez de Silva y Velázquez, 1599 – 1660)は、スペインの宮廷画家として、数多くの作品を残しています。その中から、極めてリアルに市井の人物を描いた作品をご紹介しましょう。

(油彩、カンヴァス、60×103.5㎝、1618年、ナショナル・ギャラリー(ロンドン))

 この作品は、イエス・キリストがマルタとマリアの家を訪れている場面が描かれています。新約聖書のルカによる福音書 (10章38-42) に基づいた場面です(※ Wikipedia)。

 肖像画ではありませんが、画面左側に描かれたマルタの表情が、迫真的に表現されているのが印象的です。

 ルカの福音書によると、マリアと姉マルタは共に暮らしており、イエス・キリストと親しかったそうです。ある時、イエス・キリストが彼女たちの家を訪れました。その際の情景を描いたのがこの作品です。

 画面右上には「画の中の画」のようなものが描かれており、キリストとその足元に座っているマリアの姿が見られます。マリアはキリストの傍らで、その話に耳を傾けているのです。

 一方、手前に描かれた姉のマルタは、キリストをもてなすためにニンニクをすり潰しています。キリストをもてなすための料理を作っているのですが、不満そうな顔つきがとてもリアルに描かれています。自分だけが働き、マリアが手伝いもしないでキリストの傍にいることが気に入らないのです。

 それを聞いたキリストは、不満を漏らすマルタに比べ、キリストの話を聞いているマリアの方がよほど優れていると、マルタを諭します。

 日常生活には、マリアのように、キリストの話を聞いて、真理を求めようとする側面と、マルタのように、客がくればもてなすための料理をつくろうとする、つまり、折々に求められる課題をこなそうとする側面があります。

 このエピソードでは、キリストが、マリアの方が優れていると評価しました。そのことから、具体的な課題をこなすことより、真理を求めようとすることの方が重要だという解釈が示されています。

 とても複雑で、深淵な内容の作品なのです。

 さて、左やや上方からの光源が、マルタの顔、衣装、ニンニクをすり潰す手をくっきりと見せています。光源は微妙な陰影を生み、マルタの気持ちを浮き彫りにする一方、手の動きを描き出しています。

 小道具としての金属のすり鉢、ニンニク、魚、卵なども、きわめて精密に、そして、写実的に描かれています。

 宗教画の要素があり、静物画の要素もあり、市井の人の日常生活の一端をさり気なく描いた風俗画の要素もある見事な作品です。

 驚いたことに、これはベラスケス19歳の時の作品でした。

■百武が求めたものは、ベラスケス由来のリアリズムか?

 哲学者であり、神学者でもあった山田昌氏は、「マルタとマリア」のエピソードについて、次のように語っています。

 「マリアは他のことは何もしないで、じっとイエス様の言葉に耳を傾けていた、それに対して、マルタの方はお勝手でもって、いろいろごちそうを作ってもてなそうと働いていた、そういう2つの生活が、「観想的生活」と「活動的生活」との、ひとつのモデルであるのだ、そしてまた、イエス様は、マリアが一番いい場所を選んだと、つまり、活動的生活より観想的生活の方が優位である、優れていると、こう言われたと、そういう解釈です」

(※ 山田昌、『藤女子大学キリスト教文化研究所報告』2巻、2001年3月、p.3.)

 マルタとマリアのエピソードについては、このような解釈が伝統的な解釈となっていたと語っています。エックハルト(Meister Eckhart, 1260年頃 – 1328年4月30日以前)によって、新たな解釈が提示されるまでは、この「観想的生活」優位の解釈が定着していたのです。

 興味深いことに、ベラスケスはこのエピソードを踏まえて、《マルタとマリアの家のキリスト》を描く際、マリアを遠景に置き、マルタを前景に置いて、きわめて写実的にその表情を描いています。つまり、「活動的生活」に力点を置いた画面構成をしているのです。

 ベラスケスが、理想あるいは観念よりも、現実を踏まえた生活実践を重視していたことがわかります。しかも、生活実践の中から生まれた不平不満を人物の表情を通して浮かび上がらせようとしていました。

 描かれた人物から、生の感情を蘇らせ、画面に生気をもたらせようとしていたのです。

 それでは、マルタの顔をクローズアップしてみましょう。

(※ 前掲。部分)

 横睨みをしているような目つきや、硬く閉じた口元には、自分だけが料理を作らされているというマルタの不満が滲み出ています。この表情を見れば、誰でも、マルタの気持ちは手に取るようにわかります。顔面を見るだけで、その内面が読み取れるように描かれているのです。

 そして、赤味の差した頬のちょっとした窪み、すりこぎ棒を握る、太く赤らんだ手指には、マルタの実直さと、日々の労働の大変さが表現されています。

 驚くほど迫真的な描き方です。油彩画でありながら、柔らかな質感を出すことができているのです。顔面構造、身体構造を踏まえたうえで、表情の現れやすい目元や、口元を、柔らかいタッチで描いているからでしょう。見事です。

 《マルタとマリアの家のキリスト》には、モチーフの捉え方、画面構成、明暗のコントラストの強さなど、ベラスケスの画法を、端的に見ることができます。

 先ほどご紹介した《ヴィクトル・ユーゴの肖像》と比べてみると、レオン・ボナは明らかに、ベラスケスの影響を受けていることがわかります。

 マッカリの作品でみてきたように、ともすれば、硬直した表現になりがちな油絵ですが、ベラスケスが描く肌はとても柔らかく、顔もまた活き活きとして表情豊かに表現されていました。タッチが滑らかだからなのでしょうし、均質な色を均等に、カンヴァスに置くことをしなかったからでしょう。

 ベラスケスの作品を見てようやく、なぜ、レオン・ボナが迫真的な肖像画が描けるのかがわかったような気がします。そして、百武がなぜ、油彩で表情豊かな《鍋島直大像》を描くことができたのかがわかってきました。

 百武はいってみれば、ベラスケス由来のリアリズムを、レオン・ボナから学んでいたのです。

 レオン・ボナに師事したわずか1年ほどの期間に、百武は、ベラスケスの画法を吸収していたことになります。生来、豊かな画才を持ち合わせていたのでしょう。

(2023/6/24 香取淳子)

岩倉使節団の足跡:鍋島直大の場合

■随行留学生として、使節団に参加

 岩倉使節団は、不平等条約の改正交渉の準備、欧米の技術、文化、制度、思想等の把握を目的に、編成されました。1871年11月12日に横浜港を出発した岩倉使節団には、留学生たちも随行していました。その内訳は、華族14名、士族24名です。

 その中に、旧佐賀藩主で、維新政府で議定、外国官副知事などを務めた鍋島直大(1846-1921)も参加していました。25歳の時です。身の回りの世話役として、百武兼行(1842-1884)が付き添いました。

 使節団に随行して、アメリカ経由でイギリスに行き、オックスフォード大学で直大は文学を学び、百武は経済を学んでいます。岩倉使節団の日程表をみると、1871年11月12日に横浜港を出発し、サンフランシスコに着いたのが12月6日です。以後、アメリカ国内を視察して回り、使節団がイギリスに着いたのは1872年7月14日でした。

 ただ、使節団とはワシントンまで同行し、その後は一行と別れてロンドンに向かったという記述もあります(※ 三輪英夫、『佐賀県立博物館報』、No.27. 1975年、p.2.)。

 日程表では、岩倉一行がワシントンに着いたのが1月21日、ワシントンを発ったのが5月4日です。一方、鍋島らは4月頃ロンドンに着いたという情報もありますから、やはり、三輪のいうように、ワシントンで一行とは別れたのでしょう。

 鍋島直大の渡欧目的は、「開けたる世のよき事をわか国へ行ふ為めのつとめなりけり」でした。開国後の日本のために、イギリスで見聞を深め、そこで得てきた知識や経験を日本の発展のために持ち帰りたいというものでした。

 ところが、オクスフォード大で学び始めて2年後の1874年3月、江藤新平らが起こした佐賀の乱の報に接し、急遽、一時帰国することになりました。

■佐賀の乱

 佐賀の乱とは、1874年2月に江藤新平と島義勇らをリーダーとし、佐賀で起こった明治政府に対する反乱の一つです。不平士族による初めての大規模な反乱でしたが、政府が素早く対応したので、激戦の末に鎮圧されました。

 佐賀藩士・江藤新平(1834-1874)は、1871年の廃藩置県後、文部大輔、左院一等議員、左院副議長を経て、初代・司法卿を務めました。司法権統一、司法と行政の分離、裁判所の設置、検事・弁護士制度の導入など、次々と司法改革に力を注いできました。江藤は、積極果敢に、日本の近代司法制度の基礎を築いてきたのです。

 新政府の中で、これほど大きな業績を上げてきた江藤新平が、なぜ、反乱を企てたのでしょうか。

 江藤は、1873年に参議に転出し太政官・正院の権限強化を図りました。ところが、その年、征韓論争が起こり、西郷側に立っていた江藤は敗れて辞職したという経緯があります。

 西郷や江藤らは、欧米の共和制や自由民権の思想に親近感を抱いていましたが、欧米の視察から帰国した岩倉、大久保、伊藤らは共和制を評価せず、自由民権の思想を危険視するようになっていました(※ 松井孝司、「近代日本をリードした佐賀藩」、『近代日本の創造史』10巻、2010年、p.6.)。

 下野した江藤は、1874年に板垣退助、後藤象二郎らがに賛同して、民撰議院設立建白書に署名し、民撰議院 (国会) の設立を求めました。佐賀に帰郷後は、征韓党の指導者に推され、不平分子を率いて政府軍と戦いますが、敗れて処刑されています。

「東京日々新聞 六百五十六号」には、江藤が捕縛された時の様子を落合芳幾が描いた錦絵が掲載されています。

(※ Wikimedia。図をクリックすると、拡大します)

 「”佐賀縣下 肥前の國にて暴動せし賊軍一敗地に塗(まみ)れ首謀江藤氏遁走して加藤太助と変名し。明治七年三月下旬与州宇和島より甲浦に至り客舎に潜伏したりしを。高知縣より派出せる少属(せうさかん)細川 某 数名の捕吏(とりて)を率(したがへ)て。該地(そのち)の戸長に案内させ。主僕を捕縛に及ぶのとき。江藤氏騒げる景色なく従容として筆紙を採(と)り。岩倉殿下に一書を呈(てい)す其文(そのぶん) 頗(すこぶ)る激烈にて。征韓黨の巨魁とも称(いふ)へき胆力顕然たりとぞ “」

 轉々堂主人が書いた記事の内容は、上記のようなものでした。

■岩倉具視に宛てた書簡

 江藤新平は、捕縛された時は抵抗もせず、素直にしたがったようです。そして、紙と筆を求め、岩倉具視に宛てて、文章を綴ったそうです。その文面がなんとも激しく、さすが征韓党の首領らしい胆力を見せていたと轉々堂主人は書いているのです。

 振り返れば、江藤新平(1834-1874)は、若いうちから尊王討幕運動に参加し、明治維新とともに新政府に参加しました。東征大総督府軍監、江戸鎮台判事を勤め、軍事、治安を担当しています。その後、文部大輔や法制関係官職を歴任し、1872には司法卿に就任しました。

 法律知識に富み、司法権の独立、警察制度の一元化、改定律例の制定、『民法草案』の翻訳・編纂などを行い、司法行政を確立しました。1873年には参議となっています。幕末から新政府誕生に至るまで、新しい日本を創るために尽力していたことがわかります。

 とくに秀でた業績を残したのが、司法領域でした。実は、この司法権独立問題や征韓論をめぐって大久保利通、岩倉具視らと対立し、下野することになったようです。下野した当初は、板垣退助らの民選議院設立建白書の署名運動に参加していましたが、佐賀に帰ると、征韓強行、欧化反対の反動士族の首魁となって、1874年に挙兵したというのが佐賀の乱の次第です(※ 江藤新平関係文書)。

 その江藤が最期の際になって、岩倉には是非とも言っておきたいことがあったのでしょう。

 同じように国のために命をかけて尽力し、新政府のために大きな業績を残してきた江藤新平でした。それにもかかわらず、岩倉らと対立したために、結局は刑死の憂き目に遭うことになったのです。

 鍋島が帰国した際には、すでにこの騒動は収まっていました。

■西洋風の貴族の在り方

 日本に帰国して早々、鍋島に、内命「西洋風ノ貴族風ヲ学フベシ」が下りました。今度は、「西洋風の貴族らしさを学び」、それを日本に持ち帰るようにというのが任務でした。当然のことながら、単身では用が果たせません。鍋島直大はこの時、胤子夫人同伴で再渡欧しています。

 ロンドンに着くと、鍋島は学び、英国を中心に各地を巡遊して貴族たちと交流する一方、「プリンス・ナベシマ」として社交界でも活躍しました。近代国家として体裁を整えるには、これまで武士であった鍋島も社交を学び、洗練された立ち居振る舞いを学ばなければなりませんでした。

 もっとも、オックスフォード大学で文学を学び、研究していた鍋島にとって、この任務は適任だったかもしれません。次第に、西洋の社交術を身につけ、国際感覚を肌に沁み込ませていきました。

 1878年6月12日に再び、帰国の途に着きましたが、滞在中に、ロンドンで撮影された夫妻の写真があります。

(※ 文化遺産オンライン。図をクリックすると、拡大します)

 この写真を見ると、まだ洋服が馴染んでいないように思えます。いかにも借り物の服を着ているように見えますが、西洋文化、とくに西洋風の貴族の在り方を学ぼうとする気概だけは感じられます。

 帰国すると、鍋島は、翌1879年には外務省御用掛となり、同年、渡辺洪基、榎本武揚らと東京地学協会を設立しました。さらに、徳大寺実則、寺島宗則らと、共同競馬会社の設立などにも動いています。イギリスで得た知識や経験を踏まえ、次々と、イギリス貴族が行っていた事業を立ち上げていました。

■東京地学協会と共同競馬会社の設立

 東京地学協会にしても、共同競馬会社にしても、イギリス貴族が行っていることをそのまま、鍋島は日本に持ち込んでいたのです。

 たとえば、イギリスでは1830年に王立地学学会が設立されています。選ばれたメンバーがインフォーマルな晩餐会を開催して、最近の科学的な問題や発想について議論する「ダイニングクラブ」として始まっていました。

 当初の活動は、アフリカ、インド、極地、中央アジアなどの探検などでした。いずれも植民地支配と密接に関連しています。いかにも7つの海を支配したイギリス貴族らしい、趣味と実益をかねたクラブといえます。

こちら → https://www.rgs.org/about/

 こういう組織が日本にも必要だと思ったのでしょう、鍋島は、帰国した翌年の1879年に、地学協会を設立しています。

こちら → http://www.geog.or.jp/profile.html

 こちらは当初、探検記や外国事情を掲載する年報を発行し、地学に関する情報を発信していましたが、1893年に地学会と合併したことによって、地学の専門学術誌としての「地学雑誌」を引き継ぐことになりました。以後、地学協会の活動も、「地」を「読み」、「地」から「学ぶ」専門学術の発展・継承に貢献することを目指し、現在に至っています。

 一方、競馬は、当初からイギリス貴族の娯楽とみられています。有名なアスコット競馬場に貴族たちが着飾って集まり、観戦する様子を、私は映画で見たことがあります。実は、このアスコット競馬場はアン王女(在位1702年から1714年)が創設し、保護してきた競馬場でした。

 競馬にはさまざまな面で、王室が関わることが多く、ジェームズⅠ世(在位1603年から1625年)は、ニューマーケットがイギリス競馬の中心地となる礎を築きましたし、チャールズⅡ世(在位1660年から1685年)は、自らが手綱を取ってレースで優勝したこともあります。イギリスの競馬は王室の保護奨励の下で発展してきたのです。(※ https://www.jra.go.jp/keiba/overseas/country/gbr/

 それを見倣って、鍋島は、1879年、徳大寺実則、寺島宗則らと、共同競馬会社(Union Race Club)を設立しました。皇族、華族、政府高官、高級将校、財界人らがメンバーになっいる組織で、いってみれば、競馬を主催する社交クラブでした。

 共同競馬会社が催す競馬は、外務卿井上馨の提唱する欧風化政策に沿って、屋外の鹿鳴館とも位置付けられていました。上野不忍池で春、秋に開催され、東京在住の上流階級が集う華やかな社交の場となっていました。

 運営は、メンバーからの会費と宮内省、農商務省、陸軍の支援で行われていましたが、馬券が発売されることはなく、財政的に行き詰って、1892年には解散しています。

 これらを見ると、西洋文化を移植しても、根付くものもあれば、根付かないものもあるということの一例といえます。

■イタリア特命全権大使

 日本で落ち着く間もなく、1880年3月8日に鍋島直大は、駐イタリア特命全権公使の辞令を受けます。ところが、3月30日に妻胤子が亡くなってしまいました。これではイタリアでの活動がスムーズに進みません。急遽、権大納言広橋胤保の娘、栄子との婚約を済ませたうえで、鍋島は一足先にローマへ赴きました。

 1881年4月、栄子の到着を待って、鍋島は日本公使館で結婚式を挙げています。栄子は最初、岩倉具視の長男である具義と結婚していましたが、先立たれていました。ですから、直大とはどちらも再婚同士のカップルでした。

 イタリア赴任時代の鍋島直大を描いた肖像画があります。

(※ 油彩、カンヴァス、132.5×84.3㎝、1881年、徴古館)

 駐イタリア特命全権公使として赴任していた鍋島直大に、書記官として随行していた百武兼行が描いた大礼服姿の立像です。

 『集書』の「公使館舞會ノ概略」には、「公使閣下大礼服ノ真像本年百武書記官ヲ暇毎ニ丹精ヲ凝シテ揮写セラレシ一大額ヲ掲ク」との記述があるそうです。この作品は、百武が公務の合間をぬって描いたことが分かります。

 額には鍋島家の家紋である杏葉紋が、上半分に彫り込まれ、右下隅には日本列島、左下隅にはイタリア半島が彫り込まれています。鍋島家と日本、イタリアが調和するよう、額縁がデザインされているのです。直大の肖像画を収めるのにふさわしい格式の高さが感じられます。

 顔の部分をもう少し、アップして見てみることにしましょう。

(※ 前掲、部分。)

 間近でみると、直大の面持ちはなんとも優雅で、繊細です。英国を中心とした貴族たちの社交界で、「プリンス・ナベシマ」と呼ばれていたというのもわかります。これなら、イタリアの社交界でも十分、通用するでしょう。穏やかでありながら、凛とした威厳もあります。

 実際、鍋島がイギリスで磨いてきた社交術は、イタリアの王室や貴族たちとの社交の場で発揮されていたようです。

 大阪大学特任講師のカルロ・エドアルド・ポッツィ(Carlo Edoardo Pozzi)氏は、イタリアに保管されている書簡や公文書、新聞記事などを渉猟し、鍋島直大が当時、どのような外交的な働きをしていたのかを検証しています。

 その結果、鍋島は、日本公使館で華麗な夜会を度々開催し、それがマスコミに取材され、新聞に取り上げられていたと記しています。イタリア人に対する日本の認知度を高めていたのです。

 さらに、イタリア王室や上流階級の人々から、「プリンチペ・ナベシマ」として人気を博していたと報告しています。

(※ 「駐イタリア日本特命全権公使鍋島直大と日伊関係史におけるその役割(1880-1882)」、『イタリア学会誌』、70巻、2020年、p120-121.)

 鍋島栄子の写真も見つかりました。

(※ 文化遺産オンライン。図をクリックすると、拡大します)

 いつ頃撮影されたものかはわかりませんが、当時の日本人には珍しく、洋服の着こなしがこなれています。社交的でドレスがよく似合い、人あしらいが上手な栄子は、イタリアでも評判になっていたともいわれています。

 夫妻ともども、「ヨーロッパの貴族風」をしっかりと身につけていたのでしょう。そういう点で、鍋島はまさに、新政府から与えられた任務を完了させていたのです。

■可視化された鹿鳴館外交

 帰国した直大は、宮中顧問官となって、皇室の典礼・儀式に関する諮問に応ずる任務に就きました。明治天皇に仕えて、厚い信頼を得る一方、外務卿井上馨が主導する欧化政策の旗振り役となって、活躍することになります。

 1883年7月に鹿鳴館が建設されると、西洋貴族の礼儀作法に詳しい直大と栄子夫妻は、賓客の接待に欠かせない存在になりました。イタリアで磨きをかけた社交術に加え、ダンスが得意な栄子は、陸奥宗光夫人の亮子や戸田夫人の極子とともに「鹿鳴館の華」と称えられています。

 楊洲周延が『貴顕舞踏の略図』の中で、鹿鳴館での舞踏会の様子を描いています。

 ご紹介しましょう。

(※ Wikimedia、1888年、個人蔵)

 男性たちの顔や服はほとんど同じに見えます。違いと言えば、せいぜい髭があるかないかという程度です。女性たちも顔つきやヘヤスタイルは似通っています。ところが、来ているドレスの色や生地、模様などは個性的で、とても華やかです。

 壁側では女性が二人、ハープシコードのようなものを弾いており、当時の日本人の日常とは別世界が創り出されています。西洋風の華やかさが随所に見られ、目を楽しませてくれますが、一般の人からは反感を買うかもしれません。

 彼女たちが着ているドレスはどれも、カラフルで、手の込んだ模様と色合いがとても印象的です。

 一見、華やかですが、見ているうちに、なんともいえず哀れに思えてきました。女性たちは豪華なドレスに身をつつみ、ダンスをしていますが、身の丈にあっておらず、いじらしく思えてきたのです。

 つい、この前までは着物を着て暮らしていたのが、思いっきり背伸びをして、洋風を気取っているとしか見えないのです。そこには健気さはありますが、楽しさは伝わってきません。ひょっとしたら、これは当時の日本を象徴しているのではないかという気がしてきます。

 この浮世絵には、井上馨の欧化政策がみごとなまでに視覚化されていました。

 興味深いことに、当時、日本にいたフランス人の挿絵画家ビゴー(Georges Ferdinand Bigot, 1860 – 1927)もまた、鹿鳴館の様子をいくつか描いています。『トバエ』(TÔBAÉ)第1号に掲載された絵をご紹介しましょう。

(※ 『トバエ』(TÔBAÉ)第1号、1887年)

 背の高い西洋人に対し、日本人女性がカーテシー(Curtsy)をしている姿が描かれています。カーテシーというのは、片足を引いて軽く膝を曲げる所作のことで、ヨーロッパの伝統的な挨拶の仕方です。女性が位の高い者に対して行いますが、男性は行いません。

 この日本人女性は、男性に向かってカーテシーをしているので、欧米の礼儀作法をわきまえていることはわかります。ただ、その所作が優雅ではなく、元々、背が低いのがさらに低く見え、卑屈に見えてしまいます。隣の男性も背が低く、二人とも身体の割に顔が大きいので、どちらかといえば、ぶざまに見えます。

 当時の鹿鳴館の様子を外国人の眼から見れば、このように見えたのでしょう。

 この絵は、欧米から見た当時の日本を象徴しているようにも見えます。当時の日本は、形式の模倣から西洋世界に溶け込もうとしていましたが、内実が伴わないので、そぐわず、浮いて見えるのです。

 それはさまざまな領域でいえることでしょう。西洋から移植しても、日本文化にそぐわなければ、根付かないのです。

■岩倉使節団の足跡

 それでは、岩倉使節団の足跡を、鍋島直大のケースから振り返って見ることにしましょう。

 条約改正交渉の準備および欧米の技術、文化、制度、社会を視察し、調査するため、岩倉使節団は欧米に派遣されました。その中に留学生として随行したのが鍋島直大でした。

 イギリス、オックスフォード大学で文学を学び、社交を通して、イギリス貴族の所作、振舞を身に着けました。次に赴任したイタリアでは、さらに社交術に磨きをかけ、王室や貴族、政府要人との懇意な関係を構築しました。鍋島は当時の日本では、欧米要人と交流できる数少ない逸材でした。

 一方、欧化政策の一環として鹿鳴館を建て、外国要人を招いて歓待しようとしたのが、外務卿井上馨でした。当時の日本は、関税自主権の回復、治外法権の撤廃など、不平等条約改正交渉の準備に取り組んでおり、日本が欧米と同じような近代国家だということを理解してもらう必要がありました。

 欧州貴族の社交術を知る鍋島夫妻は、当然のことながら、井上の提唱する鹿鳴館政策に協力しました。おかげで、日本の社交にも少しずつ洋風マナーが伝わっていきました。案外、外国要人も好感を抱いてくれていたかもしれません。少なくとも、日本人の必死さ加減は伝わったことでしょう。

 ところが、鹿鳴館などの井上の極端な欧化政策が、国内に強い反感を呼び、1887年には外務大臣を辞任せざるをえませんでした。1883年に始まった鹿鳴館時代はわずか4年で終了したのです。パフォーマンスが派手だったわりには、外交交渉にメリットがあったわけではなく、条約改正交渉の役にも立ちませんでした。

 岩倉使節団派遣に始まる不平等条約改正交渉は、その後も粘り強く続けられました。陸奥宗光が外務大臣だった1894年、日英通商航海条約を調印をし、領事裁判権撤廃・対等の最恵国待遇・関税自主権の一部回復を締結しました。その後、他の14か国とも同じ内容の条約を調印しました。まずは治外法権の撤廃を実現することができたのです。

 1894年時点では、一部しか回復していなかった関税自主権ですが、小村寿太郎が外相だった1911年に完全に回復しました。差別的関税を撤廃する権利を獲得したのです。

 これでようやく、日本が対等に欧米に立ち向かっていける環境が整備されました。

 使節団にまつわるエピソードをいくつかみていくと、岩倉使節団の派遣そのものが何人もの逸材を生み出していることがわかります。欧米とのさまざまな交流を通して、日本人の能力が涵養され、やがて、日本のために貢献することができるようになっているのです。

 その好例を、今回、ご紹介した鍋島直大のケースに見ることができます。新政府が英断を下し、多数の意欲ある逸材を派遣したからにほかなりません。(2023/5/31 香取淳子)

ゴダールを偲ぶ ⑤:『気狂いピエロ』の俳優と監督、それぞれの晩年と死

■『気狂いピエロ』を振り返る

 そもそも私が、『気狂いピエロ』について書こうと思ったのは、ゴダールの死がきっかけでした。ゴダールが亡くなったという報道を見て、若いころ、惹きつけられた『気狂いピエロ』を思い出し、再考してみようと思ったのでした。

 若いころの記憶に沿って、ようやくラストシーンまでたどり着いたのが、前回でした。『気狂いピエロ』を振り返ることいよって、当時、何を考えていたのか、何をしたかったのか、何に気持ちが囚われていたのかが思い起こされ、懐かしい気持ちでいっぱいになりました。

 『気狂いピエロ』はまさに私の青春とセットになった映画だったのです。

 あれから遥かな年月を重ねた今、あの映画から、何を読み取ったかといえば、「晩年」あるいは、「死」でした。

 ゴダールは冒頭のシーンで、ベラスケスの晩年の絵画について、エリー・フォールの見解を引用し、ナレーションで、次のように流していました。

 「ベラスケスは50歳をすぎ、事物を明確に描こうとせず、その周りを黄昏と共にさまよった」

 実際に、エリー・フォールは本の中で、次のように書いていました。

 「ベラスケスは晩年に近づくほど、こうした黄昏時の諧調をいっそう探し求め、おのが心の誇りと慎み深さを表現する神秘に絵画に移行させようとした。彼は昼間を放棄し、室内の半暗がりに心を奪われていた。そこでは、移ろいがいっそう微妙かつ親密なものとなり、ガラスのなかの反映、外から射し込む光線、青い果実のごとき綿毛に覆われた若い娘の顔によって神秘性が増幅され、娘の顔は、散らばった薄明かりをことごとくそのぼんやりとした不透明な光のなかに吸収するように見える」(※ エリー・フォール、谷川渥・水野千依訳『美術史 4 近代美術』、p.147.  2007年)

 ベラスケスは晩年になって、色彩の捉え方、光の扱い方、対象の描き方に変化が生まれたというのです。

 そのことがよほど印象深かったのでしょう。ゴダールは冒頭シーンで、晩年になってからのベラスケスの変貌に言及していました。

 その一方で、ラストシーンでは、主人公が爆死した後、海と空が調和し、溶け合った映像を使い、「見つかった!永遠が」というセリフをかぶせていました。ランボーの詩を引用し、まるで生と死が溶け合っているかのような映像に、「永遠」という言葉をかぶせたのです。

 今回、改めて『気狂いピエロ』を観て、私は、晩年のベラスケスを引用した冒頭シーンと、「見つかった!永遠」という言葉をかぶせたラストシーンに、若い頃には気づかなかった新たな意味を見出したような気がしました。

 冒頭シーンでは、晩年になって事物の境界を曖昧にしはじめたベラスケスに着目し、ラストシーンでは、海と空が溶け合った光景に永遠を見ています。両者に共通する認識は、事物には境界がなく、すべてが連続しているということでした。

 当時、ゴダールは、「映画というのは、事物そのものではなく、事物と事物の間にあるもの」だと考えていました。境界のない世界こそが、自然界の本来の姿であり、宇宙の真の姿なのだと認識しており、それこそが映画が表現すべきものと考えていたのです。

 わずか35歳ごろの見解です。

 ベラスケスが晩年になってようやくたどり着くことのできた境地に、ゴダールは35歳で達していたのです。絵画を愛で、哲学、文学を好み、常に、新しい表現方法を模索してきたゴダールだからこそ、得ることができた老成し、熟成した境地だといえるかもしれません。

 長い時を経て、再び観たこの映画の冒頭シーンとラストシーンから、私は、生は死によって突然、断ち切られるのではなく、生と死は連続しているというゴダールの見解を受け取りました。

 若い頃は意識しなかったのに、同じシーンから、新たに深淵な意味を意味だし、とても惹きつけられました。

 それだけに、ゴダール自身の晩年は果たして、どのようなものだったのか、気になります。

■ゴダールの晩年

 手掛かりとして、老いてからのゴダールの写真を探してみました。撮影日がわかるものが少なく、かろうじて見つけたのが、下の写真です。

(※ https://www.shutterstock.com/g/makarenkodenis/sets/76481より)

 これは、写真家のDenis Makarenko氏が、2001年のカンヌ映画祭で撮影した写真です。当時、彼は多くの参加者を撮り、2011年11月12日にアップした48枚のうちの1枚です。老いてはいますが、むしろ落ち着きを円熟味を感じさせられます。

 ゴダールは1930年生まれですから、撮影時点では71歳、まだ晩年とはいえません。

 さらに、探して見ました。

 すると、2013年11月にスイス・ローザンヌで撮影された写真が見つかりました。83歳の頃の写真です。

(※ 2013年11月、EPA通信)

 まだ晩年とはいえませんが、それでも、71歳の時より明らかに老けて見えます。頬はこけ、髪の毛は少なくなり、ほぼ真っ白になっていました。依然として目に光があり、強い知性は感じられますが、やはり、83歳なりの老いがそこかしこに見受けられます。

 さらに最近の写真はないかと探してみました。すると、撮影日は記されていませんが、明らかに老いて見える写真が見つかりました。

 葉巻を吹かしながら、ぼんやりしているゴダールの姿が捉えられています。若い頃から何度も、タバコを嗜む姿が撮影されてきましたが、その後も、禁煙することなく過ごしてきたのでしょう、いかにもゴダールらしい生活ぶりの一端がわかる写真です。

 残念ながら、こちらはいつ撮影されたものかはわかりません。ただ、明らかに髪の毛が少なくなっていますし、目がやや虚ろです。気力を失っているようにすら見えます。おそらく、晩年に近い頃の写真なのでしょう。

(※ https://mikiki.tokyo.jp/articles/-/21558より)

 実は、この写真は、菊地成孔氏が、ゴダールの最新作、『イメージの本』について書いた文章に添えられていたものでした。ひょっとしたら、『イメージの本』が製作された頃の写真なのかもしれません。

 そこで、『イメージの本』の公式サイトを見てみると、なんとこの写真が掲載されていました。

 そこには、次のような説明がありました。

 「88歳を迎えてなお、世界の最先端でエネルギッシュに創作活動に取り組む監督の最新作『イメージの本』は、新たに撮影した映像に、様々な<絵画>、<映画>、<文章>、<音楽>を巧みにコラージュし、現代の暴力、戦争、不和などに満ちた世界に対する“怒り”をのせて、この世界が向かおうとする未来を指し示す 5 章からなる物語。本作で、ゴダール本人がナレーションも担当している。」(※ http://jlg.jp/より)

 先ほどの写真は、ゴダール88歳の時のものだったのです。しかも、この年、新しい映画『イメージの本』を製作、公開していました。まだ現役の監督として、映画を製作していた頃の写真だったのです。

 晩年の作品がどのようなものなのか、ちょっと覗いてみることにしましょう。

■映画『イメージの本』、シノプシスと予告編

 まず、映画の公式サイトから、シノプシスを見てみることにしましょう。

 「かつて私たちがどうやって思考を鍛えていたか、覚えている?」

 「たいてい、夢から出発していたものだ」

 「真っ暗闇の中で、これほど鮮やかな色彩が心に浮かぶなんてことが、どうして起こりうるのか、私たちは不思議に思っていた」

 「穏やかな、か細い声で、重大な事柄が語られる」

 「大切で、驚きを誘う、深く、正しい事柄が、嵐の夜に書き込まれた悪夢みたいだ」

 「西欧人の眼に」

 「失われた楽園たち」

 「戦争はここにある」 (※ http://jlg.jp/

 まるで詩のように綴られた数行の字句が、この作品のシノプシスでした。

 とてもシンプルですが、老いても衰えないゴダールの思索への思い、そして、老いてなお盛んになる人間への関心、社会への関心などが浮き彫りにされています。

 公式サイトには、2分16秒の予告映像が載せられていました。それでは、予告編を見てみることにしましょう。

こちら → https://youtu.be/vqYbehIzLw0

(※ コマーシャルはスキップするか、×で消してください)

 夢を抱き、思索を楽しみ、世界を新鮮な目で見つめることに、ゴダールは喜びを覚えてきました。いってみれば、知を求める人間ならではの楽園です。ところが、そうした楽園を人々はいつのまにか、失いつつあります。

 挙句の果ては、さまざまな形態の戦争を受け入れざるを得ない状況に追い詰められていくのではないかとゴダールは恐れたのでしょう。夢から出発したはずの心的衝動が、やがては、世界のダークサイトに到達せざるをえなくなることへの強い危機感が、この作品から感じられるのです。

 ゴダールがこの映画を製作した背後にあるのは、おそらく、創作活動を支える知の基盤が崩壊しつつあることへの不安なのでしょう。あるいは、人間味を失いつつある現代社会に対する危機感ともいえるでしょう。

 そういえば、『カイエ・デュ・シネマ』が、ゴダールの死を悼み、「ジャン=リュック・ゴダールが死んだ」という一文から始まる長い追悼文を公開していました。

 『カイエ・デュ・シネマ』は、ゴダールが若いころ、フランソワ・トリュフォーやエリック・ロメールらと共に、映画批評を書いていた、ヌーヴェルヴァーグを代表する映画批評誌です。

 その『カイエ・デュ・シネマ』が、ゴダールの作品は「古典になるだろう」と予想していました。さらに、ピカソやマティス、ジョイスら近代の偉人たちと同様に、ゴダールの芸術は「古いものへの膨大な知識に根差したものだった」と分析しています。(※ https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2209/14/news163.html

 ゴダールが、ピカソやマティス、ジョイスらのように、これまでの文学、哲学、美術、音楽、映画などを踏まえたうえで、画期的な世界を切り開いたことを称賛しているのです。

 実際、『イメージの本』は、さまざまなアーカイブ映像で構成され、84分の映画に仕上げられていました。小説、詩、映画、音楽、美術など芸術作品や、記録映像を断片的に引用し、ゴダールの内面世界が表現されていたのです。

 原爆映像があるかと思えば、デモや乱闘、銃撃シーンがあり、戦争や暴力への怒りが表現されていました。そうかと思えば、絵画、音楽、映画などの引用から、人を愛することの素晴らしさが伝えられていました。

 引用された作品の一例を挙げてみましょう。

■『大砂塵』(Johnny Guitar, 1954年, Nicholas Ray監督)

 映画から引用されたものに、『大砂塵』の一シーンがあります。

(※ 『イメージの本』予告映像より)

 男性の肩越しに撮影されたこのシーンでは、女性が目を見開き、男性を見つめる表情が印象的です。女性の顔だけがライトアップされ、その心情が強く観客の心に残るよう演出されています。

 映画『大砂塵』では、まだ鉄道も通っていない鉱山の町を舞台に、ストーリーが展開されます。上記のシーンに登場しつぁ女性は、男たちが集まる酒場の主人ヴィエンナです。堅固な意思をもつヴィエンナを演じたのが、ジョーン・クロフォード(Joan Crawford, 1904-1977)でした。

 ゴダールはよほど、この映画が気に入っていたのでしょう。『気狂いピエロ』でも、冒頭のシーンで触れていました。フェルディナンが妻に、『大砂塵』は見た方がいいと勧めていたことを思い出します。

 私も、『大砂塵』を観てみました。典型的な西部劇のストーリー展開だと思いましたが、その中に、女性同士の決闘という要素が取り入れられており、新鮮味がありました。それまでの西部劇とは一線を画した興趣があって、惹きつけられました。

 西部劇というフォーマットに、女性同士の決闘という新奇性を組み込みながら、愛に潜む暴力性がしっかりと浮き彫りにされていたのです。その組立てが興味深く、時を経てもなお風化することのない、素晴らしい映画だと思いました。

 言葉だけでは伝わりにくいでしょうから、この映画のサワリの部分をご紹介することにしましょう。

こちら → https://youtu.be/ZRsi9KpvDaU

(※ 広告はスキップするか、×印をクリックして消してください)

 女性同士の決闘シーンでは、思わず、ヴィエンナのもとに駆け寄ろうとしたキッドを、エマが撃ち殺し、それを見たヴィエンナが、エマを撃ち殺します。その結果、生き残ったのが、ヴィエンナとジョニー・ギター、愛し合う二人といった次第です。

 いかにも西部劇の世界でした。愛や志が銃によって支えられ、銃撃戦で生き残った者の意思が成就されるのです。一見、単純な西部劇のように見えて、実は、その単純さの中に、愛の背後にある暴力性が表現されていました。

 ペギー・リー(Peggy Lee, 1920-2002)が歌う哀愁のある主題歌が、この映画に興趣を添えていたことを付け加えておく必要があるでしょう。

 この映画がフランスで公開されると、カイエ・デュ・シネマの同人たちがこの映画を熱狂的に支持したそうです。後に映画監督としてデビューしたエリック・ロメールやジャン=リュック・ゴダールは、映画の中でたびたび『大砂塵』のシーンを引用したり、タイトルを口にしたりしています。(※ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%A0%82%E5%A1%B5

 たしかに、『気狂いピエロ』でも、『イメージの本』でも、ゴダールは『大砂塵』を引用していました。彼にとっての映画製作を支える何かが、この作品にはあるのでしょう。

 『気狂いピエロ』では、フィルム・ノアール系の展開が印象に残りました。そして、『イメージの本』では、ランダムに引用されたさまざまな暴力シーンが印象に残ります。総合すると、ゴダールは、愛を暴力とセットで表現されるべきと認識していた可能性があります。

■遺作としての映画『イメージの本』?

 さて、映画『イメージの本』は、88歳のゴダールが、4年の歳月をかけて製作した渾身の作品でした。ゴダールはタイトルを、『イメージの本』(Le Livre d’image)とつけました。字義からいえば、映像に関する本、あるいは、映像のカタログと捉えることができるでしょう。

 それにしてもなぜ、映画のタイトルに、「本」という語を入れたのでしょうか。しかも、本のページをめくるカットが随所に挿入されています。

 ゴダールは、映像もまた、文字情報のように、ページを振って格納できるようなイメージで捉えていたからでしょうか。そうだとすると、ページをめくるカットが挿入されていた理由もわかります。

 ページを繰って本の世界に入っていくように、映像もまた文字情報と同様、保管された貯蔵庫に何時でも容易にアクセスできるという感覚でいたのでしょう。

 実際、ゴダールは『イメージの本』を、さまざまなアーカイブ映像でつなぎ、84分の映画に仕上げていました。そこに、映像も文字と同様に、断片化し、知識として整理して格納できるというゴダールの認識を見ることができます。

 1960年代に、さまざまな映像をコラージュして創り出したのが、ゴダール独特の世界でした。文章の構成のように、線的にストーリーを組立て、映像を構成するのではなく、大したシナリオもなく、半ば即興的に撮影した映像をランダムに構成するのです。

 ゴダールは、ヌーヴェルヴァーグを生んだ監督として一世を風靡しましたが、映画『イメージの本』を見ると、老いてもなお、その認識世界は変わらないことがわかります。

 さて、『イメージの本』は、監督、脚本、編集はもちろん、ナレーションもまた、ゴダールが務めました。80歳後半を過ぎてからの旺盛な創作欲に驚かざるをえません。

 この作品は、2018年に開催された第71回カンヌ映画祭のコンペティション部門に出品されました。審査員たちは、映画祭史上初の「スペシャル・パルムドール」をゴダールに授与しました。パルム・ドールを超越する賞として、新たに設定された賞でした。

 最初に上映されたのは、2018年11月、スイスのテアトルヴィディローザンヌでした。ゴダールゆかりの地の映画館です。亡くなったのが、2022年9月13日ですから、この作品が製作され、公開されてから、3年数か月を経て、ゴダールはこの世を去ったことになります。この作品はゴダールの遺作になりました。

 興味深いことに、アンナ・カリーナは、2018年に開催された第71回カンヌ映画祭に出席していました。ゴダールの新作を観るためだったのかもしれません。

 ゴダールが自ら死を選んだ2022年9月には、『気狂いピエロ』に登場した俳優たちは皆、亡くなっていました。

 破天荒な役を演じて、観客を惹きつけたジャン・ポール・ベルモンドとアンナ・カリーナは、果たして、どのような晩年を過ごし、どのようにして亡くなったのでしょうか。

 まず、ジャン・ポール・ベルモンドからみていきましょう。

■ジャン・ポール・ベルモンド

 調べてみると、ジャン・ポール・ベルモンドは、2021年9月6日に、88歳で逝去していました。ベルモンドの死因は公表されていませんが、晩年は脳梗塞を発症し、身体が不自由だったそうです。

 そこで、晩年の写真を探して見ました。

 2019年10月18日、ブリュッセルで開催されたゴールデン グローブ・ ボクシング授賞式にゲスト出演した際、撮影された写真を見つけることができました。

(※ https://hollywoodlife.com/feature/who-is-jean-paul-belmondo-french-actor-dead-4509823/

 ベルモンドは1933年生まれですから、86歳の時の写真です。亡くなる2年前の写真ですから、ほぼ晩年のものといっていいでしょう。顔も頭髪も身体も、明らかに老いています。

 ところが、左手の指にはすべて、大きなリングをはめており、いかにも往年のスターであることを感じさせられます。ただ、腹部を見ると、上着のボタンが嵌らないほど、太っており、健康状態には問題があったのではないかと思わせられます。

 さらに、写真を探してみると、その3年前、2016年9月7日に撮影された写真が見つかりました。こちらは83歳の時の写真です。

(※ Andreas Rentz/Getty Images Europe)

 2016年9月8日にベルモンドは、第 73 回ベネチア映画祭で、栄誉金獅子賞を受賞しましたが、その時の写真です。ベルモンドの隣にいる女性はソフィー・マルソーです。フランス人の女優、監督、脚本家ですが、この時、足の悪いベルモンドを気遣い、支えていました。

 杖をつき、ソフィー・マルソーに支えられて歩くベルモンドを見ると、すでに、この頃から体調がすぐれなかったことがわかります。

 晩年に近い2枚の写真からは、ベルモンドが、83歳でベネチア映画祭で金獅子賞を受賞し、86歳でゴールデン グローブ・ ボクシング授賞式にゲストとして迎えられていることがわかりました。

 最晩年の2年間はどうだったのかわかりませんが、少なくとも、老いてなお俳優として評価され、好きだったボクシングで晴れの舞台を踏ませてもらっていました。

 上記二つの写真に見られるように、人々に囲まれて笑みを浮かべた表情はまるで好々爺のように見えます。健康こそ優れなかったかもしれませんが、ベルモンドはそれなりに充実した人生を送ったのではないかと思います。

 それでは、アンナ・カリーナはどうだったのでしょうか。

■アンナ・カリーナ

 調べてみると、アンナ・カリーナは、2019年12月14日に79歳で亡くなっています。死因は癌でした。

 やはり、晩年の写真を探してみると、2018年5月6日、第71回カンヌ映画祭の際、撮影された写真が見つかりました。

(※ https://natalie.mu/eiga/news/359604

 カリーナは1940年生まれですから、この時、78歳、晩年に近い頃の写真です。

 まず、目の周りの濃い化粧が印象的です。そして、目元や口元、首筋に隠そうとしても隠し切れない老いが見られます。とはいえ、決して、崩れているとはいえません。老いてもなお、それなりに姿形が保たれているといっていいでしょう。日頃、規則正しい生活をしていたように思えます。

 第71回のカンヌ映画祭に参加していたということは、おそらく、ゴダールの新作映画『イメージの本』が、「スペシャル・パルムドール」を受賞したことを祝うためだったのでしょう。

 カリーナにとって、ゴダールは忘れがたい人物だったはずです。78歳になってカンヌに駆け付けるほど、エールを送りたい気持ちが強かったのだと思います。

 1960年代、カリーナは、ゴダールに愛され、愛し、至福の時を過ごしました。ゴダールの初期作品のほとんどに出演していたカリーナは、ゴダールの名声が高まるにつれ、一躍、ヌーヴェルヴァーグのスターになっていきました。監督として主演女優として、二人はこの頃、映画史に残る業績を残したのです。

 その頃の写真が見つかりました。

(※ Agnès Varda撮影)

 ベルギー出身のフランスの映画監督アニエス・ヴァルダ(Agnès Varda)氏が撮影した写真です。彼女もまた、ヌーヴェルヴァーグの映画監督でした。

 さらに、こんな写真もありました。

(※ https://www.theguardian.com/film/2011/jul/12/jean-luc-godard-film-socialisme

 2011年7月12日付、ガーディアン紙に掲載された記事の写真です。

 60年代に撮影されたこれら二枚の写真を見ると、当時、ゴダールとカリーナがどれほど深く、愛し合っていたかがわかります。まさに愛を育みながら、同時に、映画製作に新たな息吹を吹き込んでいたのです。

 ゴダールが手掛けた初期作品のほとんどに、アンナ・カリーナが主役として起用されていました。1960年代の半ごろまで、二人は愛し合いながら、新しい感覚の映画を製作し続けていました。

 その頃のアンナ・カリーナを知るには恰好の映像が見つかりました。ゴダールの初期作品5編を簡単に紹介した動画です。

こちら → https://youtu.be/OnL8uGjk-_U

 この動画は、タイトルが、「追悼特集ジャン=リュック・ゴダール 5選」となっており、ゴダールの死を悼み、初期作品の概略が紹介されています。

 紹介されているのは、『女と男のいる舗道』(1962年)、『軽蔑』(1963年)、『はなればなれに』(1964年)、『アルファヴィル』(1965年)、『中国女』(1967年)です。

 『軽蔑』はセックス・シンボルとして有名だったブリジット・バルドーが起用されていますが、それすらも、内容は、当時のゴダールとカリーナの関係を反映されたものだったといわれています。

 また、『中国女』は、後にゴダールの妻になるアンヌ・ビアゼムスキー(Anne Wiazemsky)が主演を務めており、カリーナは出演していません。ゴダールとは1965年に離婚していました。

 上記の映像では取り上げられた5作品のうち3作品に、アンナ・カリーナが起用されています。ゴダールが創り出そうとしていた世界を、カリーナなら表現することができたからでした。

 コケティッシュな魅力があって、謎めいているかと思えば、少女のようでいて、既成の枠にとらわれない奔放さがありました。若い頃のカリーナには、大きく変貌する社会に沿って、しなやかに表現できる可塑性が感じられました。

 この動画で紹介されたゴダール初期作品のうち3作品は、いずれも、カリーナの一種独特の魅力を知るには恰好のものだといえるでしょう。

■ベルモンドとカリーナの死

 思い返せば、ジャン・ポール・ベルモンドにしても、アンナ・カリーナにしても、『気狂いピエロ』の中では、壮絶な死を遂げていました。まさに劇的な死です。とくに、ベルモンドが演じたフェルディナンの爆死シーンは壮絶でした。

 生と死の間に境目がなく、連続していることを表現するには、そのような劇的な死を設定が必要だったのでしょう。物理的に身体が破壊されたことを示さなければ、身体と精神の分離ができません。劇的な爆死シーンのおかげで、ラストシーンの風景にかぶるナレーションが強く、心に沁みました。

「見つかった!何が?」「永遠」

 身体は明らかに死に絶えたとしても、心にはまだ「永遠」を見つける余裕があるのです。生と死の連続性は、精神においてこそ可能だということが示されていました。

 このように、『気狂いピエロ』の中では、難解で深淵な哲学ともいえるものを表現してきた二人ですが、現実には、高齢になると誰もが罹りやすい病苦に悩まされ、亡くなっていたのです。

 老いを重ねて病に冒されても、自ら死を選ぶこともなく、ありのままの死を迎え入れていたのです。両者とも、晩年の写真を見ると、その顔にはスターであった頃の面影はほとんど感じられず、刻み込まれた老いの中に、一般的な高齢者の姿しか見受けられませんでした。

 一方、ゴダールは彼らとは違って、自ら死を選び、この世を去っていきました。

■自殺幇助について語るゴダール

 ゴダールがいつ頃から、具体的に安楽死を考えるようになったのかはわかりませんが、以前から、興味関心を抱いていたようです。

 たとえば、2014年5月、スイスの公共放送ラジオ・テレビジョン・スイス(RTS)とのインタビューで、ゴダールは自殺ほう助について、次のように語っていました。

 インタビュアーが、「あなたが死ぬとき」と前置きをし、自殺ほう助について聞くと、ゴダールは、「よく主治医や弁護士にこう尋ねる。ペントバルビタール・ナトリウムやモルヒネを頼んだら、くれるのかって。でもまだ好意的な返事はないね」と答えたといいます。(※ https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2209/14/news163.html

 ペントバルビタール・ナトリウムとは、鎮静催眠薬で、過剰摂取すれば、致死性が高い薬とされています。日本では睡眠薬としては用いられておらず、注文に際しては、「向精神薬試験研究施設設置者登録証」という資格が必要なのだそうです。

 いずれにせよ、このインタビューからは、ゴダールが安楽死について常日頃から考え、自殺ほう助も視野に入れて、自身の死に方について思いを巡らせていたことが示されています。

 ゴダールはスイスで、エグジット(Exit:スイスの自殺ほう助団体)から「自殺ほう助」サービスを受けました。

 エグジットは、スイスで国内最古で最多の登録者数の自殺ほう助団体です。スイス国内の永住者、国内外に住むスイス国籍者にサービスを提供しており、サービスを受けるには、会員になる必要がありますが、その登録者数は過去最高を記録したといいます。

(※ 宇田薫、「スイスの自殺ほう助団体の会員数が過去最高に増えている理由」、swissinfo.ch. 2023年3月23日)

 私は知らなかったのですが、安楽死には二種類あるそうです。

 医師が処方した致死量の薬物を患者自身が体内に取り込んで死亡するのが、自殺ほう助です。こちらは、医師はその場におらず、自分で致死薬を飲み、死に至ることとなっています。

 一方、医師など第三者が直接、患者に致死薬を投与するのが、積極的安楽死です。例えば四肢の麻痺などで、自ら点滴のバルブを開けることができない人でも、この方法なら、命を絶つことができます(※ 宇田薫「安楽死が認められている国はどこ?」swissinfo.ch. 2023年1月31日)。

 ゴダールは「自殺幇助」とされる安楽死の方法を選択しました。

 現時点では、スイス、ドイツ、オーストリア、イタリア、アメリカの一部の州で容認されている方法です。

 この方法では、医師が薬品を注入するといったことは認められておらず、処方された致死量の薬を付添人が運び、自分で服用するという方法で死を迎えなければなりません。国内だけでなく国外からの希望者を受け入れる団体もあり、一定の条件下で認められていますが、“利己的な動機で”自殺ほう助した者には5年以下の懲役または罰金が科せられるという制限も課せられています。(※ https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2209/14/news163.html

 利用者には、この制度が悪用されないための制約が課せられているのです。

■ゴダール自身が決めた人生のラストシーン

 ゴダールは2022年9月13日、スイス西部のボー州ロールにある自宅で、安楽死を決行しました。パートナーや友人や看護婦らの前で、自分で致死薬を飲み、「みんな、ありがとう」という言葉を残して、この世を去りました(※ 宮下洋一、「ゴダール『安楽死』の瞬間」、『文芸春秋』2022年12月号、p.354.)。

 ゴダール自身が計画した、人生のラストシーンでした。最期を見届けたうちの一人は、次のように述べています。

 「ゴダールさんは、亡くなる数か月前から、重い疲労を訴えるようになりました。食べたり飲んだりすることがうまくできなかった。特に、一年くらい前から歩くことが困難になったのです。起きることも難しくなり、杖なしでは歩けませんでした」(※ 宮下洋一、前掲。p.359.)

 実は、ゴダールは数年前に、エグジットに会員登録していたことがあります。ところが、一旦、解約し、再び、会員登録をしたのが、2022年9月の初めだったといいます(※ 宮下洋一、前掲。p.361.)

 安楽死を決意していたとしても、いざとなれば、心に迷いが生じたのでしょう。ゴダールはすんなりと「自殺ほう助」に至ったわけではなく、一度は会員登録を解除していたのです。

 いよいよ身体の自由が効かなくなってきたのが、死の数か月前です。その頃には、疲労を訴え、食べたり飲んだりすることがうまくできなくなっていたといいます。

 耐え難い激痛に悩まされていたわけではなく、苦しかったわけでもなく、歩きにくくなり、食べにくく、飲みにくくなっていたので、死を決行したようです。このままでは、やがて尊厳を保った生活は難しくなると思ったのかもしれません。

 再び、ゴダールの最期に立ち会った人の言葉を聞いて見ましょう。彼は、次のように言葉を継ぎます。

 「ゴダールは、昔から独立心が強く、自分の思いを突き通して生きてきました。だから、高齢になって、思い通り身体を動かせず、制限された生活になってしまったことを恨んでいました。孤独だったから逝きたかったのかというと、違うと思います。もともと孤独な生き方でしたから。頭ははっきりしていても、身体が動きませんでした」(※ 宮下洋一、前掲。p.360.)

 ゴダールは、ベルモンドのように脳梗塞の後遺症に悩んでいたわけではなく、カリーナのように癌だったわけでもありませんでした。どうやら、病状が悪化して死期が迫っているという状態でもなかったようです。

 病気とはいえませんでしたが、ゴダールは 身体の自由は利かなくなりつつありました。杖がなければ歩くことができず、自分で立ち上がることもできなくなっていたようです。身体機能が日々、衰えていくのを実感しながら、死ぬのは今しかないと思ったのでしょう。身体を自由に扱えなくなると、自殺ほう助すら認めてもらえなくなるのです。

 さまざまなケースを見てきた宮下氏は、安楽死を選ぶ人には国籍問わずに共通点があるといいます。その特徴として、「白人、裕福、心配性、高学歴」と、「自我が強い」を挙げています。

 そのような人々は、これまで自分で人生をコントロールしてきました。だから、周りに助けられることを好まない。不幸にも病気によって、多くのことを自分でできなくなっていくと、人生を自分でコントロールできなくなってしまう。だから、安楽死を選ぶというのです。(※ https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/56712

 おそらく、ゴダールはそのような人々に分類されるのでしょう。数として決して多くはないでしょうが、今後、高齢人口の増加とともに老化が原因で安楽死を望む人は確実に増えてくるはずです。

■未来を先取りしたゴダール

 ゴダールがサービスを受けたのは、フランス語圏にある自殺ほう助団体エグジット(Exit A.D.M.D.)スイス・ロマンドでした。

 ここでは、昨年、3401人が新たに会員登録しています。その結果、2022年末時点の会員数は3万3411人となりました。同団体の自殺ほう助で死亡した人は502人だったそうです。

 2023年4月に発行されたエグジットの『会報第 78 号 』から、グラフを二つ、ご紹介しましょう。

(※ https://www.exit-romandie.ch/files/1682340681-exit-bulletin-78-web-4250.pdf

 上のグラフは2000年から2022年までの自殺ほう助の推移が示されています。これを見ると、年々、自殺ほう助で亡くなる人が増えていることがわかります。ゴダールは2022年度に亡くなった人々のうちの一人です。

 下のグラフは2018年から2022年までの新規登録者数の推移が示されています。これを見ると、2019年が突出して高いですが、2022年度も増えており、累計会員数は3万3411人にも及んでいます。

 年を追うごとに、安楽死願望者が増えていることがわかります。

 たとえば、RTE(Regional Examination Commissions Euthanasis:地域審査委員会)のデータを見ても、安楽死を希望する人は年々、増えています。安楽死をした人の病態で最も多いのは癌で、過半数を占めます。次いで、神経系疾患、心臓・血管系疾患、肺疾患、老化、認知症、精神疾患となっています。(※ https://job.minnanokaigo.com/news/kaigogaku/no1192/

 現在のところ、老化が原因で安楽死を望む人は、まだそれほど多くないようですが、今後、世界的に高齢人口が増加していくに伴い、老化が原因で安楽死を望む人も増えていくはずです。

 いくつかご紹介したように、すでに、各種データではそのような傾向が出ています。

 しかも、高齢人口の多い日本で、独居世帯が増えているのです。家族で助け合うこともできず、自力で生きていけない人が増えれば、当然のことながら、安楽死願望者も増えていくでしょう。

 実際、安楽死や自殺ほう助を認める国が増えています。

 鋭敏な時代感覚を持っていたゴダールは、未来を先取りして「自殺ほう助」サービスを受けていた可能性も考えられます。いつの世も、時代精神を一足早く結晶化し、作品化してきたのが、ゴダールです。

 まだ人々がパソコンすら手にしていなかった1965年に、ゴダールは、 『アルファヴィル』という人工知能が管理する未来都市を描いた映画を製作していました。人口動態と技術動向とを考え合わせれば、今後の社会がどうなるか、そのエッセンスを読み取るのはそう難しいことではないでしょう。

 こうして見てくると、安楽死こそが、超高齢社会にとっての重要課題になることを、ゴダールは予見していたような気がしてなりません。

 自身の創作活動の集大成として、ゴダールは、映画『イメージの本』を製作しました。その後、3年余の逡巡の期間を経た2022年9月13日、正装をし、メガネを外してベッドの上に座り、ペントバルビタール・ナトリウムを飲み干しました。

 彼を見守る身近な人々に、「ありがとう」という時間はありました。ゴダールは晩節を汚すことなく、自分で自分の人生をコントロールし、91年の生涯を終えたのです。

(2023/4/30 香取淳子)

ゴダールを偲ぶ ④:『気狂いピエロ』、芸術、そして、死

 前回は、フェルディナンが原始的な生活をし、内省的に過ごすことができた時期をご紹介しました。彼にとっては、自分を見つめることができ、何をすべきかがわかった貴重な時期でした。

 その平和な時期が終わり、今度は一転して、フェルディナンとマリアンヌは劇画的な世界に突入していきます。そこで、今回は、ノワール系アクション・ストーリーに沿った展開をご紹介していくことにしましょう。

■ノワール系アクション・ストーリーの展開

 フェルディナンとマリアンヌの原始的な生活は、いつまでも続きませんでした。マリアンヌが、耐え切れなくなってしまったのです。彼女を深く愛しているフェルディナンは、その意向に従わざるをえず、島を出ることを決意します。二人の乗った船が、まもなく着岸しようとしていた時、マリアンヌは岸辺に見知った人物を見つけ、動揺します。

 こうして島から出た途端に、マリアンヌ主導でストーリーは動いていきます。フェルディナンはその巻き添えを食う恰好で、ノワール系アクション・ストーリー風に展開していきます。

●不可解なマリアンヌ

 岸辺にいたアジア系の小人は、やはり、マリアンヌの知り合いでした。赤いオープンカーのボンネットの上に乗って、トランシーバーで誰かと連絡を取り合っています。マリアンヌが近づくと、待っていたかのように、「やっぱり、会えた」といって迎え入れます。

(※『気狂いピエロ』、2017年、KADOKAWAより)

 この男はどうやら、マリアンヌとはなんらかの利害関係がありそうです。

 マリアンヌは、フェルディナンを振り返って、「すぐ戻るわ、適当な話をして追い払うから」と声をかけ、「兄の居所も男が知ってるわ」といい添えてから、小人と共にどこかに出かけてしまいます。

 フェルディナンはさっそく、日記を広げます。

 「エロチシズム、別れ、裏切り、殺人・・・」と、なんの脈絡もなく、言葉を並べていきます。おそらく、この時の彼の心情を綴ったものでしょうが、これらの言葉はまさにノワール系ストーリーのキーワードであり、その後の展開を見通すような内容でした。

 さて、「侯爵夫人の店」で待機していたフェルディナンは、電話連絡を受け、急いで指定のビルに向かいます。その姿を、ビルの上階から無表情に見下ろしているのが、マリアンヌです。彼女が人の気配を感じて振り向くと、真後ろに小人が銃を構えて立っていました。

(※ 前掲)

 先ほど、マリアンヌと一緒に出かけた小人です。

 次に、マリアンヌの手がクローズアップされ、ハサミを観客に向けて、暗号のように動かすシーンになります。前回、ご紹介したシーンです。背後の壁にはピカソの絵が掛けられています。まさに、脱文脈化された背景の下、脱コンティニュイティ化されたつなぎになっています。

 やがて、部屋に入って来たフェルディナンが、ハサミを首に突き刺された小人が、血を流して倒れているのを発見します。

 ここで観客は、フェルディナンが初めてマリアンヌのアパートに泊まった時、隣の部屋で死んでいた男もこのように、首にハサミを突きさされ、血を流して死んでいたことを思い出します。

 マリアンヌが、ハサミでこの小人を殺したのは、明らかでした。

 小人がすでに死んでいることを確認し、フェルディナンは、部屋中をくまなく探し回りますが、マリアンヌはどこにもおらず、タイプライターの上に、赤い服が脱ぎ捨てられているだけでした。

 フェルディナンは、マリアンヌに裏切られたのです。

 疑惑から確信に至ったと思うと、まもなく、フェルディナンは二人組の男に捕まってしまいます。

●巻き込まれるフェルディナン

 ドアから、ベランダの窓から、二人の男が部屋に入って来て、逃げ場を塞ぎ、マリアンヌを探しているフェルディナンを捕まえます。

 バスタブに浸けて、殺さないように痛めつけながら、彼らは執拗に、マリアンヌの居場所と金の在り処を聞き出そうとします。

 「首は絞めるな、顔に女の服をかぶせて、水をかけろ」

 フェルディナンは赤い服を顔にすっぽりかぶせられ、その上から水をかけられて、とても苦しそうです。

 「女が仲間を殺した時、一緒にいて、俺の5万ドルを奪って逃げた」、「どうせ、マリアンヌに載せられたんだろう」、「お前に恨みはない」、「女と金の在り処をいえばいい」

 そういいながら、男たちは銃をつきつけ、服の上から水をかけ続けます。

 苦しさに耐えきれず、「侯爵夫人の店だ」と、フェルディナンは答えてしまいます。

 それを聞くなり、男たちが出かけてしまったので、残されたフェルディナンは、日記を広げ、書き出します。

 「マリアンヌの裏切り・・・」「夕方の5時は恐ろしい」「血は見たくない」そして、再び、「夕方の5時は恐ろしい」

 二人組の男たちの脅し文句から、マリアンヌの正体が少しずつわかってきました。盗み、殺人、そして、裏切り・・・、フェルディナンとは別世界の女性でした。

 いつの間にか、線路沿いを歩いているシーンになります。フェルディナンはレールの上に腰を下ろし、「血は見たくない」と繰り返します。マリアンヌが手を下した直後の死体を、二度も見てしまったのです。気持ちが錯乱し、自分を失っていたのでしょう。

 マリアンヌに裏切られたフェルディナンは、発作的に死の誘惑に駆られていたようです。

 列車の音が聞こえてくると、フェルディナンは、恐怖を避けようとするかのように、膝の間に顔を埋めます。ところが、さらに列車が近づいてくるのがわかると、さっと立ち上がり、レールから離れ、スタスタと歩き出します。

 一旦は鉄道自殺を試みますが、実際に、列車が近づいてくると、フェルディナンは怖くなって逃げだしてしまったのです。フェルディナンの人物像が図らずも、浮き彫りにされたシーンです。

 そんなフェルディナンですが、日記だけは書き続けています。

 「街や港をさまよう・・・」、「彼は探す、マリアンヌ」、「見つからずに、日々が過ぎる」、「言葉は暗闇の中でも照らす、言葉が名付ける事物を」、「言葉は純粋性を保つ」

 そして、「マリアンヌ、海」、「魂、苦味、武器」と書き続けます。

 裏切られ、盗みや殺人の実行犯だとわかっても、フェルディナンのマリアンヌを愛する気持ちが萎えることはなかったのです。

●虚構と事実

 映画館の中でフェルディナンは、上着のポケットに入れたエリー・フォールの『美術史』を取り出し、読み出します。愛読書を取り出して平静を保ち、なんとかして自分を取り戻そうとしているかのようでした。

 このシーンにも既視感があります。

 『気狂いピエロ』の冒頭で、フェルディナンがバスタブに浸かって、この本を読んでいるシーンがありました。ベラスケスについて書かれた箇所を、理解できないでいる幼い娘に、読み聞かせていたのです。

 さて、館内では、ニュースのナレーションが響いています。

 「戦線の拡大と和平交渉の失敗にもかかわらず」、「ウィルソン首相は交渉継続を表明しました」

 そして、ベトナム戦争の映像が映し出されます。

 画面に被って、女性カメラマンの、「私たちが求めるのは、真実があるとして、真実探求のためー」、「いつ虚構の人物を見捨てたかということ」という音声が流れます。

 その画面を、フェルディナンが『美術史』を手にしたまま、深刻な表情を浮かべて眺めています。

(※ 前掲)

 「いつ虚構の人物を見捨てたか」…、このフレーズが気になったのでしょう。おそらく、当時のゴダールにとっても重要なものだったに違いありません。

 このシーンは、ニュース映像が女性カメラマンのナレーションで語られ、それを『美術史』を手にしたフェルディナンが見ているという複雑な構図でした。

 ただ、この複雑な構成の中に、ゴダールが当時、求めていたと思われる創作のエッセンスがさり気なく、端的に表現されていたように思います。

 ドキュメンタリー・ベースで展開されるゴダールの実験的な映画づくりには、当時、世界から関心が寄せられていました。彼はヌーヴェルヴァーグの旗手として、注目の的になっていたのです。

 若いころの私は、ゴダールのことを、硬軟取り混ぜた知の結晶のような存在だと思っていました。

 ゴダールは、意識の流れを試行するジョイスに刺激され、ヌーヴォー・ロマンに関心を抱いていました。さらには、ベラスケスに傾倒し、印象派やキュビズムの画家たちにも興味を抱いていました。

 実際、『気狂いピエロ』の画面には数多く、印象派やキュビズムの画家たちの作品が小道具として使われています。

 映画であれ、文学であれ、絵画であれ、芸術はそもそも、虚構と事実とをないまぜにして創り上げられるものなのでしょうが、とくにゴダールは、対象を捉える視点にこだわっていたような気がします。

 再び、画面に戻りましょう。

 相変わらず、マリアンヌを探し続けているのでしょうか。フェルディナンは港を歩き、船の傍にいます。すると、ふいに、「ピエロ!」と叫ぶ声がします。

 マリアンヌが笑いながら、近づいてきます。

 「昨日、浜辺の家に行って、ノートを取って来た、最後のページを見て」、「あなたのことを詩にしたの」

 「優しくて残酷」、「現実的で、現実的でなく」、「恐ろしくて滑稽」、「夜のようで、昼のよう」、「月並みで、突飛」、「素晴らしい」・・・。

 気を引くように語りかけるマリアンヌに、フェルディナンは、「二人とも殺人の容疑者だ」と冷たく言い放ちます。マリアンヌが「怖いの?」と聞くと、「この瞬間・・・、といった途端、過去になるが、つまり、この空の青さとか、僕らの関係が重要なのだ」といいます。

 相変わらず、二人の会話はかみ合っていません。リアリストのマリアンヌに対し、ロマンティストのフェルディナンの対比がはっきりしています。

 マリアンヌは、フェルディナンのつぶやきには応えず、「兄が待っているわ」は急がせます。フェルディナンは、「死体を見慣れているんだな」とつぶやきながも、マリアンヌの要求通り、歩き始めます。

(※ 前掲)

 再び、マリアンヌ主導で事態が動いていきます。そして、二人の会話はすれ違ったまま、続きます。

 フェルディナンが、「君の話は複雑だ、事件だらけ」というと、マリアンヌは、当然のことながら、「違うわ」と否定します。すると、フェルディナンはすかさず、「チャンドラー風に僕を殴った二人組」と水責めにされたと、恨みを口にします。

 マリアンヌへの拭い難い疑念が再び、フェルディナンの胸をよぎったのでしょう。「チャンドラー風」と形容されていますが、痛い目に遭わされた経験が、彼女への不信感を募らせていることがわかります。

 チャンドラー(Raymond Thornton Chandler, 1888-1959)は、犯罪小説、ハードボイルド系探偵小説で有名なアメリカの小説家であり、脚本家です。彼が書いた小説のほとんどが映画化されていますから、ゴダールは、拷問のシーンなどを参考にしていたのかもしれません。

●失意から爆死へ

 マリアンヌは、「兄が金を奪う」、「仲間にも秘密」、「追ってきたら、殺す」、「後は?言われたとおりに」と、次々とフェルディナンに告げます。兄と会った後の段取りを伝えているのですが、まるで命令しているかのようです。フェルディナンはもはや完全に隷属状態になっています。

 そして、マリアンヌが銃を構えるシーンになります。

(※ 前掲)

 「自由と自分を守るためなら、何人でも殺せる」、「キューバ、ベトナム、イスラエルを見て」というセリフを投げかけたかと思うと、マリアンヌは二人組を殺します。時局になぞらえ、目を逸らすことによって、殺人を正当化しているのです。

 明確な目的を持つリアリストのマリアンヌに対し、愛を語り、生の実在を考えるロマンティストのフェルディナンは、ただ従うしかありませんでした。

 マリアンヌからお金の入ったカバンを受け取ったフェルディナンは、車で逃走し、その後、ボーリング場でマリアンヌに会います。そのまま行動を共にしたかったのですが、フェルディナンは拒否され、30分後、港で落ち合う約束で、カバンを渡します。

 ところが、港に着いてみると、ボートはちょうど出たばかりでした。船上でマリアンヌが兄と抱き合っているのが見えます。

 またしても、裏切られたのです。

 フェルディナンは目についた漁船に飛び乗り、後を追い、島に着きます。

 「マリアンヌ!」と叫ぶと、どこからか、いきなり銃声が聞こえてきます。そして、兄とマリアンヌがカバンを抱え、上へ上へと岩山を駆け上っていくのが見えます。とっさにフェルディナンが撃つと、兄が転げ落ち、その後、マリアンヌもまた、頭から血を流して倒れ込みます。

 フェルディナンは、マリアンヌを殺す気は毛頭、ありませんでした。

 彼女を抱きかかえて小屋に運びながら、フェルディナンは、「仕方なかった」と声を詰まらせ、ベッドに寝かせます。すると、「お水を」と力なく、マリアンヌがいいます。まだ生きているのです。

 生きていることがわかると、「君のせいだ」とフェルディナンは責めます。すると、「ごめんね、ピエロ」とマリアンヌはふりしぼるように、かすかな声を出します。いつものように、「フェルディナンだ」と反応しながらも、「もう遅い」とつぶやきます。

 マリアンヌは左右にゆっくりと首を振ったかと思うと、ガクッと脱力し、こと切れました。

(※ 前掲)

 フェルディナンは、愛する女性を自分の手で撃ち殺してしまったのです。

 場面はすぐに切り替わり、日記を書くシーンになります。

 「ダイナマイト、機関銃、武器を供給、金曜日」という言葉が並びます。

 それから、フェルディナンは交換台に電話をかけ、パリにつながるのを待ちます。その間に、倉庫でダイナマイトを探します。ついでに、近くにあった青いペンキを見つけると、受話器を持ったまま、顔に塗り始めます。

 額に塗り、鼻に塗り、頬から顎にかけて塗っていくうちに、電話が鳴って、パリの自宅とつながりました。

 「奥様はいる?」、「子どもたちは元気?」と矢継ぎ早に、質問をしていきます。電話に出た家政婦は不審に思ったのでしょう、「どなたですか?」と尋ねたようです。すると、フェルディナンは慌てて、「いや、誰でもない」といって、電話を切ります。

 再び、日記に戻り、「芸術、死」と記します。

●芸術、死

 顔をペンキで青く塗ったフェルディナンが、赤と黄色のダイナマイトを両手に持ち、叫びながら、海をめがけて岩山を下っていきます。

 異様です。まさに”気狂いピエロ”でした。

 途中で腰を下ろしたフェルディナンは、まず、黄色いダイナマイトを巻き付けます。今度は、その上から赤いダイナマイトを巻き付け、紐でしばります。

(※ 前掲)

 ペンキで青く塗った顔の上に黄色のダイナマイト、その上から赤いダイナマイトを巻きつけているので、顔がすっぽりとカラフルなダイナマイトに包まれてしまいました。フェルディナンは、色の三原色で頭部全体を覆い、芸術的な死を準備しようとしていたのかもしれません。

 色の三原色は混ぜ合わせると、黒になります。

 巻き終わると、フェルディナンはマッチを擦って、引き縄に火をつけます。たちまち、縄に火がまわっていきますが、フェルディナンは、「僕はバカだ」といいながら、慌てて、火を消そうとします。

 レールに座っていたフェルディナンが、列車が近づく音がすると、その場を立ち去ったのと同様、直前になって、死を回避しようとしたのです。

 ところが、間に合わず、爆発してしまいました。最後の最後になって、取り乱した様子をみると、覚悟の死というわけでもなかったのかもしれません。

 次の画面は、遠景で捉えた爆発後の映像になります。

(※ 前掲)

 爆発の後、岩山の上から黒煙がもくもくと、空高く立ち上っていくのがわかります。顔に塗ったペンキの青、ダイナマイトの黄色と赤、それら「色の三原色」が交じり合って、黒煙となって、天に昇っているのです。

 まさに、フェルディナンが日記に書き記した「芸術、死」が実行されたのです。

 しばらく間をおいて、海の光景になりました。空と海との境目が淡く、まるで溶け合っているように見えます。

(※ 前掲)

「また、見つかった! 何が?」

「太陽と共に去った海が」

 このような字幕が画面に表示され、映画『気狂いピエロ』は終わります。

 初めてこの映画を観た時、とても心動かされたのが、このシーンでした。愛する人を、ちょっとした行き違いから殺してしまったフェルディナンが、やがて、ダイナマイトで自爆するのがクライマックスだとすれば、その後、訪れた静かなエンディングシーンです。

 この時のセリフがとても心地よく、脳裡に沁み込んでいったことを覚えています。

 ところが、今回、DVDを見て、字幕に表示されている言葉に違和感が残りました。記憶しているセリフとは異なっているような気がしたのです。

 改めて、ランボー詩集を見てみました。すると、次のような訳になっていました。

 「また、見つかった!」

 「何が? 永遠」

 「太陽に混じった」

 「海だ」

(※ アルチュール・ランボー、鈴木創士訳、『ランボー全詩集』、河出文庫、2010年、p.57.)

 この箇所は、ランボーの詩集『地獄の季節』の「錯乱 II – 言葉の錬金術 (Délires II – Alchimie du verbe)」の中の詩、「永遠」の一節です。

 ちなみに、この部分の原文は次のようになっています。

Elle est retrouvée.

Quoi ? – L’Eternité.

C’est la mer allée

Avec le soleil.

(※ https://www.poetica.fr/poeme-651/arthur-rimbaud-eternite/

 原文と照らし合わせてみると、映画の字幕は直訳過ぎるような気もします。とはいえ、「allée」と書かれており、「aller」が使われているので、映画の字幕のような訳でもいいのかもしれません。

 念のため、該当部分の詩の朗読を聞くと、やはり、「allée」になっていました。

こちら → https://youtu.be/AfQFcN_Nz18

(※ CMはスキップするか、×で削除してください)

 ただ、「太陽と共に去った海」という訳語では、具体的な情景をイメージすることができず、しっくりきません。

 そこで、辞書を引いて見ると、「aller avec qn/qc」で、「…と調和する」という意味になることがわかりました。だとすれば、「太陽と調和した海」ということになりますので、具体的にこの場の情景をイメージすることができます。

 改めて、見事なエンディングだと思います。

 ゴダールは、『気狂いピエロ』の中で、ランボーに限らず、詩人や画家、作家の作品、あるいは、映画から多数、引用していました。まさにコラージュによって、作品を複層化し、厚みを加え、妙味を添えていたのです。

■ゴダールが共感したベラスケスの晩年

 『カイエ』に映画評論を書いていた頃、ゴダールは、「映画はその古典性によってこそ、真に現代性をとらえることができる芸術になる」と主張していました(※ Colin MacCabe、堀潤之訳、『ゴダール伝』、p.88. みすず書房、2007年)。

 実際、『気狂いピエロ』は、エリー・フォールのベラスケス論の引用から始まっています。画面にコラージュされる本や絵画や音楽の多くは、誰もがよく知っている作品の一節でした。ゴダールは、過去から現在につながるさまざまな芸術作品の中から、その一端を取り込み、現代を表現しようとしていたのかもしれません。

 この本を書いたマッケイブは、『ゴダールの映画史』に匹敵するものを映画やテレビにおいて見出すことはできないが、『フィネガンズ。ウェイク』と比べることはできるとし、ジョイスはこの書の中で、「歴史と言語の全体を主題としており、その基本的な創作上の原則としてモンタージュを用いているーただし、一つ一つの単語の内部で作動するモンタージュである」と記しています(※ 前掲。p.314-315.)

 ジョイスについては、前回、ご紹介しましたが、ようやく自身の居場所を見つけた時、フェルディナンはどういうわけか、「ジョイス」の名を口にしていたのです。なぜ、そうだったのか、マッケイブの解説を読んでみると、わかるような気がします。

 ジョイスもゴダールも、モンタージュ、あるいは、コラージュという手法を使って、作品の中で、当代を表現しようとしていたのです。

 ランボーに引きずられ、創作の到達地点を見出したフェルディナンは、ジョイスに導かれ、その表現方法を見出していたといえるでしょう。

 一方、ゴダールは、リアリズムとモダニズムの間で模索していました。

 ゴダールは次のように述べています。

 「物語というのは、ひとが自分自身の外へぬけ出るのを助けるものなのだろうか、それとも、自分自身のなかにもどるのを助けるものなのだろうか?」

(※ Jean-Luc Godard、奥村昭夫訳『ゴダール映画史(全)』、p.316、筑摩書房、2012年)

  作者と作品との関係について、アイデンティティの観点から、ゴダールが思い悩んでいたことがわかります。

 『気狂いピエロ』を製作した頃、ゴダールは、「自分が気に入ったものや自分の心にふれたもの、自分の手に入ったものなどを映画にすれば、かならずよいものになると思って」いたといいます。

(※ Jean-Luc Godard、奥村昭夫訳『ゴダール映画史(全)』、筑摩書房、2012年、p.299)

 ちょうどその頃、ゴダールが読んでいたのが、エリー・フォールの『美術史』(※ “Histoire de l’Art”, Elie Faure, 谷川渥ら訳、『美術史 4 近代美術』、2007年)でした。

 その中で、ゴダールが心惹かれたのが、ベラスケス(Diego Rodríguez de Silva y Velázquez, 1599 – 1660)についての記述でした。その記述のどこに惹かれたのかについて、ゴダールは、次のように書いています。

 「ベラスケスはその生涯の終わりごろには、事物と事物の間にあるものだけを描いていたと記されていました。私は少しずつ、映画というのは、事物そのものではなく、事物と事物の間にあるもの、だれかとだれかの間にあるもの、観客と私の間にあるものだということに気づくようになりました」(※ 前掲、『ゴダール映画史(全)』、p.299.)

 そのエリー・フォールは、ベラスケスについて、次のように記しています。ちょっと長いですが、引用してみましょう。

 「ベラスケスは晩年に近づくほど、こうした黄昏時の諧調をいっそう探し求め、おのが心の誇りと慎み深さを表現する神秘に絵画に移行させようとした。彼は昼間を放棄し、室内の半暗がりに心を奪われていた。そこでは、移ろいがいっそう微妙かつ親密なものとなり、ガラスのなかの反映、外から射し込む光線、青い果実のごとき綿毛に覆われた若い娘の顔によって神秘性が増幅され、娘の顔は、散らばった薄明かりをことごとくそのぼんやりとした不透明な光のなかに吸収するように見える」(※ 前掲。『美術史 4 近代美術』、p.147.)

 こうしてみると、『気狂いピエロ』のラストシーンで、海と空が調和し、溶け合った映像が使われていた理由がわかるような気がします。

 当時、ゴダールは「映画というのは、事物そのものではなく、事物と事物の間にあるもの」だと考えていました。境界のない世界こそが、自然界の本来の姿であり、宇宙の真の姿なのだと認識していたのでしょう。

 今回、DVDで『気狂いピエロ』を見て、ラストシーンの素晴らしさを再認識しました。さらに、ゴダールが当時、映画製作もまた、分節化せず、分断化せず、事物と事物の間にあるものを重視していたことの得難さに気づきました。

 自爆シーンの後、この映画は、空との境目のない静かな海の風景で終わりました。まるで生と死にも境界はなく、すべてが滔々と続く、自然界の営みのようだと言っているように思えました。(2023/3/04 香取淳子)